20002年12月  課題 「ボーナス」
 
本を出した!
                                                        
「あなたの原稿を出版します」という新聞広告に、エッセイ教室で書き綴った昨年暮れまでの85編のエッセイを、思い切って送ってみた。2週間ほどたった2月中旬、出版社から審査結果が返ってきた。内容は十分出版に値するものだが、本が売れず、また新刊のシェルライフが極端に短い昨今の事情を考えると、出版社側が買い取って商業ベースで出版するリスクは犯せないという。それで、初版本の編集、印刷に要する費用を作者が負担し、以後の版は出版社の費用で出す、協力出版という形で出したいということだった。車が1台買える費用負担になるが、それでも出すことにした。「時間」というテーマで書いた初期の作品『冬至の太陽』をそのまま題名とした。

 編集者との打ち合わせ、原稿の校正、表紙の選定、最終校正、と作業はスムーズに進んだ。6月末に著者用の300部が10個の段ボールに入れられて送られてきた。帯と定価の付いた私の本だ。8月にはごく一部ではあるが全国の書店に配布され、また全国紙に広告も載った。

 元の職場の同僚や、学生時代のクラスメートなど、友人知人に本を送った。夏の暑い盛りに手紙や電子メールで、感想が次々に寄せられた。おおむね好意的な感想だったが、特に同年代の人々には、共感をもって読んでもらったようだ。共通していたのは、私にこのような趣味があったことへの驚き。「麻雀だけかと思っていた貴兄にこんな趣味があったとは」というのがその典型だった。

 いくつかの思いがけないことがあった。

 エッセイ教室の竹越裕子さんの夫、浦島猛さんが私の本に曲を作ってくれた。エッセイ教室恒例の夏の軽井沢旅行の際、浦島さんは「金子さんの『冬至の太陽』を読み、感激してこんな曲を作りました」と、いきなり言って、ペンションのロビーのピアノを弾き出した。素晴らしい曲だった。私の作品がこのような形で、一人の若いアマチュア音楽家の中で結晶するとは。舞い上がるような気分だった。

 Nさんにも本を送った。Nさんは40年前、私の切ない思いをついに打ち明けることなく終わったひとだ。『冬至の太陽』の最初の作品「大菩薩峠」にはそのことを書いた。そのNさんから、一度お会いしたいとメールが来た。一緒に大菩薩峠に登ったしばらく後、転職したNさんは、その後癌の研究で立派な業績を上げ、今はある大学の教授をしている。独身で研究一筋を通した。 11月に会った。十数年ぶりだ。恋といっても私の片思い。それも40年前のことだ。甘美な思い出ではあっても、お互いの間にわだかまりはない。その後の消息や、仕事のことなどを淡々と語り合った。これからも知的な会話の楽しめる素敵な友人としてつき合えそうだ。彼女の話の端々に、私の本を隅々まで読み込んでいる様子がうかがえ、うれしかった。

 先日、出版社から『冬至の太陽』の印税が振り込まれた。極極極些細とはいえ今の私にはボーナス。それ以上に、浦島さんの曲、Nさんとの再会、そして寄せられた多くの感想は私にとって、もっとずっと大きなボーナスである。



「冬至の太陽」 文芸社

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