読書ノート 2013

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書名 著者
敗北を抱きしめて(上) ジョン・ダワー
敗北を抱きしめて(下)  ジョン・ダワー 
日本語のために 丸谷才一
山椒大夫・高瀬舟・阿部一族  森鴎外
  吉野裕子
忠臣蔵とは何か  丸谷才一 
卆サラびとの文芸館  企業OBペンクラブ編 
ab さんご  黒田夏子
曽我物語  梶原正昭他 校注・訳 
人口から読む日本の歴史  鬼頭 宏 
日本の文字 石川九楊
日本近代哲学の遺産 宮川 透
享保のロンリーエレファント  薄井ゆうじ 
流轉  有馬朗人 
この一句  下重暁子
仮名手本忠臣蔵  竹田出雲 
人間に勝つコンピュータ将棋の作り方  コンピュータ将棋協会監修 
元禄忠臣蔵 上・下  真山青果 
俳人荷風  加藤郁乎 
江戸近郊道しるべ  村尾嘉陵 
鏡花短編集  泉鏡花
夜叉ヶ池・天守物語 泉鏡花 
地図から読む歴史  足利健亮 
近代発明家列伝  橋本毅彦
日本の七十二候を楽しむ  白井明大 
青山椒  三宮隆宏 
南仏プロバンスの木陰から  ピーター・メイル 
奥の細道 山本健吉 
與謝蕪村  山本健吉 
枯野抄、西郷隆盛  芥川龍之介
絶滅寸前季語辞典  夏井いつき 
義経記  高木卓 訳 
自然と人と音楽と  山本友英
知の逆転  吉成真由美 
現代物理学と新しい世界像  柳瀬睦男 
続ハッブル望遠鏡が見た宇宙  野本陽代 
新古今和歌集(上)  久保田淳 訳注 
後鳥羽院 第二版  丸谷才一 
恋と日本文学と本居宣長・女の救はれ  丸谷才一 
新古今和歌集(下)  久保田淳 訳注 
古典落語  興津要 
日本の歴史をよみなおす  網野善彦 
先端技術のゆくえ  坂本賢三 
承久の乱と後鳥羽院  関幸彦 
審判  カフカ 
大往生  永六輔 
炎凍る 樋口一葉の恋  瀬戸内寂聴
治承・寿永の内乱と平氏  元木泰雄 
日本史を読む  丸谷才一・山崎正和 
俘虜記  大岡昇平 


書名 敗北を抱きしめて(上) 著者 ジョン・ダワー、 三浦陽一、高杉忠明訳 No
2013-01
発行所 岩波書店 発行年 2000年 読了年月日 2013−01−12 記入年月日 2013−01−21

  原題は「Embracing Defeat : Japan in the Wake of World War II」。「敗北を抱きしめて」というのは正に直訳。しかし、思わず読んでみたくなるような題だ。本書は5年前に行った東洋英和女子大学の市民講座「一冊の本」で取り上げられたもの。当時、アメリカの占領下にあったしたイラクではまだ、激しい抵抗があった。対照として、占領米軍に対する暴力的反抗など皆無で、占領と民主改革を受け容れていった終戦直後の日本を考察したものとして、本書が取り上げられた。優れた日本人論として『菊と刀』と並ぶものだと思った。今回読んでみようと思ったのは、戦後体制からの脱却が声高に叫ばれている昨今、アメリカ占領下での諸改革を日本人がどのように受け容れてきたかを知りたいと思ったからだ。

 原著の発行は1999年。本書は2004年刊。本書の立場を要約すれば、冒頭の日本人読者へ序文の一節であろう:

 
日本は、世界に数ある敗北のうちでも最も苦しい敗北を経験したが、それは同時に、自己変革のまたとないチャンスに恵まれたということでもあった。「よい社会」とは何なのか。この途方もない問題が敗戦の直後から問われはじめ、この国のすみずみで、男が、女が、そして子供までが、この問題を真剣に考えた。それは、かつてないチャンスであった。とはいえそれは戦勝国アメリカが占領の初期に改革を強要したからだけでなく、アメリカ人が奏でる間奏曲を好機と捉えた多くの日本人が、自分自身の変革の筋立てをみずから前進させたからである。多くの理由から、日本人は、「敗北を抱きしめ」たのだ。なぜなら、敗北は死と破壊を終わらせてくれた。そして、敗北は、より抑圧の少ない、より戦争の重圧から自由な環境で再出発するための、本当の可能性をもたらしてくれたからである。
 
 本巻は、当時28歳であった静岡県の田舎の妻の8月15日の回想から始まり、当初の占領政策が転換の兆し見せ始める昭和22年頃までが取り上げられる。敗戦による混乱と虚脱感、生活難、そしてその中にある解放感が、多方面の多種類の資料に基づいて述べられる。そして、ひざまずいて玉音放送にむせぶ人々を最初に、機関車が車輪を上に向けて転覆している松川事件の現場写真まで、多数の写真が挿入されている。ミズリー号艦上での降伏調印式といったよく知られた写真から、屋根まで人があふれる買い出し列車、駅に寝る戦災孤児、有楽町のガード下の夜の女、といった風俗写真に混じって「平和國家建設」と半紙いっぱいに書かれた現天皇の小学6年の時の習字までが掲載されている(p211)。とにかくこれほど詳細に戦後社会を記録した本を私は知らない。私の知らなかった戦後史がぎっしりと詰まっている。

 著者は日本人の戦前から戦後への移行に際して、言葉が大きな役割を果たしたとして、「言葉の架け橋」という章をもうけている。

 人々は言葉によって活気をとりもどし、言葉の架け橋を渡って過去から未来へと前進した。聞き慣れた言葉やスローガンが、敗戦のショックをやわらげてくれた。同じ言葉でも、意味内容が戦前とはまったく逆になっている場合さえあったが、それでも、過去との断絶ばかりではないという安心感は得ることができた。絶望感をぬぐい去る武器として風刺が流行し、敗戦ジョークが花ざかりになった。おおらかで他愛のない歌詞が人々の生活を明るくし、未来への希望を持たせた。(p197)

 これらの例として「リンゴの唄」と並んで、新いろはがるたが絵入りで紹介されている。い:犬も歩けば鍋になる。 ほ:骨折り損の負けいくさ。

 上に挙げた明仁親王の小学6年生とは思えないほど力強く書かれた「平和國家建設」も言葉の架け橋の一例である。今上天皇の心情にはこの言葉は深くしみこんでいるように思われる。

 本書でいちばん面白く興味深かったのは、「敗北の文化」の章。人々の意識に衝撃を与えたサブカルチャーとして、いわゆるパンパン、闇市、カストリ文化の3つをあげ、詳細に記述する。パンパンについては多数の写真を含め、実に21ページにわたって記載する。彼女らの存在は、軍国主義者が押しつける耐乏と自制に対する最も鮮明な否定であったとし(p150)、さらに 米兵と彼女らの関係を、「
ときに人種を越えた思いやりや、お互いへの敬意や、さらには愛情への出発点にさえなった。そういう意味で、国家どうしの関係が男女の関係に変換されて表現されていたのである。」(p158)と述べる。

 本書で驚いたのは、坂口安吾、田村泰次郎、太宰治、夏目漱石が論じられていること。坂口の『堕落論』が衝撃的であったのは、一見してあまりに単純、正常だったからであるとする。『肉体の門』を著した田村については、「
今や、敬意に値する唯一の「体」とは、具体的な人間の官能的な「肉」そのものであった。抽象的な「国体」とか国家などは無意味であり、愛国と称する無駄口など、すべてまやかしにすぎない」とその意味を述べる(p182)。太宰については「太宰は、その生き方と作品だけでなく、その死に方によっても、カストリ文化の堕落性のもつ魅力を縮図的に示す存在となった。」と述べる(p183)。

 太宰、坂口、田村らに対する、河上徹太郎、丸山真男、中村光夫らの酷評あるいは厳しい批評を紹介した後で、著者は述べる:
彼らはみな、大衆の意識をおおいにかきたて、教条的な思考のあり方を疑問にさらした。その功績の大きさは、彼らを批判した批評家たちにはまず出来ないほどのものであった。日本の本当の意味での革命的変貌の基盤にはならなかったかもしれないが、旧式な価値観にたいする彼らの挑戦は、忘れ難いものとなった。(p188)。

 1946年から49年までのベストセラーは、以後には現れないと思われるほど、国籍にこだわらない、真面目な作品が並んだという。そんな中、漱石の作品は48年までベストテンに入り続けた。それは漱石の作品が身近な人間関係を追求し続けたからだとする(p227)。漱石にあっては個人の愛情が常に社会の要求よりも高い位置にあったとし、『門』『それから』を引き合いに出し、「
漱石のこうした側面は、個人の世界に心を奪われていた敗戦後の多数の日本人にとって親しみやすいものであった。(中略)つまり、敗戦後の日々は、避けることができず、しかも人の心に傷を残さずにはおかない「近代化」と「西洋化」の時代に生きながら、どのように個人のアイデンティティや個性をしっかりと確立し主張できるかのかという問題の、最後の段階にすぎなかった。漱石は、この問題をいまだかつてない繊細さで探求していたのである。」(p228)
 そういう点から漱石文学を読み直してみるのも一考だと思った。

 戦後のベストセラーの一つとして『完全なる結婚』がある。1946年から1年間ベストテン入りしたとして、本書でも表紙の写真とともに紹介されている。オランダの婦人科医師の書いた夫婦の性生活の真面目な手引き書。私は多分高校時代だと思うが、家の物置でこの本を発見した。おそるおそる開いて拾い読みした。性知識には奥手であった私には驚くべき内容が書かれていた。その内容と、両親がこのような本を読んでいることへのあまりの衝撃に、元の場所に返し、二度と開くことはなかった。

 本書の後半1/3が占領軍による改革が述べられる。
 上からの革命は日本人にとって、占領軍によるものが初めてのものではなかったとする。(p245以下)。明治維新以後の産業化、近代化、西洋化がそうであり、また軍国主義の下でも革新的なスローガンを掲げて軍国主義、帝国主義的政策を遂行してきた。

このように、権威主義的に上から強く指導して現状をすっかり変えてしまうというやり方は、日本では目新しいものではない。アメリカの改革者たちによる日本占領が成功した理由のひとつは、この点にある」と著者は明言する(p245)

 続けて言う:
マッカーサー元帥は典型的アメリカ人であったが、日本の政治劇にいつも登場する役柄をたちまち割り振られることとなった。たとえば、新しい君主、青い目の将軍、温情的な軍事独裁者、大げさに語るけれども不器用なくらいに律儀な歌舞伎の主人公、といったイメージである。マッカーサーはこれらを演じるにあたっては細心の注意をはらった。かつて天皇や江戸時代の将軍がそうであったように、彼は総司令部の外にはほとんど姿を現さず、一般人民と接することはなかった。マッカーサーの話を直接聞くことを許されたのは、政府高官や彼に畏敬の念を抱く名士だけであったし、マッカーサー自身も帝王のような態度で命令を下し、いっさいの批判を許さなかった。(p245〜250)

 以下、マッカーサーの人間像が述べられる。多くの占領軍当局者と同様に彼の日本に対する知識は乏しいものであった。彼が尊敬するのは、ワシントン、リンカーン、イエスキリスト。それに自分を加えた4人が協力し、天皇の助力も得れば、日本は民主化することができると考えて行動していたようだ、と著者は言う。(p280)

 当時私はマッカーサーに心酔していた。彼が日本を去るとき、沿道を埋めつくした大群衆に混じって、中学生になったばかりの私も羽田に向かう元帥一家を、三田の札の辻で見送った。最高司令官へのあれほどの心酔がなければ、アメリカの日本占領はあれほどうまくはいかなかったのではないかと、私は思う。ただ、マッカーサーへの心酔が何に由来するのか。著者は、日本人の大勢順応主義、上下関係に敏感で身の程を誤らないという生き方をその一因としている。しかし、日本人が勝者を受け容れた理由は様々で、個人的な理由も多かったと述べている(p285)。

 アメリカは当初、ドイツと同じように直接統治によるによる軍事占領を計画していた。しかし、直前に日本の既存政府組織を使った間接統治に変更された。官僚制と天皇制が既存組織の2本柱であった。間接統治に変更された最大の理由は、占領側に言語能力と専門知識が欠けていたからである。(p262)

 著者は占領政策にも厳しい目を向ける。民主化を要求しながら、命令による支配が行われ、東洋的なものは西洋的なものに劣ると見なされ、勝者には「アメリカ白人の責務」の感覚がしっかりと身にしみこんでおり、古い人種差別的な家父長的な温情主義による占領だったと述べる。(p263)。


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書名 敗北を抱きしめて(下) 著者 ジョン・ダワー、 三浦陽一、高杉忠明、田代泰子 訳 No
2013-02
発行所 岩波書店 発行年 2004年 読了年月日 2013−02−06 記入年月日 2013−02−06

 
本巻では憲法制定へのプロセス、東京裁判と戦争犯罪、日本人の反省、占領当局による検閲、経済復興政策が取り上げられる。上巻のような戦後風俗に触れられることは少ないので、読んでいて懐かしさは起こらないが、どのページを開いても初めて接する記述ばかりが並んでいて、新鮮な驚きの連続であった。各章ごとに巻末に膨大な出典文献が記載されていて、大変な労作、好著である。

 第9章「くさびを打ち込む」、第10章「天から途中まで降りてくる」、第11章「責任を回避する」は、いずれも「天皇制民主主義」と副題がついていて、天皇自身と天皇制の扱いをめぐる論議が中心になっている。

 答えは戦争が終結する前に出ていた。6ページ以下に、マッカーサーの下で心理戦担当をしたフェラーズ准将の著書、報告書が詳細に引用されている。フェラーズは「
天皇は太平洋戦争の一部であり、太平洋戦争の煽動者と見なされなければならない」としがた、結論としては、「天皇は日本軍の完全な降伏を実現するうえで不可欠であるだけでなく、平和的傾向をもった戦後の日本政府の精神的中心として必要である」と述べる(p9)。マッカーサーもアメリカ政府も基本的に同じ考えであった。フェラーズはさらに、「軍国主義者のギャングたちが神聖不可侵なる天皇の信頼を裏切ったことを、大衆は実感するだろう」とし、一方に天皇と大衆を置き、一方に軍国主義者を置き、両者の間にくさびを打ち込むべきであると、提言する(p11)。

 昭和20年9月27日に天皇はマッカーサーを訪問する。マッカーサーの側近によれば元帥は「sir」という言葉を以て天皇を歓迎したという。マッカーサーが「sir 」を使った人物は天皇だけであると言う。会見の場でマッカーサー自身の発案で二人並んだ写真が撮られる。この写真は大半の日本人が日本の敗戦とアメリカの支配を実感した瞬間であるとされる。著者は、それだけでなく、この写真は、最高司令官が天皇を歓迎し、その側に立つということを明確に示したものだと指摘する(p25)。以後マッカーサーと天皇の会見は合計11回にも及ぶというのは驚きであった。

 昭和21年1月1日に天皇は「人間宣言」を発する。草案は占領当局の2人の将軍が作ったが、日本側の手入れで、最終的にはかなりぼやけたものになった。それが、第10章の副題「天から途中まで降りてくる」である。この章では天照大神との特別な関係を唱った二つの新興宗教、爾宇教と天照皇大神宮教、および南朝の子孫を名乗る「熊沢天皇」のこともいずれも写真入りで触れられている(p43)。大横綱であった双葉山が爾宇教に走ったという話は、私も当時聞いたことがある。

 宮中では、天皇が戦争犯罪人とはまったく考えられなかったが、戦争と敗戦については何らかの責任があると、真剣に考慮されていた。また、天皇自身も戦争責任の問題を考えていた、と著者は言う(p64)。東久邇宮は、憲法改正の時か、講和条約締結の時点で退位を考えるべきだとした。ダワーは「
もし占領当局が裕仁の退位を促す方針をとっていたなら、それを妨げるような障害はなにも存在しなかったことは明かである」と述べる(p67)。占領当局は天皇を退位させることは考えなかった。前述のフェラーズは、戦争犯罪に天皇を巻き込まないよう日本人側から証言してもらうことが最も好都合であると、日本側に働きかけた。そして、東京裁判の被告人たちは「どのような些細な戦争責任をも主君には負わせないことを進んで誓約した」(p70)。

 マッカーサーの意向がなかったら天皇は自ら退位したであろうか。私はしなかったと思う。

昭和天皇独白録』についても触れられている。「
この回想は、天皇個人の戦争責任をけっして認めてはいなかった。それどころか、天皇はこの機会を利用して、大災厄をもたらしたの政策の責任を臣下に押しつけたのである」と、ダワーは厳しく断じる。同書を読んだ私もまったく同じ感想を持った。そして続ける。「しかし同時に、この前例のない独白によって、天皇が最高レベルの人物や手続き、具体的な政策決定について、じつに詳しく知っていることが明らかになってしまった。

 第12章は「GHQが新しい国民憲章を起案する」。アメリカは明治憲法は責任ある民主的政府の発達にはふさわしくないと考えていた。一方、日本側には、明治憲法下で大正デモクラシーを実現できたし、あるいは敗戦後の農地改革、婦人参政権、労働組合法、経済民主化も行われたので、改正の必要をそれほど感じなかった。とはいえ、幣原内閣は改正に向けての委員会を設置した。一方、新しい憲法の草案は政府以外でも、いくつか作る動きがあった。昭和20年秋から翌年3月にかけて少なくとも12の改正案が公表された(p111)。しかし、幣原内閣の下で作られた草案は、保守的で、GHQを納得させるものではなかった。「
マッカーサーと民政局の側近は、日本政府にはポツダム宣言の要求を満たすような憲法草案を作成する能力はなく、SCAPが指導しなければならないと結論した」(p116)。ここでポツダム宣言が出てくることが意外だったが、考えてみればこの宣言は日本が無条件で受け容れたもので、それを実行するのが占領の目的であった。当時日本政府は、ポツダム宣言の意味をあまり大きく考えていなかったようだ。さらに占領当局は、降伏に関する文章を検討して「最高司令官は日本の憲法構造を変革するのに適当と考えられるいかなる措置をもとりうるという、無制約の権限を有する」とした。(p116)

 マッカーサーは次の3原則を示して、GHQによる憲法草案の作成を命じる。
 1,天皇は元首であり世襲され、その職務権限は、憲法によること。
 2,戦争の放棄と、陸海空軍の廃止
 3.封建制度の廃止、貴族、華族の廃止、英国型予算制度

 この原則をGHQのホイットニーが部下に示したのが、昭和21年2月4日で、早くも2月13日には新しい憲法草案が日本側に提示された。「
マッカーサーの迅速な行動は、天皇を擁護するためにはそうしなければならないと考えたからである。つまり、マッカーサーは、彼が押さえ込もうとしていた超保守主義者たちと基本的には同じ心配から行動を起こすことを決意したのである。最高司令官の三原則の中で、天皇の地位の問題が最初に挙げられたのは偶然ではない。それは、マッカーサーがもっとも関心を払っていとことであった。戦争放棄や封建制度の廃止は彼にとって二の次で、天皇制と天皇個人を救うことに世界の国々からの支持を獲得するために必要だと彼が考えた条件なのであった。

 第13章「アメリカの草案を日本化する」は、翻訳から、日本側による修正(それには占領当局の許可が必要であった)、国会審議が述べられる。

 3月6日には日本語訳の草案が公表される。その後口語体に改められ、6月21日に国会に提出される。国会での審議は両院、委員会の審議を会わせて114日にも及ぶ。主な論点は戦争放棄条項であった。衆院では421対8で採決され、11月3日に公布され、翌昭和22年5月3日に発効した。草案は占領当局によるものであっても、その成立には長時間の審議による突っ込んだ中身の論議がされていたことを知る。

 反対票のほとんどは共産党議員による。共産党は天皇制と戦争放棄に反対であった。
p161には以下のような記述がある:
この共産党の指導者(野坂参三のこと)は、正当な戦争と不当な戦争を区別する必要があり、この点に留意すれば、いかなる国家も自衛権を保持することは明かである、と言明した。このとき、「現実主義者」を自負していた吉田は、理想主義が現実的であると主張している自分に気づいた。吉田は、「戦争は国家の合法的な自衛権によって正当化される場合もあるということが主張されてきたが、しかし私の考えでは、そのような認識は有害である」と反駁したのである。日本は今後の安全保障を国際的な平和組織に委ねることになるだろう、と。そして吉田はその後の数年間、このような第九条の解釈を様々な形で繰り返したのである。

半世紀以上経った現在では、野坂参三の後裔と吉田茂の後裔の立場は完全に逆転している。

 第14章「新たなタブーを取り締まる」。占領当局による検閲の実態が明らかにされる。GHQは膨大な人員をあてて実に些細なことまで検閲していた。

「大東亜戦争」という言い方も禁じられ、「太平洋戦争」になった。大東亜戦争という言い方には、侵略的で排外的な性格はあるものの、あの戦争の中心が中国と東南アジアであることをはっきりと捉えていた。しかし、太平洋戦争とすることによって、あの戦争の中心を太平洋に移し、日本とアメリカの戦争としてしまった。それは日本人に戦争の罪を自覚させるどころか、自分たちがアジアの隣人に何をしたかを忘れさせてしまった、とダワーは述べる(p198)。

 第15章「勝者の裁き、敗者の裁き」。東京裁判を初め、日本の戦争犯罪に関する裁判を述べる。

 A級戦犯の東京裁判には、当初から連合国側にもその正当性に関して議論があった。ナチスのニュールンベルグ裁判よりもずっと長い31ヶ月わたって裁判は行われた。判事は11カ国を代表する11人であるが、全判事が揃って毎回公判にでていたわけではない。さらに、ダワーは、判決文を11人の判事が一同に集まって論議した形跡はないという。判決は多数決で決められ7人の判事が賛成した。インドのバル判事は、A級戦犯の無罪を主張したことで有名である。バルは欧米諸国によるアジアの植民地化を引き合いに出し、勝者によるこの裁判のダブルスタンダードを指摘した。さらに、都市に対する空爆と原爆投下を厳しく非難した(p271〜)。一方、フィリッピンのヘラニラ判事は、戦争を早期に終結させるために原爆の投下を是認した(p272)。

 マッカーサーは、オランダの判事との私的会話で「
自分としては、真珠湾のだまし討ち攻撃だけに罪状をしぼった略式軍法会議のような裁判をすれば十分果たされると思う」と語ったとされる(p246)。しかし、判決が全員一致でないことを理由に出された減刑願いをマッカーサーは拒絶している。

 ダワーは、東京裁判の正当性にはかなり批判的に見える。訴追項目の大きな一つである侵略戦争の「共同謀議」説も否定している。彼はむしろ、憲兵隊の隊長、超国家主義秘密結社の指導者、戦争によって私腹を肥やした財閥の首脳、朝鮮人と台湾人を強制動員した責任者、占領地の女性を「慰安婦」として働かせた人たち、満州で細菌戦の実験に多数の捕虜を使った将校や科学者などが追訴されなかったことを問題とする。

 第16章「負けたとき、死者になんと言えばいいのか?」。一般の日本人におけるあの戦争への責任、反省、贖罪について記す。

 ダワーは、あの戦争への反省、責任感、贖罪が希薄であると、厳しく指摘する。その例として、処刑されたBC級戦犯の遺書を集めた『世紀の遺書』を取り上げ、自分たちの行為への言及が少なく、戦争責任を希釈化していると断じる。一方で、こうした本は軍国主義や戦争が強いた恐るべき人的コストの記憶を強化し、日本という異常なまでのうち向きな社会では反戦声明にもなったと述べる(p333〜)。 

 第17章「成長を設計する」。経済再建のことが書かれる。

 著者は昭和21年3月に出された「日本経済戦後再建の基本的課題」という外務省の特別諮問委員会がまとめた報告書を取り上げている。謄写版刷りの報告書草案である。経済学者と財界首脳の約20人でとりまとめられたこの報告書は、その後の政策立案の長期的青写真になったという(p355以下)。

 報告書は最新鋭テクノロジーを基盤に置く経済をビジョンとして描いた。新たな世界秩序では日本の伝統的な輸出品である繊維などの軽工業製品では、中国やインドなどが台頭する。日本は別のところにニッチを求めるべきである。付加価値が高いと同時に、多大の労働力投入を必要とする産業である。しかし、先進欧米諸国に比して相対的に安い日本の労働力という利点も、やがては薄れるから、テクノロジーのさらなる発展が必要である。そして、将来の日本には機械と化学製品の輸出にかなり依存すると見通す。こうした分野には、戦時経済の遺産があるという。以下は本書を引用する:
このすべてを可能にするには中央計画立案担当者の責任が重大であると、とくに強調された。新しい高級官僚は、国全体の利益に奉仕するような生産を確保し、これまで財閥が担ってきた機能の多くをひきうけ、価値ある企業に信用供与し、中小企業の輸出競争力を育成し、基幹産業が外国資本に負けないような政策を採用し、最大限の雇用を安定を維持することになるだろう。外国貿易は国によって計画・指導され、公務員については、旧体制の官僚の「封建的」習慣に代わって「近代科学的管理」を行う(p357)。

 確かに日本経済はほぼこの報告書の通りの道を辿ってきた。敗戦後1年もしないうちにこのようなビジョンが出されたこと、そして、この埋もれた資料までに目を通している著者に驚嘆する。
 日本経済は朝鮮戦争による特需という奇貨を得て、復興してゆく。

 第18章「エピローグ」。マッカーサーの解任から、占領の終了、そしてその後の日本の歩んだ道が簡潔に紹介される。

 マッカーサーは1951年4月16日に離日する。沿道には20万人が見送った。私もその一人であった。本書によればその日は学校も休みになったという。私が中学1年の時だ。夫人と息子のアーサーを乗せて、オープンカーで羽田に向かうものと期待していたが、オープンカーではなかった。しかし、車内の3人をしっかりと目にしたという、記憶がある。マッカーサー自身は沿道の見送りを200万人と自慢したという。ダワーはマッカーサーは物事をほぼ10倍に誇張する癖があるから、警視庁発表の20万人という数字はほぼ正確であろうと、皮肉を込めて言う(p373)。マッカーサーに心酔していた私が、その解任がシビリアンコントロールの見本で、それができるところがアメリカの長所であると認識するまでには、少し時間がかかった。

 著者は戦後を1989年までの44年間としている。昭和天皇が亡くなった年だが、この年にはベルリンの壁が崩壊し、日本のバブルもはじけ、経済と技術では西欧に追いつくことができたが、日本が新しい進路を描くだけの構想力と柔軟性に欠けていることが誰の目にも明らかになった年だという(p388)。

 本書の最後で、ダワーは、日本の戦後のシステムのある部分が崩壊してゆくのは仕方ないとしても、非軍事化と民主主義化という戦後の目標が捨て去られようとしていることには懸念を示している。

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書名 日本語のために 著者 丸谷才一 No
2013-03
発行所 新潮文庫 発行年 昭和53年 読了年月日 2013−01−15 記入年月日 2013−01−23

 
暮れに本箱を片付けていて出てきた。著者の日本語に対する日頃の思いが、歴史的仮名遣いで過激に述べられている。基本的主張は、戦後に行われた国語改革の全面的な否定。

 第1部 国語教科書批判。子供に詩を作らせるな、中学生で恋愛詩を、子供の文章はのせるな、小学生にも文語文を、文部省にへつらふな、といった激しい主張が並ぶ。人生の大半を国語改革によってなされた日本語の中で育ってきて、それをいいことだと私は思ってきた。日本語の深さ、豊かさはとても現代口語などに収まるものではないと感じるようになったのは、人生の後半、俳句や短歌、あるいは日本の古典に多少とも興味を持つようになってからだ。今は丸谷の主張に抵抗を感じない。それは、昨年亡くなった丸谷才一が私の大好きな作家であることにもよる。

 詩の入門として口語自由詩から入るのは疑問だという。言葉の魅力、形式の整い、音の楽しさを味あわせるには、定型詩がいいという(p20)。私もまったく同感だ。

 日本語の文体をすこやかにし、美しくするための基本的手段は文語文を読ませることであるという。国語は常に古典主義によって養われなければならない。(p36)

 第2部は「未来の日本語のために」と「現在の日本語のために」とからなる。前者では聖書の旧訳と口語訳を比較し、口語訳を徹底的に批判する。文語による聖書に比べて口語訳聖書が情けない文体であるのは、現代日本文明が形あるいは型を軽蔑し、無視する文明であるからとする(p66)。現代の日本語には文体というものが失われており、未来の日本語のためには、まず文学者が文体の確立に努力すべきであるという(p69)。さらに文学作品での方言と多用を厳しく批判する(p70)。

「現在の日本語のために」では、国語改革への痛烈な批判が展開される。

 第3部は「当世言葉づかひ」で、1972年、田中角栄総理が北京で作った七言絶句から初めて、日常接する色々な言葉を俎上に載せている。大変楽しく面白い。角栄の詩は新聞の不動産広告「美邸瓦水日当良」といったものを思い浮かべると、酷評するが、それでもその政治的効果を認めている。それに反して『日本列島改造論』は一流の人物の文章には決まってある生気がない、多分役人が書いたものだろうと皮肉る(p91〜)。

 東京弁が関西弁に圧倒された例として、「まんまん中」に取って代わった「どまん中」をあげる。「ド阿呆」「ド助平」といった「ド」のついた言葉は、『細雪』にはまったく出てこず、あれは谷崎潤一郎の言葉ではなく、今東光の世界に属する語彙のようだという(p118〜)。丸谷が関西弁が嫌いな理由として、関西弁が近代的、現代的、未来社会的な要素が強く、その浅薄な合理主義、能率主義がかんに障るのだという。(p121)。

日本語への関心という項で以下のように述べる:
  
とにかくわれわれ日本人は日本語を国家に任せてのほほんとしてゐる現状を反省しなければならない。めいめいの生活の基本的な道具である国語を、めいめいの手で洗練させなければならない。あれはやはり、専門家なんてゐない問題なので、つまり日本人ひとりひとりがもつと熱心に考え、その全体の意見をまとめる形で、表記その他の取り決めがなされなければならないのである。(p183)

 その後、専門家がいかにに信用できないかの例として、フランス語を国語として採用しろという志賀直哉の論を紹介する。丸谷は志賀の説を「
馬鹿につける薬はないとどなりつけたくなる」と痛罵し、さらに以下のように続ける:日本語が曖昧だつたり非論理的だつたりすることも、よく指摘されるけれど、さういふ面はたしかにあるにしても、われわれがその点を反省して、精神を緊張させ、自分の思考それ自体を明晰にすれば、欠点はずいぶん防げるのだ。この場合の思考といふのはかなり広い範囲を意味してゐて、何も理屈を理屈つぽく述べるときのことだけを言ってゐるのではない。たとへば人間関係の認識、景色の眺望なども指す気持ちで言ふのである。(p184)

 日本語への愛情あふれる本である。

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書名 山椒大夫・高瀬舟・阿部一族 著者 森鴎外 No
2013-04
発行所 角川文庫 発行年 昭和42年 読了年月日 2013−01−23 記入年月日 2013−01−24

 
これも暮れに出てきた本。息子の本だろう。表題の他に6編の作品を収める。いずれも歴史に題材を採ったもの。

 表題の作品は高校時代に読んだ。中でも『阿部一族』は記憶に残っている。時は寛永18年、熊本藩主細川忠利が亡くなる。当時の風習として、主君の死に際しては、近くに仕えたものは殉死するのが常であった。ただし、殉死には亡き主君から前もって許しを得る必要がある。こうして、許された18人が忠利の後を追って殉死した。阿部弥一右衛門も若いころから忠利に仕え、人一倍の働きぶりであった。ただ、できすぎる弥一右衛門を忠利は煙たがっていて、彼のいうことに素直には応じなかった。そして、殉死の願いも認めなかった。18人が一斉に腹を切った後、殉死しなかった弥一右衛門には家中の冷たい視線が集中する。このままでは、子供らの立場もなくなると思った弥一右衛門は、親族の前で腹を切って死ぬ。18人の遺族に対しては藩から手厚い保護がなされた。一方、弥一右衛門の遺族に対しては、そのような処置がなされず、彼の知行は、嫡子権兵衛には行かず権兵衛の兄弟たちに分散され、阿部家の地位はおとしめられてしまった。忠利の一周忌のとき、仏前で権兵衛は自らのも髻を切るという行為に出た。そして、縛り首という武士の対面も無視された処刑を受ける。ここにいたって、阿部一族は、藩への抗議のため、屋敷に立てこもり、門を閉ざす。やがて、藩からの討手により全員が殺される。

 多分これは史実であろう。事件の経過のみが淡々と述べられる。高校時代読んだとき、徳川封建制のもつ非人間的な身分制度、人間関係、掟への憤りを強く感じた。にもかかわらず、鴎外は作品中にそうしたものへの批判や憤りをいっさい示さない。阿部一族への同情といったものも示されない。私にはそれが大いに不満であった。これで小説と言えるだろうかとさえ思った。

 今度読んでみて、余分なものを省いたこういう書き方の方が、読み手に様々な思いを喚起させると思う。当時に比べて歴史に対する私の知識や見方も深まってきている。今の時点から歴史を断定してはいけない。江戸時代を一方的に忌むべき時代だという見方はとうに卒業している。

『阿部一族』は事実を淡々と述べることにより、かえって強く封建制度、武士道倫理を批判している、という誰かの解説に高校時代の私は不承不承納得していた。今読み返してみて鴎外は武士道倫理を一面では肯定しているように思える。

 この小説の中頃で鴎外は以下のように記す(p73):
人には誰が上にも好きな人、いやな人というものがある。そしてなぜ好きだか、いやだかとせんさくしてみると、どうかすると補足するほどの拠りどころがない。忠利が弥一右衛門を好かぬのも、そんなわけである。しかし、弥一右衛門という男はどこかに人と親しみがたいところを持っているに違いない。

 この部分を読むと、『阿部一族』は時代を超えた、個人の性格のもたらす悲劇ととることができる。シェークスピアの悲劇にも通じるものがある。以前読んだときには、こんな読み方は思いもよらなかった。

 追記:実はこのノートは巻末の解説を読む前に書いた。あとで、高橋義孝による解説を読んだら、驚いたことに『阿部一族』の中では唯一上に私が引用した部分がそっくり引用されて、解説されいた。さらに、下級武士の家に生まれ、軍人、軍医、官吏となった鴎外には、「
武士階級の封建的・儒教的イデオロギーと、近代ヨーロッパ文明を肌をもって知り、自然科学を学んだ冷厳な科学者の眼とが同居していた」と述べる(p213)。

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書名 著者 吉野裕子 No
2013-05
発行所 講談社学術文庫 発行年 1999年 読了年月日 2013−02−05 記入年月日 2013−02−11

 副題は「日本の蛇信仰」。日本の祖霊は蛇であり、天照大神も、神武天皇もその出自は蛇であるという、なんともすごい本。

 1月に昭和平成24年度のNHK俳句全国大会がNHKホールであった。題詠「新」の部門で大会大賞を得た2句のうちの一つは「新藁の匂ふ大蛇となりにけり」であった。作者解説では豊穣を祈念し、蛇に見立てた注連縄を皆で編み上げたときのことを詠んだものだという。

 神社などにある注連縄、あるいは正月に家庭に飾る注連飾りを蛇と結びつけるなど、信じられないことであった。たまたま今月のエッセイ教室の課題が「蛇」だったので、ネットで調べてみて、本書に行き当たった。

 まず、蛇の生態が述べられる。49ページにハブの交尾の写真が載っている。見るとまさに注連縄そのものである。20時間を超す長時間で濃厚な交尾をするという。「
日本の神祭において蛇縄、綱引きなど、縄が蛇を象徴する場合は非常に多く、縄の中で最も神聖視される注連縄も濃厚な雌雄の蛇の交尾の造形と私は推測する」と著者は言う。(p167)。

 蛇信仰は何に由来するのか。一つは形状からそれが男根のシンボルであり、性への憧れ、崇拝を、さらには生殖への願いを込めた。さらに、一撃で獲物を倒す毒蛇などから、その強靱な生命力への畏敬。そして、数回の脱皮を繰り返す蛇に生長と新生を、生と死を繰り返す宇宙の輪廻を重ね合わせた。

 日本民族の蛇への信仰は縄文時代以来明確であるという。縄文土器には蛇の文様が沢山見られる。しかし、時代が下がるに従って、蛇への嫌悪が台頭し、古代神話が形成される頃には、蛇信仰は蛇の象徴物へと移っていった。著者は記紀から現代にいたる色々な事物の中にそうした象徴物を求め、いかに日本人と蛇の関係が深いものであるかを示す。

 身近な例では正月の鏡餅。あれはとぐろを巻いた蛇であるという。さらに、大和にあって神聖視された三輪山もその形が蛇のとぐろであるという。そのほか円錐形の山への信仰もこれに基づく。

 皇室の三種の神器の劔と鏡も蛇に由来する。剣は八岐大蛇の尻尾から出てきたもので、蛇の精そのものである。鏡は丸く光る蛇の目の象徴であり、実用よりもむしろ信仰の対象、呪物として崇められた。当時の支配者たちは、大陸からもたらされる鏡を争って求めた。古墳時代にあれほど多くの鏡が副葬された理由である。なお、前方後円墳そのものも蛇の形ではなかろうかと著者は言う(p140)

 著者は古代の蛇の呼び方の一つを「カカ」であったとする。鏡は「カガメ」つまり「蛇の目」が変化してできたのだという。同様に案山子も蛇に由来する。案山子の蓑笠は蛇の頭部を著し、一本足は蛇の胴体である。田をネズミなどの害から守ってくれるものとして、蛇が崇められた。

 この他にも扇、蓑、笠、箒なども蛇信仰が秘められている。この背景として著者は蒲葵(びろう)の木をあげる。亜熱帯性のこの木は古来聖なるものとして崇められ、天皇即位の際の仮屋は蒲葵の葉で葺かれたという。蒲葵は下枝がなく、木が直立していて、男根を連想させ、それが蛇へと繋がる。蒲葵の葉を利用した扇が古い神社の御神体として崇められた。関連する、蓑、笠、箒などにもそれが及ぶ。

 天照大神ついて:イザナミ神の死穢に触れたイザナギ神が、身につけていたものを次々に脱ぎ捨て、禊ぎのために水に浸かる。そして左目を洗うとアマテラス神、右目を洗うとツキヨミ神、鼻をそそぐとスサノオ神が生まれる。著者はこの日本神話に蛇の脱皮を重ねる。日本神道の「禊ぎ」を蛇の脱皮と重ね合わされた「身殺ぎ、身削ぎ」であるとする。蛇の脱皮のように新生し身を清める。蛇は脱皮の際に目まで脱皮する。そして、蛇が脱皮するときに最も難儀するのは目と鼻の脱皮である。イザナギの「ナギ」は蛇の古語であり、蛇を連想させる。その目から生まれた天照大神と神鏡は相即不離の関係にある、と著者は述べる(p146)。

 本書によれば、竜蛇である豊玉姫が生んだ鵜葺草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)が、豊玉姫の妹である玉依姫(たまよりひめ)との間に生ませたのが、神武天皇である(P117〜)。

 この他、各地での祭礼、文様、仮屋、樹木、草、台湾原住民の蛇信仰、神社縁起、記紀を初めとする古文献など、多方面にわたり隠された蛇信仰を探っている。

 原本は1979年刊、2012年で19刷。著者の説が民俗学の専門家たちの間でどう評価されているのかはわからない。主張にはこじつけと思われる所もあるが、びっくりするような内容で、面白い。もともと民俗学、あるいはフロイト・ユング流の表象から潜在意識を探るという著者が用いている手法には、こじつけじみたところがある。


 
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書名 忠臣蔵とは何か 著者 丸谷才一 No
2013-06
発行所 講談社文芸文庫 発行年 1988年 読了年月日 2013−02−10 記入年月日 2013−02−16

 出かけたとき本屋の店頭で目についた本。忠臣蔵に対して新しい見方を提供する。民俗学的な見方、日本人の集団的無意識と言ったものから忠臣蔵に迫る手法は、吉野裕子の『蛇』と同じで、また結論もかなり突飛なもの。丸谷才一の軽妙なレトリックに乗せられて、読み出したら止まらなかった。

 忠臣蔵は浅野内匠頭の怨霊をなだめるための呪術的、宗教的祭祀を、大石以下が、『曽我物語』に沿って演じた儀式劇であるというのが、忠臣蔵解釈の核心。

 浅野内匠頭の性格はかんしゃく持ちで、殿中での事件はどう考えても納得のできない怒り、わけのわからない逆上、理由不明の取り乱しだったからこそ、その怨霊への人々の恐怖の念は強かった。その魂を鎮めるにはひたすら仕え、媚びるしかなかった(p73)。御霊信仰は赤穂義士だけでなく、当時の人々も奉じていて、彼らの敵討ちの後押しをした。江戸の人々は、ここは一つ「曽我物語」で行ってくれと漠然と期待した。曽我で行くから、当然事件後は歌舞伎になると、著者は言う(p84)。

 歌舞伎狂言の「曽我物語」は事件のあった頃、競うように上演されていた。著者は本書の最初の部分で、「曽我物語」の詳細な解説をする。この物語の背後に、体制と権力への怨みがあることは容易に見て取れるという。そして、「曽我物語」は意識下に潜む真の敵、源頼朝を討つ代わりに、意識の表面にある敵、工藤祐経を討った不発に終わった謀反の叙事詩であったとする(p44)。事件のあった当時、「曽我物語」が競うように上演された背景に、著者は、5代将軍綱吉の治世に対する人々の反感を読み取る。

 持論を展開するのに引用する資料、文献の膨大さに驚嘆する。折口信夫、柳田国男は当然だが、歴史資料もすごい。「曽我物語」では、登場人物の系図まで示されていて、読んだことのない私にも、物語の展開が十分つかめる。

 事件後6年、宝永6年のことを1章にして、詳しく書く。将軍綱吉が亡くなった年で、彼の治世、元禄期の自然災害などが詳しく述べられる。この年の正月、江戸では三座が曽我ものを上演した。「
三座の曽我狂言競演とは、江戸の町が総がかりで花やかに呪詛する、征夷大将軍殺しの儀式であった」(p147)という。

 綱吉の死とともに乾燥続きであった江戸に待望の雨が降った。そして、悪名高い生類憐れみの令の廃止。新井白石はこれを、新しい将軍の徳と受けとったが、江戸の人たちは、これらの出来事を「
三座の春芝居のあらたかな霊験として受止めたにちがひない。曾我兄弟、殊に五郎(=御霊)は、その呪力によって慈雨を恵み、不徳の王の命を奪ひ、悪政を葬り去った。」と丸谷は記す(p156)。そして、曾我兄弟と赤穂浪士は人々の意識、あるいは無意識の中で、一体となっていた。

 著者は元禄の事件だけでなく、『仮名手本忠臣蔵』までも忠臣蔵の中に含める。江戸時代の演劇史などの資料を駆使し、『仮名手本忠臣蔵』を次のようにまとめる:
 
大石内蔵助に率ゐられた赤穂四十七士の事件を仮名で書いたやうにわかりやすく仕組んだもので、いろは歌のやうに哀れ深く、火難その他の厄災に対しては浅野内匠頭が先頭に立つたと伝へられる浅野の火消や、町火消のいろは組のやうに勇敢であり、土蔵造りの家のやうに強く、武士の鑑である忠臣を叙しただけではなく、また町人の鑑とも言ふべき人間像を描いてゐて、その忠臣ないし理想的な人間たちの霊で作られた神の宿るところである藏にもたとへるべきこの芝居は、五十年忌を記念して彼らおよびその亡君の霊を祀つてゐゆゑ、災厄のときのはそれらの霊がそこから出て来てわれわれを助けてくれる、まるでいろは藏や金藏のやうにめでたく、いろは茶屋のやうににぎやかで、色恋沙汰の見本集あるひは手本集のような芝居。

 「浅野の火消し」云々は、忠臣蔵の討ち入りの装束が火事装束であることからの考察。内匠頭の祖父は、大名の火消しとして有名であったという。

 今月3日に12代目市川團十郎が亡くなった。歌舞伎にはまったくうとい私だが、團十郎は荒事を得意としていたという。丸谷は本書で西山松之助という人の著作を引用している。「
彼(初代団十郎)の創始した荒事は権力と対峙してゐた江戸市民の心意気を示すものであった。幕府の下にあって潜在的不満をいだく江戸市民は初代団十郎の演ずる曽我五郎や鎌倉権五郎によって自分自身を解放することができた。」(p244)

 丸谷は『仮名手本忠臣蔵』は体制に対する反抗と呪詛の芸能としての機能を持っていたとする。人々が意識の底の暗いところで持っていた変革と解放への憧れという不逞な危険な夢想のための装置としては『仮名手本忠臣蔵』にまさるものはなかったという(p225)。

 著者は『仮名手本忠臣蔵』の中にカーニバル的ものと御霊会的なものを認める。そして記す:
その、万古の神話と祭が民族の意識に刷りこまれてゐて、薄れたり色褪せたりしながらともかく伝はつて来たあげく、何かのはずみでとつぜん、ちょうど秘密インキで書いた文書に蝋燭の火が近づいたときのやうに、文字や図形が朦朧と浮かびあがる。それが人々を激しく動かす。そんな奇跡的な出来事が忠臣蔵事件だったのだらう。浅野内匠頭も、大石内蔵助も、吉良上野介も、民族の無意識に仄暗くひそむ神話の筋にあやつられて行動したのである。

 著者の博識に感嘆するとともに、武士道の鑑とされてきた従来の解釈にくさびを打ち込む痛快な本であった。

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書名 卆サラびとの文芸館 著者 企業OBペンクラブ編 No
2013-07
発行所 青蛙房 発行年 平成25年1月 読了年月日 2013−02−13 記入年月日 2013−02−20

 
池田隆さんから送られてきた企業OBペンクラブ会員による、川柳と関連するショートショート、および短編小説集。昨年送られてきた同クラブのエッセイ集、『悠遊』の姉妹編。ただし、こちらは立派な商業出版で、驚いたことに帯には下重暁子の推薦文が載っていた。曰く:「仕事は楽しく趣味は真剣に」が私のモットー。それを実践した元企業戦士に乾杯!

 本書をよく捉えている推薦文だ。同じく帯には、「
素人文芸のままでは終わらない…かつてのように昇進、表彰を夢見つつ」とある。意気軒昂といったところ。おりから、芥川賞は75才の黒田夏子さんに贈られた。

 川柳とショートショートが、歯切れ良く、面白い。小説の部は、自身の体験を下敷きにしているから類型的だ。海外勤務を題材にしたものがいくつかあり、書き手たちがかつてのエリートビジネスマンであったことを示している。さすがに文章には破綻がない。

 昨日のエッセイ教室で、下重さんに本書の話をしたら、この会によく知った人がいて、頼まれたという。名前だけでも貸して欲しいと言われたが、そんなことは嫌いだから、推薦文は自分で書いたという。今月、同クラブで講演も行うとのこと。


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書名 ab さんご 著者 黒田夏子 No
2013-08
発行所 文藝春秋 発行年 平成25年3月号 読了年月日 2013−02−19 記入年月日 2013−02−20

 エッセイ教室新年会の際、下重さんが黒田直子さんが芥川賞候補になっていると話した。下重さんと大学同級で、同人雑誌をやっていたという。今回、史上最年長の75歳9ヶ月で芥川賞を受賞した。今月の文藝春秋に作品と同時に黒田夏子さんへの下重さんのインタビュー記事が載っているので、是非読んで欲しいと、先日連絡があり、教室メンバーにはメール連絡した。昨日はエッセイ教室の日だったので、午前中から緑図書館に出かけて読んだ。

 横書き、ひらがな多用、極めて読みづらい。少し読んで投げだそうと思ったが、降り出した雪の中をわざわざ図書館まで足を運んだからと思い、昼食をはさんで読み終えた。40ページの作品だが、3時間かかった。横書きのせいではない。ひらがな文のせいだ。漢字の偉大さを改めて認識。

 
aというがっこうとbというがっこうのどちらにいくのかと,会うおとなたちにくちぐちにきいた百にちほどがったが,きかれた小児はちょうどその町を離れていくところだったから、aにもbにもついにむえんだった.

 書き出しの部分だ。下重さんは声に出して読むとよいと言っている。確かにそうだが、図書館ではそうはいかない。

 著者は4歳の時に母を亡くしたという。小説の中身はその当時を始点とする回想で、たくさんの本に囲まれた学者の父と家政婦を交えた3人暮らしから、著者が家を出て、家政婦と再婚した父の死を迎えるまでが語られる。固有名詞がないのことも理解を難しくしている。また,例えば蚊帳を「やわらかい檻」傘を「天からふるものをしのぐどうぐ」といった言い方をする。回想は時間を自由に行き来し一読ではよく理解できないが、不思議な雰囲気にひたることはできる。家にまつわる回想が詳しい。居住空間は人の回想にとって最も主要な部分であるのだろう。

 最後は幼い小児と父との散歩の回想。分岐点に来ると小児が眼をつぶってぐるぐる回って、向いた方向に散歩のコースを決める。最後は以下のように終わる:
aであれb であれ,さまざまな匂いがあふれていた.目をとじた者にさまざまな匂いがあふれよせた.aの道からもbの道からもあふれよせた.

 題の意味は読み終わっても理解できなかった。さんごの意味は何か。昨夜のエッセイ教室で,下重さんはさんごには枝分かれがたくさんあるから、そのうちのどれを選ぶかという意味だと,解説した。ちなみに来月のエッセイ課題は「ab さんご」、あるいは「分かれ道」となった。

 選考委員の講評が載っていた。驚いたことに女性作家が4人も選考委員であった。山田詠美の名があったので拾い読みしたが、彼女はこの作品を買っていなかった。蚊帳や傘の言い方にも批判的で、作品も前衛でもモダンでもないという。男性作家では宮本輝が3回読んでこの作品を推すことにしたと書く。村上龍は読みにくくしているのは、そこに読者を立ち止まらせ、言葉を再認識させる効果があると言う。女性審査委員は高樹のぶ子、川上弘美、小川洋子、山田詠美である。男性委員はその他高橋源一郎が目についたが、他の委員は私の知らない作家であった。

 こうして、最新の芥川受賞作を読むのはあるいは30年ぶりくらいかも知れない。審査委員も替わり、知らない作家が入っているのも当然だろう。

追記:エッセイ課題「ab さんご」に対しては「コンピュータ将棋」という作品を書いた。将棋では1手の指し手に平均80の選択肢があり、5手先にはおよそ32億の選択肢に枝分かれする。そのすべてをコンピュータは短時間で読むことができるといった内容の作品。

 
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書名 曽我物語 著者 梶原正昭、大津雄一、野中哲照 校注・訳 No
2013-09
発行所 小学館 発行年 2002年 読了年月日 2013−02−23 記入年月日 2013−02−24

 
丸谷才一はその著『忠臣蔵とは何か』のなかで、あの事件は『曽我物語』というシナリオに沿って大石らが演じた儀式劇であるとした。名前だけはよく知っている『曽我物語』の詳しいことは知らなかった。

 本書は「日本古典文学全集 53」で、緑図書館より借りた。

 発端は領地争い。伊東地方を所領とする工藤祐経の父の死後、本来は祐経が継ぐべき所領を、彼の従兄弟である伊東祐親が横領した。それを怒った祐経が、祐親の息子である河津祐通を、伊豆山中での狩の帰りに、部下に射殺させる。祐通には5歳と3歳の男子がいた。

 兄の十郎は父の死の意味を理解でき,復讐を誓う.弟五郎はまだ幼く,理解できなかった。五郎は僧になるべく箱根権現に預けられる。やがて、弟も父の死の意味を知り、箱根権現を去り、元服し、十郎とともに復讐の機会をうかがう。兄弟が祐経を頼朝が催した富士の巻き狩りで討ち果たしたのは22歳と20歳の時で、建久4年、1193年5月28日から29日にかけての夜であった。十郎は討ち死にし、五郎は捕らえられて首をはねられる。

 源頼朝は物語の重要な登場人物である。河津祐通が討たれた伊豆山中での狩には、500騎が参加している。その一人が頼朝である。頼朝はまだ流人の身でありながら、このような多数の武士団に混じって、狩りをするのだ。配流と言っても、極めて緩いものだったことが理解される。この狩の時には、余興として相撲が催され、河津祐親は後に河津掛けと呼ばれる技で、強豪を倒す。それがきっかけで、二手に分かれた武士団が危うく戦いそうになる。頼朝は河津祐通の殺害のことは現場で知る。

 頼朝は曾我兄弟の祖父である伊東祐親の娘と懇ろになり、娘は子供を産む。これを知った祐親は平家の威勢を恐れて、子供を殺し、娘を頼朝から奪ってしまう。この場面は昨年のNHK大河ドラマ「平清盛」でも放映された。祐親は頼朝の館を襲おうとするが、事前に漏れて、頼朝は北条の所に逃げる。そして、北条政子と親しくなる。

 やがて、頼朝決起。平家を倒し、さらに奥州の藤原を亡ぼす。伊東祐親は自害して果てる。鎌倉に幕府を樹立した彼は、自らの威力を誇示するために、大規模な狩を催す。浅間山麓、宇都宮、那須野へ狩りをして歩く。

 工藤祐経は有力な側近として、頼朝に重用される。曾我兄弟は、伊豆から鎌倉へ行き来する祐経を街道や宿場で狙うが、警備が固くて果たせない。大勢の人が雑多に混じる狩り場は彼らにとっては絶好の場所である。兄弟も頼朝の狩の後を各地に追うが、そこでも警備は厳重で目的を果たせない。頼朝は那須野から帰って来てすぐにまた、富士の裾野の巻き狩りを告げる。兄弟はこの時を置いてはないと、母への最後のいとまごいをし、固い決意で一向に紛れ込む。

 頼朝の屋形を中心にして、何千という御家人がその周りを囲んでいる。明日は鎌倉へ向けて帰るという夜、十郎はやっと祐経の屋形を探り当てる。しかし、見つかった彼は祐経に呼び入れられ、酒を振る舞われる。祐経はそもそも所領を継ぐのは自分であったと正当性を主張し、祐通をやったのは自分ではないと話す。館を出た十郎が立ち聞きしていると、祐経が自分が家来に命じて射殺させたと王藤丸に話しているのが聞こえる。王藤丸は訴訟を祐経に取り次いでもらうために、大阪から来ていた人物。

 酒と昼間の疲れで皆が寝静まったころ、十郎と五郎は祐経の屋形を襲う。祐経は遊女と寝ていた。それを二人は何度も突き刺して殺害する。ついでに王藤丸も殺害する。二人は駆けつけた御家人達を追うようにして、頼朝の陣屋の方に進んでゆく。その過程で、十郎は討たれる。五郎は取り押さえられ、頼朝の前に引き出される。頼朝にとっては五郎は、自分から子供と女を奪い、自身を討とうとした伊東祐親の孫である。五郎は臆することなく、頼朝を非難する。頼朝はその剛胆な心構えに感じ入り、部下にしたらさぞ立派な部下になるだろうと、五郎を許そうとする。しかし、梶原景時はそれでは秩序が保たれないといい、頼朝は梶原に従う。

 五郎は翌朝、鈍い刀での引き斬りというむごい殺され方をする。それを聞いた頼朝は処刑人筑紫仲太を大いに怒り、討つように命じる。仲太は逃げ帰るが、程なく悶死する。

 何とも陰惨で、暗い話だ。『平家物語』にある華がない。『曽我物語』を題材にしたドラマ、小説の類をほとんど見ないのはこの暗さのためか。

 ただ救われるのは、最後の巻十が、十郎の妻であった大磯の遊女、虎が兄弟供養のために出家し、熊野や大阪、善光寺などを参詣して歩いた後日譚に当てあれていること。虎は天王寺では、祐経の屋形にいたばかりに同時に殺された王藤丸の未亡人と会ったりする。頼朝は残された兄弟の母に手厚い保護をさしのべる。信心を重ねた虎には多くの人が慕うようになった。虎はある夕暮れ、庭の桜の小枝を十郎の姿と錯覚して抱きつこうとして倒れ、その時から床につき、64歳で大往生を遂げる。兄弟が亡くなって45年後であった。
誠に、女人貞節の亀鑑やと尊かりし事どもなり。」で物語は締めくくられる。

 以前、曾我兄弟の墓がある曽我の城前寺に行ったことがある。この寺の行事として兄弟敵討ちの日である5月28日に傘を燃やし兄弟の霊をなぐさめる傘焼きまつりがあると説明板にあった。当夜、暗いので松明代わりに兄弟が傘を燃やしたという故事に習ったものだという。しかし、本書では、頼朝の屋形に迫った兄弟を照らし出すために、警護の武士達が松明の他、笠などを燃やして、昼間のような灯りになったと記されている。

 上段に注釈、中段に原文、下段に現代語訳が載っている。原文もそれほど難解ではない。地図と系図がたくさん挿入されている。また、当時の服装や弓矢の詳しい図解、仏像や仏画の図解もあり、読みやすい編集になっている。

 丸谷才一は『曽我物語』は意識下に潜む真の敵、源頼朝を討つ代わりに、意識の表面にある敵、工藤祐経を討った不発に終わった謀反の叙事詩であったとする。本書の解説も頼朝へのプロテストを認めるが、同時に艱難を乗り越えて再起してゆく頼朝への賞賛、あるいは新しい秩序への賞賛も語れていて、一方的な頼朝否定ではないとしている。また、曽我物語が、御霊信仰であるという柳田国男らの見方も肯定している。

『曽我物語』の成立の時期は不明。物語は箱根権現や伊豆山権現を本拠とする瞽女や巫女たちの語りにより広められた。さらに、遊行僧らも加わり、彼らが仏教知識などを加味して完成した。最初は真名本(漢字本)であったが、14世紀後半には仮名本が成立していたという。

 涙を流す場面が多い。『平家物語』でもそう感じたが、こちらの方がもっと多い。それは、女たちによって語られ、流布されたためでもあろう。この物語は兄弟の母と遊女虎の女の嘆きともとれる。兄弟の母は、二人に敵討ちを思いとどまるように、ことあるごとに説得する。母は十郎が結婚していないから敵討ちに執心するのだろうと思い、結婚を勧める。十郎は遊女なら類縁への罪が及ぶこともなかろうと、大磯の遊女虎のもとへと通う。箱根権現を抜けて、元服した五郎を母は勘当してしまう。勘当は兄弟が最後の別れを告げに行ったときにやっと許される。

 兄弟は敵討ちを果たす直前、和田義盛の屋形と畠山忠重の屋形で、それぞれ酒食をもてなされる。和田も畠山も兄弟に同情を寄せている。兄弟の目的も薄々察しているが、とどめようとはしない。後に和田も畠山も鎌倉幕府内の血腥い権力争いで北条に亡ぼされてしまう。また、五郎に厳罰を求めた、梶原一族も亡ぼされる。さらには頼朝に繋がる源氏の直系もやがて次々に非業の死を遂げる。本書の解説には、江戸時代の川柳のいくつかを挙る。それらは北条は曾我兄弟に頼朝を殺させたかったのだという解釈に立つものだという。なお、五郎の元服に際しては北条時政が烏帽子親になっている。

 133pには頼朝により誅罰された主な人々の名を列挙する。総勢140余人だとのこと。その後で、誤って殺生してしまったのは一条次郎忠頼、三河守範頼、上総介広常の3人だけで、後は自業自得だという頼朝の言葉を載せている。

 白河の関跡を昨年訪れたとき、そこに梶原景時の歌碑を見て驚いたが、『曽我物語』でもその歌の力量が何回か披露される。例えば198pには、浅間方面から宇都宮方面に狩で移動したとき、隅田川(今の利根川)を渡った。頼朝がこれは在原業平が詠んだ河だなあとつぶやいたのに、梶原が、「隅田川渡る瀬ごとに言問はん昔の人もかくやありけん」と詠んだ。頼朝は感心して、即刻引き出物として駿河の国久能十二郷を与えたという。その気前の良さに驚くが、これは頼朝が自らの権威を見せつけたかったからであろう。

 
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書名 人口から読む日本の歴史 著者 鬼頭 宏 No
2013-10
発行所 講談社学術文庫 発行年 2000年5月 読了年月日 2013−02−27 記入年月日 2013−03−18

 少し前に、速水融という人の「歴史人口学−めぐり会いと成果」という講演を聴いた。人口動態から歴史に切り込むという手法が新鮮で、民俗学と融合したミクロな観点からの歴史の見方が興味深かった。書店でたまたま本書が目についたので読んだ。速水融は著者の師にあたる。

 本書によれば日本の人口は過去1万年の間に4回の成長と停滞を繰り返しながら、波動的に増加してきた。日本列島で過去1万年の間に文明システムが4回交替しているからだと著者は言う。

 第1の波は縄文時代に見られる人口循環の波。第2の波は弥生時代に始まる波。第3の波は14・15世紀に始まる波、そして第4の波は19世紀に始まり今日に続く波である。

1:縄文システム 26万人(縄文中期紀元前4500年)、狩猟漁撈社会 
2:水稲農耕化システム  700万人(10世紀頃)、直接農産消費社会
3:経済社会化システム  3,258万人(1823年)、間接農産消費社会
4:工業システム    1億2778万人(2007年) 工業化社会

 各時代の人口の推定の仕方が興味深い。明治以降は戸籍が完備されたから、それに基づけばよい。それ以外の時代は推測によるしかない。例えば縄文時代の人口の推定には遺蹟の数と、8世紀の人口をもとに推定した集落ごとの人口をかけて求め、中期縄文時代に26万人という数を得た別の研究者による研究を紹介している。縄文中期以後は急激に減少し、晩期には7万6000人であったという(p26〜)。また縄文期には人口は圧倒的に東高西低であった。

 遺跡から発掘される人骨から、縄文時代人の平均余命も推定されている。それによれば15才時では男女とも16才の平均余命である。15才以下の人骨は溶けやすく保存されない。それらを考慮すると縄文時代の0歳児の平均余命は男女とも14.6才と推定される(p43)。

 江戸時代には宗門人別改帖が作製され、それに基づき、家族構成と人員、出生、死亡、婚姻年齢、婚姻経歴年数、出産年齢、出産数などの詳細な人口動態をたどることができる。こうした手法は速水融らによって確立されたという。全国人口調査が初めて行われたのも1721年である(p79)。江戸時代の人口動態の記述に本書の半分が費やされる。

 江戸時代前期は人口増加の時代であり、中期後期は停滞時代であった。前期に人口成長が見られた原因をいくつか挙げる。一つは、今まで抱えていた傍系家族や隷属農民が世帯を離れて、世帯構成人数が減少したことだという。傍系家族や隷属農民は晩婚もしくは生涯未婚であることが多く、こうした人々の減少は社会全体の有配偶率を高め、人口増につながった。16,17世紀は結婚革命の時代でもあり、誰もが生涯に一度は結婚するという「皆婚社会」が成立したという(p90)。こうした記述は普通の歴史書では見られない。

 この時代には小農民の自立が進んだという。太閤検地が小農民の自立を目指す政策であったと言われているが、著者は逆に。小農経営へと移行する農業経営組織の変化を敏感にとらえ。小農経営を政治・経済的基盤に据えることに成功したのが、秀吉であり、家康であると見る。(p91)。

 平均寿命については、男女ともが50才を越えたのは1947年のことである。江戸時代は30才前後であったろうという(p174)。江戸時代の平均寿命の特徴の一つは、女よりも男の方が長かったこと。これは、女性には妊娠出産による危険があったことによる。また、乳幼児死亡率が高く、0歳児の平均余命よりも、5歳児の平均余命の方が長いことがよくあった(p181〜9)。また、都市と農村では農村の方が平均寿命は長い。

 堕胎、間引きによる人口調節の意味について:単に農民の貧窮あるいは都市の道徳的堕落の結果と見ない見方が増えているという。出生制限は人口と資源の不均衡がもたらす破局を事前に回避し、一定の生活水準を維持するための手段であった。その結果、前近代経済成長を助け、一人当たりの所得を引き上げることに成功した。それが、17世紀の出発時点では似たような状況にあった日本が、19世紀の工業化の達成において中国よりずっと先に立つことができた原因でもあった(p109,P214)。
 歴史には常に新しい見方が出てくる。これもその典型例だろう。

 一つの社会が成熟期を迎えると、人口成長が停滞するという。縄文時代後期、平安時代、江戸時代後期。そして、現代の人口停滞も工業化社会の成熟の表れであるとする(p268)。著者は、日本の現在の少子化、人口減少を肯定的に捕らえる。地球環境の維持という面から見て、人口減少は日本の世界に対する最大の貢献と言えなくもないという(p272)。

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書名 日本の文字 著者 石川九楊 No
2013-11
発行所 ちくま新書 発行年 2013年2月 読了年月日 2013−03−15 記入年月日 2013−03−18

 今年上期の芥川賞受賞作『a bさんご』はひらがな主体で書かれた作品であった。読みにくかった。そんなことがあって、本書が書店で目に入った。

 普段使っている漢字、ひらがな、カタカナという3種の文字を使って文章を書いているが、何故そうなったのかを深く考えたことはない。本書は3つの文字の持つ意義を明らかにし、それから日本文化の特質に迫る。

 最初の方で著者は言う。漢字は1字が1語として独立している。ひらがなは、多くの場合2字以上が組み合わされて一つ言葉を形成する。ひらがなは例えば「み」と「ず」がつながって「みず」という言葉になる。そのためひらがなは末尾が「の」の形の右回転で終わる文字が多く、次の文字とつながりやすい形をしている。漢語は縦書きでも横書きでもよいが、右回転で終わるひらがなは縦につながる形をしており、横書きは本質的に向かない。ひらがなを横に書くことはアルファベットを縦に綴るのと同じだといい、その実例がp87に載っている。一方カタカナは春雨という漢字を開いて「春ノ雨」と訓読体にするために使われた。そのため「ノ」のように漢字にくさびを打ち込むような「ノ」の形のものが多い。「あ」「い」「う」「か」「な」「ア、カ、サ、タ、ナ」。いわれてみると、確かにそうだ。

 著者は書家でもある。本書の後半には、漢字の書法が細かく解説されている。その著者に言わせれば、日本でいちばん美しいものは、11世紀半ばに書かれた「寸松庵色紙」であるという。19ページのその写真が載っている。古今集から四季の歌を抜粋した断簡である。流れるようなひらがなで書かれた紀貫之の歌は、私のような素人がみても美しい。

 西洋では話し言葉だけで通じるのに、日本語では話し言葉だけでは通じない。例えば「せいこう」という言葉を耳にしただけではそれが「成功」であるか、「精巧」あるいは「性交」であるかはわからない。意味を正しく掴むためには漢字を思い浮かべなければならない。日本語というのは「文字を話し、文字を聞く」言語であり、「声を書き写したものが文字である」という西洋流の考えではつかまえられないという(p30〜)。

 漢字を構成する点画や部首はアルファベットに相当するという(p70)。.従って正しい点画や部首の書き方を教えることことはアルファベットを覚えることに等しく、習字学習が必須であると説く。本書の後半は多くの毛筆字の画像を示し、具体的な書字の心得にあてられる。書字の基本は毛筆であり(P158)、毛筆で大切なことは摩擦をあげるように書くこと(p194)。

 詩の特徴は韻律であるが、西洋の詩は音による韻律で構成されるのに反し、日本の詩は、特に和歌は言葉による韻律を特徴とする。著者は掛詞はまさに字韻を踏んで響き合っているという(p214〜)。

 最後に日本語劣化の一因を、通信器具に過ぎなかったパソコンを字を書く器具として誤って使っていることであると説き(p243)、習字教育の徹底を主張する。

 ひらがなは性愛の世界の表現に適している。源氏物語は男女の性愛物語であり、日本の物語で源氏物語を越えるものはない。和歌については万葉集ではなく、古今集につきる。書なら『寸松庵色紙』。これら平安中期に作られた作品が日本の美学を象徴しており、この頃が世界で日本が最も輝いていた時代である、と著者は言う(p61〜)。

 ひらがなの発明というのは、日本歴史上の一大イベントであったと思う。


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書名 日本近代哲学の遺産 著者 宮川 透 No
2013-12
発行所 第三文明社レグルス文庫 発行年 1976年 読了年月日 2013−03−21 記入年月日 2013−03−28

 
寝床の横の本棚にあった。暮れに整理したときに出てきた。息子か娘が学生時代に読んだ本だろう。どんな本を読んでいたのか興味があったので手にした。

 西田幾多郎、三木清、戸坂潤の3人を取り上げ、三者の相互関係を中心に、日本近代哲学を歴史的に概観する。私はこの三者の著作を読んだことがないので、例えば、西田幾多郎の『善の研究』の中心にある「純粋経験」といわれてもピンとこない。もっとも、西田の本を読んだところで、理解できそうもないが。

 西田哲学は美と宗教を同一視するような東洋的な芸術直感の立場に立つ。(p26)

 西田に師事した三木清の哲学は大局的には西田哲学と同質である。第一次大戦後、ドイツに留学した三木はマルクス主義の台頭もあり帰国後は社会問題にも鋭い評論を展開する。西田哲学に惹かれながらも、他方において西欧ヒューマニズムを受け容れ、最後まで西田哲学への批判を志した。しかし、三木の死によりその哲学の完成は見られなかった。

 戸坂潤は理系の人間。三木の影響を受けるが、戸坂は徹底した唯物論者、マルクス主義者であった。哲学を現実に対する武器として駆使した(p195)。彼の存在自体が唯物論的であったという。

 西田幾多郎は昭和20年6月に75才で死去。三木と戸坂も敗戦の年に獄死する。戸坂は8月9日、三木は9月。本書では二人とも栄養失調状態で疥癬になり、それがもとで急性腎不全で亡くなったという。二人ともまだ50才になっていなかった。戸坂は治安維持法違反、三木は逃亡者を自宅にかくまったという罪状であった。

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書名 享保のロンリーエレファント 著者 薄井ゆうじ No
2013-13
発行所 岩波書店 発行年 2008年 読了年月日 2013−03−25 記入年月日 2013−03−28

 
今月の初め浜松から浜名湖の北を通り御油にいたる姫街道を歩いた。途中引佐峠というところがあり、気賀側から三ヶ日へ下る坂道が「象鳴き坂」とい名前だった。享保14年長崎から江戸に向かう象がここを通った際、あまりの急勾配に悲鳴を上げたことに由来する。かつて中山道を歩いたとき、草津の手前、武佐宿でも象のエピソードを宿場の大きなエピソードとしていた。私が泊まった、慶長年間から続いている中村屋には、将軍吉宗から下賜された象の小さな鋳物象があった。それで、象は中山道を通って江戸に行ったと思い込んでいた。考えてみれば木曽のかけはしは象は通れない。鳥居峠、和田峠も大変だろう。とすれば、垂井辺りから名古屋に出て、東海道を行く。新居宿と舞阪宿を結ぶ渡しもゾウを乗せられる舟がなかった。というわけで、姫街道を歩いたのだ。

 どんなコースを通ったのだろうと興味がありネットで調べていて、本書にであった。私はノンフィクションだろうと思ってアマゾンから取り寄せた。ところが、これはフィクションであった。6編の物語と最後のエピソードからなる。

 江戸の浜離宮にいる象に餌の藁や竹笹を運ぶ中野の百姓親子、長崎に上陸した象の面倒を見た獣医の師と弟子、引佐峠で団子と蕎麦を売る茶店の主人と娘、夫が仇討ちを果たして帰ってくるのを待つ京都の母子、浮世離れした江戸の絵師と中間、そして安南からわざわざ象を呼び寄せた八代将軍吉宗とその息子家重。いずれも象の出現が人生の転機になる。象が人々に与えた衝撃、象をめぐる狂騒と共に、というよりかそれ以上に、描かれた人々が抱える人生の陰といったものと、それに注がれるがれる作者の暖かい目が何よりもこの小説の読みどころ。読んでいて、心が安らぐ時代小説。

 史実は長崎に上陸した象は雄と雌の2頭であったが、雌の方は江戸に向かう前にそこで死んでしまう。江戸への道中では、象の通過に当たって色々細かいお触れがでた。大声、鳴り物禁止、他の動物も象を驚かすから遠ざけよ。京都では帝に拝謁。拝謁には官位が必要とのことで、広南従四位白象という官位までもらっている。吉宗は自身が質素を旨とする享保の改革の実行者であった。大量の食糧を必要とする象はやがてやっかいものとなり中野の百姓に払い下げられる。そこでなお10数年を生き、結局日本に来て以来20年以上を孤独のうちに生きた。象を引き取った中野の百姓は象の糞あるいは涙を薬として売り出したりした。 

 本書の最後、エピローグ編では、河原崎座で興行された「象引」という荒事に払い下げられていたこの象が登場する。一日限りの興行で、蘇我入鹿と象を引き合う主役の山内源内左衛門は三代目市川團十郎が演じる。この興行の場に、本書の登場人物すべてが居合わすという設定で終わる。吉宗と家重はお忍びで。その他はあるいは観客として、あるいは舞台の書割を描いた画家、あるいは舞台の象が糞をした場合に備えている中野の百姓など。それぞれの後日譚が語られる。

 引佐峠の茶屋を舞台にした「象鳴き坂」で、作者は姫街道の由来について述べている。東海道のこの脇往還は、かつて「旧(ひね)の道」と呼ばれ、「旧(ひね)街道」が転じて姫街道になったという。(p87)。

「象鳴き坂」の主人公源七は数年前に逃げられた女房を訪ねて、赤坂の宿へ行く。その場面に以下のような記述がある:
赤坂といえば、岡崎、御油と並んで飯盛女の多い宿場だ。そして御油、赤坂といえば醜女を集めた宿で、「通りすぎるに及(し)くはなし」とまで詠われ、そこの飯盛女はすこぶる評判が悪い。

 そういえば、先年赤坂宿を通ったとき、宿場の説明板に旅籠内の情景を描いた浮世絵があり、くつろぐ旅人や飯盛り女が描かれていた。また、御油宿のそれは「旅人留女」という題で、路上で旅人の袖を引っ張り合う女が描かれていた。いずれも女の表情がユーモラスだった。

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書名 流轉 著者 有馬朗人 No
2013-14
発行所 角川俳句叢書 発行年 平成24年11月 読了年月日 2013−03−30 記入年月日 2013−03−31

 
昨年私が入会した俳句結社「天為」の主宰、有馬朗人の句集。オリーブ句会のメンバーの一人が購入し、回覧された。

「天為」につながる地元のオリーブ句会に入る際、ネットで著者の俳句を見た。有季定型を基本とする伝統俳句で、知的な叙景・抒情と海外詠が多いことを特徴とする俳句だと思った。これなら、私にも向いていると思った。

 2006年から10年までの436句を納める。著者第9番目の句集。82才になった著者は、第9句集とは我ながらのんびりしていると、感慨を述べている。

 上述の作風は本書にもよく現れている。海外詠はアジア、ヨーロッパ、中東、アメリカ、オーストラリアと、世界各地に及んでいるのに驚く。昨年も13回の海外出張があったという。海外詠のみならず、日常の細かい観察や、あるいは俳諧味を帯びた句もたくさんあることを知った。

 水温むルビコンと言ふ小さき川
 永遠は退屈なりや蟇   
 消えて行く冥王星や鉦叩き
 どぶろくやぼけ封じにはぼけるべし
 花ミモザセーヌ大きく曲がりけり
 天高しいななく漢の陶の馬
 亀鳴くや贋予言者は世に満てり
 天下国家論じ昼寝のホームレス
 星涼し旅の終はりの夜光杯
 猫の恋閻魔の留守の焔魔堂
 揚雲雀ガリア戦記の山河かな
 南船北馬ここは北馬ぞ天高し
 澄む水の湧くや明治の志
 パリの猫も戯れてくる猫じゃらし
 姿良き鯛焼の拓をとりにけり
 ウェルテルの悩みし街の遅日かな
 ごきぶりやこのしなやかな髭二本
 ごきぶりを語ることなき昆虫記
 噴水の他は無言や爆心地 


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書名 この一句 著者 下重暁子 No
2013-15
発行所 大和書房 発行年 2013年3月 読了年月日 2013−04−08 記入年月日 2013−04−17

 
芭蕉から始まり、和田誠に終わる108人の俳人たちからそれぞれ3句をあげ、作者の紹介がなされる。右側のページに3句、左側のページに作者の略歴と著者なりの鑑賞が簡単に記される。エッセイ教室の際、皆に紹介した。下重さんにとってはかなり思い入れの強い本。

 表紙の帯には鷹羽狩の評「
芭蕉から現代まで、一人三句で綴る俳句史である。その選択や快刀乱麻、天下無敵。これまで俳句に縁のなかった人にも、その扉を開く楽しみを与えてくれる一冊である

 時代順に並べられ高浜虚子が早くも17番目に出てくる。それだけ現代俳句が多くとられているということ。特に戦争を読んだ俳人と句は今まで目にしなかったもので、本書の特徴だ。そのいくつか:

 戦争が廊下の奥に立ってゐた       渡辺白泉
 徐々に徐々に月下の俘虜として進む    平畑静塔
 てんと虫一兵われの死なざりし      安住敦
 水をのみ死にゆく少女蝉の声       原民喜
 遺品あり岩波文庫『阿部一族』       鈴木六林男

 こうした句に目を向けたのは専門の俳人ではないから出来たことかも知れない。「
快刀乱麻、天下無敵」の選句。たくさんの句集に目を通さなければ出来ない。

野見山朱鳥(のみやまあすか、1917−1970)という俳人の項:
 蒲団開け貝のごとくに妻を入れ
 強ひていへばそは春愁のごときもの
 死なば入る大地に罌粟を蒔きにけり


 
大切な妻を蒲団に入れる。貝のごとくにという言葉が効いている。若き日の生命の歓喜、それは春愁のごときものと年老いてふと想い出す。ある時点から若き日の出来事は、思いだけになり、細部は消えてしまう。私も一度きりの恋を失い、それはある時点まで細部まで痛みを持ってよみがえったが、もはや、漠然とした想いだけに変わっている。さらに時が進むと、死という未来を見すえるようになる。この世であった全てのものを許す心境とともに、大地を罌粟でおおうという情熱もかすかに残っている。

 わかりやすい、親しみのわく鑑賞だ。「
俳句に縁のなかった人にも、その扉を開く楽しみを与える」。

 最後の数人は自身が属する句会メンバーを取り上げる。先ほど亡くなった小沢昭一、永六輔、岸田今日子、和田誠。これも「
天下無敵」の選句だろう。和田誠が本書の表紙カバーの装丁をやっている。紅葉なのだろう、オレンジ色に彩られた山が青い空の下にあることを思わせる派手な色彩の表紙。下重さんの句も後書きにいくつか紹介されている。
 仄白き宇宙の隅の寒卵      

 は金子兜太の選んだ『各界俳人三百句』に採られた3句のうちの一つ。

 エッセイ教室の帰りに、下重さんに108人という意味はと聞いたら、「煩悩の数です」と予想通りの即答が返された。今月の21日には、この本の一節を下重さんが読む小さなトークショウがあった。その際も、108人は煩悩を意味する、煩悩がなければ人はものなど書かない、と言った。私は、俳句は煩悩とは最も遠い文芸だと思う。煩悩などを引きずっていたら、17文字の短詩などできない。死の直前まで自己を客観化した子規に私は煩悩など感じない。上の戦争の句の背景にあるものは深刻なものであるが、それが煩悩と呼べるかどうかは疑問だ。

 
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書名 仮名手本忠臣蔵 著者 武田出雲作・守随憲治校訂 No
2013-16
発行所 岩波文庫 発行年 1937年 読了年月日 2013−04−24 記入年月日 2013−05−05

  
原作の忠実な翻刻を志したと、最初に記されている。初版は76年前。人形浄瑠璃の台本である。従って独特の節回しで、全編が綴られる。地の文は「地」、台詞は「詞」と小さく文中の記され、改行はない。文中には1ページあるいは見開き2ページにわたる挿絵が所々挿入されている。全部で11段から構成される。初演は寛延元年、1748年。大阪竹本座。本書の最初にその時の義太夫役と人形遣いの役が一覧されている。

 内容はもちろん赤穂浪士の討ち入りを扱ったものだが、お上にたてつく劇だから、幕府に遠慮して時代を足利幕府創設の頃においている。吉良上野に相当する高師直、内匠頭に相当する塩谷判官は作者がその名を使っただけで、実際には両者は関係ないのだと思っていた。ところが、実際には太平記21巻『塩谷判官讒死の事』を粉本にしていると、後で知った。史実であったのだ。

 足利尊氏の名代として足利直義が鎌倉に下り、討ち取った新田義貞の兜を八幡宮に納めることから物語は始まる。鎌倉にいる幕府の実力者は高師直。直義の接待役を命じられたのは桃井若狭之助と塩谷判官高定。直義が持参した兜は47個。どれが義貞のものかわからない。それでかり出されたのが塩冶の妻かほよ。かほよはかつて宮廷に仕えていたので、後醍醐天皇から義貞に下賜された兜を見分ける。蘭奢侍の匂いが決め手だ。かねてから美女の誉れ高いかほよに師直は横恋慕する。そして、かほよに言い寄り、付け文を無理矢理押しつけようとする。たまたま来合わせた桃井若狭之助がかほよを助ける。怒った師直は桃井をさんざん罵倒する。かっとなった桃井は、師直に斬りかかろうとするが、タイミング悪く果たさない。翌日の接待の席で再度斬りかかりかねない短気な桃井の性格を案じた家臣の加古川本蔵は、夜、密かに師直に袖の下を贈り、事なきを得る。

 翌早朝の接待の席に塩谷判官は遅参する。かほよの腰元おかるが塩谷の家臣早野勘平に届け、さらに塩谷から師直に渡されたかほよの返歌は、師直の思いを拒絶するものであった。かほよから拒絶された師直は、腹いせに塩谷の遅参をさんざんになじる。腹に据えかねた塩谷は抜刀し、師直に斬りかかる。しかし、居合わせた加古川本蔵に抱きかかえられて、師直を討ち果たすことは出来ない。塩冶は切腹、取りつぶしとなり、塩谷の家老、大星由良助義金による仇討ちとなる。

 物語は、これに早野勘平とおかるの悲劇、大星力弥と加古川本蔵の娘の小なみとの恋などが複雑に絡み合う。

 おかると寛平はかねてからの恋仲。かほよの文をおかるから受け取り塩谷に渡した勘平は、その後おかるとの逢い引きに、塩谷のもとを離れてしまう。その間に塩谷が師直に斬りつけ、切腹、取り壊しとなったことに責任を感じた二人は、おかるの里、山城の国山崎へ隠遁する。何としても由良之助の義挙に加わりたい勘平のために、おかるの父は、おかるを祇園へ売って、金を工面し、それを持たせて、勘平の願いを叶えさせようと思う。前金の50両をもらって祇園から帰る父は、途中で襲われて殺されその金を奪われる。猟師をしていた勘平は、猪と思って仕留めたのが、その盗賊で、盗賊から50両を抜き取る。勘平が家に帰ったときには、おかるは迎えに来たかごに乗ってすでに祇園へ向かった後だった。おかるの母親は夫が帰ってこないのを不審に思っていたが、勘平が夫の財布を持っているのをちらりと目にし、さては夫を殺したのは勘平だと詰め寄る。そこにやってきた義士の仲間の二人からも、問い詰められ、勘平は自ら腹を切る。すぐ後で父を殺したのは勘平でないことが判明するが、後の祭りであった。

 本蔵の妻戸無瀬は、娘の小なみをなんとか大星力弥とそわせようと、二人で山科の大星の所までやってくる。しかし、大星の妻お石は、師直に贈り物などして武士の面目をつぶすような男の娘を嫁にするわけにはいかないと断る。娘の一途な思いを知っている戸無瀬は、それならいっそ死のうと刀を振り上げ、娘を切ろうとする。その時、虚無僧が止めに入る。そして、お石も結婚の条件として、本蔵の首をこれの乗せてこいと、三方を持ってくる。虚無僧は本蔵であった。本蔵はそれは出来ないと、お石に言い、二人は斬り合う。そこに力弥が出てきて、本蔵は力弥に討たれる。虫の息で本蔵は、塩谷判官を止めたのは、まさか切腹、お家断絶になるとは思わなかったからだと言い、せめてもの申し訳にこの首を力弥に差し出そうという。本蔵の言い方には、赤穂事件での幕府の裁きに対する明かな批判だ。

 最後は高師直の首をあげたところで終わり、その後の大星らの運命については言及されていない。

 一読で、細かいところまでは理解できなかった。上述のあらましは、ウイキペディアの「仮名手本忠臣蔵」を参照しながら書いた。

 私は『太平記』を読んでいないので、高師直の傲慢振りなどは知らない。ただ、NHK大河ドラマ『太平記』や、杉本苑子の『風の群像』から得た印象では、いわゆる婆娑羅大名の典型で、豪放で権威を恐れず、近代的な合理性を持った人物と思っている。吉良上野介に擬せられるというのが、今でも不思議な気がするが、私のような見方は特に戦後のもので、江戸時代、戦前までは日本史上でも典型的な悪人の一人と見なされてきたのだろう。

 本書には浄瑠璃の語り手の指定と思われる文字が至る所に挿入されている。例えば第8段「道行旅路の嫁入」の冒頭は:
ハルウ 浮世とは。ウたがいひそ中めて。フシ飛鳥川(p84)。以下、戸無瀬と小なみの東海道道行きが続く。

 先日歩いた鈴鹿峠越えの前後を語り手の指定を省いて記す:
舟路の友の。跡や先庄野亀山せきとむる。伊勢と吾妻の別れ道。駅路の鈴の鈴鹿こへ。間の土山。雨がふる水口の葉に。いひはやす。石部石場で大石や小石ひらふて我夫と撫つ。さすりつ手にすへて。やがて大津や三井寺の。梺(ふもと)を越て山科へ程なき。里へ。いそぎゆく。

 53次の、庄野、亀山、土山、水口、石部、大津が詠み込まれている。石部の所では、大石小石とあり、これは明らかに大星由良之助と息子の力弥、つまり大石内蔵助と力父子を言っている。そういう面白さが、あるいは浄瑠璃の特徴なのだろう。本書にも至る所に出てくる。

 本書の後半分には「古今いろは評林」という『仮名手本忠臣蔵』の劇評が載っている。著者は八丈舎自笑。寛延元年から天明5年までの38年間に上演された41興行のすべての役者名が一覧されている。その後で、登場人物一人一人についての性格分析と演じた役者の評価が詳しくなされる。これを見てもこの劇の人気振りが伺えるが、同時に江戸の世の泰平振りも。

 
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書名 人間に勝つコンピュータ将棋の作り方 著者 コンピュータ将棋協会監修、瀧澤武信他著 No
2013-17
発行所 技術評論社 発行年 2012年11月1日 読了年月日 2013−04−26 記入年月日 2013−05−05

 
4月20日、コンピュータがプロ棋士の三浦弘行8段に勝ち、コンピュータと人間が対戦する第2回電王戦はコンピュータの3勝1敗1持将棋に終わった。三浦はA級順位選で羽生と最後まで名人挑戦権を争った現代のトッププロである。3月の末から毎週土曜日に行われた電王戦はネットで中継され、私は5日間、ネットに釘付けになって観戦した。事前の予想では大接戦でどちらが勝っても3ー2だと思っていた。コンピュータは強かった。最終戦の三浦は特に悪手を指したとは思わない、コンピュータは予想以上に強かったと局後の感想を述べた。相矢倉の将棋で、三浦は相手に一度も王手をかけることなく投了した。

 前年、米長永世棋聖がコンピュータに負けたが、そのプログラムは評価関数を強化した結果、コンピュータ将棋の世界チャンピオンになったという。今回の中継でも、1手毎に局面の評価が数字で出ていた。評価関数を中心に将棋ソフトの仕組みをもっと知りたいと思ってアマゾンを検索したら本書に行き当たった。直接的な題で、しかも表題が実現してしまった。

 著者は三浦八段に勝ったGPS将棋の開発者を初め、激指、Bonanza など有力なソフトの開発者を含む多数の専門家。最初にボンクラーズが米長永世棋王を破った将棋の棋譜が載っており、以下、将棋ソフト開発の歴史、ソフトの基本、各ソフト開発のポイントと続き、2010年の清水女流王将と「あから」との対戦の棋譜と詳細な解説あり、最後は「名人に勝つXデイのあとで」という章で締めくくられる。興味深い本であった。

 評価関数について:激指の解説の中で、次のように述べられている:
特にYSS(別の将棋ソフト)の玉からの相対位置で駒の働きを判断する手法は、激指では、局面の進行度と組み合わせて用いることにより、非常にうまく働いた。中略  将棋プログラムの強さは、評価関数の設計の良し悪しに強く依存する……評価関数の設計には、プログラマ自身の棋力がある程度必要であり……コンピュータ将棋は、プログラマの職人芸的な作業に依存しすぎていたのである。ところが2006年のコンピュータ将棋選手権でデビューしたBozanza が、この常識を打ち破ることになる。 Bonanza の開発者である保木氏は、評価関数の自動学習を実用的な意味で初めて成功させ、プログラマ自身に深い将棋の知識がなくても、また、手作業によるチューニングに多大な時間をかけなくても、優れた評価関数を自動的に作れることを示した。(p86〜88)

 機械学習の方法は教師付学習と呼ばれるものの一種である。教師信号にはプロ棋士などにより指された50000棋譜程度を使用して、プログラムが教師信号と同じ手を指すように評価関数を調整する。(p141)。

 現在のBonanzaでは、評価項目は5千万個である。40枚の駒からなる将棋の局面を以下により評価する。1.駒割り 2.玉2つと他の駒1つの配置 3.玉1つと玉以外の駒2つの配置。4駒以上の位置関係は3駒の組み合わせの和により近似的に求められる。

 基本的に玉と他の駒との位置関係で局面の評価をするというのが、意外である。電王戦を見ていて、コンピュータの形勢判断が、解説のプロ棋士とは正反対であることがしばしばあった。全局面を見渡して局面の判断をする人間とはズレが出るようだ。

 プロ棋士の棋譜を教師とするから、局面の優劣認識において、コンピュータが人間を越えることは出来ない。それを解決するには、人間の棋譜に頼らないような評価関数の機械学習を開発することが望まれると、保木氏は言う(p144)。

 2010年に清水女流王将に勝ったコンピュータは「あから2010」。将棋の局面における分岐数は平均80、1局の平均手数115手とすると、可能な局面の数は80の115乗、およそ10の220乗である。そのようなとてつもない数を「阿伽羅」といい、「あから」の名前はそれに由来する。このソフトは4つのソフトの合議制で指すものであった。各ソフトにも棋風があるという。その棋風を現役の棋士と比較した図がある(p207)。
駒得、厚み、受けを重視する棋風から攻撃、軽快、捌きを特徴とする棋風へ順に並べると以下のようになる。激指、木村一基8段、YSS、羽生善治3冠、渡辺明3冠、谷川浩司9段、久保利明9段、GPS将棋、Bonanza。

 最後の「名人に勝つXデイのあとで」にはすごいことが書いてある。松原仁は、はこだて未来大学教授はいう:将棋に「オセロの悲劇」を繰り返して欲しくない。「オセロの悲劇」とは、1997年に実現したコンピュータとオセロの世界チャンピオンの対戦において、コンピュータが6−0で完勝したこと。オセロ関係者にはこれはトラウマとなった。人間がコンピュータと対戦するのが遅かったので、こんな結果になったのだという。1990年代の初めに対戦していれば、こんな惨めな結果にならなかったろうという。将棋名人がコンピュータと良い勝負が出来るのは、どんなに遅くても2020年までだという。そうなる前に是非名人がコンピュータと戦い、オセロの悲劇を繰り返して欲しくないという。本書が出たのは三浦等プロ棋士がコンピュータに敗れる前であったから、著者のいうことは決して誇張ではない。森内名人、羽生三冠、渡辺三冠の誰かとコンピュータとの真剣勝負が来年あったとして、人間が勝てるとは言い切れないと私も思う。

 松原教授は個人的には「接待将棋」ができるコンピュータの実現を目指したいという。だれとでも1手違いのいい勝負をするコンピュータだ。そして、誰にでも勝つコンピュータを作るより、誰とでもいい勝負の出来るコンピュータを作る方が遙かに難しいし、また価値も大きいという。人工知能の例題としてのコンピュータ将棋の役割はほぼ終えつつあると、勝利宣言で本書を締めくくっている。

 
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書名 元禄忠臣蔵 上・下 著者 真山青果 No
2013-18
発行所 岩波文庫 発行年 1982年 読了年月日 2013−05−02 記入年月日 2013−05−05

 
大変に良くできた戯曲。台詞中心の戯曲というのは読みにくいものだが、上下巻あわせて文庫本700ページを越える本書は一気に読んでしまった。台詞だけであの事件の大筋を整然と詳細に描き出す手腕は見事。登場人物は恐らく100人は越えるであろう。その一人一人がしっかりと描かれている。もちろん同志の47人の大半が登場するが、一人一人の抱える事情や個性が描き分けられている。史実に忠実であろうという著者の姿勢は至る所に見られ、多くの史料を細かく調べたようだから、描き出された人物像はほぼ史実に近いのではないか。忠臣蔵の決定版と言ってよさそうだ。

 本書の最終章「大石最後の一日」の中で、内蔵助は細川家の家臣村井に対して言う。「あ
れも知謀、これも計略と……人間以上の英雄に祭り上げられるのは、些か迷惑にもあれば、当惑に存じおります」(下巻p312)。とはいえ、本書の内蔵助はスーパーマン的存在、武士というより人間の鑑として描かれている。

 舞台は江戸城松の廊下から始まり、赤穂城、伏見橦木町、南部坂(三次浅野家の中屋敷で内匠頭の未亡人が身を寄せる)、吉良屋敷、泉岳寺、仙石屋敷(幕府大目付の屋敷で討ち入り後の一行が出頭したところ)、細川屋敷(大石最後の一日)と発端から大石の最後まで経時的に展開される。上巻の最後、伏見橦木町の後に御浜御殿というのが一つ入る。この場面だけが特異で、忠臣蔵にこんなところが出てくるのが不思議に思って読み進めた。 浜御殿とは今の浜離宮で、当時は甲府中将綱豊の下屋敷である。こんな所だから、当然内蔵助は登場しない。しかし、この場面は全編の白眉ともいえる面白さだった。綱豊は5代将軍綱吉の甥。綱吉には継子がなく、次期将軍には綱豊も取りざたされる。綱豊の他にも紀伊家の男子を推す一派もある。綱吉は能ある人物を妬む性格だ。綱豊は遊興三昧にふけっているが、それは綱吉の目をごまかすための方便ではないかと世間では見る。春の一日を下屋敷の浜御殿で奥女中を引き連れて、浜遊びをする。奥女中が旅人に変じる「道中こと」といった無礼講の遊びだ。

 綱豊の正室は近衛家の出である。内蔵助の家は代々近衛家と縁が深い。内蔵助を高く買う近衛家は彼を何としても召し抱えたいと思う。しかし、内蔵助は幕府に出した浅野大学頭による浅野家再興が認められるまではそれは出来ないと断る。近衛家は綱豊の正室を通して、綱豊から将軍に直々再興をお願いして欲しいと再三要望する。浜御殿での遊興の日も近衛家への返事を迫られている。遊興の最中に、綱豊は師である新井勘解由(白石)を呼び出し、自分の心中を勘解由に打ち明ける。京都の朝廷を初め、江戸の庶民まで浅野家と吉良家に対する処分は不公平であると浅野同情論が圧倒する中で、綱豊が綱吉に浅野家の再興を願えば、綱吉は承諾すると綱豊は思う。綱豊自身、根っからの浅野びいきである。にもかかわらず、彼は新井勘解由に再興を進言しないという(上p311)。再興がかなえば吉良を討つ名分がなくなるからだ。

上巻 p311:
綱豊   勘解由、討たせたいのう。
勘解由   は、は。
綱豊   躬(み)にかかわりなき事ながら、いささか世道人心のためにも、討たせたいのう。目出とう浪人らに、本望をとげさせてやりたいのう。

 これに続き、内蔵助の遊興振りを勘解由が心配する。あれがもし本心だったらせっかくの綱豊の配慮も無駄に帰すと勘解由。それに対して綱豊は言う:
……内蔵助の放蕩の噂をきくにつけ、こりゃいったんの思いつきではなく、根強く謀る彼らの忠義――、必ず本望遂げる日があると、今日では堅く信ずるようになりました。

 新井勘解由が帰った後、綱豊は内蔵助の同志である富森助右衛門を招き入れて対面する。助右衛門は浅野家では200石の家臣。綱豊の奥女中でお手つき中臈となったお喜世の形式上の兄に当たる。お喜世は浅野内匠頭の正室に仕えていた女中である。助右衛門は内匠頭未亡人つきの老女から、お喜世あてに手紙を託されている。それはやはり浅野家再興をお喜世を通して綱豊に頼んでもらうようにというものだ。そのことを知った綱豊は助右衛門を御前に呼ぶ。不承不承助右衛門は綱豊に会う。敷居を越してもっと近くにより、盃を受けよと綱豊は言うが、助右衛門は頑として敷居をまたがない。ここから始まる二人の対話は本書の読みどころの一つ。大石をさんざんに罵倒し助右衛門の反応をうかがう綱豊。あくまでも討ち入りの事など知らないとしらをきる助右衛門。内蔵助の遊興は討ち入りをごまかすための方便であろうと迫る綱豊に対し、助右衛門も、殿は6代将軍の座を望んで綱吉の猜疑心を招かないために、遊興にふけっているのだと切り返す。綱豊は最後の切り札を切る。明日の登城日には近衛家からの強い要望である浅野家再興の願いを進言すると言う。そうすれば仇討ちの名分がなくなるだろうと助右衛門に迫る。ここにいたり、助右衛門は敷居を越え、綱豊の前に両手をつき、滝のような涙をこぼす。綱豊は助右衛門の決意の程を、一味の堅い結束を確認する。

 その夜、余興として能が演じられる。題目は「船弁慶」。その知盛役を吉良上野介が演ずると助右衛門はお喜世から聞く。しかし、事情があって上野介は浜御殿には現れず、知盛役は綱豊が演じる。楽屋から舞台に向かう仮廊下に知盛が出てきたとき、潜んでいた助右衛門は槍で突きかかる。綱豊は予期していたようだ。面をとった知盛は綱豊であった。綱豊は助右衛門を諭す。たとえ吉良上野介の首をあげたところで、それは天下の義とは認められない。義は結果にあるのではなく、発するところにある。内蔵助に唯一の誤りがある。それは浅野大学頭によるお家再興を願い出たことだ。それで上野介を討つことは天下の義とは認められないという。そして、内蔵助の遊興三昧は吉良を油断させるための計略ではない、内蔵助は自らが不用意に放ったお家再興という矢の行方を淋しく見つめているのだ。内蔵助のこの淋しい、悲しい心はそちらにはわかるまいという。内蔵助の心境を見事に見抜いていたのだ。綱豊は駆けつけた家臣たちに、何事もなかったように、助右衛門をしたたかに酔って道に迷った者として阿呆払いにせよと命じ、自分は能舞台へ向かう。

 綱豊が格好良すぎる。綱豊はその後6代将軍家宣となり、お喜世は7代将軍家継を産む。
 家宣は将軍在位はわずか3年5ヶ月であったが、生類憐れみの令を即座に廃止するなど、歴代徳川将軍の中でも名君とされているという。

 本書を読んで意外に思ったことの一つは、内蔵助、綱豊など主要な登場人物に、尊皇思想が極めて強いこと。例えば、内匠頭切腹後、赤穂にいる内蔵助のもとに、京都留守居役の小野寺が、天皇が「内匠頭一念達せず不憫なり」ともらしたと伝えると、内蔵助は京都に向かって平伏し、「
内匠頭、救われました救われました。救われ、救われ……救われました」と繰り返す。(上巻p85)。綱豊が浅野家再興を望まない一因は、小大名として再興されるよりも、討ち入りを果たすことを朝廷は望んでいると考えるからだ。

 また、討ち入り前夜の雪の南部坂の舞台では国学者で後の荷田春満、通称斎宮(いつき)と内蔵助が遭遇する場面がある。荷田は赤穂浪士の討ち入りを期待する。そして、吉良邸での茶会の日を赤穂浪士一味に知らせている。そんな荷田は内蔵助に向かって、「
中古以来唐土の学問に穢されたる唐心を洗い去って、ただ清浄簡明なるわが大大和心の発揚を見たい一心に過ぎないのだ」と、吉良への仇討ちの期待を述べる。対して大石は無言である。荷田はさらに続けて、大石を腰抜け侍、恥を知れ恥を知れとののしる。さらに、大石が開城の際持ち去った金について言及し、それを祇園撞木町の遊女町に費やすとは何事かと難詰し「ええ、おのれそれでも人か、侍か。ええ、ええ、おのれ、わが皇国ぶりの大やまと心を傷つけ汚す悪人め、大罪人だ!」とわめく。そして大石を引きずり回し、雪の上に倒し足蹴にまでして、去って行く。大石はゆっくりと起き上がり、服装を正し、しばし瞑想し立ち去らんとしたときに、門内より内匠頭の未亡人、瑤泉院が現れ、大石は最後の別れを告げる。(下巻p64〜)。ここには義士の討ち入りを大和心の発現と見ている。本書が発表されたのは昭和10年から16年にかけてである。戦争へと突入していった当時の風潮が反映しているように思う。

 驚いたことの一つは、全編を通して泣く場面が多いこと。感涙であったり、悲嘆の涙であったり、悔し涙であったり、とにかくよく泣く。『平家物語』もそうであったが、武士の物語に涙は欠かせないものか。例えば、大目付仙石による内蔵助等に対する長い尋問の最後、仙石は300人もいた浅野家家臣のうち、同志は50名足らずであったではないかと問う。内蔵助は「
はらはらと落涙して」、これが人間のまことの姿だと思って欲しいと答える。内匠頭切腹の日に吉良邸討ち入りとなれば、一人残らず切り込んだであろう。しかし、親兄弟、妻子もあり、遁れられぬ事情もあり、日が経つにつれて抜けて行くのは人間の悲しさで、責めるべきことではないと言う。仙石は、泰平の世の武士の手本だといって、「涙を払って」尋問を締めくくる(下巻p273〜)。

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書名 俳人荷風 著者 加藤郁乎 No
2013-19
発行所 岩波現代文庫 発行年 2012年7月 読了年月日 2013−05−25 記入年月日 2013−06−01

 
帯には「初めての荷風俳句論」とある。俳句を通しての荷風論、もっと言えば、荷風研究の歴史を概観し、取り上げられることの少なかった資料に独自の考察を与えたもの。かなり専門的である。著者は俳人・詩人で江戸俳諧の研究者とのこと。漢語を多用した凝った言い方、俳号で出てくる聞き慣れぬ荷風を巡る多くの俳人など、すらすらと読める本ではなかった。読んでいて、世の中には俳人と呼ばれる人が実に多いと感じた。

 荷風は生涯に800ほどの句を作ったとされる。しかし、まとまった句集のようなものはない。『断腸亭日乗』に記されたものなどを著者は丹念に拾い、句の成立時期や、背景などを考察する。

 荷風を俳人であるとする著者は、正面切って荷風俳句が論じられないことを嘆く。待合遊びに興じる風俗習慣または余裕が失われ、花柳小説をまともに論ぜられる通人がいなくなった戦後この方の不風流きわまる昨今では、荷風の俳句までは手が回らぬのだと、著者は言う。「荷
風の句の多くは人生のはかなさをさりげなく述べた月並または写生句の仕立手であるにもかかわらず、勘どころである諧謔と自嘲」があると著者は言う(p3)。

『断腸亭日乗』昭和10年、荷風57才、正月二日の句

元日やひそかに拝む父の墓
行くところ無き身の春や墓詣
門しめて寐るだけ寐たりけさの春
若水にまづ粉薬をのむ身かな
初夢を見よと物食ふ寐しな哉


 著者は言う:
年初に際して吐きつらねた独白五句としてはいかにも淋しい。行くところ無き身の春や墓詣、などとは作り話の上手な職業俳者流でもなかなかに詠める筋書きでなく、放蕩無惨を文学信条さながらに求めつづけた散人ならではの俳諧デカダンスであろう。文人、いや俳人荷風は一庵の俳諧師たらむとして長きにわたる素居独棲を貫き通したとおもえないものでもない。(p116)

紫陽花や身をもちくづす庵の主

 詩人の日夏耿之介はこの句を評して言う:
よしんば荷風百句のことごとく回禄に帰しても、この句たまたま一句遺つて後生まで荷風文学の髄脳を端的にものがたることであろう(p139)。著者は昭和13年に出された日夏のこの『荷風俳諧の粋』を激賞している。
日夏は以下のような句を佳句として挙げている(p134);

春雨や船からあがる女づれ
春の船名所指さすきせる哉
青竹のしのび返や春の雪

 
これらの句は陳套に身を委ねていながら、自然に燃えあがる地道な古色の美が、自己にとっても時代にとっても必須の審美価値であることを心得きった荷風ならではの句であると、日夏は言う。

わたし場をさがして歩く月見かな 

 荷風ほど月見に執着した俳人はいないのではないかと、著者は言う。『断腸亭日乗』には15夜、16夜、17夜と続けて月への言及がある。(p90)。この句を著者は荷風の三名吟に挙げたいという。(p92)
 
 荷風が唯一兄事し50年にわたって交誼を結んだ人に籾山仁三郎がある。その句集『江戸庵句集』に荷風は長文の序を与えた。その一節:
 
余原来俳諧につきて知る処なし。十余年前十千万堂紅葉の紫吟社楽天居小波の木曜会運座に列りて唐突季の何たるかを隣席の人に問ひ又耶哉(やかな)の二段切に一座の笑を醸したる是余が俳句に関して知る処のすべてなり。(p206)
 書かれたのは大正4,5年の頃。荷風が俳諧の勉強を始めたのは、尾崎紅葉の紫吟社、巌谷小波の木曜会である。その頃の荷風は、季語の意味もよくわからず、「や」と「かな」の二段切れの句で皆に笑われたというのが上の文の意味だ。

 著者は本書の校正を終え、後書きの途中まで書いて逝去したとのこと。

 著名な作家で俳句もよくしたというのは、荷風が最後ではないか。谷崎潤一カも、川端康成も、三島由紀夫も、開高健、大江健三郎、村上春樹も俳句をやったという話は聞かない。これら作家と、俳人としても認められている、漱石、龍之介、荷風との比較というのは作家論として面白いのではないか。


 
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書名 江戸近郊道しるべ 著者 村尾嘉陵作 阿部孝嗣 訳 No
2013-20
発行所 講談社学術文庫 発行年 2013年4月 読了年月日 2013−05−25 記入年月日 2013−06−01

 
原著者村尾嘉陵は徳川御三卿の一つ、清水家に仕える幕臣。その村尾が表したウオーキング記録を現代語に訳したもの。時期は1807年(文化4年)から1834年(天保5年)。著者57才から74才に及ぶ。刊行を意図されたものではない。タイトルも後世の誰かが付けたもの。本書は原本からの翻刻ではなく、平凡社の東洋文庫に納められた朝倉治彦氏の編注をもとに抜粋、現代語訳したものである。

 文字通り江戸近郊へのウオーキングの詳細な記録。著者の住まいは麹町あるいは日本橋。そこから北は大宮、東は松戸・柏、南は川崎大師(途中船を利用)、西は高幡不動といったところまで歩いている。現代の地名が括弧書きで入っているので便利だ。東京全域で古い町名の変更があったにしては200年前の地名がよく残っていると思う。磁石で方角を確かめたり、地元の人に道を聞くことは何回も出てくるが、地図で確認したという記述には出合わなかった。朝早く出て、夜遅くなることも多い。特に夜道は歩きにくかったと思うのだが、江戸も19世紀になると、道筋の灯りもあり、治安もよかったのだろう。

 全部32編の紀行記録の一例として百草村(日野市百草)と高畠不動詣でを引用する(p100〜)。

 天保4年陰暦10月の夜明け前に麹町3番町の家を出る。著者73才の時だ。友人と二人連。百草村の松蓮寺からの眺めは江戸近郊では並ぶものがないと聞いていたので、行ってみたかったのだ。市ヶ谷の辺りでねぐらを出た烏の声がする。早速一首を読む。幡ヶ谷で夜が明ける。紅葉が美しいのでここでまた2首。歌はこの後も折に触れ作り、10首以上を作っている。

 代田村を過ぎた頃、目黒村の祐天寺の鐘の音が聞こえる。8時を告げる鐘だ。調布では連れがまだ行ったことがないというので深大寺へ寄り道する。深大寺は昔北条氏が城を構えたところだと、寺にまつわる歴史が述べられる。府中では、若いころここの六社に一緒に参拝した仲間が皆亡くなってしまったと感慨にふける。府中で一軒の家により昼食。筆者は道中瓢に入れて持ってきた酒を飲みながら来たので、昼食をとるとすっかり酔いが回ったと書く。ここでも歌を詠む。それも万葉集を引き合いに出しての歌作だ。酒が無くなったので酒を仕入れて旅を続ける。

 中河原というところで玉川を渡る。渡し船の中で、酒を飲もうと思ったが、すぐ着いてしまって飲む暇がない。渡ってからは道端に山柿がなっているのでそれを食べながら歩く。この辺り、稲毛領の山には柿が多く、王禅寺辺りで採れる霜丸、禅寺丸という柿は美味しいと記す。(現在の小田急線の柿生という駅名はそこから来ているのだろう)。

 やがて百草村に着く。松蓮寺の裏山に木の根や土留めの杭などに手をかけながら登る。確かに眺めはよさそうだが、あいにく薄霞で筑波、日光、赤城などの山々もどれと確認することが出来ない。富士山も見えると聞いてきたが、前方の山に遮られてはっきりしない。ただ、大山は見える。大磯の海まで見えるとも言われているが、どうもそうしたことは嘘っぽい。地元が景勝を誇ろうと見えないものを見えるように言いふらしているのだ。その上、地元の僧たちが洞穴を作ったり植木屋や庭師に倣って家など建てて景観を壊し、八景十八勝などと勝手に言っているのはけしからぬ話だ。

 茨の中を歩いて日暮れ前にどうやら高畠不動に着く。途中には馬捨て場があり、草むらに馬の骨がたくさん転がっていて汚らわしかった。不動では住職に案内してもらう。寺の様子が詳しく記述される。住職の用意した酒を一杯やってから饗膳にあずかる。食事後風呂を浴び、湯上がりにまた一杯。明け方起き出してみると、月は冴え渡り、玉川の流れの音が間近に聞こえる。最後は連れの歌と俳句で結ぶ。
 この紀行は一泊しているが、他の紀行は日帰りだ。

 私も甲州街道歩きでほぼ同じ道を歩いた。日本橋から府中の大国魂神社(六社)まで、2日がかりでおよそ8時間かかっている。著者の健脚振りがうかがわれる。

 巻末の田中優子の解説によれば、村尾嘉陵の役職は御広敷用人。清水家の主人と夫人の居住する奥向きの生活の事務責任者であったろうという。本書を読む限り、教養のある武士だ。化政から天保へかけての江戸の泰平も偲ばれる。

 用賀村(現在の世田谷区用賀)に行ったときには、道端に今で言う無人スタンドがあり、茹でた栗を売っているが、人目もないのに誰も盗んで行くものがなく、栗も銭も放置されている。都会の人と比べてなんと実直な心持ちの人たちだろうと感心する(p309)。

「南郊看花記」は城南に花をたずねた記録。愛宕山から増上寺を抜け、泉岳寺へと。増上寺裏の池の中島にも素晴らしい桜が4,5本あると述べる(p252)。ここは私が子供の頃遊んだ弁天池と称する池だ。数年前に行ってみたら、池の周辺には桜があり、花見用の仮設トイレが設置されていた。さらに聖坂を上って泉岳寺へ向かう。聖坂をほぼあがったところに私の出た中学があり、毎日通った坂だ。今は町名が代わってしまったが、聖坂の南側は三田功運町といった。本書によれば、ここには功運寺という禅寺があり寄っている。寺には筆者の父の書になる碑がある。碑を読んで見ると脱字があるのに気がつく。当時急いで作らせたので石工が間違って刻んだのだろう。40年以上前のことで、感慨無量であると記す(p253)。泉岳寺にも数百本の桜があり、眺めは素晴らしいという。

 
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書名 鏡花短編集 著者 泉鏡花、川村二郎編 No
2013-21
発行所 岩波文庫 発行年 1987年 読了年月日 2013−06−07 記入年月日 2013−06−09

 
『竜潭譚』以下9編の短編集。先月のエッセイ教室で、躑躅という字と髑髏という字の類似性に着目し、詩のような作品を受講生の一人が提出した。無気味な雰囲気をたたえた作品だったが、講師の下重暁子さんは作品が泉鏡花の『竜潭譚』(りゅうたんだん)と似ているとコメントした。

『竜潭譚』は『高野聖』に似た作品。あるいは『高野聖』の原型。両側に行けども行けども躑躅の花が咲く道に少年は踏みこむ。夕暮れ時になってどうやら見慣れた神社の境内に帰ることができた。心配した姉が探しに来るが、少年の顔を見て、弟ではないと、逃げ帰ってしまう。少年は途中できれいな虫を追いかけたのだが、それがハンミョウで、顔を刺されて醜く腫れ上がっていたのだ。さまよったあげく少年は気を失う。気がついたときには、美しい女の住まいだった。一夜明けて、女の老僕に送られて少年は帰る。しかし、彼は気が狂ったものとして家に幽閉される。姉すらも、彼を正常とは見ない。少年は姉に連れられて寺に行く。僧の読経が終わると、激しい雨風が吹く。その雨風によって流出した土砂によりせき止められて、少年が一夜を明かした女の住んでいた谷は深い池となる。あらすじを要約するのは難しいが、ざっとこんなストーリー。女は竜の化身である。

 少年は幼くして母を亡くし、17才の姉に甘えながら育つ。迷い込んだ谷間の女の家で、目をさました少年が目にしたものは、行水を使い終わってたらいの縁をまたいであがってくる女であり、その夜、女は添い寝し乳房を少年にふくませる。

 夜中に天井の上の方でものすごい音がし、つむじ風が吹き、柱が揺れる。女が「
あれ、お客があるんだから、もう今夜は堪忍しておくれよ、いけません」というと、やがて静まる。これは『高野聖』の場面を思わせる。無気味な台詞だ。女は用心にといって、短刀を胸の上に抱いて眠る。少年はその姿に母の最後の姿を思い浮かべる。この人も母と同じようにみまかったのかと思い、少年が女の胸から短刀を取り除こうとした弾みに、血潮が吹き出し、それはやがて女の下半身を覆う。しかし、少年の手は濡れていない。よく見ると、女の肌が紅色に染まっているのだ。少年は、母上、母上と叫んで女を揺り動かすが、女は起きず、いつしか少年も寝入ってしまう。

 奇譚ではあるが、流れるのは女性への憧れ、母への思慕。そしてエロチシズム。後年の谷崎潤一カに共通するものだ。これは、本書に収められた他の短編にも多く共通する。

『竜潭譚』は明治29年の作品だが、『貝の穴に河童のいる事』という作品は、昭和6年の作で、鏡花の作家活動が息の長いものであったことを知った。


 
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書名 夜叉ヶ池・天守物語 著者 泉鏡花 No
2013-22
発行所 岩波文庫 発行年 1984年 読了年月日 2013−06−08 記入年月日 2013−06−09
  
 
いずれも美女の妖怪がからむ戯曲。『夜叉ヶ池』は越前の国の山奥の話。時代は現代。夜叉ヶ池には龍神が住んでいる。その龍神がいなくなれば、麓の村は水浸しになり壊滅する。大昔、高僧が龍神を鎮め、麓を水浸しにしない約束を取り付けたのだ。条件としては明け六、暮れ六、丑満の3回、鐘を鳴らすこと。一度たりともそれを破れば、龍神は暴れるという言い伝えがあって、鐘撞き守がそれを守っている。現在の鐘撞きは晃と、その妻である村の神社の一人娘の百合。晃は東京から各地の民話を集めにやってきて 夜叉ヶ池の龍神伝説を聞く。たまたま、年寄りの鐘撞きが急死し、伝説を信じた晃が自らその後継を買って出る。そこへ、晃の友人学円が夜叉ヶ池を訪れるためにやってくる。鐘撞き堂でたまたま晃にあった学円はそれが、行方不明になっている晃であることを見抜く。そして、月の夜、二人は百合をおいて夜叉ヶ池へと山道を入っていく。

 百合が一人で留守をしているところへ、村人が押し寄せ、ひどい日照りと水不足を解消するために、百合を夜叉ヶ池の龍神への人身御供にしようとする。裸にして、黒牛に縛り付け夜叉ヶ池へ夜道を向かわせるのだ。

 一方、夜叉ヶ池の龍神白雪姫のところへは、恋人である白山剣が峰の千蛇が池の龍神から、早く来るようにとの手紙が来る。恋心に燃える白雪姫は行こうとするが、姫が去れば麓の村は洪水で壊滅する。それでは、人間との約束が守れず、義理に反すると、白雪姫付きの姥が思いとどまらせる。

 百合が捕らえられ、牛に乗せられて行こうとするとき、胸騒ぎを感じて引き返してきた晃と学円。3人と村人たちの間で争いが起こる。村人は百合を人身御供として出せ、龍神伝説など嘘だ、もう鐘などつくなと迫る。その中で、百合は鎌で自らを切り果てる。丑満時を過ぎたとき、晃も撞木を切って落とす。とたんに地震が起き、山鳴りがし、夜叉ヶ池の上には暗雲立ちこめ、村は壊滅する。晃も自らのどをかききる。

 かくして龍神白雪姫は恋人の白山剣が峰の龍神のもとへ去る。白雪姫も雨乞いのために夜叉ヶ池への人身御供とされた身で、池に身を投げて龍神となっていたのだ。白雪姫は百合には好意を持っていて、百合と晃は妖怪の世界で生きかえることができた。

『天守物語』の舞台は姫路城。その天守閣の5階に住む冨姫が主人公。冨姫とその取り巻きはいずれも妖怪。姫路城の5階へあがった人間は生きては帰れない。妖怪たちは農民の苦しみを知らぬげに、鷹狩にうつつを抜かす城主播磨守らの行動を、シニカルな目で見下ろしている。

 天守の天井から、冨姫の妹分に当たる亀姫が下りてくる。猪苗代の亀の城からわざわざ鞠つきにやってきたのだ。亀姫のお土産は、猪苗代の城主の生首という何ともグロテスクなもの。運ぶ途中で体液や血が出て汚れた首を、冨姫の眷属の一人の老婆がぺろぺろとなめる。現れた顔は播磨守にうり二つだった。猪苗代の城主は播磨守の弟なのだ。

 亀姫が帰って行ったところへ、城主らの一行が鷹狩りから帰ってくる。冨姫はその中の見事な鷹をたぶらかして天守へとってしまう。鷹を取られてしまった鷹匠の姫川図書之助は城主より切腹を免ずる代わりに天守へ行って取り返してくることを命じられる。図書は5階にやってくる。冨姫は生きて返すつもりはなかったが、図書の話を聞き、鷹ごときのことで切腹を命じる人間社会の理不尽さに、図書に同情する。そして、その人柄の潔さ、すずしさに感じ入り、生きて返すことにする。一目惚れの恋に落ちたのだ。土産に天守にある城主播磨守秘蔵の兜を与える。戻った図書は兜のために、盗賊扱いされ、追手を遁れて再び天守へと現れる。追っ手との争いの中で、二人は獅子頭の中に隠れる。しかし、追手に獅子頭の目を突かれ失明する。冨姫は先ほどの生首を示し、それを播磨守と勘違いした追手たちは退散する。失明してお互いの姿を見ることが出来なくなった二人はその場で死のうとする。そこへ木工があらわれ、獅子頭の目を彫りなおして二人は再びお互いの姿を目にすることが出来るところで終わる。

 この作品は妖怪の世界から見た人間世界の批判という色彩が色濃い。

 
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書名 地図から読む歴史 著者 足利健亮 No
2013-23
発行所 講談社学術文庫 発行年 2012年4月 読了年月日 2013−06−20 記入年月日 2013−

 
2万5千分の1の地図をじっと眺め、そこに秘められた歴史を読み取る。私が歩いている江戸からの5街道は、現在でも当時の道がそのまま残されているところが多い。しかし、もっと以前の街道は埋もれてしまったか、あるいはそれと認識されない。

 例えば、兵庫県伊丹市の2万5千の地図に、北西から南東に延びる1本の細い不自然な真っ直ぐな道を著者は見つける。これは古代の道路の名残ではないか。それから、著者の推理が始まり、その過程が詳細に述べられる(p84〜)。著者は京都埋蔵文化調査センターの理事などを歴任した人。この伊丹の直線道を難波京から有馬温泉へ行く道で、天皇行幸に用いられた道であると推定する。古代の主要街道は直線であり、道幅の近世のものよりも広かったという。このことは、各地における発掘調査からも実証されている。

 このようにして著者は古代条里制の遺構を各地に推定し、平安京の外郭を形成する道路を推定しその規模を算出する。
 信長が安土に居城を構えた理由も地図から推定する(p125〜)。安土は西南の坂本城、北東の長浜城から等距離にあり、しかも両方の城を見ることが出来る地点なのだ。後に安土の対岸に大溝城が築かれる。この4つの城は、琵琶湖を中にきれいな菱形の頂点を形成する。安土城の少し東に観音寺城があった。これは六角氏の居城で、信長により亡ぼされた。観音寺城の方が山も高く、規模も大きい。にもかかわらずここを居城としなかったのは、そこからは長浜城が見通せないからだ。さらに、安土城は当時は琵琶湖に面する水城であって、火攻めにあう危険性が少なかった。信長は安土を都、さらには世界の中心としようと考えていたのだという。それまで「目賀田山」であったのを「安土山」に信長自身が変更したという。「土を安んず」。よい地名にこだわった信長は稲葉山城下町井ノ口を岐阜へ、今浜を長浜へという改名を喜んだという。

 家康が江戸を居城とした理由、それは江戸からは富士山が見えるからだと著者は推理する(p188〜)。鎌倉や小田原からは富士山が見えない。富士山の見える駿府には人質時代、領主の時代、大御所として過ごした晩年と長きにわたって家康は住んでいる。さらに、死後も久能山に葬ることを命じたのも富士山への愛着であるという。久能山からは富士山が見渡せる。富士山も久能山もつい先日世界文化遺産に登録された。家康はさぞ喜ぶだろう。富士が見える「富士見」はさらに「不死身」に通じる。戦国武将として「不死身」は理想であった。家康は江戸への転封を自身に納得させるために、このことば遊びに類するものを用いたのではないかと、著者は大胆に推理する。秀吉が、伏見に城を築いたのも「伏見」が「不死身」に通じるからであったかも知れないという。

 
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書名 近代発明家列伝 著者 橋本毅彦 No
2013-24
発行所 岩波新書 発行年 2013年5月 読了年月日 2013−06−26 記入年月日 2013−

 
副題は「世界をつないだ九つの技術」。遠かった空間と時間をぐっと近くに短縮した近代技術を作った発明家の業績を列挙。ハリソン、ワット、ブルネル、エジソン、ベル、デフォレスト、ベンツ、ライト兄弟、フォン・ブラウンである。ハリソンは世界時計の計測、ブルネルは鉄道網と蒸気船の開発を推し進め、デフォレストは無線通信とラジオ放送の技術を確立した。この3人の名前と業績は初めて知った。

 ハリソンの世界標準時は、航海の際、経度を知るために作られた。言われてみると緯度は恒星の高さから容易に求められるが、経度はそうはいかない。彼が考えたのはロンドンの時刻を正確に刻む時計を航海にもって行き、標準時とその地点での時刻とのズレから経度を求めるというもの。そのためには誤差の少ない時計を作ることが必要であった。時計職人であったハリソンは、改良に改良を重ねて、時計の精度を上げて行く。そして、出来た時計は、イギリスからバルバドス島までの46日間の航海で、39秒の誤差しか示さなかった。1764年のことである(p20)。この時計はクック船長の太平洋航海にも大いに役立った。

 ブルネルはイギリスでの鉄道網の建設の先に、大西洋航海を見ていた。いくつかの巨大蒸気船を竣工させ、大西洋を往復した。彼が最後に作った、グレート・イースタン号は、エンジン爆発などを起こし、旅客船としては敬遠され、海底電線敷設のために使われた。1860年代にはヨーロッパとアメリカが海底電線で結ばれた。1870年代にはそれは極東の日本まで到達したという(p64)。そんなに早く日米が電線で結ばれていたとは驚きであった。

 デフォレストはアメリカ人。マルコーニの無線通信が、モールス信号であったのに対して、デフォレストは音声通信の基礎を確立した。その基になるのは彼が発明した、三極真空管であった。

 エジソンや、ベルの項では彼らが巻き込まれた特許紛争が述べられる。ベル社が特許が通用する18年間に争った特許訴訟は600に達し、しかもベル社はそれらにことごとく勝利し、全米の電話事業を独占する企業としての地位を確立していった(p106)。

 ベルはスコットランド生まれ。父は聴覚障害者のために視話法を開発した人で、アメリカに移ったベルも、音声学などを専門とした。ベルは発明した電話機を公開実験で披露していった。1876年12月、ボストンでの披露には、たまたま当地に留学していた金子堅太郎と小村寿太郎が日本語でも試し、はっきりと聞き取れることを確認したという(p99)。ベルはその後も聾唖教育にも力を入れた。ヘレンケラーに会い、ボストンの盲学校を紹介し、それが契機でヘレンケラーは師となったサリバンに会い、知性と感情の豊かな女性へと変身していったという(p106)。

 その他、ワット、ライト兄弟、ベンツなど、知っているようで、知らないエピソードが一杯の本。


 
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書名 日本の七十二候を楽しむ 著者 白井明大著、有賀一広絵 No
2013-25
発行所 東邦出版 発行年 2012年 読了年月日 2013−06−29 記入年月日 2013−06−30

 
アフィニス句会の時、須田政さんからいただいた。副題は「旧暦のある暮らし」。

 旧暦では1年を24の節気に分け、さらに各節気を3つに分けて、72の候がある。その72の候ごとに、候の特徴を述べ、旬のことば、旬の野菜、旬の魚介、旬の兆し、旬の行事などが見開き2ページで解説される。野菜、魚介、鳥類などのカラー挿絵がふんだんに載っている贅沢な本。

 今日、6月30日は24節気では小暑である。小暑は温風至、蓮始めて開く、鷹乃学を習う(鷹わざをならう)の初候、次候、末候に分かれる。日本人の繊細な季節感、自然観が候の名前にはよく表れている。温風至の候には、ことばとして七夕が取り上げられる。例年、七夕の時期になるが、今年は少しずれているようだ。七夕の解説の後

 別るるや夢一筋の天の川  夏目漱石

 が示される。

 旬の野菜は沖縄の夏野菜として、ゴーヤーが取り上げられ、ナーベラー(へちま)とともにその調理法が紹介される。旬の魚介はこち。これもこちを使った岡山の郷土料理の作り方が紹介される。旬の行事として取り上げられたのは、浅草寺のほおずき市。
 句作りの参考になる。


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書名 青山椒 著者 三宮隆宏 No
2013-26
発行所 自費出版 発行年 2013年5月 読了年月日 2013−06−29 記入年月日 2013−06−30

 
『天為』同人の個人句集。私の行っているオリーブ句会の宮川ルツ子主宰から回覧された。句会ではそろそろ句集を出そうという話があり、その一例として、ルツ子主宰に謹呈されたものが回覧にまわされた。著者は85才。『天為』入会が71才の時であり、それから13年後に同人となった。晩学の人だ。

 難しい漢字がたくさん出てきて、漢和辞典を片時も放せない句集。旧制高校での漢文の素養がもとにあると『天為』の有馬朗人主宰は序文で述べている。世界各地を旅したとみえ、海外旅吟が多い。中国での吟詠もたくさんある。句に添えて自身の手になる絵が20葉掲載されている。かかった費用もかなりのものだろう。

 月中天長江万里孤舟ゆく

という句がある一方で、次のような句もある:

 うたてきはWASPの大儀すずめ蜂

WASPの横にはWhite Anglo Saxon Protestant とルビのように書かれている。アメリカを支配するエリートの代名詞。2002年〜2003年の作品だから、多分アメリカによるイラク侵攻への批判だと私は読んだ。

 縺れ伸びアブラカタブラ蝌蚪の紐

 昨年の句。80才過ぎでこのような句が作れる。若く、語彙が豊富だ。

 
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書名 南仏プロバンスの木陰から 著者 ピーター・メイル、小梨直 訳 No
2013-27
発行所 河出書房新社 発行年 1993年 読了年月日 2013−07−02 記入年月日 2013−07−02

 
20年も前に世界的なベストセラーになった『南仏プロバンスの12か月』の続編。本書もベストセラーになった。本棚に放置されていたのを見つけて読んだ。当時、メイルが南仏ものについて、「贅沢は最大の復讐だ」と言ったというのを何かの記事で目にした。あるいは、書評欄で誰かが言ったのかも知れない。その言葉にひかれて、あるいは共感を覚えて本書を買ったのだ。

 著者はイギリス人だが、プロバンスの田舎に永住の地を求めてやってくる。イギリス人から見たプロバンスでの日常の出来事が描き出される。イギリスとフランスの、都会と田舎の違いに戸惑いはしても、メイルはプロバンスの風土と人々をこよなく愛する。それは、降りそそぐ太陽、ゆっくりと流れる時間、トリュフ、パスティス、ワイン、オリーブ、チーズなど豊富な食材と酒、一風変わった素朴な人々。「贅沢は最大の復讐だ」というフレーズには出会わなかったが、メイルの家にはプールまであり、都会から失われつつある豊かな生活の満喫は「贅沢」であろう。

 
二百年前、フランスは貴族たちの首を大量にはねた。その記念日に向けて変わった催し物がいろいろと企画されているが、一番風変わりと思われるものが、実はまだ世に紹介されていていない。

 これは「サン・バンタレオンのカエル合唱隊」という一編の書き出し。パリ祭にヒキガエルの合唱隊にフランス国歌を歌わせることをもくろんでいる人が、近くの村にいるという。作者がその男を訪れてみると、ヒキガエルはあいにく冬眠中だったが、カエルの声を録音し、それを電子的に加工して国歌に仕上げるのだという。さて、パリ祭が近づいた頃、再度その男をた訪ねたが、男は革命二百年祭のためにパリの出かけて留守だった。二百年祭とあって、各種のイベントが報告されたが、筆者はついにカエルによる「ラ・マルセイエーズ」が歌われたという記事を目にしなかった、でこの編は結ばれる。軽妙な筆とユーモアが本書の魅力。

 全部で19編のエッセイからなる本書でも、特に冴えているのが飲食を扱ったもの。

「パスティス講座」では、南仏の人が昼間から飲む、アニス入りの強烈なアルコール飲料についてその歴史にまで遡り、詳しく述べられる。ペルノーというのはパスティス用のアルコール飲料の1銘柄。開高健もペルノーのことはエッセイに書いていた。私も実物を飲んだことがある。翌日まで口の中にアニスの匂いが残るほどのもの。アルコール度45度という強烈な酒。これに水を注ぐと、白濁する。アニスが入っているからだ。これがパスティス。

 メイルは言う:
パスティスに欠かせない一番大切な要素は何か。私に言わせればそれは、アニスの味でもアルコール度でもなく、アンビアンス、雰囲気である。(中略)炎暑と太陽と時間が止まってしまったような感覚、その三つが必要なのだ。つまりプロバンス以外、あり得ない。

 パスティスの前にはアブサンが飲まれていた。しかし、あまりにアルコール度が高く、アル中患者が続出し、「
患者はしまいにはくたばってしまうことが多かった」ので、禁止された。アブサンの工場を持っていたペルノーは、法律で認められているアニスを使って別の酒を造って、この窮地を乗り越えた。「これがすぐに大当たりとなった。何しろ飲んでも死なないので、客が何度でも買いに来る。

「シャトーヌフ・デュ・パープ試飲の心得」は、近くのワイン産地、シャトーヌフ・デュ・パープへ試飲に招かれたときの話。午前中から始まり、3時間の昼食をはさんで夕方まで続く試飲会だ。招待したのはぶどうとワインを扱うプロ。その彼の言:
ボルドーは年々こくがなくなってきているし、ブルゴーニュは高すぎてもう日本人にしか手が届かない。だから今はまさにシャトーヌフのお買い時。
 本書の舞台は1989年から90年であるから、当時の日本はバブル崩壊前の絶頂期。「シーマ現象」などと言って、高級車が飛ぶように売れた時代だから、ブルゴーニュワインも買いあさったのだろう。

 この編には以下のような記述もある:
フランスの昼食には、こちらの意志の力を最後まで残らず吸いとってしまう何かがある。席に着き、ほどほどにしよう、軽く飲んで食べて、と心に誓った三時間後もまだそこに座って、ワインをすすりながら次の料理を待つはめになるのだ。これはたぶん食欲のせいばかりではない。集まった人々が飲み食いに熱中して作りだす雰囲気が、そうさせるのではないだろうか。飲み食いしながらの彼らの話題もまた、食べ物だった。政治やスポーツや仕事ではなく、目の前の皿、グラスの中身の話。ソースを比較し、作り方について論じ、過去の料理を思い出し、未来の献立を考える。世の中の諸問題はあとまわしにして、いま大事なのはとにかくラ・ブフ、食事。満足感があたりに漂い、とてもそれに抵抗することはできない。

「アヴィニヨンの胃袋」では、アヴィニヨンの市場の詳述だけで一編をなす。巻末の解説によれば、このエッセイは「ニューヨークタイムズ」で珠玉の一編と評されたとのこと。

「パヴァロッティと夕食を」では、アヴィニヨンのローマの時代に出来た円形劇場での彼の公演の様子が書かれる。2時間の間、この世界的テノールは観客を魅了するのだが、当然、アリアを歌わない間は、舞台裏に引っ込む。メイルの隣の席の女性が、パヴァロッティはアリアの間に軽い食事をしてくるのだと、話す。まさかと思うメイルだが、段々その気になって、舞台で彼の左手の指から優雅に垂れている白いハンケチが、最後にはナプキンに見えてくる。そして合間毎にパヴァロッティが口にする料理や飲み物を勝手に想像する。そんな話。

 最後の「ロゼワインに透かして人生を見ると」では、フランス語への辛口のコメント。決して論理的でも明晰でもないという。典型的には名詞の男性女性の区別。女性器がフランス語では男性名詞であるといった例を挙げる。そして、論理的でないから、外交用語として今もって幅をきかせているのだという。「
簡潔明瞭に話す必要などない、というより時として簡潔明瞭では困るのが、外交の世界である」とメイルはいう。

 翻訳もいい。

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書名 奥の細道 著者 山本健吉 No
2013-28
発行所 講談社 発行年 1989年2月 読了年月日 2013−07−08 記入年月日 2013−07−16

 
再読。本書の奥付には「89−05−13」と読了日が記されている。発行されて3ヶ月もしないうちに読んだのだ。当時、新聞に連載された大岡信の『折々の歌』を毎日見ていて芭蕉の俳句に興味を持った。それで手にしたのだろう。多分、発刊早々評判になったのだろう。

 ハードカバーに箱入りという立派な本。それにふさわしい読み応えのある名著。

 奥の細道全行程を36に分け、まず著者による現代訳が示され、次いで旅の状況、読まれた句の意味、その成立事情、紀行文と句の鑑賞が述べられる。『奥の細道』が書かれたのは、旅の数年後で、句も後から挿入されたものがかなりある。旅の記録は曽良の『随行日記』から参照しているところが多い。原文は最後に一括して掲載される。わかりやすく、完璧な山本健吉の『奥の細道』である。

 いずれの箇所も広い知識と深い洞察に満ちた文章であるが、芭蕉の原文がそうであるように、高舘のところで著者の文章も最高潮に高まる。

 夏草や兵どもが夢の跡

 著者は次のように述べる(p66):
 
古戦場とは一種の霊地で、そこで命を落とした兵たちの瞋恚(しんい)執心が残った修羅場である。能の修羅場も源平の武将の修羅の苦患(くげん)を描いているが、やはり土地の神霊を慰めるという発想の上に立っている。芭蕉のこの句にもこのような発想の伝統が伝わっている。義経主従の伝説は東北の庶民たちの間に続いてきた心の伝承だから、芭蕉は自分を東北の庶民と同じ場に立たせて、追懐と慰霊の一句を作った。『細道』の前文と合せてこの一句は「紀行」の頂点であった。
その少し後では原文を引く。

『奥の細道』の原文(p69):
 
三代の栄耀一睡の中にして、大門の跡は一里こなたに有。秀衡が跡は田野に成て、金鶏山のみ形を残す。先高舘(まずたかだち)にのぼれば、北上川南部より流る々大河也。衣川は和泉が城(じょう)をめぐりて、高舘の下に大河に落入。泰衡等が旧跡は衣が関を隔て、南部口をさし堅め夷(えぞ)をふせぐとみえたり。偖(さて)も義臣すぐつて此城にこもり、功名一時の叢(くさむら)となる。国破れて山河あり、城春にして草青みたりと、笠打敷て、時のうつるまで泪を流し侍りぬ。
 夏草や兵どもが夢の跡


 山本健吉の文:
『奥の細道』の中でも平泉のこの一節は、知らない人も少ないだろうが、読み返す度毎に新しい感動の高鳴りを覚えるのである。千里に旅して古戦場の跡に万こくの泪止めあえぬ翁の情懐の深さ、濃(こまやか)さを、夏草の一句の響きの中には読み取ることが出来るのだ。平泉三代の栄耀と慌(あわただ)しいその没落、殊にその没落劇中のクライマックスとも言うべき高舘に於ける義経主従の悲しい最後――草深い陸奥に語り伝える民族の哀史が、恐らくは翁の此度の大旅行発願に当たっての「道祖神の招き」なのではなかっか。秋風吹くと能因法師の歌に名を止めた白河の関を打ち越えることが、既に不退転の一大決意を要した。同行の曽良に止められて思い止まりはしたが、蝦夷が千島の見ゆるあたりまでとも彼が思い逸(はや)った時、『御曹司島わたり』の跡を慕う心が仄(ひそ)かに在ったかも知れぬとさえ思うのである。
 民族が生活を営んでいるいや果ての地帯に義経への信仰と物語とが根を卸し、『義経記』のような文学を華咲かせたということは、一つの驚異と思えたであろう。中略 『奥の細道』は平泉、即ち高舘と中尊寺とがなかったら、仮に笑うが如き松島、恨むが如き象潟の絶景があったとしても、感動の意味は弱いであろう。少なくとも平泉の件りに『細道』の旅の頂点を見ることは、先に引用した一文の響きの高さからも納得してよいことだ。そしてそれは同時に芭蕉の打ち樹(た)てた俳諧精神の或本質的な面を捉えることにもなる。日本全国の土に根ざしてしおらしく、また豊に咲き出でた庶民子女の美意識の発見、そしてそれへの驚きと共感との深さが、少なくともあんなにまでも漂白の思いに誘われ続けた彼の心情の根にはあったのだ。

 以下、いくつかの句の鑑賞:

五月雨をあつめて早し最上川
 最初は「五月雨を集めて涼し最上川」であった。著者は言う「
たった二字の入れかえで、この句は面目を一新した。濁流そのものの即物的な把握であり、最上川の本情を捕らえているといってよい」(p100)

象潟や雨に西施が合歓の花
松島では口を閉じなければならなかった芭蕉は、ここでは技巧の限りをつくして、この一句をひねりだしたのである。こういった新古今的な艶麗体の句が、「紀行」のうちに一句あるのもおもしろいとしたのである。」(p119)

荒海や佐渡によこたふ天の川
 この句が読まれた場所は今でも出雲崎と直江津が争っているという。その中間の柏崎も当然名乗りうる資格があったのだが、芭蕉の宿泊を断ったために資格を失った。翌日も直江津の寺で宿泊を断られ、憤然として行きかけると、芭蕉の名を知っていた人物が引き留めて、芭蕉は戻ってきた。直江津での俳席でこの句は披露されたらしい。しかし、芭蕉は出雲崎で作ったと書いた。想を得たのは出雲崎で、句が成ったのは直江津、しかし、好印象だった出雲崎での作と芭蕉はしたのだろうと、山本は推察する。芭蕉は案外きつい感情の持ち主であったと著者は言う。「佐渡」と言ったとき、芭蕉の頭には古来の有名無名の流された人々のことがあったと著者は言う(p123〜)。宿泊を断られる旅とは大変な旅だが、当時それは常識だったのだろう。

一家(ひとつや)に遊女も寐たり萩と月
 曽良の『随行日記』にはそのような記述はまったくないという。「
これは「紀行」に変化と色彩を添えるために、芭蕉がつくりだした話であり、句なのである。連句なら恋の座にあたる」(p127)

 本書の後半は『「軽み」の論』。芭蕉の句が、晩年の軽みといわれるものに達した経緯を考察している。「軽み」は句作りの手法として芭蕉が一門に唱えたものとされてきたが、著者はそれは単なる方法論を越えて、芭蕉の句の本質、ひいては生き方にも及んだという。著者は言う;
「軽み」とは、結局軽く生きることだった。生きる上で最大限に心の自由を保持することだった。(p218)
 著者は芭蕉の最晩年の句を、芭蕉生涯における発句の最高の達成であり、「
これらの句があるのとないのとで、芭蕉の芸術境地への評価が決定的に違ってくるのではないかと思われるほどの作品なのである。」と述べる。(p216)以下の句である。

 秋近き心の寄や四畳半
 秋の夜を打崩したる咄かな
 此秋は何で年よる雲に鳥
 秋深き隣は何をする人ぞ


 これらを「軽みの昇華」と著者はいう。
さらに、これらの句を「
「さび」とか「細み」とかいった情緒的なものを、およそ払拭したところに、人間存在の深い寂寥感をうち出しているものである。」という。(p228)

 芭蕉が「軽み」重視の心境に変化してったのは奥の細道の途中、後半の部分であろうと推察する。『奥の細道』の定稿を芭蕉が仕上げた時期は、ちょうど芭蕉が「軽み」を熱心に唱道していた時期である。その時期、奥の細道の道中で作った句の中で、前半、平泉までの句は気に入らないものが多く、『奥の細道』に採用されたのはたった3句である。これに反し、後半の句は9句も採用されている。つまり、後半の句はすでに「軽み」を帯びてきている。「
『細道』の旅の半ばで、芭蕉は俳諧観、風雅観、それは同時に人生観でもあったが、その上に微妙な変化が現れてきたと言うことだ。」と著者は言う。(p241)

 奥の細道の旅の大きな目的は、歌枕を訪ねる事であった。前半の芭蕉に歌枕意識の横溢の中にあったという。例えば、白河の関、笠嶋など。それは古風な、中世的な詩心であったが、一方で旅の途中で少々厄介視する気持ちも生まれてきた、と著者は言う。(p266)。次いで以下のようにいう:
「昨日の我に飽く」とは、芭蕉が五十年の生涯において、つねに保持した心構えであった。芭蕉と蕪村との心構えの相違を挙げればいろいろある中にも私は、この「昨日の我に飽く」という心意状況が、顕著に見られるかとうかにあると思っている。その作品の年代を考証し、それを年代別に並べてみることが、芭蕉においては何よりも必要だが、蕪村においてはそれほど必要でないのは、芸術家としての心構えにおいてこのような違いがあるからである。(p268)

 山本健吉は本書の上梓を見ることなく亡くなったようだ。後書きは夫人の手になる。

 著者は昭和10年代の大方を俳句雑誌の編集に携わっていて、大量の俳句に接したという。その結果俳句についての考えが固まったという。「
それは、一、俳句は滑稽である、二、俳句は挨拶である、三、俳句は即興である、という三箇条である。」(p190)

 
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書名 與謝蕪村 著者 山本健吉 No
2013-29
発行所 講談社 発行年 1987年5月 読了年月日 2013−07−27 記入年月日 2013−08−03

 山本健吉の『奥の細道』大変素晴らしい芭蕉論であったが、蕪村をどのように見ているかが知りたくなった。幸い、そのものずばりの本書があった。

 著者は言う:
蕪村に対して芭蕉を讃めるのはよい。だが私は、一度も蕪村を好きになったことのない人の芭蕉一辺倒を、信用しないことにしている(p36)。さらにその後、以下のように述べる:三田の学生時代に、私は一時、芭蕉よりも蕪村に熱中した時代があった。『芭蕉句集』と『蕪村句集』と読み較べてみても、一読作意の取りかねる芭蕉よりも、蕪村の句には読みながらその楽しさがひしひしと伝わってくるようであった。中略 だが私には、今も一つの「偏見」がある。それは案外強い「偏見」である。本当に芭蕉が好きな人は、蕪村も好きだということである(p37)。

 本書は5部構成になっている。1.画人蕪村とその周辺、2.蕪村発句抄、3.四老発句抄、4.三子発句抄、5.蕪村のかな詩。

 冒頭にいくつかの蕪村の絵が載せられている。続いて「夜色楼台雪万家図」と題する、京都の雪景色を描いた蕪村画が詳細に解説される。この絵にはのちに三好達治がひそかに讃をつけたと山本はいう。達治の有名な詩
 太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ
 次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ

 である。
 蕪村と同時代の画人、大雅の絵とくらべても決して蕪村の絵は劣るものではないと山本は強調するが、私にはよくわからない。

「俳画における芭蕉と蕪村」という章は面白い。俳画とは絵に付けた俳句。数年前までNHKで放映していたフォットックコンペのようのもの。
 ほろほろと山吹ちるかたきのおと     芭蕉
 この句は許六が画いたまさしく落下する滝と黄色い山吹との画につけられている。(p24)

 一方蕪村の
 ゆく春や同車の君のさゝめごと
 この句がつけられた画には平安時代の貴族の牛車も、それに乗る同車の男女の気配もない。そこに描かれたのは、袋をかぶせた大傘を抱いた白衣の仕丁が、裸足で都大路と思わせるところを歩いて行く姿である。牛車について行くお供のつもりなのだ。このユーモラスな人物には自ずから駘蕩のもの憂い気分が横溢している。画と句が相補って、画だけ、句だけではない一つの気分を描き出している。芭蕉の画賛におけるような、画と句がまったく重なり合った形にあるのではない。句と画の照応に一種の俳諧を見出そうとしたところに天明の文人の画俳一如の遊びの世界があった、と山本はいう。(p26)。生真面目な芭蕉と磊落な蕪村という人柄も出ているようだ。

 蕪村発句抄では比較的よく知られた蕪村の句が解説される。優れた鑑賞である。その中からいくつか。

凧(いかのぼり)きのふの空のありどころ
 昨日上がっていたところに今日もまた凧が揚がっている。あたかも永遠の昔からそこに居座っているその不動であることの倦怠感。萩原朔太郎が絶賛したという。後に芥川龍之介がこの句を模して
 木枯らしや東京の日のありどころ
 と作った。(p84)

池田より炭くれし春の寒(さむさ)哉
 池田は摂津の池田で蕪村の門人も多かった。炭の産地であるが、酒所でもあった。炭ではなくて酒だったらなお嬉しかったろうにと、少し気の利かぬところを「春の寒」で諷しているという、木村架空という人の鑑賞を著者も肯定している。(p85)

若竹や夕日の嵳峩(さが)と成(なり)にけり 
 嵯峨は洛西嵐山の近く。蕪村は嵯峨の句が多い。この句は「や」と「けり」の切れ字が二つ使っているのに少しも煩わしい感じがしない。細述せず、大まかに全体をとらえて、しかも「夕日の嵯峨」に焦点を定めたところ、坦々として余情が深い。中村草田男が
 降る雪や明治は遠くなりにけり
 と詠んだのは、蕪村のこのような句を学んだ跡が見えるという。(p93)

若竹や橋本の遊女ありやなし
 橋本は淀川左岸の宿場町。これは王朝趣味の句ではなく、蕪村にも若年の頃の思い出があって、懐旧の句であろうという。この句のパロディを子規が作っている。
 筍や目黒の美人ありやなし
 これはパロディ句の秀逸だと、著者は言う。(p98)

酒十駄ゆりもて行くや夏木立
葱買(かう)て枯木の中を帰りけり

 夏木立には酒十駄を、冬木立には葱を、蕪村の選択の確かさを見るという。葱の句を「寒い枯木の中を、一束の葱を買って帰るという、その葱の緑と白の色彩が、あざやかに点ぜられていて、眼に染みるのだ。私はこの句が、画人蕪村の最高の詩心をにじみださせたものと思われる」と著者は言う。(p126)

 四老発句抄は其角、嵐雪、素堂、鬼貫の4名の句評。蕪村は「春泥句集の序」で、「
其角を尋ね、嵐雪を訪ひ、素堂を倡(いざな)ひ、鬼貫に伴ふ。日々此の四老に会して、はつかに市城名利の域を離れ、林園に遊び山水にうたげし、酒を酌みて談笑し、句を得ることは専ラ不用意を貴ぶ。」と述べている(p130)。その4人の句の鑑賞。

たが為ぞ朝起昼寐夕涼  其角
 すてばちの気持ちで暮らした独身時代の句。妻子なき身には誰のために朝起きして働こうか。昼寝、夕涼みだれはばからず思いのまま。当時はまだ昼寝は季語ではなく、夕涼みが夏の季語。
 十五から酒をのみ出てけふの月
  と詠んだ其角の面目躍如の句という。(p139)

庵(あん)の夜もみじかくなりぬすこしづゝ    嵐雪
 「深川の庵にて」との前書きがある。親しい門弟たちが芭蕉庵で談じあい、思わず夜の明けてしまうこともあった。その夜の短さをかこつ心であろう。これくらい淡泊で意味の乏しい吟詠は少ないであろう。無内容に近い一章がその調べの中に深い味わいを籠もらせるのは、わが短詩型文学の常であると山本は言う(p154)。この句をぽんと出されて、そこに深い味わいを感じ取れる人は極めて少ないのではと、私は思う。

目には青葉山郭公(ほととぎす)はつ鰹     素堂
 素堂の句のみならず、俳句全体の中でももっともよく知られた句。昔の人は渡りの知識がなかったので、初夏に現れる時鳥を山から来ると思っていた。その初音を聞き漏らすまいとした伝承があって、時鳥は夏の景物として春の花、秋の月、冬の雪とならぶものとした。この句の後には
浮葉巻葉立葉折れ葉とはちすらし      素堂
 素堂は不忍池畔に退隠したが、それが蓮を愛する趣味を強めた。芭蕉と親しかった教養人であったが、作句は結局遊俳の域に止まり、新風への積極的な熱意は持ち合わせなかった。(p170)

春風や三穂の松原清見寺(せいけんじ)    鬼貫
 こんなにすっきりと詠み下した句は、鬼貫の独壇場。三穂は三保の松原、清見寺は興津にある名刹。(p178)

こひしらぬ女の粽(ちまき)不形(なり)なり  鬼貫
 まだ世ごころを知らぬ娘の作った粽が、ぶざまな格好をしているということ。粽に男の一物を想像して、娘の手わざの無心さをむしろ愛しんだ句と言ってよかろう。(p180)

ぎやう水のすて所なき虫のこゑ     鬼貫
 庭いっぱいの虫の声に行水の湯の捨て所にとまどった。鬼貫の句でもっとも人口に膾炙した句。別の句集には中七が「捨所なし」となっているが、言い切ると重くなり、理に落ちすぎるとして、著者は上記をよしとする。このあたり微妙だ。

 三子発句抄では、去来、凡兆、丈草の3人の句の鑑賞。蕪村は「鬼貫句選」への跋文で、上記4名に去来を加えた五人をあげ、その「風韻をしらざるものにはともに俳諧をかたるべからず」としている。著者は四老に対して去来を無視するのは心残りなので、去来に凡兆、丈草を加えた3人の発句抄としたという。(p194)。芭蕉の最晩年に関する句が興味深い。

凩の地にもおとさぬしぐれ哉      去来
 一方
こがらしに二日の月のふきちるか    荷兮
という句が既にあって、去来は芭蕉に荷兮の句の方がずっといいように思うと聞いてみた。すると芭蕉は、荷兮の句は二日の月という物で作った、その名目を除けばたいしたものではない、去来の句は何をもって作ったとも見えず、全体の好句である、と去来の句を評した。ただ、原句では「地迄」となっていたのを、「迄」という字が卑しいといって「地にも」と添削した。著者は言う:
これは今日といえども変わらない。「物」と「個」と「作為」とを際立たせた句は、句品が賤しい(p201)。これは難しい注文だ。私も物、個、作為に依存した句を作りがちだ。去来ですら、そうした句の方がいいと思ったのだから、初心者の私などいたしかたないのかも知れない。

大はらや蝶の出てまふ朧月       丈草
 大はらは洛北大原。下二句には艶なる情緒が漂い、ほのかに女人の匂いを感じさせる。それは、「大原御幸」の建礼門院の姿に通う。夜だから舞うのは蝶ではなくて蛾であろう。だが、蛾では句にならない。朧月に映し出される幻のような生き物は、作者の目にはやはり蝶なのである(p215)。

 少し前に、町田のダリア園に吟行に行った。その際鮮やかな模様の蝶が一心に花の蜜を吸っていた。皆その美しさに見入った。蝶は羽を広げてとまっていた。「羽を広げてとまるのは蝶ではなくて蛾だ」と師匠が言った。吟行句会ではこれを「蝶」として詠んだ句が一句出された。

「蕪村のかな詩」には「春風馬堤曲」など、俳句以外の蕪村の詩が解説されている。

 
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書名 枯野抄、西郷隆盛 著者 芥川龍之介 No
2013-30
発行所 青空文庫 発行年 読了年月日 2013−07−30 記入年月日 2013−−08−04

 山本健吉の『與謝蕪村』の中に芭蕉の弟子たちの句の鑑賞が載っていた。中に芭蕉の最晩年に関する句もいくつかあった。芥川龍之介に芭蕉の最後を扱った『枯野抄』があるのを思い出し読んでみようと思った。少し前に、インターネットに自由に読むことの出来るサイトがあることを知った。芥川龍之介のこの作品もそこに載っていた。ネット上の書籍を読むのは初めてのこと。

 大阪の商人、花屋仁左衛門の裏座敷での芭蕉の臨終に立ち会った弟子たちの内面に迫った短編小説。

 枕辺に集まった弟子たちが、水を含ませた羽楊子で師匠の唇を次々に湿して行く。

 最初は其角。師匠との今生の別れはさぞ悲しいことであろうと予測していたが、今その時を迎えた其角の心は冷淡に澄み切っていた。それどころか死に瀕した師匠の姿に堪え難い嫌悪の情を抱く。

 次いで去来。師匠の病を聞き大阪に駆けつけた去来は、一身を捧げて介抱に没頭した。今去来の心を支配したのはその満足感と、満足感に対する悔恨であった。道徳的に潔白で神経の細い去来は、落ち着きを失い、羽楊子で師匠の唇を湿す手が震えた。それを座の一同は、辛辣な支考までもが、悲しみの結果だととった。

 次は丈草。日頃から老実な彼が静かに師匠の唇を濡らす姿はだれの眼にも厳かに映った。その時、哄笑にも似た慟哭が座から起こった。正秀が押さえきれずに発したのだ。丈草の知はその誇張に多少不快を感じたが、しかし情がそれを圧し、彼もやがて両手を膝につき嗚咽の声を発する。

 次いで支考。皮肉屋をもって知られた彼は、周囲の感情に流されることなく、涙も流さず唇を湿した。師匠の臨終に際し彼の頭を占めているのは、門弟たちの利害、自分の一身の打算など。自分たち門弟は皆、師匠の最後を悼まず師を失った自分たちを悼んでいる、そんな考えが支考を支配した。

 次いで惟然坊。彼が墨染めの法衣で師匠に対したときには、芭蕉の断末魔も迫っていた。師匠の唇に羽根を当てようとした彼は、突然恐怖に襲われる。それは死の恐怖、次に死ぬのは自分ではないかという恐怖である。

 次いで、乙州、正秀、之道、木節と門人たちが唇を濡らす。芭蕉の呼吸はその間にも一息ごとに細くなる。その時、丈草の心の中には、安らかな心地がしみこんできた。それは、「
久しく芭蕉の人格的圧力の桎梏(しつこく)に、空しく屈してゐた彼の自由な精神が、その本来の力を以て、漸やうやく手足を伸ばさうとする、解放の喜びだつたのである。

 人の死に対して周囲が抱く感情が恐ろしいまでにえぐり出された作品。

 ついでに『西郷隆盛』という題も目についたので読んだ。

 東海道線の列車に乗っていた史学を学ぶ学生に、隣の紳士が西郷隆盛は生きていると話しかける話。紳士がその証拠だといって連れて行かれたのが食堂車。そこには西郷隆盛とそっくりの人がいた。実はその人物は紳士の友人であった。紳士は学生を担いだのだ。紳士は歴史の資料を鵜呑みにしてはいけないと学生に説く。

 驚いたのは、このサイトには龍之介の作品は369編もアップされている。著作権の関係もあるので、現存の著名作家の作品はない。
 

 
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書名 絶滅寸前季語辞典 著者 夏井いつき No
2013-31
発行所 筑摩書房 発行年 2010年8月 読了年月日 2013−08−02 記入年月日 2013−−08−06

 以前読んだ『絶滅危急季語辞典』は本書の続編。たまたまアマゾンからメールが来て、『絶滅危急季語』の方を先に読んでしまった。相変わらずの軽妙な文章に乗せられ、時々声を立てて笑いながら読んだ。

『絶滅危急季語』を読んだのはほぼ2年前。その時はこんな季語があるのかと、ひたすら驚いた。本書、『絶滅寸前季語』の方が、絶滅の恐れは強いはずだ。ところが、本書に挙げられた季語には、私が属する句会で眼にしたり、あるいは私が実際に使った季語も少なからず散見された。2年の間に私の季語のレパートリーもそれだけ増えたことなのだろう。

 たまたま句会の8月の課題として出された季語は「三伏」と「生身魂」である。両方とも本書に取り上げられている。「三伏」は陰陽五行説に基づく時候で、陽暦で7月中旬から8月上旬にかけての時期。「生身魂」は「生御魂」の副題で、年長者を「生身魂」として扱い、御馳走する盆の行事、転じて年取った尊親をも言う。秋の季語である。両方とも俳句をやらなかったらまったく縁のなかった言葉だろう。私は今現在「三伏」「生身魂」の句をそれぞれ数句作った。さらに、「カンカン帽」も本書には取り上げられている。この季語も私は先月の句会で使い、その句は評判がよかった。ちなみに生身魂の例句としては

 生身魂七十と申し達者なり     正岡子規
 燈籠にならでめでたし生身魂    支考
 をあげている。

 三伏の例句は
 三伏やリングサイドの父なりし   夏井いつき
 作者の父はリングサイドに入ったことはないが、ボクシングのタイトルマッチは必ずテレビ観戦したという。52歳でなくなった父と作者をつなぐ句だという(p156)。
 ついでに拙句
 三伏やいつき辞典の一気読み   肇

 本書は猛暑の中で読むのには格好の本だ。
 本書の魅力は、著者の体験と結びつけて、絶滅に瀕する季語が語られること。こうした季語は古い時代の生活習慣と密接に結びついているから、著者の体験も多くは子供時代のものになる。それが、私の子供時代の体験と共通するところが多々あって、郷愁を誘う。著者の年齢は不詳だが、私より20歳くらいは若いのではないか。それでいてその子供時代の体験に共感を覚えるのは、著者が松山という地方都市のそれも田舎で育ったからであろう。

 例句のない季語には、著者自身および著者が委員長を務める絶滅寸前季語保存委員会が例句をひねり出しているところは、『絶滅危急季語』と同じ。例句のあるものには、著作権の切れた俳人の句を引用している。同じ松山出身と言うこともあるのか、虚子の句が多い。

 霍乱:晩夏、暑気中(あた)り、食中毒によって起こる、吐いたり下したりする症状の総称。ところが、『大歳時記』には急性胃腸カタルとされ、『国語大辞典』では日射病とされている。こんなことではこの季語をどう詠み込めばいいかと困惑しつつ、例句を探したら、
霍乱にかゝらんかと思ひつつ歩く     高濱虚子
 を見つけ、こんな手もあったのかと口をあんぐりした、と著者は言う。(p127〜)。虚子にもこんな句があるのだ。

 龍天に登る:春、架空の動物龍の存在と、春分のころの季節感とが結びついた季語。
 龍天に登った鉛筆が折れた     夏井いつき

著者は言う:
「龍天に登る」なんてあり得ない季語から、リアルな作品はいくらでも生まれる。作者から発せられた言葉たちは、読者にさまざまな心の波動を伝える。作者にとっても読者にとっても、「龍」がフィクションの生き物であるなんぞは問題にすらならない。作品そのものが、どんなノンフィクションの感動を手渡してくれるか、それが文学にかかわる者の唯一の関心事なのだ。(p91)
 こうした真っ正面からの主張もところどころ織り込まれる。
 

 
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書名 義経記  著者 高木卓 訳 No
2013-32
発行所 河出書房新社 発行年 2004年 読了年月日 2013−08−10 記入年月日 2013−08−10

 芭蕉の奥の細道の旅は、義経の跡を逆に訪れたものだという説はよく聞く。山本健吉の『奥の細道』には、芭蕉の義経に対する思い入れが述べられていて、『義経記』への言及が何カ所かあった。「義経主従の伝説は東北の庶民たちの間に続いてきた心の伝承だから、芭蕉は自分を東北の庶民と同じ場に立たせて、追憶と慰霊の一句を作った」と、「夏草や」の句の解説をしている(同書p65)。出立前の芭蕉の心には松島と象潟があった。しかし、あえて平泉まで足を延ばしたのは、道々奥羽路に残された義経伝説に心を動かされたからだろうと山本は言う。『義経記』を読んでみたくなった。

曽我物語』が載っていた小学館の日本古典文学全集が読みやすかったので、『義経記』もあるかと思って、図書館に行ったが、載っていなかった。他の全集にも収載されていなかった。その代わり、現代語訳の本書があった。大きめの活字だが、本文600ページを超える文庫本であった。

 伝記ではない。物語である。義経のもっとも華やかな活躍の場である源平合戦についてはほとんど述べられていない。全編の大半が逃亡記である。都落ちから、大物浦での難船、吉野山、北陸路を経て平泉へ、そして高舘での最後。その間に、弁慶の生い立ち、佐藤忠信の最後、静御前の鎌倉八幡宮での舞いなどがはさまる。

 子供のころ義経は私にとっては最大の英雄であった。義経は死んだのではなく、大陸に渡ってやがてジンギスカンになったという説を何とか信じようとしていた。子供向けの義経伝記を読んだ。その中で、弁慶が千本目の刀を求めて義経に襲いかかった場所が京の五条の橋の上ではなく、土塀の続く路地になっていて、がっかりしたことを記憶している。本書でもその場面は、土塀の続く路地に設定されている。

 義経は西国を目指して摂津から乗船するのだが、驚いたことに11人もの情けをかけた女人を伴っていた。「
もともと余人がしらないほど情けが深いひとではあり、しのんでかよった女が二十四人あるといわれていた」(p252)という。11人の中には身分の高い女性の他に白拍子も5人いて、その1人が静である。結局、大物浦で難船し、静の他の女性はそれぞれの所に帰す。静もやがて雪の吉野山で別れる。

 吉野山の僧たちの追撃を振り切って、京都に潜入した義経は、久我大臣の姫君の所に通う。いざ、東北へ都を落ちると言うとき、姫君は一緒に連れて行って欲しいと哀願する。弁慶らの反対を押し切って、義経は姫を稚児姿に変えて同行する。この道中では色々な関所や守護の監視を遁れながらの難行で、100ページ以上にわたって記述される。歌舞伎の勧進帳の場面があるかと思ったがなかった。ただ、加賀の国の守護富樫という人物が出てくる。富樫の城へ弁慶は一人で出かけ、東大寺勧進の山伏だと言って、たくさんの寄進物をもらう。もっとも、後日取りに来るからといって寄進物は預けたままにする。

 如意の渡しと言うところでは、渡し守に義経が怪しまれる。弁慶はとっさに義経を船から引きずり下ろし、おまえがいるために今までもところどころで疑われてきた、と扇でさんざんに打ち付ける。この二つのエピソードがやがて勧進帳になったのだろう。

 同行した姫君は、平泉近くになって、山中で男の子を出産する。この姫君は高舘で義経と共に自害する。その時、この子供と生まれたばかりの男の子も、姫に付き添ってきた十郎権頭兼房の手により命を絶たれる。こうして義経一家の最期を見届けた兼房は高舘に火を放ち、最後の一人として敵に立ち向かう。そして、敵将を一人脇に抱えて火の中に飛び込んで最期を遂げる。

『奥の細道』には芭蕉の句と並んで、曽良の句
卯の花に兼房みゆる白毛(しらが)かな
 が載っている。山本健吉は以下のように解説する:
 
この句は折から白く咲いている卯の花をとり合わせて兼房の最後の奮戦のさまを思い描き、その乱れた白髪を瞼に浮かべているのである。(中略)「兼房みゆる」といったのは曽良も芭蕉の義経熱が感染して『義経記』や幸若能の高舘最期の情景を必死に思い浮かべているのである。(同書p66)

 頼朝と義経の対立の原因も深くは述べていない。梶原景時がもっぱら悪者にされている。頼朝のことはさほど悪くは書かれていない。この物語が出来たのは1330年頃とされ、鎌倉幕府滅亡前後。自ら腹を切り、その上名刀を惜しんでさらにはらわたを開いてその中に隠し込むという壮絶凄惨な自害をとげた佐藤忠信の首を、頼朝は、義朝供養のために建てた寺に埋め供養した。頼朝にそのようなことをさせたのは畠山重忠の直言による。重忠は頼朝臣下の中ではただ一人ずけずけと直言をする人物として描かれ、何かにつけて義経を援護する。

 静の八幡宮での舞の楽を演じたのは、鉦が梶原景時、鼓が工藤祐経、笛が畠山重忠という豪華なメンバーである。工藤祐経は曽我物語の敵役だが、祐経の妻はもともと都にいた女で鎌倉に送られてきた静に色々気を遣って慰める。

 奥州征伐の先陣には畠山重忠が選ばれる。先陣希望者がたくさんいて頼朝は決めかねていたが、八幡宮へ参拝したとき、ご神託が重忠に下ったのだ。かつて源頼義、義家に12年も抗戦した奥州も、今回はわずか90日で滅んでしまった。
武士たるものは、忠孝に専念すべきものであるのに、泰衡らは、ざんねんなものどもではあった」で本書は終わる。(p621)

 本書の巻末解説で、高橋克彦は、頼朝の本当の狙いは奥州藤原氏を亡ぼすことにあって、義経はその道具として使われたのだと述べている。途中で何回も検問に引っかかりながら、その都度義経一行が切り抜けて、北陸道を平泉までたどり着く。もちろん弁慶を初め一行の機知ですり抜けるのだが、それだけではなく頼朝は藤原討伐の名分となる義経一行の奥州入りを本気では阻止しようとはしなかったのではという気もする。
 

 
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書名 自然と人と音楽と 著者 山本友英 No
2013-33
発行所 宮日情報文化センター 発行年 2013年8月 読了年月日 2013−08−15 記入年月日 2013−08−15

 著者の山本さんはかつての職場の同僚。退職後、郷里の宮崎に戻り、南九州大学でバイオテクノロジーの教育と研究に従事。本書は宮崎日日新聞に3ヶ月余りにわたって連載された自分史をまとめたもの。本書の1項に山本さんが行ったたばこの成分と燃焼性に関する研究を、私が代表して国際会議で発表したことが記されていて、それで私にも本書が送られてきた。

 100日以上にわたり新聞に連載されたものだけあって、わかりやすく明快な文章だ。自身の研究活動の内容を述べた部分も、一般読者にもわかりやすく、懇切に書かれている。前半は植物の葉における光合成産物がどのように他の部位に移動していくかの研究。宮崎に移ってからは組織培養法を用いての植物苗の増殖法が主な研究分野である。後半の部分はもちろんだが、前半の私と同じ研究部署にいた当時の山本さんの研究さえ、本書を読んで初めて知った。

 こうした研究内容以上に私を驚かせたのは、音楽における著者の才能。交響曲まで作曲し、宮崎シティーフィルハーモニーを指揮し、宮崎県立劇場で公演まで行っている。まったく信じられない話であった。巻末に著者の音楽活動が一覧されているが、それによると、二つの交響曲はすでに1977年と81年にそれぞれ東京の荏原文化センターホールで初演されている。同じ職場にいながら、まったく知らなかった。

 山本さんは職場では、その研究を評価されず、恵まれなかった。職場外での音楽活動が、そうした不遇な境遇に耐える心の支えとなったのであろう。

 宮崎に行ってからの活躍は、水を得た魚のようだ。特に目立つのが、オルガナイザーとしての活躍振りだ。「国際植物増殖会議」を組織し、日本支部の初代会長や、国際理事に就任している。音楽でも、各種のイベントを企画、実行している。2000年には宮崎日日新聞文化賞を受賞。

 山本さんは私より6才年上。それだけに少年期から青年期は戦中戦後の困難な時代のまっただ中にあった。そうした時代でも、音楽への関心を高め、育む環境に恵まれた。それが、後年に開花したのだ。幼い頃の境遇と、人との出会いが、人生を形作ると強く感じさせる本だ。


 
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書名 知の逆転 著者 吉成真由美 No
2013-34
発行所 NHK出版新書 発行年 2012年12月 読了年月日 2013−08−17 記入年月日 2013−08−19

 本屋の店頭に平積みされていた。帯には「18万部突破」とあった。

 著者による世界の著名知識人へのインタビュー。ジャレド・ダイアモンド、ノーム・チョムスキー、オリバー・サックス、マービン・ミンスキー、トム・レイトン、ジェームズ・ワトソンの6人。サックスを除けば全てアメリカ人、サックスも英国生まれだが、早くから渡米している。サックスとレイトン以外は私も知っており、著作にも接している。

 質問はそれぞれの専門分野だけでなく、その他の広い範囲にわたっていて、宗教観とか、教育のあり方、推薦図書など共通の質問項目もある。それぞれのインタビューにはタイトルがついている。

 ダイアモンド:「文明の崩壊」。生物学者ではあるが、進化生物学の立場から文明論を展開して、『銃・病原菌・鉄』などの世界的ベストセラーを著したという。『セックスはなぜ楽しいか』という刺激的なダイアモンドの著作をかなり以前に読んだことがあるが、期待はずれだった。

 ダイアモンドは、日本が木材と海産物の大きな輸入国でありながら、特に漁獲資源の保護の保護に力を入れていないことに警告を発する。(p32〜)。

 人生の意味について:
「人生の意味」というものを問うことに、私自身は全く何の意味も見出せません。人生というのは、星や岩や炭素原子と同じように、ただそこに存在するというだけのことであって、意味というものは持ち合わせていない。われわれの生の目的は、地球上で平和に共生する人間の数を最大にするということではもちろんないし、どんな状況であれ、数が多ければ多いほどいいというものではありません。この後、人類の欲望制御のためには軍事力や国家の権威というものが必要であると続ける(p36)。

チョムスキー:「帝国主義の終わり」。相変わらず厳しい発言がポンポン飛び出す。一番刺激的な内容だ。
 資本主義:現代のテクノロジーはコンピュータ、インターネット、航空機など公共の資金で開発されたものがほとんどで、今の資本主義には政府が深く関与している。唯一市場原理に従っているのは金融ビジネスで、だから、何回も破綻するのだと皮肉る(p69〜)。

 財政赤字:負債は高いけれども耐えられないものではない。「経済成長」があれば克服できる。景気後退を脱出するためには赤字は高くあるべきだと、驚くような積極財政論を展開する(p75)。もっとも、米国の赤字は高すぎる、その原因は軍事予算にあるとの批判も忘れない。

 核問題:もし「核抑止力」を本気で考えるのであれば、イランの核兵器開発を歓迎すべきだといういうことになります。イランはアメリカの軍事基地に囲まれて、常に脅威にさらされているので、「核抑止力」の典型的なモデルになりえる。アラブ世界の大部分は、イランが核武装すべきだと考えているのに、アメリカはそう思っていない。なぜなら、アメリカは本気で「核抑止力」など考えていないからです。アメリカが考えているのは「核抑止」ではなく「核支配」」です(p83〜)。さらにチョムスキーは別のところでイスラエルの軍事歴史家の言葉を引用して「
イラクに何が起こったかを目撃したあとで、もしイランが核兵器を開発しないとしたら、彼らはまともではない」と述べているとのこと(p104)。はっと胸を衝く指摘だが、半面の真理であろう。もちろん彼の主張は核廃絶、少なくとも非核地帯の設置である。

 言語、数学、音楽:言語の要素をその骨のレベルまで削って行くと、ほぼ数学的なものに帰趨する。したがって数学は言語の副産物である可能性が高い。音楽も言語の副産物であると証明されるかも知れない(p122)。 

サックス:「柔らかな脳」。脳神経医。冒頭「心を相手に寄り添わすことのできる希有な人物である」と紹介されている(p129)。脳に障害を持つ人々と接する中から脳の驚くべき機能を語る。例えば左脳にあるとされる言語機能が、障害を持った人では右脳に移って行くという(p142)

 音楽について:アルツハイマー症の患者の観察から、個別の記憶や、エピソード記憶は失われてしまっても、音楽は残っているという(p142)。そうした音楽の能力は脳内で領域特定化しており、数学も音楽に似ているという(p147)。音楽が先か言語が先か(ダーウインは音楽が言語に先行したと考えているが、サックスはこの問題は複雑で解明は至難の業だが、一緒に発達してきたのではと考えている p150〜)とか、音楽の治療効果などが述べられている。

 遺伝と環境;経験が遺伝子の発現を促す、すなわち環境によって遺伝子の発現そのものが左右されるということがわかってきました(p158)。環境が遺伝子の発現を制御することをエピジェネシスという。 

ミンスキー:「なぜ福島にロボットを送れなかったか」。
 刺激的な表題だ。これはインタビューアーが冒頭に投げかけた質問で、ミンスキーは素晴らしい質問だと褒めた。スリーマイル島事故(1979年)の教訓として、リモコン操作できるロボットを現場に送り込むことは容易に出来るはずだと、ミンスキーは1980年に指摘した。にもかかわらず、30年以上経った福島原発事故にも実現しなかった。「
問題は、研究者が、ロボットに人間の真似をさせることに血道をあげているということ、つまり単に「それらしく見える」だけの表面的な真似をさせることに夢中になっている、というところにあります」(p173)と指摘する。30年間ロボットは進歩しなかったといい、続いてソニーやホンダのロボットへの批判があり、さらにチェスでは人間に勝っても、ドアさえ開けられないコンピュータへの批判と続く。ミンスキーは「子供のように育って行く」コンピュータの研究を主張する。「もし、次に起こることを予測できないとしても、どういった原因がどういった結果を生むのということについて、割合良い線の論理は構築できると思います。そういった論理を二、三構築できれば、実際に実験して比べることができる。中略 そしてコンピュータ自体が、新しいアイディアを生み出して、調べて、試行錯誤して、その経験を次に生かして、ということができるはずなのです」(p180)。

 ミンスキーの専門は人工知能。彼の著作に『心の社会』というのがある。30年近く前私も手にして読み始めた。上下二段組で500ページを超す大著で、半分ほど読んで挫折してしまった。確か、認知過程に階層的なプロセスを提唱した本だったと思う。
 個人と集団叡智:ミンスキーは集団叡智に価値を置かない。その一例として、5000万人ものアメリカ人がブッシュが一番いい大統領だと考えたことをあげる。「
わずか100人の個人が、知的革命によって西欧の科学というものを形作ってきたわけで、大衆の「集合知能」のほうは、逆に科学を何百年も停滞させてきたのです」(p186)。

レイトン:「サイバー戦線異状あり」。応用数学者。
 アカマイの設立者。「
アカマイ社はおそらく、”誰も知らないインターネット最大の会社”というふうに表現してもいいかもしれません。当社は、ほぼ全てのウェブ上最も人気の高いサイトの内容を配信したりスピードアップしたりしているので、誰もがアカマイ社を使っていることになります。毎日一三万以上のウェブサイトがアカマイ社を通じて配信されていますから」(p206)。

 その専門的なテクノロジーの解説はない。グーグルやヤフーも全てアカマイ社を使っているという。同社は世界中に9万台のサーバーを配置している。インターネットを流れる情報のうち、ワイヤレス情報では60%が同社を通っているとのこと。レイトンは「
これからはあらゆるものが携帯型の機器になると思います」と将来を見通す。(p211)。
 サイバー攻撃への憂慮、アカマイ社創設にまつわるエピソードなどが述べられる。

ワトソン:「人間はロジックよりも感情に支配される」
 ワトソンはずけずけと物を言うことで物議を醸すことが多いと著者も述べている。かなり前だったが、黒人は科学に向かないと言って問題になったというニュースを読んだことがある。今回のインタビューでもそうしたワトソンの一面が良く出ている。

 ロザリンド・フランクリンについて:彼女の態度のせいで、他の人は彼女を助けたいと思わなくなった。もしいい性格だったら、それだけで既に助けになる。ブスッとした不機嫌な人だったら、誰も助けたいと思わないでしょう(p289)。ハッキリ言って、彼女はノーベル賞に値しない。ノーベル賞は敗者には与えられない。誰も彼女から賞を奪ってなどいない(p290)。

 ワトソンは推薦図書として自分の『二重らせん』とダーウインの『種の起源』の2冊のみを挙げた。ワトソンは人は知らなくてもいいことに時間を割きすぎているのではないかと言っている。2冊というのはその趣旨に添ったのであろう。『二重らせん』は当初『正直ジム』という題を思いつき、気に入っていたが、出版社が躊躇して採用されなかった。『正直ジム』には「私は果たして正直だったろうか」という問題提起が含まれているのに、アメリカ人は十分には洗練されていないので、文字通り「自分は正直なんだ」と採ってしまうので、この題は使われなかったという(p292)。

 尊厳死:末期病患者に安楽死を施し、積極的自殺幇助の罪で服役したジャック・ケヴォーキアン博士は、50年もすれば殉教者と見なされるだろうという。病院ではなく、活きているうちに逝くのが望ましいという(p294)。

 組織と個人:西欧の思考というものは「社会」ではなく、「個人」を尊重することから生まれた(p266)。科学を促進させるということは、とりもなおさず「個人」を尊重することです(p267)。本来、人はみなそれぞれ異なっているのに、同じだとみなされなければいけなくなっている。同時に、あるもののほうが別のものよりもいいという言い方は避けて通るようになってきてもいる。だから、どの花も全て同じように咲くんだと言う。ごまかしです(p274)。
 脳科学:脳の発達とその機能の解明が最大の未知の問題であるとする。その解明には100年くらいの時間がかかる。今の脳科学者には脳解剖学者がほとんどおらず、皆が脳の構造を見ないで分子ばかり見ていると、研究手法への批判を述べる(p261〜)。
 感情と理性:
感情は常に理性より重要です!(p277)
 本書に載せられたワトソンの写真は、『二重らせん』に載っている20代のワトソンからは想像もつかない。中央部ははげ、残る毛髪も白髪で、顔にはシミがたくさん出ている。

 取り上げあれた6人の発言うち、それぞれの専門にかかわる発言は別とし、それ以外の主張では、そのほとんどを別の人でもいえるだろう。ただ、6人が果たした知的業績が背景にあるから、こうしたインタビューが多くの人の興味を呼ぶのだろう。
 

 
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書名 現代物理学と新しい世界像 著者 柳瀬睦男 No
2013-35
発行所 岩波現代選書NS 発行年 1984年 読了年月日 2013−08−18 記入年月日 2013−08−20

 今年の夏は3年前の夏に匹敵する猛暑が続く。どこへも出かけないで、夕方菜園に行き、残り少なくなった夏野菜を収穫し、草を引き、水をやること以外、日中は読書とパソコン相手の将棋で過ごしている。本書も本棚に眠っていたもの。かつて読み始めて、神学云々が出てきてやめてしまった本だ。何気なく取り上げて読んでみたら結構面白く、短時日で読み終えてしまった。理解出来ないまでも、量子力学、宇宙論、相対性理論、時間と空間、論理学といった現実離れした世界に遊ぶことは、クーラーもない書斎での猛暑下の読書にはかえって向いているようだ。

 著者は物理学、哲学、神学を修めた日本では珍しい研究者で、上智大学教授。本書の主眼は、現代物理学を西欧流の形式論理学からではなく、日本的あるいは東洋的な曖昧さを許容する思考形式から解釈し直そうという。特に当時はやったファジー論に大きく期待している。もう一つは中世スコラ哲学をもとにした新しい世界像の構築へ向けての提言である。そこではスコラ哲学のエヴム(悠久、永在)という概念をさらに発展させ、著者がアイオニティと称する概念に基づく考察が提言されている。

以下適当に付箋をつけた箇所から引用。

生物学:
還元主義に従って、生物系のすべての振舞いが「ヒト」を含めて物理科学的な法則に還元できるという説は、ほとんど内容のない空虚な言明のように思われる(p50)。
 …生物学が進化論を除外してはほとんど何もいえない、つまり進化論が統一的な自然像としての生物学を組み上げるための不可欠な要素であることも明かである。したがって進化論を基礎とした生物学は、広い意味での歴史学もしくは宇宙論の一部であると考えざるをえなくなる
(p51)。

日本的思考:
…日本語でしかも日本人という東洋的な背景から全体を眺め直してみるなら、量子力学、相対論も含めた自然科学、論理、哲学、神学にまで及ぶあらゆる領域にわたって、西欧の思考方法の枠をもう少し拡げる必要があるのではないかと考えるのである(p66)。西欧式の形式論理による概念規定や推論を少し拡げて用いることで得られるものが多いというのが著者の考え。

ファジー:
…ファジー論理の場合、現象自体は確定している。たとえば一人の人物がいて、その背の高さははっきりとわかる。しかしそれが一つの概念に該当するかしないかという点が曖昧だというのである注:その人物は背が高いという概念に該当するかそうでないかということ)。したがって、それは存在そのものについていうのではなく、そのものの本質もしくは性質の曖昧さをいっているのであるから、これは明らかに確率論とは異なったものであるということが認められた(p88)。

場、真空:
物理学の領域から存在論的に時空を取りあげ、それにはっきりとした「物」としての性質を与えようとしたのはファラデー以来の「場」の考え方である。そしてそれは今日ますます場の量子論、素粒子論を通して一般化されてきており、我々にとって真空は何もない空間ではなく、顕在的にせよ潜在的にせよ、それ自体「物」を含んだ物理的性質をもったなにものかとして把握されている(p115)。

時空と存在:
我々は決して現在の一瞬だけが存在すると考えているわけではなく、過去と未来を同時に考え、あるいは感覚しながら生活しない限り、何もすることができない(p121)。

因果律:
…現在生起している現象を見てその原因は何かを問う時に、物質的な現象であれば必ず過去に何らかの原因があると考えるのは、自然科学的な立場から見れば妥当である。しかし、人間存在という見地に立てば、未来を予測して現在を決定するという現象は、あらためて日常生活を振り返るまでもなく、我々のよく知っている経験である。したがって人間の存在がアイオニティという拡がりをもったものであると仮定すると、必ずしも過去に原因をおくということだけに限る必要はなくなる。つまり人間に関する現象を過去の作用因と未来の目的因を併せたもう少し広い因果性として捉えることができるようになるだろう(p128)。 

 
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書名 続ハッブル望遠鏡が見た宇宙 著者 野本陽代 No
2013-36
発行所 岩波新書 発行年 2000年9月 読了年月日 2013−08−20 記入年月日 2013−08−21

ハッブルの覗く宇宙に星の恋」という句を作った。星の恋が七夕の傍題季語。『ハッブル望遠鏡が見た宇宙』を読んだのは1997年。その続編があることを知り手にした。読みどころというより見どころは多数のカラー写真。本書は前編が出てから3年後に出された。その間にハッブルはさらに性能をアップさせている。可視光線だけでなく赤外線、紫外線用のカメラも積んで宇宙を探っている。

 今回特に気になったのは、宝石のように輝く星々の背後にある何も写っていない暗黒の部分。これは宇宙の大きさが有限であることの証明なのか。それとも宇宙は無限であって望遠鏡の感度が上がれば暗黒の空間にも星の光を見出せるのか。

「オルバースのパラドックス」というのがある。もし宇宙が無限の大きさをもつなら、全天は星に覆われ、輝くはずだというのがこのパラドックスの通俗的解釈だ。ウイキペディアを調べたら、詳しい専門的な説明がしてあった。星は全空を覆うように存在するのだが、何らかの理由で見えないから暗黒が存在するのだという説も有力だった。しかし、通俗的な上記の解釈が正しいようだ。

 ウイキペディアには次のように説明されている:星は空を覆いつくすほどには存在していないのだということがわかっている。 森が木の幹で見通せなくなるのに森にある程度の大きさが必要なように、夜空が星で覆いつくされるためには、無限とはいかずとも宇宙がある距離を越えて空間的に非常に広くなければならない。 また光速が有限であるため、そのような広大な空間を光が伝わってくるような非常に長い時間の昔から星が輝いていたとすることも必要となる。 著名な物理学者ケルヴィン(ウィリアム・トムソン)は1901年の論文において、恒星の寿命がこれに必要な時間には遠く及ばないことに注目し、もともと暗闇には十分に星が存在していないためにパラドックスの前提が成立していないという解答を定量的に示した。 当時の恒星の年齢の見積もりは現在とは異なっていたものの、恒星が一生の間に放射しうる光の量に注目したその議論は、現在においてもパラドックスの解決において本質的である。

 ハッブルは宇宙誕生10億年後の銀河もとらえている。その光が届くには120億年以上の歳月が経っているわけで、その間に無数の星はその一生を終え輝きを失っているのだ。

 
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書名 新古今和歌集(上) 著者 久保田淳 訳注 No
2013-37
発行所 角川ソフィア文庫 発行年 平成19年 読了年月日 2013−09−08 記入年月日 2013−09−15

 堀田善衛の『定家明月記私抄』や丸谷才一の『百人一首』を読んでいると、『新古今集』は日本人の美意識のひとつの頂点のようだ。私はかつて王朝文学の対極としての芭蕉を考えていたが、『奥の細道』を初め、芭蕉の書いたものに接すると、芭蕉も王朝文学に深く馴染んでおり、特に西行を通して新古今の世界への憧憬が深いと感じた。どうしても『新古今集』を読んでみたくなる。

 名歌だけを抜粋した本もあったが、どうせならと思い、全歌が載っている本書を選んだ。全部で1995首という数にまず驚いた。上下2巻に分かれている。右ページに歌、左ページに歌の意味と背景、本歌などの解説がなされている。1995首には1番から通し番号が振ってあり、全部で20の部類に分別されている。上巻は巻第一「春歌上」から以下、「春歌下」「夏歌」「秋歌上」「秋歌下」「冬歌」「賀歌」「哀傷歌」「離別歌」「羇旅歌」の10巻989首が載る。

 初めて読むものだから当然といえば当然だが、驚くことが多い。歌数の多さ、分類もそうだが、採り上げられた歌人の多彩さにも驚く。私は「新古今集」というから、「古今集」以後の作品を集めたものだとばかり思っていた。それはまったくの思い違いで、古くは仁徳天皇の

 高き屋に登りてみればけぶり立つ民の竈はにぎはいひにけり 707

 から始まって、万葉歌人のものもかなりある。巻末には歌人一覧があり、それによると柿本人麻呂は23首が選に入っている。驚いたのは西行の歌が94首選に入っており、これが最高で、当時の歌人にいかに人気があったかを示す。続いては慈円の92首、藤原良経の79首がこれの続く。それに対して「新古今集」編者の中心と思われる定家は46首、後鳥羽院33首というのも驚きだ。これは多分選ぶ側の遠慮だろう。紫式部の歌も14首採られており、かなり多い方だ。

「新古今集」というのは、鎌倉初期の歌人たちの感性のよって選び抜かれた歌集だということ。ただし、それまでの勅撰集に採用された歌は採っていない。序文で後鳥羽上皇が言っているが、和歌の源である「万葉集」からは採用している。編集を命じたのは後鳥羽上皇、命じられた選者は、源通具、藤原有家、藤原定家、藤原家隆、藤原雅経である。「新古今集」には真名(漢文)と仮名の序がつけられている。いずれも後鳥羽上皇の手になる。真名序の現代語訳には次のような一文がある。(p21)

 
謹んで考えてみると、余は王族の邸宅からやって来て、即位し、その後宮殿を去って、上皇となった。そして、今上陛下の父である。帝王の道についての帝の相談に閑暇がないといっても、日本国の元の主として、どうしてわが国の習慣である詠歌を賞しないでいられようか。

 鳥羽上皇は同じ序文で、「古今集」には天皇の御製は載せなかったが、「後撰集」の時から載せるようになった。自分もこの集に30首余りを入れた。和歌の本義を極め尽くしたものなら、1首か2首で十分であろうが、詩歌の才能を欠くためにかえって詰まらぬ言葉が多くなってしまったと、述べている。 

 真名の序文は以下のように結ばれる(p23):
この集はただ単に、仙洞御所に、風とたわむれ月をもてはやした感興があることを記録するだけでなく、その名も皇国の基元が久しく続くという、元久という年号の年に、古い歴史を回顧し新しい将来を洞察する心も明らかにしようとするのである。勅撰集編撰の趣旨は、ここにないといえようか。元久二年春三月記したのである。
 序を読むと後鳥羽上皇の執念のようなものを感じる。

 さて本文。これは歌だけ読んだのでは多くの場合理解出来ない。左ページの解説があって初めて、やっと意味がつかめる。かけことば、隠喩、ひとつの言葉の持つ意味の多重性、歌の背後にある本歌、当時の風習などを知らなければ理解することができない。理解出来たとしても、深く味わうまでにはなかなか達しない。

 部類別に分けられ、さらにその中が、対象ごとにまとめられている。例えば春なら、梅、霞、柳、桜といった題材が、延々と並ぶ。当然類歌が多い。そして、かなりの歌が本歌取りである。解説には本歌も示されている。

 定型的な表現が多用される。例えば、涙あるいは露に濡れた袖には月が宿るという言い方。あるいは、露に宿る月の光。
 羇旅歌も、実際の体験には基づかないものが多い。しかし、そんなことを気にしていたのでは「新古今集」は味わえない。桜も紅葉も実景として詠まれたものなどほとんどない。言葉の持つイメージの世界に自らの心を託すのがこの歌集の本質だ。だから味わいつくすのが難しいのだ。

堀田善衛は「
後世の今日から見ても、これだけのつきつめた抽象美を形成した詞華集は、世界文学のなかでも唯一無二であろう。」と「新古今集」を評している。

三島由紀夫は「日本文学小史」という作品の中で、一時代の文化意思を形成する緒端となった作品を取り上げて論じることを試みた。残念ながら最晩年の作品で、「古今集」までで終わっている。その「古今集」を三島は「古典主義原理形成の文化意思」ととらえた。「新古今集」に対してはどのようなとらえ方をしただろうか。

注釈を読んでいると、最後にこの句は定家十体の幽玄様の例歌という表現が時々出てくる。ネットで調べてみた。武田元治氏のページから引用:
定家十体
 幽玄様   世俗を離れた深さを特徴とする歌体
 事可然様  歌の内容が理としてそうあるべき事と肯定されるような歌体
 麗様    表現が和歌としての格に合い整っている点に特徴の認められる歌体
 有心体    作者の思い入れの深さを特徴とする歌体
 長高様   格調の高さや大きさを特徴とする歌体
 見様    風物に関するイメージが眼前に彷彿と「見るやう」に感じられる点を特徴とする歌体
 面白様   歌の趣向が巧みで目新しく、興趣の感じられる点を特徴とする歌体
 有一節様  趣向上の見所が何か一つ目立つ歌体
 濃様    感情内容をきめ細かく表現した点を特徴とする歌体
 拉鬼体   力強い表現を特徴とする歌体

この中で基本は最初の四つで、中でも和歌の本質を最も備えているのは有心体であると定家はいっている。

 さらに、「この言葉は制詞」という注釈もある。例えば 二条院讃岐の

 山高み峰のあらしに散る花の月にあまぎるあけがたの空   130 

の「月にあまぎる」を、詠歌一体で制詞とされている秀逸な句、(p91)としている。
 句の意味は山が高いので、山嵐に散る花が月を曇らせている明け方の空という。この歌なども典型的な「新古今」調で、実景ではあり得ない。しかし、口に出して読むと調べはよいし、浮かび上がる情景は夢幻的で、美しい。
「制詞」を広辞苑で調べると「中世歌学で和歌を作るときに用いてはならないとされたことば」とあった。多分、オリジナリティを尊重して、他の人がむやみに用いてはいけないということだろう。

 ついでに、この歌集の特徴がよく出ているので、上の歌の次、131番の崇徳院の御製と、133番の後鳥羽上皇の御製をここに引く。意味はとりやすい歌で、崇徳院は散る桜を天の羽衣にたとえ、後鳥羽院は白い嵐とみる。

 山高み岩根の桜散る時は天の羽衣なづるとぞ見る      131
 み吉野の高嶺の桜散りにけりあらしも白き春のあけぼの    133

 高みの桜が散るというのは、当時の歌人の美意識にピッタリだったのだ。しかし、よく似た句だ。この後には、定家、後鳥羽院、藤原良経という同時代の大家の、散る桜を雪に見立てた歌が3首続く。
 

 
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書名 後鳥羽院 第二版 著者 丸谷才一 No
2013-38
発行所 筑摩学芸文庫 発行年 2013年3月 読了年月日 2013−09−14 記入年月日 2013−09−16

『新古今和歌集』の上巻を読み通したところで、下巻の残り1000首へ進む前に、一服したい気になった。目に入ったのが本書である。

 大変な本だった。読み進めた5日間ほど、丸谷ワールドに引き込まれ、魅了され、後鳥羽上皇とその時代に浸りきってしまった。『新古今集』は後鳥羽上皇の強い意志で作られたものだから、本書は『新古今集』のこれ以上ない解説書になっている。その洞察の深さは、国文学の専門家でもとても及ばないものだろう。学者では考えつかなかった、文学者・批評家の立場からなされた斬新な解釈が読む人を飲み込む。もちろん後鳥羽上皇を論じたものであるが、ある時はそれは折口信夫論であり、保田輿重郎論であり、さらには谷崎潤一カ論にもなる。引用も本居宣長を初め、多くの歌集から歌を拾ってきている。

 本書の構成は2部構成で、それぞれ3つの評論からなる。当初、1部だけであったのに2部を加えたので、『後鳥羽院第二版』という題になった。
 便宜上番号を付すと以下の6編である。

 1.歌人としての後鳥羽院
 2.へにける年
 3.宮廷文化と政治と文学
 4.しぐれの雲
 5.隠岐を夢見る
 6.王朝和歌とモダニズム

 全編を貫くのは後鳥羽院への心酔、宮廷文化賛美。天皇、上皇、隠岐流謫という波乱に富んだ上皇の生涯を、経時的に述べることはしない。中心は上皇の詠んだ歌を拠り所に、その心境に迫る。採り上げられた歌のほとんどが、秀歌として賞賛される。後鳥羽院への心酔は、承久の乱に際し、敗戦後部下に責任をかぶせ処刑したひどい仕打ちまでも、当時の考えでは非難されるべきでないと、後鳥羽院を擁護するまでにいたる。

1.歌人としての後鳥羽院
 本書の核心部。後鳥羽院の多数の歌が採り上げられ、丸谷流の考察がなされる。例えば33ページ以下:
 
見渡せば山もと霞むみなせ川ゆうべは秋と何思ひけん
 単に後鳥羽院一代の絶唱であるのみならず、『新古今』の代表的な秀歌である。和歌史上最高の作品の一つと呼んでもいいかもしれない。後世がこれを踏まへて、あるいは、
 雪ながら山もと霞む夕べかな    宗祇
   行く水とほく梅にほふさと   肖柏
 と百韻をはじめ、あるいは、
 見わたせば大橋かすむ間部河岸松たつ船や水のおも梶     蜀山人
 と戯れたのは当然のことであろう。和歌、連歌、狂歌とせつかく並ぶのに俳諧では見つからないのは残念な話しだが、これは宗祇の発句をしのぐのはむづかしいと俳諧師たちが見て取ったせいであらうか。


 以下、この歌のm音の繰り返しに触れ、「見わたせば」が後鳥羽院の好きなフレーズで、丸谷が気づいただけでも11首あると述べる。さらに古来からの天皇の行事であった国見について述べた後、この一首を「
政治的な国見と景色美とを微妙に兼ねたものとしてとらへたくなる」と述べる。

110ページ以下:
 
橋ひめのかたしき衣さむしろに待つ夜むなしきうぢの曙
 この御製から、20ページ以上にわたり、「橋姫」についての考察がなされる。多数の関連和歌、源氏物語、柳田国男が引かれ、さらには当時の婚姻制度、娼婦の実態まで考察は及ぶ。他の撰集にはほとんど見られない「橋姫」が『新古今』には5首もあり、橋姫こそはこの撰集の守り神に他ならないとする。その理由のひとつは、橋姫の物語は悲恋であり、悲恋の物語こそは歌人たちの精神を強く刺激するからである。彼らが佐保姫や竜田姫におざなりだったのは哀切な恋が彼女たちを彩らなかったからであるとする。


2.へにける年
 後鳥羽院と定家の関係を考察。
211ページに『新古今』ついて以下のように記す:
 
それは単に「一時代の趣味を創造」しただけでなく、じつに一文明の趣味を決定した詞華集であった。今日われわれが漠然と、近代日本文明における『古今』的なものとしてとらへてゐる要素も、ほとんどすべて、江戸時代の人々が『新古今』の趣味を経由してその影響下に承けついだ、いはば『新古今』的なものの一部分にほかならない。卓越した批評家の作品としての詞華集であればこそ、かういふ結果が生じたのである。
 ここには批評家としての後鳥羽院と定家が高く買われている。

 この編の結びとして次のように記す(p250):
 
わたしに言はせれば、後鳥羽院は最後の古代詩人となることによって近代を超え、そして定家は最初の近代詩人となることによって実は中世を探してゐた。前者の小唄と後者の純粋詩といふ、われわれの詩の歴史における最も華麗で最も深刻な(そして最も微妙なとつづけてもいい)対立はかうして生まれ、それゆゑにこそ二人は別れるしかなかったのである。

3.宮廷文化と政治と文学
 承久の乱についての考察。

 承久の乱は謎めいたものであるとし、以下のように記す(p261):
 この反乱の最も重要な部分は後鳥羽院といふ一人の天才の妄想に属してゐるからである。彼はそれを長い歳月にわたって心に育て、その結果、久しい以前から隠岐に流されることを夢み、さらにその事態に憧れてゐたやうにさへ思はれる。
 次いで
 
あはれなり世をうみ渡る浦人のほのかにともすおきのかがり火
という御製を引き、詳細な分析を加え、後鳥羽院が既に無意識のうちに隠岐という地名を心に明滅させていたと推察する。

『新古今』をもって宮廷中心の古代文学は終わる。それは、詩人が詩の場を喪失したと言うことである。そうした状態が長く続いたあと、芭蕉が歌仙という詩の場を持とうとしたのは、恐るべき新工夫だったと丸谷は言う。(p283)

本編の結び(p283〜)
 
…宮廷が亡ぶならば自分の考へてゐる詩は亡ぶといふ危機的な予測をいだいてゐたに相違ない、と思はれることである。それは彼にとって文化全体の死滅を意味する。彼はそのことを憂へ、詩を救ふ手だてとしての反乱といふほしいままな妄想に耽つたのではなからうか。承久の乱はその本質において、文藝の問題を武力によって解決しようとする無謀で徒労な試みだったのではないか。中略 そして定家はもはやそのやうな幸福があり得ないことをよくわきまへてゐたのである。

4.しぐれの雲
 しぐれをキーワードとする歌論。
 面白いことが書いてあった。字余りの句には必ず「あいうえお」が含まれると本居宣長が指摘しているという。後鳥羽院も字余りを嫌わなかった、むしろ好んだと丸谷は言い、隠岐で詠んだ11首をあげ、字余り句には必ず「あ」行の音がはいっていることを示している(p307)。

5.隠岐を夢見る
 後鳥羽院の和歌の歌謡性について論じるが、それを手がかりに折口信夫と、折口がライバル視した北原白秋との関係を論じている。丸谷の多才ぶりを示す。

6.王朝和歌とモダニズム
 海外におけるいくつかの講演をまとめたもの。
 後鳥羽院を日本におけるモダニズムの開祖とする。

 丸谷は新しいものにひかれてやまないモダニズムと似たものが後鳥羽院を中心とする『新古今』歌壇にもあるとする。それは、句切れ、本歌どり、歌枕、体言止め、縁語、序詞などに見られる。丸谷は藤原俊成の次の1首を引く。

またや見ん交野の美野の桜がり花の雪ちる春のあけぼの

 この歌には「の」が7つある。名匠によるこの「の」の多用は非常な影響をもたらしたという(p382)。

 明治維新以後日本に入ってきた文学思想のうちで、最も影響があり、優れた作品を与えたのはモダニズムだという吉田健一の説を紹介したあとで、丸谷は記す(p389):
 
だってもともと『新古今』のせいでモダニズム的性格が用意されてゐたのだから。現在という時間を強く意識して未来へと進んでゆく勇敢さ、そのときの人間の生き方の花やかさ。それを尊ぶことこそわが文学の伝統でありました。

 続いて、俊成の上の歌をひき、「
交野の狩場に花の雪ちる景色をふたたび見ることができそうもない老年を、単に嘆いてゐるのではない。もちろん悲哀の情はああるけれども、いま年老いた身で春のあけぼのの美に立会ふことに感動して、言葉の藝の限りを盡すのである。うつろひやすさ、はかなさと永遠とがいつしよにあるといふ不思議な時間性、そこに生じる優美こそ、日本文学の基本の調子であった。それを色恋の風情から四季の移り変りの趣まで総括し、もののあはれ(人間として生きることにつきまとふ憂愁)と本居宣長は呼びました。 

 
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書名 恋と日本文学と本居宣長・女の救はれ 著者 丸谷才一 No
2013-39
発行所 講談社文芸文庫 発行年 2013年4月 読了年月日 2013−09−21 記入年月日 2013−09−29

『新古今和歌集』の下巻を読み始めた。巻11から15まで延々と436首の恋歌が続く。うんざりして読み進めているとき、アマゾンからのメールで本書を紹介してきた。
 これまた面白い本で、新古今を中断して読んだ。

 日本では1000年も昔に源氏物語という恋の物語があるのに、中国にはなぜ恋愛小説がないのか。今まで取り上げられなかったこの疑問を出発点として日中文学の比較、そして日本文学の特質が述べられる。

 中国でロマンティックな恋愛小説が書かれないのは儒教のせいである。ただ、唐時代初期に『遊仙窟』という小説があった。黄河上流を旅した主人公が桃源の仙郷で美女と一夜の契りを結んで立ち去るという物語。これが8世紀初頭日本にもたらされ多くの人々の心をとらえた。丸谷は王朝の恋物語はこの『遊仙窟』から生まれたとする(p16)。しかし、中国では儒教の影響が強く、『遊仙窟』は逸散してしまった。中国にも恋愛を扱った文学作品がないわけではない。例えば、白楽天の長恨歌。しかし、これは結婚という制度による公認の情愛、相手が死者、恋慕するものが老人であるという条件が揃って初めて成立する文学である。それは例えば源氏物語の光源氏と藤壺の恋とは違う安全な恋である(p28)。

 日本での恋愛文学の隆盛は何によるのか。丸谷は恋の呪術性をあげる。原始人は人間が性行為を行うと植物を刺激し多産豊饒がもたらされると信じていた。その性行為を行うのが祭詞王とその妃というのが素朴な形であり、その祭儀の場が発展してやがて宮廷ができてくる、としたあとで、「
すなはち恋歌を中心の王朝和歌は、わが太古の民の豊饒信仰に由来した。わたしは、日本文学の核心にあるものは、天皇が貴女たちに言ひ寄る恋歌であると思つてゐます。」(p47)

 王朝の歌人は恋歌が下手では意味をなさなかった。柿本人麻呂が大歌人と認められたのは相聞の名手であったからであり、紀貫之も、藤原定家も、西行もまず恋歌によって重きをなした。百人一首のうち少なくとも38首は明白な恋歌であり、解釈によってはもっと増える。この伝統は長く続き、俳諧においても、芭蕉の名声のかなりの部分は、恋の座の付けとその捌きによっている。(p43)

 丸谷によれば日中文学の対比を恋という観点からとらえたのは本居宣長だけであるという。宣長は色恋沙汰を賤しいもの、恥ずかしいものとして押さえる中国人の態度を偽善的であるとする。儒教によって人間の自然感情を抑え込まなければならないのは中国には悪人が多いからである。日本にはそんな必要がないのは、日本は神国でよい人々が住んでいるからだというところまで宣長の考えは行く。宣長を貫くのは「からごころ」排斥の糸であり、彼にとっての「やまとごころ」とは結局『源氏物語』と『新古今』であったと丸谷はいう。小林秀雄の『本居宣長』とは違った観点から宣長が論じられる。

 丸谷はいう:
…宣長は文学の本質を丁寧に精密に考へて行つて、政治的価値にも倫理的価値にも邪魔されない文学それ自体の世界を想定し、それを顕揚することができた。(中略)そして彼以後の日本文学は彼のこの理論のおかげで成立した、と私は思つてゐます。(p72)

 宣長の唱えた「もののあはれ」の出典として藤原俊成の次の歌を揚げる。
 恋せずは人は心もなからましもののあはれもこれよりぞ知る

 宣長の生涯には不思議なことがたくさんあるが、なかでもどうしてあんなに和歌が下手だったのかと言うことだ。それでいて、例の「山桜の歌」はあんなに人々の口に上った。「
あの一首のたどつた運命を見ると、宣長は日本人と和歌の関係の最低の部分を天才的に押へてゐたのかといふ気がする」と述べる(p81)。正岡子規もこの歌を酷評していた。

「女の救はれ」は建礼門院徳子のことから、日本文学を貫く女人往生について論じる。

 壇ノ浦で入水した徳子は源氏の兵の熊手にかき揚げられる。助けられた徳子は敵将義経と関係を持つという春本が江戸時代には出された。丸谷はそれは単なる空想ではなくて、実際にあり得たとする。平家物語の最後の部分で、後白河法皇が大原に徳子を見舞うが、これも1回限りではなく、おそらく男女関係を結んだとする。さらに、瀬戸内海をさまよう約1年間の苦しい時代には、同じ船に乗る宗盛や知盛とも兄弟間の近親相姦を犯したとする。これは、いくつかある平家物語の異本から引用している。つまり、徳子は罪深い女だと当時の人々は考えていた。

 丸谷は現在一般に流布している覚一本『平家物語』のエンディングを日本文学史上最高のものとしている。『源氏物語』や『細雪』の終わり方は果たしてあれで良いだろうかと疑問視する。その『平家物語』だが、最後の巻12は灌頂巻で、その後の徳子を描く。女院出家、大原人、大原御幸、六道之沙汰、女院死去である。病気で衰えた徳子の唱える念仏が途絶えると、西に雲がたなびき、異香室にみち、音楽が空に聞こえる中で、徳子は弥陀の手により浄土に導かれるというところで『平家物語』は終わる。
 最初の『平家物語』の編集が試みられたのは1205年。源平合戦の死者の怨霊を鎮めるのが目的であった。しかし、当時法然はまだ健在であり、念仏を唱えるだけで成仏できるという信仰が広まりつつあった。女人は穢れた存在であり、浄土には行けないというのが一般的な考えであった。その中で、最初の『平家物語』の編者たちにも法然の考えがある程度浸透していただろう。最初の『平家物語』も、女人でも救われるという法然の教えも13世紀を通して世に浸透していった。平家物語の聴衆である女たちが女人往生の考え方に熱中し、琵琶法師たちは女人往生を鼓舞する戦記物語を語るしかなかった。数奇な生涯をたどった建礼門院徳子はその絶好の題材であった。かくして150年後に覚一本『平家物語』が成立した。『平家物語』は、源平動乱の怨霊慰撫であると同時に、女人往生の大がかりな宣伝文であった、と丸谷は述べる。

曽我物語』も最後は十郎の恋人、大磯の遊女虎の往生で結ぶ。人形浄瑠璃は主題が女人往生である。さらに、『源氏物語』の最後、宇治川のほとりにおける浮舟の沈黙はやがて彼女が体験する女人成仏の前兆であるとし、紫式部はこの物語を女の救はれの物語として書いたとする(p127〜)。

 王朝文学から江戸文学に至るまで、女人を救済し、とりわけ品行の悪い女人の浄土行きを助けるというわが国の発想は中国にはない。その違いは妻訪う婚と関係があるだろうと著者は言う。

 明治以降入ってきた恋愛を基調とする西欧文学を、日本がうまく学ぶことができたのは、中国文学の熱心な弟子でありながら、あるところでは頑強にそれを拒んで恋愛文学を保持してきたからである。その背景として「もののあわれ」と「色好み」とが言われるが、「女人往生」そして女系家族的なもののほのかな記憶とを付け加えたいと、丸谷はいう(p153)。
 

 
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書名 新古今和歌集(下) 著者 久保田淳 訳注 No
2013-40
発行所 角川ソフィア文庫 発行年 平成24年4月 読了年月日 2013−09−26 記入年月日 2013−

 巻11から15までが恋歌、ついで雑歌が3巻、神祇歌、釈教が各1巻。

『新古今集』に採られた歌は全部で1995首。そのうち恋歌は436首。読んでいると雑歌の中にも恋の歌とも取れるものがかなりあるから、全体の1/4は恋の歌だ。叙景歌と違って男女の機微を読むから、隠喩、掛詞が多く、一層意味を取るのに苦労する。

 恋の歌の多くには前詞が付いている。それが面白いというかすごい。例えば1014から3首の前詞は「また通ふ人ありける女のもとにつかはしける」「はじめて女につかはしける」「女をもの越しにほのかに見てつかはしける」である。当時の習慣とはいえ、貴族たちが臆面もなくという感じだ。

 詠み手は天皇から貴族、女房、僧侶までと、当時の歌人のほとんどを網羅する。男が女の身になって詠むものもあれば、逆のものもある。帝が里帰りした女御に送った歌とその返歌もある。奇異なのは僧籍にある人たちが臆面もなく恋の歌も詠んでいること。慈円は生涯に4度も天台座主を務めた、いわば宗教界の最高位にある人物だが、恋歌が7首採用されている。本居宣長は「
僧俗とも人情にかわりはない、それなのに今の僧が恋歌を詠まないのは偽善者なのだ」と、僧侶の恋歌を援護していると、『恋と日本文学と本居宣長』の中にあった。

 堀田善衛は『定家明月記私抄続編』で、定家の

かきやりしその黒髪の筋ごとにうち臥す程は面影ぞたつ     1390

 を新古今世界の行き着いた頽廃の極みとした。私はこの歌の意味をよくくみ取れなかった。女が自ら髪を掻きやるととったからだ。ところが、これは男が共寝して髪を掻いてやった女の面影が、独り寝の時にはまざまざと浮かび上がるという意味だ。エロチシズムの頂点に立つような歌。これはやはり『恋と日本文学と本居宣長』の中で、宣長の解説として紹介されている。もっとも定家のこの歌は、後鳥羽院が流謫先の隠岐の島で自らが選び直して、いくつかの歌を除いた隠岐本新古今集からは除かれている。後鳥羽院は気に入らなかったようだ。

 本書の解説によれば『新古今集』にはいくつかの類本がある。本書は冷泉家に伝わる写本を元にしている。この写本には後鳥羽院が隠岐で除いた歌には印がつけられ、さらに、撰集編集の過程で、除かれた歌も収載されている。西行の有名な

願わくは花の下にて春死なむそのきさらぎの望月の頃       1993

 もその一つである。解説によると、この歌は歌合わせの会で、藤原俊成が「願はくはとおきて、春死なむといへる、うるはしき姿にはあらず」と評したように、声調が整わないと見られたのではないか、と久保田敦は言う。(p351)

 全編に「憂き世」と表現される厭世的な歌、末法思想の影響と思われる歌が多い。それは西行や慈円などの僧籍にあるものばかりでなく、貴族一般に見られる。言ってみれば贅沢な悩みではある。また、「有り明けの月」を詠んだものが多い。現代人は有り明けの月など余り目にしないだろう。

 神祇歌に慈円の歌がたくさん採られている。当時の仏教は神道と混淆していたことの何よりの証拠だ。このように『新古今集』を通して、違った観点から歴史を見ることも面白い。巻末の作者一覧で見ると、新古今時代の代表的歌人である式子内親王は後白河法皇の皇女であり、後鳥羽院の伯母に当たる。式子内親王の弟は以仁王で、源頼政は以仁王を奉じて平家追討の兵を挙げ、二人とも戦死した。頼政の歌は3首入っているが、娘である讃岐は16首が採用されている。平家一門では忠盛の歌が1首のみ採用されているが、頼朝の歌は2首採用されている。

 本書の表紙カバーは「新三十六歌仙画帖」からとった歌人の肖像画。上巻は表が定家、表裏が俊成卿女である。俊成卿女は俊成の娘の子、つまり俊成の孫であり、定家にとっては姪に当たる。下巻は表が式子内親王で、裏が後鳥羽上皇である。いずれも鮮明な絵である。なお、定家と式子内親王は恋愛関係にあったとされる。式子内親王の百人一首にも入っている

玉の緒よ絶えねば絶えよながらへば忍ることのよわりもぞする   1034

 は定家十体の中で有心体の例歌とされている。定家が黒髪を掻きやった相手が式子内親王で、式子内親王の忍恋の相手が定家であったと想像するのも楽しい。

 丸谷才一は『後鳥羽院 第二版』の中で、後鳥羽院は新古今集の歌すべてをそらんじていたと書いている。

 
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書名 古典落語 著者 興津要 編 No
2013-41
発行所 講談社学術文庫 発行年 2002年 読了年月日 2013−10−06 記入年月日 2013−10−07

 
「明烏」から「子別れ」まで、21編の古典落語を載せる。ほとんどが聞いたことがある。読み物としても面白い。筋書き、登場人物の描き分け、会話のやりとりなど、よくできている。何よりも文章のテンポが良い。各編の最後に1ページに満たない解説があるが、それがポイントを突いていて、物語のみならず、著名な落語家や落語そのものを知る上で参考になる。電車の中で読んでいると、笑いがこみ上げてくるので、押さえるのに苦労した。

 咄のネタ本は多く江戸時代に遡るが、落語として完成させたのは明治以降である。それぞれの咄には江戸時代の庶民の生活振りが、誇張ではあるが活写されている。貧しい中にも温かい人情が通い合う。

 「明烏」「三人旅」「居残り佐平次」「三枚起請」「子別れ」などは遊郭を舞台とするかあるいは遊女が絡む咄である。読んでいると、遊郭や遊女が伝統日本文化の中に深く根付いているのを感じる。

「崇徳院」というのは、「瀬をはやみ岩にせかるる滝川のわれても末に会わんとぞ思う」を下敷きにした、若い男女の恋の成就の物語。二人が初めて出会った上野の清水堂は高台にあり、下には弁天様の池、向が丘、湯島天神、神田明神が見え、左の方には聖天の森から乳待山まで見えるという(p268)。清水堂というのが今でも上野にあるのかどうか知らないが、行ってみて、上記のうちどこまでが見えるか当たってみるのも面白いと思った。

 
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書名 日本の歴史をよみなおす 著者 網野善彦 No
2013-42
発行所 筑摩学芸文庫 発行年 2005年刊 読了年月日 2013−10−23 記入年月日 2013−11−03

  
文字通り日本の歴史の新しい観点からの読み直し。網野史学のエッセンス。1990年に出された正編と、1995年に出された続編を合わせて一冊としてある。

 前書きで、人間の持つ技術が今までと格段に変わって、自分自身を滅ぼしうる力を自然に対して持ってしまった現在は、歴史の大きな転換点であるという。我々が今忘れ去ろうとしている社会は、ほぼ、14世紀の南北朝動乱の時期まで遡ることができる。つまり、現在と同じような転換が南北朝動乱時代に起こったとする。

 学校では習わなかった視点から、日本の歴史に切り込む。正編では、文字、貨幣と商業金融、畏怖と賤視、女性、天皇と日本という国号を取り上げる。続編では、日本の社会は農業社会か、海から見た日本列島、荘園公領の世界、悪党・海賊と商人・金融業者、日本社会を考えなおす、の章からからなる。

 いずれも面白い。以下各章ごとにポイント。
文字
 江戸幕府は当初から町や村の人たちの中に文字が使える人がいることを前提にした体制である。それは、世界の中でも非常に特異な国家であった。これは識字率の高さがなければできないことであるが、遡れば、律令国家が文書主義を採用したことが、文字の使用、普及に大きな意味を持っていた。それは、例えば江戸時代の百姓の名前まで影響している。兵衛、左衛門、右衛門、右馬丞などは律令官名の変形である。

貨幣と商業金融
 交換の中立ちとしての米や絹のような使用価値のなかった銭が13世紀後半以降冨の象徴となり始め、やがて15世紀には貨幣として本格的に機能し始める。銭が流通するようになったことが、北海道と沖縄を除く日本列島の社会の均質化をもたらし、そうした変化が、「民族」が形成されていく上での画期になった。

畏怖と賤視
 被差別民の事を扱う。古代では、人の死など、穢れに対して人々はたんに忌避し嫌悪するだけではなく、畏怖の念を抱いていた。それ故、穢れを清める力を持ち、それを職能とする人々にたいしても、畏怖の念を持っていた。いわゆる非人は神人・寄人、神仏の直属民として社会的地位を与えられていた。しかし、13世紀末頃から、穢れに対する畏怖の念が薄れていき、こうした職業に従事する人々への蔑視が強くなってきた。それは日本社会における人間と自然の関わり方が大きく変化してきたからで、自然が人々の目には一層明らかに見えてきて、穢れに対する畏れが消えていったことに起因する。14世紀までの非人を江戸時代の被差別部落民と同じにとらえてはならない、非人は神仏の「奴婢」として聖なる方向に区別された存在であったと、著者は言う。

女性
 古代社会では女性の社会的地位は高かった。9世紀に入って律令制の原則が確立すると、女性は公的な場から排除されていった。中国からもたらされた律令制は男性優位、父系、家父長制を原則としていたからである。しかし、これは建前であり、私的な裏の世界では女性の活躍の場があった。まだ未開の要素を残し、女性の社会的地位も決して低くない社会に、文明的、家父長的な制度が接合したことによる、ある意味では希有な条件が、女流文学の輩出という、恐らく世界でもまれに見る現象を生み出した。
 ポルトガル人宣教師のルイス・フロイスの著作には、当時の日本女性への驚きと蔑視が記載されているという。処女は純潔を守らない。夫婦で財産を共有するのではなく、夫と妻は別々に財産を持ち、妻は夫に貸し付けたりする。妻が夫を離別する。娘たちは両親の断りもなく外出し、好きなところに出かける。堕胎が極めて一般に行われている。これらの見方のすべてが偏見であるとは言い切れないと、著者は言う。江戸時代には三行半で男は簡単に妻を離縁することができたとされているが、実情はむしろ男が離縁状を書く義務を負っていたとする方がいいと著者は言う。

天皇と日本という国号
 天皇という称号は天武・持統朝、厳密に言えば持統天皇の時に始まるというのが、古代史家の通説である。また、日本という国号も同じく天武・持統朝に始まる。
 天皇は律令風・中国風の皇帝という顔と、未開な社会に生まれる神聖王的顔という二つの顔を最初から持っている。神聖王的顔は、贄の制度に見ることが出来る。贄というのは、海民、山民などが神に捧げる初尾、最初の獲物であり、律令制にはこうした制度は規定されていない。
 天皇は神道ばかりではなく、仏教とも深い関わりを持っていた。持統以来江戸時代までの天皇は、二,三の例外を除いて、みな火葬で、聖武以来仏式で、墓も寺院に葬られている。
 鎌倉幕府の成立とともに天皇の権威は東国には及ばなくなる。そして、天皇の権威がだんだんと浸食されてくる。これに反発したのが後醍醐天皇である。後醍醐の試みは失敗し天皇家は北と南に分裂する。もし南朝が完全に亡んでいたら、天皇家は恐らく消えていただろうと著者は言う。江戸時代に武家に対する批判が出てきたとき、武士の言いなりであった北朝は持ち上げようがなく、南朝があって初めて武士に対抗する権威として持ち上げることができた。だから、明治天皇は北朝の血を引きながら、南朝を正統とした。
 この章の最後で、著者は今日本社会が当面している転換期のなかで、日本人の意志によって天皇が消える条件は遠からず生まれると予測する。

日本の社会は農業社会か
 少なくとも江戸時代までは日本は農業社会であったというのが常識。著者はこの常識を覆す。キーワードは百姓。従来の史学では百姓=農民とされてきた。ところが、百姓という言い方の中には、農民以外の海の民、運送業者などの雑多な職業の人が含まれており、農民と百姓は同じではないという。能登の時国家に残された膨大な文書を整理する中から、百姓として括られていた人々が、ここでは海運業に携わり、あるいは製塩業に携わる人々が多数含まれていることを明らかにして行く。また、江戸時代の村というのも農村だけではなく、海村、山村、あるいは都市まで含まれ、農業による自給自足の単位であったという見方も否定する。そこには外部からの商人などの活発な人々の出入りがあり、交換が行われていたという。従来の歴史学者が、百姓を農民ととり、村を農村ととった背景には、律令国家が水田を国の基本に置き、土地に対する課税によって国を支えたことが影響していると作者はいう。

海から見た日本列島
 海上交通並びに河川交通の重要性を述べる。以前読んだ著者の『日本社会の歴史』にも冒頭地図を逆さまにして日本列島を見ると、それはあたかも東北から南西方向に伸びた架け橋のような格好であるとし、古くから大陸、南西諸島との交流が行われていたと述べてあった。
 日本列島の社会は当初から交易を行うことによって初めて成り立ちうる社会であった。自給自足の社会など最初から考えない方が良いと著者は言い切る。縄文時代の黒曜石の分布などをその証拠として挙げる。
 律令国家は陸上交通を重視し、各地に道路を整備する。その道路はできるだけ直線とした。なぜそうなったか、理由のひとつは軍事的な理由で、唐・新羅と戦って敗れたばかりの国家にとっては、軍事への備えが優先された。それ以上に、この国家が本質的に小さいながら帝国国家を志向していたからだと著者は言う。

荘園公領の世界
 ここでも実地調査に基づいて荘園の実態が明らかにされる。それは決して農業だけの自給自足の社会ではなかった。例えば岡山県の新見荘では鉄、紙、漆の生産が盛んに行われていた。14世紀前半の新見荘の記録には、この地に貨幣経済が完全に浸透していて、市場があったことを示す。この地の代官による年間の決算書が残っている。それは収入と支出がぴたりと合う決算書である。面白いのは、国司の使いがやってきた際の酒宴と引き出物などの接待費まで計上されている。ちゃんと公費として落とせるところは、現代と変わらない。

悪党・海賊と商人・金融業者
 13世紀後半から14世紀にかけて、貨幣経済が一段と浸透してくると、交通路、流通路を管理する人々の組織の活動が目立ってくる。さらに、交通路の安全や手形の流通を補償する商人・金融業者のネットワークは、悪党・海賊によって保証された。北条氏はこのネットワークを自分の統統括下に入れようとし、さらに海外との交易も統括しようとした。これが海賊の反発を招き、14世紀初めには大規模な反乱となった。そこへ登場したのが後醍醐天皇。後醍醐は北条氏に反発する悪党・海賊の武力に依存して鎌倉幕府を倒す。後醍醐は北条氏が推し進めた政治をさらに極端にまで進めるものであった。彼の政治はまさしく非農本主義的で、商業・金融業者に基礎をおいたもので、こうした政治は専制的なものにならざるを得ない。著者は14世紀の大動乱を従来の農本主義的な政治と、非農本的な政治との対立の結果と見る。後者の路線が次第に強くなり、後醍醐が失敗した後、14世紀末に足利義満政権がほぼそれを実現した。
 この章では一遍の教えにも触れている。善人も悪人も非人も南無阿弥陀仏と書いた札を受ければ、すべての人が救われるという一遍の教えはまさしく都市的な宗教であるとする。13世紀末に描かれた『一遍聖絵』には、田畑の耕作場面がほとんどなく、やや変わった絵巻だとされてきたが、これは当時の都市、都市的なものを描いているのであって、当時の社会潮流をよく表現していると著者は言う。

日本社会を考えなおす
 一遍の時宗に替わって、15,6世紀には一向宗が力を得る。一向宗もまた都市に地盤を置き、重商主義的な勢力に支えられていた。これに対して、信長のように戦国大名を統一し、「日本国」を再統一しようとする勢力が出てくる。日本を統一しようとするとどうしても土地を基礎とした課税方式をとることになる。従って。この勢力は商業に高い価値を置く「重商主義的」な宗教と真っ向からぶつかり、それが信長と一向一揆との衝突となった。これは秀吉、家康にも引き継がれ、海を舞台に海外にまでネットワークを作って行こうとする勢力は衰え、海を国境とする「日本国」という統一体が再び現れる。これが近世の国家である。この国家の下で商業に重きを置く重商主義的な考えは表に出なくなり、農本主義的な建前が主流となる。その中で、百姓は農民という思いが定着したと著者は言う。

最近読んだ、『恋と日本文学と本居宣長・女の救はれ』丸谷才一、『一遍』大橋俊雄、『地図から読む歴史』足利健亮に書かれていたことが、本書でもしばしば言及されていた。



 
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書名 先端技術のゆくえ 著者 坂本賢三 No
2013-43
発行所 岩波新書 発行年 1987年 読了年月日 2013−10−26 記入年月日 2013−11−04

 
本棚を整理していたら出てきた。25年も前に出た本。題名から、コンピュータを中心とするIT技術の将来予測がしてあり、それが25年後の現状と照らしてどのくらい当たっているか興味があった。内容は全く違って、科学技術と社会との関わり、技術の歴史を述べたもの。

 著者の考えでは、1789年のフランス革命を機に世界史は政治中心の社会から、経済中心の世界へと移行した。経済の時代は現在も続いている。経済の時代のシンボルは進歩であり、技術のみならず科学も、社会も政治も人類も進歩するものと考えられた。国家も技術も経済に奉仕するものと考えられた。しかし、来るべき時代は技術の時代である。そこでは経済も政治も技術に奉仕する。そうした社会では、技術は民衆のため、人々の福祉のために奉仕することが求められる。これが本書の基本的な主張。

本書から:
 材料の加工から「物質」の概念が生まれ、動力の生産によって「エネルギー」の概念が生まれたのと同様に、ノイマン方式によるプログラム内蔵型のコンピュータは人間の行っている神経活動の一部を対象化したものであり、コンピュータの出現により「情報」の概念も成立した。(p37)

 13世紀の技術はもっぱら宗教に奉仕していた。西洋では教会、日本では寺院。技術の中心は建設であった。17世紀は土木技術の世紀であった。日本では都市の建設、河川の築堤、道路の整備、鉱山開発、上水道、用水路の整備など。西洋でもそれは同じであった。土木技術に切り離せないものはポンプである。ポンプはガリレオの物理研究の契機の一つであり、ハーヴィの心臓機能の発見もポンプの背景があって初めて可能であった。さらに、トリチェリの真空も、パスカルの大気圧実験も、ゲーリッケのマグデブルク半球実験も、ボイルやマリオットの気体研究もポンプなしでは考えられない。(p80〜87)

 近代社会における多様なめざましい技術開発は株式会社制度の発達を抜きにしては考えられない。これによって初めて、鉄道、運河、通信などの1830年代の大規模技術も実現可能になった。(p124)

 明治維新はフランス革命と同質の革命であって、絶対主義の確立とか、封建制の維持継続などと見ることは出来ない。度量衡を統一し、身分制度を廃止して能力主義への道を開き、経済軽視から経済重視への移行を助け、経済の時代への参入させた点に注目すべきである。(p138〜139)

 江戸時代は封建制ではない。幕藩体制はあくまで法治国家であり、君主の絶対権力社会ではなかった。(p140)

 明治維新の担い手は、西欧と違って市民(町民)ではなく、下級武士であった。町人には権力を担う冨も、知的・道徳的な能力もなかった。あったのは武士の知的能力と職人の技術のみであった。わずかに残されたこの二つを結びつけることにより日本は西欧技術の吸収を可能にし、経済の時代となった世界に乗り出したのであった(p141〜142)。そして近代技術の吸収と工業化推進の担い手となったのは士族であり(p145)、政官界はすでに薩長土肥で占められているので、旧幕臣や佐幕藩出身の士族は医理工系研究者になる道を進んだ(p150)と述べる。

 維新後の世界を経済の時代と見通していたのは、わずかに坂本竜馬とその周辺のみであった。幕末から維新にかけて直面したのは西欧列強による日本の植民地化であった。開国しなければアヘン戦争による中国の二の舞を見る。しかし、そうした実情は当局者以外には知らされていなかった。民衆に情報を伝えなかった報いが過激攘夷派の登場であり、幕府はそれにより弱体化した(p142)。 ここら辺りの記述は司馬遼太郎張りだ。

 明治以来企業は常に技術水準の向上に努めてきた。利潤の獲得を第一の目的とするなら、技術水準の向上よりも、低賃金で廉価品を作っていればよいのに、官も民も挙げて技術水準の高度化に向けて努力してきたのは、私利よりも国益を優先した明治以来の会社の特質からくると思われる(p157〜158)。


 
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書名 承久の乱と後鳥羽院 著者 関幸彦 No
2013-44
発行所 吉川弘文館 発行年 2012年10月 読了年月日 2013−10−27 記入年月日 2013−11−06

 
アマゾンからの推奨メールに吉川弘文館の敗者の日本史シリーズがあった。敗れた側からの歴史というのは、以前から私の興味を引いてきた。本書はその第一弾。

 扱うのは承久の乱の原因と経過、その歴史的意義であるが、一方では後鳥羽院の生涯の記録といってもいい。

 最初に、承久の乱が後世にどのようにとられたかが述べられる。ここが面白い。
 江戸時代中期、安積澹泊による『大日本史賛藪』の中では、そもそもが神器を欠く即位が問題とされる。義時打倒を策したことは是とされたが、後鳥羽院自身に徳がなく、時勢にも暗く武将も人を得なかったので敗れたとされる。安積は朱子学的秩序の立場から、後鳥羽院以下三院の流刑を厳しく非難する。

 江戸後期の頼三陽は『日本政記』の中で、後鳥羽院の挙兵は理にかなうもので、王権が衰退するのを見かねた行為で当然だったとする。王家が幕府を倒すためには、源氏の武威を再興・復興すべきであったと三陽は言う。

 明治政府は「国民」を創設すべく歴史の共有化を志向した明治に入って、「至尊」つまり天皇を蘇らせ、復活させることが国民教育のスローガンであった。尋常小学校用国定教科書では、義時の非道が強く非難される。教科書には「承久の変」という表現が使われる。「変」には皇室の一大変事という意味合いが込められる。
皇国史観が頂点に達した昭和18年の国史の教科書では「承久の変」の記載は削除された。「承久の変」自体があってはならないものとの認識である。

 後鳥羽院が武力による倒幕に傾いたきっかけは、実朝の死である。皇室との一定の距離を保っていた頼朝とは違い、実朝は皇室に親しく、右大臣という高い官位まで受けていた。後鳥羽はそうした実朝を「調教」することによって、鎌倉幕府を王朝の胎内に取り込むことができると考えていた。しかし、実朝の死はそれを一変させたと著者は言う。ただ、本書50ページには、実朝死去の報せが届いたときには、後鳥羽は関東調伏の祈祷を行っていたことが記述されている。後鳥羽が幕府掌握のキーマンとして考える人物の死を祈るだろうかという疑問は残る。著者は実朝個人への呪詛ではなく、関東の長者=鎌倉殿たる存在に向けられていたという。

 実朝の死後、幕府は皇族を将軍継嗣として要望したが、後鳥羽は拒絶する。代わりに、後鳥羽の寵妾、伊賀局の所領の地頭を解任を要求した。幕府は1000騎の軍勢を上京させ後鳥羽の要求を拒否する。頼朝時代以来、勲功で御家人に与えた所領(地頭職)は大罪を犯さない限りは免職しないというが決まりであった。後鳥羽が唱える「道ある世」は武家にもあった。それは道理にもとづく御家人・武士達への経済保証であると著者は言う。

 後鳥羽院側にも西面の武士と呼ばれる独自の兵力を養っていた。幕府は結局皇族の将軍を諦め、摂関家から実朝の後継者をもらう。

 後鳥羽院を倒幕へと向かわせた大きな要因は、後鳥羽が三種の神器を欠いて即位したこと。後鳥羽がこのことを負い目に感じ、武を包摂する王威を求める気持ちが高まった。

 承久3年(1221年)5月、後鳥羽側は京都守護職を討ち、北条義時追討の院宣を下す。後鳥羽の狙いは、あくまで義時の追討であり、倒幕ではなく、義時の専横を正すことであった。この報せは直ちに鎌倉にもたらされる。御家人を前に、北条政子は院側の義時追討を、幕府打倒と読み替え、御家人の団結を呼びかける。そして、大軍をもって上洛することを決定する。

 14万の大軍をもって東海道、東山道、北陸道から京を目指す。戦闘は岐阜県の可児や各務原あたりの木曽川沿い、墨俣、富山の砺波、近江の野路、宇治川で行われるが、幕府側の一方的勝利で終わる。宇治川での敗戦を知った後鳥羽院は、北条泰時の陣へ使者を遣わし、院宣を下す。

「今度ノ合戦ハ叡慮ニ起ラズ、謀臣等ガ申シ行フトコロナリ」というものだった。

 驚くべき院宣だ。堀田善衛はこれを、当初の大儀をも裏切る天皇制の両義性と批判する(『定家明月記私抄続編』)。一方、丸谷才一は当時の考えからして、非難されるべきでないと擁護する(『後鳥羽院 第二版』)。著者は、戦争責任という今日的表現は後鳥羽院には当てはまらないという(p253)。後鳥羽は責任など毫も感じなかったのではないか。自己の信念にもとづき発案し実行した行為に、反省などなかったはずだ、と著者は言う。

 幕府は首謀者への容赦ない処罰を命じる。院側の公家、武士が次々にとらえられ、首をはねられる。上記の院宣にもかかわらず、後鳥羽院は7月には隠岐へ流される。順徳院は佐渡へ、乱に関与しなかった土御門院は自ら進んで土佐へとおもむく。

 本書は敗者となった公家、武家、僧侶について多くを費やす。私にはなじみにない人々で、それが、系図付きで何人も出てくる。系図を示したのは、彼らが鳥羽院とどのような近い関係にあったかを示すためだ。後鳥羽側に荷担した公家は特に乳母、寵姫など後鳥羽院をめぐる女性との関連が深かったようだ。鳥羽院の近臣以外に、御家人の中にも、北条に反感を持つ人々も加わっている。三浦胤義はその一人だ。後鳥羽院は三浦一族がこぞって院側に加わることを期待したようだ。しかし、三浦一族の総帥である兄の義村は幕府側に加わった。胤義は息子とともに敗走し自刃する。頼朝以来の佐々木一族も、兄弟に別れて戦っている。処断された公家や武士の多くが、大正から昭和にかけて顕彰されている。例えば藤原光親と源有政は昭和3年に従一位という高い官位を贈られている。ちなみに豊臣秀吉に大正4年に贈られた官位は正一位である。

 本書の最後は隠岐での後鳥羽院。和歌が多く引かれる。その歌は「都ぶり」の文化の気分から離脱して行く。著者は言う「
院は自らがリーダーとして創出した和歌的文化の極点を、解体することでしか、過去の自分と決別できなかった。院にとっては、承久の乱は、院が志向した文化主義を純化した形で保存するためになさねばならない異種(武権)打倒の決断だった。」そして、「文芸の問題を武力により解決する試み」という丸谷才一の見方を肯定している。

 百人一首についても述べられている。王朝文化の粋を集めたこの歌々には、承久の乱で終焉をむかえた王朝への鎮魂がこめられている。王威の敗北の中で、衰微する王朝文化の記憶を「旬」の形で保存するための試みとも言える。

 乱の勝敗を分けたのは武力の結集力であったとする。関東の御家人も院側に加わっており、武力の質的な差はない。源平争乱から三代の源家将軍を輩出した東国の政権は、自らのうちに失うものを有する政治権力へと生長した。「本領安堵」で表現される所領保全への希求である。朝廷側が示した、官職授与という抽象的、文化的なものでは、武力を結集できなかった。承久の乱は、排他性が乏しい貴族的な主従関係、多元的で重層的な主従関係を精算し、一元的な主従関係確立したとする。

 一連の出来事はドラマとしては面白い。『承久記』という記録もある。にもかかわらず、承久の乱を題材にした小説は聞いたことがない。皇室への遠慮、戦闘場面が短くあっけない、太平記のようなスケールの大きさに欠ける、などが理由だろうか。


 
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書名 審判 著者 カフカ、原田義人 訳 No
2013-45
発行所 新潮文庫 発行年 昭和46年 読了年月日 2013−11−09 記入年月日 2013−11−10

 
本棚の奥から出てきた。子供の誰かが買ったのだろう。カフカの『変身』は若いころ読んだ記憶がある。短い小説だ言う記憶があるが、『審判』は長編、改行がほとんどない文章で、文庫本300ページを超える。

「誰かがヨーゼフ・Kを誹謗したにちがいなかった。なぜなら、何もわるいことをしなかったのに、ある朝、逮捕されたからである」で始まる小説は、ヨーゼフ・Kの処刑で終わる何とも不思議で現実離れした小説。カフカの代表的長編であるとされる。

 本書で唯一ファミリーネームがKというイニシャルのみで表される主人公は、銀行の業務主任。有能で、支店長にも目をかけられており、ゆくゆくは支店長にまでもなりそうな人物。冒頭のように彼は逮捕される。といっても、どこかに収監されるわけではなく、いつも通り銀行員として働く。なぜ逮捕されたのか、どんな裁判が待っているのか、本人には判らない。読者にも最後まで明らかにされない。一度だけ予備審問の場に出るが、大勢の人物がいて、それが審問の場であるかどうかも、Kにも、読者にも判らない。弁護士を依頼するが、弁護士が何もしてくれそうにないので、結局は自分一人で無罪を勝ち取るのは難しい訴訟に向かう。Kが直接目にした裁判所の実態、依頼した弁護士や、裁判官の肖像画を描く画家がKにもたらす、極めて抽象的な訴訟の実態が本書の一つのポイントである。それは得体の知れない官僚組織、ひいては現代社会の象徴として提出されているようだ。裁判そのものも遂に開かれることなく、逮捕から1年後にKは処刑される。処刑も、ある夜突然二人の男が現れ、Kを町外れまで連れ出し、押さえつけてナイフで心臓を突くというもの。Kは逃亡も抵抗もしない。

 ストーリー展開は唐突で、特に登場する女達とKとの関係が理解出来ない。整合性もない。にもかかわらず、投げ出さずに読みきってしまった。

 吉田正己という人の巻末解説では、カフカの小説は矛盾や不条理に満ちているからこそ、強迫観念的な夢幻性と、ときには超現実なまでのリアリティとを同時に描き出す、と言っている。本書が書かれたのは1914年、発表はカフカの死後1年の1926年。遺志に反しての出版だったとのこと。

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書名 大往生 著者 永六輔 No
2013-46
発行所 岩波新書 発行年 1994年 読了年月日 2013−11−11 記入年月日 2013−11−28

 
20年近く前に、ベストセラーになった本。どのように死を迎えるかは、今も昔も大きな問題。評判に引かれて買っては見たものの読まなかった。本棚を整理していたら出てきた。

 老い、病い、死、仲間、父の5章からなる。前半3章は永六輔が日頃集めた、有名無名の人々の言葉を連ねて、著者自身の考えとする。老い、病い、死を前向きにとらえ、客観化しているところに人々は人々は救われるのだろう。

老い:
朝食に何を喰ったかは忘れてもいい。朝食を食べたことを忘れなければそれでいいんです」(p13)
しなやか、したたか、つややか。この三つ、これが長持ちするコツですな」(p36)
 最後の言葉は全く同感。最初の言葉も同感だが、老齢化社会はもっと進んでいて、食べたことを忘れる老人の話を時々聞く。

病い:
 自分ががんであることを公表するかしないかについて。意志の強さを必要とするのはしない方だという(p41)。同感だ。
病人が集まると、病気自慢をするんですよね。もちろん、重い人が尊敬されるんです」(p46)
ストレスはスパイスみたいなもんで、ストレスがまったくないという人は、にんげんとしてもお粗末です」(p51)。

死: 
 友人と葬式の帰り道に「
甲子園と同じなんだよ。生き残るということは勝ち残ることでもあるからね。俺は勝ったという気持ちで、それで楽しいんじゃないかな」(p68)。 同世代の仲間の死に私も同じこと感じを持つことが多くなった。
 「
平均寿命っていうとめでたく聞こえるけれど、そこまで生きたら覚悟しろっということでしょう」(p73)
 葬儀についてはどういうかたちであれ、やってしまった方が楽だというのも事実だろうという(p79)。

 「仲間」の前半は、親しかった坂本九、中村八大、いずみたくの死に際して、永六輔が各所に発表した追悼文。後半は永六輔司会による、山崎章郎、淡谷のり子らの座談会。

 「父」は90歳でなくなった著者の父の死を扱う。延命処置を断り、家族に見守られる死だったという。以下のような記述がある。本書で一番胸を打たれた記述である:
 
夏休み中ということもあって沢山の孫が祖父を見送った。彼らは生まれて初めて臨終に立ちあって、生命の終わりをそれぞれに胸に納めた。悲しい感動ではあっても、父は見事に死ぬということの意味を孫たちに教えてくれた。つまり、孫たちは生きているという感動を、若い、または幼い胸に叩きこまれたはずである。「死んでみせる」ということを父は鮮やかに、見事に見せてくれた。(p153)

 著者の父は僧侶。源氏物語の現代語訳が父の遺志だったという。源氏物語に仏教思想を読み取り、仏典と紫式部の思想を照らし合わせた現代語訳が夢であったという。永六輔は父の入院から死、葬儀に至るまで、たくさんの俳句を詠んでいる。
 最後には父の書き遺したものと、永六輔自身が書いた自分の葬儀の際の弔辞で締めくくられる。

 
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書名 炎凍る 樋口一葉の恋 著者 瀬戸内寂聴 No
2013-47
発行所 岩波現代文庫 発行年 2013年11月 読了年月日 2013−11−26 記入年月日 2013−11−28

 
寂聴さんによる樋口一葉伝。中心は一葉のパトロン的存在であった、半井桃水との恋。一葉の遺した日記を読み解き、著者は一葉と桃水の関係はプラトニックなものではなく、肉体関係があったと断定する。もちろん、一葉は日記にそのようなことは一切書いていない。しかし、寂聴は日記は人に見られることを意識して書かれたものであるとし、書かれていない部分を、文面の微妙なニュアンスから推察して行く。そして、上記の結論に達するのだが、いかにもこの著者らしいと思う。巻末の解説で、田中優子は寂聴説をやんわりと拒否している。従来の研究では、あくまでも二人の関係はプラトニックであったとする説と、そうではないとする説があったという。貧困にあえぎ、24歳で亡くなった薄幸の処女という私が一葉に持っていたイメージを打ち破る本。晩年の数年間を除けば、彼女は経済的には恵まれていた。

 冒頭の「作家の幸福とは」という章で寂聴は書く:
 
樋口一葉は、明治以後、近代日本の文学史上に、比類ない天才を恵まれて生れ、その才能の可能性を存分に開ききって、永遠に芳香を失わない花を咲かせて逝った、稀にみる幸運な人ではないかと思う。(p4)
 さらに続けて、一葉に寂聴なりに近づくにつれ、彼女の声を聞いたように思うと述べる:それは「私は不幸ではない、哀れまないでほしい」という彼女の誇りにみちた声であった。(p5)

 書き出しはよくできた時代小説を思わせる。一葉の両親が甲斐の村(現在の甲州市にある)から駆け落ちする場面だ。中農の家に生まれた二人は幼なじみだが、娘の方の家が二人の結婚を許さない。江戸に出てきた二人は知りあいの幕府の役人頼り、そこの下働きをしながら、生計を立て、夫の樋口大吉はやがて、幕臣の株を手に入れる。しかし、すぐに明治維新を迎える。

 大吉は新政府の役人となり、明治5年次女なつ(一葉)が生まれる。上には姉と、二人の兄がいた。大吉は何回か改名し最後は則義となるが、なかなか世渡りがうまかったようだ。明治9年には本郷赤門前に屋敷を買ったが、5年後に売却したときには230坪の敷地であったという。官吏のかたわら、いわゆる高利貸しも行って、蓄財した。一葉は広々とした屋敷で姉や兄に囲まれ、人の出入りも多く、経済的には恵まれ、ほしいものはたいてい買い与えられ、時には家中で行楽も出来るという幼年期を過ごした。こうした環境にあれば、その性格は明るく素直になっていく、と著者は言う(p33)。そして続ける:
人間の生涯で、いつの時代に幸福な思い出を持つことが幸せかと考えると時、幼児期と晩年がおだやかなほど幸せはないと思われる。(p34)

 一葉は歌学を教える萩の舎に入り勉学に励む。明治20年、父の期待を一身に集めていた長兄が死ぬ。翌年一葉は家督を継ぐ。そして明治22年、始めた事業に失敗した後父も死ぬ。一葉17歳の時だ。

 こうして一家の貧困が始まる。小説を書けば高額の収入が得られると知り、一葉は小説家になることを決める。そして、紹介されたのが半井桃水である。一葉19歳、桃水31歳。桃水は通俗作家として既に名が通っていた。一葉は桃水に惹かれ、頻繁に桃水のところに通う。桃水からは金銭的援助も受ける。そして、一葉の処女作『闇桜』は桃水の創刊した雑誌『武蔵野』に載り、世に出る。桃水には女性関係での不品行が噂になる人物であった。一葉と桃水の関係も、周辺で醜聞となる。そして、歌学の師などの忠告を受けて、一葉は桃水との関係を断つ。わずか、1年3ヶ月ほどの一葉の片思いであった。

 一葉が『たけくらべ』『十三夜』『にごりえ』など生涯の傑作を遺したのは、その死の直前の14ヶ月である。桃水との関係を断ち切ってから3年経過してのことだ。しかし、一葉は死ぬまで桃水への思いを吹っ切ることは出来なかったと寂聴はいう。

 
一葉は、十九歳から二十歳の間に、桃水を恋することによって、人間的にも女としても急速に成長した。(中略)一葉のわずか二十四年の生涯が凡人の九十歳にも匹敵するように、一葉の真剣な恋は、わずか一年の間に十年の恋の深さを味わいつくした。(p177)

 そして、一葉がこの恋に決別したことが後に『文学界』の若い新進作家達と近づく道を開き、一葉の才能に適した文学的刺激を受け、突然、火山が噴火するように名作を矢継ぎ早に書き上げていった。「
もし、桃水との恋が続いていたなら、一葉の文学的開眼は永久に訪れなかっただろう」と寂聴はいう。一葉の才能の大きさの前には桃水の文学的指導は余りにも卑小であったという。(p177)

 続いて著者は言う:
芸術の美神は嫉妬深く、必ずその祭壇に血のしたたる犠牲を要求する。この世の幸福という犠牲を引きかえにしか、芸術の栄光をさずけようとはしない。恋か、健康か、冨か、家庭の団欒か、そのいずれかを犠牲に捧げなければ、芸術家としてのキップを手渡してはくれない。一葉は、恋も健康も、冨も、ある意味では家庭の炉辺の団欒も犠牲に捧げた。
 これは、寂聴自身の心情の吐露であろう。

 
一葉は小説家である前に天性の詩人であり、詩人である前に、ひとりのなまなましい若い女であった。(p183)

 本書はこの後に一葉の未完に終わった遺作『裏紫』を、寂聴が完成させた作品を載せる。商家の美貌の内儀が、不倫相手の男性のところを訪れる話。一葉は女が夫に行く先を偽って家を出て、本当に相手のところに行ったものかどうかと思うところで筆が止まっている。寂聴は、女に相手の男のもとを訪れさせる。そしてその後・・・・・。

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書名 治承・寿永の内乱と平氏 著者 元木泰雄 No
2013-48
発行所 吉川弘文館 発行年 2013年4月 読了年月日 2013−12−06 記入年月日 2013−12−27

 
敗者の日本史シリーズ第5巻。平家がなぜ源氏に負けたかを考察する。平家の武将が軟弱であったから負けたのではないとする。彼らも武士としては強かった。それは、保元平治の乱によく示されている。これらの争乱で活躍したのは平家の家人である。

 二つの乱の勝者となった清盛ではあるが、それはごく限定された武力によってもたらされた。勝者となった平家は、各地で家人を獲得するが、偶発的な契機で獲得したものが多く、数も限られていた。後の大規模な反乱に際しては、朝廷の命により各地から兵を動員しなければならなかった。平家物語に言う「かり武者」である。平家の軍制が、平家の恩恵を受け忠誠を尽くすわずかな数の精強な家人と、強制的にかり出された「かり武者」という戦意の低い集団からなっていたことに、平家が源平争乱で敗れた大きな原因があるとする。一方の頼朝は、反乱軍であるが故に王朝の土地制度とは無関係に、武士達の要望にそったかたちで、独自の所領給与の方法を編み出すことが出来た。

 もう一つの要因として、平家一門内の不統一をあげる。後白河に近い重盛一派と時子を母とする宗盛等の系列の対立、さらには頼盛などの池の禅尼系列の対立である。頼盛は義仲の入京を前に一門から離脱する。重盛の嫡男惟盛も後に離脱し、熊野で入水したとされる。

 頼朝挙兵から、壇ノ浦までの源平の戦が、小さな戦闘まで含めて、取り上げられ、考察されている。例えば、頼朝挙兵直後には、平家の家人、相模の大庭景親、武蔵の畠山重忠らの活躍で反乱軍は打ち破られる。房総に渡って、軍を立て直した頼朝軍が優勢となると、畠山は頼朝軍に合流する。北関東の平家家人である新田、足利は内紛を平氏が調停していなかったので、家人としての結びつきが薄かった。重盛の家人であった足利氏は早々に平氏に背く。富士川の決戦での敗因の一つは、平家軍の出立が遅れたことである。このような記述が本書の中心となる。

 壇ノ浦については以下のような記述がある:
敗戦により、かねての覚悟通り二位尼平時子は、宝剣・神爾という神器と、安徳天皇とともに入水した。後述するように神鏡は時忠が守り、神爾は回収されるが、宝剣は水没し永久に失われることになったのである。時子は、後白河や頼朝が希求した安徳の身柄や神器の奪回を阻止したことになる。武門平氏としての最後の反撃であったいえる。(p187)
 
平氏を再三苦しめた後白河、神器なき非正統の天皇後鳥羽。平氏の家長にして総帥というべき時子に、彼らを容認できるわけがなかった。正統王権を象徴する神器とともに、滅亡することが唯一の選択肢だったのである。(p188)

 この後には、宗盛が生け捕られた理由への推察がある。息子を失った知盛らと違って、息子が健在であった宗盛との立場の相違を指摘した日下力氏の説に親近感を覚えるという。そして、捕らえられた後の運命がわからないはずがないのに、あえて捕まったのは、頼朝、後白河に思いを述べたかったのではないかと、推察している。

 本書では、清盛は白河院の落胤であることを認めている。清盛の権勢欲の背後には清盛自身がご落胤であることを自覚していたことがあるとする。

 
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書名 日本史を読む 著者 丸谷才一・山崎正和 No
2013-49
発行所 中公文庫 発行年 2001年 読了年月日 2013−12−21 記入年月日 2013−12−26

 
丸谷才一と山崎正和の対談集。歴史学における想像力を縦横にふるって、日本の歴史を万葉の古代から近代の電子工業の発達史まで論じつくす。とにかく面白く楽しい。歴史上の人間が生きている。それは決して浅薄な知識に基づいた論議ではない。二人の深い学識と読書によって裏打ちされている。このような歴史もあっていい。

 どこを開いても面白い。例えば104pで丸谷は指摘する。後冷泉天皇(第70代)の親仁以来、現在の明仁天皇まで、歴代の天皇で「何仁」という名前のついていない天皇は、8帝しかいない。後鳥羽、順徳、仲哀、後二条、後醍醐、後村上、長慶、後亀山である。これらの天皇は皆、運のないかわいそうな天皇ばかりだと丸谷は言い、山崎がなるほどその通りだと、同意する。丸谷は「仁」という名の意義を考察する。これは天子になるという記号の役目をしている。高倉天皇には4人の皇子があった。長男は後の安徳天皇で「言仁」と名をつけた。清盛の娘徳子が生んだ皇子である。後の3人は、清盛の娘が生んだのではなく、名前はいずれも仁がつかない。名前をつけるのは儒者の役目だが、清盛は儒者を脅して、3人には天子になる可能性のある「仁」をつけさせなかった。高倉帝の4男であった後鳥羽天皇はかくして「仁」という字を持たない。後鳥羽は息子の順徳にも、その次の仲哀にも「仁」と言う字を嫌って、つけなかった。こんな推論を展開する。

 例えば宗祇。山崎は宗祇を文学を職業として飯を食った最初の人とする。その背景には室町時代になると貨幣経済が普及し、各地に出かけて連歌を教えた宗祇への謝礼が払いやすくなったことがある。さらに、応仁の乱をはさんで、室町時代にあれほどしょっちゅう長々と、しかも徹底的でない戦争が出来たのは、金の動きが大きかったからだと山崎は言う。領地と違って、金は足して二で割るという取引が出来る。将軍の妻日野富子は応仁の乱で東西両軍に金を貸したという。それに続けて、丸谷が銭のことを「あし」というのは、『徒然草』が初出だという。

 山崎はかつて『室町記』というのを『週刊朝日』に連載していて、私も読んだ。彼は室町時代を理想的時代ととらえていて、この対談でもそれを認めている。例えば、『源氏物語』の現代的な読み方、つまり王朝の幽玄な文学として読むというのは、室町時代に成立した。それ以前の人は、この物語をゴシップ集あるいはポルノ小説として読んでいたという。そして、現代の我々も『源氏物語』をこの両面から読む必要があると、丸谷が受ける。丸谷も室町時代を高く評価する。丸谷は、壇ノ浦で宝剣が失われたことがとても良かったことだという。それをきっかけに、古代的フェティシズムによる権威づけと言うものが滅んだ。フェティシズムが権威を失い力を失った。それでは、大切なものは何だろうかと、一国民が目覚めた。それは文化というものだとわかった。それがずっときて、はっきりと自覚されたのが東山時代だと、丸谷はいう(p174)。最初この文を読んだとき、「一国民」という表現に少し引っかかったが、「一つの国民」つまり日本という国の人々と解釈した。しかし、今気がついたのだが、これは「一人の国民」と読むべきで、その一人とは後鳥羽院を指すことに気がついた。宝剣なしで即位した最初の天皇であり、文化をもって武家政権に対抗した天皇である。

 まえがきで山崎は、ヨーロッパ文明に相応するアジア文明というものが存在しないのは、中国文明があまりにも巨大で、しかもあくまでも一民族の文明に過ぎなかったためであるという持論を述べている。対談を通じて、繰り返し世界のなかに不在であった時代の日本に導かれていった、その過程で浮かび上がったのは、日本と中国との関係、というより関係の不在の歴史であった、関係の不在がより多く日本を作っていったという事実の再発見であった、と山崎は述べる。
「ヒストリカル・イフ」は歴史認識にとっては避けるべきだとされているが、山崎は何度かそれを禁じ得なかったという。そして、「もし日本と中国が一つの緊密な世界をつくり、その中で切磋琢磨を連続していたら、東アジアにはもっと躍動的な文明が生まれていたのではないか。そう思わせるほど、二つの国の過去には可能性に満ちた化学物質があり、あとは化合を待つばかりであったように見えるのである」と述べる(p13)。

 ヒストリカル・イフについては丸谷は積極的に認める。補助線を引いて過去をかえりみることは効果的な手口だという(p294)。その後で、もし西郷隆盛という人に日本を任せていたら、近代日本はめちゃくちゃになっただろう。日清戦争も、日露戦争も確実に負けているという(p296)。鹿児島県人でなくても、西郷ファンが聞いたら激怒しそうな発言だが、当たっているような気がする。

 二人ともマルクス主義史観は否定するが、そこから出発した網野善彦は高く評価する。後醍醐帝を論じる際には、網野の『異形の王権』に準拠している。本書は8章よりなるが、各章の前に、参考となる本が数冊示されていて、事前に二人はそれを読んで対談に臨んでいる。網野の本もその一つだが、その他の本も面白そうなものがリストアップされている。

 
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書名 俘虜記 著者 大岡昇平 No
2013-50
発行所 新潮文庫 発行年 昭和42年 読了年月日 2013−12−30 記入年月日 2013−12−31

 
今年の秋、レイテ島を猛烈な台風が襲い、数千人が死亡した。レイテといえば大岡昇平に『レイテ戦記』というのがあった。アマゾンで調べたら、文庫本3冊の大作で、内容も詳細すぎて読み通すのは大変だというレビューもある本だった。それで、こちらの『俘虜記』の方を読む気になった。

 昭和20年1月、著者はフィリッピンのミンドロ島で米軍の捕虜になる。帰還するのは12月。その間の体験に基づくほぼ完全なノンフィクションと思われる。収容所内の生活の詳細な記録と鋭い人間観察、心理描写、そして鋭い文明批評がこの本の魅力。著者は35才。前年補充兵として招集され、フィリッピン戦線へ派遣される。役目は通信班で暗号通信を担当。巻末には彼の所属した中隊の出征からの戦記が日を追って記されている。中隊180名のうち、レイテ島の収容所に来たのは21名。その他12名がルソン東北部に留まったと記される。あとの147名は戦死したのだ。マラリアによる戦病死、山中彷徨による餓死、あるいは現地ゲリラの襲撃による死亡も多い。

 ミンドロ島はルソン島の西南に位置する四国の半分ほどの島。マニラ湾の真南に位置する。彼らの中隊はそこの警備に当たる。米軍が海上から迫って来るのを見た彼らは背後の山中に転進する。上陸した米軍はさらに山中まで迫って来る。米軍の攻撃を受け、中隊はちりじりとなる。中隊長もその前に戦死している。マラリアの高熱で、隊から遅れた大岡は一人はぐれる。そして、米兵に捕まる。

 ミンドロ島の病院に収容された後、レイテ島の収容所に移される。レイテ島でも最初は傷病者棟に入るが、マラリアが治り、新しい収容所が出来ると共に一般棟に入る。収容所は中隊、小隊、班という軍隊組織をとる。一中隊の総員は233名、これが5中隊あるから、1200名近い収容人員だ。大岡は中隊付きの通訳となる。収容所にあっては一種の特権階級だ。

 山中に転進した後、大岡は一度偵察隊として出撃するが、敵と遭遇して戦闘状態になってはいない。つまり、彼には戦闘経験はない。その彼にも一度だけ、引き金を引く機会があった。水を求めて一人さまよったあげく、林のへりに倒れてしまった彼の前に、草叢を分けて若い米兵が現れた。米兵は大岡に気がつかずに近づいてくる。銃の安全装置を外したが、彼は撃たなかった。射撃に自信を持つ大岡は、外す目標ではないという。なぜ撃たなかったかの洞察が、何頁にもわたって記される。本書の読みどころの一つ。大岡はそれを人類愛などには帰さない。殺すことへの動物的な嫌悪、あるいは相手の若さと美しさへの父性愛といったものに帰そうとする。相手はなおも近づいてくる。その時、別の方角から銃声が起こり、米兵はそちらに注意を向け、去ってしまう。この偶然に大岡は神の摂理を感じる。

 翌日手榴弾で自殺を図るが、手榴弾は不発であった。そして人事不省で倒れているのを米兵に発見される。

 大岡は自分を戦争で死すべきものと感じている。それは『神聖喜劇』の東堂を思わせる。収容所内の軍隊組織の描写など、『神聖喜劇』と通じるものが多い。

 大岡を初め、日本兵の捕虜は米軍の手厚い扱いに驚き、戸惑う。「
彼らは自分を不名誉な俘虜だと思っていたのに、米軍は彼等を人間として扱った。これが彼等を当惑さしたのである」(p102)。もちろんこれは赤十字精神による国際協定に則ったものだ。その赤十字精神について大岡は次のように述べる:赤十字の精神はあらゆる慈善事業と同じく、原因を除かずして結果を改めるという矛盾を持っている。私は無垢な日本人が人権の自覚を飛び越えて嗅いだのはこの矛盾ではなかったかと思う。(p103)

 何日も山中をさまよい、飢餓状態であった俘虜にとって支給される食事は最大の関心事である。俘虜の隊ごとに炊事員がおかれるが、彼等は特権階級である。一般俘虜は炊事員にあの手この手で取り入り、自分への配分を多くしてもらおうとする。しかし、1日2700キロカリーの食事により俘虜達は最後には肥満状態に陥る。食事と並んで貴重品はたばこ。当初は1日に1本の配給だ。それは収容所内の通貨の役目をするようになり、色々なものがたばこと交換される。本書の至る所にたばこの話が出てくる。今の日本では考えられない状況だ。

 やがて終戦。彼等にとっての終戦は8月10日である。この日、日本はポツダム宣言受諾の意向を連合国側に伝えてきた。レイテ島ではそれを祝う米軍の曳航弾、照明弾が夜空高く上げられた。しかし、戦後の国体維持の問題で逡巡した日本が、無条件降伏を受け容れたのは8月15日である。その日、それは収容所にも知れ渡る。しかし、「
俘虜の反応は皆無であった。我々にとって日本降伏の日附は八月十五日ではなく、八月十日であった」と記す(p419)。広島への原爆投下も、大岡は米軍の情報としてすぐに知る。

 400ページ以下に次のような記述がある:十
万以上の人命が一挙に失われ、なお恐らく同数が、徐々に死なねばならなぬ惨状は空前である。しかしよく考えてみれば、程度の差こそあれ、最初に大砲の殺戮力を見た中世人も同様に感じたであろう。さらに遡れば最初矢によって貫かれ、或いは鉄刀によって切り裂かれた隣人を見た原始人も、同じに感じはしなかったであろうか。すべて新しい惨状は第三者に衝撃を与えずにはおかないが、しかし死ぬ当人にしてみれば五十歩百歩ではあるまいか。(中略)戦争の悲惨は人間が不本意ながら死なねばならぬという一点に尽き、その死に方は問題ではない。しかもその人間は多く戦時あるいは国家が戦争準備中、喜んで恩恵を受けていたものであり、正しくいえば、すべて身から出た錆なのである。広島市民とても私と同じ身から出た錆で死ぬのである。兵士となって以来、私はすべて自分と同じ原因によって死ぬ人間に同情を失っている。
 この一文を評する言葉を私は持ち合わせない。

 戦後、俘虜の数は一挙に増す。新しい俘虜は古い俘虜と違って、投降あるいは捕まったものではない。両者の間には感情的な対立があるが、それも後は帰還するだけという状況の中では薄れて行く。そうして収容所を襲ったのは堕落である。たばこを賭けたばくち、同性愛まがいのカップルの誕生、演芸大会など。大岡も春本を書いて喜ばれる。

 帰国後、大岡は一高の先輩小林秀雄に本書の最初の部分「捉まるまで」を書いて持ち込む。小林は内容を賞賛し自身が創刊した雑誌にそれを掲載しようとしたが、中に米兵に関する記載があり、1年後の「文学界」に発表された。そして大岡は作家の道を歩み出す。本書はその後各種の雑誌に発表されたものをまとめたものである。


 
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