読書ノート 2019

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書名 著者
川の見える窓 岡本眸
奥州藤原氏四代 高橋富雄
前田利家 岩沢愿彦
三河物語 大久保彦左衛門
山口青邨の百句 岸本尚毅
近代秀歌 永田和宏
現代秀歌 永田和宏
加藤楸邨自選三百句 加藤楸邨
後水尾院 熊倉功夫
双六で東海道 丸谷才一
幕末政治家 福地桜痴
蹴りたい背中 綿矢りさ
有馬朗人を読み解く8 第八句集 鵬翼 津久井紀代
故郷忘じがたく候 司馬遼太郎
20週俳句入門 藤田湘子
私の植物散歩  木村陽二郞
ギリシャ・ローマ神話人物記   マルコム・デイ
苦界浄土   石牟礼道子
句集「百年」  金子兜太
日本中世史の核心   本郷和人
ホンモノの日本語  金田一春彦
がん消滅  中村祐輔 
ヒトの発達の謎を解く   明和政子
山廬集   飯田蛇笏
小林一茶 小林計一郎 
源氏物語(一)   紫式部
明智光秀  小泉三申
 糸を出すすごい虫たち  大崎茂芳



書名 川の見える窓 著者 岡本眸 No
2019-1
発行所 牧羊社 発行年 1988年 読了年月日 2019-01-04 記入年月日 20190-01-07

 岡本眸は、私の句会の宮川ルツ子主宰が以前師事していた俳人。ルツ子師からは時時岡本眸の名前が出る。角川の歳時記にも、かなりの例句が掲載されているから、俳人としても評価されているのだろう。ルツ子師よりかなり年上と思ったが、1才しか違わない1928年生まれだ。

 主として俳句雑誌に掲載された短いエッセイを集めたもの。柔らかな感性で綴られたなかなか良い文章だ。 3部からなっている。Iは「川の見える窓」で、筆者の俳句歴、俳句への思いが語られる。

なんということなくはじめた俳句が、思いがけず真実の自分との出会いとなり、新しい自己の創造にもつながって、いつの間にか、かけがえのない人生の道連れとなって、三十数年が経った」と述べる 。(p36)。私はまだ10年にも満たないが、まったく同感である。岡本眸は、勤務先では重役の秘書をやっていて、その重役が俳句好きで職場で句会を開き、富安風生が指導者であった。それが俳句との、そして富安風生との出会いである。 

季をあるじとする文芸が日本の風土の中に生まれ育つのは、ごく自然のことだったように思えるのである。中略 季を大切にすることで俳句は受けつがれ、生きつづけてきた。季を離れては俳句は存在しない。これは理論ではなく、長い歳月の実証の中で私たちが納得しているのである。」(p63)と述べ、さらに「日本とは、日本人とは、と問われたら黙って歳時記一冊を示すのが良いとさえ思われるのである」と続ける。

……俳句を大事にすることは生活を大事にすることだということが、最近では無理なく心中で溶け合っている。」(昭和47年「読売新聞」)(p98)

……俳句とは……やはり『日記』であり、今日、斯く生きたという証、というのが一ばん適わしいかと存じます。言いかえれば、『生き甲斐』ということでございます。俳句を通して、愛するものとの関わりを持つこと、これは大きな生き甲斐でございます。」(p109)。

II「師弟交流」では、富安風生、風三樓、加倉井秋を、が取り上げられる。風生については私も多少は知っているが、風三樓と加倉井秋をについては知らなかった。
 「
晩年の風生俳句の神髄は生死という人生最大、永遠の大問題にひしと真向かって、生命の赤裸々な真実を詠いあげたところにある。」(p117)

III「俳句交流」では、飯田龍太以下13人の俳人の評論。他の結社の俳人を取り上げるというのは、俳句の世界では珍しいのではないか。

飯田龍太について
「……
『人に不快感を与えないような気づかい』をされると書かれたのを読んだことがある。『これは大変なことを言うひとだ』と書いた記憶がある。美意識にかかわるこだろうけれど、これがどんなに難しく、心技、というより全人的な修練を要することかは多少とも実作を経験すれば判るところである。こうした含まれたところでの気づかい、気働きが厭応なく作品の芳香として滲み出ているのである。中略 それは独善・排他とは両極にたつ感情である。氏によって『土着の目』は本来の温もりを保ったまま質的に磨かれ、高められて、普遍性をもつ新しい詩的視点として創造されたと言ってよい。このことは逆に、氏が峡の人になりきったということになるだろうか。」(p189)
 この文に先立つ龍太代表句の最後には「一月の川一月の谷の中」があげられている。

鷹羽狩行については、第五句集「五行」を取り上げる。掲句の最初は「一夏の翅粉まみれのシャンデリア」である。
鷹羽氏の作品には字余り、字足らずが少ない.中略 固守といってよいほど十七音の枠を踏みはずさない。箱に小物を詰め合わせるとき、縦・横・深さ、とくふうしてきちんと収納するように、十七音の箱の中に、言葉という〈もの〉を音数の工夫によって詰め合わす。そのこと自体、構成のおかしみを持つ。新しい定型美の世界である。狩行俳句に見る擬人法、比喩、切れ味、おかしみ、といった要素が十七音の枠組みにピタリとはまることによって、より効果的に生きた性格のものであることを心憎いまでに計算した作句法というべきであろう。」(p218~)

 本書も神田の古書店で何冊かまとめ買いした本の1冊。新品同様で、本の間に「謹呈 著者」と印字された栞が挟まれていた。こうした句集は同じ結社の同人や会員、そして親しい人に送呈するのがほとんどだから、こうした栞が挟まれるたまま古書店に行くのだろう。

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書名 奥州藤原氏四代 著者 高橋富雄 No
2019-2
発行所 吉川弘文館 発行年 昭和33年 読了年月日 2019-01-15 記入年月日

 人物叢書の一巻であるが、清衡、基衡、秀衡、泰衡と続いた藤原氏四代の政権の成り立ち、性格、歴史的意義を考察した、専門的な書。

 清衡の父は藤原経清。経清は安倍頼時の娘婿であるが、前九年の役で源頼義に安倍氏が滅ぼされた際に、殺される。経清の先祖は藤原秀郷につながり藤原を名乗っていたので、清衡を以下に受けつがれる。清衡は母の再婚先のもう一人の奥州の豪族、清原氏のもとで成人する。安倍氏が滅んだ後、奥州の支配権を握った清原氏には内訌が起こる。いわゆる後三年の役だ。それに乗じて、清衡が奥州の実権を握る。源義家もこの内訌に乗じて、奥州に源氏の権力を確立しようとしたが、出来なかった。この義家の無念さが、源氏に受けつがれ、最終的には頼朝は藤原氏を倒さざるを得なかった。義経亡き後の奥州に攻め入り泰衡を討ったのはそのためだと著者は言う。

 安倍、清原、藤原と受けつがれた、奥州の政権については、専門的な考察がなされる。これらの政権は、俘囚政権であるとする。俘囚あるいは蝦夷とは異民族例えばアイヌを意味するものではない。俘囚とは帰順して現地に在住する部族民。藤原氏が日本人であることは、平泉のミイラの研究から科学的にも実証されたという。

 清衡は平泉に進出する。かくして一世紀にわたる平和が続き、平泉文化が花開く。藤原氏のもとでは、奥羽内において敵をまったく予想する必要のない体制が確立された。

 清衡は中尊寺を建立するが、二代基衡は毛越寺を建てる。毛越寺は中尊寺よりも一段と壮大なものであった。清衡は摂関家には低姿勢で臨んだが、基衡の代ともなる摂関家にも強く出た。基衡は、藤原頼長が所有する奥羽の荘園の年貢の増額を要求した際、それを認めようとしなかった。奥羽における総領主権を確立していた。

 清衡の知、基衡の力を総合した円熟の人が三代秀衡であった。秀衡は鎮守府将軍に任じられ、さらに陸奥守に任じられる。これは平泉政権が正当化されたことを意味する。これはまた、辺境社会の長い歴史的な願望に見事な表現を与えたものであった。

 なぜ、この時期に秀衡が将軍に任じられたか。それは三代に渡って蓄積された事実の無言の圧力に律令政府が屈したことであり、このような策により律令政府や平氏政権は、この北方の強敵を古代への協力者として位置づけて置くことが出来た。

 頼朝にとっては、平泉の武装中立は事実上の敵対行為であった。頼朝が源平騒乱で鎌倉を離れなかったのは、背後の藤原氏を恐れたためである。平氏滅亡後、秀衡は白河の関の外に出ようとはしなかった。しかし、義経をあれほど手厚く保護したのには、来たるべきものを見越していたのだという。後白河法皇は義経追捕にはあまり熱心でなかったし、まして秀衡追捕などはまったく認めなかった。奥羽の富強と義経の軍略があれば、平泉の独立を守る道はあると秀衡は考えていた。だが、誤算は自身の寿命であった。義経が平泉に着いて1年もしないうちになくなった。息子の国衡、泰衡に自分ほどの器量がないことは秀衡自身にわかっていた。

 頼朝の奥州征伐は、源氏相伝の意趣による私戦であったばかりでなく、一つの国家を作ろうとする日本歴史始まって以来の国家意思を、一つの封建国家という国家の達成という形で成し遂げたものである。奥州が制度的に完全な内国化を経験するのは、鎌倉幕府の地頭制度を通してであった。

 頼朝は泰衡を追って奥州を転戦する。頼朝を初め鎌倉武士を魅了したのは平泉文化であった。平泉文化には宗教的・文化的な動機の前に、あるいはそれに重ねて、いろいろな後れを持っている君主権を補うもう一つの、と言うより最高の権力として、文化を働かせるという意味合いがあったという。そして、装飾が平泉文化の生命である。豊富な黄金のもたらしたものである。


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書名 前田利家 著者 岩沢愿彦 No
2019-3
発行所 吉川弘文館 発行年 昭和41年 読了年月日 2019-01-29 記入年月日

 戦国時代を代表するのは信長、秀吉、家康であるが、これら天下人以外にも、強烈な個性で後世の人々を引きつける武将は多い。信玄や謙信、伊達政宗、島津や毛利、石田三成、さらには加藤清正、福島正則など。しかし、前田利家にはそうした個性的で強烈な印象を与えるものがない。信長、秀吉、家康のそばにあってつねに補佐役として地味な存在であったという印象が強い。

 もっとも、かなり以前に利家と正室のまつを主人公としたNHK大河ドラマが放映されたから、その生涯については大体知っている。本書は利家と中央政権との関わりを中心として人物像が描かれる。

 著者は冒頭に言う:
前田利家ほど.幸運に恵まれた武将は少ないと思う。むろん安逸を貪って幸福をつかむ者はいない。彼は幸運に乗って運命を開拓するだけの勇気と才能と誠実さと機知と社交性を持っていた。しかしそれにしても、全国の統一者織田信長・豊臣秀吉・徳川家康とあい前後して生まれ、長じて信長に仕え、秀吉の姻戚となり、家康と親しく交際するという順調な境遇は、動乱の世においては希有の事象である。しかも彼は、秀吉亡きあとの混濁の世を長く経験することなくして薨じた。このもっとも苦渋にみちた時代を生き抜いたのは、女丈夫というにふさわしい妻と、温和・慎重、また聡明な子供たちとであった。そして彼らは幕藩体制下の峻厳な時代に領国の保全になみなみならぬ努力を払った。その実力と豊臣氏の旧誼とを晦匿するためであった。ところがこの実力と旧誼とこそ、父利家が生涯をかけて獲得した果実にほかならなかったのである。(晦匿:才能を隠し世をのがれ隠れること)。

 本書は350ページを超すボリューム。記述が詳細である。と言うことはこの時代は膨大な史料が残っていると言うことだろう。大河ドラマによく登場する人物の日常が垣間見られる。

 例えば文禄3年2月27日から3月1日にかけて行われた芳野の花見の記述:
この会には、秀吉・秀次および諸大名は、公卿・連歌師など多彩な顔ぶれが参加した。利家は勿論、北政所や加賀殿などの女性も参加したと伝えられている。あいにく花見は雨に見舞われたが、その雨も昼ごろからは霽れかけた二十八日に、歌会があった。利家の詠進歌も今に伝えられている。伊達政宗の歌が、辺境の生れに似ず巧みであるといって秀吉に賞められたのはこの時である。この時秀吉は芳野から高野山に廻り、母大政所の冥福を祈って帰ったが、三月七日には再び上洛して利家邸に泊まった。

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書名 三河物語 著者 大久保彦左衛門 No
2019-4
発行所 筑摩学芸文庫 発行年 2018年3月 読了年月日 2019-02-11 記入年月日

 歴史書を読んでいると、『三河物語』が時々史料として言及される。原著者は大久保彦左衛門、本書はその現代語訳。「1.徳川家の先祖と大久保一族」「2.若き日の家康」「3.江戸開府と家康の死」の三部よりなる。

 1部では徳川の先祖を新田義貞の一族で、義貞が滅んだ後、群馬県の新田郡から出て十代ほどあちこちとさまよい、三河に定着した。そして、三河でだんだんと三河を平定しいゆく。彦左衛門の先祖も徳川の忠義の譜代として徳川家を支える。大久保家に伝えられる話を彦左衛門がまとめたもの。

 2部では、若き家康の活躍が描かれる。2部と3部はたくさんの合戦が彦左衛門の実体験として語られる。桶狭間の戦いでは、家康は今川義元から大高城の番を命じられていたが、もし今川軍の殿(しんがり)を命じられていたら、義元もあのような敗北を喫しなかったろうと述べる。

彦左衛門は信長の記録である『信長公記』の記述の1/3は嘘であると記す。それに反して自分の書くものはすべて真実であると胸を張る。

 3部では武田との戦いから、関ヶ原、大坂の陣などの大きな戦いが述べられる。

 222ページには、秀吉により家康の所に人質に出されていた秀吉の母が、家康を殺そうとした話が出ている。食べ物に毒を盛った。本来なら家康の席に出したものだったが、同席した大和大納言(豊臣秀長)に遠慮して、家康が秀長の下座に席替えしたため、秀長が毒入りの料理を食べ、亡くなったと記している。秀長は秀吉よりも先に亡くなり、秀吉の暴走を止める役柄を失ったことが、豊臣家が滅亡を早めたと言われるが、毒を盛られたという話は初めて目にする。

 関ヶ原合戦では、秀忠が上田で真田と戦って間に合わなかった。その理由を彦左衛門は、参謀として秀忠についていた本多正純の凡庸さのせいにする。正純の考えがおよぶのは、はやぶさの使い方までで、合戦の経験は一生に一度もなかったから当然だという。(p231)。

 正純は大久保家のように先祖代々の譜代ではない。正純のような新参者が重用されるのが彦左衛門にとっては我慢がならなかった。本書を書いたのも、代々徳川に仕える譜代の活躍、忠義を後世に伝えようとするのが、最大の目的であった。本書を貫くのは主家への忠義である。

 徳川代々を次のように述べる:
御代々はお慈悲がおありになったことがひとつ、ご武勇にすぐれておられたことがひとつ、よきご譜代をおもちになっていたことがひとつ、お情けをおもちになっていたことがひとつ、これらの理由で御代々が末ほど繁盛されたのは、おめでたいことだった。(p265)

 徳川家に対するこの表現は,先祖一人一人の業績を述べた際に,何回も出てきた。
 随所に出てくる、敵を、女子供までを皆殺しにしたとか、妻と長男を信長の命令とは言え殺してしまった家康、そんな例を見ると、とても、慈悲深く、情け深いとは思えない。これは当時の感覚と現代の感覚の相違から来るのだろう。

 最後には因果応報を説いて、子孫への戒めとする。恵林寺で僧を焼き殺した信長の因果、秀吉は秀次の女を何十人も殺したこと、また信長の子織田信孝を切腹させたこと、そして、何回も家康に対する謀反を試みた秀頼。この世には因果があり、地獄は必ずあると説く。秀頼が家康に謀反を試みたとは私には思えないが、彦左衛門にとっては謀反なのだ。

 彦左衛門は、永禄3年1560年生まれ、寛永16年1639年没。2000石取りの旗本。本書の第3部は元和8年1622年の執筆。なお、巻末の年表によるとこの年、彦左衛門二千石の知行没収とある。さらに3年後三河の額田郡で千石の扶持となるとある。


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書名 山口青邨の百句 著者 岸本尚毅 No
2019-5
発行所 フランス書房 発行年 2019年2月 読了年月日 2019-03-20 記入年月日 2019-03-21

 『天為』東京例会では、今以て青邨にちなんだ句が必ずと言っていいほど出てくる。私は青邨の句をほとんど知らない、たまたまアマゾンで本書を見つけた。

 ほとんどが初見の句。素朴で洗練されない句が多く取り上げられる。これは著者の好みなのか。著者はこうした句を青邨の特長であり、文体の多様さであり自在さであると評価する。助詞の使い方の解説が参考になる。

 青邨の師は虚子である。本書では青邨の句を巡る虚子の評がいくつか紹介されている。青邨を継いだのは朗人であるから、私は虚子から続く伝統俳句の系列に属することになる。岸本尚毅も天為の同人である。昨年4月から一年間NHK俳句の選者でもある。NHK俳句の選者をやるまでは、『天為』で岸本尚毅の投句を見かけたことはなかったが、昨年春頃より、同人欄の投句に尚毅の句が載るようになった。尚毅の句は『天為』の一般的な句とはかなり違い、朗人好みではないと思われるが、朗人は毎月尚毅の句を選の中に入れている。

 NHK俳句全国大会で、岸本尚毅が、「転がされちんこ上向く天花粉」を佳作に選んでいた。NHK全国大会で「ちんこ」などという言葉を選んだ選者は岸本尚毅がおそらく初めてであろう。


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書名 近代秀歌 著者 永田和宏 No
2019-6
発行所 岩波新書 発行年 2013年 読了年月日 2019-04-10 記入年月日

 解説が素晴らしい。俳句作りの参考にもなる。明治から昭和の戦後までの100首が取り上げられる。1/3は一度は耳にした歌。親しみをもって読むことが出来る。歌そのものの他に作者の経歴、作った当時の事情なども書かれていて、近代短歌史を知ることが出来る。人柄の良さが出ている。後書きのネット社会に対する批判もいい。

 以下いくつかの歌と解説
その子二十歳櫛にながるる黒髪のおごりの春のうつくしきかな  与謝野晶子『みだれ髪』
 この歌のナルシスズムに辟易刷る読者もいるかもしれないが、この歌の素晴らしさはまずその韻律にある。6音の初句切れ。そして一気に結句まで駆け下るような軽快さにある。三つ「の」が軽快なリズムを生み,まさに青春そのもの。晶子の歌には数詞が多いのも特徴。初句の数詞は強い響0きを感じさせる。短歌の青春性は「明星」によって確立されたが、その青春性の象徴が『みだれ髪』である。

われ男の子意気の子名の子つるぎの子詩の子恋の子ああもだえの子 与謝野鉄幹『紫』
 近代的自我は手本にそって歌を作るのではなく,自分だけの表現を確立することであった。鉄幹は詩人としての出発に当たって、近代という時代そのものを規定した。「明星」を拠点として,晶子を初め、北原白秋、石川啄木、吉井勇、木下杢太郎、山川登美子らを育て上げた。

東海の小島の磯の白砂にわれ泣きぬれて蟹とたはむる  石川啄木 『一握の砂』
「われ泣きぬれて蟹とたはむる」はさすがに現在では恥ずかしくて歌えないだろう。しかし、歌がある種の愛唱性を獲得するためには、こうした過剰なまでに人々の心にベタに訴えかけるような俗性が必要かもしれない。

垂乳根の母が釣りたる青蚊帳をすがしといねつたるみたれども  長塚節『長塚節歌集』
 長塚節は「アララギ」の中心的歌人であった。写生という方法は「アララギ」の唱導した方法である。永田は写生について以下のように記す:すべてをリアルに写し取ろうとするのではなく、その場の自分の感情にもっとも訴えてきた、たった一つの事象、対象だけを残し、あとは表現の背後に隠してしまおうとする態度、表現法、あるいは手法、それを私は写生と呼びたいと考えるのだ。

瓶にさす藤の花ぶさみじかければたたみの上にとどかざりけり  正岡子規『竹乃里歌』
 斎藤茂吉や島木赤彦らアララギ派の歌人により,写生句の代表として繰り返し引用されてきた。

めん鶏ら砂あび居たれひつそりと剃刀研人は過ぎ行きにけり  斎藤茂吉『赤光』
上句と下句が関係がなさそうで,絶妙の配置のされ方をしている。後年、前衛短歌運動などでは、意識的に上下句の対比によりイメージの重層化をさせる方法が多用された。この歌はそれが最も早く現れた一首である。

ゆく秋の大和の国の薬師寺の塔の上なる一ひらの雲   佐佐木信綱『新月』
すべて名詞だけで構成されている珍しい歌だが,少しも窮屈さを感じさせない。「塔の上なる」の「なる」の働きが抜群だ。

ほととぎす嵯峨へは一里京へ三里水の清滝夜の明けやすさ  与謝野晶子『みだれ髪』
 俳句の切れのように「ほととぎす」で切れている。意味的にはほととぎすの声に夢からようやく現実に戻ったという意味か。これをほととぎすの声に目覚めたと言っては,一首の広がりがなくなる。ぶっきらぼうに切れたように放り出しているところがすばらしい。

人も 馬も 道ゆきつかれ死ににけり。旅寝かさなるほどの かそけさ
                          釈迢空『海やまのあひだ』
 著者は自分の生理がどうも釈放空のそれと波長が合わないという。しかし、このようにうまく同化出来ないような作家の作品を読むことができることの方が,読書体験としては重要だという。

最上川逆白波のたつまでにふぶくゆふべとなりにけるかも  斎藤茂吉『白き山』
 斎藤茂吉の後半生の代表歌。作られた際のエピソードが面白い。同行した一人が「逆白波」という言葉を口にした。すると茂吉は逆白波と言う言葉は君だけのものだ,軽々しく口にすると他人にとられてしまう。大事にとっておくべきだと,きつく言ったという。俳句の世界でも表現の盗用を問題にすることはよくある。

いちはつの花咲きいでて我目には今年ばかりの春行かんとす  正岡子規『竹乃里歌』
 桜だと押しつけがましいが,いちはつだと普段の日常のなかという実感がある。実際子規が亡くなったのはこの歌の一年以上後である。「今年ばかりの春」がそこまで持ったのはひとえに子規の精神力であった。

四月七日午後の日広くまぶしかりゆれゆく如くゆれ来る如し  窪田空穂『清明の節』
 数え年で91才、亡くなる5日前の歌。次第に意識が遠のいて行く際にも,自然の生命と感応しつつ、自らの命を養っているという空穂の作家態度が強く感じられる。現在を生きるという心境を,自分の人生と重なるように詠むのを境涯詠という。境涯詠を初めて確立したのは空穂といわれる。

終わりなき時に入らむに束の間の後前(あとさき)ありや有りてかなしむ 
                  土屋文明 『青南後集』
 92歳の時、94歳の妻を失った際の歌。歌が最も力を発揮するのは相聞歌と挽歌だと言われる。挽歌はほとんど相聞歌と感じられることが多い。


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書名 現代秀歌 著者 永田和宏 No
2019-7
発行所 岩波新書 発行年 2014年10月 読了年月日 2019-04-20 記入年月日 2019-04-27

 『近代秀歌』の続編。こちらは歌人100人が取り上げられている。いわば現代版百人一首。著者はこうしたアンソロジーの必要性を説く。本書も解説が素晴らしい。100人の歌人の残した歌集のみならず、同時代の評論などにも広く目を通して、歌の詠まれた社会的背景などの解説も懇切である。『近代秀歌』と違って私の知らない歌人がほとんどと言っていい。

 本書に挙げられ短歌を見ていると、短歌で歌える範囲が、俳句とは比べものにならないほど広いことを痛感する。伝統的に恋は短歌の大きな対象だが、現代短歌では人間の奥にすくうドロドロしたもの、暗いものをあえてさらけ出す。向日性が大切とされる俳句とは対照的である。俳句の17音に14音を足しただけで、これほど多様な世界を表現できるのかと、感心する。人生の真実を歌うには俳句は短歌にとてもかなわないと思った。

 本書はテーマごとに10章に分かれている。各章から目についた歌と著者の解説:
第1章 恋・愛
 てのひらに君ののせましし桑の実のその一粒に重みのありて  皇后美智子
 美智子皇后の歌にはつねに韻律が強く意識されている。読み上げられる場が多いせいか、あるいは生来のものか、言葉がゆっくりと余裕を持って流れていくと解説している。

 蒸しタオルにベッドの裸身ふきゆけばわれへの愛の棲む胸かたし  春日井建
 この歌が載った歌集『未青年』は詩壇、文壇からも期待され、序を三島由紀夫が書き「われわれは一人の若い定家をもったのである」とその文を締めくくった。

第2章 青春
 海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手をひろげていたりけり  寺山修司
 「想像上の自己を作品に登場させることによって、どこまでも多様になれる〈私〉の感情表現として、短歌作品の叙情の幅を革新したいとするのが前衛短歌運動であった。多様の〈私〉、フィクショナルな〈私〉の導入による表現領域の拡大という点に関しては、前衛詩人のなかでも寺山修司の問題意識が突出していた。」

第3章 新しい表現を求めて
 革命歌作詞家に凭りかかられてすこしづつ液化してゆくピアノ  塚本邦雄
 この一首は近代から現代へと短歌の世界を一変させた記念碑的な一首であるという。昭和26年刊の歌集『水葬物語』の巻頭を飾った一首。革命というありもしない幻想に酔っているような作詞家、知識人、そして民衆への痛烈な皮肉が込められている。

第4章 家族・友人
 立つ瀬なき寄る辺なき日のお父さんは二丁目角の書肆にこそをれ 島田修三
 島田修三は大学の学長を務める学者。世間的には尊敬される自己を徹底的に笑い飛ばすことにより、自らの存在の実感をたぐり寄せようとしている。

第5章 日常
 大根を探しにゆけば大根は夜の電柱に立てかけてあり  花山多佳子
 買い物に行き、帰って見れば籠に大根がない。探しに出かけたら電柱に立てかけてあった。深遠な思いや深い感動を詠むのが短歌だと考える人には顰蹙を買いそうな歌だが、現実の世界にはこんな滑稽なこともある。それが歌として残ると、我々の日常生活にこうした滑稽さの中に息づいているとあらためて思さられる。

第6章 社会・文化
 ひきよせて寄り添ふごとく刺ししかば聲も立てなくくづをれて伏す  宮柊二
 作者の名前は聞いたことがある。この歌は本書の中で最も衝撃的な歌だった。昭和24年『山西省』に発表された歌。作者は挺身隊に属し、大陸で戦った。挺身隊とは身を挺して敵隊に侵入する突撃隊。しかし、銃を撃ってはならない。
 歌人として名の残っている人の中で、このような臨場感のある現場の歌を、即物的に詠うことはなかった。

 死ぬ側に選ばれざりし身は立ちてボトルの水を喉に流し込む  佐藤通雅
 東日本大震災を詠んだ。このような社会的出来事を詠むのを「機会詠」という。著者は機会詠はできるだけ詠んで残すのがいいと言う。

第7章 旅
 薄明の西安街区抜けてゆく奥のかまどに粥煮ゆる頃  安永蕗子
 「海外旅行の最も大きな興味と喜びは、そこで暮らしている人々のせいかつにふれることである。どんな名所旧跡よりもそれが面白い。」まったく同感である。

第8章 四季・自然
 夜半さめて見れば夜半さえしらじらと桜散りおりとどまらざらん  馬場あき子
 人の世の営みを超越したかのように、ひたすらに散る桜の時間はどこか永遠に通じる存在感がある。

第9章 孤の思い
 退くことももはやならざる風のなか鳥ながされて森越えゆけり  志垣澄幸
 短歌においては上句で「問」を発し、それを下句で「答」える。これが定型の基本的な上下句の意味であると考えた。この句の場合もそうなっていると考えられる。その問いをいかに遠くまで飛翔させ、その答えをいかにうまくブーメランのように回収するかが、作品の評価の要である。
 これは俳句でも言えることだと思う。切れ字あるいは体言で止めて、下句でそれに答える。

第10章 病と死
 もゆる限りはひとに與へし乳房なれ癌の組成を何時よりと知らず  中条ふみ子
 作者は32才で亡くなった。歌人としての実質的な活躍時間は数ヶ月という短いものであった。愛と性、そして病と死、それらすべてを見つめて、肯定的に自らのなかに取り込もうとするかのような奔放さと大胆さが、歌壇に大きな衝撃となった。

 この最終章の番外として著者は自らの一首を載せている。

 一日が過ぎれば一日減つてゆくきみとの時間 もうすぐ夏至だ
 妻であり歌人であった河野祐子は2008年に乳がんで亡くなった。8年間の闘病生活であった。自らの思いを誰かに伝えると言うことにおいて、歌がいかに大切な表現手段であるかを、身をもって体験したという。二人の間に交わされた歌は、読むもののこころを揺さぶる。 
 

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書名 加藤楸邨自選三百句 著者 加藤楸邨 No
2019-8
発行所 春陽堂 発行年 平成4年 読了年月日 2019-04-26 記入年月日 2019-04-27

 山口青邨の百句と比べて歴然とした差がある。青邨の方が調べも句意もなめらかでわかりやすい。楸邨の句は難解だが、迫力があり、ドラマがある。人間探求派と呼ばれる楸邨からは兜太、今井聖へと続く。巻末には今井聖が簡単な楸邨の略歴を紹介している。また、巻頭には楸邨と村上謙の対談が載っている。

 対談のなかで楸邨は言う:
型の中にうまく収まっていて、きれいに一つの新しいものになっているということですね。私はそれがあまり好きじゃないんです。もっとどうにも取り留めのないようなもの、今までの自分の中にそんなものがいたかどうか分からないようなものを、つかめたときが凱歌をあげるときなんです。

 目についた句:
鰯雲人に告ぐべきことならず 
 対談の中で,楸邨はこの句は俳句らしいが,私の俳句ではない感じだと言っている。

さえざえと雪後(せつご)の天の怒濤かな  隠岐にて
春怒濤少年の日に何を恋ひし
十二月八日の霜の屋根幾万
幾人(いくたり)をこの火鉢より送りけむ
火の奥に牡丹崩るるさまを見つ
 
空襲で自宅が焼焼失した際の句

火の中に死なざりしかば野分け満つ
ゆく雁や焦土が負へる日本の名
恋猫の皿舐めてすぐ鳴きにゆく
恋猫が過ぎてあをあを青畳
バビロンに生きて糞ころがしは押す
木苺のしぶさ戦後がいきいきす
たつた一つの朝顔にメンデリズム存す
百代の過客しんがりに猫の子も


文庫本だが,モノクロの写真がたくさん掲載される。

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書名 後水尾院 著者 熊倉功夫 No
2019-9
発行所 朝日新聞社 発行年 昭和57年 読了年月日 2019-05-01 記入年月日 2019-05-01

 かつて日経新聞連載の隆慶一郎の「花と火の帝」を途中から読んで,後水尾帝に興味を抱いたことがある。この小説では、後水尾帝が、才蔵や佐助など大阪方の残党を使って、徳川幕府に対抗するというプロットだった。昭和大学横浜北病院のある横浜市営地下鉄センター南駅にある有隣堂の古書フェアで見つけて手にした。

 一昨日から読み始めたが、昨日が平成天皇の退位で,今日が新天皇の即位で元号が平成から令和に変わった。本書の最初の方は後水尾帝の退位と皇位継承の問題で、偶然の一致に驚いた。

 後水尾天皇は慶長6年1611年、後陽成天皇から譲位されて天皇についた。16才である。後陽成天皇は武家の力を押さえて,天皇の権威を回復するために,譲位して上皇として院政をしきたかったからである。だがその願いは何回も徳川家康に拒絶されてきた。拒絶の理由の一つは,譲位に伴う上皇の住まいの建設など,多額の費用を幕府が負担せねばならないことだった。

 後水尾天皇は兄の二人の皇子をおいて帝位に就いた。二人の兄を差しおいて皇位についたのは,秀忠の娘を入内させるために,年の離れた二人の兄ではなく,後水尾がいいと考えた、家康の意思があったという説もあるとのこと。著者はその説は認めてはいないが、結果としては、家康の孫娘、和子が後水尾の中宮として入内する。

 後水尾帝も父と同様、譲位を希望する。理由は幕府の朝廷支配が次第に強化されてきたとである。例えば、朝廷が今まで行っていた武家への任官は、幕府が行うことになった。禁中・公家諸法度で従来のように自由な行動が厳しく制限されたこと。行幸も一々幕府の許可が要ること。公家が朝廷の判断ではなく幕府の一存で処罰されたこと。沢庵和尚など、朝廷の親しい僧侶が流罪となったことなどの江戸幕府初期の事件が述べられる。しかし、譲位はなかなか認められなかった。

 本書では、以上の幕府との対立の他に,後水尾帝の健康問題に言及する。後水尾帝は持病として腫れ物を患っていた。この治療には灸がよく効く。ところが、天皇の身体に灸をすえることは恐れ多くもできなかった。退位すれば可能となる。昭和天皇の最後に際して、玉体にメスを入れることはできないと言う論議があった。昭和の時代もそれは変わらなかったのだ。平成天皇は、手術を受けており、英断であろう。

 こうした一連の記述を見ていると、平成天皇の退位希望表明から、昨日今日の出来事が重なってくる。平成天皇は、自ら国民と親しく接し、喜びと悲しみをともにしてきた。そして、機会あるごとに平和への願いを述べてきた。それが現憲法下での天皇の役目だと信じてきた。体力的な衰えから、その役目を果たすことに困難を感じるようになった今、退位したいというのが3年前の談話だ。それは、天皇は宮中にあって、国家の安寧を祈っていればいいという、保守派の天皇観に真っ向対立するものである。そして、そうした保守派を支持基盤として、憲法改正を進めようとする、安倍政権に対する精一杯の抵抗を込めてあの談話は出されたものだ。

 幕府が後水尾帝の譲位に反対した理由の一つは、中宮和子の子に皇女はいたが男子は夭折して、後継天皇となる皇子がいなかったことだ。結局、寛永6年1629年、譲位はかなえられ、和子の生んだ女一宮が即位し、明正天皇となる。称徳天皇以来860年ぶりの女帝誕生である。女帝誕生については、上級公家のほとんどがすんなりと賛成している。皇統は男子一系などというのは、せいぜい150年来のことなのだ。なお、この年には、譲位前に沢庵らの流罪と、家光の乳母、春日局の昇殿と天皇への面会という、いずれも朝廷の面目をつぶす事件が起きている。中宮和子の実子はその後皇位を継ぐことはなかったが、後水尾帝の側室が生んだ3人の皇子を自らの養子として、即位させている。

 後水尾院は34才で譲位し、延宝8年1680年、85才で亡くなる。昭和天皇に抜かれるまでは、歴代天皇の最長寿であった。

 本書の後半は後水尾院を中心として花開いた寛永文化について述べられる。和歌、立花(生け花)、茶の湯など。最後は修学院離宮の造営を自らの手で行う。

 和歌は特に優れていたようだ。家康33回忌に寄せた「蜘蛛手」という和歌は信じられない離れ業だ。16首を組み合わせ、クロスワードパズルのようにしたものだ。(p199)。連歌、俳諧もやっている。後水尾院が親しい僧籍の何人かを修学院へ誘ったとき、散策の途中で休んだ茶屋で俳諧を楽しんだ。鳳林和尚が「卯の花や白きはげにも雲母坂」と発句を作ると、「絵にもおよばぬ夏山の隅」と後水尾院がつけて、第3句を命じた。しかし、誰も付けることができなかったと言うエピソードが載っている(p245)。宮廷と俳諧という意外な取り合わせだが、後水尾院の交流した当時の京都の多彩な文化人の中には、松永貞徳の名前も見えるから、俳諧にも親しんでいたのだ。

 立花も意外。お互いに順列を付け合って競った。院の立花の腕も抜きん出ていて、絵に書き取られ現存するものがかなりある。

 後水尾院には、幕府から1万石の所領が与えられている。大名並で、だから、修学院という壮大な庭園を造営できるのだ。

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書名 双六で東海道 著者 丸谷才一 No
2019-10
発行所 文藝春秋社 発行年 2006年 読了年月日 2019-05-06 記入年月日 2019-05-10

 この本もセンター南駅の有隣堂の古書フェアで手にした。題名にひかれて買ったが,中身は東海道とはまったく関係がない。ただ、1ページばかりの短い前書きに「東海道のこらず梅になりにけり  成美」が好きな句としてのせてあり、解釈がある。一つは江戸から京へ上る双六で、めいめいの印が梅の旗印で、これが宿ごとに立っていると言うもの。もう一つは実際の東海道が京都から江戸まで梅の盛りだというもの。と言われても、本書との関連はよく分からない。

 著者の驚くほどの博覧ぶりが軽妙に綴られる17編のエッセイ集。著者特有の色っぽい話も随所に出てきて、楽しく読んだ。

 冒頭は遅刻論。著者が幼い頃からの遅刻常習者であったことから書き始める。自身の遅刻体験がいくつか語られた後、話は吉川英治の『宮本武蔵』へと飛び、巌流島へ向かう武蔵を描写した『宮本武蔵』の文が引用される。と思ったら、自身が長時間待たされた体験談が出てきて、それから時間の文明論へと進む。前近代の日本人は時間意識が緩やかだったという。農村では時計は必要なかったから。しかし、勤め人である武士は出勤と退庁の時間が大事だった。芭蕉と曽良の奥の細道では、曽良が一時間単位で克明な旅日記を残した。曽良はもともと伊勢長島藩の武士。さらに芭蕉だって微禄とは言え武士の出身。だから、曽良は時間を気にして日記に書いたのだ。もう一つ大きな理由は、彼らが俳諧師であったこと。その家業の本筋は発句を作ること。それを連衆が歌仙に巻くこと。だから、連衆が集合する時間が大切になる。武士的時間意識と連衆的時間意識がかさなってあの旅日記が作られたと、独特の見解を述べる。

 ここからまた、宮本武蔵に帰る。武蔵は武士ではなかった。農民の子が一旗揚げたくて関ヶ原へ行き、しくじった。剣術使いになっても勤め人にはならなかった。武芸者に、つまり芸術家になった。だから、時間の規律を重んじなかった。これが、武蔵遅参の原因の六、七分。

 人はどれくらいの遅参なら待つか。永井荷風はアメリカで銀行員をやっていたので、15分待ってこなかったらさっさと帰ったという。小次郎はどうだろう。2時間待って、帰ってしまい、武蔵は臆病風にとらわれてこなかったと言いふらすだろうか。小次郎の武士的勤め人性格と農民的芸術家的性格はどれほどであろうか。つまり、何時間なら待たせることができるか、そこの見極めが武蔵は天才的であった。

 話はさらに幕末の坂下門外の変に遅参した浪士の話、遅参という言葉はすでに10世紀の『本朝世紀』に見られるが、遅刻は1860年の『航米日録』が初見であると述べる。そして最後は、歴史上の大きな遅刻、日米開戦前の最後通牒の持参の遅れが、詳しく述べられる。現地時間12月7日の午後2時半に野村、来栖両大使からハル国務長官に書類が手渡された。午後1時25分には日本軍はすでに真珠湾を爆撃していた。参考『真珠湾の日
 ざっとこんな調子。

 『オール讀物』2005年から2006年にかけて連載。

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書名 幕末政治家 著者 福地桜痴 No
2019-11
発行所 岩波文庫 発行年 2018年第5版 読了年月日 2019-06-13 記入年月日 2019-06-14

 病院のベッドの上で読んだ。人物を通しての幕末史。著者自身が同時代を生き、下級役人ながら幕府に仕え、文久2年の遣欧使節にも加わっているから、幕府側から見た幕末史。

 歴史の大きな流れの中で、個人の資質がどのような影響を与えたかを中心に述べられる。時には、「こうであったならば歴史はこうなったであろう」という叙述も使って。

 主として取り上げた人物は阿部正弘、水戸斉昭、井伊直弼、松平春嶽。阿部を賞賛し、井伊も果断の政治家として評価するが、斉昭と春嶽には厳しい。絶賛するのは岩瀬忠震。開国論者として高く評価する。こうした見方は今ではかなり説得力があるが、本書の初版がでた昭和13年当時は、かなり異端だったのではないか。

 福地も開国論者であったようだ。

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書名 蹴りたい背中 著者 綿矢りさ No
2019-12
発行所 河出文庫 発行年 2007年 読了年月日 2019-06-19 記入年月日 2019-06-19

 病院のナースステーションに患者が自由に読めるようにおいてあった。
 2004年、芥川賞受賞作。著者は19才で、最年少記録。127万部売れたという。

 周囲に溶け込めない私(長谷川)とにな川という高校一年生の男女の話。従来の青春小説とはまったく変わった青春小説。青春の謳歌や、憧れと言った明るい話は全くない。それでいて暗くはない。二人とも理科の実験のグループ作りにどのグループからも声がかからないと言った存在。私も中学から高校にかけて、この女子高校生ほどではないが疎外感を持った経験はあるので、それほど抵抗なく読めた。もっとも私はこの二人のようには、疎外をなんとも思わず、自己の世界に閉じこもることはできなかった。へつらうようにしてどこかの仲間に入ろうとした。

 蜷川はオリチャンというファッションモデルのおたくだが、まだ一度も実物を見たことがない。私は駅前の無印良品でオリチャンを見かけたことがある。それがきっかけで二人の間に交流が生まれる。蜷川の部屋にはオリチャンの写真や、載った雑誌などのグッズが大切にしまわれている。オリチャンのライブがあって、にな川に誘われ私と絹代は出かける。絹代は中学時代からの友だちで、普通の高校生の典型として描かれる。ライブがはねたあと、にな川は出てくるオリチャンのところに駆け寄ろうとしたが、係員に制止される。オリチャンのところに向かうにな川の姿を見る目が哀しそうだったと、私は絹代に言われる。

 何より作者の感性の鋭さが表れた文章がいい。
出だし:
 
さびしさは鳴る。耳が痛くなるほど高く澄んだ鈴の音で鳴り響いて、胸を締めつけるから、せめて周りには聞こえないように、私はプリントを指で千切る。細長く、細長く。紙を裂く耳障りな音は、孤独の音を消してくれる。

 私はにな川の部屋で2回彼の背中を蹴る。これは一種の性の代償行為だろう。

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書名 有馬朗人を読み解く8 第八句集 鵬翼 著者 津久井紀代編著 No
2019-13
発行所 オリオン社 発行年 2019年3月 読了年月日 2019-06-24 記入年月日 2019-06-25

 親しみやすい句が多いのに驚く。朗人らしからぬ。
 豊富な知識に感心する。そして、句の背景にある朗人の知識を読み解く津久井紀代さんもすごい。全編海外詠だが、多忙な時期によく詠めたものだと感心する。季語の斡旋が絶妙。俳句は季語だとあらためて思う。物語や歴史を踏まえたものでは、つきすぎるくらいの季語がかえっていいようだ。

車輪飾るヘッセの村のリラの花

 ドイツでの詠。私は学生時代にはドイツ文学、特にヘッセとカロッサが好きだった。朗人もヘッセの『車輪の下』を読んだのだろう。当時の若者にはヘッセは人気があったのだ。朗人と私は8才違いだが、同じような青春時代を持ったと言うことに、親しみを感じた。今時の若者はヘッセなど読まないのではないか。

青春の遠き夕日へ漕ぐボート
夕焼やシャンゼリーゼを乳母車
秋耕や凡そ天下にかかはらず
アルプスの南は花の母音満つ
万年を遊び疲れて亀鳴くや
杜甫の世も今も糸瓜のへそ曲がり
大いなるオムレツを食ひ荷風の記
ギター弾き帰る晩秋のソレントへ
春うらら村ごと違ふソーセージ
法螺吹きは男爵様ぞ亀鳴けり
青々と夜があり怒濤なす氷河
ホームズの来さうな路地の冬深し


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書名 故郷忘じがたく候 著者 司馬遼太郎 No
2019-14
発行所 文春文庫 発行年 1976年 読了年月日 2019-06-28 記入年月日 2019-06-29

 オリーブ句会の博章さんが入院中の私に見舞いといってもって来てくれた。
 表題の他に『斬殺』と『胡桃に酒』。

『故郷忘れじ難く候』は、秀吉の朝鮮出兵に際し、島津義弘により日本に連れてこられた陶工集団沈氏一族の物語。沈氏一族は南原城が落城した際、逃げ遅れ、島津の軍勢に捕まった。日本に引き揚げる際、どういうわけか義弘の軍団とははぐれ、九州の西岸の海を南下し、薩摩半島にたどり着く。彼らは当時の日本にはなかった白磁の技術を持つ集団で、薩摩半島に住み着く。やがて島津藩は彼らの白磁を自藩の特産品として、多くの利益を上げる。それは幕末の倒幕の資金にもなった。物語は十数代にわたって結束を固め、伝統の白磁を作り続けた、沈氏一族の住む村を筆者が訪れ、その歴史、誇り、望郷の念などを聞き出すというように展開される。

『斬殺』は明治維新の際、官軍の参謀として、わずかな軍勢と海路仙台藩に乗り込んだ世良修蔵の話。長州藩士として特に目立った存在ではなかった世良だが、当時は人材が払底していた。彼の役目は九条道孝卿を総督とする官軍の参謀として、会津攻めに仙台藩をかりだし、その実質的指揮を執ることであった。だが、仙台藩はもともと会津攻めに乗り気がしない。そこへもって来て、世良の官軍をかさに着た高圧的態度が気にくわない。それでも藩主は重い腰を上げ、白石までは出陣する。仙台藩や米沢藩の本音は会津藩の降伏であるが、世良はあくまでも開戦による会津攻略を主張する。任務を引き受けた際、有栖川宮から京都でそのように言われている。仙台藩や米沢藩などの間で秘密裏に外交交渉が行われ、ついに奥州列藩同盟が結成される。そんな情勢の中で、世良は目の敵にされた。仙台藩の中で密かに世良の暗殺計画が練られ、白河で実行される。
『胡桃に酒』は明智光秀の娘で、細川忠興に嫁いだガラシャ夫人の生涯を描く。絶世の美女であったたまを妻とした忠興は、極めて悋気の強い男であった。たまを他の男の目につかぬように、屋敷の奥深くかくまった。あるとき、庭の手入れをしていた庭師がいるところを、たまが偶然厠に行った。庭師の姿を見つけたたまは声をかけた。庭師はためらったあげく、一言言葉を返した。それを見ていた忠興は、庭に飛び降りるや、男の首を刎ねてしまった。しかし、たまはそうした夫の行為にも。平然としていた。彼女は夫の悋気と狂気には絶望していたが、当時の道徳として彼女に命じられているのは夫に従うことであった。夫のそうした行為にも動じない強い精神力を持った女として描かれる。

 やがて父光秀は滅び、秀吉の天下となる。天下人となった秀吉は、大名の奥方を片端から呼び出し、関係を持って行く。それを恐れた忠興は、なんとか秀吉の魔手からたまを守り、たまを屋敷の奥深くかくまう。万一秀吉の手が伸びてきたら、部屋ごと爆破できるように彼女の部屋の周囲には火薬をめぐらす。そうした中で、たまはキリスト教に傾き、ついに洗礼を受ける。忠興は秀吉の命に従って朝鮮に出兵する。あるとき博多から胡桃割りと葡萄酒がたまのもとに忠興から送られてくる。胡桃はたまの好物であり、また酒もたまの大好きなものであった。葡萄酒を飲みながら、次々と胡桃を食べたたまは食あたりを起こす。胡桃と酒は古来食い合わせの悪い物とされてきた物だ。たまは自分と忠興は胡桃と酒のような関係だと気が付く。

 秀吉の死後関ヶ原の戦いが起こる。忠興は家康に従って、上杉征伐に関東にいる。たまは大阪の屋敷の残る。三成の命により、たまらは大阪城に入ることを命令される。だがたまは拒絶する。屋敷を囲まれたたまはクリスチャンゆえ自害は出来ず、嫁入り以来彼女の守り役であった小笠原小斎に首を刎ねてもらう。焼け跡からは小斎らの遺体は見つかったが、たまの亡骸はどこにもなかった。

 3編とも、歴史上の人物としては、むしろ傍流の人物を取り上げたところが面白い。

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書名 20週俳句入門 著者 藤田湘子 No
2019-15
発行所 立風書房 発行年 2000年 読了年月日 2019-07-27 記入年月日 2019-07-29

 俳人としての著者の名は目にしたことがある。てっきり「しょうこ」と読む女流俳人だと思っていた。実際は「しょうし」で、これは師の水原秋桜子にあやかった俳号である。

 20週にわたり、俳句作りのポイントが説明されていてなかなかいい本だった。各週の終わりに著名俳人の数句が載っていて、この句を暗誦するまでは、次の週に進むなという。俳人としては虚子以降の俳人で、芭蕉蕪村はもちろん、子規の句も取り上げられていない。古い俳句は身にしみると古くさい俳句になると言うのが著者の持論のようだ。だから、寺社仏閣などへの吟行はするなという。

 著者は俳句における切れ、つまり切れ字の大切さを中心におく。本書の特色は俳句の基本的形を、どこで切れるか、どの切れ字を使うかによって四つに分類して、その形に従って作句することを強く勧めていること。

型1.上五を名詞の季語プラス「や」とし、中七と下五は続き下五は名詞止め
型2.上五と中七は続け中七を「や」で切る。下五に名詞の季語 
型3.上五と中七は続け、下五を季語プラス「かな」で締める。
型4.上五を名詞の季語で切り、中七と下五と続け、下五を「けり」で締める。

 著者は、二物一唱を俳句の基本としており、近年の一物一唱的俳句を快く思わない。切れ字の醸す省略と韻律が俳句の基本であるとする。

作句の要点を以下に述べる:

俳句は、時間・経過を詠うより点をとらえて詠うものである。
対象を広くひとまとめに詠うものではなく、一点に絞って詠うのである。
全体を表現するのではなく、部分を詠って全体を感じさせる方法が適切である。
発端、経過、完了と分けてみたとき、完了の点で詠うと発端、経過も連想されてくるもものである。

 8月からは私の俳句作りも10年目に入る。著者の指摘を参考に今までの句を見直せば、捨てていた句も良いものに変わるかも知れない。

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書名 私の植物散歩 著者 木村陽二郞 No
2019-16
発行所 ちくま学芸文庫 発行年 2012年 読了年月日 2019-08-04 記入年月日
 
めったに新聞を読むことはないのだが、何かの拍子に「天声人語」を読んだいたら、本書のことに触れられていた。著者の名前に記憶があった。私の大学前期課程で植物学を習った先生だった。植物にはもともとそれほど関心がなく、特に名前を覚えるのが苦手だったが、俳句をやり始めて、植物に関心がないと句が詠めないことを痛感した。吟行に行き、草花や木々の名をかなり覚えた。本書も句作りの一助になれるだろうと思って手にした。

 春夏秋冬の代表的な身近な植物を取り上げ、その分類学上の位置、特徴などの専門的な解説だけでなく、人との関わり、特に文芸との関わりが述べられていて、面白い本。学術誌に載っていそうな細かいスケッチがたくさん掲載されている。カラーでないのが残念である。

本書から
桜:
 敷島の大和心を人間はば朝日に匂ふ山桜花
 本居宣長のこの歌の大和心を、武士の心ばえに結びつけるのは間違いだという。ここでいう大和心は、梅の花を第一とした漢心(からごころ)に対して、桜を第一とする大和心を歌ったもので、散り際の良さとは無関係である。さらにいえば、おおしい近世武士気質を中国的思考とみなして排斥し、めめしさをものの哀れを知る日本的な理念と宣長は思ったのである。(p45)

 アブラナ科植物:日本原産で、他では栽培されていないアブラナ科植物としてワサビがある。アブラナ科植物は花弁が四枚で十字の形だから十字花科とも呼ばれる。アブラナ科植物はキク科植物と同様、有毒のものを知らない。(p54)

 夏の七草:昭和20年6月に夏の七草が発表された。アカザ、イノコズチ、ヒユ、スベリヒユ、シロツメクサ、ヒメジョオン、ツユクサといった、焼け跡にもたくましく生える食べられる植物である。(p85)。私は菜園をやっていてスベリヒユを初めて知ったが、夏の菜園では一番手強い雑草だった。菜園仲間の同年配の婦人が、この草はお浸しにして食べたことがあるといっていたのを思いだした。

 食虫植物:食虫植物は葉緑体を持っているので、糖分やデンプンは作ることが出来る。しかし、その棲む環境が窒素や硫黄に乏しいので、蛋白質が作れない。それで昆虫を捕食する。食虫植物は、今や栄養豊富な土壌では育たなくなってしまった。(p103)

 萩:万葉集で詠まれた花の中で最も多いのは萩であり、137首で、梅の114首を抜いている。当時花見といえば梅や桜よりむしろ萩だった。万葉集には見られなかった和製の漢字「萩」が後に作られた。(p146)

曼珠沙華:曼珠沙華は染色体が三組あるトリプロイド植物で、種なしスイカと同じで種子が出来ない。球根でふえる。田の畦に多いのは水で流されてきた球根が畦で引っかかったためではないかという。この植物は仏教とともに入ってきたのではないかという。(p152)

菊と蘭:双子葉植物でもっとも進化したのはキク科、単子葉植物ではラン科と言われている。(p212)

キビ:古代中国でもっとも重視された穀物はキビである。キビはもっとも乾燥に強い穀物で、大麦の必要量の3割の水で育ち、育ちも早い。播く種子量の250倍の収穫量があり、これは麦の20倍、米の5倍である。(p220)

イネ科とマメ科:イネ科とマメ科は人間にとってのみならず、草食動物、特に草食獣にとって最も大切な養分を与えてくれる植物群である。(p224)


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書名 ギリシャ・ローマ神話人物記 著者 マルコム・デイ No
2019-17
発行所 創元社 発行年 読了年月日 2019-08-04 記入年月日 2019-08-07

  天為の会員有志によるギリシャ神話を題材にした俳句作りが、昨年の1月より始まった。ギリシャ神話の前は、歌舞伎や文楽を題材にする同じ催しがあリ、参加してみようと思ったが、句が出来なくて諦めた。ギリシャ神話の方がなじみがありそうと思って、参加してみた。本書は世話役から指定されたテキスト。

 ギリシャ神話に登場するカオスに始まりカリプソに終わる100人の神々と英雄についてその系図と生涯が簡潔の述べられている。上質紙を用い、各神々英雄には、西洋の画家による絵画もしくは古代の壺絵がカラーで載っているという贅沢な本。ゼウスやアフロディテ、ヘラクレス、オデュッセウスなどよく知られた神や英雄は見開き2ページだが、他の人物には1ページが割り当てられている。

 句会は参加人員30数名。毎月5人の人物について、各2句ずつ投句する。集まった句は互選と選者選が行われる。選者は天為同人の横井理恵さん。やりとりはすべてメールで行われる。選者選は各神・英雄について特選1句と入選4句で、その結果は『天為』誌に毎月掲載される。

 神話の中身は荒唐無稽という言葉がぴったり。3番目に登場する天空の神ウラノスの話題の中心は、ウラノスの産みの親、地母神ガイアが復讐のために息子クロノスに丈夫な鎌を渡し、ウラノスが眠っているときその男根を切り落とさせる話。切り落とされ、海に捨てられた男根の泡からアフロディテが生まれる。

 その他、三人の女神が一つの目と歯を共有しているとか、アテナはゼウスの頭から完全武装した形で生まれたとか、双子の兄弟の一方の父が神様で、他方が人間の王だとか・・。俳句にする場合、季語を選ばなければならないが、すべて「四月馬鹿」が当てはまりそうに思えた。あるいは夫への復讐から子供に刃を向けるメディナ、トロイアへ向かう順風を得るために、予言に従い娘を生け贄にするアガメムノンなど、「すさまじ」という季語しか浮かばないこともあった。また、男根などという『天為』ではまず表れない言葉も投句された。

 エピソードの一場面を切り取り、適当な季語を選ぶという作り方をした。適当な季語を求めて、歳時記の索引欄を最初から最後まで当たったことが何回もある。そういう点では、作句の勉強になった。トロイアが陥落し、夫メネラオスのもとに久しぶりに戻ったヘレネには「姫始」という新年における男女交合を表す季語を使ったこともある。だんだん慣れてきて、思い切ってイマジネーションを飛ばせばいいことも分かってきた。幸い、何句か選者特選に選ばれた。

 秋刀魚焼くプロメテウスの火をもつて
 はその一句。

 ゼウスを初めとするオリンポスの12神はほとんど知っている神々だったが、他の神はまったく初めて聞く名前だった。英雄達もヘラクレス、アキレウス、パリス、オデュッセウス、オイディプスなどはなじみがあったが、イアソン、カドモス、テセウスなど2ページで紹介されている人物は本書で初めて知った。

 本書に挿入された絵画を見ているとギリシャ神話は西欧文化の汲めど尽きせぬ泉だと実感する。荒唐無稽とも思われる物語には、人類の深層心理が反映されているのだろう。オイディプスの物語はフロイトによる精神分析の中心テーマとなった。また、父アガメムノンの仇として母のクリュタイムストラとその愛人を討ったオレステスについては、サルトルが「蠅」という戯曲を書いているという。

 4日に投句した10句をもって、20ヶ月におよんだこの句会も終わった。
 
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書名 苦界浄土 著者 石牟礼道子 No
2019-18
発行所 講談社 発行年 2004年 読了年月日 2019-10-03 記入年月日 2019-11-10

   2019年36刷というロングベストセラー。すこし前に著者は亡くなった。

 堅苦しいルポルタージュを想像していたが、第一章「椿の海」を読み出して、詩的とさえ思われる文章の素晴らしさにびっくりした。

出だし:
 
年に一度か二度、台風でもやって来ぬかぎり、波立つこともない小さな入江を囲んで湯堂部落がある。
 湯堂湾は、こそばゆいまぶたのようなさざ波の上に、小さな舟や鰯籠などを浮かべていた。子どもたちは真っ裸で、舟から舟へ飛び移ったり、海の中にどぼんと落ち込んでみたりして、遊ぶのだった。
 夏は、そんな子どもたちのあげる声が、蜜柑畑や、夾竹桃や、ぐるぐるの瘤をもった大きな櫨の木や、石垣の間をのぼって、家々にきこえてくるのである


 山中久平という少年の家を訪ねるときの描写である。少年は十歳の時に水俣病を発症する。

 もちろんこうした詩的文章からだけで書かれているわけではない。中山少年の後には、昭和31年の窒素の附属病院の細川医師による、後に水俣病と名づけられた症状例の報告が引用される。

 本書の核心は、個々の患者への聞き取りで構成された部分だ。読んでいて、これは本当の患者の言葉ではないと感じる。作者と親しかった渡辺京二という人は巻末の解説で、本書は石牟礼道子の私小説であると、言い切っている。

 渡辺氏がある老婆の独白について作者に問い詰めると、石牟礼は「だって、あの人が心の中で言っていることを文字にすると、ああなるんだもの」といたずらっぽく答えたという。

 患者の言い表していない思いを、言葉として書く資格を持っているというのは、恐るべき自信であると渡辺は言う。その自信はどこから来るのか。渡辺は、石牟礼が生まれたときから水俣の漁民達と共同の感覚を有していたからだとする。それは、近代以前の自然と意識が統一された世界であると言う。

 
・・・僻村といえども、われわれの風土や、そこに生きる生命の根源に対して加えられた、そしてなお加えられつつある近代産業の所業はどのような人格としてとらえられねばならないか。独占資本のあくなき搾取のひとつの形態といえば、こと足りてしまうかも知れぬが、私の故郷にいまだに立ち迷っている死霊や生霊の言葉を階級の原語と心得ている私は、私のアニミズムとプレアミニズムを調合して、近代への呪術師とならねばならぬ。(p74)


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書名 句集「百年」 著者 金子兜太 No
2019-19
発行所 朔出版 発行年 2019年9月 読了年月日 2019-10-07 記入年月日 2019-10-07

 兜太最晩年の10年の句。帯には「俺は死なない。この世を去っても、俳句となって生き続ける」とある。

 破調のもつ不思議な迫力に満ちた句集。土着、地霊、アミニズムといった兜太の俳句には破調がよくあうのだろう。産土秩父への愛。狼、猪、鹿、蟇。知人の死へ、あるいは亡妻への思いを詠った句。そして徹底した反戦、東日本大震災へ寄せる句。特に、自身が3年間いたという福島への思いが強い。整った叙景句など無縁の句集。『天為』とはまったく違い、海外詠もない。そして自身の老いを見つめる句。


昭和通りの梅雨を戦中派が歩く    最初の句
裸身の妻の局部まで画き戦死せり   無言館で
津波のあとに老女生きてあり死ぬな
白寿過ぎねば長寿にあらず初山河   兜太は白寿まであと7ヶ月だった。
白鳥去り野道とぼとぼわが一茶    井上ひさし追悼の句
人老いて多感多想や福は内
日本オオカミ復活せよと夏のわれら
死と言わず他界と言いて初霞
わが師楸邨わが詩萬緑の草田男
転た寝のわれに句を生む産土あり
雪の夜を平和一途の妻抱きいし
秩父の猪よ星影と冬を眠れ


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書名 日本中世史の核心 著者 本郷和人 No
2019-20
発行所 朝日文庫 発行年 2019年9月 読了年月日 2019-10-07 記入年月日 2019-11-10

  ドコモが主催するインターネットのgaccoという講座で、本郷和人の「日本中世の自由と平等」という講義を聴いたのは、もう5年も前で、この講義はgaccoの講座の第1号で、現在は130講座を超えている。本郷和人は最近NHKの「偉人達の健康」とか、アベマテレビのコメンテーターとしてよく顔を見る。gaccoの講座は、日本の中世を独自の視点から見るもので、かなり専門的であった。本屋の店頭で見つけて手にした。

 はじめで、著者は最近歴史学がつまらないのは、人物を描かないからだとする。それは戦後の歴史学を支配した。マルクス主義史学のせいで、中世の民衆はどういう生活をしているか、人口変動はどうであったかと言った民衆史に重点が置かれてあったからだという。物語中心の歴史があって良いのではないかというのが本書。網野史学を初めとする他の学説への批判、あるいは否定が、随所に見られる。著者は東大史料編纂所の教授だけあって、細かい資料に基づいて記述されている。

 とりあげた人物は、源頼朝(新しい王)、法然(平等の創出)、九条道家(朝廷再生)、北条重時(統治の追求)、足利尊氏(一つの王権を)、三宝院満済(ザ・黒幕)、細川政元(秩序なき戦乱へ)、織田信長(圧倒的な合理性)の8人をあげる。
本書から:
 源頼朝:頼朝の乳母の一人であった比丘尼は、配流された頼朝に武蔵国比丘尼郷から生活物資を送り続けた。この恩に報いて、頼朝は比丘尼に連なる一族を優遇した。比丘尼の長女の産んだ男子は、頼朝に重用され、島津忠久と名乗り島津家の先祖となった。こうした例から、頼朝は決して、冷酷な人間ではなく、暖かいとは言えないまでも、決して恩を忘れる人間ではなかった。(p45)

 中世の主従関係は「
主人であり従者であることは、相互の契約であった」だから、だめな主人は見捨てられ、乗り換えられた。(p48)

 源平騒乱は、「
在地領主たちのいわば独立戦争だった。」(p58) 

 法然:
平安時代の仏教は庶民がどうなろうと関心がなかったのではないか。仏教の経典が日本語についに翻訳されなかった。度重なる戦乱、飢餓と疫病、人々は確実に救いを待っていた。法然が生きたのはまさにそうした時代であった。(p88)

 
現在の私たちは、天皇・朝廷と来れば神道・神事を連想するが、これは明治政府が、神仏分離を進めたからである。中世においては、むしろ仏教・仏事に主体があった。天皇自体が仏教徒であり、朝廷の日常は諸仏に守られていた。(p79)

 北条重時:北条時頼・重時の政権期には、幕府の視線が御家人を越えて、在地に生活する人々までを捕捉するようになった。幕府は武士を統率するのみでなく、民衆をも守らねばならない。「撫民」、民を慈しめ、民を愛せよという呼びかけである。(p156) 

 重時が表したとされる「六波羅殿御家訓」「極楽寺殿御消息」からの引用が続く。
時としてどんなに腹が立つことがあっても、人を殺してはいけない
百姓をいたはれ、徳もあり、罪もあさし
 こうした文章に、重時が帰依していた浄土宗の影響を著者は見ている。

足利尊氏:尊氏は北条氏の血をひいていない。このことが尊氏の反幕行動に影響を与えている。反旗を翻してから、わずか1月足らずで幕府は滅亡しており、その影響力は大きかった。(p166)

 戦前、尊氏は日本史上最大の悪人とされてきたが、本郷は、当時著しく低下していた天皇の地位を、再興したのは尊氏であると言う。(p190)。私も「太平記」を読んだ限り、きわめて魅力的な人物に思える。

 細川政元:室町幕府の経済方針は、全国的な土地の支配は諦める。その代わり海上に展開する流通ルートをしっかり確保し、銭貨に収入を依存するというものであった。(p251)

 
権威を完全に否定するためには、滅し去らねばならない。実朝が殺され、北条一族が殲滅され、織田信長、豊臣秀頼が炎の中で滅んだのはそのためで。一方、足利幕府の最後の将軍義昭はおそらく殺す価値すら認められなかったがゆえに生かされた。(p274)

 織田信長:上洛とは単に軍勢を整えて京都に上がることではない。京都を自らの領国に組み込むことを意味していたと著者は言う(p284)。それは、京都が他の都市とは比べものにならないほど重要な商業都市であったからである(p292)。「
天下の覇権を握るためには、どうしても上洛しなくてはならない」。かかる歴史認識は全くの誤りである。と著者は言い切る(p291)。天下を取るための上洛ということに私は以前から割り切れないものを感じていたが、著者の明快な説明で、すっきりした。

 
戦国大名の目的は、彼らが自らの才覚で形成した領国、すなわち自分の国の保全であった。信長は戦国大名による個々の領国という枠組みを超えて、日本全国を見据えた。統一国家としての日本を想定し。その実現に向けて行動した希有の人物であったのだ。(p295)

 
天下とは信長の作り上げた概念である。領国を越えて天下を見据えたこと、そのことにこそ信長の革新性があった。(p298)

 信長の功績として、有能な人材の抜擢がある。羽柴秀吉、明智光秀、滝川一益などは、通常は歴史に登場できない人々であった。(p301)

 室町幕府を滅ぼした信長が、天皇と朝廷の存続を認めたのは、天皇家と朝廷が無力であったからだ。(p305)

 
信長の絶対性は、観念や道徳や倫理にあるのではなく、反逆者を踏み潰す強大な軍事力により担保されるべきものであった。その意味で、本能寺の変における信長は不用意すぎた。明智光秀が信長を伐った理由は何の不思議もない。実力と才能が他に抜きん出ているから信長は天下人であるのであって、信長との主従関係は超常的な要素によって規定されているのではない。ならば千載一遇のチャンスが到来したら、光秀が躊躇する必要など全くない。問題は善悪などではなく、現実的な可否にかかっていた。有力武将は各地に転戦していた。今ならば、自分は生産性の高い畿内を掌握して、天下人になり得る。ただし秀吉の反応は常人の想像を超えていた。光秀の判断は結果的にはたまたま誤っていた。それだけのことである。(p312~)。

時代の風を超越し得た人物、それは日本史においては、信長をもって最右翼とする。私はそう考える。しかし、その善悪は、日本史学だけでは容易には量れない」で、本書は終わる。


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書名 ホンモノの日本語 著者 金田一春彦 No
2019-21
発行所 角川ソフィア文庫 発行年 角川ソフィア文庫 読了年月日 2019-10-17 記入年月日 2019-11-11

 国語学者が書いた日本語に関する軽いエッセイ。教えられることが多い。日本語が世界の言語の中でも優れた言語であることが強調される。

 例えば、複数形の問題。日本語には名詞の複数形がない。しかし、代名詞の彼、彼女を複数で呼ぶときには「彼ら」「彼女ら」とはっきり区別する。一方英語では「shes」とい言う言い方はない。日本人にはコップが一つでも二つでもどうでもいいが、「彼女」は一人と複数を区別する必要を感じているのだと。

 日本語の音は著者によれば112しかない。一方英語の音は3万以上になると言う。発音の単位が少ないから、日本人はほとんどの人が文字を書ける。また、発音の単位が少ないことは言語を機械で処理する場合にも都合がいい。音声入力によるワープロには日本語が一番適している。なお日本語の発音単位で一番頻度の少ないのは「みゅ」であり、筆者の知る限り「大豆生田」(おおまみゅうだ)という名字のみだという。私はかつて奥州街道を歩いてたとき、栃木県でこの名前のポスターを見たことがある。

 かつて理系の研究者として、論文を書く際に日本語は非論理的で書きづらいといつも思っていた。そうしたことには本書は触れていない。もっぱら俳句に親しむ今の私には日本語の非論理性が気になる事はない。


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書名 がん消滅 著者 中村祐輔 No
2019-22
発行所 講談社α新書 発行年 2019年9月 読了年月日 2019-10-19 記入年月日 2019-11-11

 著者は日本とアメリカでがん研究に携わった研究者。

「がん消滅」という題には今から10年後の医療現場でがん消滅が見られる期待があり、またその自信があると、まえがきで述べている。10年後にはがんの5年生存率が今の60%から80%に改善することは信じていると。

 本書で取り上げるのは免疫的手法。その柱は、リッキッドバイオプシーとネオアンチゲン療法の2本。背景には21世紀に入りゲノム解析にかかる時間は50万分の1に、費用は100万分の1になったことがある。

リキッドバイオプシーは、主として血液中のがん細胞由来の特定の遺伝子変異を検出し、がんの早期発見につなげるもの。がんは正常細胞の遺伝子変異によって生ずるものであるが、がん細胞は増殖が早く、それはまた壊れる速度も速いことである。それ故、血液中にはがん細胞の遺伝子変異に由来する物質が存在し、腫瘍マーカーとしてそれを検出することにより、従来の生検と違って、患者への負担をほとんどかけることなく、誰にでも簡単に検査を行うことが出来る。血液検査だけでがんの早期発見が出来る。ただ、各種がんに対応する腫瘍マーカーがいくつかあげられているが、ステージの進んだがんでも、検出率は最大で70%程度である。

 ネオアンチゲン療法は、がん細胞表面にあるがん特有の蛋白質を標的とする免疫細胞を強化する手法。この方法ではがん組織を取り出すことが必要。そのため、著者は手術後のがん組織を保存しておくことの重要性を説く。特異的な蛋白質のペプチド鎖の一部を合成し、それを樹状細胞に結合したものを抗原(ネオアンチゲン)として、抗体を作らせてがん細胞をやっつける。がんの作り出す遺伝子変異は個々人によって異なるから、有効な抗体も個々人によって異なる。この手法では、個人個人からのがん組織に対応する抗体を作ることが出来る、著者が言う「オーダーメイド医療」となる。

 著者の主張するこうした免疫療法には、かなりの批判があるようで、ことあるごとに、そうした批判に反論している。

 その他、AIの活用がこれからの医療に大きな役目を果たすとも言う。膨大なカルテをビッグデータとして扱い、診断の精度を上げること、さらに医療現場での医師や看護師の端末入力をAIに肩代わりさせ、患者に向ける時間を増やすことなどを主張する。この最後の主張にはまったく同感だ。医師は私の話を聞きながら、パソコンに打ち込んでいるし、看護師も入院患者の病室を回るときは、台車にパソコンを載せてやってくる。放射線担当の医師は、放射線照射の詳細な記録を入力するのに何時間もかかると言っていた。そうした負担がAIで軽減されるものなら是非やってもらいたい。
 

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書名 ヒトの発達の謎を解く 著者 明和政子 No
2019-23
発行所 ちくま新書 発行年 2019-10-10 読了年月日 2019-10-30 記入年月日

  これもセンター南の有隣堂で買った。年をとると言うことはどういうことかが書かれているかと思った。中身はまったく違った。胎児から乳幼児期にかけてヒトの心がどのように形成されて行くのか、他の動物、特にチンパンジーとはどう違うのかといった内容。科学的な実験データに基づいて解説されており、それはそれで興味深かった。

 ヒトの心はヒトの身体と外部環境とのやりとりの中で、形成され、発達するというのが著者の基本的考え。

 
身体をもったその瞬間から、ヒトを含む生物は、環境と相互作用する経験を連続的に積み重ね続けていきます。そうした経験は環境に適応的な心を生み出していきますが、環境はたえず変化し続けています。心は、環境が変化しても適応的にはたらくよう、つねに軌道修正しながら方向ずけられていくのです。心が発達するとは、こうしたダイナミックに揺れ動く連続的変化のことを意味します。(p46)

 著者が子どもを持ったときの印象として、「ヒトは決して真っ白な状態で生まれてくるのではない」と感じ、また「ヒトは出生直後から外界について主体的に学ぼうとする存在であることを実感」したという。(p48)

 胎児についての種々の観察データから、「ヒトの胎児期と新生児期との間には、発達の連続性がはっきりとみてとれる」という。(p57)。そして、「
胎内で二〇週ほど過ごした胎児は・・・さまざまな感覚器官や中枢神経系の大枠を発達させ、子宮環境や自分の身体についての知識を学び始めているのです」(p67)。

 養育者と子どもの間の身体接触が、乳幼児期の主体性を促す意味で効果的であると言う。(p82)。例えば、身体に触れられながら聞いたよく記憶するという事実があるという。(p87)。

 抱き、授乳することにより、乳児の身体には「心地よい状態」が生ずるという。そして「
心地よい身体内部の変化を感じながら(内受容感覚)、ヒトは養育者から微笑みを向けられ(視覚)、声をかけられる(聴覚)などの外界情報(外受容感覚)を「同時に」与えられます。そうした経験を積み重ねていくと、乳児の脳にはある記憶の結びつきが生じ始ようます。養育者の顔や声といった情報が、身体内部に生じる心地よさ(報酬系活動)と関連づけて記憶されてゆくのです(連合学習)。さらには養育者の顔(視覚)や声(聴覚)、匂い(嗅覚)、肌ざわり(触覚)のいずれかを経験するだけで、他の外受容感覚や内受容感覚が結びついて、養育者という存在が頭の中に「概念」として浮かび上がるようになります。物理的、身体的なレベルの理解を超えた。記憶表象レベルでの他者意識です。(p89)。

 こうした概念レベルでの他者意識には、自己という存在について理解する自己意識が必要であると言う。(p91)

 
前頭前野のシナプスは一~三歳にかけて急激に形成され、四歳あたりで密度はピークに達します。その後、生後の環境の影響を強く受けながら必要なシナプス結合は強められ、不要な結合は刈り込まれます。刈り込みは四歳過ぎからゆっくりと始まり、一四~一六歳ごろに急激に進みます。そして、それが完成するのは二五~三〇歳なのです。シナプスの刈り込みがおこるということは、非効率だった脳がよりエネルギー効率よく高速の情報処理ができる脳へと変化していくことを意味します。(p125)
 
ヒトの脳の発達は、生物としてきわめて特異的です。ヒトは他の霊長類に比べて思春期から青年期にあたる期間が圧倒的に長いのです。ゆっくりと時間をかけて前頭前野を成なg熟させることで、脳の可塑性が高い期間をできるだけ長く維持する。こうした生存戦略によって、ヒトは柔軟に環境に適応しながら進化してきました。(p131)

 写真と図版が多数掲載されている。

 
追記:2020-11-12
 今朝のNHKのニュースに著者が出ていた。まだ若い、なかなかの美人で驚いた。
 新型コロナのために皆がマスクをしている。そのマスクが幼児にあたえる影響についての報道で、著者は専門家としてインタビューされた。
 著者の言うには、幼児は人の顔を、目、鼻、口の三点で認識する。マスクにより鼻と口が隠れることで、顔の認識に支障をきたす。
 また、幼児は特に母親の表情から母親の感情を読みとっているが、それもうまくいかないので、心理的な発達も遅れる可能性があると、マスク着用の問題点を指摘した。

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書名 山廬集 著者 飯田蛇笏 No
2019-24
発行所 角川文庫 発行年 平成28年 読了年月日 2019-11-08 記入年月日 2019-11-09

  蛇笏については、いくつかの代表句を知っているが、その生涯や俳句の傾向などはよく知らない。虚子賞というのはないが、蛇笏賞という現代俳壇では最高の賞に名を冠している俳人の事をもっと知ってみようと思った。『山廬集』は蛇笏の第一句集。図書館で探したら、『飯田蛇笏全句集』という700ページを越す文庫本が角川から刊行されていた。その中の『山廬集』の部分をまず読んだ。

 有馬朗人、金子兜太、あるいは虚子や子規の句集とは違う。土着というか、山梨の風土と生活に根ざした句が多い。兜太のような極端な破調とも無縁であり、アニミズムも特に感じない。

 意外だったのは、蛇笏は明治18年生まれだったこと。虚子より11歳しか若くない。もっとずっと若いかと思っていた。『山廬集』は9才から40年間の句、1775句が納められ、昭和7年刊。年代の新しいものから古いものへと並べられていて、季節ごとにまとめられ、各句には季語が見出しのように付いている。

 蛇笏の代表句とされる
芋の露連山影を正しう
 は大正3年の句で、今から100年も前の句だ。「ホトトギス」の巻頭を飾った。

 もう一つの代表句
折りとりてはらりとおもき芒かな  
 は昭和5年、大阪の句会の折に出来たという。これも90年近く前の句だ。

 読んでいて、季語の重なりがかなりある。当時は今のように、季重なりを余り気にしなかったようだ。もう一つの特徴は、「かな」で終わる句が多いこと。
 今では余り使われない言葉もよく出てくる。いわゆる女中に当たる婢、あるいは賤、杣などの言葉もよく出てくる。芭蕉への心酔を表す句もある。

峡とほく雲ぬく峰や日の盛り
わが好む白ふんどしの裸かな
紅葉見のやどかるほどに月の雨
死骸(なきがら)や秋風かよふ鼻の穴
  下僕の母親の死に際しての句
歳日や芭蕉たたへて山籠り
山風にながれて遠き雲雀かな
野火煙や吹きおくられて湖の上
たくましく婢の愁ひあるあせぼかな
雪空や死鶏さげたる作男
心中もせで起きいでぬ露の宿
富士仰ぐわが首折れよ船涼し
開墾地のたばこの花や秋旱
ある夜月に富士大形の寒さかな
婢を御してかしこき妻や蕪汁
倒れ木を越す大勢や順の峰
もつ花におつる涙や墓まゐり
  本集最後の句、9歳頃の句。

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書名 小林一茶 著者 小林計一郎 No
2019-25
発行所 吉川弘文館 発行年 昭和36年 読了年月日 2019-11-12 記入年月日 2019-11-21

 吉川弘文館人物叢書の一巻。著者は長野在住の郷土史家。一茶の生涯がわかりやすく述べられている。

 一茶は宝暦13年(1763年)、信州の柏原の中農の家に生まれた。3歳の時には母が死に、後妻の継母との間はうまくいかず、もっぱら祖母に育てられた。祖母が亡くなり、15歳の時に江戸に奉公の出される。その後10年間の消息は不明である。

 25歳の時、葛飾派の俳人二六庵竹阿のもとに同居していたようだ。葛飾派は芭蕉の親友山口素堂を祖とする俳諧の一派で、江戸の本所、深川方面から房総方面にかけて勢力を有していた。一茶の文学的才能とひたむきな努力は、葛飾派の人々を驚嘆させたようで、青年俳人として活躍する。自らを「一茶坊」と呼んだが、「頼るところもない漂泊の身、茶のあわのように消えやすい身」という意味だと自ら言っている。

 江戸後期の農民は文字の読み書きが出来る人が多く、一茶の父も、一茶の腹違いの弟も読み書きをよくしたと筆者は言う。一茶の文章には若い頃からかなりフィクションが含まれているが、文学者の書いたものに虚構が含まれることはむしろ当然だあると、著者は言う。だから、一茶の伝記を一茶の書いたもので構成する際には十分な注意が必要であるとも。

 一茶は29歳の時から、まる6年上方・西国方面を旅行した。俳諧修行の一世一代の大旅行であったが、一茶はこの旅行でたくさんの俳人の知己を得る。一茶は普通非社交的な俳人と考えられているが、実際は社交的で誠実な人柄であったと著者は言う。

 39歳の時柏原に帰省し、父の病床を看病するが、この時継母・弟と激しくいがみ合う。父は一茶に財産分割の遺言状を与えて亡くなる。父の死後江戸に戻った一茶はその後10年ほどをまた、浮き草のようなやもめ暮らしを送る。42歳の時家を持ち(借家)、訪問客も多くなり、俳業としての一茶の地位も安定しつつあった。しかしこの借家も4後には他人にとられてしまい、また、知人宅を点点とする身となる。

 46歳の時、田畑の遺産分割が認められ、一茶は本百姓となる。51歳の時、弟と和解し、遺産分割が最終的に成立。52歳の時弟と家を半分ずつに分ける。同時に28歳の菊と結婚。一茶はこの菊との間に三人の子供をもうけるが、いずれも夭折してしまう。菊の後に来た雪という女は、中風の一茶に愛想を尽かして、離縁してしまう。その後、三人目の妻として、やを娶る。やをとの間にはやたという娘が生まれ、これが現在まで一茶の血をつなげている。文政10年(1827年)一茶没。65歳。その翌年、やたが生まれる。中風、65歳という年令で、子をもうけたという一茶の精力は絶倫と言っていいだろう。一茶の日記には、こうした絶倫ぶりが記されている。例えば、1日に5回交わったとか。

 一茶は北信濃を中心に多くの門人をもったが、後世に名を残すほどの人もなく、また、一茶調を継ぐ人もいなかった。明治末になり、『一茶一代全集』が出版され、その中の『父の終焉日』が当時流行していた自然主義の告白小説と類似していて注目された。大正になり、自由詩や童謡がはやると、我が国文学史上そのような傾向を示したほとんど唯一の作家として一茶が大きくクローズアップされ、芭蕉、蕪村と並ぶ江戸俳壇を代表する三大詩人の一人にまでなった。

 一茶は文化10年から文政8年、51歳から63歳まで、門人など他人の家に泊まったのは平均して100日に63日になると言う。これは驚くべき数字だが、一茶の江戸での生活も、自宅をもったのはほんのわずかの期間であり、門人、友人に家に泊まっている。さらに、江戸の修業時代にどのように生計を立てていたのか、あるいは西国への大旅行の旅費の工面はどうしたのかなど、不思議なことが多い。見方を変えれば、一茶の生きた江戸後期の社会は、一茶のような人物を養う余裕があったと言うことだろう。一茶は門人や友人に頻繁に手紙を出しており、また、故郷を初め特に下総方面にもよく出かけている。それほど旅も自由であり、飛脚制度も整っていたようだ。この伝記を読んでいると、江戸後期社会の様相が透けて見える。19世紀初めの江戸社会は、世界に冠たる平和な泰平社会であった。ヨーロッパではナポレオンによる戦争の最中であった。

 一茶はたぐいまれな農民詩人であったが、自分の田畑は一切小作人に任せていた。また、門人たちも汗水垂らして働いている農民などいなかった。生活詩人でもあったが、彼の生活がみじめであったというのは疑問であると言う。一茶はまた、童謡詩人でもあり、日本の文学史上では甚だ珍しい存在であった。

 本書の最後は以下のように結ばれている:
 
茶は偉人ではなく、ふつうの平凡人にすぎなかった。しかし卓抜な文学的才能にめぐまれ、しかも赤裸々に自分の感情や生活体験を、文学にぶちまけないと気がすまぬ性質であった。その上、たいへんな努力家で、一生涯句や文を作りつづけた。しかもそれらの日記・文章・句稿などの大部分が今に伝わっているから、一茶という煩悩人の一生はひじょうによくわかるのである。中略 一茶は芭蕉や蕪村と比肩しうるような作家ではなかったが、より私たちに「近い」作家であったということができよう。

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書名 源氏物語(一) 著者 紫式部 No
2019-26
発行所 岩波文庫 発行年 2017年7月 読了年月日 2019-12-16 記入年月日 2019-12-19

 「源氏物語を読む」という題で今年の4月にエッセイを書いた。課題は「宿題」で、生涯の宿題として、原文で源氏を読むというものだ。40年以上前に谷崎潤一郎の現代語訳を読んだ。その後原文で読もうなどと言う気にはならなかった。俳句をやり始め、芭蕉のことを知るにつけて、芭蕉も源氏物語をよく読んでいることを知った。作句には辞書は欠かせないものだが、広辞苑を引くと出典源氏物語の例文がよく出てくる。そんなこともあって本書を手にした。

 本書は「桐壺」「帚木」「空蝉」「夕顔」「若紫」「末摘花」を納める。右ページに原文、左に校注の構成で、巻末の解説を入れると600ページを超える分厚い文庫本。原文よりかなり小さな文字で上下二段に書かれて校注は、おそらく原文の倍以上の文字数だろう。

 原文を読む。理解出来るのは3割もあればいいほうだ。特に会話の部分はわかりにくい。誰の言葉か、主語は誰かがわかりにくい。省略と反語表現も多く、これもわかりにくい。校注を見て理解する。

 各段の初めには、内容ごとに細かく切った要約が現代文で載せてあり、あらかじめ概要を知ることが出来る。また、段の終わりには登場人物の系図が示される。せっかくなら段の初めに示してあればよかったと思う。かつて、谷崎源氏を読んだ際に私はノートに登場人物の関連図を作成しながら読んだものだ。『源氏物語』にはとにかくたくさんの人物が出てくる。

 校注者には7名が名を連ね、素晴らしい校注となっている。原文の意味の解釈はもちろんだが、その記述が物語全体の中でどのような意味を持つかという解説もあり、また、これは式部が光源氏の好色ぶりを皮肉っている一文だというような解説もある。本書はいわゆる「大島本」を基礎としているが、その他の写本との細かい表記の違いについても、丁寧に示される。源氏物語の研究がいかに膨大であるかが分かる。

 原文で読むため、注意してゆっくりと読むので、以前の谷崎源氏の時よりも、ストーリーに深く入ることが出来る。これは、詳細な校注のおかげでもある。

 谷崎源氏の際には気が付かなかった源氏と藤壺の密通が、本書でははっきりと指摘されている(p430)。ただこの箇所の記述は藤壺つきの女房の心境として示され、具体性を欠き、難しく、二人の間に性交渉があったとするのは校注者の独自の踏み込んだ解釈かも知れない。

 巻末の解説には、「色好みこそが古代王者の条件である」という折口信夫の言葉が引用されている。それにしても、光源氏の色好みぶりにはあきれる。葵の上という正妻がありながら、空蝉、六条あたりの人、夕顔、末摘花、そして藤壺、さらに紫の上を強引に引き取る。空蝉には逃げられてしまうが、空蝉の夫と前妻の間の子、軒端の萩とも契りを結ぶ。皇子という高貴な立場、あるいは当時の風習を考慮しても、源氏の態度は尊大で、強引だ。

 下世話な興味だが、床を共にする際も、女は男に顔を見せないのだろうか。源氏が末摘花の垂れて先が赤い鼻に気が付くのは、朝の光の中だ。

 巻末の解説がいい。
 
式部もまた、少女のころから大小の物語に親しみ、きっと没入するタイプだったに違いない。長じて力量をたくわえると、世界に伍する物語作品を絶対に書こうと思うようになり、創作者として研鑽し、ついに『源氏物語』の作者になった。漢学者の素質を持つ紫式部にとって、中国大陸や東アジアの地理や環境はごく身近に親しかったろう。文学を通して学んだ広がる世界への関心や視野が、かならず彼女の書こうとする『源氏物語』を支えたに違いない。『源氏物語』の始まりは、伝承を書きとどめる体裁で、
 どちらの王朝のことだか、女御や更衣がたくさんお仕えしてこられたなかに、時勢に遭い栄えていた、たいして身分の高くない一女性がおったという。
 と告げる。最初から世界文学を目指していたと称してよい。
(p591)
 こんな見方は初めて目にした。

 全9冊のやっと一冊目。これほどの長編が読み継がれ、書き写し継がれて来たことは驚異というべきだが、それだけ内容が人々を魅了するからだろう。
 

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書名 明智光秀 著者 小泉三申 No
2019-27
発行所 岩波文庫 発行年 2019年10月 読了年月日 2019-12-26 記入年月日 2019-12-29

  本屋で見つけた。来年のNHK大河ドラマ「麒麟がくる」は明智光秀を取り上げる。お堅い岩波文庫がこんな本を出していた。とはいえ、初出は明治30年である。

 一言で言えば、光秀に感情移入した史伝。人物中心、エピソード中心に書かれた歴史物だから、本郷和人のいうように面白く読める。本郷は『日本中世史の核心』で本能寺の変を、経済的に豊かな京都を手にする絶好の好機が来たから光秀は本能寺に向かったと明解に割り切っていた。もちろん、本書にはそのような記載は全くない。著者は、信長からの武田攻めの際の叱責、家康供応役の際の叱責、そして丹波と近江の領地の領地替えを命じられたことの3つの事件が原因だとする。私はやはり小泉説を支持したい。もし京都の経済力を手に入れ、天下を手中にしたいのなら、もっと計画的な行動をとったであろう。本能寺の変後、光秀に近かった細川忠興も、筒井順慶も光秀に加担しなかった。

……本能寺の挙や、むしろ光秀の正当防衛なり。光秀を殺す者は信長なり。信長を殺す者もまた信長なり。武王天子を弑す、これを弑逆と言ふ可らずんば、光秀また可憐の英雄漢子たるを失はざる也。もしそれ、強て所謂名分を正うして、枯骨に鞭うたんと欲する者あらば、借問す、秀吉はいかむ、家康はいかむ」と本書を結んでいる。上の者を討つことは大罪であるという考えがまだ強かった明治の時代にあって、これは大胆な言い方だ。

 叙述の背景となる史料の詳細な検討はなされているようには思えない。

 巻末には橋川文三の『小泉三申』論があり履歴が紹介されている。小泉は明治5年生まれ、昭和12年没。文章を書くことが好きで、若いころは新聞や懸賞などの投稿していた。明治30年に『加藤清正』『織田信長』『明智光秀』の3編の史伝を表し、年少の史論家として注目された。その後、自由党系の新聞社に入ったが、程なくして、実業界に転身。いくつかの会社の要職を歴任し、相場師、実業家として名を知られる。明治45年衆議院に立候補して当選。以後7回当選する。政界の黒幕として、田中内閣などに影響を与えた。小泉は一方で、幸徳秋水と深い友情で結ばれていた。幸徳秋水は死の数日前に獄中から小泉宛の手紙を書いている。橋川は小泉を人間通だと評しているが、大変面白い人物だ。こうした人物だから、このような明智光秀論が書けるのだろう。

 明智光秀は土岐源氏の支族で、美濃の国明智に本拠を置く。父は早くになくなった。光秀は幼いころから好んで書を読み、武を学んだ。その資質を見込んで、叔父光安は光秀を明智家の後継者とした。光安は齊藤龍興に攻め滅ぼされる。光秀は籠城する光安とともに討ち死にすることを願うが、光秀の才能を高く買う光安は籠城を許さない。光秀25歳の時である。

 眷属を率いていったん京都に出た光秀は、その後単身、各地を回る。越後から奥州、関東、近畿から西国、さらには九州と6年間の放浪を続ける。この間、光秀の名声を聞いた毛利の家臣が光秀を抱えることを元就に勧めた。光秀と会った元就は光秀の頂骨が飛び出ているのを見て、このような人物は主家に災いをもたらすとして、召し抱えなかったという。

 帰京後越前に移り、朝倉義景に召し抱えられる。加賀では一向一揆の蜂起に対して出撃し、砲兵隊を組織し戦功第一とされた。しかし、義景が信長に追われた光秀の仇敵である齊藤龍興を抱えるにおよんで、光秀は義景のもとを去る。光秀を招いたのは信長である。光秀39歳。

 かくして、信長・光秀の(著者が言う)「悪縁」が始まる。

 信長のもとに移った光秀は、翌年伊勢攻めでめざましい功績を挙げる。

光秀が勢州における数度の戦功は、あたかも加州の一戦に朝倉義景を感服せしめたるが如く、また深く信長の信用を博し得たり。けだし信長能く人を見るの鑑識あり。光秀また能く人を見るの鑑識あり。英君能士肝胆相照らす。相互の信念堅きこと鉄の如けむ。信長の豪宕(ごうとう)と、猛勇と、果断と、光秀の勤厚と、温雅と、知謀と、あたかも陰陽両性の相和するが如きものあり。」と信長と光秀の蜜月関係を述べる(p32)。

 武田攻めの際の叱責は、働きの悪かった稲葉長通を詰問したところ、光秀に有力な部下である齊藤利三を謀略により取られたからであると、長通が答え、それで信長が光秀に激怒したからであると、本書はいう。その他にも、武田に繋がる恵林寺の僧の助命を光秀が信長に請うたことが激怒を買ったという説も紹介している。

 家康供応の際の叱責は、たかだか信長の配下でしかない家康の供応が、華美に過ぎたというものだった。こうした際のしきたりに詳しい光秀渾身の供応がかえってあだになった。著者はこれは信長の光秀に対する嫉妬の表れだと見る。

 本能寺に向かう光秀軍に脱落者が出なかったことを、以前から不思議に思っていた。本書によれば、出陣に際し、信長の閲兵を受けると兵には知らせたとある。光秀の軍の規律は極めて正しいものだった。その上、重臣たちは、主君が受けた数々の仕打ちにたいし、激高し、特に領地替えの命令を受けた後は、光秀に対し信長を討つことを求めていたという。光秀もそうした重臣たちに突き動かされたようだ。

 本能寺に向かう前に愛宕神社で歌仙を巻く。
ときは今天が下知る五月かな  光秀
 水上まさる庭の夏山     行祐
花落つる流の末を堰きとめて  紹巴

 光秀は、この歌仙に16句出しているという。後にこの歌仙を知った秀吉が、紹巴に光秀の発句には天下を取るという意思が現れているではないかと、詰問した。紹巴は「ときは今天が下なる五月かな」が元々の発句であったのに、書き間違えられたのだといって愛宕神社から書き取ったものを取り寄せて見せたという。確かに、書き換えられていて、秀吉も承認したという。


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書名 糸を出すすごい虫たち 著者 大崎茂芳 No
2019-28
発行所 ちくまプリマー新書 発行年 2019年6月 読了年月日 2019-12-28 記入年月日 2019ー12ー30

 著者は大学院では合成高分子の研究を専攻したが、40年間、クモの糸に興味を持ち続けてきたという。虫たちの出す糸は、合成繊維では得られない、素晴らしい機能を持ち、それらが大化けして次世代の素材となる可能性を秘めていると確信するに至ったという。 初めて知る、クモの糸の色々な特性が興味深い。

 クモはまず縦糸を張り、ついで横糸をはる。横糸には粘球という粘液が付着している。

 著者が一番興味を持ったのは、危険を察した際にクモがぶら下がって地上に降りる際出す命綱。苦心して集めて主としてその物理的強度を調べた。驚くことに、単位体積当たりの破断強度はナイロンの3倍以上もある。また、クモの糸は耐熱性、紫外線耐性も他の選によりも強い。

 2006年に著者は、300匹のコガネグモから19万本の糸を集め、それをより合わせたものにぶら下がることに成功した。著者の体重は65キロ。67ページにはその時の写真が載る。クモの糸は分子量30万の蛋白質が2本ジスルフィド結合で結ばれた物。アミノ酸組成は40%がグリシン、26%がアラニン。アラニンの繰り返し領域がベーターシート構造をとる結晶領域を形成するために、このような強度がもたらされる。

 こうしたクモの糸の性質を利用して、著者はバイオリンの弦を作った。クモの糸で作った弦は、倍音が非常に多く、柔らかみのある音色と評価され、名器ストラスヴァリウスとも遜色ないことが分かった来たという(p68)。

 クモの糸は平行する2本のフィラメントから形成されていて、1本が切れても切れないようになっている。他の昆虫たちの出す糸も同じような構造をしている。

 クモは共食いをするので、蚕のようには大量に飼うことが出来ない。従って大量生産には向かない。しかし、遺伝子工学のめざましい発展により、他の生物に作らせることが出来るようになった。タバコ植物を使って、クモの糸の遺伝子組み替えにより、2%の収率で分子量10万の蛋白質が得られという(p170)。JTに勤めていた私には、大変興味がある研究だ。

 クモの他、カイコ、ミノムシ、あるいはダニやノミなどの出す糸についての記述もある。ダニやノミが糸を出すというのは驚きだ。クモもそうだが、他の昆虫やダニは、糸を出して空中を浮遊して場所を移動する。柔らかな糸なので、空中でゆらゆらと曲がる。それが推進力となる。

 桑の粗タンパク質は乾物の23~30%にもなる。アミノ酸組成はアスパラギン産とグルタミン酸で50%近くを占める。絹糸の繊維であるフィブロインのアミノ酸組成は、グリシン、アラニン、セリンで約90%を占める。(p94)

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