読書ノート2001年

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書名 著者
生命と地球の共進化 川上紳一
植物のたどってきた道 西田治文
森林の思考・砂漠の思考 鈴木 英夫
蕪村 藤田 真一
人生の意味 キャロル・アドリエンヌ、住友 進 訳
地球の歴史 井尻正二、湊正雄
トパーズ 村上 龍
社会的共通資本 宇沢弘文
心はどこにあるのか ダニエル・デネット、 土屋俊 訳
O嬢の物語 ポーリーヌ・リアージュ、渋澤龍彦 訳
嫁より先にベコが来た 役重真喜子
信長燃ゆ 阿倍龍太郎
谷崎潤一郎
瘋癲老人日記 谷崎潤一郎
かきつばた・無心状 井伏鱒二
ペスト アルベール・カミュ、宮崎嶺雄 訳
小池真理子
子をつれて 葛西善蔵
欲望 小池真理子
棺の中の猫 小池真理子
デフレの恐怖 R・ブートル、高橋乗宣 監訳
世界史概観 上・下 H.G.ウェルズ、長谷部文雄、阿部知二 訳
蜜月 小池真理子
本よみの虫干し 関川夏央
挟み撃ち 後藤明生
わが闘争(上) アドルフ・ヒトラー、平野一郎、将積茂 訳
わが闘争(下) アドルフ・ヒトラー、平野一郎、将積茂 訳


書名 生命と地球の共進化 著者 川上紳一 No
2001-01
発行所 NHKブックス 発行年 2000年5月 読了年月日 2001−01−05 記入年月日 2000−01−06

 
地球史の7大事件と生命との関係を論じる。というより生物学、地質学、天文学等を総合して、地球の歴史を総説したもの。決して通俗的ではなく、かなり専門的でレベルが高い。7大事件とは以下の出来事:
1)46億年前 地球の形成
2)40億年前 最古の地殻物質の保存
3)27億年前 火成活動の活発化と大陸の形成
4)19億年前 著しい火成活動による巨大大陸の形成
5)6億年前  超大陸の分裂と海洋形成、多細胞生物の出現
6)2億5000万年前 超大陸の形成と海洋酸素の欠乏による生物の大量絶滅
7)現在 人類による科学の発明と地球・宇宙の歴史と摂理の探索

 著者の専門は地質学。地球の歴史、生命の歴史を地表に残された岩石の分析を通して明らかにしようとする。例えば炭酸塩を含む岩石の炭素の同位対比のわずかな差から、数十億年も前の地球の状態や、その時起こった現象を推定する。そして仮説を立てる、あるいは仮説を検証する。夢とロマンにあふれる学問だ。私も一時期地質学を専門にしてみたいと思ったことがある。大学1年の頃だろう。人里離れた山奥に踏み込み、ハンマーで岩石を砕きとり、持ち帰ってその土地の生成過程や特性を明らかにする。そんな浮世離れした生活に憧れを感じたものだ。今、地質学は生物学や精密な化学分析と結びつき、地球全史の解明に向かおうとしているようだ。

 著者は地球の生成を小惑星同士の衝突によるものと見ている。
 生命の起源については原始地球の大気組成は有機物の生成に向いてはいなかったことを指摘し、生命は地球外の宇宙からやってきた可能性を否定していない。

 現在の地球上の酸素はシアノバクテリアが光合成により作り出したもので、著者はそれをシアノバクテリアによる酸素汚染と呼ぶ。約27億年前に起こった事件だ。原始地球の大気には酸素はほとんどなかった。それが大気の20%もの割合を占めるようになったのだから、光合成は太陽系最大の化学反応であるとしている。さらに酸素の生成は成層圏のオゾン生成につながり、オゾン層による紫外線の遮蔽が生命の上陸を生み出した。これは生命が地球の進化に与えた最大で最良の例であろう。

 地球は何回も寒冷化し、最悪のときには全球凍結が起こった(Snow Ball)。あるいは海洋酸素の極端な欠乏、火山灰による太陽光の遮蔽、隕石の衝突等、色々な事件にもかかわらず、生命は生き続けてきた。それは驚異である。5億年以上前のカンブリア紀に生きていて、エディアカラ化石生物群、バージェス頁岩動物群、澄江動物群として残されている、今は絶滅した動物あるいは生物の復元写真には、奇妙で不気味というより、愛着を感じる。最近子供たちの人気は、恐竜に続きアノマロカリスという奇妙なバージェス化石動物群の中の一つだという。

 著者は人類の未来として惑星、宇宙への進出と開発を唱えている。


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書名 植物のたどってきた道 著者 西田治文 No
2001-02
発行所 NHKブックス 発行年 1998年1月 読了年月日 2001−01−17 記入年月日 2001−01−18

 
前書と同じに、熱帯林の翻訳の際に購入した本。約4億年以上前に、緑藻類から進化し、陸に上がった植物の歴史が、裸子植物を中心に解説されている。データは化石。化石に残された植物の細かい構造から植物の類縁関係を推定し、進化の跡をたどる。植物学に相当精通していて、特に構造と分類に詳しい人でないと、読み通せない。私は術語をかなり無視して読み通した。NHKブックスは岩波新書より専門的だ。これは前書でも感じたが、本書では特にそうである。

 維管束を持った植物の出現の意味は50pに以下のように書かれている:
さらに、木本生の生活型が出現することで、地上の空間には階層構造が生まれ、高木から低木、つる、着生などさまざまな生活形態がつくられてゆく基礎となった。新たな住みかの増加は新たな種を生み出す引き金となる。空間の利用は動物にも広がり、昆虫や鳥、哺乳類に空を飛ぶものが現れ、さらに複雑な生態系を形成してゆく。空を飛ぶ動物の出現は、移動が不自由な植物にとってまたとない生殖と繁殖のためのパートナーの出現であった。それは動物による送粉や種子散布の効率化、さらなる動物と植物の共進化へと発展し、現在の被子植物の繁栄の基礎にもなった。生物が複雑きわまりない関係を切り結ぶ熱帯雨林はそのようにして発展してきた世界の極致であろう。通道組織はこのような未来を拓くものであった。しかし、それに成功したのは、通道と機械的支持を効果的に組み合わせることができた維管束植物だけである。

本書の章のタイトルは以下のようだ:
第1章:被子植物は裸子植物の一部に過ぎない
第2章:植物は淡水から上陸した
第3章:4億5000年前の植物大爆発
第4章:地球最初の森―葉と高さを得た維管束植物
第5章:種子植物の誕生―茎のような葉をもつ前裸子植物
第6章:地上の覇者となったシダ植物
第7章:裸子植物天下を取る
第8章:裸子植物にも花と果実があった
第9章:花の時代の幕開け

 植物の形態の形成、進化を説明する概念として、本書ではテロームという言葉がよく出てくる。1930年代に出された概念だ。70年も昔の概念が今も健在であることに少し違和感を覚えた。

                                               

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書名 森林の思考・砂漠の思考 著者 鈴木 英夫 No
2001-03
発行所 NHKブックス 発行年 1978年初版 読了年月日 2001−01−26 記入年月日 2001−01−27

 
人間の思考を森林の思考と砂漠の思考に二分してその成立の歴史から特徴までを論じたもの。斬新なアイディアであったのだろう、20年以上前の本にもかかわらず版を重ねているベストセラーである。

 本書の最後に著者によるまとめがある。大変親切で要領のいいまとめなので以下に引用する。

 
人間の思考方法は、森林的思考と砂漠的思考との二つに分けられこと、それは、世界が「永遠」に続くと考えるか、「有限」であると考えるか、人間の論理にとってはどちらかに一つに分かれることに根ざしているから、その二つにしか分かれられないことを述べた。具体的には、森林的とは視点が地上の一角にあって、「下から」上を見る姿勢であり、砂漠的とは「上から」下を見る鳥の眼を持つことであった。「見通しの悪さ」「見通しのよさ」という対比でもある。「慎重」と「決断」の対比でもある。「専門家的態度」と「総合家的」態度の形容でもある。
 そして、その森林的思考、砂漠的思考は、かならずしも森林に住むか砂漠に住むかによって分かれるのではなく、森林的思考―具体的にたとえば仏教―のなかに育ったか、砂漠的思考―具体的にたとえばキリスト教―のなかに育ったかということによるもので、好んで使われた図式、自然→生産関係→人間、すなわち自然は生産関係という中間項を媒介として人間に働きかけるという図式にならっていえば、自然→思考様式→人間、すなわち、自然によって生まれた思考様式をうけ継ぐことによって人間が自然にかかわっている、ということであろう。しかも、思想は、それ自身の論理の力によって動くから、かならずしも現在の自然環境と対応して、森林的思考と砂漠的思考が存在しているのではない。むしろ、その起源は、5000年前の乾燥化によって一神教が確立された時にある。
 砂漠化の先行したイスラエルでは、砂漠のなかに雨をもたらす風の神として一神が理解されユダヤ教が成立し、そこでは神は、人間も世界も超越したものと考えられることによって、世界が有限であり、はじめと終わりがあるものと理解されたのに対し、森林のなかの瞑想によって一神に到達したインドのバラモン教では、神と世界がともにあること、したがって世界も永遠にあって流転を続けると理解されたわけである。
 砂漠的思考はヨーロッパ文明の拡大とともに急速に地球の上に拡がってきて日本でも思想の砂漠化が進行してきている。・・・・
 日本人を見ると、「諸行無常」「色即是空」というような言葉に、ずしりとした重みを感ずるが、「天地創造」「終末」という砂漠起源の言葉はほとんど理解されていないし、すでに定着した、「進歩」という言葉も、それほどの重さを感ずるものでないところに、日本での砂漠化の進行は表面的に著しいものとしても基本的には、森林的である続けているのである。

 本書の後半はたくさんの分布図が掲載されていて、それに対する著者の考察が述べられている。もっとも見事だったのは川の名前に「沢」とつけるのと「谷」とつけることの分布。これがきれいに西日本(谷)と東日本(沢)との分かれるのだ。こうしたことから日本の東西文化圏の存在と、その特徴を論じている。こうした差異は少なくとも、弥生前期の今から2200年前までさかのぼり、あるいは縄文晩期の3500年前に成立していた可能性があると推定している。後半の部分も面白い。著者は分布図を有用であると高く評価する。それは世界を鳥瞰的に見、総合化への良い手段だとする。それ故、色々な分布図がたくさん作られることを待望する。

 日本の東西文化の分岐点は愛知県にあるものが多い。私の両親の里、豊橋の西七根町の「大沢」という川の名前に思い至った。本書の分布図には愛知県には沢という川の名前はない。とすれば西七根の大沢は、「沢」という命名の西の限界であるようだ。 

                           

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書名 蕪村 著者 藤田 真一 No
2001-04
発行所 岩波新書 発行年 2000−12−20 読了年月日 2001−01−31 記入年月日 2000−12−20

 
蕪村研究の専門家の語った蕪村の魅力。極めて優れた入門書だ。俳句のみならず、画家としての蕪村も、多数の作品の写真を入れて、語っている。

 例えば「菜の花や 月は東に 日は西に」という有名な句の解説では、当時蕪村の住んでいた京都の南、河内地方では国内の菜種油のほとんどを生産していた、というような社会的事情にまで言及している。正岡子規、与謝野晶子、萩原朔太郎によりそれぞれ再発見され評価された蕪村。朔太郎は蕪村の詩の本質を「郷愁」においたという。

 蕪村の句の特徴の一つとして、著者は次のように述べる:p139
 
蕪村には、時間と空間を自由にゆきかう精神の自在さがあった。そんな融通無碍な開放的精神が、人のこころを晴ればれとひろやかにするのだろう。俳諧という詩の形態に不似合いなほどに、蕪村の句から(人ごころ)というものが伝わってくるゆえんである。作者その人の心ばえといってよいであろう。 

 最後に俳諧と漢詩とが混淆したような独特の作品「春風馬堤曲」についての解説が載っている。これは、淀川の堤を藪入りで実家に帰る若い娘の身になって読んだ詩だ。その解説の最後で以下のように述べている:p195
 
文学は文の芸である。蕪村のばあい、ことばの文に加えて、趣向という江戸特有の文があった。そうした趣向をめぐらす匠みというものが、蕪村の真骨頂であった。それを味わいつくすところにこそ、蕪村文芸のたのしみがあるというものだ。おのれの体験をかたり、本心を告白するという創作習慣は、蕪村にはなかった。個人的な動機や意図があったとしても、それを露わにするなどという考えは、微塵もなかった。蕪村は、自己をかたるなどと言う思想からは、はるか遠いところにいた。蕪村の俳諧精神は、もっと品がよく、洗練されたものであったはずである。

 読んでいると、今から220年ほど前、蕪村をはぐくんだ江戸時代中期の日本の社会の豊かさと安定に思いがいく。再度、江戸日本は決して暗い時代ではなかった。

                           

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書名 人生の意味 著者 キャロル・アドリエンヌ ,
住友 進 訳
No
2001-05
発行所 主婦の友社 発行年 2001年2月1日発行
読了年月日 2001−02−15 記入年月日 2001−02−16

 
羽鳥先生と港中学のことが心に浮かんだ次の日に、中学のクラスメートの田中優江さんから電話があり、羽鳥先生の逝去と、港中学の閉鎖を知ったという、またしてもの偶然の一致に驚いていたときだった。新聞に載った本書の広告に人生における「シンクロニシティ」と言うキャッチフレーズが目に飛び込んできた。こうした共時性が起こる深層心理への考察が少しは得られるかと思って、次の日曜日、NWJの翻訳の帰りに渋谷の大盛堂で購入した。エッセイ教室の2月の作品を提出する前に読み終えたいと思ったのだ。この本の広告が目に入ってきたこと自体シンクロニシティの一種である。

 中身は私の期待したものではなかった。人生に起こる色々なことはそれなりに意味があると言うこと。それに素直に耳を傾け精神世界とのつながりを持ち、積極的に生きていきましょうと言うことを、筆者の知人の例をたくさん引きながら述べたもの。

 私に当てはめれば、横浜市郊外の今のところの土地分譲の張り紙を目にして、それを手に入れたこと、NWJの翻訳者募集広告に目を留め、合格し、新しい人生が開けたこと、そしてNHKのエッセイ教室の広告が目に付き、新しい人間関係が開けたこと、が大きなシンクロシニシティといえるだろう。そう思うと私は人生におけるけるシンクロニシティをきわめてうまく利用して、いい人生を送っている例になりそうだ。

 原題は「The Purpose of Your Life」。「人生の意味」という言い方は大げさすぎる。「天職を求めて」といった題名がふさわしい。中身は事例を中心に、いかに自分にぴったりの職業、生き方を見つけたかという内容で、まとまりがなく、前世を信じると言ったうさんくさいところがある本。ちなみにほとんどの人が前世の記憶を欠いているのは、それがあると現世を生きる妨げになるから、この世に生まれ変わるときにすべて消してくるのだという。

                           

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書名 地球の歴史 著者 井尻正二、湊正雄 No
2001-06
発行所 岩波新書 発行年 1974年第二版 読了年月日 2001−02−19 記入年月日 2001−02−24

 
地球科学シリーズ。霧が丘の古本屋で見つけた。25年以上前の本だから、恐竜絶滅の隕石衝突説も出ていない。主として周期的な造山運動から地球の歴史を解説する。最後の造山運動はアルプス造山運動で、その結果起きた気象変動等の環境の変化に耐えられなかったから恐竜は絶滅したという立場をとる。造山運動は「地向斜」と呼ばれる海底に堆積した土砂が原因で起こる。どうしてそのことが陸地の隆起をもたらすかの明快な説明はない。以前読んだ同じ岩波新書の本では、地球の地殻の変動を主としてマントルの動きから説明していた。地向斜という言葉は初めて聞く言葉で、本書の主要な概念になっている。

 生命の誕生に関する記述ではDNAとかRNAという言葉はいっさい出てこない。オパーリンのコアセルベート説が生命の誕生を解明したというように記述してある。そのほかソ連の研究の成果への言及が多いところは、冷戦時代の岩波新書の特徴を表している。また、プレートテクトニクス論は簡単に紹介されている程度である。本書と例えば「生命と地球の共進化」と比べてみると、この25年間における地球科学、地質学、考古学等の進歩も著しいものに思われる。

                           

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書名 トパーズ 著者 村上 龍 No
2001-07
発行所 角川書店 発行年 88年10月 読了年月日 2001−02−25 記入年月日 2001−03−08

 
風俗産業、それも変態的な男を相手にする女性たちを主人公にした物語。短編11編からなる。私には全く縁のない異常な別世界であるが、主人公たちにリアリティがあり、生き生きしている。さすがに作家だと思う。作者は風俗産業に働く彼女たちが求めているのは人類が存続していくための「思想」である、とあとがきで言っているが、私にはどんな思想なのか理解できない。
 
 霧が丘の古本屋。

                           

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書名 社会的共通資本 著者 宇沢弘文 No
2001-08
発行所 岩波新書 発行年 2000年11月 読了年月日 2001−03−07 記入年月日 2001−03−08

 
農村と農業、都市、学校教育、医療、金融制度、地球環境をそれぞれ社会的共通資本として論じる。いずれの分野も市場原理の立場のみから見ることを厳しく否定する著者の立場は、フリードマンらに代表される新古典派に真っ向から対立するもの。従って、レーガン、サッチャー、中曽根に代表される政治的立場にきわめて批判的である。

 例えば農業を社会資本として、その保護を主張する。あるいは医療は経済によって限定されるものではなく、医療がまずあって、その医療を実現するための経済のあり方を考えるべきだと主張する。学校教育、医療、その他の分野でも、市場原理に変わるものとして同僚による相互レビューを著者は主張する。

 宇沢には「自動車の社会的費用」という名著がある。それに比べて説得力に劣る。市場原理だけですべてを解決することはできないし、またすべきではないと思う。だが、著者の主張にそうと、市民の負担は今よりずっと増える。果たして国際価格の5倍もする農産物を消費者に押しつけていいのだろうかと言う疑問がどうしても残る。そして、IT産業を中心とするアメリカ経済の絶好調に対して著者は全く言及していない。著者はむしろ世紀末に経済的混乱が世界的に広まっているという認識に立つ。そうした認識は私にはわからない。日本の経済的不振は規制緩和を中心とする市場原理への移行が不十分であるからだと私は思うのだが、著者の立場は規制緩和どころか、むしろ政府の関与を強めよと言うものだ。

                           

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書名 心はどこにあるのか 著者 ダニエル・デネット、 土屋俊 訳 No
2001-09
発行所 草思社 発行年 97年11月 読了年月日 2001−03−26 記入年月日 2001−03−31

 かなり以前に買って、少し読み始めて止めていた本。結局理解できなかった。脳のどの部分が意識や知性を担当するかという、生理学的、あるいは解剖学的解説を期待して買った本だが、内容は哲学的なのも、進化論的な見方から、動物と人の差と言ったものが書かれている。論旨が読みとりにくいのだが、著者の立場は動物には心はないと言うものだ。

 言語と心について 40p:
言葉が加わった心と言語なしに持ち得る心はまったく異なり、両方を等しく心と呼ぶのは間違いである。
 心と環境 225p:
人間が高い知性を持っているのは、自分の認知作業を、可能なかぎり環境そのものにゆだねてしまう習慣があるためである。つまり、外界につくった一連の周辺装置に、心(いわば知的活動)を代行させてしまうのである。
 このことの例として、230p以下に老人の例を出している。つまり、長年住み慣れた環境から切り離された老人は、その能力を急速に衰えさせる。環境につけた「目印」がなくなってしまうからだ。

                           

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書名 O嬢の物語 著者 ポーリーヌ・リアージュ 渋澤龍彦 訳 No
2001-10
発行所 河出書房新社 発行年 1992年6月 読了年月日 2001−04−16 記入年月日 2001−04−21

 
噂には聞いていたが、すごい本。奴隷であることの幸せ。確かに人間の本性の中にそうした心情があることは認めねばならない。この本は性におけるそうした奴隷状態にあることの幸せを、主人公O嬢を通して表す。一つ一つのシーンは想像を絶するほど猥褻なものだ。それでいて、描写と文体はきわめて抽象的であるので、読んでいて劣情を刺激されると言うことがほとんどない。訳者の解説にあるように、O嬢がもはや物体としてしか見なされていないから、普通のポルノのような官能の刺激が起こらないのだ。

 舞台はフランスのパリ。恋人のルネに連れられてやってきたロワッシーの館で、Oは徹底して男のおもちゃとして扱われ、従順な性の奴隷となる。裸で両手を後ろ手に縛られ、天井からつるされ、むち打たれ、男の性器を口で愛することを強要され、数人の男の前で次々に犯され、そしてその男たちに視線を向けることも、口を利くことも許されない。

 パリに帰ったOは、ルネの義理の兄弟、ステファン郷なる人物との間で共有され、さらに奴隷としての教育を受ける。そしてついにはO嬢はステファン郷のものとなる。Oはステファン郷から、性器に金属の輪を通され、その輪には鎖がつき、その先にはステファン郷の名前を記したプレートがぶら下がっている。そして尻には焼き鏝で深々とステファン郷のイニシャルがついている。そうした状態に落とされることにOは誇りすら感じる。

 人間に潜む性の深淵をえぐり出し、文学性が高い。

                           

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書名 嫁より先にベコが来たーーはみ出しキャリア奮戦記 著者 役重真喜子 No
2001-11
発行所 家の光協会 発行年 2000年4月 読了年月日 2001−04−23 記入年月日 2001−04−23

 
高校時代のガールフレンド、朝倉隆子さんの娘さんの書いた本。先月のエッセイ教室で、隆子さんのことを書き、ついでに本書の著者、役重真喜子さんのことにも触れた原稿も書いた。実際に提出したのは真喜子さんのことには触れてない原稿だったが、彼女のことは以前日経新聞の「人間発見」に登場したときから、興味を持っていたので、この本をわざわざ十日市場の書店より取り寄せて読んだ。

 東大卒、農水省のキャリアを捨て、岩手県の東和町の農家に嫁入りして、地元で活躍するまでの経過が、読みやすい筆で書かれている。思いついたら前後のことはあまり考えず突進してしまう人だ。東和町に研修に行き、農家の生活に魅せられ、牛に魅せられる。霞ヶ関に戻っても農村生活が忘れられず、結局東和町の町役場に出向させてもらう。そこで自分で牛を飼い、牛の預け先の農家の息子と結婚してしまう。

 それから、町民ぐるみのテレビ番組作り、交通事故、出産、自分の病気、義母の病気と体験し、その中で農村に今でも残る地縁、血縁の人間ネットワークに自分が支えられていることを知る。

 文中には東和町の人々がたくさんでてくる。いずれも姓ではなくて名前をカタカナで書いてある。カタカナで書かれると、なかなか覚えにくいものだ。彼女の実家のことはほとんどでてこない。その中で母親への言及が一番多い。子供の頃、母親はパンやみそなど多くの食品を手作りで作ってくれたという。そうした環境が農業への関心となり、農水省に入ったとのこと。そして、生き物好きも、子供の頃「虫めずる姫君」と言われた母親が、彼女の小さい頃から家で色々な生き物を飼った影響だという。朝倉隆子さんにそのようなところがあったというのは初めて知った。

 農村に住み着いたのだから、農家への厚い保護を当然としているところがある。今度発動されるセーフガード処置により、中国からの安いネギと生椎茸、イグサの輸入が制限され、われわれ消費者は数倍も高いネギしか入手できなくなることを彼女はどう考えるのだろうかと思った。

 昭和42年生まれだから私の長男より1才上。まだ若い。頭の良さは両親譲り。この行動力は母親を越える。

                           

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書名 信長燃ゆ 著者 安部龍太郎 No
2001-12
発行所 日経新聞夕刊連載 発行年 読了年月日 2001−05−02 記入年月日 2001−05−02

 
関白近衛前久が指揮を執った陰謀により、信長は本能寺で明智光秀に討たれたという考えに基づく信長の一代記。最初に火に包まれた本能寺における信長最後のシーンからこの小説は始まる。前久と言う人は馬術や、鉄砲など、武士勝りの技量を持っていたことになっている。彼は朝廷と信長の間の折衝に当たる。そして彼が遣わした使者役の東宮夫人の晴子は、信長の愛人になる。著者はいくつかの資料を基に前久陰謀説を真実であるとして、話を進める。秀吉までもこの陰謀の一端を担いだことになっている。前久にとって朝廷の権力を越えようとする信長は許せなかったのだ。この陰謀説が本当かどうかは知らない。ただ、今以て光秀の謀反には色々説があるから、作家の想像力を掻き立てるのだろう。初めて接した著者であるが、独特の文体で、興味深く読むことができた。
                                                   
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書名 著者 谷崎潤一郎 No
2001-13
発行所 河出文庫 発行年 読了年月日 2001−05−02 記入年月日 2001−05−03

 
初老の男性とその妻の性生活を両方からの日記形式で書いた作品。最後にどんでん返し的ところがあってストーリーとしても面白い。

 封建道徳に育てられ貞淑な妻は行為の時に夫にその美しい裸体を見せることなどは一切拒む。それでいて、彼女は淫欲が異常に強いことは夫だけでなく、自身も認める。妻との性行為に飽き足らないものを感じる夫ではあるが、ある時家に出入りする木村青年と妻とブランデーを飲み、風呂場で倒れた妻を寝室に運び込み、意識不明状態の妻の裸体をしみじみ見る。そうして自身の欲望をかき立てる。こうした行為を通じ、夫は妻との性生活に励むようになる。ところがそのためか高血圧になる。そして、最後は行為の最中に脳溢血の発作を起こし、しばらく養生した後、再度の発作で亡くなる。しかし、作品の最後をしめる妻の長い手記で、これらすべては夫を亡き者にし、木村を迎えたいという妻の仕組んだことであったと告白する。

 性行為がひどく人の体力を消耗させるものだという考えは、従来から俗説的にあるが、本当にそうだろうかと疑問に思う。

 昭和31年中央公論連載。


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書名 瘋癲老人日記 著者 谷崎潤一郎 No
2001-14
発行所 河出文庫 発行年 読了年月日 2001−05−20 記入年月日 2001−06−27

 
「鍵」の次に載っている。やはり老人の性を扱ったもの。こちらはもう77才の老人で性的能力はなく、しかも瘋癲で身動きもままならない。麻布の狸穴に住む老人は大金持ちで、専任の看護婦を常時付き添わせている。息子夫妻もこの邸宅に住むのだが、老人は自分の二人の娘より、この嫁の颯子が好きだ。その感情は次第に高じ、隣室でシャワーを浴びる嫁をのぞき見したことから高じて、シャワーの時に嫁の体に触れさせてもらったり、あるいはキスさせてもらったりする。もちろん、颯子の方も承知の上でじらしながら、誘う。そして、ついに300万円もの猫目石の指輪をせしめる。さらに老人は家の庭にプールを作ることを計画する。そこで泳ぐ颯子の姿を見たいためだ。颯子夫婦には男の子がいるが、留守がちの夫とはうまくいっていないようで、颯子は親戚の若い男と親しくしている。そんな中で、老人の颯子に対する思いはとどまるところを知らず、ついには、京都に作る自分の墓を仏足跡になぞらえたものにし、その足形を颯子のものにしたいと言い出すのだ。颯子の足で踏みつけてもらえば極楽だという。

 これは喜劇だ。老人の性への執念が切ない。

昭和36年中央公論連載。

「鍵」といい、この作品といい、その年令で、このようなことを書ける谷崎の恐ろしさを、三島由紀夫は身にしみて感じたのだろう。

                           

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書名 かきつばた・無心状 著者 井伏鱒二 No
2001-15
発行所 新潮文庫 発行年 平成6年7月 読了年月日 2001−05−28 記入年月日 2001−06−27

 
井伏のエッセイ集。いずれも独特の語り口である。特に明快な論理が作品を貫いているわけではないので、何を言わんとするのかは理解に苦しむところがある。

「かきつばた」は終戦直後の福山市が舞台。池に浮かんだ若い女の死体のそばにかきつばたの花が咲いているという話だが、何ともいえぬ不気味さが迫ってくる。女は福山の空襲の日、逃げてきて発作的に飛び込んだのだろうという。

 懐かしかったのは「乗合自動車」。終戦直後の木炭自動車でのエピソードを書いたもの。エンジンが点火せず、乗客が皆降りて後を押すのだが、下りて押そうとしない若いカップルがいて、運転手や他の乗客との間とでいろいろやり合う。この場面が高校受験の問題集に出ていて、その部分が何を言いたいのかという設問であった。私は「言うことを聞かないものには断固制裁を加えるべし」という意味だと思った。ところが回答では、これは現代日本の縮図で、皆が力を合わせなければ進まないということだとあった。私は、大変不満であった。わずかこれだけの場面を切り取って、そこまで類推することなどできないと思った。今回読んでみてもそんな意味は余りないと思った。でも、中学時代のこのことを覚えているのは、この文章が印象的だったからに違いない。

                           

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書名 ペスト 著者 アルベール・カミュ、宮崎嶺雄 訳 No
2001-16
発行所 新潮文庫 発行年 昭和44年発行、平成13年61刷 読了年月日 2001−06−25 記入年月日 2001−06−27

 
冒頭のオランの街の描写がすばらしい。これほど見事に一つの街の雰囲気を伝える文章はまず経験しない。文学者としてのカミュの才能に目を見張る。

 まじめな小説である。それは努めて客観的、記録的であろうとするこの小説の語り手、主人公の医師、リウーの語り口にある。そして、リウーを初め登場する人物がいずれもまじめな人物であるからである。正直言って途中は退屈で、しかも、難解な文章で余り読み進められなかった。しかし、後半、判事の子供の死あたりから、物語は急に盛り上がり、一息に読み終えた。

 春、街の至る所にネズミの死骸が見つかるところから物語は始まる。そしてやがてそれは人々に及び、ペストであることが判明する。街は外部との出入りを一切封鎖される。そんな中で、医師リウーは黙々と誠実に自分の務めを通して、ペストと戦う。その彼に加勢し、ボランティアを組織し保健隊としペストとの戦いに加わるのが、たまたまオランに来ていた流れ者のタルー。そして、タルーの組織に加わる、小官吏のグラン、やはりたまたまオランに来ていた新聞記者のランベール。その他司祭のパヌルー、判事のオトン、そして怪しげな犯罪者コタール、などが登場人物で、それぞれのエピソードが絡み合って展開する。

 夏から秋にかけて猛威をふるったペストは、クリスマスとともに突然引いていく。そして翌年の2月には街は再び解放される。だが、その解放の直前、タルーはペストに罹りあえなく亡くなる。同時にリウーも離れて結核の療養にあたっていた妻の死の電報を受け取る。

 タルーは死刑制度反対の運動に携わっていて、被害者としての人間にも時には死刑執行人となりうることの不条理を述べ、そしてペストとの戦いに参加する。司祭は最初、これは罰が当たったのだと説教するが、判事の子供の死に立ち会った後、その考え方を放棄する。そして、ペストとの戦いに参加し、ペストで死ぬ。リウーはただ目の前に苦しむ人々を救うという立場から、この戦いの最前線に立つ。リウーやタルーを通じて、不条理、悪に立ち向かうのに、宗教ではなく、人間の連帯や誠実さをもってするというのがこの小説の、カミュの思想である。それは深い感動を呼び起こす。

 本書の注目すべきところを思いつくままに:
155−156 悪徳、無知
 
世間に存在する悪は、ほとんどつねに無知に由来するものであり、善き意志も、豊かな知識がなければ、悪意と同じくらい多くの被害を与えることがありうる。人間は邪悪であるよりももしろ善良であり、そして真実のところ、そのことは問題ではない。しかし彼らは多少とも無知であり、そしてそれがすなわち善意あるいは悪徳と呼ばれるところのものなのであって、最も救いのない悪徳とは、みずからすべてを知っていると信じ、そこでみずから人を殺す権利を認めるような無知の、悪徳にほかならないのである。殺人者の魂は盲目なのであり、ありうるかぎりの明識なくしては、真の善良さも美しい愛も存在しない。

178 サッカーのW戦法。私たちがサッカーを始めた頃はフォワードは5人で、W型にポジションを取るものとされていた。
253−261 少年の死の場面
305−308 聖者について
313 愛について:
 
愛のないこの世界はさながら死滅した世界であり、いつかは必ず牢獄や仕事や猛勇心にもうんざりして、一人の人間の面影、愛情に嬉々としている心を求めるときがくるのだということを。
347−348 愛と記憶

                           

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書名 著者 小池真理子 No
2001-17
発行所 ハヤカワ・ミステリワールド 発行年 95年10月 読了年月日 2001−07−25 記入年月日 2001−07−26

 
エッセイ教室の向井さんが貸してくれた。来月、軽井沢で下重さんと小池真理子のトークショウがあって、その題が「恋」だ。私はその話が出るまで小池真理子を知らなかった。この作品は直木賞を取った作品だ。ちなみに彼女の夫の藤田宜永はつい1週間前に今年の直木賞を取った。

 ハードカバーのかなり厚い本。ほとんど昨日1日で読んでしまった。面白く、よくできた小説だ。
 物語は死の床にある主人公、布美子からルポライターの鳥飼が聞き出した形をとる。1972年冬、日本中を震撼させた連合赤軍事件の浅間山荘に警察が突入し、一味を逮捕した同じ頃、やはり軽井沢で起きた猟銃による殺人事件が、どのようにして起きたかを、犯人である布美子が語ったもの。

 大学紛争の最盛期、あるセクトの活動家と同棲していた布美子は、大学助教授で妻の父の二階堂の経済的庇護の下にブルジョワ的生活を送る片瀬信太郎のもとに、翻訳の口述筆記アルバイトとして行くようになる。信太郎の妻雛子は、外で愛人と泊まってきて、それを公然と夫に話すような進んだ夫婦である。そして、布美子は晋太郎にも雛子にも惹かれる。軽井沢の別荘で布美子と信太郎は関係を持つが、そのことを愛人の別荘から朝帰りした雛子に信太郎は平然と話し、雛子も平然と聞く。そんな不思議な夫婦の両方に布美子は惹かれていく。3人の甘美な愛の生活と言ったものができ、雛子と布美子は軽い肉体的接触を楽しむまでになる。

 そんな3人の前に現れたのが、軽井沢の電気店で働く、若い大久保。大久保が別荘に電気製品のカタログをもってきたその日から、雛子は彼の虜になる。信太郎は雛子のこの本物の恋だけは許せない。布美子も雛子が奪われる感覚にとらわれる。そして、ある日信太郎は狂ったように雛子を責め、家の物をさんざん破壊し、雛子を全裸で家に閉じこめる。駆けつけた布美子の取りなしで、雛子は解放され、軽井沢に向かう。信太郎と布美子は箱根の旅館へ向かう。そこはかって信太郎と雛子が新婚旅行に行った場所だ。そこで、信太郎は布美子に衝撃的告白をする。彼ら夫妻は実は二階堂子爵の腹違いの兄弟だったというのだ。

 次の日単身で軽井沢に向かった布美子は雛子と大久保と対する。誰にも言ってはいないという夫妻の秘密を、大久保は知っていた。大久保の態度に逆上して彼女は、二人の寝室に猟銃をもって入り、弾みで大久保を撃ち、また、後を追ってきた信太郎をも撃ってしまう。大久保は死に、信太郎は腰に重傷を負う。

 刑期を終えた布美子は事件から33年後癌でなくなる。この話を聞いた鳥飼はその後の信太郎夫妻に是非あって、布美子の最後を伝えたいと思う。信太郎は鳥飼の手紙をまったく無視した。鳥飼は住所を頼りに鎌倉の信太郎の家をそれとなく訪ねる。その家の前にはマルメロの木が植えてあって、中年の婦人が通りかかった鳥飼にその実を2つ分けてくれる。その後ろに、車椅子の信太郎の姿を鳥飼は目にする。マルメロはいつか自分を思いだしてくれることを願って、布美子が軽井沢に別荘に植えた物だった。

 兄弟の間の恋愛、同性愛、そして夫婦公然の婚外セックス、と並べると倒錯した世界のようだが、そうした感じは薄い。それほど無理なく登場人物の心理に入っていける。人が人を好きになることには本来そうしたタブーなどあり得ないのだ。

 マルメロのモチーフなどしゃれている。ただ、信太郎と雛子が結婚するのだが、信太郎の素性を調べた二階堂に、彼が自分が家政婦に生ませた子であることに気がつかず、最後は二人の結婚を認めたところは少し無理がある。

                           

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書名 子をつれて 著者 葛西善蔵 No
2001-18
発行所 中央公論社 発行年 中央公論社 読了年月日 2001−08−01 記入年月日 2001−08−01

 
よくわからない小説。2段組本書でわずか19ページの作品。家賃はおろかその日の米の代金にも事欠く主人公の作家が、家を追い立てられ、やむなく二人の子供を連れて、友人のKの下宿先を訪ねるが、そこでも断られてしまうという話。Kは主人公小田に1円あるいは5円と、無心の度に金を与えていたが、愛想づかしをして、避暑に出かけてしまっていた。妻は下の女の子を連れて郷里に金策に帰っていたが、音さたがない。小田は家を探して細民窟のある町の方へ向かうときに、今は警部になっている学生時代の友人に会う。彼はそんな生活では今に社会に生存できなくなってしまうと小田を諭す。

 こんなストーリーだが、この作品がもてはやされる理由がよくわからない。社会的無能力者、あるいは責任を放棄した人物としか写らない。昔の、大正時代の文士というのは、こんな生活が許されたのか。甘えとしか思えない。

 中に面白いエピソードがある。小田のところに作家仲間のYから香典返しの山本山のお茶の缶が届けられる。ところがその缶はへこんでいる。香典はKが小田のために立て替えたものだ。それを知っているYは、小田ごとき貧乏人が知人にいることを憎く思い、鉄アレイでその缶をわざとへこませたのだと、Kが小田に説明する下り。Yは日頃人道主義的博愛を説く作家であるとされている。私はYに山本有三を当てはめて想像してしまった。あるいはあたっているのではないか。

「それでも作家になりたい・・・」評:真のビンボーが名作を生む見本。泣かせる。

霧が丘の古本屋で入手。中央公論社『日本の文学 33』に収載。この巻には他に、宇野浩二と善村礒多を収める。


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書名 欲望 著者 小池真理子 No
2001-19
発行所 新潮文庫 発行年 平成12年4月 読了年月日 2001−08−11 記入年月日 2001−08−30

 長編の小説。エーゲ海クルーズのためモスクワからアテネに向かうエアロフロートの機中で読み終えた。

 私、類子と阿佐緒、そして正巳とは東京の中学校の同級生。卒業後それぞれの道を歩いていたが、3人は阿佐緒の夫、袴田の家の新築パーティで再会する。袴田の家は三島由紀夫の家をそっくり模倣したものだ。阿佐緒と正巳とはお互いに惹かれあっていたが、正巳は交通事故のために性的不能者になっていた。類子は職場の妻子ある男性とのセックスに没頭しているが、正巳への思いを胸に抱いている。正巳はセックスを観念でしか考えられない。
 夫の女性関係を疑った阿佐緒は自殺する。類子と正巳は八重山群島に旅行し、そこで正巳も沖へ沖へ泳いでいって、溺死してしまう。

 ストーリーはそんな展開だが、作品は三島由紀夫の「豊饒の海」を下敷きにしている。物語は類子が写真展で袴田邸の新築パーティの写真を見るところから、回想形式で始まり、類子が東京の郊外に袴田を訪ねるところで終わる。目の不自由になった袴田はそこで類子に「豊穣の海」の最後のところを読ませる。そしてこの小説の最後の描写は「豊穣の海」の最後の完全な二重写しとなっている。

 読みやすい文章で、比喩がいい。何よりもプロットが面白い。

 軽井沢の下重暁子のトークショウの後、小池真理子とエッセイ教室の仲間の黒須さんが話しているところに私も加わり、「『欲望』という小説は、三島由紀夫を下敷きにしていて、黒須さんが好きそうな作品ですよ」と、黒須さんに言った。三島がお好きなのですかと、黒須さんが小池真理子に聞いた。「ええ大好きです。あなたはどの作品が好きですか」と小池真理子。「『潮騒』です。あまり本格的な作品ではないですけれど」。小池真理子がそれになんと答えたかははっきりとは覚えていないが、そういう作品が好きでもいいというようなことを言った。美人で素敵な人だ。

                                     

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書名 棺の中の猫 著者 小池真理子 No
2001-20
発行所 新潮文庫 発行年 平成8年7月 読了年月日 2001−08−25 記入年月日 2001−08−30

 
これも私、雅代の回想として語られる。東京郊外の画家の家に娘、桃子の家庭教師としてやってきた雅代。桃子の父、川久保は妻を亡くし、娘と一人で暮らしている。桃子は真っ白な猫ララにしか心を開かない孤独な少女である。雅代にやっと心を開くようになった頃、家に女優を思わせるような女、千夏がやってくる。川久保は千夏との再婚を考えている。千夏はどうかして桃子の心を開かせようと努力するが、桃子は千夏には決して心を開かない。千夏はララを池に落として殺してしまう。それを知った桃子は雪の日に千夏を誘いだし、麦畑の中の井戸へと彼女を誘う・・・・。だが、千夏は実は・・・。

 これも最後のひねりが利いている。効き過ぎで、結末は余りにも残酷すぎる感じがする。風景と心理描写が巧みである。

 軽井沢でこの本に小池真理子からサインをもらった。達筆である。猫好きで二匹の猫を飼っているという。そしてその内の一匹は亭主の藤田宣永よりも大事だという。立ち話で「ララというのは先生の家の猫がモデルですか」と聞いてみたら,「違います。ララは真っ白だけれど家のは二匹とも違いますから」とのことだった。エッセイ教室の仲間の飯塚さんが当日持参した猫好き作家を集めた本の写真では、小池真理子の家の猫は確かに真っ白いのはいなかった。


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書名 デフレの恐怖 著者 R・ブートル、高橋乗宣 監訳 No
2001-22
発行所 東洋経済新報社 発行年 98年1月 読了年月日 2001−10−13 記入年月日 2001−10−20

 
8月のエッセイ教室のテーマが「セール」であった。どこもかしこもセール大やはりの最近の日本の現状を取り上げてみたらどうかと考えた。そんなとき、霧が丘の古本屋でこの本が目に入った。

 今の日本の現状を見事な解説になっている。戦後ずっと続いたインフレの世界とはまったく別の世界が始まったと著者は言う。大量生産を握る大企業によるマーケットを支配、それに加えて、強力な労働組合、さらに色々な公的規制、あるいは非能率な公企業などがそうした持続的インフレを支えた。しかし、80年代の後半から、90年代にかけてそうしたものが崩れていった。そして、市場に於ける競争こそがすべてを決し、さらに経済のグローバル化が進み、ものの値段は下落せざるを得なくなった、というのが著者の分析だ。物価はつねに上昇するものだという社会に住み慣れた我々は、その観念をなかなか捨てられない。しかし、昨今の日本の現状を見ると、65円のハンバーガー、280円の牛丼、あるいは100円ショップ、形状記憶加工の立派なワイシャツが450円(これは中国製だろう、経済グローバル化の恩恵)、ニューヨーク往復3万円の航空券・・・ひと頃はやった言葉で言えば「価格破壊」が益々進んでいて、本書の主張には説得力がある。

 住宅の建設・所有とインフレおよびディスインフレの関係を論じたところは興味深い。住宅が個人の資産に占める割合というのは圧倒的に大きいことがあらためて認識される。

 著者はケインズ経済学の破綻を主張し、自然失業率概念への疑問を呈する。アメリカの金利の決定に当たって、FRBがよく失業率も低い値で推移しているので、インフレ懸念はなく、利下げに踏み切ったという記事を読んだが、失業率というのはそれほど大きな意味を持っていたのだ。色々なエコノミストや中央銀行家に対する厳しい批判を浴びせる著者だが、FRBのグリーンスパン議長だけは買っている。

 著者はまた、インフレはマネー供給量の大小によって決定されるというマネタリストの論理にも反論する。現在のディスインフレは制度の変革によりもたらされた面が大きいという。

 歴史的に見れば、戦後の特に70年代に経験した持続的インフレは例外的な事象であり、多くの人がインフレとは常態であると思っているが、そうではなく、今こそ発想を転換し、インフレのない世界が当たり前だと思うべきだとする。

 果たしてインフレのない世界がいつまで続くか。本書は96年のものだが、その後の推移は著者の予言通りで進んでいる。日本はデフレスパイラルに陥りそうな現状である。

 題名「デフレの恐怖」というのは適切でないと思う。著者はデスインフレこそが常態だと言っているのだから。

                           

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書名 世界史概観上・下 著者 H.G.ウェルズ、長谷部文雄、阿部知二 訳 No
2001-23
発行所 岩波新書 発行年 1966年第1刷、95年 44刷発行 読了年月日 2001−10−20 記入年月日 2001−10−20

 
以前の著書「世界文化史概観」という岩波新書の赤版を読んだのは、大学受験の時だったと思う。その本は大事にとってあって、褐色に変色し始めた上下2冊は、ジュネーブに行くときに持っていった。5ヶ月の滞在中に、結局は読むことなく終わって、ジュネーブの日本大使館に勤める、池田さんという女性にプレゼントしてきた。スケールの大きな読みやすい解説書だったという印象が残っている。あの頃に読んだ本を再読してみたいという最近の思いに駆られて、本屋で見つけたときためらわず購入した。

 スケールの大きさには今度も感心する。なにしろ宇宙空間における地球の解説から始め、生物の誕生、地質時代、人類の誕生を説き起こしてくる。以前の本にはこんな記述はなかったと思う。著者は、空想科学者としても有名なウェルズだ。私は頭でっかちでタコみたいな火星人を作り出したあのウェルズとこの本の著者が同一人物だという意識を持たずに、前著を読んだ。
 面白い。著者の筆の力、言い回しの絶妙さに引き込まれる。古代から現代に至る民族、国家の消長という見方が一つの基本である。著者はお互いに影響を与えながら発展、あるいは一方が他の要素を吸収してさらに発展するとい観点から、民族や国家の興亡を見ている。もちろん、西欧中心の記述だが、中国やインドにも公平な目を注いでる。

 例えば:下巻 19ページ以降には、ヨーロッパの復興に関与したのはサラセン人だけでなく、蒙古の関与にも言及している。そして、以下のように述べる:
 
おそらく独創的な民族としてではないが、知識や方法の媒介者として彼らが世界歴史に及ぼした影響はきわめて大きいものであった。そして、ジンギス汗やクブライ汗の漠然とした伝奇的な人柄・・・・は、これらの人物が、・・・・アレクサンダー大王、または、・・・・シャルルマーニュと、少なくとも同様には理解力のある創造的な君主であったという印象をたしかめうるのである。
 今ちょうどNHKのドラマで蒙古襲来をやっているせいか、こんな記述にも目がいく。

 また、今回のテロに対する報復を呼びかけたブッシュ大統領の声明の中に、「十字軍」という言葉があると言って、タリバン側は強く反発したが、本書は十字軍を一種の民衆デモクラシーととらえている。上巻216ページ以下:
 
ただ一個の観念に関連して庶民がこんなに広範囲に奮起したことは、人類の歴史における新事件であった。中略。こうした運動はたしかに、伝道宗教の発展につれて発生した新精神と関係があった。ヘブライの予言者たち、イエスとその使徒たち、マニ、マホメットなどは、すべて、人間の個々の魂に呼びかけたのであった。彼らは個人の良心と神とを対面させた。そうした時代以前には、宗教は良心の問題ではなく、むしろ物神とか似非科学の問題であった。古い宗教は寺院中心であり、僧侶や神秘な生贄を創始し、恐怖心を利用して庶民を奴隷のように支配したが、新たな種類の宗教は人間を人間たらしめたのである。
 
第一回十字軍の唱道はヨーロッパ史上での最初の大衆の決起となった。これを近代的民主主義の誕生と呼んではいいすぎかも知れないが、しかしたしかにこの時には近代的民主主義が振興されたのである。
 こうした指摘は、キリスト教を始めイスラム教などの本質を見事につくもので、目を洗われる気がする。また上巻118ページからはガウタマ仏陀の生涯と教えが簡潔に記述されている。仏教徒の我々はこうしたことを全くと言っていい程知らない。

 古代エジプト人民の生活について 上巻 59ページの終わり:
 
この時代の世界では、変化はほとんどなかった。庶民の日常は、日にさらされた、骨の折れる、因習的なものであった。・・・・僧侶は、記憶にもない者の掟によって生活を指揮したり、播種期のために星の番をしたり、生贄祭の神の示しを見定めたり、夢のお告げを判断したりした。庶民は、自分たちの野蛮な過去のことを忘れ将来のことも気にかけないで、働き、恋し、死んでゆき、必ずしも不仕合わせではなかった。
 こんな記述にしびれる。「必ずしも不仕合わせではなかった」とは著者の主観の強い記述だが、私も同感である。

 アーリア語について。上巻76ページから:
 
彼らはたいへん歌うことの好きな民族であった。・・・・彼らは文明と接触するにいたるまでは文字を知らなかったのであって、この吟唱詩人の記憶が彼らの生きた文書であった。このような朗吟をもって悦楽としたことは、その言語を精緻で美しいものとするために大いに貢献した。そして、アーリア語から出た諸国語の後日の卓越は、部分的には疑いもなくこの事実に負っているのである。
 国家、ローマの終焉。上巻188ページの終わり:
 
いかなる国家も、いかなる帝国も、人類社会のいかなる組織も、究極においては、理解と意志から成りたつものである。しかしローマ帝国のための意志は全くなにも残っていなかった。したがってローマ帝国は終焉したのである。

 下巻:
p40:
歴史は個々の人間の物語ではなくて、もろもろのコミュニティー(共同体)の物語であるから、歴史的記録においてもっとも目立つ発明物がコミュニケーション(伝達)に影響する発明物であることは当然である。十六世紀においてわれわれの注目すべき主要な新事象は、紙の印刷物の出現と、羅針盤という新工夫を利用する大洋航行帆船とである。前者は、教えること、公けの報知や論議、政治活動の根本的操作などを低廉にし、普及させ、変革した。後者は丸い世界を一つのものとした。しかし、ほとんど同じように重要なのは、蒙古人が十三世紀にはじめて西方に持ってきた銃砲と火薬とがますます利用され、改良されたことであった。これは、城に住む貴族や城壁をめぐらした都市の安全性をはっきり破壊してしまった。銃砲は封建制度を一掃したのだ。コンスタンティノープルは銃砲でおとされ、メキシコやペルーはスペインの銃砲を恐れて降服した。
p77〜78:
われわれの鉄道計画では軌道の幅があまりも小胆すぎたこと、鉄道の規模をずっと大きくすれば旅行をはるかに確実で安楽なものとすることもできたのだということ、―人々がそうしたことに気づいたのはあまりにもおそすぎた。

 18世紀、19世紀の科学技術の発展に関する記述は、さすがに科学者だけあって詳しい。例えば鉄鋼技術に関する解説が上の引用文の前に載っているが、こうしたものは普通の歴史家には書けないだろう。
p86の第59章「近代的政治・社会思想の発展」は前回読んだ時にはなかったのではないか。近代政治思想が簡潔にまとめられている。また、私的所有に関しても論じている。
p118:近代日本の発展への言及。これは前版の時も印象に残った記述で、よく覚えている。

アメリカについて:
p97:
つづいて、すでに注目したような交通機関の高速度化が現われた。この交通機関の高速度化にもっとも負うところのあるアメリカが、そのことをもっとも少なくしか感じなかったのはふしぎなことである。合衆国は鉄遣や河蒸汽や電信などを、自己の成長の自然的一部分であるかのように考えていたが、じつはそうではなかった。これらのものは、たまたま、ちょうどアメリカの統一を救うのに間に合うように現われたのである。今日の合衆国は、はじめには河蒸汽によって、それから鉄道によってつくられた。これらのものがなかったならぱ、現在の合衆国という、この巨大な大陸国家はまったく不可能であったろう。
 このほかにもアメリカ蒸気船汽車共和国、イギリス蒸気船帝国と言った言葉が出てくる。

 旧版は第一次世界大戦で終わっていた。本書は1940年までのことが書かれていて、さらに、1944年までが書き足されている。この部分では国際連盟の無力さへの批判、ベルサイユ体制への批判、ナチスの進出を許したイギリス・フランスの当事者への批判等が強調される。

79才になったウェルズはp183でこう述べている:
 
希望的にせよ悪意からにせよ、嫉妬からにせよ寛大の心からにせよ、われわれ老童は傍観し、傍観者の域を一歩も出ることはできないのである。われわれは本質的には、四十有余年前まで生きたのだ。青年は生命であって、彼等のなかにしか希望はない。
 見事な悟り、諦観である。
さらに巻末にポストゲートの書いた戦後史が載っている。


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書名 蜜月 著者 小池真理子 No
2001-24
発行所 新潮文庫 発行年 平成13年4月1日 読了年月日 2001−10−27 記入年月日 2001−11−02

 
天才画家で奔放な女性関係を持つ辻堂環をめぐる6人の女性の恋の物語の連作。彼女らは今はおでん屋の女将、地方で老母と暮らす女性など、それぞれに静かな生活を送っている。その6人が44才の若さで死んだ環の死をニュースで知り、それぞれの恋を回想する形式で書かれている。

 面白いのは八方破れで、初対面の時にオナニーの質問をしたり、腰に手を回したりするぶしつけで、強引で、粗野な環に、それぞれの女性がほとんど一目惚れしてしまうこと。精神では拒み、軽蔑しながら、生理は引かれていくという女性の特徴か。後は女の方から環に会いに行き、翻弄される。それでいて、彼女らにとっては環との恋の時間は濃密で純粋である。

                          

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書名 本よみの虫干し 著者 関川夏央 No
2001-25
発行所 岩波新書 発行年 2001年10月19日 読了年月日 2001−11−01 記入年月日 2001−11−02

 
朝日新聞に連載されていたシリーズ。文学は歴史であると本書の腰巻きの文句にある。

「伊豆の踊子」川端康成から「ヨーロッパ退屈日記」伊丹十三まで、関川が若い頃から現在までに読んだ本の解説あるいは感想を記す。純文学中心の高踏趣味とは無縁な読書内容で、いわゆる大衆小説から、堀江謙一の「太平洋ひとりぼっち」と言ったものまで含む。そして本の中身だけでなく、作者とその時代への記述も簡潔になされる。堀江謙一の例では、太平洋横断直後の堀江を江藤淳がシスコでインタビューしたことが書かれている。本書から:
・・・・江藤は堀江を「戦後青年の典型」だと書いた。
 一方、私にとっては堀江謙一は、いわば「ジャック・アンド・ベティ」の遠いアメリカを、「プロレタリアートでも行ける」近いアメリカに一気に引き寄せた英雄だった。私はその夏、マーメイドの精密な模型を作った。
 はるか後年、過剰に散文的な「世界」といく度か接した末に、私は六二年以前の「鎖国化下の平和」を追懐の対象とするに至ったが、その頃堀江謙一は職業的冒険家となっていた。


 その本の持つ歴史的意味合いが簡潔に記されている。そして、それはいくつかのテーマごとにまとめられている。全編を通して著者は歴史の連続性にこだわる。戦後の生活は決して戦前と断絶したものではなく、連綿と明治、大正、昭和初期に連なり、起源を有するという。その主張は私も実感として感じる。七根での疎開生活に私は天保時代への繋がりを感じている。

本書から:
「愛」というイデオロギー
 明治の精神が輸入し、近代文学に強制移植したものは「愛」と「天才」という観念であった。「愛」は家と家族という枠組みに、「天才」は大衆化する社会に対抗する「イデオロギー」として、それぞれ機能した。
「愛」の副産物たる「嫉妬」は、一九五〇年代、経済威長下に烈しく流動する社会が必然的にもたらす「不平等」への空気抜きとして働いた。人は「嫉妬」と、その肥大感情である「恨み」を動機とした推理小説を「社会派」と名づけたが、それらもまた時代の「イデオロギー」にすぎなかったから、安定成長に移行した一九七〇年代にはすばやく退潮した。

 松本清張の文学の本質と、清張が今では人の口に上らなくなった理由に対する明快な解説である。

 開高健についてはベトナム戦争を題材とした「輝ける闇」を取り上げている。そのなかで、開高健があれほど世界各地の旅に出た背景には、家にいたくなかったからだと想像している。それは年上の妻、詩人の牧羊子が疎ましかったのではないかとほのめかしている。
                     
      

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書名 挟み撃ち 著者 後藤明生 No
2001-26
発行所 河出書房新社 発行年 昭和48年10月 読了年月日 2001−11−09 記入年月日 2001−11−13

「それでも作家になりたい人のためのブックガイド」推薦の必読50冊の中で、どうしても見つからなかったもの。かつて、青葉台の本屋に注文したが、絶版だと言われた。

 日東グループとの麻雀に出かけるのを利用して、午後の2日間で国会図書館で読んだ。面白い小説だ。連想小説とでも言うのか。回想と連想がとりとめもなく続いて、次から次へとエピソードが展開される。主人公の優しい人間性に裏打ちされたユーモアがあって、その連想が快い。

 40歳を過ぎたばかりの作家が主人公だが、実際の主人公は「陸軍歩兵式のカーキ色外套」だ。お茶の水の橋の上で、人を待っていた私は、20年前に福岡の田舎町から受験のために上京するとき、着てきたその外套が、いつの間にかなくなっているのを思い出す。そして、ある日早起きをして、その行方を尋ね昔の下宿やその近くの質屋を訪れる。あるいは、高校時代の学友と会い、川向こうの旧遊郭のあったところを歩いたりする。外套にこだわったのはゴーゴリの「外套」という作品を私が愛しているからだ。しかし、結局私の外套の最後はわからずじまい。その間に話は各方面に飛ぶ。北朝鮮で小学生として終戦をむかえたときの話、祖母や兄のこと、九州に引っ越してきてからの戦後間もない頃の世相のこと、そこで高校生のとき娼婦を買った話、蕨の下宿での家主や、友人の拓殖大学生の話・・・。
 私も書けそうな気がする小説だが・・・。

「それでも作家・・・」評:読むほどに哀愁とユーモアのにじむ寄道小説。

これで、推薦50編のうち残るは大西巨人「神聖喜劇」の一つとなった。

                           

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書名 わが闘争(上) 著者 アドルフ・ヒトラー、
平野一郎、将積茂 訳
No
2001-27
発行所 角川文庫 発行年 昭和48年初版、平成13年改訂版初版 読了年月日 2001-12-05 記入年月日 2001-12-06

 
若葉台の有隣堂でひら積みしてあったのを見つけて購入。上巻は500ページ近い大書である。ヒトラーが1924年、獄中にあって口述したものをまとめたもの。原文がわかりにくいのか、あるいは翻訳のせいか、文意を汲みかねるところが各所にある。

 読んでみようと言う気になったのは、最近の日本における偏狭なナショナリズムの勃興への不安と無縁ではない。そして、60年前には日本が手を握っていたこの独裁者についてその実体、思想を何も知らないことへの反省がある。

 本書に述べられたその思想は、アーリア民族の絶対優位性、ユダヤ人への徹底した憎悪、人類の歴史を人種間のダーウィニズム的適者生存闘争と見る見方、反マルキシズム、議会制度の否認と暴力の信奉、国際主義、平和主義への嫌悪である。
 こうした思想がどこから出てくるのかが大きな興味であった。20世紀初頭のウイーンの混沌とした政治、経済、文化情勢がヒトラーの思想を育てたと一応は言える。だが、これほど強烈で極端で、胸の悪くなるような思想は、そうした外的な状況だけでは生成し得えず、背景にもっと個人的な事情があると思われる。画家、建築家としての挫折と、苦難の青年時代といった個人的事情が、彼の思想の形成にどのように関わっていたかは本書ではうかがえない。これは、別途ヒトラーの伝記のようなものによらなければならない。
 例えば、その思想の中心にあり、何百万のユダヤ人を強制収容所で殺した反ユダヤ主義の由来は、本書の最初の方では、ウイーンの社会民主党への憎悪から、その指導者が主としてユダヤ人であることから由来するように読める。しかし、それだけではあれほどの反ユダヤ主義の原因としては弱い。やはり、ヨーロッパに於ける反ユダヤ主義の長い歴史に由来する面が多いのだろうと思う。その点に関しては、日本人の私は具体的には何もわからない。

 ヒトラーは国際金融資本の支配(それを操るのはユダヤだ)からの脱却をしきりに説き、国家経済の確立を主張する。現在のグローバル化とそれに反対する勢力、特にイスラム世界やそこが育んだテロ集団、のことを思って興味があった。80年前から経済の国際化と一国経済の独立という問題はあり、ヒトラーはそこにつけ込んだのだ。またかれは経済至上主義を国家としては取るべき道ではないと否定する。戦後日本の道と対比してこれも興味があった。これ一つを取ってみても、ヒトラーの主張が、現在とは無縁だと言うことはあり得ない。議会制民主主義とか、世論とかマスコミというものもすでにしっかりとあり、それに対してヒトラーは否定的に戦ったのだ。民主主義の基盤であるこうした制度に対する、否定的な見方は、最近でも耳にする。
 ナチ運動の進め方についての論議は、政治手法として鋭い。天才的と言われるゆえんだ。

本書から
歴史教育の重要性について 32p
 
歴史教育にこそ、決して枯れることのない泉がある。それはとりわけ忘却の時代において、無言の警告者として刹那的な繁栄を超越し、つねに過去を思いだすことによって、新しい未来をささやくのである。

議会 121p
 
客観的に観察すれば、この議会主義ほど誤った原則はない。

世論 121p
 
われわれがつねに「世論」といっているものは、自分でえた経験や個々人の認識によるものはごく小部分だけで、大部分はこれに対して、往々にしてまったく際限なく、徹底的にそして持続的にいわゆる「啓蒙」という種類のものによってよび起こされるものである。

ゲルマン的民主主義 128p
 
これに(ユダヤ的民主主義)対立しているのが行動に対してすべての責任を完全に引き受ける義務を負っている指導者を自由に選ぶ、真のゲルマン的民主主義である。

ドイツの人口増加の問題 178p
 
ドイツは毎年ほぼ九十万人の人口増加がある。この新しい国民の大軍を養う困難さは、年々大きくなり、もしこの飢餓貧困化の危険を時機を失わずに予防すべき手段と方法が発見されないならば、いつかは破局に終わるに違いないのだ。
 ヒトラーはその解決手段として、経済の興隆ではなく、領土の拡張獲得を主張する。

領土と土地、侵略の正当化 182p
 
自然は政治的境界を知らない。自然は生物をまずこの地球上に置き、そして諸力の自由な競争を見ている。そして勇気と勤勉さで最も強いものが、自然の最愛の子供として生存の支配権を受けとるのだ。
 他の人種がこの地上の大きな面積に永遠にしがみついているときに、もしある民族が国土開発にとどまっているならば、ある時期になると他の民族が絶えず増加しつづけるのに、自己制限することを余儀なくさせられるであろう。しかしいつかはこういうばあいがくる。そして実際にある民族の自由に処置しうる生活圏が小さければ小さいほど、ますます早くなる。とにかく遺憾ながら、しばしば総じて最善の国民が、あるいはより正しくいえば、唯一の真の文化的人種、あらゆる人種の進歩の担い手だけが、その平和主義に眩惑されて、新しい土地獲得を断念し、「国土」開発で満足することを決意しているが、しかし劣等な諸国民が、この世界の巨大な生活圏を確保することを知っているから、これは次のような結果に導くであろう。すなわち、
 文化的には劣っているが、しかし生来より残忍な民族は、最も大きな生活圏をもっているために、その位置でなお無限に増加をつづけることができるのに、丈化的にはすぐれているが、しかし遠慮がちな人種がその制限された土地のためにいつかはその人口増加を制限せねばならないのである。いいかえれば、世界は、こうして文化的には価値は少ないが、しかし実行力のある人種に帰することになる。
 そこでなお遠い将来のことではあるが、ただ二つの可能性だけが残る。つまり、世界はわが近代民主主義の観念にしたがって、すべての決定が数の上でより強い人種のために有利な結果に終わるか、あるいは世界は自然的な力の秩序の法則によって支配され、その場合残虐な意志をもつ民族が勝つことになり、したがって白制する国民が敗れるか、である。
 しかしこの世界がいつかこのうえもなく激しい人類の生存の闘争にさらされるだろうことは、誰人も疑うことができない。最後には自己保存欲だけが、永遠に勝利を占める。この欲望の下では、愚鈍や臆病やうぬぼれの強い知ったかぶりがこっちゃまぜになって表われているいわゆるヒューマニティは三月の太陽のもとでの雪のようにとけてしまう。永遠の闘争において人類は大きくなった―永遠の平和において人類は破滅するのだ。
 しかしわれわれドイツ人にとっては、「国土開発」のスローガンは、だからまったく因果なことである。それは、平和主義的な心がけに応じて平穏な仮睡生活の中で生存を「儲ける」ことが許される手段が見つかったという意見を、すぐにわれわれの間に強めるからである。この説がひとたびわれわれの間にまじめに受けいられるならば、それはこの世界で、われわれにふさわしい場所を確保しようとするあらゆる努力の終焉を意味するのである。このような方法ででも、生活と未来を確保しうるという確信を、平凡なドイツ人がいだきはじめるやいなや、ドイツ人に必要な生を積極的に、したがって効果的に主張しようとするあらゆる試みは、空虚になるであろう。しかし国民のこういう態度によって、すべて真に効果的な外交政策は葬り去られ、それとともにドイツ民族の未来も一般に葬られると見ることができよう。

 ヒトラーの思想の本質がよく出ている。文章の回りくどさも同様によく出ている。それにしてもこの傲慢さはどこから来るのか。そして、

日露戦争への評価、イギリスとの同盟の主張 190pおよび433pでそれぞれイギリスとの同盟を推奨している。日露戦争で日本がイギリスと組んだことを高く評価し、もし、ドイツがイギリスと組んでいたら第一次「世界大戦」までは至らなかったという。
 433p
 
なぜなら、同盟は武器と結ばれるのではなく人間と結ばれるのだからだである。したがってイギリス国民は、かれらの指導者層と大衆の精神の中に、一度開始された戦いは時間と犠牲を無視し、あらゆる手段を用いて最後の勝利まで貫き通そうと決心しているあの野蛮さと粘り強さが期待される限り、世界で一番貴重な同盟仲間であるとみなされなければならぬだろう。

民衆について 241p
 
民衆の圧倒的多数は冷静な熟慮よりもむしろ感情的な感じで考え方や行動を決めるという女性的素質を持ち、女性的な態度をとる。
 しかしこの感情は複雑でなく、非常に単純で閉鎖的である。この場合繊細さは存在せず、肯定か否定か、愛か憎か、正か不正か、真か偽かであり、決して半分はそうで半分は違うとか、あるいは一部分はそうだということはない。

 恐ろしいほどの分析で、結局彼は大衆のこうした性質につけ込むのだ。

日本文化への言及 378p
 
たとえば、数十年もへぬ中に、東部アジアの全部の国が、その基礎は結局、われわれの場合と同様なヘレニズム精神とゲルマンの技術であるような文化を自分たちの国に固有のものだと呼ぶようになるだろう。ただ、外面的形式―少なくとも部分的には―だけがアジア的存在様式の特徴を身につけるだろう。日本は多くの人々がそう思っているように、自分の文化にヨーロッパの技術をつけ加えたのではなく、ヨーロッパの科学と技術が日本の特性によって装飾されたのだ。実際生活の基礎は、たとえ、日本文化が―内面的な区別なのだから外観ではよけいにヨーロッパ人の目にはいってくるから―生活の色彩を限定しているにしても、もはや特に日本的な文化ではないのであって、それはヨーロッパやアメリカの、したがってアーリア民族の強力な科学・技術的労作なのである。これらの業績に基づいてのみ、東洋も一般的な人類の進歩についてゆくことができるのだ。これらは日々のパンのための闘争の基礎を作り出し、そのための武器と道具を生み出したのであって、ただ表面的な包装だけが、徐々に日本人の存在様式に調和させられたに過ぎない。
 今日以後、かりにヨーロッパとアメリカが滅亡したとして、すべてアーリア人の影響がそれ以上日本に及ぼされなくなったとしよう。その場合、短期問はなお今日の日本の科学と技術の上昇は続くことができるに違いない。しかしわずかな年月で、はやくも泉は水がかれてしまい、日本的特性は強まってゆくだろうが、現在の文化は硬直し、七十年前にアーリア文化の大波によって破られた眠りに再び落ちてゆくだろう。だから、今日の日本の発展がアーリア的源泉に生命を負っているとまったく同様、かつて遠い昔にもまた外国の影響と外国の精神が当時の日本文化の覚醒者であったのだ。その文化が後になって化石化したり、完全に硬直してしまったという事実は、そのことをもっともよく証明している。こうした硬直は、元来創造的な人種の本質が失われるか、あるいは、文化領域の最初の発展に動因と素材を与えた、外からの影響が場合にのみ、一民族に現れうる。ある民族が文化を他人種から本質的な基礎材料として、うけとり、同化し、加工してもそれから先、外からの影響が絶えてしまうと、またしても硬化するということが確実であるとすれば、このような人種は、おそらく「文化支持的」と呼ばれうるが、けっして「文化創造的」と呼ばれることはできない。
 この観点から個々の民族を検討するならば、存在するのはほとんど例外なしに、本来の文化創始的民族ではなく、ほとんどつねに文化支持的な民族ばかりであるという事実が明らかになる。
 常に、民族発展の次のような概念が生れる。
 すなわち、アーリア種族は―しばしば、ほんとうに奇妙なくらいの少ない人数で―異民族を征服し、そして新しい領域の特殊な生活環境(肥沃さ、風土の状態等)によって刺激されつつ、そしてまた人種的に劣った人間を多量に補助手段として自由に利用することに恵まれつつ、かれらのうちに眠っていた精神的、創造的な能力を発展させる。かれらはしばしば数千年、いや数百年もたたぬ問に文化を創造する。それらの文化は、前にすでに触れておいた、大地の特殊な性質や、征服された人間に調和しながらも、自已の存在様式の内面的特徴を、はじめから完全にもっているのだ。だがついに、征服が自分の血の純粋保存という、最初は守られていた原理を犯すようなことになれば、抑圧されている住民と混血しはじめ、それとともに自分の存在に終末をつける。というのは、楽園での人間の堕落には、相変わらずそこからの追放がまっているに違いないからである。


ナチ運動の反議会主義について 447−448p
 
人類の進歩と文化は多数決の所産ではなく、もっぱら個人の独創力と行動力に基づいている。
 このような個人を訓育して、それぞれの資格に応じたところへ配置することは、わが民族の偉大さと力を回復するための一つの前提である。
 したがってこの運動は反議会主義的であり、運動が議会制度へ参加するのでさえ、ただそれを破壊するための、つまりわれらが人類のもっとも深刻な退廃現象の一つと認めなければならない制度をとり除くための活動という意味しかもちえない。

 教科書問題や靖国神社参拝といった現在の日本の状況、あるいは経済グローバル化の時代、イスラム過激派のテロ、などのことを思い浮かべながら読み進めた。そして、ヒトラーの主張と対比させるものとして、私が心に浮かべたのはカミュの「ペスト」の中の言葉であった。 

 
世間に存在する悪は、ほとんどつねに無知に由来するものであり、善き意志も、豊かな知識がなければ、悪意と同じくらい多くの被害を与えることがありうる。人間は邪悪であるよりももしろ善良であり、そして真実のところ、そのことは問題ではない。しかし彼らは多少とも無知であり、そしてそれがすなわち善意あるいは悪徳と呼ばれるところのものなのであって、最も救いのない悪徳とは、みずからすべてを知っていると信じ、そこでみずから人を殺す権利を認めるような無知の、悪徳にほかならないのである。殺人者の魂は盲目なのであり、ありうるかぎりの明識なくしては、真の善良さも美しい愛も存在しない。

 ヒトラーはもちろんのこと、今の日本で声高に聞こえるナショナリズムの主張にも、カミュのこの言葉は当てはまると思った。

                          

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書名 わが闘争(下) 著者 アドルフ・ヒトラー、平野一郎、将積茂 訳 No
2001-28
発行所 角川文庫 発行年 昭和48年初版、平成13年改訂版初版 読了年月日 2002−01−20 記入年月日 2002−01−22

 
2年越しでやっと読み終えた。下巻はナチス、国家社会主義労働党の綱領、あるいは運動の進め方等を中心に述べる実践編とも言えるもの。15の章からなる。

上巻から引き続き、最大の疑問は、アーリア民族の、彼の場合はドイツ民族のことを指すが、優越性に対するこの確信はどこからきたのか。そして、人種的に純粋であることが、優秀性の維持に必須であり、混血によって、世界文化の担い手としてのドイツ民族は劣化するのみだという再三述べられる信念は、どのような科学的根拠から出てくるのだろうか。生物学的には、異なる形質の交配から新しい優秀な種が出来てくるはずだが。ヒトラーが声を高くして、血の純血を叫ぶことの生物学的根拠は何なのだろうか。これらすべてが下巻を読んでもわからなかった。
 彼の思想にニーチェの超人思想が影響していることは見て取れるが、人種間の生存闘争という中心的な概念は、ダーウィンの自然淘汰という考えが影響しているのではないかと思う。だとすれば、ダーウィンの進化論がナチズムの生みの親と言えないこともないと思った。
本書から

22p 民族主義的世界観:
人種と人格に立脚する民族主義的態度  これに反して民族主義的世界観は、人類の意義を人種的根源要素において認識するのである。それは原則として国家をただ、目的のための手段と見、そして国家の目的としては人間の人種としての存在を維持することと考える。だから民族主義的世界観は決して人種の平等を信じないばかりか、かえつて人種の価値に優劣の差異があることを認め、そしてこうした認識から、この宇宙を支配している永遠の意志にしたがって、優者、強者の勝利を推進し、劣者や弱者の従属を要求するのが義務である、と感ずるのである。したがって原則的には、民族主義的世界観は自然の貴族主義的根本思想をいだき、この法則がすべての個体にまで適用されると信ずるのだ。そは単に人種間にある種々の価値の差異を認めるばかりでなく、また一人一人の人間の価値にも差異力あることを認めるのだ。

55p 教育:
民族主義国家は、これを認めて、全教育活動をまず第一に、単なる知識の注入におかず、真に健康な身体の養育向上におくのである。そのときこそ第二に、さらに精神的能力の育成がやってくる。だがここでも、その先端には人格の発展、とりわけよろこんで責任感をもつように教育することとむすびついている意志力と決断力の促進があり、そして最後にはじめて学間的訓練がくるのだ。

58p スポーツ:
男性的な力の権化たることを自負する男子、さらにこういう男を世に送りだすことのできる女子が、民族国家の理想なのだ。
 と述べ、スポーツをその目的に使うべきだとする。

78p 国家主義と社会主義:
だがある民族が、そのうちの半分のものがみじめで、苦悩にやつれ、あるいはまったく堕落しているならば、それは何人もそれに誇りを感じないにちがいないほどよからぬ姿である。民族がその一員のすべてにいたるまで心身ともに健全であるときにはじめて、その民族に属しているという喜びが、あらゆる場合に、われわれが国民的誇りと名づけるあの高い感情にまで正当に高まることができるのだ。だがこの最高の誇りを感ずるのはまさしくその民族の偉大さを知るもののみである。
国家主義と社会主義の感情との親密な結婚は、まだ若いうちに心に植えつけられねばならない。そうすれば他日、共通の愛と共通の誇りによっておたがいに結ばれ、鍛えられ、永久に揺るぎなき、無敵な国家市民からなる民族ができるであろう。


110p 不寛容:世界観は不寛容たるべしと述べ、キリスト教の信仰も狂信的な不寛容さから形成されるもので、不寛容さはキリスト教の絶対的前提条件であるとする。そして、世界史的に見られるこうした現象はユダヤ的な考えが源泉であるが、だからといってそれが存在しているのだから、我々もそれを通すべきであるとする。

111p テロ:テロはテロによってのみ破ることができるとする。

117〜118カトリック教会、綱領の不変性:
ここでもまた人々は、カトリック教会に学ばねばならない。カトリックの教説は多くの点で精密科学や研究とあいいれず、ある部分は完全に衝突するところもあるが、それにもかかわらずカトリック教会は、その教義の一小節さえも犠牲にしようとしないのである。カトリック教会は、その抵抗力がそのときどきの学問的成果―事実それはいつも動揺しているが―に多かれ少なかれ適応するところにあるのではなく、むしろ一度決定されて全体にはじめて信仰性を与えたドグマをかたく固執することにある、ということを非常に正しく知っているのである。それだから、カトリック教会は今日では、いままでよりももっと確固たるものになっているのである。現象が動揺すればするほど、教会自体は諸現象が連続しておこる中のいこいの極として、ますます盲目的信者を獲得しうるのだ、と予言してもいいだろう。
 この分析は鋭い。そしてヒトラーはナチスの綱領もまた不変性を保つべきであると主張する。運動論としての特色がでている。

130p 演説:
わたはすでに上巻において、すべての力強い世界的革新のでき事は、書かれたものによってではなく語られたことばによつて招来されるものだ、と述べた。

135〜137p 演説:演説に関する細かい注意。特にその時間帯の影響を述べ、午前の演説は人に訴えないとしている。こうしたところに彼の天性的扇動者としての素質が遺憾なく示される。また、ナチスの運動が理性よりも感情に訴えるものであったことを示している。

207〜208p 理念:理念なくして闘争力なしとして以下のように述べている:
 
新しい大理念を明らかにしたことが、フランス革命の秘密なのだ。ロシアの革命もその勝利は、理念のおかげをこうむっているのだ。そしてファシズムが、民族を幸多く、広範な新建設に服従させたのもただこの理念の力によるものである。
 私はファシズムという言葉に驚いた。この本が書かれた当時、イタリアではすでにムッソリーニが実権を握っていて、ファシズムという言葉があったのだ。そして、ヒトラーはそれに対する敬意を示している。

209p テロ:
また、ある世界観を代弁するテロは、決して形式的な国家の強制力によっては破りえないものであり、つねにただ、新しい、同じように勇敢な、決然と前進する、他の世界観のみがうちやぶることができるのだ、ということは、世界史の不朽の経験である。
 本書の特徴は全編にみなぎる暴力への信仰である。

283p 労働組合:労働組合の必要性を認めている。しかし、それは職業代表機関であって、階級代表機関であってはならない。

328p ベルサイユ条約:ベルサイユ条約を利用すべきだと述べる。このような抑圧的で恥知らずな条約を利用して、国民の中に眠っている活力を再び呼び覚ますことがでる。ワイマール政府はそれを怠っていると批判する。「我々は再び武器を望む!」という叫びを起こすこともできたろうと言う。

第13章:戦後ドイツの同盟政策
 イギリスとイタリアがドイツの同盟可能国だと主張する。
335p以下に第一次大戦後の世界に対す彼の見方が述べられている。ユダヤの陰謀とそれに対する戦いとして世界を見る。そうした中で、日本とアメリカの対立と来るべき日米戦争を予想するような記述があり、驚く。以下長いが、その箇所の引用:

 
イギリスとユダヤ人 イギリスでは事情はより困難である。この「もっとも自由な民主主義」の国では、ユダヤ人は世論という間接的手段により、今日でもまだほとんど無制限に独裁的ふるまいをしている。そしてなおこの国でも、イギリスの国家的利益を擁護する人々とユダヤ人の世界独裁の戦士達との間の絶えざる格闘が存在しているのである。
 この対決のどれほど猛烈な衝突がしばしぱくり返されているかは、戦後にはじめて、一方ではイギリスの国家指導層の、他方では新聞の、日本問題に関するさまざまな態度の中にきわめて明瞭に見ることができた。
 大戦が終結するや否や、アメリカと日本相互間の古くからの不和が再び表面に現われ始めた。もちろん、ヨーロッパの世界的大国もこの新しい迫り来る戦争の危険に対して無関心のままでいることはできなかった。あらゆる血縁的結合にもかかわらず、イギリス国内では、国際経済政策・強権政策のすべての面にわたるアメリカ合衆国の成長に対するある種の嫉妬的な懸念の感情が盛り上らざるをえないのである。以前の植民地、偉大な母国の子供から、世界の新しい支配者が立現われるように思われる。イギリスが今日心配に満ち満ちた焦慮から自国の古い日英同盟を再吟味し、もはや「海の支配者イギリス!」ではなく、「合衆国の海」と呼ばれるようになる時点を、おそるおそるイギリスの政治がじっと待ち受けているとしても理解できぬことではない。
 処女地の莫大な資源をもった、アメリカ巨人国家には、周囲から締めつけられているドイツ国より一層手出しが困難である。いつかこの国とも最後の決戦をかけたさいを振るような事態になるとすれば、イギリスが自国の力だけに依存することは命取りとなるだろう。
したがって黄色いこぶしと握手することを熱望し、人種的に考えればあるいは許しがたいことかも知れぬが、政治的には興隆を目指しているアメリカ大陸に対抗するイギリスの世界的地位強化の唯一の可能性である同盟にしがみついている。
 それゆえ、イギリスの国家指導層は、ヨーロッパの戦場で共同して戦争したのにもかかわらず、アジアの相手国との同盟がぐらつくようなことを決心したくはなかつたのだが、あらゆるユダヤ人新聞はこの同盟の背面を攻撃した。
 一九一八年まではドイツ国に対するイギリスの戦争の忠実なたて持ちであったユダヤ人の機関が、今や突然裏切りを働きわが道を行くなどということは、どうして可能なのか?
 ドイツの絶滅はイギリスの利益ではなく、第一にユダヤ人の利益であったが、まったくこれと同じように、今日において日本を絶滅することもまたイギリスの国家的利益であるよりも、むしろユダヤ人の期待された世界帝国の指導者たちの広大な願望に奉仕するものである。イギリスがこの世界での自国の地位を維持するために骨折っている時、ユダヤ人は世界征服のための攻撃を組織している。
ユダヤ人は今日のヨーロッパ諸国を、いわゆる西欧民主主義という間接的手段であれ、ロシアのボルシェヴィズムによる直接的支配の形態であれ、とにかく、すでに自分の手の中で意志の自由を失っている道具と見なしている。しかし、かれらは旧世界だけをそのように籠絡しているにとどまらず、同じ運命は新世界にも迫っているのだ。ユダヤ人達はアメリカ合衆国の金融力の支配者である。一年一年とかれらはますます一億二千万民衆の労働力の監督者の地位に上ってゆくのである。かれらの怒りを買いながらも今日でもまだ完全に独立を保っている人々はまったく少数しかない。
すれっからしの巧妙さでもってかれらは世論をこね上げて、そこから自分達の将来のための闘争の道具を作り出すのである。
 すでにユダヤ人の最高の首領達は、諸民族を大規模にむさぼり食い尽すというかれらに遺言的に伝えられているモツトーの成就が近づくのが見られると信じている。
 このように非国家化されてしまった植民地的な国家の大群の中で、ただ一つだけでも独立的な国家が残っていさえすればその国はかれらの全仕事を最後の瞬間になおも崩壊させることができよう。なぜなら全世界をおおい尽すのでなけれは、ボルシェヴィキ化された世界は存続しえないからである。
ただの一国でも国家的エネルギーと偉大さをもち続けるとすれば、専制的なユダヤ人総督治下の世界帝国は、この世界でのあらゆる暴政と同様、国家主義思想のもつ力に負けるだろうし、また負けるに違いない。
 日本とユダヤ人  ところでユダヤ人は、自分達の千年にわたる順応によってヨーロッパ民族の基礎を掘り崩し、かれらを種族の性格を失った雑種に養育することはなるほどできるにしても、しかし日本のようなアジア的国家主義国家に同じ運命を与えることはほとんどだめだということをじゅうぶん知っている。今日ユダヤ人はドイツ人、イギリス人、アメリカ人、そしてフランス人のふりをすることはできるが、黄色いアジア人に通じる道はかれらに欠けている。したがってかれらは、日本という国家主義国家をやはり今日同じような構造をもつ国々の勢力によって破壊しようと企てるのであるが、それはこの危険な敵のこぶしによって、最後の国家権力が防御力のない諸国家を支配する専制に変ってしまう以前に、その敵を片づけるためである。
 ユダヤ人は自分達の至福千年王国の中に、日本のような国家主義国家が残っているのをはばかり、それゆえ自分自身の独裁が始められる前にきっちり日本が絶滅されるよう願っているのである。
 したがってかれらは、以前にドイツに対してやったように、今日日本に対して諸民族を扇動しており、それゆえ、イギリスの政治がなおも日本との同盟を頼りにしようと試みているのに、イギリスのユダヤ人新聞はすでにこの同盟国に対する戦争を要求し、民主主義の宣伝と「日本の軍国主義と天皇制打倒!」のときの声の下に、絶滅戦を準備するということも起りうるのである。
 このようにして、ユダヤ人は今日イギリスでは不従順となってしまった。
 したがって、ユダヤ人による世界の危難に対する闘争はイギリスでも始められるだろう。
 そしてまた、外ならぬ国家社会主義運動は自己のきわめて巨大な課題を果さなければならぬ。
 世界の敵に対するわれらの闘争  この運動は民族の目を他国民に向けて開いてやらなければならぬし、われわれの今日の世界におけるほんとうの敵を再三再四思い出させなければならない。(ほとんどあらゆる面でそれらからわが民族を分離することができるとしても。)共通の血あるいは同質の文化といった太い線でなおわれわれと結ばれているアーリア諸民族に対する憎悪の代りに、すべての苦悩の真の元兇である人類の悪質な敵を一般の憤激の前にさらさねばならない。
 だがこの運動は、少なくともわが国の内部で不倶戴天の仇敵が認識され、そしてこの敵に対する闘争がより輝ける時代のきらめく徴候として、格闘するアーリア人類の幸福のための道を他の諸国民族にも示しうるように心を配らなければならない。
 ところで、理性がその場合にわれわれの指導者となり、意志がわれわれの力となりうる。以上のように行為すべきである神聖な義務がわれわれに堅忍不抜さを与え、また最高の保護者としてわれわれの信念が存続するようにあれかし。


 中学の同期生、長沼君があなた方はこういう事実を知らなければならないといって、渡してくれたのは、反ユダヤ主義の本と、ビデオであった。私は全く無視してそのまま放ってあるが、彼はそのとき「日本海沖で沈没して大量の原油を流出させたロシアのタンカー事故は、あれは、ユダヤの陰謀だ」と、真顔で言った。こうした思想は、ヒトラーの思想にその元凶があるのだろう。

356p領土:ヒトラーは領土拡大に強烈な執念を燃やす。ここでは「国境は人間によって作られ、そして人間によって変えられる」と主張する。これは真実であろう。
ヒトラーは植民政策、あるいは貿易立国という考えを否定する。ドイツ民族の発展のためには領土の獲得が必須だといい、それを東方の求める。

第15章:権利としての正当防衛
 フランスとマルキシズムへの激しい敵意を展開する。


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