読書ノート 2007

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書名 著者
ローマ人の物語 賢帝の世紀  上・中・下 塩野七生
子午線の祀り 木下順二
ローマ人の物語 すべての道はローマに通ず 上・下 塩野七生
雨の日はソファで散歩 種村 季弘
ハドリアヌス帝の回想 マルグレット・ユルスナール
明治天皇1巻、2巻 ドナルド・キーン
明治天皇3巻 ドナルド・キーン
アカシアの大連 清岡 卓行
明治天皇4巻 ドナルド・キーン
西行 白州正子
西行花伝 辻邦生
背教者ユリアヌス 上・中・下 辻邦生
世阿弥 白州正子
三島由紀夫あるいは空虚のヴィジョン マルグレット・ユルスナール
東方奇譚 マルグレット・ユルスナール
風景学入門 中村良夫
コレラの時代の愛 ガルシア・マルケス
ローマ人の物語 終わりの始まり 上・中・下 塩野七生
百年の孤独 ガルシア・マルケス
君主論 マキアヴェッリ
文章のみがき方 辰濃和男
世界中を「南極」にしよう 柴田鉄治
生きて死ぬ私 茂木健一郎
世界でもっとも美しい10の科学実験 ロバート・P・クリース

                                               2008-01-14 up

書名 ローマ人の物語 賢帝の世紀 (上)(中)(下) 著者 塩野七生 No
2007-01
発行所 新潮文庫 発行年 平成18年9月 読了年月日 2007−02−05 記入年月日 2007−02−07

 
ネルバ、トライアヌス、ハドリアヌス、アントニヌス・ピウス、マルクス・アウレリュウスと続く、いわゆる5賢帝の時代、ローマがその版図を最大にし「幸福な世紀」と呼ばれる紀元2世紀を記述。といっても、高齢で在位の短かったネルバと、最後のアウレリュウス帝はほとんど記述されていない。5賢帝といえば「自省録」でなじみの深いアウレリュウスをまず浮かべて、楽しみにしていたのに、がっかりであった。著者の好みの人物ではないから、無視されたのではないかと思ったが、どうやら次の次の巻に出てくるようだ。その巻は「終わりの始まり」と命名されている。

 本巻に収められたローマがその絶頂期であるというわけだ。トライアヌスはドナウ川を越えてダキアを征服した。現在のルーマニアである。そしてこの時点がローマ帝国が最もその支配域を拡大した時期である。トライアヌスは文章として戦記を残さなかった。また同時代のタキトゥスも、「まれなる幸福な時代」と述べて後世に記録を残さなかった。幸い後に立てられた戦勝記念の塔に戦の詳しい場面が彫られていて、それにより戦争の様子を推察することが出来る。上巻の読みどころはここだ。

 帝国の特徴が例えばオリエントの専制君主国との比較で述べられる。ローマの特徴は敗者のローマへの同化策であり、また地方自治の容認である。ちなみに、トライアヌスも、ハドリアヌスも属州出身の皇帝である。そして、帝政とはいえ、皇帝は元老院を無視することは出来ず、原則として統治は元老院が決めた法律に基づいて行われる。ハドリアヌスはローマ法の集大成作業に着手する。

 トライアヌスからバトンを引き継いだハドリアヌスは、在位のほとんどを辺境地方の視察に費やす。ライン、ドナウの前線から、ギリシャ、小アジア、アラビア、エジプト、アフリカ、スペイン。帝国の防衛最前線を再構築する目的だ。彼の治世中にユダヤがまた反乱を起こす。それは彼がユダヤ教の割礼を禁止したからである。反乱を鎮圧した後、ハドリアヌスはエルサレムからユダヤ教徒を追放する。いわゆるディアスポラで、その後ユダヤ人は20世紀半ばまで定住の地を持つことが出来なかった。

 そしてハドリアヌスを継いだアントニヌス・ピウスは、特段の新しいことはせずに前任2帝の作り上げたものを継承した。トライアヌス44歳、ハドリアヌス51歳、アントニヌス52歳という高齢でそれぞれ帝位についたことも、彼らの治世が安定した一因であろう。

 内部的には平穏な時代であるが、それでも皇帝の交代時には血なまぐさい粛正が起きる。トライアヌスは任地のライン川前線にいるとき皇帝に推挙されるのだが、挨拶に訪れた前皇帝の近衛軍の司令官らを殺害して、自分の息のかかった人物にすげ替える。
 ハドリアヌスはやはりシリアにいるときに皇帝に推挙される。ローマにいる腹心に命じて、前皇帝時代の有力者4名を殺害する。ハドリアヌスという皇帝は、西欧知識人の間に人気が高いらしい。彼の最大の汚点であるこの粛正については、腹心が独断でやったという説と、ハドリアヌス自身が命じたという両説があるらしい。ユルスナルは『ハドリアヌス帝の回想』という傑作を書いている。その中で、この先帝の重臣殺害は腹心の独断であるとし、腹心がハドリアヌスにわびる場面がある。それを著者は引用する。文学的に素晴らしくよく書けた場面で、思わず感動する。著者は、私ならこう書くといって、自分の解釈による場面をぶつける。それは現実の政治はそんな甘いものではなく、実は粛正はハドリアヌス自身が命じたものであるという立場から書かれる。中巻56p以降。

p65: 
君主ないしリーダーのモラルと、個人のモラルはちがうのである。一私人ならば、誠実、正直、実直、清廉は、立派に徳である。だが、公人となると、しかも公人のうちでも最高責任者となると、これらの徳を守りきれるとはかぎらない。ラテン語では同じく「ヴィルトゥス」(virtus)だが、私人なら「徳」と訳せても、公人となると「器量」と訳したのでは充分でない場合が少なくなく、しばしば「力量」と訳さざるをえなくなるのである。
 著者の一貫した態度である。強者の立場から見た歴史というのが全編を貫いている。

 アントニヌス・ピウスはそうしたことを一切なしにすんなりと皇帝になり、直ちにハドリアヌスを神格化し、慈悲深い人という意味の「ピウス」と称される。

下巻90p:
もしも、ポンペイウスやキケロやブルータス達の唱えた元老院主導の共和制派が勝利していたとしたら、ローマは共和国でありつづけたろうが、同時に後代のイギリスやフランスのような、本国が植民地を支配する型の帝国になっていただろう。だが、勝ったのはカエサルだった。そしてローマは、本国も属州も一体化することで運命共同体になっていく、普遍帝国への道を歩むことになったのである。
 共和政体では属州の一体化が進まないだろうという大胆な仮定に立っている。

下巻:138p:………
トライアヌス帝は、「出たい人」と「出したい人」の比率が相半ばするタイプではなかったかと思うし、ハドリアヌス帝となると、これはもう明らかに、「出たい人」百パーセントである。そして、こらから物語るアントニヌス・ピウス帝は、「出したい人」百パーセントの人物であったと言ってよい。

 3巻のうち最も薄い下巻の138ページ以降しかアントニヌス・ピウスについては述べられていない。それだけ平和で何もなかった時代と言うことだろう。

 そのアントニヌス帝については152p:
春の陽差しのように穏やかで、何ごとも穏便に解決されるように努め、バランス感覚が抜群であり、虚栄心は皆無。こうくれば当然の帰結だが、正真正銘の保守主義者であった。

 本書の一つのおもしろさは、著者のこうした人間観である。

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書名 子午線の祀り 著者 木下順二 No
2007-02
発行所 岩波文庫 発行年 1999年 読了年月日 2006−11 記入年月日 2007−02−07

 『日本文化のかくれた形』を読んでいて、木下順二の複式夢幻能という話に興味を持った。その中でも触れられていた彼の代表作の一つとされる本書を読む気になった。

 一ノ谷で敗れて屋島へ逃げてから、壇ノ浦で滅亡するまでの平家一門の物語に沿って、知盛の生き方を語る戯曲。木下は『日本文化のかくれた形』の中で人間と、人間を超えて働く力との対峙が生み出す緊張感がドラマの基本であると述べている(p82)。本作品はまさにそれで、『オイデプス王』を思わせる劇的緊張に満ちた作品。

 後白河法皇を通して源氏との和平への道を探り、西国に新たな根拠を築き源氏との対決を策する知盛ではあるが、平家の滅び行く運命を感じている。それは、一ノ谷の戦いに父の代わりに討たれた死んだ息子、そして平家武門の象徴である名馬をみすみす源氏の手に渡してしまう冒頭のところで、彼の気持ちの微妙な変化として暗示される。

 知盛の弟三位中将重衡の愛人であり、かつては厳島神社の巫女であった影身という女性が舞台回しとして、知盛の相方として登場する。これはおそらく作者の創作であろう。しかし、他の人物はすべて平家物語で語られている人物である。戦評定で昔のことばかり嘆く宗盛他の平家の武将、義経と弁慶らの主従、義経と対立する梶原景時、阿波の豪族で平家の有力な味方である民部重能。

 壇ノ浦の合戦の日、最後に勝敗を決めたのは潮の流れであった。1185年5月2日午前7時に壇ノ浦の子午線を東から西に下弦の月が過ぎていく。その3時間後に東向きの潮の流れが最高潮に達する。義経も、知盛もそのことを心得ている。午前中に決戦をもくろむ平家に対して、源氏は本格的な相手をしない。潮の流れが変わった午後、流れに乗って源氏が押し出してくる。

 民部は前の晩に、たとえ敗れてもこの潮に乗って玄界灘に出て、3種の神器を奉じて高麗でも宋でもどこへでも行ってそこに日本国を作ることが出来ると、知盛に勧める。しかし、知盛の眼中にはそんなことはない。後詰の陣にあった民部は平家劣勢にも動かず、最後は源氏に寝返る。そのことを知盛はうすうす予感していた。民部の息子がすでに義経に味方していたからだ。しかし、彼は民部を切る機会を逸していた。

 決戦の前夜、影身の亡霊が知盛の前に現れる。そして、知盛に、天空を巡る北斗の星のもとで、人の世の動きもまた星の動きと同じように非情なものであり、その非情の相をしっかりと見きわめて下さいと話す。p120〜121。本作品のエッセンスだ。解説で、この戯曲は何回も繰り返し上演されたが、そのほとんどで影身役は山本安英であったとある。

 知盛は
「見るべき程の事は見つ。今は自害せん」平家物語にもある言葉を残して鎧を2枚重ね着して入水する。彼が見たものは「平家にあらずんば人にあらず」といわれた一門のかつての栄華、そして没落。一ノ谷で自分を逃すために討たれた我が息子、後白河法皇との駆け引き、ふがいない一門の総帥である兄宗盛、迫り来る義経軍、腹心の部下の土壇場での寝返り。

 作者は壇ノ浦決戦当日の潮の流れを独自に調べたという。壇ノ浦の戦いを分けた一因に潮流の変化があるとは私も以前、テレビで見たことがある。当日の潮の流れは源平の勢いの象徴であって、それが直接勝敗を支配したわけではないだろう。いずれ平家は滅びる運命にあった。

 「群読」という独特の手法を取り入れている。群読で主人公の心境を語らせ、それがいつの間にか主人公のせりふに変わっている。

 平家物語を題材に、これほど格調が高い作品を読んだのは初めてである。

 なお、木下順二は私がこの作品を読み終えたしばらく後で亡くなった。


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書名 ローマ人の物語 すべての道はローマに通ず 上・下 著者 塩野七生 No
2007-03
発行所 新潮文庫 発行年 平成18年10月 読了年月日 2007−02−14 記入年月日 2007−02−17

 道路、水道、公共施設、医療、教育などローマのインフラストラクチャーの解説。著者はハンニバルとの戦いや、カエサルの活躍などの巻と違って退屈な記述になり、読者の関心をひきにくいことを心配しているが、私にとっては戦記以上に面白いとも思えた。道や水道、医療、教育といったことを通じて、当時の人々の生活ぶりを色々想像できる面白さがある。この巻を読んで、ローマの偉大さ、すばらしさをあらためて認識し、帝国崩壊後の中世を暗黒時代と呼ぶのもわかる気がする。

 今日も残るローマの道路、水道橋などの写真や図版がたくさんあって、読みやすい。帝国内に伸びた幹線道路は8万キロ、支線も合わせると15万キロになるという。4メートルの車道に、両側に3メートルの歩道がつくのが幹線道路で、石をすき間なく敷き詰めてある。今なら高速道路に匹敵するが、使用料はただである。

 同じころから建設の始まった万里の長城との比較も面白い。囲い込むことで自国の安全を確保した中国と、支配した異民族との間に伸びて張り巡らされた交通手段を通じて、帝国の安全を確保したローマ。

 水道もすごい。ローマに引かれた11本の水道。それぞれが数十キロにおよぶ長さで、ほとんどが地下に敷設される。地上部は高架式になる。セゴビアの世界遺産の水道橋は訪れたことがある。1キロで数センチというわずかな勾配がきっちりとついていると、その時ガイドが言っていた。
 こうしたインフラストラクチャーをローマ人は採算を度外視してやらなければならないものと考えていたのだと、著者は言う。

 今に残るローマの地図に学校と病院がない。医療と教育はプライベートな分野に属するソフトなインフラだったために今に残らないのだと著者は言う。教育はギリシャ人を中心とする家庭教師が担当し、その際、家の子弟のみでなく、そこの家の奴隷も一緒に教育されたという。医療は神頼みと個人医主体で公的な病院はなかった。ただし、ライン川沿いの前線基地クサンテンでは、立派な軍用病院があって、その遺跡が発掘されている。

 医師と教師には無条件にローマ市民権を与えることにしたカエサルの卓見を著者はたたえる。カエサルがグランドデザインを描き、アウグストゥスが創設し、ティベリュウスが完成した帝国という言い方が数回出てくる。カエサルとアウグストゥスへの心酔ぶりは相変わらずだ。

 本書の最後下巻の160pには以下の記述がある:
 ローマ帝国の東方にあったアテネの「アカデミア」もアレクサンドリアの「ムセイオン」も、まもなくして廃校になる。疑いを抱くことが研究の基本だが、世の中は、信ずる者は幸いなれ、の一色になったからである。
 この人はよほどキリスト教が嫌いであるようだ。それだけに、キリスト教の台頭と帝国滅亡にいたる次巻以降、著者の筆がどのようなものか興味深い。

 著者は前の巻でも、この巻でも、人々が安心して生活できるためには何よりも食料が確保されることであり、そのためには平和であることが絶対条件であるとする。そして平和を守るための安全保障というのが皇帝の最も大切な任務であると述べてえいる。彼女の帝政擁護論の基本にある考えだ。アメリカのイラク侵攻によりフセイン政権が倒された後、宗派対立などにより何の罪もない民間人が毎日何十人も殺されるイラクの現状を見ると、たとえ強権独裁政治であっても、イラクの民衆にとってはフセイン時代の方がよかったと思える。そう言う結果論からもアメリカのイラク侵攻は間違っていたと思うのだが、塩野さんはどう思うのだろうか。

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書名 雨の日はソファで散歩 著者 種村 季弘 No
2007-04
発行所 筑摩書房 発行年 2005年8月 読了年月日 2007−02−23 記入年月日 2007−02−23

 かなり前の、NHKの週間ブックレビューで男性の作家が推奨していた本。色々なところに書いたエッセイを集めたもの。語学教師、編集者などをやったあげく映画評論家として認められるようになったとある。

 食べ物、酒にまつわる話、交友のあった文壇人や芸術家の話、本の話など多彩である。博識ぶりに驚く。文章は簡潔で力強い。東京の町、銀座、新宿、池袋などへ愛着は強烈で、深い蘊蓄をもって語られている。本書の読みどころだ。江戸末期からの新宿を論じたのは「七転び八起きの町へ」(100p)。また銀座について書かれたのは「松田という店」(112p)。その出だしはこうだ:
雨が降っている。外へ出るのが億劫だ。車もない。あっても運転できない。こんなときにはソファに寝ころがって、行きたい町に本の上でつきあわしてもらうのが分相応というものだ。ではどこへ行くか。今回はひとつ張りこんで、銀座といこう。

 こうして内田魯庵、松崎天民、安藤更生、木村荘八、小島政二郎、吉田健一の本に書かれた銀座が紹介される。前三者は名前も聞いたことのない人だ。

                                    

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書名 ハドリアヌス帝の回想 著者 マルグレット・ユルスナール 多田智満子 訳 No
2007-05
発行所 白水社 発行年 2001年5月 読了年月日 2007−04−01 記入年月日 2007−04−03

 「ローマ人の物語・賢帝の世紀」の中で塩野七生は、ハドリアヌスが帝位就任に際し、政敵4人を粛正したのは自らの意思であったろうとし、腹心の部下がやったとする本書に対する塩野版の場面をわざわざ挿入している。塩野七生の本に長々と引用された本書の叙述が素晴らしいものだったので、アマゾンから取り寄せてみた。

 期待に違わぬ読み応えのある本だった。ユルスナールはハドリアヌスになりきって、その世界観、人生観を回想の中に語っている。そこに展開されるのは宗教の束縛にとらわれない自由な人間の豊かな思想であり感情である。たまたま平行してドナルド・キーンの「明治天皇」を読んだ。文庫本のこちらは外出の際に持っていき、ハードカバーのハドリアヌスは家で読んだ。「明治天皇」は外側から日本史上でも有数の天皇像に迫ったものだ。これも引き込まれるように読んでいる。平行して読んでいる本が2つとも「当たり」、あるいは読んで得をしたと感じられるという幸運に恵まれた。

 ハドリアヌスは随所に難解な言い回しが出てくる。理解できない文章も多々あった。ユルスナールの「とどめの一撃」を読んだときもそう思ったのだが、そうした多少難解な文章が人を酔わせる。本書を読み通せたのは、塩野の本を読んでいて、回想の下敷きとなる史実の概要をつかんでいたからだ。それなしには興味は半減する。

 自分の死期の間近に迫ったことを自覚したハドリアヌスが、次の次の後継者に指名したマルクス・アウレリュウスに書き残した形で本書は構成される。スペイン属領での少年時代から、軍務を経てトライアヌスを継いで皇帝に就任するいきさつ、各地への視察旅行、死を前にしての心境などが語られる。ハドリアヌスはまとまった回想録を残さなかったからここに述べられた内面の吐露は作者の創造である。しかし、読む人は本当に当時のローマ皇帝がこう思ったと取ってしまう。それほど作者とハドリアヌスは一体化している。日本文学にこうした歴史上の人物の独白という作品はあるだろうか。

 本書の一つの中心はアテネで知り合った美少年アンティノウスへの思慕である。年を取ることへの不安からナイル川に身を投げて亡くなったアンティノウスのために神殿と町を作る。そして、彼の像を無数に造らせる。アンティノウスの像が現在もたくさん残っているとは塩野の本にも書いてあった。キリスト教以前のギリシャローマ社会では同性愛はそれほど一般的であったようだ。ハドリアヌスのアンティノウスへの思慕、失ったあとでの悲嘆は切なく痛々しい。

116p 称号を受けないことについて:
自分の威光がわたし自身のものであり、皮膚に密着したものであり、知的俊敏さと力と業績とによって直接計られうるものであることをわたしは望んでいた。称号を受けるとしてももっと後のことであろうし、・・・・。
123p ローマの永遠性:
ローマは石造の構築から脱して、《国家》という語で、《市民たること》という語で、《共和国》という語で、もっと確実なひとつの不滅性を構築するであろう。・・中略・・・行政官が商人の度量衡の検査や、街路の清掃や照明に心をくばり、無秩序と怠慢と恐怖と不正とに反対し、法律を合理的に解釈しようと努力するところならば、どんな小さな町のなかにも、ローマは永遠に存続するであろう。ローマが滅びるのは人間の最後の都市が滅びるときであろう。

 ここら辺りの記述は塩野さんがローマ人の物語を書く基本的な動機、衝動であったのではないか。ユルスナールは短い文章の中にもきっちりとローマ人の思いを表していて見事と言うほかない。

144p 彫刻芸術について:
しかしわれわれの芸術(つまりギリシャ芸術のことだが)は、中心として人間を選んだ。われわれのみが不動のからだのなかに潜在する力と敏捷さとを表現できたのだし、われわれのみがひとつのなめらかな額をしてひとつの賢明な思想の等価物たらしめたのだ。・・・中略・・・・自然の事物、神聖な象徴は人間的な連想を付けくわえないかぎり価値がない―たとえば陽物かたをした葬式のまつかさとか、・・・
 ギリシャ美術を一言でいうとこうなるのだろう。

147p 理想:
わたしの理想は、感覚と目とのあらゆる明証にもかかわらず定義しがたい《美》という言葉に要約されていた。わたしは世界の美に責任を感じた。・・
 そしてハドリアヌスは幸運にもその理想を一部分実現することが出来たという。

199p 手相:
それは夜食のときで、手相にこっているポレモンがこの若者の手相を見ようとしたが、その手のひらを見てわたしでさえ彼の星がおどろくべく失墜しているのに慄然とした。少年はやさしい、ほとんどしとやかなしぐさで、手をひっこめ、手のひらをとじた。彼は自分の賭の秘密と死の秘密とを守ろうとしたのである。
 ここで少年はアンティノウスであり、その賭とは自ら命を絶つという密かな決意である。こうした逸話は作者の創造であろうが、当然ながら当時のローマの風俗をふまえているものと思われる。

232p 詩について:
陳腐な表現から身を解き放つには精神の大胆さだけでは足らぬのであって、詩人は皇帝としてのわたしの苦労と同じくらい長いたゆまぬ努力によってはじめて慣用句に打ち勝ち、彼の思想を言葉に強制することができる、ということを悟りはじめていた。
 ハドリアヌスは詩人でもあった。同じページで自作の猥らな一群の詩も残しておきたいと語っている。

236p キリスト教について:
ある夜わたしは彼と、己を愛するごとく他人を愛せよという命令について一晩じゅう論議し合ったが、この命令は俗人が心から従うにはあまりに人間の天性に反しており、俗人は自分自身しかけっして愛さないであろうし、特に自分自身を愛するわけではない賢者には、この命令はふさわしくないのである。
 ここで彼とはアリアヌスという皇帝のお気に入りの文人である。

249p ユダヤについて:
・・・すべてを包含する《神》の多様性を侮辱する傲慢さを持った民族は、イスラエルをのぞいてほかにひとつもない。イスラエル以外のいかなる神も、その崇拝者に、他の祭壇に祈る者への軽蔑と憎悪を吹きこみはしなかった。それだからこそ私は、イスラエルをいくつもの民族といくつもの宗教が平和に共存できる、他の町と同じような町にしたかった。狂信と常識との争いにおいて常識が勝つことはめったにないという事実をわたしは忘れていたのである。
 ハドリアヌスはイスラエルからユダヤ人を追放し、それは20世紀まで続いた。ユダヤ人が西洋でも嫌われる理由の一端をハドリアヌスは代弁しているのかも知れない。

258p 同時代:
われわれの時代が―その不十分な点や欠陥をわたしはだれよりもよく知っているが―おそらくいつの日か、対比によって、人類の黄金時代のひとつと考えられるようになるかもしれないのだ。
 西欧の知識人の多くはそう考えているようだ。塩野の本を読んで私もそう感じている。

285p マルクス・アウレリュウスに:
かくもりっぱに習得した堅固な道心のかげに、やさしさと、そしてたぶん弱点とがひそんでいるのをわたしは感じる。そなたの内に、必ずしも政治家のそれではないある天才が在る、とわたしは見抜いている。とはいうものの、その天才と最高の権力との結合を見たことによって世界が永久に改善されることは疑いあるまい。アントニヌスがそなたを養子にするようにわたしは手続きをとっておいたから、・・・・・そなたは今後わたしの孫である。
 巻末の訳者解説によると、アウレリュウスは「自省録」でハドリアヌスのことにまったく触れていないという。快楽主義者ハドリアヌスは、純粋なストア派哲人のアウレリュウスの理解を超えるものであったからだろうと訳者は述べている。

 巻末に筆者の膨大な覚え書きの一部が載っている。その中でユルスナールは
「解体する世界のなかに生きたことが、わたしに、《君主》の重要性を教えたのである」と書いている 320p。上に列記した私の本書からの引用も偶然にも《君主》としてのハドリアヌスの感慨を述べたところが多い。なお伝記についての作者の考えは333pにある。

 ハドリアヌスは最初自分の後継者として腹心のルキウスを指名する。その動きを察してそれを阻止しようとしたハドリアヌスの姉の夫と、その孫は、陰謀が事前に漏れて処刑される。秘密軍事組織を整備してあったから、彼らの情報が筒抜けであったと述べている。ルキウスは若くして病死し、アントニヌスが後継者に指名される。その養子アウレリュウスはルキウスの子供も同時に帝位につかせて2人皇帝で政治に当たるが、その子供も若死にしたと解説にはある。

 たまたまローマの観光案内を見ていたら、ハドリアヌスのヴィラの遺跡の写真があった。同時にその復元想像図が載っていたが、それを見てびっくり。広大な敷地に回廊を巡らせた壮大な建物。そして彼が体験した帝国各地の都市を模した種々の施設。皇帝の権力と富の大きさを実感させる。

                                       

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書名 明治天皇1巻、2巻 著者 ドナルド・キーン
角地幸男 訳
No
2007-06
発行所 新潮文庫 発行年 平成19年3月 読了年月日 2007−04−09 記入年月日 2007−04−09
全4巻のうち1、2巻を読了。1巻は生誕から東京への行幸を終え、再度京都に帰る明治2年まで。2巻は自由民権運動の高まった明治14年まで。「ハドリアヌス帝の回想」と違って、こちらは日本の天皇の中でも最も有名な人物を外部から描いた評伝である。力作だ。

 これだけ有名で、しかも神格化されている天皇でありながら明治天皇の素顔、あるいはその生涯はほとんどの日本人が知らないと指摘する。この指摘にはハッと胸を突かれる。確かにそうだ。例えば明治天皇の正妻には子供がなく、後の大正天皇は側室の子であることを私は知らなかった。日本人のほとんどにとって、天皇は特別の存在であって、戦国時代の英雄や、あるいは明治維新の立役者達のように歴史分析や評伝の対象とするべきでないという意識があるのだろう。外国人の著者にしてみれば、それはおかしいということなのだ。

 少なくとも本書の1巻は詳細な幕末維新通史である。2巻は維新後の新しい制度や事物の取り入れを巡る新政府の苦闘であり、西南戦争を頂点とする対外政策を巡る政府内の争いである。本書の面白さのこうした通史としての面白さにある。孝明天皇、岩倉具視、和宮、三条実美から始まり、西郷隆盛、木戸孝允、大久保利通、徳川慶喜、あるいはイギリス公使のパークス・・・・・数え切れないほどのなじみのある人物、あるいは天皇の教育係である儒者の元田永孚といった初めて耳にする人物が登場する。

 天皇自身に関する記述は主として公式記録である「明治天皇記」によっている。「明治天皇記」は、例えば地方への行幸から帰った天皇を「龍顔麗しく御還あらせらる」といった簡略な紋切り型に終始している。これからは天皇の心中は読めない。明治天皇は日記を残さなかったし、手紙も孝明天皇のようには残さなかったので、その心情は測りがたい中にあって、唯一和歌でうかがい知ることが出来るとして、随所に引用されている。生涯に作った御製は数万首におよぶとキーンはいう。その多くは残っていないとのこと。また、勅語もたくさん引用されているが、これは臣下の奏上によるものだろうから、本心とは割り引いて考える必要があるだろう。

 まず第一に感じたことは、あれだけの短時日によくもあれだけの変革を推進したものだということ。細部にわたるキーンの記述を読んでいて、明治維新を「大業」あるいは「偉業」と称することが決して誇張ではないことが理解される。その中にあって、明治天皇が単なる傀儡ではなかったらしいこと。

 維新をさかいに天皇の公的な生活が大変革を遂げる。若年とはいえ、明治帝はそれを受け入れている。あるいは若年故に可能であったとも考えられる。例えば、西洋人を謁見したのも、洋装をしたのも明治帝が日本の天皇としては初めてである。もっとおどろいたのは、太平洋を見たのも、富士山を見たのも、日本の天皇の中では明治帝が初めてであるということ。明治初年、京都から東京へ行幸した際のことである。この記述を読んだとき、東海道を歩いていて明治天皇御休息所の石碑があれほど至る所にある理由への私の考えが正しかったことを裏付けられた。天皇が出歩くということの衝撃はそれほど大きかったのだ。正確に言うなら、当時の人にとって天皇の存在はあるいは遠いものであったかもしれないが、明治の中葉以降にもなれば天皇の権威は全国に渡り、人々は自分の土地に天皇の足跡が残ったことに大きな意味と誇りを感じたのだろう。著者によれば、潮見坂で初めて太平洋を見ただろうという。明治天皇は維新直後からよく地方の巡幸に出かけている。重臣達も巡幸により皇威を広く国民に示したいと考えたことによるが、天皇自身の気持ちも入っている。ある時は学校を泊まり所としたりして、東北から北海道まで足を運んでいる。特に学校を視察し、授業を直接参観するのを天皇自身が希望したようだ。

 また、たくさんの外国人と会い、あるいはヨーロッパの皇室とのつきあいにも細かい気を配っているのにも驚く。初期の頃の外国人の印象では天皇ははにかみやで、かなり努力して外国の使節と会っている様子が見える。南北戦争の英雄グラント将軍(2巻31章)やハワイのカラカウア王(2巻34章)などとも会っている。ハワイの王様からは密談として、アジアが手を携えて欧米侵略に対抗しようと持ちかけられる。カラカウア王は明治天皇にその同盟の盟主になれという。明治天皇は清国との関係もあり、自分がそのような同盟の盟主になることは出来ないといって、後に同盟そのものの誘いを断っている。ハワイがまだ独立国で、アメリカに併合される脅威を感じていたときだ。

本書から:第1巻 
18p〜「
明治新政府の数々の変革をなし遂げた功臣たちにとって、明治天皇が心の拠り所であったことは疑うべくもない事実だった。」本書を読むとそのことはよく伝わってくる。岩倉、木戸、大久保、三条みなそうである。にもかかわらず「・・・・日本史上最大の変革の時期でもあった明治天皇という一人の人物の信用できる肖像画を描き出すことに成功した伝記作者は残念ながら皆無に近い。(19p)

77pには幕府が新造軍艦の艦旗として白地に赤い日章旗を使うことを決定したとある。

124p:孝明天皇について「
・・・この時期の孝明天皇の一連の書簡を忘れがたくしているのは、そこに苦悩に苛まれている一人の人間がいるという強烈な印象である。・・・・かくも苦しい鬱屈感と無力感を公然とさらけ出した天皇はいなかった。孝明天皇はすでにして悲劇の人物だった。この時期からその凄惨な最後に至まで、孝明天皇は怒りと絶望から心の休まる暇とてなかった。」として、それは配流の憂き目をみた後鳥羽天皇と後醍醐天皇に匹敵し、さらにシェークスピア描く「リチャード3世」に酷似していると書く。私は外国嫌いのどうしようもない暗愚の天皇と思っていたが、キーンは悲劇の主人公とみている。

274p〜 第12章は美子(はるこ)皇后に当てられている。口絵に写真を見るときりっとして品のある驚くほどの美人だ。生涯子供を産むことがなかったが、賢夫人の誉れ高い人だ。後に昭憲皇太后と呼ばれる。

427p以下 東京行幸:慶応が明治と改まったのは明治元年9月8日である。天皇は9月20日に京都を発ち、東海道経由10月13日に東京に着いた。この間まだ奥州での戦闘は続行中であった。供するもの3300人とある。東京では大量の酒を市民に下賜した。そして外国の使節とのいくつかの謁見をこなし、12月には京都に戻った。

444p:一世一元制について。この制度は明治に改元する際に定められたが、その理由としてキーンは「
恐らく西暦の言い方に慣れた日本人には、めまぐるしく変わる日本の年号は効率が悪いと言うことになったのではないか」と注釈している。大変面白く興味ある指摘だ。

第2巻
16p 翌明治2年3月7日天皇は京都を発ち、東京に向かう。途中伊勢神宮による。伊勢神宮参拝は明治天皇が初めてであるという。

97p終わりから:
明治時代が始まった当初、多くの平民、いや、ほとんどの平民は天皇に何らの関心を示さなかった。このことに気づいた大久保利通は、天皇はヨーロッパの君主の習慣に倣って臣民の前に姿を現すべきである、と機会あるごとに言い続けてきた。中略。天皇は・・・・神秘な存在から臣民に親しまれる目に見える存在へと変わらなければならない、それは政治的に不可欠のことである、と。
101p〜 ルイ14世との比較

170p 明治天皇の度を過ごした酒量にドイツ人医師が日本酒を葡萄酒にあらため、かつ一晩に1ビン以上飲まないことを進言している。明治6年暮れのことで、この年明治天皇は最初の皇子、皇女とその二人の生母を失っており、さらに征韓派と反対派の対立が天皇を悩ませ、酒に慰めを求めたのだろうと、筆者は好意的に書いている。明治天皇は酒が強く、かつそのために勉学や政務を怠け、重臣たちが心配した記述は他にも出てくる。また、当時の皇室の医学は漢方医が主体で、新生児の死亡率が当時の一般水準に比べても異常に高いという記述は、第1巻の最初の方にも出ていた。この年になくなった側室はいずれも10代の女性で、出産後すぐになくなっている。信じられないことだが、病気になれば加持祈祷が重んじられた。

226p 運動不足:東北北海道巡幸中、木戸孝允は天皇の運動不足を心配し、徒歩か乗馬を進めたが、天皇は馬車か鳳れんから降りようとはしなかったとある。

384p 英語教育:東北北海度巡幸中弘前東奥義塾の英語学生が明治天皇の前で英語で文章をつづり、英語で演説したことが述べられている。その演題は例えば「ハニバル士卒ヲ励スノ弁」であったり「シセロ、カテリンヲ詰ルの弁」であった。今流に言えば「ハンニバル」「キケロ」である。明治9年のことである。天皇は極端に西洋を重視する教育には賛同しなかったと著者は述べている。それにしても、日本人の柔軟性、外来文化の取り入れへの積極さを遺憾なく示すエピソードだ。

著者について:2002年11月7日、タスク(たばこ総合研究センター)は創立30年を記念し、ドナルド・キーンの講演会を主催した。私にも案内状が来たので、千駄ヶ谷の津田塾講堂に聞きに行った。以下その時のメモ:

演題「日本とわたし」で、日本語で語った。
1922年ニューヨーク生まれ。1940年、18歳の時、Times Squareで「源氏」を見て購入した。1941年夏に初めて日本語をかじった。1942年、海軍の日本語学校で本漢字、旧仮名遣いの日本語を習い、11ヶ月の学習で新聞が自由に読めた。
戦時中ハワイで日本軍の戦死者の日記を読んだ。感動的だった。グアムで玉音放送を聞いた。意味はわからなかったが捕虜の態度からわかった。除隊後はコロンビア大学へ。日本古典を読んだが、「好色五人女」は全部読んだ。その後ケンブリッジ大学へ。アラブとペルシャ語を学ぶということで奨学金をもらったが実際はやらなかった。
ケンブリッジで日本語を教えた。出発点は古今集。1953年京大へ。永井道夫と同じ下宿。近松の国姓爺合戦が博士論文。多くの作家と会えた。荷風、谷崎、三島。

狂言と習字が好きで習った。昭和30年、奥の細道を旅した。未舗装の道でほこりがひどくて歩くのをあきらめた。
翻訳の大切さ。15歳の時、ロシア文学に熱中した。それも翻訳のおかげ。
「日本文学の歴史」はライフワーク
「明治天皇」は7年かかった。


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書名 明治天皇3巻 著者 ドナルド・キーン
角地幸男 訳
No
2007-07
発行所 新潮文庫 発行年 平成19年4月 読了年月日 2007−04−28 記入年月日 2007−04−29

 
明治15年から、中国での義和団の争乱が起きた明治32年までをあつかう。鹿鳴館時代を経て、帝国憲法の発布、議会の設立と近代国家への制度が整っていく。それは幕末に結ばれた諸外国との不平等条約、特に外国人への治外法権を認めた不平等さの改訂へ向けて、欧米諸国に対し、日本が文明国であることを示すための努力の一端ともとれることであった。治外法権の撤廃に対して最も強硬に反対したのはイギリスであった。しかし、明治32年にはこうした不平等条約は改定される。改訂へ向けての明治政府の涙ぐましいまでの努力がやっと実を結んだのだ。

 この時期を通じて、特に日清戦争の勝利を通じて、明治天皇への海外の評価は一段と高まる。明治27年12月のアメリカの新聞は、維新の大業をなし、憲法を制定し議会を設置し、陸海軍を整備し、産業を興した君主として絶賛し、さらにはローマ皇帝アウグストゥス、ナポレオン1世、ヴイルヘルム1世など歴史上の偉大な君主も凌ぐとしている。P368とその脚注p374。

 明治通史として興味深く読んだ。学校での授業では近現代の歴史は尻切れトンボに終わることが多い。そのせいもあって明治維新以降の歴史には疎い。日清戦争の原因と経過についての詳しいことは知らなかったし、本書に独立の章としてそれぞれ詳述されている旅順での日本軍による住民の大量虐殺、あるいは日本の公使がかかわった朝鮮王朝の王妃ミンピの暗殺などについてはまったく知らなかった。旅順虐殺については、キーンの書き方は厳しく日本を弾劾している。私の祖父は日清・日露両戦役に従軍した。気になって豊平おじの自伝を読み返してみたが、日清戦争では朝鮮での戦いに参加し、大陸までは行かなかったようだ。

 条約改定への努力、あるいはロシア皇太子襲撃事件とその後の裁判の経過も詳しく書かれている。いわゆる大津事件に関しては、当時の大審院長児島惟謙の勇気と見識をあらためて認識させられた。明治を通して最も立派で骨のある人物であるとさえ思った。あるいは維新後20余年にして、司法の独立という考えをしっかりと身につけた人物が育っていたということに驚きを感じる。

 この時期を通じて天皇はかなり積極的に政治にかかわってくる。内閣制度が確立するが、その首班の任命は天皇の命令によるものであり、それは単に形式的なものではなく、天皇の意向が強く反映されている。対外政策や議会対策などを巡り内閣は頻繁に行き詰まり、首相を初め各大臣はすぐに辞表を提出する。面白いのはその多くが病気と称して引きこもってしまうことだ。伊藤しかり、山縣、黒田、松方など都合が悪くなると病気になる。これは維新直後の明治一桁代にもよく見られたことで、西郷などもそうして政府を辞している。

本書から
p47 乳幼児の死亡:明治16年の時点で明治天皇は7人の皇子・皇女のうち6人を幼児で失っている。当時の一般的な乳幼児死亡率からいっても、これは異常に高い。
また、p114〜には漢方医への天皇のこだわりが書かれている。

p109 年始行事:明治19年の年始の宮中行事を天皇は欠席している。こうした記述は以後もよく出てきていて、キーンは病気が本当の理由ではなく、退屈な儀式が天皇は嫌いだったからだろうと推測している。
 数日前に、朝日新聞が昭和天皇の最後の侍従、卜部氏の日記を公開した。紙面に載ったのはごく一部であるが、宮中の儀式が老齢の天皇にはつらかったことが記載されていた。儀式の前になると昭和天皇は正座の訓練をしたとある。儀式をさぼった明治天皇と対照的に昭和天皇はくそまじめであったようだ。

p141 天皇の教育:明治21年の御講書初めは以下のようなもので、日本歴史、儒教、西洋事情という3本の柱は天皇教育の基本であった。『日本書紀』の景行天皇、『中庸』の一節、『万国公法』の「自主の義」

p226 明治24年ロシア皇太子:大津で負傷したロシア皇太子を天皇は見舞う。そして、大阪湾のロシア軍艦に引き上げた皇太子を訪問し、晩餐をともにする。ロシアから招待があったとき、そのままロシアに連れて行かれると周囲は出席に反対する。しかし明治天皇は泰然として応えた。
「朕応に行くべし、露国は先進文明国なり、あに敢えて爾等の憂慮するが如き蛮行を為さんや」。天皇の剛毅な一面を見る。

人物評 p252:閣僚の人物に目を配り自分なりに判断を持っていたと思われる。ここには品川弥二郎への厳しい評価が側近の日記に残されている。
 後には初めての政党内閣で文部大臣になった尾崎行雄を嫌っていたことも書かれている。尾崎は講演会で共和制指向ともとれる発言をし、それがもとで大臣辞任に追い込まれるが、それは天皇の意思を反映したものだ。

日清戦争:p296 天皇は清国との戦争に乗り気ではなかったようだ。その理由としてキーンはいくつか推測している。外国からの干渉の恐れ、多くの日本人が殺されること、清国に勝てないこと、あるいは儒教の発祥の地との戦いであること。しかし一旦宣戦が布告されると戦争の推進に天皇の迷いはなかった。広島に移った大本営に自らも出向き、身の回りの世話をする女官も十分ではなく、寝所と執務室が隣接する狭い大本営の仮寓で、戦況報告に耳を傾ける毎日を送る。それがどれほど戦意、志気を高めたかは想像に難くない。

親子関係:天皇と皇子・皇女の親子関係はきわめて薄かった。幼い皇女は1年に1回か2回しか父と会えなかった。側近はもっと会うように助言するが、天皇は聞き入れなかった。p472 にはその理由として、儒教を深く信じる天皇は、古来中国で皇帝が女人のいうことを聞いて治世が乱れることを学んだ結果ではないかと推測している。
 親子の愛情を表現することは天子としてふさわしくないと考えていたのではないかと私は思う。

                                        
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書名 アカシアの大連 著者 清岡 卓行 No
2007-08
発行所 文芸春秋社 発行年 昭和57年 読了年月日 2007−04−30 記入年月日 2007−05−01

 
5月11日から旧満州旅行に行く。水野さんの飯山北高校29年卒のグループのツアーに参加して。
 それで、ズバリの本書を読んでみた。芥川賞全集第8巻に収載。もう20年近く前に買いそろえた全集だが、ほとんど読んでいない。

 昭和20年の春、東京の大学を抜け出し生家である大連に帰った「彼」の回想、あるいは内面の動きを綴ったもので、特にストーリーといったものはない。漠然とした死への甘美な憧れと、戦況が逼迫する中で、特に対馬海峡を渡るときに撃沈されるのではないかという恐れから、迫ってくる現実としての死を実感しそれを拒む心の葛藤といったものが中心テーマ。幼児から、現在に至るまでの様々なエピソードが回想される。その中でもアカシアの花の甘くにおう大連は文字通りのふるさとである。このアカシアは実際は偽アカシアであると著者はいう。偽アカシアの方が本物のアカシアよりも立派で良い木であり、偽という名前を付けて植物学者を恨んでいる。

p260〜261にはアカシアの花を以下の様に記している:
五月の半ばを過ぎた頃、南山麓の歩道のあちこちに沢山植えられている並木のアカシアは、一斉に花を開いた。すると、町全体に、あの悩ましくも甘美な匂い、あの純潔のうちに疼く欲望のような、あるいは、逸楽のうちに回想される清らかな夢のような、どこかしら寂しげな匂いが、いっぱいに溢れたのであった。

 大連は日露戦争の時も戦場とならなかった。ロシア軍が西にある旅順要塞に立てこもるために大連を放棄し、その前に、日本軍が機雷がたくさん敷設されている大連への上陸をあきらめ、別の地点に上陸したから戦火を免れたと本書には書いてある。今時大戦の時にも戦火を免れた。ソ連軍がやってきたのは戦争が終わってからのことであり、米軍の空襲もなかったという。港町のムードをたたえた美しい町並みを持つ良い町のようだ。

 終戦後、大連に残った彼は、そこで一人の日本人女性と知り合い、そのことで心の葛藤を断ち切り、死への憧れに終止符を打ちきる。戦争中によくもこんなと思われる甘っちょろい青春の心情告白。芥川賞としてどうだろうかと思うのは私の年齢のせいか。選評では井上靖が買っていたが、三島由紀夫やその他は買っていなかった。

 著者は詩人。巻末の自身が作った年表によれば、引き上げて後、プロ野球セリーグの事務局員として、かなり長いこと試合日程の作成を行ってきたという。

 私が訪れる頃のアカシアは開花には少し早いと事前には情報が入っている。とはいえ、楽しみである。

追記 大連のアカシアはまだで所々咲き始めた白い花を見かけた程度であった。ハルビンの町はライラックの花が至るところで咲いていた。

                                           

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書名 明治天皇 4巻 著者 ドナルド・キーン
角地幸男 訳
No
2007-09
発行所 新潮文庫 発行年 平成19年5月1日 読了年月日 2007−05−24 記入年月日 2007−05−28

 最終巻。皇孫裕仁の誕生から、天皇の死とそれに続く乃木将軍の殉死まで。日露戦争、朝鮮併合、伊藤博文暗殺、大逆事件と、明治後期の重大事件の経緯が詳しく述べられる。教えられるところが一杯であった。

 日露戦争の所までは、旅順の跡地をたずねる前に読み終えておいた。開戦から旅順陥落、奉天(現瀋陽)陥落、そして日本海海戦における日本の勝利、アメリカのルーズベルト大統領の調停による講和と続く一連の経過は今回初めて正しく知ったと言ってもいい。日本海海戦と旅順陥落とがどちらが先にあったのかはっきり認識していなかった。

 読んでいて感じたことのひとつは、現行憲法のありがたさと言うこと。特に9条の戦争の放棄の規定は画期的であり、あらためるべきでないという思いを強くした。というのは、日清戦争にしても日露戦争にしても、開戦の直接的な理由が、はっきりしないのだ。あるいは今回のイラク戦争でも、米英による開戦の理由も極めて曖昧で、結果的には理由として掲げたことは実際にはなかったことが後で判明した。

 日露戦争の宣戦布告もあるようでない。そのことについては、近代戦争は宣戦布告なしに始まることが多いという、当時の日本側の弁解めいたコメントがある。太平洋戦争も宣戦布告がないままに、真珠湾奇襲となり、そのことが後々まで、だまし討ちと評価されている。

 日露戦争は旧満州での権益を巡る争いが原因である。義和団の乱後もロシアが満州に駐留し続けたことが日本を刺激した。特に満州で日本人がロシア人に殺害されたとか、そう言ったきっかけはない。結局、朝鮮をロシアの手から守り日本の影響下におくためにはロシアと一戦を交えるべし、という国内に盛り上がる機運におされて戦いに踏み出した、と言うしかない気がする。権益の対立を戦争によらずに解決できたのではないかと、後世の私は思ってしまう。今の日本国憲法のように国際紛争の解決に戦争に訴えない規定があれば、戦争のほとんどはなくなる。日露戦争ももちろんなくてすんだ。何故そんな思いにとらわれるかと言えば、日露戦争は勝ったとはいえ、大きな犠牲を出したからだ。特に旅順攻撃での犠牲は大きかった。明治天皇もあまりの人員の損失に心配の言葉を漏らしたとされている。奉天陥落の前日、私の母方の祖父、高橋福三郎は渾河の戦いで負傷したとは、今回豊平叔父の回想録で確認したことである。左腕貫通銃創というから、あと10センチほどもずれてたら私という存在はなかったことになる。

 日露戦争自体はもっぱら軍隊どうしの戦いで、戦争としてはきれいであったという印象が残る。両軍とも相手を尊敬しあっていたことは旅順陥落の際の水師営の会見でも示されているし、ロシア軍捕虜の扱いも丁重であったと本書には記されている。非戦闘員の虐殺行為もなかったようだ。水師営の展示場には当時の写真で日露戦争の説明がしてある。その中に、日本軍人が多数見守る中で、中国人の首をはねる所の写真がある。女性の現地ガイドはその写真に「中国人もこうして殺された。しかし、多分これはスパイの容疑であったのだろう」といった。

 韓国の合併に関しても1章をもうけて詳述している。私にはすべて新しいことであったが、これを読むと、最初は外交権を日本に移管することを要求し、それがエスカレートし、最後は軍隊による脅しの下で強引に合併を迫ったことがわかる。まるでならず者が暴力で脅迫し、ゆすり取ったようだ。国として、国民としてこんな屈辱はあり得ない。韓国の人が今に至るまで日本に恨みを抱くのもうなずける。

 読み終えて、明治天皇という人物の人間性がわかったかというと、やはりわからないというのが正直な感想である。ちょろっと思い出したように触れられているエピソードにわずかに人間性を感じる。典型的な例は、嗜虐性。食卓のアスパラをわざと床に落として、侍従の食べることを命じた話。キーンは君主にはこうした嗜虐性はよく見られることだと、弁護している。こうしたエピソードは本書にはめったに出てこない。

 日清日露の両戦争に対しては、本心は戦争を望まなかったとという風に書いてある。勅語にもそれは伺われる。あるいは、伊藤博文の暗殺犯安重根も、あるいは幸徳秋水も明治天皇自身を平和主義者として尊敬し敬愛していたという。にもかかわらず、明治天皇の最も好きであったことは、軍事演習を自ら統括することであったように思える。最晩年の体調不良の中でも、軍事演習には臨席していることが述べられている。本当の平和主義者であったなら、そのようなものには嫌悪を催したはずだが。平和主義者ではなかったとしても、儒教思想の信奉者であったことは間違いない。そして、伊藤博文はじめ、明治の指導者の心の拠り所であり得るだけの人格を備えていたことも明白である。その意味で、明治時代は明治天皇の時代である。

本書から
日英同盟について p40:井上馨はむしろロシアとの同盟に積極的であった。また伊藤博文もロシアとの協商締結の可能性があり、日英同盟については慎重であるべきと考えていた。しかし、桂内閣は日英同盟に踏み切った。

ドイツ皇帝 p108:ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は「横禍論」を唱えた人物であるが、ロシア皇帝ニコライ2世を盛んにたきつけ、日本との戦争に向かわせた。キーンはニコライ2世、あるいはヴィルヘルム2世との比較で、明治天皇を高く評価している。

宣戦布告 p146:日本政府は、近代戦では宣戦布告が開戦の後に来ることは常識であると、ロシア政府の非難に応えている。
旅順陥落の上奏 p155:日本国中が待ち望んでいた旅順陥落の吉報にも、天皇は沈着冷静に一切の感情を表さなかった。上奏した陸軍参謀次長は天皇の態度に落胆する。

外国人の見た天皇 p231:アメリカ人の大学教授ジョージ・ラッドは記す:
「国民の利益に関し天皇睦仁のように愛情にあふれ、心を砕き、また自己を犠牲にする君主は世界広といえども現在の君主の中から探し出すことは難しいのである」

大正天皇 p250:大正天皇となる嘉仁親王よりも、明治天皇は朝鮮王室の皇太子で日本留学中の李垠に目をかけていた。大正天皇は生涯、明治天皇の心配の種であり、ギクシャクした親子関係であった。

大逆事件 p312:判決が出るまで天皇は事件のことを知らなかった。山県総理大臣から判決文を見せられ、減刑の特赦を指示した。天皇は新聞を読まなかったようだ。

 大逆事件に関しても本書は詳しく書いている。著者は幸徳秋水の有罪判決につては不当であったといったコメントはしていない。彼が明治天皇の崇拝者であったことは例えば323にも書いてある。それがアメリカに渡った以後天皇制打倒を唱えるようになった。そうした事実のみが本書には書かれている。

諡号 p382:天皇の諡号が年号からとられたのは和漢に例を見ないことであった。

外国マスコミの評価 p383〜:p385には「
ミカドは、自身の個人的安楽をまったく顧みることがなかった」とある。これは全編を通じてキーンも強調していることである。

在位期間 p425:キーンは明治帝の最大の功績として在位の長さを上げている。これは妥当だと思う。昭和帝はさらに長い在位期間であるから、以後の人は明治帝を越える偉大な天皇と評価するであろうか。

                                       

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書名 西行 著者 白州正子 No
2007-10
発行所 新潮文庫 発行年 平成8年6月 読了年月日 2007−06−05 記入年月日 2007−06−05

 白州正子の文章家としての名声は、確か「ダカーポ」で私が取り上げられた号にも触れられていたと思う。あるいは下重さんも高く評価していた記憶がある。

 東海道歩きで小夜中山を通った際、例の西行の有名な「年たけて また越ゆべしと思いきや 命なりけりさやの中山」の歌碑を見た。西行について知りたいと思ったところ、ちょうど本書を見つけた。この歌については265pに書かれている。

 初めて接する白州正子の文章は凛とした素晴らしい文章だ。深い学識に支えられ、知的でかつ詩情に満ちている。小林秀雄に文章を鍛えられたと言うが、男性的な文章だ。

 西行の生涯をたどり、彼の足跡を追って、吉野、四国の白峯、高野山、熊野、伊勢、衣川、終焉の弘川寺などを訪れ、そこで読まれた西行の歌を中心に彼の生き方を明かしている。優れた紀行文でもある。取り上げた歌は、必ずしもその場所とその時期に詠まれたものではなくても、著者はあえそれ無視して、歌と歌枕を結びつけている。歌の解釈も従来の見方を否定するものもある。著者は本質的に詩人でもあるようだ。

 私にとってはほとんど初めて知る西行の一生である。平将門の乱を平定した藤原秀郷の子孫で、武門の誉れ高い家柄の生まれだ。俗名は佐藤義清(のりきよ)で、鳥羽院の北面の武士として仕えていた彼が、23歳という若さで突然出家する背景には、従兄弟で同僚の突然の死があり、さらに鳥羽院の中宮待賢門院への叶わぬ恋があった。高野山や大峰山で修行し、奥州藤原氏を訪ね、讃岐に亡き崇徳院を弔う。小夜中山での歌は、西行が2度目に奥州へ下る際のものだ。ときに西行69歳。この旅の途中、鎌倉で彼は頼朝とも会っていて、頼朝は西行と一夜語りつくしている。平家物語で六代の命を助ける文覚との接触もある。

 69歳の時の「命なりけり」という絶唱には、保元平治の乱から、源平盛衰を見てきた彼の深い思いが込められていよう。彼は平清盛と同年生まれである。小夜中山を鎌倉に向かい、そしてまた京へ連れ戻され、討たれた清盛の息子、宗盛、重衡のことが脳裏をよぎらなかったことはないだろう。

 著者は西行の歌には反語が多いという。命なりけりの歌の「また越ゆべしと思いきや」も反語である。11p:
西行の歌にとかく反語が多いのは、内省的な性向によると思うが、いつもものの両面を見る眼を備えていたことを示している。

 歌枕について:144〜145p 
西行は能因の跡を慕って陸奥を旅し、芭蕉は西行の風雅を追って奥の細道に出た。「道のべに清水流るる柳陰 しばしとてこそ立ちどまりつれ」の西行の歌に対して、「田いちまいうゑてたちさる柳かな」の名句をもってし、朽木の柳は世間に喧伝された。著者は言う:芭蕉は西行の身になって、昔を思い出しているのである。そういう風に考えると、歌枕の意味するところは大きい。それは単なる名所でも旧跡でもなく、故人を追慕する心の表徴であり、二度と還らぬ歴史を再現する生命力の現れともいえよう。
 優れた評伝である。

 巻末の福田和也による解説文が的確で、これまた名文である。一言で本書を評するなら、福田の次の文であろう:
 わたしたちは、白州氏の、穏やかな、しかしはっきりとそれとわかる感触と匂いをもった風のような文章の中に、西行という男が立っていることをまざまざと見るのである。
                                          

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書名 西行花伝 著者 辻 邦生 No
2007-11
発行所 新潮文庫 発行年 平成11年7月 読了年月日 2007−06−22 記入年月日 2007−06−23

 
白州正子の本を読んで、さらに西行のことを知りたくなって購入したのではなく、ついでに西行関連のものを読んでみたかったので白州正子の本と同時に発注した。

 ものを書くということは、大変な作業であるとつくづく思わせる力作だ。平安末期から、鎌倉初期までの激動の時代を背景にして、西行の生涯が詳細に描かれている。各種資料を当たるだけでも、大変な作業だっただろう。文庫本で700ページ。序の帖を入れ23帖で構成された、西行の一生。語り手は西行の弟子、藤原秋実(あきざね)であるが、秋実を介して西行自身、あるいは西行の乳母、あるいは従兄弟の佐藤憲康の乗り移った霊媒、あるいは待賢門院の女房、歌人仲間の寂然などが代わる代わる語る形式になっている。巻末の高橋英夫の解説によると、秋実は実在の人物ではなさそうだ。

 描かれた西行像は、本質的には白州正子の「西行」に描かれた西行である。

 平安末期、地方では地方の小領主と摂関家や寺社をバックにする荘園との土地争いが絶えなかった。そうした背景がこの物語では序の帖から強調されている。佐藤義清は京都の徳大寺家を主家と頼み紀ノ川領域に土地を有する小領主である。ある時、奥州の藤原秀衡の下に各地の小領主を結集し、摂関家の政治に反旗を翻そうと、佐藤一族で、頸城地方で領主をしている氷見三郎という人物が義清を誘いに来る。しかし彼は、機が熟していないとして、参加を見合わせる。一方彼の従兄弟の佐藤憲康は参加を決意するが、その憲康が、決意した日に死んでしまう。それを契機に義清は鳥羽院の北面の武士を退き、出家してしまう。

 西行の目指したのは歌による政。彼は政治あるいは浮き世に対する、歌、つまり文学の優位性を信じ、その信念を生涯貫く。かといって、現実とまったくかかわらなかったのではない。鳥羽院の信任厚かった彼は、宮廷内の勢力地図にも詳しく、むしろ、積極的に現実世界とかかわっていく。それでいながら、時の流れを宿命として受け入れることの大切さを説く。歌はそうした宿命をも超越すると。

 こうした西行の生き方が最もよく現れているのは、彼と崇徳院との関わり。この部分の西行の行動にはフィクションの部分が多いのであろうが、本書のクライマックスである。鳥羽上皇の寵愛を一身に受けた美福門院とそれに通じる藤原忠通一派により不遇な立場に追い込まれ、近衛天皇の死後は自分の皇子に天皇位を継承できない崇徳院。その崇徳院に西行は歌による政治を説く。それは具体的には、勅撰歌集の編集を通じて、現実の政治を超越することである。しかし、崇徳院は我が子の皇位への執着を捨てきることは出来ない。後白河天皇と忠通一派と対立する忠通の弟の頼長。今の摂関政治、あるいは院政をあらため古代の律令国家を目指す頼長という想定があり、ここにも大荘園と小領主の対立が影をひいている。鳥羽上皇死後の権力争いである保元の乱で西行は、後白河側と崇徳院側がお互いに配下を集めて立てこもってからも、崇徳院には謀反の意思がないことを天皇側に伝えようと、夜の京都を駆け回り必死の努力をする。しかし、崇徳院は子供を皇位につけることへの執念を結局は捨てることが出来ず、源為義の「戦いに勝てばそれはかなう」という言葉で、西行とは生き方を異にする。

 西行出家の一因ともされる待賢門院への叶わぬ恋についても、作者は想像力を巡らし、二人の出会いと、最初で最後の二人の一夜を、絵巻物のような流麗な筆で描いている。

 清盛とは北面の武士として直接話し、彼の政治論に西行は感心し、敬意を持った。しかし、頂点を極めてからの清盛の行いには批判的である。それに反し、頼朝は理法(ことわり)をもって世の中を見通せる人として絶賛する。

 2度目の奥州藤原訪問は、平重衡に焼かれた東大寺再建の勧進のためであった。頼朝は奥州から南都への金の輸送を喜んで保証したとことになっている。大磯で西行は頼朝の幻影を見、頼朝ですら鴫立つ沢の秋の夕暮れをあわれと思った、として例の「こころなき 身にもあわれはしられけり 鴫立つ沢の 秋の夕暮れ」を作ったとしている。(p645)鎌倉で頼朝に会い、その後奥州に向かう。西行が鎌倉の間者であったという説をどこかで目にしたことがある。もちろんそんなことは本書には一切出てこない。

 文学の政治に対する優位性を信じて疑わなかった西行の生き方に共鳴する。スケールははるかに小さくても、私も同じように考え、憧れてきた。私の場合は早々と隠居し、無為に過ごすという理想である。今の生活はそれに近いものであるが。

 この小説は保元・平治の乱から、源平盛衰を経て鎌倉幕府にいたる時代の側面史を語っている。この時代は戦国、幕末と並んで作家の想像力をそそる大きな変換期である。

本書から
p177〜待賢門院と西行の一夜
p186 清盛との論争
p207〜憲清の死の衝撃から立ち直り浮き世を外から見ようと思うきっかけ
p338 旅に出ることの意味、歌
p510 歌の友人寂然が語る西行の人柄
p534 西行自身が語る歌論
p537 共鳴、同調について
p567 秋実が語る西行の生き方
p576 因縁
p626 大仏再建勧進と平重衡への思い

                                           

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書名 背教者ユリアヌス 上・中・下 著者 辻 邦生 No
2007-12
発行所 中公文庫 発行年 1975年 読了年月日 2007−07−27 記入年月日 2007−07−28

 
文庫本、3巻、千ページを超える大作。初めて読む辻邦生の小説「西行花伝」が面白かったので、もう一つの代表作もついでに読んでみたいと思った。

 読み出したらやめられない。白州正子の「世阿弥」を放り出して、この大作を読み切った。読み応え十分、歴史ドラマを堪能できる。古代ローマを舞台に、これほどのものが書けるというのがすごい。

 ユリアヌスという名前は私の記憶にはない。ローマ皇帝である。「背教者」という呼び名に、何か後ろ暗い人物を想像していた。しかし、ここに描かれたユリアヌスは、深い古典的教養を身につけ、皇帝としての激務の間にもプラトンに読みふける学究の徒であり、そして何よりも寛容で、理性的で、誠実な人物である。幼時にキリスト教徒になったが、生涯その教義、あるいは信者の生き方に納得できず、皇帝になってからはギリシャ神殿の復興を計り、キリスト教徒に認められていた権利を停止する。そのため、後世「背教者」と呼ばれるようになった。生誕から32才で戦死するまでの生涯が描かれているが、インターネットで調べた限りでは、その人物像も含めて、ほぼ歴史事実に忠実であるようだ。

 最大の読み所は、ユリアヌスに代表される古典的ローマ世界と、公認されたばかりのキリスト教徒との世界観の対立、あるいは実生活を巡る対立である。

 キリスト教がローマで公認されたのはコンスタンティヌス大帝による。4世紀の初めである。コンスタンティヌス大帝は死の床で洗礼を受ける。大帝の死後、帝国は3人の息子に分割されるが、コンスタンティノープルに都をおく東部帝国を継いだのはコンスタンティウスである。その際、彼はコンスタンティヌス大帝の弟であったユリウス・コンスタンティウス一族を殺害する。その子供であったユリアヌスと異母兄のガルスは危ういところで命を長らえる。しかし、彼らはマケルムの離宮に幽閉される。若いユリアヌスはそこでひたすらギリシャ古典の勉強に打ち込む。ユリアヌスの母は彼を生んでしばらくして死んでしまうが、彼は年老いた侍女を通して幼い頃からギリシャ古典に親しむ。ホメロスを諳んじるほどである。

 やがて、ガリアで内乱が起きる。それはどうやら鎮圧できたが、コンスタンティウスは統治の必要性に迫られて、今はただ二人となった血族であるガルスとユリアヌスの幽閉を解き、ガルスを副帝に任命し、アンティオキアに派遣し,東方統治を任せる。ユリアヌスは、ニコメディアで古典学問に専念する。皇帝コンスタンティウスは猜疑心の強い男であった。彼の周りにあって宮廷を牛耳っていたのは侍従長のエウビウスや、実力者のオディウスなど宦官たちである。彼らはいずれもキリスト教徒である。キリスト教徒であることを出世の手段として利用し、高い地位に登りついたのだ。彼らの目から見れば、ギリシャローマの異教を信じる勢力は反皇帝勢力に見える。なんとしても取り除かねばならない。彼らの甘言に乗せられて、皇帝は副帝ガルスに謀反の罪を着せ、処刑してしまう。

 ユリアヌスを目の敵にするエウビウスらは彼もまた謀反に荷担したと告げ、ユリアヌスはアクィレイア(ベネチア)に幽閉される。さらにメディオラヌム(ミラノ)宮廷で裁判にかけられる。

皇帝の面前の裁判で、彼を無実であると認めさせたのは、皇后エウセビアであり、また、彼がニコメディアで知り合った軽業師の少女ディナであった。エウセビアとユリアヌスはアクィレイアの宮殿でそれと知らずにあったとき、お互いに一目で惹かれあったのだ。極めて聡明な女性で、皇帝にも大きな影響力を持っており、ことあるごとにエウセビアは宦官らと対立している。

 謀反の疑いが晴れたユリアヌスはアテネに赴き、ギリシャ古典の勉強に打ち込む。やがて、コンスタンティウスはガリア統治にユリアヌスを副帝として派遣する。哲学の書生に何ができると、たかをくくっていた周囲の目を裏切るように、彼は見事な統治力を発揮する。特に、ゲルマン族相手に、アルゲントラートゥム、現在のストラスブールでその大軍を打ち破るという軍事的才能は人々を驚かせ、ガリア軍兵士の心をつかむ。ガリア統治にも減税策などを実施し、ガリアは安定し、ルテティア、現在のパリに宮廷を置く。

 エウセビアとユリアヌスは互いに深く思いを抱きながら、それが他人に露見した場合のことを考え、じっと耐える。読んでいて切ない。しかし、皇后は現実の宮廷政治に対処できる実力者であり、ある時は非情だ。ユリアヌスがガリアに副帝として行くきっかけになったガリアの反乱は、エウビウスやオディウスらが影で手を引いているとみた彼女は、密かに刺客を送って、反乱の指導者を暗殺させる。

 ユリアヌスは、皇帝の妹ヘレナと結婚する。ユリアヌスはヘレナには何の魅力も感じない。彼の心にはエウセビアしかない。しかし、ヘレナは身ごもる。そのことを知ったエウセビアは、助産婦と装って侍女を派遣し、生まれた子供を殺してしまう。そうした面も持ち合わせる女性だ。

 やがて、エウセビアも死ぬ。そして、東方ペルシャとの戦いが激しくなり、コンスタンティウスは、ユリアヌスにガリア軍の東方派遣を要請する。しかし、それは違法な命令であり、ユリアヌスは拒む。皇帝の違法な命令にガリアの兵士たちは激高し、ルテティアでついにユリアヌスを皇帝に推戴する。ユリアヌスはコンスタンティウスとの一戦を覚悟し、コンスタンティノープルに向かう。しかし、コンスタンティウスは直前に病死する。かくして彼は皇帝になる。帝位につくと彼は矢継ぎ早に改革を指令する。中でもギリシャ神殿の復興は彼の最大の関心事である。ギリシャ神殿に毎日100頭の牛の犠牲を捧げることを命じる。さらに、ペルシャとの決着をつける決意をする。ローマ皇帝の例に倣って、彼も軍の先頭に立つ。そうして、アンティオキアまで出陣する。そこで、荒廃していたギリシャ神殿の再興を命じ、さらにその神殿前にあったキリスト教教父の墓の移動を命じる。しかし、完成したダフネ神殿は何者かによって炎上する。寛容の精神を説く彼も、さすがにこれを機にキリスト教徒に与えられていた諸権利を剥奪する。

 ユーフラティス川沿いに、ペルシャ(ササン朝ペルシャ)の首都に迫るが、分遣軍との合流ができずに、首都攻略をやめて帰還する。その途中、迫ってきたペルシャ軍本体との戦闘で、脇腹に槍を受け、翌朝戦死する。363年6月28日、皇帝在位1年半、32才であった。

下巻178pにユリアヌスのこんな感慨がある:
だが、ユリアヌスにとって人間が人間であることは―いや、ローマが光であることは、ただ、燈台が夜の海を照らすように、理性によって蒙昧さを照らしだしことを除いては考えられなかった。それがどんな口実であれ、人間が考える力まで投げ出して、神のなかに一切を委ねるなどとは、ユリアヌスには狂気の沙汰に思えたのである。

 コンスタンティウスとの一戦を覚悟して、ドナウ河沿いにコンスタンチノープルに向かう陣中での感慨だ。ローマ的考えとキリスト教的考えの対比が要約されている。読みながら、後者が結局は勝利し、前者が復活するには1000年も後のルネッサンスを待たなければならなかったのだと思った。

 塩野七生の「ローマ人の物語」を読んでいるので、ローマの制度、風習には多少の知識があり、本書を読む助けとなった。文庫本版の「ローマ人の物語」はまだユリアヌスまでは来ていない。ユリアヌスは統治の規範としてプラトンの描いた世界を、また、マルクス・アウレリュウス帝を理想としていた。そのアウレリュウスも塩野の本では今秋文庫本化される。 

 塩野の本もそうだが、読んでいてローマの帝位継承時の血なまぐささは本書でも至る所に満ちている。冒頭のユリアヌスの父の暗殺から始まり、ガルスの処刑、コンスタンティウスを継いだユリアヌスも、宦官のエウビウスやオディウスを処刑している。さらに、即位時にユリアヌスの暗殺を謀った首謀者2人は火刑に処している。

 宮廷での権力争い、陰謀、奸計といったドロドロとした争いもまた陰惨だ。こうしたものの基本にあるのはねたみ、嫉妬である。古今の権力を巡る争いはすべてこの感情から発していると時々思うことがあるが、ローマの歴史もそれに彩られている。

 反乱ものべつ幕なしに起きている。これはローマ帝国が広大で多くの民族を抱え込んだためであろう。そして、ゲルマン族やその他の蛮族と称されるものとの絶え間ない戦い、さらに東方の強国ペルシャとの戦い。ペルシャはギリシャローマ世界にとっては常に敵であり続けている。

 トインビーの『A Study of History』にユリアヌスが出ているか当たってみた。索引でひくと2ヶ所出てきた。一つは、アテネやベネチアなど、衰退後も文化的な重要性を持つ都市の記述の中で、アテネではユリアヌスが学んだことが書かれていた。もう一つは、騎兵の比較で、従来からローマの騎兵の装備はオリエント諸国のものに比べて劣るのに、それが改善されなかったという記述で、その例として、カルタゴに敗れた戦と、ユリアヌスの死を招いたペルシャとの戦いをあげていた。

 巻末の解説は篠田一士。篠田はこの小説の叙事性を絶賛している。さらに日本にも叙事詩あるいは叙事文学と呼ばれるものはあるが、「平家物語」、「太平記」「義経記」などは余りにも叙情の香煙につつまれていて、
一国、一社会の興亡が喚起する文明そのもののリアリスティックな動きではなく、そうした人間の営為をことごとく呑みつくしながら、一切を空と化す、例えば無常観といった哲学の安直な通俗唱歌でしかない、といっている。
                                        


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書名 世阿弥 著者 白州正子 No
2007-13
発行所 講談社文芸文庫 発行年 1996年 読了年月日 2007−08−02 記入年月日 2007−08−07

 
世阿弥の書き残したものを中心に、能に対する彼の思想をたどったもの。「花伝書」の名前は知っていたが、それは1冊だけではなく、「花伝書1,2,3,4,5」というようにいくつかに別れている。それ以外にも「花伝書別紙口伝」「花伝書奥義」など、たくさんの著作があることを知った。「世阿弥16部集」というのは、明治16年に発見されたものであると、「はじめ」の部分に書かれている。こうした多数の原典を引用し、多くの場合は現代語訳を載せ、その上で著者の考えを述べている。

「初心忘るべからず」という有名な句は、晩年近くの「花鏡」の中に出てくる。難しい意味ではない。51ページ以下に述べられている。初心には是非の初心、時々の初心、老後の初心の3つがある。是非の初心というのは本当の初心のこと。これは今思われているほど美しいものという意味ではなく、まずい芸を初心と呼んだのだと白州は言う(58p)。その時々の初心を忘れず、また老後の初心を忘れなければ、芸は上達を続けるという。

 もう一つ能と言えば出てくるのが「幽玄」である。世阿弥の幽玄は、和歌の世界で使われるニュアンスとは違って、明るいものだという。p96には
「児姿は幽玄の本風なり」と言う世阿弥の言葉が引用されている。そして:稚児の美しさは、未だ男女の別のない、そして女体には絶対求めることの出来ない一種特別なものです。この清純な色気に昔の坊さん達が、観音の化身を見たのも不自然には思えませんが、義満の思いものとして出発した世阿弥の生涯と芸術が、そこに美の源泉を見出したのも、思えば当然すぎることでした。花といい、幽玄といい、初心というも、みな児姿の投影に他ならず、それを一生保ちつづけることを念願としたのですが、それは世阿弥にとって、いわば自分自身を真似ることでした。モデルを外に求めつつ「似せぬ位」に至った手本は、自分の少年時代の美しさにあり、老人にも鬼にも狂人にも、花の一枝を与えることで、「幽玄」の姿を完成したのです。 あるいは114pには:たしかに、室町時代一般の幽玄の通念は「一種頽廃的・超越的な」隠秘な美しさだったかも知れません。が、舞台の体験から生まれた世阿弥の幽玄は、もっと肉体に密着したもので、私が理解した範囲では、頽廃の影すらなく、むしろ明るく健康な美しさでした。

「花伝書」では芸の上達法、あるいは能の本質として、物真似の重要性が強調されている。そして、女、老人、直面、物ぐるい、修羅、法師、神、鬼などをあげて具体的に注意している(63p以下)。

 具体的な物事の即して書かれた世阿弥の思想をよくつかんで書いていると思う。白州は世阿弥16部集は一種の幸福論であるとしている(60p)。
「命には終りあり、能には果てあるべからず」
                                            

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書名 三島由紀夫あるいは空虚のヴイジョン 著者 マルグリット・ユルスナール 渋澤龍彦 訳 No
2007-14
発行所 河出文庫 発行年 1995年 読了年月日 2007−08−04 記入年月日 2007−08−08

 
ユルスナールによる三島論。主として作品から三島に迫ろうとしている。三島作品の細部の引用が本書を通して、至る所に出てくる。私が読んだ作品でも、もう思い出せない細部が多い。ユルスナールの読み込みぶりに驚嘆すると同時に、これほどたくさんの三島作品が翻訳されていることにも驚く。

 特に力を入れているのが『豊饒の海』と、三島の死である。
 三島の死についてはその日の行動がかなり詳しく述べられている。読んでいて、私がもう忘れたかあるいは最初から知らなかった事実がたくさん出てくる。多分、私はそうした細部には当時から関心を持たなかったのだと思う。その死の動機について著者も明快な答えは出していない。事実をむしろ淡々と記している。そして、切腹と介錯が与えた衝撃は強烈であった。161p以下の結びには、アクリル板に並べられた三島と森田の生首について、著者の思いが書かれている。感情を抑えた文章であるが、そこには無常観が漂っている。

p141:
人間には二つの種類があるようだ。すなわち、より良くより自由に生きるために、死をその頭のなかから追っばらってしまう人間と、逆に肉体の感覚や外部世界の偶然を通して、死が自分に送ってくれる合図の一つ一つに死を感じれば感じるほど、ますます自分が賢明に強く生きているということを自覚する人間である。この二つの種類の人間は混り合わない。前者が病的偏執と呼ぶものは、後者にとっては英雄的な訓練なのである。どちらをお選びになるかは読者の御自由である。

p159:
しかし三島自身が一九七 ○ 年七月に、次のように書いていたのである。「私の中の二十五年を考へると、その空虚さに今さらびっくりする。私はほとんど[生きた] とはいへない。」もっとも華 々 しく、もっとも欠けるところのない生においてさえ、本当にやりたいことは滅多に成就されるものではなく、空虚の深みあるいは高みから見れば、かつてあったこともなかったことも、ひとしく夢か幻のように見えるものなのだ。
 三島の作品をヨーロッパの作家の作品と対比しているところがたくさんあるのはさすがだ。

p25:
特殊な症例のほとんど臨床的な物語である『仮面の告白 』 は、同時にまた、単に日本ばかりか世界の方々における、一九四五年から一九五 ○ 年までの青春像を提示しており、さらに或る程度まで今日の青春にも係わっている。苦悩と弛緩をともども扱った短い傑作というべきこの書物は、主題も違うし地図上の位置も違うのに、ほぼ同時代のカミュの 『 異邦人 』 を思わせないこともない。つまり私が言わんとしているのは、そこに同じ自閉症の要素がふくまれているということなのである。

 三島の多作さにつては、その原因は金を稼ぐためであったとしている。もちろんそれだけの才能に恵まれていなければならないが。こうした例はバルザック他の作家にもよく見られることであるという。(p31)。そして三島の全集の28巻という数字に驚き、7巻もあれば十分であると述べている(ページ不明)。多作さには私も驚く。ただ、その理由についての指摘には疑問に思う。やはり、三島の内的衝動によると思いたい。

p47:
 『 仮面の告白 』 を黒い傑作、『金閣寺 』 を赤い傑作とすれば、その後に書かれた透明な傑作『潮騒』は、一般に作家がその生涯に一度しか書かないような、あの幸福な書物の一つである。それはまた、その直接の成功があまりに華 々 しいので、気むずかしい読者の目にはかえって胡散くさく見えるような作品の一つでもある。その完璧な明澄さそのものが一つの罠なのだ。古典期ギリシアの彫刻家が人体の上に光と影の段落を描き出す、あまりに際立った凹凸をつくることを避けて、限りなくデリケートな肉づきを目や手により生 々 しく感知させようとしたように、『 潮騒 』 は批評家に解釈のための手がかりをあたえない書物なのである。
 『潮騒』を高く評価している。

p42:
それがここでは、むしろ逆に若い法律家としての本多によって研究された自然法の原理や、仏教や、歴史のさまざまな時代における転生信仰についてのくだくだしい知識が、物語と一体化せずに物語を中断するのだ。そうした知識は深く考えられもしなかったし体験されもしなかったのである。

『豊饒の海』への辛口のコメント。私も大乗仏教の教義に関する長々とした記述は退屈であると感じた。

 三島はファシストと呼ぶのは正統ではないという。(p118)。ナチズムもファシズムとは同じではないという。

                                       

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書名 東方奇譚 著者 マルグレット・ユルスナール、 多田智満子訳 No
2007-15
発行所 白水Uブックス 発行年 1984年 読了年月日 2007−08−10 記入年月日 2007−08−29

 
中国、日本、ギリシャなどを舞台にした、9編の奇譚。ユルスナールの作品で最初に読んだのは『とどめの一撃』であるが、まったく趣の違うこの作品を最初に読んだとしても、他の作品も読んでみたいと思ったであろう。幻想の不思議な世界に誘い込まれる。

 日本を舞台としたのは「源氏の君の最後の恋」という作品。源氏物語では光源氏は忽然と姿を消し、その最後は不明なのだが、物語は、山奥に隠棲した源氏のこと。そこを密かに訪ねてくるのは、源氏ゆかりの女性の中では取り立てて目立った存在ではなかった花散里。最初は追い返されるが、段々と視力が衰えた源氏は、百姓の娘と偽り2回目に訪れた花散里の見分けがつかずに、一夜をともにする。しかし、すぐにばれて、追い返す。いよいよ失明した源氏の元に、国司の娘と偽り乗り込んだ花散里は、そこに居つき、源氏の最後の愛人となる。源氏はそれが花散里であるとは気がつかない。いよいよ源氏が死ぬ間際になり、昔愛した女のことを口に出す。葵、夕顔、藤壺、紫の上、空蝉、長が夜の君(こんな人物はいないと訳注にあるが、朧月夜ではないか)。しかし、花散里の名前はついに出なかった。

 源氏物語を読むと、この作者の空想は的を射ていると思う。花散里はそういう感じの女性だ。源氏物語をよく読み込んでいると思った。そして、源氏の最後というのも、面白い発想だ。今までに誰か、源氏の最後を空想し、作品化したことがあるだろうか。

「ネーレイデスに恋した男」という作品の中にこんな文章があった:
心の眩惑なしに恋はないのと同じように、美への賛嘆なしにまことの逸楽はまずありえません。(p96)
                                          


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書名 風景学入門 著者 中村 良夫 No
2007-16
発行所 中公新書 発行年 1982年初版 読了年月日 2007−09−11 記入年月日 2007−10−01

 前に読んだ『風景学・実践編』より19年も前に書かれた物。「入門」だけあって、こちらの方がやさしく読みやすい。とはいえ、著者の博識ぶりは、この本でも遺憾なく発揮されている。18版も版を重ねているのもすごい。人間、あるいは生活と風景の関わりという視点から書かれている。

本書から:
p16:
どんなに魅惑的な自然でも、日常の生活舞台に身をおいて眺めるのがその最も当たり前の楽しみ方である。
 ワーズワースを引き合いに出してこのように述べている。

p19:
まず、日本人は、華々しい近代化を実現する舞台裏で、言語生活においては並外れた苦労をしてきた。激変する生活と感情を的確に表現する美しい文体を求めて日本語は大きく変わった。そこに、どれほど多くの精神的エネルギーが注ぎこまれたことか。この民族的負担が、精神生活における言語の偏重という近代の通弊とあいまって、生活空間の精神性に関する感覚を鈍らせる下敷きをなした、といえまいか。
 興味深い指摘だ。

p31:
換言すれば、人間は、辺りの物の広がりに拠って、逆に自分がここにいるという定位置感覚を授かっているといえる。
p49:
俯瞰景 俯角θ− については、ドレファスが、立ち姿勢における人間の自然な視線がθ−  =−10°であると指摘しているが、これがおおむね風景鑑賞にも妥当とされている。

p54:
つまり、現実の視角像は、心像の視覚性を養い、逆に、成熟した心像は現実の視覚像に人間的意味を吹きこむ。
p57:
日本の都市は、表情豊かな地相を骨格にしているから、山、海、川などが都市空間記憶の大枠を形成することが多い。・・・・・。こうして風景の冥々の加護に導かれて,人びとはそれと知らぬ間に、都市空間のなかにしかと定位し投錨し、心の無事を得ているのである。

p89:
なかでも増上寺山内の蓮池中島の弁天祠は、さらにそのまわりを円山、観音山、楓山が点々ととりまいていて一つの境城をなし、抜群に地相がよかったようである。
 私は子供のころここで遊んだ。弁天池と呼んでいたこの池には真ん中に島があり弁天さんが祭られていた。番人のおじさんは怖い人だった。

p112以下:ヴォリンゲルの『抽象と感情移入』についての説。芸術論。
p122:
結局、人間は、安んじて籠もり、かつ見はるという、環境に対する防衛的と攻撃的、陰陽二つの姿勢を、適度な生活サイクルのなかで、できれば目前の視野のなかで同時に充足しうる場所を好む、と考えるのに無理はないであろう。
p151:
「風景は国民文化の表現」であるとは、集団としての国民の「自我」が土地のなかに象られる、ということである

p165:
群れとしての秩序感覚を欠いたバラバラな街並みは、自然なようでいて、じつは社会的生命現象の水準において不自然なのであると。伝統的街並みの魅力の過半は、この秩序にあるからこそ、建築が群として保存されることに価値があるのである。
 
私も実感する。

p190:
要するに、人間は、自己をとりまく環境に対する愛惜と共感を研ぎすましつつ、その結果、自分が何者であるかを悟らされ、自己と環境の同時的倫理変容をとげてきた、といってよい。

 すべてが著者独自の見解ではないとは思うが、いずれも鋭い指摘だ。こうした指摘をふまえて風景を見たら、新しい発見があるだろう。あるいは東海道歩きの時にも意識したら良いだろう。

                                         

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書名 コレラの時代の愛 著者 ガルシア・マルケス 木村榮一 訳 No
2007-17
発行所 新潮社 発行年 2006年10月 読了年月日 2007−10−01 記入年月日 2007−10−02

 8月のエッセイ教室のテーマは失恋。恋愛を賞賛した後、下重さんが最近読んだ面白い小説だと言って紹介したが本書だ。

 破天荒な物語。何しろ51年9ヶ月と4日、女を待った男の話なのだ。ほらとも思えるような語り口と、エピソード。南米の人の生き方がストレートに出ているのではないかと思った。

 マルケスの名はノーベル賞をもらった南米の作家として知っていた。作品を読んだのは初めて。ちまちました日本の純文学作品ではとても考えられないようなエピソードに満ちている。力強く野性的で奔放。そしてどこかユーモラスである。

 舞台は南米のカリブ海に面した町。最後に男と女がする船旅の川がラ・マグダレーナ川で、その名から地図でコロンビアであることを突き止めた。一度もコロンビアという名前は出てこない。時代は19世紀から20世紀前半。これは物語がかなり進んだ時点でウルビーノ夫妻が新婚旅行に世紀末のパリに行ったという記述で初めてわかる。それをもとにしてその他の多数のエピソードの年代は人物の年齢から推定するしかない。多数のエピソードが時間の前後に関係せずに述べられ、しかも、そのエピソードの間に章の区切りはおろか、空行もなく延々と続くので決して読みやすい物ではない。ただ、エピソードの破天荒さに圧倒されて読み進む。

 この地方きっての名士、ユベナル・ウルビーノ博士は、州知事などの出席した自分の金婚式の昼食会から帰宅した直後死亡する。家を出る前に逃げ出したオウムが庭の木にとまっているのを見つけ、それを捕まえようとし、木から落ちて死ぬのだ。その葬儀の時、ウルビーノの妻になったフェルミーナ・ダーサにふられたフロレンティーノ・アリーサが現れ、彼女に愛の告白をする。実に51年9ヶ月と4日間、彼はこの日を待っていたのだ。

 ウルビーノ博士は家柄のずば抜けて良い、腕の良い医者である。ある時ダーサを診察した博士は彼女のことが忘れられなくなる。ダーサは最初は博士の愛を拒むが、やがて受け入れる。この町きっての名士であることへの、父親の強力な働きかけが背後にあった。
 ダーサを好きに思っていた、アリーサは結局ふられる。しかし、彼は50年以上もダーサに対する思いを断ち切らなかった。叔父の海運会社で頭角を現し、最後には叔父から会社を任される。そして、70歳を過ぎて、未亡人となったダーサと肉体的にも文字通り結ばれるのだ。

 最後は自分の会社の所有する客船でラ・マグダレーナ川を旅し、ダーサと二人でいるところを他の人に見られたくないので、目的地に着いたとき全員の乗客を降ろし、アリーサとダーサだけで占拠して帰途につく。ところが、コレラ発生を理由に乗客を降ろし、途中の港にも寄港しなかったので、帰ってきたら検疫を受けなければ上陸できないとわかる。それで、アリーサは船長にまた戻ることを命じる。いつまでそうやって川を上り下りするのですかと聞く船長に:
 
フロレンティーノ・アリーサは53年7ヶ月11日前から、ちゃんと答えを用意していた。
「命の続く限りだ」と彼は言った。

 で本書は終わる。ハードカバーで500ページの大作だ。
 
p53:小便をした後で、濡れた便器の縁をトイレットペーパーで拭く話。私がここ数年よくやる行為だ。こうしたことを書いた小説は他にあるだろうか。余りの適切さに、身につまされる。
p162:陰嚢ヘルニアによる肥大した陰嚢を何よりも男性としての名誉ある勲章としてひけらかす人びと。

p203:
歌詞を口ずさみバイオリンを涙でぬらしながら演奏したその曲には強い霊感がこもっていたので、最初の小節で路上にいた犬たちが吠えはじめ、やがて町中の犬がそれにあわせて吠え立てた。しかし、音楽のもつ魔力のおかげで犬の吠える声も徐々に収まり、ワルツの演奏が終わると、あたりは信じられないような静寂に包まれた。
 失恋の痛手を癒すたびに出る前に、ダーサのために作ったワルツをアリーサが弾く場面だ。町中の犬が和したという表現の大げささ。

p223:アリーサが関係した女性の数。彼は〈彼女たち〉という名のノートに暗号で公証人のように遺漏のない記録を残していた。50年後にダーサの夫が亡くなるまでにはそのノートは25冊に達し、「
無数のつかの間の恋を別にして、しばらく続いた622人にのぼる女性との関係が記録されていた」
 なお、アリーサがダーサの夫の死亡を知ったときは、彼は田舎から出てきた遠縁の14歳の女子学生と関係を持っていたのだ。

p230以下:ウルビーノ夫妻の新婚旅行のベッドシーン 男性性器を妻の手に自由にいじらせながら、明かりの下で克明に説明する夫。何ともユーモラスである。
p231:
最後にこう言った。《なんだか変な形ね、女性のものより醜いわ》。彼は、たしかにその通りだと言い、醜いだけでなくほかにもいろいろと不便なことがあると言って、こう付け加えた。《これは長男と同じなんだ。これのために一生働き続け、あらゆる物を犠牲にし、挙句の果てに結局はこれのいいなりになるんからね》。彼女はこれはなんの役に立つの、あれはどうなのと次々に質問を浴びせながら、つぶさに調べ続けた。そして、もうこれでいいだろうと思ったところで、両手でその重さを測り、それほど重いものでないと分かると、軽蔑したようにふたたびポィッと投げ出した。
「それに、余計なものがいっぱいついていますわ」と言った。

 しかし、二人はこの夜はまだ結ばれなかったのだ。

p240:アリーサの叔父、ドン・レオ12世ロアイサの人となり
 エンリーコ・カルーソがその声で花瓶を粉々にしたというエピソードを耳にして以来、自分でもそれを試みる話。またp241には吝嗇家と噂された彼の言葉がある:
「私は金持ちじゃない」と答えた。「金のある貧乏人なんだが、この二つはまったく別物だよ」

p246:
ずっと後になって、鏡の前で髪をとかしているときに、父親に似ていることに気づいた。人は老いを感じはじめると、自分が父親に似ていることに気づくのだということに、彼はそのとき思い当たった。
 アリーサの感想である。まったく同感、鋭い指摘だ。

p315:アリーサの相手の女性のエピソード。アリーサとのことの後で、下腹部にペンキでいたずら書きされるのだが、そのことを失念して夫の前で裸になり、何も言わずに殺される話。何ともすごい。
p378:アリーサの禿との戦い。結局これには彼は勝てなかった。

 自動車ではなく、馬車の時代から始まって、やがて電気が引かれ、電話も設けられる。しかし、物語の最後に出てくる客船は薪を燃料としている蒸気船だ。ウルビーノ博士に代表される超裕福なセレブの世界から、売春婦のたむろする極端に貧しい世界まで、南米の風俗が投げ込まれている。先日東洋英和の市民講座で聞いた講演で、太田さんという女性講師は「エッセイでは本当のことは書けない。本当のことを書こうと思えばフィクションにならざるを得ない」という趣旨のことを言った。そんな言葉を思い出しながら、読み終えた。

 下重さんがこの小説を面白いといって紹介したが、同じ頃朝日新聞の夕刊に出たインタビュー記事で、下重さんはこれからはフィクションに取り組んでみたいといっている。下重さんもノンフィクションの限界を感じているのかも知れないし、この小説を読んでそう思ったのかも知れない。

 巻末の解説では、ガルケスの最も有名な「百年の孤独」は本書よりももっと幻想的で現実離れした物語であるようだ。これも購入したが、読む前に、本書の読後感を書いておかないと、「百年の孤独」で印象が薄められるような気がした。

                                       

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書名 ローマ人の物語 終わりの始まり 上中下 著者 塩野 七生 No
2007-18
発行所 新潮文庫 発行年 平成19年9月1日 読了年月日 2007−10−19 記入年月日 2007−10−20

 
9月下旬、そろそろ今年もローマ人の物語の文庫版が出る頃だと思って、長津田の本屋に立ち寄った。終わりの始まりが出ていたが、横積みにされていたのは中巻と下巻のみ。上巻は品切れだったのだ。その後虎ノ門書店で上巻を手に入れた。その時全部中下巻も買えばよかったのだが、読み終わってからでもいいと思い購入しなかった。中巻も長津田の書店で購入しようと思ったら、今度はその中巻だけがなかった。仕方なしに下巻を先に買って、その後渋谷の啓文堂で中巻を買った。待ち受けている読者がたくさんいるのだ。通巻では29から31巻である。相変わらずす電車の中で読むのにいい。ガルシアマルケスの小説に比べると、2倍以上のスピードで読めるのではないか。

『自省録』をかじり読みしてその感想文をJT時代に軽井沢の集合研修で発表したこともあり、マルクス・アウレリュウスには偉大な人物として心引かれていた。しかし、その生涯の詳しいことは何も知らなかったので、塩野さんの著作で1日も早く知りたいと思っていた。それで、この巻の文庫本化を首を長くして待っていたのだ。

 上巻の帯は「なぜ哲人皇帝の時代に衰亡ははじまったのか」とある。
 前々巻『賢帝の世紀』にアウレリュウス帝のことは詳細に書かれると思っていたが、最後にほんの少ししか触れられていなかった。その時、たぶんローマ帝国衰亡の諸端をアウレリュウスの時代の求めるのだろうと予感したが、その通りであった。従来の歴史ではローマの衰亡をアウレリュウスの息子のコモドゥス帝の時代から始めるのが通例であるようだが、塩野は敢えてこれに挑戦した。それで、塩野流の新しい見方はどのようなものかに最大の関心を抱きながら読み進めた。私なりに読み取ったところでは、大きな戦略的思考に欠けていていたことであるといいたいようだ。特に、ゲルマン蛮族との戦いにおいて戦いを短期に決着できなかったことを彼女はアウレリュウスの欠点としてあげている。カエサルのガリア制圧との対比でそういっている。例えば、カエサルはガリアの総勢をアレシアに結集させて、決戦で破ったが、そうした戦略がアウレリュウスには欠けていたというのだ。紀元2世紀の後半のこの時代になると、ローマと国境を接するゲルマン族が北方のゲルマン族の圧力を受けて、しばしば押し出されるようにローマに侵入する。アウレリュウスはそうした根本的な原因を見抜いていなかったとも、塩野はいう。

 ただ、アウレリュウスの誠実な人柄については賛辞を惜しまない。また、軍事経験がないのに、常に前線にあり、戦術家としては優秀であったことも認めている。しかし、マキャベリの信奉者である彼女とストア派の哲人とは本質的に相容れないものがあるというのが、アウレリュウスの時世に衰亡の萌芽を求めた真の原因ではなかろうか。
 トインビーはアウレリュウスを評して、傾きかけたローマ帝国を再生させる創造性は持ち合わせていなかった、とどこかで述べていたのを記憶する。塩野はトインビーのこの見方を借りているのではないかとも思った。

 塩野によればアウレリュウスがローマの皇帝のなかでもっとも評判のいいのは、立派な著作と立派な像を残したからだとする。上巻の口絵はアウレリュウスの騎馬像である。かつてはローマの広場にあったが今は博物館に収められ、レプリカが広場には置かれているという。青銅の上に金メッキを施したと思われるこの像は、素晴らしい。堂々としていて、あの『自省録』の著者からは想像できない軍人像だ。彼は180年、今のウイーンの前線基地で病死する。

 その後を継いだのはコモドゥス。アウレリュウスの長男である。この巻を読む直前に、NHKテレビで、「グラディエーター」というハリウッド映画を放映した。予告でローマの剣闘士の物語であることは分かっていたので、久しぶりに映画を見た。それがコモドゥスとそれを倒した軍人のことであった。その中にアウレリュウスという老皇帝が出てきた。私はコモドゥスという名を知らなかったので、アウレリュウスはひょっとするとあの賢帝のことかと思った。実際そうであったのだ。映画の最初の30分ほどを見損なったので、展開が今ひとつ分からなかった。映画ではコモドゥスは剣闘士の競技に熱中するどうしようもない皇帝として描かれている。最後は、ラッセル・クロウ扮する、アウレリュウスの元部下の将軍に倒される。

 塩野は、それほどひどい皇帝ではなかったと援護する。とにかく、彼の在位中は蛮族との間にも、パルティアとの間にも戦闘がない平穏な時代であった。しかし、彼の姉を初めとする反コモドゥス派との軋轢があり、最後は宮廷内で暗殺される。

 コモドゥスの後継を巡って国内は内乱状態になる。争ったのはいずれもアウレリュウスに育てられた将軍たち。それを制したのはセヴェレスである。北アフリカ出身で在位193−211年。生まれ故郷のレプティス・マーニャの円形劇場を中心とする遺跡の写真があるが、ローマの偉大さを見せつけるような素晴らしいものだ(下巻122−123)。「地中海の真珠」と称された港町だ。行ってみたい。

 彼は軍を優遇する。そして元老院に対し強圧的な態度をとったために非ローマ的専制君主だと評される。彼もブリタニアの現ヨークの戦陣で病死する。後を継いだのは息子のカラカラである。カラカラは弟のゲタを宮廷内母の目の前で自ら惨殺する。ローマ皇帝の継承にはお定まりの流血だ。アウレリュウスは皇位継承に伴う内乱を避けるために、自分の息子に皇位を継承させたのだ。ネルバから始まった5賢帝時代は皇位継承がスムースにいったからそう呼ばれたのではないか。もちろん、トライアヌスやハドリアヌスによる前任者の腹心の粛正はあったとしても。

本書から
中巻150p アウレリュウスの死後、コモドゥスが蛮族との講和を結び首都への帰還を急いだことに関連して:
「ミリタリー」は戦争のプロなので、始めた以上は最後まで行く戦いでないと、もともとからしてはじめないのだ。意外にも「シビリアン」のほうが、戦争のプロでないだけに、世論に押されて戦争をはじめてしまったり、世論の批判に抗しきれずに中途半端で終戦にしてしまう、というようなことをやりがちなのである。つまり、後を引くという戦争のもつ最大の悪への理解が、シビリアンの多くには充分でないのだ。コモドゥスも、この意味では「シビリアン」だった。そして、この「シビリアン」は、結果はどうなれ、戦争状態を終えることしか頭になかったのである。
 湾岸戦争やアメリカのイラク戦争の現状を思うと当たっているような気がする。

中巻177−178p:
マルクス・アウレリウスは死の床で、コモドゥスを助けて帝国を盛り立ててくれとの誓約を将軍たちに求めたが、それよりも娘のルチッラに、コモドウスの母代わりになって弟を助けるとの誓約を求めるべきであった。だが、『 自省録』に師ルステイクスからは家庭生活を大切にすることを学んだと書いたマルクスである。浮気もしない一夫一妻で終始し、多くの子たちとの家庭を大切にしてきたと信じてきた哲人皇帝にとって、姉が弟を殺す気になるなどとは想像もできなかったにちがいない。マルクスが傾倒していた哲学は、いかに良く正しく生きるかへの問題には答えてくれるかもしれないが、人間とは崇高な動機によって行動することもあれば、下劣な動機によつて行動に駆られる生き物でもあるという、人間社会の現実までは教えてくれない。それを教えてくれるのは歴史である。そう言えば、マルクス・アウレリウスの向学心の対象には哲学があり論理学もあったが、歴史はなかったことが思い出される。だが、人間いかに良く正しく生きるかを追求してやまなかった人の子の間で、家庭内悲劇が起ったのは気の毒と言うしかなかった。
 歴史物語を書き続ける著者の意図であろう。

下巻108:
セヴェルスによる軍団兵の優遇策もまた、善意が必ずしも良き結果につながらないという、古今東西いやというほど見出すことのできる人間社会の真実の例証であると思う。いや、もしかしたら人類の歴史は、悪意とも言える冷徹さで実行した場合の成功例と、善意あふれる動機ではじめられたことの失敗例で、おおかた埋まっていると言ってもよいのかもしれない。善意が有効であるのは、即座に効果の表われる、例えば慈善のようなことに限るのではないか、と。歴史に親しめば親しむほどメランコリーになるのも、人間性の現実から眼をそむけないかぎりはやむをえないと思ったりもする。いずれにせよ、皇帝としてのセプティミウス・セヴェルスに対する歴史家たちの評価は、非ローマ的な専制君主であり、ローマ帝国の軍事政権化への舵を大きく切った統治者なのであった。
                                     

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書名 百年の孤独 著者 ガルシア・マルケス 鼓 直 訳 No
2007-19
発行所 新潮社 発行年 2006年12月 読了年月日 2007−11−05 記入年月日 2007−11−06

 
登場人物に同じような名前が出てきて、どっちのアルカディオだったかと混乱をきたして、人物の関係図を作らなければと思っていたのはハードカバーで500ページ近いこの大作の3分の1ほどを読んだときだ。目次のすぐ後にブエンディア家の系図を見つけ出した。以後、このページまで帰りながら、人物の関係を確かめつつ読み進めた。

 次から次へと奔流のように繰り出されるエピソードの集積によるブエンディア家7代の物語。現実にはあり得ない誇張されたエピソードで作られるガルシア・マルケスの世界。それは解説でも述べられているように、熱帯の豊饒であろう。著者自身が語っているように、ストーリーにはたくさんの矛盾があるが、そんなものは無視してマルケスの小説世界に浸ればいいのだ。

 ホセ・アルカディオ・ブエンディア:この物語の場所であるマコンドを切り開いた先駆者で村の指導者。内陸から海に出ようと仲間たちと2年以上も進んできて、行く手に立ちはだかる山を前にしてあきらめ、マコンドに定住する。桁外れの空想力の持ち主で、ジプシーの話を聞き、錬金術にのめり込んだりする。最後は狂人として屋敷の栗の木につながれ、そこで死ぬ。彼の葬儀の日にはマコンドに小さな黄色い花が雨のように降り注ぎ、葬列を通すためにシャベルやレーキで掻き捨てねばならなかった(172p)。

 ウルスラ:ホセ・アルカディオ・ブエンディアの妻。ブエンディア家の支柱。家のために身を粉にして働く。ある意味では彼女がこの物語の中心的存在。ひ孫の孫まで面倒を見る。なくなった年齢は家族のものが数えたが、ずいぶん前にバナナ会社が栄えていた頃で115歳から122歳だったという結論しか得られなかった(393p)。大往生である。

 ホセ・アルカディオ:ホセ・アルカディオ・ブエンディアとウルスラの間の長男。レベーカと結婚したために二人は兄妹だと思い込んでいるウルスラの怒りを買い、墓地の前の小屋に追い払われる。118pには二人の初夜のことが書かれている:
近所の連中は、一晩に八回、そして昼寝どきに三回も町じゅうの人間の夢をやぶるよがり声に度肝を抜かれ・・・
 寝室でこめかみを打ち抜かれて死ぬ。誰が殺したかは不明、そこから流れ出た血の描写はすごい(161p)。この場面は篠田一士の「二十世紀の十大小説」にも引用されている。

 アウレリャノ大佐:次男。保守派に対する自由主義者の革命軍の総帥となり32回反乱を起こし、そのたびに敗れる。政府側に敗れ銃殺に処せられる寸前に兄に救出される。政府との和解がなった後、晩年は屋敷内にある仕事部屋で金細工に没頭し過ごす。父が拘束されていた栗の木のもとで小便をして、そのまま木にもたれるようにして亡くなっているのを翌日発見される(312p)。

 アマランタ:長女。同じ屋敷に引き取られていたレベーカとイタリア人のピアノの教師を巡り恋のさや当てをする。一生独身で過ごした。レベーカは兄のホセ・アルカディオの妻となる。

 アルカディオ:ホセ・アルカディオと愛人のピラル・テルネラの子供。彼もまた革命軍に投じ、一時は町の支配者となる。彼が敷いたのは恐怖政治であった。しかし、ある戦闘で敗れて、銃殺される(148p)が、ブエンディア家の血筋は彼によって受け継がれる。

 サンタ・ソフィア・デ・ラ・ピエダ:アルカディオの妻。目立たないが献身的な働き手。双子の男子が死んだ後、50年間つくしたブエンディア家をひっそりと出て行き消息不明になる。

 アウレリャノ・ホセ:アウレリャノ大佐と愛人のピラル・テルネラの子供。革命軍に投じる。一時叔母のアマランタに熱烈な思いを寄せる。若くして政府軍の軍人にマコンドの路上で射殺される(187p)。

 アウレリャノ(17人):アウレリャノ大佐が転戦中に、大佐の血筋を得たいと願う母親に各地で彼の寝所に送り込まれてきた娘に生ませた17人の男子。成人した後マコンドに一同が集まる。その一人はマコンドに初めて鉄道を引く。その後、各地に散った彼らは再度よそ者への激しい怒りを口にした大佐の一言により、政府の手により一人を除き全員が暗殺される(282以下)。

 ホセ・アルカディオ・セグンド:アルカディオとサンタ・ソフィア・デ・ラ・ピエダの間の双子の長男。闘鶏が得意。家を出てピラル・テルネラのもとで暮らす。バナナ会社の労働者を扇動し、ストライキを起こす。駅前広場に集まった3000人の群衆が軍隊の発砲により殺されたと彼は信じる。一命を取り留め屋敷に戻った彼は狂人扱いされ、作業部屋に閉じこもり、メルキアデスの羊皮紙の研究に没頭する。そして、羊皮紙の上につっ伏して亡くなる(404p以下)。サンタ・ソフィア・デ・ラ・ピエダは死後生き埋めされたくないという彼の希望を入れて、首を切り離す。
 
 アウレリャノ・セグンド:ホセ・アルカディオの双子の弟。くじ売りのペトラ・コテスを愛人として、昼間はそちらで過ごし、妻との間はギクシャクしている。ペトラ・コテスのもたらす家畜の多産により一家に富みをもたらしたりする。最後まで妻のフェルナンダとは不仲であるが、最後はそのベッドの上で亡くなる。多分咽頭がんである。それはまさに兄が亡くなった時刻であった。同時に行われた葬儀では、余りにも二人が似ていたために、入れるべき墓を間違えて埋葬した。

 レメディオス:アルカディオとサンタ・ソフィア・デ・ラ・ピエダの娘。小町娘といわれる美女。彼女のまわりには死のにおいがつきまとう。ウルスラ、アマランタ、フェルナンダの3人の女の目の前で、シーツに包まれて天に舞い上がって永遠に姿を消す(280p)。

 フェルナンダ:アウレリャノ・セグンドの妻。遠い町の美女で、マコンドのカーニバルの女王として参加し、アウレリャノ・セグンドと結婚する。スペインの名門貴族の血を引き気位が高く、頑固であるが、最後まで家を守る。彼女もまた夫の死後、孤独のうちに死ぬ(417p)。

 ホセ・アルカディオ:ホセ・アルカディオ・セグンドとフェルナンダの長男。ローマで法王になるべく勉強する。母の死で帰国して滞在していた彼は、昔革命軍が隠した金貨を屋敷内に発見する。マコンドの子供たちと親しく遊ぶ毎日であったが、皮肉なことにその子供達に浴槽に沈められ殺され、金貨の袋を奪われる。

 レナータ・レメディオス(メメ):アルカディオ・セグンドとフェルナンダの長女。バビロニア・マウリシオとの恋を許さなかった母に修道院に入れられ、そこで子供を産む。最後はポーランドのクラコウで老衰のために息を引き取る(343p)

 マウリシオ・バビロニア:メメの恋人。メメの入浴中に忍び込もうとして撃たれ、一生をベッドで過ごすことになる。

 アマランタ・ウルスラ : アルカディオ・セグンドとフェルナンダの次女。ブラッセルに留学するが、そこで40歳過ぎのガストンと結婚し、マコンドに帰ってくる。夫がいながら、甥のアウレリャノ・バビロニアと通じ、豚のしっぽの生えた子供を産み、出血により死去

 アウレリャノ・バビロニア:マウリシオ・バビロニアとメメの長男。自身は出生の秘密を知らない。ホセ・アルカディオ・ブエンディアがジプシーのメルキアデス老人から得た、羊皮紙の文章の解読をホセ・アルカディオ・セグンドから手ほどきされ、それを引き継ぐ。豚のしっぽの生えた自分の子供が蟻に引かれて行くのを見たとき、メルキアデスの予言のすべてを理解する。そこにはこう書かれていたのだ:〈この一族の最初の者は樹につながれ、最後の者は蟻のむさぼるところとなる〉。暴風によってマコンドの町が消滅するのと運命をともにする。

 アウレリャノ(豚のしっぽ):アウレリャノ・バビロニアとアマランタ・ウルスラの子供。叔母甥の間に生まれた子供で、豚のしっぽがあった。かつて、ウルスラが生まれることを恐れていた子供だ。生まれたままで放置され、父親が戻ってみると、遺体を蟻の群れが運んでいくところであった(470p)。

 ピエラ・テルネラ:ホセ・アルカディオとの間にアルカディオを、アウレリャノ大佐との間にアウレリャノ・ホセを生む。元々がトランプ占い師。彼女はウルスラと同じように百数十歳まで長生きし、自分が祖先とは知らないメメの恋の相談に乗ったりする。

 ペトラ・コテス:双子の兄弟のいずれとも情を通じる。アウレリャノ・セグンドの愛人として、彼が亡くなった後も、ブエンディア家を陰ながら経済的に支援する。
 
 こうしてブエンディア家7代の人びとの死因を挙げただけで、表題の『百年の孤独』が浮かび上がる。それぞれの死に至る過程もまた孤独である。
 
 巻末の解説で、作家の梨木香歩はこの作品をウルスラの系列と、ピエラ・テルネラの系列に分けて解説している。その中に以下の一文がある:
物語にあふれ出んばかりに描かれているのは、この一人一人の「人並み外れ」方の度合い、「過剰」さであり(この物語も例外ではないがガルシア=マルケスの小説には繰り返し、辟易するほど巨大な睾丸、貪欲な下腹という描写が出てくる。このピラル・テルネラやペトラ・コテスのようなとてつもない熱帯の「豊饒」に見合う男性性をもってくるにはこの表現しかないのだろう。あるいはその巨大な孤独のうろを埋めるには。彼はこのフレーズがことのほか好きで、 『 わが悲しき娼婦たちの思い出 』 (木村業一訳)で年老いた元娼婦カシルダ・アルメンタのことばとして「あなたは臆病で、外見もばっとしないけど、その代わり悪魔が馬も顔負けするような一物をくれたんだから、その子を起こして、それで全身を貫いてやりなさい。まじめな話、魂の問題は横へ置いて、生きているうちに愛を込めて愛し合うという奇跡を味わわないといけないわ。」(490p)

433pにはこんな記述がある:
この何事にも慎重な四十男を見た者は、彼が年若い妻との奔放な愛に夢中になっているとは想像できなかったろう。なれそめのころからそうだが、ふたりはその気になると、どこであろうとその場で愛し合った。時がたつにつれて、また環境が異様さを増していくにつれて、情熱は深まり、豊かなものになった。ガストンは、汲み尽くせないほどの知識と想像力をそなえた、猛烈な恋人というだけではなかった。董の咲く野原で愛し合いたいというだけの理由で、緊急着陸を敢行して危うく命を落しかけた、恐らく人類の歴史が始まって以来最初の人間だった。

 全編に年の表示は全くない。時代を示す一つの手がかりはネールランディア協定という保守派と自由主義者の間に結ばれた和平協定。インターネットで調べてみたが、ヒットした一件はガルシア・マルケスファンのHPであった。これは膨大なHPでマルケスのこと、本書のことが詳細に載っている。ネールランディア協定の説明は載っていなかった。
http://members.jcom.home.ne.jp/macondo/others.html

 登場人物の名前にはそれぞれに意味がありそうだ。ジプシーのメルキアデスはアルキメデスを連想させるし、アルカディオというのはアルカディアを思わせる。マコンドもコマンドと関連するのかも知れない。アウレリャノとかウルスラ、アマランタという名前にも何か意味がありそうだ。

                                        

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書名 君主論 著者 マキアヴェッリ 河島英昭 訳 No
2007-20
発行所 岩波文庫 発行年 1998年 読了年月日 2007−11−15 記入年月日 2007−11−18

 塩野七生の『ローマ人の物語』の中に、マキアヴェッリならこう考える、とよく引用されている。たまたま立ち寄った新橋の文教堂で目についたので購入した。

 徹底した力への信奉を説く。ローマの歴史に例を取っているところもたくさんあり、読み進めるうちに、塩野七生はマキアヴェッリのこの本を下敷きにして『ローマ人の物語』を書いたのではないかとさえ思った。少なくとも、この本に触発されたところはあるだろう。

 マキアヴェッリは15世紀末から16世紀初めにかけてフィレンツェで実際に市政にかかわった人。当時のイタリアは各都市や、大貴族、教皇領などに別れていて、それにフランスやスペインなどの外国からの侵攻もあり、泥沼のような権力、領地争いのさなかにあった。そうした状況の中で書かれた物である。ほぼ同時代、あるいは少し前の時代の歴史から事例を多数、冷徹に仔細に分析し、結論として、力、つまり軍備の強化をもっとも重要視する。軍備も、同盟軍や、傭兵ではだめで自前の軍隊を強化することを君主足るべきものの最重要課題であるという。

「自己の軍備を持たなければ、いかなる君主政体も安泰ではない。」p106
「君主たるものは、したがって、戦争と軍制と軍事訓練のほかには何の目的も何の考えも抱いてはならない、また他のいかなることをも自分の業務としてはならない。」p109.

「君主は、慕われないまでも、憎まれることを避けながら、恐れられる存在にならねばならない。」p127.
「君主が信義を守り狡猾に立ちまわらずに言行一致を宗とするならば、いかに賛えられるべきか、それぐらいのことは誰にでもわかる。だがしかし、経験によって私たちの世に見てきたのは、偉業を成し遂げた君主が、信義などほとんど考えにも入れないで、人間たちの頭脳を狡猾に欺くすべを知る者たちであったことである。そして結局、彼らが誠意を宗とした者たちに立ち優ったのであった。」p131

「…君主たるものは、わけても新しい君主は、政体を保持するために、時に応じて信義に背き、慈悲心に背き、人間性に背き、宗教に背いて行動することが必要なので、人間を善良な存在と呼ぶための事項を何もかも守るわけにはいかない。」p134

 こうした記述は、特に戦後の日本ではまったく否定されてきた考えだ。戦後世代の私にとはまったく正反対の思想であり、また、倫理的にも私の生き方の対極にある。ここまで徹底すると、反感よりもむしろ小気味よい。彼が生きた時代にはまっとうな考えであり、今でも人間の本質を鋭く突いている。

「…私たちの自由意思が消滅していまわないように、私たちの諸行為の半ばまでを運命の女神が勝手に支配しているのは真実だとしても、残る半ばの支配は、あるいはほぼそれくらいまでの支配は、彼女が私たちに任せているのも真実である、と私は判断しておく。」p183
 これは運命論を否定し人間主義の主張である。
 
 本書には150ページを超す膨大な注釈がついている。それは原著の文献学的考察であり、また翻訳についての注釈であり、かつ引用されたギリシャ、ローマから始まり、彼の時代にいたる歴史事例の説明である。この引用のために、本書は一種の学術論文の様相を呈している。このような本を文庫にするところはさすがに岩波だ。しかも13刷を数えている。マキアヴェッリに関する研究が、今も盛んに行われていることがうかがわれる。

                                           

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書名 文章のみがき方 著者 辰濃和男 No
2007-21
発行所 岩波新書 発行年 2007年10月19日 読了年月日 2007−11−28 記入年月日 2007−12−04

 
極めて身近に感じる文章読本。著者は「天声人語」の元筆者。それでなるほどと思った。私の書くエッセイも天声人語と同じジャンルのものだからだ。本書に述べられたことは私もまったく同感で、しかも毎月のエッセイ書きを通じて常日頃心がけ、また10年以上実践してきたことである。40近い項目を立てて文章の心得が書かれている。その中でも、小さな発見を重ねる、異質なものを結びつける、自慢話は書かない、具体性を大切にして書く、抑える、削るなどは私の基本的な文章作法だ。

 動詞をもっと活用せよとも言う(200p)。動詞は文章に躍動感を与えるという。今までHPに掲載したエッセイの中で動詞をタイトルにしたのがいくつあるか、調べてみた。71編中「本を出した」「編み物に挑む」「タマネギを踏む」「野原を断崖のように歩く」「食って食って食う」「変わらない」の6編である。これらはいずれもいいタイトルだと私自身が気に入っている。

 各方面からの文章が引用されている。その中でもっとも新鮮で印象に残ったのは192p以下の、三宮麻由子さんという人の文章だ。この人は幼い頃に視覚を失ったが、引用されたされた文章は雨の音による町の光景の描写。

                                            

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書名 世界中を「南極」にしよう 著者 柴田鉄治 No
2007-22
発行所 集英社新書、 発行年 2007年5月 読了年月日 2007−12−16 記入年月日 2007−12−20

 如蘭会(高校同窓会)トワイライトフォーラムで著者柴田さんの「南極から地球と人類の未来を考える」という題で講演会があった。その際に会場で購入。本書は講演をそのまま活字にしたような物。講演時のスライド写真も本書に掲載されている。

 国境もなく、各国が協力して観測に当たっていて、環境規制も厳しく資源開発も規制されている南極大陸を人類の将来の理想にしようというのが主張。

 講演会はたくさんのスライドを交えて1時間。終わった後で懇親パーティ。その際、著者が持ち帰った南極の氷山の氷でウイスキーのオンザロックを味わった。降った雪がそのまま固まるので、氷の中に空気が閉じこめられる。それが溶けるときに「パチッ」とかすかな音をたてるという。グラスを耳に当てると確かに音がした。グラスを手にしながら、講演の感想を「ずいぶん能天気な話だな。世界には食べるものもない人がいっぱいいるというのに」と、同期生のNさんが言った。私は何も言わなかったが、講演を聴きながら、世界中を南極にしようと言う柴田さんの主張に無条件で賛同してしまっていた。Nさんのような発想は浮かばなかった。元々私はこうした話に弱いのだ。私も能天気だといわれればそうだと答えるほかない。

 著者は朝日新聞記者として1965年に南極観測隊に随伴した人。40年後の70才で南極再訪を思い立ち、オブザーバーとして応募し、同行を許された。40年前との対比で砕氷船や、昭和基地での生活振りが語られ、そこで行われている各国観測隊の交流の様子が述べられる。40年前にくらべ住環境や観測施設の改善はめざましいが、もっとも変わったのは環境への配慮。これまでの観測隊が残した山のようなゴミを持ち帰るのは当然だが、犬を連れて行くことも今は禁止されているとのこと。あるいは記念に石を持ち帰ることも出来ないという。

                                        

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書名 生きて死ぬ私 著者 茂木健一郎 No
2007-23
発行所 筑摩文庫 発行年 2006年5月 読了年月日 2007−12−22 記入年月日 2007−12−30

『生きて死ぬ私』は、『脳とクオリア』のように硬質な論理を展開するのではなく、一人の人間としてこの世に生きることの切なさ、哀しみ、そして歓びを書き綴った本である。というのは巻末の筆者の解説である。

 今までに読んだ著者の2作『脳と仮想』『クオリア入門』よりも読みやすい。脳科学者の立場から人生や世界、時間が語られる。著者特有の豊かな感受性に支えられた深い洞察が展開される。

 意外だったのはいわゆる臨死体験への深い興味。報告されている多くの臨死体験は、本来の意味での臨死体験ではないが(本当に死んだ人の体験のみが臨死体験であると著者は言う)、一種の意識の変性状態としてとらえる。そして、意識の変性状態の研究は脳と意識の研究を切り開く重要な道であるとする。

 臨死体験者の話によく出てくる体外離脱体験については以下のように述べている(p130):
体外離脱体験そのものは、通常の意識の状態下でと同じように、脳のニューロンの発火に支えられた認識の過程として起っている。
 そのことを認めた上で、体外離脱体験者が実際に体の外の視点からしか得られないような情報を得ていることを説明するのはとてつもなく難しく、残念ながら著者には答えが見いだせないという。

 著者は
「心のあらゆる属性は、脳の中のニューロンの発火の特性だけですべて説明できる」としながらも、その対極にあるものとしてイギリスの哲学者ブロードの唱えた「脳制限バルブ」説についても述べている(p110以下)。それは、人間の本来の知覚作用は、時間的、空間的に無限定であり、脳の機能はそれらの知覚情報を人間の生存にとって有益なものなものに制限することにあるというもの。

 以下本書から:
生まれてこなかったもの(p142)
 私たちは、毎日、ある特定の人生の経路を通ることによって、他の無限に存在する可能性を殺している。毎朝乗る電車で今日も学校や会社に行くことによって、他のありえたかもしれない、そのすべての可能性を殺している。私たちの生のまわりには、そのようにして生まれることなく死んでいった夥しい可能性の屍が積み上げられている。生まれることなく死んでいった可能性たちの流す血の中を、私たちは歩いている。生きている実感とは、常にそのような可能性たちを切り捨てているという実感のことだという気がするほどだ。
 胸にじんと来る、切ない文章だ。

 上の文に続いて無意識について
 
私たちの意識は、一度に一つのものしか選択できないし、一度に一つのものしか認識できない。だが、私たちの無意識は、ひよっとしたら生まれることなく死んでいく夥しい可能性たちに、どこかでかすかにつながっているかもしれない。だから、人は、ときには癒されるために無意識へと降りていかなければならない。人格の全体性を取り戻すためには、意識の明るみを離れて、無意識の暗闇の中に降りていかなければならない。無意識は、生まれてこなかったものたちの住まう世界なのである

 天才について(p169)
 
一方、滅多に出ない天才がいる。それは、宗教的天才である。宗教的天才は、すべての天才の中で一番出にくい。そして、あらゆるジャンルの天才の中で、実は人類に最大の寄与をするのは、宗教的天才なのである。
癒し(p177)

 
原爆、ナチス、環境破壊。このような災厄を経験した二十世紀の人類は、心の奥底に深い傷を負うようになり、その心的外傷(トラウマ)からの、癒しを求めるようになった。癒しは、とても二十世紀的なテーマになったのである。障害を持つ子が生まれた後の大江健三郎の作品は、一貫して「癒し」をテーマにしている。大江健三郎は、二十世紀を象徴するような文学的テーマを追い掛けているのだ。癒しは、救済ほど極限的な概念ではない。人々は、癒された後も、生き続けることができる。不完全で、有限な存在として、生き続けることができる。癒しをテーマにした音楽というと、グレツキの「悲歌のシンフォニー」が頭に浮かぶ。
                                      

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書名 世界でもっとも美しい10の科学実験 著者 ロバート・P・クリース、青木 薫 訳 No
2007-24
発行所 日経BP社 発行年 2006年9月 読了年月日 2007−12−31 記入年月日 2008−01−04

 年が明けたので、もう1昨年のことになるが、秋に友人に誘われて、東京大学の柏キャンパスの一般公開を見に行った。その時、物性研究所の研究紹介ビデオの中に、2つのスリットを通った電子を一つずつ捕らえて映像化するシーンがあった。電子の当たったところが黒くなる。電子一つ一つを確認できる電子顕微鏡というのにも驚いたが、もっと驚いたのは、画面上の黒い点が最初のうちはランダムに見えたのに、時間経過とともにその数が増してくると、次第に濃淡の縞が出来てくることだ。波に特有の干渉縞という物だ。一つの粒子である電子が集合としては波の性質を示す実験だ。電子は粒子と波の両方の性質を持つというのは量子力学の基本概念だが、常識としては理解しがたい。しかし、こうしてビジュアル化して突きつけられると、そうなんだと納得したい気分になる。このビデオを見ただけでもわざわざ柏まで足を運んだ価値があると感激した。この実験を主導したのは日立製作所の外村という研究者だ。そして、この実験はガリレオやニュートンの実験と肩を並べてもっとも美しい科学実験の10に入っているとビデオは述べていた。

 早速アマゾンで調べて購入した。読んだのは1年以上経ってからだ。

『フィジックス・ワールド』誌のアンケートに基づいて著者が選んだ10の実験は
エラトステネスによる地球外周の長さの測定(紀元前3世紀)
ガリレオの斜塔実験
ガリレオの斜面実験(加速度という概念を作り出した)
ニュートンのプリズムによる太陽光の分解実験
キャベンディッシュによる地球の重さ測定実験
ヤングによる光の干渉実験
フーコーの振り子による地球の自転をビジュアル化した実験
ミリカンの油滴実験(電子の電荷の測定)
ラザフォードによる原子核発見の実験
外村らによる電子の量子干渉実験

 であり、すべて物理学の分野に属する。アンケートでトップになったのは最後の外村らの実験であったという。
 著者は「美しい実験」の要件として基本的であること、効率的であること、決定的であることをあげている。

 本書を読むまで全く知らなかったのはエラトステネスの実験。アレキサンドリアと、そのほぼ真南の北回帰線上にあるシエネとで夏至の日の正午に出来る影の長さから、地球の外周を求めたのだ。得られた値は約4万キロ。太陽光線が平行であると仮定し、アレキサンドリアで日時計の棒(グノモンという)とその影が作る角度は、それぞれアレキサンドリアとシエネから地球の中心を通る線の作る角度と等しいという幾何学の知識に基づいている。その角度が円の何分の1であるかを求めれば、アレキサンドリアとシエネの距離にその逆数をかければ地球の外周が求まる。素晴らしい発想だと思った。地球は丸く太陽ははるか彼方にあるということが常識である現代でも、あらためて地球の円周を求める方法としてこのことを発想できる人が何人いるだろうかと思った。もちろん私は出来ない。

 その他の実験については一度は耳にしたことがある。実験に至る経過や背景、あるいは装置の組み立て、実験の遂行上の細々とした工夫などが述べられていて興味深い。ただ、電子の量子干渉実験についてはそうした苦労話がなく、結果だけが示されている。
 フーコーの振り子は地球の自転とともに向きを変えると私は思っていたのだが、これは逆で、振り子は向きを変えずに、地球が自転するから振り子が向きを変えたように見えるのだ。宇宙空間に座標を取れば振り子の向きは不変で、地球が回っているのだ。
 ガリレオについては「喧嘩っぱやい性格」が科学者としての成功の一因であると著者は認めており、さらに世界に衝撃を与えるためにはその文章力が不可欠であったとしている。(p51)。

 各章の間には「Interlude」として、哲学的な考察が述べられている。例えばヤングの実験の後には「科学とメタファー」と題する考察があり、科学におけるメタファー、あるいはアナロジーの重要性を述べている。p175〜。

                                          

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