読書ノート 2015


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書名 著者
巷説天保水滸伝 山口瞳
花も刀も 山本周五郎
桜の森の満開の下 坂口安吾
実録天保水滸伝 笹沢佐保、森安彦
勝海舟捕物帖 坂口安吾
江戸人の精神絵図 野口武彦
葛飾北斎・春画の世界 浅野秀剛
川の文化 北見俊夫
芭蕉 島崎藤村
幕末における視座の変革 丸山真男
江戸落語 延広真治
黒船前後・志士と経済 服部之総
雨のことば辞典 倉嶋厚、原田稔
ニュートンの海 ジェイムズ・グリック
アインシュタイン論文選  アインシュタイン 
海の国の記憶 五島列島 杉山正明
青春ピカソ 岡本太郎
伊澤蘭軒(上) 森鴎外
伊澤蘭軒(下)  森鴎外 
狩谷棭斎  梅谷文夫 
蘭学事始 杉田玄白 
悠遊 第二十二号  企業OBペンクラブ編 
大乗小説がゆく  高梨義明
太平記(三)  兵藤裕己 
スコットランド 歴史を歩く  髙橋哲雄 
イギリス史10講  近藤和彦 
林檎の樹  ゴールズワージー 
アウシュビッツ収容所 ルドルフ・ヘス
ゆっくり行こう  有馬朗人 
水の城  風野真知雄
のぼうの城  和田竜 
春色梅兒譽美  為永春水 
ト音記号 中野博夫
つゆのあとさき  永井荷風
家族という病  下重暁子 
弁天小僧 黙阿弥
好色一代男  吉井勇(井原西鶴)
漱石俳句集  夏目漱石
火花 又吉直樹
芥川龍之介俳句集 芥川龍之介 
イースター島の黙示録  池田隆
死者の書・口ぶえ  折口信夫
中空構造日本の深層  河合隼雄
日本的霊性  鈴木大拙 
太平記 (四)  武藤裕己 校注 
学問のすゝめ  福沢諭吉 
文明論之概略  福沢諭吉 
近代科学の源流  伊藤俊太郎 
貴族  櫂未知子
蒙古斑  櫂未知子
十二世紀ルネサンス  伊藤俊太郎 
作家の猫 コロナ・ブックス編 
作家の猫 2  コロナ・ブックス編 


書名 巷説天保水滸伝 著者 山口瞳 No
2015-01
発行所 河出書房新社 発行年 2004年 読了年月日 2015-01-04 記入年月日 2015-01-07

「飯岡と笹川の血で血を洗う一騎打ち・・・・されば天保水滸伝」。どこで聞いたかわからないが、私の中に今も残る浪曲の一節だ。この一節に、私は母方の祖母を結びつけてしまう。戦後は寝たきりであった祖母がこの浪花節を愛好していたという思いがあるのだ。あるいは戦前の歌謡曲「大利根月夜」も、時々私の口の端に昇る。同じく平手造酒を歌った三波春夫の「大利根無常」という戦後の歌もあることを知った。いずれも利根川周辺を舞台とした飯岡と笹川の縄場争いに題材をとった天保水滸伝に由来する。清水次郎長一家の物語と並んで、江戸末期を題材とした大衆芸能として受け継がれている天保水滸伝の中身はごく断片的にしか知らない。暮れにユーチューブでたまたま「大利根無常」聞き、天保水滸伝についてもっと知ろうと思った。

 天保水滸伝に関連する本は意外に少なかった。本書が唯一その全容を表していると思われた。著者の山口瞳は飯岡側の助っ人の末裔に当たる。執筆の動機は従来の天保水滸伝は飯岡助五郎が一方的に悪者にされていることへの疑問である。本書では助五郎の生い立ちから、飯岡での大親分になるまでの記述は、笹川繁蔵のそれの倍以上の紙数を充てている。

 助五郎はばくち嫌いの真面目な人物として描かれる。父は青木源内で、仕えた主家が減封にあい、浪人となり、三浦の浦賀で子供たちに読み書きを教えている。助五郎は本名は青木助之丞。少年の頃父を殺される。敵を討つために江戸に上がって剣術の腕を磨こうとするが、易者に勧められ、銚子の侠客の親分五郎蔵を訪ねる。しかし、そこには寄らず九十九里浜に面した漁港飯岡に流れ着く。祭の日に石を持ち上げる力比べで、飯岡は地元の人々を驚かせ、それがきっかけで当地に住み着く。その度胸とまっとうな人間味に引かれて、地元の網元の跡取りとなり、賭場の取り締まりも任される。漁場では若い衆がたむろしており、夜や悪天で漁に出られない日は、集まって博打に興ずる。助之丞は博打は好きではないが、若い衆の必要悪として認める。そして、かつて訪れるはずだった、調子の五郎蔵親分から飯岡助五郎という名前をもらう。さらに、博徒の親分でありながら、八州取締役として、お上から十手を預かる身となる。幕府も思い切ったことをするものだが、飯岡の人柄を見込まれたのだろう。

 笹川繁蔵は利根川沿いの笹川で、醤油と酢の醸造をやっている岩瀬源右衛門の次男で、福松という。力自慢で神社の相撲大会では彼にかなうものはいない。若いころから賭場に出入りしている。ちょっとしたことで人を傷つけ、勘当される。上京し千賀ノ浦部屋に入り相撲に励む。十両まで上がり、次は入幕だと言うとき、先輩力士から八百長を持ちかけられたり、時の横綱の権威に逆らううことが出来ないといった相撲界に嫌気がさして、出奔する。そして、自らある賭場に乗り込んで、力ずくでその賭場を奪ってしまう。

 笹川と飯岡はそれぞれ勢力を拡げて行く。初対面はある博徒同士の喧嘩の手打ちを飯岡が行い、その席に笹川も招かれたとき。手打ち式の後で二人は利根川での船遊びを楽しむ。飯岡は若い篠川に好意を持つ。笹川も飯岡の貫禄を認める。ただ、笹川は飯岡が親分だけでなく、網元、関八州取締役という三足の草鞋を履いていることが気に入らない。

 笹川は罪人なども子分として受け入れている。その一人が、飯岡の知り合いが身延山に参詣した帰りを襲い、従者を殺した人物だった。飯岡もたまたまその現場に居合わせた。笹川一家にその人物がいることを知った飯岡は、十手を預かる身として役人にそのことを知らせる。そして、その人物は御用となる。笹川は激怒する。同じ親分同士で、役人に知らせる前に篠川に連絡するか、あるいはかばうかすべきだというのだ。そして、飯岡への討ち入りを子分に命ずる。飯岡は夜道で何ものかに切られ、田圃に横たわる。

 本書はここまでで終わる。『天保水滸伝』はこれからが核心で、本書はその序章といったところ。山口瞳は未完のまま亡くなった。読んでみると、むしろ飯岡の行動が正当であり、悪いのは笹川のように思える。導入部の飯岡紀行、作者と飯岡助五郎の関係などを述べたところはよかったが、本題に入ると会話が多く、文章は平凡月並みで人物描写が紋切り型だ。歴史小説と言うより講談といった方がいい。

『天保水滸伝』では笹川は飯岡の妾を血祭りに上げる。それに対して、飯岡側が大勢で利根川を上り復讐に出る。しかし、不案内な土地で、飯岡側は惨敗する。この時笹川側で活躍するのが平手造酒である。平手造酒はこの争いで命を落とす。その後、笹川は飯岡の子分に討たれる。さらに、幕府は笹川を継いだ勢力冨五郎を壊滅されるべく、大人数で取り囲む。勢力は東庄金毘羅山に立てこもり、52日も抵抗する。これが水滸伝といわれる所以だ。勢力は自害して果てる。『博徒の幕末維新』には勢力冨五郎のことが詳しく記されている。500~600人の捕り方に対し、冨五郎一派が抵抗できたのは彼らが鉄砲で武装していたからだ。冨五郎は鉄砲で自殺する。

 こうしてみると、飯岡が悪者にされる根拠は少ない。博徒でありながら取り締まり方の手先になったことなどが、ヤクザの仁義を欠いたと思われたこと、それに滅んだ笹川への判官贔屓が働いて、飯岡が悪者にされたのだ。助五郎は笹川の首を飯岡に葬り毎年供養したという。この首塚の石碑が今でも残っている。助五郎は安政6年に病没、67歳であった。

 なお、青木助之丞というのは講談での話で、実際は半農半漁を営む石渡助右衛門の長男として生まれたと、ウイキペディアにはあった。

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書名 花も刀も 著者 山本周五郎 No
2015-02
発行所 新潮文庫 発行年 昭和57年 読了年月日 2015-01-06 記入年月日 2015-01-07

 
天保水滸伝関連の本。表題が平手造酒の青年時代を扱ったもの。

 後年ヤクザの用心棒に身を落とした酒豪で肺病を病む平手とはまったく違う平手。酒が出されても口にせず、健康でひたすら剣の道に励む、まっとうな青年平手幹太郎。陸前から出てきて江戸の淵辺十左右衛門のもとで剣の修行をする。そこで、師範代5人を試合で打ち負かしたことで、淵辺はやがて自分もかなわなくなると思い、追放する。江戸をさまよっていた幹太郎は、町の地回りのようなものと喧嘩になり、飢えと寒さに衰弱していた彼は不覚にも倒され、気を失ってしまう。それを助けたのはお豊という若い女。お豊のもとに身を寄せてい幹太郎は、やがて伊達藩の剣術の指南役としての口を得る。そこでも頭角を現した幹太郎は年老いた師範に代わって正師範になる。しかし、そのことを快く思わない、元師範等の策謀により結局は伊達藩正師範の地位を追われてしまう。そして、千葉周作の道場に入る。この時には幹太郎を改め平手深酒と名を改めている。(作者は高倉テルの考察に従い「造酒」ではなく「深酒」としている)。鉄砲の時代には精神を鍛えることが剣術の目的であるとする周作と、相手に勝つ事が目的だとする平手深酒ではもともと意見が合わなかった。そして、腕はいいのに他の道場との試合に道場の代表として選ばれないといった扱いを受ける。千葉道場は厳格な規律が敷かれている。しかし、多くの門人はその陰で、酒を飲んだり、吉原に行ったりしている。そんな連中が、師範代として大名屋敷に稽古をつけに出かけているが、平手にはそうした役も回ってこない。そんなある日、平田は初めて吉原へ出かける。その帰り、酔っぱらった3人組にぶつかり、反射的にその一人に斬りつけてしまう。傷は浅いと思われたが、とにかく平手は逃げる。そしてある老人の家にかくまわれるというところで本書は終わる。

 講談では、酒のために千葉道場を追われたことになっているが、山本周五郎は、愚直なほどまじめな青年が、理不尽な社会や壁にぶつかり挫折して行く姿として平手深酒を描く。

 時は天保。徳川体制にも緩みが来るし、外国船も近海に出没する。そんなとき大塩平八郎の乱が起きる。平手は大塩の心情は理解出来るが、政治や道義の廃退を暴挙によって改革することは反対だという。門人の一人は大塩を義人と讃え自分たちも何かしなければと言う。どんな手段でもことを行うべきだというこの門人は、平手のことを臆病者だと罵る。それがもとで二人は木剣を持って立ち会うが、相手は平手の敵ではなかった。

「花も刀も」は中編小説で、本書の半分を占める。この他に、7編の短編が収載されている。
「落武者日記」は関ヶ原の戦いで敗れた石田三成の部下の話。結局は捕まえられ、家康の前に引き出されるのだが、家康は一命を助けて放免するという話。

「若殿女難記」は、藩政を乗っ取ろうとする一派が、上京する若い藩主を途中で替え玉に入れ替えようと企むが、替え玉がすでにすり替わっていたという話。若殿の振るまいがテレビで志村けんのバカ殿が侍女たちを相手に演じるコントを思わせるもの。

「古い樫木」は福島正則に改易の下達がもたらされた前後の数日を扱ったもの。
「枕を三度たたいた」は軍用金の輸送に絡むミステリー。

「源蔵ヶ原」は職人仲間が、一堂に会し、彼らのマドンナであった女の死に誰が責任があったのかを暴き出して行く話。かつてのフランス映画、ジュリアン・デュヴィヴィエ監督「自殺への契約書」を思い出した。この映画では、かつての対独レジスタンスの仲間が一堂に会し、仲間を売った人物をあぶり出して行く話だった。

 いずれも題材が面白く、構成、文章とも山口瞳の作品よりもずっとよくできた作品だ。

「溜息の部屋」と「正体」の2編は戦前を舞台とした現代物。


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書名 桜の森の満開の下 著者 坂口安吾 No
2015-03
発行所 講談社文芸文庫 発行年 1989年 読了年月日 2015-01-13 記入年月日 2015-01-15

 五味康祐の芥川賞受賞作の選考委員評で、坂口安吾が『喪神』を推していた。坂口安吾は審査委員というのも意外だった。図書館で安吾の名前を見つけて借りてきた。

 表題の「桜の森の満開の下」は鈴鹿峠に住む山賊の話。あるとき女を掠ってくる。山賊にはすでに7人の妻がいたが、その女はすべてを殺すように命じ、山賊はそれに従う。女の要求で、二人は京に出る。女は山賊に毎晩人間の生首を持ってくることを要求し、山賊はその通りにする。男はそんな生活に飽きてくる。ある夜、一本の満開の桜の木を見る。そして、鈴鹿峠の桜の森を思い出し、帰ることを決意する。女はすでに男なしでは生きて行けなくなっていて、一緒に鈴鹿に帰る。満開の桜の森を通ったとき、おぶっていた女が鬼の正体を現し、男は絞め殺してしまう。こんなストーリー。日本の桜の文化史をまったく否定するような作品。何らかの寓意が込められた作品だが、私にはよくわからない。

 昨年、さくらの季節に鈴鹿峠の旧道を歩いて越えた。もちろん誰にも会わなかった。峠には鏡岩という大きな岩があり、山賊が隠れていて、岩に写る旅人を見つけて襲ったという伝説があるという。しかし、桜の森はもちろんだが、桜の木も眼にしなかった。

「夜長姫と耳男」は飛騨の工の話。長者に招かれて、長者の姫のために仏像を彫る。他の3人の仏師と違って主人公の若い工が彫ったのは、自分の顔のように長い耳を持つ馬顔の化け物だった。彼の馬のように長い耳は、初対面の時にすでに姫によって切り落とされていた。最後には工は姫を殺す。これも極めて幻想的な物語。寓意は愛と憎しみか。工は像を彫るために毎日蛇の生き血をのみ、その死骸を天井から吊すと言った、グロテスクで奇怪なシーンが次々に出てくる。予断を許さないストーリーに引き込まれる。安吾は確か志賀直哉の小説を物語性がないと評価していなかったと思うが、「桜の森の満開の下」もこの作品も志賀直哉の作品とは対極にあるものだろう。

「二流の人」「家康」「道鏡」「梟雄」はいずれも歴史小説。というより歴史上の人物に対する安吾の独特の鋭い評論。親しみやすく読みやすく面白い。

「二流の人」は100ページを超え、本書のなかでは最も長い。慶長18年、秀吉の小田原攻めから、関ヶ原の戦後までを扱う。主要人物は秀吉、家康、黒田官兵衛。昨年のNHK大河ドラマ「軍師官兵衛」は、安吾のこの作品をもとに脚色されたのではないかと思われるほど、ドラマとよく一致していた。「二流の人」とは天才的な策略をもってしても天下を取れなかった黒田官兵衛のこと。安吾は秀吉すら二流の人と言いたがっているようにも見える。最後に天下を取った家康こそが、一流なのだ。戦国武将に対する安吾の見方が面白い。

 三方原の家康が信玄に大敗を喫した戦いについて:
信玄の目当ての敵は信長で、家康ではなかったから、負けるときまった戦争を敢えて戦う必要はなかったのだが、家康ただ一人群臣をしりぞけて主戦論を主張、断行した。彼もこのとき賭博者だ。信長との同盟に忠実だったわけではない。極めて少数の天才達には最後の勝負が彼らの不断の人生である。そこでは、理智の計算をはなれ、自分をつき放したところから、自分自身の運命を、否、自分自身の発見を、自分自身の創造を見出す以外に生存の原理がないということを彼らは知っている。(p164)そして、「堂々たる敗北振りは日本戦史の圧巻で、家康は石橋を叩いて渡る男ではない。武将でもなければ、政治家でもない。蓋し希有なる天才の一人であった。」と激賞する(p165)。

 黒田官兵衛について:
 
如水は戦争マニヤであった。なるほど戦争の術策に於て巧妙狡猾を極めている。又、所領の統治者としても手腕凡ならず、百姓を泣かすな、ふとらせるな、というのが彼の統治方針。(中略)けれども、所詮武将であり、武力あっての統治者だ。彼は切支丹で常に外人宣教師と接触する立場にありながら、海外問題に就いて家康の如く真剣に懊悩推敲する識見眼界を持ち合わせぬ。民治家として三成の如く武力的制圧を離れ、改革的な行政を施すだけの手腕見識はなかった。(p195)

 秀吉について:
 
秀吉は悟らないのだ。人間は子供の父になることによって、子供よりも愚かな子供になることを。秀次を殺してみたが、秀次よりも大きな影がさらに行く手にたちこめていた。家康の影であった。(p232)

 上杉謙信、直江兼継、真田幸村について
 
勤王だの大義名分は謙信の趣味で、戦争という本膳の酒の肴のようなもの。直江山城はその一番の高弟で、先生よりも理知的な近代化された都会感覚をもっていた。それだけに戦争をたのしむ度合いは一そう高くなっている。真田幸村という田舎小僧があったが、彼は又、直江山城の高弟であった(p235)。

 
秀吉には破綻なく手をひろげる手腕はあったが、まとめあげる完成力、理知と計算に欠けていた。家康には秀吉に欠けた手腕があり、そして時代そのものが、その経営の手腕を期待していた、と述べ、戦乱に倦み、義理と小さな約束に縛られた安眠の世界を求める気風が家康の野心の前に開かれていたという(p238)。

 石田三成について
 
三成には皆目自らの辿る行方がわからなかった。彼はただ行うことによって発見し、体当たりによって新たな通路がひらかれていた。それは自ら純粋な、そして至高の芸術家の道であったが、かれはその道を余儀なくせられ、そして目算の立ち得ぬ苦悩があった。家康には目算があった。その小説の最後の行にいたるまで構想がねられ、修正を加えたり、数行を加えてみたり減らしてみたり愉しんで書きつづければよかったのだ。家康は通俗小説にイノチをかけていたのである。三成の苦心孤高の芸術性は家康のその太々しい通俗性に敗北を感じつづけていたのだ(p243)。きわめて巧みなたとえだ。

「家康」
 
家康がおのずから天下の副将軍などと評されるようになったのは、たまたま時代思潮が彼の如き性格をもとめるようになったので、彼は策を施さず、居ながらにして時代が彼を祭りあげて行った。当時の時代思潮は何かといえば、つまり平和を愛し一身の安穏和楽をもとめるようになったということだ(p255)。
 しかし、安吾は家康の天下取りは古今東西これぐらい不手際な取り方は滅多にないと厳しい。恥も外聞もなく狸婆ァの嫁いびりのように泥臭いものだったという(p271)。秀頼を滅ぼしたプロセスはまったくその通りだと私も思う。

「道鏡」
 
この女帝ほど壮大な不具者はいなかった。なぜなら、彼女は天下第一の人格として、世に最も高貴な、そして特別な現人神として育てられ、女としての心情が当然もとむべき男に就いては教えられなかったからだ。結婚に就いては教えられもせず、予想もされていなかった。父母の天皇皇后はそのように彼女を育て、そして甚だ軽率に彼女の高貴な娘気質を盲信した。我々の娘だ。特別な娘だ。男など必要の筈はない、と。(p286)。孝謙天皇のことだ。

「梟雄」は美濃のマムシこと斎藤道三の生涯を扱う。
 この他「小さな部屋」「禅僧」「閑山」「紫大納言」「露の答」「土の中からの話」「花咲ける石」を収載。
新年早々歴史物が三つ続いたが、洞察の深さと鋭さ、読み応え、内容の濃さとも、坂口安吾>山本周五郎>山口瞳の順だ。


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書名 実録天保水滸伝 著者 笹沢佐保、森安彦 No
2015-04
発行所 日本放送出版協会 発行年 昭和56年 読了年月日 2015-01-19  記入年月日 2015-01-22

 天保水滸伝についてもう少しろうと思った。「天保水滸伝」で図書館で検索したが意外に少なかったが、本書はその一つ。NHKの番組「歴史への招待」を本にしたもので、本書はその15巻目。カラーを含むたくさんの写真入りの本。
 飯岡と笹川の抗争の発端は、講談や浪花節では、、笹川が笹川河畔の諏訪神社に相撲の神様、野見宿禰の碑を作る資金集めに催した花会に、飯岡が来なかったこととされる。清水の次郎長や国定忠治まで来たとする講談・浪花節はフィクションであるという。この花会そのものがなかっただろうという。本質は賭場の縄張り争いで、新興暴力団的存在であった繁蔵が、名前を売るために飯岡にふっかけた喧嘩というのが真実だろうという。笹川に寝込みを襲われた飯岡は、両手の指を切られるが、逃げ延びる。そして、笹川への殴り込みである。講談・浪曲では飯岡方300人ということになっているが、実際は22名に過ぎない。明け方笹川河岸に着いた。そこで大決戦が始まる。天保水滸伝のクライマックス、大利根河原の決戦だ。迎え撃つ笹川の陣も実際は20名だった。最初優勢であった飯岡方だが、竹藪に誘い込まれて、苦戦し、やがて撤退する。時間にしてわずか30分の決戦であった。飯岡側に4人の死者が出、笹川方には1名の死者。それが平手深喜である。講談・浪曲と違って、平手は最初から篠川陣営にいた。素性もはっきりせず、「
あの人はヒラタミキといっていたというので、名まえからして「平田深喜」と書くのだろうとあてはめたものであった」と本書は言う。

 最初に飯岡が襲われた時はすでに、笹川の逮捕状を飯岡は受けとっていた。だから、笹川に出向いたのは捕り物であると飯岡は主張する。だが、逮捕状を出した関東取り締まり役は、捕り物に行ったのに逃げて帰るとは何事か、お上のご威光を汚すものだと、飯岡を牢に入れてしまう。驚いた地元の人々は直ちに飯岡の助命嘆願書を出している。
 この血闘の6年後の嘉永3年(1850年)には江戸の講釈師宝井琴凌により講談としてまとめられ、それが種本となり、明治大正と受け継がれ、昭和になり二代目玉川勝太郎の名調子により、人口に膾炙するようになる。天保水滸伝では笹川がヒーローで飯岡は極悪人とされる。若くて、強くて、いい男で、最後に非業の死を遂げるという日本人のヒーローとしての性格をすべて持っているのが笹川で、それに判官贔屓が加わって、物語が出来上がる。飯岡は二足の草鞋を履き、義理と人情を知らない男の風上にも置けない奴というわけだ。

 当時の関東地方は、無宿者が住みやすいところであった。利根川河畔は人足などをやればその日暮らしの生活はできた。その上、関東の地は領主区分が複雑に入り組んでいて、少し移動すればもう領主が違い、そうなると凶状持ちでも追及の手が及ばなかった。それではまずいというのでできたのが関東取締役で、全域の取り締まりに当たった。幕府は財政難で、しかも武士は戦うことを忘れて久しいので、関東取り締まりの手先として、ヤクザを利用した。飯岡はその一人であった。

 本書には、この他「水戸黄門漫遊せず」「大岡越前裁かず」「ペリー艦隊来航す」「大江戸黒船パニック」「蒙古軍来る」が収められている。

 水戸黄門の行った範囲は鎌倉が一番遠いところだという。大岡越前裁判として語られているもののうち、実際に裁いたのは1件のみだという。当時江戸では民事訴訟が多発し、それを裁いたのは与力という部下で、奉行は直接にはタッチしなかった。また、重罪の判決は老中まで持ち上げられるので、南町奉行の一存で決めることはできなかった。大岡越前が関わったとされる最大の事件、天一坊事件も実際は関わっていないという。というのは、天一坊は品川宿にいるところを逮捕されたが、当時品川は江戸の範囲外であり、従って南町奉行の管轄外であったからだ。

「蒙古群来る」では、鎌倉武士の奮戦振りが語られる。特に第2次元寇の決定打は神風だが、その前に鎌倉武士達が奮戦し、よく蒙古軍を防いでいたことが述べられる。彼らの奮戦の理由は、ひとえに恩賞。戦功を認められ、領地を確保し安堵されることにあった。功績の査定基準には「先駆け」「討ち死に」「手負い」「分捕り」などがあった。だから彼らはまず名乗りを上げ、敵に対する。そして、その戦功の証拠として絵を残す。

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書名 勝海舟捕物帖 著者 坂口安吾 No
2015-05
発行所 学陽書房 発行年 2006年 読了年月日 2015-01-26 記入年月日 2015-01-29

 坂口安吾の『桜の森の満開の下』が面白かった。図書館の書架で本書を見つけて、借りてきた。

 維新後、明治の20年頃までを舞台とした捕り物帖6編を収める。本当の探偵は元旗本で、洋行帰りの結城新十郎。その手下として働くのは剣術使いの泉山虎之助、戯作者の花廻屋因。そして虎之助が師と仰ぐのが勝海舟。勝は事件の現場には一切関わらない。事件の経過が出そろったところで、虎之助はそれを順序正しく海舟に話す。聞き終わった海舟は犯人の名を示す。旧幕府きっての明晰な頭脳と安吾がいう海舟の推理に、腕っ節は強いが、頭はあまり働かない虎之助は、明察神の如しと、ただもう謹聴し、感心する。そこで話は一段落して、最後は新十郎の推理が示され、犯人逮捕となる。6編すべてにおいて海舟の推理とは違った真犯人が判明する。事件の真相を知った海舟が、負け惜しみを述べて一編は終わる。この負け惜しみは本書の魅力の一つ。いかにも海舟らしい負け惜しみなのだ。

 ストーリー展開は意外性に富み面白い。何よりも江戸から明治に変わった時代の雰囲気がよく出ている。

「舞踏会殺人事件」は、鹿鳴館時代の舞踏会での殺人。話は日本初の製鉄所を作るための資金調達が背景にあり、互いにライバル同士の2つの外国がそのために暗躍する。そして、次期総理大臣もとも目される政商が自宅で催した仮面舞踏会で殺害されるというストーリー。

「血を見る真珠」は、インドネシアの海に巨大真珠の採れる貝があることを見つけ、それを採りにいった船内での殺人事件。状況設定が面白い。アガサクリスティーの「ナイルに死す」を思わせる。

「石の下」は、秩父に埋蔵されたとされる豊臣秀吉縁の金に絡む殺人事件。「石の下」とは囲碁の手筋。囲碁を打っていた人物が急死するが、そのダイングメッセージが「石の下」で、それは埋蔵金のありかを示すものであった。

 以上の3編を含め、殺人にはすべて男女の愛欲が絡んでくる。このあたりが安吾捕り物帖の特色か。しかし、横溝正史作品ほどどろどろしてはいない。

 作者は虎之助が海舟に事件を報告した段階で、読者なりに犯人を推理して欲しいと、前書きで述べている。しかし、示されたデータだけから読者が犯人当てをするのは難しい。事件の記述がそれほど細かくはないのだ。

 巻末の解説に安吾の『安吾史譚』からの引用が載っている:「
幕藩制度の欠点を知悉し、それに代わるより良き策に理論的にも実際的にも成算があって事を成した人は、勝った官軍の人々ではなく、負けた海舟ただ一人である。理を究めた確実さは彼だけにしかなかった。官軍の誰よりも段違いに幕府無き日本の生長に具体的な成算があった

 家康への心酔といい、安吾は徳川幕府贔屓のようだ。今年のNHK大河ドラマは、吉田松陰の妹で、久坂玄瑞の妻であった文が主人公。私は品川の御殿山のイギリス領事館を焼き討ちし、さらには攘夷の実行を迫って御所に砲弾を撃ち込んだ久坂は偏狭な過激思想に捕らわれた、今でいえばテロリストであると思っており、それを賛美するようなドラマには疑問を感じる。さらに言えば、時の老中に直訴し、考えが違えば殺すことも計画していた松陰もさえもテロリストではないかと思う。上記の安吾の海舟評を読むとその感を一層強くする。

 初出は昭和25年から27年にかけて『小説新潮』に連載された。

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書名 江戸人の精神絵図 著者 野口武彦 No
2015-06
発行所 講談社学術文庫 発行年 2011年9月 読了年月日 2015-01-31 記入年月日 2015-02-04

 定信、徂徠、東湖、秋成、宣長と広道、金四郎と蜀山人、源内、慊堂・・・江戸人士の生きた人間像に迫り、その前近代性と現代性を読み解く。と帯にある。

 著者の『幕末不戦派軍記』は以前読んで面白いと思った。歴史学者だと思っていたが、本書の著者略歴には「国文学者、文芸評論家、小説家」となっていた。読書ノートの『幕末不戦派軍記』を見ると、これも時代考証は厳密を究めているが、一つのフィクションとして書かれていた。本書は文学者からみた人物評論で、当時の文献をふんだんに引用し、文学者ならではの鋭い分析がなされ、読み応え十分の一書。小林秀雄より読みやすく、司馬遼太郎よりは少し高級か。いずれの人物をとっても面白いが、特に私にとって目新しく、興味があったのは松平定信と荻生徂徠。

松平定信:
 
この人物には、終生、時代を代表する大知識人といった声望がついてまわっていたのである。定信はおそらく、政治的人間である以前に、より多く知識人であった。(p22)

 著者は田沼時代を「明るい夜」に、定信時代を「暗い昼」にたとえている。定信がさっそうと政界にデビューしたのは、若干30歳の時。著者があげる理由は三つ(p56~)。まず、出自の確かさ、次いで天明年間の大飢饉に際しても領地である奥州白河藩は被害を最小限に留めたという名君ぶり。定信はその著『宇下人言』で「予が領国では死せるものなしといへり」と豪語している。著者は、岡山の池田光政、米沢の上杉鷹山と並ぶ江戸時代の名君という見方を肯定している。そして3番目の理由として定信が知識人であったことをあげる。知識人というのは、「
頭の中にあらかじめ現実から抽象した概念地図を持ち、それを現実に青写真として逆適用してゆく能力があるということ」と著者はいう。定信が依拠した思考装置は朱子学であった。それは非合理的なもの、エモーショナルなもの、「夜」の世界に属するものを極力排斥する、と著者は言う。

 定信の政治と田沼意次の政治を以下のように対比させる:
この叩き上げの政治家(意次のこと)にわかっていたことは、ただ一つ、幕府の財源を農民からしぼりとるか、商人から吸い上げるかのオルタネーティヴであった。どちらの階層に冨が蓄積されていたかはいうまでもあるまい。江戸庶民の貧困は、幕府の政策の責任ではもちろんあるが、事実は主として商業資本の収奪の結果なのである。定信は自己の改革政策が、より富める商人階層からではなく、より貧しき農民からの収奪に帰着してゆくことにまったく気づかなかった。(p65)

 定信は6年で失脚するが、(『宇下人言』には自分から退職を願いでたと書いてある)意次のように蟄居、減封という処分を受けることもなく、後半生は知識人大名のして栄光に包まれた生涯であった。

 本書では『宇下人言』などを引用して、定信の私生活にもかなり言及している。特に厳格な性道徳についてもかなり触れられている。定信28歳の時、容姿のよい腰元が嫁入りのため、屋敷を去ることになった。その前夜、定信はこの腰元と一夜を共にするのだが、嫁入りの心得などを説いただけで、「凡情おこらず」だったと記している。腰元とはまんざら他人ではなかったにもかかわらずである。著者はこのこと自体は定信の偽善者振りを示すものではないとする。しかし、そのことを得々と書き残している定信に無意識の偽善者を感じるという。それは漱石の『三四郎』にもあるものだという(p35~)。三四郎が引き合いに出されたのに驚いたが、三四郎を無意識の偽善者とする見方は、筆者独自の考え方ではなく、一般にいわれているような書き方だ。

 奥州街道を歩いたとき、旧白河関にも足を伸ばした。平安時代の歌人によく詠まれた白河の関は、江戸時代には街道が変わり、その所在が不明になっていた。文献や現地の遺構の調査により、現在のところを旧白河関と定めたのは定信であると現地の説明坂にはあった。知識人大名の名に恥じない事蹟だろう。

 清澄白河という地下鉄の駅がある。深川江戸資料館という小さな博物館に行くのにはこの駅で降りる。資料館のならびに定信の墓所の霊厳寺がある。このあたりを白河町というのは、定信にちなんだもののようだ。清澄白河という駅名は変わった名前だと思っていたが、田沼のよどんだ政治と対照的に定信の政治が清廉であったことを示しているのだろう。

荻生徂徠:
 徂徠の政治学の近代性を指摘したのは丸山真男であるという。丸山が注目したのは「作為説」。本書は言う「
すべての政治制度が作為されたものであることの認識、いいかえれば政治制度の虚構性の発見をこれほど劇的なしかたで達成した思想家こそが荻生徂徠にほかならないのである。」(p84)。少し前に読んだ『考えるヒント2』で小林秀雄が徂徠について書いた文章ではこのような指摘はなかった。

 朱子学と対照的に徂徠がしたことは「
まずみずから古文辞学と呼ぶところの綿密な文献実証の操作によって、朱子学のいう「道」あるいは「理」の超越的性格をいっさい否定する作業であった。」徂徠は儒教の古典を歴史的な所産と考え、「道」や「理」がその時代には何を意味していたかを考え、その結果朱子学の基本的概念はその形而上学的性格を剥落され、客観物化されるにいたったという(p87~)。ここらの記述は小林秀雄の文章の理解の助けになる。

 
徂徠の「作為説」によれば、「道」とはなんらの形而上学的実体ではなく、「礼楽刑政」すなわち「制度」の総称である。(p87)

 
徂徠は終生徳川幕府の理論的援護者としての立場をつらぬいたが、その論理自体はつきつめて考えてゆけば幕府の正当性根拠をくつがえす底のものであるという矛盾を内包していた思想家であったし、かつまた、徂徠学の政治学的側面の核心をなす国家論理は江戸時代の射程をはるかに越えて、遠く現代のわれわれがなお未解決でいる問題にまで重なりあってくる(p82)。

 明治維新は一つの虚構から他の虚構への転移、神君家康から始まる徳川神話から神格天皇制への神話への転移であり、それは徂徠政治学のうちに形作られていた原理の実現だった、と著者はいう。徂徠が道や理に代わるものとしてその信仰の対象としたのは「聖人」(堯舜?湯文武周公孔子の8人)という絶対人格。それはやがて徂徠の思考法を批判的に読み替えつつ受け継いだ国学や水戸学、さらには吉田松陰等によって国体という観念におきかえられ、その象徴的人格としての天皇に転移する、と著者はいう(p99)。

上田秋成:
 
秋成の想像力のダイナモは、「癇癖(くせ)」である。「癇癖(くせ)」とは何か。人間自意識の核心にあって、他者と自己とを弁別するゆえんの性癖である。他者との軋みのうちに獲得される自己認識である(p209)。

雨月』九編は、ことごとくこれ、強烈な自意識の作者による宿命的な我執の鎮魂の曲である。秋成は、日本の小説史上はじめて、自己の個我を作中に投入した作家であった(p210)。

「花の名は人めきて――萩原広道と本居宣長」は源氏物語、特にその「夕顔」の巻を巡る広道と宣長の批評を扱う。源氏との逢瀬の際に、夕顔は物の怪に憑かれて死んでしまう。死に至らしめた犯人は六条御息所とされている。しかし、「夕顔」の巻までには六条御息所は登場していない。これは古来源氏学者を悩ませてきた。宣長はこの空白を補おうとして、源氏と六条御息所との恋の始まりを描いた「手枕」という巻を仮作したという(p256)。ちなみに、丸谷才一は源氏と藤壺との恋愛の巻として『輝く日の宮』を書いている。

 宣長は源氏の注釈において、従前の儒学的あるいは仏教的な文学観を否定し、文学の自律性を主張したところに大きな意義があると著者はいう(p256)。一方広道の業績はその著『源氏物語評釈』において、師の宣長がやらなかった虚構構築論の領域をひらいたことだという。「
日本の小説理論は、江戸時代も幕末のこの国学者によって、はじめて虚構論を樹立したのである」とする(p268)。以後、専門的な文学作品の構成論が論じられる。広道は「夕顔」に現れる「あやし」という言葉をキーワードとして、その多様な意味と働きを示し、言語と作品の関係を考察する。著者は最後に以下のように記す:
『源氏物語』を評釈しながら、広道が模索していたのは、あるいはむしろ、発見の途上にあったのは、何が『源氏』を千古不滅の芸術作品にしているかの秘密である。さらにいうなら、『源氏』という一つの物語を物語たらしめている言葉のはたらきの法則性である(p275)。

 いずれも泰平の江戸が生んだ豊かな人間像ばかりだ。

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書名 葛飾北斎・春画の世界 著者 浅野秀剛 No
2015-07
発行所 洋泉社 発行年 2005年 読了年月日 2015-02-03 記入年月日 2015-02-04

 毎週日曜日の朝、NHK俳句王国を見ている。2月1日の選者は宇多喜代子で、兼題は栄螺であった。入選九句うち「北斎の波にもまれる栄螺かな」が群を抜いていいと思った。宇多喜代子の選もこの句を特選一席にあげた。朝食後、午前中に開かれる自治会の会合のため、資料を探していた。段ボールの中を探していると、本書が出てきた。こうしたシンクロニシティを私はよく経験する。

 本書を書店で見つけて、購入したのはかなり以前の事だ。たまたま、最近の読書で、江戸時代を扱ったものが多かったので、ついでに読んでみた。新書版でカラーで見開き2ページにわたり北斎およびその一門の手になると思われる男女交合の絵が載っている。真面目な本だ。解説は史料の考察主体となっていて学術書のようだ。春画には基本的に作者の署名がないので、作品が誰の手によるの判定は難しいという。画風や筆法などの考察も踏まえて、本書で北斎の手になるとされた、化政期の三作品は浮世絵歴史上の精華であると著者はいう。

 作品は各10帖ほどの絵から構成されていて、本書では数十のカラー図版が載る。いずれも肉筆ではなく、版刷りである。まず驚くのは、男女の体位が想像できないようなアクロバティックであること。これは恐らく、性器の結合を前面に出すためにそうなったのだろう。男女の姿態はデフォルメされており特に、男女ともその「もの」は巨大である。現実離れした図柄にリアリティを感じないので、劣情が刺激されることがない。男女の顔の表情はエクスタシーをよく表現しているし、衣服の色彩の鮮やかさには目を見張る。各絵には男女の台詞が長々と書かれている。崩し書きで絵からは読み取れないが、活字化されて本書には掲載されているので読むことが出来るが、おおらかというか、滑稽というか、存分にセックスを味合う男女の喜びが伝わる。女性の性が抑圧されたものであるというのは、明治以降のことか。北斎画で見るかぎり、女性も男性同等に性の喜びに対して積極的だ。

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書名 川の文化 著者 北見俊夫 No
2015-08
発行所 講談社学芸文庫 発行年 2013年 読了年月日 2015-02-06 記入年月日 2015-02-07

 川への関心が特に高まったのは、街道歩きを始めてからだ。中山道、東海道を初めたくさんの川を渡り、また川に沿って歩いた。景観への関心だけでなく、川が運輸手段として究めて重要であったことを認識したのは、中山道美濃赤坂の宿を通ったときだ。宿場の外れを流れている小さな川の岸が船泊りになっていた。今は史的遺構にすぎないが、かつてはこの港から揖斐川を経て桑名まで、物資の輸送が行われていたという。さらに、日光街道を歩いたときも、利根川水系の水運の江戸への重要な輸送手段であることを知った。家康は関ヶ原前夜、小山評定の後、小山の思川から舟で江戸に帰ったという。

 本書の著者は、現代人は川への関心を失っているとなげく。子供は川遊びをしなくたったし、かつての水運も今はほとんど廃れてしまったという。川がいかに深く日本人の生活に結びついていたかを、本書は述べる。「文化の母なる川」「川と交通」「川の民俗文化」から構成されるが、紙数の半分以上が民俗文化の記述にあてられ、川を巡る各地の年中行事、祭、民俗芸能などが述べられる。柳田国男へ言及されることが多い。帯には「川は、我邦の天然の最も日本的なるものであった」という柳田国男の文が載っている。

 川と交通では、利根川の舟運が取り上げられるが、ほとんどは歴史の記述になっている。群馬県の倉賀野は利根川水系遡上の終点として、その河岸は賑わったとか、間々田の思川河畔も遊郭まであった物資の集積場であったなどの記述は、歩いたことのあるところなので、特に興味深かった。

 東山道が古来東海道よりも使われたのは、東海道では大きな河川を河口近くで渡らねばならぬからであった。渡しの整備が進むに連れて、険しい東山道は廃れていった。承和2年(835年)の太政官符には富士川、馬入川では渡し船を浮橋に代え、豊川、矢作川、大井川、、安倍川、江戸川、隅田川などの渡し船を増置したことが知られるという(p151)。

 信州の北西部には「御舟祭」という祭礼を行う神社が50近くもあるという。穗高とか安曇という地名は、海人に関するものであり、日本の南西部に定住していた海人族が、稲作を求めて、ここまでたどり着いたのだろうという。その通路は木曽川か天竜川であったのではないかという。安曇というのは古代、海人を統率する役目を大和朝廷からあたえられた氏である。渥美半島の「渥美」も「あずみ」の当て字で、海人族がある時期定住していた名残であろうと、著者はいう(p253~)。

 初出は1981年。

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書名 芭蕉 著者 島崎藤村 No
2015-09
発行所 青空文庫 発行年 読了年月日 2015-02-06 記入年月日 2015-02-06

 青空文庫の目録を見ていたら、本書があった。藤村による芭蕉論というのが興味を引いた。

 少年の頃より藤村は芭蕉に親しんでいて、フランスへの旅にも芭蕉全集を持っていき、折に触れて読んだという。芭蕉はいつ読んでも飽きない。感じやすい年頃に読んだ芭蕉の感化が、今も続いているという。藤村47歳の時の作品だ。
 藤村が少年時代から抱いている芭蕉のイメージは「尊い老年」であった。隠者らしい着物に頭巾を被った年寄りくさい人物、「翁」という言葉がピッタリの人物である。ところが藤村の3つ年上の友人が来年芭蕉のなくなった年齢に達する。その友人を見ていると、51歳という年齢は、決して老成などではない。芭蕉に対する見方を変えねばならないと藤村はいう。

 芭蕉の散文には何とも言えない美しいリズムが流れているという藤村は、実によく芭蕉の書いたものを読んでいる。本書には尾方仂の「尾方芭蕉のこころをよむ」のなかで引用されていた「閉関の説」が長文(これが全文かどうかは不明)にわたって引用されている。その他芭蕉の日常をつづった「嵯峨日記」などと合わせ、翁でない、生き生きとした血の通った芭蕉像を描く。たとえ道服に似たようなものを着て、隠者のような頭巾を被っていても、その頬は若々しく、眼には青年のような輝きのある芭蕉の肖像が欲しいという。そうした人物像を描いた上で、芭蕉の抑制した芸術を味わい直す必要があると結ぶ。

 短いが優れた芭蕉論、藤村の芭蕉への心酔、造詣の深さがよく出ている。
 執筆は大正年間。

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書名 幕末における視座の変革 著者 丸山真男 No
2015-10
発行所 岩波書店 発行年 1996年 読了年月日 2015-02-07 記入年月日 2015-02-15

サブタイトルは「佐久間象山の場合」。

 本棚の後から『丸山真男集第9巻』が出てきた。その中の『偽善のすすめ』というエッセイを読みたくて手にした本だ。ぱらぱらとめくっていたら、佐久間象山を論じた本編があった。佐久間象山は一昨年のNHK大河ドラマでは吉田松陰や、会津の山本覚馬らがその塾で学んだ人物として描かれていた。本書は1964年、象山没後100年を記念して、象山の故郷、松代での講演速記録に加筆訂正したもの。象山の思想、政治的態度を考察した政治学者、あるいは思想史の専門家ならではの優れた講演だ。

 丸山はナショナリズムという切り口から象山を論じる。象山の弟子である吉田松陰は、独立をになう政治的主体を国民化することを目指し、さらに後年の福沢諭吉は、国の独立保持には社会関係と人間関係の倫理を全面的に変革することが必要だと説いた。晩年まで儒学に傾倒していた象山にはこの両者のような目を見張る主張はなかった。彼のナショナリズムの特徴は「
世界と日本についての認識を国民化するということ」にあったとする。(p210~)。

観察とか実験とかいう科学的認識の面を養い、それをたとえば軍事技術につかうというだけでなく、そういう眼で日本と世界を見ること、しかも一部少数の学識者だけでなく、広く国民がそういう科学的な認識の眼をもつこと、これなしには日本の独立と発展はないのではないか、こういう考え方、論理の進め方に象山の、時代をぬきんでた大きな特色があったと私は思います(p211)。

彼のナショナリズムは徹底的な主知主義、世界の実証的認識と結びついていたという。(p214)。丸山は言う:
漢学に養われ聖人の道でやしなわれてきためがねを通じてできていた世界像を吟味しなおすためには、まず東洋と同一化していた自分というものをいったん東洋から引き離して、文字どおり認識主体としての自分自身にたちかえらなければいけない。そうすれば、松代藩も日本も東洋も西洋も全部観察の対象として同じ態度で見ることができるわけであります。(p219)

 
象山においては古代聖人の易学の理も西洋詳証術の理も根本において一つであります。それはいかなる特定の地域、国、文化にも帰属すべきものではありません。問題は漢土の学か洋学かではなくて、漢学の何が真理か、洋学のなかのなにが真理か、ということだけです(p221)。

 弟子の松陰は自らも言っているように「情の人」である。一死皇国に殉ずると言った心情主義は日本の思想的伝統のなかでは魅力がある。一方、象山に代表されるような知性の勇気――危機に臨んで心情的にラディカルであるよりも、物事の認識の上でラディカルであろうとする態度――は比較的なじみが薄い、と著者は言う(p223)。松陰と象山に対する後世の評価を見ればその通りだ。

 松陰の密航事件に連座したとき、潔く死を覚悟していた松陰に比べて、色々言い訳をした象山は、命を惜しむ臆病ものとされた。だが決して死を恐れたのではないという。象山は鎖国などと言うものがすでに死んだも同然で、そんな法令で死んではたまらないと考えたのだ。

 彼にもまた一死報国の覚悟はあった。丸山は言う:
同じ一死報国の覚悟といっても、象山の場合は、どんな困難に直面しても、目的完遂のために生き抜こうするねばり強さと、つねに目的のために相対的に有効な方法を選択する合理的な態度と結びついていた点に、幕末の多くの志士たちとはむしろ対蹠的な特徴がありました(p243)。

 彼の緻密な分析は国際政治や外交といったマクロな政治状況の観察や、長期的な洞察などにはその長所を発揮するが、人間関係がものを言う日常身辺的な事柄は、人情の機微にうとい彼には苦手であった。さらに天下周知の象山の傲慢不遜の性格がマイナスとなったという。京都に出てからの彼は功をあせりすぎ、わざと挑発的に西洋鞍で市中を乗り回した。そして、過激攘夷派の手にかかって暗殺される。「万事御韜晦」の精神で本当に生きぬいたは、象山よりもむしろ彼の門弟で義兄でもあった勝海舟であった、と丸山は言う。(p243~)。(韜晦とは自分の地位や才能を包み隠すこと・・・広辞苑)。坂口安吾は勝海舟を高く評価していたが(『勝海舟捕物帖』)、ここにも海舟へ高い評価を見る。

 最後に丸山は、現代日本人の世界像が明治の時にできた欧米中心の世界像からどれほど解放されているだろうかと疑問を呈する。象山の時代には日本民族の独立と言うことは何よりも国防を充実することであった。しかし、今日(1964年)において、強大な軍備を有するアメリカとソ連が、どれほど国家の安全感を享受しているだろうかと問いかけ、国家の独立とは何か、民族の自衛力とは何かといった世界像をめぐる根本的な問題を再検討する必要があると結んでいる(p249~)。

 
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書名 江戸落語 著者 延広真治 No
2015-11
発行所 講談社学術文庫 発行年 2011年 読了年月日 2015-02-19 記入年月日 2015-02-27

 江戸落語の歴史。江戸時代の落語という意味ではなく、上方落語とは趣の違う江戸落語の変遷を述べる、高度な学術書。本書の帯にはサントリー学芸賞受賞作『落語はいかにして形成されたか』を全面改稿したものとある。当時の咄の会のポスターや咄の会の様子、あるいは広い範囲の文献資料などが多数載せられている。文献の出所は番号が賦され、すべて明示されている。初めて知ることばかりだが、読んでいると天明から化政期の江戸の雰囲気にすっかり浸る気分になる。要約をするのが難しいと思っていたら、巻末に江戸期上方文化史研究の荻田清梅花女子大学教授による解説が適切に要約してあったのでそれを以下に。

 
烏亭焉馬(うていえんば)という人について、本書は丁寧に説明してくれる。大工の棟梁であった焉馬は「下町派の講頭」と評され、親分肌の世話好きから、当時の各界有名人との広い人脈を持っていた。芝居(歌舞伎)との関係では、五代目市川団十郎との対等の関係、というより、役者側から見れば、単なる”タニマチ”ではなく、強力な支援者であり、ブレーンであり、立場的には焉馬の方がむしろ上位に位置するようにも見える。(中略)
 当時の文学者との関係では「狂歌」を接点として太田南畝(蜀山人)をはじめとした狂歌師の人々との交流があり、滑稽本作者として知られる式亭三馬はその名から彼の弟子と言われ、合巻作家・考証随筆家柳亭種彦も弟子だというのだから、すごい。江戸の庶民文化を彩っていた芝居の世界、戯作の世界に深く深く関わっていたのである。外から眺めて後援するのではなく、自ら実作、実演の形で。
 この人のはじめた咄の会が影響を与えて、咄を演じるプロが出現する。三笑亭可楽はこの人の活動の輪の中に飛び込んだ人であり、その可楽に名人の弟子たち、朝寝房夢羅久(あさねぼうむらく)・三遊亭円生・林屋正蔵らが出て、今日の江戸・東京落語の繁栄につながった。


 本書の2/3以上が烏亭焉馬とその作品である『太平楽巻物』にあてられている。江戸落語中興の祖とされる人物だ。

 江戸落語の始祖とされるのは鹿野武左衛門という人。元禄の頃、馬が人語をしゃべると悪疫がはやる、それを防ぐには南天の実と梅干しを煎じて飲めばいいという噂を流し、梅干しで暴利を得た商人があった。この人物は処刑されたが、馬が人語をしゃべるという咄が武左衛門の咄から出たもので、それとの関係を疑われた武左衛門は幕府により八丈遠島となり、江戸落語は衰退する。約100年後に江戸落語を再興したのが烏亭焉馬である。

 焉馬当時の咄の会というのは、料亭などに皆が集まり、句会のように各人が持ち寄った咄を話し、点を競うものだった。高得点の咄は後に出版された。安永9年(1780年)に開かれた咄の会への出席者名簿が125頁以下に載っている(太田南畝編)。皆俳号、柳号、狂号であるが、当時の川柳作家の多くが武家であったように、この咄の会への参加者の大多数が武家であったという(p127)。

『太平楽巻物』は、髪結床で順番を待つ侠(きお)いの独白、ことに遊女に対する悪態を聞かせ所とする言わば悪態の文芸化であり、口演には二十分前後を要したと思われる。(p61)

 
「江戸の軟文学は、悪態ばかりつくやうになったので、江戸っ子の文学といふものは、皆悪態の文学です。それが片方では、落し噺しを産み出して居る訳です」と、折口信夫の文章を引用している(p112)。

 それまでの短い咄を指す「落咄」に対して、比較的長い咄に対して「ラクゴ」の名称が生じた。今日の意味での「落語」の初出は文化元年(1804年)刊の『狂言綺語』である(p158)。そしてラクゴという名称の普及より速い勢いで落語家が輩出し、文化12年(1815年)には江戸市中に75軒の寄席があったという。(p159)

 著者は、日本近世は朗読朗誦によって国の礎を固めようとした時代だという。例えば武家の基本法「武家諸法度」は慶長20年、伏見城で金地院崇伝により朗読され、その後将軍職宣下の度に朗読された。そして江戸の人々の多くは声を出しながら路上を歩いていたという。朗読は広く一般の現象で、大家では正月には草子の読み始めがあり、将軍家斉は朝餉にいつも書籍を朗読させていたという(p93~)。とにかく、著者が広く文献をあさり、精査し、こうしたエピソードを載せていることに感心する。

 著者は落語は話であとに残らないから、実際の中身の検証が難しいと、落語研究の困難さを漏らしている。それを補う意味で、ささいな史料にまで細かく目を通している。引用史料を見ていると、江戸時代における出版文化の隆盛に驚く。もうこの時代には紙はふんだんにあったのだろう。

 三笑亭可楽が三題咄、三遊亭円生が芝居咄、朝寝房夢羅久が人情咄、そして林屋正蔵が怪談咄で活躍した。

巻末に『太平楽巻物』三巻が翻刻、掲載されている。地の文がない会話体で、かなり読みづらい。

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書名 黒船前後・志士と経済 著者 服部之総 No
2015-12
発行所 岩波文庫 発行年 1981年 読了年月日 2015-02-24 記入年月日 2015-02-27

 本屋の棚で目に入った。江戸・幕末ものが続いているついでに読んでみる気になった。 
 表題の他16編の評論を収める。幕末維新史を国際情勢から見るというのが本書の大きな特徴。

「黒船前後」は、19世紀における帆船と汽船、鋼鉄船と木造船の競争が、たくさんの数字を用いて論じられる。浦賀に来たペリーの黒船4隻のうち2隻は帆船であった。鉄造船が木造船より軽いわけがないと信じられていたが、実際に作ってみると同一トン数の木造船よりも1/4だけ軽く済んだ。こうして鉄造船の優位は早く確立されたが、汽船と帆船の競争は1890年代までも続く。特に貨物の分野では鉄造帆船が優位であった。1880年までは帆船のトン数は年々増加し、また全船舶におけるにおける帆船の割合は72.9%であった。1890年、世界全体としては帆船の方が多かったが、一国における帆船率の少なさ、つまり汽船率の多さで、世界一は中国、次いで日本、イギリスであった。これは、中国、日本においては、汽船のみならず、西洋型帆船もすべて「夷狄」ものでしかなかったからという。(p20)

「黒船来航」:アメリカが日本開国の先鞭をつけたのは、中国貿易でイギリスに勝つための足がかりとして日本を必要としたからである。日本は黒船来航を機に開国派と攘夷派に分裂する。自分たちの権力を保つための開国派として井伊大老一派、世界の進運に深く思いを致し、憂国の至情から開国を主張する愛国開国派として、佐久間象山、橋本左内ら。一方攘夷派も封建支配者の攘夷派と人民の攘夷派があり、薩摩藩などの攘夷派が前者、対馬が占領されたときに最後まで戦った住民や、民間から攘夷に参加した河野広中など、および文久年間の過激攘夷派、さらに武士ではなく人民の生産力を代表する若いブルジョアジーの攘夷が後者を代表する。この4派が切り結ぶ中で明治維新へと歴史が進む(p35)。

「汽船が太平洋を横断するまで」:冒頭に1850年1月のマルクスの文章を持ってくる。いわく「
二月革命よりももっと重大な事実は、カリフォルニア金鉱の発見である。発見後せいぜい十八ヶ月の今日、既にこれがアメリカ発見そのものよりも遥かに大規模な結果をもたらすだろうことを思わせる。

 マルクスはカリフォルニアの金のため、太平洋両岸は、当時のボストンからニューオルリーンズにいたる海岸と同様の人口を有することになると、予想する。その結果、「
太平洋は、今日大西洋がそして古代中世に地中海が演じた同じ役割を――世界交通の大水路たる役割を演ずることになるだろう。同時に大西洋は、今日の地中海同様の単なる内海の役割までに没落してしまうのだ」。(165年後の現在に照らしてみると、この予言は少なくとも太平洋に関する限り、当たっている。米中日と世界経済のトップ3が太平洋に面している。)

 事態は数年間、マルクスの予想通りに進んだ。その先にあったのが、日本の開国問題であった。

 日本とアメリカは和親条約を結んだ。しかし、和親はするが通商は行わないという条約が、新市場の獲得を至上命令とする発展途上の産業資本主義にあって、足かけ5年も続いたのはどうしたことか、と服部は疑問を投げかける。薪水、食糧、石炭などをアメリカ船に供給することを約束した和親条約は、サンフランシスコと上海をつなぐ上で不可欠なものであったからだと服部はいう。(p51)

 せっかく石炭の補給基地ができたにもかかわらず、当時、汽船はまだ帆船にかなわなかった。太平洋を渡っていたのは帆船であった。太平洋と大西洋で、アメリカとイギリスの海運業が熾烈な競争を展開する。その後アメリカには南北戦争が起こり、それを機に競争はイギリスの勝利に終わる。日本を開いたのはアメリカであったのに、横浜の当初の貿易額の80%はイギリスのものだった。北太平洋を横断した最初の汽船(商船)は文久2年、1862年、サンフランシスコの船会社の370トンという小さな汽船であった。

「新撰組」では人物評論が展開される。
 肥後守容保:
京都守護職松平容保は純情一徹の青年政治家である。公武合体=尊皇攘夷のたてまえ――この、本来過渡的な、折衷的な政治綱領を過渡的折衷的なそれとせず、純一むくにこれに終始せんとした珍しく生一本な政治家だった(p131)。
 
守護職松平肥後守は、「浪士」を無下に弾圧する代わりに、これを理解し、善導することを念願した。(中略)要は「浪士」の要求を聞き、公武一体して尊攘にまい進すれば、文久非常時を立直すことができると、かたく彼は信じていたのだ(p132)。

近藤勇:多摩一帯の「農」を代表する彼の階層を次のように述べる:そ
れは手作もするが「家の子」も小作も持ち、一郷十郷に由緒を知られ、関八州が封建の世となってこの方数知れぬ武家支配者を迎送しながら、「封建制度」の根底的地位に座して微動もせず存続してきた特定社会層である。(中略)近代的資格をほとんどまるで具えていないところの農村富豪の一範疇が、文久非常時を契機として政治の舞台にせり出してきたとき、どんな役割をすべきか、したか。これを見るうえで、試衛館一派の歴史は珍重なものといえるだろう(p136)。こうした背景から、近藤は根っからの攘夷論者であったという。

 
この日(池田屋事件以後)近藤勇の新撰組には、攘夷遷延のゆえに幕府当路を責めることよりも何よりも、さしあたり第一、「尊攘」実践のための第一前件と考えられた公武合体そのものを死をもって護る使命が課せられた。それはさしずめ「長州」の、やがては「薩長」のくらやみの使徒にたいして現制度を死守する、特別警備隊の仕事であった。ブルジョワ的要素に一筋の連結も持たぬ、多摩農村の封建的根底部分を百パーセント武装化した、試衛館独裁下の新撰組ほど、この任務のために不敵、真剣、精励たりうるものがおよそ他に考えられようか(p140)。きわめて明解な新撰組論だ。

「志士と経済」:安政の大獄の犠牲になった梅田雲浜を例にとって、志士の経済的背景を述べる。著者によれば、志士の多くが地方の産商業家であったという。つまり明治維新はこうしたブルジョワジーによる改革であったというのが、服部の大きな主張である。それは巻末の解説にも指摘されている。

 吉田松陰よりも雲浜の方が政治家としてははるかに上だという(p156)。安政の大獄も雲浜が組織した社会的勢力の礎石部分には手も触れなかったという(p157)。

「明治の五十銭銀貨」では維新政府による貨幣改革が述べられる。詳しいことはよく理解出来ないが、イギリスで百万ポンドの公債を募り、その半分以上を居留地外人から政府が一分銀を買い上げることに用いられた。この一分銀は「贋金」に等しいものであった。そのために、鉄道敷設用に使える資金が減少し、日本の鉄道は植民地の軽便鉄道である狭軌になってしまった。公債発行を引き受けたイギリス人と明治政府の間の契約では利率は1割2分であったが、実際の債権者には9分であることが明らかになった。それを知った政府は激怒し、今までの英国一辺倒から米国一辺倒に代わる。そして伊藤博文はアメリカに7ヶ月間渡り、アメリカの貨幣制度を導入する。10進法、「銭」という単位も「cent」にリンクした向米一辺倒の結果であるかも知れないという(p198~)。

 本書の半分以上は戦前に発表されたものである。

 服部はマルクス主義に深く傾倒していた。それは北海道への帰郷を扱った「望郷」に強く示されている。さらに、「黒船来航」の最後にも、サンフランシスコ平和条約、日米安保条約、行政協定などを第二の開国と規定し、「
一部の志士でなく、日本国民の最大多数の階級である労働者、農民、民族資本家、インテリゲンチアが百年前の憂いと憤りとを百倍にしてもまだ足りないのではなかろうか」と、単独講和、日米安保への明確な反対を示している。


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書名 雨のことば辞典 著者 倉嶋厚、原田稔 No
2015-13
発行所 講談社学芸文庫 発行年 2014年6月 読了年月日 2015-03-04 記入年月日 2015-03-06

 講談社学芸文庫の本が面白い。それで、本屋に寄ったときは必ず見るようにしている。本書もそうして手にした。俳句の季語には雨に関するものが多いし、時雨とか春雨といった季語だけでなく、雨を詠み込むことが私は好きだ。参考になるだろうと思った。

 帯に「雨づくしの1200語」とある。驚くべき数字だ。雨の字のつく言葉でこれほどの語彙のある言語は世界中でどこにもないだろう。地方の方言なども含まれているから、私には初めて目にすることばが1000くらいにはなるのではないか。

 著者の一人、倉嶋厚は本書上梓のとき90歳であるが、今も各種メディアを通じ防災気象情報の発展経過を追跡し続けている、と後書きに書いている。気象庁で予報業務を担当していたという。なぜ雨が降るかといった専門的な気象学の解説が、囲み記事として、随所に載せられている。わかりやすい解説だ。

 個々の言葉については、気象学的観点のみならずと、民俗学的な視点からも解説されている。そして、その言葉を使った俳句が載せられている。俳句のついた言葉は200くらいはあるのではないか。それほど俳句と雨は切っても切れない関係なのだ。雨に対する日本人の細やかな感性の表れだ。例えば12ページ:

 秋驟雨:借景の富士かき消して秋驟雨     丹波作治
 秋黴雨(あきついり):秋黴雨まろべば机のうら寒し   草村素子
 秋出水:秋出水人のうしろにふえ来たり     荻原麦草
 秋の雨:秋の雨直下はるかの海濡らす     西東三鬼

 例えば「時雨」:1ページ以上をあてて解説してある。
 しぐれけり走り入りけり晴れにけり        広瀬惟然
 馬は濡れ牛は夕日の北しぐれ          坪井杜国
 鷺ぬれて鶴に日のさすしぐれ哉         与謝蕪村

  これらの句は時雨の降り方をよく表しているという。「時雨」で始まる言葉は「時雨明り」から「時雨三日」まで10取り上げられている。囲み記事に「江戸に時雨なし」と題して、江戸時代の随筆を紹介する。太平洋岸では冬の雨は南岸低気圧によってもたらされるので、時雨とはならず、地雨なる事が多いと解説する。

 ついでに「五月雨」の項には、「
五月雨の降るころは田植えどきであり、田の神に敬意を表して夫婦の交わりや恋人との逢瀬を慎まなければならなかったから、満たされない気持ちや物思いの歌が多いという。」とある。俳句は3句、3大俳人の句が引かれている。

 五月雨をあつめて早し最上川        松尾芭蕉
 さみだれや大河を前に家二軒        与謝蕪村
 五月雨や上野の山も見飽きたり       正岡子規

 例えば「雨奇晴好」:
降っても晴れてもすばらしい景色の形容。蘇軾の西湖を詠んだ詩に由来する四字熟語。「晴好雨奇」ともいう。『奥の細道』の旅で象潟の五月雨に出会った芭蕉も「雨もまた奇なり(雨の景色もまた趣がある)」と書いている。

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書名 ニュートンの海 著者 ジェイムズ・グリック、 大貫昌子訳 No
2015-14
発行所 日本放送出版協会 発行年 2005年 読了年月日 2015-03-08 記入年月日 2015-03-30

 インターネットによる学習サイト、gacco の今回の受講講座は茂木健一郎の「脳と創造性」である。その冒頭に本書が参考図書として推薦されていた。サブタイトルは「万物の真理を求めて」となっている。

 ニュートンが残した膨大なノート、メモ、書簡を精査し、その人物像と業績を追う。その生い立ち、孤独、被害妄想的で偏狭な性格など初めて知る。まず驚いたのが、私生活でも、学問の上でも生涯を通して孤独であったこと。「父のないこの子」という表現がいきなり出てくる。それ以上のことは書かれていないが、母はニュートンが3歳の時、年の離れた司祭と結婚する。ニュートン自身は生涯独身を通す。

 学問上の発見も、一人部屋にこもり、アイディアを膨大なメモに書き付けて、思索を深めていく。真理とは沈黙と瞑想の産物である、とニュートンは言っている(p62)。後に微積分といわれる数学に関して、以下のように記される:
彼が書いたものはすべて自分のためだけのもので、それを人に知らせる理由などなかったが、二十四歳のニュートンは、このときすでに新しい数学の手段を作りあげていたのである(p74)。

 数学の天才については著者は次のように記す:
天才のなかでも数学の天才ほど、特殊な才能を持つ知的障害者と共通したところのある天才はいない。世界に背を向け、内に向かって思いをひそめる頭脳にとって、数は輝きを放つ生き物のように見えてくるのだ。そしてそこに秩序と摩訶不思議な魅力を見出し、数がまるで親しい友だちのようになる。数学者は、いわゆるポリグロット(数カ国語に通じた人)でもある。その強力な創造力がどこから涌いて出るかというと、それは同じひとつのことを、一見まったく似ても似つかない形で表せる翻訳の能力に他ならない(p62)。

 本書は決してニュートン崇拝だけに貫かれた本ではない。序説に以下のように述べている:
彼は物質と空間を神から切り離したことはなく、自らの自然観から神秘的、秘術的、かつ隠在的な要素を追い出すこともしなかった。秩序を求め、秩序を信じながらも、混沌たるものから目をそむけたことは一度としてない。人もあろうに、彼自身実は最も非ニュートン主義的人間だったのだ。(p22)

 リンゴの落るのを見て引力を発見したといったエピソードは否定している(p84~)。ただ、ニュートンは少なくとも4人には故郷のリンゴに示唆を得たとは話している。そのリンゴは落ちたかも知れず、落ちなかったかも知れず、ニュートンはリンゴのことを書いたこともなかったという。物体が地上に落ちるという事実を悟るのに、ニュートンにはリンゴなど必要でなかったと著者は言う。その代わり、猛烈なスピードで回転している地球上のリンゴが、紐で吊した石をぐるぐる回したときのように外向きに、つまり上を向かずに下向きにぶら下がっているのはなぜだろうか、という疑問を著者は投げかけている。

才気煥発の有力なおとなふたりが友を裏切り、敵には恥も外聞もなく嘘をつき、憎悪に満ちた排他的な中傷をぶつけ合い、互いの人格を非難し合った(p241)」と評されるニュートンとライプニッツの微積分学のプライオリティーをめぐる争いについて:ニュートンは本当のことを、実はちゃんと知っていたのだ。彼とライプニッツは、独立して別々に微積分を創り上げたのである。ライプニッツは、人づてに断片的にニュートンから学んだことについて率直だったとは言えないが、その発明の真髄はライプニッツのものだ。一足先に発見したのは確かにニュートンで、しかも彼はそれ以上にもっと多くの発見をしている。けれどライプニッツは、ニュートンのしなかったことを実行したのだ。つまりその仕事を世界に発表し、万人の利用と判断に供したのである。競争と嫉妬を生んだのはニュートンの秘密主義である。(p240)

 ニュートンの非公開の文書が出現し始めたのは、金に困った貴族たちがそれを競売に伏し始めた20世紀初頭のことだという(p263)。それらの文書により、ニュートンが隠れた錬金術師、しかも、経験と知識の広さから見てヨーロッパに比類のない錬金術師だったことが判明した(p143)。

 訳者あとがきには、最近、ニュートンの毛髪分析が行われた結果、彼の被害妄想的で偏狭な言行は水銀中毒のためではないかという説が出ていると述べられている(p271)。

 巻末には60ページに及ぶ膨大な出典、参考文献がリストアップされている。

 
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書名 アインシュタイン論文選 著者 アルベルト・アインシュタイン、ジョン・スタチェル編、青木薫訳、 No
2015-15
発行所 ちくま学芸文庫 発行年 2011年 読了年月日 2015-03-13 記入年月日 2015-03-29

 これも茂木健一郎の講座「脳と創造性」で推薦されていた本。1905年に発表されたアインシュタインの5本の論文の日本語訳が掲載される。副題は「奇蹟の年の5論文」。見慣れないギリシャ語のアルファベットや、微積分記号、三角関数などをもちいた数式が並ぶ論文で、もちろんその意味は理解出来ない。ただ、本書には各論文の前にジョン・スタチェルによる詳しい解説がついているので、その論文のもつ大体の内容と科学史上での意義は何とか理解出来る。さらに本書の前半1/3はジョン・スタチェルによる「奇蹟の年100周年に寄せて」という解説にあてられていて、アインシュタインの生い立ち、性格など人間アインシュタインが描かれる。

 アインシュタイン26歳の時に発表された5論文とは

1.分子の大きさを求める新手法
 学位論文。溶液の粘性から分子の大きさを求める方法を示す。

2.熱分子運動論から要請される静止液体中に浮かぶ小さな粒子の運動について
 ブラウン運動が分子の不規則な熱運動によるものであることを示す。原子・分子の実在性の決定的証拠となった。

3.運動物体の電気力学
 特殊相対性理論

4.物体の慣性はその物体に含まれるエネルギーに依存するか
 質量とエネルギーの等価性を示す。

5.光の生成と変換に関するひとつの発見法的観点について
  光の粒子性を示す。光量子仮設と光電効果。1922年のアインシュタインのノーベル賞受賞対象となった論文。

 とにかくアインシュタインの関心がきわめて広い範囲に及んでいたことを、この5論文は示す。アインシュタインと言えば相対性論が突出して有名だが、ここに見るかぎり、彼の関心と造詣の深さは、むしろ統計力学、熱力学、分子論、黒体放射、電磁力学などにあったことがわかる。ただ、本書によれば相対性理論は、電磁力学での考察から導き出されたとされていて、私には両者の関係が理解出来なかった。相対性理論により光の媒体としての「エーテル」の存在は否定された。

相対性原理は、何かほかの理論から導かれるようなものではなく、それを出発点として演繹的な論証を積み重ねて行くような、最初におかれるべき仮説であって、あらゆる物理理論が満たさなければならない一般的条件なのである」と、解説は述べる(p230)。

 アインシュタインの生い立ちを述べたところでは、異性関係が興味を引いた。チューリッヒ工科大学で数学・物理を学ぶ3歳年上のマリチという女性と恋仲になる。マリチはアインシュタインのアイディアの「反射板」として、彼のアイディアの聞き手であった。マリチはブラウン運動、特殊相対性理論、光電効果という3つの仕事で、アインシュタインの共同研究者であったという説もあったという。しかし、著者はそれをきっぱりと否定している。マリチは後にアインシュタインの最初の妻となるのだが、結婚前に娘を生む。「リーセル」というその子の消息は今もわからないという(p68)。

 前半の「奇蹟の年100周年に寄せて」では、アインシュタインの手紙や、語った言葉がたくさん引用されている。

 例えば:
言葉ないし言語は、わたしの思考のメカニズムのなかでは、何の役割も果たしていないように思われます。思考の要素である心理的実体は、ある種の記号であって、それらは自発的に浮かび上がったり、互いに結び付いたりする、多少ともはっきりしたイメージです。わたしにとって思考の要素は視覚的なものであり、ときに身体的なものになることもあります。ふつうの言葉や、それ以外の記号は、次の段階になってから苦労して探し出さなければなりません。なんにせよ言葉が思考に入り込んでくる段階では、わたしの場合、それは完全に聴覚的なものです。(p50)

 
科学者としての偉大さというのは、つまるところ、性格の問題だね。肝心なのは、適当なところで手を打つような真似は絶対にしてはいけないということだ。(p56)

ニュートンとの類似性について本書は以下のように述べる:
ニュートンとアインシュタインとの共通性は明らかだろう。二人とも20代半ばで、それまでは天才の開花をうかがわせるような兆候はとくになかったこと、やがてその時代の科学に革命を起こすことになる新しい道を、短期間のうちにいくつも切り開いたことだ。1666年のニュートンが24歳だったのに対し、1905年のアインシュタインは26歳になっていたが、そこまで完璧に年齢の一致を期待する者はいないだろう(p110~)。
 あえて付け加えれば、二人とも論議あるいは対話の中からそのアイディアを生んだのではないことも共通だろう。真の天才というのは孤独である。

 本書にはロジャー・ペンローズによる序文もある。アインシュタインと量子論について述べている:
アインシュタインは1920年代に量子論がついに姿を現して以来、これを承認したことはただの一度もなかった。多くの人たちは、アインシュタインは”時代遅れ”の実在論のせいでだめになってしまったが、ニールス・ボーアのような人たちは、分子、原子、素粒子のような量子レベルでは、そもそも”物理的実在”などというものはないのだと考えることにより、前進できたのだと言うだろう。だが、1905年に彼が基本的進展を成し遂げることができたのは、分子やそれ以下のレベルにおける物理的なものが、正真正銘実在しているという信念を貫いたからにほかならない。そのことは、本書に収録された5編の論文に鮮やかに見てとれる。(p13)
 本書を読み通してみて、私にも分子・原子の実在に関するアインシュタインの強い信念を感じとることが出来る。
 ペンローズは上に続けて言う:
私自身は、極微の世界の実在性に対する彼の信念、そして今日の量子力学は根本的に不完全だという彼の確信を強く支持したい。(p14)

 私自身は、電子や、陽子、中性子などをしっかりとした輪郭をもった円形の粒子とイメージしてきたが、最近、そんなイメージが崩れつつある。そうした存在だったら、そんな輪郭をどうやって作るのだろうか、色が付いているのだろうか、よく教科書に描かれているように陽子は黒で中性子は透明なのだろうか、そんな疑問を考えると、素粒子は実在でなくて現象と考えてもいいのではないかと思う。あるいはエネルギーの固まり、あるいは波動の一種だと考えてもいいのではと思うようになった。

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書名 海の国の記憶 五島列島 著者 杉山正明 No
2015-16
発行所 平凡社 発行年 2015年1月 読了年月日 2015-03-21 記入年月日 2015-03-24

 4月に俳句仲間と五島列島に行く。仲間の一人、熊谷さんがこんな本があったから読んでみて、といって貸してくれた。サブタイトルは「時空を越えた旅へ」。若いころ五島列島を訪れた著者の回想を下敷きにして、五島列島と周辺の歴史を語る。著者は歴史学者で、専門はモンゴル史、中央ユーラシア史、世界史。

 五島列島を日本の西端であるととらえる。従って五島列島の歴史は中国および朝鮮と日本との関係に大きく影響される。本書はそうした観点から書かれている。遣唐使には朝鮮半島沿いに行く北路、直接黄海を渡る南路、南の島つたいにいく南島路があったが、最後は南路に収斂し、五島列島を最後に黄海を渡っていった。遣唐使に関しては、空海、最澄、小野篁らのエピソードが語られる。

 五島列島というのはそこを支配した五島氏に由来する。五島氏の先祖は宇久氏といい、松浦党に属する海の武士団であった。宇久氏の系譜を遡れば平氏に由来するという説もあり、また清和源氏に行き着くという話もあるようだ。しかし、著者はいずれもそれを否定する。源平争乱の頃、徐々に姿を現したものだという。

 日本にとって最大の国難は蒙古襲来である。松浦党はその矢面に立たざるを得なかった。元の襲来は松浦党の結束を高め、元寇以後は彼らは積極的に海に出て行った。最初五島列島の一番北の小さな宇久島にいた宇久氏は、南の五島列島最大の島、福江島へと移っていった。1381年とのこと。15世紀になる頃から、明との貿易が活発になり、宇久氏も対明貿易を活発に行い、五島列島の黄金時代が訪れたと、著者は言う。

 やがて戦国時代と、それを統一した秀吉の時代となる。秀吉の朝鮮侵攻に際し、宇久氏も小西行長隊に加わり、先鋒として現在の平壌まで進軍する。朝鮮侵攻に際し、宇久氏は姓を五島と改める。朝鮮戦役では、常に先鋒をつとめ、当主は若くして朝鮮で病死する。

 五島に今も続く切支丹信仰については、宇久氏の要請により永禄9年、1566年、二人の宣教師がやって来たこと、その後19代当主が受洗したことだけしか触れられていない。切支丹弾圧や隠れ切支丹のことにはまったく触れていない。

 江戸幕府は鎖国する。五島列島の人々は捕鯨に乗り出す。捕鯨の利益は莫大であったという。やがて西欧列強が東アジアへもやってくる。五島列島も海防の備えをする。200年も前に焼失していた福江城の再建を幕府に願いでて許可されるのは嘉永2年、1849年である。城の完成は文久3年、1863年で、日本の城郭の中では最後に建設されたものである。しかし、明治5年に本丸は解体されてしまう。

 モンゴル史が専門だけあって、元寇の記述が詳しい。蒙古軍に上陸された地帯が皆殺しにあったというような説は、根拠がないと著者は言う。

 海を通じての交易、交流という観点から日本史を見るという点は、網野史学の流れを汲むものだ。著者は海にはもともと国境などないといい、世界をつなぐ海であったものが領海とか排他的経済水域により世界をへだつ海になってしまったのはたかだか150年ほどのことで、異様に肥大化した国家主義のもたらしたものだという。そもそも国家や国境などというものはもっとファジーなものだったのに、堅くなってしまったは西欧の頑なさ、偏屈さ、固陋、相互不信によるものだと、口を極めて西欧批判をする。

 本書は「歴史屋のたわごと・・1」となっている。以後同じシリーズが刊行されるようだ。確かに「たわごと」的な語り口が見られる。それが本書の魅力。例えば、秀吉を「希代のイリュージョナリスト」と呼んでいる。あるいはマルコポーロという人物は実在しなかったともいう。元寇の後には平和通商の波がアフロユーラシア規模で出現した。マルコポーロというのはそうした時代に海路、陸路で東方にやってきた複数の人物の見聞が投影された、仮想の人物だろうという。高校の世界史の授業は各時代ごとに生徒がテーマを選んで調べて発表する形式だった。私はマルコポーロについて発表したが、先生からはいい発表だとほめられた。その旅程の一部には不明なところもあったが、一人の人物の旅行記だと信じていた。

「大航海時代」という言葉も著者は否定する。西欧では「大発見の時代」と呼ばれている。この言い方には西欧の手前勝手、独尊があり、それを嫌った日本の著名な歴史学者が作った言葉が「大航海時代」だという。だから、欧米では通用しない。本来ささやかな力しかなかった西欧が、手つかずに近い南北アメリカを手に入れて大きく飛躍するきっかけになったのが、この時代だという。「大航海時代」はむしろ、イギリスの舟が世界の海を駆け巡った18世紀頃にふさわしいという。

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書名 青春ピカソ 著者 岡本太郎 No
2015-17
発行所 新潮文庫 発行年 平成12年 読了年月日 2015-03-31 記入年月日 2015-03-31

 少し前に、生田緑地へ吟行に出かけた。その際、岡本太郎美術館にも入った。初めて見る岡本太郎の絵画、彫刻に圧倒された。すごいエネルギーに満ちている。作品の他にも、彼の経歴や動画が展示されていた。流ちょうなフランス語をしゃべる動画があり驚いた。さらに、彼がパリ滞在中に、文化人類学の講義の聴講し、著名な文化人類学者とも交流があったことを知って、なおさら驚いた。美術館の売店に本書があった。

 岡本太郎はモダンアートの作家で、時々世間をさわがせる風変わりなおじさんというイメージしかなかった。ところがどうして、大変な教養人で、巧みな文章家だ。彼の絵画や彫刻の如く、力強く、パワーあふれる文章だ。文章の力、うまさは母の岡本かの子譲りだ。

「ピカソ発見」「ピカソへの挑戦」「ピカソ芸術の本質」「ピカソの作品」「青春ピカソ」「ピカソとの対話」の6編からなる。ピカソへの心酔、尊敬と、そのピカソを乗り越えていこうとする岡本の決意表明の書である。

 本書の表題となった「青春ピカソ」は20歳までのピカソの生い立ちと遍歴が述べられる。

「ピカソとの対話」は、1953年、南仏のピカソのアトリエを訪ねた際の記録。対話というほどのものではない。わずかに日本の墨絵についてのやりとりがあるが、他はゲイシャとはどんなものかと言ったたわいもない会話。岡本太郎もいっているが、それがいかにもピカソらしい。

「ピカソの作品」は優れた美術評論だ。特にピカソの代表作「ゲルニカ」の評論は、その作品の時代的背景、社会的意義に加えて、美術的観点からの深い考察に満ちていている。
 立体派については以下のように記す:
ピカソ芸術の真にピカソ的な展開は立体派に始まる。この芸術革命は既成の絵画理念を根底から破壊し去り、史上驚異的な二十世紀アヴァンギャルドを確立する。立体派以後とそれ以前の世界との断絶は、美術史における最大の断層である。(p81)

 19世紀における資本主義の急速な発展は、結果として大規模な植民地政策を展開する。それにより、ヨーロッパの人々は異質な文化への視野を拡大した。フランスでは原始民族研究が盛んとなり、その現地報告と土民芸術は世紀末の頽廃的雰囲気に絶望した芸術家たちに貴重な刺激であった、と述べた後以下のように記す:
しかし西欧美学のまったく反対物であるこの奇怪極まる原始芸術は、フォーヴィストたちにとっては単に好奇的刺激にとどまった。ピカソはそこに芸術の根源的エモーションを発見し、それによって己れ自身の美的教養を根底から覆すことを躊躇しなかったのである。彼だけが革命的に自己破壊の手段としてこれを取り上げたのだ。ここに二十世紀芸術、そしてそれを担うアヴァンギャルド、ピカソの第一歩が決定された。ピカソが真のピカソとなる。(p83)
 文化人類学を学び、後に縄文土器の美術的価値を初めて認めた岡本太郎が、ここに見られる。

 自己破壊ということをピカソ芸術の本質としてみている。「ピカソへの挑戦」ではピカソ芸術を支える二つの偉大な要素を以下のように述べる:
第一は彼の希代の才能、超人的なうまさであり、第二には彼が新しい世代に否定されるのを待つまでもなく、何人よりもラジカルに己れ自身を否定し、革命的に創造しつづけて、常に芸術の先頭を進んでいるアヴァンギャルドだということだ。彼の業績はこの峻烈極まる自己破壊、脱皮の上に成り立っている、常に無謀なほど、己れ自身の所産を無視し、他を破壊しつつ驀進する、この偉大なるアヴァンギャルドの仕事には、もちろん、名人の持味である自足感はなく不協和に躍動する圧倒的な凄味があふれる。これがピカソ芸術の真面目なのだ。(p24)。

「ピカソ芸術の本質」。彼の芸術の本質を岡本は、ラジカルな革命性、即物的態度、本能主義の三つであるという(p50)。

 岡本は芸術においては最悪の条件が最大の飛躍の契機になることを信じる。そして言う「
ピカソをのり超え、これを飛躍的に発展せしめる芸術家はむしろ社会的条件の悪質な日本から出てくるべきだということなのだ。これは決して反語ではないのである。繰り返し繰り返し言う通り、それは、ひたすらにわれわれ個々の決意にのみかかっているのである。」(p58)

「ピカソ発見」では若いころのパリ留学のエピソードが語られる。ルーブルに通った岡本は、セザンヌとピカソの絵の前で涙を流して泣いた。「
涙が出る、泣けるというのは必ずしも大傑作に接する時ではない。私がセザンヌとピカソの前で泣いたのは、それらの作品が私の生活と肉体に端的に浸み入って来たからである。」(p14)

「ゲルニカ」ほか数点のピカソ作品が掲載されている。
初出は昭和28年。

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書名 伊澤蘭軒(上) 著者 森鴎外 No
2015-18
発行所 ちくま文庫 発行年 1996年 読了年月日 2015-04-06 記入年月日 2015-04-07

 今年に入ってから、江戸時代に関する本が多い。野口武彦の『江戸人の精神絵図』で取り上げられた松崎伊慊堂の日記、『慊堂日暦』に登場する人物の多くは森鴎外の『渋江抽齋』『伊澤蘭軒』『北条霞亭』のなかにも登場すると述べられていた。この時代のことを集中して読むのもよかろうと思った。

『伊澤蘭軒』を青空文庫でダウンロードしてみたが、長編で、難解な漢字の言い回しが頻出してとても読めそうになかった。図書館で調べたら、ちくま文庫の森鴎外全集7と8が『伊澤蘭軒』に相当した。上編だけで500ページを超す大作。新聞連載の1回ごとに、懇切な注釈が施されている。これなしではとても読めない。『渋江抽斎』以上に読みづらい。

 伊澤蘭軒、安永6年,1777年生まれ、文政12年、1829年没、江戸後期の福山藩阿部家に仕える医師で文人、漢詩をよくした。

 鴎外は彼の残した略伝と多数の漢詩と主として漢詩の師であった菅茶山との間の手紙から、蘭軒の生涯を編年形式で追う。蘭軒は江戸に住み、藩主阿部家の侍医である。鴎外自身が述べているように、その作業の困難さは前作『渋江抽齋』の比ではなかったという。蘭軒は何かにつけて詩を作っている。詩の前書き、脚注、詩本文が鴎外の最大の手懸かりだ。だから、本書の半分は漢詩で埋められている。すべて読み下しのルビが振ってあるが、私は多くを読み飛ばした。例えば、隅田川に舟を浮かべた際の詩から、それが何年何月何日であったかを推量していく。さらに、鴎外の考察は、前書きあるいは詩中に出てくる人物について、一人一人蘭軒との関係を調べ、その人物の生い立ちや社会的な地位までにおよぶ。例えば、頼山陽についても、本書を通して、随時述べられる。その他松崎慊堂や考証家の狩谷棭齋などもよく出てくる。当時は名前の他に、号、通称があり人物の特定だけでも大変な苦労をしている。

 菅茶山はやはり福山藩の侍医で、文人。蘭軒よりも30歳ほど年上で、師であるが、生涯蘭軒との交友を絶やさなかった。茶山と蘭軒の間の手紙は幸い残っていて、本書の執筆の基礎資料となっている。膨大な漢詩と手紙に鴎外は直接にあたり読みとっている。その作業だけでも大変だったろう。漢文に対する深い素養がないと出来ない。時々、漢字の判別が不明で、前後関係からこの字だろうと推量したとも述べる。史料は自身が購入したものの他、友人知人が所有しているものを借りている。面白いことに、図書館には足を運ばない。国会図書館にこの史料があると聞いているが、閲覧に出かけて調べることはやらなかったとも書いている。

 面白いことに、侍医でありながら、仕事のことはあまり出てこない。出てくるのは文人仲間との遊行や詩会。事実が淡々と述べられる。晩年は門弟が80人ほどもいて、本草学の講義などもしたようだが、そうしたことはあまり述べられていない。鴎外がもう一つ重視した史料は、福山藩江戸藩邸での「勤向覚書」という勤務記録。本人自身は足が不自由で、時々病気を理由に出仕を断っている。

 本書の終わりの方には、菅茶山の弟子で、北条霞亭という医師で文人についてかなり述べられる。この人物についてネットを調べていると、丸谷才一が『渋江抽齋』と『伊澤蘭軒』を近代日本文学の最高峰としているブログにで出会った。(http://president.jp/articles/-/667)。この2作がすばらしいのは、謎解きの構造が大変大仕掛けになっていて、『伊澤蘭軒』のなかで、『渋江抽齋』のなかでは解けなかった謎がすっかり解けるからだと丸谷はいう。ちなみに、渋江抽齋は伊澤蘭軒の門弟であり、蘭軒の晩年にはその詩の清書を行っている。本書ではその謎解きまでは行っていない。

 本書を読んで浮かび上がるのは200年前の江戸の文人たちの生活。隅田川や、お茶の水から小石川への船遊び、不忍池の端の料亭での漢詩会、あるいは中国古典の復刻作業に励む彼らには封建身分制度への疑問など一切感じられない。200年あまりの泰平の世がもたらした恩恵を、一身に味わっているが、決して安逸には逃れていない。
 蘭軒は30歳の文化3年、長崎奉行の赴任に随伴して、長崎への旅をする。この旅行記は残っている。京へは中山道を通って17日間で着いている。最初読んでいて、徒歩にしては早いと思ったが、大湫から細久手への道中で、轎夫(きょうふ)、駕籠かきという言葉が出てくるので、ほとんどが駕籠に乗っていることに気がついた。江戸を立って13日目美濃太田から河渡宿への紀行文を以下に引く(p97):

「二日卯発し駅をいづれば、渓水浅流の太田川にながれ入る所あり。方一尺許の石塊をならべてその浅流を渡る。直にのぼる山乃《すなはち》勝山なり。一山みな岩石也。斫《きり》て坂となし坦路となしゝものあり。窟の観音に詣る。佳境絶妙なり。河幅至てひろく、水心に岩石秀聳《しうしよう》し、蟠松矯樹《はんしようあいじゆ》ううるがごとく生ず。水勢の石に激する所あり。淵をなして蒼々然たる所あり。浅流底砂を見る所あり。美濃山中の勝地ならん。二里鵜沼駅にいたる。犬山の城見ゆる。四里八丁加納駅。一里半河渡駅。塗師《ぬし》屋久左衛門の家に宿す。気候前日のごとし。行程七里半余。

 鵜沼宿への道は後に、後に志賀重昴により日本ラインと名付けられた木曽川の景観が左に続くところだ。岩屋観音という「窟の観音」は今もあり、私も中山道歩きの際に賽銭をあげ旅の無事を祈った。

 もう一つ、旅の記録。これは北条霞亭が亡くなり、その未亡人、敬が福山の菅茶山のもとへ向かう旅。箱根関で半日あまり留められた。敬の髪型が書き付けと一致しなかったからだ。敬は役人に金3歩をあたえて放免された。鴎外の探索はこんな収賄をする、汚い官吏の長官にまで及ぶ。この年の役人武鑑にあたりそれが、小田原の城主大久保加賀守忠真であることを記す。(p387)

 本書は文政12年の蘭軒の死亡をもって終わる。蘭軒の死亡に先だつ45日には三男常三郎が、42日前には妻、益が亡くなている。恐らく同じ病因だろうと鴎外は言う。蘭軒は死の1ヶ月前には友人と詩会を催し、亡き妻を悼む詩を作っている。急性の病気であったようだ。蘭軒に先立つこと3ヶ月半には長男榛軒の長女も夭折している。

 当時の乳幼児死亡率は高かった。蘭軒も何人かの子供を失っている。文化9年、蘭軒35歳のところには以下のように記される;
勤向覚書に此一件の記事がある。「正月二日卯上刻妻出産仕、女子出生仕候間、御定式之通、血忌引仕候段御達申上候。同月四日血忌引御免被仰付候旨、山岡治左衛門殿被仰渡候。翌五日御番入仕候。同月八日此間出生仕候娘病気之処、養生不相叶申上刻死去仕候、七歳未満に付、御定式之通、三日之遠慮引仕候段御達申上候。同月十一日御番入仕候。」

 正月に生まれた二女がすぐになくなった。妻の出産に際しては「血忌引」を3日間とり、二女の死亡に対しては7歳未満につき3日間の忌引きをとっている。出産が忌むべき穢れとされている。

「勤向覚書」の最後の記述は文政9年3月のもの。持病の足痛のために蘭軒が夏場に足袋を履くことを願いでて、10日後に許されたという記録である。(p478)

 微に入り細にわたる鴎外の考証を支えたこの情熱、執念はなにに由来するのだろうか。歴史のなかに埋もれた人物への熱い思いか、あるいは化政の江戸へのノスタルジーか。

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書名 伊澤蘭軒(下) 著者 森鴎外 No
2015-19
発行所 ちくま文庫 発行年 1996年 読了年月日 2015-04-16 記入年月日 2015-04-17

 本巻は蘭軒の二人の息子、榛軒と柏軒、および榛軒の養子で伊澤家を継いだ棠軒の生涯をたどる。上巻より短いがそれでも400ページを超す。鴎外が本書を書いたのは大正の初めであるが、榛軒の娘などがまだ生存していて、直接話を聞くことが出来ているので上巻の蘭軒伝よりも読みやすいものになっている。

『伊澤蘭軒』は「東京日日新聞」「大阪毎日新聞」に、大正5年から翌年にかけて連載された。1日の連載分ごとに番号が振られていて、最後は371である。369からの371まで、鴎外は本書執筆の意図を述べている。

 
わたくしは筆を行《や》るに当つて事実を伝ふることを専《もつぱら》にし、努《つとめ》て叙事の想像に渉《わた》ることを避けた。客観の上に立脚することを欲して、復主観を縦《ほしい》まゝにすることを欲せなかつた。

 この客観事実の上に、読者が随意に抽齋象、蘭軒像を築くべきものであると鴎外は言う。連載中から、本書への批判、非難が多数あった。文章が長いのにうんざりした、こうした作品は無用である、あるいは新聞連載に適するものではない、といった非難である。鴎外は、こうした非難だけではなく、本書が嫌われたのは、それが往時を語るからであるという。

凡そ更新を欲するものは因襲を悪《にく》む。因襲を悪むこと甚しければ、歴史を観ることを厭ふこととなる。此の如き人は更新を以て歴史を顧慮して行ふべきものとはなさない。」と記す。

 この文を引いて、巻末の田中美代子の解説は次のように述べる。「
それは、近代化の理念が前途を照らし、進歩への夢に憑かれていた人々の大方の対応だった」。社会の近代化、国家の近代化を目指す、当時の人々には、このような因襲的な社会の細部まで掘り起こし、なんの批判も加えないまま提示しても、なんの意味もなさないと思ったのだ。
 高校時代、鴎外の『阿部一族』や『堺事件』を読んだとき、私も同じように思った。今回、『渋江抽齋』と同様『伊澤蘭軒』も読み進めて行くうちに、その時代を生きた人々の生活の細部を通して、その時代の空気や匂いが立ち上ってくるのを感じる。それが歴史を知るということの本質だろうと思う。それをどう解釈し、理解するかは各人に任される。

 伊澤榛軒 文化元年(1804年)ー嘉永5年(1852年)
 伊澤柏軒 文化7年(1810年)ー文久3年(1863年)
 伊澤棠軒 天保5年(1834年)ー明治8年(1875年)

 上巻と違って、本巻では医事に関することが多く出てくる。榛軒は蘭軒と違って、文を残すことが少なかった。榛軒は福山藩の医師として、藩主で老中であった阿部正弘の主治医でもあった。さらに、将軍家定にも面会することを許された。しかし、榛軒は町医者としても活躍し、4人で担ぐ駕籠を飛ばして患者を往診した。ただし、富貴の家はつとめて避け、貧賤の家には好んでいったという。「大名と札差の治療はせぬことだ」と言っていたが、好むと好まざるに関わらず、大名の多くが彼の患者であったという。榛軒の葬式の会葬者は千人近かったという。

 榛軒の日常を記したところには、以下のようなものもある。榛軒の書斎には関羽、菅原道真、加藤清正の像が置かれていた。関羽を祀る日には、客にしっぽく料理を饗した。しっぱくとは長崎から広まった日本化した中国料理。それを、今の中国料理店で見るような円形の回転テーブルで饗したという。暮れには屠蘇を調合した。12月の半ばから準備しはじめて、20日に塾生、外弟子など集まり、1日がかりで調合した。その部屋には女子は入ることを許さなかった。終わると榛軒は参加者を引き連れて、神田の蕎麦屋、今宮へ行き、蕎麦を振る舞った。その人数、30人ほど。

 蘭軒没後、数年で頼山陽も没している。山陽の最後について鴎外は詳しい考証を加える。そして、山陽の最後の言葉を「背後にいるのは五郎か」であったとし、その五郎なる人物の考証を展開する。

 榛軒の亡くなったのは、ペリー来航の前年である。従って、ペリーのことは榛軒に関する限りまったく出てこない。次の柏軒からは、幕末の混乱時代へ入る。しかし、ペリー来航が江戸の人々にあたえた衝撃は本書にはまったく出てこない。当時、士人の間では「茶番」という自宅で行う素人狂言が何かの折りに行われていた。安政元年、柏軒が企画し知人宅で行われた茶番についても出し物、配役、衣裳、舞台作りなどの詳しい記述がある。安政元年と言えば、ペリー2度目の来航の年であるし、茶番が行われた8月には、スタアリングに率いられたイギリス艦隊が長崎に来航していたときである。そうした時期に茶番が行われたことに人々は疑問を呈するだろうと鴎外は言う。だが、それは民衆の心理を理解しない言い方である。上に病弱な将軍家定を戴き、外より列強が迫って来るのに際しても、府下の遊郭劇場の賑わったことは平日のごとく、庶民の家に宴会が行われたこともまた平日のごとくであったのだろう、と鴎外は言う。

 柏軒は福山藩医として、阿部正弘の最期を看取る。老中首座として外交交渉に当たる中、阿部正弘は安政4年(1857年)、39歳で急死する。開国派で開明派である正弘の死が、江戸幕府の寿命を縮めたというような記述を読んだことがある。本書を読んでみると、必ずしもそうではなかったようだ。福井藩主の松平春嶽が阿部の病気に対して蘭方医学で治療させるよう、配下の医師を介して阿部に勧めた。阿部は頑としてそれを受け入れなかった。蘭方医学の長所は心得ているが、世の中がそれ一方になっては弊害が出るというのが理由だった。阿部はもとより保守の人であった。彼にあっての開国論は、幕府の財政状況その他の実情を知っていて、攘夷の不可能なこと、戦いを交えるべきでないことを知っていたからであると鴎外は言う。

 鴎外は阿部正弘の死因をがんだろうという。しかし、突然の死に対して、当時色々な風説が流された。この作品が連載されている際、広島の読者から投稿があった。それは、開国派の井伊直弼が開国に渋っている阿部を主治医の榛軒に命じて毒殺したという噂があるが、それについてどう思うかというものだった。鴎外はその投稿を取り上げ、きっぱりとその説を否定している。そもそも、榛軒は阿部よりも先に亡くなっている。本書の脚注によると、匿名のこの投稿者は井伏鱒二であったという。井伏鱒二18歳の頃だ。

 柏軒は江戸城の奥医師となる。市中には病家千戸を有し、蘭方医が盛んになる中にあって、漢方医の存亡の責を負うがごとくなった。将軍家茂の上洛に伴って京都へ行くことになった。家茂の医師団には蘭方医も入っている。当初、家茂一行は海路で行くことになっていた。西洋の機物を嫌う柏軒は蒸気船に乗ることに強く抵抗した。幸い、海路が陸路に変更されて、家茂は東海道を上った。柏軒は京都滞在中に発病し当地でなくなった。

 鴎外は柏軒の門人、松田道夫から直接話を聞いて、柏軒の人柄を知り得たと記す。この松田道夫は維新後は医業に進まず、司法に進み、最後は東京控訴院部長となった。鴎外は、門人の跡まで細かく追う。

 榛軒の後を継いだのは、婿養子の棠軒である。福山藩主の侍医として、幕末維新を体験する。まずは、長州征伐に従軍する。官軍に福山城を開城した後は、官軍側に立ち、松前に立てこもる旧幕軍と戦うために、弘前に出征し陣を張る。漢方に固執していた棠軒も陣中でついに西洋医学に従うよう命令される。

 棠軒の妻は、榛軒の娘、柏である。柏は長生きし、鴎外は柏からも榛軒の思い出を聞くことが出来、本書にもしばしば引用されている。

 参考のためにウイキペディアを引いたが、蘭軒以外、榛軒、柏軒、棠軒は取り上げられていなかった。


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書名 狩谷棭斎 著者 梅谷文夫 No
2015-20
発行所 吉川弘文館 発行年 平成6年 読了年月日 2015-04-30 記入年月日 2015-05-01

伊澤蘭軒』の中にも出てきた文人。吉川弘文館の人物叢書の目録を見ていたら、この人物が取り上げあられていた。私のまったく知らなかった人物。本書のカバーのでは以下のように狩谷棭斎が紹介されている。

 
書誌学・金石学の基礎を築き、考証学を大成し、儒学・国学が科学としての古典研究に脱皮する素地を醸成した江戸時代後期の町人学者。本屋の子に生まれ、豪商として聞こえた米問屋津軽屋の婿養子に迎えられ、弘前藩の御蔵元を勤める一方、和漢の古典籍の蒐集とその研究に努めて、「和名類聚抄箋注」など、傑出した業績をのこす。

 安永4年(1755年)生まれ、天保6年(1830年)没。

 金石学というのは、初めて聞く言葉だが、金属や石に彫られた碑文の研究のこと。書誌学、金石学などという地味な分野で業績を上げた人物までも取り上げるところが、この人物叢書の特徴だ。書き方はまるで鴎外の史伝を読んでいるような気分になる。経時的に事実を積み上げて行く。著者はかなり鴎外を意識していて、鴎外の『渋江抽齋』や『伊澤蘭軒』の中の記述を引用している。そして、ところどころ、鴎外の記述を間違いだと指摘する。

 書誌学は書籍を対象とする分類学である。現存する書籍の題名、撰者、書写者または刊行者、成立、内容・構成、本文の性質、装丁・料紙・軸数または冊数・書式または版式・寸法等形態的特徴、旧蔵者など、さまざまな角度から個々の書籍の来歴とその現状に関して調査し、それらの知見にもとづいて個々の書籍を系統的に分類し、もって、それぞれの書籍の文献資料としての性質を明らかにする学問である(p107)。棭斎の自宅に市野迷庵、伊澤蘭軒らが各自所有の漢籍の古版本などを持ちより、書誌学的研究を行ったのが、日本における本格的な書誌学研究の初めであるという。

 棭斎は12歳で『続日本紀』を購入しており、十代後半には有職故実に関する諸書を集めている。幼児期にどこでどのような教育を受けてそのような関心を持つようになったのか、知りたいところだが、本書には述べられていない。世の中に対して役立ちそうにも思えないことに没頭できるのは泰平の世がもたらした恩恵だ。

 金石学については、平安遷都以前の金石文29編を集成し、考証した『古京遺文』を金石学の基礎を築いた著作だとする。棭斎44歳のときの著作だ。多くを拓本をもとに考察した。ただ、その内容には触れていない。本書は、棭斎の学問、著作の内容の紹介は多くの場合行わない。著述は主として、その本の成立時期、成立事情の考察に費やされる。

 私にとって興味があったのは、御蔵元という商売。棭斎が亡くなり、津軽屋の跡は懐之が継ぐ。鴎外は『伊澤蘭軒』で、懐之を「必ずしも大商店を経営する力をば有せなかったものと推する」としたため、不肖の子とする説が広まった。しかし、そんなことはないと著者は反論する。懐之は棭斎の死後1年もしないうちに、弘前藩への債権、12万7千余両を放棄する。今の金にして120億円余りの巨額の債権だ。その放棄を決断した懐之は決して凡庸な人物ではないと、著者は鴎外に反論する。それはさておき、120億円の債権を放棄できる御蔵元という存在だ。津軽藩財政逼迫の要因は、藩邸の焼失、天保の飢饉をもたらした冷害などである。棭斎の学問を支えたのは、こうした巨大な御蔵元の財力だった。

 本書の70ページ以下に、米の回漕、保管、売りさばきなど、御蔵元の業務の実態が詳しく述べられている。弘前藩が家臣に与える扶持米については、御蔵元に1/3の手数料が入ったという。つまり、100俵の扶持米を扱うごとに33俵が御蔵元に入る。売却は入札による。売却手数料は1俵につき1升であった。津軽藩は慢性的に財政逼迫していて、御蔵元から金を借りていた。返済は米で行われる。金利は年利1割2分から2割5分ほど。かなり高利の債権だ。

 死の床にあった棭斎を、友人の松崎慊堂が何回も見舞う。松崎慊堂は『江戸人の精神絵図』でも取り上げあげられた文人だ。棭斎の葬儀には松崎慊堂、伊澤柏軒、渋江抽齋、森枳園などが会した。遺骸は臥棺に納めて葬送することにしたので、世間の耳目をはばかり、夜半に出棺した。留守番として柏軒を残して、雨の中を一行は下谷天竜寺に向かった。臥棺が当時は珍しかったのだ。

 この時代の文人たちの知的探求心はたいしたものだが、なぜそれが自然現象の探求に向かわなかったのだろうか。同じ時代、例えば1800年には、西洋では赤外線と紫外線の発見がなされ、ボルタの電池が発明されている。棭斎が亡くなった1830年にはイギリスではリバープールとマンチェスター間に、アメリカではボルチモアとオハイオ間に鉄道が開通している。

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書名 蘭学事始 著者 杉田玄白著、片桐一男訳・注 No
2015-21
発行所 講談社学術文庫 発行年 2000年 読了年月日 2015-05-03  記入年月日 2015-05-03

 こんな回想録が書けたらすばらしいだろう。『伊澤蘭軒』の中に、蘭方医のことが触れられていたが、蘭方医といえば、本書があると思いつき、手にした。引きずり込まれるように読んだ。自分の人生を全面的に肯定することから来る爽やかさ。杉田玄白が83歳にして表した『解体新書』翻訳の経緯とその後の蘭学の発展の様子。新しいものに挑戦する勇気と、それをやり遂げた自信とが、平易でリズミカルな文でつづられ、読むものを引きつけて止まない。読んでいて勇気づけられる。下に示した一例でもわかるように、巧みなたとえなどもまじえ、名文といってもいい。原文の漢字にはすべてルビが振ってあるので読みやすく、原文の前に載せてある現代語訳がなくても十分に理解出来る。

 本書の終わりの方に以下のように記される(p135):
 
一滴の油これを広き池水の内に点ずれば散じて満池に及ぶとかや。さあるが如く、其初め、前野良沢、中川淳庵、翁と三人申合せ、仮初に思ひ付きし事、五十年近き年月を経て、此学海内に及び、其所彼所と四方に流布し、年毎に訳説の書も出る様に聞けり。

 自分たちが成し遂げた『解体新書』の訳業を、広い池に点じた一滴の油にたとえ、その後蘭学が広がる様を、油が池全体に広がるのにたとえている。玄白は、蘭学の広がりを喜ぶのだが、蘭学の発展に関しては間違った主張があるので、ここに昔話を書き記したと本書執筆の理由を上記の文の後に続ける。

 さらにその後に以下の文が続く(p135~6):(蘭学が)
斯く隆盛にいたりしを見ること、これ我身に備りし幸なりとのみいふべからず。伏して考るに、其実は恭く太平の余化より出し所なり。世に篤好厚志の人ありとも、何んぞ戦乱干戈の間にしてこれを創建し、此盛挙に及ぶの暇あらんや。恐れ多くも、ことし文化十二年乙亥は、ふたらの山の大御神、二百とせの、御神忌にあたらせ給ふ。此、大御神の天下太平に一統し給ひし、御恩沢数ならぬ翁が輩まで加り被り奉り、くまぐますみずみまで、神徳の日の光照りそへ給ひしおほんとくなりと、おそれみかしこみ仰ぎても猶あまりある御事なり。

 私は後期の江戸時代に関する本を読むたびに、太平の世を人々が心底享受していたという感想を持つ。上の文は当時を生きた人がそのことを口にしている。本書より少し前に出た十返舎一九の『東海道中膝栗毛』の中にも、今の世を「
毛すじ程もゆるがぬ御代」と述べ、それは「尭舜のいにしへ、延喜のむかしも、目撃(目の当たり)見る心地」であると、徳川体制を賛美しているが、杉田玄白はさらに家康への賛美へと筆を進める。本書が成ったのは文化12年、1815年、ちょうど神君家康(1616年没)の二百年忌に当たる。そして、今年はそれからまた二百年後に当たる。

 明和8年(1771年)玄白等は刑死した老婦の腑分けに立ち会い『ターヘルアナトミイア』と付き合わせて、その正確なことに驚く。帰り道、玄白、良沢、淳庵は彼らの無知を恥じ、この書を翻訳することに一決する。

 
其翌日、良沢が宅に集り、前日の事を語合ひ、先ツ、彼ターフル・アナトミイの書に打向ひしに、誠に艫舵なき船の大海に乗出せしが如く、茫洋として寄べきかたなく、ただあきれにあきれて居たるまでなり。(p109)

 良沢は長崎にもいったことがあり多少はオランダ語がわかった。玄白よりも10歳年上でもあったので、良沢を先生として翻訳を始める。玄白はオランダのアルファベット25文字さえも知らなかったから、先ずそこから始めなければならなかったと記す。

 
譬ば(たとえば)、眉(ウェインプララウ)というものは目の上に生じたる毛なりと有るようなる一句も、彷彿として、長き日の春の一日には明らめられず、日暮るまで考へ詰め、互いににらみ合て、僅一二寸計の文章、一行も解し得る事ならぬ事にてありしなり。(p110)

 そうするうちにも訳語は少しずつ蓄積される。とはいえ、やっかいな言葉は相変わらず出てくる。

 
其中にもシンネン(精神)などいえる事出しに至りては、一向に思慮の及びがたき事も多かりし。これらは亦、往往(ゆくゆく)は可解時も出来ぬべし。(p111)

 こうしたその時はわからない言葉には、くつわ十文字と彼らがいう丸に十文字を引いた記号をつけて行く。色々考えてもわからないときは、苦しさのあまりそれもまたくつわ十文字、くつわ十文字といって、先に進んだ。

 
しかれども為すべき事はもとより人に在り、成るべきは天にありの喩の如くなるべしと。如斯(かくのごとく)思を労し、精を研(す)り、辛苦せしこと一ヶ月に六七会なり。其定日は怠りなく、わけもなくして各相集り会議し読合しに、実に不昩者(くらかざるもの)は心とやらにて、凡一年余も過しぬれば、訳語も漸く増し、読に随ひ自然と彼国の事態も解了するよふにて、後後は其章句の疎(あら)き所は、一日に十行も、其余も、格別の労苦なく解し得る様にもなりたり。(p112)

為すべき事はもとより人に在り、成るべきは天にあり」「実に不昩者(くらかざるもの)は心」。この二つのフレーズに、玄白の決意と楽天主義を見る。

 安永3年(1774年)『解体新書』全五巻が刊行される。ただし、翻訳の主力であった前野良沢の名前は載っていない。杉田玄白 訳、中川淳庵 校、石川玄常 参、桂川甫周 閲 という四名の名が載っている。解説では、出版上の困難を克服するために配慮が働き、良沢の名が削られたのだろうと推測する(p157)。ウイキペディアによると、翻訳の不備を恥じて自らの名を出さなかったという説と、蘭学に対する幕府の対応が微妙だったから、良沢に咎が及ぶのを避け、玄白が翻訳の不備についての良沢の気持ちをくみ取って行ったという説があるとのこと。『蘭学事始』により良沢の業績が世に知られたという。

 本書の解説では、『蘭学事始』の書誌学的考察が展開される。『狩谷棭斎』でよくわからなかった書誌学の具体的例が示されていた。福沢諭吉は、『蘭学事始』の写本を繰り返し読んで、翻訳の苦労の段になると、感涙にむせび無言に終わるのを常にしたという(p193)。諭吉は明治2年に『蘭学事始』を出版した。『蘭学事始』という書名はこの諭吉の刊により定まったようだ。それ以前には『蘭東事始』『和蘭事始』その他、色々の呼び方があった。

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書名 悠遊 第二十二号 著者 企業OBペンクラブ編 No
2015-22
発行所 発行年 2015年4月 読了年月日 2015-05-06  記入年月日 2015-05-10

 池田さんから送られてきた。カラーの「フォト・句」などもたくさん掲載され、相変わらずお金をかけたしゃれた文集だ。特集は「日本語の魅力」と「心に残る一冊・一句」。書き手の知的レベルの高さが伺われる作品が並ぶ。心に残る一冊として『サダト自伝』が挙げられるところはやはり海外経験の豊かな企業OBならでは。

 自由テーマにも40編ほどの作品が掲載される。大手企業のビジネスマンとしての体験に基づいた作品が多いのは当然だろう。ただ、こちらの方は一つのことに焦点を当てた書き方ではなく、概説的な書き方で、それだけに視点、主張も特に目新しく感じられるものは少ない。

 池田さんは、高校時代の同級生の母親がやっていたサロンで交わされた神さまが存在するかどうかの論議を書いている。神の存在を信じない大学生の池田さんと、神の存在を信じる女子学生、それに同級生と、母親が加わった4人の会話だけで進んで行く。最後に、その後池田さんはその女子学生と結婚したことが付け加えられ、二人は昨年仏式で金婚式を挙げたと結ばれている。他の作品と比べ、時点をしぼり、会話という具体的なものだけで構成したユニークな作品だ。

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書名 大乗小説がゆく 著者 高梨義明 No
2015-23
発行所 創英社 発行年 2009年 読了年月日 2015-05-09 記入年月日 2015-05-10

 これも高校同級生の高梨さんから送られてきたもの。高梨さんとは先月、高校同窓会のフォーラムの後の懇親会で会って話をした。高校時代も卒業後もまったく知らない間柄だった。本書の副題は「私の大菩薩峠論」。中里介山の『大菩薩峠』を論じたもの。著者の高梨さんは、大学の法学部を卒業後、銀行マンとして職歴をまっとうした。

 高校時代の読書といえば、『チボー家の人々』や『ジャンクリストフ』が定番であるなかで、著者が『大菩薩峠』を読み始めたのは、ラジオから流れる、この本には日本の森羅万象、故事来歴にまつわる膨大な情報が積め込められているという言葉であった。『大菩薩峠』に、教養小説のイメージを抱いていたが、それとはまったく違うものであった。にもかかわらずこの大著を読み続けたのは、そこに漂い続けるそこはかとない無常観であり、
さらには『源氏物語』以来のわが国文芸が内包する「もののはずみ」に通底する雰囲気だったのではあるまいか、と著者は回想する。(p33)

 以下、生涯を通しての『大菩薩峠』と中里介山への考察が述べられている。一つの本への生涯を通しての関心というのに先ず驚く。節操もなく手当たり次第に本を読んで行く私とは対照的だ。たくさんの文献に当たり、多方面から迫る。例えばp132には折口信夫の『大菩薩峠』論も紹介されている。読んだことのない私には、すべてが新しい知識となる。

「大乗小説」とは『大菩薩峠』のことを中里介山自身が言ったものとのこと。『大菩薩峠』は大衆小説であるという論に反発してのこと。大乗仏教の思想にそったものだという。介山は若いころ社会主義に傾倒する。しかし、やがて、物質よりも精神を重視する彼は幸徳秋水らとは袂を分かつ。大逆事件で抹殺された幸徳秋水らに介山はその後の人生で常に負い目を感じていたのではないかと、著者はいう。そのトラウマが、「大衆小説」論への極端な反発となったのではという(p130~)。

 大乗仏教はこの世の不条理を釈明するために「業」の仮説を取り入れ、輪廻転生の仮説を支持することになったと著者はいう。大乗仏教は「業」の仮説を基本とし、一方では「浄土」という仮説を創出し、衆生を六道から解脱させる希望を与え、一方では地獄の過酷さを強調することにより衆生に積善を説いた。前者が大乗仏教の「正の訴求力」であり、後者がその「負の訴求力」であると著者はいう。『大菩薩峠』に漂う陰々滅々たる雰囲気はまさに大乗仏教の負の訴求力である。(p32~)。

 冒頭から主人公の机龍之介は大菩薩峠で、罪もない老人を切りすてる。さらには自分の妻をも斬り殺す。こうして龍之介は不条理な殺人を繰り返す。こうした内容の『大菩薩峠』で中里介山が訴えたかったものは何か。著者は以下のように本書を結ぶ:

 
不条理をありのままに直視続けることを通じて介山が訴えようとしたもの、それは善悪不二、禍福一如を実感できる境地、一言で言うなら机龍之介さえも受容できる境地、すなわち「寛容の境地」へのいざないだったのではないだろうか。悪意に満ち災厄にこと欠かない人生を平気で生きていける境地こそ、「寛容の境地」である。(p164)

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書名 太平記(三) 著者 兵藤裕己 No
2015-24
発行所 岩波文庫 発行年 2015年4月 読了年月日 2015-05-18 記入年月日 2015-05-22

 原本の16巻から21巻を納める。楠木正成も新田義貞も、そして後醍醐帝も本編で亡くなる。国民的人気のこの三者がいなくなれば太平記も終わりだと思っていた。だが、この長編物語は、本編でやっと半分である。 九州からとって返した尊氏と直義軍は迎える義貞軍を中国道に打ち破り、さらに湊川では正成を敗死させ、入京する。後醍醐帝は比叡山に逃れ、足利軍と対峙する。足利軍の本拠である東寺まで迫った義貞は、尊氏との一騎打ちを申し叫ぶが、実現しなかった。そのうち尊氏はひそかに後醍醐帝の京への還幸を誘う。部下に内密に後醍醐帝はこの誘いに乗る。それを伝え聞いた尊氏は「叡智浅からずと申せども、謀るも安かりけり」と漏らす(p174)。

 一方義貞は後醍醐帝の一宮尊良親王をいただいて北陸へ落ちて行く。本書では北陸での戦闘が詳しく述べられる。義貞の根拠とした金ヶ崎城は落城し、義貞は逃れるが、一宮尊良親王は自害する。京都に帰った後醍醐帝の側近たちは監禁される。後醍醐帝はひそかに京都を逃れ、吉野に行宮を構える。南朝の始まりだ。関東では北条高時の遺児時行が、東北では北畠顕家が南朝側として決起する。しかし、時行も顕家も京を奪還することは出来ない。やがて義貞が流れ矢に当たって戦死。そして後醍醐帝も吉野で逝去。

 相変わらずオーバーな表現で戦闘場面が述べられ、敗者は名を惜しんで腹を切る。一方では勅命により参集した軍勢が、負け戦となるとさっとさっと領地に帰る、あるいは相手に寝返る。例えば、足利方として宇都宮城に立てこもった芳賀兵衛入道禅可という武将は、官軍に攻められ三日で城を落とされ、降参するが、4,5日するとまた足利方にはせ参じる(p327)。あるいは南都の寺。いったんは比叡山に協力して、後醍醐側に着くことを約束しておきながら、数カ所の荘園の寄附の申し出につられて、足利に味方する約束をしてしまう。(p169)

 残虐なエピソードも多い。例えば、南朝方の結城入道の悪逆非道振りを「
常に死人の生頸を見ねば、心地の蒙気するにとて、僧俗男女を云はず、日ごとに二、三人が頸を切って、わざと目の前にぞ懸けさせける。」(p398)。この入道が死後に落ちた無間地獄の様子が数ページにわたって述べられる。

 正成の最後:「
7度生きかえって朝敵を撃つ」というのは、正成の言葉ではなく、弟の正氏の言葉で、正成もその言葉受け、その本分を達しようと言って、兄弟差し違えて同じ枕に伏した。(p80)

 楠木正成に対しては、きわめて好意的な書き方をしているが、新田義貞については厳しい見方をしている。本書の書き出しが、尊氏が都落ちをしたとき、義貞が直ちに追撃すれば、中国四国の侍たちは皆、後醍醐側に着いたのに,例の新田の長軍議と、寵愛する勾当内侍との別れを惜しんで出陣が遅れたのは「誠に傾城傾国」であると断じる。(p33)。さらに、比叡山に立てこもる官軍側に攻め寄せた尊氏が、大敗したときも「
義貞、この内侍に迷ひて、勝に乗り、疲れを攻むる謀を事ともせず、その弊(つい)え、はたして敵のために国を奪はれたり。誠に「一度笑みてよく国を傾く」と、古人のこれを誡しめしも、理りなりと覚えたり。」(p388)

 ただ、勾当内侍の話や、金ヶ崎城落城の際に自害した,後醍醐帝の皇子、一宮尊良親王と御息所の恋の物語、あるいは,塩冶判官への高師直の横恋慕など、女性にまつわるエピソードが本編に花を添える。

 その他人間模様も描かれる。例えば北畠顕家。大軍を率いて関ヶ原で足利軍と対峙する。足利軍は川を背に背水の陣だ。顕家軍がこの時、北陸にいた義貞と合流して比叡山に攻め上り、吉野から北上する南朝軍と挟撃すれば、京都は一日ももたなかっただろうと太平記は云う。だが、自分の功績がそのまま義貞のものになってしまうことをそねみ、北陸へ向かうことも、関ヶ原の敵陣を破ることもしないで、伊勢から吉野に行ってしまった。(p343)

 相変わらず、各地の豪族の名前が次々に羅列される。その中には後の守護大名となった例えば今川や大内、山名などの名が散見される。興味深かったのは,静岡県引佐の豪族井伊が、後醍醐方として登場すること。先般彦根を歩いたとき,井伊家の菩提寺が浜名湖の北にあることを知ったが、この井伊が後には徳川譜代の大名となり、明治まで続くのだ。

 本編の最後の方では、佐々木導誉の婆娑羅ぶりも紹介される。足利政権の傲慢振りを強く非難する形で、導誉による妙法院焼き討ち事件を述べる。その罪により流される導誉父子の道行きはまるで物見遊山のようであったと非難。その天罰として、導誉の息子も、孫も若くして討ち死にしたとのべる(p409~)。

 尊氏に対しては「朝敵」という言い方はするが、個人的な非難はされない。その代わり、上述の佐々木導誉や、その他の腹心については、例えば「
心を恣(ほしいまま)にせし足利の氏族、高、上杉の党類なれば、能もなく芸もなくして」と手厳しい(p408)。

 本編の終わりは塩冶判官讒死である。『仮名手本忠臣蔵』の題材となったエピソードだ。塩冶判官の美人妻に横恋慕し、それを何とか自分のものにしようとした高師直の讒言により塩冶は滅ぼされる。面白かったのは、師直は吉田兼好に、塩冶の妻宛の恋文を代筆させる。ところが相手はその手紙を読みもしないで捨ててしまう。師直は怒って、兼好を出入り禁止にする。師直の家臣に歌をよくする公義という男がいて、その男に手紙を頼む。手紙には言葉はなくて、歌だけだった。今度は女が読んでくれ、古今集のある歌の一部を口にする。その意味は、心は靡いても、人目がある、というものだった。師直は喜び、公義に金作りの太刀をほうびとして与えた。「
兼好が不運、公義が高運、栄枯一時に地を易(か)へたり。」と太平記は云う(p444)。

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書名 スコットランド 歴史を歩く 著者 髙橋哲雄 No
2015-25
発行所 岩波新書 発行年 2004年  読了年月日 2015-05-27 記入年月日 2015-07-02

 5月27日発6月5日帰国の日程で、イギリスに行った。エジンバラからロンドンまでのバスツアーである。行きに飛行機のなかで、本書は読み終えた。一口でイギリスと言ってもスコットランドとイングランドではほぼ別の国だと言うことを認識した。独立と合併、イングランドへの反発、反乱、宗教をめぐる争い、そうしたスコットランドの歴史が綴られる。こうした歴史を理解しないと、昨年のスコットランド独立可否の国民投票、そして、今年のイギリス総選挙の結果は理解出来ない。国民投票は独立賛成派が事前では有利であったが、実際は否決された。総選挙では、スコットランドが有する59議席の内実に56議席をスコットランド国民党が獲得した。もっとも今の私は、スコットランドの歴史など一読では頭に入らない。登場するおびただしい人物名、出来事、年号など右から左へと頭の中を通り過ぎる。

 本書で印象的だったことは、スコットランドが数々の人物を出したこと。18世紀以降で私でも知っている人物を挙げると、ヒューム、アダム・スミス、ウォルター・スコット、ジェームズ・ワット、リビングストン。グラスゴー市庁舎前の広場には中心の高い塔にスコットの像が建ち、それを取り囲むように何人もの像が建ち、ワットもその一人であった。

 本書から断片的に;
魔女狩り:
魔女狩りは異端審問などと同じく、中世的な現象と思われがちであるが、実は宗教改革の産物であった。カトリックの国で少なく、プロテスタントの国で多発した。
特にスコットランドでは峻烈をきわめ、宗教改革後の1563年から1722年の最後の魔女裁判までに4000人以上が処刑された。これは、改革者ジョン・ノックスがジュネーブから持ち込んだカルヴィニズムが聖書を絶対視する原理主義的な宗派で、聖書に書かれていないことはすべて迷信、異端として排除したからである(p28~)。

 スコットランドでは大聖堂や修道院の廃墟がイングランドよりもずっと多い。これらの破壊は宗教改革に端を発したものであり、スコットランドで無傷のまま宗教改革を切り抜けた大聖堂はグラスゴウだけである。一方イングランドは大聖堂で大きな損傷を受けたところはほとんどなかった。(p32)

 カルヴィン派と音楽:ルター派はカトリックのポリフォニー音楽を認めたが、カルヴィン派はそれを認めなかったどころか、音楽そのものも美しさや遊びを拒んだ。カルヴィンは単旋律、つまり斉唱であるグレゴリオ聖歌まで先祖返りした。ルター派がのちに大バッハをはじめ数々の宗教音楽の名作を生んだのとは対照的に、カルヴィン派は音楽的砂漠に生きつづけた。このようなことは教会の建物、工芸、絵画などにも起こった。カトリック教会の特徴であった、文字よりも視聴覚媒体を通じての教化という方法が根本的に否定され、聖母をはじめ、聖人たちや天使、聖書に登場する人々や悪魔にいたるまで、すべて人間的要素が、偶像崇拝、異端信仰として禁圧されたため、教会は信者の目を楽しませるという点では、殺伐とした場所となった。宗教改革により、スコットランドの教会は「説教用の箱」となった。(p54~)。

 これは行ってみて実感した。イングランドを含めてイギリスにはヘンデル以外にはクラッシック音楽の大家が出ていない背景にはこうした事情があるのかも知れない。逆にクラッシックの伝統がなかったから、ビートルズが生まれたのかも知れない。

キルト:
今日ではスコットランドの伝統的民族衣装とされているが、古代・中世に起源を遡る歴史はない。たかだか、18世紀初めにハイランドの森の作業場で、必要に迫られて生まれた作業衣に過ぎない。(p128)

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書名 イギリス史10講 著者 近藤和彦 No
2015-26
発行所 岩波新書 発行年 2013年 読了年月日 2015-06-19 記入年月日 2015-07-02

 こちらもイギリス旅行に携行したが、ついに開かないで持って帰った。先史時代から現代までの英国通史。考えてみれば、日本以外の国の通史を読むのは初めてだ。塩野七生の『ローマ人の物語』は、ローマ帝国の滅亡で終わっていて、イタリアの通史にはなっていない。

 記述は専門的で、最新の研究が随所に引用される。この年齢では読んでも、細かい出来事や人物、年代など頭に入らない。高校時代の世界史のおぼろげな知識で読み進めた。

 本書から断片的に:
毛織物業:
近世イギリスのおもな輸出品は毛織物である。毛織物業は、関連産業が牧羊業、土地所有、製造業、商業、はては居酒屋まで広くおよび国民の福利に資する「国民的産業」として認知されていた。中略 都市のギルドから離れ、農村工業として成長した毛織物業者に「押しも押されぬ」captains of industry の進取の気象をみたのは、日本のピューリタン大塚久雄の『近代欧州経済史序説』である。この戦中の書は大航海時代の世界史から説きおこして「国民的生産力」と「民富」を論じ、大東亜共栄圏を批判し、敗戦後の日本国民の擬似プロテスタント的な「勤労の精神」を支えるバイブルとなった。(p99)

 イギリスを旅して、一番驚いたのは羊の多さである。

英語:
長い一六世紀の成熟した近世英語は、インスピレーションを刺激し、美しく記憶に残るテキストを国民に提供した。欽定訳聖書とシェイクスピアは、ともに時代をこえる古典となり、これを共有する言語コミュニティがブリテン諸島から広い世界へと拡大するにつれて、近現代のグローバル言語/公共財としての英語の資産となる(p112)。

街並み:
一八世紀にたてなおされたのはロンドンだけではない。「もう一つの首都」ダブリンの議事堂などの公共建築、エディンバラのニュータウン、再興された亜ローマの温泉都市バース、等。美しく均整の取れた建築と街並みは、歴史家のいう「都市ルネサンス」にふさわしく、銅版画の絵図に表象されている。ボストンやフィラデルフィアも、その後塵を拝した(p167)。

 エジンバラとバースの街並みは今回のイギリス旅行の見所の一つであった。

スコットランド啓蒙知性:
一七八〇年代から以後一〇〇年間くらいの近代イギリスを領導するのは、こうしたスコットランド啓蒙的な知性、ベンサムのようなブルジョワ合理主義、そしてプロテスタント福音伝道主義である(p172)。
 スコットランド啓蒙知性の代表としてアダム・スミスと、その「見えざる手による自由放任主義」が挙げられている。

アメリカへの移民:
アメリカへの移民は王権に後援されたものであり、特にジェイムズ王とロンドン市が後援したと述べた後次のように続く:後年には、あたかも絶対王権に迫害されたピューリタンが正しい信仰を守るために生命を賭して荒洋をわたったかのような「巡礼の父祖」の語りが登場するが、それは近代の作られた伝説である(P178)。

産業革命:
産業革命を定義すると、「なんらかの結果として」一八世紀後半に始まった生産力の革新にともなう世界経済の再編である。と述べたあとで、以下のように記す:
 産業革命とはその前に、年来の貿易赤字の解決であり、科学革命、啓蒙、消費社会の所産、すなわち舶来品に代替する模造商品の勝利である。中略 これはまた世界史におけるアジアとヨーロッパの関係の逆転/分岐であり、国民経済のあいだの競争、国家と民族の支配と抵抗といった近代史の問題群の始まりである。
 産業革命については年来、ニューコメンとウォットの蒸気機関、ジェニ紡績機、アークライトの紡績機、カートライトの力織機といった一連の発明と改良が語り伝えられてきた。しかし、はたして発明家は進取の気象のおもむくまま新技術を開発し、やみくもに新製品をつくり、在庫を増やしたのだろうか。必要は発明の母。母がなければ子はない。必要があったからこそ、発明家は改良を重ねても、在庫の山につぶされなかったのだ。一八世紀の商業文明、旺盛な需要と恒常的な貿易赤字こそ、発明の母である。一八世紀からの人口増も、これに加わった。生産力、供給だけから歴史を説明することはできない
(p186~)。

 そもそも近世のアジアは、ヨーロッパよりも豊で成熟した政治・経済・文化を営んでいた。南蛮人も紅毛人もそこに不器用な遅参者として割りこみ、参入を許されたのである。東西の力関係が逆転するのは一八世紀のある時点である。(p192)

 産業革命は、一八〇〇年前後の第二のグローバル化の契機とみて、初めて歴史的に理解されるであろう。第一のグローバル化にもまして、第二のグローバル化は東西の歴史をゆっくり不可逆に転換する。イギリスは資本主義の世界システムの中枢をなし、以後の世界史はイギリスの世界秩序(パクス・ブリタニカ)とその関係史として展開する(p193)。

 
近代世界史は、イギリス資本主義によるグローバルな支配、それにたいする対抗ないしは従属の歴史である(p197)。と述べた後、同じページで以下のように述べる:一八二五(文政八)年に幕府の発した「異国船打払令」にもかかわらず、じつは五八年の修好通商条約より四〇年以上前から、日本列島はイギリス資本主義の世界システムと交接して、毎年その戦略商品・捺染綿布(サラサ)を注文輸入していたのであった。中略 「従属群」ではなく「対抗群」の国民国家としての延命が、幕末明治人の宿題となるであろう。

スポーツルール:
近代スポーツのルールはほとんど一八六〇―一八七〇年代にイギリスで確立し、それが以後、国際ルールとなった。これは偶然ではない。近代世界のなにごとについても、一定の経験的合理性をもつルールが初期設定されたなら、それがデフォルト値すなわち規定規約となる。世界システムの中枢で初期設定されたゲームのルールが普遍性をもちグローバル化するのは、主権国家間の戦争と平和のルールから今日のIT基準にいたるまで必至である(p234)。

タイタニック号:女子供優先で救命ボートに誘導されたというが、救命ボートには女子供の乗客の数の2倍以上の収容力があった。にもかかわらず、多数の死者を出したが、1等船客では3.3%、2等船客では11%、3等船客では58%船客が犠牲になり「
犠牲の階級差は歴然である」と述べる(p256)。

サッチャー:イギリス史上初の女性首相であるばかりではなく、300年の歴史を振り返っても、10年以上その任にあったのは8名のみ。「
彼女はディズレーリより、ロイド=ジョージより、チャーチルより強い首相であった。彼女の強さを支えたのは、健康と努力と信仰と良人デニスである。」(p294)

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書名 林檎の樹 著者 ゴールズワージー、 渡辺万里 訳 No
2015-27
発行所 新潮文庫 発行年 昭和28年 読了年月日 2015-06-23 記入年月日 2015-07-02

「The apple tree」。高校3年の時の英語サブリーダーだった。農園で働く純朴な17歳の田舎娘ミーガンと大学生アッシャーストとの悲しい恋の物語。原書を最後まで読み通したかどうかは不明。翻訳を読んだ記憶はない。アッシャーストの名前はもう忘れてしまったが、私達と同年齢であったミーガンに魅了されたのと、美しいイギリスの田園風景という心象は今も私の記憶に残っている。クラスで作った雑誌に「将来ミーガンのような少女の愛に触れたい」と書いたクラスメートもいた。ロンドンには仕事で2回行ったが、それ以外のイギリスには行ったことがない。「The apple tree」を読んで以来、ずっと抱いていたイギリスの田園を見たいという願望が、今回のイギリスツアーへ行く気になった最大の理由だ。

 エジンバラからロンドンまでをバスで下るツアーだった。6月初めのイギリスは、なだらかに波打つ緑の放牧地がどこまでも続き、エニシダの黄色い花が彩りを添え、無数の羊がいたるところに草を食んでいた。所々に点在する家の庭には、よく手入れされた色とりどりの花が植えられていた。

 旅行に携行したのは歴史の本で、本書は持っていかなかった。

 アッシャーストは大学を終えた年の5月、友人と二人でイングランド南西部のデボンシャーへ徒歩旅行に出かける。途中で足を痛めたアッシャーストは、農家に泊めてもらい足の回復を図る。農家はミーガンの叔母経営していて、ミーガンの他に従兄弟が3人いる。アッシャーストは一目でこの田舎娘に引かれる。彼女は細々とした家事を一手に引き受けて、1日中働いている。アッシャーストの友人は、帰って行ったが、アッシャーストはしばらく農園にとどまる。短時日の間に若い二人は恋に陥る。果樹園の林檎の木の下で、夜二人は固く抱き合い接吻を交わす。そして、アッシャーストは、次の夜、ミーガンを連れて駆け落ちすることをミーガンに告げる。

 次の日、近くの町に金を下ろしに行ったアッシャーストは、そこで中学時代の友人ハリデイとばったり会う。ハリデイに誘われて彼の泊まっているホテルでアッシャーストは昼食をともにする。ハリデイは妹二人を連れて優雅に休暇を楽しんでいたのだ。アッシャーストはハリデイに誘われるままに、午後海岸に泳ぎに行き、妹たちに引き留められ、ついにその夜はミーガンとの約束を反故にして、そのホテルに泊まってしまう。そうして、ずるずると彼はハリデイ一家と日を過ごしてしまい、ついにそのままロンドンに帰ってしまう。

 物語は、アッシャーストが銀婚式の記念として、妻と二人の出会いの地であるデボンシャー地方を訪れ、25年前を回想するかたちで始まる。アッシャーストに寄り添う妻は、ハリデイの妹、ステラである。とある十字路にある盛り土にアッシャーストは気がつく。キリスト教の風習として、自殺者は墓地ではなく、十字路に埋められる。通りかかった老人に盛り土の由来を聞く。それはミーガンの墓であった。老人は農園で働いていたジムであった。

 一種の青春残虐物語。瞬時に燃えあがった情熱的な恋だが、その恋も階級の差を超えることは出来なかった。男の心変わりを非難することは出来よう。だが、青春とはそうしたものであり、また、ロンドンに出て、弁護士夫人としてまったく別の生活を送ることがミーガンにとって幸せだったとも思えない。

 ゴールズワージーの描くイギリスの田園は美しく詩的だ。

 原書は1916年作。ゴールズワージーは1932年にノーベル文学賞を受賞。


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書名 アウシュヴィッツ収容所 著者 ルドルフ・ヘス、 片岡啓治 訳 No
2015-28
発行所 講談社学術文庫 発行年 1999年 読了年月日 2015-07-11 記入年月日 2015-07-17

 春先に本屋で目について買った。江戸後期ものばかり読んでいたので毛色の変わったものも読んでみたいと思ったから。何百万人もの人々を殺害した収容所の最高責任者が、自ら綴った手記。どんな人物があのようなことを平然と行えたのか、あるいは、良心の呵責を感じながら行ったのか、あるいはごく普通の人間でも組織の歯車に組み込まれてしまうと、それを拒否できないのか、といった疑問にある程度の答が得られるだろうと思った。

 手記はヘスがワルシャワでの裁判で死刑判決を受けて、処刑されるまでの間に書かれた。冒頭の長い序文で、ミュンヘン現代史研究所長のマルティーン。ブローシャートという人は、この手記はでは、すべて自発的なもので、強制や他人による編集の手は入っていないという。さらに以下のように言う:
それは日々ユダヤ人虐殺を演出していた男のポートレートというよりは、とにかくすべてに平均的で、まったく悪意はなく、反対に秩序を好み、責任感があり、動物を愛し、自然に愛着を持ち、それなりに「内面的な」天分があり、それどころか「道徳的にまったく非難の余地のない」一人の人間の姿を明らかにするものである。(p33)。

 ヘスの父は商人で熱心なカトリック信者。父はヘスに聖職者の道を強く希望したが、ヘスにはその気はまったくなかった。彼の関心は農業であったが、第一次大戦勃発伴い、自ら志願して兵士になる。ここら辺りの記述を読み進めていくと、序文での上の文章がもっともだと思われた。ところが、その先、大戦末期から戦後にかけて起こったドイツ革命運動に、反革命軍として参加したヘスの記述を読んでいて、何かあいまいな記述があった。ヘスが殺人容疑で起訴されるところだ。ヘスに言わせれば、裏切り者に対する当然の殺人であった。注を読んでみると、ナチの党員で当時反仏破壊工作に従事していた人物が密告によりフランス側に捕まった。その密告者として、ある教員がヘスらによりとらえられ惨殺される。注によればこの教員が密告者であったという証拠は今もってないという。ヘスは、この件で禁固10年の判決を受ける。実際は6年で釈放される。問題はヘスはこの殺人を当然のこととして、それに対する罪悪感も反省もまったくしていないことだ。この部分を読んで、ヘスという人物は、上に言うようなごくありふれた人物ではないと思った。彼を突き動かしたのはナチズムに対する狂信的な信仰であった。私はアウシュビッツの大量虐殺も彼はなんら良心の呵責もなく行ったのではないかと思う。

 訳者片岡啓治は以下のように言う:
そのナチス・ドイツは、単に暴力的強制によってだけではなく、まさにヘスであるような無名の普通人たちの自発的な参加、行動がなければ、成りたちもせず、存続することも出来なかった。(p7)。私はこちらが本当だろうと思う。

 それにしても、収容所での大虐殺を述べた部分は、戦慄を覚える。
 例えば:
ガス殺人と焼却で二四時間内に達成された最高数は、一九四四年夏、ハンガリー作戦中のことで、第Ⅲ火葬場を除く全施設により、九〇〇〇人以上にのぼった(p396)。
 何が一番効率的な殺害方法か、火葬の効率をどうやったら上げられるか、彼らの苦心の検討が述べられる。

 ユダヤ人虐殺についてヘスは以下のように記す:
また現在、私は、ユダヤ人虐殺は誤り、全くの誤りだったと考える。まさにこの大虐殺によって、ドイツは、全世界の憎しみを招くことになった。それは、反ユダヤ主義に何の利益にもならなぬどころか、逆に、ユダヤ人はそれで彼らの究極目標により近づくことになってしまった。(p368)

 少し前に、神戸の少年の猟奇的殺人の犯人で、当時少年だった男性が、自己の生い立ちと犯行を語った手記を出した。被害者の遺族は、遺族の感情を逆撫でするものだと抗議し出版社に出版の差し止めを要求した。また、つい最近は、自民党に犯罪者によるこうした出版を差し止める法律の制定を陳情した。ネットでいくつか見たが、この出版に対しては賛否両論があるようだ。肯定的な意見は専門家側から出されている。この本の中身は見ていないが、私は出しても良いと思う。

 もう一つ本書と関連したニュースが、昨日の朝のNHKニュースで流れた。アウシュビッツ強制収容所に勤め、殺人ほう助の罪に問われた元ナチス親衛隊の94歳の被告に対する裁判で、ドイツの裁判所は「被告は大量虐殺の歯車の1つで罪を逃れることはできない」として禁錮4年の判決を言い渡したという。

 自らの過ちを執拗に追求するドイツをすごいと思った。歴史を直視すると言うことはこういうことだ。これは決して自虐などと呼べるものではない。ドイツがEUの中心としてヨーロッパを引っ張っていけるのは、こうした真摯な努力あってのことだろう。

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書名 ゆっくり行こう 著者 有馬朗人 No
2015-29
発行所 ふらんす堂文庫 発行年 2015-06 読了年月日 2015-07-13 記入年月日 2015-07-17

 
7月11日に、帝国ホテルで俳句結社天為の25周年記念および『天為』300号記念祝賀会があった。その時の引き出物のなかに中村屋の月餅とともに本書が入っていた。天為の主宰有馬朗人の軽いエッセイ集。発刊は今年の6月だが、中身は1999年1月から毎月一遍ずつ2年間に渡って書かれた24編。当時著者は文部大臣の職にもあり、多忙ななかでの執筆である。日本のみならす世界各地に飛んで行っているので、旅に関するものや、文部大臣としての仕事などにも触れられているが、中心はやはり俳句のこと。15年前だから、著者は70歳。古希という年齢の節目で、老いることへのかすかな不安、後世に名が残るとはどういうことか、あるいは生涯の一句への執着などが垣間見られる。大きな結社の主宰であり、俳人として名をなしている有馬朗人にしては意外な感じがしたが、そこらにごまんといる俳人と違って、一家をなしているからこそ、後世での評価が気になるのかも知れない。

「宗匠俳句」のなかでは、明治大正の俳諧史をざっと見て、今ではまったく無名となった俳人のことを論じる。「宗匠俳句」の最後は以下のように結ばれる:
今日も多くの俳句が発表され、句集が出版される。そして、歳時記や選集が編集され、印刷される。その中でどれだけの俳句が後世に残るであろうか。一句でもよい、佳句を作りたいと思っている。

 有馬朗人主宰は日頃自分は120歳まで元気に生きると公言しているという。祝賀会の来賓挨拶で、俳人の宮坂静生は「有馬先生は最近5歳伸ばして125歳まで元気でいるとおっしゃっている」と述べた。

 著者は片時も句帖を離さず、思いつくままに覚え書きを書き込んでいるという。そして、瞬時に作った俳句として以下の句を挙げている。

水中花誰か死ぬかもしれぬ夜も
草餅を焼く天平の色に焼く
光堂より一筋の雪解水


 いずれも名句と言っていい。特に最初の句は私の知る有馬朗人の句とは思えない。

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書名 水の城 著者 風野真知雄 No
2015-30
発行所 祥伝社文庫 発行年 平成20年 読了年月日 2015-07-15 記入年月日 2015-07-17

 
埼玉県行田市には古墳や古代蓮の咲く池などがあり、オリーブ句会の吟行に一度行ってみたいと思っていた。そのことを口にしたら、句仲間の宮川陽子さんが、行く前に是非『のぼうの城』という本を読んで行くとよいと言う。初めて聞く本の名前で、しかも「のぼう」はひらがなだという。アマゾンで調べたら、数年前のベストセラーで、書評もたくさん載っていた。アマゾンが同時に勧めていたのが本書で、『のぼうの城』と同じ題材を扱った小説だという。2冊同時に注文したが、『水の城』は新刊で、すぐに届いたので、こちらを先に読んだ。

 秀吉の小田原攻めに伴って、北条の支城であった行田にある忍城をめぐる攻防戦を扱ったもの。攻めるのは総大将石田三成のもとに大谷吉継、長束正家らが結集し最後には他の軍勢も加わり5万にふくれあがった秀吉軍。守るのは成田長親がにわかに城代になった籠城軍の3000人。毛利攻めの高松城攻防にならい、三成は水攻めを試みる。だが、その堤防も破れ、深い田圃や、沼に守られた忍城は1ヶ月余の籠城でも落ちなかった。その間に小田原城は開城し、結局北条の支城で落城しなかったのは忍城だけであった。

 ほんわかとした楽しい戦国ものだ。それはひとえに忍城の城代長親の人柄による。とらえどころのない人物で、野良仕事が好きで暇さえあれば、百姓の手伝いをしている。長親の父は先代城主の弟泰季。現城主成田氏長の叔父である。氏長は北条氏の命令で、500騎を引き連れて小田原城に入城する。代わって城代になったのが泰季。だが、泰季は城が包囲された直後病死する。そして後を継いだのが長親であった。城内で亡くなった泰季の最期を看取ったのは、氏長の妻である菊一人。臨終に際し泰季は後継者として、息子ではなく侍大将で歴戦の正木丹後を指名するが、菊は長親が指名されたと偽る。部下に新しい城代の誕生が告げられ、菊から力強いご挨拶を一言と求められた長親は「ま、やるだけやって、あとは野となれじゃ」とだけ言って挨拶を終える。攻めてきたら守るために戦う。それ以上のことは考える必要がない。だから勇ましい言葉など必要ではない。「やるだけやって、あとは野となれ」といったそっけない言葉が、粘り腰で、強靱で、くじけることにない闘志をもたらすのではないか、と長親は思ったと本書は言う(p138)。

 小田原開城に次いで忍城も開城。成田氏長初め、成田長親らはそれぞれ生きながらえる。氏長の娘、甲斐姫は大阪城に行き、21歳年下の秀頼との間に娘をもうけ、その娘は大阪落城後東慶寺に預けられ、後に東慶寺中興の祖となった。天秀尼がその人だと本書は言う。秀吉軍が忍城を包囲したその夜、じゃじゃ馬娘で大変な美女とされた17歳の甲斐姫は、長親の寝所に忍び込み、一夜をともにする。そんなエピソードも盛られている。

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書名 のぼうの城 著者 和田竜 No
2015-31
発行所 小学館 発行年 2007年 読了年月日 2015-07-16 記入年月日 2015-07-17

 本書の名前を聞いたとき、さっぱり意味がわからなかった。「のぼう」とは「でくのぼう」の略であった。忍城の城代となった成田長親のことを百姓初め領民がそう呼んでいたという。本書はアマゾンの古本で価格は1円、送料が257円。古本とは言え、帯もついていて、新品と言われてもわからない。アマゾンで本書の中古は1円というものがたくさん出ていた。どうして1円で商売になるのか不思議だ。

 こちらの方が『水の城』よりも、当時の史実に忠実であろうとしている。そのためか、ストーリー展開がもたつく。文章も『水の城』の方が、数段上で、軽快だ。

 ストーリーとして『水の城』と大きく違う点は、三成の築いた堤防が、忍城から逃げていた百姓らにより決壊されたとしていること。もう一つは、成田氏長は小田原に入城する前から、秀吉に寝返ることを約束していたとしている点。『水の城』では堤防の決壊は、工事に紛れ込んだ忍城側の人足が、水が張られたらその圧力で決壊するように細工したためとされる。秀吉への内通は、氏長が連歌仲間の秀吉の右筆を通じて行ったという点では同じだが、『水の城』では、氏長が小田原入城後に行ったとしている。この点については『水の城』の方が、その後の展開を考えるともっとものように思われる。

 野良仕事が大好きで百姓を手伝いたがるのぼうさまではあるが、田植えをやらせればその後をもう一度植え直さねばならぬほど不器用だ。戦の仕方も知らないのぼうさまが10倍もの秀吉軍を相手についに落城しなかったのは、彼に対する部下、領民の人望・人気であったとするのは、『水の城』でも同じ。

 本書は映画化された。本書のクライマックスはのぼうさまが、単身船に乗り、三成の眼前で田楽を舞うところだ。三成はそののぼうを撃ち、負傷させる。そのことにより籠城軍の士気は一段と上がる。このシーンを読んでいて、どこかで目にしたような気がした。テレビで放映しているのをチラッと見たのだ。その時は、てっきり高松城攻めのシーンだと思い、そんな史実があったかなと、不思議に思った。

 本書のもう一人の主人公は石田三成。のぼうさまと三成の正反対の人物像の対比が類型的とは言え、面白い。秀吉軍の三将、三成、大谷吉継、長束正家の描きわけも面白い。あるいは吉継の目を通して三成と正家の人物を描いているともいえる。典型的な戦国武将としての吉継に対しては温かい書き方だ。一方、典型的な官僚タイプの長束正家には極めて厳しい見方をしている。館林城をあっという間に落とし、ついで忍城を囲んだ秀吉軍からは、正家が降伏勧告の使者として城に乗り込む。家臣団は開城に傾いていたのに、最後に城代ののぼうさまが戦うことをきっぱりと宣言する。それは田舎ものを見下したような正家の傲慢な態度と、最後に城主の娘、甲斐姫を秀吉の側女として差し出せと要求したからだった。かくして戦国史上でも特異な戦が始まる。天正18年、1590年である。10年後、関ヶ原合戦で三成、吉継、正家はそれぞれ滅ぶ。

 それにしても、「忍」いう地名はよく言ったものだ。大軍を持ちこたえたのは「忍」という名前にもよるかも知れないなどと思ってしまう。


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書名 春色梅兒譽美 著者 為永春水 作、吉川久 校訂 No
2015-32
発行所 岩波文庫 発行年 昭和26年 読了年月日 2015-07-23 記入年月日 2015-08-07

 
たまたま山口仲美著『日本語の古典』をめくっていたら、『古事記』から始まる読むべき古典30冊の最後に本書があった。本書の二つ前が『蘭学事始』で、さらにその前が『東海道中膝栗毛』であった。この二つは読んでいるので、ついでに本書も読んでみようと思った。確か坪内逍遙も若いころ読みふけったと『小説神髄』に書いてあったと思う。山口仲美は本書を「心を揺さぶるエロチシズム」としている。

 岩波文庫昭和26年版(昭和49年第7刷)の古本をアマゾン経由で入手。岩波文庫版は『梅暦』という表題で、上下2巻、800ページを超える。『春色梅兒譽美』はその最初のもので,これが評判がよかったので,以下続編として『春色辰巳園』など合計で5編が刊行され,すべてが岩波文庫に収められている。

『春色梅兒譽美』は丹二郎と芸者米八、許嫁蝶、花魁此糸との恋愛物語。丹二郎は遊郭唐琴屋に養子で迎えられるが、番頭の悪巧みに会い、金銭上のトラブルに巻き込まれ、ひっそりと隠れ家に暮らしている。丹二郎は年の頃18、9と設定されている。そこへ恋人で唐琴屋のお抱え芸者、米八が訪ねてくるところから物語は始まる。かいがいしく看病する米八。寝床に坐った丹二郎の乱れた髪を梳き直す米八。いつしか二人の感情は高まって行く。落ちぶれた丹二郎の境遇に深く同情する米八を:
主「かわいそふに、ト だきよせれば、よね八はあどけなく病にんのひざへよりそひ、顔をみて、よね「真に嬉しひヨ。どふぞ、主「どふぞとは、よね「かうしていつ迄も居たひねへ、ト いへば男もつくづくと見れば、思へばうつくしきすがたにうつかり、主「アアじれッてへのふ、ト ひつたり寄添。よね「アアレアアレくすぐッたいョ。主「ホイ堪忍しな、ト 横に倒れる。此(この)ときはるかに観世音の巳(よつ)の鐘ボヲンボヲン。

 ここで「主」とは丹二郎。ちなみに巳の刻とは今の朝10時である。いきなりの濡れ場。しかし、描写はこれ以上進まない。こんな濡れ場が随所に出てくるのかと期待半分で読み進めたが、そうではなかった。後は、15歳の許嫁、蝶と丹二郎の濡れ場だけ。

 三人の女が、さや当てはあっても献身的に丹二郎のために尽くす。なぜ彼がそんなにもてるのかさっぱりわからない。女はよく描かれているのに、男の人物像がぼやけている。
 最後に丹二郎は由緒ある家の跡取りであることが判明し、蝶は正妻に、米八は妾におさまり、此糸も武家の家に身請けされる。めでたしめでたしの一巻。

 為永春水はいわゆる人情本の創始者。その著作が風紀を乱すと言う理由で、天保の改革に際し、手鎖の刑に処せられる。それが原因で失意のうちになくなったという。本書の途中には春水の「遊人 櫻川善考」なる人物の本書推薦の言葉が入っている:
巻中の婦女艶容戀情を旨とし、更に教訓をするにたらずと、そしれる人もあるよしなれど、道にそむきし淫婦はしるさず、いづれも浮薄(うわき)を表とし、心に操を守事銕石(まもることてっせき)のごときのみ。よくあぢはいてよむときは、をしえの端となることあらむ・・・(p139)

 蝶などは、丹二郎のために自らの身体を売って金の工面をしようとする。花柳界に生きる女達の意気地が描かれている。

 本書の冒頭の解説には「
現代の寫實的風俗小説を導き出す源泉ともなった點で、文学史上逸し難い意義を有する。」とある。

 江戸時代もここまで下がると、すらすらとは行かなくても読み進むのにそれほどの困難はない。

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書名 ト音記号 著者 中野博夫 No
2015-33
発行所 喜怒哀楽書房 発行年 平成25年4月 読了年月日 2015-07-24 記入年月日 2015-08-05

 中野さんは『天為』の会員。1年前に私が初めて『天為』の東京例会に参加した際、句会仲間の宮川陽子さんから紹介された。本書も陽子さんが私に貸してくれた。

 中野さんは私より10歳若い俳人。大手企業の研究職であったという経歴を持つ。『天為』の他の会員達に比べて、句歴は浅いが、本書が句集第二弾という。『天為』のみならず『銀化』という結社にも属する。その他新聞などにも積極的に投句しているという。先日、『天為』25周年記念祝賀会でテーブルが同じだったので、話す機会があった。東京新聞俳句欄の今年の5月の月間最優秀句に選ばれたという。

 本書の題は「ト音記号の先は海かも冬かもめ」という自句から採った。特に自句が音楽性があるとかいう意味ではなく、この第二句集を「ト音記号」という楽譜の入口に立った段階と位置づけるという。

 本書の特徴は、著名な俳人による講評と自句解説が、かなり掲載されていること。それだけ広く投句し、選に選ばれている。たいしたものだ。

 全体として、対象に素直に向かい、平明に詠んだ句が多い。
以下、目についた句を挙げる:

吾に触れ誰に触るるや春の風
有り難し抜けるほどある木の葉髪
六十路越えなほ薄氷破りたし
藤の香の音なき滝に打たれけり
城壁の歳月縫うて草萌ゆる
紅梅の噴き出す枝の痛みかな
垂涎の的となりつつ春眠す
水面なる空へ挿しゆく田植かな
夢七つ背負うて老いる天道虫
秋刀魚焼く海の光を焦がすまで
縦割りの世を横割りに西瓜食ふ
時のほか待つものはなし秋の蜘蛛

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書名 つゆのあとさき 著者 永井荷風 No
2015-34
発行所 青空文庫 発行年 読了年月日 2015-07-25 記入年月日 2015-08-07

 7月のエッセイ教室の課題が梅雨であった。荷風に「つゆのあとさき」という作品があることを思い出した。かつて読んだような気がして、本棚を探したがなかった。青空文庫にあったのでダウンロードして読んだ。

 昭和6年作。銀座のカフェー「ドンフワン」の女給君江の5月初めから7月の梅雨明けまでの男関係を描いたもの。カフェーとは今ではキャバレーのようなところ。ちなみに「女給」は私の使う日本語変換ソフトATOKでは一発で変換できない。差別用語として排除されているのだろうか。

 君江の人物像を以下のように荷風は記す:
十七の秋家を出て東京に来てから、この四年間に肌をふれた男の数は何人だか知れないほどであるが、君江は今以って小説などで見るような恋愛を要求したことがない。従って嫉妬という感情をもまだ経験した事がないのである。君江は一人の男に深く思込まれて、それがために怒られたり恨まれたりして、面倒な葛藤を生じたり、または金を貰ったために束縛を受けたりするよりも、むしろ相手の老弱美醜を問わず、その場かぎりの気ままな戯れを恣にした方が後くされがなくて好いと思っている。十七の暮から二十になる今日が日まで、いつもいつも君江はこの戯れのいそがしさにのみ追われて、深刻な恋愛の真情がどんなものかしみじみ考えて見る暇がない。

 漱石や鴎外の小説には絶対に現れない人物だ。カフェーで知り合った客と待合に行き、枕を共にする。君江は言わば私娼である。彼女は清岡という作家の二号的な存在である。しかし、清岡は君江が六〇過ぎの老人と戯れる現場を垣間見て、嫉妬心にかられ、復讐を誓う。君江と違い清岡は君江との関係に恋愛感情を持ち込む。このあたりの女と男の違いが面白い。清岡は嫌がらせに赤新聞に、君江の内股には黒子があり、それは淫乱な女の証拠だというゴシップ記事を載せさせる。

 清岡の妻鶴子は軍人の妻であったが、軽井沢で知り合った清岡と不倫の仲になり、婚家から離縁される。清岡と鶴子の間は、最初の情熱が冷めると急速に冷え込み、清岡は女優や君江に入れ込む。そんな清岡を見限って鶴子は単身フランスに渡る。平静を装う清岡もさすがに内心は寂しい。ある夜君江の下宿を訪れ、帰りを待つ。君江はその日、三人もの客の相手をして、なかなか帰れない。深夜、三番町の待合で清岡と落ち合う事を電話で伝える。その待合には舞踊家の木村が車で送っていく。木村は君江が清岡と落ち合うと言うことを知り、そのまま帰る。その後にやってきたのが、矢田という自動車輸入商会の店主。君江と一夜を過ごしたこの待合あたりに今宵君江が来ているだろうと、乗り込んできたのだ。待っていた清岡は来なかった。君江は矢田と一夜を過ごす。翌日、昼まで寝ている君江の所に木村が忘れ物をしたと言って取りの来る。君江は木村を布団の仲で迎える。

 ある晩、乗った円タクから君江は振り落とされる。清岡が仕組んだ仕返しだ。それがもとでしばらく寝込んだ君江が、回復したときには梅雨が明けていた。久しぶりに散歩に出かけた君江は、埼玉県の実家に戻ろうかと思う。しかし、そこでかつて世話になった川島に会う。川島は使い込みがばれて、刑を受け出獄したばかりであった。いつの間にか君江は川島を下宿に誘い込んでいた。二人で何本ものビールを飲み、一夜明けて君江が目をさますと、枕元に川島の遺書が残されていた。

 久しぶりに会った君江は川島の目には以下のように映った:
 
川島はわずか二年見ぬ間に変れば変るものだと思うと、じっと見詰めた目をそむける暇がない。その時分にはいくら淫奔《いんぽん》だといってもまだ肩や腰のあたりのどこやらに生娘らしい様子が残っていたのが、今では頬から頤へかけて面長の横顔がすっかり垢抜けして、肩と頸筋とはかえってその時分より弱々しく、しなやかに見えながら、開けた浴衣の胸から坐った腿のあたりの肉づきはあくまで豊艶《ゆたか》になって、全身の姿の何処ということなく、正業の女には見られない妖冶《ようや》な趣が目につくようになった。この趣は譬えば茶の湯の師匠には平生の挙動にもおのずから常人と異ったところが見え、剣客の身体には如何にくつろいでいる時にも隙がないのと同じようなものであろう。女の方では別に誘う気がなくても、男の心がおのずと乱れて誘い出されて来るのである。

 こんな描写も荷風ならではだ。
 文章がうまいと思う。路面電車、円タク、待合、カフェー、女給などの昭和初期の東京の風俗や、君江が住む市谷から神楽坂、麹町、牛込、堀端、銀座界隈などの情景を知る上でも興味深い作品。

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書名 家族という病 著者 下重暁子 No
2015-35
発行所 幻冬舎新書 発行年 2015年3月 読了年月日 2015-08-09 記入年月日 2015-09-26

 
この春から夏にかけてのベストセラー。新聞にも大きく広告されたし、テレビでも何回か取り上げられたという。下重さんは題が良かったという。帯には「家族ほど、しんどいものはない。実は一番理解しがたい存在である。」とある。世間の通念を逆なでするような題と帯だが、ベストセラーになったからには家族を絆としてではなく重荷・束縛と感じている人が多いのだろう。

 中身は下重暁子のエッセイ教室でも折に触れて述べられていることで、私にとっては特に目新しいことではない。家族の中でも各人は自立した生き方をすべきである。孤独を恐れるな、死ぬときは独りだと。

 過激とも思える家族観は著者の育った家庭環境が色濃く投影されている。軍人の父への今も続く反発、母は再婚で、連れ子の兄がいる。自身は結婚しているが子供はいない。そして、著者夫妻は見事に自立した夫婦関係である。

 本書を読んでエッセイ教室に入ってきた人もいる。その受講生は家族のことを書きたくて入ったという。数回続けて家族内の葛藤を書いてきた。私にはそれらの作品は、肉親に対する恨み言を重ねたものであるとしか思えなかった。書いた本人はそれがカタリシスとして作用するのだろうが、聞くものにとっては耐えられなかった。このような作品もあるけれど、家族の絆、家族愛、亡き妻や夫への思いなどはこのエッセイ教室の主要な題材であり、下重さんもそうした作品を表面上、嫌がることはない。私はこの教室で今までに200編以上の作品を書いてきたが、自分の家族のことを書いたのは5編あるかどうかだ。

 エッセイ教室の受講生間でも本書の主張には賛否両論がある。否定的な見方は年配の女性に多い。私はどちらかと言えば、著者の家族観に近い。父母に対しても子供に対してもドライであり、親戚からは時として冷たいととられた。

 読後1ヶ月以上経って、この記録を書いているが、今朝はNHKの朝ドラ「希」の最終回だった。ヒロインの失踪していた父も帰ってきて、皆で家族のありがたさ、大切さを噛みしめ、目出度し目出度しで終わった。そんな家族は夢物語のきれい事だと本書なら言う。

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書名 弁天小僧 著者 黙阿弥 No
2015-36
発行所 岩波文庫 発行年 1928年 読了年月日 2015-08-20 記入年月日 2015-09-27

 かなり前だが、歌舞伎座で「白波五人男」のさわりの部分を見たことがある。五人男が勢揃いして名乗り、見得を切る場面と、今は亡き中村勘三郎が扮する辨天小僧が屋根の上で捕り方相手に大立ち回りするシーンだ。近代演劇やシェークスピア劇のような深い人間洞察はないが、きらびやかな衣裳、大げさな表情とアクション、歌舞伎とは楽しいものだと思った。

 本書はその原作。岩波文庫のリクエスト復刻版。黙阿弥は明治の人かと思ったが、本書は明治になる前に書かれ、上演された。初めて知る全編のストーリーは込み入っている。

 発端は小山家の千寿姫が亡き許嫁信田小太郎の追善の為に、鎌倉の長谷寺に参詣し、胡蝶の香合を納め、さらに100両を供える。その際死んだはずの小太郎が現れ香合を預かる。小太郎は実は辨天小僧菊之介という悪党が成り代わっていたのであった。この香合と100両をめぐって、信田家の家臣や盗賊日本駄右衛門の子分、小太郎の奴などが争う。

 辨天小僧は武家の娘に変装し、鎌倉の呉服屋、濱松屋にやってくる。万引きの振りをし咎められたのを逆手にとって、強請る腹づもりだ。だがその企ては、同じく客を装って来ていた日本駄右衛門に見破られてしまう。駄右衛門も実は強請に来ていたのだ。そんなごたごたの中で、浜松屋の主人は実は辨天小僧の実の父であり、また浜松屋の息子は実は駄右衛門の実の子であることが判明する。しかし、辨天小僧は悪事から抜け出せないことを嘆きつつ、父とは別れる。

 五人の悪党共はついに捕り方に追い詰められる。彼らは堂々と名乗り、捕り方と戦いその場はそれぞれ逃れる。辨天小僧は追っ手に追われ、極楽寺の屋根の上で、立腹を切って自害する。

 駄右衛門は辨天小僧が死んだことを知り、捕り方の縄についたところで終わる。歌舞伎では、捕り方の藤綱が駄右衛門の潔さに感心して、逃がしてやることになっているようだ。

 ストーリーは荒唐無稽だが、七五調が快い。今でも耳にする名台詞の幾つか:
 濱松屋で辨天の正体が見破られ、駄左右衛門が「定めて名のある者であろうな」と問われた辨天の科白:「
知らざあ言つて聞かせやせう、浜の真砂と五右衛門が歌に残せし盗人の種は盡ざる七里ヶ浜、その白浜の夜働き・・・・」と自分の生い立ちが述べられる。(p101~)。

 ついで、捕り方に追い詰められた五人の見得(p129~)。
駄右衛門:「
問はれて名乗るもをこがましいが、産れは遠州濱松在十四の年から親に放れ、身に生業も白浪の沖を越えたる夜働き、盗みはすれど非道はせず、人に情けを掛川から金谷をかけて宿々で、義賊と噂高札に・・・・
 次いで辨天、忠信、十三と続き、最後は南郷力丸:「
扨てどんじりに控へしは、潮風荒き小ゆるぎの磯馴の松の曲りなり、人となつたる濱育ち、仁義の道も白川の夜船へ乗込む船盗人、・・・・悪事千里といふからはどうでしまひは木の空と覚悟は豫て鴫立澤、然し哀れは身に知らぬ念佛嫌えな南郷力丸」。最後は西行の「鴫立沢の秋の夕暮れ」を引いている。

 濱松屋を出ていく辨天と力丸に、濱松屋の奉公人が「をと々ひ来い」と悪態をつく場面もある(p107)。「おととい来い」は私の若いころにはよく耳にした言い回しだ。

 勧善懲悪という主張はない。悪のエネルギーの充満する物語。幕末という時代背景と関係あるのだろう。

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書名 好色一代男 著者 吉井勇 訳 No
2015-37
発行所 岩波現代文庫 発行年 2015年8月 読了年月日 2015-08-31 記入年月日 2015-09-27

 
岩波文庫版原文の『好色一代男』を読み始めたが、40ページほどでギブアップ。文章がポンポン途切れ、また当時の風俗などなじみのない用語がたくさん出て、僅かな脚注だけでは理解が困難だった。同じ西鶴の『好色5人女』はすらすらと読めたが、あれは概要と現代語訳が載っていて、先ず概要、次いで原文、最後に現代語訳と読んだから楽に読めたのだ。

 タイミング良く、吉井勇の現代語訳が刊行された。こうした古文の現代語訳は、原典より訳者の作品と考えるべきだと、特に『源氏物語』などでは言われる。本書もその類。吉井勇の『好色一代男』である。現代語訳と言っても、特に当時の服装の記述などは読んでいても見当が付かない。細かい服装の描写が至るところに出てくるのは、『好色五人女』と同じだ。

 主人公世之介は父夢介が島原の遊女に生ませた男である。7歳の時に女に興味を示し、「
生涯恋に身を悩まし、五十四歳までに戯れた女の数が三千七百四十二人、男色の相手の小人でさえ、七百二十五人あったということは、自身で書いた日記で知られた。」(p6)

 最後に世之介が目指したのは女護の島。仲間六人と伊豆の国から天和二年神無月の末に船出する。世之介は神出鬼没、日本各区地に現れ、女と戯れる。金にも不自由しなかったが、「
腎水せっせと替え乾かして、よくも生命があったものである。」(p6)と作者も驚いているところが面白い。

 十三歳の時に交わった茶屋の女には、もし子供が出来たら、近所の子安地蔵にお供えの餅を百位は供えるから、安心して帯を解くがよいという。一方、十五歳の時に懇ろになった後家とはしばらく交際を続け、程なく女に子供が生まれる。この時は可哀想だとは思ったが、京の烏丸六条のあたりに捨ててしまったという。当時はこういうことが平気だったのだろうか。

 好色なのは男ばかりではない。女も負けずに色好みだ。そのための屋敷の仕掛けの幾つかが紹介されている(p121)。「四条の切貫雪隠」は雪隠の中に抜け道を作りそこで密会をする。「忍び戸棚」はこれも家の中の抜け道で、男を忍ばせておく。また「揚げ畳」は簀の子の下に道が付けてあって、首尾が悪いと見れば男をそこから抜け出させる。とにかく、この時代の風俗が活写されている。

 遊郭は単に肉体をひさぐだけの場所ではない。p193には、女郎の座持ちのすばらしさが描かれている。「
座敷が滅入って来ると思うと笑わせ、粋がった客は壺に陥(はま)らせ、初心な人には涙をこぼして喜ばせ、相手次第でその都度都度、手練手管の変わることには、少しうっかりした者ならば、神様でさえ欺されるだろう。まして人間の知恵位では、及びもつかない女郎である。」と初音という女郎の座持ちを賞める。そのすぐ後には「床上手」振りも述べられる。

 原典は多数の挿絵入りだが、本書もそれをすべて掲載している。

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書名 漱石俳句集 著者 夏目漱石、坪内稔典編 No
2015-38
発行所 岩波文庫 発行年 1990年 読了年月日 2015-09-21 記入年月日 2015-09-26
 
 歳時記を開いていると、どきどき漱石と龍之介の句が例句として載っているのを目にする。かなりのレベルの俳人だったようだ。

 本書は漱石が残した約2600句の中から、年代順に848句を収載してある。子規は漱石の俳句を意匠が斬新で句法もまた自在であると評しているとのこと。漱石の句の多くは子規宛に送られた句稿にあり、その数は1400句を越える。巻末の解説で坪内は「
正岡子規の親友として俳句革新の一翼を担った俳人・漱石」と言っている。漱石は子規の作品集『七草集』に批評を書くに際し、初めて「漱石」の号を用いた。明治22年、子規・漱石ともにかぞえで23歳の時である。さらに、子規と漱石の文学を「風流や遊びを楽しむという気配。換言すれば、文学を楽しむ初心だ。とりわけ、漱石における俳句は、その初心の楽しさそのものだったと言ってよい」と記す。深みはなのかも知れないが俳諧味があって楽しい。心にとまった句の中から幾つか。数字は本書の掲載番号と制作年。「拙句」は私の似たような句。「脚注」は編者による脚注。

わが恋は闇夜に似たる月夜かな        8 M24
初夢や金も拾はず死にもせず        43 M28
雪の日や火燵をすべる土佐日記       97 M28
 拙句:身に入むや恋歌多き新古今
奈良の春十二神将剥げ尽せり        149 M29  多分新薬師寺だろう。
物言はで腹ふくれたる河豚(ふくと)かな  159 M29
菜の花の中に糞ひる飛脚哉         165 M29
端然と恋をしている雛(ひいな)かな    181 M29
春風や吉田通れば二階から         182 M 29  
  今の豊橋。下七五は当時の俗謡の文句。招くのは遊女だろう。
永き日や欠伸をうつして別れ行く      198 M 29
  脚注:松山での虚子との別れ。
衣更(きぬか)へて京より嫁を貰ひけり     202 M 29
  脚注:子規に結婚を知らせた手紙に記す。
日あたりや熟柿(じゅくし)の如き心地あり   253 M 29
桃の花民天子の姓を知らず          262 M 30  
 言われてみると今の天子の姓も知らない
落ちさまに蝱(あぶ)を伏せたる椿哉     268 M 30
明天子上にある野の長閑なる         270 M 30  明治天皇賛歌
朧夜や顔に似合ぬ恋もあらん         272 M 30
 朧夜は人の恋心をかき立てる
妾宅や牡丹に会す琴の弟子          297 M 30
 今ではまず見られない風景
行く年や猫うづくまる膝の上         342 M 31
 拙句:初時雨猫の温もり膝の上
海を見て十歩に足らぬ畑を打つ        362 M 31
餅搗や明星光る杵の先            445 M 32
安々と海鼠の如き子を生めり         540 M 32
 脚注:五月三十一日長女・筆が誕生
朝顔の葉影に猫の目玉かな          600 M 38
花食まば鶯の糞も赤からん          623 M 40
恋猫の眼ばかりに痩せにけり         624 M 40
恩給に事足る老の黄菊かな          651 M 40
酸多き胃を患ひてや秋の雨          652 M 40
この下に稲妻起る宵あらん          677 M 41
 脚注:『吾輩は猫である』のモデル猫の死を悼み、墓標の裏に書いた句。
生残るわれ恥かしや鬢の霜          704 M 43
渋柿も熟れて王維の詩集哉          771 M 43
 拙句:陽関に王維を吟ず春の雨
棺には菊抛(な)げ入れよあらんほど     773 M 43
 脚注:大塚楠緒子のための手向けの句
桶の尻干したる垣に春日哉          820 T 3
良寛にまりをつかせん日永哉         831 T 3
桃咲くやいまだに流行(はや)る漢方医    844 T 5


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書名 火花 著者 又吉直樹 No
2015-39
発行所 文藝春秋 発行年 2015年3月 読了年月日 2015-09-26 記入年月日 2015-09-26

 
本年度の芥川賞受賞作品。娘がどこからか借りてきた。作者はいわゆる芸人。下積みの若い芸人の生態を描いた作品。

 漫才も言葉の芸。俳句も言葉の芸。そういう観点から読んでいて面白かった。漫才師は常に新しい笑いを求めている。無数と言うほど詠まれている俳句にも何か新しいものが必要だ。神谷という芸人の漫才に対する考えが俳句にも通じると思った。

神谷さんの作る漫才は誰もが知っている言葉を用いて、想像もつかないような破壊を実践する」と、語り手「僕」が表する神谷は次のように述べる。「平凡かどうかだけで判断すると、非凡アピール大会になり下がってしまわへんか?ほんで、反対に新しいものを端から否定すると、技術アピール大会になり下がってしまわへんか?ほんで両方を上手く混ぜてるものだけをよしとするとバランス大会になり下がってしまわへんか?」中略
一つだけの基準を持って何かを測ろうとすると眼がくらんでしまうねん。たとえば、共感至上主義の奴達って気持ち悪いやん?共感って確かに心地いいねんけど、共感の部分が最も目立つもので、飛び抜けて面白いものって皆無やもんな。阿呆でもわかるから、依存しやすい強い感覚ではあるんやけど、創作に携わる人間はどこかで卒業せなあかんやろ。」(p32)

 俳句にもあてはまる。おそらく又吉の創作に対する基本的な態度の表明だろう。私は又吉という芸人を知らなかった。少し前に、NHKテレビの俳句の時間にゲストとして出てきた。お笑い芸人のかたわら、幾つかの本も出していると紹介された。それからしばらくして、本書で芥川賞を取り、あの時の人かと改めて名前と顔を覚えた。その経歴から、大いに話題になった。

 よく書けていると思う。特に語り手が師と仰ぐ神谷という破天荒な人物が魅力的だ。

 僕は熱海の花火大会に客寄せの漫才師として出たとき、同じく出ていた神谷と知り合う。神谷の漫才論は僕の常識的な漫才論とはまったく違う。僕と神谷は漫才論で火花を散らす論議を繰り返す。しかし僕は神谷の人柄と独特の漫才論に引かれ、師と慕い付き合う。

 ある時公園のベンチで落ち合った二人の傍に、獣のように泣き続ける赤ん坊をベビーカーに乗せた若い母親が来た。神谷はその赤ん坊に向かって、「蠅川柳」を語りかけて泣き止ませようとする。例えば「蠅共の対極にいるパリジェンヌ」といったものを次ぐ次に繰り出す。もちろん赤ん坊は泣き止まない。次いで、僕が「いないいないばあ」をする。それもダメ。結局母親が抱きあげて泣き止んだというエピソードがある。

 神谷は「いないいないばあ」は面白くないという。その後で僕は次のように思う:
どんなに押しつけがましい発明家や芸術家も、自分の作品の受け手が赤ん坊であった時、それでも作品を一切変えない人間はどれくらいいるのだろう。過去の天才達も、神谷さんと同じように、「いないいないばあ」ではなく、自分の全力の作品で子供を楽しませようとしただろうか。僕は自分の考えたことをいかに人に伝えるかを試行錯誤していた。しかし、神谷さんは誰が相手であってもやり方を変えないのかもしれない。それは、あまりにも相手を信用し過ぎているのではないか。だが、一切ぶれずに自分のスタイルを全うする神谷さんを見ていると、随分と自分が軽い人間のように思えてくることがあった。(p79)

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書名 芥川龍之介俳句集 著者 芥川龍之介、加藤郁乎編 No
2015-40
発行所 岩波文庫 発行年 2010年 読了年月日 2015-09-29 記入年月日 2015-09-30

 全部で1158句を収載。これはほぼ芥川龍之介の全句に相当する。岩波書店編集部によって拾い出されたもとのこと。龍之介のこの俳句集にはすべての句にその出典が巻末に記されている。さらに上五による索引もついていて、労作である。
 本書の特徴は原句の選別をしていないから、下記のような句が並んでいること:
  二階より簪(かんざし)落して冴返る     102
  二階から簪(かんざし)落して冴返る     103
 あるいは
  向日葵も油ぎりけり午後時        212
  向日葵も脂ぎりけり午後時         213
 あるいは
  夏山や空むら立つ嵐雲          488
  夏山や空むら立つ嵐雲          489

 これらは私も常に悩むところ。最後の例の「に」という助詞は説明的になるから余り使わない方が良いと言われていて、私はなるべく避けている。龍之介も同じ悩みで、結局どちらとも決めかねて、二つ並べて書き留めたのだろう。それは一字の違いでも大切にするという言葉に対する真摯な向かい方を示すものだ。著名な作家であり俳人である龍之介すらどちらとも決めかねるのだから、我々が悩むのは当然と、安心させられる。私も上のような例の句はそれぞれ独立の句としてパソコン上に残している。こうした僅かな語句の違いの句は本書にはたくさん出てくる。漢字の違いもそれぞれ独立した句として並列される。例えば:
  ものはぬ研師の業や梅雨入空 477
  ものはぬ研師の業や梅雨入空 478
 この二句の違いは私には理解出来ない。

 時雨る々や犬の来てねる炭俵         818 T11年
があり、
 みぞるるや犬の来てねる炭俵         1155 がある。この句は年次未詳となっている。多分上の句と同時に作られたのではないか。なお、解説によれば漱石は出来の悪い句も残しておいたが龍之介は不出来な句は捨てたという。

 以下目についた句の幾つか:

砂にしる日のおとろへや海の秋         12
人妻となりて三とせや衣更へ         73
麦刈りし人のつかれや昼の月         95
銀漢の瀬音聞ゆる夜もあらむ        113
木枯や東京の日のありどころ        174
凩や目刺に残る海の色           175
足の裏見えて僧都の昼寐かな        213
片恋や夕冷え冷えと竹婦人         285
傾城の蹠(あなうら)白き絵踏かな     310
鉄条(ぜんまい)に似て蝶の舌暑さかな   323
烏鷺(うろ)交々(こもごも)落ちて余寒の碁盤かな  377
青蛙おのれもペンキぬりたてか       395
埋火(うづみび)の仄に赤しわが心     501  「恋」という題がついている
恐るべき屁か独り行く春夜這ひ       599  「新俳」と題されている
秋風や人なき道の草の丈          681  「大地茫々愁殺人」と題
さ庭べの草煙り居る薄暑かな        703  草とか木が煙るという表現は多い
花散るや牛の額の土ぼこり         782
川狩や陶淵明も尻からげ          808
かげろふや猫にのまるる水たまり       820   仮名表現が効いている
初秋や蝗つかめば柔かき          892
乳垂る々妻となりつも草の餅         940
多葉粉(たばこ)すふけむりの垂るる夜長かな  1014
道ばたの墓なつかしや冬の梅        1088
うららかに毛虫わたるや松の枝        1090
蝶の舌ゼンマイに似る暑さかな        1114
麦の穂をすべる入り日やなく鴉        1141
光氏のきぬぎぬさむしほととぎす       1147

 現代的な見方からすれば、漱石よりも良い句が多い。

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書名 イースター島の黙示録 著者 池田隆 No
2015-41
発行所 ブイツーソリューション 発行年 2015年8月 読了年月日 2015-10-01 記入年月日 2015-10-01

 池田さんから送られてきた3冊目の自費出版書。企業OBペンクラブに載せた800字エッセイ90編余、1600字エッセイ4編、フォト句。

 表紙のカバーにはイースター島のモアイ像の並んだ写真。本書の題は、冒頭のエッセイからとったもの。南太平洋のイースター島を訪れた筆者が、その歴史を知り、その島が地球の将来を黙示するのではないかと思ったことによる。イースター島は絶海の孤島で外敵もなく、豊富な木材資源と海洋資源で、7世紀頃にやってきたポリネシア人は平和な暮らしを満喫していた。しかし、人口が爆発的に増え森は消失し、肥沃な土壌は海に流されてしまう。食糧不足から部族間の争いが頻発し、互いに相手のモアイ像を破壊し合う。かつては2万人いた原住民は現在は4000人に減ってしまった。イースター島の歴史を知り、著者は言う。「
宇宙で生命の存在する唯一の星である地球と絶海の孤島であるイースター島、国家の威信をかけた核兵器や原発とモアイ像、温暖化による砂漠化と無思慮な森林伐採、急増する世界人口、各地で頻発する紛争。地球とイースター島の類似性を考え込まずにはいられない。

 この一文は本書を貫くモチーフだ。長崎での被爆体験、機械技術者として原発の推進に携わった経験から、著者は核兵器廃絶、原発からの撤退を強く訴える。その主張は憲法に原発禁止を掲げるべきだという所まで行く。とはいえ声高な書きぶりはまったくない。自分の体験に基づいた主張だから説得力がある。惜しいのは800字ではやや物足りないところか。

 私の高校同級生だが、私などとうていおよばない体験をしている。世界の色々なところを訪れている。趣味も交友関係も極めて広い。実行力がある。日本の各地を歩いている。私はいつも池田さんの後を追っている。旧街道歩きを始めたのも彼の体験を聞いたからである。私の人生の1.5倍ほどの豊かな人生だ。活動的で多方面に活躍する人は、自分を省みることが少ないものだが、著者の体験には深い内省がともなっている。エッセイの内容が多岐にわたる。家族への思いも厚い。息子と孫と男三代で坂東三十三札所巡りを行った話など、私には羨ましいの一言しかない。

 芭蕉の「秋深き隣は何をする人ぞ」の鑑賞もある。「秋深き」に自分の死の近いことを暗示しながら、「隣は何をする人ぞ」で一転して、まだまだ好奇心が強いことを表明する。「
この句は「奇」を好む飽くなき態度こそ俳人の心構えであると、隠喩的に言い遺しているのではないか」と記す。飽くなき好奇心は著者自身のものでもある。

「生死(しょうじ)と心」というエッセイには次のようにある:
 
たとえ身体というハードが死んでも、その人の言動が誰かの心に留まっているかぎり、心は不滅である。子孫が続けば、遺伝子によって確実に心は伝わる。子孫が絶え、皆の記憶から消えた人でも何らかの影響を周囲の他人に与えていた筈である。その他人の無意識な心や遺伝子を通じて、忘れられた人の心も生き続ける。
 これは本書出版の目的を述べたものだろう。

 巻末にはカラー写真のフォト句が30句載っている。写真がきれいだ。

 ハードカバーで200ページを越える本書の定価は926円プラス税である。信じられないほど安い。 

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書名 死者の書・口ぶえ 著者 折口信夫 No
2015-42
発行所 岩波文庫 発行年 2010年初版 読了年月日 2015-10-05 記入年月日 2015-10-13

  折口信夫の名は私が読む本の中で、しばしば引用される。折口の書いたものを読んだことはなかった。国文学者、民俗学者として専門的な書はあっても、一般人が読む本はないのではと思っていた。本書も多分民俗学の専門書だろうと思っていたが、小説であると知り、手にした。
「死者の書」は当麻寺の曼荼羅の由来を下敷きにした小説。独特の文体、用語が醸しだす幻想的で不思議な世界。農耕の実体、貴族の生活と風習など民俗学的な考察がもられ、飛鳥・奈良時代に読者を導く。

彼(か)の人の眠りは、徐(しず)かに覚めて行った。まっ黒い夜の中に、更に冷え圧するものの澱んでいるなかに、目のあいて来るのを、覚えたのである。
した した した。耳に伝うように来るのは、水の垂れる音か。ただ凍り付くような暗闇の中で、おのずと睫(まつげ)と睫とが離れて来る。


 出だしの部分だ。暗く冷たい石室の中で死者が目覚める。死者は滋賀津彦(大津皇子)である。皇子は天武天皇が崩御したとき、謀反の疑いを掛けられ、自死する。遺骸は奈良と難波の間にある二上山に葬られる。

 目覚めた滋賀津彦に引き寄せられるように、二上山の麓にある当麻寺へ雨風の夜道を一人で奈良からやって来たのが、藤原南家の豊成の娘、郎女(いつらめ)である。豊成は藤原の仲麻呂の兄であるが、太宰府へ左遷されていた。奈良の邸宅では家人たちが姫の神隠しに大騒ぎとなり、探し回る。やがて、当麻寺にいることが分かり連れ戻そうとする。しかし、郎女は当麻寺の結界を犯していたので、寺はすぐには返さなかった。藤原家の権勢をかさに姫の帰還を迫ったが、寺は頑として受け入れなかった。郎女は自ら犯した罪の購いは自らするといって、庵をむすびそこに滞在する。庵の生活は、やってきた大勢の家の子郎党にかしずかれてはいるが、深層に育った姫にはその生活は、すべてが物珍しく新鮮であった。その間に、家臣たちが蓮を採ってきてそれから糸を紡ぐ。郎女はその蓮糸で布を織り、それに曼荼羅を書いてゆく。壮麗な伽藍の奥に姫が描いたのは、俤びとであった。郎女が曼荼羅を完成し、家臣たちがそれに見入っているとき、姫は音もなく庵を立ち去るのだが、誰も気づかなかった。「
まして、戸口に消える際(きわ)に、ふりかえった姫の輝くような頬のうえに、細く伝うもののあったのを知る者の、ある訣(わけ)はなかった。

 曼荼羅の布は、俤ひとの衣にと姫が織ったものだ。そこに描かれた絵様はそのまま曼荼羅の相を具えていても、姫はその中にだだ一人の人の幻を描いたに過ぎなかった。しかし、残された家臣の目には見る見る菩薩の姿が浮き出てきた、と最後は結んでいる。

 面白い小説。本編の中頃に以下のような記述がある:
ついに一度、ものを考えた事もないのが、此国のあて人の娘であった。磨かれぬ智慧を抱いたまま、何も知らず思わずに、過ぎて行った幾百年、幾万の貴い女性(にょしょう)の間に、蓮の花がぽっちりと、蕾を擡頭(もた)げたように、物を考えることを知り初めた郎女であった(p91)。「あて人」とは貴人のこと。本書は、一人の女性の覚醒の物語として読むことができる。「中将姫伝説」というのが骨格になったという。

「死者の書続編」は、時代が下って、平安末期、藤原頼長を扱う。悪左府として保元の乱で敗死した人物。死者としては高野山で生き続ける空海が配される。

「口ぶえ」は自伝的作品。同性愛を含む思春期の危うい心理が綴られる。
 

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書名 中空構造日本の深層 著者 河合隼雄 No
2015-43
発行所 中公文庫 発行年 1999年初版 読了年月日 2015-10-10 記入年月日 2015-10-13

 日本および日本人論として大変刺激的な本。

 中空構造というのは、中心に唯一絶対者をもたない構造。それを著者は古事記に表された日本神話の構造の中に見出す。著者は三つの例を挙げる。最大のものはイザナミとイザナキの間に生まれた3人の子。すなわちアマテラス、ツクヨミ、スサノヲの3神である。このうちアマテラスとスサノヲはその後色々に物語られているのに、ツクヨミについてはまったく触れられていない。ツクヨミ、つまり月の神である。日本人は情緒的には太陽よりも月の方を重視していた。万葉集には月を詠んだものはあっても、太陽を詠んだものは極めて少ない。にもかかわらず、3神の真ん中にいるツキヨミはその後の神話では無為である。

 この構造はさらに高天原に降りた神、アメノミナカヌシの神、タカミムスヒの神、カミムスヒの神の3神の関係にも見られる。「アメノナカヌシ」という明らかに中心と思われる名を持つ神が、まったく無為な存在である。こうしたことから中空構造を日本神話の基本構造と著者は考える。

 神話の中で、アマテラスとスサノヲは対立関係にある。しかしどちらかが善であり、中心であるとは規定せず、時にどちらかが中心であるように見えても、次ぎに適当な揺り戻しがあって、バランスが回復されている。

 以上が、本書の基本的な主張である。ユング派の精神分析家としての著者は述べる:
『古事記』のパンテオンの構造のなかに、筆者は日本人を基礎づける根底を見る想いがしたのであるが、それはまさに根底として、日本人の思想、宗教、社会などの構造の目に見えぬ支えとして存在しているように思われるのである。(p34)

 天皇制については考察されていないが、中空構造は天皇制を考える上でも示唆するところが多いだろうと述べている(p50)。
 
 絶対化された中心を持ち、その価値判断の基準からはずれるものを無価値あるいは悪と見なし、排除し抹殺する欧米文化とは違って、日本では対立する物も排除も抹殺もせずに、それぞれの居場所を与えて共存させる。

 日本文化の中では、物事の当否を明確にはせず、暗黙の了解が大切にされる。このことは組織にあっては責任の所在の曖昧さに通じる。日本においてはリーダーというのは自覚を持って全体を統率して行くのではなく、世話役に徹し、全体のバランスと気配りに長けた人物が適する。

 本書は三部から構成され、12編の論文を収載する。第一部が神話の分析、第二部が民話や昔話の精神分析的解釈、第三部では漫画ブームや家庭教育、ヒトラーなどが取り上げられる。

以下本書から:
 
母性はすべてのものを全体として包みこむ機能をもつのに対して、父性は物事を切断し分離してゆく機能を持っている。ヨーロッパにおける父性の優位は、人間が自己を他の事象から分離し、対象化し観察する能力を人間にもたらし、それが自然科学の知へと発展していった。そして自然科学を中核とする西洋近代の特異な文化は、世界を支配することになった(p57)。この後、欧米諸国が現在体験しつつある行き詰まりは、彼らが余りのも父性の優位を誇り、母性を絶ち切りすぎたからではないかという。そして日本社会は父性と母性のバランスの上に築かれていて、近代化の歪みを余り受けていないという。

 日本の中空構造のマイナス面としては、現在の若者たちを捉えている無力感、無気力などを挙げている。臨床家として無気力症の若者に接して、その中心のなさにあきれるという(p62)。

 
すべてをどこかで曖昧にし、非言語的了解によって全体がまとまってゆく。このような日本人の態度が外交や貿易の交渉に際し外国人に誤解される基となることも、よく指摘される事実である。言語によって事象を明確に把握し、意識化すること、このことこそ既に述べてきた西洋的な父性の中核にあると言ってよいのではなかろうか(p71)。

 
人間にとって大切な「個」としての感情を強めるには、その人が守ることを誓った秘密をもつことが一番いい方法である(p122)。これはユングの言葉である。

 
私という人間が他ならぬ私として存在するという確信をもつこと、言い換えると、私という人間が生きてゆく「意味」を見出すこと、これについては自然科学は解答を与えてくれず、各人は各人にふさわしい方法で、それを見出さねばならない。つまり、個人は各自にかけがえのないものとしての秘密をもたねばならない(p173)。

「象徴としての近親相姦」
 
近親相姦願望こそは、すぐれて人間的なものであると云うべきではないだろうか。猿であれば決して愛の対象として選ばれることのない母親を、敢えて愛の対象としようとする願望を抱いたところから人類の文化が始まったのではないだろうか(p194)。 

 
自分の全存在をかけて、自然の法に挑戦することによってこそ、人間は霊的な体験をなし得るのではなかろうか。ここで、自分の母と合一することは、何を意味するかを考えて看なければならない。母とは息子にとって、自分という存在の生み出されてきた本体である。母との合一は、原初の状態への回帰を意味する。原初への回帰は、おのれの存在を、より根源的なものへと合一せしめることを意味し、それは自我の放棄を要請する。ここに、強いおそれの感情が生じる。しかし、一方では、これは又とない絶対依存の悦楽にも通じている。近親相姦にに伴うおそれの名状し難さは、それは、おそれの背後に限りない快感を含んでいるからであろう。

家庭、家族
 
日本の家が強力な母性原理によって支えられている、ということである。母性の原理とは、端的に言えばすべてのものを平等に包含することで、そこでは個性といういうことを犠牲にしても、全体の平衡状態の維持に努力が払われるのである。これに対して、父性原理は善悪や、能力の有無などの分割にきびしい規範を持ち、それに基づいて個々人を区別して鍛えてゆく機能が強い(p209)。

 
このように考えると、日本の家は西洋と異なり、社会に従属して存在し、それらは共に母性原理によって支えられている、という構造を有していることが解る。そのような家における父親は、戦前には「強い」父と思われていたが、実のところ母性原理の推進者としての強さをもつものであり、家と社会とを通じてはたらく母性原理に守られて、父権を行使していたのである。従って、父親はそれ自身として、父性的な強さはもっていなかったと言うべきである(p211)。

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書名 日本的霊性 著者 鈴木大拙 No
2015-44
発行所 岩波文庫 発行年 1972年 読了年月日 2015-10-27 記入年月日 2015-11-02

 『中構造日本の深層』をアマゾンで買ったとき、本書も関連書として薦めてあった。宗教意識という視点から日本歴史を見、日本人を論じる。ユニークで刺激的な本。

「霊性」というのは一口で言えば「宗教意識」であると著者は言う。そして、日本的霊性は、浄土真宗と禅宗により初めて発現されたというのが、本書の主張。鈴木大拙といえば禅を広く海外の紹介した人物として有名であり、その著『禅と日本文化』はかつて読んだことがある。だから、本書では禅の事が取り上げられるかと思ったが、もっぱら、法然・親鸞の浄土宗・浄土真宗の意義と、それが日本的霊性の発現であることを述べる。

 著者の基本的思想は、人間は大地に触れることによって初めて真の宗教的自覚に達するというもの。親鸞が真の宗教意識に達し得たのは、流刑の地にあって、ひたすら地に親しんだからであり、土地をその生活基盤とする武士によって受け入れられた禅宗もまた日本的霊性の発露である。平安時代までは日本に真の宗教意識はなかった。それは鎌倉時代になって初めて現れたものである。

以下本書から:
 
古代の日本人には深刻な宗教意識がなかったということは、その文学を見れば首肯せらると信ずる(p30)。

 
恋愛の悲劇は人間を宗教に追い込む一つの契機になるのだが、これには成熟した頭脳がなくてはならぬ。人間が何かに不平・失望・苦悶などに際会すると、宗教まで進み得ない場合には、酒にひたるものである。中略 ある意味で酒には宗教味がある。ところが古代日本人には、こんな意味の酒飲みはいなかったようである(p32)。

 平安文化は「
非常に洗練されたものとなったが、日本全土を背景にもって、物質的享楽に恵まれていた貴族の頽廃気分がそれに反映している。」(p39)

『古今集』を平安人の情緒としたうえで、その涙多いこと、何かというと泣いていて、彼らの長袖はいつも濡れていると評す。続けて「『源氏物語』のような文学的作品は世界にないと言うが、こんなもので日本精神が――それがなんであるにしても――代表されては情けない」と記す。さらに、『枕草子』についても、「
『源氏物語』の重厚に比して俊敏ではあるが、それだけのはなし。思想において、情熱において、意気において、宗教的あこがれ・霊性的おののきにおいて、学ぶべきものは何もない。と言い切る。

 「
人間は大地において自然と人間の交錯を経験する」(p44)としたうえで、天の恵みを感じるのも大地を通してであるという。そして「天に対する宗教意識は、ただ天だけでは生まれてこない。天が大地におりて来るとき、人間はその手に触れることができる。天の暖かさを人間が知るのは、事実その手に触れてからである。大地の耕される可能性は、天の光が地に落ちて来るということがあるからである。それゆえ宗教は、親しく大地の上に起臥する人間――即ち農民の中からでるときに、最も真実性をもつ。大宮人は大地を知らぬ、知り能わぬ。彼らの大地は観念である。歌の上、物語の上でのみ触れられる影法師である。それゆえ平安の情緒は宗教とかなり隔たりのあるものである」(p45~)。

 大宮人が武家の門前に屈したのは「
武家に武力という物理的・勢力的なものがあったためではない。彼らの脚跟(きゃくこん)が、深く地中に食い込んでいたからである。歴史家はこれを経済力と物質力(または腕力)と言うかも知れぬ。しかし自分は、大地の霊と言う。大地の霊とは、霊の生命ということである。この生命は、必ず個体を根拠として生成する。個体は大地の連続である。大地に根をもって、大地から出で、また大地に還る。個体の奥には、大地の霊が呼吸している。それゆえ個体にはいつも真実が宿っている。」p49)。

 
純粋の他力教では、次の世は極楽でも地獄でもよいのである。親鸞聖人は『歎異抄』でそう言っている(p56)。
 
本当の鎌倉精神、大地の生命を代表して遺憾なきものは親鸞聖人である。(p57)
 
もし親鸞聖人にして地方に流浪すること幾年でなかったらなら、純粋他力に徹し能わなかったのである。(p58)

 仮名文字について:
仮名文字の発達がどのくらい日本思想の独自的発展に資することがあったかは、十分に認識する必要がある。中略 仮名文字がなかったら、日本は明治維新の大業を成しとげ得なかったと思う。外来の文学・思想・技術等は、いずれも仮名文字の屈伸性・弾力性・連結性などによりて、国民精神発展の上に自由に取入れられたのである。この事実を考えてみると、我らは平安朝女性の創造的天才に対して、十二分の謝意と敬意を表すべきである。(p79~)。

 平家物語について:鎌倉時代に『平家物語』が書かれたことに意味があるとする。「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」の書き出が、「
『平家』に出てくると、作者は実に人生の事実を直視しているものであるとの印象を深く受けるのである。鎌倉時代になって、日本人は初めて人生に対する痛切な反省をやったものである。『平家』にはまだ平安期の女性文化の跡が十分に残っている。日本民族の感傷性ともいうべきものが、いかにもまざまざしく見える。が、その裏にはまたこれに対しての反省が加えられている。ここに日本的霊性の自覚を感じる。霊性的生活は反省から始まる。」(p152)。こ後、平重衝が法然に会ったことを述べ、重衝の告白の中に霊性的自覚の閃きがあるとする。さらに、熊谷直実の発心の中にも霊性的自覚を見ている。(p156~)

 日本史の一つの見方として面白い。後半は親鸞の教え、法然の教え、さらに浄土真宗を信仰した市井の信者の記録よりなる。親鸞や法然の教えの深いところは宗教用語や著者独特の表現などもあり、私にはよく理解出来ない。信者の記録は一人は蓮如聖人の道宗という弟子を、もう一人は昭和8年に没した浅原才市という下駄を削る職人の書き残したものを紹介し、彼らを日本的霊性発現の典型例だとしている。

 本書の執筆は昭和19年。巻末の長い解説で篠田英雄は、第二次世界大戦勃発の当初から、わが国の敗戦が必至であると信じていた鈴木大拙が、敗戦後の日本が世界の精神文化に貢献できるのは、日本的霊性の世界的意義を宣揚するより他にないとして、本書を著したにちがいないと述べる。

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書名 太平記 (四) 著者 兵藤裕己 校注 No
2015-45
発行所 岩波文庫 発行年 1915年10月 読了年月日 2015-11-01 記入年月日 2015-11-02

 原本の23巻から29巻までを収載。原本の22巻は欠巻となっている。

 北陸の戦いで敗れた新田義貞の弟、脇屋義助は吉野を経て四国に渡り、そこの南朝勢力を従えて、中国地方で足利方と戦う。本書の前半はこうした中国地方を舞台とした戦の記述。足利方は高師直の一族が主体。南朝方は善戦するのだが、形勢を挽回することは出来ない。楠木正成の遺子、正行は父の13回忌に兵を挙げるが、結局敗死する。勢いに乗った高師直らは吉野に攻め入り、南朝の廟堂を焼き尽くす。

 後半は、高一族と直義との対立が述べられる。高一族はクーデターで直義一派を排除する。上杉重能と畠山直宗という直義派の武将は越前に流され、その地で討たれる。直義は出家する。やがて、直義は南朝に帰順することを願いでて、許される。

 直義には直冬という猶子があった。尊氏が若いころ側女に産ませた男子である。九州に落ちていた直冬はその地の軍勢を率いて上京する勢いを見せた。高師直らは尊氏の出陣を願い、尊氏も直冬討伐に中国地方へ出征する。尊氏の留守を守って京都にいる足利義詮を直義側が攻撃する。義詮は一旦京から落ちるが、引き返してきた尊氏と合流し、直義軍に勝利する。だが、尊氏軍には離反者が続出し、再度西国へ落ちる。尊氏側は摂津で直義側と戦って大敗する。尊氏、高師直らは自害を覚悟するが、直義側から和議がもうし出され、成立する。尊氏の後を追って京へ帰還する途中、出家して僧の姿に身をやつした師直初め高一族は武蔵川辺で全員が討たれる。足利家の執事として権力をほしいままにした高一族であったが、討たれたときには従うものもほとんど無い状態であった。

 本書の最後は兵のあり方に二つあると説く。仁義の勇者と血気の勇者である。後者は戦いごとに勇み進んで猛勇を振るうが、味方が不利と思えば、逃亡あるいは敵に寝返るタイプである。仁義の勇者は、必ずしも戦場で蛮勇を振るうものではないが、一旦約束したことは変心することなく、命をかけて守るものであるとする。源平は3年争い勝敗は変わったが、二度と寝返った人は出なかった。そして:
今、元弘以後、君と臣との諍ひに、世の変ずる事、わづかに両度に過ぎざるに、天下の人、五度、十度、敵に属し、御方になり、心を変ぜぬは稀なり。ゆゑに、天下の諍ひ止む時なくして、合戦の雌雄未だ決せず。ここを以て、師直、師泰が兵どもの有様を見るに、日比(ひごろ)の名誉も高名も、皆血気に誇る者なりけり。さらずば、この時に、十万余騎のその中に、千騎も二千騎も討ち死にして、後代に名をば揚げざらん。「仁者は必ず勇あり。勇は必ずしも仁にあらず」と、文宣王の聖言、げにもと思ひ知られたり。
 と本書(第29巻)を結んでいる。文宣王とは孔子のことで、かっこ内は論語にある言葉。

 直義までが南朝側に寝返り、尊氏の実子直冬は親に弓引く。『太平記』の嘆きも分かるが、仁義に欲望が優先したこの時代はそれだけに面白い。

 それにしても尊氏という人物は不思議な人物だ。本書では極めて影が薄い。直義と高一族に政務は任せきりのようだ。そして、またも自害を言い出す。尊氏の弱気とも思える性格が、南北朝動乱の一因であろう。

 尊氏は後醍醐帝の供養のために、夢想国師を開山として禅宗の天龍寺を造営する。天龍寺の落慶供養に上皇の出席を目論む。これに対して比叡山が強硬に反対する。朝廷内で天台宗と禅宗双方の立場から、長々と論議が戦わされるが結論は出ない。天台宗と禅宗の間で、宗論を戦わせようとする案もあったが、実現せず、幕府は落慶の1日後に上皇の臨席を実現させる。こうして天龍寺の落慶にはけちがついたので、その後20余年間に2度も焼け落ちたのだと、本書は言う。

 相変わらず、漢籍の引用が多い。上述の宗論に際しても、中国の故事が引かれる。仏を作り、堂を建てるのは善行であるが、建てる側に驕慢の心があっては仏法の維持は難しいとして、達磨大師と梁の武帝とのやりとりをひいている(p155)。

 項羽と漢の高祖劉邦のエピソードも長々と引用されている。これは、直義が南朝側に帰順を願いでたのに、南朝側がそれを受け入れるかどうかの論議の際、北畠親房が事例としひいたもの。漢の高祖は項羽の和睦の申し入れを一旦受け入れ、その後に項羽を滅ぼした事例だ。だから、ここは直義を受け入れて、それを南朝側の方便として使うのがよいと言う結論になった。30ページにわたり述べられる楚と漢の争いは、「鴻門の会」の場面などまるで『史記』を読んでいるようだ。物語として語られるから、分かりやすい(p349~)。

 本巻では日本の神話も引用されている。伊勢の海で剣が見付かる。壇ノ浦で海底に沈んだ宝剣ではないかと朝廷に献上される。これに関して、日本の国作りの神話が10ページに渡って述べられる(p181~)。簡潔にして分かりやすい神話だ。ただし、こちらが準拠したのは室町時代の日本書紀で、古代の日本書紀とは少し違う。イザナギとイザナミの生んだのが、日神、月神、スサノウノミコトの3神だけではなく、もう一人蛭子という神を加えた4神であったとしている。月神は余りに美しく人間の類ではなかったので、両親の許しを得て天にの昇った。蛭子は3歳まで足が立たなかったので丈夫な船に乗せて海に流したという(p184)。
『太平記』は教養の書であることは間違いない。

 『好色一代男』などの西鶴の作品には、服装の詳細な記述がある。これは日本文学の伝統なのだろう。『平家物語』も『太平記』も戦闘に向かう武者の服装と装備の描写は詳しく、作者の並々ならぬ情熱が注がれているのを感じる。

 巻末の解説は、『太平記』の多種にわたるテキストを読み比べて、それらが筆写された時期などを考察している。本書は西源院本をテキストとしている。最も古い時代の写本である。この他に二つの古い時代のテキストに由来する写本の系統がある。それらは人物の描写などに微妙な違いがあり、筆写の段階で書き加えられたり、削られたりしたと推定される。この他に流布本という系統のテキストがある。これは慶長年間の古活字本で、10種類以上の版が現在知られている。この時代に『太平記』が広く読まれたことが知られる。流布本は誤字や当て字が少なく、ほとんど校注なしで読むことが出来るという。

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書名 学問のすゝめ 著者 福沢諭吉 No
2015-46
発行所 岩波文庫 発行年 1942年 読了年月日 2015-11-22 記入年月日 2015-11-23

 今朝、いつものようにNHKの朝ドラ「朝が来た」を見ていたら、昨日読み終えたばかりの本書が出てきた。主人公のあさが読み終えたと言って夫に見せたのが本書であった。あさの膝の上に開かれた和綴じ本には書名と著者名として福沢諭吉と小幡篤次郎とが載っていた。『学問のすゝめ』の初編である。あさの夫もすでに読んでいた。当時の大ベストセラーで、初編は20万部を超えたという。

 初編以外は諭吉単独の執筆で、明治5年の初編から順次刊行され明治9年まで全部で17編よりなるかなり長い著作だ。巻末の解題まで入れると、文庫本で240ページになる。

 あの時代にこれだけ大胆な開明思想を主張したのものが書けたことに、そしてそれが多くの人々に読まれたことに感心する。思想家として福沢諭吉は吉田松陰よりも遥かに進んでおり、偉大であり、また後世に与えた影響は大きい。ちなみに諭吉は松陰より5歳下の1835年生まれである。丸山真男が福沢に傾倒した理由も本書を読むと納得できる。

 徹底して開国派であった諭吉は攘夷派により樹立された明治新政府に距離を置いていた。だが、明治政府の方針が開国である事を見極め、さらに廃藩置県を行ったことをきっかけに、これからの日本人がとるべき道を示すべく本書を著したという。

 本書のキーワードは「独立」。日本が欧米列強に抗して独立を保つためには、個人の独立が必要であるというのが本書執筆の趣旨。第三編はそれを強調する:
国と国とは同等なれども、国中の人民に独立の気力なきときは一国独立の権義を伸ぶること能わず」(p33)

今の世に生れ苟も愛国の意あらん者は、官私を問わず先ず自己の独立を謀り、余力あらば他人の独立を助け成すべし。父兄は子弟に独立を教え、教師は生徒に独立を勧め、士農工商共に独立して国を守らざるべからず。概してこれを言えば、人を束縛して独り心配を求むるより、人を放ちて共に苦楽を与(とも)にするに若(し)かざるなり。」(p39)

 個人の独立のためには学問をすることが必要である。諭吉のすすめる学問とは儒学のような空疎なものではなく、実学である。例えば「
言語を学ばざるべからず」(p181)から、「顔色容貌を快くして、一見、直ちに人に厭われること無きを要す」まで、徹底して実学である。(p182)。

 豊富な例を引いて、歯切れのよい饒舌で論を進める。文体としては二重否定を多用する。 第六編「国法の貴きを論ず」と第七編「国民の職分を論ず」には当時、猛烈な批判が寄せられ、諭吉は身の危険すら感じたという。第七編では政府の暴政に対処する人民のあり方を論じる。一つは節を屈して政府に従う事。これは甚だよくない。「
人たる者は天の正道に従うをもって職分とす。然るにその節を屈して政府人造の悪法に従うは、人たる職分を破るものと言うべし」(p79)。二つ目は一人では力をもって政府に敵対するのはできないことだから、徒党を組んで向かうこと。これは内乱となるから、上策ではない。三つ目は、「天の道理を信じて疑わず、如何なる暴政の下に居て如何なる苛酷の法に窘(くるし)めらるるも、その苦痛を忍びて我志を挫くことなく、一寸の兵器を携えず片手の力を用いず、だだ正理を唱えて政府に迫ることなり」。この策が最上であるとする。

 第二の方策を採った人物として、特に楠木正成をあげその討ち死にを無駄死にだとしたことが反感を招いたようだ。それで、別名を使い、批判に答える文を朝野新聞に掲載した。それ以後、批判は収まったという。本書にはその一文、「学問のすゝめの評」も巻末に掲載されている。その中で、福沢は楠木正成が敗れたからと言って、それは日本国内の政権交代にすぎないず、今明治の人が負っている責任に比べれば軽いものであると言う。明治の日本人が負うべき最大の責務は外国との交際において、独立を守ることである。今の日本には尊氏はおらず、今の強敵は西欧諸国である。正成の志は買うが、その働きは手本とすべきでないというのが趣旨であると述べる。(p194~)。

 どの編を読んでも福沢の主張が躍動している。第十五編は「事物を疑って取捨を断ずる事」。その冒頭は「
信の世界に偽欺(ぎさ)多く、疑の世界に真理多し」(p154)。そして、西洋諸国の人民が今日の文明に達したのは、その源を尋ねると、疑の一点から出ないものはないと述べ、ガリレオの地動説、ガルバーニの電気、ニュートンの引力、ワットの蒸気機関車などを列挙する。さらに、ルターの宗教改革、フランス人民は貴族の跋扈に疑いを持ち騒乱を起こし、アメリカはイギリスの法律に疑いを持ち独立を勝ち取ったと述べる。

 第十三編は怨望を厳しく戒める。人間の性質・心理で粗野と率直、固陋と実着、浮薄と頴敏(えいびん)、驕傲と勇敢などはその向かう方向や強弱によって徳にも不徳にもなるが、怨望だけはどの方向に向かっても不善であるという。(p135)

 30ページ以上におよぶ巻末の解題が懇切で、適切に本書を捉えている。本当に福沢のことを理解している。誰が書いたのだろうかと思って、解題の最初にかえってみたら小泉信三であった。

 初版は1942年、2015年版は第98刷である。

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書名 文明論之概略 著者 福沢諭吉 No
2015-47
発行所 岩波文庫 発行年 1995年 読了年月日 2015-11-29 記入年月日 2015-11-30

 明治8年、1875年刊だから、『学問のすゝめ』と同時期に書かれた。題名から、西洋文明の起源から現在に至るまでの歴史的展望が書かれているかと思ったら、そうではなかった。『学問のすゝめ』と本質的には同じ主張。これだけのことが、この時期に書けたことに驚く。内容の激しさ、進歩性だけでなく、憂国の至情、学識の深さに感心する。西洋の原書からの引用のみならず、自分の見聞や日本歴史、中国の歴史への深い造詣、さらには西洋には60の元素の発明があるといった科学技術の知識まで、たくさんの例を挙げて儒教や、幕藩体制、あるいは西洋の植民地支配をばったばったと切っていく。読みながら、何回もクスクス笑った。辛辣な書き方が、かえってユーモアを醸すのだ。

 キーワードはやはり「独立」。全部で10章からなり、その第10章は「自国の独立を論ず」。301ページ言う:「
国の独立は即ち文明なり。文明にあらざれば独立は保つべからず。」本書執筆の動機である。300ページは開国前の日本について言う:「ただ外人に触れざるが故に、偶然に独立の体(たい)を為したるのみ。」徹底した開国論者であった福沢は、それだけまた外国の脅威を肌身で感じていたのだ。国の独立のためには、個人の自立がなければならない。個人の自立が文明を推し進める。「文明の精神とは、あるいはこれを一国の人心風俗というも可なり」と述べる(p32)。さらに文明が進んだその先には国家というものもなくなっているとするところが、福沢の文明論のすごいところだ。

 目指すのは西洋文明。福沢は世界を3つに分類する文明、半開、野蛮の名称は世界で認められており、それは事実であるからだという(p26)。西洋は文明、日本、中国、インドなどのアジアは半開、アフリカは野蛮とする。ヨーロッパの文明に至るには、まず人心を改革して、それが政令の改革におよび、最後に有形の物になると道筋を述べる(p33)。

 福沢の中国に対する見方は厳しい。「
支那は独裁の神政府を万世に伝えたる者なり、日本は神政府の元素に対するに武力を用いたる者なり。支那の元素は一なり。日本の元素は二なり。この一事に就いて文明の前後を論ずれば、支那は一度び変ぜざれば日本に至るべからず。西洋文明をとるに日本は支那よりも易しというべし。」(p40)。ここに言う神政府とは王朝の支配のこと。日本は王朝と武家政権とい二つの元素があったから、文明化しやすいというのだ。多様な元素がある方が、そこに自由が生まれるから人々の自立が促されるという。関連して、福沢は孔孟思想の政治社会的影響を徹底して否定している。例えば、p37以下には秦の始皇帝の焚書のことが述べられる。福沢は始皇帝が書を焼いたのは孔孟の教えだけを憎んだのではない。孔孟の教えは暴君の働きを妨げる力など持っていない。始皇帝が憎んだのは、激しく起こった当時の異説論争である。そうした論争は必然的に「自由の元素」を生じ、それは専制を害するからであると、福沢は言う。

 孔子に関しても、「
孔子もいまだ人の本姓を究るの道を知らず、ただその時代に行わるる事物の有様を眼を遮られ、その時代に生々する人民の気風に心を奪われ、知らず識らずその中に籠絡せられて、国を立るには君臣の外に手段なきものと臆断して教を遺したるもののみ。中略  元(も)と君臣は人の生れて後に出来たるものなれば、これを人の性というべからず。人の性のままに備わるものは本(もと)なり、生れて後に出来たるものは末なり。物事の末に就て議論の純精なるものあればとて、これに由(よつ)てその本を動かすべからず」(p64)。

 第四章から七章までは「智徳」について論じる。文明の推進にあたっては「智」が大切であると説く。明治維新も「
智力と専制との戦争にして、この戦を企たる源因は国内一般の智力なり。」「王政復古は王室の威力に拠(よ)るにあらず、王室はあたかも国内の智力に名を貸したる者なり。廃藩置県は執政の英断にあらず、執政はあたかも国内の智力に役せられてその働きを施したる者なり」(p108)と言い切る。

徳義とは、一切外物の変化にかかわらず、世間の毀誉を顧ることなく、威武も屈すること能わず、貧賤も奪うこと能わず、確乎不抜、内に存するものをいうなり。智恵は即ちこれに異なり。外物に接してその利害得失を考え・・・」と述べ、駕籠より馬車が便利であれば、馬車を工夫し、馬車より蒸気車が便利であれば、蒸気車を発明するのが智恵の働きであるという。そして「有徳の君子は、独り家にいて黙坐するも、これを悪人というべからずといえども、智者もし無為にして外物に接することなくば、これを愚者と名(なずく)るも可なり。」(p128~)。

私徳の効能は狭く智恵の働きは広し。徳義は智恵の働に従て、その領分を弘めその光を発するものなり」(p132)「智恵を以て論ずれば、古代の聖賢は今の三歳の童子にひとしきものなり。」(p133)。

 福沢は「スタチスチク」、つまり統計(statistics)の手法が「
人間の事業を察してその利害得失を明にするために欠くべからざるもの」と述べる。(p83)。統計という訳語はまだなかったようだ。ちなみに「外人」という言い方は上に引用したように、すでにあった。

 巻末には50ページ余りの注と、30ページ足らずの解説がある。解説は本書の成立にいたる書誌事項が書かれている。同じ頃に出した『学問のすゝめ』はベストセラーになったが本書は余り売れず、むしろ忘れられていたという。西郷隆盛も読み、少年子弟に読むことをすすめたと福沢自らが後に書いている。本書も、『学問のすゝめ』も読んでいて、リズムがいい。解説によれば、福沢は当時、話し言葉によるコミニュケーションを重視していて、それで本書においても発声に馴染むようリズミカルでダイナミックな文体になったと推察している。

 本書には皇室に対しても厳しい見方が示される。94ページから95ページにかけては後醍醐帝のことが取り上げられる。尊氏に隷属視されたのは単に後醍醐天皇の不明によるばかりでなく、保元平治の乱以後、歴代の天皇の不明不徳は枚挙にいとまがなく、それが積もり積もり武家に隷属する結果になった。後醍醐帝は名君ではなくても、歴代の天皇に比べれば、その言行に見るべき所がある。だが、楠木正成を10人大将軍にしてもこの積年の弊をどうすることも出来なかったであろう。足利の成業も正成の討ち死にも偶然ではなく、時の勢いによるものである。 

 この部分の記述は、戦前1936年の岩波文庫版では削除されたという。しかしながら、福沢は以下のようにも言う:「
日本人の義務は、ただこの国体を保つの一箇条のみ。国体を保つとは、自国の政権を失わざることなり。政権を失わざらんとするには、人民の智力を進めざるべからず。」(p48)。「西洋の文明は我国体を固くして兼て我皇統に光を増すべき無二の一物なれば、これを取るに於て何ぞ躊躇することをせんや。断じて西洋の文明を取るべきなり。」(p49)。このあたりが、並の国粋主義者と違うところだ。

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書名 近代科学の源流 著者 伊藤俊太郎 No
2015-48
発行所 中公文庫 発行年 2007年9月 読了年月日 2015-12-14 記入年月日 2015-12-15

 『天為』の巻頭には主宰有馬朗人のエッセイが毎月載るが、11月号は「ルネサンスはイスラム文化の外圧で発生した」であった。その中で伊藤俊太郎著の『十二世紀ルネサンス』に感銘を受けたとし、その内容が紹介されていた。読んでみようと思ってアマゾンを調べたら、同じ著者の『近代科学の源流』もあった。こちらから読んだ。

 かなり高度で、専門的な著作。多数の肖像画にラテン語やアラビア語の原典の図版もかなり載っていて、巻末にはその文献の索引も一覧されている。いずれも中世の写本である。著者はこうした原典の文章を随所に引用しているが、それは著者自身の翻訳による。著者の学識の深さを示し、本書が大変な労作であることを示す。

 241ページには以下のように述べられる:
この間(8世紀から13世紀)にアラビア世界はギリシャ科学の精華を我がものとし、それをある点では換骨奪胎しつつ絢爛豪華な科学文化を形成してきた。今や西欧世界がその成果を受けつぎ、新しい飛躍をとげるべきときがきた。八世紀から九世紀にかけて(シリアやアレキサンドリアを介し)、ヘレニズム科学の遺産がアラビアへ受けつがれたとすれば、十二世紀から十三世紀にかけて、こんどはアラビアの知的遺産が西欧世界へと受け入れられ、ここに初めて西欧は一地方文化たることを超えて、やがて世界の中心にのり出してゆくべき知的基礎を獲得し、新たなスタート・ラインにつくのである。

 本書の主眼である。本書の前半はギリシャ科学からアラビア科学の具体的、詳細な説明で、聞き慣れない科学者の名前が次々に出てきて読んでいても頭に入らない。巨視的な立場からの記述になる後半は読みやすい。

十二世紀にアラビアと接触する以前には、西欧世界は、ヒポクラテスも、ユークリッドも、アルキメデスも、プトレマイオスも、ガレノスも、またアリストテレスのほとんどの著作も知らなかった。」(p246)。

 アラビアに保存されたギリシャ科学の原典をアラビア語からラテン語に翻訳していったのは、修道院などキリスト教の関係者である。12世紀の大翻訳運動を支えたのは少数の知識人であって、「
この異国の先進的文化を吸収・消化しようとする、わが幕末の先駆者にも似た、彼らの熾烈な知的情熱と地道な努力こそが、あの十字軍の喧噪とは別に、中世における最大の文化運動たるこの十二世紀ルネサンスを静かに、しかも力強く推進させていたのである。」(p255)と熱く語っている。

十二世紀が移入の時代であったのに対し、十三世紀はその移入されたものの消化・吸収を通して、西欧科学が自らの足で独立の歩みを開始する時代である。」p272。13世紀における成果の一つとして、グロステスト等による科学方法論における「数学的合理性」と「実験的実証性」のユニークな統合をあげる。この方法論は17世紀のガリレオにおいて最も徹底した形で遂行されたが、その萌芽は13世紀にあるとし、「東洋社会がもつことのできなかったこの西欧における近代科学の成功は、合理的な数学方法と実証的な実験方法とを有効に結びつける独特な方式を発見したことに基づく。」(p285)と述べる。そうした方式の背後にはキリスト教の影響がある。

 近代科学を中世の自然観、あるいはキリスト教の自然観の遺産であるとする見方を著者もとっている。ギリシャ的自然観は、神・人間・自然をすべて一体として見ていた。それに対し、中世キリスト教世界では、神と人間と自然は厳然たる階層的秩序として見られる。「
人間は神のために存在し、自然は人間のために存在する。人間はこの神と自然の中間にあり、「理性ratio」により自然を知り、「知性intellectus」により神を認識する。」(p345)。「自然を人間とまったく独立無縁なものとしてこれを徹底的に非人間化することによって客観化し、これに実験的操作を加えて外から認識するほかはない。」と述べ(p346)、機械論的非人間化の代表例をデカルトに、実験的操作による支配をフランシス・ベイコンに見ている。そして「キリスト教のみが(近代の)実証科学と技術を可能にしたのである」というロシアの歴史学者の言葉を引いている(p347)。

自然観に関して、従来のように、古代と中世を連続させてこれを近代に対立させるよりも、むしろ中世と近代を連続させてこれを古代に対立させるほうが、はるかに当を得ているかもしれない。」(p349)。

 私は歴史というものは常に連続しているものだと思っている。時代区分というのは歴史学の便宜的なもので、それほど厳密なものではなく、かつ意味があるとも思っていない。だから本書のように近代西欧科学の起源を中世まで、さらにアラビアを通してギリシャまで遡る書き方は好ましく思われる。世紀で歴史を区切るのも好きではない。だから12世紀といっても、前後の50年くらいの幅をもたせて考えている。
 本書の初出は1976年から12回にわたり雑誌『自然』に連載されたものである。

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書名 貴族 著者 櫂未知子 No
2015-49
発行所 邑書林 発行年 96年8月 読了年月日 2015-12-22 記入年月日 2015-12-26

 櫂未知子は昨年の4月からテレビ番組NHK俳句の第3週の選者である。テレビで見るまで名前を知らなかった。彼女の年間テーマは日本の季語遺産で、毎月出される兼題は、私などが挑んだことのない季語がほとんど。例えば「薬玉」「水中花」「竹婦人」「浮いて来い」「起し絵」など。絶滅危惧種の季語だ。櫂未知子はこうしたものをスタジオにもってきて、視聴者示す。驚くのはそのほとんどが自分の手作りなのだ。彼女は自ら「中七女」と称し、特に中七の字余りには厳しい有季定型派だ。こうした難しい季語に対して、たくさんの俳句が寄せられることにも驚く。櫂未知子の選句は極めて現代的で、伝統的季語に新しい息吹を吹き込んでいる。そのやわらかな語り口にも魅せられて今一番気に入っている俳人だ。ただ、その句はほとんど知らなかった。

 佐渡ヶ島ほどに布団を離しけり
 この句を歳時記の例句に見たのはいつだろうか。作者は伝統季語を大切にし、有季定型を守る櫂未知子であった。衝撃だった。ますます櫂未知子ファンになってしまった。さらのその後、この句は俳句雑誌では平成名句50句に入っているのを知った。

 今年の7月、私の属する「天為」の25周年記念式典があった。帝国ホテルで行われた宴席には、櫂未知子も招待されていた。私は思いきって、来賓席の櫂さんの所まで行きテレビで毎月見ていると挨拶をした。また、退席する際に私のテーブルの横を通ったので、立ち上がって握手までした。

 とはいえ、歳時記で散見する句と、NHK俳句の冒頭で紹介される自句以外、櫂未知子の句は読んでいなかった。句集を調べたら、2つあった。アマゾンで調べたら本書は9546円、もう一つの『蒙古斑』は4294円であった。とても買う気にはなれない値段だ。たまたま青山で夜の予定があったので、早めに家を出て午後の時間を国会図書館で本書と『蒙古斑』を読むのに当てた。

『貴族』は著者の第1句集。1ページ2句、自由、個室、睫毛、倫敦、群青の五つのサブタイトルに別れる。
 どれを選んでも、斬新ではっとする句ばかりだが、各サブタイトルの冒頭句と最終句には作者の意図があるだろうと思い、その2句と他に特に目についた句をメモした。

自由
髪切りしわけ問はれずにゐる寒さ    冒頭
ひた泳ぐ自由は少し塩辛い
団塊の世代の下で冷えてをり
消し忘れのビデオテープと寒き恋    最後

個室
吹雪く夜は父が壊れてゆくやうで    冒頭
雪野へと続く個室に父は臥す
つややかな管つけ父は朧なり
腹水の彼方で冷えた海が鳴る
父を地に還す凍港ひかるころ
父親でも兄貴でもないあたたかさ    最後


春泥のそのごちゃごちゃを恋と呼ぶ   冒頭
葡萄吸ふ弟のやうな睫して
さびしいと言へば絵になる秋の暮
山眠りけり係長は働けり
放火魔の目をして野火の一刹那     最後

倫敦
晩秋を女優の顔でやりすごす      冒頭
「しばれる」と訳す倫敦塔真裏
兎愛(は)し前菜なればなほ旨し
ぎりぎりの裸でゐる時も貴族      最後

群青
連翹のどこかなげやりなる黄色     冒頭
鳥交る真水より濃き眸持ち
消しゴムがもう少し痩せた頃に夏
「八月」が普通名詞に変はるまで
笑ふこと減りてトマトに塩を振る
方舟に乗せむ夕映え色の鮭
トンネルの外で発酵する根雪
雪空をアンモナイトになる心       最後

 櫂未知子は余市の出身。青山学院大学院で国文学を専攻。ロンドンにも留学している学者でもある。俳句のもつ可能性、日本語のもつ可能性に挑んでいるような印象を受ける。

 団塊の世代、消し忘れのビデオテープ、父が壊れゆく、腹水、係長、放火魔、真水より濃き眸、普通名詞、発酵する根雪、アンモナイトになる心。こんな言葉を俳句にした俳人がいるだろうか。

 奔放な作品の中で、凍てつく地に病む父を詠んだ「個室」が最も印象に残る。冷徹に詠みながら、父への深い思いが伝わる。

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書名 蒙古斑 著者 櫂未知子 No
2015-50
発行所 角川書店 発行年 平成12年8月 読了年月日 2015-12-22 記入年月日 2015-12-26

 櫂未知子の第二句集。第一句集『貴族』より一段と衝撃的だ。エロスの匂いが立ちこめる。

 やはり1ページ2句。春は曙、水中花、黄昏、雪の4つのサブタイトルから成る。
 前書『貴族』に倣って、各サブタイトルの冒頭と最後の句、それに目についた句を挙げ勝手な鑑賞を記す。

春は曙
春は曙そろそろ帰つてくれないか   冒頭
 「中七女」と自称している俳人の、これは上七、中八という破調の句。破調でありながら流れが良いのは「春は曙」という枕草子の一節がよく知られているからだろう。どういう情景だろうか。同衾の相手にもういい加減に帰って欲しいという情景としかとれないが。帰ってくれというのは人目を気にするからなのか。あるいは自分一人で濃密な情事の余韻にひたりたいのか。道ならぬ恋の匂いもする。あるいは平安王朝の妻問婚の後朝。清少納言もびっくりポンの春の曙だ。

啓蟄をかがやきまさるわが三角州(デルタ)
 何とも言えないすごい句。

うまさうな鳥だったのに鳥帰る
菜の花を挿すか茹でるか見捨てるか
 ブラックユーモア。この句集にはこの他食べ物の句がたくさんある。

ジッパーを上げて春愁ひとまず完   最後
 これもエロスの匂い。

水中花
ジーンズの立派な穴へ青嵐      冒頭
 ジーンズの破れ穴だろう。

香水を分水嶺にしたたらす
 香水が分水嶺で左右に分かれる。1滴は太平洋に、1滴は日本海に。気宇壮大な句。分水嶺にはロマンがある。
 分水嶺越えて木枯下り来る  という句を私も詠んだ。

夕立も生かせぬプラトニックラブ
 今どきはあまりないもどかしい恋。日本には古来「やらずの雨」という言葉があるのに。

げっそりと日本語痩せて雲の峰
 多分ロンドン留学の時のことだろう。使う機会が乏しく、自らの日本語が痩せていったことへの嘆き。あるいは、日本語の語彙が貧弱化していくことへの、多くの季語が廃れてゆくことへのもっと広い意味の嘆きか。

生類を憐れむ海鞘の旨き夜は
 食物の句。海鞘(ほや)は夏の季語。俳諧味というのだろうか。五代将軍綱吉まで連想させるところがすごい。

生き生きと死んでいるなり水中花     最後
 確かに根から切り離された花は死んでいる。しかし水中花は生き生きと死んでいる。

黄昏
朝顔のしどろもどろとなりにけり     冒頭
 朝顔も萎れると哀れだ。

几帳面な玉蜀黍だと思はないか
 ぎっしりと詰まった玉蜀黍の穂を見ると確かに几帳面だと思う。

卑怯なのは柿のすべすべするあたり
 柿のつややかな肌への嫉妬か。柿を卑怯だと言った日本人はまずいない。

ななかまど勝てる試合になら出よう
 ななかまどはそんなに打算的で臆病か。

雲はいま餃子のかたち秋の暮
 ありふれた叙景句だが、餃子にたとえたところが非凡。

黄昏は早し林檎の切り口の     最後
 林檎の切り口もすぐ褐色になる


佐渡ヶ島ほどに布団を離しけり    冒頭
 倦怠期のカップルか。二人の間には荒海があり、片方の布団の上には天の川が横たわっている。

いとしきは枯野に残る蒙古斑
 著者は蒙古斑が2つあるとあとがきに書いている。枯れ野の中にまだ残る緑の区画だろうか。もっとうがった読み方をすれば、作者の蒙古斑をいとしいと思う男の心情かもしれない。

ストーブを蹴飛ばさぬやう愛し合ふ
 床の上での営み?いやはや、何とも言えません。

雪まみれにもなる笑つてくれるなら   最後
 笑ってもらいたい人は誰だろうか。この句集のムードからすると、ストーブを蹴飛ばさぬように愛し合った人だろう。

 NHKがこの句集の作者をよく番組の選者に選んだものだと思う。しかし、番組を見ていると櫂未知子とNHKという異質な取り合わせがかえって効果を生んでいるように思われる。

 ここに見られる句は、『天為』にはまず見られない句。それなのに、なぜ『天為』主宰の有馬朗人は『天為』25周年に櫂未知子も招いたのだろうか。そんな疑問も抱きながら、国会図書館の端末で、櫂未知子を検索した。もちろん目的は『貴族』と『蒙古斑』を借り出すためだが、途中に「有馬朗人『母国』とその時代:聞き手・小論『国際俳句の黎明』櫂未知子」というのに当たった。雑誌『俳句』平成16年5月号である。この本も借りだした。櫂未知子はこの小論の最後を以下のように結んでいる:
 
海を越えることが今生の別れのように嘆かれた時代があった。そして現代は外国へ行くことが手軽になり過ぎ、それが逆に、良き海外詠が生まれにくい要因となっている。そのどちらにも属さず、あくまでも平常心で世界を見つめた『母国』は、真の意味での黎明を告げていた。
 二人の間にこんな関係があったのだ。

水中花誰か死ぬかもしれぬ夜も
 は有馬朗人の代表句の一つであり『母国』に載っている。

 俳句を始めて分かったのだが、世の中には俳句をやっている人が多い。私の感触では100人に1人位いそうだ。その人たちが年間に例えば100句作ったとすれば、日本全体では1億句を越える。長い年月に蓄積された俳句の数は膨大だ。十七文字という短い字数と、季語を入れるという制約を考えれば、似たような句、似たような発想は山ほどあるだろう。私でもどこかで聞いたような句だと思うことはしばしばであるし、自作の句ももう誰かどこかで詠んでいるだろうと思うことも多い。しかし、この句集にはどこかで聞いたような句だと思うものは、まずない。俳句の世界はまだまだ広い。櫂未知子は俳句の未開の分野に切り込んでいる。私にはとても真似することは出来ない。

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書名 十二世紀ルネサンス 著者 伊藤俊太郎 No
2015-51
発行所 講談社学術文庫 発行年 2006年 読了年月日 2015-12-26 記入年月日 2015-12-26

 前著『近代科学の源流』と同じ著者による。本書は近代科学発展の起点となった12世紀に焦点を合わせる。前著とかなりの部分で重複している。

 12世紀はヨーロッパ文明の礎となるさまざまな文化的基盤が準備されたとされる。その全体像としては、ローマ法の復活、ゴシック建設の成立、ポリフォニー音楽の成立などもあるが、本書は科学と哲学の問題を中心として12世紀ルネサンスを扱う。著者はそれをイスラムと西欧との文明遭遇、前者から後者への文明移転として捉えようとする。

 まず、ギリシャ以来の3000年の西欧文明という言い方を否定する。ギリシャ科学は西欧世界ではいったん途絶えてしまう。ギリシャの学術はみな東方のビザンチンへ行った。そしてそれが次ぎにアラビアに入っていった。ローマ人はギリシャの本当の学術は理解出来なかった、だからローマに入らなかった。12世紀になって西欧はアラビア、ビザンチンを介して、ギリシャの第一級の学術と出会う。(p22~)。

 12世紀ルネサンスの内因として、封建国家の確立、食糧生産の増大、商業の復活、都市の勃興、大学の成立、知識人の誕生を挙げる。しかし、ここにアラビア、ビザンチンの文明を取り入れることがなかったら、西欧の世界文明への飛躍はなかったという。(p44)

 以後、文化移転のルートとギリシャ学術書のアラビア語あるいはギリシャ語からのラテン語への翻訳に携わった人々の記述が続く。

 ルートは主として3つ。まずスペインルート。ここでは長いことイスラム教徒とキリスト教徒が大きな宗教的対立がなく共存していた。次が、シチリアルート。ここはビザンチン、次いでイスラム、さらにノルマンの領地になった。11世紀に成立したノルマン王朝下ではアラビア語、ギリシャ語、ラテン語の3つの言葉が混在していた。3番目のルートが北イタリアルート。ベネチアやピサの商人はビザンチンと自由に行き来していた。

 このあと翻訳者、あるいは学者については詳細に述べられるが、多くは前書『近代科学の源流』とダブル。
一人を挙げるならイギリスバースのアデラード。バースはローマ人が開いた温泉のある町で、私も今年の夏に訪れたところだ。アデラードはシチリアでアラビア語を習得した後、東方を旅する。そこで彼が見たのは、東方世界との大きな文明の落差。故郷に帰った彼はアラビアの啓蒙を経た例えば『自然の諸問題』といった著作を著す。その中では、自然自身を理性で研究していくという立場が貫かれる。彼はまた翻訳も行う。その中で最も重要なのはユーグリッドの『原論』のアラビア語からラテン語への全訳であった。この翻訳以後、「
『原論』は西欧世界で聖書についで読まれ、ヨーロッパ学術の典型となるほどの甚大なインパクトを与えました」(p87)と著者は記す。アデラードのの書物には「アルコール」という言葉が初めて見える。著者はアデラードを幕末から明治にかけて多くの西洋文物を日本に紹介した西周や福沢諭吉に比すべき人物としている。(p88)

 本書で面白かったのは、ユーグリッドの『与件』のラテン語訳はギリシャ語から直接なのか、あるいはアラビア語からなのかを、考察したところ。これは著者がアメリカウイスコンシン大学に出した博士論文である(p211~241)。12世紀にラテン語に翻訳された『与件』の原本の写本は現在、パリ、オックスフォード、ベルリン、ドレスデンの4カ所にある。著者はそれらを詳細に付き合わせることで、より完全な原本の姿を求め、その文章の特徴を、それぞれギリシャ語とアラビア語と細かく対比させることで、このラテン語訳はギリシャ語から直接に行われたものであると結論する。翻訳の場所はシチリア。ユーグリッドの『原論』には上述のアラビア語からの訳の他に、ギリシャ語からの訳もあることが分かった。その訳者と『与件』の訳者は同一人物であるとし、その名前まで特定する。当時は訳者の名前は本には記されない習慣であったから、名前の特定も、当時の他の文献から推測している。西欧の学者に俉して日本にこのように中世ヨーロッパの埋もれたような羊皮紙の文章を研究する人がいるということに驚く。中世ラテン語、ギリシャ語、アラビア語にも精通している。著者はこのラテン語訳の『与件』の英語版も公表している。こうした中世の科学文献が、「発掘」されるようになったのは20世紀になってからだという。本書にはそうした写本の写真がいくつも掲載されている。

 ユーグリッドの『原論』について(p189):
十二世紀にユークリッドの『原論』全十三巻がラテン訳を通して西欧世界に知られるようになったことは、その後の西欧科学の性格を大きく規定したといえるでしょう。ここに合理的・演繹的体系としての西欧の学問観の基礎が据えられることになりました。

 本書は講義録である。誰を対象とした講義あったかは書いてない。ラテン語の原典の写しなどが、サブテキストとして配布されたりして、高度な内容である。7講よりなる最後の講は「ロマンティック・ラブ」で、トゥルバドゥールの起源について述べる。トゥルバドゥールとはリュートという楽器に合わせて、吟誦される詩で、中身は女性へのロマンチックな愛を捧げるもの。そうした詩もリュートもいずれもアラビアから入ってきたものだという。「
当時のゲルマンの封建騎士道にあっては、戦友同士の友情や領主に対する恩義が重要であって、女性は男性にとって対等な愛の関係を結ぶ人格的な存在ではなく・・・・単に彼らの性的欲望の対象でしかなかった。」(p248)。

 トゥルバドゥールはスペインに始まり、ロマンス語圏を通って西欧に広がっていった。「愛は十二世紀の発明だ」というある歴史家の言葉があると言う(p254)。ギリシャの愛は本質的には同性愛であり、またキリスト教の愛も女性に対するロマンチックな感情などないものであった。「
西欧中世の特色となった騎士道とか婦人にたいする礼儀の理想は、イスラム教下のスペインで、一足先に形づくられていた。」(p264)。「トゥルバドゥールの愛はさらにイスラム神秘主義の変容を経て、十四世紀にイタリア「清新体」の詩人に引きつがれ、古典主義やキリスト教をも打って一丸とし、ダンテとペトラルカに最も完成された姿を現わしたといってよいでしょう」(p279)。

 本書を読むと、イスラム世界との接触がなければ、現在の形の西欧文明はなかったことになる。ではなぜイスラム世界はその後の西欧が達成した近代科学を発展させることが出来なかったのだろうか。イスラム世界は単にギリシャ文献を写していただけではない。アラビア数字や代数学の発明など、独自の高い学術を誇っていたことは、本書にも随所で触れられる。十二世紀西欧ルネサンスの内因としてあげられた、前掲6つの要因を多くをイスラム世界は欠いていたのだろうか。さらに現在の西欧世界とイスラム世界の対立は一体何に由来するのか。イスラム側から見た歴史を読んでみたい。

 初出は1993年、『岩波セミナーブックス42』として出版された。湾岸戦争の2年後である。

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書名 作家の猫 著者 コロナ・ブックス編集部 No
2015-52
発行所 平凡社 発行年 2006年 読了年月日 2015-12-29 記入年月日 2015-12-31

  エッセイ教室の猫好きな受講生が、こんな本がありますよといって紹介してくれた。『作家と猫』ではなく、作家が飼っていた猫である。暮れの何かと気ぜわしいときに眺め、読むのに格好の本。たくさんの写真が入っていて猫の魅力を引き出している。一番初めの漱石から、谷崎潤一郞、ヘミングウエイ、三島由紀夫、開高健、そして最後は中嶋らもまで28人の作家が網羅され、作品の中の猫に触れた一文が引用され、その後そろれぞれの飼っていた猫との関係が、主として遺族によって語られる。多くの作家の場合、最初はそれほど猫好きではなかったのに、ある時家にやって来たとか、家族が拾って来たとか、野良猫に餌をやっているうちに家になついたという、偶然に出会った猫に猫の魅力を発見して、好きになっていく。取り上げられた28人は全員故人である。猫を通して作家の日常が見えてくる。

 漱石は特に猫好きではなかった。漱石は何処にも猫が好きであるとは書かなかったので、好きだったかどうかは不明だと、孫に当たる夏目房之介はいっている。『吾輩は猫である』の猫は5歳で死んだ。漱石が小宮豊隆に送った猫の死亡通知の写真が載っている。

 とにかく写真がたくさんあって、楽しい。内田百閒のノラの捜索願も何種類か写真がある。猫の写真で一番気に入ったのは、火鉢に両手を乗せている猫。火鉢の隅には土瓶がかけてあり、その横に和服姿の室生犀星が坐っている。犀星の前には文机があるが、犀星は机には向かわず、横の猫の方を向いて坐っている。口元が少しひらいているから、「ジイノ」と呼ぶその猫に何か話しかけているように見える。犀星は、ジイノのために火鉢の火加減の注意を怠らなかったという。ついでに、ここに登場する作家は誰も座卓を文机に使用している。

 多くの作家が、同時に何匹もの猫を飼う。ヘミングウエイはキューバの邸宅には猫専用のフロアがあり、50匹もの猫王国を築いたという。それぞれの特徴をよく捕らえていて、モンローとかピカソとかふさわしい名前を付けた。だが、諍いを起こした猫は射殺するという厳しい面ももっていたという。大佛次郎の写真には、7匹の猫が並んで同じ姿勢で餌を食っているものがある。壮観である。

 雑多に本が積まれた机の前にあぐらをかき、胸にしっかりと猫を抱いた三島由紀夫の写真もいい。昭和27年というから、27歳の時だ。机の抽斗にはつねに煮干しが入っていたという。

 こういった写真はプロがとったものだろう。私も今までにたくさんの猫の写真を撮ったが、この種の写真はほとんどない。何枚か残しておきたいものだ。

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書名 作家の猫2 著者 コロナ・ブックス編集部 No
2015-53
発行所 平凡社 発行年 2011年 読了年月日 2015-12-31 記入年月日 2015-12-31

 『作家の猫』の続編。前編が好評だったのだろう、5年後に第2弾が出た。

 加藤楸邨から立松和平まで26人。本書では作家だけでなく、音楽家、あるいは平岩米吉という日本猫の保存運動を続けた人まで。いずれも故人であり、初めて名を聞く人もかなりある。

 表紙の写真は万歳して仰向けに寝ている猫の顔。デブでブスといった方がよい。これもいい写真だ。谷啓の猫で、谷啓は美形よりもこうした猫が好きだったという。一押しの写真は加藤楸邨と猫。箸で胸元まで蕎麦を持ち上げた楸邨の横に鼻から上だけ姿を見せる猫。机に隠れているが、両方とも正座している。「ミイ」というこの猫は、人好きで、来客があると楸邨の隣に座り、帰るときは家族と一緒に玄関で見送ったという。楸邨には120句もの猫の句がある。12句が引用されている:

 百代の過客しんがりに猫の子も

 中村汀女も猫好きの俳人

 恋猫に思ひのほかの月夜かな

 1990年から始めたこの読書ノートも、本書をもって1000冊になった。

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