読書ノート2020年

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書名 著者
俳諧の詩学 川本皓司
八十路 村越化石
団扇 村越化石
真実の久女 坂本宮尾
源氏物語(二) 紫式部
子規紀行文集 正岡子規
源氏物語(三) 紫式部
哲学と宗教全史 出口治明
日本文学の発生・序説 折口信夫
坂本宮尾集 坂本宮尾
源氏物語(四) 紫式部
ヴェニスに死す   トーマス・マン
 源氏物語の結婚  工藤重矩
 鷹を飼う  松本昂幸
 源氏物語(五) 紫式部 
 平安朝の生活と文学  池田亀鑑
 富安風生集  富安風生
源氏物語(六)  紫式部
私の好きな季語 川上弘美
源氏物語(七) 紫式部



書名 俳諧の詩学 著者 川本皓司 No
2020-1
発行所 岩波書店 発行年 2019年9月 読了年月日 2020-01-05 記入年月日 2020-01-06

 かつてドコモのネット学習講座gaccoで、著者の「俳句-17音の世界」という講義を聴いて、感銘を受けた。主として芭蕉の句を例にして、一句を基底部と干渉部に分けて解説して 、基底部に主として季語となる干渉部がぶつかることに生まれる味わいを、俳句の特徴とした解説であった。その後著者が天為25周年記念の会にパネリストとして来た際、ロビーで立ち話をし,あの講義が素晴らしかったことを伝えた。そんなわけで,アマゾンから本書の案内がメールされてきたとき、すぐに購入した。

 著者がすでに発表した11の評論をまとめたもの。特徴は俳句を世界の詩の中において考察していること。かなり高度な内容だが、わかりやすい記述で、一気に読んだ。

 序に代わる「俳句の意味とは」の中で、「田一枚植ゑて立ち去る柳かな」という芭蕉の句を例として次のように述べる:
……芭蕉はわざとそうしているんだ。片言だから意味がよくわからない、決められない、そういう表現のもつ面白さと可能性にこそ、芭蕉は賭けていたんだね。さまさまな読み取りの可能性、意味のひろがりや交錯や矛盾の可能性―俳句というのはことばが本来もっている意味の不確定性そのものを表面化し、強調し、読者に痛感させることを、いちばんの付け目とする遊び、といって悪ければ,芸術なのだ(pxii)

 さらに続けて、小説には描写やストーリー、思想などがあり、詩にも教訓や物語があるが,「
俳句はあまりにも短くて、そういうものを容れる余裕があまりないから、本来の特徴がとくに目立つわけだ。短いからこそ、〈詩〉が前面に出るんだね。その意味で,俳句は詩のなかの詩といっていいだろう。」(pxiv)

本書の構成
I 短詩型としての俳句
 1 短詩型とは何か―いひおはせて何かある
2 日本の「秋」―文化のなかの季語
 3 芭蕉の桜―「花」の本意と本情
II 俳諧の詩学
 1 新切字論―連歌から芭蕉、現代俳句まで
 2 「三句放れ」と「匂付け」―連句を問い直す
 3 芭蕉の旅―『おくの細道』冒頭の隠喩
III 俳諧の近代と子規
 1 子規の「写生」―理論的再評価の試み
 2 漢学書生子規―俳論とその文体
IV 俳諧の比較詩学
 1「不易流行」とは何か―芭蕉とボードレール
2 詩語の力―俳句とイマジスムの詩
 3 第二芸術論を疑う―桑原武夫とI・A・リチャーズ

 いずれも読み応えのある評論であるが,私が一番我が意を得たりと思ったのは、不易流行を論じたところの一文である。
 
芭蕉についてもまた「さび」や「しをり」といった高等な理念を問題にする前に、まず「好奇心」という卑近だとはいえ根本的なものを、その句作の基盤にすえる必要があるだろう。(p211)

 ついで句作りの参考になったのは,子規の「写生」のところで述べられた特殊化という技法。子規はレトリック的なものへの嫌悪が著しい。その子規が評価していた修辞法が「特定化・特殊化」の技法であるという。

 
三椀の雑煮かふるや長者ぶり    蕪村
について、子規は「雑煮の数をよむるが如きは元禄の知らざる趣向なり」と言い、さらに明治の句として
 やや小き雑煮の餅の三つかな    虚子
を挙げて「三つと数ふるのみならず、小きと形容し、更に進んでややと形容す。印象明瞭の点に於いても一歩進めたり」と述べている。(p179)


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書名 八十路 著者 村越化石 No
2020-2
発行所 角川書店 発行年 平成19年 読了年月日 2020-02-04 記入年月日 2010-02-04

 エッセイ教室の大沢美由紀さんからプレゼントされた。
 村越化石の名は、歳時記の例句などで知っていた。まとめて句を読むのは初めて。平明な言葉で、身近な日常と心情を歌う。叙景句といわれるものは少なく、名所旧跡あるいは歴史や故事によったものは見られない。まして有馬朗人主宰の句のような海外詠などは皆無だ。『天為』に親しんできた私には驚く句集だ。

 巻末に化石の俳句の師である大野林火の跋文が載っている。それによると化石は大正11年生まれ、中学4年の時にハンセン病が見つかった。昭和16年国立療養所栗生楽泉園に入所。化石という俳号は「自らを肉体は土中に埋もれ、すでに石と化した物体になぞらえ」たもの。第二句集『山国抄』昭和49年刊の頃にはすでに失明していたという。

 初めて知る驚くべき俳人だ。帯には以下のようにある:
第一句集「独眼」以来一貫して生命の尊厳を詠いつづけてきた著者な失明以後も草津・楽泉園の豊かな自然の中で、感謝と祝福の日々を送る。{満目青山ここにあり」と、一本一草や小動物たちの声に耳を澄ませ、造化随順と人間信頼の句境を深めてゆく。老年の充足とは何かの自問に謙虚自愛の作品をもって自答する感動的な第八句集。
 平成15年から19年までの句、330句ほどが収載されている。

八十の大台に乗り大旦     ○ 冒頭句
句作りに虚と実ありぬ白牡丹    拙句  俳句にも嘘を少々実山椒
涼しさやナース三人まだ卵
やまなめて喪に服すごと雪夕焼
一月のまず陽の当たる一樹あり
車椅子涼風ぐるみ運ばるる
見えぬ眼の目の前に置く柿一つ   ○
恵方とす雀の声のする方を
水餅のごとくに眠る夜もありぬ
鳥帰る帰る故郷のありてこそ 
ここに幸ありと葡萄の垂れさがる
秋惜しみ一つの道を一人行く
未来持つ子に拾われてゆく木の実
石の如凍てても命ありにけり    ○
生き生きて生きて今あり手に団扇    ○
好日の蜻蛉を杖にとまらせて
見えねども歓声上がる雲の峰
立冬や南に浅間西に白根
身の前に山一つ置く懐手
去年今年命いよいよ大なりし
荘厳に軒氷柱垂れ籠る日日
諦めず生き来し命地虫出づ
春遅々と遅々と地を行く探り杖
童ともなりて朧の八十路かな

 好みで選んだ24句。作者の自選12句が裏の帯に載っているが、私が選んだ句は4句(○)が挙げられていた。

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書名 団扇 著者 村越化石 No
2020-3
発行所 角川書店 発行年 平成22年 読了年月日 2020-03-04 記入年月日 2020-03-04

  大沢美由紀さんが、こんどは貸してくれた。よほど化石の句が好きなのだろう。彼女の句は化石の句とはかなり違って、大胆な表現、はっとする表現が特徴だが、化石の句は、平明で、身近なありふれた題材が主体だ。

平成19年から22年までの300余句を載せる。
 手に団扇ありて齢を重ねたる
 からが本書のタイトル:
句集名は、日常身近にあって、親しみ深い団扇にした。米寿の齢を迎える今日まで、私を支えてくれた多くの皆様の善意と友情に、感謝申し上げる。小さな俳句が大きな力となって私を救い、人生を心豊かに送ることができた。これからも詠い続けていきたいと思う。(帯より)

私の目についた26句。○は著者自選12句に入っていたもの。

菫摘み居るか後れて来る一人     最初の句
朝一粒梅干を食ふ半夏なる
蝉声の他は容れざる森存す
菊咲くと空より雀祝福す
小春日の小石一つを手玉にす
わが齢またまた問はれ暦果つ
生きてこそ生きてゐてこそ雑煮食ふ
生き甲斐や焼芋を買ふ八十路妻
きさらぎの驚きやすき耳ありぬ
森林浴する片ほとり蟇も居て
鴉にも独り言ある晩夏かな
老いてわれ生まれながらの柿を食ふ
世の動き遠くにおきて冬至風呂
よく笑ふ女の前に草団子
寄り合へる身内の如く桜餅
聞くともなく話聞きゐる冷奴   聞いているのは冷奴と解釈したい。
色鳥や心眼心耳授かりて      ○
世の隅に療養祭といふ祭
また生きてまたまた生きて冬帽子
鷹は己が影を攫って溶岩(ラバ)を飛ぶ
春なれや軒端雀の見舞受く
鈴蘭の香を嗅ぐ化石蘇り     ○ 本人のことだろう
石楠花咲く療養暮し七十年
昔拾ひし石の一つと春惜しむ
緑差す地に仔栗鼠いて神存(いま)す
扇風機遠き思ひ出呼び覚ます    最後の句


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書名 真実の久女 著者 坂本宮尾 No
2020-4
発行所 藤原書店 発行年 2016年 読了年月日 2020-03-10 記入年月日

 サブタイトルに「悲劇の天才俳人 1890-1949:とある。
 2月29日に、『天為』の同人、坂本宮尾さんを選者に迎えて藤沢市民ホールで句会が開かれた。その際、本書を紹介された。坂本さんは『天為』誌の懸賞随想の審査員の一人で、私の作品を2回に渡って入選に推してくれた。経歴を見ると、英米文学が専門で、東洋大学の名誉教授である。学生時代に山口青邨から俳句の指導を受けたという。ハードカバーの400ページ近い本。活字が大きく、文章も明快で読みやすい。

 久女については名前はどこかで耳にした気がするが、まったく知らない俳人だ。

本書の帯:
 
従来の”久女伝説”を覆す、渾身の評伝!
高浜虚子の『ホトトギス』同人除名問題などから、根拠のない”伝説”が横行していた悲劇の人、杉田久女。その実像に、多くの秀れた俳句を丁寧に鑑賞しつつ、初めて迫る。俳人協会評論賞受賞作に、その後発見された新資料をふまえて加筆された決定版!

 
 久女は明治23年(1890年)、鹿児島生まれ。父赤堀簾蔵、母さよ。父は高級官僚、母は華道教授。父の転勤に伴い久女は幼年から処女時代を琉球、台湾で伸び伸びと過ごす。後にお茶の水高女に入学。19歳で杉田宇内と結婚。宇内は愛知県の地方の素封家の出で、芸大の美術科卒業。宇内は画家にはならず、中学の教師として、小倉に赴任。結局久女は生涯を小倉で過ごす。夫がせっかく芸大まで出ながら、画家にならない子に二久女は生涯不満に感じる。また、裕福な家庭に育った久女には、中学教師というつましい生活への不満もあった。

 久女が俳句に手を染めていくに従い、夫への不満は募って行き、ついには久女の実家の方から離婚を持ち出す。しかし宇内は応じなかった。
 久女に俳句の手ほどきをしたのは、次兄の月蟾。大正7年にはホトギスに初入選している。久女の習作時代は極めて短く、大正8年から9年には早くも第一のピークを迎えているという。
 花衣ぬぐやまつはる紐いろいろ
 久女の代表作のひとつだ。

 大正11年(1922年)ホトトギスに入選した句のうち、次の2句が問題となった。
 冬服や辞令を祀る良教師
 足袋つぐやノラともならず教師妻
 いずれも、絵画の道を諦め、教師として安住している夫への当てつけととられた。離婚問題といい、こうした句といい、久女が世間から白眼視される一因であったろう。
 昭和6年
 谺して山ほととぎすほしいまま
 久女の代表句の一つであるこの句は、九州の英彦山で詠んだもので、帝国風景院賞を受けた。この賞には20句が選ばれているが、10万3千余句から選ばれた。著者はこの句を選んだ虚子の慧眼を褒める。なお20句の中には
 啄木鳥や落葉をいそぐ牧の木々  水原秋桜子  (赤城山)
 滝の上に水現れて落ちにけり   後藤夜半   (箕面滝)
 などよく知られた句が含まれる。

 昭和7年、久女は「花衣」を創刊する。当時、女流俳人を対象とした俳誌「玉藻」が虚子の次女星野立子から創刊され、また、長谷川かな女の「水明」もあり、久女もこれらに習って「花衣」の創刊に踏み切った。以下「花衣」の創刊の辞の一節
 
芸術芸術と家庭も顧みす、女としてゼロだ。妖婦だ。異端だ。かう絶えず、周囲から、冷たい面罵を浴びせられ、圧迫され、唾さて、幾度か死を思った事もある。

   虚子は「花衣」創刊号に巻頭句3句を送っており、まだ円満な関係であった。
 「花衣」は5号まで出て、半年もせずに廃刊となる。

 昭和7年7月のホトトギスで、久女は巻頭作家となる。その巻頭句の
風に落つ楊貴妃桜房のまま
むれ落ちて楊貴妃桜尚あせず
が、「天の川」という地元の俳誌で合評された。そのなかで、親しくしていた若い男性俳人神崎縷々の批評に久女が傷つき、縷々との間に齟齬がおこったことが、「花衣」廃刊の原因であろうと、筆者は推定する。他には、星野立子より人気・実力のある久女の「花衣」が将来ホトトギスの脅威になると考え、働きかけがあったという説が従来からあるとのこと。後に虚子が久女の句集の出版を拒んだ遠因には「花衣」の刊行も絡んでいるようだと著者は言う。

「花衣」廃刊直後の昭和7年10月には久女はホトトギスの同人になった。この時の同人は全国で51名という少なさである。
昭和8年7月号のホトトギスの巻頭を久女が飾る。宇佐神宮で詠んだ5句(p148)
意外だったのは、中村草田男がホトトギスの次号でこの句の評論をしていること(p150)。草田男もこの頃はまだホトトギス一門だったのだ。

 久女は句集を出したいと思う。句集を出すに当たっては主宰、虚子の序文が不可欠である。昭和8年から9年にかけて、虚子に何通もの手紙を出すが、承諾を得られなかった。昭和9年には上京して、鎌倉に虚子を2回も尋ねるが留守で会えない。思いあまって青邨に出版社への紹介を頼むが、青邨は同情はするが、虚子が拒否している手前どうすることも出来ない。

 昭和10年4月に神戸の須磨寺の俳句大会の際には久女は忌避されている。久女が句会に出すると「座をはずして遠慮して下さい」と言い渡されたという。星野立子は、吟行中の虚子のあとを久女がついてまわり、「
虚子が歩けば歩き、虚子が停まれば停まる。ぴったりとまるで監視でもされているようで、虚子先生はそれがうるさかったのよ」と語ったという。(p201)

 虚子は久女の才能を認めながらも、久女の行動をうとましく感じた。うるさがられた久女は、虚子の関心を独占しようと、活躍がめざましい人びとに嫉妬羨望の気持ちを募らせていったことは「国子の手紙」から知ることができる、そして嫉妬心から生じた久女の俳句界での言動が、嫉妬される側からは「常軌を逸」したものと映り、虚子も虚子の周辺の俳人も久女を遠ざけようとした。(p201)

 虚子の同意が得られなかった久女は、徳富蘇峰に依頼。蘇峰は出版社に話をつけ、久女は草稿まで送る。昭和11年のこと。しかし、この出版は立ち消えになった。理由はよくわからない。直後におこった2・2・6事件の混乱も一因かも知れないという。

 昭和11年10月、久女はホトトギス同人から削除される。虚子はその理由についてはないも言っていないが、「
虚子の側から見た久女の自己顕示欲の強さ、虚子へのうるさいまでの傾倒、句集出版への執着、そこから発した「常軌を逸」した行動、さらには虚子から離反した秋桜子との交流などがまずあるだろう。」しかし、すでにホトトギスには久女の句はまったく入選しておらず、あえて同人削除にはおよばない。それでも虚子が同人削除という最後通牒を突きつけたのは、蘇峰を介しての句集出版計画があったことが関係していると考えざるを得ないと著者は言う。(p213)

 同人から削除されても久女は他の結社に入るとことはなかった。『俳句研究』昭和12年10月号には以下のような句を含む10句が載った。
 押しとほす俳句嫌ひの青田風
 虚子ぎらひかな女嫌ひのひとへ帯 
 坂本はこれら心情吐露の句は、久女の背景を放れても季語の働きも良く、切れが良いとしている。

 昭和13年5月には長女の結婚を詠んだ2句が、2年ぶりでホトトギスに載る。
 母として新居訪ふなり菊の晴
 新婚の昌子美しさんま焼く

 同年7月号の2句がホトトギスの最後の句となった。
 苺摘む盗癖の子らをあはれとも
 百合を掘り蕨を干して生活す

 筆者は各種資料を調べて、久女は昭和14年以降は俳句を作っていないと結論づけている。
 昭和14年以後、女流俳人が次々に句集を出している。長谷川かな女「雨月」、汀子・立子姉妹句集「春雪・鎌倉」、竹下しづの女「颯」(実際は風偏に立)、橋本多佳子の「海燕」が刊行されている。しづの女の長男が高校時代に作った俳句連盟の機関誌「成層圏」には、金子兜太も投句し育っていったという。

 久女は入院先の太宰府の保養院で昭和21年1月に亡くなる。夫は最後まで面倒を見たようだ。

 昭和27年、角川書店から「杉田久女句集」が発刊された。長女昌子の尽力によるところが大きい。虚子が序句を寄せている。
 思ひ出し悼む心や露滋し
 1401句を収録。虚子は昭和32年の久女の遺骨の信州への分骨に際し、墓碑の揮毫までしている。これをもって虚子と久女との間はハッピーエンドとしたいが、句集に寄せられた、虚子の序文を読むと、そうとは言えないと筆者はいう。弟子の句集を喜ぶにしてはふさわしくない言葉が出て来る。例えば「行動にやや不可解なものがあり」「精神分裂の度を早め」と言った類い。ただ才能は認めていた。「輝かしい存在」「群を抜いて居た」とし、その作品に「清艶高華」という賛辞を送っている。

 本書には「国子の手紙」という虚子の創作が載っている。これは久女から虚子宛に送られた手紙をもとに書いたもの。娘の昌子の了承を得て作品とした。生々しい久女の声が聞こえる手紙で、従来の久女伝説が作られるもとになったのだろう。だが、筆者はそこから、従来とは違う久女像を引き出している。

 今、俳句界には女性の活躍がめざましい。私の属する『天為』の例会に行くと、圧倒的に女性の参加者が多い。女性俳人の養成に力を注いだ虚子の功績ともいえる。久女もそうした虚子に見いだされた一人だが、最後は離反することになった。

 結社とそれに属する個人との関係を考える上で面白い本だった。
「汀女句集」の巻頭で虚子は「
選は創作なり」と述べ、さらに「今日の汀女といふものを作り上げたのは、あなたの作句の力と私の選の力が相待(ママ)つて出来たものと思ひます。」と述べる。続けて著者は言う:俳句という極小の詩は、省略の詩である。余分なものを削いで、削いで作られるのである。その省略ゆえに、思いが言い尽くせているかどうか、第三者の目が必要になり、芭蕉であっても、弟子に意見を求めたのである。(p146)

 大正から昭和初期の俳壇の事情を知る上でも色々参考になった。
 巻末には本書に引用された久女の全句と、触れられた人物名の索引があり、便利。

 表紙カバーを初め、何枚かの久女の写真が載っているが、鼻筋の通った美人である。

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書名 源氏物語(二) 著者 紫式部、柳井滋他校注 No
2020-5
発行所 岩波文庫 発行年 2017年 読了年月日 2020-03-30 記入年月日 2020-03-31

 紅葉賀・花宴・葵・賢木・花散里・須磨・明石を収載。

 源氏物語の中でも、もっともドラマティックな展開を見せる巻。
 紅葉を愛で、花を愛でる宮中の宴で、人々は源氏の美しさ、舞の素晴らしさに魅了される。しかし、作者はその見事さにある種の不安を感じる。その不安は本巻では現実のものとなる。藤壺は男の子を産むが、源氏の子である。藤壺は桐壺帝の中宮になる。若宮は成長するに従い、源氏に酷似してくる。

 宮中で花の宴が果てた後 、「朧月夜に似るものぞなき」と口ずさみながら一人で弘徽殿の細殿をやってくる女に会う。源氏は女を一室に連れ込んで契りを結ぶ。源氏の運命を変えることになる、右大臣の六の君、朧月夜の君である。

 桐壺帝は朱雀帝に譲位して、藤壺の生んだ若宮が皇太子となる。源氏はそのことに悩む。朱雀帝の母は右大臣の娘の弘徽殿女御で、左大臣に代わってときめく。そんな中で、源氏は紫の上と新枕を交わす。源氏の妻葵上は男の子を出産する。しかし、そのすぐ後で、物の怪に取りつかれて、急死する。

 六条御息所は前皇太子との間に生んだ娘が斎宮となって伊勢に下るのについて、自身も伊勢へ下る。
 源氏の父、桐壺院は朱雀帝に藤壺の生んだ若宮の後見役として、源氏を頼みとするように遺言して亡くなる。

 朧月夜は宮中に上がり、朱雀帝の寵姫となる。朧月夜は朱雀帝の母、弘徽殿女御の妹である。姉と妹が同腹の生まれかどうかは分からないが、朱雀帝と朧月夜は甥と叔母の関係になる。こうした近親の婚姻関係はこの時代ではタブーとはならないようだ。各巻の終につけられている登場人物の血縁関係は入り組んでいて極めて複雑である。

 朧月夜が右大臣宅に里帰りした際、忍び込んだ源氏との密会の現場を父に見つけられてしまう。このことが原因で、源氏は官位をすべて失い、須磨に落ちてゆく。明石のもと国守であった明石入道は、娘の良き嫁ぎ先を探していたが、須磨に源氏がいることを知り、明石に招く。源氏は明石に移る。やがて、許されて京に戻る。

三島由紀夫は『小説家の休暇』の中で「花の宴」と「胡蝶」を取り上げ、そのいずれの巻も「「
艶なる宴」に充ち、快楽は空中に漂って、いかなる帰結をも怖れずに、絶対の現在の中を胡蝶のように羽博いている」として、「このような時のつかのまの静止の頂点なしに、源氏物語という長大な物語は成立しなかった」と述べている。
 さすが三島というべき評論だ。

 私は源氏物語の女性の中では、朧月夜が一番好きである。登場の仕方が劇的で、肉声が聞こえる唯一の女性だ。近代的でやや危なかっしいが魅力的な女性だ。

 朧月夜については「朧月夜」という題でエッセイを書いた。

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書名 子規紀行文集 著者 正岡子規 No
2020-6
発行所 岩波文庫 発行年 2019年12月 読了年月日 2020-04-06 記入年月日 2020-05-05

 かつて中山道を歩いた際、木曽の福島と上松の間にある「かけはし」に当地を詠んだ子規の句と歌が刻まれた石碑があった。かけはしには芭蕉の句碑もあり、これも意外だったが、根岸の病床でひたすら俳句を吟じたというイメージが強い子規がこんなところにまで来ていたのに驚いた。たまたま岩波文庫で刊行されたばかりの本書が目にとまった。

「はて知らずの記」「水戸紀行」「かけはしの記」「旅の旅の旅」「鎌倉一見の記」「従軍紀事」「散策集」「亀戸まで」の8編の紀行文を収める。子規は大変な旅行好きだったのだ、

 「旅の旅の旅」の冒頭で、子規の旅についての考えが述べられる。
 汽車に乗って東海道53宿の風景を一日に見ることは出来るが、そんなものははかなく、心に残らない。「
誰かはこれを指して旅といふ。か々る旅は夢と異なるなきなり。
 車に乗り、肉を食い、手を叩けば盃酒がたちまち出てきて、財布を敲けば美人が嫣然として現れる。「
誰かはこれを指して客舎といふ。か々る客舎は公共の別荘めきていとうるさし。
 子規の考える本当の旅とは:
 
幾里の登り坂を草鞋のあら緒にくはれて、見知らぬ順礼の介抱に他生の縁を感じ、馬子に叱られ、駕籠舁に嘲られながら、ぶらりぶらりと急がぬ旅路に白雲を踏み、草花を摘む。実(げ)にやもののあはれはこれよりぞ知るべき。はた十銭のはたごに六部道者と会ひ宿の寝言は熟眠(うまい)を驚かし、小石に似たる飯、馬の尿に似たる渋茶に、ひもじ腹を肥やして、一枚の木の葉蒲団に終夜の寒さを忍ぶ。いずれか風流の極意ならざる。

「旅の旅の旅」はまさにこれを実践している。大磯から箱根、三島、修善寺、熱海とまわって大磯に戻る3泊の旅。三島から修善寺まではさすがに馬車を使ったが、あとはすべて徒歩。三日目は修善寺から熱海に向かうが、熱海の手前で日が暮れ、9時頃小村に着く。宿を求めたが、断られ、他の二軒に行くがそこも断られる。仕方なしに最初の宿に頼み込んでどうやら留めてもらう。家の中では五,六人が炉端でトウモロコシを剝いている。板のような蒲団に寝、寝返りを打つたびに床がぎしぎしと鳴る。そんな一夜だ。翌日は雨模様の中を大磯まで徒歩で帰る。

「果て知らずの記」は芭蕉にならって東北の旅。明治26年夏の紀行。東京を出て八郎潟まで行き、帰りは三沢、仙台経由で帰っている。宿の予約などしないで出かけたようで、先々で不快な目に遭い、憤っているが、そうしたトラブルをどことなく楽しんでいる風情だ。読者を意識して面白く書いている。当然ながらたくさん詠んでいる。この紀行では110句・首が詠まれている。短歌はほんの数首であとは俳句。いずれも属目句で平明でわかりやすい。夏のためか、季語に「涼しさ」がやたら多い。それと、季重なりもかなりある。

「かけはしの記」は横川から碓氷峠を越えて、長野の善光寺へより、そこから木曽路を南下し、犬山に至る旅行。かけはしは、木曽川の岸壁に懸けられた桟道で、真下を木曽川の急流が流れるところ。
そこで詠んだ句と歌

かけはしやあぶない処に山つつじ
桟や水へも落ちず五月雨
むかしたれ雲のゆききのあとつけてわたしそめけん木曽のかけはし
いずれも現在河岸の一枚の立派な石碑に彫られている。

「従軍紀事」は日清戦争の際、近衛師団に従軍した際の記録。満州に渡るが、戦場のことは出てこない。船中の部屋が狭いとか食事が粗末とか、満州での宿舎が狭いとか言った苦情を述べるが、軍当局が一向に聞き入れないといった内容。従軍記者が如何に軍隊に冷遇されたかを述べ、理論の上では官尊民卑はないはずだが、実際にはその風潮は残っていると、強く訴えている。

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書名 源氏物語(三) 著者 紫式部  柳井滋他校注 No
2020-7
発行所 岩波文庫 発行年 2018年 読了年月日 2020-04-29 記入年月日 2020-05-05

 澪標、蓬生、関屋、絵合、松風、薄雲、朝顔、少女の8巻を収める。

 須磨明石から都に戻った源氏の栄達、栄華ぶりが描かれる。この巻の終では源氏は太政大臣であり、六条に豪壮な邸宅を構え、東西南北それぞれに寝殿を作り、四季の花花を植え、紫上のみならず、明石の君、末摘花、花散里などを住まわせる。源氏28歳から33歳までの物語。

 源氏が京に戻ってしばらくすると、朱雀帝が譲位し、冷泉帝が継ぐ。冷泉帝は藤壺宮の産んだ皇子で、実際の父は源氏である。桐壺院の死去に伴って、斎宮の交代があり、御息所は娘とともに京に戻ってくる。御息所は娘の後見を源氏に頼んで亡くなる。源氏も朱雀帝もこの娘、前斎院に恋心を抱くが、結局は冷泉帝の中宮となる。冷泉帝の中宮を巡っては、源氏の親友で、左大臣の息子、この巻の最後では内大臣となるかつての頭中将の娘と、紫上の父、式部卿宮の娘(紫上とは別腹)の3者が競合するが、結局は源氏の推す前斎院が入内する。

 誰が中宮になるかは大きなことだが、このほか宮中での絵合わせや、五節の舞姫めぐる競争でも源氏の推す少女が他のライバルたちを蹴落とす。絵合わせでは源氏自身が須磨明石で書いた絵日記が、当時の絵師たちの絵より高い評価を受ける。万能の貴公子ぶりは、この巻でも遺憾なく発揮される。

 源氏は地位も上がり、また、紫上への気兼ねもあって、以前のようには簡単に女のもとを訪れることは憚っているが、それでも、末摘花、朝顔の君、花散里への好き心は衰えない。 

 明石君は源氏との間に姫を産む。源氏はこの姫を将来入内させようと、母子を京に呼ぶ。紫上に遠慮して最初は桂の大堰川のほとりに住まわせていたが、最後は六条の館に引き取る。姫は紫上のもとで養育される。姫のかわいらしさに、紫上の明石君への嫉妬の感情も薄らぐ。明石君は家柄の低い生まだが、万事控えめで、しっかり者で、なかなか魅力的な女性だ。

 読んでいて、こうした家柄の違い、官位の違いへの言及が到るところでなされる。平安時代が、極めて厳密な身分制社会であったことが分かる。紫式部の書き方には、下層階級、例えば地方の受領クラスですら、見下したところがある。

 藤壺は亡くなる。藤壺の49日の法要が過ぎた頃、藤壺に長年仕えた老僧が、冷泉帝にその出生の秘密をそれとなく漏らす。帝は悩み、譲位を言い出すが、源氏は強くいさめる。

「少女」は源氏と葵上の間に生まれた夕霧と内大臣(頭中将)の娘、雲居雁との幼い恋の物語。二人は左大臣の未亡人のもと、同じ屋敷で育てられる。夕霧は元服を迎える。二人の間には恋心が芽生える。二人の祖母である未亡人はその恋をあたたかく見守り肯定するが、内大臣は雲居雁を宮廷に入内させようと、二人を引き離すよう、強く要求する。結局、夕霧は源氏の六条の館に引き取らる。源氏は夕霧にまず学問をつけようとし、官位は6位という低い官位しか与えなかった。夕霧は官位の低いことで左大臣邸の乳母から軽蔑されるシーンがある。ここにも徹底した身分制の一例が見られる。夕霧は学問に精進し、学者も驚くほどの知識を身につける。

 六条館で夕霧の面倒を見るのは花散里。チラリと見る花散里の君は少しも美人ではない。源氏はこうした美人ではない人も、好きになり、決して見捨てないのに、自分は雲居雁の美貌ばかりに恋していると、夕霧は反省する。末摘花などは異様といえる容貌だが、京に戻った源氏が、たまたまその住処の前を通って、余りの荒廃ぶりに驚き、手を入れさせる。そして、最後には六条の館に引き取っている。財力があるとは言え、こうした人柄が、人々を引きつけるのだ。

 朧月夜の君は朱雀帝が譲位したのに伴って、宮中を去るが、源氏は時々は文を交わしている。朱雀院は朧月夜との間に、子が出来なかったことを嘆く。同じように、源氏も紫上との間に子が出来ないことを嘆く。

 これで全編の三分の一を読み終えたが、相変わらず、注釈頼りだ。ただ、風景描写になるとすらすら読める。日本の作家は昔から風景描写に優れていると三島由紀夫は言っているが、『源氏物語』にもそのことは遺憾なく読み取れる。

 短歌がたくさん出て来る。男女の間で交わされるものだ。よくこんなに早く自分の気持ちを歌にすることが出来るなと感心する。それも、かなり技巧的で凝った歌がほとんどで、読み下しただけではその含意がわからない。先行歌を踏まえているものも多い。それほど、当時の貴族は歌に通じていたのか。
 本巻から一首を引く
入り日さす峰にたなびく薄雲はもの思ふ袖に色やまがへる
 「薄雲」の藤壺の死に対して源氏の詠んだ歌。これはわかりやすい歌だ。

 巻末の今西裕一郎の「物語と歴史の間」とい考察が面白い。『源氏物語』は歴史を踏まえているという。桐壺帝は醍醐帝、冷泉帝は陽成帝だというのだ。紫式部の時代には後宮に「女御、更衣あまたさぶろふ」ことはなかった。そうした状況は醍醐帝の宮廷を暗示しているという。

 陽成帝は在原の業平が清和天皇の后、二条后高子に産ませた子だという従来からの風説があり、それは式部の時代にも宮廷でも密かにささやかれていたのではないか。それをもとに『源氏物語』ができあがった。これにはわけがある。それは文徳-清和-陽成と続いた皇統が陽成帝で切れて、光孝-宇多-醍醐と変わっている。何が原因でこのような皇統の切り替えがおこったかは謎であるが、その理由は陽成帝の出生にあるのではないかと今西は言う。式部の仕えた一条帝は光孝-宇多-醍醐の系統に属する。陽成帝の出生の風説に対してはそれほど遠慮する必要がなかった。それだから、天皇が不義の子であると言う大胆な物語が出来たのだという。


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書名 哲学と宗教全史 著者 出口治明 No
2020-8
発行所 ダイアモンド社 発行年 2019年8月 読了年月日 2020-05-10 記入年月日 2020-05-14

 何かですごい本だとあったので読んでみた。すごい本だった。古代から20世紀に至る。神をどのように考えてきたが述べられる。。記述は明解でわかりやすい。ハードカバー450ページの分厚い本だが、コロナウイルス緊急事態宣言下で、家に籠もり、3日間で読み切った。驚くのは著者の経歴。京大を卒業後日本生命に入社、日本生命を退社後は還暦でライフネット生命というベンチャー企業を立ち上げ、2年前にそこを退き今は立命館アジア太平洋大学学長。訪れた世界の都市は1400、読んだ本は1万冊を超えると、巻末の履歴にはある。100点以上の肖像画が載せられていて、人物に親しみを感じる。

 密教はインドの民間の呪術的な祭典やヒンドゥー教を模倣しながら誕生した。7世紀中頃インドで盛んになり、チベット、中国へと浸透していった。(p272~)。密教は遠大な理想を説く大日経の教えと、金剛頂教の世俗的な願いを実現させる呪術的な儀式を、お金持ち中心に布教した。「
あなたはりっぱなひとですから、そっとあなただけに尊い教えをお授けいたしましょう。秘密にお祈りいたしましょう

 私の菩提寺は真言宗で、読経の前には僧侶が不思議な仕草をする。密教の流儀なのだが、密教のことは何も知識がなかった。

カント
 カントはイングランドの経験論と大陸の合理論を統合しようと考えた。(353~)。
人はもの自体を見ているのではなく、認識の枠がとらえた現象を見ているのであると、カントは言う。そして、認識の枠組みという考え方は現代の大脳生理学が解明した研究成果と同じである。

ヘーゲル
 ヘーゲルの弁証法は「ものごとは進歩する」という前提に立つ。
 「絶対精神を手に入れて人間が自由になるプロセスが歴史である」とヘーゲルは考えた。
 弁証法の理論によって、家族という愛情の世界と市民社会という権利の世界を掛け合わせると、家族のような愛と市民社会の権利とを一つにした理想国家が生まれ、それは具体的にはプロイセン王国であるとした(p368)
 社会保険制度を世界で初めて設けたのはビスマルクである。ビスマルクの背後にはヘーゲルがいたのではないかと、著者は言う。(p374)

ショーペンハウアー
 ショーペンハウアーはヘーゲルを否定し、歴史を動かしているのは人間の盲目的な生への意思であるとした。この考え方は今日では多くの支持を集めている(p380)。彼の思想はその死後多くの人々に影響を与え続けていて、ニーチェ、ウィトゲンシュタイン、アインシュタイン、フロイトなどがその代表である。(p385)

キルケゴール
 人は自らの「主体的な真理」を求めて生きるべきである。優先されるべきは全体的な進歩ではないと主張した。主体的な「実存」を強調したこの発想は現代の実存主義に繋がっている(p391)。キルケゴールは人が主体的実存を得るための行き着く先は「宗教的実存」であると考え、理性を越えた神の存在を信じ、自らの心を神に投じることで主体的な実存を得られると結論づけた。

マルクス
 マルクスは世界を進歩させるのはヘーゲルの言うような絶対精神のような観念ではなく物質なのだとした。(p393)ここに言う物質とは社会の経済機構が生み出す生産力を指す。

ニーチェ
 ニーチェは絶対者がいなくても、神が死んでも生きていく人はいる。ニヒリズムを能動的に受けいれて、生きていこうとする強い人間がいると考えた。(p400)
 ニーチェがヘーゲルやマルクスともっとも異なるのは歴史の捉え方。前者は歴史は理想的な方向に進化していくと考えたが、ニーチェは 歴史は永劫回帰しているとした。仏教の輪廻転生と同じ思想。代替不可能な一回性の連続が人生であり、それは人間の運命である。その運命を敢然と受けいれて前向きに生きていく人がいるのだという。そうした人にとって一番大切な理念は力への意志であるとニーチェは考えた。
 ニーチェの「超人の思想」はローマのストア派の主張に似たところがあり、人間の考えることは繰り返すようで、人間はさほど賢くはないと著者は言う(p402)

フロイト
 フロイトは晩年には人間の無意識を支配するものとして、生の本能(エロス)と死の本能(タナトス)の存在を指摘した。

ソシュール
 ソシュールは言語は記号であると考えた。(p422)。連続体である自然を分断することが文化の本質であるとした。世界をどういう記号で区切るか、それが世界を規定し、それぞれの世界像を作っていることを見抜いた。

ウィトゲンシュタイン
 ウィトゲンシュタインは世界は言語によって写し取られたものであり、僕たちが認識している世界は、言語がなかったら認識できないと考えた。(p430)
 それぞれの民族や文化のなかで生きてきた人間が、神や歴史とか言う言葉をどういう意味で使っていたのか、それを分析することが哲学に与えられた課題であるとした。

サルトル
 「
実存は本質に先立つ」「人間は自由の刑に処せられている」(p434)
サルトルは唯物論によってではなく「
自由な人間が主体的に行動する」というアンガージュマンの思想を軸として、ヘーゲルからマルクスへと続いてきた進歩史観を再生できないかと考えていたと、著者は推測する。

レビ=ストロース
 レビ=ストロースはサルトルを否定し、自由な人間も人間の主体的な行動も実は存在しないとした。人間は社会の構造のなかで、そこに染まって生きるのだとした。(p440)
世界は人間なしに始まったし、人間なしに終わるだろう

著者は「人間は自由な存在ではないし、主体的にもたいした行動はできない」というレビ=ストロースの徹底的な唯物論の割り切った思考が登場したことで、人間の思考パターンはほとんど出尽くしたように思われるとする(p443)

膨大な参考書が提示されている。圧倒的に岩波文庫が多い。
日本人は一人も取り上げられない。


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書名 日本文学の発生・序説 著者 折口信夫 No
2020-9
発行所 角川ソフィア文庫 発行年 昭和50年初版 読了年月日 2020-05-18 記入年月日 2020-05-19

 内容が難しくまた独特の文体による文章も難渋で読みにくい本だ。特に古事記、日本書紀、風土記などを引用した前半部は、著者の言う「ことわざ」が歌に変化して行った過程を論じているものと思われるが、難しい。三分の一ほど進んで、「小説戯曲文学における物語要素」あたりから少しは理解出来るようになる。

 この章では日本の物語の基本にある貴種流離譚を指摘する。その典型として源氏物語を取り上げ、源氏の須磨・明石への流謫をあげる。そして、源氏物語以前にもこうした貴種流離譚がいくつかあったことを示し、例えば竹取物語にもこうした貴種流離譚が物語の中心としてあることを指摘する。さらに、そうした物語は、史実としての罪を得た貴人のことが人々の間に語り継がれていることが背景になっているという。

 貴種流離譚という見方は折口が初めて言いだしたことのようだ。著者は言う:
昔物語の上の貴人のさすらいが、伝承の詞章(ことのは)から、文学の上にとりあげられた一つの絶頂が、源氏の須磨・明石の巻である。この巻々こそ、「物語要素」としての貴種流離譚の持っているすべてのものが出ており、そのうえに、物語の内容にもなり、それを包んできた民族の感激といったものも、「輝いた愁い」というべき艶めかしさに潤うて現れているのである。(p134)

 源氏物語については、明治になって悪文だという人がかなりいた。この風潮を打ち破ったのは谷崎源氏である。谷崎源氏によって、ほとんど原文に沿うような気持ちで源氏物語に接することが出来るようになったと、谷崎源氏を高く評価している(p110) 

 この章のあとには「文学と饗宴」「異人と文学」「翁舞・翁歌」の3章が続くが、いずれも民俗学的考察で、なじみのにくい。

「日本文学の内容」では文学の本質と言うことが考察される。「
本質問題は、日本文学が段々発生してきた順序に沿うて考えるより外はないと思う。また、そうしないでは、日本文学の本質はわかるまい」と述べる。(p222)。続けて「これが俳諧の本質だと長く考えられて来ているものは、多く芭蕉にはじまっており、芭蕉の説を失うまいと努めていた者によって、いくらか拡張されて来ただけだ。それでは歴史の一局部で、まだ外に多くの残りがあるわけだ。

芭蕉以後に優れた人が出たとしたら、誹諧の本質は変わって来ていたにちがいない」と述べたあとで、蕪村が芭蕉から少し抜け出たが、完全には抜け出ることがなく忘れられていた。「子規の蕪村発掘は、さすがに批評家らしい威力を発揮したのである。・・・・また、作家としてずばぬけた点は、誹諧の内容を変化させたところにある。過去の誹諧の本質を正確に掴んでいたところから、そうした飛躍も出来たのである。」p225以下誹諧論は面白い。「誹諧をおどけとして見れば、芭蕉以前に誹諧の本質的なものがある。」本質は動くべからざるものなのに、事実は動くものとして現れて来るとし「事実誹諧の本質から離れたものを作った芭蕉は、歴史の上からは、誹諧をうち立てた人として見られている

 支那文学に触れる以前に日本人に「
文学的な刺戟を与えたものは、世の中をさすろうて、遠くへ行く者の心、および、それに添うて出て来た、後世ならば義理人情にからまれたというべきどうにもならない恋物語だ。」(p236)。

「日本文学発想法の一面―誹諧文学と隠者文学」

俳句および誹諧の考察の基礎は、どうあっても隠者文学に、確かな所を据えられなばならぬ。」(p258)

日本芸術が、その起源に近い時代ほど、競技精神を豊かに持っていたことは、相撲が演劇的要素を多分に持っていたことなどからもうなずけるが、ことに歌では、掛合いが、盛んに行われたのである。」(p259)。こうした掛合で歌の上の句と下の句を掛け合う、つまり連歌に繋がる。そして連歌作者の主な階級は寺家だった。僧あるいは半僧半俗の生活者は隠者の典型とも言える。かくして、隠者が力を注いだのは連歌であった、と著者は言う。

無頼の徒の色彩を、もっとも濃厚に示した文学者は、誹諧師であった。誹諧師が、文学者としての態度とともに、歌舞妓者の要素を示していることは、芭蕉の初期の作品や、私生活を見ても観取出来るのである。」という。そして、芭蕉の29歳の時の「貝おほひ」は彼が歌舞妓誹諧・奴誹諧に踏み込んでいたことを示している。無頼漢気取りで、文学を作っていたと考えられると、折口は言う。(p272)

日本の文学は、常におどけ・滑稽に進むことによってのみ、生活の真実に、触れて行っているようである」(p274)述べたあと、「芭蕉その他の誹諧を見ても、滑稽な、えろちっくなことを言っていながら、行き尽くすと、寂しさが出て来るのである。」(p276)「賎しいことばで言いたい放題のことを言った時、生活にぴったりした境地が出て来る。かくして芭蕉の誹諧は本格的のものになったのである」(p277)。

誹諧の作者は、読者に自分と同様の知識があることを予想して、作っているのだ。・・・・みなおのおの持っている知識を最高限度に用いるという技巧を誇りとした。従って芭蕉の発句にも、独立性の希薄なものが多い。」(p279)

「笑う民族文学」
蕪村は、芭蕉が文学と人生とに、はっきりした区画をたてなかったのに対し、その区画を明瞭にたてようとし、その結果、文学になり過ぎているところがある。(中略)蕪村の発見したのは、美であって、蕪村はそこに土台を据えている。」(p303)

 子規については次のように述べる:
子規の俳句のよさは、どうかすると掴み損って、手からそれることが多い。子規のよい作物となると、もう誹諧味が、中心ではなくなっているようだ。ただ誹諧から引き続いた歴史の中にいるから、そう思われるだけで、実は誹諧とは違ったものになっていたと思う。約束通り、十七字の形で詠んでいるというだけのことで、もうこれまでの誹諧ではなく、いわば別の誹諧になって来ていた。日本文学の本質として持っている一種の笑い、つまり、以前の誹諧味にはまったく関係がなくなっていたのではないか。(p307)

本書は戦前から戦後にかけて「日本評論」「俳句研究」に発表されたものと、折口が書きためていた自筆原稿をもとに構成されたもの。


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書名 坂本宮尾集 著者 坂本宮尾 No
2020-10
発行所 俳人協会 発行年 令和元年8月 読了年月日 2020-05-29 記入年月日 2020-05-30

 2月に著者が選者をした句会に参加した際、手に入れた。自註現代俳句シリーズ12期46とのこと。冒頭の昭和43年、23歳の時、東京女子大の句会で山口青邨の選を得た句から、平成30年の句まで、300句余りが載る。いずれも自注があり、わかりやすい、全体の印象として、凝った作り方は少なく、素直な叙景句、心情句が多い。イギリスに留学したこともあり、海外詠も多い。

句会で選句する気持ちで、以下の句を選び出した。年代順。

灯台の遠き灯加へ冬銀河
 遠くにあれば灯台の灯も星となって銀河に飲み込まれてしまう。雄大な句。

ぬばたまの夜やひと触れし髪洗ふ
 紛れもなく恋の句だろうと、自注にも言う。

憂国忌饂飩のやうに眠りけり
 室生犀星に「うどんのように笑った」という表現があると、大昔に習った記憶がある。 憂国忌との対比が面白い。三島由紀夫はこの句にどんな顔をするだろうか。

橋渡り来るセーターの黒い胸
 私自身が作りたかったような句。角川「歳時記」に採録されているとのこと。

はるかなる天動説や畑を打つ
 取り合わせの意外さ。第一句集『天動説』はこの句からとったと。

弓を引くひとの顎(あぎと)や蝉時雨
 弓を引き絞ったとき、矢は顎に添える。その緊張感。

乳牛の斑に夏の日はしずかなる
 ゆったりと夏草を食むホルスタイン

言葉とぎれては湯豆腐の浮きあがる
 じっと鍋をのぞき込む
明け易き舫ひ解かれし舟ひとつ
 6月の朝方母は93歳で亡くなったと自注。自注と合わせて読むと、この句が一番だと思った。

風を聴く角かがやかせ蝸牛
 「風を聴く」がいい。

網戸の灯猫の友だち来てをりぬ
 私も網戸にへばりついていた猫を引き取り、18年間飼った。

念入りに顔洗ひをる春の蠅
 一茶は「蠅が手をすり足をする」と詠んだがあれは顔を洗っていたのだ。

翡翠を見し夜包丁よく切れる
 包丁を使いながら浮かんだという。その連想の飛躍が素晴らしい。

はじめてのこの町林檎の小さきこと
 ミネアポリスでの吟。外国の林檎は小さいと私もいつも思う。

聖夜の灯巨船のごとくマンハッタ
 想像できる。

山茱萸の光こまかし励むべし
 山茱萸の花を光こまかしととらえた。

山笑ふけふ針穴のよく見ゆる
 針の穴に春の明るさをとらえた繊細さ

シベリアへつづく青さを鳥帰る
 爽快な句。青さは空のことだろう。鳥たちの旅の無事を祈る。
 

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書名 源氏物語(四) 著者 紫式部、柳井滋他校注 No
2020-11
発行所 岩波文庫 発行年 2018年 読了年月日 2020-06-20 記入年月日 2020-08-23

 かつての頭中将と夕顔の間の遺児、玉鬘を巡る「玉鬘十帖」。玉鬘、初音、胡蝶、蛍、常夏、篝火、野分、行幸、藤袴、真木柱の巻を収める。

 栄華の絶頂、六条院、玉鬘に対する揺れ動く源氏の微妙な心理、同じ六条院に住むことになった源氏の女に対する紫上の気持ち、と言ったところが本巻の読みどころ。紫上は理想化された女性で源氏の女性関係もそのまま受けいれてきたというイメージを持っていたが、決してそんなことはない。人並みの嫉妬心を持つ。

 紫の上、秋好中宮、明石の上、花散里、玉鬘が六条院に、さらに二条院には末摘花、空蝉と、今までに関係した女性を手厚く遇している。源氏は太政大臣で、政務はかつての頭中将である現内大臣に任せていて、宮中への出仕もほとんどない。

 広壮な六条院の「春の町」には紫上が住み、対する「秋の町」には秋好中宮が住む。「胡蝶」の冒頭、やよひの二十日あまりのころ、春の町で雅楽の宴を催す。秋の町の女房たちが、源氏がわざわざ作らせた、唐風の舟に乗って、池を巡って春の町を訪れる。以下その描写:

 
竜頭鷁首(りょうとうげきす)を唐の装ひにことことしうしつらひて、楫取の棹さす童べ、みなみづら結ひて、唐土だたせて、さる大きなる池のなかにさし出でたれば、まことの知らぬ国に来たらむ心ちして、あはれにおもしろく、見ならはぬ女房などは思ふ。
 中島の入江の岩陰にさし寄せて見れば、はかなき石のた々ずまひも、ただ絵にかいたらむやうなり。こなたかなた霞みあひたる梢ども、錦を引きわたせるに、御前の方は、はるばると見やられて、色を増したる柳、枝を垂れたる。花もえも言はぬにほひを散らしたり。ほかには盛り過ぎたる桜も、いま盛りにほほ笑み、廊をめぐれる藤の色もこまやかに開けゆきにけり。まして池の水に影を映したる山吹、岸よりこぼれていみじき盛りなり。水鳥どもの、つがひを離れず遊びつつ、細き枝どもを食ひて飛びちがふ、鴛鴦の波の綾に文まじへたるなど、ものの絵様にもかきとらまほしき、まことに斧の柄も朽たいつべう思ひつつ、日を暮らす。
(p172)

「胡蝶」と「花の宴」とを三島由紀夫は:
「艶なる宴」に充ち、快楽は空中に漂って、いかなる帰結をも怖れずに、絶対の現在の中を胡蝶のように羽博いている」として、「このような時のつかのまの静止の頂点なしに、源氏物語という長大な物語は成立しなかった」と述べている。『小説家の休暇

 逢瀬の最中に突然亡くなってしまった夕顔を源氏は今でも忘れることが出来ない。夕顔の遺児、玉鬘は乳母のもとで育てられていた。乳母の夫が九州に転任になり、玉鬘もそちらに移る。夫は、当地でなくなるが、玉鬘を無事に上京させるよう遺言する。二十歳になった玉鬘には求婚者が現れる。乳母は求婚者の手から逃れて玉鬘を連れてようやく都に着く。乳母と玉鬘一行がお礼参りに初瀬に籠もっているとき、たまたま紫上に仕える女房右近も初瀬にいて、玉鬘一行を目にする。右近はかつて夕顔に仕えていたのだ。

 源氏は玉鬘を引き取り、完成したばかりの六条院に住まわせる。玉鬘の父は現内大臣であるが、源氏は玉鬘のことは内緒にする。美しい玉鬘に源氏は恋心を抱く。204ページから218ページにかけて、玉鬘の元を訪れた源氏の口説きが具体的に述べられる。添い寝までしてかき口説くが、男女関係までには到らなかった。親代わりという立場、あるいは気になる世間の目が源氏を思いとどまらせたのだ。玉鬘は源氏の恋心に心を痛める。しかし、最後までなびくことはしなかった。明石の君といい、玉鬘といい、いわゆる中品の女性はしっかりしている。

 玉鬘の噂を聞きつけて、多くの男どもが恋心を起こし、懸想文を使わす。兵部卿宮(源氏の異母弟)、夕霧、あるいは内大臣の息子の柏木など。多くのライバルを押しのけて、玉鬘を妻に迎えたのは黒髭大将であった。今の常識からは考えられないのだが、黒髭にはれっきとした北の方がいて、子供も3人もいる。北の方の父、式部卿宮は北の方を引き取ろうとする。玉鬘のもとに出かけようとした黒髭に向かって、北の方は香炉の灰を浴びせかける。源氏物語にしては珍しいシーンだ。北の方は結局父式部卿宮に引き取られる。

 源氏はこの結婚にあまり好意を持っていない。玉鬘は行幸の際見かけた冷泉帝に憧れ、典侍になることを希望し源氏はその願いをえてやる。典侍は天皇の傍に仕える女官だから、朧月夜がそうであったように宮中に出仕し、天皇の寵姫にもなり得る。それと、結婚が両立するというのも、今の常識ではわからない。黒髭は、玉鬘が宮中から退出した機会をとらえ、自分の屋敷に住まわせる。この巻の終では、玉鬘は黒髭の子供を産む。

 内大臣は娘の雲居雁と夕霧の結婚を相変わらず認めない。夕霧は、あるとき紫上の姿を垣間見て、その美しさに魅了され、ほのかな恋心さえ抱く。大人になるまで、継母的存在である紫上を見たことがないというのも今では考えられないこと。

 玉鬘が出現してから、内大臣には別の娘が名乗り出る。内大臣が身分の低い女性に産ませた娘で、近江君という。内大臣邸に引き取られるが、早口で、がさつで、怖いもの知らずで源氏物語の登場人物としては、極めて異色だ。紫式部も下流階層の娘としてからかった書き方をしているが、読んでいると言動にユーモアがあってホッとする。紫式部も、息抜きとしてストーリーとは関係ないこのような人物を登場させたのかも知れない。

 本巻では、源氏は政治の一線からは退いていて、六条院での優雅な生活を楽しんでいる余裕のせいか、女性に対して、随所で軽口を聞き、皮肉ったりからかったりしている。

 源氏は玉鬘や紫上に対し、物語の効用を説き、日本紀などはこの世に起こったことのほんの一部に過ぎず、物語にこそ道理にかなっていると説く。式部の物語論であろう。(「蛍」p254~)。もっとも、源氏は玉鬘と自分が世にまたとない物語の主人公になれるように仕立てようと、なかなかなびかない玉鬘を口説く手段と登場差せして物語論を語っているのだが。

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書名 ヴェニスに死す 著者 トーマス・マン、高橋義孝訳 No
2020-12
発行所 新潮文庫 発行年 昭和62年第37刷 読了年月日 2020-07-11 記入年月日 2020-08-22

 再読。以前読んだのは、高校生の時だった気がする。新型コロナウイルスの世界的流行に際し、カミュの『ペスト』に触れた記事は見たことがある。『ヴェニスに死す』も、悪疫の流行するヴェニスで、美少年への愛に殉じた作家の話であることを思いだして、再読した。読みかえしてみて、当時難解で退屈だと思っていた前半部、主人公の人柄を述べた部分が、この小説では大きな意味を持つことに気が付いた。悪疫のはやるヴェニスにとどまった主人公の死が予想されるところで終わったと思っていたが、そうではなかった。悪疫はコレラであった。

 グスタフ・アシェンバハ、50歳、のモットーは「頑張ること」であった。「・
・・才能によって課せられた諸々の使命をかよわい肩に担い、遠い途を歩いて行こうと思ったから、彼は極度に規律ということを必要とした。・・・・彼は自分の一日を朝早く冷水を胸や背に浴びせて始め、それから銀の燭台二つに長い蝋燭を立てて、それを原稿の上手に据えおいて、睡眠によって蓄えた力を、二,三時間の、激しく良心的な午前の時間のうちに芸術のために提供した。」「意思の堅牢と執拗とをもって」頑張り通した作家。(p109~)。

 そして、「
彼の人生行路は懐疑と反語の側からくるすべての抑制を乗り越えて、意識的に昂然として威厳への道を辿ることであった。」(p112)

 「
老熟していくアシェンバハは自分の語彙から一切の卑俗な言葉を放逐した。」彼の著作の数ページは文部省の官定教科書に採用され、50歳の誕生日には貴族の身分を授けられ、それを辞退しなかった。(p115)

 謹厳なドイツの男性として描かれている。その彼が思い立って、ヴェニスに赴く。そして、同じホテルで、ポーランド人一家と出会う。

・・・一四歳ぐらいかと思われる少年がひとり、この少年は髪を長くのばしていた。この少年のすばらしい美しさにアシェンバハは唖然とした。蒼白く優雅に静かな面持は、蜂蜜色の髪の毛にとりかこまれ、鼻筋はすんなりとして口元は愛らしく、やさしい神々しい真面目さがあって、ギリシャ芸術最盛期の彫刻作品を想わせたし、しかも形式の完璧にもかかわらず、そこには強い個性的な魅力もあて、 アシェンバハは自然の世界にも芸術の世界にもこれほどまでに巧みな作品をまだ見たことはないと思ったほどである。」(p131)。少年の名はタドゥツィオ。

 海から上がってきた少年について:
少年らしく、優しく引き締まった、生きいきとしたからだつき、捲毛からは水を滴らせ、空と海との深みから出てきた優雅な神のように美しく、水を出て、水をのがれてきた有様を見ていると、神話の世界の事どもも思い出された。少年の姿は、大昔の、ものの根源と神々の誕生とについて物語る詩人の言葉のようであった。アシェンバハは両眼を閉じて、心の中に響き初める太古の歌に耳を澄ませた。(p142) 。アシェンバハは彼がここにいる限りは己もここに居ようと思う。

 ヴェニスのごみごみした町中、運河の発する悪臭に嫌気が差したアシェンバハは保養地を変えようと思った。荷物をまとめて、駅に運ばせ、自身も駅に着いたが、そこで引き返す。引き返したのは耐えられないと思ったヴェニスの臭い、雰囲気が突然懐かしく、自分がいかにそれに親しんだかを悟ったからだ。だが、ヴェニスからの別離をあれほどつらいものにしたのは、タドゥツィオであったことをはっきりと悟る。

 「
美のみが愛するに足るものであると同時にこの目にはっきりと見えるものなのだ。・・・美こそはわれわれが感覚的に受容れ、感覚的に堪えることのできるたった一つの、精神的なものの形式なのだ。」とソクラテスを引用し、さらにソクラテスを引用し続ける。「愛する者は愛せられる者よりも一層神に近い。なぜなら愛せられる者の中には神はいないのに、愛する者の中には神がいるのだから――賢者はこの、かつて人間により考えられた思想の中で、おそらくは最も心こまやかな、最も嘲弄的な思想を語った。憧れというものの持つ一切のずるさ、最も密やかな快楽はつまりこの思想に端を発するのである。(p159)

 ヴェニスの町の雰囲気に怪しいものが出て来る。ドイツ人などの滞在客が引き上げ始めた。コレラがはやりだしたのだ。しかし、「
ホテル業者や商店やその他複雑な観光業全体を脅かす莫大な損害への顧慮が、ヴェニスという街では真実への愛や国際協定尊重心よりも勢力があった。官辺を動かし、黙殺と否定の政策を執拗に維持し」た。

恋する者アシェンバハにとっては、タドゥツィオの旅立ちにも増して心配なことは何一つなかったのであるし、もしタドゥツィオが旅立ってしまいでもしたら、自分はもう生きていく法を知らぬということになるだろうと、省みてやや愕然とした。」(171)

 アシェンバハはとどまり、少年たちが街を歩けばその跡をつけてまわり、床屋では美顔術まで施し若作りに容貌を整えてもらった。

 やがて、少年一家も午後にはホテルをあとにする日が来た。その日の朝、ホテルのビーチでアシェンバハは腰掛けて海を見ていた。タドゥツィオが現れ、浅い海を沖の砂州までまで歩いて渡った。少年が砂州から振り返ってアシェンバハの方を見た。それに答えるように立ち上がって彼はいつものように少年のあとを追おうとした。次の瞬間アシェンバハは椅子に崩れ落ちて、息絶えた。


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書名 源氏物語の結婚 著者 工藤重矩 No
2020-13
発行所 中公新書 発行年 2020年3月再版 読了年月日 2020-07-14 記入年月日 2020-08-22

 『源氏物語』もいよいよ後半に入り、若菜上を読み進めた。この帖の主題は朱雀院の皇女三宮と源氏の結婚である。紫の上という妻がいながらなぜ、源氏に結婚話が出るのか、不思議に思いつつ読み進めた。アマゾンでたまたま本書を見つけた。平安貴族の結婚の実態をもとに、源氏物語を解説した面白い本であった。

 本書の帯には表に「
なぜ紫の上は正妻になれないのか」とあり、裏には「強靱な構想力と、周到な男女関係の設定を読み解く。平安時代の婚姻制度は法的に一夫一妻制であり、正妻とそれ以外の女性たちとの間には立場・社会的待遇に大きな差があった。恋愛譚としての『源氏物語』は、正妻の座をめぐる葛藤がストーリー展開の要となっており、婚姻制度への正確な理解を踏まえてこそ、はじめて紫の上、明石の君ら、作中人物の心情を深く味わうことが出来る。一夫一妻制をキーワードに『源氏物語』の構想を読み解く、かつてない試み。

 平安時代は一夫多妻制であったというのは、著者によれば大変な誤解で、平安時代は律令で一夫一妻が決められていた。『源氏物語』も一夫一妻制のもとでの、源氏と正妻ではない紫の上の愛の物語だというのが、本書の主張。『源氏物語』を読む上で、斬新な見方を与えてくれ、大変面白い本。

 恋愛物語は夫と正妻の間には成立しないもの。式部はその大原則を最後まで守り、紫の上には正妻の立場を与えなかった。そのために色々な工夫をしているという。
 正妻葵の上が亡くなったので、当然再婚が考えられる。だが、その時すでに源氏は紫の上と新枕を交わしていた。これでは紫の上が妾になってしまう。当時の源氏には正妻の候補が3人あった。六条御息所、朧月夜の君、朝顔斎院である。御息所は娘の斎院について伊勢へ下り、朧月夜は源氏が結婚を断り、朝顔斎院は斎院の方から拒絶した。

 朝顔斎院と言う女性は、正直言って、そんな恋人いたっけというほど印象に残っていないのだが、本書ではこの女性の重要性を強調している。:
朝顔の姫君の役割は、源氏との正式な結婚の可能性をもつ女性として登場することで、紫の上の妻としての立場の危うさを確認することである。一度目は加茂の斎院に指名されて危機は回避されたが、紫の上の立場が安定したかに見えた頃に再度登場し(父宮がなくなったため斎院を辞任した)、紫の上にその立場が必ずしも安定していないことを思い知らせた。紫の上自身も自分の立場の危うさを明確に自覚している。・・・朝顔の姫君は紫の上を揺さぶる役ではあるが、源氏と結ばれてはいけないので、その性格を思慮深く、賢く、決して源氏になびかない性格に設定されているのである。(p197)

 これはほんの一例だが、こうした分析を通して、源氏物語がいかに綿密に構成されたかを明かしていく。源氏物語に新しい観点をあたえ、興味尽きない。

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書名 鷹を飼う 著者 松本昂幸 No
2020-14
発行所 山梨日日新聞 発行年 2020年5月 読了年月日 2020-07-23 記入年月日 2020-07-25

 今月再開された下重暁子のエッセイ教室の際、久しぶりに教室に復帰した著者が皆に配った。A-4版のコピー30枚ほど。山梨日日新聞に4月から5月にかけて連載された「鷹を飼う」という小説だった。「やまなし文学賞佳作」とタイトル横にある。

 松本さんはエッセイ教室を2年ほど前に辞めた。理由は小説を書いていて、その方に集中したいからというのだった。新聞に載る作品が早くも出来たのだ。

 なかなか良い作品だった。定年退職後、妻と別れて一人になった主人公が、八ヶ岳山麓に空き家となったペンションを購入した。このペンションの庭にはオオタカが住んでいた。前の持ち主が、落ちていた雛を持ち帰って育てた鷹だ。金網に囲まれてはいるが、出入り口は開け放してある。鷹は自分で餌を獲ってきて食べている。

 ストーリーには妻との離婚話が搦んでくる。この搦み方がうまく、主人公の人物像を浮かびあがらせる。離婚が成立し、二人の生活の場であったマンションも売却した。今や一人となった主人公と鷹との間には、心が通い合いあっていくと感じる。そして、主人公が与えた餌も食べるようになったある日、通りかかった男が鷹に気が付く。男は、希少生物のオオタカを飼うことは繁殖を妨げることで違法であるといって去る。主人公は鷹を脅かして、野生に戻るように試みるが、鷹は檻に戻ってくる。

 数日後、鳥獣保護管と刑事が主人公のペンションに乗り付ける・・・。

 描写が細かく、イメージが浮かびやすい文章だ。

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書名 源氏物語(五) 著者 紫式部、柳井滋他校注 No
2020-15
発行所 岩波文庫 発行年 2019年3月 読了年月日 2020-08-21 記入年月日 2020-08-24

「梅枝」「藤裏葉」「若菜上」「若菜下」を納める。

 登場人物の成長、出世、あるいは行く末へへの興味に引かれ、物語の世界に浸る。改めて源氏物語の魅力を感じる。この長編が受けつがれ、書き写され続けてきたのもうなずける。藤原定家は200年後に自ら筆写した。

 この巻の中心は、朱雀院の女三の宮と源氏の結婚、それに伴う紫上の苦悩、そして女三の宮と柏木との密通事件。

「梅枝」では、源氏と明石の君の娘、明石姫君の成人の儀(11歳)である裳着が行われる。明石姫君はその後東宮の女御として入内する。冷泉帝には子供がいなかったので、東宮は朱雀院の皇子がなっている。

 明石姫君は、明石の君ではなくて、紫上のもとに引き取られて、養育された。入内の日、付き添ったのは輦車に乗ったのは紫上である。徒歩であとからついて行くことになる明石の君は、それでは姫君に傷がつくと思い、辞退する。二人の生まれの差、立場の差が歴然と現れる場面だ。紫上と入れ替わりに明石の君は姫君の世話に上る。この時初めて紫上と明石の君は対面し、明石の君は紫上の素晴らしさに圧倒される。紫上も明石の君に好感を持つ。

「藤裏葉」では、内大臣がついに夕霧と娘の雲居雁の結婚を承諾する。夕霧には別の所から縁談があるのだが、断固として受け付けず、内大臣もついには折れる。内大臣邸での藤花の宴で、内大臣は夕霧に酒を勧め、酔ったふりをして夕霧と雲居雁を許す。今でも娘の結婚を酔ったふりで許す父親というのはある姿だ。その夜、柏木の手引きで夕霧は雲居雁の寝所に入る。これも内大臣の指示だ。

 宿願だった明石姫君の東宮輿入れを実現させた源氏は、この世での務めを終えた思いである。明年40歳を迎える秋、太上天皇になずらう地位(准太上天皇)に就く。内大臣が替わって太政大臣になり、夕霧は18歳、中納言に昇進。源氏の生涯の絶頂点だ。

「若菜」は上下巻で、本書では500ページ近くになる、源氏の中でも最も長い帖。

 朱雀院は健康の衰えから、出家を決意するが、皇女たちの行く末が心配だ。一番の気がかりは寵愛する幼稚な女三の宮だ。朱雀院は三宮の降嫁を考える。婿の候補として、源氏、夕霧、さらに蛍兵部卿宮、柏木などを考える。女三の宮の裳着を終え、朱雀院は出家する。

出家した朱雀院を見舞った源氏は女三宮の後見を引き受ける、つまり正妻として迎えた。

 源氏には紫上というれっきとした正妻があるのに、さらに結婚とはなんということだと思った。ちょうど本書を読み進めているとき、「源氏物語の結婚」という本がアマゾンで紹介された。直ぐに手に入れ読んだ。この本は当時の結婚を通して源氏物語を解説したもので、源氏物語の構成が明らかにされていく。それによれば平安時代は一夫多妻制ではなく、一夫一妻制であったこと。貴族の正妻となるためには、女性が男親の強力な後見を持つ事と、正妻の子である事が必要とされた。紫上にこれを当てはめると、紫上は妾の子であり、父は正妻に遠慮して紫上には冷たく、母親はすでになく、生きていれば後見役になれるはずの母方の祖父もすでになかった。こうした事情だから、紫上を源氏が連れ出してくることは出来ても、正妻とすることはできなかった。

 源氏は女三の宮との結婚を紫上に打ち明ける。女三の宮を引き受けたのは朱雀院の親心に打たれたからだといい、源氏の紫上への気持ちは今までとまったく変わらない、宮を不快に思ったり、嫉妬心も持たないでほしいと告げる。源氏の軽い気まぐれのお遊びにも、平静な気持ちになれなかった紫上ではあるが、源氏の話を態度表情を変えずに受けいれる。本人同士の色恋沙汰から起こった話ではないし、自身が屈服しているように世間から見られることはするまいと紫上は思う。(p192~)

 とは言え、六条院に女三の宮を迎え、源氏がそちらで過ごす夜には、紫上も高貴な正妻と自分の違いを身に沁みて感じ、寝られぬ夜を過ごす。

 朱雀院は出家、仕えていた女房たちはそれぞれに散る。朧月夜は二条宮に移る。朧月夜を忘れられない源氏は、二条宮を訪れる。最初は拒んでいた朧月夜も最後は受けいれ、夜をともにする。密会が見つかってから15年も経った再会である。驚いたことに、源氏は朧月夜との再会を紫上に報告する。ここの場面の二人の会話も面白い(p251~)

 太政大臣は息子の柏木を、三宮の婿として朱雀院に売り込んでいた。だが、柏木では位が低すぎるとされた。六条院で蹴鞠が催された。夕霧をはじめ、柏木など多くの上達部が蹴鞠を楽しんだ。夕霧と柏木が寝殿の隅の高欄で休んでいるとき、一匹の唐猫が飛び出してきて、御簾を引っかけて少し開けてしまった。御簾の奥には女三の宮がいた。その姿を柏木は見てしまった。柏木の宮への恋心は一気に高まった。

 ある年の梅の盛りのころ、六条院で女たちの雅楽の合奏がある。琵琶の明石の君、和琴の紫上、箏の琴の明石女御、三宮の琴(きん)である。いずれも優劣がつけがたい演奏だ。そんな中でも、明石の君は一段と低く見られている。この場面の描写では明石の君だけは「明石」と敬称をつけないで式部は書いている。

 紫上は厄年の37歳になった。出家を願うが源氏は許さない。源氏が三宮のもとにいるとき、紫上は発病する。紫上をかつての館二条院に移し源氏は看病を尽くす。柏木は中納言となり、女二宮と結婚していたが、三宮が忘れられない。源氏が紫上の看病で六条院を留守にしている隙に、まんまと三宮の所に忍び入り思いを達する。だが、柏木が残した手紙を三宮の不注意から、源氏に見つかり、密通が露見する。源氏はあってはならない過ちだと思うが、かつて自分のしたことに対する、父帝の気持ちを思うと柏木の恋心を一概には非難できないという気持ちもある。三宮は柏木の子を妊る。

 朱雀院の50歳の祝賀の準備の試楽に招かれた柏木は、その酒宴の席で源氏から盃を進められ、痛烈な皮肉を浴びる。早々に帰った柏木は床についてしまう。

 この巻の終には太政大臣はすでに致仕大臣であり、冷泉帝は退位し朱雀院の皇子が今上帝で、その女御明石女御には東宮をはじめ5人の子供がおり、夕霧も雲居雁との間に、さらに籐の内侍の間にも数人の子供があり、源氏はたくさんの孫を持っている。さらに黒髭大将は右大臣となり玉鬘も子をもうけている。この巻の系図は見開き2ページにわたり多数の人物が示される。そのあまりにも入り組んだ系図に驚く。狭い世界での婚姻が行われたからだ。

 朧月夜は朱雀院の後を追い出家する。源氏は最後の歌を交わし、贈り物をする。朝顔前斎院も出家したことが述べられる。

 本巻では猫が出てきて、重要な役割を果たす。柏木はその猫を自分のもとにもらい可愛がる。式部は猫の鳴き声を「「
ねうねう」といとらうたげに鳴けば、かき撫でて、うたてもすすむかな、とほほ笑まる。」と述べる。かき撫でるのは柏木。(p390)

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書名 平安朝の生活と文学 著者 池田亀鑑 No
2020-16
発行所 ちくま学芸文庫 発行年 2012年 読了年月日 2020-09-06 記入年月日 2020-09-24


 平安朝の生活と文学という題だが、中身は平安朝に仕えた女性の生活を衣食住にわたって解説したもの。平安文学の担い手が女性であったから、女性の生活中心になったのだろう。紫式部日記、枕草子と言ったノンフィクション以外にも、源氏物語などのフィクションも広範にあさって、民俗学的な考察がなされている。読み進めている源氏物語にとってはまたとない参考書。

 48ページに内裏の平面図が載っている。清涼殿の北西に飛香舎というのがある。これは別名藤壺といい、藤壺女御と言われる人はすべてここに住んでいたという。ここでは藤の花の宴がよく催されたという。源氏物語には藤壺と付く女性が何人も出てくるのは皆ここに住んでいた女性なのだ。(p51)。

 76ページ以下には寝殿造りの詳細な説明がある。寝殿造りの平安時代の建物は現存していないという。
食事については、朝は午前10時、夕は午後4時の2回。菓子はすべて「くだもの」と呼ばれ、甘味料としては蜜とアマズラ(甘葛)が用いられた。

 結婚に関しては、著者は一夫多妻であったとみている。それは古代社会の好ましくない一面で、源氏物語の女性たちも愛情生活に苦しみながら、全霊をあげて求めた物は一夫一妻制度ではなかったかと述べる(p137)。また、警察制度が未発達であったので、女性が失踪して行方不明になることはよくあった。源氏物語の紫の上ですら容易に行く先がわからなかったし、夕顔、浮舟もそうであった(p134)。

 離婚される条件としては、子供がない、淫乱、舅に仕えない、多弁、盗癖、嫉妬深さ、悪疾の7つが大宝令にあげられているという(p133)。多弁というのが面白い。

 後宮の女性たちは、自然そのままの相の中に、本質的な美を見いだしていた。そして、日本の庭園美の伝統は遠く平安時代の女性の自然観の中に源流を得ていると、枕草子の一節を引用して説く(p151)。

 服装に関しても20ページにわたり述べられる。色彩の調和ということは、平安時代の女性が、もっとも多くの注意を払ったところで、その服装をした者の趣味、教養があらわれる(p173)。源氏物語には、長々と服装の叙述が続くことがあるが、イメージ出来ないので、私はざっと読み飛ばしている。

 美人について:容姿については、胸・腰などの線の美は、問題にならなかった。比較的大きな、個性味を表現し得ないような服装の形状とか、重ね着という服装の制約から来るもの。そのため女性美の基準は著しく範囲の狭い物になった(p197)。

 紫式部は、女性の外面的な美しさは、その内面的な美しさに他ならないとしたという。
 式部によれば、まず、ういういしさ、無邪気さ:宇治の大君、夕顔、浮舟。第二に精緻にして整っていること、こまやかでうるわしいこと、犯しがたい高貴性、端正優雅な美しさ:藤壺、六条御息所、明石の上、中の君。第三に近代的な知性と感情から自ずから光り出る美しさ、明るさ:朧月夜の君。第四に都会風で、貴族的で、洗練された心の表現:紫の上、雲居雁、玉鬘(p201)。

女性美の完成:『源氏物語絵巻』などの大和絵に描かれた、しめやかな落ち着き、ほのぼのとした深さは、そのまま平安時代の後宮女性の生活であり精神であるといえる。そして、源氏物語で源氏が明石の上の部屋を訪れた際の部屋の描写を引用し、「
そこにに描かれている明石の上の美しさは、単なる感覚の世界の存在ではありません。われわれは現在ここにいない美しい部屋の主の全貌を、その生活の環境の中から、容易に幻想することができます。」(p217)

 出家入道:源氏物語の藤壺の出家を例にとり、一途に信仰を求め、徹底した閑居の境地に入り得たわけではないとする。そして「
清少納言も紫式部も、和泉式部も、孝標女もたぶん出家して晩年を送ったと思われます。彼らの信仰そのものは徹底していませんが、しかし、西方浄土を幻に描きつつ、その生涯を終わったように見うけられます。ここに仏教の民衆化があります」と述べ、それはやがて法然や親鸞を生む準備となったという。(296)
 

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書名 富安風生集 著者 富安風生 No
2020-17
発行所 朝日文庫 発行年 昭和59年 読了年月日 2020-09-12 記入年月日 2020-09-16

 日頃気になっていた俳人。アマゾンで探したら阿波野青畝との合同で「現代俳句の世界五」という中古本があった。
1800句ほどの中から気になった句を選んだ。

行き過ぎて常山木の花の匂ひけり
 常山木(くさぎ)はつい先頃の宮ヶ瀬ダム吟行の折初めて知った植物。独特の匂いがあり通常は臭木と書かれる。
この句は角川合本歳時記に例句として載っている。

庭の茱萸とる子なければたわわなる
滴りの打ちては揺るる葉一枚
よろこべばしきりに落つる木の実かな

何もかも知つてをるなり竈猫
 竈猫は風生の造語。冬の季語として定着し、多くの俳人に詠まれている。
ものの芽に跼めば猫も来て跼む
まさをなる空よりしだれざくらかな

 市川市の弘法寺境内にある桜。句碑があり数年前見頃の頃に訪れた。

猫抱けば犬妬み吠ゆ草の花
鞄のもの毎日同じ木の葉髪

 風生は逓信省の次官まで務めた役人。私も定年までは同じ体験。
土の黴木の根の黴や神さびぬ
ひろびろとさと刷きすとのび秋の雲
秋の庭犬去り猫来また犬来る
悴みて心ゆたかに人を容れ
白桃をよよとすすれば山青き
小鳥来て午後の紅茶のほしきころ

 飲料のヒット商品「午後の紅茶」はここから来ているのか。

掌にのせて子猫の品定め
一生の楽しきころのソーダ水
着ぶくれて浮世の義理にでかけけり
枯るるもの枯れ枯れ残るもの残る
髭剃りしあぎとの青き夏をとこ
美しき罪をになひて春の人

 源氏物語を観ると注がある5句のうちの1句。藤壺を詠んだとある。

老いぬと思ひ否とも思ふ年迎ふ
秋の夜を水のごとくに貫くもの
海に入ることを急がず春の川
猫の子の爪硬からず草若葉
田植唄ほろび風雅の道遺る

「みちのく」と注がある。『奥の細道』を踏まえた句。

運命に従ふごとく枯野ゆく
五欲なほ衰へずして根深汁
残生のいよよ愛しく年酒酌む
とろろ汁鞠子と書きし昔より
無為といふこと千金や春の宵
蹴あげたる鞠のごとくに春の月
世に偽り蟲にも天道蟲だまし
代る代る蟹来て何か言ひては去る

群鳶の舞なめらかに初御空
霧寒の無間地獄にわが孤影
大紋の威儀をただして黒揚羽
草の実や師は師たり弟弟たらず
掌に包み文鳥の子を頰ずりす
秋富士を拾ふ湖畔の潦
若さとはわりなく妬し青芒
わが採りて誰も採らぬ句青山椒

 風生ならずともこういう経験はある。

長らへし業やまじまじ初鏡
 80歳を過ぎた私も身に沁みる。
夜は星の空よりしだれざくらかな
 真間のさくら句碑二周年句会との注あり
猫は哲学者新樹の雨に端居して
赤富士を待つ雲たちの身づくろひ
邯鄲の死こそ上品上位佛

 邯鄲の句は他にもいくつかある
蓑蟲といふ生き方に感じ入る
 幼い頃私も同じように思った。
よべばこたへありて彼岸へ渡し船
九十五齢とは後生極楽春の風

 この2句は本句集の最後にある句

収載句数は約1800句。選者は清崎敏郎。風生の昭和8年の第一句集「草の花」から昭和36年の「愛日抄」までの10句集の7644句の中から風生自身が選んだ1535句に、「愛日抄」以降の句集から清崎敏郎が選んだものをあわせたという。

 風生の句は、軽妙洒脱と評される。句集を読んでいて同感だ。スーと入ってくる。

 序文で、映画監督の篠田正治は
句集のいずれをひらいても、生を主張する構えを見ることはできない。
 人われを椋鳥と呼ぶ諾はん
ここまでその主体のありかを空しくされると、俳句というものが内包する凄じいばかりの強圧を思わずにはいられない。
」と述べている。

 俳句にしては、感情表現の形容詞が多いと思った。うれしくて、楽し、つまらないく、あはれ、美しき、かなし、可愛いいなど。形容詞は使わないのが良いと私は教わってきたし、それを実践しているつもりだ。しかし風生の句を読んでいると、感情表現の形容詞が良く効いていると思う。例えば

一生の楽しきころのソーダ水
 大好きな句だ。「楽しきころ」が実に良い。

 風生は戦時中、日本文学報国会の俳句部幹事長になっている。しかし、この句集には当時の句、あるいは敗戦から戦後を詠んだ句は見当たらない。自身があえて省いたのであろう。昭和32年刊の「古希春風」には旅吟が多く、地名の注が多い。戦後ようやく各地を歩くことができたのであろう。


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書名 源氏物語(六) 著者 紫式部、柳井滋他校注 No
2020-18
発行所 岩波文庫 発行年 2019年7月 読了年月日 2020ー10ー20 記入年月日 2020-10-21

 「柏木」「横笛」「鈴虫」「夕霧」「御法(みのり)」「幻」の6帖を収める。

 源氏ににらまれて病の床に伏した柏木の病状はますます重くなる。そんな中で、女三宮は男の子を出産する。後の宇治十帖で匂宮とともに主人公になる薫で、実際は柏木の子である。三宮は出家し、やがて柏木は亡くなる。源氏は薫に柏木の面影を見る。夕霧は柏木と三宮とのあいだに何かあったと感じるのだが、柏木からは聞き出すことができなかった。柏木亡き後、夕霧は何くれとなく、未亡人の落葉宮とその母六条御息所の面倒を見る。落葉宮は朱雀院の二宮である。夕霧は落葉宮への思いを募らせ、ようやくにしてかなう。

 病がちであった紫上は亡くなり、悲嘆のうちに源氏も物語から姿を消す。源氏物語の正編の終了。

 源氏物語が、光源氏の栄華の絶頂で終わっていたら、それほど面白くなかったであろう。正妻に迎えた皇女の密通という出来事が、自分の若き日の藤壺との密通の裏返しとなっていて、物語をずっと深いものにしている。柏木の妻は三宮と同じ朱雀院の娘だが、こちらは更衣が産んだ娘で、三宮よりも劣り腹の皇女である。柏木は三宮に執心だったが自分の地位の低さ(亡くなるなる前には権大納言)ゆえにかなわなかった。

 妻がいながら親友が亡くなってすぐに残された妻に懸想するというのが、今の我々にはわからないが、夕霧は落葉宮に恋心を抱く。落葉宮は特に魅力的な女性には描かれていない。皇女を妻にしたかったのだろうか。だが、真面目人間夕霧の恋は源氏のようにはうまくいかない。この対照も面白い。進まない恋を反映して本巻では「夕霧」の帖が180ページを占める。正妻の雲居雁は紫上とは違って、嫉妬深く、夕霧を許さない。夕霧が鬼と呼ぶ雲居雁は落葉宮からの手紙を取り上げて読んだり、夕霧と落葉宮が結ばれたことを知ると、実家に帰ってしまう。

 
木枯しの吹きはらひたるに、鹿はただまがきのもとにたたずみつつ、山田の引板にもおどろかず、色濃き稲どもの中にまじりてうち鳴くも愁へ顔なり。滝の声は、いとど物思ふ人をおどろかし顔に、耳かしまかしうとどろき響く。草むらの虫のみぞより所なげに鳴きよわりて、枯れたる草の下より竜胆のわれひとりのみ心ながう這ひ出でて露けく見ゆるなど……
 夕霧が落葉宮の引きこもる小野を訪れるときの情景描写。こういう文章は読みやすい。

 明石の上の聡明さが改めて示される。
源氏の子は名目上も(夕霧、明石女御、匂宮)、実際の上でも(夕霧、明石女御、冷泉院)3人。それに反して夕霧は雲居雁との間に7人、藤内侍との間に5人、計12名という子だくさんだ。

「幻」は以下の歌と文をもって終わる。
物思ふと過ぐる月日も知らぬまに年もわが世もけふや尽きぬる
ついたちのほどのこと、常よりことなるべくとおきてさせ給ふ。親王(みこ)たち、大臣の御引き出で物、品じなの禄ども、何となうおぼしまうけてとぞ。


 正月の引き出物などもどういうこともなく用意して、源氏は物語から消える。
 
 源氏の死が語られることなかったについては、古来から色々な見解がある。本巻の解説でも、今西裕一郎により考察されている。今西によれば、書かないことにより読者の想像に任せたという。文中にもよく、それ以下のことは書かないと言って、文を終わることがある。もっと典型的には藤壺と源氏の密通もはっきりとは書かず、読者の想像に任せている。

まず、死別の哀しみの極は幻巻で紫上の死を悼む源氏に姿に書き尽くされている。ついで、一口に死別と言っても、その哀情は哀しむ者の心の深浅によって異なるゆえ、情理をわきまえ尽くした源氏が哀しんでこそ哀情も極まるのだ、したがってもし源氏の死を書こうとするなら、いったい誰が哀しむ哀しみとして書くことができようか。それが源氏の死が書かれなかったことの理由の一つである」と、本居宣長の説を引用している。

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書名 私の好きな季語 著者 川上弘美 No
2020-19
発行所 NHK出版 発行年 2020年11月 読了年月日 2020-12-06 記入年月日 2020-12-25

 私が世話をしているメール句会の松平さんから送られてきた本。

 川上弘美が俳句をやっているとは知らなかった。取り上げられた季語は100ほど。例句とともに2ページにわたって解説されている。食べ物の季語が多い。記述は軽妙で読みやすい。酒豪だと聞いていたが、酒や食べ物に関する記述が面白い。

 作者は大学の図書館で「歳時記」という本を発見したという。妙な言葉のコレクションが趣味であった作者は驚喜したという。以来、俳句を作ることはなくても歳時記は愛読してきた。十数年たってひょんなことから俳句を作るようになったという。

著者の句が二句だけ引用されている。
 はるうれひ乳房はすこしお湯に浮く   弘美

著者が俳句を作り始めた頃すぐ使いたくなった季語が、「春愁」と「秋思」であった。しかし「春愁」「秋思」の二つの季語の句は、句会ではとってくれることが少なかった。著者は言う:
たぶん、トゥーマッチになってしまうのだと思います。俳句は、短い詩です。その中に、濃い感情がのせられすぎていると、うるさいのです。中略 ですから、十年前に初めて句集を出したときには、たくさんつくった「春愁」の句はほぼ捨て去り、一つしか句集には載せませんでしたし、「秋思」にいたっては、一つも載せませんでした。
そして載せたのが、上の句だという。この「春愁」なら、ちょっと愉快であるし、「愁」をひらがなに開いたので押しつけがましい「愁い」ではなくなっていると思うという。
 私も同感だ。長谷川櫂も「秋思」という季語を使うことを戒めていた。

 もう一句は
 白シャツになりすもも食ふすもも食ふ    木星
 同人誌時代の句で、木星は俳号。

著者はリフレイン、擬声語の句が好きなようで、例句にはかなりあげられている。

 ロンロンと時計鳴るなり夏館         松本たかし
 つくつくぼーしつくつくぼーしばかりなり   正岡子規
 ふくべ棚ふくべ下がりて事もなし       高浜虚子
 谷戸谷戸に友どち住みて良夜かな       永井東門居
 かりかりと蟷螂蜂のかおを食む        山口誓子
 ごうごうと楡の落葉の降るといふ       高野素十
 切干大根ちりちりちぢむ九十九里       大野林火
 鬱のひは鬱を愉しむかいつむり        鈴木鷹夫

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書名 源氏物語(七) 著者 紫式部、柳井滋他校注 No
2020-20
発行所 岩波文庫 発行年 2020年1月 読了年月日 2020-12ー24 記入年月日 2020-12-25

 「匂兵部卿」「紅梅」「竹河」「橋姫」「椎本(しいがもと)」「総角」の6帖を納める。

 光源氏亡き後、それに匹敵するような人物は現れない。そんな中で、光源氏と女三宮の子、薫と、今上帝の二宮、匂宮が抜きん出て優れている。匂宮の母は源氏と明石の君の娘であるから、源氏の孫に当たる。

 薫は14才で元服し、翌年には右近中将になるという栄達ぶりだが、自分の出生に漠然とした疑問を感じていて、親の罪障を思って出家の願望を抱いている。薫の身には生来芳香が備わっている。それに対抗して匂宮は着物に薫き物や花の匂いを込めている。多くの権門が二人を婿に迎えたいと思っている。

 源氏の息子夕霧は典司腹の六の君の婿としてどちらかを迎えたいと思う。一方、亡き柏木の弟按察使大納言は亡き北の方の間に大君と中君の二人の娘があり、さらに北の方の後に真木柱を迎え入れるが、真木柱にはすでに娘、宮御方がいた。大納言は匂宮を中君の婿として迎えたいと思う。しかし、匂宮は宮御方に恋情を持っている。このような形で以後の主人公となる薫と匂宮が登場する(「匂兵部卿」と「紅梅」)。求道者的な薫と、好色の匂宮。

「竹河」は玉鬘のその後の物語。夫の黒髭大将はなくなっていて、玉鬘には男子三人、女子二人の子供がいた。男の子たちの昇進は、有力な後見を欠いているので遅れがちである。玉鬘は、女子のうち大君を今上帝に入内さえようと思う。夕霧の息子蔵人の少将は大君に執心であり、夕霧と雲居雁もその縁談を望む。また。家の近いこともあって、薫も大君に恋心を抱く。しかし、大君は冷泉院の熱心な要望で冷泉院へ入る。蔵人の少将の失意は並大抵ではない。大君は冷泉院との間に2児をもうけるが、驚くのは冷泉院の好色ぶりだ。50才を過ぎたと思われる玉鬘に未だ執着を示す。玉鬘はかつて内侍として冷泉帝に仕え、それから逃げ出して黒髭と結婚したのだ。

「橋姫」からいよいよ宇治十帖。「匂兵部卿」以下宇治十帖は以前から論議の対象で、紫式部が書いたのではないという説がなされていた。だが、本書の解説では、今はその説は否定され、やはり紫式部の書いたものだとされているとのこと。

「橋姫」「椎本」「総角」の3帖は薫、匂宮、八宮の大君、中君の4人の織りなす恋愛心理劇。私は谷崎源氏を読んだとき、印象は薫と匂宮の両方から思いをかけられた浮舟の物語だと思った。浮舟の前に大君、中君という姉妹の物語があったことはすっかり失念していた。理由の一つは、浮舟は固有名詞で呼ばれるのにこの二人に固有名がついていないことだろう。

「橋姫」の冒頭でいきなり桐壺帝の八男、八宮が出てくる。源氏の異母弟だ。かつては皇太子にもと言われた宮だが、没落し、妻にも先立たれて、大君と中君の二人娘と宇治でひっそりと暮らしている。大君は気立てが優しく、立ち居振る舞いも優雅であり、中君は空恐ろしいほど美しい。八宮は娘の成長を心の糧に再婚もせず、ひたすら勤行に励む傍ら、琵琶や箏などを姫たちに教える。八宮のことを聞いた宇治に隠棲するの阿闍梨が八宮に参上し、経文の講釈などをするようになる。この阿闍梨は冷泉院にも出入りしていて、薫は阿闍梨から八宮のことを聞き、ゆかしい人だと思い、宇治に通うようになる。八宮は薫にやさしく仏法を説く。

 宇治に通い出して3年、薫が急に思い立って宇治の行ったとき、八宮は山ごもりしていて、山荘には姫しかいなかった。屋内からは琵琶と琴の音が流れてくる。しばし耳を傾けていた薫は、姫を垣間見る。可憐で、奥ゆかしい姫たちで、薫は驚き自らの道心の揺らぐのを感じる。応対に出てきた弁の君という老女は柏木の乳母の娘で、薫の出生の秘密を知っていた。通い出してから、3年間も姫たちの姿を見なかったというのも、今の時代では考えられないのだが、当時の女性は、男性に顔を見られることを極端な不名誉と考えていた。

 しばらく後に訪ねると、八宮は薫に娘たちの行く末などを相談する。そして、弁の君は薫の出生の秘密を打ち明ける。京に戻った薫は、母三宮を訪れるが、今は仏門に帰依している母には何も言い出せなかった。

 匂宮は初瀬観音の参詣に際し、宇治の八宮の山荘の対岸にある夕霧の別荘に泊まった。出迎えに向かった薫も合流し、一行は管弦の遊びなどで一日を過ごす。薫は匂宮一行を伴って八宮の山荘を訪れる。薫と違い皇族である匂宮は、度々訪問するのは難しいので、この機会に姫君に文を送る。こうして、匂宮は宇治に文を送るようになるが、返事はいつも中君が書き、慎み深い大君は決して書かなかった。 やがて八宮は、姫たちのことを心にかけて欲しいと遺言めいたことを薫に漏らし、亡くなる。薫は葬式を取り仕切る。悲しみに読経に明け暮れる姉妹のもとには匂宮から文が届き続けるが、返事を書く気にもならない。薫は姉妹が匂宮に素っ気ないので、取り次いだ自分が匂宮から恨まれているなどともらす。垣間見た大君の心憎いほどの気高い姿に、薫はただうっとりとし、慕情を募らせる。

 薫は催馬楽の「総角」にこと寄せて大君に思いを告げるが、大君は山住まいの自分には並の結婚などふさわしくない、父もそう考えていたと、拒絶。その代わり、若い中君を薫と結婚させたく思う。ある夜、薫は堪えかねて大君の寝所に入り、切々と思いを訴える。しかし喪中の大君の心中を察し、契りを結ぶまでには至らない。一夜明け、朝の光を二人して眺める。大君は薫に恥ずかしいから早く帰って欲しいと言うが、早く帰ったのでは、二人は契りを交わしたと思っている女房たちに疑問を抱かせる、といって薫は普通の男女の後朝のように振る舞う。以後もこうした関係を続けたいと薫は言う。

 一周忌が明け、薫は宇治を訪れる。大君は会おうともしない。弁の君の案内で、寝所に忍び込むが、気配を察した大君は逃れ、そこにいたのは中君であった。もちろん薫は中君と契りを交わすことはなかった。

 薫は匂宮と中君の仲を取り持つことを決意する。そうすれば、大君の心もほどけるだろと思ったからだ。宇治を訪れた匂宮は中君と一夜の契りを結び、三日夜の餅の儀式も無事終え結婚が成立する。男が3晩女のもとへ通えばそれで結婚が成立というのは、驚くべき慣習だ。しかし、大君は薫の仕打ちが気に入らず、相変わらず心を開かない。身分の高い匂宮は、簡単には宇治に出向くことができない。なにしろ、京からは歩きまたは車で3時間。

 そんな匂宮のために薫は紅葉狩りを催し、そのついでに宮が宇治を訪れられように計らう。しかし、これを知った中宮からは大勢のお供が差し向けられ、結局宇治に泊まることもかなわなかった。せっかくの薫の好意も結果としては宇治の姫君たちの匂宮への不信を強めてしまった。匂宮の宇治通いは父の今上帝の知るところとなり、中宮までも教育が甘かったと責められる。挙げ句の果て夕霧の六の姫との結婚も決められてしまう。

 かくして匂宮は宇治とはますます縁遠くなる。こうした事情を気に病んで、大君はとうとう病の床につく。薫の献身的な看病(阿闍梨初め僧たちに平癒祈願の読経をさせる)の甲斐なく大君はなくなる。野辺送りを済ませた後も、薫はしばらくは京へは帰らず宇治で過ごす。49日もすまないころ、匂宮が雪の中をやってきて、中君を慰めて帰る。薫がそれほどまでに思い詰めた姫の妹ならと、中宮も匂宮を許し、中君を京へ呼ぶことを認める。

「総角」の帖は本巻の三分の一、200ページに及び、薫と八宮家のやりとりが延々と綴られる。込み入った各人の内面描写が主体で、注釈がないとほとんど理解できない。源氏の若い頃の恋と比べて、薫の大君への思いはもたもたとじれったい。薫の人柄の良さ、優しさは源氏物語の中でも例外的ではないか。大君をなくした後の薫の悲しみの描写などは、胸にしみるものがある。


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