読書ノート2002年

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書名 著者
偶然性と運命 木田 元
ドイツ帝国の興亡 セバスティアン・ハフナー、山田義顕 訳
やさしさの精神病理学 大平健
私の脳科学講義 利根川進
日本の数学 小倉金之助
「真珠湾」の日 半藤一利
自注漢詩集 丙丁 田村 充夫
春の雪―豊饒の海第1部 三島由紀夫
奔馬―豊饒の海第2部 三島由紀夫
暁の寺―豊饒の海第3部 三島由紀夫
天人五衰―豊饒の海第4部 三島由紀夫
蕪村春秋 高橋 治
愛の領分 藤田 宣永
三島由紀夫の美学講座 谷川 渥 編
天気の好い日は小説を書こう 三田誠弘
タテ社会の人間関係 中根千枝
コンプレックス 河合隼雄
宇宙の始まりの小さな卵 三田誠広
サド公爵夫人・わが友ヒットラー 三島由紀夫
8月6日 福澄 哲夫
江戸の詩壇ジャーナリズム―『五山堂詩話』の世界 揖斐 高
絹と明察 三島由紀夫
エリゼ宮の食卓ーその饗宴と美食 西川 恵
ロゼッタストーン解読 レスリー・アドキンズ、ロイ・アドキンズ著、木原武一訳
寺田寅彦全集第一巻 寺田寅彦
ヒト知性の脳科学はどこまで可能か
ローマ人の物語 1 ローマは1日にしてならず(上) 塩野七生
必携 お経読本 九仏庵方丈
ローマ人の物語 2 ローマは1日にしてならず(下) 塩野七生
ローマ人の物語 3 ハンニバル戦記(上) 塩野七生
ローマ人の物語 4 ハンニバル戦記(中) 塩野七生
ローマ人の物語 5 ハンニバル戦記(下) 塩野七生
ローマ人の物語 6 覇者の混迷(上) 塩野七生
ローマ人の物語 7 覇者の混迷(下) 塩野七生
ラッセル幸福論 バートランド・ラッセル、安藤貞雄 訳
火垂の墓 野坂昭如
幸福論 アラン、神谷幹夫 訳
幸福論 第一部 ヒルティ、草間平作 訳



書名 偶然性と運命 著者 木田 元 No
2002-01
発行所 岩波新書 発行年 2001年4月 読了年月日 2002−01−28 記入年月日 2002−01−28

 
題の魅力に惹かれて買った。内容は偶然、出会い、時間、運命に関する哲学的考察。西欧の哲学の流れをふまえた、噛み砕いて書いてあるが、結局の所明快な結論はでていない。

 取り上げられた哲学者は、ハイデカー、ライプニッツ、シェリング、ニーチェ、ショーペンハウアー、ジンメル、ヤスパース、メルロ・ポンティ、ユングら。そして、これに日本の九鬼周三。近世合理主義の克服という立場から、偶然や運命ということが取り上げられようになったのは19世紀初頭からである。上にあげた哲学者たちが、こうした問題を多少なりとも意識した。なかでも、九鬼はこの問題に正面から取り組んでいる。「いきの研究」だけが彼の業績ではないのだ。
 こうした哲学的考察の最後に、ドフトエフスキーの「悪霊」と「カラマーゾフの兄弟」から、それぞれ運命的な出会いを抜き出し、それを詳細に述べている。前者は悲劇的な出会い、後者は回心に至る有意義な出会いの例である。

本書から
 めぐり逢い p12: 
 
人との偶然の出逢いを「めぐり逢い」として、つまり運命的な出逢いとして意識するということは、この出逢いをきっかけにして、これまでの過去の体験がすべて整理しなおされ、いわば再構造化されて、あたかもすべてがこの出逢い目指して必然的に進行してきたかのように意味を与えなおされたということであろう。

ハイデカーの時間論 p18〜29。ここは面白い。
21p:
では、彼は、〈おのれを時間化する〉ということでどんな事態を考えているのか。こんなふうに考えてみていただきたい。たとえば人間以外の動物は、そこに多少の幅、多少の厚みはあるにしても、いわば〈現在〉だけを生きている。動物にとっては現在与えられている環境だけがすべてであり、それにだけ適応して生きているのである。それに対して人間は―むろん神経系の分化が進み、それがある閾を越えることによつて可能になつたにはちがいないが―その〈現在〉のうちにあるズレ、ある差異化を惹き起こして、通常〈未来〉とか〈過去〉とかと呼ばれている次元を開き、その〈現在〉〈未来〉〈過去〉のあいだに複雑なフィードバツク.システムを設定し、そこにまたがって生きることができるようになつた。つまりは、おのれを時間として展開して生きることができるようになったのである。
 ハイデカーはあくまでも〈未来〉に優位を認める。
27p:・・・
人間が自分にとって究極の可能性である自分自身の死まで先駆けてゆき、そこにある覚悟をさだめるという仕方で開けてくる未来から出発しておのれを時間化するような、そうした時間化作用に時間の根源的現象を見ている。

ニーチェとダーウィニズム
113p:
ところが、1890年代初頭にニーチェは、ダーウィニズムの影響を幾分かは受けながら、(生)を「現にあるよりもつねにより強くより大きくなろうと生成するもの」として、つまり、はっきり方向をもち、内的分節構造をもったものとして考えるようになるのである。
 ダーウィンの自然選択、生存闘争という考えが、後の思想界に大きな影響を与えたというのはこういうことを言うのだろう。そして、ヒトラーのナチズムもその一つであることは間違いない。

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書名 ドイツ帝国の興亡 著者 セバスティアン・ハフナー、山田義顕 訳 No
2002-02
発行所 平凡社 発行年 1989年2月 読了年月日 2002−02−04 記入年月日 2002−02−05

 
十日市場図書館に数年ぶりに行って、借りてきた本。もちろん、ヒトラーの「我が闘争」の背景をもっと知りたいと思ったからだ。

 1871年から始まり、1945年に崩壊したドイツ帝国の通史である。こうしてみると統一ドイツというのがきわめて近い時代の出来事であることがわかる。それまでは小さな王国や侯国に分割されていた。そうして東のロシア、西のフランスという強国にはさまれていた。そうしたなかで、強国を目指して勃興していった。そうした歴史を背景に考えると、ヒトラーの主張のある部分は理解できる。
 ビスマルクの時代は対外政策はうまくいったが、内政はうまくいかなかった。その次のカイザー時代は国内的には充実した時代であったが、対外政策はまずかった、と筆者は述べる。
 第一次大戦までは、戦争は悪とは考えられておらず、外交手段の一種であり、各国の軍部はつねに相手国への戦争作戦を具体的に練っていて、予防戦争を仕掛けることを真剣に討議したことが本書にも見られる。

p84:
1848年以前の時代のドイツ人、またビスマルク時代のドイツ人も、基本的には控え目な国民だった。彼らの最高の目標は、同じ屋根の下で一つにまとまることであった。そして彼らは、それを実現していた。
 だが、ビスマルクの退陣以来、大国感情のようなものが形成された。ヴィルヘルム時代の大多数のドイツ人、しかもありとあらゆる階層のドイツ人は、突然大きな国民的ヴィジョン、国民的目標を目の前に見つけたのだった。我々は世界強国になる、我々は世界中に拡大する、ドイツを世界の先頭に!と。

 こうした国民感情が同盟政策や、植民地獲得競争等における拙劣な外交に表れ、第一次大戦に至った遠因であるとする。さらにこの後、当時の人々の生活の進歩、電話や鉄道等についてふれる。読みながら、20世紀初頭のドイツ化学会誌の充実ぶりを思った。私が若い頃、半世紀以上前のドイツ化学会誌には、化学の理論を構築する上で貴重な実験データが宝のごとく眠っているという記述を読んだことがある。それを思い出した。そして、私も19世紀にさかのぼるドイツ化学会誌を読み、あるいはバイルシュタインで化合物のデータを調べた。

 第一次大戦の敗因について、いわゆる「匕首伝説」について。p156:
ほとんど情報を知らなかったドイツの大衆にとって、こうした出来事は、時間的経過だけからみると次のようにみえた。我々は、戦争に勝利しかかっていたが、その時、ずっと以前から和解の平和だけを欲していた抜け目のない連中が、政権を握ってタオルを投げ入れ、それから革命が起こり、そして我々の戦力を失わせる休戦が締結されたのだ、と。
 
ヒトラーが主張するのと同じ見方を当時の大衆はしていたというのだ。

「我が闘争」の中にでよく批判されている社民党党首のエーベルトは、実は、義勇軍と組んで、1919年から20年のマルキシズムによる革命を弾圧した。
 大戦に負けたドイツは、筆者の見方ではむしろ戦勝国よりも強化されたという。p167〜8.
ドイツはロシアの弱体化、崩壊をねらってロシア革命を支援した。それは、スイスに亡命中のレーニンのロシアへの移送を認めた。

 ヒトラー評 p201−202:ナチスの勝利の原因として、窮乏、ナショナリズムの再生、そしてヒトラーという人物そのものをあげ、以下のように述べる。このヒトラー評は正しいと思う。
 
ヒトラーは、彼の時代のドイツ人に反感を起こさせたのではなく、彼らを魅了し、それどころか熱狂させたのだった。とにかく彼は、シュトレーゼマンの死後、ヴァイマル共和国後期の政治舞台に登場した他の誰よりも、はるかに大きな政治的個性をもった人物だった。
 ヒトラーは、常に過小評価されてきた。彼をさげすみ、物笑いの種にしようとしたのは、彼の敵たちの最大の誤りだった。彼は、卑小でも愚かでもなかった。ヒトラーは、きわめて邪悪な男だった。大人物というのは、往々にして邪悪なものだ。そしてヒトラーも―詭弁ではなくて―、そのぞっとする属性にもかかわらず、大人物だったし、それは、その後一〇年の間に彼のビジョンの大胆さ、彼の本能の狡猾さのなかに、たびたび示されることになる。ヒトラーは、当時の政治家の誰もふるわなかった、魔法のような影響力をもった人物だった。

 そしてすぐ後に、戦後に多くの人々が求めた、不屈、抜け目のなさ、秩序と規律の尊重、党利党略を超えて単独で国を指導できる指導者、という像に、ヒトラーが合っているようにみえた、と述べている。1907年ベルリンで生まれ、38年にイギリスに亡命した著者はナチス政権獲得の頃は20代半ばであり、当時ヒトラーがドイツの民衆に受け入れられたことを身をもって体験したことに基づくものだろう。

  ナチス体制下の国家について p229〜:
この帝国は・・・・本当の意味での全体主義国家でもなかった。逆だった。ヒトラーの国家には、以前のドイツ帝国以上に、数多くの国家のなかの国家があった。
 そして国防軍も国家のなかの国家であり、44年まで、ナチス式の敬礼ではなく、帽子に手を当てる敬礼をやっていたという。こうしたニッチがたくさんあり、ナチス下の人々はそこへ一種の亡命をしたという。
p230の最後:彼は、一度も固定した国家体制を作らなかったし、憲法も残さなかったし、自分がつくった多くの制度や組織を調整したことも、それらを互いに秩序正しく関連づけることもなかった。

 そうした国家をヒトラーが統治した手段は、著者によればプロパガンダとテロである。

 ユダヤ人迫害について:
 それは総統国家の他の多くの要素のようにドイツ帝国の歴史と現実の体制なかに、はじめから備わっていた要素ではないとする。
そしてp258:
ヒトラーがいなくても、1933年以後には、おそらく一種の指導者国家が存在したかもしれない。ヒトラーがいなくとも、おそらく第二次世界大戦はあったかもしれない。だが、数百万に及ぶユダヤ人殺害はなかったであろう。

 本書が書かれたのは87年である。最後は戦後ドイツについて簡単に触れ、その統一は、それが片方によるもう一方の吸収のような形での統一は将来にわたっても困難であろうと見通した。
 2年後にベルリンの壁が崩れ、ドイツ再統一がなったのは3年後の90年だった。著者は90年のあとがきで、自分の見通しが完全に間違っていたことを認めたが、記述はそのままに変更しないことを断った。

 一国の地理的位置がいかにその国の政治、外交を決めるかということに関し、我々島国の人間にはあまり意識しない。そうした国々の外交の戦略、あるいは駆け引きでは、しょせん日本は遠く及ばないのだという感想を強くした。

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書名 やさしさの精神病理 著者 大平 健 No
2002-03
発行所 岩波新書 発行年 95年9月 読了年月日 2002−02−05 記入年月日 2002−02−06

 今月のエッセイの課題が「優しさ」である。岩波新書の「偶然性と運命」の巻末のリストを見ていたら本書が目に付いたので、横浜ダイヤモンド地下街の有隣堂で見つけて買った。

 精神科医の著者にカウンセリングにやってくる若者の話を素材にして、今の若者たちの「優しさ」を論じている。電車で老人に席を譲らない優しさ、好きでないのに結婚してやる優しさ、黙っていて返事をしない優しさ、等、のエピソードがでてくる。筆者に言わせれば従来の、というか本来の優しさとは、相手に対する一体感があってお互いに分かり合う、分かち合うというものだが、こうした若者たちの優しさは、相手との深い関わり合いをさけ、決して相手の心に中に入らない、それが優しい関係だというのだ。

 読んでいて、著者が新しい優しさだということのいくつかが、私には本来の優しさであり、自身が実践してきたことであると思った。結局私の生き方として、相手との深い関係を避け、本書で言う「ホット」でない「ウォーム」な関係を通してきたからなのかもしれない。

 この本の書評を書いて、今月のエッセイに代えようと思ったが、うまくいきそうにない。


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書名 私の脳科学講義 著者 利根川進 No
2002-04
発行所 岩波新書 発行年 2001年10月 読了年月日 2002−02−06 記入年月日 2002−02−14

 著者の研究略歴と、2編の対談記録とにはさまれて、記憶メカニズムにおける著者の研究が紹介されている。当然、分子生物学的手法が用いられる。利根川が行ったのは、マウスの海馬領域における部位特異的なノックアウトマウスの作出と、それを用いた記憶メカニズムの研究である。ある遺伝子を生体のある部位だけ発現させないようにしたというのがこの研究のすごいところだ。その手法も述べてあるが、私にはよくわからない。というか、もうそこまでの詳しいことはわかろうとしないという方が正確だろう。

 彼らが行った実験のもっとも精緻なものの一つは、記憶を司る海馬の、CA3野のシナプスのNMDA受容体(NMDAが何であるか、今本書をめくってみたが、見つからなかった。たぶんメチルドーパミンではなかったか)の遺伝子をノックアウトしたマウスをつくり、それが記憶、学習にどのような影響を示すか見たもの。その結果、可塑性の高いシナプスを持つCA3野の反回路性経路で頻繁につながるニューロンは、パターンコンプリーション能力を通じて、連想記憶の想起に重要な働きをしていることを明らかにした。このノックアウトマウスは単にCA3野というだけでなく、その中の反回路性経路に特異的に現れるというきわめて高い特異性を示す。利根川はこの研究をきわめて高く誇っている。

 研究フィロソフィーについても多くを語っている。人の言うことをすぐ信じる人は研究者に向かないという。私は研究者として失格だ。また、プライオリティーの重視をいう。この場合研究成果のプライオリティーではなく、日常生活におけるやるべきことの優先順位である。特に何かをやめることの重要性を説く。この点でも私は失格であろう。


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書名 日本の数学 著者 小倉金之助 No
2002-05
発行所 岩波新書 発行年 1940年3月第1刷 読了年月日 2002−02−10 記入年月日 2002−02−14

 戦前に出た本とは知らなかった。霧が丘の古本屋で見つけて手にした。

 江戸時代の和算の紹介。たくさんの関連資料、主として和算の本、の写真入り。日本人の独創性の発露としての和算を取り上げる。関孝和は極限の考えを推し進め、かなり精密な円周率の数値を得た。また、その高弟の建部賢弘は円弧を無限級数の形として表した。こうした優れた業績は西欧の数学者にも肩を並べる点がある。円の正確な面積を求める、あるいは円と正方形の関係を求めるということが、数学の発展にどれだけ寄与してきたかが、洋の東西を問わずわかる。

 しかし、和算家はギルド的組織を作りその学問を秘伝として独占し、一方江戸時代には西洋のような科学技術の発展が見られなかったので、和算がそれと結びついて発展することもなかった。そして、明治になり、西洋の数学が入ってくるにつれ、その有用性、一般性等で和算はとうていそのライバルではあり得ず、消滅する。

 著者は高名な数学者。科学史にも造詣が深いようだ。その時代との関連で和算の発展を述べている。
 最初に、古代の計算法として算木というのも用いたということが書いてあるが、具体的にはどういうものであったのだろう。

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書名 「真珠湾」の日 著者 半藤一利 No
2002-06
発行所 文芸春秋社 発行年 2001年7月15日 読了年月日 2002−02−22 記入年月日 2002−02−22

 丸谷才一がどこかの書評で取り上げていた。それで購入した。あるいは9月11日の事件後、あれはパールハーバーを思い出させる、というアメリカの言い方が気になって購入したのだろう。本来なら昨年末の12月8日までに読み終えるべきものだった。寝床で読んでいるうちに眠ってしまい進まなかった。ハードカバーの本書は外出時に持ち歩き電車の中で読むというわけにはいかない。

 1941年12月8日(アメリカでは12月7日の日曜日)を中心にしたドキュメントである。色々な人物のその日の行動をたくさんの資料から集めて構成したもの。特に新しい資料はないようだ。

 日米の首脳、山本五十六司令官はじめとする軍首脳、だけでなく、徳川無声、小林秀雄、永井荷風、亀井勝一郎、飯沢匡等多数の人々の当日の感想を集め、その日を再現する。ほとんどの日本人が、米英との開戦にしてやったりというもやもやの晴れる思いを抱く。

 開戦に至る日米の交渉も詳しく追っている。ハルや野村、来栖の必死の努力にもかかわらず、ここまでくるともう個人の力ではどうしようもなく歴史の歯車は回ってしまっている。この戦争の遠因は中国に対する日本の侵略に基があって、中国を支援する米英による日本の経済封鎖、それに対する反発などにより、41年の段階ではもうどうしようもないところまで来ているという感じが強い。だから、こうした開戦に至る短時日の期間に焦点を合わせて見るというやり方は、歴史の大きな流れから目を逸らさせる危険を持つ。

 著者は山本五十六の高校の後輩と言うこともあるのか、山本に傾倒している。真珠湾奇襲を考えた山本の脳裏には、日米が戦った場合それは半年から1年で決着をつけるべきで、その後停戦に持っていかなければならないという基本的戦略があった。そのためにこそ緒戦でアメリカをたたき、うまく講和に持ち込むべきだというのだ。

 だが日本の指導部はそうした明確な見通しを持たないままに米英との戦争に入っていく。瀬戸内の戦艦の中で真珠湾攻撃の推移を見守る武人としての山本がもっとも気にしていたのは、宣戦布告に当たる最後通牒が真珠湾攻撃開始の前にアメリカに届くことであった。だが、その最後通牒は駐米大使館のもたもたした事務処理により、ハル国務長官に野村、来栖大使が届けたときは、長官はルーズベルト大統領から真珠湾奇襲の知らせを受けていた。私が疑問に思うのはその最後通牒の中身が、宣戦布告になるのかということだ。交渉の打ち切りはいっているが、それでは明確な宣戦布告の体をなしていないと思う。そういう疑問を持ちながらずっと読み進めた。そして、最後にいたって、ルーズベルトの議会への演説でそれが、宣戦布告としては意味のないものである、少なくともアメリカはそうとったことを知った。常識的に見てそうだと思う。だが著者はこれを宣戦布告として十分だと見ているようだ。

 真珠湾はどう見ても奇襲、だまし討ちだと思う。ルーズベルトが翌日の議会教書で述べているように、日本は一方で交渉をしながら、他方で不意打ちを準備していたといわれても仕方がない。連合艦隊は択捉島の基地からハワイ沖に到達するには10日以上を必要としたのだ。そのことが、アメリカ国民を戦争へと団結させた。それは、同時多発テロ後のアメリカと同じであったろう。それをまとめ上げたルーズベルトはきわめて有能な戦争指導者であった。そして、真珠湾奇襲は日本にとって戦術としては大成功であったが、戦略としては大失敗に終わった。10数日を発見されることもなく、しかも相手側は最初に攻撃されるのはシンガポールあるいはフィリピンを想定していて、まったく無防備だったという意味で戦史に残る大成功だった。

 丸谷才一は12月8日前後における昭和帝の言動がどうであったかをもっと知りたいといっていた。同感だ。特に真珠湾奇襲は本人による陰謀だという説が未だに尾を引いている(著者はその説には組みしない)ルーズベルトの行動については、きわめて詳細に記述されていることを思うとなおさらその感がする。

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書名 自注漢詩集 丙丁 著者 田村 充夫 No
2002-07
発行所 東銀座出版社 発行年 2002年2月28日 読了年月日 2002−02−26 記入年月日 2002−02−27

 中学時代の恩師、田村先生から送られてきた。田村先生は最近年賀状に漢詩を書いてきていたが、それ自身意外なことだった。そして、だめ押しするかのように今回の漢詩集である。

 高校時代の吉川幸次郎の「新唐詩選」以来読む漢詩。田村先生のは難しい漢字が多用されている。蘊蓄の深さを感じさせる。郷里房総への思い、若くしてなくなった学徒動員のクラスメートへの思い、家族への思い、あるいは教育に対する時評めいた作品、等、多彩である。すべての作品を開いてあるから、その方を読んで、原文の方はほとんど読まなかった。作品の出来は私にはわからない。ただ、郷土や祖先、家族に対する熱い思いは伝わってくる。

 港中学在職中のエピソードも興味深い。先生は港中をあまりよく思っていない。やり玉に挙げられているK、M先生が誰だかはすぐわかる。それにしても、田村先生は他人に対して厳しすぎるのではないかと思う。それが自身に返ってきているのではないか。
 作品はほとんどがこの2,3年に作ったもの。古稀をすぎての創作活動というのは私にも励みになる。

 なお、田村先生のことに関してはエッセイ「田村充夫先生」に書いた。


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書名 春の雪―豊饒の海第1部 著者 三島由紀夫 No
2002-08
発行所 新潮文庫 発行年 平成13年10月52刷 読了年月日 2002−03−06 記入年月日 2002−03−13

 
細かな風景描写と心理描写に感心する。風景描写を巧みに心理描写と重ねる。その繊細さはまるで女性作家のようだ。そして、比喩の格調高さは相変わらずである。こうした細かい観察をどのようにして手にしたのかという疑問がつきまとった。すべて日常の観察から得られたとしたらそれは膨大なエネルギーを要することだろう。かなりの程度、三島の観念の中で生み出したとすれば、それは彼の天才ぶりを示すものだ。三島の創作ノートのたぐいを見てみたいと思った。

 物語は大正の初め、維新に功績のあった松枝侯爵家の嫡男、清顕とその学習院の学友本多、清顕の恋人聡子を巡って展開される。鹿児島出身の松枝侯爵は都内に広大な敷地を有し、中の島まである池を有し、邸内では宮様を招いて花見の会を催すほどだ。清顕は感情のみに生きるひ弱な少年であったが、子供の頃教育のために預けられた伯爵、綾倉家の年上の聡子へ恋心を抱く。だが、聡子は宮家の子息との縁談が持ち上がる。それをきっかけに清顕の恋心には火がつき、人間が変わり、意志の人間になる。宮家との婚約の勅許が下り聡子が宮家に嫁そうとする間際、清顕は聡子のおつきの老女、蓼科の手引きで聡子と関係する。それは半ば脅迫であった。やがて聡子の妊娠が明らかになる。事態を隠密裏に処理し、なんとしても宮様との結婚を果たしたい松枝家と綾倉家とは、密かに中絶を計画する。大阪での中絶を終えた聡子はしかし、そのままの足で、奈良の尼寺に行き、出家してしまう。かくして宮家との縁談も、清顕との恋もいっさいが断たれる。一度でいいから聡子に会いたいと念じた清顕は、尼寺を訪れるが、聡子は決して会おうとしない。町に宿を取り、山奥のその寺に何日も通い詰めた清顕は、雪の日に寺でついに倒れる。本多に連れ戻された清顕は2日後肺炎で20才の命を終える。

聡子の入った寺の門跡や、シャムから留学した王子達を通じて、仏教の転生、輪廻といったことが語られる。

偶然と意志につて 112p:本多の言葉として以下のように語らせている。
 
しかし、永い目で見れば、あらゆる人間の意志は挫折する。思うとおりには行かないのが人間の常だ。そういうとき、西洋人はどう考えるか?『俺の意志は意志であり、失敗は偶然だ』と考える。偶然とはあらゆる因果律の排除であり、自由意志がみとめることのできる唯一つの非合目的性なのだ。
 だからね、西洋の意志哲学は『偶然』をみとめずしては成立たない。偶然とは意志の最後の逃げ場所であり、賭の勝敗であり、・・・これなくしては西洋人は、意志の再々の挫折と失敗を説明することができない。その偶然、その賭けこそが、西洋の神の本質だと俺は思うな。意志哲学の最後の逃げ場が偶然としての神ならば、同時にそのような神だけが、人間の意志を鼓舞するようにできている。
 しかしもし、偶然というものが一切否定されたとしたらどうだろう。どんな勝利やどんな失敗にも、偶然の働らく余地が一切なかったと考えられるとしたらどうだろう。そうしたら、あらゆる自由意志の逃げ場はなくなってしまう。偶然の存在しないところでは、意志は自分の体を支えて立っている支柱をなくしてしまう。


130p 比喩の一例
 
卓の上にぞんざいに脱ぎ捨てられた花やかな絹のきものが、しらぬ間に暗い床へずり落ちてしまっているような優雅な死。

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書名 奔馬―豊饒の海第2部 著者 三島由紀夫 No
2002-09
発行所 新潮文庫 発行年 平成12年9月 41刷 読了年月日 2002−03−20 記入年月日 2002−03−30

 時は清顕の死から20年後の昭和初期、五一五事件の後である。今は立派な裁判官となり大阪に勤務する本多は、奈良の神社で行われた剣道の奉納試合で見つけた若い剣士の目に純粋で、ひたむきな何物かを感じる。その若者は松枝家に住み込みの書生として寄食していた飯沼茂之の息子、勲であった。第1部では飯沼は松枝家の住み込みの女に手を出し、実はそれが侯爵が手をつけた女だったために、二人とも松枝家を追われた。勲はその二人の間に生まれた一人息子だ。そして、飯沼は右翼ジャーナリズム界に身を置き、宮家の結婚をめぐるごたごたに関し、侯爵を糾弾する記事を書いている。剣道の試合の終わった後で滝に打たれる彼を見た本多は、その左脇腹に3つのほくろを認める。そして、勲が清顕の生まれ変わりであると確信する。

 勲は明治の初めに熊本の国粋主義神官を中心とする、神風連の乱のことを記録した「神風連史話」を愛読し、自分も日本の現状を変えるために行動を起こすべきだと思っている。彼の望みは、ことをなした後で海の見える高台で、朝日を浴びながら自らの腹を切ることである。勲の父は塾を主催する右翼であるが、その実体はごろつき右翼である。

 勲は昭和神風連を起こすべく同志を募り、20人の若者を全国から集める。そして、軍にも同調者を求め、かって清顕が聡子と逢い引きに使った麻布の軍人下宿で、堀中尉と会う。さらに堀中尉のつてで聡子が嫁ぐはずであった、今は陸軍の連隊長をしている洞院宮にも会い、心情は理解される。彼らは財界の要人を襲撃し、日銀を占拠し、軍の決起を呼びかける計画を立てる。だが、堀中尉は満州へ転属になり、軍の協力は得られず、やむなく、一人一人が財界の要人を襲う計画に変更する。だが、この計画も直前に密告され、全員が逮捕される。

 本多は彼らの弁護のために裁判官の職を捨て、弁護士として彼らの裁判に立ち会う。そして、刑の免除を勝ち取る。密告者は父の飯沼であった。また、勲らの刑の免除に大きく貢献したのは、勲が最後に会いに行った退役軍人鬼頭中将の娘、槙子の嘘の証言であった。

 釈放された勲の自決への決意は変えられなかった。彼は、密告者が父であり、父はまた勲が刺すことになっていた財界の巨頭、蔵原から多額の金をもらっていたことを知る。ついに熱海の別荘に蔵原を襲い、刺した後、望み通り海に面した崖の上で、自らの命を絶つ。

 勲の思想とその死への願望は三島のそれ、特にその死とダブルのだが、そのことに思いが行ったのは、この450ページに及ぶ作品のあと100ページを切るあたりであった。勲を純粋に観念の産物として見、この作品を読み進めたということだ。三島のあの死をダブらせなくても、独立した作品として読者を引きつけてやまない世界を構成していることは言うまでもない。

61p:旧知との再会  20年ぶりに再開した本多と飯沼の場面で:
 
人は共通の思い出について、一時問がほどは、熱狂的に話し合うことができる。しかしそれは会話ではない。孤立していた懐旧の情が、自分を頒つことのできる相手を見出して、永い問夢みていた独白をはじめるのだ。おのがじし独白がつづけられて、しばらくすると、急に今の自分たちは語り合うべき何ものも持たぬことに気づく。二人は橋を絶たれた断崖の両岸にいるのである。
 すると又、黙っていることに耐えられなくなって、話は過去へ戻ってゆく。

173p〜 昭和初期のデフレとその対策としての調整インフレ等、当時の経済情勢、経済政策をめぐる論議がある。まるで今日の日本を先取りするかのようで、三島という作家の深さをここにも見る。


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書名 暁の寺―豊饒の海第3部 著者 三島由紀夫 No
2002-10
発行所 新潮文庫 発行年 平成12年9月第40刷 読了年月日 2002−04−03 記入年月日 2002−04−03

 本編の主人公は本多。前2編のような劇的なストーリー展開ではない。時代は戦争直前から戦後へと流れる。タイとの訴訟の仕事でバンコクに行った本多は、そこで、かつて日本に留学し、清顕や本多が友人として接した王子の娘、月光姫、ジン・ジャンと会う。7才の彼女は、自分は日本人の生まれ変わりであると口にする。彼女の話す記憶は清顕、勲の生まれ変わりを思わせる。本多も知っている清顕、勲のエピソードなのだ。彼はこの姫を二人の転生だと信じる。だが、脇腹のほくろは確認できない。帰国直前にインドを訪れた本多は、ペレナスや仏教遺跡で深い感銘を受ける。ここではタイの寺院の描写と並んで、仏教論が延々と続く。前編は神道がその背景にあったのだが、この編では仏教がその背景となる。特に大乗仏教の唯識論、あるいは「阿頼耶識」(アーラヤ識)、輪廻転生等に関して、相当難しい仏教の説が展開される。本巻の核心をなす部分だが、よく理解できない。

 戦後、国有地の帰属に関する訴訟で、思わぬ多額の報酬を手にした本多は、弁護士の職も辞し、大資産家として悠々と過ごす。その本多の所に成人した月光姫が留学生として現れる。本多はいつの間にか覗き趣味にとらわれ、公園の茂みに潜みアベックを覗く。そして、富士山麓に新設した広大な敷地の別荘は、客用の寝室を本多の書斎から覗けるような仕掛けをほどこした。彼はある日、月光姫を別荘に誘い、隣の別荘の女主人慶子の甥のプレーボーイの大学生に抱かせようとする。自身はそれを隣室から覗くのだ。だが、この試みは彼女に迫った若者が、拒絶され、本多はその望みを達せられなかった。58才の本多は19才のジン・ジャンに恋をする。これが恋なのかどうか、あるいは老年の恋とはこんなものか。

 別荘のプール開きにジン・ジャンはやってきて、褐色に輝く肢体をさらけ出して本多の前で泳ぐ。そして、その夜、隣室からジン・ジャンの寝室を覗いた本多の目の前で展開されたのは、慶子と絡み合う姿であった。そのジン・ジャンの脇に本多ははっきりと3個のほくろを認める。
 別荘はその夜半、性の千年王国を説くインテリの今西と、戦争で一人息子を亡くした椿原夫人(今は歌人として大家となった槙子の弟子)との部屋から出火して、焼失する。それを見ながら本多は、ペナレスのガンジス河畔での火葬のイメージとダブらせる。今西と椿原夫人は焼死する。

 それから15年後、本多はジン・ジャンがあの事件以後程なくタイへ帰り、自殺したことを知る。20才であった。
 確か三島は、岡本かの子の「過去世」という作品を絶賛していたが、転生輪廻を信じていたのだろうか。

68p:ガンジス川 理知の無力を本多は感じる
72p〜:ガンジス河畔の火葬の描写 本編の核心部でもある。
174p:富士の描写 富士の描写は他にも多い。
 
六時二十分、すでに曙の色を払い落した富士は、三分の二を雪に包まれた鋭敏な美しさで、青く空を刳り抜いていた。明晰すぎるほど明晰によく見えた。雪の肌は微妙で敏感な起伏の緊張に充ち、少しも脂肪のない筋肉のこまかい端正な配置を思わせた。裾野を除けば、山頂と宝永山のあたりに、やや赤黒い細い斑らがあるだけだった。一点の雲もなく、石を投げれば石の当る際どい音がひびいて来そうな硬い青空である。
 この冨士がすべての気象に影響し、すべての感情を支配していた。それはそこにのしかかり存在している清澄な白い問題性そのものだった。

 
179p5行:パン屋の表彰状の比喩
 
梨枝は、ふしぎなことに、本多のあらゆる新らしい友のなかで、慶子にだけは心をひらいていた。何か敵ならぬ要素を慶子に直感していた。それは何だったろう。慶子の抱擁的な親切、立派な胸と大きなお尻、落着いた物言い、その香水の薫まで、梨枝の生れついたつつましさに、或る保証を与えるらしかった。麺麭屋の褒状に麗々しく捺された政府の朱い印鑑のように。

291p:恋について。以後の記述も本多の心境を表して興味深い。
 
本多が恋をするとは、つらつらわが身をかえりみても、異例なばかりでなく、滑稽なことだった。恋とはどういう人間がするべきものかということを、松枝清顕のかたわらにいて、本多はよく知ったのだった。それは外面の官能的な魅力と、内面の未整理と無知、認識能力の不足が相侯って、他人の上に幻をえがきだすことのできる人間の特権だった。まことに無礼な特権。本多はそういう人間の対極にいる人間であることを、幼いころからよく弁えていた。

326p〜:58才の本多の心境


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書名 天人五衰―豊饒の海 第4部 著者 三島由紀夫 No
2002-11
発行所 新潮文庫 発行年 平成12年10月第35刷 読了年月日 2002−04−16 記入年月日 2002−04−16

 表紙カバーの裏側に三島の略歴と写真が載っている。写真横には三島由紀夫と書いてありその下に(1925―1970)とある。45才の死だ。いかにも若い。もし生きていれば、まだ77才だ。どんな作品を書くであろうか。惜しいと思う。
 
 安永透は16才の孤児。清水港に入ってくる船を見張り、前もって港の関係者に連絡する監視所に勤務する。本多は三保の松原に行った際、その監視所に偶然立ち寄り透に会う。彼は透の中に自分と同じものを直感する。そして、慶子と2度目に訪れたとき、透の左の脇の下に3つのほくろを認め、清顕、勲、ジン・ジャンの生まれ変わりだと信じる。
 透を養子にし、世俗的な教育を施す。それは、20才で死すべき運命を背負った透を、その運命から逃れさせたいという思いがあった。しかし、透は本多への復讐を心に誓っている。最初の復讐は本多の財産目当てに透と婚約した銀行経営者の娘を、狡猾な計略で直前になって裏切るというもの。

 そして、20才で東大に入った透は別人のごとく本多につらく当たる。自分の部屋には毎晩順番にメイドを泊まらせる。そして、ついには清水時代透の唯一の友人の狂女絹江を離れに連れてくる。

 80才の本多は、神宮外苑でのぞきをやっているところを警察にあげあれる。それがスキャンダルとして世間に知られる。この事件を利用し透は本多を禁治産者とし、財産を全部自分のものとしようとする。だが、その年のクリスマスの時、慶子が本多が透を養子とした本当の理由をすべて彼に話す。そして、透には清顕や勲、ジン・ジャンのような運命と呼べるものはないといわれる。このことに大いに自尊心を傷つけられた透は、自殺を図る。一命は取り留めたが完全に失明する。そして、終日絹江と暮らす。透は20才では死ぬという輪廻は繰り返さなかった。本多はジン・ジャンの死亡時期を手を尽くして探ったのだが、結局わからず、透の生誕より前であることは確認できていなかった。

 本多は重症のガンにかかり、幾ばくもないことを知る。そして、最後に月修院の門跡となった聡子に会いたいと思い、訪れる。あたかも源氏物語の「横川」を思わせる。どんなことになるかと、胸をふくらませながら読み進める。だが、読者の期待を裏切るように、松枝清顕のことを語った本多に対して月修院門跡は「
松枝さんという方は、存じませんな。その松枝さんのお相手のお方さんは、何やらお人違いでっしゃろ」と、何一つ感慨のない、平坦な口調で言う。

 さらに問う本多に、83才の門跡は「
記憶と言うてもな、映るはずもない遠すぎるものを映しもすれば、それを近いもののように見せもすれば、幻の眼鏡のようなものやさかいに」という。「それなら、勲もいなかったことになる。ジン・ジャンもいなかったことになる。・・・・その上、ひょっとしたら、この私ですらも・・・」という本多に対して、門跡は「それも心々ですさかい」と答える。

 絢爛たる比喩と、過剰なまでの風景描写。最後に本多が京都から奈良を過ぎ月修院にいたる行程は詳細な風景描写である。もちろん、それは本多の心理を仮託してある。
 4部を通じて綿密な構成ぶりに感心する。「春の雪」での出来事が、「天人五衰」のエピソードと結びついている。かつて全共闘華やかなりし頃、羽仁五郎は三島の作品を「月下に美人が死ぬようなストーリーばかりだ」と批判した。だが、決してそんなものではない。天才というしかないと思う。小池真理子らが心酔するのも無理はない。

 この作品の全編に本多は、人生を「見る」者、「認識者」として登場する。認識にすべてを賭け、転生輪廻を信じてきた本多の人生は本編で無惨に裏切られる。ラストの門跡の言葉のなんと痛烈なことよ。

 綿密な風景描写、心理描写を見ると、三島もずば抜けた認識者であった。それでいながら認識者としての人生にとどまることができなかった。彼は本多でありながら、勲であり清顕であった。

 認識者としての人生を貫こうという本多の心情は私にも通じるものがある。カメラ好き、特に最近のデジカメを得てからの写真を撮ることへの傾倒はその表れだ。私がこの作品を読むきっかけになったのは、葉山さんが読んでいたからだ。彼は文庫本に赤線を引いて、この小説を読んでいることを自慢げに示した。彼に感謝すべきだろう。

p52〜:ホットケーキの夢の話し。三島らしからぬ描写だが、心を打つ。そして、夢と人生の本質についての一面を語っている。
p129最後:利子と時間の考察
p132:作者の最後への願望か
p172終わり:嫉妬
 
今にして本多は思い起こした。清顕や勲に対する本多のもっとも基本的な感情は、あらゆる知的な人間の抒情の源、すなわち嫉妬だったのだと。
 これは私にも当てはまるか。
p185終わり:幸福
 
彼女は幸福は大きなフランス・パンのようにみんなで頒かつことができるという、低俗な思想に染まっていたので、この世に一つ幸福があれば必ずそれに対応する不幸が一つある筈だという数学的法則を理解しなかった。
p216 7行目:知性
 
思えば社会は、何らかの犠牲に対してしか対価を払わない。生と存在感を犠牲にすることが大きいほど、知性はたっぷりと支払われるのであった。
 これも私にも該当するか。
p236 終わりから7行目:ペット
 
人間は自分より永生きする家畜は愛さないものだ。愛されることの条件は、生命の短さだった。
p270〜:老いと死
 老いに対する三島の考え。あの最後と結びつくのか。
p271 中程:
 
今にして本多は、生きることは老いることであり、老いることこそ生きることだった、と思い当たった。
 こうしてあげてみると、この編は老いの考察が随所にちりばめられている。それは三島自身の老いに対する恐れ、あの最後への誘いであったかもしれない。そして、作品の中でそうした箇所にことさら目がいった私自身の老いの表れでもあろう。

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書名 蕪村春秋 著者 高橋 治 No
2002-12
発行所 朝日文庫 発行年 2001年6月 読了年月日 2002−04−24 記入年月日 2002−04−25
 
 「世の中には二種類の人間しかいない。蕪村に狂う人間と、不幸にして蕪村を知らずに終わってしまう人とである。」(p10)という著者は、元映画監督という経歴を持つ。

 朝日新聞に連載されたのを私も読んだ。先日青葉台の本屋で見つけて購入した。やぶ入り、春雨といったたくさんの事項ごとに句を解説している。

 著者に言わせれば、蕪村の俳句は絵画的というより、映像的であるという。空間の移動と時間の移動を含んでいるからだ。また、蕪村をぬくもりの詩人と呼び、人間的な暖かみを指摘する。本書の随所に高浜虚子一派の写生句への痛烈な批判がなされる。蕪村の奔放な想像力、虚構に比べて写生だけの現代俳句のつまらなさを指摘する。
 蕪村の俳句はイメージをかきたててくれる。それだけに意味のとりにくい句も多い。蕪村が終生師と仰いだ芭蕉との対比も、各所でなされる。以下の文は芭蕉と蕪村の本質を突いている。(p169)

 
蕪村のひとつの特徴に自得の意識ともいうべきものがある。無論、悟る方の自得ではなく、満足するという意味の自得だが。
 生き方にも俳諧にも高い目標を設定し、常に求道的な姿勢をとり続けた芭蕉に較べると、
蕪村にはそんなところで満ち足りた思いに浸っていて良いのかいと、少々歯がゆく受けとれたりするところがある。だからといって、蕪村が芭蕉に劣っていることにはならない。
 終生自己解放が出来なかった男と、自己解放の名手だった男との差といったら当たるだろうか。無論、それは達した境地の高低にはつながらない。ただ、芭蕉嫌い、蕪村好みを生む大きな要因にはなっているようだ。
 蕪村の方が親しめる。入り易い。時にはその辺にいる小父さんに似たところがある。それも向こうから温顔で接してくれて、その上愛嬌たっぷり、酒落っ気横溢の雰囲気を漂わせている。
 但し、それだけではない。安んじて接していると、突然、奈落の底に突き落とされるような深いものに出くわしたり、一種異様で不気味きわまる面を見せられたりする。その度に蕪村マニアはまた一段と惚れ心を深くするのだ。


「薬喰」くすりぐい。栄養をつけるために鹿、猪などの獣肉を食すること。肉食を忌む習慣のあった当時でも、寒中は大目に見られた。
 しづしづと五徳居へけりくすりぐひ
 くすり喰人にかたるな鹿ガ谷

 185p:
最近出久根達郎氏が、「俳句の読者は、作者の名前を通して作品を読んでいる」と喝破しておられた。
 とあったが、そんなことは五〇年も前に桑原武雄が「第二芸術論」で言ったことだと思うのだが。国文学専攻だった著者が知らないわけはない。知っていながら無視したとすれば、読者に対して失礼だ。


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書名 愛の領分 著者 藤田 宣永 No
2002-13
発行所 文藝春秋社 発行年 平成13年5月 読了年月日 2002−05−01 記入年月日 2002−05−01

 直木賞受賞作。昨年、軽井沢の下重暁子トークショウの際購入、本人のサインをもらった。

 熟年の恋の物語。主人公淳蔵は東京で背広の仕立てをやって生計を立てている。妻には先立たれ、大学生の息子と暮らす、53才。かっての友人高瀬昌平が久しぶりに訪ねて来たのがきっかけで、故郷の上田に久しぶりに行き、昌平とその妻、美保子とに会う。高瀬は淳蔵の父がやっていた旅館を手に入れて経営したが、うまくいかず、妻の実家の紬作りをやっている。美代子は結婚後、淳蔵と密かな恋愛関係にあった。そして、今は筋無力症にかかっている。昌平夫妻の娘に絵を教えている佳世は、かって淳蔵の父の旅館の使用人の娘だ。東京に出て教師をしていたとき、不倫関係に陥り、それがもとで郷里に帰り、絵を描いている。

 淳蔵と佳世はお互いにひかれあう。だが、佳世と高瀬とはかって愛人関係にあったことが、佳世の口から出る。物語は過去と現在を織り交ぜながら、この複雑な4人の関係を中心に進む。芸者上がりの佳世の母には淳蔵の父が思いを寄せてた。高瀬は若い頃から女遊びが絶えず、美保子の淳蔵への思いはそうした高瀬への反発でもあった。しかし、二人で駆け落ちを約束した日、美保子はやってこなかった。

 諦観をもって世の中を静かに渡ってきた淳蔵は、美保子や高瀬は別の世界に住むと感じる。陰に支えられて生きているような佳世の人柄が淳蔵の心を引く。二人の関係を知った高瀬と美保子はそれぞれ別々の反応をする。高瀬は二人の結婚を勧める。美保子は淳蔵を自分のものとしたいと思い、二人の泊まる宿に出かけて、佳世に襲いかかる。高瀬は癌で後1年の命だと淳蔵に告げる。

 「愛の領分」と言うタイトルは、人それぞれの愛には、領分があり、淳蔵には淳蔵の領分が、高瀬には高瀬の領分があるという意味だ。
 和服はその人の肉体的・精神的状態を包み、隠すが洋服はそれを引き立てると著者は言う。

 妻に言わせると、藤田宣永は、熟年の恋愛を書ける作家として、貴重な存在とされているとのこと。
 一作読んだだけだが、小池真理子の方がいい。

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書名 三島由紀夫の美学講座 著者 谷川 渥 編 No
2002-14
発行所 ちくま文庫 発行年 2000年1月 読了年月日 2002−05−20 記入年月日 2002−05−21

 各所に書かれた三島の評論、あるいは解説を集めたもの。
 美術のみならず、芸術全般に対する三島の深い知識がうかがえる。読んでいると、すごい知識人だったという思いを新たにする。

 絵画や彫刻の解説にその写真があったらもっとよかったろうと思う。一読して十分に理解できない文章が随所に出てくる。それは西洋美術に対する造詣や知識が彼の足下にも及ばないという理由のみばかりではない。文章表現の難解さにも由来する。

 廃墟について58p
空の絶妙の青さは廃墟にとって必須のものである。もしパルテノンの円柱のあいだにこの空の代わりに北欧のどんよりした空をおいてみれば、効果はおそらく半減するだろう。
廃墟の美しいのはその失われた部分に人間が羽ばたくからであると三島は言う。

 美に逆らうもの――タイガー・バーム・ガーデン 78p
香港のこの庭園を世にも稀な醜悪なものとして敬意をもって紹介している。この評論は旅行案内風であるが、洞察は誰をもってしても書けないものである。
旅立つ前から、私が夢みたのは、何とかして地上最醜のもの、いかなる『醜の美』をも持たず、ひたすらに美的感覚を逆撫でするようなもの、そういうものに遭遇したいという不逞な夢であった。」
 そして出会ったのが、香港のタイガー・バーム・ガーデンであった。私は行ったことはないが、想像で三島の言うことがよくわかる気がした。

ギリシャ、ローマ滞在
 その幸福感を112pには述べている。三島にしては珍しいほど素直な書き方でその感動を述べている。
ギリシャ彫刻の本質 117pの最後から次ページへかけて。
 このような考察は例えば松島先生のような西洋美術史の専門家にできるのであろうか。

126p以降には、「仮面の告白」にも出てくる「聖セバスチャンの殉教」について、特にダンヌツィオの戯曲をもとに詳しく述べられている。

 後半は肉体、官能、美、死といったテーマが、谷崎の作品などを取り上げ展開される。そこにはボディビルに凝り、ついにはあの最後へ至った三島の本質部分が表れている。

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書名 天気の好い日は小説を書こう 著者 三田誠弘 No
2002-38
発行所 朝日ソノラマ 発行年 94年11月 読了年月日 2002−05−27 記入年月日 2002−05−27

 
昼間はJTのOB会があり、夜はエッセイ教室だった。OB会が終わって、教室までには時間があったので、日比谷図書館に行った。館内は改装され、広く、明るくなった。表題の本を見つけて閲覧室で読んだ。

 早稲田の文学部での講義をそのまま本にしたもの。小説とは浮き浮きした気分で書くべきものという意味で、このタイトルが付いている。全部読み通したわけではないが、結構面白おかしく書いてある。

 擬音を排すること、接続詞を省く、特に文頭の接続詞。私は文頭の接続詞が多いようだ。擬音はあまり使わないが、確かにこれも文章の格調を落とす。三島も言っていたと思う。

 それから、次の5つの言葉を禁句としてあげていた:孤独、愛、絶望、希望、感動。
著者はこうしたものを小説に持ち込むことが嫌いのようだ。あるいは、こうした言葉を用いなくて、それぞれの意味するものを表現することが小説を書くことだ、と言う意味でもある。

 なお本書に触発されてエッセイ希望・愛・感動・孤独・絶望そして白菜を書いた。

                           

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書名 タテ社会の人間関係 著者 中根千枝 No
2002-15
発行所 講談社現代叢書 発行年 67年発行、2001年2月105刷 読了年月日 2002−05−30 記入年月日 2002−06−13

 日本論として一時期もてはやされた本。著者は昨年だったか文化勲章を受章。105刷を重ねるベストセラー。

 タテの人間関係を主体におく日本社会の特質を分析する。言われてみるとなるほどと思う。なぜこうした日本社会の特質が著者が指摘するまで指摘されなかったかの方がむしろ不思議だ。

 著者は特にインド社会との比較において日本社会を分析する。それを要約すればインド社会は資格を重視し、日本の社会は場を重視する社会だという。同じ資格を持ったもの同士、例えば夫の親戚という資格を持つもの同士が、強力な結束を誇るインド社会。それに対して、家という場を限定し、その中での強固な結束を固め、外部には閉鎖的な日本社会。そうした囲い込みの中で、タテの人間関係が確立していくのが日本社会である。
 こうした囲い込みの典型として、企業があり、そこから日本的経営が生まれる。


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書名 コンプレックス 著者 河合隼雄 No
2002-16
発行所 岩波新書 発行年 71年発行、2001年52刷 読了年月日 2002−06−12 記入年月日 2002−06−13

 これも息の長いロングセラー。
 コンプレックス、日本語に定着した言葉である。一般的に劣等感という意味で使われていることが多い。命名者はユングで、本来の意味合いはもっとずっと広い。

このように無意識内に存在して、何らかの感情によって結合されている心的内容の集まりが、通常の意識活動を妨害する現象を観察し、前者のような心的内容の集合を、感情によって色づけられた複合体(gefuhlsbetonter Komplex)とユングは名づけた。これを後には略して、コンプレックスと呼ぶようになったのである。」13p最後。二重人格もコンプレックスの存在をもって説明される。
 ユング派学徒の著者はユングの主張に沿った形で本書を書いている。そのためユング心理学の入門的意味合いもある。

 自我と対立するものとしてのコンプレックスではあるが、それを克服し、自我が取り込むことにより、劇的な人間心理の成長が見られるという例がいくつか示される。
 ユングによれば自我は意識の統合の中心であり、さらに広い無意識を含む心の中心を「自己」とした。自我についての解説はp17以下に記述されている。
 精神分析、あるいは心理療法が日本ではなじみが薄いのは、日本人の自我の確立が欧米人に比べて弱いからではないか、と思った。本書に示された典型的な例は欧米のものが多い。

 未開社会や神話時代の儀式の意味についても述べてあり、残酷な生け贄の儀式に死と再生、それはコンプレックスの克服とそれを同化した自我の再出発という意味合いを見てとる。現代社会がそうした儀式をおろそかにしていると著者は言う。イニシエーションの復活、あるいは創造の必要性を説く。

 後半には人類に共通の無意識についても言及され、ユングのいわゆる「元型」にも触れている。共通の無意識として「大母」(Great Mother)をあげている。私が時々見たトンネルの中に潜っていく夢は、恐らくこの集団無意識の現れと解釈されるだろう。私は出産時の記憶が現れたものだと思っていたが、それならトンネルから出て来る夢でなければならない。トンネルに潜るときのむしろ安らかな気持ちは、大母の懐へ帰る安らぎなのだろう。

あとがきには以下のようにある:
 
ところが現代もなお未踏の地を残し、「探検」の可能性に満ちている領域がある。それは、われわれ人間の内界、無意識の世界である。「コンプレックス」とは、その未踏の王国の名前である。

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書名 宇宙の始まりの小さな卵 著者 三田誠広 No
2002-17
発行所 文春ネスコ 発行年 2002年3月 読了年月日 2002−06−23 記入年月日 2002−06−23

 サブタイトルは「ビッグバンからDNAへの旅」である。「僕って何」で芥川賞を受賞した著者の「私とは何か」を、宇宙の始まりに遡って解説したもの。

 「
私とは何か、ということを、一言で表現することはできませんが、あえていいきってしまえば、わたしとは言葉だと、考えたいと思います。言葉といういいかたがシンプルすぎるというなら、言葉やイメージによる記憶の総体、といっていいでしょう。」と言う、(266p)。

 理系人間の私から見れば宇宙論、その基礎になる素粒子論や量子力学、さらに遡っては原子、分子の発見の物語、原子・分子の構造、そして生命の誕生から進化、エントロピーなど、盛りだくさんのことをよく解説していると思う。大変な努力だ。

 不活性ガスの発見の物語は私にとっては初めて知ることであったし、不活性ガスと周期律表、原子の構造との関係についての記述(100p前後)など、なるほどそう言うことかと感心した。

 宇宙の誕生から地球の生成までを以下のように要約している198p:
 
プランクの長さの小さな宇宙の卵の中から、対生成で電子と陽電子が生まれ、またクォークと反クォークが生まれ、クォークの対と陽電子で陽子ができる。やがて陽子と電子が物質を作っていく。その物質がエネルギーを受けて宇宙を膨張させ、銀河団や銀河や恒星を作り、恒星の中でさまざまな元素が生じ、何代目かの太陽の周囲に、地球という惑星が生じた。

 生物は反エントロピーであるが、情報もまた反エントロピーである。そして、生物の反エントロピーは情報高分子であるDNAによって来る。言語もまた反エントロピーであると言う。こうした見方、あるいは書き方は恐らく受け売りであろうが、新鮮な表現だ。ドーキンスの著作をそのままさも自分の説のように受け売りする竹内某よりはずっと優れている。

171p:対生成と対消滅、真空のゆらぎの解説。現金と手形の比喩は面白い。
182p:X粒子の仮定による真空からの陽子と電子の生成、つまり宇宙の創生の説明
 これは初めて耳にする説明。宇宙生成への永年の疑問への一つの回答である。
 著者は認識できるものだけが存在するという、量子力学の考え方を強く支持する。そして、不確定性原理への言及が色々なところで出てくる。

 また、宇宙の生成に考えをめぐらす認識者としての人間に大きな存在価値を認める。人間中心的な科学感を感じさせるところもある。

 私というものをパソコンに喩えているのもわかる。CDに書き込まれたROMメモリーがDNAに相当し、全体のシステムが生命体であり、そして、個々のパソコンは使う人個人個人によって、一つとして同じ状態にはなっていないところが、私というものに近いというのだ。

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書名 サド公爵夫人・わが友ヒットラー 著者 三島由紀夫 No
2002-18
発行所 新潮文庫 発行年 昭和54年発行 読了年月日 2002−06−27 記入年月日 2002−06−27

 三島の戯曲。

「サド公爵夫人」は、女ばかりに語らせたサド公爵。舞台はフランス革命前後。公爵夫人のルネ(貞淑な妻)、その母親のモントルイユ夫人(世俗的上流貴族の典型)、ルネの妹アンヌ(サド公爵と関係する)、シミアーヌ男爵夫人(信心の典型)、サン・フォン伯爵夫人(悪徳女性)、家政婦シャルロット。舞台はモントルイユ夫人の客間。それぞれの立場からサドを語る。

 三島は自身の解説で、サド公爵が獄中にあった間は、貞淑な妻として献身的に尽くしたルネが、その出獄を機に出家してしまうということの論理的解明をしたかったのがこの戯曲を書いた動機であると言っている。ルネの貞淑とは、サド公爵の所業に人間としての本質的なものを認めて、さらに自らも彼の振るう鞭に打たれていたことが暗示される。それは世俗の代表である母の理解はるかに越えるものであって、母親とは決定的に対立する。ルネは獄中のサドに献身を尽くす。だが出所するに及んでサドを捨てて、修道院へはいるという心理の展開は、この作品の主題であるにもかかわらず今ひとつわからなかった。長いせりふ、しかも極めて抽象的で婉曲なせりふだ。役者はこんなせりふを覚えられるだろうかと思った。サドの所業は喩えでもってしか言い表せないということ、また上流階級の女性にとっては婉曲にしか表せないということがあるのだろうが、作者の意図したものでもある。

巻末の作者による解説から:
 
私が日本でいわゆる新劇というものの台本を書きはじめてから、わが戯曲史演劇史と西欧のそれとの、相容れぬ対蹄的な性格はたえず念頭にあった。日本で純粋な対話劇が発達しなかったのには、さまざまな理由が考えられるが、根本的には、日本人の人間観自然観に、主客の対立を厳しくしないものがあるからであろう。主客の対立を惹き起すものこそ言葉であり、言葉のロゴスを介して、感情的対立は、理論的思想的対立になり、そこにはじめて劇的客観性を生じて、これがさらに、観客の主観との対立緊張を生むことになる。これがギリシア以来の西欧の演劇伝統のあらましである。ラシイヌの戯曲は、このようなラテン的伝統の精華であろう。
 しかるに、日本に移入された西欧劇(いわゆる新劇)は、その戯曲解釈において、その演出方法において、その演技術において、必ずしも、こうした西欧的伝統を継受するものではなく、表面はわが伝統演劇ときびしく対決したように見えながら、その実、セリフの文学性、論理性、朗誦性、抽象性等々をことごとく没却して、写実的デッサンと心理的トリヴィアリズムと性格表現の重視、あるいはイデオロギーの偏重に災いされ、却って偏頗で特殊な一演劇ジャンルを形成・・・・


 短い文章に中に西欧演劇の本質を見事に突いている。私はシェークスピアしか知らないが、三島の指摘が的をついていると感じる。

 「わが友ヒットラー」は、1934年6月、ヒットラーの首相官邸が舞台。ヒットラー、突撃隊長のレーム、ナチス左派の理論家シュトラッサー、財閥のクルップが登場人物。ヒットラーがレームとその配下の突撃隊を一気に葬った事件を扱う。シュトラッサーも同時に粛正される。

 レームを葬ったのは軍部からの突き上げにより、ヒットラーの大統領就任には目障りとなった突撃隊を壊滅させるためであった。解説の中で、全体主義が中道を装うためには極左と極右の切り捨てが必要だが、ナチ内の右派と同時に左派も切り捨てたヒットラーの政治的手腕を三島は高く評価する。そして、左翼への弾圧と、2・2・6事件で右派を処断するまでにほぼ10年を要した日本と比較している。

 レームを粛正したいと思っているヒットラーとレーム、レームに反ヒットラーに立ち上がることを説くシュトラッサーとレームの会話はそれぞれ緊張感に富み、スリリングである。こうしたせりふの緊張こそが演劇の醍醐味なのだろう。レームは最後まで「わが友ヒットラー」を信じ、シュトラッサーの説得に耳を貸さない。クルップは第三者的立場でこの事件の観察者的立場に立っているが、やがて彼もヒットラーの軍門に下ることは最後に予感される。

 三島は解説で、ヒットラーという人物を好きか嫌いかと聞かれれば、きらいと答える他ないと言っている。ヒットラーは政治的天才ではあったが、英雄ではない。英雄に必須の爽やかさ、晴れやかさが、彼には徹底的に欠けていた。ヒットラーは二十世紀そのもののように暗い、と言っている。


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書名 8月6日 著者 福澄 哲夫 No
2002-19
発行所 私家本 発行年 読了年月日 2002−07−10 記入年月日 2002−07−10

 
友人の前田さんが福澄さんの書いたものといってこの小冊子と他にワープロ印刷の遺稿などを貸してくれた。福澄さんは職場の先輩で若い頃私の直接の上司であった人。

 もちろん、広島での原爆被爆体験を綴ったもの。ワープロに打ったものは、15年以上前に福澄さんの友人を介して見せてもらって読んだことがある。今回改めて読んでみて、これだけの被爆に遭いながら、よく原爆症にならなかったものだと思った。落ちてきた自宅の熱い瓦が当たったところが火傷し、また落下物で両足にひどい傷を負い、しかも母親に背負われて河原に避難する途中に、黒い雨にあたり、その雨があたったところがひりひりしたという。そんな状態でも福澄さん自身と父親は原爆症ではなかったという。ただ、一番元気であった母親が、後に放射能を吸い込み原爆症を発症したという。

 福澄さんは悪性リンパ腫で亡くなったが、その病気は被爆と無縁ではあり得ない。最後に会ったのは昨年11月のOB会の時で、私は原爆が原因なのですかと聞いたら、きっぱりとそうではないと言った。

 父親と母親の3人で河原に野宿して数日間を過ごす。そこでの体験が痛ましい。父の勧めにより、足の傷には消毒のために小便をかける。それでもその傷は化膿し、やがて独特の臭みを持った、緑の膿が出てくる。魚屋の木箱とむしろで作った掘っ建て小屋に転がり込んできた被爆家族と体を接して寝て、全身に火傷を負った若い娘が福澄さんが寝ているときにさわると痛いと悲鳴を上げるのだが、狭いところで真っ直ぐに寝ても触れるような状態だから大変だったという。また、近くに井戸があり、それが大変重宝したのだが、その井戸に重症の被爆者がやってきて、水を飲みたいという。重傷者には飲ませてはいけないとわかっていたが、どうせ助からないのなら好きなようにさせようと言って飲ませ、何人もの被爆者が亡くなっていったという記述もある。

 福澄さんのお宅に遊びに行って両親とお会いしたのは戦後20年近く経った頃だ。二人ともお元気だった。当時の私には両親と福澄さんがこのような体験を背負って生きていることなど、つゆ知らなかった。

 貴重な記録だ。同じような記録はたくさん書かれたことだろう。だがこうした記録こそ何らかの形で長く残しておくべきものだ。

2002−07−25
 福澄さんの仏前に拙著「冬至の太陽」を届けた際に、夫人より本書を頂いた。

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書名 江戸の詩壇ジャーナリズム―『五山堂詩話』の世界 著者 揖斐 高 No
2002-20
発行所 角川書店 発行年 平成13年12月 読了年月日 2002−07−06 記入年月日 2002−07−15

 高校の同級生山田恭祐さんのご推奨。ブックファースト青葉台店で取り寄せてもらった。
 きっかけは山田さんとの手紙の中で、化政の江戸を私の中で再評価しているということ書いたら、すぐにこの本を紹介してきた。かなり専門的な本。山田さんの読書の深さを垣間見た。

 19世紀初頭の江戸で出された漢詩とその評論誌。年間1巻づつ、合計15巻が刊行された。編者は菊池五山、後の菊池寛の祖先だ。当時、民間に広く普及し始めた漢詩を、各層の作者から収録し、それに批評、人物紹介等を付けて刊行したもの。まず驚くことは、こんなに漢詩が普及していたこと。しかも、取り上げられたのは当時流行しつつあった清新性霊派のもので、古典を模倣するのではなく、自分の感情や経験を率直に表明したものだ。本書にはすべて読み下しも書かれて、さらに解説まであるが、それでも意味がくみ取れないものがたくさんある。それはなじみのない漢字の頻出や、昔の中国の故事に由来する表現による。そんな難しい漢字や、故事を多くの人が知っていて、それで定型詩を作ったのだ。こうした漢詩が上は大名クラスから、田舎の儒者、あるいは腰元まで読まれたという事実だけで、化政の江戸の優れた文化レベルを感じさせる。そして、それを取り上げ、ジャーナリズムとして成立させることにはさらに驚きを感じる。本書にはまた、当時の文人番付を五山が作成配布し、江戸のスキャンダルになる話も出ている。こんなエピソードを見ると、江戸の社会はかなり自由な社会だったのではないか。19世紀初頭の江戸の社会は一つのユートピアとして映る。

 読みながら、「旧長崎街道紀行」の中に自作の漢詩を紹介していたやはり高校の同級生池田さんのことを思った。彼はどこで漢詩を習ったのだろう。そして、田村充夫先生。今でも漢詩愛好者はいるのだ。

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書名 絹と明察 著者 三島由紀夫 No
2002-21
発行所 新潮文庫 発行年 昭和62年刊 読了年月日 2002−07−13 記入年月日 2002−07−15

 近江絹糸の労働争議をモデルにとった小説。

 駒澤善次郎は昼夜働いて、中小だった自分の会社をやっと大手紡績会社に肩を並べるところまでもってきた。彼の経営は従業員を家族と見なし、自分をその頂点に立つ父親と見なす日本的経営そのもの。若い女子工員は寮に入れられ、親書も開封され、外出の自由もない生活を強いられ、職場では生産競争に励む。

 大手紡績会社の社長達とこの会社を見学した岡野は、財界に広い顔を持つ戦前からの黒幕的存在。その彼がそれとなくたきつけて、駒澤の会社の従業員に反旗を翻させる。その中心は大槻青年。駒澤が初めての外遊に出ているすきに大槻達はストに立ち上がり、工場は止まる。、従業員は皆自分の娘や息子だと信じている駒澤は、帰国して話し合えばそんな外部からそそのかされたストはすぐ砕けて、もとの家族に戻ると思う。だが、帰国して彦根の工場に入った駒澤は、取り囲んだ組合員の女子工員に竿で叩かれる。

 大手紡績会社も、彦根の市民も駒澤にはあまり同情しない。膠着状態を解消するため1対1で大槻と話し合った駒澤は、そこでも手ひどく拒否される。銀行筋の圧力もあって駒澤は組合の要望を大幅に認めた調停案を飲む。そして病に倒れほどなく亡くなる。駒澤の会社は岡野が継ぐという結末で終わる。

 三島にしては珍しい題材だ。近江絹糸の争議は昭和29年のことだから、この小説も遅くとも30年頃に書かれたと思ったのだが、意外にも晩年に近い昭和39年に書かれたのだ。三島は「父親」を書きたかったと述べている。確かに現代社会では滑稽にならざるを得ない父親の悲劇が描かれている。意外なことに、大槻に対しては、青年らしい凛々しさと、争議にもまれ、世俗的に大人になっていく過程を肯定的に描いている。

285p:
やがてかれらも、自分で考え自分で行動することに疲れて、いつの日か駒澤の()てた美しい大きな家族のもとへ帰って来るにちがいない。そここそは故郷であり、そこで死ぬことが人間の幸福だと気づくだろう。再び人間全部の家長が必要となるだろう。…
 この前後の駒沢の心境は小説の核心だ。上の引用は天皇制肯定論とも受け取れる。

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書名 エリゼ宮の食卓ーその饗宴と美食 著者 西川 恵 No
2002-22
発行所 新潮文庫 発行年 平成13年6月 読了年月日 2002−08−10 記入年月日 2002−08−15

 
品数は前菜、主菜と付け合わせ、チーズ、デザートの4品、それに赤白のワインとシャンパンが付く。時間は55分。これがフランス大統領が外国の首脳を招いて供する晩餐会だ。料理のメニューは最終的には3つの候補の中から大統領自身が選ぶ。品数の少なさと時間の短さに驚くが、この饗宴にはフランスの威信と政治的意味合いが込められている。主菜と前菜を何にし、どの食材を用いるか。そして、ワインとシャンパンはどの銘柄の、何年のものを使うか。それらにすべて細心の注意と、政治的意味合いが込められる。

 ミッテランは去りゆくブッシュ前大統領に対しては、新任のクリントンと同等以上の料理とワインを用意した。昭和天皇にも最大級のメニューを用意した。日本の歴代総理との晩餐会のかなでは、細川のあとを継いだ羽田総理に対するメニューがちぐはぐで、明らかにレベルが下だと著者は言う。それは、この連立政権がどうせ長続きはしないというフランスの見方を反映したものだと分析する。事実、羽田内閣は短命に終わった。
 著者はパリ特派員として滞在中、エリゼ宮の厨房の見学を許可されたほど官邸に食い込む。

 特にワインの選び方に政治的意味合いが込められる。しかし、これは相当専門家でないとわからないのではないか。著者のようにワインに詳しい人ならいざ知らず、普通はワインの銘柄や味で、自分がどのように扱われたかを感じないのではないかと思う。従ってホスト側の政治的メッセージがそのままは伝わるとは限らないだろう。もっともメニューを見て、主賓の周辺にはわかる人がいるかもしれないし、あるいはメニューを専門家に分析させ、相手のもてなしを評価すると言うこともあるだろう。

 国賓の饗宴では用いる食器は150年前のナポレオンV世時代のもの。しかも、セーブル陶芸所制作の磁器類だ。写真で見る華やかな食器、数センチの間隔の狂いもなく並べられた皿や、グラス。豪華なシャンデリア。フランス料理はその洗練さにおいて世界最高の料理だと私は常々思っているが、その神髄が示された本だ。

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書名 ロゼッタストーン解読 著者 レスリー・アドキンズ、ロイ・アドキンズ 木原武一訳 No
2002-23
発行所 新潮社 発行年 2002年3月 読了年月日 2002−09−04 記入年月日 2002−09−04

 
ヒエログリフ(紀元前3000年から紀元400年頃まで使われた)の解読をめぐるシャンポリオンの生涯。ナポレオンのエジプト遠征には大規模な学者団が随行し、色々な調査、資料を収集した。その中の一つがロゼッタストーンである。これにはヒエログリフ、その筆記体であるデモティク、そしてギリシャ語の、2言語、3書体で同じことが書かれてあると想定された。ロゼッタストーンは、フランスへ積み出す前に、イギリス海軍との戦闘に敗れ、イギリスに持って行かれる。

 少年の頃から語学に天才的な才能を示したシャンポリオンは、ナポレオン遠征隊の持ち帰った膨大な資料を知り、エジプト研究こそ生涯の仕事だと決意する。だが、1790年生まれの彼は、革命後のめまぐるしい政情の変化に翻弄されたり、貧困の中で決して順調な研究生活を続けたわけではなかった。そんな彼を生涯にわたって支援したのは兄のジャック=ジョセフであった。

 ヒエログリフは象徴的な意味しかないと考えられていた。ロゼッタストーンのギリシャ語の中に出てくるエジプト人以外の固有名詞から、表音文字としても使われていることは推定されていた。シャンポリオンは同じ記号でも象徴的意味、表意文字、そして表音文字を持つことを気づき、当時のアルファベットに相当するものを解き明かした。その背景には古代エジプト語であるコプト語を彼が自由に操れたという背景が大きくものを言っている。

 今のような学会制度が確立していなかった当時は、発表はアカデミーでの講演、あるいは著作の出版、あるいは手紙といったものになる。彼の発見に対しては国内外から激しい異論がもたらされた。最大のライバルは、イギリスのヤングで、彼はシャンポリオンに先立って、いくつかのアルファベットを解明していた。
 シャンポリオンはヒエログリフ解明後、エジプトの各地遺跡を訪れ、膨大な資料を収集する。それらはルーブル博物館の、新たに出来たエジプト部門に持ち帰られた。だが、健康を害した彼は、41才という短い生涯を閉じる。彼の果たせなかった色々な出版は兄が刊行する。

 私はロゼッタストーンの本物をロンドンの大英博物館で見た。付近には人影もなく、ひっそりと床におかれていた記憶がある。ナポレオンのエジプト遠征の最大の成果と皮肉られるこの石碑が、その後、ヒエログリフの解読を通してエジプトの歴史の解明に果たした役割を考えると、それは皮肉でも何でもなく思える。

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書名 寺田寅彦全集第一巻 著者 寺田寅彦、小宮豊隆 編 No
2002-24
発行所 岩波文庫 発行年 47年2月初版、2002年5月86刷 読了年月日 2002−09−12 記入年月日 2002−09−14

 
アマゾンから第5巻までの全卷を取り寄せた。十日市場の図書館の端末で検索してみたが、横浜市立図書館には寺田寅彦の著作は1冊もなかった。

 本が届いて、第1巻をぱらぱらとめくっていたら、偶然盆踊りという文字が目に入った。「田園雑感」と題する随筆の中で、盆踊りという言葉にはイディルリックでセンシュアスな余韻があって、その余韻の源に遡っていくと、徳川時代を突き抜けて遠い古事記の時代に達する、と書いてあった。(213p)。私のエッセイ「盆踊り」で、私は江戸時代の農村へと遡る感覚だったという意味のことを書いた。イディルリックなという意味が辞書になくて不明だが、盆踊りに遠い祖先へのつながりを感じさせるものがあり、私は寅彦と同じような感慨を抱いたのだ。なお、この作品が書かれたのは大正10年だが、盆踊りが廃れて珍しいものになっていたようだ。そしてそのすたれに「奈良朝以前の民族の血」が滅亡に瀕しているような気がするといっている。

 最初の作品「どんぐり」を読んでびっくりした。こんなにしんみりと、叙情的な作品を書く人なのだと。早世した妻への情愛にあふれた作品だ。植物園でどんぐり拾いに夢中になった若い病弱な妻。その忘れ形見の6才の子を連れて同じ植物園でどんぐりを拾わせると、夢中になって拾ったという話だ。科学者らしく遺伝の不思議をもってきているが、本質は妻や、家族への深い愛情だ。こんな作品を書く人だったのだ。

 大正時代の作品が主だが、現代日本語から見ての違和感が全くない。前述のイディルリックというような表記の問題はあるが、とにかく現代日本語と同じといっていい。

 外国旅行記もあるが、これはおもしろくない。

以下興味深かった箇所を:
88p:芸術家にも分析力と観察力が必要だという。これは私も最近まったく同感である。ものを書くことの基本には観察力と分析力がある。絵を書くにもそうであろう。

92p:科学者論。個々のデータを集めそれを系統立てることが科学者の役目。従っていずれに偏してもいけないと言う。これは芸術家も同じだという。
102p〜:マッハ主義への傾倒。科学論としても面白い。

148p:自分の顔は(リアルタイムで)見ることが出来ない。鏡の像は左右反対になっているから。寅彦は絵もかなりやったようでこの「自画像」の他にも絵を書く話が出てくる。
200p:
私は生命の物質的説明という事からほんとうの宗教もほんとうの芸術も生まれて来なければならないような気がする。
256〜257p:
思うに「場末の新開地」という言葉は今の東京市のほとんど全部に当てはまる言葉である。
 これは関東大震災前の東京の描写だ。東京が無計画に美しい武蔵野を浸食しながら広がっていく様をこう言ったのだ。漱石の「三四郎」にもいつもどこかで工事をやっている東京のことが出ていたが、今でも変わらない。

 編集の小宮豊隆は、終戦直後という事情から科学の振興の必要性を感じ、叙情的なものよりも理系的な随筆を意識して多く採録したと言っている。寅彦の作品は理系的なものだけと決めていた私は、特に「どんぐり」を読んで本当にびっくりした。

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書名 ヒト知性の脳科学はどこまで可能か:「科学」2002年9月号 著者 「科学」編集部 No
2002-25
発行所 岩波書店 発行年 2002年9月 読了年月日 2002−09−16 記入年月日 2002−09−16

 
新聞の広告を見て池田書店で取り寄せた。久しぶりの「科学」だ。

 昨年連載された「ヒト知性の計算神経科学」という論文に対する言語学者、神経学者、認知科学者、心理学者の討論会のまとめ。もちろん計算神経科学者が受けて立つという形の討論会だ。

 計算神経科学は、脳の機能を脳と同じ方法で実現できるプログラムもしくは機械を作ることを目指す。小脳は単純な感覚運動変換から、ヒトに特有な高次認知機能まで基本的に同じ計算原理を使っており、またサルからヒトへのニューロンの変化は連続的であると考えて、脳のモデルを作ることを計算神経科学は目指す。

 そうしたアプローチで、ヒトの知性、特に言語能力は解明できるのかというのが、本討論の大きなテーマ。言語学者の立場からは、特にチョムスキー学派からは、生得的な言語特有の脳機能という概念が出され、自律的で言語に固有な脳の部門を仮定する。そしてその部門を解明することが生成文法を明らかにすることだとする。それに対して、計算神経科学は言語特異部門の存在に否定的である。

 私がチョムスキーの「言語論」を読み、その生得的言語能力という概念に感激したのはもう20数年前だ。その時、それは脳の中でどのように存在しているのだろうかという疑問が当然起きた。その答えが得られるかと思って、実は本書を買ったのだ。討論の題は「脳と言語と心の科学」である。
 残念ながら、答えは依然として闇の中だ。言語はヒトに特異的であり、当然その神経生理もサルとは断絶するとの考えは、サルからヒトへのニューロンの変化は連続的であると仮定する計算神経科学とは相容れない。

 言語学習には何らかの生得的な情報が備わっていなければならない。しかし、現在の脳科学の知見からすると、おそらく表象レベル、すなわち言語に特有の知識ではなく、より基本的かつ一般的な信号を受容するための制約条件であるにちがいない、と認知科学者の乾は言う。

 7時間にも及んだというこうした異分野の専門家の討論でも、お互いに立場を言い放しのような感じを受ける。
 ヒト知性の最大特徴である言語の脳科学はゾウを手探りしている状態だ。

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書名 ローマ人の物語1.ローマは1日にしてならず(上) 著者 塩野七生 No
2002-26
発行所 新潮文庫 発行年 平成14年6月 読了年月日 2002−09−20 記入年月日 2002−09−21

 
正に「物語」。文庫本200ページ弱、活字も大きいので、出かけた電車の2往復半で読めてしまった。著者のライフワークとして今もハードカバーは刊行中だ。知力ではギリシャに劣り、体力ではケルト人に劣り、経済力も貧弱であったローマ人が何故あれだけの帝国を作り上げたかを、探るのが本書執筆の動機だったと著者は言う。塩野さんとは以前に高校の同期会の時に会って、言葉を交わしたが、この物語を書くために、フィレンツェからローマに移り住んだと言っていた。

 当然ながら彼女の史観が前面に出てくる。それは国家主義とまでは行かなくても、国家を如何に存続させるかという視点から見る史観で、戦後の史観とは明確な対照をなす。権力をめぐる個人の闘争、さらには周辺部族との戦争といった記述が中心となる。組織を如何に保ち、発展させるかという視点から書かれているから、多くの経営者層に圧倒的に受け入れられる一因だろう。かつて、JTの社内報の新年号だったか、アンケート形式で役員の抱負が載っていたが、愛読書にこの本をあげている人が、4,5人いてびっくりした。

 本巻はローマ建国から、王政を経て共和制に至るところまで述べられている。そして、ローマは共和制の先進国ギリシャに調査団を派遣する。その当時のギリシャの様子が最後の方で述べられている。記述は平易。だからというか、しかしというか、これは歴史書ではない。

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書名 必携 お経読本 著者 九仏庵方丈 No
2002-27
発行所 採図社 発行年 平成13年8月 読了年月日 2002−09−21 記入年月日 2002−09−21

 職場の大先輩山口方夫さんに「冬至の太陽」を送ったら、コメントともにこの本が送られてきた。九仏庵方丈はペンネームである。ポケット版のお経の解説書。葬儀の時にポケットに忍ばせ、意味を解しながら聞くように作られた。

 お経の部分は殆ど読み飛ばし翻訳を読んだ。とにかく読みづらいのだ。仏教の教えはキリスト教のように具体的でなく、抽象的でわかりにくいと言うことが、阿弥陀経、法華経、般若心経等の翻訳を読んでわかった。

 簡単な仏教解説にもなっていて、それが興味を引いた。そして、山口さんは初めと終わりで、一神教では世界の争いは救えないとしている。私も「カタールのドラマ」の中で一神教への疑問を出したが、山口さんは今後は仏教が世界宗教になる日が必ず来ると言っている。少なくとも、本書で知り得たお経の意味からは、それは無理だというのが私の感触だ。聖書にもられたキリストの色々なエピソードを思い浮かべると、仏教経典では民衆の心はつかめないと思った。

 書中数カ所に赤インキで細かく訂正、加筆がされている。手紙では色々直したいところがあるのだが、重版までは出来ないので、訂正したとあった。今年で85才になる。その年齢でもこれだけの知的活動は出来るのだという意味で、励みになる。


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書名 ローマ人の物語 2 ローマは1日にしてならず(下) 著者 塩野七生 No
2002-28
発行所 新潮文庫 発行年 読了年月日 2002−09−27 記入年月日 2002−09−28

 
ローマがイタリア半島全体までその勢力範囲を広める紀元前3世紀前半までの記述。

 ローマが周辺部族との戦争に勝ち、イタリア全体を手に入れ興隆していった理由一つを、国家としてのシステムの優位性に求める。つまり、執政官、元老院、市民集会いう3つの機関のバランスの取れたシステムがうまく機能する政体にあるとする。2つ目の理由は征服した部族に寛大であって、容易に市民権をあたえ、同化していくという対外的開放性。そして3番目にはその宗教の寛容性。ローマ人の宗教は人間を律するよりも人間を保護するもので、狂信的要素を持たなかった。

 それでも紀元前390年にはケルト族にローマを占領され、また紀元前4世紀の終わり頃には山岳民族サムニウム族との戦いに敗れる経験もする。本巻では戦争場面が詳細に語られる。

 アレキサンダー大王がもし、東ではなく、西に向かったらという仮定の論議もされている。そしてローマ軍と衝突したらどちらが勝つか。ローマが勝つだろうと結論した、紀元前後のローマの歴史家リヴィウスの説を紹介している。

121p〜122p 歴史の主人公は人間であるとのべている。
 本巻も人間中心の記述だ。


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書名 ローマ人の物語 3 ハンニバル戦記(上) 著者 塩野七生 No
2002-29
発行所 新潮文庫 発行年 読了年月日 2002−10−01 記入年月日 2002−10−06

 
第一次ポエニ戦争を扱う。これはローマと、シシリー島の大半を支配下においていたカルタゴとのシシリーをめぐる戦いの顛末。最終的にはローマがシシリー全域を支配下におく。海にはまったくの後進国であったローマが、色々な工夫でカルタゴとの海戦にも勝つ。その一つは、カラスと呼ばれる、ローマの軍船に装置された先端が鉤型になった巨大な柱。敵船と接触すると、これが相手の船に落ちていき、相手船への橋が渡されるのだ。かくしてローマは海戦を陸上の戦いに変えることに成功し、カルタゴに勝利する。本編は戦闘場面中心に記述される。読み物としてはますます面白くなる。そして、著者の現代日本への批判がますます強く出る。その一つは、戦争は金を出すだけは効果がなく、やはり人を出して実際に戦うべきだと言うもの。これは、湾岸戦争への日本の関与の仕方を念頭に入れたものだろう。

 日本の政治が、相変わらず理念優先であって、国益優先ではないと言う批判もある。理念とはフランス革命後に浸透した人権、平等、自由と言った理念だ。こうしたものへの批判が読みとれる。彼女の心酔するのはマッキャベリ。理念でなく現実の即したものの見方が彼女の基点だ。

 ハンニバルはまだ出てこない。父がシシリーでローマに敗れ、子供のハンニバルはいつの日かローマを負かすことを心に誓う。
 ハンニバルと入力してみたが、カタカナには変換されなかった。

 今日の日曜日、NHKの大河ドラマ「利家とまつ」を見た。佐々成正が肥後での一揆の責任を取らされ切腹させられるストーリーだった。雪のアルプス越えから「日本のハンニバルだ」と私がつぶやき、それから「ローマ人の物語」で今ハンニバル戦記を読んでいると言った。驚いたことに次男も今読んでいるところだと言う。彼も文庫本を出版された7巻まで全部買ったという。私も数日前に7巻まで購入したところだ。次男も電車の中で読むにはもってこいの本だという。漫画しか読まないのかと思っていた次男がこんな本を読んでいるとは意外だった。8巻以降はどちらかが買えばいい。

 次男の感想では、ローマ人がいかに平凡な民族であったかがよく解るという。ただし他の文化の吸収力は群を抜いていたから、あれだけ繁栄したのだろうという。

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書名 ローマ人の物語 4 ハンニバル戦記(中) 著者 塩野七生 No
2002-30
発行所 新潮文庫 発行年 読了年月日 2002−10−08  記入年月日 2002−10−09

 
カルタゴからスペインに渡り、その地を支配したハンニバルは、秋のアルプスを越え、イタリアに侵入する。当時の戦車として恐れられた象を数十頭引き連れてのアルプス越えだ。イタリアに侵入したハンニバルは迎え撃つローマ軍をことごとく撃破する。特にカンネの会戦ではローマ軍を包囲殲滅する。そして南イタリア一帯を支配下におき、そこにとどまる。だが、この天才武将は決してローマを落とそうとはしなかった。彼はひたすらローマと同盟国家との離反を目的として、同盟国家を攻めるのだ。そうした後でのローマ侵攻を考えているのだ。

 一方ローマはことごとくハンニバルにしてやられ、執政官ファビウスは持久戦法に切り替える。ハンニバルとの会戦は避け、その代わりに常につきまとい、小競り合いを繰り返し、彼を牽制するのだ。その間にカルタゴの味方であるシシリーのシラクサを落とし、また、スペイン本土でカルタゴを抑え、ハンニバルへの補給を断つ。かくして何回かの冬をイタリア南部で越したハンニバルは最後には、半島の長靴のつま先部分に封じ込められる。

 数回の会戦の詳細な記述が中心。戦争の中にこそ人間の本質が端的に表れると著者は最初の巻で言っている。両軍の配置図が示される。カンネの会戦は今でも各国の士官学校の必須の教材だという。そこでは如何にハンニバルがローマ軍を誘い込み、包囲したかが配置図によって示される。ハンニバルの軍事的天才ぶりはよく解るが、その人間像があまり伝わっては来ない。それは資料の不足によるものだろう。

 それに反してローマ側の資料は豊富である。驚くのはこれだけハンニバルに苦しめられながら、ローマは指揮官の敗戦責任を追及することもせず、毎年2人の執政官を交替させるという制度は維持したことだ。ハンニバル一人に頼ったカルタゴ軍と、討ち死にした執政官の代わりに次々に有能なリーダーが出てきたことが、ハンニバルにローマの土を踏ませなかった原因だ。

 シラクサを攻めたローマ軍をもっとも苦しめたのは、そこの老科学者、アルキメデスであった。彼の考案した投石機などの新機軸がローマ軍を苦しめる。アルキメデスはシラクサ陥落の混乱の際、ローマ兵に殺される。

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書名 ローマ人の物語 5 ハンニバル戦記(下) 著者 塩野七生 No
2002-31
発行所 新潮文庫 発行年 読了年月日 2002−10−12 記入年月日 2002−10−13

 
紀元前205年から、紀元前146年のカルタゴ滅亡までを記述。ここではローマ軍の最高指揮官スキピオが202年のザマの会戦でハンニバルを破る。破れたハンニバルはシリアに亡命し、さらに逃げ延びた黒海沿岸の地で自らの命を絶つ。

 一方スキピオも後の小アジア戦線での資金不正使用の嫌疑を受け、引っ込んでしまう。ローマはマケドニアも支配下に置き、さらにシリアを屈服させ、ついにはカルタゴを滅亡させ、地中海の支配者となる。

 私が前編で抱いた感想に対する答えが本書にある。50〜53pにハンニバルの人物像が示されているが、著者も資料不足により、これほど表情をとらえることの難しい男はないと言っている。「
樹木が影を作る地面にじかに、兵士用のマントに身をくるんだだけで眠るハンニバル」に、兵士が従い続けたのは、マキャベリが言うように彼の厳しい態度に対する畏怖もあったであろうが、「天才的な才能を持ちながら困難を乗りきれないでいる男に対しての、優しい感情によったものではなかろうか」と著者は言う。それは塩野七生自身のハンニバルに対する思い入れでもある。

 スキピオはハンニバルを師とした。そして二人はザマの会戦の前スキピオの陣営で、その後ハンニバルの亡命先エフェソスで、それぞれ会う。こうしたエピソードは当時の戦争のあり方を示す。才能あるものはそれを認めるという、特にローマ人の考えが出ている。エフェソスは昨年夏に訪れた遺跡だ。クレオパトラも歩いたという道を歩いたが、ハンニバルもスキピオも歩いたのだ。そして山の上には聖母マリアの晩年を過ごしたという建物がある。

 ハンニバルはイタリアを引き揚げカルタゴに帰る前に、スペインを出てからの彼の主な戦績を記した銅板を、神殿の壁にはめ込む。現存はしていないがこれはフェニキア語とギリシャ語で書かれていた。何故ギリシャ語かというと、それはギリシャ語が当時、英語のような国際語であったからだと著者は言う。それはロゼッタストーンの表記の一つがギリシャ語であったことと同じだ。(54p)

 ローマは地中海世界を支配下におくが、それはハンニバルに苦しめられたローマが、それに対抗する機動戦術を身につけたからだという。例えばスキピオはザマで縦隊列の間隔を広くとり象部隊をうまくやり過ごすという巧みな戦術により、ハンニバル軍を包囲し、勝利する。つまり、ローマ世界はハンニバルが作ったのだと著者は言う。

 ところで、トインビーの「A Study of History」のハンニバルの所を読んでみたが、ローマがハンニバルに破れたカンネの戦い以後、その戦術を変え、機動的な戦法をとり、相変わらす重装歩兵密集軍団(phalanx)の突進にたよるマケドニアに勝ったことを述べている。本書に述べられた著者の見方はすでに誰かが言っていることが多いのだろう。


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書名 ローマ人の物語 6 覇者の混迷(上) 著者 塩野七生 No
2002-32
発行所 新潮文庫 発行年 読了年月日 2002−10−17 記入年月日 2002−10−20

 
地中海世界の覇者となったローマも、その覇権の拡大に伴う問題に直面する。土地所有(実際には国有地の貸与が多い)の格差が一つ。もう一つはローマ市民権を拡大する問題。これに真っ正面から取り組んだのが、グラックス兄弟。兄は小規模農民の育成を目指し、また弟は市民権の一気の拡大を目指し、それぞれ護民官の立場から元老院と対立する。そして、二人とも非業の死をとげる。特に兄は反対派に撲殺される。

 高校の世界史でのこの話は印象に残っている。当時は各人がテーマを調べてそれを発表する授業形式だった。グラックスの撲殺を発表したのは、Uと言う生徒だったが、この「撲殺」という言葉に力と感慨を込めてしゃべったのでそれだけを覚えている。世界史の授業ではスキピオはおろか、ハンニバルの名前すら聞いたという記憶がない。それに反し、グラックス兄弟の名前は覚えている。当時の歴史の授業が戦争ではなく、社会体制とか、その矛盾と変革と言ったテーマを主として取り上げたからだろう。
 わずかな期間しか護民官の地位にいなかった兄弟の業績を著者はローマが当然取り組まなければならない問題だったとし、高く評価する。

 相変わらずゲルマン人やスペイン原住民、あるいは小アジアでの混乱等、外敵との戦いはあるが、この巻の最後ではローマ同盟の反乱がある。ローマ市民権に関しての反乱だ。結局これも鎮圧されるが、トインビーが賞賛した政治システムであるローマ同盟は解体される。そうした軍事面で活躍するのがマリウスとスッラである。マリウスはローマ軍を志願兵制度に改革する。画期的な改革ではあるがこれは軍団の私兵化につながる改革でもあった。

 本書ではローマ内の内紛が、それも血なまぐさい政争が語られ今までのシリーズと趣を異にする。敗者に対しては比較的寛容であるように見えるローマ人も、身内に対しては容赦しないのか。それとも、敗者に対してもやはり厳しかったのか。

 土地が大規模農園を有する貴族階級の集中することにより、土地を失って失業した自作農がローマに流れ込んだ。こうした失業者に関して著者は以下のように述べている。
48p:
多くの普通人は、自らの尊厳を、仕事をすることで維持していく。ゆえに、人間が人間らしく生きていくために必要な自分自身に対しての誇りは、福祉では絶対に回復できない。職をとりもどしてやることでしか、回復できないのである。

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書名 ローマ人の物語 7 覇者の混迷(下) 著者 塩野七生 No
2002-33
発行所 新潮文庫 発行年 読了年月日 2002−10−22 記入年月日 2002−10−23

 
マリウスとスッラの争いが出てくる。民衆派のマリウスが最初実権を握るが、軍団を率いてローマに上ったスッラがマリウス派を追放する。何れも実権を握った後の粛正がすさまじい。その後に台頭してくるのがポンペイウスである。

 長年ローマの覇権に逆らってきたオリエントの王国、ポントス(現在のトルコ北東部)のミトリダテス王を、最後にはポンペイウスが制圧し、その余勢で、シリアをも属州とし、ここに地中海全域を被うローマが誕生するところで本巻は終わる。紀元前63年のことである。

 前73年からのスパルタクスの乱も記述されているが、ローマ史の上ではたいした事件ではないという著者の態度は明らかだ。著者は古代ローマの奴隷をそれほど惨めなものではなかったといい、従ってこの反乱の原因についても一切記述していない。ただその経過を簡単に述べてるのみだ。

 面白かったのは、スッラの武将で、少数の軍勢を率いてオリエント深く攻め込み、カスピ海まで達したルクルスの記述。この人物は指揮官としては極めて優れていたが、政治性を持ち合わせていなかった。従って権力闘争に巻き込まれることもなく優雅な余勢を全うしたのだが、食べ物には金に糸目をつけなかった。今でも贅沢な食事を「ルクルス式」というそうだ。ある時、ローマの街頭でルクルスに出会ったポンペイウスとキケロが、これからお宅に食事に行きたいと言った。そしてわずかな準備時間に用意された食事は、驚くほどのものであったという。その1回の食事に要する費用は5万ドラマク。庶民の年収は5千ドラマクであったという。ルクルスはオリエント遠征で莫大な戦利品を手にしていたのだが、それにしてもである。
 こうした数字は当時の記録に残っているものなのだろうが、誇張があるだろう。同じルクルスの戦記に、アルメニアとの戦いで相手の戦死10万、ローマ軍の戦死5名と言うのがある。如何にローマの戦法が優秀で、ルクルスが天才的指揮官であっても、これは誇張であろう。

 しかし、2000年以上前のこうした詳細な記録が残っていること自体が、日本の歴史と比べて驚異である。その意味でも面白かったのはミトリダテスのローマ帝国主義(著者は帝国主義に傍点を打っている)に対する弾劾演説と、ローマの覇権の有用性を述べたキケロの演説とがともに掲載されている。双方の主張はそのまま現在にも通じる論理だてである。

 以後の巻の文庫版刊行は2004年とのことで、ひとまず終了。

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書名 ラッセル幸福論 著者 バートランド・ラッセル、安藤貞雄 訳 No
2002-34
発行所 岩波文庫 発行年 1991年3月 読了年月日 2002−10−30 記入年月日 2002−11−01

 
私のエッセイ集を見て、エッセイ教室の竹越さんが神田に飛んでいって見つけてくれたのが原書の「The Conquest of Happiness」。その後で、彼女も読んでみたくなり、岩波文庫本のこの本を買ったとのこと。そして、読み終えた後に私に貸してくれた。彼女の感想では難しい本だとのことだった。

 私は竹越さんから贈られた原書をちょうど第2章まで読み終えたところだった。特に第2章は難しくて、こんな筈ではなかったと思っていたところだったので、まず日本語版から読もうと思い、読んだ。

 実践的な幸福獲得論であり、共感するところが多い。合理的で、自由な精神を幸福の前提条件とする。そして私が覚えていた、自分の内心ではなく、外界へ興味を向けることが幸福な人生のための基本原理的なものとして述べられている。それから、envyについての分析も私が50年近く前に原書の翻刻版を読んで、理解して覚えていたのと違わなかった。私はエッセイではenvyを「嫉妬」としてしまったが、これは本書のように「妬み」が正確だ。jealousyはenvyの一種であると本書にもある。

p74:
幸福な生活は、おおむね、静かな生活でなければならない。なぜなら、静けさの雰囲気の中でのみ、真の喜びが息づいていられるからである。
 こうした表現は私のエッセイ集の中の「冬至の太陽」と全く同じ考えである。ラッセルの中に私と同じ考えを見いだしてこの上もなくうれしい。

p171:
たくさんの人びとを自発的に、努力しないで好きになることは、あるいは個人の幸福のあらゆる源のうちで最大のものであるかもしれない。
p172:
幸福の秘訣は、こういうことだ。あなたの興味をできるかぎり幅広くせよ。そして、あなたの興味を惹く人や物に対する反応を敵意あるものではなく、できるかぎり友好的なものにせよ。
 この2つのことは私の素質のうちで、もっとも素晴らしいものかもしれない。私の人生が恵まれていたものであった最大の原因をラッセルは指摘しているようだ。

p195:
しかし、人生に対する一般的な自信は、ほかの何にもまして、必要なだけ正しい愛情をふだん与えられていることから生まれる。
p218:
特に青年時代が過ぎてから、この世で幸福になるためには、自分のことをまもなく一生を終える孤立した個人として感じるだけでなく、最初の胚珠から遠い未知の将来へととどまることなく流れていく生命の流れの一部だ、と感じることが必要である。
 連綿と続く生命の中に自分を位置づけること、それは私にとっても最大の救いである。

 読んでみると、外界への興味とenvy以外にも共感するところが多い。
 自分流の幸福論を試みたくなった。それでアランとヒルティの幸福論をアマゾンで購入した。


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書名 火垂の墓 著者 野坂昭如 No
2002-35
発行所 新潮現代文学全集 発行年 昭和56年 読了年月日 2002−11−25 記入年月日 2002−11−26

 昼間のJTOB会のあと、夕方如蘭会のトワイライトフォーラムに行くまでの時間があったので、日比谷図書館で、何か読もうと思って、この本を書庫から持ってきた。

 作者の原点を示す作品だろう。2段組で10数ページの作品。

 終戦の1週間後、神戸駅の柱にもたれて、衰弱死した戦災孤児の15才の少年。その持ち物の中には、4才の妹の小さな骨があった。
 兄妹の父は軍人として、軍艦に乗って出征している。母と3人で神戸に住むが、空襲にあう。病弱な母は、兄妹を先に逃げさせる。妹を背負って兄はどうやら逃げ延びるが、母はその後死ぬ。二人は西宮の遠縁の家に避難するが、乏しい食料のことでその家の主婦とうまく折り合わず、家を飛び出し、横穴に住む。そこには電気もないが、たくさんの螢を採って蚊帳の中に入れる。その螢も翌朝は大半が死んでおり、妹はそれを埋め、墓を作る。妹はやがて衰弱して死ぬ。兄は、もらってきた炭で妹の遺体を焼き、骨を拾う。そして、彼自身の骨は、無縁仏として葬られる。

 著者独特の、主語が移り変わっていく長いセンテンスで、淡々と綴られる。胸を打つ戦争の悲惨さ。

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書名 幸福論 著者 アラン、神谷幹夫 訳 No
2002-36
発行所 岩波文庫 発行年 1998年 読了年月日 2002−11−28 記入年月日 2002−11−29

 
ラッセルの幸福論を読んで、アランとヒルティの幸福論も読んでみたくなった。そして私の幸福観と対比してみたいと思った。あるいは私の幸福論を書いてみたいという思いもある。

 新聞に毎日連載された断章から、幸福に関するもの、93編を集めたもの。書かれた時代は、第1次大戦をはさんで前後の時代。ラッセルのものより少し前だ。

 私は甘い、ロマンティックな幸福論を思い描いていたが、それはまったく予想はずれであった。実生活の送り方という面が強い点ではラッセルのそれと似ている。男性的な、強い精神を要求する。読みながら、浮かんでくるのは自ら進んで不幸な状態に陥っていく母の現実の姿。アランは正に今の母の精神状態の反対の心を持つことが、幸福の必須の条件だと言っているのだ。想像力を働かせないこと、笑うこと、楽観すること、怒り・悲しみ・嫉妬・恨みなどの情念を抑えること、体を動かすこと・・・。かといって、母に読めるような本ではない。

 短い断章だから、どの章を読んでもいい。「世界中でもっとも美しい本の一つ」というアンドレ・モーロワの言葉が巻末の解説にある。ただし、私には文章の意味が理解できなかったところが、かなりあった。それは翻訳のせいではないという気がする。文章に飛躍、省略が多い。

本書から
心のしぐさ 61p
 
肉体の病気にも、心の病気にもリラックスさせる体操が必要。礼儀作法でお辞儀をしたりほほえんだりするしぐさは、激怒、不信、憂鬱を不可能にする。
理性と情念 68p〜
 「
理性は情念に対して何ひとつすることができない
 「
人間は長い間情念の苦しみに耐えてきた。その原因は人間のからだの動きにあり、だから適当な体操こそ治療法であることに気がつかなかったからだ
あくびの技術 70p
 
あくびは疲労の表れではない。深々とお腹に空気を送ることにより、注意と論争に専念している精神にひまを出すことである。
 こう見るとアランは体操の教師あるいは医師だろうと思うが、哲学を教え続けた教師である。
仕事の喜び 159p〜
 仕事の喜び、楽しみが述べられている。

ストア派への言及 178p
 ストア派の主張でアランがもっとも取り入れているのは、過去と未来をめぐる論議。過去も未来も意味を持たないというストア派の主張に全面的に賛成している。セネカの「人生の短さについて」を思い出す。
 他のところでは、必ずしもストア派を賞賛はしていない。
老人の長寿について 291p
 老人の長寿の一因は、彼らが死の恐怖から解放されていることにあるという。

他人の幸福 304p
 「
われわれが自分を愛する人たちのためになすことができる最善のことは、自分が幸福になることである。」
 これは至言だと思う。アランは社会変革への情熱を否定するわけではないが、他人の幸福を考えることより、まず自分が幸福になることだという。

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書名 幸福論 第一部 著者 ヒルティ、草間平作 訳 No
2002-37
発行所 岩波文庫 発行年 1935年第1刷、61年改版、2002年第85刷 読了年月日 2002−12−10 記入年月日 2002−12−12

ラッセル、アランに次ぐ幸福論。

 
これも実践的な幸福論であるが、キリスト教への信仰を中心におく点で、前二者とは趣が異なる。筆者はスイスで、生涯法律の専門家として、法曹関係、議員等として活躍した人。

 ストア派の哲学者エピクテトスを論じた1章がある。求める境地はストア派と共通するところがあるが、それにいたる道は違うという。ヒルティは信仰によって安寧と平静の境地へ達すべきであると説く。神の存在は理性では証明できない。存在の有無を論議する対象ではなく、信じるかどうかであり、信じることでのみ幸福への道が開けるという。

 平易で読みやすいが、聖書への参照が至る所に出てくる。その参照が例えば「マタイ伝3−2」と言ったようにしか出ていないので、異教徒にはわからない。もっともわからなくても推定はつく。聖書といっても新訳、旧訳双方からの引用だ。

 仕事が幸福の必須であると言うところは、いずれの幸福論にも共通するが、スイス人のヒルティはそれを強調する。そして、有閑の上流階級への痛烈な批判も随所に述べられる。漱石が「心」など後期作品で、何もしない高等遊民の悩みをテーマにしたのは、ヒルティの幸福論と同時代ではないかと思った。彼らの不幸は、ヒルティに言わせれば、仕事を持たないことから来る当然のことなのだろう。
 書かれた年代ではアランより先だ。

本書より
126p〜 成功論
 
成功というものは、総じて人間の悪い性質をさそいだし、不成功は良い性質を育てるものだ。これは平素、容易に認められることだ。
149p 最後 日記
 
だから、単なる自己観察と、すぐさま行動に出ない意図はすべて、きわめて危険である。とりわけ、日記をつけることもまた危険である。わたしは全文学史において、虚栄の汚点をとどめず、なおその上、しばしば道徳的な無力を示さないような日記を全然知らないのである。

201p 仕事
 ・・・
時間がありあまるほど無いということは、わらわれが地上で到達しうる幸福のもっとも重要な要素である、と。人間の幸福の最大部分は、たえず続けられる仕事と、これに基づく祝福とから成っている。(中略)ただし、われわれは仕事を自分の仕える偶像にしてはならない。むしろ仕事をもって、まことの神に仕えねばならない。このことを心にかけない人は皆、老年期になって、精神と肉体の錯乱におちいるのである。

227p 倫理的世界秩序への確信
 
幸福の第一の、絶対に欠くことのできない条件は、倫理的世界秩序に対する堅い信仰である。このような秩序なしに、世界はただ偶然によって、あるいは、弱者に対する取り扱いはほとんど残酷なまでに厳しい自然法則によって、支配され、または人間の策略と暴力によって動かされるものだとするならば、個人の幸福などはもはや問題にならない。
 ここにはダーウィニズムに対する否定が見られる。これは本書の各所に見られる考え方だ。ダーウィニズムが当時の知識人に如何に衝撃であったかが伺われる。また、これよりずっと後のモノーの著作「偶然と必然」も、こうしたキリスト教的世界観からすれば、衝撃的であったことがわかる。


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