読書ノート 2011

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書名 著者
あなたの俳句はなぜ佳作どまりなのか 辻桃子
赤蛙  島木健作
秀句鑑賞十二か月  草間時彦 
アインシュタイン  中村誠太郎編
日本辺境論   内田 樹
正岡子規  坪内稔典
歌よみに与ふる書  正岡子規 
俳句のつくり方  水原秋櫻子 
明治人の力量   佐々木隆
日露戦争陸戦の研究   別宮暖朗
1Q84 BOOK1   村上春樹
1Q84 BOOK2   村上春樹
1Q84 BOOK3  村上春樹
海辺のカフカ(上)   村上春樹
海辺のカフカ(下)   村上春樹
日本語の歴史   山口仲美
漢字伝来   大島正二
日本語の古典   山口仲美
チンネの裁き・消えたシュプール   新田次郎
空海の風景(上)   司馬遼太郎
空海の風景(下)   司馬遼太郎
地球環境システム  円城寺守
民俗学の旅   宮本常一
忘れられた日本人  宮本常一 
星降る国   宮川ルツ子
古文の読解   小西甚一
本居宣長 上  小林秀雄
本居宣長 下   小林秀雄
アルジャーノンに花束を   ダニエル・キイス
パティ・ペイジの歌のように   宮本美智子
渋江抽斎   森鴎外
知的文章とプレゼンテーション  黒木登志夫
道草   夏目漱石
与謝蕪村  萩原朔太郎
宇宙は何でできているのか 村山斉
がん遺伝子の発見   黒木登志夫
第二芸術   桑原武夫
書を捨てよ、町へ出よう   寺山修司
江戸の紀行文   板坂耀子
日本近代詩鑑賞 明治編   吉田精一
日本近代詩鑑賞 大正編   吉田精一
近代詩鑑賞 昭和編   吉田精一
ローマ人の物語 ローマ世界の終焉 上中下   塩野七生
佐倉惣五郎  児玉幸多 
新唐詩選  吉川幸次郎・三好達治
新唐詩選続編   吉川幸次郎、桑原武雄
徒然草  吉田兼好
風立ちぬ・美しい村  堀辰雄
日本語の深層  熊倉千之
老いを楽しむ俳句人生   金子兜太
井伊直弼   吉田常吉
橋本左内   山口宗之
安政の大獄   松岡英夫
絶滅危急季語辞典   夏井いつき
百姓伝記(下)   古島敏雄 校注
更級日記   菅原孝標女
国民的俳句百選   長谷川櫂
芭蕉紀行文集   松尾芭蕉


書名 あなたの俳句はなぜ佳作どまりなのか 著者 辻桃子 No
2011-01
発行所 新潮社 発行年 2008年2月 読了年月日 2011-01-06 記入年月日 2011-01-06

 『俳句12か月』と同時に緑図書館から借りた。
数回の句会を通していくつかの句が選に入り、思い上がりかもしれないがどうやら佳作程度のものは出来るような気がした。本書の題が気になり読んでみた。
 著者は「童子」という結社を主宰する俳人。
 冒頭で、選句を通して珠玉の一句に出会う喜びを述べたあと著者は言う:
そんなふうに、「めぐりあいたいと願っている句」って、じゃ、どんな句なのか、一口に言えば、ばりばりに新鮮で、従来の俳句の概念にとらわれない、思いきって自由な句、ということに尽きる。
 とはいえ、虚子に私淑するという著者は、自由律、無季題という現代俳句を否定する。あくまでも写生を基本に置く。そして、俳句の根本に「笑い」を据えたいという。

 全体で37講で構成され、門人の俳句を主として、たくさんの例句がひかれ、コメントされ、また添削される。虚子や稲畑汀子の本には見られない、ばりばりに新鮮で、自由な句が満載の楽しい本だ。

 第3講「倒置する」では句作における倒置の効用を説く。続く第4講「猥雑に、聖(きよ)らかに描写を」ではいきなり「
尻なんど掻きつつ海女の着替へかな」という句(田代早苗)を掲げ、「…荒々しい海に命を賭けて生きる女の大らかさやしたたかさ、温かさをとらえている。生きていることは、雪の精のように聖らかなことなんかじゃあない。聖らかなことこそ汚辱にまみれているのだという覚悟を決めよう。」と呼びかける。

 第7講は「数多く読む」で、著者の尊敬する波多野爽波の唱える「多作多捨」「多読多憶」が上達の道として推奨される。これは乏しい経験ながら、私にもわかる。俳句とは気軽に作れるものだ。また、別の所では、爽波を現代俳壇で写生と諧謔を実行しえた唯一の俳人であるとし、本気で命をかけて俳句をやってみたい人は、その句集を是非読んで欲しいという。爽波の例句から
 
籐椅子の人みな本を得てしづか
 多すぎるおでんの種を叱りけり
 かの人をここの炬燵に呼びたくて


 第19講「常識をわずかに超える」では、常識をわずかに超えたとき、人は驚くとし、
行く年のそれがどうしたオムツ替う」(稲熊薫)を挙げる。この句には虚子の「去年今年貫く棒の如きもの」と通ずるものがあると私は思うが。年の暮れといってもそれは人為的なもので、時間の流れは何も変わらない。

 現実と虚構という項には著者自身の句が引用されていた。
 
死んだ弟帰つて来ない帰省かな
 この句が、ある雑誌で評論され、共感を得たと述べたあとで、私は3人姉妹の真ん中で弟はいないと記す。:
定型も切字も季語もみな虚構だ。どんな句でも一句はすべて創作だ。虚構の中でなら、私はいくらでも本当のこと、事実を言うことができる。それでもしその一句が読手を感動させることができるなら、それは真実にだってなり得る。(131p)。

 最後に著者は言う:
私がめざしているのは、「徹底写生で写生を超える」だ。…中略…現実の物に存在する力を言葉にとりこむことによってのみ、言葉による表現は力をつけることができる。現実の写生によって言葉は蘇生し再生しつづけることができるのだ。(230p)。

 なお、著者の師は楠本憲吉氏。この俳人の名前は聞いたことがある。また、高野素十という俳人の句集を必読のものとして薦めていた。

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書名 赤蛙 著者 島木健作 No
2011-02
発行所 中央公論社 発行年 昭和43年 読了年月日 2011-01-08 記入年月日 2011-01-17

 
林房雄の『青年』の載っている全集にある。この作品は高校の国語の時間に取り上げられていたような気がする。

 伊豆の温泉宿に湯治にやってきた病身の作者は、散歩の途中で一匹の赤蛙を見つける。赤蛙は川の中州から向岸に泳いで渡ろうとするが、何回も何回も試みても流が急で、結局は渡りきれず、やがて流されて一旦見えなくなる。しばらくして現れたのはこちら岸近くのもっと流れの早いところ。飲み込まれまいと必死に泳ぎ、がなれの中の岩に取りすがろうとする。しかし、激流に飲まれて、作者の前からは消えてしまう。二段組で8ページの短編。

 今時こういう生真面目な文章には出会うことはない。新鮮な感じのする文章だ。細部にわたる描写がまるで目の前に赤蛙を見るようだ。赤蛙に生きることの悲しみといった寓意を見る前に、名作、名文だと思う。
 作品が書かれたのは昭和20年、作者はその年に没している。

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書名 秀句鑑賞十二か 著者 草間時彦 No
2011-03
発行所 朝日新聞社 発行年 2000年 読了年月日 2011-01-14 記入年月日 2011-01-17

  
新年から12月までの季節に応じた句200あまりが1句1ページで解説される。芭蕉から昭和の俳人の句が拾われる。昭和といっても戦後の句は少ない。漢字にはすべてルビがふってあるので読み間違いはない。作者の簡単な履歴、俳風、師弟関係にも触れられているので、理解の助けになる。すべて優れた句だ。大岡信の『折々の記』の俳句版といったところ。ただ、こちらの方が字数が倍くらいあるので、解説が詳しい。少し説明過多に感じる。一句の余韻は読者に任せて欲しいと思うことも多かった。
 読んでいて感じることは、明治以降の俳壇にもつ高浜虚子の圧倒的影響力。虚子を初め、ホトトギスの系列の作者が圧倒的に多い。著者も俳人で、その系統に属するのだろう。巻末の著者略歴には「馬酔木」を経て「鶴」に属し、無所属とある。初出は『俳句朝日』に平成9年から2年にわたり掲載されたもの。緑図書館より借り出し。

真二つに白菜を割る夕日の中    福田甲子雄(きねお)
 解説によれば白菜は日清戦争の際に、中国から種が持ち込まれたのが日本での始まりとのこと。芭蕉はもちろん、子規も知らなかっただろう。菜園で採れた大きな白菜を割るのは何とも言えぬ快感だ。私も白菜を割る句を作ってみたいと試みたばかりだ。『ザ・俳句歳時記』にも白菜の季語の下にたくさんの句が載っている。次の句が目についた。
白菜を割くやまばゆき水の香よ    中島吉子

下下も下下下下の下国の涼しさよ   一茶 (下はすべて「げ」と読む)
 信州の郷里に戻った一茶の句。下国とはその信州のこと。自虐的表現には、折り合いが合わなかった郷里の肉親、あるいは郷里への不満があると著者は言う。初めて聞く珍しい句だが、私はいい句だとは思わない。

鶏頭の十四五本もありぬべし     子規
 この句は秀句か愚作かで、昭和24,5年頃論争があったという。斎藤茂吉、長塚節らが秀句説を唱え、山本健吉は「
この句を支へてゐるものは、純粋無垢の心の状態が掴み取った一小宇宙の明瞭な認識であって、そこには何の混乱も曇りもない」と強く秀句説を唱えた。一方、虚子は愚作と考えていたようで、彼が編集した子規句集にも収載されていないという。写生の中に何かがなければならない、と虚子は考えているのだろう。極めて微妙な問題だ。しかし、例えば私がこの句を作ったら、単なる報告だと言って、即座に否定されることは間違いないだろう。

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書名 アインシュタイン 著者 中村誠太郎編 No
2011-04
発行所 朝日出版社 発行年 昭和53年 読了年月日 2011-01-17 記入年月日 2011-01-17

 
暮れに本棚を整理していたら出てきた本。
 9人の専門家によるアインシュタインの業績の解説。ハイゼンベルグをのぞけば執筆者全部日本人。いずれも数式を一切使わないで、アインシュタインの業績の歴史的意味という観点から書かれているが、私に何とか理解できるのは、特殊相対性理論と、光の粒子説のところまで。重力を組み込んだ一般相対性理論、ハイゼンベルクらによる量子力学となると、もうわからない。矢野健太郎の「アインシュタインと微分幾何学」では、アインシュタインが数学の発展に与えた影響が述べられる。微分幾何学、絶対微分学、ミンコフスキー空間、リーマン空間などと言われてもさっぱりわからないが、アインシュタインの相対性理論が、数学と密接に関連していて、その方面にも大きなインパクトとなったことに驚くだけだ。
 ハイゼンベルクの「素粒子物理学の基礎的諸前提」も理解できなかった。
 本書から:
「量子力学の形成とアインシュタイン」の中で、中嶋貞雄は、ボーアは電子の粒子性と波動性を相補的と呼んだが、さらにこの概念を一般化し、物理学・化学と生物学も相補的であるとした。前者は死んだ生物を扱い後者は生きた生物を対象とする。この主張が、物理学者を生物学へと目を向けさせ、分子生物学の誕生のきっかけの一つとなったことは事実であると述べている(p53)。面白い見方だ。具体的な例としてはシュレーディンガーの『生命とは何か』があるだろう。

「中間子理論」の中で、谷川安孝は、湯川秀樹中間子理論を高く評価し、単に中間子の存在を予言したものではなく、これにより素粒子その物の概念も確立されたとしている(p84)。

 編者の中村誠太郎の『ついに太陽をとらえた』という本は、原子力エネルギーとは如何なるものであるかを解説したものだった。中学時代に読んだ。水素原子が融合してヘリウム原子が出来る際に、わずかに質量の減少が起こり、それがアインシュタインの質量とエネルギーの等価説により、莫大なエネルギーとなると解説されていた。この核融合反応は実際に太陽で起こっており、人類はその神秘を明らかにし、さらに地上に太陽を実現できるかもしれないという本だったと記憶する。

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書名 日本辺境論 著者 内田 樹 No
2011-05
発行所 新潮新書 発行年 2009年11月 読了年月日 2011-01-20 記入年月日 2011-01-24

 
日本は世界の辺境であるという視点から、日本と日本人、日本文化、日本語の特徴を論じる。NHKブックレビューで触れられていたベストセラー。
 偉大な文明の辺境に次の文明が栄えると論じたのはトインビーだった。古代オリエントの辺境のギリシャ文明、それがローマを経てフランス、ドイツ、さらにイギリスを経てアメリカへ。一方、中国の辺境であった日本がその文明を受け継ぎ勃興した、という説だったと思う。トインビーの主張を日本に適用したのかと思ったらそうではなかった。主として丸山真男、沢庵禅師、養老孟司の説の受け売りだと、著者は最初に断っている。こうした先人の日本人論は常に整理しておく必要があり、そのために本書を著したという。

 内容は多岐にわたり、卑弥呼の邪馬台国から、聖徳太子、関ヶ原合戦、日露戦争、太平洋戦争、イラク戦争、オバマ演説までが俎上に乗せられ、日本人論が展開される。

 主として丸山から引いてきた「辺境人の性格論」は、一番わかりやすく、かつ説得性があった。沢庵禅師からとった「辺境人の時間論」は、剣術における「機」をキーワードとして展開されるが、私にはよく理解できなかった。「辺境人の言語論」は養老孟司から触発されたもので、辺境の言語という見方から日本語を切っていて、これはわかりやすい。 辺境人の特徴として、日本人はその時の世界標準に追いつくことに傾倒する。そしてそれを達成する。しかし、自らが新しい世界標準を提出することは出来ない。それは、昔から日本人にしみこんだ歴史的心性であるという。

100ページには次のように述べられている:
私たちに世界標準の制定力がないのは、私たちが発信するメッセージに意味や有用性が不足しているからではありません。「保証人」を外部の上位者につい求めてしまうからです。外部に、「正しさ」を包括的に保証する誰かがいるというのは「弟子」の発想であり、「辺境人」の発想です。そして、それはもう私たちの血肉となっている。どうすることもできない。私はそう思っています。千五百年前からそうなんですから。
 とはいえ、「普通の国」に変えるより、辺境人としての特色を生かして何が出来るかを考えた方が諸国民のためには良いと、著者は言う。

 日本語論では、「
日本人の脳は文字を視覚的に入力しながら、漢字を図像対応部位で、かなを音声対応部位でそれぞれ処理している。記号入力を二箇所に振り分けて並行処理している」という説を紹介する(p226)。そして、この並行処理が日本における漫画文化の発展、開花のもとにあるという養老説を展開している。

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書名 正岡子規 著者 坪内稔典 No
2011-06
発行所 岩波新書 発行年 2010年12月 読了年月日 2011-01-22 記入年月日 2011-01-31

 
新刊でありながら、アマゾンに注文してから10日ほどかかった。こんな本がアマゾンの在庫にないというのは意外だが、多分これもNHKドラマ「坂の上の雲」の影響で品切れになっているのだろう。

 生涯にわたる子規の書き残した文章を引用して強くたくましく生きた35年の生涯を語る。明治という時代の断片も浮かび上がってくる好著。直前に読んだ『日本辺境論』のくだけすぎた文体と比べて、端正な書き方で、好感が持てた。

 いきなり出てくるのは子規12才の時の文章。「尊老之御周旋」といった難しい漢字まじりの婚約破棄状というから驚いた。小学校の課題で書いたものだとのこと。作文の課題が婚約破棄状というのも驚きだが、こんな難しい漢字を駆使し、堂々たる文面を綴っている子規にも驚く。明治12年のことだ。

 20才前後はベースボールに熱中する。自分の名前「升(のぼる)」を「野球」(野のボール)という雅号で表していたという。これが「野球」という言葉の最古の例だろうという(p35)。もっとも子規は「ヤキュウ」と発音してはいなかった。

 22年には喀血する。当時の肺病は不治で、ホトトギスと形容されていた。自分の病気を悟った子規は、以後子規(ホトトギス)を自分の名とする。直後に書かれた『喀血始末』は子規が閻魔大王の前で裁かれるという戯文。その中で子規は自分の余命を10年と覚悟する。子規はこの文の中で、地獄でもベースボールがしたいと強く訴える(p48)。

 子規は交友好きで友人も多かった。また分類好きも子規の特徴。友人を分類した中に夏目漱石は畏友、秋山真之は剛友と分類されている(p62)。分類好きは俳句などにも及び、俳句の史的研究を深めたと思われる。当時の新派の俳人達の分類も行っている(p129)。多数の俳人を2語でラベル付け。漱石 活動、虚子 縦横、碧梧桐 洗錬(ママ)。

 面白かったのは、数学の錯列法に基づき計算すると俳句の数には限界があり、それは明治時代に尽きてしまうだろうと考えていたこと。この考えは子規を句作へと駆り立てた(p79)。私もかつて同じようなことを思った。しかし、日本語の音が47として、そこから17音をとった組み合わせは47の17乗になるからこれはほぼ無限と言ってよい。もっともそのほとんどは意味をなさない文字列でしかないが。

 86ページ以下の芭蕉作品への批評も面白い。例えば「古池や蛙とびこむ水の音」に対して「
文学なる者は常に此の如き平淡なる者のみを許さずして多少の工夫と施彩を要するなり」と手厳しい。また「道のべの木槿は馬にくはれけり」はその教訓性が俗受けしているだけだという。この句については草間時彦は『秀句鑑賞十二か月』の中で、出る釘は打たれるという教訓を含むという解釈は間違いだと指摘していた。一方「雄健放大」としたのは「夏草やつわものどもの夢のあと」「五月雨を集めて早し最上川」など。

 大江健三郎も司馬遼太郎も子規を日本語の改革者として高く評価しているとのこと(p179)、子規は「
気晴らしの為に無聊を消すために」書くという。著者はいう「…今もっとも好きなのは、子規の文章観の根っこある鬱さ晴らしという考え方である。自己を権威化せず(固定せず)、自己を他者へたえず開く。そのような風通しのよい場所が、気晴らしという言葉の示す場所だったのではないか」(p179)。

 著者は、妹や俳句や短歌の仲間に対する厳しい言葉や批評も子規の憂さ晴らしであったとする。その憂さ晴らしの後はすっきりと心が通い合ったのだろうと想像する。それだから、感染を恐れられていた結核の病床にあれほど多くの人々が集まったのだろうという(182)。

「糸瓜咲いて痰のつまりし仏かな」以下の絶筆3句は死の12時間前に、画板の上に貼った紙の上に自らしたためたものである。

 俳人の長谷川櫂は『俳句的生活』の中で「
罠にも似た人生を中途で見切らずに最後まで見届ける。何のために?何のためでもなく、ただこの世の果てを見届けるために見届ける。これが滑稽の精神である。それを芭蕉は「かるみ」にまで高め、子規は「平気」といいかえた。自殺は俳句の対極にある。」と述べていたが、本書を読むとそのことを実感する。強く、魅力的な生涯である。

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書名 歌よみに与ふる書 著者 正岡子規 No
2011-07
発行所 岩波文庫 発行年 1955年第1刷、2010年第34刷 読了年月日 2011-01-26 記入年月日 2011-01-31

 
まず「歌よみに与えふる書」という題で10編の評論が載る。古今集をくそみそにこき下ろし、万葉集を持ち上げる。とは言っても、実質的には実朝賛歌が中心で、万葉集はそれに付随する形である。新古今にはかなりの評価を与えている。
「あきまろに答ふ」「人々に答ふ」は、前記10編の歌論への批判に答えて、さらに持論を深めたもの。
「曙覧の歌」は幕末の歌人橘曙覧(あけみ)を、万葉集を再評価した賀茂真淵よりももっと万葉的であると高く評価したもの。
「歌論」は古今の歌人の具体的評論。田安宗武(吉宗の二男で田安家の開祖)を取り上げたところがユニーク。

 全編を通して口調は激烈、辛辣、古今の大家に対しても容赦はないが、読んでいて嫌みではない。小気味よく、ユーモアがあり、思わず笑ってしまう。日本の詩歌に対する深い知識と洞察がある。
 高浜虚子の『子規・漱石』のなかで、子規は虚子が「学問」に励み自分の後継者になってくれることを望んでいたが、虚子は「学問」が嫌いで、子規の希望を一旦は断る話が出てくる。私は「学問」とは何だろうと思っていたが、日本詩歌の研究と、それに基づく短歌、俳句の革新運動であることが本書でわかった。

本書から
 書き出しp5:
仰の如く近来和歌は一向に振ひ不申候。正直に申し候へば万葉以来実朝以来一向に振ひ不申候。実朝といふ人は三十にも足らで、いざこれからといふ処にてあへなき最期を遂げられ誠に残念致し候。
p8:
貫之は下手な歌よみにて『古今集』はくだらぬ集に有之候。
 と述べた後で、実は子規も古今集崇拝者であったと述べる。しかし、一旦醒めてみると駄洒落か理屈っぽい歌ばかりで、あんな女に今までばかされていたかと、悔しく、腹立たしいという。

p30:歌の腐敗は趣向が変化しないからであり、趣向の変化がないのは用語が少なく限定されているからだとし、外国語でさえ用いよという。
p61:日本の歌集を読んでいないという批判に答えて、歌集を開いても、4,5枚も読むと眠くなって閉じてしまうという。
p91:本居宣長の「敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花」は大多数の日本人を感動させているが、子規は感動を覚えないという。それどころか「
浅薄拙劣なるを見る」と手厳しい。調子高く歌えば平凡な趣向でも高尚な歌になるのに、この歌はそれもないという。理由は「人問はば」にある。こう言ったなら「と答えん」と結ばなければ浮いてしまう。この歌に多くの人が感動するのは平凡でわかりやすい内容と、この厭みのある「人問はば」にあるとする。

橘曙覧の歌p109:「いつはりのたくみをいふな誠だにさぐれば歌はやすからむもの」を取り上げ、「いつはりのたくみ」は古今集以下がみなそうであり、「誠」の一字は曙覧の本領であり、万葉の本領であり和歌の本領であるという。そして、子規が唱える「ありのままに写す」とはこの「誠」に外ならない。西行は幾多の新材料を取り入れたところは「誠」「ありのまま」を理解していたように見えるが、実際の歌は100首中99首は偽りの巧みである、とこれまた厳しい。


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書名 俳句の作り方 著者 水原秋櫻子 No
2011-08
発行所 実業之日本社 発行年 昭和35年初版、平成3年47版 読了年月日 2011-01-30 記入年月日 2011-01-30

 
家人がこんな本が出てきたといって持って来た。ハードカバーの本。私は買った覚えはない。とすれば家人が買ったのだが、家人が俳句を作ったとは聞いたことがない。

 有季定型の正統俳句の作り方。二〇代の頃に俳句の芽が発芽するのが良いという。それを育てて、最後は俳人になることを想定して書かれている。従って、単なる技法のみでなく学んでいくうちに何回もぶつかる壁の乗り越え方まで説いている。 

 風景句と人事句からそれぞれ20句が取り上げられ、解説が付される。ただし、虚子の句は一つも取り上げられていない。水原秋櫻子をウイキペディアで調べたら、最初ホトトギスに属していて、後に虚子と別れ、「馬酔木」を主宰したとのこと。虚子の客観写生に対し主観写生を主張し、山口誓子、加藤楸邨、石田波郷らが加わったという。取り上げられた句は「馬酔木」の流派のものなのだろう。いずれも素直でわかりやすい句が多い。

 添削例が参考になる。特に字数の省略の仕方が参考になる。句の意味が理解されることを主眼において造語、無理な表現を厳しく戒める。アフィニス句会では海老原さんがこうした主張を強くする。ひょっとすると彼の属している別の句会が、馬酔木の流れを汲むのかもしれない。

 添削例の最後に、添削しようのない句がいくつか挙げてある。
「日曜や酒はなくても桜餅」もその一つ。日曜に雨が降ったが、よいお茶を入れて桜餅を食べゆったりとくつろいだというなら句になるが、「酒はなくても」では俗すぎて、詩の域まで達していないという。こんな句は私も作りかねない句だ。

 著者は子規、蕪村、芭蕉の順に作品集を読むと、俳句の理解が深まるという。一茶は俗として、見習ってはいけないとする。

 作句において怠ってはいけない6箇条として以下を挙げる:
詩因を大切にすること。一句に読み得べき分量をきめること。省略を巧みにすること。配合に注意すること。用語は現代語(文語)。丁寧に詠むこと。
 避けるべき8箇条:
無季の句を詠まぬこと。無意味の季語重複をせぬこと。空想句を詠まぬこと。や、かなを併用せぬこと。字あまりにせぬこと。感動を露骨にあらわさぬこと。感動を誇張せぬこと。模倣をせぬこと。

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書名 明治人の力量 著者 佐々木隆 No
2011-09
発行所 講談社学芸文庫 発行年 2010年3月 読了年月日 2011-02-07 記入年月日 2011-02-12

 
NHKの特別ドラマ『坂の上の雲』を観たり、『正岡子規』を読んでいて、明治時代への関心が高まっていた。たまたま本屋の店先で本書が目にとまった。講談社学術文庫の「日本の歴史」シリーズ第21巻である。明治22年(1889年)の憲法発布から、明治45年(1912年)明治天皇崩御までを扱う。

 表題からして、岩崎弥之助、渋沢栄一といった明治の産業界をリードした人物、あるいは学問、文化方面で活躍した人達のことも書かれているかと思ったが、一切なかった。登場人物は伊藤博文、山県有朋、そして明治天皇が中心で、それに松方正義、黒田清隆、井上馨、桂太郎ら。私が慣れ親しんできた歴史書とはかなり異なる書き方。しいて言えば塩野七生の『ローマ人の物語』に近いか。とにかく時の権力者の間の権力争い、駆け引きが記述のほとんどを占める。当時の税収の大半を占めた地租率の問題、軍事予算額、条約改正問題、日清、日露戦争への対応、など明治国家の進路を巡る政府内部、元勲内部、政府と議会の間の対立、抗争、駆け引きであるので、読み通すと上から見た明治通史とはなっている。

 とはいえ、実証歴史学の立場から、当時の要人達の残した手紙や日記、手記などをもとに政治家の感情にまで立ち入って政治の詳細な動きを追った本書は一般読者には読みやすい本ではない。そして、一方的な明治礼賛の書となっている。そしてまた、明治天皇礼賛の書でもある。明治帝の最後の病状については、詳細な記述が続き、本書の最後は、後を継いだ大正天皇への危惧を述べて終わっている。大逆事件については、よくわかっていないと一言で片付けられ、為政者に与えた衝撃の大きさの方に重点を置かれている。

 本書のキーワードは「不羈独立」。明治国家は不羈独立を目指し、不平等条約を改定し、日露戦争に勝つことで国防上の安全を確保し、かつ列強の仲間入りをして、その目標を達成したとする。憲法制定も議会制度の導入も、国際社会にキャッチアップするためのものであった。その過程はまさに『日本辺境論』で述べられたことの典型的な例だと思いながら読み進めた。ところが『日本辺境論』を読み返してみると、明治の日本人は、日本を中華と考え、周辺諸国を夷国と見なす華夷秩序的見方からは抜けきれなかったとする。裏返しの辺境論だ。唯一の例外は日英同盟で、この同盟がなかったら日露戦争には勝てなかっただろうという。日露戦争の勝利には、清国の領土保全と機会均等を内容とする「東洋の正義」を掲げた日本外交が、欧米の支持を得たことも大きいと、『日本辺境論』の内田樹は述べる。しかし、日本は日露戦争勝利後、「東洋の正義」を世界標準にすることをせず、領土獲得、鉄道利権、領事館の治外法権など、ロシアのとったのと同じ道を歩んだとし、日本が新しい世界標準を打ち立てることの出来なかった一例として挙げる。

 日本があえてロシアに戦いを挑んだ理由が、詳細な明治通史でもあるドナルドキーンの『明治天皇』を読んでもよくわからなかった。本書の冒頭には第1回帝国議会の冒頭になされた山県有朋の演説を引き、一国の独立を維持するためには主権線(国境)のみでなく主権線の安危に関わる地域、つまり利益線を確保する必要があるとする。大和朝廷の白村江の戦い以来、朝鮮は日本の最大の利益線であったとする。これが明治の首脳の共通の認識であれば、朝鮮、満州へのロシアの進出を目のあたりして、ロシアと戦争を決意したことはやむを得なかったと思う。著者は戦争は外交の一手段であり、交渉で解決できないことは戦争のよらざるを得ないとする。そして、国際情勢と国内の指導層をそれぞれ日清戦争、日露戦争へと誘導した陸奥宗光と小村寿太郎の外交、政治手腕を高く評価する。

 憲法が制定された当時、政府は政党や利害団体とは一線を画したものでなければならないとされた。「超然主義」と呼ぶ。帝国議会での多数派は、多くの点で政府の施策に反対であり、予算案も否決されることが多かった。その度に、首相は嫌気が差したように辞任する、あるいは辞任すると言って脅す。内閣の各大臣は天皇にのみ責任を負っているので、個々の大臣もことある毎に、投げ出してしまう。内閣総辞職と言うことはない。議会もたびたび解散される。こうしたごたごたの繰り返しが延々と述べられる。政治史の専門家でもなければ、うんざりする記述だ。辞める辞めないで、最後は明治天皇の意向で留任が決まったり後任が決まった場合がよくある。明治天皇がかなり深く政治に関わっていたことは間違いない。「
明治時代とは何か。難しい設問だが、本書の観点に限って言えば、天皇を戴いた不羈独立を目指す近代国家の国造り(産業化と国民国家化)、とまとめることが出来るかもしれない」(p22)と著者は述べる。

 政党の首脳が首相になったのは、明治31年の大隈重信が初めてであるが、ごく短命に終わった。巻末の年表で数えてみたら、22年の黒田から33年の伊藤博文まで、内閣は11回出来ている。なお、巻末には詳細な索引が付いているが、伊藤博文、山県有朋、明治天皇の3者については頻出するので割愛すると断り書きがある。

 日本はやがて朝鮮を併合する。このことは主権線が鮮満国境まで延び、満州が利益線になったことを意味する。それは後に満州への深入りを招き、日中戦争へとつながる。また、一つの大洋に二つの海洋国家は存立はできず、ロシア艦隊を壊滅させた日本はやがてもう一つの海洋国家アメリカとぶつかる運命にあったとする。このあたりの考察は的を射ているのではないか。

 読んでいてホッとするのは229-239ページに書かれた「明治33年 日本・東京」という小節。当時の社会が数字を挙げて書かれている。内地人口4483万人、1位は東京府で201万人、2位はなんと新潟県171万人!である。その差僅か30万人だ。

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書名 日露戦争陸戦の研究
著者 別宮暖朗 No
2011-10
発行所 筑摩文庫 発行年 2011年1月 読了年月日 2011-02-11 記入年月日 2011-02-12

 
『明治人の力量』と同時に買った。私の母方の祖父は日清、日露戦に従軍し、日露戦争の奉天陥落前日に渾河の戦いで左手貫通銃創を負った。もし、弾の位置が10センチも右にずれていたら私はこの世に生まれていなかったかもしれない。祖父の戦った戦がどんなものであったかを知りたいと思っていた。

 表題が「研究」とあるように、本書は満州を舞台とする日露の陸軍激突を軍略的観点から考察したもの。もっと言ってしまえば、満州軍総司令部にあって作戦を立案した松川、井口の両参謀に対する批判が本書の趣旨。彼らは実戦経験の乏しいエリート官僚であって、その作戦計画はことごとく失敗であった。日露戦争に勝てたのは、前線の司令官や指揮官が現場に応じて柔軟に対応し、作戦のミスをカバーしたからであり、兵士の士気の高さ、勇敢な行動にあったとする。

 乃木希典に対する低い評価にも強く反発する。旅順攻略戦では、塹壕戦は、どちらが先に兵力を消耗するかによって勝敗が決まることを知っていて、いたずらな攻勢を取らなかった乃木の作戦が成功したとする。また、奉天の戦いでは乃木の率いる第3軍に、北に大きく迂回してロシア軍の背後を突く作戦を参謀本部は命じるが、それが不可能と見た乃木は、進路を直接奉天に向け、奉天作戦を成功させたとする。

 私の祖父は第2軍所属の豊橋18連隊に所属していた。第2軍は正面から奉天を目指す部隊であった。奉天会戦では18連隊の名前は出てこない。18連隊の名前が出てくるのは、奉天陥落の半年前の明治37年8月から9月にかけての遼陽の戦いである。これも大変な激戦であった。首山堡というところの攻略において白昼敵陣に一人乗り込んだ市川紀元二という日露戦争の英雄を生んだ。市川は第6連隊所属だが、市川の第6連隊に続いて第18連隊も突貫していったと記述されている。(p138~)。

 本書では日露開戦に関しては一切の疑問を挟まない。ロシアが鴨緑江の朝鮮側の龍岩浦に軍事基地を築いたのは日露間の協定違反で、明確な侵略行為であり、日本の開戦はそれに対する正当なものであるとする。日露戦争はロシアが仕掛けたものだという立場だ。

 祖父の日露戦争従軍のことを知ったのは、叔父の自分史による。そのなかで、祖父は戦争のことはほとんど語らなかったと叔父は記す。叔父もその後太平洋戦争では中国大陸で戦ったが、戦争を語らなかった父の心情がよくわかったと記している。

 第2軍は遼陽会戦前にも遼東半島の南山攻略も行っている。その時日本軍の1日の戦死傷者4500人とされる(p100~)。損害が大きかった理由は歩兵の密集突撃にあったとする。1個小隊64人が8×8の隊列を作って突撃する。当時の小銃は単発式で次の射撃まで15秒かかる。その間に75メートル前進できる。前の7列が倒れても、最後の8列目はその間に500メートル前進できるという冷徹な計算に基づいていたという。背筋が寒くなる。

 著者は奉天陥落後、講和の機運が高まり、ロシア軍を北に追わなかった児玉源太郎参謀総長の弱気を非難する。ハルピンまで侵攻すればウラジオストックも落とせただろうという。そうすれば講和条件ももっと有利になっただろうとする。かなり無責任な批判だと思う。児玉は戦争の犠牲の大きさをなによりも知っていたのだ。アメリカのイラク戦争の時も、統合参謀本部はどちらかと言えば、開戦に慎重であったと記憶している。

 著者は大学卒業後信託銀行に入社し、海外での金融ビジネスに携わったという経歴。官僚への反感は日露戦争の松川・井口への批判だけではおさまらず、以前名物官僚としてその名のよく知られた元通産省の次官への批判も述べられているほどだ。本書は司馬遼太郎の『坂の上の雲』が明らかにしていない事実を明らかにする目的で書かれたこともあり、随所に司馬遼太郎への反論が出てくる。


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書名 1Q84 BOOK1 著者 村上春樹 No
2011-11
発行所 新潮社 発行年 2009年5月 読了年月日 2011-02-14 記入年月日 2011-02-15

 
村上春樹の大ベストセラー小説。娘のところにあった。前から読んでみようと気になっていた。読み出したら、止められなかった。菜園のジャガイモ用の畝作りも止めて2日間で500ページを超えるBOOK1を読み終えた。

 29才の女性青豆と同じ歳の天吾、2人の主人公が1章ごとに登場し、別々に進行する物語。これは『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』と同じ手法。
 青豆はスポーツクラブのマーシャルアートのインストラクターだが、ひどい性的虐待を働いた男性を「別の世界に送る」という裏の仕事を持っている。依頼人は麻布に住む大金持ちの老婦人だ。青豆の唯一の友は夫の性的虐待のために自殺している。一方、天吾は予備校の数学講師をしながら、小説家を目指す。二人ともこの作者によく出てくる、大都会に暮らす孤独な若者。天吾は17才の少女「ふかえり」の書いた『空気さなぎ』という小説の書き直しを頼まれる。書き直した作品は新人賞を取る。ふかえりは10才の時にカルト集団から逃げ出して、戎野という元文化人類学者のもとで育てられる。一方麻布の老婦人のもとにはやはり同じカルト集団から逃げ出してきた10才の少女が保護されている。彼女もひどい性的な暴力を振るわれていたのだ。カルト集団のリーダーはどうやらふかえりの父親らしい。かくして、独立の2つのストーリーは将来合流することが予感される。

 時は1984年。冒頭、青豆は渋滞の首都高でタクシーから降りて、三軒茶屋あたりで階段かを伝わって下りた。そのあと、世界が少し違って見えた。やがて青豆が見る世界ははっきりと別のものになった。本当に今は1984年だろうかと疑問に思う。そして青豆は今は1Q84年だと心にきめる。9の代わりにQuetionのQを入れたもの。ジョージ・オーウエルの「1984年」との関連も示唆されるが、あの救いのない小説と将来どう関わって来るのかこれも楽しみ。

 青豆はキリスト教の「証人」会家庭に育つ。その教派の厳格な生活態度のために、小学校では友達がいなかった。唯一、青豆にやさしくしてくれたのは天吾であった。それは小学校4年の時のことで、二人はそれ以来会ってはいない。しかし、青豆にとっては天吾だけが人生の中で唯一思い続けている人物であった。この二人がいつどんな状況で巡り会うか。『空気さなぎ』の中身、両方のストーリーに現れてくる「リトル・ピープル」や「二つの月」といった謎めいたキーワードが何を意味するのか。

 この小説の魅力はどこにあるのだろか。
 文章が難解でない。読んでいて抵抗を感じない。それでいて平凡でない。思いきって異質のものをもって来る比喩の意外性。私にはよくわからない服装の描写や、バーでの飲み物の洒落た名前が若い人のセンスをくすぐるのだろう。あるいは、聞いたことのない洋楽の曲名。もちろん、かなりきわどい性描写も読み手を引きつける。そして、小説のなかに投げこまれた多様で、重層的な世界。チェコの作曲家ヤナーチェクとその作品『シンフォニエッタ』。人間は連綿と続くDNAの乗り物に過ぎないというドーキンス流の考え、『平家物語』やチェーホフの『サハリン』の一節の引用。

 ふかえりはディスレクシアである。彼女のために天吾は『サハリン』の一節を読んでやる。その後には以下のような文が続く(p470):
 
目を閉じると、天吾は人気のないオホーツク海の波打ち際に一人で立ち、深いもの思いのとりこになっていた。チェーホフのやり場のない、憂鬱な思いを共有することができた。その地の果てで彼が感じていたのは、圧倒的な無力感のようなものだったのだろう。十九世紀末にロシア人の作家であるというのは、おそらく逃げ場のない痛烈な宿命を背負い込むことと同義であったはずだ。彼らがロシアから逃れようとすればするほど、ロシアは彼らをその体内に呑み込んでいった。

 私がチェーホフを読んだのは、村上春樹が翻訳したレイモンド・カーヴァーの『レイモンド・カーヴァー傑作選』に触発されてのことだった。上の文章は本書のストーリー展開とは直接関係ない。しかし、こうした文章が重層的な小説世界を形作っていく。それが優れた文学の特徴だろう。
 

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書名 1Q84 BOOK 著者 村上春樹 No
2011-12
発行所 新潮社 発行年 2009年5月 読了年月日 2011-02-16 記入年月日 2011-02-17

 
いよいよ青豆はカルト集団のリーダーを別の世界に送るべく乗り込む。相手は青豆が想像していたのとは違った人物であった。『空気さなぎ』の出版はリトルピープルへの対抗と見なされ、天吾の命が危ないとリーダーは告げる。そして、青豆はリーダーとある契約をする。

 失踪したふかえりは天吾のところに現れる。天吾には小学校4年の時、青豆に左手をきつく握られた時のことが蘇ってくる。青豆も天吾もお互いが人生においてただ一人愛するに値する人物であったと深く思う。天吾は青豆に是非合いたいと思う。小さな公園の滑り台の上で月を見上げている天吾を、青豆は隠れ家からたまたま見つける。天吾も月が2つあることにその時気付いたのだ。それは1Q84の世界に天吾も入ったことを意味した。青豆が公園に行った時には、天吾の姿はそこにはなかった。

 青豆は1Q84の世界から1984年に戻ろうとして、最初に世界が変わって見えた、三軒茶屋の高速道路の階段を再度下りようとした。しかし・・・・。
 本編では、『空気のさなぎ』の中身が明らかにされる。それはリトルピープルが空気から取り出した繊維で紡ぎ出す繭だ。その中から現れるのは「ドウタ」である。

 青豆はリーダーのところへ乗り込む前に、老婦人の用心棒に拳銃を一丁所望する。タマルとよばれる屈強で忠実な用心棒は、ためらう。そしてチェーホフの言葉を口にする。(p33):「
チェーホフがこう言っている」とタマルもゆっくりと立ち上がりながら言った。「物語の中に拳銃が出てきたら、それは発射されなければならない、と
高速道路の路肩で青豆は拳銃を手にする。青豆は引き金にかけた指に力をこめるところでこの巻の青豆の章は終わる。村上春樹はチェーホフの創作作法を守ったように見える。

 BOOK1よりは難解である。リトルピープル、空気のさなぎ、二つの月といった現実離れした物語が前面に出てくるからだ。人間の無意識領域にあるものを村上はえぐり出そうとしているのだと思った。

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書名 1Q84 BOOK3 著者 村上春樹 No
2011-13
発行所 新潮社 発行年 2010年5月 読了年月日 2011-02-19 記入年月日 2011-02-20

 
青豆は引き金を引く直前で思いとどまった。本編では、青豆、天吾の他にもう一人牛河という人物の立場からも物語が展開される。牛河はカルト集団に頼まれて、青豆の居場所を突き止めようとする。牛河もまた、青豆や天吾と同じように、優れた能力を持ちながら孤独な生活を送る。弁護士であったが、闇の世界に関わり、失職し、今は闇の世界の周辺で生活している。悪者ではあっても、感情移入してしまうのは、人物がよく描かれているからだ。しつこく追ってくる牛河が青豆に迫ることが出来るかどうか、本編は追うものと、追われるものというサスペンスが全編にみなぎる。牛河は青豆に到るには天吾を監視すればいいと思い、実行する。そして、天吾の後を追って青豆の隠れるマンションの前の公園に行った際、たまたま青豆に見つけられてしまう。特徴ある外貌で、前もってそれをタマルから知らされていた青豆は一目でそれとわかる。そして、しょせんは素人でしかない牛河はタマルに「処理」される。それが、きっかけで、天吾と青豆は公園の滑り台の上で20年ぶりに会うことが出来る。青豆は妊娠していた。彼女は受胎したのは、カルト集団のリーダーと対決した9月の雷鳴の夜であり、しかもそれは天吾の子供であると信じている。天吾は同じ夜、天吾のところに現れたふかえりと交わる。それはふかえりが一方的に行った二人の間の一回きりの性交であった。ふかえりを通して天吾と青豆は交わったのだ。

 再開した天吾と青豆は、20年間思い続けてきたのは相手であることを確認する。二人は三軒茶屋で今度は逆に国道246から階段を上がって、高速3号線に出る。そこで二人が目にした月は1つであった。

 現実と幻想が入り交じった長編。二つの月、リトルピープル、空気さなぎといった1Q84の世界は十分には理解できないが、それが展開されるのは現実の世界、具体的な場所であるので、まったく絵空事とも思えない。1Q84の世界への出入り口は、高速3号線へ続く階段であり(『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』では、地下鉄の表参道と青山一丁目の間の線路に別世界の入り口があったと記憶している)、青豆と天吾が住むのは高円寺であり、青豆がカルトリーダーと対決するのはホテルオークラのスイートルームであり、老婦人がタマルに守られて住み、家庭内暴力の被害者の女性のためのセーフホームを営むのは麻布のお屋敷町であり、天吾の父が入っている施設は房総の千倉であり、牛河が一時期幸福な家庭を持ったのは大和市の中央林間である。千倉の病室で天吾は空気さなぎを目にする。繭の中にあったのは青豆だった。

 天吾は青豆と1Q84から脱出するに際し、書きためていた小説の分厚い原稿を持って出る。おそらく、この小説は天吾が書いたものであることを暗示している。

 全編を通していくつかの殺人現場が描写される。青豆の友達である婦人警官のあゆみの殺害以外は、すべて1Q84の世界の中でのことである。牛河も、高円寺の公園の滑り台の上で目にした月は2つであり、1Q84の世界の人間になっていた。
 チェーホフの創作作法は結局守られず、青豆の拳銃は発射されることなく終わった。
 なお、本書は前2巻の1年後に刊行された。

 この一文を入力し終え、これから私が向かうのは高円寺だ。そこで知人の属する落語研究会の寄席があるのを聞きに行く。高円寺には行った記憶がない。本書を読み終えた次の日に高円寺に行くというのも何かの縁だろう。小説の中では、登場人物が偶然出会うことが多い。その度にいかにも不自然だと思いつつも、物語とはそうして出来ていくもので仕方がないと容認している。だが、世の中には偶然の出会いが思った以上にあるのかもしれない。


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書名 海辺のカフカ(上) 著者 村上春樹 No
2011-14
発行所 新潮文庫 発行年 平成17年3月 読了年月日 2011-03-02 記入年月日 2011-03-02

 
『1Q84』の前に評判になった村上春樹の長編小説。
3つのエピソードが独立に進行する。メインは15才の家出少年田村カフカ。父と二人暮らしの少年は、突然家出して東京から高松にやってくる。そこで、ある個人図書館を一人で切り盛りしている大島という青年に気に入られ、その図書館に住み込みで手伝いをすることになる。
 ストーリーその2は戦時中小学生の集団が山梨の山中で原因不明の異常現象に遭遇し、一時的に意識を失った出来事。
 そしてストーリー3は、読み書きの能力はないが、猫と話が出来る不思議な老人ナカタさんの物語。ナカタさんはストーリー2に出てくる小学生の中で、最後まで記憶を回復できなかった少年であることが明らかになって来る。

 本巻はナカタさんが田村少年のいる高松へ向かうところで終わる。ナカタさんに関するストーリーは『1Q84』に描かれた1Q84の世界に近い幻想の世界である。恐らくナカタさんは田村少年の潜在意識の分身だろう。似たような非現実的世界が、田村少年にも現れる。人間潜在意識を扱った小説で、『1Q84』の前駆をなす作品のように思われる。田村少年にはギリシャ悲劇の『オイディプス王』の運命が暗示されるところで上巻は終わる。内容は哲学的で、難解なものだが、推理小説を思わせるミステリアスなストーリー展開は相変わらず巧みで、引き込まれて行く。子供のような純真な心を持つナカタさんと普通の人との会話もユーモアがあり面白い。

 この作品でも、田村少年、大島、ナカタ、そして図書館のオーナーである佐伯さん、それぞれに孤独である。
 会話は現実離れしている。小説の会話は実際のものとは別だと割り切るしかないのだろう。田村少年の言葉はとても15才の少年の知識から出るものとは思えない。大島の言葉はもっと高尚で、マクベスからの引用、アリストテレスの引用など。そして、ナカタさんがヒッチハイクで拾った長距離トラックの運転手は「関係性」などという言葉でナカタさんに話しかける。

282p以下には、高知の大島の別宅に隣接する森の描写。大江健三郎の小説に出てくるような神秘的で生命力にあふれる森が描写されている。村上は大江を意識して書いたのではないかと思った。


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書名 海辺のカフカ(下) 著者 村上春樹 No
2011-15
発行所 新潮文庫 発行年 平成17年3月 読了年月日 2011-03-05 記入年月日 2011-03-06

 
田村少年は図書館の1室に住み込み、大島の手助けをする。少年はその部屋で、15才の少女の幽霊を見る。それは佐伯さんの若い頃の姿でもあるように思える。そして、少年は夢の中で、ついで現実に佐伯さんと交わる。少年には中野での父親の殺害にからんで警察の手が伸びてくる。 

 一方ナカタさんは親切なトラックドライバー星野の助けで、高松にやってくる。ナカタの目的の場所ははっきりしないが、行ったところでそこが本当に行きたいところかどうかが初めてわかるという。星野はナカタ老人が求める「入り口の石」を見つけ、それを持ち帰り、ひっくり返して入り口の石を開ける。

 警察の目を逃れて、高知の森の一軒家にひそんでいた田村は、深い森に入っていく。そして、そこでかつて戦時演習の際行方不明になった2人の旧日本兵に案内されて、不思議な集落に入る。そこで、彼は佐伯さんに会い、お互いに心を通わせ会うことが出来、少年は新しく生まれ変わる。

 ナカタさんはついに甲村図書館に行き着く。そこが彼の目的地であった。そこで、彼は佐伯さんが書きためていた自身の過去の記録を焼却することを頼まれ、それを実行する。そして、佐伯さんもナカタさんも静かに息を引き取る。

 オイディプスコンプレックスから抜け出して、成長していく少年の記録と読むことが出来る物語。
 上下巻あわせると文庫本で1000ページを超える長編。現実と夢・非現実が交錯しながら展開する村上ワールド。不思議な魅力に引き込まれて、一気に読んでしまった。

 独特の木訥な話しぶりのナカタさんに、今のNHK朝ドラ「てっぱん」に出てくる画家を重ねて読んだ。ナカタさんは田村少年に会うことはなく終わった。ナカタさんが記憶を失い、読み書き能力を失う原因となった戦時中の集団失神事件のなぞ解きはついにされなかった。読み終わって、ナカタさんは田村少年の分身ではなく、むしろ父親の分身ではないかと思われた。田村少年の他に、ナカタさんに最後までそっていた星野青年も新しい自分を発見し、新たな人生に踏み出す。二人の若者の再生の物語とも読める。

『海辺のカフカ』とは佐伯さんが若い頃作った歌の題だ。極めて象徴的な歌詞だ。その歌は田村少年の心を深くとらえる。大島さんはその歌詞について言う:「
・・・象徴性と意味性とはべつのものだからね。彼女はおそらく意味や論理といった冗長な手続きをパスして、そこにあるべき正しい言葉を手に入れることができたんだ。宙を飛んでいる蝶々の羽をやさしくつまんで捕らえるみたいに、夢の中で言葉をとらえるんだ。芸術家とは、冗長性を回避する資格を持つ人々のことだ」(p32)。

「海辺のカフカ」の詩はもちろん村上春樹が作ったものだが、詩人としての才能を感じさせるものだ。
 本書でもチェーホフの「
もし物語の中に拳銃が出てきたら、それは発射されなくてはならない」という言葉が引用されている。(p127)。これは『1Q84』にも引用されている言葉だ。よほど気に入っているのだろう。いずれも長編小説だから、同じ素材が使われても仕方がないだろう。

 本書にはベートーベンの「大公トリオ」がよく出てくる。それと関連し、p218にはハイドンの生涯と音楽が簡潔にまとめられていて、興味深かった。人間の本質について考えさせられ、さらにこうした多方面の知的刺激を与えられるのが村上春樹の魅力だ。


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書名 日本語の歴史 著者 山口仲美 No
2011-16
発行所 岩波新書 発行年 2006年5月 読了年月日 2011-03-14 記入年月日 2011-03-24

 
アマゾンからのメールを開いたら、以下の2冊とともに、本書を薦めていた。アマゾンでの購入履歴、あるいはチェック履歴から、顧客1人1人の読書傾向を推定し、それにあった書籍を薦めてくる。言われるままに3冊とも注文した。恐ろしいほど、適切な購入勧誘であった。注文の翌日には届いた。

 歴史の本はよく読むが、日本語の歴史を書いた本は初めてだ。文字を持たなかった日本人に、漢字が伝わり、それからカナとひらがなが生まれ、現在の日本語の基本ができた程度の知識と関心しかなかった。日本文学史の類はたくさんの本があるのに、日本語の歴史に関する本はそもそも少ない。本書は手際よく日本語の歴史がまとめられている。

 日本の書き言葉の歴史はおよそ1400年前に始まる。
 漢字は表意文字であるので、それに相当する日本語の読みをその漢字に当てる。漢字の元々の発音もそのまま残したので、漢字には2通りの読み方が生じた。それが日本語を複雑にしている原因である。
江戸時代には国学者により日本にも固有の文字があったと唱えられたが、そのようなものは存在しなかったというのが今の定説。

 漢字の音のみを借りて日本語を表したのが万葉仮名であり、万葉集はそれで書かれている。ただし、万葉仮名には訓読みや戯れ読みも入っている。
 日本語で書かれた最初の文章は大化の改新以降書かれた。(17条の憲法などは漢文である)。
「日本書紀」などは純然たる漢文で書かれているが、「古事記」は漢式和文で書かれている。漢式和文は漢字を連ねるが、その文字列は日本語の順になっている。平安貴族も漢式和文で日記を書いた。藤原道長の「御堂関白日記」はその一例。

 奈良時代の発音は清音で61音、濁音27音もあった。現在ではそれぞれ44音、18音である。

 漢文の訓読み(これは漢字の翻訳である)のためには原文にふりがな、送りがな を書き込むが、万葉仮名よりも簡略なものが必要で、そのために万葉仮名の一部を利用したカナが考案され、さらに漢字全体を崩したひらがなが生まれた。ひらがなは弘法大師が創り出したというのは今では信じられていない。1人の人間が創り出したものではない。

 平安時代に起こったひらがな文(少しの漢字が混じる)はその後日本語文章の主流になれなかった。それは、読みにくいこと、論理的な事柄の記述に向かないことなどが原因。主流になったのが漢字カタカナ交じり文。読みやすく、抽象的な概念を扱うことにも向いている。
 平安以後は係り結びが消失していった(この過程の考察はかなり専門的であり、已然形、連体形など高校の古文の授業を思い出す)。それは、文章の構造を、助詞によって明示するようになったからである。特に鎌倉時代は主語を示す「が」が発達してきた。係り結びの消失は、日本人が情緒な思考から脱皮し論理的思考をとるようになったことを示す、大きな変化である(p120)。

江戸時代は近代語の始まり。発音も語彙も今の日本語と共通の部分が多い。
 明治になると、西洋の言葉が言文一致であるのに刺激され、日本でも言文一致運動が起こる。明治期に2度の挫折はあったものの(2度目の挫折は幸田露伴の『風流仏』や森鴎外の『舞姫』などの雅俗折衷体あるいは雅文体の成功による言文一致運動の停滞)、言文一致体は確立された。
2度目の停滞を打破したのは尾崎紅葉の「である」体である。これは「ます」「です」「だ」に比べて客観的な説明文として適している。それが圧倒的に支持され、言文一致運動が息を吹き返し、自然主義文学の勃興、あるいは子規や虚子による客観写生句の提唱により、定着していった。

 本書の最後には以下のように述べられる:
現在、私たちは、言文一致運動の成果を満喫しています。書くための特別な言葉や文法があるわけではありませんから、誰でも書ける。おまけに、その時の気分に従って、自在に書ける。主観的に断言したいときは「だ」を連発し、語りかけたい時は「です」や「ます」を使い、客観的に述べたい時は「である」を使うという具合に。(中略)言文一致運動のお陰で、文章に個性が出てきたのです。一人一人呼吸のリズムが違うように、文章もひとりひとり異なった呼吸をしているのです。

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書名 漢字伝来 著者 大島正二 No
2011-17
発行所 岩波新書 発行年 2006年9月 読了年月日 2011-03-16 記入年月日 2011-03-24

 
『日本語の歴史』の前半とダブル内容。こちらのほうがより専門的である。古代日本人が漢字を取り入れて自分たちの言葉を表すことに、どれほど苦闘したかが伺われる。おそらくそれは明治の時代の西洋語の取り入れをもはるかに超える大困難だったであろう。

 日本に漢字が伝えられた確たる証拠は志賀島で発見された「漢委奴国王」の金印。紀元1世紀。
 文字の使用は社会の文化水準が高まって初めて実現する営みであると著者は言う。しかし、それとは別に魏志倭人伝に見られるように、日本は中国皇帝の世界に足を踏み入れる条件の一つとして、外部から文字の使用を迫られた。それゆえ、漢字を自らの文字とすることは運命づけられたものだったという(p7)。

 4,5世紀に作られた鏡の銘文の漢字は配列が誤っていたりして、当時の人々は模様としか意識していなかった。漢字が意味をもつ言葉として認識されたのはどんなに早く見積もっても4世紀であり、それは朝鮮から来た人々によってもたらされた。5世紀の初めには漢字による記録が始まっていた。

 漢字による日本語の写し取りでもっとも困難であったのは、母音で終わる日本語(開音節)と違い、中国語は子音で終わる閉音節もあることであった。この場合日本人は子音の後に母音をつけて、日本語化した。例えば白はpak であるが、日本人はpakuとした。もう一つは中国語の音の多種多様さで、日本語はとてもかなわなかった。白の音節pをhで置き換えたのは、日本語の発音にpが無かったからである。

 既成の文字を使って別の意味を表すことを漢字では仮借という。漢字の音だけを使って日本語を表すことを古代人は学んだ。これは万葉仮名へと発展する。

 7世紀後半の天智天皇の時代になると、外国文学である漢詩を、外国語のままで作れる人達ができてきた。日本初の漢詩集『懐風藻』として結実する。『懐風藻』の最初の詩は大友皇子のものである。著者はこの日本初めの漢詩を解説して、押韻、平仄という漢詩の規則には必ずしも沿っていないという。しかし、著者は中国の韻書と首っ引きで漢詩に挑んだ当時の人々の漢字文化への思い入れの深さを見る(p65)。昨年夏、中山道歩きで、関ヶ原の少し先の大友皇子の墓とされているところを通った。壬申の乱に敗れて、その遺体が葬られたと伝えられるところに、3本の杉の木が立っているだけのものだった。

 日本人は独自の漢字まで創り出した。長屋王の屋敷跡から「鰯」という文字のある木簡が出てきたという。これは漢字にはないものだ。長屋王も奈良時代の初め、謀反の嫌疑をかけられて自ら死んだ皇族だ。

 日本式の漢文訓読は、大量の漢籍の内容をできるだけ早く吸収するためには、いちいち翻訳している余裕がなく、原文を見ながら意味を掴もうとしたからであるという。そして、それが可能であったのは漢字の持つ表語性であるとする。漢字は中国語の一つの言葉(ワード)を表す表語文字であり、そのためそれと同じ意味をもつ日本語を当てはめること、つまり訓読ができる。訓読ができれば、それを日本語のシンタックスにしたがって読むことは容易である(p84~)。漢字訓読は、今の新疆ウイグル自治区のトルファンにあった7世紀の高昌国でも行われていたという。高昌国の遺跡は数年前のシルクロードの旅で訪れた。草一本生えていない、褐色の広大な城址に登った。

『日本語の歴史』では漢式和文と表されるものは、本書では「漢字文」と表される。その最初の例としては、本書も法隆寺金堂の薬師如来座像光背銘を挙げている。

 カタカナ、ひらがなの誕生については『日本語の歴史』と同じ。こうして、漢字から独自の文字を作り出した国がある一方で、漢字を拒み独自の文字を作り出した国もある。モンゴル帝国はパスパ文字を作り出した。チベット語をもとにした表音文字で、フビライ・ハーンは勅令により、この使用を命じた。しかし、不便であったので、ウイグル文字で書かれたモンゴル語か、漢文への翻訳文を読んでいたという。この文字は元王朝の滅亡と共に砂漠に消え二度と蘇ることはなかった(p134~)。

 朝鮮も日本と同じように漢字で朝鮮語を書き表そうとした。朝鮮語も膠着語で、孤立語の中国語とは違う。それで、「てにをは」にあたるものも考案された。しかし、日本のようには成功しなかった。それは、朝鮮語が閉音節を含み、二重子音などもあり、漢字を当てはめられないものが多かったからである。15世紀の李王朝は独創的な表音文字ハングル文字を作り出した。しかし、中国文化への憧れと、明王朝への遠慮から、ハングルは冷遇された。本格的に復活したのは第二次大戦後である(p148~)。
 この他、漢字を真似て独自の文字を作り出した例として、契丹文字、西夏文字、女真文字、そしてベトナムの漢字のことが述べられる。これらはいずれも消えた文字である。

 こうしてみると、広大な漢字文化圏で、漢字を保持し、また漢字から派生した表音文字を持つ日本語は極めて特異である。
 最後に補章として、日本漢字音と中国原音の関係が、専門的に述べられている。著者の専門分野なのであろう。


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書名 日本語の古典 著者 山口仲美 No
2011-18
発行所 岩波新書 発行年 2011年1月 読了年月日 2011-03-18 記入年月日 2011-03-25

「日本の古典」ではなく「日本語の古典」である。著者は『日本語の歴史』の山口仲美氏。言語の専門家である。言葉の観点から日本の代表的な古典を紹介する。古典を読むことにより、物事を相対的に見ることができる、そして創造性の芽を育むことができると著者は言う。

 取り上げ挙げられた古典は「古事記」から為永春水の「春色梅児誉美」の30点。今までにどれだけ読んだことがあるか数えてみた。「源氏物語」「方丈記」「平家物語」「風姿花伝」「おくのほそ道」「曽根崎心中」「雨月物語」の7点である。このうち源氏は谷崎源氏であり、また「風姿花伝」は白州正子の著作のなかで読んだものだ。「枕草子」「徒然草」「東海道中膝栗毛」はそれぞれ岩波文庫版が手元にあるが、途中で挫折している。原文と校注だけでは読み進めるのが困難だ。「枕草子」「徒然草」は想像した以上の長編随筆でもある。

 本書の特徴は各作品にテーマを決めて解説してあること。「枕草子」ではエッセイストの条件がテーマだ。そしてその結論は:
①人と違った物の見方ができる②興味関心の幅が広い③観察力・批判力がすぐれている。

「源氏物語」のテーマは、「言葉に仕掛けられた秘密」である。例えば文章のリズム。冒頭の部分の1センテンスの長さを分析し、平均136文字の長文と、平均50文字の中文が続いた後に突然8文字の短文が来て、文章を引き締めている。計算しつくしたような文章だという。源氏物語には多数の人物が登場するが、それぞれの人物を形容する喩えが入念に作られていて、人物が描き分けられているとも言う。さらに、独特の擬態語で人物を描き分ける。「あざあざ」というのは「源氏物語」にしか見られない擬態語で、紫上にたして使われる。そのほか「けざけざ」は玉鬘に、「なよなよ」は女三宮に、「たをたを」は夕顔にといったぐあいである。「
紫式部は、言葉をあやつる天才だったのです」と結ぶ。こうした分析が可能になったのはおそらく、「源氏物語」の全文がデジタル化され、言葉の検索、抽出が容易になったためであろう。

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書名 チンネの裁き・消えたシュプール 著者 新田次郎 No
2011-19
発行所 新潮文庫 発行年 昭和49年 読了年月日 2011-03-22 記入年月日 2011-03-25

 
東北関東大地震の影響で、計画停電が実施されていて、昼間3時間停電した場合、窓際で本を読むしかない。適当な本がないかと本箱をさがしていて見つけた。買ってから30年以上も放置してあった。表題の2つの作品の他「錆びたピッケル」「新雪なだれ」を収める。

「チンネの裁き」の初出は昭和33年。題名の特異さもあって私の記憶にも残る。若い人の間に登山ブームがあった頃で、評判になった。「山男には悪人はいない」とは当時よく言われた言葉で、山男の端くれを任じていた私もそう思った。本書にもこの言葉が繰り返し出てくる。しかし、山男は善人ばかりではない、目的のためには仲間を死なせることもあえて行う、これが本書のテーマだ。舞台は剣岳周辺の険しい岩峰と雪渓。いわゆるアルピニストといわれる人々が登るルート。私も剣岳の山頂には立ったことはあるが、この小説の舞台にはとても足を踏み入れられない。そこで一人の山男が落石にあって命を落とす。付近を登っていた別のパーティの一人が、その落石に疑問を持ち、独自に調べる。どうやら人為的な落石であったようだ。その犯人を明らかにするために、当時現場にいた山男でパーティーを組み、チンネと言われる岩峰にとりつく。そして犯人と思われる男は、そこで自らの命を絶つ。しかし、遭難事故はその後も起き、結局はさらに3人の山男が次々に命を落とす。山男達の暗い過去が次々と明らかにされていき、最後はどんでん返し的に一連の遭難事故のもととなった落石の真犯人が明らかにされる。魅力的な一人の女性登山家をめぐる恋のもつれが原因だった。

「錆びたピッケル」はマッターホルン登山中に遭難した山男のこと。ピッケルの欠陥により、滑落死した。死んだ山男の友人は、一緒に登った相棒が粗悪なピッケルに密かに取り替えたのではないかと調べていく。そして、その先にあったのはこれまたどんでん返し的結末。ここでも恋のもつれが動機となっている。

「消えたシュプール」は戦前の志賀高原が舞台。こちらは共同経営の事業を乗っ取ろうとして起こした殺人事件。私も行ったことがある熊の湯、横手山、発哺、高天原などが舞台で、なつかしく読んだ。

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書名 空海の風景(上) 著者 司馬遼太郎 No
2011-20
発行所 中央公論社 発行年 昭和50年 読了年月日 2011-03-31 記入年月日 2011-04-04

 
東京電力の計画停電があり、昼間の停電に際しては、パソコンが使えないので本を読むしかない。30年以上前に買って、本箱の奥で眠っていた本書を手にした。
 我が家の檀那寺は真言宗である。法事のたびに耳にするのは、よく意味のわからない真言宗のお経だ。寺の住職は最晩年、真言宗智山派管長、総本山智積院化主という地位にあった。それでいながら空海に関する知識はひらがなをダブることなく全部使って、「いろはにほへと」という立派な意味のある歌を作った人間離れした天才だという、子供の頃得た知識以上には出なかった。もちろん本書を買ったのは、空海を知りたいと思ったからだ。あまり本を読まなかった働き盛りの頃だったので、積ん読になってしまったのだ。今回読もうと思った直接のきっかけは『日本語の歴史』の中で、ひらがなは空海の草案になるという説は正しくなく、色々な人の創意の結実であろうと書いてあったこと。

 歴史小説というより。歴史資料を詳細にあさり、それをもとに司馬遼太郎がイマジネーションをフルに働かせて作った空海の評伝といったもの。「・・・・と想像することは許されるだろう」という表現が随所に出てくる。
 上巻は空海が入唐し、長安で密教の師恵果を訪れるところまで。この巻の圧巻は何と言っても空海がその文章力を発揮して唐の役人に彼らが日本の正式の国遣であることを納得させる場面。空海がいわば私費留学生として加わったのは第16次の遣唐使節。遣唐使は藤原葛野麻呂。船4艘で出航する。しかし嵐に遭い、遣唐使と空海の乗った船は南の福州まで流される。そこで地方の役人は彼らを国使とは認めない。それを証明する文章や印章は最澄らが乗った別の船にあったのだ。藤原葛野麻呂は何回も文章を提出するが、相手は認めず、一行は湿地の上に足止めされる。そこで、葛野麻呂は無名の僧ではあっても文章家と聞いていた空海に上奏文の作成を頼む。空海の作った文は見事な漢文で、相手の官吏を納得させ、やっとのことで彼らは上陸を許され、長安に向かった。それほど彼は漢文に長じていたのだ。

 空海の天才的な語学力は、彼の育った環境によるのだろうと推測する。彼の一族は佐伯氏であるが、この佐伯氏はもともとは東国の異種族であって、それが讃岐に定住させられた。空海の周辺には異なる言葉がまだ残っていて、音韻に対して敏感にならざるを得なかった。それが、天才的な語学能力のもとだろうと著者はいう。空海は通訳なしで、長安の人々と交わり、その詩や書は長安の文化サロンで絶賛される。長安ではサンスクリット語も学んでいる。

 四国の豪族の家にうまれた空海は、母方の叔父の庇護のもとで当時の都長岡京に行き、勉強し、大学の今でいう法科コースに入学する。しかし、18才の時に退学し、以後30才頃までの行動は空白となる。儒教を中心とする大学の教えでは、宇宙の真理、人間の本質に迫ることができないと思ったのだ。私度僧としてぼろをまとい、山野を放浪し、密教(正統派密教に対して雑密と著者は呼ぶ)への関心を強めていったようだ。
 
密教は釈迦の思想を包摂しはしているが、しかし他の仏教のように釈迦を教祖とすることはしなかった。大日という宇宙の原理に人間のかたちをあたえてそれを教祖としているのである。そしてその原理に参加――法によって――しさえすれば風になることも犬になることもできるという可能性を断定し、空海はこの驚くべき体系によってかれの同時代人を驚倒させた。(p9)。また「空海における真言密教の中には型どおりの仏教的厭世観は淡水の塩気ほどもない」ともいう(p49)。
おそらく人類がもった虚構のなかで、大日如来ほど思想的に完璧なものは他にないであろう。大日如来は無限なる宇宙のすべてであるとともに、宇宙に存在するすべてのものに内在していると説かれるのである。(p127)

 司馬遼太郎はまた、空海が大学を飛び出した理由の仮説として、空海における性の課題という仮説を立てている。「
人間における性の課題をかれほどに壮麗雄大な形而上学的世界として構成し、かつそれだけではなくそれを思想の体系から造形芸術としてふたたび地上におろし、しかもこんにちなおひとびとに戦慄的陶酔をあたえつづけている人物が他にいたであろうか」(p66)という。後に空海の体系における根本教典となる「理趣教」の冒頭には「妙適清浄の句、是菩薩の位なり」とあるが、この「妙適」というのは唐語で男女交合の恍惚状態をいう。人間の性欲の大らかな肯定であるという。(p67)

 空海という人物について司馬遼太郎は以下のように述べる:
 
空海は具体的世界にかかずらわる中国的教養をよろこばず、具体性をいっさい止揚して天地のすべてを法則化して考えるインド的知性をよろこぶという、これは生まれつきとしか言いようのない性向をもっていた。(p97)
 
空海は(中略)自分の行動についてはすぐれて劇的構成力をもっていた。かれの才能の中でいくつか挙げられる天才や異能のうち、この点がもっともすぐれていたものの一つといっていい(p249)。空海のこの才能が福州の役人を説き伏せるのに多いに役立っただろうと著者は推定する。空海が18才の時に書いた『三教指帰』というのは仏教、儒教、道教を比較して仏教の優位を説いたものだが、それはそれぞれの教えを代表する人物が演じる戯曲として書かれた。しかも、空海は自身が仏教の代弁者として登場する。
 空海のたどり着いた長安の町には、4000人の異国の使臣と随員がおり、また2000人もの科挙の受験者が来ていた。唐朝は思想として普遍性を尊び、皇帝は漢民族のみの皇帝であるという意識はなかった本書は言う。そして:
唐朝において大きく成立したこの普遍的原理を、空海が驚嘆をもって感じなかったはずがないであろう。かれがのちにその思想をうちたてるにおいて、人間を人種で見ず、風俗で見ず、階級で見ず、単に人間という普遍性としてのみとらえたのは、この長安での感じた実感と無縁ではないに相違ない(p298)。

 当時、8世紀から9世紀初めの遣唐使の旅の様子が180p以下に記されている。空海の加わった遣唐使船4隻のうちとにかく大陸に着けたのは2隻、他の1隻は流されて別の島に、他の1隻は行方不明になる。空海が大陸に渡ることができたのは極めて幸運であった。空海達を突き動かしたものについて、著者は言う:
この時代、極東の島国をゆりうごかしていた世界的普遍性へのあこがれというものをのぞいて、当時のひとびとを理解することはできない。六世紀半ばに仏教が渡来して以来、仏教はこの島国のひとびとにとって普遍性そのものであった。社会の階級や民族を超越した世界をもつ唯一のなにごとかであったかもしれない。(p180)

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書名 空海の風景(下) 著者 司馬遼太郎 No
2011-21
発行所 中央公論社 発行年 昭和50年 読了年月日 2011-04-03 記入年月日 2011-04-07

 
この巻の主なテーマは最澄との対比。同じ遣唐使団でも最澄の乗った船は明州(寧波)に着いた。西行はそこから天台山に直行し、天台宗関係の教典を筆写するや、長安に行くこともせずに、帰国する。
 空海は師の恵果のもとで文字通り水を一器から一器に移すように個人教授をうけ、短時日で密教を学び取る。一千人と言われる恵果の弟子の中で、空海は師から全部を伝授された二人の弟子の一人となる。いかに彼の能力と人物が認められていたかの証拠だ。当時の国費留学生は20年がその滞在期間とされていた。しかし、空海は2年で切り上げてしまう。出発前に縁者などから集めたと思われる、かなりの資金を使い果たして、教典、密教の儀式に必要な道具などを入手する。帰路、空海は越州にある密教寺院に立ち寄る。そこにはすでに最澄も立ち寄っていたことを知る。
 桓武天皇の厚い庇護のもとにあった最澄は、帰国後天台宗を東大寺など奈良六宗と並ぶ地位として認めさせる。そして、比叡山に寺を開く。宮廷の関心は天台宗というよりも、最澄が越州から持ち帰った密教の方にあった。桓武天皇は密教独自の儀式である頭から香水を戴くという「潅頂」の儀式を最澄から受ける。

 空海は帰国後、1年近く筑紫に滞在する。日本に密教をもたらしたのは自分が最初であると思っていた空海は、恐らく最澄による潅頂の噂を耳にしたであろう。著者はいう「
その最澄を、筑紫にいる空海は、おそらくよほどの虚喝漢と思ったにちがいない。空海の、のちのち、最澄に対する態度がやや常軌を逸して――不徳とさえいるほどに――戦闘的であるのは、単に空海の性格というものでなく、筑紫上陸のときにうわさをきいた際の心象の悪さが、空海における最澄観を決定的にしてしまったのではないか。」(p71)。政治感覚にすぐれた空海は、九州で中央の様子を窺っていたのではないかと推察する。

 司馬遼太郎の描く最澄は自ら欲して権力に近づくような人物ではなく、善良で、温厚円満な人物である。空海のもつあくの強さ、政治的感覚とも無縁だ。最澄は8才年下の空海を師と呼び、空海のもとで潅頂を受け、空海の持ち帰った密教教典を借り、密教を学ぶ。空海に言わせれば、密教は教典だけでは会得できないもので、実際の行を修行しなければならない。さらに進んだ段階の潅頂を受けることを最澄は希望するが、修行なしではそれはできないと、空海は拒む。写経のために教典を貸すことは続けていたが、それも、『理趣釈教』を貸してくれと言われたときは断り、かなり激しい調子の手紙を書く。最澄はあくまで「筆授」と呼ぶ教典からの伝授にこだわる。最澄が密教をあくまでも天台宗の一部門として取り入れようとしていたことも、空海の気に入らなかった。最澄は最愛の弟子泰範を空海のもとに派遣していた。泰範に対して比叡山に帰るよう命じるが、泰範はそれを拒否する。拒否した泰範に代わって空海が最澄宛に手紙を書く。絶交状であった。肉体の行を通さない密教の伝授はないと考える空海には、「筆授」に最後までこだわる最澄は許せなかったようだ。

空海が唐からの帰途にあるとき、桓武天皇は亡くなる。その後を継いだ平城天皇は少し変わった人物で、すぐに弟に譲位する。上皇となった平城は薬子の乱を起こすが、嵯峨天皇は素早くそれを鎮圧する。文化的サロンを好んだ嵯峨天皇は、空海と親交を深める。空海は天皇であろうとも、あたかも対等の友人として付き合う。空海は京都高雄の高雄山寺を本拠としていたが、やがて東寺に移り、さらに高野山の地を得てそこでの伽藍を建設に着手する。
 承和2年(835年)に高野山で61年の生涯を閉じる。

 315p以下には空海の事業が列挙される。日本思想史上の最初の著作『十住心論』、密教教団の形成、密教に必要な絵画、彫刻、建築、こまごまとした法具の制作、あるいはその指導、庶民のための初めての学校総芸種智院の創設、詩や文章作成の法則を論じた『文鏡秘府論』、日本最初の字書『篆隷万象名義』、そして満濃池の修築など。(「いろは」と五十音図の作成作者であるというのは事実性が曖昧であるとしている)。そのなしたことは量といい質といいほとんど超人の仕業といっていいと述べた後で、司馬は以下のようにいう:
それでも、というより、それだけに、空海のひとつの身の淋しさはあるいは――空想だが――癒されがたかったかもしれない。かれが多能であればあるほど、さらにはその中国的教養が比類のないものであればそうであるほどに、ともに語るべき相手のないことに淋しさを感じつづけたのではないかと思われる。かれが長安に在った日々は、そうではなかった。晩唐の文化は長安において爛熟しており、かれは自分の水準――知的好奇心をふくめて――と似たひとびとを仲間にもつことに不自由しなかったばかりか、むこうからかれの盛名をきいて交わりを求めてくる者も多かった。人生の悦楽のひとつは自分と同じ知的水準のひとびとと常時交わりをもちうることであるとすれば、帰国後の空海におけるこの面での淋しさは、あるいは当然なことであったかもしれない。(p316)

 平安朝初期の歴史が、小説になったりすることは極めて少ない。延暦寺は信長による焼き討ちにあったが、それでも最澄当時の資料が残っている。空海と最澄の手紙もかなり引用されている。密教教典を初め、そうした資料に丹念に当たった司馬遼太郎はたいした人だとあらためて思った。

 本書を読み終わっても、空海の開いた真言密教がどういう教えであるかは、本尊が釈迦ではなくて大日如来であること以外には少しもわからなかった。

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書名 地球環境システム 著者 円城寺 守 編・著 No
2011-22
発行所 学文社 発行年 2004年 読了年月日 2011-04-17 記入年月日 2011-04-19

 
本書の分担執筆者で「農薬の功罪」という章を書いた藤森嶺さんから送られてきた本。本棚に眠っていたのを見つけて読んだ。藤森さんはかつての職場の同僚。

 地球を一つのシステムと見て、それを地球科学、生命科学、社会科学の観点から記述したもの。執筆者の肩書きから見て、多分早稲田大学の学生用テキストとして書かれたものだろう。掘り下げた内容ではないが、わかりやすく書かれている。

 東日本大地震とそれに伴う原発事故の後だったので、特に興味深かったのは地球科学のところ。地震は地球を覆うプレートどうしがぶつかり合って生じる。そのプレートはその下にあるマントルが動くから動く。ではマントルはなぜ動くか。それはマントル内部で発生する熱に差があって、あたかもヤカンの水が熱せられて対流するように対流するからである。では、マントル内の熱は何が原因か。それは放射性物質の崩壊に伴って出される熱である。そして、放射性物質の中でもウラン238が地球内部熱の発生源の主体である。原発に使うのはウラン235であるが、これは存在量がウラン238に比べて極めて少ない。以上のように考えると、地震の遠因はウランの放射性崩壊による発熱ということになる。そして今、福島原発では地震による津波で冷却装置が壊滅し、ウランの放射性崩壊による大量の熱の冷却に全力を挙げている。何とも不思議な因縁だ。

 日本の河川と洪水については利根川の例が述べられている(p93~)。1947年のカスリーン台風による洪水以来、上流部にダム、中流部には遊水池や堤防が整備されてきた。それでもカスリーン台風級の大洪水の対策としては十分でない。「
洪水のときの川は、河道からあふれて平野に広がるのが本来の姿であったし、平野に水田地帯がひろがるところは、大洪水のときにあふれた水を水田が貯留する働きがあった。しかし、平野に人口が集中して都市が拡大すると、人間の生活と資産を守るため、河道から水があふれないようさまさまの対策がおこなわれてきた。このため中小規模の洪水はあふれないようにすることができたが、現時点においても、カスリーン台風クラスの最大規模の洪水にはまだ対策が十分でない。そもそも河道から一滴も水を漏らさない、という基本方針は、雨の降り方が激しく、洪水の出方が鋭く、巨大な洪水量を持つ日本の河川に適した方法だったであろうか?」と述べられている。人間と自然、災害について考えさせられる指摘だ。

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書名 民俗学の旅 著者 宮本常一 No
2011-23
発行所 講談社学術文庫 発行年 1993年 読了年月日 2011-04-22 記入年月日 2011-05-01

 
いわゆる常民の生活を研究した人として、宮本常一という名前は耳にしたことはある。少し前のNHK週間ブックレビューでゲストの一人が、この本のことに言及した。読んでみる気になった背景には、親友池田隆さんのことがある。彼は発電タービンの設計・製造を生涯の仕事としたエンジニアであるが、数年前、人生を振り返って、もう一度やり直すなら、民俗学をやってみたいと言った。私は驚いた。民俗学といえば柳田国男の「遠野物語」のような民話を集めて研究するものというのが頭にあったから、それほど深いものではないと思っていた。池田さんがそれほどまでに思う民俗学への案内書としてよさそうだと思った。

 著者の自伝と言っていいもの。共感を覚えながら、引き込まれるように読んでしまった。私も旅好きで、旧街道歩きなど続けているが、旅での最大の関心事は、異なる風土の中で人々がどのような生活をしているか、ということである。それはまさに著者が生涯にわたって持ち続けた関心であった。

 宮本常一は明治40年(1907年)、瀬戸内海の島、山口県大島郡に生まれる。家は百姓である。本書の冒頭で、「
民俗学という学問は体験の学問であり、実践の学問であると思っているが、それは幼少期の生活のあり方にかかわることが多いのではなかろうか。私は幼年期から少年期にかけて土を耕し種子をまき、草をとり草を刈り木を伐り、落葉をかき、稲や麦を刈り、いろいろの穀物の脱穀をおこない、米を搗き、臼をひき、草履を作り、菰をあみ、牛を追い、また船を漕ぎ、網をひいた。」(p3)と記す。私はこれを読んだだけで、本書の虜になってしまった。ここに描かれた著者の幼少年期の体験はまさに私が、疎開先の父母の田舎で日常目にし、またいくつかは子供ながらに体験したものだ。その体験は今でも私の原点であると思っている。

 宮本は、小学校を卒業し、1年間は百姓に従事する。それから、叔父の勧めで大阪に出て、逓信学校に通い、卒業後、郵便局員として働く。その間に師範学校に通い、卒業すると小学校の教員となる。郵便局員時代も、小学校教員時代も宮本は付近を歩き回る。生来の旅好きなのだ。旅の雑誌を通して柳田国男の知己を得、さらに渋澤敬三とも知り合う。そして渋澤敬三の主宰するアチックミュージアムに席を得て、そこを基盤として、民俗学の調査研究に専心する。とにかくよく歩く。戦後の食糧難の時代には、米がないと泊めてもらえないので、米を背負って、各地を歩いている。著者は行く先でいずれも快く迎えられ、人々の話を聞くことができた。それは、著者自身が本質的に百姓であるからだろう。

 以下本書から:
p36以下に、大阪に出る著者に向かって父が与えた言葉が出ている。
(1)汽車に乗ったら窓から外をよく見よ。田や畑に何が植えられているか、育ちがよいかわるいか、村の家が大きいか小さいか、瓦屋根か草葺きか、そういうこともよく見ることだ。以下略
(4)時間のゆとりがあったら、できるだけ歩いてみることだ。いろいろのことをおしえられる。
 その通りだと実感している。

p80.著者は師範学校時代に、肺を患い1年間静養する。その時万葉集を暗誦するほど読んだという。そして、「
ほんとうの旅は万葉人の心をもつことによって得られるものではないかと思うようになった」と述べる。私は万葉集は読んでいないので、この部分はよくわからない。

p105:
われわれはただ自然といっているけれども、その自然もよく見るとほとんど人間の手が加わっており、人間の手の加わったものの中にはそこに人の生きてきた姿があり歴史があったのである。

p131。終戦の年の9月、アメリカ駐留軍が紀州街道を大阪に進駐してきた。人々は進駐軍のために前日嬉々として道の清掃を行っていたと記す。そして言う「
戦争というのは一体何だったのだろうと思った。敵意をかきたてる者によって、鬼畜米・英などとみな叫んだのだが、どうもそれは民衆の本心ではなかったようである

p191:
当時(昭和30年)は唯物史観的な歴史が流行していて、支配者や資本家はすべて搾取し、民衆はそれらに吸いとられて滓のようになって生きているといったような学説が横行していたが、私自身はかならずしもそう考えなかった。そうした搾取も事実であろう。しかし民衆はみずからの力で精一ぱい生き、自分たちの世界も持ってきたのではなかったろうか。私は全国を歩いて多くの百姓たちに接してずいぶん教えられたのである。それはこの土地の上に刻みつけた百姓たちの爪あとを見ればわかる。一枚の田、一枚の畑、一本の杉、一本の松、さては細道から溝から住居から、それらすべては民衆の手で作り出されたものといってよい。そして一枚の田は何百年というほど米を生み出してきたし、一枚の畑はいろいろの食物を生み出してきた。生み出すのに努力したのは百姓たちだが、そのながいあいだ土を疲れさせなかった。搾取されボロボロになったのではなく、若々しく生きつづけてきたのである。
 後半の部分は著者の胸の高まりが、直接こちらに響くような素晴らしい文章だ。

p203:
文明の発達ということは、すべてのものがプラスになり、進歩してゆくことではなく、一方では多くのものが退化し、失われてゆきつつある。それをすべてのものが進んでいるように錯覚する。それが人間を傲慢にしていき、傲慢であることが文明社会の特権のように思いこんでしまう。

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書名 忘れられた日本人 著者 宮本常一 No
2011-24
発行所 岩波文庫 発行年 1984年 読了年月日 2011-04-29 記入年月日 2011-05-02

 
宮本民俗学の代表作。2010年11月で61刷である。「忘れられぬ人々」という題名はよくあると思うが、本書は「忘れられた日本人」である。黙々と地域の生活文化を継承し、支えてきた無名の人々から、著者が聞き取り、記録したもの。柳田国男の『遠野物語』よりも面白い。明治から、昭和の初期頃までの、日本の農村の生活実態がよく記録されている。一言で言えば、一つの共同体の中の人々は、しっかりと支え合って生きてきたと言うこと。

 全体で13編からなる。いくつかを挙げる。
「対馬にて」「村の寄り合い」は、村落における寄り合いのもつ意味、あるいは隠居した年寄りの果たす役割が述べられる。対馬での村落全員による夜を徹しての寄り合いの例などが記載される。
「名倉談義」は愛知県設楽郡名倉の老人4人の座談会。
「女の世間」は女性の仕事とされた田植えに関連して、農村女性の実態を記す。驚くのは、田植えをしながら、彼女らが話す内容。かなり露骨な猥談が、おおっぴらに、明るく話される。

「土佐源氏」は、今は目が見えなくなり、老妻と二人で橋の下に住み、他人の恵みに頼って生きている80歳のばくろうの女性遍歴である。ばくろうといっても牛を扱う。彼の母親は夜這いの結果妊娠し、彼を産み落とす。昔の村落にはそうした子がかなりいた。彼は親戚に引き取られ、育てられる。学校にもろくに通わず、10代の頃から女性との関係を持ち、ばくろうで各地を歩きながら、色々な女性と関係を持った話。巻末の解説によると、これはフィクションではないかと言われ、宮本は写真入りでノンフィクションであることを示したという。

「女の世間」、「土佐源氏」のみならず、本書では農村における男女関係、性の話がたくさん出てくる。例えば「名倉談義」では、唯一座談に加わっている老婆が「
女房は亭主のそれにひかれ、亭主はの女房のそれにひかれるもんであります。たとえ馬鹿でも、女のものがよければ男は女とはなれるものではありません。」と述べている。それに続けて、老女の若い頃まで残っていた、つきのさわりの女性を隔離する「ヒマゴヤ」についての話が出てくる。「女の世間」のp124以下5ページほどにわたって、女たちが田植えで話すエロ話の例が出ている。こうした話は戦前、戦後、あるいは性の話が禁断であった時代にも、農村の女性の間では、ごく自然に話されていた。それらは機知にあふれ、仕事をはかどらせただろうと述べる。そして「無論、性の話がここまで来るには長い歴史があった。そしてこうした話を通して男への批判力を獲得したのである。エロ話の上手な女の多くが愛夫家であるのもおもしろい。女たちのエロばなしの明るい世界は女たちが幸福である事を意味している。したがって女たちのすべてのエロ話がこのようにあるというのではない」と述べる(p130)。

 後半の6編は著者が生前に会って話を聞いた人達の記録である。その中には著者の祖父も含まれる。常磐地方の現在の平市の農家、高木誠一氏のことを書いた編に以下のような記述があった。高木氏は百姓が楽しくてならない人のようである、と述べたあと、「
夏のはれた暑い日の稲を見ると、ゴクリゴクリと田の水をのんで、稲の葉が天をさしてのびていくのがわかるような気がするという」と記す(p284)。私もかつて「光合成の音」というエッセイで同じようなことを書いた。また、同じ高木氏のところで「この人たちの生活に秩序をあたえているものは、村の中の、また家の中の人と人との結びつきを大切にすることであり、目に見えぬ神を裏切らぬことであった」と述べる(p289)

 大阪の今では河内長野市に当たる農村に住む、左近熊太翁のことを書いた編にも愉快な記述がある。この翁は12才の時に鳥羽伏見の戦いを経験した。p240以下に明治へかけてのエピソードが語られている。将軍慶喜が真っ先に天保山沖の軍艦に逃げ帰った様子、鳥羽伏見の戦いがのんびりしたものであった様子、そして、明治元年に発布された5箇条の御誓文の「各その志をとげ、人心をして倦まざらしめん事を要す」を取り違えて、皆が「カカヌスミ」に走ったという。それまでは、年に1回、聖徳太子の廟のある大社のお会式の日に、そこに集まった男女が意気投合すれば誰とでも寝てよいという風習があった。しかし、明治元年には、上記のように、いつでも寝てもよいということになり、人々が他人の女房のところまで忍んでいったという。人々はええ世の中になったと喜んだが、やがて警察から取り締まられたという。ただ、お会式の日の一夜限りの男女関係は明治の終わり頃まで続いていたという。翁も15才の時に、お会式に行き初めて女と寝たという。

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書名 星降る国 著者 宮川ルツ子 No
2011-25
発行所 本阿弥書店 発行年 2003年 読了年月日 2011-05-14 記入年月日 2011-05-14

 
私が属しているオリーブ句会の主宰の句集。今月の例会の際いただいた。ハードカバー、1ページに2句という贅沢な本。

ルツ記より賜ふルツの名麦の秋
 と「ルツ子」という少し変わった名前の由来を示す句がある。著者はクリスチャンだ。エルサレムを初め、キリスト教ゆかりの地で詠んだ句が多い。ルツ子さんは「天為」という結社の同人である。「天為」の主宰は有馬朗人氏、かつて文部大臣もやったことのある人。有馬朗人は本書に序を寄せ、イスラエルやギリシャ旅行の際に詠んだ句にいいものが多いと言っている。

遠く来てパウロの生地花ざくろ
片影もなき哭壁の老婦人

 といった句は私にとっては目新しい。

先月の句会で私は「かそけくも恋に憧れ花夕べ」という句を出した。こんな句に皆がどう反応するか見たかった。私以外の7人のメンバーは誰もこの句を取ってくれなかった。最後にルツ子先生が、本日の特選句の一つとして、採ってくれた。「ロマンチックな句」と評価してくれた。少し意外な気がした。

本書に恋の句がいくつかあった。恋の句が嫌いなわけではなさそうだ。
愛されずして恋鴉又鳴けり
許されぬ恋を舞ひけり寒の紅
秋薔薇ギリシャの神は恋多く
鎌倉山の高きに
舞へり蝶の恋


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書名 古文の読解 著者 小西甚一 No
2011-26
発行所 筑摩学芸文庫 発行年 2010年2月 読了年月日 2011-05-15 記入年月日 2011-05-28

 
句会で時どきここは連用形で終わるべきだといったコメントが出る。「未然、連用、終止、連体・・・」。受験勉強以来すっかり忘れてしまった言葉だ。俳句には古語も使われることだし、この際もう一度古文の勉強をし直そうと思った。古文といえば小西甚一の素晴らしい受験参考書があったことを思い出す。というか、私が接した受験参考書の中で、この本だけは特別、参考書を超えた国語の魅力を語る本として引き込まれて読んだ。アマゾンで検索したらこの本があった。帯には「今、蘇る伝説の参考書」とある。

 読み出して、私がかつて読んだ物と違うと感じた。再度調べてみたら、『古文研究法』というのがあり、これが私の読んだものだった。『古文研究法』の中で今でも覚えているのは、芭蕉の「夏草や兵どもが夢のあと」の解説。草は春の草でも、秋、冬の草であってもいけない。ざらざらとした夏草でなければならない、というものだった。これは、『古文研究法』のみならず、受験勉強で学んだことの中で、唯一今でも覚えていることだ。今回読んだ『古文の読解』にも、同じ解説がある(p421)。本書は『古文研究法』『国文法ちかみち』の2書を圧縮したものである。

 話しかける調子で書かれているが、これは受験参考書というより、国文学の研究書と言っていい。「未然、連用・・・」という動詞活用がどのようなものであるかという基礎的なことは書いてなかった。随所に入試問題が引用され、それに対する解説と模範答案が示される。こんなに難しい問題が出されていたことに今さらながら驚く。文法や、古語の意味の解説は今の私にはほとんど頭に入らなかった。だから、この本を読んで『枕草子』や『徒然草』がすらすら読めるようになるわけではない。俳句について以下いくつか本書の記述から:

不易流行 p153:「
・・不易の作品を生み出そうと思って、人麻呂や定家の歌をまねたところで、けっして不易の作品は生まれるものでものではない。不易の作品を生むためには、ほんとうの流行に全心身を打ちこまなければならない。流行に深くはまるほか、不易に到達する道はない―。これが芭蕉の有名な不易流行説である。

「き」と「けり」 p322:両方とも回想を示す助動詞だが「き」は目睹、直接経験を示し、「けり」は伝承、間接経験を示す、と解説されている。

象徴 p419:「・
・俳句の表現は、象徴ということが中心であって、もし象徴ということがわからなければ、俳句がわからないのと大差ない・・。」そして象徴を「たがいに異なりながら、しかもどこか深い共通性があって、両者を対照することにより、それぞれのいちばん本質的な性格が同時にとらえられるような表現である」と述べる。そして象徴の理論を実作化したのは芭蕉で、配合という手法はまさしく象徴の世界であると続ける。さらに、俳句解釈の焦点は深い共通点を捕らえることにあると述べる。これに続いて、上述の「夏草や兵どもが夢のあと」の解説がある。

江戸時代の俳句流派について p432以下:
貞門風―ことばの機智的な洒落(代表 松永貞徳)
談林風―思いきった自由さ(代表 西山宗因)
蕉風―深い象徴的表現(代表 松尾芭蕉)
伊丹風―まことの俳諧(代表 上島鬼貫)
天明調―繊細な抒情性(代表 与謝蕪村)
一茶―ひねくれた純真さ

p430にはそれぞれの派の代表句が出ている
皆人の昼寝の種や秋の月  松永貞徳
長持に春ぞ暮れゆく衣更え 井原西鶴 談林風
草麦や雲雀があがるあれさがる 上島鬼貫  
 雲雀を「あれ、あがる、あれ、さがる」と詠んだ純真な無技巧。貞門や談林の技巧が行きづまった後に現れた。
めでたさも中ぐらいなりおらが春 一茶


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書名 本居宣長 上 著者 小林秀雄 No
2011-27
発行所 新潮文庫 発行年 平成4年 読了年月日 2011-05-29 記入年月日 2011-05-29

 
徳川幕府を倒した運動の思想的背景は尊皇思想であり、それは国学に由来すると常々思っている。国学といえば本居宣長。辻邦生の自分の祖先を題材にした『銀杏散りやまず』の中に、甲州の彼の先祖が、本居宣長の門人となり、宣長と交わした手紙が出ている。甲斐の田舎まで本居宣長の影響が及んでいたことに驚いた。私は本居宣長のことは何も知らない。何か読んでみようと思って思いついたのが、本書である。読み応えがあるといった本ではない。戦う気持ちで読まないと読み通せない。

 これは本居宣長に託して、小林秀雄が自身の歴史観を語ったもの。本巻の終わりにいう:
かくかくの過去があったという証言が、現存しないような過去を、歴史家は扱うわけにはいかないが、証拠が現存していれば、過去は現在に蘇るというわけのものではあるまい。歴史認識の発条は、証言のうちにはないからだ。古人が生きた経験を、現在の自分の心のうちに迎え入れて、これを生きてみるという事は、歴史家が自力でやらなければならない事だ。(p392)。

 宣長が古代人になって『古事記』を読み解いたように、小林も宣長になって、『古事記伝』『紫文要領』『玉勝間』など、宣長の主要著作に没入し、宣長の思想にせまる。小林はいう、「
実際に存在したのは、自分はこのように考えるという、宣長の肉声だけである。出来るだけ、これに添って書こうと思うから、引用文も多くなると思う」(p27)。年表もついていなければ、宣長の生い立ちもごく簡単にしか触れられていない。宣長の著作の引用と、それらが対象とした『古事記』や『源氏物語』の原典の引用が随所を満たす。前半は「もののあわれ」を扱い、『源氏物語』からの引用が多い。引用は、詩歌集、平安時代の日記などにも及び、それらが宣長の思想、つまり小林自身の思想の傍証として述べられる。まるで日本文学史を読んでいるような錯覚にもとらわれる。古文の注が巻末にほぼ100ページにもわたる。

 宣長に先立つ江戸期の学者として、中江藤樹、伊藤仁齋、荻生徂徠、契沖、そして直接の師である賀茂真淵の業績と小林なりの評価が詳しく展開される。特に中江藤樹への傾倒が目をひく。政治の世界における徳川家康と同等としている。

 幕末の志士たちをつき動かした「大和魂」について本書から。(p307~)
 賀茂真淵は「やまと魂」を万葉などに読まれた、「丈夫のををしくつよき、高く直きこころ」と解したが、実際には上代にはそのような言葉はなかった。「やまと魂」の初出は『源氏物語』で、それも1回きりである。当時の意味は、芸妓、智識に対して、これを働かす心ばえとか、人柄の意味で使われていた。芸妓、智識は漢由来のものだから、それと対立するものという意味だ。宣長はそれを「神代上代の、もろもろの事蹟のうえに備わりたる、皇国の道、人の道を体した心」という意味まで育て上げた。宣長の後継を自認する平田篤胤にいたって「雄武を旨とする心」と受け取られ、それが志士たちを動かした。宣長自身、自分の国学がやがて徳川の世を覆す原動力になろうとは思っても見なかったであろう。小林は本書の最初のほうで述べている:
この誠実な思想家は、言わば、自分の身丈に、しっくり合った思想しか、決して語らなかった。その思想は、知的に構成されてはいるが、又、生活感情に染められた文体でしか表現できぬものでもあった。

 知の巨人としての小林秀雄渾身の作であろう。本書に現れた小林の歴史観は、彼の生涯を通してのバックボーンであったようだ。昭和17年の『無常という事』に述べられたものの延長に本書はあると感じた。
 内容が多岐でかつ深い。とてもまとめることはできない。付せんの箇所が多すぎて引用もできない。

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書名 本居宣長 下 著者 小林秀雄 No
2011-28
発行所 新潮文庫 発行年 平成4年 読了年月日 2011-06-07 記入年月日 2011-06-10

 
本巻は『古事記伝』を中心とする本居宣長論。小林自身によるそれぞれかなり長い「本居宣長補記」が2編と、小林と江藤淳との対談が巻末につけられている。

 巻末の対談で小林は江藤の「
結局、漢才を排して言葉の純粋状態を見きわめようとしたとき、宣長は発音されている言葉、肉声、それこそが言葉だという簡明な事実に、確信を持ったと考えてはいけないでしょうか」という問いに答えて、「それでいいんです、あの人の言語学は言霊学なんですね。言葉は、先ず何をおいても肉声に宿る。肉声だけで足りた時期というものが何万年あったか、その間に言語文化というものは完成されていた。それをみんなが忘れていることに、あの人は初めて気づいた。これに、はっきり気付いてみれば、何千年の文字の文化など、人々が思い上がっているほど大したものではない。」と答えている(p401)。本書のポイントを上げればこれに尽きるだろう。本居宣長は『古事記』に伝えられたことは古の人々の肉声であり、それをそのまま受け入れることで『古事記』を読み解いていった。

 宣長は『日本書紀』よりも『古事記』を最上の史典としていた。それは前者が漢文で書かれたものにあるのに、後者は変体漢文で話し言葉を写し取ったものであるからだ。宣長の考えによれば、意(こころ)と事(こと)と言(ことば)は一体である。『古事記』においてはそれが実現されているのに、『日本書紀』は後の代の意を以て、上代の事を記し、漢の言をもって皇国の意を記したものであり、信用できないとする。(p193)

 p194に小林は以下のように述べる:
漢文との衝突によって目覚まされ、研がれた国語の「形」の意識の動き、宣長はこれを私達の文化の曙に当たり、その内奥で起こった、異様な重大な事件と率直に受け取っていたのである。この、彼の鋭い歴史意識には、何度でも、立還ってみなければならない。

 さらに補記では次のように述べる(p291):
長い間、口誦のうちに生きて来た古語が、それで済まして来たところへ、漢字の渡来という思いも掛けぬ事件が出来(しゅったい)した。言わば、この突然現れた環境の抵抗に、どう処したらいいかという問題に直面し、古語は、初めて己れの「ふり」をはっきり意識する道を歩き出したのである。私達は、漢字漢文を訓読という放れわざで受け止め、鋭敏執拗な長い戦いの末、ついにこれを自国語のうちに消化して了った。漢字漢文に対し、そのような事を行った国民は、何処にもなかった。この全く独特な、異様と言っていい言語経験が、私達の文化の基底に存し、文化の性質を根本から規定していたという事を、宣長ほど鋭敏に洞察していた学者は、他にだれもいなかったのである。(中略)そういう次第で、宣長の『古事記』研究は、日本人の日本語についての反省がこの書を書かせたというところに、的が絞られ、その「文体(カキザマ)の事」「訓法(ヨミザマ)の事」に、彼の精神は集中されることになった。

 本書では契沖、賀茂真淵の影響とともに、宣長の厳しい批判者であった上田秋成との論争が、詳しく紹介されている(p118~150.およびp223~230)。二人の論争はまったくかみ合っておらず、感情的な対立までになってしまっている。「
凡て神代の伝説は、みな実事にて、その然有る理は、さらに人の智のよく知ルべきかぎりに非れば、然るさかしら心を以て思ふべきに非ず」が、『古事記伝』に述べられた宣長の学問の中心である。これは、一般人には容易には同意できない考えだ。秋成はこれにかみついた。私なども、秋成の方を持ちたい。宣長の答えは、秋成の論難こそ「小智をふるる漢意の癖」であり「なまさかしら心」の現れに過ぎないと一蹴している。論点はその他にもいくつもあり、秋成はオランダからもたらされた地図まで持ち出して、日本は世界のこんなに小さな国でしかないのに、皇国が万国の上にあるというの宣長の主張はおかしいと迫る。もちろん宣長は取り合わない。小林は、理性では割り切れない宣長の学問の核心にある信仰ともいえるものを分析的に解明することを拒否する。ただ、面白かったのは、マアドックという研究者の意見として、宣長の態度は偉人にありがちな名誉心に災いされたものだという説も紹介していること(p124)。もちろん、小林はそんな説は一笑に付している。

 こうした論争、あるいは中江藤樹から始まり、伊藤仁齋、荻生徂徠、契沖、賀茂真淵、など、本書を通して触れられた江戸時代の学問の隆盛には目を見張るばかりだ。宣長の国学も安定した江戸社会という背景を抜きにしては考えられない。

 宣長は天明の飢饉も体験した。病人がたくさん出て、医者である宣長は多忙であると手紙に記している(p318)。各地で一揆や打ち壊しが頻発する。紀州藩から意見を求められた宣長は、そうした騒動の非は上に立つものにあると、意見書をだす(p337)。

 賀茂真淵、本居宣長、平田篤胤と流れてきた国学は、やがて尊皇攘夷思想として幕末の志士たちに受け継がれる。しかし、いつの間にか攘夷は消え、尊皇運動の結果として生じた明治政府は、文明開化の道を進む。そうした時代の流れに対する、国学に生涯を掛けてきた人々の失望の大きさは、例えば島崎藤村の『夜明け前』の最後の方によく描かれている。

 本書は昭和52年に刊行された。


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書名 アルジャーノンに花束を 著者 ダニエル・キイス、 小尾芙佐 訳 No
2011-29
発行所 早川書房 発行年 1999年 読了年月日 2011-06-13 記入年月日 2011-06-17

 
かつての職場の同僚、金木さんに2年ぶりに会った際、この本のことを紹介された。早速アマゾンで調べてみた。驚いたことに、本書のブックレビューが125件もあった。今までこんな本に遭遇したことはない。大学で先生に勧められたというレビューもあった。

 主人公はパン屋で働くチャーリー・ゴードン。精神遅滞者である。本書はチャーリーが精神科医で脳外科医でもあるストラウス博士に出す経過報告書の形をとって書かれている。チャーリーは博士らの開発した脳の能力改善手術のモルモット的な患者として、その手術を受ける。その結果、チャーリーは180という天才の知能指数を得る。数ヶ月のうちに20カ国語をものにする、あるいはピアノ協奏曲を作る。しかし、それはチャーリーを幸福にはしなかった。知能が低くて皆から馬鹿にされたりいじめにあっても、以前の彼は、周囲の人々に溶け込んでいた。驚異的な頭脳を持った後の彼は、職場の仲間からも疎まれ、職場を追われる。長いこと別れていた父や母を捜し当てて再会するが、父も母もチャーリーであることを認められない。しかも、やがてチャーリーの脳は元の状態に戻っていく。チャーリーの天才頭脳は自分が元に戻ることを、理論的に予想さえする。

 本書の終わり近く、チャーリーが彼に施した手術のリーダーであるニーマー教授にこういう:「
知能だけではなんの意味もないことをぼくは学んだ。あんたがたの大学では、知能や教育や知識が、偉大な人間の偶像になっている。でもぼくは知ったんです、あんたがたが見落としているものを。人間的な愛情の裏打ちのない知能や教育なんてなんの値打ちもないってことをです」(p392)。本書のテーマである。特に目新しいものではなく、当たり前の主張だ、と思うのは私だけで、多くの人はこのテーマにひかれて読んでいるのかもしれない。

 アルジャーノンというのはチャーリーが受けた手術の実験台となったネズミの名前。手術前のチャーリーはアルジャーノンと同じ迷路を抜ける競争試験を何回もさせられるが、いつも負けていた。チャーリーにおける手術の成功が華々しく発表された学会の会場から、アルジャーノンは逃げ出し、やがてチャーリーのところで飼われる。そして死んでしまう。本書の最後はアルジャーノンのお墓に花束を供えてやって欲しいという、チャーリーの願いで終わる。

 翻訳に苦心が見られる。前半の精神遅滞者としてチャーリーが書く報告書は、ひらがな主体、句読点なし、「は」は「わ」と書くなど、きわめて読みづらいものから始まる。手術後それが徐々に改善されていき、普通の日本語になる。退行過程では逆に、ひらがなばかりの文章に戻って行く。


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書名 パティ・ペイジの歌のように 著者 宮本美智子 No
2011-30
発行所 文藝春秋 発行年 1996年 読了年月日 2011-06-21 記入年月日 2011-06-21

 
代表歌「テネシーワルツ」で知られるパティ・ペイジは、1950年代を代表する歌手。そのCDを聞いていると、アメリカの健康で輝かしい青春への、当時の私達の憧れが蘇る。国会図書館でパティ・ペイジのことを調べていた際、本書の存在を知ったのはもうかなり以前のこと。たまたま都心に出かけるついでがあったので、思いついて国会図書館で本書を読んだ。

 著者は昭和20年、北海道の富良野の生まれ。本書は著者の分身と思われる紀久子という女性の半生。
 彼女の祖父は馬商人、父は獣医。祖父は愛人宅でいわゆる腹上死したような豪快な人物。昔気質で厳格な父に彼女は反発する。やがて父が急死し、大学生の彼女も外科医の恋人に急死される。紀久子は、外科医の友人の精神科医の日高啓吾にひかれてゆく。

 やがて紀久子はアメリカへ留学。60年代後半から70年代にかけてのアメリカには自由があふれていた。しかし、例えばタイムズスクエアの映画館の真ん前で大便をしている女性といった光景を目にすると、これは紀久子が求めていた自由とは違う物だと感じる。そして、啓吾への思いが募り、彼をアメリカへ誘う。しかし、彼はやってこない。

 留学先のイリノイ大学を、過激な言動で追われたマイケルを追って、紀久子もニューヨークに住む。紀久子はマイケルの子供を宿す。二人は結婚するが、子供のサーシャが4才の時離婚する。紀久子の心に啓吾が何時までも残っていたことが原因だ。

 物語はそれから10年ほど経った後、サーシャを伴って紀久子が富良野へ里帰りする光景から始まる。そして、終わりは紀久子の祖父が彼女のために植えてくれたカスミ桜の満開を、紀久子とサーシャが見るシーンで終わる。明日の便で香港に発ち、そこでマイケルと会うことになっている娘に、紀久子がよろしく伝えてくれと頼む。サーシャは快く請け合う。その時紀久子が思わず叫ぶ「アイム・ソー・リリーストッ(何だかとてもすっきりしたわ)」。それに対して娘が言う「パティ・ペイジの歌みたい・・・リリース・ミィ・・・レット・ミィ・ラヴ・アゲェーン・・・フオア・アイドンラヴユーエニ・モア・・・リリースミィ(私を自由にして。あなたへの愛はもう終わったのだから。ふたたび誰かを愛することができるよう、どうか私を自由にしてちょうだい)」

 私は「パティ・ペイジの歌」というから「テネシーワルツ」や「涙のワルツ」のような、切なくそれでいて甘美な失恋の歌を想像していた。きっぱりとした再出発の歌とは意外であった。

 留学してアメリカで生き抜いた戦後世代のたくましい生き方の典型を見る。

 なお、15曲収録されている私のCDの中には上記歌詞を含んだ曲はなかった。


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書名 渋江抽斎 著者 森鴎外 No
2011-31
発行所 岩波文庫 発行年 1940年 読了年月日 2011-06-26 記入年月日 2011-07-01

 
歴史小説の一つの極を代表するものだとは前から知っていた。読み終えて小説という概念には当てはまらないと思った。何と言ったらいいのか思案していたら、表紙カバーに「鴎外史伝ものの代表作」とあった。「史伝」がピッタリ。

 いつかは読んでみたいと思っていたが、小林秀雄の『本居宣長』の中で本書に触れられていて、それを機会に本書を手にした。

 事実のみを時間を追って淡々と記していく。次々に出てくる人や書籍の固有名詞が頭に入らず、その上知らない漢字やフランス語などがちりばめられきわめて読みづらいと思った。しかし、巻末につけられた36ページにも及ぶ注釈を参照しながら1/5ほど読み進めると、引き込まれてしまった。誰それが、何時、江戸のどの町で生まれ、何歳で誰それに師事し何を習い、何歳の時に結婚し、何人子供をもうけ、何時なくなったかといった、著者の主観など全く入らない記述の累積の中から、不思議なことに、江戸後期から幕末にかけての中流士族の暮らしが、彼らが支えた江戸時代の文化レベルの高さが、鮮やかに浮かび上がってくる。

 例えば、離縁と再婚は当たり前であったこと。抽斎は生涯に4人の妻を持つ。養子、養女の習慣も広く行われていたこと。乳幼児死亡率の高かったこと。コレラが多くの人々を死なせたこと。抽斎自身もコレラでなくなる。13代将軍家定も、歌川広重(本書では安藤広重)も同じ病気でなくなった。人々は生涯にいくつもの名前を持ったこと。医者としてまた士族としての教育の実態、江戸時代の教育システム、芝居狂い、放蕩と勘当、家計のやりくり等々、興味尽きない。

 渋谷抽斎は文化2年(1805年)弘前藩の江戸屋敷付きの医師の家に生まれる。当時の習慣に従って経(儒学)、医、書(書道)を学び、18歳で父の跡を継ぐ。彼は医業のかたわら、考証学にも造詣が深く、沢山の古書を集め、『経籍訪古誌』という目録を作る。鴎外が歴史資料に当たっている際、この本のことを知り、さらに抽斎という人物に同じ医師としての興味をひき、色々調べてついに抽斎の子息、保さんを見つけ、その話に基づいて本書を書き上げた。抽斎は歴史の中に埋もれていた人物であるが、彼の交友関係は、きわめて広く、中には谷文兆といった私でも知っている文人もいる。そうした友人や師匠のことも淡々と綴られている。言わば脇道で、それが本書を読みづらくしている一因ではあるが、逆に当時の多彩な人物像が浮かび上がってくる。歌舞伎に熱中し自ら舞台に上がった人物、抽斎の二男の悪友で放蕩を尽くす人物など、それら脇役が光彩を放つ。

 抽斎は安政5年(1858年)のコレラ大流行にあって命を落とす。鴎外は以下のように抽斎の生涯を記す(p177):・・・
抽斎の生涯を回顧すれば、唯人(たれひと)もその言行一致を認めずにはいられまい。抽斎は内徳義を蓄え、外誘惑を却(しりぞ)け、恒に己の地位に安んじて、時の到るのを待っていた。

 本書の後半部は、抽斎亡き後のことで、妻の五百(いお)、娘の陸、息子の保のこと、あるいは友人たちの消息が述べられる。明治の20年頃までの世相が浮かび上がってくる。五百は気丈な大変よくできた女性で、渋江家を支えてきた。明治の世になり、60歳を過ぎてから、英語を習うような人物であった。明治17年に没する。陸は長唄の師匠となる。保は新聞記者、教師などの職業に就く。二人とも鴎外が本書を書いた大正5年には健在であった。

 初出は「東京日々新聞」などへの連載。例えば注の1ページを開けてみる。多くの人名の説明の中に、「済勝の具」「傾蓋故きが如き念」「エラルヂック」「オリアンタション」といった表現が出てくる。それぞれ「健脚」「意気投合して旧知のような親しみを覚える感情」「紋章学」「方位の標定」と注釈されている。このような文章を当時の人が読めた、あるいは読んだというのが信じられない。

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書名 知的文章とプレゼンテーション 著者 黒木登志夫 No
2011-32
発行所 中公新書 発行年 2011年4月 読了年月日 2011-07-03 記入年月日 2011-07-05

 
エッセイ教室の仲間、熊谷さんが勧めてくれた。彼女は若い頃著者の黒木登志夫さんと同じ研究所で働いていたことがあるとのこと。

「簡潔・明解・論理的」を文章作成の「知的三原則」と著者は呼ぶ。横書きで書かれた本書はその知的三原則がそのまま実践されている。著者の専門は医学。医学部の教授といえば、権威的な人だというイメージがあるが、本書からはそうしたものは感じられない。医学関係者には文学畑でも活躍する人が多いというもう一つの私の中のイメージに合う人物だ。三島や谷崎の文書読本、村上春樹、あるいは寺山修司の著作、大江健三郎の講演など、専門以外のたくさんの本に目を通している。この引用が大変面白く、科学者らしく、100を超えるそれらの引用文献が巻末に一覧されていて、その中のいくつかは読んでみたくなった。

 中身については、前半が文章作成の基本。日本語の特徴の分析が要領よくなされている。後半は理系人間向けに、学術論文、研究費申請書、講演原稿、プレゼン資料の作成など。学術論文は英語で書くことを原則とする。英語に関する叙述が本書の1/4近くを占めている。

 私も理系人間として本書に述べられたことの実践を心がけてきた。今後特に役立つことはないが、私のキャリアを振り返りつつ納得しながら読んだ。最初に書いた英文の論文、数回の外国での口頭発表、総説などのことが思い出された。

 初めてファーストオーサーとして書いた論文の一部にこんな表現をした「Our investigations are directed toward throwing light on the chemical composition of aroma of cigar tobacco. 」(我々の研究は葉巻たばこの香りの化学成分に光を当てることを目指すものである)。「throwing light on 」などと、本書の原則には反する持って回った言い方だが、初めての論文執筆の胸の高まりが伝わってくる。

 著者は3つの依存症を告白している。コンピュータがないと文章が書けない、マーカーがないと資料が読めない、パワーポイントがないと講演ができない(p144)。パワーポイントは私の現役時代には体験しなかったこと。学会発表のスライドはフィルムで作った。ただし、現役最後にたばこフィルターの売り込みのプレゼンテーションを台湾で行ったが、その際パワーポイントを使った。原稿は同僚が作ってくれたもので、私はタッチしなかった。
 著者はパソコンとインターネットをフルに使うことを勧める。全く同感だ。私もパソコンとインターネットなしでは文章は作れなくなっている。

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書名 道草 著者 夏目漱石 No
2011-33
発行所 岩波文庫 発行年 1942年 読了年月日 011-07-07 記入年月日 2011-07-15

 
先月のエッセイ教室の課題が「道草」であった。漱石に同名の作品があることを思い出し、読んだ。
 
 表紙のカバーにこの小説は「漱石に実生活に取材した自伝小説である」とあった。そのつもりで読んだ。今までに読んだ漱石の作品とはまったく違う作品。主人公健三の日常の描写に徹していて、『吾輩は猫である』のようなユーモアも、『三四郎』のようなすがすがしさも、『草枕』のような高踏的雰囲気とも無縁だ。

 健三が3歳から8歳まで育てられた養父、島田を路上で見かけるところから始まり、島田が健三に金の無心をし、その度に健三は応じ、最終的には今後かかわらないという証文で決着を見るまでの話。これを縦糸とし、横糸は健三とその妻の間の軋轢が絡む。学問という抽象世界に生きる健三と、現実の実用世界にのみ生きる妻との間には、真の心の通い合いが全くと言っていいほどない。健三と島田との関係、健三と妻との関係、あるいは健三の兄、姉、姉の夫との関係が赤裸々に語られる。私の知っている漱石からは想像できないどろどろとしたものに漱石が巻き込まれていたことに驚く。島田の姿を路上で見かけても、健三の方から声をかけることもなく、また、島田の方からも声をかけず、健三の姿をじっと見送るのみである。8歳までとはいえ、育ててくれた親に対する態度としては異常だ。妻との関係も非人間的とも思われるものだ。これが自伝だとすれば、漱石の生活の実態をつぶさに知る興味と、同時にモデルとなった養父や妻のことをこれほどあからさまに多くの場合悪し様に書いて、問題にならなかったのだろうかと思った。

 相原和邦による巻末の解説によると、漱石は健三を全面肯定する立場からは書いていないという。漱石の日記には妻に対する厳しい言葉が連ねられているのに、『道草』では健三に対する批判も同様に書かれているという。随所に健三に対する第三者の目から見た批判があることは読んでいて気づく。さらに、この小説は自伝ではなく、やはり創作であると解説は言う。驚いたのは、島田のモデルとなった養父塩原が語ったことが関という人により『道草』の完成1年半後、漱石没後2ヶ月で発表されていること。『道草』の連載中から塩原は読んでいて、事実と合うこともあるし合わないこともあると述べたという。モデルとして名誉毀損だと騒ぐことはなかったようだ。

 健三の妻は比較的新しい考えを持った女性で、夫という字がついているだけでその人物を尊敬しなければならないとは考えていなかった。それに対して健三は
 :
不思議にも学問をした健三の方はこの点においてかえって旧式であった。自分は自分のために生きて行かなければならないという主義を実現したがりながら、夫のためにのみ存在する妻を最初から仮定して憚らなかった。
「あらゆる意味から見て、妻は夫に従属すべきものだ」
二人の衝突する大根は此処にあった。

 と述べられている(p196)。漱石の実際の夫婦観であろう。そして、この文章には作者漱石自身のこの夫婦観への批判がこめられている。

 初出は大正4年(1915年)東京朝日新聞連載。

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書名 与謝蕪村 著者 萩原朔太郎 No
2011-34
発行所 岩波文庫 発行年 1988年 読了年月日 011-07-10 記入年月日 2011-07-15

 
詩人でなければ書けない、素晴らしい蕪村論であり、俳句論である。正式の表題は『郷愁の詩人 与謝蕪村』である。蕪村を「郷愁の詩人」というのは知っていたが、どこがそうなのかよくわからなかった。朔太郎によれば「一言にして言えば、それは時間の遠い彼岸に実在している、彼の魂の故郷に対する「郷愁」であり、昔々しきりに思う、子守唄の哀切な思慕であった。実にこの一つのポエジイこそ、彼の句のあらゆる表現を一貫して、読者の心に響いてくる音楽であり、詩的情感を成す実体なのだ。」(p27)。

 朔太郎は言う:
すべての天才は不遇ではない。ただ純粋の詩人だけは、その天才に正比例して、常に必ず不遇である。(p22)。
 特に蕪村はそうであった。蕪村の再発見は正岡子規による。子規とその後継者たちが確立した蕪村観は、写生主義的、印象的、技巧的、主知的、絵画的、客観的というもので、その域からでなかった。芥川龍之介も、室生犀星も蕪村の客観性よりも、芭蕉の主観的俳句を高く評価した。しかし、「
俳句のような叙情詩――俳句は叙情詩の一種であり、しかもその純粋な形式である――において、主観は常にポエジイの本質となっているのである。」と筆者は述べ、主観を持たない詩人は似非詩人だとする。そして、蕪村の俳句の客観的特色の背後に、蕪村の「主観」を見なければならない、それこそが蕪村のポエジイであると説く。

 以下、句を取り上げて朔太郎の詩論が展開される。句は私にとって初めてのものがほとんどだ。

 女倶して内裏拝まん朧月
 
春宵の悩ましく、艶めかしい朧月夜の情感が、主観の心象においてよく表現されている。「春宵怨」とも言うべき、こうしたエロチカル・センチメントを歌うことで、芭蕉は全く無為であり、末流俳句は卑俗な厭味に低落している。独り蕪村がこの点で独歩であり、多くの秀れた句を書いているのは、彼の気質が若々しく、恬淡や洒脱を本領とする一般俳人の中にあって、範疇を逸する青春性を持っていたのと、かつ卑俗に堕さない精神のロマネスクとを品性に支持していたためである。(p48)
 続いて同類の句を挙げる。

 春雨や同車の君がさざめ言
 筋かひにふとん敷たり宵の春
 誰が為に低き枕ぞ春の暮れ


 そして言う:
彼のこうした俳句は、現実の恋の実感ではなくして、要するに彼のフィロソヒイとセンチメントが、永遠に思慕し郷愁したところの、青春の日の悩みを包む感傷であり、心の求める実在の家郷への、リリックな詠嘆であったのである。(p48)

 愁ひつつ丘に登れば花茨
西洋詩に見るような詩境である」と評す。(p52)。
 近代詩と紛うばかりの青春の息吹、それを生んだ江戸時代は決して抑圧された暗い時代ではないと私は思う。

 うは風に音なき麦を枕もと
夏の日の午睡をしていると、麦の穂を渡った風が、枕許に吹き入れて来たという意であるが、表現の技巧が非常に複雑していて、情趣の深いイメージを含蓄させてる。」と述べ、そのポイントは「音なき」という語にかかっており、さらに「上風に」の「に」 と「音なき麦を」の「を」が、てにをはとしての重要な働きをしているという。さらに:俳句の如き小詩形が、一般にこうした複雑な内容を表現し得るのは、日本語の特色たるてにをはと、言語の豊富な聯想性とによるのであって、世界に類なき特異な国語の長所である。(中略)未来の如何なる「新しい詩」においても、和歌や俳句のレトリックする規範を離れて、日本の詩があり得るとは考えられない、と言う。(p50)
 ここには詩人朔太郎の決意を見る。

 百姓の生きて働く暑さ哉
 単なる写生句としてとらない方が良いという。そして:・・・
百姓のヴィジョンの中に、人間一般の姿を想念すれば好いのである。もしそうでなくて、単なる実景の写生とすれば、句の詩境が限定されて、平面的なものになってしまうし、かつ「生きて働く」という言葉の主観性が、実感的に強く響いて来ない。ついでに言うが、一般に言って写生の句は、即興詩や座興歌と同じく、芸術としての軽い境地のものである。正岡子規以来、多くの俳人や歌人たちは伝統的に写生主義を信奉しているけれども、芭蕉や蕪村の作品には、単純な写生主義の句が極めて少(甚偏に少を書く)なく、名句の中には殆どない事実を、深く反省して見るべきである。(p67) 

 最後に『春風馬堤曲』を取り上げる。俳句、漢詩、連句を用いて、藪入りに故郷に急ぐ娘のことを歌ったこの作品を、高く評価する。そして言う:
英語にスイートホームという言葉がある。(中略)蔦かずらの這う古く懐かしい家の中で、薪の燃えるストーヴの火を囲みながら、老幼男女の一家族が、祖先の画像を映す洋燈の下で、むつまじく語り合うことを言うのである。詩人蕪村の心が求め、孤独の人生に渇きあこがれて歌ったものは、まさにこのスイートホームの家郷であり、「炉辺の団欒」のイメージであった。(p98)

 付録として『芭蕉私見』という短い評論がついている。朔太郎も蕪村とともに芭蕉も好きであり、今後年齢を重ねると、芭蕉にますます引き込まれそうだという。

 衰へや歯に食ひあてし海苔の砂
 この秋は何で年よる雲に鳥
 蝙蝠も出でよ浮世の花に鳥
 秋近き心の寄るや四畳

 の句を引用し、:
こうした句の詩情しているものは、実に純粋のリリシズムであり、心の沁々とした詠嘆である。西行は純一のリリシズムを持った「詠嘆の詩人」であったが、芭蕉もまた同じような「詠嘆の詩人」である。したがって彼の句は常に主観的である。彼は自然風物の外景を叙す場合にも、常に主観の概念する詠嘆の情操が先に立っている。これ芭蕉の句が、一般に観念的と言われる理由で、この点蕪村の印象的、客観的に対してコントラストを示している。(p108)

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書名 宇宙は何でできているのか 著者 村山斉 No
2011-35
発行所 幻冬舎新書 発行年 2010年9月 読了年月日 2011-07-16 記入年月日 2011-07-17

 
黒木登志夫の『知的文章とプレゼンテーション』中でたくさん挙げられた本の一つ。黒木は本書を科学解説書の最高傑作の一つと激賞していた。
 帯には「新書大賞2011」とある。

 もう20年ほど前に、当時の理化学研究所長であった小田稔さんの講演を聞いた。X線天文学で日本の宇宙研究をリードした来た人だ。そのなかで、上を見上げると宇宙はどこまでも広がっている、反対に物質の構成を細部に探っていくと素粒子の世界に行く。そして素粒子の世界は宇宙の生成とつながるということを話された。本書もそれと同じ趣旨に添って書かれている。最初のほうに、自分のしっぽを呑み込もうとしているギリシャ神話のウロボロスの蛇の絵が出ている。かつて小田さんの言ったことをイメージ化したものだ。

 内容は相対性理論、量子論、素粒子論など、20世紀の知的偉業を駆使して宇宙の成り立ちに迫ろうというもの。そしてそれらの理論を検証するための、今世紀に入ってからの宇宙観測技術の発展や巨大加速器の出力アップによる新発見、あるいはカミオカンデによるニュートリノの検証などが紹介される。素粒子論における日本人学者の果たした役割の大きさを本書によって確認する。湯川秀樹、朝永振一郎、坂田昌一、南部陽一郎、益川・小林理論など。

 著者は東京大学数物連携宇宙研究機構という長い名前の機構の初代所長。最初の方でこの10年間の宇宙研究の進展はめざましく、天動説から地動説への転換にも相当すると述べている。注意して本書を読んだが、私にはそう思えることは書いてなかった。一つだけ、あるとすれば宇宙の膨張速度は落ちるどころか上がっているという最新の知見だ。そのために、宇宙にはまだ正体のわからない「暗黒エネルギー」が満ちているという考えだ。この発見は、前世紀の前半に発見された宇宙の膨張と、それに続くビッグバンセオリー、それを証明する宇宙背景輻射の検出に比べれば、コペルニクス的転換とはいえないと思う。宇宙は膨張し、宇宙には始まりがあったという発見こそ、コペルニクス的転換であって、膨張速度が上がっているというのは、膨張宇宙論の中での、一つの見方に過ぎないのではないか。自分の専門分野の最近の成果を過大評価するという、誰もが陥りやすい見方ではないか。

 書き方はくだけた書き方。所々にジョークを入れる。その最後に〈笑い〉と入れてある。照れ隠しなのか、読者への笑いの強制なのか、いずれにしても余り品の良いこととは思わなかった。サイエンスライターとしては福岡伸一の方がずっと上のように思う。これは、私が生物学の方により一層親近感を感じていることにもよるであろう。

本書から:
暗黒物質がなければ星も生命も生まれなかった(p195)
 著者の属する機構の研究者がコンピュータシミュレーションにより、暗黒物質が現在の宇宙の形成に果たした役割を解明したという。

2011-10-05 追記

 今年のノーベル物理学賞は宇宙の膨張速度が加速していることを発見した業績に対して与えられた。以下毎日新聞 2011-10-04のネットニュースをもとに要約。

 受賞したのは米カリフォルニア大バークリー校のソール・パールマター教授(52)、オーストラリア国立大のブライアン・シュミット特別教授(44)、米ジョンズホプキンス大のアダム・リース教授(41)の3氏。遠くにある星が寿命を迎えた時に起きる「超新星爆発」の観測から、宇宙が加速度的に膨張していることを98年に発見した。
 超新星爆発の中でも「Ia型」というタイプは、他の星と比べて明るいため、遠くまで精度よく観測できる。
 パールマター氏はこの現象を、広い視野を撮像できる口径4メートルの望遠鏡を使って観測した。その明度は、宇宙の膨張により星が遠ざかっていることを考慮に入れて理論的に予測した明度より低かった。リース氏とシュミット氏のチームも同じ現象を追いかけ、ほぼ同時に同様の結論に達した。これらの結果から、その星は予測より速く遠ざかっていることになり、宇宙が加速度的に膨張していることが裏付けられた。
 宇宙の膨張には、外向きの大きなエネルギーが必要と考えられる。「ダークエネルギー」と呼ばれるこの未知の存在を突き止める研究が、宇宙物理学の新しいテーマになっている。

 宇宙誕生時のインフレーション理論の提唱者である佐藤勝彦自然科学研究機構長はこの発見を、20世紀最大の発見の一つと評価する。
 また、高エネルギー加速器研究機構素粒子原子核研究所の小玉英雄教授(宇宙論)は「彼らの発見を説明するためにはダークエネルギーが必要なことを明らかにした」と研究の意義を説明し、「物理学での20世紀の最大の発見の一つ。新たな物理学の潮流ができ、21世紀の中心的テーマになっている」と評価した。

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書名 がん遺伝子の発見 著者 黒木登志夫 No
2011-36
発行所 中公新書 発行年 1996年3月 読了年月日 2011-07-23 記入年月日 2011-07-29

知的文章とプレゼンテーション』の著者の書いた一般向けの解説書。がん遺伝子と言うけれども、がんを伝える遺伝子というのではなく、DNA配列の中にある発がんに関係する部分と言った方がよいと著者もことわっている。

 発がんに関係する遺伝子は次の5つの役目を持っているタンパク質をコードしている。1)増殖因子、2)増殖因子レセプター、3)蛋白リン酸化酵素、4)G蛋白、5)転写因子(p81)。これらはいずれも細胞内で大きな役目を果たしているタンパクで、これらの遺伝子に変異が起こるとそのコードするタンパクの構造が変わり、発がんへと進んでゆく。

 一方、がんを抑制する遺伝子もその後発見された。代表的なものはp53。この遺伝子の変異はほとんどのがんで見られると言う。がん抑制遺伝子は本書の時点で10種類見つかっている。

 25年ほど前、築地のがんセンターにいた長尾さんに会ったことがある。環境中の変異原性物質の検出を主な仕事としていた彼女は、これからはオンコジーンの研究をやりたいと言っていた。私には「オンコジーン」という言葉は初耳で、内容はよくわからなかった。本書に述べられたのはまさにオンコジーンの発見の歴史。当時、80年代の中頃だったが、世界中で研究者が血眼になって発がんに関係する遺伝子の発見を競っていたのだ。こうした発がんに関係する遺伝子の探索発見の歴史が述べられる。研究者間の激烈な競争、発見をめぐるエピソードなどが、多くの写真入りで紹介される。研究者の写真の他にも、電気泳動結果の写真なども掲載されている。

 書き方は明解であるが、内容は高度で深い。先に読んだ『宇宙は何でできているのか』よりは読み応えがある。


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書名 第二芸術 著者 桑原武夫 No
2011-37
発行所 講談社学術文庫 発行年 昭和51年 読了年月日 2011-07-25 記入年月日 2011-07-29

 
桑原武夫の「俳句第二芸術論」のことを知ったのは、中学の国語の授業の中だった。作者を伏せて素人と大家の句をいくつか並べ、一般の人に評価してもらったら、大家の作品の方が評価が低く、俳句は作品その物の評価ではなく、作者の名前で評価されている、そのようなものは真の芸術ではなく、あえて言えば「第二芸術」というべきものである、と言うのが田村充夫先生が話してくれた桑原武夫の俳句論であった。昭和21年に発表されたものだ。

 アマゾンで調べたら、本書があった。「第二芸術」他全8編の評論が収められる。発刊は「第二芸術」論が発表されてから30年後だ。前書きで桑原武夫は近藤芳美の「第二芸術」に対するコメントを引用し、「もって瞑すべし」と書いている。近藤芳美は、「第二芸術論」を25年後に読み返してみて、「
瓦礫の街の、澄み透った空の青さ」を連想したという。そしてそれは「論議のいさぎよいまでの透明さのためである。それは戦後という、すべての澄み切った日本の歴史の短い一時期にだけしか書かれ得たものなのだろうか」と結んでいる。

 全編を読み進めていて、論議の透明性だけでなく、文章の明晰で透明なことが一番強く心を打った。読み終えて、巻末の多田道太郎の解説を読んだ。解説も近藤芳美のコメントの「
いさぎよいまでの透明さ」という言葉を読者は心に刻みつけて欲しいと強調していた。

 桑原自身は自身をプラグマティックでありたいと希求していたと前書きの冒頭で述べている。為にする論議ではなく、つねに前向きに進むべき方向を示していることはそのためであろう。また、明晰な文章はフランス文学が専攻であるからであろう。

「第二芸術」には15句の俳句が例示されている。うち10句は虚子、草田男、蛇笏、秋櫻子など、当時の俳壇の大家の句。5句に無名の俳人の句。15句を読んでみて、半分以上はぴんと来なかった。意味不明、あるいは駄作だと思った。巻末に作者が明かしてあるが、驚いたことに駄作と思った句のほとんどが大家の句であった。
 例えば虚子「防風のこ々まで砂に埋もれしと」。防風林が砂に埋もれてしまった光景だろうか。そうだとしても感慨がわいてこない句だ。無名俳人の「初蝶の吾を廻りていづこにか」の方が、鮮明で詩情がある。

「第二芸術」に対する俳壇からの反撃には、決定的なものがないようだ。虚子は俳句は第二〇芸術かと思っていたのが、第二芸術まで18階級も特進したかと、評したと前書きにはあった。第二芸術論は俳句の本質をついていると私も思う。万人に認められるような作品がほとんどないため、結社を作り、仲間内だけで主宰の意向を踏まえた評価と句作りに固まってしまうことはよいことではないが、一般の俳句愛好家にとっては第二芸術であってもかまわないと、今では思う。

「ものいいについて」という評論は、芭蕉の「ものいへば唇さむし秋の風」という有名な句をきっかけにものを言うことことの意義を考察した短い評論。p56に以下のように述べられる。桑原は芭蕉のこの句を人々が口にするときには「
後悔と自嘲とがある。ところでこの二つは、健全な人間にとっては最も憎むべきものであるはずだ。(中略)後悔しているとは停滞していることである。(中略)また自嘲は一そう排けられるべきである。自嘲は真の自己否定ではなく、あくまでも自己に閉じこもりつつひがむことである。(中略)ともかく、私はこの句を思い出すごとに、芭蕉の一部にある小ささ、というよりむしろ彼をしてかかる句を吐かしめた時代の矮小さを感じる。そして思う、こんな句の真実性がぴったりとわかるような人間がだんだん稀になってゆくのでなければ、日本の社会がよくなったとは言えぬのだろうと。

「みんなの日本語」は小泉信三の国語改革反対論に反対した評論。漢字制限、新仮名遣いなどの導入を日本の民主主義の発展のために是非必要だと主張する。プラグマティストの著者の面目がよく現れている。

 他のどの作品をとっても爽やかな読後感だ。近藤芳美が言うように、それは敗戦直後という「
澄み切った空の青さ」の時代の反映であるとともに、作者自身の人柄の爽やかさに由来するのだろう。作品への私の共感もまた、その両方に由来している。

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書名 書を捨てよ、町へ出よう 著者 寺山修司 No
2011-38
発行所 角川文庫 発行年 昭和50年初版 読了年月日 2011-08-02 記入年月日 2011-08-25

書を捨てて野に風を受く修司の忌〉と〈野の風や「書を捨てよ」と修司の忌〉をそれぞれ別々の句会に出してみた。寺山修司の「書を捨てよ、町へ出よう」という著作から思いついた句だ(修司忌は5月4日)。いずれの句会でも、「書を捨てよ」が寺山修司の本からきていることをわかってもらえなかった。そういう自分も書名だけ知っていて、読んだことはなかった。

 エッセイ、評論、詩を編集して一冊の本としたもの。「書を捨てよ、町へ出よう」というタイトルの作品はない。「私自身の詩的自叙伝」の中で、21歳、病気が快方に向かいつつあるとき「ナタナエルよ、書を捨てよ。町へ出よう」という心境が私のものになったのだ、(257p)と述べている。それに由来する。

 第1章 書を捨てよ、町へ出よう、第2章 きみもヤクザになれる、第3章 ハイティーン詩集、第4章 不良少年入門、と第3章を除き刺激的な字句が並ぶ。昭和30年代から40年代の高度成長期の世俗に対する鋭い批評、批判、あるいは反抗。一種の懐かしさをもって共感を覚えることが多い。

「オート・レーサー」にはこんな記述がある:
賭けることは、一つの思想的行為である。それは一点豪華主義とでもいったもので、サラリーマンの平均化された日常生活、バランス化された経済生活、無事平穏さの不条理、「何か面白いことはないか」と思いながら、しかし何も起こらないくりかえしの毎日に、突然訪れてくる「事件」のようなものだ。(212p)。
 私も、30代から40代にかけて競馬に熱中した。当時、寺山は報知新聞に独特の競馬予想を出していた。参考にはしなかったが、時々読んでいた。本書には「三分三十秒の賭博」というダービーを扱った作品がある。本文中もすべて3分30秒としている。ダービーの走破タイムは2分20秒台だから、これは明らかなミスだ。寺山がそんなミスをするのは考えがたいから、あるいは何かの意図があって、わざと3分30秒としているのかもしれない。

「私の詩的自叙伝」15歳のところでは以下のように述べる(251p~):
また、キャッチボールも私にとっては、ことばのかわりに球を用いる対話であった。そして、タクシードライバーと自動車修理工のキャッチボールを想像し、どんな素晴らしい会話でも、これほど凝縮したかたい手ごたえを味わうことは出来なかったであろう、と述べ、さらに、終戦後、私たちがお互いの信頼を回復したのは、どんな歴史書でも、政治家の配慮でもなくて、まさにキャッチボールのおかげだったのではないだろうか?私はキャッチボールのブームと性の解放とが、焦土の日本人に地理的救済のメソードをあたえることになったのだと思っている。

 ユニークな指摘だ。確かに私たちの若い頃にはキャッチボールをよくやった。今の美智子皇后が、婚礼を前にして、父親と自宅の庭でキャッチボールを交わしている写真が週刊誌に載ったことが遠い記憶からよみがえってきた。雲居に嫁ぐ娘と父との最大の心の交流だったのだろう。

 15歳の寺山は「
定型詩こそは厳粛な意味での本当の詩だと思っていたのである。だから私は、俳句を作っていた」(254p)
 いくつかを挙げる。

 花売車どこへ押せども母貧し
 林檎の木ゆさぶりやまず逢ひたきとき
 便所より青空見えて啄木忌


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書名 江戸の紀行文 著者 板坂耀子 No
2011-39
発行所 中公新書 発行年 2011年1月 読了年月日 2011-08-11 記入年月日 2011-08-26

 
知人の大塚さんが紹介してくれた本。大塚さんは私のホームページの読者で、最近知り合った人。

 6月の中旬、浜松から二川まで旧東海道を歩いて、帰宅してメールを開いたら、大塚さんのメールが届いていた。『江戸の紀行文』という本を読んでいたら、その中で取り上げられた紀行文を読んでみたくなり、本居宣長の吉野の桜見物を描いた「菅笠日記」を図書館から借りて読んでいるところだとあった。驚いた。私は数時間前、白須賀宿の小さな展示施設で、本居宣長の『鈴屋大人都日記』というのを見たばかりだった。これは白須賀の国学者夏目甕麿という人が、宣長の在京日記を幕末に出版したものであった。夏目甕麿と『鈴屋大人都日記』は小さな宿場町白須賀にとって、観光の目玉である。

『江戸の紀行文』は面白い本だった。歌枕を訪ね、個人の感慨にふける『奥の細道』は江戸の紀行文としては、例外的なものであって、もっと風物の詳細な記述あるいは、旅の便宜を図るためのガイドブック的なものが主流であるとする。それは、江戸社会の安定を反映するもので、人々の旅への関心が高まり、それに応えてガイドブック的な紀行文がたくさん出された。

 著者は前書きで言う:
 
この本で、私が読者に伝えたいことは、次の三つである。
(1)江戸時代の紀行は面白い。
(2)その面白さを理解するには「豊かな情報」「前向きな旅人像」「正確で明快な記述」という、新しい評価基準で紀行を見直す必要がある。
(3)江戸時代の紀行の代表作は松尾芭蕉の『奥の細道』ではなく、初期の貝原益軒の『木曽路記』と中期の橘南𧮾の『東西遊記』、後期の小津久足の『陸奥日記』である。


 以上3編のほかに、個別に取り上げられた紀行は、林羅山『丙辰紀行』、石出吉深『所歴日記』。本居宣長『菅笠日記』、古川古松軒『東遊雑記』、土屋斐子『和泉日記』である。

 浜松から白須賀への途中には浜名湖がある。舞阪から新居に至る浜名湖のいわゆる今切について、林羅山は、昔ホラ貝が山からたくさん出て、浜名湖を海と続けてしまったという伝説を紹介している。この伝説は、貝原益軒も、橘南𧮾も長々と紹介しているという(p34)。なお、浜名湖が舞阪と新居の間の陸地が切れて、海とつながったのは1498年の地震による。

 貝原益軒については次のように言う:
彼は対人関係においては、傲慢と紙一重の諦観と忍従を常に心がけている。(中略)彼にとって読書と旅行は、他者との交流のための話題作りや機会作りではない。孤独な時間に最も実現しやすい、ひたすらに心を乱されず穏やかな心境を保つことが、彼の求めた幸福だった(p92~)。

 島崎藤村の『夜明け前』の「木曽路はすべて山の中である」で始まる冒頭の部分は、貝原益軒の『木曽路記』から借用されたものであると、横山正治、安斉達雄著『中山道を歩く 下』に記されている。貝原益軒といえば『養生訓』が有名だが、紀行文も表していたのだ。

 明晰で平明、かつ雅文の格調を損なわないで書かれた本居宣長の『菅笠日記』を次のように評す:
益軒によって、従来の個人の心情によりかかる感傷的な日記文学から厳しく切り離された紀行文学は、宣長の手で再び、文体も内容も、益軒が生み出した力強さや多様さをとりいれつつ、一人の個人の内面を描く日記文学と合体し、新しい時代の紀行文学として生まれか変わったのである。(p147)

 東海道紀行には名作がないという。それは、東海道が古くから発展した街道で、古典文学にまつわる名所が多く残っている一方で、庶民の旅も発展させ、食い気と色気に満ちた卑俗きわまりない街道であったからだとする。この両者をバランスよく作品に反映させることが難しい。益軒を初め多くの紀行作家が東海道については名作を残せなかった。そんな中で、紀行文ではないが、十返舎一九の『東海道中膝栗毛』は、すっぱりと割り切り、俗に徹するという点で、新基軸を開くものであった。(p252)

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書名 日本近代詩鑑賞 明治編 著者 吉田精一 No
2011-40
発行所 新潮文庫 発行年 昭和28年 読了年月日 2011-08-16 記入年月日 2011-08-27

 
先月のエッセイ教室の課題が「詩」であった。講師の下重暁子さんは、震災後の今、特に詩の言葉が一番の慰めになるという。私は教室には「俳句入門」という作品を提出した。目下の関心事であり、書きやすかったからだが、詩と言えば、高校時代に読んだ本書のこと、あるいは吉川幸次郎「新唐詩選」のことが頭に浮かんだ。アマゾンで調べたらあったので取り寄せた。黄ばんだ古本である。

 読み直してみて、名著であると思う。西洋の詩から、和歌、俳句に至る作者の広く深い学識に裏打ちされている。

 明治編に取り上げられているのは、島崎藤村、土井晩翠、与謝野鉄幹、薄田泣菫、上田敏、蒲原有明、石川啄木、北原白秋、三木露風である。各詩人の文学史的意味が、当時の文壇、詩壇のみならず、社会的背景の中で明らかにされ、業績、作品評価がされ、取り上げた各詩人の代表作品が解説される。

 本書に収められた詩のほとんどが文語体であり、また難解な漢字を使っているのが多いので、取っつきにくい。中ではなんと言っても藤村の詩が親しみやすく、響きがいい。日本近代詩の嚆矢をなすものとして高く評価されている。

 私が本書を読んだのはもう50年以上も前の、高校時代であった。教科書に載った藤村や、高村光太郎、荻原朔太郎の詩を知り、興味を持ったのだ。あるいは、文学好きの学友から高村光太郎の『智恵子抄』のことなどを吹き込まれたのがきっかけかもしれない。当時私が本書を読んでいるのを知った父は、詩など非実用的なものに興味を持つ私を心配した。そんな父に反感を抱きながら、抒情詩などという軟弱なものを読む後ろめたさも感じていた。

「千曲川旅情の歌」などの藤村の詩以外に、私の記憶に残った詩のフレーズは、薄田泣菫の「ああ大和にしあらましかば」の中の冒頭の一行と、それに続く断片的ないくつかのフレーズである。「
ああ、大和にしあらましかば/いま神無月/うす葉散り透く神無備の森の小路を・・・・」。鉄幹や晩翠の詩は記憶に残らなかったのに、なぜこの詩が、残ったのか、わからない。今読み返してみて、響きの良さを感じる。調べのいいと言うことが、詩にとって必須である。これは短歌にも、俳句にも言える。著者は泣菫の詩集「白羊宮」を日本近代詩の中で最も完成した姿を保つものであると評価する。

 上田敏が取り上げられている。彼の訳詩集『海潮音』が出て、日本の近代詩風は一変したといって過言でないと、著者は言う(p120)。後世に与えた影響の大きさだけでなく、その訳詩があまりにも完成された日本語で、創作に近いことも取り上げられた理由だろう。

 著者は芭蕉を高く評価する。我が国の象徴詩として芭蕉の俳句は最も価値の高いものである(p175)という。また、三木露風は詩人として最も芭蕉を尊び、その詩境はフランス近代詩の詩人よりも高いとした、という(p258)。また、蕪村の〈色も香もうしろ姿や彌生尽〉を、近代象徴詩の高級なものにも匹敵すると述べている(p272)。なお、岩波文庫版蕪村集にはこの句は収載されていない。


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書名 日本近代詩鑑賞 大正編 著者 吉田精一 No
2011-41
発行所 創拓社 発行年 1990年 読了年月日 2011-08-19 記入年月日 2011-08-27

 明治編に続く、大正編。手にしたのは2年くらい前になるだろう。こちらは出版社が違い、ハードカバーで1990年に新潮文庫版をそっくり再版したもの。(ただし、旧仮名遣いと旧漢字は、新仮名、新字体に改められている。)多分、昔読んだこの本を読んでみたいと思い、アマゾンで調べて、とりあえず大正編を買ったのだ。私の記憶では、大正編に取り上げられた詩は親しみが持てるものが多かった。それで、大正編をまず手にしたのだろう。取り上げられた詩人は、木下杢太郎、高村光太郎、室生犀星、萩原朔太郎、日夏耿之介、西条八十、芥川龍之介、佐藤春夫、佐藤惣之助である。

 昔読んだときは光太郎、犀星、春夫の詩が心に残った。朔太郎の詩はあまり印象には残らなかった。

 高村光太郎を、詩人中の詩人であり、今もなお詩壇の最高存在であるとされるのは当然であるとして、以下のように述べる:
彼はいわゆる抒情詩人ではない。この意味では彼以前の一流詩人と全くことなる。和歌に出発し、漢詩の流れを汲む、藤村や晩翠、鉄幹のような詩人ではない。観念の情緒化を企てる、泣菫や有明ともちがう。はやりすたりのある趣味や風俗に詩を見出す、杢太郎や白秋のような、風俗詩人でも即興詩人でもない。そういう、いわば情緒的な追求を彼は事としないのだ。理性と意志とに根を据えた、思想的な詩人で彼はある。思想的というのは、抽象的に思想をうたうというのではなく、広大な自然―社会に対する自然、というよりは、その両者を包摂する意味での―の真実に直接面接し、そこに詩を感じる詩人なのである。(p45)

 例えば、「
僕の前に道はない/ぼくの後ろに道は出来る」で始まる「道程」など、光太郎の詩は、高校時代の私が最も好きな詩であった。そこには頽廃のにおいも、官能の危うい揺らめきもない。少しの後ろめたさを感じることなく読むことが出来た。

 朔太郎では「猫」と「小出新道」が詳しく解説されている。鋭い感覚の良い詩だ。著者は言う:
文学としての詩は、その中に「歌詞」と「旋律」とを総合的にもたねばならない。詩に於ける音楽とは言葉の所属するあらゆる要素(語調、気分、連想、色彩、想念)を溶かしこんだシムフォニイである。朔太郎の詩作態度の根本は、この要素の音楽性の尊重、いいかえれば音楽的なものの中に、情緒を塗りこむことにあったのである。(p158)
 あるいは言う:
詩は明治時代に於いて時々風流閑雅な余裕の産物という匂いは全くは失わなかった。朔太郎に於いては、詩に生死を賭し、おのれのすべてをかけたのであって、余裕や風流とは縁はなかった。その思想性を社会的環境に結びつけて観察すれば、近代社会の建設を急ぎながら、結局近代の真の実現を見なかった大正時代に於ける焦燥不満から生まれた、懐疑的、虚無的な思潮の一面が、朔太郎の詩にきわめて先鋭に表白されていることは、疑うべくもないのである。

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書名 近代詩鑑賞 昭和編 著者 吉田精一 No
2011-42
発行所 新潮文庫 発行年 昭和29年 読了年月日 2011-08-24 記入年月日 2011-08-27

 
昭和編。宮沢賢治、堀口大学、三好達治、中野重治、壺井繁治、金子光晴、草野心平、中原中也、立原道造、峠三吉を取り上げる。

 本書の巻頭にある宮沢賢治の「永訣の朝」と、最後にある峠三吉の「仮包帯所にて」が心を打つ。前者は死にゆく妹を歌ったもの、後者は、原爆被爆直後の悲惨を歌ったもの。昔読んだときには三好達治の「甃のうへ」や中野重治の「歌」などが心に残って、賢治と三吉の詩は印象に残らなかった。

 宮沢賢治については、「
独特の語彙と感覚には、泉鏡花しかもたなかった天才的なものがある」と述べ(p33)、さらに「雨ニモマケズ」を「賢治が仏教に深く没入し帰依することによって得た諦観に立脚するものであって、且つ又賢治自身が、ことに晩年の彼が至りついた境地でもあった。凡人の無私の誠実、それをこそ彼は大乗的な至極の場所と考えたのである。」(p34)

 本シリーズを通して明治から、昭和の終戦直後までの詩人が取り上げられている。そのほとんどは私も耳にした詩人だ。しかし、このシリーズに取り上げられた以降の詩人というのを私はほとんど知らない。日本近代詩が人々の口にあがったのはほぼ戦前までだったのではないか。詩が人々の口に上らなくなったのは、歌謡曲の隆盛によるのではないかと思った。本書では歌謡曲については全く触れられていない。歌謡と詩とは厳然たる別のものとして区別している。堀口大学の詩の解説の中に「
白秋の詩の最もよいものが、往々にして歌謡たりながらも詩の最後の一線に踏み止まった、危い綱渡り的作品に於いて見いだされる」という記述がある(p52)。

 酒と女と涙を歌った戦前から続く演歌はあまりにも画一的で取るに足らないと思うが、フォークソング以降の歌謡曲には、詩として文学的な価値が十分にあると思う。例えば、井上陽水のレリックなど、私は高く評価するが、吉田精一ならどう評価しただろうか。


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書名 ローマ人の物語 ローマ世界の終焉 上中下 著者 塩野七生 No
2011-43
発行所 新潮文庫 発行年 平成23年9月1日 読了年月日 2011-09-04 記入年月日 2011-09-05

 
全15巻、文庫本で43冊になる『ローマ人の物語』の最終巻。395年のテオドシウスの死から、476年の西ローマ帝国の滅亡を経て、565年の東ローマ皇帝ユスティニアヌスの死までが述べられる。

 塩野七生は本書執筆の動機を、ローマ史といえば、ギボンの『ローマ帝国衰亡史』に代表される「衰亡」ばかりが取り上げられているという現状に、疑問をいたいたことだという。衰亡があるなら、興隆期があるはずだ。建国以後の共和制時代を高度成長期であるとすれば、元首制帝政時代は安定成長期であった。共和制時代は、フランス革命後の影響もあって、よく取り上げられ、研究されているが、元首制による帝政時代については、不当に取り上げられることが少ないことが、執筆に駆り立てたという(下巻 220p以下)。

 ローマ史を通して最もなじみ深く感じるのは共和制代末期から、帝政時代の最盛期へかけてのであり、衰亡期のローマ史にはなじみがなかった。だから、塩野のこの文章は意外だった。カエサル、ブルータス、アントニウス、クレオパトラ、アウグストゥスはもちろんだが、ネロ、カリグラなどの悪帝の時代、あるいは五賢帝時代は歴史書のみならず、文学作品や、映画などに取り上げられるのが多いからだろう。本巻の登場人物で、私が知っていたのは、オドアケル、ユスティニアヌス、アッティラ、アウグスティヌスである。西ローマ帝国の滅亡にいたる詳しい経過は、本書により初めて知った。様々な蛮族が入り乱れて、ローマ帝国をおそってくるので複雑な形相を呈し、すっきりとは頭に入らない経過だ。

 テオドシウスの死んだ後、その息子が帝位を継ぐ。長男のアルカディウスが東を、次男のホノリウスは西を。この時点でローマ帝国の東西分離が決定的となる。上巻の主役は、ホノリウスを助けて、蛮族と戦った将軍スティリコ。彼の父はヴァンダル族、母はローマ人という血をもつ。彼が主として戦った相手は、アラリックに率いられた西ゴート族。東ローマ帝国を荒らしたアラリックは東ローマ皇帝より、今のバルカン地方の一部であるイリリクム地方の司令官に任命されているのだ。スティリコの血筋といい、アラリックの処遇といい、ローマの蛮族化がかなり進んでいることを示している。そのアラリックが、兵を率いて北イタリアを目指す。このあたりの事情がよく理解できない。スティリコの奮戦で、ローマは侵入を免れる。塩野は、カエサル、アウグストゥスとを引き合いにまで出して、この人物を賞賛し「最後のローマ人」とする。スティリコはしかし、ホノリウスから疎まれるようになる。皇帝に反旗を翻すことは出来たスティリコではあったが、それはローマ人としての彼の誇りが許さなかった。その頃は防御上の理由からローマからラベンナに移っていた皇帝の呼び出された彼は、そこで死刑を宣告され、斬首される。おまけに、記録抹殺の刑まで課されたために、彼の像も小さなものが一つしか残らなかった。槍と盾を手にしたそのレリーフが上巻の冒頭にある。端正で、知的で、像を見ただけで私も惚れ込んでしまった。

 スティリコの死の2年後、410年、アラリック率いる西ゴート族がローマに侵入し、5日間の「ローマ劫掠」が行われ、ローマは壊滅的打撃を受ける。
 しかし、415年西ローマ帝国は、西ゴート族と同盟を結び、ガリア西部がその居留地として認められる。西ゴート族はこの時点ではすでに、キリスト教のアリウス派に改宗している。

 422年、ホノリウスが死去する。彼には子供がいなかった。帝位を継いだのは、ホノリウスの晩年、1年間共同帝位にあったコンスタンティウスⅢ世の息子、ヴァレンティニアスⅢ世である。実権は母のガッラ・プラチディアが握る。プラチディアはボニファティウスを将軍に命じ、当時のローマの食料庫である北アフリカに派遣する。しかし、ボニファティウスはそこにとどまり、本国に帰還しない。その討伐に、ゴート族を中心とする部隊を派遣する。一方、ボニファティウスは、ヴァンダル族に援軍を求める。今のスペインにいたヴァンダル族は、ゲンセリックに率いられて、ジブラルタルを越え、北アフリカにやってくる。こうなると何が何だかわからない。すでにローマ帝国は滅んでいて、形骸だけが残っているようだ。ボニファティウスは今度は討伐軍を懐柔し、ゲンセリックに立ち向かうが、敗れてイタリアに逃げる。この年、430年、後にカトリックの聖人に列せられるアウグスティヌスが北アフリカで没している。

 ヴァンダル族は439年にカルタゴを落とし、442年にはローマとの講和により北アフリカの領有が正式に認められる。ヴァンダル族もキリスト教アリウス派である。彼らは正統カトリック派と違って、異端に対しては寛大であると、塩野は機会あるごとに述べる。カトリックの異端に対する厳しい態度が、いろいろな面でマイナスに働いたという記述もよく出てくる。もっと言えば、キリスト教がローマ帝国滅亡の一因であったような書きぶりが、この巻でも通底にある。

 イタリアに帰ったボニファティウスは、ガリアの司令官に任じられていたアエティウスと戦って敗れる。この432年以後、ローマを実質的に支えたのは、アエティウスである。現在のブルガリアで生まれた彼の父は、騎兵団長だった。当時のローマの高官は蛮族との接触が多く、講和、休戦に際して人質を交換していた。アエティウスもその一人で、最初西ゴート族のアラリックのもとに、ついで蛮族も蛮族として恐れるフン族のもとに10年もいたという経歴の持ち主だ。帰って後は軍でたたき上げて出世した。

 アッティラ率いるフン族は北イタリアに侵入し、そこを蹂躙していた。アエティウスは満を持してアッティラをシャンパーニュに迎え撃ち、破っている(451年)。453年にはアッティラが死に、フン族は霧散してしまう。しかし、翌年、アエティウスは皇帝ヴァレンティニアスⅢ世の剣で刺し殺されてしまう。息子の嫁に皇帝の娘をほしいと言って、皇帝を逆上させたのが直接の原因だ。そして、その翌年455年ヴァレンティニアスⅢ世は閲兵中、軍列から離れて突進してきた2人の兵士に刺されて殺される。同じ年にアフリカのヴァンダル族がローマに押し寄せ、恐怖に震えたローマ側はシステマティックな劫掠を許す。塩野はヴァンダル族の首領、ゲンセリックを指導者として高く評価している。

 この後滅亡までの20年間で実に9人もの皇帝が立つ。その多くは殺害されている。

 最後の皇帝の名は皮肉にもロムルス・アウグストゥス、建国の父と、初代皇帝の名前を持つ。彼の父オレステスは、当時宰相といった地位にいた人物。その経歴は、難民となるよりは侵攻者の側に加わる道を選び、アッティラの軍に加わり、ローマと戦い、その後、ローマ軍に潜り込み、頭角を現し、宰相といった地位になった。自分は帝位につかず、15歳の息子をつけた。ところが、これにローマ軍で働く蛮族の将軍たちが反対した。戦いに敗れたオレステスは殺される。宮廷のあるラベンナに入ったオドアケルによりロムルス・アウグストゥスは廃位される。オドアケルは寛大で、ロムルス・アウグストゥスは年金を与えられ無事に生をまっとうしたようだ。

 こうして大殺戮も、首都の炎上もなく、あっけないほどの終わり方で、ローマ帝国は滅亡する。 

 下巻では、その後のローマと周辺諸国のことが述べられる。

 西ローマ帝国に関しては、ローマ王を名乗ったオドアケルの治下、平穏な時代が訪れる。オドアケルの素性についてはどこの蛮族かも不明だという。西ローマ帝国滅亡の年、東ゴート族ではテオドリックが族長につく。489年、東ゴート族は北イタリアに侵入。493年、オドアケルとテオドリックの間に講和が結ばれるが、オドアケルは謀殺される。こうして、西ローマは東ゴート族の支配下に置かれる。しかし、オドアケル時代とともに、テオドリックの支配したローマには、パクス・バルガリカ(蛮族による平和)がもたらされる。オドアケルもテオドリックもローマ人との共生を選び、また、宗教に関しても寛容であった。

 527年、東では後に大帝と呼ばれるユスティニアヌスが即位する。ユスティニアヌスは部下のベリサリウスに西ローマ帝国の領土再複を命じる。533年、ベルサリウスは、カルタゴに入城し、ヴァンダル王国滅亡。その後ベルサリウスはイタリアに向かい、ゴート族と戦う。ゴート族がイタリアから一掃されたのは553年である。565年、ベルサリウスとユスティニアヌスが死去。568年、イタリアは、南下してきたロンバルド族の手中におちる。698年、カルタゴがイスラムに陥落。この時点では、エジプトも、シリアもすでにイスラム化していた。1453年、コンスタンチノープルが陥落し、東ローマ帝国滅亡。

 著者は言う:
ローマ世界は、地中海が「内海(マーレ・インテルヌム)」でなくなったときに消滅したのである。(下巻217p)
 それに続けて、地中海がサラセンの海賊の海になり、十字軍の兵士の向かう海になり、さらにイスラム世界との交易に向かうイタリア海洋都市国家の船の行きあう海になり、古代復興と人間の復権を旗印にしたルネッサンス時代の海になったと述べる。そして、長大な『ローマ人の物語』の最後を以下のように結ぶ:

盛者は必衰だが、「諸行」(res gestae)もまた無常であるからであろう。
これが歴史の理ならば、後世のわれわれも、襟を正してそれを見送るのが、人々の営々たる努力のつみ重ねでもある歴史への、礼儀ではないかと思っている。
(下巻218p)

 塩野七生さんにはお疲れさまと言いたい。

 塩野七生さんは私の高校同期生。同じく同期の池田隆さんがその著『ピースボート地球一周の航海記』を塩野さんに送呈した。昨年の秋、池田さんにあったとき、塩野さんから手紙が来たといって見せてくれた。肉筆の心のこもった長文の手紙であった。池田さんはその著で、核廃絶を訴えた。塩野さんの考えからすればそんのものは非現実的な夢物語だと、一笑に付すかと思った。しかし、同期生への遠慮か、そうしたことは書いてなかった。やんわりとオバマ大統領も核廃絶を打ち出したが、大変困難な道だろうと書いてあった。

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書名 佐倉惣五郎 著者 児玉幸多 No
2011-44
発行所 吉川弘文館 発行年 1958年 読了年月日 2011-09-10 記入年月日 2011-09-16

 
以前から行ってみたいと思っていた佐倉の国立歴史民族博物館へ行った。そこの売店で本書を見つけた。佐倉行きには、国立歴史民族博物館の他にも、佐倉惣五郎のを祀る神社もあって、惣五郎についても知ることが出来るだろうと期待があった。しかし、佐倉駅前でもらった観光マップには佐倉城址、武家屋敷はあったが佐倉惣五郎関連と思われるものはなかった。幕末に対米交渉に当たった老中堀田睦正を出すほどの名門、堀田氏に遠慮して、佐倉惣五郎のことは触れないのかと思った。本書を読んでみて、そうではないことがわかった。彼を祀ってあるのは、成田の東勝寺であった。

 私は惣五郎は、百姓一揆の先頭に立ち、むしろ旗を立てて城下に押しかけ、それで磔にされた義民だと思っていた。本書によれば、後の義民伝説のみが異常に肥大していった人物で、そもそも惣五郎は実在しなかったと言う歴史学者もあるほど、その人物像と、行動を裏付ける資料が乏しいという。江戸時代に各地で起こった百姓一揆で、その経過の記録が残っているものはほとんどないと本書は言う。そういえば、国立歴史民族博物館に、唯一残っている百姓一揆の絵巻というのが展示されてあった。

 一般に知られている惣五郎は、領主堀田正信の悪政で、重い年貢を課せられ百姓が苦しむのを見て、江戸で将軍に直訴を企て、その結果幕府は佐倉藩に年貢を元に戻すよう申し渡したが、直訴は厳禁でありそのために夫婦は磔にされ、男子4人も処刑された。その祟りで、堀田正信は改易に追い込まれ、ずっと後に復活した堀田氏が、惣五郎を祀ったというものだ。

 著者は惣五郎に関するする資料を綿密に考証し、過去帳などから彼が実在の人物であることを明らかにし、その生涯を追う。その過程が本書の魅力だ。著名な歴史学者である著者の手法は実証的で手堅い。

 伝えられるような事跡を直接証明する資料は極めて乏しい。そこで著者は、第2の手段として、間接的な資料を検討する。それは例えば、当時の佐倉藩の年貢率の推移を算出すると言うものだ。著者は、同様に義民とされている磔茂左右衛門について同じような手法を用いた実績がある。茂左右衛門も惣五郎と同じように、直接の資料は極めて少なく、実態がわからない。しかし、当時の上州沼田藩の年貢率の推移を調べ、突然、かなりの率で引き上げられたことを明らかにする。それをもとに、茂左右衛門という人物が実際に存在しただろうと結論づける。それを、佐倉藩にも適用したわけだ。検地、年貢率については藩としての正式な記録があるから、それを追っていく。そして出された結論は、正信の時代に確かに年貢は上がったが、その率はたかだか2分で、伝えられるような2割という高率ではなかったという。さらに、幕府側の記録にもあたり、直訴が本当にあったかどうかは疑問であったとする。惣五郎一家が処刑されたことは間違いないが、どんな罪であったかは不明とする。ただ、佐倉藩の記録に、同じ頃百姓が城の門に押しかけて騒いだという記録があるから、惣五郎もその中にいたかもしれないという。その処罰が不当に重く、かつ当時の農民が藩政への不満を漠然として持っていたので、惣五郎に対する同情が生まれ、さらに藩主一家に不幸が続いたのを、惣五郎の祟りとした。惣五郎が処刑された年にも色々説があるが、承応2年、1653年としている。江戸時代も早い時期だ。2年前に将軍家光が亡くなり、堀田正信の父、正盛は殉死している。

 延享3年(1746年)、堀田正亮が佐倉藩主として、出羽山形から移封してくる。正亮は口の明神を造営し、惣五郎の100年祭を行った。これ以後、義民伝説が定着して、各種の物語が作られたと、著者は言う。

 本書は「人物叢書」シリーズの1巻である。通巻250巻達成と、本書の帯にはある。私は通俗的な伝記シリーズかと思っていたが、少なくとも本書に限っては、大変いい本であると思った。いくつかは読んでみたい。

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書名 新唐詩選 著者 吉川幸次郎・三好達治 No
2011-45
発行所 岩波新書 発行年 1952年8月 読了年月日 2011-09-20 記入年月日 2011-10-01

日本近代詩鑑賞』とともに高校時代に読んだのが本書とその続編。ついでに読んでみたくなった。アマゾンで取り寄せた。2011年6月第93刷発行である。根強い人気がある本だ。前半は吉川幸次郎による解説。杜甫、李白、王維、孟浩然ら7人の詩人が取り上げあれれるが、記述は前3者がほとんどをしめる。

 50首以上の漢詩が取り上げられ、原文とその下に読み下しがついている。最初原文を読みそれから読み下しを読んでいたが、途中からは読み下しだけしか読まなかった。戦前までの人々は漢文を素読したと言うが、私にはとても出来ない。

 高校時代の記憶では、自然の風景の中に自らも溶け込んでいる王維の詩に魅力を感じた。それは漱石の『草枕』を読んだ影響だったろう。今読み返してみて、杜甫、李白、王維の中では、李白が面白いと思った。著者も言うように李白の人柄には「相当の色好みで、酒ばかり飲んでいる無頼漢」という印象がつきまとうので、生真面目な高校生であった私は敬遠したのだ。今では、そうした人物の作る詩の方に心ひかれる。奔放無頼な生活を送りながらも、李白には正しい詩の復活という高い目標があったと著者は言う(p114)。

 最初に取り上げられているのは「絶句二首」と題する杜甫の短詩。

 江碧鳥逾白   江は碧にして鳥は逾よ白く
 山青花欲燃   山は青くして花は燃えんと欲す
 今春看又過   今の春も看のあたりに又過ぐ
 何日是帰年   何の日か是れ帰る年ぞ


 この詩には漢詩に常に現れる有力な感情が流れているという。一つは推移の感覚であり、人間の生命も刻々と老いに近づいて行く。悲哀の詩も、歓楽の詩もそこから生まれる。もう一つは人間の不完全さに対して、自然は完全であるとする感情である。(p7)

 後半は三好達治による解説。詩人としてみた漢詩の特徴が述べられている。
 三好は表面の字面上の美観というものも一つの価値であるという(p180)。また中国の詩には大きな空間、長大な距離感が歌い込められたものが多い。十中八九の詩がそういう茫洋とした天地の寂寥観とつながっているという(p206)。

 さらに、漢詩は恋愛、肉親愛、親子愛などはリリシスムの格好の対象とはならず、唯一友愛のみがその対象となった。ために、送別、訪問、贈答、遭逢などの詩が多い(p230)。

 結びの数頁は難解な文章だが、私なりに解釈する。唐詩の表現が具体的形象に頼るのは、漢字が象形文字であるからだ。それがリリシスムを担うので、漢詩には西洋近代の象徴詩に通じるものがある。しかし、漢詩の対象範囲は狭く、多くの作品が似たり寄ったりのものである。僅少な文字の後ろに無限大の意力を背負っているから、読者に微妙な共感を要求する。あるいは読者に微妙な精神的高揚を要求する。狭い対象の中で、洗練と掘り下げが行われていった。友情世界を歌うことにおいて、唐詩はこの地上の最高の位置を占める、美の不朽の財産として万人に愛読されるだろう(p330~333)。


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書名 新唐詩選続編 著者 吉川幸次郎、桑原武雄 No
2011-46
発行所 岩波新書 発行年 1954年9月 読了年月日 2011-09-30 記入年月日 2011-10-01

 
前編で三好達治は唐詩には恋愛を対象とすることは少ないと述べたが、白楽天と韓愈を取り上げるこの続編の冒頭は「長恨歌」である。

 玄宗皇帝と楊貴妃の悲恋を歌ったこの長編詩は、「漢皇重色思傾国」(漢皇色を重んじて傾国を思う)で始まる。いきなり「色を重んじ」である。高校生の私には強烈であった。

春寒賜浴華清池 温泉水滑洗凝脂 侍児扶起嬌無力」(春寒くして浴を賜う華清の池 温泉の水は滑らかにして凝脂に洗ぐ 侍児扶け起こせば嬌として力無し)。

 この強烈なエロチシズムには、私の読むべき本ではないとさえ思った。それでいながら、何回も何回も読み下しを読み、かなりの部分を暗唱すらした。しかし、今でもこの長編詩の中で記憶に残っているのは冒頭の一行と、この場面、そして終わりに出てくる「天に在りては願わくは作らん比翼の鳥 地に在りては願わくは為らん連理の枝」という有名なくだりだけだ。

 白楽天の詩は全体として親しみやすい。白氏文集として平安貴族の昔から愛され、日本の文学に多大の影響を与えたのは、杜甫でも李白でもなく白楽天だという。吉川は前二者が大きな情熱の詩人であるとすれば、白楽天は大きな愛情の詩人であるという(p6)。

 白楽天自身の恋愛を歌ったと思われる詩もある。佳き人と別れたときに贈られた鏡を、年を経て箱から取り出して、自分の姿を見た。そこに見たのはやつれ果てた自分の顔であった(p110)。また、老いを肯定する詩もある。「覧鏡喜老」という詩に以下のようなフレーズがある(p126):

 生若不足恋  生を若(もし)恋うに足らずとせば
 老亦何足悲  老いも亦た何ぞ悲しむに足らん
 生若苟可恋  生を若(もし)苟くも恋う可しとせば
 老即生多時  老いとは即ち生きて時多きなり
 不老即須夭  老いざれば即ち須べからく夭すべく
 不夭即須衰  夭せざれば即ち須べからく衰うべし
 晩衰勝早夭  晩(おそく)衰うるは早く夭するよりも勝る
 此理決不疑  此の理は決して疑わしからず


 私も段々こんな心境に達しつつある。白楽天は75才という長寿をまっとうした。

 白楽天の自身は「長恨歌」よりも「新楽府」(しんがふ)という詩編に収められた50首の方をこそ読んでほしいと思っていた。これは、世相や政治に対する風刺の詩である。戦争、貧困、官吏の横暴、貴族の贅沢、重税などに対する白楽天の怒りが表明される。

 後半は桑原武雄による唐詩評論。桑原は白楽天の社会風刺詩を取り上げ、賞賛する。このような詩は、白楽天がそれを作った9世紀までの西欧世界にも乏しく、日本に至っては太古以来明治に至るまで、山上憶良の『貧窮問答歌』以外ないと嘆いている(p229)。また、237ページでは以下のように言う:
 
時代が下がって、宮廷人以外の中流から、西行、芭蕉などの詩人が出て、やがてそれが日本詩歌の主流となるのだが、この主流派はすべて世捨人を標榜した。世捨人が社会のことをうれえて詩をつくる筈はない。中国の詩人が多く官僚であり、官僚たるかぎりにおいて社会に関心をもたねなならぬタテマエであったのと正に対比的である。
 言われてみれば、杜甫、李白、白楽天、韓愈、皆官僚であった。


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書名 徒然草 著者 吉田兼好、西尾実・安良岡康作 校注 No
2011-47
発行所 岩波文庫 発行年 2007年 読了年月日 2011-10-17 記入年月日 2011-10-18

 
エッセイを書くものとして、読まねばならぬと思っていたが、巻末の解説をいれ、430ページ余りのボリュームに腰が引けていた。実際には各段の解説が本文とほぼ同じボリュームで、その上全243段の一つ一つは短いので、読み出したら、思った以上にすらすらと読めた。解説が詳しい。スペースとしては本文とほぼ同じだが、活字がずっと小さいから、字数にすれば倍近いだろう。古文の解説のみならず、登場する人物の解説が詳細であり、さらに各種のテキストを考察して、随所に訂正を加えている。背後に校注者の膨大な研究の蓄積を感じる。正式には『新訂 徒然草』となっている。

 高校の古文で習った中で、「つれづれなるままに」の序段以外に覚えているのは、鼎をかぶりそれが抜けなくなった仁和寺の法師の話(53段)と、木に登っていた人に、地上近くに降りてきたとき、初めて気をつけよと注意したという「高名の木登り」(193段)である。前者は当時の世相の活写、後者は人生訓。この二つの流れは随所に出てきて、それぞれ皆面白い。兼好がその知識を披瀝した有職故実に関する段もかなりあるが、これは一般読者には退屈だ。

 人生訓は、仏教的無常観を背景に、静謐な人生、つまり兼好自身が晩年を送った隠者の生活を理想とする観点から述べられている。仏教、儒教、源氏物語や枕草子、勅撰和歌集などへの造詣が深い。「
命長ければ恥多し。長くとも、四十に足らぬほどにて死なんこそ、めやすかるべけれ」(7段)と説いているが、兼好自身は長生きしたようだ。また、「妻といふものこそ、男の持つまじきものなれ」(190段)と勧めているように、自身は独身だった。兼好の生年も没年も不明だという。天皇や上皇の御前でのエピソードも出てきて、兼好がかなりの高位にあったことをうかがわせるにしては、生涯がよくわからないというのが不思議だ。

 人々のエピソードを綴ったものは、平安時代の初め頃から、兼好の生きた南北朝時代まで、多数の人物が登場する。高位の公家が多いが、義経や静御前とその母などにも言及されている。面白いのは同時代のエピソード。思わず吹き出してしまう。

 鼎の法師と同じ仁和寺の法師、老齢まで参拝したことのなかった石清水八幡宮へ発起して参拝した。帰ってきて、他の人は山の方へ登っていったが、私は山に登るのが目的ではなかったから、参拝を済ませて帰ってきたと話す。法師が参拝したのは山の上にある石清水八幡宮の手前の寺社だったのだ。この52段の最後は「
少しのことにも、先達はあらまほしき事なり」という教訓で結ばれる。

 芋頭が大好きで、財産のほとんどを芋頭の購入に費やし、難病も芋頭で治してしまうという僧都の話。この僧都は仲間内でも傍若無人の振る舞いをしたが、誰もとがめることをしなかったのは、徳があったせいだろうという60段。あるいは、万病に効く薬だと言って、大根を毎朝2本焼いて喰っていた男の家に大勢の敵が襲ってきた。しかし、どこからともなく現れた二人の武士が追い払って難なきをえた。男が二人に日頃見かけないお方だが、どなたかと尋ねると、彼らは日頃食べてもらっている大根だと答えたという、68段。食べ物の話が面白い。大根は万病に効くと、かつて大学の保健体育の講師が言っていたのを思い出した。

 家や庭はごてごて飾らず、簡素で自然なものがいいという10段、あるいは「
花は盛りに、月は隈なきをのみ、見るものかは」という137段などは、日本人の美意識の底流にあるように思える。この137段は、全編の中でも長い、最も長いかもしれない。第2パラグラフでは、男女の仲も同じように「男女の情けも、ひとへに逢ひ見るをば言ふものかは。逢はで止みにし憂さを思ひ、あだなる契りをかこち、長き夜を独り明し、遠き雲井を思ひやり、浅茅が宿に昔を偲ぶこそ、色好むとは言はめ」という。その後には、賀茂の祭りの見物の仕方にも同様であるべきだと論じ、最後に誰もがいつ死ぬかわからないこの世は無常だと説く。

 いわゆる「色好み」について記された段がかなりある。色欲を否定しているが、上述のように恋愛のあり方、あるいは魅力的な女性のあり方などに触れている。こうした段は当然ながら、高校の教科書には載っていない。

 老いの功徳について述べた172段はこう結ばれている:
老いて、智の、若きにまされる事、若くして、かたちの、老いたるにまされるが如し。読んだとき三島由紀夫のことを思った。何かの本で、三島は兼好をよしとする風潮からは脱却すべきだと述べていた。ボディービルに励んでいた三島は、「老いたるにまされるかたち」の、衰え行くのに耐えららなかったのだろう。

 兼好ほど世を捨てたわけではないが、全体として今の私の心境に通じる。
「つれづれなるままに、ひぐらしパソコンに向かい、よしなしごとをうちこめば、あやしゅうこそものぐるうおしけれ」


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書名 風立ちぬ・美しい村 著者 堀辰雄 No
2011-48
発行所 新潮文庫 発行年 平成23年10月 読了年月日 2011-10-20 記入年月日 2011-10-22

 
高校時代の文学好きの親友が、堀辰雄のことを名文家だといっていたのは心に残っていたが、今までに読んだことはなかった。たまたま今年の夏、軽井沢での下重暁子さんによる詩の朗読会で堀辰雄の詩も読まれ、彼が詩人でもあったことを初めて知った。遅まきながら代表作を読んでみた。新潮文庫のこの本は昭和26年初版で今回115刷である。

『風立ちぬ』という美しいタイトルは、ヴァレリーの詩の一フレーズを堀辰雄が独自に訳した「風立ちぬ いざ生きめやも」に由来する。舞台は八ヶ岳山麓のサナトリウム。入所した許嫁に付き添い私も入所する。回復期にあると思われた許嫁は、重症であって回復の見込みはない。死と隣り合わせだからこそ愛しく、かつ充実した生。

 入所して単調な日々の経過に、日々の前後の区別がつかなくなったと述べた後で、次のように記す:
そして、そういう時間から抜け出したような日々にあっては、私達の日常生活のどんな些細なものまで、その一つ一つがいままでのとは全然異った魅力を持ち出すのだ。私の身辺にあるこの微温い、好い匂いのする存在、その少し速い呼吸、私の手をとっているそのしなやかな手、その微笑、それからまたときどき取り交わす平凡な会話、(中略)我々の人生なんぞというものは要素的には実はこれだけなのだ。そして、こんなささやかなものだけで私達がこれほどまで満足していられるのは、ただ私がそれをこの女と共にしているからなのだ、と云うことを私は確信していられた。(p123)。 

 プラトニックな純愛、死病であった結核、サナトリウム。高校時代に読んだら、きっと感動は今よりずっと大きかったろう。

『美しい村』は軽井沢の風景の中で出会った1人の少女と私の交流を描く。この少女が『風立ちぬ』の許嫁になると思われる。読みどころは繊細な風景描写。名文と言えるかもしれない。ただ、上の引用でも見たように、「その」「それ」といった定冠詞や指示代名詞にあたる言葉が頻出する。これは、作者がフランス文学を専攻したからだろうか。私にはかなり煩わしく思われ、そこまで規定しなくても十分意味は通じると思った。

 数年前に信州追分にある堀辰雄の旧宅を訪れた。記念館となっている旧宅には芝生の広々とした庭があり、立派なことに驚いた。

 
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書名 日本語の深層 著者 熊倉千之 No
2011-49
発行所 筑摩書房 発行年 2011年7月 読了年月日 2011-10-23 記入年月日

 
独自の視点から日本語の本質に切り込んでいった本。本書の帯には「研ぎ澄まされた五感をとおして、生動する事象を〈イマ・ココ〉に現前させる驚くべき日本語の世界」とある。

 日本語に対して、このような見方が、従来なかったものかどうかは私にはわからない。ただ筆者の書き方は挑戦的で、動詞の活用形の名前も、従来のものとは違う命名をしたり、(連用形→将然形など)、サリンジャーの「ライ麦畑で捕まえて」の解釈で村上春樹を批判したり、国語教育への数々の辛らつな批判などがちりばめられる。だから、多分著者独特の視点なのだろう。

 過去のことでも、話者の主観を通して現前にあるように話すのが日本語の特徴だとする。過去や、事象を客観的に叙述することに向かないという。それは、日本民族が長く文字を持たなかったことに由来する。歴史や、事象は話し言葉でしか伝達、保持し得なかった。それが、西洋や中国と根本的に違う点で、話者を通して、今ここにあるように伝えられる。


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書名 老いを楽しむ俳句人生 著者 金子兜太 No
2011-50
発行所 海竜社 発行年 2011年10月 読了年月日 2011-11-07 記入年月日 2011-11-15

 
俳人金子兜太は92歳。本書は表題通りの内容。自身の句や他の俳人の句をあげ、それにまつわるエピソードや思いを綴ったもの。

 前書きを要約して、本書の帯にはこうある:九十二歳。毎朝、新鮮な空気を胸深く吸い込んで、想像力を膨らませる。ゆっくり「ことば」を練り上げてゆく。若がえりの道、俳句とともにあり。

 兜太は今も朝日俳壇の選者であり、また、NHKテレビの俳句王国の主宰としても出ているのを目にしたことがある。先日、かかりつけの医院の待合室にあった雑誌をめくっていたら、有馬稲子が会ってみたい人物として金子兜太をあげていた。私も兜太のような老人でありたいと思っているところに、本書が目にとまった。

 トップに出てくる自句は「寒波山並われ腰立たず這い廻る」である。60歳過ぎてから色々な病気が出てきたが、いずれも小病であるという。ぎっくり腰もしばしばなったと解説してあった。

 意外だったのは小林一茶への傾倒。自作以外で取り上げられた句では一茶が圧倒的に多い。180pには以下のようにある:
封建期の江戸で、山村農民の出の一茶は、努めて律儀に振るまい、一方ではいつも腹を立てていた。そしてずけずけ俳句に書いた。その生きざま全体から受取れる庶民の生々しさが、わたしには自由人の有り体として映り、根っこにあるアニミズムの所業なりと映る。中略。農家に育った一茶は「土」とともにあった。いのち(生命)は土に育まれ、やがて土に還ってゆく。わたしも、いのちを労り、土を大事とし、アニミズムへのおもいを深めることとなって、八十代をいま生きている。

 兜太は山国、秩父の生まれで、そこで育った。本書には秩父での幼年時代への懐古がしばしば出てくる。
 著者は言う:
いま一つ、俳句をやってきて、いつも念頭においていることがある。それは「もの」と密着していない、つまり、確かな具体感をもたない日本語(ことば一般としてもよい)は弱いということ。ことに詩語としては希薄ということ。

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書名 井伊直弼 著者 吉田常吉 No
2011-51
発行所 吉川弘文館 発行年 昭和38年第1版 読了年月日 2011-11-14 記入年月日 2011-11-16

 
今月のエッセイに「開国と攘夷」と題して、主に井伊直弼のことを書いた。その参考のために急遽読んだ。この人物叢書は『佐倉惣五郎』に続き2冊目。前書の倍はあろうかという450ページにもなるボリューム。井伊家に残された膨大な資料を中心にたくさんの資料を当たって、生涯を描いたのだから、存在まで疑われた佐倉惣五郎とはボリュームが違って当然。

 井伊直弼ほど見方によってその評価が分かれる人物も珍しい。開国に踏み切った果断・剛毅のリーダーか、朝廷をないがしろにし、安政の大獄で多くの人材を処断した非道の悪人か。本書はどちらの見方にも偏せず、井伊の足跡を追ってゆく。

 開国に対しては、井伊は国を開き、交易をすることを建白している。外国が一方的に日本にやってくるのではなく、日本も外国に進出すべしという。ただし、キリスト教は認めるべきでないとする。若い頃長野義言から国学を学び、朝廷を敬う心も深かった井伊が、朝廷の許可も得ず、水戸、尾張、薩摩などの有力諸藩の藩主の反対も無視して、日米修好通商条約に調印したのは、彼が大老に就任したときには、ハリスとの交渉が煮詰まっていて、強硬に調印を迫られていて、その後にも、イギリス、ロシア、フランスなどが軍事力をもって開国を迫る情勢であったからだ。これは私も知っていたことで、その決断を高く買いたい。

 安政の大獄でなぜ大獄といわれるほど過酷な弾圧を行ったかについては、疑問に思っていた。本書を読むと、徳川政権を守ろうとする井伊の固い決意から出たものであることがわかる。その決意は、家康以来の譜代としての使命感によっているのではないかと思う。関ヶ原合戦や、大阪の陣における井伊部隊の活躍が私にも思い浮かぶ。井伊が一橋慶喜ではなく、紀州家の家茂を推した最大の理由は、家茂の血筋の濃さにあるようだ。

 井伊にとっては幕府の権限は絶対であった。下級の藩士や、公家の配下、あるいは国学者が、次の将軍を巡って運動することなど、言語道断であった。安政の大獄の最大の原因は、朝廷が水戸藩に対し密かに勅諚を発したことである。会長が社長を飛び越して常務に命令したようなものだ。これは井伊でなくても、幕府としては面目をつぶされたと思うであろう。井伊はこれは水戸の水戸斉昭が仕組んだ反幕府陰謀だととった。勅諚の発布に関わった者への幕府の追求が始まる。その追求の先頭に立ったのは井伊の腹心、長野義言(長野主膳、あるいは長野主馬と書かれる方が多いが、本書ではこの呼び方を通している)で、京都にあって、辣腕をふるう。勅諚に関わった者から、一橋慶喜を継嗣に推した志士、さらには志士たちの背後にいると思われた吉田松陰までが、逮捕される。

 取り調べに当たった当局も、幕閣も比較的寛大な処置を考えていた。しかし、井伊は処分案を一段階引き上げたことが、福井藩主松平慶永の書いたものに残っている。水戸藩関係者、公家に対する処罰は理解できる。吉田松陰も老中間部暗殺を計画を図ったことを自ら語ったから、あるいは当時の基準からして死罪はやむを得ないかもしれない。しかし、特に橋本左内の死罪は理解を超える。あくまでも攘夷を唱え、一橋慶喜を次期将軍に推した水戸藩の水戸斉昭への憎しみの犠牲になったとしか考えられない。

 安政の大獄の幕府に与えたダメージは、尊皇攘夷運動に火を付けたことの他に、幕府の有能な人材をも追放したことだ。開明派で条約交渉に当たった堀田正睦、岩佐忠震、あるいは軍艦奉行永井尚志などが、一橋派であるとして隠居、あるいは職を追われた。水戸斉昭への憎悪が、井伊の目を曇らせてしまったようだ。

 井伊直弼は彦根藩主井伊直中の14男として生まれる。世子は次男の直亮(なおあき)が継ぎ、他の兄弟も他家の養子になっている。直弼のみが彦根に残り、300俵の扶持を与えられて埋木舎に暮らす。文武両道の勉学が好きで、禅と居合いと茶道を学び、居合いと茶道ではそれぞれ著作をものにしている。28歳の時に、長野義言のことを知り、彼に国学と和歌を学ぶ。長野義言は直弼とは同年であるが、師弟関係を結ぶ。残された直弼の書状には、義言に会えた喜びと彼に対する親愛の情がほとばしっている。その義言の前半生は色々説があるが、不明のようだ。熊本生まれとも言われるが、各地で国学を講じながら伊勢に至り、伊勢から近江方面で活躍したようだ。二人ともハイレベルの教養人であった。その二人が、後年組んで、安政の大獄の主役となることが信じられない。

 直亮の世子であり直中の11男である直元の死により、直弼は直亮の養子となり、江戸に行く。32歳、これより幕政に参加して行く。
 嘉永3年、36歳で彦根藩主となる。安政5年、44歳、大老に就任。
 万延元年、桜田門外で水戸浪士に殺害される。46歳。
 長野義言は、井伊亡き後も彦根藩に仕えるが、やがて藩の首脳から疎まれ、直弼の側用人であった宇都木六之丞とともに処刑される。直弼没後2年半のこと。

 船橋聖一の『花の生涯』には、「たか女」というのが登場し、長野主膳と共に準主役の役を果たしている。本書の著者は、「たか女」は直弼の愛人であったとする。藩主になった後でも、若き日のたか女との関係に悩んだと、長野主膳宛の手紙を引用する。そして以下のように記す:かつて禅学を修行して悟道の域に達したといわれた直弼である。その直弼にして、ついに煩悩には打ち勝つことができなかったのである。剛毅果断をもってうたわれた直弼の人間性が、両人の悲恋を通してさらけ出されているのをみる。しょせん彼も恋愛のまえには一箇の弱い人間であった。そして封建領主としての体面上から、恋に生きることもできなかった。封建制のしがらみの中で、直弼は若き日の過ちに悩みつづけるのであった。
 ここには著者の人間井伊直弼に対する暖かい眼差しが感じられる。
「たか女」は、井伊の死の2年後、長州・土佐の過激浪士により息子多田帯刀と共にとらえられ、京都で生きざらしにされる。帯刀は斬首され、首はさらされる。

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書名 橋本左内 著者 山口宗之 No
2011-52
発行所 吉川弘文館 発行年 昭和37年第1版 読了年月日 2011-11-19 記入年月日 2011-11-20

 
橋本左内は安政の大獄で処刑された人物の中では、吉田松陰と共に後世最も崇められている人物だが、その事跡はほとんど知らない。井伊と対極にある人物として、同じ人物叢書にあったので『井伊直弼』と同時に本書も購入した。『井伊直弼』を読んでみて、なぜ左内が処刑されなければならなかったのか、一段と疑問に思った。

 左内に対しては従来の皇国史観による「勤王の大旗の下に幕府と戦ひつつ縦横に活躍奮闘」という見方も依然として残り、一方では、外国貿易による富国を説く重商主義的経済論を表明したことから「画期的思想家として当時の日本にたぐいまれな一人」という戦後の見方もある。本書はそうした極端な見方は取らず、左内の26年の短い生涯と、彼が生きた時代を丁寧に記述する。左内を通してみた幕末史として、読み応えある好著だ。

 橋本左内は、福井藩の藩医の家に生まれる。聡明で、15歳の時にはすでに『啓発録』という後世にも有名な本を著す。16歳の時大阪に出て緒方洪庵の下で蘭学を学ぶ。ここでも緒方洪庵を賞嘆させるほどの学業を示す。福井に帰り、蘭学医としてとして家督を相続する。そこでは乳がんの手術まで行っている。

 左内はさらに江戸に遊学する。そこでは勉学に励む傍ら、他藩の人々とも交わり、政治にも関心を寄せていく。藩に戻った左内は士分に取り立てられ、藩の学校、明道館の改革に当たる。彼は従来の儒者による空理空論を否定し、実学に基づく改革を進め、洋書習学所を作った。彼にとっての洋学とは、我が国のとうてい及ばない西洋諸国の技術の導入に他ならず、その技術は儒教的教養に裏打ちされてこそ存立を許されるものであり、基本的姿勢としては、洋学の統制を求めた水戸斉昭らの主張と変わらないと著者は言う。こうした記述は本書の随所に出てくる。開明的でありながら、徳川封建制の枠を出ることのなかった左内という書き方だ。

 左内は安政4年、再度江戸に出る。藩主松平慶永のそばに仕える藩士としてである。そして、将軍継嗣運動に挺身して行く。

 慶永は最初強硬な攘夷論者であった。しかし、やがて開国論に傾く。左内は積極開国論で、国を開くだけでなく海外へ進出する必要性まで説く。十分に咀嚼された左内の開国論が乾いた土地がにしみこむ水のように慶永に受け入れられ、開国大名としての松平慶永が誕生したと著者は言う(p129)。日米修好通商条約への調印と、将軍継嗣問題は同時に起こった。著者によれば、条約調印は朝廷の許しがなくても仕方がないという考えが大勢だったという。慶永と左内がこだわったのは将軍継嗣問題であった。一橋慶喜推挙の中心は慶永であった。彼らには、一三代将軍家定のよう凡庸な人物では、国内をまとめ上げ、外国に対処することはできないという強い危機感があった。英明自立の人物こそが次期将軍として立たねばならぬ、それには紀伊の慶福ではなく、一橋の慶喜でなくてはならないというのが彼らの考えだ。著者は言う(p115):
左内が継嗣問題を通じ、外圧に処する国家的対応として幕府を強化し、その威令の回復を求めたこと、おのずから瞭然たるものがあろう。(中略)左内にとっては将軍の親政こそ日本のまさにあるべき当然の政治形態であり、それこそが”国体”の尊厳を示す所以のものならなければならなかった。

 将軍継嗣問題に絡んで、著者は従来からの2つの考えを誤解だとして退ける。一つは、慶永らの一橋派が、尊皇派であるという考え。もう一つは、一橋派を幕閣の専制を雄藩の合議によって押さえようとする進歩的改革派であるとする考え。一橋派の相対的進歩性は認めるが、彼らも幕府による支配秩序の維持と再強化を狙う点では、紀州派と同じであるとする。
 かくして左内は慶永の意を受け、慶喜擁立に奔走する。金品を贈ってまでして京都の公家に働きかけたりする。

 有利に進められていたと思われる慶喜擁立運動も、井伊直弼が大老になって逆転する。井伊はまず日米条約に勅許を待たず調印する。一橋派はこれに猛反発する。しかし、それは紀州派の井伊を追い落とすための政治運動としてなされた面が強いと、著者は言う。井伊は続いて、紀州の慶福、後の家茂を将軍継嗣にする。かくして一橋派は敗れる。その後、水戸藩への密勅が発覚し、安政の大獄となる。

 左内は安政5年10月身柄を拘束され、福井藩の江戸屋敷内に監禁される。何回かの取り調べを経て、安政6年10月7日に処刑される。周囲も自身も軽い罪ですむだろうと楽観していた。彼は自分の行動は慶永の命令によるものであると最後まで主張したようだ。それがかえって悪印象を与えた。五奉行による判決では遠島であったのが、井伊が死罪にしたと伝えられている。

 p230:
井伊が左内を殺した一事をもってしても、彼が桜田門に横死すべき当然の因があるといわれたが、それは井伊が、この大獄の弾圧の過程で、真に自己に敵対するのは何であったかを見出しえなかったことに求められなければならない。井伊が目指すところがペリー来航以後の幕権の動揺を支え、幕府中心の支配権の永きを願うにあるなら、まさに左内の識見と構想をこそ、さらに水戸学的な尊皇敬幕の論理の政策化こそが、激化せんとする尊攘運動への対応として強く求められねばなかったであろう。しかるに井伊はひき入れるべき味方を、真向の敵として断罪してしまったのだ。

 井伊の目指したものが究極には左内と同じであるという思い切った書き方であるが、『井伊直弼』と本書を読んで、著者のこの見方にまったく同感だ。井伊には左内の国政についての考え方がどのようなものであったかまでは、知るよしもなかったであろう。単に彼の行動を「公儀を憚らざるもの」として断罪してしまった。

 慶永が自分の政治運動に殉じた若く英明な部下をどのように思ったのか、一番興味があるところだ。幕府への怒りか、左内を救えなかったことへの悔恨か。左内処刑前後の様子については、「慶永の手記」からの引用がいくつか出てくる。しかし、それには左内の罪と断罪を慶永がどう考えていたかは触れられていない。多分、そのような記述はないのだろう。


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書名 安政の大獄 著者 松岡英夫 No
2011-53
発行所 中公新書 発行年 2001年 読了年月日 2011-11-22 記入年月日 2011-12-01

 
人物中心の幕末史。サブタイトルは「井伊直弼と長野主膳」であるように、二人を中心に書かれた安政の大獄の解説書だが、主役はむしろ主膳の方にある。全部で15章から構成されるが、9章の題に「主膳」という言葉が入っている。『井伊直弼』では長野義言となっていたが、本書では長野主膳で通している。特色はこの二人以外にも、幕末史の登場人物に対する著者の容赦ない人物評価。

 p73以下:
直弼には先に触れたように、藩主の家を継ぐまでの間に屈辱的な部屋住み時代の急迫生活がある。これが彼の執拗で剛直な性格をつくりあげたように思われる。主膳は一見、婦人を思わせるようなやさしげな風貌だったというが、精神面では人を許さぬ心が強く、その面ではやはり執拗であった。その上、彼には人にいえぬ一身上の秘密があり、この秘密のために彼がどれほど屈辱的な青少年時代を送ったかははかり知れない。それが主膳の性格をつくりあげるのにどれほど働いたかは想像のほかである。主膳の秘密は主人の直弼に仕えるときには告白したのだろうが、同時に告白の秘密を守ってもらうことが臣服の条件となっているだろうことは、両人の関係を特別なものにしている。この特別なコンビが安政の大獄を起こし、大獄を拡大し、陰惨なものにしていく。

 主膳の海防策を評して、著者は「
当時、箒ではくほど無数にいた夢想的攘夷志士と」同程度のものであったという。(P44)
 国学者であった主膳は「
日本の相続を皇朝風の形にやり変えていけば、政治の流れも日本的の正しいものに変わったくる」と主張していた。これが直弼の目にとまった。(p73)

 安政5年冬に主膳は上京する。それは単なる情報収集程度の役目であった。「
それが数ヶ月後には、幕府の対京都朝廷工作の裏の指導者となり、「京の大老」といわれるような陰の実力者にのし上がり、ついには幕府二百六十余年の歴史のなかで最大の悲劇といわれる安政の大獄の煽動者・実行者になるとは、だれにも予想できることではなかった。人間の運命の不可思議さであり、恐ろしさである。ひとりの人間がこれほど変身するという恐ろしさを、主膳は身をもって示した。」(p95)。主膳をここまで変身させたの第一の原因は同年4月の直弼の大老就任である。
 こんな記述を読むと、主膳を主人公とした小説があってもよさそうだが、私は知らない。

 著者が、高く買うのは老中阿部正弘。日米和親条約の締結をはじめ、各国との同条約調印を決断し、日本の開国という歴史上の大転換を行ったと評価する(p59)。しかし、阿部は安政4年に39歳の若さで病死する。これが幕末史の転換点であったと著者はいう。

 十三代将軍家定には厳しい。大事なときに不適格の人物が将軍になり、それが継嗣問題を引き起こし、指導層のエネルギーはそのために浪費させられ、さらには安政の大獄の一因となったという。(p59)

 徳川慶喜については:
年長・英明さが売り出し文句だったが、その英明さは幕府を倒壊させる程度のものだったから、リーダーとして全くふさわしからぬ人物のために、幕末政治の時間が浪費され、幕末の日本の有為な人物の多数の血が流されたり、政治の一線から追放されたりしていった。(194)

 慶喜をかついだ松平慶永について。慶永は明治になって、慶喜を担いだのは間違いであった、水戸斉昭にだまされたと言っている。彼は将軍継嗣問題が幕府崩壊の一因であったと認める。その彼が慶喜擁立に費やした莫大なエネルギーのむなしさを思えば、「
政治家の仕事というものは大体がこんなものなのか、あるいは名君とか開明的君主とかいうものの頭脳の程度はこんなものということなのかと。」(p159)これまた辛辣である。

 著者が高く買うのは、幕府を支えた官僚たち。川路聖謨(としあきら)、岩瀬忠震(ただなり)、大久保忠寛、永井尚志(なおむね)、水野忠徳(ただのり)。「
いずれも能吏中の能吏であり、誠忠誠実の士であり、幕府の屋台骨をしっかりと支えた人物たちであった。幕府を支えた逸材というより、当時の日本を支えた人材だったといい得よう。」しかし、彼らは一橋派として追放される。著者が特に高く買う岩瀬は大獄の後病死する。唯一追放を逃れた、水野忠徳は後に「井伊大老が橋本左内を殺したる一事、もって徳川氏を亡ぼすに足れり。いわんやその他を殺罰したるにおいてをや」(p4)と言った。徳川幕府が井伊大老暗殺の後、10年も保たなかったのは幕府に反幕府雄藩の志士に対抗する人材がいなかったのが一因であるとする(p201)。

 著者は幕府の政治・行政の中心は旗本の中から選ばれた俊才が要職につき、その下に事務に習熟した官僚がいて動かしていたという。そしていつしか、老中たちを小馬鹿にする風習がついていた。そこを井伊大老に突かれたという(p113)。官僚と政治家の関係は、今に始まったことではないようだ。

 吉田松陰については、志士とか革命家と言うより、感化力の強烈な教育者といった方がよく、直弼や主膳とは別世界から来たような人物であると評する。(p201)

 関白九条尚忠について:主膳が京都で頼りとした、親幕派のこの公家は、この時代にふさわしいひとかどの人物であったと評価する。彼は、勅許なしでの条約調印をやむを得なかったと認めており、また、公武一体という基本方針も持っていた。(P157)

 安政の大獄は、直弼にとっては徳川幕府の当時の基本規律を破る違反者への厳罰であり、主膳にとっては、彼の信じた国学思想に基づく儒教思想の排除、日本の思想的大掃除であったとしている。(p183)

 本書にも当時の手紙、日記などが引用されているが、いずれも現代語訳で、その点『井伊直弼』や『橋本左内』より読みやすい。


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書名 絶滅危急季語辞典 著者 夏井いつき No
2011-54
発行所 筑摩文庫 発行年 2011年8月 読了年月日 2011-11-28 記入年月日 2011-12-01

 
アマゾンからくるメールに紹介されていた。著者は自ら絶滅寸前季語保存委員会委員長を名乗る女流俳人。日本語としても今は死語に近い季語の簡単な説明と、その季語を使った例句の紹介という形で、一応辞典にはなっている。しかし、本書の魅力は各季語に寄せる著者の思いや蘊蓄の語り口の軽快さ、歯切れの良さにある。

 よくもこんな季語があるなと思う季語ばかり。大歳時記から採っているが、例句の載っていないものがほとんど。それで、著者が苦心して例句を提出する。あるいは、絶滅寸前季語保存委員会メンバーに呼びかけて、その季語を使った例句を募集する。
 例えば、「野馬」(やば)は春の季語。陽炎の副題である。陽炎の副題には、糸遊(いとゆう)、遊糸(ゆうし)、かぎろい、陽焔(ようえん)などがあり、これらはそれぞれに陽炎のイメージを連想させるが、野馬だけはわからないという。「やば」ではなくて「のば」と読んでしまうと言う。そして著者の一句:
 看板のNOVAの四文字野馬の昼       p99.

 また、こんな季語もある。
 二十六聖人祭(にじゅうろくせいじんさい)。人事に関わる初春の季語。
 副題は「致命祭」。2月5日日本で初めてキリシタン26人が長崎で処刑された日。
季語だけで11音。「致命祭」なら5音で作りやすいのに、保存委員会メンバーはあえてこの季語に挑戦する。4句が紹介されている。字余りになるのは致し方ない。いずれも優れた句だと著者は評する。
中の一つ:
 二十六聖人祭海鳥の羽光る    鯛坂

 著者は言う:
長崎市西坂町の丘から見晴るかす海は、「二十六聖人」たちが生きていた時代を知っている。「海鳥の羽」は天使の羽根を想起させ、「光る」という一語は鎮魂のイメージとなっている。歴史の中の一つの事件は、さまざまな角度から認識され、評価され、語り継がれていくが、二十六聖人と呼ばれた人たちの二十六人の人生に思いが至る時、この季語の存在意義を受け止める。歴史の教科書でこのような事件がありましたと認識することと、季語として「二十六聖人」の心に触れることは根本的に違う種類の行為だ。五感で作る俳句だからこそ、俳人たちはその日「二十六聖人」たちが見たであろう長崎の海の光を感じとり、十字架の上で聴いたに違いない風の音を追体験しようと試みる。歴史の中に生きる季語だから絶滅しても当然だとは思いたくない。だからこそ、意志を持って詠み継いでいくべきだと思うのだ。
 そして著者の一句
 二十六聖人祭の風の声         夏井いつき      p78。

 この季語の解説は、本書には珍しい正面からの解説になっている。多くの季語は、著者の日常のエピソードなどを交えて、ユーモラスに展開されていく。あるときはクスクス笑いながら読み進めていくうちに、俳句の奥の深さ、季語に蓄積された日本語の豊かさ、日本人の繊細な感性といったものに思いがいく。昨年、俳句を作り始めた当座、作る句がよく季語が重なる季ダブリになった。そして、季語が多すぎると感じた。一句の中に季語が二つも入ってくるのは句想が狭いためであると悟るには少し時間がかかった。

 本書は『絶滅寸前季語辞典』の後編として編まれた。


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書名 百姓伝記(下) 著者 古島敏雄 校注 No
2011-55
発行所 岩波文庫ワイド坂 発行年 2001年 読了年月日 2011-12-06 記入年月日 2011-12-06

 俳人の宇多喜代子さんが、旅に出るときにはいつも持ってでかけるといっていた。江戸時代の農業書。俳句の季語は稲作を中心とする農村文化と深く結びついており、参考になるという。

 著者は不明。多分遠州横須賀藩の上層農家、書かれたのは1680年代の初めの頃と、校注者は推定している。下巻は巻9の田耕作業から、巻15の庭場道具・所帯道具・麻機道具までを収録。「伝記」というのは個人の一生という意味ではなく、伝え聞いたことを記したという意味。上巻は総論で、土壌論、治水論などが収められているとのこと。

 空論でなく、実際の農作業者の立場から書かれた詳細な農業手引き書。書かれていることは、今時大戦直後まで農村で実際に行われていたことだ。疎開で過ごした父母の実家での見聞を思い浮かべながら、あるいは今の菜園作業を思い起こしながら、興味深く読んだ。ハウスに頼らず、化学肥料を使わず、四季の移り変わりに逆らわず、自然と共生する農業。

 「
抑(そもそも)、田をかへし、稲を植、耕作仕るは、土民の本たり」(土民は農民のこと)で始まる稲作が詳しい。本書のほぼ1/3を占める。中でも「土地の善悪に依て田をかへす事」という土壌と耕作の関係は17箇条に渡って述べられる。真性地、不性地、黄色真土、黒色真土、青真土、白真土といった土壌の分類が出てきて、それぞれに対して、田起こしの深浅、水の張り方、肥料のやり方、苗の植え方などが記述される。例えばP9「真性地にして、地ふかなる、土おもきこわき田をば、冬より正月に至てうち、寒中の水をつけてこをらせ、土をくさらせねかすべし。土にうるほい出来、稲生(お)ひよく、虫付事希(まれ)にして、年々稲大穂になり、米も大しぼなり。

 田ごとに年々出てくる雑草は決まっているが、草が出たら根が張らぬうちにすぐにとれ、遅れると根が張って草取りに手間がかかり、稲もやせる(p46)という、草取りの注意は、我が菜園でも毎年実感する。

 鹿や猿の害から守るためには、オケラの根を乾燥したものとオオカミの糞を糠に混ぜたものを風上におけば猿、猪、鹿などの獣が出なくなる。これは秘伝であると記す(p56)。300年前には日本列島にはオオカミが身近にいたことを示す。もちろん現代ではまねすることの出来ない、害獣防除法だ。

 興味深かったのは、米の善し悪し評価。東海道、南海道、あるいは畿内は上米だが、「
北国筋寒国の米、風味・色あひ真性なる米すくなし、陽気うすき故なり」とあること(p63)。現代の米所は新潟、秋田だ。品種改良が進んだせいであろうか。

 巻11は雑穀、巻12は野菜作り。私としては最も興味のあるところ。
 インゲン豆は葉、ソラマメも先端の葉を食べることが出来るという(p107,108)。これは飢饉に時に役立った情報かも知れない。
 エンドウは味はよくないという(p108)。
 キュウリ:人によりては匂いをいやがり、嫌いな人が多いという(p144)。
 この時代はウリと云えばマクワウリで、それについては種の取り方から、栽培法までキュウリの5倍のスペースをさいて述べられている(p139~)。値段が高く売れるなどという記述もあるから、商品作物としても有力であったようだ。今ではスーパーの店頭でもまず見かけないマクワウリだが、私は疎開先で食べたあの味が忘れられず、毎年菜園で作っている。たまたま、『芭蕉句集』を眺めていたら、マクワウリを詠んだ句が2つあった。「我に似な二ッにわれし真桑瓜」と「柳小折片荷は涼し初真瓜(まくわ)

 スイカ:スイカは正保の頃(1644-48年)南蛮から伝わったもので「
いまだ片辺土の土民は是を見ぬもの多し。性よからざるものなりと云」とある。肥料には不浄(下肥のこと)と魚の汁が一番よく、無駄なつるの先を摘んでならせること、数少なくならせると大きなものが出来るという(p145)。

 南瓜(本書では「ぼうふら」という):これも近頃外国から入った。キュウリと同じ頃に植える。肥やしも選ばずよくできるが、味はよくないという(p145)。後世、女性の大好物とされる南瓜も形無しで、サツマイモはまだ日本には来ていない。

たばこ:かなり詳しく書かれている。「
土こゑ・馬屋こゑをこやしにしてはたばこにがみ多し」(p157)とあるが、これは今でも通用する。

 蓮、マコモ、菱、葦などの水生植物の栽培にも1巻をさいているが、ジャガイモ、サツマイモ、白菜、キャベツ、トマトなどはこの時代にはまだなかった。

 巻15は道具類:「
石うすは土民所帯道具のうち、第一重宝なるものなり。五穀・雑穀をひきこなし、粉にするに、たちうすにてはたくは、はかゆかず。石うすに善悪あり。やわらかなる石にてきりたるは砂をりてくらひものに入、悪し。当世摂津国みかげ石・伊豆を上とす」。疎開先の田舎の縁側で、祖母と石うすで大豆をひいてきなこを作ったことがよみがえる。

 本書の時候表示の基本は24節気による。その他にも自然現象を基準とする記述もある。例えば、麦作の巻の初めには、麦蒔きは「
秋に至黄せきれいの里に渡るを時とする」とあり、黄せきれいを麦蒔鳥と名付けたという。しかし、当世の農民は「余業に時をうつし、日を暮し、冬至の比(ころ)種を蒔く。天の時にたがひ、地の理にしたがわず、年を越てみのる事百が一つたり。」と嘆き、戒める(P69)。

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書名 更級日記 著者 菅原孝標女、西下経一校注 No
2011-56
発行所 岩波文庫 発行年 1930年初版 読了年月日 2011-12-12 記入年月日 2011-12-18

 
更級日記の書き手は東から京へ旅をした。その様子が知りたいと思って読んだ。日記といっても、回想録あるいはもっといえばその時々の印象の断片を綴ったもの。源氏物語などの物語を読みたくて、仏像まで作って祈願した上京が実現したのは、著者13歳の時。父の任地上総を9月3日にたち、京に着いたのは12月2日。途中で乳母が出産したり、自身が病気になったり、大変な旅であった。旅の部分は比較的具体的に書かれている。ただ、地理に関しては間違いが多い。竹芝が隅田川の東にあり、隅田川を渡れば相模の国であるとか、大井川が富士川より東にあったり、現在の興津の清見関が田子の浦より東にあったり。これは著者がこの書を書いたのが40年以上もたった後だからだろう。

 足柄山の麓では、遊女(あそびめ)が現れて一行を楽しませたという。当時はまだ箱根越えの道はなかったのだ。富士山からは煙が立ち上っていると記載されている。私にとって懐かしいのは、三河の国の高師の浜という名前。豊橋の中心から南の方に行ったところに、高師原は今もある。 

 旅行記の部分はどうにか読んで理解できた。その他の部分は、省略が多く原文だけではとても理解できなかった。本書の解説には、難しい文ではないから、容易に読めるだろうと書いてある。校注も、古語の解説には力が入れられていない。本書の初版は1930年、昭和の初めだが、その頃人々は、この古文をこれくらいの校注で読むことが出来たのだろうか。幸い、ネットに主要な部分の現代語訳があるので、それを参照しながら読んだ。面白かったのは、一世に一度の大嘗会(天皇即位後初の新穀物を神に捧げる儀式)といって、その見物に田舎からも大勢の人が都に上ってくるのを尻目に、著者はその時期に初瀬参りに出かけたというエピソード。

 著者は菅原孝標の娘。菅原道真の子孫である。1058年、著者51歳の時、夫と死別し、後の消息は不明である。意外だったのは、本書の原典は藤原定家の自筆写本であること。

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書名 国民的俳句百選 著者 長谷川櫂 No
2011-57
発行所 講談社 発行年 2008年 読了年月日 2011-12-15 記入年月日 2011-12-18

 
先月、今までの自選50句ほどを畏友西方さんに送った。西方さんは若い頃から句作に励んでいて、60歳の時、1万句に達したのを機に遠ざかったという。その西方さんが、良い本だといって紹介してきたのが本書。

 著者によると、「
名句であるか否かを見分ける目利きの基準は、その句が涼しげにそこに立っているかどうか。実にこれ一つしかない。」(p12)。

 著者は、俳句は「間」の文芸であるという。「間」を重んじるというのは、日本では文学だけでなく、絵画、音楽、芝居などあらゆる方面にみられることだという。それは、蒸し暑い夏を涼しく過ごすためには間を十分にとらなければならないう事情から来ていると、著者は推測する。そしてその論拠を、『徒然草』第55段に求める。「家の作りやうは、夏をむねとすべし。冬はいかなる所にも住まる。暑き比(ころ)わろき住居は、耐へがたき事なり」(p10)。

 100句の最初は子規の「柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺」で、最後は芭蕉の「蛤のふたみに別行秋ぞ」である。よく耳にする句もあるが、初めて知る句も多い。

 100句のうち芭蕉が6句、蕪村が4句で群を抜く。各句の解説の中でいくつかの句が引用されるが、それまで入れると、芭蕉の句は39句、蕪村の句は33句も本書に掲載されている。何百万の俳句愛好者が、毎日のように句作しているにもかかわらず、この二人に匹敵する俳人は現れないということか。

 著者の解説は博識に裏打ちされ、斬新で深く、わかりやすい。句作に参考になることが多い。例えば芭蕉の
秋深し隣は何をする人ぞ」は、「秋深き隣は何をする人ぞ」が本当に芭蕉が言いたかったという。「深し」と「深き」では意味がまるで違ってくるという。同じように山口素堂の「目に青葉山ほととぎすはつ松魚(がつお)」は「目には青葉山ほととぎすはつ松魚」が本来の句であり、上五の字余りが句に躍動感を与えているという(p66~67)。

 意外な人物として丸谷才一の句が100選に入っている。「佐保姫もこんなずん胴酒のびん」。佐保姫は日本の春の女神。著者はいう:
そういえば、古代の日本人の姿を写したと思われる埴輪にしてもずん胴である。『源氏物語』の紫の上や浮舟も、(中略)ほんとうは埴輪同様、酒瓶のような体型であったはず。(p71)

 高浜虚子は「ごとく」とあるものをあるものに譬える直喩の達人で、虚子の名句といわれるものの半分以上は「ごとく」俳句であったという。中でも「去年今年貫く棒の如きもの」は随一の代表作であるという。(p57)
 取り上げられた100句、および参照されたたくさんの句、いずれも俳句用語で言えば「句が広い」。一句から広がって行く世界が広い。


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書名 芭蕉紀行文集 著者 松尾芭蕉、中村俊定 校注 No
2011-58
発行所 岩波文庫 発行年 1971年 読了年月日 2011-12-22 記入年月日 2011-12-24

 
芭蕉の紀行文と云えば『奥の細道』だが、これはかなり以前に読んだ。本書にはそれ以外の紀行文、「野ざらし紀行」「鹿島詣」「笈の小文」「更級紀行」「嵯峨日記」を収める。巻末に各旅の行程の地図が載っている。東海道、中山道、甲州街道はすべて、その他、伊勢、京・大阪、吉野山、明石、伊良湖岬、姥捨、善光寺,鹿島。よく歩いた、といっても馬で行くこもが多いが。

 旧街道歩きで出会う芭蕉の句碑は、本書に収められた旅の中で詠まれ,記載されている句が多い。紀行文は簡潔であるが、漢詩、和歌、源氏物語などを踏まえた記述が織り込まれ,脚注によらねば理解できないか、あるいは気づかずに読み過ごしてしまう。『猿蓑』を読んだときも感じたのだが,芭蕉とそれに連なる人々の教養の高さに感心する。芭蕉は生涯勉学を怠らなかったようだ。それは「嵯峨日記」の記述にみられる。芭蕉は元禄4年4月18日から5月4日まで、去来の所有する嵯峨の落柿舎に滞在する。彼に与えられた一間を次のように記す:
机一、硯、文庫、白氏集・本朝一人一首・世継物語・源氏物語・土佐日記・松葉集を置、・・以下略」(p123)。

 解説では「野ざらし紀行」を,芭蕉がその俳風を確立するきっかけになった旅として高く評価する。私には芭蕉の句をそこまで深くは理解できないので、むしろ「笈の小文」の方が芭蕉の人間味がよく出ていていいと思った。こちらは,各地への旅の断片を後に門人が編集したもの。

 旅にあって芭蕉は次のように記す:
只一日のねがひ二つのみ。こよひ能宿(よきやど)からん、草鞋のわが足によろしきを求(もとめ)んと斗(ばかり)は、いささかのおもひなり。時々気を転じ、日々に情をあらたむ。もしわづかに風雅ある人に出合(であひ)たる、悦(よろこび)かぎりなし。 (p84)
 こういうのを本当の旅人というのだろう。しびれてしまう記述だ。

 桑名の先、日永の里での話:・・
日永の里より、馬かりて杖つき坂上るほど、荷鞍うちかへりて馬より落ぬ。
 歩行(かち)ならば杖つき坂を落馬哉
と物うさのあまり云出(いひいで)侍れ共、終(つひ)に季ことばいらず。
(p75)

 歩いて行けばよかったのに、馬に乗ったばかりに落馬して、一句口をついて出たが、どうしても季語が入らなかったという。芭蕉にもこんな面があったのだ。東海道街道歩きで、来春この「杖つき坂」を通る。楽しみだ。

「更級紀行」と「鹿島詣」はいずれも月見が目的。前者では名月に会えたが、後者では雨にたたられ、やっと明け方雨上がりの月を見ることが出来た。雨のため句を詠むことが出来なかったが、「かの何がしの女」(清少納言のこと)もほととぎすの歌を詠みに出かけて、詠めなかったから自分の同類であると、自らを慰める。この記述も、「清少納言」とも「枕草子」とも書いていないから、「枕草子」を読んでいないと理解できない。(p58)


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