読書ノート2023


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書名 著者
山羊の乳 渡部有紀子
教養としての俳句 青木亮人
雲は友 岸本尚毅
超圧縮地球生物全史 ヘンリー・ジー
芭蕉句集 中村俊定校注
リラ冷えの彼方へ 福永法弘
ギルガメッシュ叙事詩 矢島文夫
日本人はどこから来たか 加藤晋平
科学の哲学 柳瀬睦男
ヒトはどうして人間になったのか  R.リーキー、R.レウィン
武蔵野探勝 高浜虚子編
虚子五句集(上) 高浜虚子 
虚子五句集(下) 高浜虚子
ロシア的人間  井筒俊彦 
 「俳句」2023年8月号 角川書店 
 俳句の世界 山本健吉 
 私の武蔵野探勝 深見けん二、小島ゆかり 
第三の男 グレアム・グリーン
 占領期カラー写真を読む 佐藤洋一、衣川太一 
 言語論  ノーム・チョムスキー
 芸人と俳人  又吉直樹、堀本弘樹
 ゼロからわかるメソポタミア神話  かみゆ歴史編集部
 すばらしい医学 山本健人 
 大国の興亡(上)  ポール・ケネディ
 大国の興亡(下)  ポール・ケネディ

書名 山羊の乳 著者 渡部有紀子 No
2023-1
発行所 北辰社 発行年 令和4年12月 読了年月日 2023-01-06 記入年月日 2023-01-07

 天為の同人渡部有紀子さんの初句集。正月早々送られてきた。渡部さんは天為内のみならず外部の俳人団体で俳句のみならず評論でもいくつもの賞をもらっている新進の俳人だ。私より40才以上も若い。天為入会は私と同じ平成24年とのことだが、26年には早くも同人に推挙されている。2年前の朝日新聞の「あるきだす言葉たち」に第4回俳人協会新鋭俳句賞者として、10数句が紹介されていた。やはり2年前に有紀子さんが選者を務めるメール句会があった。私も投句したが、驚いたのは投句された全460句に短評が施されたこと。しかも、そのコメントが適切で私はそれを参考にして自句を作り直した。
 親しく話したことはないが、天為のネット句会「神話で遊ぶ」などで、私のことも知っていたのだろう、句集が送られてきた。

 素晴らしい句集だ。題材が広く、洗練された言葉で綴られる豊かな詩情。季語の斡旋が見事で、私など見習ってもとても手が届きそうない。

 「山羊の乳」という題は「朝焼や桶の底打つ山羊の乳」から採っている。花をあしらった装丁もいかにも新鋭女流作家の句集にふさわしい。

 序では『天為』編集顧問の日原傅さんが、懇切な解説をしている。この序文と帯に載った著者の自選句を見る前に私の目についた句を以下に:


人日の赤子に手相らしきもの
待春やアンモナイトの奥の闇
メドゥーサの憤怒のごとく髪洗ふ
種を蒔く祈りに似たる無口にて
箱庭の道は羅馬へクォ・ヴァディス

飛鯊の額に余る目玉かな
三角が威張つてゐたるおでんかな
春寒のダイヤル重き黒電話
あの中の闇重きはず雛道具
アフロディテゐぬかと拾ふ桜貝

大利根の光も容れて袋掛
ジッポーを点けては消して熱帯夜
月渡る森にディアナの弓の音
アダムよりエヴァの背高し聖夜劇
月蝕を蜜柑二つで説明す

寒北斗壁画の美女の紅き眉
天平の白きよらかに梅咲けり
花の夜の解きたる帯に熱すこし
母の日のものやはらかく煮上がりぬ
朝焼や桶の底打つ山羊の乳

フーコーの銀の振子や涼新た
武家町の天の整ふ松手入
集ひきてここに師のなき椅子寒し
初富士に向かひ大きな牛の鼻
蒼天の剥落として初燕

天金の書を閉づ鳰の眠る頃
青空に凜と朗人忌青邨忌

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書名 教養としての俳句 著者 青木亮人 No
2023-2
発行所 NHK出版 発行年 2022年11月 読了年月日 2023-01-07 記入年月日 2023-01-10

 朝日俳壇で坂西敦子さんが勧めていた。一言で要約すれば俳句により人生を肯定する書。俳句成立の歴史から、俳句のもたらす豊かな世界など、やさしく書かれた好著。あかつき句会のメンバーにも一読を勧めた。

 著者は虚子に心酔しているようだ。
 雪解の雫すれすれに干蒲団
 大空に伸び傾ける冬木かな
 営々と蝿を捕りをり蝿捕

 と虚子の句をあげ、以下のように述べる:
 
およそ芸術らしくないというか、ほぼ無内容に近い句ではないでしょうか。中略
しかし、虚子はこのような日々の些事を詠み続けました。
中略
私はいくらあがいても私以外の人間にはなれない。その私が営む生活は平凡で見栄えがしないが、日々の暮らしが輝かしい非日常になるとも思われない。ならば、退屈ともいえる身の回りの出来事を丹念に観察しつつ、そこに僅かな面白みや哀感、また四季のうつろいを感じることで「極楽」を見出そうではないか・・・これが虚子の「写生」でした。

 句作りに人生の極楽を見出す。同感だ。

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書名 雲は友 著者 岸本尚樹 No
2023-3
発行所 ふらんす堂 発行年 2022年8月 読了年月日 2023-01-13 記入年月日 2023-01-13

 『天為』の1月号に西村麒麟氏による懇切な評論が掲載された句集。好きな俳人なので、アマゾンからと取り寄せた。

 有馬朗人や『天為』全体の句風とは違う句風だのいうのが第一印象。

 句材が卑近。地名、古典、歴史、寺社、海外などを読んだものが極めて少ない。

 観察の細かさ、鋭さ、そしてそれを17文字に収める巧みさ、意表を突く表現がもたらす詩情。ドライで軽い。そして驚くほど動物の句が多い。

 岸本尚樹は天為の同人ではあるが、『天為』への投句を目にしだしたのは、4,5年前で、それまではなかった。天為同人の句集の評論は通常天為の会員が行うのだが、1月号の評論の筆者西村麒麟は天為以外の人。天為の会員では、世間的にもっとも名の知れた岸本尚樹の句集を評論するには気が引けたのだろう。。

 裏表紙の帯に自薦句があげられているが、それを見ないで、私の目についた句をあげてみる。


蝉を喰ひ蜻蛉を喰うて寺の猫
かなかなや釣堀に彼いつまでも
月明るくて芋虫とその糞と
ひとところ黒く澄みたる柿の肉
打ち打ちて皆みまかりし砧かな

槌の罅柄に及びたる砧かな
顔焦げしこの鯛焼きに消費税
なめくじを越えゆく蟻や梅雨菌
DANGERと描くTシャツや老涼し
戦争を知らぬ老人青芒

毛を刈つて犬が小さく秋暑く
風は歌雲は友なる墓洗ふ
澄み切つて芋焼酎や月に酌む
秋晴や床にこぼれて光る水
墓に載る如く沈む日冬ざるる

大空に鳶しあはせか七五三
手に探り耳とおぼしく炬燵猫
冬館なつくことなく亀飼はれ
熱燗ややがては神を論難す
地酒の名聞いて忘れて燗熱く

寒林を来て顔ほどのメロンパン
団栗を押し傾けてうごく蜷
いつかどこかの土筆となつて生えてゐし
地虫出づ土の色なる蜘蛛が待つ
佐川の女ヤマトの男春の風

澄み切つて磯巾着が菓子の如
鐘日永安珍灰となりにけり
蜘蛛の囲に胴なき蜂や聖五月
孑孑の浮く水舐めて雀蜂

穀象の鼻と頭の継目かな
犬猫になく我にあれ夏休
大切な黄な粉飛ばすな扇風機
すててこの志村を真似て遊びけり

 リストアップして読み返してみると、思わず笑いがこぼれる、楽しい句だ。

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書名 超圧縮地球生物全史 著者 ヘンリー・ジー、竹内薫訳 No
2023-4
発行所 ダイアモンド社 発行年 2022年8月 読了年月日 2023-01-20 記入年月日 2023-01-26

生命の誕生
 ・・・海底の割れ目から、ミネラルを豊富に含んだ高温の水が、超高圧で迸る場所。そんなところで生命は進化したという説が有力だ。
 最古の生き物は、岩の間の微細な隙間にかぶさる薄膜に過ぎなかった。わき上がる海流がとぐろを巻き、乱れて大渦になり、エネルギーを失う。すると、流れとともに運ばれててきたミネラルを豊富に含んだ残滓が、岩の隙間や気孔に取り残され、薄膜が形づくれれていった。このような膜は不完全で、ふるいみたいに、通過させる物質と通過させない物質があった。穴がたくさんあいた多孔質であるにもかかわらず、膜の内部の環境は、外側の荒れ狂う大渦巻とは異なり、もっと穏やかで秩序のあるものになった。屋根と壁のあるログハウスは、たとえドアがパタンパタン閉まり、窓がガタガタ音をたてたとしても、外の極寒の吹きさらしに比べれば安全なのだ。膜に漏れやすい穴があることも功を奏した。エネルギーや栄養素が穴から入ってくる一方、老廃物は穴から外に出してしまえばよかったから
。(中略)
 この単純な泡たちは、生命の入り口に立ち、その場しのぎとはいえ、多大な努力を払って、宇宙の無秩序さ、すなわちエントロピーの増大を食い止める方法を見つけた。これこそ生命の本質。石鹸の泡のような細胞が、ちっちゃな握りこぶしをふりかざし、生命のない世界に立ち向かったのだ。

 上に引いたのは本書の典型的な書き方。生命の起源を述べるのに、生体を構成する有機物質、、アミノ酸、タンパク、核酸、DNAの生成とその役割についての記載は一切ない。本書の他の部分でも、こうした化学的説明、あるいは遺伝の仕組みといったものにはまったく触れていない。「超圧縮」とあるから、やむを得ないのだろうが、物足りなさを感じる。もう一つの特徴は表現が文学的で、卑近な比喩が用いられること。

 地球は誕生より現在までにさまざまな地殻変動と気候変動を繰り返してきた。そうした生物にとっては破壊的なダメージは生物の大量絶滅を起こすが、逆に新しい生命の発生と進化のきっかけとなるというのは本書の一貫した見方。

 地球上の生命の大量絶滅は5回起こったとされる。
 オルドビス紀、デボン紀末、ペルム紀末、三畳紀末、白亜紀末。

 驚くべき事は、著者が10億年後までに全生命が絶滅するとしていること。

 著者は古生物学と進化生物学を専門とする科学者で、『ネイチャー』の生物学編集者。本書の特徴の一つは、絶滅した動物に関する記載がくわしいこと。化石(骨の化石のみならず、足跡の化石まで含む)からこれほど多数の動物の存在とその形態、生態が推測されていることに驚く。それらにすべて学術名が点けられて本書には登場するが、イメージが出来ない。本書にはかなりの挿絵が載っているが、原書には一切ないもので、翻訳者が許可を得て学術論文やネットを参照して、イラストレイターに描いてもらったとのこと。

 第12章「未来の歴史」では、人類の未来、生命の未来が述べられる。

 今後数千年のあいだに、ホモ・サピエンスは消滅するだろう。その原因の一つは、長いあいだ未払いになていた「絶滅の負債」を返済しないといけないから。人類の生息域は地球全体だが、人類は積極的に生息に都合の悪い環境をつくってきた。中略
 人類絶滅の最大の理由は、人口の移り変わりがうまくいかないことだ。人類の人口は今世紀中にピークを迎え、その後減少へと転じる。2100年には、現在の人口を下回るだろう。・・・人類は、あと数千年から数万年以上は生き残れないだろう。
 人類は、もっとも近い親戚の類人猿と比べると、遺伝的にすでに著しく同質だ。これは、人類史の初期に何度か、遺伝的ボトルネックが生じ、その後、人口が急増したことを示している。まさに、何度も絶滅の危機に瀕した過去の置き土産だ。
 先史時代、太古のむかしの出来事により、遺伝的な多様性が足りないこと、現在の生息地の喪失による絶滅負債、人間の行動や環境の変化による少子化、より局所的な、小さな集団が直面する、他の集団からの孤立する問題などが組み合わさり、人類は絶滅するのだ。(
p266)

 地球が誕生したばかりのころ、大陸移動の原動力となった大きな対流熱機関は、核燃料によって支えられていた。超新星の最後の数秒間でつくられたウランやトリウムのような元素が、ゆっくりと放射崩壊し、はるかむかしに惑星が形成されたとき、その中心へと逃げ込んだのだ。そのような元素はほとんどなくなってしまった。
 約8億年後に収束する超大陸は、地球史上最大のものとなる。それはまた、最後のものでもある。大陸の移動は生命の燃料であり、しばしばその宿敵でもあったが、ついに停止するときがやってきた。
 地表に生命はいない。地下深くでも生命は息を引き取りつつある。
 10億年ほどかけて、地球上生命は、その存在にたいするあらゆる挑戦を巧みにチャンスに変えてきたが、ついにはその役割を終えることになる。
(p280~281)

「つがいの絆」と不倫 
 子供を育てるのは夫婦が一番だとしても、ヒトは一般に考えられているよりずっと不倫に耽っている。(中略)
 ある子供の父親が誰なのか、はっきりしない場合、家族間で協力することが好ましい。こうした協力関係は、男同士の狩猟グループでの仲間意識にもつながってゆく。どの子供が、どの父親の子かわからない状態なので、男たちは自分の家族だけでなく、部族全体のために狩りをすることになる。
 多くの点で、ヒトの社会的道徳観や性的習慣は、ほかの霊長類よりも鳥類との共通点が多い(中略)
 一対のオスとメスだけの絆のように見えて、実のところ、不貞が男性の絆を深め、社会全体を結束させているのだ。
(p221~222)

 動物学的に見た場合、こういうことも言えるのだろう。

巻末には、70頁にもなる注釈、参考文献がリストされる。

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書名 芭蕉句集 著者 中村俊定校注 No
2023-5
発行所 岩波文庫 発行年 1997年 読了年月日 2023-01-31 記入年月日 2023-03-17

 本書の凡例の最初には「本書は芭蕉の作と明らかに認められる発句を文献によって製作年次順に配列した。」とある。

 芭蕉は自身の句集を残さなかった。芭蕉句集と称されるものは、没後門人達が編集したのが初めで、発句全集の最初は、芭蕉死後4年の元禄11年、風国の手になる『泊船集』で522句が収められている。その後句集編集は江戸時代を通して行われ、明治、昭和と引き継がれ現代まで到っている。本書には芭蕉の句集を編纂するのがいかに困難なことであるかが述べられている。

 本書に収められた発句は982句である。驚くのは存疑の部として556句、誤伝の部として208句が挙げられていること。現代のように句が印刷され保存されることのなかった時代だからやむを得ないのだろうが、俳句という平俗な短詩故にオリジナリティが曖昧になるということも一因であろう。それにしても芭蕉の発句が千句に満たないというのは、現代の俳人に比べると、極めて少ない。発句だけでなく連句の中の長句は採用されたのか気になった。それで、猿蓑の「市中は」の歌仙を調べてみた。季語の入った芭蕉の長句の例として「さる引の猿と世を經る秋の月」を見た。本書には載っていなかった。

 面白いのはよく知られた句でも、出典によって異なること。それが芭蕉の推敲の経過を示すものかどうかは、一概には言えないが。例えば
 古池や蛙飛こむ水のおと  (春の日)
 古池や蛙飛ンだる水の音 (庵桜)
 山吹や蛙飛込む水の音   (暁山集)
  
 巻末の解説で芭蕉の俳風を論じた最後を以下のように結ぶ:
 
物皆自得のあわれを悟り、存在するものすべてが尊く美しいものでなければならない。ものそれ自身の本来の生命にふれて、そのありのままの姿を率直純粋に抒情することこそ不易の俳諧である。現実の矛盾を超克する「高梧」から現実肯定の精神即ち「帰俗」に到達するところに真の俳諧ありと悟ったのである。晩年の「かるみ」はそうした句境から詠まれる表現の風躰をさすものである。

 巻末には上中下3句の索引が載っていて、便利である。


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書名 リラ冷えの彼方へ 著者 福永法弘 No
2023-6
発行所 『天為』 発行年 2014年 読了年月日 2023-02-06 記入年月日 2023-02-06

 私の属する結社の俳誌『天為』に2014年9月から11月に渡って連載された評伝。『天為』を整理していて、この一文にが目にとまった。 天為に入会してまだ2年あまりしか経っていなかったので、興味も無く読み飛ばしていた。副題は――北国に三代の華――である。天為の同人熊谷佳久子さんの祖父、母から続いた俳人家系の三代記。著者は福永法弘天為同人会会長。福永さんとは1年ほど前に吟行で面識を得るまではまったく接触は無かったが、以後、ネット句会などでも選を頂いていて、今回9年も前の『天為』誌にその名を見つけて、読んでみる気になった。

 平成5年、北海道滝川市郊外に9基の句碑が建てられた。提唱者は熊谷佳久子の母、榛谷(はんがい)美枝子。有馬朗人、有馬ひろ子、榛谷美枝子、榛谷白城(美枝子の夫で佳久子の父)、一本木万寿三(戦死した白城のあと美枝子が再婚した相手)、熊谷佳久子、熊谷福夫(佳久子の夫)、榛谷みやこ(佳久子の姪)である。その後朗人の母、有馬壽子(かずこ)と美枝子の父榛谷一夢の句碑も追加された。榛谷家四代にわたる句碑だ。

 榛谷一夢から熊谷佳久子に到る三代の歴史が述べられる。中でも興味があったのが、佳久子の母、美枝子に関するものだ。

 美枝子は小さい頃から父のすすめで地元のホトトギス同人の句会に通っていた。昭和8年夏、層雲峡で吟行が催された。参加者は40人ほど、虚子の他、高浜年男、中村草田男、星野立子などそうそうたるメンバー。美枝子は父のすすめで参加し、虚子と同じ車に乗り、句会では虚子の隣の雛壇に座った。美枝子18歳の時である。

 美枝子は医師であった榛谷白城と結婚するが、白城は出征し二人の子供を残し戦死する。戦後美枝子が再婚した一本木万寿三は北海道文化勲章を受章するほどの画家であったが、俳句も画家特有の色彩感覚をもとにした独特の句を作った。美枝子と共に山口青邨に師事し「夏草」に入った。

 昭和46年、渡辺淳一の小説『リラ冷えの街』が発表されると、「リラ冷え」は初夏の札幌を表した言葉として、たちまち流行語となった。「リラ冷えは渡辺淳一の造語である」というコラムまで新聞に載った。しかしこれは美枝子の造語であった。昭和35年の「夏草」に発表した俳句に使っている。そのことをかなり強い調子で新聞社に書き送った。渡辺はすぐに反応し、「リラ冷え」が美枝子のオリジナルであることを認めた。
 リラ冷えや睡眠剤はまだ効きて
が特に気に入った句だと書いた。

 この件で、美枝子は「癇の強い女」という批判もあった。しかし、著者はオリジナリティを主張することは文芸に携わるもの当然の権利であると言う。

「リラ冷え」は季語となった。カシオの電子辞書で調べると大歳時記には載っていない。合本歳時記にはライラックの傍題としてリラ冷えが載っている。一方現代俳句歳時記にはリラ冷えが単独で季語として載っている。現代俳句歳時記には例句が8句あるが、合本歳時記にはリラ冷えの例句は1句のみである。現代俳句に好まれる季語のようだ。

 佳久子は5歳の頃から俳句を作っていた。東京の短大の国文科に進み、俳句との縁を深めた。卒業後しばらく東京で勤務していたが、砂川市立病院の精神科医と結婚して北海道に戻る。結婚後札幌で暮らすようになった佳久子は、母に言われるままに「夏草」などの会員になった。ただ、締め切りがあるから投句しているという状況であった。

 夫の福夫は石狩に病院を建設し、佳久子はその事務長となった。ある程度時間の余裕が出来、年に一,二回の海外旅行が出来るようになった。海外旅行が佳久子に新鮮な俳句素材を提供した。美枝子は「夏草」終刊後、「天為」に入会した。佳久子も「天為」会員になった。美枝子はすでに巻頭を取っており、「天為」のトップテンの常連であった。ところが、佳久子も投句を初めて1年あまりで、入選第4席となり、美枝子の11席と逆転した。そのことに対して美枝子は何も言わなかった。(私は入選句の掲載順にはあまり意味がないと思っていたが、4番目にあるか、11番目にあるかでは大きな違いのようだ。)

 佳久子は平成5年10月、11月と連続で巻頭作家となった。
 地中海大夕焼に泊つるかな
 涸れ川の底みて死海へたどりつく

 いずれも朗人好みの海外詠である。

 平成7年、佳久子は同人に推挙される。こうした佳久子の「天為」での活躍を見て、ある人が美枝子に天為の北海度支部長を佳久子に譲ったらどうかと進言した。美枝子は烈火のごとく怒ったという。美枝子は平成25年96歳で亡くなる。佳久子はその後句集をいくつかだし、北海道の有力俳人としての地位を確立して行く。

 有馬朗人の両親も俳人であったが、佳久子の家系はそれ以上に俳人の家系だ。俳句というのはそういうものなのか。70歳を過ぎて俳句を始めた私とはまったく違う俳人家系。だからといって、今さら羨望を感じるということもないが。

 佳久子は私の属するオリーブ句会メンバー以外では最初に面識を得た天為の会員だ。2014年(平成26年)、恐る恐る天為東京例会に初参加した。天為入会後二年半経っていた。その時、佳久子に紹介された。朗人主宰に率いられてグループでヨーロッパ吟行を行った際、佳久子と知り合ったオリーブ句会メンバーが紹介してくれたのだ。私は初めて出たこの例会で特選を頂いた。
 佳久子の
骨壺を置けばたちまち五月闇
 も特選だった。

 驚いたのは、朗人が選評で「お兄さんの骨壺だと思います」と言ったこと。一会員の肉親のことまで知っているのかと驚いた。この評伝を読んで、朗人と佳久子の深い関係を知って納得できた。佳久子は毎月の東京例会を欠かしたことがない。前日の土曜日に飛行機で札幌からやってきて、東京例会が終わると帰って行く。いつも特選句を得る。澄んだ高い声で「熊谷佳久子」と名乗る。海外詠、北海道を詠んだ句が多い。驚くのは海外詠で詠まれる国の多さだ。ヨーロッパはもちろん、中国、ベトナム、モンゴル、マチュピチ・・・。豊かな財力がなければ出来ない。そして驚くのは、この評伝を読んで、私とほぼ同年齢であることが判明した。若く見える。さすがにコロナウイルスが蔓延してからは東京例会からは足が遠のいている。

 もう一つの驚きは、筆者の福永法弘。天為同人会の会長であるが、本職はホテルオークラ京都の社長である。要領よく書けた評伝だと思う。この人も朗人同様、多才な人だ。「リラ冷えの彼方へ」というタイトルも洒落ている。

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書名 ギルガメッシュ叙事詩 著者 矢島文夫 No
2023-7
発行所 ちくま学芸文庫 発行年 1998年 読了年月日 2023-03-20 記入年月日 2023-03-24

 先に読んだ「シュメル神話の世界」に取り上げられていた本書を読んでみたくなった。

本書の冒頭:『ギルガメッシュ叙事詩』は古代オリエントの最大の文学作品である。(中略)とりわけこの作品が今から数千年前に作られたものだということは、われわれに採ってこの作品の意義をさらに深いものにしている。これは人間の歴史のなかでも最も初期の作品のひとつであり、生命の探求という永遠のテーマをもって貫かれているという点では、最初の本格的な文学作品であるからである。

 巻末の解説によれば、19世紀の中頃アッシリア文字が解読された。そして、1872年にニネヴェの宮殿跡から発掘された粘土板に楔形文字のアッシリア語で書かれた『ギルガメッシュ叙事詩』の一部が見つかった。その後20世紀にかけて他の断片も見つかり、再構成されたという。本来はシュメール人により伝えられた叙事詩だが、シュメール文化を継承したアッシリア人、バビロニア人にも受け継がれ、アッシリア語、バビロニア語として残された。20世紀に入り、その他の言語での断片も発見され、それらを総合して、『ギルガメッシュ叙事詩』が再構成された。

 物語の全体は第1の書板から第11の書板よりなる。粘土板の欠けた部分は一部は類推で補ってあるが、そのままにしてあるものが多い。翻訳の底本は1930年オックスフォードより刊行されたアッシリア語・バビロニア語原文とのこと。それにすでに訳されている各国語を参考にしたという。大変な労力だっただろう。

 主人公ギルガメッシュは城壁都市ウルクの王。3分の2が神、3分の1が人間。武勇にすぐれるが、「野牛のように人びとを支配している」ことに人びとは嘆き、神に訴える。天の神アヌは訴えを聞き、彼に対抗する人間を作るようアルル神に命じた。そしてエンキドゥが創られた。

 エンキドゥは全身を毛で覆われ、野でカモシカたちとともに草を食べている。猟師がそれを見つけ、ギルガメッシュに知らせる。ギルガメッシュは猟師に宮廷の遊び女を連れてその男のとこへ行けと命じる。遊び女に誘惑されエンキドゥは6日と7晩遊び女と交わる。そしてギルガメッシュのところへやってくる。二人は組み合って力比べをする。

 ギルガメッシュとエンキドゥは連れだって杉の森に住む番人フンババ退治に出掛ける。森に入った二人はフンババを捕らえる。命乞いをするフンババの首をはねて殺す。

 女神イシュタルは、ギルガメッシュに自分の夫になれと言う。しかし、イシュタルが男にした数々の行為をあげて、求婚を断る。イシュタルは怒り、父のアヌ神に天の牛を創って地上に降ろし、人びとを苦しめることを求め、父は承諾する。しかし、天の牛はエンキドゥによって殺される。その結果、神々は相談しエンキドゥは死を死なせることにした。彼の死はウルクの人びとの嘆きを誘い、ギルガメッシュは悲嘆の涙に暮れた。

 ギルガメッシュはエンキドゥのように死ぬのではないかと恐れ、永遠の命を求めて放浪の旅に出る。

 第10書板には以下のような記述がある:
 彼が(エンキドゥ)行ってしまってからも、生命は見つからぬ/狩人のように私は野原のさなかをさまよった/女主人よ、お前の顔を見たからには/私の恐れる死を見ないようにさせてくれ」/女主人はギルガメッシュに向かって言った
「ギルガメッシュよ、あなたはどこまでもさまよい行くのです/あなたの求める生命は見つかるととがないでしょう/神々が人間を創られたとき/人間には死を割りふられたのです

 生命は自分たちの手のうちに留めおいて/ギルガメッシュよ、あなたはあなたの腹を満たしなさい/昼も夜もあなたは楽しむがよい/日ごとに饗宴を開きなさい/あなたの衣装をきれいになさい/あなたの頭を洗い、水を浴びなさい/あなたの手につかまる子供たちをかわいがり/あなたの胸に抱かれた妻を喜ばせなさい/それが人間のなすべきことだからです

 
今から4000年以上も前に語られた言葉とは思えない。人間の生と死、生き方への指針への鋭い指摘。現代でもそのまま当てはまる。最初シュメール語で書かれ、アッシリア語、バビロニア語に引き継がれ、さらにヒッタイト語など他の言語でも残されたのは、それだけ人びとの共感を得たからであろう。まさに世界最初の文学作品だ。4000年前と言えば日本では縄文時代。人びとはこのようなことを考えたであろうか。

 ギルガメッシュは不死の生命を得たウトナピシュティムに長旅の末たどり着く。ウトナピシュティムは神々が引き起こした大洪水を生き延びた人物で、そのようすをギルガメッシュに語る。

 最終第11書板(最初に見つかった書板)は大洪水のことが述べられる。

 神々の決定により大洪水が起こされる。ウトナピシュティムは方舟を作りそれにあらゆる生命を乗せて漂着する。旧約聖書のノアにあたる人物だ。ウトナピシュティムは、不死の薬はないといい、代わりに生命を若返らせる草をギルガメッシュに教える。ギルガメッシュは深海に飛びこみそれを採ってくる。しかし、ギルガメッシュが泉で水浴している時に、その草はベビに奪われてしまう。ウルクに帰ったギルガメッシュは城壁の修復など街の復興に力を入れた。

 解説によれば、ギルガメッシュ像はかなりの程度まで歴史的な姿であり、それが伝説化していったのだろうという。

 本書にはもう一編「イシュタルの冥界下り」が掲載されている。

 豊穣と愛のイシュタル女神が、冥界に行ってしまった夫タンムーズを連れ戻すために、冥界の7つの門を潜って行き夫を連れ戻したという神話。門を通る度に身につける物を剥がされ、最後は全裸になってたどり着く。冥界を支配するのはイシュタルの姉エレキシュガルである。イシュタルは姉に瞬殺されるが、やがて蘇り地上に戻る。イシュタルはシュメール神話では圧倒的な存在感のある女神で、後のギリシャ神話のアフロディーテにつながるとされる。

 本書は同名のタイトルで1965年に山本書店より刊行されたものに、「イシュタルの冥界下り」を加えたものとのこと。60年近く前に翻訳されたのだ。


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書名 日本人はどこから来たか 著者 加藤晋平 No
2023-08
発行所 岩波新書 発行年 1988年 読了年月日 2023-04-17 記入年月日

 家のリフォームをするためにものを整理していた際に出て来た本。メソポタミア神話を読み、その古い歴史、文字文化に驚嘆していた際だったので先ず本書を読んだ。
 サブタイトルは――東アジアの旧石器文化――

 文字通り当時のソ連、中国などの遺跡から出る石器を調べ、その形態から旧石器文化の伝搬を推理し、日本に至る経路を明かす。たくさんの石器の図が掲載されている。わずかな形態の差が論じられるが、素人目にはよく分からない差である。特に年代の旧い石片が自然のものか、人の手によってその形になったかの区別も素人目には分からない。

  一万二〇〇〇~三〇〇〇年前に、東日本を覆ったクサビ型細石核を持つ細石刃文化を担った人類集団の技術伝統は、バイカル湖周辺から拡散したものである。この考古学からの仮説は、最近、人類学者から提出された研究成果とよく一致している。(p171)
 ちなみに、人類学者の成果とは免疫グロブリンの遺伝子解析である。このことより日本民族の北方起源説を著者も採っている。

 バイカル湖周辺地域から東方への人口拡散の動機は何か。著者は河川資源の開発であるとする。人類が狩猟・採集経済から、いち早く漁労活動をとりいれるようになった地域の一つは、北アジアの内陸河川・湖沼地帯で、後期旧石器時代に開始された。狩猟と比べ危険性が少なく、収率の高いこの生産活動は、後期旧石器時代の人口増を招き、そのため人口拡散を繰り返した。この人口拡散の方向が東方であったのは、内水面漁労として発達した技術の中に産卵遡上するサケ・マス漁労が含まれ、季節的に収穫量の一定している北大西洋沿岸の魚類を求めたからである。(p170)

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書名 科学の哲学 著者 柳瀬睦男 No
2023-09
発行所 岩波新書 発行年 1984年 読了年月日 2023-04-30 記入年月日

 これも家内整理から出て来た本。同じ頃発刊された、同じ作者の「現代物理学と新しい世界像」という本は10年前に読んでいる。本書も同じ頃手に入れたのかもしれない。

 冒頭、物理学とは「物とは何か」と「変化とは何か」の二つの問いに答えようとする物だとある。なるほどと思う。前の質問から物質の構造が問題とされ、さらに本質はなにかが問題とされる。あとの質問からは法則の発見が引き出される。

 世の中を見ると変わるものと変わらぬものがあると考えたのはアリストテレス。変わるものは何か、変わらぬものは何かを突き詰めて行くのがそのとき以来続いている哲学の根本課題の一つだと著者はいう。

 物の本質とはなにかとの問いに著者はエネルギーであるとする。「物の本質は何か」――エネルギーである。「変化とは何か」――エネルギーがいろいろな状態に変わることである。「変わらないものは何か」――エネルギーであると著者はいう。相対性理論のの最も重要なところは、物質がエネルギーであることを数量的に示したところである。

 力学的エネルギー、電磁気的エネルギー、そして物質というのが我々が今もっている知識としてのエネルギーの形態である。

 物理学と数学の関係も述べられている。量子力学ではプランク常数hを2π
i で割ったものがよく出てくる。虚数iをつけると実にうまく行く。πは円周率だが、πが色々なところに顔を出すのは、円運動が全ての運動の基本にあるからだという。虚数については今以て私は理解できない。

 数学の3つの立場(p128~)
論理主義:数学は全部論理であると言う。バートランド・ラッセルら
直観主義:数学には決して論理に還元できないものがある。例えば1プラス1がなぜ2になるかは論理的に決めることはできない。直感で初めて悟ることができる。ブラウアーら。
形式主義:数学が問題にしていることは数学のもつ構造、形式だけであるとする。ヒルベルト。
 現代では形式主義の立場が一般的になっている。

 著者の哲学的な立場は実在論である。本書のまとめの部分:
 
……人間は、憐れな葦なのですけれども、しかし考える葦である。この考える葦が見つけ出した自然法則は自然を統一的に理解し、世界像をつくりあげて来ました。またそれを使っげ、われわれはいろいろなものの役に立つように利用している。
 ところでわれわれにとってもっとも大切なのは、その基礎を探って自然科学の真理性を哲学的に確かめることです。まず、われわれが自分の自我を認めること。自意識の中で、あるいはわれわれの指向がが外に向いているときだけけなくて、こんどは内側へ戻ってきたときに、自分自身を認めること。そこから自分自身の体と外界――目に見えるものだけでなく、見えないものも含めて――を認めること。それは哲学的に実在論の立場です。そういう態度がやはり、一番われわれにとって健全な態度ではないのか。そして実際、そういう態度が自然科学をつくりあげてきたし、それから自然科学の応用としての技術をつくりあげてきていると思います。


 本書は「科学基礎論」という上智大学での講義を材料としている。

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書名 ヒトはどうして人間になったのか 著者 R.リーキー、R.レウィン著、寺田和夫訳 No
2023-10
発行所 岩波現代選書 発行年 1981年 読了年月日 2023-05-09 記入年月日

 
再読。以前に読んだのは40年近く前だろう。人間とはどういうものかを知る意味でも良い本だと思った。その後同じ著者の『ヒトはいつから人間になったか』を読んだ。本書も家内整理で出て来たもの。

 広汎な分野に及ぶ記述に満ちていてるが、本書をまとめるとすれば、互恵的利他主義と食料分配経済がヒトから人間への進化圧力となったという主張。(p177)。

 最後の第11章「狩猟仮説の終焉」では、戦争は人間の動物としての本能に由来するという説を否定している。(p286~)

 戦争が人間の本能に基づくという説の根拠は、一つは主縄張りと交尾を巡る動物の争い、攻撃性と、もう一つはヒト科の化石に見られる主として頭蓋骨の人為的と思われる損傷。この根拠を、著者は否定する。動物の攻撃性は決して相手を殺すことはなく、「
高くつく喧嘩よりも様式化した短いいがみ合いで落ち着かせるのがどちらにとっても都合がよいのだ。動物界では、各個体は仲間である闘争相手を始末するのではなく、威し勝つのが習いである。」(p288)

国が戦争に突入するのは、個体心理学や個体の行動とはほとんど無関係である。それは政治的な緊張あるいは脅威に対する政治的な反応である」(292)
戦争は文化的発明であり、基本的生物本能ではない。」(p304)

 損傷ある化石に関しては、損傷が死亡前につけられたものより、死後に化石化する過程で何らかの力によりつけられたものである可能性が高いという報告を著者は支持する。

 また、北京原人の遺跡で見つかった脳味噌が喰われたと思われる頭蓋骨は認めるが、それは死んだ仲間への愛と尊敬の印しを示す行為である可能性が高いという。
 部族外の人肉食の例も今でも残るところがある。アマゾンでの調査によれば、狩猟採集部族よりも農耕を主体とする部族に多い。そのことから、他部族民を喰う風習は狩猟社会の特質より、農耕社会の発展に伴っているのではないかという。

 R.リーキーの父はアフリカで人類の化石の探索を行った古生物学者であり、リーキーも父の仕事を継いだ。化石探索の具体的なエピソードが冒頭の数章で語られる。
 彼が化石探索を行ったのはケニアのトゥルカナ湖畔。川からの季節的な流水によって養われるトゥルカナ湖はその意味で理想的である。化石が保存されるためには、先ず骨が細かい砂で覆われ保護されること、次いで骨の化学物質が固い岩石系のミネラルで置き換わること。このようなことが起こるのは湖の周りに3カ所ある。一つは湖畔で静かに寄せる波が浅瀬にはまった骨の上に沈積し骨に覆い被さる。二つ目は、川が湖に流れ込む場所、そして三つ目はその中間、川が湖水に近づき流れが緩くなり砂を沈殿させる場所。やがてしにゆく動物は息を引き取る場所として第三の場所を選ぶであろう。実際トゥルカナ湖畔での人類化石の大部分は第三の場所で見つかった、(p15)

 500万年前の直立歩行するヒト科の動物として、ホモ・ハビリス、アウストラロピテクス・アフリカヌス、アウストラロピテクス・ボイセイ、そしてラマピテクスとどこか似た動物の4種を挙げる。(p56)

 
豊富な食糧資源を開発した非農耕民のもっとも新しい例は北アメリカ西北海岸のインディアンと日本の北部に住むアイヌである。狩猟、とくに漁労がきわめて高生産だったので、これらの民族は大きな村に住んで、遊動的採集狩猟民には見られない複雑な社会構造を発展させた。彼らは首長を頂点とする十分に発達した社会構造をもっていた。通貨をもち、それによって冨と特権を享受した。そして食料供給に季節性があるため、食糧貯蔵の組織的なシステムを発展させた。この現象の重要な点は、村と町の生活と、それに伴う物質文化の進歩の原因は農業それ自体ではなく、単一の地域における多量の食料供給に他ならないということである。(p302~)。

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書名 武蔵野探勝 著者 高浜虚子編 No
2023-11
発行所 有峰書店 発行年 昭和44年 読了年月日 2023-06-12 記入年月日

 
少し前のエッセイに曾我梅林のことを書いた.その際曾我には虚子の句碑があり、虚子一行が武蔵野探勝会で当地に吟行したことがあること知った。武蔵野探勝の記録が本になっていることを知り、読んでみたくなった。

 横浜市立図書館より借り出し。初出は昭和16年。本書はその復刊である。
昭和5年8月から昭和14年1月に及ぶホトトギス一門の月1回の主として武蔵野の吟行記録で、ちょうど100回を数える。ハードカバーで500ページを超す。
 1回の参加人員は30人前後。毎回参加者の一人が吟行記録と選句結果をまとめる。掲載される句は虚子の選に入ったものだけ。投句数は一人10句が原則のようで追加もある。本書に記載されるのは30句から40句。当然1句も虚子の選に入らない人が出る。虚子の句の掲載基準は不明だが、出句が全部は掲載されてはいない。

 とにかく面白い。90年前の東京の風物を知る格好の読み物。当時の生活、風俗、人情、風景、農村の生活、子供たちの様子など知る上での史料として読んで面白い。もちろん、吟行記録だから、俳句がたくさん掲載されている。毎回30名近くの俳人が参加し、ホトトギス一門の結束の固さを感じる。風生、青邨、草田男など、私にもなじみのある俳人達の句や挙動も興味深い。

 写生に徹する。各自弁当持参。毎回のように本田あふひさんの差し入れがあり皆それを期待する。雨によくたたられる。郊外に行けば到るところに桑畑があり養蚕が行われている。暖をとるために焚火をする。室内は火鉢の暖房。

 読了後手元に置きたくてアマゾンで古本を購入。7500円と高価だったが傷みや書き込みはなかった。
 たくさんの付箋を付けた。

p68:昭和6年5月 狭山 土地の人の世話にならない
  茶摘みのシーズンで狭山の人から案内しましょうと言う申し出が事前に幹事のところにあった。しかしこの会は地方の人に頼らないというのが原則で、申し出を断ったと。

p87:昭和6年8月 奥多摩 流された人
 一向の目の前で川に流された背広姿の男を、若い男が飛びこんで助けた。星野立子が情景を細かく描写している。

p89: 昭和6年9月 北埼玉郡須加村川島奇北邸 31名 2時半までに即景10句。
 浅草から東武電車で1時間20分で羽生、そこから車。昼食後2時半までに即景10句。
 吟行は大体こんな調子で短時間の間に多数の句の出稿を求められる

p102:昭和6年11月  浦安 下調べ
この回の執筆者池内たけし(虚子の兄の息子)は星野立子、安田蚊杖(全体の世話役)と共に事前に下調べに来たと記す。 良い句を作るためには下調べも辞さない。
p103:同上 浦安 虚子の蝿の句
 昼食に入った茶店では蛤鍋がなかなかできてこない。蝿がわんさかいた。虚子の2句:
  飯ふきし釜の上とぶ秋の蝿
  飯食ふや口にとびこむ秋の蝿
  上の句は即景、下の句は誇張表現。

p107:昭和6年12月 落葉の庭  川越喜多院 若い草田男の句
  永く居て薄き秋日にあたたまる  草田男
 「若い盛りの草田男君の口から、しみじみとしたこんな句さへ出のだから。」と富安風生は、寒かった吟行を記す。ちなみに草田男は30歳.風生46歳。

p110:同上  芸者、娼家のこと
 喜多院を垣根一つ隔てて色町がある。風生はそこですれ違った芸者に声をかける。以後その芸者が気になって仕方がなかった。句会では「枯木の影から又外の芸者が現れた」とか「喜多院の落葉が降る娼家」といった句は皆先生の選に漏れたことは、大変残念だったと風生は書いている。即景の句とは言っても虚子好みではない。むしろこうした句が出てくるところに虚子一門の多才ぶりが窺われる。

p111:昭和7年1月3日  隅田川春色  東京の三大公園 山口青邨記
 東京の三大公園として、日比谷公園、上野公園、芝公園をあげる。震災後、いくつかの小公園が作られ、吟行地の浜町公園もその一つ。

p145:昭和7年8月  武蔵水郷  亀甲万 青邨記
 野田の醤油工場を見学し、古利根川で舟遊び。今のキッコーマン醤油だが、「亀甲万」と表記されている。工場見学には3分の1ほどのメンバーが参加せず、別のところに休んでた。虚子は参加し出来たての醤油をなめてみる。皆うまいうまいと言うが、筆者の青邨はそんなにうまいものでもないと記す。

p176:昭和8年3月 六郷堤 多摩川のゴルフ場  松本たかし記
 筆者の松本たかしは鎌倉から東京へ向かう時、電車が轟音を立てて六郷鉄橋を渡る時、多摩川を眺めるのが、大好きだったと記す。多摩川の東京側の葭の生えていた河原が、すっかり刈り取られ、芝生のゴルフ場になったという。現在は16面の野球場を主体とする一大緑地になっている。
p179:同上 同一季題の句
 虚子選の中に昼に食べた壺焼きの句が4句、焼蛤の句が5句ある。一人10句も詠み、30人も参加する吟行だから、こうしたことはあって当然なのだろう。

p182:昭和8年4月 大きい辛夷のある庭  風生入選なし  風生記
 石神井の豊田園の庭。吟行の記録係をやらされた風生は、虚子の選句半紙2枚を並べ、30数句並んだ句の中に自分の句が一句もないと記す。記録係をやると「スコンク」になると嘆く。「スコンク」は今となっては死語だが私の若い頃にはよく使われていて、テニスのゲームで4-0で負けたりするとよく「スコンクで負けた」といったものだ。披講が終わってすぐにもう一回、3句やりましょうと虚子がいう。それ自体がすごいことだが、やり直しでも風生は選から漏れた。風生の文章は面白い。
 なお、辛夷を季題とした句が16句も虚子選になっている。

p191:昭和8年5月 横山妙見寺 多摩川以西のこと 虚子記
 南部線稲城長沼駅下車。
多摩川以西の此の横山近傍には、まだ新しい文化の波が押し寄せて来て居ないで、青や赤の薄っぺらな嫌な建物を見ることが無く、村屋野径は昔の儘である事が、心を平らかにして、奥床しい感じを抱かしめるのである」と記す。

195:昭和8年6月 牛久沼 あふひさんのこと 佐藤漾人記
 本田あふひさんはこの吟行会のマドンナ的存在。毎回お菓子、あるいは昼食の差し入れを持参し、吟行記録にもよく名前の出る俳人。今回は牛久沼へ。常磐線の車中で例によってお菓子を皆に配る。その後、虚子一門がやる能の今月のプログラムを配り皆に練習することを求める。まだ練習していないと抗議しても、どんどん稽古をつけてあげますと、一人で決めている。そんなあふひを「
どんどん人を引き込む力は偉大なもんだ。今に日本も女の大臣が出るやうになろうが、そしたら、差詰、あふひさんを大臣にするんだね」といった車中の会話が記される。

 本田あふひとは初めて聞く名前。ネットで調べてみた。坊城家の出、坊城家は伯爵の爵位をもつ。夫は貴族院議員で男爵。生粋の華族だ。弁当を自動車で運ばせたなどという記述もうなずける。本田家は虚子による鎌倉の能舞台設立にも関わったというから、あふひは能の先生役も出来たのだ。虚子より1歳年下。昭和14年、64歳で亡くなった。

p204:昭和8年8月  玉川村上野毛・東京の孫  筆者鈴木花衰
 今は上野毛といえば高級住宅街。当時は村だった。吟行はそこの農家を会場として行われた。上野毛は北条一族が落ち延びて住み着いたところという。
 農家の門から日焼けした12,3歳の子が水着姿で飛び出していった。「
東京の孫が夏休みに遊びに来るのですよ.毎日玉川に泳ぎに行ってばかりいて帰ろうとしません」と主人。90年前、上野毛は東京ではなかったのだ。

p212:昭和8年10月 水郷の秋 車窓10句  風生記
 鹿島神宮へ向かう.鹿島神宮の宮司はホトトギスの俳人であるとのこと。8時54分両国発の常磐線。虚子は立子と共にようやく間に合い、あふひの手提げ袋も大分充実しているようで一安心と。大阪から阿波野青畝も参加した。汽車が動き出したらすぐに車窓10句が虚子より指示された。

p236:昭和9年1月 哲学道 安田蚊杖記  虚子欠、あふひ自動車
 西武電車新井薬師前下車。虚子は首のできものが治らず欠席。あふひも風邪気味で欠席の報。意気上がらずに早めに昼食を済ませた。そこへあふひがやってきた。昼食が早すぎたと思ったが、あふひからも早すぎるといって叱られる。自動車の運転手が両腕に余るほど、あふひも双手に大包み。七草粥その他種々のごちそうである。

p247:昭和9年2月  雪の百花園 向島 大橋越央子記  虚子還暦祝い、東京音頭、草田男のガマの油
 虚子は還暦を迎えたが、祝いを固辞。そこで探勝会の吟行と兼ねることにした。
 虚子自身の祝いの句は6句載っているが、他の人の祝い句は2句しか載っていない。虚子の選に入らなかったのか。
 賀の会の昼の食事や蜆汁   虚子
 還暦や墨堤の雪なつかしみ  水竹居

 句会が終わって賑やかな宴席となる。参加者の一人麻田椎花翁の赤装束を借りた草田男が、真ん中で踊り出し、ガマの油の口上、当意即妙の文句、節回しも鮮やかにやってのければ、満座の拍手喝采しばし鳴り止まずだったと。
 次々に色々な芸が出て、最後は水竹居翁と漾人の東京音頭で賑々しく散会。

p291:昭和9年12月 東京名所遊覧 佐藤漾人記
 バスによる東京名所巡り。今読んでも面白い。
 最初にガイドガールの紹介。芳紀18,9歳。容貌服装がくわしく記され、「こ
の日の人気を始めから終りまで一身にあつめたとても愛すべき一嬢」として紹介される。それだけに「・・・案内ガールや冬椿」「・・・カーネーションに似し」と彼女を讃えた句は多かったが、すべて虚子先生の選には漏れたと記される。巻末の解説で、、駒澤大学教授の桜井正信は、このときの虚子の選句態度を取り上げ、俳諧の精神構造の道しるべを確立して、指導者の正しい態度を持ち続けたと評している。
 コースは丸ビルから宮城、楠公銅像、靖国神社、麹町青葉通り、明治神宮、乃木大将旧宅、高輪、泉岳寺、新橋を渡り銀座へ、歌舞伎座を通り、震災記念堂、隅田川を越え、上野公園に。

p371:昭和11年3月8日 明ぼの楼 楠目橙黄子記 2・2・6事件のすぐあと
 2・2・6事件のため本来の第一日曜日を1週間ずらした。それでも戒厳令はまだ解除されていない。その上、虚子は外遊して不在である。それでも吟行を続ける熱意!虚子は不在中でも探勝会は続けるように言い残している。
 場所は池上本門寺近くの料亭。梅園がある。
 明治時代は東京から1泊で来た旅館とのこと。明治に関連して草田男の「降る雪や明治は遠くなりにけり」の句の事が述べられていて、すでにこの句は有名だったことがわかる。
 互選だけで、作者ごとの得点が掲載される。未曾二が27点でダントツ。次いであふい外2名が13点。
 淡雪の梅を離るる雫かな    あふひ 8点が最高点。
 風生も青邨も3点以上の句はなかった。ただし問題句として
  梅寒しちょんちょんちょんちょん群雀   風生
 風生は「この句はきっと先生には見出されるんだがねェ」という。すべての作品に対する問題の解決は先生の御帰朝をまうことにすると筆者。嬉しさもかなしさもないいつもと違った気持ちで仲良く家路についた、と結んでいる。虚子の存在は絶大だ。

p391:昭和11年8月 暖依村荘 大橋越央子記 遠来の出席者
 場所は西ヶ原の旧渋沢子爵邸。外遊から帰った虚子が半年ぶりに参加。それかあらぬか遠来の参加者が多い。蘆屋のとしを(多分高浜年男)、大阪の菊坡、京都の白川、すばある、新嘉坡(シンガポールのこと)の水城、諫早の石羊、水戸の高浪、北海道の薄氷、駄々子、牧翠の名を挙げている。

p399:昭和11年9月  印旛沼から成田へ 風生記 車中句会
 披講も終え、精進料理もごちそうになり、成田7時半発の汽車に乗り込む。空いていて1車両をほぼメンバーで独占。虚子が句会をやろうと言い出す。あいにく短冊を持ったメンバーはもう別れてしまった。各自手帳を切り離したり、女性は懐紙を用いたりして出稿。集まって披講する際には、他の乗客も数人後の方で見ていた。20句ほど載っている句から虚子と風生の句を。
 秋の夜の闇は四角や汽車の窓   虚子
 今日の日の楽しかりける汽車夜長 風生

p413:昭和13年1月3日  新潟行  執筆者5名
 新潟在住の俳人から是非新潟の雪を見に来てくれと誘われた.さらに新潟の高野素十からも誘われ、武蔵野を飛び出して新潟へ。「武蔵野俳人の赴くところ皆これ武蔵野で、新潟どころか、支那、朝鮮、満州、欧米までも機会さへあったら渡り鳥の如く翔り廻るのだと気炎を吐く人もあった。」と赤星水竹居は記している。
 おそらく本書の中で最も長い報告。5名が分担執筆している。

p439:昭和12年3月  越ヶ谷の梅見 青邨外遊 10分間で2句 楠目橙黄子記
 青邨は外遊して不在
 青邨の船はいづこぞ枝垂梅 越央子
 「
毎時此探勝会に現れて、時に欣欣.時に快快たる表情を以て吾が情を愉快ならしむる青邨氏の顔の見えぬことは全く淋しいことである」と橙黄子は記す。青邨はこの句会の熱心な有力メンバーだった。
 帰りも東武鉄道提供の優良車に乗る。虚子から小一時間このまま過ごすことは出来ない、10分2句の号令。12句が載っているが、虚子の句はない。

p443:昭和12年月  真間山の花  まさおなる空より 池内たけし記
 まさをなる空らより枝垂桜かな   風生
 風生の代表句の一つはこのとき生まれた。私も2017年に、真間の弘法寺で満開の桜のもとでこの句碑を見た。

p447:昭和12年5月 霞霧園緑雨  メンバーのひとりが選挙に出た 佐藤漾人記
 調布の新田邸ガーデン霞霧園。前々日行われた総選挙に出馬したメンバーの大橋杣男が惜しくも敗れたのを皆が残念がる。こうした著名人が虚子の周りには集まっていたこともホトトギスが一大勢力となった一因であろう。それも虚子の人物のなせるところか。

p450:昭和12年6月 さみだる々沼  虚子の選評  大橋越央子記
 手賀沼吟行。越央子が昔話を記す。
 会の長老水竹居と椎花がまだ初歩の頃、百花園吟行で会心作として以下を投じた。
 焼土に蟻這ひ廻る残暑かな   水竹居
 藁の帽洗ひ残せる残暑かな   椎花
ところが両句とも虚子の選から漏れた。大いに不満だった両翁は落選の理由を虚子に聞いた。「陳腐ですね」が虚子の回答だった。

p475:昭和12年11月  広重の杉戸の寺  真下喜太郎記
 横浜線小机駅周辺は今でも市街化されていないところだ。吟行小机の泉谷寺。増上寺の末寺とのこと。境内の裏山には1万坪の広さの泉谷遊園地があると言う。今はない。
 稲架の中人急ぎくる小池かな  虚子

p489:昭和13年3月  西郊春色  句材はどこにもある、必要なのは先生 風生記
 句会の場所は示されているが、その他は明大付近の散策が目的と思われる。風生は書く。「
武蔵野探勝会も結局は先生といふものが必要なので、場処なんかただの田園だろうとごみごみした町の中だらうと、実はどこだつていいのだ。どこだつて俳句の種のないところはないのだから――」。

495:昭和13年4月  深大寺 あふひさん欠席について虚子の句 高浜年尾記
 いつもこの行に食事の万般のお世話をして下さるあふひおばさんが、工合が悪いために不参加であるのは淋しいことであると記す。
 此行に欠けし人あり花に病む   虚子
 鬱々と花暗く人病みにけり    虚子
 本田あふひさんは翌年亡くなった。

501:昭和13年6月 鴉の森  戦争の影  大橋越央子記
 千葉駅から車で大巌寺の森へ。乗った車は木炭自動車である.海岸通りでは酢のくさったような匂いがするが、それは澱粉とアルコールを取るために馬鈴薯を刻んで乾かしている匂いだと。戦争の影がすでに感じられる描写。

p522:昭和14年1月1日 鶴ヶ丘八幡宮初詣 虚子記
 武蔵野探勝会100回目。これを以て終了とする。最後に虚子は各人の出席回数を記す。
95 虚子、87 東子房、84 柏崎夢香、81 本田あふひ、 78 安田蚊杖、鈴木花衰、77 小林拓水、74 富安風生 

 私も俳句を始めてもう100回近くの吟行は行っている。自句と他入選句は記録しているが、こんなくわしい記録はない。


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書名 虚子五句集(上) 著者 高浜虚子 No
2023-12
発行所 岩波文庫 発行年 1996年 読了年月日 2023-06-2 記入年月日

 私自身が虚子らしくないと思うような句に目が行った。今の感覚から見たら平凡にも見えるが、わかりやすく、楽しい。それで決して凡庸ではない。虚子の圧倒的な力、偉大さを改めて感じる。虚子の日頃の生活ぶりが浮かび上がってくる。

 1650句の中からピックアップ 。
春雨の衣桁に重し恋衣      M27 冒頭の句
もとよりも恋は曲者懸想文    M29
蛇穴を出て見れば周の天下なり  M31
秋風にふえてはへるや法師蝉   M37  田町海水浴場での例会、井泉水の名あり。
行水の女にほれる烏かな     M38
座を挙げて恋ほのめくや歌かるた M39
垣間見る好色者(すきもの)に草芳(かぐわ)しき M39
桐一葉日当りながら落ちにけり  M39
後家がうつ艶な砧に惚れて過ぐ  M39
春風や闘志いだきて丘に立つ   T2

大寺を包みてわめく木の芽かな  T2
葡萄の種吐き出して事を決しけり T2
これよりは恋や事業や水温む   T5
麦笛や四十の恋の合図吹く    T5
恋はものの男甚平女紺しぼり   T5
人間吏となるも風流胡瓜の曲るも亦 T6
天の川のもとに天智天皇と虚子と  T6
鞦韆に抱き寄せて沓に接吻す   T7
麥踏んで若き我あり人知るや   T14
春宵や柱のかげの少納言     T14

七盛の墓包み降る椎の露     S3  赤間神社
流れ行く大根の葉の早さかな   S3  九品仏吟行
眼つむれば若き我あり春の宵   S4
秋山や櫟木をはじき笹を分け   S5  第二回武蔵野探勝会多摩の横山
                    以後探勝会の句がかなり出てくる
酒うすしせめては燗を熱うせよ  S6
慟哭せしは昔となり明治節    S6
花の雨降りこめられて謡かな   S7  
京都、安倍、和辻両君来り、謡二番。
神にませばまこと美はし那智の滝 S8
浴衣着て少女の乳房高からず   S8
川を見るバナナの皮は手より落ち S9

一を知つて二を知らぬなり卒業す S10
椿先ず揺れて見せたる春の風   S10   あふひ還暦祝
上海の霙るる波止場後にせり   S11   以下海外詠
夏潮を蹴つて戻りて陸(くが)に立つ S11 海外詠の最後
眉目よしといふにあらねど紺浴衣 S11 
たとふれば独楽のはぢける如くなり S12  
碧梧桐追悼 碧梧桐とはよく親しみよく争ひたり。
へこみたる腹に臍あり水中(みずあた)り S12
春宵をあだに過ぎなば悔あらん S13
校服の少女汗くさく活潑に     S13
並び陥つ広東武漢秋二つ      S13

悦びに戦く老の温め酒       S13   
この2句は武漢陥落を祝す句
雲乱れ霰忽ち降り来り       S14   武蔵野探勝会100回、最後の句
面つつむ津軽をとめや花林檎    S14
秋風やとある女の或る運命(さだめ) S14
大寒の埃の如く人死ぬる      S15
涼しきは下品下生の仏かな     S15   九品仏
夏潮の今退く平家亡ぶ時も     S16
戸の隙におでんの湯気の曲り消え  S16 12月21日 開戦日の句は載っていない。
老農は茄子の心も知りて植ゆ    S17

活潑にがたぴしといふ音すずし   S17
何事も人に従ひ老涼し       S17
この人や時雨のみにて律する非   S17  芭蕉三百年祭祝句
スリッパを越えかねてゐる仔猫かな S18
行き過ぎて顧みすれば花しどみ   S18  花しどみは草木瓜のことで春の季語 花樝。
振り向かず返事もせずにおでん喰ふ S18
うは風の沈丁の香の住居(すまい)かな S19
蒼海の色尚存す目刺かな      s19

秋蟬も泣き蓑虫も泣くのみぞ    S20  
8月22日在小諸 詔勅を拝し奉りて、
                     朝日新聞の需めに応じて。以下2句も

敵といふもの今は無し秋の月
黎明を思ひ軒端の秋簾(あきす)見る   
句を玉と暖めてをる炬燵かな     S20
思ふことは書信に飛ばし冬籠     S20  掉尾の一句


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書名 虚子五句集(下) 著者 高浜虚子 No
2023-13
発行所 岩波文庫 発行年 1996年 読了年月日 2023-06-22 記入年月日

 句会の多さ、各地への旅行、旅行先での吟詠、多数の句会、子規の忌への配慮、草田男の年賀、天皇との午餐、三笠宮との交流、各会著名人との交流、老いの春

 1400句より
昭和21年
風の日は雪の山家も住み憂くて    冒頭の句
残雪の這ひをる畑のしりへかな
早苗饗のいつもの主婦の姉かぶり
取敢ず世話女房の胡瓜もみ
露草に似たる女を訪ねばや
父を恋ふ心小春の日に似たる
盤石の尻を据ゑたる冬籠

昭和22年
今宵はもよろしき凍や豆腐吊る
恋めきて男女はだしや春の雨
悔もなく誇もなくて子規忌かな
斯くの如く経来たりしぞ子規祭る
爛々と昼の星見え菌(きのこ)生え
恵方とはこの路をただ進むもと

昭和23年
尼寺の蚊は殊更に辛辣に      
本田あふひ十年祭、英勝寺
アカシヤに凭れて紀陽パリの夢
秋天にわれがぐんぐんぐんぐんと
水飲むが如く柿食ふ酔のあと   
 京都にて 吉井勇、谷崎潤一郎、年尾、立子他と会食

昭和24年
涼しさや子規のことなど聞え上げ  
芸術院会員宮中御陪食
梅雨眠し安らかな死を思ひつつ
銀河中天老の力をそれに得つ
わが終り銀河の中に身を投げん

昭和25年
熊谷草を見せよと仰せありとか  
宮中で三笠宮主催の俳句会、両陛下、立子、虚子出席
朝顔や政治のことはわからざる
元日に田毎思ひし古人はも
この女此の時艶に屠蘇の酔

昭和26年
ふと春の宵なりけりと思ふ時
朴散華而して逝きし茅舎はも
涼しくも生きながらへて紅つけて 東海道線の食堂車の給仕田中嬢に贈る。先年大負傷せし由。

昭和27年
雪解風といふ風吹きし小諸はも
志俳句にありて落第す
老いてここに斯く在る不思議唯涼し
起き出でてあら何ともな老の春
何事も知らずと答へ老の春
傲岸と人見るままに老の春

昭和28年
ああ酔ひし妹が弾初いざ聴かん
書き留めて即ち忘れ老の春

昭和29年
明易や花鳥諷詠南無阿弥陀
菊の日も暮れ方になり疲れけり    
宮中参内。文化勲章拝受
羽子をつき手鞠をついて恋をして

昭和30年
親蟹の子蟹誘うて穴に入る
貴船出て立寄る柿の円通寺
虻と我菊の日向に酔ひゐたり
元日や句は須く大らかに

昭和31年
例の如く草田男年賀二日夜    
草田男は最後まで虚子を師としていたのだ
石庭の石皆低し円通寺         円通寺句碑除幕式
昭和32年
母がせし掛香とかやなつかしき
風生と死の話して涼しさよ

昭和33年
夏蝶の高く上がりぬ大仏(おおぼとけ)
藤豆の垂れたるノの字ノの字かな
明の春弓削道鏡の書が好きで
志俳諧にありおでん喰ふ

昭和34年
独り句の推敲をして遅き日を    掉尾の句

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書名 ロシア的人間 著者 井筒俊彦 No
2023-14
発行所 中公文庫 発行年 1989年 読了年月日 2023-07-23 記入年月日

 帯には「
何が彼らを突き動かすのか。19世紀ロシア文学からその精神の深奥に迫る」とある。

 昭和28年に書かれた序で、「
十九世紀のロシア文学は、たんにロシア内部における内的現象ではなくて、まぎれもなく一つの世界現象である。中略 十九世紀ロシア文学は、他国の十九世紀文学とは全然違って、今日の文学である。」と述べる。

 永遠のロシア、ロシアの十字架、モスコウの夜、幻影の都という4章に続いて、プーシキンからチェホフまで10人の作家が取り上げられる。

以下本書から
〈永遠のロシア〉
 
彼(ロシア人)にとっては原初的自然性からの離脱は直ちに自己喪失を意味し、人間失格を意味する。ロシア人はロシアの自然、ロシアの黒土と血のつながりがある。p18.

 人間精神の理性的な部分の下には「
無限に大きな、暗い氷山の巨体が隠れひそんでいるのだ。それは人間の理性をもってしてはどうしても到達できない非合理的な存在と実存の深層なのである。そしてそこにこそロシア的人間の精神は棲息する。」p19.

 
ロシア的人間には行きづまるということがない。民族の根源的な楽天主義(p24)

 
限界のないロシアの自然は、一切が鮮明な輪郭をもち、ものみながくっきりと限界づけられたギリシャの自然と対蹠的である。  中略 限界は自由の束縛、即ち悪を意味する。中略 ロシアの偉大な思想家達はいずれも、人間存在の究極の問題を自由の問題として把握した。 (p29)

 
ロシア文学全体の中心軸は人間である。(p30)

 
ドストイェフスキーの基督教的人間像も、革命後のコミュニズム的人間像も、人間の究極の救済を目指す点にかけては少しも異なるところはない。(p32)

 
ロシア文学では「いかに書くか」ではなくて「何を書くか」が常に第一義的な意義をもつ。(p33)

〈ロシアの十字架〉
 
ロシア人は十字架において、我々は、人々と共に卑しめられ辱められた一個の人間をみる。それは「虐げられた人」としての人間基督だ。「虐げられた人々」の自覚に生きるロシア民族と共に虐げられ、共に苦しみ共に悩む基督の姿だ。そこには民族と基督の間に、他に類を見ない人間的共感がある。(p41)

 
ニーチェは基督教を奴隷の宗教とののしり、奴隷的人間にこそふさわしい宗教だと言ったが、幸か不幸かロシア民族は事実上、一個の「奴隷」だった。しかも韃靼人という東方「蛮族」の奴隷だった。(p42)

 
当時、華の都と詩歌にも謳われたキーエフが灰燼に帰したのは一二四〇年のこと。陽気で何の屈託も知らぬロシア人は一夜にして奴隷の屈辱に叩き込まれてしまった。(p43)

 
基督の復活は、彼ら自らの苦悩もついには必ず輝かしい終末に達するであろうことの保証にほかならなかった。(p48)

 
この国では、「父なる皇帝」を戴く専制政治や、さもなければ唯物論が、堂々と神の王座にすわることができるのだ。(p49)
 
コミュニズムは宗教を否定するところの一つの新しい宗教である。(50)

〈モスコウの夜〉
 ドストイェフスキーの『悪霊』の一節に続き次ぎのように記す:
「無神論者はロシア人ではない」「正教徒でないものはロシア人ではあり得ない」これは(中略)ドストイェフスキー自身の意見である。中略 彼らは常に神を求めている。神の探求は彼らの魂の最も激しい渇望である。しかしながら……それは絶対に「ロシアの」神でなければならない。(p53)
  ユダヤ人と同じように 「ロシアが世界を救う、という確信」がロシア人にはあると言う。(p54)
 
 
このメシア主義的使命感は、二十世紀初頭の大革命によって一時挫折したかのごとく見えたが、たちまちその衣装をかえて再登場した。いや、実はこの使命感こそロシア革命の根本精神なのだ。(p63)

〈幻影の都〉 モスコウからペテルブルグへ都を移したピ
ートル大帝について述べる。

 
ピョートル大帝はロシアの政治史が生んだ無類の「怪物」であった。中略 だから彼が、人間の棲むところではない瘴気の沼地に、周囲の人々の反対を平然と押し切ってペテルブルグを建て、モスコウから首都をそこへ移した時、ロシア人自身すら彼を稀代の大馬鹿者と思い、ロシアを亡ぼす狂人だと言って恐れた。誰一人として彼の雄大な世界史的意図を解する人はいなかった。(p76)

 
ピョートル大帝の創った「奇蹟」、それこそかの近代国家、世界国家としての新しいロシアでなくて何であろう。何ものも顧慮せず、何ものも仮借せず、強引に彼は近代ロシアの運命を決定した。(p77)

 
元来、モスコウ・ロシアは、四隣から完全に孤立して自己の殻の内に固くとじこもった東洋の国に過ぎなかった。中略 ロシアの再生のために、新生ロシアの誕生のために、何より大切な目下の急務はモスコウ的孤立を打破して西ヨーロッパの文化を思い切りどう移入することだ。(p78)
 ……
彼は最もロシア的な暴力革命の権化なのである。(p79)

 
まぎれもなく、この道を行くピョートル大帝はレーニンの先駆者、十八世紀のレーニンであり、彼の決行した暴力的な国政改革は、コミュニズムの暴力革命の原型であった。(p80)

 
ピョートル大帝がロシア民族に強引に与えた自由は、百年を経てようやく最高潮に達した。十九世紀は、横暴なツァーリ独裁の外部的圧迫にもかかわらず、創造的自由の充ち溢れた時代であった。(p83)

 以上前編4章でロシアの一般的な国民性が分析される。なかで、ドストイェフスキーがよく引き合いに出される。以下作家論。私には作品を読んでいない作家がほとんどなので、ドストイェフスキーについてのみ以下にピックアップ。

 
ドストイェフスキーの文学は、根本的に基督教的、福音的であり、「基督の証人」の証言以外のなにものでもない。(p267)

 
ロシアでは人々はドストイェフスキーを評して「残忍な天才」と呼んだ。実際、彼の試みた人間分析は、世界文学にも類例がないほど残虐なものだ。彼はその作中人物達――もっとも彼らは全て作者自身の分身であり、結局、作者自身のいろいろに異なる面貌にほかならないのだが――を残酷な精神的拷問にかける。彼は冷然として彼らを犯罪、痴呆、狂気、病苦、の活路をもたぬ袋路に叩き込む。

 
愛は大抵の場合、憎悪となって現れてくる。ドストイェフスキーの主人公達においては、愛と憎しみと区別がつかない。(p281)

 プーシキン、トルストイ、ドストイェフスキーについて以下長い文章を引く:

 
自然喪失と愛の不能、それこそ近代的人間の最大の悲劇であることを彼(プーシキン)は鋭く見抜いていた。しかしこの問題は、プーシキンにおいては、主として文化性の問題であった。文化生活とは人間の自然性からの離脱にほかならず、自然性からの脱落が愛の不能を惹起する、と。したがって彼においては、失われた自然の探求ということが、人間の救済のためにまず何よりも大切な緊急事となるのである。プーシキンに続いて、トルストイもまた同じ自然性探求の道を徹底的に窮めようとした。だがドストイェフスキーはそれとは違った考え方をする。彼にとっては、自然喪失と愛の不能とは、共に派生的現象であり、それらの底に、さらに根源的な神の喪失という問題がひそんでいた。近代的実存の孤独は、人間が神を喪失した瞬間から始まる。人間は神を見失うと共に自然を失い、そして愛の不能に陥った。だからドストイェフスキーにおいては、失われた神の探求ということが最大の課題になる。かくしてドストイェフスキー的人間の系譜では、人が神への信仰を回復する道筋について、すなわち「旧い人」が「新しい人」に向かって一歩ずつ近づくにつれて、次第に自然と愛とが回復されていき、道の最後に至って神の讃歌と自然の讃歌と愛の讃歌とが一つの壮麗な合唱に融け入るのである。(p283)

 ここに述べられたような観点から、『カラマーゾフの兄弟』が論じられる。イヴァン、ドミートリー、アリョーシャ、ゾーシマ長老が論じられる。

「新しい人」はゾーシマ長老:
ゾーシマの実践的愛の教えは、ドストイェフスキーにおける全ての総決算であり、一切の最後の結論である。(p291)。
 アリョーシャは「新しい人の」予感、予知である。
ドミートリー:
彼こそは、ドストイェフスキーの人間の系譜において最も決定的な位置に立つ重要人物だ。ドストイェフスキー的世界は、彼を枢軸として罪の秩序から愛の秩序へと展開し始める。(p289)
 イヴァン:
ドストイェフスキー的世界においては、神への反逆は神の信仰への芽ばえであることに注目しなければならない。躍起になって神を否定し、神を無の中に葬り去ろうとすることは、すでに宗教的生活の重大な第一歩なのである。それが、イヴァン自身も気づかないうちに、彼に自然に対する目を開かせる。(p287)

 このあと、イヴァンが広場の料理屋でアリョーシャに話すシーンを二度と忘れることの出来ない感動的なシーンだとする。(私はこの場面、イヴァンの言うことが難解で理解しにくかった)。本書全編を通してイヴァンへの言及が多い。

 初版発行  1953年2月
 文庫本初版 1989年
 文庫本改版 2022年7月。

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書名 俳句」2023年8月号 著者 No
2023-15
発行所 角川書店 発行年 2023年8月 読了年月日 2023-08-05 記入年月日

「日常も詩へ、推敲のコツ」という特集に惹かれて買ってみた。期待したほどのものではなかった.特に嶋田麻紀の一文は意味がよく分からなかった。

 巻頭59句は宮坂静生の「北斎の眼」
 立雲や「沖縄ノート」粛とあり
 人間の汗かき老衰の大江健三郎(おおえ)

 の2句があった。先頃亡くなった大江の死因は老衰とされた。「人間の汗かき」が大江をよく表していると思った。

 没後40年の中村草田男を取り上げた特集がよかった。

 横澤放川という人は「草田男の戦後――季題から深みの次元へ」で、草田男の考えを以下のように述べる:
 
子規が理想、観念遊戯を嫌って写生を「無色にして清潔にした」。それはいいのである。しかしそのあとには、主体性、つまり生活人としての自己内容が確立して初めて、それは写生の名に値するものになる。その主体性を欠いた写生は、単に絵画的な唯美的な趣味へとふたたび頽落し始める。 
 子規は芭蕉を拝して蕪村を称揚した。しかし「写生という場合に主体性から発生する写生でなくして、蕪村の心理的な絵画的な具体性だけをとった」がゆえにその後の俳句も、文人趣味的な停頓を呈するに到る。
「」は草田男からの引用。

 宮坂静生は「草田男の苦闘」の中で、「新しい俳句の作り方」を引いて以下のように記す:
 
何が新しいか、端的にいうと俳句は「写生」を基にした「象徴」詩だという草田男の考えが判り易く説かれている点である。そこでは子規が始めた「写生」は西洋の絵画から学んだ「スケッチ」の態度と方法を俳句に移したもので、くだらない理屈をひねくりまわした宗匠俳句から広い現実の生活の場へ俳句を引き出した点は優れた着眼であったが、子規には「手落ち」があった。「写生」の手本に趣味的で空想的な句を好む文人画家蕪村を推奨し、深い思想的詩人芭蕉を皮相的な観念詩人と判断し排斥した点である。その結果子規俳句は「第一の世界」「具体的な世界」へリアリズムで滲透してゆくことが、同時に「第二の世界」「作者の内面」へ滲透してゆくところまで徹底できなかったというのである。

 楸邨や波郷のいわゆる人間探求派の句が難解であるのは、「第二の世界」を持ち込むのが難しいからであると宮坂は言う。それでも上掲の巻末には、作者の内面がよく季題に投影された佳句が並ぶとして以下を挙げる。
 冬の水一枝の影も欺かず
 空は大初の青さ妻より林檎うく
 萬緑の中や吾子の歯生え初むる
 父となりしか蜥蜴とともに立ち止る


 草田男を通して子規、芭蕉、蕪村が垣間見られた。

 私の俳句は平明だが、深みがないと自分でも思う。本質的に蕪村が好きなのだ。俳句を始めた頃、NHK学園で通信教育を受けた。その際好きな一句を挙げろと言われて
鳥羽殿へ五六騎いそぐ野分かな
 を挙げた

 驚いたのは、『天為』の新進俳人渡部有紀子が「戦争と俳句」という連載時評を始めたこと。作品のみならず、俳句評論でも賞を得ている渡部であるがこのような評論を担当するとは。彼女は、安倍内閣の安保法制による集団自衛権の行使容認、岸田内閣による敵基地攻撃能力の保有により、今や日本は自衛に徹する平和国家から、強力な戦力を有する国となりつつあるとする。我々世代ならいざ知らず、40歳そこそこの若い彼女がこのような認識を持つことが驚きだった。「絆」や「美しい日本」といった崇高で美しい(はずの)全体への陶酔的な態度、そこからはみ出す者たちへの容赦ない憎悪の表出を指摘する。

 霧のなか霧にならねば息できず   堀田季何
 という句を紹介する。
 福永法弘の「
俳人の中に改憲派がいても、何ら不思議ではない。国防、愛国などの言葉の響きに対するロマンチシズム的陶酔を覚える人は火なり多いはずだから」(『俳句』2006年1月号)を引用し、「日本の四季を詠う、美しい日本の国土を詠うという花鳥諷詠的な態度を志向する俳句は、時として偏狭なナショナリズムと親和性が高いことを俳人一人一人が十二分に自覚しておく必要があるだろう」と書く。

 初夢や自決の弾をひとりづつ   小原啄葉
 青バナナ供(くう)ず沖縄慰霊の日 井上論天
他の句が載る。

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書名 俳句の世界 著者 山本健吉 No
2023-16
発行所 講談社文芸文庫 発行年 2005年 読了年月日 2023-08-14 記入年月日

 帯に「
俳句に関する考察の全貌を示す名著」とある。偽りではない。俳句を始めて10年余り、どこを読んでも面白く示唆に富む。

「俳句の世界」「挨拶と滑稽」「純粋俳句」「芭蕉と現代」「俳諧についての十八章」「時評的俳句論」よりなる。

 最大の特徴は芭蕉賛歌と俳諧連歌への高い評価。多くの俳人が俎上に載せられるが、虚子への言及は少なく、ほとんどが批判である。
 自説に対する批判には厳しい筆法で反論を展開する。
 桑原武夫の「第二芸術論」への言及、反論も随所に見られ、当時の俳壇に与えた「第二芸術論」のインパクトの大きさを感じる。

「俳句の世界」(1954年)から
 
歌う抒情詩としての和歌に対して、俳諧は懐紙に書かれる文字として成立した。このことは初めから、短歌的抒情を否定する要素を内包していたことを物語っている。(p21)

 
俳句はかつて芭蕉の時代に、それが連句の発句として達することのできた高さにまで、それ以後単独で到達したことは、一度だってない。(p29)

 桑原武夫も「第二芸術論」の中で未だ芭蕉を超える俳人が出ていないことを第二芸術論の論拠一つとして指摘したように思う。

 
柳田先生は芭蕉が庶民生活の事情に通じていることを驚嘆していられるが、もしシェイクスピアについて言われているmilliarda minded ということが、日本の詩人について言われるとすれば、それは芭蕉以外にはないのである。その意味で、私は芭蕉が中世的伝統に引かれて、現実から一歩身を引いて自然へ逃避したという説を納得することができない。もっとも、そのような説は芭蕉の発句だけを見ていると陥りやすいのである。彼を逃避の詩人として規定することは、発句だけから彼の精神を学ぼうとしている今日の多くの俳人の陥りやすい妄説であって、それからひいては、今日の俳人一般の閉鎖性・非社会性の是認が導き出されてくる。(p25~)

 私は『猿蓑』しか蕉門の俳諧は読んだことがないが、芭蕉一門が庶民の事情によく通じていたことは強く感じた。それは『猿蓑』の俳諧「夏の月」の初めの4句を見ただけでも感じることだ。

 著者は芭蕉俳句の特質を対話的性格と庶民の生活感情に通じていることを指摘する。それはいずれも俳諧連句から由来する。

 
此の秋は何で年よる雲に鳥
 秋深き隣は何をする人ぞ
など、晩年のつぶやきに近い吟懐にしても、閉鎖された心の密室でのモノローグの形をとっていない。現実的な相手が目の前に存在しないときも、自問し自答するような心の振子を失っていないのである。断定しながらも問いかけてくるような要素が、芭蕉の俳句にはあるのであって、それは対話的世界を内に蔵しながら、一小宇宙として凝縮した俳句の詩的性格なのである。それは同時に俳句の伝達への窓でもあり、そのような対話性を失うことによって、近代俳句の世界は自己閉鎖的となって行く。

 
発生的に見れば、共同体の素朴な談笑の場と密接な接触を保っている俳諧様式の、そのエキスとして生み落とされた俳句自身も、決して共同体的生活様式とのつながりの根を、断ってはいないのである。芭蕉の俳句は、日本抒情詩が達することのできた、ほとんど唯一の形而上詩であり、思想を経験として感性のなかに融かしこむこのできた稀な例である。しかも同時に、それは庶民子女の生活感情から遊離したものではなく、蕉門の連衆の生活体験は、底辺では民衆の息吹に通じていた。そこでは現実との接触と高度の詩的移調とが、同時に実現している。その媒介の上に、新しいパターンが織り出され、芭蕉独特のメタフォアが実現している。(p34~35)

「挨拶と滑稽」(1946年~47年)
 他の書でも読んだことがあるが、たくさんの俳句に接した著者は以下のように言う:
それ(俳句)は次の三つの命題の上に成立する。一、俳句は滑稽なり。二、俳句は挨拶なり。三、俳句は即興なり。(p46)

 
「古池や蛙飛びこむ水の音」――この句を始めて聞かされた時、誰しも何か会得の微笑というものを漏らしたことであろう。今日の僕らの俳句についての理解は、すべて古池の理解に始まるのである。古池の句から僕らが始めてある感銘を受けた瞬間、僕らは疑いもなくこれが俳句だという認識に到達したはずなのである。芭蕉の最高傑作というわけでもないこの一句が古来あれほどまでに喧伝されたのは、それが俳句の典型的な性格を具現しており、俳句についての初歩的な、だがもっとも根源的な認識に、それが万人を導いたからである。(p47~48)

 
俳句は宇宙の万象に対する的確な認識が含まれることを理想としている。 (p49)

 
蕪村は情趣に溺れ、一茶は詠嘆に遁れ、子規は写生に捉われた。真にこの非情冷酷不可思議の詩型の真の意義を究め得たのは、芭蕉一人であった。(p52)
「非情冷酷不可思議の詩型」とは俳句の特質をよく言い表していると思う。

 
切字によって俳句は完璧の存在性、揺ぎない質量感を獲得するのだ。切字のない俳句は軽いのである。(p53)

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書名 私の武蔵野探勝 著者 深見けん二、小島ゆかり No
2023-17
発行所 NHK出版 発行年 2003年 読了年月日 2023-08-26 記入年月日

 深見け二と小島ゆかりが虚子の『武蔵野探勝』の地を2年間かけて24カ所訪れ吟行した記録。編集者が二人の対話形式としてまとめ、多数の写真が掲載される。80歳の俳人と40代半ばの歌人の息の合った対話に仕上げられ、軽く楽しく読め、吟行の参考になる良い本。

 先ず、吟行地の『武蔵野探勝』の中の記述の一部が引用され、ついで、その地で詠まれた虚子の句を主として取り上げ、ゆかりが解説を求め、けん二が説明する。その後で二人の吟行句が紹介される。歌人のゆかりは俳句を作るのは初めてという。それをけん二がコメントし、添削し、俳句の作法を手ほどく。一方、けん二も自句を披露するが、初めてだという短歌も披露し、ゆかりが添削する。晩年の虚子の弟子だったけん二の話を通して、虚子の俳句観が平明に語らえる。驚いたのはゆかりの俳句、けん二の短歌の上達ぶりだ。後半になるとゆかりの句にはほとんど直しが入らない。

 数年前から、神奈川近代文学館で行われる「かなぶん連句」に参加している。捌きは長谷川櫂で、選者に文学館長の辻原登と小島ゆかりの二人。百人近い参加者からあつめられた句を長谷川櫂が捌いて、5,6句に絞り、それをプロジェクターでスクリーンに出す。その中から、辻原とゆかりが選んで一句を決める。私は櫂の選句には4,5回入ったが、ゆかりに2回落とされた。ただ、ゆかりの私の句に対するコメントは納得のいくものだった。

本書から:
 
吟行では、そのときの心にうまく合った季題がつかまえられるかどうかが、一番のポイントなのです。また、虚子の俳句観は、花鳥諷詠つまり季題諷詠ということで、あくまで季題がテーマですから、題詠で実景を見ないでつくるときでも、「秋風」ならば、「秋風」を中心にして想を広げるというやり方です。……吟行のとき「秋風」という季題を自分が強くつかまえたとしますと、目の前の景から、秋風に関連した景や生活を、一句ではなしに、何句でもつくると思います。(p12~13)

 ゆかりが青邨の「祖母山も傾山も夕立かな」を、固有名詞と季題が見事に同居しているといったのに対し、けん二は「固有名詞を生かしきった青邨の代表句といえるでしょう」と応じている。(p74)

 
私は、とにかく短時間のうちにつくり上げることを吟行の基本にしています。……基本的にはその場で完成品に一気につくれるはずだという考え方です。……どうしてもできないときは、その場に座り込むんです。(p96)

虚子の「川を見るバナナの皮は手より落ち」に対する考えを聞かれて、深見:
この句には不思議な独特の世界があって、昔から私の心を離れないのです。それに、最初は「バナナの皮の手より落つ」であったのを、後に「落ち」と虚子自身が推敲したことからも分かるように、それだけで一句の情景や雰囲気が非常に出てきたことが印象深いですね。
 小島:
確かに「落つ」という終止形から「落ち」という連用形に移行することで、ある瞬間を言い止めていますね。わずか一音が、これほどまでに、あとに残る空間の質を変えることに驚きました。(p107)

 ゆかりの「
葦群のゆれかたむくやゆれもどる」を
葦叢のゆれかたむくやゆれもどり」と添削。
 最後を「り」に変えた。「
ひとつのある瞬間を捉えれば、それが繰り返されていくんじゃないかと思いますが」とのべる。上の例と同様、終止形を連用形に変える。(p151)

 
秋櫻子の句が好きだが、ものを言わないはずの俳句が、連作であるために多くのものを言っているような印象を受けるというゆかりに対し、
 私も秋櫻子の句に好きなものがたくさんあります。しかし秋櫻子は、短歌を経て俳句を始めた叙情派の作家なので、例えば高野素十などの句と比べると、切れが足りないということはあります。
(p179)

……
芭蕉が最後に至った「かるみ」の境地は、日常的なものの中に俗な言葉をうまく入れるという方向ですね。それはつまり、日常性の中に心を深めていくことこそが新しさであるということではないでしょうか。総合すると、深いことと日常性とが、芭蕉以来の俳句の本質的な流れの中にあるように思います。(p189)

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書名 第三の男 著者 グレアム・グリーン、小津次郎訳 No
2023-18
発行所 早川書房 発行年 2001年 読了年月日 記入年月日

 私の行っている句会で、席題に「冬木」が出された。考慮時間は20分足らず。思いついたのは映画「第三の男」のラストシーンだ。それで一句を詠んだが、驚いたことに、10人のメンバーのうちもう一人が同じシーンを句にした。それほどあのラストシーンは印象に残るるのだ。

 今月のエッセイ教室の課題が「並木」だった。それで「ザ・ラストシーン」という題で「第三の男」のラストシーンのことを書いた。書くに当たってアマゾンでビデオを見、ついでに原作読んでみた。本棚の奥には褐色に灼けたPenguin Booksの「The Third Man」があった。所々に書き込みがしてあるが終まで読み切った記憶はない。アマゾンから本書を取り寄せた。

 一番興味のあったのは、評論家川本三郎による巻末の解説。。その中で、グリーンはこの小説は映画化を目的に書いたと言う。映画化に当たっては制作者側と協議し、変更を受け入れた。そのもっとも大きな変更点はラストシーンだと。映画ではカメラは、待つ男の前を見向きもせずに去って行く女を追わず、女が歩いてきた長い冬枯れの並木を映す。そして画面の左下隅で吸っていたタバコを男が投げ捨てるところで終わる。原作では、男が女のあとを追い、女は並んだ男の腕に自らの腕を絡ませて終わる。原作のようなラストだったら、この映画に史上最高のラストシーンという評価はなかっただろう。グリーンも映画のラストの方が良いと認めている。

 映画を見たあと読んだので、一つ一つ映像が浮かびすらすらと読めた。逆に、映像では意味が分からなかった所の細かい意味が原作で読み取れたところもあった。

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書名 占領期カラー写真を読む 著者 佐藤洋一、衣川太一 No
2023-19
発行所 岩波新書 発行年 2023年2月 読了年月日 2023-10-10 記入年月日 2023-12-05

 私に収集癖があるとすれば、それは写真だ。写真といっても自分の写真だ。アルバムを見るのは私の楽しみだ。20年ほど前からはデジカメで撮った写真をパソコ ンに入れてアルバムとしている。ちょっとしたことでもカメラ、最近はスマホのカメラに収める。パソコンに収めた画像は2万枚ほどになるだろうか。日記代わりにもなっている。本書のタイトルには飛びついた。

 見所は64ページにも及ぶ、鮮明なカラー写真。接収されPXとなった銀座の服部時計店前で靴磨きをする少年達(1946年)から始まり、最後は二人の婦人警官を撮るアメリカの軍人の姿で終わる。時期は1957年までものだが、撮影日は不明。そして、撮影者も不明のものが多い。米軍とその軍属が撮ったものだから、日本特有の風景に興味が行ったようだ。人物は和服の女性が多い。肥桶を運ぶ牛舎、数寄屋橋上の物乞い、マッカーサーがGHQから出て来る姿(ビルの出口で敬礼するマッカーサーと左側に二人の制服の女性軍人がいて、一人は敬礼し、一人はカメラを構えている)と、それを見るために集まった群衆、舞台に立つ越路吹雪など多彩だ。驚いたのは、1941年正月に銀座三越前を行く、晴れ着を着た女性とその子ども。終戦後まだ4ヶ月も経っていない時期とはとても思われない。中に廃墟と化した広島を上空から撮った8枚の航空写真がある。1946年4月撮影だが、撮影者は不明。原爆ドーム他いくつかのビルを除き小さな建物は見えない。

 こうしたカラー写真やスライドを著者は多くをネット上のオークションで得たという。こうした写真が世に出てくるきっかけとなったのはおそらく1985年に発売された『毎日グラフ別冊 ニッポン40年前』に掲載された多数の写真群であろうという。このようにまとめられに当たっては、当時の通産省の官僚としてアメリカに留学していた細田博之氏が、下宿先のスティール夫妻が占領下の日本で撮影したカラースライドをたまたまみたことがきっかけになったという。「あと一〇年は待てない。なぜなら、多くの撮影者はこの世を去り、写真は散逸してしまうから」という細田の思いから、毎日新聞社と提携してスチール氏を中心に全米から一万枚ものカラー写真が集まった。本書でもスチール氏の写真が多く掲載されている。細田博之氏は少し前まで衆議院議長であったが、辞任した後ほどなく亡くなった。
 
 オークションではセットになったものが写真としてはいいが、品物が少ない。ばら売りは高価だという。オークションに出される個人のものは撮影者不明、撮影日時不明のものが多く、その背景、意図を著者が推理する。「写真を読む」というのはそういう意味だ。私のアルバムも古いものにはキャプションがないものが多く、場所も撮影意図も不明なものが多い。その後自動的に撮影日時が記録されるカメラがでて、日時だけは特定できるようになったが、それ以外の情報が不明のものが多い。

 カラー写真の歴史にも触れる。商業的に成功したカラー写真は1907年、フランスのリュミエール兄弟による。これは撮影に用いた乾板上に直接ポジ画像が得られるものであった、日本でも明治期からカラー写真を撮影るすることは可能であったとし、1909年(明治42年)の小西本店のオートクローム乾板の価格表を載せている。1923年にコダック社が撮影済みにリバーサルフィルムをそのままコダック社に送れば、現像処理されて完成品が返って来るという方式を採用し、爆発的人気を博した。フイルムも燃焼性の高いナイトレートとから遅燃性のアセテートに変えて安全となった。後にコダック社はアセテートからタバコフィルター用の繊維を作りだした。

 本書には、1951年、小田原駅前の看板にフジカラーとサクラカラーの天然色フィルもの広告を載せている。こんなに早くカラー写真があったとはやや実感から離れる。初期のカラー写真はリバーサルフィルム、つまりスライドで見るのに適したものだった。なぜ、リバーサルフィルムが好まれたか、画質の良さと、紙焼き写真が高価であったことだと本書は考察する。

 私ももっぱらスライドタイプのカラー写真だった。当時赤はサクラカラー、グリーンはフジカラーとされていて、私はサクラカラーをもっぱら使った。山行の写真、あるいはスイスに滞在した際の写真の多くがスライドタイプの写真である。例えば山行の写真は皆で集まってスライドで見る、海外出張の写真は職場での報告会に使うといった理由で、スライドタイプにしたのだ。ところが今はプロジェクターもどこかへ行ってしまい、それらを見ることが出来ない。それ以上に、カラースライドは散逸してしまったものが多い。きわめて残念である。

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書名 言語論 著者 ノーム・チョムスキー、井上和子他訳 No
2023-20
発行所 大修館書店 発行年 1979年 読了年月日 2023-10-22 記入年月日

 再読。最初に読んだのは40年程前だろう。大きな感銘を受けた本で、記録として残しておきたく、再読した。
 原題は「Reflections on Language」。本書の内容をずばりと言い表した題で、直訳すれば「言語に反映されるもの」だろうか。

以下本書から:
 言語の構造と使用を支配している抽象的原理、すなわち,単なる歴史的偶然によるのではない、生物学的必然性に由来する普遍性を持ち,人間という種の精神的特質に発する原理を,言語研究によって見い出すことができるかもしれないのである。
 中略 人間の言語はいずれも著しく複雑な体系である。ある言語を知るようになるということは、それを成しとげるように特に仕つらえられていない生物にとっては,驚くべき知的発達を遂げたことになろう。ところが人間は、正常な子供ならば,比較的わずかな期間、言語的環境に接するだけで,特定の訓練も受けずに言語を獲得するのである。
 中略 人間の子供が直観的にまたはほとんど努力もなしに成しとげたものを自ら構成し理解することは、特にこの目的のために仕つらえられていない意識の持ち主にとっては、およそ及ばぬ目標であろう。この故にこそ、言語は深く重要な意味において人間精神の鏡であると言えよう。言語はまさに人間の知性の産物であり意志や意識のはるかに及ばぬところに働く作用によって、個々人の中に新たに作りだされるのである。
 我々は、自然言語の特性、構造、組織およびその使用を研究することによって、人間の知性に固有の特徴をある程度理解することが望めよう。また、もし人間の認知能力が人間という種に真に独特の、もっとも著しい特徴であると言えるならば、言語の研究から人間性に関しても何らかの意義ある知見を得ることが期待できよう。(p7~8)

 ここにチョムスキーの思想の本質が語れている。人間には生得的に言語を組み立て、理解する生物学的な仕組みがある。その最大の根拠は子供の言語取得の早さである。そしてこの生得的言語能力というのは、人間の認識能力にも関わってくる。さらに人間の精神の本質、人間性とは何かということにも関わるものである。

 人間が特定の科学分野において重要な説明的論理を発見しうる精神を持つに至ったのが、進化上の淘汰圧によるのではないことは明白である。人間を自然界における生物学的有機体として見るならば,人間の認知能力が、たまたまある分野の科学的真理とよく符合するとしても、それは幸運な偶然の一致にすぎないと言えよう。そうれあればこそ、非常にわずかな科学の分野しか存在しないのも驚くには値しないし、また非常に多くの人間の手になる探求が知的深みにまで到達しえないのも驚くにはあたらないのである。人間の認知能力を研究すれば,人間が近づくことのできる科学の範囲についてなんらかの洞察が得られるかもしれない。(p36) 
 科学の限界、量子論について人間の認識の限界などを職場の若手と話し合ったことがあった。

「普遍文法」(UG)を定義して、単に偶然的にではなく、必然的に――むろん論理的必然性ではなく生物学的必然性のつもりであるが――すべての人間言語の持つ要素、あるいは特質となっている原理、条件、および規則の体系である、としよう、すると、」UGは「人間言語の本質」を表すもの解することができよう。UGはすべての人間を通じて不変であり,言語学習が成功裡に行われた時に達成されるべき内容を明示したものである。(p41~42)

「生得説」は、次のごとく定式化される。中略 言語理論、すなわちUGの理論は、人間の精神の生得的な一特性となる。UGは、原理的には人間の生物学に基づいて説明しうるものと考えられる。中略
 生得的言語能力と共に、しかもそれと最も緊密に作用し合うものとして「一般的認識」とも呼ぶべきものを構築する精神の生得的能力が存在する。(p49)

 言語の研究は本来、人間生物学に属するものである。有史以前の人類に何らかの形で進化した生得的言語能力が,言語学習という驚嘆すべき技を可能にすると共に,通常の方法によって獲得しうる言語の種類を必然的に限定したのである。そして、生得的言語能力は、精神が持つ他の生得的諸能力と相互作用しつつ、言語の一貫した、創造的な使用を可能にしているのである。我々は、そのような言語使用のあり方を、時に記述することはできるのであるが、いまだに理解の糸口すらもつかんだとは言い難い。(p184)

 認知能力の枠内にある他の諸体系が、言語能力およびそれが産み出すものの持つ性格を多少なりとも帯びていることが発見されたとしてもさほど驚くにはあたるまい。他の認知体系もまた、信念と知識、洞察と理解力に関する豊かな内容を持った包括的な体系の獲得を可能ならしめているそれら自身の構造の故に、人間の知性が獲得しうるものに制限を課すであろうことも当然予想されるところである。(p181)

 人間は自らの能力を限りなく進歩させることは可能であるが、その生物学的本質によって課せられている、ある客観的な限界から逃れることはできないのだと言えよう。 (p186)

経験論と合理論
 
古典的なイギリス経験論は、宗教的反啓蒙主義と反動的イデオロギーに対する、おおむね健全な抵抗として成立したものである。中略 イギリス経験論は進歩と啓蒙の教義であると解されたのである。
 マルクス思想において、経験論的イデオロギーが人々に訴えるところを持った理由もここにあるのであろう。中略 グラシムに至っては次のようにさえ論じているのである。「政治および歴史の科学にマルクス主義によって導入された根本的革新は、抽象的な固定した、不変の『人間性』なるものは存在しない……のであり、むしろ人間性とは、歴史的に決定された社会的な諸制度の総体にほかならないということを証明したことである」
 チョムスキーこれに対して「そのような証明はマルクス思想のどこにもなく、しかもマルクスの怪しげな読み方であって、確実に誤りであると言える
」と断言している。
 さらに、人間には天与の本性なるものない、人間は歴史をもっている、というより歴史そのものである、人間性という言葉が全く意味を持たない、と言った主張には経験的な論拠が存在しないことは明白であると言う。(p191~)

 これに対してデカルト主義の「
一般に、人間を合理的にとらえるモデルは、外部からの内部へ刻印されるものでなく、いたずらに従順なものとみなされてはいない活動的、創造的な精神の存在を肯定するものと見ることができる。……デカルト派の思想は人間の尊厳を主張しようとする力強い試みであると言えよう。」とブラッケンの主張をチョムスキーも思想的にも歴史的にも正確な認識であると認めている。(p194~)

 「
人間の精神は元来構造を持たず全く可塑的なものであり、また人間性は全面的に社会の産物であるとする教義が進歩的な社会思想と、時には革命的な社会思想とさえ結びついていたことは事実である。一方、人間の本能に関する推察がしばしば保守的・悲観的傾向を帯びていたことも事実であろう。」と述べた後で、前者の人間に対する見方では、「権力による強制と操作に対抗するすべての障壁をとりのぞいてしまうのである。」と述べる。(p196~)

 私は長いこと経験論的な見方のとらわれてきた。それは自分ではどうすることも出来ない幼児期の体験が、その後の私の人生を縛っているという宿命論だ。本書を読んで、人間の本質はそのような柔なものではないと知り、以後宿命論にとらわれることはなくなった。
 そういう意味で本書は私の人生を変えたともいえる本だった。

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書名 芸人と俳人 著者 又吉直樹、堀本弘樹 No
2023-21
発行所 集英社文庫 発行年 2018年 読了年月日 2023-11-10 記入年月日 2023-12-29

 まえがきに又吉は書く:
本書は、俳人の堀本裕樹さんから俳句の基本的な決まりを優しく丁寧にご指導いただき、僕の俳句に対する恐怖が取りのぞかれ、臆病だった僕が、素直な感覚で俳句に向かえるようになるまでの二年間の奇蹟をまとめたものである。(中略)最終的には、悪魔を見るように恐れていた吟行も経験したし、地獄と怯えていた句会にも参加した。どちらも、他では得られない喜びに満ちた想い出になった。俳句を教わる前よりも、僕の世界は鮮明になった。大袈裟な言い方かもしれないけれど、世界を捉える視界の幅が広がったように思う。

 堀本裕樹のエッセイもいい。また教え方もうまい。二年間で定型、季語、切字、技を磨く、句集を読む、選句、句会、吟行までたどり着く。又吉の上達ぶりはさすが芥川賞作家、目を見張る。

 又吉の句もだが、堀本の句も『天為』にはあまりないような句だ。

 選句では、この対談が掲載された雑誌『すばる』が募集した918句を二人で選句した結果が載せられる。10句選、うち特選1句、秀逸3句である。二人が選んだ10句に共通する句はない。全体として堀本の選句の方がいいと思う。

 句会では二人の他に、中江有里、種村弘、藤村可織が加わり5人で行った。6句投句6句選、特選1句である。
各人の特選句をあげる:
 選者                  作者
 裕樹  蜜蜂の目に日の丸の充ち満ちる   弘
 直樹  鳥曇家電みな床置きの部屋    可織
 有里  静寂は爆音である花吹雪     直樹
 弘   初蝶や空にノンブルふるごとく  裕樹
 可織   蝶にとまられて電車暴走す     弘
 いずれも『天為』では余り見られない現代句というか異色の句だ。

 あとがきで裕樹はいう:
又吉さんと笑いながら楽しく俳句を学んでいけば、俳句なんて怖くなくなるはずです。そして四季を大事にする俳句のことを知ることで、日常を豊かにしてくれる素敵な「気づき」が増えることでしょう。

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書名 ゼロからわかるメソポタミア神話 著者 かみゆ歴史編集部 No
2023-22
発行所 イースト・プレス 発行年 2019年 読了年月日 2023-12-05 記入年月日 2023-12-05

 神話で遊ぶ「メソポタミア神話」編の投句を昨日済ませた。15ヶ月に及ぶ句会だった。一回に4柱、1柱につき2句、毎月8句の投句になる。他の句会は5句投句なので、8句というのは一番多い。前回の中国神話と違って初めて聞く神の名、異形の怪物などなじみの全くないものだったので、参加人員も前回より減って、20人ほどだった。

 本書の基本は1柱に見開き2ページの解説。主要な神には1ページの超現代風なイラストが付く。このイラストは作句の参考になるどころか邪魔になった。神々に纏わるエピソードも少なく、ウイキペディアも参考にしたが、ウイキペディアの記述も本書より特に詳しくはなかった。限られた素材を他の作者がどう詠むかが興味があって最後まで続けられた。最後の3回はティアマトの怪物。サソリ人間、牛人間、魚人間など奇怪な怪物が続いた。驚いたことに、これれの怪物のいくつかは、アニメゲームのキャラクターとして登場しているとのこと。

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書名 すばらしい医学 著者 山本健人 No
2023-23
発行所 ダイアモンド社 発行年 2023年9月 読了年月日 2023-11-26 記入年月日 2023-12-29

 医学雑学事典。といっても「専門医が語る医学と人体の話」と謳うだけあって内容は高度でしっかりとした専門知識の裏付けがある。内容は人体のあらゆる面に関する。

以下本書から:
 鼻血は鼻の穴から入ってすぐのとこりからで出る。だから鼻血が出た時は鼻の入り口、つまり丸くなったところをしっけりと押さえること。鼻血を上を向いて止まるのを待つのは飲み込む危険があるので推奨できない。出血の際に最も重要なのは圧迫止血である(p41)

 一回の呼吸で換気される量(一回換気量)は500ml。500ml吸った時点からさらに2~3リットルの空気は吸える。逆に500ml吐いた時点からさらに吐くことが出来るのは約1リットル。最も息を吐いた時でも、肺にはまだ1.5リットルの空気が残る。(p58)。

 誤嚥性肺炎は死因の第6位を占める。(p66)

 マルファン症候群とは、生まれつき全身の結合組織が弱くなる遺伝性疾患。異常な高身長になる。ラフマニノフはマルファン症候群とされ、身長は2メートルを超え、長い手指は片手でドから1オクターブ上のソまでと届くほどだったという。(p85)

 胃がんと同様に肝臓がんも多くは感染症が原因である。(p87)

 普通の食事では1日あたり約9リットルの水分が小腸~大腸に入る。このうち約2リットルは口から摂取したもので、残りの7リットルは消化液である。水分の80~85%は小腸で吸収され、10~20%が大腸で吸収される。(p100)。私は大腸で大部分が吸収されると思っていた。

 胆嚢はなくても生活に大きな影響を与えない臓器。大腸も全て摘出できる臓器である。膵臓も全摘出が可能な臓器である。肝臓は6~7割を切除することが可能だ。(p104~)。

 脾臓はお腹の左上にある握りこぶしほどの器官。脾臓の重要な役割の一つに免疫機能がある。脾臓は私たちの免疫を担う人体では最大のリンパ器官ともいわれる(p108)。

 血液の浸透圧は恒に一定に保たれる。それは腎臓の働きによるもので、そのため尿の浸透圧は大きく変化し、尿の濃さは30倍近く変化する。真夏に汗がをかき体液が減少すると腎臓は尿を濃縮することで、失われる水分を減らす。(p112)。

 細胞障害性抗がん剤は細胞分裂を阻害することで薬効を発揮する。毛根の細胞は盛んに分裂して髪の毛を作る。だから抗がん剤で脱毛が起きる。(p131)

 サリドマイドは日本でも2008年にふたたび承認された。多発性骨髄腫に効果を示す。そのほかの多くの疾患に対しても有効なことが明らかとなって、今や医療現場では必須の治療薬である(p133)

 アレキサンダー・フレミングにより発見されたリゾチームは、抗菌作用を持ち食品添加物として用いられる酵素である。(p135)

 コレステロールは体内で生成されるのが70~80%で、食事から直接摂取されるのは20~30%である。コレステロール降下薬スタチンを発見したのは遠藤章(p140~)。

 アドレナリンは1900年に高峯譲吉と助手の山中啓三により発見された、最初のホルモンである。アドレナリンは交感神経の刺激により副腎皮質から分泌され、心拍数や血圧を上げる。高峯はタカジアスターゼも発見し、発売元の三共株式会社の初代社長にもなった。さらに高峯はリン鉱石から化学肥料を作る技術を日本の導入し、渋沢栄一らの協力を得て、日本発の化学肥料会社を創業した。後の日産化学である。(p146~)
 高峯の業績としてはタカジアスターゼ歯科知らなかったが、アドレナリンの発見もあったのだ。

 いわゆる麻薬:アヘンの有効成分として抽出されたモルヒネはギリシャ神話の夢の神「モルフェウス」にちなんで命名された。モルヒネは脳や脊髄などの神経系に作用し、痛みの情報伝達を抑制する。サルチル酸は柳から抽出され柳の学名にちなんでサルチル酸と名付けられた。サルチル酸をアセチル化した物がアスピリンで、1899年にバイエル社より発売された。バイエルではさらに、モルヒネのジアセチル化物も作製し、ギリシャ神話の英雄へロスにちなみヘロインと名付けられた。モルヒネのメチル化物のメチルモルヒネはコデインとして咳止めに使われている。(p160~)

 抗凝固薬の代表であるワルファリンは、今なお世界的に広く使われる殺鼠剤である。血液凝固にはビタミンKが深く関わっているが、ワルファリンはビタミンKの働きを抑える。納豆、青汁、クロレラなどは特にビタミンKが多いので、ワルファリンの内服にはこれらの食品を避ける(p194)

 手術の際の感染予防に石炭酸を使ったのは、イギリスの外科医、ジョセフ・リスター。1865年のことで、リスターは発酵や腐敗は微生物が原因だというパスツールの論文を読み、傷の感染も同じく微生物によるのではと思いついた。当時ゴミや下水の防臭材として使われていた石炭酸を使った。私も直腸がんの手術の際には口の中まで入念に殺菌された。今も口腔洗浄剤として使われている「リステリン」はリスターの名に由来する。(p230~)

 ナイチンゲールは統計学者としても大きな功績を残した。不衛生がいかに多くの生命を奪うかを政府に説くために綿密な統計解析を行った。また、ナイチンゲールはロンドンに世界初の看護師養成学校を開いた。(p236)

 電気メスを使う手術では患者の体に対極板と呼ばれるシートを貼って、電気メスの先端からの高周波電流を回収する。患者の太ももに貼ることが多い。全身麻酔中に貼って、外されるから私の手術に電気メスが使われたかどうかは不明だ。(p261)

 消化管の手術の中では、骨盤内の奥深くで腸をつなぎ合わせる直腸がんの手術で縫合不全の割合が比較的高く、技術が進歩した近年でも10%前後である。(P273) 
 私の場合、直腸の縫合後、4ヶ月余り人工肛門をつけ、大腸へ便が行かないようにした一因はこのことだろう。

 ガーゼという名の由来は、絹の起源であるパレスチナの町ガザに由来する。(p279)

 小腸は約6メートルあり、海中で揺れる磯巾着のように背中から生えていると考えてよい。腹腔鏡手術では、直腸や子宮、膀胱、前立腺などの骨盤の奥深くにある臓器の手術では、手術ベッドを大きく頭側に傾け、大量の小腸を頭側に移動させ、骨盤内にワーキングスペースを作らねばならない。スペースの確保しやすさには個人差があり、内臓脂肪の多い人は確保しにくい。
 腹腔鏡手術は、高精細なカメラが近接して映し出す拡大映像を見ながら手術が出来る点も大きな利点だ。
 腹腔鏡手術を始めて行ったのは、ドイツ人のクルト・ゼムで1980年のこと。現在の腹腔鏡手術では最初に二酸化炭素を腹腔内に入れて、お腹をふくらませて行う。(p282~)

 1920年代には、ラジウム入りの石鹸、美容クリーム、歯磨き粉などが発売され、ラジウム入り飲料は健康にいいと宣伝された。放射線の人体への影響がまだはっきりとはしていなかったのだ。(p322)

 狂犬病は紀元前から知られていた。狂犬病は発病するとほぼ100%助からない。(p330)

 サリンは神経伝達物質アセチルコリンに似た構造を持っていて、神経毒として働く、。(p335)

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書名 大国の興亡(上) 著者 ポール・ケネディ、鈴木主税訳 No
2023-24
発行所 草思社 発行年 1988年8月 読了年月日 2023-12-07 記入年月日 2023-12-29

 もう35年も前に刊行されて本で、当時評判になった。購入したままで埃を被っていたが、春に本棚の整理した際目についた。ロシアのウクライナへの侵攻がもたらしたロシアと欧米の対立、各方面に進出を強める中国とアメリカの対立などはどうなるのだろうかという最近の関心事から本書が目についた。

 サブタイトル:1500年から2000年までの経済の変遷と軍事闘争

 戦争の記述と、各国の人口、陸軍、海軍、国家予算あるいは国民生産対する軍事費の割合、生産力、経済成長率などの数値が随所に出て来て比較される。
 しかし、本書は軍事の歴史でも、経済史でもないと著者はいう。「
本書が主に取り上げているのは、主要各国が国際秩序のなかで富と権力を拡充しようとし、経済と軍事の両面で大国になろうとして、戦ったときの経済状態と戦略の相互作用である。」(はしがき)

 上下刊合わせると800ページ近い大著。上巻は1519年から1918年まで。主に西欧における国家の興亡。今までほとんど興味を持たなかった経済と戦争のことが広範にかつ細かく述べられる。とてもまとめることは出来ない。
 上巻は以下の章からなる。はしがきに各章の簡単な内容が述べられているので、以下にそれを引用する。

第1部 産業革命以前の世界における戦略と経済
 1 西欧世界の興隆
……一五〇〇年ごろの世界を考察し、その時代におけるそれぞれの「権力の中枢」――中国の明朝、オスマン帝国とそれから枝分かれしたインドのイスラム国、ムガル帝国、モスクワ公国、日本の徳川幕府、そして西ヨーロッパ中部諸国――の長所と短所を分析している、結局は、最後にあげた西ヨーロッパ中部諸国が他のどれよりも発展するのだが、十六世紀初頭にはその気配がまったくなかった。それらの国はすべて、信条と行動の統一を主張する中央集権体制をしき、国家の宗教だけでなく、兵器の開発といった分野もその体制下においた結果、衰退していったのである。ヨーロッパにはそのような最高権力がなく、さまざまな国王や都市国家のあいだで軍事的衝突が起こっていたために、つねに軍事の改良を求める動きがさかんであり、それが競争の激しい革新的なこの環境にも起こりつつあった新しい技術や商業の進歩とあいまって、実りある結果をもたらした。ヨーロッパ諸国は、さほどの障害もなく変化を遂げながら経済成長のらせん階段を確実にのぼるとともに、軍事上の効率を高め、長きにわたって世界のあらゆる地域に差をつけることとなったのである。

 2 覇権に手をのばしたハプスブルク家 1519~1659年
 
技術の革新と軍備競争というこのダイナミズムによって、ヨーロッパはさまざまな文化のひしめく衝突の絶えない道を進んでいたが、その一方では、拮抗する国家の一つが充分な資源を獲得して他国を凌駕し、大陸を支配する可能性はまだ残されていた。一五〇〇年から一五〇年ほどのあいだに、ハプスブルク家のスペインとオーストリアの宗教ブロックがまさにその動きをみせた。{覇権を握ろうとするこのハプスブルク家」を阻んだヨーロッパ主要各国の奮闘ぶりについては、第二章全体で取り上げている。中略 この時代のさまざまな戦争の結果を理解しやすくするために、それぞれの大国の長所と短所は相対的に分析されるとともに、西側の社会全体に影響を与えている経済と技術の主要な変遷という見地からも分析されている。この章の主要なテーマは、ハプスブルク家の皇帝たちが膨大な資源を保有していたにもかかわらず、戦争を繰り返しながら次々と手を広げすぎ、もろくなる経済基盤の上で軍備が頭でっかちになっていったと言うことである、ヨーロッパの他の大国も、これらの長期戦で甚大な被害をこうむったものの、それらの国は――かろうじて――物質的な資源と軍事力のバランスを、敵であるハプスブルグ家よりもうまく保ちおおせたわけである。

3 財政、地理、そして戦争の勝利  1660~1815年
 
一六六〇年から一八一五年までに起こった大国による戦争につては第三章で述べているが、それらを一つの大きなプロックと多くの敵対国との戦いとしてあっさり要約することはできない。スペインやオランダのようなかつての大国が第一線から姿を消す一方で、五つの主要国家(フランス、イギリス、ロシア、オーストリア、プロイセン)が着実に頭角をあらわしたのが、この複雑な時代なのだ。これらの国々は、十八世紀のヨーロッパの外交と戦争に口出しするようになり、次々と同盟国を鞍替えしては、そのたびに長期の連合戦に参加するようにもなった。この時代はまた、ルイ十四世の支配からやがてナポレオンの支配に変わったフランスが、後にも先にも例がないほど直接的にヨーロッパを支配するようになったが、つまるところフランスの努力は他の大国の連合によってつねに妨げられた。十八世紀の初頭に、陸海軍を維持するための費用が莫大な額にのぼって以来、(イギリスと同じく)銀行業や信用貸しという新しいシステムを設けることができた国は、出遅れたライバルをさしおいて財政面でさまざまな利益を得た。しかし、頻繁に様変わりする多くの戦争に従事することで大国の運命が決することを考えると、地理的な条件も非常に重要な要因だった――そう考えると、「世界の周辺に位置する」ロシアとイギリスの二国が、一八一五年にいちだんと重要さを増した理由がわかる。同国とも、地理的な条件を隠れみのにして、西ヨーロッパ中部における闘争に介入する力を保持し、十八世紀が進むにつれてヨーロッパ以外の世界に版図を広げるとともに、ヨーロッパの力のバランスを保持させる役割をはたした。そしてついに、十八世紀の後半にはイギリスで産業革命が起こった。その結果、イギリスは強大な力を得て外国を植民地化するとともに、ヨーロッパの覇権を狙うナポレオンの野望を打ち砕くことができたのである。

第2部 産業革命時代の戦略と経済
 4 産業革命と世界の勢力バランス 1815~1885年
 
十九世紀の一八一五年以後には連合国による長期の戦争が起こらなかったことが注目に値する。戦略上の均衡状態が生まれ、四国同盟を結んだすべての主要国がその状態を維持しようとした結果、どの国家も覇権を握ろうとする意志も能力も持てなくなったのである。一八一五年以後のこの数十年にわたって、政治的に最も関心を集めていたのは、各国内の動乱と、(ロシアとアメリカ合衆国の場合には)広大な土地の開発だった。このように国際情勢が比較的安定したいたことと、蒸気機関を用いた工業生産を実質的に独占したことがあいまって、大英帝国は海軍力、植民地、経済の点で世界の強国として繁栄の頂点をきわめることができた。しかし、十九世紀の後半には、産業化の波は他の地域に広がっていき、そのために国際的な力のバランスが、かつての強国から生産や技術の新しい方法を開発する体制を持つ国へと移りはじめた。この時代に起こった数少ない大規模な戦争――クリミア戦争もある意味では重要だが、とくに重要なのはアメリカの南北戦争と普仏戦争である――によって、軍事組織の近代化を怠っている社会や、しっかりした産業の土台がないために、大規模な軍隊および戦争のあり方を変えつつあったきわめて高価で複雑な兵器類をもてない社会は、早くも敗北に追いやられた。

 5 二極世界の到来と「中級大国」の危機 1885~1919
 
二十世紀が近づくと、技術革新が進んで、経済成長率に格差が生まれ、国家間の秩序は五〇年前よりもはるかに不安定で複雑なものになった。このことは一八八〇年以後に大国が領土獲得のためだけでなく、他国に遅れをとるのを恐れるあまり、アフリカとアジアと太平洋に植民地を広げようとして血まなこになったことからも明らかだ。また、陸と海の両方で軍備拡張競争がさかんになり、平時にもさまざまな国家が未来の戦争にそなえてパートナーを求め、固定した軍事同盟を結んだということからも明らかである。しかし、植民地をめぐる争いが頻発し、一九一四年以前の国際的な危機の時代が過ぎると、世界的なバランスから見た経済力の指数は、一〇年ごとにいっそう根本的な変化を示すようになった――実際、それは三世紀あまりつづいた本質的にヨーロッパを中心とする世界体系が崩れることを示していたのである。必死に努力を傾けたにもかかわらず、フランス、オーストリア、ハンガリーといったヨーロッパの伝統的な大国をはじめ、列強の仲間入りをしてまもないイタリアは競争から脱落していった。それとは逆に、広大な領土をもつ超大国、アメリカとロシアが頭角をあらわした。ロシアの場合は、専制国家ゆえの能率の悪さにもかかわらずに、である。西欧諸国のなかで、いずれ世界の列強という選ばれた地位にのし上がる力を持っていそうなのは、ドイツだけで会った。かたや日本は、東アジアにおいて優位に立とうと努めていたが、そこからさらに手を広げようとはしなかった。そして、当然のことながら、これらの変化のすべてが、大英帝国にとっては無視できない問題であり、結局は解決しがたい問題であるようにみえた。イギリスはいまや、グローバルな利益を守ることが五〇年前にくらべてはるかに困難になったことを悟ったのである。

 
一九〇〇年以後の五〇年間における重要な進展は、二極的世界の到来と、それによってもたらされた「中級」大国の危機とみられるが、この全体的な秩序が変化する過程は決して平坦ではなかった。一方、第一次世界大戦の長期にわたる大規模な戦闘によって、産業機構と国力の充実がうながされた結果、ドイツ帝国は有利な立場を得て急速に近代化したが、帝政ロシアにはまだ遅れをとっていた。しかし、ドイツは東部戦線で勝利をおさめてから数ヶ月のうちに西部戦線で敗北を喫し、同盟国も同じく、イタリアとバルカンと近東の戦場で敗れ去っていった。のちにアメリカが参戦し、とりわけ経済的に援助したために、連合国はついに戦争遂行の余力を手に入れ、敵対する同盟国に打ち勝った。しかし、すべての戦争当事国にとって、それはかなりの消耗戦だった。オーストリア-ハンガリーは崩壊し、ロシアでは革命が起こり、ドイツは敗北した。しかし、フランスとイタリアをはじめイギリスまでが勝利をおさめながらも莫大な損害をこうむっていた。唯一の例外は、太平洋においてさらに地歩を固めていた日本と、一九一八年には確実に世界最強の国家となっていたアメリカであった。


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書名 大国の興亡(下) 著者 大国の興亡(下) No
2023-25
発行所 草思社 発行年 1988年8月 読了年月日 2023-12-24 記入年月日 2023-12-30

 本巻は1919年から1980年を扱い、最後に将来への展望を述べる。私も体験する現代史で、上巻よりはずっと親しみやすい。
 上巻に倣って各章の概説を「はしがき」より引用する。

第2部 産業革命の時代の戦略と経済
 6 二極世界の到来と「中級大国」の危機(2) 一九一九~一九四二年
 
一九一九年以後、アメリカは外国での戦争からさっさと手を引き、それと並行してロシアはボリシェヴィキ政権のもとで孤立主義を主張して、国際関係は本書に取り上げている過去五世紀のどの時代にもまして基本的な経済実体とかけはなれていった。イギリスとフランスは衰退していたものの、外交の舞台ではいぜんとして主役をつとめていた。しかし、一九三〇年代になると、イタリア、日本、ドイツのような軍国化された修正主義国から足元を脅かされるようになった――これが、ヨーロッパの派遣をめぐって一九一四年当時をしのぐ意図的な努力が払われる最後の企てとなる。しかし、その陰で、アメリカはあいかわらず世界でも群を抜く強大な生産国であり、スターリンのロシアはたちまち工業超大国に変身していった。したがって、修正主義を奉じる「中級」大国のジレンマは、二つの大国の影に包まれてる恐れがなくても、すみやかに領土を広げなければならないことだった。逆に、既存の中級大国のジレンマは、ドイツと日本の挑戦を受けて立てば、自分たちも弱体化する可能性が大きいことだった。そして、没落にたいするそうした懸念は、第二次世界大戦がもたらしたあらゆる変動によって現実のものとなったのである。華々し初期の勝利にもかかわらず枢軸国は、第一次世界大戦当時よりもはるかに大きくなっていた生産力の不均衡をのりこえて成功をおさめることがついにできなかった。枢軸国が成しとげたのは、フランスと、回復できないほど弱体化しつつあったイギリスの名声を――両国がより強い力に圧倒される以前に――失墜させたことだった。一九四三年には、数十年前から予測されていた二極的な世界がついに出現し、軍事的なバランスがグローバルな経済資源の配分を再び左右するようになったのである。

第3部 現在から未来への戦略と経済
 7 二極世界の安定と変動
 8 二十一世紀に向かって
 
本書の最後の二章では、二極的な世界が経済的にも軍事的にも観念的にも実在しているようにみえた時期について考察している――冷戦によるさまざまな危機を引きあいにだすことによって、政治的な見地からも熟考している。比類のない大国としてのアメリカとソ連の立場もまた、核兵器と長距離運搬システムの登場によって強化されたようだが、このことが暗示していたのは、戦略的および外交的な様相がいまや1800年代はもちろん、1900年当時ともまったく異なっているということだった。

 大国の興亡のプロセス、すなわち経済成長率と技術革新に格差が生ずるプロセス――世界的な経済バランスの変化につながり、ついで徐々に政治と軍事のバランスに影響を与えるようになる――は、まだつづいていた。軍事面では、アメリカとソ連が1960年代、七〇年代、八〇年代を通じて最も重要な地位を占めている。実際には、両国とも国際的な問題を相反する二つの立場から――しばしば善悪二元論によって――解釈したために、二国間の争いは、他のどの大国も匹敵できないほどのとどまるところを知らぬ軍備拡張競争へと発展したのである。しかし、その数十年間に、世界的な生産のバランスは以前にもまして迅速に変化していった。第三世界の工業総生産高と国民総生産の割合は、一九四五年以後の一〇年で史上最低にまで落ち込んだが、それを境として着実に大きくなってきた。ヨーロッパは戦争の廃墟のなかで立ち直り、ヨーロッパ共同体というかたちで世界最大の通商単位となった。中華人民共和国はすさまじい勢いで発展している。日本の戦後の経済成長は驚異であり、見方によればこれまでの国民総生産を総合するとまさにロシアを追い抜いたところだという。それに比べて、アメリカとロシアの経済成長率は停滞し、一九六〇年以来、両国が世界に占める生産量と、冨の割合は大幅に縮小している。したがって、すべての小国を別として、政財指数だけを考えた場合、すでに多極的な世界が再現していることは明らかである。本書は戦略と経済の相互作用に重点を置いているから、最後の章で(推論的になるのはやむをえないが)、大国間の軍事的なバランスと生産のバランスの現在の乖離状態を追求するのは適切なことだと思う。また、現時点での政治および経済における五つの大きな「権力の中枢」――中国、日本、EEC、ソ連、アメリカ――が直面している問題と機会を指摘することも、本書の目的にふさわしいと思われる。これらの国は、国家の資源と国家の目的を結びつけるという長年の課題に取り組んでいるからである。大国の興亡の歴史は、決して完結したわけではない。


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