読書ノート 2017


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書名 著者
幕末百話 篠田鉱造
たばこはそんなに悪いのか 喫煙文化研究会
たばこの日本史・七話 菊間敏夫
蒼き狼 井上靖
連句入門 東 明雅
優雅な生活が最高の復讐である カルヴィン・トムキンズ
日本の一文 30選 中村 明
家康研究の最前線 平野明夫 編
戦国と宗教 神田千里
歌仙の愉しみ 大岡信、岡野弘彦、丸谷才一
文明は〈見えない世界〉がつくる 松井孝典 
連句―理解・鑑賞・実作―  東明雅 他 
開創千二百年の遍路旅  渡辺恒男 
二つの声  松本清張 
旅する俳諧師ー芭蕉叢考二  深沢眞二 
伊勢物語  石田穣二  訳注 
大岡信詩集 大岡信
紀貫之  大岡信 
日本文化における時間と空間  加藤周一 
在原業平・小野小町  目崎徳衛
柿本人麻呂  中西進 
万葉のいぶき 犬養孝
大伴家持 山本健吉
日本文化をよむ  藤田正勝
365日季語手帳 夏井いつき
風流大名列伝  稲垣史生
古今和歌集  紀貫之編 佐伯梅友 校注
美しき、季節と日本語  夏井いつき
The Remains of the Day「日の残り」  カズオ・イシグロ 
万葉秀歌(上)  斎藤茂吉 
万葉秀歌(下)  斎藤茂吉 
俳句のはじまる場所  小澤實 
天為  津久井紀代
耳順  津久井紀代 
百人一句  髙橋睦郎
立志  津久井紀代 
北条政子 渡辺 保


書名 幕末百話 著者 篠田鉱造 No
2017-01
発行所 岩波文庫 発行年 1996年 読了年月日 2017-01-04 記入年月日 2017-01-04

 幕末から明治維新にかけての、体験談を色々な人から集めて、編んだもの。初出は明治38年。昭和4年に増補版が出て本書はその再版である。

 本書では『江戸社会史の研究』に見られる穏やかな社会とはまったく違う江戸が描かれる。幕末という激動の時代の反映だろうか。あるいは、維新後で旧体制への否定の意味で江戸時代の身分制や、無法ぶりのひどさを強調したのかも知れない。

 第1話がいきなり生涯に81人を切ったという、佐竹藩の江戸在勤の武士の話。ただ実際の殺人現場の話はなく、無銭で利用した風呂屋で料金支払いを求められた腹いせに、小塚原の刑場から死体を掘り出し、風呂屋の湯船にその手首を投げ入れたという話。この人物は、盲人を切った際に切り損ね、「お前の家にたたってやる」といわれ、それを苦に病気になりなくなったという。81人もの人を切っても武士ゆえにお咎めなしという信じられない話。

 第2話は尽忠隊として最後まで官軍に抵抗した幕臣の話。上野で敗れ、花売りに変装したりして、江戸を逃げ回り、函館へ行く榎本の船に乗ろうとして品川へ向かうところで捕縛された。しかし、「御即位につき脱走の者一切斬る事ならず」という太政官布告で一命を永らえた。

 17話は、文久の頃四谷の大通りで夜中に侍三人に難癖を付けられ、夜中に辻斬りされそうになり、どうやら逃げおおせ、どぶに身を隠して命拾いした人の話。

 27話は博徒一家と加賀藩お抱えの鳶職との喧嘩。上野の池の端辺りで大人数での喧嘩が起き、付近の商店はことごとく戸を閉じて息を潜めている。けが人も多数出た。町役人が奉行所に届け出て、奉行所は町役人に取り収めを命じ、苦労の末収まったという。こんな大規模な喧嘩でも公的な取り締まり対象とはしなかった。これは『江戸社会史の研究』にも強調されていたことだ。

 31話は国定忠治の妾の話。たいした豪傑女だったようだ。忠治が刑死した後、九品仏の坊さんの囲い者になり、そのご俳優の市川小団次の女房になったという。

 44話にも人を斬っても示談で済ませた例が載っている。1万石の大名の家中の若者の話。真面目で学問ばかりに打ち込んでいるのを心配し、気晴らしに芝居見物に連れて行った。「天竺徳兵衛」という狂言で、その中に、徳兵衛が母親を殺すシーンがある。それを見た孝行息子の若者は、預けてあった脇差しをひきだし、親を殺すとは何事かと、舞台上で徳兵衛役の役者に斬りかかった。役者はうまく難を逃れたが、止めに入った男が切られて死んだ。しかし、若者の親が新門辰五郎と知り合いだったので、100両で丸く収めたという。

 33話は南北奉行所の裁判の話。「
決して今人が想像するように無暗に人を死罪流罪にさせるようなものでない」と述べている。

 65話は2000人の死者を出したという文政丑年の大火とそれを題材にした百人一首の替え歌。百首全部にあるわけではないが、天智天皇の
呆れたな火事の騒ぎに皆先に我が子供らを連れて逃げ行く
から始まり順徳天皇の
股引や古き頭巾で焼出され御救ひ小屋の有難き身を
で終わっている。

 73話は将軍へ献上する松茸の話。上州仁田太田の金山がその松茸山。採れることになると、普段は遊ぶ場所であったその山が一切入山禁止になる。採れた松茸は厳重に封印され、一昼夜のうちに江戸城まで運ぶ。そのためには宿場宿場で人足が引き継いで走る。熊谷近くの村のある百姓がその人足に徴用された。彼はキセルをくわえてたばこをのんでいるところに松茸が来た。キセルをしまうひまもなく松茸に入った荷を担いだ。その際、キセルを荷に刺した。それをすっかり忘れて荷は次々に搬送された。宿場では「御封印手擦無之」という文字だけを注意して見ていてキセルがはさまっていることは見逃してしまった。お城に着いてからキセルが発見された。その後詮議が行われ、それを知ったくだんの百姓は恐ろしくなり逐電し、最後は箱根で首を吊って死んでしまった。徳川封建制の悲惨なエピソードとして、こうした百姓泣かせが多かったと記す。

 街道にまつわる話では、将軍へ献上する宇治茶用の茶壺をもって東海道を下った茶坊主の話。行く先々の宿で歓待を受ける。虎の威ならぬ茶壺の威を借りたと、語り手が話す22話。この話では、薩?峠は文久年間の将軍上洛の際、峠ではなく下の道を通って以来、下の道になったと記す。75話は日光例幣使の事で、威張り散らして道道に貢ぎ物を強要し、人々を困らせた。この話の最後は例幣使のことを「
一名小判喰虫とでも申したい。こうした不都合がマアいくらあったか知れやしません」と結んでいる。

 86話は最後まで抵抗した幕臣の話。つかまって牢に入れられ、その後出獄する。彼が当時の人物として評価したのは、勝海舟。「しかしつかまえどころにない人物だった」と海舟を評している。その他、桶川で岩倉具視を刺そうとして事ならなかった岩佐源一という人物。さらに下総野田の亀甲万の家元の茂木七郎左衛門先代をあげている。「キッコーマン」というブランドは当時からあったのだ。当時(明治時代)は「亀甲角」といったようだ。茂木は義侠家でよく世話をしてくれたという。

 本書には「今戸の寮」という作品も載っている。今戸は江戸時代は大名や有力町人の別荘地、保養地であった。そこの寮(多分別荘と料亭を合わせたようなもの)で、奉公をしていた若い女性の話を、その姪が聞き取り、篠田に話して、実地検証などをして篠田がまとめたもの。昭和になって作られた。明治初めの隅田川沿いの風物、人々の生活振りが伺われて、面白い作品。永井荷風の作品を読むような雰囲気がある。この寮の持ち主は、三谷という豪商であったが、次第に没落してしまう。話の中心は三谷家が華やかだった頃の生活。山縣有朋や木戸孝允などもこの寮を利用したことが記される。また、当時は氷水を飲むにも、用心して前もってかかりつけの医者に脈をとってもらってから飲んだという話などもある(p283)。

 全編を通して、時代小説の題材になりそうな話が多い。

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書名 たばこはそんなに悪いのか 著者 喫煙文化研究会 No
2017-02
発行所 ワック株式会社 発行年 2016年12月 読了年月日 2017-01-14 記入年月日 2017-01-16

 元の職場の先輩から送られてきた。くだけたタイトルからは想像したのとは違って、丁寧に、理性的に書かれたたばこ擁護論。あるいは喫煙を通してみた現代社会とその根底にある西欧近代科学への批判と言った方が良いかもしれない。出典が明示された多数の文献を引用した高度な内容と深い洞察に富む一書。理系人間として自身に思い当たることもあり、また、教えられることもあった。

「観察の論理負荷性」(p38)は、科学者の観察は無我無心に物事を見ているのではなく、自分が積み重ねてきた知識経験の下で事象を観察しているいうこと。これは私の経験からも同意できる.疫学にもそれはあてはまるだろう。

「実験科学は因果関係を証明することができない」という東大大学院の池谷裕二教授の言葉が引用されている(p48)。因果関係は私たちの心に中に存在する。つまり、脳がそう解釈しているだけで、因果とは脳の錯覚なのだという。ショッキングな言い方だが、厳密にはそうなのだろう。

「相当因果関係」(p50):初めて聞く言葉。法律用語。想定した原因ー結果に強い相関関係が見られたようなとき、疑わしきは罰するという予防原則から、そこに因果律を見てもよいという考え方。本書は「相当因果関係」を肯定するが、疫学研究はそれを満たしていないという。これが本書の基本的立場。

「世の中、厳密に考えれば因果律なんてないんだよ。人間万事塞翁が馬」と構えている方がストレスがなく、よほど気楽に生きられそうなのですが・・・」と本書はいう(p50)。私も同感である。酒もたばこも今もって嗜み、やめようと思ったことはない。

 喫煙を巡る問題では、最近は受動喫煙の問題が大きい。かつて、受動喫煙の健康影響に関する疫学論文を、いくつか読んだことがあるが、一般にいわれるほど健康への影響はないと感じた。むしろ、臭いの問題が大きい。大勢の人の集まるところでは分煙が必要だ。

「脳のエントロピー」という言葉:
現代人の仕事は脳を使うというより、脳(大脳皮質)しか使わない人がほとんどではないでしょうか。身体・感覚器官をあまり使わず、脳ばかり使っていると、脳のエントロピーは次第に平衡状態に陥り、詰まってしまいます。おまけに身体・感覚器官から情報の入らない「旧脳」は面白くないでしょう。こういう状態はイライラしたり仕事の能率が落ちるときで、外部・環境とつながる身体・感覚(五感)を通じて脳を開放系と連結しエントロピーを下げてやれば、脳は再び活性化します。この時、一連の喫煙行動は五感を通じて脳のエントロピーを下げるエネルギーとなり、脳をリフレッシュ(賦活)するのです。(p220)
 
喫煙の効用の一つをこのように述べている。

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書名 たばこの日本史・七話 著者 菊間敏夫 No
2017-03
発行所 文藝春秋社 発行年 2016年12月 読了年月日 2017-01-21 記入年月日 2017-02-17

 著者が理事長を務めた、たばこ総合研究センターより送呈された。著者は私の元の職場の先輩。サブタイトルは「伝来から専売制度の終焉まで」。
 10数枚のカラーの口絵写真を初め、写真や図版が随所に挿入されていて、かなり手のかかった本。日本におけるたばこと社会の関連が簡潔にまとめられている。

序   マヤから世界へ
第1話 喫煙風習の伝来と普及
第2話 たばこの種子の伝来
第3話 きせるの謎
第4話 たばこの百科全書『?録』と大槻玄沢の蘭学研究
第5話 安政の5カ国条約
第6話 明治時代のたばこ産業史
第7話 日米たばこ交渉と専売制度の終焉

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書名 蒼き狼 著者 井上靖 No
2017-04
発行所 文藝春秋社 発行年 昭和35年 読了年月日 2017-02-06 記入年月日 2017-02-07

 1月下旬に伊豆の天城にある井上靖の生家に行く機会があった。自伝的作品『しろばんば』の舞台になった所だという。読んだことのない小説だったので、図書館に行ったが、あいにく貸し出し中だった。それで代わりに本書を借りてきた。

 成吉思汗の生誕から死までの生涯を描いた作品。
 鉄木真はモンゴルの有力な氏族、ボルギジン族の長の長男として生まれる。ボルギジン族の祖先は蒼き狼と白い雌鹿が交わって生まれたと語り継がれてきた。幼い頃よりその伝説を耳にしてきた鉄木真はやがて自分も蒼い狼になって蒙古族の盟主になるのだと誓う。しかし、鉄木真には自分の血に一つの疑問を持っていた。母のホエルンが一時メルキト族に拉致されていた。こうした部族間の女の奪い合いはしばしばあった。ホエルンはボルギジン族によって奪い返されるが、鉄木真が生まれたのはその後だ。自分は本当に父エスガイの子であろうか。もしメルキトの男の血を引いているなら、自分は蒼い狼の血を引いていない。自分が蒼い狼の末裔であることを証明するには、自らが蒼い狼にふさわしい行動をとるしかないと考える。敵対するものはすべて食い尽くす。それが蒼き狼たらんとする彼の生涯を貫く行動原理であった。

 宿敵タタルに殺されたエスガイの後を継いだ鉄木真は、敵対するタイチュウトを滅ぼし、メルキト族を殲滅し、ボルギジンを蒙古の三大部族の一つまで大きくする。そして、残りの二つの部族も鉄木真により滅ぼされ、鉄木真は蒙古の王、成吉思汗となる。

 蒙古を統一した成吉思汗は、宿敵タタル族の後ろでなにかと糸を引く金の国へ矛先を向ける。そして、万里の長城を越えて金国になだれ込む。一旦引き上げた成吉思汗は、今度は西域にある西夏の国に攻め入り、そこから金国に向かう。

 成吉思汗はさらに西方の豊かな文物を求め、ホラズムを攻めて滅ぼす。降伏する城砦や都市では財宝は奪っても殺戮は行わない。しかし、反抗した都市は、男は皆殺しにし、女は兵士に与えるというのが、成吉思汗の原則であった。西域のサマルカンドは反抗したために、灰燼に帰された。成吉思汗の部下の2人の将は二手に分かれ、一方は黒海沿岸からブルガリアまで、一方はロシアへと侵攻している。

 全編を通して、個々の細かい戦闘の場面はほとんど描かれていない。大まかな作選と戦闘の経緯とその結果が、簡潔に述べられている。成吉思汗の命令は絶対であり、それに口をはさむことは許されない。背けば即刻処刑される。冷酷ではあるが無慈悲な人間としては描かれていない。軍事的才能と人心統率力に優れた人物という印象が強い。

 彼の長子、ジュチの出生についても、成吉思汗は本当に自分の子であるかどうかの疑いを持つ。妻ボルテがやはり母ホエルンと同じような略奪と奪還という体験をしているからだ。成吉思汗はジュチの三人の弟たちとは違った感情をジュチに抱く。成吉思汗は、ジュチが蒼き狼の血を引いているかどうかは、自らの行動によって示すしかないと考え、特別に厳しい任務を与える。ジュチはそれを見事のこなして行く。だが、成吉思汗が自らの後継者に指名したのは、ジュチではなく、三男のエゲディであった。

 自分の死期の近いことを知った成吉思汗は、遠征先の各将軍に帰還を命じるが、ジュチだけは帰還しなかった。成吉思汗は激怒し、ジュチ討伐の遠征軍を出発させる。相前後してようやく届いたジュチからの使者はジュチの死を知らせた。カスピ海の北の平原で、3年間病床にあった末ジュチはなくなったのだ。それを知った成吉思汗は、遠征の際もつねに行動を共にした愛妃、忽蘭の死の際も自らに禁じていた悲嘆を、禁じることができなかった。一人部屋に籠もって老いた顔を涙で濡らす。自分と同じように略奪された母の胎内に生まれ、自らの力で蒼き狼であることを証明せねばならなかったジュチこそ、他の誰よりも愛していたことを知る。

 モンゴル帝国の最大版図は成吉思汗の時代ではない。圧倒的な騎馬軍団で黒海沿岸まで征服したが、中国では未だ金国も宗も王朝は滅んではいなかった。

 成吉思汗は1228年、西夏を通って金国に進入すべしと言う最後の作戦を命じた後に亡くなる、と本書にはあるが、歴史書は1227年、西夏遠征中であったとしている。

 成吉思汗は広大な地域を侵略し、略奪したが、その地域を統治したとは言えない。彼の目的は支配や統治ではなく、侵略し、略奪し、あるいは殲滅すること自体にあったように思われる。井上靖は成吉思汗の行動の鍵を彼の出生の秘密に求めている。
 
 昭和34年から35年にかけて「文藝春秋」連載。

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書名 連句入門 著者 東 明雅 No
2017-05
発行所 中公新書 発行年 1978年 読了年月日 2017-02-08 記入年月日 2017-02ー19

 オリーブ句会のメンバー3人を誘って連句を始めた。句のやりとりはメールを介して行う。3人とも二つ返事で応じてきた。細かいルールはあとまわしにして、以前読んだ『連句の教室』の中の和光連句の一つから、最初の6句を例としてあげ、それにならって、とりあえずは作って見ようという気楽な連句の座だ。8句まで行ったところで、大学クラスメートの能勢さんに送って、コメントを求めた。多分なんだこれはと思ったことだろうが、そこは抑えて、参考書としてこの本をあげてきた。能勢さんの連句の細かい式目は本書によっているとのことだった。

 もう40年も前に出た本で、アマゾン経由で古本しか手に入らなかった。サブタイトルは「芭蕉の俳諧に即して」。連句の細かいルールが懇切な説明もさることながら、わびさびとは違う、濃艶な詩人としての芭蕉が特に強調されている。特に連句における芭蕉の恋の句のすばらしさには定評があるという。彼の発句ばかり読んでいたのでは、こうした芭蕉の一面を見逃すという。61ページ以下には恋の句の上品なものと下世話な物とがそれぞれ5句あげられている。

上品の例
あの月も恋ゆゑにこそ悲しけれ   翠桃
 露とも消ね胸のいたきに     芭蕉
下世話の例
 遊女四五人田舎わたらひ     曽良
落書に恋しき君が名も有て     芭蕉

 恋の句を欠く連歌や連句は「半端物」とされるとは前の『連句の教室』にもあったが、本書も恋の句については説明が詳しい。『去来抄』の一節を引いて芭蕉の恋の句に対する考えを述べている。:
連歌では恋の句は2句以上5句ということが、勅宣によって決められたという。しかし、恋の句につけるのが難しいときは一句で捨ててよい。勅宣で決まったことをかれこれいうのは恐れ多いが、それは連歌のことで、俳諧についてではないのだから、勅に背くわけでもない。付けがたい句に無理に付けると句が重くなる。私がこういうのも句の運びがスムースに行き、恋の句がたびたび出てきて欲しいからだ

 連句(本書では俳諧と表現されている)の文学性を次の4点にあるとする(p13)
(1)一句一句の独自のおもしろさ
(2)前句と付句との間に生まれる付味のおもしろさ
(3)三句転じのおもしろさ
(4)一巻全体の構成とその変化・調和のおもしろさ

 各項目について芭蕉の作品をあげて説明されている。
(1)の例句は 浮世の果ては皆小町なり  芭蕉

『猿蓑』に出てくる句である。「
女の一生、若盛りには色恋に浮身をやつすが、そのあげくは、皆小野小町のように老い衰えて死んでゆくものだ、という意である。すべての女性の避けられぬ運命のあわれさ・かなしさをこれほど簡潔に、これほど美しく謳った詩があろうか。このような句を創り、鑑賞する。そのことが俳諧の楽しみの一つであり、文学性の一つである。

 本書に詳述されている連句のルールは『連句の教室』に現代的な例句をもって概略が説明されている。こんな細かい規則はとても覚えきれないし、従っていたらいつまでたっても歌仙が巻けない。こんなところに連句が廃れた原因があるのだろう。私のオリーブ連句では、打越の句と同種にならない、月と花の定座は守る、恋の句を入れる、季節の連続句数と同じ季節の句の間隔は守るというのを基本として進めようと思う。

 後半は『冬の日』の中の歌仙『狂句こがらしの』の巻を取り上げ、逐次鑑賞する。これは芭蕉が『野ざらし紀行』の旅で名古屋の連衆と巻いた歌仙である。当時の芭蕉は「
十分な名声とそれに伴う自信、そして地方俳壇開拓の野心と実力とを持っていた」と著者はいう(p141)。芭蕉を迎えて名古屋の連衆も、当然、芭蕉へ対抗心があった。だから、この歌仙はお互いの緊張感がぶつかり合って重いが、蕉風開眼の作品として広く愛されているという。その魅力は全体に流れる強烈な風狂の精神と昂揚されたロマンチシズムの香りであるという。
 著者はいう: 
私はこの『冬の日』を、天和二年に出版された『好色一代男』とともに、近世期の生んだ最高の青春文学であると思う。(p215)。

「狂句こがらしの」の表6句
狂句こがらしの身は竹斎に似たる哉    芭蕉
 たそやとばしるかさの山茶花      野水
有明の主水(もんど)に酒屋つくらせて  荷兮
 かしらの露をふるふあかむま      重五
朝鮮のほそりす々きのにほひなき     杜国
 日のちりちりに野に米を刈       正平

 発句の「狂句」は前書きだという説があり、幸田露伴もその説。著者は前書きではなく、これは句の一部だとする。当時の芭蕉は破調をいとわなかったという。「竹斎」は当時のベストセラーの仮名草紙の主人公。藪医者で失敗の度に狂句を詠んでいた。4句「あかむま」は赤馬のこと。

 言葉の意味がわかっても、その句が前句とどのようについているのか、理解出来ない。蕉門の句は「心つけ」、特に前句の醸す余情につける「余情つけ」が多いとされる。著者は一句一句に懇切な解説をつけ、連句のルールを実地に説明する。例えば6句目までには発句は別として、人名・地名を出さないのが原則。この歌仙では4句目に「主水」5句目に「朝鮮」が出ている。著者はなぜ敢えて禁を破ったかについて、詳細に持論を展開し、背後には連衆の間の微妙な葛藤があると推察している。

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書名 優雅な生活が最高の復讐である 著者 カルヴィン・トムキンズ、青山南訳 No
2017-06
発行所 新潮文庫 発行年 平成16年 読了年月日 2017-02-24 記入年月日 2017-03-04

 原題は「Living Well is the Best Revenge」。「贅沢は最高の復讐である」とはかつてどこかで目にした言葉。私自身、この言葉に共感を持ったから覚えていたのだ。先月のエッセイ教室のテーマが「贅沢」であり、この言葉のことを思いだした。調べてみると、スペインのことわざとのこと。一般的には「贅沢」ではなくて表題のように「優雅な生活」と訳される。このことわざ自体を表題にした作品があることを知り読んでみた。

 フィクションではなく、アメリカの画家、ジェラルド・マーフィとその妻セーラー夫妻の生涯を描いたノンフィクション。主に描かれているのは1920年代のフランスでの優雅な生活。それは後にフィッツジェラルドの『夜はやさし』のモデルになった。私はジェラルド・マーフィという名前は初めて聞く。そもそも画家といっても金持ちの余技。生涯に残した絵は15枚、そのうち現存は10点。本書の最後の方にマーフィーの作品が写真入りで解説されている。その一つ、時計の内部を細密に書いた「時計」と言う作品を見たとき、なにかの本で見たような気がした。

 ジェラルド・マーフィーはニューヨークで馬具製造店を経営する商人の家に生まれた。彼には父の商売を継ぐ気はなかった。大学を出た後、結婚し、ボストンで環境工学を学んだ。そして、第一次大戦後、多くのアメリカ人と同じようにヨーロッパに渡った。本書では、子供もいるが、パリで生活するの金は十分にあったという。本書を通じて不思議なのは、馬具製造商くらいで、そんな金に恵まれたと言うこと。

 フィッツジェラルド夫妻との交友はもちろんだが、ピカソ、ヘミングウエイ.ポール・コーター他、当時のパリにたむろした著名芸術家と親しく付き合う。夫妻は南仏アンティーブに移り住む。豪華な船を所有し地中海クルーズを楽しむ。そこにもパリから多くの芸術家が訪れる。母親を連れて訪れたピカソが海岸でピクニックの食事をしている写真とか、水着姿のピカソがセーラーと手を組んでいる写真が添えられる。彼ら夫妻は単なる金持ちではなく、趣味がよく、客を楽しませるための努力を惜しまなかった。

 マーフィーはフィッツジェラルドにこう話している:『
人生のじぶんでこしらえた部分、非現実的なところだけが好きなんだ。ぼくらにはいろんなことが起きる―病気とか誕生とか……』。そうしたことは無視するのかと問いかけるフィッツジェラルドにマーフィーは答える。『無視はしないが、過大視したくない.大事なのは、なにをするかではなくて、なにに心を傾けるかだとおもっているから、人生のじぶんでつくりあげた部分しか、ぼくには意味がないんだよ。』(p192)(この部分漢字が少ないのは話し言葉であるからか)

 マーフィー夫妻は1929年の大恐慌の後、1933年、ヨーロッパを後にする。その後、二人の息子を相次いで病気で失う。ジェラルドは、父の死後傾いた事業の再建に力を尽くし、見事に再建する。

 彼らは何に対して復讐したのだろうか。フランス時代ほどではないにしても、アメリカに帰ってからもいくぶんは小さくなった環境で優雅な生活を送った。そうした中で、二人の若い息子を相次いで失ったり、あるいは彼の性には合わない事業の再建に夢遊病者のように働いたという現実の人生に対する復讐なのだろうか。「優雅な生活が最高の復讐である」というのはマーフィー自身が見つけてきた言葉だと、著者は言う。

 マーフィーの絵画については、「
ピカソやレジェやその他パリ派のモダニストたちにたいするジェラルドのアメリカ的な反応は、リアリズムと抽象の中間に位置するスタイルを生みだし、ありふれた事物を大胆に、壮大な商業広告的スケールで描き出すものになっている。」と述べている。それは1960年代に出現したポップアートの魅力的な先駆者であったという。

 原著の出版は1974年
 緑図書館より

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書名 日本の一文 30選 著者 中村 明 No
2017-07
発行所 岩波新書 発行年 2016年9月 読了年月日 2017-03-13 記入年月日 2017-03-29

 エッセイや俳句の表現が豊になるかと思い、アマゾンで見つけて入手した。

 朝日新聞に連載されたものをもとに書き下したという。30人の作家の作品の中から一文を取り上げ、それをもとに味わい深い文章とはどんなものであるかを述べる。ずっと以前、著者が出版社の企画で作家作家を訪問した際の様子なども織り交ぜて述べられている。文章教室だが、堅苦しくはない。

 第1章「この人この文」では小林秀雄が取り上げられ、その独特の文体が論じられる。引用した文も論理的には一読分かりにくい文だ。それが小林秀雄の文体というか、彼の文学の本質だという。「
分析している間は論理」であって、「そこへ感情が入って来ない」。「そういう分析的な論理じゃどうしても言い表せないものが、まずなきゃ、批評の文章はできない」という小林の言を載せている(p4)。
 第2章「たった一言の威力」では、庄司薫の「
猛烈な沈黙」とか、幸田文の「鏡の余白は憎いほど秋の水色に澄んでいる」などが例示される。

第3章は「風景、人、心、そして時間」。描写の手法が述べられる。志賀直哉、尾崎一雄、吉行淳之介、小川洋子、坂口安吾などの作品から引用される。坂口安吾は『桜の森の満開の下』の最後の部分が引用されている。そこには接続詞が省かれている。「
接続詞は、表現する人間が、その両者の関係をどうとらえるかという、自分の考え方を表明する働きをしている」ので、「むしろ主観的な面が強い」とし、この小説の最後、「いっしょに暮らしてきた女を自分の手で殺してしまったのではないかと、現場であわてふためいている渦中の男に、自分の行為の全体像を組み立てる、そんな余裕はない」と著者は言う。(p55)
 言われてみると、接続詞は書き手の主観を反映している。

 なお、p48には意表をつく一句として室生犀星の「
わらんべの洟も若葉を映しけり」が紹介されている。

 第5章「順序と反復のテクニック」には里見弴の『椿』の一分が引用されている。「
可笑しくって、可笑しくって、思えば思えば可笑しくって、どうにもならなく可笑しかった・・・」。著者は言う:文学作品が読む者に静かな感動を与えるのは、けっして情報というような痩せ細った概念のせいではない。表現の言語的なあり方が読者の感性に訴えるからである。ここでは、息苦しいまでの反復リズムを実現した表現の形が、そのまま、肉体的な反復でる現実の〈笑い〉を模写したかのように、その場の雰囲気を読者にほとんど生理的に伝えてくるように思われる。(p90)

 第9章「開閉の妙」では、藤沢周平の作品の解説の中で、吉行淳之介とのインタビューを紹介している。「
短編で一番いけないのは、ストンと」「オチがついて終わるもの」で、それは作者の「衰弱」だとまで言った。自身は「そこを警戒しつつ、一回ギュッと締めて、パッと広がして終わらすということを心がける」という。「曖昧にぼかしてはいけない」、「終わってギュッと締めて、フワッと放してふくらます感じ出す」のがコツらしい。・・中略・・「わざと終わりを削って曖昧にして効果を出」そうとするのは、「邪道」だと締めくくった。(p163)。吉行のいうこの終わり方の一例として著者は夏目漱石の『硝子戸の中』をあげている。

 第10章「文は人なり」には永井龍男の『蚊帳』の一文が引用:
みんな寝静まった真夜中に、闇の底がほんのり明るんで、また暗くなる。
 著者は一度は小説に手を染めたらしい先輩の俳人から、永井龍男の作品を読む前に自分の作品を書くことを薦められたという。その描写のうまさに舌を巻き、自信を失うからだという(p171)。

 芥川の作品には「AがBする」とせずに「AのBする」とする、主格の「が」にかわって「の」が多いという著者の指摘に、永井も同意し「が」が強く響きすぎるので、彼自身も「の」にすることがしばしばあるという。(p175)。俳句においてもこの傾向は特に顕著だ。

 谷崎潤一郞、夏目漱石、志賀直哉、川端康成らに混じって30人の中に、村上春樹もとりあげられているが、三島由紀夫、大江健三郎は載っていない。

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書名 家康研究の最前線 著者 No
2017-08
発行所 洋泉社 発行年 2016年11月 読了年月日 2017-03-20 記入年月日 2017-03-29

 今年のNHK大河ドラマは「女城主直虎」で、関ヶ原の合戦で名をはせた井伊直政の育ての人物が主人公。家康に関しては、秀吉亡き後の五大老筆頭から、関ヶ原、大阪の陣へと続く時期のことについては割合よく知っている.それに比べて、若いころの家康に関しては、私はほとんど知らない。そんなわけで、本書に興味を覚えた。

 日本史史料研究会監修とある本書は、13人の専門家による執筆で、各章ごとに引用文献が示されているが、2016年の文献まで引用された最新の家康研究である。カバーで徳川史観を取り除くことを第一義としたと宣言しているように、従来の家康像に色々な方面から違う見解を提示している。

 家康は幕府を開くに当たって、自らを新田義貞の末裔だとし、足利幕府に替わる正当性の根拠とした。これは『太平記六』の解説の出ていたことだ。本書ではそれをはっきりと否定することから、徳川史観を打破してゆく。家康の祖先の姓は賀茂氏であり、土木技術集団の統領であったと本書は言う。(p31)。17世紀半ばに徳川家の起源である松平郷(現在の豊田市)でまとめられた「松平氏由緒書」によれば、初代徳翁を聟に迎え入れた松平太郎左衛門尉信茂は。一族が信仰する「不思議の井戸」の神の生まれ変わりで、たいそう裕福な暮らしぶりで「十二人の下人」を従えて、あちこちの出向き道や橋を造るのに従事していたと記されている(p24)。井伊も発祥が井戸とされ、今年の大河ドラマでも、何かにつけてその井戸が出てくる。浜松市の井伊谷にはその井戸がきちんと保存されており、井伊直弼の歌碑が建っているのを昨秋見て来た。徳川の祖先と同じように井戸の神の生まれ変わりというのが面白い。

 家康は天文11年12月26日(1543年1月31日)生まれ。父は松平広忠で岡崎城主であった。広忠の近親者が織田方と通じ織田方の圧力が強まり、広忠は今川義元に援軍を求めた。義元は人質を求め、広忠は人質として今川氏のもとへ送られた。だが、本書では、家康一行は田原城に着いた際、城主の戸田康光の裏切りにあい、家康は終わりの織田信秀のもとへ送られたとする。家康の父広忠が家臣の謀反により殺害されると、今川は織田信秀の籠もる安城城を攻め落とし、信秀の庶長子である信広を捕らえた。そして信広を家康と人質交換した。ただ、家康は吉田(現豊橋)にいて、駿府に移るのは元服が契機であったとする。元服を境に家康は人質から従属する領主へと転換したという。義元が桶狭間で敗れるまで、家康は駿府に住んだ。その桶狭間の戦いには家康は巻き込まれなかった。そのことにより戦力を温存でき、次の行動をすぐの起こせた原因であり、桶狭間の戦いにより、家康は今川から離脱できた。(p60)。

 義元の後を継いだ今川氏真は家康と敵対関係になり、居城の掛川城を家康に明け渡し、相模の北条のもとに敗走し、今川氏は滅亡する。その後武田と北条の同盟が成立し、氏真は北条を去り、家康の下に向かう。織田信長の面前で、蹴鞠を披露したり、牧ノ原台地にある諏訪原城に入城し、1年近く在城した。関ヶ原合戦後は家康から滋賀県野洲市に500石を与えられ、慶長19年に77歳でなくなっている。滅亡した大名の末路としては意外な末路だ。東海道歩きで金谷の西、牧ノ原を通ったとき、諏訪原城趾があった.武田が築城したと説明坂にあった。武田が退いた後、家康が氏真を入れた。本書では、武田への名分を保つために家康は氏真を手元に置いた。そして、武田の髙天神城を攻めるために、氏真を最前線から退かせたのだろうと推測する。氏真が諏訪原城を出た5ヶ月後に、家康は髙天神城を攻めた。氏真を凡庸、暗愚で戦いもしなかった領主と見るのは江戸時代に作られたもので、そうした氏真像は見直されるべきだと著者は言う。

 秀吉により滅ぼされた北条の末路も述べられている。小田原落城とともに4代目の北条氏政は切腹させられるが、5代目の氏直は高野山に追放となる。家康らの赦免活動により許され、秀吉の旗本となるが、間もなく病死する。氏直には子がいなかったので、氏直の叔父の氏規が北条家を継ぎ、さらのその子氏盛は徳川方として関ヶ原合戦に参加し、その子孫は河内国狭山藩主として幕末まで続いたという.これも意外であった。

 井伊について:北条氏が滅んだ後、関東に領地替えとなった家康は、一門・譜代の42名に1万石以上の知行地をあてがった。領国の周辺部には有力な譜代を配置した。井伊直政12万石は現在の高崎市、本田忠勝は千葉県夷隅郡大喜多に10万石、榊原康政は館林に10万石。これは、秀吉の意思による秀吉の東国支配の一環であるという。徳川三傑とよばれるこの三人は、秀吉との関係により徳川家臣団の中での地位を高めていった。(p92)

 以上は本書のごく一部。NHK大河ドラマ「女城主直虎」は、徳川が今川から独立し、井伊の当主で直政の父、直親が今川に謀殺されたところまで進んでいる。上には現在までの大河ドラマと関係するところを取り上げたが、それ以外にたくさんの事項が記されていて、ドラマの進行に合わせて読みなおしてみると面白いだろう。

 4月1日、コンピュータソフトbonanzaと佐藤名人による電王戦が行われた。対局場は日光東照宮に特設された。ニコ生放送でライブ中継された。始まってしばらくして、東照宮の宮司が登場し、東照宮の由来を説明した。家康公の死去1年後に遺言により日光に遺体が葬られたと語った。本書によれば、家康は遺体は久能山に埋葬し、1周忌過ぎたら日光に小さな堂を立てて、久能山から勧請して、関八州の鎮守となる、というのが遺言であって、日光への埋葬は家康の遺言、意思ではなかったとしている(p286)。東照宮の宮司さんからして、家康を正しくは理解していないことが判明した。

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書名 戦国と宗教 著者 神田千里 No
2017-09
発行所 岩波新書 発行年 2016年9月 読了年月日 2017-03-31 記入年月日 2017-04-01

 帯には「戦国は信仰の時代だった!」と縦書きであり、さらに横書きで、「謙信・信玄の神頼み、信長と宗教者たち、キリシタン大名の登場」とある。

 読み終わって、帯の通り戦国時代は人々が信仰に頼っていたと感じる。

「はじめに」に本書の言わんとするところが要約されている:
・・どの国の戦国大名も、他国の大名や武士との、あるいは国内の敵対者との戦いに際して神仏に戦勝祈願を行っていた。当時の人々は、戦さの勝敗が単に武器・人員・兵粮などの装備や戦略の巧拙、つまり軍事力で決まるのではなく、人間の力を超えた摂理によると考えていたからである。大群が小勢にまさかの敗北を喫するような場面を知りぬいていた彼らの実感であったかもしれない。神仏の意に叶うには道徳に適った行為や篤信が必要だと思われていた。
 事情は大名以外の民衆でも同じであった。・・・一般に民衆の闘争とされている一向一揆は、本願寺教団に属する武士たちが主力となっていたが、その本願寺を頂点とする教団を支えたのは一般民衆の篤い信仰であり、本山を崇める心性であった。新たに日本に入ってきたキリスト教も、信者の信仰のあり方は、在来のものと共通する点が少なくない.中略 キリスト教流入により生まれたとされるキリシタン大名もまた、・・・一般の戦国大名と同じ事情のもとで信仰に入ったのである。
 こと宗教や信仰という面については、秩序の不安定な激動の時代にも、階層や地域、また宗派を問わない共通の傾向が見られる。その要因の一つに、この時代の日本列島に住む人々が、・・・「天道」と呼ばれる観念から大きな影響をうけていたことが考えられる。その意味では戦国大名の戦勝祈願も、庶民の本山信仰も、ヨーロッパから来たキリシタン信仰も、ひっくるめて「天道」の信仰世界のできごととみることもできよう。


 本書も従来の歴史の味方に疑問を呈し、新しい観点を提供するもので、読み応えがある。
例えば、合理的な無神論者としてイメージがかたまっている信長も、各種の戦いの前には神仏への祈願を依頼していることを、寺社に当てた信長の礼状から示している。民衆の反権力闘争的側面が強調されてきた一向一揆も、真宗内における宗派の争いに端を発したもの(加賀一向一揆)や、本願寺が従来から幕府や有力大名に結びついていことによるという。石山本願寺合戦は本願寺が反信長勢力と結びついていたことが原因である。

 特に興味深かったのは「天道(てんとう)」信仰が当時の人々に浸透していて、それがキリスト教受け入れの底流にあったという指摘。戦国大名が容易にキリシタンに改宗したことを不思議に思っていたが、本書でその理由の一端がわかった。

 1603年刊行の『日葡辞書』には天道が載っている:
天道 Tento:天の道、または〈天の〉秩序と摂理。以前はこの語で我々はデウスを呼ぶのが普通であった。(p151)

 著者は北条早雲著とされる『早雲寺殿廿一箇条』に述べられた「天道」から以下の点を注目している。(p153~)
 1.人間の運命を有無を言わさず決定する摂理。2.仏意・冥慮に適う、神明の加護があるなど神仏と等価のもの。3.目上を敬い目下を慈しめ、正直であれなど世俗道徳の実践を促すもの。4.祈祷などの外面の行為よりも内面の倫理こそが天道に通じる道。

 
中世の日本人は、自らの信仰は個々の内面の問題で、他者へ表明するものではないと考えていたようである。(p165)

 こうした考えが、ヨーロッパキリスト教の異端狩りの様な発想が生じなかった背景である。江戸時代にはキリスト教徒日蓮宗不受不布施派に対する組織的禁圧が行われるようになった。この二つの宗派はいずれも他の宗旨の否定・断罪を旨としていたと著者は言う。(p167)

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書名 歌仙の愉しみ 著者 大岡信、岡野弘彦、丸谷才一 No
2017-10
発行所 岩波新書 発行年 2008年 読了年月日 2017-04-08 記入年月日 2017-04-19

「読み出したら止まらない これぞ俳諧の醍醐味!」とある。その通りだった。

 丸谷才一は序言でいう:
四十ねんもつづけたあげくしみじみ思ふのは、この遊びをはじめた人は天才だといふことですね。囲碁将棋や麻雀の発明者も偉いけれど、こつちもそれに劣らない。

 詩人、歌人、小説家の3人の連衆が巻いた8巻の歌仙の1句1句につき、付けどころ、狙い、意味が作者自身により語られる。3人の持つ深い教養が、やわらかな、ユーモアに満ちた語りに載せてあふれ出てくる。何よりも楽しいのは3人が連句作りの場を心から愉しんでいること。まさに歌仙の愉しみである。

 私も今年から連句をはじめて、先月1巻を巻き終えたところである。連句の規則もよく知らずに始めたが、俳句とは違ったくだけた句作りが楽しかった。連衆は俳句仲間だが、俳句では見られない、各人の思わぬところが発揮される点も面白かった。メンバーを増やして、目下2巻目に入っている。2巻目は連句の式目にもっと忠実に従って進めている。

 連句で一番大切にしているのは詩情、文学性、文学としておもしろさだとして、そのためには官僚的な式目からはずれることもあるとはいいながら、基本的には式目に忠実である。随所に連句の式目への言及があり、それが参考になる。

「海月の巻」の発句は「
舟に沿ひ泳ぐ海月は美しき  信」である。この句を丸谷才一は賞めていう:この発句、いかにも大岡信らしい句ですね。幸福感を伸び伸びと歌うというのがこの詩人の特色で、そういうことはなかなかみんなできない。
 本書を読んでいるとき、大岡信の死去のニュースが流れた。4月5日、86歳。私は『折々の歌』以外に大岡信の書いたものを読んでいない。大岡は丸谷のいうような詩人であったのだ。

「海月の巻」の後半の恋の句前後:

夏痩せの身をいまさらに厭われて    乙

 丸谷才一は、これを恋呼びというよりすでに恋の句だととる。そして『万葉集』から「恋草を力車に七車積みて恋ふらくわが心から」という歌を思い出し、

恋草を積む力車に    玩(才一のこと)
 とつける。

 大岡信は力車というものがどういうものかはっきりしない。よくわからない。今の世でわからないものといえば宇宙船だとして

宇宙船小動物を詰めこんで      信
 とつける。

 岡野乙彦は、小動物にはねずみも混じっているだろうとし

ねずみの穴も命とりなり       乙
 とする。

丸谷はこの句を非常にばかばかしいが面白い。俳諧というものはこういうものなのだと納得している。

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書名 文明は〈見えない世界〉がつくる 著者 松井孝典 No
2017-11
発行所 岩波新書 発行年 2017年1月 読了年月日 2017-04-22 記入年月日 2017-06-21

 宇宙の生成から人類の歴史まで言及しながらの、ユニークで、壮大な科学史。

「はじめに」で、スマホには見えない世界の断片がいっぱい詰め込まれているという。その一つがアインシュタインの特殊相対性理論。人工衛星と地上では流れている時間に差がり、それを補正するのに使われるのがアインシュタインの理論で、そのためGPSは正しく作動する。われわれの文明はそうした目に見えない世界を記述したものの上に成立している。
 以下本書から:
○ 16世紀にまったく新しい智の探求が始まった理由:大航海時代によって、ギリシャの古典に書かれていない新世界が発見されたこと。それを可能にした羅針盤と磁気現象の解明により近代科学の見えない世界の探求が始まった。(p60)

○ ガリレオやデカルトの時代の数学の発展を基点として、ケプラー、ニュートンによって始まる数学と物理の「数学が物理学を刺激し、物理学が数学に意味を与える」関係が始まる。(p76)

○ 帰納法という考え方は、それまで学問の世界を支配してきた演繹法に代わる新しい自然探求の方法として支持を集め、近代合理主義の基礎となった。(p78)

○ ニュートンが運動のもとになるのが「力」であることを見抜いた。そしてその力はすべての物質が持っていることも(p82)。

○ 宇宙に存在する物質は全方位から引っ張り合っているが、物質が奇跡的バランスを保つように配置されていることが必要で、それをなし得るのは神の他に考えられない。宇宙が重力崩壊しないことこそが、神の存在証明なのだ。これがニュートンの宇宙論。

○ 地球は、地球自身がつくる「空間のひずみ」によって、月をつなぎ止めている。これが相対性理論による重力という遠隔力の正体と仕組みである。(p91)

○ 光で見える宇宙の果ては10の63乗メートル。一方物理的な長さの最小は「プランクの長さ」で、それは10の63乗分の1メートル。(p115)

○ 状態としての性質と、物質としての性質を併せ持つ存在を「量子」という。量子というアイディアに最初に気付いたのはマックス・プランクで、ミクロの世界における見えない世界の扉を開けた。(p117)

○ 物質は今では、素粒子の標準模型に含まれる17種の素粒子の組み合わせで出来ていると考えられている。(p120)

○ 極微の世界の理論構築の際、指導原理として「数学的な美しさを満たさねばならない」という大原則が横たわっている。(p128)。

○ 超弦理論:素粒子の物質としての性質を説明でき、さらにミクロの世界の基本的な三つの力や重力を何種類かのひもを用いてひとくくりに説明できる。四つの力を統一できる可能性があると言うことは、この理論が究極の「万物の理論」となりうることを示唆しているとも言える。(p133)

○ 超弦理論から導かれる空間モデルは、九次元。この理論が正しければ、我々は一〇次元の時空に存在することになる。(p148)

○ 超弦理論から導かれるのは多宇宙。10の500乗の宇宙が考えられ、その中の一つが我々のいる宇宙、我々の認識できる宇宙どいうことになる。(p153)

○ 「この宇宙の特性が、数学で示せる」ということが宇宙のことが明らかになると言うことだと、著者は言う。(p158)

○ 電磁力と重力の比、宇宙の半径と古典的な意味での電子の半径の比、宇宙の質量と陽子の質量の比はいずれも10の40乗である。(p161)。この一致が意味するものとして、「人間原理」の宇宙論が提唱される。「
宇宙はある時点で観測者を創造することを見込むような性質を持っていなければならない。デカルトをもじって言えば、「我思う。ゆえに世界はかくの如くそんざいする」のである」と、1974年ブランドン・カーターは述べた。(p161)。以下、人間原理の宇宙論が展開されるが、なかなか理解しがたい。

○ 古典物理学が作りあげた見えない世界の数学モデルは、人間の錯覚の世界を説明するためのものであり、実在のモデルとは必ずしも言えない。(p177)。

○ 地球の歴史とは、物質論的には分化であり、エネルギー論的には冷却に他ならない。(p198)

○ 地球は流入する太陽光というエネルギーのエントロピーは低く、地球が地表から大気を通して放出する赤外線のエネルギーのエントロピーはそれに比べて高いので、結果として生物と同じように「ゲネントロピーを食べる」系になっている。(p231)

○ 宇宙背景輻射に見られる、温度にしてわずか一〇万分の一という揺らぎを種にして、物質世界は分裂し、銀河からなる宇宙の構造が生まれる。観測される宇宙背景輻射のわずかな揺らぎに基づいて、銀河の生成を数値シミュレーションすると、その計算結果と現在の銀河の分布は見事に一致する。(p234)

○ ビッグデータについて:人間の行動がデジタル化したデータとして蓄積され始めた。それらは原理的には半永久的に保存されうる。それをもとに科学とはほど遠いものであった人文科学も、二元論と要素還元主義、あるいは仮説を観察やデータに基づいて検証するという科学になろうとしている。利用者が痕跡として残している情報は、現段階で、年間平均一人あたり1テラバイトと推定される。(p249)

 奥付きの著者紹介によれば、専攻は、比較惑星学、アストロバイオロジー、文明論とあり、現職は千葉工業大学惑星探査研究センター所長とある。
 博識な人だ。

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書名 連句―理解・鑑賞・実作― 著者 東明雅 他 No
2017-12
発行所 おうふう社 発行年 平成11年 読了年月日 2017-04-29 記入年月日 2017-06-23

 本格的な連句指南書。ちょうどオリーブ句会の歌仙巻2を巻いているところだったので、本書を参考にしながら、初回の歌仙より式目に適ったものとすることが出来た。

 東明雅は蕉門伊勢派の芭蕉から数えて9代目の宗匠であると本書の紹介されていた。それのためか、伝統的連句にこだわり、一部の現代連句に対しては批判的な態度が滲む。丸谷才一らの歌仙が本書の著者らの頭にあるのかもしれない。

 全部で6章からなる。
「第一章 これからは連句の時代」の執筆者、大畑健治は次のように述べる:……
文学はいつの間にか事実しか表現できなくなり、文学にしかなかった虚構の世界における感動という独自の領域を失ってしまったのです。(中略)ただ一つ、現代文学から批判されながら伝統的な精神を守ってきた連句だけが、現代文学を批判する眼を備えていました(p12)。
 
正岡子規の時代の文学の定義によれば、自然は人間の対象として存在し、視覚的なイメージによる美を写生したり思想的なテーマを追求するものであり、孤独に制作されるものでありました。その意味において、連句は完全に文学として認められませんでした。しかし、新しい時代を前に、「自然に帰れ」「感動は文学の命」「共同制作の文学」という三つの観点から考えてみても、近代や現代の文学によって否定されてきた連句こそ、未来への可能性に満ちた文学であることが分かります。これからは、明治時代の物差しで文学を考えるときではありません。近代が切り捨ててきた人情や人間らしい生き方を物差しにした文学を作りださなければならないのです。(p21)。

 意気軒昂たる連句賞賛である。本書の出版は1999年で、世紀の変わり目であったこともこうした高らかな宣言になった理由だろう。私としては、文学性云々はさておき、連句の楽しさは共同制作にあると感じている。

「第二章 連歌・連句の歴史」二村文人執筆。連歌と連句の歴史が述べられる。
連歌の完成が宗祇の「新撰菟玖波集」の成立、明応4年(1495年)頃とすれば、明応8年の「竹馬狂吟集」は俳諧の形成の初端と考えられる。その後天文元年(1532年)に山崎宗鑑の「犬筑波集」が出た。(p31)。
 連句という名称は明治37年に高浜虚子が提唱してから定着した。(p44)

「第三章 歌仙の構成」 大畑健治執筆。構成に関する細かい説明。1巻の季語の配置はこの章にある一覧表を用いて歌仙を巻いた。

「第四章 付けの方法」大野鵠士執筆。付けの形種類が分類され説明される。これは一読しても頭に入らない。参考になったのは「この曲を聴いてほしいとCDを」に付ける句をいくつも例示していること。時代、季節、時刻、場所、事物、気象、人物、想念、事件の項目別の付け句を例示してある。支考の八体説をもとにした九体の付け筋であるとのこと(p94~)。

結局、句を付けるということは、言語表現によって、他者との共同作業を通して世界を創造していく、生の営みそのもののたのしさであり、おもしろさであると言っても過言ではないでしょう。(p111)

「第五章 表現上の注意」東明雅執筆。作句上の細かい注意。
芭蕉も「歌仙は三十六歩也。一歩も後に帰る心なし」(三冊子)と言っているように、連句というものは発句から挙句へと、ただ前へ進んで行く心構えが最も大切であり、もし後戻りしたり、立ち止まったりすれば、変化も進展もなくなってしまうのです。(中略) 打越が同種・同様・同量・同趣になるのを観音開(輪廻とも)と言って連句ではもっとも嫌うのです。(p151~)。
 ここは私が連衆にもっとも力を入れて注意しているところである。

「第六章 連句実作と鑑賞」 五十嵐謙介執筆
 筆記用具から捌き手の心構え、実際の進行の仕方が述べられる。著者らによる実際の連句が紹介され、解説される。発句に季語と切れ字を入れることと指示してあったが、例示された著者らの連句の発句には切れ字がなかった。連句の規則もそれほど厳密ではないと言うことだろう。


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書名 開創千二百年の遍路旅 著者 渡辺恒男 No
2017-13
発行所 愛媛新聞サービスセンター 発行年 平成27年6月 読了年月日 2017-05-05 記入年月日 2017-05-06

 オリーブ句会の渡辺恒男さんが、四国八十八霊場の遍路をやり終えたという話は聞いていた。本人からは聞いていなかったが、その体験が本になっていた。句仲間の熊谷幸子さんが見つけて、購入したので読ませてもらった。

 遍路道が開かれて1200年に当たる平成26年の4月から5月にかけて、38日間で成就した四国遍路1400キロ通し打ちの記録。といっても旅日記ではない。作者の自然観、人生観、世界観が遍路の途中で目にした光景に即して述べられる。サブタイトルは「俳句で綴る38のメッセージ」とあり、たくさんの俳句が掲載される。前書きで、俳句は250句ほど詠んだが、詠むというより自然と言葉が涌いてくるような独特な感動の空間が遍路道の中にあったような気がすると述べている。

 
遍路では自分探しとか何かに挑戦とかの特別の目的があった訳ではなかったが、千二百年間にわたって時代を超えて幾千万人の先達が足跡を残した神聖な非日常の世界に身を置いた三十八日間の厳しい遍路旅は、言葉では言い尽くせない感動の賜物となった。この小文は、足の肉刺や肩腰痛に苦闘しながら、里山の自然や地域と人との触れ合いの感動から自然に沸き上がってきた俳句や写真を織り交ぜ、小エッセイの形として取りまとめた「38のメッセージである」(p2)

 遍路で得られたもの:
 
一つが感謝の心。遍路時の中盤頃になると自分が接する全てのことないする感謝の心が芽生えてきた。悪戦苦闘し耐えながら健気に一歩を踏み出してくれる肉刺だらけの足に感謝し手を合わせる毎日であった。そしてお天道様に感謝。鶯に、路傍の草花に感謝。汗まみれの顔に吹く一陣の涼風に感謝。生きているのではなく、生かせて頂いていることに感謝。そして足を知る心。遍路前ではあれもこれもと所有願望の煩悩の塊であったが、遍路半ばの伊予の菩提の道で幾度となく急登の峠越えをし、峠に吹く値千金の涼風に遭ううちにハッと目覚めたような心境になった.漠然とながらその瞬間、私欲を越えた足を知る豊かなこころが脳裏をよぎったような気がした。上を見れば際限がなく、下を見れば後のない人の世は、自分を見つめ直し少しだけ思考を変えれば今のままで十分幸せなのだと思えた。(p7~8)

 「幾代(いくよ)経て休耕地(あれち)や哀れ鶯(とり)が鳴く」(漢字にこのようなルビを振った句が多い)という句に続く文章:
 
廃れ往く里山の遍路道で目にするのは耕作を放棄し荒れるに任せた田畑である。(中略)
 政治が、経済が、人口構成等の社会が、と原因をあげつらったところで問題が解決される訳ではないが、少なくともお遍路が開創されて以降の千二百年間、毎年繰り返して実りの秋を迎えてきた里山の田畑が現在、なに故にセイタカアワダチ草で一面覆い尽くされているのか。寂しく春をなく鶯はそこを聞きたいのだと思う.鶯は聴いてくれる人もなくなりやがて淋しく姿を消してしまうのだろうか。人に寿命があって世代交代を繰り返していくように、家や田畑にもいずれ使命を終える時がやってくるのであるのであり、里山も栄華の後は衰退を待つ身となるのであろうか。庭花にとっての切なる願いは家主がいた賑やかだった頃の家に戻ることであり、廃屋の庭に蔓延る沈黙の春ではない。主を求めて渾身の力を振り絞って咲く庭花を慰めるかのように鳴き続ける鶯に、家主は一体なんと答えたらいいのだろうか。
(p74~75)
 こうした擬人化表現は著者の俳句によく見られる手法で、「恒男ワールド」をなしている。文章はなめらかで、読みやすい。奥付きを見ると愛媛新聞社が「編集発行」となっているから、多少は記者の手が入っているのかもしれない。

「迷い鳥止まり木求め春愁う」という句に続く文章の中に次のような一文がある:
「人間らしく生きる」という面からすれば、現在人は知らず知らずのうちに何かとても貴重なものを犠牲にして捨て去りながら自らを歪な社会に無理やりに合わせ、ストレスまみれになりながら生きているのかもしれない。心も体も悲鳴を上げているのである.現代人は、お遍路で道行く中に無財七施のこころを垣間見た時初めて、現代社会が切り捨て、そして忘れてきた貴重なものの存在に気づくのであろう。それこそが心身のストレスでボロボロにすり切れた漂泊の現在人にとって、すべてを包み込み許してくれる心の安らぎの如き止まり木なのかもしれない。(p90)

 現代人がストレスでボロボロにすり切れ、数多の煩悩を抱え込んでいるという表現は本書に何回も出てくる著者の現在社会に対する認識である。著者自身もそうしたものを抱えている典型的な現代人と規定している。私は現役時代もそうしたもの、特に煩悩などは余り意識しなかったので、今の人がそれほど煩悩を抱え、ストレスにまみれているとは思えない。著者自身が抱えるストレスや煩悩がどのようなものははっきりしない。本書全体にいえることだが、具体的なエピソードが余り書かれていないので、観念的な叙述になっている気がする。

 巡拝の日程は巻末に一覧されているが、細かい記録はほとんど述べられていない。例えば、遍路半ばで無念にも亡くなった人たちへの言及も何回かなされているが、事実の裏打ちがない。おそらく、そうした人たちを弔う小さな碑のようなものは遍路路にあるだろうから、それをもとに亡くなった人への想いを述べれば、もっと説得力があったろう。とはいえ、体力と気力の限界の中で、ひたすら歩き結願成就を目指し、朝は宿を出る前に必ず般若心経を写経するという遍路には、詳細な記録を残す余裕はないのだろう。随所で読んだ俳句がメモ代わりなのだろう。

 
人間の一歩は大したものである.一歩一歩着実に、ほんの僅かずつの継続的な努力がいつしか目的を達し実を結ぶことになる。(p119)。まったく同感である。

本書の最後は以下のように結ばれる:
 
物質的、精神的な充足度が現代人よりもバランスされていたかもしれない平安時代に、空海が四国遍路に植え付けた慈しみの互助心こそが、バランスが破たんし精神的支柱を失った現在の日本人にこそ活かされるべきであり、時代を超えた普遍的な標としてこれからの日本人の心に植え付け続けていかなければならない規範であると思う。

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書名 二つの声 著者 松本清張 No
2017-14
発行所 文芸春秋社松本清張全集9 発行年 1971年 読了年月日 2017-05-30 記入年月日 2017-06-05

俳句仲間と連句をやり始めた。今までに2歌仙を巻いた。ずっと以前、週刊朝日に連載されていた松本清張の小説に連句をヒントに犯人か解明にいたるものがあったのを思い出した。読んでみたくなり、調べたのが、本書であった。緑図書館にあった。

 まず驚いたのは、この松本清張全集が50巻を越す膨大なものだったこと。第9巻で見ると、上下2段組で、500ページというボリュームだ。清張の多作ぶりに改めて驚く。

「二つの声」は清張作品の中でもきわめてマイナーなものだろう。東京の下町のいわゆる旦那衆の俳句仲間4人が、思い立って軽井沢に野鳥の声を聞きに行くことから始まる。洋菓子店主や、金物店主など裕福で時間もある4人だ。軽井沢の林の中に集音マイクを置き、離れた別荘で録音しながら徹夜で野鳥の声を聞くという試みだ。夜のつれづれに連句をやることになる。

 夜になると色々な鳥の声が録音機のイヤーホーンから聞こえてくる。そろそろ連句を始めようとしたとき、幽かに人の声がイヤーホーンに入ってきた。それも男女二人の話し声のようだ。一旦話し声が途切れたのを機に、連句を始める。発句はこの企画を言いだした富亭の「ほととぎす残光蒼き空に過ぐ」である。続けていると、また声が入る。時折入る男女のひそひそ話に影響されて、12韻まで巻いた連句は変な連句になったと皆が思う。

 録音を進めて行くと、今度は別の人物と思われる男女二人の声が入り、しばらくすると消えて行く。

 彼らが帰京して1ヶ月ほど経ったころ、彼らが集音マイクをおいたたところからすぐ近くで女性の死体が発見された。女は4人がなじみにしているバーのホステスだった。しかも、殺されたのは彼らが野鳥を聞いていたその夜であった。彼らの録音した男女の声の一人である可能性が高かった。もちろん、当の4人にはれっきとしたアリバイがあり、犯人ではない。

 4人の中で一番若い原沢という男が、当夜の連句から、富亭の詠んだ二つの付句「行くは誰ぞ木丸殿の夜のせき人」「夜鷹啼きささやきの謎星をみる」がなにやら意味ありげで、富亭は何かを知っているのではないかと疑問を持つ。富亭は録音に入ってきた人の声に何か思い当たるところがあり、上のような句が出てきてしまったのだ。

 正統な推理小説なら、犯人に関する全情報が事前に提供され、読者が推理することになるが、この小説は、後半に次々と人物が登場し、殺された女と4人とのどろどろとした男女関係が新しく示されて行く。犯人が登場するのはほとんど最終場面でしかない。トリックも、いわれてみると単純である。

 前半の連句作りで、男女の会話に連句が影響されて行くところはよく書けていてさすが清張と思わせた。
 この他に6作品が収められている。

 巻末に丸谷才一の解説があり、その中で丸谷は「
・・・松本の作品には、もはや戦後が終ってから以後の、日本人の精神と情念を基本的なところで大づかみにした、一種の国民的叙事詩とでも評すべき性格がある。」と述べている。

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書名 旅する俳諧師ー芭蕉叢考 二 著者 深沢眞二 No
2017-15
発行所 清文堂 発行年 2015 読了年月日 2017-06-13 記入年月日 2017-06-13

平成27年度の連歌俳諧研究部門で文部大臣賞を受賞した著作。句仲間の今谷さんが伊賀市で手に入れた「芭蕉翁献詠句集」に紹介されていた。アマゾンで調べたら、定価8500円もの本だった。かなり専門的な本だから一般の図書館にはないと思ったが、念のために緑図書館で検索したら、横浜市の中央図書館にあった。

 著者の『連句の教室』はくだけた入門書で楽しい本だったが、本書はハードカバーの470ページ余りの分厚い学術研究書。前編は発句編、後半は連句編となっている。従来の芭蕉の句の解釈を批判的に検証し、著者独自の解釈を提供する。特に重視するのは例えば「夢」という言葉は、現代と芭蕉の時代ではその意味するところが違っていて、芭蕉の時代に立ち返って考える必要があると言うこと。そのために、広く文献を当たり、それが引用文献として明示されている。

夏草や兵どもが夢の跡
 従来、「夏草や。/兵どもが夢を見た、その跡。」と解されてきたが、「夏草や。/兵どもの現れる夢を、芭蕉が見た、その跡。」と読みなおす必要があると著者は言う。芭蕉が「夢」と言うとき、その意図に夢幻能があると著者は言う。「
芭蕉は己を夢幻能のワキに見立て、夢のうちに往古の武者どもに会い、供養を求められ、覚めてだた夏草の中にいることに気付いた、と趣向したのではなかろうか。」p36。

数ならぬ身とな思ひそ玉祭り
 芭蕉最晩年の句で、「尼寿貞が身まかりけるとききて」という前書きが付く。
 この句は従来、亡くなった尼寿貞に愛情をこめて呼びかけた句であるとされてきた。著者は、その前後に曽良らに宛てた数編の書状から、この句の背景を考察し、さらに「玉祭り」や「数ならぬ身」の用例に詳細に当たり、これは尼寿貞の魂にあてた句ではなく、その父である理兵衛へあてた句であると、新しい解釈を提出する。さらに、理兵衛はかつて芭蕉の従僕であったと仮定する。そして、尼寿貞の子供、次郎兵衛も芭蕉の従僕となっている。尼寿貞は芭蕉の妾であったとする説は、以前からあるが、著者は、それをきっぱりと否定している。

菊の香やな良には古き仏達
今日は重陽、菊の節句である。折から奈良の町には菊の香が漂っている。かつて伝教大師が比叡山で『冥加』を求めた「仏達」と同じように、眼には見えなくとも、きっと、奈良の町には古き「仏達」がおわしまして、町を守護しているだろう。菊の香は、この町の「仏達」の存在をおしえてくれているのだ。」仏達を現代のように単に仏像と採ってはならないと著者は言う。「芭蕉当時の日本人の精神活動には、超越的な存在を認知する感覚がもっと豊かにあったことを想像しなければならないと思う。また、ひるがえって、現代人の感覚に頼って、三百年以上昔の句を解釈することの危うさを、認識していなくてはならないものと思う。」(p146)

蛸壺やはかなき夢を夏の月
 この句は大岡信の『折々の歌』で知った.大岡は日本人の生き物に対する思いやりの深さを表す句としてこの句を鑑賞していた。私もその意味で心に残っている句である。

 この句には2種の前書きがある。一つは芭蕉の真蹟懐紙にあるもので「須磨の浦傳ひしあかしに泊まる、其比卯月中半にや侍らん」であり、もう一つは「笈の小文」にあるもので「明石夜泊」とあるもの。前者の前書きに沿って解釈すれば、この句は源氏物語を踏まえたもので、須磨に流された光源氏の心境に寄せたものとなる。さらに著者は「蛸壺」に源氏物語をパロディ化した俳諧味を読みとっている。つまり源氏の「桐壺」「藤壺」を俳諧化したのが蛸壺であり、また、「明石入道」から蛸、明石と続くラインもあるとする。芭蕉は明石に泊まった事実はない。だから、この句は光源氏の「ヤツシ」を芭蕉が創作し、光源氏の心境を味わったものだろうという。

「明石夜泊」という前書きは、後に「笈の小文」に載せる際に改められたもの。この前書を考察すると別の意味が浮かんでくると言う。「夜泊」とは夜中に船を水辺に泊することだという。すると、これは『平家物語』の灌頂巻にある、義経にとらわれた建礼門院が明石の浦でまどろみながら、安徳帝初め壇ノ浦に散った平家一門が夢の中に現れたという記述が背景にあるという。そして、この句は光源氏から一転して、平家滅亡への歴史懐古となる。

私は明石の泊りの船の上で夜を明かしました。そこは建礼門院が平家の死者たちを夢に見た場所です。はかなく覚めた彼女の夢のことを〈ひいては、はかなく散った平家一門の命のことを〉思いながら、はかなく沈んでしまう夏の月を眺めておりました。そういえば彼女は竜宮城を夢に見たそうですが、いま目の前の明石の海の底では、竜宮の眷属の蛸どもが蛸壺の内に眠っているはずです。蛸どもも明日消えるはかない命とは思わずに、はかなくも夢を見ていることでしょう」。(p184)著者の現代語訳である。

 連句編は奥の細道の途中に巻いた5巻の歌仙の全句が取り上げられ、一句一句に注釈ががなされる。奥の細道には芭蕉の発句しか載っていないので、これほど多くの歌仙が巻かれていたとは知らなかった。しかも、旅の途中でもあり、多くの歌仙は後世まで残ることはなかった。

 出羽で巻かれた7歌仙を読み解いた上で著者は次のように述べている:
以上の例をまとめるならば、元禄二年陸奥・出羽を旅する芭蕉の心には「流人」に対する強いこだわりがあって、俳諧において自らも句にし、連衆にも勧めていたとみられる。その「流人」のイメージの核にはおそらく、『平家物語』や能によってよく知られた、鬼界が嶋の俊寛の俤があったと見られる。このような「流人」に対する芭蕉のこだわりは、この旅の目的の一端が垣間見えるのではないだろうか。つまり、芭蕉には、歴史上ないし古典文学上の「流人」の心境を追体験したいという目的があったのではないか。従来、この旅の目的は歌枕探訪に出るとか義経没後五百年ないし西行五百回忌を心にかけてであるとか芭蕉風俳諧の勢力拡大を狙ってであるとか、さまさまに論じられてきた。その答が一つでなければならないわけではなく、芭蕉は複合的な目的を以て旅をしたと思うのだが、そこに「流人」願望という要素を加えてもよいと思われる。(p448)

 本書以外にも、引用された多くの説に接すると、今なお芭蕉の発句、連句に関する解釈には多くの見解が出されていることに驚く。別の見方をすれば、17文字という俳句は多義的であり、それは俳句という文芸の欠点も示している。

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書名 伊勢物語 著者 石田穣二 訳注 No
2017-16
発行所 角川ソフィア文庫 発行年 昭和54年 読了年月日 2017-06-25 記入年月日 2017-06-30

「スカイツリー川面に揺れて業平忌」を作った。スカイツリーの立つ一帯は在原業平ゆかりの地で、『伊勢物語』の舞台だ。それで読んでみた。

 全部で125段からなる物語。高校の授業で習った、「かきつばた」の歌と、隅田川のエピソードは第9段にある。本書では最も長い段で、ストーリー的にも面白い。その他の段は大方は退屈で、その多くは男女の恋物語で、男女が取り交わした歌の前書きといった短いものが多い。現代語訳が付いているので、どうにか理解出来るが、それなしでは読めない。校注者によれば、未だに言葉の意味の解釈が確立していないところもあるという。

 解説によると『伊勢物語』は一時期に成りたったものではなく、年月をかけて成立した。従って、校注者は『伊勢物語』の著者を業平とはしていない。しかし、各段の書き出しで多用される「昔男ありけり」のモデルは業平であり、第1段の初冠の時から始めて、第125段の死去まで、業平一代記である。

 平安時代の独特の結婚制度とは言え、まあよく恋をするものだ。

 以下、解説から:物語とは男と女の物語を意味する。その持つ深い意味は『源氏物語』によって啓示され、その認識は、俊成、定家、兼好、宣長へと引き継がれて行く。『伊勢物語』はそうした男と女の物語の原型であるかのような位置を占めている。

『伊勢物語』の各段の長短はまちまちであり、全体の構成は極めてゆるい。このゆるい感覚は『古今集』各巻の歌の配列や、『源氏物語』の各巻の配置にも見られ、後に連歌、連句の特異な形式を生んだのもこの感覚である。

 第106段には百人一首に業平の歌として載る「ちはやぶる神代も聞かず龍田川からくれないに水くくるとは」が載る。
 さらに、第82段には「世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし」という歌が載る。これは、親王のお供をして交野に鷹狩りにいった際、桜の木の下で読まれたものだ。作者は「右の馬のかみ」で、昔のことだから名前は忘れてしまったとあるが、注ではこれは業平を暗示しているという。

最後の125段は短い:
 
むかし、男、わづらひて、心地死ぬべくおぼえければ、
  つひに行く道とはかねて聞きしかど
   明日今日とは思はざりしを


 本書の最後に「業平卒伝」という死亡記事の漢文がある。その一節に
業平体貌閑麗、放縦不拘、略無才学、善作倭歌」と人柄が記される。卒時年五十六。

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書名 大岡信詩集 著者 大岡信 No
2017-17
発行所 岩波文庫 発行年 2016年4月 読了年月日 2017-07-07 記入年月日 2017-07-26

 幸福感を伸び伸びと歌うというのがこの詩人の特色であると丸谷才一は『歌仙の愉しみ』の中で言っていた。大岡信の『折々の歌』読んだが、自身の作品は読んだことがなかった。

 本書は自選詩集で、解説を含めて文庫本400ページを超える「決定版詩集」である。俳句に親しんだ身には、非定形の現代詩は取っつきにくく読みづらかった。定型詩の快さを改めて感じた。しかし、途中からは慣れてきた。年代順に並べられているので、作詩年齢が上がるにつれて理解しやすくなったのかもしれない。

 読んでいて、詠嘆や感傷がない。知的である。俳句だったら認められないような象徴的で、飛躍した表現が多い。

 目についたいくつかの詩

転調するラヴ・ソング
 
今宵わたしの銀河は/まったく不規則に動いている/海の底を/あおい 種子/女の影が歩きまわっているだけなのに/私の銀河はバウンドし/炎をひいて滑走する
 見たこともない女が見える/彼女は花で毛根だ/城で細い矢/彼女は虎で呼び子の笛だ/炎で氷だ蒼い水だ/彼女は彼女のいとしい生きているお尻とは/別の生きもの別の世界だ

 1960年刊の詩集よりの作品。全部で10連の最初の2連。

枝の出産
 
斜面を風が吹き上げる 明るい声で/波乗りしながら 西へ東へ枯葉が散る。/枝を離れる瞬間をつして見せない小癪なすばやさ/それでゐて冬空いつぱい つぎつぎに涌く暖色の葉つは。
 阿呆な凝視の二時間が過ぎて/まぬけな一人の観客はやうやく気づく――
 これは死への凋落などではありやしない/時が用意しておいた枝のお産だ。/大空の塵に生まれかはる葉のために/なんぞやかくも賑やかに光を散らす 枝のお産。

 1992年刊の詩集より。

 後の詩の方がわかりやすいが、やや理屈ぽいか。

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書名 紀貫之 著者 大岡信 No
2017-18
発行所 筑摩書房 発行年 昭和46年 読了年月日 2017-07-15 記入年月日 2017-07-16

「日本詩人選」というシリーズ物の第7巻。『大岡誠詩集』の三浦雅士の解説で紹介されていた。三浦は言う、大岡は紀貫之の中に批評家と詩人という両面性を見出した。それは大岡自身のことでもあったと。このシリーズで大岡に紀貫之を依頼したのは山本健吉であるという。

 200ページを超える本であったが、一気に読んでしまった。明晰で分かりやすい日本語。日本の文化史を考える上でも、参考になる本だった。

 古今集と紀貫之を下らぬものと断定したのは子規である。万葉集をよしとし、古今集をだめとする風潮は、私の高校時代の教科書にも強調されていた。本書は「なぜ、貫之か」という章から始まる。ここでは、子規が古今集と貫之を罵倒した理由が時代背景とともに書かれていて、この章だけを読んでも面白い。子規は芭蕉の特色を「雄渾豪壮」であるとしてこれを高く評価する(p14)。一方で子規は「滑稽と諧謔」を蔑視する。その「滑稽と諧謔」が詩作のモチーフと自覚されたのが、古今集で、そこには誹諧歌というのがすでに定位置を占めていた。このような古今集を子規が評価するわけがないと大岡は言う。

大岡は以下のように言う:
 
日本語の柔軟な可塑性を、形容詞、副詞、助動詞、助詞の細心な彫琢と駆使によって、いちじるしく増した功績の多くは、古今集に帰せられる。貫之はその方面での傑出した才能であった。(p31)
 貫之はまた、古今集仮名序の作者として、和歌の発想論や心と詞に関するいわゆる花実兼備の論を展開し、日本詩歌史上最初の歌学者、詩論家として、決定的な影響を後世に及ぼした。(p31)
 貫之はさらに、土佐日記という、隅におけない観察眼と諧謔と自己批評をもち、歌に関する卓抜な批評家の眼が光っている虚構的日記文学の創始者である。
(p32)

 この後に続けて、伊勢物語の作者も貫之ではなかろうかという、学者の説にも触れていて、もしそうなら、貫之の人間像も従来とは違う面白いものになるという。

以下本書から
 
歌というものを、それが実際にうたわれた具体的状況から引き離し、別の想像的世界の構成要素として生かすとき、そこにはやがて伊勢物語的な歌物語の世界が生まれるだろう。少なくとも、貫之の歌のある種の詞書は、ほんの少しの細工を加えれば、たちまち勢語風の短い章段を形づくりうるものとなるのである。(p41)
 一首の歌が、表側と裏側とに二重の意味をもち、しかも表は裏に、裏は表に不可分に融合し、いわば対位法的な効果をもって読む者に訴えてくるというのが、この種の歌の理想である。貫之が尊崇されたのも、この面での彼の手腕がおおむね的確堅実で、歌の重層的内容が、いかにも無理なくこちらの胸に表裏一体になっておさまってくる歌をたくさん作ったからでもあったろう。(p49)

・・・もって生まれた性格として、貫之はロマンティックな陶酔よりは、醒めた観察において特色を発揮するところが多かったように思われる。(p54)
 機知と皮肉に富んだ頭脳の持主だったことは、数々の歌のみならず、何よりも土佐日記がよく物語るが、そういう資質はまた、人生をいわばその大きさのままに眺めることにもなった。つまり、熱狂や絶望の度はずれな踏みはずしは、貫之にはない。代りに古今集仮名序や土佐日記のごとき散文において、貫之のこういう資質はみごとに花を開いたのである。(p59)

 影見れば波の底なるひさかたの空漕ぎわたるわれぞわびしき
 この歌は、貫之全作品中の秀逸の一つということができる。私はこの歌によって、貫之の歌の面白さに初めてふれた思いがしたのだった。理屈の勝った歌ではあるにはちがいないが、その理屈っぽさを越えて、ある「わびしさ」の息づく空間の広がりが感じられるのだ。「ひさかたの」という枕詞が、この場合、時間的・空間的な広がりを暗示するのに効果をあげている。(p64)
 彼らは(古今集撰者のこと)、季節という無形の流動する自然に形を与え、それの移りゆきの微妙な諸段階に、いわばそれぞれの名を与えることによって、現在生きているみずからの生命を確かめ豊にするという歓びをもつことができたからである。四季の細分化、それによる生命の実感の濃密化ということは、それが日本人のいわゆる「季節感」の伝統を形成する基礎となったという点からしても、注目すべき試みであった。(p100)。
 窪田空穂が古今集を貫く根本、第一のものとした享楽・耽美の精神は、詩法においては、この譬喩的世界への傾倒というところに、最も特徴的に現れているだろう。それは、具体的な自然や事物にじかに接するよりは、むしろ、自然や事物を、自己の心の譬喩として、つまり「心象」として、さらには歌という語とどうぎといってもいい「心詞」として、扱おうとする。現実のさまざまな事象も、事柄そのものとしてではなく、それが心にもたらした印象の、いわば綜合的な後味として、ひと呼吸おいて観察され、再構成される。たとえば恋も、その成就の絶頂においてではなく、その前後の長い時間の経過においてこそ、じっくりと味われ、「あはれ」と余情によって幾重にも染めかえされて、歌のひとふしとなるのだ。まだ見ぬ恋が、得恋の歓喜よりも遥かに好まれる材料となる。(p125)

 貫之の「袖ひぢてむすびし水のこぼれるを春立つけふの風やとくらん」や「さくら花散りぬる風のなごりには水なき空に波ぞ立ちける」が呼吸していたのも、言葉のこうした暗示性、象徴性の空気だったのである。それはまた、テニヲハの有する柔軟繊細な働きへの開眼という、歴史的に重大な出来事とも深い内的連繋をもつものであった。(p128)

 ・・・語と語がたがいに映発しあうことによって生じる言葉への驚異へのいちじるしい関心というものが、このころに、必ずや生じていたであろう。そこでは、言葉のある種の霊妙な組合せ、構成というものを通じて、結局のところあらゆる自然界の現象を歌にうたいうるという信念が生じたであろう。「やまとうたは、ひとのこ々ろをたねとして、よろづのことの葉とぞなりにける」という仮名序冒頭の有名な書き出しは、そういう信念を背景にして書かれているだろう。(p113)

 桜と言い、紅葉と言うとき、貫之のような平安詩人の口をついて出る次の言葉は、まず「散る」という言葉だった。花が散ることを愛惜する思いは、当初、歳月のすみやかな移ろいに対する純粋な嘆きとして彼らの口を衝いて出るが、やがてその思いそのものが一つの美的情趣となり、「あはれ」となってゆき、ついには詩的常套となり終わる。(p154)
 それら(題詠や季語)は、私たちの眼の前に、区画もなければ名前もなしにのっぺりとひろがっている自然界あるいは人事の世界を、あるフィルターを通し、ある尺度をもって切りとり、世界をいわば言語によって可視的・可感的にしてくれる。その結果、ある季語を知ったおかげで、今まで気づかなかった季節のある表れ方の特徴に眼をひらかれるということが生じもするのだが、そのとき私たちの眼には類型性をもった機構が装置されたのであって、それを忘れ去れば、その瞬間から、私たちは季語を通して自然を見るのではなく、季語を通して先人たちの見たものをもう一度なぞって見るにとどまることになる。(p174)

 和歌が、何よりもまず男女の間で心を通わすものとして、その実用的価値において命脈を保ってきたということは、古今集仮名序においても明瞭に認識されていた通りである。にもかかわらず、貫之が、とりわけ古今集撰進当時の自作恋歌において、自分自身の感情の赤裸な吐露よりは、恋のさまざまな段階の姿かたちを、見映えあるように、また言葉の面白味のあるよう歌うことに、技巧をこらしていることは、いわば男女の恋という「自然」を、情趣を味い、言葉をよろこぶ「文明」のひとつの形にまで高めようとしたことを意味していただろう。そのことが、結果として貫之(またその他の古今歌人たち)は、恋の歌を通して、言葉そのものが互いのあいだで演じる牽き合いのふしぎな魅力を語ることができた。(p198)

 貫之のこういう眼差しは、純然たる抒情詩人の眼というよりは、批評家と小説家との複合した、文人的詩人の眼をいやおうなしに思わせるのである。(p223)

 その例として、以下に「土佐日記」の楫取りのうたう舟唄のくだりを引用している。

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書名 日本文化における時間と空間 著者 加藤周一 No
2017-19
発行所 岩波書店 発行年 2017年 読了年月日 2017-07-30 記入年月日 2017-08-05

 日本文化の本質を「今・ここ」と言う、日本人特有の時間と空間感覚に捉えた日本文化論。該博な知識に基づく、論理的な考察は説得力に富み、ずっと以前に著者の『日本文学史序説』に匹敵する優れた本。日本文化を論じることは、即ち日本人の心性に迫ることであり、読み進めながら自らを省みて、納得する点が多かった。大岡信の『紀貫之』と合わせて、こうした素晴らしい本が続けて読めたことはうれしい。

 本書のカバーには以下のように要約されている:
 日本文化の特質とは何か。著者は時間と空間の二つの軸からこの大きな問いに挑む。文学・絵画・建築などの豊富な作品例を縦横に比較・参照しつつ、日本文化を貫く時間と空間に対する独特な感覚――著者はそれを「今=ここ」と捉える――に迫る。その鋭い筆は宗教観や自然認識へと及び、この志向が今日のわれわれの日常や政治行動をも規定していると喝破する。日本文化の本質、その可能性と限界を問う渾身の書き下ろしである。

 著者自身による本書のあとがきには2007年3月と記してある。加藤周一が亡くなったのは翌2008年である。

連歌について
 その魅力は、作者にとっても、当面の付句の意外性や機智や修辞法であり、要するに今眼の前の前句と付句との関連の面白さである。面白さは現在において完結し、過去にも、未来にも係わらない。連歌とは、過ぎた事は水に流し、明日は明日の風に任せて、「今=ここ」に生きる文学形式である。その文学形式が、日本文学の多様な形式のなかで、数百年にわたり、史上類の少ない圧倒的多数の日本人の支持を受け続けたのである。(p71)
 連歌は高位の貴族から「非人」まで、将軍から奴婢まで、社会的階層を縦断してあらゆる男女が同じ一つの遊戯娯楽に熱中したという例は、まさに連歌と、一五世紀の河原能の他になかったかもしれない
(p69)。そして大衆的な連歌は誹諧連歌を生み、やがてそれが芸術的に発展していったという。
 連句を作り始めて半年経つが、この記述は興味深い。

 短歌と俳句:
 
歌と俳句の二つ短詩型がもつ可能性は、大いにちがう。歌でいえることが俳句ではいえない、あるいはきわめてむずかしい。三一音節のなかでは時間の経過を表現することができる。少なくとも昔を想い出し、現状に過去の経験を重ねてみることができる。しかし一七音節の句では、回想を容れる余地がなく、そのなかで時間の持続を示すのは至難である。
中略 …芭蕉の句には恋がほとんどない。一七字の短詩型が、瞬間の感覚的経験を捉えるのに適し、恋のような持続的心理的状態を歌うには適しない、ということを、彼が熟知していたからであろう。(p75~)
…芭蕉自身が、俳句を短歌(その一つの形態としての連歌)と区別して、瞬間的経験の表現と考えていたことに注意すれば足りる。その経験は感情的ではなく、感覚的であり、知覚の対象(外界)と内心との一種の交感であって、たちまち起こり、たちまち消え去るものである。(p76)
 「随筆に相当する西洋語はない」
と述べた後、「日本文学に固有の独特の形式、その長い歴史と圧倒的な大衆性という点で、連歌と随筆は似ている。中略 連歌の著しい特徴、すなわちその全体は成り行きに任せて成り、明瞭な構造をもたず、あたえられた時点での付句に全体の流れからは独立した工夫や面白みがあるという傾向は、全くそのまま随筆の特徴である。『枕草子』も『徒然草』も『玉勝間』も、相互に共通の主題をもたない断片の寄せ集めで、全体を通しての話の筋はなく、特定の一つの考えの発展はなく、要するに建築的な構造は全くない。…何が面白いのか。あきらかに全体ではなく、部分である。各部分=断片が、前後と関係なく、それ自身として、それだけで、それなりに、面白いのである。」(p79~80)
 この記述も大変面白い。

 宗教、世俗化
一三世紀の鎌倉仏教は神仏習合を破って仏教信仰の超越性を強調したが、それも次第に神仏習合の土壌に吸収されていった。徳川政権はキリスト教弾圧の手段として、寺請制度を導入した。それにより寺院組織は行政機関の一部になり、仏教の大衆化は徹底するが、同時に強い信仰の体系としての仏教はもはや時代の支配的な価値の中心ではなかった。葬式などの儀式、祖先崇拝、祭りなどは今日まで残る。しかし、徳川時代の文学や美術はほとんどが世俗的である。西鶴や芭蕉の作品が仏教に係わるところははなはだ少なく、世之介はドンファンのように地獄には堕ちず、芭蕉は寺を訪れたのは後生を願うためではなくその境内の青葉若葉を楽しむためであった。日本文化は工業化または近代化とともに世俗化したのではなく、工業化以前、近代化以前に同時代の西洋とは比べものにならないくらい世俗化していた。(p111~112)
村社会、内と外
 (芭蕉は)
誹諧愛好者の仲間内では第一人者として高く評価されていたが、武士社会では地位が低く、農家とはあまり接触はなかったろう。要するに誹諧共同体のなかでの全国的な名声と、一般社会のなかでの旅芸人の地位を、一身に兼ねていた。弟子たちは見上げ、武士たちは見下げる。対等な関係はどこにもない。
 このようなムラ社会に典型的な内人/外人関係―隣村との平等を例外とする不平等関係―が、長い間、少なくとも一〇〇〇年以上続けば、そのことからムラの水準ばかりで無く日本社会のあらゆる水準において、すべての人間関係を、相手との上下関係に還元しようとする強い心理的傾向が生み出されだろう。(p161)
 明治維新は中国から欧米への切り換えである(「脱亜入欧」)。日本共同体の視線は見上げるか見下げるかで、水平に相手に向かう習慣はないから、もはや見上げることのできなくなった中国は多かれ少なかれ見下げるほかはない。(p162)
日本国は中国とも米国とも、また他の外国とも真に対等の交流関係を経験したことがなかったし、周知のように今でもない。
(p227)

空間の三つの特徴
 日本の建築様式と関連させて、日本人の特徴として以下の三つを挙げる。
1.奥の概念
 奥へ向かえば向かうほど空間の聖性がます。神社の建築に見られる。参道、一般人の拝殿、神官のみに許される内殿、誰も入れないカミの座。似たような奥の概念は一般の家屋にもある。

2.水平の強調
 日本では、宗教的建築でさえ、平屋または二階建てで、地表に向かって広がり、点へ向かって伸びない。神社には塔がない。例外は外来宗教である仏教寺院の五重の塔であるが、それとてもせいぜい三重または五重であり、しかも、幅の広い庇を水平方向に出して、垂直の線を隠している。

3.建て増しの思想(p164~)
 部分から出発し全体に至る方式。(著者は日本語の語順の特徴として、このことを強調している。)これは一般家屋にあてはまるが、典型的には都市空間にあてはまる。京都を例外として、日本の都市は建て増し方式で発展してきた。東京は1923年の震災と、1945年の空襲で焦土と化した。その焦土から不死鳥のように建て増し過程を通して、巨大なカオスとして蘇った。建て増し思想をもっともよく象徴しているのは東京の地下鉄工事だと著者は言う。 
 建て増し主義から、小さな空間の嗜好と左右あるいは上下相称性の忌避という伝統的空間意識が導かれるという。この二つの特徴が、芸術的理想の一つとして完成したのが一五世紀から一六世紀にかけての茶室の文化であるとして、183p以下に詳細の述べられる。
 
そこ(茶室)にあるのは非相称的空間であり、その意識化としての反相称的美学である。意識化は一五世紀の村田珠光にはじまり、一六世紀の千利休に到って徹底し、いわゆる「侘びの茶」の体系として完成する。これは一種の美学革命である(その思想的背景は禅)。その後の日本美術への影響は、広汎で深い。(p201)


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書名 在原業平・小野小町 著者 目崎徳衛 No
2017-20
発行所 筑摩書房 発行年 昭和45年 読了年月日 2017-08-08 記入年月日 2017-08-11

 日本詩人選の第6巻。このシリーズは面白そうで、芭蕉や宗祇、蕪村などはいずれ読んでみたいが、『伊勢物語』『紀貫之』を読んでところだったので、『在原業平・小野小町』をまず手にした。

在原業平
 古今集にある業平の歌30首を中心に、その意味、背景を述べながら業平の人となり、その生涯を追う。『伊勢物語』の主人公は後世が作りあげた虚像であるとし、そこに載せられた歌は取り上げないが、物語そのものは随所に参照される。紀貫之は古今集の仮名序で、「在原業平は、その心あまりて言葉たらず。しぼめる花の、色なくてにほひ残れるがごとし」と評しているが、そのためか、業平の歌には、古来さまざまな解釈がなされてきたようだ。本書は、契沖、賀茂真淵、本居宣長、窪田空穂などの従来の研究者の説を批判的に紹介している。さらに、歌の背景の解説で、平安初期の権力闘争の歴史にも触れている。

 業平は平城天皇の孫に当たる。在原氏は台頭してくる藤原氏に抑えられて、政治的にはむしろ不遇であった。これは、紀氏についてもいえることである。業平が20代から30代後半までの13年間も官位の昇進がなかったのは、藤原氏の圧力もあったかもしれないが、当代きっての色好みとしての彼の行動、色事にかまけて職務に励まなかったためだろうと推察する。伊勢の斎宮、皇太子の妃などがその相手であったとされる。しかし、そうした若気の情事がおさまった業平は最晩年の1年は天皇のそばに仕える蔵人頭にまでなっている。子供にも恵まれ(母親はそれぞれ違うようで名前も不明)、棟梁、滋春は歌人で、棟梁の子、元方の歌は古今集の冒頭に収載されている。さらに、棟梁の娘は藤原国経の妻であったが、時の権力者藤原時平に横恋慕されて略奪されてしまった。谷崎潤一郞の『少将滋幹の母』その人である。

 業平の朝臣の伊勢の国にまかりたりける時、斎宮なりける人に、いとみそかに逢いひて、又のあしたに、人やるすべもなくて、思ひをりけるあひだに、女のもとよりおこせたれける   よみ人しらず
 君や来し 我やゆきけん おもはえず 夢かうつつか 寝てかさめてか
    業平の朝臣
 かきくらす 心の闇にまどひきに 夢うつつとは 世人さだめよ

 伊勢物語の名前の由来ともなったとされる歌である。皇女で未婚を守る斎宮と本当に一夜を過ごしたのだろうか。古来実際にあった、なかったとの論議が交わされてきた。著者はそうした論議を8ページにもわたって紹介したあと、「わたくしもしばらく歴史離れをして、千年間懐しまれて来たように、美男の貴公子と清浄な皇女との夢のような、しかし身も心も一夜に燃え尽すほどの情事を、その儘生かしたい気がする。少なくともそれは女が歌ったように夢とも現とも定めがたいものであり、又業平が歌ったように事実か虚構かの詮索は世の人それぞれの心に任すべきものであろう」と記す。(p57)
 なお、この斎宮は後に男子を産み、高階家に養子に出し、高階家は平安末期の院政時代に権威を振るったという。

 からごろも きつゝなれにし つましあれば はるばるきぬる 旅をしぞ思ふ
おそらく歩き疲れた同行者から、徒然を慰めるために難題を所望されて、業平は奮発してあらゆる修辞の大サービスを試みた。「唐衣」と切り出した勢いで、「着つゝ」「褻(なれ)にし」「褄(つま)」「張る」「着ぬる」と、これでもかこれでもかと衣服の縁語を繰り出した。それは旅装束の荷厄介さや汚れ物の始末に閉口していたに違いない道連れたちへの、念の入ったからかいである。ここで道連れの反応は、ドッと沸き起こる哄笑であった。」(p85)
 もちろん、歌の意味は都へ残してきた妻を思い、遥かに来た旅路の感慨である。

 色好みとして名高い業平も、晩年は老いを感じた。

 さくら花散りかひくもれ老いらくの来むといふなる道まがふがに
 おほかたは月をもめでじこれぞこの積もれば人の老となるもの

 の二首にはそれが現れている。後者は古来老いを嘆くものとして解釈されてきたが、著者は、この歌は諧謔の歌だという。天体の月と歳月の月をかけ、月が積もれば老いるのは当然である。だからといって月を愛でないというのはとんだお門違いで、そのはぐらかしが一座の笑いを誘っただろうという。決して老いの嘆きをひたすら沈痛に歌い上げたものではないという。(p140~)

 小野小町の生涯は、業平よりももっとわからない。業平はなんといっても官位を有する貴族であり、「三大実録」などの正史の資料もあるが、小町にはそうしたものはない。著者は従来の研究を概観し、小町の伝記は暗中模索に終わる他ないとした上で、小町は仁明・文徳朝の頃に後宮十二司のどこかに勤仕していた女性だろうと漠然と推察する。本書は、小町の歌を中心にその人となりを描く。

 花の色は移りにけりないたづらに 我が見世にふるながめせしまに
著者は言う:……「
花の色」に容色が含まれているか否かは、二義的なものであるとわたくしは思う。何故ならたとえ「花の色」が単純に外物であろうとも、なお一首全体は決して景物詩ではなく、純粋な抒情詩だからである。小町は花を惜しむの情を表層に出しつつ、実は花の移ろいも知らぬまで物思いに沈んだ我が境涯をいとおしみ訴えている。内面に潜む微妙なものを詠い上げること、すなわちすぐれて抒情的であることこそ、歌人小町の本領であり、新しさであった。小町の眼は外へ放たれず、常に内をのぞき込んでいる。(p170)。古今集の撰者はこの歌も当然雑の部に入れるべきことは知っていながら、、四季の部に一首くらは入れようと思って、春の部に入れたのだろうと、著者は言う。

 思ひつつ寝ればや人のみえつらん 夢と知りせばさめざらましを
 古今集巻十二恋歌二の巻頭の歌。「
古今撰者は業平、小町を恋愛歌の双璧とみていたのであろう。小町の恋歌は、まず何よりも夢と結び付くところに特徴がある。夢のように甘美で夢のようにはかなく、小町の青春と恋は過ぎ去るのだ。」(p178)。

 つゝめども袖にたまらぬ白玉は 人をみぬめの涙なりけり  安倍清行
 おろかなる涙ぞ袖に玉はなす 我はせきあへずたぎつ瀬なれば  小町

 安倍清行と小町の贈答歌である。
「あなたの涙はいい加減なものだから袖の上に溜まる玉などになるのです。それに引替えわたしの涙は、涌き立ち流れる川瀬のように激しくて、とても堰き止められるものではありませんよ」と言う意味。著者は言う:
窪田空穂は、「この歌に現れている小町は、前の夢の歌の場合とはちがって、機智があり、強さがあって、別人のような趣を見せている」と指摘した。確かに小町には、女性のもつさまざまな資質が複合されている。あの夢の歌だけによってその性格と生涯を暗く弱々しいものに限定してしまうべきではない。(p194)

 最後に「古今的なものについて」と題して、10ページ余りの小論がある。
 
古今集が創出し、以後長く継承された発想、表現を古今的なものと呼ぶなら、現代人は体質的にそれに親しめなくなっている。その原因は与謝野鉄幹、正岡子規が古今集に与えた致命傷であると、著者は言う。以下古今集と誹諧との関連を述べたところが面白い
 古今集の再認識は、万葉との対比ではなく誹諧からの遡及によるのが便利ではないかと、わたくしはひそかに考えている。誹諧の本質を「挨拶と滑稽」と規定したのは山本健吉(「純粋俳句」)の卓説だが、その社交の媒体としての機能、軽妙洒脱な言葉選びは、古今集に源を発した。それは子規が挙示した美の基準、すなわち梅原流に分類すれば客観・感情・強調・創造とは全く相容れない発想である。常に自然と人事を、又実体と言葉を絡み合わせ溶け込ませる主観的操作が歌をつくる興趣となった。切迫した感情を剥き出しにするはしたない行為の代わりに、それをさりげない諧謔とくさぐさの修辞に包みこんで談笑交歓するのが歌の存在意義となった。なまなましい創意などをおこがましく味気ないないものとして、古き良きものを下敷きにほんの少しどこを変えて何かを加えることが、歌人の手練となった。こうして花の陰には女の顔がみえ、月の面には人の老いがみえ、風景の奥には歴史がみえ、言葉の裏には常にもう一つの意味が含まれるに至ったのだ。

 こういう意識的人工的な構築作業は、当然生動して止まない本然の抒情との抵抗関係を生む。閑雅な王朝貴族は、この詩的抵抗に四苦八苦する余裕を愉しんだ。万葉集ももとより感情の無技巧な流露奔出そのものではないが、人工の比重は遥かに小さくかつ無自覚的であった。それ故、鑑賞者の方でも正面からその奔流を浴びて、肌に生き生きと感じ取れば事足りる。しかも得られる感動の質は全身的緊張に人を引き込む重いものである。しかし古今集のように抒情を人工的変容修飾の庭に閉じ込めた作品に対しては、鑑賞者も作者の構築したものをまず一度解体して組立て直し、改めてその巧緻を納得しなければならぬ。甚だ手数の掛る作業を強制されるのだ。

 その上すべて人工的なものは急速に時代色を帯びる宿命を持つから、凡そ実作のお手本などにはならぬ。実作革命の野心に燃えた子規の性急な評価に堪えなかったのは当然であろう。そう言えば俳人子規は連句には一顧も与えなかったが、古今鑑賞の廻りくどさは付合の妙を味わう場合とよく似ている。ようするに制作技法の知的性格に対応して、鑑賞も知的たらざるを得ないのだ。しかもこれは頭をひねった末に到達するのは万葉の場合のような全身的緊張でなく、逆にひどくリラックスした安堵である。古今鑑賞の帰着点は感動ではなく、興趣だ。誇張して言うなら万葉を読んで人は泣き、古今を読んで人は笑う。連歌・誹諧への道が古今集を起点として展開したのは極めて自然ではないか。考えてみれば、わたくしも下手な横好きで長年俳句に関わったことから、おのずからこの道を遡及して業平・小町までたどり付いたのである。
(p247~)

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書名 柿本人麻呂 著者 中西進 No
2017-21
発行所 筑摩書房 発行年 昭和45年 読了年月日 2017-08-19 記入年月日 2017-08-20

「日本詩人選2」。紀貫之は『古今集』の序で人麻呂を「歌の聖なりける」と言っている。「紀貫之」「在原業平・小野小町」と続いたこのシリーズ、柿本人麻呂を読んでみたくなった。

 主として万葉集にある人麻呂の歌を取り上げ、その歴史的背景、詩論的考察、言語学的考察が詳細に述べられる。万葉集にはまったくなじみのない私には、すべてが新しいことばかり。万葉集になじめなかった理由のひとつは、長歌が長たらしく、読むのに煩わしかったからだ。本書は人麻呂の多数の長歌を取り上げて詳しく解説している。長歌は口に出して読むと、単調とも思われることばの繰り返しがかもすリズム感、朗々とした調べが心地よい。

 人麻呂は持統朝に使えた宮廷人。7世紀末から8世紀初めにかけて活躍した。「柿本朝臣人麻呂」と詠者名があるが、身分は舎人であったろうという。当時の舎人は皇族の側近くに仕える官吏であった。宮廷の行事の際に歌を詠んだが、人麻呂は行政官としても石見へ行っているし、瀬戸内海の旅もしている。ただ、その生涯ははっきりしておらず、生年も不明である。壬申の乱(672年)の時に10歳くらいだったろうという。

著者は本書の最後で以下のように総括する:
 
……その詩の本質をなすものは、不在なるものへの問いかけであった。そのもっとも顕著なものは、王権讃美の詩のあり方に見られる。おのが周辺にたちこめた忘却の中から、壬申の生々しい光輝をよび戻し、定立することが、讃歌を歌わせることとなったのだった。 この輝かしいしらべの底にひめた、過去への回帰は、彼の詩に時として浮かび出る。近江荒都の長歌や、安騎野従駕の歌には、こうした喪失の時を求める人麻呂の意識が、春草の繁茂や暁光のゆらめきの背後にある。またふたりの皇太子、次代の星を失った時に、鎮魂の中心を占めるものは、生命の杜絶という未来への断念の悲しみよりも、回復すべくもない過去への嘆きであった。
 このような人麻呂詩を生じさせたものは、持統朝廷の精神と一体となって存した彼のあり方でもあったが、それが同時に彼自身の資質でもあったところに、私人人麻呂の詩も同様に決定される必然があった。人麻呂が多くつくった女の死の詩において、「死」の意味が愛の遮断であったことは、それをよく示している。つまり人麻呂は皇女や宮女の死を、愛の追憶の形においてとらえ、自ら愛するものの死を、愛するものとの別離としてとらえざるを得なかったのだった。
 これらは長歌を主とした人麻呂の世界であるが、一方短歌という生活的な詩形においては、「恋」という生活的感情を濃厚に歌うこととなった。愛する者と共にあることを求める孤独が、それである。
 この、共にあることを願い、無きを求めるという心情は、死によって愛を喪失することの嘆きと、ひとしいものである。そしてまた、旅なるものが家郷を離れてそれを恋うということともひとしい。人麻呂の旅の歌は、家郷流離の詩である。
 しからばこのすべてを通じて、人麻呂の求めたものは、現前に喪失しているもの、不在なるものであったことになる。不在なるものを現前において把握するという、この時空の超越に人麻呂詩の強靱な体質があって、何人もこの領域を侵すことができないところに、人麻呂の偉大さがあったのである。

この最後のパラグラフは多分著者独特の人麻呂観であろう。
 本書は讃仰、喪失、鎮魂、追憶、別離、孤独、旅愁という八つの章を立てて、人麻呂の歌を解説している。最後に人麻呂歌集についても述べられる。

 私は百人一首の「あし曳きの長どりの尾の・・・」しか人麻呂の歌を知らなかったが、この歌は本書には取り上げられていない。丸谷才一編の『百人一首』を調べたら、山本健吉がこの歌は人麻呂の歌ではないと断定していた。後世の人が編んだ人麻呂歌集にはあるが、この歌集の多くは人麻呂の歌ではないと、本書でも言っているが、山本健吉も同じことをいっている。この歌を人麻呂の作としたことに、平安、鎌倉期の歌人の人麻呂観が伺われると、山本健吉は述べている。


 
人麻呂の歌を知らない私が、まず驚いたのは最初の讃仰の章で出てくる、天皇讃仰の歌。まるで戦前の天皇讃歌ではないかと思った。
 大君(おおきみ)は神にし座(ま)せば天雲(あまぐも)の雷(いかづち)の上に廬(いほり)せるかも

 
持統天皇が雷の岳に遊んだときに供奉した人麻呂の歌である。大化の改新以後、その権力を強め、固めていき、天武天皇の時代にほぼ確立した天皇中心の強力な政権のただ中にあった人麻呂にとって、王権の讃仰は詩の第一の主題であったと著者は言う。この章に引かれた長歌には、長々と天皇讃美が連ねられている。

 
70ページ以下には、高市皇子の死に際してつくられた挽歌が載る。全体で151句よりなるこの長歌は万葉集の中で最大のものである。著者は言う「一体に人麻呂という歌人は、その長歌によって真価を発揮し得た歌人で、もとより短歌にもすぐれたものが多いが、長歌の、大河の如き流れとひびきこそ、人麻呂の生命である。」(p73)。人麻呂らは宮廷歌人と呼ばれ、宮廷にあって儀礼歌をたてまつったと考えられるが、その中心は死の儀礼であり、その意味では人麻呂は「死の詞人」であったと、著者は言う。(p134)

恋について
:万葉人は、愛することを「恋ふ」ということばで表現した。彼らにとって、愛とは恋であった。それでは「こふ」とは、どういうことばなのだろう。「こふ」は英語のmissに当たるという、すぐれた意見がある。これは、同じ英語でもloveと異なって、失われたものを求める意味である。愛する者はつねに相手を求める。「万葉集」に見える相聞の歌は、その愛する者を求める何千首の歌群である。そして求め得ざる歌こそ恋の歌である。だから恋の歌とは、共にあるべきものを欠き、それを求めることを本質とする。ことばを換えていえば、愛の孤独が恋なのである。(p154)

 
万葉集の基本をなす恋歌は民衆の世界であった。人麻呂はこうした民衆歌に接近しながら、美しい恋歌を作った。人麻呂は常に詩への志を持っていて、生活感情をそのまま放出するように恋の苦悩を歌わなかったという。(p181)
取り上げられた歌から一首を挙げる


 夏野行く牡鹿の角の束の間も妹が心を忘れて思へや
「妹が心」とは相手が人麻呂を思う心。夏野の牡鹿の角はまだ短いが、その短い束の間さえ、あなたが私を思ってくれる心を私は決して忘れはしません。

 なんの予備知識もないまま、いきなり万葉集の核心に引き込まれてしまったような本書であった。

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書名 万葉のいぶき 著者 犬養孝 No
2017-22
発行所 新潮文庫 発行年 昭和58年 読了年月日 2017-08-22 記入年月日 2017-09-08

 かつての職場の同僚と、会食したとき万葉集の話が出てきた。私は読んだことがないと言ったら、本書が読みやすい入門書だと勧められた。
 アマゾンの古本で、定価1円であったが、新本と言ってもいいほどのものだった。

 分かりやすい歌が取り上げられ、簡単な解説がなされている。素朴におおらかに、ストレートに恋を歌った作品に、なるほど古今集や新古今集とはずいぶん違うと納得する。独特の用語や読みが分かれば、万葉の方が親しみやすい。特に読み人知らずとして収載される当時の民衆歌が、古代日本人の心情、生活を知る上で興味深い。賀茂真淵や本居宣長が大和民族の心の故郷としたのも分かる。

 たくさんの写真が掲載されている。後半は歌の詠まれた場所への旅が述べられ、旅心を誘われる。


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書名 大伴家持 著者 山本健吉 No
2017-23
発行所 筑摩書房 発行年 昭和46年 読了年月日 2017-09-06 記入年月日 2017-09-07

『日本詩人選 5』。伝記、歌の鑑賞、評論、当時の歴史などが織り交ぜられた大伴家持の人物像。私にとってはすべてが初めて知ることばかり。本書も本シリーズの他の本と同様、広く文献に当たって詳細に、かなり専門的に書かれている。特に政治がらみの伝記的な記述が多いのは、大伴氏が当時の有力氏族であり、奈良時代を通して朝廷と深く関わっていて、最後は中納言まで官位を上がっているたからであろう。
 大伴家持、生年は霊気年(715年)もしくは養老元年(716年)、没年は延暦4年(785年)で、桓武朝の初期、長岡京への遷都が終わったばかりの時である。奈良時代を生きたといえる。この時代も決して平安ではなかった。政治的には不安定で、聖武天皇は平城京を出て、3回も都を変えている。奈良に落ち着いてからも、橘奈良麻呂の反乱や、藤原仲麻呂の専横と没落など。

p183以下:
彼は不器用な作家だ。父の旅人や、叔母の坂上郎女と較べても、彼が下手な作家であることは疑いない。だが、それにもかかわらず、今に到るまで人々の心を捕え、私の心を惹きつけて離さないのは、一体何なのか。それは、旅人よりも、憶良よりも、坂上郎女よりも、彼の作品のなかに人間存在の「かなしみ」が漾っているからである。あるいは「さびしさ」だと言ってもよい。これは歌が上手だとか、下手だとか言う前に、彼の生き方そのものから匂い出る、どうにもならぬものであるらしい。中略
 万葉歌人の中で、初期の非業の死を遂げた皇子たちは別として、生涯をもっとも悲しく生きた人、命をもっとも深く悲しみで充たした歌人は、家持だった。それはなかばは、彼が宿命的に置かれた地位から、彼の意思には関係なく、外的に彼にもたらされたものである。だがなかばは、彼の意識の奥底から涌き出てくる悲しみである。前者は彼の出生や経歴を語ることで、述べ伝えることは出来る。だが、後者は、彼の作品を通じてひとそれぞれが感じ取るより仕方がない。その悲しみの心が、彼を官僚たることになじませず、政治家たらしめもしなかったが、その余剰の部分で彼は生き、その心の鼓動を今日にまで伝えている。

 
この文の前には万葉集で3番目に長いとされる家持の長歌が引用されている。それは陸奥の国で初めて金がとれたという詔を賀してつくられたものである。その一部に「大伴の遠つ神祖(かみおや)の その名をば大来目主(おおくめぬし)と 負ひ持ちて仕へし官(つかさ) 海行かば水浸(みづ)く屍(かばね) 山行かば草生(む)す屍 大皇(おおぎみ)の辺(へ)にこそ死なめ ・・・・」がある。これは大伴一族が皇祖の昔から武人として天皇に仕えてきたことの誇りを述べ、一族を励ましたものである。大伴氏の遠祖は天孫降臨に従って下った天忍日命(あめのおしひのみこと)であるとされる。天皇の内兵として皇居の警備役の筆頭の位置にあった。しかし、家持の時代、律令体制下に官僚体制が整ってくると、有力氏族のそうした役割は徐々に減っていく。家持の心の中に、常にかつての大伴一族の栄光への思いがあった。さらに、藤原家の台頭も大伴一族の相対的な地位を低下させた。上に引用した文は、そうした彼の立場がその歌のもつ「かなしみ」の半分であるという。「海行かば・・・」以下のフレーズは戦中の軍歌であり、多分戦後になってからだが、私も耳にしたことがある。日本軍が敗れた際に流された。家持の長歌のこの部分は続日本紀の記述を引用したものであると、本書は述べている。

 家持の父旅人は九州太宰府の長官として赴任する。幼い家持も一緒に行った。太宰府は大陸との交流の中心地であり、当時文化的なサロンのようなものがあり、漢詩なども盛んに詠まれただろうという。旅人の妻は太宰府で亡くなるが、叔母の坂上郎女が大伴家を取り仕切る。坂上郎女はそうしたサロンの主催者であった。そして、家持も幼い頃にすでに、漢詩など詩の洗礼を受けた。家持のもっとも古い歌は、13歳の時のもので、すでに奈良に帰っていたときのもの。家持は27歳で越中の国司に赴任し、そこで5年余を過ごす。聖武天皇の大仏建立のための費用調達も彼らの大きな任務であった。

 家持のもっとも新しい歌は、彼が40歳の時につくったもので、それ以後の歌は残っていない。作らなかったのか、書き留めなかったのかは分からないという。彼の死は桓武朝に入ってからだが、彼が死んでから20日あまり後に、桓武朝の実力者、藤原種継が大伴継人らに射殺された。その策謀に家持も絡んでいた。それで、死後にもかかわらず名を抹消され、息子の永主らは流罪に処せられた。家持が赦免されたのは延暦25年(806年)である。


 
一般に彼の代表作として最も高く評価されているのは以下の3首(p210以下)。

春の野に霞たなびきうら悲しこの暮影(ゆふかげ)に鸎(うぐいす)なくも
わが屋戸(やど)のいささ群竹ふく風の音のかそけきこのゆふべかも
うらうらに照れる春日にひばりあがり情(こころ)悲しもひとりしおもへば


天平勝宝5年(753年)2月の作で、越中国司の任からは帰っていた。
特に第3首を山本は以下のように言う
:これは家持の絶唱である。このような歌の境地は、家持以前にも、家持以後にもなかった。彼一人で、ぽつりと絶えてしまった。西行や心敬や芭蕉のような世捨人たちが、この境地を観念的に知っていたようだ。近代の詩人は、家持のこの境地に深い共感を覚えるが、近代人の意識が先に立って、これほど純粋にこの世界を持続しえない。

 
家持は桓武天皇の早良皇子に歌集を献上した。次の天皇は平城天皇である。平城天皇は桓武の第二皇子の安殿(あで)皇子であるが、東宮時代にこの歌集に親しみ、後に欽定により万葉集が成立したという折口信夫の説を最後に紹介している。

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書名 日本文化をよむ 著者 藤田正勝 No
2017-24
発行所 岩波新書 発行年 2017年8月 読了年月日 2017-09-11 記入年月日 2017-09-17

開かれた対話に向けて―日本文化の自画像を描く」と帯にある。
「5つのキーワード」がサブタイトル。西行の「心」、親鸞の「悪」、長明と兼好の「無常」、世阿弥の「花」、芭蕉の「風雅」がそのキーワード。
 文化と文化が出会うことにより、自分自身の文化の枠組みの中では見えないものが見えてくる。しかし、昨今のグローバル化がもたらした一面として、文化と文化、民族と民族、宗教と宗教の間の溝が一層深まっているように見える。異なる文化との対話のためにはまず自身の文化の明確な自画像を描かなければならない。これが本書の目的であると、著者は言う。
 本書の最後の章は「西田幾多郎の日本文化論」、そのなかで著者は以下のように述べている:
まず指摘できるのは、日本の文学や宗教を支えてきた人々の深い無常への思いである。それは本書で取りあげた西行や親鸞、兼好、そして宗祇や世阿弥、芭蕉のなかにも見だされる。たとえば芭蕉が用いた「幻の栖」という言葉がそれをよく示している。われわれは現世というこのかりのすみかにひととき住まいするにすぎないのである。その思いは、彼らだけでなく、日本の文芸や思想、宗教のなかに言わば通奏低音として鳴りひびいている。そして彼らに共通して見られるのは、この無常への思いを背景にした特有の美意識である。(p188)
 このように、日本文化の通奏低音として「無常」をおいている。私が読んだ限りの句や紀行文からは、私は芭蕉の作品に無常感を感じない。それは長明や兼好のように隠遁生活を送らずに、最後まで世間と交わり、弟子たちと誹諧を詠んだ芭蕉の生涯から来る印象でもある。
 著者の専攻は哲学、日本哲学史と奥付きにはあるが、本書では仏教用語や経典からの引用が、随所に見られる。
本書から:
悪人正機
 
「悪人」とは深い罪悪を身に背負い、仏になる能力も素質ももたないもののことであるが、自らさとりへといたることのできないことの「悪人」をこそ救おうと阿弥陀仏は願を起こしたというのである。仏になる能力も素質ももたないことを自覚し、阿弥陀仏にすべてを委ねることこそ、往生のための正しい因(たね)になる。つまり悪人こそ救いの対象であることを親鸞は強調するのである。(p45)。
芭蕉
「造化にしたがひ、造化にかへる」ということは、自然の創造の営みと一つになり、その「微」を感じとること、そしてそれが言葉になることを意味する。(p151)
「心の作はよし、詞(ことば)の作は好むべからず」という芭蕉の言葉を引いて以下のように言う:誠を勤め、物そのものに迫り、その生命を感じとれば、それに染まった心(心の色)が句となる。それが「心の作」であり、そこに「成る句」が成立する。それに対して、物の生命を感じとることができない理由――「外に言葉を工む」と言われていたように――「私意」によって句を作りあげるほかない。それが「詞の作」であり、そこに作られる句が「する句」である。句が「成る」ということは、しかし、いわゆる推敲が不要であるということではない。(p154)

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書名 365日季語手帳 著者 夏井いつき No
2017-25
発行所 マルコ.ポム社 発行年 2017年1月 読了年月日 2017-09-18 記入年月日 2017-09-20

 今月の句会の後、宮川ルツ子師から、夏井いつきの本を読むようにすすめられた。師は、テレビの「クレバト」の熱心な視聴者で、そこで出される芸能人たちの俳句を採点する夏井いつきがたいそう気に入っていて、機会あるごとに夏井いつきを褒める。この番組のおかげで、今俳句ブームといわれている。私も今までに2,3回見たが、夏井いつきの歯切れのいいコメントと、添削はわかりやすく、なるほどと感心する。

 夏井いつきの本は『絶滅寸前季語辞典』『絶滅危惧季語辞典』はすでに読んでいたので、アマゾンで検索して、それ以後の本を手にした。本書はその中の一つ。

 表題通りの内容。一日一つの季語に、1句が添えられ、簡単な解説がなされる。取りあげられた季語はなじみのあるものがほとんど。改めて自分が俳句をやり始めてはや7年も経ったのだと思う。面白いと思ったのは、365句のうち、圧倒的に虚子の句が多いこと。数えてはいないが、50句では済まないだろう。平気で破調の句を作る夏井いつきが伝統俳句の親玉である虚子を高く買っているのが意外だった。ついで子規の句が多いのは同じ松山出身としてわかる。芭蕉、蕪村は当然だが、目についたのは西東三鬼と原石鼎。何か結社のつながりがあるのだろうか。その他、久保田万太郎の句もところどころ採られている。種田山頭火、尾崎放哉もあるが、それに反して、中村草田男の句はないし、いわゆる4Sの山口誓子、高野素十、阿波野青畝、水原秋櫻子はなく、山口青邨の句もない。

 各季語に選ばれた句は少し変わっていて初めて目にするものが多い。
真桑瓜
 初真桑四にや断ん輪に切ん   芭蕉
 真桑瓜の説明がしてあって「口調の楽しい一句」とコメントを結んでいる。これなど季語も今どき珍しいものだが、芭蕉の句も珍しい。

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書名 風流大名列伝 著者 稲垣史生 No
2017-26
発行所 新潮文庫 発行年 平成16年 読了年月日 2017-09-26 記入年月日 2017-09-26

 水戸光圀から井伊直弼まで、江戸時代の大名17名の風流ぶりを述べる。風流と言っても高額な茶道具を買い集めることから、女狂いまで幅広い風流で、大名の生い立ちを述べる。ただ、史料の出所も明らかでなく、厳密な考証もなされていないので、歴史書ではなく、歴史読み物というのが本書。随所に入れられた台詞など、明らかに著者の創作と思える部分もある。その分、読んでいて面白いが、歴史書を読み慣れた私には、違和感がある。茶道誌『淡交』に連載された物で、武将とお茶の関わりがよく出てくる。

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書名 古今集 著者 紀貫之他遍 No
2017-27
発行所 「岩波文庫 発行年 1997年 読了年月日 2017-10-05 記入年月日 2017-10-10

 この文庫本も大昔岩波文庫で日本の詩歌集として一括売り出していたものを買ったもの。ハードカバーの文庫本で、万葉集、新古今集、芭蕉、蕪村の句集など揃っている。かつての職場の同僚と話していたとき、万葉集と共に古今集も話題になった。同僚の一人が言うには古今集は分かりやすいという。それで、本棚で眠っていた本書を引き出してきた。

 1111首が並ぶ。各歌には簡単な脚注がなされる。歌だから単に読めばいいと言うものではなく、意味を理解し、味わいながら読むと、一時にそんなに多数読めるものではない。ところどころに百人一首の句が出てくると知らぬ人の群れで知人にあった感じ。

 掛詞のもつ二つの意味がわかれば、内容としてはそれほど深いものではない。洗練された、繊細で機知に富む言葉の遊び。大岡信も言っているように、これは平仮名の発明、テニヲハの発達のもたらしたものなのだろう。理に傾いているとはいえ、古今集が子規の言うほど下らないものだとは思えなかった。

 春歌から始まる四季の歌、賀歌、離別、羇旅、恋歌と続き20巻よりなる。うち恋歌が5巻、366首で(最終巻の墨滅歌収載の6首を含む)、全体の3分の1である。恋歌を読んでいて、感じたのは人目に対する異常なまでの意識。人に知られたくない、世間のうわさになりたくないという思いが強い。何故だろうか。当時の貴族の婚姻は一夫多妻で、多くの女の元に通っていたからだろうか。

 紀貫之の手になる「仮名序」が素晴らしい。
 
和歌は、人の心を種として、万の言の葉とぞなれりける。世の中にある人、事・業しげきものなれば、心に思ふ事を、見るもの聞くものにつけて、言ひだせるなり。花に鳴く鶯、水に住むかはづの声も聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける。力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女のなかをもやはらげ、猛き武士の心をもなぐさむるは、歌なり。

「仮名序」の中ごろには歌人の評論がある。柿本人麻呂を歌聖と崇め、山部赤人を「
歌に、あやしく妙(たへ)なりけり」とするが、人麻呂が赤人の上であることは動かしがたいと評する。平安前期のいわゆる6歌仙については歯に衣着せぬ評論をしている。例えば僧正遍正は「歌のさまは得たれども誠すくなし。たとへば、絵にかける女を見て、いたづらに心動かすがごとし。」遍正の「天つ風雲のかよひぢ吹きとぢよ」の百人一首の歌は、作者が「よしみねのむねさだ」となっている(871番、p204)。僧正遍正は僧籍に入ってからの名前なのだろう。

 巻19雑躰には「誹諧歌」という区分けがある。滑稽な歌。誹諧という言葉はすでにこのころからあったのだ。その中の1首
 睦言もまだ尽きなくに明けぬめり いづちは 秋の長してふ夜は
  凡河内みつね  (1015番、p242)。

 巻末には紀淑望による漢文の「古今和歌集序」が載っている。漢文には書き下し文が添えてある。その中に、大津皇子が初めて漢詩を作って以来、多くの人がそれにならい、和歌が衰えたという趣旨の一文がある(p263)。大津皇子は天武天皇の第三皇子で、すぐれた人物で人望もあったが、謀反の疑いをかけられ、24歳で自死した。大津皇子の死には天武天皇の妃で後の持統天皇の意志が働いていたとされる。釈迢空の『死者の書』の死者とは大津皇子のことである。

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書名 美しき、季節と日本語 著者 夏井いつき No
2017-28
発行所 ワニブックス 発行年 2015 年11月 読了年月日 2017-10-17 記入年月日 2017-10-17

 辛口のコメントを連発する著者からは想像できないような、優しい口調の本。季語を中心にして日本の四季を語り、それをいかに言葉として表すかが、分かりやすく書いてある。季語の理解の助けになる。この人は本質的に詩人であることを再認識。季節に対する繊細な感覚と、それを表現する繊細な言葉。手あかの付かない表現による手紙文の実例。

 季語を通して日本語への、日本文化への愛、賞賛に共感を覚え、心地よい。

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書名 The Remains of the Day「日の残り」 著者 カズオ・イシグロ No
2017-29
発行所 Farber and Farber 発行年 2017-11-07 読了年月日 2017-11-07 記入年月日 2017-11-17

 本年度ノーベル文学賞は日本生まれで英国籍を持つカズオ・イシグロ氏に決まった。名前は知っていたが、読んだことはなかったのでこれを機会に読んでみた。アマゾンで調べたら、日本語訳のものは品切れで増刷を待たねばならなかった。日本生まれの作家がどのような英語を書くのかという興味もあって原書を注文した。これも、届くまで1週間以上かかった。本書は著者の代表作で世界的なベストセラー。

 Darlington Hall というロンドンの館に執事として仕えたStevensという男性の物語。第一次大戦後から第二次大戦直後までが物語の中心となるが、それはすべてStevensの回想の形で語られる。

 執事としてStevens が長く仕えたDarlington 卿の死後、Darlington Hall はアメリカ人実業家の手に渡るが、Stevens は執事として引き続きDarlington Hall に残る。新しいスタッフのことに悩んでいた彼は、かつて彼のもとで働いていたMiss Kenton の助言を得ることを思い立つ。そして、彼女の住むWest Country へ新しい主人から借りたフォードを駆って、6泊の旅に出る。その途中で出会った人々や出来事を通して、執事としての彼の生涯が回想される。日本にはほとんど見られない職業だが、その実体が細かく描かれている。主人の私生活全般の隅から隅まで面倒を見る責任を有している。いつ休む隙があるかと思うくらい、過酷な労働だ。よき執事とはどのようなものかという論議が本書では何回も繰り返されるが、Stevens はdignityを供えているかどうかがよき執事であるとの信念を貫く。

 Miss Kentonは彼のもとで働く極めて優秀のスタッフだった。二人とも有能で仕事熱心で、仕事上ではぶつかることも多い。それでもMiss KentonはStevensに淡い恋心を抱いていたようだ。しかし、「work,work,work」以外に目のない彼には彼女の気持ちを察することは出来ない。そんな彼女も、結婚を機にDarlington Halllを去る。

 Darlington Hallには、イギリスはじめ世界の名士が訪れ、重要な会議が開かれる。そうした公的な部分には執事は一切関わってはならない。しかし、食事のサービスの間に、あるいはソファーでくつろぐ要人へトレーに載せてブランディーを運ぶ間に、色々なことが耳に入ってくる。それでも、その内容は当然ながら執事の胸の内にしまっておく。第一次大戦後には、各国から集まった人々が、戦後ドイツの窮状について話し合う。大戦の代償として多額の賠償は当然であるという意見に対し、Darlington 卿は負けた敵にも寛大さと友情を示すべきだという考えだ。

 本書の最後の部分の回想は、Darlington Hallでのイギリスの首相、外相、そしてナチドイツの駐英大使リッベントロップの会談。その結果、イギリス国王の訪独計画まで話が進む。ドイツとの戦争が始まると、Darlington 卿のとったこうしたドイツに対する融和的態度は、厳しく非難され、卿は社会的地位を失う。

 StevensとMiss Kentonは彼女の住む町のホテルのロビーで会い、午後の半日を過ごす。 Kentonには最近リタイア―した夫との間に娘があり、娘にはやがて子供が生まれる。Stevensが手紙から想像していたのとは違い、彼女は幸せな結婚生活を送っていた。自宅に帰るKenton をStevensは雨の中をバス停まで車で送って行く。そこが二人の別れの場所だった。もう二度と会うことはないだろうとStevens は言って別れる。情感の溢れる場面だ。

 描写が細かい。特にドラマティックな展開もないが、引き込まれるように読むことが出来たのは、単に一執事の個人的な回想に終わらず第一次大戦から第二次大戦にいたる、時の流れが、回想というフィルターを通して静かに語られているからでもあろう。
 最初の方では、イギリスの地方の風景の描写に引かれた.例えば

What I saw was principally field upon rolling off into the far distane. The land rose and fell gently, and the fields were bordered by hedges and trees. There were dots in some of the distant fields which I assumed to be sheep. To my right, almost on the horizon, I thought I could see the square tower of a church. (p26)

 これは2年前の初夏、イギリスを北から南へバスで巡ったときの印象そのものだ。著者はイギリスの風景を際立たせるのは「the very lack of obvious drama or spectacle 」だという。それが、イギリスの風景を見るものに世界でもっとも深い満足感を与えるものであり、それは「greatness」と呼ぶのにふさわしいと述べている。(p28~29)。この小説そのものが、イギリスの風景そのものとも言えそうだ。

 この小説の最後は、明日ロンドンへ帰るStevens が、海辺の町の桟橋で、暮れゆく海を眺めるシーン。通りかかった地元の男性が、Stevens に語りかける。

 
The evening's the best part of the day. You've done your day's work. Now you can put your feet up and enjoy it.… The evening 's the best part of the day.(put one's feet up=一休みする)。

 そして、Stevens は思う。
I should adopt a more positive outlook and try to make the best of what remains of my day.(p256)

 これは今の私の心境にも通じるものだ。人生のevening はかつて思い描いていたものとは違って、人生のbest part だと私も思う。

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書名 万葉秀歌(上) 著者 斎藤茂吉 No
2017-30
発行所 岩波新書 発行年 2016年 改版 読了年月日 2017-11-14 記入年月日 2017-11-18

 初版は1938年11月。私が生まれる1ヶ月前。2016年改版は第109刷という超ロングセラーのベストセラー。1巻から7巻まで、茂吉が選んだ秀歌を解説し、専門的な考察も述べる。

 茂吉が特に重視しているのが調べの良さ。万葉独特の言葉使いがあり、それが万葉集を親しみにくいものにしているが、その独特の言い回しは、口に出して見ると、響きがいい。高校時代に万葉集の歌を口に出して、朗々と読み上げたクラスメートがいたが、そのことを想い出した。彼も多分、茂吉のこの本を愛読していたに違いない。調べの良さという点で、特に柿本人麻呂の歌を絶賛する。本書で採り上げられた歌人では人麻呂が他を圧倒していて人麻呂への傾倒とも思われる。

 もう一つ目についたのは、皇室への敬意。皇族の歌も多数採り上げられているが、いわゆる御製として、その解説は他の作者とは違って、敬語をもってなされている。皇国史観的な匂いが濃いが、戦前に書かれたものだから、当然なのだろう。

 その他、万葉集の読み方、従って解釈が今もって定まらないものがかなりあること。茂吉は、そうした解釈の違いを、丁寧に説明し、自説を述べている。いかにに先人たちが苦労して万葉仮名を読みとろうとしたかを垣間見ることが出来る。契沖、賀茂真淵、本居宣長らの業績が極めて大きかったことを知る。

 万葉集には有馬皇子や大津皇子など、謀反人として葬られた皇族の歌も採集されている。当時からこれらの皇子への同情はあったのだろう。万葉集が編まれた時点から見れば、有馬皇子も大友皇子も100年以上も前のことだから、その死に際しての歌を採集することには特に抵抗はなかったのだろう。茂吉も取りあげていて、万葉集を通して、古代史の一端に触れることも出来る。

 万葉集を味わうにこれ以上の本はないのではないか。手元に置いて読み返すといいだろう。

渡津海(わたつみ)の豊旗雲(とよはたぐも)に入日さし今夜(こよひ)の月夜(つくよ)清明(あきら)けくこそ    天智天皇 (巻1・25)
 
壮麗ともいうべき大きい自然と、それに参入した作者の気迫と相融合して読者に迫って来るのであるが、如是壮大雄厳の歌詞というものは、遂に後代には跡を断った。万葉を崇拝して万葉調の歌を作ったものにも絶えて此歌に及ぶものがなかった。(p21)

ひむがしの野にかぎろひの立つ見えてかへり見すれば月かたぶきぬ  人麿(巻1・48)
 
此歌は、訓がこれまで定まるのに、相当の経過があり、「東野(あずまの)のけぶりの立てるところと見て」などと訓んでいたのを、契沖、真淵等の力で此処まで到達したので、後進の吾等はそれを忘却してはならぬのである。(p47)

いざ子どもはやく日本(やまと)へ大伴の御津(みつ)の浜松待ち恋ひぬらむ
                          山上憶良 (巻1・36)
 
憶良は漢学に達していたため、却って日本語の伝統的な声調を理会することが出来なかったのかも知れない。・・・憶良のこの歌の如きは、細かい顫動が足りない、而してたるんでいるところのあるものである(p58)。後のほうで、山上憶良は渡海して大陸文化に直接触れたと述べられている。

天(あま)ざかる夷(ひな)の長路(ながぢ)ゆ恋ひ来れば明石の門(と)より倭島(やまとしま)見ゆ  柿本人麿(巻3・255)
 
一首が人麿一流の声調で、強く大きく豊だということである。そしていて、浮腫のようにぶくぶくしていず、遒勁(しゅうけい)とも謂うべき響だということである。こういう歌調も万葉歌人全般という訣(わけ)には行かず、家持の如きも、こういう歌調を学んでなおここまで到達せずにしまったところを見れば、何の彼のと安易に片付けてしまわれない、複雑な問題が包蔵されていると考えるべきである。(p134)。

苦しくも降り来る雨か神(みわ)が埼狭野(さきさぬ)のわたりに家もあらなくに
          長奥麻呂(巻3・256)
 ・・・
古来万葉の秀歌として評価されたし、「駒とめて袖うち払ふかげもなし佐野のわたりの雪の夕ぐれ」という如き、藤原定家の本歌取の歌もあるくらいである。それだけ感情が通常だとも謂えるが、奥麻呂は実地に旅行しているのでこれだけの歌を作り得た。定家の空想的模倣歌などと比較すべき性質のものではない。 (p138)

験(しるし)なき物を思はず一坏(つき)の濁れる酒を飲むべくあるらし
             大伴旅人(巻3・338)
 
大伴旅人には「酒を讃(ほ)むる歌」というのが13首あり、そのうちの一つ。13首をすべて掲示して、茂吉はいう:
 一種の思想ともいうべき感懐を詠じているが、如何に旅人はその表現に自在な力量を持っているかが分かる。その内容は支那的であるが、相当に複雑なものを一首一首に応じて毫も苦渋なく、ずばりずばりと表している。その支那文学の影響については先覚の諸注釈書に譲るけれども、顧れば此等の歌も、当時にあっては、今の流行語でいえば最も先端的なものであっただろうか。けれども今の自分等の考から行けば、稍遊離した態度と謂うべく、思想的抒情詩のむつかしいのはこれ等大家の作を見ても分かるのである。
(p162)

妹が見し楝の花は散りぬべし我が泣く涙いまだ干(ひ)なくに  
                      山上憶良(巻5・798)
 
憶良が旅人に同化し旅人の妻を悼んだものである。・・・この歌は、意味もとおり言葉も素直に運ばれて、調べも感動相応の重みを持っているが、飛鳥・藤原あたりの歌調に比して、切実の伝え得ないのはなぜであるか。恐らく憶良は伝統的な日本語の響に真に合体し得なかったのではあるまいか。・・・この歌は、従来万葉集中の秀歌として評価せられたが、それは、分かり易い、無理のない、感情の自然を保つ、挽歌らしいというような点があるためで、実は此歌よりも優れた挽歌が幾つも前行しているのである。(p196)

風吹けば浪が立たむと伺候(さもらひ)に都多(つた)の細江に浦隠(うらがく)り居り
            山部赤人(巻6・954)
 この歌も、羇旅の苦しみを念頭においているようだが、そういう響きはなくて、むしろ清淡とも謂うべき情調がにじみ出ている。・・・そして読過のすえに眼前に光景の鮮かに浮んで来る特徴は赤人一流のもので、古来赤人を以て叙景詩人の最大のものと称したのも偶然ではないのである。吾等は短歌を広義抒情詩と見立てるから、叙景・抒情をば截然と区別しないが、総じて赤人のものには、激越性が無く、静かに落ち着いて、物も観ている点を、後代の吾等は学んでいるのである。(p219)

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書名 万葉秀歌(下) 著者 斎藤茂吉 No
2017-31
発行所 岩波新書 発行年 2016年 改版 読了年月日 2017-11-25 記入年月日 2017-12-03

 巻8から巻20まで。内容的にも、表現の面でも上巻よりなじみやすい歌が多い。本書の中ごろは作者不詳の歌がたくさん取りあげられており、また「柿本人麿歌集」からの恋歌が多く取られている。「柿本人麿歌集」といっても人麿の歌は少数で他の歌人の歌の方が多い。茂吉は作者を見て選んだのではなく、歌そのものから選んだという。その結果最後の方は、家持の歌がほとんどを占める。東歌からもたくさん選ばれている。

百済野の萩の古枝(ふるえ)に春待つと居りし鶯鳴きにけるかも  
              山部赤人(巻8・1432)
 「
この歌も、何でもないようであるが、徒らに興奮せずに、気品を保たせているのを尊敬すべきである。これも期せずして赤人の歌になったが、選んで印をつけると、自然こういう結果になるということは興味あることで、もっと先の巻における家持の歌の場合と同じである。」と選歌事情をのべている。(p9)

夕されば小倉の山に鳴く鹿は今夜(こよい)は鳴かず寝宿(いね)にけるかも
             舒明天皇(巻8・1511)
「いねにけるかも」は妻を求めて鳴く鹿が妻を得たことだろうという。茂吉はこの歌を「
素朴・直接・人間的・肉体的で、後世の歌にこういう表現のないのは、総べてこういう特徴から歌人の心が遠離して行ったためである。此御歌は万葉集中最高峰の一つとおもう・・・」と絶賛する。(p15)

春雨に衣は甚(いた)く通らめや七日し零(ふ)らば七夜来(こ)じとや
            作者不詳(巻10・1917)
 女の歌。春雨が降ったといって来なかった男に、あれくらいの雨では衣がそんなに濡れることはない.7日降れば7夜来ないのですかと迫った歌。「
こういう肉声をさながらに聴き得るようなものは、平安朝になるともう無い.和泉式部がどうの、小野小町がどうのと云っても、もう間接な機智の歌になってしまって居る」(p41)  

あじき無く何の言枉(たわごと)いま更に小童言(わらわごと)する老人(おいびと)にして    
            作者不詳(巻11・2582)
 今さら子どもみたいにあの女に恋心を打ち明けてしまった。つまらないことをしてしまったという老人の歌。「・
・・万葉には稀にこういう老人の恋の歌もあるのは、人間の実際を虚偽なく詠歎したのがのこっているので、賀茂真淵が「古への世の歌は人の真心なり」云々というのは、こういうところにも触れているのである」(p62)

あしひきの山鳥の尾の垂(しだ)尾の長き長夜を一人かも宿(ね)む
          作者不詳(巻11・2802)
百人一首には人麿の歌として取られているが、万葉では作者不詳である。「
この「あしひきの山鳥の尾の」の歌は序詞があるために却って有名になったが、この程度の序詞ならば万葉にはかなり多い。」と、余り評価していない。(p87)

今は吾(あ)は死なむよ我背(わがせ)恋すれば一夜一日(ひとよひとひ)も安(やす)けくもなし      
        作者不詳(巻12・2936)
「死なむよ」は、「死なむ」に詠歎の助詞「よ」の添わったもので、「死にましょう」となるのであるが、この詠歎の助詞は、特別の響きをもち、女が男に愬える言葉としては、甘く女の声その儘を聞くようなところがある。この歌を選んだのは、そういう直接性が私の心を牽いたためであるが、後世の恋歌になると、文学的に間接に堕て却って悪くなった」(p103)

伊香保ろのやさかの堰(いで)に立つ虹の顕(あらわ)ろまでもさ寝をさ寝てば
        東歌(巻14・3414) 巻14はすべて東歌である。
・・・伊香保の八坂の堰に虹があらわれた(序詞)どうせあらわれるまでは(人に知れるまでは)、お前と一しょにこうして寝ていたいものだ、というのである。これも「さ寝をさ寝てば」などと云っても、不潔を感ぜぬのみならず、河の井堰の上に立つ虹の写像と共に、一種不思議な快いものを感ぜせしめる。虹の歌は万葉集中此一首のみだからなお珍重すべきものである。」(p129)

春の苑くれなゐにほうふ桃の花した照る道に出で立つをとめ
      大伴家持(巻19・4139)
・・・大陸渡来の桃花に応じて、また何となく支那の詩的感覚があり、美麗にして濃厚な感じのする歌である。こういう一種の構成があるのだから、「いでたつをとめ」と名詞止にして、堅く据えたのも一つの新工夫であっただろう。そうしてこういう歌風は時代的に漸次に発達したと考えられるが、家持あたりを中心とした一団の作者によって進展したものと考える方がよいようであるし、支那文学乃至美術の影響がようやく浸透したようにおもえるのである。」(p173)。本書の次に読んだ『俳句のはじまる場所』の中で、小澤實は、この歌を万葉集を代表する名歌であると紹介している。このあたりまで来ると、万葉集も素直に分かり易い。

春まけて物がなしきに夜更けて羽ぶき鳴く鴫誰が田にか住む
        大伴家持(巻19・4141)
「誰が田にか住む」の一句は、恋愛情緒にかようものだが、民謡的な一般性を脱して個的な深みが加わって居り、この細みある感傷は前にも云ったように、家持に至って味われる万葉の新歌境なのである。そして、家持は娘子(おとめ)などと贈答している歌よりこういう独居的歌の方が出来のよいのは、心の沈潜によるたまものに他ならぬのである。

 山本健吉が『大伴家持』で、家持の代表作として取りあげられていた、以下の3歌もすべて取りあげられている。ただし、漢字にするか仮名にするかで表記はかなり違いが見られる。茂吉も折に触れて述べているように昔からの万葉研究によって、表記や解釈に色々違いがあり、どれを底本とするかにより差が出てくるのだろう。

春の野に霞たなびきうらがなしこの夕かげにうぐいすなくも (巻19・4290)
・・・この深く沈む、細みのある歌調は家持あたりが開拓したものであった。それには支那文学や仏教の影響もあったことも確かであろうが、家持の内的「生」が既にそうなっていたとも看ることができる。」(p182)

わが宿(やど)のいささ群竹ふく風の音のかそけきこのゆふべかも (巻19・4291)
・・・竹の葉ずれの幽かな寂しいものとして観入したのは、やはりこの作者独特のもので、中世紀の幽玄の歌も特徴があるけれども、この歌ほど具象的でないから、真の意味の幽玄にはなりがたいのであった。

うらうらに照れる春日に雲雀あがり情(こころ)悲しも独(ひとり)しおもへば
(巻19・4292)
・・・万葉集の大部分の歌が対詠歌、相待(そうたい)的な愬(うった)えの歌であるのに、この歌は、不思議にも独詠的なうたである。・・・・独居沈思の態度は既に支那の詩のおもかげでもあり、仏教的静観の趣でもある。これも家持の到り着いた一つの歌境であった。」(p185)

あたらしき年の始めの初春の今日降る雪のいや重(し)け吉事(よごと)
大伴家持(巻20・4516)
此歌は新年の吉祥歌であるばかりでなく、また万葉集最後の結びであり、万葉集編輯の最大の功労者たる家持の歌だから、特に選んで置いたのであるが、この「万葉秀歌」で、最初に選んだ。「たまきはる宇智の大野に馬なめて」の歌に比して歌品の及ばざるを私等は感ぜざることを得ない.家持の如く、歌が好きで勉強家で先輩を尊び遜(ひりくだ)って作歌を学んだ者にしてなお斯くの如くである。万葉初期の秀歌というもののいかなるものだかということはこれを見ても分かるのである。
 万葉後期の歌はかくの如くであるが、若しこれを古今集以後の幾万の歌に較べるならば、これはまた徹頭徹尾較べものにはならない。それほど万葉集の歌は佳いものである。
」(p208)

たまきはる宇智の大野に馬並めて朝踏ますらむその深草野   中皇命(巻1・4)
 中皇命には、舒明天皇の皇女と持明天皇の皇后で後の皇極天皇とする二説があるとのこと。

 茂吉による万葉讃歌、あるいは人麿讃歌といえる本書。万葉集4516首を深く読み込んだ上での名著だ。

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書名 俳句のはじまる場所 著者 小澤實 No
2017-32
発行所 角川選書 発行年 成19年 読了年月日 2017-12-02 記入年月日 2017-12-03

 先日神保町の『天為』編集室に投句を直接持参した際、神田の古本屋街を歩いて目にとまった。古本屋街を歩いたのはひょっとすると何十年ぶりかも知れない。

 サブタイトルには「実力俳人への道」とあり、評論としても作句の参考としても良い本だった。小澤實は数年前のNHK俳句の「俳句さくさく」のインストラクターで、初心者相手に具体的に作句の基本を教えた。教えぶりから優しい人柄を感じていた。また、『万太郎の一句』では、万太郎への傾倒ぶりを示していて、私の属する『天為』とは違うなと感じていた。

 俳句は挨拶であるといは、山本健吉の言ったことで、虚子も同じようなことを言っている。本書も「俳句は挨拶」を基本に据えている。俳句が誹諧の発句が独立して派生したものであり、発句は亭主に対する挨拶であるから、俳句の挨拶性は当然かも知れない。

芭蕉は、おふざけ、遊びの道具にすぎなかった誹諧という詩に、挨拶という機能を改めて託すことに成功した。」と本書は述べる。(p44)

 詩歌における挨拶の起源を「古事記」まで遡る。イザナギとイザナミ二神の「
愛の唱和から始まる恋によって、この国は生まれてきた。それは日本の文学における唱和の重要性をものがたるものである。この国において唱和する、後代の挨拶をするということは、この神々の愛のことばをもどくことであったといえないか」(p57)

歌枕の主は古歌であり、その作者である古人である。歌枕を訪ねる旅とは、その死者たちに会う旅。歌枕で残される句はその死者に対する挨拶という意味をもつ。 
 空間の中に存在する歌枕に対応して、時間のなかに存在するものが季語である。そのうちの歴史を持ったものは和歌、連歌、誹諧とさまざまな作品が積み上げられるように書きつがれてきた。季語の主はそれらの作品、そして、それら作者である死者と言える。季語を大切に詠もうとする俳句は、広い意味ではそれら死者たちへの挨拶であるとも言えるのではないか。
」(p62)

 題詠について;
・・・句会の面白さの重要な要素のひとつに「題」がある。それは挨拶性の表れである。(p75)

 当季雑詠について:
この「当季雑詠」という語は、たっぷりと挨拶の思いを含んでいる。いくら秀作であっても、季節を間違えてはどうにもならないというのである。秀句がえられるならば何でもやれるというのでは人間関係が成りたたない。会は成立しない。それが「座」の掟である。連衆とともに生きえている、今のこの季節をこの場所をどう詠むかが問題なのである。それが「題」ともなればますますその思いが濃くなる。(p79)

 
俳句はひととひととを結ぶ。現代においては、ことに句会の場においてそれがなされる。これこそが「なぜ俳句をつくるのか」という問いに対するもっとも重要な答である。(p81)。
 これは、今の私の実感である。

 小澤は選評もまた挨拶であるという。

 小澤は横書き俳句を否定し、歴史的仮名遣いと定型にこだわる。

 アルファベットは縦への変化で字を表すので、縦書きにはむかない。一方漢字は横への変化で字を表すから、縦書きに適するという文字の特性から縦書きを論じた上、さらに俳句の縦書きの一行に神の依り代を見ることが出来ないだろうかという。日本人は樹木、岩石、御幣などに神が宿るとしてきた。これらは屹立するものである。さらに、生け花は「立てる」といい、常磐木を真っ直ぐに立てる。こうしたことから、「
縦の短冊は直立して神の憑着を待っている。その神とは、新たな発想であり、すぐれたイメージであり、詩そのものと言ってもいいかもしれない。それが憑着したとき一句が生まれるのである。またそうして、生まれた縦書の一句も神の憑着を待っている。その神とは、すぐれた読者でり、その深い読みである。」(p119)

 また、口語と文語との関係では、文語をとるが、その一因として口語俳句には切れ字を使うのが難しいことをあげている。

 一物仕立てと取り合わせ句:
取合せの発明は従来の一物仕立を主体とする発句では考えられないほどの豊かな世界を一句のなかにもたらした。そして、この短詩をひとりの人間の重みを託しえる形式として生かしなおしたのである。」(p180)

 
一物俳句とは多くの場合、季語をその中心に置き、それを描写していく。それによってその季語の新たな命を引き出してくる方法と言える。(p218)

・・・「一物仕立」の句は、季語に積み上げられてきた歴史性の上に自分の発見したなにかを加えるように作られる。(p219)と述べた後、近代の子規の系譜は写生を重視し、一物仕立ての手法が選ばれることが多かったが、その方法が行き詰まりをみせている今、再度取り合わせの見直しが必要だとする。

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書名 天為 著者 津久井紀代 編著 No
2017-33
発行所 オリオン社 発行年 2016年9月 読了年月日 2017-12-11 記入年月日 2017-12-11

 有馬朗人を読み解くシリーズの3巻目。「天為」は1980年から85年までの句を集めた朗人の第三句集。俳人協会賞の受賞作である。

 「有馬朗人研究会」のメンバー十数人がそれぞれ句を選び鑑賞文を載せる。それぞれの句の背景を深く調べているから、詳細な解説になる。深読みしすぎではないかと思われるほどだ。朗人の句には深読みを誘うものがあるのか。あるいは、筆者のすべてが天為の会員であり、日頃朗人をよく知る人たちだからだろうか。編者の津久井紀代さんをはじめ、執筆者のほとんどを私も天為の東京例会を通じて知っている。
例えば
復活祭近づく丘のはぐれ山羊     イスラエル
 「(前略)
土着の角を持つ神とキリスト教は対立関係にあり、山岳民族の家畜山羊は悪魔の象徴として捉えられた。(中略)このはぐれ山羊はユダの化身かも知れない。人はみな過ちを犯す生きものである。はぐれ山羊という表現で作者自身も心を見つめ、ユダの心の痛みを分かち合っているのか。」と、この句を江原文は解いている。キリスト教に対する相当の知識がないと書けない。また、朗人の意図がそこまで及んでいたかどうかも分からない。しかし、一句がこうした思いを読み手に起こさせるというのはすごいことだ。

 私も時々歴史や伝統を踏まえて句を作るが、余りにも直接的で、深みがない。朗人の句と私の句を較べるのがもともとおこがましいが。

もう一例を
あかねさす近江の国の飾臼    日本
句集『天為』はこの一句から始まる。『天為』の特徴を最もよく表した代表句である。かつて日本は農村文化が盛んであった。臼は農家では重要な道具の一つであった。今では見かけることが少なくなったが、日本の伝統・文化が脈々と引き継がれているものの一つである。「飾臼」であるから一年の稔に感謝し、お正月の準備をしているのであろう。「あかねさす」は近江へかかる枕詞として使われているが、同時に茜色に染まる一年の始まりを演出している。「あかねさす」「近江の国「飾臼」、選びぬかれた言葉が、日本の伝統を引く継ぐことの大切さをしめしている。世界という大きな視野に立ったとき見えてきた「日本」の景である。」と津久井紀代は冒頭で述べている。

 「選びぬかれた言葉」にはまったく同感だ。単に地名とものを並べただけなのに、深い。この句からそうした深さを感じとるにはかなり俳句に親しまねばならないだろう。

 巻末には『天為』の全句が載る。

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書名 耳順 著者 津久井紀代遍著 No
2017-34
発行所 オリオン社 発行年 2017年5月 読了年月日 2017-12-08 記入年月日 2017-12-11

 有馬朗人を読み解くシリーズの第4冊。句集『耳順』は朗人が東大総長をしていた当時の句集。この句集の特徴を、俳句の面白さという観点から解説している。確かに、この句集に載った朗人の句は、面白みがある。駄洒落とか言葉のあやの面白さではなく、空想の面白さ、知的な面白さ、感動の深さの面白さ、歴史につながる面白さなどと津久井はあげて朗人の句を解く。

シシリヤの一つ目の鬼復活祭
仔雀が来る足なへの子の乞食
鶏頭や赤き糸繰るアリアドネ
冬眠の蛇をおこして蛇遣ひ
天衣にも縫目のありや落とし文
根の国のこの魴鮄のつらがまへ

 本書のサブタイトルの「魴鮄の面構」はこの句に由来
武蔵より相模へ通ふ猫の恋
 等が引用される。

 この句集には小動物を詠んだ句が多いが、それは東大総長として孤独な決断をしなければならなかった朗人の孤独と淋しさを、小動物に託したのではなかろうかと、高橋雪子は述べている(p64)。激務をこなしながら、これだけの句を作るというのがすごい。

 巻末には『耳順』の全句が掲載される。その中から幾つかを書き留める。
姫街道紫うすき冬の蝶
初時雨姫街道の石紅し
姫街道地図に淡しや初時雨

 姫街道は朗人のふるさと浜松から浜名湖の北岸を通る旧街道。私も姫街道の句を何句か詠んでいる。

切支丹忘れし村の花樗
花樗ここに限れるかくれ耶蘇

 昨年丹沢山麓に朗人師と共に樗の花を見に行った。

紅の花貞任走り亡びけり
向日葵やここいらにゐしあるカポネ
カラオケのおとこでありし送り盆
鯨にも脚がありきと青蛙
ややかたきとなかいの肉冬深し
 
最後の4句のような句は、最近の『天為』の巻頭の朗人の句には余り見られない。

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書名 百人一句 著者 髙橋睦郎 No
2017-35
発行所 中公新書 発行年 1999年 読了年月日 2017-12-22 記入年月日 2017-12-26

 オリーブ句会の宮川ルツ子師から渡された。小倉百人一首の向こうを張って、575形式の句が100句選ばれ、見開き2頁の解説が施されている。サブタイトルは「俳句とはなにか」となっている。著者は詩人、あるいは歌人として有名だが、俳句についても詳しい。取りあげられた100句は前連歌時代10、連歌時代10、誹諧時代40,俳句時代40。各句に付随する詠み手の生涯の解説、あるいは短歌から連歌へ誹諧へそして俳句へと行く流れが簡潔に述べられていて、日本の詩歌の歴史を知る上で参考になる。子規以後の俳句については、亡くなった俳人に限っている。

 1句目は古事記の倭建命(やまとたけるのみこと)の「新治筑波を過ぎて幾夜か寝つる」である。倭建命が相模・常陸に遠征し、帰途、甲斐の酒折宮にいたり、従者の老人に問いかけた言葉。従者の火焼老人(ひたきのおきな)は「日日並べて夜には九夜日には十日を」と応じた。著者は詩歌の本質を唱和にあるとみているようだ。これは五七七の片歌と五七七の片歌よりなる旋頭歌であるが、連歌の始まりとされ、連歌のことを「筑波の道」というのはこれから来ている。ユニークで壮大な選句だ。

 2句目は万葉集巻8の佐保禅尼の「佐保川の水を塞き上げて植ゑし田を」で、これには家持の「刈る早飯(わさいひ)の独りなるべし」が付けられる。最初の連歌とされる。

 後鳥羽院の「浅みどり春のしほやの薄煙
 定家の「初時雨はる々日かげも暮れ果て
 等はいずれも、前の七七の短句に付けられた長句である。

 宗祇は「雪ながら山もと霞む夕べかな」が選ばれているが、これなど例外の方で、詠者の代表作が選ばれているわけではない。
 芭蕉からは「鷹一つ見付てうれしいらご崎
 子規「病牀の我に露ちる思ひあり
 虚子「春風や闘志いだきて丘に立つ

 青邨「外套の裏は緋なりき明治の雪
  この句は草田男の「降る雪や明治は遠くなりにけり」に対して、俺だって出来ると作った句かもしれないと書く。青邨の草田男嫌いはつとに有名であったという。私の属する『天為』は青邨の直流だから、今の有馬朗人主宰も草田男嫌いかもしれない。『天為』句会では12月には今でも青邨忌の句が幾つか出てくる。そう言えば『天為』同人の津久井紀代さんの句に「青邨忌裏の真赤なコート着て」があった。上の句に唱和したものだ。

 草田男「おん顔の三十路人なる寝釈迦かな

 100句目は「枯草の大孤独居士此処に居る」で、作者は私には初めて聞く永田耕衣という人。俳句精神の根源として東洋的無を掲げたという。阪神大震災では九死に一生を得て、老人ホームで一人暮らしをした。「掲
句は・・・見わたす限り枯れ草の中の大いなる孤独者として私はここにおるぞ、と豪語しつつ、他者への親しみを放射している。誹諧という母胎から切断されて百年を超えた俳句も、二十一世紀を間近に孤独の相を深めつつ、誹諧の共作者に代わる読者という見えない連衆を求めつづけているのではないか」と結んでいる。

 巻末に「希望としての俳句」と題する、仁平勝との対談を載せている。

 本歌取りについて:「
引用なしには、文芸という言葉による芸術は成りたたない。特に詩歌、それも短くなればなるほど成りたたない。中略 僕は、死者は結局、未来者と同じことだと思っているんです。死者のために書くということは、未来者のために書くということである。それを知恵として知っていたのが日本の本歌取りの伝統であり、それを踏まえた文芸であったと。何も詩歌にとどまらず、『源氏物語』だって、西鶴だってなんだって、すべて本歌取りの文芸ですね。」(p213)。シェークスピアの劇のほとんどがそれまでに流布していた物語をもとに書き上げたものだとかつて読んだことがある。

 続けて、仁平が俳句とか短歌という古典詩型が脈々と続いてきたがその本質は個性ではなく非個性にあるという。髙橋は「
それしか僕らの生きる道はないですよ。文芸に限らず、これからの人間の生きるべき道は、反個性、非個性、それしかないと思うんです。中略 そういう意味で、我のない文芸、俳句というものに一種の思い入れがあるんです。」と言う。(p214)。

 虚子について:虚子は駄句と名句を余り気にしないで句集の中に平気で取り入れた。そのことによって、「えっ」と思わせる立句がかえって目立つ。選者としての虚子はよくあれだけ自分と違うものを認めた、あのように広い人はいないと褒める。一方で、子規、虚子以降、取り合わせの句がすたれたため、俳句が貧しくなった。これは虚子以後の近代俳句の功罪の罪の部分である。虚子は一回きりの天才であって、虚子を伝統にしてはいけない。(p219~)。

 北九州出身の著者は、宮川ルツ子師の妹と同級生だったとのこと。



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書名 立志 著者 津久井紀代遍著 No
2017-36
発行所 オリオン社 発行年 2017年9月 読了年月日 2017-12-24 記入年月日 2017-12-28

 有馬朗人を読み解くシリーズ第5集。
「先ずこれかさ三十年生きようと志を立てた」。この時朗人60歳。人生における3度目の立志である。句集の名前はそれに由来する。朗人が東大総長を退官する前後の句が納められる。有馬朗人を読み解くメンバーが、それぞれ数句を取りあげて、解説あるいは、感想を述べている。いずれも深く鑑賞していて参考になる。巻末に『立志』の全句が掲載されている。博学、多才、多彩ぶりにただただ感心する。

 私なりに目についた句を幾つか。

尺蠖の脳といへどもあなどれず
まず何をするかと穴を出づる蟻
斑鳩の松風を聴く蟻地獄

 こうした小動物の句は朗人の一つの特徴

子規になき晩年のこと茄子の花
青邨も稲造も露の丸眼鏡
ニュートンも錬金術師冬籠る

 ニュートンが錬金術に凝っていたことは有名。

遠江細江細道初燕
 遠江は朗人が若いころ過ごしたところ。細江を姫街道の細道が通っていて、私も歩いた。

疲れたるおつうも交じり鶴帰る
 日本民話に題材をとっている。

風邪きざすかげのごときをユダと見て
イエスよ我は昼寝むさぼる一人なり
晩夏光突然終わるマルコ伝

 こうした句を他の俳人は作りうるのだろうか

天皇と旅を語りて遅日かな
 これも他の俳人にはつくれないだろう

ヴェニスにて死ぬべし冬日沈むとき
 トーマスマンの小説を下敷きにしている。

豹変の豹も君子も日向ぼこ
雪女来る頃ぎしと鳴る箪笥

 俳諧味の句

魏志倭人伝に桜のなき不思議
シーザーの立ちし野にゐて揚げ雲雀

 歴史

南風に聞きたり鄧麗君(テレサ・テン)の死を
 意外な句。テレサテンのファンだったのだろうか

むづかしき碑林より先ずかき氷
昼酒の少しききたるハンモック

 人間朗人。あるいは東大総長職を退任した後の安堵感か。

 最後の方に中国での30句が並ぶ。敦煌、陽関など西域の句も多い。私も行ったことがあり句にしたいと試みているが、とてもこれらの作品のようなものは出来ない。
爽やかに曲りて細し絹の道
陽関や天馬たらむと馬肥ゆる


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書名 北条政子 著者 渡辺 保 No
2017-37
発行所 吉川弘文館 発行年 昭和36年 読了年月日 2017-12-29 記入年月日 2017-12-29

 これも神田の古本屋で見つけた本。吉川弘文館の人物叢書シリーズの一つ。

 主として『吾妻鏡』に基づいて北条政子の生涯を編年的に描く。

 北条時政が、政子と頼朝の仲を容認したのは、頼朝の「心の勢い」を見抜いていたから。北条氏は平氏を名乗っていても平氏一門ではないし、保元平治の乱に源氏方として加わってもいない。自由な立場から時々の権勢に結びつくことが出来た。時政は平家一門である山本兼隆に嫁がせるつもりであったが、政子は伊豆山権現にいた頼朝のもとへ、「
暗夜ヲ迷ヒ、深雨ヲ凌ギ、君ノ所ニ到ル」。著者は言う:・・・このときの政子の勇敢さは世の常のものではなかった。たとえ父時政の暗々の支援を感じたとしても、誰でもがこのような捨て身の行動に出られるものではない。そこに素朴な鎌倉期の農村女性の一典型を見てもいいと思う。都で洗練された教養に包まれた婦人とはまた違って、ひたむきの慕情、一本気の行動。この時の政子から、それを素直に汲みとることが、まず政子を理解する大きな手がかりだと私は思う。(p9~10)。
本書はこの政子像で貫かれている。

 頼朝は鎌倉を動かなかった。「
自分たちの棟梁が自分たちの土地の中に住みついてそこを都に築き上げているのだから、長い間、首領を求めて動揺して来た東国の武士農民にとって、これまでにない安心感を覚える。」と述べる。さらに、「家柄もよく、由緒も正しい武将が、その農村武士の首領として鎌倉の地に本拠を構えてのであった。つまり前代来の律令体系とつながりをつと同時に、新しく興った農村武士の首領であるという二つの要素を兼ねていることが必要だった。中略 いわば貴族性と土豪性とを調和させるところに、源頼朝の役割があった。そして彼自身は、どちらかと言えば前者の色彩が濃いし、またそれを好んだのあろうが、しかしあくまでも後者の性格を失わなかったところは、北条時政・政子の存在がその働きをつとめたと言えよう。」と述べる(p23~24)。

 頼朝は政子の他にも何人かの女性と関係を持つ。そのため夫婦間には軋轢が生じ、政子は嫉妬深い女とされる。しかし、京都で育った頼朝にとってはそれは当たり前のことであっても、農村女性の典型であった政子には許せないことであったと著者は政子の肩を持つ。

 頼朝との間に二男二女をもうけるが、いずれも悲劇的な最後で、政子よりも先に亡くなる。長女の大姫は木曾義仲が人質として鎌倉の送った長子義高と婚約していた。しかし、義仲が討たれた後、義高も頼朝により殺される。大姫の嘆きは大きく、今でいう鬱病になり、治ることなく20歳で亡くなる。その後、頼朝も亡くなる。さらに次女の乙姫も病弱で、20歳にならずになくなる。

 頼朝の後は長男の頼家が継ぐ。しかし、病身で、蹴鞠に熱中するなど享楽的であった。御家人の所領争いの判決にも、人々を驚かせるような珍奇な裁定を下し、『吾妻鏡』にも「
スデニ珍事ナリ、人ノ愁ヒ、世ノ誹リ、何事カコレニシカンヤ」と書かれ、将軍としての資質には疑問がつく。政子も、病身、統率の材ではないこと、周囲の事情がことごとく行きつまってしまったことを考えて、頼家を出家させる決心をした。修善寺に幽閉された頼家はそこで亡くなる。23歳。『吾妻鏡』には記載がないが、本書でもよく引用される慈円の『愚管抄』などの記述から、殺害説が有力であると、著者は言う。

 頼家の後を継いだのが実朝。実朝も和歌、管弦、毬などに凝ってはいたが、政治家としては決して無能の凡才ではなかった。ただ、政子から見ればもう一つ武将らしさが欲しかった。藤原定家と書を往復したり、万葉、古今、新古今集に親しむ実朝の教養は、鎌倉武士の無知にあきたらなかった。だから、その土豪的な言動に対しては、たとえ義時であろうと、また時には母の政子であろうと、実朝は反発した。実朝が親しかった和田義盛が、義時の挑発に乗って、和田合戦となり亡んで以後、実朝の心は幕府から離れて、武士から貴族へ、鎌倉から京都へと移り、貴族的知識人になり切ろうとした、と本書は言う。

 異例の早さで官位を昇った実朝は右大臣にまでなる。だがその直後、頼家の遺児、公曉に討たれる。実朝28歳、公曉19歳、政子63歳である。政子にとっては次男が長男の忘れ形見によって討たれるという大悲劇。
 「
頼朝が平氏を滅ぼして武家の統領、征夷大将軍になったことが、政子の半生を不幸に落ちこませたのであった。」と著者は述べる(p143)。

 京都から迎えたわずか2歳の4代将軍を自宅に庇護しながら、政子は「尼将軍」として政務をみる。そして承久の乱。政子は集まった家人を前に「最後の言葉」として、頼朝以来の恩顧を訴え、公然と京都の非をなじり、結束を呼びかけた。義時、泰時兄弟には多少の躊躇があったようだが、大江広元や政子には十分な自信があったという。広元の唱える出撃戦術に政子も賛成し、泰時に率いられた幕府軍は京を目指し、あっけなく承久の乱は終わる。

 やがて、弟の義時が急死する。後を継いだのは義時の息子の泰時。政子は泰時には幼い頃から期待を寄せていて、時には自分の二人の息子以上に泰時を頼りにしていたかもしれないという。政子にとって泰時は理想の執権であり、政子はようやく最後の安心を得た。

 嘉禄元年(1225年)6月、頼朝以来の政治顧問であり、冷静な理知をもってすべてを処理した大江広元が78歳でなくなる。それを追うように7月に政子もなくなる。69歳。政子が一家一族内の紛乱に適当に対処してこられたのも、また対朝廷問題で、時には妥協的に、時には強硬な態度をとり、結局は圧倒してしまったのは、広元の指針によるところが大であった。情に溺れない広元の態度は、後世に到るまで時には酷過ぎるような印象を与える。それが、頼朝や政子に対する後世の豹の上にも影響していると、述べる(p179~)。

 鎌倉時代の初期はまれにみるテロの横行の時代。政子の息子二人もそのために命を落とす。そして、負けた平氏と同様、源氏の血も絶える。結果として鎌倉幕府は北条のものとなる。こうしたテロルの背後に北条の意思が働いていたのだろうか。政子に限って言えば、自らの息子二人を葬ってまで、北条に天下を取らせようとは思わないであろう。結局、大江広元と同様、理知的で、現実をしっかりと見つめられる性格が、結果としてこうした結果を生んだのだろう。本書には寺社への政子の参詣の記録が随所に出てきて、夫や娘、息子たちの安全と病気治癒を祈願する妻、母としての政子が描かれる。熊野詣でも2回行っている。大変な旅行だったのだろう。

 これだけの人物、波瀾に満ちた生涯なのに、文学作品としてあまり政子が取りあげられないのは不思議である。

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