読書ノート 2016


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書名 著者
猫と庄造と二人の女 谷崎潤一郞
幼少時代 谷崎潤一郞
あらすじで読む名作文楽50選 高木秀樹
イスラーム文化 筒井俊彦
ナチスのキッチン 藤原辰史
猫の古典文学誌 田中貴子
A Street Cat Named Bob James Bowen
てのひら 津久井紀代
江戸文学問わず語り 円地文子
春雨物語 上田秋成
紫苑物語  石川淳 
焼け跡のイエス・善財 石川淳
太平記(五)  兵藤裕己 校注
研究不正  黒木登志夫 
知命  津久井紀代 
進化生物学入門 栗田子郎 
火星の人 アンディ・ウィアー 
  永島唯男 
大屋達治集  大屋達治 
芭蕉、旅へ  上野洋三 
奥の細道行脚  櫻井武次郎 
雲の墓標  阿川弘之
葛飾北斎伝  飯島虚心 
江戸の旅  今野信雄 
江戸の旅文化 神崎宣武 
西浦田楽  藤田えみ 
イザベラ・バードの日本紀行 (上) イザベラ・バード 
イザベラ・バードの日本紀行 (下) イザベラ・バード 
太平記(六)  兵藤裕己 
漱石紀行文集  夏目漱石 
江戸社会史の研究  竹内誠 
あらすじで読む歌舞伎50選  利根川裕 


書名 猫と庄造と二人の女 著者 谷崎潤一郞 No
2016-01
発行所 新潮文庫 発行年 昭和26年 読了年月日 2016-01-03 記入年月日 2016-01-06

作家の猫』で谷崎も取り上げられていた。それで本書に思い当たった。
 関西弁で流れるように綴られた平易な文章のよくできた面白い小説。谷崎の凄さをあらためて知る。題名の順が本書の登場人物の重要度を示す。漱石の『吾輩は猫である』の猫とは違い、リリーという立派な名前をもつこの猫は人間社会の傍観者ではなく、周りの人間どもを手玉にとって、彼らをひざまづかせる。

 解説の磯田光一は「隷属」という言葉を使って、谷崎文学を解説している。「
愛とはほかならぬ“隷属”であり、幸福とは“隷属の幸福”以外にありえない。にも関わらず、相手に“隷属”を拒否されたとき、そこにはどういう世界があらわれるであろうか―それがほかでもない『猫と庄造と二人の女』の世界である。」『春琴抄』では男女がお互いに相手に隷属することを決意し、愛が完結する。だが、本書では、猫に対する庄造の隷属願望は、見事に拒絶される。10年も近くに飼い慣らした猫であるにもかかわらずである。

 磯田はいう:男女同権の思想も、社会の改革をめざす思想も、一匹の猫を愛したために苦しむ庄造の心を救えない。それが谷崎潤一郞の思想であり、彼の文学の真の異端性の根拠でもある。人間は進歩や解放などを求めてはいない。あるいは自由さえも求めていない。人間が心の底で求めているのは、女であれ猫であれ、あるいはイデオロギーであれ、一つの対象のために奴隷となるということである。そしてそのために身を滅ぼすこと以外に、人間の栄光はもはやないのかもしれないのである。


 庄造の新しい妻、福子のところに、前の妻であった品子から庄造の飼っているリリーを欲しいという手紙が来る。庄造の家は荒物屋であるが、店番はもっぱら母親に任せて、彼はぶらぶらしているどうしようもない男だ。最初の妻品子と母親は折り合いが悪く、庄造もその勝ち気な性格を好きになれなれず、一方で従妹の福子と密通している。福子の家の財産に目を付けた母親と庄造は、品子を追い出し、福子を迎える。

 庄造の猫への愛情は異常なほどで、福子が庄造の酒の肴に用意した小鯵の酢の物を、酢を舌でなめてとり、そのまま口移しにリリーに与える。それが毎晩のように続く。福子はいっそリリーなどいない方が良いと思い、品子にリリーをやることを庄造に強く迫る。庄造は不承不承承知する。

 品子の魂胆は、リリーをもらえば、いつか庄造が自分のところにやってくるだろうというものだ。品子も福子と同じようにリリーには無視されていて、決してこの猫が好きなわけではなかった。人を介して品子の家に連れてこられたリーは、品子がどう努力しても餌も食べず、なつかなかった。そのうち家を出て行ってしまった。しかし、数日後、リリーは帰ってきて、品子に心を開いた。

 じっとこらえていた庄造であるが、ついにリリー会いたさに品子の家に出かける。品子の留守を見計らって、同居する品子の姉の手引きで品子の部屋に飼われているリリーに会う。だが、リリーは庄造には知らぬ顔であった。品子が帰ってくるのを知った庄造は慌てて品子の家を出るところで、小説は終わる。

 解説と合わせて読むと、谷崎文学の本質を表した作品であることに納得。
 猫の仕草や行動が細かくよく書けている。

 私は「開けた戸を閉める猫欲し漱石忌」という句を作ったが、谷崎も同じように感じたようだ。43ページには以下のようにある:
庄造は又、この猫は戸でも襖でも障子でも、引き戸であれば人間と同じに開ける、こんな賢いのは珍しいと云う。だが畜生の浅ましさには、開けるばかりで締めることを知らないから、寒い時分には通ったあとを一々締めて廻らなければない。
 漱石忌は12月9日である。

 会話が多く段落の少ない文章。「二寸」「拳闘家」といった言葉まで含めて、かなりの注が巻末に載せられる。昭和9年作。
 本書は平成25年75刷である。

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書名 幼少時代 著者 谷崎潤一郞 No
2016-02
発行所 岩波文庫 発行年 1998年 読了年月日 2016-01-05 記入年月日 2016-01-06

 人の一生はすでに幼年時代に露わになる。あるいは幼年時代の環境の与えたものから抜け切ることは出来ない。これは私の中でなかなか消えない運命論であるが、本書を読んでまず抱いた感想もそうであった。巻末に谷崎自身が本書について短く述べている。その中で、谷崎も「現在自分が持っているものの大部分が、案外幼年時代に既に悉く芽生えていたのである。青年時代においてほんとうに身についたものは、そんなに沢山はないような気がするのである」(p330)と述べている。

 典型的なのは母への思慕、女人への憧れ。随所に出てくる。
 谷崎の生まれは明治19年東京の日本橋界隈。本書では4歳から、11歳頃までの記憶が語られる。記述は細部におよぶ。執筆に当たって、当時の資料にあたり、あるいは知人親類などから話を聞いて、記憶を補完している。特に母親連れられて見に行った歌舞伎については、資料により、団十郎、五代目菊五郎などの役者や上演品目について詳しく書かれている。明治中葉の東京の風俗を知る上でも面白い。『細雪』が大戦前の関西の風俗をよくすくい取っているのと同じで、これは谷崎文学の一つの特徴であろう。

 谷崎は自分の一生に一番大きな影響を与えた人物として、高等小学校の時の稲葉清吉先生をあげる。先生から教えられた漢籍を初めとする数々の本が、後の彼の道を決定づけたという。「
演劇に限らず、音楽でも絵画でも、出来れば少年の時になるべく第一級品の芸術を見せてもらっておくことである。」(p209)と少年時代の影響の大きさを述べる。少年時代に谷崎が親しんだのは日本の古典。『太平記』、『雨月物語』、滝沢馬琴、が特に好きだったようだ。
 谷崎は6歳頃までは母の乳を吸った。すでに弟がいたが、弟が吸った後で母の膝に腰掛けて乳房をいじくりながら吸ったという(p71)。母は谷崎家の娘で、父は養子縁組で谷崎家に入った。母の姉の夫は谷崎の父の兄であり、兄弟が谷崎の姉妹と養子縁組をして谷崎姓を名乗った。母の弟が本家を継いだが、三つの谷崎家は日本橋界隈で、それぞれ商売を営んでいた。潤一郞の父は仲買人の相場師であったが、やがて家運が傾いてゆく。とはいえ、裕福な家庭で、乳母、女中をおき、少しの外出にも人力車を使う。本書では、父は母に比べて影が薄い。

 女人に対する関心は幼少の頃から強い。例えば本家の叔父は妻に逃げられ、妾と暮らしているが、潤一郞が叔父と一緒に風呂に入っているとき、寿美というその女が手桶に水を入れて湯殿に運んでくる。たいした大きさの桶ではないが、彼女にとっては大変な重労働のようだった。その時の寿美の「
恰好だけは甲斐々々しい襷がけをした彼女の、体のこなしや手足の動作に、母や伯母たちに見出したことのない阿娜っぽさがあるのを感じて、芸者というものはさすがにしろうとの女とは違ったところがあるのを知った」と記す(p76)。5、6歳頃の話だ。

 255ページ以下には、日光見物に出かけた谷崎一家が、上野から乗った汽車で見かけた17,8歳の山の手の令嬢に関する記述が、数ページに渡って記される。はからずも彼女と目があった。彼女はにっこりと愛想笑いをした。「
私はハッとして微かに笑いを返したが、その一瞬の驚きと喜び、――戦慄に似た感情は、あるいはそれが私の初恋であったかも知れない。彼女の笑いは直ぐに消え、視線は外されてしまったが、笑顔の中で最も強い印象をとどめたものは、整った真っ白な歯並びであった。」初恋と思われる瞬間に、相手の歯並びの美しさを見ている。後年に記憶の補充があったにしても、すごいことだ。

 最後の方では、友人の母親に「残(のこ)んの色香」を見て取り、突然魅了され、しばらく呆れていたという(p315~)。この他にも女人の観察は沢山出てくる。

 匂いも幼児の記憶に強く結びついていることが示される。例えば205ページ。歌舞伎見物の帰りの人力車の中。「
俥には雨を避けるために支那料理のテーブルの覆いに用いるオイルクロースのような幌がかかっていたので、その油の匂と、母の髪の油の匂と、甘ったるい衣裳の匂とが、真っ暗な中に一杯に籠もっていた。」これは8歳頃の記憶だ。

 執筆は昭和30年、谷崎がかぞえで70歳の時のもの。鏑木清方の挿絵が随所に入っているが、女性の絵がほとんどだ。

 解説で千葉俊二は本書執筆の一因として、中村光夫の谷崎批判に答える意図があったとする。中村は谷崎文学の特徴として「精神の小児性」と「知的不具」をあげたという。谷崎はこの『幼少時代』を書くことにより、中村の論を肯定しつつも、青春の文学もあれば、幼児期の感性に根ざした文学もあることを示し、中村への反論を意図したのだろうと、千葉は推察する。

 岩波文庫の本書の巻末には岩波文庫になっている本の目録が載っているが、漱石が俳句、書簡集を含めて23冊載っているのに、谷崎はたった3冊である。本書と『吉野葛・芦刈』、それに随筆集である。「知的不具」とされる谷崎文学は岩波向きではないようだ。なお、『猫と庄造と二人の女』は、新潮文庫版で、これは本書より活字が1.5倍ほど大きく読みやすかった。

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書名 あらすじで読む名作文楽50選 著者 高木秀樹 No
2016-03
発行所 世界文化社 発行年 2015年9月 読了年月日 2016-01-10 記入年月日 2016-01-21

 天為俳句会で、特定の分野に絞った俳句の募集がある。昨年は能楽であった。私は今まで『天為』のその部分は読んでいなかったが、たまたま、昨秋、句仲間に誘われて横浜能楽堂で、能と狂言を見た。その時の、狂言を題材にした俳句をこれもたまたま『天為』で目にした。面白い企画だと思った。今年は文楽を取り上げるとのことだった。投句はすべてメールで、毎月5つの演目を指定し、1演目ごとに2句投句という決まりである。互選の結果が、毎月『天為』に掲載される。挑戦して、作句の対象を広げるのはいい方法だと思った。文楽などほとんどの人が実物を見ていないので、テキストとして本書を読み、それで句作するようにとのことだ。

 見開き2ページであらすじと見どころが解説されていて、左側のページの半分以上のスペースは、文楽の舞台のカラー写真が占めている。結論から言って、この本を見ただけで句を作るのはとても無理だった。

 いくつかの演目については、題名は耳にしたことはあるが、内容を知っていたのは原作を読んだ『仮名手本忠臣蔵』と『曽根崎心中』くらいであった。『仮名手本忠臣蔵』と並んで3大名作とされる『義経千本桜』と『菅原伝授手習鑑』は4ページの解説がされていた。これら時代物は、歴史を題材にした奔放な想像力、奇想天外なストーリーが面白い。

 世話物を含め、親子や主従間の情の深さがストーリーの中心になっているものが多い。その結果だろうか、切腹というシーンが多いことも特徴だ。解説では、人形が演ずるものだから、切腹シーンが多くても演じられるし、人では出来ない首つりまで人形では出来ると解説にあった。人形の豪華さは写真でも十分に感じられる。

 YouTubeで、歌舞伎の『義経千本桜』のさわりの部分を見た。謡い、台詞がよく理解出来なかった。ここに取り上げられた50作品は、一編一編が半日にもおよぶ長いものばかりとのこと。さわりの段だけが上演されることがほとんどのようだ。

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書名
イスラーム文化 著者 筒井俊彦 No
2016-04
発行所 岩波文庫 発行年 1991年 読了年月日 2016-01-17 記入年月日 2016ー01ー21

 イスラームについて何を知っているのだろう。「目には目を歯には歯を」というコーランの一節、1日5回の礼拝くらいか。トルコのイスタンブールの博物館で、マホメット、本書ではムハンマド、の佩刀した剣と透明容器に収められた髭と称する小さな異物を、本当だろうかと思いながらみたのは、2001年の8月。9.11同時テロの1ヶ月前であった。

 『近代科学の源流』『十二世紀ルネサンス』の延長としての本書であるが、中世イスラームへの関心だけでなく、いわゆる「イスラム国家」によるイラク、シリア内での内戦とテロ、あるいはつい先日起こったサウジアラビアとイランの断交など、その背景を知る上でも、こうした解説書を読んでみたいと思った。本書はイスラーム教とイスラーム文化の詳しい解説書。書いてあることが私にとってはすべて、新しく知ることばかり。

 発刊は1991年であるが、本書は1981年に行った3回の講演をまとめたものである。1991年と言えば、1月から2月にかけて湾岸戦争が起こった年だ。また、1981年は、80年から88年まで続いた、イランイラク戦争の真っ直中であった。日本人の私には遠いこの戦争も、ヨーロッパに人々には深刻に取られていた。当時、スイスのジュネーブの街頭で、イランイラク戦争に対する反対を呼びかける若者に呼び止められ、この戦争が、世界に重大な影響を持っていると説かれた経験がある。

 アラビア語の発音や、その本来の意味まで考察した、専門的でレベルの高い著作だが、基本が講演であるので、理解しやすい。

○ムハンマドは商人の出であり、砂漠的価値観に対抗して、それとの激しい闘争を通じてイスラーム教を築き上げた。コーランは商人言葉で満ちている。(p26)

○何よりも相互の信義、誠、絶対に嘘をつかない、約束は必ず守るという商人の道義を反映した宗教である。(p29)
○アラブとイラン人はイスラム文化を代表するこの二つの民族は、世界観、人生観、思惟形態などあらゆる点で正反対の性格を示す。(p31)

○にもかかわらず、客観的にはイスラームは一つである。その根底にあってすべてを統一しているのは『コーラン』というただ一冊の書物である。『コーラン』は預言者ムハンマドが神の啓示を受け、その神の言葉が記されたものである。イスラーム文化は究極的にはコーランの自己展開である。コーランは言葉であり、その解釈、理解は各人によって異なるから、それがイスラーム文化の多様性をもたらす。(p32~36)

○イスラームは『コーラン』そのものに基づいて、原則的聖と俗を区別しない。従って、この聖典の解釈が公私にわたる人間生活のすべての面を規制する。政治も法律もそのまま宗教である。(p39~40))

○聖と俗を区別しないイスラームには僧侶階級は存在せず、また存在できない。(p48)

○ユダヤ教、キリスト教、イスラーム教は根本的には同一の宗教である。その根底にあるのは歴史を越えた「永遠の宗教」である。イスラームより先に現れた、ユダヤ教とキリスト教は「永遠の宗教」を純粋の形で保存できなかった。ムハンマドが現れて、また元の本源的なものに戻そうとしたのが、イスラーム教であるとイスラームは考える。「永遠の宗教」を極限まで単純化すると、それは神と人との垂直関係となる。神と人の間には無限に深い断絶があり、人間の側からすると神は手の届かない絶対的超越者である。神と人の間の連結は、神の側からなされる、それが啓示である。その啓示を「預け」られたのが「預言者」である。(p51~57)

○約20年間をかけてムハンマドに与えられたアラビア語の啓示が『コーラン』である。(p58)

○イスラームの神、アッラーは生きた人格神として自らを現す。人間がこれと我・汝の関係に入りうる神で、哲学的、形而上学的神ではない。アッラーは人間の側からすれば無限に遠い絶対超越神であるが、神の側からすれば人間に無限に近い神である。人間は信仰を通じて、神と人格的関係に入ることがでいるが、このようにして成立した関係の中で、今まで疎遠であった絶対的超越神が、突然、限りなく親しい神に変貌する。(p61)

○イスラームにおいては、神は父ではなく、人間は神の子でもない。神と人間の関係は主人と奴隷の関係である。人間は自分を無条件に神に委託する。人間が主体的に努力して己の救済に至ろうとすることはまったく成立しない。(p62)

○イエス・キリストを神の子とすることはイスラームでは絶対に認められない。イエス・キリストはムハンマドとまったく同じ一人の預言者であり、神の使徒であっただけである(p63、70、71)。『コーラン』ではイエス・キリストと聖母マリアを次のように述べる:マルヤムの子メシアはただの使徒にすぎない。彼以前にも使徒は何人も世に現れた。また彼の母親もふつうの、ごく正直な女であったにすぎない。母子ともにめしを食う人間であった。(5章75節)

○アラブ人の世界観では、物事は時間的にも空間的にも非連続的に存在し、お互いの間の因果律を認めない。これはイスラームの正統派であるスンニー派の根本哲学である。一方、イラン人の世界認識は、存在の空間的、時間的連続性を特徴とする。(p78~80)

○『コーラン』は610年、ムハンマドが40歳の頃、最初の啓示を受け、以後632年に世を去るまでに作られたものである。ムハンマドは最初いたのはメッカであるが、最後の10年はメディナに移った。この前期と後期ではイスラームははっきりと性格を変えてしまう。(p84~85)

○前期は終末論的暗い雰囲気の中で、宗教が人間個人個人の信仰の実存的問題として取り上げられる。イスラームの神は全知全能の人格神である。この神と人間が人格的関係に入る。それは契約という形を取る。神と契約関係に入ることが信仰であり、宗教である。これはイスラームの前期後期を通じて変わらない。(p86)

○人格神は善であり、強烈な倫理性を発揮する。人間もそれだけの倫理性を発揮することが求められる。それが宗教である。だが、現実の人間にはそれは出来ない。そこに罪の意識が生まれ、恐れの感情が生まれる。その恐れはこの世に終末の日が来て、最後の審判が行われ、この世で犯してきた悪事の数々が暴かれ罰せられるという終末論的恐れである。ここには来世という特殊な存在領域がはっきりと組み込まれている。(p89~91)

○イスラームの世界観では、死の向こう側、現世の彼方に来世がある。人間の運命にとって決定的に重要なのは現世ではなく来世であると、少なくとも前期には考えられていた。(p93) イスラームによる自爆テロの背景にあるものだろう。

○前期イスラーム教を支配したのが恐れであれが、後期イスラーム教の特徴は感謝である。神の限りない慈悲に対する感謝、それが信仰である。(p105)

○後期イスラーム教では人と預言者ムハンマドとの契約を通じて神との契約に入る。それはやがて、同胞としての宗教上の兄弟姉妹関係としての契約に発展する。(p108)

○こうしてムハンマドは、イスラーム共同体の主権者として、神と並ぶ絶対的位置を占めることになる。要するにムハンマドが社会全体の君主だと言うことになる。これはそれまでのアラブがまったく知らなかった新しい社会構造の観念であった。それまでのアラビアでは部族が社会構成の基礎、人間存在の基礎であった。(p114)

○共同体の宗教として確立されたイスラーム教の特徴は世界性、普遍性である。外に向かって大きく門を開いている。開放的で排他的でない。ユダヤ教のように民族的に閉鎖された社会ではない。(p122~124)

○イスラームには組織的な宣教活動、ミッショナリー活動はない。(p126)

○非合理的な啓示を素材としながら、それを徹底的な理性の行使、合理的思惟により解釈し、それを法的組織にまで体系化したものがイスラーム法である。(p157)

○イスラーム法は神の意志そのものを命令と禁止の体系として形式化したものである。本質上宗教法であるが、イスラームは聖俗を区別しないから、法は日常生活の隅々まで規制する。言ってみれば共同体のモラル、つまり人間をその社会性において道徳的に規制する規範体系である。(p158~159)

○9世紀の中ごろに、イスラ-ム法に関するかぎり聖典の自由な解釈が禁止された。その結果イスラーム社会は極端なアナーキーに陥ることはなかったが、文化的生命の涸渇という重大な危険に身をさらした。近世におけるイスラーム文化の凋落の大きな原因の一つはここにある。(p162~163)

○イランのシーア派イスラームだけは聖典の自由な解釈を禁じなかった。(p165)

○前期イスラームの流れを汲んで、内面への道を進んだのが、シーア派である。神の言葉の内面に「秘密の意味」を認めるシーア派には『コーラン』は一つの暗号である。(p186)

○シーア派にとって、イスラームを共同体の宗教として社会化し、法制化し、政治化すること自体が、本来純粋に内面的であるはずのイスラームを世俗化する以外の何物でもない。スンニー派の構想するようなイスラーム法的世界は、宗教的世界ではなく、実は政治的権力の葛藤の場であり、紛れもない世俗的世界である。こうしてシーア派は聖と俗をはっきりと区別する。この点においてスンニー派と完全に対立している。(p188~)
 これはイランの政治体制を見ればよく理解出来る。

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書名 ナチスのキッチン 著者 藤原辰史 No
2016-05
発行所 水声社 発行年 2012年 読了年月日 2016-02-05 記入年月日 2016-02-08

 高校のクラスメート、伊原さんからメールで紹介された。日本を代表する数学者である伊原さんが面白い本を薦めてきたことに興味があって、緑図書館で借りてきた。「食べることの環境史」がサブタイトル。著者の藤原辰史は京大人文科学研で、食の歴史などの専門家。京大名誉教授の伊原さんは著者を知っているのだろう。他国の一時代の一空間の歴史という以上に、はるかに啓発的で面白かったと、伊原さんは言う。

 ハードカバーで450ページの大作。巻末には70ページほど、ドイツ語の文献、注、年表、本書で取り上げられたレシピ本のレシピの中身などが掲載される。ドイツの古書店をあさり、図書館や文書館を訪れ、古くは19世紀末からの古いレシピ本や、冷蔵庫や電気コンロ等の取扱説明書、あるいは台所の設計図などを集めて、考察する。たくさんの写真が掲載され、アイントプフと称する、野菜を中心に食材をどろどろになるまで煮込んだごった煮料理の卓を囲んでいるヒトラーとゲッペルスの写真もある。ナチスは「アイントプフの日曜日」と言って、この料理を勧めた。写真のヒトラーとゲッペルスの間には大きな鍋がある。

 ドイツは第一次大戦中に食糧危機に陥り、数十万人の餓死者を出したという。その教訓から、ワイマール時代からナチス時代にかけて食糧生産への関心が高かった。ヒトラーが率先してアイントプフを食べるところを写真にするほど、ナチスは国民の食べ物に真剣だった。また、ヒトラーの異常なまでの領土拡大への執念も、第一次大戦時の飢餓に起因するのだろう。

 表題は「ナチスのキッチン」だが、扱う時代は主として第一次大戦から第二次大戦まで。時として19世紀末まで遡っている。

 序章 台所の環境思想史、第1章 台所空間の「工場」化、 第2章 調理道具のテクノロジー化、 第3章 家政学の挑戦、第4章 レシピの思想史、 第5章 台所のナチ化、終章 来るべき台所のために の章よりなる。

 本書の一つのキーワードはテイラー主義。「
人力の浪費を省き、不必要な疲労をなくし、労働者に最大限の能率を発揮させることが、雇用者と被雇用者双方にとって幸福である、という幸福論がテイラー主義の基本的な考え方である」と述べる(p22)。1911年に発表されたテイラーの『科学的管理法の原理』というのは、私が就職して1年間の工場実習の間に叩き込まれた思想だ。人間を機械としてみるその思想に違和感を感じながらも、戦時の労働力不足を解消するために徹底してテイラー主義を適応したアメリカと、日本の精神主義を対比させて、これでは日本がアメリカとの戦争に負けて当然だと思った。ストップウォッチによる計測と観察、無駄な行動の摘出、そして計測結果に基づいた総合評価。第一次大戦からワイマール時代を経て、ナチスの時代に至るドイツは、このテーラーシステムのもっとも熱心な受容国の一つであったという。それは台所にも押し寄せてくる。合理的な配置のキッチンがワイマール時代に次々に考案され、建設される。その代表例は1927年に公開された「フランクフルトキッチン」である。開発に携わった人々の個人的な運命まで触れながら、開発の経緯が詳しく述べられ、本書の読みどころの一つとなっている。

 ナチスが称揚した家の形態は竈が家族の中心にある古いドイツ農民の屋敷。奉公人から主人までが一つの家族として成立していた家族像を理想化していた。ナチスは機能的な台所を排し、暖炉の生産を奨励し、居心地のよい広い台所を増設することで、健康なドイツ民族の育成と人口増加策に務めたとされた。だが、実際にはナチスは台所空間の工場化に歯止めをかけなかった(p113~)。

 意外だったのは、建築家ブルーノ・タウトもワイマール時代の台所近代化に関わっていること。タウトは1924年に『新しい住まい―創造者としての女性』という本を出した。タウトは言う、「
家事はシンプルかつ合理的でなくてはならない。家事とは、日々のルーティンワークではなく、ましてや消費行為でもなく、創造することにほかならない。」(p101~)。タウトは、伝統に縛られないこと、科学によって与えられた認識と補助手段を大切にすること、家庭を物質から解放すること、シンプルに必要な物だけを家におくことを主張した。そして、ベルリンの団地に極めてシンプルな台所をもつ家を設計した(p103~)。桂離宮を絶賛し、日光の陽明門をけなしたタウトらしい主張だが、彼は単なる建築美術評論家ではなかったのだ。

 著者は言う:
私は台所を、自然、技術、道具、知が集積するひとつの空間として論じてきた。植物と動物が流通を経て家庭に運ばれると、火と水で加工される生態学的な過程で、台所の技術と道具は企業によってテクノロジー化され、台所の知は家政学と栄養学によって科学化される。台所の建築家たちは、こうした科学に基づき、台所という空間を人間が効率的に働くことが出来る「小工場」に設計した。それは必然的に、台所に立つ主婦が煙と煤と暗さから解放され、清潔で明るく整頓された作業空間を手に入れるのと引き替えに、電化製品や化学調味料を販売する企業群が家計費を効率的に吸収するシステムを構築する、ということを意味した(p299)。

 家政学の挑戦の章では、栄養の観点から食事が取り上げられる。「ビタミン信仰」と著者が呼ぶ、ビタミンへのこだわりが強かったことが示される。かつてドイツに行くと感じたことだが、ビタミンへの関心が異常に強い。ビタミン入りの飲料、キャンデーがいくつも出回っている。日本語で言えば「マルチビタミン」いった商品名が私の印象に残っている。

 ナチスは機械のように正確に淡々と台所仕事を遂行することを主婦に求めた。食の内実が均質化し、主婦の人間性が剥奪されるかわりに、台所があたかも生命を持った有機体のように、吸収(食材購入)、消化(調理)、排泄(残飯)を繰り返す。ナチスの有名なスローガン「君は無、君の民族こそすべて」の精神は、まさにこうした空間の人間の生き方を示している。そして、この空間自体はワイマール時代にテーラー主義とそれを信奉する家政学者、栄養学者、さらには電気産業や食品産業、それに結びついた料理本作家によって構築されていった。(p359)

 著者はあとがきで二つの究極のキッチンについて触れる。一つはアウシュビッツを体験したフランクルの『夜と霧』に由来する。フランクルは十分な食事を与えられなかった自身が、最後には自身の筋肉をタンパク質として食いつくして行く、自分の身体がただ肉のように感じられたと証言している。著者はこの状況を「人間の中に台所を埋め込む」と表現する。もう一つの台所は、「主婦は機械になるべきだ」という第二次大戦下のドイツのレシピ集の表現に見られるもの。そこでは「台所の中に人間が埋め込まれる」。主婦に要請されたのは、機械のように寸分の間違いもなくありとあらゆる無駄を排除し、台所の仕事を行うこと。

 この両者のあり方に、人間ではなくシステムを優先し、どちらも「食べること」という人類の基本的な文化行為をかぎりなく「栄養摂取」に近づけていると、著者は言う。さらに、このような近代キッチン状態での「食べること」の凋衰は現在の日本社会でも日常的に見ることが出来ると指摘する。

 日本でこれほど科学的に台所の改善、家事の改善が研究され、試みられたとは思えない。同時代の日本の台所との比較があれば面白いだろう。

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書名 猫の古典文学誌 著者 田中貴子 No
2016-06
発行所 講談社学芸文庫 発行年 2014年10月 読了年月日 2016-02-18 記入年月日 2016-03-26

 暮れから続く猫ものシリーズの一つ。表題の通り、日本の古典に現れた猫の話し。世の中にはこんなことまで調べている人がいるのだ。

 いつ頃から猫が日本で飼われていたかは不明だという。化石も発見されていない。文献に初めて登場するのは9世紀の『日本霊異記』。そこでは「狸」と書いて「猫」と読ませている。平安時代の辞書には猫の漢字として「狸」と「猫」が混在している。これは中国から来た風習である。12世紀頃になって、「狸」は野生の猫、「猫」は家猫として区別された。鎌倉時代以降は「狸」という用字はなくなる。「猫」が定着したのは、農業におけるねずみ取りの役割が大きく、つくりを「苗」にした「猫」が定着した。

 平安貴族は犬よりも圧倒的に猫好きだった。宇多天皇の日記には寵愛する黒猫のことが出てくる。悪左府として知られる藤原頼長の日記にも、少年の頃可愛がっていた猫の思い出が出てくる。当時の猫は中国から渡来した「唐猫」」である。

 清少納言は『枕草子』で猫について記している。紫式部は猫を使って『源氏物語』を大きく展開させている。柏木が女三宮の姿を初めて見る場面、宮が飼っていた猫が御簾のうちから逃げ出し、猫についていた綱が御簾に引っかかり、御簾がまくれ上がったのだ。その間から見えた女三宮の姿は柏木の目に焼き付いてしまう。こうして『源氏物語』後半の悲劇は始まって行く。

 中世に入ると猫は魔性のもというとらえ方が出てくる。猫の化け物の記述は、1150年の『本朝世紀』が初めてだろう。奇怪なねこは「ねこまた」と呼ばれたが、その記述が最初に出てくるのは、藤原定家の『明月記』(1233年)である。その後『徒然草』にもねこまたが出てくる。

 鹿児島には猫を祀る神社がある。島津義弘が朝鮮戦役に7匹の猫を連れて行き、そのうち2匹が日本に戻ってきた。それを祀ったものだと伝えられている。猫の瞳孔の開き具合から時刻を読みとるために、猫を連れて行ったとされる。帰還した2匹の猫がこの神社に祀られ、6月10日の時の記念日には鹿児島市内の時計業者のお祭りが行われるという。猫の瞳孔の形から時刻を推定することは当時はよく行われていたようだ。ただ、著者は義弘が猫を伴って朝鮮に渡ったという言い伝えを疑問視している。

 後半の江戸時代では猫の絵が沢山示されている。猫の俳句も江戸時代には沢山作られた。
 うらやまし思ひきるとき猫の恋    越人
  猫の恋は一過性で、盛りが過ぎれば何事もなくなる。それが人間には羨ましい。

 猫の恋やむとき閨の朧月       芭蕉
  猫の恋は止んだけれど、自分は少し人恋しくなった、恋は思いきられぬものという人間の宿命が猫に託されていると、著者はこの句を評している。

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書名 A Street Cat Named Bob 著者 James Bowen No
2016-07
発行所 Hodder & Stoughton Ltd. 発行年 2012年 読了年月日 2016-03-09 記入年月日 2016-03-14

 エッセイ教室に最近入った河村多恵子さんが、私が猫好きと知り、こんな本があると言って貸してくれた。原書を読むのは20年ぶりにはなるだろう。河村さんは海外、特に発展途上国での仕事に携わってきたようだ。彼女自身も大の猫好き。

 ロンドンでストリートミュージシャンとして暮らす若い麻薬常習者の男が、男のもとに迷い込んだ1匹の雄猫のために麻薬から抜け出し、人生を取りもどす物語。

「Bob」と名付けられた猫は「ginger cat」、薄茶のトラ猫。男はオーストラリアで育ったが、両親が仕事で各地を転々としたため、親しい友だちを持たないまま少年時代を過ごす。やがて、両親は離婚し、父はロンドンで新しい家庭を持つ。男はロンドンに出て、バンドを作り一時期は成功するが、やがて解散し、麻薬に手を出し、ホームレスまで落ち込む。Bob が迷い込んできた当時、男はヘロイン中毒のからの回復過程にあり、ロンドの中心街、コベントガーデンでギターを弾いて、日銭を稼いでいた。いつかは元の場所に戻るだろうと思っていたが、Bobは男のところに居着いてしまう。Bob は怪我をしていたが、男は獣医に連れて行き治す。

 ある日、コベントガーデンに行くためバス停に向かって歩いていた男が交差点で信号待ちをしていると、足下にBob ついてきていた。仕方なしに男は猫を肩に乗せバスに乗り、コベントガーデンに行く。行く途中から彼と猫は道行く人々の注目を集める。Bob が人目を引いたお陰で、その日の男の実入りは普段の3倍にもなった。

 それ以来、二人は毎日コベントガーデンに行った。だが、路上でのそうした活動には、色々やっかいな問題が伴う。同じような大道芸人との縄張り争い。そして、二つ目は近くの地下鉄の駅員とのごたごた。男はある日、地下鉄の女性職員につばを吐きかけたという嫌疑を受ける。完全なでっち上げで、DNA鑑定で無実が証明されるが、男はそれを機に、ストリートミュージシャンを止める。

 男が新たに選んだのは「Big Issue」プログラムへの参加。これは1990年代に始められた、ホームレス救済プログラム。各人が路上で「The Big Issue」という雑誌を売り、それで生計を立てるというもの。ネットで調べると、大きな成果を上げているという。

 男はプログラムに登録し、コベントガーデンで雑誌を売る。この場合もBobの存在が大きくものをいい、人々が足を止めて、雑誌を買って行く。常連も出来てBobへのプレゼントなども集まる。しかし、やがてBobを使って押しつけ商法をしたと訴えられる。押しつけ商法は御法度なのだ。そんなごたごたがあり、場所を変える。Angel という新しい場所では、嫌がらせもなく、地下鉄の職員からも快く思われる。そうした中、男はヘロイン依存から抜け出す最後の試練を迎える。薬を絶って、48時間を乗り切れれば、新しい最後のステップへ進める。情緒不安、発汗、妄想、幻覚と次々に襲う禁断症状を、Bobを相手にすることで禁断症状から気をそらすことができ、乗り切る。

 男にとってBob は家族以上の存在だ。Bobは2回、男から逃げ出す。最初は異様なコスチュームを纏った呼び込み人に驚いて。2回目は突然襲ってきた犬におびえて。男は夜のロンドンを必死の思いで探し回る。幸い、最初はピカデリーサーカスのある店にいた。2回目は、オーストラリアの母親のもと行っていた際に6週間預けられていた、男のガールフレンドのアパートにいた。

 猫の仕草が細かくよく描かれている。男とBobとの深まって行く関係に、深い感動を覚え、いつの間にかすっかり感情移入してしまう。Bobの存在が、男に人生を前向きに生きる決意をさせる。Bobは家族以上の存在になる。この「二人」の関係の最後はどういう終わり方をするのだろうかと、気になりながら読んでいった。突然Bobが元の場所、それは立派な家の飼い猫でもあるようだし、あるいは単なる野良猫でもあるようだが、へ帰って行くのか。それとも病気か怪我で死ぬのか。いずれにしてもそんな結末は読みたくないなと思っていた。予想に反して、Bobと男は人気者になり、ユーチューブにも載って、沢山のアクセスがあるというところで終わっている。

 麻薬依存から脱却のプロセスとロンドンの街頭の情景描写が異常なほど詳細で、リアリティに富むのが不思議に思えた。あとがきの謝辞で、これは作者の実体験を下敷きにしていることが明らかにされていた。さらに、ネットのURLが最後に載っていて、それをクリックしたら、実際のBob と作者のJames Bowen の画像が見られた。Bobは大柄の猫で、おとなしそうだが、可愛いとは言えない。

 Bobが迷い込んできたのは2007年の早春。それからほぼ2年間の出来事。その間に、世の中の動きが、所々触れられているのが面白い。例えばリーマンショックによる不況がロンドンのストリートにもおよんだこと、男はオーストラリアの母親のところに行く際に、運賃の安い中国航空を使い北京経由で行くのだが、そこで当時はやっていた豚インフルエンザのチェックで空港で引っかかってしまう。あるいは日本の「猫の駅長」のことが出てきて、それにちなんでAngel駅からはBobに写真入りの乗車カードが与えられるというエピソードが述べられる。

 Bob と暮らすようになったことを以下のように述べている:
 
It humanised me. Especially after I'd been so dehumanised. In some ways it was giving me back my identity. I had been a non-person; I was becoming a person again.

 本書を要約はこれに尽きる。猫の力。猫好きにはたまらない物語。

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書名 てのひら 著者 津久井紀代 No
2016-08
発行所 ふらんす堂 発行年 2001年 読了年月日 2016-03-14 記入年月日 2016-03-14

 現代俳句12人集というシリーズの⑦。ちなみに①は今年度のNHK俳句の選者であった池田澄子。津久井紀代さんは『天為』の同人。私は一昨年の夏から参加した『天為』東京例会で初めてその人を知った。

 昨年東京例会で、白魚を乗せ方舟の傾きぬ
という句に接したときすごすぎる句だと思った。津久井さんの句であった。

 また、同じく昨年 八月やコーンパイプのマッカーサー
という句を私は東京例会に出した。80余人の出席者の中で、ただ1人この句を選んでくれたのが津久井さんだった。主宰の有馬朗人の選からははずれたが、『天為』の有力同人である津久井さんの選はうれしかった。

 オリーブ句会の今谷さんから本書を借りて読んだ。
 平成5年から13年までの作品319句。1ページに2句。

 蛇穴を出て飴売りの来てをりぬ
 茸育ちゆく復活祭の夜も

 以上は最初のページの2句である。小動物とキリスト教世界を詠んだ句が著者の特徴。特に蛇の句は多い。
 
本書から
 大利根や蟻がかついでゆきしもの
 蛇出でてまつすぐにゆく気などなし
 めまとひの終の姿を知らざりし
 冴返る壜の中から蛇の貌
 十二弟子の一人にユダも春惜しむ
 拾得物に白魚のあり十二月
 寒明くるおろかに大き蛸の足
 白魚の一つ一つはなきごとし
 伊勢海老の髭のはみ出す座敷かな
 春を待つピカソの片一方のかほ
 問はれれば師系青邨雁来紅
 ごきぶりの天涯孤独かも知れず
 青邨忌裏の真赤なコート着て


 
 蛇、白魚、青邨忌、絵画、キリスト教世界は20年後の今でも津久井紀代さんの主要な句材だ。特定の句材から作者は抜け出せないものか、あるいは特定の句材に執着することが、俳句を深め独自の句風を確立することなのか。

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書名 江戸文学問わず語り 著者 円地文子 No
2016-09
発行所 講談社文芸文庫 発行年 2009年 読了年月日 2016-03-18 記入年月日 2016-03-26

 緑図書館にふらりと立ち寄り、本書が目についた。語り口調で江戸後期の文学を語ったもの。特に滝沢馬琴と上田秋成に力点を置いている。

 著者は、幼少時代、父方の祖母から江戸後期の物語、怪談話をたっぷりと聞いて育った。著者の文学の母胎は王朝の雅な女流文学ではなく、江戸末期の残酷趣味やエロチシズムが底流にあるという批評を、著者も肯定している。青春時代から30代頃まで、著者は自身の生まれ故郷のようなこの江戸後期文学から縁を切ることに腐心した。

主に西洋文学を読み習ったことの影響だと思いますが、同じ古典という中にも源氏物語や近松、西鶴、上田秋成などは、その当時でも違和感なしに親しむことが出来ました。しかし馬琴となると駄目なのです。唯もう現在通用しなくなった当時の倫理道徳の誇張した表現ばかり気になって、文学の内部に必ず存在すべきアウトサイダー的な抵抗がどこにも見られないのが愚かしくばかり思われたのです。」(p12)

 60歳を過ぎて、やっと馬琴の文学も日本文学の古典であると認められるようになった。著者によれば、馬琴は谷崎初め、泉鏡花や三島由紀夫などにもよく読まれたという。その代表作『八犬伝』を中心にして、馬琴の生涯、文学が語られる。「
源氏物語以後、戦記、随筆等を別にすれば、根っからの架空な長編の物語世界を創りだした代表はやはり馬琴の八犬伝ではないかと思います」(p85)。 

 著者は日本文学の古典の愛読書として、古事記、源氏物語、平家物語方丈記、近松の浄瑠璃、雨月物語、春雨物語、八犬伝をあげている。

『雨月物語』を次のように評する;
私見によれば秋成はこの短編集において、漢文学と日本文学とを完全に融合して独自の美しい文章を創りだした詩人だと思います。中略 超能力の怪異をもって、秋成は同時に現実社会の矛盾や醜悪を批判しているのです。これは晩年の春雨物語においていっそう著しい特徴となって現れてきます。(p175)

 この他、一九、三馬、四世鶴屋南北、河竹黙阿弥、平賀源内、近松門左衛門が取り上げられている。

 文化文政期を生きた南北の残酷趣味にはグロテスクはあっても、世紀末的デカダンスは余り感じられない。しかし、黙阿弥の時代になると、SM的要素がずっと濃厚になると著者は言う。(p134)

 田沼時代について:
彼の放漫政策の一面に、それまで保たれていた階級制の固い緊縛がゆるんで来、蘭学による医学の発達や鉱業の採掘等の科学性と共に、儒教からの呪縛を逃れる新しい古学の研究が生まれ、賀茂真淵や本居宣長のような傑れた国学者が現れています。(p145)
 この時代を代表する人物として平賀源内をあげ、多方面にその才能を発揮した源内を著者は、レオナルドダビンチの亜流の奇才だという。源内の戯作『根無草』が論じられている。

 近松門左衛門には、封建制度批判を読みとっている。

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書名 春雨物語 著者 上田秋成  井上泰至 訳注 No
2016-10
発行所 角川ソフィア文庫 発行年 平成22年 読了年月日 2016ー03ー25 記入年月日 2016-03-26

『江戸文学問わず語り』に、著者の円地文子が『雨月物語』と『春雨物語』のどちらが好きかと聞いたら、谷崎潤一郞は即座に『春雨物語』だと答えたとあった。

 本書は現代語訳と注釈付き。和漢の典籍に通じている上田秋成の文は、現代語訳と注釈なしでは読めない。まず現代語訳を読んで原文を読んだ。著者晩年の作品で、生前には刊行されなかった編もあって、今の形になったのは戦後であるという。全10編よりなる。

 怪異小説としては『雨月物語』の方がずっと迫力があり、面白いと思った。『春雨物語』は、現代の歴史小説に近いものとなっている。歴史を題材に秋成の人生観、世界観、文学批評が展開される。例えば「海賊」は、紀貫之が土佐から帰る船に海賊が乗り込み、古今集を批判し、菅原道真を論じるといった内容。秋成は海賊に自説を語らせている。

「血かたびら」は平安初期、桓武帝の後を継いだ人はいいが政治力が無く優柔不断な平城天皇を中心にそれを取り巻く人たちを扱ったもの。平城帝は漢籍にも明るい聡明な弟に帝位を譲る。嵯峨天皇だ。奈良に移った平城上皇は藤原仲成、薬子にそそのかされて、復位を企てる。いわゆる薬子の変だ。だが、事前に露見し、仲成は首をはねられ、平城帝の愛妾であった薬子は自害する。薬子の血が几張の薄絹に飛び散って、濡れ濡れして、弓で射てもなびかず、剣で切れば刃が欠けたという最後は『雨月物語』並の妖気がせまる。秋成は平城帝を通して、空海の説く仏教も嵯峨帝が学ぶ儒教も批判しているように見える。

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書名 紫苑物語 著者 石川淳 No
2016-11
発行所 講談社文芸文庫 発行年 1989年 読了年月日 2016-04-04 記入年月日 2016-04-05

 上田秋成の『春雨物語』をアマゾンで購入した。その後すぐに、『春雨物語』を読んだ人はこの本も読んでいますといって本書を勧めるメールが来た。巻末の本書解説を読むと石川淳は戦時中は「江戸に疎開していた」と言って、江戸文学を読みふけったらしい。そういえば円地文子の『江戸文学問わず語り』にも、石川淳のことに触れられていた気がする。石川淳は私にはまったくなじみのない作家。アマゾンのブックレビューをのぞいて見たら、本書の評判はすこぶるいい。

 本書は「紫苑物語」「八幡縁起」「修羅」の三作品を収める。芥川賞を受賞した純文学の作家にこれほど奔放な空想力に満ちた歴史物語があろうとは知らなかった。そういう点では『雨月物語』『春雨物語』と似ている。あるいは特に「修羅」は山田風太郎の小説を思い起こした。

 ブックレビューや解説では、石川淳の文章を名文と評している。独特の文体。例えば:
照る月の光をあびて、宗頼は岩角に立った。足の下は底しれぬ深い谷である。谷はくろぐろと闇をたたえて、入海のようにかなたにひろがってゆき、そのはてに、ぐっと突き出た崖が、高くゆるぎなく、巌肌あかあかと照りかえって、波に浮く半島のかたちに、下から打ちよせる闇を堰きとめていた。そこに、闇は一きわ黒く、崖は一きわあかるく、空と谷との境をあらそうところに、崖の三段目のはなにあたって、夜目にもうつくしい岩のすがたがあざやかに見さだめられた。月は今まさにその真上にあった。(p74)

「紫苑物語」の終わりの部分、主人公の宗頼が岩山の崖に彫られた石仏を弓で射ようと出かけた場面。宗頼は代々和歌を作る家に生まれた貴族。しかし、彼は歌の道を拒み、ひたすら弓の術を磨く。そして、地方の守になって赴任する。そこでは狩に熱中し、弓の術をみがき、高じて動物のみならず、家人までも弓の的にしてしまう。彼の治める地には、岩山が聳え、その向こうには一種の桃源郷のような土地が広がり、宗頼などとは違う種類の人々が住んでいる。宗頼はついには弓の師匠であった伯父まで射殺してしまう。彼の無道の行為はますますエスカレートし、住民は恐れおののく。宗頼の無道を頑として拒むように、岩山は聳え、彼の無道もその先にはおよばなかった。その山中では平太という人物が、石仏を彫っていた。宗頼はその石仏を射た直後、足下が崩れ谷底に没し、平太も炎に包まれてなくなる。

 同時に宗頼の部下でありながら最後は宗頼をなきものにしようとした、藤内という男も、宗頼の館もすべて灰燼に帰す。館の焼けた燃え残りがくすぶる。「
その中にただ一ところ、青青とあざやかな色をたもって、草むらの、花をまじえ、かぜになびいているのが見えた。紫苑の茂みであった」。 紫苑は宗頼が射殺した人間の血の流れた後に植えさせた植物。

 弓の師範は狼の化身、宗頼が妻の他に愛した女は彼が狩の際に射た狐の化身というような怪異を織り交ぜた一大ファンタジー。寓意はよく理解出来なかった。

「八幡縁起」は、源氏の守護神「八幡神社」を題材にした物語。高師直が最後に出てくる。

「修羅」は、応仁の乱時代を舞台にしたもの。ヒロインは西軍山名一門の出の胡摩という娘。胡摩が支配することになった洛外の無頼の群れ、ようやく独自の力を持ち始めた足軽の一群、下級貴族などが、関白二条兼良の蔵の宝物を狙って繰り広げる争い。一休禅師と連歌師智蘊が、第三者として時代を切る。誰も追いつけない俊足の胡摩は不死身のスーパーウーマン。山田風太郎の『室町お伽草子』の香具耶姫を思い出しながら読んだ。


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書名 焼け跡のイエス・善財 著者 石川淳 No
2016-12
発行所 講談社文芸文庫 発行年 2006年 読了年月日 2016-04-19 記入年月日 2016-04-20

 表題の他、「山桜」「マルスの歌」「かよい小町」「処女懐胎」を納める。最初の2編が戦前の作で、後は終戦直後の作品。
「焼け跡のイエス」は「
むせかえる土ほこりの中に、雑草がはびこるように一かたまり、葦簀がこいをひしとならべた店」が並ぶ昭和21年7月の上野のガード下の闇市が舞台。突然、イワシを焼いて売る店から、少年がたたき出されてくる。「道ばたに捨てられたボロの土まみれに腐ったのが、ふっとなにかの精に魅入られて、すっくり立ち上ったけしきで、風にあおられながら、おのずとあるく人間のかたちの、ただ見る、溝泥の色どすぐろく、垂れさがったボロの肌とのけじめがなく、肌のうえにはさらに芥と垢とが鱗形の隈をとり、あたまから顔にかけてはえたいの知れぬデキモノにおおわれ、そのウミの流れたのが烈日に乾きかたまって、つんと目鼻を突き刺すまでの悪臭を放っていて」と形容される10歳から15歳の間と思われる少年だ。道行く人も、店のものも少年が現れたとき、どっきとし立ちすくむ。少年は少年が与えた周囲への戦慄には「いったい何の騒動がおこったのかと、ひとり涼しそうに遠くを見つめて、役者が花道に出たようにすうとあるいて行くのは、どうしておちつきはらったもので、よほどみずから恃むところがないと、こうしぜんには足がはこぶまいとおもわれた。

 少年は、白米の握り飯を売る店で、握り飯をあっという間にほおばり、「
白いシュミーズを透かして乳房を匕首のようにひらめかせ、おなじ白のスカートのみじかい裾をおもいきり刎ねあげて、腰掛けにかた」店の女が立ち上がろうとしたのに、後ろから抱きついた。駆けつけてきた兵隊靴を履いた男に二人は絡み合ったまま道路に出される。たまたまよろめく二人の前に立っていた私は二人を抱きとめ、しりもちをつく。私も先ほどこの女の肢体にみとれていた。私は倒れかかってきた二人のうち、少年をはねのけて、女の方を抱えていた。肘と膝をすりむいた私がやっと起き上がったときには少年はすでにいなかった。

 私は谷中の墓地にある太宰春台の墓に向かった。墓碑の拓本をとるためだ。歩きながら、私は女に対する劣情を取り繕って上品ぶっていながら、女の方を抱きとめた自分こそ賤民中の賤民とではないかと恥じた。そして「
かの少年は存外神と縁故のふかいもので、これから焼跡の新開地にはびころうとする人間のはじまり、すなわち「人の子」の役割を振りあてられているものかも知れない。少年がクリストであるかどうかは判明しないが、イエスだということはまずうごかない目星だろう」と思う。

 上野の山に入ったとき、少年があとをつけてきているのに気がつく。東照宮を抜け、谷中へ下る坂道で、少年は私に襲いかかる。私は死力を尽くして少年を組み伏せた。「
今、ウミと泥と汗と垢とによごれゆがんで、苦しげな息づかいであえいでいる敵の顔がついわたしの眼の下にある。そのとき、わたしは一瞬にして恍惚となるまでに戦慄した。わたしがまのあたりに見たものは、少年の顔でもなく、狼の顔でもなく、ただの人間の顔でもない。それはいたましくもヴェロニックに写り出たところの、苦患にみちたナザレのイエスの、生きた顔にほかならなかった。私は少年がやはりイエスであって、そしてまたクリストであったことを痛烈にさとった。

 私のポケットからは財布がなくなっていた。翌日再度闇市を通って谷中に向かったが、それは月が変わった8月1日で、予告通り闇市は当局の手によって閉じられていて人ひとりいなかった。

 敗戦直後の闇市のイメージがよくとらえられている。

「マルスの歌」は戦前反軍的だとして、軍部からにらまれた作品。中にこんな記述がある。
西伊豆の三津浜からの眺め:
おりおり吹く微風の中に、遠くで漁船が円陣を作っている。足下の水は鉱泉のようにさらさらしている。ここでは、その水に皺を置くためではなく、それの伸びをよくするためにさざなみがわたっている。ふと北のほうの空を見上げると、どうしてもっと早く気がつかなかったのかと思われるほど大きく、高く、空いちめんを領して、非常にはっきりフジが浮き立っていた。しかし、頭脳にたたかいを挑むべき何ものももたぬこの山の形容を元来わたしは好まないたちなので、いかにそれが秀麗らしく見えようとも、なおさら感心するわけにはゆかなかった。(p47)。


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書名 太平記(5) 著者 兵藤裕己 校注 No
2016-13
発行所 岩波文庫 発行年 2016年4月15日 読了年月日 2016-05-04 記入年月日 2016-05-05

 第30巻から36巻、高一族の滅亡後の1351年から、足利義詮が南朝方から京を奪還する1361年までを扱う。

 本分冊では足利尊氏も死ぬ。4月30日、前から行ってみたいと思っていた、足利市の足利学校へ向かう電車の中で、尊氏の死を読んだ。足利学校は足利氏の創立したものではなかった。学校の近くにある足利氏居宅あとは更地で、遺構は何もなかった。足利市へは初めて行ったが、横浜の自宅からは延々と関東平野を北上する。車窓に広がる関東平野は、豊で広い。尊氏の祖先もこの豊かな地に根を下ろし、営々と力を養ってきたのだろう。

 本分冊も中身は紋きりパターン。繰り返し戦闘場面が述べられ食傷気味だ。尊氏と弟の直義が対立し、討伐に向かった尊氏軍は、薩埵峠で直義軍に包囲される。しかし、尊氏側の宇都宮氏綱が直義軍の背後を突き、直義軍は敗走する。直義は降伏し鎌倉に入り、ほどなく死去する。毒殺と噂される。尊氏が京を留守にした隙に南朝軍が京を占拠する。北朝方の天皇・上皇らは南朝方に連れ去られ、京に戻るのは5年後である。

 尊氏の死後、息子の義詮が将軍職を継ぐ。以後の登場人物は、今までの分冊に比べて、歴史上も余り有名でないものが多く、小粒な感じがする。南北朝間の戦闘もあるが、北朝の有力大名同士の争いもたくさん発生する。裏切り、寝返りは相変わらず。京も数回南朝軍の支配するところとなる。その都度将軍義詮は都落ちをする。相手の勢力が強いと見ると、戦わずにさっさと領国に帰ってしまうという事例が多い。

 新田義貞の遺児、義興が反乱を起こす。小手指に両軍が対峙するが、決着がつかない。足利側は種々謀略を用いて、最後は義興を欺して誘い出し、多摩川の矢口渡で彼の乗った舟を沈めて、殺害してしまう。その地には後に新田神社が建てられ、義興の霊が祀られた。矢口渡、武蔵新田は今でも東急目黒線の駅名として残っている。武蔵新田の隣の下丸子に私の実家があったが、武蔵新田と矢口渡に関わるこのエピソードは知らなかった。そういえば、所沢市の小手指は西武池袋線の駅だ。今ではみなとみらいから直通で小手指の先まで行ける。

 尊氏の息子直冬は、南朝方に属し尊氏と戦う。南朝が占拠する京へ攻め上った尊氏軍の中に那須与一の子孫、資藤もいた。資藤は出陣に際し、老母に文を送り、討ち死にして親に先立ち、草葉の陰で親の嘆くのを見るのが悲しいという。それに対して老母は、昔から武士の家に生まれたものは、名を惜しみ、命を惜しまないものだ。私の子供として生まれ、立派に育ったならば、孝行はそれで十分だ。身を立て、名を後世に残せばそれが 孝行の終わりだ。今度の合戦に命は軽んじても先祖の名を汚してはいけない、といって那須与一が扇を射た際の母衣(鎧の背中につけて飾りとした布)を与えた。資藤は、味方が引く中で、敵陣の真ん中に突入し、兄弟三人、一族郎党三十六騎、一歩も引かず闘い全員討ち死にした(p218~)。名を重んじ、命を軽んじるいわゆる武士道は、何も徳川時代のものではない。

 仁木義長、細川清氏、畠山道誓といった足利幕府側の有力者が失脚、没落したり、南朝に寝返ったりする中で、佐々木導誉は将軍義詮を助け、しぶとく生き残る。導誉の婆娑羅振りも紹介されている。本編の最後の部分、導誉は攻め入ってくる南朝軍を前に都落ちする。その際、自宅はきっと南朝方の名のある大将が入るだろうと予想し、王義之の書などの宝物をならべおき、鳥、兎、雉、白鳥などの食糧を用意し、酒も三石用意し、さらに遁世者二名をつけて残した。やって来たのは楠木正成の遺児、正儀。遁世者は正儀に一献勧める。正儀は導誉の振る舞いに感じ入り、この屋敷を焼き払うこともしなかった。そればかりか、自身の都落ちの際には同じような飾り、酒肴を用意し、さらに秘蔵の鎧と白太刀一振りを置いていった。「
導誉のこの振る舞ひ、情け深く、風情ありと、感ずるひともあり、例の古博奕打ちに出し抜かれて、楠、鎧と太刀とを取られたりと、笑ふ族(やから)も多かりける。」と皮肉混じりに書かれている。(p467)

 本書では校注者による網野史学を思わせる解説が素晴らしい。後醍醐帝が始めた無礼講とその後のバサラとをキーワードに太平記の時代を解説している。

天皇が直接「民」に君臨する統治形態が、後醍醐天皇の企てた新政の内実である。中略 天皇が打ち出した「新儀」は君と民のあいだに介在する臣下のヒエラルキーを解体すること、その一点に向けられていたといっても過言でない。そのような後醍醐天皇の目指した政治は、中略 かれの重臣である北畠親房がイメージした公家政治とはおよそ異なっていた。

:北畠親房のイメージした「公家一統」政治は、当然のことながら、後醍醐天皇の新政の人事と対立することになる。
中略 親房の政治思想は、天皇が行政機構を統括して直接(臣を介さずに)「民」に君臨する新政(親政)の政治形態を認めないという点で、意外にも足利政権の政治的立場と近似するものだった。

『太平記』でもっとも好意的・同情的に描かれている楠木正成は、いわゆる「武臣」の範疇に入らない。源平の「武臣」交替史の枠組みからすれば、およそ歴史の表舞台に浮上する余地のない人物である。まさに「無礼講」的に後醍醐天皇の宮廷と結びついた武士の代表格だが、じっさい数百の小勢で鎌倉幕府の大軍を翻弄・撃退する正成の合戦談は、どれも源平合戦のパロディといってよい。

:多くの見物衆が見まもる『太平記』のいくさは、華麗に装われる一種の芸能空間であった。


 これはまさに『太平記』の私の読後感の核心だ。参加した両軍の武将の長々とした列記、戦闘装束の詳細な記述、名乗り、オーバーな戦闘場面描写。彼らはまさに戦闘を演じているのだ。芸能としてみられるから、太平記が人々に愛され、読まれてきたのだろう。

命をやりとりする戦場は、バサラの美意識とも親和的であった、というより、戦場という非日常空間こそが、この時代のバサラの芸能空間をつくりだす動因でもあった。

:佐々木導誉のこうした傍若無人のふるまいを『太平記』はもちろん批判的に記すのだが、しかしそれは「美々しく見えたりけり」とも評されている。こうしたアンビヴァレントな導誉の評価は、『太平記』という作品が、その序文等で説かれる儒教的な政道論の一辺倒ではないこと、むしろ「美々しく見えたりけり」ということばに、バサラの時代のただ中にあって、時代の空気を敏感に呼吸していた作者の関心のありかたがうかがえる。

:現代に伝わる茶道、華道、香道、能楽、作庭などの諸芸諸道は、その草創期にあって、導誉の関与しなかったものはなかったといっても過言ではない(林家辰三郎『佐々木導誉』)。

: 前略 それら南北朝期に出現した文化的事態が、後醍醐天皇の「新政」の企てと不可分に浮上・顕在化したものである以上、今日もっとも「日本的」と考えられている諸芸諸道の文化は、『太平記』の時代のただなかにその淵源をもつのである。

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書名 研究不正 著者 黒木登志夫 No
2016-14
発行所 中公新書 発行年 2016年4月 読了年月日 2016-05-17 記入年月日 2016-06-21

 エッセイ教室の仲間、熊谷瑤子さんから送られてきた。熊谷さんは若いころ著者と同じ研究室にいた。STAP細胞騒ぎが、一段落した現在、タイムリーな本だ。国内外42の事例を挙げて、どのような不正であったかを明らかにする。これだけの事例を見ても、研究不正の多さに驚く。著者自身は基礎医学の研究者。特に医学生物学関係で研究不正が多いという。一方、数学では研究不正はまずないという。

 42の事例の中にはSTAP細胞の他に、旧石器発掘に関する不正も取り上げあげられていて、初めて知るその全容に興味を引かれた。日本人研究者は実名ではなくイニシャルで示されているが、「神の手」と称されたSFの行った旧石器捏造は、事前に発掘場所にそれらしき石器を埋めておくというものだった。その「成果」で歴史の教科書は書き直され、発掘場所は史跡に指定された。それほどの「大発見」であった。不正を暴いたのは毎日新聞の取材班で、SFが前もって石器を埋めるところを映像にとった。「
SFのねつ造をゆるしたのは、学界の長老と官僚の権威であった。その権威のもとに、相互批判もなく、閉鎖的で透明性に欠けたコミュニティが形成された。調査報告を出すこともなく、まして英語で国際的に情報発信することもなく、国内の新聞の大見出しを意識して、発掘を続けてきたのであった」(p61)と厳しく弾劾する。「学界の長老と官僚の権威」と「英語のでの発信」と言うところが特に興味深い。

 何故研究者は不正をするのか。不正への誘惑として著者は以下のものをあげる(p185以下)
ストーリーの誘惑:自分の立てた作業仮説に合うようにデータを改ざんする
お化粧の誘惑:論文を美しく見せるために、きれいなデータだけをピックアップする
競争に勝つ誘惑:
ネイチャー、サイエンスの誘惑:これらの雑誌に載れば研究費も得られやすい。
研究費の誘惑:
出世の誘惑:
 STAP細胞の研究不正の真相は未だ明らかでない。ES細胞の混入によるものだと結論されたが、著者は細胞の混入は時折はあっても、継続的に起こることはない。従って、この混入は人為的なものであるとし、それはHOが行ったものだとしている。OHを不正へと誘ったものは上のうちのどれであろうか。ストーリーの誘惑が一番の理由に近いかも知れない。だとしても、不正へ乗り出す心理的な障壁は巨大なものであるはずだ。それをどう乗り切ったか。性格的にそのような障壁を感じないタイプの人間であるとしか思えない。

 石器捏造のSFは「多重人格障害」と診断された。タンパク質リン酸化酵素での不正を行ったスペクターというアメリカの研究者は、追放されたが、優秀な彼にはもう一度チャンスを与えるべきだという声があったという。しかし、彼のボスは「
どんなに優秀であっても、彼は病んでおり、その病を治すことはできない」と言ったという(p201)。特に重大な不正を行う研究者にはどこか性格的な欠陥があるのだろう。

 2014年3月、理研の内部検証委員会はSTAP論文にねつ造、改ざん、盗用があることを認めた。4月にHOは記者会見で「STAP細胞はありまーす」と述べた。同じく5月に、たまたま高校の同期6人が集まった。当然STAP細胞のことが話題になった。あの論文は完全なインチキだと主張したのは私1人であった。後の5人は、OHの肩を持ち、STAP細胞の存在を否定できないとした。私は驚いた。5人のうち、1人は工学系で国立大学の名誉教授であり、もう一人は製薬会社で新薬開発に携わってきた。当時はOHを被害者とし、同情する雰囲気が強かった。5人もその雰囲気に染まっていたのだ。研究不正を一般の人に理解してもらうのは難しい。事実に基づかない、あるいは事実を曲げた主張を見抜けなくて、ムードに流されると、この国はとんでもない方向に行きかねないと思った。

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書名 知命 著者 津久井紀代 No
2016-15
発行所 オリオン社 発行年 2016年4月 読了年月日 2016-06ー18 記入年月日 2016-06-21


「有馬朗人を読み解く」シリーズの第2弾。サブタイトルは「海外俳句が面白い」。

あとがきに:
句集『知命』は海外俳句の扉を世界に開いたという点において、日本の俳句史上画期的なものである。日本においては海外詠の可能性を開き、世界においては俳句という短詩形文学を紹介するさきがけとなった。

『知命』は有馬朗人40才から50才にかけての作品。第二句集である。この時期朗人はアメリカに仕事の基点移していて、海外生活が長い。本書はイエスの風景、ギリシャ、ヨーロッパ逍遙、仕事場としてのアメリカ、海外から見た日本と5章からなる。読み解きは代表的な句、あるいは同類の句想をまとめたものに対してなされているが、多分『知命』の全句が引用されている。

 読んでいて、朗人の句の知的抒情は日本の俳句では際立っていると思った。私も『天為』に入会したのはそこにひかれたからだ。私の句など、『知命』の句の空間と時間の豊かな広がり、深い味わいに比べればまるで子供じみたものだと改めて感じた。

 ただ、海外詠の場合、場所が明示されている。それがないと十分な理解は得られないが、17文字の短詩の宿命で、やむをえないことなのだ。典型的には芭蕉の奥の細道は、すべて詠じた場所が明示されている。

 本書の最初は「ペテロ」をテーマにしている。
 小麦の穂こぼれ古代の石畳
 雲雀鳴く道でペテロと主とが会ふ
 まくなぎやローマの道を主は何処へ(クオヴァディス)


「小麦の穂こぼれ」「雲雀鳴く」「まくなぎ」といずれも眼前の景からキリスト教世界を引き出している、と著者津久井紀代子は言う。「
イエス・キリストへの関心は、有馬朗人が実際に黒人街に住み、そこに暮らす人々と生活する中で得たものである。そこには知識を超えた生活の匂いを感じとることが出来るのではないだろうか」と津久井は言う。

 本書は「有馬朗人研究会」の研究成果をまとめたものであるとあとがきにある。

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書名 進化生物学入門 著者 栗田子郎 No
2016-16
発行所 講談社学術文庫 発行年 2013年 読了年月日 2016-06-18 記入年月日 2016-07-02

本屋の店先で見つけた。久し振りにこうした本を読んでみたいと思った。
サブタイトルは「宇宙発生からヒト誕生への137億年」

第一章 絶え間なき創造  多様化の歴史
第二章 種の問題     多様化の機構
第三章 霊長類の系統と進化 多様化の一例

 よりなり、宇宙の誕生からヒトの誕生まで進化の歴史を概観する。第一章、宇宙の進化と生命の起源と、第三章ヒトの誕生に関しては関心があって、若いころ関連の書を何冊か読んだことがある。第一章は読みやすかった。第二章の種の問題は、今まであまり関心がなかった。種の定義と分類学について詳細に述べられていて、教えられるところが多かったが、かなり専門的で、煩雑であった。第三章は霊長類の分類と系統が細かく述べられる。霊長類には200種を超える種があるということに驚く。それらの種の主要なものについてその生態系が述べられていて、興味深い。

以下本書から:
○ 地球の幼年期に起こった化学進化の仮説は模擬実験、化石の分析、隕石や月の石名丼の分析により、ほぼ真実に近いものとされている。p36.

○35億年前の藍藻の化石が最古の生物である。 p47.

○生物の本質的に有意な分類は原核生物と真核生物という分類である。p48.

○真核生物は絶対的に酸素を必要とする。その特徴の一つである有糸分裂は酸素がないと起こらない。従って地球の酸素濃度が高まって後に進化した。20億年以前には酸素はほとんどなかった。p48.

○初期キリスト教会の最高指導者アウグスティヌスは「よく似たものは起源が一つだ」と考えていた。だが、16世紀の宗教改革はこの考えを一変させ、地球上の生きとし生けるものはすべて創造の7日間に創りだされたものとした。p100。

○近代分類学の祖リンネも創造説の信奉者であった。p101.

○ドブジャンスキーによると「
種は、一つあるいは複数の生殖的隔離機構の組み合わせによって遺伝子の交換が制限されている個体群の集まりである」p108.

○属以上の分類単位はそれぞれの種が進化してきた道程を反映する残像でしかない。p135.

○突然変異の蓄積により様々な種内変異が起こるが、これが種形成の第一歩である。それに続く機構が自然淘汰と隔離である。p155.

○交雑により安定した新種が形成されるためには、稔性をそこなわず、安定した子孫を残しうるような機構が必要である。雑種の染色体構成が重複することによる安定した新種が形成されるというのはこの機構の一つである。やがてそれはタバコ属の交雑実験で実証された。このような植物は復倍数体と呼ばれる。

およそ400万年前、我々ヒトという種はアフリカ大陸を縦に引き裂く大地溝帯で生まれたと考えられていますが、そのきっかけになったのが、齧歯類にみたような地殻変動を引き金にした染色体の構造変化であった可能性があります。ヒトの染色体数はn=23ですが、それは類人猿(チンパンジー、ゴリラ、オランウータン)の24本の染色体のうちの2本が結合することにより生じたということが染色体染色法によるGバンドの解析から明らかにされているからです。 p185。

○ヒト上科(類人類)扁平で幅広の胸部と無尾という二つの特徴を共有する。テナガザル科、オランウータン科、ヒト科の3科5属、11(~16)種に分類される。200種を数える霊長類の中では、マイナーなグループ。このうちの一種、ヒトは現存する哺乳類のなかで、もっとも増殖率の高い種で、地球上のあらゆる環境に進出し、そこを荒廃させ、微妙なバランスのもとに生きている多くの種を絶滅の淵に追いやっています。p270.

ピグミーチンプの社会の最大の特徴は、性が完全に解放されて「全員参加の乱交パーティ社会」であることです。彼らは性を繁殖の絆から解き放ち、群れをまとめ安定させるためのコミュニケーションの手段とすることに成功したのです。p284.
○ピグミーチンプでは大人と子供の交尾、あるいは相手のもっている食物を欲しいために交尾するという売春の起源をもとれる行為がある。しかし、母と子の間の近親相姦は確実に回避されている。
p285.

○林床と樹上とを生活の場として行き来していた祖先は、直立した木の幹を登り降りする過程で垂直姿勢での二足歩行に不可欠な発達した中臀筋を獲得していった。p286.

○ヒトには細分すれば3000もの民族と6000余の語族が識別される。それ故、その社会構造も複雑であるが、基本的には家族という集団を単位としている。p288.

南アメリカでは単一の祖先が持ち込んだ小さな遺伝子プールを出発点に安定して豊饒な森林の樹上とい環境で進化しました。これに対し旧世界には既にさまざまな種が広域に分散して存在し、それぞれがかなり大きな遺伝子プールを抱えていました。環境も南アメリカに比べ激しく変遷しました。このため狭鼻猿類はたいそう変化に富んだ存在となり、ついにはヒトが誕生したのです。

○ヒトに最も似ているのがチンパンジー属とゴリラ属、ついでオランウータン属。p325

○DNAの塩基組成の突然変異から推定される、ヒトとチンパンジーの分岐の時期はおよそ500万年前。p329.

 動植物の図や、系統図などたくさんの図が掲載されている。また、巻末には27ページにわたる欧文の引用文献が載っていて、かなり専門的な本。初出は1997年。


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書名 火星の人 著者 アンディ・ウィアー、小野田和子訳 No
2016-17
発行所 早川書房 発行年 2015年 読了年月日 2016-07-08 記入年月日 2016-07-09

もとの職場の同僚、泊りさんが、こんな本はいかがですかと貸してくれた。文庫本上下2巻の長編SF。

 有人探査船で火星に着陸して、ミッションの途中、1人火星に取り残された男の物語。当然最後は帰還するという結末以外には、この種の物語は成りたたない。結末はわかっているから、次々に襲う困難を主人公のマーク・ワトニーがいかに乗り越えるか、それが本書の読みどころ。その困難が大きければ大きいほど、読み手を引き込む。

 ワトニーは植物学者兼メカニカルエンジニアとして他の5人と火星探査船アレス3に乗り込む。火星に着陸して6日目、彼らのハブを猛烈な砂嵐が襲う。NASAは帰還用の火星上昇機にダメージがおよぶ前に帰還を命令する。上昇機に向かう途中、ワトニーに嵐に吹き飛ばされた尖ったアンテナが突き刺さり、彼は転倒し、吹き飛ばされてしまった。クルーの船長、ルイス(女性の地質学者)はワトニーの救出を諦めて、火星から去る。

 ワトニーは気を失っていたが、傷口からの出血がかたまって宇宙服に空いた穴をふさいでいて、助かった。幸いなことに火星基地の中心施設であるハブは無事に嵐に耐え抜いた。しかし、クルーや地球との通信手段は失われてしまった。

 本書はワトニーの「ログエントリー」と称する日々の記録と、救出プランを策定したNASA、そして実際に救出に当たったアレス3のクルーの活躍で構成されるが、半分以上はワトニーの記録である。前向きで、ユーモア好きで、器用なワトニーは帰還の希望を捨てずに、そのために何をすべきかを熟考し、計画を立て、それを一つ一つ実行して行く。幸い、基地に用意されていた資材は6人のクルー用のものであったので、余分なものは次々に利用して行く。ワトニーは植物学者であるが、メカニカルエンジニアでもある。宇宙飛行士にはこんなまったく違った二つの専門分野をこなすことが要求され、クルー全員が二つの専門分野をもつ。

 次の火星探査機アレス4がやってくるのは4年後。ワトニーはたまたまジャガイモを持って来ていたので、それをハブ内で育てて、食糧を切り詰めれば、1年半はもつと考え、それを実行する。アレス4の火星上昇機は既に火星に設置済みだが、彼の居る所からは3200キロ離れている。ローバーと呼ばれる地上探査機を使えば、3200キロの旅も可能だと彼は信じる。1200キロ離れたところにはパスファインダーという無人の観測施設があり、そこには無線機がある。ワトニーはまずそこまでローバーで辿り着き、無線機を手に入れる。こうして地球と交信ができるようになる。もっとも、交信可能になる前に、火星を回る衛星からの写真を注意深く見ていたNASAの担当者が、ワトニーの生存を確認する。

 NASAが立てた救出プランは、5人のクルーが乗って地球へ向かっていた宇宙線「ヘルメス」が航路を変えて火星に再接近し、アレス4の火星上昇機に乗ったワトニーとドッキングするというシナリオだ。ワトニーはローバーを長距離旅行に耐えられるように改造し、アレス4の火星上昇機のあるところまで辿り着く。途中ではクレーターの下り斜面でローバーが横転するという事故もあったが何とか切り抜ける。

 最後のヘルメスによるワトニー回収作業もスリリングだ。火星上昇機をヘルメスのクルーの1人が、手でキャッチするとい離れ業だ。上昇機とヘルメスの軌道が接触できるのは一瞬しかない。その瞬間を逃すとチャンスは永遠にない。事前の計算に反して上昇機とヘルメスの相対速度は秒速50メートル以上あり、一瞬の接近でつかまえることは不可能だ。そこでルイス船長のとった最終決断は、ヘルメス内の空気を逆噴射してヘルメスを減速することだった。クルーの1人が、砂糖に液体酸素を交えた爆薬を作り、それを爆発させてヘルメスの壁に穴を開け、空気を逆噴射して、減速に成功する。船外にいたクルーが長い命綱の先でワトニーの乗った上昇機から彼を抱え出す。かくしてワトニーは火星に立ってから549火星日(1火星日は地球の1日よりわずかに長い)後に救出された。ジャガイモのお陰で食糧がぎりぎり持ちこたえたのだ。

 生命維持装置として、炭酸ガスからの酸素発生器、水の回収機、炭酸ガス除去装置。動力源としての太陽電池パネル、小型の原子炉、通信装置などの大きなものから、工具一式、ビタミン剤、カフェイン、強力接着剤などの細々したものまで、火星に送り込まれている。大変な費用だと思う。そうしたものがあるからこそワトニーは生き延びられた。

 驚くのは宇宙船の軌道計算だ。ヘルメスとワトニーの乗った上昇機との事前の計算では、コースのずれは1メートル、予定速度の誤差は秒速2センチ以内と計算されている。実際は上昇機は軽量化するために大幅に改造され、金属を一部を布に置き換える改造を行ったために、速度が出ず、上述のようなヘルメスの減速が必要になったのだが。

 テンポのよい文章。翻訳は荒っぽい。例えば、下巻のp33には、NASAの広報担当の女性が、ヘルメスによるワトニーの救出を渋ったNASAの長官に「
あなたはほんとうにどうしようもない臆病者です。あなたにタマがついていたら、わたしたちワトニーを救えたかもしれないのにね」と言っている。原文はどうなっているのか知らないが、日本語として女性が、上司の男性に向かって「タマがついている」などと言うことは絶対にない。

 本書は「オデッセイ」という名で今春映画が公開された。

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書名 著者 永島唯男 No
2016-18
発行所 本阿弥書店 発行年 2012年 読了年月日 2016-07-13 記入年月日 2016ー07-14

 著者の永島唯男さんは天為句会の東京例会の常連。80人ほど集まる例会で、いつも有馬朗人主宰ら6,7人が坐るひな壇に並ぶ。でっぷりとした体つきから大ボスの風格が漂う。東京例会でも特異な句を出す。例えば昨夏の句

しずかさや岩に死にゐる油蝉     
 が特選に選ばれた。朗人主宰は本歌取りとして面白い。たまにはこういう句もいいが、もっと真面目な人が作るともっといいとコメントした。

 『天為』句会とはまったく句風が違うが、朗人主宰も永島さんの「真面目でない」人柄には一目置いているようだ。私はこの人の句が好きである。句仲間の今谷みよこさんにそう話したら、彼女が永島さんから贈られた本書を持っていた。

 著者の第3句集。10年間の3500余句より328句を選んだという。駄句を捨てたら句集にならないので、それらも収めた玉石混淆の句集であるとあとがきに言う。ハードカバーで1ページ2句という豪華な本。

 著者は私より3才年上。天為の同人であるが、地元銚子で「鷗」という結社を主宰するほか、銚子での色々な俳句活動に関わっている。俳句を始めたのは60才近くになってであることが著者略歴でわかる。

 武蔵野の名残り若葉の欅かな
 が本書の書名に由来。生家の庭先におおきな欅があって、幼いころから蝉時雨を耳にして育ち、それが今でも耳に残っているという。この句は極めて真面目で正統的な句。こうした句とは別に、本書の真骨頂はもっとくだけた句。本書は春から始まって新年に終わるように句が配列されている。その最後の方1ページには次のような句が並ぶ:

 初夢の獏の丸焼丸齧り
 暁の義理と人情の姫始
 いやはや何とも言えない句だ。著者はあとがきで「
たとえ一句でもクスリと片頬を歪めてくれたら、とても嬉しい。それとお江戸の粋と張りを少しでも感じてもらえたなら、本望である」と記す。

 本書は14の章に分けられていて、それぞれに句からとった漢字2文字よりなる表題がつけられている。なかなか憎いやり方だ。例えば、最初の「辻褄」は
 辻褄を無理矢理合はす建国日
 である。

 5,6枚の著者の筆になる絵が挿入されている。いずれも和服姿の嫋々とした女性の姿。多芸な趣味人である。銚子では月に10回の句会をこなしその他にも東京に2,3回はでるという多忙な中で、なぜか酒盃を傾ける時間だけはたっぷりあるとあとがきに言う。

 蘇東坡と酌む春宵の一刻を
 ぐい呑を干しては毟る蒸鰈
 おぼろ夜をいそいそとゆく梯子癖
 鰭酒に噂の尾鰭ひらひらと
 おでん屋に苦の種を吐く泣き上戸

「蘇東坡」というフレーズは有馬朗人好みだが、「酌む」と入ると朗人がとるかどうか。他の句はまずとらないだろう。


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書名 大屋達治集 著者 大屋達治 No
2016-19
発行所 俳人協会 発行年 平成27年 読了年月日 2016-07-19 記入年月日 2016-07-20

 天為オリーブ句会の宮川ルツ子主宰が皆に紹介した句集。大屋達治は『天為』誌で、いつも主宰、副主宰、同人会長の次に「千葉集」として10句載せる。千載集は今月で127である。外国吟や歴史を踏まえた句が多い『天為』の中では変わった作風で、親しみを覚える。例えば

朝刊になめくぢのゐる昨夜の雨
 という句が1年前に目に入った。私も似たような句を作っていたが、何となく出しそびれていた。しかし、『天為』の偉い俳人がこんな句を出しているのだから、良いだろうと思ってオリーブ句会に出した。ルツ子主宰の選には入らなかった。

 本書は著者の第5句集に当たる。昭和38年から平成11年までの300句が納められていて、37年間の半生の記でもあるとあとがきに言う。驚いたのは著者は昭和27年の生まれ。昭和38年と言えば著者11歳の句だ。
 本書の最初の句は
 せせらぎや蝶がとびこむ家の中
 で、11歳の時のもの。

 第4句は
 霊柩車左折し落葉の中を去る    昭和45年作
 「
十一月、東大ホトトギス会に初出席。本郷三丁目交差点での属目吟。互選には全く入らず、山口青邨特選の最後で読み上げられ、評された。」という自注がつく。著者は東大法学部出のエリート官僚。しかし、体調を崩し若くして職を辞した。その事は自注にも所々で触れられている。

 本書の特徴は、漢字にはすべてルビが振ってあることと、すべての句に自注あるいは自解が施されていること。句の意図するところ、句の背景がよくわかり、俳句作りの参考になる。ただ、俳句という文芸が、こうした自注・自解がなければ成りたたないとすれば、問題だ。また、自注・自解が読み手の自由な解釈を制限する危険もある。

山手線半周分の春うれひ
早苗いま雨より細くそよぎをり     大岡信の「折々のうた」に収載された
乳房より浮かび来たりし海女とおもふ
潮風に妹背で植うる水田(みずた)かな
潮浴びてひらく句張に雲の陰
鳶の影よぎる水着の妹が背を
潮浴みてかへる乙女にかかる虹
内外房全線不通男梅雨
 最初の句以外はいずれも房総を詠んだもの。著者は水泳が好きなようで、泳ぎの句も多く、愛妻家でもあるようだ。


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書名 芭蕉、旅へ 著者 上野洋三 No
2016-20
発行所 岩波新書 発行年 1989年 読了年月日 2016-07-21 記入年月日 2016-07-23

 再読。最初読んだのは1990年。今から四半世紀以上前だ。当時から俳句、芭蕉に興味があったのだ。多分、大岡信の「折々のうた」を読んでいて興味を引かれたのだろう。

 本書の前半は「旅路の画巻」という芭蕉の書いた絵にそって旅に対する芭蕉の思いを推察する。「旅路の画巻」には芭蕉の署名も画賛も入っていないが、著者は芭蕉の弟子の書き残したものからこれを芭蕉が最晩年に書いた絵であるとする。10のシーンからなるこの絵は、芭蕉の弟子で、画では師にあたる許六が描いた「旅十躰」を芭蕉が模写したものであると、著者は推測する。「旅十躰」には芭蕉の画賛が付けられているが、画そのものも芭蕉の構想から出たもので、芭蕉が旅に対して持っていたイメージを表すものだとする。

 何枚かがカラーで紹介されている。すっきりとした画だ。画には必ず旅人の姿が描かれる。背景と人物とを細かく観察し、さらに芭蕉の句や書き残したものを参照しつつ、芭蕉の旅に対する思いを推察して行く。

 例えば第4図。大河の渡し場の場面である。そこには武士達と、突然登場する連れの僧が描かれる。これは、満員の船に乗った西行が、武士に降りろと言われ、鞭で打ち据えられたという故事を示していると推察する。西行は頭から血を流し、船から下りる。供の僧が情けないと涙を流すと、このような苦行も覚悟の上と少しも動じなかった。このことは当時もよく知られた説話であった。「
かくて第四図は、各地の渡し場ごとに予想される種々の困苦と、それを甘受して旅を続けた西行の志とを想起させるものであった。それは、芭蕉が、旅と誹諧のかなたに、いつもどのようなものを想起し、見つめていたか、を物語るものであろう。」(p50)

第一図は、初冬の時雨の中の孤独な旅だちの画面であった。それは、いうまでもなく、芭蕉のような人の理想とする旅だちが、まったく個人的な動機によることを意味するであろう。すでに引いたように、この図に対すれば、だれもが、
 旅人と我名よばれん初しぐれ
 の一句を想起する。それは、その旅が、ひょいと、ことし初めてのしぐれに浮かれて、といった程度の動機ではじまることを意味する。その気ままなところが特徴である。そのかわりその旅だちは、見送る人もなく、供の者もない。全くの孤独を、究極的に自己の責任として、引きうけなければならないのである。
」(p86)。

 第2部は「旅を綴る」。「奥のほそみち」をはじめ、芭蕉の紀行文には、いわゆる旅行記のような、いつどこでどうしたといった具体的な記述がない。それは、旅の精神性を重視したからである。

笈の小文」に書かれた芭蕉の旅論を取り上げ、「
旅という状態にあって、独特の心に解放された人間が、ただでさえ鋭敏になった心を、一層みがき上げて行く、そういったありかたが、旅心として主張されているように思われる。中略 物にも書付、人にもかたらんとおもふ、又是、旅のひとつなりかし、の一文が、本文の精神性を一段と強めているのである」(p106)。この後に「・・・芭蕉の旅が、ことばとの分ちがたい関係において存在する・・・。事実にもこだわる。その子細な観察も決して忘れない。だが、観察は、いつもことばに置き換えられる行為を通じて、最終的にことの意味を見出して行く、というのだ。あるいは、むしろ、書くとこ・語ることを通じて、はじめて、あったことの意味が姿を見せてくる、といってもよいであろう。

 芭蕉は紀行を書くことの理由を、一つは「はなしの種」におく:「
人にも語」るべき「はなし」であるためには、個人的な記録では不十分である。単なる天候や地勢の記録では、聞くものの心を開かせることはできない。・・・・それでは人々と心が交わらない。(p110)

 もう一つの理由は「風雲のたより」であるという。「風雲のたより」とは文芸におもひをひそめるよすがであるという。この場合の文芸は特に俳諧であり、俳諧の座において人々が自然と人事のさまざまを自在に空想し、文芸作品として展開して行くためのよすがである。

新しくなければならない。そして、それは同時に「はなし」と「風雅」との二つの場で理解と共感を得られるための一般性に対する配慮をも用意しておかなければならない。」と芭蕉の紀行論をまとめている。(p113)

 芭蕉の紀行文で、芭蕉が命名したと確実なものは「奥の細道」と「鹿島詣」の二つだけだという。そのいずれにも「紀行」という文字がない。それは自分の文章が簡単に「紀行」に分類されるのを嫌ったのであろうという。(p149)

 第3部は「芭蕉、旅へ」で、実際の旅についての考察。たくさんの芭蕉の句を引用している。

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書名 奥の細道行脚 著者 櫻井武次郎 No
2016-21
発行所 岩波書店 発行年 2006年 読了年月日 2016-07-30 記入年月日 2016-07-31

 芭蕉の紀行文には旅の細かい記録は書かれない。道中の日付すら入っていない。どんな旅をしたのだろうかもっと知りたいと思った。特に、交通手段として馬がどのくらい利用されたかを知りたかった。現代の街道歩きは文字通り歩くしかない。その基準で考えて、芭蕉も当然歩いてばかりいたと考え勝ちだ。しかし、芭蕉の句には落馬の句や、馬上吟がある。当時の交通手段としては徒歩の他に駕籠と、馬があった。芭蕉もかなり馬を利用したのではないかと思った。奥の細道に同行した曽良の日記があることに思い当たった。本書のサブタイトルは「『曽良日記』を読む」である。曽良の日記と『奥の細道』との記述を突き合わせて、実際の旅の詳細に迫っている。

 曽良日記が公開されたのは芭蕉の250年祭に当たる昭和18年であるという。発見されたのはその5年前の昭和13年。

 巳三月廿日、日出、深川出船。巳ノ下尅千住二揚ル。
 一 廿七日夜、カスカベニ泊ル。江戸ヨリ九里余。
 で日記は始まる。元禄2年のことである。

 一方『奥の細道』では3月27日に深川を出たされる。この違いは色々憶測されたようだが、曽良が千住へ先行していたということで決着したと著者は言う。当時の千住は日本橋からの最初の宿場で、賑わっており、各地への連絡などに便利だったから、曽良はそこで旅の手配をした。そもそも、上述の曽良日記の「日出」の「日」の字が判別しにくく、「同」と読まれ、芭蕉と一緒に深川を発ったと解釈されていた。それが「日」とすれば、早朝に発ったことで、問題は解決した。本書はこうした考証を重ねて旅の実態に迫る。芭蕉は27日の未明に深川を発ち、船で千住まで行き、そこで見送りの人々と別れて旅立った。千住から春日部まで九里を1日で歩く。かなりの健脚だ。私の場合は初日日本橋から草加まで、2日目草加から杉戸まで。千住から春日部までのネットの歩行時間は9時間30分。曽良日記には馬に乗ったという記述はない。

 本書の最後の方では芭蕉忍者説に触れている。著者は忍者説をあり得ないと一笑に付すが、忍者説が出るのは2人の歩くスピードが速すぎることが一因だという。

 3月28日は春日部から間々田まで、やはり9里を進む。

 馬の記述が出てくるのは、日光から黒羽に向かう時、4月2日に「
大渡リト云馬次二至ル。」が最初である。馬に乗ったかどうかは不明だ。4月3日黒羽に向かう奥の細道には女の子が「馬の跡したひて」走ってきたと記される。曽良日記には載っていない。曽良日記に馬に乗ったと記されるのは、4月16日で、「馬人ニ而被送ル」で、地元の人から差し回された馬で送られたことを記す。ついで4月18日には「馬壱匹、松子村迄送ル」と記され、松子村まで馬1匹を付けて送ってくれた。

 以後、所々で馬に乗った記述がある。
 7月3日は新潟を発った。「
三日 快晴。新潟を立。馬高ク、無用之由、源七指図ニ而歩行ス」。馬が高いからやめて歩いたという。この記述を見ると、かなり馬を使っていたのではないかと思う。

 日記には天候の記載が必ずといってよいほど出てくる。子供の頃の日記には必ずその日の天気を書き込んだが、これは日本の日記の伝統なのか。梅雨の季節だったので、しょっちゅう雨に降られている。


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書名 雲の墓標 著者 阿川弘之 No
2016-22
発行所 新潮文庫 発行年 昭和33年 読了年月日 2016-08-07 記入年月日 2016-08-13

 先月のあかつき俳句会の投句の中に「鎮魂の空の墓標」というフレーズがあった。句を見たとき、すぐに思い浮かんだのは高校の国語担当の江藤先生だった。先生は発表されたばかりの阿川弘之の『雲の墓標』の一節を読んで聞かせた。江藤先生は戦時中繰り上げ卒業で、海軍兵学校で教鞭をとっていた。教え子の中には、特攻隊員として死んでいった若人もいたのだろう。先生が教室で紹介した一節は詩であったが、どんなものであったかは今は記憶にない。ただ、鎮魂の思いだけは強く伝わって今も残っている。

『雲の墓標』は特攻隊員として死んでいった一学生、吉野の日記として綴られる。日記は昭和18年12月12日から始まり、昭和20年7月9日の両親と学友鹿島宛への遺書で終わる。声高な反戦主張も特攻批判もない。吉野は、積極的にすべてに打ち向かって行き、自分を鍛えようと思う一方で、残した学業への未練、父母や親しい人々への思慕に引き裂かれるが、「
しかし、自分たちにはもはや、なにものかを選ぶということは出来ない。定められた運命の下に、自分を鍛えることだけが、われわれに残された道だ。」と最初の日記に記す。そして、その通りの道を歩む。

 吉野は京都大学で、国文学を学ぶ学生。吉野の他に、藤倉、坂井、鹿島も同じ京大の国文科の学生。海軍航空隊でパイロットとなるべく訓練を受ける。4人の中で、自らひねくれ者だという藤倉だけは、この戦争の意義に疑問をも落ち、日本の敗戦を予感している。彼らは大竹に招集され、土浦航空隊で訓練を受け、出水、宇佐の基地に配備される。その間にも戦況は悪化し続ける。海軍は特攻攻撃という非情な手段を編み出す。彼らの周りにも特攻に出撃するものが出てくる。藤倉は、特攻は最初は純粋な志願兵だけであったが、今は軍の中央から半ば強制されるもので、自分が出撃を命じられたら、途中で故障を装い、本州と沖縄のあいだの無人島に不時着して生き延びるつもりだと、恩師に手紙を書く。だが、藤倉は宇佐航空隊で飛行訓練中、事故を起こし死んでしまう。事故の原因はガソリン不足を補うためにアルコールを混入した燃料のためであった。

 一方吉野は「
勝つとも敗るとも、いずれは自分たちの死んだのちのことである。濁水の浸入して来るとき、堤の穴を一つ一つ埋めている人間が、自分でもう駄目だとおもい出したら、それはすべてが駄目になってしまう」と記す。昭和20年2月1日。(p178)。

 おそらく吉野は阿川を代弁しているのだろう。本書で見られるのは、陸軍よりは合理的で進んでいると見られた海軍も、内実はそうでなかったことへの批判。特攻で命を落としたのが、生え抜きの兵隊よりも学徒兵が多かったことへの批判が著者がもっとも言いたかったことではないか。

 昭和20年5月30日は吉野の25歳の誕生日。その日記の最後:
夕、苺が配給になった。赤いつやつやとした甘い果実。かきつばたが咲いても、苺を食っても、ひとつひとつこれが最後の此の季節のめぐみとおもえるので、こころに沁みてありがたいのである。

 坂井も戦死し、藤倉も亡くなり、百里基地に移った吉野もついには、木更津の基地から出撃する。サイパン島から向かってくる敵機動部隊が攻撃目標であった。

 一人残った鹿島にあてた吉野の遺書の冒頭

雲こそ吾が墓標
落暉よ碑銘をかざれ

鹿島から吉野の両親にあてた手紙の最後
展墓――亡き吉野次郎に捧ぐ――

われ、この日/真南風(まはえ)吹くこの岬山(さきやま)に上がり来れり/あわれ はや/かえることなき/汝の墓に 額ずくべく

海よ/海原よ/汝の墓よ/ああ涌き立ち破れる青雲の下/われにむかいてうねり来る蒼茫(そうぼう)たる潮流よ

かの日/汝を呑みし修羅の時よ/いま寂(しず)かなる平安(たいらぎ)の裡/汝をいだく千重の浪々/きらめく雲のいしぶみよ

嗚呼(ああ)そのいしぶみ/そのいしぶみによみがえる/かなしき日々はへなりたる哉

その日々の盃あげて語りたる/よきこと また崇きこと

真南風吹き/海より吹き/わがたつ下に草はみだれ/その草の上に心みだれ/すべもなく 汝(な)が名は呼びつ/海に向いて


 平成16年72刷。緑図書館。

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書名 葛飾北斎伝 著者 飯島虚心著、鈴木三重 校注 No
2016-23
発行所 岩波文庫 発行年 1999年 読了年月日 2016-08-17 記入年月日 2016-08-18

 数時間待ちという若沖展は見に行かなかったが、昨年以来、江戸時代の絵画に触れる機会がよくあった。「幽霊画展」や「春画展」を見に行き、さらにネットの学校gaccoでは田中優子と高山宏の講座で、江戸美術について学んだ。そんなとき本書が書店で目に入った。

 原本の出版は明治26年。上下2巻で文庫本300ページを超える。巻末には校注者による70ページもの解説がつく。その解説に言う:
この書は、浮世絵の、それも特定絵師個人に焦点を絞って調査するという、本邦では初めての試みを行い、内容また文献資料を多数援用するというはなはだ進んだ方法論による構成をもち、実地探訪まで交えて充実味を覚えさせるものだった。この書はまさしく先駆者の様相を具え、その後浮世絵研究の進展につれて次第に名著の声価を高め、北斎研究に当たって、まず繙くべき第一の書に数えられている。ただ章節を設けず書き流す古様の体裁は、性急な利用者に、北斎の奇行伝聞のみ偏重させ、虚心の別解釈を見過ごすような偏った見解をいくつか醸成させている。(p349~)。本書出版のころは、フランスを中心とした浮世絵への高い評価に刺激されて、日本でも浮世絵の再評価がされつつあった。

 私のような一般読者には、たくさん盛られた聞き書きによる北斎のエピソードが面白い。人柄は奇人だが、痛快で、画に関しては天才である。

 上巻の書き出し:
葛飾北斎は、姓は、藤原、名は、為一(いいつ)、中島氏、又葛飾氏、又河村氏、幼名鉄太郎、後に鉄蔵、又仮に、八右衛門、又仁三郎、画名は勝川春朗・・・・  以下延々と画名、戯作者名が続く。そして、「性転居の癖あり。『広益諸家人名録』に、住所不定とす。生涯の転居、九十三回。甚しき一日三所に転ぜそことありとぞ。

 生まれは宝暦10年、本所。父は徳川家御用達の鏡師、中島伊勢といい、母は吉良上野介の家臣、小林平八郎の孫娘。

 一説によれば、北斎は画名を次々に門人に譲り若干の報酬金を得ていた。従って貧困極まれば名を譲ったので、門人は秘かにこれを嫌がったという(p55)。北斎の名は彼が信仰した妙見に由来する。妙見とは北斗星、つまり北辰星のこと。

 家計はつねに貧乏であった。北斎が金銭のことに無頓着であったからだ。受け取った画料は包みのまま放置しておき、米屋などが集金に来ると、中も見ずにそのまま渡した。多い場合はそのまま黙ってもらい、少ない場合は不足分を取り立てたので、商人にはいい客だあったという。住居が散らかっていて不潔であった。揮毫を求めてきた客人を、今虱を潰していて手が離せないから帰ってくれと言った。晩年、北斎の面倒を見た娘の阿榮も北斎似で、無頓着で家の片付けなどせず、食事も出来合いの物を買ってきて食べていたので、食べ物を包んだ竹の皮がうずたかく積まれていたという。

 
北斎翁幼より画道に志し、和漢古今を論ぜず、西洋の画図に至るまで、苟も見るに足るものあれば、即縮写して、これを蔵し、殆ど一車にみつ。(p166)

 gaccoの高山宏の講座では、18世紀イギリスのピクチャレスク概念が、江戸後期の日本の絵画にも影響を与えたと指摘された。その一例として北斎の風景画を挙げていた。北斎は毎年数百葉の作品をオランダを通して海外に輸出していた(p65)。その一方でヨーロッパの絵画も勉強していたのだ。絵画の輸出はその後幕府に禁止される。

 天保五年、北斎翁『富嶽百景』の初編を画きし時、名を改めて卍といふ。これより落款には、かならず画狂老人卍、或は前北斎卍と書す。『百景』の初編に、翁の跋あり。曰く、「
己六歳より物の形状(かたち)を写の癖ありて、半百の頃より、しばしば画図を顕すといへども、七十年画く所は、実に取るに足るものなし。七十三歳にして、稍(やや)禽獣虫魚の骨格、草木の出生を悟り得たり。故に八十歳にしては、ますます進み、九十歳にして、猶其奥義を極め、一百歳にして正に神妙ならんか、百有十歳にしては、一点一格にして生(いけ)るが如くならん、願くは長寿の君子、予が言の妄ならざるを見たまふべし。画狂老人卍述」(p138)。現代の超高齢化社会の手本とすべき北斎の気概ではないか。

 嘉永2年、北斎は病に伏す。娘の阿榮には「老病なり、医すべからず」と治療を断る。:翁死に臨み、大息し「天我をして十年の命を長ふせしめば」といひ、暫くして更に謂て曰く、「
天我をして五年の命を保たしめば、真正の画工なるを得べし」と、言訖(おわ)りて死す。実に四月十八日なり。歳九十。浅草の誓教寺に葬る(p169)。画家が長生きなのはピカソしかり、横山大観しかり、洋の東西古今を問わないようだ。

 下巻には北斎の膨大な作品のリストが挙げられ、簡単な解説がなされている。春画に類する物はないかと注意して見たが、見付からなかった。北斎は天保5,6年頃、一時浦賀に隠れる。実子が法を犯した、以前北斎が画いた風紀を乱す物として糾弾された、借財が多くて逃亡した、孫が放蕩児で問題を起こした、などの理由が挙げられるが、はっきりしないという(p141)。ここにわずかに春画のことが出ていた。

 この他、将軍家斉の前で書いた絵のこと。北斎は唐紙を横にし、刷毛で藍色を長く引き、そこに持って来た鶏の足に朱肉を付けその唐紙の上を歩かせ、立田川の風景としたという(p77)。馬琴との挿絵を巡る仲違いと論争(p82~)、名古屋の寺の境内で、120畳の広さに達磨大師の画を描いたこと(p109~)など、興味深いエピソードが取り上げられている。

 幽霊画は円山応挙に始まると聞いたが、北斎も幽霊画が巧みだったことは当時から知られていた。当時の俳優、尾上梅幸は幽霊役者として有名であったが、北斎の幽霊画を得てその真似をしようと思った。北斎を呼んだが来なかったので、北斎の家まで出かけた。しかし、余りに汚い北斎の家に驚き、輿にあった毛氈を敷かせて部屋に入った。北斎はその無礼を憤然と怒った。その後、梅幸から詫びて、二人は親密になった。梅幸が一世一代の東海道五十三次を演じたとき、北斎は蚊帳を売って、金二朱を得て、これを包んで梅幸に渡した。夏で、北斎のいた本所は湿地で蚊帳なしでは過ごされないが、北斎は蚊に刺されながらも、「
晏(あん)然筆を採りて業をなすこと、平常の如し」と述べられている(p89~)。


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書名 江戸の旅 著者 今野信雄 No
2016-24
発行所 岩波新書 発行年 1986年 読了年月日 2016-08-29 記入年月日 2016-09-22

 芭蕉の旅で馬がどのくらい使われたかを知ろうと思って読んだ。江戸時代の旅の様子が細かく描かれる。雑学的知識がちりばめられた本。

 以下本書から:
 源頼朝は平家滅亡の年に公用者のために伝馬をおく宿駅を定めた。この制度はその後も継続され、公用者のための無料馬引き継ぎ所は江戸初期にはほぼ完成していた。家康は各宿に36頭の伝馬を用意することを命じた。その後寛永年間には馬百頭と人足百人をおくことが規定された。(p26)

 旅籠とは元来旅するときに馬のかいばをいれる籠のこと。旅人はもっぱら自炊したから、宿泊料は人間が3文、馬が6文と決められた(慶長16年)。幕末になると人間は700文、馬は1貫400文に値上がりしている。(p36)

 一般の人が乗る馬の料金はどのくらいかは示されていなかった。

 飯盛り女は元文5年(1740年)、旅籠1軒に2人と決められた。しかし、飯盛り女をおかない旅籠(平旅籠という)の分は別の旅籠が抱えていた。色々な抜け道があり、天保15年の品川宿では規定の3倍近い1348人いた。中山道では特に軽井沢が有名で、100人ほどの飯盛り女がいた。川柳で「軽井沢」と言えば飯盛り女のことをいう。(p40~)

 江戸から京都までの飛脚は急ぎの場合60時間以内と決められていた(p46)。これは公用の飛脚であったが、大阪、京都、江戸の三都の飛脚仲間が相談し、月に三度の定期便を出すことにした。江戸大阪間の到着期限が6日であった。月に三度のため三度飛脚とも言われ、彼らの被った笠が三度笠と呼ばれた。(p48)。

 大名行列は、莫大な費用がかかるために、なるべく宿泊数を減らした。大津から江戸までは普通、14日か15日かかるのに、大名行列は11あるいは12日で歩いた。特に吸収の大名は足が速かった。(p52)

 中山道鳥居本から野洲にいたる脇道はいわゆる朝鮮人街道と言われるが、元来この道は関ヶ原合戦で勝った家康が意気揚々と上洛した道である。その後も徳川将軍だけが利用したが、例外として朝鮮使節団が利用を許された。(p60)

 伊勢参り、金比羅参り、四国遍路など宗教的な旅についても実態が述べられる。文政13年(1830)の伊勢参りは500万人が伊勢参りした。これは日本の人口の6人に1人であり、街道は人の洪水というよりも津波という状態だった。(p80)

 江戸幕府が設けた関所は53カ所。ほとんどが西は浜名湖から伊那谷のライン、東は利根川江戸川水系の中である。近江の3カ所と越後のある小さな関は前田加賀藩監視用のためで、他は江戸の防衛が主目的であった。新居関は特に入鉄砲に厳しかったが、新居から箱根までは譜代大名や代官の直轄地であって謀反の心配がなかったから箱根関所では再検査の必要はなかった。(p124~5)

 大井川:明治3年、政府は従来の歩行越えを中止し、舟または橋で渡れるよう工夫せよと静岡藩に命じた。島田と金谷の川越人足1200人は失業する。金谷の仲田源蔵という人が、私財をなげうって政府と交渉し、開墾地を獲得した。これが現在金谷南方に広がる広大な茶園へと発展した。大井川には明治9年にかり橋が架けられ、16年には本橋が完成した。(p135~6)。

 旅の費用についてはp173以下に詳しい。草鞋は3日に一足取り替えるが、1足が16文(約160円)。3日に1度剃る月代の代金が30文。江戸から片道12日の伊勢参りには往復でまず4両(約24万円)は覚悟しなければならなかった。だから庶民には一生一度の大旅行であり、各地で奉仕が待ち受けている60年に一度のお陰参りは千載一遇のチャンスであった。(p177)。当時はすべて硬貨であったから大金を持ち運ぶのは大変であった。そこで、出発地の両替屋で手形に変えてもらい、行く先々でこれを現金化した。この話は『東海道中膝栗毛』にも出てきた。

 本書の最初の方には江戸以前の旅にも触れられている。鎌倉時代には京と鎌倉の往来はすでによく整備されていて、『十六夜日記』に見られるように、70歳近い女性が旅をすることが出来た。阿仏尼は鎌倉まで14日間歩き続けた。中世の連歌師も各地を旅したが、彼らは隠密の役割を担ってもいたといい、宗祇の弟子宗長の書き残したものを例に挙げ、それを隠密の敵情視察報告であるとしている(p19)。

 巻末には明治以降の旅が触れられている。鉄道路線の拡がりがまとめてある。新橋神戸間が明治22年、上野青森間が明治24年。駅弁の始まりは明治18年宇都宮駅、暖房には湯たんぽが配られ、夏には蚊帳を吊った時代もあると。東海道線にスチームが入ったのが明治33年。

 とにかく旅に関する雑学の宝庫。


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書名 江戸の旅文化 著者 神崎宣武 No
2016-25
発行所 岩波新書 発行年 2004年 読了年月日 2016-09-02 記入年月日 2016-09-23

 前書『江戸の旅』は主としてデータの提示であったが、こちらは「旅文化」とあるだけあって旅を通してみた江戸時代の文化を論じる。基本にあるのは江戸時代は決して暗いばかりの時代ではなかった。江戸時代を暗い抑圧された時代と見るのは戦後教育の押しつけであり、改める必要があると、折に触れ述べられている。もちろんこの見方に私も全く異論はない。

 江戸時代の庶民は無断で村や家を離れることは禁じられていた。家訓や御触書にはそうしたことが書かれている。だが、人々は実際よく旅をした。それは多くの「名所記」や「道中記」の存在が物語っている。幕藩体制はホンネとタテマエの二重構造から成りたっていた。例えば、広重描く「東海道五拾三次」の赤坂宿の様子を例にとって、各旅籠に遊女は2人までという取り決めなど公然と破られている。幕藩体制のたがはすでに緩んでいるが、こうしたタテマエとホンネの二重構造こそが長期にわたる幕藩体制を支えてきたと述べる。(p29)

 1.伊勢参宮、2.旅を広めた社会の構造、3.湯治という旅の3章よりなるが2.旅を広めた社会構造の章に一番多くの紙数をさいている。興味深かったのは『東海道中膝栗毛』を旅行記の一種と見て、よく引用していること。

 伊勢参宮については『江戸の旅』と内容がよく似ている。伊勢参宮で「御師」という人々の存在とその役割が詳しく述べられている。もともとは神職であり、武士の参拝の世話をした。それが、近世になり、庶民の寺社参拝が盛んになるにつれ、「口入神主」化し、参拝者の旅の万端を斡旋する稼業となった。この御師のお陰で伊勢参りが安全になった。江戸中期には600から700人の御師がいた。p41以下には御師の館での参詣した檀家に対する饗応振りが詳しく述べられるが、その料理の豪華さには目を見張る。

 庶民の間に天照大神への信仰はそれほど深くなかった。彼らはむしろ五穀豊穣家内安全を祈念した。伊勢参りがあれほど人気を博したのは、伊勢が日本のほぼ中央にあり、1年を通して気候が温暖であることが大きかった。(p9)

 当時は町人でも旅に出るときは刀一本の携帯が許されていた。(p13)。

 半年間に457万余りの人が参宮した文政13年のお陰参りを、集団の幻想的な行動、狂気的な行動で、日本史上こうした大規模な集団行動は後にも先にもない。お陰参りは社会不安の前兆期があって生じる。文政13年は前々年から新たな貨幣鋳造が始まるも、経済は不安定で米価は高騰し、新潟では打ち壊しが起きていた(p64~)。

 p113からは14ページにわたり、江戸時代に刊行された道中記が列挙されている。
 その中の一つ万治元年の(1658)浅井了意が著した『東海道名所記』の冒頭に「いとおしき子には旅をさせよといふ事あり」があり、これが「かわいい子には旅をさせよ」という名言のもととなった。(p128)

 年貢について:幕府開幕当初は「七公三民」あるいは「六公四民」であったが、18世紀初め頃には「四公六民」あるいは「三公七民」となり、これは幕末まで続いた。日本での農民とは農業従事者ではあるが、農業専従者ではない。農閑期には出稼ぎも常態化していて、多角経営こそが日本農家の基本的形であった。江戸期の旅の隆盛はこうした農には経済的余裕抜きには考えられない。(p136~)。
 農民を農業専従者ではないとするのは、網野史学の視点だろう。

 江戸時代の富士講などの講は現代のパッケージツアーの源流になった。(p154)

 みやげの起源:ひとつは「宮(みやけ)」説。神社に参拝するときに持っていく供物を入れる器の意味。あるいは神社から授かる器の意味。神社から授かる器、特に瓦笥(かわらけ)を想定する。瓦笥からは御神酒が連想される。酒には霊力(おかげ)があるとされる。みやげの一つの原型は、神から授かるおかげと考えてよいのではないかと著者は言う。(p165~)。

 日本人のお土産好きには私はついていけない。ちょっとした旅でも色々なお土産をもらう。旅の記念として土産を買うことはあっても、知人に配るために土産を買うことはほとんどない。江戸時代は講を組んで代表者が参拝しから、神のおかげを、行かなかったメンバーにもあたえるために土産を買ったのだろう。現代ではおかげという意味はまったくないが、風潮だけは引き継いでいる。

 宿に着いたらまず風呂、そして食事となる。大人数の団体旅行では一人づつ風呂に入っていたのでは、宴会を始めることが出来ない。旅先での宴会風習は、大風呂の設置が前提となる。その場合温泉は格好の場所となった。(p238)。これもまた現在に続く風習である。

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書名 西浦田楽 著者 藤田えみ No
2016-26
発行所 本阿弥書店 発行年 2016年 読了年月日 2016-09-21 記入年月日 2016-09-23

 俳句結社「天為」の同人の初句集。私は天為東京例会のとき 著者の藤田えみさんの一つおいて隣の席に座る。藤田さんは静岡県湖西市の新居に在住する。毎月浜松の天為の会員達7,8人とともに東京例会に参加する。私は知り合って2年しか経っておらず、話したのも数回であるが、この句集を贈られた。ハードカバー、1ページ2句、全部で368句が納められている、立派な句集である。

 藤田さんとはちょっとした縁を感じる。2年前の6月、私は恐る恐る天為東京例会に初参加した。回ってくる300句近い句の中から5句選ぶのだが、その中の1句が藤田さんの句だった。さらに翌月の私の選句の中にも藤田さんの句があった。東京例会では1時間余りのうちに、300句近くに目を通し選句するのだから、ほとんど直感によるしかない。それがいきなり藤田さんの句を続けて選んだのだから、なにか感性が通じ合うものがあるのだ。一言でいえば昔の農村の雰囲気への愛着といったものだ。藤田さんは私より5歳年上である。

 その2句は
父祖の世の天知る地知る水喧嘩
父の忌や虫の離れぬ夜の網戸

 2番目の句は、私の実体験に基づいている。母方の祖父が、戦争末期に亡くなったとき、障子に一匹の蛾が張り付いてた。私はその蛾が祖父の生まれ変わりのような気がした。この句はその時の私の心情と響き合っていた。

 長年の句歴の中から選りすぐられた佳句ばばかりだが、特に心に響いた句を挙げれば以下のようなものだ。

起こされし畝に生まれし春の水
 現在の野菜作りから句は実景がよく浮かぶ。

生涯の口づけ冷えてをりにけり
 この句を『天為』300号記念誌の藤田さんの代表3句の中の1句として見たとき驚いた。今回の句集でこの句は夫の亡くなった時の句だと知った。深い夫婦愛の句だがそれにしても大胆な句。こうした句を作りうることに感心する。

鎌倉を討たむとしたる野分けかな
 歴史を題材にした句は私もよく詠む。

濡るるほど藤の香にをり熊野の藤
深雪晴鬣重き木曽の馬
「濡るるほど」「鬣(たてがみ)重き」が素晴らしい措辞。

風紋の影の正しき初明り
大旦伊勢へと勇む大漁旗

 両親の里、豊橋市西七根の表浜には特に冬は見事な風紋が立つ。また、その浜から正月は地引き網用の和船を漕いで、伊勢参り行く風習があったの。私のノスタルジーをかき立てる句。

生家信玄婚家家康系雑煮
 ユーモア、俳諧味。浜松の三方原は信玄と家康が激しくぶつかり合ったところだ。

星ふやす皆既月蝕蟇
 独特の視点。

明日聖夜胎動に触れ小さき兄
 お孫さんだろう。ほのぼのとした家族の愛。

 以上の句は年代順にならべられていたが、最後の1章は本書の書名となった西浦田楽を詠んだ句をまとめてある。藤田さんの産土の地、水窪に伝承されている田楽だ。

西浦に神々多し山始
 で始まるこの章の26句は、西浦田楽を見たことのない私には縁遠いものだった。とはいえ、本書には天為主宰の有馬朗人が序文をよせており、本書の帯には朗人序文から
夜の白み初む跳ね能に春動く
 が載せられている。

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書名 イザベラ・バードの日本紀行(上) 著者 イザベラ・バード、時岡敬子訳 No
2016-27
発行所 講談社学芸文庫 発行年 2008年 読了年月日 2016-10-05 記入年月日 2016-10-06

 旅関連の本の続きとして本屋の店頭で目に入った。以前から読んでみたいと思っていた本。上巻だけで500ページ近い大著。イザベラ・バードはイギリスの女性旅行作家。本書は1878年、明治11年の東京から、日光、新潟、山形、秋田、青森、そして函館までの旅の記録。妹宛の手紙形式で綴られている。

 通訳の若い男性を連れているとはいえ、女性一人で維新後まもない東北地方を旅行したことにまず驚く。それ以上に驚くのはその観察が細かく、記録が詳細であること。当時の田舎の人々の生活を知る貴重な民俗学的資料だ。人力車に揺られ、馬の鞍から落ちそうになり、折から梅雨の季節でずぶ濡れになりながら山道を歩き、増水した川を渡り、行く先々で村中が総出であとをついてきて、宿では塀によじ登った村人達に夜まで覗き込まれ、粗末でまずい食事を嘆き、蚊と蚤の大群に悩まされながら、よくこれだけの記録を残すことが出来たと感心する。

 灰色の家並みの貧弱さ(横浜上陸後の印象もその事を述べている)、道路事情の悪さ、宿の貧弱さ、地方の人々の男は裸に近く女も上半身裸という服装の劣悪さ、衛生状態の悪さなどに嫌悪感を示す一方で、整然とした田畑、緑豊かな森林と山並みを絶賛し、日本社会の秩序の正しさ、穏和で勤勉で親切な人々への賛嘆も至るところに見られる。キリスト教道徳を至上のものとする観点から、「無宗教」と見える日本人への押しつけがましい批判(p237にその典型がある)を別にすれば、当時の日本に対して客観的で好意的な見方をしていると思う。

 読みながら行程の地図があればと思ったが、本書にはなかった。ネットにあったのでそれを見ながら読んだ。日光から新潟へは奥会津を抜けるルートを通り、新潟からは胎内市まで日本海沿いを行き、そこから内陸に向かい米沢、新庄、湯沢、横手をへて秋田にいたる。秋田からは能代を経て大館、弘前経由で青森に着き舟で函館に渡っている。
 この旅は第9信5月10日の粕壁での手紙から第37信8月12日函館での手紙までに記されている。3ヶ月を超す長旅だ。

 本書から:
 
家庭に飼われている猫の大半は尻尾がほんの申し訳程度にしかない。(p32)

 
日本が朝鮮経由で中国から受け入れた宗教、文学、文明は一二〇〇年にわたって持ちこたえてきた。はるか遠い西洋から一九世紀に到来した文明は六世紀に朝鮮から到来したものほど強烈な波ではないが、同じように長続きする結末を生みそうである。とくに仏教という外から伝来して今日まで日本に影響を及ぼしつつけてきた最大の勢力を、キリスト教が凌駕するなら、確実にそういえる。(p36)
 著者の予想は半分当たった。後の半分、キリスト教徒の思い上がりは見事にはずれている。

 
吹上御苑は天皇の私的な庭園ですが、いまは土曜日に一般開放されており、チケットを買ってはいります。(p63)今よりか皇居が開放されていたのに驚く。

 日本の寺院の様子を述べたところでは、賓頭盧についても述べ、説明している(p103)。私が賓頭盧を知ったのはつい最近である。

 
日光には独特の個性があります。個性はそれはすばらしい美しさと見所の多さというより、むしろその荘厳さと壮大さ、深い哀愁、ゆっくりと着実に進行している衰退、どんな人でも多かれ少なかれ必ず味わずにはいられない歴史的、宗教的な雰囲気にあります。(p146)とした上で、日光を「この世でもっとも美しい景観」と称える。

会津から新潟へ向かう車峠を越えた川島という戸数57戸の村での宿泊の様子。この旅の典型的な例:
 
食べられるものは黒い豆とゆでたきゅうりしかありませんでした。部屋は案の定、暗く手汚く、みすぼらしくて騒々しく、下水の臭いがします。田植えが終わると二日間の休みがあり、稲作農家の守り神である稲荷に多くの捧げ物がなされます。そして休みとなった人々は夜を徹して浮かれ騒ぎ、大太鼓や小太鼓をたえず打ち鳴らすので、とても眠れるものはありません。
 宿屋の息子である小さな男の子がひどく咳をしており、持っていたクロロダインを渡して飲ませたところすっかり治ってしまいました。翌朝早くにそれがうわさとなって広まり、五時になるころには村のほとんどの住民がわたしの部屋の外に集まって小声で話し合ったり、はだしで歩きまわったり、障子にいっぱい開いている穴に目を当てたりしています。
(p213)
 この後村人の皮膚病や、火傷、傷などの病気の描写が続く。

 
ヨーロッパの国の多くでは、またたぶんイギリスでもどこかの地方では、女性がたったひとりでよその国の服装をして旅すれば、危険な目に遭うとまではいかなくとも、無礼に扱われたり、侮辱されたり、値段をふっかけられるでしょう。でもここではただの一度として無作法な扱いを受けたことも、法外な値段をふっかけられたこともないのです。それに野次馬が集まったとしても、無作法ではありません。(p228)。
 以下馬子が親切で職務に忠実であり、よけいな報酬は受け取らないことが記される。  

 仏教について:「
仏教がアジアの人々に慈悲、生に対するやさしさと敬いの教えを与えてきた功績を十二分に認めずにはいられません。その祭壇でいけにえが燻し焼きにされたことは一度としてなく・・・中略・・・仏教が教えてきたのはこのようにあらゆる形となって表れる生に対する尊厳である・・・」と述べ、こうした仏教の持つ性格が、「血を流すことなしに罪の赦しはない」というキリスト教の考えに対する嫌悪感の根底にあるとする(p263~)。

 新潟にはイギリス人宣教師がいて、数日間滞在する。色々な店を見て歩く中に本屋もある。ハクスリー、ダーウィン、スペンサーの翻訳本もおいてあり上級学校の男性生徒が買っていくが、『種の起源』が一番売れているという。(p279)。

p288以下には食べ物と料理について述べられる。最下層の人々の必需食料品は、米、粟、塩魚、大根。鶴やこうのとりは裕福な人々の贅沢品。たくあん漬けの悪臭はスカンクの臭いを除けばもっともひどいものであるなど、興味深い記述が満載。

 宿で米がないのできゅうりを食べた(p302)を初め、きゅうりを食べる話がよく出てくる。湯沢では豆腐にコンデンスミルクをかけて朝食としたという。(349)コンデンスミルクはイギリスから持参したものだろう。p311上山のところには、「
子牛が飲む以外に雌牛の乳を搾るのはこちらの人々にはまったく未知の発想で、どこへ行っても笑われます」とある。

 山道を60キロもの荷物を担いで行き来する商人について:
まさしく「額に汗」して彼らはパンを食べ、家族を養う生活費を誠実に稼いでいるのです!仕事はきつく苦しくとも、彼らはまことに自立しています。わたしははじめて訪れたこの国で、物乞いをまだ目にしてはいないのです。(p310)

 日本人のたばこ好きにはあきれ顔である。どこに行ってもたばこ盆があり、男のみならず女も吸う。p339には日本のたばこの歴史が簡単に述べられている。たばこの効用については論議があるが、全般的に医師達は適度の喫煙に賛成しているという。

 日本人の洋服姿を「
ふたりとも洋服を着て、人間というより猿のように見えました」と酷評する。秋田の師範学校を訪問した際、校長と副校長が洋服姿ででむかえたときの記述。袴を着けた和服姿の方が威厳があってずっと良いと言う。(p370)

 
日本の官吏はどこへ行っても莫大な量のむだな書類を書きまくっていますが、警察官もたいがいなにか書き込んでいます(p374)。今に続くこの伝統は、おそらく江戸時代もあったのではないか。人口に対して警察官の人数が少ないが、秩序がよく保たれていると感心している。著者は、困ったことが起きたらいつでも警察官に助けを求める。いくぶん見下した態度をとりながらも、彼らは間違いなく手を貸してくれるという。

 
六〇〇マイルの旅で日差しを浴びても美しくなさそうな地域はおそらくひとつもありませんでした(p423)。旅も終わりに近い7月29日の手紙である。

日本社会の均質性について
 寺院、家屋、住宅内部の構造、作物の栽培方法が地域は異なっても均質であると述べた後、それ以上に均質なのは、「
あらゆる階層で社会をとりまとめている礼儀作法は実質的に同じで」「この伝統的な礼儀作法は非常にうまく機能もしている」と述べる。(p427)

イザベラ・バードは植物について詳しい。道中の木々や草花の名前を挙げて多数記載している。

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書名 イザベラ・バードの日本紀行(下) 著者 イザベラ・バード、時岡敬子訳 No
2016-28
発行所 講談社学芸文庫 発行年 2008年刊 読了年月日 2016-10-29 記入年月日 2016-11-18

 いよいよ蝦夷地方の旅行。函館から噴火湾(内浦湾)沿いの室蘭、苫小牧、日高へとたどり、日高からは奥地のアイヌの集落へ。特に興味深いのはアイヌの集落を訪れた見聞記。平取ではアイヌ乃家に泊まり込む。彼らの衣食住、家族関係、信仰などが詳しく記されておそらく、民俗学的な価値の高いレポートではないか。著者自身によるスケッチも各所に挿入されている。私自身、本書を読むまでアイヌについては何も知らなかったに等しい。

 
毎年毛皮を売ったり物々交換した儲けを酒にばかり費やすようなことがなければ、暮らしを快適にするものが手に入れられずはずなのに。彼らは流浪の民ではありません。逆に、自分たちの祖先が生きて死んでいった場所にしつこくしがみついています。でも住まいの周囲を耕そうとする試みほど嘆かわしいものはないでしょう。土壌は白砂と五十歩百歩で、そこに施肥もせずに米の代わりの稗、かぼちゃ、玉ねぎ、だばこを育てようとしていますが、畑はまるで一〇年前に耕したきりで、偶然種の蒔かれた穀物と野菜が雑草のなかで芽を出したかのような形相を呈しています。(p89)

・・・
彼らは寺社を持たず、司祭も捧げ物も礼拝もないのです。見たところ、伝承の時代を通し彼らの示したきた礼拝は最も素朴で原始的な形態の自然崇拝らしく、樹木、川、岩、山を漠然と神聖視し、海、森、火、太陽、月に漠然とした善、または悪の観念を結びつけています。・・・・彼らの素朴な自然崇拝は日本の神道の原始的な形態であったのかもしれません。彼らは生物・無生物を問わず自然を賛美しますが、その唯一の例外が義経への崇敬とおもわれます。義経に対してはたいへん恩義を受けていると信じており、いまだに自分たちの味方をしに現れてくれると考えている人々もいるのです。(p126)

神のために飲む」のは首長の「礼拝」行為で、それゆえに酔うことと宗教とは切り離せず、アイヌは酒を飲めば飲むほど信心深くなり、神々を喜ばすということになります。神々を喜ばせるのに酒ほど充分な価値を持ったものはないようです。(p128)

 
熊崇拝はアイヌの特徴といえるでしょう。アイヌの最大の宗教的祝祭あるいは農神祭は熊祭りなのです。(p129)

 
こちらの人々は時を計算する方法を持たず、自分の歳を知りません。彼らにとって過去は死んだものであり、それでいながら、他の征服され見下された種族と同じように、大昔のいつかは自分たちは偉大な民族であったという考えにしがみついているのです。彼らには血なまぐさい争いの伝統はまったくなく、また戦争用の武器はとっくの昔に失ってしまったと見えます。・・・・彼らの英雄としての神である義経から戦争を永久に禁じられ、それ以来長さ九フィートの柄のついた両刃の槍は熊狩りのみ用いられるようになったと言っています。(p136)

・・・
私は実のところ、開拓使はアイヌに対して好意的であると思います。開拓使は被征服民族としてアイヌが受けている過酷な制約を取り除いているほか、たとえば米国政府の北米インディアンに対する扱いよりずっと人間らしく、また公正に彼らを遇しています。(p98)
 義経が彼らの心の中で大きく生きているというのには驚いた。また、たばこを栽培していたというのも驚きである。もちろん以上のようなアイヌに関する記述は、150年後の現在では大きく変わったものとなるであろう。

 後半は東京、京都、伊勢神宮への旅などの見聞。
 
大きさのみの生み出す感銘をのぞけば、東京には際立った風景はまるでなく、実に飽き飽きするほどのつまらなさがある。(p213)

 
日本人はわたしがこれまで出会ったなかで最も無宗教な人々である。(p222)

 
一四〇〇ある東京の通りのうち、およそ三分の二が自然界のものに由来する名を持っており、日本人は自然を愛する気持ちの非常に強いことがこれでも証明される。(p226)

 
教育を受けた現代日本人のようなおよそ徹底した無信仰や実に完全な物質主義は、この地上の他のどこにもおそらくないのではあるまいか。(p237)

 西本願寺の僧について:
彼らは髪や髭を伸ばしているのでふつうの「坊主」のようにはとても見えず、仏教の僧侶の顔にふつう見られる間の抜けた表情やさも信心深げな表情がほとんどありません。この宗派の信条は禁欲や、他人の務めや喜びからの隔離というようなものをなんら求めておらず、その分健全で人間的です。(p290)

 最後に「日本の現況」という題で、明治維新から10年間ほどの日本の現況が政府の統計資料などを駆使して36ページに渡って述べられている。手際よくまとめられていて、この10年間にいかに多くのことが達成されたかを知ることができる。著者の優れた力量を感じさせる。
日本の女性について:
日本の妻は上流階級より下層階級のほうがしあわせなようです。(p354)
 ・・・
女性は「虐げられて」おらず、むしろ歴史の上では高い位置を占めてきたのです。この国の神々のうちで最も偉大なのは女神であり、九人の女帝が「神権」により日本を統治し、文学、とくに詩歌において女性は男性とともに主要な地位を占めていることは言うまでもありません。(p355)

 ・・・・
日本という土壌に移植できそうな西洋文明の今後の果実を賢明にえらぶこと、・・・平和外交政策を死守すること、本当の進歩とにせの進歩をうまく区別すること、過去一〇年間に国が実際に得たすべてのものをあくまで保持すること・・・・(p404)
 本書の最後は以下のように、キリスト教徒の傲慢ともいえる記述で終わっている:
 
日本の水平線上にかかっている影の名かでもわたしの思索にとって最も暗い影は、日本が有史以来はじめて、キリスト教の果実をそれが育った木を移植することなしに確保しようとしていることから生じている。国民は不道徳に溺れ、スタートを切ったレースにおいてオリエンタリズムという重荷が首にぶらさがり、その進歩は道徳的というより政治的、知識的である。言い換えれば、人の最も高尚な運命という点に関しては、現在のところ個々をとっても集団をとっても失敗である。日本にとっての大きな希望は、イエス・キリストが唇と命で説いた原始キリスト教の真理と純粋さを、わたしたちの芸術や科学をつかみとったときと同じように旺盛につかみとるということ、またキリスト教を受け入れれば、高潔さと国民の立派さという真の道義を備えた日本は、最も高尚な意味において、「日出ずる国」となり、東アジアの光明となりうるかもしれないということである。

 力作。外国人だから気がつき指摘することができることが多い。何時間も馬に揺られ悪路を進むといった、困難な旅の中にあって、その細かい観察眼と、さらにそれをきちんと記録したことに感嘆を禁じ得ない。

 行く先々に西欧人がいる。明治維新から10年後のことだが、開国は1854年だから開国後25年近く経っているから、ある意味では不思議ではない。

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書名 太平記(六) 著者 兵藤裕己 校注 No
2016-29
発行所 岩波文庫 発行年 2016年10月18日 読了年月日 2016-11-07 記入年月日 2016-11-18

 太平記原本37巻から40巻までを収める。康安元年(1361年)の北朝方の後光厳帝が京都に入ったところから、貞治6年(1367年)の将軍義詮の死、義詮を継いだ義満の執事となった細川頼之が善政をしき、内外とも治まり、「中夏無為(ちゅうかぶい)の代になりて、目出度かりし事なり。」で長編軍記は終わる。

 楠木正成、足利尊氏、新田義貞、後醍醐帝などのヒーローはすでになく、小粒な人物の造反、裏切りで、ストーリーとしては退屈。面白かったのは、玄宗と楊貴妃の出会いと悲恋、安碌山の反乱、元王朝の創立、神功皇后の新羅攻略などの歴史の引用部。いずれもかなり詳しく叙述されている。元王朝成立に絡むエピソードなどは今までの歴史の本では読んだことがなかったものだ。

 40巻の最初は、京に帰った後光厳帝が宮中歌会催したことが述べられる。詠題は「花は多春(たしゅん)の友」である。当日は関白以下の多数の公家が参内し、太平記はその人物名と服装を延々と述べる。歌のたしなみのある征夷大将軍義詮もその中に混じるが、序列は5番目である。
 帝の御製 「
開(さ)き匂へ雲居の花の本つ枝に百代(ももよ)の春をなほ契るらん

 宮中歌会があると不吉なことが起こると、臣下たちは諫めたのだが、帝は聞き入れず実行した。案の定、天龍寺が焼失してしまったと記す。

 巻末の「『太平記』の影響――国家のかたち」という校注者による50ページの解説が読み応えがある。
『太平記』は日本の政治に多大な影響を与えたようだ。これと対照的に『平家物語』は日本人の心性に大きな影響を与えた。幕末の勤王思想は『太平記』の極端な解釈から生まれた面がある。『太平記』から導き出された勤王思想が、結局は徳川幕府を倒したとも言える。そして、勤王思想の元には南朝を正当とし、楠木正成を最大の忠臣とした水戸光圀の『大日本史』があり、何とも皮肉である。

 徳川家康は征夷大将軍就任に当たって、自らの家系を清和源氏新田流であるとし、足利幕府に代わることの正当性の根拠とした。水戸光圀は『大日本史』のなかで南朝を皇統の正当とした。それは、徳川幕府が新田義貞の後裔であるという主張に根拠をおいたものであった。

 江戸時代、『太平記』を下敷きにして独特の解釈をした軍記ものがいくつか作られた。その中の『理尽釥』というのを著者は特に取り上げる。楠木正成が弟正氏と湊川で刺し違えて自害した理由は古来謎とされてきた。『理尽釥』は楠の活躍に太平記の数倍の紙数を費やして記しているが、その中で、正成が語ったとされる言葉を上げる。正成は新田義貞の配下として尊氏と戦う。正成から見れば義貞もまた尊氏と同じ武臣でしかない。尊氏を滅ぼしても次は義貞と戦わなければならない。だから、息子を残して自分はここで自刃するというのだ。

 光圀の『大日本史』から、「国体」という概念を発展させたのが藤田幽谷である。水戸学の尊王攘夷論は足利時代以降失われた「国体」を回復する思想運動である。

 本書はいう:
「国体」という観念の前では、将軍―藩主―藩士―下士という既存の序列が無化されてしまう。藩というローカルな名分を克服できたところに、水戸学が幕末の革命運動を主導する広範なイデオロギーになりえた根拠もあったろう。そのような名分論史学の位相的な転換を、周到かつ巧妙に用意したのが藤田幽谷であり、それは『大日本史』の論賛の削除を画期とする、南北朝史テクストの読みかえをとおして達成されたのだ。もちろんそれは、徳川光圀がかつて予想もしなかった異形の名分論だった。(p282)
 論賛とは人物を論じ、讃えること。

 
近世の身分制社会から近代の国民国家への移行が、明治期にあれほど速やかに行われた背景にも、幕末の尊攘派の志士たち(および明治の民権・国権論者たち)によって鼓吹された「国体」の観念が存在しただろう。(p290)

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書名 漱石紀行文集 著者 夏目漱石 No
2016-30
発行所 岩波文庫 発行年 2016年7月 読了年月日 2016-11-29 記入年月日 2016-12-24

 紀行文と旅関連の本が続いたついでに、本を目にした。「漢満ところどころ」「倫敦消息」「自転車日記」「京に着ける夕」と他に小品5編を収める。今年は漱石没後100年で、色々な企画があるが、本書もそれにちなんだものだろう。メインは「漢満ところどころ」で本書の70%の割合を占める。日露戦争後の満州、朝鮮への視察旅行記である。

 正直言って読みにくい。イザベラバードの日本紀行の方が面白い。一つには日時の記録などが書かれておらず、また、情況の説明が多くの場合省略されていて、特に100年を過ぎた今読むと理解しがたい。いきなり是公という当時の満鉄総裁の名が出てくる。しかも、これは姓ではなくて名前だ。以後ずっと呼び捨てで続く。解説で是公とは中村是公のことで、漱石とは大学予備門で同級だったという。満州視察に是公から招かれたのだ。見聞の記述は細かい。このような詳細な記録をどうやって残したのだろうかと思った。私など旅の中で、このような記録を残すことはとてもできない。面白いのは、しょっちゅう胃が痛むと言って、食事を断ったりしていること。明治42年発表。

 興味を引いたのは麻雀のことと、旅順要塞攻略戦の戦地訪問記。麻雀はまだ日本にはなかったようだ。漱石は物珍しそうにその情景を書いている。そして「
この模様の揃った札を何枚か並て出すと勝になる様にも思われたが、要するに、竹と象牙がばちばち触れて鳴る計りで、何処が博奕なんだか、実は一向解らなかった。ただこの象牙と竹を接ぎ合わした札を二、三枚貰って来たかった」と記す(p57)。

 旅順戦地跡には私も行った。戦地巡りはp67からp83にかけてかなりの紙数をさいている。

「倫敦消息」は子規、虚子宛に漱石が倫敦での生活を書き送ったもの。下宿先を何回も引っ越したエピソードがメイン。こちらの方が読みやすい。

「自転車日記」はロンドンで初めて乗った自転車のこと。やっと乗れるようになっても、何回も落車したことがユーモラスに綴られている。

「京に着ける夕」は、京都への旅行というより汽車で着いた最初の夜を述べたもの。生前の子規との京都旅行が回想される。

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書名 江戸社会史の研究 著者 竹内誠 No
2016-31
発行所 弘文堂 発行年 平成22年 読了年月日 2016-12-12 記入年月日 2016-12-28

 スカイツリーの近くにあるたばこと塩の博物館に行った。かつては渋谷の公演通りにあったものだが、墨田のここに移転した。3フロアを占有する立派でゆったりとした博物館であった。そこのロビー売店にどういうわけか、本書があった。ネットのgaccoの江戸美術に関する講座の受講を初め、今年も江戸時代に関する本をよく読んだ。本書はその集大成というか、私が近年江戸に対して抱いている考えが間違っていないことを、基本資料から裏付けるもので、大変良い本であった。

 徳川幕府が2世紀以上にわたり平和裡に国内を支配できたことは世界史でも類をみないことであるが、それには「
支配者側の仕掛けや、為政者と被支配者との間で、何らかの折り合いをつける知恵があったものと思われる。概していえば、江戸時代は、建て前上は硬直した社会に見えるが、その実体は、意外に柔軟性に富んでいたようである」と、序論で江戸社会の柔軟性を述べる。序論の最後では、大森貝塚発見のモースの記述を引いている。両国の川開きを見に行ったモースは、ごった返す舟の船頭同士が、険悪になることなくお互いに助け合っている光景を見て、アメリカだったら罵詈雑言が飛び交うのを考えれば、野蛮人は欧米人で日本人こそ文明人であると述べる。明治10年頃の記述だが、船頭たちは江戸時代に生まれ江戸文化のもとで育ったと著者は述べる。

 序論に続いて、「江戸の地域社会と住民意識」「江戸の美意識」「江戸社会の諸相」の3部から構成される。以下本書からいくつかのトピック。

 江戸っ子:江戸っ子という意識は18世紀後半になって成立したもので、元禄、享保の頃にはまだなかった。田沼時代に江戸文化が上方文化を凌駕して、花開いた江戸町民文化の担い手であるという自負心による。江戸っ子の意識の特徴は、城下町であることのほこり。城下町から派生したともいわれる「下町」の中心である日本橋にこそ江戸っ子精神がある。二つ目は金離れの良さ。これは官営の建設事業などが盛んで、働きさえすれば食べて行くには困らなかったことに由来する。三つ目は武士階級への対抗意識。江戸には武士階級と町人とがほぼ同数居住するという特殊な都市であり、目の前に立ちふさがる武士階級への抵抗精神が育まれた。「二本差(武士)しがこわくて、目刺しが食えるか」という気概である。四つめは上方の商人や田舎ものへの対置概念として洗練されたいきの美意識。

 本書には、田沼時代という言葉がたびたび出てくる。著者は特にこの時代を研究しているようで、田沼時代を時代の転換点として捉え高く評価しているようだ。

 江戸の町の地域性:下町と山の手についてその特性を述べる。例えば、深川が下町と人々に意識されるのは昭和になってからであり、江戸時代は水郷深川であり、保養地深川として豪商たちの別荘が建ち並んだ。下町の中心は日本橋であり、日本橋界隈はオランダ人参府の際の定宿があり、先進的な町であった。オランダ宿の訪問常連客には平賀源内、杉田玄白ら当時の文化人のそうそうたるメンバーが名を連ねた。

 山の手については本郷、小石川辺りを中心にその地域性、変遷が述べられる。これらの地域は中山道沿いにあり、商家ができそれから村から町へと変遷していった。同じ業種の店が集まることが多く、本郷には薬屋が集まった。今も湯島から本郷にかけては薬商、医療器具商が多いのはそのためである。湯島に店を構えた米穀商津軽屋とその主となった豪商狩谷棭斎のことにも言及されている。棭斎はその財力をもって貴重な書籍を買い集め、惜しげもなく人にそれを与えたという(p76)。

 喧嘩と打ち壊し:江戸の華は喧嘩と火事といわれる。喧嘩には効用もあった。江戸時代を通して米屋などの商家の打ち壊し騒動は何回もあった。しかし、幕府は参加者や首謀者に対して、厳しい罰は科さなかった。それは、打ち壊しは商家と民衆の私的喧嘩とみなし喧嘩両成敗の原則が適用されたからだという。民衆側にも打ち壊してもものを盗ることはせず、公義への反抗ではなく私的な喧嘩と見せるような工夫があった。

 いき:いきとは新趣向を考案する知恵の意味であった。新趣向だから当世風であり、当時は「当世」と書いて「いき」と読んだりした。いきとはその時その時の「当世」風の美意識であった。江戸人は流行を追うことが早く、ものに執着せずさっぱりとした気性を持っていた。こうした江戸の流行をリードした有力な発信源は遊里であり、とりわけ吉原であった(p130)。遊里が江戸文化の中で大きな地位を占めていたことが解る。

 初鰹:日本橋の魚河岸に初鰹が入荷すると、まず幕府に納入された。余った分が町人に売られた。中村歌右衛門は1本3両で購入した。さらに後年、文政6年には1本4両で料理茶屋八百善が購入した記録があるという。現在価格で32万円ほど(p142)。江戸の初物好みはさらに激しくなり、近郊農民が雨障子で囲った温室を作ったり、炭団で温めたりして、きゅうり・なす・いんげん・ささげなどの促成栽培をした。さらに魚類の養殖も行われた。天保13年、幕府は禁止令を出してこうした贅沢を取り締まった。(p145)

観光都市江戸:
江戸城の堀、緑の土手、結構な大名屋敷、広い街路、美しい江戸湾、とにかく江戸は、水と緑のみごとな景観都市であった。(中略)現在の東京タワーになぞらえられる芝の愛宕山からの景観のすばらしさは、江戸の観光客の目を十分楽しませたに相違ない。(p161)。参勤交代が観光都市江戸を成立させる条件を作った。

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書名 あらすじで読む歌舞伎50選 著者 利根川裕 No
2016-32
発行所 世界文化社 発行年 2015年 読了年月日 2016-12-18 記入年月日 2016-12-28

『天為』誌で今年も「文楽に遊ぶ」という題で、文楽作品を読む俳句を10回にわたって募集した。私も応募しようと思い「あらすじで読む文楽50選」を読んだが、とてもそこから俳句を導くことはできなかった。毎月掲載された俳句を見て、ただ感心するのみであった。

 来年は歌舞伎について同じ試みをするとのことで、本書が指定された。見開き2ページに1作品。文楽とダブルものもあり、また、歌舞伎の方がなじみがある作品が多く親しみやすかった。特徴は、あらすじはさわりの部分に絞り、その作品を得意とする役者との関連にかなりの字数を割いており、また、左側のページはその役者の舞台のカラー写真で1/3ほど占められている。松本幸四郎の熊谷次郎直実、娘道成寺をはじめ何回も出てくる坂東玉三郎、市川海老蔵の花川戸助六、市川団十郎の武蔵坊弁慶など、華やかな衣裳と大げさな役者の表情が見ていて楽しい。舞台を見たらやみつきになりそうだ。
 今回も句作りはパス。

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