読書ノート 2012

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書名 著者
松平春嶽 川端太平
花の香りの秘密 渡辺修治、大久保直美
佐々木導誉 森茂暁
花鳥風月の日本史 高橋千劔破
東京震災記 田山花袋 
ひと恋ひ歳時記  高橋治
猫の一年  金井美恵子 
落日の宴 勘定奉行川路聖謨  吉村昭
岩瀬忠震 松岡英夫 
東海道中膝栗毛(上) 十返舎一九
東海道中膝栗毛(下)  十返舎一九
養生訓 貝原益軒
五輪書 宮本武蔵 
福島原発人災記  川村湊 
「原発」革命  古川和男
維新旧幕比較論  木下真弘
芭蕉庵桃青  中山義秀 
青春の終焉  三浦雅史
イチョウ精子発見 生沼忠夫
日光街道を歩く 大高利一郎 
細雪  谷崎潤一郎
荷風随筆集(上)  永井荷風
すみだ川・新橋夜話 永井荷風 
荷風随筆集(下)   永井荷風 
水無瀬三吟の世界 ゆきゆき亭こやん
悔しかったら、歳を取れ!  野田一夫 
  綱淵謙錠 
榎本武揚  安部公房
羊をめぐる冒険  村上春樹
厚物咲  中山義秀 
糞尿譚  火野葦平 
宗祇  奥田 勲
後白河上皇  安田元久 
江藤新平  杉谷 昭 
記号論への招待  池上嘉彦 
地球千年紀行  月尾嘉男 
科学と宗教との闘争  ホワイト 
異邦人  アルベール・カミュ
人 イヌに会う  コンラート・ローレンツ 
ヒトラー暗殺計画  小林正文 
一遍  大橋俊雄 
金魚撩乱他  岡本かの子 
東京の昔 吉田健一
定家明月記私抄  堀田善衛 
定家明月記私抄続編 堀田善衛 
良夜 鈴木ひろ子
生成文法の企て ノーム・チョムスキー
広場の孤独 堀田善衛
攻撃 1  コンラート・ローレンツ
攻撃 2 コンラート・ローレンツ
一億人の「切れ」入門 長谷川櫂
悠遊 第十九号 企業OBペンクラブ編集 
百人一首  丸谷才一 編 



書名 松平春嶽 著者 川端太平 No
2012-01
発行所 吉川弘文館 発行年 昭和42年 読了年月日 2012-01-07 記入年月日 2012-01-10

 
『井伊直弼』『橋本左内』と人物叢書を読んでくれば、『松平春嶽』も読みたくなる。幕末の名君という評価は耳にするが、私はよく知らない。西郷、木戸、大久保と云った維新の立役者、あるいは井伊直弼、坂本龍馬、勝海舟、近藤勇といった人物とは違って、小説やドラマに取り上げあられていないせいもある。

 本書は、松平春嶽(慶永)を通してみた幕末、維新史となっている。春嶽自身が膨大な日記、回想録を残している。さらに、腹心の家臣、中根雪江の『再夢紀事』、村田氏寿の『続再夢紀事』という詳細な日記が本書の基礎資料だ。幕末の人々が詳細な日記、手紙の類を残しているのには、いつもながら感心する。

 春嶽が橋本左内の処刑をどう思ったかを知りたいというのが、本書での最大の関心だった。結果は肩すかしだった。本書154p以下に次のように記されているだけである:
 
安政大獄に連座し、安政六年十月七日、伝馬町獄舎で処刑された信臣橋本左内の消息を、聞くがままに筆録し感想を記した文章を『霊岸掌記』という。君臣水魚の親愛とはかくの如きものか。春嶽の温情の深さに、胸を打たれるのである。

 春嶽は親藩越前藩の16代藩主だが、御三卿の田安家の生まれであり、11代将軍家斉は伯父、12代将軍家慶は従兄弟である。ペリー来航の頃は激烈な攘夷論者であった春嶽は、橋本左内や中根雪江の献策により安政3年頃には開国論に転じ、安政4年には越前藩として開国を幕府に献策した。本書では、春嶽は終始開国論者であり、その開国論は井伊直弼よりももっと積極的なものであるとする。開国という未曾有の難題を処理するためにも、将軍は英明でなければならないというのが春嶽の考えであり、そのため一橋慶喜の擁立に奔走する。しかし、井伊直弼らの紀州派に敗れ、押しかけ登城の罪で5年間も蟄居させられる。

 井伊亡き後、公武合体派が力を盛り返し、春嶽は幕府政治職という、大老に相当する地位に復帰し、将軍後見職の慶喜と共に幕政を司る。しかし、半年ほどで辞任する。その後すぐに京都守護職として復帰。しかし、これも短時日で辞任。

 大政奉還により有力大名の合議による政体が確立されたとき、春嶽もその一員として参加する。やがて、王政復古、明治維新となるが、春嶽はそのまま新政権の参与として残る。徳川政権の大名として唯一最後まで新政権に残った春嶽も、明治3年には公職を退く。以後、明治23年63歳で没するまで、回想録の執筆などの余生を送る。明治6年には東京の春嶽宅を明治天皇夫妻が行幸している。

 著者は福井県在住で、長年春嶽の事跡の研究を続けてきた。春嶽顕彰的なものにならないように心がけたと書いてあるが、やはりその傾向がある。

 幕末維新史の主要な人物への評価もはっきりしている。最大の政敵であった井伊直弼にも厳しく、また京都の公家や吉田松陰らに対しても世界を知らない過激攘夷論者として春嶽と対比している。著者が買うのは、老中阿部正弘。我が国を開国方針に転換したのは、阿部であり、井伊直弼を開国の元祖というのは誤りであるという(p30)。また正弘は幕府の独裁制にかわり、列藩会議の構想を有していたとし、その若死にが幕府の衰亡を早めたと記す(p61)。慶喜への評価も高い。また、終始盟友であった土佐の山内容堂も高く評価する。

 安政5年の日米通商条約調印時点において、真に通商と欧米との文化交流の必要を認めたのは、大名では春嶽、島津斉彬、堀田正睦、幕臣では岩瀬忠震、永井尚志、志士では橋本左内、佐久間象山らの少数であり、井伊大老でさえ「他日兵備充実せば、外夷を斥けて、国を鎖すに何かあらん」と述べているという(p160~)。私は井伊の考えが当時の大名の考えではなかったと思う。真の開国論者は幕府や各藩の下級の士族にいたのではないか。後に、朝廷から攘夷の命令が幕府にもたらされるが、春嶽はそれを受けることをやむなしとする。一方、慶喜は反対し、将軍後見職の辞任を口にする。著者のいうように、その後幕府は外国には開国通商を唱え、朝廷には攘夷を約束するという苦しい立場に立ち、自ら衰亡への墓穴を掘った。

 本書を読み通して、井伊直弼の方が政治家として春嶽よりずっと上だと思う。自分の政治信条を貫く実行力の点で、春嶽は直弼に遠く及ばない。持論である公武一体による政治が倒幕勢力の台頭により、実現が見込み薄だと感じた春嶽は、政治総裁職を1年も満たないうちに辞して、福井に帰ってしまう。

 本書の出だし部分で著者はいう(p12):
春嶽は時務に通暁し、その見識も高邁で、言動は常に穏健中正、身は徳川家門の随一であったが、すべてを国家本意に考慮した。固より撥乱反正(乱れた世を押さえ、正す)の雄図が今少し逞しくあれば、鬼に金棒であろう。経世家としての押しの弱さが、瑕瑾であった。

  そして結びでいう(p430):
尊皇攘夷の旋風の中で、春嶽は国家の前途を思い、開国路線を推進した。さらに崩壊寸前の徳川幕府の終わりを完うせしめるために、肝胆を砕き、将軍慶喜の救解に努力を続けた。春嶽は、岩倉具視・大久保利通・木戸孝允らの如く、才器煥発・剛毅英邁・権謀術策にたけた政治家ではなかった。春嶽の品性は、誠実・忠厚・恭謹・懇篤で、先見の明ある常識人であった。その巧まざる調和・妥協的言動の底には、深い諦観があり、透徹した開悟があった。

 深い諦観と透徹した開悟に裏打ちされた人物は常に魅力的である。しかし、大業をなすことは少ない、と私は日頃感じている。

 
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書名 花の香りの秘密 著者 渡辺修治、大久保直美 No
2012-02
発行所 フレグランスジャーナル社 発行年 2009年9月 読了年月日 2012-01-13 記入年月日 2012-01-17

  
昨年12月のエッセイ教室の課題が、菊であった。たばこの香り成分の研究に携わってきたので、花の香りには関心も深く、バラの香りに関しては、その成分についてはそれなりの知識はある。しかし、菊のあの香りを構成する化学成分がどのようなものであるかについては、全く知らなかった。アマゾンで検索して本書を見つけ、菊の香り成分の一覧でもあるのではないかと思った。残念ながらそのようなものは載っていなかった。しかし、花の香りについて、最新の研究成果を踏まえて、懇切に書かれた好著であった。

 特に驚いたのは、花の香り成分合成の分子生物学的研究。バラの香りの一成分であるゲラニオール合成酵素遺伝子を導入したトマトが作られたという。このトマトには他にもゲラニオール関連のバラの香気成分が検出され、食べるとバラの香りがしたという(p72~)。

 また、花の香りの強弱の概日変化を、香り成分合成酵素およびその遺伝子の発現の変化でと関連つける研究も紹介されている。多くの場合、24時間の概日変化によるが、明暗にあわせて生成される成分もある。 

 香気成分が合成される細胞の特定も、合成酵素遺伝子をマーカーにして行われている。花弁の表皮細胞が香気成分を合成し、発散している。

 私が香り成分の研究をしていたのは、30年以上前だ。本書に記された成分の分析手法は当時と基本的には同じで、ガスクロマトグラフィーと質量分析を組み合わせたものが威力を発揮する。しかし、香り成分の研究に、転写因子、RNA合成酵素などという言葉が登場するなどとは、考えても見なかった。たばこの香り成分は、バラなどよりずっと複雑で、たくさんの微量香気成分が含まれている。そのあるものは、カロチノイドの分解によって生成する。当時、私はこの分解が酵素により行われるのかどうか疑問に思っていた。本書には、香り成分合成酵素の一つとして、カロチノイド分解酵素がリストアップされている(p31)。このリストには、植物にとっては基本的ではないと思われ、あってもごく微量と思われる酵素が19も載せられている。

 なお、菊の香り成分については、ネットで検索して、Flavour and Fragrance Journalに2004年に掲載された、韓国の研究者の論文抄録を見出した。モノテルペン炭化水素のミルセンが菊花の香りの主要成分である。ツンと来るどちらかといえば単調な菊の香りを思うと、ミルセンが主成分であることに納得がいく。

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書名 佐々木導誉 著者 森茂暁 No
2012-03
発行所 吉川弘文館 発行年 1994年 読了年月日 2012-01-16 記入年月日 2012-01-17

 
佐々木導誉の名前を知り、人物に興味を持ったのは、10年以上前、NHKの大河ドラマの「太平記」を見たとき、あるいはその頃日経新聞に連載された杉本苑子の『風の群像』を読んだときであろう。「ばさら」と呼ばれ権威も恐れず、傍若無人に振る舞い、奢侈を好む一群の人々の代表が佐々木導誉である。大河ドラマでは、いつも朱色を主体としたきんきらの服装をしていたという印象がある。大河ドラマも、『風の群像』も、足利尊氏が主役で、導誉は脇役に過ぎなかったから、その生涯についてはほとんど知らなかった。

 一昨年、中山道歩きで、近江の番場宿の蓮華寺に寄った。鎌倉幕府滅亡の際、京都から逃れてきた京都探題北条仲時一行が、佐々木導誉に退路を阻まれ、蓮華寺で自刃した。その人数、430名。430基の五輪塔が本堂裏にあった。 導誉に絡む史跡との初めての出会いであった。中山道をさらに進むと安土町の観音寺山の山裾を通る。ここには巨大な山城があったという。城の主は六角氏、信長に亡ぼされた。六角というのは佐々木氏のことだと、後に知った。だとすれば、佐々木導誉の系統はそれで終わったのか。そんな疑問もあって、導誉のことを詳しく知りたいと思った。

 佐々木一族の先祖には、義仲と義経の宇治川の戦いの際の先陣争いで有名な佐々木高綱などもいて、鎌倉幕府の有力な御家人である。佐々木一族にはいくつかの系統があり、導誉の継いだ佐々木は京極家であり、庶流である。嫡流は六角氏。六角氏は後に信長に亡ぼされる。

 導誉の生まれは1296年。佐々木家は代々近江を本拠とする。導誉は31歳で出家するが、それは、執権北条高時の出家に習ったものである。後醍醐天皇の反乱には鎌倉幕府側に立って戦い、敗れた後醍醐天皇を隠岐に護送する役目を負った。しかし、隠岐を抜け出した後醍醐天皇の2回目の挙兵から鎌倉幕府滅亡までの間の導誉の行動は、全く不明であると、本書はいう。裏付ける資料がないという。隠岐の守護であった佐々木一族の佐々木清高は最後まで幕府側に属し、北条仲時一行と共に番場で自刃する。また佐々木嫡流の佐々木時信も、幕府軍と共に行動する。しかし、番場で北条仲時一行が自刃したことを知り、愛知川より引き返し、投降する。時信は建武新政権では要職に就く。尊氏と親しかった導誉の働きかけであろうと著者は推測する。

 導誉は隠岐を抜け出した後醍醐天皇の反乱鎮圧のために、尊氏と共に鎌倉を発ったが、京都までは行かなかった。番場に近い本拠地、柏原あたりにとどまっていたのではないかと著者は推測する。「太平記」では山賊、強盗、浪人2~3000人が一夜のうちに結集し、北条仲時一行を番場で待ち受けていたという記述があるとのこと。著者は、その背後に導誉がいただろうと推測する。尊氏と導誉は鎌倉を発つ前にすでに倒幕の密約を交わしていたのであろうという。鎌倉を発った際、尊氏は導誉に命じて、腰越で怨敵退治のまじないとして鏑矢を射させた。その方角は鎌倉だったという、讃岐京極佐々木家の文章を紹介しているが、できすぎたエピソードだと、著者は疑問を呈している。

 建武新政権下、北条高時の遺児を擁して旧鎌倉幕府側が反乱を起こす。尊氏はその鎮圧に向かい、鎌倉を奪還する。導誉も足利軍の大将として参加する。やがて、後醍醐天皇と尊氏の対立が鮮明になるが、導誉は武家社会の輿望を担う尊氏に自分の将来をかけた。以後、2代将軍足利義詮さらに3代義満の時まで、政権の中枢にあって、室町幕府を支える。亡くなったのは1373年、78歳。導誉の京極家は、その後も継続し、一時衰えた家名も、関ヶ原の戦いに京極高次が東軍に属して戦功を上げ、讃岐藩を与えられて、明治維新まで継続した。本書の資料として、讃岐藩に伝わる佐々木文書がしばしば引用される。昨年のNHK大河ドラマ「江」には、江姫の姉、初の夫として京極高次が登場している。

 導誉の婆娑羅ぶりを示すエピソードとしては、妙法院焼き討ち事件が述べられている(p67~)。妙法院は時の光厳上皇の弟が門跡をつとめる天台宗の名刹。発端は導誉の一族が紅葉狩りの帰りに、妙法院の紅葉の枝を折って持ち帰ろうとしたこと。それがこじれて、導誉が焼き討ちを掛けてしまったのだ。寺院側からは強烈な処罰要求が出るが、尊氏・直義の幕府はなかなか踏み切らない。それでもやっと導誉父子を流罪に処した。とはいえ、導誉は配所の上総の国へ向かう道々、酒宴を催し、遊女をもてあそんだという。著者は配所までついたのかどうか疑問だとする。それほど、尊氏からの信頼は厚かった。このエピソードと共に当時の婆娑羅大名のエピソードとして小説にも取り上げられているのは、土岐頼遠の事件。頼遠は光厳上皇の牛車に矢を射かけてしまうのだ。頼遠は結局処刑されてしまう。婆娑羅大名としては尊氏の執事、高師直・師泰兄弟も有名だが、この二人も殺されてしまう。その点から見ても、導誉は世渡りが上手だったようだ。導誉は文化的レベルの高い教養人であり、事務交渉の面でも卓越した能力を有していたという。

 文化面での貢献としては、二条良基による連歌の「菟玖波集」の編纂を導誉が後押ししたこと。同集に入っている歌の数では、二条良基に次いで第4位で、81句である。

 大変興味深い導誉の一生であるが、まとまった伝記がないとのこと。当時の公家の日記、各地に所蔵されている史料、「太平記」などの引用を駆使して著者は導誉の人物像を描いて行く。その点読みやすい本ではない。

 中山道を歩いたために、本書に出てくる番場を初め柏原、観音寺山、加賀大社、愛知川などという近江の地名が身近に感じられた。柏原宿の外れ、街道に北畠具行の墓への道標があった。街道から山道をかなり行かねばならなかったから、寄らなかった。本書によれば、具行は後醍醐天皇の忠臣で、天皇と共に捕らわれ、導誉に護送されて鎌倉に向かうとき、鎌倉幕府からの命令で、ここで切られたとされる。具行は「この間の儀は後世までも忘れがたくこそ候へ」との言葉を残していると「太平記」は導誉の情誼の厚さを記している(p30)。京極佐々木家の菩提寺は具行の墓の近くにある徳源院で、導誉の墓もそこにある。

 本書の終わりで、著者はいう(p201):
鎌倉時代後期、とくにいわゆる蒙古襲来によって加速された中世社会の変革・変貌のなかから芽生え、急速に蔓延してあらゆる方面に開花した「自由狼藉ノ世界」(二条河原落書)のなかで、持てるものを十二分に発揮しながら、自由奔放かつ豪放な生きざまでもって、長い人生を享受した時代の寵児、それが佐々木導誉ではなかったか。

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書名 花鳥風月の日本史 著者 高橋千劔破 No
2012-04
発行所 河出文庫 発行年 2011年6月 読了年月日 2012-01-31 記入年月日 2012-02-03

 
花鳥風月のみならず、我々が日常身近に接する物が、日本人にどのように受け取られてきたか、また、それらがいかにして日本文化を形成してきたかを述べる。系統的な歴史書というより、歴史資料の中に現れた断片的なエピソードを述べたもの。その資料は古事記、日本書紀、万葉集、各種の勅撰歌集、源氏物語、芭蕉の紀行文など多岐にわたる。私でもよく知っている物から、初めて聞くエピソードまで、著者の博識が披瀝される。そして、近代社会の進展と共に、日本文化の伝統が失われつつあることへの嘆きが加わる。著者は長年、歴史雑誌と歴史書の編集に携わった人。
 樹木、虫、花、鳥、風と雲、太陽と月星、雨と雪、魚介、動物の9章に分けてそれぞれ「日本史」が語られる。

 私にはなじみの薄い古事記、日本書紀からの引用が多く、それらに興味深いものが多かった。例えば、日本の国土はイザナギとイザナミが交わって出来たのだが、最初この男女2神は交わり方を知らなかった。そこへ鶺鴒(せきれい)が飛んできて、尻尾を激しく上下に動かすのを見て、二人は正しく交わることが出来たという。日本書紀の別伝の一書にあるという。続けて、『猿蓑』にある凡兆の句「世の中は鶺鴒の尾の暇もなし」という句を引用し、鶺鴒の故事を踏まえれば自ずと句意が理解できるとする。さらに太田蜀山人の狂歌「千早振神も御存じない道を いつのまにかはよく教へ鳥」を揚げる。鶺鴒には庭叩、石叩、教鳥、嫁教鳥、恋教鳥などという別名があるとのこと(p156~)。

 水仙について:地中海が原産だが、唐時代にはすでに中国に渡っていて、日本でも中世には広く親しまれていた。室町時代の禅僧一休宗純の詩集に『狂雲集』というのがある。その中の一編に「美人陰有水仙花」がある。「美しい人の陰(ほと)はスイセンの香りがする」というすごい題だが、中身はもっとすごく、男女の交わりを生々しく歌ったもの。一休さんにこんな面があったとは初めて知る。時に一休さんは70才を超えていたという(p130~)。

 梅雨と信長については次のように記される。桶狭間で今川義元を破ったのは、折からの梅雨の驟雨をついて接近し、雨が上がると急襲した。一方、長篠の戦いでは、梅雨が続いていたが、信長は、雲の流れや古老の話から、梅雨の晴れ間があると判断し、決戦を挑んだ。火縄銃は雨では効率的に使えないのだ。そして、最後、本能寺の変の3日前、明智光秀は「時はいまあめが下知る五月かな」と発句を詠んだ。「
いずれにせよ、梅雨を利用して運命の一戦を勝ち抜いた信長は、梅雨の最中に横死して四十九年の生涯を閉じた」と著者は梅雨の項をむすぶ(p279~)。

 馬について:真の軍事革命をもたらしたのは、馬戦車ではなく、もっと自由がきく騎馬であると著者はいう。騎馬の登場は紀元前1300年頃。縄文、弥生時代には馬はあまりいなかった。しかし、古墳時代の後期になると馬の埴輪がたくさん出土し、4,5世紀頃には重要な役割を果たしていた。天皇家の祖先が騎馬民族であるという説には否定的見解が多いが、古代天皇家はいち早く馬を確保し、馬飼部を設け、日本各地に牧場を設け大量の馬を独占した。古代天皇家が日本を統一できた背景には馬の存在があったことは間違いないことである、と著者はいう(p357~)。

 こうしたたくさんの断片的歴史知識を心に留めておけば、句作の参考になるかも知れない。


 
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書名 東京震災記 著者 田山花袋 No
2012-05
発行所 河出書房新社 発行年 2011-08-10 読了年月日 2012-02-06 記入年月日 2012-02-07

 
書店で見つけた。田山花袋という著者名が意外であり、それだけで読みたくなった。

 関東大震災直後の東京の様子が、文学者の目を通して、生々しく書かれている。著者は中野あるいは杉並と思われる当時の郊外に住んでいて、幸い焼け出されることも、家が倒壊することもなかったが、向島に住む知人の安否を尋ねて、震災3日目の9月3日に、徒歩向島に向かう。しかし、お茶の水あたりまで行き、その先はあきらめて引き返す。震災の惨状は著者の想像を絶するものであった。

 5日目に意を決して、向島まで歩いて行く。隅田川周辺にはまだ焼死体が至るところで放置されている。隅田川を渡るには、順番を待って一人ずつ壊れた橋を渡る。幸い知人一家は無事であった。尋ねた先の主婦は子供を背負い、ござをかぶり、隅田川の水に午後4時頃から夜の11時頃まで浸かっていて助かった。満潮の時には首まで潮が来たという。もちろん家も家財もすべて失った(p81)。

 両国橋辺りでは、散乱する屍体を踏み越えていかねばならぬようになった。

 
私は日露戦争に行って、屍体は沢山に見て知っているので、それほど不気味にも思わなかったけれども、それでもその醜悪な状態と腐りかけた臭気とはには辟易した。私は鼻を掩うようにして通った。(中略)・・・ひょいと私は顔を上げて見た。私はびっくりした。そこには黒焦げになった人間の頭顱(とうろ)が、まるで炭団(たどん)でも積み重ねたかのように際限なく重り合っているではないか。「あ、これだな!これが被服廠だな!」咄嗟の間にも私はこう思った(p86)。

 著者の知人一家の無事を知ってた安堵も、この光景で吹き飛んでしまう。なぜ人間の世にはこのような悲惨な光景が起こるのだろうかと思いながら歩いて行く。国技館まできたとき、(当時の国技館は向島にあった)著者の目に、焼け落ちた回向院の中に焼けもせず、壊れもせずに黒こげになって立つ地蔵菩薩がとまった。その像は金剛不壊を語っているかのように静かに座っていた。

 
それは自然の方から見たら、天譴(てんけん)も何もあったものではあるまい。また人間の贅沢と奢侈とを戒めたわけでも何でもあるまい。唯、地球の何処かが、時の調子でちょっと皺が寄ったかどうかしたのに過ぎないのであるのは勿論であろうけれども、しかもこうした場合に見た仏像は――ことに静座した仏像は、人の心に何とも言えない感じを与えずには置かなかった。私はその仏像の方へと思わず引き寄せられて行った。
 
私は安政の地震の時をくり返した。その時にも矢張りこの川のために遮られて、無数の焼死者を出したではないか。今日と少しも違わない阿鼻叫喚の状態を呈したのではないか。否、そのために、その霊をなぐさめるために此処にこの回向院が出来たのではないか。この仏像が出来たのではないか。どうしてこう人間は忘れっぽいのだろう?どうしてこう人間は大胆になれるのだろう?その時のことを考えて、火除地などをもっと十分に整理して置けば、決して今度のことのようなことはなかった筈であったのに…。否、現に私が覚えてからも、まだあちこちに、そのための火除地が残されて置かれてあったに…。それなのに、いつ誰がそれを元のような人家にしてしまったのか。遁れる路もないような市街地にしてしまったのか。私はこんなことを思いながら、長い間じっとそこに立尽くしていた。(p87~88)

 私が今回の震災より、関東大震災の方が悲惨だと思うのは、犠牲者の数が1対5というだけでなく、津波による被害は一瞬で、しかもどうしようもないのに反し、火災による被害は、長時間にわたりじわじわと人を追い詰め、しかも、ある程度防ぐ手立てがあり得たことによる。本書でもその感を強くするが、昨年秋に見た一枚の陶板の写真は衝撃だった。それは、吉原弁天池跡に建つ慰霊観音像前にあった。池の表面を埋め尽くして浮き上がった腹のふくれた屍体、岸に引き上げられ太腿もあらわに並べられた屍体。吉原で働く女性たちが、火に追われて当時は大きかった隣接のこの池に飛び込み溺死した。その数490名と説明板にあった。江戸時代から続く遊郭に閉じ込められた彼女たちが最後に頼ったのはこの弁天池。胸を打つ。私は津波に飲み込まれて行く人家のテレビ画像よりも、この画像にはるかに強い衝撃を受けた。

 被服廠のことについては、詳しくは書いていない。ウィキペディアによると、陸軍省被服廠跡地で、更地になっていて、ここに多数の人々が家財道具をもって避難してきた。その家財道具に火が移り、また火災旋風が起こったために、多数の人が焼死した。その数38000人で、東京市の死亡者の半数以上とのこと。跡地には東京都慰霊堂が建てられている。所在地は墨田区横綱、横綱町公園。

 一種の無政府状態的状況の中で、デマが飛び交い、人々の殺気が満ちている町を、今ではとても考えられない距離を歩いて行った著者の勇気には頭が下がる。そこにはあの『蒲団』の最後で、女の匂いが残る蒲団に顔を埋めて泣いた作家のイメージはない。

 大災害に面した人々の心理、飛び交うデマ情報、自警団、大杉栄暗殺のこと、横浜や神奈川県の状況など、興味深く、参考としなければならない記載に満ちている。

 震災後は遷都論もでた。最後の方にそれについて著者と友人が語り合う下りがある。東京が野原になっている時代が来るかも知れないと二人は言う。その時二人の頭には期せずして外からやってくる敵のことがあった。海からやってくる敵には東京ではとても防げないと思う。著者は、話を打ち切ったが、「
それにもかかわらず、太平洋中の飛行母艦から爆弾を載せた恐ろしい飛行機が何隻となく飛んでくるさまがはっきりと私の眼に映って見えた。ロンドンやパリでさえあのような驚愕を来したのであるから、その時は私達はとてもじっとして此処に留っていることは出来ないに相違なかった。私は満都の人達が関東平野を繞る山の中へと慌てて遁走して行くさまを想像した」(p234~5)。

 これは驚愕の一文だ。関東大震災の21年6ヶ月後、著者の想像は現実のものとなり東京は再び灰燼に帰す。

 阪神淡路大震災、あるいは今度の大震災にも、このような優れたルポルタージュは生まれているのだろうか。

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書名 ひと恋ひ歳時記 著者 高橋治 No
2012-06
発行所 角川書店 発行年 平成8年5月 読了年月日 2012-02-06 記入年月日 2012-02-11

 
色々な俳人の俳句をちりばめたエッセイ集。選ばれた俳句はいわゆる人事俳句。題名の示すように恋の句が多いが、それだけではない。私が今参加している2つの句会では恋の句などまず出てこないから、本書に取り上げられた句は新鮮な感じがし、俳句の世界は広いことを認識させられる。虚子一派の写生俳句が俳句を狭めていると主張する著者ならではの著書。

 句の評釈を避けている。わずか17音ではいかにも舌足らずであり、それだけに、散文とは別種の余韻や余情があり、そうしたものを散漫な印象や解釈で規定してもしょうがないからと著者は言う(p202)。そんな中で、漱石の次の句にはかなり長い評釈をつけている。絶恋と前書きがあるその句は

忘れしか知らぬ顔して畠打つ
 上出来ではないかも知れないが、かなり滑稽であり、可愛いという。多分想像句であろう。失恋であり絶恋であろうと、個人的な体験であるが、この句は三人称になっているところがミソであるという。だが、それは「
現在に至るまでその弊を残し、俳句の可能性を大きく歪めている客観、写生の説などとは無縁である。そうしたものでは測りきれない闊達な面を持っている」と評価する(p48~)。

雲泥に捨つ恋一つ曳きあるく   小林康治
 糸を曳いてこそ悲恋であり、糸を切り得ないから悲劇であるが、現代ではその糸も強くなくなったという。そして、ロマン主義を「セックスの衝動を《愛》という言葉で置き換える精神の傾向」と定義した、鹿島茂にならい、著者はロマン主義の衰退を「
セックスの衝動を《愛》という言葉で包む衣さえ捨ててしまった行動精神による傾向」と呼ぶ。ただし、それも案外結構なことかも知れないという(p143~)。

夫あるはよし無きもまた桜満つ  古河まり子
 素直さに好感を持つという。「無き」は亡夫か、それとも夫が花見に同行しないのかは明確ではない。それがまた面白いという。続けていう:
私は俳人の自解という行為を常にある種のおぞましさを持って眺める。所詮は胸の内にあるものを表現しきれない手段を選ぶのだから、この句を作った時に自分はこう考えた、あるいは、状況がこうであった、それをかかる表現の中に込めた。そんなことを説明したところで、ひどく虚しい結果につながるだけではないだろうか。所詮は、詠んだ時の作者の感懐を、そのまま正確に受けとってくれと求めるのが無理なのだ(p205)。
 
生と死の章では次のように述べる。
 
人間の死があらゆることに関して、ばっさりと切り捨てて解決に直結する前に、どうも人間には死の揺籃期のようなものが用意されていると思えてならない。枯れて来る時期とでもいっておこうか。人を恋し、人に恋される可能性に次第に見切りをつけて行く。そして、じわじわと諦めの境地の中に引き寄せられる。それが老いというものなのだろう。老いは麻薬に似た力を持っていて、その力に人間は食い荒らされて行き、ある時に気がついたら、もはや抗う力もなくしてしまっている。大なり小なり人間はそんな道筋を行くように出来上がっているのだろうか。

 この章に引用された句を全部挙げておく。

かのことは夢幻か秋の蝶        鈴木真砂女
妹が垣ね三味線草の花咲きぬ       蕪村
白露や死んで行く日も帯締めて      三橋鷹女
爪揉んでさしていのちの惜しからず    鈴木真砂女
酔うて猶眼涼しやさくら人        几菫
老いながら椿となって踊りけり      三橋鷹女
生きかはり死にかはりして打つ田かな   村上鬼城
生誕も死も花冷えの寝間ひとつ      福田甲子雄
塩田に百日筋目つけ通し         沢木欣一
一生の楽しきころのソーダ水       富安風生
咳をしても一人             尾崎放哉
アネモネや来世も空は濃むらさき     中嶋秀子
死ぬものは死にゆく躑躅燃えてをり     臼田亜浪
行く我にとどまる汝に秋一つ        正岡子規

 映画監督であった著者は、やたらに宙乗りをやる現在の歌舞伎を厳しく批判し、またテレビでの落語家が芸を乱し、吉本の笑いがのさばるのを嘆く(p57~)。あるいは橋田壽賀子が自分の作品は台詞が長いことを自慢げに言うことに対して、台詞は短くてもその情況が十分伝わるようなシナリオが本当に良いシナリオだと、批判する(p151)。

 あるいは、イギリスへの反感をぶちまけたりしている:
日本の場合、根拠なき民族優越思想は、幸い太平洋戦争によって微塵に打ち砕かれた。しかし、イギリスの場合は、この痛烈ともいうべき敗北体験を通過していないのだ。戦争の度に、援軍にかけつけるアメリカの手によって、辛くも勝者の末席に滑りこんでいる。だから、人類の歴史上に数々の悪業を残しながら、それをとことん反省する機会も持てずに、今日に至ってしまったような気がするのだ。(p165)

 緑図書館より

 
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書名 猫の一年  著者 金井美恵子 No
2012-07
発行所 文藝春秋社 発行年 2011年1月 読了年月日 2012-02-13 記入年月日 2012-02-15

 
当たるを幸い、辛らつな批評で世相をなで切りにしたエッセイ集。雑誌に連載された4年間分をまとめたもの。著者と同居する姉が書いた猫の絵が沢山カラーで挿入されている。4年間というのは猫の1年に相当するという意味で、タイトルがつけられた。18才で亡くなった愛猫「トラー」のことは当然書かれているが、それが本書の主題ではない。30編近い作品の最初と最後はサッカーのことで、本書のバックボーンは2006年のサッカーワードカップでの、日本国内の熱狂への冷めた目線。特に中田英寿とそれを賞賛するマスコミ、スポーツライター、作家たちへの痛烈な批判である。

 サッカーについて彼女が言わんとすることは、日本のサッカーは元々ワールドカップで通用するほどのレベルではない。2006年のワールドカップ大会時点では、中田はイングランドのチームではレギュラーとしては見放されていた程度のプレーヤーであり、全盛期でも世界レベルではたいしたプレーヤーではない。中田自身、プレーヤーとしてよりも自己演出の得意な人物で、それは、ブラジル戦での敗戦後、センターサークルで寝そべってしばらく動かなかった行動や、ワールドカップ期間中の突然の引退声明、あるいは「自分探しの旅」といった発言に遺憾なく現れている、と金井は見る。

 日本の実力に関しては異論ないし、また、マスコミの大騒ぎへの批判も同感である。ただ、中田については異論を感じる。著者は一体何様だと思うところもあるが、独特のテンポのよい語り口に乗せられて、声を上げて笑ったり、あるいはハタと膝を打ったりしながら一気に読んでしまった。

 各編には中心のテーマがあるのだが、途中で著者の心に浮かんだ回想の方に話題が行ったりして、いくつもの脱線をくり返しながら元の所に戻ってくる。文章もこの作家の特徴である長文で、ワンセンテンスの中に入れ子構造的にいくつかの文章が投入されている。

 筆者は相当のヘビースモーカーで、日に40本以上、40年も吸い続けたという(p92~)。しかし、眼を患い、ニコチンが眼の血管を収縮させるからと、禁煙を命じられる。筆者は、楽に禁煙が出来た。タレントの萩本欽一がマラソンに参加すると言い出したとき、禁煙を居丈高に叫ぶ団体が、喫煙者で68才の萩本がマラソンすることの危険性をテレビで指摘したという。皮肉にも「欽ちゃん」は完走したというエピソードを出して、筆者は反喫煙団体を皮肉る。とはいえ、「欽ちゃん」に対する彼女の批評も辛らつだ。:
あの、何とも甘ったれたようなゴーマンのような、どこかに、とんでいるような、宮田輝と山下清が野合したような無気味な喋り方をするいわゆる「欽ちゃん」という芸人を私はとてもきらいなのだけれど・・・(p94)。宮田輝と山下清、言われてみると「欽ちゃん」の特徴を捉えている。

「今日も元気だタバコがうまい」という、ひと頃よく眼にしたキャッチフレーズにも話が飛ぶ。この文句の「元気だ」のあとが、「。」か「、」かそれとも一字あけか気になる。校正担当者が調べて、一字あけであることを確認する。ついでに「たばこは動くアクセサリー」という宣伝コピーをたばこと塩の博物館のHPで調べる。以下のように書く:
それによるとこのコピーを入れた映画界とのタイアップ広告「売り出し中の新人女優の写真を使ったポスター」とあるけれど、昭和33年から昭和35年にかけて、久我美子、香川京子、池内淳子などは新人女優ではなく当時のスター女優と言うべき存在である。博物館の説明はさらに「どれも、まるで女優のポスターのようで、たばこの写真は地味目で、あまり目立ちません」と続くのだが、写真を見るかぎり、たばこは煙と共に目立っているのは一目瞭然で、こういうヘンなことを書く学芸員がいるので、喫煙人口が減ったのかもしれないと、メチャクチャなことを考えてしまう(p101)。
 たばこと塩の博物館の私の知っている真面目そうな学芸員の顔を思い浮かべてしまった。それにしても著者は好奇心旺盛で色々のことをよく調べている。

 以下いくつかの金井語録:
 
日本のテレビを中心にしてその支持者が女性たちと考えられている男性スターは、なぜか田村正和と沢田研二だけでなく、系列として木村拓哉につらなるイモ系が好まれるのではあるまいか。(p160)ここで言う「イモ」とはもちろん「イモねえ」「イモ侍」といったダサイという意味だ。

 「あげる」という動詞を、例えば料理番組では、サトイモのぬめりを取ってあげる、といい、また、ペットや花にエサや水をあげるという言い方を批判し、金井の愛猫トラーに対しては:
いくら猫馬鹿だったとはいえ、トラーに御飯(これは、エサ、というには高額すぎるので、とてもエサとは言いにくいのだった)は一貫してやるであり、花にも水はやるであった。(p227)

 その少し後に皇太子妃への批判が出る:
最近の皇孫不登校騒動のテレビ報道で流される映像を見ていて思い出したのは、車の窓越しに人々に手を振る皇太子一家と犬のお出かけの様子である。皇太子妃は犬を膝に抱いていて車の開いた窓から、にこやかに笑い、犬の前足を持って、見送りに来ているらしい人民に向い、まるでワンちゃんがお応えしているかのように手を振らせるのである。知りあいでも家族でもいいのだが、犬や猫を飼っている家を訪ねて帰る時、客としてはお愛想で、犬や猫にもバイバイと挨拶をし、見送る側の飼い主としては犬なり猫なりを抱きあげて前脚でバイバイさせる、というのはよくある情景(年中トラーでやっていたのだ)だけれど、心の御病気が快方に向かっているからこその車での一家のお出かけを喜んでいる人民に向かって、飼犬の前脚を持って手を振らせて応えるというのは、お犬様の御病気を心配した人々が車道に集まっているわけではないのだから、かなり変なあきれた光景だったよね、と姉と言いあっていると、・・・・(以下略)(p230~)
 最後のセンテンスはさらに続き、皇室ジャーナリストがテレビ画面に登場し、その人物が相撲関係のジャーナリストに顔が似ているなどと書かれている。この著者特有のロングセンテンスである。

 p85には「
九月四日にトラーが、カサカサした枯葉の落ちるような音を立てて肺に溜った血を吐きながら最期の息をしてから、もうそろそろ三ヶ月近くになる」とある。トラーは18才だった。私の所の「おばさん」猫も、家に来てからちょうど18年で亡くなった。淡々と書かれた老齢猫の介護のことなど、よくわかる。金井はヴィデオカメラというものを持っていないので、トラーの鳴き声と動いているところをまったく記録に残さなかったという。私も今まで飼った猫の動画と声は残していない。今の飼い猫ランの声と動画を何とか残そうと思った。もっとも、今年8才になるランより私の方が長生きするという保証はまったくないが。

 
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書名 落日の宴 勘定奉行川路聖謨 著者 吉村昭 No
2012-08
発行所 講談社 発行年 1996年 読了年月日 2012-02-17 記入年月日 2012ー02ー18

 
川路聖謨(としあきら)の名前は幕末関連の本に、開明派幕吏として、岩瀬忠震らと共に登場する。その人物像を私はまったく知らない。十日市場地区センターの書架に本書を見つけて借りてきた。

 小説と言うより評伝。日記風に細かく川路聖謨の事跡が述べられる。巻末の参考文献に川路聖謨文書全七巻というのがあるから、おそらく川路の残した記録を基にしたもので、書かれていることはほぼ史実と見ていいと思う。

 川路は天領であった九州日田の代官所の下級役人の生まれ。川路が幼いころ、父が江戸に出て幕府の西丸徒士になる。川路はその後川路家の養子に行き、江戸で幕府の役人となる。聡明、誠実、清廉な人柄が認められて、出世して行く。幕末の動乱期には幕府も家柄などにかまわず、有能な人材を登用した典型的な一例である。

 本書は、ペリーの後来日した、ロシアの使節、プチャーチンとの交渉役に選ばれた川路が、長崎に向かうところから始められる。時に川路52才である。その交渉は後に下田に場所を変えて、継続され、ついには日本はアメリカに次いで、ロシアに対しても国を開く。本書の主要な部分は、ロシア側と川路ら日本側とのやりとりの詳細に費やされる。

 オランダ語の通訳を通しての交渉のやりとりが、かなり詳細に述べられる。時には激論になりながらも、川路は毅然とプチャーチンと渡り合う。おそらく、彼の最大の功績はエトロフを日本の領土だと認めさせたことだろう。ロシアはエトロフはロシア領土だと主張していた。樺太についてもロシアは領有を主張したが、川路は現地調査を認めさせ、その結果をもとにロシアの主張を覆させるが、国境線の画定までには至らなかった。

 プチャーチンは全権を委任されていたが、川路らは重要なことは一々幕府に指令を仰いだ。飛脚しかなかった当時では、これは大変なことで、ために交渉は長引く。長崎での交渉では決着せず、川路らは一旦江戸に帰任する。しかし、プチャーチンは今度はいきなり下田にやってきて交渉を迫る。鎖国下の日本で長崎以外の港への入港は許されないことであったが、幕府は拒めず、再度川路らを派遣して交渉に当たらせる。

 交渉に当たっているとき、安政東海地震が発生。下田は津波に襲われ、川路は裏山に避難し無事であったが、ロシアの帆船ディアナ号は破損する。プチャーチンは下田以外、浦賀などの港での船の修復を求めるが、幕府は国法を盾に拒絶。結局妥協案として、伊豆西海岸の戸田の港での修復を認める。しかし、戸田に向かったディアナ号は、現在の静岡県原沖で難破してしまう。現地の人達の救助作業で、500人近い乗員は一人の犠牲者もなく救助される。幕府も彼らの上陸を認めざるを得ず、彼らは戸田に居留する。幕末史にこのような一面があったのは初めて知った。

 ロシア側は戸田で日本人船大工を指導し、新しい洋式船を造らせ、プチャーチンはやがて帰国する。その間に、川路らとの間に日露和親条約を調印する。なお、戸田で造った船に乗りきれなかった残りの300人ほどは、後にドイツの船で帰国の途につくが、当時クリミア戦争でロシアと交戦状態にあったイギリスの軍艦に拿捕され、牧師、病人、女性以外は全員が収容されてしまった。

 江戸に戻った川路はやがて勘定奉行筆頭の地位に就く。幕吏としては最高の地位だ。一層おごることなく職務に励むことを誓った彼は以下のように記している(p352):
 
御役威に、なづむべからず。金銭になづむこと素(もと)よりあるべからず。縦令(たとえ)今死候とも、正理を踏可申事。
 以上、御勘定奉行筆頭と相成候而(て)、
東照宮(徳川家康)江之誓なり。(八月十七日)

 日頃質素倹約をもってし、家康へ絶対的に帰依していた川路の心情を表している。

 下田にやってきたアメリカ領事ハリスとの間に通商条約が結ばれようとしていた。川路は阿部正弘の後に老中首座についた堀田正睦と共に上京し、朝廷の許可を得ようとした。しかし、勅許は得られなかった。そんな中、大老に就任した井伊直弼は、勅許を待たずに調印してしまう。同時に将軍継嗣を紀州の家茂にする。

 川路は以前から水戸斉昭と親交があった。過激な攘夷論者で、川路とは対極にあるが、日本を思う心には引かれていた。そして、将軍継嗣問題では、一橋慶喜を推す。そのため、安政の大獄では、井伊の怒りを買い、閑職に左遷され、さらに、謹慎、蟄居を命じられる。

 慶応4年3月14日、江戸城明け渡しが目前に迫る中、川路聖謨は短銃で自らののどを撃つ。中風で半身不随の身でありながら、切腹を試み、それが果たせず、短銃を使ったのだ。

 
川路は、開府以来天下を統一してきた幕府の完全な崩壊が眼前にせまっているのを確実に意識していた。幕府は自分のすべてであり、幕府の消滅は、自分のそれでもある(p442)と著者は書く。

 川路の実弟、井上清直も有能な幕吏で、岩瀬忠震と共にハリスとの日米通商条約の交渉役に当り、岩瀬と連名で条約に調印している。井上は川路より前に病死する。

 プチャーチンとの交渉で日本側の首席全権は筒井政憲。論議の前面に立つのは川路だが、筒井の一言が紛糾した局面をおさめる。この人物の経歴についてはまったく触れられていなかったので、ウイキペディアで調べた。川路より23才も年上で、江戸南町奉行を20年間も務めた人。大岡越前にも比べられる名奉行という評もある。

 幕末史として面白い本であった。一方に200年以上幕府を支配する鎖国という国是を背負いながら、開国に踏み切らなければ、亡国の恐れもあるという状況下での、幕府の苦悩が色々な具体的事例の中によく読み取れる。尊皇攘夷を声高に叫ぶ志士たちよりも、阿部や堀田や川路のような人物こそ歴史を作ったのであり、もっと目を向けられるべきだ。

 国法を盾に、プチャーチンらに対しては、その住居、行動など厳しく制限するが、その他の面では、例えば食糧の供給とか、贈り物など幕府は細かい配慮を行っている。特にディアナ号の難破の際の住民の救助作業には、ロシア側の記録でも驚きをもって賞賛されている。プチャーチンは、ペリーと違って武力を背景に威圧的な態度を取らなかった。そして、川路とプチャーチンの間にはお互いに敬愛の念が通じ合っていた。プチャーチンはその後、帝政ロシアの教育大臣までなったりし、1883年、80才の長寿をまっとうした。

 読んでいて驚くのは川路の健脚ぶり。毎朝刃の素振りや、早足の散歩を欠かさず、体力の維持に努める。長崎に向かう道中、宿泊地には各藩の重役が平伏して待ち受けている。川路はそのような歓待に自分の身分の重さを実感するのだが、彼自身は、道中酒を断ち、家臣にもそれを命じる。隊列を組んでの旅だが、川路は宿を出て接待役の目が届かなくなると、籠から下りて歩く。プチャーチンの出帆が迫って急行した下田への旅では、天城峠越えで、家臣の中には徒歩の川路について行けない者も出る。

 長崎にいる川路に、アメリカ艦隊再来日の知らせがとどき、至急江戸に戻るよう命令が下る。その時の旅程は驚異的だ。例えば、姫路を午前2時に発ち、兵庫に夕刻に着いたが、その間16里である。大津に着いたのは夜中の12時、わずかな睡眠を取っただけで2時過ぎには出立、その日は草津、石部、水口を過ぎ、鈴鹿峠を越え、坂下宿まで、15里である(p96)。私は坂下から草津までをたっぷり2日かけて歩くプランを立てている。川路らは大阪から江戸まで9泊10日で歩いた。

「群像」1994年~95年連載

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書名 岩瀬忠震 著者 松岡英夫 No
2012-09
発行所 中公新書 発行年 昭和56年 読了年月日 2012-02-22 記入年月日 2012-02-26

 
川路聖謨を読んだからには、もう一人の幕末の英才、岩瀬忠震についても知ってみたいと思った。そのものずばりの本書が図書館にあった。読み進めていくうち井伊直弼と長野主膳への辛辣な人物評が述べられていたので、著者の名前を見たら、『安政の大獄』の著者松岡英夫であった。一方的な岩瀬忠震賞賛とも言える著作。

 岩瀬は1400石の旗本、設楽貞丈の息子として文政元年(1918年)生まれる。母方の祖父は林大学頭述齋である。養子に行った岩瀬家は800石の旗本。昌平校の秀才として幕府の官僚として登用されていく。海防掛目付という立場から、幕府外交の中心的存在として、各国との条約交渉に当たるが、安政の大獄で失脚、永蟄居に処され、文久元年(1961年)死去。死因は心労による死とも、飼っていた鼠にかまれたのが原因とも言われている。子供も若死にしたので、家系は絶えた。

 本書の序章で松岡は、幕末の三俊としてあげるとすれば、岩瀬忠震と川路聖謨は異存がないとする。後一人については、水野忠徳、矢部定謙、小栗忠順の名を出しているが、一長一短あり決めてはいない。開国をめぐっては岩瀬の属する目付系と、川路の属する勘定奉行系との間には意見の相違、対立があったという。前者が積極開国派、後者が消極開国派であるとし、その代表としてそれぞれ岩瀬と川路を挙げている。例えばハリスが江戸に上がることに関しても前者は承認であり、後者は反対であった。だが、こうした対立が岩瀬と川路の間の人間的対立あるいは憎悪感にまで発展しなかった。それが不思議であるが、二人とも幕府としての危機感を共有していたのではないかと、著者は言う。(p50)

 安政4年3月に大小目付が出した意見具申書の内容がp61以下に示されている。これを見ると驚くほど積極的で、革新的である。幕府政治の変革を求め、外国使節の江戸滞在を認め、日本からも海外に人を派遣し世界の情勢を知り、貿易に関する法規を制定し広く貿易を行い、四海兄弟の情をもって外国と当たるべきであり、文武を強化し、蝦夷地開拓に力を入れることなどを挙げている。松岡はこれは岩瀬が自身の考えを書いたものだろうという。さらに、当時これだけの開国思想を持っていたのは、岩瀬の他は橋本左内だけであったろうという。岩瀬と橋本は単に慶喜擁立支持で意気投合したのではないという。

 岩瀬は自ら香港への渡航を申請し、幕府を驚かす。川路は言葉もわからずに行ったのでは地形、風俗の大体を知るだけだし、生半可な外国の知識があるとかえって駆け引きの妨げになるといって反対した。ただし、川路の方が現実的であり、幕府の大勢であるばかりでなく、全国的な攘夷論の高まりを考えると、「小出しの開国」で騒ぎを大きくしないための対策であった、と松岡は言う。岩瀬の香港行きは実現しなかった。(p84~)

 日米修好通商条約の交渉に当たっては、井上、岩瀬の全権は、逐条綿密な検討を行い、当初の案は完膚無きまでに改ざんされたという、後のハリスの回想録を紹介している(p105)。その岩瀬の才能をもってしても治外法権と関税自主権の重要性には気がつかなかったと、松岡はいう。

 幕府内にも条約調印への反対があった。しかし、岩瀬はいくつかの理由を挙げてそれに反論する。その中には、条約調印のために徳川の安危に関わるようなことがあったとしても、この場合は徳川ではなくて国家に責任を負うべきであるという意味のことを述べている。(p128)

 井伊の大老就任については、保守派による一種のクーデターであると松岡はいう。そしてそれを画策したの人物として、老中の松平忠固をあげる。その傍証として『昨夢紀事』のに記された、松平春嶽、伊達宗城、山内豊信の懇談を以下のように引用している(p161):「も
とより大老は不学無術の人なれば、さしたる伎倆はあるまじけれど、伊賀といえる奸物の附添ありて蠱惑せるなれば、伊賀をだにしりぞけれなば、大老は土偶人の如くなるべけれとて・・・

 これは井伊大老就任直後の春嶽らの感想だ。完全に井伊の力を見くびっている。ここで「伊賀」というのは、松平忠固である。もっとも松平忠固は、堀田正睦とともに井伊により老中の座から追われている。忠固の増長も原因だが、慶喜派の堀田を切ったのと抱き合わせにして、一橋派への政治的配慮をしたのだろうと、松岡はいう。

 松平春嶽は明治になってから、慶喜を担ぎ出したことを反省し、彼を不決断の人物と呼ぶ。そんな春嶽にも著者は痛烈な批判を浴びせる(p181~)。当時は英明な将軍が実現すれば、政治は一気に転換できると考えられていた。実際は将軍の問題ではなくて、幕府そのものの体制の問題であったが、ほとんどの人が気がつかなかった。そしていう:
岩瀬が薄々それを感じ、数年後に大久保一翁がそのことをいい出すのだが、当時は「英明なる継嗣」論だけが人びとの頭脳を占領し、岩瀬忠震も橋本左内も、その熱気に没入していった。不幸なことであった。(p183)

 なお、松岡は毎日新聞政治部長、論説委員などを歴任し、1983年東京都知事選に革新統一候補として立候補を、鈴木俊一に敗れた。

 
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書名 東海道中膝栗毛(上) 著者 十返舎一九著、麻生磯次 校注 No
2012-10
発行所 岩波文庫 発行年 1973年 読了年月日 2012-02-23 記入年月日 2012-02-26

 
弥次さん喜多さんといえば、水戸黄門の「助さん格さん」以上に人々に知られたコンビである。にもかかわらず、彼らが登場する『東海道中膝栗毛』の中身はほとんど知られていない。ドラマや映画にもなっていないし、高校の古典のテキストにもなっていない。

 読んでみて、これでは教科書はおろか、ドラマにもなり得ないのも当然だと思った。一言で言えばエログロナンセンスの固まり。五右衛門風呂に下駄を履いて入り、釜の底を抜いてしまった話など、可愛い方で、女郎買い、夜這いに伴うドジ話、小便の話、行きずりの旅人との喧嘩、馬子や籠かきたちとの馬鹿話・エロ話と値切り合い。そして何かあるごとに主として弥次さんが詠む狂歌。あきれながらも、声を出して笑ってしまう。

 本編は発端から第4編までを載せる。日本橋から桑名まで。初編が好評で次々に続編を出していった。発端は弥次喜多の素性と旅に出るまでのいきさつが書かれているが、弥次喜多とはそも何者だという読者の要望により、第4編の出版(文化2年)の9年後に書かれたもの。

 読んでいて感じるのは、江戸の太平楽。一九は初編の書き出しで、今の世を「
毛すじ程もゆるがぬ御代」と述べ、それは「尭舜のいにしへ、延喜のむかしも、目撃(目の当たり)見る心地」であると、徳川体制を賛美する(p71)。また第3編上の書き出しには具体的に書いてある:・・・・・往来の旅人、互に道を譲合、泰平をうたふ。つづら馬の小室節ゆたかに、宿場人足其町場を争はず、雲助駄賃をゆすらずして、盲人おのづから独行し、女同士の道連、ぬけ参の童まで、盗賊かどはかしの愁にあはず。(p191)

 本書には挿絵がたくさん挿入されている。弥次さん喜多さんは江戸っ子気質で、やたらと喧嘩早いが、描かれた二人はいつも笑ったような明るい顔をしている。これも泰平の象徴か。

 日本橋を発って、戸塚、小田原、三島、蒲原、府中、岡部、日坂、浜松、赤坂、宮と泊まっている。大井川の川止めで岡部宿で足止めを食っているが、実質的には10日で宮宿まで行っている。馬や籠も利用してはいるが、ほとんどが歩きだ。それにしては健脚だ。私も東海道歩きで宮まで来たところだが、19日かけている。女郎買いや夜這いなど夜もそんなに早寝ではないのに、早朝には発っている。街道のにぎわいは、今からは想像できない。宿場ごとの客引き、あるいは立て場茶屋の呼び込み、籠かき、馬子の客引きは猛烈だ。大名の行き来も多く、弥次喜多も何回か会っているが、それほど尊敬の念を示していない。どさくさに紛れて、大名の一行の食事している旅籠に紛れ込み、ただで飯を食ったりする。女性の旅人も多い。

 三島の宿では弥次喜多が、飯盛り女を相手にする。驚いたのは、旅籠の一室に小屏風を立て、弥次喜多がその陰でそれぞれ一夜を楽しむ。しかも、このときは道中で知り合ったもう一人の男性も同室なのだ。江戸時代の性はそれほど開放的であったのだ。弥次さんが朝起きてみると、持ち金をそっくりその男に持って行かれていたというエピソードだ。次の日は、蒲原まで行くが、金がないので木賃宿に泊まる。老夫婦がやる木賃宿には、巡礼の父と娘も泊まっている。亭主や男どもは下の一室に寝て、娘と老婆は2階に寝る。喜多さんが夜中に二階の娘の所に忍んで行く。真っ暗いなかで潜り込んだ蒲団は老婆の寝ているところだった。慌てた喜多さんは、安普請の木賃宿の床を踏み抜いてしまい、下の仏壇の中に落ちてしまう。

 次の府中で、弥次さんは金を調達し、彼らはその晩は、安倍川の遊郭に上がる。

 本書の主体は弥次さんと喜多さんの間の会話、あるいは弥次喜多と道中で出会う人々の間の会話。その会話の間にはト書きがあるが、これが小さな字で読みにくい。また、各ページの下にある注も同じく細かい字で読みづらい。会話は、当時の話し言葉を写しているのだろう。方言もたくさん取り入れられていて、日本語の研究対象としては貴重なのではないか。

 例えば三島手前の山中の場面(p124)。茶屋の呼び込み「
おやすみなさいまアし。くだり諸白もおざりやアす。」諸白は麹も米も精白米を使った上等の酒。「くだり」は上方から下ったもので上等という意味がある。「下らぬものですが」は今でも使われるが、江戸時代に起源がある言い方だ。なおこのページには喜多八の狂歌も載っている:
手ぬぐひとおもふてかぶるふんどしはさてこそ耻(はじ)をさらしなりけり

 山中へ来る前、大名に伴って江戸に向かうお女中の一向に出会う。男は頬かぶりをするといい男に見えるといわれて、喜多さん早速頬かぶりをして、お女中方の注意を引こうとする。ところが、彼女らは笑いながら過ぎて行く。よく見たら、喜多さんがしていたのはふんどしで、ひもが長くたれていたのだ。それを読んだのが上の狂歌。「さらしならりけり」にはもちろん、木綿のさらしがかけてある。

 p263:白須賀宿が潮見坂の下にあったことが記されている。その後津波に遭い、いまの坂上に移転した。

 弥次喜多の素性を書いた発端では、弥次さんはだまして妻を追い出し、喜多さんは身重の妻が亡くなって、二人とも気軽な身になって伊勢参りに東海道を下るという話になる。そこに現れたのは極端な女性蔑視。女性は丸でものとしか扱われていない。特に喜多さんの子供を宿した女の死の場面は、ここに書くのをはばかれるようなエロとグロ。街道でのエロ話のようにはとても笑うわけにはいかない。


 
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書名 東海道中膝栗毛(下) 著者 十返舎一九著、麻生磯次 校注 No
2012-11
発行所 岩波文庫 発行年 1973年 読了年月日 2012-02-29 記入年月日 2012-03-02

 
第5編から8編まで。宮から桑名に渡り、四日市の先で東海道から離れて伊勢神宮に参拝し、途中は飛ばして、伏見から京、大坂とめぐるまで。

 どうしようもない弥次喜多は、伊勢の古市に着き、神宮参拝を前に遊郭へ。そこでは京から来ている旦那とあいかたの取り合いとなる。京の旦那は自分を名乗るのに「京都千本通、中立うりひょいと上ル所、邊栗や与太九郎」と一々もったいを付ける。弥次さんも負けずに相手を呼ぶ際には「京都千本通・・・」とやり返す。ここはまるで落語の寿限無だ。口論するうちに、弥次さんが自分のことを「京都千本通・・・弥次郎兵衛」といい、相手は「神田の八丁堀・・・の与太九郎」の混同してしまう。(p112)

 翌日はさすがにまともに神宮に参拝する。一九も一般の旅行記のように神宮の簡単な案内を記す。

 ところが、参拝を終えた弥次さんが急に腹痛を起こす。早めに旅籠をとり、医者を呼ぶ。来た医者はこれがまったく要領を得ない。字が読めないのだ。持参した薬箱には絵で薬の種類を示してある。そんな医者だから、弥次さん治るわけもなく、部屋に横たわっている。たまたま旅籠の主人の女房が臨月で産気づく。やってきた産婆は目が不自由だ。横たわる弥次さんを産婦と間違え、寝ていてはだめだと弥次さんを座らせ、喜多さんに腰をさすらせ、弥次さんにいきむように一生懸命に励ます。おもしろがって喜多さんは産婆の言うようにする。もう少しだ、もう少しだと励ますうちに、別室から産声が聞こえ、玉のような男の子が生まれる。産婆は間違っていたことに気がつく。弥次さんの方は、いきんだせいで、おなかに溜まっていたものが出て治ってしまう。めでたしめでたし。(p128~)

 他もこれと同じような馬鹿話ばかり。本来先に大阪に行くつもりで、伏見から川船の乗るのだが、途中枚方あたりで船が岸に着く。下りて土手で小便をした二人は、夜中のこととて、乗る船を間違える。気がついたらまた伏見に戻っていた。仕方なしに京をまず見物する。

 大阪に下った二人はここも名所をめぐる。一九は大阪に住んだことがあり、大阪のにぎわいが活写されている。人混みの中で、弥次さんが富籤札を拾う。「八十八番」の札だ。その神社に行ってみると、「八十八番」は当たりであった。100両が入る。その日は混雑していて、賞金は翌日渡してくると言う。翌日行ってみると、それは今で言う宝くじの組違いであった。100両を宛にして、前日、伎楼で大見得を切った弥次喜多は、一文無しになる。見かねた宿の主人が、弥次さんに男妾の口を紹介する。相手は年増の後家だがいい女で、弥次さんすっかりその気になる。そこへ当時の花形役者が現れ、女をとっていく。だが、宿の主人は弥次喜多の江戸気っ風が気に入り、金を用立ててくれたので、二人は木曽路を通って江戸に帰ったと最後を結んである。

 各編ごとに一九の前口上がついている。これが面白い。8編は、10はものが満ちて後は欠けるのみ、9は満ちる初め、だから8が何事も縁起がいい。江戸八百八町、八百万の神などを挙げ、このシリーズも8編で終わるとする。(p284)

 6編はこのシリーズが長くなった言い訳:
長いは長いは此作者のながきこと、支躰(したい)は心と倶に長く、鼻の下は褌のさがりとひとしく長し、酒のあとをひくことは、行坐(いざり)を飛脚にやりたるよりも長く、借金をひきずる事は、淋病やみたる牛の小便よりも長し。(p136)

 8編の出版は文化6年(1809年)。ペリー来航で泰平の夢が破られるまでには、50年もない。

面白い言葉
「しめこのうさぎ」(p29)。うまくやったという意味。以前、この言い方を職場の若い人が使っていた。
「てんがう」(p338)。ふざけることと注があり、「転合」の漢字が与えられている。もう60年以上前だが、田舎の伯父に「てんごうするな」といたずらをしかられた記憶がある。
「璃寛」(りかん)(p377)。弥次さんから女を取っていった浪速の二代目嵐吉三郎の役者名。文化文政頃の上方の名優で、美男で上品でまれに見る役者であったと、注にある。こんな役者と比べられた弥次さんが災難だ。以前、エッセイ教室の受講生の作品に『色の名前』という作品があったが、その中に「璃寛茶」という色の名前があった。この役者が身につけたものの色なのだろう。

 
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書名 養生訓 著者 貝原益軒著、石川謙 校訂 No
2012-12
発行所 岩波文庫 発行年 1961年刊、2011年53刷 読了年月日 2012-03-10 記入年月日 2012-03-16

 
貝原益軒と言えば『養生訓』が代表作でこれが唯一の著作と思っていた。ところが志賀重昴の『日本風景論』や、板坂耀子『江戸の紀行文』、横山正治、安斉達雄『中山道歩を歩く 下』には益軒の旅行記のことが触れられていて、意外な感じがした。本書の解説によると、益軒の主な著作は99部251巻に及ぶという。本書は84才の正月に書いたとのこと。益軒は芭蕉より14年も早く生まれ、20年も遅く亡くなってなっている。1714年、85才であった。自身の長寿は本書の価値を高めるものだ。

 『東海道中膝栗毛』を読んで、江戸時代の古文なら、比較的さらさらと読めると思い、本書を手にした。

 一読、命を大切にすることを説いた良い本だと思った。基本思想は現代でも十分通用するし、共感を覚えるところが多い。

 総論上・下、飲食上・下、五官、慎病、用薬、養老の8編より構成される。

 本書の出だしは以下のよう:人
の身は父母を本とし、天地を初とす。天地父母のめぐみをうけて生れ、又養はれたるわが身なれば、わが私の物にあらず。天地のみたまもの、父母の残せる身なれば、つつしんでよく養ひて、そこなひやぶらず、天年を長くたもつべし。(p24)

 人生は50才を過ぎなければ「
言あやまり多く、行悔(おこないくい)多し」と述べ次のように続ける:長生すれば、楽(たのしみ)多く益多し。日々にいまだ知らざる事をしり、月々にいまだ能(よく)せざる事をよくす。この故に学問の長進する事も、知識の明達なる事も、長生せざれば得がたし(p32)。70歳を超えた今、私自身実感できる。

 養生法の要項:
養生の道、多くいふ事を用ひず。只飲食をすくなくし、病をたすくる物をくらはず、色欲をつつしみ、精気をおしみ、怒・哀・憂・思を過さず。心を平にして気を和らげ、言をすくなくして無用の事をはぶき、風・寒・暑・湿の外邪をふせぎ、又時々身をうごかし、歩行し、時ならずしてねぶり臥す事なく、食気をめぐらすべし。是養生の要なり(p48)。

 
およそ養生の道は忿・慾をこらゆるにあり。忍の一字守るベし(p50)。
 
かへらざる事をくやまず、過あらば、一たびはわが身をせめて二度と悔ず(p51)。
 
津液(つばき)をばのむべし、吐べからず。痰をば吐べし、のむべからず(p51)。
 
百病は皆気より生ず。病とは気やむ也(p56)。

 また、同じp56以下には臍下三寸を丹田といい、「
臍下腎間の動気は、人の生命也」と中国の古書を引用している。本書の特徴の一つは、易経、儒教、老荘など中国の古典思想に強く準拠していることである。
 以上は総論からの抜粋。以下の編にも同じ趣旨が繰り返し出てくる。

 小食、心の平安、唾液の効用など現代でもまったく同じ事だ。20年以上前のことだが、栄養学の大家の講演を聴く機会があった。マウスの実験で食事と寿命の関係を調べたところ、唯一寿命に有意差があったのは、満腹の8割程度の餌しか与えなかった群で、長命であったとのこと。
 もちろん現代の常識に合わないことも出てくる。例えばp49には、海辺の人は短命で、山中の人は長命であると述べ、その理由は海辺の人は魚をたくさん食べるからであり、また山中はさむくて人の元気をうちに込め、外に漏らさないからだと考察している。

 飲食以下の編で興味あったところを拾い出す。

 
食は飯を本とす。何の食も飯より多かるべからず(p70)。
 花は半開に見、酒は微酔にのむといへるが如くすべし(p71)。交友の席でも飲食を過ごすなと戒める。
 大魚は小魚より油多くつかえやすし。脾虚の人は多食すべからず。薄く切て食へばつかえず
(p75)。このあと鮒、鯉などは丸のまま煮ないで薄き切るべしと言う。

 
鮓は老人・病人食ふべからず、消化しがたし(p74)。
 
凡そ大酒・大食する人は、必ず短命なり。早くやむべし(p78)。
 蘿葡(らふ)(ダイコン)は菜中の上品也。つねに食ふべし。葉のこはきをさり、やはらかなる葉と根と、みそにて煮熟して食ふ(p84)。
 
豆腐には毒あり、気をふさぐ(p85)。とはいえ新しい豆腐をさっと煮て、大根おろしを加えて食べると害がないという。

 p90には食い合わせの一覧が出ている。その筆頭に豚肉とショウガとある。豚肉生姜焼き定食というのは今どきよく見るランチメニューだ。挙げられた食い合わせには、余り科学的根拠はなさそうだ。

 
酒は天の美禄なり。少しのめば陽気を助け、血気をやはらげ、食気をめぐらし、愁を去れ、興を発して甚だ人に益あり。多くのめば、又よく人を害する事、酒に過たる物なし(p91)。
 
凡そ酒は、ただ朝夕の飯後にのむべし(p92)。

 
煙草は性毒あり。烟をふくみて、眩ひ倒るる事あり。習へば大なる害なく、少は益あれといへ共、損多し。病をなす事あり。又火災のうれひあり(p96)。

 この後色欲の慎みが出てくる。男女の交合を20歳は4日に1回、30歳は8日に1回というこれは『養生訓』のなかでももっとも知られた内容だ。40歳を過ぎれば「
血気やうやく衰ふる故、精気をもらさずして、只しばしば交接すべし」と「接して漏らさず」 論が述べられる(p98)。

 
医は仁術なり。仁愛の心を本とし、人を救ふを以て、志とすべし(p124)。
 
凡そ医となる道は、先(まず)儒書をよみ、文義に通ずべし。(中略)易を知らざれば、以て医となるべからず。(中略)医を学ぶに、殊に文学を基とすべし。文学なければ、医書をよみがたし。医道は、陰陽五行の理なる故、儒学のちから、易の理を以て、医道を明らむべし(p125)。
 
一切の病に、みだりに薬を服すべからず。病の災より薬の災多し(p139)。

 
老後は、わかき時より、月日の早き事、十ばいなれば、一日を十日とも、十日を百日ともし、一月を一年とし、喜楽して、あだに日をくらすべからず。つねに時・日をおしむべし。心しづかに、従容として余日を楽み、いかりなく、慾すくなくして、残躯をやしなふべし。老後一日も楽まずして、空しく過すはおしむべし。老後の一日、千金にあたるべし(p159)。第八編「養老」の最初の方に出てくる言葉だ。心にしみてくる言葉だ。

 
怒りなく、うれひなく、過ぎ去たる人の過ちを、とがむべからず。我が過を、しきりに悔ゆべからず。人の無礼なる横逆を、いかりうらむべからず。是皆、老人養生の道なり。又、老人の徳行のつつしみなり(p160)すべての高齢者に聞かせたい言葉だ。この通り行うのは極めて難しい。

 
自楽しむは、世俗の楽に非ず。只、心にもとよりある楽を楽しみ、胸中に一物・一事のわづらひなく、天地四時、山川の好景、草木の欣栄、是又、楽しむべしp164)。
 
小児に、味よき食にあかしめ、きぬ多くをきせてあたため過すは、大にわざわひとなる(p165)。

 百年後に十返舎一九描く、食欲、色欲の赴くままに行動する弥次さん喜多さんの生き方は、益軒が本書で説く養生訓とはまさに対極にあるもの。弥次喜多が天寿を全うできたとはとても考えられないなどと思いながら、本書を読み進めた。

 
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書名 五輪書 著者 宮本武蔵 No
2012-13
発行所 岩波文庫 発行年 1985年 読了年月日 2012-03-18 記入年月日 2012-03-19

 
宮本武蔵が晩年に表した剣術指南書。『養生訓』と同時に手にした。

 有名な本で、本書の巻末解説には、柳生宗矩の『兵法家伝書』とならび、近世的武道伝書完成期の二大巨峰とすることに異論はない、とある。期待して読んだが、私には良さがわからなかった。精神論に重きがおかれている。例えば「
兵法勝負の道におゐては、何事も先手先手と心懸くる事也」(p123)とある。よく言われる常識的な一般論に過ぎないように私には思われる。あるいは、武蔵が最初に言い出して、それが後世に広く広まったのだろうか。

 本書で特に感じたことは、道場での剣術ではなく、実際に真剣で相手を切ることを前提にしていること。大阪夏の陣が終わってちょうど30年後に書かれたものであるが、直前には島原の乱があり、まだ、殺伐とした時代の雰囲気が感じられる。熊本藩に客分身分で抱えられていた武蔵自身が、島原の乱には参戦している。武蔵は生涯真剣で相手を倒してきたという背景もあるだろう。

 解説の中に、武蔵が死の直前に表した自省自戒の書『独行道』が引用されている。21箇条からなるが、その方が処世術としてよくできている。例えば「
我事におゐて後悔をせず」「自他共にうらみかこつ心なし」「仏神は貴し、仏神をたのまず」など、武蔵の剛毅な人柄が出ているし、座右の銘ともしたい言葉だ。

 
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書名 福島原発人災記 著者 川村湊 No
2012-14
発行所 現代書館 発行年 2011年4月25日 読了年月日 2012-03-30 記入年月日 2012-03-31

 4月のエッセイ教室のテーマは原発。福島原発事故を含め、原発のことをもう少し知ろうと思って、アマゾンで検索していて本書に出会った。題名のように福島原発事故は人災であるとし、原子力は安全であると言い続けた人や組織、国への弾劾の書。

 2012年3月11日から24日までの原発事故をめぐる経過が書かれる。それに加えて、関連する人びとや組織の言動を主にネットから引いてきて、そのまま載せている。歴代の原子力委員会委員長の名前と肩書き、あるいは原子力安全・保安院のメンバー一覧、などもある。引用されるウエブページはほとんどが原発推進派のもの。専門的で詳細にわたる記事も多いが、省略せずにそのまま載せている。著者はそれらに個人名を挙げて一つ一つ痛烈な批判、あるいは罵倒を浴びせる。私は皮肉なことに原発を推進した人びとの熱い思いを知ることが出来た。日本がエネルギーを将来にわたって安定的に得るためには原子力の利用は必須であり、さらにウラン資源を国外に頼らないためには、高速増殖炉やプルサーマルは何としても実現しなければならないという、強い思いだ。そのために膨大な資金が投入された。また、安全のための細部にわたる規定も本書には載っており、当然ながらそれにも厳しい批判がなされる。

 個人攻撃に類する原発推進派の人びとへの弾劾をむしろ不快に思いながら読み進めた。しかし、本書の中頃105pで次のような記述に出会い、ある程度著者の主張に共感を覚えた:
一方産業技術の急速な進展に違和感を抱く反文明活動家達は、安全管理体制のゆるみが招いたチェルノブイリの暴走事故などを種にホラー・ストーリー作りに没頭し、大衆を原子力嫌悪の渦に巻き込もうとする。
 これは、「エネルギーレビュー」2005年4月号に載った日本原子力振興文化財団理事長の秋元勇巳の文だ。核燃料サイクルのために六ヶ所村再処理工場の必要性を強調したかなり長い論文の中の一文だ。

 もう一つの注目すべき発言は、浜岡原発訴訟に於ける斑目春樹氏の証言。斑目春樹は原子力安全委員会委員長である。
「非常用ディーゼルが2台動かなくても、通常運転中だったら何も起きません。ですから非常用ディーゼルが2台同時に壊れて、いろいろな問題が起こるためには、そのほかにもあれも起こる、これも起こる、あれも起こる、これも起こると、仮定の上に何個も重ねて、初めて大事故に至るわけです。だからそういうときに、非常用ディーゼル2個の破断も考えましょう、こう考えましょうと言っていると、設計ができなくなっちゃうんですよ。つまり何でもかんでも、これも可能性ちょっとある、これはちょっと可能性がある、そういうものを全部組み合わせていったら、ものなんて絶対に造れません。だからどっかでは割り切るんです。」

 本音だと思う。火力発電所でも、飛行機でも、新幹線でも、あらゆるものは、可能性をすべて考慮した上で造られてはいない。しかし、自然界は想定外に満ちており、人の行動もすべて予測できるわけではない。だから、事故は起こる。ただ、その影響が放射性物質をばらまく原発ほど甚大なものはないと言うことだ。

 私は今回の事故を対応に当たった人びとのミスによる人災だとは思わない。政府も、東電もそれぞれできることはやったと思う。「想定外」という言葉を私は正直で良いと思う。何でも想定できると思うのは人間の思い上がりだ。もし今回の事故を人災と呼ぶとしたら、それは特定の組織、個人がもたらしたものと言うという意味ではなく、原発を持ったと言うこと、それを許してきた国民全体がもたらした災害であると私はとる。

 著者は読売文学賞、伊藤整賞を受賞した文芸評論家。


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書名 「原発」革命 著者 古川和男 No
2012-15
発行所 文春新書 発行年 平成13年 読了年月日 2012-04-07 記入年月日 2012-04-16

『福島原発人災記』に本書のことが触れられていた。ウランを使わない安全な原発であるという。そんな原発があるのかと不思議に思った。緑図書館の原発関係書の中にこの本があった。

 ウランの代わりにトリウムを使う。原子番号90番のトリウムに中性子を当てるとプロトアクチニウムを経てウラン233が生成する。これは核分裂性で、これを燃料とする。トリウムは資源としてはウランより多くしかも偏在しない。筆者の提案はトリウムを固体として使うのではなく、フッ化リチウムなどを主体とする塩を溶融したものの中に溶かし、液体状態で使用する。燃料棒を多数入れるウランの原子炉と違って、溶融状態だから密封ができ、扱いが格段に容易で、放射能漏れを起こしにくい。さらに、この反応ではプルトニウムはほとんど生成しないので、使用済み核燃料を原爆へ使用することができない。その上、核反応生成物もこの炉の中で長時間処理すれば、放射性物質も消滅させることができる。原子炉からの熱の取り出しは、溶融した原料自体を熱交換器に循環させる。溶融塩の蒸気圧はほぼ常圧だから炉自身を高圧に保つ必要もない。液体状態だから、密封されたまま移送ができ、しかも冷えるとガラス状に固まるので事故の場合も飛散しにくい。液体化により小型でしかも安全性が高く、分散して多くのところに作ることができ、電力輸送のコストも下げられる。また、建設コスト、使用済み燃料の処理のコストも既存原発に比べて有利である。

 ざっとこのような原発が著者が主張するもの。トリウム利用の実験炉はアメリカのオークリッジ研究所で1965年から69年にかけて運転された。

 結構ずくめの原発である。実験炉までありながら、なぜ、実用化に向かわなかったのか。やはり技術的に問題があるのではないか。高温の溶融塩の腐食の問題も解決が困難な一つであろう。各国が取り組みに熱心でなかったのは、この方式では増殖炉の原料であり、また原爆への転用の可能なプルトニウムが得られないことにもあろう。

 著者の基本的立場は核エネルギー利用推進である。「原子力」などと言わず「核エネルギー」と言うべきだと述べた後で次のように記す:
 
宇宙は星が核反応を起こしつつ生々流転するシステムである。流転の根源は核エネルギーで、太陽エネルギーもまた、水素がヘリウムとなる核融合反応で生まれる。
 したがって、地上には、宇宙から光線・熱線の他にさまざまな放射線が降り注いでいる。また地中からも、カリウム・トリウム・ウランなどの放射性元素の崩壊で生まれた放射線がやってくる。我々は常に、年間一~二ミリシーベルトの放射線を浴びているのである。しかもそれには、地域によって数倍強度差がある。地球上の生物は、これだけの放射線と共存して健全に生きているのであって、これをなくせば、かえって複雑な生理異常が発生するであろう。
(p56)

 真面目な本である。核化学、原子力工学の基本、原発の現状などもコンパクトにまとめられていて参考になるところが多い。

 核化学においては中性子が鍵を握る要素となる。著者は「中性子の入手」という言葉を使うくらい、そのことを重視する。いったんウラン233の核分裂が始まれば、そこから発生する中性子を利用してトリウムをウラン233に変換するので、サイクルが完成する。最初にトリウムに照射する中性子をどこから得るか。天然に存在するウラン235の核分裂を利用するのも一つの方法。別の方法として、高エネルギー加速器を用いて中性子を発生する方法を示している。

 ネットで調べたら、著者はテレビなどにも出演して、トリウム原発を訴えている。
 2011年12月に死去している。

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書名 維新旧幕比較論 著者 木下真弘 著宮地正人 校注 No
2012-16
発行所 岩波文庫 発行年 1993年 読了年月日 2012-04-20 記入年月日 2012-04-27

 
江戸時代を知れば知るほど、愛着が募る。芭蕉を生み、蕪村を生み、東海道中膝栗毛の太平楽を生んだ。果たして明治維新とそれに続く近代日本はよかったのか。そんな考えがくすぶっているとき、本書が目についた。予想というか期待は、維新旧幕半々くらいの評価だった。だが、本書は圧倒的に維新に軍配を挙げる。

 巻末の著者の略歴によると、明治新政府に中級官吏として仕えた人物で、本書は明治10年に脱稿している。校注の宮地正人は、本書は多分西南戦争前の世情騒然たる明治9年頃、岩倉具視と三条実美が維新の業績を確認するために、学識豊かな木下真弘に勧めて書かせたのだろうと推定している。とすれば、維新政府のやったことをよいとするのは当然だろう。驚いたのは、本書は松本清張が所持していた資料で、題名はなかったので便宜的に付けたものとのこと。清張が本資料を手に入れた経緯については記されていない。

 編年別、族別、社会編と3つの編からなり、前2者は上段に長所、下段に短所を列記して比較し、社会編は項目毎に長短を論じる。

 読んでみて、明治維新を具体的に感じることができ、それが人々の生活の隅々まで大きな影響、変化を与えたことを知ることができる。明治維新は大変革、大改革であったのだ。

 冒頭は明治元年の比較表。上段の長所の最初には、維新により公卿のおはぐろと作眉は遵守しなくてもよいとされたことが挙げられる。それに対する下段の短所には、旧幕時代の武家の礼服、大紋長袴の遵守のしきたりを挙げる。明治元年の項では23項目が比較され、うち旧幕時代を良しとするものは1項目だけである。太政大臣、左大臣、右大臣を選ぶのに人柄能力を以て選んだ旧幕時代に比べ、維新の初めには人物の器を選ばず、公卿というだけで任命してしまったことが短所であるという。中程には、一世一元の制定、庶民が姓を名乗ることが許されたことが維新の長所とされる。明治元年の最後の項には、維新後のよい点として、「厳に堕胎を禁ず」とあり、旧幕の「朔日丸、月経早流等を公売するを禁ぜず」と、堕胎薬の公認を対比させている。

 面白い記載がページ毎に現れる。巻末の詳細な校注を引きながら、読めない漢字がたくさん出てくる漢文調の本書を読み進めた。

 明治3年のところには、徴兵制の制定をよくないこととしている。「
士は士の士操あって庶民の及ばざる所となるを以て、従前の如く士族の常職となし、常備軍は皆士族の合格のものに限り之を充てしめば、現今にては士民共に各其業に案んずるの便を得べし」と、旧幕を良しとしている。本書が書かれたのは旧士族の不平がついに西南戦争に至った時期だから、こうした評価が出たのだろう。木下は最後の方では、西南戦争視察のために九州に赴く。木下は西郷一派を「西賊」と呼んでいる。

 明治5年の項。僕婢娼妓等の人身売買的長期雇用を廃し1年に限るとしたこと、米豆その他雑穀から油を製造することが許可されたこと、太陽暦が採用されたことなどが維新の成果として挙げられ、さらに、神武天皇即位の年を以て紀元とし、「
紀元の体、欧州諸国の上に出づ」と記される。

 裁判、訴訟、刑罰に関して詳しい。明治3年には墨刑の廃止を長所としているが、一方、死罪の執行には旧幕時代の斬首をよしとする。維新後の絞首刑は、「
刑具未だ備わらず、醜態を成さざるを得ず」としてよくないとする。しかし、明治6年の項には、絞罪器機が改められたことを評価し、刑人の醜苦を除く点で斬刑に次ぐとしている。

 明治7年。多胎出産の場合、先に生まれた方を兄姉するとしたことを評価。従来は後に生まれた方を兄姉としていた。

 明治8年、貸借証文においては、一、二、十は壱、弐、拾を用い、誤記の際にはその字の横に押印して改めることと定められた。同じ年、製造煙草の営業税則が定められた。これにより政府は大きな税収を得た。また、この年、ロシア領の千島と樺太を交換した。従来は雑居していたところである。

 挙げればきりがない。これだけのことを短時日にやり通したのだから、明治新政府の力はすごかったと感じる。その事績は今なお私達の日常にたくさん残っている。

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書名 芭蕉庵桃青 著者 中山義秀 No
2012-17
発行所 中公文庫 発行年 1975年  2012年 改版 読了年月日 2012-04-27 記入年月日 2012-04-27

 
本屋の店頭で見つけた。たまに本屋に出かけるのは良いことだ。こんな本に出会える。

 江戸に来て日本橋から深川の芭蕉庵に住むようになって以後の芭蕉の生涯を追ったもの。生涯を旅に殉じた芭蕉で、記録としても多く残っているから、当然ながら旅が中心となる。沢山の句が引用されていて、蕉風と言われる俳句が形成されていく過程を追っていく。著者が意外である。深い知識と芭蕉への理解と情愛に満ちた好著。

 残念なことに、著者の病気のために、俳風が軽みと言われる新しい境地に達した芭蕉の最後の2年については、書かれなかった。

 本書は連歌から俳諧を経て俳句にいたる過程も沢山の例句を引いて解説されていて、その面でも好著である。例えばp117以下には宗祇、宗長、肖柏の3人によって詠まれ、中世詩人の感情を見事に結晶させた不朽の名吟とされる「水無瀬三吟」百韻が詳しく紹介されている。初めて接する中世連歌の世界だが、芭蕉一門による『猿蓑』よりもわかりやすい。解説がなくても前後の関連が理解しやすい。

 芭蕉の句や紀行には虚構、あるいは作為と思われるものが多いが、著者はそれを肯定する。『野ざらし紀行』の中の一番ショッキングな記述は富士川ほとりの捨て子のエピソードだが、それについても、以下のように記す:
たとい虚構と見なされたにせよ、富士川のほとりの憐れな棄児にたいして、「汝が性(さが)のつたなきを泣け」と云いきる非情、客観の態度は、自然の景観や人事現象に活眼を開かせた。もはや芭蕉にとって、貞徳流の古風はもとより、宗因の談林調も、天和期における漢文体もない。(p101)

 あるいは、奥の細道の「一家に遊女もねたり萩と月」についても、同行の曽良の日記に遊女も、この発句も記されていないので虚構ではないかという説があるという。それについて:
もし作りごとだとすれば、事実らしく見せかける為、芭蕉も細工に念を入れたものだ。もっとも芭蕉にしてみればそうした作為も、句境とする情景に真実感をそえる為の風狂と、見なしていたかもしれぬ。彼にとって現実の出来事は、所詮仮象にすぎなく、風雅の誠ばかりが真実だったはずだから…。(p318)

 奥の細道日光での「あらたふと青葉若葉の日の光」にいついて。これは前日、室の八島の咲くや姫に対して作られた発句「あなたふと木の下暗も日の光」に手を加えて出来たもので、日光に参ったときの句として、奥の細道に書き入れたとする。そして:
神仏に対しても同様に差別なく、純粋な信仰をささげ、一貫して敬虔な態度をとっている。四海を治めて泰平をもたらした権現の徳を讃え、その功に感謝するのも、神をうやまい尊ぶ祈念からである。芭蕉としては、自作品の出来栄えだけが、関心のまとであったはずだ。p264。本書では触れていないが、この句に対しては徳川体制に対する賛美だという見方がある。ここでは、それに対する著者の考えが示されている。

 芭蕉の先祖は池大納言頼盛の郎從、弥平兵衛平宗清
(*)だとされている。頼盛の母、池の禅尼は平治の乱後捕らえられた頼朝を助けた。それ故、芭蕉は義経には特別の感慨を持っていただろうという。(p295)この後に続く数ページの衣川高舘の記述は、読み手をあたかも芭蕉になったような気分にさせる。

 芭蕉の門人の中では凡兆を高く評価する。『猿蓑』では芭蕉の40句より多い41句が採用されている。凡兆を「
…洗練された語感を駆使して、清新な俳境をうたいあげている。風景の機微をとらえて、巧に描写する鬼才にいたっては、芭蕉をしのぐほどのものがある。主観をまじえずに自然に対処している彼の客観性が、詩人としての彼の感覚を鋭く冴えわたらせている。」p340.

『猿蓑』の中の凡兆の句
「すずしさや朝草門に荷(にな)ひ込む」「百舌鳥なくや入日さし込む女(め)松原」「はなちるや伽藍の枢(くるる)おとし行く」(くるるとは穴にはめ込む扉の回転軸)


(*)
先日NHKの大河ドラマ『平清盛』を見ていたら、平家一門に宗清とい聞き慣れない人物が出てきた。調べてみたら、平頼盛の郎党であった。ということは、芭蕉の先祖ということになる。(2012-11-07)

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書名 青春の終焉 著者 三浦雅史 No
2012-18
発行所 講談社学術文庫 発行年 2012年4月10日 読了年月日 2012-05-02 記入年月日 2012-05-03

「青春」をキーワードに近代日本文学を論じた大著。文庫本で500ページを超す。これも書店の店頭で目について手にした。

 国内外の古今に渡る多数の著作を縦横に引用駆使した目もくらむような博識と、テキストへの深い洞察に圧倒されるが、随所にちりばめられた歯切れの良いフレーズにひかれて読み進めるうちに引き込まれてしまった。

 本書の腰巻きにはこうある:
かつて人生の核心は青春にほかならなかった!三島由紀夫、夏目漱石、小林秀雄、ドストエフスキー、太宰治から滝沢馬琴に遡り、村上龍、村上春樹へ

 滝沢馬琴から始まった青春の文学は1960年代を以て終焉を迎えたと著者は言う。
 その理由を著者は次のように述べる(p14):
 
青春がその輝きを失ったのは、60年代から70年代にかけて資本主義の内実が違ってきてしまったからである。階級がもはや人格と結びつかなくなってしまったからである。いや、それ以上に重要なのは、長く抑圧されてきた女性が、その解放の端緒をつかみはじめたからである。

 実は本書を読み出す数日前に句会があって、その中に「遠き日の決起の叫び五月来る」という句があって、私はその句に1票を投じた。この句の作者は私より9歳上。60年代を以て青春は輝きを失ったという言い方に私と同じように同感するだろう。

 巻末の丸谷才一の解説によると、これは小林秀雄論であるという。そういう点から言えば本書のもう一つの特徴は明治以降はまったく無視されてきた馬琴の再評価であろう。

 その他目についたのは、マルクスへの言及の多さ。マルクスが近代の思想与えた影響の大きさを知る。口承文芸の重視、笑いの重視もまた本書の特徴である。

 以下本書からの断片的ピックアップ:
 
青春も青年も英語ではユースだが、そのユースに青年という訳語が与えられたのは、一八八〇年、東京基督教青年会が発足した段階においてである。はじめヤング・メンの訳語として登場した青年という言葉は、一八八五年、徳富蘇峰が『第十九世紀日本ノ青年及其教育』を上梓するおよんで燎原の火のように日本全国を嘗めつくした。その二十年後に刊行された風葉の小説は、青年も青春もすでに日本語として広く容認されたことを物語っている。
 
風葉の『青春』につづき、藤村の『春』が、漱石の『三四郎』が、鴎外の『青年』が刊行される。日本の二十世紀初頭は青春文学の花盛りの様相を呈した。一九一〇年に創刊された『白樺』は、青春の生き方を模索する雑誌にほかならなかった。p10.

 
小林秀雄が西行に惹かれたのは、この歌人が繰り返し自己言及のパラドックスを歌ったからにほかならない。p60.

 ……
構造主義は、野蛮人が野蛮人でないこと、彼らは彼らで複雑微妙な文明を形成していることを証明することによって、世界史というイデオロギーが終わったことを告げたのである。それはまた、ヨーロッパが打ちだした主体的人間というものがひとつの幻想にほかならなかったという指摘でもあった。p99.

 
青春とは非日常が日常となる時空、祝祭の時空の別名である。青年が、また青春が、あたかも近代の伝染病のように世界を覆ったとき、世界はそれをそのようなものとして受け容れた。p125

 
戦後日本の青春の内実を決定したのは小林秀雄と太宰治である。あるいは象徴的に、吉本隆明とともに青春は終わったといっていいかもしれない。p133.

 
芥川龍之介、太宰治、三島由紀夫という一つの系列がこうしてくっきりと浮かび上がってくる。いずれも幼年時に母子関係に複雑な問題があり、生き急ぎ、死に急いでいる。p166.これに続けて、夏目漱石も例外ではなく『我輩は猫である』が自殺論であることはいうまでもない。小林秀雄もこの系譜にくわえてもいい、小林は二度自殺を試みたと告白しているという。

 
人は、最初に、三島由紀夫の瑠璃のような文体に驚いて見惚れ、やがてその空疎に呆れ、そして最後に、空疎の背後深く隠された悲哀に気づいて胸を衝かれるのである。人間とその社会への一途な悪意の底に潜む、その不思議な悲哀に気づいて。

 
むろん、太宰治にも悲哀がなかったわけではない。いや、むしろその悲哀はさらにいっそう深かっただろう。だが、同時に、この津軽の作家には笑いもあったのである。そしてその笑いこそ、太宰治の最大の特徴にほかならなかった。p172. 

 
太宰は落語家である。p173.

 
青春というイデオロギーは、男尊女卑というイデオロギーと矛盾することなく共存していた。青春も青年も男の専有物としてあったことに誰も気づかないほど、それは自然だったのである。透谷も独歩も恋愛至上主義者といっていいほどだったが、女性は対象であっても主体ではなかった。p196.

 
太宰治はしばしば含羞の人と形容されたが、含羞は恥を語ることによって醸しだされるわけではない。文体から漂うのである。文語への恥じらいが口語を誘い、その口語を押し退けてでも強く語らねばならぬことがあって、再び文語が顔を出す。強弱緩急こそ語りの秘訣だろうが、太宰治はこの語りの技巧を、口語と文語、二つの次元を巧みに往還することによって、文章の中に取り入れたのである。p229

 この後いわゆる言文一致論などためにする論議しすぎないと断じる。

 郷愁も近代特有の、しかも青年特有の感情であるとする。万葉、古今、新古今以降にもたくさん詠まれた故郷を慕う歌での故郷は、都のことであり、また特定の家などを指していた。近代の郷愁は、ある地域全体への思いであるとする。そして以下のように述べる:
 
先蹤としての芭蕉や蕪村が想定されるべきかもしれないが、十九世紀初頭、馬琴が郷愁にひとつの型を与えたと考えることができる。ほとんど通俗的といっていいほどの型を与えた。そしてそれは、旅する青年、試練に立ち向かう青年の姿と切り離しがたく結びつき、一般に広く流布していったのである。p295.

 『八犬伝』には「故郷の空」「旅愁」「故郷の廃家」「故郷」といった明治唱歌の世界がそのままあるという。そしてこれら唱歌を作った歌人は幕末の歌人、香川景樹の影響を受けていたに違いないという。坪内逍遙が馬琴を否定したように、正岡子規は香川景樹を切ったと本書には述べられている。

 
郷愁に浸るとは、時間というものの不思議なありように圧倒されるということである。あるいは圧倒されるための手段が、郷愁なのだ。p322.

 
一九六〇年代、青春と教養はその最後の炎を吹き上げ、燃え尽きる。そして、ほぼ一九七〇年代に入ると同時に、「青年」は「若者」という言葉に、「教養」は「知」という言葉に、ほとんど一挙に置き換えられてゆくのだ。
 青春が青年とついになって消えて行くのは当然である。青春の終焉は教養の終焉、教養という幻想の終焉でもあった
。p371.
 
教養は清く正しく美しい青春の必然なのだ。p382.

 マ
ルクスはドストエフスキーの分身、もっとも重要な分身にほかならない。
 ドストエフスキーは、資本主義社会を分析するその鋭い刃を、自分自身に、また自分自身の党派に向けたマルクスである。その傲慢、その悪意、その策謀を、自分自身に向けたマルクスである。急進的かつ根源的であることにおいて、マルクスとドストエフスキーは、まさにひとつの対にほかならなかった。
 青春の終焉とは、マルクスとドストエフスキーが対になっているこのような構図そのものの終焉である。
p470.

 
根源的であろうとすれば、急進的にならざるをえない。あるいはさらに踏みこんで、根源的であるということはそのまま急進的であるということだ、といってもいい。中略
 仁齊も、徂徠も根源的であろうとして急進的だったといっていい。契沖、真淵、宣長も、そうだ。幽谷、東湖も、そうだ。彼ら自身が急進的であるなしにかかわらず、それにつづくものは急進的にならざるをえなかった。
p479.

 
青春の規範とは根源的かつ急進的に生きることにほかならなかった。近代の過程で、この青春の規範は、表現行為のほとんど全領域を席巻したのである。革命の挫折も、恋愛の挫折も、その裏面にほかならなかった。
 大江健三郎はおそらく青春に殉じた最後の小説家である。
p478.

大江については『万延元年のフットボール』が詳しく論じられる。その中の登場人物を介して村上龍と村上春樹が論じられる。
 
たとえば、行動する急進派、鷹四の延長上に、村上龍の小説のほとんどの主人公を位置づけることができる。また、傍観する知識人、蜜三郎の延長線上に、村上春樹の小説のほとんどの主人公を位置づけることができる。さらにいえば、鷹四と蜜三郎の物語を浮かべる森と窪地の神話の延長上に、中上健次の小説の真の主人公ともいうべき路地の神話を位置づけることさえできるであろう。p497.

 主人公が蜜三郎の延長線上にあるとすれば、村上春樹は青春の倫理の側にあるとしたうえで、次のように述べる:
ある意味ではそうだ。しかし、村上春樹の主人公たちの青春は、つねに、すでに終わってしまっている。あらかじめ失われているのである。p501.

 
馬琴は十九世紀を通じて多くの人々に影響を与えたが、二十世紀において馬琴と同様に大きい影響を与えたのは誰か、最後にふれておきたいのである。それは必ずしも夏目漱石ではなかった。吉川英治でも司馬遼太郎でもなかった。
 二十世紀において馬琴に匹敵するほどの影響を日本社会に与えたのは、たぶん手塚治虫である。『鉄腕アトム』であり、『リボンの騎士』であり、『火の鳥』である。
 いうまでもなく、鉄腕アトムは、『ブリキの太鼓』のオスカルと同じように、決して成長しない。そういう意味では徹底した教養小説批判であるといっていい。手塚治虫は青春の終焉を先取りしていたのである。『南総里見八犬伝』は青春の物語だったが、『鉄腕アトム』は少年の物語だった。手塚治虫は青年でさえも少年として描いたのである。
p522.
 ついでに丸谷才一の解説から:
 
そしてたしかマクス・ウェーバーは『職業としての学問』といふ有名な講演で、学問が必要とするものは体系的な研究作業、偶然的な思ひつき、情熱的な問ひかけの三つだと言ってゐた。これはたしかに信用できて、一方わたしの体験から言はせてもらふと、エセイが必要とするものは、藝としての文体、展開のための構成、効果的な演出の三つだろう。そして、後者三つは小林はたしかに不自由しなかったけれど、前者三つのうち偶然的な思ひつき以外の二つは持ち合せてゐない。p536
 丸谷に言わせれば、吉田健一は対照的にこれらを有しているという。
 
 本書の原本の出版は2001年である。

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書名 イチョウ精子発見 著者 生沼忠夫 No
2012-19
発行所 私家版 発行年 2012年4月20日 読了年月日 2012-05-02 記入年月日 2012-05-03

 同期入社の生沼さんから送られてきた。前著『メンデルの法則再発見』に続く、科学史評論。副題は「平瀬作五郎の栄光と受難」となっている。

 前書同様、100年以上前のドイツ語、フランス語の原典を初めとする多数の資料を読み解き、著した労作。A4版で61ページ。写真や図も多く挿入され、巻末にはイチョウ精子発見を報じた平野作五郎のオリジナル文献のコピー、100を超す引用文献リストが載る。

 私は若いころ生物学には興味がなかったので、精子と精細胞の区別も認識していなかった。一般の花もおしべの精子がめしべの卵子に到達して受精するものと思っていた。一般の花では精子ではなく、精細胞が花粉管を通って移動し受精する。この際精細胞は自身では運動できない。運動できる精細胞が精子と呼ばれる。そして、イチョウは精子が自ら動いて卵細胞に達する。このイチョウの精子を発見したのが平瀬作五郎である。
 以上、基本的なことを先ず本書で学んだ。本書にはインターネットからの引用もある。その一つが、イチョウの受精を扱った「種子の中の海」という35分間の科学映画で、ネット上で無料で見られる。本書を理解する上で大変役立った。
 平瀬がイチョウ精子を確認し、学会に発表したのは、1896年である。本書では発見とその発表までの経緯が詳しく述べられる。ほぼ100年後平瀬の実験を追試した研究者は、3年かかってやっと精子を見ることが出来たという。バケツに何杯ものギンナンを採ってきて切って見たが見つからなかった。精子が見られるのは1年のうち1日、24時間から36時間でしかないという。

 生沼さんが特にこだわったのは、ドイツの植物学者ホフマイスターによる松柏類に精子があるという予言が、平瀬の研究に影響したかどうかである。この予言は平瀬の研究に先立つほぼ半世紀前になされ、それに従って、やはりドイツの植物学者ストラスブルガーがイチョウ受精の研究を行い、さらにその後平瀬の研究が続いたというストーリーが出来上がっていた。生沼さんはこれに違和感を覚え、1851年のホフマイスターの原文にあたり、その文体の考察や、当時の学問水準などから、明確な予言あるいは仮説とは言えないと判断する。従って、平瀬の研究動機にこの予言は大きな意味を持っていないと結論する。ここら辺りが本書の読みどころ。

 平瀬は元々画工として帝国大学植物学研究室に採用された。当時まだ写真がそれほど一般的ではなかったので、観察結果を正確に写す画工が必要だった。分類学の大家となった牧野富三郎も同じ研究室にいた。二人とも正規の学歴を有しない助手の立場であった。

 平瀬はイチョウ精子発見の翌1897年、大学を辞め彦根中学の教諭になる。自主退職か追放か、両方の説があるようだ。それに関しては平瀬自身も、当時の植物学教室の松村教授もはっきりとした資料を残していない。平瀬はその後10年間ほど研究からは遠ざかる。1912年、明治45年、平瀬と池野成一郎は第二回学士院恩賜賞を受賞する。池野は平瀬と同じ研究室の学生で、平瀬に続きソテツの精子を発見した。池野は平瀬の論文の外国雑誌への投稿の際、翻訳も行ったと著者は推測する。二人は厚い友情で結ばれていた。

 イチョウ精子発見のことは封印されていて、教科書では触れられてこなかったという。その理由として、文部省としては一技術職にすぎなかった平瀬が世界的業績を上げたことは、大学教育推進の上から歓迎すべき事ではないと考え、それが、教科書作成側にも暗黙に了解されていたのであろうと、著者は推測する。

 平瀬の封印と共に著者は、最近の教科書で進化を取り上げないことを厳しく批判する。
 イチョウ精子発見100年記念国際フォーラムが1996年に開かれ、それがきっかけで本書を執筆したと著者は言う。

 

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書名 日光街道を歩く 著者 大高利一郎 No
2012-20
発行所 創英社・三省堂 発行年 2009年4月 読了年月日 2012-05-25 記入年月日 2012-06-07

 5月25日、日光街道の終点、東照宮下の神橋まで歩き終えた。本書に従って事前に計画を立て、見所を決め、歩いているときも時々立ち止まりサイドバッグから取り出して道筋を確認し、日本橋から日光までの142キロ余りを7日間で歩いた。

 文庫本の2倍の版、良質の紙を使った250ページを超す本書は、主要な見所の説明も詳しく、写真入りで、地図もふんだんに掲載され、道中の目印となるものの記載も詳しい。ただ、持ち歩くには大きすぎ、重すぎる。その点、『中山道を歩く』の方がよかった。こちらは文庫本版、紙質も上等ではなく、しかも上下2巻に別れていて、軽くて、ポケットにも入る。旧蹟の説明も『中山道を歩く』の方が深みがある。

『日光街道を歩く』の方はウオーキング目的に独自に作った地図を載せてある。私は道中ではそれに従ってビューポイントを訪れ、また国道脇に細々と残る旧街道を確認しながら歩いた。本書の地図は模式化されたもので、小さな道が省略されていたり、あるいは縮尺が地図ごとによってまちまちだったりして、目的のポイントを見つけられなかったり、街道から外れた道を進んでしまったことがよくあった。『中山道を歩く』の地図は国土地理院の5万分の1の地図上に、街道が示され、見所がポイントされているので、読み取るのにはこちらの方がよかった。本書の発行は2009年4月だが、わずか3年後でも、本書が標識とした道筋の建物が、別のものに変わっているところが多かった。宇都宮宿で奥州街道と日光街道とが別れる追分の角には郵便局があると本書にはあったが、私が歩いたときにはその建物は別の施設になっていた。これなど、典型例だが、国道4号線沿いでは目印としてあげられた店舗が、なくなっていたり、別のものに変わっていたり、特に盛衰が激しかった。


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書名 細雪 上・中・下 著者 谷崎潤一郎 No
2012-21
発行所 新潮文庫 発行年 昭和30年 読了年月日 2012-05-31 記入年月日 2012-06-07

 たまたま、田園都市線に乗る前に飛び込んだ本屋の店先で目について手にした。誰かが、戦時中から敗戦直後の混乱時期にあれほどの退屈なものを書いたということがすごい、と『細雪』のことを評していたことも、記憶に残っていた。さらに『青春の終焉』では触れられることのなかった谷崎の小説を読んでみたいという気持ちがどこかにあったのだ。
 全編で1100ページを超す大作。人生いかに生きるべきか、あるいは世の中はいかにあるべきかといった、近代日本文学の主流テーマなどどこ吹く風といった、風俗絵巻物語り。退屈ではなかった。葦屋の上流家庭の4姉妹を通して見た私が生まれたころの世相、社会風俗が、平易ではあるが息の長い文章で余すことなく展開される。本書はおそらく、今後もずっと、どんな資料よりも、太平洋戦争に突入する前の昭和の日本の世相、風俗、雰囲気を知る上で貴重なものとなるだろう。

 舞台は70年ほど前の阪神地区だが、各巻末には詳細な注がつく。芝居とか、着物に関する用語や固有名詞は別として、その他の注は参照しなくても読むのに支障はなかった。ただ、注を読んでみると面白い。今たまたま開いた上巻の注のページには、職業婦人、舶来品、郵便貯金といった言葉が解説されている。職業婦人については、「職業を持つのは、貧乏なためにやむを得ずする恥かしい事と考えられていた。」と解説される。また、郵便貯金に関しては明治8年創設、昭和13年には日中戦争遂行・国債消化のために国が貯蓄を奨励したために、その残高が急増したと解説される。

 鶴子、幸子、雪子、妙子の4姉妹は船場の裕福な商家に生まれた。父の代には羽振りのよかった蒔岡家も、段々落ちぶれて、跡を継いだ鶴子の夫は、同業者に手放してしまう。とはいえ、姉妹は親の残した遺産で裕福な生活をしている。鶴子と幸子はそれぞれ婿を迎え、子供もいる。女中も数人使っている。高価な着物をまとい芝居見物、高級レストランでの食事、毎年の京都の花見など、一般大衆とはかけ離れた生活を送る。

 物語の中心は雪子と妙子の結婚話しで、それが幸子の目を通して語られる。未婚の二人は、本家と称する鶴子の世帯が好きになれず、葦屋の幸子の家に居住する。しとやかで、控えめな典型的日本女性の雪子は何度も見合いをするがなかなかまとまらないまま30歳になる。末妹の妙子は行動的で、幼なじみの商家のぼんぼんと駆け落ちまがいのことまでする。上流家庭の見合いであるから、お互いの身元調査は詳細を究める。雪子の見合いが壊れる原因には、妙子の素行が影響しているのではないかと、周りは心配する。

 関西を襲った大雨の洪水で、浸水家屋に閉じ込められた妙子は、出入りの写真屋の決死の行動で救い出される。それを機にその男に好意を抱く。だが、その写真屋は病気で亡くなる。その後、かつて駆け落ちをした男とよりを戻したように思える妙子であったが、実はバーテンダーの男とつきあっていて、身ごもる。ちょうど雪子に格好の見合い話が持ち上がっていたときだったので、幸子は世間体を思い、妙子を完全に隔離して、その事実が漏れないようにする。しかし、子供は死産だった。そして、雪子の見合い話はまとまる。子爵の息子という建築家が相手だ。妙子もバーテンダーの三好との結婚を認められる。

 ただ、『細雪』の終わり方は無気味だ。結婚の準備が整い、式場となる東京へ向かう雪子は数日前から腹具合がよくなかった。そして「
……下痢はとうとうその日も止まらず、汽車に乗ってからもまだ続いていた。」で終わる。王朝物語にも比せられるこの小説にふさわしくないこの一文に、谷崎は何を込めたかったのだろうか。8ヶ月後に迫った太平洋戦争による雪子の将来の暗示であろうか。

 『細雪』が上中下の3巻に別れているのは、製本上の都合からではない。それぞれ上梓時期が違うためだ。上巻は昭和19年7月私家版として、中巻は昭和22年2月、下巻は昭和23年12月、それぞれ単行本として出版された。上巻は、陸軍の圧力により、中央公論への連載が途中で中止された。

 以下本書から:
中巻142p 東京に転勤した鶴子の所へやってきた幸子の感想
 
……東京の魅力は何処にあるかと云えば、そのお城の松を中心にした丸の内一帯、江戸時代の築城の規模がそのまま壮麗なビル街を前景の裡に抱え込んでいる雄大な眺め、見附やお堀端の翠色、等々に尽きる。まこと(ウ冠に是という漢字)に、こればかりは京都にも大阪にもないもので、幾度見ても飽きないけれども、外にそんなに惹き着けられるものはないと云ってよい。(中略)…渋谷駅から道玄坂に至る両側には、相当な店舗が並んでいて、繁華な一区域を形作っているのであるが、それでいて、何処かしらしっとりとした潤いに欠けてい、道行く人の顔つき一つでも変に冷たく白ッちゃけているように見えるのは何故であろうか。
 と述べ、幸子には生粋の大阪ッ子である姉がこの渋谷に住んでいることが信じられないと書く。谷崎は関東大震災を機に、関西に移った。これは、谷崎の東京観であろう。

 中巻190p 東武電車から富士山が見えることが書かれている。実は、日光街道歩きで東武電車を何回か利用したが、越谷近辺では富士山が実によく見えることに驚いた。現在は高架になっているので、ビル群に邪魔されることなく大きく見えるが、昭和14,5年頃すでに高架になっていたのか、それとも、高い建物がなかったのでよく見えたのかどうか。

 中巻302pから 江戸の老舗与兵衛で修行した親爺が握る生田の寿司屋のこと。この例に見られるように、谷崎の筆は実に丁寧に細部に及んでいる。親爺は瀬戸内でとれるものなら何でも寿司にすると云い、以下のようなネタを列挙する。
彼の握るものは、鱧、河豚、赤魚、つばす、牡蠣、生うに、比目魚の縁側、赤貝の腸(わた)、鯨の赤身、等々を始め、椎茸、松茸、筍、柿などに迄及んだが、鮪は虐待して余り用いず、小鰭、はしら、青柳、玉子焼等は全く店頭に影を見せなかった。

 下巻34p 蛍狩り 雪子の見合いのため、幸子たちが大垣の在まで出かけた際、蛍狩りをする。
 
……此方へいらっしゃいと云われて、ずっと川の縁の叢の中へ這入り込んで見ると、ちょうどあたりが僅かに残る明るさから刻々と墨一色の暗さに移る微妙な時に、両岸の叢から蛍がすいすいと、すすきと同じような低い弧を描きつつ真ん中の川に向かって飛ぶのが見えた。……見渡す限り、ひとすじの川の縁に沿うて、何処迄も何処迄も、果てしなく両岸から飛び交わすのが見えた。……それが今迄見なかったのは、草が丈高く伸びていたのと、その間から飛び立つ蛍が、上の方へ舞い上がらずに、水を慕って低く揺曳するせいであった。……が、真の闇になる寸刻前、落ち凹んだ川面から濃い暗黒が這い上って来つつありながら、まだもやもやと近くの草の揺れ動くけはいが視覚に感じられる時に、遠く、遠く、川のつづく限り、幾筋とない線を引いて両側から入り乱れつつ点滅していた、幽鬼めいた蛍の光は、今も夢の中まで尾を曳いているようで、眼をつぶってもありありと見える。(中略)なるほど蛍狩りと云うものは、お花見のような絵画的なものではなくて、瞑想的な、……とでも云ったらよいであろうか。それでいてお伽噺の世界じみた、子供っぽいところもあるが。……あの世界は絵にするよりは音楽にするべきものかも知れない。お琴かピアノかに、あの感じを作曲したものがあってもよいが。……
(文中の……は最初のもの以外はすべて本書にあるもの) 


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書名 荷風随筆集(上) 著者 永井荷風  野口冨士男編 No
2012-22
発行所 岩波文庫 発行年 1986年 読了年月日 2012-06-13 記入年月日 2012-06-16

 
アフィニス句会の最高齢者、87歳の盛作さんが、スカイツリーを久保田万太郎や永井荷風が見たらどう思うだろうかと疑問を呈した。多分万太郎や荷風は快く思わないだろう、というのが盛作さんの考えのようだ。盛作さんは若いころ荷風をのめり込むように読んだという。しばらくぶりに荷風を読んでみたいと思った。

 本書には「日和下駄」他16編の随筆が収められている。「日和下駄」は大正4年の作品だが、古くは明治末年から、もっとも新しいのは亡くなる(昭和34年)1月前の「向島」までと、広いスパンにわたる作品が収められている。これは編集にあたった野口冨士男の考えに基づくものだろう。

 全編東京漫歩記で、そこを貫くのは江戸文化への強烈な憧憬。あるいは江戸の風物を壊してしまった明治以降の東京、ひいては日本への辛辣な文明批判。「日和下駄」からほぼ100年、その間に震災と戦災があったから、荷風の歩いた東京はまず、残っていないだろうが、それでも古地図を手に跡をたどってみたくなる。文章がうまい。

 「
人並はずれて丈が高い上にわたしはいつも日和下駄をはき蝙蝠傘を持って歩く」で「日和下駄」は始まる。東京の天気は信用できないからだという。そして、変わりやすいのは男心と秋の空やお上の御政事ばかりではない、と皮肉を続ける(p9)。
 東京散歩の意味を次のように記す:
 
今日東京市中の散歩は私の身に取っては生まれてから今日に至る過去の生涯に対する追憶の道を辿るに外ならない。これに加うるに日々昔ながらの名所古蹟を破却して行く時勢の変遷は市中の散歩に無情悲哀の寂しい詩趣を帯びさせる。およそ近世の文学に現れた荒廃の詩情を味おうとしたら埃及伊太利に赴かずとも現在の東京を歩むほど無残にも傷ましい思をさせる処はあるまい(p11)。

 荷風は東京散歩に江戸絵図がなくてはならぬものであるという。何万分の1といった正確な測量地図は煩雑であるのに反して、江戸絵図は直感的で、印象的で平易に要領がつかめるという。現在の政治法律教育制度は測量地図のようであって、裁判も現代の地図の如く煩雑であるが、大岡越前守の眼力は江戸の絵地図の如くであるという(p30)。

 東京のスラムについては、ロンドンやニューヨークのスラムと比較して同じ悲惨さの中にも、どことなく静寂の気が潜んでいるという。そして、スラムの人々が、江戸の専制時代から引き継いできた裏淋しい諦めの精神が、時代の教育その他のために消滅し、いたずらに覚醒と反抗の空気に触れたなら、その時にこそ、真の下層生活が始まると信じる、と述べている(p36)。ここには社会主義思想の否定が見られる。

 電信柱を建てるために樹木を切り倒し、昔からの名所や由緒ある老樹にもかかわらず、むやみに赤煉瓦の高い建物を作る現在の風潮を厳しく批判し、「
この暴挙あるがために始めて日本は二十世紀の強国になったというならば、外観上の強国たらんがために日本はその尊き内容を全く犠牲にしてしまったものである。」と述べる(p39~)。

p41には以下のように述べる:
 
私は適度の距離から寺の門を見る眺望と共にまた近寄って扉の開かれた寺の門をそのままの額縁にして境内を窺い、あるいはまた進み入って境内よりその門外を顧る光景に一段の画趣を覚える。
 私も全く同感だ。街道歩きで寺院に立ち寄ることは多いが、必ず荷風が上に述べたポイントから光景をデジカメにおさめている。

 水と川に対する執着は尋常ではない。本書の後半のエッセイの多くが隅田川と江東に広がる掘り割り、荒川放水路、江戸川辺りの散策を扱う。

江戸城の壕はけだし水の美の冠たるもの。」と述べた後(p54)、江戸の名所とされた鏡ヶ池、姥ヶ池、溜池もなくなり、不忍池も将来同様の運命になるのではと心配する。そして「老樹鬱蒼として生茂る山王の勝地は、その翠緑を反映せしむべき麓の溜池あって初めて完全なる山水の妙趣を示すのである。もし上野の山より不忍池の水を奪ってしまったなら、それはあたかも両腕をもぎ取られた人形に等しいものとなるであろう」と続ける。

 水道橋から牛込揚場辺りまでの神田川の岸からは富士山がよく見え、それは江戸名所絵図と変わらないと述べさらに次のように記す:
東京の東京らしさは富士を望み得る所にある。われらは徒に議員選挙に奔走する事を以てのみ国民の義務とは思わない。われらの意味する愛国主義は、郷土の美を永遠に保護し、国語の純化洗練に力(つと)むる事を以て第一の義務なりと考うるのである。(p101)。
 汚い言葉で声高に「愛国」を叫ぶ昨今の一部の人々に聞かせたい。

 この他にも付箋を付け、マーカーで赤線を引いた所はたくさんある。


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書名 すみだ川・新橋夜話 著者 永井荷風 No
2012-23
発行所 岩波文庫 発行年 1989年 読了年月日 2012-06-20 記入年月日 2012-06-21

 
表題の他「深川の唄」をおさめる小説集。いずれも東京の下町が舞台である。

「すみだ川」
は主人公長吉の2歳下の幼なじみで、芸者になってしまったお糸への一途な恋心がテーマ。学校をサボり早朝からお糸のいる芸者屋を探し回り、やっと探し当てるが、玄関を入ることもせず、お糸が出てきはしないかと空しく待ち、午後にも再度訪れ何事も出来ずに帰る長吉。常磐津の師匠として女手一つで長吉を育てた母は、長吉に教育を受けさせ、立派な男に仕立てたい。しかし、長吉は学校の雰囲気にはなじめない。お糸への思いを募らせ、役者か芸人になれば芸者を招くことも容易だろうと思い、母に打ち明ける。若いころの放蕩のため勘当され、今は俳諧師である伯父(母の兄)も、長吉が芸事に優れていることは認めながら、学校を続けることを勧める。そんな中、深川方面で出水があり、それを見に行った長吉は腸チフスにかかる。長吉の部屋で、長吉の思いを綴ったノートを見た伯父は、長吉の願いをむげに否定したことに心を痛めるところで終わる。さわやかな読後感が残る。

 島倉千代子に「すみだ川」という歌がある。「銀杏がえしに黒嬬子かけて、泣いて別れたすみだ川、思い出します観音さまの秋の日暮れの鐘の声」の後に台詞がはいる。「ああ、そうだったわねぇ。あなたが二十あたしが十七の時よ、いつも清元のお稽古から帰ってくると、あなたは竹屋の渡し場で待ってくれていたわねぇ・・・」。この歌は芸者になった女の恋心を歌っているが、おそらく荷風のこの小説を下敷きにしているのだろう。なお、作詞は佐藤惣之助だから戦前の歌で、元は東海林太郎の歌であった。

「銀杏がえしに黒嬬子かけて」といわれても私にはまったくイメージがわかない。銀杏がえしも黒嬬子もどんなものか知らないからだ。そんな私には荷風の世界を本当に味わいつくすことなど出来ないだろう。ただ、たくさん出てくる隅田沿いの両国橋、蔵前、仲店、待乳山などの地名については、日光街道歩きの折り、あるいは、昨年の杉並落研の広小路から旧吉原界隈までの散策、つい先頃お台場から浅草橋まで隅田川遊覧などのために、かなりの所はなじみを感じることが出来た。

 荷風の描く隅田川。今戸橋辺りからの冬景色(p69):
河の面は悲しく灰色に光っていて、冬の日の終りを急がす水蒸気は対岸の堤をおぼろに霞めている。荷船の帆の間をば鴎が幾羽となく飛び交う。長吉はどんどん流れて行く河水をば何がなしに悲しいものだと思った。川向の堤の上には一ッ二ッ灯がつき出した。枯れた樹木、乾いた石垣、汚れた瓦屋根、目に入るものは尽く褪せた寒い色をしているので……
 春4月、今戸橋から(p76):
晴れ渡った空の下に、流れる水の輝き、堤の青草、その上につづく桜の花。種々の旗が閃く大学の艇庫、その辺りから起る人々の叫び声、鉄砲の響き。渡船から上下りする花見の人の混雑。あたり一面の光景は疲れた母親の眼には余りに色彩が強烈すぎるほどであった。

「すみだ川」は明治42年、1909年の作である。今戸橋は山谷堀が隅田川に注ぐ最下流にあった。吉原に通う猪牙船の水路としてよく利用された山谷堀は今では暗渠になり、橋はない。今戸橋跡からは隅田川をはさんで真向かいに今はスカイツリーが建つ。
 アフィニス句会の盛作さんの句は「春宵のスカイツリーやすみだ川」であった。若いころ荷風にのめり込んだという盛作さんの句は、もちろん「すみだ川」を下敷きにしている。

「新橋夜話」は12編の短編を集める。いずれも芸者の世界を描く。私にはまったく縁のない世界。登場人物の男性には作者自身を思わせるものが多い。女性は今から見れば皆若いのに驚く。経験を積んで男の扱いに慣れた年増芸者でも、明かされる年齢はせいぜい25か6。

「見果てぬ夢」という一編で荷風は以下のように述べる(p252):
彼は遊郭をば美しい詩の世界だと感じている。遊郭のみではない。世のあらゆる罪悪、人間のあらゆる弱点も美しい詩であるとしか思う事が出来ない。詩の生命は悪であるか悪の生命は詩であるかと疑う事さえ度々であった。貞操の妻と慈愛の親が眠っている時を窺って、不正の恋に囚われた若い人たちが悔恨の涙に暮れながらも拒みがたい力にひかれて暗黒の夜を走り彼処には人工の昼間が造り出されてある特別の世界に彷徨い、粉飾と虚偽との間に瞬時の欺かれたる夢に酔う。詩でなくて何であろう。
 この後には:
正義の宮殿にも往々にして鳥や鼠の糞が落ちているのと同じく、悪徳の谷底には美しい人情の花と香しい涙の果実がかえって沢山に摘み集められる……。

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書名 永井荷風随筆集(下) 著者 永井荷風 No
2012-24
発行所 岩波文庫 発行年 1986年 読了年月日 2012-06-29 記入年月日 2012-06-29

「妾宅」他18編をおさめる。上巻よりも荷風の生き方が色濃く反映されている。

どうしても心から満足して世間一般の趨勢に伴って行くことが出来ないと知ったその日から、彼はとある堀割のほとりなる妾宅にのみ、一人倦みがちなる空想の日を送る事が多くなった。」と書き出す「妾宅」(明治45年)がその典型だ。「妾宅」という題で堂々と随筆を世に問えるのは荷風以外には考えられない。近代日本への反感と江戸文化へのあこがれがやはり中心になる。荷風がすごいのは、自分の生活が思想と一致していること。文化勲章をもらいながら、浅草のストリップガールたちと戯れ、最後は誰にも看取られることなく一人で死んでいった(4月30日は荷風忌として俳句の季語となっている)。そうした生き方が熱烈な荷風ファンを生むのだろう。

 荷風は云う。孔子、釈迦、キリストのような宗教・哲学もギリシャのような芸術生まなかった日本が世界に誇るものは「
貧乏臭い間の抜けた生活のちょっとした処に可笑味面白味を見出して戯れ遊ぶ俳句、川柳、端唄、小咄の如き種類の文学より外には求めても求められまい」と述べ、これらを生み出したのはいずれも蟄居の「江戸人」であるとする(p29~)。19p以下には芸者上がりのお妾さんの夕化粧が1ページ以上にわたり詳細に述べられる。そして、「妾宅」の主人公はそれを生きてもの云う浮世絵として楽しむのだ。

「矢はずぐさ」という作品は、八重という女性との結婚生活を扱ったものだ。正式な結婚までした相手であったが、芸者上がりの八重はやがて荷風のもとを去り、もとの芸者の世界に戻る。はっきりした理由は書かれていない。この作品に以下のような記述がある:
我は遂に棲むべき家着るべき衣服食ふべき料理までを芸術の中に数へすば止まざらんとす。進んで我が生涯をも一箇の製作品として取扱はん事を欲す。然らざればわが心遂にまことの満足を感ずる事能はざるに至れり。我が生涯を芸術品として見んとする時妻はその最も大切なる製作の一要件なるべし。(p133)。

「小説作法」「正宗谷崎氏の批評に答う」といった文学論もある。「正宗谷崎氏の批評に答う」(昭和7年)には以下のように述べる:
わたくしはふと江戸の戯作者また浮世絵師等が幕末国難の時代にあっても泰平の時と変わりなく悠々然として淫猥な人情本や春画をつくっていた事を甚痛快に感じて、ここに専花柳界小説に筆をつける事を思立った。(p202)
 また以下のような記述もある:……
わたくしの見る処では、近松は西鶴に比すれば遙かに偉大なる作家である。西鶴の面目は唯その文の軽妙なるに留まっている。元禄時代にあって俳諧をつくる者は皆名文家である。(中略)試に西鶴の『五人女』と近松の世話浄瑠璃とを比較せよ。西鶴は市井の風聞を記録するに過ぎない。然るに近松は空想の力を仮りて人物を活躍させている。一は記事に過ぎないが一は渾然たる創作である。(p206)。

 荷風は自身が「生活の落伍者」「敗残の東京人」でることを認めた後次のように記す:
さればいかなる場合にも、わたくしは、有島、芥川の二氏の如く決然自殺をするような情熱家ではあるまい。数年来わたくしは宿痾に苦しめられて筆硯を廃することもたびたびである。そして疾病と老耄とはかえって人生の苦を救う方便だと思っている。自殺の勇断なき者を救う道はこの二者より外にない。老と病とは人生に倦みつかれた卑怯者を徐々に死の門に至らしめる平坦なる道であろう。天地自然の理法は頗妙である。(p207)

 意外だったのは、荷風が森鴎外を崇拝していること。何回か鴎外の名前が出てくるが、「書かでも記」には、初めて鴎外にあった時のことが記されている:
先生われを顧み微笑して『地獄の花』はすでに読みたりと言はれき。余文壇に出しよりかくの如き歓喜と光栄に打たれたることなし、いまだ電車なき世なりしかどその夜われは一人下谷よりお茶の水の流れにそひて麹町までの道のりも遠しとは思はず楽しき未来の夢さまざま心の中にゑがきつつ歩みて家に帰りぬ。(p81)

「桑中喜語」では自身の性の遍歴と芸者遊びに触れ、「猥褻独問答」「裸体談義」では猥褻について持論を展開する。荷風の援護した程度の猥褻は今の時代には公然と人々の耳目に触れている。「草紅葉」は昭和21年に書かれたもの。20年3月9日夜の東京大空襲で多分なくなってしまったと思われる、浅草の劇場の大道具係の老人や、その娘の踊り子、あるいは劇場の風呂焚きの老人などへの哀切の思いがあふれる作品。こうしたいわば下積みの人々への思いは荷風ならではのものだろう。


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書名 水無瀬三吟の世界 著者 ゆきゆき亭こやん No
2012-25
発行所 http://www.h6.dion.ne.jp/~yukineko/minase.html 発行年 読了年月日 2012-06-29 記入年月日 2012-06-29

 
中山義秀は『芭蕉庵桃青』の中で、水無瀬三吟を中世詩人の感情を結晶させた不朽の名吟であるとし、詳しく解説していた。全体を読みたいと思って、アマゾンで調べたら、古典文学全集に収録されている以外には適当な本がなかった。それで、ネットで検索したら、詳細な解説を施した水無瀬三吟百韻があった。
http://www.h6.dion.ne.jp/~yukineko/minase.html

 後鳥羽上皇の250年忌のために長享2年正月22日(1488年)宗祇、肖柏、宗長の3人が詠んだ100韻である。明智光秀の歌の師でもあった紹巴は水無瀬三吟の初めの8韻を連歌史上最高のものと評しているとのこと。

雪ながら山もと霞む夕べかな    宗祇
   行く水遠く梅匂う里     肖柏
川風にひとむら柳春みえて     宗長
   船さす音もしるき明け方   宗祇
月やなほ霧渡る夜に残るらん    肖柏
   霜置く野原秋は暮れけり   宗長
鳴く虫の心ともなく草枯れて    宗祇
   垣根をとへばあらはなる道  肖柏

 解説がなくても発句からの流れが鮮明に理解できる。こうして最後の「人をおしなべ道ぞただしき」の100韻まで続く。 
 水無瀬というのは、かつて後鳥羽上皇の別邸があったところで、宗祇らはそこで詠んだ。

 連歌の基本は前後の句をあわせて一つの和歌として鑑賞することとサイトの主は言う。7・7の後についた5・7・5は前後を逆転させて一つの和歌としてよむ。連歌には展開が単調になったり、堂々巡りをしないように細かい規則がある。例えば発句の「雪」。雪は降物(ふりもの)で、降物は可隔三句物(さんくへだつべきもの)(雨、露、霜、霰などとは三句隔てなくてはならない)。また、「雪」自体も一座四句物(いちざよんくもの)で、百韻の百句中、冬の雪を三句、春雪を一句出すことができる、といった規則を説明しながら本サイトは100韻を逐次解説する。連歌を知る上でも大変わかりやすい。水無瀬三吟には古注があり、また近年の国文学者による解説もある。著者はそれらを引き合いに出し、時には、従来の解釈に異論を唱え、独自の解釈を提出したりする。 

 100韻は単なる叙景句ばかりではない。述懐と称する人事の句、恋の句、釈教と称される仏教的境地に関する句などが展開される。連歌は恋とか人生の述懐とかを扱うのがむしろ本来の姿で、叙景句はその引き立て役のようなものだと、著者は言う。釈教は後鳥羽院への鎮魂が込められている。

 つき過ぎず、離れ過ぎず、そして時としての思わぬ飛躍、新しい世界の展開。3人の息がぴったりと合い、作り上げたなんともいえぬ優美な世界。他者の心情を思いやらなければ出来ない、こんな文芸のジャンルが世界の他の国にあるのだろうか。

 解説には、定家、俊成、西行、あるいは源氏物語など、先行歌が随所に引用されている。解説はそれだけに留まらない。
 例えば
 うときもたれが心なるべき      宗祇 72
  昔よりただあやにくの恋の道    肖柏 73
 を「昔から恋の道というのは思い通りにならないものだ。よそよそしく見えても誰も心底ではないのに」と解釈し、その後に恋について長い持論が展開される。それは、ドーキンスの利己的な遺伝子説を踏まえたもので、有性生殖の発生から説き起こし、よりよい相手を選択するということは性にとって本質的なもので、無差別な性交をなどあり得ないと持論を述べる。

 中世連歌の世界を垣間見ることが出来たこと以上に、このサイトの主「ゆきゆき亭こやん」さんのすごさ、こうしたサイトが載っているネットのすばらしさを感じた。

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書名 悔しかったら、歳を取れ! 著者 野田一夫 No
2012-26
発行所 幻冬舎 発行年 2012-04 読了年月日 2012-0705 記入年月日 2012-0706

 
エッセイ教室の上村雪子さんから頂いた。上村さんは著者の夫人と親しく、1冊を贈呈され、さらに10冊を購入して知人に配ったのだ。 

 題名から歳を取ることの良さを強調した本かと思ったが、そうではなく、著者の経歴を語った自分史。著者は85歳でまだ元気いっぱい現役で活躍しているから、自分のように歳を取れという意味であろう。野田一夫とは初めて聞く名前だが、型破りな経営学者としてはかなり有名な人らしい。実業界、政界、学会の著名人の名前が多くは君付けでやたらに登場し、それらの人脈を通してやれ○○という組織を作った、○○大学を創設し、学長になったと著者の業績が誇らしげに語られる。傘寿の祝いには椎名武雄、孫正義ら財界人が発起人となり、高級ホテルのレストランを借りきり、200人を超す人が集まり、小椋桂君らが歌で盛り上げ、最後は津川雅彦君が洒脱なスピーチで締めてくれたといった類だ。これくらい臆面もなく自己のセレブ振りを誇れる人物でなければ、社会的にはたいしたことは出来ないということか。

 著者は人にとって、特に若い人に一番必要なものは「志」だという。自身も志を抱いて今も目標に向かって邁進しているという。しかし、たいした目標もなく歳を重ねてきた人には、歳を取ってからの志など抱かない方がいいとも言う。平穏な老後を壊しかねないと。私にはその心配はない。
 著者のような老後よりも、私は政界を去った後、ひたすら陶器を焼き続ける細川元首相のような生き方を理想とする。
 戦中から戦後、そして21世紀の現在に至る社会、経済、産業の移り変わりがコンパクトに述べられているのは、参考になり、著者より11歳若い私も同時代史として共感するところが多かった。例えば70年代の後半には、工場現場の近代化はずいぶん進んだのに、オフィスの近代化はアメリカなどに比して大きく遅れていると感じたというが、同じ頃私も同じことを感じていた。また、現在の政治情勢から、右翼的全体主義の台頭を心配していたが、その点も同感だ。


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書名 著者 綱淵謙錠 No
2012-27
発行所 新潮社 発行年 1986年 読了年月日 2012-07-05 記入年月日 2012-07-06

 
最後まで幕府側として戦い、維新後は明治政府の高官として活躍した榎本は、その経歴からして特異であり、極めて興味を引く人物であるが、今まで私はよく知らなかった。岩瀬忠震、川路聖謨に関するものを読んだからには榎本も読まないわけにはいかない。

 アマゾンで調べたら、本書と安部公房の『榎本武揚』が目についた。いずれも小説であるが、評伝には古いものしかなかったので、この2書を購入した。本書の副題は「榎本武揚と軍艦開陽丸の生涯」である。綱淵謙錠の会津城落城を描いた『戊辰落日』は、綿密な史料に基づいた歴史小説であったが、本書も小説というより評伝に近いものであった。著者は多くの史料に当たり、例えば慶応4年1月、鳥羽伏見の戦いと同じ頃に起こった、幕府と薩摩藩との日本初の海戦の日時に関して、現存する史料では3日と4日の両説があるが、著者は色々な史料を検討し、それを1月4日だと決めている。

 本書は文久2年(1862年)、軍艦の建造、操縦を学ぶために幕府からオランダに派遣された留学生が、当時オランダ領であったインドネシアの海峡で遭難するところから始まる。榎本釜次郎(武揚)も留学生メンバーの一員で、一行は15名、うち士分9名、職工6名。榎本は船具、砲術、蒸気機関などを学ぶことになっていた。一行には経済・法律を学ぶ西周もいた。彼らは無人島に漂着し、救助されて1名も欠けることなくオランダに向かう。喜望峰を回り、セントヘレナ島ではナポレオンの墓に詣で、ロッテルダムに着く。オランダではちょんまげ姿を珍しがる人々が、行く先々で彼らを取り囲む。

 幕府の目的は軍事力、特に海軍力の強化である。彼ら留学生の派遣と同時に幕府は軍艦をオランダに発注する。出来たのは開陽丸だ。それは当時世界最新の軍艦であった。開陽丸という名を彼らはオランダ語で「フォールリヒター」と説明した。夜明け前という意味だ。

 榎本らは開陽丸に乗り込み帰国する。慶応3年3月26日(洋暦1867年4月30日)である。榎本はその後幕府海軍の要職に就く。しかし、国内情勢は緊迫していた。大政奉還からさらに12月の王政復古のクーデターと進む。王政復古直後、榎本は明春の2月頃までには天下の大勢が決着するだろうと予想していた。戦えば、3日で幕府が勝つと(p193)。

 しかし、幕府は鳥羽伏見の戦いに敗れる。ちょうどその頃、榎本が艦長を務め、幕府海軍の司令艦である開陽丸は淡路島沖で、薩摩の軍艦春日丸との海戦に入る。互いに砲撃戦を交えるが、どちらもかすり傷程度の損傷しか与えられなかった。春日丸は巡航速度が速く、開陽丸を振り切って逃げる。最新鋭艦の開陽丸は砲をたくさん積んでいるために速度が出ないのだ。春日丸は英国製、開陽丸はオランダ製で、すでにイギリスの方が時代の先端を行っていたのだと、著者は言う。面白いのは、春日丸には東郷平八郎を初め、後に海軍元帥となる人物が3人も乗り込んでいたという。

 慶応4年1月6日、将軍慶喜は大阪城を密かに抜け出し、開陽丸に乗り込む。武揚はたまたま上陸して不在だったが、副長の沢太郎左右衛門は慶喜を乗せて江戸に向かう。沢は榎本と一緒にオランダに派遣された留学生だ。幕府の別の軍船で大阪から江戸に戻った榎本は海軍副総裁に任命される。恭順派が占める幕閣に主戦派の榎本が入ったのは、彼を入れて、終戦処理の一端の責任を彼に負わせる方が幕府海軍を無傷で温存できるだろうという、勝海舟らの思惑があったのだろうと著者は言う。江戸城の無血開城の直後、江戸湾にいた榎本麾下の幕府海軍8隻は忽然と姿を消す。その後、4隻を新政府側に引き渡すが、榎本は残りの船で北海道を目指す。ところがあいにくの台風に遭い、開陽丸初め船団は遭難する。東北の地で損傷した舵を修理した後、北海道に渡る。新政府側が立てこもる函館の五稜郭を落とし、開陽丸は函館に入港する。その後、江差にいる新政府軍を攻撃するために開陽丸はその地に向かう。しかし、その海岸で座礁し、遂に離礁することが出来きない。座礁の一因は修復した舵が完全なものではなかったからだという。江差の新政府軍を駆逐し、榎本は蝦夷全体を手中にする。しかし、榎本は朽ち果て海中に没するであろう開運丸を思い「ボールリヒター」とつぶやく。目には涙を浮かべている。本書はそこで終わる。

 著者は後書きで、榎本を蝦夷へ向かわせたのは、若い日に蝦夷、樺太を見聞し、土地勘があったことと、ロシアの脅威を肌で感じていて自分が立ち向かわなければならないと思ったからではないかと推測する。

 榎本が樹立した蝦夷共和国とその最後、新政府に投降した後の彼らの運命などは一切触れられていない。本当の興味はこちらにあるのだが。最後まで戦った後、明治政府の高官として復活する。その変節を本人自身がどう感じたか、また周囲はどう思ったか。そこら辺りがもっとも知りたいところだ。とはいえ、武揚の前半生はよくわかった。


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書名 榎本武揚 著者 安部公房 No
2012-28
発行所 中公文庫 発行年 1973年 読了年月日 2012-07-07 記入年月日 2012-07-08

 
綱淵謙錠の『航』と同時に購入。本書はこの作者ならでは複雑な入れ子構造をとる小説。

 語り手のもとへ北海道厚岸で旅館を経営する元憲兵から送られてきた、「五人組結成の顛末」という膨大な手記の形で、戊辰戦争に加わった幕臣たちの姿が描かれる。「五人組結成の顛末」を書いたのは、江戸開城後土方才蔵に拾われ、大鳥圭介傘下の幕府軍に加わった浅井十三郎という人物。会津を目指して北上し、新政府側の宇都宮城を落としながら、会津には達することが出来ず、仙台から榎本の艦隊に乗り込んだ大鳥軍の戦いが、浅井の目を通して綴られる。主要な戦いや基本戦略で、大鳥と土方はことごとく対立する。浅井は土方の腹心であるから、大鳥に厳しい批判の目を向ける。大鳥に対する土方の批判はついには会津を助け新政府と戦うという大鳥の信念への疑いまでに発展する。にもかかわらず、土方は最後まで大鳥について行く。本書の題は「榎本武揚」であるが、詳細に描かれているのはむしろ大鳥圭介と土方才蔵である。

 土方の疑いは榎本にまで及ぶ。榎本ももともとは新政府軍と戦うつもりなどないのではないか。土方は榎本にも鋭くくってかかるが、巧みな弁舌でかわされてしまう。そして、五稜郭の落城。落城前に榎本軍の大砲には釘が打ち込まれ使用不能になり、また新政府軍の軍艦を防ぐ海中の綱も切られていた。土方はそれをわざと敗戦に持っていくための榎本の謀略と取る。しかし、それを証明する前に土方は討ち死にする。もともと薬の行商人であった浅井は落城後、市井に紛れ込む。彼は、榎本を裏切り者と許すことが出来ない。

 榎本の命を狙う浅井はわざと騒ぎを起こし、榎本らの収容されている東京の辰口の牢獄に入る。しかし、牢獄は5つの建物に別れていて、お互いに交流することは出来ない。浅井は榎本とは別の獄舎で、彼と接することは出来なかった。そこで、5人で組めば一人づつ別の獄舎に入れられ、誰かが榎本に接することが出来、浅井秘伝の毒薬を針で刺すことが出来る。出所した浅井は同志4人を集め、実行に移す。獄舎まで入ることは出来たが、ことを実行する前に露見して不首尾に終わる。これが「五人組結成の顛末」の概略だ。

 安部公房ならではの奇想天外な発想だ。もっと驚くのは、榎本の獄舎に入った5人組の一人、佐々木が、艦隊を率いてのあの籠城作選が主戦派の行動を封じ、負けるための八百長戦争ではなかったかと、詰問したのに対し、榎本はあっさりとそうであったと答えることだ。それが国難を救う道であった。大鳥が会津に合流しなかったのもそうであったという。さらに、五稜郭落城に際し、切腹をはかり、部下に気がつかれて制されたのも芝居だったと、安部公房は榎本に言わせている。さらに、勝海舟に心服する榎本は、薩長、幕府いずれが勝っても、今の幕藩体制はなくなる、それでなければ外国と対抗することは出来ないという勝の考えに共感し、そのためにはなるべくうまく負けてやることが必要だったと理由を話す。

 この小説のテーマは「忠誠」である。「五人組結成の顛末」を送ってきた厚岸の旅館の主人、福地は戦時中憲兵として、妹の夫を些細な罪で監獄に送り死なせた経歴の持ち主だ。戦後、彼が忠誠を誓ったものは否定される。そこで、彼がよりどころとしたのは榎本武揚の生き方であった。彼は語り手に長い手記を送るのだが、その中で榎本の生き方を以下のように読んでいる:
忠誠とはすなわち、一つの時代に支払った、身分保障の代金である。それによって彼は、時代の人であることを保証される。ただし、時代が変わって、その時代が新時代から有罪の宣告を受けた場合、身分保障は自動的に取り消され、保証金も没収されることがありうる。しかし、過去に保証金を支払った罪そのものは問われない。(p265)。卓越した譬えだ。

 その武揚が「五人組結成の顛末」の最後で、上述のような告白したことを知った福地は、語り手にその史料を送った後姿を消す。しかし、福地には榎本を心底憎む気持ちにはなれないと記す。

 福地は函館における榎本の選挙による首脳陣の選出や敵捕虜の治療、釈放などの行為を、忠誠心を希釈するためのものであったと解釈する。忠誠がなければ、裏切りということもなくなる。そう思うと榎本も憎めないのだ。土方がなぜ榎本の下に加わったかについては、一つは雪崩に押されたものには山は見えないという情況、もう一つは函館で土方がえた陸軍奉行並みという地位は、異例に高いもので、その地位が前々から約束されていたのではないかと、福地は考える。

 榎本があの戦争は八百長であり、切腹も芝居であると告白した後、部下の森が問い詰める:
森 では、先生は、武士の忠誠心というものを、ぜんぜん認めないと仰言るのですか。
 榎本 士道などというものは、言ってみれば、まあ、住み手がなくなった、あばら屋も同然のもの。古い住人は、どんどん逃げ出して、どこもかしこも空屋だらけだ。
(p334)

 この後、土方たちはその空屋に入ってきた。士道に背いたという理由で、土方たちが新撰組で処分したもののほとんどが、親の代からの由緒ある人たちだった。土方らは夢にまで見たあばら屋につかの間でもいられたのだから、梁の下敷きになったとて、もって瞑すべきだ、と榎本はいう。

 安部公房ならではの奔放な歴史解釈。面白い小説だ。

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書名 羊をめぐる冒険 著者 村上春樹 No
2012-29
発行所 講談社文庫 発行年 昭和60年 読了年月日 2012-07-16 記入年月日 2012-07-17

 
村上春樹の長編小説の第3作目。文庫本で上下。紙がすっかり黄ばんでいる。多分、娘が買ったものだろう。

 エッセイ教室で、村上春樹の作品に触れた作品が出てきたとき、下重暁子講師は、村上春樹の作品は本質的にはエンターテイメントだと評した。また、別の機会には、村上春樹は音楽に非常に詳しい。音楽に詳しい人の書く文章はリズム感があっていいと評した。こうした見方は 定説なのかも知れないが、私も同感だ。本作品などもその典型。

 例によって主人公の男性は大のビール好き。妻とは離婚したばかりだが、耳の形が美しい新しいガールフレンドがいる。彼の仕事は広告代理店の下請け。彼は北海道の草原に草を食むたくさんの羊のいる写真を生命保険会社の広報誌の1ページに使った。ところが、戦前からの右翼の大物の謎めいた人物の執事から、その写真の場所を突き止めるように、彼の所に脅迫めいた要請が来る。それで、主人公は結局、ガールフレンドと一緒に北海道に向かい、その場所を突き止める。旭川から汽車に乗り、ローカル線に乗り換えその終点十二滝駅からさらに車でずっと奥の場所であった。
 現実と幻想が交差する結末と謎解きはよく理解できない。例えば、ガールフレンドが突然東京に帰ってしまう所など、ストーリーの構成自体にかなり問題があると思うのだが、そんなことは気にせず、この道行きの描写と過去に羊にとりつかれてしまった人々の奇怪な物語、そして比喩を楽しめばいい。

 上巻176p以下には執事により日本における羊の歴史が述べられる。羊は日本に入ってきたのは安政年間で、明治以前の人々は羊を知らなかった。そして続ける:
そして今日でもなお、日本人の羊に対する意識はおそろしく低い。要するに、歴史的に見て羊という動物が生活のレベルで日本人に関わったことは一度もなかったんだ。羊は国家レベルで米国から日本に輸入され、育成され、そして見捨てられた。それが羊だ。戦後オーストラリア及びニュージーランドとのあいだで羊毛と羊肉が自由化されたことで、日本における羊育成のメリットは殆んどゼロになったんだ。可哀そうな動物だと思わないか?まあいわば、日本の近代そのものだよ。

 下巻90p。十二滝町へ向かうローカル列車の乗客の描写には比喩が多用されている:
 
太った中年の女はスクリアピンのピアノ・ソナタに聴き入っている音楽家のような顔つきでじっと空間の一点を睨んでいた。
 誰かが時折ミイラの頭を火箸で叩いているような乾いた音をたてて咳をした。
 覆面をかぶらなくても十分銀行強盗ができそうなくらい無表情な車掌だった。
 川は雨を集めて茶色く濁っていた。秋の太陽の下でそれはキラキラと光るカフェ・オ・・レの放水路のように見えた。

 91pには終点の十二滝町の描写:
太陽は早くも中空を滑り下りて、黒々とした山の影を宿命的なしみのように地面に這わせていた。方向を異にするふたつの山なみが町の眼前で合流し、マッチの炎を風からまもるためにあわせられた手のひらのように町をすっぽりと包んでいた。細長いプラットフォームはそびえ立つ巨大な波にまさにつっこんでいこうとする貧弱なボートだった。

 なお、十二滝町というのをネットで検索したら、架空の町とのこと。しかし、それが実在のどこの町であるかを推測したウエブページはたくさんあり、この作品の人気を窺わせた。宗谷本線美深駅からのローカル線で行く終点の仁宇布がその候補地のようだ。このローカル線はかなり以前に廃止されている。

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書名 厚物咲 著者 中山義秀 No
2012-30
発行所 文藝春秋社 発行年 昭和57年 読了年月日 2012-07-19 記入年月日 2012-07-20

 
中山義秀の『芭蕉庵桃青』は優れた芭蕉解説書であったが、この作家の小説は読んだことがなかった。ずっと昔に揃えた芥川賞全集を手にしたら、この作家も『厚物咲』で昭和13年年上期、第七回の芥川賞を受賞していた。『厚物咲』というのは手作り菊の一つの種類で、花弁が何重にも厚く重なったもののこと。

 小学校以来の友達で、今は代書屋をしている瀬谷と、田舎で細々と果樹園をやっている片野の友情とも腐れ縁ともつかぬ関係を主題に展開する物語。二人は地方の名家の出で、頭もよかったが、士族の子弟に頭を押さえられ、才能を伸ばすことができなかった。やがて二人は金の採掘を目指し、各地を駆け回る。しかし、詐欺にひっかっかり財産を失い、転々と職業を変え落ちぶれ、今のような境遇で70歳を迎えた。瀬谷は娘の嫁入り費用に片野から30円を借り、毎月1円ずつ返済する。元本の何倍もの額を返済したにもかかわらず、片野は毎月やってきて、1円ずつ持っていく。瀬谷もそれを拒めない。

 片野は極端な吝嗇家で、妻の鱗が病気になってもろくな治療もしない。妻はやせ細って亡くなる。鱗は鱗で、嫁入りに持参した500円を誰にも秘密にし、自分の病気の治療にも使わず、40年間肌身離さず抱いたまま死ぬ。彼女が死後に500円を与えた相手は彼女の唯一の身内、ならず者の甥であった。鱗は朝から晩まで身を粉にして畑仕事に精だし、無口で愚痴も言わずに夫のひどい仕打ちにも耐える。長男を亡くしても悲しみを示さず、二男の入営にも涙一滴もこぼさなかった。鱗はこの500円以外はこの世の中で何も信じていなかったのだ、と瀬谷は思う。

 片野は後妻をもらい、兵役から帰って来た二男と一緒に住むが、二男も、やがて後妻も家を出て逃げてしまう。

 片野は菊作りがうまく、品評会などでも高い評価を得る。特に厚物咲を得意とした。瀬谷は同じものを作りたいと片野に頼むが、彼は秘密にして、作り方を明かさない。株分けをしてもらっても、わざと間違った指導して育たないようにする。

 瀬谷には、金貸しの未亡人という顧客がいた。片野は後妻に逃げられた後、その未亡人に目を付け、一緒になりたいと瀬谷に取り持ちを頼む。断られた片野は、未亡人宛に何通もの手紙を出すが、無視される。自ら命を絶った片野のもとには、人々を驚嘆させるような白菊が残されていた。世間が噂するように自殺の原因は失恋でもなければ未亡人への復讐でもなかった。片野は7歳の時養子に出されるのだが、彼を連れて養子先に向かう彼の父は、途中で我が子の可愛さに、養子に出さずに家に戻ろうと思う。しかし、片野は養子先から刀を買ってもらったから、養子に行くよといって行ってしまう。そうした律儀な男だった。片野は未亡人に手紙で、「
其許様(そこもとさま)をお慕い申上げて焦れ死に致すべく候」と書いた。律儀な片野は自らのその言葉に忠実に命を絶ったのだと、瀬谷は思う。

 瀬谷は片野やその妻、鱗の壮絶な生涯の比べて、自分の老後が恵まれていることを実感する。「
非情の片意地を培養土にして厚物の菊を咲かせるより、花は野菊の自然にまかして孫達のお守りをしながらもっと人間らしい暖かな生涯を送ったがましだ」と、瀬谷が思うところで小説は終わる。

 70数年前の小説だが、描かれた人々特に片野夫妻の生活と、生活感情が今とは大きく違うと感じた。あるいは、漱石の小説にも鴎外の小説にも登場しない人々だと思った。

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書名 糞尿譚 著者 火野葦平 No
2012-31
発行所 文藝春秋社 発行年 昭和57年 読了年月日 2012- 記入年月日 2012-07-21

 『厚物咲』の前の芥川賞受賞作。初めて読む火野葦平の作品。これまた、漱石、鴎外、潤一郞などには登場しない人物。その職業はおそらくどんな小説にも登場したことがないだろう。

 小森彦太郎は玄界灘の見える町で、糞尿くみ取り業を営む。もともとは代々続く豪農の家であったが、彼はわき上がってくる事業欲を押さえられずに、この事業に手を染める。しかし、思惑通りには行かず、田畑も人手に渡り、田舎に残した妻子と別れて、掘っ立て小屋に住み、トラック1台と肥桶を資産に事業を続けている。今に見ていろという執念だけが彼を支えている。こうした商売は地元の政治ボスが利権に絡んでくる。小森の事業が順調でないのはこの利権がらみと、彼自身の酒好きが主な原因だ。何しろ、昼間から焼酎をストレートで何杯も引っかけるという小森だ。それでもかすかすのところで事業は成り立っている。この地域は民政党が支配している。小森は民政党とは一線を画する地域のボス、赤瀬を頼っている。そして、市指定のくみ取り業者の地位を得る。市役所や、小学校、その他市の施設のくみ取りを独占できた。

 くみ取った糞尿は桶に入れトラックに積んで、近郊の農家に売りさばくか、船で沖合に捨てるか、海岸近くに掘った穴に埋めるかである。市は、ゴミ処理も業者に任せている。ゴミ処理業者への代金と比べて、糞尿処理は極端に低額に抑えられている。その上、小森らは汚い事業に携わるもととして、世間からは疎んじられ、各家庭からの月1円のくみ取り料金の徴収も滞ったり、値引きを要請されたりする。
 
 赤瀬の娘婿の阿部が小森の事業を見るようになる。彼は学もあり頭が切れ、ゴミ処理に比べて不当に低く抑えられている市の糞尿処理予算を改めるよう嘆願書を出す。それは認められるが、やがて市は糞尿処理事業を市営化することになる。小森の事業の権利は市が買い取ることになる。その契約書は阿部が作る。中身もよくわからない小森はそれに判を押す。後で気がつくと、権利の半分は赤瀬に、残りを阿部と小森が半分にすることになっていた。だまされたと思うがもう後の祭りであった。

 ある秋の日、小森達が肥樽を積んだトラックをいつもの海岸近くの糞尿捨て場に行くと、待ち構えた男たちに捨てることを拒否される。この地区の住民は、ゴミ処理を業としていた。そこのボスは民政党で、民政党から離れた小森を目の仇にしていたし、糞尿処理費が増やされ、市のゴミ処理予算を減らされたことを根に持っていて、小森に仕返ししたのだ。男たちの後ろに、このボスの姿を見た小森はすべての事情を察した。彼は、男たちの上に柄杓ですくって糞尿をまき散らす。糞尿は彼自身の上にも降りかかる。

「自分の身体を塗りながら、ものともせず、彦太郎は次第に沸きあがって来る勝利の気魄にうたれ、憑かれたるもののごとく、糞尿に濡れた唇を動かして絶叫しだした。貴様たち、貴様たち、負けはしないぞ、もう負けはしないぞ、誰でも彼でも恐ろしいことはないぞ、俺は今までどうしてあんなに弱虫で卑屈だったのか。」
「……さあ、誰でも来い、負けるもんか、と、憤怒の形相ものすごく、彦太郎がさんさんと降り来る糞尿の中にすっくと立ちはだかり、昂然と絶叫するさまは、ここに彦太郎はあたかも一匹の黄金の鬼と化したごとくであった。折から、佐原山の松林の蔭に没しはじめた夕陽が、赤い光りをま横からさしかけ、つっ立っている彦太郎の姿は、燦然と光りかがやいた。」


 小説の結びである。壮絶でありながら、スカッとする。

 舞台は多分現在の北九州市であろう。民政党の大ボスと瀬谷が温泉風呂で会見する場面があるが、瀬谷は片腕に、相手は背中から両腕にそれぞれに彫り物をしている。こうした風土が全編に色濃く流れている。社会派小説として面白い。


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書名 宗祇 著者 奥田 勲 No
2012-32
発行所 吉川弘文館 発行年 平成10年 読了年月日 2012-07-27 記入年月日 2012-07-28

 連歌師宗祇の名は知っていたが、その業績、生涯については何も知らなかった。不朽の名作とされる「水無瀬三吟」に接し、是非知ってみたいと思った。幸い「人物叢書」に『宗祇』があった。250冊に達するというこのシリーズは、政治を動かした著名な人物のみでなく、こうした文化人もたくさん取り上げている。

 本書は300ページを超す大著で詳細にその生涯を追う。といっても80年にわたるその生涯の前半ほとんどわかっていない。生国も本書は近江とするが、紀州説も昔からあるとのこと。妻や家族がいたかどうかも定かではなく、本書はいなかっただろうという。宗祇自身は自出に関しては口を閉ざして何も残していない。後半生が詳細にたどれるのは、宗祇と親交の深かった三条西実隆の日記『実隆公記』に登場するのと、各地で催した連歌の会に留められた宗祇の名前からだ。267ページには以下のように述べる:
この人の日記『実隆公記』がなかったら、宗祇の伝記はほとんど成立しなかったかもしれない。いや、室町時代中期の日本文化史もきわめて貧しい記述しかできなかったであろう。

 本書はそれらの資料を一つ一つ吟味しながら、宗祇像をつくりあげる。作者の熱意と学者魂が伝わって来る。宗祇の生涯を通して、連歌というもの、あるいは室町文化の一端を覗くことが出来る点でも読み応えがあった。

 宗祇、応永28年(1421年)生まれ、文亀2年(1502年)没、82歳。口絵の肖像画は75歳の時のもので、法衣をまとった大柄な体躯、細面の端正な容貌に驚く。30才頃から連歌を習う。「
大成した歴史上の人物で、仮に活躍は盛年に達してからの場合でもこれほどに青年時代の事跡がつかめないのは珍しい」(p11)。

 西行や芭蕉と同じように、生涯の多くを旅に過ごした。東国、摂津、九州、山口、越前、越後とその範囲は西行も、芭蕉も及ばない。行く先々で連歌の座に連なり、句を詠んでいる。宗祇50歳の時には河越千句に出座している。主催は太田道真で、息子の道灌ともすでに旧知の間柄であったという(p42)。太田道灌と山吹の逸話を思い出した。句座に連なる人々は10人を超えるこんな句会が、都から遠く離れたところで催されることにまず驚く。千句という数にも驚く。本書の記載のかなりの部分が各地における句会と、それに連なった人々の名前だ。川越の句会では、第一百韻の発句は、宗祇が師として学んだ心敬の「梅園に草木をなせる匂ひ哉」で、宗祇は第二百韻の発句を読んでいる「遠く見て行けばかすまぬ春野哉」である。

 56歳の時初めて幕府主催の連歌会に出座した。主催は将軍足利義尚で、11歳の義尚の発句は「とけにけりさ浪の花のひもかがみ」である。ひもかがみは(氷面鏡)氷を鏡に見立てたもので、俳句では冬の季語。私がこの言葉を知ったのは昨年の冬である。メンバーは二条太閤初め公家、僧侶などだ。

 連歌に連なる一方で、宗祇は本来は歌人になりたかったのではないかという。「源氏物語」「古今集」などを京都や地方で講釈している。この方面での学識が相当に深かったようだ。本書には「伝授」ということがしばしば出てくる。例えば「古今集」を伝授したという。これは「古今集」の解釈を秘伝として個人に口頭あるいは文章で伝えることだ。宗祇自身も「古今集」を三島において東常縁から伝授されている。和歌が、それを専門とする家の秘伝として伝えられ、一部公家階級の独占物になっていったというのはこういうことであったのかと納得した。三条西実隆への源氏物語講釈は2年にわたって行われた。また、越前朝倉氏からは源氏物語の写本を頼まれ、持参した。

 宗祇の句座に連なる人々は、地方の豪族、武士など多彩だ。中でも山口の大内政弘との親交は深い。その大内政弘らが企画し、『菟玖波集』に続く連歌集を編纂する話が持ち上がる。実際の編集は宗祇と兼載とがあたり、それを三条西実隆が支える。宗祇73歳の頃のこと。宗祇のもとにはたくさんの自薦句集が送られてきて、採用を要望される。例えば九州八代の武士からは飛脚で連歌集が届けられる。こうして2年後に『新撰菟玖波集』が出来上がる。当時本を作るというのは、すべて筆写であるから大変だった。また、宮中での連歌会も頻繁に催されていたが、その記録集は実隆を通して宗祇のもとに届けられた。

 186ページには採用された句数の多い作家順にリストされている。心敬123,宗ぜい(石へんに切)114,専順108,御製(後土御門天皇)109,大内政弘75,智蘊66,宗祇59,三品親王55,兼載52,宗伊52である。トップ3はいずれも宗祇の師にあたる連歌師だ。収載された作家は220人余り。ひょっとするとこの全員と宗祇は顔見知りではなかったか、と著者は言う(p272)。兼載との選句をめぐり意見の対立などもあり、老齢の宗祇にとっては大変な作業だと思うが、この編集作業の間にも彼は、古典の講義を行い、句座に連なり、地方に出かけている。よほど体力に恵まれていたのだ。

 最後は越後の上杉の所に滞在し、体調を崩し、美濃へ向かう途中、箱根湯本まで来たときになくなる。その終焉の様子は付き添った宗長が記録して残した。

「ながむる月に立ちぞうかるる」という前句をしばらく口ずさんで、「私には付けられない、みなみな付けてご覧なさい」などとたわぶれて話しつつ、やがてともしびの消えるように息をひき取った。(p233)。墓地は現在の裾野市の定輪寺にある。

 水無瀬三吟にも触れられている。(p123以下)。本書ではその成立の事情ははっきりしないとし、後鳥羽上皇の離宮のあった水無瀬で製作されたものではないという。

 水無瀬三吟と並び称されるものに湯山三吟がある。これは肖柏の地元摂津池田で詠まれたもの。(p147~)。
薄雪に木の葉色濃き山路かな     肖柏
岩本すすき冬や猶見ん        宗長
松虫にさそはれそめし宿いでて     宗祇

 この作品に対して、周防の太守大内政弘は、飛脚をたてて第三句について都の宗祇に質問したという。こうした都の連歌が地方にたちまち伝わるのは驚きだと、著者は言うが、飛脚をもって疑義をただす人がいるというのはさらに驚きだ。室町時代への興味をかき立てるエピソードだ。

 各地で詠まれた連歌がすべて残っているわけではない。特に千句などでは、ほとんど残らないが、発句は残っている。本書にもたくさんの発句が示されている。それを読んでいると、ほとんど類型化していると思う。上に挙げた湯山三吟の出だしも、水無瀬三吟と極めて似ている。全体として、花、雪、霧、霞、霜、山、川、野、虫、月、柳などがよく出てくる。こうした類型化がやがて連歌の衰退に連なったのではないか。発句は独立して俳諧となって行くが、俳諧の詠む対象はずっと広がり、現代に至っている。


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書名 後白河上皇 著者 安田元久 No
2012-33
発行所 吉川弘文館 発行年 1986年 読了年月日 2012-07-28 記入年月日 2012-07-29

 今年のNHK大河ドラマは『平清盛』であるが、かつてない低視聴率とのこと。画面が暗く汚いというのが主たる原因だが、登場人物が多すぎてその関係がわかりにくいことも一因だろう。特に宮廷の人間関係がわかりにくい。人物叢書に『後白河上皇』もあったので手にした。

 本書の序では以下のようにいう:
私は、すべての歴史上の人物は歴史の進展に規制されながら、しかも独自の意志や思考に従って行動し、そこに歴史がつくられると考えられる。それ故に、私はあくまでも歴史的人物をその歴史的時代の所産としてとらえる立場に立ち、それぞれの人物の歴史形成へのかかわりかたを追求するところに、いわゆる人物史の意義を認めたい。

 というわけで、平安末期から鎌倉時代へかけての政治史的側面が強い。後白河についてはそれなりの知識はあり、イメージも持っていたが、それと大きく異なるところはなかった。『平清盛』を理解するのにも役立ち、前半部分の場面を思い出しながら、そういうことだったのかと思いながら読んだ。

 「
この後白河天皇(上皇)は、その波乱に満ちた一生の間、巧みに自らの保身に成功したのみならず、結果的には、貴族たちの政権、すなわち京都の公家政権の衰退の流れを堰きとめ、時代に適応したかたちでの公家政権の存続という、歴史の動向を決定づける上に、大きな政治的寄与を果たした。」(p5~)と述べ、さらに源頼朝も掌中にした「天下兵馬の権」を天皇=公家政権より委託されたものと認めざるを得なかったと記す。そして、特に嘉応元年(1169年)に出家して法皇となって以後は、比類のない政略家であり、陰謀も好む専制君主であったとせざるを得ない。好意的に見るなら、政治的洞察力に優れ、決断力に満ちた、偉大な政治家とも言える、と続ける。

 清盛亡き後の平家も、義仲も、あるいは頼朝さえ、後白河に手玉に取られたという印象を持つが、なんといっても最大の犠牲者は義経であろう。

 信西については以下のような記述があり、大河ドラマを理解する上で役立つ(p47):
こうした信西の平氏優遇の方針は、彼がこの機会に摂関家の弱体化をはかり、代々摂関家に臣従して来た源氏を抑えて、正盛以来、白河・鳥羽両院政下で武的貢献をしてきた平氏をひきたてるためであったと考えられる。

 平家と摂関家を中心とする貴族との関係については以下のようの記す(128p):
 
……平家の政権独占を喜ばない人々すらも、その旧来の貴族政権を守るためには、もはや平清盛の力に頼るほかなく、その点では政権を独占し、しかも旧来の貴族政治を否定しない平氏と利害が一致するところもあった。
 そして、この京都の貴族たちが最もおそれていたのは、直接的には無法の要求を繰返す寺院勢力であり、間接的には、すでに半世紀以上も前から、その成長が見られた地方の在地領主層、すなわち地方武士たちの行動である。


 巻末に後白河が出かけた先が、日付と共に一覧されている。よく出かけているが、特に熊野権現への参詣が目を引く。今年の4月に行った熊野大社の石碑には33回、後白河の御幸があったと彫られていた。


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書名 江藤新平 著者 杉谷 昭 No
2012-34
発行所 吉川弘文館 発行年 昭和37年 読了年月日 2012-08-01 記入年月日 2012-08-05

 江藤新平は、維新新政府の主要メンバーでありながら、佐賀の乱に敗れ、大久保により晒し首にまで処せられた悲劇の人物であることは知っているが、どのような業績を上げ、どのような人物であったかはほとんど知らない。本書も人物叢書の一巻。

 江藤新平、天保5年(1834年)生まれ、明治7年(1874年)刑死。大隈重信は江藤の4歳下でやはり佐賀藩生まれ。本書には大隈の残した文書が随所に引用される。江藤の生まれは佐賀藩の下級士族。貧しかったが、藩校弘道館で学ぶ。そこで尊皇思想に目覚める。最初は激烈な攘夷論者であったが、諸国との通商条約が結ばれるにいたって、通商の必要性と海軍力の強化を説く。こうした江藤の考えに、著者は「
日本の植民地化の危機感からくる民族主義にもとづいて統一的な近代国家を確立しようとする近代的ナショナリズムの萌芽」を見ている(p46)。しかし、それは「明治の征韓論につながりをもち、自由民権へは充分に発展しえなかった江藤の宿命の発端であった」とも述べる(p46)。

 佐賀藩主の鍋島直正は公武合体論者で、佐幕的であった。薩長を中心とする勢力が京都で活躍するのを見て、江藤は脱藩して上京する。佐賀藩初の脱藩者である。その後の京における、江藤の活躍はそれほどのことはないという印象を受ける。尊皇は唱えても、それは天皇中心の絶対主義的統一国家という視点はなく、彼にとって藩は「御国家」であり、藩の世界からは終始脱出することができなかったと著者は言う(p56)。

 江藤は江戸開城と同時に旧幕府の評定所に乗り込み、政治・財政に関する書類を押収した。西郷が農業関係の書類を集め、海江田が軍用金のありかを尋ねたのと対照的であったと、山岡鉄太郎は言ったという。(p96)。江藤は江戸府判事・江戸鎮台判事に任命され、江戸民政を担当することになる。明治元年5月のことである。

 以降の江藤の業績は素晴らしい。江戸遷都を建言し実現する。明治2年には太政官の下で制度局取調係に任命さる。明治3年に大久保と共に国政改革案を提出し、中央の官制組織がそれに従って実現して行く。江藤は佐賀藩では蘭学、英学を学んでいないのにもかかわらず、諸外国の法制を研究調査し、驚くほど精通・理解していたという。それは、洋行帰りの人々から教示を受けたものであるが、自分のものとして消化したところに、江藤の頭脳の非凡さを著者は見ている(p131)。

 明治5年には寺社の女人禁制を廃し、僧侶の肉食妻帯および蓄髪を許可した。
 明治5年には司法卿になり、近代的な法制を確立して行く。行政官庁と裁判所の分離を目標とすることで、司法制度の近代化が果たされたとする。さらに、人身売買の禁止も布告された。江藤は司法卿在任中にヨーロッパ視察の話があったが、業務多忙で実現しなかった。もし実現していたら、さらに大きな事業も達成されていたであろうし、佐賀の乱における悲運もなかったであろうと、著者は言う(p163)。

 明治6年、征韓論で岩倉らに敗れた江藤は、西郷、板垣、後藤、副島ともに参議を免官になる。この政争を、「
対外政策の本質は論究されないで、藩閥感情と、内閣内部の派閥抗争が露骨に示されたという感をうけないではいられなかった」と著者は言う(p173)。

 佐賀の征韓党に招かれ江藤は帰る。佐賀では、折からの不作もあって米価が高騰し、旧士族たちの不平が高まっていて、そうした士族を中心に憂国党が結成されていた。征韓党と憂国党は手を結び、佐賀城を手にする。しかし、新政府軍の敵ではなく、江藤は脱出し、鹿児島に向かう。彼が頼みとした島津久光には会えなかったが、西郷とは会って話をする。何が話されたかは不明だ。江藤らは四国に渡り、さらに上京を目指すが、土佐と阿波の境、甲浦で捕まる。

 江藤らの裁判は、裏で大久保がその処分を決めた。獄門という極刑を申し渡した背景に、大久保の江藤に対する個人的な感情があったかどうかはわからない。江藤41歳。明治44年に議会により江藤の罪名消失が満場一致で可決される。

 江藤の人物について。江藤は脱藩の罪を許され蟄居の身にあるとき、生活の糧を得るために近所の子供たちの教育に当たった。しかし、彼は子供たちは放置したまま一人沈思黙考にふけっていて、父兄から苦情が出たという。そんな彼を「
人間的に幅広い持ち味や、誠実さのある愛情の持主ではなかったように思える。この点、西郷のような自然児的性格を江藤に求めることはできない。中略 血気ばやい反逆児的なカミソリのような頭脳と神経をもてあましていたのが実情であったと思う。中略 彼、人間江藤を語るエピソードはあまりに少なく、あまりに冷たい。弊衣乱髪・豪放不羈の熱血漢、それだけが彼の青年像であった」(p81~)。

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書名 記号論への招待 著者 池上嘉彦 No
2012-35
発行所 岩波新書 発行年 1984年 読了年月日 2012-08-04 記入年月日 2012-08-05

 出版された当時確か評判になった本。本棚に眠っていた。

 記号論という観点に立って言語を見た言語論と言っていい。専門語がよく出てくる難しいところもあるが、卑近な現象や言葉がたくさん例としてあげられていて、理解の大変よい手助けになり、それを頼りに読み進めることができる。30年近く前に出た本だが、斬新な切り口で、知的刺激に富む良書だ。

 記号論とは記号とそれが指示するものあるいは意味するものとの関係を扱う。記号とそれが示すものの関係はコードとして決められている。人間の言語は典型的な記号であるが、そのコードが極めて柔軟にできている。そのために言語は新しい世界を無限に取り込んでいける、というのが本書の最大のポイントだろう。p175:
人間はコードに従うことができると同時に、コードを変えたり新しく創り出したりして、世界を開く。すでに見た通り、この営みは人間の用いるもっとも重要な記号体系である「言語」に典型的に現れる。コードの柔軟性は、単語とそれが示すものの間だけでなく、単語を並べる統辞のコードにもある。記号とそれが指示するものの間の厳密なコードの例として、モールス信号を挙げる。また、統辞コードの厳密な例として、青→黄→赤という順以外にはない交通信号を挙げる。言語のコードはこれらとは違ってもっと柔軟であり、その最たるものとして、著者は詩の文章を挙げ、言語における詩の役割を高く評価する。
 記号論を拡大していって、著者は文化も記号現象として捕らえ直すことができるという。

p192:
「言語」を中心とした人間の用いるさまさまの「記号」は、まず第一に、生み出された人間の文化的な秩序を確認し、維持し、機能させる。第二に、新しい事態に際してそれを能率的に処理し、その意味と価値を把握し、秩序化された世界に組み込んでいく。そして第三に、「記号」そのものを操作して、現実を超えた「虚の世界」を創造していく。人間は「記号」をあやつる動物でもある。「記号」をあやつることによって、人間は自らの身体的な存在の限界を超えて、無限の自由をわがものにする可能性を見出すのである。

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書名 地球千年紀行 著者 月尾嘉男 No
2012-36
発行所 清水弘文堂書房 発行年 2012年4月 読了年月日 2012-08-17 記入年月日 2012-08-18

 
エッセイ教室の上村さんが貸してくれた。ハードカバーの立派な本で、見返しに著者による「上村雪子様」と署名がある。達筆だ。先の野田一夫といい、今回の月尾嘉男といい、上村さんは顔が広い。

 本書のサブタイトルは「先住民の叡智」。TBSのテレビ番組の取材で訪れた、世界各地の先住民の生活を紹介しながら、彼らの伝統的生活態度に、現代社会は学ぶべきものがたくさんある、というのが本書。取材対象は、ニュージーランドのマオリ、ラップランドのサーミ、北米インディアン、オーストラリアのアボリジニ、モンゴルの遊牧民、カナダのイヌイット、ペルーアンデスの人々、ミクロネシア、ベトナム少数民族、そしてブータン王国。これらの人々の現状と栄光と苦難の歴史が豊富な写真とともに要領よくまとめられている。例えば、ラップランドのへんぴな集落の宿泊施設にも無料インターネット接続のサービスが完備しているとか、アボリジニの酋長宅を訪問したら、インターネット接続のコンピュータがあったとかいうエピソードもそえられる。

 随所に「進歩史観」への疑問が呈される。フォアキャストではなくて、未来から現在を予測し、計画するバックキャストという概念を出し、先住民の中に生きる古きものから学ぶことが、環境破壊、資源枯渇を救う一つの道だと、繰り返し説く。それは、自然との共生が基本にある多神教と対比させて、一神教への批判へと連なって行く。

 著者の専門はメディア政策で、東大工学部教授なども歴任している工学系の学者。趣味のカヤックで、南米大陸最南端のホーン岬の周回に成功したという行動派。

 先住民族の叡智といっても、テレビ番組のための僅かな滞在の間の見聞で、著者は民俗学の専門家でもないので、表面的で深い掘り下げはないのはやむを得ない。先住民族の叡智や伝統から学べといっても、それらが先住民の生活の向上を阻害している面も多い。彼らに生活の質の向上を犠牲にしてまで、伝統や風習を守れという権利は誰にもない。資源保護や環境保護の面から、彼らに学べという主張は快いが、それが彼らの生活の向上を犠牲にしろというように取られかねないところに、この種の主張の危うさがある。

 面白かったのは冒頭の現代社会の無駄の指摘。インターネットでのグーグル検索は、世界の二酸化炭素排出量の0.02%に相当するとか、飛び交う迷惑メールとその削除のための時間を金銭に換算すると、世界の国民総生産額の3.5%に相当するとか。あるいは、清潔好きがもたらす損失。日本中に普及した温水便座で出勤前の午前8時前後に使用される電力は年間470万キロワットで、これはちょうど、福島第一原発の6基の原発の発電量に相当するとのこと。ついでに旅の苦労話として、排便の話が後書きに出ている。モンゴルでは草原に、カナダのイヌイットの集落では雪原がトイレだ。前者は野犬、後者は白熊に襲われることを心配しながらの用足しであったという。ちなみに、私も街道歩きで小用を足すとき、人気のない田舎道では道端で足す。町中のトイレで足した場合に使われる水、処理に要する電力を考慮すると、ずっと環境に優しいといつも胸を張って用を足す。

 なお、本書の発行所はアサヒビール株式会社となっており、同社が発行するASAHI ECO BOOKS シリーズの一つ。多数の写真、ハードカバー、上質の紙で250ページもの本書が、1890円というのは、後ろにアサヒビールがあるからだろう。


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書名 科学と宗教との闘争 著者 ホワイト、森島恒雄訳 No
2012-37
発行所 岩波新書 発行年 1939年 読了年月日 2012-08-21 記入年月日 2012-09ー15

 
本棚にあった古びた本。驚いたことに、執筆は1894年である。日本語版は1939年初版、1968年改版。本書はその改版。

 科学とは古典古代から19世紀にいたる西欧の科学、宗教とはキリスト教を指す。両者の間の長い闘争の歴史を概観したのが本書。キリスト教そのものと云うより、キリスト教神学あるいは教会と科学の戦いといった方が良い。記述は簡潔であるが、その背後には著者があたった膨大な資料の裏付けがある。プラトン、アリストテレスから、ガリレオ、ニュートンにいたる多数の哲学者、科学者、そしてまったくなじみのない聖職者の名前がたくさん出てくる。

 著者は、コーネルとともにコーネル大学の創設に参画し、初代学長を務めた。コーネル大学は当時のアメリカの大学を束縛していた多くの無益な規制や有害な方法から解放された進歩的大学を目指して創設された。それが、反宗教的であると攻撃された。著者はその背景に神学的宇宙観と科学的宇宙観の対立があることを見て取り、本書の中身となる研究を深めていったと、前書きで述べる。専門は歴史学および英文学だが、政治家としても、ペテルブルグ駐在大使、ドイツ駐在大使などを務めている。100年以上経った現在でも、アメリカの教育界では、進化論を否定し、創造説を信じる勢力が強い。宗教と科学との戦いは永遠に続くかも知れない。

 扱われているのは、地理学、天文学、化学と物理学、解剖学と医学、地質学、経済学、科学教育の8分野である。なかでも地動説をめぐるガリレオのことが詳しい。

 地理学の所では、聖書の言葉基づく誤った解釈がコロンブスによる新大陸の発見を促したという、皮肉な現象が述べられている(p35~)。聖書の中の天地創造の過程で、水は大地の7分の1の所に集められた、という記述を解釈した枢機卿ピエール・ダイは、地表のわずか7分の1が水で覆われているなら、アジアの東海岸とヨーロッパの西海岸は近いはずだと考え、『宇宙像』という著述に表した。コロンブスはこの本を読んだ。「
セビリアの図書館の貴重書の中でも、コロンブス自身が注を入れた同書の写本ほど興味あるものはない。マルコ・ポーロが到達したアジアのジパンゴまでの太洋横断航路は短いといことをコロンブスに確信させたのは、実にこの写本であった。天啓と思われていた聖句にもとづくこの誤りがなかったならば、コロンブスは彼の航海に必要な勇気をうることはできなかったであろう。このただひとつの神学的誤信が、一連の航海を促進し、その航海によってこの神学的誤信ばかりでなく、聖書に根拠をおくそれ以外のさまざまな地理学説が完全に撲滅されたということは、面白い事実であった」と著者は言う。

 プラトン、アリストテレス:
プラトン、アリストテレスの遺したものは、自然についての学問は可能であり、人類の最高の仕事は自然の法則を発見することだという観念である。また、学問の自由を与えた。しかし、プラトンの展開した世界は、自然科学がその存在理由をほとんど持たないような世界であり、また、アリストテレスが展開した世界は、「あるがままのもの」を観察することだけではなく、それよりも「あらねばならぬもの」についての思弁によっていっそう自然科学が発展させられるような世界であった。前者からは中世の魔法の多くの萌芽が生じ、後者からはその萌芽を助長する様々な論理的方法がキリスト教神学の中に入ってきた。(p92)

 そして、トマス・アクイナスについて:
聖トマス・アクイナスは、科学を神学的偏見と形而上学的方法と教会的支配の専制のもとにおくために、自分の全思想を動員したのであった。彼の方法を用いればどんなものが造り出されるかを示す顕著な実例を、彼は世界に提供した。アリストテレスの『天地論』に関する彼の注釈は、神学的論証と聖書の字義的解釈とが、当時理解されていた科学的事実と結合した場合に生まれるものの害悪の例証であるが、それは、人間の天分と人間の愚昧との異常な記念碑としていまもなお残っている(p99~)。

 ここではその中身は具体的には述べられていない。しかし、天動説が中世世界を支配したのは、彼がそれを『天地論』の中で明示したからであると、別の所では述べている(p40)。それにしても痛烈な批判である。

 著者自身は熱心敬虔なキリスト教徒。科学と宗教の戦いの歴史の中で、最後は科学が勝ってきたが、それは結局は宗教の思想を高め、宗教の方法を改善することになると言う。


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書名 異邦人 著者 アルベール・カミュ  窪田啓作 訳 No
2012-38
発行所 新潮文庫 発行年 昭和29年 読了年月日 2012-09-04 記入年月日 2012-09-16

 再読。最初読んだのは高校時代。当時評判になったので、学校の図書室から借りて読んだ。小説の意味するものがよくわからなかった。太陽のせいで人を殺し、死刑判決を受ける主人公というストーリーと、「私はマリイに欲望を感じた」というフレーズだけが、いまでも記憶に残っている。主人公が女友達と絡み合うようにして海で泳いでいるシーンだ。

 再読のきっかけは、私の俳句へのコメント。「虎尾草のさゆるぎもなし無縁墓」という句に対し、友人から、真昼の死のイメージがよく出ている、カミュの『異邦人』の「ママンが死んだ」から始まるあの暑さの描写に近い感覚だ、とのコメントが送られてきた。思いもかけぬ感想であった。

「ママンが死んだ」。何という憎い出だしだろう。私の記憶からはまったく欠落していた前半のママンの葬式が、実は小説全体にも大きな意味を持っていた。母を養老院に入れ、その葬式の際にも涙を流さなかったことが、陪審員の心象を極めて悪くする。

 一種の不条理小説とされるこの作品の、哲学的な意味は十分にはくみ取れなかったが、読み返してみて素晴らしい小説だと思った。何よりも文体がいい。そして風景の描写が細かい。これは『ペスト』を読んだときにも感じた。高校生の私にとって、小説はストーリーであり、作者の主張が何であるかをくみ取ることであった。もっと広く文学作品を味わえるようになるには、歳を重ねることが必要だった。

 主人公ムルソーの独房で感慨:
追憶にふけることを覚えてからは、もう退屈することもなくなってしまった。時には、自分の部屋に思いをはせたりした。想像のなかで、私は部屋の一隅から出て、もとの場所まで一回りするのだが、その途中に見出されるすべてを一つ一つ心のうちに数えあげてみた。(中略)その結果、数週間たつと、自分の部屋にあったものを一つ一つ数え上げるだけで、何時間も何時間も過ごすことができた。こういう風にして、私が考えれば考えるほど、無視していたり、忘れてしまっていたりしたものを、あとからあとから、記憶から引き出してきた。そして、ことのとき私は、たった一日だけしか生活しなかった人間でも、優に百年は刑務所で生きてゆかれる、ということがわかった。そのひとは、退屈しないで済むだけの、思い出をたくわえているだろう。ある意味では、それは一つの強みであった。(p82)

 小説の結び、説教にやってきた司祭にムルソーは怒りをぶつける。彼がぶつける言葉、内容が著者の思想の核心だろう。ただ、十分には理解できない。怒りがおさまりひと眠りから覚めたムルソーは、久しぶりにママンのことを思う:
死に近づいて、ママンはあそこで(養老院)解放を感じ、全く生きかえるのを感じたに違いなかった。何人も、何人といえども、ママンのことを泣く権利はない。そして、私もまた、全く生きかえったような思いがしている。あの大きな憤怒が、私の罪を洗い清め、希望をすべて空にしてしまったかのように、このしるしと星々とに満ちた夜を前にして、私ははじめて、世界の優しい無関心に、心をひらいた。これほど世界を自分に近いものと感じ、自分の兄弟のように感じると、私は、自分が幸福だったし、今もなお幸福であることを悟った。すべてが終わって、私がより孤独でないことを感じるために、この私に残された望みといっては、私の処刑の日に大勢の見物人が集まり、憎悪の叫びをあげて、私を迎えることだけだった。(p127)
 この終わりの部分もすごい。

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書名 人 イヌに会う 著者 コンラート・ローレンツ、小原秀雄 訳 No
2012-39
発行所 至誠堂書店 発行年 昭和41年 読了年月日 2012-09-11 記入年月日 2012-09-16

 これも長いこと本棚に放置されていた本。たまたま、息子のところでチワワ犬を飼い始め、先日家にも連れてきた。まだ子犬で人見知りせず、家の者にも可愛がられた。私は猫派で、多分本書も読み出して途中でやめてしまったものだ。
 ローレンツの本だから、並のイヌの解説書ではないが、自分の飼い犬との交流の具体的なエピソードを中心に書いてあるから、それほど抵抗なく読める。なんと言っても驚くのは、飼い犬の多さ。それぞれに個性的なイヌが登場する。愛情に裏打ちされた観察の鋭さ、細かさ、そこから導かれるイヌの行動の背後にある心理の洞察。「イヌとの交流」と云ったが、まさに「交流」である。

「人と家畜」といった一般論の部分が面白かった。イヌの先祖はジャッカルであるという。草原を狩猟して歩いていたヒトが捨てた肉にありつけるので、ジャッカルはヒトの後をついて回った。やがてヒトは、野営地でついてきたジャッカルの群れが、さらに巨大な猛獣から彼らをまもってくれることに気がつき、家畜化への道がつけられたという。
 この説は大変面白かった。ところが、巻末の訳者解説を読むと、その最後に小さな活字で、追記として、ローレンツは後に、ジャッカル起源説を捨て、小型オオカミ説をとっているという。

 一方、オオカミの血を引くイヌの系統もある。この両者の違いはイヌ好きの人には明瞭である。ジャッカル系のイヌは主人を自分の親として遇するが、オオカミ系のイヌは主人を群れのリーダーとしてみる。オオカミは純粋に捕食獣で、唯一の食糧である大きな動物を殺すのに仲間の助けが必要で、厳しい社会的な組織、群れのリーダーに対する真の忠誠と相互の完全な協力を必要とするからである。(p37)

 ジャッカルの飼育化を著者は5万年前と推定する。一方猫の家畜化はずっと新しい。古代エジプトでネコが崇められたのは、それが百獣の王の縮小版であるからだ。「
私にとってはまた、ネコの魅力は、私自身の家のなかという枠内でも、ヒョウやジャガーやトラと共通するありのままの野生と神秘的な優美さを彼らに劣らずもっていることである」と著者は言う(p24)。ネコの家畜化はずっと容易であった。

 
二種類の動物だけが、捕虜としてではなく人間の家庭に入りこんできて、強いられた奴隷の身分とは別の身分で家畜となった。イヌとネコである。彼らに共通しているところは二つある。ともに食肉目に属すること、およびハンターとしての能力で人間に役立っていることである。その他すべての性質、とくに人間との関係では、彼らはまるで夜と昼のように違っている。その生き方すべてを、事実その関心のすべてをこれほど徹底的に変えてしまった家畜はイヌ以外にはない。これほど本当の意味で家畜化ということが似つかわしい家畜はイヌ以外にはない。ところが数千年にわたる人間とのつきあいで、ネコほど変わらなかった動物はないのだ(p5)。

 ネコはエジプトでは早くから家畜化されていたが、ヨーロッパに入ってくるのは遅かった。8世紀にはドイツには明らかに1匹のネコもいなかった(p27)。

 人間は今日においても、高等動物と共通する特性と能力を有しているが、しかし、人間の理性と倫理の高度の発達は、それらの特性や能力の背景のなかに明確に存立している。従って、動物が人間に勝るという言い方は全くの冒涜である。不幸にして動物愛護家の中にはこうした考え方に傾くものがいる。しかし、人類愛を持つものだけが、道徳的な危険を冒すことなく動物に対して愛情を注ぐことができる、と著者は言う(p88)。

 人間も家畜化された動物のように、本来の感覚や本能が鈍っている。しかし、この鈍化こそが人間の行動の自由の発展のためには必要条件であった(p160)。

 
不幸にして、私は大型の類人猿と本当の友情を結ぶ経験を持たなかった。(中略)私は知性を示す他の技能で類人猿がいかにイヌをしのいでいるにしても、人間の話すことを理解するうえではイヌのほうがまさっていると信じている。ある点では、イヌはもっともりこうなサルよりもはるかに「人間的」である。人間と同じように、イヌは家畜化された動物である。そして人間同様、イヌの家畜化は二つの体質上の資質に負っている。第一は、本能的な行動の固定した軌道からの解放であり、それは人間にたいしてと同じく、イヌの行動に新しい道を開いた。第二に、持続する若々しさである。イヌにあっては、それは永遠に愛情を切望する根源であり、人間にあっては、外に向けて広く開かれた心となって、豊かな老年にまで保持される。(p169)。

 イヌとの色々なエピソードのなかでは、雌イヌスージとダニューブ河を遠泳した一日を書いた「イヌの日」(p177~)が、これほどまでに人とイヌとは心を通わせることができるのかと、ネコ派の私にもうらやましくなるほどのエピソードだ。


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書名 ヒトラー暗殺計画 著者 小林正文 No
2012-40
発行所 中公新書 発行年 昭和59年 読了年月日 2012-09-19 記入年月日 2012-09-23

 今月のエッセイ課題が「パレード」であった。凱旋パレード→凱旋門と連想し、ウイキペディアで凱旋門のことを調べた。パリを占領したヒトラーも凱旋門を潜ってシャンゼリゼを進んだとあった。それから関連でヒトラーに飛び、暗殺計画に飛んだ。1944年7月20日の失敗に終わったヒトラー暗殺計画が詳細に記されていた。詳細なその記録は小説以上に劇的で引き込まれた。もっと知りたいと思って、本書を取り寄せた。

 シュタウフェンベルク大佐による暗殺計画の実行の詳細だけでなくその背景、反ヒトラー運動の歴史、クーデターの失敗、事件後の推移、連合国との関連、戦後への影響など、広い視点から書かれている。事件関係者の多数の写真、現場である総統大本営の作戦会議室のテーブルを囲んだヒトラーらの人物配置と爆弾の位置の図なども掲載される。

 7月20日の記録はシュタウフェンベルク大佐の行動を中心に分単位で経過を追っていく。これはネット記事とほぼ同じで、もうドキュメントとして確立されたものなのだろう。2個用意した爆弾を時間に余裕がなくて1個しか鞄に入れられなかった、テーブルの下に置いた鞄を、そばにいた人物が邪魔に思い足で奥に押しそのために、ヒトラーと鞄を頑強なテーブルの脚が遮ることになってしまった。この2つのことが大きな要因となり、ヒトラーは奇跡的にかすり傷だけで助かった。ヒトラーはその日の午後、来訪したムッソリーニと会っている。爆発で4人が死んでいる。爆発は12時42分。直前に会場から抜け出し爆発音を聞いたシュタウフェンベルク大佐と副官は、ヒトラーの暗殺を確信し、ベルリンへ飛んで帰る。そこで、彼の属する国内軍(ネットなどでは国内予備軍としている)司令部のオルブリヒト副司令官らと事前に示し合わせたクーデター計画を発動させる。だが、もたもたしているうちに、ヒトラーの生存が確認され、クーデター計画は鎮圧され、当日の夜12時15分にはシュタウフェンベルクやオルブリヒトらは即決裁判で銃殺される。

 ヒトラー政権の打倒を目指すクーデター計画は、1944年7月20日事件の数年前に遡る。それは三つのグループからなり、一つは主として既成の政治家よりなる保守派、もう一つがクライザウ派と呼ばれる若い官吏、学者、教会関係者、旧社会民主党の政治家、そしてクーデター実行組の軍人グループである(p21)。反ナチ運動がこうした広い範囲に及んでいたことが意外だ。ヒトラー亡き後の政体、政策に関してはそれぞれに思惑が違っていた。軍人たちはヒトラーの軍への関与や作戦に反感を持っていたが、それ以上にユダヤ人虐殺、ロシア戦線におけるロシア軍政治将校の無差別な虐殺への人道的見地から、反ヒトラー感情を強めていったという。

 軍人がヒトラーを暗殺する場合の一つの問題は、宣誓の問題であった。ヒトラーが総統に就任して以後、軍人は神の名において「国軍最高司令官のアドルフ・ヒトラーに無条件に服従し」と宣誓した。日本人の私にはちょっと想像できないのだが、彼らにとって神にかける宣誓の意味は極めて重い。彼らが最終的に達した結論は、宣誓の双務性である。神の定めた道徳律が宣誓の基礎にあり、それは宣誓をしたものも宣誓を受けたものも等しく束縛する。宣誓を受けたものが、その道徳律に反した場合、宣誓をしたものもそれに反することが許される。クーデター後、国家元首に予定されていた、元陸軍参謀総長のベック元帥も、シュタウフェンベルク大佐も同じ結論に達していたという(p56~)。なお、ベック元帥はクーデター失敗後、拳銃で自殺する名誉を許可され、シュタウフェンベルク大佐らの処刑直前に自らの命を絶った。

 本書によれば、ヒトラーの暗殺計画は実は8回もあったという。そのいずれもヒトラーを殺すことはできず、強運の持ち主として、彼のカリスマ性を高める結果となった。シュタウフェンベルクも過去に4回実行を計画した。しかし、ゲーリングやヒムラーといったナチの最高幹部も一緒に殺害しなければならないと考え、直前になり彼らが同席しないことを知り、あきらめている。7月20日の会議にはこの二人はいなかったが、シュタウフェンベルクにとってはもう待てなかった。貴族の血を引く彼は、ドイツ軍のエリートである。1943年、アフリカ戦線で負傷し、右手を失い、また左眼を失明した。事件当時の肩書きは国内軍参謀総長で、ヒトラーと顔を合わせる機会も持てた。36歳であった。

 事件後600人が逮捕されたと本書は云う。ネット記事では、この数は5000人から7000人となっていて、処刑者は約200人だという。ロンメル元帥の関与は明確ではないが、自殺を強要され、自ら命を絶った。

 戦後、この事件は連合国側からは必ずしも高く評価されなかった。ドイツの敗戦が濃厚になった時期に便乗したものだという見方がされた。しかし、事件の全容が明らかにされるに従い、ドイツの良心として高く評価されるようになった。国内にあのような反ナチ運動を持ったということが、戦後を生きるドイツ国民の誇り、心のよりどころともなった。
 筆者は読売新聞の記者。執筆当時まだドイツは東西に分かれていた。

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書名 一遍 著者 大橋俊雄 No
2012-41
発行所 吉川弘文館 発行年 昭和63年 読了年月日 2012-09-28 記入年月日 2012-09-30

 昨年秋、オリーブ句会吟行で相模原市当麻の無量光寺に行った。一遍上人を開祖とする時宗の寺で、境内には前屈みに何かを訴えるように手を合わす遊行姿の一遍像があった。私が入った俳句結社天為の有馬朗人主宰は一遍上人のことが好きだという。オリーブ句会のルツ子主宰も無量光寺には何回か吟行に来ているという。一遍とはどのような人物で何が現代人を惹きつけるのか知りたいと思った。さいわい吉川弘文館の人物叢書にあった。

 一遍、鎌倉時代中期の延応元年(1239年)生まれ、正応2年(1289年)没。
 生まれは伊予の国。河野氏に属し、祖父河野通信は水軍をもって源平合戦で源氏に味方し、その功績により伊予の守護に任じられた。通信は北条政子の妹を妻としていた。しかし、河野一族の多くは承久の乱に際し、朝廷方についたため所領を没収された。一遍の父通広は承久の乱の際には出家していたらしい。一遍は10歳の時に母を失い、出家した。

 一遍の伝記としては没後弟子が残した『聖絵』と『一遍上人絵詞』とがあり、本書では特に前者を参照にして、詳しい遊行行程が記される。『聖絵』の中の絵も挿絵として随所に入れられている。遊行の足取りとエピソードは詳しいのだが、一番知りたかった、念仏を唱え、踊りを踊り、念仏札を配った一遍の行動が、当時の宗教界においてどのような意味を持ち、また、民衆にどのような影響を与えたかは、余り明確には浮かび上がってこない。山岳に籠もっていた既成仏教を民衆の中に広めたというのが一遍とそれに続く時宗の意義だろうと思うが、詳しいことは法然、親鸞、一遍と続く浄土信仰の歴史を知る必要があろう。

 一遍は熊野本宮で啓示を受ける(p45~)。信不信を選ばず、浄不浄を選ばず、縁ある人たちには誰彼の差別なく札を配りなさいという啓示であった。平安末期から熊野権現の本地は阿弥陀仏であるという信仰が広まっていて、一遍も熊野に詣でたのだ。

 一遍の遊行は北は奥州江刺から南は鹿児島まで及んでいる。一行には尼僧も加わっていた。粗末な身なり、時には野宿という遊行である。東北から回ってきて鎌倉に入ろうとした一行は、木戸で拒まれる。たまたま執権時宗の一行が居合わせたので、身なりの粗末な彼らは通ることを許されなかった。阻止した武士に対し、一遍は臆することなく説教する。「
法師にすべて要なし、只人に念仏をすすむるばかりなり、汝等いつまでながらへて、かくのごとく仏法を毀謗すべき、罪業にひかれて冥途におもむかん時は、この念仏にこそたすけられたてまつるべきに」と応酬した。一行は鎌倉に入らず、野宿したが、民衆が食べ物や衣類を持って、念仏札をもらいにきた。「こうした死をもおそれない、権力にも屈しようとしない、武士を向こうにまわしての毅然たる態度に、人知れず、それを見ていた人たちは感動した。宗教者の理想像を垣間見た人たちによって、次から次へとささやかれ、一度見てみたい心にかられ、多くの人たちが集まって来たのではあるまいか」と著者は言う。(p99)

 遊行地に神社が多く含まれるのは、当時の神仏混淆を示すものだ。信濃の国佐久郡伴野というところで初めて踊念仏を行う。踊念仏については以下のように記す:
……一遍はどのみち捨てきることのできない煩悩であり、情念であるならば、むしろそれを燃えつくすほど燃えあがらせ発散させてしまうのが醇化の道ではないだろうか、として、その燃焼発散の方法として採用したのが踊念仏であった。中略 時衆も心のうずくままに、鉦をたたきながら、「南無阿弥陀仏」と繰りかえし名号をとなえ、思うざま足をはね、首を振り、体をゆすれば、興奮の末に我も忘れてエクスタシーの状態になる。こうした状態になったときを、踊躍歓喜といい、心は仏と一つになったという(p80~)。

 遊行の先輩として空也上人を一遍は追慕した。
一遍が「身命を山野にすて、居住を風雲にまかせて」遊行し、「身に一塵をもたくはえへ」ることなく「絹綿のたぐひ」を肌にふれることもなかったのも、「金銀の具を手」にすることもなく「酒肉五辛」をたつ生活をしていたのも、空也の先蹤をおいたいという心からであった(p126)。
 このような一遍の生き方が現代人の共感を呼ぶのだろう。

 16年間札くばりと踊念仏を布教の手段として、休みなく日本各地を回った一遍は、道場を建てる余裕も意志もなかった。また、新しい宗旨を開いて開祖となる意志もなかった。彼の死後、教団として時宗を組織したのは弟子の真教である。時宗の総本山は藤沢の国号一号線沿いにある遊行寺である。当麻の無量光寺は、15年の遊行を終えて、真教が道場を建てて住んだところである。

 平安仏教と鎌倉仏教の違いについて以下のように言う:一
遍に接した人たちは、一遍に聞けば生き方、死に方のすべてにわたって何事でも教示してくれた。ここに宗祖といわれる僧の出た鎌倉時代と平安時代の違いがあった。平安時代の人たちは生きざま、死にざまの理想像を『往生伝』を媒介として知ったが、鎌倉時代の人たちは宗祖の口から直接いかに生きるべきか、死ぬべきかの理想を伝記ではなしに、論理というかたちで耳にすることができた。(p165)

『聖絵』は弟子であり、一遍の弟であった聖戒が一遍没後10年の忌日に完成させたものである。

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書名 金魚撩乱他 著者 岡本かの子 No
2012-42
発行所 筑摩文庫 発行年 1993年 読了年月日 2012-10-04 記入年月日 2012-10-16

 
本棚に放置されていた岡本かの子全集第4巻。表題の他に8編の短編・長編が納められている。岡本かの子全集3にある『花は勁し』という作品を読むために間違えて購入したものだ。

 『金魚撩乱』は一人の女性への想いを金魚の新種を作り出すことに転化させ、すべてを注いだ青年の物語。かの子の代表作に一つに数えられている。東京の山の手の台地の尽きるところ、谷間で、谷の奥から涌き出る水を利用して金魚の養殖を生業とする家に、復一は養子に来た。谷窪の上には裕福な一家が生活している。そこの娘、真佐子と復一は幼なじみだ。だが、真佐子は彼とは違う階層に属し彼らの上空を軽々と飛んで行く女だと想う。真佐子の父は、事業として復一の金魚の品種改良に金銭的な援助をする。復一は日夜金魚と取り組む。真佐子は結婚する。月日が流れるが、世界をびっくりさせるような金魚はできない。そして彼が品種改良に取り組んでから14年目の年の秋、大雨のために金魚を飼っていた7つの池からは金魚がすべて流されていた。彼は出来損ないの金魚を古い池に捨て飼いにしていて、その池の金魚はほとんど見なかった。台風のために飛ばされた菰の下の古池を彼は数年ぶりに見た。

…見よ池は青みどろで濃い水の色。そのまん中に撩乱として白砂よりもより膜性の、幾十筋の皺がなよなよと縺れつ縺れつゆらめき出た。ゆらめき離れてはまた開く。大きさは両手の拇指と人差指で大幅に一囲みして形容する白牡丹ほどもあろうか。それが一つ金魚であった。その白牡丹のような白砂の鰭には更に菫、丹、藤、薄青等の色班があり、更に墨色古金色等の斑点も交じって万華鏡のような絢爛、波瀾を重畳させつつ嬌艶に豪華にまた淑々として上品に内気にあどけなくもゆらぎ拡ごり拡ごりゆらぎ、更にまたゆらぎ拡ごり、どこか無限の遠方からその生を操られるような神秘な動き方をするのであった。

 この金魚は、真佐子より美しいと復一はつぶやく。池の端の泥濘のなかにへばり込んだ復一の前をその金魚は「
…多くのはした金魚を随えながら、悠揚と胸を張り、その豊麗な豪華な尾鰭を陽の光に輝かせながら撩乱として遊弋している。」(p62)
 過剰とも思える描写はこの作者独特のもののようだ。

 この他では『落城後の女』が面白かった。淀君近くに仕えたおあん、お玉、おあんの身の回りの世話をする斧(きよ)、常髙院に仕える小菊の、大阪落城前後の生き方。お玉は大阪城に殉じ、斧は関東方の間者であったことが露見し殺される。おあんは落ち延び、途中で小菊と合う。二人は小菊の親戚の奈良の家に引き取られるが、やがてそこを抜け出し関東へと向かう。そんなストーリーだが、本多正純が失脚した宇都宮釣り天井事件に二人とも絡んでいるのではないかと、作者は終わりで匂わせる。おあんは正純を摘発した堀伊賀守の寵妾となっており、一方小菊は正純の愛妾であった。上臈で美人のお玉は大阪冬の陣後、約束を違えて堀を埋める本多正純に使者として使わされる。若い女の色気で正純を落とそうとしたのだが、正純には無視される。おあんはお玉から正純に対する恨みを引き継ぎ、小菊を正純のもとに送り込み、そそのかしたのではないかと作者は言う。この小説の前書きには次のようにある:
女の命の脈略は摩訶不思議である。地の中の河のように、人知れず流れている。そこに意志ありとも思えない。しかし、率爾ではない。
 率爾:軽はずみ

 巻末の解説で、種村季弘は、女が強くなったのはなにも戦後だけではない、と本書を総括している。

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書名 東京の昔 著者 吉田健一 No
2012-43
発行所 ちくま学芸文庫 発行年 2011年1月 読了年月日 2012-10-15 記入年月日 2012-10-18

 
書店で目についた。題名からしてエッセイだと思った。本郷に下宿する私と、路地から表通りに出る角にある自転車屋の堪さんとが近くのおでん屋で出会い、意気投合し、神楽坂、白山と場所を変え一晩飲み明かす冒頭を読み進めていても、随所にちりばめられた文明批評に、これはノンフィクションで、エッセイだと思っていた。ただ、「私」の職業が、コーヒー豆を輸入し喫茶店に卸しているという設定であり、本郷の下宿というのが、吉田健一自身とはずいぶん異なると思った。吉田健一の酒豪振りは何かで知っていたとしても、銚子を一人10本もあけた後で、ウイスキー、ビールなどを延々と飲むのはずいぶん誇張があるフィクションだと思った。実はこれは小説であった。吉田健一に小説があるとは知らなかった。

 私は戦後の東京にあって、昔を回想する形で書いている。舞台は昭和10年頃の東京。私、堪さん、フランス文学専攻の帝大生古木君、麻布に住む私の知人の金持ちの川本さん、そして下宿の女主人おしま婆さんが登場人物。古木君はフランスへ行きたがっている。古木君と私は銀座の資生堂その他しゃれたバーで、プルーストやベルグソンを論じる。私は海外経験が豊富で、二人の会話にはフランス語がよく出てくる。筆者は深くプルーストを読み込んでいることが感じられる。あるいは、本書の通奏低音として、時間と記憶の問題があると感じた。

 一方堪さんとは本郷のおでん屋で自転車の話をする。仕事熱心な堪さんは自転車のブレーキの改良で特許を取る。私の斡旋で、川本さんが出資して、その新しいタイプの自転車を事業化する。しかし、それは大量生産ではなく、あくまでも手作りにこだわった自転車である。古木君のフランス行きも、川本さんの援助で実現の運びとなる。ざっとそれだけの話。

 ゆっくりと過ぎて行く時間。それぞれ異なった職業や生い立ちを持つ人々のほんわかとした付き合い。古き良き昭和の雰囲気が横溢する。それでも、人々はやがて戦争があるだろうと思っている。

本書から
 
…寒くなくなった季節に雨が降っている東京はこれは今でも風情があるのだからその頃は格別のものだった。一体に都市というのは雨が似合うもので雨が降っていても引き立たない所まで行けばもう救いようがない。(p139)

 田舎に引きこもりプルーストと格闘して、東京に戻ってきた古木君と私の会話:(p185)
「田舎は煩(うる)さいんですよ、」と古木君が言った。「音がしないもんだから。それともあれは人がいないからでしょうか。」
「都会にいて静かだと思うような都会がいいんでしょう、」とこっちは言った。「東京がそうだ。」そしてそれが都会らしい都会の定義だと付け加えようとしてそれは控えた。
 

 ここに挙げた文は、本書の中では短い部類だ。読点のない長文が続く。論理を追うのを困難に感じたところがかなりあった。


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書名 定家明月記私抄 著者 堀田善衛 No
2012-44
発行所 筑摩学芸文庫 発行年 1996年 読了年月日 2012-10-28 記入年月日 2012-11-06

 かなり以前のことだが、東京大学史料編纂所の史料展を見た(参照→)。藤原定家の『明月記』もあったが、漢文で書かれていてびっくりした。最近になって『更級日記』の現在に伝わる写本は定家の手になるものであることを知った。また、奥州街道歩きの際、宇都宮の北、氏家には定家の7回忌に際し、定家をモデルにつくられたという地蔵尊があって驚いた。そんなわけで定家への関心があった。堀田善衛の本書のことは知っていた。定家という巨人のことをもっと知りたいと思い手にしてみた。

 難解な漢文を現代文に読み解いて提示してくれている。労作だ。大変面白い。

 本書の面白さは二つ。一つは、日記に示された赤裸々な定家の人間像および当時の宮廷、貴族の生態。もう一つはそれらに対する著者のコメント、あるいは歴史認識。

 百人一首の選者、新古今集の選者、あるいは古典文学の写本を残した文人ということから、当時の最高の文化人として、優雅に月を眺め、花を愛で、詩作に専念していた人という私が抱いていたイメージからは予想もしなかった定家の日常が明らかにされていく。一言で言えば中流貴族の悲哀と言ったものが、全編を通じて述懐される。まず驚くのは父俊成には27人の子供があり、定家はその一人。定家自身にも27人の子供がいたという(p69)。式子内親王(後白河の皇女)との恋愛もあったようだ(p55~)。

『明月記』は定家19歳の治承4年(1180年)2月5日から書き始められ、実質56年に及ぶ。ただし、まったく欠落している年もかなりあり、年に数日しか記されていない年も多い。欠落は源平争乱の時代、鎌倉幕府初期などの時期で、歌人としての定家が形成されて行く過程が落ちているという(p65)。それでも当時の宮廷、社会を知る上での一級の史料だ。著者は定家を「
ジャーナリストとしても才能のあった人であり、また明月記の全体をも一つのジャーナリズムとして読むことも可能である」としている(p224)。中でも宮廷での出来事が詳細に記され、また自身の貧乏への嘆きと昇進を求めての涙ぐましい努力と、それが果たせないことに対するぼやき、愚痴、同僚への悪口が連ねられる。

 宮廷の儀式には細かい決めがある。服装もきちんと決められている。その装束が用意できないので、欠席したとか、後鳥羽上皇の度を過ぎる遊びにはつきあえないので、途中で退座したとか。あるいは自分の庄園をめぐるごたごたとか。定家は姉の持つ庄園を差し出すことを約束して、後鳥羽院への絶大な影響力を持っていた女性、卿三位藤原兼子へ昇進の取りなしを依頼している。賄賂である。定家は50歳で従三位まで上り公卿の仲間入りが出来た。ついでにいえば、京都に藤原兼子があれば、鎌倉には北条政子が権勢をふるっていた。また、当時は定家の姉に見られるように女性も所領をもっていた。堀田はいう「
女子が相続権をもっていたことが彼女たちの経済的独立を保証し、それがひては恋愛において男たちを通わせる文明形態を成立させ、また女流文学の一大形成をも保証した原因の一つであった。」(p108)

 新古今集は後鳥羽上皇の命により定家らが編集する。4年後には一応出来上がり、上皇は祝宴を催す。定家44歳。しかし、定家はその宴席には参加していない。(p220)。上皇からはその後も新古今集への撰歌をめぐり次々に意見が寄せられる。撰歌はその後も11年9ヶ月にわたって続けられた。

 新古今集を堀田は「
後世の今日から見ても、これだけのつきつめた抽象美を形成した詞華集は、世界文学のなかでも唯一無二であろう。」と述べる。(p221)

 雲さえて峯の初雪ふりぬれば有明のほかに月ぞ残れる
 という定家の歌に、堀田は驚くべき才能を認め、それ自体に一つの文化さえ見出しうると記す。次いで以下のように述べる:
それは高度きわまりない一つの文化である。そうして別に考えてみるまでもなく、中国だけを除いてはこの十二世紀から十三世紀にかけてかくまでの高踏に達しえた文化というものが人間世界にあって他のどこにも見ることがないというにいたっては、さてこれを何と呼ぶべきかと誰にしても迷わないではいられないであろうと思う。中略  けれども、さていったい、だからどうだと言うのであろうという不可避な念を更におすとなれば、この音楽はその瞬間にはたと消えてしまってあとには虚無が残るばかりなのである。そこに意味も思想も、そんなものは皆無なのである。(p18)。

 西行について:
定家は、歌の道に専念することに決したのは西行に会ったことであると記している(p78)。その西行を「一つの時代の取りなし役、今風にこれを言えば黒幕、あるいはフィクサーの役を果たしているかの観がある」と、著者は評する(p82)。崇徳上皇への鎮魂、焼失した東大寺再建の勧進、頼朝との会見など西行の行動を見ると、うなずける。

『明月記』に表された後鳥羽上皇の遊興振りは想像を絶する。昼は蹴鞠、夜は白拍子や傀儡士などを呼び込んでの酒宴、あるいは子供だましみたいな遊技。定家の息子為家は歌の道よりも上皇の宮廷での蹴鞠に熱中し、定家を悩ませる。

 後白河法皇について:後白河法皇は建久3年(1192年)に亡くなる。定家31歳、崩御の日や葬儀の様子を記している。通夜が延々と毎晩続き、「
指(サ)シタル役無キ身ノ伺候、環(カヘ)リテ憚リアリ。仍テ退出ス」。たいした用事もない身で、居てはかえって邪魔になるだろうから帰って来た、と正直に書いている。仏事の後の僧侶へのお布施についても細かく記している(95)。

 著者によれば後白河は遊女でも白拍子でも、あるいは傀儡師でも一芸に秀でたものはすぐにも院に入れて楽しんだ。「
今様は、美濃国青墓の遊女であった目井という女と、その娘分の乙前に習った。乙前は十何年も前に引入れられている。ここで面白いのは、この両女はともに西行の外祖父清経のかつての同棲者であったものであり、よって当時の男女の廻遊の様がうかがわれよう」と記す。乙前という名を知ったのは今年の大河ドラマ「平清盛」である。乙前を松田聖子が演じている。前半に出てきたのでそれで終わりかと思ったが、先週も出てきて、病床に伏す乙前を後白河が訪問するシーンだった。本書を読んで、それがよく理解できた。後白河は、日本の代表的春画集『小柴垣草紙』の説明文の筆者でもあるとのこと(p97)。

 後鳥羽院について:
この院は実際に主催者としても実践者としても、競馬、相撲、蹴鞠、囲碁、双六、それから何軒かもの別邸と庭園の建築等々、何をさせても、いわばルネッサンス人的な幅をもっていて、京都宮廷などというせせこましいところに閉じ込めておくのが惜しいくらいのものであった。後には承久の乱という戦争までを発起する(p161)。

 後鳥羽院はそのかたわらで和歌に熱中し、その上達振りは定家も明月記に記し、感嘆している。そして、千五百番歌合わせを挙行し、さらに院に和歌所を設置する(p161~)。

 堀田は述べる:
それが精神の遊技空間で行われるものであること、祭祀。社交遊技、競技であること、詩とは学識の夢のごときものであることなどは、平安末期鎌倉初期の後鳥羽院宮廷においてはほとんど世界的典型であり、後鳥羽院その人もまた遊戯人間(ホモ・ルーデンス)の典型的存在である(p163)。

 後鳥羽院が新築した白河新御所の付属の御堂に、定家らは障子絵と和歌を書いた。日本各地の名所絵に定家は46首の歌をそえた。著者は言う:
畿内だけならばともかくも、阿武隈川や塩竃ノ浦まで、見たこともないところを絵に描き歌を作る――後の後鳥羽院の評に言う「ただ、ことばすがたの艶にやさしきを本躰とせる間」ということになる――言語のしらべだけで成立する芸術の極限であろう。現実の所見とか実情とかということは、後世の芭蕉など浮浪の徒にまかせておけばよいのである。(p250)

 家元制度:48歳から50歳への2年間に定家の作った歌はわずか12首である。これは家のものとして歌学をほぼ確立し得たという自信に基づき、もうそれほどつくらなくても良いという気持ちがあったからだろうと筆者は言う。そして、続ける:
芸術が家のものとなったりしたのでは、といった考え方は近世以降のものである。けれども、少なくともそれが家のものとなったりしたのでは、璽今独創を欠くものとなることは当然自然であり、存続だけが自己目的化して行く。縄張り文化集団の成立であり、それは日本において、この後に来るあらゆる文化事象を蔽って行くであろう。俳諧、連歌、茶、能、花道等々、すべてがこのパターンを取る。存続だけが自己目的化と化することにおいて、天皇制もまた例外ではない。鴨長明ならば次のように批判するであろう。
「この国小国にて人の心ばせ愚かなるによりて、もろもろの事を昔に違へじとするにてこそ侍れ。」(無名抄)
(p269)

 本書では定家と対照して鴨長明がしばしば言及される。著者は長明についても造詣が深いのだろう。

 定家は24歳の時、宮中で同僚と言い争いになり、相手を室内用のたいまつで殴り、宮中から追放される。父の俊成は、後白河院に息子の復帰を願う嘆願書を出す。それには俊成の気持ちが託された一首がそえられた。後白河院からの返書にも、復帰を許す意味の返歌がそえられていた。著者は言う:
和歌とは何か。それは、和する歌、要するに、こたえる歌、の意なのである。それが原意である。つまり近、現代的な独立した一首の詩歌という意は、原意には添っていないのである。それはつねに応答、交換を期しているもので、場合によっては会話、対話の一種でさえある。従ってその実用のなかには政治的応用さえが入りうるのである。(p68)

 高浜虚子が、俳句は存問の詩だと言っているのを思いだした。和歌には対話の傾向が俳句よりずっと強いであろう。


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書名 定家明月記私抄続編 著者 堀田善衛 No
2012-45
発行所 筑摩学芸文庫 発行年 1996年 読了年月日 2012-11-11 記入年月日 2012-11-15

 
続編。建暦元年、1211年から、仁治2年、1241年、80歳で没するまで。『明月記』からの引用とならんで、『吾妻鏡』などからの引用して鎌倉初期の歴史記述に重点が置かれる。実朝暗殺、承久の乱、後鳥羽院と定家の対立。波乱に富んだ時代も興味をそそるが、そえられた筆者の史観も面白いのは上巻と同じ。

 定家の領する荘園で、傀儡師と定家の家人の間に喧嘩騒ぎが起きる。傀儡師一行は、そのことを検非違使に訴える。それに対して定家は及び腰で争うことをしない。何故か?それは傀儡師達が当時朝廷の厚い保護を受けていたからだとする。「
天皇が、漁撈の民、商工業者、諸芸人――すなわち遊女、傀儡、舞女、白拍子などの遊芸者集団――などの、「非農業民」の保証者であった可能性は事実として非常に高いのである。」(p37)と記し、勅撰和歌集に遊女ばかりではなく、傀儡の歌なども採用されているという。そして続ける「多くの人民にとっての、幻想装置としての天皇制は、彼等にとっては実用装置であった。」さらに、「私は天皇や皇太子一家が好んで相撲見物に行くのをTVなどで見ていると、天皇と遊芸人たちとの古い関係を思い出す。」(p39)

 梶原一族の滅亡から始まり、前将軍頼家の惨殺、畠山重忠殺害、和田一族の滅亡と続く鎌倉初期の政治を、「
これほどにも血腥い政府というものは、世界史にも稀なのではなかったか、と思われて来る。政権は、ほとんど連続テロというべき手段によって維持されている。」(p56)

 例えば、定家37歳の歌
 春の夜の夢の浮橋とだえして嶺に別る々横雲の空

 他2首をあげ、言葉の解説を一つしたところでぶちこわしになる、朦朧たる世界であるという。そして、こういう世界は完成されれば、それ自体で行き詰まり、その後は一層の頽廃の度合いを増すか、平明化であるという。

 頽廃の極みとして、例えば
 かきやりしその黒髪の筋ごとにうち臥す程は面影ぞたつ

をあげ、「
エロティシズムの抽象化、あるいは抽象性のなかに香を炊きこめるようにしてこめられたエロティシズムとしては、マラルメとともに、世界文学の最高の水準に達したものである。」(p73)

 定家は実朝に「新古今集」や「万葉集」を贈り、また実朝の和歌の添削もしている。著者に言わせれば、実朝は将軍であるが「
幕府の長であるよりも、その幕府における祭祀の長であり、時には祭祀用の象徴でしかなかった。」(p77)

 実朝は宋に渡ること夢見、そのための大船を作らせる。だが、船はどうしても海まで引き出すことが出来ず、由比ヶ浜に朽ちてしまう。実朝は、一方で官位の昇進を強く望み、短時日のうちに内大臣になる。急速に官位を上った彼は、次に来るものが自分の死であることを明らかに見ていたのかも知れないと、堀田はいう。鎌倉には自分は無用であり、無用のものは抹殺されてしまうことを、義経以降頼家までの運命に見ていたのだろうという。そして、実朝の

箱根路をわれ越えくれば伊豆の海や沖の小島に波の寄る見ゆ
 を絶唱であるとする。平安鎌倉期の和歌にはいわゆる絶唱にあたるものはまず見あたらないという。「
現実を失ってしまった者の眼に、箱根路、伊豆の海、沖の小島はまさに現実そのものでありながら、この風景はすでに現実から離陸してしまっていて、実朝の心象としての風景と化し、渺茫として風の音ばかりが耳に鳴っている。風景の自己分身(ドッペルゲンガー)である。この歌の周辺に、和すべき者も、また和すべき歌もなにもない。ありえない。孤独な実朝がいるだけである。絶唱たる所以である。」(p98)

 こうした解釈、鑑賞が堀田独自のものなのかは知らない。実朝は承久元年、1219年鶴岡八幡宮で殺される。

 鎌倉幕府の力が全国におよび始める。京都の貴族も宮廷に頼ってばかりでは生活が成り立たなくなる。そんな中で、定家は思い切った決断をする。関東の豪族、宇都宮頼綱の娘を、息子為家の妻に迎え入れるのだ。宇都宮頼綱は冨と権勢をあわせてもっているだけではなく、その妻は北条時政の娘で、為家の妻は時政の孫になる。かくして、定家は鎌倉幕府の中枢にしっかりとくさびを打ち込んだ。「
終始ノ吉憲(吉慶)、至愚ノ父ニ似タルカ。自愛シテ悔イズ」とその結婚を喜んでいる。(p112)。先日、奥州街道歩きの際、宇都宮の先、氏家で、定家の7回忌に建てられた地蔵尊があったが、こうした背景があったのだ。

 頼綱は定家とは歌の面で親交があった。頼綱は出家し京都に住む。晩年の定家は頼家の中院別荘に通って、藤の花を見たり、連歌に興じたりしていた。こうした交友の間に、中院別荘の障子に張る色紙形和歌の選定を依頼された。それが、後の世に百人一首となった。(p308)。頼綱の例に見られるように、関東も無骨一辺倒ではなかったのだ。

 ついでに、東海道歩きの時、白須賀の手前に為家と阿仏尼の大きな歌碑を見た。阿仏尼は為家の側室で、為家亡き後、その所領の相続をめぐって鎌倉へ行くが、その時の旅日記が「十六夜日記」である。堀田は、鎌倉幕府の定めた御成敗式目51箇条を、画期的な武家政権の法律であったと高く評価する(p283~)。相続をめぐる訴訟もこの法律によらなければならない。阿仏尼がわざわざ高齢を顧みず鎌倉に来たのはそのためであった。

 定家59歳の時、順徳天皇から依頼されて2首差し出す。そのうちの
 道のべの野原の柳したもえぬあはれ嘆の煙くらべに

 が、後鳥羽上皇の激怒を買い、定家は閉門になる(p118~)。「したもえ」は地中から芽が出てくること、「煙くらべ」は燃えるような思いの強さを比較すること。何という歌にも見えないが、後鳥羽にしてみれば許せなかった。背景として堀田は二つのことを指摘する。一つは柳をめぐる後鳥羽と定家の確執。定家は草木を植えることが大好きであった。庭に柳の木があったが、それを後鳥羽が強引に自分の宮殿にもっていった。定家は激怒し、『明月記』にはその怒りを書いた。おそらく後鳥羽も定家の怒りに気がついていたであろう。7年前のことだが、後鳥羽は忘れていなかった。この歌には自分への怒りが込められていると取った。もう一つ、この歌の本歌は「道のべの朽ち木の柳春来ればあはれ昔としのばれぞする」であるが、これは菅原道真の歌である。後鳥羽は自分を配流された道真になぞらえるのかと、怒った。

 こうした推論も成り立つかも知れないが、本質は、この歌のもつ「不吉」さにあるという。「道のべの野原の柳」という表現が、定家にあるまじき投げやりな言葉遣いであると堀田はいう。この歌には「景気」つまり景色、気配、詩的雰囲気、活気が欠けていて、それは不景気そのものであって、従って不吉であるという。

 後鳥羽院は晩年隠岐の島で『後鳥羽院御口伝』なるものにこのときのことを長々と弁明しているという(p130~)。堀田によれば後鳥羽院は和歌の本質をコミュニケーションに、特に君臣の間のコミュニケーションにあるとし、定家の歌はそのための土台となる「景気」欠いていたという。

 後鳥羽院の愛妾、伊賀局(元白拍子上がり)の所領の地頭改補の訴えを幕府は千騎の軍勢をもって上洛して、拒否回答をする(p150~)。これが承久の乱の発端である。後鳥羽側の準備はまったくなっておらず、簡単に敗れる。後鳥羽院の妄想に発するとしかいいようがないと堀田はいう。『明月記』はこの間の記述を欠いている。幸というか、定家は後鳥羽院から勘当をくらっていたから、乱には巻き込まれなかった。

 他の史料を用いて、承久の乱の経過を細かく追う。初めて知ることばかりだ。驚いたのは、敗れた後鳥羽院が勅命で、乱の首謀者の断罪を命じる(p174)。堀田はいう:
ここに天皇制というものの実際的応用に関する、実に端倪すべからざる、当初の大儀に対しての裏切りをも含む両義性、あるいは和歌のそれにもさも劣らぬ多義性が、むき出しに露頭していることを見る。

 後鳥羽は隠岐の島に流され19年間を過ごすが、この乱については弁明の一つも残していない。著者は言う:
戦争責任の当事者が口を噤んで何も言わぬというのは、これは洋の東西を問わず歴史の慣例といったものなのかもしれないが、その理由の大半は、おそらく自らの妄想の結果と、その妄想自体の両者を、事後につなげて説明も弁明も出来ないからである。

 承久の乱により、「
日本の文学といわず、日本文化全体の決定的な転回点が来る。文化は今一度民衆に投げかえされて、そこで再生しなければならなくなる。」(p189)

 以後、『明月記』は主として夜盗が横行し、路上に餓死者があふれる悲惨な京の情況を記載する。盗賊に貴族の邸宅が次々に襲われる。筆者もいっているように定家自身の家が襲われなかったのが不思議である。家人で守りを固めたので、強盗達は隣家に入ったという記載もある。定家のゴシップへの関心は年とともに増し、日記もそうしたもので埋められる。そのことが、定家のボケ防止になっていると堀田はいう(p236)。まったく同感だ。

 『明月記』の最後は嘉禎元年、1235年12月29日の記述で終わる。定家74歳、さらに6年を生きる。最晩年期にも歌学書、源氏物語注釈などを手がけ、晩年の定家には耄碌ということはまったくなかっただろうと、著者は言う(p314)。


 とにかく面白い本であった。

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書名 良夜 著者 鈴木ひろ子 No
2012-46
発行所 角川書店 発行年 平成20年 読了年月日 2012-11-04 記入年月日 2012-11-06

 
明けそむる陸前無辺雁ゆけり
 冒頭のこの句を目にし、圧倒されてしまった。「陸前無辺」、なんという日本語、なんというスケールの句だろう。次いで2句目
 如月の楉(すはえ)の先のこころざし 
 「楉」、どこからこんな言葉を見つけるのだろう。ちなみに楉は真っ直ぐに細く長く伸びた若い小枝のこと。広辞苑では「すわえ」として載っている。

 後は感嘆の声をあげながら、広辞苑、古語辞典、漢和辞典を引き引き読んだ。表紙裏には「俳句になる情景を瑞々しくとらえる感覚と言葉の純度に注目したい」という「萬緑」特別作品選評が載っていた。

 著者の鈴木ひろ子さんは私の高校同期生。今年の春、塩野七生さんの講演会の際に初めて鈴木さんと面識をえた。その時、彼女が俳句をやっていることを知った。10月の同期会の時、俳句の話をし、本書を送ってもらった。素人離れした句集だと思った。読み終えて、最後に載っていた略歴で著者は萬緑の同人であり、平成10年萬緑入会、15年萬緑新人賞、20年萬緑賞受賞と知った。

 有季定型の伝統俳句。本書の題となった
 二歳(ふたつ)のほほ五歳(いつつ)のおでこ良夜かな

 がほぼ唯一の字余り句かも知れない。これは孫のことを読んだものだが、家族への深い情愛に満ちている句が本書の一つの特徴。それがべたべたしたものでないことは、下記の最初の句を見れば明らかだ。(あかときは暁のこと)

 母逝けり冬あかときのつひの紅
 犬かきで泳いでゆけば父の胸
 ふたり子を虎刈りにしてあたたかし


 読み終えて、なんともさわやかな気分に満たされる。俳句の奥深さを知る。

 興味深いのは、傑出した冒頭の2句の詠まれたのは、平成12年。著者が萬緑に入会して2年後のことだ。結社に入る前にやっていたのかも知れない。あるいは、詩や文章への感覚は修行よりも持って生まれた才能がものをいうのかも知れない。


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書名 生成文法の企て 著者 ノーム・チョムスキー
 福井直樹・辻美保子訳
No
2012-47
発行所 岩波現代文庫 発行年 2011年 読了年月日 2012-11-17 記入年月日 2012-11-21

 池上嘉彦の『記号論への招待』を読み、言語への関心がよみがえった。言語論と言えばチョムスキー、その論理が解説してあると思って手にした。

 チョムスキーが展開した主張の要約が「訳者による序説」で45ページにわたりなされている。その他は、チョムスキーへのインタビューで、生成文法の中身にはほとんど触れられず、研究の回顧・歴史的評価、あるいは自然科学と言語研究の関連、科学観などが述べられている。

 以下本書から:
「言語」とは人間を離れては存在し得ず、「言語の本質」とは、あくまでも人間の心/脳の内にこそ存するのである。この意味において、言語の研究とは人間の脳(の一側面)の研究に他ならない。(p3)

 
このように、人間という種にその生物学的特性として備わっていて、極めて限られた質の悪い一次言語データを基にして驚くべき複雑で入り組んだ内容の言語知識の獲得を可能にしている「心的器官」(mental organ)のことを「言語機能」(language faculty、言語機構)と呼ぶ。今、「心的器官」という言葉を用いたが、これは、生成文法では、言語機能を人間の全認知システムを構成する諸々のシステム(「モジュール「(module))の一つと捉え、循環器系とか呼吸器系などと同様に、(主に)脳内に実在する自律システムと見なすからである。(p9)

 生得的言語能力の一例として、本書では英語における、「代名詞は同一節中にある名詞句と同一指示的ではあり得ない」という原理を例示している。この複雑な原理を子供は学習によって体得するのでもなければ、周囲の人々の矯正によって徐々に身につけるのでもないという。(p4~)。子供の言語学習能力の早さというのがチョムスキー論理を支える最大の論拠である。
 この考えは当初厳しい反発を招いたが、現在では脳科学者を中心に広く受け容れられているという。(p16)

 人間が生まれながらにもっている言語機能に関する理論のことを普遍文法と呼ぶ。生成文法は普遍文法の構築に力を入れてきた。
 
様々な言語は、基本的には全て同一の鋳型に基づいて作られており、言語間には、あるとしてもわずかな違いしか存在しない。そうでなければ言語獲得の問題を解決することは不可能である。(p289)

 数機能について:
 
・・・人類の歴史においてこの機能が顕在化してきたのがごく最近のことであることなどを考慮すると、数機能が自然選択によって発生したとはどうも考えづらい。数を数えたり自然数の概念を理解できる人間がそうでない人間よりも子孫を残しやすく、その結果、数機能が自然選択によって発達してきた、ともどうも考えにくい。
 とした上で、数機能は言語機能の副産物として派生したとする。数機能の本質は離散無限性であるが、言語機能も正にこの離散無限性を有している、とする。(p23)

 他の動物も人間と大体同じような知覚世界を持っている。しかし、人間以外の種には言語機能の計算的側面が欠けている。これが生物界における人間の独自性である。(p78)
 
これは推測ですが、この奇妙な有機体(人間)は、まず言語機能を得て、さらにある種の抽象化を行う能力を持っていたものですからそれを用いて言語特有の特性を全て切り捨てて、枚挙可能性の原理のみに集中した。こうして得られたものが、基本的に算術(自然数の概念)です。(p354)
 離散無限性
 チョムスキーは、離散無限性を扱う能力が発現したことが進化上の一大飛躍であるといい、それが概念システムと結びついたとき、まったく新しい世界がもたらされたとする。このことは宇宙の歴史の中で、一度しか起こっていない、という。(p84)そして、それはランダムな突然変異と自然選択の結果として生じたとは考えがたいと言い、進化論は、種の形成についてはほとんど何も言えないという。「
脳が非常に複雑になってしまうと、離散無限性を備えたシステムを内包せざるを得ないということになるのかも知れません」(p86)

離散無限性について、ネットにある説明を以下に:
http://www.cis.doshisha.ac.jp/professor/n_06/p_02.html
離散無限性(discrete infinity)とは、連続的ではない、離散的な(つまり、一つ一つ数えることができる)有限個のシンボル(言語記号)を結合し、その操作を無限に繰り返すことによって言語表現の生成を可能にする「ことばの性質」です。この性質は、ことばを無意識に使っている私たちにとって当たり前のことですが、離散無限性のメカニズムは何か?と問われれば、理論言語学者を除く、ほとんど全ての人が答えに窮(きゅう)してしまうでしょう。他の動物のコミュニケーション・システムと比較すると、この性質はヒトという種にのみ備わっているものだということがわかります。したがって、動物のことばとヒトのことばを区別する上でも重要な性質となっています。

言語学における真の革命
 パラメータ化された原理を用いるアプローチのみがそうであるとチョムスキーはいう。「
この理論は、何千年もの間、あらゆる言語研究の核となってきた規則とか構文という概念を事実上廃棄したものです。そして、規則や構文という概念は、ちょうど水棲哺乳類などという概念と同じく分類上の人工物であって、そういったものを仮定するのは構わないけれども、実はそれらは別のものの表面的な反映にすぎないと主張しました。ならば真に存在しているものは一体何なのかと、それは固定された諸原理とパラメータによる変異であり、これらの原理は諸言語間に共通のもので、構文とは何ら関係のないものなのです。」(p290)。そして、諸原理とパラメータの関係のアナロジーとして、ジャコブとモノーの遺伝子発現の調節機構をあげ、調節機構の微細な修正の結果が、蝶になったり象になったりするのと同じように、英語が生まれ、スワヒリ語が生まれるという(p291)。諸原理がどんなものでありパラメータがどのようなものであるかは本書では述べられていない。それは余りにの専門的すぎるのだろう。

科学観
彼(ガリレオ)の自然に対する見解は、自然というものは完璧なのであり、それが潮の流れであれ、鳥の飛行であれ、その他なんであっても全てが完璧である、と考えていたのです。そして、そのことを証明するのが科学者の仕事であると考えていました。証明できないのであれば、それは科学者側の敗北です。」(p339)。しかし、ガリレオ自身も人生の終わりになっては、この考えにかなり絶望的になった。ヒュームにいたり「自然というのは我々には理解できないものであり、我々は自分達の照準を下げるしかないのだ」という言葉になる。そして「研究対象の本質はよく理解できないにしても、それに対する理論はできるだけ完璧なものにしていこうという、いわば一段低いレベルの完璧性の追求です。そして、これが近代科学と言われるものなのです。」(p341)

脳科学と言語学
 言語に関する「真の証拠」は言語学ではなく、脳科学からこそ得られるという主張をチョムスキーは全面的に否定する。そして、物理学と化学との関係を例に出す。「
化学に対してその全歴史を通して向けられた批判と同種の批判です。化学はその全歴史を通じて(私が子供だった頃までは)、物理学のようには真の科学ではなく、単なる計算法に過ぎないと考えられていました。原子に関するニールス・ボーアのモデルでさえそうでした。(中略)物理学的な根拠がないので、そのモデルにいかなる実在性も与えることができませんでした。一九三〇年代までには、こういった態度は全く愚かなことであると認識されるようになりました。化学には実在性がある、なぜならばそれこそが我々が手に入れた最善の理論なのだから、ということになったのです。(中略)一九二〇年代になってやっと、化学が正しくて、物理学が間違っていたことがわかってきました。そして物理学に劇的な変化が起こり、その結果、化学と物理学の統合がなされました。」(p366)。量子論のことを言っているのだろう。大変面白い見方だ。言語研究が化学で、脳科学が物理学だというのだ。

 チョムスキーはベトナム戦争を初め、イラク侵攻などアメリカの対外政策を強烈に批判してきたことはよく知られる。そうした、政治活動のために、言語の研究が滞ったことは自身が認めている。経済学についても語っている。

 自由貿易こそが経済発展の原則であるという見解を真っ向否定する。「
イギリスからアメリカ、フランス、ドイツ、日本、韓国、台湾に至る、どの国々をとっても、一つの例外もなく、自由貿易の原則を決定的に破ることによって経済発展をとげているんです。(中略)こういった産業の発展というのは、初期のイギリスのモデル、すなわち、強力な保護主義と、近年では研究開発に政府が直接的に介入するモデル、に従ってなし得たものです。経済発展にとって最適な方式であると経済学者が主張した原則に従って実際に成長を遂げた国など、ただの一つも記憶に残っていません。」(p371)。まるで、昨今のTPP反対論者と同じ主張だ。私にはチョムスキーの言っていることが正しいかどうかは判らない。ただ、過去のことはさておき、これからは自由貿易は世界経済、人々の生活水準のアップに貢献すると思っている。

 本書インタビューは二つからなる。その一つの原語版は1982年の出版。その全訳と、2002年に訳者らによりなされたインタビューをあわせて構成されている。

 こうして付箋を貼ったところを抜き書きしてみると、そうかとうなずく点が多い。それにしても言語を操る身体器官の「実在」ではなくて「実態」が見いえてくるのはいつのことであろうか。


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書名 広場の孤独 著者 堀田善衛 No
2012-48
発行所 文芸春秋社芥川賞全集4 発行年 昭和57年 読了年月日 2012-11-18 記入年月日 2012-11-21

 堀田善衛の芥川賞受賞作。「広場の孤独」とは引きつけられる題で、以前から知っていたが、今回初めて読む。
 朝鮮戦争の初期、昭和25年の夏の数日間に、主人公の上に起こった物語。キーワードは「commit」。最初にcommitの日本語訳が小さく横文字で書かれている。「A」(罪・過)などを行う、犯す。「B」託す、危うくする。「C」累を及ぼす。
 主人公木垣は新聞社の渉外部で翻訳を行う非正社員。以前勤めていた新聞社を辞めて、妻と二人で翻訳の仕事をしていたが、朝鮮戦争の勃発を機に、翻訳の手が足りなくなった今の新聞社で臨時工として働き出した。彼をめぐる人物達、渉外部長の曽根田、副部長の原口、若い部員御国、印刷工の立川、御国と立川は共産党員である、アメリカ人記者のハント、中国人特派員の張(この場合国民党政府側のこと、大陸中国は本書では「中共」となっている)、木垣が戦後上海で知り合ったオーストリアの男爵ティルビッツ、そんなところが登場人物。占領政策の転換、警察予備隊の設置への動き、特需、レッドパージなど朝鮮戦争が日本に与えた影響の大きさ、当時の雰囲気が濃厚に出た小説。ただ、短時日に主人公にこれだけの体験をさせるというストーリーにはどこか無理がある。
 ハントに連れて行かれた横浜のクラブで、木垣はティルビッツから何やらの紙包みをポケットに突っ込まれる。家に帰って開けてみると思いも掛けぬ大金であった。木垣はかねてよりアルゼンチンに永住したいという希望を持っていた。その金があれば、日本を抜け出すことも可能だ。しかし、何か裏世界に通じるような得体の知れないその金を木垣は妻の前で火鉢で燃やしてしまう。その夜、御国と立川が木垣の家を訪れ、彼等がレッドパージにあったことを告げる。
 結局、木垣は何事にも深くcommitできなかった。彼は小説を書くことを誓う。その題は「広場の孤独」である。
 この全集には、芥川賞選考委員のコメントが載っている。それによると、堀田の受賞には異論はなかったようだ。むしろ、すでに単行本で出版されていて評判になっていたので、今さら芥川賞でもないだろうという意見があったようだ。坂口安吾はこの作品を「
日本の左翼文学がそうであったと同じように、自分の側でない者に対する感情的で軽々しいきめつけ方は、特に感心できません。つまり、この作者が人間全体に対している心構えの低さ、思想の根の浅さ、低さだろうと思います。」と厳しく批判していた。
 昭和26年下半期第26回芥川賞受賞

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書名 攻撃 1 著者 コンラート・ローレンツ
日高敏隆、久保和彦 訳
No
2012-49
発行所 みすず科学ライブラリー 発行年 1970年 読了年月日 2012-12-03 記入年月日 2012-12-03

 
サブタイトルは「悪の自然誌」である。ここ数年、NHKBS放送の朝8時からの番組を見ている。その一つに野生動物の生態を観察記録した「ワイルドライフ」というのがある。見ていると、交尾相手をめぐっての争い、縄張りを守るための争いという同種内の争いがよく出てくる。同種内の争いは種の繁栄のために必要なことであり、争いには、ルールあるいは儀式が確立されていて、闘争相手を殺すことはなく、致命的な傷を与えることはないと解説される。もう30年近く前に手にした本書が種内闘争を扱ったものであることを思い出した。途中まで読んで挫折していた本。

 色々な動物の細かい専門的な観察から、種内闘争の実態と、その因って来たる要因への考察、進化論的観点からの考察などが展開される。かなり専門的で、特に後半は難しい。驚いたのは、前半部分は水槽に飼える小型の魚類の行動観察を土台にして、種内攻撃の持つ意味を明らかにしていること。
 ローレンツは前書きで、フロイトの「死の衝動」による破壊ということをきっぱりと否定する。攻撃の及ぼす結果はしばしば死の衝動の結果と同一視されるが、攻撃の本態も他の本能と同様に、自然条件の下では、生命と種を保つはたらきを持つとする。それが人間の場合にはしばしば破滅をもたらすようになった原因は何かを明らかにしたいと本書の執筆の目的を書いている。

 以下本書から適宜抜粋し、ローレンツの主張をなぞる。
 
ダーウィンが考えた進化を推し進める「闘争」というのは、何よりもまず、近縁な仲間どうしの競争のことなのだ。(p42)

 食
うほうと食われるほうとの間の闘争の結果、捕食獣が獲物を根こそぎ絶やすことはけっしてなく、双方の間にはつねにある平衡の状態が成り立っている。(p43)

 
たしかに種内闘争ということは、人類が現在置かれている文化と技術の史的状況のもとでは、あらゆる危険のかなでももっとも重大な危険だと見なしていい。だがその危険を防ぐには、種内闘争を形而上学的なこと、回避できないこととみるのでは決してなく、その一連の要因を追求することによって道がひらかれるように思う。(p52)

 
哺乳類はたいていが「鼻でものを考える」から、かれらの場合には自分の所有地につけておく特有のにおいの目的が、大きな役割を演じていることはさしてふしぎでない。(p59)

 
同種の仲間が空間内に均一に分布すること、それが種内攻撃のいちばん大切な働きであることはたしかだと考えていいだろう。(p65)。珊瑚礁に生息する多くの魚類が、著者が「ポスターカラー」と呼ぶ鮮やかな色をしているのは、同種の個体を識別しやすくし、そのことによりお互いに縄張りを確定し、個体それぞれに均等に餌が供給されるようになっているという。

 
完全に種の内部だけで行われる淘汰の結果できあがった形態や行動様式には、適応力を欠いているばかりでなく、種の保存を直接にそこなうような場合があるということだ。(p66)

 
特に人間が、種内淘汰の悪い作用に身をゆだねているのには、はっきりした理由がある。人間は他の生物とは比べものにならないほど、周囲の自分以外の敵対勢力をすべて支配するに至った。(p69)

 
種の内部のものどうしの攻撃は、決して悪魔とか、破滅の原理とか、まして「つねに悪を欲しながら善を生み出す力の一部」などではなく、それどころか明らかに、あらゆる生物の体系と生命を保つ営みの一部であることがはっきりしてくる。(p78)

 
ある動作様式が、系統発生の経過をたどるうちに、もともとあった本来の機能を失って、単に「象徴的」な儀式になるということである。この過程を彼は儀式化(ritualisation)と呼んだ(p92)。ここで彼とはジュリアン・ハックスリーで、彼はカンムリカイツブリでこのことを発見したという。

 
系統発生上の儀式化の過程を通じて、おりおり新しい、完全に自律的な本能が生じることがあり、これがいわゆる「大きな」衝動、たとえば採餌、交尾、逃走、攻撃のための衝動といったものと、根本的には自立的だということだ(p105)。そしてこの儀式化によって生じた衝動が、「攻撃に反対し、それを無害な水路に誘導して種の保存にとって有害な作用にブレーキをかけるという役割」を持つという。(p106)

 
世代から世代へと伝統によって引き継がれてゆく象徴は、動物の場合には存在しない。もし「動物」というものを人間一般から定義によって分けたければ、ほかならぬその点に境界があると見ることができる。(p106)
 p114以下には北米インディアンの素晴らしい平和の儀式として、敵対する酋長同士が、パイプをくゆらすことで、緊張をほぐす例が取り上げられ、「
喫煙の神的な、緊張をときほぐす浄化作用を知らない人があろうか」と記している(p115)。

 
この文化の独自性、個人の生活より長命な超個人的な共同体の形成、つまりまとまって真の人間らしさをなしているいっさいのものは、儀式がこのように自立化されることによって成り立っているのだ。(p117)

 動物行動学を研究するものにとって、細心の観察が何よりも大切であると述べる。そして「
鳥類や爬虫類があくびをしないということは、分類学上重要な事実のひとつであるが、ハインロート以前の動物学者はだれもそれに気づいていなかった」という。(p147)。ローレンツの本を読んでいて、感心するのはその観察眼の鋭さ、細かさである。

 硬骨魚の例を挙げ、種内闘争が威嚇と軽い力試しの「試合」に終わることを述べる。こうした念入りな小手調べが重要な意味をもつのは「
弱い方に自分が勝つ見込みない闘争を、おりをみて放棄する機会を与えるからである。こうしてたいていの場合、ライバル闘争の種を保つ働き、つまりより強いものを選ぶという機能は、個体の命を犠牲にするどころか、傷つけることもなく遂行される。」(p159)

 シチメンチョウの観察から、「「
母性本能」とか「育児衝動」とか呼ばれるようなものが、実際には存在しないことは明かである。それどころか、生まれつきの「図式」、自分の子を生まれつき識別する能力さえ存在していない。種の維持という目的にそって子を取り扱うことは、むしろ進化の途上で発生したさまざまの動作様式、反応、抑制といった複数の関数であり、それらの複合体が偉大な設計者によって組織化された結果、正常な環境条件のもとでまとまったひとつのシステムとして、「まるで」その動物が自分の種と個体を存続させるためにやらねばならぬことを知っているかのように、働きあうものなのである。」(p197~8)。
 これは本能と呼ばれるものに対するローレンツの基本的な見方のようだ。

 
育雛ということを行う種類の動物の母親が、わが子に何の危害も加えないということは、自明の自然法則ではけっしてなく、それぞれの場合によって、たとえばシチメンチョウの雌で明らかにされたような、特殊な制御作用によって保証されねばならぬものである。(p169)

 脊椎動物はほとんど友食いせず、また、哺乳動物で友食いが行われないのは、多分おいしくないからだろうという。p(147)

 本書は2巻にわかれていて、もう一つの巻は手元になかった。


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書名 攻撃 2 著者 コンラート・ローレンツ
日高敏隆、久保和彦 訳
No
2012-50
発行所 みすず科学ライブラリー 発行年 1970年 読了年月日 2012-12-15 記入年月日 2012-12-22

 
本巻は群れを作る動物の行動を解析し、最後は人類へ言及する。
 最初取り上げるのは「無名の群れ」。大洋の魚群がその典型例。この群れには広い意味での社会の原型があると著者は見る。(p205)(本書のページは上巻からの通しとなっている)。この集団は攻撃性をまったく欠き、個体間距離も消失している。「
無名の群れの形成と個人的な友情とは互いに相容れぬものであって、その理由は個人的な友情というものが奇妙なことにはつねに攻撃的行動とからみあっているのだ、ということである。個人的友情をむすぶ能力があって、しかも攻撃性をもたないという動物は、まだひとつも知られていない」(p210)と述べる。

 次の「愛なき社会」は鳥類の多くに見られる。生殖と子育てという共同の事業で個体と個体とはむすばれているが、そのパートナーどうしは個体認知と愛を欠く群れだという。(p210)。

 次いで「ネズミたち」。ネズミの群れはコクマルガラスやガンや類人猿の場合のように個人的にではなく、単に群れのにおいでお互い同じ群れのメンバーであることを認知し合っている。彼等は伝統によって経験を伝達し、それを共同体の中に広めてゆくという人間が用いるのと基本的に同じ方法を使うことができる。それが、ネズミの駆除を困難にし、彼等が人間に対してもっとも繁栄した仇になる原因だと、著者は言う。(p228~)。ネズミの集団は集団間での争いが激しい。それが、進化論的にどのような意味を持つかは不明であるする。種内攻撃には種を維持する機能があり、その機能は不可欠であるが、その機能は群れの間の競争によっては実践され得ないと著者は言う。(p232)

 次いで「集団」とコンラートが呼ぶ群れ。相手が同一の個体であることを、客観的に確かめることができる結びつき(コンラートはこれを「きずな」と呼ぶ)によってまとまっている共同体を「集団」と呼ぶ(p234)。この集団は、系統樹上は高等な硬骨魚類に初めて見られる。上巻で述べられた、魚類、あるいはコンラートが専門とするガンやカモなどの鳥類の細かい行動観察が述べられ、その意味が明らかにされる。特に重要なのが、再定位動作とか転移動作と呼ばれるもの。「
ある対象によって解発される一定の行動様式が、その対象が同時に発する抑制的刺激のために、それを解発したのとは別の対象にむかって爆発すること」が再定位動作の定義(p240)。例として、他人に腹を立てた人間が相手よりも机に向かって拳をたたきつける行動。こうした行動により、個体間の争いが相手にダメージを与えることを回避する。シクリッドという魚を例にこの行動が詳しく紹介される(p237~)。シクリッドの雄は自分のつがいの雌にむかって、怒りに燃えて突進する。しかし、間一髪のところで、妻の脇をすり抜けて、他の仲間にむかって攻撃を行う。この行動様式が本書を書く動機となったとコンラートは述べる。

 カモやガンに見られる同様の平和の儀式を本書では「勝ちどき」と呼び、詳しく説明される。ガンのつがいを生涯にわたって結びつけているのは性的関係ではなく、勝ちどきの儀式によって結ばれた連帯である。それが、性的関係への道をひらく。連帯が雄どうしであることもあり、それが長く続くと雄どうし交尾を試みるという(p267)。以後、ガンの同性愛について記述される。彼等は交尾を試みるが、もちろん滞る。しかし、彼等はあっさりとその行為を放棄する。そのことによって、「
大きな大きな愛に目立つような破たんをきたすことにはならない」(p275)。

 勝ちどきをかわした雄のガンどうしの激しい闘争例から、コンラートは以下のように言う。「
真実の愛にはみな、潜在的な、連帯によってかくされた攻撃が大量にひそんでいるので、このきずながいったんちぎれてしまうと、わたしたちが憎しみといっているあの恐ろしい現象が表面に出てくるのである。攻撃性を含まぬ愛はないが、また愛なき憎しみも存在しないのだ。」(p297)

個体間の友情が見られるのは、種内攻撃の高度に発達した動物の場合だけであり、それどころか、このような結びつきは攻撃的な種類の動物ほど堅いのである。(中略)あらゆる哺乳類の中でもっとも攻撃的だということになっているオオカミは、友に対してもっとも忠実な動物だ。}(p299)
愛という個体の結びつきは、多くの場合種内攻撃から、いくつかのよく知られている場合でいうと、攻撃とか威嚇を再定位して儀式化するというやり方で生じたことは明かである。」(p300)

進化論
わたしたちが今知っていることはことごとく進化説になんの無理もなくあてはまり、それに反する事がらは何ひとつなく、進化説は一種の創造説にふさわしいいろいろな値うち、つまり事象を説明する力、詩的な美しさ、感動的な偉大さを備えている。」(p310)

 種内攻撃の抑制がもっとも重要な働きをし、高度に発達しているのは、ほぼ自分と同じ大きさのものを簡単に殺す能力のある動物で、オオカミやワタリガラスなど。一方、ハトやウサギ、チンパンジーなどは仲間を一撃でやっつける能力を持たない。これら動物は種内攻撃抑制を育てるような淘汰圧が働かなかった。こうした動物を、狭いところで飼育すると、敗者は勝者から遁れるすべがなく、無残にも殺されることがあるという(p330)。

 こうした殺傷能力と抑制能力の釣り合いが、武器の使用によって崩れた。武器の発明により、種内淘汰が盛んになり、それが無気味な結果をもたらす。人間の攻撃衝動の異常な発達も、それが原因であるとする(p333)。ローレンツは水素爆弾を手にした人類についても、所々言及している。

 進化論的立場に立てば、人間は動物と同類であるというダーウィンの主張も、人間は人間以前の祖先と同じ本能に駆られているというフロイドの見解も忌み嫌うべきでないとする。そして、私達の一切の行為の原動力は意識下で行われている相互作用の網目の中から生じる。「
そこからは、愛と友情が、さまざまな暖かな感情が、美への感覚が、芸術的創造と科学的認識を求める衝動が生まれてくる。いっさいのいわゆる動物的なものを脱却した人間、暗い衝動を奪い去られた人間、純粋な理性的存在としての人間は、けっして天使ではありえまい。それどころか、天使とはまったく反対のものであろう。」(P351)。すごい記述だ。

「熱狂」について
 熱狂も攻撃本能の表れである。コンラートは「熱狂」とは「
何か非常に高度なもの、人間だけに特有なものつまり精神が、人間を支配することを表現している」とする(p353)。「熱狂して競争を起こそうする衝動もまた、人間の社会的・政治的構造を広汎に決定する。人間は、互いに敵対するいくつもの党派に分離しているから党争好きで攻撃的なのではなく、それが社会的攻撃性を消散させるのに必要な刺激状況を作り出しているからこそ、党派に分裂しているのだ。(p358)」熱狂は扇動家に利用されることが多いが、正しく芸術と科学に向けられることで、人間社会に大きな貢献をすると期待する。

 攻撃性を刺激する状況を人間から遠ざけること、道徳的に動機づけられた攻撃禁止令を布くことは、いずれも攻撃性を征服できない。さらに、攻撃衝動を断ち切ってしまうことは、人間にしかない非常に大切な能力、笑いが消えてしまうことになる。(p362~)

 攻撃性を征服することが期待できるのは、それを代償となる目的にむかって消散させることである。その一つとして、スポーツを、もう一つとして、国家間の競争をあげている。

 化学反応を通して生命現象を解明することは私の生涯にわたる関心事であった。ローレンツのような方向から生命に迫ることにはまったく関心がなかった。動物の行動の解釈には観察者の主観がかなり混じり込むのではないか。それは厳密な科学ではないという思いがあった。本書では時々、定量的な観察データに基づくという記述がはさまれる。それでも本書を読んで観察者の主観ではないかという感じはやはり残る。とはいえ、生命へのこうした迫り方は、私には新鮮で、興味深く、驚くような記述が次々に展開され、そのほとんどが説得力に富んでいた。

 人間も進化の過程で生まれた動物の一員であるというのがローレンツの主張。恋愛、友情、競争心、嫉妬、悲鳴、その他たくさんの高度に込み入った行動の標準がハイイロガンと人間で似ているばかりではなく、すっかり同じであり、その働きもすっかり同じであると説く(p302)。しかし、現在の人間を「
動物と真に人間らしい人間との中間のもの」と見ている(p317)。

 生物は物理・化学では解明できないとローレンツはいう:
生命過程というものは、まさに本来すなわち生命過程にだけあてはまりその全体にかかわるものがあるという点で、まさに本来一般に化学、物理過程といわれるものとは何か非常に違ったものなのだ。(p315)

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書名 一億人の「切れ」入門 著者 長谷川櫂 No
2012-51
発行所 角川学芸出版 発行年 平成24年2月 読了年月日 2012-12-05 記入年月日 2012-12-10

 
句会で、切れのことが時々論議される。先月のアフィニス句会でも、「や」で終わった句は、中で切れないほうがいいとされた。切れていいのは取り合わせの句で、一物仕立ての句は切れるとしてもできるだけ軽く切るのが原則だという。動詞ならば終止形ではなく連用形を用いるべきだという。その方が切れかたが軽いという。
 切れ字については、一句に2つ使ってはいけないことは知っていたが、それ以外にそんな細かい原則があるとは知らなかった。ちょうど本書が目に入ったので手に入れた。

「切れ」を通しての俳句入門といった内容。明快でわかりやすい。
「切れ」は「間」を生む。間が入ることで、読み手はそこに想像力を働かせる。切れの最も大切な働きだという。間という考えは日本文化の色々な面に見られる特徴であり、それは、夏の蒸し暑さを避ける工夫を施された日本家屋の特徴から来ている。間があることによる涼しさ。俳句はすべからく涼しくなければならないとい著者の持論が、ここでも展開される。

 一物仕立と取り合わせという俳句の分類とそれぞれの解説も詳しく、わかりやすい。俳句がこの二つに分類されるということは無意識には感じていたが、このようにはっきりとした解説には初めて接した。一物仕立は写実と述思に向いているから、近代俳句に多用されるという。近代以前の江戸俳句にはいわゆる「ごとく俳句」はほとんどないという。

 最後に切れ字が来る句は原則一物仕立であるが、リズムを整えるために、途中に切れが入ることがあると説明されている。例えば虚子の
 神にませばまこと美はし那智の瀧
 は一物仕立の句だが、「美はし」で軽く切れる。
 このように一物仕立の句の中でリズムを整えるための切れのことを芭蕉は「口あひ」の切れ字と呼んだ(p49)。
 上の句は上六である。この6音を5拍で読む。この部分の速度が速まり句に勢いがつく。逆に中七と下五はゆったりと流れるような感じがする。断崖を落ちてきた瀧の水が滝壺にゆるやかにたゆたう感じたと、著者は言う。そして、リズムの善し悪しが一句の価値を決定的に左右するという(p46)。

 一物仕立の句は理屈っぽくなりやすく、また「ただごと俳句」になりやすい欠点がある。ただごと俳句を避けるために新規な題材ばかりを求めて詠んでいると、句が歪んだものになると戒める(p62~)。

 本書の特徴は、一句の始まりと終わりにの切れがあるとしていること。俳句は地の文、あるいは散文から切り取られていなければならないという。切れの説明のために引用された句にはすべて最初と最後に切れの印である/が入れられている。

 切れ字には強弱があり、けり、かな、やの順に強い。強いけりと弱いやを一句の中に持ってくるのはいいが、かなとやは持ってきてはいけない。
 降る雪や明治は遠くなりにけり 草田男

 かなで終わる句は原則一物仕立である。ただし、取り合わせの句もあり、その場合はなるべく切れを目立たないようにする。連体形でつなぐのがしばしば用いられる(p75~)。
 田一枚植て立去る柳かな  芭蕉

 取り合わせの句で、よく使われるのが季語との取り合わせ。ただ、曖昧な雰囲気を持った以下の季語の句は掃いて捨てるほどあり、安易であると指摘(p84)
 暖か、春浅、薄暑、聖五月、秀麗、三寒四温、日脚伸ぶ、数え日、淑気

 著者は忌日との安易な取り合わせも理屈っぽくなるという。そして「
近年、この手の忌日の句で目立つのは太宰治の忌日、桜桃忌(6月13日)です。桜桃忌の句は安易に詠めば必ず梅雨の鬱陶しさと太宰の鬱陶しさの合わさった鬱陶しい理屈の句になる。」と言いきっている(p86)。長谷川は『俳句的生活』の中で、直前まで自分の死を見続け、句を作り続けた子規を絶賛しているが、太宰の人生はその対極にあるものとして、鬱陶しい限りなのだろう。鬱陶しさは長谷川がもっとも嫌うもののようだ。

 切れの強弱
 切れ字>用言>体言
切れ字   けり>かな>や
用言    命令形、已然形>終止形>連体形>連用形
以上から、動詞で切った方が名詞で切ったよりも強い。これは私も誤解していた。
「けり」
 
「けり」は単に過去のできごとを報告するのではなく、忘却の中から何かを呼び起こしてくるという働きがある。だだ「……だった」というのではなく「ふと気がつくと……だった」というのです。何かが起こったことを知らせるだけでなく、人間の心理に深くかかわってくる(p131)。例句2句
 くろがねの秋の風鈴鳴りにけり    蛇笏
 灰汁桶の雫やみけりきりぎりす    凡兆

芭蕉の
 秋深き隣は何をする人ぞ
 についても、よく誤解されている「秋深し」という上五との対比をわかりやすく説明してある(p138~)。「き」と「し」のわずか一字の違いで、前者が一物仕立、後者が取り合わせの句となり、句の取り方が全く違ってくる。

 ゆきくれて雨もる宿や糸ざくら   蕪村
 この句は「や」で切れる。普通は、取り合わせの句として、日が暮れてやっとついた宿は雨漏りがしていた。外には糸桜が満開で、雨漏りも旅の疲れもしばし忘れた、と取られる。しかし、この句は一物仕立と取ることもできるという。それは平忠度のよく知られた
 行き暮れて木のしたかげを宿とせば花やこよひのあるじならまし
 を下敷きにしていて、「
旅の一日が暮れてしまって、あの忠度の歌の旅人を気取って糸桜の下で旅寝をすることになった。ところが、雨が降り出すと困ったことに、この花のお宿は糸桜の枝を伝って雨が漏る。やれやれというわけです。」という諧謔の句という解釈も成り立つという。前者の解釈よりも後者の解釈の方がずっと面白いという。前者では季語が動き、糸桜でなくてもいい、それに対して、後者の解釈では糸桜でなければならない(p200~)。

 こうした多様な解釈を俳句の曖昧さ、欠点だと以前は思っていたが、今は俳句の楽しみだと思う。

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書名 悠遊 第十九号 著者 企業OBペンクラブ編集 No
2012-52
発行所 企業OBペンクラブ 発行年 2012年4月 読了年月日 2012-12-17 記入年月日 2012-12-23

 
友人の池田隆さんから送られてきたエッセイ集。企業OBペンクラブというのがあって、定期的にエッセイを交換し合っている。池田さんはそこの会員。いただいたエッセイ集は第19号。160ページにもなる本格印刷の冊子。「日本の宝もの」「わが人生に悔いあり」という特集と、自由作品。あわせて60編ほどのエッセイ。その他俳句、川柳、フォト俳句など。文章好きの人たちの集まりだから、いずれもしっかりした文章だ。海外で活躍した現役時代の体験を語った作品もかなりある。巻末の会員名簿を見ると、一流大企業の出身者がほとんどを占める。私と境遇と世代が同じような人の集まりだから、理解に苦しむところはない。ただ、何処かで耳にしたような体験や主張が並んでいるという印象はぬぐえない。下重暁子のエッセイ教室の作品のようなバラエティは感じられない。大所高所からの見方が多いのも書き手に戦後日本の経済成長を支えたという自負があるからだろう。

 中では江戸の街は「の」字形の水路を重ねた渦巻き型をしているという「渦型都市 大江戸」という池田さんの作品が、ユニークで面白かった。

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書名 百人一首 著者 丸谷才一 編 No
2012-53
発行所 河出書房新社 発行年 昭和58年 読了年月日 2012-12-25 記入年月日 2012-12-27

 
『定家明月記私抄』を読んで、百人一首のことに興味を覚えた。手元に本書があった。雑誌の別冊で、紙面もだいぶ黄ばんでいた。発行は昭和58年。恐らくこの頃が正月に自宅で百人一首をやった最後だろう。先頃なくなった丸谷才一が、多彩なメンバーによる百首の解説を集めて編集したもの。大岡信、萩原朔太郎、吉井勇、安藤次男、斎藤茂吉、山本謙吉、白州正子などが執筆。解説の中身も、長さも各人バラバラ。それがまた面白い。

 丸谷は前書きで、「
王朝はわれわれの文明の源泉である。江戸時代の人人はそのことをよく知ってゐて、宮廷から政治的意味合ひをことごとく拭い去り、ひたすら文化的憧憬の対象とした。その際、彼らが宮廷文化に寄せる尊敬と愛着は、雛祭とそして何よりもまず歌がるたによって表明されたと言へよう」と述べている。

 第1首、天智天皇の
 秋の田のかりほの庵の苫をあらみ我衣手は露にぬれつつ
 は丸谷が執筆している。この歌は農民の苦労をしのぶという表面の意味の下に、「「
仮の小屋で番をしてゐる農民の袖のやうに、わたしの袖は泪に濡れてゐる――あなたに飽きられしまって」といふ閨怨の歌の層があるにちがひないと思ふのだ」と丸谷はいう。そして、派手な恋歌の多い百人一首を、恋歌好きの藤原定家が、農民の苦労をしのぶだけという地味な歌で始めるはずがないという。

 これは一例だが、以下各人がそれぞれの視点から、ユニークな読み、持論を述べる。朔太郎は音韻的立場から解説を加え、その解説はせいぜい4分の1ページほどであるが、黒川洋一という人による、阿倍仲麻呂の歌の解説は、仲麻呂の波瀾に満ちた生涯まで踏みこみ、9ページにも及ぶ。

 今年のNHK大河ドラマ「清盛」には西行が狂言回し役として登城する。12月23日の最終回にも清盛の生き霊として、あるいは東大寺再建の勧進途上、鎌倉で頼朝に会うといった、大きな役で登場した。西行にあわせて、画面に当時の和歌が表示されたことが何回かあった。本書を読んで、「清盛」に登場した4人が百人一首に採用されていることを知った。西行、崇徳院、待賢門院堀河、藤原忠通である。その他にも後白河法皇の皇女式子内親王、高倉天皇の皇子であり後白河の孫にあたる後鳥羽院、頼朝の次男実朝、源三位頼政の娘の二条院讃岐、忠通の子慈円の歌も採用されている。いずれも定家と同時代の人たち。定家は後鳥羽院とは歌の上で微妙なライバル、式子内親王とは恋愛関係にあったとされるし、実朝とは和歌を通じて師弟関係にあり、西行との出会いが定家を歌の道に進ませた。そんなことを思いながら読むと興味は尽きない。

 本書の後半には百人一首の成立事情が樋口芳麻呂氏と石田吉貞氏によって論じられる。いずれも昭和50年に雑誌「文学」に掲載された専門的論文。前者は当初から定家が選んだものであると論証し、後者は鳥羽院と順徳院の最後の2首は息子の為家があとから入れ替えたものだと主張する。宇都宮頼綱の中院別荘の障子の色紙として選ばれた百首が百人一首の起源であるとするのは一致する。ただ、その時点では後鳥羽、順徳とも隠岐と佐渡に流されている身で、直前編まれた「新勅撰集」からは、鎌倉幕府の圧力によって両院の歌はいっさい削除された。百人一首のもととなった定家選の「百人秀歌」にも両院の歌は入っていない。石田氏は中院別荘に送られた百首はこの秀歌集で、従って両院の歌は載っていなかった、と主張する。鎌倉方と深い関係を持っていた定家が、承久の乱の首謀者である両院の歌を載せ、わざわざ幕府から睨まれるようなことをするはずがないという。乱のほとぼりも収まったころに息子の為家(為家の正室は宇都宮頼綱の娘)が2首を入れ替えて、今の百人一首ができたとする。

 樋口氏の論拠は、中院別荘にあった、後鳥羽院の百人一首の歌「ひともおしひともうらめし」の色紙が定家直筆のものと鑑定されたことにある。このことは片桐洋一氏により、字体の写し入りで本書に紹介されている。片桐氏は定家の直筆と確立されている「土佐日記」の書体と色紙の中のいくつかの文字を比較し、色紙を定家の直筆と認めないわけにはいかないという。樋口氏はさらに、「新勅撰集」から政治的な圧力により、当代きっての歌人である両院の歌がすべて削除されたことに、芸術家としての定家は強い反感を抱き、あえて中院別荘に送った百首の中に両院の歌を入れたのだと推測する。一方、石田氏は定家がその色紙を書いたとすれば、それは後鳥羽院の崩御後のことで、定家は崩御後2年半を生きたのだから、その鎮魂、謝罪のために院の歌をしたためて中院別荘に送ることはできたはずだとする。

 両者とも定家の「明月記」をふんだんに引用している。まるで推理小説を読むような面白さがある。昭和の時代になって、「百人秀歌」の存在が発見され、色紙が定家直筆のものと鑑定される。700年以上前の障子の色紙が残っているというのには驚く。本書の時点ではどうやら最初から定家が選んだ百首がそのまま現在の百人一首になったという説が有力のようだ。

 本書にはその他、百人一首とかるた遊びにまつわる随想が載っている。ドナルド・キーン、大岡昇平、石川淳、山本謙吉、後藤明生、金子光晴などが執筆者。

 なかなか深くて面白い本であった。さすが丸谷才一。


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