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書名 著者
PERSON OF THE CENTURY Time
明治人ものがたり 森田誠吾
母なる自然のおっぱい 池澤夏樹
インパラは転ばない 池澤夏樹
生命は学習なり―わが学問を語る コンラート・ローレンツ
「ふたり暮らし」を楽しむ 下重暁子
地球環境再生への試み―劣悪環境の現地に立って 田村三郎
味と香りの話 栗原堅三
言伝て鍋 池部良
夢分析 新宮一成
人間臨終図鑑I 山田風太郎
情熱と冷静のあいだ 江国香織
情熱と冷静のあいだ 辻仁成
翻訳はいかにすべきか 柳瀬尚紀
はじまりの記憶 柳田邦男、伊勢英子
親指Pの修業時代 松浦理英子
エントロピー入門 杉本大一郎
花を運ぶ妹 池澤夏樹
海図と航海日誌 池澤夏樹
インターネット術語集 矢野直明
将棋の来た道 大内延介
旅客機の科学 井戸 剛
笹まくら 丸谷才一
たった一人の反乱 丸谷才一
脳と記憶の謎 山元大輔
ふらんす物語 永井荷風
楽天記 古井由吉
人間の土地 サン・テグジュペリ
夜間飛行 サン・テグジュペリ
黒い雨 井伏鱒二
熱帯雨林 湯本貴和
あめりか物語 永井荷風
サンセット オン ハイウエイ 神中 洋子


書名 PERSON OF THE CENTURY 著者 TIME No
2000-01
発行所 発行年 1999/12/31
読了年月日 2000−01−03 記入年月日 2000−01−04

 
雑誌「Time」の20世紀の一人を選んだ特集号。選ばれたのはALBERT EINSTEIN。彼を選ぶに至った過程と、彼の業績、生涯が記載されている。その他に彼とPERSON OF THE CENTURY を争ったフランクリン・ルーズベルトとマハトマ・ガンジーが特集されている。そしてさらにこの1000年における各世紀の一人が取りあげられ紹介されている。ちなみに11世紀は征服王ウイリアム、12サラディン、13ジンギスカン、14ジオット、15グーテンベルグ、16エリザベスI世、17ニュートン、18ジェファーソン、19エジソンである。

 歴史の若いアメリカからジェファーソンとエジソンが選ばれていることからわかるように、あくまでもアメリカ中心の見方にたつ。ルーズベルトもそんな感じのする人選だ。

 面白い特集号だ。今世紀の特徴をデモクラシー、市民的権利、科学技術の3つが大きく発展したととらえ、その代表としてルーズベルト、カンジー、アインシュタインをあげ、その中から結局アインシュタインを選んだ。妥当な選択だと思う。私はルーズベルトの業績はまったくと言っていいほど知らなかった。それほど強い指導力を発揮したわけでもないと思う。しかし、TIMEは彼を選んだ。大恐慌を克服し、ファシズムをうち破ったという業績だ。20世紀前半の50年のPERSONとしてTIMEが選んだのはチャーチルであった。しかし、その後の50年の評価を経て、植民地や市民的権利に対するチャーチルの態度でその評価を変えざるを得なかったとTIMEは述べて、ルーズベルトを候補にあげた。

 ガンジーはむしろ意外であった。アインシュタインの対抗馬としてはワトソン・クリックも当然あげられた。しかし、インパクトではアインシュタインにかなわないとしている。DNA構造の発見のもたらす影響は人ゲノムの解明を待って、来世紀にもっと大きくなるだろうと言う。そして最後にアインシュタインが一人選ばれたのは、20世紀がそれだけ科学技術の時代であったことの証明だが、アインシュタインの人柄と亡命者という経歴も大いにあずかっている。

 ホーキングがアインシュタインの業績を簡潔にまとめている。比較的わかりやすいいい解説だ。

                           

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書名 明治人ものがたり 著者 森田誠吾 No
2000-02
発行所 岩波新書 発行年 98年9月 読了年月日 2000−01−10 記入年月日 2000−01−10

「睦仁天皇の恋」、「学歴のない学歴」、「マリとあや」の3部からなる明治人のものがたり。

「睦仁天皇の恋」は、天皇の恋自体に主題があるのではなく、天皇の恋というプライベートな問題が新聞に報道された、明治一桁時代の自由さを主題とする。明治の中頃まではまだ天皇の地位は強力ではなく、神格化も進んでいなかった。

「学歴のない学歴」は、森銑三という伝記・歴史家が唱えた、西鶴は生涯に「好色一代男」しか書いておらず、後はすべて他人が書いたという説を中心に、森の生涯を紹介したもの。著者は学歴がない故に軽んじられた森に温かい目を注ぐが、最後で事実から考えて森の説が妥当でないことを述べている。

「マリとあや」は、それぞれ鴎外と露伴の娘を対比させて、その生涯を紹介したもの。お嬢様育ちの森茉莉と、江戸気質の残る幸田あやとの対比が面白く、また二人の娘を通してみた鴎外と露伴も面白い。マリはあやの一才上である。特に面白かったのは露伴のあやに対する教育。これだけのことがずけずけと娘にいえる父親はそうはいない。

 以上いずれも色々な書物からの引用を主体としてまとめたものである。要領よくまとめて書いてある。著者は直木賞受賞作家。ただ、本当は著者が引用した原典を直接読むべきだろう。例えば幸田あやと露伴のことなど。

                           

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書名 母なる自然のおっぱい 著者 池澤夏樹 No
2000-03
発行所 新潮文庫 発行年 平成8年2月 読了年月日 2000−01−26 記入年月日 2000−01−29

 
題名からは想像できない硬質で知的な文明批評集あるいは科学エッセイ。主として自然と人間の関係を論じる。論旨が明快で、主張に説得力があり共感を覚えるところが多い。この本により私の池澤夏樹好きは決定的になった。何よりもいいのは、イデオロギーを振りかざすのではなく、淡々と事実に基づき主張を展開していること。語り口の穏やかさである。

 ぼくらの中の動物:動物でありながら進化しすぎた人間の矛盾。異常な進化の大きな要因は言語の使用にある。それを基に人間は経験を集積できた。

 ホモ・サピエンスの当惑:反捕鯨団体への反論的な意味合いの強い評論。臓器移植は人食いにつながる思想だと言う鋭い指摘がある。

 狩猟民の心:農耕により富が蓄積し、それが争いや戦争を生んだ。
 ガラスの中の人間:バイオスフィアの取材記。批判的によく紹介されている。
 旅の時間、冒険の時間:人は何故旅をするか。旅では先に何が起こるか不明。そうしたものに向かう心は狩猟時代の生き方に通じる、いきると言うことの本質をなすものであろう。 風景について:高みに立つことの意味。地図の意味、神の概念の生成との関係。

216p:老荘思想の背景として
「人の中には陰謀があるが、自然には試練しかない」 
217p:後半、著者の自然観がまとめられている。
「ただ存在するだけという自然のありように自分を添わせることができれば、この相手は小刀細工に終始している卑俗な人間たちよりずっと付き合いやすいはずである」
256p:北岳の初登はんは1871年明治4年、地元の芦安村の名取直江。1904年にはウェストンが登っている。私が登ったのは63年だから、初登はんから100年もたっていなかったのだ。

 読売文学賞受賞
 私もこういうエッセイを書きたい。

                           

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書名 インパラは転ばない 著者 池澤夏樹 No
2000-04
発行所 新潮文庫 発行年 平成7年6月1日 読了年月日 2000−01−28 記入年月日 2000−01−29

 
旅を中心にした短いエッセイを集めたもの。旅に対する考えが私とぴったりで嬉しくなる。まず歩くこと、そして旅先のどんなことでも受容し、どんな食べ物を拒まず、それらを楽しみに変えてしまう精神の広さと深さ。果敢な行動力。在住したギリシャを初め、南洋の島々、スーダンの砂漠、沖縄や先島、尾瀬など日本の山々、筆者の足跡は地球上の様々な地の及ぶ。そして知的ゲームも楽しむ。例えば、東京から真っ直ぐ北に行くことを考えてみる。500メートルの幅をもって行くとしても、それは極めて難しいとしている。私は日本の分水嶺を北から南まで歩いてみることを地図でたどったことがある。この、北にまっすぐ行くという発想も面白い。

 表題の「インパラは転ばない」というエッセイは以下のような要旨:
 人は山に行ったとき、せっかく見るべきものがたくさんあるのに、足下が悪いから下ばかり見て歩く。しかし、都会の道は舗装されているので、人は回りをみながら歩く。路面の舗装の最大の目的は人が目を上げて歩けるようにすることだ。人はせっかく遠くを見渡せる高いところに目を得たが、2本足で歩くために、歩くときは下を見て歩く。ところが動物は4つ足で、転ぶことがないから、いつも前を見ている。サバンナのヒョウは真っ直ぐ獲物を見て追走し、インパラも真っ直ぐを見て逃げる。サバンナは凹凸に富み、障害物だってたくさんあるにもかかわらず、彼らは美しく走り、はねる。人は手を自由に使えることで現在の文明を築くことができたが、そのかわり、歩くときには下を向いて歩くという代償を払った。だから、人は今でもテレビで野生動物の跳躍を見ると、直立で手を得たのは損な取引ではなかったが、インパラのように草原を走れるのもよかっただろうと思うのだ。  

                           

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書名 生命は学習なり――わが学問を語る 著者 コンラート・ローレンツ、三島憲一訳 No
2000-05
発行所 思索社 発行年 1990年6月 読了年月日 2000−02−04 記入年月日 2000−02−19

 
ローレンツの対談を記したもの。聞き手はオーストリアテレビの編集局長クロイツァー。
 池澤夏樹の本とともに、読んでいる間、充実感に満たされた。読後すごく得した気分になった。

 ローレンツの思想がよく出ている。それを聞き手が見事に引き出している。高度に知的な対話で、こうしたことがテレビで放映されるヨーロッパの知的水準はやはりすごい。

 生い立ちは想像したとおり、ローレンツの育ちはいい。大きな屋敷に子供の養育専任の女中。

 エントロピーと生命。負のエントロピーを食べる存在。西欧インテリに与えた熱力学第2法則の影響の大きさ。カント哲学、カントのいた教授職を継いだ。

 進化における「電撃」と言う概念。自我の獲得、概念思考の獲得、言語の獲得はそれらにあたる。言語は淘汰圧となって、人間の脳をさらに発達させた。動物に自我があると言う立場。言語はDNAでは伝えられないものを伝えることを可能にした。(池澤夏樹の著作にもこのことは何回も強調してあった。

 生命と学習:59p。習得によって得たものの中に生得的なものが常に潜んでいる。確固としたプログラミングに即した、変容不可能なメカニズムが何千とある。こうした機構こそがアプリオリなもの、つまりあらゆる可能的な経験の前提となる。これは行動主義者に対する彼の反論である。チョムスキーと同じ立場である。

 言語:100−102p。言語の獲得こそは進化に於ける最後の電撃である。第三紀の終わりになって突然一種類の猿が出てきて概念的思考というものを獲得し、遺伝子以外に情報を収集し、保存し、伝達する方法を身につけた。この概念的思考こそ典型的な電撃である。知覚という抽象化の能力、反省、それに探索的行動が重ね合わされたものだ。

 カントとの関係:64−65p。個々にとってアプリオリな内容であるものも実は進化におけるアポステリオリな経験であると考える。

 遊戯の能力:129p。人類の将来に対してペシミックと考えられているローレンツであるが、人間とは開かれた存在であり、好奇心の能力を持ち、ゲーム(遊戯)の能力を備えている。ゲームの能力とは精神的な意味も持っていて、人間におけるあらゆる可能な希望がその中に含まれていると考える。
 132:遊戯こそは決定からの自由である。思想、概念、理論がわれわれ精神の中で行うシャボン玉遊戯は進化の過程での様々な種の動きと非常に似ているのです。

 霧が丘の古本屋で購入。

                           

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書名 「ふたり暮らし」を楽しむ 著者 下重暁子 No
2000-06
発行所 大和出版社 発行年 1999年3月 読了年月日 2000−02−18 記入年月日 2000−02−19

 
定年後夫婦ふたりになった場合の暮らし方を示そうとしたもの。実際は下重さん夫妻の日頃の生活ぶりが書かれたもの。もっと言えば夫婦仲の良さをのろけた本。優雅で、リッチで子供のいない夫婦の生活。私に興味があったのは「つれあい」(本書では全部これで通している)の大野さんのこと。例えばアンチジャイアンツで、イチローや野茂のファンだというところ。私と気が合うわけだ。

 副題に不良老年のすすめとあるが、どこにも不良のすすめはない。育ちのいいお嬢様にとってはこの程度が不良なのだろう。
 下重さんがオークスに行くとは知らなかった。帽子をかぶって。そのことを書いたところで、「イギリスのロンシャン競馬場」とあった(103p)。これはミス。もう一つは「人権費」というところ(127p)。

2004−03−16
 今日のエッセイ教室の終わりに、この本が文庫本化され「不良老年の勧め」という題で近々発売になると下重さんは皆に宣伝した。その際、読んだ人からはちっとも不良老年ではないといわれると言い、私は結局は不良老年にはなれなくて、不良老年への憧れを書いていると付け加えた。本人もよく自覚しているのだ。

 ついでに、ロンシャン競馬場の誤りを下重さんに指摘したことがある。その時、下重さんは、「それは編集者の仕事である」と言った。書いた文章は全面的に著者の責任だと思っている私には、意外な言葉だった。実際の本を作る際に果たす編集者の役割は極めて大きいことを下重さんの発言で実感し、本の終わりにほとんどといっていいほど、著者から編集者への過剰と思われる感謝の言葉が書かれている理由が理解できた。

                           

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書名 地球環境再生への試み―劣悪環境の現地に立って 著者 田村三郎 No
2000-07
発行所 研成社 発行年 1998年2月 読了年月日 2000−02−23 記入年月日 2000−03−20

 
田村先生の文化勲章受章祝賀会のとき参列者に配布された。

 東大を退官された後の有機化学者から農学者に変身した先生の活動が書かれている。その行動力、そして組織力、リーダーシップは私の遠く及ばぬところである。リーダーシップを発揮した研究は、中国黄土高原の緑化、太平洋地域における気象変動の研究、中国の黄・准・海平原における塩類土壌地帯の生物生産力の増強、タイにおける泥炭湿地の修復、マレーシアにおける熱帯雨林の再生、中国広西省族自治区における石灰岩区の生態系再構築である。

 特徴は徹底した現地主義。先生はいとわずどこでも出かけていく。そして本書には至る所に写真が挿入されている。その写真が本書を親しみやすいものにしている。特に口絵のカラーで見る黄土高原の荒涼たる風景、白く塩類の析出した土壌、あるいは熱帯雨林の地上数十メートルに樹木から樹木へと渡された観測用の回廊など、先生の行かれたところが並大抵のところでないことをよく示している。もっとも、先生は高所恐怖症でこの観測用空中回廊には一度も足を運んでいないと正直に告白している。

 内容はわかりやすい。そしてこの種の著作にありがちな自慢めいたところもあまりない。
 先生の中国へのこの情熱は何に由来するのだろう。中国への侵略戦争に自ら出征したことへの贖罪なのだろうか。

                           

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書名 味と香りの話 著者 栗原堅三 No
2000-08
発行所 岩波新書 発行年 98年6月 読了年月日 2000−03−22 記入年月日 2000−03−25

 
表題通り味と香りについて全般的に解説してある。味や臭いに関する嗜好や、色々な甘味物質など、日常卑近な話から、著者の研究を中心に味覚や臭覚の基礎理論まで広範に記述してある。従って内容は広く浅い。私の基礎的な知識を大きく逸脱するような新しいことは書いてない。

 189p:臭い識別に於けるアクロスファイバーパターン説。臭い細胞は色々の臭い物質に反応するのに、我々が特定の臭いを識別できるのは、たくさんの臭い細胞からの反応のパターンで臭いを判定できるからであると言う説。
 195p:臭細胞は受容体のみで臭い物質を感知しているのではない。細胞膜の脂質層に臭い物質が付着すると、臭細胞はそれを感知することができるようだ。
 202p:味覚に於けるラベルドライン説。ラットとサルの場合の味覚の識別機構は違うようである。サルの場合はラベルドライン説、ラットの場合はアクロスファイバーパターン説で説明できる。

                           

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書名 言伝て鍋 著者 池部良 No
2000-09
発行所 文芸春秋社 発行年 2000年1月10日 読了年月日 2000−04−01 記入年月日 2000−04−02

 
葉山さんが前回のエッセイ教室の時、「金子さんや私以上でないと、この本はわからないのではないか」といって貸してくれた。表紙裏には、「臼井邦夫兄 池部良 平成十二年」のサインがある。

 著者は80才を越える。それにしてはこの筆力にまず脱帽。昔の慣用句やことわざ、そして駄洒落が至る所に出てくるエッセイ。こうした旧来の日本語の言い回しを残しておきたいという願いが本書の背景をなすものだ。ただし、エッセイといってもこれは事実そのものではなく、至る所に誇張、見てきたような嘘がある。葉山さんのいう「ファミッシュブライ」というものだろう。それがかなり鼻につく。あるいは著者の創作と思われる作品もある。
 妻にまず読ませたが、駄洒落と古い慣用句の羅列だといった。
 初出「オール読み物」97年から99年。

2000−04−18
 エッセイ教室の時、葉山さんが「あの本を金子さんは終わりまで読んだのですか」といった。彼は途中で放り出してしまったという。そして、なぜこんな作家の物がエッセイストクラブ賞を受けるのかよくわからないと言った。池部良は葉山さんの友人で、葉山さんの家にまで遊びに来る仲であるが、それにしてはかなり厳しいことを言うなと思った。きっと池部良のネームバリューのせいでしょうと私は言った。ファミッシュブライが多すぎるという点は葉山さんも同感だった。

                           

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書名 夢分析 著者 新宮一成 No
2000-10
発行所 岩波新書 発行年 000−01−20 読了年月日 2000−04−10 記入年月日 2000−04−15

 
フロイトの理論の上に乗った夢の解釈・分析。当然ながらたくさんの夢の例を出して、その解釈を通して夢の本質を明らかにしようとする。

 幼児が言語を獲得した瞬間というのは、人間にとっていかに劇的な瞬間であったかということを著者は強調する。我々の夢は言語獲得以前の自分の意識に帰るためのものという要素が強いという。多くの人が空を飛ぶ夢を見るが、それは言語を得たことの象徴である。そして語り得るからこそ夢は成立するのだ。言語と夢との深い関わりを至る所で指摘する。この考えは大変興味深かった。

 夢と数:3はファルスを、4は結婚を象徴するという。
 水の中に入る夢は誕生を意味する。
 こうした記述を私の夢にも当てはめてみると面白いだろう。確かに私の夢の中にも空を飛ぶ夢と、水の中にいる夢はよく出てくる。
 夢は人を覚醒から守り睡眠を継続させる作用を持っている。例えば睡眠中の性的興奮は夢を見ることによって昇華され、睡眠が継続される。
 夢には累層構造がありまた類型夢がある。類型夢というフロイトが考えた概念は夢の解釈の基本をなす。
 フロイトのエディプスコンプレックスについてもかなり詳しい解説がある。

 いくつかの夢の解釈にはかなりこじつけがあるという感じはどうしても拭えない。かといってクリックのように、夢を単なる逆学習Unlearningによる脳の情報整理過程だと片づけてしまえそうにもない。
 医者と病気の場合もそうだろうが、夢とそれを分析する人の場合も、分析者自身の夢が大きな役割を果たしているのだろう。

                           

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書名 人間臨終図鑑I 著者 山田風太郎 No
2000-11
発行所 徳間書店 発行年 96年10月 読了年月日 2000−04−18 記入年月日 2000−04−18

 
15歳で火あぶりにされた八百屋お七から始まって、55歳で癌で死んだ大川橋蔵で終わる様々な人の死の模様が、死亡年齢順に記述してある。登場人物は古今東西に及び多彩であるが、作家や芸術家がやはり多い。病死、暗殺、自殺、処刑と人の死に方は様々である。そして、死に当たっての態度も様々である。苦しみ恨みながら死んでいく人、従容として死んでいく人。取り上げられた人はほとんどがよく知られた人だから、歴史の裏側を読むようなおもしろさが本書にはある。最後に当たってその人の意外な人間性が表れていて親しみを感じたり、何だと軽蔑を感じたりする。本編は若くして死んだ人が中心だから、業半ばに無念の思いを抱いて死んでいく人、あるいは悲劇的死に方をした人が多い。大久保清や、小原某、正田某など、戦後の社会を騒がせ、凶悪犯として処刑された人々の最後が取りあげられているのも興味深い。

 そして著者の博識ぶり、あるいはよく資料に当たっていることには相変わらず舌を巻く。
 例えば、漱石の葬儀の受付をやった芥川龍之介の「
・・・その人の顔の立派なる事、神彩ありと云うべきか、滅多に世の中にある顔ならず。名刺を見れば森林太郎とあり」という文を引いた後で、当日の鴎外の日記を載せる。「泥濘。夏目金之助の葬に青山斎場に会す。大山公邸に往き弔す」。そして最後にかっこ書きで(註・十日大山元帥死去)。
 ちなみにこれは大正5年12月12日のことである。

ヴェルレーヌの項にはこんな記述がある:
 
・・・ランボーをピストルで撃って負傷させ、刑務所にはいる羽目になった。獄中で書いた『無言の恋歌』の中に、のちに日本で愛唱された、
「巷に雨の降るごとく
 わが心にも涙ふる。・・・」
の詩があった。(堀口大学訳。これを「わが心にも雨がふる・・・」と勝手に変えたのは宇野浩二である)

 こういう記述を私は大好きである。
 
 病死の原因を見ると今とかなり違う。結核が多い。そして脳溢血,感染症、尿毒症などが多い。今だったら癌と心臓病が多いだろう。昔は癌になる前に結核や感染症でなくなったのだ。あるいは今の医学知識から見れば、病気の診断も変わったものになることもあろう。山田風太郎は元々医者であったこともあり、病気に関する記述は専門的だ。

                           

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書名 情熱と冷静のあいだ 著者 江国香織 No
2000-12
発行所 角川書店 発行年 平成11年9月30日 読了年月日 2000−04−20 記入年月日 2000−04−25

 
次項参照

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書名 情熱と冷静のあいだ 著者 辻仁成 No
2000-13
発行所 角川書店 発行年 平成11年9月30日 読了年月日 2000−04−25 記入年月日 2000−04−25

 
一つの恋愛を男女二人の作家で書いた異色の小説。読み終わって江国香織に軍配を揚げる。その特徴ある短いセンテンスを重ねる、歯切れのよい文体が何よりも魅力がある。そして、ミラノの街の風景描写に独特の味わいがある。

 物語は順正とあおい(アオイ)との恋物語である。といっても現実の二人はフィレンツェもしくは東京とミラノに住み、もう別れてから8年の歳月が流れる。順正はニューヨーク生まれで育ち。アオイはミラノ生まれでミラノ育ち。二人の帰国子女が大学生の頃恋に落ちそして別れる。あおいは20才の時順正に何気なく30才の誕生日、2000年5月25日に二人でフィレンツェのドゥオモの頂上に登りたいという。二人の別れた原因はあおいの中絶に起因するのだが、その真の原因を順正は知らず、自分に知らせずに中絶したことを怒り、別れる。順正はフィレンツェで絵画の修復術を学び、そこでルネッサンス時代の絵画の修復に従事する。あおいはミラノに帰り宝石店の店員として働く。そこであおいはアメリカ人ビジネスマンと知り合い同棲する。一方順正はフィレンツェで日本人とイタリア人のハーフの娘と恋人関係になる。男の方はあおいがいつまでも忘れられず、ことある毎に思い出す。そして2000年5月の女の誕生日にフィレンツェのドゥオモの上の約束をいつも気にする。

 一方、江国の描くアオイの方では昔の恋人順正が登場するのは後半のことだ。それまでは恋人マーブや、アオイの友達のとのミラノでの平凡な日常が淡々と描かれる。アオイの過去が出てくるのはかなり後になってから順正の学生時代の友達で、アオイとも知り合いの男が突然ミラノのアオイを訪ねてきた後半だ。結局それがきっかけでアオイの心に順正が蘇り、マーブとの関係がうまくいかなくなる。辻の方では、順正は最初から過去と向き合って生きていく。それは過去を未来につなげる絵画の修復士という順正の職業にから来る一面でもある。
 順正もアオイもお互いに恋人とのあいだに隙間ができる。そして2000年5月25日、東京に帰っていた順正は、フィレンツェにやってきて、ドゥオモの上で、来ないものと思いながらもあおいを待つ。しかし、アメリカ人の恋人と別れたアオイはやってくるのだ。この最後の場面はロマンティックで感動的だ。私にもこんなことがあればいいとよく思っているたぐいのことだ。

 同じ恋愛を男と女が描く。男の方がずっと女々しい。順正はいつも2000年5月のことが頭から離れない。それに比べアオイはそんなことはあまり気にしていない。アメリカ人の恋人マーブとの幸せな生活を心からエンジョイしている。一般に恋愛における男のロマンチシズム、女のリアリズムという公式は、この競作にもよく出ている。そして辻の小説表現は紋切り型で、理屈っぽい。これに反し江国の表現は冒頭にも述べたように、軽やかで詩的だ。この競作は完全に江国の勝ちだと私は思う。アオイの恋人の底抜けの善人であるアメリカ人をはじめアオイの方の登場人物の方がはるかに良く書けていて、リアリティがあり魅力的だ。順正の恋人役芽実はその人物像が十分に描かれているとは思えない。

 男のロマン、女の現実というのは最後にもあらわれる。江国はアオイがフィレンツェから汽車に乗り、ミラノに向かうところで終わる。ところが、8年ぶりの再会にいささか幻滅を感じた順正ではあるが、フィレンツェの駅であおいを見送った後、きびすを返し、途中で彼女の汽車を抜く特急に乗り込むところで辻はこの小説を終える。こうしたすれ違いこそが、この競作の狙いなのだ。

 日経新聞でこのペア小説のことを読んだ。その後、横山さんからもこの小説のことを聞いた。たまたま霧が丘の古本屋で見つけて手に入れた。

                           

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書名 翻訳はいかにすべきか 著者 柳瀬尚紀 No
2000-14
発行所 岩波新書 発行年 2000年1月20日 読了年月日 2000−04−28 記入年月日 2000−04−28

 前半は二葉亭四迷の翻訳を例にとって一般論を展開。三島由紀夫の「文章読本」からの引用も含めて、翻訳文はあくまでも日本語として体をなしていなければならないという、「一国」主義を主張。二葉亭四迷の「あいびき」翻訳の初期の草稿と、最終版とを比べ、翻訳のあり方、先人の苦闘をたどるところなど、参考になる。そして相変わらずの博識ぶりで、明治の埋もれた文献等を縦横に引き出して論を進める。

 後半、丸谷才一ら3人によるジョイスの「ユリシーズ」の翻訳版と、自身の訳を対比させ、実践的に翻訳指南に及ぶ。最初は丸谷らの訳に一応の敬意を表して対比させるが、次第にその欠陥を指摘する論調は高じてきて、最後の方はもう糞味噌である。かって「翻訳の世界」で読んだ別宮貞徳の「欠陥翻訳時評」を思い出させる。原文と、丸谷らの訳と、著者の訳を並べて、具体的に比較する。ただ、ジョイスの英文が「ジョイス語」といわれる、彼自身の創案になる単語がちりばめられていたりする、難解な英語で、私には一読意味の取れない文がほとんどだった。そうした独特の言い回しを「訳殺」している、あるいはその背後の意味まで踏み込んでいないから誤訳していると、著者は丸谷らの翻訳を厳しく批判する。著者によるジョイスの「フィネガンズ・ウエイク」の翻訳からもいくつかの引用がある。それは想像を絶する知的遊戯、言語の可能性を示したものだろうが、正直言って解説なしで、このような日本語の文章を理解できる人はほとんどいないだろうと思った。

 この著者の特長である言葉遊び、あるいは駄洒落が至るところにちりばめられている。柳瀬が翻訳のエネルギーを注がれたとして、師とするのは加藤郁呼という人だ。それ以外にも三島由紀夫、吉田健一を高く評価しているのが興味深かった。

 いずれにしても私のやっているNWJの翻訳など、まったくの英文和訳にしか過ぎないということを思い知らされた。

                           

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書名 はじまりの記憶 著者 柳田邦男、伊勢英子 No
2000-15
発行所 講談社 発行年 99年8月刊 読了年月日 2000−05−03 記入年月日 2000−05−04

 
ものを書くという衝動があって初めて物事のディテールが見えてくると、柳田は言っている。真実だと思う。エッセイ教室に通いだしてからそれを実感として思う。心のどこかに書きたいとい欲求を持っていると、今まで気がつかなかった日常の何気ないことにも心が引き留められるという経験を近頃よくする。そうしたことは人生を豊かにする。

 伊勢英子は柳田の作品の挿し絵を担当した画家である。「かなしみ」、「空」から始まり「夢」、「自立」に終わる十数個のテーマに対して、二人がそれぞれのエッセイを書き、交互に並べてまとめたものだ。柳田の分はブラウンのインクで印刷してある。横山さんとこういう形でエッセイ集を出したいと思っていたまさにその形態を踏んだ本だ。

 柳田は自分を形成した幼年から少年時代の記憶をたぐって、エピソードを綴る。一方伊勢は現在の自分と家族にもかなり重点を置く。私は伊勢英子という画家は初めて知ったが、文章はむしろ柳田よりもうまいと思うほどだ。柳田は私より二才上で、少年時代を群馬の田舎で過ごしているから、生活体験が似ていて、共感を覚える。少年時代に将来なりたい職業と思ったものが、実に多様で、毎年変わっていくところなど、私にも同じ思いがある。天文学者、原子力物理学者、中学の先生、画家、気象台の測候技士、哲学者、バスケットボールの選手、指揮者、作家。作家は二〇才の時、二年上の大江健三郎の作品を見て、とてもなれないなと諦めたという。各編毎に著者自身の手になる挿し絵が入っている。柳田は植物のスケッチだが、これが精細で、まるで植物図鑑を見るような絵である。

 デュオエッセイであるから、二人の作品を対照して読むべきなのだが、余りそうはならなかった。やはり作者個人の世界はその人のもので、それは他の作家の世界とは独立したものだ。辻と江国の小説のような面白さはなかった。

                           

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書名 親指Pの修業時代 上・下 著者 松浦理英子 No
2000-16
発行所 河出書房新社 発行年 93年11月初版 読了年月日 2000−05−12 記入年月日 2000−05−13

 
Pとはペニスのこと。全編の主題と主人公はペニス。性愛の快感はむしろ全身的な触れあいにあり、ペニスとヴァギナとの結合だけがセックスの最高の快感をもたらすものではないという、女性の著者から見た性愛観が主題だろう。それは前半は一実と盲目の春志との関係に、後半は一実と映子との同性愛関係に示される。

 大学生の一実の右足の親指がペニスになる。それは勃起時で17センチという大変立派なものだ。一実の最初の恋人はそれに嫌悪を抱き切り落とそうとする。一実はそれを拒み、彼から逃げ出す。そして知り合ったのが盲目の春志。彼は物にこだわらないおおらかな性格で、一実を愛し同棲する。ふたりは、性的な奇形をショウにしてみせるアングラの「フラワー・ショウ」に参加する。ペニスの先端に3センチほどの角のあるリーダーと、興奮すると肌に赤い斑点の出るその愛人、性転換した元男、シャム双生児の片割れを体内に抱き、その弟分のペニスはあっても、自分のペニスは無いに等しい保と、その愛人の映子、ヴァギナに歯が生えていて、それで挿入される物をかんでしまう年輩の幸江・・・それぞれがホテルや旅館の一室で、客の前で異常なセックスを行うのだ。そんな集団だが、一人一人は皆暖かく、からっと生きている。バックグランド音楽の奏者として参加している春志は巡業中にかつての男と出会い、駆け落ちしてしまう。残された一実は段々と映子にひかれていき、映子は保のもとから一実のもとに来る。そして一実は初めてそのペニスを映子に対して使う。

 しかしやがて春志は男のもとから逃げ帰って来て、また、保の映子に対する態度は以前の子供っぽさから脱皮していく。保のいらいらのもとは、英子とセックスしていてもそれは他人のペニスによっているというところにある。この四人の関係は揺れる。しかし、男根崇拝主義者の書いた劇を演じる「フラワー・ショウ」の最後の公演で、保がペニスを切り落とすという筋書きを、一実はとっさの機転で防ぎ、かわりに自分のペニスを幸江に挿入し、傷つける。終了後の作家との諍いの中で、頭をぶつけた瞬間に春志は突然目が見えるようになる。そして結局は一実・春志、保・映子のカップルにもどる。

 全編きわどい描写の連続である。それでいていやらしくない。ポルノとは違う。人間の性に対する深い洞察にあふれるからだろう。それと「お雛様」カップルと仲間からからかわれる一実と春志を初め、フラワーショウの面々がその生業とは無縁なようなカラッとした生き方をしているからだろう。一実の心理が細かく語られている。性をめぐる心理小説でもある。こうした繊細な心理分析あるいは心理描写は女性ならではの物だろう。

 衝撃的で、山田風太郎も真っ青になりそうな空想力にあふれた面白い本だ。日本の文学史に間違いなく残るであろうこんな本が、霧が丘の古本屋の店の外の1冊100円コーナーにおいてあったのだ。

 作者は52年生まれ。この本は91年から92年にかけて雑誌に連載されたから、執筆当時は40才前だ。私も当時評判になったことは覚えている。

 それにしても登場する人々の性に対する関心、エネルギーはどうだ。私の若い頃とひきくらべて圧倒される。

                                         

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書名 エントロピー入門 著者 杉本大一郎 No
2000-17
発行所 中公新書 発行年 1985年初版、94年 14版 読了年月日 2000−05−19 記入年月日 2000−05−20

 
エントロピーという熱力学的な概念は若い頃大変興味を引いたものだ。しかし化学反応におけるエントロピーの概念は結局よく分からなかった。井本稔の本に「増えようと減ろうと勝手にしやがれエントロピー」という文句に溜飲を下げた。それでも、この世の不秩序さを表し、これは常に増え続けるものだと言う理解だけは持った。本書は霧が丘の古本屋で見つけた。

 熱力学の概念から始めて、エントロピーと情報の関係、地球環境との関係が解説される。

 熱平衡から離れた状態を維持するためには、マイナスのエントロピー(シュレーディンガーの言葉を借りて「ネゲントロピー」と言う言い方をしている)を取り入れる必要がある。あるいはエントロピーを捨てる必要がある。太陽光線は極めて低エントロピーのエネルギー源である。これを利用して植物は水と炭酸ガスから低エントロピーで高エネルギーのブドウ糖に変える。これが地球で生命を養っている基本である。

 もう一つの低エントロピーの資源は局在化した鉱物資源である。もちろん鉱物資源のうちでも化石燃料は太陽光線の低エントロピーを、長時間にわたって蓄積したものである。太陽光と鉱物資源が我々の社会を支える基本である。地球は宇宙空間に熱放射としてエントロピーを捨てている。この際大気の対流が大切な役割を果たしているが、大気に水がなければ、現在のような大きな対流は起きない(p78)。

 情報とエントロピーの等価性についてはp119以下に記述してある、 マックスウエルの魔物を使って、気体分子の速度を分けることによって統計力学的エントロピーを低下させる話が面白い。

 また、著者は強く否定するのだが、植物の葉から水が蒸散することによってエントロピーが捨てられているという説もあるそうだ。水の蒸散により葉の温度の上昇を抑えてはいるが、それは植物が光の低エントロピー性を固定するための本質的なことではない、と著者はいう。

                           

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書名 花を運ぶ妹 著者 池澤夏樹 No
2000-18
発行所 文芸春秋 発行年 2000年4月20日 読了年月日 2000−05 記入年月日

 
著者の久しぶりの長編書き下し小説。テーマは西欧とアジア、祈りと意志、自然と人間。死とエロス。兄妹愛を通じていかにも著者らしいそれらの主題が展開される。

 兄、哲郎は画家。アジアをさまよううちに、タイでドイツ人女性、インゲボルクと知り合う。彼女は、ドイツの会計士だが、年に一度、「岩の時間」を体験するために、こうしてタイにやってくる。彼女はそこでヘロインを用いて、西欧とは違う悠久の時間の流れを体験するのだ。哲郎もヘロインを用いるようになる。そしてベトナムの田舎でヘロインで陶然としている彼の目の前で、幼い子供が川に流される。彼は子供を助けることが出来ず、見捨てる。このことがあってから、その自責の念から逃れるようにヘロインに耽溺していく。一旦はタイでヘロインを断つことに成功する。しかし、その後で訪れたバリ島で、ある売人の誘いに乗り、ヘロインに手を出す。しかし、売人は警察の手先だった。かくして彼は警察の手に落ちる。ヘロインの大量持ち込みの罪で、彼には死刑の可能性が大きい。

 妹のカオルは、通訳兼テレビドキュメンタリーのコーディネーターのような職業をしている。彼女は兄を救い出そうと奔走する。そしてインドネシアに広い人脈を持つ日本人の老人に頼み込み、現地で有能な弁護士を紹介してもらう。哲郎は出世欲にかられた警察署長の罠にはまったのだが、カオルにはそれをうち破る力がない。うち沈むカオルはある時バリ島の海に近い寺院に行き、そこで海を眺めているうちに、バリの自然と心が共感し、力が沸いてくるのを感じる。その後すぐ、警察署長が失脚し、最後は哲郎も4年の判決で終わる。

 秀逸なのはヘロインに溺れていく哲郎の心理、あるいは一旦断ったヘロインにバリで再度手を出すまでの心理的葛藤の描写。間違いなく中毒患者はこんな心理で薬に手を出すのだろうと思われる描写だ。

 物語はカオル、哲郎それぞれの側から交互に書かれている。表題は、カオルが小学生の時、家の庭で花の植えてある鉢を運んでいたとき、それを目に留めた中学生の哲郎が、カオルの姿に閃くものを感じ、それを絵に仕上げたエピソードから来ている。思春期の微妙な心理がよく出たいいエピソードだ。

 端正で美しい日本語が透明なリリシズムを生むという、作者の魅力にいつもながら引きつけられる。しかし、「マシアスギリの失脚」の方がストーリー展開としてはずっと面白い。

                           

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書名 海図と航海日誌 著者 池澤夏樹 No
2000-19
発行所 発行年 読了年月日 2000−06−08 記入年月日 2000−06−10

 
霧が丘の古本屋で買って1年以上放っておいた本。私は題名だけ見ててっきり南洋を舞台にした小説だと思って買った。開けてみるとこれは著者の読書歴であった。分厚いハードカバーの本。

 池澤夏樹が作家の福永武彦の子供であることを初めて知った。もっとも彼が幼い頃両親は離婚していて、一緒には住まなかったようだ。

 最後の章に99冊の小説をリストアップしている。漱石も鴎外も、源氏物語も入っていない中に、福永武彦の著作は2冊も入っている。それもコメントなしで入っている。父の文学についてはまったくコメントしていないのに入れているところは、やはり肉親の情だろう。

「M氏とT氏」という章で彼に決定的影響を与えた二人の作家をあげているが、私は三島と谷崎かと思った。しかし、三島も三の字も本書には出てこない。Mとは丸谷才一、Tとは辻邦生でそれぞれ「笹まくら」と「夏の砦」と言う小説から彼は作家への道を歩き始めたという。

159pには以下のような記述がある:
 
若い者が感覚にまかせてとりあえず書いてみたという勢いばかりの粗雑な作とはまったく無縁なのが『夏の砦』であり、『笹まくら』であった。周到な準備がなくては小説なんて書くものではない。作家を生涯の仕事とするとなれば、それなりの決意もなくてはならない。
 そして著者は最初の小説『夏の朝の成層圏』を出したのは39才の時であったが、デビューの遅いことをまったく後悔していないと言い切る。

 著者は自分のことをエッセイに書くというようなことを嫌う。自分にできるのはせいぜい読書とそれが自分に与えた影響をまとめた本書くらいが限界だという。その読書歴は一般人からはもちろん、作家としてもかなり特異ではないかと思う。何しろ私の知らない作家、あるいは著書ばかりがでてくる。最初に取りあげた作家はロレンス・ダレルという人の「アレキサンドリア四部作」というもの。そして地理と科学への並々ならぬ関心。

 エッセイについて:116p
 
なぜ人が自伝や私生活の細部を素材とする随筆を書けるのか、ぼくにはわからない。人生は無数の解釈を許す記憶の束であり、書くことはそれを一つに限定して凍らせてしまうことである。過去の一つの事件、一つの局面の意義をそんな風に確定しまう勇気はぼくにはない。この困難をなんとか切り抜けるために小説という虚構の装置が発明されたのではなかったか。嘘の衣をまとった真を書くのが小説ではないか。
 その小説がなぜ人を引きつけるのかは、小説という形式自体に魔法が潜んでいるとしか言いようがないとしている(p95−98)。

 鴎外と翻訳について170pまえから173p。鴎外の最も重要な業績として翻訳をあげる。いや、鴎外文学の本質を翻訳であるとしている。
強引なこと言えば、鴎外の最後の仕事として知られる史伝三部作、『渋江抽斎』『伊澤蘭軒』『北条霞亭』は史実というものを文章化したという意味で、まさに翻訳なのだ。先行テクストとしてこれら先人たちの生涯という歴史的事実があり、彼はそれを忠実に言葉に置き換えていった。ひたすら報告者となろうとした。鴎外森林太郎という人とその著作を通じてつきあっているうちに次第に伝わってくるこの人の魅力は一歩身を引いて仕事をするという姿勢、自己顕示欲に対する強い抑制、つまりこれまた先行テクストの存在を認めた上で行う翻訳者の姿勢なのではないだろうか。
 優れた鴎外論だと思う。そしてこの翻訳者論は私もまったく同感で同じ趣旨をどこかに書き綴ったことがある。

 インターネットで福永武彦の著作を調べていたら、詩人でまた評論活動もしている。そして「古事記」や「今昔物語」に関する解説もある。池澤が日本古典で特に面白いとしているのはこの二つであった。彼は父の影響を大きくひいている。

 巻末にある人名と本の詳細な索引はこの種のものにしては珍しい。精読する人には貴重である。

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書名 インターネット術語集 著者 矢野直明 No
2000-20
発行所 岩波新書 発行年 2000年4月 読了年月日 2000−06−17 記入年月日 2000−06−19

 
インターネット関係の術語を集めて解説してある。NWJの翻訳の参考にと思って買ったのだが、読んでみるとインターネットそのものの解説としても大いに勉強になった。(例えばバケット通信によるテキストの分割送信)。出てくる術語はほとんどが英語がオリジナル。そして、それをそのままカタカナに置き換えている。あるいはアルファベットの頭文字だけだ。折しも、文部省の諮問機関が日本語のあり方について答申し、その中で「コンセンサス」「ユーザー」などはそれぞれ「合意」「利用者」とすべきだとした。私も翻訳の時なるべくカタカナを使わないように頭を絞るが、本書を読むと、ことコンピュータに限ると、そんな努力は無用のようだ。「ポータルサイト」と言う言葉にNWJの翻訳で最初に出会ってからまだ1年も経っていないと思う。当時何と訳そうかと悩んだが、今では「ポータルサイト」あるいは単に「ポータル」がすっかり定着している。

http:hyper text transfer protocol URL:uniform resorce location HTML:hyper text make-up language 、cookieなど、基本的な術語の意味も私は初めて知った。wwwの本当の意味、つまりリンクという概念も本書で知った。

 インターネットや携帯電話等の新しいメディアの持つ危険な側面として、情報が狭い範囲に固定され、世界を大きく見られなくなると言う点が上げられていた。最近の私自身にも当てはまる。パソコンに向かい、株式市場や将棋名人戦の経過、プロ野球の結果などを追いかけてばかりいて、新聞に広く目を通さなくなった。金大中と金正日との歴史的南北会談の記事も見出しだけで読んでいない。

                           

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書名 将棋の来た道 著者 大内延介 No
2000-21
発行所 株式会社めこん 発行年 86年12月 読了年月日 2000−06−24 記入年月日 2000−06−24

 
表紙裏に「一生稽古 平成三年 九段 大内延介」と、マジックでサインしてある。JTの四谷寮で、二上将棋連盟会長と大内九段を招いて、JTの在京幹部の将棋好きのものが稽古将棋を指してもらった折りに、頂いたものだ。ちなみに私は大内九段と二枚落ちで負けた。それ以来、私の本棚の上に放ってあった。先日、ほこりを払って読み出した。

 大内九段は、日本将棋のルーツを訪ねて、秋田県の遺跡から出土した駒や、朝倉一族の遺跡からでた駒を訪ねることから始め、タイ、中国、台湾、韓国、インド、スリランカなどの国々を訪れ、その国独特の将棋を現地の将棋差しと指し、博物館を訪れたりする。その結論として、日本の将棋はインドからインドシナ半島に渡り、そこから中国南部をへて日本に渡来したと言う著者なりの仮設に至る。従来の説はインドから中国を経由して日本に来たと言うものだ。世界の将棋の類のルーツはすべてインドに発する。西に行き、イスラム世界を経てヨーロッパに入ったのが今のチェスだ。

 日本将棋の特徴は5角形の駒を使うこと、升目の真ん中に入れること、取った駒をつかえること等だ。中国将棋や朝鮮将棋は盤上で升目の交点に駒を置くことで、日本将棋と大きく異なる。タイ将棋は升目の中に入れる点、また敵陣で成れる点で日本と共通である。こんな状況から、著者は上記ルートに至る。もちろん素人の調査だから感覚的で、厳密な考証による推論ではない。

 著者は行った先々で、現地の強豪とその地の将棋を指す。さすがのトップクラスのプロ棋士でも、駒の動きのまったく異なる現地将棋ではほとんど負ける。しかし、そうした対局を通じてそれぞれ独特の将棋の本質を感覚としてつかむ。そして、タイ将棋に感覚として日本に近いものを感じる。
多数の写真入り。


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書名 旅客機の科学 著者 井戸 剛 No
2000-22
発行所 NHKブックス 発行年 昭和52年 読了年月日 2000−07−05 記入年月日 2000−07−08

 
飛行機はなぜ飛ぶのか、どのように操縦し、ジェットエンジンはどのように作動するのかといった疑問は、常々持っていた。霧が丘の古本屋でまさにこれらの疑問に答える題名の本を見つけて買った。

 かなり専門的で細部までは理解できない。それは私の年齢のなせる技で、そこまでは理解しようと思わないからでもあるが、書き方が不親切なせいでもある。
 当然ながら、空気力学、材料学等、現代科学の最先端技術が飛行機には詰められている。あの美しい形にはそれなりの理由がある。DC型の飛行機で以前よく見かけた水平尾翼が上に出た機体がある。あの尾翼の位置は、主翼による空気の乱れを避けるためであるという。船が航跡による長い波を残すように、主翼もその後に空気の乱れを残す。この波に遭遇した小さな船は大きく揺れるように、水平尾翼もそれに遭遇すると大きく影響される。それを避けるために、上に上げてあるのだという。

 あるいはコンコルドの機体が細く、三角翼に近い主翼で、しかも機首部分を上げ下げできる構造を取っている理由。あるいは客機の窓ガラスの隅に空いている小さな穴の意味。
 私は飛行機の速度がマッハに近づくと色々な現象が起きるのは、単に偶然だと思っていた。しかし、音とは空気を伝わる縦波、空気に対する圧縮現象である。だからその圧力の伝わる速度と、圧力の発生源の速度が同じになれば、空気は一段と厚い壁になるということは感覚として理解できる。

 ジェットエンジンの主力はターボファンエンジンになっている。これは燃料の燃焼のエネルギーの大半以上をタービンをまわすのに用い、そのタービンで空気を圧縮して後方に吹き出す。私はジェットエンジンとは燃料を燃やし、その時膨張するガスを吹きだし直接推力を得るものと思っていたが、それよりも圧縮空気を吹き出してそれで推力を得ると考えた方がいいのだ。従って、ジェットエンジンの生命はこのタービンの形状と材質である。
 本書が書かれたのは1970年代の半ば。まだ日航機の御巣鷹山の事故は起きていない。本書の中でアメリカNASAの見通しとして1990年代には超音速旅客機SSTが実現すると書いてあるが、それは当たらなかった。

                           

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書名 笹まくら 著者 丸谷才一 No
2000-23
発行所 新潮文庫 発行年 昭和49年7月発行、平成6年7月11刷 読了年月日 2000−07−13 記入年月日 2000−07−17

 
笹のそよぎにも怯えながら、逃避行を続ける徴兵拒否者が主人公。終戦から20年経った今は、ある私立大学の庶務課長補佐として、平凡な勤め人の生活をしている。その浜田庄吉の現在と過去が交差しながら、小説は展開する。

 東京の医者の息子として育った浜田は、軍隊への反感と、あの戦争そのものへの疑問から徴兵を拒否し、逃避する。彼は九州から、北陸、北海道、朝鮮、山陰、瀬戸内と日本全国を逃げ回る。新潟で出会った砂絵師から砂絵を習い、それを生業として縁日を中心にして全国を巡る。

 二つの香典の額をどうするかで小説は始まる。1枚の死亡通知の葉書。それはかつて同棲した女の死を知らせるものだ。そしてもう一つは大学の名誉教授。香典を幾らにするか。結局名誉教授には3万円とする。女の母親には1万円の香典を送るが、葬儀には参列しない。この出だしは見事というほかない。この女とのことは時間を徐々に遡って明らかにされる。いや現実の浜田の物語は時間の進行に従って進むが、同時に進む彼の過去は、時間が逆向きへと進んでいく。妻にも明らかにしていない、徴兵忌避者としての彼の過去、その壮絶な逃避行、そして山陰での阿貴子との出会いも徐々に明らかになる。

 阿貴子の宇和島の家に住み込みそこで終戦を迎える庄吉にしてみれば、葬儀に出るべきだと思うが、徴兵忌避者ということを、若い妻にも明らかにしていない彼にとっては、それはもう縁の切れた過去なのだ。だが、平穏に暮らす庄吉にも、戦後20年経つと、彼の徴兵拒否者と言う前歴が影を落とし始める。昇進を目の前にした彼は、一転北陸の付属高校への出向を命じられる。彼を今の大学へ就職させてくれた理事も、右翼新聞の脅しなどあり、徴兵忌避という彼の前歴が疎ましく思われる時代になったのだ。結局彼はその転勤の話を断り、大学を辞める覚悟を決める。そんなとき彼の若い妻が万引きで警察に捕まる。妻は以前から万引き癖があったのだ。妻にも、大学にも裏切られた彼は、あえて徴兵を拒否し命がけで体制に逆らった青春時代を思い出し、新しい人生を歩もうと決める。
 小説の最後はこの物語の出発点である、浜田が家族に告げずに招集の直前に、東京駅から宮崎行きの列車に乗り込む所で終わる。

 戦前戦中にこのような人物の存在したことを私は夢想だにしなかった。しかし、篠田一士の解説によれば、小説にはモデルがあるようだ。そのこと自体が驚きだ。小説の主人公の戦中の生命力は驚異的である。それが大学の庶務課長補佐としての、小心で、実直なサラリーマンとしての現状にマッチしない。

 現在と過去が自由に往還し展開する。偶然私は今月のエッセイには現在と、現在から連想された過去を入り交ぜるエッセイを書いた。書いていて、理解が得られるかどうか少し不安だったが、この本を読んで、それは十分読者の理解を得られることを知った。

 たまたま7月の初めは台湾に出張したが、行き帰りの機中、あるいは台北空港の待合室で夢中になってこの本を読んだ。池澤夏樹の言う小説が作り出す独特の世界、空間の魅力をたっぷりと味わうことが出来た。小説は面白い。
 池澤夏樹の推奨した本。そして初めてインターネットで購入した本。


                          
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書名 たった一人の反乱 著者 丸谷才一 No
2000-24
発行所 講談社 発行年 昭和47年4月発行、昭和55年3月40刷 読了年月日 2000−07−23 記入年月日 2000−07−26

「たった一人の反乱」とは想像をかき立てる題名だ。勇ましい反体制小説、あるいは反乱者の孤独などをまず連想する。ところがこの小説は家庭小説とも言えるもので、東京のエリートサラリーマンの家庭生活が中心に据えられて進む。最後になってやっとそれぞれの反乱に突入する。長年の奉公から主家を飛び出しバーのマダムになった年輩の女中、機動隊に投石する老婆、自分の授賞式で選考委員の一人の祝辞を拒否して会場をビックリさせる若いカメラマン、そのカメラマンと一夜を共にし、夫に反抗した若いモデル上がりの妻。その妻の夫馬淵英介には防衛庁への出向を断り、やがて通産省のエリートから今の電機会社に天下ったという「たった一人の反乱」がある。

 この作品の最大の特徴は全編にあふれるユーモアだ。深刻なことを論じながら、いつもユーモアがある。作者は文章読本でユーモアの必要性を説いていたと思う。主張を実践している。

 主人公の馬淵英介、その相手モデルのユカリ、女中(作者はお手伝いさんではなく女中で通している)のツル、ユカリの祖母歌子、ユカリの父の大学教授、若いカメラマンの貝塚等が繰り広げる、一種のドタバタ喜劇。
 最初に英介とユカリが出会う場で、英介は自分の曾祖父の話をする。曾祖父の妾の絶世の美女が結核になり、その女は曾祖父が金の懐中時計をあけるときの音が大好きで、そのため曾祖父は彼女の枕元で、何回も何回も懐中時計を開け閉めし、女を喜ばせた。女が亡くなったとき、曾祖父の元には壊れた金の懐中時計が10個あったというものだ。読むものの心を和ますユーモアだ。

 馬淵は通産省のエリート官僚の時、防衛庁出向を断る。そして、官僚を辞め電気会社に天下る。妻を亡くし女中のツルと暮らす英介の前現れた二十歳過ぎたばかりのモデル、ユカリに一目惚れし、結婚する。家事も十分には出来ない新婚家庭だが、英介が子供の頃からつかえるツルがしっかりと支えている。そこへユカリの祖母歌子が転がり込む。前夫を殺し、その刑期を終えて出てきたのだ。それからドタバタが始まり、ツルは馬淵を訪問してきた客にひかれて、バーのマダムとして家を出ていく。歌子婆さんはやはり60過ぎの男といい仲になり旅館に泊まったりする。時は大学紛争の真さっさかり。新左翼による騒擾事件が頻発する。そんな事件に歌子婆さんも、英介も、そして若い貝塚も巻き込まれる。この時、貝塚の撮った写真がコンクールで優勝する。その授賞式で、貝塚は突然審査員の一人の大学教授の挨拶を拒否する。ざわつく会場をとりまとめたのは同じく審査員である、ユカリの父の野々宮である。彼は市民社会とは何かについて長々としゃべり、その場を救う。その中で、ニューヨーク近代美術館にあるダリの「記憶の持続」という絵を評し、「市民社会に生きながらそれに悪意をいだき、芸術というたった一人の反乱を企て続けている者、行い続けている者、すなわち芸術家の暗い夢を、あれほど鮮やかに示してくれるものはほかにない」と述べる。このダリの絵とは、野々宮が市民社会の象徴と考える懐中時計がぐにゃと壊れている絵である。つまりこの小説の影のモチーフは時計であり、それは市民社会の象徴なのだ。そういえば、英介の家の廊下には止まって動かない柱時計があり、なにかにつけそのことが言及される。

 受賞パーティの会場から貝塚と一緒にいなくなり、一夜をともにしたユカリも結局は馬淵の元に戻る。馬淵の防衛庁出向拒否は決して反体制的、あるいは明確な反戦思想に基づいたものではなかったと、馬淵は貝塚の問いに答える。電機会社で順調に出世し、役員になっている馬淵は、栃木の工場長として赴任する。工場の人手不足解消に、彼は歌子婆さんのいた栃木の女子刑務所の囚人を使うことを思いつき、大成功を収める。最後までそんなユーモアがある小説だ。

 ユーモアと並んで特徴は、色々な状況下における人物の詳細な内面分析、あるいは心理描写。少し理屈っぽく、くどいが、これが核心をついていていかにもこの人らしい頭の良さを感じる。

                           

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書名 脳と記憶の謎 著者 山元大輔 No
2000-25
発行所 講談社現代新書 発行年 1997年4月 読了年月日 2000−08−03 記入年月日 2000−08−05

 
題名の大きな本で、記憶を中心に脳の働きの基本的なメカニズムが要領よく、簡潔にまとめられている。くどくどしていないので読みやすい本であった。

 シナプス伝達の長期増強(Long -term potentiation)LTPが記憶現象の基本にある。
 LTPの基本にある現象の一つは、シナプスの受容体タンパクの燐酸化による活性の向上である。
 LTPはまた遺伝子の発現を促進し、新たなタンパクが形成され、ニューロンの形態を変える。つまり、ニューロンの細胞シグナル伝達径路が遺伝子制御径路と密接に結びついている。こうした研究はショウジョウバエを用いて行われる。ショウジョウバエにも記憶に基づく行動がありそれを利用して研究が行われる。
 これらの反応の基本にはサイクリックAMPが情報伝達手段として働いている。

                           

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書名 ふらんす物語 著者 永井荷風 No
2000-26
発行所 新潮文庫 発行年 昭和26年初版、43年改版 読了年月日 2000−08ー15 記入年月日 2000−08−17

 
フランス賛歌。風景を称え、女を称え、そして旅の芸人などの下層の人々へ暖かい共感を寄せる。名文である。特に風景描写のすばらしさに感動する。明治41年、今から90年以上前にかかれたものにしては文章に違和感がない。荷風がこれほどの風景描写の達人だとは、本書によって初めて知った。その根底には、徹底したフランスへの賛歌があるから、これだけの文章が書けるのだろう。100年近く前のフランス、古き良き時代のパリの魅力は、2つの大戦を経た今も変わっていないようだ。私ももっとも好きな町と言えば、迷わずパリをあげる。

 とにかく、出だしのアメリカからの船がル・アーブルの港に入るところの描写を読んだだけで、もうこの本から引き返すことはできないと思った。
 コンコルド広場、シャンゼリゼー、凱旋門、ブローニュの森などを訪れ、荷風はこれらを、これまで読んだフランス写実派の小説がいかに忠実に、精細に描いているかに感心する。そして、続ける:
仏蘭西の都市田園は仏蘭西の芸術あって初めて仏蘭西たるの観がある。車の上ながら自分は遠い故郷の事、故郷の芸術の事を思うともなく考えた。吾々明治の写実派は、それ程精密にその東京を研究し得たであろうか。既に来るべき自然派象徴派の域に進む程明治の写実派は円熟して了ったのだろうか・・・。19ページ。

生きようと悶く、飢えまいと急る。この避く可からざる人の運命を見る程悲惨なものはあるまい。自分には自殺した人や病気で死んだ人に対するよりも、単に「生活」と云うものの為に目覚ましく働いている人を見る時如何に辛く如何に傷ましく感ずるであろう。90ページ。ここには下層の人々への暖かい目がある。浅草あたりのストリッパー達を最後まで愛し死んでいった荷風の晩年が、ここに見られる。

117ページ:荷風が仏蘭西へ渡る前に4年間を過ごしたアメリカへの感想が出ている。あまりにも常識的すぎる国で、「
何もかも例の不文法(Unwritten law)と社会の与論(Public opinion)とで巧に治って行く米国は吾々には堪えがたい程健全すぎる」と断じている。巻末の解説にもあるが、本書の特色は荷風がアメリカでの4年間の生活を通して、フランスを見ていること。明治末の日本だけを対照にしてフランスを見ているのではないこと。帰国の道に寄ったロンドンとのことも出てくるが、アングロサクソン的なものは、好かぬようである。

「ひとり旅」という小編には、彼の個人主義的な心情が吐露されている。128ページ以下。
174pには、中学で世界歴史を学んで以来、仏蘭西へあこがれたと書いてある。
仏蘭西の風景描写で荷風が特に力を入れるのは、夕暮れ時の美しさである。パリの夕暮れの美しさは177pにある。

 巻末の中村光夫の解説によると、断片的に雑誌に発表してあったフランスものをまとめた明治42年の初版の「ふらんす物語」は、出版の届け出と同時に発禁処分にされたという。パリやアメリカでの娼婦との同棲生活その他、主人公の放蕩生活を述べた部分、あるいは踊り子の衣装や肉体描写は、当時の道徳規範から見れば逸脱しているのだろう。本書は大正15年の重印版荷風全書を元にしている。

 先日新橋駅前を通ったとき、市が立っていて、そこの古本の店で見つけた。

                           

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書名 楽天記 著者 古井由吉 No
2000-27
発行所 新潮文庫 発行年 読了年月日 2000−09−02 記入年月日 2000−09−04

 
新橋駅前の古本市で見つけて、永井荷風の「ふらんす物語」とともに買い求めた。

 独特の息の長い文体で、晦渋、読みづらい。時間の区別も判然としないことが多く、いつの間にか主人公の回想の中で過去の物語が語られている。

 ストーリーは著者の分身と思われる50過ぎの男性の身辺に起きた事象を、季節の移り変わりとともにつづったもの。著者は私の高校の一年先輩。同じ年齢の男の心境として興味があり、共感を覚えるところもあったので、どうやら読み進められた。主人公、柿原は年齢にしては、老成している。彼の友人奈倉もまた、40才頃心臓を患い、それを抱えて生きている。この奈倉とのやりとりが小説の筋と言えば筋になる。夜中に家を徘徊し、旧約聖書の中の「マーゴール・ミッサービーフ」(至る所の脅迫者)という言葉を奈倉に投げつけた奈倉の父のエピソード。そして中世神秘家の文章を巡る二人の間のやりとりと、奈倉の死、その愛人らしき女と柿原のやりとり。そして最後は、柿原自身が頸椎板の手術で長期入院を強いられる。手術後首を固定されてベットに寝る主人公の心理描写は、体験者でなければかけないだろう。しかし、作家という職業は因果なもので、そうした体験すら文章にしなくてはおかない精神の持ち主なのだ。特に天井の無数の小さなでこぼこの作る影に、色々な幻想を重ねるところなど、作家でなければかけない観察と心理だ。
 それにしても、日本はこんなに雨がふるところか。10数章からなるこの小説の主要な場面ではことごとく雨がふっている。その描写は感嘆させられるものだが。雨に特別の思い入れがあるのだろうか。

                           

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書名 人間の土地 著者 サン・テグジュペリ、堀口大学訳 No
2000-28
発行所 新潮文庫 発行年 昭和30年発行、平成12年65刷 読了年月日 2000−09−14 記入年月日 2000−09−15

真の贅沢というものは、ただ一つしかない、それは人間関係の贅沢だ」 42p

 飛行機がまだ旅客ではなくて、郵便物専用の時代、1920年代の話し。至る所に不時着する。それだけエンジンや計器が故障が多かったと言うことだが、当時の二重翼のプロペラ機は気軽に発着できたのだ。サハラの砂漠のメーサビュートの上にも、アンデスの雪の上にも、そして海の上にも。そんな郵便飛行のパイロットであった著者はメーサビュートの上で隕石を発見する。1haに1個はあるという。圧巻はリビアの砂漠に不時着したときのエピソード。乾きに飢えながら3日間歩き、奇跡的にベトウィン族に出会って救われるまでの話。死ぬことが恐怖ではないという心境が語られる。あるいはスペイン内戦で、命令に従って死地に赴く軍曹の静かな心境の中に、生死を超越できる人間の本性を見ている。

 アンドレ・マルローとともに行動する作家として、高校時代に読まなければならないと思っていたサン・テクジュペリの初めて読む作品。何故読まなければならないかと思ったかと言えば、軟弱な男女関係など無縁の、青少年向きの作品だと思ったからだ。確かにそうだ。道徳的、かつ哲学的である。
 プロローグの出だし:
ぼくら人間について、大地が、万巻の書より多くを教える。理由は、大地が人間に抵抗するがためだ。人間というものは、障害物に対して戦う場合に、はじめて実力を発揮するものなのだ。
 という一文に本書のエッセンスが要約されている。

 巻末の著者略歴によれば、テクジュペリは余り腕の良いパイロットではなかったようだ。
 それほどわかりやすい文章ではない。理解できない文章が随所に出てくる。原文がそうなのだろう。それにしても65刷というのはすごいベストセラーだ。

                           

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書名 夜間飛行 著者 サン・テグジュペリ、堀口大学 訳 No
2000-29
発行所 新潮文庫 発行年 平成12年5月 78刷 読了年月日 2000−10−02 記入年月日 2000−10−09

「夜間飛行」と「南方飛行便」を収める。

 いずれも前の作品と同じ、レーダーもなければ、操縦士が手で機外を流れる空気を感じることの出来る時代が舞台。飛行機は汽車より速い。しかし、せっかくのその速さも夜間を休んでいたのでは、汽車との競争に勝てない。こうして、夜間も飛行機を飛ばして、郵便物を運ぶことが行われた。「夜間飛行」は南米にあって、この夜間飛行を鉄の意志で推進した航空会社の支配人、リヴィエールが主人公。アルゼンチンの南部パタゴニア線をブエノスアイレスに向かう一機が、夜間、台風に巻き込まれる。そのパイロットの苦闘ぶりと、機の到着をじっと待つ支配人という2つの場面を通じて、人間の義務、意志、戦いといったテーマが語られる。リヴィエールは冷酷無情にすら見える。こうした男はフランス文学には珍しいのではないか。むしろゲルマン的なものを感じる人間像だ。この作品の序文で、アンドレ・ジードはリヴィエールを賞賛している。台風に巻き込まれたパイロットは若い妻を残して夜の闇の中に沈んでゆく運命にある。
p88。
 
彼は思い続けた。・・・・あの二人の搭乗員は、幸福な生活を続け得た二人かもしれないのだ。・・・・・自分は何者の名において、彼らをその個人的な幸福から奪い取ってきたのか?根本の法則は、まさにその種の幸福を保護すべきではないか?それなのに、自分はそれを破壊しているのだ。ところで、ひるがえって思うに、それらの幸福の聖殿は、蜃気楼のように、必ず消えてしまうものなのだ。老いと死とは、彼リヴィエール以上にむごたらしく、それを破壊する。このことを思うなら、個人的な幸福よりは永続性のある救わるべきものが人生にはあるかもしれない。ともすると、人間のその部分を救おうとして、リヴィエールは働いているのかもしれない?もしそうでなかったら、行動というものの説明がつかなくなる。
 サン・テグジュペリの本質だろう。この箇所を読めば、彼の作品が青少年が読むべきものとされる理由がわかる。

「南方飛行便」は、フランスからアフリカ西海岸の沿いの飛行ラインが舞台。こちらは恋愛が絡む。パリでかつての恋人と別れ、アフリカラインの任務についたパイロットが、セネガル近くに不時着し、当時まだフランスに帰順していなかった現地住民に殺されると言うストーリー。「人間の土地」にも頻出する「不帰順族」という言葉は、今から70年ほど前はまだ、植民地の確立を巡って、フランスは現地人と争っていたことを示す。意外な感じである。書き手である僕と、同僚の飛行士ベルニス、そしてその幼なじみで、恋人であるジェヌヴィエーブとの関係がよく分からないところがある。
 例えばp235の僕の少年時代の回想の部分などに、作者の優れた文学的資質を見る。サン・テグジュペリの作品が単にパイロットが片手間に書いた作品ではないことを示す。

                           

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書名 黒い雨 著者 井伏鱒二 No
2000-30
発行所 新潮文庫 発行年 昭和45年初版、平成12年5月 58刷 読了年月日 2000−10−13 記入年月日 2000−10−13

 
原爆文学の代表作。思ったより長編だった。おそらく原爆の悲惨さをこれ以上伝える作品はないであろう。イデオロギーとか感情を前面に出すことなく、日常の中に、淡々と被爆後の惨状を描いて余すところない。閑間重松、シゲ子、姪の矢須子。被服工廠、黒い雨。

 重松は通勤途上汽車に乗り込むところで被爆する。顔の半面にやけどを負う。シゲ子は家の中にいて爆風に吹き飛ばされ、家は全壊するが彼女はその後原爆症を発症しない。矢須子は近所の主婦達と早朝から近郊に買い出しに出かけて、遠くで原爆の爆音を知る。しかし、直ちに市内に引き返す。その途中で、キノコ型の黒い雲から降る黒い雨に遭う。どうにか落ち合った3人は廃墟と化し、焼けただれ人々がさまよう市内をやっとのことで抜け出し、重松の勤め先の工場へたどり着く。

 物語は被爆後数年したときに設定されている。重松は原爆症を発症し、同じ原爆患者と鯉の養殖などを試みている。姪の矢須子に縁談がくるのだが、被爆したという噂が先立って、いずれもつぶれてしまう。重松は、矢須子の当時の日記を示し、彼女が被爆していないことを説得させようとする。矢須子の日記、そして重松自身の手記がこの小説の主要部分を占める。手記は8月15日で終わる。

 正体のまったく分からない爆弾を落とされて戸惑う人々の姿がリアルで真に迫る。あまりにも威力のすごいものを落とされ、その本質が見えない人々の混乱と、不安は如何ばかりであったろう。特に放射能に関する知識のなさが、広島の悲劇を拡大している様がありありと描かれる。外傷を負ってもいないのにわけも分からずに内蔵がやられて死んでいく人々。

 後半も終わり近くになって、元気に見えた矢須子に原爆症が発症する。それは、重松よりももっと重い症状だった。黒い雨と、市中をさまよった際に受けた放射能から発症したのだ。ここにいたって読者は当初抱いた甘い期待を見事に裏切られる。それだけ原爆の悲惨さ、むごさが一層浮き立つ。見事な手法といわざるを得ない。

 コブツと広島方言でいう野鳥取りの罠の話が出てくる。本当は「首打ち」とかいて、「コブチ」と読むのだとあった。私が子供の頃仕掛けたあのコブチだ。p63。

 2001−06−27
 先日のNHKのテレビで、「黒い雨」は、被爆者で詳細な被爆記録を残した重松氏の全面的な協力があってできあがったものだというニュースを報じていた。


                           

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書名 熱帯雨林 著者 湯本貴和 No
2000-31
発行所 岩波新書 発行年 1999年7月 読了年月日 2000−11−13 記入年月日 2000−11−25

 
TBSブリタニカからブリタニカ国際事典の新しい項目として、Tropical Forestの翻訳を依頼された。参考書が必要だなと思っていた。銀座で知人と昼食をした後、思いついてソニービルの向かいあたりの本屋に入ってみた。そしたらそのものずばりの本書が目に入ってきた。ラッキーだった。
(以下の記述にはブリタニア国際事典の「熱帯林」の項の読後感も入っている)

「canopy」という言葉がでてくる。辞書を引くと天蓋とある。さて熱帯林では何というのか。本書の帯に「高さ40mの林冠でくりひろげられる多様な生物たちの活動」とあり、「林冠」という言葉を覚えた。熱帯雨林のことが要領よくまとめてあり、翻訳に大変参考になった。特に術語は挟み込んだカードにメモしておいて、私の翻訳に役立てた。例えば林床、板根、優占種、幹生。vegitationとは普通植生と訳される。ところが本書では植生という言葉はほとんど出てこず、その代わり植物群落と言う言葉が使われていた。私もこちらの方が好きなので、結局全部植物群落で通した。厳密には植生がいいのだろうが、岩波生物学辞典で調べてみても、植物群落で悪いわけではなかった。

 50メートルを超える大木の密生、多様な植物、そしてそれに対応する多様な動物。その間の相互作用はまた複雑に入り組んでいる。植物同士の光を求めての競争、花粉や種子散布者としての動物と植物の相互関係。特に昆虫は、樹木に対する特異性、さらに雨林の地域が異なれば異なると言った事情で、ある学者は熱帯雨林に存在する昆虫の種の数を3000万と推定している。驚くべき数字だ。別の学者は最大、8000万種とさえ見積もっている。また、世界最大の花、直径1メートルにもなるアフレシアは、腐生殖物で、開花までは地下に潜っているという。他の植物に巻き付き、その木を絞め殺してしまう絞め殺し植物の記載もある。イチジクが絞め殺し植物の代表で、親木を枯らし、外側に残ったイチジクの幹が空洞を作り、その中に鳥やコウモリがすむとブリタニカにはあった。

 caulifloryと言うことも面白かった。これは岩波の生物学辞典にも出ていない術語であったが、私は「熱帯雨林」を参考にして「幹生適応」という術語を当てた。樹木の中には幹に直接実を付けるものがある。それは幹の低いとことに実を付けることにより、飛んだり登ったり出来ない動物に種子散布の役割を果たしてもらうことが出来るよう進化した熱帯雨林の植物だ。

 森林が人間の精神形成に与える影響は、意外に大きいというのが最近の実感である。私の心には幼年期を過ごした豊橋市西七根の木の1本1本が今も残っている。蔵の上のヤマモモ、藪の中のクマゼミのいたケヤキ、門の杉の木とヤマモモ、隣家の槇の生け垣、本家の入り口にあった檜(これは私たちが登ってゆすっているうちに真ん中から折れてしまった。同じ位置に先日、やはり中途から折れた木が立っているのを見つけたが、まさかあれは50年前に私たちが折った木ではあるまいと思う)あるいはチカサマの家の向かいの森の奥にあった椎の木、そして浜辺沿いの高台の上に密生する名前不明の典型的な常緑照葉樹林・・・数えきればまだいくらでも出てくる。熱帯雨林は私の原風景とはまったく異なった景観であろう。生涯に一度は見てみたいと思うが、さて。

                          

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書名 あめりか物語 著者 永井荷風 No
2000-32
発行所 講談社文芸文庫 発行年 2000年5月 読了年月日 2000−12−01 記入年月日 2000−12−02

「ふらんす物語」の姉妹編。4年間のアメリカ滞在中の見聞を基に書いたノンフィクション風小説。20数編からなる。明治の終わりに書いたものとしては読みやすい。100年前にアメリカに渡った人々の苦渋の様子がかいま見られる。荷風は進んで社会の下層に下りて行き、そこの生きる人々を生き生きと描く。こうした態度は鴎外にも、漱石にも見られないのではないか。風景描写の見事さとあわせて、(例えばp98)クリアなイメージを与える文章である。例えば「ちゃいなたうんの記」の最後はこう結んでいる:私はチャイナタウンを愛する。チャイナタウンは、「悪の花」の詩材の宝庫である。私は所謂人道慈善なるものが、遂には社会の一隅から此の別天地を一層しはせぬかと言う事ばかり心配して居る。
 チャイナタウンの裏町を歩き、娼婦に三度三度のパンをねだるような家なき老婆たちが徘徊する貧民街を目にした後の感想である。

 それにしても100年前にこれほどの日本人がアメリカに行っていたのだ。ちょっとした町には日本料理屋がある。自身は直接には何もいっていないが、荷風にもアメリカの進んだ文明はやはり驚異だったのだろう。至る所にそうした新しい文物の描写は出てくる。例えば「市俄古(シカゴ)の二日」p180には自動ドアの電車が出てくる。
 自由の女神像も出てくる。p194 荷風はこれをアメリカ精神の象徴と見る。

 後ろの方の「夜あるき」は放蕩児荷風の真情が吐露されている。それとは別に「六月の夜の夢」は、清純でロマンティックな恋が描かれる。これはフランスへ渡る船上で書いたことになっていて、アメリカを発つ直前に過ごしたニュージャージーの海岸の田舎での少女との恋を描いたものだ。

 靴下という言葉はまだなかったのだろうか。「靴足袋」と言う言葉が出てくる。
 荷風はアメリカでフランス語の勉強をし、特にボードレールやベルレーヌの詩を読んでいたようだ。
 ヴェルレーン(ベルレーヌ)の有名な詩の荷風訳が載っている(p213):
秋の胡弓の咽び泣く物憂き響きわが胸を破る。鐘鳴れば、われ色青ざめて、吐く息重く、過し昔を思出でて泣く。薄倖の風に運ばれて、ここかしこ、われは彷徨ふ落葉かな。
 

 初出1908年、明治41年。上田敏は荷風のこの訳を知っていたのだろうか。

                          

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書名 サンセット オン ハイウエイ 著者 神中 洋子 No
2000-33
発行所 文芸社 発行年 2000−09−01 読了年月日 2000−12−20 記入年月日 2000−12−22

 
大学のクラスメート田中信正さんの夫人の著作。著者から送られてきた。アメリカで老後をいかに過ごすかと言う内容。各種の保険、老齢者施設、そこでのボランティア活動、そして老後資金のためかた、各種金融商品の紹介と言った内容を盛る。これ以外に田中夫妻がアメリカに渡り、その社会にとけ込んでいった過程も記されていて、結構なボリュームのある本。
以下のようなメールを送った。

 先日は洋子さんの著作「サンセット オン ハイウエイ」をお送りいただき有難うございました。
力作に敬意を表します。たくましく、しなやかに、お二人がアメリカの社会に溶け込んで行かれ、シニアに対するボランティア活動までやられている様子、特にビルさんとの交流のエピソードには感動を覚えます。介護される人が、介護する人に喜びを与えられるということ、今まで考えたこともありませんが、素晴らしいことだと思います。
 日本での老後のこともあまり知らないうちに、アメリカの老後の過ごし方を先に学びました。とにかくナーシングホームなどはお金がかかることは日本もアメリカも変わらないようですね。私も老後資金にと思い、株式投資を多少試みておりますが、このところの株安の影響もあってさっぱりの状態です。
来年のヨーロッパ旅行でまたお会いできるのを楽しみにしております。

 アメリカ社会に深くとけ込んでいる洋子さんのすばらしさを再認識。そして極めて現実的な考え方も。
 本書の気になる点は、数字がすべて洋数字になっていて、これはやはり縦書きでは見た目がよくないこと。それと、本人の文章と資料を直訳したところとがはっきりしていること。突然文体が変わるのですぐわかる。もっとも著者は、あとがきできちんと引用文献を提示している。科学者としての良心がよくでている。

                           

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