読書ノート 2014

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書名 著者
大山康晴の晩節 河口俊彦
将門記  大岡昇平 
√2の不思議  足立恒雄 
東京の地霊  鈴木博之 
岩倉使節団『米欧回覧実記』  田中彰 
ペリカン文書   J.グリシャム 
ダ・ヴィンチ・コード  ダン・ブラウン 
ボルジア家の黄金の血  フランソワーズ・サガン 
チェーザレ・ボルジア あるいは優雅なる冷酷  塩野七生
鎌倉幕府滅亡と北条氏一族  秋山哲雄 
夏の砦  辻 邦生 
われ敗れたり 米長邦雄
藤原氏千年  朧谷 寿 
異形の王権  網野善彦 
伊勢参宮道中記  石原 博 
城・ある告別  辻 邦生
高貴なる敗北  アイヴァン・モリス
時計の社会史  角山 栄 
太平記(一)  兵藤裕己 
悠遊 第二十一号  企業OBペンクラブ編 
俳諧志(上)  加藤郁乎 
純愛―エセルと陸奥廣吉  下重暁子 
日本文化の形成  宮本常一 
自然を詠む  篠原徹 
意識と生命  ベルクソン 
晩年の発見  下重暁子 
木綿以前の事  柳田国男 
野草雑記・野鳥雑記 柳田国男 
連句の教室  深沢真二 
安国寺恵瓊  河合正治 
孤猿随筆  柳田国男 
柳宗民の雑草ノオト  柳宗民・文、三品隆司・画 
春泥・三の酉  久保田万太郎 
柳宗民の雑草ノオト2  柳宗民・文、三品隆司・画 
群れない 媚びない こうやって生きてきた  下重暁子、黒田夏子 
Haiku 2  Herman Van Rompuy, ヘルマン・ファン・ロンパウ 
俳諧志(下)  加藤郁乎 
天狗  太宰治 
しょっぺえなし 須田シマ・須田政 
不幸なる芸術・笑の本願  柳田国男 
俳句  阿部筲人 
浜童子 童子吟社横浜句会
最後はひとり 下重暁子 
太平記(二)  兵藤裕己
芭蕉のこころをよむ  尾方仂 
砂の文明 石の文明 泥の文明  松本健一 
近代の呪い  渡辺京二
万太郎の一句  小沢實 
話を聞かない男 地図が読めない女  アラン・ビーバーズ+バーバラ・ビーバーズ 
歳を歴た鰐の話  レオポール・ショヴォ 
喪神  五味康祐 
考えるヒント2  小林秀雄 
自死の日本史  モーリス・パンゲ 


書名 大山康晴の晩節 著者 河口俊彦 No
2014-01
発行所 ちくま文庫 発行年 2013年12月 読了年月日 2014-01-04 記入年月日 2014-01-10

 
入力途中で一休みして、ヤフーニュースを見た。谷川九段(永世名人)のA級からの陥落が決定したとあった。谷川は後2局残している段階で、1勝6敗で、昨日の深浦対屋敷戦で屋敷が勝ったために、谷川は残りを全勝してもA級に残れない。谷川51才。大山の44期に次ぐ32期連続A級在位記録が途絶えた。

 谷川は「前期の成績がよくなかったので、今期もある程度覚悟していました。来期はB級1組で頑張りたいと思います」と話し、引退を否定。次期順位戦ではA級復帰を目指して戦う意向を示した。中原十六世名人のコメントも載っている。「彗星(すいせい)のように名人戦に出てきた谷川さんが、A級から降級するとは。感慨深いものがあります。将棋の内容を見て、前期あたりから大変かなと感じていました。序盤戦で苦労している印象があります。大山康晴先生も私も、50歳を過ぎるととたんに苦しくなりました。しかし、まだ老け込む年齢ではないので、これからの戦いぶりも注目したいと思います。」

 奇しくも、大山康晴の凄さが証明されてしまった。本書の帯には「
生涯を通して勝ち続けた男」の文字が並ぶ。

 私が大山を好きになったのは、かなり年齢を重ねた後だった。それまでは、升田の天才のファンだった。升田の後も、米長とか内藤といった棋風も言動も派手な棋士が好きで、受けを得意とし、地味で、一局の中にはっとするような手のない大山将棋は好みではなかった。攻め将棋の私は今でも大山の棋風は好きでない。私が大山を見直し、尊敬し好きになったのは、圧倒的な体力と精神力、それに加えて偉ぶらない人柄に本当の勝負師を見出してからだ。

 平成4年、肝臓に転移していたがんの摘出手術をした大山は、A級順位戦で驚異的ながんばりを見せ、4者同率決戦に持ち込んだ。当時、私は時々千駄ヶ谷の将棋会館の道場で将棋を指していたが、「大山は不死身だ、なにしろ肝臓までが再生するんだから」など、大山をたたえる言葉が飛び交っていた。大山への私の熱い思いも最高に達していた。中原名人への挑戦権を何とか獲得して欲しいと祈ったが、さすがにそれはならなかった。そして、その年の7月に大山は亡くなる。満69才、生涯現役。亡くなる1ヶ月前まで対局をしていた。大山は最初の大腸がんの後、昭和61年には名人挑戦者になった。実に63才である。

 本書の著者は、引退棋士で将棋ライターとしては定評のある河口俊彦。晩年の活躍を中心に大山将棋を紹介している。たくさんの棋譜、局面図が載っていて、参考になる。大山の強さを正確な読みと言った技術面に加えて、相手に対する「圧倒的な威圧感」にあったとする見方は、将棋界の内部の人でないと書けない。棋士間の好き嫌い、人間関係、将棋連盟の運営をめぐる棋士の間の思惑の違いなど、生々しいことにも所々で触れられている。

 谷川についても各所で触れられている。大山の生涯勝数1433勝がいかにすごいかを述べた後で:
谷川も羽生も四十歳過ぎからがわからない。まして五十歳過ぎにどうなるか見当もつかない。そういったある種の危うさがあるのは、人間性が大山と全然違うからである。たとえば、五十を過ぎてから人間が一回り大きくなり、何か勝つ要素を自身に加える、など想像できない。大山は年とともに人間的威厳を増し、将棋連盟の絶対的な支配者となっていった。といっても権力を振るったわけではなく、村の長になったのであり、奉仕精神が根底にあった。(p277)

 本書が書かれたのはまだ中原が引退する前、平成15年。一昨年、米長死去のあと谷川が会長を継いだ。谷川に対する見方は当たっているだろう。羽生についてはどうだろう。

 米長について:
・・・良い関係ではなかった。利害関係で対立することはなかったがと思うが、結局人間的な相性が悪かったのだ。大山は好かれる人柄ではない。大勝負師だから当然である。しかし、年をとり、会長になってずい分と自分を殺すようになった。(中略)そういった大山の眼からすれば、米長は波風を立てる人間で、はびこらせるわけにはいかなかった。米長を名人にしないために必死になっただろう。うがった言い方になるが、米長は大山がいたために名人になれなかった。(中略)米長が中原や谷川と名人戦を戦っていたとき、米長を勝たせまいと念じていたことだろう。(p311)

 米長が名人になったのは、大山が亡くなった後である。A級順位戦における大山・米長の最後の果たし合いの棋譜が詳しく解説される。お互いに最後の果たし合いになることを自覚していただろうというこの将棋は、大熱戦の末、大山が勝ち、最後は結局谷川、髙橋、南、大山の四者同率という結果に終わるる。

 本書に棋譜と局面図がたくさん載っている理由を、「
なにより大山は将棋の天才であり、指し手が人間をあらわしている。だから省くことはできなかった」と書く{p348)。

 最後には筑摩文庫版への後書きが載っている。こちらは昨年の竜王戦で森内が渡辺竜王に2勝した段階で書かれている。現代棋界への著者の見方がでていて面白い。

 渡辺が森内に竜王位を取られても、それは一時的に過ぎないと断言する。丸山が2年続けて竜王戦に挑戦したが勝てなかったのは、棋風が渡辺と同系統で力負けしたからだ。羽生世代をいずれ渡辺が圧倒する。しかし、羽生世代が衰えてから渡辺が勝つのは面白くないから、彼等に力のあるうちに倒さねば面白くない。というわけで、羽生、森内、渡辺の三すくみの争いは今は佳境であるという。渡辺を抜きそうな才能が今の若手棋士は見あたらないという。広瀬章人、中村太地、豊島將之、糸谷哲朗の4人を若手の有望株としてあげている。なかで、豊島はすべてが優等生的でありA級に昇るのは一番早いだろうと予想。今季順位戦は今のところ負けなしで、豊島は先ず昇級するだろう*)。広瀬は微妙だ。才能という点では、糸谷が一番だという。しかし最後に「
近い将来に渡辺を抜く者は、今の若手棋士にはいない、が棋界の認識である」と述べる。

*)追記:豊島は終盤で2敗し、順位の関係でA級昇級を逸した。広瀬がA級に昇った。

 つい最近私が知った永瀬六段という若手には論及していない。21歳、棋王戦で羽生を2回破っている。棋王戦挑戦者決定選では、三浦に惜しくも敗れてしまったが、通算書率は7割を越え、新人王戦も優勝している。ただ、順位戦が振るわず、C2級で、今期も昇級が難しそうだ。

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書名 将門記 著者 大岡昇平 No
2014-02
発行所 中公文庫 発行年 昭和50年 読了年月日 2014-01-08 記入年月日 2014-01-10

「将門記」他幕末もの6編を集めた歴史もの。資料の詳細な検討を通して取り上げた人物の人間像を著者なりに作りあげて行く、その過程が主に描かれる。従来の人物像のみならず、著者が抱いていた人物像までも、資料を検討して行くうちに変更する。

「将門記」は将門の乱直後、天慶3年(940年)に書かれたと思われる「将門記」の綿密な考証を通じて、平将門像を作りあげて行く。そのためには、著者は「将門記」の原文を随所にそのまま載せる。例えば、乱後、将門が朝廷の実力者、藤原忠平あてに出した手紙の原文が2ページに渡ってそのまま載せられている。大岡はさらに、戦後進んだ政経的史観も採用している。

 将門の乱は、将門が伯父の平国香を討つことから始まる。その原因を一族間の領地争いに求める。国香達が領有する土地は筑波山麓の安定した田畑である。一方、将門が拠点とした猿島郡や豊田郡は、鬼怒川の氾濫によりしばしば境界が替わってしまう。こうした領地条件の違いが、一族間の争いの背後にあるという経済史的史観の説を肯定する。

 一族間の争いで勝った将門は、自分の力を誇示するために、武蔵の新任の権守と地元の豪族との争いの仲介を買って出る。さらに、常陸の国のならず者が将門の庇護を求めて、傘下に入る。そのことが原因で、常陸の国の国衙と将門は対立し、国衙を襲撃し、略奪する。そして、「新皇」を名乗る。将門はここに初めて叛徒となる。さらに下野の国衙も襲撃し、略奪する。将門の反乱は国香の息子、貞盛と下野の豪族藤原秀郷に鎮圧され、わずか3ヶ月で終わる。平貞盛は後の伊勢平氏の祖となる人物である。秀郷については前歴ははっきりしないが、一族とともに伊豆に流されたことがあり、国衙に反抗的であったことは将門と同じであろうと推測する。将門があっけなく敗れたのは、官側の動きに対する情報不足、あるいは自身の力の過信、そして彼の配下の農兵が乱の大規模化に不安を感じて離散したことなどを挙げている。

 将門、純友の乱は彼等の個人的な武勇と叛逆心によるものとは言え、民衆の蓄積された不満のエネルギーがなければ、現れなかったという。そして、武家にとっては朝廷の全国支配に反抗して、関東を武家の本拠地とする構想を立てた偉大なる先駆者である。明治以前には、各地に将門塚があり、大ぴらに崇拝されたのは、封建領主の黙認があったからだ。神田明神の主神の地位を大己貴命に奪われ、皇位をうかがう極悪人とされたのは明治に入ってからである。

 著者は最後に将門を次のように評する:
関東の辺境に育ったこの半ば武士半ば農場主には、優雅な朝廷からは野人として軽蔑されながら、古代的素朴さを持っていたようである。この人物が直ちに怨霊として土着信仰と結びついたのは、多くの英雄に共通している。(p82)

 また別のところでは次のように述べる:
時宗の遊行僧は非業の死を遂げた者の怨霊を宰領すると信じられ、信者の前で怨霊の生前の事蹟を語った。将門塚が、関東、甲斐、信州など、時宗の勢力範囲に広がる。(p77)

 幕末ものは「天誅」「姉小路暗殺」「挙兵」「吉村虎太郎」「高杉晋作」「龍馬殺し」である。なかでは、「姉小路暗殺」が推理小説を読むようで面白い。犯人は薩摩藩士の田中新兵衛とする説がほぼ確定しているようだ。それは、現場に落とされた刀が、新兵衛のものと一致したと言う証拠があるからであり、取調中に彼が自殺したことによる。しかし、この事件には謎が多すぎる。背後で誰が手を引いていたか、当時の複雑な政治情勢か絡んでくる。姉小路は三条実美と並んで、当時攘夷論の最先鋭の公家である。一方、孝明天皇、京都守護職の松平容保、薩摩藩は公武合体派であり、三条等とは対立していた。当時から、薩摩藩、会津の容保、あるいは岩倉具視、三条実美までが姉小路暗殺の黒幕だという噂があったようだ。大岡は当時の記録などを徹底的に調べ、事件の謎に迫る。そして、中川宮が孝明天皇の叡慮を察して、田中新兵衛に命じたと仮定すれば、暗殺の謎は一応解けると結んでいる。大胆な推理である。

「龍馬殺し」は、犯人を今井信郎とする通説を受け容れる。ただ暗殺の意義を、「
幕府の巻き返しの機運の中にあって、部長級の警察官が、殺された部下の復讐を図ったのが真相であろう」述べている(p232)。寺田屋で龍馬が見回り組に踏みこまれたとき、龍馬は拳銃を発射して、何人かに命中させた。その復讐だというのだ。

 龍馬に対する大岡の評は冷めたものだ。大政奉還を勧める一方で、薩長同盟を斡旋し、長崎で小銃3000丁を買い入れるなどの、和戦両様の構えを取った。日本が戦乱に陥り、それに乗じて外国から干渉されるのを防ぐため、できるだけ平和理に近代国家に変われるように目指したといわれる。しかし、この一般に広く流布している見方を、大岡は「
あまり珍しくない意見である。竜馬の矛盾した行動を、その後の歴史の動きに照らして、辻褄を合わせただけのものであろう」と書く。さらに「薩長連合を図る一方、文久二年以来、彼の行動には親幕路線が一貫している。そこに規模雄大な近代日本創生の構想を見るよりも、陰謀家の両面作選を見る方が簡単である」(p230)。この編が発表されたのは昭和41年である。大岡が、司馬遼太郎の龍馬観を意識していたのかどうかは不明だ。

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書名 √2の不思議 著者 足立恒雄 No
2014-03
発行所 筑摩学芸文庫 発行年 2007年 読了年月日 2014-01-15 記入年月日 2014-2014-01-25

 本屋で見つけた。歴史、評伝物が続いていたので、こんな本も読んでみたくなった。

 数についての哲学史といった本。ピタゴラス、アリストテレス、ミルトン、ラッセル、アインシュタインなどの著作からたくさんの引用がなされている。

 円周率が数字では表せないこと、辺が1センチの正方形の対角線がやはり数字では表現できないことを私は不思議に思っている。それは数学の欠陥ではないかという意識さえあり、πも√2も有限の数列で表すことができる数学体系はないのだろうかと思ったりする。私の疑問はどうやらピタゴラス一派が抱いた疑問と同じようなものであったことが本書によって何となくわかった。

 ピタゴラスは、この世界を構成するものとして、地、水、火、風のようなものの代わりに数を考えた。「数原子論」である。正方形の対角線が、無理数であること、つまり二つの線分の長さを測るのに共通の単位がないことは、数原子論を採るピタゴラス派には致命的な打撃であった。アリストテレスは、驚くことから哲学が始まるとしている。√2が無理数であることは、ギリシャの人にとってはその驚きの代表例であった。ピタゴラス派は、数原子論を放棄し、数理の理想世界が実在し、現実世界はそれを模倣しているのだという説を唱えるようになる。プラトンはそれを発展させ、イデア説とする。

 著者は述べる:
このように考えると、√2が無理数であるという事実の発見は、たんに一つの新しい量の発見にとどまらず、物理学と数学の乖離、そして「素材論から形相論へ」という思弁哲学の独立をもたらしたという意味で、重大な歴史的事件であったと言えるのではなかろうか。(p177)

 著者の考えでは、自然界は数学的ではなく、我々が自然言語から抽出した数学という言語を使って研究するから、自然界は数学的なのである(p209)。

 盛りだくさんの内容で、文章にまとまりがないところがあって、読みやすい本ではなかった。そんな中で、読んでいて、そうだったのかと気がついたのは、俳句も短歌も、そのリズム、5と7は素数であると言うこと。さらに俳句の17、短歌の31という文字数もやはり素数であると言うこと。これはかなり神秘的なことではないか。


 
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書名 東京の地霊 著者 鈴木博之 No
2014-04
発行所 筑摩学芸文庫 発行年 2009年 読了年月日 2014-01-18 記入年月日 2014-01-25

 
これも本屋で。しかも、前のと同じ筑摩学芸文庫。

 地霊に「ゲニウス・ロキ」とルビが振ってある。ラテン語で土地に対する守護の霊という意味だとのこと。東京という近代都市と地霊という取り合わせが面白いと思ったが、著者によれば、東京は地霊に満ちているという。主として江戸時代からの土地にまつわる歴史が述べられる。

 上野公園はもっとも本書の意図が現れている。

 東叡山寛永寺が江戸の大寺として江戸城鬼門の鎮護のために設けられたのは、寛永年間のことであった。年号を寺号にするのはその寺院が国家的な重要性をもつからであり、このような例としては延暦年間に創建された比叡山延暦寺がある。寛永寺はまさしく「江戸における延暦寺」として、東の比叡山という意味を込めて東叡山と名づけられたのであった。(p73)

 開基は、天海僧正、南光坊とも呼ばれる慈眼大師。天海は関東平野のスケールをもって、東照宮を配置し、国土の新しい中枢を神格化した。次ぎに必要なのは幕府の首都である江戸を、天皇の首都たる京都に拮抗しうる格式によって粧うことであった。寛永寺はその重要な布石であった。

 上野の山は台地の突端にあり、そこからは浅草、両国、深川という下町方面が見渡せる。西の方には不忍池を越えて本郷台地がある。ここを比叡山に擬することができる。不忍池は、琵琶湖に比せられる。上野の山の中腹に今も建つ清水堂は、京都の清水寺から名をとった。この小さな堂も舞台作りになっている。かくして、上野の山に桜を愛でる人も、紅葉を愛でる人も、江戸は東国の城下町ではなく、日本の中心だと思えたにちがいない。

 
それ故にこそ、上野の山は江戸の町が終り幕府が滅亡する日、もっともはなばなしい舞台となるのである。(p80)

 
夜討ちで彰義隊を狩りたてたのでは、江戸の町は江戸の人のものでありつづけてしまう。(中略)大村益次郎はおそらく直観的に、江戸の武士を上野で葬ることによって、江戸はその魂をゆずりわたすであろうと見抜いたにちがいない。

 決着は1日でつく。生き残った彰義隊は、護国寺、根岸、吾妻橋へと落ちる。江戸の人々は彼等に古着を与え、刀をあずかり便宜を図る。

 
彰義隊は決して無益な死を遂げたわけではなかったのだ。上野という場所の意味を、徳川の歴史のすべてを込めて振り返ってみせ、その場所を自分たちの死に場所にすることによって江戸を官軍に譲り、江戸のなかで上野が占めているとくべつな位置を教えたのだった。(中略)上野の戦争は無益な戦争ではなかったし、彼らの死は無益な死ではなかった。彼らは自らが敗れ去る姿によって、江戸という町の本質を官軍に示したのだった。(p88)

 こうした見方で見ると、歴史は一段と興味深いものになる。よい本であった。

 上野公園の他に本書には以下の場所が取り上げられている。本書をポケットにいくつかのところには是非行ってみたい。
 六本木、紀尾井町、護国寺、御殿山、芝、新宿御苑、椿山荘、日本橋室町、目黒、東大キャンパス、深沢、広尾。

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書名 岩倉使節団『米欧回覧実記』 著者 田中彰 No
2014-05
発行所 岩波現代文庫 発行年 2002年 読了年月日 2014-01-30 記入年月日 2014-02-01

『東京の地霊』の中に、『米欧回覧実記』の著者、久米邦武が、執筆の代価として明治11年に金500円をもらい、それで目黒の権之助坂上に5000坪の土地を買ったという記述がある。『東京の地霊』の目黒の項は久米邦武の生涯にまつわる話である。当時はまだ「
植木溜まりのようで、富岳の眺望を楽しむだけ」の土地であっても、5000坪の土地が買える執筆料というのはすごいと思った。

 かつて、アメリカに出張した際、同行した会社のナンバーツーが、岩波文庫の『米欧回覧実記』をもって来ているのを目にした。それ以来、いつかは読んでみたいと思っていたが、なにしろ文庫本で5冊、しかも仮名交じり漢文で、どう見ても読みづらそうだった。たまたま、本屋で本書が目に入った。これなら読めそうだと手にした。

 使節団の何でも見てやろう精神にまず驚く。『米欧回覧実記』はそれを詳細に記述する。当時の米欧を知る百科辞典としても面白そうだ。使節団がすごいのは、彼らが目にした物の背後にあるものへの考察を行っていることだ。決して表面的に米欧を見ているのではないこと。本書の著者も、そうした使節団の知的水準の高さを賞賛する。

 使節団が出発したのは明治4年12月。アメリカからヨーロッパに渡り、帰りはスエズ運河を通り地球を一周して、明治6年9月に帰国する。岩倉、木戸、大久保、伊藤という維新政府の半分が加わった、おそらく日本空前の使節団だろう。本書の最初の方に使節団の名簿が載っている。岩倉の47歳が最高齢で、伊藤博文は31歳。その他20代の若者達など、若いのに驚く。そのほとんどが、後に国の要職に就いている。留学生も多数同行した。その多くも例えば中江兆民や団琢磨など、帰国後多方面で活躍する。

 使節団の目的を本書は、「近代国家の移植」とまとめている(p42)。もちろん条約改正も大きな使命だったが、これは最初のアメリカで拒否され、以後どこでも成果を見なかった。彼らが「移植すべき近代国家」と見たのは、結局遅れて国家統一をなした後進のプロシアであった。プロシアではビスマルクやモルトケに会う。そこで二人の口から直接、万国公法よりも力による国際秩序の確立という考えを聞く。それは使節団にとっては衝撃であったという。とはいえ、最初からプロシアへ傾倒していたのではない。『米欧回覧実記』の記述も、プロシアに関するものは米英に比して少ないという。プロシアへの親近感は相対的なものであり、アメリカ、イギリス、フランスは余りにも進みすぎていて、日本の実情には合わないと彼らは思った。

 帰国後、大久保、伊藤を中心にプロシア流の立憲君主国家への道が踏み出される。それを考えると、この使節団の近代史に果たした役割は極めて大きい。

 当時、英仏独墺露の5大国のうち、ロシアはもっとも遅れていると見られていたが、日本ではロシアこそが最大最強の国だと見られていた。その理由は、泰平鎖国の夢を突如破ったのは、1804年(文化元年)のロシア使節レザノフであり、ロシアこそが五大洲併呑の野望を持っているという幕末の攘夷論者の井の中の蛙的妄想によるものだと、使節団は考察する。そして、そうした妄想を取り払い、澄んだ目で物事を見ることを識者に望む、とロシアの項を結んでいる。(p169~)。

 日本はやがてロシアと戦うことになる。そのためにイギリスと同盟を結ぶ。そして、第一次大戦では、明治国家が手本としたドイツを敵にして戦う。しかし、第二次大戦では今度はドイツと手を組み、米英と戦う。戦後はアメリカとべったりくっつく。こうした日本近代史との関連で『米欧回覧実記』読んでみたら面白いだろう。

本書から:
 
岩倉使節団はこのように現象の背後にあるものへの原理的な洞察をいたるところでし、また、東西の社会や文化の対比を随所にしている。この洞察や比較の基軸には、日本の支配者として、いかにして近代国家を創出するか、という視点があった。彼らはこの視点に立った使命感で、眼前につぎつぎと展開する米欧の近代国家像とその富強のなかに、明治天皇制国家構築構想の思いをめぐらせたのである。日本やアジアにきびしすぎると思える評価を下しているのも、その視点から発したものとみることができる(p78)。
 これは使節団がアメリカの国家生存原理として「勤勉スル力」を指摘した下りのあとの記述だ。

 
日本文化は、創造よりも模倣だという特質を、使節団ははっきりと自覚していた。その特質に徹することによって日本がアジアでもっとも進んだ開化をかちとっているとすれば、異質の西洋文明への対処のしかたもおのずから明らかとなる(p193)。
 この後に『回覧実記』の本文を引用する。そこから著者は、東西両洋文化の接点に日本をおき、採長補短によってその新たな融合を目指そうとした使節団の意図をくみ取っている。とてつもない使節団だったことがわかる。

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書名 ペリカン文書 著者 J.グリシャム 白石 朗 訳 No
2014-06
発行所 新潮社 発行年 1993年 読了年月日 2014-01-31 記入年月日 2014-02ー02

 
本棚にあった。息子か娘のものだろう。題名は耳にしたことがある。何気なく手にしたら、引き込まれて、2日で読んでしまった。

 アメリカの最高裁判官判事が2人も同じ夜に殺害される。犯人はプロ中のプロ、手がかりを全く残さない。判事の一人は91歳の最高裁の長官に当たる人物。彼はリベラル派として、国内の保守派の目の仇であり、おびただしい脅迫状が寄せられている。もう一人はむしろ保守派であるが、環境問題ではリベラル派である。FBIは最高裁判事9人全員に数人の配下をつけてその警備に当たってたにもかかわらず、長官は自宅で、もう一人は同性愛映画専門の映画館で、短時間の間に殺される。犯人は同一人物で、最初からその名前は明らかにされる。高額の報酬で雇われた専門の殺し屋であることは推測されるが、背後にいる人物は誰か。

 ダービー・ショウはニューオリンズでロースクールに通う、美貌の女学生。ロースクールの教授と愛人関係にある。ダービーは二人の裁判官が関与した判例を徹底的に洗い出し、さらにその中で最高裁へ上訴されそうな案件を絞り込んで行く。二人の裁判官の共通するのは、徹底した環境保護論者である。そこから、彼女は、この殺人の背後にいる人物にたどり着く。それはミシシッピー河デルタ地帯の石油開発と環境保護との対立を背景とした物だった。そして、その推理をまとめた文書を作る。これは「ペリカン文書」と名づけられる。ミシシッピー河デルタに棲息するペリカンの一種が絶滅の機に瀕しているのにちなむ命名だ。

「ペリカン文書」は、愛人の教授の手を経て、FBI長官まで届けられる。そしてそれはホワイトハウスまで達する。その中身は、1年後に再選を控える共和党の大統領にとっては衝撃的なものだった。内容は衝撃的であっても、本気で「ペリカン文書」の中身を真実だとは思わない。ホワイトハウスは「ペリカン文書」の存在を極秘にし、FBIにその中身の調査を禁じる。しかし、この文書を書いたダービーと教授は命を狙われる。

 結局彼女の推理は真実だった。後半はダービーとそれを手助けするワシントンポストの記者グランサムとの命がけの逃避行。スリル満点だが、ありきたりと言えばありきたり。本書の面白いのは前半、大統領、首席補佐官、FBI長官の3者とそれに時々CIA長官が加わった、4者のこの事件をめぐる思惑。大統領は、忌み嫌っていたリベラル派の長官の死を内心ではほくそ笑む。これで後任に保守派の判事を2名指名すれば、最高裁は完全に保守派のものになる。そんなことはおくびにも出さず、これぞ点数の稼ぎ時と、テレビの前で、心からの哀悼を表する。直後に大統領支持率はぐんと上がる。これで、1年後の再選も手にしたようなものだ。この辺りの演出は首席補佐官のものだが、その補佐官も、内心では大統領を軽蔑しきっている。FBI長官は大統領とは対等に口をきく。大統領の前でも、トレンチコートを取らない剛胆さがある。首席補佐官とも犬猿の仲だ。FBI長官は魅力的だ。もちろん、かなり誇張されてはいるだろうが、アメリカ政治の一端をうかがうようで、この部分が面白かった。

 よくできている。一つだけ不自然だと思ったのは、犯人が殺害の目的でダービーをうまく連れ出して、人混みの中にいるとき、いとも簡単に後から撃たれて死んでしまうこと。中東初め、世界を股にかけて殺し屋として完璧な仕事を数々こなしてきた人物にしては、考えられないような死に方だ。殺し屋殺しの犯人は、最後になって明らかにされる。

 ダービー・ショウ役にジュリア・ロバーツを配した映画は、1994年には日本でも公開された。 

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書名 ダ・ヴィンチ・コード 著者 ダン・ブラウン、越前敏弥 訳 No
2014-07
発行所 角川文庫 発行年 平成18年 読了年月日 2014-02-06 記入年月日 2014-02-07

 
これも家にあったもの。映画化され、話題になったことは知っていた。『ペリカン文書』が面白かったので、同じ翻訳ミステリーとして読む気になった。文庫本で3冊。

 ストーリーの展開は『ペリカン文書』とよく似ている。最初に殺人があり、犯人はその時点で明らかにされる。そして、男女二人が追われる。本書の場合は犯人と目され、警察に追われるのだ。男はハーバード大の宗教象徴学の教授ラングドン、女はフランス司法警察の暗号解読官ソフィー・ヌヴー。殺されたのはルーブル美術館長のソニエール。殺害場所はたくさんの名画が並ぶルーブルのグランドギャラリー。館長の残したダイイングメッセージを二人が解読して行く過程が本書の読みどころ。

 それはキリスト教の教義に関する問題であった。原始キリスト教時代にあった、キリストを人間と見る見方は、その後のカトリック教会により異端とされた。彼らの信仰の中心は、聖書では娼婦としておとしめられ、歴史から抹殺された、マグダラのマリアを女神として崇めることであった。その考えは秘密裏に延々と受け継がれ、秘密結社的に現在まで続いている。十字軍として参加したテンプル騎士団はエルサレムのソロモン神殿の廃墟から、人間としてのキリストを伝える大量の文書を発見し、密かに持ち帰った。それにはキリストの「血脈」が記され、マグダラのマリアを女神として崇めてあった。古来からの聖杯伝説とはマグダラのマリアの墓を探すことであった。テンプル騎士団の持ち帰った文書にはそのありかが示されていると信じられた。この文書はシオン修道会によって受け継がれ、その在りかを示すものはシオン修道会が代々受け継いできた。もし、この文書が明るみに出たら、キリストを神とするカトリック教会の教義は否定され、その権威は崩壊する。2000年紀を迎え、この文書がシオン修道会から公開されるのではないかという恐れがあった。それを恐れたカソリックの保守派の一団体が文書の在りかを突き止めようとした。そして起こったのが、ルーブル美術館のソニエール館長の殺害であった。

 ソニエールはシオン修道会の長であった。彼は同時に殺されたシオン修道会の3人の参事とともに、この文書のありかを示す地図の在りかを知っていたのだ。この修道会にはダ・ヴィンチ初め、ニュートン、など歴史上のそうそうたる著名人が所属していた。異端であるから公然とはその信仰を表さない。しかし、彼らの作ったものの中に現れる。ダ・ヴィンチの場合の典型は、「最後の晩餐」だ。彼はこの絵の中に一人女性を紛れ込ませた。口絵に載っている「最後の晩餐」を見ると、確かに一人は女性にしか見えない。これはマグダラのマリアであり、彼はこの絵に自分の信仰を告白しているのだ。

 ラングトンを犯人として追うフランス警察と、「導師」からの指令でやはりラングトンを追う犯人とに追われながら、ラングドンとソフィーはソニエールの残した暗号・謎を次々に解いて、ついに聖杯のありかを示す文書に到達する。ソフィーはソニエールの孫娘であった。幼い頃から、祖父から謎解き遊びを仕掛けられていて、後にロンドンで暗号解読を学ぶ。彼女の両親、祖母、弟は自動車事故で亡くなって、祖父と二人暮らしであったが、ある時、祖父が主催するシオン修道会の秘密の儀式を見てしまう。その衝撃に彼女は家を飛び出し、以後祖父とは絶縁状態であった。

 物語の後半では「導師」として現れ、どうやら最終的にこの犯罪を指示した人物が、実は意外な人物ではないかという疑問がわいてくる。聖杯がどこにあってそれにたどり着けるのかという興味に加えて、「導師」が誰であるかという謎解きが読み手を引っ張る。ミステリーとしてよくできている。

 ラングトンが最後に達した聖杯のありかは意外なところであった。そこにはミッテランが造ったある物があった。ミッテランも「秘密結社の一員であると噂されている」と本書は述べる。

 建造物を初め、人間の造り出した多くの芸術作品に象徴を見つけ出して行く本書は、まるでユングの著作を読んでいるような気分になる。本書中巻の184ページ以下には、「最後の晩餐」以外にも、マグダラのマリアを讃える芸術作品として、ボッティチェルリ、プッサン、ベルニーニ、モーツアルト、ヴィクトル・ユーゴーなどの作品があり、それらには追放された聖なる女性を取り戻す旅があり、聖杯伝説の寓意物語であるとする。ユーゴーの『ノートル・ダム・ド・パリ』やモーツアルトの『魔笛』にはフリーメイソンの象徴や聖杯の秘密が満たされているという。さらに、ウォルト・ディズニーも秘密結社の一員であり、その作品のほとんどに、宗教や、異教の神話、抑圧された女神に関するメッセージが隠されているという。秘密結社、秘密儀式とか陰謀というのは我々日本人にはどうもピンとこないものだが、欧米ではそれほど抵抗なく受け容れられる概念のようだ。

 本書の冒頭には「
この小説における芸術作品、建築物、文書、秘密儀式に関する記述は、すべて事実に基づいている」と断り書きがある。

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書名 ボルジア家の黄金の血 著者 フランソワーズ・サガン、鷲見洋一訳 No
2014-08
発行所 新潮文庫 発行年 平成2年 読了年月日 2014-02-14 記入年月日 2014-03ー01

 一月のエッセイ教室で、受講生の後町さんがこの本と次の『チェーザレ・ボルジア あるいは優雅なる冷酷』のことを書いた。確か『ボルジア家の毒薬』という映画があった。もちろんサガンの名はよく知っている。しかし、ボルジアもサガンも読んだことはなかった。後町さんが紹介する本書はチェーザレ・ボルジアを中心とするボルジア一族の乱脈、特にチェーザレと妹のルクレツィアとの禁断の愛を描いたものとのことで、興味をそそられた。

 本書の舞台はバチカン。法皇の座る玉座が語ると言う形で進行する。全編で25の断片的な章よりなる。後書きで知ったのだが、これはサガンがテレビ放送用に先ず台詞を書き、それをもとに協力者により小説に仕上げられたもの。1500年前後のイタリアの複雑で入り組んだ歴史を知らないと、理解出来ない。何しろ、イタリアという国はなく、たくさんの小国に別れていて、それが争い、さらにそこにフランスやスペインが絡んでくるのだ。そうした中で繰り広げられる駆け引き、陰謀の数々が本書のバックにある。法皇も積極的にそうた駆け引きに手を染める。各章には簡単な当時の政治情勢に触れられているが、フランスやイタリアの人にはそれだけで十分であろうが、私にはほとんど理解出来ない。言ってみれば、外国人が日本の戦国時代を舞台にした歴史小説を読むようなものだろう。

 1492年、枢機卿ロドリーゴ・ボルジアがローマ法王に選出される。アレッサンドロ六世である。スペイン生まれのロドリーゴは膨大な金力を背景にして法皇になった。彼は7人の子を認知した。枢機卿は正式には結婚を許されていないから、庶子である。法皇は独身の4人をバチカンに呼んで、それぞれの身の振り方を指示する。4人とは、チェーザレ、ファン、ルクレツィア、ホフレである。チェーザレには枢機卿を、ファンには教会の軍事組織の責任者を、ルクレツィアにはミラノの伯爵との結婚を、ホフレにはナポリの王女との結婚をそれぞれ決める。

 チェーザレとルクレツィアは幼い頃一緒に生活していた。その後分けられてしまったが、父法皇の下で再開する。その瞬間から、二人関係は男女の関係になる。11歳のホフレの相手は年上のサンチャ。この女にもチェーザレは手をつける。チェーザレの野望はイタリアを自分のものとすること。最初から枢機卿など眼中になかった。ルクレツィア、サンチャと組んで、チェーザレは弟のファンを謀殺する。サンチャとの逢瀬にファンはアヘンを盛られ、帰り道落馬し、チェーザレの腹心の部下に殺害される。かくして、チェーザレは枢機から教皇軍の司令官になる。

 ミラノを法皇方につけるために、ミラノのスフォロツァと結婚させられたルクレツィアであったが、ミラノが法皇に組しないと見たアレッサンドロは、その結婚の解消を宣言する。理由は、結婚しても妻に指一本も触れず侮辱したというものだ。法皇がそう宣言する場には、大きなお腹を抱えたルクレツィアが立っていた。チェーザレの子だ。法皇が宣言を終わると同時に彼女は倒れる。女官が「陣痛です」と言うと、アレッサンドロは「その通り、心痛じゃ。心痛と羞恥じゃ」と割れ鐘のような声で、その場をおさめる。映像で見たら、さぞ面白いと思われる場面。

 チェーザレの軍事的才能は天才的であった。彼は、小国を次々に征服し、法皇領としていく。それには血腥い謀略がつきまとう。だが、その謀略によってボルジアは没落する。ローマ郊外の大富豪枢機卿の家に招かれたアレッサンドロとチェーザレは、自らが仕掛けた毒入りぶどう酒を従者が間違って二人のグラスに入れ、飲んでしまう。アレッサンドロはまもなく死亡。一命は取り留めたチェーザレも、新法皇の選出を機に没落の道を辿る。それでも、スペインに逃れ、そこでも捕らわれるが奇跡的に逃れ、最後は戦闘の中で討ち死にする。31歳。

 ルネッサンスの時代が凄まじい時代であったことに驚く


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書名 チェーザレ・ボルジア あるいは優雅なる冷酷 著者 塩野七生 No
2014-09
発行所 新潮文庫 発行年 昭和57年 読了年月日 2014-02-27 記入年月日 2014-03-01

『チェーザレ・ボルジア あるいは優雅なる冷酷』という題名は知っていた。「あるいは優雅なる冷酷」とは一度聞いたら忘れ難い言葉だ。うまい題名だと思う。

 サガンの「ボルジア家の黄金の血」と違って、こちらはたくさんの史料に当たっての歴史物語。著者の最初期の作品。その後の作者の思想が色濃く表れている。

 地図、系図、肖像画が載せられていて、読む手助けにはなる。しかし、似たような人名、一度では発音できない人名がたくさん出て来る上、政治情勢が複雑怪奇で、その関係を整理するのは大変である。北条一族がその権力を確立して行く鎌倉幕府初期の暗闘を、世界史に類を見ないものだと堀田善衛は述べていたが、ボルジア家の活躍した時代もあるいはそれ以上ではないか。裏切り、暗殺、皆殺し。それもキリスト教会最高の地位にある法皇が各場面で絡んでいる。聖職者のもとに集まる財宝の数々。それぞれに華美を競った服装。特にチェーザレの服装は折ある毎に詳細に述べられる。人間のよい面も悪い面も一気に開花したのがルネッサンス時代なのだ。

 チェーザレが用いた謀略、暗殺に触れる著者は、それを一方的に非難はしない。援護する。サガンの見方はヨーロッパの歴史認識の本流をなすようだが、塩野はあえてそれに反論する。自らの毒によってアレッサンドロ六世とチェーザレが倒れたという説にも、著者はむしろ、これはマラリアにかかったのだという説を支持する。チェーザレとルクレツィアとの近親相姦にも触れていない。

 本書にはよく知られた人物が2人登場する.レオナルド・ダ・ヴィンチとマキアヴェッリである。ダヴィンチはチェーザレに荷担し、色々の兵器の開発、考案、さらには都市計画まで策定する。一方、マキアヴェッリはチェーザレには屈しなかったフィレンツエの若き外交官として、チェーザレのもとに派遣され、交渉に当たる。しかし、個人的にはチェーザレに強く引かれ、後に表した『君主論』ではチェーザレを高く評価する。

本書234p:
歴史上、これほどに才能の質の違う天才が行き会い、互いの才能を生かして協力する例は、なかなか見出せるものではない。レオナルドは思考の巨人であり、チェーザレは行動の天才である。レオナルドが、現実の彼岸を悠々と歩む型の人間であるのに反して、チェーザレは、現実の河に馬を昂然と乗り入れる型の人間である。ただこの二人にはその精神の根底において共通したものがあった。自負心である。彼らは、自己の感覚に合わないものは、そして自己が必要としないものは絶対に受け入れない。この自己を絶対視する精神は、完全な自由に通ずる。宗教からも、倫理道徳からも、彼らは自由である。ただ、この究極的にはニヒリズムに通するこの精神を、その極限で維持し、しかも、積極的にそれを生きていくためには、強烈な意志の力をもたねばならない。二人にはそれがあった。

マキアヴェッリはチェーザレが、反乱を鎮圧した後、「イタリアの不和の源を滅ぼしたのだ」というのを耳にする。「イタリア」という言葉に思わず「イタリア?」と聞き返す。「そうだ、イタリアだ」とチェーザレは答える。以下次にょうに続く:
 
イタリア。この言葉は、何世紀もの間、詩人の辞書以外には存在しなかった。マキアヴェッリの知り合ったどの人物も、その地位の上下を問わず、誰一人、この言葉を口にした者はいなかった。当時のイタリアには、フィレンツエ人、ヴェネツィア人、ミラノ人、ナポリ人はいても、イタリア人はいなかったのである。
 
しかし、イタリアの統一は、チェーザレにとっては使命感からくる悲願ではない。あくまでも彼にとっては、野望である。チェーザレは使命感などという、弱者にとっての武器、というより拠りどころを必要としない男だった。マキアヴェッリの理想は、チェーザレのこの野望と一致したのである。人々がやたらと口にする使命感を、人間の本性に向けられた鋭い現実的直視から信じなかったマキアヴェッリは、使命感よりもいっそう信頼できるものとして、人間の野望を信じたのである。(310p)

 人間の行動のもとにあるのは使命感よりも野望であるという著者の見方に私も同感だ。野望の代わりに、支配欲、功名心、ある場合は妬みという言葉を持ってきてもいい。私が気に入らないのは、著者自身が『ローマ人の物語』では、崇拝してやまないカエサルとアウグストゥスの行動を、理想とする国家のあり方を実現するという使命感に燃えたものとしているところだ。私はカエサルの行為も、アウグストゥスの行動もその基にあるのは彼らの支配欲、野望であると思う。


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書名 鎌倉幕府滅亡と北条氏一族 著者 秋山哲雄 No
2014-10
発行所 吉川弘文館 発行年 2013年5月 読了年月日 2014-03-06 記入年月日 2014-03-09

「敗者の日本史」シリー第7巻。
 鎌倉幕府滅亡に伴うロマンの様なものは排除された、かなり専門的な書。最新の研究成果からの引用も多く、むしろ鎌倉時代通史といった趣。北条一族の聞いたことのない名前や地位、鎌倉幕府機構の官職名やその役割などがたくさん出てきて、一読では頭に入らない読みづらい本であった。

 倒幕の立役者については次のように述べられる。

 後醍醐帝:後醍醐が帝についた当時、皇統は持明院統と大覚寺統が交互につくことになっていた。この原則では後醍醐の子供は皇位につけない。鎌倉幕府はこの原則に固執していた。それで後醍醐は帝位に就いた当初から倒幕を考えていた。(p176)

 楠木正成:いわゆる悪党。悪党とは荘園領主に反抗する人物。幕府は朝廷を通して荘園領主から依頼され、これら悪党を取り締まる。どの地域にも争いは不断にある。争いがその地域内で解決しないと、いずれかが幕府に訴える。鎌倉時代後半になると訴えられた方は悪党とされる。こうして悪党は増えていった。楠木正成は何らかの理由で和泉国の自分の所領を奪われ、悪党になった。悪党が、後醍醐帝の倒幕を支える勢力となった。(p180~)

 足利高氏:将軍にもなり得る源姓の出自を持つ高氏は、本来は格下に当たる北条氏が幕府を主導していることに反感を覚えたとされる。足利氏は幕府内では源氏嫡流という立場で、北条に次ぐ格の高さを維持できていた。しかし、それも幕府あってのこと。二度の上京で、幕府とは異なる尺度を持って倒幕を主張する人々を目の当たりにし、幕府の存続に危機を感じ倒幕に動いたのだろうと著者はいう。(p183~)

 新田義貞:千早城の楠木正成攻めに加わっていた義貞は、後醍醐帝の皇子護良親王の倒幕を命じる文書を手に入れる。病と偽って、上野国新田荘に帰った義貞のもとに、幕府から臨時兵糧の徴収の求めが来た。畿内・西国の反乱を鎮圧するための兵糧であった。やって来た幕府役人の催促ぶりに立腹した義貞は、使者を切り倒幕へと進んだ。(p187)

 このような東国の御家人が幕府に背いたのは、幕府が彼らに新たな負担を強いたからである。東国には幕府成立以後、既得権益があったが、それも幕府が全国一律に守護制度を適用するようになって、だんだん奪われていった。
 蒙古襲来の影響が幕府滅亡の原因であるという説には疑問を呈する。九州の武士は蒙古との戦いで恩賞が得られないことはよく理解していて、幕府から派遣される異国打手大将軍のもとで、異国警備番役を負担し、石築地を造営するなど、幕府に協力的であった。九州探題も六波羅探題に続いて滅ぶが、直前まで、九州の有力武士は九州探題に協力していた。六波羅探題の滅亡を知り、幕府に見切りをつけて、九州探題を攻めたとのこと。(p197~)。

 
鎌倉幕府の滅亡は、幕府の滅亡ではなく北条氏一族の滅亡だともいわれる。鎌倉幕府の各機関が北条氏の自害により滅亡しているのに対して、北条氏以外の人や組織の多くが、次の時代にも継承されたからである。しかし、その組織を整備したのは北条氏であった。確かに北条氏は滅びたが、その遺産は次の政権に残されたのである。(p209)

 後に伊豆韮山から起こった伊勢盛時は、相模まで進出する.後の北条早雲である。北条を名乗ったのは息子の氏綱からである。二つの北条の間に血のつながりはない。氏綱が北条を名乗ったのは、関東を支配する根拠として北条の名を利用したのだ。滅亡後200年近く経っても、関東の覇者として北条氏は認識されていた。(p210~)

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書名 夏の砦 著者 辻邦生 No
2014-11
発行所 文春文庫 発行年 1996年 読了年月日 2014-03-20 記入年月日 2014-03-30

 著者の初期の長編。文庫本で400ページを超え、そのうえ改行が極めて少ない本。主人公のタピスリ作家支倉冬子の精神の軌跡を綿密にたどった、真面目な純文学。恐らくこうした作品は、今の小説にはないだろう。昭和41年の書き下し作品。

 冬子はタピスリの勉強のために北欧のある町に留学する。そこを選んだ理由は、中世に作られた「グスタフ侯のタピスリ」があるからだ。学生の頃その図版を見た彼女はそれに衝撃を受ける。しかし、彼女はその町で知り合った若い女性とともにヨットで出かけ遭難死する。この小説は、たまたま北欧のその町に駐在していたエンジニアが、冬子の死後、残された記録、書簡などから、彼女の精神の軌跡をたどったもの。主人公の死は序章に次ぐ第1章で既に示される。冒頭の序章にはある少女「私」の幼児期の色々な出来事が述べられる。一見どういう関係だろうかと思うのだが、これがやがて、主人公の幼年時代であることが明らかにされ、それが、その後の主人公の精神といかに係わって行くかがこの小説のモチーフ。

 グスタフ侯のタピスリの実物を初めて見たとき、冬子はむしろ失望を感じる。しかし、死ぬ少し前にもう一度無性に見たくなり、その前に立つ。タピスリはまったく違ったものに見え、彼女は深く感動する。それは彼女の芸術的な開眼であった。とても要約するのが難しいが、本書の主題であり、おそらく著者の芸術観であろう。

 巻末に著者の創作ノートが付されている。各章毎のプロット、情景のメモ、あるいは幼年期を過ごした家の回りの地図など、長編小説を書くということがどんな作業なのかが類推されて、興味深い。


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書名 われ敗れたり 著者 米長邦雄 No
2014-12
発行所 中央公論新社 発行年 2012年2月 読了年月日 2014-03-22 記入年月日 2014-03-26

 3月15日からプロ棋士対コンピュータソフトの対戦、第3回電王戦が始まった。対局は最初から終局までネットで完全中継される。15日は朝から夜9時まで、パソコンの前に座りきりで、菅井5段対コンピュータソフト習甦の対戦を見守った。結果はコンピュータの完勝であった。コンピュータは特に序盤でビックリするような手を指すことがあるが、このソフトはまるで人間が指しているような指し手で、菅井を寄せつけなかった.菅井は若手のホープで、通算勝率が7割を越えている数少ない棋士である。たまたま、図書館に行ったら、本書が目にとまった。

 サブタイトルは「コンピュータ棋戦のすべてを語る」。米長は当時日本将棋連盟の会長であり、永世棋聖の称号を持つ。サブタイトル通りの内容で、第1回電王戦と称して、コンピュータと米長が対戦し、敗れるまでのドキュメント。ところどころ著者自身のブログから採ったと思われる文章が入るが、その他は恐らく口述を元に編集者が書いたものであろう。それだから、かえって生前時々耳にした米長の口調が、その人柄がよく表れた文章で、読みやすい。内容は専門的で詳細であり、コンピュータと人間との関わりを考える上で、歴史的価値のある本だと思った。

 米長の相手は「ボンクラーズ」。後手米長の初手は6二玉。こんな手は先ず人間同士の対局では指されない。この手には賛否両論があったようだ。本書で米長がもっとも言いたかったことは、6二玉の正当性である。6二玉をめぐる形で、ボンクラーズとの対戦の経過が語られる。6二玉の基本にあったのは、コンピュータは自分よりも強いという認識である。現役を引退してからかなりになり、会長職に専念する米長は、この対戦に備えて、ボンクラーズの入ったコンピュータを自宅に購入し、事前に200局に及ぶ対戦をして、その強さを認め、またその弱点を見抜いたのだ。弱点は入玉に弱いということ。6二玉は相手の左辺に厚みを作りそのまま押し切って入玉をしようという作選だ。渡辺竜王(当時)や弟子の中村太地らを自宅に呼んで研究をしている。そうした研究の結果が6二玉であった。ボンクラーズの基礎となったボナンザの開発者である保木氏とも事前に会い、戦い方を相談している。保木氏も6二玉を薦めている。ボンクラーズという変わった名前は、ボナンザをクラスター状に結集したソフトという意味だ。

 作選は大成功であった。だが、中盤に米長に痛いミスが出た。それからはコンピュータが圧勝した。

 電王戦はこの対局を第1回とし、来年以降も1年に1局ずつ、全部で5局指す予定だった。それが、次回は一挙に5局指すことになった。その決定は、米長とボンクラーズの対局が終了した直後、米長会長、谷川専務、北島メディア担当、それに主催者のドワンゴの川上会長らで決定し、局後の記者会見の席で発表した。驚くべき決断の速さだ。
 本書には各章の最初に米長語録が載っている。その中にはこんなのがある。

あなたはいま、若い愛人がいないはずです。それでは勝負に勝てません。」夫人に勝てるだろうかと聞いたら、かえってきた言葉だ。自戦記の中で、角道を開けて勝負に行くべきところでそれが出来なかったことを悔やんでいる。若い愛人もおらず、男としての、勝負師としての気力に欠けていたと述べている。

負けた理由を一言でいえば、私が弱かったから

盤上の駒のことを悪くいうのはあまりにもかわいそうだ
 これは6二玉への批判に答えたものだ。

 対局は2012年1月だったが、米長はその年の12月に亡くなり、人間側の1勝3敗1分けに終わった第二回電王戦を見ることは出来なかった。

 この対局にかけた米長の意気込みは並大抵のものではない。200回の事前対局、若手を集めての検討会に加えて、将棋勘を取り戻すために詰め将棋にも多数取り組んでいる。さらに、対局当日米長の向かいに座りコンピュータ側の指し手を指す棋士にも厳しい条件をつけている。それにかなったのが弟子の中村太地6段である。将棋が強いこと、米長と同じくらいに真剣に盤に向かうこと、目障りにならないこと、そして最後に米長を尊敬していることという条件を中村は満たした。中村は昨年度の王座戦の挑戦者となり、羽生とフルセットの熱戦を展開して敗れた若手の有望棋士だ。ちなみに今回の電王戦では、コンピュータ側はロボットが指す。対局開始と終了時にはちゃんと頭を下げて礼をするロボットだ。

 米長は対局場についても注文を出し、慣れた将棋会館を指定し、前夜はそこに泊まり込むという意気込みだ。当日は終了後の記者会見まではマスコミの取材は一切駄目という事前通知も出した。昼の休憩の時、対局場をでた米長をカメラに納めた女性記者がいた。それで心に乱れが生じて、午後の悪手の遠因になったと米長はいう。やや言い訳じみているが、それが人間なのだ。コンピュータはそうしたことは一切ない。どんな環境でも、相手の態度がどんなものであっても、若い愛人がいなくても、まったく無関係だ。人間は歳を取ると棋力が落ちる。コンピュータは弱くなることがない。コンピュータと対戦することにより、人間の本質が浮かび上がってくるところが、電王戦の一番の見所だ。米長は棋士の中ではもっとも人間くさい棋士であった。人間くささ丸出しでコンピュータとぶつかっていった記録として面白く、また貴重である。

 3月22日電王戦第2局 佐藤紳哉6段対やねうら王もコンピュータが勝った。佐藤の居飛車穴熊対コンピュータの四間飛車であった。

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書名 藤原氏千年 著者 朧谷 寿 No
2014-13
発行所 講談社現代新書 発行年 1996年 読了年月日 2014-03-26 記入年月日 2014-03-30

 
丸谷才一と山崎正和の『日本史を読む』の中で取り上げられていた。山崎はその中で、日本は万世一系の天皇が君臨したと言うが、実際は天皇家と藤原氏の二系であったといっている。確かに大化の改新以来、藤原氏は常に天皇を補佐してきた。それは明治維新まで続いてきた。幕末史に登場する公家、近衛、九条、三条、鷹司などは皆藤原氏である。山崎はまた、藤原氏が日本文化の形成に与えた影響の大きさにも触れている。平安女流文学、定家による新古今集、二条良基の菟玖波集、あるいは新撰菟玖波集を後押しした三条西実隆といったところが私でもすぐ浮かんでくる。

 本書は藤原氏千年の歴史を年代順に述べる。

 たくさんの人物が出てきて、名前も似ているし、その血縁関係も入り組んでいて、なかなか頭に入らない。藤原四家の中で、北家が権力を握って行く。その最盛期は道長が象徴する。道長に至までにはたくさんの政敵が葬られる。菅原道真と源高明はその代表例である。いずれも藤原氏の讒言あるいは陰謀による。政敵は流罪とされるので、後世のような血なまぐささはないが、平安時代も結構こうした事件は多発している。道長自身も同族内のライバルを蹴落として「望月の欠けたることのない」この世の絶頂を謳歌した。

 道長の日記『御堂関白記』は、実物を見たことがあるが、当時の貴族はよく日記を残している。本書の91ページ以下には、道長の祖父、師輔が残した『九条殿遺戒』が紹介されている。貴族の男子が守るべき日常や生活態度を子孫のために書き遺したものだ。朝起きたらまず自分の生まれ年の星の名を7回唱える。次いで鏡で顔を見て、暦でその日の吉兆を知る。次いで歯を磨き口をすすぎ、西に向かって手を洗い、仏名を唱え、日頃尊重している神社を心に念じる。次ぎに日記をつける。これらがすんだあと軽い粥を食べる。

 道長のあとは息子の頼通が継ぐ。頼通は道長亡き後、一族の長老で老練な政治家、藤原実質を頼りにする。その実質、73歳の時に日記『小右記』に、清涼殿の東庇で頼通を抱く夢を見る。そして「余の玉茎、木のごとし」と書く(p153)。男色は平安貴族の時代からもあったようだ。

 道長のもとには、時期になると任官を求めて貴族が押しかけてくる。列をなす貴族や官人に、道長が面会を断るという一幕もあったという。受領は一定額の税を国に納付すればあとは自分のものと出来る。その余裕分で道長へ貢ぐ。そのために領民に負担をかける。反発した領民が愁訴といって集団で上京し訴える事件が頻発した。栄華の陰にはこんなこともあったのだ。

 平安末期、白河天皇の頃から、院政政治が確立されるに従って、藤原家の影が薄くなって行く。それは源平争乱、承久の乱といった武家の台頭でさらに進む。そして一族の間で家意識が確立し五摂家が誕生する。九条、一条、二条、近衛、鷹司である。

 三条西実隆は15世紀半ばに生まれ、83歳という長寿をまっとうした公家である。歴代天皇の信任も厚く、足利将軍家とも良い関係を保ちながらも、文化面にエネルギーを注いだ人物だ。彼の遺した『実隆公記』はその時代を知る重要な史料である。その中には、当時の公家の貧窮ぶりも具体的に書かれている。彼は古典の書写や連歌和歌の添削が有力な収入源であった。ある年の正月、将軍家への年始のために、三人の公家が実隆から袴を借りている。その一人は前関白の二条政嗣であった。実隆自身も亡母の法要のために高利貸しからの金を借りている(p183)。31歳の時には『源氏物語』全巻を写本している。これは依頼ではなく自発的に行ったものである。後にこれは甲斐の国の某氏に売却している。この後ももう一度源氏の写本を完成し、能登の国の守護畠山氏へ売却している。

 慶応3年の王政復古を決めた朝廷会議で、16歳の明治天皇を中心に岩倉具視、大久保利通らが居並ぶなかで、五摂家は誰も顔を見せていない。呼ばれなかったのだ。そして、明治になり天皇は京都から東京へ遷都する。それは同時に公家社会の崩壊をも意味した。明治27年、平安遷都千百年を記念して、平安神宮が造られた。これは公家抜きで京都の再起を図った諸事業の記念碑である。祀られているのは桓武天皇と孝明天皇。平安京に住んだ最初と最後の天皇である。

 俊成、定家がでた冷泉家も藤原氏である。京都の冷泉家は唯一残る公家屋敷で、現在も子孫が生活している。冷泉家文書というのは、時々話題になる。冷泉家は東京遷都の際、明治天皇から京都留守役を命じられた。そのために引っ越しをせずに済み、俊成・定家以来の古書籍も、年中行事も今日に伝えられることになった。冷泉家歴代の墓碑は藤原姓で表していた。墓碑を「冷泉家累代之墓」と改めたのはつい最近であると、著者は記す。(p205~)。


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書名 異形の王権 著者 網野善彦 No
2014-14
発行所 平凡社ライブラリー 発行年 1993年 読了年月日 2014-04-06 記入年月日 2014-04-08

 これも丸谷才一・山崎正和の『日本史を読む』で取り上げられていた本。民俗学的視点から歴史を見るという、網野史学のエッセンスが詰まった著作。後醍醐帝を論じた表題の他、「異形の風景」、「異形の力」から構成される。後者二つはそれぞれ、3編の論文からなっている。論文と言ったが、通俗書のレベルを超えた、かなり専門的な著述であり、既存の研究を網羅的に紹介し、自説を展開して行く。多数の文献がそれぞれの最後に付されている。網野は14世紀に日本歴史の一大転換期があり、それは現在まで続いているという見方をしているが、本書が扱うのは鎌倉時代から南北朝の動乱期。

 後醍醐帝を「
目的のためには手段を選ばず、観念的、独裁的、謀略的で、しかも不撓不屈」とする。このような人物を時代の表面に押し出したのは14世紀の激動する社会であり、また、深刻な天皇の地位の危機であったという。(p200~)。「後醍醐は文観を通じて「異類異形」といわれた「悪党」、「職人」的武士から非人までをその軍事力として動員し、内裏にまでこの人々が出入りする事態を現出させることによって、この風潮を(婆娑羅のこと)都にひろげ、それまでの服制の秩序を大混乱に陥れた。」(p217)。

「(後醍醐の)
天皇史上、例を見ない異様さは、現職の天皇でありながら、自ら法服を着けて、真言密教の祈祷を行った点にある。」(p219)。223ページは法服を着て、密教法具を手にした後醍醐帝の肖像画である。そして、225ページの写真は、大聖歓喜天像である。見た瞬間、これは男根の象徴であると思った。大聖歓喜天像は、象頭人身の男女抱合、和合の像である。後醍醐はこの像に祈祷したとされる。著者は言う:極言すれば、後醍醐はここで人間の深奥の自然―セックスそのものの力を、自らの王権力としようとしていた、ということもできるのではなかろうか。たしかに、後醍醐は「異類異形」の人々の中心たるにふさわしい天皇であったといえよう。(p224)

 後醍醐政権を、専制的であるが異形の輩も内裏に出入りさせた驚くべき開放的な政権であったとし、さらに「
商人が内裏に出入できたほどの商工民の重視、宋元風の文物・制度の大胆な摂取に目を向ければ、後醍醐の政治は後年の足利義満の政治を先取りした一面すら持つといいうる。」と評価する。(p235)

 「異形の風景」、「異形の力」は主として当時の絵巻物から、異形と言われる人々の存在に言及し、どのような人々であり、社会にどのように受け入れられていたかを考察する。たくさんの絵が提示される。特に渋沢敬三の日本常民文化研究所の編纂した『絵巻物による日本常民生活絵引』への言及が多い。宮本常一によるその解説を、「
中世の庶民の心の動きを捕らえるための限りなく多様な手懸かりを提供している」とのべ、さらに「そうした一見「身辺雑事」とみえる諸問題を、歴史学の対象としてとらえることは可能であるだけでなく、歴史学を真に生命あるものにするためには、むしろ必要不可欠のことと私は考える」と述べる。(p94)。『一遍聖絵』からも多数の絵が掲示されている。

 網野がまず注目するのは、絵巻物に現れる服装である。従来と違った服装をした人々を「異類異形」ととらえ、それらの人々の素性を考察する。本書の最初には『法然上人絵伝』の絵が示される。法然の弟子安楽坊の処刑に河原に向かう検非違使の集団で、その中に二人は、立烏帽子、口髭、顎髭をつけ派手な模様の衣裳をしている。この二人を「放免」であるとする。放免とは放免囚人で、下級刑吏となった人物である。後世では非人とされる人々である。このような非人に由来する異常な服装風体は、何度もの禁止令にもかかわらず、人々の心を掴む。それはやがて「婆娑羅」と呼ばれるものにまで発展する。婆娑羅が風靡する中で鎌倉幕府は滅ぶ。あるいは戦国期の「かぶき」へとつながる。網野は言う「
服装のあり方が、人の心を深くとらえ、それを端的に表現するものである以上、人の心を問題にしようとする歴史学がそれを放置することは、むしろ重大な怠慢であるといわなくてはなるまい。」(p42)。

「異類異形」が差別語として確立するのは、南北動乱後の室町期であり、それ以前は「異類異形」は、聖なる意味合いを帯びていたというのが、網野の大きな主張。彼らは寺社と結びつき、畏怖の対象であった。また、遊女・傀儡師などの芸人も、決して卑しめられてはいなかったという。

 他にも色々興味ある考察を導いている。
『親鸞上人絵伝』などの参籠の場面から、参籠の場が男女の密通の場になり得たという。(p84)。
 女の一人旅の絵もたくさん現れると言う。当然危険が伴う女性の一人旅が可能であったのは、「
一人で旅をする女性の場合、性が解放されていたのではないか」と著者はいう。(p90)

無意識に、あるいは習慣的に人間のとる行動の仕方―しぐさは、文化の深層に深く関わっていることが多い」(p104)とし、扇を透かして見る動作を考察する。網野は吉野祐子の説などを引き、扇が神事と密接な関係を持ち、悪霊、邪気を払う神聖な力を持っていたとし、扇で面を隠すことによって、外からの悪霊―穢の及ぶのを防ぐとともに、人は一時的にも別世界の人間になり得たのだろうと推測する(p114)。

 石礫についてもかなりのページをとって考察がなされる。私は豊橋の両親の実家に疎開していた際、旧盆の時の石合戦を体験した。東西に走る道路で、村は北島と南島の別れていたが、盆に北島と南島の子供達の間で石合戦が行われたのを記憶している。本書によると、石合戦は平安の昔から行われてきたのだ。そして、石合戦は民俗学・国文学の面から多数の研究がなされた来たというのに驚く。石礫の風習を「
誰とも知れず打たれはじめる飛礫の背後にある神意性・呪術性に対する畏敬」につながるものだとする。禁止令にもかかわらず、近世になってもその風習は残り、「子供の石合戦をはじめ正月十五日の小正月、五月五日の節句、八月十五日の中秋など「ハレ」の日に行われる飛礫は、江戸時代はもとより、最近まで各地に生きつづけていた」という(p159)。

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書名 伊勢参宮道中記 著者 石原博 No
2014-15
発行所 MBC21 発行年 平成12年 読了年月日 2014-02-12 記入年月日 2014-04-15

 昨年は伊勢神宮式年遷宮。伊勢神宮参拝を思い立った。東海道四日市の先に伊勢道との追分がある。東海道は既に四日市の先まで歩いているので、そこを起点として伊勢まで歩けば、弥次さん、喜多さんが辿った伊勢参りを徒歩でトレースすることになる。先月末、まず追分から松阪まで、途中津に一泊して歩いた。帰ってきて、本書のことを思い出した。数年前に、友人の大塚豊一さんの紹介で、著者の石原さんがこの本のことを語るのを聞く機会があった。石原さんは横浜市緑区に住む。本書の副題は「曾祖父千代吉の旅路を探る」で、昔の大山街道、今の国道246号線の青葉台で旅人相手の茶屋を開いていた著者の曾祖父千代吉さんの旅日記である。緑図書館にはなかったので、横浜中央図書館から取り寄せてもらった。

 千代吉が伊勢詣をしたのは明治13年冬から春にかけて。千代吉41歳。当時のメモ書きを明治26年にまとめたもの。本書は2段組になっていて、上段に毛筆、変体仮名混じりの千代吉直筆の原本、下段にそれを読み取って楷書体に書き直したもので構成される。本書の後半には現代語訳も載せられている。原本は横長の紙で、1行に最大でも10文字、句読点はなく、改行もほとんどない。下段の読み取り文も1行の字数は原文に合わせ、いくつかの漢字にはルビを振り、所々読点を入れている。流れるような毛筆文字は、私には一見では半分程度しか判読できないが、本書の魅力の一つは、原本がすべて載っていること。これを読み取る作業は大変であったと思う。

 五十鈴川で身を清め内宮参拝した日の記述。神宮の神主や巫女達の動作が述べられ、次いで以下のように記す(/は行替えの印):
御神酒を頂き夫より/内宮様の御拝殿白布/の前に頭を下げ亭(て)心/の丈を敬て拝する也/遠き道辿りつきしハ/大神心の丈(つえ)を/拝す嬉しさ/内宮様三門四重構へ戻/りに御山内を離ルれバ/諸商人客を呼び込ム/事仰山に声からし/て騒立実に何事と/思ふなり其辺の橋/際にて△昼飯金六/銭龍太夫江戻り/勘定して壱人前金/弐円にて御神楽並ニ/宿銭迄相済し外ニ/礼料は別銭

 簡潔な記述だ。ここには短歌がはさまり(「遠き道辿りきしハ」以下3行)、心情を述べているが、そうした記述は少なく、多くはデータ中心の記述。特に金銭の記述は詳しい。今読むとそれが興味深い。ここの△は昼食を示す。また、宿泊所は○で示され、その良し悪しが、上中下で示される。なお、「大神心の丈を」の「丈」に「つえ」とルビを振っているのは間違いで「たけ」が正しいだろう。

 宿泊賃はほとんどが15銭か16銭。協定値段でもあるのだろうか。さすがに大阪京都では20銭となる。そして、昼食が5銭か6銭。泊賃が昼食の3倍というのが考えられない。今の時代に当てはめれば、昼食に1000円払って、2食付きの泊賃が3000円ということになる。上に引いた文章の御神楽代というのは多分神宮へのお祓い料など一切をいうのだろうが、2泊の宿泊代と合わせて2円というのはべらぼうに高い。千代吉は後に大阪から京都まで汽車に乗るが、その料金が40銭である。これも2泊分の泊賃相当だから、今から考えれば信じられないが、できたばかりの鉄道であってみれば納得できる。この他、橋の通行が有料であるところが多い。これはほとんど1銭以下。

 伊勢参りのあとは、奈良、高野山、大阪から四国に渡り金比羅さん、岡山から姫路、神戸、大阪、京都へ出て、帰路は中山道経由で、途中善光寺にも寄る。最後は群馬県の松井田宿から夜間馬車に揺られ、途中11カ所で馬替えがあり、15時間かかって東京に着く。この馬車賃が1円70銭。10泊分の料金に相当する。泊賃が安すぎるのか、馬車や鉄道が高すぎるのか。

 出立が1月31日、帰宅は3月20日。車に乗るという記述もある。これは人力車のことか。その他馬車、汽車の利用できるところは利用しているが、大半は徒歩による50日間の大旅行だ。道中体調も崩さず、雨の中、雪の中も旅を続けている。私も中山道、東海道と千代吉さんと同じ道を歩いたが、その健脚ぶりには驚く。例えば、中山道御嵩宿から大井宿まで1日で歩いている。東美濃の山の中の道で途中十三峠というアップダウンの十三もある10里の道である。私は逆に歩いたが、途中の細久手宿で1泊した。ちなみに御嵩宿で泊まったのは茶屋金右衛門で、ここの評価は「上々」である。泊賃は16銭、33間ある部屋が全部ふさがっているという。そして「
やす値にて馳走よろしき此茶屋は 手一トツ打たで用足りにけり」と詠んでいる。

 鳥井峠ではまだ雪が残っていた。私が越えたときもまだ雪がかなり残っていた。千代吉さんの句「
音に聞く鳥井峠や残る雪
 善光寺では鳩の群れに驚く。私もはじめて善光寺へ行ったとき、回りを鳩の囲まれて驚いたことがある。

 本書の最初の部分、特に箱根越え辺りの記述は、「八」「権」という同行者と思われる二人の個人名が出てきて、二人との掛け合いの形で書かれている。中身も曾我兄弟の仇討ちに絡んだ冗談とか、まずい昼飯への文句とか、箱根関所跡への皮肉とか、しつこい客引きから早く逃げようとか、三島の上の山中宿で屁をひれば三島宿はさぞ臭かろうとか、十返舎一九の『東海道中膝栗毛』を思わせる、ユーモアがあり、文体もリズミカルで楽しい。旅の初めで筆者の気持ちも高揚し弾んでいたのだろう。あるいは『東海道中膝栗毛』を意識していたのではないか。千代吉さんたちの旅は『東海道中膝栗毛』の出版から80年しか経っていない。

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書名 城・ある告別 著者 辻邦生 No
2014-16
発行所 講談社文芸文庫 発行年 2003年 読了年月日 2014-04-17 記入年月日 2014-04-18

 辻邦生の初期短編集。表題の2編の他全部で11編をおさめる。表題の2編を含め、9編がヨーロッパ各地を舞台とする。辻邦生は1957年から61年にかけて、フランス政府の留学生としてパリに滞在している。その時の体験をもとにした短編。

「見知らぬ町にて」「城」と最初の2編を読んだとき、つかみ所のない小説で面白くないと思った。次の「西欧の光の下」を読んで、初めて面白いと思った。この作品は小説というよりエッセイあるいは評論といった方がいい。
 フランスに来た作者は、「
生活においても精神活動においてもフランス人のもつ形式優先、秩序への信頼は予想以上であった。たしかにこれはみごとに洗練された、知恵あるいは形式にちがいない。」と感じる。しかし、戦後の社会に暮らした筆者にとって「あまりにも簡明で形式的すぎ、何か人生の大切な要素をどしどし切りすててしまった後の容器のような空虚さが拭いきれなかった。」(p75)。そんな筆者にある日、魔術的効果を持った瞬間が訪れる:
 
それはある晴れた日の夕方で、地下鉄がトンネルを出て、セーヌにかかる鉄橋に、いきなり出たときだった。私は一瞬の間に、エトワールからモンマルトルの家並の高まりとその上にたつ白いサクレ・クールをはさんでエッフェル塔にいたる夕日に照らされた灰暗色の屋根の広がりを見たのだった。それはすでに何度も見知った風景だったにもかかわらず、夕日の効果からか、また別の理由からか、ある特殊な感覚で私をつらぬいた。中略
 私はそこにただ町の外観をみたのみではなく、町を形成し、町を支えつづけている精神的な気品、高貴な秩序を目指す意志、高いものへのぼろうとする人間の魂を、はっきりと見出したのである。そこには、自然発生的な、怠惰な、与えられているものによりかかるという態度はなかった。そこには、何かある冷静な思慮、不屈な意図、注意深い観察とでもいうべきものが、鋭い町の輪郭のなかにひそんでいた。自然の所与を精神に従え、それを人間的にこえようとする意欲があった。
 ある意味で、その瞬間こそが、私にとって、おそらく西欧の光に触れた最初の機会だったかも知れない。
(p77~78)。

 みごとな文章のなかに西欧の本質が捕らえられている。私がパリの街に感じていることも、その奥を突き詰めるとこの文章のようなものであるかも知れない。

「シャルトル幻想」はシャルトルの大聖堂を扱う。
私は内陣のなかを歩きながら、こうした空間をついに持つことのなかった私たちの文明の不幸について考えないわけにはゆかなかった。たしかにここには単なる思いがあるだけではなく、逆に、きびしい自己への拒否、ほとんど残忍とよんでもいいような意志の働きが感じられたからである。」(p98)
 筆者は一日の最後に落日のはえる大聖堂の西窓を目にする:
……西正面に照りはえる落日のなかで輝く大薔薇窓の壮麗な美しさだった。それはこの世の終りに実現されるべき、〈最後の審判〉をあらわしていた。そして落日の最後の光がその審判図を燦然と輝かせてたとき、私は、突然、それが永遠に正義なるものへの憧れを結晶させ、西欧の果たした苦悩と浄化の歴史を、一瞬のきらめきのうちに実現しているのを、痛みに似た感覚とともに感じたのだった。(p102)

 筆者が旅先で共感するのは、そこに慎ましく日々の生活を送り人々である。「旅の終わり」では、イタリアのある町、多分シチリア島の町の衛星管理監一家との交流がテーマ。12才の娘を頭に4人の子持ちで、妻は映画館の窓口で切符を売っている。筆者夫妻はそんな一家と泳ぎに行き、一緒に映画を見る。妻は「こんな静かな町で、誰にも知られず、野心もなく、暮らしてみてもいいわね」とまで思う。しかし、さりがたい気持ちが高まる一方で、旅行者である夫妻は留まるわけにはいかない。その地に生きる人と一瞬のふれ合いと永遠の離別。これが本作品集に豊かな叙情をあたえている。私もよく感じた旅の感慨であり、共感する。

「サラマンカの手帖から」は、中世を代表する大学があったスペインのサラマンカが舞台。今は観光ルートからもはずれ、静かなこの町で客もほとんどないようなパンシオンを営む一家を初め、慎ましく生きる人々への共感がテーマ。「
この単純さが生活なのだ、喰べ、喋り、愛し合い、深くねむる――それで十分ではないか。コペルニクスだって、そうしたのだ。そうしたからこそ、大真理に到達したのだ。」(p198)

 こうして読み進めてみて、表題の「城」も、多分ニースと思われる土地で、筆者が滞在した家の老夫婦と、夫を亡くして小さな女の子を連れて戻ってきた娘のいる家族への、深い愛情が一つのテーマであることに気がつく。その家から岬の先に見える古い城は、作者が目指している高みであるが、直前の悪天候とかに阻まれて、作者は城まで達することがなく終わる。

「ある告別」はギリシャへの旅。ここでは人との別れではなく、「若さ」との離別がテーマである。


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書名 高貴なる敗北 著者 アイヴァン・モリス、 斉藤和明 訳 No
2014-17
発行所 中央公論社 発行年 昭和56年 読了年月日 2014-05-05 記入年月日 2014-05-06

 学友の吉田重厚さんが薦めてくれた本。副題は「日本史の悲劇の英雄たち」である。吉田さんは原書で読んだという。上下2段組の400ページという大著だ。これを原書で読み通したというからすごい。緑図書館にはなかったので横浜市泉図書館から取り寄せてもらった。

 取り上げられた「悲劇の英雄」は、日本武尊、捕鳥部万、有馬皇子、菅原道真、源義経、楠木正成、天草四郎、大塩平八郎、西郷隆盛、カミカゼ特攻の戦士である。古代から近代まで、悲劇の主人公の生涯をなぞり、後世の人々が彼らをどのように評価したかを通じて、日本人のメンタリティに迫る日本人論である。同時に、日本通史にもなっていて、改めて教えられることも多い。外国の研究者が、これだけ多方面の、たくさんの史料に当たって、日本の歴史について書けることに驚く。

 上記の中で、捕鳥部万(ととりべのよろず)というのは初めて聞く名前だ。本書では英雄の条件として、華々しい活躍、宿命的な没落、潔い最期をあげる。捕鳥部万は潔い最期を遂げた初めての人物であるとされる。6世紀中葉、勢力を競い合っていた二大豪族は物部氏と蘇我氏である。捕鳥部万は物部氏に属する、身分もそれほど高くない人物。彼が日本書紀に名を残すようになったのは、その最後による。物部と蘇我の争いが戦いにまで発展し、その結果物部氏は亡ぼされる。捕鳥部万は一人山に籠もり、数百人を相手にして戦い、最後は自らの頸を刺して死ぬ(p36)。万は最後に「天皇の盾とならん」と叫んだと「日本書紀」に記される。結果は逆賊であっても、それは勝つか負けるかで決まることであり、万にとっても天皇への忠誠がその行動の中心にあったから、「日本書紀」に取り上げられたのだと著者はいう。万が支持する物部氏は、軍事力に劣るだけでなく、相手が蘇我氏と天皇家連合軍であり、いずれは権勢を手中にすることが歴然としている相手であり、最初から負けることは明白であった。著者はいう:
 
万の生涯で最も光り輝いた期間がその最後の一日であった。短い生涯であったろう。しかしその生涯が、万に日本史上最初の「まこと」を体現する人物のひとりとしての評価を与えているのである。「まこと」とは日本人の英雄像になくてはならぬ枢要な特質である。この言葉は通常 'sincerrity' (誠実)と英訳される。しかし英語の一語よりも遙かに深く広い意味合いを持つ言葉である。これはむしろ、'the spiritual power' (精神の力)に近い。(p38)

「まこと」あるいは「至誠」という言葉はキーワードのように、本書に頻出する。特に楠木正成、西郷隆盛、特攻隊員についてはこの言葉を彼らの行動の基本原理としている。

 著者はいう:
万について意義深いことは、彼が革新のため守旧派を相手に戦ったのではなく、日本最古の宗教的社会的伝統を代表する守旧派一族のもとに、外来の新思想を摂取することで現状を変革する目標を持つ進取の気性豊かな進歩派に対立していたという点である。これが歴史に記述された最初の敗北の英雄であった。(p41)

 ここでいう進歩派は蘇我氏であり、聖徳太子(厩皇子)である。敗れた方を守旧派と見るこうした見方は、本書の他のところでもよく出てくる。義経と頼朝の比較で、後者を理性的で、新しい世の中を作っていく力を持っていたと評価する。西郷と大久保の対比でも、西郷を守旧派、大久保を革新派とし、その後の明治は大久保路線が作ったとする。

 関ヶ原の古戦場を巡ったとき、西軍の大谷善継が討ち死にしたところには、昭和に建立された顕彰碑が建っていた。司馬遼太郎はその著『関ヶ原』の中で、後世、大谷吉継、島左近、直江兼継の3人は、西軍に属しながら、むしろ快男児として過剰に褒め称えられてきたといっている。それに反し、石田三成にはまったくそういった評価がない。忠誠という点からは、主家の豊臣家に対する忠誠を三成は最後までつらぬき、そして敗れた。にもかかわらず、三成が悲劇の英雄として迎えられないのは、その最後が自害という潔い道を選ばなかったことにあるのではないか。大谷吉継は三成への忠誠を、島左近もまた主人の三成への忠誠を最後までつらぬいた。そして大谷も島も関ヶ原の戦場に華々しく散った。大谷は自害した。

 菅原道真についても次のように述べる:
たとえば、宇多(天皇)の胸中の計画が実現し、道真が(藤原)時平を抑え、ついに最高位に達したと仮定すると、寛平と延喜の国政改革がはたしてあったかどうか疑わしい。中央にあった期間、道真が目覚ましい行政能力を発揮したという事例は見あたらない。(p85)

 道真と同様、権門の出ではなく最高位についた人物として吉備真備と道真を比較して次のように述べる:
道真の業績に較べてみると吉備真備が及ぼした日本文化への影響と貢献は遙かに偉大である。にもかかわらず真備に英雄の地位が与えられない理由は、明白なことだが、彼には追放されて流浪のうちに死ぬという悲哀の情がただよっていないからである。道真はその特権にあずかっていた(p72~73)。
 菅原道真の章は次のように結ばれる:
最後に、藤原時平の性格について一言する。史実からまったく離れた伝説は、前に触れたように卑劣な時平像を際立たせている。それは「生き残る成功者」―つまり現世での「成功という報酬を手に入れる」者―の性格描写の常套手段であった。日本人の英雄像の成立には、伝統的に、成功者が引立て役として重要な役割を演じているのである。(p90)
 納得のいく考察だ。義経に対する頼朝、楠木正成に対する足利尊氏など。あるいは西郷に対する大久保もそうだろう。

 義経、楠木正成、西郷隆盛はおそらく日本人が選ぶ悲劇の英雄のベストスリーであろう。本書もその3人には他よりも多くの紙数を充てている。子供の頃から現在に至るまで、私にとっての最大のヒーローは義経である。武将としての華々しい活躍、直後の没落と逃避行、そして自害。著者のいう英雄の要件がみごとに揃っている。だから、私自身に照らしてみて、著者の指摘する英雄の要件は納得できる。たとえ、新しい武士政権という道を開く理性と力を持っていたとしても、頼朝を好きにはなれない。義経が人気があるのは、彼が政治的な野心を持たなかったことによるのではないか。政治的野心で敗れたのではなく、兄との不和、部下の讒言で追われる身になったことへの同情が、私を初め多くの人の心を捕らえるのだ。だから、どのような時代になっても義経の人気は高いのだ。

 対照的なのが楠木正成だ。戦前と戦後で見方が大きく変わった英雄だ。唱歌「青葉茂れる桜井の」とそれに伴うエピソード、加えて千早城で鎌倉幕府の大軍を相手の奇襲作戦のことを子供の頃聞いたのが、正成に関する私の知識である。戦後の教育では正成が大きく取り上げられることはない。彼を主人公にした文学作品も、ドラマもまず目にしない。だが正成は戦前では日本史上最大の悲劇の英雄であったろう。悲劇英雄の三つの要件をみごとに果たしている。負けると分かっている戦に自らおもむくという悲劇性、敗戦後の潔い自刃では、義経よりも英雄的である。彼の最大の特徴は後醍醐帝への忠誠という「至誠」であろう。だから戦前は最大の英雄と見なされた。正成に対する勝者は足利尊氏。正成英雄像の引き立て役として、皇室をないがしろにする悪人とされた。

 正成の、また新田義貞の後醍醐帝への忠誠は、勤王精神の急激な発揚であったかも知れないが、その他の武士は鎌倉幕府への不満から朝廷に味方した。だから、天皇親政が確立した後、彼ら武士の要求が満たされない場合は、朝廷に対する彼らの支持は激減するだろうと、尊氏は正しく見通していた。しかし、後醍醐帝は、勤王精神という幻想にしがみついていて、人間性を誤って理解し、その結果、彼にしがみついていた忠臣を究極の破滅へと運命づけた、と著者はきびしく指摘する。(p164)

 正成の人物像は、早くから色々脚色されて、真実が見分けにくいようである。著者はいう:
その火の玉の燃える生涯の原動力となる動機が何であっても、ひとつのことだけは確かである。正成は究極的目標を達成できなかったという一事である。そしてこの一事が、つまり一三三六年の大変動が浮き彫りにする正成の敗死、二年後の室町幕府の開設、それにともなう南朝の没落が、正成像を最高位の武士の英雄として確立させたのである。もしも勝者の側にいたらどうであろうか。勇猛心、忠節心がどれほどのものであれ、後の世紀から正成が実際に受けた阿諛追従に値する資格はなかったであろう。実際南朝には同情が寄せられその人気が高まるが、そのことへの大きな理由として「判官びいき」の伝統があると言えよう。もし足利尊氏と光厳天皇が一三三六年に決定的に敗北をしていたならば、正成や後醍醐ではなく彼らのほうが後代にいたって英雄化されたであろう。(p183)

 時代の革新をなした理性的な勝者ではなく、至誠をもって敗れた敗者への崇拝が集まることは、欧米人には考えにくいことなのだ。著者はそのことに各所で言及している。それが日本人のメンタリティの大きな特徴であると。

 私も子供の頃にまだ残っていた戦前の尊氏像の影響を受けていた。しかし、鎌倉末期から南北朝にかけての歴史を知るにつれて、尊氏という人物は度量の広い、心の優しい人物であったと思うようになった。敗れて、いったん九州に落ちのびるが、すぐに大軍を引き連れて戻ってきて、湊川で正成・義貞軍を破る。短時日に九州を初め、西国をまとめ大軍を率いることができたのが、なによりも尊氏の人物の大きさ、人望の高さの証拠であろう。

 同じ時代に活躍したいわゆる婆娑羅大名というのにも私はひかれる。例えば尊氏の終生の盟友であった佐々木導誉、また足利家の執事であった高師直の、奔放で豪快な生き方に魅力を感じる。

 大久保と西郷:
一九〇五年、日露戦争勝利に集約される日本のおどろくべき発展は、その意味で大久保の優秀性とその先見の明をものがたる証しであると看なせよう。しかし、日本を国家として存続させ、近代化をすすめた彼の偉大な業績にもかかわらず、大久保は決して真の人望を博することはない。畏敬の念を感じさせはするが、愛着を持つ者はない。その原因として重要な点に、彼の人格と容姿がある。(中略)
 
英雄像には不適格な点としてより重要性をもつのは、彼の実利主義と冷静に政治目的を達成する実行力である。(中略)後年になるに従い、大久保は抜け目のない実践的な政治家となり、手段よりも実際面の結果により関心を持つようになった。自分の野心の達成のためにはどんな妥協も辞さなかった。こうして権力から権力へと登りつめるにつれ、大久保は明治官僚制度の力を具現化した人物となり、西郷の非現実的で粗野な「至誠」の対極に立つ者となった。(p321~322)
 私もまったく同感だ。

 最後の章はカミカゼ特攻隊。個人ではないし、敗北の英雄に入れるにしては余りにも悲惨だ。著者はカミカゼ特攻隊を、敗北の英雄を貫く「至誠」という精神の延長としてとらえる。そうでなければあのような行為は欧米人には理解出来ないのだ。読んでいて悲痛な思いに満たされる。彼らは強制されたのではなく志願した。残された手記からは純粋な思いが伝わる。だが、彼らとて、特攻作戦が立案され、そのための組織が作られなければ、志願することはなかったであろう。そう思うと、そのような無惨な作戦を考えた人への怒りを禁じ得ない。本書によれば、特攻攻撃で失われた若い命4615人の名前が東京の観音寺に記されているという。(p394)

 かつて職場に戦闘機のパイロットをやっていた人がいた。彼は、特攻機を目的敵艦まで誘導する戦闘機のパイロットだったので、幸にも戦争を生き延びた。「熊さん」と呼ばれた優しい面倒見のよい職場の人気者のおじさんで、スキーが上手くて毎シーズン若い男女を引き連れてスキーに行った。熊さんのスキーウエアは綿入りのはんてんだった。私よりも15才ほど年上だったが、よく一緒に飲み歩いた。熊さんは、冗談や皮肉を常に口にし、座をなごます名人であったが、戦争のことを語ることはほとんどなかった。熊さんからは「勤王の至誠」といった雰囲気はまるで感じなかった。むしろ不敬に当たるようなことも平気で口にした。本書で読む特攻隊員の手記とは対照的であった。特攻隊を肯定し賛美する言葉は熊さんの口からは聞いたことがない。特攻隊の身近にあった人の本心であろう。

 なお本書の原題は 「The Nobility of Failure」であり「The Nobility of Defeat」ではない。Failure の訳の第一義は 失敗、不首尾であり、その次には怠慢がならぶが、敗北という言葉は出てこない。「Failure」は本書の中身をよく表している。著者は日本の英雄を基本的には自身の目的を達成できなかった者としてとらえている。


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書名 時計の社会史 著者 角山 栄 No
2014-18
発行所 中公新書 発行年 昭和59年 読了年月日 2014-05-14 記入年月日 2014-05-20

 丸谷才一と山崎正和の『日本史を読む』の推薦本。面白い本だ。

 日時計や水時計に代わって、機械時計がヨーロッパに出現したのは13世紀末である。それは紐に吊した重りが落下して行く力を、一定の時間間隔で規則的に落下するように機械で調整したものである(p7)。

 機械時計というハードの出現は「
時間文化というか生活における時間意識のソフト面における革命が、ヨーロッパ社会を大きく変革したといってよい。機械時計の出現がもたらした最大の時間革命は、不定時法から定時法への転換である。」(p16)。不定時報とは日の出から日没までの時間、および日没から日の出までを、それぞれ12時間として計算する方法。定時法は昼も夜も、夏も冬も1時間の長さを一定とする。「農業を生活の基礎とする社会では、太陽と自然のリズムに従って設定された不定時がもっとも自然に適した時刻制度であった」(p17)
 これは実感だ。私の菜園仲間は「百姓に時計は不要だ」という。私も実行している。5時になっても明るいなら、作業をやめる必要はない。菜園での作業にこれでいいというものはない。いくらでもやることはある。暗いなら家に帰ればいい。

 
機械時計がつくり出す時間は、抽象的時間であり、知性的時間である。その抽象的・知的時間とともに近代が始まる。だから近代とは、神ではなくて、人間が時間を制御し、人間が時間を支配する時代である。その結果、人びとの労働に根本的な変化が起こった。(中略)近代的時間の成立とともに、仕事はいまや完全に時間に縛られた賃労働へと変わって行く。(P19~20) 。ここら辺りの記述は本書の核心だ。初めて接する「近代」のとらえ方だ。以下、同じような記述が続く。

時計をもつものは時間を支配し、時間を支配するものは労働を支配する」(p22)
厳密な時間による組織的行動が近代化への条件である」(p28)

日本へ最初に機械時計が伝来したのは、1551年(天文20年)、フランシスコ・ザビエルが大内義隆に献上したとされる」(p47)。しかし、日本では定時法が行われていないので、不定時法に合わせるために色々な工夫がなされ、江戸時代にはそれが、和時計として完成していった。和時計は色々なからくり時計へと発展して行く。著者によればそれは後世の世界に冠たる日本のロボット・工場無人化の原点であるという(p97)。日本が定時法を採用したのは明治6年の太陽暦採用の時である。

奥の細道』の紀行で芭蕉に同行した、曽良は『曽良旅日記』を残した。そのために旅の詳細が分かるのだが、曽良はその中で毎日の行動を時間を追ってかなり詳しく記している。著者は曽良が何で時刻を知り得たかという疑問の解明のために本書の1章を充てている。結論として、鐘の音により知り得たとする。江戸時代の鐘楼数を3万から5万と著者は推定する。村々にある寺には鐘楼がおかれていた。元禄10年頃に日本の銅の産髙はピークに達し、精銅で600トン、世界最大の産出国であった。(p68~69)。
 時刻はどのようにして決めていたのだろうか。和時計は高価で大名クラスしか使えなかった。お寺の時刻は「常香盤」という香炉に焚く香の燃える量から決めたという(p84~85)。

 以下本書からにいくつかの引用:
 
遊女の世界では労働時間を線香時計で測ったことはよく知られている。商人の社会でも少なくとも尺時計ぐらいはあっても不思議ではないが、それに関する資料が乏しいところから判断すると、日本の時間はヨーロッパのようにブルジョワの時間として発展せず、封建領主の強制する「上からの」共同体時間にとどまったように思われる。だから日本では「時間」の思想が発展をみなかった。(p115)

 
時計という最先端商品は、商品生産の方法においても、新しい時代のニーズに応えるべく分業にもとづく協業という大量生産方式を開拓しつつあった。(p153)。
 これはアダム・スミスが『国富論』で分業の高い生産性を指摘した1776年の100年も前に時計製造にすでに採られていた方法であるという。

 
ハイドンが第二回目の訪英にさいして、「時計」交響曲を作曲したことは、実に意義深いものがあったと思う。というのは、「時計」のなかに彼の第一回訪英の印象とイギリス市民社会への賛歌と侮蔑のユーモラスな気持ちがこめられているからである。ブルジョワ社会の本質を音楽家として交響曲のなかに表現するとすれば、まさに時計が刻む規則正しく機械的な音をパラフレーズすることこそもっともふさわしい方法であったのではないか。ハイドンは時計の中にブルジョワ社会のメカニズムと秩序を見出していてからである。(p168)。

 最後の章「機械時計の歴史の終わり」では、1970年代の起こったウオッチのクオーツ電子化により、ウオッチがステイタスシンボルの地位から引きずり下ろされ、ウオッチがパーソナル化されたが、それは増大した余暇時間のパーソナル化に他ならないとする。そして以下の文で本書を締めくくっている:
  
・・・この増大した余暇時間、パーソナル化した時間を何のために、どのように使うのか、われわれはいま新しい歴史の入口に立っているのである。(p239)

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書名 太平記(一) 著者 兵藤裕己 校注 No
2014-19
発行所 岩波文庫 発行年 2014年4月 読了年月日 2014-05-31 記入年月日 2014-06-01

 南北朝動乱期に関しては、戦前への反動だろうか、戦後はあまり取り上げられない。同時期に対する私の知識も乏しい。最近になって、網野喜彦の著作に接していて、この時代のことをもっと知りたいと思った。あるいは、楠木正成も取り上げられた『高貴なる敗北』にも刺激された。『太平記』はいつか読んでみたいとは思っていたが、なにしろ全巻で40巻という長編で、ためらっていた。たまたま、本屋の店先で、本書を目にした。ルビと下段の校注が懇切で読みやすそうで、思い切って挑戦することにした。

 本分冊は第1巻から8巻までを収載。後醍醐天皇の倒幕計画、挙兵、敗退と隠岐の島への流罪、大塔の宮や楠木正成の奮戦、後醍醐帝の隠岐脱出、京都に迫った西国武士勢と北条氏の六波羅探題との戦いまで。巻末の解説を含めると500ページ近い。戦後の歴史書と違って、社会・経済的な視点からの歴史を見るということはまったくない。人物中心で、とにかく面白い。全部で6分冊を半年ごとに刊行するというのがもどかしく、すぐ続きが読みたいと思うほど面白い。金剛山千剣破城に立てこもり幕府の大軍を相手に縦横の奇策で戦う正成や、流され行く後醍醐帝の行宮の庭の木に漢詩を彫った児島高徳と言った、戦前では誰もが知っているエピソードも本分冊に入っている。

 文章のリズムがいいのが、読んでいて快い。典型的な例は以下のような道行きの文。倒幕の陰謀が発覚し、首謀者の日野俊基が京から鎌倉へ送られる場面:
落花の雪に道紛ふ、片野の春の桜狩、紅葉の錦を着て帰る、嵐の山の秋の暮れ・・・・・住み馴れし九重の帝都をば、今を限りと顧みて、思はぬ旅に出で給ふ、心の中ぞあはれなる。さらに、街道を下り、天竜川を越えたところ、:天竜川を打ち渡り、小夜の中山越え行けば、白雲路を埋みて、そことも知らぬ夕暮に、家郷の天を望みても、昔西行法師が『命なりけり』と詠じつつ、二度越えし跡までも、うらやましくぞ思はれる。(p86~87)
『平家物語』の平重衡の東下りもこんな感じだった。道行きは作者が力を込めるところなのだ。

 戦闘場面が誇張を交えて、きびきびと描かれる。第7巻の3,千剣破城攻防の出だし(p331):
千剣破城の寄手は、前の勢百八十万騎に、赤坂の勢、吉野の勢馳せ加はつて、二百万騎に余りければ、城の四方二、三里が間は、見物相撲の場の如く打ち囲みて、尺地をも余さず充満したり。(中略)この勢にも恐れず、わづかに千人に足らぬ小勢にて、誰を憑(たの)み、何を待つとしもなく、城中にこらえて防き戦ひける、楠が心の程こそ不思議なれ。
 と、楠正成軍の圧倒的不利を書く。それにしても幕府軍二百万騎とは。幕府方の名越という武将が一族五千の兵で襲いかり、千剣破城の逆木を破って城壁の下まで迫る。しかし切り立った崖で、登ることができずいたずらに城をにらんでいると、「
城の中より、切岸の上に横たへて置いたる木を、十ばかり切つて落とし懸けたりけるに、将棋倒しをする如く、寄手四、五百人、圧に打たれて死ににけり。」(p337)。この後混乱した寄せ手にさんざん上から矢を射かけ、「五千余人の兵ども、残り少なに討たれて、その日の軍は終(は)てにけり。」『太平記』のこの巻が書かれたのは14世紀中頃。当時すでに「将棋倒し」という遊びがあったのだ。

 名越の敗北をみて、幕府方は進んで攻める者もいなくなった。作戦を兵糧攻めに切り替える。退屈した軍陣では連歌師を呼び寄せ、1万句の連歌が始まる。発句は大将格の長崎九郎左衛門師宗で、開(さ)きかけて勝つ色見せよ山桜 である。脇句は、工藤次郎左衛門で、嵐や花のかたきなるらん とつけた。太平記作者は言う。両句とも巧みで優美だが、味方を花にたとえ、敵を嵐にたとえたのは、後から考えると口にすべきことではなかった。(p338)。陣中での連歌、しかも1万句。陣中で歌を詠むことはほかにもよくでてくる。例えば、後醍醐帝は笠置の山を落ちのびるとき、3日3晩山中をさまよう。松の梢を渡る風を雨かと思った帝が、みてみると、雨ではなかったが、下露がはらはらとたもとを濡らした。そこで一首、さして行く笠置の山を出でしより雨が下には陰(かく)れ家(が)もなし(p160)。

『太平記』は一方的に南朝の立場から書かれていると思ったが、そうではない。関東方の武将でも、勇ましく、命を惜しまず戦う者には賛辞を惜しまない。ただ、鎌倉幕府の時の執権、北条高時に筆がおよぶときにはきびしい。田楽に狂い、闘犬に狂い政治を顧みず、ために世が乱れたとする。しかし、義時から始まる北条家7代の名前を挙げ、「
政(まつりごと)武家より出でて、徳窮民を慰するに足れり」と、北条の支配を肯定している(p35)。

 巻末の解説によると、太平記の成立には謎が多いという。1人の作者ではなく重層的に作られていった。なかでも、20巻までは法勝寺の恵鎮上人が持ち込んだものを足利尊氏の弟、直義の下で改訂作業がなされて成立したという。とすれば、鎌倉幕府最後の執権へはきびしい目を向けるのは当然だろう。本分冊までには足利氏は登場していないが、以後の分冊でどのように扱われるか興味がある。

 解説では、『太平記』は南北朝時代の歴史読み物であると同時に、文化百般の教養を提供する一種の百科事典であったという(p455)。儒教、中国の歴史書、仏教からの引用が至る所になされている。例えば、児島高徳のエピソードのあと、彼が木に彫りつけた漢詩の背景を説明して、呉越の戦いを25ページにわたって述べる。(p204~229)。この中では越王が呉王に送り込んだ西施のエピソードも述べられる。芭蕉が 『奥の細道』で「象潟や雨に西施がねぶの花」と詠んだ背景には、『太平記』による西施のエピソードが広く知られていたことがあるのではと思った。

 とにかく難しい漢語が頻出する。これを当時の読者が読解できたということが信じられない。例えば後醍醐帝の御代を次のように述べる:
内には、三鋼五常の儀を正しうして、周公孔子の道に順ひ、外には、万機百司の政を懈らせ給はず、延喜天暦の跡を追はれしかば、四海風を臨んで悦び、万民徳に帰して楽しむ。(P38)。しかし、一方的な後醍醐帝礼賛では終わらない。この後以下の記述:誠に治世安民の政、もし機巧に付いてこれを見れば、命世亜聖の才とも称しつべし。ただ恨むらくは、斉桓覇を行ひ、楚人弓を遺(わす)れしに、叡慮少しき似たる事を。これ則ち、草創は一天を并(あわ)すと雖も、守文は三載を超えざる所以なり。(p39)

 本書ではこうした難しい漢字にはるびが振られ、解説がなされている。後の文の意味は、後醍醐帝は才知からすれば孟子に並ぶが、惜しいことに中国の昔の王様のように、民のことしか考えず、志が狭かったので、帝は世を創り直し天下を制したが、文による統治は3年を超えなかったということ。後醍醐帝の建武の中興は3年も保たなかったことを述べて、後醍醐帝の資質に疑問を投げた記述だ。足利政権下で『太平記』が成立していったという事情を考えれば、後醍醐帝へのこの見方もうなずける。

 本書の解説には以下のように言う:
『太平記』が語る天皇と武臣(源平両氏)の物語、および天皇と民(草莽・在野の士)の物語は、近世・近代における天皇制の二つのかたちをつくっている。徳川将軍が天皇を独占的に囲いこむかたちで成立した近世の幕藩国家も、明治以降に形成された近代天皇制国家も、その思想的な源泉は、『太平記』が語る君(天皇)と臣、君と民をめぐる二つの物語にあったのだ。(p454)
 同感だ。上の「武臣(源平両氏)」というのは、武士側の登場人物が、源氏と平氏(代表は北条氏)のいずれかの系統に属するからだ。


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書名 悠遊第二十一号 著者 企業OBペンクラブ編 No
2014-20
発行所 企業OBペンクラブ 発行年 2014年4月 読了年月日 2014-06-02 記入年月日 2014-06-02

 友人の池田隆さんから贈られてきた。これで2回目だが、前回は12年の12月刊の第十九号。カラー写真もたくさん載る、相変わらず立派な本だ。表紙の絵も会員の作品。カラー写真はペン・フォト句で、俳句が添えられている。写真がいずれもセミプロ級の腕前だ。

 池田さんは、一枚の絵に触発されたメルヘンのような作品を載せている。朽ちかけた縁側に坐った三毛猫が後ろ向きにこちらを見ていて、その上に樹木の影が落ちている絵だ。感心したのは絵では影としてしか現れていない木を主人公にして、その家の歴史を語らせるという発想だ。95才になるその柿の木に以下のようにいわせて「指定席」というこの珠玉の小品を結ぶ:
たとえ明日に切り倒されようとも、今は恐くもありません。それも一つの定めかと思います。十分に生を楽しませていただきました。その時には万物に深く感謝いたして、従容としてこの世を去りたいと存じます。

 特集として「我が世代の負の遺産」というテーマで20名が書いている。意外だったのは、それぞれ何人かが原子力発電や安倍政権をあげ、また角栄流の金万能主義とその亜流としてアベノミクスをあげた人もいたこと。企業OBペンクラブのメンバーは大手企業のOBで、年齢は大体私と同年代、あるいは若い年代では10才ほど下のベビーブーマー。戦後の復興期から、高度成長時代をへて、バブルの崩壊を体験している。この特集を読む限り安倍政権への高い支持率が信じられない。高度成長期に生まれ、戦争も知らず、貧しかったが明るかった戦後も知らない若い世代が、安倍政権を支持するのだろうか。そういう意味で日本は曲がり角を曲がりつつあるのかも知れない。


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書名 俳諧志(上) 著者 加藤郁乎 No
2014-21
発行所 岩波現代文庫 発行年 2014年5月 読了年月日 2014-06-11 記入年月日 2014-06-29

 「
風流と滑稽と粋 江戸俳諧を集約する」と帯にある。まさにその通り。返す刀で、著者は現代俳句のつまらなさを、ことある毎に指摘する。風流と粋は別として、滑稽は俳句の大きな要素で、現代俳句にはそれが欠けていると私も感じているので、書店で帯を見て読んでみたくなった。

 宗祇から芭蕉、蕪村を経て横井也有までの41人を取り上げ、その作品を論じる。俳諧通史といったもの。かなり専門的で、細かく、その上注釈なしの原文、初めて聞くような人名や当時の本、あるいは漢詩などがふんだんに出てきて、さらに著者独特のはしょった文章は時に理解出来ず、決して読みやすい本ではない。「公明新聞」に連載されたものをまとめたというが、よく読者がいたと感心した。

 江戸時代を通して俳論や句の批評に関するおびただしい書籍が刊行され、現在まで残っていることを知る。あらためて江戸文化の高さと江戸時代の泰平を評価したくなる。取り上げられた41人の俳人には、初めて聞く、あるいはほとんどなじみの名前が半分ほどある。

 詩人西脇順三郎の芭蕉評:西脇はある時、芭蕉の「五月雨に鳰(にお)浮巣を見に行かん」について、著者に熱く語ったという。この句は言葉には俳諧がないが、「浮巣を見に行かん」というところが俳諧である。「
わざわざ五月雨のなかを鳰なんかの浮巣を見に行こうと言う芭蕉さんは、無駄なこと詰まらぬところに俳また風流のポエジーをみつけたことで世界最高の詩人だと道破称揚された」と著者は西脇の芭蕉評を記している(p99)。私も昨年の今ごろ、属する句会の主宰が言い出して、座間の谷戸公園に浮巣を見に行った。残念ながら見ることは出来なかった。

 本書の文庫化に当たって著者は序にかえて、平成18年に行われた「其角三百年祭」での講演の際に発表された一文を載せている。榎本其角を高く評価していて本書では蕪村、芭蕉に次ぐ紙数をあてている(p100~125)。以下目についた其角の句:

切られたる夢は誠か蚤の跡
蚊柱に夢の浮橋かゝるなり

 定家の「夏の夜はゆめのうきはしとたえして峯にわかるゝ横雲のそら」を踏まえたもの

鐘ひとつ売れぬ日はなし江戸の春
うぐひすに此(この)芥子酢はなみだ哉

 四十七士の切腹に際して詠まれた句。其角は義士達と親しかった。
一升はからき海よりしゞみ哉
かたつぶり酒の肴に這(は)はせけり

 この句は本書の帯に載せられている。

十五から酒を飲み出て今日の月
草の戸に我は蓼くふ蛍かな
酒を妻妻を妾の花見かな
暁の反吐はとなりかほとゝぎす


 其角の章の最後を著者は以下のように結ぶ:
其角本来の俳味をいまだに解せぬ野暮天、つまりは幇間俳人にも値せぬ自称俳人のなんと多いことか。

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書名 純愛―エセルと陸奥廣吉 著者 下重暁子 No
2014-22
発行所 講談社 発行年 1994年 読了年月日 2014-06-19 記入年月日 2014-06-29

 3月末で終わったNHKの「BS歴史館」という番組があり、毎週1回、朝8時からの放映を欠かさず見ていた。終了少し前の放映で、花柳界から明治維新の立役者の妻となった女性を取り上げていた。木戸孝允、伊藤博文らの夫人と共に陸奥宗光の亮子夫人も取り上げられていた。鹿鳴館の花と讃えられた人で、横顔写真が放映されたが、きりっとした息を呑むような美貌の持ち主であった。番組の最後に下重暁子さんが出てきて、亮子の遺品のネックレスなどについて語った。番組を見て20年近く積んでおいた本書のことを思い出した。

 ハードカバーの立派な装丁の本を手にしてみたら、陸奥宗光と亮子の話ではなくて、息子の廣吉と妻のエセルの話であった。廣吉の日記をもとに二人の愛の軌跡を追ったノンフィクション。廣吉は亮子の子ではなく、先妻蓮子の子である。廣吉は父宗光のすすめでイギリスに留学する。明治21年(1888年)、廣吉20才。ケンブリッジでの学位取得を目指し、ケンブリッジに下宿する。エセル21才は下宿先のパッシングハム家の長女である。会って1ヶ月もしないうちに二人は二人きりで散歩に出るようになり、廣吉は日本の小判などを彼女に贈っている。こうした二人の関係が、実に7年間も続く。廣吉はケンブリッジでの学位を諦め、ロンドンに移って、弁護士の資格を目指す。ロンドンに移っても二人はことある毎にあっている。どちらかが汽車で会いに来るのだ。最初は日本語でつけていた廣吉の日記もすぐに英語で記されるようになる。頻繁に手紙のやりとりも行われる。

 やがて廣吉は資格試験にも合格し、帰国する。1894年、明治27年だ。父は外務大臣になっていて、廣吉は帰国後は外務省の通訳官として活躍する。日記には伊藤博文総理はじめ、福沢諭吉、大山巌、井上馨、榎本武揚、原敬ら各界の著名人が登場する。ロンドンにいるときから廣吉はエセルとの結婚を真剣に考えていた。しかし、宗光はその結婚に反対であった。廣吉は結婚できないことをエセルに手紙で知らせる。

 その手紙をもらったエセルについて:
会いたくても船で四十日以上かかるイギリスと日本に別れて、今度いつ会えるかもわからない。このまま永久に会えないかも知れない。けれども悲しみの底で、エセルは一縷の希望を捨ててはいない。自分の愛の力、廣吉への愛の自信である。それがいつの日かへの期待を生む。
 と記した後で、著者は自分の恋愛経験を重ねる。十年間思い続けた人が、ついに彼女の許に返らぬと知った日:
たとえ恋が成就せずとも、私の思いには自信がある。ほんとうに人を愛することを知ったあの時の私は、涙の出るほどいいいい奴だった。もう二度とあんな私にはなれないだろうが、何も求めず、ひたすら一人の男を思い続けられた純粋な私がいたことをうれしく思う。そんな私にさせてくれたその男に心からお礼を言いたかった。その存在がなければ、私は人を愛することを知らなかったろう。

 やがて日清戦争が起こる。廣吉は広島の大本営で、刻々入る戦況の電文を伊藤博文らに報告する役目に就く。日記には日清戦争の経過が簡潔に記されていて、別の面での興味も深い。

 廣吉は北京駐在の外交官となるが、すぐに帰国する。明治30年、父宗光が死去。その後、廣吉はサンフランシスコ駐在領事に任命される。明治32年4月、エセルは大西洋を渡り、大陸横断鉄道で単身サンフランシスコにやってきて、二人は同じ家に住む。以後二人は共にイタリアやワシントンなどの任地に赴く。しかし、正式の結婚は明治38年、知り合ってから実に17年の歳月が経っている。二人の愛の強さに感銘を受ける。まさに「純愛」だ。

 本書の表紙裏には、購入時に筆者から頂いた揮毫がある。「愛とは意志です」と達筆で書かれている。

 廣吉には潤吉という弟がいた。潤吉は古河家の養子となり古河鉱業の経営に当たっていた。しかし、若くして亡くなり、廣吉がその遺産を継続する。病弱であった廣吉は病気を理由に外交官を退き、鎌倉に居を定め、潤吉の遺産をもちいて、鎌倉女学校の再建など、文化事業に力を注ぐ。日本名のイソと改めていたエセルは「鎌倉、その事実と伝説」という本を出版する。二人の間には陽之助という男の子があり、本書執筆当時も健在で、著者はインタビューしている。イソは関東大震災も経験し、昭和5年鎌倉で死去。

 読んでいて、不思議に思うのは、イギリス滞在中の二人が頻繁に会っていながら、肉体的な関係までは至らなかったように見えること。ビクトリア朝時代の厳しい性道徳の故だろうか。父の宗光は、婚外に一人の女子をもうけている。その子は廣吉の養女となっていたが、アメリカから帰国の船中で急死してしまう。

 もう一つは、廣吉は若いころから病弱で、学業も勤めてからも、しばしば病気のために休んでいる。昔の官吏はこんなにゆるい勤務状態でもつとまったのかと不思議である。


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書名 日本文化の形成 著者 宮本常一 No
2014-23
発行所 講談社学術文庫 発行年 2005年 読了年月日 2014-06-28 記入年月日 2014-06-30

 読んでいて、これは網野史学の焼き直しではないかと思った。特に海上を通しての交流、大陸と北海道との交流などの視点から日本史を見る所など。読み終えて、巻末の網野善彦の解説を読んで、実は関係が逆であることを知った。網野は松浦党に関する宮本の調査報告書(1952年)を読み、ようやく『海に生きる人々』という自著にたどり着けたという。それ以後、宮本の学問に魅了され、著作を乱読したという。

 民俗学を土台にして日本の歴史、特に縄文、弥生時代から古墳時代、日本国家の成立期までの歴史に迫る。宮本最晩年の著作。民俗学的立場から、古事記、日本書紀が随所に引用され、独自の読み解きがなされる。

 日本列島に土着の文化としてあったのは縄文文化。狩猟採集を主とする。その中で土器は、主に煮炊きに使われた。縄文時代の人は貝を煮て食べた。この狩猟採集文化はエビスの文化と呼ばれるもので北日本に栄えていて、西日本にはむしろその遺蹟が少ない。縄文土器以前の石器時代の北海道の石器にはシベリア地域の石器と共通するものが多く、両者は密接に関連していた。

 その後日本列島を統一し、支配した民族とよく接触したエビスたちは、その統率者を神として祀った。いわゆる「エビス神」である。一方大和朝廷との接触が少なかった東北のエビスたちは、「エビス」という言葉が、未開を意味するようになっていった。(p27)。

 縄文文化に次ぐのは弥生式文化である。弥生式文化は東アジアの沿岸沿いに日本列島にもたらされたもので、海洋性が強いとともに稲作をもたらした。しかもその稲作には鉄文化が付随していた。それがまた構造的な船を造るのに大いに役立った。(p56)。
 弥生式文化はほとんど武力を伴っていなかった。一方朝鮮半島の倭人を通してもたらされた古墳文化は武力的な要素を多分に持ち、武力による統一を進めていった。『日本書紀』における神武天皇以後の歴史は武力統一の歴史である(p79)。

 倭人はもともと東南アジアの海岸から北上してきた海洋民で、朝鮮半島と九州西部に植民地を作っていた。朝鮮海峡の制海権を握っていて、朝鮮半島を通しての北方文化がスムーズに日本に入ってきた。時には強力な集団が侵攻という形を取らないで日本に渡航し、そういう力が凝集してやがて日本の武力的統一を進め統一国家を形成していった(p67)。

 本書は1.日本列島に住んだ人びと 2.日本文化に見る海洋的性格 3.日本における畑作の起源と発展 の3編を正編としているが、「付」として「海洋民族と床住居」も掲載されている。これが面白い。

 日本人の住居は土間住まいのものが近世末まで各地に見られた。一方、貴族の家は古墳時代から高床式になっている。なぜだろうと著者はその理由を考察する(p171~)。

 それは稲作と関連する。南方からもたらされた稲作は、籾だけがもたらされたのではなく、稲を作る人びとも一緒にもたらされた。彼らはもともと高床式の住居に住んでいた。日本につくまでの長い漂泊のためもあり、日本では彼らが高床式住居に住んでいたという証拠は乏しい。しかし、米は高倉に保存した。収穫直後の米はその生命力を失っていると考え、その米に再度生命力を蘇らせるために高倉におさめた。単なる保存の意味だけでなく、稲の命を守るために、高倉に保存した。なぜ高い所か。それは神聖なものは高い所において守るという心情からだ。そして、稲の祭祀を司るもの、つまり当時の支配階級もまた高床の家に住むようになった。


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書名 自然を詠む 著者 篠原徹 No
2014-24
発行所 2014-07-03 発行年 2010年12月 読了年月日 2014-07-03 記入年月日 2014-07-04

 副題は「俳句と民俗自然誌」である。著者は俳人ではない。専門は人間と自然との関わりを研究する民俗学者。俳句に興味を持ったきっかけは人類学者の故伊谷純一郎の著作に接してからである。伊谷は霊長類研究において国際的に著名な学者であるが、その研究を支えた感性に俳句が関係していた。伊谷は、タンザニアでの10数年間におよぶ霊長類観察研究の間、岩波文庫の『芭蕉連句集』を携行し、テントの燭光の中でそらんじてしまうほど繰り返し読んだ。「
連歌の鋭利な自然描写と、弾性をもった連鎖と転換の妙、そしてあのしたたかさが、アフリカの壮大な野生に対する親切な解釈を与えてくれるように思えた」と著者は伊谷の言葉を引用している(p14)。著者はさらに、伊谷が俳諧を好んだのは「鋭利な自然描写つまり自然の全体が自然の部分たる現象に凝縮する瞬間を感じとることが俳諧の本質なのだと理解していたからであろう」という。(p148)

 本書の特徴であり、興味をひかれたのは、伊谷およびその師である今西錦司への言及と、柳田國男への言及が至るところでなされていること:
 
日本の本草学の系譜をひく博物学的思考には、その対象とする動物社会への強い関心があった。今西錦司や伊谷純一郎の霊長類学や人類学の独創性は、こうした系譜をひく動物社会学の構想であった。実は、何度も登場する柳田國男の思想にも、同じような本草学の系譜をひく博物学的思考が流れ込んでいると筆者は考えている。そして、この思想の根幹は、動物の社会の理解であり、その方法は擬人法による共感と類推であった。(p113)

 俳句における擬人化の例としては蕪村をあげている。

猿どのゝ夜寒訪ひゆく兎かな
春の夜や狐の誘ふ上童
戸をたゝく狸と秋をおしみけり
河童の恋する宿や夏の月

 蕪村は画を得意としていたことが、こうした擬人法と関係あるのかも知れないと、著者はいう(p114)。ただ、最初の句を、猿の蕪村が寒い夜に酒でもひっさげて、兎の召波か太祇を訪ねると解釈しているが(p120)、どう見ても逆だと思う。

 自然と人事を同時に詠むことこそ俳諧・俳句の本題ではないのかとおもう。そしてその自然と人事の交錯する風景に歴史性が加われば、俳諧・俳句はまさに精神史の様相を帯びてくる(p135)。

 俳諧の博物誌的側面が本書のメイン大きなテーマで、動物、植物と俳諧の関係が色々考察されている。一例として狼を取り上げる。

狼の声そろふなり雪のくれ     丈草

 丈草は芭蕉の門弟で、この句は元禄頃作られたと思われる。狼の群れを詠んだ唯一の句とされる。しかし、その姿は見えない。声だけを詠んでいる。芭蕉にも

萩原や一よはやどせぬ山のゐぬ

 これは鹿島詣の際に詠まれた句。房総半島下総台地一帯には牧場が多く、狼の餌もたくさんあり比較的近代まで狼が生息していたと考えられるから、芭蕉の多分この句は属目句であろうと著者はいう。
蕪村の時代になると狼は「声の狼」となり、蕪村の次の二句は想像句であるとする。

狼はよらじ火串の消ゆるまで
山犬を逃れて露の聖かな

 一方、柳田國男は『遠野物語』の中で、数百匹の狼の群れが通過するのを目撃したという話を載せている。そして、その伝承を真実だとしている。著者は、この群狼伝承に否定的な今西錦司らの説を支持し、蕪村の時代にすでに狼は「声の狼」になっており、むしろ俳人の自然観察の確かな目を信じたいという(p111)
 本書には多数の本が引用されている、というか、引用文で構成した本といえる。

  今西、伊谷の霊長類研究が、世界に突出したものであるのは、彼らが動物の社会の研究に擬人法を導入したことによる。それは、日本の民衆の動物に対する伝統的な態度である。「
霊長類社会研究に対して共感と類推こそが、その社会を解く鍵であるといっているわけである。擬人主義とか擬人法・擬人化を支える根拠は、この共感と類推である。」と伊谷の研究手法を紹介している(p119)。

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書名 意識と生命 著者 ベルクソン,  池辺義教 訳 No
2014-25
発行所 中央公論 発行年 昭和54年 読了年月日 2014-07-05 記入年月日 2014-07-06

 中央公論社「世界の名著64」。この全集は全巻手元にあるのだが、今までに読んだのは3冊のみ。持ち腐れになっているが、少しでも持ち腐れを減らせればと思う。

 たまたまベルクソンの巻をめくっていたら、面白そうな一篇があったので読んだ。1911年、バーミンガム大学におけるハクスリ記念講演である。

 一番興味があって、驚いたのは、植物にも意識があると主張していること。著者はいう「
意識とはまず記憶を意味します」。さらに「意識というものは未来の予期でもあります」それ故、「すでに過ぎ去ったものをとどめておき、まだ存在していないものを予測すること、これこそ意識の第一の機能であります

 ベルクソンは意識が選択を意味し、意識の役割を決断することにあるとし、自発的に動く有機体には意志があるとする。そして、自発的な運動がまったく出来ない生物はないという。したがって生物全部に意識がある。植物の場合は、自分を動かす機能がないのではなく、眠っているのだとする。「
もともと生命を持っているすべてのものに内在する意識が、自発的な運動がなくなったところでは眠り、生命が自由な発動性のほうへ向けられるときは高まるということは、私にはほんとうらしく思われます

 さらに、「生命の進化全体のなかには、創造的な意識が物質を横ぎっているのが見られる」とのべ、生命の進化には内的な推進力が働いているという。この内的な推進力により生命は、あえて危険を冒しながら複雑な形態へと発展していった。これはベルグソンの「創造的進化」というものだろう。

 さらに、「
意識は、あったこととあるだろうことの間を結ぶ連結線であり、過去と未来をつなぐかけ橋であるとも言うことができましょう」という。ここにはベルクソンの独自の時間に対する見方があるようだが、本編ではそれ以上深くは触れられない。

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書名 晩年の発見 著者 下重暁子 No
2014-26
発行所 大和書房 発行年 2011年7月 読了年月日 2014-07-06 記入年月日 2014-07-14

 「私に残された時間」というサブタイトルが付く。今までの生き方を振り返り、「晩年の覚悟」を綴ったもの。ハードカバーの立派な本の帯には「
人はひとりで生まれてひとりで死ぬ――命ある限り自分らしくありたい」とある。

 本書に書かれたことは、日頃教室で受講生のエッセイの講評の折りによく口にすること。下重さんの連れ合いのこともよく知っていて、そのクールな夫婦関係も日頃から目にしており、そうした意味で、まったく違和感なく読めてしまった。軽井沢の別荘の話も、何回か訪問しているので「ああ、あのことだ」とイメージ出来るし、下重さんの生涯の大恋愛の話も大筋は断片的には聞いた。そのうえ、本書にはエッセイ教室の受講生のエピソードがいくつか取り上げられていて、内容のほとんどが見たり聞いたりした話といったものだった。思えばNHK文化センターのエッセイ教室を通しての下重暁子さんとの付き合いは今年の秋で、20年になる。


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書名 木綿以前の事 著者 柳田国男 No
2014-27
発行所 岩波文庫 発行年 1979年刊 読了年月日 2014-07-16 記入年月日 2014-07-18

 篠原徹の『自然を詠む』では、柳田国男は俳句にも造詣が深く、その俳句観が紹介されていた。それで興味をひいた。表題の他全部で19編を収める。底本は昭和37年刊の「定本柳田国男集」の第14巻であるが、執筆年代は1911年から1939年におよぶ。

 柳田の考察の対象となるのは、木綿の着物であり、団子であり、餅と臼と擂り鉢、火吹竹、酒、たばこ、稲こき器といった、日常の常に目にするありふれたもので、その歴史を考察する。何気なく使っているものへの鋭い疑問と考察に読んでいてはっとさせられる。手法としては、それらの物の古名、あるいは方言が有力な手段となる。柳田は各地の方言をたくさん集めている。そして、俳諧もまた、作られた当時の民衆の生活を写す重要な手段と見なす。

 本書のほとんどが書かれてから70年以上経っている。取り上げられたものも、柳田が当時の風習としてあげるものも、今から見ればほとんどが、民俗学的資料になったいる。例えばp235には「
田植は御承知の通り今でもほぼ昔のままに、早乙女を一家の外からもたのんでくる」とある。私は子供の頃を疎開先の田舎で送ったから、当時の体験を思い出しながら、具体的なイメージをどうやら浮かべることが出来る。本書の中でもきわめて面白かったのは、臼、杵、石臼を論じたところ。柄の付いた杵の発明によって初めて現在のような餅を付くことが出来るようになった。それ以前の柄の付かない杵棒では乾いた穀類を粉にすることは出来ても餅はつけない。その代わり団子は作ることが出来た。また、石臼は石の表面に細かい溝を彫ることによってその性能が飛躍的に向上した。彫り師が農村を回って、溝を彫っていった。疎開先の母の実家の縁側で、祖母が石臼で黄粉を挽いていた遠い昔を思い出した。確かにすりあわされる石の面には溝が彫ってあった。もちろん柄付きの杵と臼も各家庭の必需品であった。

 私たちにとっては木綿の衣類は当たり前のことだが、柳田は木綿の衣類は新しい物であることを指摘する。鋭い疑問と問題提起だ。柳田によれば、木綿の栽培が一般化したのは300年前、(今からは400年くらい前)南蛮との交易より前とは思えない。木綿の前には一般の人びとは麻を着ていた。木綿の特徴は肌触りの良さと、染色性の良さで、「
木綿の採用によって、生活の味わいが知らず知らずの間に濃(こまや)かになって来た」と述べる(p15)。私は麻の物を身につける事はほとんどないが、いわれてみると時代劇で見る裃は麻でいかにも肌触りが悪そうだ。

 木綿は生活に一大変革をもたらしたが、それが必ずしも良い面ばかりではないという。糸が太くて布が強く突っ張っている麻の着物は、体の表面との間に、小さな三角形の空間をたくさん作っていた。これが汗の蒸発を促していた。しかし、木綿を着るようになってから日本人の肌は夏はいつも湿っている。これが、日本人の体質を弱め、昔の人が滅多にひかなかった風邪などという病にやたらかかるようになったのではないかと推察する(p315)。だから、歴史に学ぶということはそうした考察を将来に生かして行くことだと、本書はことある毎に強調する。本書には女性に関する記述も多い。最後は「女性史学」と題する講演の記録で、そのなかで、女性に単に本を読むだけでなく、身近なものから過去を考察し、それを将来の生活に活かして欲しいと述べている。柳田は政府の高官であり、国際連盟の職員としてもジュネーブ滞在の経験を持つ。今風にいえば上から目線のこうした言い方はその経歴から来るのだろう。

「生活の俳句」では柳田の俳諧論が展開される。彼は俳諧の研究者で芭蕉のファンであると公言する。しかし、柳田は俳諧と俳句を分けていて、俳句は作ったことがないという。彼が好きなのは連句であって、発句は嫌いであるという。発句の極度な流行が、俳諧の真の味を埋没させている。正岡子規は俳諧道の中興開山ではなくて俳句という一派の新文芸の第一世ではないかという。芭蕉の何が出色であったかと言えば、それは俳諧を本来の用途、つまり笑いに対する我々の要望を満たしてくれたことである。笑いを取り扱わない蕉門の俳諧は皆無である。落語でも最初から笑いを取ることはないのと同じで、発句はいずれも生真面目で笑いたくないのが当たり前で、それは俳諧の意味からは離れている。芭蕉は、以前の笑いの文芸には見られなかったしんみりとした常人の感情、憂い、哀しみなどを盛るようになった。

 柳田は『猿蓑』の幸田露伴の解釈にもいくつか反論し独自の解釈を展開している。本書にもたくさんの連句が引用されているが、私にはいずれも理解出来ない。柳田は、連句の理解が難しいのは、文法上の無理が多いこと、時代の風俗の変化、作者の境涯と教養、あらゆる生活体験が後世のものとは共通ではないことが理由だという。

「山伏と島流し」では俳諧の効用が述べられる。俳諧には時代の生活が現れている。それは、学者や文人の文章や、軍書から人情本までの何万種という小説はあっても、その中には書かれていない平凡人の心の隅々が書かれているのが俳諧である。芭蕉の時代の東国の世を語るのに俳諧ほど精彩を帯びた生活描写は他にない。芭蕉は優れた指導者であると同時に、明敏無比なる世相の観察家であり、自分のものでない経験からも間接にあの時代の人生を多く学んでいる。俳諧をこうして時代の風俗を知る材料とすることには異論があるかも知れないが、柳田はこれこそが未来に続く俳諧の唯一の功績であるとする。

「木綿以前の事」は『七部集』の中の『炭俵』の一節の引用で始まる

分(ぶん)にならるる娵(よめ)の仕合        利牛
はんなりと細工に染まる紅うこん           桃隣
鑓持ちばかり戻る夕月                野坡

 中の句を普段着の新しい木綿の着物であろうとする。芭蕉の時代に木綿の着物が普及しはじめた。この句はその木綿の特性をよく表している。
 全体の解釈は、近いうちに分家するはずの二番息子に初々しい花嫁が来た。紅をぼかした袷か何かを着ているのだろう。3句目は俳諧への変化で、晴れた日の夕方、月が出ている空はまだ赤く、その空を背景に鑓と鑓持ちがくっきりと浮き出る。「細工に染まる紅うこん」を受けたもの。

 巻末の解説によると、柳田のこうした民俗学は民俗学を科学として文化人類学へと展開しようとする人びとからは疑問が持たれていたという。ただ、そうした人びとでも認めていたのは、柳田の及びもつかない詩人的直感であったという。
「木綿以前の事」 初出 1924年


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書名 野草雑記・野鳥雑記 著者 柳田国男 No
2014-28
発行所 岩波文庫 発行年 2011年 読了年月日 2014-07-27 記入年月日 2014-07-31

 本書のカバー裏の解説には「
・・・身近な友である野の草花・鳥たちを見つめ、呼び名・昔話に人の心を読む。観察眼と叙情が溶けあう随筆集」とある。本書は要約すればこれに尽きる。

 合計20編の随筆からなる。その中の「草の名と子供」はさらに14の項目に分かれている。読み始めて、草の呼び名の全国各地での方言がたくさん出てきたりして、つまらないと思ったが、読み進めて行くうちに柳田ワールドといったものに引き込まれて行く。『遠野物語』よりも身近な話でそれだけ親しみを感じた。方言のリストの一例はイタドリ。松竹梅の類が古今東西南北を一貫して一つの名前であったのに、イタドリや土筆は岡を越えるともう異なった名称であったとし、日本各地、30カ所以上の地域でのイタドリの呼称が示される(p47~)。

 タンポポについて:多くの野の花が子供を名付け親にしている。タンポポとはその音から鼓を表す子供の言葉であった。それが、鼓と形の近いタンポポの花に転用されていったのではないかと柳田はいう(p41)。

 本書では、野鳥雑記の方が面白かった。「野鳥雑記」の最初の方にこんな記述がある:
畠に耕す人々の、朝にはまだ蕾と見て通った雑草が、夕方には咲き切って蝶の来ているのを見出すように、時は幾かえりも同じ処を、眺めている者にのみ神秘を説くのであった。静かに聴いていると我々の雀の声は、毎日のように成長し変化して行く。

 野鳥の中でも身近な雀への観察と思い入れは特に深い。人と同等に扱っている。「六月の鳥」の中で、6月は雀の老若男女の交渉がもっとも複雑なときで、子雀の声、子を思いやる親雀の声、親雀どうしの争う声、などが入り交じって賑やかになく、と述べた後で「
夜のしらしらと明けて、爽やかな微風が緑の葉を揺がす時刻だけはどれもこれも約半時ほどの間、同じような緩い調子で同じ一つの音を上下している。それを聴いていると人間のもう忘れてしまった独り言、即ち「今日もまだ生きている」という自我の意識を、自ら問い自ら答える習慣が、ちょうど我々のラジオ体操のように、まだ雀たちの間には行われているということが考えられる」と続ける(p254)

「人望」に当たる「雀望」という言葉も出てくる(p287)、雀ほど自在に生き方を変え環境に適応しようとする鳥はおらず、彼らは他の家畜が利用されているばかりとは逆に、人を利用し、村落を利用して、村雀あるいは里雀となっていると述べている。(p288)

そして本書の最後は次のように終わる:
音の変りの少ない言葉を、音字で現わそうとするから無理がある。私は胡麻点即ち○のような形のものを、大小幾通りかこしらえ、また必要なら点を白黒鼠色にし、それを斜めにしたり竪(たて)にしたり、また中間のあけ方と数を加減すれば、立派に雀和辞典は活版になし得るものと考えている。(p297)

 全編に身近な自然との深い交流が満ちあふれている。


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書名 連句の教室 著者 深沢真二 No
2014-29
発行所 平凡社新書 発行年 2013年8月 読了年月日 2014-08-02 記入年月日 2014-08-04

 柳田国男の著作を読んで連句への関心が高まっているとき、学友の能勢さんから、彼が相棒と巻いた歌仙をもらった。「梅の香の巻き」と題する両吟は格調の高い伝統的な連句であるが、わかりやすかった。能勢さんの連句歴は相当長い。一度だけ誘われたことがあるが、20年近く前ではないか。もちろん断った。俳句を作り始めて4年、連句の座に連なるのは難しいだろうが、作り方や連句の規則などを知りたいと思った。アマゾンで調べて、本書を見つけた。

 楽しい本だ。著者は和光大学で連句の実作の講義を行っている。その講義録を本書にした。学生はそれぞれ俳号を持ち、毎回の授業の最後に付け句を出さねばならない。それを著者が次回までに評価し点をつける。学期を通してのその評点の合計が成績点となる。毎回の付け句の中から1句が選ばれ、さらに次回はそれに付けると言うように進んで、最後は36句の歌仙が完成する。その過程で、連句作りの基本が講義される。この講義は1993年から続いていて、巻末にはそれぞれの年に巻かれた歌仙が表示される。若い人がこのような教科とることが驚きだ。句の付け方にはその場で一番早く出した人の句を採用するという「出勝ち」というものもあるとのこと。著者は教室でもこれを試みている。

 色々規則がある。77の付け句の場合でも、それが1句として独立していることが必要だという。連歌の場合は前あるいは後の575とあわせて一つの歌になることが求められると聞いていたので、これは意外であった。本書では、前の句にかなり濃厚についていることが求められる。たくさん出される句の中から、付きかたが弱いと指摘される句が多い。これも意外であった。一見付いていないようで付いているのが理想だと私は思っていた。同じ字が前句にあってもだめだという。

 こうして巻かれた歌仙は、付きがはっきりしているのでわかりやすい。題材も多様で楽しい。ただ、200年後の人がこの歌仙を読んで、その意味がどこまで理解されるかと思った。芭蕉一門の『猿蓑』を読んでもさっぱり理解出来ないが、同じようになるのではないか。

打越し:間に1句置いた関係。打越しからは出来るだけ転ずることが求められる。
発句と脇句:現実の季節を詠み、連句の参加者が共有する実際の何かに触れることが多い。
脇起こし:発句を既存の発句や俳句から借用してきて、脇句から始めるやりかた。
一句立て:単独でも意味として完結していること。
膝送り:あらかじめ付ける順番を決めておく
出勝ち:早い者勝ちに付ける。膝送りで初めて、途中から出勝ちにすることもある。
捌き:出勝ちでやる場合、その句の採否を判定すること。江戸時代の俳諧師とか俳諧宗匠とはこの捌きが出来る人のこと。膝送りの場合も適用されることがある。
衆議判:捌きを全員の判断に委ねる
客発句、亭主脇:メインゲストに発句を読んでもらい、ホストがそれに付けるのが原則
季節:春・秋は3~5句、夏・冬は1~3句連続させる。
同季五句去り:ある季がいったんきれたら、その後は5句間に置かないと出せない。
去り嫌い:何句離すかというルール
句数(かず):何句まで連続していいか。去り嫌いと句数は連歌連句のルールの基本。「天象」「降物」「人倫」「旅」など16種に関して中世以来のルールがある。(p93~)
定座:特定の位置で月また花を詠む。ただし絶対的なルールではない。月は5,13,29,花は17と35.
式目:連句のルール
連衆:参加メンバー
執筆:記録係
遣句:その句自体は凝った趣向を持たずに次の句に目に立つ句を促す目的の句
恋の呼び出し:その句は恋の句ではないが、次に恋の句を付けやすくするための句
恋離れ:前句との付け合わせでは恋を描いているが、その句自体は恋の句とはならないもの
取り成し:前句の語句をわざと違う意味にとったり、曲解したりして展開を変化させる技術

集団で作られること、前句の制約を受けて発想が制約されること、全体としてのテーマがなく変化すればするほどよいとされること、という連句の特徴から、連句は文学ではないという批判がある。それに答えて著者は、このような特徴を持っていても文学の一つであるという。最初の二つには今までの文学作品もたくさんあてはまる。最後の点については、連句の根底には可能な限りこの世のバラエティを求める態度がある、「
連句は世界のすみずみ、くまぐまを味わうことを目指す詩」であるとする。(p67~)

 句会の楽しさは座の持つ楽しさだが、連句だったらその一体感は句会よりもずっと大きいだろう。


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書名 安国寺恵瓊 著者 河合正治 No
2014-30
発行所 吉川弘文館 発行年 1959年 読了年月日 2014-08-03 記入年月日 2014-08-04

 安国寺恵瓊は今年のNHK大河ドラマ「軍師黒田官兵衛」に毛利方の交渉役としてとして前半の重要な場面でしばしば登場している。石田三成、小西行長と共に関ヶ原の戦いの西軍首謀者として斬首されたことは知っているが、恵瓊はどんな人物かは知らない。春の放映では、黒田家を訪れた恵瓊が、官兵衛の長男、まだ幼い長政と出会い、その人相を見て、「自分はおぬしに頸を刎ねられることになるかも知れぬ」と漏らすシーンがあった。黒田官兵衛がまだ播磨の小寺家の家臣で、秀吉の家臣になる前のことだったと思う。関ヶ原の25年以上も前のシーンで、恵瓊もまだ若かったはずだが、演じているのが年配の役者で、ちょうど関ヶ原で敗れる頃の恵瓊の年齢にふさわしいと思った。実際、関ヶ原では黒田長政の諜略が東軍の勝利の最大の要因であり、恵瓊の予言は現実となった。

 どんな人物かもっと知りたくなった。吉川弘文館の人物叢書のリストの中に本書があった。半世紀以上も前の刊だ。本書の帯は「
東福寺住持 毛利家重臣 秀吉の腹臣 関ヶ原合戦西軍の首謀者 斬首」と恵瓊の生涯を要約してある。
 帯に続く「はしがき」にも恵瓊の生涯が要約されている。

 恵瓊はあまり知られていない人物で、特に豊臣秀吉と彼を結びつけて思い出す人は少ない。しかし、彼は毛利陣営にありながら、秀吉に傾倒し、本能寺の変の10年も前に信長の没落と秀吉の天下を予言した。恵瓊の奔走で羽柴・毛利の和平が成立した後は、秀吉に重用され、天下一統、大陸出兵まで秀吉の意図を受けて助けている。関ヶ原の役後処刑されたため、徳川幕府治世下では、彼の評判はきわめて悪く、愚人・妖僧などと罵られた。彼は広島の不動院金堂(国宝)、厳島神社の千畳閣(重文)などの貴重な文化財を残している。恵瓊を世に出したのは毛利氏であり、恵瓊もまた毛利氏のためを思って最後まで行動した。関ヶ原の戦いでは、毛利の内部から彼を裏切るものが出て、西軍敗北の大きな原因となった。戦後、毛利は恵瓊一人に罪をかぶせて防長2国の大名としてかろうじて存続を保てた。毛利家にとっても恵瓊は思い出したくない人物で、そのために、彼の全生涯を扱った伝記は今までなかった。本書が初めてである。

 恵瓊の出は安芸の守護武田家。甲斐の武田と同族の武田氏である。武田家は大内氏、毛利氏に押されて、滅んでしまう。恵瓊はその遺児であるとされる。生年は天文6年(1537年)頃と推定される。武田家の滅亡に伴い、幼児であった恵瓊は安芸の安国寺に身を寄せる。仏道修行に励み、立派な青年となる。天文22年(1553年)、生涯の師恵心に会う。恵心はその後京都の東福寺の住持となり、さらには当代大一流の禅僧となる人物であった。

 山陰の尼子を圧し、備中まで勢力を伸ばしてきた毛利氏にとっては、中央政界との結びつきが必要であった。そこで毛利と強く結びついたのが恵心である。恵心は毛利の外交僧の役目を務める。当時、僧が戦国大名間の争いの調停役を果たすことが多かったようだ。毛利は恵心を通して皇室に費用を献じ、元就他毛利一族は官位を得た。

 この恵心の跡を継いだのが恵瓊である。毛利の外交僧は他にもいたが、恵瓊がずば抜けていたのは、持ち前のよどみない弁舌と、目的を達するまではどのような奔走努力をいとわない執拗なまでの情熱にあったと著者はいう(p20)。東に勢力を伸ばす毛利にとって邪魔なのは備中から播磨の海岸部までを支配する宇喜多直家であった。毛利はこの宇喜多直家を降伏させて毛利側に付かせる。この降伏には恵瓊が大きな働きをした。宇喜多を降伏させれば毛利はやがて織田と境を接し直接対峙する運命にあった。しかし、毛利にしても織田の勢いを知っていたし、織田側でもまだ背後に武田勝頼、上杉謙信という強敵を抱えて、毛利と決戦する時期ではないと考えていた。この両者の争いに火を付けたがっている人物は将軍義昭であった。それで、織田、毛利側から衝突を回避しようとする努力が払われた。その中心として活躍するのが羽柴秀吉、安国寺恵瓊、朝山日乗であった。戦国史のこうした一面は面白い。元亀2年(1571年)恵瓊は信長に会っている。多分秀吉にも会ったであろう。天正元年(1573年)には本能寺の変(1582年)を予測し、藤吉郎が後に天下を取る如き人物であると看破した手紙を送っている。これは口絵写真として本書に掲載されている。

 織田・毛利の危うい均衡も天元4年には崩れて行く。毛利が水軍をもって織田に包囲されている石山本願寺に兵糧米を送り込む。本願寺の顕如上人とも恵瓊は密接な交渉をもっていた。天正4年11月、毛利は東上策を協議した。毛利にとって将軍義昭を擁して京都に上がり、天下に号令できるのも夢ではなかった。輝元、元春、隆景はもとより、恵瓊にもこれを実現してみようという抱負があったと、著者は推測する(p53)。

 しかし、天正7年以後になると、織田は水軍も毛利に対抗できるだけの力を整え、東海・畿内の豊かな経済力がものをいい、毛利を一方的に圧する。さらに宇喜多直家が織田に内応し、織田の優勢は決定的になる。宇喜多を織田に内応させたのは備前岡山の魚問屋の養子となっていた弥九郎、後の小西行長である(p56)。

 天正10年、毛利と羽柴は高松城をはさんで対峙することになった。武田を滅ぼした織田信長は、自ら大軍を率いて西下しようとしていた。毛利が織田と決戦して全滅するか、和平の道を講じて半減に止まるか、二つの道しかないことは大勢に通じていたものは知っていただろうと著者はいう。この時恵瓊は備中の毛利陣にあった。

 天正10年6月4日、毛利と秀吉は和平を結ぶ。その後秀吉は直ちにとって返して明智光秀を討つ。いわゆる中国大返しだ。この場面は少し前の「軍師黒田官兵衛」で放映されたばかりだ。ドラマでは従来通り、本能寺の変をいち早く知った秀吉側から、講和を持ちかけたとされていた。本書ではこの和平は毛利側から持ち出されたのが真実ではないかという。毛利側の後世の記録ではみな秀吉側から持ち出されたとされるが、この時から一,二年後に書かれた秀吉や恵瓊の書状から、毛利側から持ち出されたのではないかという。情勢を知るのに機敏な隆景が輝元、元春を説得し、恵瓊を使者として秀吉陣営に遣わし打診した。この時の恵瓊の行動には彼独自の判断によるものが多かった。恵瓊は秀吉側の蜂須賀小六、黒田官兵衛らと談合のうえ、毛利側には連絡せず、小舟に乗って高松城に入り、清水宗治を説得し、宗治は籠城者の命とひき替えに翌日切腹し、ここに和平が成立した。秀吉がきびすを返した直後、毛利も本能寺の変を知る。毛利陣営内ではこの好機に乗じて秀吉との誓約を破り追撃すれば、毛利の天下になるという意見が多かった。しかし、毛利は動かなかった。「軍師黒田官兵衛」を見ていて、私もなぜ毛利は追撃しなかったのかと不思議に思った。ドラマでは毛利は自分の領国を守ることは第一義であって、天下を取ることは考えないと、小早川隆景が述べた。この毛利の行動は後々、秀吉に感謝され毛利に幸いすることになる。隆景はこのことを自慢話として後に語ったと本書でも述べている。秀吉に好意的な隆景、恵瓊の考えがこの時の毛利の行動を制したと本書はいう。(p65)

 毛利と秀吉のこの和平条件には領国の線引きをめぐってあいまいなところがあった。秀吉が柴田勝家を滅ぼした後、再交渉が行われた。恵瓊は毛利側の交渉役として秀吉とも面談した。その際二人は意気投合したと本書はいう(p70)。広く天下を見て来た恵瓊にとって、毛利の重臣たちは井の中の蛙のように思えた。彼は統一政権を目指す秀吉の立場に近づいていた。交渉は難航し、さらに1年後にやっと妥結した。

 統一政権のために広く人材を求めていた秀吉は、四国攻めが終わった天正13年、恵瓊に四国伊予の2万3000石の領地を与え、直臣とした。この領地は慶長5年、関ヶ原の役の時には6万石になっていた。僧侶から大名というほとんど前例を見ない出世だ。

 恵瓊は秀吉の大陸進出策にしたがって、朝鮮にも渡っている。朝鮮戦役では三成らと、加藤・福島らの武将との対立が生じてくる。恵瓊は三成に近かった。吉川を継いだ吉川広家もまた戦功をめぐって三成に恨みを抱いた。こうして、三成・恵瓊と武将たちの対立が次第に高まっていった。

 吉川元春と小早川隆景の兄弟では、従来から隆景は秀吉に近かった。山陰を領地とする元春より山陽を領地とする隆景の方が中央の情勢に通じていた。隆景は秀吉の力を見抜き、協力的であった。一方元春は逆で、二人は対立することが多かった。元春は秀吉に駆使されることを潔しとせず、家督を譲って隠居してしまった。秀吉は東の家康に対抗する力として隆景を頼みにし、両者の力の均衡の上に織豊政権の維持を託していた。しかし、慶長2年隆景は突然死ぬ。彼には男子がいなかったので、秀吉の妻の甥、秀秋を跡継ぎとした。元春もその継嗣元長も九州の役で病死して、吉川は広家がすでに継いでいた。広家は隆景の死により、毛利家存続の責任が彼の肩に掛かっていることを自覚したと、筆者は推測する。

 やがて関ヶ原。三成が挙兵を最初に打ち明けた相手は大谷吉継と恵瓊である。三成は家康に対抗するには毛利の力が欠かせないこと、毛利を動かすには恵瓊の力によらねばならぬことを熟知していた。恵瓊から計画を打ち明けられた広家は、大阪で恵瓊と激論を交わす。勝ち目のない奉行衆と組んで毛利家を滅ぼすことは出来ないと、広家は主張。一方恵瓊は家康が秀吉の遺言に背いているとか、感情的な論議を持ち出す。著者はこの時の恵瓊の態度に疑問を呈している。理性的判断を狂わせるほど秀吉に心酔していたのだろう。 

 広家は親しくしていた黒田官兵衛・長政父子を通して東軍と内通し、毛利が西軍に味方したのは輝元の関知せぬところで、恵瓊の一存であると申し入れた。開戦の前に徳川・毛利間の和議が成立していた。関ヶ原では南宮山に陣取った広家軍は最後まで動かなかった。恵瓊の軍は広家の軍に阻まれてこれも動くことが出来なかった。小早川秀秋の裏切りにより西軍は大敗。敗れた恵瓊は京都の寺にかくまわれているところを見つけられ、三成、行長と共に斬首された。

 毛利は約束にもかかわらず大幅に領国を削られ、防長2国に押し込められてしまう。大阪の陣に際しては毛利も徳川方として散陣するが、一方で豊臣方が勝利した場合に備えて、兵糧と軍資金を携えた家臣を大阪城に送り込んだとされる。もともと家を守るという方針が徹底しているようだ。250年後、島津と手を組んだ毛利は徳川を倒す。

 恵瓊は僧としても高い地位にあった。広島の国泰寺は恵瓊を開祖としている。建築物も最初に述べたようなものを残している。
 安国寺恵瓊からみた16世紀後半の日本史といった本書。大河ドラマ「軍師黒田官兵衛」のこれからの展開を理解するにも参考になりそうな本だ。

 本書は吉川家文書、毛利家文書、不動院文書を主な史料としている。本人の肖像画が載っていないのも本書の特徴。ないのか、あるいはあっても載せなかったのかは不明だ。


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書名 孤猿随筆 著者 柳田国男 No
2014-31
発行所 岩波文庫 発行年 2013年 読了年月日 2014-08-09 記入年月日 2014-08-13

 動物に関する民間伝承を集めた随筆集。

 自序でいう:
記憶のない所にも歴史があるということ、文書がいささかも伝えようとしなかった生活にも、なお時代の重要なる変遷はあって、尋ね知ろうと思えばこれを知る途は確かにあるということ、この二は日本民俗学の出発点であった。さらに続けて、獣の歴史も大きな変遷を重ねているとし、「古今一貫した性質を具えたものとして、彼等の行動の跡を批判することは、相手が獣類である場合にもなお不当なことだと思うようになった。」と述べている。

 取り上げられたのは猿、狐、猪、猫、犬、狼。

「狐飛脚の話」にでは以下のように述べる。「
社や祠はどんな小さなものでも、必ず過去のある時期における人間の深い感動の痕跡でなければならぬ。」続いて、全国の古城趾の公園には大体どこかの隅に稲荷神社がある。これは、狐が「ただ御家の一大事という時にのみ、出現して人の出来ない働きをする。その任務というのが多くの場合に飛脚であった」という。狐は近代では悪意に満ちた悪賢い獣とばかり考えられているが、「少なくとも狐の歴史が昔も近世の如く、惨憺たるものだったと考えることは、人はともあれ狐に対しては気の毒である」と、この章を結んでいる。

 狼については、柳田は昭和8年に書いた「狼のゆくえ」で「
日本語でオオカミといった獣ならば、私はまだ日本のどこかにいるだろうという説である」と言い切っている(p197)。この場合「オオカミ」とは、狼と混血した犬まで含めた概念だが、しかし、それは決して野良犬ではないという。ただ、その数がきわめて少なく、群れで移動する習性がなくなっていることは認めている。それに加えて、人に対する凶暴性が近世に入って著しく増加している。この3点は相互に関連しているというのが、柳田の独特の持論である:とにかく記録に伝わっているこの獣の惨話は、近世百五六十年来のものだけがことごとく不意打ちであり、必ずまた孤狼のしわざであった。即ち人の生活技術が改良せられた如く、狼の習性もまた変化しているのである。主たる原因は群れの協力によって獲物を包囲する方法が不用になりまたは不可能になり、ただ狙撃の巧みなるものだけがその孤独の生存を持続し得たためで、ここに至ってか始めて狼は無条件の害獣となり切ったのだと思う。(p201~)。そして、「狼の数の激減したのは、退治の手柄ではなくて増殖の停止に由来している」と述べる。群狼→孤狼→凶暴化と繁殖機会の減少→絶滅へ、というのが柳田の図式だ。

 群狼が孤立化して行く一因を柳田は、牛馬飼育の増加に求めている。かつては牛馬の肉を人間が食べることは少なく、死んだ牛馬は野外に捨てられた。これが狼の餌となり、群れを組んで狩りをしなくてすむようになった。さらに、かつては人の死骸も深山に放置することが多かったのも、狼の餌になっていたという。孤狼は単なる生きた人間の圧迫よって生じたものではないという。

 柳田は環境保護論者、自然保護論者の先駆けであるような気がする本書である。


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書名 柳宗民の雑草ノオト 著者 柳宗民・文、三品隆司・画 No
2014-32
発行所 ちくま学芸文庫 発行年 2007年 読了年月日 2014-08-16 記入年月日 2014-08-22

 柳田国男の『野草雑記・野鳥雑記』関連として本書があった。吟行に行くたびにいくつかの植物の名前を覚える。先月も、擬宝珠とかミゾソバなどの名前を覚えた。

 本書の構成は、最初に取り上げた雑草のカラー挿絵があり、そのあと3ページの解説よりなる。三品隆司の画が細密によく書けている。対象は春夏秋の3季の雑草。著者の柳は東京農大の育種研究所の研究員などをしていた専門家。記述の内容は細かい観察による学術的なものである。

 菜園と句作のおかげで、ここ10年余りの間に私が覚えた雑草の名前は急速に増えた。本書に取り上げられた雑草のほとんどが目にしたことのあるものだ。そうした雑草の学名、分布、特徴、などを知る上では良い本である。ただ、本書で初めて知る雑草の所は、読んでいてもさっぱり頭に入らない。著者の自宅の庭とか菜園には本書で取り上げられた雑草があるようだ。一つ一つの雑草にその美しさを見出す。あるものは園芸植物に出来ないかと提案したり、自ら試みている。それでも、雑草だから、最後は惜しみながらも駆除してしまう。こうした著者の雑草に注ぐ温かい目がいい。

 例えばツユクサ。ツユクサの花びらは実は6枚あること。おしべは6本あり、そのうち2本が前に突き出ていて、花粉をもっている。後の4本は奥の方に引っ込んでいて花粉をもたない。この花粉をもたない性的不能なおしべは、その葯が黄色い。ツユクサの花弁の鮮やかな青との対比で、この黄色は特に目立つ。虫は一般的に黄色や白に反応するので、この役立たずのおしべは、虫を呼び寄せるのに役立っている(p153)。

 例えばネジバナ:これは1年ほど前、吟行の折に覚えた花だ。ラン科の植物だという。ちょっとした驚きだ。ランの総称は英語ではオーキッド(Orchid)である。これはオルキス(Orchis)に由来する。オルキスとは睾丸のことで、ランには球状の塊根をもつものがよくあり、それが睾丸に似ていることから、付けられたという。(p149)。


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書名 春泥・三の酉 著者 久保田万太郎 No
2014-33
発行所 青空文庫 発行年 読了年月日 2014-08-20 記入年月日 2014-08-23

 歳時記を読むと、久保田万太郎の句がよく例句として引用されている。例えば

湯豆腐やいのちの果てのうすあかり

 私は万太郎の作品を読んだこともなければ、どんな人であるかもよく知らない。アマゾンで調べたら『春泥・三の酉』というのが、講談社文芸文庫から出ていた。ついでにネットの青空文庫を調べたら、載っていた。

 久保田万太郎 明治22年生まれ、昭和38年没。「
浅草生まれの大正から昭和にかけて活躍した俳人、小説家、劇作家」とウイキペディアにはある。没後50年を過ぎたので、こうして青空文庫に無料公開されるのだ。

「春泥」は関東大震災直後の新派の劇団に属する俳優たちの苦悩を描いた作品。舞台は東京の下町、それもほとんどが隅田川沿いに展開される。万太郎は後に文学座を結成し、新派、新劇の演出も広く手がけたと言うから、演劇界の内部に詳しい作者にして初めて書ける作品。台詞を主体にして物語を展開するが、登場人物の描きわけといい、緩みのない構成といい、パソコンのディスプレイに向かい引き込まれて一気に読んでしまった。

「春泥」の中ほど、「三羽烏」という章の第十節には以下のような震災後の隅田川岸の情景が描写されている:
「おや?」
 急にかれは立留った。――その少しまえ、向島で、牛(うし)の御前(ごぜん)のまえで田代がそうしたように。――なぜならいまゝで展けていた河の光景(けしき)……あかるい河のうえの光景が急にそのときかれのまえに姿を消したから……
 そこに、河岸から、桟橋でつながれた船料理。――いつみても客のない、ガランとした……ことに寒い時分にあって一層それの酷い……いえば手持無沙汰な感じに水の上をふさいでいる大きな船のさまと、それへさそう無器用な門とのぽつねんとそこに突ッ立っているのはむかしながらのけしきだが、そのあと、そこから両国の袂の、一銭蒸汽の発着所のあるところまで、以前はそこに、河の眺めを遮る何ものもなかった。むしろ寂しい位おおどかに往来(ゆきき)する船のすがたや、いそがしく波を蹴立てゝ行く蒸汽のさまや、まん/\と岸を浸してながれる青い水のひかりや、その水を掠めて飛ぶ白い鴎のむれや……そうした光景があからさまに眼にうつッた。――が、いつかそこには東京通船株式会社の、倉庫なり事務所なり荷揚場なりの古トタンをぶつけた、大きな、うす汚いバラックがいわれなく立ちはだかっていた。そうしてそのぐるりには、石油箱だのビール箱だの、石炭を入れる叺(かます)だの、鶏を入れるような、大きな、平ッたい竹籠だの、およそ野蛮な、ざッかけない、わびしい感じのするものが堆(うずたか)くそこに積まれてあった。――縄っ切や菜っ葉の屑のごみ/\散乱(ちらか)った道の上に焚火している四五人の人夫のむれも、そこから出るお台場行の汽船の大きな看板も……いえばそれも震災まえにはみられなかったものである……その下にさがった活動写真のビラも、折からの曇った空、極月(ごくげつ)のその曇りぬいた空を、一層暗く、一層味気(あじき)なく、一層身にしむものにするのに十分だった。
「酷くなったなァ……」


 作品には作者の分身と思われる小倉という人物も最初から登場する。最後には小倉の「淋しさやうかびて遠き春の雲」という句がおかれる。
 初出は昭和3年、大阪朝日新聞連載。

「三の酉」はずっと短い小説。赤坂の芸妓おさわと、作者と思われる粋人客の二人が酒席で交わす会話だけで構成されていると言っていい作品。おさわは吉原の手引き茶屋で生まれ吉原で育ったが、関東大震災で両親は郭の中の花園池に逃げて死亡する。両親とはぐれたために生き延びたおさわは15歳の時から芸妓となる。毎年三の酉に行くことを欠かさなかった彼女は疎開先の信州からも三の酉には上京した。50才近くなった彼女は、かつて両親のところで「お酌さん」をしていた女性の結婚先を訪れ、その温かい家庭に胸がいっぱいになる。自分には心の住処がないとつくづく思う。客は来年の三の酉に二人で行くことを約束する。おさわはその日だけは客人の妻になってあげるという。しかし、翌年の三の酉を待たずに彼女はなくなる。

たかだかとあはれは三の酉の月
 というぼくの句に、おさわへのぼくの思慕のかげがさしているという人があっても、ぼくは、決して、それを否まないだろう…

 で本書は終わる。
 しみじみとした、人情味あふれる作品。

こちらは1956年(昭和31年)、「中央公論」初出


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書名 柳宗民の雑草ノオト② 著者 柳宗民・文、三品隆司・画 No
2014-34
発行所 毎日新聞社 発行年 2004年 読了年月日 2014-08-30 記入年月日 2014-08-30

 『柳宗民の雑草ノオト』の続編。形式はまったく同じで、本書の方は文庫版ではなく、B5版になっている。春夏秋の60種の雑草を新たに取り上げている。私が知っているのは20もない。初めて聞く雑草でも、そのかなりのものが著者の庭にあるという。よほど広い庭なのだろう。読んでいると、雑草と言われるものに色々な薬効があり、昔から広く使われていたことがわかる。

 キキョウ:秋の七草に入っているが、最近は切り花も鉢植えも初夏に売られているという。促成栽培かと思ったら、そうではなくて梅雨時に咲く変種が見出され、「五月雨桔梗」として売り出され、人気を博し、以後栽培される桔梗は初夏の花となった。早咲きの桔梗を秋まで咲かせ続けるには、咲き終わった花を摘み取り、種の付かぬようにすると、困った桔梗は脇芽を出しそれに花を付ける、とアドバイスする。桔梗の根は「桔梗根」といい咳止めとして重用された。青紫の星形の鐘状花はよく目立ち、家紋として用いられ、明智光秀も桔梗の家紋であった(キキョウの項、p190~)。

 海外にもよく出かけ、そこで見かける雑草の群落の記述も至るところに出てくる。特にアラスカの原野を一面に染める花は素晴らしいという。外国では最近日本庭園への関心も高く、庭作りも行われている。そこに必ずあるのは、日本では便所の木とされるヤツデとアオキである。しかし、日本で古くから愛されてきたハギが植わっているのは見たことがないという。華やか好みの欧米人にはハギは淋しすぎる。日本人にはしなやかに垂れる枝に、チラチラと小さな花が咲くその姿に、秋の風情を感じる。このような美意識は日本人ならではのものだという(ミズヒキの項、p237)。ミズヒキという草は吟行で覚えた草だ。私の新しく覚えた雑草の名前の大半は吟行による。

 吟行にもって行くには、本書は大きすぎ、文庫版の前書の方が良い。


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書名 群れない 媚びない こうやって生きてきた 著者 下重暁子、黒田夏子 No
2014-35
発行所 海竜社 発行年 2014年 読了年月日 2014-08-31 記入年月日 2014-09-02

  少し前のエッセイ教室の時、下重さんから紹介された。今までになく自分の本音を語った対談であると自賛した。地元の図書館で貸し出し予約をしてから、3週間もかかってようやく手に出来た。

 下重暁子と芥川賞作家黒田夏子は早稲田大学の同期生。二人とも同期会などには顔を出さないタイプだが、二人の間の淡い関係は途切れることなく半世紀以上続いた。二人の歩んだ道をそれぞれに回想しながら、「群れない、媚びない」生き方を語る。

 エッセイ教室の受講生の中には、本書を読んで、下重さんの連れ合いが可哀想だという感想を漏らした女性もいた。下重さんの語ることはエッセイ教室20年の付き合いの中で、よく聞いてきたことで、若いころの大恋愛も、料理は連れ合いのやることで自分は手を出さないといった夫婦間のことが本書で語られていても、特にそれが連れ合いを傷つけることではないと思って読み進めていった。最後の方になって、セックスの初体験のことを語るところがあった。たとえ相手が結婚相手であろうとも、婚前の性交渉はいけないとされていた時代に、行きずりのような相手と初体験をすませたという。ずいぶん進んだ考えと行動だ。この話は黒田さんに誘われて出てきたのではなく、下重さんから進んで話を切り出している。下重さんもこんなことは今までどこにも書かなかった、話さなかったという。私も驚いたが、下重さんが今まで以上に本音を語ったと言ったのは、このことが念頭にあったのかも知れない。喜寿にもなると、開き直って何でも語っておこうという気持ちになるのだろう。その気持ちは私もわかる。ただ、夫として妻が自分以外の男との性体験を語るのは、いい気持ちはしないだろう。連れ合い以外との性交渉を明らかにした下重さんへの反感が「連れ合いが可哀想だ」という感想になったのだろう。なお、下重さんは普段でも「主人」とか「夫」という言葉は使わない。「連れ合い」で通す。本書もそれで通していて、黒田夏子も良い言い方だと賛同している。

 このこと以外は、普段下重さんの口から聞いていること。対談相手の黒田夏子のことはほとんどが初めて聞くこと。幼い頃に母親を亡くし父親一人に育てられ、大学時代は同人誌を出し、卒業以後もずっと書くことを続けてきた。生活を維持するために、学校の先生、浅草のタオル問屋、赤坂の料亭の帳場の仕事、音楽事務所の事務員、校正の仕事。生活のために色々のことをやったが、書くという目的はぶれなかったという。これはすごいことだ。対談の中で、書くための時間をいかに作りだすかと言うことが、何回も触れられる。

 発言内容も、下重さんのは常識的な発言が多いが、黒田さんの発言にはユニークなものがある。以下はその中の二つ:
 
人間という次元にいつもお行儀よくとどまっていて、もう一つ下にある一個のいきものというレベルに下りていかない人が多いようだけれど、私にはひとめくりしたところにある、生きものの「一個体」という感覚が否定しようもなくある。

 自分が作りたい作品というのは、いままで誰も言葉で生け捕らなかったものを言葉で生け捕ったもの。そのためには、いままで使われてきた方法では間に合わないから、自分であらたなやりかたを見つけなくてはならない。
 

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書名 Haiku 2 著者 Herman Van Rompuy, ヘルマン・ファン・ロンパウ No
2014-36
発行所 発行年 2013年 読了年月日 2014-08-31 記入年月日 2014-09-02

 私の属する地元のオリーブ句会の合同句集『オリーブ』が春に出来た。何人かの知人に送ったが、その一人三上さんから、俳句は季語にとらわれなくてもいいのではないか、要はそのフレーズに共感が得られるかどうかだ、最近では英語の俳句も盛んになっている、とのコメントが返ってきた。自身短歌をやっていて、俳句にも造詣が深い三上さんは、英語の俳句も読んでいるようだった。私は英語俳句を読んだことがなかったが、たまたま、オリーブ句会の宮川ルツ子主宰と宮川陽子さんが、今年の冬、天為の有馬朗人主宰一行のヨーロッパ旅行に参加し、その際、本書を手に入れて来たことを思いだし、宮川陽子さんから借りた。

 著者はEU大統領(正式には欧州連合理事会常任議長、日本語表記ではファン・ロンパイと表記されることが多いが、本書ではファン・ロンパウとなっている)で、フラマン系のベルギー人。俳句作者としてもよく知られているとのこと。本書は2冊目の句集だ。天為の有馬朗人主宰は世界俳句協会の会長を務め、俳句の国際化に力を入れている。そんな関係で、ブリュッセルを訪問した際、一行はファン・ロンパウ大統領と面会している。本書には大統領の署名も入っている、貴重な本だ。

 本書の構成は、見開きの右側ページにオランダ語の原句、左側にフランス、英語、ドイツ語、日本語の訳が付く。いずれも3行に分かち書きされている。全部で32句、春夏秋冬の四季、社会、団居(Togetherness)とそれぞれ詠んだ対象で区分けされている。

 著者の公式ホームページにはHaiku の欄もあり、作品が掲載されているが、本書中の下記の句はこのHPでも見ることが出来る。しかも、この句はHPではオランダ語、フランス語、英語の3カ国語で掲載されており、作者自身が3カ国語で作ったものであることを示す

An old dog faithfully
plodding at his master's side.
Growing old together.

飼い主と相老いの犬相連れて

 日本語の翻訳がなくても意味はわかる素直な句。老いることへの哀感と愛犬への情愛が感じられる。ただ、これを欧米人は詩ととるかどうかは私にはわからない。日本語訳ではきちんと定型になっている。しかし原句(英訳)から感じられたものが希薄になっている。それに、季語がないのも俳句としてはどうか。英語を見て気になるのは、カンマとピリオドが入っていること。それと、動詞の進行形が多いこと。この二つは他の句にも共通する。特に動詞の進行形は、分詞構文として使われることが多い。

 もう一句本書から引用:

Yellow daffodils
colour the barren landscape,
bending to pray.

 黄水仙枯野に点る傾ぎつつ

 こちらの方が原句、日本語訳とも俳句らしい。やはり季語はあった方がいい。


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書名 俳諧志(下) 著者 加藤郁乎 No
2014-37
発行所 岩波現代文庫 発行年 2014年6月 読了年月日 2014-09-05 記入年月日 2014--09-08

 本編では蕪村以後幕末にいたるまでの江戸の俳諧師の評伝。取り上げあげられた三浦樗良から井上井月まで34名の俳諧師の中で、名前を知っている、あるいは見たことがあるのは一茶の他白雄、蓼太、大江丸だけ。特に幕末にかけての俳諧師は知らない。

 相変わらず、当時発刊された俳論、句集、手紙など豊富な引用が無造作に投げ出されて、読みやすい本ではない。それでも読んでいくうちに、言ってみればどうでも良いようなこんな文芸に、これほどの人々が熱中し、互いに競い合ったことに驚く。単に江戸や京・大坂といった大都会だけではなく、信州や東北の田舎まで人々は連句を、発句を詠んでいた。かつて、中山道碓氷峠の下にある坂本の宿を歩いたとき、江戸後期に坂本宿では盛んに句会が催されたと説明坂にあった。

 下重暁子さんは6月にパリで自身のコレクションである筒書き藍染め展を開き、その際江戸文化についての講演をした。その余韻を引きずっていて、下重さんは、ここ数ヶ月、エッセイ教室で、ことある毎に江戸文化のすばらしさ、江戸時代のすばらしさを口にする。本書を読んでいて一番感じたのは、江戸時代の泰平のもたらした豊かさである。その思いはさらに進んで、今でも決して好きではない家康への評価へとつながる。こうかつな手段で豊臣を滅ぼし、秀頼の幼い遺児まで殺したのも、泰平の世のためにはやむを得なかったのかも知れない。

 本書で最も紙数をさいているのは小林一茶で、他の人の10倍、67ページにおよぶ。一茶の生涯句数は2万句を越えるだろうという。芭蕉の20倍だ。その半分は滑稽句として親しまれたものだが、一茶は決してそれに終わる俳人ではないという。なかなかの読書家で、教養も深い。

喜怒哀楽の感情豊に、それまでのいかなる俳人よりも人間臭い俳諧化を為し遂げた。人情世態に通じていたことでは祖翁芭蕉の比ではなく、その俗談平語を駆使した自在の句風俳文は当時並ぶ者がない。芭蕉はようやく後世に俳諧児一茶を得たことで「俗にして俗にあらず、平話にして平話にあらず、そのさかひをしるしべし」(北枝『山中問答』)と説いた教えの実現、大きな結果を見たと申してよろしかろう。(p128)

 個人として取り上げられた俳人の最後は井上井月。文政5年生まれ、明治20年没。乞食井月といわれ、生涯を漂泊の境遇においたという。

 妻によし妾にもよし紅葉狩
 長き夜を短き酒の座敷かな
 何処やらに鶴の声聞く霞かな
最後の句は本書の帯に載っている。井月辞世の句とされるが、実際には以前に吟じられた句だという。

 ローマ字で書かれた俳句も紹介されている。八朶園寥松(はちだえんりょうしょう)という天保3年(1832年)没の俳人。
IAZAKULINIMIUMATUNOAKI TAKENOFARUFATIDAEN
 家造りに見ゆ松の秋竹の春  八朶園
と読み解くとのこと。鎖国下とはいえ、日本人の知的好奇心はたいしたものだ。

 本書の後半は、個人の俳人にそったものではない俳諧志。中の一編に外来語を取り入れた俳句も紹介されている。

 雪の日や羅紗の羽織に叩き鞘           芭蕉
 硝子(びいどろ)の魚おどろきぬ今朝の秋     蕪村
新しいものを詠み込みたいというのは俳人に共通する心か。

「遊女俳人奥州」という一編もあり、いくつかの句が拾ってある。
 恋ひ死なば我が塚で鳴けほととぎす

「門外俳句」という編には古今の有名人の句が拾われる。
 散る花を追掛て行く嵐かな          権中納言定家
 小田原は思ひの儘に苅(かり)おふせ     太閤秀吉
 時は今天が下知るさつき哉          明智光秀
 矢を負し鶴の上毛やみの々雪         武田信玄
 祇園会や詮議まちまち引の山         そろり新左衛門
 鶯も笠着ていでよはなの雨          千利休
 あるときは人の驚く案山子かな        尾形光琳

これはほんの一部だが、俳諧に関する万巻の書に当たって調べている。最後の光琳の句は、私も実感することがある。


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書名 天狗 著者 太宰治 No
2014-38
発行所 青空文庫 発行年 読了年月日 2014-09-06 記入年月日 2014-09-07

 ネットのgaccoというサイトを聴講しているが、先月の末から、「俳句ー十七字の世界」という講座が始まった。講師は大手前大学の川本皓嗣氏。第1回目の講義は、日本の詩歌の流れの中で、俳句が生まれた歴史、俳句の特徴が講義され、引き込まれるようにパソコンに見入ってしまった。特に感心したのは『猿蓑』の「夏の月」の発句以下の3句の解説であった。

 市中は物の匂ひや夏の月     凡兆
 あつしあつしと門々の声     芭蕉
 二番草取りも果さず穂に出て    去来

 発句、町中の喧噪に夏の月の涼しげな月を配している。発句でありこの一句で独立完成している。脇、芭蕉は人々が門口にでて、暑い暑いと言っていると付けた。第三、去来は「暑い暑い」というのを、一転して田舎の人々の声と解し、夏の暑さに恵まれて、2回目の草取りもしないうちにもう稲穂が出てきた喜びを詠んだ。こんな解釈だ。連句の本質、その面白さを端的に語って、講義の中では一番感銘の深いところであった。

 ところが、この講座には受講生が自由に投稿し、ディスカッションする場がある。それを見ていたら、太宰が『猿蓑』の同じところをくそみそにやっつけている文があると投稿されていた。青空文庫だったのですぐ見た。

 太宰は凡兆の発句は佳句だとほめる。これくらいの佳句を一生に3句も作ったらその人は俳諧の名人として歴史に残るかも知れないという。それに比べて、芭蕉の脇句はつき過ぎ、くどく前句の説明でしかないとこき下ろす。日頃つき過ぎてはだめだ、ただ面影にしてつけよと弟子に説いている師匠の大失敗だという。凡兆の名句に師匠の芭蕉が歴然と敗北している。それに続く去来の句は、器用ぶって、奇智を狙って苦笑を禁じ得ないという。もともと真面目な人で、野暮な人だから、野暮のままの句をつくればよいという。太宰はさらに続く連句も俎上にあげ、こき下ろしている。特に芭蕉と去来に厳しい。

 太宰も俳句の名人として歴史に残る3人をこき下ろしたことに、さすがに気が引けたらしく、「
夏の暑さに気がふれて、筆者は天狗になっているのだ。ゆるし給え。」で終わっている。『天狗』とはそのこと。

 ネット講座で川本講師は、俳句の解釈は読者に開かれているという。太宰の文を見るとその通りだ。

 ついでに幸田露伴の評釈『猿蓑』の同じところを見たら、講座とまったく同じ解釈で、さらっと流していた。芭蕉の句については「打添の脇句なり」としている。

底本 太宰治全集10. ちくま文庫、1989年刊
初出 昭和17年
読んでいて、


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書名 しょっぺえなし 著者 須田シマ・須田政 No
2014-39
発行所 発行年 平成2年 読了年月日 2014-09-11 記入年月日 2014-09-28

 アフィニス句会の須田政さんから送られてきた本。須田さんの母親の一生を綴ったもの。「銘仙と屑糸」「北満の果てに」「空き缶の音」の3章よりなる。前2章は須田シマさんの手になり、最後の1章は病に倒れたシマさんの代わりに政さんが執筆。ハードカバーにケース入りという立派な本である。「しょっぺえなし」というのは、「仕様のない」という意味の上州弁。

 シマさんの波乱に富んだ人生と、逞しい生活力にひたすら驚く。私の生涯では出会ったことのないような人生だ。シマさんは上州伊勢崎の生まれ。「上州名物かかあ天下に空っ風」という言葉は、決して誇張ではない。失敗にもめげず次々に新しい事業に挑戦して行く夫、柳作さんの生活力もまたすごい。今で言えばベンチャー精神にあふれる起業家と言ったところ。柳作さんは埼玉県深谷の生まれだが、小さいときに伊勢崎の親戚に引き取られそこで育つ。群馬県は女だけでなく男も逞しいというのが、第一の読後感。

 結婚後独立した夫妻は、絣縛りの仕事を始める。順調にいったが、ギャンブル好き、遊び人であった柳作のために、大金の借金を抱えて破綻。その後は、饅頭屋、マージャン屋、屑糸の扱いと次々と商売を替え、最後は呉服問屋を始める。関西方面にも得意先をもつ。先頃富岡の製糸工場が世界遺産に選ばれたが、上州は絹の一大産地であったことは本書にもよく出ている。シマさんの実家も農家で、蚕を飼っていた。

 やがて、戦争。物資の流通が統制下に置かれ、夫妻の商売も息苦しくなると、柳作は満州に渡ることを思いつき、郷里の人々を募って、北満へ行く。昭和18年8月のこと。厳寒の地で一行は開拓に励む。そして2年後には終戦そして引きあげ。

 引きあげの悲惨さをこのように書いたものを読むのは初めてのこと。奉天(現瀋陽)までたどり着いた一家は、そこで病気になる。シマさんは病気で、昏睡している間に柳作はなくなってしまう。シマさんは二男、三男、次女を連れて舞鶴に上陸。しかし、伊勢崎の家は焼失していた。満州に残った長男は後に帰国するが、満州で結婚した長女は中国内戦の戦渦に巻き込まれ帰国することなく死亡した。

 やがてシマさんは伊勢崎の映画館の前で自転車一時預かり所を始める。子供たちもそれぞれに家計を支えるために働く。朝鮮戦争をきっかけに、日本経済も立ち直って行く。シマさんはやはり反物の仕事がやりたくて、呉服類を扱う商売を始める。

 第3章は政さんが一人称で、シマさんの文体を真似て書いている。シマさんがなくなったのは昭和60年と思われ、年齢は84歳。政さんは私より9歳年上。句会では叙景句は余り出さない。人生の一面を鋭く切り取った佳句で、しばしば句会の最高点を取る。新人の私に何かと目をかけてくれる。


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書名 不幸なる芸術・笑の本願 著者 柳田国男 No
2014-40
発行所 岩波文庫 発行年 1979年年 読了年月日 2014-09-11 記入年月日 2014-09-28

 巻末の解説で井上ひさしは柳田の遺産を受け継ぐ方法はだだ一つ、彼の文章を読むことであるとした上で「
ところがその文章はやたらに息が長く、満々と水をたたえて悠然と知識や論理を運び、結局、彼がなにをいいたいのかわからなくなってしまうことがしばしばある。」と続ける。本書は特にその感が深い。

 井上はさらに「
柳田国男が拾おうとしなかったのは、百姓一揆と庶民仏教ぐらいであるが」とも述べている。本書は日本人の笑いの歴史、変遷を主としてとらえる。柳田によれば最近の日本人は笑うことがずっと少なくなっている、それは嘆かわしいことだというのが私理解した本書の趣旨である。「笑の本願」「不幸なる芸術」二編とも7つの小文から構成されている。戦後に発表された二つをのぞいていずれも戦前に雑誌などに発表したもの。

 全体の趣旨はなかなかつかめないので、部分的に目のいったところを前後の脈略を省きランダムに挙げる。

「笑の本願」という小文は誹諧論にもなっている。

 
是(和歌のこと)に比べると誹諧は破格であり、また尋常に対する反抗でもあった。何か意外な新しいことを言わなければ、その場で忘れられまた残ってもしょうがない。(p39)
 
和歌が古体に復りまた平板に堕する時代は来ようとも、誹諧ばかりは旧臭(ふるくさ)いということ、凡庸だということが即ち滅亡である。(p40)
 
誹諧の真意は突兀(とつこつ)であり、始めから終りまでしゃれ抜いていたのでは、変ったものだけに却って価値は縮退する。それを誤解して二つを完全に引き離さなければならぬと思った人が有るために、あせって無理をしたのが談林派と、それに大いにかぶれた才人其角などであろう。(p49)
 
それに比べて芭蕉翁一門の誹諧は「大体から言って高笑いを微笑に、または圧倒を慰撫に入れかえようとした念慮は窺われ、しかも笑ってこの人生を眺めようとする根源の宿意は踏襲している」と述べる。(p50)
 
人生には笑ってよいことが誠に多い。しかも今人はまさに笑いに餓えている。強い者の自由に笑う世は既に去った。強いて大声に笑おうとすれば人を傷つけ、また甘んじて笑いを献ずる者は、心ひそかに万こくの苦汁をなめなければならぬ。この間において行く路はたった一つ、翁はその尤も安らかなる入口を示したのである。(p53~54)

「ウソと子供」

 ラ
ジオも映画も無い閑散な世の中では、殊に笑って遊びたい要求が強かったのである。人が何人集まっても、誰もウソをつく者が無いという場合は、ちょっと想像してみても、如何に落莫無聊なるものであったかがわかる。その上になおウソは大昔から、人生のために甚だ必要で平素是を練習しておかなければならなかったのである。(p148)
 
ウソは要するに敵を欺く術の実習、相撲で申すならば「申合せ」のごときものであった。(p149)
 
子供がうっかりウソをついた場合、すぐ叱ることは有害である。そうかと言って信じた顔をするのもよくない。また興ざめた心持ちを示すのもどうかと思う。やはり自分の自然の感情のままに、存分に笑うのがよいかと考えられる。そうすると彼らは次第に人を楽しませる愉快を感じて、末々明るい元気のよい、また想像力の豊かな文章家になるかも知れぬからである。(p157)

「ウソと文学との関係」

 
三四百年より以前の日本の歴史記録には、ウソという日本語は捜しても見えない。(p163)
 
ウソのごとき自由なる空想の産物こそ、むしろ何ものよりも先に芸術化すべき素質を持っていた。(p172)
 
今までのようにいわゆる偉人の尻ばかり追っかけている歴史ならばいざ知らず、我々の採集事業がもし弘く凡俗の生活に及んで行くならば、しまいには多くの村の弥次郎のウソ話の中から、一つの方向なり系統なりを見つけて、それが最初のどういう信仰、もしくはどういう社会観に胚胎しているものかを、推し究めて知ることも不可能ではないと思っている。(p176)

「たくらた考」

 
馬鹿・たくらたが人を罵る言葉に、なってしまったのは退化である。彼らは人を笑わせようという大きな職分をもっていた。(p188)。「たくらた」というのは古語辞典によると馬鹿者のこと。

「嗚滸の文学」 「嗚滸(をこ)」とは古語辞典によると愚かなさま

 鎌倉時代の無住法師という人は、梶原一族で、一族が皆殺され、何ひとつこの世の温情を味わったことのないはずなのに、その書いたものは心から読者を楽しませるものだと述べた後で次のように記す:
是に比べると『明月記』の筆者などは、あれだけ世にあがめられた歌人であり、また世の中の変化に対して、随分上手にも身を処したろうと思われるのに、その日記というものは泣きごとをもって満ちている。気質・信仰の差と言おうよりも、是は恐らくは心掛けの問題である。出来ないことかも知れぬが、お互いも努力してみなけれがならない。(p214)

「涕泣史談」

 
表現は必ず言語に依るということ、是は明らかに事実と反している。殊に日本人は眼の色や顔の動きで、かなり微細な心のうちを、表出する能力を具えている。誰しもその事実は十二分に経験しておきながら、しかもなお形式的には、言語を表現の唯一手段であるかのごとく、言いもしまた時々考えようとしている。是は学問の悲しむべき化石状態であって、新たに国の進路を決しなければならぬ当代においては、殊に深く反省して見るべき惰性または因習であるかと、私などは考えている。(p252)
 
書いたものだけに依って世の中を知ろうとすると、結局音声や「しぐさ」のどれくらい重要であったかを、心づく機会などは無いのである。(p253)

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書名 俳句 著者 阿部筲人 No
2014-41
発行所 講談社学芸文庫 発行年 1984年 読了年月日 2014-10-12 記入年月日 2014-10-20

 面白うてやがて恐ろしき本書かな。500ページを超す文庫本だが、2013年37刷というロングセラー。

 句作りを富士山登頂にたとえ、初心者をいきなり4合目まで引き上げるというのが著者が語る本書の目的。15万句を収集してその過誤を洗い出したという。本書はその問題点を項目毎に整理し、その例句をこれでもかこれでもかと挙げる。俳句の本質論、俳句と川柳の違い、用語や表現の誤りなどは大変参考になり、独特の辛辣な語り口を楽しみながら読み進めた。例句も私でもわかる基本的な間違いのあるものばかりだった。ところが、俳句の詠み方、詠むべき対象に話が移っていき、「べからず集」として、次から次へと例句が挙げられるのを読んでいくと、そのほとんどが、私などいくつも作り、またこれからも作りそうな句ばかりだ。本書に忠実の従うと俳句が作れなくなると思った。

 そんな思いから少し解放されたのは2/3ほど読んだとき。芭蕉の名句
閑かさや岩にしみ入る蝉の声
 を、「閑かさや」が感情を露出してしまっている、中七以下でそれがしみじみと感じられるので却って騒々しい叙法になっている、学者がほめるほどにはこの句を高く買わない、と評していたのだ(p337)。感情を露出しないのが俳句的正統手法であると、著者は強調する。著者の手にかかれば芭蕉の句さえこの調子だから、だめ句としてあげられたその他多数の句もあながちだめとは限らないだろう。

 著者が口を酸っぱくして説くのは紋切り型の見方、表現を避けよと言うこと。本書の冒頭、二行目からその例が挙げられる:
星は必ず瞬く、雨はかならずしとどに降り、果物は必ずたわわになり、紅葉や赤いカンナは必ず燃え、空や水や空気は必ず澄む、帰路は必ず急ぐ、自転車は必ずペダル踏むとなる(p29)。著者が挙げる紋切り型の見方、表現を辿っていくと、そこに日本人の伝統的な心情が浮かび上がってくる。これは、巻末の解説で向井敏が書いていたが、向井によると、本書のそうした特質を最初に指摘したのは谷沢永一とのこと。

本書から
 
どんな美人であろうとも、女の姿態を描くことは、俳句ではなく、川柳の立場です。俳句は作者中心の感動をとらえるものです。(p70)
 説明・記述あるいは判断的な文章は根本的に抽象性と普遍性をもつのに反し、:
表現は徹底的に正反対であって、少しでも抽象化・一般化されてはならず、こうして論理化したり、理屈の匂いあってはなりません。作者は抽象の世界に踏み迷うことなく、あくまでも確乎と、この混とんの「現実の中に踏み止まって」、自他人間の「具体的な姿」をとらえねばなりません。(p80)
 
表現は、この普遍的人間性を目標とします。深い人間性をとらえることによって、表現は幅広い普遍性を帯びることになり、洋の東西に共通し、昔を今に生かすことができます。(p82)

【も・に俳句】
 
滝飛沫山蛾も涼しく髭振れり
 
これは「人間も」ということを裏に、露骨にへたに潜入させます。この助詞「も」は初心者が実に不用意に乱用する、たいへんな文字です。中略 子規も「もは厭味なり」と強く断定しています。非常に警戒せねばならぬ語で、ほとんど使用に堪えないと考えて宜しい。(p94)
 これに続いて「に」も警戒すべき言葉だという。

凝縮性
 
散文はもちろんのこと、各種の詩や短い詩、一行詩などでも、その文章は、目が移動するにつれて読み進む形、いわば、時間と共に進行する「進行形式」、時間と共に流れる「流動形式」であります。ところが俳句だけは、全体を一ぺんに読みとってしまう形、時間の進行・流動をぴたりと拒否した形であります。時間を超越することによって、一点に凝集する形をとります。これが私が屡々述べた「どんづまり的な表現」であるゆえんで、これが俳句の「凝縮性」であります。(p118)
 
俳句は、我々が「現在生きている証し」となります。それは「直観的にとらえる」のであります。(p122)
 
大体に「動詞は一個」にしてスッパリ簡潔に言った方が印象が鮮明です。(p138)
 
切れ、切れ字
 
前の文が切れて終わり、次の文が起こるので、その間が断絶になります。そうするとその断絶による空白へ、俳句の強力な凝集力が働き、双方からのエネルギーが集中し、その空間に電流がショートするように花火を発します。(p159)。
切れの重要性は以上のような表現で述べる。一方切れ字については、「けり」は助動詞として立派な意味を持つが、「や」「かな」は意味が乏しく、また調子も強いので、粗忽には用いられないとする。むしろ、体言、あるいは動詞・助動詞の終止形や連用形その他で切るべきだという(p159~161)。や・かな俳句は昔からだめだといわれているとも言う。(p174)

 三段切れはもちろんだめだが、著者は二段切れという新語を用い、二段切れも良くないという。二段切れとは、一方で切れさらにもう一つの方も切れること。(p163~)。両方で切れると、力が分散するという。たくさんの例句の中から一つ
 天高し 風の表裏を鳶流る
 上五で切れ、さらに最後も切れているという。「一方で切れれば、他方は流す」というのが良いという。上の句では「鳶流る」を「鳶流れ」と終止形から連用形にすれば良いという。これなど細かい指摘だが、参考になる。私も終止形にするか連用形にするかはよく悩む。

季語について
 「
季語がなければ俳句ではない」という主張は成り立ちません(p174)と断言する。とはいうものの、初心者は無季語の俳句、季重なりの俳句は作るなと言う。
 
季語の大切であることは「作品の現実感」をしっかりと担うからであります。現実感は、作者が、いつ、どこで、何に対面しているかということが定着し、それが句の中に証明されるからです。「季語は作者のアリバイ」であります。(p175)
 例句の一つとして挙げれば
 ボーナスを笑顔の妻の手に渡す
こうした「必然俳句」は挙げ尽くすことはできませんが、大体に、ある季語、ある事柄に対する一般日本人の考え方が固定して、それが通俗一般性を形成しているからであります。俳人は一刻も早くこの水準を脱出しなければなりません。(p257)

「試す」の意味の「みる」はまったく使い物にになりません。(p268)
 例句:七夕の短冊に手を触れてみる

 感傷俳句も厳しく禁じる。センチ語俳句も弾劾する。それについては私も同感だ。
 
その意味でラジオ・テレビの歌謡曲をよく聴いて、この中に出てくる言葉は一語も用いないで排斥する覚悟が必要でしょう。(p276)
 本書が初めて世に出たのは昭和42年。当時歌謡曲と言えば演歌主体で、手垢のついたべたべたした歌詞が多い。しかし、その後のフォークソングやニューミュージックの歌詞は、詩的にも高い水準だと私は思う。現代の歌謡曲のフレーズを取り込めば俳句の世界は広がると私は考えている。

 感傷語は歳時記から省くべきだとも言う。その例として「春愁」を挙げる。季語は物および事を並べるべきだという。(p387)

感情露出俳句
 
短歌が、歌ったり叫んだり泣いたり笑ったり、また憂いたり怒ったりできるのとは正反対に、俳句はそうしたものを、大人の態度をもってじっと押さえ、腹を据えねばなりません。嬉しい悲しい、ことに淋しい、孤独だ、などと口走るのは、年頃の小娘時代までです。(中略) 不安定な作者の行う「感情露出」はいろいろあるにしても、そのうち特に形容詞・副詞の乱用が非常に多いことになります。(p335)

 著者は具象性ということを俳句、あるいは文学の基本と考え、強調する。
(具象性は)
初心といはず俳句に携わる限り厳格に要求せられ、さらには文学が、科学や哲学とも異なる、その基盤となります。(p345)
 具象性の完全な作品として、著者は蛇笏、水巴、秋桜子、誓子の句を挙げている。(p354~)だめ句ばかりを挙げる本書の中では、この部分は例外だ。どうやら著者は秋桜子に傾倒しているようだ。

 
自分の方、こちら側を言ってはいけません。自分というものの中には、具象性ある言葉は存在しないものですから、必ず観念的な言い方になるのであります。(p428)

 

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書名 浜童子 著者 童子吟社横浜句会 石黒繁夫編 No
2014-42
発行所 発行年 2014年10月 読了年月日 2014-10-26 記入年月日 2014-10-27

 辻桃子が主宰する結社「童子」の横浜句会の句集。
 春に私のぞくするオリーブ句会の合同句集『オリーブ』を石黒さんにも送った。しばらくして、石黒さんから連絡があり、同じような合同句集を作りたいので、色々聞きたいと言ってきた。会って編集の細かいこと、費用のこと、印刷所のことなどを話した。この度完成したのがこの句集。『オリーブ』と同じ印刷所。『浜童子』はソフトカバーで、1ページ4句掲載。表紙には石黒さんのスケッチが印刷されていてしゃれた本になっている。彼は水彩画をものにし、横浜港などたくさんの作品がある。

 句会によって、句の傾向がそれぞれ違っていることがわかる。『浜童子』には『天為』では余り見られない俳諧味がある。あるいは日常卑近な句も多い。主宰の好みが反映されるのだろう。横浜を詠んだ句がかなりあるのもいい。
 本書には1ページ分の各人の短文があって、句会の様子をうかがうことができる。 

 各人20句。石黒さんの句では
  つちふるや猩々手持ちぶさたなる
  褶曲の「へ」の字の崖や花曇
  酒足りて花の下なる浄土かな
  冬の蚊をなんまんだぶつと叩きけり

 などが好みだ。「酒足りて」などという表現は、有馬朗人がまず採らない表現だ。 


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書名 最後はひとり 著者 下重暁子 No
2014-43
発行所 PHP研究所 発行年 2014年9月 読了年月日 2014-10-27 記入年月日 2014-11-04

 帯には「
老いと孤独は書くことで乗り越えられる!」とある。一言でいえばその通りの内容。

 エッセイ教室の時、下重さんはこの教室のことがたくさん出ているから是非読んで欲しいと勧めた。実名は出ていないが、現役やOBの受講生のことにたくさん触れられていて、私には誰だかすぐわかる。内容は、教室でもよく聴いていることで特に新しいことはない。人生の最後まで、書くことによって自己を表現したいという覚悟を述べている。最後の最後に頼ることになる表現手段は俳句だろうと言っているところが、興味を引く。私も同感だ。下重さんは本書の題は気に入らなかったが、編集者に押し切られてしまったと嘆いていた。

「あじさいの花の意味」(p89~)のエピソードが面白い。思いを寄せた年上の男と鎌倉の名月院に行く。そこで、男に置いてけぼりを食わされる。淋しさに胸が張り裂けそうになり男を追った著者がその時感じたのは、あじさいに対する嫉妬ではなかったかという。「
自分の心を掘り下げていってみると、古代遺跡を発掘するのに似て思わぬものにつきあたる。壊れぬように土をはらってみると、そこには見た事もない自分がいる。気付いた事のない感情がある。(中略)あじさいの花言葉は、私にとって「嫉妬」なのだ。嫉妬などあろうはずがないと思っていた。男とあじさいが親密にうなずき合おうとも、私とは関係ないと思っていた。どうやらちがうのだ。嫉妬という、避けて通りがたい嫌な自分を見てしまった。それが真実なのだ。掘り下げているうちに私はそこに到達してしまった。(p92)

 私もエッセイのために、以前の体験を掘り出して、土を払ってみるが、そこに見出すものは、大体において「見たことのある自分」である。掘り下げ方が足りないのか、あるいは違う自分を見つけることが恐くて、強引に「見たことのある自分」だとしてしまうのかも知れない。
 136ページには、書き出しの文章として、私のエッセイ「緑と青葉」の冒頭が引用されている。「緑より青葉になりたい」とあるべきところが「緑より青菜になりたい」となっていた。単純な入力ミス、たぶん下重さんの手書き原稿を編集者がワープロに入力するときに「葉」を「菜」と読み違えたのだろう。せっかく、読者を引きつけ読む気にさせる書き出しの一例として引用されたのに残念である。

 下重さんは、JKAの会長を辞めてから、すごいペースで本を出版している。それで、十分に目が行き届かないのかも知れない。本書には他にも明らかなミスがあった。 
 146ページ以下には三島由紀夫の「橋づくし」という作品をそのまま写して、文章の修練にしたことが書いてある。「橋づくし」に出てくる橋を、隅田川の橋としているが、これは誤り。三島作品には川の名前は出てこないが、風景描写や橋の名前から、この川は今は首都高となっている築地辺りを流れる川である。

 もう一つ気になったのは、164ページの「
連句の中の発句だけを集めて編まれたのが発句集『奥の細道』であり『笈の小文』『猿蓑』であった。」という記述。『奥の細道』の句がすべて連句の発句だけでなっているという話は聞いたことがない。『笈の小文』もそのようには見えない。『猿蓑』にいたっては、後半は連句集である。  

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書名 太平記(二) 著者 兵藤裕己校注 No
2014-44
発行所 岩波文庫 発行年 2014年10月 読了年月日 2014-11-06 記入年月日 2014-11-10

 尊氏反旗、義貞挙兵、鎌倉幕府滅亡、建武の中興、尊氏と義貞の対立、尊氏の敗走と九州での勝利までを収める。原本の第9巻から第15巻まで。

 相変わらず取り巻く軍勢が何十万騎といった大げさな表現で、戦闘場面が延々と続く。『太平記』という題は一種のパロディだ。巻末の解説で、パロディとしての性格、特に平家物語のパロディとしての『太平記』の戦闘場面がいくつか取り上げられている。

 足利尊氏・新田義貞側は源氏、北条一門は平氏として本書では扱われ、源平合戦となっている。六波羅探題、北陸の北条一族、そして鎌倉幕府のそれぞれの最後、それに伴う大量の自害、妻子との別れなどの場面が本書の一つの山だが、滅び行く北条氏への同情を感じさせる筆の運びだ。それにしても、すぐ腹をかっ切る。『太平記』には、腹を切った後、首を討ったという記述がほとんどない。当時の自害は江戸時代のような介錯というものがなかったようだ。腹を切ってもすぐに絶命することはできないから、その間の苦痛はたいへんなものだったろうと思う。

 本巻でも、漢籍の引用が至る所にちりばめられる。例えば、第9巻、六波羅探題北条仲時が妻子と別れて落ちのびる場面では、『史記』の楚王項羽と虞美人との別れの場面が述べられ、「
騅逝かず、騅逝かざるは奈何(いかん)とすべき/虞や虞や若(なんじ)を奈何がせん」という有名な漢詩が引用される。(p73~)。落ちのびた仲時一行は近江の番場でならず者を集めた反幕府軍に行く手を阻まれ、全員が自害する。中山道歩きで番場の蓮華寺を訪れたが、そこには自害した一行430余りの五輪塔が今でも残っている。本書にはそのうちの主なものの名前が2ページ半にわたって記されている(p89~)。

 後醍醐帝が復位すると、大規模な御所の造営が行われる。御所の建物の詳しい説明がなされるが、その中では『源氏物語』の光源氏と朧月夜との出会いの場として弘徽殿の遣り橋が説明される(p227)。さらに御所の火災の事歴が述べられ、関連して菅原道真のことが、延々19ページに渡って述べられる。この部分を読むと、道真の怒り、怨念の凄さに驚く。学問の神様も、聖人ではなかったようだ。『太平記』は文化百般の教養書であったという前巻の解説はまさにその通り。第15巻では、俵藤太秀郷の百足退治と、竜宮城から持ち帰ったという梵鐘の故事も載る。(p455~)。東海道瀬田の唐橋のたもとには竜宮秀郷神社という小さな社があった。

『太平記』は後醍醐天皇に対しても厳しい見方をする。戦乱が終わった直後に大規模な御所造営を行い、人々への大きな負担をかけたこと、実際の倒幕には何の力も発揮できなかった公家衆に恩賞として幕府の領地を与えたこと、後宮の言いなりになることなど。また、後醍醐側の千種忠顕頭中将や文観に対してもその奢りを厳しく批判する。

 護良親王は尊氏と対立する。原因の一つは、親王の配下が京都で強盗などの狼藉を働いたかどで、多数、尊氏により処刑されたこと。それを恨みに持ち、尊氏懲罰のためにひそかに諸国に兵の動員を呼びかける。これに後醍醐帝は激怒し、護良親王は鎌倉に幽閉される。北条高時の遺子による中先代の乱が起きた際、直義は親王の殺害を部下に命じる。足を払われ倒れた親王に乗りかかり、腰の短刀で首を掻ききろうとしたが、親王はその短刀を口にくわえ、先の1寸ばかりをかみ切って口に含んでしまう。恐れをなした討手は、首を直義のところへもっていかず、薮に捨ててしまう(p324~)。その理由は中国の故事によるものだろうと述べ、以下に中国周の時代の故事が述べられる。それによると討たれて獄門にかけられ、さらに釜で茹でられた首が、最後には口に含んだ短刀を怨敵楚王の顔面に向かって吹き付け、楚王の命を奪ってしまったという。何ともグロテスクな話だ。太平記全般にこのようなグロテスクな話は多い。

 この時代、主家と家臣との関係はゆるい。寝返りは当たり前。尊氏の征伐に向かった義貞は箱根で対戦する。このとき、官軍義貞側から大友、塩治両軍が寝返り、義貞は敗退する。尊氏と義貞の対立は領地を巡る争い。中先代の乱を平定し、鎌倉に入った尊氏は関東の新田の領地を家臣に与える。一方京都にいる義貞は、三河など足利の領地を横領する。また後醍醐帝が、支持を失ったのは恩賞を公家に厚くし、武家の不満を買ったからだ。武士の行動原理を貫くのは、土地に対する執着であって、尊皇といった抽象的な概念ではない。

 義貞を破りいったんは京都に入った尊氏であるが、東北から来た北畠軍を加えた軍や、楠木正成の謀略などにより、敗れて、九州に落ちのびる。九州でも敵対する菊池氏に攻められる。わずか300騎で4,5万騎と見える菊池軍に対したとき、尊氏はまたしても自害を言い出す。それを止めたのは弟の直義。直義は、28騎で項羽の百万の大軍を破った漢の高祖の事例や、石橋山の初戦に敗れわずか7騎になりながら平家を破った頼朝のことを引き合いに出し、戦は必ずしも軍勢の夥多によるものではないと、兄を説く。そして、その小勢をもって菊池軍に挑み勝ってしまう。菊池側では直義の軍勢を大軍と見誤り松浦、神田の軍は一戦も交えず、降参してしまう。菊池に勝利した尊氏は、瞬く間に九州全土を手にする。(p496~)。「
これ全く菊池が不覚にもあらず、また左馬頭(直義のこと)の謀にも依らず。ただ将軍(尊氏のこと)、天下の主となり給ふべき過去の善因もよほして霊神擁護の威を加へしかば、この軍(いくさ)不慮(思いかけず)に勝つ事を得て、九国、中国、悉く一時に随ひ靡きけり」(p503)と、尊氏の持って生まれた運を讃える。

 
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書名 芭蕉のこころをよむ 著者 尾方仂 No
2014-45
発行所 角川ソフィア文庫 発行年 平成26年10月 読了年月日 2014-11-10 記入年月日 2014-11-11

 副題は「おくのほそ道」入門となっている。第1章 「おくのほそ道」を語る、第2章 野坡本「おくのほそ道」を語る、第3章 芭蕉を語る の3章からなる。「語る」とついているのは、本書がテレビ放映されたものをもとに作られたからである。そのため、分かりやすい。

奥の細道』は実際の旅から3年後の元禄5年から元禄7年までかかって完成された。その執筆動機には「
不易流行の理念と軽みへの志向のめばえた旅を振り返り、原点に返ってそれらの意義を確認しよう」という意図があると推測する(p12)。そして「不易流行とは、変化することこそ不変の原理である、流行と不易とは一つのものである、という考えかたで、万物流転、旅人のようにたえず移り動き変化してゆくことこそは、その宇宙を律する恒久不変の原理」と著者は言いきる(p13~14)。「不易流行」について、私は不易と流行が対立するものとして、両方とも尊重すべきだというような取り方をしていた。本書はきっぱりと私の理解を否定している。

 奥の細道の旅は、変わりゆくものと変わらざるものとがどこで結びつくのかを探求する旅であった。旅の毎日は変化の連続であり、風景、気候、人情、風俗、言葉、一つとして同じ繰り返しはない。「
こうして芭蕉は、変化することが、この世の不変の真理なのだ、とうことを確信することになります」と述べる。ついで、「誹諧もそのように、真実を追求することによって、たえず自己脱皮をとげ、変化してゆくところに、永遠不変の本質がある。そして誹諧の詩としての永遠不変の価値は、そのような真実の追求をめざした、たえざる変化・自己脱皮の中から生まれる」(p17)と芭蕉の達した境地を述べる。このあたりが本書の一番の読みどころ。

 芭蕉の奥の細道の旅が、晩年の「軽み」に達するきっかけであったことは山本健吉も同じことを述べている。また、この旅の頂点が平泉であるとすることも両者は一致する。本書には平泉を頂点とし底辺に「行く春」と「行く秋」とを置いた二等辺三角形が何回か示される。そして左右の辺には対応する形で、その訪問地が記される。例えば右辺の頂点下には松島、それと向かい合う左辺には象潟が対応する。いずれも風景がテーマとなったところ。右辺松島の下には那須野の小姫、日光の仏五左衛門、日光・室の八島があり、一方左辺には象潟の下には市振の遊女、福井の等栽、気比明神が並ぶ。右辺と左辺は見事に対になっている。つまり、女人、宿の主、神祇がそれぞれテーマとなっている。底辺の行く春は千住、行く秋は大垣である。このように、奥の細道が綿密に構成されていることを示す。

 野坡本「奥の細道」を扱った第2章では、新しく発見された、芭蕉真筆の奥の細道の草稿の考察である。この野坡本には、芭蕉の手になる校正の後が残る。いかに芭蕉が細かい推敲、校正を行ったかが解説される。

 第3章では、芭蕉が生涯に書いた履歴書に相当するものから、芭蕉像を浮かび上がらせる。芭蕉の死後、遺品として見つかった「閉関の説」という文章は、「
色は君主の悪(にく)むところにして、仏も五戒の初めに置けりといへども、さすがに捨てがたき情けのあやにくに、あはれなるかたも多かるべし。」で始まる、激越で異色な文章。著者は、この文章から、芭蕉晩年の恋を推測する。相手は、芭蕉の甥の桃印の妻、寿貞。桃印は3人の子供を残して若くして亡くなる。芭蕉は桃印を最後まで看病する。残された子供のことも手厚く面倒を見る。そうした中で、寿貞との不倫の恋に落ちたと、著者は推測する。芭蕉最晩年のことだ。著者の推測は当たっているかも知れない。それは芭蕉の人間味を表すもので、かえって芭蕉への親しみを増す。 

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書名 砂の文明 石の文明 泥の文明 著者 松本健一 No
2014-46
発行所 岩波現代文庫 発行年 2012年8月 読了年月日 2014-11-23 記入年月日 2014-11-29

 本屋の店頭で見たタイトルに引かれて手にした。

 著者は世界の文明をタイトルのような三文明に分けて、それぞれの特徴を述べる。

 石の文明は主にヨーロッパに栄えた文明。そこでは土地は基本的に石でできていて、その表面にごく薄い耕土がある。そうしたところでは作物の生育には適せず、牧草による牧畜が生存の糧となる。牛の数が増えれば牧草地の面積を拡げるしか対応できない。ここから石の文明は外に広がる性質を有する。西欧の帝国主義、アメリカのフロンティア精神などはこうした背景をもつ。

 砂の文明はアフリカから中東、中央アジアにかけて広がる。そこでは作物も牧草も育たない。人々は隊商を組んでオアシスからオアシスへ渡り歩く。そこでは国家、国民、国境という概念は希薄で、部族単位で物事が考えられる。砂の文明を支える特徴はネットワークである。

 泥の文明は南アジアから東アジアへかけての文明。そこでは泥の中から生命が次ぐ次と生まれる。豊潤な自然の恵みがある。したがって石の文明のように外に広がらなくても人々は生活できる。外に広がる代わりに、人々の創意工夫は内に向けられ蓄積して行く。

 以上のような文明のタイプからそれぞれの歴史を、そしてその現代的な意義を次々に考察して行く。イラク戦争、近代資本主義の成立、縄文文化、ガンジーの非暴力的抵抗、新幹線の車内通路がなぜ狭いか、といった広範囲な対象が取り上げられる。、したがって論考は深いものではない。論理の飛躍も見られる。

 石の文明、砂の文明については私には実感が乏しい。ヨーロッパを石の文明と呼ぶのはいいとしても、牧畜が生存の糧となったというのには疑問を感じる。日本を含め東南アジアが泥の文明であり、泥が生命の母体であるということは日頃強く感じている。「泥の文明」という見方は今まで誰も言わなかったことではないか。泥は大量の水分を含んだ粘着力のあるもので、それはまさに東アジアの風土を作っている。

 本書から:
 
明治になってからフェノロサが来日し、仏教芸術をふくめ日本の伝統的な美術というものを評価したときには、まさに美の観点から評価した。宗教から離れた美術的な視点というものは、西洋人のフェノロサが日本に持ち込んだものだ。美術・芸術というものが宗教から独立して存在するというものの考え方が、人間中心主義的(ユマニスム=ヒューマニズム)な西洋近代の特徴である。(p36)

 
アジア各国で半導体生産が得意な理由の一つは、水田造りにある。水田は、石が一つでもあれば根が伸びず、収穫高に影響を及ぼす。だから、徹底的に石を取り除く作業が不可欠である。(中略) あるいは、雑草も石と同様、徹底的に取り除く。そして、清らかな水が微妙な速度で流れる高低差を水田ごとに作る。こういった技術は、恐らく日本が世界で一番高度だろう。その延長線上に、ハイテク技術があった。(p143)

 新幹線の通路がなぜ狭いかについては145ページ以下に述べられている。日本では昔から、特に室町時代以降街道が整備され、宿場が設けられた。宿場では食事から寝具まですべて用意されているので、旅人は大きな荷物を持たなくていい。そのために、新幹線の通路は人が二人すれ違うだけの幅でよい。外国のホテルでは日本のようにホテルに何でも揃っているわけではなく、したがって荷物が大きくなり、乗り物の通路もそのために広くなっている。いわれてみれば、芭蕉や弥次喜多の旅姿は振り分け荷物一つだ。

 

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書名 近代の呪い 著者 渡辺京二 No
2014-47
発行所 平凡社新書 発行年 2013年10月 読了年月日 2014-11-24 記入年月日 2014-11-29

 この読書ノートの読者である山田隆一さんが薦めてきた本。熊本大学などでの講演を中心にまとめたものだから読みやすい。

「近代と国民国家」「西洋化としての近代」「フランス革命交」「近代ふたつの呪い」「大佛次郎のふたつの魂」より構成される。

 著者によれば、自立した民衆世界が解体され、国民国家が形成されたのが近代である。(p24)
 近代の成立は実体的には国民国家の創出であり、ヨーロッパにおいてはそれはフランス革命である。フランス革命が創造したのはナショナルガード、つまり国民兵であり、お国のことなど知らないと言っていた民衆が、よろこんで国のために死ぬことになったのが近代であると、著者は言う(p24)。
 
国民国家は世界経済の中で利己的なプレイヤーにならざるを得ず、民衆を教育して天下国家に目覚めさせたことが、民族浄化だとかショーヴィニズムにつながっている。(p29)

 
近代社会における知識人とは、国民国家の創生を任務とするものであって、民衆世界に手を突っ込んで、思う形にこね上げようとする。それゆえ、民衆世界の自立性の破壊と近代知識人の成立とは表裏一体をなす(p38)。
 「
自立した民衆世界とは、自分が何を欲し、何を愛し、何を悲しむのか、よく知っていて、そのことの上に成り立っている世界」であるという(p31)。

 俳句・句会という座の文芸に大きな楽しみを見出している今の私の心に最も近い文章は以下のもの:
私たちの一生のうちに遭遇する大事な問題は、何も国家とか国政に関わる性質のものではありません。そんなものと関係がないのが人間の幸福あるいは不幸の実質です。また私たちはまったく個人として生きるのではなく、他者たちとの生活上の関係こそ、人生で最も重要なことがらです。そういう関係は本来、自分が仲間たちとともに作り出してゆくはずのものです。近代というのはそういう人間の能力を徐々に喪わせてゆく時代だったのではないでしょうか。すべての生活局面が国家の管理とケアのもとに置かれ、国家に対して部分利益を主張するプレッシャー・グループとして行動するか、正義やヒューマニズムの名のもとに異議申し立てをするかの違いはあっても、いずれも国家に要求するという行動様式に型をはめられてしまう。要求すればするほど国家にからめとられてゆく。そして、実質的な人生のよろこびから遠去かってゆく(p51~52)。
 とはいえ、他者たちとの生活上の関係をどのように作りだして行くかの具体的なことには何も触れられていない。

 もちろん、西洋の近代社会のもたらした恩恵は高く評価している。一つは人類史上画期的な衣食住の向上であり(p69)、もうひとつは人権という概念(p72)である。

 フランス革命についてはいわゆるレヴィジョニストの立場から書かれている。私が高校で習った史観とは大きく違う。「
フランス革命の遂行者たちは階級的利害など代表してはいないのです。彼らを動かしていたのは歴史上初めて生じた理性による人類改造の理念なのです」(p111)。「過去は迷信と虚偽と悪徳の支配する暗黒であって、革命はその過去を一掃し、理性の光によって人間が光被される新しい社会を創造するのだという信念です。」(p112)

 近代の呪いとしてあげられているのは二つ。
すなわちわれわれは資本主義的な市場経済の進展によって、人類史上初めて衣食住のレベルでの生活の豊かさを獲得したのですが、そのレベルを維持・拡充してゆこうとすれば、インターステートシステムにからめとられて、民族国家の枠組をますます強化してゆくことになります。これが私のいう近代の呪いの第一であります。」(p146)

・・・生活のゆたかさ、快適さ便利さの実現が、コスモスとしての世界、自然という実在との交感を絶ち切ってしまい、その結果、結局は死すべき運命にあるはかない人間存在を、コスモス=自然という実在の中に謙虚に位置づける感覚を失わせてしまうことになったのを近代の呪いのひつとと思わずにはおれないのです。世界の人工化とは世界の無意味化であります」(p157)。

 最初の呪い、市場経済の世界的な規模での進展は、むしろ民族国家の枠組みを弱体化させるのではないかと思う。二つめの呪いについては、論旨が抽象的でよくくみ取れない。本書の帯には「生きづらさの根源を問う」とある。私は国家にからめ取られている感覚はないし、今の時代がそれほど生きづらいとは感じていない。 


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書名 万太郎の一句 著者 小沢實 No
2014-48
発行所 ふらんす堂 発行年 2005年 読了年月日 2014-12-06 記入年月日 2014-12-07

 角川ソフィア文庫の歳時記を眺めていると、久保田万太郎の句が例句としてよく引かれている。佳句が多い。「湯豆腐やいのちのはてのうすあかり」はその代表的なものだ。もっと万太郎の句を読んでみたいと思った。本書は小沢實が1日1句、366句を選んで解説したもの。

 一読、私が属している『天為』とは随分傾向が違う。純粋な写生句、叙景句がほとんどなく、日常の卑近なものを詠んだ句がほとんどで、食物、酒、猫などがよく詠まれていて、分かりやすく、親しみ深い。固有名詞、特に固有人名が大胆に用いられているのも特徴だ。全体として下町人情に満ちているが、人生探求といった趣は少ない。『天為』のどちらかといえ固い句とは対照的だが、味わいは深い。こうした特徴は、選者の小沢實の好みも少しは入っているとしても、万太郎俳句の特徴なのだろう。

 小沢實は今、NHK俳句の選者の一人で、毎回テレビで見ているが、伝統俳句でありながら、思い切った選句もし、解説がわかりやすい。本書の解説も1句につき200字ほど。簡潔で分かりやすい。万太郎の句には前書きが多く書かれており、それを手懸かりとして、当時の万太郎の私生活に触れられているので、万太郎という人物を知る上でも参考になった。それによると、妻に先立たれ、同棲した愛人にも先立たれ、息子にも先立たれたという。家庭的には恵まれなかったようだ。震災、空襲でも焼け出されている。

 万太郎の代表句と誰もが認める「湯豆腐やいのちのはてのうすあかり」は12月28日の句としてあげられている。愛人の死後の絶唱であるという。小沢はいう:
生きてはいるのだが、「いのちのはて」というところに来ていると認識している。そこに「うすあかり」を見出している。なにか死の世界の側から、この世を覗き込んでるかのような気配もある。
 万太郎は昭和38年5月6日に、梅原龍三郎宅にて、誤嚥下気管閉塞という事故で急逝する。その数時間前に安住敦が聞き取った句が、5月6日の句としてあげられている。
小でまりの花に風いで来りけり

 小沢は句の調べというものを重視する。例えば
たけのこ煮、そらまめうでて、さてそこで」6月7日の句。
t音、k音、s音が繰り返されて、音楽になっている。「さてそこで」というようなことばを使って、単なる平俗には終わらせていないのがみごとである。万太郎以外にはできまい。

夏の月いまあがりたるばかりかな」7月14日の句
一句全体にa音が多い。上五、中七、下五と進むに連れて、a音の割合がおおくなっていく。上り行く月の勢いがその音によっても、示されているように感じられるのだ。

 巻末に小沢自身による「余技・無内容・影響」と題する久保田万太郎小論がつけられている。その中で、小沢は「俳句第二芸術論」を取り上げている。俳人が第二芸術論をまともに取り上げたのを初めて見た。第二芸術論は短詩型文学に大きな衝撃を与えた。戦後の短歌・俳句の新たな展開が生み出されたとする。短詩型側から最も重要な回答が折口信夫から与えられた。折口は短歌無内容論を唱えた。何もなくはかなく消えて行くものが短歌である。俳句の方が内容を含んだ詩であると折口は考えていたようだ。しかし、芭蕉の句の良いものは読んでしまえば消えてしまうようなもので、悪い句は、淡雪のようには解消しない、石炭殻のように残る句だ、と折口はいう。小沢は、折口の論により、短詩型に思想、内容を求めた第二芸術論が根本的に勘違いであることが示され、第二芸術論を乗り越えられたとする。

 近代俳句において、読んでしまえば解消してしまう句といえば、まず万太郎の句が思い出されると小沢はいう。例えば
淡雪のつもるつもりや砂の上     3月9日
春水のみちにあふれてゐるところ   3月11日
一めんのきらめく露となりにけり   9月10日
無内容でありながら、エーテルに満ち満ちている。生前の雑誌、句集には発表されなかったが、究極の一句であると評価したい。

これやこの冬三日月の鋭(と)きひかり  11月15日
形が張りつつ無内容の魅力を持った句と言えよう。

「遮莫」と書いて、「さもあらばあれ」と読む。本書には2句載っている。
遮莫焦げすぎし目刺かな     3月26日
最晩年の一句。この句を作ってから、何日を生きたのだろうか。「焦げすぎし目刺」は悽愴たる最後の自画像とも読めるのである。

遮莫餅搗(つ)けて来(きた)りけり   12月31日
終戦の年の大晦日の作である。時計もなく時間もわからないが、頼んでおいた餅は届いた。とまれかくまれ、真白い餅を見ると新年が来るような気がしてきた。「遮莫」の最晩年の句を、三月二十六日にも取り上げている。このことばの力で万太郎は生きぬいてきたのだ。
 本書の最後の句であり、小沢の解説である。

 その他、有馬朗人の『天為』にはなさそうな句のいくつか。
初場所やむかし大砲萬右衛門 大砲(おおづつ)   萬右衛門は明治生まれの初の横綱。
セルむかし勇、白秋、杢太郎      5月23日
叱られて目をつぶる猫春隣       2月2日
秋晴や人がいゝとは馬鹿のこと     10月15日

 読み通して、すごい俳人だと思う。余人には真似できない。私などとても手の届かない俳句だ。
 


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書名 話を聞かない男、地図が読めない女 著者 アラン・ビーバーズ+バーバラ・ビーバーズ 藤井留美 訳 No
2014-49
発行所 主婦の友社 発行年 2004年年 読了年月日 2014-12-07 記入年月日 2014-12-13

 刺激的な題の本で、かなり前にベストセラーになった。金木さんからもらった本の中にあったもの。

 男と女は生まれながらに違っている。その差は男女間の脳の働きに違いによる。男女間の脳差を決めるのは脳が形成される胎児の過程で男性ホルモンにどれだけ曝されるかによって決まる。男性ホルモンに多く曝された男の脳は男性らしくなり、少ない男はホモセクシャルになりやすい。女性の場合も、胎児の際に男性ホルモンに多く曝された脳は男性的になり、レズビアンになりやすい。男の脳は狩猟に向くように進化してきた。女の脳は人間関係を丸く収め家族をまとめ上げるように進化してきた。狩猟にとって空間認識が決定的に重要であるから地図が読めない男は家族を維持できない。女は家族内や仲間との会話を通じて人間関係を円滑にするが、男は狩猟を終えて、洞窟に帰れば後は静かに休んでいたい。だから女の話を聞こうとしない。これがタイトルの意味だ。狩猟と男性ホルモンとが本書のキーワード。男性ホルモンの働きについては、医学的な研究結果の成果を踏まえたものだと本書は言う。男性ホルモンのテストストロンが、脳の形成にどのように影響するのか、分子レベルで解明されているとは思えない。現象を統計的に解析してホルモン量と個々の脳の特性と間に一定の傾向が認められるいうことだろう。男女間の脳差で大きいことの一つは右脳と左脳の連絡回路だという。男は左右の脳がしっかりと分離しているのに、女は分離がゆるく、右脳と左脳が共同で働くことができるという。
 
 例えば以下のような記述がある:
言語専門の中枢を脳に持たない男は、少ない言葉で情報をやりとりしなければならない。そこで男の脳は、左脳の前とうしろのほうに、語彙をつかさどる部分が発達した。女の脳では、語彙の領域が左右両方にあるものの、あまり能力は高くない。そのため言葉の定義や意味に重きを置かず、声の抑揚で意味を伝え、ボディーランゲージに情感を込める。いっぽう男にとっては言葉の意味がとても重要で、定義を振りかざして相手より優位に立とうとする(p100~)。
 実感として納得できる。ただ、男には言語専門の中枢が脳にないというのは本当だろうか。

 男女は違うものだという観点から、著者はいわゆる「政治的な正しさ」という概念を否定する。日本では余り問題にはならないが、アメリカでは「政治的な正しさ(political correctness)」は、男女間の平等、黒人と白人の間の平等という点から、広く推し進められてきた。本書の執筆の目的はこの概念に一撃を与えることであったと思われる。

 
男と女は100万年かけていまの姿に進化してきた。「政治的に正しい」状況に見あった姿に変わるには、あと100万年かかるだろう。いま人類が抱えている最大の問題は、いくら高邁な理想や概念を掲げても、しょせん100万年先の話でしかないということだ(p276)。

 本書は男女間のセックスについてもかなりの紙数をさいている。セックスすることによって分泌される色々なホルモンが、心臓を守り寿命を伸ばしてくれる働きがある。セックスをすればするほど長生きでき、ストレスもなくなるという。(p230)
 
「女は結婚の代償としてセックスし、男はセックスの代償として結婚する」(p250)
 


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書名 歳を歴た鰐の話 著者 レオポール・ショヴォ 山本夏彦訳 No
2014-50
発行所 文藝春秋社 発行年 平成十五年 読了年月日 2014-12-15 記入年月日 2014-12-30

 本棚に眠っていたもの。翻訳をやっていた頃、翻訳の名著として紹介されていたので手にしたのだ。翻訳者の山本夏彦の書いたものは時たま『週刊新潮』のコラムを読んで知っていた。その隠居おやじ的な古くさい主張もさることながら、文章に品がなく、好きではなかった。だからその山本夏彦が翻訳の達人というのに驚き、興味があったからあえて購入したのだ。

 横長のハードカバーという変わった本。もっと変わっているのは見開き右側に文章があって、左側のページはモノクロの挿絵。短いメルヘンといったもの。翻訳はうまいというより訳者が書いたオリジナルかと思うほどのものだ。このメルヘンから寓意は色々くみ取ることが出来るだろう。だが、作者は果たしてそれを望んだかどうか。収められた三編はいずれもナンセンスなブラックユーモアだが、そのまま味わえばいいと山本は言う。

 表題のストーリーは、ピラミッドの建設を知っているという歳を取った鰐が、体が衰え食物に事欠き、自分の孫を食べてしまう。そのことで鰐は追放されナイル川を下って海に出る。そこで鰐は蛸に合いお互いに好きになる。蛸は鰐のために蟹や貝などの食べ物を採って鰐に与える。鰐は蛸が寝ているときに誘惑に負けて、その足を1本食べてしまう。12本の足があるこの蛸は数を数えることが出来ない。だから食べられたことに気がつかない。こうして鰐は毎夜1本づつ蛸の足を食べて行く。彼らはスエズ運河を渡り、紅海に入る。そこで鰐は蛸の足を食べつくし、最後には蛸の体を食べてしまう。一人になった鰐はナイル川を遡り自分の生まれ故郷にもどる。かつて彼を追放した鰐たちは、彼の姿を見ると皆逃げ出す。しかし、あるところで黒人の女の子を食べた彼は、その黒人たちに連れられ、部落に行き、神様として崇められる。毎日小さな女の子がよろこんで彼の餌として供される。彼にはその理由がわからなかった。紅海で過ごしているあいだに彼の体はすっかり赤くなっていたので、仲間の鰐からは恐れられ、黒人たちからは神様と崇められたのだ。

 この他「のこぎり鮫とトンカチざめ」「なめくぢ犬と天文學者」を収める。

 巻末には吉行淳之介、久世光彦、徳岡孝夫の三人が解説を寄せている。
 原作者はフランスの作家で、1870年生まれ、1940年没。本書の初版は昭和16年。

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書名 喪神 著者 五味康祐 No
2014-51
発行所 文藝春秋社 発行年 1982年 読了年月日 2014-12-17 記入年月日 2014-12-30

 五味康祐の芥川賞受賞作品。後の作風から考えて、五味康祐が芥川賞作家とは知らなかった。題材は剣豪もの。

 一種の妖剣を使う幻雲齋は、秀吉の御前試合で稲葉四郎という武士を討ち果たす。その技量に惚れ込んだ関白秀次は彼を召し抱える。秀次の高野山での自刃後、幻雲齋は多武峯山中に隠棲してしまう。数年後、稲葉四郎の一子、哲太郎が親の敵を討つべく、多武峯にやってくる。哲太郎の腕では幻雲齋にかなうはずがなかった。幻雲齋は哲太郎の片耳を切り落とすだけで、命は奪わなかった。哲太郎は幻雲齋のもとに留まり剣の修行をする。8年後哲太郎は山を下りる。杖をついて見送ってきた幻雲齋は、会釈して歩き出した哲太郎の背後へ、仕込み杖の刃を閃かせる。だが・・・・。

 昭和27年下期の受賞作。松本清張の『ある「小倉日記」伝』と共同受賞である。この「芥川賞全集 第五巻」は、五味康祐以下、松本清張、安岡章太郎、吉行淳之介、小島信夫、庄野潤三、遠藤周作、石原慎太郎が収載されている。戦後文学のそうそうたる作家群だ。この全集の面白いのは、選考委員のコメントが載っていること。今回も8人の選考委員の意見はばらばら。受賞作なしだと宇野浩二、瀧井孝作はいう。五味康祐を推したのは佐藤春夫、石川達三、坂口安吾だ。丹羽文雄はまったく問題にしない。『小倉日記伝』は佐藤春夫と川端康成が高く評価した。小説の評価でもこのように人によって違うのだから、十七文字の俳句がの評価がばらつくのは当たり前だ。

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書名 考えるヒント2 著者 小林秀雄 No
2014-52
発行所 文春文庫 発行年 1975年 読了年月日 2014-12-21 記入年月日 2014-12-30

 本棚を整理していたら出てきた。
 13編の評論からなる。そのほとんどが昭和36年から38年にかけて『文藝春秋』に発表されたもの。

 
二度と還らぬ過去の人に出会うには、想像力を凝らして、こちらがわから出向かねばならないのだし、この想像力の基体として、二度と還らぬ自分の現在の生活経験に関する切実な味い以外に、何もありはしないのだ。現代風な歴史理解の形で、歴史の展望を言う時、これには、歴史の方へ、こちらから出向く労は御免だという意味しか、実はない。歴史の意味という呪文を唱えれば、歴史は向こうから、こちらに歩いてくる、と信じているなら、それは科学の仮面を被った、原始的呪術の名残りに過ぎぬと言われても仕方があるまい。(中略)友を得る為には、友を自分の方に引寄せればいい、そんな道が、友を失う道に過ぎないとは、生活経験に基づく知恵には、はっきりした真理である。この種の知恵を現代風の歴史理解の型が忘却しているのを、常識は笑ってもいいのである(p47~)。これは「徂徠」という評論のなかの一文である。本書を貫く小林の基本的立場である。

 伊藤仁齊と荻生徂徠という二人の儒学者への傾倒が本書の読みどころだろう。私は二人の書いたものはもちろん、人物も名前程度にしか知らないので、本書はそういうことかとしか読めなかった。仁齊と徂徠はともに異端とされる儒学者。彼らは孔子の一解釈に過ぎない朱子学のみを信奉する徳川幕府の正統儒学を批判し、孔子本人の心境になって原典と向き合うことを強調したという。こうした仁齊、徂徠の学問的態度は、後の小林の著作『本居宣長』論の中心テーマとなっている。

 
討入事件も亦一種の精神的事件であり、その人々の思想に与えた甚大な影響力は、光琳宗達などの比ではない(p11 「忠臣蔵」)
近松の詠嘆にも、西鶴の観察にも、芭蕉の静観にも、自分の活力の限りを尽して進み、もはやこれまで、といった性質があり、これは、円熟完成というより、徹底性の魅力である。学問の世界で三人と言えば、契沖、仁齊、徂徠だろうが、素人の推測から言えば、やはり儒学も仁齊、徂徠が歩いた先は絶壁なのである。二人とも出来るだけ物事に即し物を考えたが、自力の極まるところ、絶対的な信仰への道を貫いて了った(p27 「忠臣蔵」)。

ユングの死に関して
 
私は、ユングの一愛読者として、深い哀悼の情を覚えた。このような人に死なれては、再びこのような人物が心理学界に現れるという事は容易な事ではあるまい、と痛感した(p66 「弁名」)。

 
過去とは、思い出すという事だし、現在とは行動している事だし、未来とは願望し選択する事だ。私達は、皆そういう風に、歴史を経験しているのだし、そういう風にしか経験できない(p78 「考えるという事」)。

 
成功は、遂行された計画ではない。何かが熟して実を結ぶ事だ。其処には、どうしても円熟という言葉で現さねばならぬものがある。何かが熟して生まれて来なければ、人間は何も生む事は出来ない(p97 「還暦」)。そして「円熟するには、絶対に忍耐が要る」と述べる。
 私達が、抱いて生きて行かねばならぬ一番基本的なものは、時間というものだと言っても差支えないなら、忍耐とは、この時間というものの扱い方だと言っていい。時間に関する慎重な経験の仕方であろう。忍耐とは、省みて時の絶対的な歩みに敬意を持つ事だ(p98 「還暦」)。この頃小林は還暦を迎えた。

 本書の最後は「常識について」で、本書のなかでは最も長い。デカルトを論じている。
 デカルトの思想には、ひとかけらの不安も遅疑も見られない。本質的に明るく、建設的な、彼の描いた「一幅の画」に、私は強く惹かれるだけなのです。これほどよく自分を信じて、よくもこれほど自己満足からも、自己欺瞞からも遠ざかる事が出来たものだと感服するのです(p188)。

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書名 自死の日本史 著者 モーリス・パンゲ 竹内信夫 訳 No
2014-53
発行所 講談社学芸文庫 発行年 2011年 読了年月日 2014-12-29 記入年月日 2014-12-30

 大学のクラスメートの吉田さんの薦めによる。文庫本で600ページを超す大著。自死を通してみた日本通史。ギリシャローマから現代にいたる西欧と日本の対比が随所に述べられ、哲学的な省察がなされる。人物中心の歴史だが、日本史と日本社会によく通じていて外国の知識人の見た日本あるいは日本論として斬新な見方に教えられるところが多い。乃木大将の最後、三島由紀夫の最後などその詳細は本書によって初めて知った。その他よくこれだけのことを調べたと感心する。著者のモーリス・パンゲはフランス人で、東大でフランス語、フランス文化を教えていた。本書の原著は1984年に出版された。

第1章 カトーの《ハラキリ》
 シーザーに敗れて自死を選んだカトーの例を引いて西欧における自死の見方を述べる。プラトン的形而上学は自死を認めない、さらにその後のキリスト教も自死を神に対する冒涜であり罪であるとした。人間を超越した存在である神をもたない日本社会には自死に対するこうした否定はない。

第2章 自殺の統計学
 自殺には波があることを示す。自殺が社会状況と結びついていることを示す。

第3章 自殺社会学の歩み
 自殺に対する社会の受け取り方の変遷を述べる。19世紀以降自殺を何らかの病理的兆候と見る見方が定着してきた。本書はそうした見方に反対する。日本の過去の例を見れば、自殺は宗教的罪悪でも病理的兆候でもなく、ある精神的原理とか道徳的価値に基づく倫理的行為であると著者はいう(p82)。本書を貫く一貫した姿勢であり、著者は日本における自殺に肯定的であるか少なくとも好意的である。

第4章 兆候としての自殺
 自殺と社会の関係が述べられる。
 
一言で言えば、日本人の超自我は人間関係の自覚的意識であり、西欧のそれは法の意識なのである。われわれの罪は法に対する侵犯であるが、日本人にとっては罪とは集団からの離脱なのだ(p123)。こうした西欧社会と違った歩みをしたきた日本に、自殺を病理現象だとする解釈は適用されないと著者は言う。
第5章 歴史の曙
 神代から古代の自死の例が解説される。最初の自死として、東京湾を渡ろうして荒波に遭遇した日本武尊を救うために、海に身を投げて荒波を鎮めたオトタチバナ姫を取り上げる。

第6章 暴力の失効
 意志的な死が衰退する平安時代が述べられる。ここでは菅原道真による死後の復讐、源氏物語などが論じられる。
 
あの長大な『源氏物語』の全編を通じて、浮舟の場合を唯一の例外として、自殺をしたという話は一つもないし、自殺をしたいということが言及されることさえない。だからと言って、一神教的な文化においてそうであるように、自殺が瀆神の行為とみなされていたわけではない(186)。この時代を著者は「パクス・ニッポニカ」と呼んでいる。
この時代、仏教が自殺に代わる方法として出家という方策を提供したと言う(p187)

第7章 武芸そして死の作法
 平家物語から太平記へかけての時代。自死の例には事欠かない。源頼政、平惟盛、今井四郎兼平、二位の尼と安徳帝、源義経、鎌倉幕府の北条一族、楠木正成・・・・。
 この時代から切腹という日本独特の自死作法が始まる。腹にはその人の心が宿るとされた。

 
人間本来の生命への愛着の声が聞かれなくなったときにも、自殺から人を守る一本の防御線が残されている。それは道徳的義務の観念であり、多くそれは形而上学とか宗教によって補強されている。私が私を殺すことができるのは、ただ私が私のものである場合に限られる。だが汝は汝の国家のものだ、とアリストテレスは言う。神のものだ、とプラトンが、次いでアウグスティヌスが言う。お前は帝のものだ、と今は亡き正成の妻は言う(p234)。これれは足利尊氏から夫の首を送られてきた正成の妻が、後を追って自殺しようとする息子の正行を思い止まらせた太平記の一節について書かれたものだ。天皇に対するこの絶対的忠誠は以後500年封建組織の下に眠っていたが、明治維新とともに復活し、日本全土を覆うことになると著者は言う。
 
切腹という堅固で、残酷で、誇張的な形を身に纏ったことで、自殺という行為は、他のどのような文明にも認めたことのない高い精神的価値を、この中世の日本において獲得することができた(p235)。

第8章 捨身
 仏教と自死の関係が考察される。仏教の中でも南無阿弥陀仏と唱えれば極楽浄土に迎え入れられるという阿弥陀仏信仰は、自死を受け入れやすくしたと述べる(p268)。

第9章 残酷の劇
 戦国時代を経て幕末、明治維新まで。武士道徳の典型として忠臣蔵が詳しく考察される。
 
日本はこの時代(戦国時代のこと)、武力的残酷の劇場となった。人間がおのが姿を自分自身に演じてみせるこの残酷の劇場は人を絶望させるものではなかっただろうか。しかしながこの坩堝のなかで、日本の社会を以後数世紀にわたって支配することになる、そして時を隔てて見るわれわれを今なおその徳に包まれた姿で支配している武士=サムライの理念が鍛えあげられるのである。それはかつてわが地球上に生まれた最も高い人間典型のひとつであった(p291~)。
 
磔刑と銃――これが、梅毒を別とすれば、西欧との接触の最初の成果だったわけだ(p313)。十字架とはりつけはキリスト教徒ともに伝来したものだという。

 忠臣蔵事件は国家の平和と臣下としての忠誠という道徳的要請が和解したもので、それを可能にしたのは切腹の制度化であるという。

 〈意志的な死〉は、ツメバラ(詰め腹)という形において、贖罪と至上の名誉という二重の意味を獲得する
(p335~)
 
サムライ階級はフランスの貴族のように、敵対する階級の刃に倒れるのではない。それはそれ自身の廃絶の唯一の実行者であった。サムライは最初はそれと知らないでおのれの廃絶のために努力する。そして結局はそれを受け入れるのだ。それは〈意志的な死〉でもあり、運命への服従であった。徳川に勝ったというよりも、自分自身に勝利した戦いの結果、武士道に忠実であった者たちは、武士の自己意識を養っていたあらゆる表徴が数年のあいだに消えて行くのを見る(p394)。著者はこのように明治維新を武士階級による武士階級の自死ととらえる。

第10章 愛と死
 近松門左衛門、井原西鶴の作品と、その背景となった心中事件を中心に述べられる。武士の切腹だけでなく、男女の心中劇にも著者は深い共感を示す。
 
愛はこの世に住まうべき場所があるだろうか。残念ながらそんなものはない、と近松は答える。この悲愴なるペシミズムは、遠く遥かに、トリスタンとイゾルデの伝説にこだましているように思われる。愛を生きること、それは身のほどを知らぬ要求かもしれない。だが、愛なしで生きるならば、生きることを諦めた方がよい。感じやすい心はすべるように素早くこの結論に至る。それを咎めることは、よほど厳しい人でなければできまい。人はただ沈黙し、その心を悲しむだけだ。儒教の対極に立つ阿弥陀の教えは、来世への希望を強調し、憐れみと恕しの徳目を説き、不幸な者たちにその慈悲の倉を開いていた。命を絶つ前に近松の恋人たちは、西方にあるという極楽浄土の方に顔を向ける。彼らの最後はこの救済の慰めによって和らげられる。希望を失った者たちにこのような慰めを与えることを、キリスト教はその栄光の時代に、義務として拒否したのであった――あたかも懲罰の威嚇が絶望をひるませることができるとでも言うように(p361~)。
 
キリスト教は自殺というものを、人間の意思を神の意志に結びつけている関係の発作的破綻であると解釈した。自殺は悪魔という形而上学的存在の反逆行為と見なされていた。(中略)それに対して日本では、自殺は人倫の世界から引き離されたことでは決してなかったし、〈意志的な死〉としての、精神的な行為として価値を失ったことは決してなかった(p399~)。これは著者の基本的な主張だ。

 
西鶴の愛欲の物語の最後の頁に色濃くにじんでいる晴れやかな諦念は、現代の私たちの感受性にごく近いものではないだろうか。(中略)近松は、ヴァグナーと同じように、人を叙情的な陶酔のなかに眠りこませるが、しかしその眠りはいずれ覚めるであろう。しかし西鶴の描く愛を愛する者たち、かくも晴朗、かくも純真、かくも真率な彼らならば、友として持ちたいとわれわれも思うだろう(p427)。私は西鶴では『好色五人女』、近松では『曽根崎心中』しか読んでいないが、特に西鶴に関する著者の見方にはまったく同感だ。

第11章 自己犠牲の伝統
 明治維新後の日本を考察。西郷隆盛と乃木希典の自死が特に考察される。二人とも好意的にその最後が詳しく述べられる。
 
すべてが変わった明治の大変革のなかで、ひとつのことだけは確固として不動であった――自己犠牲の伝統だけは存続させられたのである(p433)。
 
西郷の〈意志的な死〉とともに、彼の贖罪は始まっていた。そしてすでに彼の敵が彼に敬礼しているのだ。敵?いやそうではない。むしろ競争相手という言うべきだろう。なぜなら今終わったこの死闘は憎しみもなく、軽蔑もなく戦われたのだから。どちらの側にも、同じ民族的信条、同じ価値観、同じ伝統があった。戦死者は、政府軍・反乱軍の別なく、みな同じ目的のために死んだのであり、その同じ目的に結ばれた同志としてともに眠ることができる。日本文化の高貴さは敗北者を地獄に落とし、忘却の淵に沈めることを許さない(p458)。

 
・・・生まれたばかりの日本帝国は、古代ローマの英雄にも恥じない勇士、戦闘の勝ち負けの偶然には無関係な、むしろ精神内面の純白の輝かしい反映であるような栄光を身に纏った兵士を、持ち得ていたのである。たとえばなかんずく、大将乃木希典。(中略)乃木は偉大な兵士ではあったが、指揮官としては凡庸であった。旅順の勝利を勝ち取ったのは彼ではなく、児玉源太郎であった。にもかかわらず彼が得た名声のことを思えば、われわれは武士道精神の後継者たちの軍人としての生き方が、戦争の技術とはまったく別物の、伝統的倫理を具現するものあったことを思わずにはいられない。彼は天才的人間をきわだたせるどのような才能も持ってはいなかった。(中略)乃木希典の偉大さは、ほかならぬこの意志的な自己の抹殺、彼をしてもっとも純粋で、もっとも意志的、もっとも首尾一貫した死に至らしめる自己抹消の徳性にこそ、由来するのである(p466~)。

第12章 奈落の底まで
 日露戦争以降、太平洋戦争終結までに至る自死の歴史。二二六事件などテロリズム実行者の自死は最後は日本を奈落の底に突き落とす結果となったとして、著者はこれまでの章とは違った見方を展開する。しかし、いわゆる特攻隊については戦争を長引かせた狂信、狂乱だという非難があると述べた後で以下のように記す:
 
だが人の心を打つのは、むしろ彼らの英知、彼らの冷静、彼らの明晰なのだ。震えるばかりに繊細な心を持ち、時代の不幸を敏感に感じとるあまり、おのれの命さえ捨ててかえりみないこの青年たちのことを、頭のおかしい人間と言うのでなければ、せいぜいよくて人の言いなりになるロボットだと、われわれは考えてきた。彼らにとっては単純明快で自発的な行為であったものが、われわれには不可解な行為に見えたのだ。強制、誘導、報酬、妄想、麻薬、洗脳、というような理由づけをわれわれは行った。しかし実際には、無と同じほどに透明であるゆえに人の眼には見えない、水晶のごとき自己放棄の精神をそこに見るべきであったのだ(p524)。彼らの自己放棄が水晶のごとく透明であればあるほど、私にはその死はなおさら痛ましく思われる。
 特攻隊の発案者である大西中将は戦後自らの命を絶っている。

第13章 ニヒリズムの群像
 有島武生、芥川龍之介などの自死が取り上げられる。

第14章 三島的行為
 太宰治と三島由紀夫が論じられる。三島の最後の日の行動が詳しく述べられる。
 
三島は死を欲した。いやそれだけではない。彼は〈意志的な死〉を欲したのだ。彼の自己意識はそのことにおいて、何世紀にもわたる日本人の意識の反映であろうとする。一個の独自存在たる彼は、今をもって存在することをやめるという意思の純粋決定に同化することによって、より広い時間のなかに融けて行こうとする。一個の命がそこで終わる。それはひとつの歴史が生み出した命であった。だからその命の終焉はその歴史の終焉でもあった。三島というこの沈みゆく太陽の鮮血色に輝く一瞬の光芒のなかに、〈意志的な死〉をめぐる日本の伝統が一瞬のうちに燃えあがり、消えてゆくのだった(p639)。

 著者は、三島の自決のなかに、贖罪の意識も見て取る。肺病と偽って兵役を回避したこと、また文学にあまりにも愛着しすぎたことへの贖罪であったとみる。(p633)。さらに、三島と一緒に自決した森田は三島の男友達、おそらく西鶴がいう17世紀武士風の「念人(おもいびと)」であったと推察し、あの公然たる政治的デモンストレーションの陰にひとつの「心中」が隠されていたという。(p627)。三島が愛読しその解説までかいている『葉隠れ』には、男色におけるお互いの忠誠が強調されている。
 三島の死に関してはエッセイ『三島由紀夫―老いと死』で私なりの考察をした。 


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