読書ノート2024

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書名 著者
生物進化と遺伝子のなぞ 伊原康隆
藤原道長と紫式部 関幸彦
フォン・ノイマンの哲学 高橋昌一郎
量子力学 有馬朗人
小學國語讀本 學海指針社編
クレーヴの奥方 ファライエット夫人、永田千奈訳、
季語で読む源氏物語 西村和子
平安貴族とは何か 倉本一宏
敗者達の平安王朝 倉本一宏
謎の平安前期 榎村寛之 
ひとりになったら、ひとりにふさわしく 私の清少納言 下重暁子
52ヘルツのクジラたち  町田そのこ 
桜の文学史   小川和佑
梁塵秘抄  後白河院
風雅と官能の室町歌謡   植木朝子
 自伝的記憶の心理学 佐藤浩一  他 
 生命科学 東京大学教養学部理工系編
有馬朗人全句集 有馬朗人
枕草子(下) 清少納言 
枕草子(上 清少納言
和泉式部日記 和泉式部
ヒトラーとナチ・ドイツ  石田勇治
 花源 天野小石
   
   



書名 生物進化と遺伝子のなぞ 著者 伊原康隆 No
2024-01
発行所 三省堂 発行年 2022年8月 読了年月日 2024-01-07 記入年月日

 著者は私の高校時代のクラスメートで、整数論の世界的権威。数学者の観点から見た現代生物学。内容が高度で、とにかくすごい。専門の生物学者でも、これほど深い意味で遺伝と進化を理解しているだろうかと思った。

冒頭に「本書の意図と特徴」が述べられる。
 
一旦は区別すべき事柄を明示的に対比させそれを土台に話を進めた。中略 そのうえで、それらの間の関連性をなるべく原典に沿って学び、端的な表現を模索しました。
 対比の例として以下を挙げる:
生物間の差異と共通性
生体内分子の機能と構造
静的なDNAと動的なタンパク質 
進化、実は写像「機能→構造」の進化
必然か偶然か、それは知られているのかいないのか


 サブタイトルは「数学者目線」だが、それは「すぐ計算したがる心」ではなく「先ず構造の奥の構造を見たがる心」のことだという。

はしがき
 
およそ精密な構造を有する対象を「記述する言葉と研究する一般的方法」といった理系全体の基礎に関してなら、数学者は玄人と言えるでしょう。と述べ、生き物の仕組みは最も驚くべき見事さを持った構造です。従来の数学研究では出会えなかった種類の新鮮な驚きと未知の課題にしばしば啓発されもします。と続ける。

 生物の構造は長い歴史の産物で、生物学は史学でもあると認めた上で、ダーウィンやクリックの著作の中にも、随所に数学者的精神を垣間見るという。

 数学者は区別にうるさい。生物学の解説書には、区別があまり書かれていない。例えばコドンとアミノ酸の対応は偶然か必然か、何から何が決まるのかといったこと。また、既知と未知についても曖昧なところがある。既知か未知かをはっきりさせてから次に進めたいという。

 流布している解釈の偏りも気になるという。例えば進化論。
ダーウインの主張を二種類に分ければ、一つは生物間の「共通性」の認識で、もう一つが、徐々に分岐を生じたプロセスの説明としての「突然変異と自然選択」ですが、後の進化論で強調されているのはこの二つめに偏っていないでしょうか。珍しい生き物の提示が「ダーウィン」、生存競争礼賛が「ダーウィン」とされているのが歯がゆい。

 本書を書くに際しなるべく原論文に当たったという。驚くのはダーウィンも原著で勉強したという。原著は「Darwin-Online」ですべて閲読可能とのこと。

以下8章よりなる。
第1章 進化論1 ダーウィンの原典を直視する
 ダーウィンの主張を次のようにまとめる。
 
長い年月の間に、生き物たちはほぼ共通の祖先から「枝分かれ」してきた。これが最初の主張で、特に分類上の「種」は不変ではなかった。
 次いで、
枝分かれの主因は突然変異と自然選択。
 ダーウィンは最初の主張で「共通の祖先」という主張は推測で、「種は不変ではない」は強い主張であると言う。ダーウィンは証拠の弱い物と充分にある物とを区別して、それに応じた表現をしているという。

 進化と枝分かれ:通常使われている「進化」ではなく「枝分かれ」としたのは「descent with modification」(修正をともなう子孫への移行)とダーウィンが表現しているからだと。「進化」という言葉の持つ「進んだよい方向」というニュアンスはダーウィンの主張の中には込められていないと。「evolution」進化と言う言葉をダーウィンも使っているが、それは「胚からの細胞の発展」という意味である。

「種の起源」は読みにくいという。私は以前岩波文庫ので読み始めたが、読みにくくて、最後まで読み通せなかった。著者は「
読みづらいのは、いちいちあり得る反論をいろいろ想定して細部まで十分に検討しているからです」という。

第2章 進化論2 ダーウィンを周辺から眺める
 進化論でよく遭遇する誤解は、進化が目的であるような表現。突然変異がある目的を持って起こるという表現だ。実際は進化は結果であることを時として忘れてしまうことがある。著者もその点を指摘している。

 
偶然に起こる様々な変異の中から、環境に適した変異をたまたま受け継いだ子も生まれ、それが(わずかでも)高めの確率で子孫を残し、次世代にその変異も引き継がれ、これらの微小な変異の長期間の蓄積が種の大きな変異をもたらした。環境に応じて変異ができるのではなく、数多の変異の中から環境によって適者が選ばれる

 変異と進化の関係は偶然性に依存する。単純な因果関係で天体運動を説明したガリレオの地動説などとは生物の世界は本質的に異なるという。
 弱肉強食を人間社会に適用し生まれた優生学などは、ダーウィンの共通性に目を向けるとは別に、相違点から差別の根拠を探すという益々離れた方向に行ったものだという。

 
関連してニーチェの『人間的な、あまりにも人間的な』の中の以下の文を引用し、著者も同感であるという。
 結果として進歩をもたらすためには「はずれ」傾向、指向が極めて重要である。全体の進歩には部分的弱化が先行する。強者は自分を変えようとしない、弱者はそこを何とかしようとする。個人レベルでもそうであり、何らかの欠陥が他の面の強化をもたらさない例は少ないであろう。たとえば争乱のなかで病弱者は孤独と閑かさを得て、「より賢く」なる。この意味で「survival of the fittest」はヒトや人種の進歩や強化を説明できる唯一の視点とは自分には思えない――。

 生物学の本にニーチェが引用されるなど見たことがない。「survival of the fittest」適者生存はダーウィンではなく、スペンサーの言葉という。

 本章の最後にはメンデルの法則が述べられる。
 メンデルが大きな一歩を踏み出せたのは物理学を学んだことが役立っている。つまり、メンデルは問題に対して定量的なアプローチをとったからである。彼の慎重な実験と洗練された定量分析は、時代をはるかに先駆けていたと、ワトソン・ベリーの著書を引用している。

第3章 タンパク質――機能と構造
 タンパク質の機能として、抗体、ホルモンとその受容体、酵素の説明。
 構造では一次構造でタンパク質構成元素の説明から、共有結合、アミノ酸の構造、ペプチド結合、SS結合などが説明される。次いで一次構造から立体構造へでは水素結合、疎水性、親水性の説明がなされる。このあたりは完全な有機化学。親水性疎水性の説明で、「
極性のある分子、つまり電子濃度に無視できない局所的な差がある分子は基本的に親水性です」とあり、なるほどと感心した。

 アミノ酸の配列という一次構造から立体構造が決まるのは、「分子シャペロン」が、アミノ酸のN端から出発してつながってゆくのを少しずつ慎重に正しい立体構造が形成されるように手助けをしているからだという。これはこの分野の先駆者である永田和宏氏の説明という。歌人の永田和宏は京都大学の生物科学者だとは聞いていたが、科学者としても一流であることを知った。伊原さんとは同じ京都大学で、接触があるのだろう。
 タンパク質は1次元の表現様式をもつ3次元構造である。
写像
 
機能と分子構造を結ぶ「写像」が生物を特徴づける
 ここは数学者の本領発揮の説明だが、私には「写像」の概念がよく理解できなかった。

アミノ酸プール 
 食物から摂ったタンパク質の分解で生じるアミノ酸が入り、それとほぼ同量のアミノ酸が排泄などにより出て行く。しかし、それらの約2.5倍のアミノ酸がすでにある体タンパクの分解により入り、ほぼ同量のアミノ酸が体内タンパクの合成に使われる。
私は初めて知ったことだが、こんな卑近な話まで載っているところがすごい。
 アミノ酸プールの実態は、細胞内に散在するリボソームであろうという。

第4章 DNAとRNA
DNAを生命のプログラムとか暗号といった誤解を招く言葉は使いたくないと言い、
DNAの主な機能は、タンパク質の需要と供給をとりもつ自動連結装置である」とする。
 この私にとっては初めて目にするこの定義が著者独自の物かどうかは不明である。

また、遺伝子については
遺伝子(gene)とは、とりあえず狭い意味では、DNA分子の中で「生体内の個々のタンパク質の作成と(直接または間接的に)関わる部分」としている。

化学構造
 DNAはかなり堅固な化学物質である。しかし、それ自体は溶液中で揺らぎつつ、周辺からの刺激に応じて隙間を突いてくる他の化学物質と随時化学反応を起こし、それによって機能を発揮している。それゆえ、その働きには偶然性も日常的に介入しており、塩基配列の規則性がすべてを決めてはいないという。
 「DNAが溶液中で揺らいでいる」という表現にはっとする。こんな言い方をした人はいただろうか。

 DNAの構造について歴史的に述べられる。
 遺伝子の科学的実体がタンパクかDNAかに決着を付けたのは、ハーシー・チェイスの実験(1952年)で、リンが入っていたらDNA、硫黄が入っていたらタンパク質というものであった。
 
相補的な2塩基は2本の主鎖の内側で向かいあう
 X線回折でロザリンド・フランクリンは主鎖は外側であることを認識しており、またシャルガフがAとT、CとGがほぼ同量ずつ含まれていることを報告していて、それをもとにワトソンとクリックのモデルが出て来た。

 主鎖が逆方向なのは、逆方向に引っ張ってこそ引き締めが効き安定するから。
 平行走ではなく二重らせんなのは離れてしまうのを防ぎやすいから。
  こうした見方も初めて接する。逆方向の二重らせんということは、当たり前のこととしてその意味も考えたことはなかった。
 隙間に水分子が入り込んで相補塩基対の間の水素結合が邪魔されないためにも、DNA分子には一定の長さが必要である。
 2本鎖の螺旋には2つの溝があり、広い方を主溝、狭い方を副溝と呼び、伝令タンパク質は広い方の溝を使って近づいてくる。

 この後染色体、減数分裂、ヒトゲノムなどの記述がある。
 DNAの複製には校正機能も付随し、そのお陰でそれがない場合に比べて複製のミスは2桁も少なくなってる。
 PCRテストについても触れる。使用されるポリメラーゼの主要部は保存性が高い、つまり異なる生物間での共通性が多い。これはこの酵素が重要なために変異を許せなかったためだろうという。

 飲み込まれた他の生物のDNA:ヒトの膵液にはDNA分解酵素が入っているから、遅くとも腸から吸収される前にはヌクレオチド単位には分解される。

第5章 DNAからRNA、タンパク質へ
 先ずDNA配列がアミノ酸配列を決める法則が歴史的に述べられる。前章に続く分子生物学の核心部。本章でもクリックの「What Mad Pursuit」(1988年)邦訳『熱き探求の日日』を引用しているが、この本の後半部の下訳は私が行った。後半部分はまさに本章に該当し、内容はおぼろげながら理解していた。しかし本書の記述は、それ以後の進展も踏まえてくわしく、初めて知ることが多い。

 コドンとアミノ酸の対応は全生物に共通であるが、それは必然かあるいは偶然か。
 化学的に必然であるとすれば、tRNAとアミノアシルtRNA 合成酵素との複合体が最も安定であるからと考える。このことはまだ証明されていないが、最新の研究ではその可能性が示されたという。
 一方偶然に選ばれたとするなら、一個の共通祖先の個体があってそれがランダムに選んだ仕組みが、結果的にすべての子孫に伝わっている可能性が高い。立証できる可能性があるのは、化学的な必然性だろうと、著者は言う。

 リボソームにはタンパク質も住んでいるが、それは酵素的働きには関わっておらず、リボゾームRNAが酵素の働きをしているという。
 最後の部分ではDNAが読み取られるきっかけの仕組みが、モノーとジャコブの大発見から、DNA読み取りの阻害因子と活性化因子で述べられる。
 ここまで来て「
DNAの主な機能は、タンパク質の需要と供給をとりもつ自動連結装置である」という前章で述べられた言葉の意味が理解できた。

 転写の調節に関わるタンパク質は総括して転写因子と呼ばれる。転写因子はタンパク質であり、DNAと結合できるサブユニットをもち、特定の遺伝子との結合によりその発現を調整できる。転写因子のタンパク質の遺伝子を活性化するには別の転写因子が必要になる。そのまた転写因子が必要となり無限連鎖になってしまう。
 これを解決する一つの考えは、
最初の細胞に含まれる必要があるのは基本タンパク質自体ではなくも、それをコードするmRNA と、道具としてのtRNAやrRNAであればよかろうということから「基本的な酵素の元祖はRNA分子だったのではないか?という話になってきます。
 これに関連して本書の最後ではRNAワールドについて述べられる。

第6章 進化論3 子孫に伝わる変異
 遺伝するのは裸のDNAであって、修飾されたDNAではない。変異はDNAの塩基配列自体の受けた変異と限定する。修飾されたDNAとはメチル化されたDNAやDNAを取り巻くヒストンの化学修飾など、後天的な影響で起きた変化のこと(エピデミックな修飾)

中立の変異に対する説明が特に参考になった:
(a)その配列から作られるタンパク質には変化をもたらさない変異。
(b)変化をもたらしても子孫を残せるかどうかには影響の少ない変異。
(a)はさらに二つに分かれる。(1)遺伝子と関係ない部位またはイントロン部位の変異。(2)コドンは変わっても対応するアミノ酸は変わらない変異。

中立変異には進化の主因として以外の重要性がある。その一つはDNA判定への応用。中立変異は放っておかれるために消えないままに子孫に蓄積され、それが血縁関係や犯人特定のDNA判定に使われる。イントロン部位に挿入されたCACACA反復列の長さの差などが決め手になるという。もう一つは分子時計としての進化論への学問的応用。こうした部位での変異の蓄積度合いからその種が誕生してからの期間の長さが概算できる。これには1世代で単純なコピーミスが生じる確率が計算できるようになったためである。

正の変異:ごく稀な全ゲノムの重複、それよりは起こりやすい遺伝子重複、そして選択的スプライシングがある。
 全ゲノム重複は減数分裂でDNAは複写されたのに細胞が分裂しなかった場合に生ずる。植物でよく見られる倍数体がその例。
 重複遺伝子:遺伝子が重複していると、一方が本来の機能を果たしている間に、他方は環境のプレッシャーから解放され、気まぐれ機能を持つ余裕ができ、新しい環境の変化にも対応できる。

 点変異の実例:ABO式血液型、鎌形赤血球、乳糖耐性、新型コロナウイルスの変異株がそれぞれ説明される。
 動く遺伝子(トランスポゾン)ゲノム上の位置を移動する断片的なDNA配列。哺乳類の脳の形成に正の変異として関与したとされる。

第7章 動植物分岐のなぞ
 動物と植物を以下の3つの観点から区別する。1.独立栄養か従属栄養か。2.器官の形。3.ゲノムレベル
 2と3が私にとっては全く新しい観点であった。

 器官の形とは鞭毛の数。鞭毛1本をユニコンタと言い、これが動物の祖先。鞭毛2本をバイコンタと言い植物の祖先。「
容易に増減しそうな鞭毛の個数が真核生物の基本的な分類の鍵として長く認められていること自体が既に驚きでした」と著者は言うが、全く同感。

 動物界は原生(単細胞)動物と後世(多細胞)動物に分類されており、前者の中では襟鞭毛虫が海綿を介して後生動物に近いとされている。海綿は襟鞭毛虫の子孫であろうと考えられているので、襟鞭毛虫は我々の祖先として重要ですという。

 ゲノムレベルでは、あらゆる生物に共通な仕組みの一つであるヌクレオチド合成酵素をコードする遺伝子群に関するもの。これらの酵素のうちで関連しあった数個の酵素の遺伝子が、融合しているか離れているかの相違。ピリミジン系ヌクレオチド合成に関与する3つの酵素の遺伝子がユニコンタでは融合していて、バイコンタでは非融合。もう一つ別のピリミジン系ヌクレオチド合成酵素をコードする2つの遺伝子がバイコンタでは融合していてユニコンタでは融合していない。
 このように鞭毛の個数と特定の遺伝子の融合の有無がキッチリと対応する。このことに必然性はあるのかと著者は例によって自問する。結論として偶然であるとする。

第8章 進化論5 共通の祖先、RNAワールド仮説
あらゆる生物の共通の祖先があったとしても、それは個体としてではなく形態としてであろう」と言う考え方の方が納得しやすいと著者は言う。私は「形態」の意味がよく理解できない。
 共通祖先に関しては2016年の研究が紹介されている。それによれば特徴として嫌気性、高熱性、二酸化炭素固定能、窒素固定、水素依存性。

 最後はRNAワールドについての記述。
 ウロイドという植物につくタンパク質の殻を持たないむき出しのRNA分子が1971年に発見されている。そして、これこそRNAワールドの現存する名残ではないかといわれた。RNAワールドはクリックの仮説によれば:
初期の生物では遺伝情報もそれを機能させる酵素もともにRNAが担っていたのではないか。そしてそれが進化して遺伝情報はRNAより安定したDNAに、酵素はRNAより多彩で複雑な働きをもてるタンパク質にと置き換わってきたのであろう。

 1980年代にはRNAが実際に触媒機能を持つことが複数発見された。そして触媒作用を持つRNAが現存する生物のなかに存在することが明らかとなった。
 RNAワールドを裏付けるものとして、さらに古代の隕石の中からリボースが出てきた。いくつかの小さなRNA分子は宇宙に存在したはずの素材から試験管内で合成できる。さらに、与えられたRNAを特定の位置で切断する触媒機能をもつRNAがいろいろ合成できる。
 このようにRNAワールドを支持するデータは多いが、タンパク質の立体構造の形成を助けるのには、シャペロンというタンパク質が必要であった。RNAのシャペロンはRNAではなくタンパク質であるとのこと。

 以上のことから純粋なRNAワールドは想定しにくいと著者は言う。しかし、「だから究極の創造主がおられるのです」というのは、思考停止への呼びかけに思える。もっと研究を続けて下さいとエールを送りたいと著者は言う。

 あとがきに生命化学研究に従事する長女に負うところがたくさんあったと記す。

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書名 藤原道長と紫式部 著者 関幸彦 No
2024-02
発行所 朝日新書 発行年 2023-12-31 読了年月日 2024-01-15 記入年月日

 今年のNHK対がドラマは「光る君へ」は紫式部と藤原道長を中心とする、王朝物語。初回を見たが、登場人物の男性はほとんどが藤原姓で、名前も似ていてよく分からない。
帯は「日本史上最長の400年の平安時代を徹底解剖!大河ドラマ「光る君へ」を読み解くための必携書」

 ドラマを見る上で役立ったのは所々に出てくる藤原氏と天皇家の系図、そして入内した藤原の姫達の系図である。例えばp42には仁明から後三条に至る18代の天皇と藤原氏の子女との関係が、p84と85の見開き2ページに摂関期婚姻関係図が示される。藤原の男子のみならず、女子の名前が覚えづらい。というのは名前が漢字二字で、しかも下はすべて「子」なのだ。

 それ以上に興味を引いたのは、平安時代のとらえ方。                
十世紀末から十一世紀にかけての当該期は、律令国家にかわって、中世的ゾーンの王朝国家の段階となる。武家政権の前提となるこの時期は、来たるべき中世国家の第一ステージに位置した。古代律令システムが中国(唐)をお手本としたのと比べると、『源氏物語』を誕生させた王朝時代は、お手本が希薄になっていった段階である。」と述べ、漢字から仮名へ、天皇号の漢風表現からの脱却、「平安京」から王朝都市「京都」への脱却、神仏習合の成熟などがこの期に登場したとする。(p31)

『百人一首』に登場する女房歌人の圧倒的多くがこの一条天皇の時代に集中する。女流歌人のオンパレードといってもよい。それほどまでに王朝という語感に当てはまる時代が一条朝だった。二十五年という長期にわたる在位の影響もあるが、それを補翼した道長の存在はさらに大きい。(p109)。百人一首の56番から62番は女房達の歌。(p129)。

 「御堂関白」:
道長は関白にならなかった。道長は内覧の地位に固執したのは関白には内覧の権限がなかったから。内覧とは太政官で作製された文章を、天皇に示す以前に見ることができる役目。関白にはその権限がなかった。関白ではなかったが、それと同様の地位にあったので通称として「御堂関白」の呼称が用いられた。(112)

 
道長の主導した王朝の体制は、天皇が政治からあるいは権力から距離を保つためのシステム、要は天皇不執政の布石を準備させたともいい得る。(p126)

 女房たちには受領層の娘たちが多い。狭い世界しか知らない天子のために、話題の豊かさは后妃であることの条件であった。それを伝授するのが女房達に期待された役目であった。彼女たちは地方という世間を知っていたという。(p130)

 紫式部と和泉式部:
王朝文学は色恋沙汰を抜きにしては語れない。(中略)自身がその虜になることもあった。そんな自己をも許容するか否かが、紫式部と和泉式部の違いかもしれない。紫式部は、色恋に酩酊できないタイプだったと思われる。それへの彼女なりの自覚が散文へと走らせた。けれども彼女はそれなりに愛欲の世界も心得ていたが故に”仮想現実”を伝えることもできた。光源氏の義母の藤壺への禁断の恋のように、である。他方、和泉式部の場合は、為尊(ためたか)・敦道両親王(父冷泉天皇)たちとの恋愛事情が語るように、恋の世界に没入できた。(p134)、この後『尊卑分脈』には紫式部を「御堂関白道長ノ妾」と記されていると、付け加えている。

 以後、紫式部の生い立ちなどが綴られる。最後の章として王朝時代の諸相が述べられる。
 
大唐帝国の解体にともない、文明的システムからの脱離により、独自路線(文明主義から文化主義への転換)が十世紀を通じて進行した。天皇の名(追号)の変化はその象徴だった。その内実にあるのは、天皇自身の文化的存在への転換だった。(p210)

 
天皇親政観それ自体は、権威としての『至尊』と権力としての『至強』を一人格に収斂させようとする、中華的皇帝主義の産物に他ならない。『至尊』=『至強』の立場をとる限りは、新たなる政治権力の出現で皇帝は打倒される運命にある。皮肉ながらわが国の天皇システムが存続し得た理由は、十世紀王朝国家が天皇を政治から分離させたことであった。(p211~)。なかなか説得力のある論旨だ。王朝国家の成立に当時の大陸の事情が絡んでいたとするのが面白い。

 なお、天皇の追号について:天智、天武、文武、聖武、桓武などに対して、宇多、醍醐、村上などの京都の地名へ、さらに道長・式部時代の一条、三条など。

「刀伊(とい)の入寇」寛仁3年(1019年)道長の時代に起こった、女真族の襲来についても触れられている。初めて知ることだが、道長・式部の時代も決して平穏一筋ではなかったようだ。

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書名 フォン・ノイマンの哲学 著者 高橋昌一郎 No
2024-03
発行所 講談社現代新書 発行年 2021年2月刊 読了年月日 2024-01-18 記入年月日

 ネットの記事から読んでみたくなった。帯は「人類史上最恐の頭脳」と大書してある。
 ノイマンについてはコンピュータの生みの親という認識しかなかった。本書では原子爆弾の製作と投下にも深く関わったことが述べられる。そんなことから本書のサブタイトルは「人間のフリをした悪魔」である。さらにゲーム理論や天気予報などにも関わったと本書は言う。

 フォン・ノイマンという言い方はドイツの貴族の呼称なので、以前から不思議に思っていた。本書でその由来が明らかにされる。ノイマンは1903年、オーストリア・ハンガリー帝国のブダペストで生まれる。父はユダヤ人で、法学博士の号を取得し、ブダペスト銀行の顧問であった。1913年に父はオーストリア・ハンガリー帝国の皇帝から貴族に叙せられた。以後、ドイツ語で「フォン・ノイマン」を名乗ることになった。

 ノイマンの天才ぶりは幼い頃から発揮された。父のマックスの趣味はギリシャ時代や古代ローマの文芸と音楽であったが、8歳の頃のノイマンは父と古典ギリシャ語で冗談を言い合った。同じく8歳の頃にはドイツの歴史家の書いた『世界史』44巻をドイツ語で読破した。一度読んだ本や記事を一言一句たがわず引用する能力は生涯続き、後年アメリカのプリンストンに渡ったノイマンは、ディケンズの『二都物語』の第一章を暗唱し始め、周囲が止めるまで延々と続けたと。

 10歳でブダペスト大学の数学科の問題を見事に解いた。後にノーベル物理学賞をもらったウイグナーは12歳の時、散歩しながら11歳のノイマンから群論を教えてもらったという。

 本書は「はじめに」でノイマンの生涯が要約されていて、便利だ。
 ノイマンと原爆投下については、空軍は皇居、横浜、新潟、京都、広島、小倉をあげた。ノイマンは、戦後占領統治まで見通して皇居への投下に反対した。そのお陰で日本は命令系統を失わないまま3ヶ月後に無条件降伏できた。その一方で、ノイマンは京都への投下を強く主張した。文化的歴史的価値の高い京都に投下すれば日本人の戦意が喪失すると。これにはスチムソン陸軍長官が、それではアテネ、ローマを破壊したことになり戦後非難されると、強硬に反対したという。横浜はすでに破壊され、新潟は情報不足で除かれ広島になった。(p13~)。

 本書の後半には原爆開発のことがくわしく書かれている。ノイマンはロスアラモス研究所の顧問として、深く関わる。彼が中心になって進めたのが「爆縮型」原爆の設計。臨界点に達していないプルトニウムに爆薬を配置して、その爆発の衝撃で一気に臨界点に転化する方式。

 原発の開発には罪悪感を持つ科学者も少なくなかった。そんな一人ファインマンはノイマンから、「我々が今生きている世界に責任を持つ必要はない」という考え方を教えられ、『社会的無責任感』を持つようになったという。ファインマンはそれ以来とても幸福な男になったという。(p172)

 さらに続けて本書は述べる:
要するに、ノイマンの思想の根底にあるのは、科学で可能なことは徹底的に突き詰めるべきだという「科学優先主義」、目的のためならどんな非人道的兵器でも許されるという「非人道主義」、そして、この世界には普遍的な責任や道徳など存在しにという一種の「虚無主義」である。(p175)。

 原爆投下をルーズベルトに強く勧めたのはチャーチルだったこと。科学者のなかには、原爆を無警告で都市に投下するのは非人道的だから、日本人を呼んで、砂漠か無人島でその威力を見せつければいいという提案もなされたこと。トルーマンは原爆の使用を躊躇したが、通常の上陸戦ではアメリカ軍の損害が甚大になるのを恐れて非人道的兵器の使用を認めた。

 ドイツが降伏した時点で日本も降伏の道を探るべきであった。7月16日の原爆実験成功のニュースは、日本にも届いていた。にもかかわらず日本の指導者は無条件降伏を考えず、本土決戦に固執した。そうしたことから、著者は原爆投下をやむを得ないことと考えているようだ。(p132~)

 ノイマンは水爆開発も一貫して推進すべきだという立場だった。なぜなら、アメリカこそつねに世界で最大の武器を保有すべきであるから。(p246)

 1956年10月にハンガリー動乱が起き、蜂起したブタペストの市民がソ連軍により多数殺害された。生地を蹂躙されたノイマンは、一刻も早く合衆国がソ連に先生核攻撃をすべきだと強硬に主張した。(p15)

 1957年がんのため死去、54歳だった。

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書名 量子力学 著者 有馬朗人 No
2024-04
発行所 朝倉書店 発行年 1994年 読了年月日 記入年月日

『天為』1月号で、選者の一人西村我尼吾氏が選んだ句の一つが

 曖昧は人つつみたり涼新た 松井ゆう子  だった。

 そのコメントに我尼吾氏は分子・原子と遡って有馬先生の量子の世界まで行くと、一つに決まっていない、と述べ、本書の名を挙げていた。

 シュレーディンガーの波動方程式や、ハイゼンベルグの不確定性原理、あるいは量子論を認めようとしなかったアインシュタインとボーアの論争など、一般書で定性的な知識は得ていた。それゆえ、有馬朗人がそのものずばりの本、教科書を書いていると知って、読んで見たくなった。有馬朗人の専門は原子核物理だと思っていたので、量子論とは意外でもあった。30年前の本だが、幸いアマゾンに在庫があった。

 明けてビックリ玉手箱。200ページを超える全編が、見慣れぬ数式の羅列。微分、積分、偏微分、行列式・・・。しかも、これは大学での講義録をもとにして書かれたものだ。

 私は物理が好きで、大学の受験も理科は物理と化学で受験した。しかし、高校の物理と大学の物理はまったく違うと知った。物理を専攻するには数学が必須だった。数学の抽象的な思考は私の全く苦手の分野だった。

 朗人先生が亡くなる4ヶ月前、句会の終了後、先生を含む4人でランチを共にした。その際、物理は好きだったが、数学が苦手で物理学はあきらめたと先生に話した。先生は「そうだ、数学ができなければ物理はできない」と即座に言った。本書を見てまさにその通りだった。それにしても有馬朗人の俳句しか知らない私には、同じ人間のなかにこんな数式と俳句が共存できることに衝撃を覚えた。

 本書の第一章は「量子力学前夜」で、量子力学が誕生する歴史で、これなら私にも理解できるだろうと読んでみた。しかし、私が親しんできた一般教養書とはまったく違い、数式に基づいて光の粒子性と波状性、黒体輻射の問題、原子核の模型などが説明されていた。

 一行の数式で世界を表してしまう物理学者は、17音の短詩型で世界を切り取る俳句に向いているのかもしれない。

 本書を読み通すことなど諦めてしまったが、亡き有馬朗人先生を偲ぶよすがとして記す。

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書名 小學國語讀本  著者 學海指針社編 No
2024-05
発行所 集英堂 発行年 明治33年刊 読了年月日 2024-01-31 記入年月日

 昨年12月の句仲間に誘われ世田谷のボロ市に初めて行った。同行の女性達はそれぞれ目的があって、帯を買ったり、九谷焼の壺を買ったりしたが、私は特になく、厚揚げ豆腐と本書を買った。

 明治33年発行の和綴じ本。高等小学校用の国語副読本だから、今の学制によれば小学校5年から、中学2年が対象。紙も印刷もしっかりしていて、字も大きく、挿し絵も入っていて読みやすい。内容は紀行文や偉人の話、身近な動植物のことなど。
 旧漢字で、読むのはさておき、こんな漢字を小学校で書いていたのかと感心する。私の小学校時代には習わなかったような気がする漢字がたくさん出て来る。此處・彼處、奬勵、蠶。

 歴史物としては太田道灌の山吹の話、山内一豊の妻の話、貝原益軒の教えなど。これらの話は私も子ども時代に読んだか、聞いたかしている。

「軍旗」という題では、天皇から奪われていた兵馬の権が明治維新により、天皇のものになったと述べ、軍人勅語の一部が引用されている。続いて「黄海の戦」で、日清戦争における海戦の勝利が述べられる。

 かと思えば「茶ト珈琲ト」では嗜好品について述べられる。珈琲はすでにこの頃広く飲まれていたようだ。この章は片仮名表記になっている。

「たばこ」についても述べられ、「ニコチンといふ毒があるから」幼年の者には吸うことが禁じられていると書く。

 歴史の資料として面白い。


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書名 クレーヴの奥方 著者 ファライエット夫人、永田千奈訳、 No
2024-06
発行所 光文社古典新訳文庫 発行年 2016年刊 読了年月日 2024-02-02 記入年月日

 昨年秋、高校のクラスメートの桐村さんから手紙が来て、『クレーヴの奥方』を読んだ感想が長々としたためてあった。桐村さんは何人かに同じ手紙を出し、この小説の要約を述べ、単婚制への是非を問うてきた。俳句の投句が一段落したので、読んでみる気になった。

 題名はどこかで聞いたことがある。十六世紀のアンリ二世のフランス宮廷を舞台にした恋愛心理小説で1678年刊行された。

 最初の方ではアンリ二世、フランソワ一世、フランソワ二世、後のスコットランド女王となメアリ・ステュアートなどが実名をもって登場し、小説の史的背景が述べられる。本書の最初にある相関図を見ながら読み進めた。

 ヒロインのクレーヴ夫人は王妃や王太子妃の側に仕える名門貴族の出。16歳でクレーヴ公に見初められ結婚する。しかし、宮廷で見かけたヌムール公にいつしか恋心を抱く。そしてヌムール公もクレーヴ夫人に恋心を抱く。この二人の男性も名門貴族で、王の傍近くに仕える。

 翻訳がよくできていて読みやすい。近代小説の祖といわれる。心理描写に繊細さがもっと欲しいのと、ストーリー展開が偶然に依存しすぎるところが不満だが、芭蕉とほぼ同じ年代の作家であることを思えば、やむを得ないか。

 物語は、クレーヴ夫人が夫に、ヌムール公への恋心を打ち明けるのを、たまたまヌムール公が立ち聞きする。(このシーンなども無理して偶然を重ねる)。妻の本心を知ったクレーヴ公は嫉妬にさいなまれ、病に倒れ、亡くなる。こうして寡婦となったクレーヴ夫人は、晴れてヌムール公と結婚するかと思いきや、修道院に入ってしまう。修道院に訪れたヌムール公にも面会を拒否する。
 
 この最後は源氏物語の最後、尋ねてきた薫に会うことを拒んだ浮舟とよく似ている。浮舟も既に仏門に入っている


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書名 季語で読む源氏物語 著者 西村和子 No
2024-07
発行所 飯塚書店 発行年 2007年 読了年月日 2024-02-23 記入年月日

 句仲間から紹介された。初版は2007年だが、2023年9月第4刷。
 初音から始まり。衣くばりに終わる57の季語で、源氏物語のいろいろなエピソードを切り取ったもの。配列は源氏の54帖順ではなく、少しの乱れはあるが、冬から始まり秋に終わる順で配列されている。源氏物語の場面を思い浮かべながら読んだ。

 取り上げられた各場面が、そういうことだったかと新しく見方で示される。作者は相当源氏物語を読み込んでいるなと感心した。今までに読んだ、丸谷才一や大野晋流の解釈とは違う観点、女性の観点から源氏を読み解いていて、面白く、もう一度源氏を読んでみたくなるほどであった。

 例えば「霞」では源氏の須磨へ旅立ちを取り上げる。そこに書かれた、三月二十日過ぎの出発、有明の月、名残の花、舟の旅、三千里の旅、離別の涙などは芭蕉の「奥の細道」の旅立ちの一節の下敷きになっているのではないかという。

 著者は言う:
奥の細道の「月は有明にて光おさまれる物から」という一節は、そのまま「源氏物語」の帚木の巻の、空蝉との後朝の別れの場面の言葉である。

 「月は有明にて光をさまれるものから、影さやかに見えて、中々をかしき曙なり。何心なき空の気色も、ただ見る人から、艶にも凄くも見ゆるなりけり」という帚木の一節を、芭蕉は愛読し諳誦していたに違いない。何故ならこのくだりは、十七歳の源氏が、受領階級の人妻との初めての恋に心を震わせ、無心の自然も、見る者の心のありようによって艶を増したり、ぞっとするほど恐ろしくもなったりするのだと知った、記念すべき朝の詠嘆であるからだ。

 それ自体は何心もない空のけしき、自然界の万象も、それを見る人間の喜びや悲しみによって、印象深く、様々に見えて来るのだという発見は、恋や人生を知り初めた青年期の大きな感慨であり、詩ごころの目覚めでもある。人は今まで無心に見えていた空のけしきにあわれを感じとり、ぞっとするものを覚えたりした時、まさに「春秋を知る」のだ。人生の感慨と、自然界の万象、四季の風物とが密接に結びつき響き合った時、自然や風景は奥行きを持ち始める。

 光源氏の自然観の目覚め、詩心開眼の感動がこめられたこの一節に、芭蕉が共感しないはずがない。句ごころの源も、まさにここにあるからだ。芭蕉の心の内にくり返されていた一節はやがて血肉となり、旅立ちの高揚した心にわが言葉のごとく浮かび上がって来たものだろう。


 本書の最後は季語ではなく「最後の春秋」という項で、光源氏の{幻」の帖を扱っている。

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書名 平安貴族とは何か 著者 倉本一宏 No
2024-08
発行所 NHK出版 発行年 2023年10月 読了年月日 2024-03-08 記入年月日 2024-03-18

 帯には「道長は危ない勝負師だった!」とあり、サブタイトルは「三つの日記で読む実像」。
 三つの日記とは「藤原道長『御堂関白記』、藤原行成『権記』、藤原実資『小右記』。三人とも今のNHK大河ドラマ「光る君へ」に登場している。

 『源氏物語』、『大鏡』、『今昔物語』などから多くの人に抱かれている平安貴族のイメージ、遊園と恋愛にうつつを抜かし物忌みや怨霊を信じ、加持祈祷に頼っていた非科学的人間、ではなく、古記録に基づいた彼らの実像を示すというのが本書の目的。いずれもほとんどが漢字だけでびっしりと書かれた日記の写真が多数挿入されている。

 著者は日本は世界にも稀な日記大国で、特に君主が日記を付けるのは世界的に見て日本だけだという。その理由として、日本には「正史」がなかったからだと。「日本書紀」から始まるいわゆる六国史は901年の『日本三代実録』で終わる。しかし、9世紀から10世紀にかけては儀式の作法がやかましくなった。儀式書は日記に基づいて作ることが多いので、各家で典拠とするために日記が書かれた。そして、その家が続いているから、日記が残された。

 本書はこれら3つの日記をもとに、『大鏡』や『栄華物語』(赤染衛門が書いたとされる)とは違った、史実に基づく道長が藤原氏の頂点に立ったいきさつを中心に述べる。

 『御堂関白記』は現存する自筆本日記としては世界最古のもの。
 道長を権力者の座に押し上げたのは長徳元年(995年)に大流行した疫病である。関白であった長兄道隆が亡くなり、それを継いだ次兄道兼もすぐになくなり、道長の上位にあった人々は藤原伊周(これちか)以外はほとんど亡くなった。そして翌年長徳の変で伊周が失脚し大納言に過ぎなかった道長は内覧の地位に就く。道長には一条天皇の母である、藤原詮子の後押しがあった。詮子は道長の姉である。ここに述べた人物はちょうど今NHK大河に全員が出て来ている。

 道長は一条天皇に入内した娘の彰子の懐妊を祈願し、金峰山に詣で、経をおさめる。このときの様子が日記によりくわしく述べられる。かいあって、彰子は懐妊し、敦成親王(後の後一条天皇)が誕生した。敦成親王の誕生を記録した日記のなかには仮名で書かれた『紫式部日記』がある。この日記は単なる日記ではなく、道長が書かせた御産日記であると著者は言う。道長は女性の視点と表現で彰子の出産を記録して欲しかったからである。

 藤原伊周は太宰府へ流されたが、1年後には許されて京に戻った。太宰府で死なれると怨霊となってたたることを恐れたためという。寛弘5年(1008年)敦成親王の生後百日の儀が行われる。その際の伊周が問題行動を起こし、結局伊周は失脚する。その経緯が道長や実資の日記を使って詳細に述べられる(p104~)

 藤原行成の残した『権記』の最大特徴は天皇から下級官人までの、多種多様な階層の人たちの様子が描かれていること。道長と違い、官位が低かった行成は下級官人たちとも日常的な付き合いがあったからだ。彼は摂政であった藤原伊尹が早死にし、また父の義孝も早世したために引き立て役がおらず、出世が遅れた。しかし彼自身は優秀で、人柄もよく特に字がうまかった。最後は権大納言にまでなったが、能力からすれば大臣になっていてもおかしくはないという。『権記』とは権大納言にちなむ名前。藤原詮子や、中宮定子、道長にも仕えていて、一時は清少納言とも付き合っていたようだと。家系は結局は没落したが、行成は小野道風、藤原佐理とならぶ「三蹟」の一人として、その家系は書道の名門として世尊寺流を代々継承した。その点同じく没落した藤原実資よりは多少はよかったという。

 人柄から、王権内部の秘事に関わり、天皇、東宮、国母、政権担当者などから秘密を打ち明けられる機会藷多く、行成はそれを書きとどめている。記しておくことが自分の子孫にとってプラスになると考えたからだろうという。行成はまた、14年後に今は亡き妻との結婚記念日を思い出して日記に書いた。おそらく史上最も古い結婚記念日を記録した人物かもしれないという。

『権記』で特にくわしく述べられているのが、一条天皇の後継天皇を誰にするかの問題。一条天皇には三人の親王がいた。定子の生んだ敦康親王、彰子の生んだ敦成親王と敦良親王。天皇は亡き定子の子、敦康を望んだ。しかし、敦康は道長の兄、道隆の娘の子で、道長は外祖父ではない。一方後の二人は道長の娘の産んだ皇子であって、外祖父になれる。行成は敦康親王家別当という立場でありながら、敦成を東宮にしなさいと一条天皇に進言した。結局は彰子の生んだ二人の皇子が天皇を継ぐ。このあたりのやりとりがくわしく述べられる。皇太子になれなかった敦康親王は20歳で亡くなる。その後敦康は怨霊となって道長一族を苦しめる。『小右記』には後一条天皇が病にかかった時、天皇に敦康親王の霊が現れたと記されているという。道長自身の運勢も敦成を即位させて以後衰えてゆく。多くの娘たちに先立たれ、息子の頼通には女子がなかなか生まれず、五男の教通が二人の女子を入内させるが、皇子を生むことなく、摂関政治は終焉を迎えたと。(p155~)

 本章の最後は平安貴族の信仰について述べる。十世紀も終わり頃には浄土信仰は上級貴族にも広がり始め、藤原兼家や道隆達も浄土信仰に熱中する。道長や行成の時代は貴族達の信仰が密教に浄土信仰が加わる端境期である。『権記』には密教から浄土信仰に信仰心がどのように移って行ったかが夢を基軸にくわしく書かれている。(p175~)。

『小右記』を残した藤原実資は円融、花山、一条の三代の天皇のもとで蔵人頭を務めた。名門出で、頭も人柄もよかった。実資は若い頃から「儀式の権威」として地位を確立したが、これはひとえに養父である実頼の日記をすべて受け継いだからだ。儀式の知識を誰にでも教えたのではなく、仲のよい人、教える価値のある人には教えたが、伊周など仲のよくない人や、教える価値のない人には教えなかった。つまり、儀式を通じて一種の権力を手にしたことを意味すると、著者は言う。

『小右記』の自筆本はなく、写本として残っていて、逸散も多いが、少なく見積もっても21歳から84歳の63年間も書き続けていたことになる。実資は最終的には「儀式書」を作りたかったのではないかと著者は言う。朝廷の儀式のすべてを自分が書いた日記どおりに動かしたい、貴族全員、あるいは天皇をも自分の日記通りに動かしたいと言う願望を抱いていたとする。日記のなかには本人は欠席しても、人から聞いたという話が多く出る。例えば兄の懐平、従兄弟の藤原公任、養子の資平などから聞いたという記述が多い。従って『小右記』は実資だけが書いたものではないことになると。

『小右記』のなかに道長が登場するのは天元5年だが、この際「右大臣の子道長」と呼び捨てにしている。当時の実資と道長の地位はその程度の差があった。ところが寛和2年(986年)、一条天皇の時代になると藤原兼家が摂政となり、道長はトントン拍子に出世して実資は一気の抜き去られる。立場の逆転に実資としても思うところがあったはずだ。道長の主催する儀式へもあまり出席しなくなる。だが、実資は道長を嫌っていたわけではないと筆者は言う。自分は道長に仕えているのではなく、天皇、国家に仕えているという確固たる信念があったようだという。

 私は実資という人物は今年のNHK大河ドラマで初めて知った。公卿の会議で、兼家のやり方に正論をぶっつける骨のある人物で、役者も男っぽいいい役者だった。NHK大河ドラマからその人物を知り、その人物に対する見方を決めたことはよくある。典型的には太平記の高師直、佐々木道誉。藤原実資もその一人になるだろう。

『小右記』には道長の「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」の歌が記されていた。道長の四女の威子が後一条天皇の中宮になったことを祝う宴が催された。道長の『御堂関白記』には{歌を詠んだ、皆で朗詠した」としかなく、歌そのものは記されていない。道長は日記には歌はほとんど残しておらず、まして宴会で酔っ払った時の歌など道長は覚えていないだろうという。ところが、この宴会にはたまたま実資も出ていて、しかも二次会まで残っていた。道長が実資を呼んで、「和歌を詠もうと思う、必ず和すように」と言った。道長は「誇っているうたである、ただし準備していたものではない」と言って、上の歌を詠んだ。実資は歌を優美といい、皆で吟詠しましょうといい、皆で数度吟詠した。おごりの歌と評判が悪いこの歌を、著者は宴席での戯れ歌だろうと軽くとっている。

 道長がこの歌を詠んだ2年後、実資は65歳で右大臣に任じられる。その日の記事には「右大臣は僕」と書いた。これから90歳まで右大臣をやり続けるとは実資も思わなかったろうという。

「・・・
彼は本当に立派で素晴らしい人でした。こういう人物は日本の歴史のなかでもなかなかいないと思います。どんなときにも権力に媚びることなく、原則を大事にして自分の信念を貫いています。中略 私は歴史学者なので本来は歴史上の人物の好き嫌いを言ってはならないのですが、尊敬する人物を一人挙げよと言われたら、やはり実資の名前を挙げるでしょう。」と本書を結んでいる。
 
 ドナルドキーンの『百代の過客』には道長の日記は取り上げられてるが、他の二人の日記は取り上げられていなかった。

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書名 敗者達の平安王朝 著者 倉本一宏 No
2024-09
発行所 角川ソフィア文庫 発行年 令和5年11月 読了年月日 2024-03-12読了 記入年月日

 これも前書「平安貴族とは何か」と同じ倉本一宏氏による平安朝もの。サブタイトルは「皇位継承の闇」。

 たまたま、NHK大河ドラマの3月10日放映分では、花山天皇が藤原兼家の策略により強制的に退位、出家させられる場面だった。花山天皇は即位式の時、高御座で女官と性行為におよんだともされ、それを示唆するようなシーンも流され、その後も亡くなった妃への偏執的な愛や奇行が描かれた。

 本書で取り上げれれたのは平城、陽成、冷泉、花山の四天皇で、いずれも「暴虐」や「狂気」の天皇として正史や説話、歴史物語によって伝えられている。

 この四天皇の前に、日本書紀に記された武烈天皇の暴虐行為が列挙される。妊婦の腹を割いてその胎児を見たとか、女と馬を交接させたとか。著者はこの記述の史実性に疑問を呈する。それは武烈を継いだ継体天皇の正当性を主張するために、後代が作り上げたことだろうという。武烈には後継者が生まれず、応神天皇から五代後の継体を越前から連れてきて即位させた。応仁から継体への四人の名前も分かっていない。そんな継体の正当性を主張するために、武烈を暴虐の王として、おとしめたのだという。これは日本では血統による王位継承を採ったからであろうという。

 結論から言えば、上の四天皇が暴虐、狂人とおとしめられたのは、これと同じことであるというのが本書である。

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書名 謎の平安前期 著者 榎村寛之 No
2024-10
発行所 中公新書 発行年 2023年12月 読了年月日 記入年月日

 
サブタイトルは桓武天皇から『源氏物語』誕生までの200年。
 本書の帯:
平安遷都に始まる200年は激変の時代だった。律令国家は大きな政府から小さな政府へと変わったが、国家は豊かになった。その冨はどこへ行ったのか。奈良時代の宮廷を支えた女官たちはどこへ行ったのか。新しく生まれた摂関家とは何か。桓武天皇、在原業平、菅原道真、藤原基経ら個性的メンバー、斎宮女御、中宮定子、紫式部ら綺羅星の如き女性が織り成すドラマとは?「この国のかたち」を決めた平安前期の全てが明かされる。

 新書版にしては270ページもあり、平安前期の通史として読み応えがある。謎の平安時代というタイトルにあるように、私にとっても最もなじみの薄い時代。おそらく多くの人にとっても同じではないか。

 変わっているのは、序章の前に平安前期の天皇の両親、キサキ、子女一覧の表が6ページにわたり掲載されていること。著者の研究分野の一つに斎院制度があり、本書でもかなりくわしく述べられる。その表れであろうか。 
 序章には奈良時代末期から『源氏物語』が成った平安前期の出来事が年表として列記されていて、参考になる。

「はじめに」で、奈良時代と平安時代の対比が述べられる。

 
律令国家とは、未整理の日本の地域社会を、いくつかの「簡単な概念」をもとに切り分けたものだった。だからわかりやすく、支配に有効だったのである。
その例として、国ごとに編纂された「風土記」を挙げる。

 
このように奈良時代の政権は、日本中のデータを集めまくっていた。中略 簡単にいうならば、奈良時代とは、日本史上はじめて訪れたデジタル化社会なのである。中略
これに対して平安時代は、そうした「デジタルデータが全く見えない社会」であるとイメージされてきた。社会は人間関係で動き、政治の動きも不透明で、律令はだんだん機能しなくなり、戸籍も空文化していく。国家全体の収入などだれも気にしなくなる。その意味では平安時代はアナログ=人と社会の連続性・関係性で動いている時代と言える。

中略  
しかしながら、平安前期二〇〇年と後期二〇〇年は、その実態が大きく異なることが近年わかってきた。中略 特に平安前期二〇〇年は巨大な転換期であり、平安時代に連想されがちな、比較的安定した平安後期にバトンを渡すまで、平安の名にそぐわない、面白く変化に富んだ時代が展開されていたのである
 以上「はじめに」のページⅳ~ⅶに述べられている。

 歴史区分の便宜上なのだろうが、前期200年、後期200年と、そんなにスパッと切れるのだろうか。さらに、本書は、8世紀、9世紀、10世紀という切り方を随所でしているのも気になった。そんなに都合よく整理出来るのだろうか。

 宮廷女性の役割:奈良時代の宮廷女官は政治に深く関わっていた。後宮の内侍司を束ねる尚待(しょうじ)の仕事は常奏請し、宣伝に供奉す」と決められていた。天皇のそばにいつもいて、いろいろな申請を挙げて、それについての天皇の言葉を文書起草係に伝え、公卿の論議をへて詔勅となった。

 平安朝になると、女官の役割は次第に、天皇の装飾の一部のようのに形式化していった。

 十世紀後半になると、清少納言を筆頭に女流文学者が輩出し、とても女性の地位が低下しているとは思えないといわれる。しかし筆者は女性の地位は低下したと考える。その理由として著者が挙げるのは、その実名がごく一部を除いて明らかになっていないこと。女性の公的な仕事は著しく制限され、彼女らの才能は、摂関家によって開かれた女御のサロンという職場でしか生かしようがなく、女房文学の多くは、そこに天皇を呼び込むための「壁の花」的な環境下で開花した、という。


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書名 ひとりになったら、ひとりにふさわしく 私の清少納 著者 下重暁子 No
2024-11
発行所 草思社 発行年 2024年2月 読了年月日 2024-04-03 記入年月日

 
冬の間中集中して取り組んだと下重さんは言う。是非皆に読んで欲しいと教室で宣伝した。NHKの今年の大河ドラマにあやかったもの。

 まえがきに、枕草子を読むのは3度目であるが、解釈が難しくて、途中で投げ出したくなったと。私もずっと以前原文に挑戦したが途中で挫折した。「春はあけぼの」とか、「香爐峯の雪」など、高校でも習い、よく知られた段は読みやすいが、そういう段は少なく、宮廷生活の細々としたこと、当時のしきたりなどは理解しがたく、面白くない。それで投げ出してしまった。

 もう20年近く前、東海大学の市民講座で下重さんの「枕草子」の講義があって。私もエッセイ教室の仲間と参加した。講義の最初の日、「清少納言をどう思うか」と皆に聞き、私も指名された。「男性にはあまりもてそうもない感じ」というような答えをした記憶がある。講義の中身は今は何も覚えていない。

 下重さんは紫式部より、清少納言が好きだという。日頃から言っていて、本にもよく書いている「独立した女性」の典型を清少納言に見ているのだ。

 NHK大河ドラマ「光る君へ」の4月7日放映で、清少納言が紫式部に「自分の道を生きる、心のままに生きる」という場面があった。下重さんの日頃言っていることを清少納言がそのまま口にしたのではと思った。ドラマでは清少納言と紫式部が、藤原伊周の屋敷で行われた歌の会に招待されたのだ。歌の会に招かれた貴族の女性を簾の陰から伊周が見て、結婚相手を選ぶというのが目的だった。清少納言は、私たちは利用されただけだと言い捨てる。清少納言役の役者はファーストサマーウイークという初めて見る女優だった。

 清少納言は女房になると宣言し、望み通り定子のそばに使える女房になった。21日の放映では、早速「香爐峯の雪」の場面が放映された。

 枕草子の文体の切れの良さを下重さんは高く評価する。そして式部が短歌的人間なら、清少納言は俳句に向いているという。私も全く同感だ。

 下重さんも自身が俳句的人間だと言い、自分の俳句歴を本書でも披瀝する。その最後にエッセイ教室の受講生中心のネット句会「あかつき句会」のことに触れている。「
エッセイよりもみな俳句がうまくなり、短い言葉や表現の勉強にもなっている」と述べている。

 読みやすい「枕草子」の解説書となっている。


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書名 52ヘルツのクジラたち 著者 町田そのこ No
2024-12
発行所 中公文庫 発行年 2023年 読了年月日 2024-04-06 記入年月日

 
2021年に本屋大賞を受賞したベストセラー。俳句仲間の女性が読むようにと貸してくれた。

 大分県の海沿いにある町にやってきた若い女性と、その町でたまたまであった、母親から虐待を受けていた13歳の少年の物語。幼い頃の母の虐待で、言葉を発することをできなくなり、今も厳しい虐待を受けている、「52」とキナコが名付けた少年のそれぞれの複雑な家族関係が明らかにされる中で物語が展開される。

「52ヘルツのクジラ」とは同じクジラでも仲間には聞こえないような高周波数で歌を歌う世界で1頭しかいないクジラのこと、少年は声が出せず、名前も言えなかったので、キナコが「52」と仮に名前を付けた。キナコもあだ名であり、本名は貴瑚(きこ)。

 キナコの母はキナコを連れて再婚する。キナコには義父にあたるその男は難病のALSになる。高校を卒業したばかりの彼女は、義父の介護を母から命じられる。義父は衰えていく一方で、彼女の1日は介護ですべて費やされる。そんなとき、母は義父が病気になったのはすべてキナコのでいだと言って、彼女を殴る。

 絶望の日日を送っていたキナコはある日高校の同級生の美晴とその職場の同僚のアンさんと会う。アンさんの言葉にキナコは救われる。そして、アンさんのすすめで家を出る。キナコにとってはアンさんとは「魂の番」なのだが、キナコはそれに気づかず、彼を裏切って他の男性の不倫相手になってしまう。そして・・・・。
 キナコが大分の田舎にやってきた背景にはこのような事情があった。

 52にも父親はいない。母親と、その父の家にいる。地元の中学の校長を勤め上げた父親は、娘の52に対する虐待には知らぬ振りをする。キナコは52を自分の家にとどめ、大工の村中やその家族と協力して、52を母親とその父から切り離すことができた。

 物語は52のみならずキナコの再出発の物語として終わる。

 会話を多用し、ほんわかとしたテンポのいい文章で読みやすい。家庭内暴力、トランスジェンダーなど現代的なテーマを取り上げたところも多くの読者を引きつけたのだろう。


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書名 桜の文学史 著者 小川和佑 No
2024-13
発行所 文春新書 発行年 2004年 読了年月日 2024-04-15 記入年月日

 
帯には「日本人は桜の樹の下に何を見出してきたのか?」とある。

 以下本書から:
 
わたしたちのの桜美の発見は五世紀初頭の古墳文化時代の中ごろ、記紀の中で「桜」という文字が使われたことをもって最初としたい。(p16)

 
『万葉集』に歌われた植物の多さから、「八世紀のの私たちは、もう植物を美の対象として鑑賞する感性をそなえていた」(p25)

 聖武天皇のまたの名は豊桜彦と言う。神亀。天平の治世はさくらの名の天皇によって統治される。桜文化がここに名実ともに開幕する。(p28)

 平安びとは散るさくらにいのちのはかなさを見てはいない。落花に無常を見るのは、中世以降のわたしたちの心に影を落とした無常観の結果ではなかろうか。散るさくら、それは次の年のいのちの甦りを告げるめでたき花である。
(p50)

 
さくらのあの匂いはひとを酔わせる。中略 花酔いが源氏に藤壺中宮への思いをつのらせ。見知らぬ美少女にゆきずりの情を感じさせた。そして、彼女もまた花酔いの中でわななきながら源氏の情に溺れ込んでいった。中略 朧月夜のさくら。そのかぐわしい花の香りとゆきずりの恋。こうして、王朝の恋の物語は「花宴」の帖に描きつくされる。(p60)。「花宴」は『源氏物語』の中でも私の最も好きな帖だ。

 
西行の詩的感性によって濾過され浄化されたさくらは観念の花、いわば現実のあらゆる力と抗すべき抽象としての花だった。思想となったはなはもう万葉の桜児伝説の花や、『拾遺和歌集』の中務の花とは遠く離れた花だった。このさくらの唯美者は花を抽象化し、思想化することで桜美の完成者の名を得ている。(p97)

 
あじろ木に 桜こきまぜ 行春(ゆくはる)の いざよふ浪を えやはとどむる

 この他定家の桜の歌5首を示して、それは懐かしい日本の春の、誰しもの胸の裡にある原情景ではないか。西行にあっては、さくらは思想であったが、定家のさくらは日本の桜美そのものなのだ。
(p105)

 
定家はその歴史と伝統に養われて日本の桜美を完成させた。定家以後、彼に迫る桜美の歌い手は現れない。本居宣長など俗中の俗のさくらの歌い手だった。(p107)

 
定家が桜美の完成者とすれば、世阿弥はその定家の桜美をドラマツルギーの中で再構成し、新しいさくらの宇宙を出現させた唯美者だった。(p117)
 花こそドラマの要素だった。それは和歌的世界をドラマという具象で示した。能楽というう芸能は足利氏によって再統一された新興武士団への新しい教養入門、もしくは、古典啓蒙の意味を多分に持っていたといえる。
(p118)
 能に対するこうした見方は初めて知った。

 (前略)
秀吉の桜愛は桜文化を大きく飛躍させたことだけは確かだった。豪奢と俗臭をない混ぜにした彼の桜愛は、世阿弥のさくらとおなじように、次のさくらの時代を開幕させた。――言ってみれば桜文化の大衆化といっていい。秀吉自身はさくらの伝統者たらんとしたが、時代の人びとはさくらをもはや歌書とも歌学とも切り放し、春の酒宴としてのさくらを楽しんだ。さくら観はここで大きな変質を遂げた。(p140)

 
芭蕉の吉野の感動は第一に花の美しさだった。さくらの群落に心を奪われて「無興のことなり」と句作を放棄している。群桜に圧倒されているのだ。(p158)
 続いて桜の句が5句あげられる。
その一句には 
 
さまざまの 事おもひだす 桜かな

が入っている。そして次のように続ける。
 
芭蕉の風流はなによりもここではさくらに対する己の想いを抒情することだった。(中略)芭蕉のさくらはさくらへの語りかけであった。――さくらとの孤独な対話が芭蕉の風流だった。もっとも、それはなにもさくらでなくともよい。それは風であろうと、雲であろうと、この孤独な単独者は己が語りかけるもののすべてを詩にしている。『笈の小文』以外には彼はほとんどさくらの句を詠まない。さくらという生きる命をそのままに見せるこの花は、どうも彼の孤独な対話には不適だった。(p159)

 本居宣長が61歳の時に自画像の賛として入れた

 
敷島の 大和心を 人とはば 朝日に匂ふ 山桜花
に対しては以下のように強烈に批判する。

 
つまり、日本の精神はさくら、それもヤマザクラに具現されるという歌なのだ。虚心に読んでみると「もののあわれ」という新しい批評の視点を提唱した国学者らしくない、イデオロギーの歌である。宣長はさくらを見ていない。観念のさくらをただ歌の形にしてみせた。(p169)

 
彼は自己愛をさくらに託しただけにすぎない。彼の拝外思想には自画像に見られる強烈な自己愛がある。危険なのはこの自己愛なのだ。(p170)
 
宣長は極言すれば国学を振りかざしてすっかり桜観を歪めた元凶であった。(p172)
 本居宣長と国家主義に結びついた桜観への徹底的な批判と排除は本書の大きな特色である。

 
一葉(『闇桜』)、ハーン(『怪談』)には、江戸俳諧になかった新しい散るさくらに絶えてゆく生命を見る――つまり、さくらをいのちの象徴と見る桜観がうかがわれた。現代の読者たちはその桜観を少しも奇異とは見ないだろうが、これは八世紀以来の桜観になかった全く異質な観念である。(p195)

 
近代の桜観は士族主導の軍国の花という俗の俗を、国民意識に滲透させているその一方、はるかに深く歌びとたちによって、孤愁のさくらという近代都市感性が歌われていた。(p215)
 ここにいう歌人とは、北原白秋、窪田空穂、釈迢空である。

《桜の樹の下には屍体が埋まってゐる!》というこの一行が、昭和文学を戦慄させた。(中略)これは朔太郎以後の新しい桜観だったが、この一行はあまりに詩的過ぎたために、以後、多くの誤解をも生んだようだ。(p255)

 
梶井はさくらに死を見たのではない。咲き極まったさくらに生の輝きの極点を見たのだった。自身の日々衰えてゆく生命に対して、生命の輝きを見せる世古峡のさくらに激しい憧れを抱いたからこそ、彼はさくらに死を見たのだ。これは彼の逆説であろう。(p226)

 
昭和文学のさくらはすべてこの梶井の桜観から出発している。大岡昇平の、五味康祐の「現代文学」のさくらも、梶井の桜観に端を発していた。この梶井基次郎のさくらは、はるかに半世紀を経た時間の果てで、宮本輝の「夜桜」、村上春樹の『ノルウェイの森』に受け継がれている。ここでは王朝文化の極点にあったさくらは、エロスと死の臭いに満ちた花となる。梶井は咲き満ちたさくらに生の輝きを見、落花に死からの再生を希求したが、宮本や村上は、梶井のさくらを突き抜け、朔太郎のさくらをその小説に再現させていた。昭和の桜文化は、生活空間からは消滅し、非日常の次元に芸術の中の存在として昇華されていった。(p227)

 
昭和文学のさくらは西行の、定家の――つまり、ヤマザクラや八重ざくらに戻らない。(p244) 
 それらは、花数の多い明治以来のさくらのイメージを作ってきたソメイヨシノの花に触発されたものだからという。著者はソメイヨシノ以後のさくらとそれ以前のさくらとの違いに留意することを、至る所で述べている。

 本書にはたくさんのさくらの名所に触れられていて、行って見たくなる。しかし私に残された時間を考えるとほとんどが敵わぬ夢に終わりそうだ。
 
 文学に現れた桜がどのような種類のものであったかの考察にかなりうるさい。娘が植物学者で桜のことにくわしいとのこと。
 ソメイヨシノに染められた現代人は、明治以前の桜もソメイヨシノと見るがそれはは大きな間違い。

 本書を読んだすぐ後に、桜が一斉に散るのは何故かという疑問に答えるネットの記事があった。現在でさくらと言えばソメイヨシノ。ソメイヨシノは接ぎ木でしか増せないクローンさくらであり、皆同じ遺伝子を持っているから、散るのも同じ時期に散るのだと解説されていた。

 従来の桜は自然交配で突然変異により色々品種に分かれていった。
 古代から中世、近世、近代、現代に至る日本人の桜観を述べている。

 面白く、読み応えのある本。

 本ページをHPにアップしたところ、既に2004年に読んでいたことがわかった。20年も前のことで、すっかり失念していた。読み比べてみると、かなり同じようなことが書いてある。→2004年版の「桜の文学史」

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書名 梁塵秘抄 著者 後白河院、植木朝子編 No
2024-14
発行所 角川ソフィア文庫 発行年 平成21年 読了年月日 2024-04-18 記入年月日

『桜の文学史』を読んでいて、『梁塵秘抄』を読んでみたくなった。

 原文と現代語訳がついていて、読みやすい。原文も歌謡のせいか、『源氏物語』より読みやすい。本書には現存する560余首の中から48首の今様を選んで解説されている。さらに『梁塵秘抄口伝集』にも触れられている。

 わかりやすく、行き届いた解説だ。梁塵秘抄が引用された当時の資料にもよく当たっている。特に『平家物語』にはよく引用されている。

 梁塵秘抄のなかで耳にしたことのあるのは
遊びをせんとや生まれけむ 戯れせんとや生まれけん 遊ぶ子どもの声聞けば わが身さへこそ揺るがるれ」(359)

だけである。NHKの大河ドラマ「平家物語」で後白河院が口にしたのかもしれない。後白河院は、美濃国青墓の傀儡乙前から今様を習った。本書に寄れば70歳過ぎた乙前をよびよせて師としたという。大河ドラマでは乙前を演じたのは松田聖子であった。松田聖子が70歳過ぎの老女を演じたという印象はない。乙前は白河院の愛妾であったから、その当時の乙前がドラマでは出て来たのかもしれない。

 この歌は老年にさしかかった人物が、子どもの遊びに声に引き込まれている様子を生き生きととらえていると、著者は言う。この歌の主体を遊女とする解釈もあるようだが、主体を遊女と限定せずに考えたいという。

『梁塵秘抄』が発見され、刊行された間もない大正初期にはこの今様の影響を受けた短歌が少なからず見出されるという。
 
うつつなるわらべ専念あそぶこゑ巌の陰よりのびあがり見つ  斎藤茂吉

 予想していたのと違って、梁塵秘抄には神仏へ捧げる歌が多い。

 
仏は常にいませども 現(うつつ)ならぬぞあはれなる 人の音せぬ暁にほのかに夢に見えたまふ(26) (仏はいつもおいでになるが、はっきりとお姿が見えないことこそ、しみじみ尊く思われる。人の物音のしない暁にはほんのり夢に現れなさる
 この歌も前掲の歌と同様、梁塵秘抄の中でも最も知られた歌だと。菊池寛はこの今様をしばしば色紙に書いたという。

 
美女うち見れば 一本葛にもなりなばやとぞ思ふ 本より末まで縒らればや 切るともきざむとも 離れがたきはわが宿世 (342)(美女を見ると、一本の蔦葛にもなりたいと思うよ。根元から蔓の先まですっかり縒り合わせられたいことだ。たとえこの身が切られても刻まれても、美女から離れがたいのは私の宿命というものよ)。後世能の「定家」では藤原定家の執心が蔓草となって式子内親王の墓に絡みつき、お互い邪淫の妄執に苦しむとされるが、この今様では罪業としてではなく宿命として受け止めむしろ軽妙に歌い上げていると、著者は評する。能に定家と式子内親王の関係が取り上げられているとは、初めて知った。

 後白河院が書いた『梁塵秘抄口伝集』には平家や頼朝を手玉にとり「大天狗」と評された後白河のイメージはどこにもない。10歳から親しんだ今様への傾倒ぶりが赤裸々に吐露されている。母待賢門院が今様好きで、その影響だろうという。待賢門院といえば、西行の叶わぬ恋の相手であり、式子内親王は後白河の皇女である。

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書名 風雅と官能の室町歌謡 著者 植木朝子 No
2024-15
発行所 角川書店 発行年 平成25年 読了年月日 2024-04-25 記入年月日

サブタイトルは「五感で読む閑吟集
 帯には歌人の馬場あき子が次のようにいう:
歌謡の興隆は時代の予感とともにある。『閑吟集』の放恣にして優雅な格調は歌謡史の頂点をなすものだが、本書は中世という空間に開かれた五感の豊かさを分析的、かつ文学的に余すところなく解明して楽しませてくれる。

 『閑吟集』の「優雅な格調」という点を除けば、まさにその通り。私には『閑吟集』に優雅な格調はそれほど感じられなかった。色々な資料にあたった労作であるのは前掲の『梁塵秘抄』以上である。特に目につくのは『源氏物語』への言及が多いこと。『源氏物語』の影響の大きさをあらためてみる思いだ。

 室町時代中期以降、平安時代の催馬楽・今様などの歌謡にかわり、貴族・武士・僧侶・庶民の各階層に広く愛唱された流行歌謡があった。比較的短い詩章を持ち、小歌と呼ばれた。『閑吟集』は永正15年(1518年)に隠者某により集成された小唄集。その後『宗安小歌集』『隆達節歌謡』の小歌集も編纂された。この二つの小歌集からは、本書でも多数引用される。

 「はじめに」で著者は『方丈記』と『閑吟集』を対比させる。本書の出版は東北大震災の2年後の2013年だが、天災と人災を契機に広く読まれた『方丈記』の無常観と『閑吟集』を対比させる。
 
世間(よのなか)は ちろりに過ぐる ちろりちろり 『閑吟集』48
 世間(よのなか)は霰よなう 笹の葉の上の さらさらさつと 降るよなう 231
 このように『閑吟集』もはかない世を歌う。しかし嘆きの中に「ちろりちろり」「さらさらさらつと」擬態語、擬音語を使いほのかなおかしみをたたえていると著者は言う。
そして長命のように孤独に生きるのではなく、積極的に人と関われという。

 
何せうぞ くすんで 一期は夢よ ただ狂へ        55
(何をしようというのさ、真面目くさって。人の一生ははかない夢だよ。ひたすら遊び狂えよ)

 
思へども思はぬふりをしてなう 思ひ痩せに痩せ候       88
(恋しくてたまらないのにそんな素振りもみせないようにしていたら、思い詰めたあまりこんなに痩せてしまったよ)

 この後、サブタイトルにあるように本書は「味わう」「触れる」「嗅ぐ」「聴く」「視る」という大くくりをして解説している。
例えば「味わう」では次の歌が取り上げられる。

 
青梅の折枝 唾が唾が唾が やごりよ 唾が引かかる
(青梅の折枝を見ると、唾が唾が唾が ヤゴリョ、唾が湧いてくるよ)
 
 ここにある青梅の折枝は若い女を暗示するという。青梅を見て唾が湧いてくるとは、若い女に欲望を感じることと重ね合うと。
 著者はこの後に連歌や俳諧、さらに『閑吟集』での青梅の句を幾つも参照して、解説している。著者の博識ぶりが遺憾なく発揮される。


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書名 自伝的記憶の心理学 著者 佐藤浩一他 編著 No
2024-16
発行所 北大路書房 発行年 2008年 読了年月日 2024-05-21 記入年月日

ずっと以前に手にして、読みかけで放置してあったもの。

 帯には「
私のとって記憶とは何か?」とあるのに惹かれた。帯の問いに答えるとすれば「記憶とは私自身のこと」。記憶こそが個人のアイデンティティのよりどころだと思うので、本書を手にした。心理学の専門書と言っていいもので、専門用語が頻出し、章ごとに多数の引用文献がリストされ、そのほとんどが英文である。

 1章から4章までは研究方法。
○ 3~4歳程度の記憶が最も古い記憶。このことは多くの研究でほぼ一致している。(p23)
 私自身としてはそれほど遡れないような気がする。せいぜい5歳までか。
○ 自伝的記憶の中では青年期から成人初期の記憶が相対的に多い、(p24)

 5章から8章は自伝的記憶の理論
自伝的記憶の三つの機能として自己、社会、方向づけを挙げる(p63~)
○ 自己機能として記憶は自己を支えるデータベースである。10~30歳代の出来事が多く想起される現象は、この時期の出来事が自己確立と密接に結びついていることを示唆する。(p64)
○ 自分がどのような人間かという認識は、記憶の内容だけでなく、思い出し方によっても支えられている。例えば成功体験を実際より最近のことと感じ、失敗体験を実際より過去と感じるなら、自己に対する肯定的評価を維持することができる。(p64)

社会的機能
○ 人は毎日1つや2つの自己の過去経験を他者に話している。個人的な経験談は抽象的な情報よりも説得力が強く、聞き手に強い影響を与える。(p66)
○ 相手との楽しい経験を想起することは、二人の関係を強める大切な要素である。(p66)

方向づけ機能
○ 自伝的記憶が様々な判断や行動を方向づけるのに役立つ。(p67)
○ 未来の自己をイメージしてシミュレーションするには、過去の様々な経験から関連する情報を引き出し、構成的に組み合わせることが必要である。(p69)
○ 高齢になると若い時期に比べて、ポジティブな経験を多く想起し、ネガティブな経験をそれほど想起しなくなる。この現象は加齢に伴い、ポジティブな自己概念を招請するように自伝的記憶の機能が変化してゆくからである。(p86)

記憶システムの中の自伝的記憶
○ 自伝的記憶は単なる記憶ではなく、解釈し意味づけられた自己語りとして構成されていると考えられる。物語としての自伝的記憶は、個に閉じておらず、他者への語りを通じて他者からの解釈と評価を受けて、再構成される。(90)

自伝的記憶と時間
○ 自己が時間的に持続する感覚が生まれるまでは自伝的記憶は存在しないという。幼いうちは自己の意識が現在にとどまり、自己の歴史に及ばない。しかし、自己の概念が時間的に広がるにつれて、歴史的自己が知覚されるようになり、出来事の記憶をその中に組み込むことができるようになって行く。その前の段階で特定の出来事の記憶を想起できたとしても、自己の人生に物語として統合されないその記憶は、この時点ではまだ自伝的記憶とは見做されないかもしれない。自己の歴史を意識する段階になって改めてその出来事を想起し、その記憶が自己の歴史に組み込まれた時、初めて記憶は自伝的記憶と見做すことができる。(119)

 12章から15章までは自伝的記憶と語り
 主観的な成長が客観的な成長をもたらす
○ 人は成長の語りをすることによって、その自分で作った成長の語りの筋に従って行動するようになる。人は自分の作る転機の語り・成長の語りに従って自らを成長させて行く。主観的な変化が客観的な変化をもたらすと言える。例としてスポーツ選手のことが挙げられている。(p155)。
○ 人は自己転換の語りによって自分が成長したと思いこむことにより、また、その思い込みに基づいた行動の結果のフィードバックを受けることにより、自分が成長したことを確信し、さらに機会あるごとに自己転換の語りを行うといった循環するプロセスを通して成長する。(p156)。

 高齢者における回想と自伝的記憶
○ 老年期に行われる回想を「過去の未解決な葛藤の解決をうながす自然で普遍的な心的過程」と見なし、この心的過程をライフレビューという。老年期の発達課題である統合を達成するには、これまでの経験を思い出して再検討しようとする意欲が必要である。(p163) 
 私には未解決な葛藤の解決、統合の達成など、意味がよく分からない。
○ 自伝的記憶は個人が人生において経験した出来事の記憶と定義される。一方回想は過去を思い出す行為や過程と定義される。(p164)
○ 意味ある人生として自ら納得するためには、過去から現在に至る諸経験を有意味なライフストーリーへ構築することが求められる。人生の有意味性は物語様の構造を持つライフストーリーの有意味性が担っているとみなされる。(p180)
○ 自伝的記憶について話すことは、感情について話すことである。感情を語ることは自己の形成に関わる中心的な事項であるだろう。(186)

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書名 生命科学 著者 東京大学教養学部理工系編 No
2024-17
発行所 羊土社 発行年 2006年 読了年月日 2024-06-12 記入年月日

 正確には「東京大学教養学部理工系生命科学教科書編集委員会」編集である。

 手にしてから20年近く放置してあったが、昨年のリフォームの際に出て来た。
 伊原康隆さんの「生物進化と遺伝子のなぞ」を読んで、本書も読んでみたくなった。

 期待にたがわず良い本だった。内容が極めて高度で、今の大学前期課程では、こんな生物学を学ぶかと驚いた。しかも、日進月歩の生命科学の分野では、本書が出て20年近く経った今ではもっとくわしく生命現象のことがわかっているのだろう。

 高度な内容だが、B5版ソフトカバーで二色刷の図版がページごとに二つか三つ入っていてわかりやすい。本文も簡潔にして明解である。

 本書の特徴は、生命の基礎として細胞の働きを中心に述べていること。内容は分子生物学と言って良い。あらためて前世紀の後半になされた分子生物学、つまりDNA→RNA→タンパク質という分子生物学のセントラルドグマが、いかに偉大な発見だったかを思い知らされる。DNAの塩基配列からタンパク質の一次構造を決め、さらに3次構造を推定し、タンパク質の働きとして細胞の働きを記述する。

 序説:1章 生物の多様性と一様性
 第Ⅰ部:細胞と遺伝情報の関係
  2章 遺伝情報の複製
  3章 遺伝子の発現
  4章 遺伝子発現の調節
 第Ⅱ部:個々の細胞を機能させる原理
  5章 細胞の構造と細胞内小器官
  6章 細胞骨格
  7章 代謝
  8章 エネルギー
  9章 シグナル伝達と細胞増殖
 第Ⅲ部:細胞集団の組織化
  10章 発生と分化
  11章 細胞間のコミュニケーションと組織構築
  12章 生殖と減数分裂

 第1部は基本的なところは私の今までの知識内であった。しかし第Ⅱ部の5章:細胞の構造と細胞内小器官、6章:細胞骨格、9章:シグナル伝達と細胞増殖、第Ⅲ部の10章 :発生と分化、11章:細胞間のコミュニケーションと組織構築
 はほとんどが私にとっては新しい知見であった。

 本書を読み進めながら不思議な感覚に襲われた。今こうして本書を読んでいる私の中の何十億という細胞でDNAが翻訳されRNAを鋳型にしてタンパク質が作られている。さらにそのタンパク質が働いて糖が分解されエネルギーがATPの形として蓄えられている。その一つ一つの化学反応に関与する分子にはあたかも意志があって反応を起こしている様な気になってくる。あるいは、受精の際に精子はあたかも意志があって卵子に向かい、細胞膜を破り侵入し、相同染色体を形成する。しかし、DNAやタンパク質、糖、あるいは精子にそのような意志があるはずはない。彼らは彼らの置かれた物理的、化学的条件下では、物理、化学の法則に従って、自然と反応を行う。そうした自然に起こる何千という化学反応の結果として、私という生命体が存在し、維持される。なんとも不思議なことだ。

 その不思議感を突き詰めて行くと、生命というのは偶然の積み重ねによって生成し、進化したという思いに至る。ずっと以前に読んだモノーの『偶然と必然』のことを思った。モノーは生命の誕生は偶然の結果であると断言した。               


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書名 有馬朗人全句集 著者 有馬朗人 No
2024-18
発行所 角川書店 発行年 2024年5月28日 読了年月日 記入年月日 2024-06-20

 収載句数5369、ハードカバー565ページのどっしりとした本。
 有馬朗人の既刊10句集とそれ以後の句を全ての網羅し、句集ごとに天為同人による解題がつく。その他、編集委員長を務めた西村我尼吾の朗人論、朗人年譜、さらに巻末には季語別、初句別の索引がある。

 その他栞として、高野ムツオ他俳句関係者の朗人の人柄を偲ぶ一文が小冊子としてがついている。神野紗希も朗人主宰の東大俳句会にいたことを書いていた。

 既刊の句集については、すでに天為の会員たちにより「有馬朗人を読み解く」という小さな本が出ていて、私はそれを通して、朗人の句には目を通してきた。多くの人が言っているように「乾いた抒情」あるいは「知的な抒情」が朗人句の大きな柱だが、俳諧味のある句、身近な小動物を読んだ句などにも光る句がある。

 私が天為に入会したのは12年前であり、特に親しく朗人の指導を受けたのは2018年の秋から2020年の秋までのさねさし句会での2年間である。

 2020年11月の天為東京例会が朗人にとっては最後の東京例会となった。その句会で、私は

  亀は万年鳴かずときめて冬眠す

 という句を採った。私の選句が披講され、この句が読まれた時「朗人」といつものよく通る声で名乗り、さらに「ありがとー」と言った。本書の最後の方にこの句も掲載されている。この他さねさし句会や、一緒に行った吟行の際の句とかを目にする度に、その時の現場が懐かしく思い出される。

 全句網羅のうえ、季語別索引と初句索引がついているので、朗人研究には欠かせない本書だ。ちなみに季語別の句数を多いものから拾ってみた:

季語別句数  雪(53)、短夜(49)、白夜(46)ほとんどが『鵬翼』に掲載、復活祭(40)、祇園祭(35)、秋風(33)、渡り鳥(33)、初日(33)、燕(32)、行く年(30)、 涼し(28)、蝶(27)、月(27)、冬(26)、流星(25)、遅日(24)、年惜しむ(22)『黙示』以後がほとんど。

 驚いたことに白夜が3番目に多い。白夜の句は海外詠をまとめた句集『鵬翼』にほとんど収載されている。朗人の際立った特徴だろう。白夜の他にも復活祭、祇園祭と言った季語が多いのも意外だったが、例えば雪とか月と言う季語は同類の季語がたくさんあるが、白夜、復活祭、祇園祭には代わる季語はないことが、たくさん使われた一因でもあろう。

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書名 枕草子(下) 著者 清少納言:
河添房江、島津知明 訳注
No
2024-19
発行所 角川ソフィア文庫 発行年 令和6年3月25日 読了年月日 2024-07-19 記入年月日

 アマゾンで上下巻を同時に頼んだが、上巻は品切れで購入できなかった。NHK大河ドラマの影響だろう。そういう私もドラマの影響だ。随筆だから下巻から読んでも構わない。

 帯には「
自然、人間、文化 平安人の心を活写する」とある。

 下巻の構成は139段から300段に至り、さらに一本と称する27段、そして跋文が原文で提示される。格段には下段に注釈がつく。ついで格段ごとの補注が一括して示され、次いで現代語訳と格段ごとの評が示される。

 かつて岩波文庫の原文に挑戦して諦めたことがあるので、今回は格段ごとに先ず現代語訳を読み、ついで原文を読んだ。そうすると原文もわかりやすい。『枕草子』の内容は大別して「~は」「~もの」と云った題目を掲げる類聚段、主に自身の体験を記す「日記回想段」、それ以外の「随想段」に大別されるという。類聚段は原文で読むのに問題はないが、他は原文を読み、脚注読み、さらに補注を四でも完全には理解できない。

 現代語訳を読んでいて感じたことは、切れやリズム感が乏しいことだ。特に282段の教科書にも載る「香炉峰の雪」のエピソードを読んでいる時それを感じた。また、例えば『枕草子』でももっともよく知られた段の一つ244段は「
ただ過ぎに過ぐるもの 帆かけたる船 人の齢 はる なつ 秋 冬」が原文であるが、現代語訳は「ただ過ぎに過ぎるもの 帆をかけた舟 人の年齢 春 夏 秋 冬」で、原文の緊張感が薄まる。

 中身は一条帝の中宮定子のサロンでの出来事は大半を占める。読んだ目的はそうした人物のことを知り当時の宮廷内の権力争いの歴史を知るためである。

 巻末の解説がそのための参考になる。

 『枕草子』に収められた出来事は長保2年(1000年5月が最後である。そして、最終的に出来上がったのは寛弘6年(1009年)3月以降とされる。中宮定子は長保2年の12月に皇子を出産した翌日、24歳の生涯を閉じている。清少納言は本書で最終的に目指したものは、「
定子と過ごした宮仕えの日々を、厳選して紙上に再現すること。また、その間の見聞や体験を踏まえて、蓄積された知見や思いの丈をカタログ化して、自分自身の視点から発信すること。亡き主人に捧げたいという思いは保ちつつ、より広範な読者たちを想定することで、気持ちの立て直しや軌道修正がなされたのだろう。」という。類聚段しか知らなかったので驚いた。この目的故に、NHKドラマの理解の助けになる。

 巻末の人物索引を見ると、圧倒的に多いのが定子、ついで一条天皇、次いで道隆、伊周の親子、さらに斉信(ただのぶ)、行成、そして道長。清少納言は教養人としての伊周を絶賛する。一条帝や定子サロンの高い教養は伊周に追うところが多いと解説は言う。斉信はNHKドラマではかなり以前に清少納言の十二単の胸元に手紙を差し込みむシーンが放映された。清少納言は斉信にはもう気がない素振りだった。

 道隆の中関白家の没落のきっかけとなった長徳の変には直接言及はない。ただ定子は敗者側にも不手際や油断があったことに触れていて、もはやわだかまりのなく勝敗を受け入れていることを清少納言は読者に印象づけている。

 NHKドラマでは藤原行成が、道長の命を受けて一条天皇を説得し、道長の娘彰子立后を実現させる。いわば定子や清少納言にとっては許されざる敵だが、『枕草子』には清少納言と行成の親しげな交流が描かれている。行成の日記『権記』によれば、彼こそが彰子立后に至る一条天皇の苦衷を誰よりも知る者だった。「
清少納言はその心中を理解し受け入れる者として、自分をアピールしてやまない。いずれも彼らが『枕草子』を目にすること、あるいはどう描かれているかが伝わることを想定すればこその処置と思われる。必ずや作品の流布にプラスに働こう、現政権の重鎮たる斉信と行成にはそうした役割が期待できるし、数々の逸話を最大限に利用しない手はなかった。」(p465~466)。
 したたかな清少納言だ。

体験の再現にあたり、何よりも優先されるのは臨場感だったと言えようか。執筆時との間に当然ながら存在する時間差を、原則として表現には反映させないのが、『枕草子』の基本姿勢なのである。」(p461)

 『枕草子』には当時の多くの作品と同じように、原本がない。現存するのは書写による伝本である。多種多様の伝本があり、それは読者の介入を積極的にうながしながら、今日まで『枕草子』が命脈を保ってきた証である。本書は藤原定家による書写と推定される三巻本に基づく。活字化された『枕草子』はほとんどがこの三巻本である。ここでもまた、定家の古典文学継承における貢献の大きさに驚く。

 清少納言に夫や子の存在が明らかになったのは明治末から昭和にかけてのことだった。長らく、『枕草子』の作者は生涯独身で淋しい晩年を送ったと考えられて来た。それは主家を襲った悲劇が『枕草子』には書かれていないことで、「あわれ」が清少納言に押しつけられてきたことともいえると本書は云う。夫として橘則光、藤原棟世が確認されている。前者との間に息子、後者との間に娘をもうけている。

 面白い記録を一つ。第207段。見物として、臨時の祭、行幸、賀茂祭の帰さ、御賀茂詣で をあげる。いずれも車中で換物するもの。その賀茂祭の帰さに以下のようなことが述べられる。

 早起きして、鳴き声が待ち遠しいほととぎすが、一羽どころではないだろうと思われる鳴き声を響かせるのは、素晴らしいことだが、うぐいすが年老いた声で、それに似せようと、猛々しく声を添えているのは、気に入らないけれどまたおもしろい。(訳文による)

 私の家でも、数年前から「特許許可局」と聞こえるほととぎすの声を耳にするようになった。うぐいす、時期的には老鶯と云われるうぐいすはそれ以前からよく聞こえた。その老鶯がほととぎすと鳴き交わしているのを耳にしたのは、昨年だった。私にはうぐいすがほととぎすの声を真似ているようには思えなかった。むしろ、ほととぎすがうぐいすの巣に托卵するのではないかと思ったが。いずれにせよ、千年前に記されたことを体験したわけだ。

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書名 枕草子(上) 著者 清少納言:
河添房江、島津知明 訳注
No
2024-20
発行所 角川ソフィア文庫 発行年 和6年3月25日刊 読了年月日 2024-07-29 記入年月日

下巻に遅れること1ヶ月半でやっと上巻が送られてきた。

 帯は「
千年を経て色あせない随筆の最高傑作」。

 今は亡き横綱曙が、かつて春場所で優勝した時のインタビューで、「春は曙っていうでしょう」と答えていた。

 本巻はこのわかりやすい第1段から、関白道隆の死後のいわゆる長徳の変後、定子の前を退いていた清少納言が、再び定子に出仕することを述べた第138段まで。この138段などはわかりにくいものの典型だろう。現代語訳を読んでもなかなか理解できない。原文にある脚注、補注、現代語訳の後にある評を読み返してどうやら理解できる。政変後、同僚との軋轢、左大臣(道長)方ではないかと疑われたことなどで、引きこもっている清少納言のもとへ、定子から直々の手紙が来る。それで出仕する。このあたりのやりとりも歌を介するものだったりして、わかりにくい。最後は宮中におけるなぞなぞ試合で、左方(道長)が右方(中関白家)を出し抜いて勝ったことが述べられる。定子は負けた右方にも油断があったことを認めている。この段は定子によるあの政変の総括が盛り込まれていると解説はいう。

 NHKドラマでは、もうかなり以前に、定子のもとを訪れた一条天皇が、人びとのいる前で定子をともなって寝所に入るシーンが描かれて驚いたが、『枕草子』101巻に基づくものだった。時刻は未の刻、つまり午後2時前後、一条帝は16歳。

 79,80,81段にわたって藤原斉信とのことが書かれる。長徳の変の間隙を縫って書かれたもの。清少納言は斉信と縁を切るが、斉信がこの変を通して道長に追従していったことが影を落としていると解説はいう。また、橘則光との決別も描かれている。則光が「
叙爵して遠江の介と称したので、憎らしくて関係は終わってしまった」(p395)
 下巻の解説によれば、則光は清少納言の夫であり、子ももうけている(p396)

 NHKドラマでは紫式部の夫、藤原宣孝はかなり変わった人物に描かれているが、決して憎めない愉快な人物である。『枕草子』116段には宣孝が派手な服装をして御嶽詣でをして、人びとを驚かせた話が載る。後に紫式部が清少納言のことを悪く書いたのは、この段が影響しているという見方があるとのこと。しかし清少納言の書きぶりには批判や揶揄は感じられず、原因ではないと解説はいう。

 39段は鳥を取り上げる。ここでは207段と同じほととぎすとうぐいすのことも触れられる。賀茂祭の帰りの行列を見物していると「
ほととぎすもがまんがしきれないのであるか、鳴くのに(鶯が)本当にうまくまねして似せて、小高い木々の中で声を合わせて鳴いているのは、さすがにおもしろくおもわれることだ」(現代語訳)(p348)。

にくらしいもの 急ぎの用のある時にやって来て長話をする客。」で始まる26段が面白い。色々挙げてあるが「わけもなく羨み、自分の身の上を嘆き、他人のことを噂し……」「話を聞こうと思うときに泣く赤ん坊。……こっそり忍んで来るひとを見知っていて吠え立てる犬。とても人の隠れらそうもない所に隠しひそませた人が、いびきをかいているの

41段も面白い。わかりやすいので原文を以下に:

虫は すずむし ひぐらし 蝶 松虫 きりぎりす はたおり われから ひをむし 螢。
みの虫、いとあはれなり。鬼の生みたりければ、親に似てこれもおそろしき心あらむとて、親のあやしき衣ひき着せて「いま秋風吹かむをりぞ来むとする。待てよ」と言ひおきて逃げて往にけるも知らず、風の音を聞き知りて、八月ばかりになれば、「父よ父よ」とはかなげになく。いみじうあはれなり。
以下略。

 現代語訳の評に蓑虫の描き方は特筆すべきもので、芭蕉をはじめ後代への影響も認められるとあった。私は虚子の句「蓑虫の父よと鳴きて母もなし」は知ってたが芭蕉の句は知らなかった。角川大歳時記を見たら、例句の最初が「蓑虫の音を聞きに来よ草の庵  芭蕉」であった。驚くことに、例句にはこの他蓑虫の声を詠んだものがかなりあった。季語の解説には『枕草子』のこの段が引かれていた。ただし、第43段となっていて、本書とは伝本の系統が違うのだろう。

下巻にしかなかった系図、人物索引が上巻にも欲しかった。


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書名 和泉式部日記 著者 和泉式部、 野村精一校注 No
2024-21
発行所 新潮古典集成 発行年 昭和56年 読了年月日 2024-08-08 記入年月日

 NHKドラマ「光る君へ」の8月4日に、和泉式部が登場した。

 藤原公任の妻、敏子の主宰でまひろ(紫式部)が先生で女房たちにの和歌を教えている。まひろが古今集の「人はいざ心も知らず」の解釈を漢詩を引用して説明しているところへ和泉式部が登場する。歌はそんなに難しいことを考えなくてもいい、自分は思ったことをそのまま歌にしているだけだ、という。「声聞けばあつさぞまさる蝉の羽の薄き衣はみに着たれども」といって服装も乱れていて、こんな暑い時には皆さんも着ている物を脱いでしまいましょうという。付き合っている親王との後朝を楽しんで遅れてきたかのようだ。親王からもらったと云って「枕草子」を皆に配る。まひろは枕草子はかるみのある文章でよいという。敏子は面白いと言えば先生の「カササギ語り」の方がはるかに面白いという。まひろは「カササギ語り」の一説を読み始める。

 こんなシーンが放映された。和泉式部については何も知らない。一つだけ印象に残っているのは、中山道歩きで美濃の御嵩宿に入るところで、道ばたに小さな祠があり、それが和泉式部の墓とされていたこと。

 私の本棚にいつの間にか『和泉式部日記・和泉式部集』が紛れ込んでいたので、読んでみることにした。

 物語は和泉式部と愛人関係にあった爲尊親王が亡くなり、1年近く経った頃。爲尊親王の弟、敦道親王から文が届く。それをきっかけに展開する恋模様が、二人の間に交わされた多数の歌(147首)を介して述べられて行く。次第に恋ごころを募らせて行く女。そして、ついに敦道親王は女のところを訪れる。恋多き女のもとには他の男も通ってくるのではないかと親王は疑ったりする。しかし、最後は女を自分の所に迎え入れる。皇子と女では身分が違いすぎる。当然周囲に目は厳しい。そして正妻北の方は実家へ帰ってしまうところで終わる。この時代の男女間のやりとりが生々しく描かれている。

 上の段に注釈、原文に添えてわかりにくいところには現代語訳がついているので読みやすい。本書の中心は歌であり、その歌には全て注釈がつく。読んでいて日記という感じはしない。巻末の解説によると「和泉式部物語」として読まれることが多かったという。近代になり日記文学というジャンルが認められ、『和泉式部日記』という題が定着したという。

 敦道親王の上には爲尊親王、その上には居貞親王(後の三条天皇)がいて、3人とも藤原兼家の娘超子の子で、父は冷泉天皇。敦道、居貞両親王とも祖父兼家に寵愛された。敦道親王は藤原道隆の三女と結婚したが、道隆没後離婚した。敦道が居貞のあとを継いで東宮になると見ての政略結婚だったという。寛弘4年(1007年)、敦道親王逝去。

 自宅に戻った和泉式部は、道長に見出され一条帝の妃彰子に出仕する。離婚した夫橘道貞との間の娘小式部内侍も一緒だったかもしれないという。日記を書いたのは道長の下命による可能性があるという。和泉式部は道長の寵臣、藤原の保昌と結婚。娘の小式部内侍には先立たれる。

 和泉式部の生年も没年も不明だという。没年は1034年から1061年までの開きがある。

 本集の後半は和泉式部集で150首の和歌が載る。たまたま見ていたら、27にあったのは、

黒髪のみだれもしらずうちふせばまずかきやりし人ぞこいしき
 かきやりし人は、初恋の人、ないし橘道貞説があるが、本書ではその説はとらないとある。

 定家はこの歌に応じた。
かきやりしその黒髪のすぢごとにうつふすほどは面影ぞたつ

 追記 2024年8月18日放映のNHK大河ドラマ「光る君へ」のシーンに上の歌が出て来た。公任邸での和歌の勉強会に来た和泉式部に『枕草子』の感想を紫式部が聞く。和泉式部は「『枕草子』は気が利いてはいるけれど人肌のぬくもりがないでしょ……だから胸に食い込んでこないのよ。巧みだなと思うだけで」と言って、自分の「黒髪のみだれもしらずうちふせばまずかきやりし人ぞこいしき」とつぶやくのだ。紫式部は和泉式部から『枕草子』を借りる。なお、この回では道長の要望により紫式部がいよいよ物語を書き始める。

 解説の「和泉式部における詩と散文――同時代人の批評から」という章で、紫式部の和泉式部評を中心に論じているところが、興味深い。

 『和泉式部日記』の文体は時間=空間におけることばの非構成性を特質として持つとした上で、「
その文体は明らかに『源氏物語』の、ある意味で計算しつくされた文体・構成とは正に対蹠的である。『源氏物語』を異質のジャンルであるとするならば、『紫式部日記』でもよい。いわゆる論理性の脆弱な大和言葉=かな散文にのせた、ぎりぎり一杯の論理構成がここにある。……『和泉式部日記』とは比較にならぬ論理構成力の確かさがある。『源氏物語』=『紫式部日記』の文体からみれば、『和泉式部日記』のそれは、確実に”非構成的”とせざるをえない。」(p179)

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書名 ヒトラーとナチ・ドイツ 著者 石田勇治 No
2024-22
発行所 講談社現代新書 発行年 2015年刊 読了年月日 2024-08-13 記入年月日

 ネットで本書の一部が紹介されていた。帯には「
なぜ文明国ドイツにヒトラー独裁政権が誕生したのか?

 ナチはワイマール憲法を改正することなく、独裁権力を手にした。かつて自民党の麻生太郎は憲法改正がなかなか進まない現状に「ナチは憲法改正など行わなかった」と述べたことがある。改正しなくても自民党が思う方向へ日本を進めることはできるという趣旨だった。私はそれ以来特にナチが政権を取り独裁政権を築いていった過程はどんな法律的基盤があったのか知りたいと思っていた。本書はまさにそれに答えるものだった。

 1924年、前年のミュンヘン一揆に失敗し、獄中にあったヒトラーは翌年出獄するとナチ党の再建に踏み出した。これまでの非合法的な武闘路線から選挙を通じて政権を目指すというものだ。

 
ナチ党は徹底した抗議政党であり、責任政党でないがゆえに厳しい批判と要求を住民の気持ちに添って政府に突きつけることができた。結果的に、ナチ党はおよそすべての社会階層に支持された。(p102)

 1932年3月のの共和国大統領選挙では、決選投票で53%を得たヒンデンブルクが当選したが、ヒトラーも37%をとって善戦した。そして7月の国会議員選挙でナチ党はついに国会第一党となった。得票率37.3%、総議席数608のうち、230を占めた。(p112)

 翌1933年1月30日、ヒトラーがヒンデンブルクにより首相に任命された。
この内閣はナチ党の単独政権ではなく、ドイツ国家人民党という伝統的な保守政党との連立政権であった。また、国会での基盤も両党合わせても、過半数に遠く及ばなかった。

 ヒンデンブルクはプロイセンの土地貴族の血を引く、公然たる君主主義者。第一次大戦では軍人として戦功を収め国民的人気を博した。彼はどの政党にも属さなかったが、国家人民党がもっとも彼に近い政党であった。ナチ党と国家人民党の連立を選んだのはそのためだ。

 ヒトラーに先立つワイマール(本書ではヴァイマルと表記)共和国の三人の首相も議会に基盤らしい基盤は持たなかった。それにもかかわらず政権運営ができたのは、大統領緊急令に依ったからだ。

 
大統領緊急令とは、ヴァイマル憲法(第四八条)が定める大統領大権のひとつだ。「公共の安寧と秩序」が著しく脅かされるなど国家が危急の事態に陥った場合、大統領はその事態を克服するために「必要な措置を講ずる」ことができたのだ。大統領緊急令は法律に代わるものとみなされたから、首相が大統領を動かして緊急令を発令できれば、首相は国会から独立して国政にあたることができた。しかも非常時に関する明確な規定がなく、大統領はこれを自らの責任でかいしゃくする余地があった。国会には大統領緊急令を廃止する権限があった。だがその権限を行使すれば解散を覚悟しなければならない。(p121)

 ヒトラーは首相に就任するとすぐに国会を解散し、3月に総選挙を行った。彼は就任直後、将官たちへの秘密演説で、あからさまに憲法を否定しヴェルサイユ条約を無視する意図を表明した。ヒトラーはヴァイマル憲法には条文の解釈次第で独裁的権力が生じる可能性があることをよく理解していた。共和国の為政者がそれを都合よく利用した来たこともしっていた。今度は自分が方を利用して、合法的に民主主義を掘り崩し、反対勢力を一掃する。ヒトラーはそう考えた。(p141~)

 例えば、「ドイツ国民を防衛するための大統領緊急令」は2月4日に発令され、集会と言論の自由に制限を加え、政府批判を行う政治組織の集会、デモ、出版活動を禁止した。野党勢力は自由な意見表明ができなくなった。

 2月27日夜、ベルリンの国会議事堂が炎上した。オランダ人共産主義者が逮捕された。ヒトラー政権はこれは共産党による国家転覆の陰謀だと決め付け、翌日大統領を動かし「国民と国家を防衛するための大統領緊急令」=非常事態宣言を出させ、共産党はじめ急進左翼運動の指導者を一網打尽にした。

 この大統領令は共和国の政治と社会のあり方を一変させる法的根拠となった。(p146)この大統領令は当面の間という限定付きであったが、結局1945年まで効力を発揮し、ユダヤ人迫害などの人権侵害に法的根拠を提供した。(p148)

 
ヒンデンブルクがヒトラーを首相に任用したのは、広い大衆的基盤をもつ政権のもとでヴァイマル共和国の渾沌とした議会政治が早急に克服されるだろうと考えたからだ。その期待に応えて邁進するヒトラーの協力要請に、ヒンデンブルクは応じたのだ。そしてヒトラーに請われるままに、大統領緊急令に次次と署名したのだ。 (p150)

 3月5日の選挙でナチ党は43.9%の得票率で、国家人民党とあわせて過半数を獲得した。私が驚いたのは、ナチ党の得票率が過半数を超えていないこと。まだ、野党は健在だったのだ。

 国会開会2日後、授権法が審議にかけられた。ヒトラーがすべてを賭けて手に入れたかったものだと著者は言う。

 
授権法は「全権委任法」とも呼ばれる。それは、この法律によって立法権が政府に託されるからである。首相は国会審議を経ずにすべての法律(予算案を含む)を制定できるようになる。近代国家を特徴づける権力分立の原則が壊され、行政府の長=首相への権力集中がなされる。以下も政府には「憲法に反する」法律を制定する権限までも与えられ、憲法を改正したり、新憲法を制定する必要もなくなるのだ。(p153)

 なぜそんな恐ろしい法律が必要なのだろうか。歴代の少数派内閣を支えてきたのは大統領緊急令だった。その濫用に憲法違反の疑義が発せられるようになった。ヒンデンブルクは表面的であっても合法性にこだわる人物であった。いつまでも大統領緊急令による統治を続けるわけにはいかない。授権法により、国会の立法権を政府に付与し、強い政府を作ればよい、とヒンデンブルクは考えた。国会は有名無実になるが、ヒンデンブルクはかねてより議会政治からの決別を望んでいた。

 授権法の成立には国会議員の3分の2の出席のもと、その3分の2の賛成が必要である。武装した突撃隊員が議場内に入って議員を威圧るる中で、圧倒的多数で可決された。反対94票は社会民主党のものだった。

 
第一条 国の法律は、憲法に定める手続きによるほか、政府によっても制定されうる。 第二条 政府が制定した国の法律は憲法と背反しうる。
 以下略。
この法律は1937年4月1日までの時限立法で、しかも現在の政府が取って代わられた時にも失効するとされたが、1945年9月に連合軍が無効とするまで効力を持っていた。

 以上で、私のもっていた疑問への回答は得られた。読んでいて、ヒンデンブルク大統領の果たした役割が意外に大きいと思う。翌34年8月にヒンデンブルクは死去し、ヒットラーがその地位に就き以後総統として45年まで続く。

 大統領緊急令や授権法により国民の基本的権利が大きく損なわれたのに、国民が抗議の声を上げなかったことが、独裁体制への道を開くことになった。なぜ、人びとは反発しなかったのか。その一つは、ヒトラーの息をのむ政治弾圧に当惑しながらも、「非常時には多少の自由が制限されるのはやむを得ない」とあきらめ、事態を容認するか、それから目をそらしたからであると本書は言う。

 3月総選挙の後、バスに乗り遅れまいとナチ党への入党希望者が急増する。ヒトラー政権が発足した時85万の党員数は、わずか3ヶ月で250万人を突破した。ヒトラーを支持して体制側についた方が楽で安心だと、甘い観測で安易な思い込みがあったと本書は言う、(p168)

 戦後の1951年に西ドイツで行われた住民意識調査によれば、「二〇世紀の中でドイツが最もうまくいったのはいつですか、あなたの気持ちにしたがって答えてください」という問いに、回答者の40%がナチ時代の前半、つまり1933年1月から第2次大戦の開戦日1939年9月1日、を挙げている。これは帝政期の45%に次ぎ、ヴァイマル期7%、ナチ期後半2%、戦後2%を大きく上回る。理由はいくつかあるが、ナチのもと比較的社会が安定していたこと、ベルサイユ条約破棄、国際連盟脱退など、ドイツが再び国際社会での存在感を増したこと、失業率の改善、アウトバーンの建設などが考えられると言う。

 本書の後半は社会のナチ化、第二次世界大戦、ユダヤ人追放と虐殺へと突き進むドイツのよく知られた現代史。ユダヤ人の約559万6000人、そのほか不治の病にかかった人および精神異常者が国内だけで21万6000人が安楽死させられた。いわゆるホロコーストはこの安楽死殺害政策の延長上にあった。

 ヴァイマル憲法はついに改正されることなく、ナチ政権と共存した。

 日本の憲法改正については第9条が焦点とされるが、本書を読むと、緊急事態条項の方がもっと議論されるべきと思われる。

 なお、ヒトラーの思想については  わが闘争(上) わが闘争(下)を参照


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書名 花源 著者 天野小石 No
2024-23
発行所 角川書店 発行年 平成23年 読了年月日 2024-08-28 記入年月日

 7月を以て『天為』編集長を退任した天野小石さんの句集。

 8月31日に小石さんの慰労を兼ねた句会があり、事前に投句された540句の中に「花源」という文字があった。調べてみたら本句集だった。アマゾン経由の古本を手に入れた。

『花源』は「かげん」と読む。あとがきに著者は言う:……
花源とは花の源という意味の漢語で、陶淵明の桃花源記や桃源郷などと共鳴していてます。この一書を以て、私なりの花源郷をを創造し構築できたらという希望を込めて選んだ言葉です。

 ハードカバーに1ページ2句で、294句を載せる。
 表紙は牡丹の前に現れた金色の花喰鳥。画家の兄の手になる素晴らしい表紙だ。

Ⅰ章からⅤ章までに分けられていて、それぞれ、世界地図、夢違、仙女、恋、化石。

冒頭句は
 書院開きて相州の初山河
掉尾は
 黒髪は血潮の果たて雪舞へり

以下、有馬朗人師の序、小石さんの前任者であった対馬康子さんの栞、小石さんのあとがき、および自薦句を読む前に私がピックアップした句:

沈みゆくものの水輪の余寒かな
ももいろに乳張る牛や若葉どき
橋裏を照らして行きし祭船
鳥野辺の古井の啼ける冬の風
一幕はうなさか青き初芝居   
黒髪をゆたかに灯し享保雛
まだ咲かぬ薔薇の名前を読み歩く
一陣の白雨が越ゆる切通し
実朝忌闇にこぼるる実千両
初蝶のやぐらの闇を剥がれ来る
青梅雨の寺に白砂の海しづか
揚羽蝶鶏冠にふれて翻る
新雪を踏む兎啼くやうな音
いつでも手触れあふ距離に磯遊び
鶯と亀相動かざる暮春かな
灯台は永久に純白春の暮
雨粒のひかり始めてゐる花野
聖菓現るドライアイスの雲の中
山の匂ひ水の匂ひの初音かな
行く春の水の根岸の絹豆腐
すし飯の酢を濃く二百二十日かな


 私の選んだ句は日常卑近な句が多い。朗人、康子が取り上げた句とはかなり違う。あとがきに述べられた著者の花源郷を創り構築したいという意向にも添っていない。そして著者自選12句の中に入ったのは2句のみ。小石さんの詩境にはとても届きそうにない。

 読んでいて、語彙の豊富さに感心した。
例えば
南薩の霧の深きに枯山水   南薩
蘭癖の殿あり薩摩天高し   蘭癖
澄む水の麑海魚譜を繙けり  麑海魚譜


 薩摩で読まれた句だ。小石夫妻は30代の頃車で全国を回ったと朗人の序文にあった。


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書名 著者 No
2024-24
発行所 発行年 読了年月日 記入年月日

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書名 著者 No
2024-25
発行所 発行年 読了年月日 記入年月日

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書名 著者 No
2024-26
発行所 発行年 読了年月日 記入年月日

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