読書ノート2021年

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書名 著者
与謝蕪村 田中善信
高山右近 海老沢有道
ハリス 坂田精一
Number:1010、1018 文藝春秋社編
俳句3月号 角川書店編
フェルマーの最終定理 サイモン・シン
いつ死んでもいいための44のレッスン 下重暁子
源氏物語(八 紫式部
渋沢栄一伝 幸田露伴
人新世の「資本論」 斉藤幸平
農の原理の史的研究 藤原辰史
中村裕
藤井聡太論 谷川浩司
川柳のエロティシズム 下山弘
俳句の歴史 山下一海
光る源氏の物語(上) 大野晋、丸谷才一
紫式部の暗号 石井和子
生命とは何か ポール・ナース
ライフサイエンス 吉森保
遠筑波Ⅱ 北川昭久
カラマーゾフの兄弟1  ドストエフスキー
カラマーゾフの兄弟2  ドストエフスキー
カラマーゾフの兄弟3  ドストエフスキー
カラマーゾフの兄弟  ドストエフスキー
カラマーゾフの兄弟5  ドストエフスキー
カラマーゾフの兄弟 解題  亀山郁夫
阿波野青畝集   阿波野青畝
文豪と俳句  岸本尚毅
源氏物語(九)   紫式部
 光る源氏の物語(下)  大野晋、丸谷才一
 けっぱれ、母さん  千葉実
クララとお日さま   カズオ・イシグロ
 怪帝ナポレオン三世  鹿島茂
 『天為』令和三年十二月号  『天為』編集室
 素秋  加藤やえ子
芭蕉の門人  堀切実
 七五調の謎を解く 坂野信彦 



書名 与謝蕪村 著者 田中善信 No
2021-01
発行所 吉川弘文館 発行年 平成8年 読了年月日 2021-01-05 記入年月日 2021-01-12

 歴史学者の目で書かれた詳細な史料検討に基づく蕪村の伝記。

 蕪村、享保元年(1716年)。大阪近郊の淀川沿いの毛馬村生まれ。家は有力な農家であったが、蕪村は20才の頃村を出て江戸に下る。以後、蕪村が生まれ故郷に帰ったという史料は見当たらない。蕪村の死後に書かれたものでは、彼が父祖の家産を食いつぶしたという記述もあり、また、当時の毛馬村は凶作に見舞われ、年貢の取り立ても過酷で、それが原因で出奔したという説もある。いずれにしても蕪村は生涯故郷に帰れなかった事情があったのだろうと、著者は言う。とはいえ、蕪村の故郷への思いは強く、後に萩原朔太郎により「望郷の詩人」と呼ばれた。蕪村の名は陶淵明の「帰去来の辞」の「田園将に蕪(あ)れなんとす」より来ている。つまり蕪(あ)れた村。

 江戸に出て、俳諧の宗匠宋阿の内弟子となり住み込む。宋阿は門人らの歳旦・歳暮の句を収録して歳旦帳を出し、夜半亭という俳諧結社が生まれる。歳旦帳には蕪村の句も何句か入集する。宋阿亡き後、夜半亭は消滅し、蕪村は宋阿の有力門人である結城の雁宕を頼る。宋阿も雁宕かなりの老齢であり、蕪村は老人に好かれるタイプで、座談が巧みだったと著者は推定する。

 雁宕ら結城や下館の人々の援助を得て、蕪村は関東を10年行脚する。行脚は俳句の点者、つまりプロの俳人となるための通過儀礼であるとされた。この間、蕪村は僧籍に入り浄土宗の僧侶となった。比較的簡単に僧籍に入れたし、生業をもたない蕪村には便利であった。関東放浪中、一度は江戸に戻り、増上寺の裏門に住んでいたこともある。蕪村の絵は結城や下館の素封家から喜ばれ、現在に残っているが、その評価は割れるようだ。

 宝暦元年(1751年)36歳の時に京に上り、以後丹波と讃岐時代の数年間を除く約30年を京都で過ごす。蕪村が頼ったのは宋阿の門人である宋屋で、宋屋は蕪村を温かく迎えた。以後丹波に行くまでの3年京で過ごすが、この間に残した絵はない。蕪村は特定の師について絵を習ったのではなく、古画を見たり模写したりして画技を磨いていった。染色の下絵描きなどの職人仕事をして、生活の糧を得ていたのかもしれないという。大黒天を書くのが得意だったから、無落款の大黒天を量産したとも考えられる。

 丹後宮津の見性寺で足かけ4年過ごすが、この間に俳諧では見るべきものはないが、画業では目覚ましい発展を遂げ、画家蕪村の大成する基盤となった。特に屏風絵をたくさん残した。

 宝暦7年(1757年)京に戻る。戻って後に還俗した。生計の見込みが立ったので僧侶でいる必要は無くなった。ただ、蕪村は画家として生涯坊主頭を通したようで、肖像も自画像もすべて坊主頭である。宝暦8年、田沼意次が幕府の実権を握り田沼時代が始まるが、これは文化的に見れば、解放された市民エネルギーをバックに江戸文化が花開いた時代である。蕪村の以後の活躍は田沼時代と重なり、絵という贅沢品にたずさわる蕪村にとって風が吹いてきた。宝暦10年頃結婚。妻は「とも」といい20才近く若い。娘が出来たが、蕪村にとっては妻が娘、娘は孫の年齢であったという。

 宝暦13年の嘨山編『俳諧古選』に「春の海終日のたりのたりかな」他計4句が収録されたが、蕪村は大祇と並んで江戸の俳人として扱われた。俳風が江戸風だと見なされたのだ。  

 蕪村の絵を購入するために屏風講が結成された。屏風絵に使う薄くなめらかな絹布を買うために、蕪村が富籤を買ったと聞いた門人たちが、蕪村のために屏風講を組織し、存分に腕を振るわせたという。蕪村と対比される大雅の絵には絹を用いた絵が極めて少ない。それを思うと、蕪村の周辺にはいかに裕福な人が多かったかを思い知らされると著者は言う。  

 明和3年(1766年)蕪村を中心として、三菓社という俳諧愛好クラブが出来る。第一回句会には蕪村、太祇、召波ほか8名。この句会は浮世の束縛を離れ、風雅に遊ぶことを目的としたインテリ町人の集まりで、これ以後蕪村の句に高踏的な句が多く生まれるのはこの句会の雰囲気が多く句影響している。

 この後蕪村の句会には、暁台、几菫、大江丸など、今でも大歳時記に例句の載る俳人たちが集う。

 明和3年から5年にかけて、蕪村は讃岐に滞在する。絵はかなり残したが、俳諧には見るべきものはないと、著者は言う。当時出された『平安人物史』の画家の分には16名があげられているが、大西酔月、円山応挙、伊藤若沖、池大雅についで5番目に蕪村があげられている。蕪村53才。

 帰京後、三菓社を再開する。その句会記録「夏より」には蕪村の名句として知られる句
が13句抜き出されている。例えば
鮎くれてよらで過ぎ行く夜半の門
鳥羽殿へ五六騎いそぐ野分かな


 これらの句にはいわゆる蕪村調が確立している。これらすべて題詠である。つまりその題によって考え出された作りごとの世界である。蕪村調というのは作りごとの美しさ、あるいは作りごとの面白さを基本としている。ある時は日常的世界を、ある時は古典世界を取り込んでいるが、いずれにせよ蕪村の句は想像力の生みだした架空の世界である。  わかりやすい解説だ。

 蕪村は芭蕉に心酔していたが、旅に生きた芭蕉のような生き方はならおうとしなかった。芭蕉を旅の詩人というなら、蕪村は芳賀徹氏の言う通り「籠り居の詩人」であった。(p111)。尾形仂の『芭蕉・蕪村』には蕪村を「籠居(カザニエ)の詩人」とあった。「カザニエ」と言うのがよく分からなかったので、調べてみたら、フランス語の「casanier」で、「出無精な」あるいは「出不精な人」という意味だと分かった。

 明和7年(1770年)、蕪村は夜半亭二世を襲名し、俳諧宗匠の仲間入りをした。蕪村は絵を職業としたから、俳諧の点料に頼る必要がなかった。点者でありながら俳諧を趣味とする異色の俳人であった。夜半亭一門は50人余りだが、門人2000人といわれた江戸の蓼太の比べれば、中興俳壇の一方の旗頭としては、余りにも乏しい陣容だと著者は言う。

 蕪村は茶屋遊びもよく行った。若い妻がいながら岡場所にも通い、遊女の名を入れた句まで作っている。顔見世興行を芸妓に囲まれてみたという記述もある。『花鳥篇』にはなじみの芸妓の3人の発句も収載され、さらに小糸という芸妓は歌仙にも名を連ねている。 いかにも磊落な人柄だ。

 蕪村の本業は画家であり、本書でもたくさん紹介されている。池大雅と比較して、著者は「
文人画の正統的画風を守っているのが大雅の特徴であり、それから外れた独特の画風を作り出しているのが蕪村の特徴である」と述べる。(p132)。

 さらに「
画家としての蕪村の実態は、絵を描くことを仕事とする職人であり、彼を、芸術家を自負する今日の画家とひとしなみに扱うのは間違っていると思う。江戸時代には優れた芸術作品を生み出した職人が数多くいた。蕪村もその一人である」という。(p186)

 蕪村は他の画家とは余り付き合わなかったが、円山応挙とは比較的親しく交際したらしい。本書の最後の方では、蕪村と上田秋成との交友も述べられていて、江戸中期の文化人の関係を知る意味でも面白い。

 天明元年(1781年)、蕪村らは京都金福寺の芭蕉庵を改修し碑を建てる。この時蕪村は 「我も死して碑に辺(ほとり)せむ枯尾花」という句を詠んだ。天明3年12月25日、人並みはずれた健康体の持ち主であった蕪村逝去。68才。望み通り金福寺の碑の側に葬られた。

 読んでいて本当に良い人生だったと、羨ましくなるほどだ。そして、若いころ10年も関東を放浪することが出来た江戸時代の豊かさを感じる。

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書名 高山右近 著者 海老沢有道 No
2021-02
発行所 吉川弘文館 発行年 昭和33年 読了年月日 2021-01-08 記入年月日 2021-01-21

 神保町の天為編集室に行った際、古本屋で、『与謝蕪村』『ハリス』とともに本書を購入。昨年のNHKの大河ドラマ「麒麟が来る」は明智光秀が主人公で、同時代のキリシタン大名としてどんな生涯だったのか知りたいと思った。

 高山右近、父は松永久秀の配下で、大和国宇陀沢の城主で、300人ほどの家臣を率いていた。生まれは天文21年(1552年)。本能寺の変の時30歳であるから、光秀よりはかなり若い。父飛騨守は熱心なクリスチャンで、右近は12歳の時に洗礼をうける。右近の生年は推定であり、少年から青年にかけても詳しい経歴はわかっていない。様々な経験を通じ、実際的な教育を典型的な戦国武将である父から受けたであろうと著者はいう。キリシタンであった父の下で、絶えず死と直面する戦国武士として、死生に動ぜぬ強い意思と信念も、死に勝つキリストの教えに接するうちに、おのずから養われていっただろうと、著者はいう。(p30)。

 本書の導入部は日本におけるキリスト教伝道の歴史が述べられる。本書がもっとも頼りとする史料はルイス・フロイスの「日本史」とその書簡。である。例えば、父飛騨守も「ダリヨ」という洗礼名で記されることが多く、キリスト教礼賛の強い本である。

 
キリシタン摂取にこそ「当時の日本が示したただ一つの視野拡大の動き」があり、そこに生み出された「合理的思考の要求こそ、近世の大きい運動を指導した根本の力」であった。まさしくそれは、近世における最大の思想的・文化的・社会的運動であり、それを摂取することにおいて、それを拒否することにおいて、日本の近世の性格が決定されるといっても決して過言ではないほどのものであった。「」内は和辻哲郎の『鎖国』からの引用(p4)

 著者を見たら、聖心女子大、国際基督教大学の教授とあり、多分自身もクリスチャンであろう。

 高山飛騨守は甲賀の豪族和田惟政に仕える。高山と和田との関係は兄弟とも言われるが、はっきりしない。惟政は信長上洛に功があり、摂津の守護職に任じられる。惟政は高山氏に大阪府高槻にある芥川城を預ける。やがて摂津の荒木村重と和田氏との間に争いが起こり、惟政は戦死する。その後を継いだ惟長は凡庸で、家臣は高山父子を頼りにするようになる。そして高山父子は惟長を討ち、かつての敵村重と結ぶ。高山氏は高槻2万石の城主となる。典型的な下剋上。

 高槻には天主堂を作り、また京都の南蛮寺建立にも尽力する。5年後天正6年(1578年)荒木村重が信長に背いた。高山氏は村重に味方して高槻城にこもった。信長は高槻城を囲むが、なかなか落ちない。信長はこの城を無傷のままに手に入れ、また武将としての右近を買っている上、本願寺を押さえるためにもキリシタンの高山父子を味方にしておきたかった。宣教師を介して何回も高山氏と交渉する。父飛騨守は主戦派で、右近は信長への大義から開城派であった。右近は出家して、宣教師に伴われ信長の下に行き、開城を約す。かくして高槻城は開城され4万石に加増される。信長は村重一族を女子供を含めて皆殺しにしてしまうが、キリシタンの右近はこのことをどう思ったであろうか。本書には触れられていない。一方父飛騨守は助命はされたが、柴田勝家に預けられ、北の荘に送られる。飛騨守は当地で布教活動に専念しキリシタン信仰を広めた。

 天正10年、本能寺の変。右近は山崎合戦に先陣し、4千石の加増。
 天正11年 亀山城攻略に功あり。江州各地を転戦。小西行長、黒田孝高、蒲生氏郷らを感化、入信させる。天正12年、小牧山、13年根来征伐、四国征伐に参加、功あり明石6万石に転封。
 天正15年 九州征伐に参加。6月伴天連追放令が出て、右近も放逐され、小西行長により小豆島にかくまわれる。
 天正16年 行長肥後に移封、右近を前田利家が引き取る。
 天正18年 前田氏傘下として小田原攻めに参加、功あり秀吉にも謁見
 文禄元年(1592年)) 名護屋城で秀吉に引見される。
 文禄4年 父飛騨守没す。
 慶長5年 関ヶ原の役では大聖寺を攻める。
 慶長10年 金沢に南蛮寺を建立
 慶長14年 前田利長の命で高岡城を築城。右近は築城の名手であった。
 慶長19年 家康、キリシタン禁教令を出し、右近らの国外追放を命ず。金沢より長崎にいたり、マニラに渡る。
 慶長20年(1615年) マニラにて没。。63歳。マニラ市により10日間の葬儀が行われた。

  こうしてみると、熱心なクリスチャンでありながら、戦国武将として60余年という長い生涯を全うした珍しい例だ。右近から見た信長、村重、光秀、秀吉、利家、家康を描いた大河ドラマがあってもよさそうだが、所詮脇役。ドラマとなるのはせいぜい高槻城籠城と開城に至る経緯か。それに、どうしても宗教くさいドラマになってしまうので、今まで作られなかったのだろう。

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書名 ハリス 著者 坂田精一 No
2021-03
発行所 吉川弘文館 発行年 昭和36年 読了年月日 2021-01-11 記入年月日 2021-01-22

  冒頭のはしがきで「ハリスの業績は世界の国際関係の全歴史における最大のもの」というイギリスの歴史学者の言葉を引いている。続いて、日本の通商開国により日本の歴史は大きく変わり、極東の孤児から脱して、国際社会の成員となり、内は封建制度の国家から近代国家へ飛躍する道を開いたのであると述べている。本書を読み終えて、その通りだと思う。それは先の大戦にもかかわらず、日本とアメリカの現在の堅い同盟関係の基本となったものでもあるように思う。

 史料のほとんどをハリスの日記によっている。アメリカ側、というかハリス側から見た日米通商条約交渉という感じ。

 タウンゼンド・ハリス、1804年(文化1年)、ニューヨーク州ワシントンに生まれる。正規の教育は村の小学校と中学校だけである。後年の驚くべき博学は、社会人になって生活の余裕ができてから、図書館を利用して身につけた。13歳の時ニューヨークに出て、呉服店に奉公した。その後、父母と兄がニューヨークに出て陶磁器の輸入商を始めたので、ハリスもこれに加わった。

 壮年時代のハリスはニューヨークでも相当余裕のある暮らしをしていた。少年時代の苦い経験を思い出し、学校教育に関心を寄せ、市の教育局委員に選ばれ、さらに教育局のプレジデントになった。彼の提案で無料中学が創設されたが、これは後にニューヨーク州立大学へと格上げされた。1848年、折からの不況に見舞われ、ハリス兄弟の店も倒産。それを機に、ハリスは東洋遍歴の旅に上る。45歳である。

 ニュージーランド、フィリッピン、中国、マレイ、セイロン、インドなどを渡り歩く貿易旅行は、事業の経済的破綻を見るまで6年間続いた。

 1853年のペリーの日本遠征の頃から、ハリスは極東駐箚の外交官を希望した。清国に滞在していたハリスは、次回の遠征には自分も連れて行ってほしいとペリーに頼んだが、断られた。この頃から、ハリスには、日本を世界の向かって開かせるという、先駆的な外交手腕を自ら発揮したいという野望が芽生えていた。

「正常な」国家間の通商関係は、国家相互の友愛と信頼によってのみ結ばれ、相互の間に富と繁栄をもたらすものでなければならない。このような貿易の正道を無視して、中国に阿片と戦争とを持ちこみ、戦果として貿易をかちとったアングロサクソン流の政策を、ハリスは宗教的感情とヒュマニティの立場から憎悪していた。「
西洋資本主義諸国の東洋市場開拓の歴史は、イギリス人の犯した罪悪行為でけがされたと思った」と、著者はハリスの考えを推察している。(p67)。この態度は日本との交渉に当たってもハリスの基本的考えであった。

 1854年の日米和親条約で日本に駐在する領事を置くことが認められた。ハリスは国務長官や大統領に書簡を送り、大統領とも会い、ついにその地位を獲得した。
 ピアス大統領からマーシー国務長官に宛てた手紙には「
彼は明らかに高い人格の持ち主である。書物と観察の両者からなる彼の広い知識は私に強く印象を与えている。中略 私は、直ちに彼を任命しよう」。

 1856年8月21日、ハリスは下田へ入港。ハリスの来朝は幕府にとっては寝耳の水であった。「上陸する」「上陸させない」で一悶着あったが、拒めばそのまま江戸へ向かいかねないので、ひとまず上陸させた。柿崎村の玉泉寺が宿舎となった。ハリスのほかにオランダ人のヒュースケンと清国人の下僕5名である。当時の日本での外国語といえばオランダ語であるから、オランダ人を通訳として雇った。

 ハリスの野望はまず日米間に互恵的な通商条約と、従来より広い修好条約を結び、その後で世界各国をこの条約に倣わせる、つまり世界に先駆けて日本を名実ともに本当の開国の姿に改めさせることであった。

 ハリスは下田にとどめ置かれるが、この土地の美しい風景と経験したことのないような温和な気候が慰めであった。素朴な住民も好きであった。天まで届く狭い畑でせっせと立ち働いている農民の姿には世界のどこの人よりも勤勉に見えた。ハリスは「
喜望峰以東の最も優れた人民」と日記に記す。

 安政4年10月7日、ハリスは下田を発って、江戸に向かう。天城峠を越え、東海道を通る徒歩。総勢350人という大行列で、乗馬が趣味であったハリスは騎乗して。本人は江戸入りも騎乗を希望したが、幕府の要請によって篭で入った。10月14日、九段下の蛮書調所に入った。徒歩による往来はこの時のみで、後は船で下田を往復している。

 以後、老中堀田正睦以下、井上、岩瀬ら幕閣と談判を重ねること14回、87日間でようやく妥結にこぎつけた。この間10月21日には将軍家定に謁見している。この場面は大河ドラマのシーンとして一度ならず見た記憶がある。

 交渉の経過はここでは触れない。(参照『岩瀬忠震』『井伊直弼』『落日の宴 勘定奉行川路聖謨』)。水戸斉昭らのいわゆる攘夷派が嫌いな私は、ハリスと日本側代表の努力を高く評価する。特に、単身で乗り込んで、一歩も引かずに渡り合ったハリスの胆力、精神力はすごいと思う。

 著者はこの条約が不平等条約であるという主張を否定する。一番問題にされる領事裁判権については、徳川幕府の祖法というものが、外国人の犯罪は外国人が裁くというものであって、幕府も全く異存はなかった。それ以上に日本の刑法は諸外国と比べて極端に厳しいものであった。主君に対する無礼で死刑になる。相互的治外法権を認め、もしアメリカで日本人が大統領を侮辱するようなことがあった場合、日本の法律では死刑になるが、アメリカではせいぜい罰金刑である。だから、幕府もアメリカだけに領事裁判権を認めたのだという。当時の刑法の違いを考えれば、やむを得なかったと思う。

 1862年(文久年)8月、江戸を去り帰任する。その後は公職には就かずニューヨークで1878年死去。74歳、独身のままであった。ハリスの通訳であったヒュースケンはすでに文久元1ヶ月後年に暗殺されており、また調印を強行した井伊直弼も暗殺され、さらにハリスの相手役であった、井上、岩瀬は明治維新を待たずして亡くなっている。

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書名 Number:1010, Number 1018 著者 文藝春秋社編 No
2021-04
発行所 文藝春秋社 発行年 読了年月日 記入年月日 2021-02-18

 「Number」はスポーツグラフィック。昨秋と今春、2回も藤井聡太の特集をやっていた。

1010号は2020/9/17刊、「藤井聡太と将棋の冒険」。

 昨年8月31日に藤井が木村から王位を奪い、史上最年少の二冠を獲得した直後に発行された。藤井聡太のそれまでの活躍、天才ぶりを紹介。さらに彼の育った中京将棋界の板谷一門の事など。それに続いて、中原誠が語る18歳の羽生と藤井という記事が続き、佐藤天彦と中村太地の対談による藤井将棋論、それから棋聖戦に敗れた渡辺明、王位戦に敗れた木村一基のコメントと続く。

 佐藤天彦は藤井将棋をモーツァルトの旋律のような自然さを感じるという。中村太地はピカソの絵のようだという。絵画が分からなくてもなんとなく面白いと。制約を取り払ったように自由に見えるところがファンを魅了するのだと。

 渡辺は「現状では藤井さんに勝つプランがありません。だっていまから藤井さんのような終盤力を身につけようとしても無理だから」と記者に語っている。しかし、渡辺は1ヶ月後、豊島を4-2で破り、念願の名人位についた。

 木村は一年前に46歳という最年長記録で豊島から王位を勝ち取った。一年後4ー0で藤井に奪われた。「どれも頑張ったけれど、実力がなかったと感じています。ストレート負けは恥ずかしい限りで申し訳ないです。一から出直します。実力ですから仕方のないこと。またやり直せと言うことでしょう」。
 このほか、久保利明、豊島将之、谷川浩司、大橋貴洸(藤井キラー)、佐藤康光が語る、大山、升田、中原、加藤各名人、女流の里見香奈などの記事が並ぶ。

1018号は2021/1/21刊「藤井聡太と将棋の冒険」

 将棋とAIとの関係に触れた記事が面白い。もはやAIなしには将棋は考えられない。AIを使いこなせなければ強くなれないようだ。電王選で時の佐藤天彦名人が将棋ソフトに敗れたとき、AIは完全に人間を越えた。以後、棋士とAIとの対局はなくなった。もう将棋というゲームは終わるのかと思ったが、逆であった。これほどうまくAIと共存し進歩する世界も珍しいのではないか。昨年の棋聖戦の第2局で藤井が指した3一銀打ちは誰もが予想しなかった手だ。AIが4億手読んでもこの手が最善手としては出てこなかった。さらにAIが6億手読んで、初めて3一銀が最善手と出てきた。藤井は23分の考慮時間で選んだ。コンピュータの6億手を越えた藤井というフレーズが賑わった。

 このNumber は年間のMVPを藤井二冠に与えたための特集号である。コロナがありスポーツ全般が盛り上がらなかったためもあろうが、棋士がMVPを取るとは初めてではないだろうか。棋聖と王位を取った藤井の活躍ぶりが棋士の目から語られる。終盤、16手に及ぶ渡辺の連続王手を振り切って勝った棋聖戦第1局、続く第2局の3一銀打ち、そして王位戦第一局で、千駄ヶ谷の受け師とニックネームのある木村を正面から攻め潰した衝撃が、深浦九段によって語られる。藤井はコロナ禍の自粛中にAIによるじっくりと研究を積み一段と強くなったとされる。渡辺も棋聖戦の藤井との戦いは90手くらいまで研究範囲だったと述べる。豊島は棋士同士の研究会をやめてAI相手の自宅研究に没頭した。

 東大の大脳生理学者池谷裕二との対談が組まれている。そ中で渡辺は言う「練習の仕方は確かに変わりました。AI以前は、自分の頭を使って考えていたのが今は検索能力になっていますね。こういう手を検索したらAIはどういう数値を出すか。いい数値を出させるためにはどういう手にすべきか。いい数値を出してくれたら、その手は本番で使える。どういう配置にしたらいい数字を出してくれるんだろうと考えながら検索しているんですよ」。

 そして、驚いたのは森内もAIを使い始めたという。2002年から13年間羽生と名人戦を独占状態にしていた時は、充実していた時期だが、最盛期ではないと森内は言う。「だって、今の私はあの時より強いという実感がありますし、これからもさらに強くなると言う確信もあるので」。確信のもとは2020年1月から始めたAIだという。「1年間でかなり吸収できて、どういう手がいいのか、今までとは違った視点で見られるようになりました。名人のときより、明らかに将棋の理解度が上がっていると思います。まだまだ学び切れていない実感もうれしいです」

 今年の朝日杯における対渡辺、対三浦戦の終盤の信じられないような大逆転劇は衝撃であった。そしてその衝撃が覚めやらぬうちに、藤井聡太がオリンピックの聖火ランナーを辞退し、さらに後2ヶ月で卒業できる高校を1月いっぱいで退学するというニュースが流れた。いずれも、タイトルホルダーとして、将棋に専念したいというものだった。

 今日、2月18日、この一文を打ちながら、竜王戦2組のランキング戦、藤井対広瀬の中継を見ていた。先手藤井が初めてではないかという相懸かり戦法をとり、広瀬を圧倒して勝った。アベマテレビの中継ではAIの評価値が出る。アマチュアにとってはこの評価値の数値が大変参考になる。今回アベマでは示された最善手はAIで何手読んだ結果であるかを示す。ある手では900億手という数字が出てきて、びっくりした。

 4時間以上の持ち時間の将棋で、藤井が勝つ場合は、藤井の評価値が序盤の50台から60,70,90と上がっていき勝つ。今までに60台になった評価値が40を割り込むような逆転は見たことがない。朝日杯は40分の持ち時間で、最後は1分の秒読みだから、前述のように藤井の評価値が減っていき、最後に逆転するという勝ち方があるのだ。

 もと竜王の広瀬に勝って、竜王戦ランキング戦はデビュー以来負けなしだ。次は準決勝で松尾八段、そして2組の決勝は多分渡辺名人と当たるだろう。

 追記:藤井は松尾に勝ったが、渡辺は若手の八代に敗れた。(2021-03-24)

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書名 俳句3月号 著者 角川書店編 No
2021-05
発行所 角川書店 発行年 2021年3月 読了年月日 2021-03-05 記入年月日 2021-03-06

  昨年12月6日に卒然と亡くなった有馬朗人追悼号。69ページから131ページまで。
 冒頭、遺作として昨年の11月以降の句会などで発表された24句が並ぶ。そのうちの3句は私も句会で採った句。

亀は万年鳴かずときめて冬眠す (東京例会)
冬眠に入りしや月に住む蟾蜍(せんじょ)(東京例会) 蟾蜍はひきがえるのこと 
返り花家庭教師の日々遙か (さねさし句会)

 朗人は蟇とか亀など、動物の句をよく読む。家庭教師の句は、若い頃家庭教師で学費を稼いでいたという苦労話は有名である。ただ、私が天為に入った当時は、こうした回想の句はあまり見かけなかった。回想句は避けた方が良いと聞いていた。1年ほど前、私の回想句を朗人が採ってくれた。「こうした回想句でも良いのでしょうか」とその際聞いた。朗人は「私もよく作る、かまわない」と言った。さねさし句会に入って朗人から親しく指導を受けるようになって2年余だが、朗人の句によく回想の句があるなと感じていた。

 11月の天為東京例会の朗人のもう1句は「父焼きし森より立り冬の鵙」であった。作者を知ったとき私は驚いた。まさか朗人の句とは思わなかった。亡くなる2日前には武蔵学園の自室でNHKのインタビューを受けていた。(この模様は12月20日のNHKスペシャル「科学技術立国日本」で放映された。)まさに生涯現役、卒然と逝った朗人ではあるが、こうした回想の句に接すると、何かの予感があったのではないかと思う。
 最後となった東京例会の3句は上掲のように冬眠の2句と冬の鵙の句であった。

ちなみに遺作24句の最後の3句は以下:

迷はずに蛇仏石の穴に入る(淡路町句会)
学舎へ通ひし道や返り花 (松山支部句会)
幼日の五度の転居花八手 (東大学生俳句会)

 遺作に次いでは対馬康子による「有馬朗人 人と作品」。初期の作品から晩年にいたるまでの作品を「理知と硬質の叙情」ついで「海外詠」さらに「新しい即興性ー科学者の目と詩人の目」という項目の下に論じている。朗人とその作品を知る上で、簡潔にまとめられている。

 ついで追悼エッセイ。稲畑汀子「悼 有馬朗人様」、鷹羽狩行「努力の人」、宇多喜代子「ひょいと来るもの」、大輪靖宏「言葉の実在性を信じた俳人」、黒田杏子「山口青邨門下として」、酒井佐忠「世界の平和を求めて」、能村研三「つき進む好奇心の人」。

 有馬朗人が1日に1万歩歩くのを日課にしていて、自身は120歳まで生きると言っていたことは何人かが触れている。多くの人が朗人の代表句として「光堂より一筋の雪解水」をあげている。

 生も死もひよいと来るもの返り花
 を引いて宇多喜代子は言う:
有馬さんからわたしは一二〇歳まで生きるよという長生き宣言を幾度も聞いていたので、そんな夢みたいな話とは思っていても、有馬さんに限って死が「ひよいと来る」ことなどあるはずがない、そう思っていたのだ。

 能村研三もこの句を引き、「
この句の通り「ひょいと」逝ってしまったが、亡くなる直前まで新しい好奇心につき進んでいくような先生であった。」

 大輪靖宏は「蝌蚪を追ひ継母だものと少年言う」を取り上げて、小説なら少年の家庭環境などを説明するが、有馬朗人はそれをまったくしない。「
私達はここから、何があったのだろう、この少年の置かれた環境はどういうものだろうと考えざるを得ない。つまり、私達にそう考えさせるということは、すでにこの少年に実在感が生じがのである。〈継母だもの〉という言葉自体にそれだけの重みがあることを活用しているのだ。有馬朗人氏の句を支えているものは、言葉に対するこうした絶対的な信頼である。言葉があれば対象を実在化させることができ、その存在が浮かび上がればもうそれ以上の言葉は必要ないのだ
 この句と併せて、この一文は本書の中では最もユニークな朗人評だと思う。

 ついで「有馬朗人作品総論」を日原傅が執筆。第一句集「母国」から第十句集「黙示」までが要領よくまとめられている。「母国」は現代詩の強い影響が見られるという。朗人は大学に入ってから、萩原朔太郎、金子光晴、西脇順三郎に傾倒したと語っている。:
「母国」の 特質はその文体にもある。切字の「かな」「けり」を用いた句は一句もない。「や」を用いた句も〈大和路や麦笛吹くは太古より〉の一句のみである。切字を古いものとみなし、否定した時代の風潮の影響があるのであろう。その姿勢は一貫している。短い期間ではない。二十歳の頃から二十年間ほとんど切字を使わずに句を作り続けていたのである。朗人が切字を積極的に用いるようになるのは「知命」以降である。
 第2句集「知命」362句中66句、第3句集「天為」379句中120句がそれぞれ切字の入った句だ。

 日原傅は最後に「
「言葉に即して俳句を詠む」という態度は終始一貫していた。作る句も勝負所の明確な句が多い。偉大なる知性は逝去するまで曇ることはなかった。」と結んでいる。「勝負所」という表現がなるほどと思った。

  次いで句集鑑賞:「母国」櫂未知子、「知命」「天為」藺草慶子、「耳順」「立志」生駒大祐、「不希」「分光」渡部有紀子、「鵬翼」仙田洋子、「流轉」岩田奎(平成11年生まれ)、「黙示」小林恭二。

 次いで西村我尼吾による「俳句とHAIKU」で俳句の国際化に尽力した朗人が語られる。1999年の松山宣言の前に行われた基調講演での、当時文部大臣であった朗人の講演が紹介される。目についたのは朗人が「
俳句は本質的には私は森林の文化に基づいている文学であると思います」と言っていること。

 その後には「交際・教えの思い出」として、津久井紀代、大屋達治、福永法弘、久野雅樹、明隅礼子、手銭誠、遠藤容代と天為の同人が、朗人の句を一句ずつ上げ、思い出を語っている。順番は年齢順。津久井紀代さんが大屋達治や福永法弘より年上とは意外だった。

 最後は朗人の年表で締めくくる。科学者、詩人、そして政治にまで関与し、生涯現役を通したうらやましいほどの一生。
 
 私が天為に入会したのは俳句を始めて1年半後で、ちょうど9年前になる。入る前に朗人の句をウエブで読んで、その特徴を「知的な叙情」だと捉え、それが入会を後押しした。私にもできそうだと。今回本書では「硬質な叙情」「乾いた叙情」という言い方をされていた。「知的な叙情」と同じような表現だと思った。

 本書は290ページあまり。巻頭の東北大震災を詠んだ高野ムツオの50句以下そのほとんどが俳句で埋められている。よくもまあ、こんなに俳句が毎月作られるものだと感心する、あるいはあきれる。巻末近くには10人の選者によって選ばれた読者からの投句が掲載される。その数800句。
 見ていると、同じ句会の仲間の名前も見られる。そして、私が作って温めている句と同じ発想の句も見られ、俳句とはそんな物とはいえ、やられたと悔しい思いもする。

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書名 フェルマーの最終定理 著者 サイモン・シン、青木薫訳 No
2021-06
発行所 新潮文庫 発行年 平成18年刊 読了年月日 2021-03-17 記入年月日 2021-03-18

 最近、ユーチューブのパズルをたまに見る。数学のパズルがよく出てくる。関連して、フェルマーの最終定理証明の歴史を解説した動画があった。大変面白い物だったが、内容は本書の紹介と言っていいものだった。アマゾンより取り寄せて読んでみた。文庫本500ページ近いものだが、32刷も版を重ねている。

 フェルマーの最終定理:
 x(n)+y(n)=z(n)  ((n)はべき数を示す)においてnが2より大きい場合この式を満たす整数は存在しない。

 フェルマーは裁判官が本業であって数学は趣味であった。そんなフェルマーを捉えたのが、紀元3世紀頃アレキサンドリアにいたといわれるディオファントスの著した『算術』。全13巻のうち6巻がルネッサンス時代まで残り、フェルマーの手にも渡った。フェルマーはそこに示された問題を次々に解いていった。x(2)+y(2)=z(2)に対するピタゴラスの証明を見たとき、フェルマーは2乗ではなくてもっと大きなべき数だったらっどうだろうかと考えついた。それには整数の解がないことに気づく。『算術』の余白にx(n)+y(n)=z(n) を書き、「私はこの命題の真に驚くべき証明をもっているが、余白が狭すぎるのでここに記すことはできない」と書き込んだ。フェルマーがこの発見をするのは1637年頃。しかし、世に明らかにされたのは30年以上経ってから、フェルマーの死後、息子によってなされた。最終定理というのは、フェルマーが示したたくさんの定理で、最後まで証明できずに残った定理という意味。

 フェルマーの式は素人目にもわかりやすく美しい。にもかかわらず証明がなされたのは300年後。

 フェルマーはn=4の場合を証明していた。そのことを発見したのはオイラーで、彼はその手法を用いてn=3の場合を証明した。およそ100年後のこと。
 次いで19世紀に入るとフランスの女性数学者ソフィー・ジェルマンがn=5と7を証明。
 3,5,7と言った素数で証明されると、素数以外の合成数の場合は証明される。このようにしてフェルマーの定理は穴が埋められていった。

 20世紀後半になると、コンピュータの発達で、計算が容易になり1980年代にはn=400万まで証明された。しかし、素数の数は無限である。ある素数の次の素数の場合でもフェルマーの式が正しいという保証はない。

 1955年に谷山豊・志村五郎が楕円方程式とモジュラーは同じものだという予想を出した。谷山・志村予想と言われる。これは予想であって、定理ではない。しかし、もしこの予想が証明されるとするなら、いろいろなことが明らかになるという研究が多くなされた。

 1984年、ゲオハルト・フライはフェルマーの式に解があると仮定するとそれは楕円方程式の形となることを示す。しかし、この方程式は完全に異常な楕円方程式でモジュラーにはならないことがケン・リベットにより証明された。つまり、谷山・志村予想には外れる。従って谷山・志村予想が証明されればフライの楕円方程式はまったく異常な物となり、それはフェルマーの式には解がないことになる。つまりフェルマーの最終定理が証明されたことになる。

 10歳の時図書館でフェルマーの定理を見て、その魅力にとりつかれたのがアンドリュー・ワイルズ。1986年ワイルズはフェルマーの定理の証明に着手する。彼はガロアの群論を用いて、最初の楕円方程式とモジュラーが同等であることは証明できた。一つ一つの楕円方程式はモジュラーと同等であることが明らかとなって行く。問題はここでも無限個の楕円方程式が谷山・志村予想に当てはまるかであった。そこで取られた手法が、数学的帰納法だ。整数nの場合に当てはまると、それは必ずn+1にも当てはまる。そうすれば無限に続く。次はそれが最初のドミノが倒れれば次々と倒れるように無限に続くことを証明すればいい。そのために用いたのはコリヴァギン=フラッハ法。この方法を拡張することで、ワイルズは谷山・志村予想を証明した、つまり、フェルマーの最終定理を証明した。

 1993年、ワイルズは証明を口頭で発表する。その長大な論文は6分割されて、6人のレフリーが審査した。そのうちの一つに、欠陥が見つかった。ワイルズがその欠陥を修正して、論文が認められたのは1995年。修正の鍵となったのは岩澤理論。

 モジュラーなどと言われてもイメージも湧かなかったが、物語として読み出したら止められなかった。

 裁判官であった変人のフェルマー、最後は失明したにもかかわらず月の動きの計算を行った天才オイラー、女性であること隠し男性を装い研究論文を発表したソフィー・ジェルマン、ナポレオン没後の混乱した社会で熱烈な共和主義者で、そのために王政主義者との決闘で20歳で死んだガロア、谷山・志村予想を出した後原因不明の自殺をした谷山、谷山の許嫁もその後自殺している。そして、6年間籠もりきりで、一人でフェルマーの最終定理に取り組んだワイルズ。こうしたエピソードがこの本の大きな魅力。

 フェルマーの定理は、「証明したけれどそれを書く余白がない」と言う言葉と共に昔から知られている。私は、ずっとフェルマーは証明していないのではと思っていた。天才の直感としてそう言ったのだと思っていた。だからこれは「定理」ではなく「谷山・志村予想」と同じように「フェルマーの予想」と言うべきものだ。フェルマーが死後百年以上経って、オイラーがフェルマーはn=4の場合を証明していたことを見つける。それで「定理」と皆が認めたようだ。「フェルマーの予想」という言い方は聞いたことがない。数学者はこれは定理であると暗黙に認めていたのだろう。本書の最後の方には「
ワイルズによる証明が公表されたいまもなお、フェルマーによるオリジナルの証明を発見し、栄誉と名声を得ようと考える数学者は大勢いるのである」(p460)と述べられている。「最終定理」という言い方は本書で初めて知った。いつ頃つけられたのだろうか。ワイルズによる証明の後につけられたなら、理解できるが、それ以前につけられたとしたらやはりおかしい。

 フェルマーの最終定理と並んで、4色問題というのがある。いかなる地図も4種類の色で塗り分けられるという予想だ。この問題は1482個の基本地図に分けられることが分かりそのすべてで成り立つことを証明すればいい。膨大な計算はコンピュータを使って達成された。コンピュータを使っても100年はかかりそうだと思われたが、やっていく過程で、コンピュータが自らより賢い方法を示した。1976年にこの問題は証明された。エレガントではない力ずくの証明だ。しかも、コンピュータの計算が正しいという証明は得られない。この手法に疑問を持つ数学者もいるという。著者はこの節のタイトルに「シリコンによる証明」と皮肉な題をつけている。

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書名 いつ死んでもいいための44のレッスン 著者 下重暁子 No
2021-07
発行所 幻冬舎 発行年 2021年1月 読了年月日 2021-03-26 記入年月日 2021-03-27

  下重さんの最新刊。死生観を述べる形で、自らの生き方を語ったもの。

明日死んでもいいということは、今をいかに生きるかという自分自身への問いである。」(p14)で始まり、最後は良寛の言葉を引いて「死ぬときは死ぬがよろし」(p200)で締めくくる。

 毎月のエッセイ教室を通して、四半世紀以上下重さんと付き合っているので、中身は折に触れて耳にし、また今までの著作で読んできたもの。自立し、充実した人生を送れば死ぬことは怖くもなく、あるがままに受け入れられるというのが本書の基調。そのために何をしたらいいかが44の項目にまとめられている。基本的には私も本書と同じような考えをもっている。「4」は「死」に通じ、病室の番号などには避けているとことが多いが、それをあえて重ねて「44」たところも、そうしたいわれのない因習にとらわれないという著者の考えかもしれない。

 44のレッスンの中で、意外だったのは、7.
新聞の訃報欄を見る、42.毎日仏壇に手を合わせる。普段の下重さんからは想像できなかった。

 自分のことは自分できめるというのは下重さんの最も基本的人生観だ。その観点から「
21.自死を頭から否定しない」としている。「自死、つまり自殺は、その人の寿命だったのだと考えるべきだ」と述べ、芥川、太宰から始めて、三島、川端康成、江藤淳、西部 邁と自死した作家をあげ、「 彼らは明日死ぬかもしれない偶然にかけるのがいやで、自ら自分の幕引きをせざるを得なかったのではないかと私は思っている。つまり、明日、死ぬと自分で決めた人生だった。それを責める権利は誰にもない」(p139)。

 かつて、夏には下重さんが軽井沢で行うトークショウに何回か出かけた。そのイベントでゲストとして出演した、ソプラノ歌手の日比啓子、直木賞作家の藤田宜永が既に亡くなっていることを本書で知った。棺の中の日比さんは舞台衣装で一番好きだった淡いピンクのドレスをまとっていたという。下重さんは、最後の最後にどうでもいい洋服を着せられるのはまっぴらだから、「
死に装束を決めておく」(レッスン7)という。下重さんは白地に薄紫の裾もようのある訪問着にしようと思っていると書く(p91)。

追記:3月28日、バルセロナ五輪柔道の金メダリスト古賀稔彦の葬儀があり、古賀は白い柔道着に黒帯を締めて棺に収まっていたと言う。「平成の三四郎」、53歳という若すぎる死だった。

 健康で軽井沢の一等地に別荘を持つ恵まれた女性の書いた楽天的で、ゆるやかで、贅沢な死ぬためのレッスン。

 私は2年余り前にステージ3の直腸がんを告げられた。そのとき、余り死の恐怖を感じなかった。80年も生きたから下重さんではないが「死ぬときは死ぬがよろし」と思った。また一方で、がんは不治ではないという思いもあった。幸い、治療がうまくいき2年後の今も健在である。下重さんのように社会的な名声も、経済力も無い私だが、本書の主張には共感するところが多い。

 私が死ぬまでに片付けておきたいのは、アルバムと本。二つともなかなか捨てきれない。本書にはこの二つには触れていなかった。

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書名 源氏物語(八) 著者 紫式部、柳井滋他校注 No
2021-08
発行所 岩波文庫 発行年 2020年10月 読了年月日 2021-04-01 記入年月日 2021-04-04

 「早蕨」「宿木」「東屋」「浮舟」の4帖を納める。

「早蕨」では匂宮がいよいよ中君を宇治から京都の二条院へ引き取る決意をする。薫はいろいろな心遣いをして、その手助けをする。しかし、中君がこうして名実ともに匂宮のものになってみると、薫はやはり失望を禁じ得ない。娘(六の君)と匂宮の婚儀をもくろんでいた夕霧右大臣は、匂宮が中君を迎え入れたことが気にくわない。それで、薫にも六の君との婚儀を打診したが、薫は断る。花盛りの頃薫は二条院を訪れる。ちょうど夕方から参内する匂宮は中君に薫と親しく語り合いなさいと言い残して出て行くが、内心では薫と中君の間を疑っている。

「宿木」:今上帝と藤壺女御の間には皇女が一人いた。女二宮で、匂宮の異母妹である。藤壺女御が亡くなった後、女二宮は宮中に引き取られる。帝は女二宮を薫に降嫁させようと考える。帝は女二宮を賭け物として、薫と碁を打ち負ける。しかし、薫は亡き宇治の大君のことが忘れられず婚儀を急ごうとはしない。

 夕霧の六の君と匂宮の婚儀が迫り、中君は思い悩み、京に出てきたことを後悔する。中君に同情を寄せる薫は、かつて大君の懇願に背いて中君を匂宮に譲ったことを後悔する。夕霧は六条院を磨き立て、そこに婿として匂宮を迎え入れる。六条院で歓待された匂宮は、六の君にも愛情を感じ始める。六条院に入った匂宮はなかなか二条院の中君を訪れる機会もない。中君は薫に宇治に帰りたいと手紙を出す。訪れた薫は匂宮の意向に従うよう中君を説得する。薫は、話を聞いて奥へ引きこもろうとする中君の袖を御簾の下から手を入れて捕まえ、中君について奥に入り、添い臥して中君を口説く。帰ってから薫の中君に対する思いは募る。

 久しぶりに二条院へ帰った匂宮は中君から薫の移り香が匂うのを怪しみ、二人の仲を疑う。薫は、今上帝の皇子の匂宮には思いつかないような細かな援助を中君に与える。薫は亡き大君追慕の念から中君に惹かれると述べ、中君と語り合う以上のことは望まないと中君に誓う。薫は宇治に大君の人形(ひとがた)をおいて仏道修行をしたいと中君にいう。中君は異母妹に浮舟がいることを薫にほほめかす。

 薫は権大納言右大将に昇進し、女二宮と婚儀をあげ三条の屋敷に迎え入れる。二宮の美しさに満足する薫ではあったが、亡き大君への思いは断ち切れない。中君は匂宮の男の子を出産する。宇治の寺を訪れた薫は八宮邸に立ち寄った際、初瀬詣で帰りの浮舟を垣間見る。大君の面影を残す浮舟に薫は心引かれる。  

「東屋」ではいよいよ源氏物語の後編のヒロイン浮舟の登場。浮舟の母、中将君は八宮に仕えた女房で、八宮の手がつき浮舟を生む。しかし八宮は認知しなかった。中将の君は結婚し、陸奥国、次いで常陸国に赴き、今は常陸介の妻として京都に戻ってきた。浮舟は田舎育ちの二十歳過ぎ。中将君には常陸介との間にたくさんの子供がいる。浮舟には何人もの求婚者が現れるが、なかで、人柄の良さそうな左近少将が母の目にかない、仲人を通して話が進む。常陸介は継娘の結婚話には余り乗り気ではない。左近少将は浮舟が常陸介の実子ではないと知ると、浮舟から実子の娘(中将君の子)に乗り換えてしまう。常陸介は陸奥と常陸と受領を務めてかなりの財産を築いていた。その財産が目当ての求婚だったのだ。豊かな地方官僚、金目当ての結婚、仲人など当時の中級貴族の生活をしる上で、このところは面白い。

 中将君は裏切られた思いだ。二条院の中君を訪れ、浮舟をしばらくおいてもらうよ頼む。中将君は垣間見た匂宮のあまりにも立派なのに驚き、北の方におさまる中君をうらやましく思う。中将君は浮舟にも高貴な婿をと思う。中君は浮舟を好ましく思う。声が亡き姉の大君に似ている。大君の人形を求めている薫に浮舟を見せたいと思っているとき、たまたま薫が来た。薫に告げると、薫の心は沸き立つが、軽々しい振る舞いは見せず、よろしくお伝え下さいといって帰る。中将君は薫の立派な姿態度に感心する。

 あるとき、中君のところに通った匂宮は、たまたま浮舟の部屋に入ってしまう。言い寄ってくる男が匂宮とは知らない浮舟は震える。乳母や侍女などが気づき大騒ぎとなるが、ちょうど宮中から匂宮の母明石中宮が具合が悪くなったと、匂宮に参内要請があって、事なきを得た。

 この事件があって。中将君は浮舟を三条あたりの小さな家に引き取る。大君と中君が去った後にも宇治に残っている弁尼は薫と浮舟の間を取り持つのだが、その弁尼の案内で薫は三条の浮舟のところを訪れる。そこで一夜を共にした薫は浮舟を伴って宇治へと行く。

「浮舟」
 匂宮は浮舟のことが忘れられず、中君にその素性を問うが、中君は明かさない。薫は京に浮舟の住まいを密かに作らせている。一方で、中君には相変わらず心を寄せ、何かと世話をする。宇治の浮舟から届いた手紙を中君は匂宮の前で開ける羽目になってしまった。そして、浮舟の居場所が明らかになる。匂宮は薫が宇治に女を住まわせていることを突き止める。

 正月の宮中行事も一段落した頃、匂宮は数人の供とともに宇治に行く。宵過ぎについた匂宮は芦垣を壊して邸内に入り、格子の間から浮舟を垣間見る。中君に似ているが、頼りなげでかわいらしいと思う。堪えきれなくなった匂宮は薫を偽って浮舟の寝所に忍び込む。浮舟は男が匂宮であると知る。一夜明けて、匂宮は京には帰らず浮舟のもとに留まる。その日は石山詣で京から母中将君が迎えの車をよこしたが、さわりがあると言って、侍女の右近が断る。

 普段は持て余す春の一日を浮舟と過ごすと暮れるのが早いと匂宮は思い、浮舟も薫より気高く美しい匂宮にひかれてゆく。この部分、紫式部は男と一夜を共にした女性の心理の核心を突いている。匂宮は美しい男女が添い寝している絵を描いて浮舟に見せるたり、歌を詠み交わしたりしてゆったりと一日を過ごす。この絵はあるいは今でいう春画ではないかと思った。本帖の最後の方で、宇治まで来た匂宮が厳しい警護で浮舟に会えずに帰った行った際、浮舟はこの絵を取り出し、描いた際の匂宮の手つき、顔のにおいなどに面と向かっているような気がしたとある。もう一晩泊まって匂宮は帰京する。病気と偽っての宇治行きだったので、明石中宮からは見舞いの手紙が届く。

 2月になり薫が宇治を訪れる。秘密を持った浮舟は思い乱れる。匂宮を知って女らしさを増した浮舟を大人びたと薫は喜ぶ。

 2月の10日過ぎ、雪道をおかして匂宮は宇治に行く。かねて用意した宇治川の対岸の隠れ家に浮舟を連れ出す。帰京後物思いに沈む匂宮はついに寝込んでしまい、一方浮舟は夢に匂宮を見る。

 春の雨が続く頃、匂宮、薫両方から手紙が届く。浮舟は匂宮に惹かれる気持ちは強いのだが、一方で初めて知った男、薫に迎え入れて欲しいと思うが、匂宮のことが知れたらと悩む。薫は正妻の女二宮に浮舟引き取りのことを話し、宮は鷹揚に許す。浮舟を京に呼び寄せる日を4月10日と定める。悩む浮舟は母に相談する。母中将君は薫との仲を壊すようなことがあれば親子の縁を切るという。母の言葉に浮舟は宇治川への入水を思う。

 再度、薫・匂宮両方から手紙が届く。手紙を届けた薫の随身が同じく手紙を届けた匂宮の使いを見て、その後を尾行し、匂宮からの手紙であったことを確認する。薫は浮舟と匂宮との関係を知る。匂宮の裏切りを怒り、浮舟の様子が変わったのも匂宮が原因だったのかと疎ましく思う。そして、宇治の邸宅の警戒を厳しくする。宇治には薫の荘園があり、いつでも警護の人員を動員できるのだ。右近は警護の者により匂宮に危害が加えられるかも知れないと浮舟に告げる。どちらを選んでもうまくいかないと思った浮舟は、自らの死を決意する。匂宮は宇治を訪れるが、警護に阻まれてむなしく帰京する。

 浮舟は告別の歌を母宛にしたためる。

 光源氏の物語と違って、こちらはストリー展開と心理描写がずっと細かく書かれている。薫の高貴性と匂宮の好色性の二つを合わせて光源氏に匹敵する人格が形成される。そして浮舟は薫よりも匂宮の情熱に強く惹かれているように思われる。

 なにも本巻に限ったことではないが、読んでいて気になったことのいくつか。一つは当時の貴族の女性はほとんど身体を動かさないこと。座ってもいないで大半を打ち伏していると描写される。不健康極まりないが、寿命も短かったのだろう。

 貴人に仕える女房の多さも驚く。匂宮の正妻、夕霧の六の宮には女房30人あまり、女の童6人と記される。こうした女房の中には主人と男女関係を結ぶのも多い。匂宮についてもそれを思わせる記述があるが、薫にもそうした召人と呼ばれる女房がいる。そんな召人と後朝の歌を交わすエピソードも載っている(p146)。そもそも浮舟もそうした関係で生まれた女性だ。

 宮廷の政(まつりごと)とは祭のとではないかと錯覚される。実際の政務はこの物語には描かれないから、そうなるのだが、それにしても上達部の役目は、節節の祝い事に参上することにあるようだ。例えば匂宮結婚3日目の夜の祝いには、四位六名、五位十名、六位四名が参加し、それぞれに右大臣家から賜った引き出物が述べられる(p142)。あるいは明石中宮の風邪に匂宮初め大勢が宮中に駆け宿直をする。
 

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書名 渋沢栄一伝 著者 幸田露伴 No
2021-09
発行所 岩波文庫 発行年 2020年11月 読了年月日 2021-04-16 記入年月日 2021-04-22

 コロナウイルス蔓延のため、いつもより遅れて始まった今年のNHK大河ドラマは「青天を衝く」で、渋沢栄一の生涯を描く。「日本資本主義産みの親」ということは聞いていて、NHKテレビの「英雄たちの選択」では、実業家でありながら社会福祉に尽力した栄一が取り上げられていた。目下、ドラマでは明治維新前の栄一が描かれている。岡部藩の血洗島村の豪農の家に生まれのは1840年。藍染め用の藍玉などを作っている。同じ村の母方の従兄弟の尾高新五郎に儒学を学ぶうちに栄一は尊皇攘夷の思想に共感してゆく。ドラマでは、黒船来航、開港、和親条約調印、安政の大獄、桜田門外の変などが取り上げられ、水戸斉昭、一橋慶喜、平岡円四郎、松平春嶽、橋本左内、阿部正弘、井伊直弼など多彩な人物が登場する。そうした中で、栄一は外国人襲撃の計画まで立てる。

 露伴の手になる本書は、章とか項といった区分けが全くなく、従って見出しもなく、長いときには1ページを超えるパラグラフだけで区切られた300ページ近い伝記。文語文で、難しい漢字や表現がちりばめられているが、中身は面白い。文のリズムがいい。小説家が書いたものだが、よくこれだけの史料に当たったと思うほど調べている。もっとも渋沢は自伝のようなものを残していたからそれは第一級の史料だったろう。今までのところ、NHKドラマも本書の記述にほぼ沿っている。そして、本書は渋沢栄一の伝記ではあるが、露伴の歴史観を著したものとも言える。それがまた面白い。

 藤沢一族は代々名主を務める豪農である。岡部藩のために既に二千両の御用金を調達していた。栄一の家にさらに五百両の御用金の命令が来た。栄一は父の代理で代官所に出頭したがその場での承諾を拒んだ。五百両という大金を百姓から調達するというのが、信じられないが、江戸も末期になると、農村もそれほど豊かだったのだ。こうした代官の態度が、鋭気ある者を反体制側に押しやったのは事実であると露伴は言う:
そしてその極に至って世間は変じ、武家政治は亡びたので、武家政治を亡ぼしたものは、勤皇家には相違無かろうが、実はかくの如き徒輩が力(つと)めて自家の礎下の土を玦し去ってその崩壊を致したのである(p29)。

 栄一は従兄弟である尾高千代と結婚する。数えで栄一19才、千代18才である。

 文久3年、新五郎、栄一(24才)、それに父方の従兄弟渋沢喜作らは、挙兵することを計画する。まず高崎城を襲い、武器を奪い、横浜の外人居留地を襲撃しようという計画だ。結局これは計画段階で頓挫するが、栄一らは故郷にはいられなくなる。露伴はこうした行動は尊皇攘夷に燃える水戸藩が近かったことの影響もあるが、長州藩からも工作の手が伸びていたと述べてる。

 村を出るに当たって、栄一は父から百両の金をもらう。言ってみれば不良息子が家を出て行くのにこんな大金を渡す父、市郎右衛門の太っ腹を露伴は褒めるが、それには栄一の日頃の家業の励みぶりがあったからだという。栄一と喜作は一橋家の平岡円四郎の家臣となり、上京し慶喜に仕える。栄一の実務能力を高く買われてのことだ。最初は攘夷論者だった平岡は開国論に転じ、水戸藩からは睨まれ、栄一らが京都に行ったすぐ後に、京都で暗殺される。私は平岡円四郎という人物は本書というか、大河ドラマで初めて知ったが、露伴はこの人物を、徳川家が豊臣家のように滅亡しなかったのは、徳川に勝海舟と平岡円四郎がいたからだと、高く買っている。

 パリ万博に幕府から使節を派遣することになり、団長でフランス留学を命じられた慶喜の弟、徳川昭武の世話係に栄一が命じられる。このフランス行きは栄一の生涯の転機となる。実業家栄一のもとはこの欧州行きで形作られる。慶応3年(1867年)1月に立ち、パリ滞在中に幕府崩壊を知り、明治元年(1868年)11月帰国。

 帰国後は、慶喜にしたがって静岡に行き、そこで法会所を設立。明治2年、東京に出て新政府に仕える。以後明治6年に辞職するまで、租税、予算など今の大蔵省の仕事をする。以後は民間にあって、銀行や会社の設立に携わる。退官以後の事績については、よく知られているとして、露伴は省略した書き方をしている。確かに、伝記として、それ以上に幕末維新史として退官までの方がずっと面白い。

 水戸のいわゆる天狗党に対して、慶喜は冷たく突き放す。その結果、敦賀で350人あまりが処刑される。このことに対し、露伴は慶喜を援護する。同じ年の7月に長州藩が禁門の変を起こし京都から追放されたが、天狗党と長州藩との間に連絡があったと疑われる中で、天狗党を許せば慶喜の立場はなくなる。幕府も慶喜も今直ちに攘夷の実行は出来ないとしているとき、長州や天狗党を受け入れ得ることは矛盾である。是非がないと露伴は言う。栄一も天狗党の中にはかつての同志もいた。「
実に筑波山事件は栄一に取っては厳粛な人生の大学であったに疑いなく、今までも既に存在はしていたが、これより後は著しく道理詰めに事を運ぼうとして、いやしくも権道、険危の路を取るを避くる栄一一個の風格を現し出すにいたったのである。」と述べる(p92)。歴史が栄一という人物を作る。

 維新後栄一が静岡に行ったのは、パリ滞在中彼が金銭の管理を一手に行い、面倒な支払い事務などを見事に処理した手腕を買われたから。同じ理由で明治新政府に迎えられる。
 栄一の仕事を通して新しい世の中を作って行く事がいかに大変かが具体的にわかる。そういう意味でもこの部分も面白い。

 例えば、鉄道建設の問題。大隈重信や伊藤博文らは、何でも旧式のものを排し、文明開化の世として活気ある国家を建設しようと思う。しかし、一方には王政復古で幕府を倒したのだから、国学者流、神主流の保守的な考えも強く、新旧思想がぶつかっていた。旧制度を破るのは良いが、その後をどうするか誰も完全な規範を持っていない。それで有能な人材を用いざるを得なかった。栄一は資格十分の人材で、革新派の側に喜んで迎えられた。(p156)。大隈から直に国家のために働いて欲しいと説かれ、栄一も新政府のために、いや国家のために働くことを決心した。(p158)

 栄一は新たなことを立案するための調査機関、改正掛を作りそこに各方面からの人材を集めた。この会議では、地位によらず自由の論議を進め、また人材を広く集めた。前島密などはその一人である。この改正掛の提案で、実現したものとして、貨幣による納税、駅逓の整備、度量衡の統一、全国測量、戸籍の編成、賤民の呼称の廃止、勲章の設定、電信鉄道の敷設に外債を用いること、などを露伴はあげている。

 そのほか、採用はされなかったが、実技教育の充実、博物館、植物園・動物園の設置、専売特許法の設立、著作権法、養育院、職業紹介所の設置なども提案している。(p161)。

 栄一はまた富岡の製糸工場建設にも関わっている。日本の絹糸の品質向上を図る目的で、伊藤博文、渋沢栄一、フランス人ジブスケらが協議して、富岡に製糸工場が出来た。初代工場長は栄一の従兄弟、尾高勝五郎である。勝五郎は喜作と共に振武隊にあり、戊辰戦争では官軍と戦ったが、飯能で壊滅していて、その後新政府に抱えられていた。製糸工場建設の際の煉瓦作りの苦労から、工場が出来た後も、フランス人技師が飲む赤ワインを血を飲むと言って皆が恐れた話など、当初の富岡製糸工場の逸話にも触れられている。(p170~174)。

 いわゆる岩倉使節団が欧米を回っている間、大蔵卿の大久保利通も伊藤博文も同行したので、大蔵省の実務は井上馨と栄一が取り仕切った。

 新政府は新しい施策を実施するためには膨大な金が必要であった。しかし、通貨を安定させ、国家財政を健全に保つためには、各省からの予算要求を丸呑みするわけには行かない。井上と栄一は各省とことごとく対立した。中でも江藤新平の司法省との対立は厳しく、井上はついに職を辞す決意を固め、栄一もそれに従った。二人は明治6年5月に大蔵省を去った。栄一は以後官に就くことはなかった。

 巻末には編集者により、本文に登場する人物の簡単な紹介がされているが、38ページ、その数およそ400人。これが結構参考になる。

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書名 人新世の「資本論」 著者 斉藤幸平 No
2021-10
発行所 集英社新書 発行年 2020年9月 読了年月日 2021-04-28 記入年月日 2021-04-29

 「日本資本主義の産みの親」の伝記の後に読んだ本書は、資本主義を否定し、資本主義からの脱却を説く本。きっかけは今月のエッセイ教室の際、下重暁子さんが今この本を読んでいると言って、わざわざ皆に示したこと。長い付き合いで自著以外の本を手にして勧めたのは初めて。決して読みやすい本ではなく、また、資本主義の大量消費社会にとっぷりと浸っている私達には耳の痛い本だが、2021年新書大賞の本で、既に30万部でたという。下重さんはこの本の後、「資本論」に挑戦するつもりだと言った。著者は1987年生まれの経済学者。

 要約すれば、今人類が面している最大の危機は気候変動で、このまま進めば取り返しのつかないことになる。それを防ぐ唯一の方法は「脱成長コミュニズム」で、これは最晩年のマルクスが目指していたものである。ただ、「資本論」を書いた頃のマルクスにはこうした考えはなかったが、「資本論」以後、晩年の書簡などを調べてみて新たに発見されたものだという。
以下本書の主張から:
「人新世(Anthropocence)」とは、人間たちの活動の痕跡が地球の表面を覆いつくした年代という意味で、ノーベル化学賞受賞者のパウル・クルッツェンが命名した。(p5)
 本書の「はじめに」で国連が掲げ、各国政府も大企業も推進するSDGs(持続可能な開発目標)は「大衆のアヘン」であると断じる。

「人新世」の環境危機によって明らかになりつつあるのは、皮肉なことに、まさに経済成長が、人類の繁栄の基盤を切り崩しつつあるという事実である。(p5)
  そして気候危機の原因の鍵を握るのは資本主義である。なぜなら、二酸化炭素の排出量が大きく増えたのは産業革命以降、つまり資本主義が始動して以来のことであるからとする。気候変動を引き起こしたのが資本主義であるから、資本主義という根本原因を温存したままでは解決することが出来ない。

 
資本主義とは、価値増殖と資本蓄積のために、さらなる市場を絶えず開拓していくシステムである。そして、その過程では、環境への負荷を外部へ転嫁しながら、自然と人間からの収奪を行ってきた。この過程は、マルクスが言うように、「際限のない」運動である。利潤を増やすための経済成長を決して止めることがないのが、資本主義の本質なのだ。中略・・・このままいけば、資本主義が地球の表面を徹底的に変えてしまい、人類が生きられない環境になってしまう。それが、「人新世」という時代の終着点である。(p118~)。

 いわゆる北の先進国に住む我々は、大量生産・大量消費型の豊かな生活を享受しているが、それはいわゆる南の地域や社会集団から収奪し、豊かな生活の代償を押しつけている。そうした収奪や代償の転嫁なしには北の人々の生活様式は維持できない。しかも、代償の転嫁は目には見えない。

 技術発展があっても、二酸化炭素の絶対量を減らすことは出来ない。というのは、技術発展に伴い、経済成長も起こるから、結局は二酸化炭素の絶対量の減少にはつながらない。温暖化ガスの削減は経済成長を止めることでしか達成できない。
 
 
最晩年のマルクスの認識は次のようなものだ。資本主義のもとでの生産力の上昇は、人類の解放をもたらすとは限らない。それどころか、生命の根源的な条件である自然の物質代謝を攪乱し、亀裂を生む。資本主義がもたらすものは、コミュニズムに向けた進歩ではない。むしろ、社会の繁栄にとって不可欠な「自然の生命力」を資本主義は破壊する。(p186)
 マルクスは「資本論」の中では、資本主義が進んで社会主義・共産主義の段階に達するとしていた。そうした進歩史観は、晩年のマルクスには見られないという。

「価値」と「使用価値」の対立。ものの価値は本来「使用価値」ではかられるものだが、資本主義では商品の「価値」としてはかられる。「価値」は「希少性」によって生み出される。例えばブランド化。ロレックスとカシオでは時計の使用価値は差がないのに、ロレックスはブランド化されていて人為的に稀少化され、人々の欲望をかき立てる。こうした相対的希少性は、人々の間に終わりなき競争を生み、絶えざる消費へと駆り立てる。:
「満たされない」という希少性の感覚こそが、資本主義の原動力なのである。だが、それでは、人々は一向に幸せになれない。(p257)

 脱成長コミュニズムの柱として著者は以下の5つをあげる。
1.使用価値経済への転換 大量生産大量消費からの脱却
 GDPの増大を目指すのではなく、人々の基本的ニーズを満たすことを重視する。
2.労働時間の短縮 労働時間を削減し生活の質を向上させる
3.画一的な分業の廃止  労働の創造性を回復させる
4.生産過程の民主化 生産プロセスの民主化を進め経済を減速させる
 私には「民主化」ということの具体的なイメージがつかめない。
5.エッセンシャルワークの重視 労働集約型のエッセンシャルワークの重視。
 エッセンシャルワークの例としてケア労働をあげている。

 刺激的な本だ。資本主義の現状に対する考察には同意するところが多い。しかし、ソ連の崩壊、一党独裁という政治のもとで資本主義経済を発展させ今もなお世界でも最も高い成長率を誇っている中国を見ると、資本主義は、個性を発揮したい、創造性を発揮したい、他人に認めてもらいたい、他人に優越したいという人間の本性に根ざしているように私には思える。本書の理想とする社会が実現するのは極めて難しいと考えている。

 私は経済成長を維持しながら、技術の進展により温暖化ガスの削減は可能だと思っている。

 巻末には詳細な引用文献が載る。半分は外国語の文献だ。英語で著し、5カ国語に翻訳された本が「ドイッチャー賞」を受賞したという。

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書名 農の原理の史的研究 著者 藤原辰史 No
2021-11
発行所 創元社 発行年 2021年1月 読了年月日 2021-05-09 記入年月日 2012-06-01

 サブタイトルは(「農学栄えて農業亡ぶ」再考)。ネットの記事で知った本。

 大学は農学部を出て、趣味として家庭菜園を長年やってきた。それ以上に私のルーツは百姓で、父の実家は20代になろうとする専業農家を今も続けている。10才までは私も農村で育った。いまでも「農」は私に深く染みついているが、本書は私が初めて知ることばかりだった。内容はかなり高度で専門的。偶然にも本書も資本主義と農業の関係への考察が深い。

 序章は「
科学はなぜ農業の死を夢見るのか」は、タイトルからして難解だ。
 
最近の食と農を巡る科学とテクノロジーの進歩のあり方を眺めてみると、農業と料理から人間の解放される道は、多くの人が知らぬ間に舗装されているように思える(p8)。この基本認識、危機感が本書執筆の動機のようだ。そうした現在の趨勢の中で、著名な農学者の足跡で農学の歴史を振り返ってみるというのが本書の趣旨。

 取り上げられたのは、チャヤーノフ、横井時敬、橋本傳左衞門。杉野忠夫、川島武宣、吉岡金市。いずれも初めて聞く名前。
 
 チャヤーノフ:ロシアの農学者。1923年『小農経済の原理』を著し、家族労働を主体とする農業経営の方が、広大な土地での移動・運搬に手間取る大規模経営よりも有利であると主張した。ロシア革命後、土地改革として土地国有化ではなく、すべての土地を勤労農民へというスローガンを掲げざるを得なかったのは、チャヤーノフたちの運動が、広く農民に指示されていたからである。

 チャヤーノフはまた『農民ユートピア国旅行記』と小説も書いている。その中で言う。「
労働する者一人一人が創造する者であり、それぞれの個性の発揮が労働の芸術である。そして、村での農民的なくらしは、一番健康によく、一番バラエティに富んでいて、それが人間の自然な姿である。資本主義も社会主義も期待する第三者に制御されるような労働の概念を崩し、労働の担い手自身の自由な発想にゆだね、労働を美に再結合することが、ここでは原則として目指されている。このような本来の人間の自然な姿から、人間を引きはがしたのが資本主義の悪魔に他ならない。」この主張は「人新世の資本論」にも通じるものだ。

横井時敬(1860年ー1927年):
 東京農業大学の創始者で学長。「農本主義」という言葉を発明した。欧米由来の利潤追求型の農学とは異なる、雑味の多い日本農学の基礎を打ち立てようとしたと、著者は言う。学問が精密さを求めすぎて全体像を失っていくいま、八方破れで実学主義を実践した横井を見直す必要があるという。

 実学における横井の最大の貢献は塩水選種法の考案。塩分濃度を変えた塩水に種を浸し、比重の重い、つまり充実した種子を分ける方法。私も菜園で麦を作った際、この方法で種子の選別を行った。現場で役立つか役立たないか、現場に届くか届かないか、横井の農学の評価軸はこれ以外にないと著者は言う。

 自然環境の制限を最大限受け、それを最大限利用する小農経営のあり方には、融通の利かない大規模な機械化は馴染まないというのが横井の主張。

 横井の農本主義は、資本主義の中で農業を保護、育成する思想であり、社会主義運動や労働運動に対抗する思想であり、戦時に強い国家になるための食糧自給目的政策を下支えする思想であったが、資本主義の発展に対して、村落共同体の温情や情義を軸として抵抗して行くことをノスタルジックに語るものでもあった。

橋本傳左衞門(1887年ー1977年):東京帝国大学農学部農業経済学科の創設者。 第一次大戦後のドイツに留学している。満州移民推進派の論客として、移民の実現に心血を注いだ。1936年には政府により「満州農業移民百万戸計画」が作られたが、500万人を異郷へ送り出すというとてつもないものだった。

 橋本は農業経営の目標は、利潤をいかに増やすかではなく、農家の所得をいかに増やすかにあるとした。彼は日本の農民をエリート農民とみなし、文化程度の高い日本の勤労農民はできるだけ多くの所得を獲得するという明確な目標を持っているとした。

 戦前の家族制度の温存とそれに基づいた小農主義の発展を戦後も訴えた。夫、妻、祖父母、子供といったさまざまな労働力を季節と構成人員に応じて自由に用いる家族労作経営を日本農業の中核に据え、世界覆う資本主義の暴威に立ち向かうという考えは、橋本の師である横井の立場を踏襲したものである(p150)。

杉野忠夫(1901年-1965年)
 東大法学部在学中は新人会の闘志として活動。卒業後、橋本傳左衞門をたより京大に移る。京大では特高に目をつけられ家宅捜査され、要観察人とされる。この事件で落ち込んではいたが、まだマルクス主義理論を手放さない杉野に、橋本は農村に1年間住んでみて農村の社会調査を行うことを勧め、杉野は応じる。そこで行われていた二宮尊徳報徳会に出ているうちに、尊徳の教えが今も息づいていることを知り、それはアダムスミスを超え、、マルクスを超えるものであったという。昭和の2年から3年にかけてのことであった。

親子夫婦が一体となって営々として働き土を耕し土によって生くる生活の中に力強い安定感永恒感を感じた。そして現代を資本主義社会だと云ふ規定そのものが何か空のものの様な気がし始めたのである。資本とか労働とか利潤とか階級とかと云ふものが一つの陰影にすぎなくて、もつともつと生々とした何かがほんとうの歴史的現実であるのではないかと云ふことに気がついて来たのである。」(p178)

 その後杉野は満州開拓運動に深く関わり、自身も現地に渡り、開拓団や青少年義勇軍の巡回指導に当たる。戦後、満州で青少年に犠牲を強いたことを心にかけながらも、海外へ農業移民する学生たちの教育に当たった。

川島武宣
 法学者。この章では川島自身の経歴等は簡単に触れられ、主にナチス下のドイツの農学、農村が述べられ、ナチスの「世襲農場法」とそれに倣って川島らが作った「満州開拓農場法」とが対比的に述べられる。この二つの法律の共通点:第一に、永遠性の希求。先祖代々が耕してきた土地を本来受け継ぐこと。第二に土地の売買、抵当化、分割、譲渡の禁止。商品化から土地を守る、生命を持った土地を金で換算しない、これが根本思想。第三に自家労力中心主義。

 ナチスの思想を以下のように言う:
ナチスの思想は市民社会に真っ向から対立するものであった。・・・・移動の自由を制限し、農民を土地に縛り付け、個人主義や資本主義を憎悪し、この民族共同体に奉仕する人間を、人種主義という「価値体系」を持ち出して称揚したのである。ここに限って言えば、根本的な資本主義社会へのアンチテーゼであったと言えよう。(p221)

 昭和の初め、不況にあえぎ行き場のない怒りの雰囲気に満ちていた農村は、日独双方の軍国主義を育てた培養地だったと著者は言う(p214)。
 
吉岡金市:(1902年~1986年)
 岡山県の農村生まれで、幼いときから農作業の手伝いをする。京都大学で農業経済学を学ぶ。彼が力を注いだのは、農業の機械化、特に日本に適した歩行型トラクターの推進と、直播き式稲作、機械化に適した稲の品種改良。トラクターの開発を支援した農学者として名を知られる。戦前に著した本では機械化推進のためにスターリンによるソ連の農業集団化を理想とし、横井時敬の「農本主義」に反対した。また、獲得形質が遺伝するというルイセンコ学説も信奉した。それはメンデル=モルガンの生物観が要素還元的であるのに、ルイセンコ学説が諸要素を総合して生物を見ているように映ったからだ。しかし、後にスターリン農政やルイセンコ学説とは決別する。

 吉岡は自然科学と社会科学の専門化が進んだ時代において、その統一あるいは総合に挑戦した。その最大の成果は、イタイイタイ病の原因究明であった。

 吉岡は有機農法には批判的であった。有機農法論者が、リービッヒの化学肥料論を害悪の権化と見るのに対し、吉岡はマルクスがいかに高くリービッヒを評価していたかを見るべきだと主張した。『人新世の資本論』でもマルクスがリービッヒを高く評価していることは強調されている。マルクスが『資本論』のノートの中で、有機農業やエコロジズムにも通じる視点を出していると本書でも述べられていることは興味深い。

巻末には膨大な引用文献がリストアップされている。

本書はパルマコン叢書の3冊目。帯の創刊の辞:薬や薬学・薬局の語源ともなったギリシャ語パルマコン(pharnakon)。それは古代ギリシャにおいて、薬でもあり毒でもあるという両義的な意味を持つ言葉であり存在であった。古来、すぐれた書物もまた、良薬や治療薬であると同時に、毒薬や劇薬でもある存在として、沈滞する世界の活性化に寄与してきたのである。叢書パルマコンもまた、毒でも薬でもある書物であって、人文知の世界の活性化に寄与して生きたい。

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書名 著者 中村裕 No
2021-12
発行所 鞦韆堂 発行年 平成9年 読了年月日 2021-05-19 記入年月日 2021-05-19

 エッセイ教室の受講生、松本邦夫さんが、かつて師事した俳人。初めて名を聞いた。松本さんからコピーをいただき読んだ。
 有季定型俳句に浸っている私には,こうした無季自由律句は新鮮だった。目についた句を抜き書き。
 
地球にそら砂の軋みを体ぢゆう  冒頭句
残る雪は徹底的に踏まれけり
揺らし持つビニール袋の蛍烏賊
行く人なき道の信号青から黄
蓋されし川面をながき遊歩道
ゆく春や影も日向もふはと置く
干き飛ぶででむしの殻コンクリート
発泡スチロールすつ飛んでゆく静けさよ
突堤を戻る少年ガム噛んで
履かれずに仕舞ふスリツパ竹落葉
丸山真男死す八月十五日曇天
捨畳重なり合へば夢の島
知らざりし枕の耐久年数よ
少年は蜻蛉に乗りてゆく他郷
日向石蹴とばされてはまた日向
吊革に指一本の立ち寝かな
ひかり号過ぎ横揺れのこだま号
飛行機で着陸したるまぐろかな
石削り石となりたる俳句かな
ビニールがはためく夜の始まりぬ   掉尾の句


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書名 藤井聡太論 著者 谷川浩司 No
2021-13
発行所 講談社α新書 発行年 2021-05-19 読了年月日 2021-06-02 記入年月日 2021-06-02

 ヤフーで本書の記事が出ていた。アマゾンで注文したら、届くまで1週間かかった。普通の本は注文後2日で届く。発刊と同時によく売れたのだろう。

 私は2019年12月のエッセイ「泥沼流」で、かつての名人経験者の棋風から来るニックネームのことを書いた。「泥沼流」とは故米長永世棋聖のことだ。最近の若手棋士にはそうしたニックネームがない。それで私は藤井聡太を「光速自然流」と呼んだらどうかと書いた。中原誠名人の「自然流」と,光速の寄せを武器とした谷川浩司名人の「光速流」をあわせたものだ。藤井7段の棋風をよく表しているいいニックネームだと自負している。

 その、光速流の元祖が,藤井聡太のことを書いた。読まないわけにはいかない。

 本書の魅力はなんと言っても谷川の人柄の良さが溢れていること。藤井に対するリスペクトと、付け加えて羽生に対するリスペクトが随所で述べられている。

 谷川は言う。今も数々の記録を塗り替えている藤井は棋士たちを「
高度なマインドスポーツを展開する頭脳集団」というイメージに変えていった。その原動力はAIとも比べられるほどの藤井の強さであった。対局は、対戦者二人で作り上げるものであり,拮抗した力を持った棋士のいることが熱戦、名局の条件になる。とくにトップ棋士には対藤井戦で熱戦、名局を作り上げる責任と義務がある。
 これはすごい言葉だ。

 どのような局面でも動揺しないメンタルの強さと、局面に没頭する集中力のすごさを藤井の強さの源泉としている。藤井の将棋はほとんどがネット中継され,私はほとんどの対局を見ている。だから、本書に書かれたことはとてもよく理解でき、納得できる。解説の棋士や我々が見て当然と思われる一手に、何十分も考える藤井の姿には驚くことが多い。
 羽生に対しては,羽生と同世代の棋士たちが「序盤の体系化」という革命を起こしたと評価し、羽生さんの存在があったから自分のレベルを高めることが出来た。そして、将棋というものがほんの少しだけわかるようになった。

 谷川は自分と藤井との共通の趣味として、数字が好きなこと、鉄道が好きなことをあげている。本書には谷川の数字好きが随所に溢れていて、よくもこんなに調べたものだと感心する。谷川は棋士の強さは勝ち数から負け数を引いた数字で表されるという。1位は羽生で852、ついで大山康晴652、中原誠526、そして4位が谷川の463。この順位はタイトル獲得数につながっている(p32~)。続けて、藤井の勝率8割超えがいかにすごいものであるかが,数字をあげて解説される。さらに、藤井の29連勝に触れ、勝率5割の棋士が達成する確率は5億数千万分の1であるが、8割の棋士だと111分の1、9割の棋士なら21分の1となり、藤井の今の勝率から考えると、自身が言うような「運が良かった」では済まされない記録であるという。

 2017年に時の佐藤天彦名人がAIソフトと対戦し、0-2で完敗して以後、ソフトと棋士の対戦はなくなった。その後,棋士はソフトと対決するのではなく,共存する道を選んだ。私は将棋界はAIをもっとも上手く使いこなしている分野だと思っている。現在棋士は、自分の対局の棋譜をAIにより精査し、最新形になった局面でのソフトの最善手を調べ,自分の読みや考え方との差異を検討している。もちろん藤井も最大限に利用している。AIは局面ごとにどちらがいいのかを点数表示する。それはネットの中継画で一手ごとに示される。将棋に詳しくない人でも,この評価値を見て将棋の楽しさを感じている人は多いという。

 谷川は言う。いくらコンピュータの処理能力が伸びても、将棋が最後まで解明されることはないと考える。いくらAIが進化しても,人間には面白い将棋を指すことが出来る。そして、それが将棋の棋士の存在意義とも言える。

 私が見る限り、藤井の将棋は見ていて面白い。

 今日、6月2日時点で,藤井は棋聖戦で渡辺名人の挑戦を受けることが決まっている。さらに豊島の持つ叡王と竜王への挑戦権の可能性も残っている。目が離せない。

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書名 川柳のエロティシズム 著者 下山弘 No
2021-14
発行所 新潮新書 発行年 1995年 読了年月日 2021-06-15 記入年月日 2021-06-29

 有隣堂の古書で見つけた。
 著者は古川柳の根幹をなす美学として粋指向、通指向にあるとする。そうした美学が今流行のサラリーマン川柳などには抜けている。俳句の世界では芭蕉や蕪村が愛され,敬慕されているのに、古川柳が顧みられないのはそうした事情によるとする。古川柳を研究すれば,江戸市民たちの精神構造がより明らかになる。本書は川柳のうちでも「ばれ句」と呼ばれる性に題材を採った句を取り上げる。

『誹風末摘花』初編 安永5年(1776年)。初編に続いて4編まで刊行された。全部で2431句が掲載される。明治以降戦後まで発禁本であった。
道鏡が出るまで牛蒡洗ふやう
 奈良時代の弓削道鏡の巨根伝説を題材
『誹風柳多留拾遺』 寛政8年(1796年)刊
出雲からしかられさふなゑんむすび
 結婚の神様から叱られそうな常識外れの結婚

 川柳の作者は名が明らかにされていない。投句がほとんどであったからだ。万句合といって一般市民が応募料金を払って投句し,入選句が発表され,作者には賞品が与えられる。18世紀後半には大流行した。一番人気のあった選者は柄井川柳で、10日ごとに興行し、多い月には5万句を超えた。例えば、彼が明和3年(1766年)10月5日付けで入選発表したのは419句。投句は15455句であった。以下;
「高ひことかな高ひことかな」に前句を付ける。
石山で出来た書物のやわらかき
『源氏物語』が石山寺で書かれたという伝説による。気高いあるいは価値が高いという意味。

たつぷりと暮れてとむこの方でい々
「むこ」は入り婿のことで女房に頭が上がらない男というのが川柳の約束事。新婚期間中はせっせと励みがちで,昼間からでもというのは普通の亭主で,婿はおとなしく、そうはいかない。舅や姑に気兼ねして「日がとっぷりと暮れてからにしよう」と女房をなだめる。

「よこに成りけり横に成りけり」に前句
又かへと女房笑ひ笑ひ寄る
「すんだばかりなのに」でも「毎晩続けたのに今夜もまたかい」でもいい。女房の強淫を暴露する趣味は、粋好みに由来すると著者は言う。

以後、技巧に走る句が多くなる。
後の親を親とせず芋でんがく   寛政元年
 芋田楽とは娘とその母親と通じること。この句は「後の親」と言っているから婿入りしてそうなったのだ。

 技巧に走り、やがてわいせつ性の高いものになっていき、「狂句」と呼ばれるようになり川柳とは区別される。性交と性器をテーマにしたものがほとんど。
『柳の葉末』天保6年刊より:
子の出来るあんばい仈(まら)の放れ業
白まらと赤まら常磐喰いくらべ

 常盤御前は源義朝の妾で、その後平清盛のものになる。
 
 本書の締めくくり:
千数百年の日本の文芸史上で粋を目指しつつポルノを装うという芸当が、大衆参加の形で活発に演じられたなどということが、ばれ句以外にあっただろうか。(p206)

江戸川柳で現代を読む」をかなり以前に読んだ時、川柳の理解には当時の風習に通じていなければ不可能であると感じたが、本書でも同じ。逆に言えば,著者の言うように川柳を読み解くことにより江戸庶民の生活感情を理解することが出来る。

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書名 俳句の歴史 著者 山下一海 No
2021-15
発行所 朝日新聞社 発行年 1999年 読了年月日 2021-06-19 記入年月日 2021-06-30

 客観的に書かれた俳句の歴史。芭蕉、蕪村、一茶、子規、そして虚子についての記述は当然ながら分量が多くなるが、決して特定の誰かに肩入れした書き方ではない。典型的には桑原武夫の俳句第二芸術論にも関しても以下のように記している:・・・戦後俳句は、第二芸術論によって大きな刺激を受けた。その論によってもたらされる危機感が、俳壇の一つの活力となった。以後の俳句の論議には、さまざまな形で第二芸術論の影が落ちている。俳句を否定するはずの第二芸術論が、俳句に塩を送る結果となったわけである。(p278)

 本書で特に目新しかったのは、天保から明治中期にかけてのいわゆる月並み俳句についても多くの作者とその作品が挙げられていること。初めて知る作者だが、その句は確かに平板で低俗であると思う。

 私の句は貞門あるいは談林の言葉遊び的な俳句の域を抜けていないことを本書を読んで痛感する。芭蕉の高みとはほど遠い。芭蕉のかるみを真似た句も試みるが、平明ではあっても深みがない。

本書の後書きより:
現在、盛んに生み出されている俳句は,江戸時代以前の俳諧の発句とは、まったく異なったものだという意見がある。しかし私はそうは思わない。定型と季語、あるいは切字という伝統的な約束を、ときには乗り越え、否定しようとするような動きを含みながらも、現在の俳句は深く室町時代以来の俳諧の発句に根差している。そもそも、伝統を乗り越え、既成の権威を否定するところから、俳諧、そして俳句の活力が生まれてきていた。

以上の著者の考えに従って、俳句の発展を一覧するため、本書の掲載順に句と作者を抜き書きする。
 
北野どの御すきものや梅の花   作者不明 明応8年(1499年)独立した最初の俳諧連歌書『竹馬狂吟集』
 北野どのは菅原道真であり、また貴人の妻「北の方」をかけていて、それが身ごもってい酸っぱ梅干しを好むという意味も込められているという。

にがにがしいつまで嵐ふきの薹  山崎宗鑑   『犬筑波集』 1540年
飛梅やかろがろしくも神の春   荒木田守武  『守武千句』 1540年
霞さへまだらにたつやとらの年  松永貞徳
ながむとて花にもいたし頸の骨  西山宗因    万治3年 (1660年)
咲く花や懐紙合はせて四百本   井原西鶴   寛文3年(1673年)『生玉万句』
富士に傍うて三月七日八日かな  伊藤信徳
目には青葉山ほととぎすはつ松鰹   山口素堂
芋洗ふ女に月は落ちにけり    池西言水
笹折りて白魚のたえだえ青し   椎本才麿
元日やされば野川の水の音    小西来山
によつぽりと秋の空なる不尽の空 上島鬼貫
雪の朝独り干鮭噛み得タリ    松尾芭蕉   延宝末から天和にかけての句  漢詩の読み下し調
野ざらしを心に風のしむ身かな   芭蕉   『野ざらし紀行』貞享元年(1684年)蕉風の成立
古池や蛙飛びこむ水の音     芭蕉   一瞬の水音により静寂が一層深まるという解釈が定説

闇の夜は吉原ばかり月夜かな   其角
蒲団着て寝たる姿や東山     嵐雪
元日や家に譲りの太刀帯(は)かん 去来
幾人かしぐれかけぬく瀬田の橋  丈草
馬の頬押しつけつむや菫草    杉風
菜の花の中に城あり郡山     許六
歌書よりも軍書にかなし芳野山   支考   無季であるが名所の句は無季でいいとの芭蕉の教えによる
長松(ちょうまつ)が親の名で来る御慶かな  野坡
うめの花赤いは赤いはあかいはな 惟然
灰捨てて白梅うるむ垣ねかな   凡兆
以上蕉門十哲  

昼顔の砂踏み崩す暑さかな    支考   美濃派
鶯のいくつも捨てて初音かな   廬元坊  美濃派
それも応是もおうなり老の春   涼菟   伊勢派
花かさぬ身をすぼめたる柳かな  乙田   伊勢派
朝顔に釣瓶とられてもらひ水   千代女
折つて後貰ふ声あり垣の梅    沾徳(せんとく)
梅が香や南吹く夜の肘枕     州沾   享保
川上の虹を白眼(にら)むや梅の花 淡々  享保上方

中興俳句の始動
くれなゐに花しばらくの朝日かな  坡仄  『我庵』 宝暦12年(1762年)
たま祭夜更けて瓜のにほひかな   野梅   同
あらし吹く草の中よりけふの月   樗良   同
名月や沖の高なみひかりさし    宗居   同
白菊や浅黄に見ゆる折もあり    蘿父   同
蝶々や昼は朱雀の道淋し      麦水
はるのゆき扇ではらふ衣紋かな   暁台
若菜野や赤裳引きづる雪の上    闌更
夕風や野川を蝶の越えしより     白雄

蕪村
古庭に鶯啼きぬ日もすがら     蕪村   初めて蕪村と名乗った句

川柳の成立
 川柳は俳諧の付け句が独立。7・7の前句として5・7・5を付けたもの。
ころころとなるは鈍栗(どんぐり)落としなり  『ばせをだらひ』(享保9年) 
この句は 其の鬼見たし蓑虫がちち  芭蕉  に付けたもの。 やがて付け句が独立。

丈(せい)くらべ手を和らかに提げて居る  『武玉川』寛延3年(1750年)
かみなりをまねて腹掛やつとさせ       『柳多留』 明和2年(1765年)

一茶の個性
我と来て遊べや親のない雀 一茶

化政期の成熟
大仏の柱くぐるや春の風      二柳
しら魚に有明月のうるみかな     大江丸
長き夜や思ひあまりの泣寝入り    星布   女流
解けてゆく物みな青し春の雪     菊舎   女流  佳句が多い
山門を出れば日本ぞ茶摘みうた    菊舎
たうたうと滝の落ちこむ茂りかな   士朗
草山や潮じめりにかへる雁      成美
あぢさいやしまひのつかぬ昼の酒  乙二
卯の花の満ちたり月は廿日頃     月居(げっきょ)
ゆさゆさと桜もてくる月夜かな    道彦
梅散るやなにはの夜の道具市    巣兆(そうちょう)

天保・幕末
暮遅き加茂の川添ひ下りけり     鳳朗(ほうろう)
いつ暮れて水田のうへ春の月     蒼虬(そうきゅう)
元日や人の妻子の美しき       梅室(ばいしつ)   
春の雪ゆきの遠山見えて降る     卓池(たくち)
雪解けや蝶も来さうな障子かげ    多代女
海を見て戻れば霞む戸口かな     鼎左(ていさ)
石坂の照りつけられて蝉の声     為山
春の水何処にもよどみなかりけり   芹舎(きんしゃ)
鶏の吹き寄せられし柳かな      等栽
菜の花に入らんとするや走り波    春湖
行く雁やから傘たたむ橋の上     蒼山
鴨の毛の流れとまるや芹の中     永機
掃きおろす二階の塵や夕霞      梅年

革新の待望
蝶に貸す日南(ひなた)もできて庵の春 其戎(きじゅう)『俳諧明倫雑誌』明治7年。其戎はその後子規が学ぶ俳人
哀れとも見るや海鼠の伸び縮み    唫風  同上
眠る間もとまらぬ年の流れかな    旭齋  同上
水鳥や一羽立つにも騒がしき     角丈  同上
 以下3句は太陽暦採用後の新季語
澄みきつて空うつくしや四方拝    天年  『古今俳諧明治五百題』明治12年
海軍の始めや海にうつる波      松影   同上
一すぢの御稜威(みいつ)仰ぐや紀元節 巌  同上

腰蓑の小海老ふるふや夕霞      芦城  『俳諧明倫雑誌』明治21年
野の家の朝から眠き霞かな      詩竹   同上
牧童が袖の薫りや梅は何処      可然   同上
覚えある松見に出れば夕霞      月彦   同上

子規の役割
 俳句における写生の確立、芭蕉批判と蕪村の再評価、日本派の形成の3点。
雪ふりや棟の白猫声ばかり    子規のもっとも古い句。

虚子・碧梧桐論争
温泉(ゆ)の宿に馬の子飼へり蝿の声   碧梧桐 『ホトトギス』明治36年
 「温泉百句」として読まれたなかの句。虚子はこの句を批評して「温泉の宿に馬の飼へり合歓の花」とすべきだと改作して見せた。
そのほかの句もあげて碧梧桐の作句を批判した。

川音や人声もして明け易き    虚子  明治36年作
長き夜の水声楼をめぐりけり   乙字   碧梧桐の門の三羽烏と称された
暮雨暗し秋冷窓に迫るなり    六花   同上
蝙蝠や紫陽花の花暮るる色    碧童  同上

ホトトギス
花鳥の魂(たま)遊ぶ絵師の午寐かな 水巴 明治41年「ホトトギス」第一回雑詠欄の第一席
世を恋うて人を恐る々夜寒かな     鬼城
荼毘の月提灯かけし松に踞す      蛇笏
しみじみと日を吸ふ柿の静かな     普羅
風呂の戸に迫りて谷の朧かな      石鼎
 以上虚子門の五大家

自由律俳句
霙(みぞ)れるそのうなじへメスを刺させい  一碧楼  大正元年
力一ぱいに泣く児と啼く鶏との朝  井泉水
分け入つても分け入つても青い山  山頭火
淋しいからだから爪がのび出す   放哉

客観写生の時代
松明揚ぐれば峡中赤き夜振かな   西山泊雲
小枝抱きて生けるが如し蟻の蝉   島村はじめ(アメリカ生まれ、31才で没)
糸引いて石這ふ蜘蛛や冬川原    鈴木花蓑
一抹の帽子の黴やなで払ふ     池内たけし
笹の子のうす紫や小筆ほど     野村泊月
雨粒のたち来し池や水馬      岩木躑躅

第三の境域
光氏と紫と寐る布団かな      東洋城
牡丹のたはみそめたる夜色哉    月斗
大霜の枯蔓鳴らす雀かな      亜浪
短夜や乳ぜり泣く児を須可捨焉乎(すてつちまおか)  竹下しづの女
遠野火や寂しき友と手をつなぐ   草城
閻王や蒟蒻そなふ山のごと     茅舎

4Sの時代
打水や脛より落ちし子かまきり   素十
天平のをとめぞ立てる雛かな    秋櫻子
さみだれのあまだればかり浮御堂  青畝
暑さにだれし指悉く折り鳴らす   誓子

「馬酔木」の変貌
 秋櫻子は俳句の欠点を補うものとして連作の有効性を述べ,実施した。自選作発表権を持つ同人の制度を定めた。(昭和8年)。
 これにより選者の選択を経ないで,連作句を一句も欠くことなく発表できた。
我が思ふ白い青空と落葉ふる    高島窓秋

新興俳句の進展
蓮池に昆虫網をうつし過ぐ    禅寺洞
顔あげて笹鳴見ゆる机かな    風生
花あしびみどりの壺のふくらみ来 多佳女
満天の星に旅ゆくマストあり   雲彦
カンカン帽壁にある日の風の秋  青峰
聖燭祭妊(はら)まぬ婦人をとめさび  三鬼
春宵の黄金色の鳥瞳に棲める   赤黄男
くちすへばほほづきありぬあはれあはれ  安住あつし

人間探求派
寒雷やぴりりぴりりと真夜の玻璃  楸邨
楸邨の他、草田男、波郷、篠原梵。さらにその流れをくむ俳人に、西島麦南、大野林火、京極杞陽  

戦場俳句と戦火想望俳句
雪の上にうつぶす敵屍銅貨散り   素逝  昭和13年「ホトトギス」
機関銃熱キ蛇腹ヲ震ハスル     三鬼  昭和15年『旗』
 この句以下全15句はすべて「機関銃」から始まる連作。

敗戦から第二芸実論へ
夏の海水兵ひとり紛失す      白泉
火の奥に牡丹崩るるさまを見つ   楸邨
玉音を理解せし者前に出よ     白泉
一本の鶏頭燃えて戦終る      楸邨
敵といふもの今は無し秋の月    虚子

戦後俳壇の展開
壮行や深雪に犬のみ腰をおとし   草田男
メーデー旗いまもはためくわが胸に 赤城さかえ
夢の世に葱を作りて寂しさよ    永田耕衣 「天狼」同人 
 「天狼」からは鷹羽狩行、上田五千石が出て次の時代の俳壇を背負う花形となった。

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書名 光る源氏の物語(上) 著者 大野晋、丸谷才一 No
2021-16
発行所 中央公論社 発行年 1989年 読了年月日 2021-07-15 記入年月日 2021-07-22

 高校のクラスメート、桐村さんから本を整理したいと言って、送られてきた。

 国語学者と小説家・文芸評論家の対談形式による源氏物語の読み解き。二人の論議はかみ合っていて、堅苦しい源氏論ではなく、時々は下世話な話を交えて、従来の定説に挑んだりして、読み出したら面白くて止まらなかった。物語のポイントとなる場面は原文に丸谷訳が添えられる。本巻は「桐壺」から「藤裏葉」まで。

 元々が光源氏の色好みの物語だから、堅苦しい源氏研究家とちがって丸谷才一は適任だ。一夜を共にした男女の間に肉体関係(本書では「実事」という言い方をする)があったかどうかはを判断することは、読む上で大切なことだとし、いろいろな場面で実事があった、なかったと論じている。例えば空蝉と源氏の間。昔からありなし論があり、特に江戸時代の儒学者などはなしとしているが、ここは当然実事ありだと二人は断定する。

 私はずっと以前に谷崎源氏を読んだ際、冷泉帝は源氏と藤壺の間の子だと出てきて、それではそんな場面があったのかと、戻って読み返してみたが、ついにその様な記述を見いだすことが出来なかった。これは長い間の私の疑問であったが、本書でそれが氷解した。谷崎源氏は戦前に刊行されもので、中宮と帝の息子の密通など不敬極まりないとして、カットされたと本書は言う。もっとも私の読んだ谷崎源氏は戦後の新訳だったが。

 源氏物語にはストーリーとして二系列の分かれるとは従来から言われている。大野もそれを認め、表にまとめている。(p51)
 a系列は桐壺から藤葉裏まで続く物語の本筋。ここにb系列として短編的なエピソードが挿入される。帚木、空蝉、夕顔と続く三帖、若紫を挟んで、末摘花が入り紅葉賀から澪標までaとなり、逢生、関屋とb系列が二つ入り、絵合から少女までのa、そして玉鬘から真木柱までのいわゆる玉鬘十帖のb系列、そして梅枝と藤裏葉のa系列。

 a系列だけ取り出して読めば物語は極めて明快だと大野は言う。光源氏が生まれて、帝にはならないが臣下でもないという予言の謎が、三十三帖の藤裏葉で源氏が准太上天皇になることで解かれるというストーリーだと大野は言う。丸谷もなるほどと同意。ただ、これだけだと光源氏がご立派と言うことになってしまうので、空蝉、夕顔、末摘花、玉鬘を女主人公とする物語を入れた。この四人については、源氏の恋の失敗談。おそらく紫式部は、これらは若い娘ではなく、中年の男を読者として想定して書いたのだろうと大野。
 丸谷はb系列を入れさせたのは道長だろうという。自分の恋の失敗談をいろいろ式部に語った。(p51~55)。

 丸谷は源氏物語の重大な欠点は藤壺の書き方がまずいことだという。大野はa系列で働く藤壷にリアル感がないのに、b系列の空蝉や夕顔にはリアル感がたっぷりある。それがa系列とb系列とを別にする理由だという。全体としてa系列の文章はぎこちない。特に前半は。それに比べてb系列の文章はこなれている。式部の筆がなれてきた頃に挿入されたのだろうと、二人とも認める。(p111~)。

 本書と同時に送られてきた桐村さんの手紙には、源氏との一夜を明かした六条御息所についての二人の対話が面白いという。
 霧の朝、眠たそうな顔で六条御息所のところから源氏は帰ろうとした。御息所のお付きの女房(中将の御許)が格子を一間あげ「お送りしなさい」と几帳を開くシーンを大野が説明し丸谷にそこどうですかと聞く。(p93~94)

丸谷 どうですかって・・・
大野 中将の御許は、六条御息所に向って御格子を一間あげて。
丸谷 見送りなさいと言って、几帳を横にずらしたんでしょう?
大野 なのに?
丸谷「御髪もたげて見出し給へり」というのは、起き上がっただけだと。
大野  そう。まだ、寝ているんですよ。これ、どういう意味ですか。
丸谷 ・・・・・。
大野 つまり、六条御息所の愛執が深いというのはこういうことでしょう。朝起きられないんですよ。
丸谷 あ、そうか、ぐったりしていた。うーむ。
中略
大野 「御髪もたげて見出だし給へり」、これだけで作者はその一晩を全部表現した。こういうところがときどきあるんですね。
中略
丸谷 ここのところ、いいですね。小説的です。

 
 こんな解説をされると源氏物語はぐっと身近に感じられる。

以下付箋を付けたところ
p16:西洋近代小説との比較、ドストエフスキーなどへの言及、合作論
p23:作者の個人体験と作品
p26:道長と源氏の関係
p39:谷崎源氏
p54:系列論
p69:初期の帖の文章のぎこちなさ。桐壺帝が源氏と藤壷のことを知らなかったということへの疑問。「輝く日の宮」論。
p78:空蝉と源氏「実事」があった。
p93:御息所との朝帰り
p111:a系列とb系列の文章比較
p128:引き歌。教養と引き歌、地方育ちの浮舟には引き歌が少なく、従って読みやすい
p132:悪人小説論、古代の風習と現実の衝突を書いた
p134:宣長の「もののあはれ」、折口信夫の「色ごのみ」
p141:弱者への徹底した残酷さ「末摘花」
p153:小説家の力量として丸谷 ①挿話を考え出す能力、②挿話をつないでいく能力、③挿話をつなぐことによって世界を体系的に差し出す能力。式部には①が特に最初の頃には弱いと
p167:「花宴」への俊成の賛辞
p173:朝顔の姫の記述が不足。私には朝顔の宮のことはまったく印象に残らなかった。
p174:「葵」と「賢木」の帖の高い評価
p188:六条御息所に圧倒される源氏
p208:「賢木」の御息所の丸谷訳
p214:「実事」ありなしを押さえることの大切さ
p220:朧月夜の魅力。
 
丸谷:ぼくはこの人、好きですねえ。『源氏物語』に出てくる女の人の中で、この人が一番魅力があるなあ。(笑)。私もまったく同感(参照→「朧月夜」)。
 源氏との密会の露見の場面は小説的に見事だが、その前の密会も「宿直申し」という宮中風俗を表していて、滑稽な味もあり面白いという。続いて「風俗小説論」になり、小説は風俗を描くことによりようやく成立すると、全面的に風俗小説を援護する。さらにドストエフスキーに対するディケンズの影響まで、丸谷の論は展開する。

p230:「賢木」の帖での源氏と藤壺の密会を取り上げ、解釈がいろいろあるがそのことは『源氏物語』をこれだけの大古典に仕上げたと言う。論議がつきない。
p233:ベッドシーンを描く際に日本語の曖昧模糊とした性質を極端に利用している。
p234:『源氏物語』は原文の言葉が読めれば読めるほど精密に正確に中身が読み取れる。読めないなら読めないなりに面白いと、大野。次いで、丸谷はそれが大文学というもの、多層的な読者を引き受けることの出来る文学だという。
p244:「花散里」の意味
255:「致富譚」であると大野。夢という言葉は150回ほど出てくるが、ほとんどは実際の夢ではない。「夢のような」などの使い方。
265:貴種流離譚からの考察
p276:紫の上が明石の君の娘をかわいがったのは自分に子供がいなかったからという見方に対し、大野はそれは無理だろうという。ここは真実味に欠けると。
p294:「薄雲」から「朝顔」にかけて4回『枕草子』への攻撃がなされていると大野が指摘。一例は「秋好む」ということ。
p312:玉鬘は空蝉、夕顔、末摘花とならんで源氏の失敗談だと大野。丸谷は玉鬘10帖で最初の玉鬘と最後の真木柱はいいが、途中の巻は失敗だという。丸谷自身の経験として、長編小説の真ん中は大変だという。
p324:『源氏物語』は論が多い物語だと丸谷。「雨夜の品定め」や「玉鬘」の女性論と歌論、「蛍」の物語論。評論入りの長編小説は西洋では19世紀後半に出てきたもの。例えばドストエフスキーの小説は一種の評論入りと言えると丸谷。本書では丸谷はよくドストエフスキーを引き合いに出す。
p332:「真木柱」で玉鬘がいきなり黒髭に嫁す。ここのところが式部の筆は婉曲で二人とも解せないという。それで結論としてこれは黒髭のレイプだと断定。しかし、この突然の展開は小説的にはいいと。
p343:平安貴族は雨が嫌いであったこと。ここはそっくり『紫式部の暗号』に引かれている。

p346:「藤裏葉」で、内大臣が「藤の裏葉の」と呟くシーンを取り上げ、これは『後撰集』にある詠み人知らずの女性の歌を引いたもの。王朝貴族の生活は、非常に比喩的な記号の世界で、露骨にものは言わないで、古典主義的な伝統に寄りかかって合図する。その合図はみんなに分かりきっているものだから、非常に形式的でもあり、また、便利で重宝なものであったと、丸谷。私も『源氏物語』を読んでいて実感する。

p359:本書の最後で大野は、取り上げた「藤裏葉」までの33帖は中国の史書の形式に添っている。中国史書は年代別に書く「紀」と故人のことを書く「伝」とから成っている。『源氏物語』もa系列が紀、b系列が伝。そして、次の「若菜」から『源氏物語』が始まると言ってよいと思うという。丸谷も同意。

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書名 紫式部の暗号 著者 石井和子 No
2021-17
発行所 三五館 発行年 2016年 読了年月日 2021-07-16 記入年月日 2021-07-20

 エッセイ教室の受講生飯沼さんから贈られた。

『源氏物語』関係の本を相前後して頂くことになった。サブタイトルは「
世界のKYOTOへいざなう」であるが、中身は『源氏物語』を天候という面から解説したもの。著者は学習院の仏文科をでて、テレビ局のアナウンサーを経て、気象予報士の資格を取った。帯には:そうか『源氏物語』はこう味わえるのか!「源氏物語」を「天気」から読むと、京都はさらに魅力的!都の風景は変わっても、1000年の春夏秋冬は今も変わらず目の前に。紫式部は平安の気象予報士だった。

 余り注意してこなかったのだが、物語には実にたくさんのシーンで天気のことが述べられている。最初に取り上げられるのは、源氏と朧月夜が密会の現場を、朧月夜の父、右大臣に見つけられるところ。折からの雷と続く村雨に源氏は出るに出られない。邸宅中が雷で大騒ぎしていて、右大臣が心配して娘の様子を見に来る。そして二人の密会が露見する。右大臣は源氏の政敵であり、これが原因で源氏は失脚する。物語前半の大きな転機に、雷とそれに続く村雨を持ってきた劇的な効果。(p16~)

 最後の方では、源氏が謹慎していた須磨で体験した大嵐。12日間続いたという。時期は3月末から4月半ば頃のこと。連日激しい雷雨が続いた。著者は、停滞前線の影響ではこれほど激しい雷雨にはならないという。それで、この異常な天気は動きの遅い「寒冷渦」の仕業ではないかと考察する。初めて聞く言葉だが、上層の流れから取り残された大変冷たい空気を持つ、動きの遅い低気圧とのこと。寒冷渦の例として2015年4月14日の地上と高層の二つの天気図が示されている。高層にはどっしりと寒気が居座っているのが解る。ダイナミックな須磨の嵐が、つまり寒冷渦のいたずらを、源氏の運命を変える要素に仕立てた紫式部のセンスが光ると著者は言う(p213)。

 著者によると、平安時代前期は温暖な気候だったという。そうした気候が『源氏物語』を生み出した一因でもあると推察する(p43.p48)。そして、その時代も今も京都の夏は暑い。この時代すでに梅雨と言う言葉は『和漢朗詠集』の中に見られるが、『源氏物語』の中にはないという。「常夏」の帖で暑さしのぎのため源氏が池に臨んだ釣殿で、親しい人々に酒や氷水、水飯などを振る舞う。水飯とは氷水をかけたご飯のこと。氷は池に出来た天然氷を洛北などの氷室に蓄えた。『延喜式』の記録から推察して、平安の最盛期には、1年で約80トンの氷が消費され、夏の盛りには宮中で毎日およそ800キロの氷が使われたいたという。(p137)。

 夕顔がなくなる前後の気象については時間経過とともに詳細な天候の変化が考察されている(p153~)。

 本書のような『源氏物語』もある。丸谷才一が言うように多様な読み方を可能にするのがすぐれた文学作品なのだ。

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書名 生命とは何か 著者 ポール・ナース、竹内薫訳 No
2021-18
発行所 ダイヤモンド社 発行年 2021年3月 読了年月日 2021-07-24 記入年月日 2021-07-30

 ヤフーの記事で知った。同名の本は1944年にシュレーディンガーが著していて、私は若い頃と、十数年前と2回読んでいる。シュレーディンガーの『生命とは何か』は、ウイルキンズ、クリック、ワトソンらに多大の影響を与えたことはよく知られている。シュレーディンガー考える生命とは、私流に要約すると「生物体とは、非周期性結晶により秩序から秩序を作り出している存在」ということになろうか。

 対して、本書で著者が生命の原理として考えるのは三つ。(p232~)
1.自然淘汰を通じて進化する能力。そのためには生物は「生殖」し、「遺伝システム」を備え、その遺伝システムが「変動」すること。
2.「境界」をもつ物理的な存在であること。
3.「科学的、物理的、情報的な機械である」こと。このような生きた機械は、情報を操ることによって、協調的に制御される。その結果生き物は、目的を持った総体として機能する。

 この三つの原理が合わさって初めて生命は定義される。この三つのすべてに従って機能する存在は、生きていると見なすことが出来る。
 シュレーディンガーから70年余り、その間の生物学の飛躍的な発展を踏まえて、ナースの定義はぐっと踏み込んだものになっている。

 生命の化学的特質は、線状につながった炭素ポリマーの配列により、化学的に安定した情報記憶装置(DNA)と、多様性に富んだ化学的活性(タンパク質)の両方を生み出したことである。ただ、宇宙のどこかにはまったく炭素でできていない生命がいることは想像に難くない。(p236~)。

 ウイうルスは上の原理にあわせると、厳密には自己増殖が出来ないので、生命と言うには問題がある。しかし、生命は皆何らかの形で程度の差こそあれ、他の生き物に依存している。こうした生物間のつながりは、あらゆる生命が共通の進化のルーツを通して、遺伝的に親戚であることによってもたらされる。

 私がシュレーディンガーの本の他に若い頃読んだのが、ソ連の学者、オパーリンの『生命の起源』であった。詳しいことは忘れたが、コアセルベートというタンパク質を含む油滴を想定していたように思う。本書にも生命の起源について触れられている。(p248以下)。

 生命にとって必須の遺伝子とタンパク質と細胞膜の三位一体がどうやって単独で発生できたかは想像がつかない。中では細胞膜の形成が一番簡単かも知れない。細胞膜を形成する素材や条件が初期地球に存在していて、自然発生的な化学反応で形成されることがわかっている。

 次にDNA分子とタンパク質のどちらが先にできたか。現在考えられる解決策はRNAがDNAに先んじたという考え。RNA分子は現にウイルスが行っているように遺伝情報を記憶できる。RNA分子の決定的な性質は、折たたまり、複雑な三次元構造を形成し酵素として機能すること。この意味するものは自立し、生きている機械である。それは、深海の熱水噴出孔の周りの岩の中で最初に形成された。そして、火山活動のエネルギーと化学原料の着実な流れの中で、長い年月をかけて、自己保全し、自己複製するRNA製機械が生まれた。しばらくたってから、それは膜に包まれるようになった。

 以上は現在の知見を著者がまとめたものだ。RNAワールドから生命が発生した。

 本書は教科書風にステップ1「細胞」、ステップ2「遺伝子」、ステップ3「自然淘汰による進化」、ステップ4「化学としての生命」、ステップ5「情報として生命」があり、その後に「世界を変える」「生命とは何か?」と続いている。わかりやすい書き方で、ステップ4まではすらすらと読めた。それで、小さなことが気になった。「クリック・ワトソンモデル」という言い方。DNA二重らせんのモデルは普通「ワトソン・クリックモデル」と言われる。逆にしているのはなぜだろうと思った。巻末の著者経歴を見て氷解した。2010年よりフランシス・クリック研究所長とあった。

 2001年に受賞したノーベル医学賞の対象は、酵母を使った細胞周期の仕組みの解明。彼が見つけたcdc2という遺伝子が、タンパク質キナーゼという酵素を作るものであり、この酵素はサイクリンというタンパク質と一緒になって細胞周期を進行させる。この仕組みは生物で共通のものである。

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書名 ライフサイエンス 著者 吉森保 No
2021-19
発行所 日経BP 発行年 2020年12月 読了年月日 2021-07-26 記入年月日 2021-07-28

 サブタイトルは「長生きをせざるをえない時代の生命科学講義

 これもヤフーの記事で見た。著者は大阪大学教授。オートファジーの研究で2016年にノーベル賞を受賞した大隅良典氏のもとで、オートファジーの研究に従事。以後もオートファジー研究で国際的な業績をあげているという。

 本書の前半は一般的な生命科学の講義。特色は後半のオートファジーに関すること。私はオートファジーという言葉を知らなかった。オートファジーとは「
細胞の中のものを回収し、分解し、リサイクルする現象」(p223)。対象となるのはミトコンドリアなどの小器官やタンパク質。こうして細胞は恒常性を保っている。従ってオートファジー現象は細胞の老化、それに伴う身体の老化、病気、そして寿命に関わってくるというのが本書の主な主張。

 大隅氏の研究は、酵母にもオートファジー現象があることを見つけ、それを支配する遺伝子を初めて特定したこと。ここでも前書に続いて酵母が対象となる。単細胞生物であるが、ヒトと同じ核をもつ真核生物であり、細胞も大きい。酵母にある液胞という小器官は単に老廃物をためのものとして顧みられなかったが、大隅氏は液胞内で分解も行われていることを見つける。そしてオートファジーの遺伝子を特定。そのことにより、哺乳類などにおけるオートファジー研究が飛躍的に発展した。

 オートファジー現象を図式化した物が225ページにある。隔離膜により小器官やタンパク質が囲まれ、オートファゴソームという袋ができる。これがリソソーム(酵母の場合は液胞)と接合し、オートリソソームが形成される。この過程がオートファジー。リソソームには消化酵素が入っている。

 オートファジーの役割
①飢餓状態になったときに、細胞の中身をオートファジーで分解して栄養源にする。
②細胞の新陳代謝を行う。
③細胞内の有害物質を除去する。

①の例として、マウスの実験で赤ん坊が生まれたとき、全身で激しいオートファジーが起こり、母親からの供給が絶たれた栄養源を補っている。多分ヒトにも適用されるだろう。
②としては、人間では毎日240グラムのタンパク質が分解され、新しタンパク質に生まれ変わっている。このほとんどがオートファジーによっている。
③オートファジーは細胞に侵入してきた細菌なども分解することができる。
このように②と③は生物の寿命に関わってくる。

今までに認めれている寿命を延ばす5つの方法として著者があげるもの。(p288~)
①カロリー制限
②インスリンシグナルの抑制 インスリンが余り働かないようにすると寿命が延びる
③TORシグナルの抑制 細胞内にあるタンパク質合成を促進するタンパク質の抑制
④生殖細胞の除去
⑤ミトコンドリアの抑制

 これらは独立した要因であるが、なぜそうなるかはよく分かっていない。これらに共通するのはオートファジーの活性化である。そして、オートファジーは歳をとるとともに減っていく。細胞内には著者らが発見した「ルビコン」というタンパク質があり、これがオートファジーを阻害する。そして、加齢とともにルビコンが増えるという。

 本書の最後の方はオートファジーの活性化により老化を予防し、寿命を延ばす方法の提示。

 納豆やキノコに含まれるスペルミジンがオートファジーを活性化する。夜は赤ワインにチーズ。赤ワインに含まれるレスベラトロールが効果あり。そして、腹八分に適度な運動。

 もう30年ほど前に、食事と寿命の関係で、マウスでの実験では唯一長寿に効果のあったのは、腹八分目に餌の量を減らしたグループであったと、栄養学の権威から聞いたことがある。細胞が少し飢餓状態にあるときオートファジーが働くと言うことと関係しているのだろう。それにしても、「腹八分目」は昔の人は経験としてつかんでいたことだが、科学的には間違っていないようだ。

 さらに言えば、「腹八分目」は単に食べ物のことだけでなく、生き方そのもにも当てはまると思う。欲望を100%満たすのではなく、80%で我慢する、あるいは100%力を出し切るのではなく、20%の余裕を残してものごとにあたる。これも長生きの秘訣であろう。ただし、「人生八分目」とも言えるこうした生き方では、後世に残るような偉業と言われるものは達成できないのも確かであり、賛否は分かれるところだ。

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書名 遠筑波Ⅱ 著者 北川昭久 No
2021-20
発行所 本阿弥書店 発行年 2021年7月15日 読了年月日 2021-08-08 記入年月日 2021-08-09

 天為の同人、北川さんから贈られてきた。千葉県在住で、流山俳句協会会長など千葉県の俳句関係の組織の要職にある。北川さんとは、今までに顔を合わせたことは2回しかない。ハードカバー、1頁2句という豪華な句集。

有季定型をきっちりと守った、てらいのない端正な句で、爽やかな読後感のある句集。
巻末に季語索引がついているは個人の句集としては珍しい。
以下目についた句。

二つ峰を結ぶ嬥歌や山桜
切株に南北のあり鳥の恋
言霊の幸ふ国の犬ふぐり
乗継ぎの駅の半時山笑ふ
ふらここを漕いで憂き世を少し出る

耕人のみな老いたれど矍鑠と
有史とは戦の歴史万愚節
囀やひたすらといふ頬の張り
夏霞はたと一人の戸籍かな
百粒の蟻の散ける一大事

混濁の世や水を踏むあめんぼう
晩節と云ふは易けれ冷奴
ガレージに雹の侏儒の跳ねる音
野葡萄や豊に下る山の水
滑空を沼に低めて雁の竿

記紀の世も筑波はかくや冬の晴
葱下げて予後の歩みの妻戻る
極月や予定一つを雨が消す
ふるさとへつながる雪を掻きにけり
茶が咲いて少し華やぐ猫の道
一筋の枯野の道や筑波澄む


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書名 カラマーゾフの兄弟1 著者 ドストエフスキー、亀山郁夫訳 No
2021-21
発行所 光文社古典新訳文庫 発行年 2006年 読了年月日 2021-08-13 記入年月日 2021-08-14

 少し前に、エッセイ教室受講生の今井さんから、新聞記事のコピーがメールされてきた。

 信濃毎日新聞と南日本新聞に載った共同通信の配信の同じ記事で、50年前に誕生した「ドストエフスキー全作品を読む会」の304回目の読書会が写真入りで掲載されていた。今井さんの娘さんがこの会の熱心な会員で、会の研究成果を発表する『ドストエーフスキ広場』という立派な冊子を、今井さんから何冊か贈られた。内容は高度で素人にはとてもすべてを読みこなすことはできない冊子だが、反知性的な風潮が横溢する今の日本で、こうした営みが営々と続けられていることに驚きを禁じ得なかった。ちなみに今年はドストエフスキー生誕200年で、『ドストエーフスキ広場』は第30号で、2段組230頁を超える堂々たるものだ。

 記事の中でいくつかのドストエフスキー作品の簡単な紹介がなされていた。『カラマーゾフの兄弟』は父親殺しの謎を軸に神や人間に関する思索を集大成した遺作とあった。さらに本書の訳者、亀山郁夫は本書にミステリーとしての面白さに光を当てたといい、全5巻で120万部がすでに出たという。

 ドストエフスキーは『罪と罰』を十代の頃読んだ記憶がある。理解できたかどうかは覚えていない。『カラマーゾフの兄弟』については全く何も知らない。ミステリーと言うことに惹かれて、読んでみることにした。
 本書の帯は「
新訳で読む世界最高峰の小説」である。

 いきなり「著者より」という序文がある。よく分からないが、思わせぶりな書き方で、どんな物語だろうと引き込まれ、読む気を誘われた。
 本巻は以下のような構成になっている:
第1部 第1編 ある家族の物語。
    第2編 場違いな環境
    第3編 女好きな男ども

 第1編はカラマーゾフ家の現状で、登場人物の人柄、置かれた状況などで、まあ、読みやすかった。ところが第2編にいくと、延々とキリスト教論議がつくづ。丸谷才一はドストエフスキーの小説は評論でもあるといっていたが、まさにその通り。論議が会話というより、話し手の言葉、独白として延々と続く。かなり参った。

 当時の風俗、社会慣習になじみがないから、ストーリー展開も理解しがたい。人名も覚えにくいのもストーリーがすんなりと頭に入らない一因だ。
 父と長男の間の金と女を巡る争いだろうといのがどうやら今後の展開のようだ。

主要登場人物を記したしおりがある。それに付け加える形で、今後読み進める便宜のために登場人物を記しておく。

フョードル:兄弟の父 道化役者を自ら任じていて、あちこちで騒動を起こす。女好き。その行動は信じられないようなめちゃくちゃなもの。55歳。
ミーチャ:長男 正式の名にはドミートリー。母はフョードルの先妻アデライーダ。アデライーダはミーチャが3歳の時、神学の教師と出奔してしまう。この巻では父親と金と女のことで激しく対立する。陸軍の軍人だった。28歳。

イワン:次男 無神論者 母はソフィア。父がさらうようにして再婚した相手。24歳。
アリョーシャ:三男。正式にはアレクセイ。どうやら主人公の位置づけのようだ。イワンと同じ母親。母親は神経症を病み、アリョーシャが4歳の時になくなる。。地元の修道院に入っている。20歳。

グリゴーリー:カラマーゾフ家の召使い
スメルジャコフ:カラマーゾフ家の下男。母親は町の知的障害者で、フョードルが生ませたらしい。グリゴーリーとマルファ夫婦に引き取られて育てられた。

ミウーソフ:アデライーダの従兄弟で、ミーチャを引き取り、彼の姉妹などのところで、ミーチャを育てる。バリ帰りのリベラル思想の持ち主で無神論者。
ゾシマ長老:町の修道院の長老。慈愛に満ちた高徳な人物として、信者の尊敬を一身に集める。アリョーシャが仕えている。

グルーシェニカ:町の老商人の囲われものだった妖艶な美人。本巻では22歳。この女を巡りフョードルとミーチャが争うようだ。
カテリーナ:ペテルブルグの女学校をでた知的美人。中佐の父がある横領事件でミーチャに助けられたことで、彼に恩義を感じ、結婚の約束をしている。しかし、ミーチャは彼女の金3000ルーブルを横領している。
リーズ:町の裕福な未亡人ホフラコーワの娘。14歳。アリョーシャを愛している。

 本巻は86ページの第2編「場違いな会合」から、終わりの431ページまでが、カラマーゾフ一家が、父と長男の間の金銭問題を話し合うために、ゾシマ長老のところに集まり、その家族会議が父の道化ぶりや、遅れてきた長男の振る舞いによりめちゃくちゃになり、その午後、アリョーシャがミーチャの依頼でカテリーナに会ってくるまでの一日の出来事の記述に費やされる。それだけに描写は細部にわたり、饒舌である。

 例えば、グルーシェニカの美貌を長々と述べた後で、「・・・
押しだしのいい豊満な体つきだった。ショールの下には、幅のある豊かな肩や、高く盛りあがったまだまったく若々しい乳房をうかがうことができるようだった。その体つきはもしかすると、ゆくゆくはミロのヴィーナスのスタイルを約束するものであったかもしれない。もっとも、そのことはすでにいまも間違いなく、少しばかり誇張されたプロポーションに予感されることではあった。
 
ロシア女の美しさに通じている男なる、グルーシェニカをひと目見ただけでまちがいなく、こう予言することができたろう。その新鮮なまだ若々しい美しさも、三十歳が近づくころには調和を失い、線も崩れて顔の皮膚はゆるみ、目じりや顔には恐ろしいほどすみやかに小じわがきざまれ、顔色はくすんで赤茶けた色に変わってしむかもしれないと。端的にいってこれは、とくにロシア女にしばしば見かける、つかのまのはかない美しさというものなのだと。」(p400)。今後問題を起こしそうな予感のする女に対する辛辣な見方でもある。

 ミステリーというからには父親殺しの犯人が誰かということになるが、本巻を読んだ感じでは、長兄以外にはありそうもないが、何かどんでん返しがある予感もする。

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書名 カラマーゾフの兄弟2 著者 ドストエフスキー、亀山郁夫訳 No
2021-22
発行所 光文社古典新訳文庫 発行年 2006年 読了年月日 2021-08-20 記入年月日 2021-08-21

 第2部
 第4編 錯乱
 第5編 プロとコン
 第6編 ロシアの修道僧

 本巻は前巻の翌日、一日の記述。前巻でよく分からなかった人物の関係が少しわかってきた。ミーチャはカテリーナと婚約はしているものの、グルーシェニカに惹かれている。フョードルもグルーシェニカとの結婚を望んでいる。ミーチャは父から相応の財産を分与してもらい、その金でグルーシェニカと結婚したい。次兄イワンもどうやらカテリーナに恋心を抱いている。ミーチャはイワンの恋心を利用して、カテリーナをイワンに押しつけようとしている。

 本巻ではミーチャはほとんど出てこない。その代わりイワンが主要人物として登場する。第5編では無神論者イワンの温めていた「詩」が、長々とアリョーシャに語られる。そして第6編ではゾシマ長老の生涯とその宗教観、世界観が、アリョーシャがまとめた物として語られる。特にイワンの話は理解が難しかった。こうした登場人物が述べる宗教論、世界観はドストエフスキー自身のものではなく、登場人物の自己の主張として述べられていると巻末の解説にあった。イワンの無神論とゾシマ長老の対極にある考えのどちらにドストエフスキーが与しているかは分からない。

 カラマーゾフ家の社会的地位がよく分からない。大地主ではある。身分的には貴族であるような書き方だ。彼らと一般平民、農民との間には厳然たる身分の格差があるようだ。解放された農奴という記述も出てくる。巻末の解説によると、1861年に農奴解放が行われたという。この小説は1870年代が舞台のようだ。すでに社会主義の考え方も出てきていることがイワンの話の中にうかがわれる。

 イワンとスメルジャコフは父の家の門前で不思議な会話を交わす。イワンはその夜、父のところにグルーシェニカが訪れるのではないかと、気にして父の部屋を監視する。そしてイワンは翌朝モスクワに向けて立つ。このイワンについての記述が、なにやら謎めいていて、ミステリーの鍵があるような気がした。もう一つは前巻でミーチャの前にひざまずいて祈ったゾシマ長老の行為にもなにか秘めていそうだ。

 この日の夜 アリョーシャらに看取られる中で、ゾシマ長老は死を迎える。

 若い頃のゾシマ長老が決闘した話とか、酒場でミーチャに散々辱められたのに、そのまま屈してしまった貧しい軍人の子供がいじめに遭うという話しなど、当時のロシア社会の細部が面白い。

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書名 カラマーゾフの兄弟3 著者 ドストエフスキー、亀山郁夫訳 No
2021-23
発行所 光文社古典新訳文庫 発行年 2006年 読了年月日 2021-08-23 記入年月日 2021-08-24

 本巻ではストーリーが一気に展開する。
 第3部
  第7編 アリョーシャ
  第8編 ミーチャ
  第9編 予審

 亡くなったゾシマ長老の遺体が、翌朝にはもう異臭を発する。弔問に押しかけた町の人々の間にたちまち噂になる。第2巻の冒頭に紹介された、ゾシマ長老と激しく対立する、厳しく戒律を守っているフェラポント神父もやってきて、修行僧でありながら戒律を守らなかったためにこうなったのだと言い放つ。心酔するゾシマ長老の、遺体が腐臭を放ち、しかもそのことがこのようにおとしめられたのはアリョーシャとっては大きな痛手だった。修道院の林の中でうつ伏して眠っていたアリョーシャは友達のラキーチンに見つけられ、彼に誘われて、グルーシェニカのところへ行く。

 ここでは意外な展開が待っていた。:
グルーシェニカが「
……猫が甘えるような感じでひょいと彼の膝のうえにすわって、右手を優しく彼の首に巻きつけた。……アリョーシャは無言のままだった。彼は身動きするのを恐れて、そのまま座っていた。……魂の大きな悲しみが心の中に芽生えかねないあらゆる感覚を呑みこんでいたので、もしもこの瞬間彼が自分自身を十分に見届けることができれば、今の彼がどんな誘惑や試練にも耐えうる、こううえなく堅い鎧を身につけていることに思いいたったはずである。しかし、どうにも説明しようのないあいまいな精神状態や、心に重くのしかかる悲しみにもかかわらず、彼は今、ふと心のなかに芽ばえたある新しい不思議な感覚に、われながら驚かざるを得なかった。」(p67~68)

 その後、アリョーシャは僧庵にもどりゾシマ長老の棺の前にひざまずき、祈る。「
胸はいっぱいだったが、なぜか気持ちがぼんやりしていて、際立ったかたちでは何ひとつ感覚がうかびあがらなかった。むしろいくつもの感覚がたがいをおし合いながら、何かしら静かでよどみない回転のなかに次々と浮かんでは消えていくのだった。だが、心は甘くやすらかだったし、奇妙なことに、アリョーシャはそれに驚きを感じなかった。」(p99)。

 ミーチャはカテリーナから横領した3000ルーブルを返すべく、その金策に奔走していた。グルーシェニカのパトロンであるサムソーノフ、父の土地の権利を買い取ろうと交渉しているリャガーヴィのところ、そしてホフラコーワ夫人のところを次々に訪れるが、いずれも断られる。そして、最後にグルーシェニカのところに行く。しかし、彼女はほんの少し前に家を出たところであった。5年前に婚約したポーランド人が彼女を迎えに来ていて、かなり離れたモークロエにたっていた。

 ミーチャはグルーシェニカがフョードルのところに行っていると思い飛んで行く。塀を乗り越え窓から覗くが、フョードルは一人であった。ミーチャが塀を乗り越えて帰ろうとするとき、下男のグリゴーリーに暗闇の中で足を引っ張られる。ミーチャはたまたま手にしていた杵でグリゴーリーを打つ。ミーチャは下りて倒れたグリゴーリーのところにより流れた血を拭ったりした後、血のついたハンカチを持ったまま、ミーチャはホフラコーワ夫人のところにやってくる。そこで初めてグルーシェニカがもとの許嫁のところに向かったことを知る。

 ミーチャは絶望し、自殺を決意する。その前にグルーシェニカの向かったモークロエに行き、そこで一晩豪遊することにした。3000ルーブルの金を手にミーチャもモークロエにトロイカを疾走させる。そこでは意外な展開となり、先についていたポーランド人とグルーシェニカとミーチャとが対面し話し合っているうちに、グルーシェニカはポーランドのもと許嫁に失望し、ミーチャを選ぶ。喜んだミーチャの大盤振る舞いで、夜中の大宴会が始まる。村の百姓や、娘、ユダヤ人の楽器弾きなどが集まって大騒ぎ。

 もう夜明けも近い頃、突然、ミーチャの町の警察署長、予審判事、検事がやってくる。フョードルが殺害されていて、その嫌疑がミーチャにかけられたのだ。3人による審問が朝まで続く。

 前の晩、フョードルのところを訪れたミーチャの行動は上に述べたこと以上には本書には記されていない。フョードルは自室にはしっかりと鍵をかけている。鍵を開けるのはスメルジャコフがノックした場合のみである。ノックの仕方はグルーシェニカがきた時、単なる用事の場合など二人の間で決められていて秘密である。しかし、ミーチャもスメルジャコフとミーチャを脅かしてその秘密を知っている。フョードルの部屋の鍵は開かれていた。従って部屋に侵入できたのはこの二人しかいない。スメルジャコフはその夜は持病のひどいてんかんの発作を起こしていて、意識不明状態で寝ていた。つまり、犯人はミーチャと言うことになる。ところが、ミーチャは断固犯行を否定する。さらに、ミーチャの持っていた、1500ルーブル(3000ルーブルではなかったことも問題)という金の出所についても追及されるが、それもミーチャは明らかにしない。謎のまま、ミーチャは護送されるところで本巻は終わる。心証としてミーチャは犯人ではないようだ。では誰か、最後にどんなどんでん返しが待っているのだろうか。

 読み終わって、第2巻のイワンとスメルジャコフの会話の部分が気になり、読み返してみた。すると、そこにはスメルジャコフがイワンに、フョードルの部屋を開ける合図を教えているシーンがあった。つまり、イワンにもフョードルに部屋を開けさせることができたのだ。だが、犯行のあったのはイワンが、モスクワに向けてたってしまった日の夜のことだ。本巻ではイワンのことはまったく触れられていない。

 この巻もほぼ一日の出来事で終わっている。

 本巻で一本の葱という面白い挿話があった。グルーシェニカがアリョーシャに語る。昔あるところに意地の悪い女が住んでいた。死んで地獄の火の海に落とされた。この女の守護天使がなんとかして助けたいと思った。女が生前畑の葱を一本抜いて貧しい乞食に与えたという話を神様にした。神様はそれでは一本の葱をその女に差し出し、つかまらせて引き上げなさいと言った。天使は言われたようにした。女が上がって行くのを見た他の罪人たちが、自分たちもつかまらせてくれと迫ったきた。女はそれを足で蹴落とした。すると、葱はぷっつりと切れてしまった。(p78~)。

 芥川龍之介の『蜘蛛の糸』と同じだ。ひょっとすると龍之介はドストエフスキーを読んで『蜘蛛の糸』を書いたのかと思った。解説を読んだら、一時はそういう説もあったが、アメリカの東洋学者ポール・ケーラスの『因果の小車』が基になっているというのが定説のようだ。

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書名 カラマーゾフの兄弟4 著者 ドストエフスキー、亀山郁夫訳 No
2021-24
発行所 光文社古典新訳文庫 発行年 2006年 読了年月日 2021-08-28 記入年月日 2021-08-28

 第10編 少年たち
 第11編 兄イワン
 第12編 誤審
 
 第2巻でアリョーシャが町で出会った子供たちの話が冒頭に出てくる。兄ミーチャに酒場で辱められた退役軍人の子供、イリューシャをめぐる子供たちだ。イリューシャは肺病で死の床にある。この巻では彼をいじめていた少年たちも仲直りしていて、イリューシャの家にアリョーシャが訪れるたびに集まっている。アリョーシャは貧しいイリューシャの家に金銭的な援助をしている。最初父親の退役軍任じ断られたが、その後受け入れられた。金はカテリーナが出している。この少年のなかに早熟なクラソートンという少年がいる。この少年はレールの間に寝て、その上を列車が通過して行く冒険を行ったことがある。クラソートン少年は町から70キロ離れた、駅に務める遠縁の家で1週間滞在し、列車のダイヤを学んだという記述がある。その駅はイワンがモスクワへ旅立った例の駅であると言う一文が()つきで挿入されている。思わせぶりな文章だ。

 イワンも戻ってくる。イワンはスメルジャコフと再三会い、事件について話あう。この話し合いは第1巻の場合と同じく、よく理解できない。スメルジャコフは靴下の中に1500ルーブルを挟んだ隠し持っていた。

 別に、ホフラコーワ夫人の片方の足が急に膨れ上がったということが書かれている。

 突然出てきたクラソートン少年、スメルジャコフの隠し持っていた金、そしてホフラコーワ夫人の膨れ上がった足。この3点のエピソードが何かミステリアスで、事件の鍵を握っているような予感がする。

 イワンに関する記述は曖昧だ。裁判の前夜、彼は幻視に襲われる。悪魔、あるいは彼の分身と思われる男が現れ、いろいろと論議を交わすのだ。その夜中に、スメルジャコフが首つり自殺したことが知らされる。

 いよいよ裁判。この裁判は遠くモスクワのみならずロシア全土の注目を集める。会場には町の高官、紳士・淑女が詰めかける。裁判は陪審員裁判である。
 検事の調所読み上げから始まり、証拠類の検討、証人の証言、検事の論告、そして弁護人の最終弁論と、朝の10時から始まった裁判は、夜中まで及ぶ。しかし、傍聴人は誰も最後まで見守る。

 アリョーシャもイワンも証言に立つ。二人ともミーチャの犯行を否定し、犯人はスメルジャコフ以外には考えられないと主張する。イワンは証言の後、倒れ込む。証言のなかで注目されるのは、カテリーナ。かつての許嫁、ミーチャに対する激しい憎悪を示す。彼女も事件に大きく関わっているのではないか。

 ミーチャが豪遊した際、持っていた金が3000ルーブルではなく1500ルーブルであったことの解明が事件解明の鍵となりそうだが、読んでいてはっきりしない。

 検事イッポリートの論告と、モスクワから来た「天才的な」弁護士フェチュコーヴィチの最終弁論が本巻の読みどころ。証拠を並べれば、ミーチャの有罪は疑いないと検事。特にミーチャが書いたカテリーナ宛への手紙が決定的であると主張。弁護士は、一つ一つの証拠はそれ自体必ずしも明確にミーチャの有罪を示す物ではない。むしろ無罪を示す物であることを述べる。二人とも心理学的な分析を駆使して論を張る。会場の雰囲気は圧倒的に弁護士の論に傾く。そして、ミーチャの無罪評決の期待が高まる。だが、陪審員の下した結論は有罪。陪審はロシアの心を示したのだ。

 もうこの頃から公開の陪審裁が行われていたのに驚く。取り調べの段階では、黙秘権も認められる。この時点(1870年代)では、皇族に対する犯罪以外は死刑は適用されないと解説にはあった。ドストエフスキーは一度死刑判決を受け、4年間のシベリア流刑を体験している。

 もう一つは、結核が多いこと。イリューシャ少年は死の床にあり、また、少壮検事イッポリートもこの裁判後、程なくして結核で亡くなる。また、癲癇、錯乱、女性のヒステリー、イワンの幻視といった精神の病が多いことも目につく。

 本巻はここで終わる。ただ、「誤審」というサブタイルを付けているので、著者はミーチャが犯人ではないことを明示している。

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書名 カラマーゾフの兄弟5 著者 ドストエフスキー、亀山郁夫訳 No
2021-25
発行所 光文社古典新訳文庫 発行年 2006年 読了年月日 2021-08-29 記入年月日 2021-08-29

エピローグを収める。この巻で謎解きがなされ、真犯人が明かされると期待し読んだ。しかし、60頁に満たないエピローグはまったく違ったものだった。

 収監されてシベリヤ送りを待つミーチャを途中で脱走させようという、前巻で練られた計画をアリョーシャがミーチャに伝える話。ミーチャは、グルーシェニカとアメリカに遁れ、そこで英語をしっかりと身につけ、ロシアに帰ってきてアメリカ人としてひっそりと暮らす夢を語る。イワンは裁判の際倒れ、カテリーナが引き取って看病している。カテリーナはアリョーシャの強いすすめにもかかわらず、ミーチャに会おうとしなかったが、最後に会いに行く。

 この長編小説の最後は、少年イリューシャの葬儀で終わる。アリョーシャはじめ、コーリャら、学校の仲間に見送られて、イリューシャの埋葬が行われる。「
・・・善良な少年、かわいらしい少年、ぼくらにとって永久に尊い、あの少年なんです!永遠に彼のことを忘れないようにしましょう」とアリョーシャは皆に呼びかける。それに対して、クラソートンが「永遠に、死ぬまで、こうして手をとりあって生きていきましょう!カラマーゾフ万歳」コーリャがもういちど感激して叫ぶと、少年たちはみな、その叫びに声を合わせた。
 この一文をもって終わる。

 私はこの小説のストーリー対する事前の知識といえば、先日知った新聞記事、父殺しのミステリーと言うことだけだった。だから、そのミステリーの犯人捜しにどこまで迫ることができるかを中心に読んだ。1巻を読み終えるごとに読書ノートを記入し、それが終わってから次の巻を読んだ。決して先読みをしなかった。

 そしてミステリーの鍵となりそうな個所を注意して拾い出した。しかし、そのほとんどがまったく未解決のまま終わってしまっていた。第2巻と第4巻のイワンとスメルジャコフの対話をもう少し詳しく読んでみれば、ある程度のことは分かるのだと思う。

 ドストエフスキーはこの小説は2部からなり、続編を予定していた。しかし、この小説の完成後、程なくして亡くなった。

 キリスト教的宗教観、それに対する無神論、自由思想、社会主義思想、19世紀後半のロシア社会、ロシアの風土、ロシア魂・・・とにかく多層的に書かれた小説で、1回読んだだけでは理解はできないだろう。

 本書には訳者による200頁近い解題が付けられているが、これから読む。

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書名 カラマーゾフの兄弟 解題 著者 亀山郁夫 No
2021-26
発行所 光文社古典新訳文庫 発行年 2006年 読了年月日 2021-08-31 記入年月日 2021-09-05

 『カラマーゾフの兄弟 5』に掲載。正式のタイトルは”解題「父」を「殺した」のは誰か”である。便宜上「カラマーゾフの兄弟 解題」としておく。

 父殺しのミステリーとして、細部のプロットに注目し漏らさぬように拾ってきたつもりだったが、解題を読むとプロットだけでも、見過ごしたところがたくさんあることを痛感する。文庫本2000頁の大河小説をこの年になって一気に読んだので、細かいことまで記憶に残らなかったというのも一因だ。解題を読んだ後で、あと数回は読み返さないと、多分この小説は理解できないだろう。犯人を解く鍵は出来事よりもむしろ、会話における話し手の心理を読み取ることにある。そこがまったく私にはできていなかった。特に私が不思議な感じがすると書いた第2巻のイワンとスメルジャコフの、フョードルの家の門前での会話が、事件の鍵を握っていた。その会話からイワンとスメルジャコフの心理を読み取ることが鍵であったが、私にはまったくそこまではできなかった。

 著者は小説手法としてのポリフォニー性を指摘する。つまり「
登場人物のそれぞれが作者一人の思想を代弁することなく、一人ひとりが自在にいわば勝手に動き、発言し、作品のなかで自立した「多くの声」を形づくる」。これが第一義的なポリフォニー性。もう一つは個々の登場人物が複数のまなざしの総体として現れるということ。この手法が小説に厚みを持たせ、難解なものしているのだろう。

 後者の例として、ゾシマ長老をあげる。世にもまれなる聖人であるゾシマに対し、フェラポント神父を対置させ、長老を相対化する。相対化の頂点はゾシマの死後すぐに腐臭が発したということ。私はこの腐臭には事件との特別な関わりがあるのかと思ったが、そうではなかった。

 イワンがモスクワに発つ前の夜中、 2階からフョードルをのぞき見る場面がある。これは印象に残った場面だが、意味はまったく分からなかった。本書228頁にその時のイワンの心理が解説されている。ミステリーを解く心理的な鍵となる場面だが、解説なしでは思いつかない。

 ドストエフスキーが考えていたカラマーゾフの兄弟の第二の小説は、13年後を想定していたという。そこでの主な登場人物は、アリョーシャを中心とする、最後に語られた少年たち。この続編ではアリョーシャが皇帝暗殺を企て、処刑されるというストーリーだという説が有力視されていた。しかし、序文との整合性を考えると、それはあり得ないだろうと著者はいう。序文を読み返してみたら、「
こんな地味でとらえどころのない主人公」とアリョーシャを表現していた。代わりに、本書の終わりの時点で14歳で、社会主義者を自称する早熟なコーリャが実行犯となる構想ではなかろうかという。レールの間に寝ころんだ話や、ミニチュアの大砲を発射して見せるというエピソードがそれを暗示するのではないかという。実際、この当時のロシアでは、テロリズムが横行し、1981年ドストエフスキーの死の2ヶ月後にアレクサンドル2世は爆弾により暗殺されている。

 ちなみに、日露戦争が起こったのはこの23年後であり、33年後には第一次世界大戦が、36年後にはロシア革命が起き、ロマノフ朝は亡んだ。

「ドストエフスキー全作品を読む会」が50年続いていることがうなずける。理解するだけでも大変だし、いろいろな読み方ができる。

補足 2021-11-24
 NHKの教育テレビで亀山郁夫が『カラマーゾフの兄弟』の解説を4回に分けて行った。
なるほどと思う深い読みが示された。また、人名や地名が勝手につけられているのではなく、ドストエフスキーの生涯と深く関係していることが解き明かされる。
 哲学者のヴィトゲンシュタインは『カラマーゾフの兄弟』を30回読んだという。それほどの小説なのだ。

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書名 阿波野青畝集 著者 阿波野青 No
2021-27
発行所 朝日文庫 発行年 昭和59年 読了年月日 2021-09-08 記入年月日 2021-09-24

 富安風生集とともに載る「現代俳句の世界5」。

 いわゆるホトトギスの4Sの一人だが、私にはなじみのない知らない俳人。
 7つの句集からとった大正6年から昭和53年までの1800句弱を収載。

 巻の初めで、窪田般彌という人が、青畝の句の特徴としてその音楽性、頭韻や漢語調による脚韻の面白さ、美しさと指摘している。
 リフレインとオノマトペの多用、難しい漢語、用語が多い、地名入りが多い、ヨーロッパ、朝鮮、印度などの海外詠がかなりあり、季重なりも多い、ざっとこんなところを感じた。

 大阪の人。「ホトトギス」に入ってしばらくしたころ、虚子の唱える客観写生に不満を持って訴えた。虚子からは、写生を習得しておくことは、きっとあなたの芸術を大成する上で大事なことだと諭されて、生涯虚子と袂を分かつことはなかった。子供のころ患った難聴が生涯つきまとった。

 4Sという呼称は昭和3年の秋「ホトトギス」の講演会で山口青邨が言い出したもの。この呼称は、その頃ようやく作句理念上の確執が表面化しつつあった水原秋櫻子と高野素十の間の調整をはかる青邨の深慮からなされたものだという。(三橋敏雄による巻末の解説)

たくさんの句の中から、リフレイン、オノマトペの使われた句を中心に抜き書きしてみた。
口に出してみると、快い、

虫の灯に読みたかぶりぬ耳しひ兒   大正6年
をかしさよ銃創吹けば鴨の陰(ほと)  大正12年
さみだれのあまだればかり浮御堂
雪解のゆらゆらとして枝垂梅
しろしろと畠の中の梅一本
みちをしへ道草の児といつまでも
住吉にすみなす空は花火かな
蝸牛や降りしらみては降り冥(くら)み
来しかたを斯くもてらてら蛞蝓
夜業人に調帯(ベルト)たわたわたわたわす

禅寺も落花の塵はとがめなし
花よりも安楽椅子のあるがよし
頂上の百合そちこちと立ちあがり
閑居とはへつつ猫の居るばかり
仁王尊灯す十五夜十六夜
はらはらと走る雑仕や神迎
追ふ鎌のひらりひらりと若布刈
老遍路ころろころろと嗽ぐ
雲海に指の穴ほど日本海
女来て枯木に煙草こすり消す

ルノアルの女に毛糸編ませたし
紅ほのぼの白ほのぼのと櫻菓子
ケビンいまカーネーションがぴぴぴぴと
鰭となりかきゆきかきゆく海女涼し
牡丹百二百三百門一つ
毛虫踏んでいのちいのちを奪(と)りいそぐ
ぽかぽかと海月の笠や海凹む
行きゆきつ玉蜀黍沼を隠すときも
汝の年酒一升一升また一升
楪のみ凍ててへたへたへたへたと

ねはん図の混んで生きとし生けるもの
日は照れど小雨は降れど目刺乾す
夜なよなの総の國なる蛙かな
遊船の膜吹き細り吹き細り
ゴホ・ルオー・歌麿・寫樂曝書され
底紅や俳句に極致茶に極致
滴りは石筍を打ち我を打ち
山又山山櫻又山櫻
滝打のとどろとどろと頭鳴る
山吹の三ひら二ひら名残かな

しらべよき歌を妬むや實朝忌
野の吾に首をのべのべ雁来る
大木をこなごなに割り年木積む
ローリングピッチングあり月跳び跳ぶ
ちやぼちやぼと近づいてくる夜振かな
姥の爪芋茎すいすいむけてゆく
西行忌初案再案さだまらず
左頬を向くる勇無く息白し    青畝はクリスチャン
去年今年またぎぬペンを持ちながら
馬の鼻ぷるんと鳴らす暑さかな

鰤いなだはまちも豊か市灯る
秋嶺の寝釈迦の頭胸足あり
まん中がごそりとへこむ蘆の原
焼芋の懐ぬくめ恋めきぬ
闇おぼろゆけば行かれて滝のみち
尊氏を憎しみ雨の時鳥
乗物のみちのわるさやみちおしへ
竹処石処梁処々
ヒロシマ忌祈る生きとし生けるもの
傘鉾のどどと傾く祭かな

彩色の淡きを好む老の春
若水に奈良井の宿の杓卸す
海女の桶鮑べたべた吸ひつけり
とくとくの清水は左右の手を漏るる
うごく大阪うごく大阪文化の日
あの猫のふぐり二つや春の月
鯥五郎鯥十郎の泥仕合
風なぶるつつじつつじや那須の原
浮いてこい浮いてお尻を向けにけり
山寺の下も山寺蚊帳灯る

大岩屋ぞろぞろと出る遍路かな
日ざすたび揚羽ひらひら濃あぢさゐ
かつみ恋し田螺恋しと旅の我   
     かつみはまこものこと。あやめのたぐいともいう。奥の細道にあり
自画像の一茶翁寒く寒く居し
雪の音警策の音永平寺
へなへなの紙捻(こより)を笑ふ老の春
福寿草襖いろはにほへとちり
川蜻蛉羽開く屯(たむろ)とづる屯

蝮捕ものやはらかにものをいふ
団扇ひらひらつかひ曰く熱帯夜
最上川か行きか来て土用浪
安曇野の芒も初穂早稲も初穂
かしら右かしら左と穴惑
盃にとくとく鳴りて土瓶蒸
金鳳や衣笠の雪うすうすと

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書名 文豪と俳句 著者 岸本尚毅 No
2021-28
発行所 集英社新書 発行年 2021年8月22日 読了年月日 2021-09-23 記入年月日 2021-09-24

 面白い本だった。題は『文豪の俳句』ではなく『文豪と俳句』。

 帯には「
彼らの俳句は、ひと味ちがう」とあり、推薦人にロバート・キャンベル、小川洋子、夏井いつきの言葉が並ぶ。小川洋子「俳句に光を当てれば、文豪の秘密が見えてくる。その何と魅惑的なことか」。夏井いつき「キシモト博士の作品論的、作家論的アプローチが文豪を裸にしてしまった!」。いつきの「裸にしてしまった!」はオーバーにしても、この二人のコメントが本書の魅力を語って余すところがない。

 「はじめに」で取り上げた文豪の俳句についての簡単なコメントが述べられる。以下にそれを示す:
 
小説家の作風が多様なのと同様、その俳句も多様です。
泉鏡花、内田百閒、川上弘美などの句は、その小説と同質のあやしさを漂わせています。
幸田露伴、尾崎紅葉、森鷗外、室生犀星などは、日記や評伝から窺われる作家の生き方と俳句の関わりが興味深い。
俳句を俳句としてきっちり読ませるのは芥川龍之介です。
太宰治や宮沢賢治は俳句の中でも太宰であり、賢治です。
横光利一の場合、深く俳句を愛したにもかかわらず、体質的に小説家でありすぎたため、心の底から俳人になり切ることができなかったように感じられます。
多様な小説家の多様な俳句にどう切り込むか。頭を悩ませながら書き進め、最終章では、夏目漱石対永井荷風の句合わせを試みました。


 意外だったのは鷗外が俳句を作っていたこと。

 特に面白かったのは、太宰の「猿蓑」の「市中は物のにほひや夏の月」で始まる連句に対する批判。凡兆のこの発句は手放しで褒めるが、芭蕉の脇句「あつしあつしと門々の声」をつきすぎだと、厳しく批判。以下特に去来の句を徹底的に批判している。露伴もこの歌仙を詳細に解説しているが、太宰はまったく別の見方をしていた。

 漱石と荷風の句合わせは課題についてそれぞれ一句ずつ取り上げ、尚毅が判定する。十番やって決着がつかず、十一番でやっと決着。漱石の句は高柳克弘、荷風は高柳の妻の神野紗希が選んでいるような書き方。そりぞれの句に今までに寄せられている評価をぶつけ合わせて、最後は尚毅が判定する。まとめとして荷風の句はひとり言に近く、漱石の句は対話・問答に近いという。

 俳句そのものの紙面よりも、作家の作品にさいた紙面の方が多いのではないか。資料のの調べが詳しく深い。取り上げた文豪の余り知られていないマイナーな作品まで、細かいところまで読んでいて、引用している。文学史としても面白く著者の博識に感心する。それでいて、俳人尚毅だから、句作りの参考になる指摘が各所にあり、ためにもなる。巻末に参考文献60余り。単行本のみならず「ホトトギス」を中心とする雑誌類まで目を通している。

 本書の最後で、岸本はいう:
俳句は十七音しかありません。読者の「読み」に依存する文芸です。俳句を「どう作るか」の入門書は数多出回っていますが、じつは、俳句を「どう読むか」のほうが、もしかすると、もっと深く、もっと面白いテーマかもしれません。

本書にあった文豪の2句を:
幸田露伴
 長き夜をた々る将棋の一ト手哉
 子を持つて河豚の仲間をはづれけり


尾崎紅葉
 元旦の混沌として暮れにけり
 秋の蝿寝顔踏まへて遊ぶなり   
病床の句

泉鏡花
 我が恋は人とる沼の花菖蒲
 打ちみだれ片乳白き砧かな
     能の「砧」

森鷗外
 米足らで 粥に切りこむ 南瓜かな   日露戦争の戦場で
 死は易く 生は蝿にぞ 悩みける
  「
叙情や述志や悲憤慷慨は長い詩形に託し、俳句ではその短い形式に見合った即事・即興を詠ったのです(子規や虚子がそうしたように)。鷗外はそれ以上のことを俳句に求めなかった。俳句は折にふれての癒しの詩形であればよかった。だからこそ、肩の力の抜けた、のびやかな、遊び心のある、とても鷗外とは思えないような句が生まれたのです。」と岸本はいう。(p93)

芥川龍之介
 夏山や山も空なる夕明り  
  本書では龍之介の句の推敲がいくつかの例で詳しく述べられていて、参考になる。この句も原句から推敲を経て4句目に成った句である。
 凩や目刺に残る海の色
  この句を虚子の「蒼海の色尚存す目刺かな」と比較して、人気投票したら龍之介の圧勝だろうという。

内田百間
 冬近き水際の杭のそら乾き
 竜天に昇りしあとの田螺かな


横溝利一
 わが影を逐いゆく鳥や山ななめ
 橙青き丘の別れや葛の花

いずれも小説の中の人物に詠ませた句。

宮沢賢治
 おもむろに屠者は呪したり雪の朝   「呪す」は祈りの言葉を唱えること。
 たそがれてなまめく菊のけはひかな

室生犀星
 ゆきふるといひしばかりの人しづか
 鯛の骨たたみにひらふ夜寒かな


太宰治
 幇間の道化窶れやみづつぱな
      この句は「人間失格」を要約したような句だと岸本はいう。
 ひとりゐて蛍こいこいすなつぱら

川上弘美
 室咲や春画のをんなうれしさう
 春の夜人体模型歩きさう


夏目漱石VS永井荷風 句合わせ
お題「自画像」
 枯蓮にちなむ男の散歩かな   荷風
 正月の男といはれ拙に処す   漱石
荷風の勝ち

お題「運命」
 落る葉は残らず落ちて昼の月  荷風
 風に聞け何れか先に散る木の葉 漱石
  漱石の勝ち

参考:以下の作家については句集あるいは評論が本読書ノートにありますので参考にして下さい。

  幸田露伴夏目漱石芥川龍之介川上弘美

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書名 源氏物語(九) 著者 紫式部、柳井滋他校注 No
2021-29
発行所 岩波文庫 発行年 2021-09-15 読了年月日 2021-10-05 記入年月日 2021-10-06

  生涯の宿題とした『源氏物語』原文読破も、1年10ヶ月で達成できた。

 本巻は前巻が出て1年後にやっと上梓された。「蜻蛉」「手習」「夢浮橋」の最後の3帖を納める。巻末に「解説」「年立」「和歌」「登場人物」のリストアップがあり、それが200頁を超す。そのために最終刊は時間がかかったのだ。従来の研究から最近の成果まで取り入れた詳細な校注、研究として後世に残る歴史的な『源氏物語』になるだろう。ちなみに校注者は以下の6名:柳井滋、室伏信助、大朝雄二、鈴木日出男、藤井貞和、今西裕一郎。

「蜻蛉(かげろう)」では、浮舟が消えた後の人々の様子が述べられる。薫ると匂宮の間で板挟みになって浮舟が悩んでいたこと知るのはお付きの右近と侍従のみ。二人は浮舟が入水したのではないかと考える。匂宮は浮舟からもらった手紙で、何かあったかと思い、宇治に人をやり探らせるが、右近と侍従は会おうともしない。

 薫は母三宮の病気平癒のために参籠していたが、浮舟のことを知る。
 宇治では、死体が上がらぬまま、早々に内密で火葬を装い葬式を済ませる。後で知った薫はそのことに怒るが、後の法要は盛大に行う。匂宮は落胆のあまり病に伏してしまうが、法要には豪華な供物をする。

 匂宮の母、明石中宮にもこのことは侍従から耳に入り、匂宮のために、内密にするように言いつける。
 薫は匂宮の見舞いに訪る。そして、匂宮も浮舟と深い関係にあったことを推察する。p53以下にこの際の二人の心内描写が続く。悲嘆に暮れて涙を流す匂宮。匂宮はこの涙は浮舟を失ったことによると、薫は気づくまいと思う。しかし、薫は匂宮の涙に浮舟への深い思いを読み取り、匂宮は薫のことを間抜けな奴よとあざけ笑っていたのだろうと思う。匂宮は世の無常を知っていて自分ほどには悲しみを見せない薫を羨ましくも思う。そして、薫が浮舟の忘れ形見だと思う。薫は一日も早く浮舟を都に引き取らなかったことを悔やむ。

 薫は六条院で催された法華八講の祭、垣間見た女一宮の美しさに惹かれる。女一宮は薫の正妻女二宮の腹違いの姉妹だ。薫が女一宮を見かけたシーンには氷が出てくる。お付きの女房たちが割った氷をそれぞれ頭や胸に当てて、暑さを凌いでいる。女房の一人が紙に包んで、女一宮に差し出すが、雫で濡れるから嫌だと言って断る(p109)。平安朝で夏に大量の氷が使われていたことは『紫式部の暗号』に取り上げられている。平安時代は比較的高温の時代だったと。
源氏の弟の兵部卿がなくなり、その娘が明石中宮のところに来たが、薫はその女性にも恋心を抱く。このほか、薫には小宰相の君という女房の愛人もいる。こうしてみると、深く仏に帰依し仏道に励む薫も隅に置けない。

 面白かったのは、当時も妻の実家は男にとってはいづらいこと。匂宮の正妻は今は左大臣の夕霧の六の君。匂宮は父の大臣が「いとうるさき」ので六の君のいる二条院にはなsなかいかずに、専ら六条院の中君のところにいる。

「手習」
 浮舟が横川の僧都に見つけられ、小野の里に引き取られるまでの物語。心内描写が少なく、エピソードの展開が語られるので、読みやすい帖だった。
 比叡山横川の僧都の80歳になる母尼と僧都の妹尼は初瀬に詣でる。帰途、母尼は体調を崩す。僧都は出かけて行き、宇治院に母の宿を移す。僧都が宇治院を見聞した際、木下に若い女がうずくまっている。僧都は助けることを命ずる。宇治の里人がやってきて八宮の姫君が亡くなったことを知らせる。女は浮舟であった。

 母尼が快復し、一行は坂本の小野の里に帰る。浮舟が意識を取り戻すのは、2ヶ月も後のことだ。僧都の加持により物の怪が退散し、やっと意識を戻すが、おぼろげな記憶しかない。死に損なったことをむしろ悔やむ。

 浮舟の朧な回想では、その夜、簀の子の端に足を差し下ろしながら、死に損なった姿を見られるより、鬼にも食われてしまった方がいいなどと放心状態でいるところへ、「さあ私のところにいらっしゃい」と男に抱かれ、匂宮かと思ったところで、正気を失ったという。(p207~)。かつて、匂宮は浮舟を抱いて、小舟に乗り対岸の自分の荘園に建てた建物に連れて行く。このときのことが浮舟の幻想の中に現れる。薫るよりも匂宮の方に深くひかれていたのではないか。

 妹尼は夫を亡くし、一人娘も亡くした。浮舟を娘のように慈しむが、浮舟は素性を明かさない。妹尼の亡き娘の夫、中将は横川の帰りに小野により、浮舟の後ろ姿を見て心が動く。女房たちも妹尼も中将と浮舟を似合いだとするが、浮舟は堅く心を閉ざし、ひたすら手習いなどの打ち込み、出家を願っている。

 妹尼が初瀬へのお礼参りに行っている留守なる。女一宮の物の怪退治に下山する横川の僧都が小野に立ち寄る。その機会に浮舟は出家を懇願する。僧都は思いとどまらせようとするが、浮舟は泣きながら半生の悲運を話し、僧都は応じる。妹尼は驚き嘆くが、尼衣を用意する。中将も浮舟に会いたく思うが、頑なに拒む。
 僧都は女一宮の物の怪退治の際に、母である明石中宮に浮舟のことを話す。そして、中宮から小宰相を通して薫に伝えられる。薫は浮舟が生きて小野にいることを知る。

「夢の浮橋」
 素敵な題だがこの言葉は本文中には出てこない。

 比叡山に登り仏事を済ませた薫は、横川の僧都を訪ね浮舟のことを聞く。僧都は浮舟発見の真相を語る。そして、薫と浮舟の関係を知り、出家させたことを後悔する。薫は僧都に浮舟と会う手引きを頼む。僧都は薫が供に連れていた小君に浮舟への手紙を託す。小君は浮舟の母が再婚した相手との間にもうけた子供。翌日小君は僧都の手紙と薫の手紙を持って小野を訪れる。浮舟は薫の手紙に涙を流すが、あくまでも人違いだと言って、返事を拒み、小君との対面も拒否する。小君はむなしく帰り、薫は浮舟の心を測りかね、誰か別の男にかくまわれているのではとまで疑う。そして『源氏物語』は終わる。

 ただ、この長編の終わり方は拍子抜けする。原文は「
・・・・人の隠し据ゑたるにはあらむと、わが御心の思ひ寄らぬくまなく、落としおきためへりしならひにとぞ(注1)、本にはべめる。(注2)」理解しにくい文章だ。注1:だれか(男が浮舟を)隠し住まわせてあるのではと、ご自分の心が(女に)恋して近寄らないところがなく、(囲って)置いておかれた、その習いに。かつて浮舟を宇治に見置いたままにした経験から、と言いさした終わり方。注2:もとの本(写した前の本)にはあるようです。
  特に最後の「
ほんにはべめる」が逃げているようで決まっていない。

 こうしてこの長編小説は終わる。自身を人違いだとして拒絶する浮舟に、三島由紀夫の『豊饒の海』の最後を思い浮かべた。三島もこの長編小説を、今は仏門に入っている聡子が、かつての恋人、松枝と言う人など知らないと言い放つところで終えている。三島は『源氏物語』に倣ったのだろうか。『豊饒ゆ海』の読書ノートを読み返してみたら、この最後は『源氏物語』の横川を思わせるとあった。

 意外に早く読み通せた。古文が理解がほんの少しは進んだ気がするが、解説なしでは1/3も理解できないだろう。このような長編を筆写で保持し続けたことにただ驚く。読んでみて、それだけの価値のあるすばらしい小説だと思う。

 最後に気になったのは、物語の中で、たくさん歌が交換され、手紙がやりとりされる。しかも、手紙には香がしみこませてある。いくら特権階級の王朝貴族とは言え、紙はそんなに自由には使えなかったのではないか。かつて藤原定家の『明月記』の原本を見たことがあるが、裏に前に書かれた墨跡が残っていた。反古となった書状の文字を剥がして使っているのだ。定家より200年前の貴族がそれほど自由に紙を使えなかったと思うのだが。
丸谷は『輝く日の宮』の中で、藤原道長と式部は愛人関係にあり、紙のスポンサーは道長で、ふんだんに提供されたのでこの長編ができあがったと述べている。
解説:
 執筆期間は30数年。物語のスパンは75年。年立には75年間の各年の出来事が網羅されている。「夢の浮橋」という題は「
薫と浮舟との二人のあいだ(の懸隔)をあらわそうとする”浮き橋”であることはほぼ間違いない。

 宗教について:一
人一人の主人公ごとに担当する仏さまや菩薩が付き添う。われわれは『源氏物語』のなかを読むことで、十分に十世紀代平安文化(特に宗教社会)の実感に浸ることができる。宗教的な多様性と言ってよいので、その多様性そのものが平安十世紀そのものであり、『源氏物語』を書かせた正体の一つであろう。(p412)

 時間を表す言葉は現代では極めて貧しくなっている。『源氏物語』の「き、けり、ぬ、つ、たり、り、けむ」などは失われている。しかし、それぞれの持つ機能は現代語に訳す場合でも考慮する必要がある。その例として「けり」の説明がなされている。

『源氏物語』はわれわれに古文の文法についての、新しい、しかも基礎的な知見をもたらす」と本巻解説の藤井貞和は言う。
 和歌はすべてがピックアップされ、しかも初句索引がついている。

 人物索引はほんの数行しか出てこない人物まで網羅されている。主要人物については細かい履歴が記される。年立と人物一覧はこの長編を読み通すのに大いに参考になるだろう。


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書名 光る源氏の物語(下) 著者 大野晋、丸谷才一 No
2021-30
発行所 中央公論社 発行年 1989年 読了年月日 2021-10-18 記入年月日 2021-10-19

 待ちに待っていた下巻。上巻があまりのも面白かったので、すぐに読みたかったが、まだ肝心の『源氏物語』を読み終わっていなくて、本書を読んだら、大野、丸谷の目で源氏を読むことになると思い我慢していた。岩波文庫の『源氏物語9』が第8巻が出てから1年近くたってようやく出て、読み終わったので、本書を読むことができた。

 上巻で源氏との一夜を明けた六条御息所の様子書いたところを大野が指摘し、丸谷が大野の指摘に一つ一つうなずいたところがあるが、下巻でも丸谷よりも大野の方が深く細かく源氏を読んでいると思った。国語学者の読む源氏と小説家・文芸評論家の読む源氏との差と言ってもいい。それが上手くかみ合い、あるときは一致しないところが、『源氏物語』を読み解く上で、大いに参考になる。
 
 本巻が扱うのは「若菜」から「夢浮橋」まで。各巻に丸谷による簡単なストリーの説明があり、また、ポイントとなる部分は原文と丸谷訳が載せられる。各帖に対する評価もなされる。「若菜上下」と「浮舟」が高く評価される。宇治十帖に入る前の「匂宮」「紅梅」「河竹」は不要な帖だと手厳しい。私も同じように感じた。

 丸谷はあとがきで「
・・・国語学者と小説家兼批評家とが『源氏』についてじつに率直に語り合つたのがこの本です。大野さんもわたしも在来の約束事にこだはらず、よくないと思ふところは遠慮しないでけなしました。こんな巻は読まなくてもいいと言つた巻もある。だが、感心した箇所は口を極めて褒めそやした。今までこんなに褒めた人はゐないと思ふくらゐ賞賛しました。そして、とりわけ大事なのは、この対談が『源氏』における閨房のこと(男色を含む)についてまことに熱心に討議してゐることでせう。

付箋を付けたところ
若菜上
○「若菜上・下」への絶賛。『源氏物語』はここから読み始めてもいい。p9.
○女三宮をもらった背景には古代的な呪術意識の名残としての、高貴な女性の呪力を身につけ一層完全な男になりたいという願いがあった。三宮を断り切れなかった状況では紫の上としては立つ瀬がなかった。
○「若菜」という題は男の老いをこれ以上華やかにそして皮肉にいう題としてこれ以上のものはない。p16.
○「若菜」以降の主題である三角関係は登場人物がそれぞれ自分の置かれている位置と、相手の心の動きが分かっていて、しかも自分の気持ちを捨てきることができない。読んでいてそこに引きこまれる。

○源氏が朱雀院が出家した後の朧月夜を訪れる。「らうらうじい」という言葉を丸谷は「閨中のことに巧みで」と訳した。紫上と三宮の間で悩む源氏が気晴らしとして、明るく屈託のない朧月夜を訪れたくなるのは、よく分かる。前半で出てきた朧月夜をここに出したのは効果的で、一つ動かしておいた端歩があとでちゃんと効いてきたようだと大野は言う。p34.
○「若菜」以降のC系列では主題はすべて三角関係である。女と男がやむにやまれぬ三角関係に陥り、それまで存在していた愛が壊れてしまうと言う点で共通している。この背景には紫式部と道長の間がまずくなり、道長に突き放されたという事情が影響していると大野は言う。丸谷はその説に同意しない。小説家にとってそういう見方をされることは困ると丸谷。p40.

○明石入道が娘の明石女御が男皇子を生んだ聞いた後、「隠遁」する。これは一種の自殺だろうと。このことは後の「雲隠」への伏線となっている。p43.
○猫:日本文学史を闊歩するすばらしい猫が二匹いる。一つは女三宮の御簾を開けて柏木が宮を垣間見る原因を作った猫と、もう一つは猫が主人公の猫。いずれも名前がない。p49
○和歌:和歌は当時の公的表現。だから敬語を使わなくていい。ずっと身分の高い柏木に対し肉体関係のある女房が敬語なしの表現で和歌をたたきつけている。p66.

若菜下
○猫:柏木が女三宮の猫を手に入れる。猫の鳴き声は「ねうねう」と鳴く。柏木は撫でて「いやに床急ぎするなあと微笑なされる」と丸谷は訳す。「ねうねう」を「ねようねよう」と取る。こんな訳は今までにあっただろうか。p71.
○女三宮が降嫁してきたのは13,4歳。三宮と柏木が密通するのは三宮21歳。柏木は7年間もあきらめきれなかった。こう言われるといかにも恋とはこう言うもんだと感じる。p81.
○源氏が女三宮宛の柏木の手紙を見つけるシーン。三宮の幼さを示すシーンだが、扇が壊れていたとか、いくつかの偶然が重なって、源氏に見つかってしまう。「もし」とか「だったら」と考えるのは小説の読み方としては初歩的だと批評家は軽蔑する。しかし、そうした読み方が小説の面白さの根幹にあると丸谷。大野はこの場面は偶然の重なりが必然に連なることを巧みにとらえていると。p106.

○紫式部は物語は『源氏物語』しか書かなかった。式部はa系列では栄華を上りつめて行く男の歩みを、b系列では一人ひとりの女性の個性をエピソードによってとらえ、結局光源氏が失敗するという話を書こうとした。それが「若菜」以降にいたって、男と女の愛は保たれるのか、実はそれは崩壊するものだという主題を具体化しつつあると読める。以上大野の見解。p108
○小説はテクストを媒介として作者と読者とが丁々発止と切り結ぶもの。その切り結ぶ度合いの一番激しいのが「若菜」である。折口信夫が『源氏物語』は「若菜」だというのはそのことだ。丸谷の言。p124.

柏木・横笛
○柏木と女三の宮の歌を比べて、柏木の歌のできが悪い。式部は必ず女の歌の方を上手に作る。こんなところに式部の男に対する偏見が出ている。p129.
○柏木の子を源氏が抱くシーン。源氏が女三の宮に贈った「誰が世にか種はまきしと人問はばいかが岩根の松はこたへん」の丸谷訳は「種をまいたのは/誰の世のこと/と問われたなら/岩の上の松は/どう答えるやら」。極めて残酷な歌だという。ここには相手を相手とも思わない光源氏の地位の持つ面、平安貴族、王族のもつ邪悪とも言える権威があらわれている。「世」は「夜」とも読める。三宮は返歌もできず打ち伏したとあるが、出家したくなるのも当然だと。こうした光源氏の嫌らしい面まで見たとき初めて『源氏物語』を読んだと言える。p143.
○夕霧と雲居雁の夫婦げんか:これほどの世俗的な夫婦げんかは『源氏物語』の特殊な部分。明治以降の自然主義小説のような場面だ。p150.

鈴虫・夕霧・御法・幻・雲隠
○若菜以降は三角関係の連続。紫の上ー光源氏ー女三宮-柏木ー女二宮-夕霧-雲居雁
p156.
○三角関係が生じた場合の女の愛情の崩壊の状況を巨細に書こうとした。女の愛は長く保たれることはないと式部は言おうとした、と大野。
○病に伏す紫の上を明石中宮が見舞う場面。美文で、「須磨」のころの美文など問題ではない。それでも、京都にいて須磨のくだりを和文で書けた人は式部しかいない。式部は自己批評の能力がすごい人だった。自分の書いた文章はほとんど覚えていたのではないかと思われる。p175.
○「雲隠」:この帖には本文がない。本文なしで題だけという不真面目なことを式部がするはずがないという考えに、丸谷はするはずがあったという。丸谷はその理由をいくつか挙げるが、日本美の特徴として余白の美意識が平安末までには確立していたという。p187~。

匂宮・紅梅・竹河
○この3帖は別人が作った感じがすると、丸谷。p208.大野は竹河の文章を些細に検討している。中に「孕む」という言葉が出てくる。物語の他の部分では出てこない。こうした言語の面からの研究は徹底しているようだ。この美的センスから外れた言葉をとっても、この3帖は別人の可能性がある。読者はこの3帖は飛ばした方がいいと二人とも言う。p225~。
舞姫・椎本
○宇治十帖はまったく違う話とみる。特徴の一つとして大野は名前を挙げる。雲隠れまでは「光の君」。宇治十帖は匂と薫。当時の生活では「匂い」と「かおり」は夜のもの。「ひかり」には夜はないと。p231.
○薫が自分の出生に疑問を抱くが、なぜ抱くかの具体的なイメージがない。概念的な説明で済ますのは作者のエネルギーが衰えているときだと丸谷。大野はそれは宇治十帖全体の文章に見られ、センテンスが長くなっている。a系列では平均五53文字、宇治十帖では85文字がワンセンテンスだと。ずるずると長いから強さに欠ける。こんなところからも折口信夫のように宇治十帖は別人の作だという説が出てくる。しかし、この二人は式部の作だとしている。p234.
○宇治十帖には幸せな女は出てこない。その一人、大君は絶望のうちに男に会わないで死ぬと大野。丸谷は関連して八宮の造形が足りないと指摘。p246.

総角・早蕨
○女にとっての結婚:男にとって結婚は決断、能動、攻撃、征服であり結果として改悪である。しかに女にとっては違う。大君が薫との結婚を渋ったのはボヴォワールの『第二の性』を読んでよく分かったと大野。ボーヴォワールからの引用が詳しい。p262.
○大君は25歳で当時としてはかなり年が行っていた。式部の結婚は27,8歳と思われるから、自分自身の心理から大君の心を書くことができたのではないかと」大野。p270.

○大君は食事を絶って自殺したという説がある。しかし、大野も丸谷もこの説には賛成しない。父の訓戒に背いてまで、妹を結婚させようとしたのに薫も匂宮も別の女と結婚したことへの絶望から病気になった。p277.
○王朝物語:零落した姫君を助けて結婚するというのがあって、薫はそんな物語を読んでいて、実は仏道よりもそんな姫君と恋することを思い詰めていたのではないか。零落した姫君が3人もいる。こんなのは今までの物語にはない、最高に幸せな青年だった。それがどんなにひどい目に遭うかというのが宇治十帖ではないかと、丸谷は独特の論を述べる。p286.

寄木・東屋
○東屋の中には初めて「東国」が大きな姿で描かれている。当時の京都から見れば劣等の地、田舎も田舎、暗黒の地。東国の男は財産ばかりあって品も悪いが、二心がないと浮舟の母は言っている。日本の文化史的な大きな見通しが書き込まれていると。p307~。
○浮舟が中君のところに身を寄せているとき、匂宮が部屋に侵入して、浮舟に強引に迫るシーンを、『源氏物語』の中でも一番面白い場面ではないかと、丸谷。強姦未遂のシーンの中に、当時の一社会全体が入っていてすばらしいと。p317.

浮舟
○若菜と並んで、浮舟は素晴らしい。その前の帖と比べて突如としてよくなるので、昔の人がいろいろな人間が書いたのだと思ったのも当然。しかし、長編小説だと充実した章は20章のうち5章程度で、その間をどうつなぐかが問題だと作家の立場を丸谷は述べる。p330.
○浮舟は匂宮と一夜を過ごす。浮舟は薫を「きよげ」な人、匂宮を「きよら」な人と言う。「きよげ」は「きよら」より劣る美の表現。作者はここで、浮舟が匂宮に心傾いていることを示していると大野。この辺りの読みは国語学者でなければできない。p336.

○匂宮は浮舟を隠れ家に連れて行って、2日間親密に過ごす。浮舟は女としての悦びに浸るが、匂宮は浮舟を女一宮に奉ったらいい女房になるだろうと思う。ここに匂宮の冷酷さがよく出ている。ここで物語は甘いロマンスからノベルに変わると丸谷は言う。式部は女のこの上ない不幸、人間関係の食い違いをきっちと考えている。p346.
○浮舟のような二人の男と関係を持った女性は、早くどっちかに決めて隠してもらうのが当時の普通のことだった。それなのに浮舟は「けしからぬこと」「あるまじきこと」と言う意識で行動した。作者の世界観、人間観、あるいはモラルと、大野。p350.

蜻蛉
○浮舟の葬儀が終わった後、薫が匂宮を見舞うシーンで二人の心内が述べられる。匂宮から恋敵への皮肉、当てこすり。これはすでに光源氏が柏木に対して行ったことの二番煎じであり、こうした二番煎じは作者の気力の衰えだと丸谷。大野も作者が老齢に達したことによると。p368.
○浮舟の49日が過ぎると薫も匂宮も、悲しみから別の女に気持ちが移る。薫は女一宮をもらえばよかったとか、亡くなった式部卿宮の娘の宮の君を二人で争ったりする。結局二人は浮舟を忘れがたいほど愛してなんかいなかった。これは当時の高級貴族が受領階級の女をどう思っているかを示している。p376.
 私も『源氏物語』を通じて、階級的な格差、差別の激しさを何回も感じていた。
○宇治十帖の主題は食い違いである。人間関係が皆齟齬している。人生における男と女の間柄は食い違いであるというのがd系列を動かす大きな主題であると、大野。

手習・夢浮橋
○浮舟の入水を大野は自分をけしからぬことをした女だと決めつけたからだとする。一方丸谷はどうしたらいいか分からなくなって入水するととる。大野は宇治十帖を何回も読み返して、この作者が極めて倫理的であると発見した。作者の中に二夫にまみえずという漢学の思想が確固としてあった。54帖を通じて二人の男に関わった女はそれぞれに出家している。藤壺、朧月夜、空蝉、六条御息所しかり。一方秋好中宮、紫の上は出家していない。これは偶然ではないと大野。p398.ここの論議は面白い。

○終わり方について:
原文:
いつしかと待ちおはするに、かくたどたどしくて帰り来たれば、すさまじく、なかなかなり、と思すことさまざまにて、人の隠しすゑたるにやあらむと、わが御心の、思ひ寄らぬ隈なく、落としおき給へりしならひにとぞ、本にはべめる。
丸谷訳:
今か今かと待つところへ、こんな要領を得ない帰り方だつたため、大将はしらけた気持ちで、いつそ使ひなど出さねばよかつた、などいろいろに悔み、誰かがこつそり囲つてゐるのかしらと、疑つたんは、御自分が仔細にお考への上で宇治にはふつて置いた経験からぼこと、と本には書いてあるとやら。

 私も異常な終わり方だと思ったが、丸谷も異常だとしている。ただ、もう一つ異常な終わり方をしている物を思いついたと。それは谷崎の『細雪』。『細雪』は『源氏物語』的だともそうでないとも言われているが、その終わり方だけは『源氏物語』を参考にしている。それは決してまねではない。大作家が先行する古典の手法を学ぶ模範的な学び方である。文学の伝統というのはそういうことだと思うと、丸谷。p421~。

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書名 けっぱれ、母さん 著者 千葉実 No
2021-31
発行所 株式会社ダブル 発行年 令和3年8月31日 読了年月日 2021-09-20 記入年月日 2021-09-20

 エッセイ教室の受講生、千葉さんが母親への思いを綴った物。千葉さんは高齢の母親のことをよくエッセイに書いている。その作品を中心にひ孫さんの文章と絵、芸事の好きだった母の和服姿や現在の顔写真、母への思いを詠んだ俳句などをまとめたハードカバーの立派な本。

 今年97歳になり、かなり前から養護施設で暮らしていて、何回かの大病も克服している生命力の強い母親。何か不安に思うことはないかと著者が聞いたら「老後のことが心配だ」と答えたという。なんとも幸せな老人であり、また幸せな著者の家庭を思わせる作品。

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書名 クララとお日さま 著者 カズオ・イシグロ、土屋政雄 訳 No
2021-32
発行所 早川書房 発行年 2021年3月 読了年月日 2021-10-30 記入年月日 2021-11-22

 著者の最新作。近未来SF。俳句仲間の吉野かおるさんの薦め。

 「
初めてお店に並んだとき、ローザと私に与えられた場所は店央の雑誌台側でした。」と始まる。私の名はクララでこの物語の語り手。次のパラグラフは「そんなふうにお日さまに出会えた日は、顔を前に突き出し、できるだけたくさんの栄養をいただこうとしました。」次のパラグラフの最後は「『欲張りすぎだよ、クララ。君ら女子AFはなんて欲張りなんだ』」で終わる。

 ミステリアスな書き出しだ。AFが何の略号かが分かったのはかなり読み進めてから。人工親友と言う言葉が出てきた。「
とてもかわいくて、とても頭のいいAFです。フランス人みたいなAF。ショートヘアーで、浅黒くて、服装も黒っぽくて、でもとっても親切そうな目をして、とっても頭がいいの」。これは購入され、クララがAFとなったジョジーの見たクララの印象だ。その少し後に、クララが欲しいというジョジーに対し母親が「ちょっと待って、ジョジー。人工親友って、どれも独自の個性をもっているのよね?」という中で、初めて、人工親友と言う言葉が出て来る(p64)。

 クララはB2型のAF。最新のB3型より旧式だ。だが、クララには独自の美質がありそれは「観察と学習への意欲ということになるでしょうか。周囲に見るものを吸収し、取り込んでいく能力は、飛び抜けています。結果として、当店のどのAFより――これはB3型も含めてです――どのAFより精緻な理解力をもつまでになりました」と店員が説明する。クララは結局ジョジーのAFとして買われて、郊外で生活することになる。

 クララはキャリアウーマンの母親と家政婦のメラニアと暮らしている。病弱で学校にいっておらず、リモートで教育を受けている。父親は別居している。隣家と言ってもかなり離れたところに少し年上のリックとい少年がいる。少年も母親と二人暮らし。ジョジーとリックの間にはほのかな恋心があるように見える。こうした環境の中で、クララは献身的にAFとしての役割を果たして行く。

 クララのエネルギー源は太陽光。太陽に対しては特別の思いがある。クララの特長は人の仕草や、特に声の調子から人の心を読み取ることに長けていること。ジョジーが何を考えているか、あるいは母親が何を考えているか、正確に読み取っている。

 ジョジーには姉があったが、病弱でなくなってしまう。このことは両親にとっては大きな心の傷になっている。もしジョジーも失うことになったら……。
 ジョジーは街の画家カパルディに肖像画を描いてもらっている。ある時、クララも一緒にそのアトリエに出かける。そして、画家から膨大な質問用紙を渡され回答する。アトリエでこれは肖像画ではなくジョジーのモデルを作ることが目的であるとクララは気がつく。実は母親がクララを購入したのは単にジョジーの遊び相手、学習仲間と言うほかに、もう一つ目的があったのだ。クララに完全にジョジーになりきって欲しい、そして……。聡明なクララはそのことを画家のところで即座に見抜く。

 ジョジーは名門大学への入学を希望している。リックも同様に大学進学を希望している。だが、「向上処置」を受けていないものは最初から大学を受けられないことがほとんどだ。ジョジーが希望する大学は「向上処置」なしでも受けられるが、2%の枠があるという。ジョジーは向上処置を受けている。向上処置が遺伝子操作であることは最初は明かされない。
 街の画家を訪問して数日後から、ジョジーの病状は悪化。母親は万一を覚悟する。クララはかつてジョジーとリックと散歩に行ったことのある丘上の納屋に行き、夕日に向かってジョジーの回復を祈る。

 重く雲が垂れ込めていたある日の朝、突然太陽が現れる。クララは2階のジョジーの寝室の駆け上る。そして、ブラインドとカーテンをいっぱいに開けお日さまの光を寝室に迎え入れる。これを機に、ジョジーは回復し、やがて大学にも受かり、家をあとにする。
 こうして立派に役割を果たしたクララの最後は、すっかりクララに感情移入してしまった読む者の涙を誘う。クララの店の元店長がクララの置かれた場所をたまたま訪れる。

元店長に対してクララは言う(p431):
「・・・・私がジョジーを継続することも、やればできたと思います」
「・・・・でも、クララ、『ジョジーを継続する』ってどういう意味なの?」
「店長さん、わたしは全力でジョジーを学習しました。求められれば、全力で継続していたと思います。でも、結果が満足いくものになっただろうかと問われると……。それは、完璧な再現などできないということより、どんなにがんばって手を伸ばしても、つねにその先に何かが残されているだろうと思うからです。母親にリックにメラニアさんに父親……あの人々の心にあるジョジーへの思いのすべてには、きっと手が届かなかったでしょう。いまはそう確信しています、店長さん」
「そう、でも、クララ、実際には最高の結果になったのね?よかったわ」
「カパルディさんは、継続できないような特別のものはジョジーの仲にないとかんがえていました。探しに探したが、そういうものは見つからなかった――そう母親に言いました。でも、カパルディさんは探す場所を間違ったのだと思います。特別な何かはあります。ただ、それはジョジーの中ではなく、ジョジーを愛する人々の中にありました。だから、カルバディさんの思うようにはならず、私の成功もなかっただろうと思います。わたしは決定を誤らずに幸いでした」


 このあとクララは「
お日さまはわたしにとても親切でした。最初から親切でしたが、ジョジーのところにいるときは輪をかけて。」という。そして店長が去って行くところでこの長編小説は終わる。

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書名 怪帝ナポレオン三世 著者 鹿島茂 No
2021-33
発行所 講談社学術文庫 発行年 2010年10月 読了年月日 2021-11-16 記入年月日 2021-11-22

 副題は「第二帝政全史」。これも吉野さんのお勧めの本。文庫本で600頁にもなる読みでのある本だったが、いろいろ教えられるところがあり、面白い本だった。

 私が訪れた世界の都市で、パリほど美しい街はないと思っているが、現在のパリの街の基礎を作ったのは、ナポレオン三世であると聞いていた。しかし、ナポレオンの甥に当たるナポレオン三世に関しては何も知らないといってよかった。本書にはナポレオン三世のもと、主としてオスマンによって行われたパリに町並み整備にも多くの紙面を割いて詳しく述べられている。今では遠いパリになってしまったが、かつて歩いたパリの街の名前を思い出しながら、本書を読むのも楽しかった。

 文庫本ながら、本書には写真が、それもかなり鮮明な写真が各所に掲載されている。最初の写真はなんとマルクスとヴィクトル・ユーゴーの肖像だ。この二人によってもたらされたナポレオン三世のイメージは「
出来損ないの茶番を演じた漫画的人物、ようするにただのバカ」だという。(p12)。本書はそうしたイメージを否定するために書かれたと言える。もっとも、マルクスをよく読めば、彼はナポレオン三世はプロレタリアート革命を準備するために登場した、一種の「歴史的必然」であったと主張しているという。フランス知識人に今もって強いナポレオン三世凡庸論は、根っからの共和派であったヴィクトル・ユーゴーの影響だという。

 ルイ・ナポレオンは1808年生まれ。父はナポレオンボナパルトの弟、母はボナパルトの妻ジョセフィーヌが先夫との間にもうけた娘オルタンス。ボナパルトは叔父であると同時に、母方の義理の祖父でもある。没年は1873年。

 1839年にナポレオンは『ナポレオン的観念』を出版する。著者は従来余り顧みられていないこの本を取り上げる。その本の狙いを二つあげる。

ひとつは、伯父の大ナポレオンが、フランス革命の打ち立てた民衆主権と自由の理念を受け継ぐと同時に、大革命に含まれた破壊的、否定的な側面を取り除いた唯一の「大革命の遺言執行人」であったことを明確に示すことである。今日の社会に進歩があるとするならば、それはすべてナポレオンが最初に手をつけたものにほかならないという主張である。
 いまひとつの狙いは、未来において、繁栄と平和を実現するには、民衆の意思を直接に反映する制度と、その意思を秩序と権威をもって実行に移す指導者すなわち皇帝の存在が歴史的に見て必然的かつ必要不可欠であることを証明することである。反動勢力と共和派の不毛な争いを止揚し、民衆の生活の向上を図るには、ナポレオン思想に基づいた皇帝民主主義が緊急に必要であり、それを実現できるのはナポレオンの甥であるこの自分以外にはないというのが、ルイ・ナポレオンの訴える眼目である。
」(p49)

 本書を読むとルイ・ナポレオンの生涯はこの眼目にぶれることなく、また本書もそれに従ってルイ・ナポレオンを見ている。

 本書には一般歴史書のような年表がないのでナポレオン三世の歴史を一覧するのには不便であるが、一応まとめてみる。

1836年 ストラスブール一揆
1840年 ブローニュの一揆 失敗で終身刑を言い渡される
1846年 脱獄
1848年 フランス2月革命
歴史上初の普通選挙による大統領選挙で圧勝 ルイ・ナポレオン大統領就任 ~50年
1851年 ルイ・ナポレオンクーデター 議会解散、大統領に就任
1852年 ナポレオン三世即位 第二帝政 ~70年
1854年 英国とともにトルコと同盟してクリミア戦争に介入
1857年 広州をイギリスとともに占領
1858年 アロー戦争
    ベトナム侵攻
1862年 メキシコでのラテン帝国建設計画挫折
1868年 ナポレオン三世 労働者団結権を承認
1870年 普仏戦争
      自ら前線に赴いたナポレオン三世は、セダン要塞で包囲され
      9月1日、降伏しとらわれの身となる。9月4日立法議会は帝政の廃止を宣言する。
1871年 パリコンミューン
 
 著者の鹿島茂はNHKのテレビ「英雄たちの選択」に時々出ている。フランス文学者だが歴史にも詳しい。本書もフランス語の原典にもあたっていて記述が詳しい。プロイセンとの戦争に自ら戦場に出向いて挙げ句の果てに捕虜になってしまうという最後を初め、懲りない蜂起、投獄、脱獄、クーデター、数々の経済施策、行政改革など、怪帝というのにふさわしいナポレオン三世の人物像がよく描かれている。親イギリスの立場を貫き、ビクトリア女王とも何回か会っている。妻との間になかなか子供ができなかったナポレオン三世に、何人もの子供をもうけた女王が、房事の際のアドバイスをしたことまでが書かれている。

 本書で初めて教えられたことは、新しい事業を興すためにはまず資金を集めることが必要、そのために銀行があると言うこと。渋沢栄一がパリに行ったのはちょうどナポレオン三世の時世だったから、栄一もそれを肌で感じたのだろう。渋沢は万国博覧会で、ナポレオン三世に会っており、そのときの印象が回顧録に残されていて、本書にも引用されている。(p478)

 本書で気づいたことの一つは、政治を動かすのは言葉だと言うこと。

 例えば、ナポレオン三世が皇帝になった直後、全国を巡行する。南仏のボルドーは大革命とその後のナポレオンの施策によりワインの輸出が激減したため、反ナポレオンの感情の強いところであった。ナポレオン三世はボルドーの商工会議所で演説する:
警戒心の余り、私に向かって、『帝国、それは戦争だ』という人がおります。しかし、私はむしろ、こういいたい。『帝国、それは平和だ』。この演説はボルドー商工会議所の面々を満足させただけではなかった。半世紀以上にわたる革命と戦争により失われた繁栄を取り戻そうと、再スタートの合図を待っていた全フランス国民に熱狂的に支持された(p196)。比べて、今の日本の政治には言葉の重みがない。と言うより、理解できないような発言さえよく目にする。

 パリ大改造について:まだ大統領であったルイ・ナポレオンが1850年、パリの市庁舎で行った演説。「
パリはフランスの心臓であります。この偉大な都市を美化することにわれわれの全力を注ごうではありませんか。新しい通りを開き、空気と日光を欠いている人口密集地区を清潔な界隈に変え、健康な光がわれわれの建物のいたるところに入り込むようにしようではありませんか」。このようにして、ルイ・ナポレオンは、アムの牢獄で練り上げたパリ改造計画を実行に移すためにも、なんとしても皇帝になりたいと思った。ルイ・ナポレオンは、パリを改造するためにナポレオン三世となったといっても、けっしていいすぎではないのである。(p315~16)。

 
パリ大改造は、たった一人の人間の意思から生まれた極めてまれな産物なのである、と著者はいう。

 成功の要因はウージェーヌ・オスマンという実行力をもつ能吏をセーヌ県知事に得たこと。その他、住民自身が大改造やむなしと思うほど都市機能が麻痺していたこと、住民やジャーナリズムの反対を押さえつけるに十分な警察力、軍事力があったこと、サンシモン主義的な開発思想によってマネーが循環し、公債の大量発行と土地の買収が容易になったこと、改造されたパリを歓迎する新しいメンタリティーの中産階級が勃興したこと、をあげている(p318)。

 ナポレオン三世を賛美する余り、中国やベトナムへの武力進出は、現地の独断だったとしているが、疑問に思う。挫折に終わったが、メキシコにラテン帝国を建設しようとした企ては、明らかに侵略であろう。

 本書の巻末には参考文献が付される。驚くのは欧文の文献が8ページ、130件ほど並んでいること。

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書名 『天為』令和三年十二月号 著者 『天為』編集室 No
2021-34
発行所 『天為』編集室 発行年 2021-12 読了年月日 2021-11-28 記入年月日 2021-11-28

 有馬朗人一周忌特別号と銘打って、160頁の特集号。朗人の代表句30句に続き、星野椿、稲畑汀子、宇多喜代子、宮坂静生らの追悼句に続いて、「俳句とは何か」という鼎談が載る。副題は「有馬朗人が目指した遙かなるもの」で、堀切実、川本皓司、西村我尼吾の3名のディスカッションで二段組で30頁を超す。

 比較文学者川本皓司はかつてgacco というネットの授業で、俳句の構造を基底部と干渉部に分けて、両者がお互いに干渉し合ってそこに生まれる余情が俳句の本質だと話したが、私は目が覚めるような思いがした。西村我尼吾は天為の同人代表で、しかも現役のエリート官僚。句風は有馬朗人や天為正統派の句風とはかなり違って、現代俳句的な句風だ。かつて、金子兜太が西村我尼吾を天為の中に抱えているのは、有馬朗人の人間の大きさだと評したと聞いたことがある。3人目の堀切実という名前は初めて目にした。しかし、この鼎談の主役は早稲田大学名誉教授で国文学者の堀切実だった。

1.芭蕉の発句革新
2.短詩型文学としての俳句について
3.有馬原型短詩論に関連して俳句は如何に生まれたのか、今後どこへ行くのかなど

 以上3つの論点を主に、俳句全般が特に芭蕉のもたらしたものを中心に論じられれ、折々に朗人句への言及がなされる。

 論議は専門的で、興味深く教えられるところが多かったが、なかでも俳諧味、あるいは俳味が必要だという堀切の主張に共感を覚えた。堀切は現代の俳人が詩の言葉を発見することが詩であり、俳句もそうだと考えていることに疑問を呈する。

 堀切説を以下に:
 俳味とは例えば伝統的な本意を打ち返して表現するのも一種の俳味だが、芭蕉の前の時代貞門・談林期には俗語をつかって伝統的なものと違った世界を求めた時代もある。また、機知、諧謔、そうしたものを用い知的な笑いを求めた時代もある。そういう俳味の流れを芭蕉は断ち切った。新しい俳味、それは構造的な俳味である。例えば「初時雨猿も小蓑を欲しげなり」。こういう世界を芭蕉は作った。もっと俳味のある句として森川許六は「雑炊に琵琶きく軒のあられかな」を挙げ、琵琶という優雅なものと雑炊という俗なもの、そして軒のあられが降っている、これこそ俳味のある世界だという。言葉や機知によらない笑いが俳味である。さらに「イロニー」の要素も短詩型には重要だという。そういう要素はただ写すだけでなく、構築することが必要になる。そこに取り合わせ的な俳句構造、川本の説く「基底部」と「干渉部」を持ち込むことによって単なる写生でなく、新しい寓意の世界も生まれてきた。

 そこから切れ字の必要性の言及し、一句の中に切れ目ができる。こう言うものもやはり芭蕉から始まったという。

 俳句の起源について:有馬朗人は物理学者の特性として、物事の起源を探求した。そして、俳句の起源を「古事記」の片歌まで遡るとした。この説に対しては、川本も堀切も忖度なしに否定している。

 奈良時代に長歌や短歌と並んで、五七五あるいは五七七という詩型があった。しかし、俳句とは関係がない。俳句は和歌→連歌→俳諧連歌→発句→俳句という流れの中で自然に成長してきたものだ。古代の片歌はたまたま五七五を俳句と共有するだけで、直接のつながりはないと、川本は言い切る。

 地理学者鈴木秀夫の多神教の森林文化圏と一神教の砂漠文化圏と言うことに関連し、俳句は森林文化圏に生まれたものだが、朗人は俳句はその両方の文化圏を統合して行く事ができるのではないかと言っている。堀切は、芭蕉の奥の細道の視点には地上からじっと見ている視点と共に、時々天の上から眺めているような視点とがあると指摘する。そして朗人の句にも「地球といふ大いなる独楽初日の出」と言った壮大な宇宙観に繋がるような句を作っていると指摘する。

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書名 素秋 著者 加藤やえ子 No
2021-35
発行所 本阿弥書店 発行年 2020年5月 読了年月日 2021-12-04 記入年月日 2021-12-05

 天為同人の句集。加藤やえ子さんは浜松在住だが、コロナ禍が始まる前は毎月の天為東京例会には出席していて、私の真向かいに座る。今回30余年に渡る句歴の中から350句を第一句集として纏められた。
 『天為』の特徴をよく表す正統派の句集。意外にも旅吟、それも海外詠が多いのも『天為』らしい。

目についた句
シャンソンが聞こえゼリーに銀の匙
柿熟れて森の石松出て来さう
もはや眼のまはりし頃や赤とんぼ
結納や夫は寡黙に古酒の杯
春昼のさつと出て来る掛饂飩
振つてみる誰にも会はぬ日の香水
亀すでに化石のかたち落葉期

国盗峠片手袋の落ちてゐし
信号を待つ間にも伸び赤芽樫
まだ還暦もう還暦と鰻食ぶ
雄鳥の羽根の華やぎ山笑ふ
イヴ・モンタン贔屓の夫に降る落葉
姫街道寄り道をして桜餅

洎夫蘭咲くファドの流るる裏通
 この句は本句集で初めて知ったが、私も17年4月の東京例会に以下の句を出した:
 ファド洩るるリスボンの路地春の宵

祖母と母少し異なる手毬唄
うすものの人辻に消ゆ宇治真昼
産声の確と小春の長廊下
豆の花みどり児の首すわりけり
尾の消えて正しく座る青蛙
茶の文字の浮かぶ里山冬夕焼

尼寺に身を寄せ合うてかじけ猫
風光るジュラ紀の琥珀日に透かし
画眉鳥を聞くや石碑の長恨歌
銀河濃し逸勢終の遠江

 この句は東京例会で知った句。かつて姫街道を歩いていて、三ヶ日でたまたま橘逸勢終焉の地に立つ祠に出会った。そのことを句にしたいと温めていたので、やえ子さんの句を知りながら以下の句を作って『天為』に投句した。
 逸勢の終焉の地の花蜜柑

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書名 芭蕉の門人 著者 堀切実 No
2021-36
発行所 岩波新書 発行年 1991年 読了年月日 2021-12-12 記入年月日 2021-12-13

 『天為』12月号で初めて知った国文学者の著者。芭蕉を高く評価しているのが目立った。その主張にもなるほどと思うことが多かったので、著作をいくつか手にした。本書はその中の一つ。取り上げられたのは作者が新蕉門十哲に選んだ10人。手紙などを中心に、多くの史料にあたって、述べられるエピソードが極めて細かい。当時の手紙類がこれほど多く残っていたのに驚くが、江戸時代を通じて戦乱のなかったことも一因だろう。

 芭蕉の門人と言ってもそれぞれ個性派揃い。それを抱えていた芭蕉の包容力の大きさに感心するが、有馬朗人にも当てはまる。朗人亡き後の天為はかなり個性の違う4,5人の高弟の共同統治の形で、朗人没後1年が過ぎた。このまま果たして上手くまとまるかなどと思いも込めて読み進んだ。

 取り上げられた各人物の見出しについで簡単な人物像が記される:

去来:『猿蓑』の編集を通して芭蕉の深い信頼を得、晩年は『去来抄』に蕉風俳論をまとめた。西国の俳諧奉行。

杉風:裕福な経済力をバックに、世道・俳道の両面から芭蕉を援助し、「かるみ」の俳風にも積極的な理解を示した東国の俳諧奉行。

許六:師風の血脈相続を自負して、「取合せ」の論を掲げ、画俳一致の境に遊んだ風雅の武士。

丈草:詩禅一致の境地をめざして、ひたすら蕉翁追善に生涯を捧げた蕉門の顔淵。

其角:新奇壮麗・機知縦横の浮世風洒落俳諧で江戸俳壇をリードした蕉門の伊達者。

嵐雪:遊女を妻としつつ、武門から禅門へ、人情の機微を解した江戸雪門の祖。

支考:「俗談平話」を旗印に諸国を行脚して、俳諧を日本人の各層に普及した、貢献度最高の理論家俳人。

野坡:芭蕉の「かるみ」の風を継ぐ平明な作風と、卓越した社交的手腕によって西国俳壇を制覇した行脚俳諧師。

凡兆:芭蕉の抜擢に応えて、『猿蓑』に驚異のデビューを飾りながら、間もなく師から離反してしまった写生の演出家。

惟然:漂白と庵住の生涯を通じて「貧賤」を愛し、晩年は「風羅念仏」を唱えて芭蕉供養の行脚をした口語調俳人。

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書名 七五調の謎を解く 著者 坂野信彦 No
2021-37
発行所 大修館書店 発行年 1996 読了年月日 2021-12-23 記入年月日 2021-12-28

 サブタイトルは「日本語リズム原論」

 今月のエッセイの課題は「七五三」であった。七五三とは素数が一つおきに並ぶ。自身、七五三の経験はないし、書くこともないので、「素数」という題でエッセイを書いた。七五三だけでなく、俳句と短歌を構成する音数5、7と17、31も素数である。そんな内容だった。
 書いていて、なぜ俳句や短歌のみならず、いはわゆる七五調がなぜ日本語に定着しているのだろうという疑問が湧いた。ネットで調べていて、本書にたどり着いた。

 音律に関するかなり専門的な本だったが、難しくはなかった。

 まず、日本語の一字一字の音はどれも同じような存在感があること。日本語の発話は一音だけでも可能だが、それだと唐突でぶっきらぼうである。発音は二音で落ち着く。二音が日本語の発音の基本単位。その基本単位が繰り返されることにより、日本語の文章が展開される。すると四音という単位が成立。現代語の4割近くが四音語である。四音単位が繰り返されると八音単位となる。4文字熟語といわれるものその例で例えば交通安全、政権交代など、至る所に見られる。

 著者は、特別の曲折や抑揚をつけたりして唱えなくても拍節の形成される文を律文とするとする。律文を形成する拍節は、通常8音節をもって形成される。この8音節から七五調の導かれる理由を説明するのが本書の眼目。

 8音節が律文、リズムの基本なら、5音、7音はそれぞれ3音、1音足らない。この足らないことが俳句、短歌あるいは七五調と言われる律文を構成するポイントであるという。

 俳句について:俳句形式は4・4・4の打拍を基本とし、5・7・5の音数を標準とする詩型である。(以下p131~)
 ○○、○○、○×、××、 ○○、○○、○○、○×、 ○○、○○、○×、××
○は音があるところ、×は音がないところ。

 冒頭の上五の音節は、比較的低いトーンでゆるやかに打たれる。これを受けて中七は高いトーンで勢いよく打たれる。その勢いが持続する形で、下五はたいへん調子よく、ただし低いトーンで打たれる。調子に乗って打たれる下五は、拍節の後半にいたって突如、ストーンと落下してしまう。この落下はたしかに一つの結着ではあるが、どう見ても落ち着かない。勢いが余っています。短歌形式では、この余勢を受けながら下の句の打拍を展開して行く。しかし、俳句形式では、勢い余ってつんのめったまま終わる。こうしてみると俳句形式は落ち着かない、中途半端な形式だと言わねばならぬ。

 ところが実は、この音律上の中途半端さは必ずしも欠陥ではない。むしろこの中途半端さこそが五七五形式の魅力の源泉であるといえる。勢いあまってつんのめる感じが、ひょうきんな面白みをかもし出す。このひょうきんさなしに五七五形式の魅力はあり得ないといってよい。
 と述べて例として
三月の甘納豆のうふふふふ   坪内稔典
 を挙げている。

 五七五形式の軽妙さ、すっとぼけたユーモアは川柳にはもっとよくあうという。

 しかし、俳句はひょうきんさを身上とするわけではない。したがって五七五形式は俳句にとって手放しで受け入れられるものではない。どうすればよいか。抵抗しつつ受け入れるほかない。俳句は五七五本来の音律に抵抗することでこの形式を活かす。

 抵抗の方法の一つは、完全に言い切ること。五七五は調子に乗ってきたところで急に着地してつんのめる。中途半端な終わり方の表現は、音律の中途半端さを助長する。そうならないように言い切って終わる。

 もうひとつは、五七五のつながりを分断すること。そうすることで五七五本来の音律の流れに棹さす。この二つの方法の何れかを容易に実現しうるのが切れ字である。

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