読書ノート 1996

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書名 著者
遺伝子の川 リチャード・ドーキンス
二百回忌 笙野頼子
わが「転向」 吉本隆明
抱擁家族 小島信夫
宇宙最後の3分間 ポール・デイヴィス
背景の記憶 吉本隆明
ビッグバン以前の宇宙 和田純夫
細胞から生命が見える 柳田充弘
清貧の思想 中野孝次
モオツァルト・無常という事 小林秀雄
旧街道長崎紀行 池田隆
日本唱歌集 堀内敬三、井上武士
人間と象徴 G・C・ユング他
株式投資の手引き 96年版 日経新聞編
どうしてものが見えるのか 村上元彦
花は勁し 岡本かの子
立花隆対話編・生、死、神秘体験 立花隆
宇宙が始まるとき ジョン・バロウ
ヒトはいつから人間になったか リチャード・リーキー
経営分析の基本的技法 田中弘
超伝導 中嶋貞雄
存在の耐えられない軽さ ミラン・クンデラ
明治忠臣蔵 山田風太郎
オイディプス王 ソポクレス
奇談集 J.L.ボルヘス
三文オペラ ベルトルト・ブレヒト
室町お伽草子 山田風太郎
私の履歴書ー専売公社篇 沢柳義和
ジェイン・エア シャーロッテ・ブロンティ
アンティゴネ ソポクレス
世界史一二の出来事 中野好夫
脳の見方 養老孟司
夢十夜 夏目漱石
「世間」とは何か 阿部謹也
「知」のソフトウエア 立花隆
時間を哲学する 中島義道
皇子たちの南北朝 森茂暁
思い川、枯木のある風景、蔵の中 宇野浩二
失楽園 渡辺淳一
分子と記憶 ジャンピエール・シャンジュー
地球の上に朝がくる 池内紀
海底二万里 ジュール・ヴェルヌ
ノイマンの夢・近代の欲望 佐藤俊樹
調査のためのインターネット アリアドネ
インターネット 村井純
日本国の逆襲 小林恭二
地図の想像力 若林幹夫
フーコー入門 中山 元


書名 遺伝子の川 著者 リチャード・ドーキンス、垂水雄二訳 No
1996-01
発行所 草思社 発行年 95年11月 読了年月日 96ー01ー03 記入年月日 96ー01ー03

 
サイエンス・マスターズ全22巻のトップとして刊行されたもの。ドーキンスは「利己的な遺伝子」の著者として有名。本書もその思想をさらに延長したもの(もっともまだ「利己的な遺伝子」は私の本棚に積まれたままだが)。生きているものすべては、プログラミングを行ったデジタルデータベース(遺伝情報はDNA配列としてデジタル化されている)を増殖させるようプログラムされた生存機械であるというのが基本的な考え方である。そして生命現象はDNAがいかに自己を増殖させ、多くのコピーを作るかという観点から解明される。表題の川とはDNAの時間的な流れのことである。著者によれば現在このDNAの川は3000万あり、今までに存在したDNAの川は30億に達するという。これほどのDNAの川、つまり種が生じた過程は決して神の創造によるものではなく、変異と自然淘汰によってなされたものであるとドーキンスは強調する。

 特に興味深かったのは、完全な進化でなくても、中間段階の進化でも十分に機能しうると主張し、創造説の有力な論拠を否定していること。その理由は淘汰の要因として働く広い意味での環境もまた完全なものでなく、漸進的なものであるからだとしている。つまり進化は飛躍ではなく漸進的であるというのだ。このことを著者はハチの形をした花を咲かせ、ハチを呼び寄せ受粉する植物の例をとり、この植物が最初からこの様な完璧なハチの姿をした花の形を持たなくても、ハチは十分に引き寄せられることを、つまりそれだけ生存に有利であることを、昆虫の視力等の関連する生物学的知識を動員して主張する。またミツバチの8の字ダンスの進化に関しても同様の論理を展開する。進化の時間に関しては、目のような複雑な組織でも、平板な光感受性の細胞から40万回の変異でできあがるというスエーデンの学者の研究を紹介している。

 本書の最初の方では「ミトコンドリア・イブ」に関する説明も詳しい。色々な人種のミトコンドリアのDNAの分析から、現人類の女系を遡ると15から25万年前の一人の女性、多分アフリカにいた、にぶつかるというもの。これはDNAの変異から可能な系統樹をコンピュータで分析して推定したものであるが、ドーキンスはかなり確率の高い推定であるとしている。この女性とその母の関係というのが気になるところだが、この母子には遺伝的に大きな断層があるのだろう。それにしても「ミトコンドリア・イブ」とはもっと前、数百万年前の原始人類だと思っていた。

 今日の新聞には創造説に関する特集記事が大きく出ていた。アメリカ人は創造説を信じている人の方が多いというショッキングなデータが出ていた。
 我々はしょせん長い時間をかけた進化の果てにできた、DNAの複製と増殖のための機械に過ぎないにしても、それはなんと素晴らしい機械なのだろう。意識を持ち、自らの進化の歴史を省み、宇宙の生い立ちに思いをはせ、素晴らしい音楽や美術や文学に感動することができるのだ。ならば甘んじてDNAの複製装置としての役目を受け入れようではないか。

 このシリーズなかなか面白そうだ。次は「宇宙最後の3分間」を読もう。


                             
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書名 二百回忌 著者 笙野頼子 No
1996-02
発行所 新潮社 発行年 94年5月 読了年月日 96ー01ー04 記入年月日 96ー01ー04

 
表題の他に「大地の黴」「アケボノノ帯」「ふるえるふるさと」を収載。

 変な小説である。「二百回忌」は40才近くでまだ独身女性で、親とも縁を切っている私が故郷の二百回忌に出るという設定。この法事には死んだ祖先も皆よみがえってきて、生者と交流する。主催者はとにかく突飛もない変わった趣向をこらさねばならない。僧侶は真っ赤なマントをまとい、読む経も烏みたいな奇声を発する烏経と呼ばれるものだし、客はまずトウガラシのいっぱい入ったスープを飲まねばならず、料理を入れる箱はすべて船虫が出るように流木でできている。刺身にはたっぷりとケチャップとマスタードが添えてある。そうした中で死者と生者はにぎやかに交流する。私は死者や生者の親戚縁者から色々話しかけられる。しかし私とこうした人たちとの会話はちぐはぐでまったくかみ合わない。私は一番会いたかった母方の祖母を捜し見つける。だが、これも他の人々と同様にちぐはぐな会話しかできない。最後の趣向は会場となったこの家が実は蒲鉾でできていることがわかり、皆でそれを食いつくす。そして死者達は降りだした雨の中を天に向かって帰って行く。まったく変な小説。でもじめじめしたところがまるでなく、さわやかな読後感をあたえる。作者が何を言いたいのかはよくわからないが、法事というのは本質的にこうしたからっとした明るさがあるものなのだろう。そして死者や祖先とのつき合いも本来こうした明るいものであるのだろう。

 「大地の黴」はその地に住み着いた地の精霊みたいなものの話だし、「アケボノノ帯」は小学校のとき授業中にうんこをもらし(表題はその時のものをこの女の子がそう呼んだ)、やがて拒食症で亡くなった同級生の女の子の霊が私に取り付つくという設定。その子の霊は地球のあらゆる生命はうんこにより養われているのであり、排泄こそが最も大切な行為であり、それを狭いトイレに限定する必要など一つとしてないと主張するのだ。これもまた変わった小説。

 最後の「ふるえるふるさと」は幼い頃のふるさとの記憶に触発されるイメージが奔放に展開される。筋らしいものもなくなんのことかわからない小説。この小説集をあえていえば、過去の記憶とそれが想起させる現実離れしたイメージの世界と言えるかも知れない。それは不思議ななつかしさを読み手に喚起する。

 かなり以前に「二百回忌」については新聞の文芸時評の蘭に取り上げられていた。それで日比谷図書館でたまたま見つけて読んでみる気になった。
 92年から94年にかけて雑誌掲載のもの。


                            
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書名 わが「転向」 著者 吉本隆明 No
1996-03
発行所 文芸春秋 発行年 95年2月 読了年月日 96ー01ー04読了 記入年月日 96ー01ー04

 
暮れに十日市場の図書館で見つけて借りてきた。初めて読む著者の本(一度文庫本の対談集か何かを読んだことがある)。構えて借りてきたが、インタビューを草稿にしたものだったり、短い最近の時評であったりして、軽く読めてしまった。

 吉本に言わせれば1972年頃を境に日本の社会は変わったという。それにあわせて自身の今までの思想的立場(詳しくは知らないが多分マルクス主義)を捨てたという。72年に何があったかというと、三次産業の規模が第二次産業の規模を上回り、また個人消費が国民所得の6割から7割に達し、さらにその中身が必需品ではなく、その時の好みによって消費される選択消費が半分を超えたという。それはこの年にサントリーが初めてミネラルウォーターを売り出したことに象徴される。マルクスは水や空気は値段を付ける対象にはならないものと考えていた。かくして旧来のマルクス主義では現代の社会は説明できなくなったというのが「転向」の理由だと言う。そして自身を「新・新左翼」と言う。あとがきで彼は日本では転向に至る過程や理由を明らかにすることなく、ある日突然従来の立場を捨ててしまうといい、この様にその過程と理由を表明したのは自分が初めてだと言う。これは現在の社会党に対する痛烈な批判であろう。

「日本における革命の可能性」では、こうして出現した消費社会を通し、消費者が経済の実権を握ったのだから、彼らが例えばものを買わないと言うことを実行すれば経済は破綻し、国家の財政も破綻する、つまり政府を倒すことができるのだと言う。

 もう一つ際だつのは人間社会の将来に対する徹底した楽観論。人間の環境への適応性に全面的な信頼をおく吉本は、エコロジー運動をばかげたものとして一笑にふす。同じ論理でいわゆる「清貧の思想」も空論と片づける。

 私はこの様な消費経済礼賛、エコロジカルな楽観主義は持たない。彼の消費経済礼賛は、アジアやアフリカの後進国の農業や鉱業の生産に支えられたものであり、これら諸国が同じような経済発展の道をとった場合成り立たないものだと思う。つまり、我々の消費経済は発展途上国の犠牲の上に成り立っているのだ。それからエコロジーに関しては、今のような経済発展を続ければいかに人間の適応能力をもってしても数百年単位で見て、地球上の資源は枯渇し、破綻は免れないだろう。吉本の言う人間の適応力の中には我々がまたかつての江戸時代の様な生活に戻ることを甘受できる英知も含まれていれば話は別だが、彼の言う適応力の中にはそれは含まれていないと思う。

 この他「都市から文明の未来をさぐる」「時代という現場」を収載。92年から94年にかけて雑誌掲載。


                           
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書名 抱擁家族 著者 小島信夫 No
1996-04
発行所 講談社文芸文庫 発行年 1988年 読了年月日 96ー01ー09読了 記入年月日

 
大学教授で、翻訳家の中年男性の家庭の崩壊を描く。家に遊びにきていたアメリカ兵と妻が一夜を共にする所から崩壊は始まる。家族の絆を固めようと私は家を新築する。だが、妻は乳癌に侵され、闘病の末やがて死ぬ。私には社会的地位、年令不詳の息子と娘がいる。息子はかなりの年に思えるがぶらぶらしているし、娘はまだ中学生とも高校生ともとれる。私は再婚を望むがうまく行きそうにない。そして息子は家を飛び出すといったストーリー。お互いの関係が常に緊張をはらんでいて、今にも崩れそうな不思議な家族の物語だ。会話が家族間のものとは思えないものだ。特に妻のことば使いが男みたいで、やや違和感があるし、息子や娘の父親に対する言葉遣いも子供が親に向かっていう言葉ではないと思う。

「それでも・・・ブックガイド」評:「黒人」の小説の走り。希薄さと厚かましさの混在する文体にも注目。

                            
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書名 宇宙最後の3分間 著者 ポール・デイヴィス、出口修至訳 No
1996-05
発行所 草思社 発行年 95ー11ー06 読了年月日 96ー01ー13 記入年月日

 
サイエンスマスターズ2.
 著者の描く宇宙の最後はこうだ:
 一つは膨張する宇宙で、エントロピーが増大し熱的に死ぬ宇宙。光子とニュートリノ、それにどんどん数が減少していく電子と陽電子が、お互いの距離を広げていく、想像を絶する希薄なスープ。重要な出来事はなにもない。
 二つ目はビッグクランチで死ぬ宇宙。温度が無制限に上昇し、物質は強く圧縮されるので陽子や中性子はもはや存在し得ない。凄まじい爆発ですべての物質は消滅し時間や空間を含むすべての物理的存在は時空特異点で消滅する。
 三つ目は今の宇宙から新しい宇宙が生成する。

 ブラックホールから漏れる物質、重力の重要性、不確定性原理、特にエネルギーの不確定性により、真空にはエネルギーが満ちているという考え、これが宇宙の始まりである。あるいはインフレーションセオリーの話、熱力学第2法則の与えた影響、結局は宇宙もこの法則を免れない、知的存在の永続の可能性、などが論じられている。

 通勤の行き帰りで読み、気の遠くなるような無限の宇宙、時間に思いを巡らせていると、あるいはビッグバン以前の何も存在しない空間とかを考えていると、ほんとうに気が遠くなり快い眠りに落ち込む。まるで私の心が広大で捉えどころのない宇宙に広がって溶け込んでいくように眠りに落ちるのだ。これもまた読書のこたえられない快感である。


                            
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書名 背景の記憶 著者 吉本隆明 No
1996-06
発行所 宝島社 発行年 94年1月 読了年月日 96−01−20 記入年月日

 
60年頃から、90年代初めまでに書かれた比較的短いエッセイを集めたもの。幼年から少年時代を送った月島・佃島、山形での工業高校学生時代、町工場や化学工場で働いた戦後の時代等、自分史的要素の濃い作品集。これもまた前著と同じく比較的軽く読める。幼年時代への愛着と重なって、著者の月島・佃島界隈、さらに後年転々と住みついた谷中・上野界隈への愛着が繰り返し繰り返し述べられる。

 吉本は生涯の三冊として「ファーブル昆虫記」「新約聖書」「資本論」をあげる。この三書に共通するのは著者の情熱の太さ、どんなことであれ、そのために人生の膨大な時間を費やすことのできた精神であるという。いずれも読んだことはない本だが、言われていることはまったくそうだろうと思う。ただ、この三つの取り合せは意外であり、そこに著者の思索のスケールの大きさを感じる。

 十日市場図書館

                           
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書名 ビッグバン以前の宇宙 著者 和田純夫 No
1996-07
発行所 岩波書店 発行年 読了年月日 記入年月日 96ー01ー29

 
本書ではまずビッグバンを初期宇宙の火の玉状態と規定している。つまり宇宙の始まりとはしていない。私は宇宙の始まりとはビッグバンであると思っていたから、それ以前とはこの宇宙が存在する前という意味だと思って、本書を十日市場の図書館から引っ張ってきたのだ。その意味では肩すかしをくわされたのだが、著者の主張は宇宙の始まりの前は、時間と空間というものがないのだから、そもそも思考の対象にならないというものだった。これが現代物理学の一般的な考え方なのだろうが、やはり始まりの向こうは何があったのか、あるいは無ということはどういうものか知りたいということに我々素人はしがみつく。私のどこかで永遠の輪廻、つまりビッグクランチがビッグバンへと連なり、宇宙は何回も何回も生成と死滅を繰り返していると信じたいという願望があるのだろう。

 我々は「無」というとき、空間のなかに何も存在しないというイメージを抱く。このイメージでは空間自身も、時間も存在する。しかし、本当に「無」というのは空間も存在しないこと、そして時間も存在しないということである。そのことは本書を読んで気が付いた大きな収穫である。そして本書は何もない宇宙創世の前は考えても意味がないというのだ。

 相対性理論は空間に対してニュートン力学を延長したものである。相対性理論の量子力学化が宇宙の始まりを考察するためには必要である。零点での振動、揺らぎ、不確定性といった量子力学の概念が宇宙創世を説明する。

 本書はビッグバンの前に虚の時間の宇宙が(ド・ジッター宇宙)あって、そこから実の宇宙が生じ、インフレーション、ビッグバンを通して、現在の我々の宇宙が生じたという説に立つ。ホーキングらが唱えているものだ。そして、ワームホールを通じて、我々の宇宙の他にもたくさんの宇宙があるという説も紹介しながら、暗にその可能性を支持しているようだ。しかし虚時間の宇宙とはどんなものかまったくイメージできない。

 十日市場図書館。「宇宙最後の3分間」を読んだ後だったので、この本が目に付いたのだ。


                             
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書名 細胞から生命が見える 著者 柳田充弘 No
1996-08
発行所 岩波新書 発行年 95年4月 読了年月日 96ー02ー05読了 記入年月日 96ー02ー05

 
細胞とはなにかから始まって、細胞と癌の発生・治療に関する最新の研究まで紹介している。著者の専門である細胞分裂の分子的なメカニズムの紹介が特に詳しい。細胞分裂プロセスは各種のキナーゼを主体とするスイッチタンパク(この言葉も私には新しいものだ)、微小管がかかわる複雑な制御の仕組みによって行なわれている。大学時代に習った知識とは比べものにならないほど細胞内の微細構造や、機能、情報伝達のメカニズムが明らかにされている。このことは「DICTIONARY OF MICROBIOLGY AND MOLECULAR BIOLOGY 」の翻訳の時にも感じたことだった。先日生命誌研究館から送ってもらった「BIOHISTRY」誌には、細胞のモータータンパクや微小管の見事な写真がたくさん載っていて、感嘆の声を上げながら読んだ。本書を購入したのもこの「BIOHISTRY」誌の記事というか写真に触発されてのことだったのだろう。

 細胞内のある化学物質のわずかな量的な差が、分裂に際し娘細胞にそのまま引き継がれ、それが分化を引き起こすという説明はなるほどと思った。

 本書から
ヒトの全DNAは20グラム。
シャピロン:蛋白質の立体構造を導くタンパク。Heat Shock Proteinはその機能を有している。私はタンパクは合成されるとすぐに自分自身で安定な立体構造をとるものとばかり思っていたので(確かクリックもタンパク質が折り畳まれて特有の立体構造をとる機構は21世紀に解明されるべき一大問題だとどこかで言っていたと思う)、シャピロンといタンパクのことはびっくりした。では一体、シャピロンの立体構造は何が決めるのか。ここにも生物学の循環論が顔を出す。(p94)

ゴルジ体、小胞体膜:輸送や分泌にかかわる(p48)。
核膜のラミン:核膜の裏側に網目構造集合して裏打ちしているタンパク(p47)。
アポトーシス:細胞の自然死。
ネクローシス:細胞の病的な壊死。
キナーゼの種類とその役割についてはあまりにもたくさんありすぎて、しかも込み入っていてとても覚えられない。


                             
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書名 清貧の思想 著者 中野孝次 No
1996-09
発行所 草思社 発行年 1992年 読了年月日 96ー02ー10 記入年月日 96ー02ー10

 
二年ほど前のベストセラー。バブルがはじけて、人々が今までの生活を見なおし始めたから売れたと、当時言われた本だ。多少の貧乏は覚悟で、自分の本当のやりたいことを貫く老年を送ろうと思っていた私だったから、何をいまさら清貧などといわなくてもわかっているわいという反発もあって、あえて本書を手にしなかった。先日十日市場図書館で「ビッグバン以前の宇宙」を借りたついでに、二週間の貸出期間なら、この本ももう1冊読めそうだと思って借りてきた。

 本阿弥光悦、鴨長明、良寛、池大雅、蕪村,兼好法師、松尾芭蕉、そして第二部では西行を主として取り上げ、その生活ぶりを引き合いに出し、日本人の生き方のなかに、世俗、特に金銭にとらわれることなく、志を高く持ち自らの内面の満足のみを追求した生き方、つまり「清貧の思想」があり、そうしたものが受け継がれ、ひとつの文化を形成していると著者は説く。そして日本が真に誇るべきは、物の豊かさではなく、こうした思想であると著者はいう。

 ここにあげられた人々は自ら望んで世俗の栄華をすて、自分の志を貫いた人たちである。我々凡俗には、一生懸命働いていい生活をしたいのにできないで、不本意ながら貧乏に甘んじているのを、かっこつけて「清貧」と言っているような所がある。そうした意味で、上記の人々は我々とは違って恵まれた境涯にあった人々ばかりだ。ただ著者は戦後40数年、ひたすら経済成長のみを目指し、今それを達し、多くの人々が物質的に恵まれた現代にあって、こうした日本文化の伝統を見直すことを繰り返し繰り返し主張する。それはそれでいい。ただ現在の経済的物質的豊かさ故に花開いた日本文化の豊穣さもまた、世界に誇るべきものだと思う。例えばポップミュージックを聞いていると、今の繁栄が決して日本人の心性を腐らせたものばかりではないと思う。

 本書を読んでいて「徒然草」を読んでみたくなった。その155段にはこうある:
死期は序でを待たず。死は、前よりしも来たらず、かねて後ろに迫れり。人皆死ある事を知りて、待つことしかも急ならざるに、覚えずして来る。沖の干潟遥かなれども、磯より潮の満つるが如し。
 そして93段には:
されば、人、死を憎まば、生を愛すべし。存命の喜び、日々に楽しまざらんや。
とあるそうだ。この兼好法師の思想が江戸の文人にも受け継がれさらに現代にも連綿と流れているという。

西行から:
 年たけてまた越ゆべしと思いきやいのちなりけり小夜の中山


                            
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書名 オモツァルト・無常という事 著者 小林秀雄 No
1996-10
発行所 新潮文庫 発行年 昭和36年 読了年月日 96ー03ー16 記入年月日 96ー03ー16

 
かなり以前に買った文庫本。田川行きに高校の同級生池田さんの「旧長崎街道紀行」とともに携帯した。本棚にほこりをかぶっていたこの本を見つけ、持っていく気になったのだ。結局、こちらの方を読んだ。小林秀雄と比べられたのは池田さんの不幸だ。

 戦中から昭和25年頃までの評論を集めたもの。小林秀雄の神髄が凝縮されているのではないかと思われる作品。モーツアルトを論じた比較的長い評論から、無常という事という4ページの短い評論、そして西行・実朝を論じ、徒然草、平家物語を簡潔に論じ、さらに雪舟、鉄斎を語り、骨董を語る。全部で14編の評論を収載。一言で言えば、きわめて強靭な精神を感じさせる、男性的な文章だ。そして評論は分析を排し、聞き手、読み手、見る人の心が何を読み、感じるかこそが大切であるという。もちろん小林秀雄の古典や歴史、あるいは書画骨董に対する博識は、到底我々の及ぶところではなく、読んでいてついていけないところがたくさんある。しかし、著者はそれを読者に親切に解説するような書き方は一切しない。従ってこの200ページ足らずの本書を完全に理解するには彼の教養と同レベルの教養を要する。

「モオツァルト」は分析的評論ではないが、恐らくモーツアルトの音楽と人に対するこれ以上の評論は日本語では書かれたことがないのではないかと思う。

「無常という事」は、歴史を解釈することを否定した上で、最後は歴史と無常について次のように終わっている:
 
上手に思い出す事は非常に難しい。だが、それが、過去から未来に向って飴の様に延びた時間という蒼ざめた思想(僕にはそれは現代に於ける最大の妄想と思われる)から逃れる唯一の本当のやり方の様に思える。成功の期はあるのだ。この世は無常とは決して仏説という様なものではあるまい。それは何時如何なる時代でも、人間の置かれている一種の動物的状態である。現代人には、鎌倉時代の何処かのなま女房ほどにも、無常という事がわかっていない。常なるものを見失ったからである。

                            
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書名 旧長崎街道紀行 著者 池田隆 No
1996-11
発行所 近代文芸社 発行年 96年3月1日 読了年月日 96ー03ー23 記入年月日 96ー03ー23

 
高校時代からの友人池田さんから贈られてきた。去年の秋、高校クラスメートの牛腸さんの音楽会を聴きに行って彼に会い、長崎から江戸まで歩くことを思い立ち、九州の部分は既に歩いたことを聞いた。そのうち紀行文にまとめるから見て欲しいとも言われた。まさかこんなに早く、しかもちゃんとした、腰巻きも付いた売り物の本として出るとは思っていなかったから、まず贈られてきた本を見てびっくりした。出張の帰りとか、ゴールデンウイークを利用して、長崎から小倉まで、できるだけシーボルトの歩んだ旧街道を選んで歩いた記録である。

 遠賀川の土手を歩きながら心に浮かんだ、自動車に代わる100年後の交通手段(鳥や魚、あるいは有名な運動選手の動きを記憶した衣服をまとい、人々が空や、海や、陸を効率的に飛んだり、走ったりするというもの)や、現代社会に対する批判、あるいは俳句や和歌、漢詩などがちりばめられている。彼の生き方や生活振りがよく出ている。こうした和漢の文芸まで彼が興味をもっていたとは初めて知った。

 腰巻きの一節はこうある:暇と教養は最高の贅沢、年をとるのも悪くない。

 彼に刺激されて私も田川から遠賀川を河口まで歩こうと計画している。足慣らしのために2、3日前から、地下鉄を永田町で下りて国会の裏から、首相官邸の前を通って会社まで歩いている。地下鉄を下りてから25分弱かかる。永田町のホームは深いところにあるうえ、有楽町線の方から出ることにしているから、地上に出るまで6分はかかる。


                           
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書名 日本唱歌集 著者 堀内敬三、井上武士 No
1996-12
発行所 岩波文庫 発行年 読了年月日 96ー03ー23 記入年月日 96ー03ー23

 
本屋で見つけてかなり以前に買った。明治から昭和にいたる唱歌が収載されている。半分以上は知っている歌で、なつかしい。エッセイ教室の先月の課題「装い」のために、「埴生の宿」とか「浦島太郎」を参照した。そうだったのかと思うことも多い。

                            
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書名 人間と象徴 著者 G・C・ユング他、河合隼雄 監訳 No
1996-13
発行所 河出書房新社 発行年 1975初版1995 32版 読了年月日 96ー03ー25 記入年月日 96ー03ー30

 
カール・ユング「無意識の接近」、ジョセフ・ヘンダーソン「古代神話と現代人」、フォン・フランツ「個性化の過程」、アニエラ・ヤッフェ「美術における象徴性」、コランド・ヤコビー「個人分析における象徴」を収める上下2巻で550ページにもなる本。横書きで、ページと同数くらいの写真の入った、上質の紙を使用した本。ユング派の心理学を紹介した入門書なのだがかなり難しい。一つは文章あるいは翻訳の問題でもあろう。

 ユングの心理学に興味を引かれたのは、翻訳家養成講座でユング派の学者の書いたものをテキストとして使ったことがあり、その中でCOLLECTIVE UNCONCIOUSNESS という概念が出てきたときだ。この本では普遍的無意識と訳されている。無意識は単に個人の心の内だけに限られるだけでなく、人類が共通的に持つ類のものもあるというこの主張に、興味を覚えたのだ。本書の中心的主張もそのことであり、そうした普遍的無意識は神話や芸術初め人間生活のあらゆる面に象徴として現れるというのだ。そうした象徴例を多数例示するためにおびただしい写真を掲載してある。

 フォン・フランツは結論の中で以下のように述べている:
無意識の強力な力は、臨床的な素材のなかばかりではなく、神話や宗教や芸術やその他人間が自らを表現するあらゆる文化的な領域に、最も確かに現れている。もしすべての人間が情動的で心的な行動の様式(ユングはそれを元型と呼んでいる)を共通に受け継いでいるならば、人間のすべての個々の活動分野にその行動様式の生み出すもの(象徴的空想、思想、行為)を見いだすだろうということは明らかである。

 また、ジョン・フリーマンによる序には以下のように述べられている:
かくて、人間と象徴の研究とは、要するに人間が自分自身の無意識とどのように関係しているかを究めることである。そして、ユングの観点によれば、無意識は意識の偉大な案内人、友人、相談役であるので、この本は、人間と人間のたましいの問題の研究へと、最も直接的な言葉で関係づけられる。われわれは無意識を知り、主として夢によってそれと関係する(相互作用)。そして、この本全体を通して、個人の生活において夢見ることの重要性が全く顕著に強調されていることに、読者はきづくことだろう。

 ユング自身は夢の分析(74ページ)で以下のように述べている:
記号は、つねにそれが代表している概念以下のものであるが、象徴は、その明白でただちにわかる意味より以上の何ものかをあらわしている。その上、象徴は、自然で無作為な産物である。いかなる天才もペンや筆を手にもって“これから象徴を作り上げるのだ”ということはできない。・・・夢においては、象徴は自然に起こる。というのは、夢は生ずるもので、作られるものではない。だから、それらは、象徴に関するわれわれの知識のすべての主な源泉である。

 全編に無意識の象徴としての夢の話が出てくる。特に最後の章の「個人分析における象徴」は、一青年技術者の夢の分析を通しての精神分析の話である。こうした夢の分析はかなりこじつけではないかと何回も感じた。あるいは単に個人的な事象を無理して一般化しているのではないかという感じがどうしてもぬぐえない。これはかつてフロイトの「精神分析入門」を読んだときにも持った感想だ。本書の美術における象徴性に関しても同じ様な感じを持った。

本書から

4という数字は宇宙の完全性を象徴する。
意識された世界だけが心ではない。
心にも、肉体と同じように進化の歴史がある。現代人の意識まで達するには長い道程が必要だった。
夢は作られるもの。
普遍的無意識。
オカルト。意味ある偶然あるいは共時性。
神話、未開人の儀式。


                            
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書名 株式投資の手引き 96年版 著者 日経新聞編 No
1996-14
発行所 日本経済新聞社 発行年 96年1月5日 読了年月日 96ー04ー01 記入年月日 96ー04ー01

 
さすがに日経新聞の本だけあって、この種の本にありがち、こうしたら儲かるとかといったぎらぎらしたところがなく良く書けている。ただ、新聞によく出てくる裁定取引というものの実態はこの本を読んでもよくわからなかった。

 ちょうど今日、日経平均がバブル崩壊後の最高値を記録した。私の今までの株の実績を計算してみたら、わずかにプラスとなった。特に昨年買った株が値上がりして、JTとバブル最盛期に買った東芝の株の損失の一部をうめてくれた。2月にトヨタの転換社債がやっとのことで買値を上回ったので、売却した。その時、和光証券の営業員の勧めで、売り出されたばかりのソフトバンクの転換社債を買った。それが今は30%以上も値上がりしている。ソフトバンクは日本のベンチャー企業の代表だという認識があったので、(正確に言うと、日経に社長の孫正義がベンチャービジネスの雄として取り上げられている記事が載っていて、その見出しだけ覚えていたのだ)それを育てる気持ちで転換社債を買ったのだ。この会社が何をやっているのかは未だによくわからない。また、同じく2月に、鹿島建設の株を売った。かおりの就職記念に1年前に買ったのだが、220円ほど値上がりしていた。この代金ですぐに沖電気を買った。これからの日本経済を引っ張るのは電気、通信、コンピュータだからそちらにポートフォリオを組み替えようというわけだ。ちょっとしたファンドマネージャーの気分である。乗り換えてすぐに沖電気が60円ほど上がった。しめしめと思っていたら、しばらくして半導体の市況の軟化のため、来期は大幅減益だとの同社の発表を受け、株価はみるみる下がり、今は買値より50円ほど下がっている。
 年に10%の運用益で回すことを目指そうと思う。


                           
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書名 どうしてものが見えるのか 著者 村上元彦 No
1996-15
発行所 岩波新書 発行年 95年10月 読了年月日 96ー04ー03 記入年月日 96ー04ー04

 
視細胞にはその形から2種類あって、一つは桿体とよばれ明暗を識別する。もう一つは錘体と呼ばれ色を識別する。いずれの細胞も光を電気信号に変換して神経を通して脳に送るが、その変換過程は以下のようである。
光量子→ロドプシン(レチナールとタンパクの複合体)の立体構造の変化→Gタンパクの活性化→cGMP分解酵素の活性化→cGMPの減少→ナトリウムチャンネルの閉鎖→過分極応答

 ここでもまた、Gタンパクが関与している。
 脳の視覚中枢の各細胞は役割が決まっている。例えば斜めの線だけを認識する細胞といった具合に。

                           
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書名 花は勁し 著者 岡本かの子 No
1996-16
発行所 筑摩書房 発行年 1993年 読了年月日 96ー04ー05 記入年月日 96ー04ー06

                 
 
初めて読む岡本かの子の作品。文庫本で30ページの短編。一読、凄さすら感じさせるよくできた小説だとびっくりした。話は画家との愛をあきらめて生け花への情熱に人生を賭ける38歳の桂子は、今は肺病を病み一人病身を横たえる2歳年下のその画家に仕送りをし、時々病床を訪れる。桂子の姪せん子も画家を世話するのだが、いつのまにか二人は恋するようになる。そして画家はせん子に子を残して死に、桂子は斬新な趣向の生け花の個展を成功させる。

 見事な風景の描写と、その中に凛として浮かび上がってくる魅力的な主人公に引き込まれる。大変な文章力で、しかも力強い文体だ。
「丹花を口に銜くみて巷を行けば、畢竟、惧れはあらじ」彼女の生け花の講習所にはこう書いた額が掛けてある。まさに主人公にふさわしい言葉だ。

「それでも・・・ブックガイド」評:対象描写における遠近法の不思議な狂い方に注目。

 本書には三島由紀夫が日本の代表的短編として推したという「過去世」その他も収載。中でも中編の「母子叙情」は、パリに一人絵の勉強のためにのこしてきた息子一郎に対する過剰とも思われる愛情を書いたものだ。これは夫の逸作を含め、一平、かの子、太郎の岡本一家の現実そのものと思われる。母親の心配とは関係ないかのように一郎はたくましく成長し、新進画家としても知られるようになる。その間に、母親は銀座で見かけた息子に似た若い男と不思議な交際を始める。親子ほども違う二人が連れだって武蔵野を頻繁に歩き回るのだ。実際の体験かどうかは知らないが、実際にそういうことが書けるというのは大胆だ。全体として私小説であるが、構成がしっかりしていてよくできている。「花は勁し」と同様作者の強力な生命力が横溢しているのを感じる。

 昭和12年「文学界」初出。

 
 岡本太郎の訃報は少し前に新聞で見たような気がする。


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書名 立花隆対話編・生、死、神秘体験 著者 立花隆 No
1996-17
発行所 書籍情報社 発行年 1994年 読了年月日 96ー04ー23 記入年月日 96ー04ー24

                
 
山折哲雄、荒俣宏、河合雅雄、養老孟司、遠藤周作、カール・ベッカー、河合隼雄、岡田節人、中川米造、中村雄二郎との対談集。
これだけの人との対話が出来るのは、現代の大インテリ立花くらいだろう。

 死は決して恐くないもの。もっと日常のありふれたこととして考える必要があること。臨死体験は確実に存在すると思う。しかし死後の世界があるかどうかは何とも言えない。外に現れない、あるいは外からは見ることのできない内的意識というものがあるのかもしれない。といったところが著者の主な主張か。

いくつかの興味ある話題:
 人生には四つの段階があるという二〇〇〇年前のインドの考え。これは山折氏が述べている(60ページ)。つまり学生期、家長期、林住期(家族や共同体と完全には縁を切らないが、そこから飛び出て自由な生活を送る)、遊行期(家族や共同体との縁を完全に切って聖者の道に入る。100人あるいは1000人に1人)というものだ。この四つを順次経験して死ぬことができた人間は一番幸せだという。私の人生三分割法によく似たことだ。聖人への道を歩むことはまず滅多にないことだから、それを除けば私の理想とするところと同じといえる。

 荒俣宏はダーウインの進化論の発想の出発点として、生物がいかに生きのびたかではなくて、なぜこんなにも多くのものが死んでしまうかという疑問があったと推定している(74ページ)。また、死が生を支えているという観点が現代では薄れてきていると言っている。

 遠藤周作との対談の中では、トンネルの夢が取り上げられている。産道というトンネルをくぐり抜けて出たところには光が溢れているとい誕生の大体験が脳にインプットされていて、それが死の際のトンネル体験とか光の体験となるというのは、カール・セーガンが唱えている臨死体験の有名な解釈であるとのこと(149ページ)。ただし、立花も遠藤もこの説にはあまり賛同していない。産道を通る恐怖みたいなものは死ぬときに体験したくないという思いもあるからだ。私のトンネルの夢は苦しく恐ろしいものではなく、何かなつかしいものに包まれているような夢だったから、もし死に際してあの夢が見られるなら最高だろうと思う。

 この本はもう2年以上前に森川さんが貸してくれたものだ。ずっと放っておいたが、今月のエッセイ教室の課題「嘘」に癌の告知のことを書いたので、机の脇に積んであった本書を思い出し読んでみたのだ。立花は二回目の遠藤との対話で、癌の告知は絶対にしてもらわなければ困ると言っている。そうでないと残りの生き方を有効にできないと言うのだ。

 この対談で、遠藤周作は心臓移植について、三〇代ならもらいたいという気持ちになったかもしれない。今の年齢ではもらわない。良寛ではないけど「死ぬときは死ぬがよし」という心境になっているからという。
 厚生省が決めた脳死の判定基準に対し、立花は厳しい見方をとる。臨死体験を調べているうちに、外部には何の反応も示さない状態でも内的意識が存在する可能性を否定できないことを信じるようになったというのがその論拠だ。


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書名 宇宙が始まるとき 著者 ジョン・バロウ、松田卓也訳 No
1996-18
発行所 草思社 発行年 96年2月 読了年月日 96ー05ー02 記入年月日 96ー05ー03

 
サイエンス・マスターズシリーズの4番目。出版はかなり前に新聞広告で見たのだが、虎ノ門書房や書源などの大きな本屋でも見つけることが出来なかった。霞ヶ関の文教堂書店で、本書と「ヒトはいつから人間になったか」と一緒にやっと見つけることが出来た。

 相対性理論、素粒子論、量子力学の立場から宇宙の始まりを解説したもの。内容は多岐にわたり、難解である。この種の本を読んだとき感じるもどかしさは本書も変わらない。宇宙の本当の最初の瞬間はどのようであったか、あるいはその先はどうなっていたのかという読み手の疑問には、答えてくれないからだ。こうした疑問は物理学の領域を越えた、神学あるいは哲学の領域に属するものだろうが、当否は別として何らかの明確な主張を聞きたいと大方の人は思う。

 著者の立場はホーキングらの量子論的創成論、つまり特異点の存在を認めない立場を支持しているように思われる。
173ページにはこう書いてある:「
・・始まりに向かってさかのぼっていくと、時間の明確な特徴はしだいに失われ、時間は空間と区別がつかなくなる。」そして174ページには「『時間が空間になる』という提案がなされた結果、明確に限定された宇宙創成の瞬間は存在しなくなる。

 本書の特色の一つは人間原理に基づく宇宙論だろう。つまり宇宙が今ある状態にあり、その中に観察者としての人間が存在しうるためには、いくつかの自然定数が偶然にそうなっていたからだという論だ。我々が存在するためには、「宇宙の発射速度」が臨界速度(宇宙が閉じるか、あるいは開いているかの境界速度)とわずか10のマイナス35乗分の1しか違わないように「選ばれる」ことが必要である(26ページ)。あるいは、ヘリウムとベリリウムと炭素の間に共鳴が存在しているために、炭素が生成し、それがやがては意識を持った生命体を生むにいたったこと(200ページ)。「
自然定数の値の明白な偶然の一致が組合わさって、複雑な構造体が宇宙に存在できるようになる・・」と200ページでは述べている。

110ページ前後にインフレーション宇宙論の由来とその意義が書いてあるがよくわからない。COBE衛星による観測で、宇宙背景輻射の方向別の偏りが10万分の1あることが観測されたという。この様な精密な観測が可能ということに現代科学技術の驚異を感じる。


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書名 ヒトはいつから人間になったか 著者 リチャード・リーキー、馬場悠男訳 No
1996-19
発行所 草思社 発行年 96年2月 読了年月日 96ー05ー11 記入年月日 96ー05ー11

 
かつて同じ著者の「ヒトはどうして人間になったか」という本を読んで、初めて人類の発生と進化の過程をのぞき見て、感銘を受けた。本書はその本と題名も近いもの。内容はこちらの方がやや一般向きで、いろいろの面から人類進化の道を推論している。著者の研究だけでなく、学会での対立する意見を並べて、多方面からの見方を示している。

 人類は700万年前にアフリカで発生した。化石が発見されている最古の人類は、アウストラロピテクス・アファレンシスで約300万年前の化石である。これからA・アフリカヌス、ホモ・ハビリス、ホモ・エレクトゥスを経てホモ・サピエンスにいたるという説と、もう一つは、A・アファレンシスと同時代に別の未知のホモ族が生存していて、それからホモ・ハビリスが生成したという説との二つがあり、著者は後者を支持する(ページ66)。また現生人類の起源に関しては、アフリカ単一起源説と、多地域起源説との二つが今鋭く論争を戦わしているが、著者はアフリカのどこかで出現したホモ・サピエンスが、ユーラシアに分布を広げ、先住の人類集団と混血したのではないかと考えている(ページ166)

 化石と言っても完全な人骨が出ることはまず無く、わずかに見つかった一個の歯から、その人物の生活状況までを推論するのだ。ロマンとスリルに満ちた学問だ。

本書から
 初期人類は肉食であった。肉の高い栄養価が人類のその後の発展に大きな影響をあたえた(ページ98)。
 親が幼児を手塩にかけるという現生人類の社会環境の一端はすでに160万年に存在したホモ・エレクトゥスの間に芽生えていた(88ページ)。

 その他、芸術、言語の起源に対しても本書はかなりのページを割いて論じている。言語に関しては、言語も徐々に進化してきたものであり、巨大化した脳が偶発的に生み出したものとするチョムスキーの考え方を否定する。そうした見方は人類を特殊なものと見る見方であると、リーキーは言う。本書の特徴の一つは人類も進化の産物、動物の一つであるという見方に徹底していることだ。


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書名 経営分析の基本的技法 著者 田中弘 No
1996-20
発行所 中央経済社 発行年 96年4月 読了年月日 96−04 記入年月日 96−04

 
ちょうど決算の時期で、日比谷図書館を歩いていたら本書があったので、借りてきて会社で読んだ。財務諸表から総資本経常利益率、限界利益、流動比率、付加価値等々、色々な数値の出し方とそれがどんな意味を持っているか、そしてそれらの数値から会社の経営を分析する手法を解説したものである。

 本書がおもしろかったのは、無味乾燥な架空の会社の例ではなくて、ビール会社や薬品会社、家電、商社といったよく知られた会社の実際の数字を引き合いに出し、会社間の特徴や優劣の比較を行なっているからだ。また各種の産業別でのこうした数値の比較が出ていて、これも参考になった。九州フィルターの経営上参考になったところは、無借金経営は必ずしもいいことではないということ。今まで我が社はせっせと税金を納めるために働いてきたようなところがある。といって何に資金を投下すればいいのかはなかなかわからない。


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書名 超伝導 著者 中嶋貞雄 No
1996-21
発行所 岩波新書 発行年 88年1月 読了年月日 96ー05ー16 記入年月日 96ー05ー16

 
超伝導の本質は量子力学の世界であるから、本書は量子力学のやさしい解説書にもなっている。ただし通読しただけでは私にはよく理解できなかった。本書を日比谷図書館で借りてきたのは、今月のエッセイ教室の課題が「新幹線」で、リニア新幹線のことを書いてみようかと思ったからだ。実際原稿は書いたが、提出したのは南アルプス縦走のことだ。リニア新幹線のことを書くために、知っておきたかったことは、超伝導状態で流れる電流は、スイッチを切っても永久に流れるものかということと、流せる電流の大きさは限度がないかということだった。本書の最初の方にそれに対する答えが出ている。いわく、永久電流は文字どうり永久である。臨界磁場というものがあって、これを越えると超伝導状態が壊れるので、流れる電流には限度がある。

 ここら辺りまでの説明はきわめてやさしく、私にも十分理解できたが、なぜ臨界磁場が存在するのかということの原因説明から、量子力学の世界に入り、だんだんむつかしくなる。コヒーレンス長、磁束量子化、マイクロ波動関数、フォノン、フェルミ粒子、ボーズ粒子、超流動、クーパー対、ジョセフソン効果、BCS理論・・・数式を使わず、簡単な図を所々に挿入して話は進が、わかったことは、量子力学という学問が正しく、有効なものであるということ。20世紀の生み出した最大の知的偉業の一つであるという実感だけが残った。

 超伝導を液体ヘリウムの超流動現象と関連づけて説明している。超流動を起こすヘリウムのアイソトープはボーズ粒子であり、一つのエネルギー状態にいくつの粒子が入ってもいいから超流動を起こせる。超伝導体の中では、本来はフェルミ粒子で同一エネルギー水準にはスピンの逆向きの二つしか入ることの出来ない電子が、クーパーペアを形成し、ボーズ粒子になるため、超伝導が起きると言うのだ。

 著者は量子力学のトンネル効果を、電子の波動がしみこんで行くというイメージを使って説明している。これはわかりやすい。また、量子論をアインシュタインが光の粒子としての性質を明らかにしたことと説明しているが、これも私にとっては新しい見方であった。

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書名 存在の耐えられない軽さ 著者 ミラン・クンデラ、千野栄一訳 No
1996-22
発行所 集英社 発行年 93年9月 読了年月日 96ー05ー27 記入年月日 96ー06ー14

 
かなり前に映画化もされたクンデラの代表作。確かこの直訳調の映画の題名は当時評判になりはやった。昨年だったか「アエラ」の中刷り広告に「存在の耐えられない、この暑さ」(アエラ94年8月15日、22日合併号)といったキャッチフレーズが出ていた。本書を買ったのはかなり前だが、今まで放っておいた。

 著者得意の哲学的考察に富んだ恋愛小説。こういう小説は私好みだ。著者の言う叙事的恋愛の実行者であるプラハの腕のいい外科医トマーシュは、いくつかの偶然が重なり合い、田舎町のレストランのウエイトレスのテレザと知り合う。田舎から上京したテレザはトマーシュの家に住み込む。トマーシュのもう一人の愛人は画家のサビナ。トマーシュはもう一〇〇人近くの女と関係している。このこと自体が共産主義体制下での屈曲した知識人の心情の現れであろう。やがてプラハの春をソ連の軍隊が踏みにじる。トマーシュもサビナもスイスに逃げる。しかしテレザは残る。そしてトマーシュはテレザのために再度プラハに戻る。サビナはジュネーブにとどまり大学教授のフランツと恋仲になる。物語はこの二つのロマンスを軸に進展する。

 プラハに戻ったトマーシュは以前に書いた文章を取り消すことを拒否し、外科医の職を追われる。プラハで窓拭きの仕事に就き、最後は田舎の集団農場で農作業に従事し、自動車事故でテレザとともに死ぬ。サビナはカリフォルニアまで流れ着き、フランツはカンボジアでの和平行進の後バンコックで物取りに襲われて死ぬ。

 クンデラは言う:たくさんの女を追いかける男の中に、われわれは二つのカテゴリーを容易に見分けることができる。一方はどの女にも自分固有の、女についての常に同じ夢を探し求める人であり、もう一方は客観的な女の世界の無限の多様性を得たいという願望に追われている人である。そして彼は前者を叙情的、後者を叙事的であるとしている。叙事的な女好きは女たちの中になんら主観的な理想を投影しない。すべてのことが男の興味の対象であり、失望を味わうことはない。これに反し叙情的女好きは女たちの中に自分自身、自分の理想を探し求め、たえず繰り返し裏切られる。

 トマーシュが職を追われる原因となったのはプラハの春の時に書いた小文だ。それは共産チェコ建国の当初、無実の罪で多くの人が処刑されたことに対する批判だ。無実が判明した後、担当の検察官たちが、自分たちは知らなかったのであって、判決になんらやましいところはないと主張していることを、自分が知らずに殺したのが父であり、寝ていた相手が実は自分の母であることを知って、自らの目を針で刺し、盲目となって出ていったオイディプスを引いて批判したものだ。クンデラのこの指摘は痛烈で、胸を突く。

 また最後の方には(ページ343)時間に関してこんな考察がある:
人間の時間は輪となってめぐることはなく、直線に沿って前へと走るのである。これが人間が幸福になれない理由である。幸福は繰り返しへの憧れなのだから。
 この記述は、人生は円環であるといった「不滅」の記述とは相いれないような気がする。しかし私のエッセイ「冬至の太陽」と思想は同じだ。


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書名 明治忠臣蔵 著者 山田風太郎 No
1996-23
発行所 河出書房新社 発行年 94年1月 読了年月日 96ー06ー04 記入年月日 96ー06ー14

 
相変わらず面白い。司馬遼太郎よりはるかに面白いと思う。といっても司馬の作品は「項羽と劉邦」しか読んでいないが。「東京南町奉行」は鳥居耀蔵が長い幽閉生活から出てきて、東京の寄寓先で、明治政府の海外使節団の乗った船を転覆させようという、孫娘の恋人らによる陰謀を未然に防ぐ話。彼にとっては不倶戴天の敵である薩長明治政府の要人は憎みても憎みきれない人々であるが、最後の瞬間にかつての南町奉行としての、本能的とも言える犯罪に対する許しがたいと言う心理が勝るのだ。福沢諭吉や勝海舟も端役で登場。

 「明治忠臣蔵」は明治中頃世間を騒がした旧相馬藩のお家騒動にまつわる話。当主はだんだん精神に異常をきたしてついには精神病院に入院させられるのだが、旧家臣の錦織剛清は、殿様は家臣たちにたぶらかされていると思って、家臣を裁判で訴えたりして騒ぎを起こすのだ。そして急死した当主は毒殺されたと主張し裁判に持ち込み、墓から遺体を掘り出し分析するのだが、結局は毒物は検出されず、錦織は敗北する。この物語には志賀直哉の祖父が相馬家の家臣として登場し、さらに子供の直哉もちらっと登場させている。当主の精神異常の発端が、結婚相手のお嬢さんの先天的膣欠損症による、結婚初夜の性交不能によるというあたりは、いかにも風太郎らしいか。

 このほか「斬奸状は馬車に乗って」は秩父事件をバックにしたもの、「天衣無縫」は明治の初めに暗殺された広沢参議の愛人を通して、ついに迷宮入りしたこの事件を追ったもの。「首の座」はキリシタンの転向を扱ったもの、「明治暗黒星」は、衆議院議長までなった星亨の波乱に富んだ、悪行とも言える半生を描いたもの。


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書名 オイディプス王 著者 ソポクレス、藤沢令夫訳 No
1996-24
発行所 岩波文庫 発行年 1967年初版 読了年月日 96ー06ー17 記入年月日 96ー06ー17

 
何に圧倒されるかと言って、完璧なまでのドラマの構成だ。もちろんよく知られたオイディプスの悲劇もあまりにも異常でわれわれの胸に深く突き刺さるが、この悲劇の構成、つまりクライマックスにいたる進行の揺るぎない完璧さの方が驚異である。

 テバイの王オイディプスは、テバイに降り懸かった疫病や干ばつの災難を払うために、神託を授かる。それによれば、前王ライオスを殺害した犯人を捜し罰せよと言うものだった。オイディプスは早速それにとりかかる。だが、彼が国のためを思って一生懸命になればなるほど、徐々に明らかにされていく前王殺しの真相は、彼の破滅へと繋がるものなのだ。実はオイディプスは生誕時に父を殺すという運命にあるとされ、殺すことを命じられたのだが、下僕は彼を山中に放置する。命を長らえたオイディプスはコリントス王のもとで育てられる。やがて放浪にでた彼は、途中で出会ったライオス王をふとしたことから殺害する。そしてスフィンクスの謎を解き、テバイを救い、その王位につき、それとも知らず自分の母と結婚し、子供をもうける。こうした真相は生き残ったライオスの下僕らは知っているのだが、オイディプスは知らない。彼の必死の努力で徐々に真相が明らかになって行くが、それはとりもなおさず彼の破滅への道なのだ。その過程は見る者をして深い感動を呼ぶ。

 読むきっかけはクンデラの「存在の耐えられない軽さ」の中で、このドラマが主要なテーマとなっていたこと。彼は「不滅」のなかでは、ギリシャ古典悲劇は越えることの出来ない人類の至宝であるという意味のことを書いている。私の10代の頃のマドンナが、大学に入った頃「オイディプス王」を読んだとか、読んでみたいとか言っていたのを思い出す。

 解説によると、ソポクレスの戯曲で残っているのはほんのわずかで、それらはみな11世紀の写本により現在に伝えられたという。11世紀といえば中世の真っ只中だが、こうした文化遺産を営々と継承するという努力は続けられていたのだ。「薔薇の名前」を思った。中世が決してなにもない暗黒の時代だったわけではない。あるいはこうした努力は、時代を超えた人間の本性なのだろう。僧院の奥深くで黙々と続けられる写筆。中世から射すかすかな光明にも似たそうした行為が、やがてルネッサンスへと連なる。もし写筆が実際に僧院で行なわれたとすれば、中身を読んだ修道僧は、子が父を殺し、母と交わるという異端のこの物語に何を感じたであろう。彼らが属するキリスト教世界とはまったく異質の世界。それでいながら、父への敵対心という人類の内に潜む集団的無意識に、彼らの無意識も共感したであろうか。


                           
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書名 奇談集 著者 J.L.ボルヘス、鼓 直 訳 No
1996-25
発行所 岩波文庫 発行年 1993年初版 読了年月日 96ー06ー27 記入年月日 96ー07ー06

 
岩波文庫の世界の古典80選の中に入っていた。八重州ブックセンターで見つけて買った。「奇談集」の名前はどこかで目にしたことがある。クンデラの本かもしれないし、篠田一士の著作かもしれない。作者はアルゼンチン人。初めて読む中南米作家のもの。1944年編集の短編集。

 不思議で、神秘的な雰囲気を漂わせる作品だ。19編の作品が収められているが、半分くらいは難解で何を言いたいのか不明。中では「死とコンパス」、「刀の形」、「南部」などが普通の小説に近く理解できた。
 驚いたのは作者の深い西洋的教養だ。


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書名 三文オペラ 著者 ベルトルト・ブレヒト、千田是也訳 No
1996-26
発行所 岩波文庫 発行年 1961年初版 読了年月日 96ー07ー02 記入年月日 96ー07ー06

 
同じく岩波古典80選の一つ。かつて開高健の傑作「日本三文オペラ」を読んだが、そのもととなった本書もいつかは読みたいと思っていた。1928年初演。演劇とオペラとのミックスしたもの。ドラマの合間に至る所で長い歌の部分が挿入される。演劇の革新を意図したものとのこと。18世紀のジョン・ゲイの「乞食のオペラ」を改作したもの。

 200年前のロンドンを舞台にとり、マクヒィス一味の盗賊と、乞食を仕切るボスのビーチャム一家、売春婦、マクヒィスの親友の警視総監が主な登場人物。ビーチャムの娘ポリーを拐かすようにして結婚したマクヒィスは、ビーチャムの妻の密告により警察に追われることになる。女好きなマクヒィスは逃亡前に立ち寄った売春婦の所でも密告され、結局捕まる。親友の警視総監ブラウンは何とかマクヒィスを助けようとするが、結局絞首台がマクヒィスを待つ。だが最後に白馬に乗ったブラウンが助けにやってくると言った筋。悪党の社会を通して、ブルジョワ社会、資本主義社会を痛烈に批判している。

 ブレヒトによる上演に際しての細かい注意が巻末に付いている。翻訳が千田是也というのも変わっているが、よくできた訳だと思う。


                           
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書名 室町お伽草子 著者 山田風太郎 No
1996-27
発行所 新潮文庫 発行年 平成6年初版 読了年月日 96ー07ー13 記入年月日 96ー07ー13 

 
奇想天外、抱腹絶倒、読み出したら止められない。時は室町末期。室町将軍の姉にあたる香具耶をある南蛮人に渡せば、鉄砲300丁を引き渡すという、堺に寄寓する武田信玄の父、無人斎の申し出をめぐって、若き日の信長、信玄、謙信、松永弾正が争うとい物語。香具耶姫の源氏物語講釈の先生である、元貴族で今は僧に身を落とした行空の弟子になった日吉丸が全編を通して登場し、語り手的役割を果たす。

「人間二十年、下天のうちをくらべれば・・・・」と敦盛を舞って信長は、松永弾正の桶屋形に、香具耶の奪回を目指して、嵐のなかわずか三十騎馬足らずで奇襲をかける。

 あるいは「鞭声粛々淀川を渡った」謙信が、川の中州で信玄と一騎打ちをしたり(この時は駆けつけてきた信長勢と三すくみ状態になり引き分ける)、山本勘助に謀られて、日吉丸と光秀が山崎にあるこぶとり屋(主は三の鳥居)のワイン樽に押しこめられ淀川を下ったり、山本勘助が光秀に信長への謀反を唆したり・・・とにかく風太郎の想像力に圧倒される。そしてもちろん作者得意のエロチシズムが随所にでてくる。行空の娘で今は無人斎の愛人である玉藻が使う飯綱の妖術は、「マラタトウ」という呪文とともに、その場にいる男の一物が通常の勃起時の二倍以上に勃起し、男どもはその場でのたうち回るといったものだ。

 風太郎の作品に登場する女性はほとんどが絶世の美女であるが、今回の香具耶と玉藻も絶世の美女。女嫌いの謙信は香具耶の姿を目にしただけで震えが止まらなくなるほどだ。香具耶は人の悪意というものを知らない天真爛漫で、活動的なおてんば娘。彼女の草履とりになった日吉丸と御所を抜け出し京の町を逃げ歩く。だが塚原卜伝と上泉伊勢守に剣術を習う剣の使い手で、物語の終わりの所では、香具耶が追ってきた松永弾正の部下7騎を一刀のもとに切り捨てたことが暗示されている。玉藻は父のために南蛮人に香具耶の身代わりとして一夜差し出されたことから、怨念の塊となり、男をとろかす妖術を使う妖艶な美女として描かれる。

 結末は堺に連れて行かれた香具耶の奪回を目指し、織田、武田、上杉の軍勢が三方から攻めるのだが、無人斎や千宗易らの守る堺は落ちず、最後に海から南蛮船を襲撃した織田が結局姫を解放する。その前に、香具耶は玉藻と対決し、やっつける。そして、織田だけが鉄砲一〇〇丁を手に入れ、無人斎は南蛮船に乗って海外に向かい、もともと有力な主人を捜していた日吉丸は結局織田が一番見所ありと見て仕えることにする。


                            
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書名 私の履歴書―専売公社編 著者 沢柳義和 No
1996-28
発行所 発行年 読了年月日 記入年月日 96ー08ー02記

 
東北フィルターの矢田社長が、前回のJTOB会の時にぜひ読んでみろといっていた回想録。工業会の志多さんのところにあったので借りてきた。入社以来、退社までをB5版の横書きで300ページ近くのボリュームにまとめてある。沢柳さんが一緒に仕事した当時の人の実名がたくさん出てきて、そのうえ、色々な出来事の日時が入っていて、さらに当時のたばこをめぐる情勢が具体的な数字入りで記述されているのだ。例えば、その年の製造部の運営方針だとか、当時の製品たばこのニコチン、タール量だとか、誰と会食しただとか、まあびっくりするような詳細な自分史である。特に数字が随所に出てくるのには感心する。

 沢柳さんは昭和45年頃からルーズリーフ式のノートに色々メモをとり、それを保管していたという。矢田さんも言っていたようにこれは無味乾燥な専売史を補完するもので、特に当事者には面白いだろう。矢田さんの批判は、これだけ詳細な回想を書いていながら、自分の主張が出ていないということだった。私の学科の先輩で、平塚試験場の場長を最後に退職した沢柳さんは、まあ製造の主流にはなれなかったということだ。自分の主張を強く押し出すことと、詳細なデータの記録とは両立しないものだ。歴史を作る人がいれば、その記述に情熱を燃やす人もいるのだ。私のようなまったく交流のなかった者が読んで、例えば、ペーパープロセスのことや、膨化技術のことなどは興味を引くが、それ以外の部分ではああそうかという程度のものだ。事実をそのまま投げ出してあって、その一般化、普遍化がなされていないので、特定のサークルにしか通用しないのだ。

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書名 ジェイン・エア 著者 シャーロッテ・ブロンティ、遠藤寿子訳 No
1996-29
発行所 岩波文庫 発行年 1957年初版 読了年月日 96ー08ー05 記入年月日 96ー08ー09

 
綿密な心理描写と風景描写。ずっしりと読み応えのある典型的な19世紀の長編を読む喜びを堪能させてくれる。

 ストーリー:両親を亡くしたジェイン・エアは伯父のもとに引き取られるのだが、やがて伯父も死に、残った伯母と、その3人の子供たちにひどい目にあわされながら育てられる。伯母はついにジェインを寄宿舎に放り出す。寄宿舎での学業を終えた彼女は家庭教師として、ロチェスター家に住み込む。そしてそこの当主のロチェスター氏との間に恋が芽生える。結婚を申し込まれた彼女は身分の違いにためらいながらも承諾する。だが彼には狂人の妻が生きていて、屋敷内に世話係の女性以外はだれの目にもつかないようにかくまわれていたのだ。結婚式のその場でそのことを妻の兄から指摘され、この結婚は破綻する。ジェインは出奔し、一文無でさまよい、ある牧師の家の玄関でついに倒れてしまう。だがその家の人は親切にも彼女を介抱し、彼女はそこで学校教師として働く。牧師家族は偶然にも彼女の従兄であることがわかる。若い牧師のセント・ジョンはインド伝道の情熱に燃え、妻としてジェインにインドに行くことを切望する。だがジェインは拒む。そして再会したロチェスターと結婚する。狂った妻の放火によりロチェスターの旧家は焼失し、妻も死に、彼は失明していた。

 19世紀半ばでありながら当時のイギリス社会にあった厳然たる身分差、絶対に越えることのできない階級の差というものを前提にしなければ、この小説は理解できない。ロチェスターも、ジェインの育った伯母の家も広大な領地を持ついわゆる郷士といった人々だろうが、その心情には考えられないほどひどい下層階級に対する蔑視がある。彼らは下層の人々を虫けらのようにしか見ていない。住込みの家庭教師ですら主人と顔を合わせることは滅多にないのだ。そうした時代にあって、雇い主と住み込みの家庭教師との間に芽生えた恋を貫くことがいかに決意のいることであったか。特にジェインの自立した生き方が当時この小説をして良家の子女には読ませてはならないものとされた理由だ。これがフランス革命あるいは産業革命を過ぎて5、60年後の社会(文中にはすでに写真の存在も示されている)なのだ。天保や幕末にかけての同時代の日本のほうがはるかに社会的落差は少なかったのではないか。文学は何よりも雄弁に時代を語る。 

 もちろんこの小説の魅力は心理描写(例えば下巻28ページからのロチェスターの愛の告白)や風景描写(例えば下巻118ページからの果樹園、夏の宵の描写)の精細さや、時代風俗への興味だけにあるのではない。ドラマティックなストーリー展開もまた人を引きつける。最初のジェインに対する辛い仕打ちで、主人公に対する同情を引きつけ、これはきっとジェインが一人立ちしたあと、復讐する物語かと思わされた。それ以上に読者を引きつけるのは、ロチェスターの館で時々起こる奇怪な事件、あるいは謎めいた使用人の女などの正体が、彼が気の狂った妻を密かに養っていたという衝撃的事実で一挙に明らかにされる過程だ。推理小説的なストーリー展開の巧みさがある。

 それにしてもこの館の広さはどのくらいあるのだろう。この館で、ロチェスターの知人の紳士達の数家族が、下僕や下女を連れて何週間も泊まり込みでパーティを催すのだ。朝餐室、撞球室まである。ジェインは何日も主人と顔を合わせないこともあるのだ。
1846年の作。


                           
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書名 アンティゴネ 著者 ソポクレス、福田恒存訳 No
1996-30
発行所 新潮文庫 発行年 昭和59年初版 読了年月日 96ー08ー06 記入年月日 96ー08ー17

 
オイディプス王の続編。ティバイを一年交替で治めていたオイディプスの長男と次男のうち、次男は長男に追放される。次男ポリュネイケスはアルゴスに行きアドラストスの婿となるや、軍を率いてティバイに攻め寄せる。戦いのさなかに兄のエテクレオスと一騎打ちで、兄弟ともに死ぬ。急遽ティバイの王位についた伯父のクレオンは、弟の死骸を葬ることを禁じ、違反したものは死刑に処すというふれをだす。ポリュネイケスの妹のアンティゴネはふれに背いて、兄の遺骸を葬る。これを知ったクレオンは彼女を処罰しようとする。アンティゴネの許嫁であるクレオンの息子ハイモンは、アンティゴネに正義があることを説き、父を説得するがクレオンは聞き入れず、アンティゴネを地下の石牢に閉じ込める。アンティゴネは牢で首を吊り自ら命を絶ち、それを目撃したハイモンは絶望のあまり訪れた父に襲いかかるが、果たさず、彼も自らの命を絶つ。そして息子の死を知った母のエウリュディケも自ら死ぬ。

 胸を打つ悲劇であり、国家権力と正義・人道の対立という極めて今日的問題をあつかった悲劇ということが出来よう。福田恒存の翻訳は読みやすい。イギリスの研究者の訳した英語版を台本にしていると解説にはあった。本書の前半は「オイディプス王」が収載されている。


                          
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書名 世界史一二の出来事 著者 中野好夫 No
1996-31
発行所 ちくま文庫 発行年 1992年初版 読了年月日 96ー08ー14 記入年月日 96ー08ー17

 
実際には一三編が収められている。私の知らない人物が九人。登場人物の多くがまともな死に方はしていない。それだけにそれぞれの生涯が波乱と矛盾に富み、面白い読み物になっている。

 恋愛問題のもつれから決闘で死んだ、一九世紀中葉のドイツの労働運動家ラッサール、奴隷解放の先駆け的蜂起をして考えられないようなドジのため失敗し処刑されたアメリカのジョン・ブラウン、メジチ家の支配のもと背徳と淫滔のはびこるフィレンツェを、清教徒的厳格さで一時期支配し、その後政敵に敗れて火あぶりにされたサヴォラローナなどに混じって、河合継之助、アラビアのロレンス、南極探検のスコット、そしてフランス革命のダントンとロベスピエールなど私にも親しい人物を網羅する。ロスチャイルド家の勃興物語や、ロシアの女帝エカテリーナ(情夫が三〇〇人という俗説があるそうだが、本書ではむしろ開明な啓蒙君主として描かれている)などの話も面白い。著者の博識に感心する。単にシェークスピアの翻訳家、進歩的知識人の代表として革新都政を演出した人物だけではないのだ。
 このうちスコットのことは中学時代に同じ「世界最悪の旅」と言う題の単行本を読んだことがある。
 

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書名 脳の見方 著者 養老孟司 No
1996-32
発行所 ちくま文庫 発行年 1993初版 読了年月日 96ー08ー30 記入年月日 96ー08ー30

 
初めて読むこの著者のもの。期待はずれでがっかり。文章がわかりにくい。説明が不足で、前後関係がわかりにくく、流れに飛躍がある。もう少しうまい文章を書く人かなと思っていた。

 色々な雑誌に書いたものを編集したためか内容は多岐で、雑多である。そのことがわかりにくく、散漫でまとまりのない印象をあたえるのだろう。もっと深い論議や解説を期待したのだが。専門の解剖学の話で、咀嚼器と感覚器との進化の関係を述べたものは、著者の専門でもあり一番興味があり期待されたが、専門用語をぽんと出してその説明がまったくない不親切な書き方で、いわんとすることは大して難しいことではないのに理解し難かった。「脳の中の過程」ではフーコーを取り上げて論じている。私が興味を引いたのはフーコーによる、アルファベット文字と象形文字の使用が人間の理性、ひいては文化に及ぼした影響を述べているところ(ページ49)である。またモンテーニュについても論じているが、やはり著者の論旨より引用されたモンテーニュの言葉に注目がいってしまう。例えばページ163には次の言葉が引用されている:われわれはいままでに他人のために十分生きてきた。今度はせめて、わずかばかりの余命を自分のために生きようではないか。私が去年の春エッセイ教室の「卒業」のテーマで書いた考えとまったく同じものだ。

 言語はコミュニケーションの手段だけではない、それ以上のものだという福田恒存の主張、なども引用の方に印象と注意が行ってしまう。
 その他「ファウスト」を論じた作品もある。「ファウスト」は手塚治の劇画で読んだと断っている。解剖学者にしては色々な本をよく読んでいる。


                           
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書名 夢十夜 著者 夏目漱石 No
1996-33
発行所 岩波文庫 発行年 1986年初版 読了年月日 96ー09ー05 記入年月日 96ー09ー07

 
暗く心に突きささるような夢ばかりだ。内田百間の小説を思わせる不気味な雰囲気がある。この話はすべて漱石の実際の夢なのだろうか。これほどはっきりと、詳しく、ストーリー性のある夢を見られるのだろうか。表紙の裏には夢十夜が戦後、漱石を見なおすきっかけとなったと書いてあった。その見直しがどのようなことなのかは知らないが、これだけの夢が本当のものだったら、見た人の深層心理を探る手がかりとしてこれ以上のものはないだろう。背中に背負った盲の子供から、100年前に自分が人を殺したことを告げられる夢など、ぞっとする。しかし私にも、過去に人を殺してそれを隠しているという夢を二、三回は見たことがあるという意識がある。

 このほか「文鳥」と「永日小品」を収載。文鳥は中学の国語の教科書に出てくる。文鳥の描写の部分だ。当時感心した文鳥の描写や、鳥かごの中で動き回る様子の描写は素晴らしいと思う。初めて全編を読んでみて、決して明るい作品ではないと思った。文鳥に対する愛情に満ちた作品でもない。死んだ文鳥に対する作者の態度は残酷な感じすらする。そして文鳥に昔の女を思い出す下りがある。特にこの下りは、漱石の深層にうごめくかつての愛欲をかいま見る思いがする。決して中学の教科書に取り上げるのにふさわしいものではない。

 「永日小品」は10以上のエッセイ的な小品を集めたものであるが、やはり暗く内田百間の作品を思わせる感じがあった。いずれにしても漱石の描写力にあらためて感服。例えば「霧」の中のロンドンの霧の描写(126ページ)。作家たるものこのくらいの筆力がなければならない。
 私はこれらの作品は作者最晩年の作品かと思っていたが、「三四郎」の前あるいはその連載中に書かれたものであると知ってびっくりした。


                           
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書名 「世間」とは何か 著者 阿部謹也 No
1996-34
発行所 講談社現代新書 発行年 95年7月 読了年月日 96ー09ー13 記入年月日 96ー09ー14

 
一橋大学学長で西洋中世史の権威である著者から見た「世間」と日本人の関わり。万葉の時代から、平安時代、兼好、西鶴、漱石、永井荷風にいたるまで主として文学作品を通して論じている。著者によれば「世間」とい言葉は日常あらゆるところで使われているにも関わらず、それに対して本格的な考察が試みられたことはないと言う。著者は専門の中世史から、西欧の「社会」という概念とは「世間」は違うものであり、「世間」とは人間関係を表すものであるとしている。個人というものが十分に確立していない日本では西欧流の個人と社会との関係は成立しない。

 私は日頃「世間をおさわがせして申し訳ありません」と言う言い方を不思議に思っている。特に、裁判の判決文に出てくる「世間を騒がせた罪」にいたっては理解が出来ない。もともと私は世間をできるだけ否定した生き方をしようと心がけてきたからであろう。そうした意味で本書は興味深い。特に「徒然草」に現れた兼好の、世間と距離を置いたさめた見方、生き方に感嘆する。これは小林秀雄を読んだときもそう思ったのだが、是非「徒然草」を全編読んでみたいと思った。

 著者は漱石の「坊ちゃん」や「吾輩は猫である」のみならず「それから」「門」までを世間と一定の距離をとっていることが大きな特徴である作品であるとしている。

本書から:
 
兼好と漱石を結んでいるものは個人主義だといってよいだろう。わが国で個人主義を貫くことは容易ではないが、二人ともそのために努力したのである。(ページ93)

 
それに対して漱石の作品が読み継がれてきた一つの理由には、世間や社会に背を向けようとしたその視点があったといえよう。このような視点に立って初めて日本の社会と個人の主要な一面が見えてくるからである。
 もとより漱石自身が「隠者」的であったというのではない。作品の中にその傾向がみられるというのである。このように見てくると「徒然草」の吉田兼好から西鶴、そして漱石に至るまで、わが国の文学の世界はいかに多くを一種の「隠者」に負うてきたことだろう。隠者とは日本の歴史の中では例外的にしか存在しえなかった「個人」にほかならない。日本で「個」のあり方を模索し自覚した人はいつまでも、結果として隠者的な暮らしを選ばざるをえなかったのである。
(ページ203)

 最後の引用は、私の中にある隠者的生活志向を説明するものだろう。漱石や兼好以上にすごい個人主義を徹底したのは荷風だ。


                           
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書名 「知」のソフトウエア 著者 立花隆 No
1996-35
発行所 講談社現代新書 発行年 84年初版 読了年月日 96ー09ー21 記入年月日 96ー09ー21

 
ジャーリストの立場から書かれた知的生産の指導書。情報収集からそれを文章としてアウトプットするまでの具体的な手法が述べてあり、説得力がある。特に前半の情報収集の手法に関しては、著者の実践に基づく詳細な記述がなされさすがだなと思う。新分野雑誌の資料の整理の仕方が、例えばどの大きさで、どんな形式のファイルに、どの様に整理していけばいいかと言ったことが細かく書かれている。ロッキード事件にからむ新聞のスクラップブックが350冊になったというから驚きだ。一貫していかに良質の情報をどれだけたくさん集められるかがアウトプットの質を決めるといっている。著者の立場は極めてまっとうで、良心的だと思う。最近、こうした十分な事実調べに立脚しない荒っぽい評論が多すぎるのではないかと思う。特にいわゆる辛口・硬派と称せられる人々のものはそうではないか。

 読書法、図書館や官公庁情報の利用法などに混じって、インタビューの方法に1章を割いているのも著者ならでは。
 アウトプットに関してはむしろ従来の手法を否定している。そして個々人の持つ潜在意識の能力をいかに引き出すかがすべてであるとしている。
 述べられたことの多くはなるほどと思う。資料整理に関する考え方など私もそのまま実行している点が多々ある。また文章作成の際にキーワードを抜き出して、無意識のなから連想により引っぱり出すものをつなぎ合わせて文章とすると言った方法もまったく同じである。

本書から:
 
こういうこと(突っ込んだ情報を引き出すための適切な質問)がうまくできるかどうかは、質問者が内面的想像力をどれだけ持っているかにかかってくる。この種の想像力を養うのに有効なのは、良質の文学と心理学を学ぶことである。内面的想像力を学ぶということは、内面的世界をより深く、より広く知っているということにほかならない。したがって、良質でない文学、心理描写が常套句だけでできているような安っぽい大衆小説などは、読めば読むだけ内面的想像力を養うにの逆効果である。

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書名 時間を哲学する 著者 中島義道 No
1996-36
発行所 講談社現代新書 発行年 96年3月初版 読了年月日 96ー09ー27 記入年月日 96ー09ー28

 
時間に関する刺激的な論議に満ちた問題を提起している。著者の立場を要約して言えば、過去こそが時間を考える場合の出発点にならねばならぬというもの。現在も未来も過去というものを出発として考慮されるべきである。ここで問題とされているのは人間の認識としての時間、我々の心理にしみこんだ時間である。著者は時間の中に空間的なイメージを持ち込むことを戒める。時間とは決して空間的なイメージで表せるものではないことを強調する。時間は我々の想起という心理作用と密接に結びついているものであるという。想起があってこそ我々は時間を感じることができる。また著者は現在という時間をある一定の行為の持続するかなりの巾で考えている。

 「時間は流れもとどまりもしない」、「過去はどこにも保存されていない」「世界は『5分前』に存在しはじめた?」「『過去自体』の無意味性」「未来はこない」「『今』は見えない」など、刺激的な小見出しが並ぶ。

認識 ページ45
仕事量と時間 ページ47
時間意識の源泉 ページ54
人生の短さとは何か ページ57
記憶 ページ107
想起と過去 118ー119ページ
 「
100億年以上にわたる宇宙論的過去も簡単に了解してしまうのは、やはりわれわれが過去の体験を現に想起できるという一点に行き着く。そして、過去とは現に私が想起していることの全体ではなく、およそ想起可能なものの全体だという了解に行き着くのです。」
 「過去は現に憶えていることのみならず現に忘れていることも含んだ総体、すなわち『想起可能なものの総体』なのです。


時間の実在性と出来事の実在性 130ー131ページ
過去の言語的了解 155ページ
「今」も持つ幅 201ページ


                           
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書名 皇子たちの南北朝 著者 森茂暁 No
1996-37
発行所 中公新書 発行年 1988初版 読了年月日 96ー10ー01 記入年月日 96ー10ー01

 
室町初期の時代の歴史は私たちにはもっともなじみの薄いところであった。それが身近に感じられ、戦国や幕末にも劣らぬくらいに面白いものであることを知ったのはつい3、4年前だ。NHKの大河ドラマが初めて太平記の時代を取り上げた。初めて知る尊氏や後醍醐天皇、楠正成らの活躍が新鮮で、このドラマは欠かさず見るようにした。そして、当時日経新聞に連載された童門冬二のばさら大名を扱った小説も面白かった。そして今、日経の夕刊に載っている杉本苑子の「風の群像」も足利初期を題材にしたものだが、渡辺淳一の「失楽園」に劣らず面白い。と言ったわけで、南北朝時代の歴史をもっと知りたいと思っていたところに、本書が店頭で目に入ったので読んでみた。

 専門家が書いた学術書である。徹底して資料を吟味してそれに基づいて記述されている。それにたいそう好感をおぼえる。オーソドックスな歴史研究のあり方はかくあるべしという見本だ。特に著者が基礎にしているのは天皇の出した綸旨、皇子の出す令旨。寺社に所領を安堵するとか、早く軍勢をよこせといった類のものだ。それを何十、何百と集めて、推理を働かせている。それでいてわかりやすく、面白い。それはこの時代の面白さでもある。

 後醍醐天皇には男17、女15という子供がいた。男は天皇の意を受けて鎌倉幕府の倒幕、天皇親政、したがって足利幕府への反旗に、それぞれ生涯を捧げる。以下それぞれの生涯;
護良(もりよし):足利尊氏らと倒幕に成功する。だが、武家支配をめぐって次第に尊氏と対立し、さらに父からも疎まれ、捕らえられ鎌倉に幽閉され、足利直義に殺される。小学校か中学の時、鎌倉に遠足か何かで行ったとき大塔の宮の幽閉された岩にくりぬいた牢を見た記憶がある。この皇子はもっとも有名でありその名前は知っていた。NHKのドラマにも出てきた。

尊良(たかよし):新田義貞に奉じられて北陸に行き、尊氏側と戦うが、破れて自害する。
宗良(むねよし):歌人でたくさんの歌を残している。南朝のために信州や越後を転々として戦い、七〇過ぎまで生きた。歌集「梨花集」を残す。
義良(のりよし):北畠親房にともなわれて東北に行った後、吉野に戻り、後醍醐のあとを継ぎ、後村上天皇となり、北朝と戦う。
懐良(かねよし):九州に渡り、菊池氏の力を借りて一時太宰府を落とし、かなりにわたって九州に南朝の王国を作る。

 それぞれ波乱に富んだ一生である。不思議に思うのは南朝が大阪や河内を根拠にし続けられたこと。九州なら話は分かるが、京都と目と鼻の先のところを支配できたということが何とも不思議だ。境界はどの様に決めていたのだろうか。圧倒的に優位な北朝が南朝を潰すことなど簡単ではなかったか。当時の南北の対立がそれ程血で血を洗うような凄惨なものではなかったということなのだろう。それに、尊氏の弟、直義が一時南朝側に走ったように、お互いの忠誠もかなりご都合主義的なところがあったのだろう。

 しかしこの時代は面白い。NHKのドラマで印象に残った俳優は高師直役の柄本明と、北条高時役の片岡鶴太郎だった。特に高師直は太平記では悪役なのだろうが、人物としては型破りで、ある意味の近代性すら感じさせる魅力的な人物で、これを柄本明のとぼけた味が好演していた。また、尊氏というのも心の広い人物のように思われる。後醍醐天皇は権謀術策を駆使する希代の英傑であるという印象が強い。護良親王は父の犠牲にされた感がある。


                           
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書名 思い川、枯れ木のある風景、蔵の中 著者 宇野弘 No
1996-38
発行所 講談社文芸文庫 発行年 96年9月初版 読了年月日 96ー10ー08 記入年月日 96ー10ー10

 
初めて読む著者のもの。独特の語り口に魅力がある。「そして私は質屋に行こうと思い立ちました」で始まり、質屋の蔵の中で自分の入れたおびただしい着物を自らの手で虫干しさせてもらいながら、それぞれの着物にまつわる女のことを思い出し、語る「蔵の中」は特にそうだ。大正8年発表、作者の出世作。

「思い川」は、作家と芸妓の関東大震災から戦後に至る30年余りの恋愛を描いたもの。恋愛こそが人生だという三重次という芸妓の、作家の牧に対するひたむきで、持続する愛が感動を呼ぶ。もちろん作家にも妻がいるし、三重次にも旦那がいる。しかし、三重次の思いは終始変わらぬのだ。それが作家の側から書かれている。ただ、作家の三重次に対する気持ちがほとんど書かれていない。そういう意味では、まったく一方的な愛であるようにみえ、いわゆる男流文学のというのはこんな小説をいうのだろうと思った。だが、読んでいるうちに三重次の一途な愛に感情移入してしまう。芸妓とはいえ、商売がうまいだけでなく、よく本も読み知的な三重次が魅力的に書けている。そして二人の関係が肉体関係を伴わない、純粋にプラトニックな関係であるかのようにとれる語り方だ。これは作者の実体験を元にした私小説だ。昭和26年初出、同年読売文学賞受賞。
「枯木のある風景」は、ある画家のことを書いたもの。昭和9年。

「蔵の中」についての「それでも作家になりたい人の・・・ブックガイド」評:話者と読者の距離を自在に調節する融通無碍の話法の妙味。


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書名 失楽園 著者 渡辺淳一 No
1996-39
発行所 日経新聞連載 発行年 読了年月日 96ー10ー09  記入年月日 96ー10ー10

 
多くのビジネスマンが日経新聞を、一番最終面のこの小説から読み始めるとされ、週刊誌にも取り上げられた評判の小説。なにが評判かといえば、延々と続く性愛描写だ。10日間も衣服をまとわない場面が続くと週刊朝日の記事にはあった。森川さんも読んでいるようだったし、小佐さんもたまに読んでいるようだった。

 久木祥一郎は53歳の、出版社に勤めるサラリーマン。かつては編集を担当していたが、いまは調査の仕事に回された、まあ窓際族。凛子、カルチャーセンターの書道教授、その書のように崩れのない38才の人妻。夫は大学の教授だが子供はいない。二人の出会いのところは読まなかったから知らないが、いつしか肉体関係を持つ。不倫を重ねるうちに、凛子が夫との関係では決して得られなかった性の歓喜に目覚め、二人は性の深淵に落ちて行く。女性を征服したつもりでいながら、行為が終わってみれば相手のほうがいつも深い喜びを味わっていることを認識する男。しかし単なる官能小説に終わらないのは、そこに人生の真実を嗅ぎ取るからであろう。二人はやがて家庭を顧みなくなり、都心に借りた小さなアパートでサドマゾ的な行為にまでエスカレートする。そして女は絶頂でお互いに死ねたらとつぶやくようになる。ここでは阿部貞の話や、情死した有島一郎の話が引用される。二人の仲が知られ、ともに家庭は崩壊する。そして子会社への出向を言い渡された久木はそれを機に会社も辞める。そして男も女の考えにだんだんひかれ、結びあったままで死ぬことを考える。そして赤ワインに入れた青酸カリを男が女に口移しで飲ませた後、一気に飲み込みともに死ぬ。男のものは女の体内に入ったまま、二人は堅く抱き合って死ぬ。あらかじめ死後硬直がもっとも強くなる時刻に発見されるように別荘の管理人に頼んであったので、二人を引き離すのに大変な力が必要であったという検死報告でこの小説は終わる。

 5日の大学のクラス会の時、2次会でもこの小説のことが話題となった。「青酸カリでは入れたまま死ぬなんてできない」とか、「恐らく管理人が事前に発見し、二人は周囲から許されるというとてもハッピーな結末で終わるだろう」とか、あるいはそんな小説など知らなかったとか・・・。
 娘も毎朝会社でこの小説を切り抜いていて、会社の偉い人がそれを読むといっていた。彼女も当然読んでいたのだろう。

 一昨日の日経夕刊にこの小説が森田芳光監督、役所広司と黒木瞳で映画化されると出ていた。もうかなり前に映画化の広告が出ていて、主演女優に誰がいいかアンケートを募集していた。ペアの観賞券もくれるというので私も応募した。凛子役には十朱幸代がいいと思った。ただ年齢があわないので、もう一人古手川裕子をあげた。そしてどんな結末を予想するかというもう一つの質問には、絶頂で自らの命を絶つと書いた。これは当たった。チケットの方は来ていない。応募者が多かったのだろう。

 娘の話だと、黒木瞳は投票の第1位に選ばれたとのことだ。彼女の役としてはピッタリだという。私はあまり知らない女優だ。私が十朱幸代と古手川裕子を出したといったら、まったくお門違いで「お父さんは人間を知らない」とまでくそみそに言われた。黒木瞳というのは宝塚の出だが、お嬢様とは違い、のめり込んでいくところがあってピッタリだと言う。古手川裕子は健康な家庭の主婦役がピッタリで、まったく凛子役ではないとのことだ。女優のやり手がいないので投票で選んだのだと娘は言う。確かに、ベッドシーンが中心のこの作品の主演は大変だろう。


                           
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書名 分子と記憶 著者 ジャンピエール・シャンジュー、塚田裕三監訳、山口知子・山口仁 訳 No
1996-40
発行所 同文書院 発行年 平成3年3月15日 読了年月日 96ー10ー16 記入年月日 96ー10ー31

 
匂いと記憶のことを「TASC MONTHLY」に書くために、参考になるかと思って日比谷図書館の書架で見つけて借りてきた。結果的には役に立たなかった。

 コレージ・ド・フランスでの講義録。たいへん難解でかつ高尚な講義録である。四つの章からなる。
 分子:アセチルコリン受容体の構造解明の話
 記憶:学習、記憶に関する哲学的論争から始まって、学習にともなう新しいシナプス形成の分子モデルまで。
 形態:形態形成の分子生物学、発生の問題
 理性:脳における神経回路網と理性

 特に2章と4章では、プラトンやアリストテレスの学説から始まって、合理論的認識論と経験論的認識論の譜系をたどり、あたかも西欧哲学史の紹介のような所もある。また、3章は生物学通史にもなっている。フランスの学生はこんな高尚な講義に接するのだ。どれほどの学生が理解できるのだろうかと疑問にも思った。日本ではとても考えられない。簡単な誤訳がかなりある。難解な一因は翻訳にもよるだろう。
本書から:
 アセチルコリンリセプターであるアロステリックプロテインの作用様式がニューロン間の連合関係を設定する。タンパク質レベルでの選択が学習、記憶を形成するもと。・・・免疫選択説との類似性。     ダーウイン流の物質・形態・機能の関係を要約すれば以下のようになる。

選択
↓ ↑
  物質 →形態 →機能

変異


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書名 地球の上に朝が来る 著者 池内紀 No
1996-41
発行所 筑摩文庫 発行年 1992年8月 読了年月日 96ー10ー21 記入年月日 96ー10ー31

 
今でも時々「地球の上に朝が来る、その裏側は夜だろう、西の国ならヨーロッパ、東の国なら東洋の、川田とダイナブラザース、時間くるまで努めます」と口をついて出る。歌の節回しが調子がいい以上に歌詞とメロディーが体にしみこんでいるのだ。本屋の店先で歌と同名の本書を見つけた。しかも著者があの「香水」の翻訳者、池内紀となれば買わないわけにはいかない。

 40年生まれだから、著者は私より2才若い。しかし世代は共通だ。川田から始まって、石黒敬七、トニー谷、エノケン、ロッパ、夢声、金五楼、アチャコ、浪速千栄子にいたる、ラジオが主な娯楽であった昭和20年代から30年代にかけての、戦後のなつかしい芸人達への思いが綴られる。著者がこれらの芸人を通して語っているのは日本語の多様性、さらに言えば言葉の持つ力への賛美だろう。

 後半は付録として懐かしの演芸館と題して、三遊亭歌笑以下落語と漫才のテープから起こした中身が紹介してある。私にはあまりなじみのない芸人だ。落語や掛け合い漫才をこうして文章で読んでみると、実際に聞いたときほど面白味がない。こうした芸は話し手の話振りの面白さの上に大きく依存していることがわかる。当然のことながら。

 ついでながら、私の場合、「地球の上に朝が来る」の節回しが「酒を飲むなとにらんで叱る」につながってしまう。川田晴久から広沢虎造への乗り移りだ。「酒を飲むなとにらんで叱る、次郎長親分恐い人、恐い親分なつかしや、跨ぐ敷居が三途の川の、死出の旅路となろうとは、神ならぬ身の石松が・・・・」という石松代参の節だ。直接、虎造の浪花節を聞いた記憶はない。若い頃一緒に飲み歩いた職場仲間の山崎さんや田中浩さんが酒に酔ってうなったのを聞き覚えたものだ。

 吉本興業という芸能プロダクションは戦前からある由緒あるものだということを本書で知った。関東育ちの私には大阪の事情には疎い。


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書名 海底二万里 著者 ジュール・ヴェルヌ、荒川浩充訳 No
1996-42
発行所 創元推理文庫 発行年 1977年初版 読了年月日 96ー11ー21 記入年月日 96ー11ー23

1866年、その怪物は大海原に姿を見せた。長い紡錘形の、ときどきリン光を発する、クジラより大きくまた速い怪物だった。それは次々と海難事故を引き起こしていく。パリ科学博物館のアロナックス教授は、究明のために太平洋に向かったが、彼を待ち受けていたのは、反逆者ネモ船長が指揮する潜水艦ノーチラス号だった!暗緑色の深海を突き進むノーチラス号の行く手に展開するのは、驚異と戦慄の大冒険スペクタクル!ジュール・ヴェルヌ不朽の名作、堂々登場!

 本書の初めに載せられた要約だ。文庫本550ページの長編。田川行きに10月と11月の2回同行した。大冒険スペクタクルとともに展開されるのは絢爛たる海洋博物学の世界。目も眩むばかりの海の豊穣。その記述には科学的に見て首を傾げるところがあるが、ストーリー展開はそんなものを吹き飛ばしてしまう。強靭な想像力。

 調査中の船がノーチラス号に沈められ、皮肉にもその船体に拾われたアロナックス教授とその忠実な召使い(同時に驚くべき分類学の生き字引)コンセイユ、そして銛打ちの名人ネッド。彼らがノーチラスに乗り込んだのは日本の近海。それから太平洋を南下し、インドネシアの島々(途中で原住民と戦ったりする)を経てインド洋から、紅海を経て、紅海と地中海を地中で結ぶトンネルを通り抜け地中海に出る。そこから大西洋を南下(途中では海底に沈んだアトランティス大陸を探検する)してついには南極点に達する。さらに大西洋を北上し、英仏海峡で国籍不明の軍艦を沈め、ノルウェー沖の大渦巻きに巻き込まれた際に3人は脱出する。

 地上の人間と一切の縁を絶ち、復讐を誓うネモ船長が作り上げたこの潜水艦は、当時の喫水線より下が木造の軍艦などやすやすと突き抜いてしまう。そして海底1万メートルまで潜ることができる。燃料は海水よりとったナトリュウムを原料にして起こした電気。大西洋上の火山島の地下にノーチラスの寄港地があり、そこでとった石炭を原料にナトリュウムを作るのだ。ネモ船長の反抗の理由は不明だが、一度だけキプロス島近くで、独立のために戦っている地上の人間と接触をとるところから、虐げられたものの味方であることは間違いない。しかしそれ以上のことは不明だ。彼の潜水艦が大きな渦巻きに巻き込まれるところで終わるが、それまでの実績から見てそれくらいのことではこのノーチラス号は破壊されないだろう。

 作品にはエコロジカルな観点が大いに感じられる。(例えば180ページ)自分の都合だけで海の生物を絶滅に追いやっている当時の人々への厳しい批判も随所に出てくる。それでいながら、紅海では食用のために美味とされるジュゴンを捕獲し、また南極では食用に数百羽のペンギンを撃ち殺し、さらにナガスクジラを襲ったマッコウクジラの大群を皆殺しにしたりする。

本書から:
 106ページ:海からたばこをとる。
 251ページ:海中の花火・・・科学的におかしい。
 285ページ:自然の創造力は人間の破壊本能よりも強い。
 302ページ:100年後にノーチラス号ができるかどうか不明。
  これに関しては100年後に原子力潜水艦ノーチラス号ができた。そして北極海を潜水したままで太平洋から大西洋側に抜けた。
 本書で初めて貝が軟体動物であることを知った。

 中野好夫の「世界史一二の出来事」の中に出てくる、アメリカ奴隷解放の先駆的蜂起に失敗したジョン・ブラウンと思われる人物の肖像が、「海底2万里」の船長の部屋に掲げてある。船長はこうした歴史上の、虐げられた人々のために立ち上がった人を崇めているのだ。

                           
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書名 ノイマンの夢・近代の欲望 著者 佐藤俊樹 No
1996-43
発行所 講談社選書メチエ 発行年 96年9月 読了年月日 96ー11ー25 記入年月日 96ー11ー27

「情報化社会論」を通して技術と社会、人間の関わりを論じたもの。一言でいえば、情報技術が社会を変えるのではなく、社会が技術の使い方を決めるというのが本書の基本的視点。そこからいわゆる情報化社会論を否定する。それらはAI的アナロジーで社会を見ているという。つまり、技術の進展をそのまま社会に当てはめているというのだ。

 最後の著者略歴を見て驚いた。63年生まれの若い研究者だ。広い視野から書けていて、かなり年配の学者かと思った。わかりやすい記述で、色々と勉強になる。
 マクルーハンの情報化社会論:音声を情報伝達手段としていた昔は共同体社会しか成立し得なかった。グーテンベルグが印刷術を発明してから、近代的な「個」が成立した。そしてマルチメディアの時代は再び音声による情報伝達の時代が到来し、「個」の時代は喪失する。(81ページ)。「
読むという作業にあるのは、自分はこう読み、こう解釈し、こう考えるという自分自身に対する反応だけである。それは個人の自律感覚を強める。」83ページ。

 著者はこの主張に反論する。面白かったのは反論の根拠の一つとして、朝鮮半島で世界初の金属活字が使われ、しかも15世紀前半に表音文字のハングルも制定されていて、金属活字や表音文字が「個人」を作るなら朝鮮半島こそが真っ先にそうでなければならないといている点だ。(93ページ)

 全体として著者の主張は説得力があるが、現実にはコンピュータの発達が我々の社会の在り方を変えてきているし、また変えそうな予感がする。技術が社会に及ぼす影響もまた大きいと思われる。

 情報の組合せだけでは新しい価値を創造できないと以前は思っていたので、私自身も未来は情報化社会であるという言い方に反感を持っていた。それはコンピュータに対する反感でもあった。しかしパソコンを使い慣れたいまではそうした感情は薄れた。近代産業社会の特徴を「
たえず新たな技術革新が追求され、それにあわせて、利潤追求の欲望とゆたかさへの渇望も無限に昂進していく。そうした無限運動が産業資本主義という経済制度の特徴なのである。」(184ページ)とした上で、しかし、空間的なフロンティアを広げることが、環境や資源の制約からできにくくなった現代では、外への拡大に変わるものとして、内への拡大に人々の目が向き、いわゆる情報化社会が熱い期待を集めているのだという著者の論は納得できる。既存の情報を組み合わせるだけで新しい価値が生まれるという考え方に、いまでも心の奥では引っ掛かるものを感じるが、もともと私にはそうした作業は向いていると思う。これからの人生をそうした知的作業に費やそうと思っている。それは環境にやさしい、省資源型の生き方でもある。

                           
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書名 調査のためのインターネット 著者 アリアドネ No
1996-44
発行所 ちくま新書 発行年 96年9月 読了年月日 96ー11ー29 記入年月日 96ー12ー05

 
文字どおりインターネットを利用した調査の仕方。例として「Hawthorne」をAlta Vistaという検索エンジンで検索すると、一万件がヒットするという。これに反してYahoo!で同じように検索すると、15件しかヒットしないとのことだ。階層的にできているYahoo!とそうでないAlta Vistaとはこんなにも違うのだ。
 後半は面白そうな、といっても学術的なホームページのURLがたくさん載っている。

 YahooからAlta Vistaに入り、Christmasと入れると213、561件のヒットがあった。

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書名 インターネット 著者 村井純 No
1996-45
発行所 岩波新書 発行年 95年11月 読了年月日 96ー12ー05 記入年月日 96ー12ー05

 
インターネットの解説書。技術的背景のみならず社会的影響がよく書かれている。著者は日本のコンピュータネットを作るのに、最初からかかわってきた人。

 インターネットがここまで発展してきたのは、それが情報到達の完璧性を求めるのではなく、多少確実でなくてもその場合はその場合で回り道をして、何とか相手に達すれば良いという思想に基づいて作られているので、それを支える技術は、簡単で、安く、使いやすいものであるからだという。データを正確にかつ確実に電送するのがそんなに大変なこととは思っても見なかった。

 インターネットとはネット間のネットという意味で、狭義の定義では、いつもネットにつながっていて、インターネット・プロトコルを使っているものをいう。英語ではこれをInternetと大文字で書く。一方、私のパソコンのように電話回線で必要なときに狭義のインターネットに入っているコンピュータに接続するだけのコンピュータは、広義のインターネットで、英語ではinternetと、小文字で表されると著者は言う。


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書名 日本国の逆襲 著者 小林恭二 No
1996-46
発行所 新潮文庫 発行年 96年7月 読了年月日 96ー12ー06 記入年月日 96ー12ー07

 
山田社長が貸してくれた。いずれも日本の現状に対する痛烈なパロディ。筒井康隆を思わせるSF的要素にも満ちた作品。表題の作品は、世界に猛威を振るった経済帝国日本にたまりかねて、ついに多国籍軍が攻め入って屈服させるというところからはじまる。ところがほっとした世界にいつのまにか日本人化が進んでいく。まず企業で、日本式の経営と労働倫理観が浸透し(おかげで各国は大いに経済が潤う)、ついで、学校教育にも日本式の個性のない、平均的な人間を大量生産するシステムが浸透し、最後には政治の世界も官僚や利権議員に操られる大統領といった日本システムに犯され、結局は全世界が日本人化するというもの。その他も、出生率の低下で危機に陥った日本が、若いカップルに子供を生ませるために国を挙げて、特に圧倒的人口を占める老人達が、色々な手段を使って迫る話(結婚式で衆人の前でカップルはセックスさせられるといったこと)、インドから来た天才青年が日本の受験にはどうしても合格できず、やむなく滑りどめで受かったハーバードかオックスフォードに入るために帰国するといった話、車がいつのまにか人々の神になる話など。全部で9編。

                           
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書名 地図の想像力 著者 若林幹夫 No
1996-47
発行所 講談社選書メチエ 発行年 1995年6月 読了年月日 96ー12ー19 記入年月日 96ー12ー21

ノイマンの夢・近代の欲望」に続いて、本書の著者も62年生まれという若さ。内容は高度で、刺激的。題名から地図に触発されるイマジネーションのロマンを語ったものかと思ったが、そうではなかった。地図の歴史をたどりながら、それが国家や社会とどの様に関係してきたか、あるいは人間の世界認識とどの様に関わってきたかを論じる。

 本書の最初の部分で著者はこう述べている:
そこで(ボルヘス=ボードリヤールの寓話)は地図が世界を写し取るのではなく、世界の側が自らの上にそれを重ね合わることによって一つの領土、一つの帝国を生み出す「原型」のようなものとして機能している(ページ6)。そしてこれが決して寓話ではないことを示すのが本書の主題であるとする。そして特に、地図の作成が近代国民国家の成立と切っても切れない関係にあり、人々は地図という表象を通して国家と世界を考えている。あるいは地図が国民としての意識を醸成する、ということ。

 また人間は全域的空間の中に自分を位置づけたいとい欲求を持つと述べているが(ページ37)、私の地図好きはそうした欲求が人一倍強いためだろう。空から見下ろした眺めに人一倍興味を覚えるのも、山に登るのも、あるいは何とかタワーがあればすぐ登るのも、そうした欲求の強さが原因だ。読んでいて想いがいったのは両親の郷里、豊橋市の七根のこと。200年位前の私の祖先は日本の地図を見たことがあっただろうか。あるいは見たいという欲求に駆られただろうか。

 沖縄について。私が沖縄に関していつも何となくすっきりしない感情を持つ原因が一つは氷解した。それは沖縄を現在の日本の地図、国境の概念の上にしか理解しないからだ。沖縄は正式に日本に編入されたのは明治の初めなのだ(ページ165、216)。それまでは琉球王朝として、薩摩、中国大陸、そして江戸幕府の間にあって、明確な帰属をつけないままに、独特の文化を発展させたという歴史的な理解を私たちは欠いているのだ。そうした沖縄の歴史はこの間初めて行って、首里城にあったパネルで少しは知った。そして明治になるまでの日本には明確な国境という概念がなかった。明治をもって初めて近代的国民国家が成立した。


                           
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書名 フーコー入門 著者 中山元 No
1996-48
発行所 ちくま新書 発行年 96年6月 読了年月日 96ー12ー27 記入年月日 96ー12ー28

 書店で平積みされていたのを見て買った。養老孟司の「脳の見方」の中に引用されていたフーコーの説が興味を引いたし、先ほど読んだ「地図の想像力」にも確か出てきたので、かじってみたくなった。

 フーコーの著作を年代順に追いながら、その思索の変遷を追う。かなり難解な本だ。「狂気」「監獄」「同性愛」といった特異な題材から、社会、権力の本質、そして人間の主体とは何かといった問題に迫る。84年にエイズのために死んだこの哲学者の終生の課題は「
人々が真理だと信じているものが、実は歴史的な根拠から作り上げられたものにすぎず、普遍的なものでも、絶対的に正しいものでいもないということを示すことによって、自明で見慣れたものと考えられていたものを覆すこと」であると述べられている。(ページ227)

 読んでいて、我々アジアの歴史と、西洋の歴史は大きく違うということ。そしてフーコーを含む西洋哲学というものはこの歴史的環境の産物であり、決してアジアでは生まれず、また、アジアにも普遍的に適応できるかどうかわからないと思った。西洋はヘレニズムとキリスト教徒の融合の上に成り立つものだとあらためて感じた。
人間を客体とする精神病理学や心理学に対する科学としての疑問。こうした学問が生じたことにより、精神病者や狂人が出てきた。

 権力とは外から強制されるものではなく、我々の心の中に監視機構として自発的に形成される心理的状態とも言えるもの。

 エピステーメー:知の枠組み

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