読書ノート 2010

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書名 著者
日本の思想 丸山真男
世界認識の方法 吉本隆明
ジャガイモの世界史 伊藤章治
俳句とはどんなものか 高浜虚子
天平の三姉妹 遠山美都男
ライフワークの思想 外山滋比古
思考の整理学 外山滋比古
悲しき熱帯 レヴィ=ストロース
明治維新 1858-1881 坂野潤治、大野健一
プロジェクトファシリテーション 関尚弘、白川克
青年 林房雄
香辛料の民俗学 吉田よし子
宿命 東野圭吾
物理学と神 佐藤了
さだめ 藤沢周
ブエノスアイレス午前零時 藤沢周
大名行列の秘密 安藤優一郎
乱髪 与謝野晶子
芭蕉 田中喜信
人物で語る化学入門 竹内敬人
生物と無生物の間 福岡伸一
嵯峨野名月記 辻邦生
アインシュタイン アイヘイブルク他
銀杏散りやまず 辻邦生
江戸百夢 田中優子
方丈記 鴨長明
芭蕉百名言 山下一海
関ヶ原合戦 笠谷和比古
関ヶ原前夜 光成準治
小説神髄 坪内逍遙
関ヶ原 上 司馬遼太郎 
関ヶ原 中  司馬遼太郎 
関ヶ原 下 司馬遼太郎 
阿夫利嶺  志村宗明 
おろしゃ国酔夢譚  井上靖 
残りの命  森川義雄 
俳句の作りよう  高浜虚子 
ローマ人の物語 キリストの勝利 上中下  塩野七生 
福田恒存評論集 第八巻  福田恒存 
福田恒存評論集 第四巻  福田恒存 
レイモンド・カーヴァー傑作選  レイモンド・カーヴァー
ザ・俳句歳時記 俳句歳時記編纂委員会
西航日乗  成島柳北
暁窓追録  栗本鋤雲 
東京タワー  リリー・フランキー 
桜の園・三人姉妹  チェーホフ 
カシタンカ・ねむい  チェーホフ 
子規・漱石  高浜虚子 
俳句入門  NHK学園 
中山道夫婦道中記 上下 溝口重行 
俳句十二か月 稲畑汀子 



書名 日本の思想 著者 丸山真男 No
2010-01
発行所 岩波新書 発行年 1961年 読了年月日 2010-01-07 記入年月日 2010-01-10

 暮れに本箱の整理をしていたときに見つかったもの。いたるところにシミが出ている年代物。多分、10年以上前に古本屋で見つけて購入したものだ。どういう意図で購入したかは思い出せないが、せっかく出てきたのだから読んでみようという気になった。

 日本の思想というから、古代から現代にいたる日本の思想史的なものを予想していたが、取り上げられたのは明治以後、日本における思想というもののあり方を考察したもの。
 4つの章からなる。最初の2章は論文として執筆されたもの。あとの2章は講演をまとめたもの。

Ⅰ。日本の思想:著者によるあとがきに「
日本にいろいろな個別的思想の座標軸の役割を果たすような思想的伝統が形成されなかったという問題と、およそ千年をへだてる昔から現代にいたるまで世界の重要な思想的産物は、ほとんど日本思想史のなかにストックとしてあるという事実とを、同じ過程としてとらえ、そこから出て来るさまざまの思想史的問題の構造的関連をできるだけ明らかにしようとするにあった」と述べられている。思想の座標軸を欠くために、思想論争が蓄積されていかないと指摘する。

 内容は多岐である。西洋で思想の座標軸としての役割を果たしてきたキリスト教と違って、儒教は個別道徳の徳目とはなり得ても、座標軸とはなり得なかった。伊藤博文は憲法制定に当たり、そのことを見抜き、天皇を中心とする国体というものを作り上げた。天皇制のもとにあっては国民は天皇に無限責任を負うが、それが無責任へと結びついていったと考察する(p28以下)。

 マルクス主義については、それが社会科学を一手に代表したことは悲劇の一因であったが、それなりの必然があったとする。「
日本の知識世界はマルクス主義によって初めて社会的な現実を、政治とか法律とか哲学とか経済とか個別的にとらえるだけでなく、それを相互に関連づけて綜合的に考察する方法を学び、また歴史について資料による個別的な事実の確定、あるいは指導的な人物の栄枯盛衰をとらえるだけでなくて、多様な歴史的事象の背後にあってこれを動かして行く基本的導因を追求するという課題を学んだ。」と述べる(p55~)。

Ⅱ。近代日本の思想と文学:戦前に起こったマルクス主義をめぐる知識人や文学者の間の論争が取り上げられる。それは、Ⅰでも提示されていた理論信仰と実感信仰の対立として分析される。実感信仰の旗手として小林秀雄がしばしば引用される。例えばマルクス主義によって自由主義者の自己意識が作られたと丸山は述べ、例として小林秀雄の文章を引用する(p77~)。丸山が「台風」と呼ぶマルクス主義が知識人にもたらした衝撃がいかに大きかったかをうかがわせる。それと、日中戦争から太平洋戦争にかけての時代に、これほど激しく、活発な論争が行われていたことに驚く。最近ではこの種の論争は聞かない。

Ⅲ。思想のあり方について:学問分野や組織がタコツボ型をとる日本社会への分析と批判が展開される。学問分野のタコツボ化に関しては、明治以後西洋学問を取り入れた頃、ちょうど西洋でも学問の細分化、専門化が始まっていた頃であったのが一因であるという。

Ⅳ。「である」ことと「する」こと:家柄や身分などの「である」から、「する」ことへの価値の転換を、福沢諭吉を引用したりして説く。
 特にⅠ章は難解であるが、理解不能というわけではない。著者の深い考察になるほどと頷くことが多い。


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書名 世界認識の方法 著者 吉本隆明 No
2010-02
発行所 中央公論 発行年 昭和55年 読了年月日 2010-01-09 記入年月日 2010-01-10

 これまた本棚の奥に眠っていたもの。30年前に出た本。当時なぜ読もうと思ったかは不明。著者の名前と表題のスケールの大きさに惹かれて、読んでみようと思ったのかもしれない。知的虚栄心からかじってみたかったのかもしれない。
 扱うのはマルクスとその背後にあるヘーゲルの思想を中心とする西洋哲学の現代的意義。丸山真男の本よりはずっと難解。ただわかることは思想史の上でマルクスの哲学がいかに大きかったかということと、吉本隆明という人がとてつもない知の巨人であったということ。

「世界認識の方法」「歴史・国家・個人」「世界史のなかのアジア」「表現概念としての〈疎外〉」よりなる。いずれも相手との対談で吉本の考えを披瀝したもの。
 「世界認識の方法」はフランスの哲学者、フーコーとの対談である。通訳は蓮實重彦氏。これだけの内容を通訳するのは大変だったろうと感心する。中身はむしろフーコーの発言の方が多い。彼はマルクス主義は19世紀的な思考のなかにおさまるものであり、現在の政治的な想像力の貧困化、枯渇の原因はマルクス主義にあり、縁を切るべき対象であるとする。吉本もほぼ同意見であるが、マルクスにおけるヘーゲル的なものに特に注目する。そして「歴史・国家・人間」では、「
ヘーゲル、マルクスの系譜がやろうとしてきた以外の思想で、世界の総合的把握性のようなものは、かんがえられないのじゃないでしょうか。たんにこれまでなかったというだけでなくて、総合的な世界史的な把握――市民社会から国家、あるいはもっといいますとそのなかの主体、意識、個人意志などにいたるまでの総合的把握というのは、これからもヘーゲル=マルクス的な方法以外には不可能ではないかとかんがえています」と述べている(85p)。 ここらあたりの記述は丸山真男の『日本の思想』と同じようなものだ。

「世界史のなかのアジア」ではアジア的共同体について以下のように評価している:
世界史の時間概念の中で、原始と古代の中間に〈アジア的〉専制の段階をおいてみますと、そこにおける村落共同体のあり方のなかには、相互扶助共生感情と、相互の親和感が豊かにあります。と述べ、これはエンゲルスが一つの理想郷の原型を見いだした原始共産制とおなじような理想的側面をもっているという(101p)。

また、「
歴史の無意識というもの、歴史が無意識のうちに最良のような感じで積み重ねてきた段階としての民族国家、つまり近代資本主義国家は、マルクスやエンゲルスがかんがえていたよりもはるかに、状況に対する適応性が強く、かつ人間の無意識に柔軟性があるように、歴史の無意識構造として柔軟性がある強固なもので、現実に適応して変貌しながら延命し、延命しながら変革していくようにおもわれます。」と述べる。しかし、だからといってマルクスの思想はまだ一度も本当の意味での打撃は受けてはおらず、また、一度も実現していないと語る。(105p)

「表現概念としての疎外」はほとんど理解できなかった。

 丸山真男の『日本の思想』と続けて読んでみて、マルクスの思想が後世にあたえた影響の大きさを知った。そういえば、引退後に安曇野の穂高町に移り住んだNWJ翻訳仲間の鈴木さんを昨年訪ねたが、彼はその地で『資本論』の講読会を主催しているとのことだった。10人ほどの人が集まるという。私は、「今どき」とかなり驚いたが、壮大な思想体系というのはいつの世も人々を惹きつけるようだ。
 本書ではベトナムと中国の戦争やソ連のアフガニスタン侵攻など、社会主義国の行動への不信が述べられているが、発刊の時点ではソ連型社会主義の崩壊はまだ起こっていない。


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書名 ジャガイモの世界史 著者 伊藤章治 No
2010-03
発行所 中公新書 発行年 2008年1月 読了年月日 2010-01-22 記入年月日 2010-01-30

 
家庭菜園で作るのに最適の作物で、今の菜園でも8年間連続で作っている。収穫量ははかったことはないが、種芋は3キロ植える。6月に収穫して翌年の冬を越すまで保つ。植え付けたら収穫までほとんど手がかからない。収穫後も米のような手間をかけずに直ぐ食べられる。貯蔵もきく。きわめて便利な作物だ。書店で本書が目につき購入した。

 「貧者のパン」と言われるジャガイモがインカ帝国滅亡後、アンデスの原産地から世界各国に伝播していく過程を綴ったもの。ジャガイモが絡む世界史的事件としては、19世紀中頃のアイルランドのジャガイモ飢饉が有名だが、本書には各国における歴史的な事件がジャガイモとの関連で述べられている。
 例えば、「はじめに」のところでいきなり、1991年8月、旧ソ連の保守派が企てたクーデターとジャガイモの関係が出てくる。保守派は決起に当たり、その年はジャガイモが豊作で、市民は畑や別荘でジャガイモの取り入れに忙しく、抗議デモに人が集まらないだろう読んだと言うのだ。彼らの読みははずれ、市民の抗議により、クーデターはわずか3日で失敗の終わる。

 これは一例であって、フランス革命、アメリカ大統領、産業革命、足尾鉱毒事件などとジャガイモの関係が述べられている。
 ジャガイモの世界各地への伝播に関してはいつ誰がいつと言うことはわからないことが多いという。インカ帝国滅亡(1533年)の後、ペルーアンデスから1570年頃スペインにもたらされた。そこからヨーロッパ各地に伝わっていき、日本には1598年、オランダ船により長崎にもたらされた。ジャカルタからもたらされたが、当時ジャカルタはジャカトラと呼ばれていて、それにちなんでジャカトライモと呼ばれ、それがなまってジャガイモになったというのが定説である。ちなみに長崎県は今でも、北海道に次ぐジャガイモの産地である。

 ヨーロッパへの普及に当たっては、食料としての価値の高さに目をつけた、ロシアのピヨトール大帝、プロイセンのフリードリッヒ大王などの絶対君主が強力に推進した。当時のジャガイモは、形も悪かったので、色々な病気の元になる、あるいは催淫効果があるという迷信がつきまとった。また、聖書にあるもの以外は食べると罰が当たるというキリスト教文化圏の偏見も普及の妨げになった。そうした迷信を押しのけてジャガイモが広がっていったのは「ひとえに、打ち続く飢餓と戦争のゆえだ。背に腹は代えられない。」と著者は言う。30年戦争、7年戦争などとの関係が述べられる。
 他の著書の引用が多い本だ。


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書名 俳句とはどんなものか 著者 高浜虚子 No
2010-04
発行所 角川文庫 発行年 平成21年11月 読了年月日 2010-01-24 記入年月日 2010-01-30

 
昨年12月のエッセイで芭蕉の「霧しぐれ富士を見ぬ日ぞ面白き」を取り上げて、俳句への興味がまた高まっていた。自分でも作ってみようかとまで思った。そんなとき、書店で見つけたのが本書。
 入門者向けのきわめて優れた解説書。大正2年に雑誌「ホトトギス」に連載されたもの。何よりも明快でわかりやすい。余分なものは切り捨ててある。あるいはポイントだけを切り取ってある。こうした書き方は俳句作りの基本と関わっているのだろう。

 虚子の考える俳句は、1)17文字の文学であり、2)芭蕉によって作られた文学であり、3)主として景色を叙する文学であり、4)必ず季のものを詠みこみ、5)多くの場合切字を必要とする。
 このことが多くの句を引用しつつ、簡明に、かつ断定的に述べられている。
 写生について(p53)
 写生ということはこの自然を偉大とし創造的とし、変化に富んだものとする信仰の上に立つのであります。すなわち我等の小さい頭ではとても新しい変化のあることを考え出すことはできない。変化のある新しいことを見出すのには自然を十分に観察し研究するひつようがある、この自然の観察研究からくる句作法を私共は写生と呼んでいるのであります。

 最後の一章に俳諧略史が述べられる:俳句とは芭蕉により縄張りせられ、芭蕉、蕪村、子規によって耕耘せられたところの我文芸の一領土であます。ここでもこの3人に絞って俳句略史が語られる。

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書名 天平の三姉妹 著者 遠山美都男 No
2010-05
発行所 中公新書 発行年 2010年1月25日 読了年月日 2010-01-29 記入年月日 2010-01-30

 
用事で出かけた際、近くの書店に入り目にとまった本。発行日と同じ日に購入した。

 副題に聖武皇女の矜持と悲劇とある。聖武天皇の3人の皇女の波乱に満ちた生涯を通して、奈良時代後期の天皇の地位を巡る権力闘争の歴史が語られる。中央公論社のシリーズ「日本の歴史」を読んだときの知識しか、その時代に関するものはない。それはほぼ半世紀も昔の話だから、何も覚えていないといった方がいい。

 3人の皇女とは生年順に井上内親王、阿倍内親王、不破内親王。このうち阿倍内親王の母は藤原氏の出の光明皇后、他の二人は県犬養氏の出。聖武天皇は父文武天皇から始まる皇統を維持することを強く望む。ところが彼の息子二人はいずれも夭折する。そして、天皇の没後その位を継いだのは阿倍内親王であり、孝謙天皇となる。藤原氏の血をひく者が天皇となるべきだという聖武天皇の考えが彼女が皇太子を経て天皇に即位できた理由だ。孝謙天皇は聖武天皇の遺詔を忠実に守ろうとする。本書は聖武天皇の遺詔に忠実であろうとした孝謙天皇の意志が、皇位を巡る権力闘争の基本にあったという立場で貫かれ、その観点から奈良時代後期を記述する。

 井上内親王は伊勢の斎宮として仕えた後、奈良に戻り白壁王と結婚する。白壁王は後に称徳天皇の後を継いで光仁天皇になる人である。しかし、皇后となった彼女は夫光仁天皇を呪詛した疑いでその地位を追われる。高齢の光仁天皇の後釜として彼女が即位することを阻止しようとした勢力の仕業だ。そして、皇太子である息子の他戸親王と共に追放され、幽閉のうちに母子同じ日に亡くなる。毒を仰いだか殺されたのであろう。他戸親王に代わって皇太子になったのは朝鮮からの帰化人に光仁天皇が生ませた山部親王であり、後に即位し桓武天皇となる。今の天皇が何かの機会に、天皇家には朝鮮の血が流れていると公式の場で言及したのはこのことであった。

 不破内親王はもっと悲劇的生涯を送る。彼女の夫塩焼王は聖武天皇によって阿倍内親王の次の天皇としても期待される人物であった。聖武天皇の期待は、塩焼王と不破親王の間に生まれる男子を将来の天皇とし皇統を保ちたかったと著者は推測する。しかし、塩焼王は今で言う女性スキャンダルで流刑に処される。そこで、孝謙天皇の後の天皇候補として、塩焼王の弟の道祖王が、聖武天皇の遺詔により指名される。しかし、彼は孝謙天皇から疎まれ、皇太子を廃され、最後は橘奈良麻呂の陰謀に荷担して捕らえられ「杖下に死す」(杖で撃たれて死んでしまう)。

 孝謙天皇は位を淳仁天皇に譲る。淳仁天皇は天武天皇の孫で、大炊王と言って孝謙天皇に推されて道祖王の後に皇太子となっていた。上皇となった孝謙天皇は聖武天皇と同じように仏教に深く帰依していく。そして僧である道鏡を重く用いて、彼は天皇に並ぶ「法王」の地位まで昇る。それを淳仁天皇は面白く思わない。孝謙上皇は将来、聖武天皇の血をひく井上内親王の子供、他戸親王を皇位に就けて皇統を守ることを考える。その中継ぎとして道鏡を淳仁天皇の後に立ててもいいとさえ思う。これに反旗を翻したのは恵美押勝である。彼は橘奈良麻呂の謀反を鎮圧し、淳仁天皇擁立の最大功労者であった藤原仲麻呂が改名したものである。押勝は罪が許されて都に戻っていた塩焼王を担ぐ。押勝の軍勢は、吉備真備の機敏な軍略で動く孝謙上皇側の軍にことごとく先手を打たれ、琵琶湖の西岸で敗れる。押勝初め、塩焼王などことごとく討たれる。孝謙上皇は事件後淳仁天皇を廃位し、自分が再度天皇位につく。称徳天皇である。たとえ天皇であっても行いのよくない者は廃してもいいという聖武天皇の遺訓が彼女のよりどころであった。

 不破内親王には志計志麻呂と川継という息子がいた。志計志麻呂は他戸親王と同等の血統であることから、称徳天皇、井上内親王の双方から疎まれ、母の不破内親王が天皇に対し悪事を働いたという根拠のはっきりしない理由で、母子とも追放、流刑となる。さらに川継は、桓武天皇の殺害を謀ったかどで、伊豆へ流される。不破内親王の最後は不明だ。千葉県印旛沼の近くに松虫寺というのがあり、その墓碑銘に「松虫姫皇女之御廟」とあり、これは聖武天皇の三女不破内親王のことであると伝えられているとのこと。

 登場人物の名前が現在の名前となじみがないこと、当時は一夫多妻で異母兄弟が多いこと、近親結婚が盛んで、血縁関係が入り組んで複雑であることなどから、人物同士の関係がなかなか頭に入らず、すらすらとは読めない本である。「日本書紀」「続日本書紀」からの引用が多いが、それがすべて現代口語訳で記されているので、その点はわかりやすい。
 東大寺の大仏が建立され「天平」という元号がその時代のを表す言葉となっているにもかかわらず、皇位を巡る権力争いは、どろどろとしている血なまぐさい。とても「天下平穏」ではない。

 皇統の継承という聖武天皇の考えが、娘の阿倍内親王に受け継がれていったことを軸に天平とそれに続く時代を記している。孝謙天皇の道鏡への傾倒は、仏教に帰依した父の姿を道鏡に見出したというだけで説明できるのか。皇統にこだわる孝謙天皇が、中継ぎとはいえ、まったく関係のない臣下の道鏡を天皇にしようとした理由は何か。本書では十分説明されていないように思う。俗説のように二人の間に男女の深い情愛関係があったのが原因ではないだろうか。

 和気清麻呂という私でも耳にしたことのある人物も少しだけだが登場する。道鏡を天皇にせよという宇佐神宮の神託をもらいに遣わされるのだが、勝手にその逆の神託をねつ造して持って帰り、道鏡の即位を阻止する。そのために後世の史家から忠臣とされる。

 聖武天皇の即位が724年、大仏開眼752年、桓武天皇の即位が781年。平安京遷都は794年である。この時代も波乱に富んで面白い。それにしては、この時代を扱った歴史小説をほとんど目にしない。「続日本書紀」などの正史以外にあまり資料がないことが一因だろう。それと、すべて皇室がらみの事件だから、遠慮があるのだろう。

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書名 ライフワークの思想 著者 外山滋比古 No
2010-06
発行所 ちくま文庫 発行年 2009年7月 読了年月日 2010-02-02 記入年月日 2010-02-13

 
著者の名前と、その本が面白くて評判になっていると聞いたのは、多分山田隆一さんからだった。本屋の店先で見つけたので手にした。

 表題のライフワークに関する考察はフィナーレの思想という章の中で述べられていて、全体から見ればほんの一部。他に知的生活考、島国考、教育とことば、3章からなり、さらに各章がいくつかのエッセイで構成される。

 62ページにこんな表現がある:
すべて知りうるものは、つねに、既存のものと何らかの関係づけ、比喩が可能なはずである。「比喩でにげる」というが、比喩は回避の原理ではなく、真理へ肉迫する方法である。

 わかりやすい比喩が多用されている。ライフワークに関しては、日本にライフワークの思想が定着しないことを嘆き、切り花ではなく根を持った花、あるいは、あるいはカクテルではなく自分で造る地酒の必要性を説く。

 人生の酒を発酵させるには、毎日生きてつんだ経験を土台にし、それにアイディアを足し、さらに時間を加える。つまり経験とアイディアをねかせる。ねかせるには頭の中でも良いが、何かに書き留めておくのが良い。そして時々のぞいてみる。その時何か胸を突かれる思いをしたら、酒が発酵しつつあるときであるという。(27p)。私も同じようなことをすでに20年以上にわたって続けている。

 あるいは人生をマラソンに喩え、折り返し点からは逆向きにゴールを目指すことの大切さを説く。著者によれば人生80年として、最初の10年は差し引き、残りの70年の中間点、つまり46歳からが折り返し点であるという。

 西田幾多郎の哲学の多くは、定年後の60歳を過ぎてから集成されたと述べ、「
ライフワークとは、それまでバラバラになっていた断片につながりを与えて、ある有機的統一にもたらしてゆくひとつの奇跡、個人の奇跡を行うことにほかならない。」とフィナーレの思想という章を結んでいる(34p)。

 以上は私には特に目新しいという感じはしなかった。むしろ面白かったのは、知識偏重を戒め創造のためには忘却が必要であると説いた「忘れる」、あるいは「島国考」の方だ。

 例えば159p:
言語についていうと、島国形式は、長い期間、流動のすくない、しかも、外部から流入してくる異分子のほとんどない社会において発達する特質としてあらわれる。コンパクトな言語社会はいわば通人の集団であるから、野暮はうとんじられる。文法と理論に風化作用が働いて、省略性や飛躍の多い言語形式が承認される。日本人は日本語が論理的でないといってたいへん恐縮しているが、これは島国形式として、必然的なものである。さらに160p:文学の方面についていうと、まず、短詩型文学の発達がある。島国では通人が読者であるから、くだくだ説明するのはくどく、うるさいと感じられる。理に堕するものは月並みである。なくてもわかる部分を削りおとすところに日本の詩学の原理がある。読者を相手にして、説明したり、論議したりする必要はない。作者は心のうちを独白的に、詠嘆的に投げ出せばよい。(中略)純粋を求めて、小さなものへ、小さなものへと向い、短歌が生まれ、さらに、俳句が生まれる。こういう短詩型文学において、日本は世界に冠たる伝統をもっているが、これは文学における島国形式のひとつであるということができる。
 この後にはさらに、演劇性に欠けると言う島国形式の特色が指摘される。

 著者は英文学者、イギリス滞在も長いようだ。イギリスの保守主義を論じた「コンサヴァティヴ」という小節にはこんな記述がある:(127p):
風刺やヒューマーは、したがって、何らかの保守が確立していないところでは発生しにくい事情にある。保守が因習を生み、それを批判するところにヒューマーと風刺が生まれるというわけである。わが国で言えば、明治以来、風刺もヒューマーもまことに淋しいが、江戸文学には俳諧のヒューマー、幕末の狂歌の風刺など、見るべきものがある。これは一方に真の保守がなく、他方に保守的世界の存在したことを物語ると言ってよいであろう。
 この後に、イギリス人は19世紀に「幸福の哲学」というべきものを発見したというイギリス人の言葉を持ち出し、イギリスの保守が魅力があるのはこの「幸福の哲学」を経てきたからだろうと述べている。
 初出は1978年だから、30年以上も前に書かれたもの。


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書名 思考の整理学 著者 外山滋比古 No
2010-07
発行所 ちくま文庫 発行年 1986年初版、2009年12月68刷 読了年月日 2010-02-08 記入年月日 010-02-13

『ライフワークの思想』と並んでいた本。帯には「100万部突破。東大・京大で一番読まれた本」とある。発酵、ねかせる、エディターシップ、カクテル、忘却、セレンディプティといったキーワードは『ライフワークの思想』とダブっている。

 著者は今の学校教育をグライダーに喩える。自力では飛べない人間しか作らないというのだ。飛行機のように自分で飛べる人間を作りたいというのが本書の狙い。巧みな比喩をもちいてわかりやすく書いてある。創造的思考のための少し高度なハウツーものと言ったところ。定年後、月一度のエッセイ書きとHPにいくつかの雑文を掲載することが主な知的活動となっている私には、よく理解でき、著者の主張に賛同するところが多い。著者のいう思考の整理方法のかなりのことは常日頃特に意識しなくても実行している。一番の違いは、思考整理の手段としてコンピュータをフルに活用していることだろう。本書の初出は1983年だから、パソコンはやっと出始めた頃だ。パソコンの利用については触れられていない。最後でコンピュータは記憶と再生という従来の教育の基本を人間に代わって行うから、今後は創造にこそ価値をおいた教育を行うべきであるという著者の基本姿勢がますます重要になると結んでいる。大学ではこうしたことは教えないから、よく読まれるのだろう。ただ、長い歳月の間に、経験的に身についてくることがらが多いのではないかと思った。

本書から:
ねかせることについて:
作家にとって最もよい素材は幼少時代の経験である。作家の幼年、少年時代物語に優れたものが多いのは素材が十分寝かされて結晶しているからであるという。(40p)
エディターシップ:
独立していた表現が、より大きな全体の一部となると、性格が変わる。見え方も違ってくる。前後にどういうものが並んでいるかによっても感じが大きく変わる(49p)。『源氏物語』『デカメロン』『千一夜物語』などの額縁物語では、創造的才能はむしろ編集に注がれると著者はいう。
触媒(54p~):
没個性的になることで、つまり無心になることで既存のものどうしを結びつける創造的触媒作用が発揮される。無心の効用は『ライフワークの思想』でも述べられていた。
情報のメタ化:
断片的なひとつひとつの着想は、いわば、第一次的情報である。そのままでは、それほど大きな意味をもたない。これをほかの思考と関連させ、まとめて、第二次情報にする。このときに、醗酵、混合、アナロジーなどの方法がはたらくのである。(中略)思考の整理というのは、低次の思考を、抽象のハシゴを登って、メタ化して行くことにほかならない。(中略)整理、抽象化を高めることによって、高度の思考となる。普遍性も大きくなる。(中略)人知の発達は、情報のメタ化と並行してきた。抽象のハシゴを登ることを恐れていては社会の発達はあり得ない(77p)。これに続くページで著者は、日本人は多くの歴史記録を残していながら、それを歴史学、歴史論に統合する史観に欠けてきたと述べる。

忘却のさまざま:
人類は、文字による記録を覚えて、忘れることがうまくなった。それだけ頭もよくなったはずである。(121p)
テーマと題名:論文のテーマの説明に10分も15分もかかるようではだめであるとし、テーマはシングルセンテンスで表現されるものでなければならないという。そして「
一文で言いあらわせたら、その中の名詞をとって、表題とすることは何でもないはずである。思考の整理の究極は、表題ということになる」と述べる(145p)

「と思われる」:あとがきに日本人がよく英語で口にする「I think 」についての考察がある。これは本来は「It seems to me」が正しい表現であるとする。そして以下のように述べる:
・・・想念を思考化していく作業が「考える」ことである。「と思われる」という思考はいわば幾重にも衣服につつまれている。外側はやさしいが本体がどういうものであるかは、「と思われる」としている当人にとってもはっきりしていない。その着物を一枚一枚脱がせていくのが、I think 本来の思考である。これをすることは日本人のように心情的思考を好む人間にはとくにたいへんなことである。読書によって自分の感じていることとは異種の思考に触れているうちに、自分の考えが洗い出されるという他発的方法もありうる。それとは別に、書くことで、自分の考えを押しすすめる、書くことは考えることである、とのべている人のいることも注目される。漠然としていたことが書く過程においてはっきりする。「思われる」ことの外装がはがされて中核に迫っていくことができる。
 これなどもまったく同感、私の気持ちが代弁されているようだ。上の文章に続いて、エッセイについての考察もある。


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書名 悲しき熱帯 著者 レヴィ=ストロース、泉靖一 責任編集 No
2010-08
発行所 中央公論 発行年 昭和55年 読了年月日 2010-02-21 記入年月日 2010-02-26

 
構造主義、レヴィ=ストロースという言葉をキーワード的に聞いたのはもうずっと前のことだ。レヴィ=ストロースの『悲しき熱帯』を手にしてみたのは20年以上前だ。主題に入るまでの長い序の部分で挫折してしまった。その後、英語の学習教材のテープに、彼をインタビューしたものが入っていて、聞いたことがある。彼はその中で、失われ行く未開の文化の収集と記録の必要性を熱く語った。レヴィ=ストロースとの出会いはその後、欧米で狂牛病が大問題になったときだ。月刊誌で人間がウシを食用にすることの非をきびしく指摘した彼の見解を読んだ。最近、百歳で亡くなったということも心のどこかに留まっていた。

 2月13日に放映されたNHKのブックレビューで、「ブラジルから遠く離れて 1935-2000 クロード・レヴィ=ストロースのかたわらで」という本が紹介された。今福龍太、サウダージ・ブックス編著のこの本を紹介したのは佐川光晴という作家。この番組で紹介される本の中でも、かなり特殊な本であった。レヴィ=ストロースの『悲しき熱帯』を読み解くためのよい入門書だとの評であった。ちょうどいい機会だから今回再挑戦してみた。

 ブラジル奥地に暮らす原住民を対象とした文化人類学的調査が、本書の核心であるが、奥地にいたるまでの経過、あるいは民俗学に志したきっかけ、あるいは著者の思想などが回想的に盛り込まれている。調査は1935年に行われたが、本書が書かれたのは15年以上も後のこと。表現が文学的、あるいは詩的で難解なところも多い。西洋文明による画一化の波に飲み込まれて、失われて行く人間の原始の生活への哀惜が『悲しき熱帯』というタイトルの由来であろう。

 本書に述べられた未開部族はカドゥヴェオ族とナンビクワラ族。いずれも完全に文明社会と断絶孤立した原住民ではなく、宣教師を初めとする文明と接しながら、固有の生活風習を維持している部族である。
 カドゥヴェオ族では、女性が顔に塗飾る複雑な文様についての考察が述べられる。その文様はトランプのキングやクイーンの絵柄を連想させる。レヴィ=ストロースは、その幾何学模様と、彼ら社会構造との関連を考察する(p461以下)。本書の一つの核心であるが、理解するのは難しい。そうした文様は、迷信や利害が妨げなければ実現したであろう社会制度を象徴するものであると結論づける(p480)

 ナンビクワラ族についての文化人類学的考察は、少しはわかりやすい。彼らは雨期には定住し農耕を営み、乾期には放浪し、狩猟採集生活を送る。レヴィ=ストロースが観察と言うより溶け込んでいたのは数十人の集団。全裸に近い生活をしている。ナンビクワラ族の観察から、例えば、権力の心理的基盤は「同意」であるという結論を導く。さらに、「相互交換」という観念を権力の基本的属性であるとしている。「
首長は権力を持っている。しかし、彼は気まえよくしなければならない。彼は責務をもっている、しかし、彼は多くの妻を迎えることができる。首長と集団のあいだには、給付と特権、便益と義務の、はてしなく更新される均衡が成り立っているのである。」と述べている(p556)。

以下本書から:
 地質学、フロイドの精神分析、マルクスの手法を、彼は自分の学問の基本においている(p402~)。地質学と後二者を同列に並べるところがユニークである。
 実存主義については、個人の心意に関わることを哲学の問題にまで高めたもので、それは哲学をOLの昼食時のおしゃべりにふさわしいものにしてしまう危険性をはらんでいると、否定している(p403)。この前後には民俗学への志向が述べられている。
 新大陸発見について(p412)レビ=ストロースは原住民の生活を人類の楽園だと見ている:
聖書のエデンの園は確認された。(中略)しかし同時に、自分たちより純粋で幸福な人間の生活をまのあたりに見て、啓示や、救済や、習俗や、法は、疑惑のなかに投げこまれた。人類はそれまで、これほどの、引き裂かれるような試練を経験したことがなかった。

 アメリカ大陸について。アメリカ大陸は2万年の歴史をもつ。そしてそれは決して孤立したものではなく、太平洋岸全体の沿岸航海によって広まっていった。それなしには大陸の諸文化の起源を理解することは難しいと述べる(p491)。

 現地調査について(p493):
問題はこのように大きく、われわれの利用できる道はこのようにもろく、しかも細い。そして過去は、巨大な仕切り壁によって、すでによびもどしようもないほどかすかなものになってしまった。われわれの考察の土台もかりのものでしかないのだ。それだからこそ、現地調査で得たどんな小さな知識を前にしても、調査者の胸は、最も謙虚なあきらめと、狂気のような野心との葛藤に、あやしくふるえるのである。

 ナンビクワラ族の生活振り(p518):
ナンビクワラ族の負籠にはいっているものは、原料が主である――さまざまな木、とくにこすりあわせて火をつくるための木、蝋や樹脂の塊、植物繊維の束、獣の骨や歯や爪、毛皮の切れ端、羽毛、ハリネズミのとげ、木の実の殻、河に棲む貝類の殻、石、木綿、草のみなど、彼らはそれで、必要に応じてものをつくるのである。(中略)ハンモックは熱帯アメリカのインディアンの発明によるものである。が、そのハンモックも、それ以外の休息や睡眠に使う道具もいっさいもっていないということは、ナンビクワラ族の貧しさを端的に表している。彼らは地面に裸で眠るのである。

ナンビクワラ族のセックス(p531):
性交は、ふつう、夜行われる。宿営地の火のそばのこともあるが、百メートルくらい離れた近くの茂みのなかへ二人で行くことのほうが多い。連れだって出かけたことはすぐに知られてしまい、みなの楽しみをかきたてる。人々はいろいろと評釈をしあい、冗談を投げ、年のいかない子どもたちまでが、興奮――子どもたちはそのわけをよく知っている――の仲間入りをする。
 この後、時には人々が茂みのあいだからのぞき見をするが、いっこうに気にかけないと述べている。しかし、彼らの性交回数は少ないという。また、カップルが身体を接して戯れ合っているときでも、男性の性器は勃起していないことが多いといった観察もある。

 美醜について:
ナンビクワラ族は、「美しい」と言うことと「若い」ということを同じ一つの言葉で表し、また、「醜い」と「年老いた」も同じ一つの言葉である。(p534)。
 こうした事実は我々人類が本質的にもっている心情なのだろう。

 p541には著者の原住民に対する共感と愛情が表現された典型がある。これは本書の全編を貫く態度である。
 なわたばこ、あるいはひもたばこ:p415とp495に記載がある。これらは川床さんが今でも南米にあるといって、『たばこの事典』に収載された項目である。

 本書の解説によれば、原本は9部より構成されるが、本書は1,2,3,5,7の部を収載したとのこと。翻訳者の名前はどこにも載っていなかった。責任編集者の泉靖一氏が行ったのだろうか。


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書名 明治維新1858-1881 著者 坂野潤治+大野健一 No
2010-09
発行所 講談社現代新書 発行年 2010-01-20 読了年月日 2010-02-23 記入年月日 2010-02-27

 
途上国日本が、あれほど見事に近代化へ向けての革命、明治維新を達成できた理由は何か。それに独自の視点(と思われる)から答えたもの。戦後、東南アジアの国々、韓国、台湾、シンガポール、マレーシアなどは長期にわたる独裁政治の果てに近代化を遂げたが、明治維新はそうした専制政治なしで達成された。その際立った対照は何に由来するのか。著者の坂野潤治は歴史学者、大野健一はエコノミスト。

 彼らは「柔構造」という答えを用意する。国家目標、合従連衡、指導者という3つのレベルにおいて、可変性、柔軟性が顕著であったことが明治維新の特徴であるとする。幕末から明治にかけての国家目標は、富国、強兵、憲法、議会の4つであった。そうした目標が明確に意識され、一応の完成のめどが立った時期までを、著者らは明治維新とする。それが表題にある1858年から1881年であるとする。

 本書の帯には西郷、大久保、木戸、板垣の4人の写真を掲げ、「途上国を一等国に導いた指導者を分析する」とある。例えば、大久保は西郷と共に王政復古、廃藩置県までは武力路線を取ってきたが、その後の欧米視察で、産業の振興、つまり強兵を棚上げし富国こそ急務であると考える。そして強兵路線を主張する西郷と対立する。大久保は憲法の制定を優先する木戸と手を組み、西南戦争において西郷らを退ける。西南戦争は薩摩藩グループの誇った柔軟性の崩壊を示すが、西南戦争は廃藩置県までの大変革に比べれば、もはやたいしたことではなかったと著者は言う。例えば、板垣は強兵派であったが、後に議会派に転向する。こうした指導者の目標に対する柔軟性、合従連衡の柔軟性が明治維新を貫いていた。幕末期における変節とも思われる攘夷から開国への転換はそうした柔軟性の最大のものであろう。

 薩摩藩が維新であれだけの役割を果たしたのは、長州藩のように攘夷一辺倒ではなく、藩内の意見が多様であり、その多様性が他藩との交流を多様化したこと。にもかかわらず、寺田屋事件以後は、行動にあっては一致団結していたことだとする。その例として、薩摩藩軍奉行伊地知正治を挙げている。彼は、徳川慶喜に将軍職と領地の返納を主張する島津久光や大久保らと違って、領地の返納は必要ないと表明する。その彼が、鳥羽伏見の戦いでは薩摩軍の総監軍を務める。

 西郷、大久保、小松帯刀、吉井知実(私には初めて聞く名前)らを取り上げ、当時の薩摩藩士の行動が示される。彼らのあいだで交わされた手紙の多さに著者らも驚く。幕末維新史関連の書物を読むとき、私もよく感じることだ。例えば西郷は10年間に大久保宛に114通の手紙を送ったという。こうしたことから、薩摩藩士間の情報共有の高さ、同志的結合の強さが示されるという。

 最後の第3部では、江戸時代について述べられる。封建制を「
経済社会的に見れば、地方勢力の割拠のもとに政治力と経済力の底上げを可能にし、それが近代的な工場制工業の成立にとっての前段階を提供したという意味で、きわめて重要な時代であった。」(p177)と評価している。こうした見方は、今では通説に近いものだろう。本書には幕末期における各藩の商業活動を「封建商社」と呼んで、富国という国家目標を先取りするものとして、その実態や意義が色々な場面で考察、分析されている。著者の一人がエコノミストであるからだ。

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書名 プロジェクトファシリテーション 著者 関尚弘(なおひろ)、白川克(まさる) No
2010-10
発行所 日本経済新聞出版 発行年 2009年8月 読了年月日 2010-03-06 記入年月日 2010-03-07

古河電工における人事部門の業務改善(BPS Business Process Reengineering)プロジェクトの成功例の記録。「ファシリテーション」とは「円滑な進め方」といった意味。サブタイトルは「クライアントとコンサルタントの幸福な物語」。クライアント側が関尚弘、コンサルタント側が白川克、共に若い両氏が、それぞれの立場から交互に書き綴っているのが本書の特色。二人の著者の記述はよくかみ合っているが、それがプロジェクト成功の大きな要因だったのだろう。登場人物はすべて実名。白川氏は私の妻の友人の子息。それで、本書を読んで欲しいと送られてきた。

 私のいたフィルター会社でも、外部コンサルタントの指導の下に新しいビジネス展開を論議したことがある。そこから得られた結論の一つは新規事業として展開されていった。その前の日本専売公社時代は研究所勤務であったから、全社的な大きなプロジェクトから、研究所内の小さなプロジェクトまで、たくさんのプロジェクトに関与していた。そうした体験があるので親しみを持って読むことができた。それ以上に、読んでいて古河電工という民間の名門大企業も、お役所的と言われた日本専売公社とあまり変わらない職場だと感じて、妙に安心した。言ってみれば、家族主義的な古い体質が濃く残っている。おそらく、伝統ある企業は大差ないのだろう。

 例えば、「残業パン」という制度がある。残業者にパンを支給するという制度だ。今どき信じられない制度だが、労組の抵抗で廃止はできない。調べてみると、工場毎に異なったやり方で、制度を残している。現物を支給するところ、牛乳をつけるところ、65円の手当で代えるところ、70円の手当にするところ、カップラーメンにするところ。

 これは典型的な例で、給与計算を初め、勤怠関係など、各工場毎に処理の仕方が違う。これを一元化して、事務効率を上げることがプロジェクトの目的。コンペで選ばれたコンサルタント会社、ケンブリッジと古河電工のプロジェクトチームが力を合わせて、分散していた給与計算や、勤怠管理などを一元化するシステムを構築し、稼働させ、さらに付帯するBPSを成功させることができた。伝統ある会社で、労組も強そうなので、抵抗は大きかったと思うが、抵抗勢力をつくらないようにして進めたと本書は言う。そのためには説明会を230回も開いたという。また、会議は2300回に及んだという。プロジェクトが作ったシステムで現在は関連会社30社の給与計算などを一元化してる。28種もあった勤怠管理システムも一つにまとめた。システムとしてカスタマイズの効かないソフトを選択したので、どうしてもシステムに乗せることができな業務も出た。残業パンの処理はどうやら乗せることができたが、プロジェクトが狙っていたようにそうした慣行の廃止までは持って行けなかった。

 プロジェクトの後半には現場の反発、経営会議では一旦突っ返されたとか、生々しい話が出てくる。こうした話も、どこの企業でも変わらないのだと安心する。会社の内部事情やコンサルタントの手法などを、あえて公開してくれた度量はさすが名門企業だ。


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書名 青年 著者 林房雄 No
2010-11
発行所 中央公論社 発行年 昭和43年 読了年月日 2010-03-14 記入年月日 2010-03-15

 
三島由紀夫がどこかでこの本のことに触れていた記憶がある。今はもうない霧が丘の古本屋で見つけて購入したから、10年近く前のことだ。暮れに本棚の整理をしていて出てきて読む気になった。林房雄といえば、昭和30年代に大東亜戦争肯定論を繰り広げた作家という印象が強い。その作品は今回初めて読む。上下2段組で250ページを超す長編歴史小説。読み出したらやめられなかった。迷い、悩みながらも新しい世に向けて幕末激動の時代を奔走する長州藩の井上、伊藤、高杉の姿にさわやかな読後感が残る。

 時代は幕末、米英仏蘭の4カ国連合艦隊による下関砲撃、いわゆる馬関戦争。主な登場人物は、井上聞多(後の井上馨)、伊藤俊輔(後の伊藤博文)、高杉晋作、イギリスの通訳官アーネスト・サトウ、軍医のブラウン、下士官のトレエシイ。

 長州藩からロンドンに派遣された井上と伊藤は、進んだ西洋文明に接し、攘夷は不可能であり、開国による富国を目指すべきだと信じる。そして、強硬な攘夷一本に固まる長州藩の方針を変えようとして、留学半ばで密かに帰国する。彼らが帰国したときにはすでに馬関海峡で砲撃されていたイギリスなどの外国勢は、長州への報復を準備中であった。二人はサトウの口利きで、馬関の下調べに向かう英国艦に乗り込み、横浜から下関に行く。彼らの目的は、攘夷が不可能であることを藩主に説得し、外国艦による攻撃を防ぐための和平交渉へと藩政を転換させることであった。しかし、御前会議で井上が熱弁をふるっても旧臣たちは言を左右して、従来の方針を変えず、和平交渉も実らなかった。それどころか、二人は攘夷に固まる藩士たちからは、裏切り者として命まで狙われ、潜伏する。

 長州藩は攘夷の実行と薩摩・会津による公武合体派を京都から一掃することを目指し、京都へ向けて進軍する。しかし、いわゆる蛤御門の変で薩摩・会津軍に敗退し、朝敵の汚名を受け、幕府は長州征伐軍を向ける。一方、米英仏蘭の連合艦隊は馬関海峡に集結する。井上と伊藤、さらに座敷牢に幽閉されていた高杉晋作が呼び出され、和平交渉を依頼される。すでに戦闘準備を整えたイギリスの旗艦にやってきた彼らの和平条件は、イギリス側の求めるものとはほど遠かった。かくして馬関戦争が始まる。

 イギリス側、サトウの目を通してこの戦争の詳細が語られる。圧倒的な砲撃の後で、砲台と砲の破壊のために上陸した外国軍に対して、長州の諸隊もしつこい抵抗を試み、連合軍側もすくなからずの死者を出す。しかし、圧倒的な火力の差はどうしようもなかった。

 高杉、井上、伊藤が馬関戦争にかけた願いは、この戦いにより攘夷が不可能であること、開国による国力の充実こそが急務であることを藩主以下が身をもって悟り、藩論を転換させる好機とすることであった。結局、無条件降伏に近い条件で、長州藩は和平をむすび下関港の開港を約束する。
 小説の本筋はここで終わる。最後に、長州と3人のその後が簡単に触れられる。長州は長州征伐に屈服し、一時幕府に恭順を誓う俗論党に支配される。井上は壮士におそわれ瀕死の重傷を負い、高杉は神官に化けて九州へ逃れ、伊藤は下関の町に姿を隠す。

 井上、伊藤といえば維新後の活躍ばかりが目立つ。本書に記されたような幕末の活躍はほとんど知らなかった。その点がまず面白かった。薩摩、土佐の幕末ものに比べ長州藩を舞台にした小説は、最近ではすくない。NHKの大河ドラマも昨年は薩摩、今年は坂本龍馬の土佐が舞台だ。長州と言えば、ずいぶん前の大村益次郎を主人公にしドラマ以来ない。最近の薩摩、土佐、あるいは新撰組を題材にしたドラマで、桂小五郎が長州人として脇役として登場するのがせいぜいだ。本書で読む幕末の長州藩は、どの藩よりも波乱に富んだ歴史を体験している。そのおもしろさの一端が本書にはある。さらに、攘夷から開国への転換という、幕末史の大きな出来事が、具体的に示されているのも興味深い。

 もう一つの興味は、イギリス側の3人。女王陛下の忠実な軍人である下士官トレエシイは、イギリスによるアジア、アフリカの植民地化を当然と考え、現地人を未開の野蛮人と見る。その見方を日本人にも当てはめる。これと対照的なのが軍医のブラウン。日本の浮世絵を収集しその高い芸術性を尊敬し、ハイネやブラウンの詩を愛読する彼は、トレエシイとはまったく見方を異にする。イギリスがわざわざこうして東洋の果てまでやってきたのは、マンチェスターで作り出される織物などの自国製品の市場を求めてのことであるとさめた見方をする。まだ若いサトウは立場上トレエシイに近いが、ブラウンの考えにも共感するところがある。特に、井上と伊藤という日本の青年のなかに、優れた資質を見出し、好感を抱くところはブラウンと同じだ。同じ旗艦に乗船したこの3人が折に触れて交わす会話が興味をひく。多分、林房雄はブラウンに自らの思いを託しているのだろう。それは後の大東亜戦争肯定論につながる。
 本書の最初のほう(p20)に、「
作者は二年の独房禁固から今出てきたばかりであり」という表現があり驚いた。巻末の年表によると本書の初出は昭和7年。林はプロレタリア作家として出発し、京大事件に絡んで治安維持法違反で検挙され、2年の刑に服し、その間に本書の構想を得て、獄中で資料をあさり、出所後直ぐに書き上げたという。同じページの終わりには「作者をしてこの物語の筆をとらせたものは、日本の働く民衆の胸に共通する愛するものを奪われた悲しみ、美しいものを汚された怒りである。(中略)日本の自然の美を全身をもって感じ得るもののみが、日本人の胸の奥にひそむ高きものに己をささげる誇らかな精神を受け継ぐものである。」と記している。

 巻末の解説は三島由紀夫。三島は『青年』を「
昭和文学史上のもっとも重要な作品の一つである」と激賞している。

 読んでいる途中で、この時代の出来事を詳しく知ろうと思い、中央公論社の『日本の歴史19巻 開国と攘夷』を開いてみた。著者の小西四郎は大略以下のように書いている(333p~):蛤御門の戦いに敗れ、天王山で自害した尊攘派志士をもって古い尊攘派は壊滅した。彼らは激情的であり、非計画的であり、猪突猛進型であった。事の成否を問わず人事を尽くして天命を待つという彼らの行動は、一種の日本精神の発露として、彼らを賞賛する声は多い。しかし、小西は共感できないという。なぜなら過去に対する分析から現実を把握し、将来への展望をもつことを怠っているからである。彼らの行動は民衆と遊離していて、支配層内の対立抗争というべきものであった。

 私も小西と同じような感想を日頃抱いている。昨日のNHK大河ドラマ「龍馬伝」では武市半平太がいよいよ土佐勤王党を旗揚げした。画面から伝わってくる彼らの一途な思いから、つい彼らこそが正しく、彼らに目の敵にされ、やがては暗殺される吉田東洋が悪者だと思ってしまう。特にきりっと引き締まった半平太役の俳優と、妖怪のよう面魂の東洋役の俳優との対比もあり、一層そう思ってしまう。だが、実際土佐藩の将来に多くのものを残したのは吉田東洋である。そのことは、ドラマの最後、歴史散歩で簡単に触れられた。確か、今も残る剣道の学校などもそうであった。また、前に読んだ『明治維新』の中でも、後藤象二郎により武市半平太に切腹の申し渡しがなされた時を、土佐藩が古い尊皇攘夷から決別した象徴としてあげていた。小西によって断じられた古い尊皇攘夷派と比べて、『青年』に描かれた井上、伊藤は際だった対照をなしている。長州藩はその後、民衆を組織した軍隊により第二次長州征伐軍を退け、薩摩と結んで徳川幕府を倒す。


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書名 香辛料の民俗学 著者 吉田よし子 No
2010-12
発行所 中公新書 発行年 1988年 読了年月日 2010-03-17 記入年月日 2010-03-29

 
これも暮れの本棚整理で出てきたもの。レヴィ=ストロースの『悲しき熱帯』を読んだ後だったので、民俗学というタイトルに惹かれて、読んでみた。ダイコンやトマトまで含む広範囲に香辛料について、食べ方、辛みや臭い成分、作り方、料理法などが羅列してある。世界の各地に於ける特有の香辛料、野菜の食習慣が、その民族の特性とどのように結びついているかと言った、民俗学的考察はない。かつて、食品開発に携わっていたので、その参考になるかと思って購入したのだろう。たくさんの化学構造式が出てくる。昔だったら、そうだったのかと興味と親しみをもって亀の甲を眺めただろうが、今は一瞥するだけだ。

 一つだけ印象に残ったのは、唐辛子とその辛み成分カプサイシンのこと。唐辛子は新大陸からもたらされたものであり、韓国のキムチや、中国の四川料理など大量の唐辛子を使った料理は、唐辛子が安く入手できるようになった、ここ200年ほどのこと。カプサイシンにはアドレナリン分泌を増強させる作用もある。ネズミを使った実験では、最大8倍まで増えたという。先頃のバンクーバーオリンピックでもそうだが、近年のスポーツ競技における韓国選手の活躍の一因は、唐辛子多用食品と、朝鮮人参とが効いているのではないかと思った(p91)。


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書名 宿命 著者 東野圭吾 No
2010-13
発行所 講談社文庫 発行年 1993年 読了年月日 2010-03-22 記入年月日 2010-03-29

 中山道歩きで、木曽路の奈良井宿に1泊することになった。予約した民宿は夕食が5時半からだという。本でも読まないとその後の長い夜が退屈すると思った。娘の本棚に本書があったので、リュックに入れて出かけた。車中ではガイドブックに目を通したので、読めなかった。宿でも次の日の鳥居峠越えに備えて早寝したので結局読まなかった。

 帰ってきた翌日、お彼岸の中日で墓参に行った。その行き帰りの電車の中で読み出した。読み出したらやめられなくなり、次の日には読み終えた。

 二人の男の宿命。瓜生晃彦は大手電機メーカーの創業者の御曹司。しかし、父の後を継がず、医者となっている。和倉勇作は警察官の息子。二人は小学校から高校まで同じ。勇作は勉強、スポーツなど何をやってもライバルの晃彦にはかなわなかった。しかし晃彦は孤独で、仲間と騒いだりしない。勇作はクラスの人気者だ。

 電気会社の社長が亡くなった。後を継いだのは父の義弟の息子。しかし、49日の法要が済んだ直後、この社長は毒を塗ったボウガンで後ろから射られて殺される。家庭の事情で大学進学をあきらめた勇作は、警察官になった。捜査本部の一員となった勇作は、晃彦が犯人ではないかと疑う。そして追い詰めて行く。

 晃彦の妻美佐子は、電気会社のOLから、玉の輿に乗るように晃彦と結婚する。電気会社に入社できたこと自体が不思議な気がしていたが、結婚も何かに操られているような感じでトントンと話が進んでしまう。それには瓜生一家の何かの事情が絡んでいそうなことを臭わせつつ物語は進行していく。最後に犯人と、瓜生家が過去に抱えた暗い出来事という2つの謎が解かれ、晃彦と勇作の意外な間柄が明らかにされる。なぞ解きとしては瓜生家の過去の事情の方が面白い。犯人の殺意の動機が少し薄弱な感じがするが、推理過程やトリック、最後のどんでん返しなど、きちんと伏線がはってあり、構成に矛盾がなく、よくできている作品だ。


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書名 物理学と神 著者 佐藤 了 No
2010-14
発行所 集英社新書 発行年 2002年 読了年月日 2010-03-31 記入年月日 2010-04-01

 
面白そうな本はないかと本屋をのぞいていて見つけた。40万冊とい蔵書を誇る大型書店で、多数の本が平積みされているが、読んでみたいと思う本は中々ないものだ。そんな中で、本書が目についた。初出は2002年で、今年の2月に19刷が刊行された。

 この宇宙は神が作った。だからその仕組みを明らかにしたいと思う物理学者が、常に神を意識し、それを口にするのは当然かもしれない。よく知られたのはアインシュタインの「神はサイコロを振り給わず」であろう。神というキーワードをもとに物理学の歴史的な発展が述べられている。

1.神の名による神の追放:アリストテレスからガリレオによる地動説まで
2。神への挑戦―悪魔の反抗:ラプラスの悪魔、マクスウェルの悪魔。熱力学、永久機関のことなどが述べられる。
3.神と悪魔との間―パラドックス:主としてオルバースのパラドックス(夜空が暗いのは宇宙が有限である)を取り上げ、宇宙論が展開される。
4.神のさいころ遊び:量子力学
5.神は賭博師:カオス、複雑系に関すること
6.神は退場を!―人間原理の宇宙論:文字通り人間原理の宇宙論の紹介。著者は宇宙論の専門家として、人間原理には懐疑的である。
7.神は細部に宿りたもう:対称性とその破れ
8.神は老獪にして悪意を持たず:宇宙論が抱えたいくつかの「危機」(例えば地球年齢よりも宇宙年齢の方が短いという計算結果)とその克服。

 やはり宇宙論がくわしい。どうやら宇宙は無限であり、しかも、我々の住む宇宙の他にも無限個の宇宙が存在する可能性があるようだ。

 特に新鮮だったのは第7章の対称性のこと。対称性の破れが世界を作るのだという(p195)。「無」という完全な対称性から生まれた宇宙が膨張を続ける中で銀河が生まれ、星が生まれ、地球が生まれ、生命が生まれ、私たちが生まれた。宇宙の種々の構造が造られてきた過程は一様な物質分布状態から、対称性が破れ非一様な塊が生じてきた過程である。
 対称性の破れた方が人の心に安らぎを与えるという。それは初期の仏教建築が本堂、講堂、金堂、東西の塔といった左右対称のものであったのが、塔が一つになったり、大きさの異なる金堂と講堂を対置させるようになった例にも見られる。さらに仏像やキリストの像も対称性が破れていると説く(p194)

 その他本書から:
 角運動量は外部からの力が加わらない限り零である。フィギュアスケート選手が回転する際には、その回転と逆向きに地球を回転させているので、系全体としての角運動量は零である(p60)。
 2010-04-08追記:今朝NHKテレビのねじのことを取り上げた「ためしてガッテン」という番組の再放送を眺めていたら、宇宙飛行士が宇宙船の床のねじを回すシーンが放映された。空中に浮かんだ飛行士がねじを回すと、飛行士の身体はねじと逆方向に回った。
 宇宙の熱死:地球だけでなく太陽も無数の星も熱エネルギーを宇宙空間に放出している。こうした廃熱による宇宙の熱汚染で、やがて宇宙は温度が上昇し、熱的な死を迎える(p73)。エントロピー増大による宇宙の終末をこのようにイメージすれば、理解しやすい。

 宇宙の階層構造:宇宙はフラクタル構造を取っている(p99)。
 オルバースのパラドックス:膨張する宇宙には年齢があり、その年齢に光速をかけた距離しか我々には観測できないので、夜空が全天星で埋まることはない。観測できる宇宙は有限であり、その限界が「宇宙の地平線」(p102)。
 カオス:従来考えられたように混沌の無秩序現象、状態ではない。個々の粒子の運動の様相を全体的に把握するような概念で解析すれば、秩序性が現れてくる。例えばストレンジアトラクターと呼ばれる、自己相似性を有するものの存在。カオス研究は混沌ではなくその秩序性の意味を解くことが急所となっている((p143~)。

 人間原理の宇宙論:正統派近代科学のは「物
質や定数は与えられたものとして、その運動や反応の法則を明らかにすること、それが自然に書かれた神の意図を読み取る科学者の仕事なのだ。中略、しかし、もはや神は賭博に明け暮れているのだから、まさかその介入はあるまい、と高をくくって「目的因」に挑もうという風潮が強くなってきた。科学者は、傲慢にも「神なんて」と広言するようになったのだ。そして。この人間を作ることことが宇宙の目的だと、図々しく主張するようになってしまった。「人間原理」の宇宙論だ。(p170)。

 ビッグバンという言葉の由来:ビッグバン宇宙のアイディアは、ガモフが最初に提出した。それを聞いた定常宇宙論者のボイルが、ある講演会でガモフのアイディアを揶揄をこめて「ビッグバン」と呼んだ。「ズドンだな」とか「大口を叩く」という意味で使った。しかし、それはガモフ説の説明としては、的確な表現であったので以後定着した。(p236)。


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書名 さだめ 著者 藤沢 周 No
2010-15
発行所 河出文庫 発行年 2006年 読了年月日 2010-04-04 記入年月日 2010-04-09

 
藤沢周という作家は、児玉清、中江有里など共にNHKテレビの週刊ブックレビューのレギュラー司会者である。どんな人物かまったく知らなかったが、作家で、しかも芥川賞を取っている人だった。先日本屋で藤沢周の文庫本をたまたま見つけたので入手した。

 いわゆるAV映画に出演する女優を街頭でスカウトする男と、それにスカウトされた21才の女性という、きわめて特異な世界が物語の舞台ということにまず驚いた。芥川賞作家が取り上げる題材ではないと思った。そういう特殊な業界だから、書くのもはばかれるようなAV用語が頻出する。にもかかわらず、さすが芥川賞作家だと思わせるのは、情景描写や心理描写の綿密で細かいこと。

 寺崎のもとに綾瀬で声をかけた佑子から電話がかかってくる。寺崎はどんな女だったかも思い出せないほど、印象の薄い女だった。AV女優として出演してもいいという。佑子は寺崎が今までスカウトした女優とはまったく違った雰囲気を持った女だった。AV女優特有の「におい」をまったく持っていない女性だった。しかし彼女の要求した金額は1回の出演に200万円の前金を欲しいというものだった。撮影監督は、佑子を見て、従来の女優にない何かを見て取り、将来スターになると見抜く。撮影の日に、佑子を迎えに行った寺崎は、彼女の家庭をのぞくことになってしまう。家にはアル中の父親と、ピカチュウに熱中する弟がいた。どうやら得体の知れないやくざ連中につきまとわれ、借金の返済を迫られているようだ。

 佑子は最初の撮影で、4人の男優とセックス、それも尋常でないセックスするという役を平然とやってのける。寺崎は現場に立ち会うが、途中で電話がかかってきて席を外す。これはそれ以上現場の描写をしたらポルノまがいになってしまうから、作者が意図的に席を外させたのだろう。監督は思ったとおりの宝に当たったと思う。寺崎は、スカウトと女優の関係をビジネスと割り切ってきた。しかし、その割り切りに微妙な変化が現れる。頭では割り切れても、心のどこかで佑子に女優とスカウトとは別の感情が芽生えていく。立ち入ってはならない女優の家庭の事情にも望まないのに立ち入ってしまう。寺崎は佑子をAV制作会社に売り渡して(これはやってはならない行為だとのこと)それを機会にこの仕事から足を洗うつもりだった。

 佑子の弟にせがまれて、寺崎は佑子と弟と連れだって荒川土手に花火を見に行く。それはまるで、絵に描いたような幸福な家庭、夫と若い妻とその幼い弟、のようであった。しかし、小説はそこで衝撃的な終わりを迎える。

 小説の神は細部に宿る、そんなことを実感させる作品だ。構成にも無理がなく、寺崎の佑子に対する心の変化にもついて行ける。

 中山道歩きに持参し、帰途、JR中央線、木曽川沿いの十二兼という無人駅で1時間以上も電車を待つあいだに読み進め、塩尻からの特急の中で読み終えた。


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書名 ブエノスアイレス午前零時 著者 藤沢周 No
2010-16
発行所 河出文庫 発行年 1999年 読了年月日 2010-04-10 記入年月日 2010-04-10

 
これは藤沢周の芥川賞受賞作品。舞台は福島と新潟の間の豪雪地帯の山奥のホテル。都会の広告代理店から、Uターンし、郷里のホテルで働くカザマの毎日は、少し離れたところにある泉源に行き、客の朝食用の温泉卵を作ることから始まる。ホテルには110坪のダンスホールがあり、都会からダンスクラブの団体客が来て、踊る。それがこのホテルの売り物で、ホテルはそれで持っているようなもの。雪の降りしきる冬の日、50人ほどダンスツアー客がつく。皆が50才以上だ。それが、派手な服装に着替えて、次々に繰り出される曲目に沿って踊る。カザマはそんな光景に強い嫌悪を覚えている。

 中に目が見えない老婦人が妹に付き添われて来ていた。老婦人は痴呆が進んでいて、何の脈絡もなく、ブエノスアイレスとか、アルゼンチンの男の名前を口にする。カザマが偶然耳にした男性客の噂では、彼女はかつて横浜で、外国人船員相手の娼婦をやっていたらしい。彼女は当然誰から相手にされない。ホールの壁際に座る彼女にカザマが温泉卵を運んできたとき、彼女がそれを床にこぼし、踊っていた女性が踏み、ドレスを汚す。その弁償として、カザマは2万円を支配人から言いつかる。翌日、皆の予想に反し、しかしカザマが予想したとおり、彼女はダンス会場に姿を現す。そして、カザマは彼女に踊りの相手を申し込む。彼女はテンポは遅いが、ステップを踏みカザマについてくる。皆が驚きの目で注視する中、二人はタンゴのステップを踏み続ける。彼女にとってそこは、かつての恋人、アルゼンチン男性の住んでいるブエノスアイレスだった。巻末の解説によると「ブエノスアイレス午前零時」とは、タンゴの曲名とのこと。

 よくこんな題材が小説になるなと思う。あるいはこうした題材でないと、もう小説にならないのか。それでいて、登場人物にリアリティがあり、人生について何かを考えさせ、感じさせるものがある。やはりこの作品も小説の神は細部に宿ると思わせる。

 本書にはも1編『屋上』という作品が収められている。ショッピングセンターの屋上にある小さな遊園地で一人働く若い男性の話。ゲーム機や乗り物などがあり、なぜかポニーも1匹柵の中に飼われている。そのポニーがある時突然、多数の幻影となって男に現れる。そして、男は屋上におかれたペットショップの飼育室の鍵を片端から明け、犬やネコたちを屋上に放つといった物語。現実と空想の境目がぼやけたような作品。これも特異な題材だ。


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書名 大名行列の秘密 著者 安藤優一郎 No
2010-17
発行所 NHK生活人新書 発行年 2010年3月 読了年月日 2010-04-17 記入年月日 2010-04-17

 大名行列のあまり知られていない実情。その第一は、江戸市中が大名行列のもっとも頻繁に行われた場所であるという指摘。毎月の江戸城登城の日には、何百という大名が、参勤交代ほどの人数ではなくても、行列を作り、威儀を正して江戸城に向かう。そのため霞ヶ関あたりは大変な交通ラッシュであっただろうという。その二は、大名行列は、封建社会の身分格差を視覚化する場であったこと。特に、徳川家と他の大名との間の身分の違いを鮮明にした。将軍家、御三家、御三郷の行列と行き会ったら、どんな大大名であろうとも、籠から下りて下座する必要があった。また、大名同士でも、譜代、外様、石高によりそれぞれ下位のものはすれ違った場合にはそれ相応の礼を取らねばならなかった。それが理由で、大名は、行列がかち合うことを極力避けた。徳川家に連なる行列と行き会うことがわかると、わざわざ脇道にそれて出会いを避けた。幕末に参勤交代制度が緩和されたが、それはとりもなおさず徳川幕府の弱体化を表すもの、あるいは弱体化を早めたものであった。大名たちは、行列で領民や、他藩の人、江戸市民たちに自分の権威を示そうとして、そのパフォーマンスを競った。それが、槍を投げて交換すると言った派手なパフォーマンスを生んだ。

その三、参勤交代は道中の宿場の発展に大きな役割を果たしたが、大名が江戸に滞在することで、江戸の消費経済の発展にもきわめて大きな役割を果たした。その四、大名行列の道中を行く殿様は決して楽ではなかったこと。宿場の本陣泊まりは一種の陣屋で、臨戦態勢にあるようなもの。夜も不寝番が二人そばにいて、しかも、彼らが眠っていないことを証明するために声に出して本を読んだりするので、殿様は眠れなかったと、最後の広島藩主、浅野茂勲は後に述懐している。輿の中も敷物も薄くて、足が痛くなると言う。

 驚くのは、1日の旅程、加賀藩前田の殿様の例では平均10里、多いときには12里というのもある。夜明けと共に出立し、日暮れに次の宿場に着く。私の街道歩きの2倍の距離を歩いている。その理由は、旅費の節約だ。それが幕府の狙いであることは、教科書にも載っていることだが、何しろ参勤交代は藩の財政に多大の負担をかける。


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書名 乱髪 著者 与謝野晶子、李敏勇訳 No
2010-18
発行所 圓神出版社(台北市) 発行年 2010年4月初版 読了年月日 記入年月日 2010-04

 
4月に台湾観光旅行をした。帰りの台北空港でチェックインしてフライトを待っている間に、書店で本書を見つけた。日本の短歌が中国語に訳せるのかどうか興味があったというより、中国語圏にとっては短歌など受け入れられないものと思っていたので、日本の書籍の翻訳コーナーにこの本があったことに驚いた。かつてビジネスで台湾へ何回か来たが、たまたま高雄に向かう高速バス内でテレビ映画を放映していた。外国映画で字幕放映だったが、字幕に出てくるのが漢字ばかりで、それもほとんどが5文字程度。それで、会話の微妙なニュアンスが表現できるだろうかと思ったことがある。まして短歌など翻訳不可能だろうし、そもそも中国圏の人は、短歌などには興味を持たないだろうと思っていた。

 各所に1ページを取った花の挿し絵が入った豪華な本で、日本円820円。漢文への訳が載っていて、その後に晶子の本歌が記されている。もちろん私は中国語を学んだことがない。ただ、漢字の字面を眺めて、おおざっぱな推測をしながら、読むというより、眺めた。漢語訳は一応5行で分かち書かれている。ただし各行の漢字の数はまちまちである。口に出した場合それが短歌の57577に対応しているかは不明だ。多分、対応していないと思う。だから、これは定型詩ではない。意味だけを漢文にしたものだ。台湾はまだ漢字の簡素化を行っていない。日本語の入力ソフトには載っていない漢字が多出するので本書のそのままここに載せることはたいがいの場合出来ない。本書の題名も「乱」は旧字体である。

 有名な「やは肌のあつき血潮にふれも見でさびしからずや道を説く君」の台湾語訳は(台湾語というのはなく、北京語が標準語である)、ながめても意味が十分には理解できない。

清水へ祇園をよぎる桜月夜こよひ遭ふ人みなうつくしき」の方はなんとなく理解できる。
櫻花と題して以下のように翻訳される:
 
走過祇園/到清水/盛開的櫻花被月光照亮/多美阿(実際は口偏に阿)/今夜我遭見的毎張瞼
 
 その他この店の日本人作家の翻訳本コーナーには、村上春樹の『1Q84』、『海辺のカフカ』(台湾語の題は『○宮』)『朝日堂』などがあり驚いた。その他にも村上龍『無趣味のすすめ』、東野圭吾、宮部みゆき、角田光代、などの現代の人気作家の作品、松本清張や隆慶一郎(『影武者徳川家康』)もあった。
 
 機内誌に浅田次郎のエッセイが載っていた。上海で中国の老婆から、日本の「夕焼け小焼け」の歌を聴いた話で、その最後に、漢字の一字一字 はそれ自体が一つの世界を作っているとあった。その世界が作り出すイメージを心に描けば、わずか数字の字幕を見ただけで、画面の人物の細かい心情までくみ取ることができるのだろうか。

 大陸からの観光客必見書のコーナーには、蒋介石や、蒋国経の伝記、毛沢東の伝記、天安門事件などが並んでいる。毛沢東の伝記は恐らく、彼のくらい面を暴いたものであろう。大陸の人々はこうした本を購入するのだろうか。店先に並べられているところを見ると、購入する人がいるのだろう。中国当局もこれらの本、多分反中国的、まではいちいち取り締まれないのだろう。


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書名 芭蕉 著者 田中喜信 No
2010-19
発行所 中公新書 発行年 2010年3月 読了年月日 2010-04-28 記入年月日 2010-04-29

 
新書版で320ページあまりのかなり読みでのある本。多数の資料を駆使し、時代背景も含めて松尾芭蕉の生涯と、彼の俳諧の変遷がよくわかる。私たちが知っているのは、侘び、さびという独特の俳風を確立した後の芭蕉。伊賀上野から江戸に出てそうした俳風を確立するまでの芭蕉の苦闘、作品にはまったくといっていいほど疎い。

『貝おほひ』という初期の作品集は、たった一部しか現存しない句集だが、そこに収載された芭蕉作品は、後の芭蕉からはとても考えられないようなもの。古典や当時のはやり歌を縦横に引用し、滑稽、駄洒落的、あるいは卑猥な表現さえある言葉遊び。当時の俳諧というものがこうしたものであった。当時の人でないと理解するのが難しい作品である。当時の俳諧師にとっては源氏物語を初めとする古典の知識は必須のもの。芭蕉もよく通じていた。さらに彼は当時のはやり歌にもよく通じていた。そんなことから、文学作品はその人柄とは直接関係しないと著者は断っているが、芭蕉は今で言えばカラオケでマイクを握ったら離さない人、酒席では率先して場を盛り上げる人だったろうと想像している(p50)。晩年の作品からはちょっと想像できない芭蕉像だ。

 和歌や連歌に比べて一段低いものに見られていた俳諧を同等の地位に引き上げるには、俳諧に詩情や精神性が必要であると、芭蕉は次第の考えるようになる。若い頃の作品と後年の作品を比べると、その差は歴然である。両者を比べてみて芭蕉のなした革新の偉大さが、素人の私にもわかる。

 芭蕉には内縁の妻がいた。その女性と、郷里から呼び寄せた甥との3人で日本橋に住んでいた。その後芭蕉は突然深川に移り、一人孤独な生活を送る。なぜ深川に移ったかを明らかにする文献はないが、著者は推測として、内縁の妻と甥が駆け落ちしたことによるのだろうと推察している(p104)。

 芭蕉の人柄については、決して孤高の隠者ではなかったと著者は言う。明るく社交的な性格で、座談を好み、門人の多くはその人柄に魅せられたのだろうという。だから、旅先で門人の家に10日間も逗留できたのだという(p163~)。これも意外な芭蕉像だ。本書によると、芭蕉は決して、高橋治の『蕪村春秋』に与謝野蕪村との対比で述べられているような「終生自己解放の出来なかった男」とは思えない。

 芭蕉は徳川の泰平の世を讃えた文章を書いている(p91)。幕府ができて70年、人々は何かにつけ集まり連歌や俳諧に興じ、俳諧の優劣を競い合う。それは芭蕉の郷里伊賀上野までにも及んでいる。そして多数の俳諧集が出版されている。本書を読んでいて別の感想として、江戸時代の豊かさを感じる。

 芭蕉の俳諧観の変遷を追って、当然ながら著者はたくさんの句を引用して、それぞれにコメントをしている。

 
古池や蛙飛び込む水の音:禅の公案の答えを読んでいるような印象で、文学的に優れているかどうかは疑問(p194)。
 
秋風ややぶもはたけもふはの関:屈指の名句という小西甚一氏の評価に賛同(p195)。
 
夏草や兵どもが夢の跡:264ページ以下に解説。「江戸時代に作られた発句の中では屈指の名句」であるとしている。

「かるみ」について:
晩年の芭蕉は禅や古典文学という借り物の衣装を脱ぎ捨てて、あるがままの世界に踏み込んでいったようにみえる。『笈の小文』で、芭蕉が「見る処花にあらずという事なし。おもふ所月にあらずといふ事なし」と述べていることは前述したが、このような境地を目指して芭蕉がたどり着いた結果が、平明な「かるみ」の世界であったのであろう。「かるみ」に至ってはじめて、和歌や連歌、あるいは漢詩といった先行文学とは異なった俳諧独自の世界が開けた、といってよいかもしれない。(p281)
 これらかるみを表す代表句として、『すみだはら』から4句が挙げられている。そのひとつ:
 
春雨や蜂の巣つたふ屋ねの漏(p279)

 最晩年の句について:
 
秋ちかき心の寄るや四畳半
 此の道や行く人なしに秋の暮れ
 秋深き隣は何をする人ぞ

 
これらの句は、表現は平易だが、作者の心の深みからにじみ出るような情感がただよっており、前に掲げた『すみだはら』の芭蕉の俳句と異なった味わいがある。これらの句は「かるみ」の究極の境地を示しているともいえるが、また「かるみ」を超えた新しい世界が開ける予兆とも考えられる。芭蕉は「かるみ」の先を見通していたのかもしれないが、彼はこれらの句を作って間もなく、元禄七年十月十二日に旅先の大阪で没した。(p293)

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書名 人物で語る化学入門 著者 竹内敬人 No
2010-20
発行所 岩波新書 発行年 2010年3月 読了年月日 2010-05-06 記入年月日 2010-06-23

 
文字通り、多数の人物の業績、思想を通して、化学の歴史的発展をまとめたもの。230ページあまりの新書版に、古代ギリシャの元素に対する考えから始まり、21世紀の化学の主要課題であるという「持続可能性」に対するテーマまでがコンパクトに論じられている。化学は私が生涯の専門としてきた学問分野であるから、すらすらと読める。

 取り上げられた人物が多彩で、多人数であることに驚く。デモクリトス、アリストテレスから始まり、パスカル、ラボアジェ、そして近代化学を作っていった多数の人々。最後の方には田中耕一、下村脩、野依良治ら日本人ノーベル賞受賞者の仕事も述べられる。

 有名な科学者は、半ページほどのスペースで、簡単な履歴が紹介される。それが、読み物として面白い。例えば周期律表のメンデレーフは、ペテルブルグ大学を退官後、度量衡局長官に就任し、ウオッカ製造の標準化の仕事を手がけたという(p36)。彼は1907年に死去したので、6回はノーベル賞受賞のチャンスがあったのに選からはずれている。著者も意外だとしているが、出来たてのノーベル賞は、候補者が目白押しだったのだろう。最近の様に共同受賞と言うこともなかった。

 本書で取り上げられた19世紀末以後の化学者のほとんどがノーベル賞受賞者である。
 アンモニア合成のハーバーは、第一次大戦中に毒ガス研究の指揮官であって、連合国側から非難されたが、フランスのノーベル賞受賞者グリニアールも同様に毒ガス作戦の指揮をしていたこともあって、1918年にノーベル賞をもらったという(p134)。

 アリストテレスは「自然は真空を嫌う」として、真空の存在を否定した。この考えに対する反抗、否定が、近代科学成立の歴史であると著者は言う(p19)。トリチェリ、ボイル、パスカルにより真空の存在が確認され、それは元素の考えへとつながっていく。物質が粒子(元素)から出来ているとすれば、粒子と粒子の間には何もない空間が存在することになる。

 アインシュタインにも言及されている。20世紀初頭、分子の実在をすべての人が受け入れていたわけではないなかで、アインシュタインがブラウン運動は微細粒子に水分子がランダムに衝突して起きると考え、それを数式化した功績による。後にフランスのペランは微粒子の沈降平衡のデータをアインシュタインの式に適用し、アボガドロ数を求めている。ペランは1926年にノーベル物理学賞を受賞しているが、私が本書で初めて知った数少ない科学者の一人である。


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書名 生物と無生物のあいだ 著者 福岡伸一 No
2010-21
発行所 講談社現代新書 発行年 2007年5月 読了年月日 2010-06-14 記入年月日 2010-06-24

 
本書が評判になったことは私もどこかで聞いていた。先に読んだ『世界は分けてもわからない』同様、明快で、わかりやすい文章だ。話の展開の仕方が、舌を巻くほどうまい。すらすらと読んでいるうちに、分子生物学の歴史を概観してしまう。

 著者は生物の特質として自己複製をまず第一に挙げる。しかし、ウイルスは生物とは言わない。自己複製だけでは生物を定義できない。著者によれば、生命とは動的平衡にある流れである(p167)。要約すればこれが本書の結論だ。

 展開のうまさは、著名な研究者を順次取り上げ、その業績を述べながら、自身の論議を展開していくところにもっとも現れる。
 まず、野口英雄。野口の研究が今ではまったく評価されていないことを初めて知った。それは、彼の研究には病気とその病原体を実証する厳密なデータに欠けていた。また、彼が研究した、狂犬病や黄熱病の病原体はウイルスであって、当時の顕微鏡では見ることの出来なかったのもである。

 ついで、「アンサングヒーロー」としてオズワルド・エイブリーが取り上げられ、DNAが遺伝物質の本体であることが述べられる。エイブリーへの著者の思い入れは並みのものではない。遺伝物質はタンパク質であり、DNAのような単純な構造のものではあり得ないという、当時の多くの研究者の先入観、あるいは直感が間違いであることを述べ、科学における直感への疑問を呈している。

 ついでPCRを思いついたキャリー・マリスの話。彼がPCRを思いついたのは恋人とのドライブの最中だったという伝説に触れている。私はマリスという人物は初めて知った。

 ついでDNAの構造発見におけるロザリンド・フランクリンもアンサングヒーローとして、著者は深い同情を寄せ、その貢献を高く評価している。ピア・レビュー(同業者による論文審査)のもたらす問題についても論じている。ここで著者はクリックの著作「What mad pursuit」について言及している。邦題は「熱き研究の日々」である。福岡は原題を感嘆文とはとらないという。これは疑問文であるという。つまり「いかなる狂気が(それを)追求するのであろうか?」というのが本来の意味であるという。一歩譲って、「狂気が追求するもの」という意味でもいいという(p123~)。多分多くの人は、この原題は感嘆文ととったであろう。「何という狂気の沙汰の追求だろう!」。私もそうとっていた。実は、この本の翻訳者の名前は中村桂子であるが、後半は私が下訳したものだ。原題はキーツの詩からとったもので、詩の中では疑問文であり、疑問文としてとるのが正しいし、クリックの生涯にもよくあうと著者は言う。なお、著者はクリックの生き方に比べて、ワトソンの生き方を評価していない。

 ついでシュレーディンガー。『生命とは何か』の優れた解説になっている。

 ついでルドルフ・シェーンハイマー。この人の名前も初めて知った。窒素同位体を用いて、タンパク質が常に作り替えられていることを明らかにした。「秩序は守られるために絶え間なく壊されねばならない」ということを、シェーンハイマーは感得できたと著者は言う(p166)。それはエイブリーもワトソンも、クリックも、シュレーディンガーも思いつかなかったことであると、シェーンハイマーを高く評価する。そのシェーンハイマーは1941年に自ら命を絶っている。著者は動的平衡を、波により壊され、波が運んでくる砂により再生される波打ち際の砂の城にたとえ、そこに生命の本質を見出す。そして「生命とは動的平衡にある流れである(p167)」と定義する。「流れ」という言葉が新鮮だ。

 本書の後半1/3あまりは、著者のアメリカでのポスドク研究を例にとって動的平衡という概念について述べられている。分子生物学の先端の手法を使った研究だが、わかりやすく、また、研究現場の雰囲気まで感じられる筆の運びである。

 著者らが研究対象としたのは、膵臓細胞から分泌される顆粒。膵臓細胞は消化酵素を作り、それを分泌するという大きな役目を果たしているが、その際、消化酵素は細胞内で顆粒化されてから放出される。顆粒形成の鍵を握るのは著者らがGP2と命名したグリコプロテイン。GP2の構造遺伝子を突き止め、それをノックアウトしたマウスを作り出した。GP2ノックアウトマウスの膵臓細胞は顆粒を形成することが出来ないハズだ。ところが、著者らの予想に反して、マウスは顆粒形成能を持っていた。一つの機能に障害が生じても、何らかのメカニズムが働いて、それを代償することが出来る。それが生き物であるという。動的平衡の意味がここでは広くとらえられている。生命とは時間軸に沿った後戻りできない一方向のプロセスである。そのプロセスで、ある一つの部品が欠落すると、動的な平衡状態はそれを埋めあわせような新たな平衡点を見出す。そうした緩衝能が動的平衡の本質であると、著者は言う。さらにプリオンタンパクのノックアウト実験の結果を引いて、一つの部品が丸ごと欠けた場合は、それを補修することが出来るが、欠損部品(プリオンの場合はプリオン分子の頭の部分が欠落したもの)が組み込まれた生体は、致命的な異常を示すことが、述べられている。

 素人として、細胞膜に結合しているGP2プロテインが顆粒形成のキー物質であるという著者らの仮定が果たして正しかったのかどうかと言う疑問は残る。


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書名 嵯峨野名月記 著者 辻邦生 No
2010-22
発行所 中公文庫 発行年 1990年 読了年月日 010-07-05 記入年月日 2010-07-10

 
表題から、藤原定家を扱った歴史小説かと思った。以下本書の帯:〈嵯峨本〉は、開版者角倉素庵の創意により、琳派の能書家本阿弥光悦と名高い絵師俵屋宗達の工夫が凝らされた、わが国の書巻史上燦然と輝く豪華本である。十七世紀、豊臣氏の壊滅から徳川幕府が政権をかためる慶長・元和の時代、変転きわまりない戦国の世の対極として、永遠の美を求めて〈嵯峨本〉作成にかけた光悦・宗達・素庵の献身と情熱と執念。芸術の永遠性を描く、壮大な歴史長編。

 本書は上記三人が独立に一の声、二の声、三の声として回想あるいは告白形式で語った物語として展開する。400ページを超す長編だが、本書の特徴は、一つの語りが終わるまで改行がないこと。時には10ページを超えて改行がない。暑苦しい感じがする。

 時代は信長の天下統一と明智光秀の謀反から豊臣滅亡後まで。
 本阿弥光悦の家は代々刀剣研ぎを生業とする。しかし、彼は嵯峨野の別院で書に熱中する。彼の付き合っていた人々の中には、明智光秀の部下で、光秀謀反の首謀者であった人々もいた。土岐民部も朝廷にあって反信長の画策をし、光秀謀反に荷担する。光悦は若い頃土岐の女に嵯峨野の池の畔で月の明るい晩に会っている。光悦は民部亡き後、女と同棲する。あるいは、関ヶ原の後に家康から切腹を命じられた吉田織部も光悦の仲間内の一人であった。そうした時代の流れを目にしてきた光悦は、それを超越した立場に自らを置こうとする。

 俵屋宗達は絵師の家に生まれる。しかし、彼は当時を風靡した狩野一派の風俗写実を中心とする画風には強く反発した。彼にあっては「絵は内なる思いを受けとめる容器のようなもの」でなければならなかった。彼が考案した金銀泥塗りの下地に絵を描いた扇は当時の評判をとり、京でおおいにもてはやされる。

 角倉素庵(本書では角倉与一となっている)の家は豪商・事業家である。彼は事業家気質と学問愛好の気質の両方が自分に流れ込んでいると、幼い頃から感じている。やはり嵯峨野の別邸で和漢書を読みふけるのが何よりも好きであった。しかし、彼は父の事業を助け、信長軍や秀吉の朝鮮出兵に際する兵站輸送に関わり、朱印状を得た後の南蛮貿易、さらには河川の浚渫事業などの指揮を執る。そうした中にあっても常に学問への執念は失っていなかった。

 素庵の目に南蛮から渡来した活字印刷による何冊かの本がとまった。その方法によれば従来の平板印刷に比べて、ずっと安く書籍が作れることを知った。それを利用し、豪華本を作ることを思いつく。書は光悦に依頼し、表紙や下絵、挿絵は宗達に。こうして嵯峨本の作成へと向かっていく。

 本書の表紙カバーには嵯峨本の一つ『四季草花和歌巻』の一部が採用されている。カラーの小さな図柄だが、すばらしい本であることが想像される。明るいブルーの紙面に宗達の下絵が書かれ、そこに流れるような書体の光悦の書が置かれている。書を見た感じでは、これは活字ではないと思う。光悦の直筆であろう。

 光悦は京都鷹ヶ峯に所領を与えられ、晩年はそこで過ごす。「
移りゆく花、流れゆく雲のなかに不易が現れているこの甘美な趣―それこそが、私がよって立つべき唯一の足がかりであるように思えた」と述べている。そして、蒔絵や陶器の作製へと入っていく。

 宗達は、ある短い期間、彼の仕事場に滞在した絵師から、宗達の絵は光琳好みの絵ばかりになっていていると指摘される。その絵師は怨念を絵にぶつけるといって、どぎつい凄惨な場面ばかりを描いていた。宗達はその絵師を全く評価しなかったが、その言葉に、自分にはまだ開拓すべき絵の世界があるのではないかと思う。かくして、彼の代表作「雷神風神」が生まれる。

 素庵は、天下が徳川により平定された後、河川浚渫事業に手を広める。保津川の工事を監督するために展田の宿に行った時、一人の女に会い、一目惚れし、一夜を共にする。その時うつされた病気が10年近く後になって素庵にも現れ、静かに死を待つ身となる。


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書名 アインシュタイン 著者 P.C. アイヘイブルク、R.U. ゼクスル 編、江沢洋、亀井理、林憲二 訳 No
2010-23
発行所 岩波現代選書 発行年 1979年 読了年月日 2010-07-12 記入年月日 2010-07-18

 
5月のエッセイ教室の課題が宇宙で、宇宙論のことを書いた。現代宇宙論の根底には量子理論と相対性理論があることを改めて認識した。本棚に本書があるのを見つけ、読んだ。長いこと放って置かれ、忘れられていた本だ。

 16人の専門家によって書かれたアインシュタインの業績の解説になっている。1977年のアインシュタインの生誕100年にあわせて編集されたもの。

 アインシュタインといえば相対性理論が有名で、それだけが彼の仕事かと思いがちだが、とんでもない思い違いだ。初期の光電効果の論文は初期の量子論の大きな業績であるし、統計力学での業績も先端的な仕事をしている。先ほど読んだ『人物で語る化学入門』でブラウン運動を数式化したのがアインシュタインであることを知ったが、これは統計力学的研究の一部でしかない。相対性理論関連では、宇宙論、ブラックホールに対する彼の考察が解説される。そして、政治との関わり、特にシオニズム運動と関わり、建国間もないイスラエルの大統領への就任を要請されたこと、あるいは平和運動との関わりなども取り上げ挙げられている。相対性理論の解説はかなり専門的で、理解できなかった。この点に関してはアインシュタインがインフェルトと共著で表した『物理学はいかに創られたか』の方がずっとわかりやすい。晩年、相対性理論を一言か二言で説明することを求められたアインシュタインの答え―
これまでは、宇宙からあらゆる物質が消えて無くなっても時間と空間は残ると信じられていました。しかし、相対性理論によると、時間と空間も一緒に無くなってしまうのです。以上終わり。―(p354)

以下付せんをつけたところ:
p80:いわゆる宇宙項
p102:物理的実在の量子力学的記述について。アインシュタインとボーアの考え方。
p134:波動力学へのアインシュタインの影響
p137:統計力学への寄与。「ボルンとともに、アインシュタインは統計力学の父であると言いたい」と著者の江沢洋はいう。
p170:感官経験と科学理論。「
科学とは感官経験の混沌たる多様性を、論理的に統一された思考体系に適合させようとする試みである。
p172:科学理論形成の過程。 感官経験から帰納的に科学理論は形成されない。投機的、構成的な「要請」を設定する、それが科学理論の発見である。

 「科学理論の形成に関するアインシュタインのモデル」と題する第9章は本書の中でもっとも興味深い章である。彼の科学理論論は19世紀末から20世紀にかけて支配的であったマッハ主義と立場を異にするものである。考えてみれば相対性理論は我々の日常の感覚的経験からは導くことの出来ないものだ。

p248:天才の秘密。天才の秘密として、設問の自然さ、どんな設問も単刀直入に直接的に設問したことを挙げている
 本書には触れられていないが、「光を追いかけていったらどうなるだろう」という、アインシュタインの少年時代の疑問を思った。これはまさに、自然で、直接的な設問の例だろう。後にこの設問が相対性理論の発見へとつながる。


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書名 銀杏散りやまず 著者 辻邦生 No
2010-24
発行所 新潮文庫 発行年 平成7年 読了年月日 2010-07-15 記入年月日 2010-07-18

 
渋谷で時間調整のために立ち寄った古本屋で「辻邦生」の名前が目についたので手にした。

 父親の死に際し、今まで著者が父親とは精神的にも、物理的にも距離をおいてきたことへの償いをこめて、父とその祖先の足跡をたどり、記録したもの。辻家は山梨県の石和の近くで江戸時代から代々医者を業として来た家柄。さらに遡れば、日本書紀にも記載されている三枝氏まで達する。戦国時代は武田信玄にも仕えた武将としても有力であった家柄であるが、徳川の世になり郷士としてひっそりと暮らす。そうした祖先の足跡を、江戸時代後期に亡くなった辻保順森瓶の墓碑や、甲斐の国の古文書などをあさりながら追って行く。辻森瓶は辻保順病院を開設し、それは現在も甲府市に同じ名前で残っている。

 辻森瓶は他家から養子に入った人物、生年は8代将軍吉宗の治世の末。彼は医院を開いたばかりでなく、後に本居宣長の門に入り国学や歌を学ぶ。著者は、幕府直轄領という無風地帯の郷士という立場が学問と、医業に進んだ森瓶のような人物を生み出したとする。(p129)

 そのうちに、著者の縁者の所に江戸時代からの文書が多量に残されていることが判明する。内容は日記風の記録。もちろん、誰それがどんな病気になってどんな処置をしたという家業の医業に関する記載が多いが、江戸への旅や、香典にいくら包んだとか、近隣の誰それが、色恋沙汰で殺人を起こしたといったことまで記載されていて、当時の社会を知る貴重な資料である。本居宣長が森瓶の和歌に添削を施した手紙もかなりの数である。本書にはそれらの原文が引用されている。読み下すのはそれほど困難ではない。江戸中期の社会が垣間見られて面白い。

 この文書を読み解きながら、祖先の日常に迫っていく。当然ながら、単なるある家の記録としてではなく、その時代との関連で、鋭い歴史的な考察を交えながら、話を進める。

 幕末の頃には甲州の種痘法による天然痘撲滅のための連携組織ができあがっていて、森瓶の息子守敬はその運動に深く関わっていた。(p198)。佐幕だ勤王だと騒がしい時代に、地熱のような情熱で天然痘撲滅に取り組んだ人々がいることに著者は驚きを禁じ得ない。

 笛吹川の氾濫は石和を含む流域の住民をたびたび悩ます。明治40年の大洪水で、辻病院も流され、結局著者の祖父の代で医業をあきらめる。洪水に関して著者は以下のように述べる(p263):
現代の土木技術をもってしても、天然自然の暴威にはかなわないわけだが、しかし一つや二つ、自然の力の厳しさを実感させるものがあったほうが、人間の生き方を敬虔に、謙虚に、してくれるのではないか。まったく安全無害に生きられるようになると、こうした自然との交流の感覚が鈍ってしまって、人間は高慢になるか、無気力になるしかない。

 辻邦生の父、三壽吉は新聞記者であったが、琵琶の演奏に生涯情熱を注いだ。父は音は心で聞くものだという。著者は、西洋音楽と東洋音楽を比べ、前者はこの世の音楽であり、構成の音楽であり、他者の評価の上に立つ音楽であるのに反し、「
東洋の音楽はその無限の音の深さを追い、他者を楽しませる音楽ではなく、自己が独り極北の美を目指して行く内面の音楽なのだ」 と述べている(p289)。

 森瓶の孫の守道は医業のかたわら砲術に熱中する。それは幕末という時代背景を考慮しなければ理解できないことである。関連して著者の明治維新観といったものが述べられている。(p333)
 
井伊直弼ならあくまで開港、近代化の路線を守りつづけ、薩長土佐その他を攘夷へと挑発しつつ、京都朝廷派を時代の逆行者に仕立てあげていったであろう。もしそれが実現すれば、革命イデオローグたちの権力奪取とは別の形の革命が可能であったかもしれない。それは何回かの革命を必要としたかもしれないが、薩長主力の権力構造がその後に示した江戸文化虐殺だけは救えたのではあるまいか。
 辻は井伊直弼を高く評価し、彼を暗殺した浪士をテロリストとして切り捨てている。

 甲州人気質について(p351~352)
……
親に当たるべき藩主が存在しないために、血縁的共同体としての社会は早く崩壊して、支配―被支配の関係が、非血縁的な、契約的なものとして掴まれた。それは甲州人に現実的な、利害打算に敏感な覚めた、眼を与える結果となった。支配―被支配は力の場、法の場、打算の場だった。甲州人の、転んでもただでは起きぬ、という徹底した現実主義は、こうした冷たい力の場を三百年生きつづけたところから生まれた生活意識なのであろう。
 それとは別に、甲州人の中には「武田家」という夢が生きつづけているとも著者は言う。

 308ページ以下には守敬が急用で江戸に旅した記録が取り上げられている。石和から日本橋までを、駕籠をのり継ぎ、あるいは通し駕籠で3日間で行っている。私の甲州街道歩きでは、日本橋―石和は6日を要した。私の場合は日帰りの繰り返しであったことを割り引いても、当時の人達の旅はかなり早かったことを、ここでも感じる。特に2日目は初狩から小仏峠を下りた駒木野まで行っている。笹子峠と小仏峠を越えている。

 たまたま相続の手続きで、必要な父と母の戸籍謄本を集めたところだった。最近では相続手続きに被相続人の生誕時の戸籍まで必要とされる。初めて見る父と母の戸籍を眺めていると、今まで知らなかった意外な事実が浮かび上がってくる。本書を書き出すまで、辻家文書存在を著者は知らなかった。この膨大な資料に接した時の著者の驚きはさぞ大きかっただろう。

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書名 江戸百夢 著者 田中優子 No
2010-25
発行所 筑摩文庫 発行年 2010年5月 読了年月日 2010-07-19 記入年月日 2010-07-19

 
楽しい本だ。40の絵画を取り上げ、その一つ一つに2ページの解説をつける。絵画もすべて見開き2ページに掲載されているが、いずれも鮮明で美しい。知らない画家がたくさん出てくる。江戸時代に活躍したのは広重、北斎、写楽、歌麿だけではないのだ。取り上げられた絵に描かれた対象がまた多彩だ。それらを題材にして田中優子の江戸論、日本近世論が展開される。もちろん江戸賛歌である。対比の意味で、中国や西洋の画家の絵も取り上げられている。それらの解説を見ると、著者の絵画への造詣の深さが感じられる。

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書名 方丈記 著者 鴨長明 No
2010-26
発行所 岩波文庫 発行年 1989年 読了年月日 2010-08-08 記入年月日 2010-08-13

 
以前、NHKの私の一冊で資生堂名誉会長の福原義春が取り上げていたことが頭にあった。本屋で目にとまったので読んでみた。

 高校の古文の時間に出だしの部分は載っていた。本書は大きな活字で下1/3に注釈がついて、文庫本31ページという短さにまず驚いた。文頭の「
ゆく河の流は絶えずして、しかももとの水にあらず」という有名な文章のように、いずれもリズムのいい文章がつらなり、意味も仏教用語をのぞけば難解でなく、全体として読みやすい。さらに驚いたのは大福光寺に伝わる、鴨長明直筆と署名のある原著。その写真版が全文載っているが、仮名漢字交じりの文が鮮明で、しかも崩し字でないので、そのまま読むことが出来ること。

 人生の無常を詠い、都での天変地異、人災の数々を嘆く。そして、生い立ちを述べ、大原の一丈四方の庵での隠遁生活を叙し、最後は仏道へすがることを述べている。鴨長明が生きた時代は源平争乱から鎌倉幕府成立期の乱世、末法の時代。方丈記は日本人の無常観の原典になっているが、それは文章の格調の高さ、リズムの良さ、口にした時の快さ、が大きく作用しているだろう。巻末の解説にもあるように、思想的にそれほど深いとは思えない。

2011-04-16 追記
 山口仲美著『日本語の古典』の中に、『方丈記』は「見事なドキュメンタリー」とあった。今回の大震災後、『方丈記』の地震の記載が話題になった。1185年(元暦2年)7月9日の大地震が以下のように描写されている(p22~):

又同じころかとよ、おびたゝしく大地震振ること侍りき。そのさま、世の常ならず。山は崩れて河を埋み、海は傾きて陸地をひたせり。土さけて水わきいで、巌われて谷にまろびいる。渚漕ぐ船は波にたゞよひ、道ゆく馬は足の立ちどをまどはす。都のほとりには、在々所々、堂舎塔廟、ひとつとして全からず。或は崩れ、或は倒れぬ。塵芥立ち上りて、盛りなる煙の如し。地の動き、家の破るゝ音、雷にことならず。家の内にをれば、忽ちにひしげなんとす。走り出づれば、地われさく。羽なければ、空をも飛ぶべからず。竜ならばや、雲にも乗らむ。恐れのなかに恐るべかりけるは、只地震なりけりとこそ覚え侍りしか。かくおびたゝしく振る事は、しばしにてやみにしかども、そのなごりしばしは絶えず。世の常驚くほどの地震、二三十度振らぬ日はなし。十日廿日過ぎにしかば、やうやう間遠になりて、或は四五度、二三度、若しは一日まぜ、二三日に一度など、おおかたそのなごり、三月ばかりや侍りけむ。

 この一文を入力している最中にも、グラッと来た。栃木県が震源で、最大震度は震度5強、私の所は震度3であった。
 東日本大地震から1か月以上経つが、連日のように余震と呼ぶには大きすぎる揺れが繰り返している。長明の記載する余震がそのまま起こっている感じだ。

 なお、この地震のことは『平家物語』にも記載されている。(『平家物語』第12巻の冒頭、岩波文庫版では『平家物語四』の290P以下)。『方丈記』の文章とよく似た文章であり、今で言えば鴨長明の文章の盗用であろう。この年の3月に壇ノ浦で平家は滅亡しており、地震の時には、平家の頭領宗盛はすでに、首を刎ねられていた。義経もまた頼朝から追われる身となり11月には都落ちする。


 
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書名 芭蕉百名言 著者 山下一海 No
2010-27
発行所 角川ソフィア文庫 発行年 平成22年5月 読了年月日 2010-08-17 記入年月日 2010-08-25

 
俳句を自分でも作ってみたいと思った。NHK文化センターにいくつか教室があり、空き具合を聞いてみたらいずれも空席待ちだという。たまたま本書を手に出かけた帰り、青葉台からのバスで、高田一誠さんに会った。JTOB仲間の句会の帰りだという。おおいに興味を覚えたので、思い切ってその会に参加してみたいと思った。高田さんが会の世話役に電話して、大歓迎だという返事をもらった。一昨、23日に参加してみた。10人ほどが、各人5句を持ち寄り、皆が5句ずつ選びその日の一句を選出する。全句について参加者がコメントする。私は句は出さなかったがコメントだけした。私が選句したものはいずれも高得点を得ていて、鑑賞眼はずれていないことを確認した。

 本書は俳句に関する芭蕉の言葉を100個集めたもの。いくつかは弟子達の言葉を含み、さらにかなりの数が、弟子達が芭蕉の言葉として書き残したものである。各名言に著者の現代語訳とわかりやすい解説がほどこされている。芭蕉の考えていた俳句がどのようなものであるかを知るのに、さらにその人生観を知るのに格好の本だ。

以下名言と著者による現代語訳を:
 
和歌優美の上にさえかくまでかけり作したるを、俳諧自由の上にただ尋常の気色を作せんは、手柄なかるべし[芭蕉]
 
優美をその本来の性格としている和歌でさえこのように工夫を働かして効果が上がるように作っているのに、自由な表現を許されている俳諧において、ただ当たり前の様子を句に作るのでは、作者の手柄はないだろう
 「俳諧自由」という言葉は、著者も言っているように快い言葉だ。

 
蕉門に、千歳不易の句、一時流行の句といふあり。是を二つに分けて教え給へる、其の元は一つなり[去来]
 
芭蕉の門下には、千歳不易の句と、一時流行の句というものがある。師芭蕉はこれを二つに分けてお教えになったが、その根本は一つである。
 いわゆる不易流行のこと。著者は解説する:
不易に対して流行を並べ掲げ、どちらかと言えばその流行のほうを重んじる。そして流行が芸術的な努力の結果でありながら自然の理にもかなっているという。ここにも、芭蕉のものにとらわれない柔軟な思考態度を見ることができる。

 
物によりて思ふ心を明かす。その物に位をとる[土芳]
 
物に託して思いを表すことが肝要である。その思いにふさわしい品位を物によって現さなければならない。
 著者解説:
思いは何かの物に託されることによって、物としての大きな動きにゆだねられ、流動し、増幅して、個人の領域を超えて、広く他人の思いの中にも浸透することができる。個人の思いを物に託するとは、小さな個人の思いが大きな自然の力に乗るということである。
 思いを託す物の典型は季語であろう。

 
東海道の一筋しらぬ人、風雅におぼつかなし[芭蕉]
 
東海道の一筋も旅したことのないような人は、風雅としての俳諧をたしなんでも、おぼつかないのである。
 街道歩きを続けている私にとっては大変ありがたいお言葉。東海道、中山道を歩いていて目につくのは芭蕉の句碑と明治天皇の御休どころの碑。俳句を作ってみたいと思ったのも、街道歩きで目にした芭蕉の句碑によるところが大きい。 

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書名 関ヶ原合戦 著者 笠谷和比古 No
2010-28
発行所 講談社学術文庫 発行年 2008年1月 読了年月日 2010-08-19 記入年月日 2010-09-04

 中山道歩きも美濃赤坂まで来た。次はいよいよ関ヶ原だ。中山道最大の見所と言ってもいい関ヶ原。合戦について事前に知識を仕入れておきたいと思った。司馬遼太郎の『関ヶ原』という本のことは知っていた。小説よりも歴史書を読んでみたいと思い、アマゾンで調べて本書と、『関ヶ原前夜』を取り寄せた。

 関ヶ原合戦の歴史的意味、詳細な戦の経過が書かれていて、関ヶ原に行く前に読んだので、関ヶ原戦場巡りの大変参考になる良い本であった。

 著者の最大の論点は関ヶ原合戦での勝利が、徳川秀忠の遅参により、徳川軍によってもたらされたのではなく、いわゆる外様大名主体の軍でなされたことにあり、それが徳川政権のその後の性格を形作ったとすること。本書の最後は以下のように結ばれている(p235):
関ヶ原合戦が歴史の過程のなかで果たした役割は、徳川幕府による日本全土に対する一元的で中央集権的な支配体制を確立したことではなく、むしろさまざまな局面において、分極的で多元的な政治秩序をその後の近世社会に対して付与したことにあるように思われる。関ヶ原合戦の歴史的意義は、以上述べたように、すぐれて政治的な課題として、封建国家の政治形態、国制構造にかかわる根本問題としてとらえる態度が必要なのである。

 徳川時代が言ってみれば地方分権が徹底した、多元的政治秩序を持っていたという見方は、私も特に最近は強く持っている。その発端を著者は関ヶ原合戦での戦いのあり方に求めているのだ。秀忠の凡庸ぶりを示すエピソードとして語られることの多かった、関ヶ原への遅参にこの様な意義を与えた著者に感服した。

 関ヶ原の戦後、西軍側の領地632万石が没収されたが、その80%は豊臣恩顧の大名に与えられた(p188)。それは秀頼への遠慮という意味だけでなく、豊臣恩顧の大名の働きがそれだけ大きかったことによる。戦場だけでなく、小山の軍議で福島正則が真っ先に東軍への参加を表明し、山内一豊が居城の掛川城を明け渡すことを真っ先に宣言したといった功績もある。この二つのシーンはNHKの大河ドラマでも放映されたことがあるので覚えている。そして黒田長政による小早川秀秋と吉川広家の調略。家康は戦い終わった後、衆人の前で長政の手を取り、勝利はひとえに長政の働きの結果であると賞賛したとされる。

 関ヶ原に先立ち、西軍側の岐阜城が攻め落とされた。その際、先陣争いで、浅野輝政が抜け駆けをし、それに対し福島正則が烈火のごとく怒ったとされる。武士にとって、先陣がいかに重要かを示すエピソードである。関ヶ原においても正則が先陣、輝政が搦め手(南宮山の毛利軍に供える)という布陣で、これは豊臣系大名のイニシャティブを尊重したものだと著者は言う。しかし、開戦にあたり、井伊直政の軍が先駆けをする。先駆けは固く禁止されているにもかかわらず、井伊がそれをあえてやったことに、著者は大きな意義を与える。この戦いを徳川の戦いとするためにはそれが不可欠であったからだという(p166~)。何しろ、関ヶ原に布陣した徳川軍はわずかに6000人に過ぎなかったという。

 徳川方の調略を担当したのは主として黒田長政。彼の小早川秀秋に当てた手紙から、著者は関ヶ原合戦の要因の一つとして、北の政所と淀君との間の確執があったとしている。長政の調略は水際だったものであるが、だからといって必ず成功するという保証はなかったし、また彼がいなくても別人が行ったかもしれない、と述べた後で、著者は以下のように記す(p103);
それらの問題は歴史がつねに抱える、判定不能の選択肢というものであろう。歴史はその進行の方向には無限の選択肢を眺めることができるが、通りすぎた跡にはただ一つの動かしえない事実を残すのみなのである。そして長政の本合戦において行った一連の調略と、それが期待していたところの一連の成果は、まさにその希有な事実の一つながりの軌跡を描いていた。長政が本合戦において見せた活動は、調略というものが歴史のうえで果たす役割についての、極限的なケースを示しているように思われる。

 本書を読んだ後で、美濃赤坂から垂井宿を経て関ヶ原まで歩き、関ヶ原戦場を2時間ほど自転車で回った。第一感はこれは西軍の圧勝だと思った。周囲の高台に陣取る西軍のなかに東軍は布陣する。南側の側面というか、後方の南宮山には毛利の大軍が控え、東軍は3方を囲まれる格好だ。小早川の寝返りがなかったら、毛利の大軍が動かなくても西軍の圧勝だったろうと思った。長政の調略が関ヶ原の帰趨を決めた事は間違いない。
 なお、本書では加藤清正、福島正則らによる三成襲撃の際、三成が家康屋敷に逃げ込み、かくまわれたという通説を否定している。三成は伏見城の自分の屋敷にいたとする(p58)


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書名 関ヶ原前夜 著者 光成準治 No
2010-29
発行所 NHKブックス 発行年 2009年7月 読了年月日 2010-08-21 記入年月日 2010-09-04

 
前著『関ヶ原合戦』と同時にアマゾンより取り寄せた。サブタイトルは「西軍大名たちの戦い」であり、また、帯には「ドラマでは描けない負け組の本音」とある。

 毛利輝元、上杉景勝と直江兼継、宇喜多秀家、島津義弘が取り上げられ、彼らの西軍参加の事情が検討される。それぞれに領国に抱える問題、一族の事情などを詳細に検討し、彼らが決して「義」のみで西軍に加わったわけではないと著者は言う。本書の結び部分には関ヶ原合戦の歴史的意義として以下のように記されている(p306~):
 
関ヶ原合戦が・・・・最高指導者としての徳川家康と豊臣秀頼のいずれかを選択するのかという観点から争われたとは言えない。なぜならば、東軍に参加した豊臣系大名の中には、石田三成らに利用されている秀頼を救い出すという大義名分に従って家康に協力した者もあったと考えられるからである。
 一方、西軍に参加した大名のうち、今回取り上げたような戦国期からの大名の場合、豊臣家による支配体制を守るという純粋な理念に基づき行動したとは言い難い者も多かった。宇喜多秀家は豊臣家を養護するという気概が強かったものと考えられるが、毛利輝元や上杉景勝、島津義弘の場合は別の目的を持っていたと言わざるをえない。
 五大老の一員である輝元と景勝は、秀頼に代わって自らが天下を掌握するという野望は持っていなかったようであるが、純粋に秀頼を養護しようと考えたわけでもない。秀吉死後の合議制による政権運営において家康が担っていた事実上の最高指導者としての地位を、家康を打倒することによって自らが得ることに加え、西国(輝元)、あるいは北国(景勝)の東軍参加大名の領国を侵略し、自己の支配領域を拡大することによって、地域の覇者として、地域国家を再構築しようとする意図を有していたものと考えられる。また、領国内に生じていた不満や領国経営上の課題を克服し、自らを頂点とする一元的な支配体系を確立し、絶対主義的支配構造を持つ地域国家を作るために、領国外との戦争という状況を利用したと言えよう。
 島津義弘の場合は、領国支配の主導権を奪い返すという私的な動機に基づく西軍への参加であるが、規模は小さいものの、絶対主義的支配構造を持つ地域国家を作るという意図は共通している。


 さらに、もし西軍が勝っていたら、三成らの奉行と地域国家指導者との合議体勢で日本全体の国家を運営する複合国家体制が成立していたとする。しかし、さらなる主導権争いや、領地争いを招き、内乱状態に陥った可能性があるとする。そして以下のように述べる:
関ヶ原合戦において東軍が勝利し、さらにその戦後処理において西軍参加の有力大名の力を削ぎ、内なる野望を挫折させたことによって、日本国家は本格的な統一政権による支配体制へと歩み出したのである。それが完成するまでには、秀頼の抹殺や豊臣系大名の改易という過程が必要であったが、関ヶ原合戦は将軍を頂点とする中央集権的な支配構造=絶対主義的政治体制を確立する契機になったと言えよう。

 最後のこの記述は笠谷和比古の『関ヶ原合戦』とは対立するものである。著者は先輩学者の笠谷の説への論駁をこめて、こう書いたような気がする。
 高校の日本史の先生は、日本の歴史は1600年以後を学べばいいといった。1600年を契機として確立された徳川封建体制が、いかなるもので、それがいかに崩壊して、近代国家ができてきたかを学ぶこと、さらに今も残る封建遺制をいかに克服するかを学ぶことが日本史の最も大切なところだと言った。恐らく、それは本書のように徳川時代を絶対主義的支配構造と見る立場に立った発言だったろう。

本書のp128に輝元と家康を比較している。
 輝元の領国経営には一定の評価を与えたうえで、家康との決定的違いとして、最終局面での決断力の欠如と、人望のなさをあげる。前者は西軍総大将でありながら大阪城から一歩も出なかったこと、後者は自身の保身や欲望のためには家臣を切り捨てるという狡猾さ。野心では家康に匹敵しながら、天下を取れなかったのはこれらの欠点が大きく影響しており、それは幼い頃から修羅場を潜り抜けてきた家康と異なり、西国の覇者毛利元就の後継者として育てられた三代目のひ弱さから生じたものだろうという。

 関ヶ原合戦に関しては家康のすばらしさのみが目立つ。家康に天下が転がり込むのは当然という気になる。
 本書も『関ヶ原合戦』も歴史の面白さと同時に、歴史研究の面白さをも堪能させてくれる。


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書名 小説神髄 著者 坪内逍遙 No
2010-30
発行所 岩波文庫 発行年 1936年第1刷、2010年改版第1刷 読了年月日 2010-09-06 記入年月日 2010-09-15

 
8月の初め、中山道歩きで、美濃太田を通った。今は小学校となっているところが、かつて尾張藩の代官屋敷のあったところで、坪内逍遙の生誕地である。逍遙と言えば『小説神髄』である。読んでみようと思った。

 出版は明治18年(1885年)から翌年にかけて。緒言の部分で執筆の理由が述べられる。当時おびただしい数の小説が世にあふれ「
実に小説全盛の未曾有の時代」だと述べている(p8)。そのことにまず驚いた。しかし、それらは皆翻案であって真の作家はまだ一人もいないという。いずれも馬琴、種彦の二番煎じ、あるいは一九、春水の偽物ばかりである。内容は勧善懲悪、あるいはきわめて猥褻なものばかりであると、逍遙は嘆く。小説とはそのようなものであってはいけないというのが執筆理由だ。

 小説の利益:直接の利益は人心を娯(たの)しませること。つまり娯楽を与えること。娯楽と言ってもたくさんあるがこの場合、文心を楽しませることである。文心とは美妙の情緒であるという(p70)。小説の間接的利益としては、(1)人の気位を高尚にする(2)勧善懲悪(3)正史の補遺となる(4)文学の師表となる。

 逍遙は小説は人情世態を書かねばならないと主張する。完全無欠な小説においては、絵画に描きえないものを描写し、詩で尽くせないものを現し、演劇で演じがたきものを写すべきである。そうすれば小説は立派な芸術の一ジャンルとなる(p21~)。

文体に関しては、雅文体、俗文体、雅俗折衷体をあげ、それぞれに源氏物語から江戸文学にいたる豊富な先例を引用し、詳細に論じている。雅俗折衷体をさらに稗史(よみほん)体と草冊子体に分けている。それぞれの文体の特徴を述べ、最終的には草冊子の文章を基本にし、それに改良を加えて完全完美な世話物を創出することを勧めていて、以下のように言う(p131)。「
小説は人情及び風俗を活るが如くに叙しいだして、読むものをして感ぜしむるをその目的とはなすものなり。仮令俗言俚語ありとも、その文章に神ありなば、他の絵画も、音楽にもまた詩歌にも恥ぢざるべき一大美術といふべきなり。」なお、本書で「美術」とは芸術全般のことを示す。芸術という言葉がまだなかったのだろうか。

 上記日本の古典に精通しているばかりでなく、本書ではイギリス文学との対比も随所でなされていて、若き文学士(当時26歳)坪内逍遙の勉強振りがよく窺われる。

 小説脚色の法則:
 最も大切なことは脈略通轍である(p134)。それに続きコメヂイとトラゼヂイの区別が論じられる。いずれにおいても猥褻卑猥なこと、殺伐すぎることを厳しく戒める。やってはならないこと(1)荒唐無稽(2)趣向一徹(3)重複(4)鄙野猥褻(5)好憎偏重(作中人物に対する)(6)特別保護(作中人物に対する)(7)矛盾撞着(8)学識誇示(9)永延長帯(10)詩趣欠乏(11)人物をしてしばしば長き履歴を語らせしめること。これらに照らして現代の小説を見直したら面白いかもしれない。

 本書には小説神髄の他に4編の短い文が収載されている。その一つ、小説神髄に先駆けた「詩歌の改良」という読売新聞掲載のものには、小説は文明の詩歌であり、水滸伝、西遊記、八犬士伝の類はいわゆる西洋の「ポエトリイ」で、未開蒙昧の詩歌に等しい、真の小説はもっぱら写生を主題とする活人情史であるべきだ、としている(p205)。
 本書は馬琴の行きすぎた勧善懲悪主義への批判が随所に出てくる。

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書名 関ヶ原 上 著者 司馬遼太郎 No
2010-31
発行所 新潮文庫 発行年 昭和49年 読了年月日 2010-09-21 記入年月日 2010-09-22

 
秀吉の死の前から、その死、家康と三成の対立、加藤清正、福島正則らの三成襲撃、三成の佐和山城への引退、そして家康の大阪城西の丸への乗り込みまでが扱われる。

 この巻の主人公は三成と家康だが、実際はそれぞれの腹心島左近と本多正信が主役で、彼らの目を通してそれぞれの主人の人柄が描かれる。
 秀吉の死後、すべて家康の、というより本多正信が描いた筋書き通りに徳川の天下取りに向けて進んでいるという書き方。対照的に三成の、人情の機微に通じない、理詰め、切れすぎる、子供じみた正義感、率直さ、といった人間性が加藤清正ら秀吉子飼いの大名から嫌われる。家康は彼らの反三成感情を巧みに利用する。しかし、一方で彼らに襲われた三成を自分の屋敷に保護し、度量の大きさをみせ、秀頼ではなく自分が天下人であるかのような印象を徐々に浸透させていく。家康の大局的なものの見方、度量の大きさ、いってみれば政治家家康と、優秀な官僚の域を出られなかった三成の差が随所に強調される。

 本巻を通じて家康と正信の絶妙のコンビが描かれる。それに対して、三成と左近のコンビはちぐはぐだ。とはいえ本書の中でもっとも魅力的なのは、島左近。三成とは違って、戦場にあっては巧みな戦術を駆使し、剛胆な武将として恐れられていた。左近は三成の上記のような性格を歯がゆく思いながらも、その一途な性格に惹かれていて、陰に日向に三成のために奔走する。本書の391ページ以下には、徳川幕府は2世紀以上にわたり三成を姧人として、豊臣から政権を奪ったことを正当化してきたが、三成の企ての副主人公格であった3人には幕府のタブーはおよばなかったと述べている。その3人とは島左近、大谷吉継、直江兼継である。彼らは快男児としてむしろ過剰に褒め称えられたと司馬は言う。大谷吉継のことは知っていた。先日関ヶ原で彼の墓を見てきた。建てたのは吉継と戦った藤堂高虎の子孫であった。直江兼継は昨年のNHK大河ドラマの主人公で初めて知った。島左近は本書で知った。著者の目も、三成に対してはきわめて厳しい。しかし、左近に対してはもっとも温かい目を注いでいる。

 前に読んだ2冊の歴史書に比べれば、軽く、物足りないのは否めない。家康と三成の対比が画一的で、一方的に家康を讃え、三成を天下を取れる人物ではないと決めつけ、貶めている。

 なお、本書では、三成は野戦で堂々と勝つことにより家康と決着をつけることを望んでいたとする。先日訪れた関ヶ原歴史資料館にも、彼が野戦での決戦を最初から意図していたことを示す三成のものと伝えられる書状が展示してあった。

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書名 関ヶ原 中 著者 司馬遼太郎 No
2010-32
発行所 新潮文庫 発行年 昭和49年 読了年月日 2010-09-24 記入年月日 2010-09-26

 
家康の会津征伐から、三成の挙兵、伏見城の落城、小山での軍議、そして東軍の反転まで。決戦を前に北は伊達政宗から南は島津まで、様々な人々の思い、動きが描かれる。

 会津の上杉と三成が共謀して、東西から家康を挟み撃ちにすると言う壮大な計画があったとする。直江兼継の挑戦状に乗るかのように家康は上杉征伐に乗り出す。しかし、彼はその機に三成がことを起こすことを見越して、あるいは望んで、会津に向かった。その時彼はすでに天下は自分のものだと信じる。その間に各地の大名に調略の手を伸ばす。討伐軍の中心は福島正則、浅野長政、加藤嘉明ら秀吉恩顧の大名だ。予想通り三成は挙兵した。家康は福島らが本当に秀頼を戴く西軍に向かっていくのか、最後まで疑いを捨てきれない。鍵を握るのは福島正則だ。家康は黒田長政を使って正則の腹を探らせる。しかし、単純で、三成憎しに固まっている正則は、小山の軍議の席で真っ先に家康に忠誠を誓い、それを機に皆が我も我もと続く。

 一方西軍にはこの様な盛り上がりはない。それぞれに家の事情や思惑を抱え、まとまりに欠ける。

 多数の人物が取り上げられる。大名だけではなく、歴史書には取り上げられることのない身分の低い家臣までが登場する。関ヶ原を巡る壮大な絵巻、人間模様。それが歴史書にはない本書の魅力だ。そうした人物達の関ヶ原以後が簡単ではあるが、述べられているのが興味深い。本来は西軍に属していながら、徳川の旗本になったもの、あるいは福島正則や加藤嘉明のように、先頭に立って戦いながら、結局はお家断絶となった大名。

 西軍の中にあって島津軍は特異な行動をとる。東軍について伏見城の守備を引き受けるつもりだった。それが門前払いされて、やむなく西軍として伏見城攻略に加わる。島津のこうした行動は、彼らの話す言葉が理解できず、従って上方での情報収集能力に欠け、政治情勢を読めなかったからであろうと司馬遼太郎は言う。島津の者と話すには、謡曲、狂言の言葉を使ったという(324)

 真田昌幸を評して著者は言う:
かれは信州の小豪族の家にうまれ、戦国争乱のなかで成人し、人間の持ちうるかぎりの狡さを持ち、それを唯一の生きる智慧として生きてきた小気味いいばかりの戦国乱世ぶりの人物である。(464p)

 徳川家康:
かれは信長や秀吉のように自分の天才性を自分自身が信じたことは一度もない。つねに衆議のなかから最も良好とおもわれる結論をひろいとった。自分に成案のあるときも、それを隠して衆議にはかった。結局はかれ自身の案を断行するにしても、衆議にかけることによって、幕僚たちは頭脳を鍛えることができたし、それを平素練りつづけることによって徳川家の運命を自分の運命として感ずる習性を養った。(430p)

 徳川と豊臣の最大の違いは、一代で成り上がった秀吉には清正、正則、あるいは三成といった子飼いの家臣はいても、徳川における本多、井伊、榊原といった譜代を持たなかったことだと思う。


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書名 関ヶ原 下 著者 司馬遼太郎 No
2010-33
発行所 新潮文庫 発行年 昭和49年 読了年月日 2010-09-25 記入年月日 2010-09-27

 
8月末に中山道歩きで、美濃赤坂から関ヶ原まで歩き、関ヶ原戦場は自転車を借りて回ってきた。その日は大垣に泊まったので、翌朝大垣城址にも行った。

 本巻はいよいよ関ヶ原合戦。関ヶ原戦場を巡ってみた人なら誰もが西軍の圧勝を疑わないだろう。待ち構える西軍の包囲網の中に自ら突き進んでいるのだ。家康の最初の本陣である桃配山は最前線からはかなり後方であるが(家康最後の陣地までは私の足で35分ほど)、桃配山の東南の南宮山には毛利の大軍が控えている。もちろんそれへの備えはしていて、垂井のすぐ先に浅野幸長の陣屋跡の説明板が立っている。それにしても3方を囲まれた形で、しかも三成の笹尾山、小早川の松尾山、そして毛利の南宮山など西軍は高台に位置し、敵の動きを見る点でも有利だ。そこへあえて家康は進んだ。戦いが膠着状態と見るや、自ら陣を進め前線からは数百メートルの所に陣を構える。西軍、特に毛利と小早川への事前工作が成功することを確信していたとしか思えない。実際、三成の再三の催促にも吉川広家が指揮を執る毛利軍は最後まで動かなかったし、小早川は寝返って、西軍の側面を突き、天下分け目の帰趨を決した。毛利が動かなくても、小早川が裏切らなければ西軍が勝ったとさえ思われる。

 現地を見た後だったので、一つ一つが具体的なイメージとして浮かび上がり、楽しい読書だった。美濃赤坂の、当時は岡山と呼ばれ、家康勝利の起点となったことで今は勝山と呼ばれる家康の陣屋から、関ヶ原へは多分家康の進んだ道を歩いた。美濃赤坂宿のはずれに兜塚という古墳がある。その説明板には関ヶ原の合戦前日、杭瀬川の戦いで戦死した中村家の家臣の兜を埋めたと伝えられるとあった。前日、島左近らの一隊が大垣と赤坂の間にある杭瀬川を渡り、徳川陣に攻め込み、東軍側にかなりの死者がでた様子が詳しく述べられていた。その際の東軍の死者の兜を埋めたのだ。

 島左近は壮絶な討ち死にをする。大谷吉継は自害する。しかし、三成は逃げる。琵琶湖の西岸を通り大阪に出るつもりだ。しかし、結局は田中隊に捕まる。刑場に向かう檻の中で、水を所望し、付き添った武士が干し柿を与えると、干し柿は身体に悪いと言って食べなかったエピソードも述べられている。やはり変わった人物だが、ここまで来れば立派と言うしかない。後世の不人気は徳川幕府が一方的に貶めたためだけではないだろう。華々しく討ち死にしていたら、彼への評価も少しは変わっていたのではないか。最後まで反家康を貫き、大阪夏の陣で壮絶な死を遂げた真田幸村の例もある。余談だが、数年前、九州の柳川の水郷巡りをした。その時、柳川藩主の田中吉政の大きな像があり、石田三成を生け捕りにした功績で家康より柳川32万石を賜ったと説明されていた。

 西軍の情報収集活動がお粗末だったことが敗因の一つだろう。突然、家康が大垣とは5キロも離れていない美濃赤坂に姿を現し、西軍はおおいに驚き、動揺が走る。また、三成は毛利が動かないこと、小早川の裏切りに関しても情報をつかんでいないように見える。観念で、豊臣への義を通すなら彼らは徳川には味方することはあり得ないと決めている。

 巻末の解説で、高坂正尭は三成が西軍としてあれほどの軍を集め得たことをむしろ驚き、彼の力を認めている。高坂は、本書において安国寺恵瓊への言及が少ないことを指摘している。私も同感だ。関ヶ原では毛利本隊が動かないために結局は恵瓊の軍も動けなかった。にもかかわらず、彼は西軍の首謀者として三成、小西行長とともに6条河原で斬られた。『関ヶ原前夜』では、毛利は安国寺恵瓊が無理やり西軍に参加させたものだというのが通説であるとしている。

 家康は小山の軍議で、豊臣に恩義を感じる者は遠慮なく申し出て、陣を引いてもかまわないと言い渡した。本書の最初に、そういう人物が一人出たことが書かれている。美濃で4万石を領する田丸直昌という小大名だ。家康は田丸の離陣を許す。関ヶ原後、田丸は所領を没収され、越後へ追放されるが、その後許されたという。こうした脇役のまた脇役のような人物への言及が全巻を通じての本書の魅力だ。

 坪内逍遙は『小説神髄』で、歴史小説は正史の遺漏を補うものであると述べているが、本書はまさにその典型。


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書名 阿夫利嶺 著者 志村宗明 No
2010-34
発行所 私家版 発行年 平成22年10月1日 読了年月日 2010-09-30 記入年月日 010-10-08

 
志村さんはJTOB達がやっている句会の主宰者。俳句をやりたいと思っていた私は今年の7月からこの句会に参加した。志村さんは目下のところ私の俳句の師に当たる。8月27日の例会の際に、本誌をもらった。

 句作歴25年、昨年傘寿を迎えた志村さんはどこの結社にも属しておらず、投句により研鑽を積んできた。本誌に収められたのは、そうした句のうち、雑誌や新聞への投稿で掲載されたもの、あるいは俳句大会で入選したもの、歳時記に取り上げられたもののみを取り上げたという。その数500余りというのにまず驚く。

 いずれの句も私の手本になる。観察が細かく、感受性が鋭く、言葉が決まっている。そして全体として、すがすがしい読後感を与える。それは著者の生き方の反映だろう。

 好きな一句
 
足を知る年金ぐらし蓍莪の花

 私ももう少し早く俳句作りを始めていればよかったと思った。

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書名 おろしゃ国酔夢譚 著者 井上靖 No
2010-35
発行所 徳間文庫 発行年 1991年 読了年月日 2010-10-05 記入年月日 2010-10-09

 
立ち寄った本屋の店頭で目に入った。

 江戸時代中期、漂流しアレウト列島(アリューシャン列島)の小島に漂着し、その後10年近くをシベリアやペテルブルグなどに滞在し、帰国した紀州の船乗りの物語。多分歴史的事実と思われるエピソードを、井上靖は淡々と綴る。17人の乗組員のうち、帰国できたのは船頭(今で言えば船長のこと)の光太夫と、乗組員の磯吉の2人のみ。11代将軍家斉の御前での尋問を初め、詳しく経緯を語ったのが記録されていたので、恐らく作者はそれをもとに書いたのだろう。ロシア側の資料も引用し、極寒のカムチャッカやシベリアでの生活振りが詳細に書かれている。目にするものすべてが驚きの中にあって、彼らは仲違いもなく、帰国の日を待つ。

 彼らが伊勢白浜から米などの産物を積んで江戸に向かって船出したのは1782年の12月。途中で嵐に遭い航行不能になる。8ヶ月の漂流後についたのはアレウト列島のアムチトカ島。そこからカムチャッカ半島に渡り、帰国へのつてを求めてさらにシベリアに渡り、オホーツクからイルクーツクまで達する。極寒と貧しい食事のために、次々に仲間が死んで行く。そんな中でもリーダー格の光太夫は帰国の望みを最後まで捨てない。イルクーツクで会った博物学者ラックスマンが日本への興味もあって、彼らの帰国に助力してくれる。ラックスマンのつてで、光太夫はペテルスブルグで時の皇帝エカテリーナⅡ世に拝謁し、帰国の願いを上申する。帰国が決まった時、残っていたのは、光太夫、小吉、磯吉、新蔵、庄蔵の5人になっていた。凍傷で片足を失っていた庄蔵と、現地の女性とも親しくしていた新蔵は、いずれもクリスチャンに改宗していて、日本語教師として当地に残る道を選ぶ。ロシアの船で光太夫一行が根室に着いて、松前藩との折衝を行っている時、小吉はそこで死ぬ。

 光太夫一行を送ってきたのはラックスマンの息子のアダムス。彼は通商希望の国書を携えて来るのだが、幕府は鎖国政策を理由に拒否する。帰国後、光太夫と磯吉の二人は、半ば隔離同様に江戸に留めおかれる。光太夫はついに郷里の伊勢白浜を踏むことなく、生涯を終える。

 イルクーツクに滞在中、当地での日本語学校再開の動きがあり、ロシアは漂流民を留めおいて、彼らに日本語教師の役を果たさせようとしていると知った光太夫は、初めて郷里の伊勢ではなく、日本という国を一つの単位として意識する(p175)。光太夫のような外国に出るという体験がなければ、当時の人々が日本という国に思いを致すことはなかっただろう。光太夫の目にはロシアの広大さに比べれば、日本は小さく、しかも無防備きわまりないと見えた。光太夫は一段と帰国の思いを募らせる。彼は、帰国に備えてロシアでの見聞を詳細に記録する。それは将来きっと日本のために役立つという思いがあってのことだ。しかし、鎖国下にある祖国には光太夫の情報の利用価値はなかった。

 光太夫と磯吉は根室で散々待たされた後松前へと移り、さらにそこでの長い折衝の末、やっと日本側に引き渡された。その夜光太夫は「
氷雪のアムチトカ島よりも、ニジネカムチャックよりも、オホーツクよりも、もっと生きにくいところへ自分は帰って来たと思った。帰るべからざるところへ不覚にも帰ってしまったのである」と思う(p361)。広大な帝国を治める女帝に、壮麗な宮殿で拝謁までしてきた光太夫にとって、ロシアでの10年はまるで夢のように思えた。『酔夢譚』という本書の題は、帰国後の光太夫の気持ちであったのだ。

 光太夫の前にもロシアに漂着した船乗りの歴史が、本書の序で簡単に触れられている。彼らは帰国することはなかった。鎖国下における日露交流歴史という観点から見ても、興味深い小説である。歴史の表舞台へ立つことはなかった人々に光を当てたのは著者の慧眼だ。資料も丹念に調べてある。この作家特有の抑えた文章、静かなリリシズムにも好感が持てる。


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書名 残りの命 著者 森川義雄 No
2010-36
発行所 私家版 発行年 読了年月日 2010-10-05 記入年月日 2010-10-09

 
森川さんは私の第二の職場の社長だった人。一昨年亡くなった。これは夫人がまとめた遺稿短歌集。

 NHKの通信講座で短歌を習っていると聞いたのは、15年ほど前、社員旅行でグアム島に行った時。観光バスのなかでメモを取っていたので、聞いたところ短歌作りのためのメモだとのことだった。意外な感じがした。
 短歌だから叙景歌が多い。家族への深い愛情の現れた歌に、森川さんの人柄が偲ばれた。

 中に、次のような意外な歌もあった:

 
亡き友の業績たたえ美しき虚像作りて偲ぶ会とす 

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書名 俳句の作りよう 著者 高浜虚子 No
2010-37
発行所 角川文庫 発行年 平成21年7月 読了年月日 2010-10-07 記入年月日 2010-10-09

 
句作を始めて2ヶ月余り。大変勇気づけられる本だ。というのは虚子が勧める句作の方法を私は実践していたからだ。特に「埋字」という方法を。とにかく平易に、初心者向けに書かれている。初出は大正年と言うから、ほぼ1世紀前だ。

 1)とにかく17字並べてみること。2)題が決まったらそれに取り合わせるものを考えること。3)じっと眺めること。4)じっと案じいること。5)埋字技法。6)古い作品を読むこと。

 これらが虚子自身の句をはじめ多数の例句を引いて解説されている。埋字というのは、既存のある句の例えば中7を抜いて、そこに自分なりの7文字を入れて完成させるという手法だ。虚子はある時、子規からこの方法を教えられたという。例えば「大蟻の○○○○○○○暑さかな」の○○の中に入れる文字を考える。虚子の一門の人から募集したと思われる例が、数十例掲載されていて、それを虚子が解説している。これが大変面白い。わずか7字を挿入するだけでも、これほどたくさん可能性がある。大半は似通ったものになるが、中にははっとするようなものもある。「大蟻の泉にもがく暑さかな」。

 私もあるフレーズが浮かぶと、パソコンに入力し、その前や後に色々フレーズをくっつけてできあがったものをパソコン上に保存している。そうした中から、最も俳句らしいものを選んで、先月初めての作品として、句会に提出した。

 じっと眺め入ることでは、自然観察という点で、俳人と科学者が共通しているという(p36)。
 芭蕉の弟子の中では、去来が愚鈍な句を作るという。才走ったところがなく、実直という意味での愚鈍だ。今時の俳句には、こうした愚鈍さに欠けるが、それはじっと案じることが少ないからだという。そして「湖の水まさりけり五月雨」という去来の代表句を挙げて、解説している(p48~)。

 付録として俳諧談という小文がつけられている。その中で芭蕉、蕪村、子規を比較している(p109~)。虚子によれば、芭蕉は人生を超越していた人ではあるが、決して人生を愚にしなかった。芭蕉以降は、自分は俳句に遊んでいるのだから、人生を一目下に見下ろさねばならないという風潮が広まった。蕪村の句には芭蕉のような「シットリ」したところが欠けている。それは人間を見る深浅による。子規は人間社会をくだらないものとして見下ろすような人物ではなかった。それ故、子規の句には軽薄なところがまったく見られない。シットリと人を感じさせる点では蕪村よりも上である。

 背景のある句:
芭蕉の句には月並みなものも多いが、それは表面的なもので、よく味わってみると、その背後に一種の後光のようなものがある。これを背景のある句と呼びたい(p112)。子規は客観論を唱え、背景のある句を唱道しなかった。子規の考えに従えば、芭蕉より蕪村が上になるが、虚子は蕪村は芭蕉にははるかにおよばないという。それは蕪村の句には背景のある句が少ないからである(p116)。

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書名 ローマ人の物語 キリストの勝利 上・中・下 著者 塩野七生 No
2010-38
発行所 新潮文庫 発行年 平成22年9月 読了年月日 2010-10-17 記入年月日 2010-10-19

 
337年コンスタンティヌスの死後即位したコンスタンティウスから、388年キリスト教を国教として定めたテオドシウスが亡くなる395年までを扱う。

 辻邦生の『背教者ユリアヌス』を読んだ際、塩野七生はユリアヌスをどのように描くだろうとかと多いに興味があった。本書の最大の関心はそのこと。キリスト教に好意的でない塩野はユリアヌスに暖かい目を注いでいた。帝位にあったのはわずか19ヶ月でしかなかったユリアヌスの記述に、中巻のほとんどを費やしている。そして、古代ローマにあって、キリスト教の持つ弊害に気がついていた唯一の有識者であり、もし19年間、帝位にあり続けたら、ローマ史の流を変え得たかもしれないという(中巻p178)。彼が、キリスト教の持つ弊害を認識したのは、キリスト教振興に力を貸したコンスタンティヌスと、それを継いだ息子コンスタンティウスとが肉親で、身近にいたからであろうとする。そして「背教者」という蔑称は彼に対する最大の贈り名ではなかったかと、中巻を結んでいる(中巻p179)。とはいえ、塩野が理想とするローマ人は、カエサル、あるいはアウグストであり、彼らに対するようなべた褒めではない。
  
 塩野はキリスト教徒であることの現世的利益がこの時代のキリスト教浸透の原因であるという書き方をする。キリスト生誕から400年という長い年月をかけてではあるが、多くの人々の心を掴み、ついにローマの国教になった理由が、単に現世的利益からでは説明できないような気がしてならない。やはり、キリストの教えの中にローマ帝国の人々の心を捕らえるものがあったからこそ、浸透していったのだと思う。そのことに関しては特に記述があった記憶がない。キリスト教の持つコスモポリタン性、隣人愛といったものが、ローマ帝国という多民族から構成される広大な地域に住む人々の心情と共感するものがあったのではないか。ローマ帝国という容器を得て、キリスト教がはぐくまれたといった観点からの考察があってしかるべきだと思う。

 読書ノートを読み返してみた。本巻の2つ前の、『迷走する帝国』でキリスト教の普及について述べられていた:キリストの神は人間に、生きる道を指し示す。ローマの神々は生きる道を自分で見つける人々の傍らにあって助ける神々である。生き方への確固たる自信を失いつつある時代の人にはキリスト教は大きな意味も持つ、と塩野は述べている。一方で、キリスト教の普及がローマの衰亡を早めたという。これだと、鶏と卵の関係になってしまうのではないか。

 上巻の最初に、大帝コンスタンティヌス皇統の系図が載っている。そのほとんどが殺害、粛正、あるいは刑死している。まともに病死したのはコンスタンティヌスとその二男のコンスタンティウスだけである。コンスタンティウスの兄と弟も殺害されている。ユリアヌスはコンスタンティヌスの異母兄弟の子供であるが、その異母兄弟も粛正されている。ユリアヌスの死因には戦死もしくは謀殺とある。中巻では、流れてきた槍が腹部に突き刺さり戦死というペルシャ戦役中でのユリアヌスの死が述べられる。その後で、塩野は、この槍はキリスト教徒のものだったという噂を付け加えている。謀殺の疑いも抜けきらないというのだ。

 ユリアヌスの兄、ガルスはコンスタンティウスに請われて副帝につくが、謀反の疑いをかけられ、処刑される。ユリアヌスもコンスタンティウスから呼び出され、副帝に就任する。ガルスの二の舞になることを常に恐れるユリアヌスの味方になったのは皇后のエウセビア。ここらあたりは辻邦生の『背教者ユリアヌス』に詳細の書かれている。

 24年間も帝位にあって、父のキリスト教振興策を推し進めた、コンスタンティウスに対する著者の評価は低い。柔軟性に欠ける、慎重すぎる、さらには気が弱く、陰気で閉鎖的で、残忍である(上巻p113)とまでいう。ガリアで反乱を起こし、自ら皇帝を名乗ったマグネンティウスを滅ぼした際、彼に連なる有能な軍人を多数処刑し、それがローマ軍の弱体化につながったと非難する。

 コンスタンティウスから副帝としてガリアに派遣されたユリアヌスは、哲学の学徒でしかなかったのに、驚くほどの軍事的才能を発揮し、蛮族との戦いに勝つ。そして、ついには部下の兵士により皇帝に推挙され、コンスタンティウスと対決する。ユリアヌスがコンスタンチノープルを目指し、一方それを迎え撃つべく東方からやはりコンスタンチノープルを目指すコンスタンティウスは、途中で病死する。

 帝位に就いたユリアヌスは、次々にキリスト教徒優遇策を廃止する。そしてペルシャの首都クテシフォン攻略に向かう。だが、二手に分けた援軍が到着せず、また、補給路をティグリス河による水路一本に絞ったことでそれが断たれ、クテシフォンを包囲しながら、退却する。その途中に、ゲリラ的におそってくるペルシャ軍と陣頭指揮で戦い、戦死する。ローマは東方のペルシャを属領とする考えは一度も持ったことはない。それは、その領域がインドまで及び、広大すぎるからだ。ペルシャを征服したのはアレキサンダー大王だが、ユリアヌスは著作の中でアレキサンダーに言及することが多すぎるという。彼もまた大王に魅了された1人だと塩野は言う(中巻144)。

 ユリアヌスの死後を継いだヨヴィアヌスは7ヶ月で死に、跡を継いだヴァレンティニアヌスは蛮族出身の皇帝だ。この皇帝の時代が10年続いた。その死後、跡を継いだ東のヴァレンス帝は、ゴート族とのハドリアノポリスの会戦で(現トルコ領)大敗し、自らも戦死する。この時代になると東方蛮族はさらに東方のフン族に押されて、玉突きのようにローマ領に進入する。ヴァレンス帝はゴート族の願いを入れて、彼らの領内移住を認めていたのだ。

 ヴァレンスの死後、東の皇帝にはテオドシウスが就任する。テオドシウスは病になったとき、洗礼を受けてキリスト教徒となる。

 下巻の後半部は、ミラノの司教、アンブロシウスに焦点が当てられる。彼は元老院の入り口にあった勝利の女神像の撤去を求める。これに反対する時の首都ローマの長官シンマクスと論争する。論争は皇帝への書簡の形を取る。そして、最終的にはテオドシウスが女神像の撤去を命じ、キリスト教の勝利に終わる。その後、テオドシウスは、ギリシャでの小さな暴動を軍で鎮圧する。それを行き過ぎだとしたアンブロシウスはテオドシウスに抗議する。そして、テオドシウスは最後にはアンブロシウスの前にひざまずき、改悛の意志を告白する(下巻p132~)。

 テオドシウスはコンスタンティヌスと並んで、後世「大帝」と呼ばれる。一方、アンブロシウスは聖人に列せられ、今でもミラノの守護聖人として、12月7日は祝祭日とされている。

本書から:
上巻p99:ガルスの性格と悲劇
上巻p130:キリスト教会へ免税優遇措置、ローマ帝国のヒエラルキー
上巻p198:聖職者への免税
上巻p206:素人のユリアヌスが軍事、政治面ですぐれた才能を発揮得た理由。著者は「
責任の自覚と、任務をつづけていく過程で生じてきた高揚感」が彼を強く動かしたと想像する。
中巻p67:「背教者」という言葉について。辻邦生の『背教者ユリアヌス』という題についての考察がある。

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書名 福田恒存評論集 第八巻 著者 福田恒存 No
2010-39
発行所 麗澤大学出版会 発行年 平成19年 読了年月日 2010-10-21 記入年月日 2010-10-22

 
春に大学クラスメートの吉田さんから渡された。彼から福田恒存の著作を読むことを勧められ、『人間・この劇的なるもの』を読み、それを読書ノートとしてHPにアップした。その中で、他の著作が手に入らなかったと書いた。それを読んだ吉田さんが持って来てくれた。

 昭和40年から45年にかけての評論と提言19編を収める。本巻のサブタイトルは「教育の普及は浮薄の普及なり」である。同じ表題の評論の中に以下の文がある:
・・大学人は今日まで大学を特権的結社に仕上げる事に汲々として来、その結果、社会から遊離した存在になつてしまった。そればかりではなく、伝統的な社会共同体を批判し破壊する事のみ力を尽くして来た。言ふまでもなく、過去を唯その古さ故に否定してしまへば、もはや共同体は成立たない。共同体とは一つの過去を共有するといふ事にほかならぬからである。全共闘の学生達が無意識のうちに求めてゐるものは、その政治的プロパガンダや大学改革の名目の如何に拘らず、大学生活を通じてこの現実の社会において見失われた共同体的連帯の手掛りそのものではないのか(p295~)。(原文は旧漢字を使用しているが、ここでは現代漢字で表記してある)。

 著者の基本的立場は伝統的社会共同体の擁護である。本書ではその立場から、當用漢字と国語審議会を痛烈に批判し、一方で職人達による伝統技術の保存、紀元節の復活を強く訴える。當用漢字批判には、私もまったく同感。パソコンの普及が當用漢字の範囲を広げているという現状を福田氏が知ったら、どう思うであろうか。本書はすべて旧漢字と歴史的仮名遣いで書かれている。

「當用憲法論」(p166~)で現行憲法を厳しく批判する。當用漢字と同じように押しつけられたものだという意味をこめて著者は現行憲法を當用憲法とよぶ。著者は欽定憲法に定められた改訂手続きによって、新しい憲法を作ることを強く主張する。そうすることにより現行憲法の基本的人権などを十分盛り込むことができ、主権在民、戦争放棄などもその実質は現在と殆ど変わるところなく生かせるだろうという(p176)。欽定憲法の最初の四条はそのまま生かせと言う。例えば第三条「天皇ハ神聖ニシテ侵ヘカラス」は、現行憲法第三条「天皇の国事に関するすべての行為には、内閣の助言と承認を必要とし、内閣が、その責任を負ふ」というのと同様の意味だという(p176)。私にはこの二つが同じ意味だとはどうしても思えない。ついでに言えば、私は、物心ついてからの人生を戦後の時代に過ごしたことをこの上なく幸せだったと感じている。福田には物質的自由にしか過ぎないと批判されようとも、物質的な豊かさの恩恵に浴し、豊かな戦後文化を享受でき、また日本という国にも誇りを持てたし今でも持っている。おそらく19世紀初頭の江戸と並ぶ日本史上でも最もよき時代に生きたと思っている。国の基本である憲法がそれをもたらしたと思っている。私は著者以上に現実主義者、あるいは現実肯定者であるかもしれない。

 最後に「乃木将軍と旅順攻略戦」という少し毛色の変わった評論が載っている。司馬遼太郎の『殉死』や福岡徹の『軍神』で、乃木将軍が無能呼ばわりされるのに反論したもの。当時の乃木将軍の置かれた状況を詳細に調べて、決して乃木将軍が無能ではなかったと主張する。著者は歴史を現代の立場から見ることを厳しく戒めている。

「紀元節について」のサブタイトルは「史実とはなにか」である。著者は言う:
史実といふのは、われわれの目の前に刻々に生起し、刻々に消えていくわれわれの実生活だ。史実といふものはわれわれにとっては絶対にわからない。(中略)史実といふのは不明のうちに過ぎ去って、不明のうちに埋没していく。歴史学者が史実と言ってゐるのは、単にそれについて書いた歴史の信憑性の濃いものを史実と言ってゐるにすぎない。(中略)そこで私の気になるのは、史実の中になぜ人間の心理や感情といふ紛れもない実体が入ってこないかといふことです(p121)。そして、日本神話や記紀を重視する。さらに現在の視点から歴史を見ることは、過去を抹殺することだという(p125)。面白いのはこの論議を、福田恒存の論敵であったと思われる丸山真男の同様の主張を長々と引用して展開していること。

 利己心、我が儘の勧め:「生き甲斐といふ事」の中で、欧米で一番感じたことは市民の落ち着きであるという。彼らは支配する技術とともに支配される技術を知っている。彼らには個人が確立しており、また、政治は政治家に任せておけと言う心理があり、それが彼らの落ち着きの元にあるという。著者は個人の確立を抽象的にとるのではなく、暮らしや付き合いにおける利己心の発揮、我が儘の発揮を通して確立せよと言う。そして、社会的政治的身分に関わりなく、生活を楽しむ道を見つけよと言う(p312~)。p316にはこうある:・
・・江戸の町人達が自分の利己的な欲望の充足に「命を賭けて」ゐた事だけは確かである。彼らは利己心の満足に生き甲斐を見出してゐたのである。逆説的に言へば、政治といふ「賤業」を武士といふ「賤民」に完全に預け切つてしまつてゐたからであらう

 そして江戸時代の豊かさに比べると、現代民主主義下の高度工業化された大衆社会など惨めで貧しいという。

 全編を通じて戦後知識人の自己欺瞞と偽善を厳しく糾弾している。これも著者の基本的立場だ。そして職人を学者より上だとする(「伝統技術の保護に関し首相に訴ふ」)。

 福田恒存評論集は全14巻。吉田さんは全巻そろえて持っている。評論集を全部持つというのはたいしたことで、福田恒存への思い入れの深さを感じる。吉田さんは普段も歴史的仮名遣いで通している。

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書名 福田恒存評論集 第四巻 著者 福田恒存 No
2010-40
発行所 麗澤大学出版会 発行年 平成21年 読了年月日 2010-10-25 記入年月日 2010-10-28

 
文庫本の『人間・この劇的なるもの』を読み、その読後感をホームページに掲載した。それを吉田さんが見て、読み取り方が違うようだ、ひょっとするとテキストが違うのではないかといって、本巻も渡してくれた。本書の副題は「人間・この劇的なるもの」であり、その他に12編の評論を収める。初出は昭和30年から32年にかけてのもの。

「人間・この劇的なるもの」のテキストは、歴史的仮名遣い、旧漢字で表記されている以外は、私がすでに読んだ文庫本版と同一であった。この本を自由否定の書ととった私の読み方を、吉田さんは問題にしたようだ。本書の「自由と進歩」には「
私もごく最近『人間・この劇的なるもの』のなかで、自由思想の否定を言明し、ふたたび反動のなんのとこづかれたものです」(p216)とあり、私の読み方は間違っていなかった。

 著者自身は言っている:
私はすべての問題をあまりにも本質的に考へすぎる。自分でもさう思ひます。人が私のことを「反動的」だといふのも、そのことのため、すなはち提出されてゐる、問題を本質的にのみ考へようとするからでせう。本質的思考においては、歴史を背景とする現象論は當然、影が薄くなります。だから福田自身には反動的だとか、進歩的だという思考形式がないという。そのかわり:「あの男には社会科学的知識がないのだ」と。あるいは「あの男は論理的に考へ、いつも心理的にかんがえる」と。たしかに、このはうが當つてゐる。(中略)私の心の底には、社会科学といふものにたいする抜きがたい不信感があります。論理といふものについても、それを操る主体の心理を計上しない似而非論理を軽蔑してをります。(「戦争責任といふこと」p251)

 著者の評論集を読んでいて感じたことは、まさに上記のことだった。心理の面からは深層心理、無意識の領域まで分け入った考察がなされる。前書では大学の自治を唱える大学人達を、彼らの権力欲に基づくものだと切り捨てていた。

 著者はチャタレイ裁判で被告の弁護に立っている。そうした経験も含めて、性と猥褻の問題を扱った評論がいくつかある。その一つ「好色文学」という評論は、谷崎の『鍵』を扱う。『鍵』は春本であって猥本ではないと著者は言う。春本とは性的刺激を与えるものとい定義をあたえている。『鍵』の春本的性格は自慰とのぞきに到達する好色性を持つが、それは、作家谷崎の本質的なもののようだとする。そして、日本的好色文学への傾きを強めていった谷崎が来るべきところに来たというのが『鍵』であるとする。著者はすぐれた文学には作者の意識しない意図が現れるという。作者の意図したものしか現れないものは文学として価値が低いという。『鍵』の場合無意識に近い意図として現れているのは性欲の刺激というものだとする。それは谷崎の生き方の本質であり、彼の生き方によって支えられたものだとする。谷崎が自己の生き方の本質に沿って、そこまで追い詰めたと言うことは、善悪は別にして、西欧の文学と観念によって歪められた日本文学にとっても、生き方にとっても大きな意味をもつ。谷崎が通俗的な道徳観によって支配されている世間にさほど抵抗感は持っていない。その理由は、彼の子供のような純真さにある、という。すぐれた谷崎潤一郎論であり、『鍵』の読み解きである。

 精神について:「自由と唯物思想」のなかで、著者は、日本人は物質的経済条件に支配されやすい民族であって、精神というものがなかったと断じている。そして以下のようの述べる:
私たちの間では、精神が行動を左右するといふ事例に乏しい。このことは西洋文化と接触するやうになって以来、ますますはつきりしてきたやうに思はれる。中略・・・実際は、西洋は物質文明だけなのではなく、私たちが西洋のうちに見ることができたものが物質文明だけだつたのであり、そこに精神を見る能力を私たちは欠いてゐるのである。つまり私たちは精神をもつてゐないのである。あるいは、西洋の精神が、私たちの精神にとつて、それほど異質なものなのである。(p230)。さらに福田は言う:私が西洋に学んだ最大のことは、精神と物質とを、つねに二元論的に、あるいは弁証法的に、たくみに使ひわける主体の精神的能力である。その能力をおいて、自由はどこにも見出せはしまい。(P232)

 西洋における二元論、あるいは一人二役という概念については、「国家的エゴイズム」「西欧精神について」「少数派と多数派」「絶対者の役割」で述べられる。そして西欧におけるキリスト教の果たした、あるいは果たしている役割を考察する。

 共産主義について:「自由と進歩」の中で次のように言う:
多くの人は、共産主義を見なして、欧米「先進国」ないしはその世界観の否定だといひます。なるほど新しいイデオロギーである以上、それを、明瞭に表示するのは當然ですが、私はこの思想を、さういふ対外的な働きかけの面よりは、むしろ対内的な要求の面から考へるはうが正しいと思ふ。つまり、「先進国」を否定するのが目的ではなく、「後進国」がその遅れをとりもどし「先進国」の仲間入りをするために自分に施した荒療治、それが革命といふもので、それを正當化するためにマルクス主義が採用されたといふわけです。もちろん、採用した當人の意識は別の話で、国家意思とか、歴史の意思とかについていへば、さういふ見かたができませう。

 1980年代末から90年代初めにかけてのソ連圏の崩壊、あるいは改革開放路線を掲げて経済発展の道をひたすら進んだ中国を考えると、福田のこの指摘は当たっていた。関連して、私は1990年の雑誌「文藝春秋」の中の記事を想い出す。その中で、ソ連・東欧の情勢について、政治評論家の猪木正道は、ゴルバチョフのソ連が共産党の指導性放棄、複数政党制の導入にまで進むことなどないと断言した。一方、福田恒存はゴルバチョフが東欧にあれだけの大改革を容認したのは、ソ連も共産党が指導性を放棄し、複数政党制を導入したいからだと指摘した。福田は軽い、半分からかうような調子で、それだから我々は彼の健康を心から願うべきだと述べていた。福田の論調がズバリと本質を突いたものであったことは、その後間もなくゴルバチョフが福田の言った通りのことを実行してしまったことで証明された。

 上の引用文の最後にあるように、著者はここでも、国家や歴史の無意識の意図への考察を怠っていない。

 平等思想に染まることなく、自己の脆弱性をよく知っていて、自己を拡大修飾して現実の自己以上に見せようとする、古典的な俗物こそが、現代日本の最高の美徳であるように思われるという「俗物論」も面白い。


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書名 レイモンド・カーヴァー傑作選 著者 レイモンド・カーヴァー、 村上春樹 編・訳 No
2010-41
発行所 中央公論 発行年 1994年 読了年月日 2010-11-06 記入年月日 2010-11-12

 
村上春樹は今年もノーベル賞をもらえなかった。彼は若い頃は翻訳もやっていて、その翻訳がいいという評判はかつて耳にしていた。たまたま、娘の本棚にこの本があったので手にした。

 村上春樹が崇拝し、彼の作品に影響を与えたとされる、アメリカの作家、レイモンド・カーヴァーの短編(エッセイと詩を1編含む)12編を納める。村上自身の文体といってもいいほどよくなじんだ日本語である。作品もすばらしい。短編としてよく構成されている。登場人物はいずれもすぐ身近にいそうな人達。日常のディテールが簡潔にそれでいて詳細に描写され、作中の人物像が鮮やかに浮かび上がる。そうした人々を通して人生の深い断面が切り取られる。『大聖堂』『ささやかだけど、役に立つこと』など、結末は感動的である。

 各編の前に簡単な作品解説が、村上春樹によってなされている。私のようにカーヴァーの作品を読むのが初めての読者にとってよい手助けとなる。村上のカーヴァーへの傾倒振りがよく窺われる解説だ。


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書名 ザ・俳句歳時記 著者 ザ・俳句歳時記編纂委員会 編 No
2010-42
発行所 第三書房 発行年 2006年 読了年月日 記入年月日 2010-11

 アフィニス句会に8月に初めて参加した際、この歳時記を勧められた。アマゾン経由ですぐに取り寄せた。

 有馬朗人、金子兜太、廣瀬直人監修のこの歳時記には、たくさんの例句が載っている。それも、芭蕉、蕪村、子規、虚子といった大家の作品ではなく、私にはまったく無名の俳句愛好家の作品がほとんどを占めている。例えば「桜」には126首が採用されている。この他に「花」や「落花」「山桜」などたくさんの桜関連季語は別に解説されていて、たくさんの例句が掲載される。

 句作の際に季語の参照という目的だけでなく、漫然とページをめくっているだけで結構楽しい。句作を初めて、季語の多さに戸惑うことがある。というのは、思いついた575の中に、季語がダブることがよくあるからだ。それは私の句作の拙さによるが、一面それほど季語は多いということだ。初めて見る言葉も多い。たまたま開いたページには「福藁」という新年の季語。家内を清め年賀客を迎えるために正月に庭に敷く藁という解説で、例句が2つ載っている。

 いままでに詠まれた俳句の数はどのくらいだろうか。お互いに参照するのではなく、独立に作った句で、同じものがたくさんあるのではなかろうか。少なくとも極めて似た句は相当にあるだろう。

 たまたま10月のアフィニス句会で「秋扇思ひ出ひとつ折りたたむ」という句があって、私はいいと思い一票入れた。この際の「思ひ出」は恋の思い出だととった。「秋扇」という言葉は私にとっては初めての言葉だ。本書を参照した。「扇」は夏で、「秋扇」は当然秋の季語。18の例句が載っていた。その中に「秋扇恋の名残を折りたたむ」というのがあった。前句は「恋の名残」を「思ひ出ひとつ」に変えただけだ。俳句ではこの程度のオリジナリティーで許されるのだろうか。この2句について言えば、「恋の名残」の方が「思いでひとつ」という漠然とした言い方より、具体的で、訴える力がずっと強い。


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書名 西航日乗 著者 成島柳北 No
2010-43
発行所 岩波文庫 発行年 22009年009年 読了年月日 2010-11-08 記入年月日 2010-11-16

『幕末維新パリ見聞記』と題して『暁窓追録』とともに岩波文庫に収められている。

此日舟行三百七里、今夜馬耳塞(マルセイユ)に達す可しと。舟中の人皆欣々然として行装を理す。日暮れツーロンを過ぎ、灯台を望む。既に仏蘭西の版図なり。」
 本書の帯にある本書からの引用である(p41)。成島柳北ができたばかりのスエズ運河を通り、ようやっと仏蘭西のマルセーユに着く前日の日記の一部である。1872年(明治5年)10月27日の日付。

 成島は旧幕臣。本願寺東派の法嗣現如上人に随行し、明治5年9月に横浜を発ち、欧米を回り翌年7月に帰国した。その日記。但しイギリスからアメリカを経由して帰国するまでの部分は失われている。

 欠かさず日記をつけたことにまず驚く。ついで、旅の感興をその都度漢詩に託していること。数えてはいないが、50編は超えるだろう。1日に2編をものしていることもある。漢詩には校注者による読み下しが付いているとはいえ、語彙が難しくて十分には理解できない。3番目の驚きは、どこにでも出かけて行く成島の行動力、旺盛な好奇心。何でも見てやろう精神は、幕末から、というより日本人の本来的に持っている気質のようだ。パリで娼楼に上った記載もある(p48)。校注者井田進也の巻末解説によれば、イタリアでもそうした場所によく出かけたようであり、柳橋で3000両を蕩尽した成島らしいという。パリ、ローマ、フィレンツェ、ロンドンなど、成島が訪れた場所を、校注者の井田進也が逐一訪れて、細かい注を巻末に載せている。それらの多くは現在でも残っていて、140年も前に書かれたガイドブックを読むような雰囲気もある。

 最初泊まったパリのグランドホテルが高価なので、成島柳北達は、「ホテルドロードビロン」(ホテル・ド・ロードバイロン)へ移る。そこには既に5人の日本人が滞在していた(p46)。ドナルド・キーンの『続百代の過客』の読後感にも記しておいたが、このホテルは、私が初めてパリに足を入れたときに泊まったホテルである。ブラッセルにあった会社のヨーロッパ事務所が取ってくれたホテルで、小さい、古びたホテルであった。

 ちょうど岩倉使節団もパリの滞在中であった。その他にもたくさんの日本人と成島は会っている。中には大倉喜八郎の名前も見える(p117)。大倉喜八郎の曾孫に当たる陶芸家の大倉真澄さんとは一緒に下重エッセイ教室で学んでいる。面白いのは、出かけていって、相手が不在という記録が多いこと。電話がなかった頃で、アポなしでの訪問しかできなかったのだ。

本書から
p34:航海の途中、喫煙のことで、客と水夫が口論し、水夫が罰せられたが、船客は喫煙したイギリス人が悪いと思う。
p59:アンバリッド訪問。戦利品の中に毛利紋の入った砲を見つける。また、同日パリの上水道を見学し、「
殆ど人間世界に非らざるが如し。人工の妙此に至る、寔に驚嘆す可き也」と記す。さらにその日、ナポレオン3世がロンドンで死去したことを記し、その死を悼んでいる。
p96:成島はイタリア旅行の際、ボロニアからフィレンツェに汽車の旅をする。その時の詩にそのあたりの風光が日本に似ていると記している。「
恍覚風光肖故山(恍として覚ゆ、風光の故山に肖(に)たるを)」。私も20年ほど前に、ボロニアからフィレンツェへ車で行ったことがある。その時、まったく同じ感想を持った。特に植物相が日本と変わらないと思った。
p116:パリのたばこ工場見学記
p129:ロンドン郊外のウインザー城を見学し、そこが広く開放されていることに驚く。そのあとで、「
英国の制度は真に良制度かな」と記す。多分、開放された王室のあり方をいっているのだろう。

 成島柳北は維新後、『朝野新聞』などで言論活動に携わり、舌禍事件を起こしたりする。明治17年48才という若さで亡くなっている。


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書名 暁窓追録 著者 栗本鋤雲 No
2010-44
発行所 岩波文庫 発行年 2009年 読了年月日 2010-11-12 記入年月日 2010-11-16

 
『西航日乗』とともに『幕末維新パリ見聞記』に納められている。
 巻末の解説によれば、栗本鋤雲は幕府の外国奉行で、駐仏公使の役を担ってフランスに渡ったのは1867年(慶応3年)6月。パリ万博に参加した徳川昭武とその取り巻きが、反仏親英論に傾いたのを、従来の親仏論に戻すというのが、派遣の目的であった。栗本は、パリに滞在し、幕府崩壊に伴い翌年5月帰国する。

 こちらは日記ではなく、見聞録である。冒頭、ナポレオン法典への賞賛が述べられる。国を治める太子の選び方、成人年齢、軍規、税制、公務員の職務執行の細部、信仰の自由などが述べられるこの法典こそ政治の要であると思う。そしてその翻訳を行いたいと思う。公平な裁判、弁護士制度、警官の職務規程などへの賞賛が述べられる。さらに当時の皇帝ナポレオン3世への賞賛が続く。こうした論調の一端は、親仏論へ戻すという栗本の使命から出たものかもしれない。江戸時代も最末期まで来ると、幕府高官も、こうしたヨーロッパの近代法体系に共感するほど、開明的である。

 ナポレオン3世については、馬上から帽子を取り、人々の歓呼に応える場面に出会い、「同等の人」と述べる(p155)。また、后と共に密かに民情を探って歩くなど、人々から親しまれ、「現世帝王の最と為す」と賞賛する(p178)。

 色々な近代技術にも目を見張る。新聞の印刷機に驚き、さらにいまで言うファックスがスイスで作られていたことも記される(p163)。
 栗本鋤雲は、維新後、毎日新聞、報知新聞などで執筆し、明治30年、76才で亡くなっている。

 校注者の井田進也の巻末の注と解説が詳細で、自身で現地を確認した大変な労作だ、これなしでは読めないのは『西航日乗』と同じ。 


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書名 東京タワー 著者 リリー・フランキー No
2010-45
発行所 扶桑社 発行年 2005年 読了年月日 2010-11-27 記入年月日 2010-12-05

 
金木さんからもらった本の中にあった。副題は「オカンとボクと、時々、オトン」。

 ボクの幼い頃から、オカンが東京タワーの見える病院でなくなるまでの、母子の物語。別居しているオトンは時々登場する。数年前に評判になった本で、題名は知っていた。著者はてっきり外国人であると思っていたが、福岡県生まれの日本人で、イラストレーター、小説家であった。ほとんど自分の生い立ちを語っていると思われる。

 文章の切れ、テンポの良さが本書の特徴であり、それに乗ってポンポンと読めてしまう。例えば小学6年生になったボクの描写「
それまで、オカンのことを「ママ」と呼んでいたけど「お母さん」と呼ぶようになり、それがどんどん「オカン」になった。/オカンが本を読む時、眼鏡をかけるようになった。/ウサギが、死んだ。/正座して両手を合わせ、ブラウン管に向かってホームランを打って下さいとお願いすると、いつもホームランを打ってくれた長嶋茂雄がグランドからいなくなった。

 そして、もう一つの特徴は随所に箴言めいたものが置かれる。本書の帯に「
これは、ひらがなで書かれた聖書である」という久世光彦の絶賛の言葉が載っている。例えば127ページ以下には、世の中に親が子を想うこと以上の想いはないと、親子の関係を強調する。親は死んでのちにも子の身を守りたいと願うと述べた後、「たとえ、姿かたちはなくなっても、その人の想いや魂は消えることはないのです。あなたが、手をあわせて、その声を聞きたいと願えば、すぐに聞こえるはずです」と続く(p128)。
 私にとって興味深かったのは、ボクがオカンとおばあさんと暮らしたのがオカンの生まれた筑豊の炭鉱地帯であること。オカンは料理屋で働いたり、内職をしたりして、ボクを育てる。おばあさんも毎日リヤカーを引き、魚の行商をして、たくさんの子供を育てる。オカンは花札の名人で、ボクは小学生の頃から仕込まれる。そんなオカンに私は、田川の女性達をダブらせた。私の田川滞在は延べ日数にすれば2年余りだが、オカンがたくましい筑豊地方の女性の典型であると実感できる。ボクは母子家庭の貧しさなど感じないで育つ。地名は明らかにされておらず筑豊の炭鉱町とあったから、田川かと思っていたが、後で、遠賀川が流れているとあったから、飯塚か直方であろう。一方、オトンは小倉に住み、ヤクザがらみの仕事をしていて、金回りはよさそうだ。小学生のボクは時々訪ねるが、オトンはトルコ風呂でボクと会ったりする。

 ボクは別府の高校を出て、東京の美術大学に進む。そして、イラストレーターとしての生活が軌道に乗ったとき、オカンを東京に呼び寄せる。オカンが入院して亡くなった病院には私も子供の頃かかったことがある。そんなことからもこの本を身近に感じた。

 オカンとオトンが別居していた理由は最後になって明かされる。それは、オカンと姑との間がうまくいかなかったことだとされる。オトンとオカンは結局離婚はしなかった。


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書名 桜の園・三人姉妹 著者 チェーホフ、神西清 訳 No
2010-46
発行所 新潮文庫 発行年 昭和42年 読了年月日 2010-11-30 記入年月日 2010-12-05

 
先月NHKの週刊ブックレビューを見ていたら、チェーホフ特集をやっていた。今年が生誕150年に当たるという。三人のゲストが、戯曲と短編を推奨した。「三人姉妹」はその中かの一つ。ちょうど読んだばかりの『レイモンド・カーヴァー傑作選』には、チェーホフの最後を題材にした一編があった。カーヴァー自身がチェーホフの影響を強く受けていると村上春樹は書いていた。こんな偶然が重なって、チェーホフの作品を読んでみる気になった。アマゾンで調べたら、この本があった。

チェーホフの作品を読むのは初めてである。本書の両作品とも代表作として、名前は知っていた。

「桜の園」は本書のブックカバーに以下のように要約されている:
急変してゆく現実を理解せず華やかな昔の夢におぼれたため、先祖代々の土地を手放さざるを得なくなった、夕映えのごとく消えゆく貴族階級の哀愁を描いて、演劇に新生面の頂点を示す。

 ロシア名の登場人物を頭に入れるのにまず苦労する。巻頭にある登場人物とその属性一覧表に何回も何回も戻りながら読み進める。特に劇的な展開はないが、19世紀末のロシア社会への興味から、読み続けられる。昔の栄光に生き、浪費癖の抜けない女地主ラネースカヤの手から、桜の園と呼ばれ、桜の美しいこの土地は、結局、農奴の家に生まれ、解放後は商人となって桜の園に出入りするロバーヒンの手に落ちてしまう。桜の木が切られる斧の音の中で、一家はこの園を後にする。ラネースカヤの嘆きとは対照的に、娘アーニャや万年大学生で、桜の園に居候しているトロフィーモフは、これを機会に新しい生活への期待に胸をふくらませる。

63pにはトロフィーモフがアーニャに言って聞かせる痛烈な貴族批判がある。
…ね、思ってもご覧なさい、アーニャ、あなたのお祖父さんも、ひいお祖父さんも、もっと前の先祖も、みんな農奴制度の賛美者で、生きた魂を奴隷にしてしぼり上げていたんです。で、どうです、この庭の桜の一つ一つから、その葉の一枚一枚から、その幹の一本一本から、人間の目があなたを見ていませんか、その声があなたには聞こえませんか?…生きた魂を、我が物顔にこき使っているうちに…それがあなたがたを皆、昔生きていた人も、現在いきている人も、すっかり堕落させてしまって、あなたのお母さんも、あなたの伯父さんも、自分の腹を痛めずに、他人のふところで、暮らしていることにはもう気がつかない…
 この台詞の一部は検閲により初演当時は削除されたところがあると、訳者注にあった。
なお、チェーホフはこの劇を喜劇と規定している。

「三人姉妹」のブックカバー要約:
単調な田舎生活の中でモスクワに行くことを唯一の夢とする三人姉妹が、仕事の悩みや不幸などを乗り越え、真に生きることの意味を理解するまでの過程をえがいた。

 かつてこの地に駐留する軍隊の隊長であった人物を父に持つ3人姉妹。その家には軍人達が出入りする。軍人達とのやりとりを通して、3人姉妹の人物像、夢が描かれる。しかし、結局はそれぞれの夢はことごとく潰える。末娘のイリーナは許嫁の軍人が恋敵の同僚との決闘で殺される。

 この作品も当時のロシアの社会事情がどのようなものであったかというのが読む上での興味の中心であった。イリーナは電信局で働き、長女のオーリガは学校の先生。女性の社会進出が進んでいる。読んでいて、チェーホフはロシア革命の到来を予感しているのではないかと思った。書き上げられたのは1900年だ。日露戦争の直前であるから、登場する軍人の会話に、それを思わせるものがあるかと思ったが、皆無であった。折しも、本日のNHKのドラマ「坂の上の雲」では、舞台の大半がロシアで、ロシア駐在海軍武官廣瀬少佐のロマンス、伊藤博文の対露和平工作がメインのストーリーで、ロシア皇帝ニコライⅡ世も登場した。

 両作品とも派手な動きはなく、台詞中心で展開する。台詞から人物像をイメージし、彼ら、彼女らが抱える問題を理解し、言外に展開するドラマを読み取らなければならない。戯曲を読むのは努力がいる。翻訳は神西清。50年以上前の翻訳だが、名訳として定着しているようだ。


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書名 カシタンカ・ねむい 著者 チェーホフ、神西清 訳 No
2010-47
発行所 岩波文庫 発行年 2008年 読了年月日 2010-12-04 記入年月日 2010-12-05

 
チェーホフの短編集。NHKの週間ブックレビューで、沼野充義という翻訳家によるチェーホフの新訳が出たと言って、本人へのインタビューを放映した。神西訳は名訳であるが、50年以上も経ったので思い切った新訳をしたと沼野は言った。戯曲と同じく、短編集も神西訳を取り寄せた。

 全部で9編を収める。戯曲よりずっと読みやすい。なかでも表題の「カシタンカ」は面白い。今年読んだ小説の中ではもっとも面白かった。カシタンカとは犬の名前。彼女は街中で酔いどれの飼い主からはぐれてしまって、紛れ込んだところは、動物の調教師。がちょうと猫と豚がすでにいた。豚の上にがちょうが乗り、その上に猫が乗るといった見せ物用の調教をされている。がちょうはイワン・イワーヌィチ、ねこはフョードル・チモフェーイチという立派な名前がついていて、飼い主はその名を呼ぶ。そのうちがちょうが事故に遭い死んでしまう。この家では「おばさん」という名前をもらっていたカシタンカは、がちょうに替わって色々演技を仕込まれる。そしていよいよ大勢の客の前での本番。おばさんは主人の笛に合わせて、吠えだした。そのうち2階客席の方からかつての飼い主の子供の「とうちゃん、あれはカシタンカではない?」という声が聞こえて、おばさんは舞台から飛び降りてそちらに向かってしまったといったストーリー。動物の仕草が実に細かく描かれている。動物どうしのやりとり、人間と動物のやりとりも実に巧みに描かれている。淡々と述べられる中にユーモアがにじみ出る。漱石の猫にある生意気なところがなく、チェーホフが犬になりきっている。「おばさん」という名前は、我が家のネコに私がつけた名前と同じだ。

 本書から:
がちょうとちがってフョードル・チモフェーイチは、ひとかどの紳士だった。彼は目をさましても、物音ひとつたてもしなければ、身動きもせず、おまけに目をあけさえしなかった。そればかりか、できることなら、そのままいつまでも、目をさまさないでいたかったらしい。というのは、ねこはこの世の暮らしがあまり好きではないようにみえたからである。何ひとつ、彼は興味を持たないし、どんなことをするにも、のろのろとものぐさそうで、何もかも軽蔑しきって、自分にあてがわれたおいしい食べ物を食べるときでさえ、さもめんどうくさそうに、ふうふう言うのだった。(p92)
 カシタンカが見た猫の生態である。

 巻末に神西清による長い詳細なチェーホフ論が載っている。神西はチェーホフの本質を「非情」というキーワードで切り取っている。彼が医学を学び医師であったことが彼の非情の底にある。感傷とか詠嘆を排除したリアリズムであり、自然主義文学とも一線を画すとしている。

 もう一つの表題作「ねむい」は13ページという短いもの。13才の子守り女のワーリカは、毎日泣き止まない赤ん坊と、主人夫妻の雑用にこき使われて、眠る間もない。彼女の望みはぐっすりと眠ること。彼女は自分が生きるのを妨げているのは赤ん坊だとやっとのことで気がつく。そして、赤ん坊を絞め殺してしまう。彼女はその一分後には床の上に死人のように寝込んでしまう、といった内容。悲惨で、衝撃的なストーリーだが、ここには詠嘆も、感傷もない。乾いた語りがあるだけだ。


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書名 子規・漱石 著者 高浜虚子 No
2010-48
発行所 岩波文庫 発行年 2002年 読了年月日 2010-12-17 記入年月日 2010-12-24

『子規居士と余』『漱石氏と私』『京都で会った漱石氏』の3編を収める。
 読み始めた次の日、NHKのドラマ「坂の上の雲」の第2部が放映された。冒頭、根岸の子規の病床を、秋山真之が訪ね、そこへ虚子と碧梧桐も訪れるシーンだった。本書の最初のほうにも、松山に帰った子規を、虚子と碧梧桐が訪れるところがある。

『子規居士と余』読み終えた12日の夜にはやはり「坂の上の雲」で、子規の最期が放映された。その映像は本書での虚子の記述をほぼ再現したものであった。虚子が看病に疲れて、子規の隣の部屋で寝ている間に、子規は逝った。最期の夜にいたのは子規の母と妹と、虚子の3人であった。

『子規居士と余』は濃密な師弟愛の書である。虚子は松山から京都の高等学校に進んだが、すぐに退学する。その後も仙台の高校に入るが、ここも退学する。虚子のそうした態度を見かね、子規は虚子に学問を勧め、俳句革新における自分の後継者になることを求める。元々学問をする気は持っておらず、俳句よりも小説を書くことを目指していた虚子はそれを拒絶し、子規を大きく失望させる。とはいえ、子規の虚子への想いは深かった。虚子は述べている:
余を唯一の後継者とする考えはその時以来全く消滅したのであるが、しかし門下生の一人として出来るだけこれを引立てようとする考は以前と少しも変るところはなかった。余はいつもその事を思い出す度に人の師となり親分となる上に是非欠くことの出来ぬ一要素は弟子なり子分なりに対する執着であることを考えずにはいられぬのである。(p68)

 虚子は子規の死後「ホトトギス」を引き継ぎ、子規の後継者となる。NHKドラマは、「子規という人物は、明治という楽天主義が支配した時代にもっともあう人物であった」という意味の司馬遼太郎の言葉で、子規の死を締めくくっていた。

 27ページには「馬で行け和田塩尻の五月雨」という子規の句が載っている。東京から京都へ向かう虚子の菅笠に子規が送別の句として書いてくれた句だ。虚子は軽井沢まで汽車で行き、そこから中山道を岐阜まで徒歩旅行した。私も中山道を歩き終えたが、途中で子規の句碑はいくつか見た。

『漱石氏と私』は、漱石が虚子に送った手紙で構成される。漱石と虚子の関係を知る上で、それ以上に漱石の日常、人柄を知る上で大変興味のある一文である。同時代の文学作品への忌憚のない批評、門下生の作品の「ホトトギス」への掲載依頼、創作の苦吟、子供の病気、能の鑑賞のこと(子規と漱石は謡を習っている)など、漱石研究の第一級の資料だろう。俳句は作っていたが、小説は書いたことのなかった漱石。虚子は漱石に小説を書くことを勧め、『吾輩は猫である』は、「ホトトギス」に連載される。

 明治39年7月3日の手紙には、「人工的インスピレーション」のことが書かれている。論文ばかり読んでいたのを止めて、小説を読み出したら、次々にインスピレーションが涌いてくる。すべてがものになるわけではないが、100個に1個くらいそれを育て上げることが出来る。天来のインスピレーションは自分には涌いてこないから、こうした人工的インスピレーションを育てて、この7月には4編ばかり書くつもりだ、といったことが述べられている。(p183)。

『京都で会った漱石氏』は、表題通りの内容の小文だ。中で、京都の料亭で働く下層の女性に対する、漱石のいわれのない軽蔑、嫌悪が描かれている。漱石の意外な面を見る。
『漱石氏と私』は、手紙が主体だからあまり感じないが、他の作品では、描写の綿密さに感心する。写実俳句を唱え実践した虚子の特徴であろう。

 全編を通じて、子規の豪放さと、紳士としての漱石が浮かび上がってくる。

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書名 俳句入門 著者 NHK学園著、編集 No
2010-49
発行所 NHK学園 発行年 平成22年3月改訂22刷刊 読了年月日 2010-12-26 記入年月日 2010-12-27

 
暮れにいい文章に出会った。本書の「はじめに」で、俳人の飯田龍太はいう:
 
老齢に到っていかにしたら充実した精神生活をおくることが出来るか。その有無こそ、人生の幸不幸を決するものだ、という考えが浸透してきました。充実した精神とは、端的にいえば、いつわりのないおのれを知ることでしょう。おのれを知るとは結論を持つこと。くどくどと説明する必要はない。私はこう感じる、こう思うと、率直簡明に言い切ることです。多弁な叙述は必要としない。十七文字は、そのための最短詩型といえます。それが日常生活のなかの人との関わりでも、自然に対するものでもよろしいでしょう。

 本書はNHK学園の通信講座のテキストである。今年の夏から俳句をやり始めた。初歩から勉強するために、NHK学園の「はじめての俳句」講座を受講した。半年間のこの講座が終わり、次のステップの「俳句入門」に進んだ。本書はそのテキストである。着いた日に開いてみて、上記文章に出会い、一気に読んでしまった。俳句の魅力、定型、切字、写生、自然と生活、推敲などの章に別れ、実例を用いてわかりやすく解説してある。

 飯田龍太の文章は今の私の思いを代弁するかのようだ。


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書名 中山道夫婦道中記 上・下 著者 溝口重行 No
2010-50
発行所 ノンブル社 発行年 平成17年 読了年月日 2010-12-26 記入年月日 2010-12-27

 義兄が著者から贈られた自費出版本。私が中山道を歩き切ったと聞いて、届けてよこした。

 夫婦で歩いた記録。上下2巻、紙の質もいいし、表紙カバーはカラーの写真が使ってある立派な本。

 各宿場毎にその解説と、見所が簡単に記されている。私が武蔵路を歩いたのはもう2年ほど前。読んでいて、そんなところがあったかと、私の記憶からは落ちているものもある。もちろん、私が見落とした所の記述もそこそこにある。恐らく、参考にしたガイドブックが違うので、見るべきポイントも違ってくるのだろう。夫婦で歩いたので、各宿場毎に1枚は掲載してある写真に、必ず夫人、あるいは著者が写っているのが、鬱陶しいが、自費出版だからしょうがないか。写真で見ると私よりは年上の夫妻。夫妻で歩いたところに感心する。もっとも、夫人は美濃路の途中でリタイアしている。

 著者はしばしば旧街道をはずして歩いている。碓氷峠、和田峠はいずれも自動車道を通っている。現地で道を確認せずに間違って進んでしまっている。もう一つの特徴は、よく雨に遭うことだ。私は天気を見定めて出かけるから、中山道を通して、傘を開いたのは、岐阜駅近くを通った時の10分間ほどだった。

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書名 俳句十二か月 著者 稲畑汀子 No
2010-51
発行所 日本放送出版協会 発行年 2000年2月 読了年月日 2010-12-31 記入年月日 2011-01-01

 十日市場の緑図書館で借りてきた。著者の父高浜年尾は虚子の息子。従って著者は三代続く俳人であり、ホトトギスを主宰する。副題は「自然とともに生きる俳句」である。

 3章よりなり、第1章は季題を友として。1年12か月のそれぞれの季題を例句に基づき解説する。例句に圧倒的に多いのは虚子の句、ついで、著者、そして年尾。ひとつの季題にこの3人の句が例句として並べられていることも多い。始めたばかりの私にも、並べてみて、年尾の句は虚子の句の域まで行ってない感じがする。季語を学ぶことが俳句上達の基本であることを痛感する。

 第2章はホトトギスの教え。昭和33年に発行された『虚子俳話』という著作に基づく俳論。前半は、季題の活用、格調、写生(写生とは発見、描写)、単純化と具象化、花鳥諷詠、などが解説される。後半は私が今まで読んできた虚子の俳論には出ていない「存問」という概念が詳しく述べられている。存問とは挨拶のこと。挨拶とは、連句の重要な要素のひとつであり、俳句も当然挨拶性を含む。111pには以下のように述べられている:
 
しかし虚子は長年自然と挨拶を交わし続けることによって、言い方を換えれば花鳥諷詠を突き詰めることによって挨拶の対象を自然、人間、自分自身、超越的な存在(神)へと範囲を広げ、挨拶の内容も表面的なものから次第に深化させ、ついには対象の中にある生命や感情を共有するに到ったと私は考えております。ここに到って虚子は「俳句は存問の詩である」という主張をいたします。
 超自然との存問の句として「
去年今年貫く棒の如きもの」という虚子の句を挙げている。

 さらに虚子は最晩年には俳句は極楽の文学であるという考えに逢着したという。どんなに窮乏の生活でも、病苦に悩んでいても、心を花鳥風月に寄せることにより、たとえ一瞬時にしても極楽の境地に心を置くことが出来る。それは逃避ではなく、慰安を与え、心の糧となり、勇気を与える、という。かつて私は俳句のこうした特性を自己満足の文芸に過ぎないと思っていた。今は自己満足でいいのだと思っている。

 第3章は自然と人間。各月毎に、人間と自然との関わりが例句をひいて述べられる。

 俳句という文芸がいかに日本の風土、日本人の生き方、自然観と密着しているかを感じさせる本で、正統派俳句の鑑賞の基礎、句作りの基礎として、好著である。

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