読書ノート 1993

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書名 著者
ゲーデル・不完全性定理 吉永良正
人工知能と人間 長尾 真
逃げ水 子母澤寛
分類の発想 中尾佐助
花の生涯 舟橋聖一
THE END OF HISTORY AND THE LAST MAN Francis Fukuyama
天保図録 松本清張
菊池寛文学全集 第二巻 菊池寛
Homage to Catalonia George Orwell
A Twist in the Tale Jeffrey Archer
Jurassic Park Michael Crichton
The Bridges of Madison County Robert James Waller
第八折々のうた 大岡 信 
第九折々のうた 大岡 信
第十折々のうた 大岡 信
英語の感覚 大津栄一郎
寂寥郊野 吉目木晴彦
微生物学 R.Y.スタニエ 他
菌類と人間 R.C.クック
東欧革命 三浦元博、山崎博康
熱愛者 常盤新平
天狗争乱 吉村 昭
鳥居耀蔵 松岡英夫
不滅 ミラン・クンデラ
ゾウの時間ネズミの時間 本川達雄
笑いと忘却の書 ミラン・クンデラ
コンスタンティノープルの陥落 塩野七生
仮面と欲望 中村真一郎
ワープロ作文術 木村泉
むほん物語 出久根達郎
それでも作家になりたい人のためのブックガイド 絓秀実、渡部直巳
夢に殉ず 曾野綾子



書名 ゲーデル・不完全性定理 著者 吉永良正 No
1993-01
発行所 講談社 ブルーバックス 発行年 読了年月日 93-01-07 記入年月日 93-01-09

 
ゲーデルの不完全性定理に対しては「数学の定理の中には、それが属する公理系では証明できないものがあり、それを証明するためには、べつの公理系を持ってこなければならない。かくして数学は無限に拡張していく宿命をもっている」というふうに理解していた。なにかの本の一節をそのまま飲み込んだものだ。この主張は、直感としてなんとなく理解できる気がしていた。生物学や物理学の発展を見ていれば、研究が進めば進ほど概念が拡大して行っているという事実からそう感じていたのだ。しかし一般的とも思えるこの定理が数学的に証明できるなどとは私には想像も出来ないことだった。本書はその数学的証明を「分かりやすく」解説したものだ。ただし、一読では私には煩雑な馴染みのない集合論の記号を使ったその証明はよくわからなかった。それよりも、前世紀後半から今世紀前半にかけての数学史の読物として、あるいはカントール、ヒルベルト、そしてゲーデルらの生涯を記した読物としての興味で読み進めた。

 ことの始まりはすべて、無限と言うものを数えようとしたカントールに始まる。無限の集合では部分は全体に等しいといった常識に反するような結論が導き出されるが、こうした一種の数学の危機にあたって、今世紀初頭ヒルベルトが解決を要する問題として掲げた20いくつかの問題の中の解として、ゲーデルはこの不完全性定理に達した。

 この定理は人間の理性の限界を示すようにとれる。しかし、「無限」に公理系を創出していけば、人間の理性の到達する所に限界はないともいえる。

 ゲーデルが数学に興味を持ち始めたのは14才の時で、多くの数学者がだいたいこの位の年齢になって数学に興味を持ち始めるのは、数学が算術と違って、観念的な操作や、構造を扱うものであり、主体的な興味を持つには、ある程度の人格的成熟が必要であるからだ、と本書には述べられているが、私自身おおいに思い当たる。また、ラッセルは自分の生涯をかえりみて次のように語ったと本書は記している。
「私は頭が最もよく働くときに数学をやり、少し悪くなったときに哲学をやり、もっと悪くなって哲学もできなくなったので、歴史と社会問題に手を出した」。私が知っているラッセルは原爆反対運動に携わった社会運動家のラッセルであり、それ以上に「The Conquest of Happyness」 の著者だ。

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書名 人工知能と人間 著者 長尾 真 No
1993-02
発行所 岩波新書 発行年 読了年月日 93-1-15 記入年月日 93-01-15

 
かつて同じ筆者の「機械翻訳はどこまで可能か」という本を読んで興味を持ったことがある。著者は京大教授で、機械翻訳の研究等、人工知能の研究の日本での第一人者ともいえる人。本書では人工知能の研究を通して見た、認識、言語、哲学、理解、創造といった人間の知性のいろいろな側面が述べられている。

 人工知能の研究者にしては、コンピュータによる人工知能の現状、将来の見通しに関しては控え目な態度をとっており、コンピュータが人間知性に肩を並べるまでにはきわめて大きな難関が立ちはだかっていることを述べている。いろいろの原因を指摘しているが、その一つは人間の知性のかなりの部分が概念化されない種々のイメージや感覚に依存している部分が多いからだと著者はいう。

 人間の神経回路網の基本的で最も重要な働きは、類似性を認識する働きであり、これが人間の知的活動の根本を支えているというのが著者の立場。また言語における比喩的機能を最も本質的なものとし、それなくしては言語というものはありえないとさえ言っている。

 創造に関しては、いろいろなものの組合せの結果出てきた新しいものに、価値を発見する能力こそが大切であると言っている。組合せだけならコンピュータで出来ると言うわけだ。

 また、ゲーデルの定理にも何回も言及されている。内容は広範に及んでいるが刺激に富む本だ。


                       
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書名 逃げ水 著者 子母澤寛 No
1993-03
発行所 講談社 発行年 読了年月日 93-01-20 記入年月日 93-01-20

 
日本歴史文学館シリーズ
 旗本で小石川の槍道場の当主高橋謙三郎の半生を扱ったもの。しかし半分は近藤勇らを中心とする新選組のことに費やされている。

 隣家の母方の祖父の道場を継いだ謙三郎はやがて当代一の槍の名手となり、幕政にも関わるようになる。一時は義弟の山岡鉄舟の家に出入りしていた勤王派の清川らとの関係を疑われて謹慎、閉門まで命じられるのだが、一本気で、愚直なまでの性格が慕われて、やがてとんとんと出世して行く。幕府崩壊に当たっては、恭順派に属し慶喜に恭順を説き、上野に謹慎した慶喜の側に仕えたが、その後嫌われ、明治の世では、山岡鉄舟とは対照的に、泥舟と称しひっそりと清貧のうちに世を去る。

 この謙三郎を温かく見守るのが養祖父にあたる隠居だ。ある意味では典型的な江戸人の気質を代表するこの隠居がこの小説の全体を通しての主人公かも知れない。隠居からみれば勤王派は腹黒い策士ばかりで、佐幕派は一筋に主君に忠義を尽くす純粋な人間と言うことになる。この立場はかなり徹底している。こうした思い入れは祖父が彰義隊の隊員であり、勝海舟を書いた「親子鷹」や、読んではいないが「新選組始末記」というのが代表作である筆者の基本的な立場であったのだろう。近藤の処刑を強硬に主張した谷干城に対する罵倒に近いコメントに、作者の思いが最も端的に表れている。多くの江戸の人々にとって、徳川の世がひっくり返ることなど夢想も出来ないことであり、また、許すべからざることであったのだ。幕臣達を、幕府の土台は揺らぎ、歴史はとうとうと新しい世に向けて流れているのに、そんな感覚などまったくなく旧体制にしがみついた愚か者だと言うのは、後世の我々だからいえることである。高橋謙三郎泥舟の名はこの小説ではじめて知った。そのほかにも私にはほとんどなじみのなかった、エピソード風に出てくる幕末の江戸でのいろいろな、今でいえば社会面を賑わすような事件など知ることが出来たし、当時の風物、生活ぶりもよく描けていると思う。ひとえに江戸に対する作者の並々ならぬ思い入れのなせるところだろう。

 物語的な面白さはむしろ新選組の内部抗争や、勤王の志士との死闘にある。謙三郎の、時代への思い、対処の仕方は近藤勇のそれと比べていま一つ鮮明には描かれていない。

 文体は独特の歯切れを持ったもので、主語がはっきりせず、文脈が不明のところが時々出てくる。
 「逃げ水」というのは夏の日に地面からたつ陽炎のことだが、なぜこの小説の題名になったのかわからない。

 産経新聞S34年から35年連載 


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書名 分類の発想 著者 中尾佐助 No
1993-04
発行所 朝日選書、朝日新聞社 発行年 1990年 読了年月日 93-01-26 記入年月日 93-01-26

 
栽培植物学の専門家が書いた本。もちろん作物の分類のことが最も詳しく書いてあるが、それは分類とはどういうものかを説明するための引用といった方がいいものであって、分類をすることによっていかにものの本質が見えてくるかが、鍋料理の分類から、図書、宗教、言語、人種、気象、元素等多彩な例をひいて繰り広げられている。マーケティイングでは、よく「切口」というものを取り上げ、市場分析を行い、商品開発のターゲットを決めるが、いま思えばこれがまさに分類の発想だった。分類のことを広く扱った本だけあって、章の区切りは整然としていて、目次を見ればその内容のみならず思想までが浮かび上がってくるのはさすがというべきだ。

 第1章 分類の始まりーアイデンティティ、第2章 タクソンとクライテリオン、第3章 類型分類、第4章 規格分類、第5章 系譜分類、第6章 動的分類 からなり、この下に項目がある。

 分類の基本にあるのは自他を区別する能力であり、著者はこれをアイデンティティと呼んで動物や植物にもアイデンティティがあるとしている。類型分類は、イメージに近いものであり、クライテリオンのとりかたできわめてフレキシブルな、分類法の王様ともいえるものであるが、タクソン間の線引きに曖昧さが残る。規格分類はクライテリオンに数値等を用いるので、この曖昧さはなくなるが、イメージと乖離が生じることがあるとしている。系譜分類は時間の流れに沿った分類であり、最終的には有効な系譜分類はひとつになるものだ。これら三つの基本分類を総合したものとして動的分類(作者の創語)がある。

 ルイセンコ学説にも簡単に触れられている。その最大の問題点は対照区を欠いた実験から誤った結論を出したことだ。著者はこれを「孤立タクソン」の例として挙げている。もちろんルイセンコが権力をふるった背景には政治体制の問題が絡んではいる。

 しちめんどうくさいことを、くどくどと覚えなくてはならない植物分類学などまっぴらだというのが、私が生物学を嫌った大きな理由だった。以来一度も植物分類の本など読んだこともなかった。本書を読んでも、やはり植物分類学はめんどくさいという印象は変わらない。ただ、自分が物事の分類が嫌いかというとそうではない。勤務先の書類の洪水はファイリングにより、よく整理してきたし、コンピュータによるカード型データベースの愛用なども、分類とは無縁ではないであろう。また、近頃よく行く特許庁での調査にしても、膨大な特許文献に付されたいわゆるIPCの詳細な体系的分類のおかげで、きわめてスムーズに行えて、分類の持つ威力を身をもって感じているし、そうした分類体系に抵抗を感じることもない。何よりも、分類の精神の基本にある、枚挙、網羅の思想は私のむしろ得意とするところなのに、若い頃はそんなのものは論理的な思弁からは遠いもので、学問ではないと軽蔑していたところがあった。言い訳ではないが、当時の学問全体が、分類学など過去の死んだ学問だ位にしか思っていなかったのだ。1960年頃の分子生物学の勃興期に雑誌「自然」に載った柴谷篤氏の話題となった一文では、従来の生物学を枚挙生物学として、これに代わる思弁的な生物学の必要を強調していて、生意気にも私もいたく共感を覚えたものだった。

 しかし、先の「人工知能と人間」と併せて読んでみると、分類するということは人間の知性のもっとも基本的な特性であるといえる。また、著者が最後に一行触れているが、分類学は情報科学に大きな貢献を出来そうだ。

 以下きわめて基礎的なことを本書から拾っておく。
植物の分類
 門(DIVISION)、綱(CLASS)、目(ODER)、科(FAMILY)、属(GENUS)、種(SPECIES)、亜種(SUBSPECIES)、変種(VARIETY)。

人種;コーカソイド(白人)、モンゴロイド(黄色人種)、ネグロイド(黒人)
 著者は京大の出、1916年生まれだから、本書出版の時は74才。大したものだと思う。

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書名 花の生涯 著者 舟橋聖一 No
1993-05
発行所 講談社 発行年 読了年月日 93-02-09 記入年月日 93-02-11

                          
 
日本歴史文学館 26
 井伊直弼とその腹心の部下長野主膳、および二人の愛人でもあった村山たか女の物語。昭和27年から28年にかけて毎日新聞連載。38年、NHKテレビ大河ドラマシリーズの第一回作品として有名。

 まず感じたことは、女を描く作者の筆が冴えていること。文章が柔らかく艶がある。この作者の作品を読むのはこれがはじめてだが、作者の持ち味の一つなのだろう。たか女がきわめて魅力的に、実在感をもって描かれている。

 当然ながら、直弼は開明、救国の立て役者として描かれている。これは当時としてはかなり勇気のいったことだと思う。父なども、テレビの花の生涯を見ながら、井伊や長野などは許すべからざる逆賊だといつもいっていた。その父が持っていた「概観維新史」という分厚い歴史書を私も読み通したが、金子堅太郎伯爵が序文を寄せている、昭和15年発行のこの本では、当然薩長側から書かれているから、井伊は朝命を無視し、有為の志士を多く殺害した許すべからざる張本人として位置づけられている。花の生涯の連載はこの本からわずか12年後のことだ。井伊直弼の評価は今でもわかれるのだろう。日米和親条約を結び、開国に踏み切ったことで、今日の日本があるといえるのであって、その意味では、幕末の最大の功労者ともいえる。もし、攘夷派の云うようにしていたら、外国の属国になることはさておき、少なくとも日本の近代化はかなり遅れたであろう。この、井伊を中心とする幕府側の英断にいたるまでの過程、その苦悩こそが実際の政治というものであろう。本書では、ハリスとお吉の物語にもかなりのスペースをさき、この間の幕府側の苦心をかいまみせてくれて、大変興味があった。はなやかな倒幕運動の過程より、開国、条約調印にいたるこの過程こそもっと取り上げ、明らかにされるべきものだろう。

 安政の大獄については、世界に開かれた目を持ちながら、幕藩体制の枠からは一歩も抜け出せず、幕府の権威にたてつくものは容赦しないという井伊の限界から出たものだ。さらに云えば、日本の近代化を推し進めるために、政治の非情さが生んだ犠牲だ。桜田門外の変の前夜、別に命が惜しいわけではなく、自分がいつかは尊王攘夷派の手にかかって命を落とすことは覚悟してはいるものの、そうした無惨な死に方は避けたいという井伊の心境はきわめて人間的で、共感を呼ぶ。

 本書から引用してみる;
然し、正直なところ、死に度いとは思っていない。これは昔からの彼の考えである。
人世に貴ぶ可き至高のものは、生命だということ。彼はそれを濫りに捨てる気にはどうししてもなれない。 
中略  然し、その死の恐ろしさを承知の上で、人は自分の仕事を抛つことの、どうしてもできないことがある。
 吉田、橋本、頼にしても、その結果が死を予想させるのに充分でありながら、しかも、幕閣への抵抗と弾劾を押しつづけた。それが信念というものなのか。
 而して、いくら信念があっても、いざという場合は、人は死を恐怖し、生へ執着し、衝動として、死にたくないというのがありのままの人情である。それすら否定して、神がかりの虚妄を説く人々に、直弼はどうしても同感できなかった。


 また、一期一会の大切さを説いた茶の湯に関する直弼の著作が引用されているが、人間としての、深さ、思いやりがよく出ている。

 新聞連載の本書の終わりの方は、ときどき目にしたのを憶えている。昭和28年とすれば中学3年の時だ。独特の暗い挿絵で、唐丸篭が書かれていて、たかと篭の中の多田とのやりとりの場面を読んだのを思いだした。松本幸四郎、淡島千影、佐多啓二がでたNHKのテレビドラマは、白黒だったが、その後いままで続く同じシリーズの中で、いまもってあれを越える作品には出会っていない。「概観維新史」は多分その時読んだものだ。それまでに読んだ歴史書とはまったく違う戦前のスタイルに面食らったが、小説でも読むように読み終えた。900ページを越えるこの本は、父の死後、その本棚から一番先に持ってきた本だ。

 これで日本歴史文学館の幕末物は終了。集中して読むことの利点が多い。時代がダブり、人物がダブるので、理解の助けになるし、同じ人物でも作品毎に評価が違うから面白い。面白いことに、倒幕側からのものは、一つだけで、後の五つは幕府側から書いたもの。

 「花の生涯」という題名は136の候補の中から選ばれたものだと解説にあった。小説を書くということは生やさしいことではない。


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書名 THE END OF HISTORY AND THE LAST MAN 著者 Francis Fukuyama No
1993-06
発行所 Penguin Books 発行年 読了年月日 93-02-26 記入年月日 93-02-27

 
昨年の暮れ丸善のベストセラーの棚に並んでいるのを見つけて買った。細かい字で本文だけで340ページにもなる分厚い内容。

 著者の主張を要約すれば、人間の社会形態として自由な民主主義社会はこれに代わる体制を見いだすことの出来ない最終的なものであり、奴隷制社会、貴族社会、封建社会と発展してきた社会形態が、ファシズムに続き、共産主義の崩壊を見るに至った今、人類の歴史はこれ以上の発展を見いだせない、つまり歴史の終りに我々はさしかかっている。しかし、人間には本来的に「Recognition」への強い願望があり、各人が人間としての生きる権利と自由と平等を認められ、実質的にも人々がますます平等になった自由な、民主的な社会で、人間が真に人間らしくあるためには、この人間の他人に認められたい、他人に優越したいという本能的願望をなんらかの形で満たす必要があるというものだ。

 歴史に対する見方は全面的にヘーゲルに依存し、そして、人間に対する見方はニーチェによっている。

 当否は別として、論旨はきわめて明快で、引き込まれて読んだ。本文の他にさらに細かい活字で60頁もの引用文献がつく。取り上げられた歴史的事件も多彩で著者の博識には舌をまく。その一つ一つに明快で、独特の見方が述べられている。文章も気取ってはいるが難解ではない。
例えば
 「
One might say in fact that it was in the highly complex and dynamic "post-industrial" economic world that Marxism-Leninism as an economic  system met its Waterloo」といった修辞がいたるところにちりばめられている。

 日系人である著者は、日本にも数多く言及している。しかし、日本が、著者の言う意味で本当の自由な、開放された、完全な市場経済の社会であるとは私には思われない。政治の世界でも自民党の一党独裁に近い状態がもう40年以上続いている。経済の世界でも政府による保護、例えば米の統制制度や、産業政策と称する政府による指導が幅をきかせてきた。日本の繁栄の一因は、政府による数々の規制、干渉、指導が、人々の創意とうまくかみ合った所にあるのではないか。資本主義社会の中では最も社会主義に近い政策を採ってきたのではなかろうか。そして、日本の社会の伝統の中にそうした要素を受け入れる素地が養われていたのではなかろうか。

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書名 天保図録 上・下 著者 松本清張 No
1993-07
発行所 講談社 発行年 読了年月日 93-03-23 記入年月日 93-03-27

 
日本歴史文学館 24、25            
 幕末を舞台とした文学作品は、戦国時代舞台の物と並んでそれこそ無数にあるが、その直前にあたる天保時代のものとなると、聞いたこともなかった。私には本書が初めての物。幕府内の、いわば体制内の権力闘争が中心であるが、現代というか、何時の世、どんな組織にも当てはまりそうな人間の権力や金銭へのすさましい欲望、エゴが、天保の改革を舞台に繰り広げられる。昨今の金丸前自民党副総裁をめぐる金権、賄賂疑惑は言うに及ばず、私の身の回りの組織の中でも規模こそ違え、こうしたことは思い当たることが多い。登場するのは老中水野越前守忠邦、南町奉行鳥居耀蔵、その手下本庄茂平次、遊女のたま、僧 了善、12代将軍家慶、勘定奉行矢部駿河守、大奥の中ろう、旗本飯田主水正、金座の当主後藤三右衛門、高島秋帆等。

 出世のために平然と何人もの人を次々と殺す茂平次なる人物は、てっきり作者の創造したいわゆる狂言回しだと思って読み進めた。ところが作品の終わりになって、伝馬町の牢からでた茂平次が、敵うちに逢うのだが、そこに当時の茂平次の検死資料が引用されるに及んで、はじめてこの極悪非道ともいえる人物が実在の人物だったことを知って驚いた。清張は巻末の対談のなかで、作中人物はすべて実在の人物であり、物語も史実であると述べている。清張も言っているように、天保時代は歴史がそのまま小説となるような面白さがある。

 登場人物の中で最も興味を引かれたのは、天保改革の実行者で、奢侈取締りに辣腕をふるった鳥居耀蔵。権力欲のかたまりで、出世のためには、ライバルの些細な欠点を暴き立て、失脚に追い込むその手口の凄さ、最後は忠邦までも裏切る徹底した権謀術策ぶり。巻末の解説によれば、失脚後、「こんなことをすれば今に幕府も、この国も滅びる」と高言し、預けられた四国の地で維新を迎え、文明開化の世まで天寿を全うしたということだ。まさに「天保」の妖怪の名にふさわしい一生だ。それと、その鳥居の手足となって悪事の限りを尽くす茂平次。

 この二人に比べると忠邦の存在感はやや薄い。上は将軍、大奥の日常生活から、幕府首脳の日常、高級官僚の生活、当時の司法制度、獄舎内の様子、貧乏旗本、下っ端役人、遊女、いかがわしい祈祷師、印旛沼工事の人足等、当時の各層の生活ぶりが生き生きと描かれていて興味つきない。爛熟と退廃の色濃い時代ではあっても、決して抑圧された、暗い時代ではなかった天保の時代、薄闇の中にまさに桜が散ろうとし、人々の低いざわめきが地の底から湧いてくるような春の宵を思わせる、江戸時代最後の輝きともいえる時代の香りが伝わってくる感じだ。

 この作品の冒頭部分に時代背景が簡記してあるが、江戸時代全体の通史としても特に新しい見方はないが、明快で、さすが清張だと思わせる。いわく:
 
江戸時代に極端なデフレ政策がとられたのは二度ある。一度は・・中略・・「寛政の改革」である。次が天保である。・・中略・・ 改革はなぜ起こったか。簡単にいえば、徳川氏のつくった封建土地制度が貨幣経済の発達によって矛盾し破綻を来したからである。別の言葉でいえば、武士階級と農民との間に町人ブルジョアジーが興ったからである。・・中略・・ これを要するに、徳川初期の土地経済が貨幣経済に移ったため、限りある土地の米収入では、無限の支出を余儀なくされる貨幣に追いつかず、これがなければ衣食住もできないくらいに消費生活や経済が向上しているので、幕府や大名が貧窮したのである。・・中略・・それでも幕府に権威の実力があるころはよかった。権力で、ある程度、町人の横暴(貨幣経済)を抑えることができたからである。享保の改革はそれで成功した。寛政の改革も辛うじて破綻から救われた。だが、天保となると、もういけなかった。それは年代が下がるほど経済組織が発達したからでもあるが、肝心の幕府に実力が失われたからである。

 天保の改革は結局は失敗し、幕府は崩壊へと歩を速める。水野や鳥居の力をもってしても、幕藩体制の矛盾は繕いきれなかったのだ。考えてみれば、黒船来航は水野失脚の10年後のことだ。幕末と天保の間にはかなりの隔たりがあるような感じのするものだが、実際は連続するもので、開国を巡る対外折衝に当たった、堀田や、阿部は水野内閣の幕閣でもあったのだ。


                              
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書名 菊池寛文学全集 第二巻 著者 菊池寛 No
1993-08
発行所 文芸春秋新社 発行年 昭和35年 読了年月日 93-03-31 記入年月日 93-03-31

 
23編の短編が掲載されている。初めて読む菊池寛だ。「天保図録」の巻末の尾崎秀樹の解説の中に松本清張が、芥川や菊池寛の歴史ものは史実を近代人の心情で照射し、解釈しているため、作中人物の心理描写に疑問があると言っていると書いているのを読んで、読んでみる気になった。日比谷図書館で「天保図録」を返した日に借りてきた。

 いずれもきわめて簡明で、わかりやすく、読みやすい。「忠直卿行状記」、「恩讐の彼方に」など、題名は昔から知っていたが読んだのは初めて。封建制度の中で領主故に、結局は誰も本音では接してくれず、そのためにしまいには気違い沙汰の凶暴な振舞いにでて、ついには廃されてしまった、家康の長男の嫡子、越前領主を扱った前者。主殺しの罪の償いのために一人二十年余も、のみで岩に向かい、洞門を堀り続ける主人公と、それを仇と狙う一人息子がようやく仇に会うのだが、仇打ちを捨てて、ともにのみをとり最後は洞門を完成させるという物語の後者。両者とも通俗的ではあるが、ストーリーとしてはよくできた作品だし、特に前者には封建領主故に、人間的心情を持つことを許されなかった主人公への共感を通して封建制度への批判が色濃く表れている。

 歌舞伎の色事場面と言えば傾城買いのことだけであった時代に、不義の男女の命がけの恋を主題とした近松門左衛門の新作狂言を上演するため、若い頃思いを寄せ今は他人の妻である女に、偽って言い寄り、その女を踏みにじってまでも芸のヒントをえたという、芸術至上主義的な歌舞伎役者を扱った「藤十郎の恋」もいい作品だ。

 これらの歴史物だけでなく、当時の(大正時代か)世相や、勤め人の生活を題材にした物、第一次大戦に場面を設定した物などが収載されている。この作者の作品の題材は、日常生活で興味をそそるものばかりだが、文章は、読んでいてこれは高校生の作文ではないかと思うもことが多々あった。ごつごつして、青臭く、肩肘はったような文章だ。こう感じるのは文章に対する時代感覚の違いによるものなのだろうか。高校の教科書で中島敦の「山月記」を読んだ時もそういう印象を持ち、この作品が教科書に取り上げられるほど、また国語の先生が激賞するほどいい作品だとはどうしても思えなかったことがあったが、菊池寛の短編にも同じ印象を持つのだ。

 例えば「盗人を飼う」の中の一部から;
 
彼が可成りの期待を以って、入れた右の手の指は、なにも入っていない、空虚な袂の底に、寂しく触れるばかりであった。彼は新しい女中に対する疑念が、明かな形態を採って胸の中に、ぐっと込みあげて来るのを感じた。それは六円を失ったばかりの問題ではなかった。六円と共に、可成りによく働く女中を失うという問題であった。啓吉の挙動を先刻から訝しげに見ていた妻に、啓吉は可成り興奮した調子で・・・

 もう一つ目についたのは英語のルビが多いこと。
新鮮な;フレッシュ、初舞台;デヴュー、感動;センセイション、秘密化;ミスチファイ、重大な;シーリヤス、享楽者;エキピュリアン、人道的な;ヒューマニスチック、扉;ドア。このほか、センチメンタリティ、モーメントなどという言葉も出てくる。これは当時の流行だったのだろうか。不自然な感は免れない。


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書名 Homage to Catalonia 著者 George Orwell No
1993-09
発行所 Penguin Book 発行年 読了年月日 93-4-25 記入年月日 93-4-25

 
邦訳は「カタロニア賛歌」と題するもの。日経新聞か何かの読書欄で誰かが印象に残った一冊として取り上げていたのを見て読んでみた。Orwellの作品としては「NINETEEN EIGHTTY-FOUR」に続く2冊目の原書。前書も引き込まれて読んだが、スペイン内戦の従軍記というより戦記である本書も、行き帰りの電車の中や、昼の休みの間に短時日のうちに読み終えた。

 スペイン内戦は多くの著名人が人民戦線側の義勇兵として参加したことは知っていたが、Orwellもその一人であったことは初めて知った。本書の前半は実際の戦闘場面、後半は、バルセロナにおける政府側とOrwellの属したPOUMとアナーキストとの対立から発生した暴動とそれに対する著者の見解を述べてある。従軍記者としてのルポではなく、義勇兵として実際、わずか100メートルの距離に敵対する真冬のざん壕にふるえながら身を横たえ、フランコ軍陣地のきょう壁に雨の中夜襲をかけそこを一時占拠した戦闘や、最後には喉を打ち抜かれ、奇跡的にも助かるという体験に基づく記述は、圧倒するような迫力がある。それは開高健のベトナム戦記の比ではない。特に、いま述べた夜襲の場面の現実感はすごい。

 Orwellは負傷し、バルセロナに帰っているとき、POUMやアナーキスト、一部労働組合と政府側との間に衝突が発生し、POUMは結局弾圧され、この組織の義勇軍に属していたOrwellも狙われ、やっとのことでフランスに逃げ延びる。このバルセロナの事件は、アナーキストやPOUMらの「トロッキスト」などと、こうした過激派による「革命」を恐れたコミュニストとの対立がその原因だ。こうした内部対立から、この内戦の将来に暗い影をOrwellは予測する。最後の2章にわたるAppendixでOrwellは当時のスペインの政治情勢を詳しく述べ、さらにPOUMをファシストの手先とレッテルをはった内外の共産主義者およびそれに同調したジャーナリズムに痛烈な批判を展開している。

 Orwellが最前線にあったのは1936年の12月から37年にかけて、37年5月にバルセロナ事件、38年4月に本書の出版、39年3月フランコの勝利と歴史は続く。 

 ルーズさ、規律性のなさ、いいかげんさ、それでいてあけっぴろげで、無類の人の良さといったスペインの国民性に対し、Orwell はいたるところで言及するが、それはきわめて好意に満ちたものだ。ファシズムに対する激しい憎しみもいたるところにほとばしるが、ただ、フランコのファシズムはヒットラーやムッソリーニとは違った、緩いものになるだろうと予測している。これは歴史が証明したことだ。

 叙述は鮮明。さすがに作家のものだ。不意に撃たれたときの心境の描写も真に迫る。そして、たばこへの執着が各所に出て来る。
例えば第3章の書き出し22頁;
 
In trench warfare five things are important : firewood, food, tobacco, candles, and the enemy. In winter on the Saragossa front they were important in that order, with the enemy a bad last. 

                      
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書名 A Twist in the Tale 著者 Jeffrey Archer No
1993-10
発行所 Hodder and Stoughton Paperbacks 発行年 読了年月日 1993-05-07 記入年月日 1993-05-08

                         
 
娘がJeffrey Archer の小説が面白くて、ほとんど読んだという。娘が必要な本以外の本を読むとは意外だった。一つ原書で読んでみようという気になって、丸善で買ってきたのが本書。題名の通り、結末にちょっとしたどんでんがえしがある12の短編が収められている。最初の「The Perfect Muder」を読み終えたときは、たいして面白いと思わなかったが、つぎの「Clean Sweep Ignatius」からは面白くて、短時日で読み終えた。

 通勤途上の長津田から青山1丁目までの時間にうまくすると1編を読みおえられる程度の長さ。読み切れなかった分は昼休みに読み終える。語りは軽妙、どんでんがえしはなさそうに見えて、実際日常でも起こっているのではないかと思わせるものばかり。Jeffrey Archer はイギリス保守党の副党首まで勤めた人。題材もイギリス以外に日本や、ナイジェリア、トルコ、カナダ、ヨーロッパの小国「Multavia 」と多彩だ。保守党からみたイギリスの現状に対する批判や、発展途上国の内情に対する厳しい見方等が織り込まれている。

 Multaviaの国王からもらった勲章の宝石がガラスのイミテーションで、高額を出して本物にしたけれど、2度目の受賞の際に肩に掛けていたその本物が取り上げられ、またイミテーションに替えられてしまったという下水道技師の話である「Not the Real Thing」には、笑えないよいうなヨーロッパの小王国の現状が描かれているし、長年の親友とわざと衆人の前で口論し、名誉棄損の訴訟を起され、多額の慰謝料を相手に払い、その分だけ所得を減らし税金を節約するという「The Loophole」はひょっとすると日本でも法人税のがれに使えそうだし、あるいはトルコで絨毯を買った二組みの夫婦の話で、目の飛び出るほどの高額のものをいとも簡単に買った金持ち夫妻のものが、結局はつつましやかな値段のものをやっとの思いで買った夫妻のものより安物だったという「The Steel」は成金に対する痛烈な皮肉に満ちていて胸がすく。

 「make love (with)」という言葉が何回も出てくる。最初この表現に出会ったのはOrwell の「Nineteen Eighty-four」であったが、イギリスの作家はこの表現が好きなのだろうか。

           

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書名 Jurassic Park 著者 Michael Crichton No
1993-11
発行所 Ballantine Books 発行年 読了年月日 93-06-01 記入年月日 93-06-01

 
物語はコスタリカの大西洋岸で、奇妙な鳥に似た生物が特に子供達を襲うことから始まる。実はこれはジュラ期に生息した恐竜の仲間で、沖合いの島から逃げだしてきたものだったのだ。この孤島では秘かに、最新のバイオテクノロジーを駆使して、絶滅した恐竜達を造りだし、ジュラシックパークなる一大アミューズメントセンターを作る計画が進行していたのだ。計画はほぼ完成し、InGen社のHammond はこの計画のコンサルタントである、考古学者のGrantとその助手のEllie,数学者のMalcolm、法律専門家のGenneroを島に招待する。

 島の研究室では、DNAをつなぎ合わせ、それから10何種類もの恐竜を再現し、それを飼育していた。研究所全体はあらゆる面でコンピュータで管理されていて、驚くほどの少人数でとてつもない大仕事が行われていた。

 どうやって恐竜のDNAを入手したのだろうというのが前半の最大関心事。結局、琥珀の中に閉じ込められた蚊を抽出し、その中から恐竜のDNAを見つけ出すというものだった。恐竜の血を吸った直後に樹液の中に閉じ込められて、琥珀となった蚊がいるだろうという発想は意表を突く素晴らしい物だ。こうして琥珀の中の蚊から抽出したDNAを分析し、恐竜のDNAを特定し、分離し、それらをつなぎ合わせて完全なものとし、そこから元の恐竜を再生するのだ。当然のことながら恐竜のDNAの分離と再構成にはコンピュータを駆使しなければならない。DNAの断片のつなぎ合わせに、一部両棲類のDNA断片を使ったのが、後で大問題となる。

 さて、前記の客人に、Hammondの孫、Tim とLexを加えた一行は、サファリパークの見学よろしく車でジュラシックパークの見学に出かける。それはまさに1億年をタイムスリップした夢のような世界だ。ジュラ期が目前に展開される。肉食や草食の巨大なものから小さなものまで様々な恐竜が、自然の中に放たれているのだ。ただし、各恐竜の住む領域間および、見学道は高圧電流を通じたフェンスで隔離されている。

 彼らが帰り道についたとき、史上最大の肉食獣といわれるティラノザウルスが突如フェンスを越えて、車に襲いかかる。この島全体を管理するコンピュータシステムを作り上げた技師が、大儲けしようと、システムを切って、その隙に秘かに恐竜の子供を持ち出そうとしたのだ。ここからは次々と襲ってくる恐竜と人間、特にGrant と小さな2人の子供の息つく暇もないスリルの連続。かなりわざとらしく不自然な展開ではある。結局Grantの専門知識と子供達の素直な勇気のため3人は無事コントロールルームにたどり着き、Timのおかげでコンピュータも復帰する。だが、島のシステムはもう回復できないところまで来ていて、結局はコスタリカの軍の空からの攻撃により、恐竜達は始末されるという結末を迎える。しかし、これは恐竜達の全滅など決して意味しない。本来は雌だけしか作ってなかったはずのベロシキャプターが、卵をかえし、雛を育てていた地下の洞窟は(一部に両棲類のDNAを使ったために、いつの間にか雄もできていて繁殖が可能になっていたのだ)、空からの攻撃などではびくともしないだろう。そして、最後はすでにコスタリカ本土のジャングルにジュラシックパークを抜け出したある種の草食恐竜が住み着いていることを暗示してこのSFは終わる。スピルバーグ監督の映画が近ゞ公開されるそうだ。面白い映画だろう。

 この小説の別の見所は、数学者のMalcolm。彼は、恐竜に襲われ怪我をし、本土からの救援が間に合わず、ロッジのベッドでついには息を引き取るのだが、その死の床で述べるカオス理論が興味を引く。カオス理論に基づいてこのSFは書かれたとも言える。カオス理論から行けば、ジュラシックパークは最初からその崩壊が予想されるものだと彼は主張する。そしてまた彼は、西洋近代科学に対しても痛烈な批判を寄せる。その彼が、Hammond(彼も最後は骨折し動けなくなっているところをスキャベンジ恐竜の餌食になる)に対し、環境汚染や、オゾン層の破壊といった少しばかりの人間の愚行で、30数億も続く地球上の生命が絶滅することなど有り得ないと主張するのが面白い。

 「
Life is too short, and DNA too long」とはHammond が生物学者のWuを自分のプロジェクトに引き込むときに使った台詞。「人生は短く、芸術は長し」といったのは誰だったか。

93-06-06 追記
 今日のニューズウィークの翻訳で、スピルバーグの映画「ジュラシックパーク」関係の翻訳を3本やった。遅版の主要部を占めていたから、来週あたりの特集記事になるのだろう。その中で、この映画の背景となる恐竜のDNAからの再生に関してその可能性を科学的に論じた長い記事があった。読み終わったばかりの小説だったので、この記事を選んでみた。私が当たったころは、ちょうど琥珀から恐竜のDNAを取り出すことの部分であって、すらすらと訳すことができた。読んだばかりの本が、しかも最も興味を覚えた部分の内容がこんな具合いに翻訳の仕事に絶妙のタイミングで役立ったことは珍しい。ついでにとばかりに、「ジュラシックパーク」の映画評を次の翻訳として選んだ。もう他に適当なのがなかったし、読んだばかりだからいいだろうと思ったが、これは難物だった。書評や、スポーツ評論と同じで、文章がこっていて難解で、小説の内容を知っていてもかなりてこづった。この評論の私の訳した部分では、各場面場面の素晴らしさは褒めていたが、それが全体として有機的な流れとして構成されていないとして、B級の域を出ないと決めつけていた。また、登場人物に愛着を感じるような人物がいないとも述べていた。そして最後に担当者が、もう1本持ってきたのが、先ほどと同じ恐竜再生の科学を論じた記事。この部分では、DNA断片をつなぎ合わせることの困難さ、また、たとえ完全なDNAが得られたとしても、その後の発生の過程に大きな困難が待ち受けていることが述べてあった。
 今日は久しぶりの7本の翻訳だった。


                                           
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書名  The Bridges of Madison County 著者 Robert James Waller No
1993-12
発行所 Warner Books 発行年 読了年月日 93-06-13  記入年月日

 
 
全米でじわじわと伸び、ついにはベストセラーのトップに躍りで、その翻訳版が日本でもよく売れ話題になった恋愛小説。週刊誌に、長岡東証理事長はじめ、小説とは縁のなさそうな有名人がこの本を読んで感動したとあった。原本は小型のハードカバー版。作者はこれが処女作の50才過ぎの男性。ニューズウィークだったか、この作品を書くのにどのくらいかかりましたかとの問いに自分の年齢プラス2週間と答えていた。

 「National Geographics」などに寄稿している中年のプロのカメラマンと、彼が屋根付きの橋の写真を撮りに行ったときに出会った農家の主婦との、激しくもせつない純愛物語。二人が共にしたのは夫と二人の子供が州の農産フェアか何かで留守にしていたたったの4日間のみ。その後二人は一度も会うことなく男は一人で死ぬ。だがその4日間は二人にとって生涯忘れることのできない日々となった。書き出しの部分での、キンケードの車の旅を、土地の名を連ね淡々と記述した中に、アメリカの広さを感じさせ、そしてこの小説の舞台となるアイオワの田舎が、その広大なアメリカのいかにも草深い田舎であり、そのことがまた二人の出会いの運命的なものを引き立たせる。四十過ぎた二人のこの純愛物語(燃えるような肉体関係を持つに至る二人の間柄は、昔流の純愛物語とはまったくかけ離れたイメージだが)に、多くの年配者が感動するのは、自らもそうした体験を夢想するからだろう。私も同じだ。

 作者は女性ではないかと思ったことは何回もある。それほど女性の心情を見事に描いているのだ。例えば爪を気にする場面とか、初めてのmaking loveでの身につけていたものがはがされていく手順を20数年後も覚えているといった書き方は、憎いくらいに女性心理をついているように見える。
 その部分の記述(105p):
She remembered the dreamlike sequence of clothes coming off and the two of them naked in bed.

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書名 第八折々のうた 著者 大岡信 No
1993-13
発行所 岩波新書 発行年 読了年月日 93-06-06 記入年月日 93-06-06

 
しばらく遠ざかっていたが、「Jurassic Park」を読み終え、次のペーパーバックが手元になかったので読んだ。
 電車の中で読んでいて、芭蕉とか蕪村には天皇などというものの存在は意識の中まったくなかったろうと思った。当然江戸時代の農民の心の中に天皇のての字もなかったことだろう。近代天皇制はたかだか130年ほどの歴史しかないのであって、日本文化の伝統は、特に現代につながる伝統は、それとはまったく別の所に存在していたといえる。
 何でこんなことを思ったのかわからないがとにかくこんなことを思った。

                                           
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書名 第九折々のうた 著者 大岡 信 No
1993-14
発行所 岩波新書 発行年 読了年月日 93-06-29 記入年月日

                          
 
芭蕉の連歌がいい。こうした芸術形式を持ち得たということに日本人としての誇りを感じる。

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書名 第十折々のうた 著者 大岡 信 No
1993-15
発行所 岩波新書 発行年 読了年月日 93-07-05 記入年月日

                          
 
俳句は天皇制あるいは尊王思想と無縁のものであったことを強く感じる。

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書名 英語の感覚(上・下) 著者 大津栄一郎 No
1993-16
発行所 岩波新書 発行年 1993.4 読了年月日 記入年月日

                          
 
英語と日本語の構造の相違から、英語圏の人のものの考え方、世界認識の方法と言ったものまで考察している、ユニークな本。逆に、そうした考え方の相違から、日本人が英語を使う時に注意すべき点を指摘している。なるほどと教えられるところの多い本で、構想は壮大だが、体系化が十分でなく、読みづらい面も多かった。

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書名 寂寥郊野 著者 吉目木晴彦 No
1993-17
発行所 文芸春秋9月号 発行年 読了年月日 93-08-15 記入年月日 93-10-09

 
109回の芥川賞受賞作。芥川賞作品を読むのはまったく久しぶりだ。池田満寿夫の「エーゲ海に捧ぐ」以来かも知れない。シンガポールからの帰りのフライトの中で読んだ。筆者はコニカの社員、57年生まれ。アメリカ滞在の経験があるのだろう。朝鮮戦争に従軍したアメリカ人と結婚し、ルイジアナ州に住み着いた日本女性とその夫の物語。異郷の地にあって、しっかりとした意志をもって人生を生き抜いた一日本女性の生涯が、骨太い筆で描かれていて、感動を呼ぶ。必死にアメリカ南部に溶け込み、農薬散布の事業につまずいたりする夫と苦楽を供にしてきたこの女性は、アルツハイマー病にかかり、だんだんと家族との意志の疎通を失って行く。
 抑えた文体に好感が持てる。選考委員の多くがこの作品を高く評価していた。作者がサラリーマンであることにおおいに希望をかき立てられる。私も挑戦してみようか。


                                            
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書名 微生物学(上・下) 著者 R.Y.スタニエ 他、高橋甫、他訳 No
1993-18
発行所 培風館 発行年 1989年 読了年月日 93-07 記入年月日 93ー08
                          

「Dictionary of Microbial and Molecular Biology」の翻訳の参考として読んだ。いい教科書だった。学生時代好きではなかった微生物学だったが、こういう教科書なら微生物学も興味をかき立てる。なによりも本書の原題が Microbiology でなくMicrobial World という言い方であるのが素晴らしい。内容もそれにふさわしい記述で、微生物を、我々の周りのあらゆるところに存在する、多様な、絢爛たる一つの世界として記述している。

 30年前と比較しこの学問分野の進歩はまさに飛躍的である。その背景にある分子生物学の進歩については、私なりに関心があって、かなりキャッチアップしてきたつもりだが、細胞の微細構造に対する理解の進歩は私にはまったく新しいもので、一つ一つが新鮮で、驚異的であり、また初めて目にする細胞器官の名称に戸惑いを覚えたほどだ。


            
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書名 菌類と人間 著者 R.C.クック、 三浦宏一郎、徳増征二訳 No
1993-19
発行所 共立出版 発行年 1980年 読了年月日 93ー08 記入年月日 93-10-09

「Dictionary of Microbial and Molecular Biology」の翻訳の参考書として読んだ。日比谷図書館蔵。従来菌類などはまったく関心のなかった分野だが、この辞書の翻訳をやっていくうちに、その多様な世界についつい引かれていった。本書は文字通り人間の生活と菌類の関わりを取り上げてある。特に穀物生産や、家畜の生産、あるいは木材の生産において、菌類によりもたらされる被害という点から多くの記述がなされている。こうした本が日本にはなく、翻訳されねばならないというのはなんだか変であるが、「Dictionary of Microbial and Molecular Biology」もそうだったが、欧米においていかに農畜産業が重視されているかの一端を見る思いがした。

 地衣類の話、共生の話等も分かりやすかった。除草剤として、サビ菌を利用する試みは、すでに1972年にオーストラリアでスケルトンウイードに対して実用化されたことを本書で知った。原始宗教の予言者はベニテングダケを食べることによる幻覚症状でいろいろな予言をしたのではないかという説(恐らく広く一般に唱えられている説だろう)、も面白かった。コカインや大麻に代わるキノコ麻薬というアイディアはどうか。


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書名 東欧革命 著者 三浦元博、山崎博康 No
1993-20
発行所 岩波新書 発行年 1992.12発行 読了年月日 93-09-07 記入年月日

 
かつては社会主義擁護派の砦のような感のあった岩波新書からこうした題の本が出るようになった。しかも著者はいずれも共同通信の特派員。東欧の社会主義体制が崩れる過程で展開された政治ドラマ、人間ドラマの趣があって面白い。最初は共産党内の一種の権力闘争として表れる種々の改革が、やがては体制の中では処理しきれない大きなうねりの中に飲み込まれあっというまに東欧の社会主義体制は崩壊した。この本の中で登場してくる人物の中で今も新聞や雑誌に名前が載るのはポーランドのワレサくらいだろう。ハンガリー共産党の改革派のホープと目されたポジュガイの名ももう久しく聞いたことがない。読み通してみて、ポーランドから始まり、ルーマニアに終わるこの革命が成功したのは、他ならぬゴルバチョフの強い支援または暗黙の了解であったことを痛感する。

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書名 熱愛者 著者 常盤新平 No
1993-21
発行所 祥伝社 発行年 1991年 読了年月日 93-10-07 記入年月日 93-10-07

 
少し前に朝日新聞の日曜版にこの本と、著者のことが載っていた。性愛描写が評判とのことで、奥さんが「あれは妄想でしょう」と言っていたように記憶している。日比谷図書館にあった。赤い表紙のハードカバーの小説。全編の3分の2位が、離婚した30台前半の翻訳家と、二人の女、典子と悦子との性愛場面の描写。電車の中で読むのをはばかられる様な内容で、周りの人が覗きはしないかと気になり、膝の上に立てて読んだ。文字どうり、寝食を惜しんでセックスに励む男女の関係を描いた小説。これが、謹言実直な感じのつきまとうあの常盤新平が書いた小説だから驚く。あの優しさの裏に、これほどの性に対する「妄想」が潜んでいたのだ。でもわかる気がする。筋は取り立ててない。最後から4行目に、典子とのことの後で、「肌が合うと言う平凡な言葉を、悠治は思い出していた。それがこの世で一番大切なことの一つだという気がした。」という2行がある。これが作者のいわんとすることのすべてだ。それは作者の人間に対する優しさの表現に他ならない。

 ただ、登場人物は寸暇を惜しんでセックスに精出すのだが、そのため、その描写はマンネリになっていて、同じ様な表現が繰り返される。あるいは作者は、セックスのプロセスや形は、人によりかなり一定のものだから、同じ様なセックスの手順を繰り返させることにより、登場人物にそれだけの実在感をもたせようと意識的にやったのかも知れない。もう一つ気になったのは、これだけしたい放題にやって、特に避妊の手段をとっていないのに、二人の女とも妊娠しないことだ。また、女性の生理の問題も気になるところ。もっとも、たいがいの小説を読んでいて、セックスの描写になるとこの二つは気になるところだ。


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書名 天狗争乱 著者 吉村 昭 No
1993-22
発行所 朝日新聞夕刊連載 発行年 読了年月日 93-10-09 記入年月日 93-10-09

 
幕末水戸天狗党の挙兵から、北陸の地における悲惨な最後までをほぼ史実のままに、時間を追って記したもの。途中で投げ出すことなくとにかく読み続けられた。作者の目は極めて公正だ。天狗党への極端な肩入れもない。前半の部分では、天狗党の一部の者は、軍用金調達のため、町全体を焼き払い、罪もない町人を殺したりという残虐な行為を行っている。こうした事実は、一党の余りにも悲惨な最後の陰に隠れてしまって、あるいは維新後の天狗党を美化する記述の陰に隠れて多くの人は知らないのではなかろうか。私ももちろんはじめて知った。

 天狗党がわざわざ京を目指したのは、自分達の攘夷の心を京にいる慶喜に訴えるためであったのだが、慶喜は最後は幕府の心証を恐れて、金沢藩に投降した天狗勢を同藩の家臣らの必死の嘆願も聞かず、幕府に引き渡してしまう。その結果が首謀者の妻子まで含む大量処刑となるのだ。こうしてみると後の15代将軍の慶喜という人物は大した人物ではなかったようだ。これは宮尾登美子の「天璋院篤姫」の中での見方にも共通するものだ。


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書名 鳥居耀蔵 著者 松岡英夫 No
1993-23
発行所 中公新書 発行年 91年11月 読了年月日 93-10-13 記入年月日 93-10-16

                          
 
勤務先の近くの本屋で見つけて買ってみた。松本清張の「天保図録」が頭にあったからだ。あの小説の中で憎らしい位の存在感のあった人物だ。これはノンフィクション。詳細な裁判記録と、幽閉後は鳥居耀蔵自身の日記とを主とした資料としている。清張の作品で読んだのと大筋は変わらない。これだけ詳細な裁判記録が残されていたことに驚くと同時に、江戸時代の裁判が、形式的には決してでたらめな、権力者の恣意的なものではなかったということだ。但し、判決については現代の我々の常識からはとても理解できないものだ。鳥居耀蔵の終身禁固の刑の本当の罪状も薄弱であるし、後藤三右衛門の死罪にいたっては、町人であったためとしか考えられない。

 鳥居の供述の中で興味があったのは、当時の役人が賄賂に対してきわめて厳しく自身を律していたと思われることだ。例えば神田明神の祭礼に耀蔵の五男が三右衛に招かれて見物に行ったが、耀蔵は
「三右衛門は自分の支配筋の者であるのに、わが子を祭礼見物に三右衛門の家にやったことは間違いであると気づいてはいたが・・・・また子供がもらった品物も返却するほどの物ではないと、心得違いの判断をしてそのままにしておいた・・・」と反省している。昨今の佐川急便やゼネコン疑惑に比べれば、たかが子供が祭礼に招待された位で恐れ入ることもなかろうと思う。

 耀蔵のすごさは23年間もの幽閉に耐え抜き、明治まで生き抜き、しかも最後まで自分の信念を変えなかったことだ。そして数人の曾孫の顔まで見るほど長生きする。その間に作った漢詩が数編引用されているが、学識の深さ、頭脳の明晰さをよく示している。
 清張の「天保図録」を思いだしながら読んだ。小説の方が人物像が鮮明になる。本書を読んでも鳥居人物像はそう鮮明には浮かんでは来ない。歴史小説の魅力でもあり、恐さでもある。

 著者の名を見て思いだした。かって社共統一候補として都知事選に出馬したことのある人だ。
 

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書名 不滅 著者 ミラン・クンデラ、 菅野昭正訳 No
1993-24
発行所 集英社 発行年 92年2月 読了年月日 93-10-30 記入年月日 93-10-30

                          
 
日比谷図書館のあまり人のいない書架の、東欧文学のコーナーの中から持ってきた。チャペックの作品がとても面白かったので、同国の、名前だけは聞いたことのあるクンデラのこの作品が目に留まったとき、読んでみようという決心は比較的容易についた。

 小説の楽しさを堪能させてくれる作品で、今年の秋の大きな収穫であった。本書の裏表紙に貼ってあるいわゆる腰巻をそっくり引用する;
パリのプールサイド。見知らぬ女性の、たわむれの手の仕草。多彩な色どりの風船を恋人めがけて投げたかのような。それを目にした「私」の心に、「アニェス」という名前が浮かんだ・・・詩、小説論、文明批判、哲学的省察、伝記的記述、異質のテキストが混交する中を、軽やかに駆け抜けていくポリフォニックな物語。存在の不滅、魂の永遠性を巡る、愛の変奏曲。

 ゲーテ、ベートーベン、ナポレオン、ヘミングウエイ、あるいはニクソン、ティコ・ブラーエ、ジャーナリズム、共産主義、大衆文化、政治、革命、恋愛、性、音楽、詩とあらゆる事象、現象が取り込まれ、見事な織物として提示される。快い知的刺激に酔うことができる。これぞヨーロッパの小説といえるものだ。アメリカでは決して生まれない小説だ。あるいは英語ではまず書かれることのない小説であるといっていいだろう。最近の「ニューズウィーク」の記事に、ジェフリー・アーチャーの作品を読んでも考えさせられることがないという批評があったが、この小説を読むとまさにその批判は当たっている。

 物語はプールサイドの見知らぬ女性の手の仕草から生まれた「アニェス」とその夫、弁護士のポール(フランスのエリート家庭だ)、そしてアニェスからポールを奪うことになる妹ローラの物語として展開される。上述のようなたくさんの事柄が投げ込まれているのに、一人の男を巡る対照的な生き方の二人の姉妹の愛の葛藤という筋立てはしっかりと作られていて、物語としても完結している。

 全体で7部で構成されるこの小説の第6部 「文字盤」にこんな洞察がある;
・・・人生というものは、主人公がある章からほかの章へと、いかなる公分母もなしに、常に新しいさまざまな出来事に不意打ちされる悪漢小説には似ていない。人生は音楽家が変奏つき主題と呼ぶ構成に似ている。
・・・・それはたとえば、あなたの人生の半ばにおいて、それまでの人生と関係なく、よく言われるように、ゼロから再出発して、「新しい人生」を確立しようと望んだりするのは幻想的だと言おうとしているのだ。あなたの人生は、いつも同じ資材、同じ煉瓦、同じ問題で建造されつづけるだろうし、あなたが最初のうち「新しい人生」だと思うかもしれないものも、まもなく既存の体験の単なる変奏と見えるようになるだろう。
・・・若いころは、人間は時間を円と知覚することができず、常に変化に富む地平のほうへ人間をまっすぐ導いて行く道としか知覚しない。おのが人生にはたったひとつの主題(天象図)しかないということに、人間はまだ気づいていない。のちになって、人生が最初のさまざまな変奏を作曲するであろうときになって、ようやくそれを悟ることになるだろう。

 
 主題と変奏というこの考えは、この小説の構成の特徴でもある。ゲーテに思いを寄せるベッティーナと妻のクリスティアーネの対決の場面で、ベッティーナの眼鏡をクリスティーナが床に落すが、それから170年後のパリのポール夫妻の部屋で、ローラと対決したアニェスが、ローラの黒眼鏡を床に落とすという場面で繰り返される。さらに、この小説の最後はやはりパリのプールサイドの場面だが、同じように水から上がった中年の女が、作者と、アヴェナリウス教授と、ポールのいるテーブルに向かって、書き出しの部分と同じような仕草で手を上げる。今回は、女はポールの妻となったローラだ。ふたつとも、読んでいて先に出てくるエピソードに作者が力をこめて書いている意味がよく理解できないのだが、読み進めるとそれが大きなモチーフであることを読者はさとる仕掛けになっているのだ。最初の方で作者は、いままで地球上に生存した人類の数800億に比して、人間の動作の数は余りにも少なすぎるとも言っている。

 あるいはルーベンスと称するイタリアの男にえんえんとそのエロスの遍歴を語らせる。本筋とは関係ないと思っているとこの男が関係を持った多数の女性の一人がアニェスであったことがさらりと示される。そして、ここにもベッティーナの豊かな胸に触れたゲーテのエピソードと、ナイトクラブでアニェスの胸に触ったルーベンスのエピソードとが見事に二重写しになっている。そうした、小説技法が駆使され、読者を引きずり込む。作者はほとんどの場合完全な第三者として、時間を越えて出没する。しかし、最初と最後のパリのプールサイドの場面等、時としては、小説の登場人物として出てくる

 不滅への人間のつきることない願望をズバリ扱った第2部「不滅」に取り上げられた数々のエピソードは、作者の皮肉な目が冴えていて、一種のユーモアを醸し出している。

第四部 ホモ・センチメンタリスの第一三章、311ページには音楽について次のような記述がある:
 
建築という観点からすると、ヨーロッパの文明より優れた文明はあったし、古代の悲劇は永久に乗りこえられないものでありつづけるだろう。しかしいかなる文明にしても、音をもとにして、形式と様式の豊かさすべてをふくめ、ヨーロッパ音楽千年の歴史というこの奇蹟を創造することには成功しなかったのだ!ヨーロッパ。偉大な音楽とホモ・センチメンタリス。同じ揺籃に並んで寝ている双生児。
 音楽はヨーロッパ人に感性を教えたばかりでなく、もろもろの感情と感性的自我を尊ぶ能力をも教えた。
・・・

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書名 ゾウの時間ネズミの時間 著者 本川達雄 No
1993-25
発行所 中央公論社 発行年 読了年月日 93-11-04 記入年月日 93-11-04

 
動物のサイズとその特徴とを論じて興味つきない。部分を全体のサイズの指数関数として近似して書き表わすやり方を、アロトメトリーと呼ぶそうだが、本書は至る所にアロトメトリー式が出てきて、そこから興味深い結論をつぎつぎに導いていく。例えば、生物の時間はその体重の1/4乗に比例する。一生の心搏数は動物によらず20億回、呼吸数は5億回。動物に普遍的にあてはまる法則として動物の標準代謝量は体重の3/4乗に比例する。

 こうした学問分野があるということは初めて知った。論議のすすめ方は、論理的で明快で気持ちがいい。それ以上に本書の魅力は作者の語り口にある。
 例えば第5章「走る・飛ぶ・泳ぐ」では、これら運動とサイズの関係を論じて、他の動物では運動中はエネルギー消費量が標準代謝量の2~3倍になるが、驚くべき例外として、泳ぐ哺乳類はたったの2%しか増加しないと述べ、この章の最後を、「
運動に、なんらコストがかからなければ、無目的に動き回るということは、あり得ることである。卑しさは、顔に出るものであろう。無邪気に泳いでいるイルカたちを見ていると、なぜ彼らが、これほどまでに偏愛されるのか、分かるような気がしてくる。」また、第6章「なぜ車輪動物はいないのか」といった題名の付け方。1年で20版を超す版を重ねたのもうなずける。分子のレベルからの生物学ではなく、こうした、形態から見る生物学(とはいえ著者も形態を最終的には分子構造に結び付けようとしている)が、こんなにも興味深いものであったかと、目を見開かされる。クンデラの「不滅」と並ぶ今秋の収穫だ。

 最後の棘皮動物の特徴を論じた部分は、著者の研究領域らしく、やや専門的になるが、ウニやヒトデの骨格の基本構造・・つまり、炭酸カルシウムの微細片をキャッチ結合組織と著者がよぶもので結びつけてあり、この結合組織は、固くもなり、軟化することもできるという特徴を持つ・・からこれら生物の特徴を見事に説明している。ここでも論の進め方はきわめて明快である。この章を読んでいると、いつのまにかウニやヒトデ、ナマコに愛着を感じ、グアムの遠浅の海にはナマコがうようよしていたことを思い出す。

 「
おのおのの動物は、それぞれに違った世界観、価値観、倫理をもっているはずだ。たとえその動物の脳味噌の中にそんな世界観がなくても、動物の生活のしかたや体のつくりの中に、世界観がしみついているに違いない。それを解読し、ああ、この動物はこういう生活に適応するためにこんな体のつくりをもち、こんな行動をするのだなと、その動物の世界観を読みとってやり、人間に納得のいくように説明する、それが動物学者の仕事だと思うようになった。」。動物が変われば時間も変わるということを知ったときの新鮮なショックから、著者はそう決意した、とあとがきにある。その考えが本書を貫いている。

 本書から;島の規則:島に隔離された動物は大きいものは小さくなり、小さいものは大きくなる。これはそれぞれの肉食獣の捕食者がいなくなるからである。


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書名 笑いと忘却の書 著者 ミラン・クンデラ  西永良成訳 No
1993-26
発行所 集英社 発行年 92年 読了年月日 93-11-08 記入年月日 93-11-13

                          
「不滅」と同じ変奏曲形式をとる小説。同様の形式をとる「存在の耐えられない軽さ」、「不滅」の先駆けとなったもの、と解説にあった。小説としては「不滅」の方が洗練されている。作者の自伝的な面も含まれるこの作品は、各章がそれぞれに一つの短編小説的であり、一読して相互の関連を付けにくい章もある。ソ連に抑圧された「プラハの春」以後のチェコの政治的・社会的状況が、この小説の基本的背景である。79年にフランス語訳として出版され、それがもとでクンデラはチェコ市民権を剥奪される。

 忘却に関しては以下の引用が作者の考え、本書のテーマを表すものだ。
 第一部「失われた手紙」より;
ミレックはまるで共産党のように、全ての政党、国民、人間のように「歴史」を書き直すのだ。よく人は、よりよき未来をつくるなどと叫ぶが、それは違う。未来とはだだ、だれの関心もひかないような、つまらぬ空虚にすぎない。しかし過去は生命に溢れ、その顔は、私たちが過去を破壊するか書き直したいと思うほどにも、私たちを苛立たせ、反抗させ、傷つける。私たちはただ、過去を変えることができるようになるためにのみ、未来の主人公になりたがるのだ。私たちが闘うのは、暗室にはいり込んで、伝記や「歴史」を書き直すためなのである。

 もう一つの主題、笑いに関しては私にははっきりとわからなかった。物語の主体も、日記さえも持ち出せずにチェコから逃げだし、夫の記憶が忘却されると共に、自分の過去も消失するのではないかと恐れるタミナに関する重いものである。本書から強いて引用すれば以下の所か;
 
物事は、(モスクワで教育されたマルクス主義者が、占星術を信じるといったように)仮想されていた意味、いわゆる物事の秩序のなかで与えられていた場所を突然奪われると、私たちの心のなかに笑いを引き起こす。だから、笑いはもともと悪魔の領分なのだ。笑いにはどこか邪悪なところがある(物事が突然、これまでそうと思われていたのとは違っていたことが判明する)が、しかしそこには恵みのように、人をほっとさせる部分もある(物事はそう見えていたよりずっと軽く、私たちを自由に生きさせ、厳しい真面目さで私たちを息苦しくさせるのをやめる)。

 本書の興味はそのストーリーよりも各所に示される作者の鋭い洞察である。こんな記述があった;
 
書記狂(本を書きたいというやむにやまれぬ欲望)は、社会の発展が次の三つの根本的条件を実現するとき、宿命的に疫病の規模のものになる。
(一)全般的に物質生活の水準が高いこと。これによって人々は無益な活動に身を捧げられるようになる。
(二)社会生活の原子化、したがって個々人の全般的な孤立化の度合いが高いこと。
(三)国民の国内生活において社会的変化が徹底的に欠けていること(この観点からすると、実際に何も起こらないフランスにおける作家のパーセンテージが、イスラエルよりも二十一倍も高いのは特徴的なことに思える。


 クンデラの文学に圧倒されるのは、それが彼のおかれていた状況と深くかかわっている文学であるからだ。今日の日本にそのような状況はない。従ってこれほど深みのある、迫力を持った文学は現れてこない。例えば、会社組織の中での一個人の挫折など、反革命派としての公職からの追放、著作の自国内での発禁、市民権剥奪というクンデラの経歴に比べれば何のほどのことがあろうか。

 本書には性愛の描写が各所にでてくる。かなりきわどく、即物的な描写もありながら、一つ一つの行為は、当事者のその時の立場、心理からみて必然であり、またその行為は哲学的と言っていいほどの象徴的意味をもっている。 


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書名 コンスタンティノープルの陥落 著者 塩野七生 No
1993-27
発行所 新潮文庫 発行年 読了年月日 93-11-17 記入年月日 93-11-20

 
私の高校の同期生になるこの作者の小説は、一度「週間朝日」に連載されたベネチアを舞台にしたものを読んだことがある。あまり面白い小説だとは思わなかった。それは多分、連載ものに共通の、印象が途切れ途切れで、散漫になるという性格からもきていると思っていた。それでかねてから、単行本で読んでみたいと思っていた。読むなら本書だとも決めていた。ローマ帝国の滅亡後も1000年もその命脈を保ったビザンチン帝国、中でもヨーロッパとアジアの接点でもあるその首都コンスタンティノープルという都市には、かねてからそこはかとない憧れと、好奇心を持っていたからだ。一度は訪れて、セントソフィア寺院や、ボスフォラス海峡をこの目でみてみたいと思っていた。

 中身は題そのもの。1453年5月29日ビザンチン帝国の首都、コンスタンティノープルの陥落を描いたもの。エピローグで、陥落後の登場人物の運命を述べた中に、生き延びて、後世にコンスタンティノープル陥落の記録を残した人々がかなりいたことが示されているので、この小説は恐らく、ほとんどが史実に忠実なものであろうと思われる。そして、主としてベネチアの若い貴族の記録を根拠にしたと思われる本書の記述は、キリスト教徒側に肩入れしたものでもなく、トルコ側に偏ったものでもなく、きわめて冷静、公正である。滅びゆくものへの日本的な感傷などとも無縁だ。それがかえって小説的盛り上がりを欠く原因ともなっているようだ。最もドラマ的要素に富む場面は、20才のマホメッド2世が師と仰ぐ重臣のカリルにこういってコンスタンティノープル攻略の決意を表明する場面だ;「
あなたの持つ富は、私にはもう必要ない。いや、あなたの持っているよりもずっと多い富を、贈ることもできるのです。わたしがあなたから欲しいと思うものは、ただひとつ。あの街をください

 意外だったのは、ビザンチン帝国最後の皇帝となったコンスタンティヌス11世が、最後まで降伏の要求をはねつけ、自ら城壁を越えてなだれ込んできたトルコ軍のまっただなかに飛び込み、壮絶な最後を遂げたとされることだ。

 塩野さんのことは10年以上前に同期生であると知った。フィレンツェ在住の彼女はいま、ローマの歴史をライフワークとして書き進めている。歴史を一切の感傷を排して力と力の対決と見る彼女の史観は、一部に熱烈なファンを有しているようだ。こうした見方は、長いヨーロッパ在住と無関係ではあるまい。
 題について;「コンスタンティノープル陥落」の方がいいと思うのだが。


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書名 仮面と欲望 著者 中村真一郎 No
1993-28
発行所 中央公論社 発行年 92ー05 読了年月日 93-12-03 記入年月日 93-12-04

 
日比谷図書館。書架を巡っていてふと目に入ったので借りてきた。90年秋から91にかけて雑誌に連載されたもの。男と女の交換書簡という形式を最初から最後まで通してそれ以外の地の文は一切ない。それでいて結構面白くよめる。

 男は70才、女は60才。戦前、思想警察に捕まり転向を余儀なくされた男は、日本社会に対してアウトサイダー的見方を持っている。日本人大使とスエーデンの女優との間に生まれた女は、生まれからして日本には一定の間隔をおいている。戦後、療養所で15才の女を強引に犯した男は、数十年後パリで女に再会する。それから二人の肉体的関係が続く。女は「会長」と呼ばれる財界の大物の有能な部下であると同時に愛人でもある。男は、会長のブレーンとして会長のために働く。唯一名前をもって登場するのは国籍不明の、記憶喪失の少女ジャンヌ。

 男と女の間にはお互いに対する所有欲も、従って嫉妬の感情も持たない(女のジャンヌへの同性愛に男の感情がわずかに揺れるところはある)。女が会長の愛人であることも二人の間にはまったく問題にならないし、男が娼婦を相手にすることも、女が会長以外の男と関係を持つことも問題とはならない。理想的な男女関係だ。男は女との肉体の喜びを通して「愛」を知ったと思っている。二人の手紙は、若々しく、お互いに対する切ないまでの思いを、ある時はきわめて即物的に、露骨に吐露している。70才と60才の男女にこれほどの性欲があるのだろうかと驚異に思う。骨折してベッドに横たわる女が、男を口で満足させたり、退院した女を不意うちにベッドに押し倒したり、信じられない。これは作者の妄想か。しかし、段々に明らかにされる男と、女の生い立ちを通して語られる、戦前から現在にいたる日本に対する見方、評論は論理的で説得力がある。

 男からの最後の手紙にこんな文がある;
ところで、頁を開けて最初に目に入った言葉は、ローマのネロの時代の哲人、セネカのもので、「もしその使い方を知るなら、老年(セネックス)は快楽に満ちている」という、驚くべき句だった。
 快楽(ウオルプタス)というラテン語は、どうしても透明なストア哲学の境地だけでなく、美しい女性との肉の戯れによる喜びを喚起させ、そして毎日の、精神的集中に疲れきっているぼくを、一瞬、現実の外の空間に誘い入れた。勿論その空間のなかに拡がったのは、永遠に若いあなたの裸の肩の線だった。・・・・
 しかし、この一句は、これからのぼくに大いに勇気を与えてくれました。ぼくたちの人生の第二幕が愉しみですね。そして「何者として死ぬか」も、その快楽のさなかの第二幕のなかで、時間をかけて研究してみるつもりです。


 もし私が70才まで生きられたとしても、このような老年をもつことができるとは思えない。


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書名 ワープロ作文術 著者 木村泉 No
1993-29
発行所 岩波新書 発行年 1993.10 読了年月日 93-12-17 記入年月日 93-12-18

 
前著「ワープロ徹底操縦法」に次ぐ同じ著者のもの。ワープロと題打ってあるが、自分の中にあるものを文章にするための一般的な文章読本。とはいっても、コンピュータ科学者によるものなので、一般の文章読本とは視点がかなり違う。修辞的なことよりも、著者が力を入れているのは、頭の中にあるアイディア(湖底に潜む魚に例えている)をいかにして釣り上げるかということ。そのためには何でもカードにして書き下すことを勧めている。ついで、そのカードを壁に張り付け、眺め、似たもの同志を集めたり、色々動かしているうちに文章になってくるという。こんなことは普通の文章読本には書いてない。だが、作家も案外そんな手を使っているのかも知れない。文章が見えてきたらワープロに書き下し、後は磨きあげるというのが著者の作文技術のようだ。さすがにこの段階では、ワープロの利点をフルに活用している。

 著者は4音節の日本語のリズムがきわめて快いものであることを強調する。このことを最初に指摘したのは、かの別宮貞徳氏とのことである。著者は自ら音声派で、たとえ話多用派で慢延体の文章を書くと言っている。

 カードの利用、ワープロの活用等、まさに私が実行していることを著者も実行し、推奨しているわけだ。脳の中を一瞬のうちに駆け抜けるイメージや想念を捕まえ、それを言葉に表せたらといつも思っている。理想的には脳波を記録して、それを言葉に変換できればいいのだが。紙に書くというのはいかにももどかしく、想念や連想の流れに追いつけない。せめテープレコーダーに吹き込んでおくという手段をとろうかと思っている。この本にはテープの利用には一言も触れられていないなかった。


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書名 むほん物語 著者 出久根達郎 No
1993-30
発行所 中央公論社 発行年 1993年 読了年月日 93-12-23 記入年月日 93-12-24

                          
日比谷図書館。
 かねて読んでみたいと思っていた作家。というのは確か去年だったかの直木賞受賞作家で、古本屋の店主という経歴に親しみをもったのと、それ以上に、山口瞳さんが選評で近ごろ稀にみる文章の達人というような誉め方をしていたからだ。雑誌に載った4編と書き下しの1編からなる。いずれも古本にまつわる話。

 なるほど文章の歯切れがよく、話の展開がスピーディーで、時としてついていけないほどだ。はじめてみるようなむつかしい漢字のことばがたくさんでくる。たいへんな博識だ。だがそれだけではない。古書組合の80年史編纂のために募集した資料の中にあった、天保時代の貸し本屋の日記と称する偽物をめぐっての物語だが、ストーリーがしっかりしていて、推理小説的な面や、思いがけないどんでんがえしといったドラマチックな展開がある。大塩平八郎の乱との関係や、昭和初期の青年将校の不穏な動きなどと古本業界とを絡ませるといった、スケールの大きさも持っている。大塩平八郎という縦糸を通してそれぞれの物語が結びついている構成がすばらしい。一見優雅に見える古本の世界も、こんなにどろどろしたものかという点でも面白い。だが、登場する人物は、それぞれに、書物に取りつかれた偏執狂的な人物で、その方面にかけては深い専門家であるが、社会的な常識を欠く、それでいて愛すべき人物である。作者は単なる文章の達人ではなく、ストーリーテーラーとしてもたいしたものだ。

 作者の博識ぶりはその内容のみならず使用することばにもよく表れている。たとえば、最後の編「終わりよければすべて由無し」(この表題もわかったようでわからない)を拾ってみても以下のような表現にでっくわす。
 慰藉、区々(まちまち)、跋扈、跳梁、劫を経た番頭、白鼠(忠実で功労の多い番頭)、糊口する、逼塞、途轍もない、机の猫足、噤んだ、櫟(くぬぎ)林、看経(かんきん、声を出さずに経を読むこと)、看貫(台秤)片手に買いまくる、半可通、騙り屋、蒙昧といった漢語が飛びかう(括弧内の意味は国語辞典を引いて確かめたもの)。その他、書籍の専門用語、書の専門用語、古文献などもたくさん出てくる。また、「一座の客が墨のはねがついたように平伏した」とあったが、わたしにはこの喩えは理解できない。

 今年の芥川賞の吉目木もそうであったが、作家を本業としない人達がこのように文学賞をとるということは、日本社会の豊かさ、成熟振りを示すものだ。クンデラの鋭い考察が現代日本で見事に実現されているともいえる。わたしもまだ可能性ありか。ワープロ作文術入門には「酒をくらって、麻雀ばかりやっている人生には云々」というくだりがあったが・・。

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書名 それでも作家になりたい人のためのブックガイド 著者 絓秀実、渡部直巳 No
1993-31
発行所 太田出版 発行年 93年11月初版 読了年月日 93-12-31 記入年月日 94-01-03

 
週刊誌の書評で見て丸善で買った。過激な内容である。初めの本書の使用法の中にはこんなことが書いてある。
 
「①馬鹿でも作家になれること、②馬鹿しか作家になれぬこと、③馬鹿では作家になれぬことの三点が、具体的な文芸技術の解析とともに語られてある本書は当然、この本を読んで作家志望者が逆に激減するという事態もまた、おおいに世の中のためになると確信するものであるが、本文に先立って以下にとりあえず、予想される読者層別に本書の使用上の注意を列記しておく。・・・・

5.四十代以上の人々へ――たぶん読まぬほうがよい。この世界史的激変期に不惑過ぎてなお「文学」などというものに憧れているような人々が本書を読むと、とてもいやぁーな気持ちになるでしょう。」


 だが、五十代の私にも面白かった。いろいろな作家から引用し、書き出し、話者の視点、内面描写、会話、文体、結末、新人賞のとりかた(題材の目新しさがポイントであると説く、あるいは最初の部分では、特に女性の応募者は顔写真をつけることといった皮肉まである)等、具体的にコメントしてあって、小説を書いてみたいという夢を未だ捨てきれない自分にとってためにもなる本だと思った。共著者二人の対談からなる今日の日本文学に対する批評は痛烈だ。まず村上龍以後誰もが作家になれると信じてしまったのが現代の文学を取り巻く情勢だとする。こうして作家はタレント並となる。それは戦後民主主義の成熟を示し、ろくでもない小説しか書けないくせして俺は国民を代表している等と力んでいる作家を一掃するという功績もあったが、文学に対する畏敬を失わせたという面の罪もあると分析する。

 二人が高く評価する現代作家は男では中上健次、女では金井美恵子。二人とも私が読んだことのない作家だ。大江健三郎、谷崎潤一郎、三島由起夫、山田詠美、あるいは吉本ばなな、松浦理英子等は評価されたびたび引用されるが、私の好きな開高健については一言も触れられていない。曾野綾子はくず同然の通俗作家の一言でかたづけられている。クンデラもまたクズであると切り捨てられている。

必読小説50選
  
二葉亭四迷 「あいびき」 筑摩書房「明治文学全集」17巻
森鴎外   「即興詩人」 ○
尾崎紅葉  「多情多恨」 岩波文庫
樋口一葉  「にごりえ」 岩波文庫・新潮文庫
松原岩五郎 「最暗黒の東京」 岩波文庫
島崎藤村  「破戒」   岩波文庫・新潮文庫
田山花袋  「蒲団」   岩波文庫・新潮文庫
岩野泡鳴  「放浪」   講談社「日本現代文学全集」第29巻
夏目漱石  「我輩は猫である」 ○
泉鏡花   「春昼・春昼後刻」 岩波文庫
有島武郎  「ある女」  岩波文庫・新潮文庫・角川文庫
志賀直哉  「暗夜行路」 岩波文庫・新潮文庫・角川文庫
武者小路実篤 「心理先生」 ○
芥川竜之介 「歯車」   岩波文庫
内田百間  「冥土・旅順入城式」 岩波文庫
谷崎潤一郎 「痴人の愛」 ○ 新潮文庫
近松秋江  「黒髪」   八木書店「近松秋江全集」第4巻
葛西善蔵  「子をつれて」講談社「日本現代文学全集」第45巻
徳田秋声  「あらくれ」 新潮文庫
宇野浩二  「蔵の中」  講談社「現代文学全集」第58巻
横光利一  「機械」 岩波文庫・新潮文庫
川端康成  「眠れる美女」新潮文庫
岡本かの子 「花はつよし」ちくま文庫「岡本かの子全集」第4巻
宇野千代  「色ざんげ」 新潮文庫
尾崎翠   「第七官界ほうこう」 ちくま日本文学全集
江戸川乱歩 「D坂の殺人事件」 新潮文庫
夢野久作  「ドグラマグラ」 角川文庫
円地文子  「女坂」   新潮文庫
三島由起夫 「仮面の告白」 新潮文庫
太宰治   「人間失格」 岩波文庫・新潮文庫・角川文庫
坂口安吾  「白痴」   新潮文庫・角川文庫
大岡昇平  「野火」   新潮文庫・角川文庫
武田泰淳  「富士」   中公文庫
深沢七郎  「楢山節考」 ○ 新潮文庫
安岡章太郎 「海辺の光景」新潮文庫
小島信夫  「抱擁家族」 講談社文芸文庫
大江健三郎 「万延元年のフットボール」 ○
安倍公房  「壁」 新潮文庫
藤枝静男  「空気頭」 講談社文芸文庫
大西巨人  「神聖喜劇」 ちくま文庫
野坂昭如  「エロ事師たち」新潮文庫
山田風太郎 「警視庁草紙」 文春文庫
古井由吉  「杏子・妻隠」 新潮文庫
後藤明生  「狭み撃ち」 河出文庫
中上健次  「十九才の地図」河出文庫
金井美恵子 「愛の生活」 日本文芸社「金井美恵子全短編集」I
尾辻克彦  「国旗が垂れる」中公文庫
筒井康隆  「脱走と追跡のサンバ」角川文庫
村上龍   「限りなく透明に近いブルー」○
高橋源一郎 「さようならギャングたち」 講談社文庫

 ○は93年12月時点で読んだことのあるもの

                                           
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書名 夢に殉ず 著者 曾野綾子 No
1993-32
発行所 朝日新聞連載 発行年 読了年月日 93-12-31 記入年月日 94-01-03

 小説と言うより、職も持たずぶらぶらしている天馬翔なる中年の男の言葉を通して、作者の日頃の世の中に対する考えを述べたものと言った方がいい代物。
 妻はいるが子どものないこの男が不思議なことに女にもて、短時日の間に三人の女とつぎつぎと親しくなり、ある女とは肉体関係を持ったりする。最後の結末はどうまとめるのかなと思っていると、通りがかりの若い母親と幼い子どもを自動車から守るために自らの命を投げ出すという安易な結末。というわけで、ストーリーは荒唐無稽、まったくでたらめ。

 それでいて最後まで読んでしまったのは、主人公の世俗の価値にはまったく無頓着に、自分の心に忠実に生きる生き方への共感と、作者の現実的なものの見方に時々共感を覚えたからだ。曾野綾子の日頃の言動、特にその政治的・社会的発言には反感を持つことが多いが、それでいて個人の生き方に関する開き直ったような本音で語る部分には、妙に共感を覚える。

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