読書ノート 1991

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書名 著者
第五折々のうた 大岡 信
第六折々のうた 大岡 信
第七折々のうた 大岡 信
続百代の過客 ドナルド・キーン
ミイラ採り猟奇譚 河野多恵子
日本人の英語、続日本人の英語 マーク・ピーターセン
テクノヘモゲニー 薬師寺泰蔵
野蛮な来訪者ーRJRナビスコの陥落 ブライアン・バロー 他
前兆 W・V・D・ウィシャード
Saint Joan Bernard Shaw
Reflections in a Golden Eye Carson McCullers
サザンスコール 高樹のぶ子
The Heart of the Matter Graham Greene
The Honorary Consul Graham Greene
永劫回帰 バリントン・J・ベイリー
或る「小倉日記」伝 松本清張
少年王者 山川惣治
文章読本 三島由起夫
八十日間世界一周 ジュール・ヴェルヌ
男の一生 遠藤周作
The Quiet American Graham Greene
The Heart is a Lonely Hunter Carson McCullers
外科室・海城発電 泉鏡花
Thirteen at Dinner Agatha Christie
牡丹燈篭 三遊亭円朝
Selected Stories of William Faulkner William Faulkner
日本人の愛と性 暉峻康隆


書名 第五折々のうた 著者 大岡 信 No
1991-01
発行所 岩波新書 発行年 読了年月日 1990ー12ー22 記入年月日 1991-01-04
 
 
電車の座席で本書を開き、うたの部分を2回繰り返し、それから大岡信の簡潔にして引き締まった解説を読む。特に心に響くうたの場合はそこでページを閉じしばし余韻を味わう、といった読み方をして第5巻まで読み進めた。

 「
人は歌の形は小さくて不便だというが、俺は小さいからかえって便利だと思っている。そうじゃないか。人は誰でも、その時が過ぎてしまえばまもなく忘れるような、ないしは長く忘れずにいるにしても、それを言い出すには余り接穂がなくてとうとう一生言い出さずにしまうというような、内から外からの数限りなき感じを、後から後からと常に経験している。多くの人はそれを軽蔑している。……しかし命を愛するものはそれを軽蔑することが出来ない。……一生に二度とは帰ってこないいのちの一秒だ。おれはその一秒がいとしい。ただ逃がしてやりたくない。それを現すには、形が小さくて、手間のいらない歌が一番便利なのだ。実際便利だからね。歌という詩型を持っているということは、我々日本人の少ししか持たない幸福のうちの一つだよ。」少し長くなったが、石川啄木の「一利己主義者と友人との対話」から引用した。本書を評するのにこの言葉程ぴったりのものはない。おそらく著者もこうした気持ちから本シリーズを連載し続けているのであろう。著者もこの啄木の文を引用したことがあったような気もする。

 短歌よりも俳句では啄木のいったことがもっとあてはまる。十七文字の中に押し込められて、それぞれに磨かれ、新たな輝きを増す言葉の数々。その言葉が触発するさまざまな豊かなイメージの広がり。本書は特に俳句に対する興味をかき立ててくれた。万葉の歌もたくさんのっているが、読みづらいこともあって、それほどとは思わない。短歌なら明治以降が親しみが持てる。


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書名 第六折々のうた 著者 大岡 信 No
1991-02
発行所 岩波新書 発行年 読了年月日 91-01-27 記入年月日 91-02-02

 
芭蕉はなんと言っても天才である。「蛸壷や はかなき夢を 夏の月」と言う句は、小西来山の句「飯蛸の あわれやあれで はてるげな」の解説に引用されたものであるが、本書の中で最も印象に残った句である。
 本シリーズに解説された芭蕉の句を以下にすべて拾ってみよう。

 行春や 鳥啼魚の 目は泪 (1)
 閑かさや 岩にしみ入る 蝉の声 (1)
 比秋は 何で年よる 雲に鳥 (1)
 海暮れて 鴨の声 ほのかに白し (1)
 春の夜や 篭り人ゆかし 堂の隅 (3)
 若葉して 御目の雫 拭はばや (3)
 蛸壷や はかなき夢を 夏の月 (3)
 秋ちかき 心の寄るや 四畳半 (3)
 行く秋や 手をひろげたる 栗のいが (3)
 旅に病んで 夢は枯れ野を かけめぐる (3)
 草の戸も 住み替る代ぞ 雛の家 (4)
 衰ひや 歯に食いあてし 海苔の砂 (4)
 憂き我を さびしがらせよ 閑古鳥 (4) 
 夏の夜や 崩て明し 冷し物 (4)
 ひやひやと 壁をふまへて 昼寝かな (4)
 むざんやな 甲の下の きりぎりす (4)
 秋の夜を 打崩したる 咄かな (4)
 一つ脱いで 後に負ひぬ 衣がへ (5)
 霧しぐれ 富士を見ぬ日ぞ 面白き (5)
 春立つや 新年ふるき 米五升 (5)
 春雨や 蜂の巣つたふ 屋ねの漏 (6)
 手をうてば 木魂に明る 夏の月 (6)
 頓て死ぬ けしきは見えず 蝉の声 (6)
 一家に 遊女もねたり 萩と月 (6)
 秋深き 隣は何を する人ぞ (6)
 塩鯛の 歯ぐきも寒し 魚の店 (6)
 ほととぎす 大竹薮を もる月夜(7)
 冬の日や 馬上に氷る 影法師(7)


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書名 第七折々のうた 著者 大岡 信 No
1991-03
発行所 岩波新書 発行年 読了年月日 91-09-28 記入年月日 91-09-28

 
川越えし女のはぎに花藻かな   高井几菫

 この歌一つで、江戸時代が決して抑圧された、暗い時代でしかなかったのではないという何よりの証拠になる。作者は天明期に活躍した蕪村の高弟とのこと。「絵日傘を彼方の岸の草に投げ 渡る小川の水ぬるきかな」という、与謝晶子の歌を連想した。


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書名 続百代の過客 (上・下)  日記にみる日本人 著者 ドナルド・キーン 金関寿夫 訳 No
1991-04
発行所 朝日選書 発行年 読了年月日 1991-01-02 記入年月日 1991-01-04
 
 正編に続いてこの続編は幕末から明治一杯を扱っている。それだけに身近で、取り上げられた人物のいずれをとっても興味つきない。すぐ前で述べた啄木からの引用も実は本書からの孫引きだ。

 特に興味を引くのは、著者が特に力をいれているいわゆる外遊した人々の日記。日本人が初めて欧米に行った幕末の頃から、すでに今日の日本人の外国に対する二つの態度、徹底して拒み、尊大な態度を取るのと、その社会に溶け込み良いところは吸収しようとする態度、が見られることだ。私は自分では森鴎外などと同じに後者の態度を取っていると思う。

 びっくりしたのは、成島柳北についての記述の中に、明治5年(1872年)パリに渡った彼が、費用の関係でもっと安いホテル、ホテル・ド・ロード・バイロンに移ったとあることだ。このホテルは、私が初めてパリに行ったとき、ブラッセル事務所の方で取っておいてくれて、泊まったホテルだ。設備など旧式だが、シャンゼリゼ通りに近く、「リド」のすぐ裏にあってとても便利だった。一昨年行った時、前を通ったがまだ以前のままあった。しかも、成島自身驚いているのだが、彼がそこに移ってみると、すでに5人もの日本人がいたというのだ。今から120年前のパリ。我々の海外熱はひょっとすると天性のものかも知れない。

 本書は、明治の日本人像を知る上できわめて有用だ。壮烈な子規の病床日記、自分の性生活を赤裸々に綴った徳富蘆花の日記、和歌山の一女性、川合小梅の日記に現れた西南戦争に対する見方、自由民権家の意外な一面を見せる植木枝盛の日記、それぞれに興味はつきない。それにしても、正編から続編までこれだけ多くの日本人の日記を読み通した著者の情熱、学識には言葉もない。翻訳もまたすばらしいのは、著者が日本語にきわめて堪能だからだろう。


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書名 ミイラ採り猟奇譚 著者 河野多恵子 No
1991-05
発行所 新潮社 発行年 読了年月日 91-01-13 記入年月日 91-01-15

 
著者最新の書き下し。戦時中下に展開される20才近く年の離れた医者夫婦の、ついには23才の妻が夫を殺すに至る倒錯した性の世界。この著者特有の細部に及ぶ詳細な描写は、小説の楽しさを堪能させてくれる。著者の小説はかつて中編を一、二読んだことがある。もう15年以上前だろう。その時、その詳細を極めた描写に小説の一つのあり方はこれだと思った。それで今回この小説が出たときすぐに買ってみる気になったのだ。吉行淳之介との対談で河野多恵子はこの小説が完成したと思ってからさらに10年かかったと語っている。驚くべきことだ。一つの文学作品を仕上げると言うことは生易しいことではないのだ。

 抑えたというのだろうか、独特の文体。ときどき日本語の表現としてわかりにくいと思われる所がある。マゾとサドの倒錯した性の世界に人間の哀しみを見る気がする。そして、主人公の比奈子の持つ不思議なやさしさがその悲しみを一層際だたせる。

 背景となる戦中の世相は実際に体験したわけではないが、私には懐かしい。今の時代にこの小説を読むのは、私の少年時代に日露戦争時代を舞台にした小説を読むことに等しい。当時の私には、日露戦争などははるかに遠い昔のことだった。いま、この前の戦争は私にとって決して遠いものではない。

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書名 日本人の英語・続日本人の英語 著者 マーク・ピーターセン No
1991-06
発行所 岩波新書 発行年 読了年月日 91-02-01 記入年月日

 
英語のネイティブスピーカーが日本語で書いたことに本書の全てがある。このような本は今まで読んだことがない。日本語にも極めて堪能な著者により双方の言語、あるいはその背景にあるものの差が明らかにされて行く。そうした観点から日本人の英語の欠点が明快に指摘される。改めてなるほどと思うところがたくさんあった。特に、冠詞、使役動詞 have,let,make の差、at,in,for の差、 through の用法など参考になった。

 それにしても、一つの外国語の微妙なニュアンスを日本語にそっくり移すことはしょせんは不可能なのだと、この驚くほど言語感覚に優れた筆者は言っているようだ。

                                            
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書名 テクノヘモゲニー 著者 薬師寺泰蔵 No
1991-07
発行所 中公新書 発行年 読了年月日 91-02-10 記入年月日 91-02-11

 
先日青葉台研究所の視察にきた岡島監査役が4人の所長さんがたへ手土産として持参した本。去年の軽井沢での研修会の読書感想で三上特許室長が取り上げた本でもあり、興味を持っていた。

 サブタイトルに国は技術で興り、技術で滅びるとあるが、要約はそういうこと。

 毛織物工業における優位性からさらに産業革命をいち早く達成したイギリス、食料自給の必要から農業化学が発展し、それがさらに染料を中心とする化学工業へと発展し国の隆盛期を迎えたドイツ、互換性技術に基礎をおく大量生産方式をもって世界に覇を唱えたアメリカ、そのアメリカを追う日本、と言ったところが本書の内容だ。 技術屋のはしくれとして、技術が国の優劣を決める基本的要因であると言う主張は快い。特に注目されたのは、エミュレーション(競争的模倣)が一国の技術発展にとってきわめて大切であることの指摘、技術移転に果たしたユグノーの役割(マクス・ウエーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」の主張を思いださせる)、その国の特許法のあり方と技術発展との深い関わりなど興味深かった。ただ、新書版250頁にしては、余りに多くのことを書きすぎていて、論旨が散漫になっている感じはいなめないし、もう少し詳しい掘り下げが欲しい気がする。筆者が余りにも博識すぎるせいだろう。

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書名 野蛮な来訪者ーRJRナビスコの陥落 上・下 著者 ブライアン・バロー、ジョン・ヘルヤー
鈴田敦之 訳
No
1991-08
発行所 日本放送出版協会 発行年 読了年月日 91-03-12 記入年月日 91-03-18

 
ロス・ジョンソン、ヘンリー・クラビス、ピテター・コーエン、エド・ホリガン、ジム・ロビンソン、ジョージ・ロバーツ。
 
 1988年秋の史上最大と言われるRJR社の買収の一部始終を扱ったドキュメント。研究所の図書から借りて読んだ。何しろ登場人物が多くて、折込の人物の相関図をしょっちゅう参照しながら読み通した。上記は主要な人物。

 本書を読んで一番度肝を抜かれたのはアメリカの経営者の生活ぶりだ。社有のジェット機で世界中を飛び回り、社有の高級マンションに住み、各界の名士との慈善ディナーによる華やかな社交を営み、自分の農場を持ち、休暇にはアフリカにハンティングに出かけるといった生活は日本の経営者のほとんどにとってまったく無縁のものだ。日本の経営者の方が遥かに無私で慎ましく好感が持てる。だが、このような金ピカの生活を得ようとして例えば筆跡鑑定まで持ちだしてライバルをけ落とそうという激しい闘争心、競争意識が結果としてアメリカの経済を支えているのだ。まさに資本主義の原点を見る気がする。

 さて、自社株の買占めを企てたジョンソンの経営グループと、それに対抗して割って入ったクラビスのグループとの壮絶なビッド合戦の結果は1株当り110ドルという高値で後者のグループの勝利に終わる。RJRはその収益性から見て株価が不当に低く評価されている。これを何とか是正しようとジョンソンが自社株の買占めを考えたとあるが、この結論にいたる課程、あるいは論理が私には十分には理解できなかった。ジョンソン個人の何事にもじっとしていられない性格がこの買収劇の発端に大きく影響しているのであろう。

 また本書によれば、無煙タバコのプレミアが失敗だったこともジョンソンらによる自社株の買占めの決定の背景にあるとされているのが興味深かった。余談だが、プレミアの失敗は所詮タバコなど技術を売るものではなく、マーケティイングで売れるものであるということの再認識であろう。ここにPMとRJRの大きな差がありそうだ。そのPMもRJRの買収を考えたことがあったというからアメリカ社会のドライさにはびっくりする。先日来所した本社の企画部長の話ではJTにもRJR買収の打診はあったそうだ。クレビスによるRJR買収の総額は3兆円であった。その資金の半分近くが日本から融資された資金であったという。そして、買収にからむ数千億円の手数料がウォール街の投資銀行家の手に入ったが、アメリカの経済、産業にもたらすものは何もなかったのではないか。それにしても、日米ともタバコは儲る商売だ。
 
 私が面識のあるRJRの人たち、モース、ロッジマン、マッケンジー、シゼルといった名前はついに出てこなかった。
 三和銀行の関係者が翻訳したものだが、まずまずの出来ばえだ。


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書名 前兆 著者 W・V・D・ウィシャード、唐津一 監訳 No
1991-09
発行所 日本規格協会 発行年 読了年月日 1991-03-26 記入年月日 91-03-30

 
数カ月前、本書を読めばこれから2000年にかけての世の中のことは大方予測できるという日経新聞にのった広告の文句に引かれて、赤木さんに言って図書で買わせた本。

 世の中のいろいろな現象や事実が断片的に羅列してあって、それらをまとめる形で21世紀に向かっての漠然とした予測がなされている。その予測はこれからの世界では、精神的なもの、あるいは宗教がもっと重視されるだろうというものだ。衰退するアメリカの苦悩、あるいはアメリカ社会の抱える問題が色濃く出た予測だ。88年に書かれた本書は、ソ連、東欧に関する予測でその改革路線がもう後戻りすることはないだろうし、東欧へのソ連の介入もないだろうと予測している。それは正しかった。しかし、89年の劇的な東欧の変革まではさすがに予測できなかった。未来予測などそんなものであろう。

本書から。 
 リーダーシップとはビジョンである。これはいい言葉だ。
 日本の繁栄はよい製品に基づくばかりと言うより、価格優位性とあいまって優秀な市場戦略にある。日本ほど外国市場の個別の要求に対応する方法を知っている国はない。 
 キリスト生誕以来誕生した全人類の18%が現在生存している。
 世界の人口: 1987年 50億、1930年 30億 1575年 5億

 監訳者のもとに、素人のグループが分担で訳したこの本の翻訳はかなりひどい。翻訳がひどいと、上に引用した人口のデータなどもその信憑性まで疑わしく思われる。

                                           
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書名 Saint Joan 著者 Bernard Shaw No
1991-10
発行所 Penguin Books 発行年 読了年月日 91-04-03 記入年月日 91-04-06

 
NHKラジオの原書で読む世界の名作シリーズの1月から3月の分。

 バーナード・ショウの物を読んだのはこれが初めて。少しもひねったところのない素直ないいドラマだと思った。ジャンヌダルクといえば中学生の頃イングリット・バーグマンが演じた映画を見たことがある。火刑台の白い衣服をまとったジャンヌの姿の記憶は今でも鮮明だ。その映画からはジャンヌは悲劇の救国の英雄であり、憎むべきはイギリス軍、火あぶりにした教会関係者という印象を強く受けたように記憶する。

 ショウのこのドラマは彼の長文の解説にも繰り返し述べているように、単なるメロドラマではなくあの時代の中でのジャンヌの悲劇を公平に描こうとしている。クライマックスの異端裁判の場面は、ラジオの解説によれば裁判記録にかなり忠実であるとのことで、15世紀初めの当時の通念からして裁く側が決して不当ではなかったというショウの考えはよくでている。またジャンヌの性格の持つ悲劇性までもがよく描かれていると思う。ジャンヌの時代は、今年のNHKのテレビ時代劇「太平記」の100年も後のことであるというのは意外であった。暗黒の宗教裁判というイメージは12、13世紀の物だと思っていた。ジャンヌの処刑から70年もしないうちにアメリカ大陸は発見されるのだ。

 教会、宗教関係の言葉が出てきてかなり難しい英語だった。しかしそれもショウ自身による50ページ近い解説的前書きに比べればたいしたことではない。前書きの文章は大学の入試にでも出したらどうかと思われる難解な長文の続きだ。作者自身によるこれほど長い、詳細な解説がはたして必要であったかどうか、疑問だ。

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書名 Reflections in a Golden Eye 著者 Carson McCullers No
1991-11
発行所 Penguin Books 発行年 読了年月日 91-04-28 記入年月日 91-05-03

 
ラジオの原書で読む世界の名作シリーズ、4〜6月の分。著者のMcCullersの名は初めて聞くもの。

 舞台はアメリカ南部のある駐屯地。それぞれに心の奥に屈曲した物をもつ2組の将校夫妻と一人の一等兵の間に起こる悲劇というのがストーリー。ストーリーの面白さに引かれて読んでしまったのではない。人物や、風景の描写の素晴らしさ、いってみれば作者の英語表現の魅力に引かれて読み終えてしまったのだ。その文体とか、表現の細かいところを鑑賞し、それを言葉に表す能力は私にはないが、さほど難解ではなく、読み手の中にきわめて鮮明なイメージを浮かび上がらせる品のいい英語を味わう心地よさに引かれて読み進んだ。こういう経験はいままで余りなかったと思う。

 退屈で詰まるような平時の陸軍駐屯地のことを述べた書き出し、ウイリアムズ一等兵が夜明け前に厩に行くときの秋の森の描写などは素晴らしいし、心臓に持病を持つアリソン夫人の夜中の目覚めの場面など私自身の体験に照らしても真に迫っていると思う。あるいはこの場面は若いときから持病の卒中に悩んだという作者の影が写っているのかも知れない。人物では、アリソンに忠実な使用人のアナクレトが主要な5人との対比で際だって印象深く描かれている。


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書名 サザンスコール 著者 高樹のぶ子 No
1991-12
発行所 日経新聞夕刊 発行年 読了年月日 91-05-02 記入年月日 91-05-03

 新聞や雑誌の連載小説を読み続けるというのは思ったより大変なことだ。一気に読んでこそ面白いものを細切れにして読むものだから印象が散漫になる。そんなわけで余り読まない。いま、朝日新聞に連載中の中上健二の「軽蔑」も、作者に引かれて読みだしたが途中でギブアップ。大岡信の折々のうたも新聞ではほとんど読まない。そんな中で、日経の連載小説は面白く最後まで読み通すものが多い。「下天は夢か」とか「花と火の帝」などの歴史小説は最後まで読んだ。この小説も結構最後までついて行けた。主人公が大企業に勤める技術系のサラリーマンで、自分の子供ほどの若い女燿子と性的関係を結び、彼女の母親の残した赤い布の色がどうして出るかという秘密を巡って物語が展開するというサラリーマン受けのするものだったからだろう。主人公と若い女の情事の場面、あるいは、主人公の友人の妻と死期を悟った燿子の父との激しい情事の場面。女性が書いたこれらのかなりきわどいベッドシーンに引かれて最後まで読んだのかも知れない。

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書名 The Heart of the Matter 著者 Graham Greene No
1991-13
発行所 Penguin Books 発行年 読了年月日 91-06-10 記入年月日 91-06-11

 
「The End of the Affair」,「 The Tird Man」 に次ぐ原書で読んだグリーンの作品の第三作目である。

 先頃死んだグリーンの評伝をニューズウィークの記事の翻訳で担当した。それで読んでみたくなった。丸善に行ったときペンギンブックの前に立ち、いくつかのグリーンの作品の中からこれと、「The Honorary Consul」とを買ってきた。選択の理由は、「The Heart of the Matter」 と言う題にある。「事件の核心」とはいかにもサスペンス物にふさわしい題だと思った。中身も「The Third Man」と類似した物を期待した。ところが大違い。情事あるいは不倫と信仰もしくは神を扱った主題は「The End of the Affair」 と同じだが、ストリーの展開ははるかにそれには及ばない。

 少し前に読んだ C.MucMllersの小説に比べてかなり難しい英語だ。想像力を一杯に働かせて読み進んだが、信仰に関する主人公Scobie少佐の心の動き、とりもなおさず作者の信仰に対する考えを吐露したところなど手にあまった。いずれにしろ、カソリック教徒でない我々には自らの命を絶つに至った少佐の心情は理解できないところがある。少佐の妻も、情事の相手の若い女性も、少佐の死後すぐにそれぞれの相手と結び付き、新しい生活に向かうことを暗示するような結末は、女のしたたかさを示している。対照的に、責任感と信仰心に溢れ、死後も残った人々の迷惑あるいは保険金のことを考え、病死に見せるために周到な用意をしていった少佐の優しさはこの小説の圧巻であろう。 「The Heart of the Matter」 と言う題は、少佐のこの死への周到細心の用意のことを指すのであろうか。


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書名 The Honorary Consul 著者 Graham Greene No
1991-14
発行所 Penguin Books 発行年 読了年月日 91-07-27 記入年月日 91-07-30

 Penguin Books で250頁を越える長編小説。
 先の「The Heart of The Matter」 よりストーリー展開が遥かに面白く、かつ読みやすい英語だった。48年に出版された前者と73年に出版されたこの本との間には25年の歳月があるが、その間に英語そのものが変わって、今の私にとって読みやすいと感じるのであろうか。

 舞台はアルゼンチン北部の町。河を隔てた向こうはもうパラグアイだ。カストロやキューバ革命のことは一切出てこないが、おそらくキューバ革命の後の時代だろう。貧困と圧制から人々を救うべく戦う革命グループが、当地でアメリカの大使を誘拐しようとして、間違っておいぼれた飲んだくれのイギリス人の名誉領事を誘拐してしまう。名誉領事とその友人で、自身の父もパラグアイの当局に捕らえられており、ゲリラグループのシンパでもある若い医師の二人の主人公を中心に誘拐人質事件をめぐって物語は展開する。名誉領事の二度目の妻である若い売春婦上がりのクララは妊娠するが、その父親は医師であると言った関係にある。結局は、医師とゲリラの指導者の元神父とは死に、名誉領事は救出されるという結末を迎える。

 泥で出来た小屋の密集する貧民街で、ゲリラグループの持つトランジスタラジオに生まれて初めて耳を傾ける妻を亡くしたばかりの老人。一方で、女を巡ってのナイフでの決闘をmachismoとして賞賛し、そうした男気をテーマとした小説を書き続ける医師の友人の小説家。貧困と、ある点では滑稽なほど悲惨でもあるmachismo、そうした南米の人々の直面する現実と、その心情に対し作者の筆は深い理解と共感を示している。最近のペルーの情勢など耳にすると、南米の悲惨さは変わっていないのではないかと思われる。

 カトリック教徒のGreeneにとって避けることの出来ない神、信仰、教会といった論議は、ゲリラの指導者であるもと神父とその妻や仲間との間の論議などを通して、この作品にも色濃く出ている。

                                           
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書名 永劫回帰 著者 バリントン・J・ベイリー、坂井星之 訳 No
1991-15
発行所 発行年 読了年月日 91-07-29 記入年月日 91-08-03

 
SFもの。日経の読書欄で取り上げてあったので読んでみた。余談だが、日経の読書欄の方が、最近では、朝日や週間朝日の読書欄よりも親しみを感じ、よく読み、影響されることが多い。もう一つ余談だが、「永劫回帰」という題にも引かれて読む気になったのだが、大学生の娘も高校生の次男も「劫」の字が読めず、その意味も知っていなかった。

 珪素骨を持つように身体改造された一種の超人である主人公が、この宇宙の永遠の繰り返しを断ち切ろうと単身挑むというストーリー。練金術師たちの実験助手をしていた時、あやまって「エーテルの火」に焼かれてしまい、その時味わった主人公の想像を絶する苦痛は、同じ事象を永遠に繰り返すとされている宇宙にあっては、何回も、何億回も繰り返されることになるわけであって、こんなことはとても耐えられないというのが、単身宇宙の永遠の輪廻を断ち切ろうと主人公に決意させた理由だ。永劫回帰する宇宙という考えは、ビッグバンに始まり、ビッグクランチに終わる最近の宇宙論の一つとしておかしくないことだし、それ以上に、多くの人々の心の底にごく自然に潜む一種の宗教心的な考え方として誰もが抱く感情だ。その永劫回帰を断ち切りたいという主人公の動機はどう見ても弱く、説得力に乏しいのが気にかかる。

 時代設定は何時の頃であろうか、人類は自由に宇宙空間を光速で飛び回り、クローン人間が出来、日常の雑用はすべてロボットがやる時代だ。そんな時代にあっても変わらぬのは人間。暴力や、差別、偏見が満ち満ちていて、たいした理由もなく人を殺し、その社会体制も強権的、あるいは全体主義的で、人々の自由は束縛され、今の社会の方がずっとましに思える様な場面がいたるところに出て来る。胸が悪くなるほどだ。去年、ニューズウィークの翻訳者仲間の矢部さんが訳した「小惑星諸島独立す」を読んだが、21世紀後半に舞台をおくこのSFでも、暴力や人殺しを何とも思わないシーンが気になって仕方がなかった。アメリカのSFだからこうしたシーンが平気で出てくるのだろうか。科学技術が進めば進むほど、人間の品性は低下し、人類の欠点がむき出しになって来るような気がする。人類愛とか、献身とかはSFにはなりにくいものなのだろうか。

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書名 或る「小倉日記」伝 著者 松本清張 No
1991-16
発行所 角川文庫 発行年 読了年月日 91-07-31 記入年月日 91-08-03

 
国会図書館で読んだ。清張のこの作品で直木賞をとったものと思っていたので国会図書館で借りて読んだ。実際は、芥川賞だったので、わが家の芥川賞全集に入っている作品で、わざわざ国会図書館まで行って読まなくてもよかった。清張の作品はかなり読んでいるが、この出世作はまだであった。それ以上に、森鴎外への関心からこの作品を読んでみたいと思ったのだ。

 鴎外の小倉における行動はその時期の日記が見つからないために不明な部分が多く、研究者の間で残念がられていた。この小説はいわばその鴎外の生涯の不明の部分を埋めるべく、身体不自由な主人公が、鴎外の小倉滞在中の足跡を明らかにすることに一生の情熱を賭けるというストーリー。主人公のキャラクターは後の清張の作品に登場する人物の一典型である。一つの過去を執拗に追い求め、ペダンチックで、どこか暗い影がある人物。時にはそれが犯罪までにつながる人物であっても、作者の深い共感に支えられ、読む方もそうした人物の犯す犯罪を憎む気になれない様な人物。もちろんこの作品は犯罪とは無縁であり、主人公が30才そこそこで病死した直後、鴎外の「小倉日記」が発見されるという結末で終わる。献身的な母の助けを借りて、わずかなつてを頼りに不自由な身体で40年も前の鴎外の消息を追い求める主人公も、ふとこんなことをして何になるという思いにかられることがある。この部分はきわめてリアリティーに富む。「少年王者」の結末を知りたくて、去年、今年と夏休みに国会図書館に足を運んで、やっとその願いを達した私自身、かなり主人公に似るところがあると思う。出来れば余生は、主人公のようなことをして暮らしたいと思うが、やっぱりこんなことして何になると思うことであろう。


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書名 少年王者 著者 山川惣治 No
1991-17
発行所 集英社 発行年 1977年 読了年月日 91-08-01 記入年月日 91-08-03

 
全3冊の復刻版。
 少年の頃初めの方だけ読んだこの劇画の、最後の結末はどうなったのかを知りたいと思ったのは去年のことだ。なぜそう思ったかははっきりしない。自分史を書こうと思ったことも関係しているだろうし、あるいは人生の最後に気になっていることは片付けておこうという気持ちとも関係あるかも知れない。直接の動機は、国会図書館に行くようになったことだろう。日本のあらゆる書籍はここに集まるという。それならば昔子供の頃読んだ雑誌も見られるかどうか試してみようという気になった。そこで思い付いたのが「少年王者」。去年の夏休みに、この辺だろうと見当を付けて、昭和23年の雑誌「少年」を借りた。さすがに国会図書館、ちゃんと雑誌はあった。だが、「少年王者」は載ってはいなかった。当時「少年」と並んでいた「少年倶楽部」の方だったかと思われたが、それ以上は追求しなかった。

 さて今年、夏休みに二日国会図書館に通った。第一日目は松本清張の「ある『小倉日記』伝」や、「歴史文学夜話」、T.Sエリオット全集などを読んだ。二日目、少年王者の復刻版を読んだ。5時間近くかかかった。去年までは10台もなかったパソコンによる検索システムが、今年は20台近くに増え、検索内容も充実したので、「少年王者」の題名で検索してみたらすぐに見つかったのだ。

 著者の解説によると、昭和22年12月に生い立ち編が出版されたのが最初で、2年後第5集のモンスターツリー編から「おもしろブック」に毎月連載されたとのことだ。私が読んだのは生い立ち編の次の赤ゴリラ編ぐらいまでだ。驚いたことに、実際はこれから物語は延延とその20倍近く続くのだ。私は最後まで読まなかったのは、連載されている雑誌をとらなくなったからだと思っていたがそうではなかったのだ。おそらく、最初の二つの集を田舎でだれかに借りて読んだのだろう。倒した凶暴なライオンの上で勝利のおたけびをあげる少年王者の絵は今でも覚えている。絵は、黒と褐色の2色刷り。台詞は絵には入っていない。私が一番知りたかった結末は、アメンホテップとウーラーの正体。もちろん、私が読んだ最初の2巻だけで、二人の正体がそれぞれ真吾の父牧村博士と、牧村一家を陥れた太田であることはおよそ想像されたが、実際に確かめたかったのだ。40数年ぶりにそれは確かめられた。しかし、その結末までいたるのにこんなに紆余曲折があったとは予想外だった。その間、少年王者には次々に危険が襲ってきて、それを超人的体力で乗り切って行くのだ。ニューヨークに住む真吾の母方の従姉妹が探検隊に加わったり、豹女が出てきたり、アメンホテップが超近代的な装甲車に乗って現れたり、最後の方では、真吾がインド洋のまっただなかへ一日も泳ぎだしたり思いもよらぬ展開をする。

 もちろん、アフリカはその後大きく変貌し、かつての植民地はすべて独立し、それぞれに近代化を目指して苦闘している。暗黒大陸、野蛮な人喰い人種の住むところと言ったイメージは薄れ、土人などという言葉も今は使われなくなったし、肉食獣に対する見方なども今とはずいぶん違うだろう。そんな点はあるにしても、今でも限りないロマンをかき立ててくれるアフリカの大密林で展開される波乱万丈の冒険物語は、今読んでも楽しい物語だ。

 面白いと思ったのは、敗戦後間もない出版なのに、アメリカが文明世界の唯一の代表になっていて、牧村博士が癌に効く緑の石を送った相手先は、ロックフェラー研究所であることはすでに第一巻から出ている。わずか2年前までの敵国に対する見方としてはこれは異常とも言える見方だが、アメリカや、あの戦争に対する当時の日本人の思いはそんなものだったのだろう。


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書名 文章読本 著者 三島由起夫 No
1991-18
発行所 中公文庫 発行年 読了年月日 91-08-12 記入年月日 91-08-13

 
本屋でふと見つけて買った。三島にこんな本があるとは思わなかった。文章読本と称するものは、丸谷才一、谷崎潤一郎のものについで三冊目である。いずれも大変面白い。当然のことながら、論理、文章が明快でわかりやすい。そのうえ、それぞれの著者の特徴がよく出ていて、著者自身を知る上でも格好の読物となっている。

 冗舌な描写を退け、僕という人称を甘えがあるといって否定し、「
文体による現象の克服ということが文章の最後の理想であるかぎり、気品と格調はやはり文章の最後の理想となるでありましょう。」と最後を締めくくるこの文章読本からは、後年の、今でも私にはまったく馬鹿げたことに思える彼の最後すら、予感させるものがある。

 丸谷才一はその名の通り博識な才人であると思っているが、三島もそれに劣らぬ博識であるのにはびっくりした。特に、フランス文学への造詣が深く、本書にもいたるところに引用がされている。作者というものの読書の広さ、深さにはあらためて驚嘆し、私などまったく及ばないところだと思った。また、三島の森鴎外に対する傾倒ぶりも意外だった。

 本書から:
○ 
つまり小説の文章を歩行の文章とすれば、戯曲の文章は舞踏する文章なのであります。
○ 
しかし日本の評論家は日本語の非論理的性質と、また対象の貧しさによって、深い孤独を味わわなければなりませんでした。
○ 
一般読者が翻訳の文章を読む態度としては、わかりにくかったり、文章が下手であったりしたら、すぐ放り出してしまうことが原作者への礼儀だろうと思われます。
○ 
語学とは関係なくわれわれは、自分の判断でよい翻訳文と悪い翻訳分を区別することができるのです。
○ 
風景描写にかけては日本の作家は世界に卓絶した名手だということができましょう。
○ 
擬音語は日常会話を生き生きとさせ、それに表現力を与えますが、同時に表現を類型化し卑俗にします。鴎外はこのような擬音詞の効果を嫌って、その文学は最も擬音詞の少ないものであります。それが鴎外の文学の格調をどれほど高めているか知れません。
○ 
擬音詞の第一の特徴は抽象性がないということであります。それは物事を物事のまま人の耳に伝達するだけの作用しかなく、言語が本来の機能をもたない、堕落した形であります。
○ 
作者の個性の肌の温かみにじかに触れるような文章が、いい文章であるかどうかということについては疑問の余地があります。
○ 
形容詞は文章のうちでも最も古びやすいものと言われています。なぜなら、形容詞は作家の感覚や個性と最も密着しているからであります。鴎外の文章が古びないのは形容詞が節約されているからでもあります。しかし形容詞は文学の花でもあり、青春でもありまして・・・・
○ 
私は文章をあとから訂正するということをしません。できあがった文章は、私のそれぞれの年代、それぞれの時代の考え、感じたことの真実を現しているので、それを時がたってから修正することは不可能だと考えるからであります。
○ 
文章の最高の目標を、格調と気品に置いています。例えば、正確な文章でなくても、格調と気品がある文章を私は尊敬します。
○ 
文章の格調と気品とは、あくまで古典的教養から生まれるものであります。

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書名 八十日間世界一周 著者 ジュール・ヴェルヌ、 田辺貞之助訳 No
1991-19
発行所 創元推理文庫 発行年 読了年月日 1991-08-26 記入年月日 1991-09-14

 書かれたのは、1872年。この有名な物語を読もうという気になったのは、日経新聞の書評欄を見てのこと。三日間ほどで一気に読んだ。著者がフランス人であり、フランス語で書かれたものとは意外であったが翻訳も素晴らしいし、内容も面白い。今では、一日で世界一周できることを考えると、わずか120年前に80日間もかかったと言うのは意外な気がする。

 主人公のイギリス貴族のフォッグ卿の強い意志と、楽天性は私とは無縁のものだが、緻密な時間感覚は共通する。この小説の結末のどんでん返しは、ほぼ四分の一読んだ所で、下男のグリニッジ標準時に合わせた時計の話が再度出てきたときに、あるいはと予測できた。私は、当然フォッグも東まわりに地球を一周すれば、一日得することを承知しているからこそ、悠然としていられたのだと思っていた。ところが、そうではなかった。彼が、そのことを知らずにいたと言う最後のどんでん返しにいたるプロセスは、説得力を欠く。沈着冷静な主人公が、初めて世界一周したマゼランの部下の航海日誌の日付が、一日違っていたと言う有名な話を知らないと言うのは不自然だ。主人公の性格と矛盾する結末の付け方だと思う。このことは、訳者のあとがきの解説でも触れていた。

 フランス人の見たイギリス貴族という観点から見ると、この小説の別の面白さがありそうだ。男性としての一つの理想像の様に描かれている主人公は、イギリス人に対する最大の皮肉のような気もする。

                                           
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書名 男の一生 著者 遠藤周作 No
1991-20
発行所 日経新聞連載 発行年 読了年月日 1991-09-13 記入年月日 1991-09-14

 
最初の10回か20回ぐらいを読みそこなった。この小説の主人公の名が、前野將右衛門とわかったとき、これは架空の人物を主人公にした歴史的フィクションだと思った。ところがそうではなく、実在の人物に基づく、ほぼノンフィクションともいえるものだった。秀吉と苦楽を供にした腹心でありながら、なぜ蜂須賀、清正、あるいは三成のようにはその名を私がまったく知らなかったかは、読み進むにつれて明らかになり、また、そのことがこの小説のメインテーマでもあった。数々の武功により、大名にまでなった主人公は、その嫡男が、秀次の事件に連座したことにより、自らの命を絶たねばならなかったのだ。作者は、將右衛門の悲劇の一生を淡々と、時に古戦場の現在の風景などを交えながら語っている。その抑えた語りぶりに好感を覚え、それが主人公への大きな共感を呼ぶ。

 主人公の一生は、歴史の流れに翻弄された受身一方の一生だったというふうにはとれない。自分の力だけではどうにもならない時の流れ、あるいは、人の心の動きといったものがこの世の中にはあることを自覚した上で生きるのと、そうでないのとは大きな差がある。男の一生とは、そうしたものを自覚しつつ、自分の運命に従容として従うことであろう。將右衛門の一生にそのような生き方を見いだした作者の目は確かだ。作者の円熟ぶりを窺わせる書きぶりの作品だ。

 將右衛門の兄、孫九郎の孫、孫四郎は幼い頃、將右衛門の忠実な部下であった前野清助や、祖父から、祖父や、その弟、あるいは秀吉らの戦いの数々を聞いた。孫四郎が晩年、それらを娘の千代に口実筆記させたものが前野家の文書として残された。この貴重な資料が発見されたのは、1959年の伊勢湾台風のおり壊れた土蔵からである。津本陽の評判になった「下天は夢か」もこの前野家文書「武功夜話」から引用しているところが多かった。連載は、この千代がキリシタンであることが密告され、処刑されたことで終わっている。信長や秀吉のように権力を求めて山野に戦い、天下に号令し新しい世の中を作って行くのも人間の情熱のなせる業なら、そうした人間の行為を克明に記録したいと言うのも人間の情熱のなせる業だ。私は、むしろ後者に親しみと興味を覚える。それは前者に劣らず貴重なものだ。

 
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書名 The Quiet American 著者 Graham Greene No
1991-21
発行所 Penguin Books 発行年 読了年月日 91-10-09 記入年月日 91-10-10

 
Greene の5冊目の Penguin Books。ニューズウィークのGreeneの記事には、彼は反米的作家の烙印を押されてアメリカに入ることは生涯できなかったというように書いてあった。「The Honorary Consul」 には、南米の左翼にたいする同情的な作者の立場が出ていて、その点では反米的であるが、入国拒否につながるような物ではない。「The Quiet American」 を読めば作者が反米作家の烙印を押されたわけがわかるのではないかと思って大盛堂に行った際買ってきた。

 舞台はフランスとベトミンとが戦う第一次ベトナム戦争。語り手のイギリスの特派員、その現地妻のベトナム娘、その娘を語り手から奪って行くアメリカの「経済使節団」に属する若い Quiet American。アメリカの青年の真の目的は、ベトナムに第三勢力を樹立することであり、そのために彼はサイゴンでプラスチック爆弾を爆発させ、多くの罪のない人々を殺してしまう。それまではこの戦争も含め全てに観察者としての立場を貫いてきた語り手も、ついに、アメリカ青年の抹殺に手を貸すと言ったストーリー。

 York Harding(残念ながら私はこの人物がどんな人物だかまったく知らないが)の本に書かれたことのみを唯一の真理としてベトナムを救うためにやってきた、アメリカ青年の無邪気さ、単純さ、無鉄砲さに対する語り手の批判を通して、当時のアメリカの対アジア政策が、そしてその背後にあるアメリカそのものが徹底的に批判されている。反米作家の烙印もやむなしか。

 「翻訳の世界」で、この本をベストミステリーとしてあげていた人がいたが、ミステリーとしては 「The End of the Affair」 、あるいは 「The Third Man」 の方が優ると思うがどうだろう。
 英語は 「The Heart of the Matter」 と同じくらい難しいと感じた。
 語り手とアメリカ青年がベトミンに遭遇し、九死に一生を得る戦闘場面や、北部の戦場で語り手が目にした、川面一面に浮く死体、あるいはたった二発の銃声で、ベトミンとみられた母と子供が殺されるシーンなど、戦争の恐さ、悲惨さを描く作者の筆はさめている。


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書名 The Heart is a Lonely Hunter 著者 Carson McCullers No
1991-22
発行所 Penguin Books 発行年 読了年月日 91-10-28 記入年月日 91-10-29

 
McCullers の小説の二つ目。前に読んだ 「Reflaction in a Golden Eyes」 が素晴らしい小説であったので、丸善に行った時同じ作家のものを読んでみようという気になって買った。300頁というかなり長い小説だったが、20日弱で読み切った。期待に違わぬものだった。

 舞台はアメリカ南部の都市。時は1938年から39年にかけて。一人の唖で耳の聞こえない男Singerに、どういうわけか心引かれて集まってくる人たちの物語。飲んだくれの社会主義者、白人に激しい憎悪を抱きながら、貧しい黒人の患者相手に献身的な診療を続ける黒人医師、音楽への熱烈な憧れと才能を持ちながら貧しさ故にその道に進むことの出来ないSingerの下宿先の13才の娘、レストランのオーナー。いずれも深い孤独の内に生きている彼らにとって、唯一とも思える心の安らぎは、Singerとともに過ごす時間。いつも笑みを浮かべて彼らの話に黙って耳をかたむけるSingerは彼らのオアシス。そのSingerの唯一の心の友であるやはり唖の、デブのギリシャ人が、収容施設で死に、Singerも後を追って自らの命を絶ち、それがちょうど一つのきっかけであったかのように、社会主義者も、黒人医師も、下宿の娘も、夢の挫折という形で自分たちの人生の転機を迎えるといった話。登場人物のいずれもが、どうしようもないほどの深い孤独を背負っている。それでいて、いずれもリアルで、存在感があり、共感を覚える。並々ならぬ作者の才能だ。しかも、1940年、作者23才の時の作品だ。

 物語の展開は特にドラマティックなものではないのに引き込まれて読んでしまった。何よりも英語がクリアーであり、人物や風景の描写が生き生きとしたイメージをかきたててくれる。本書の頭の作者紹介の所で、G.Greeneは「マッカラーズとおそらくフォークナーだけが、D.H.Lawrence以後の詩人の感覚を持った作家である。マッカラーズはよりクリアであるが故に私はフォークナーより好きであり、また、彼女にはメッセージがない点で、ローレンスより好きである」と述べている。フォークナーもローレンスも読んだことはないが、これがマッカラーズの特筆であり、魅力なのであろう。フォークナーの作品は、11月からのNHKのラジオでの講読が始まる。今から大変楽しみだ。

 自動車も、冷蔵庫(氷式)も、そしてコカコーラさえ出てくるのに、この小説を読んでいて、時々、舞台が1930年代末ではなくて前世紀ではないかと錯覚されることがある。作者の描く南部はそれ程までに貧しく、また、そこに住む黒人は虐げられ、差別されている。そしてそうした現実は、今の南部とは無縁のものだとは決して言いきれないのではないかと思った。1920年代の東部白人社会を描いた、Fitzgeraldの作品とは、際だった対照をなしている。いずれもアメリカ社会の一面ではあろうが、マッカラーズの世界により多くの共感を覚える。

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書名 外科室・海城発電 著者 泉鏡花 No
1991-23
発行所 岩波文庫 発行年 読了年月日 91-12-02 記入年月日 91-12-14

 
三島由起夫は文章読本で、森鴎外とは対照的な饒舌の名文家として鏡花を取り上げていた。どこかで読んだことがありそうな気がするのだが、明治のこの大家の小説は読んだことがなかった。三島の本で興味を覚え、丸善で文庫本を見つけて購入した。標題の他に、「義血侠血」(新派の「滝の白糸」として有名)「夜行巡査」「琵琶伝」「化銀杏」「凱旋祭」の五点を納める。

 まず感じたのはわずか100年足らず前の小説でありながら、なんと日本語の変遷は大きいのだろうということ。特に、表記法の大きな隔たりにはびっくりする。:
「こう爺様、お前何処だ。」と職人体の壮佼は、その傍らなる車夫の老人に向いて問懸けたり。車夫の老人は年紀既に五十を越えて、六十にも間はあらじと思はる。飢えてや弱々しき声の然も寒さにをののきつつ、「何卒真平御免なすって、向後きっと気を着けまする。へいへい。」と、どぎまぎして慌てをれり。
 これは「夜行巡査」の書き出しだ。幸いるびがふってあるから読むことはできるが、そうでなければ壮佼をわかものとは読めない。100年前の英語もこんな感じなのだろうか。少なくともHenry James の 「Daisy Miller」を読んだときにはこんな感じはしなかった。試みにいま調べてみたらこれは1878年の作品だった。

 内容は、荒唐無稽とも思えるストリーの中に、半封建的明治時代にいきる女の純愛、自立、あるいは反戦を主題としたもの。昨日だったか日経新聞の文化欄に、今幻想文学がちょっとしたブームだとあり、鏡花もよく読まれているとあった。また、「外科室」は来春吉永小百合主演で映画化され、彼女の胸がどこまで見られるのか興味があるといった記事が週刊誌に出ていた。

 三島の言うように確かにその描写は言を尽くす。特に顔と服装の描写にこれほどの力を注いだ日本の作家もめずらしいのではないか。「化銀杏」の主人公の描写は以下のようだ。
 
細君は名をお貞といふ、年紀は二十一なれど、二つばかり若やぎたるが、この長火鉢のむかうに坐れり。細面にて鼻筋通り、遠山の眉余り濃からず。生際少しあがりて、髪はやや薄けれども、色白くして口許緊り、上気性と見えて唇あれたり。ほの赤き瞼の重げに見ゆるが、泣はきらしたるとは風情異り、たとへば炬燵に居眠りたるが、うっとりと覚めしものの如く、涼しき眼の中曇を帯びて、見るに俤晴やかならず、暗雲一帯眉宇をかすめて、渠は何をか物思へる。

 こうした華麗な文体の作り出す幻想的世界には人を酔わせるものがある。


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書名 Thirteen at Dinner 著者 Agatha Christie No
1991-24
発行所 Avenel Books 発行年 読了年月日 91-12-07 記入年月日 91-12-22

 
88年の春、オハイオ州コロンバスのバッテル研究所に出張した際、本屋のセールス品として買ってきたもの。「Five Complete Hercule Poirot Novels」 の中の一つ。定価34.75$の物が、8.98$で買えた。クリスティーの作品を原文で読むのはこれで三冊目。

 トリックも、登場人物もそれぞれにしっかり描かれていて、クリスティーの中でも上の部類に入る作品だと思う。英語は決して読み易い物ではない。ちょっともったいぶったイギリス英語。謎ときが終わって再度、最初の数頁を読み返してみた。そこに描かれた女優と物まね役者の二人の女の描写のなかにすでにこの作品の謎ときの鍵がちゃんと提出されていた。犯罪の鍵は、物的証拠よりも、関係者の心理分析によってこそ得られるというポワロものの特色がよくでた作品だ。


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書名 牡丹燈篭 著者 三遊亭円朝 No
1991-25
発行所 岩波文庫 発行年 読了年月日 91-12-12 記入年月日 91-12-22

 
泉鏡花の短編集を買ったとき、前に述べたように、幻想文学が読まれているせいだろうか、そばにあったので丸善で買ってきた。実は、去年の夏、国会図書館でそのさわりの部分は読んだのだが、全部は読み切るにいたらず、いつか読んでみたいと思っていた本だ。

 明治17年というから1884年、円朝の高座を速記したのが本書のもとというから、前述の泉鏡花の作品より少し古い。それでいてずっと読み易く現代的だ。話言葉としての日本語はそれほど大きな変遷は経ていないということだろう。

 文庫本でぎっしりの170頁というかなりの分量、それを台本なしで話したわけだから大したものだと思う。そして考案されたばかりの速記の威力を世に広めようと円朝のこの話しに挑戦した明治の先駆者。実は、若い侍が女の幽霊と寝て、ついには命を落とすという牡丹燈篭の話は、てっきり江戸時代に作られたものばかりだと思っていた。明治になってからの作品であったことは驚きだったが、かたき討ち、勧善懲悪の内容はその時代背景である江戸時代そのものだ。明治も10年代ではまだ江戸の雰囲気を色濃く残していたのだろうが、一方でもう速記が考案されていたのだ。現実離れした所も多いが、登場人物が複雑に絡み合って展開するストーリーは面白い。高座での話を聞いたらもっと面白いだろう。


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書名 Selected Stories of William Faulkner 著者 William Faulkner No
1991-26
発行所 Penguin Books 発行年 読了年月日 1991-12-29 記入年月日 1991-12-30

 
読むことに費やした数日間が、人生における儲けものをした様な気がする素晴らしい文学作品だ。読み終わった後、いつまでも感動の渦が渦巻いてひいていかない。

「Barn Burning」「A Rose for Emily」「Dry Sptember」「That Evening Sun」「Red Leaves」「Wash」の6編の短編を収めるNHKの原書で読む世界の名作シリーズ。舞台はいずれもアメリカ南部。時代は南北戦争当時から、1920年代まで。主人公は貧乏白人、黒人、あるいは没落して行く白人名家の娘。中身はすべて悲劇的なものばかり。英語は難解、晦渋。長文で、関係代名詞と文詞構文が多用され、会話に南部のものと思われる俗語がよく出てきて、辞書なしですらすら読み通せるものでは決してない。最後の比較的短い一編「Wash」 を試みに辞書なしで読み通してみたが、前半の部分の人間関係がはっきりせず、結局再度辞書をひきひき読んで、初めて理解できた。

 いずれも南部に生きる人々の苦悩を描いた感動的な作品ばかりだが、中でもラジオでもアメリカの短編小説中の白眉といっていた「A Rose for Emily」は凄い作品だと思った。この小説の結末の4行からなるパラグラフの記述は凄絶で、身震いするような感動が全身を貫き、数日間心の中でこだましていた。わずか12ページのこの小説に対して、従来から多くの研究者が取り組み、作品中の各々のエピソードに対して、年月を当てはめる作業までしていることをラジオの解説はいっていたが、うなずけるものがある。凄いと思うのは、大げさに言えば作品中の一字一句がすべて抜き差しならぬ意味を持って作品全体が構成されていること。それだけに読み手としては細心の注意をもって、一字一句をおろそかにすることなく読み進めなければならない。そうでなければ心血を注いだ作者に失礼だろう。こうした作者と読み手の間の格闘を必要とする読書こそが真の読書に値するものだ。そして小説とはまさにかくあるべし。

 本書に収められた他の作品も同じことが言える。本作品にしても、あるいは「That Evening Sun」にしても、猟奇的、少なくとも現実離れした題材を扱っているが、並行する形で読んだ泉鏡花の作品に比べて、その猟奇性が作品の中で抜き差しならぬ必然性を持っている。McCullersとの比較では、女性の書いたものと男性の書いたものというのがまず感じたこと。もちろんMcCllersの方が遥かに読みやすい。

 「A Rose for Emily」に対して「エミリーにばらを」をラジオは採用していたが、ぴったりだと思う。このタイトルは作者が言うように、薄幸な一女性に捧げた作者の贈物だと考えるのがいいのではないか。


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書名 日本人の愛と性 著者 暉峻康隆 No
1991-27
発行所 岩波新書 発行年 読了年月日 1991-12-30 記入年月日 1991-12-31

 
岩波新書にしては珍しい題の本だと思い、青葉台の東京堂で目に留まり買ってきた。古代から現代に至るまでの日本人の性愛の歴史を主として文学作品を引用しながら概説したもの。不倫という概念すらなかったおおらかな古代から、密通には死が待っていた江戸期、そして明治から戦後へかけての特に女性解放の足取りといった日本人の性の歴史が興味深く述べられている。そしてこれはまた、一つの日本文学史にもなっている。著者の筆が特に冴えているのは、江戸期。西鶴と近松とをふんだんに引用して、封建道徳の抑圧下の男女の必死の抵抗を述べたくだりだ。これは江戸文学への良き入門にもなっている。儒教道徳を否定し、明治すら半封建時代と決めつけ、その時代を精一杯性愛に生きた女性に熱い声援を送る筆者ではあるが、不倫おおははやりの現代に向ける目はきわめて厳しい。驚いたのは、筆者の生まれは父と同じの1908年、本書の初版発行が1989年、実に81才の時だ。

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