読書ノート 1999

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書名 著者
明治百話(上) 篠田鉱造
いま生きている英語 飛田茂雄
The Lost World Michael Crichton
日蝕 平野啓一郎
複雑系としての経済 西山賢一
数の現象学 森毅
ことばの履歴 山田俊雄
第七官界彷徨 尾崎翠
山の文学紀行 福田宏年
脳はどこまでわかったか 三上章允
羽生ー21世紀の将棋 保坂和志
接着とはどういうことか 井本稔、黄慶雲
人生を複雑にしない100の方法 イレイン・セントジェームズ
セックスはなぜ楽しいか ジャレド・ダイアモンド
忠臣蔵ーその成立と展開ー 松島栄一
一月物語 平野啓一郎
現代たばこ戦争 伊佐山芳郎
日本語練習帳 大野晋
言葉の道草 岩波書店辞書編集部編集
自然観察入門 日浦 勇
脳と神経内科 小長谷正明
宇多田ヒカルの作り方 竹村光繁
カエサルを撃て 佐藤賢一
J-POPS進化論 佐藤良明
性フェロモン 桑原保正
少将滋幹の母 谷崎潤一郎
タバコはなぜやめられないか 宮里勝政
記憶 港 千尋
愛すべき名歌たち 阿久 悠


書名 明治百話(上) 著者 篠田鉱造 No
1999-01
発行所 岩波文庫 発行年 1996年7月 読了年月日 99−01−05 記入年月日 99−01−09

 
明治時代の雑話を多方面の人から聞き、それをまとめたもの。明治と言っても20年代頃までの話が多い。幕末からの風俗の変遷を語っていて、資料としては興味がある。編集は昭和6年頃。

 最初の話はいきなり首斬朝右衛門の回想。先代は吉田松陰を斬った代々首斬りを家業とする人の話。高橋お伝の処刑のところは山田風太郎の小説に引用されているし、また罪人の脚の親指を握って引っ張ると首が伸びて斬りやすいと言う話は、綱淵謙錠の小説にそっくりあった。

 179ページからは赤坂溜池あたりの変遷が書かれている。明治の初めは川が流れていて沼地であった。溜池の土地を2000坪100円で買った人の話。その敷地内で徳島の特産、藍の栽培を試みた話が出てくる。昔はあの辺りの町名は赤坂葵町といったのはその名残だろう。
 講談師松山伯円のことを書いた話では、いわゆる「天保六花撰」のオリジナルは伯円にあるという(219ページ)。

 明治の初めの頃には英語の流行に加えて、漢語がはやって書生のみならず、下々も漢語を使って気取ろうとした。稽古とか学問と言っていたものを女までが「勉強」と言ういい方をして、周囲の注目になった話が出ている(251ページ)。
 1859年(安政6年)初来日したある外国人の回想として「
その時代には、御国の人が厚く好みまする愛国心を知れる者は一人もありませんでした」と言っている(64ページ)。愛国心という概念は高々100年余のものなのだ。

 歴史の厳密な資料としては価値が高いものではないのだろうが、明治の人々が体験した大きな変遷を知る意味では面白い。作家を刺激するのだろう。


                           
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書名 いま生きている英語 著者 飛田茂雄 No
1999-02
発行所 中公新書 発行年 1997年6月 読了年月日 99−01−10 記入年月日 99−01−10

 
ニューズウイークの翻訳をやっていて、意味がわからなくてジムさんに聞きに行くような言葉が、由来を含めて解説されている。例えばBeltway(97p), soundbite(165P)と言った言葉。あるいはsix-pack American(6パック入りの缶ビールを買ってきて飲みながらテレビを見てすごすような平均的アメリカ人、98p)。

 なかなかいい本だ。著者は1927年生まれ。相当英語に通じている。言葉の変遷を素直に認める立場をとる。多少文法的にはおかしくても、それが慣用されればそちらに従うべきだという。本書の狙いはそうした英語の流れを示すことにあるのだろう。感心するのは、何万センテンスに1回といようなまれな用法までを、新聞や雑誌で探し出して本書に引用している。

 後半にはアメリカの諸制度、特に裁判制度や健康保険制度の解説とそれに付随する専門的な英語の解説が載っている。一読では頭に入らないが、ニューズウイークの翻訳でいつも頭を悩ませるところで、おおいに参考になる。medicare とmedicaid(198p)、entitlement(197p)。またアメリカの大統領選が火曜日に行われる理由なども書いてある(152p)。


                           
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書名 The Lost World 著者 Michael Crichton No
1999-03
発行所 Ballantine Books, New York 発行年 1996 読了年月日 99−02−11 記入年月日 99−02−12

 
ジュラシックパークの続編。ペーパーバックで400頁を越す大作。映画にもなった。

 ジュラシックパークを作った会社が、実はやはりコスタリカの無人島に恐竜の飼育施設をもっていたのだが、数年前に放棄した。そのことをかぎつけた古生物学者のLevineはその島に乗り込む。しかし恐竜におそわれ、音信不明になる。それを知った友人のエンジニアThorneと数学者で、前編のジュラシックパークにもでてきたMalcolm、アフリカで野生生物の観察の仕事をしているSarahが救援に向かう。Thorneが作った近代的なトレーラーを島に持ち込むのだが、その中に13歳の女の子Kelly、とコンピュータに強い12歳の黒人少年Arbyとが紛れ込んでいた。

 熱帯の火山島であるこの島には、捨てられたラボがあり、ジャングルにはいろいろな種類の恐竜達が闊歩している。ストーリーは一行を次々に襲う恐竜とのスリルに満ちた遭遇の連続。巨大なテラノザウルスに追われたり、凶暴で執拗なRaptorの襲われたり。彼らの後から、恐竜の卵を持ち帰ることを目的として島にやってきた、評判の良くない会社の研究員3人は、それぞれ恐竜に襲われ、悲惨な最期を遂げる。Thorneの仲間でも、彼の助手のEddieはRaptorの犠牲になる。だが、主要人物は結局は間一髪危機を逃れ、無事帰還する。中盤以降はスリルの連続で息が抜けない。その中にあって、もっとも勇敢に、冷静に事態に対処し一行の危機をことごとく救ったのは、女性のSarah Hardingである。彼女の前では他の男性どもは頼りなく、だらしない。彼女のスーパーウーマン的活躍だけが目立つ作品だ。作者が意図的にそうしたのかもしれない。

 この島の施設が放棄された背景にはプリオンの引き起こす病気の蔓延があって、手に負えなくなったという推定だ。そして恐らく恐竜の大量絶滅はプリオンによるものだろうとしている。巨大隕石の衝突のみでは説明つかない事実がたくさんあるという。

 各章の頭にカオス理論について一言ずつ述べられている。全体がMalcolmのカオス理論に貫かれている。恐竜の絶滅は恐竜の行動の中にあると彼は主張する。ちょっとした恐竜の癖が絶滅へつながったのだと彼は主張する。この孤島でのプリオンの蔓延はある恐竜の相手にやたらにかみつく行動から広がったのだと推定する。


                           
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書名 日蝕 著者 平野啓一郎 No
1999-04
発行所 文芸春秋 発行年 1999年3月号 読了年月日 99−02−24 記入年月日 99−02−25

 
今年度の上期の芥川賞受賞作品。小佐さんから文春を借りて読んだ。作者は23才の京大法学部の学生。茶髪、ピアスで受賞の記者会見をしたという。

 作品はそんな著者の風貌とはまったく対極にあるもの。難しい漢字を駆使し、古めかしい凝った文体で綴った、15世紀末のフランスの片田舎を舞台にとった、神学的、哲学的物語。読みやすくはないが、読み出したら引きずり込まれてしまう。この若さでこの文体とこの博学。圧倒される。三島由紀夫の再来などともてはやすべきでないと、選考委員の石原慎太郎は釘をさしているいるが、三島を思わせるところが多々ある。例えば最初の方に出てくる次のような文。主人公が小説の舞台となったリヨン近くの村を訪ね、昼間から葡萄酒に酔いしれているような堕落した司祭を訪ねたときの描写:
 
酒樽の前面には錐孔が穿たれ、木製の嘴管が、乱暴に斜めに埋められている。
 錐孔の下には掌大の沁が見える。積年のくすんだ赤銅色の上に、今し方流れたばかりの葡萄酒が、乾き遣らずに膿血のように残っている。丁度、治癒し敢えずに瘡蓋の剥げた擦傷のようである。

 こうした比喩に三島を思うのだ。

 物語はパリで神学をおえた私が、異教の書である「ヘルメス全集」を求めてリヨンに来るところから始まる。そこで会った司祭はある村の錬金術師を訪ねることを進める。そしてやってきた村で、私はその錬金術師に会う。錬金術師が求めるものは「賢者の石」。それを以てあらゆる金属は一時に黄金へと変わる。そこに私は異教を感じ取るのだが、その錬金術師、ピエェルには何処かひかれるものがあり、訪れては彼の書棚から写本を借りてきては読む。

 ある日、村を囲む深い森に入っていくピエェルの後を追った私は、彼が森の奥の鍾乳洞に入るのを見る。つけてみると、そこには石筍と鍾乳石で出来た両性具有の人の像があたかも生きているかのように立っている。その乳房と男根と陰門に接吻するピエェルの姿を私は見る。この鍾乳洞の記述と、背後の山の所々が白く露出している様を「羊の群」のように見えるという記述に、私は福岡県の平尾台にあるカルスト台地羊群台とその下の鍾乳洞を思った。著者は福岡の東筑高校の出だという。恐らく作者の脳裏にあの平尾台の風景があったのだろう。

 やがて村には疫病が蔓延し、冷害で麦の収穫もがた落ちする。人びとは魔女の仕業だとしピエェルに疑いの目を向ける。そんな中である日牛を殺したとして両性具有者が魔女としてとらえられる。私が洞窟内で見たあの「人」だ。異端裁判の後、その両性具有者は村で焚刑に処せられる。拷問で痛めつけられ立つこともできないその両性具有者の身体からは、馥郁たる香りが発する。火にかけられたその両性具有者は苦悶の表情一つ浮かべない。そして火が回ったとき、太陽は日蝕に隠れ、村人たちが見たという雲まで達する巨人の男女が交合して現れる。両性具有者は陽根を空に向け痙攣させ、スペルマを空に放ち、それはまた同じ人物の陰門にも達する。その時私はその両性具有者と不思議な一体感を感じる。そして炎が全てを覆う。

 火が消えた後、村人の中から火柱の下にたまった灰を拾い出た一人の男がいる。彼は灰の中から金塊をつかみ出す。その瞬間、彼ピエェルもまた魔女として捕まる。
 後年いくつかの著作を表した私はリヨンでピエェルの消息を知る。彼は異端審判の最中に獄死した。私はあの時の両性具有者はキリストの再来ではなかったかと後年思うことがある。

 こうしたハードな中身とこの難解で晦渋な文体とはよくマッチしている。すごい作家だと思う。


                          
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書名 複雑系としての経済 著者 西山賢一 No
1999-05
発行所 NHKブックス 発行年 97年8月 読了年月日 99−02−25 記入年月日 99−02−26 

 
霧が丘の古本屋で見つけて買った。サブタイトルは豊かなモノ離れ社会へである。従来の割り切った経済学に代わるものとして、技術者や消費者の顔の見える経済学を作りたいという願望に立って書かれている。そのためにはまず認知科学の進歩を取り入れた人間観から始める。人の認知過程は決してコンピュータのようなものではなく、外界との関連の中で、外界に大きく依存して行われるという視点に立つ。経済活動も各主体と外界との関連の中で捕らえる必要がある。従来の経済学は人をロボットと同じように扱い、生産と消費、需要と供給などを数式化してきた。経済を動かす主体、技術者や消費者、あるいはアントレプレナはその世界観によって開発のテーマを決めたり、買うものを決めたり、あるいは起こすべき事業を決定する。経済はこうした要素を無視してはとらえられないと言うのだ。例えば環境問題への関心はそうした例の一つで、エネルギー消費を減らし、情報消費へと向かうこれからの経済を方向付けるものだという。

 また、従来の収穫逓減の法則というのは、情報化社会のソフトの生産には当てはまらず、むしろ収穫逓増の法則が当てはまるとする。その例はマイクロソフトとインテルに見られるとする。

 完全な自由市場というものがあり得ないと言うことを主張し、経済学はいろいろな視点から見なければ経済現象を説明出来ないと説く、森島通夫(「思想としての近代経済学」)にも通ずるところがある。著者はこれからの経済で重視されるものとして「美学」と共に「色気」をあげている。人と人とのつながりを通して生成する豊かな人間関係と言った意味だ。共に学ぶ仲間の間に芽生える関係をその代表例としている。エッセイ教室の仲間のことを思った。


                          
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書名 数の現象学 著者 森毅 No
1999-06
発行所 朝日選書 発行年 1989年10月 読了年月日 99−03 記入年月日 99−03

 
数あるいは数学の深層心理といったことを書いてある。文章が独特で、理解しにくい。飛躍と省略が多い。文のたつ数学者として著者の名は有名だが、頭がいいので一般の読者への配慮などしないで文章を書くのかもしれない。それでも中身は興味ある。それは私の心理的な成長過程とに照らして、なるほどと思うことがあるからだ。典型的な例は指数と対数に関する記述。

p36 小数と近代 小数の発見そのものが近代である。
p110 対数と指数 比例と違って指数的関係は人間の心理として理解しにくい。
p156  複素数 22世紀の人は20世紀の人が実数を理解している程度に複素数を数として理解するかもしれない。


                           
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書名 ことばの履歴 著者 山田俊雄 No
1999-07
発行所 岩波新書 発行年 91年9月 読了年月日 99−03−15 記入年月日 99−03−20

 
文字通り日本語のことばの履歴を扱ったもの。著者は博学である。博学故のわかりにくさがあって読みにくい処があるのは、森毅の著作と似ている。読み進めていくに従い面白い本だと思う。

 例えば(p44)漱石の「草枕」の「情に棹させば流される」と言うのを私は誤解していた。これは「情のままに従えば」と言う意味で、決して「情に逆らえば」と言う意味ではないことを著者は指摘する。これが「棹さす」の本来の使い方であって、流れに逆らうと言う意味は後から出てきたものだという。こうした例をいくつも引いて日本語の変遷を追う。その根拠となる江戸やあるいはもっと以前の辞書(「節用集」と言う)、文献を著者は実にこまめに調べている。こうした日本語の意味の変遷を知る上で、例えば桃山時代にポルトガルの宣教師の表した日葡辞典や、明治に入っての外国語による日本語辞典が有力な文献であることがわかる。著者は現代作家の作品もそうした文例収集の観点から読んでいる。もし、デジタル化された情報として収められていれば、こうした作業は極めて容易になるだろう。恐らくそうした努力はもうかなり進んでいるのだろう。

 128pには「の」を省略する言い方にVulgarismを感じるという。例えば「鱶の鰭」を「フカヒレ」と言うような言い方だ。私は省略形を好む。


                           
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書名 第七官界彷徨 著者 尾崎翠 No
1999-08
発行所 ちくま日本文学全集 発行年 99年1月3版 読了年月日 99−03−19 記入年月日 99−03−20

 
何とも不思議な小説。漂うような軽い文体が醸し出す現実離れした世界。

 精神科医の長男と、農学を学ぶ次男、音楽学校を目指す従兄弟の3人の住む都会の家に私、小野町子は飯炊きとしてやってくる。私は「第7官」に訴える様な詩を書きたいと思っている。この家にはいつも強烈な肥やしの臭いが漂っている。次男の二助が部屋で肥やしの研究をしているのだ。床の間の二十日大根や机の上の苔にいろいろ処理した肥やしをかけて成果を見ているのだ。そんな臭いに耐えかねて従兄弟の三五郎は私の部屋によく避難してくる。二人は幼なじみで兄弟みたいな関係だ。二助はついに熱い肥やしをかけて苔を発情させることに成功する。一方兄の一助は入院してきた若い女に恋をするが、そこには同僚の恋敵がいる。三五郎は私の縮れた赤い髪の毛を切ってしまう。そして私に接吻する。三五郎は隣家に越してきた若い女に恋をする。失意の私も一助の恋敵に一目惚れの恋をする。そして隣家の娘もやがて引っ越していく、と言うようなストーリー。全編に流れる危ういエロスとユーモア。日本文学の豊穣を示す作品の一つ。

 私がこの題名と著者を初めて知ったのは「それでも作家になりたい・・・」であったが、その時、これはなにか官僚組織に関する小説で、作者は当然男だと思っていた。
 昨年秋、JTビル2階のアフィニスホールで尾崎翠の作品に関する講演会が開かれたことが、JTの社内報に出ていた。最近この作家の見直しが行われているようだ。
 1931年(昭和6年)作者35歳の時の作品。

「それでも作家になりたい・・・・」評:<オシャレで利口な女>をめざす女学生は必読。


                           
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書名 山の文学紀行 著者 福田宏年 No
1999-09
発行所 沖積舎 発行年 1994年8月 読了年月日 99−04−05 記入年月日 99−04−24

 
文学作品に現れた山を論じたもの。太宰治の「富嶽百景」、志賀直哉の「暗夜行路」の大山、漱石の「二百十日」の阿蘇等、たくさんの作品と山が論じられる。小説の中にこれほどたくさんの山が描かれているとは驚くほどだ。山が主人公の心象として描かれる例もあれば、下界の俗を離れた清浄な心のよりどころとして描かれることもある。太宰や漱石の前記の作品や、梅崎春生の「桜島」など、未読の作品を読んでみたくなった。

 登山を主題とした小説は意外に少ない。井上靖の「氷壁」が有名なくらいだろう。この小説を中心にして後半では山岳文学の可能性が論じられる。

 初出は昭和33年から「山と高原」誌に掲載。昭和35年に単行本として発行されたものの新装版。
       

                     
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書名 脳はどこまでわかったか 著者 三上章允 No
1999-10
発行所 講談社現代新書 発行年 1991年7月 読了年月日 99−04−22 記入年月日 99−04−24

                  
 
脳科学の現状が簡潔に、よくまとめられている。特に視覚系を中心に、一つの知見が得られるまでの実験過程の記述があって、わかりやすい。それに、各章ごとにまとめがあって、これがいい。

p31 シナプス部分における伝達効率の変化が、学習の基本的なメカニズムであると考えられている。
p34 グリア細胞のうち星状細胞が血液からニューロンへの物質の受渡を行っていて、いわゆる脳関門はこの細胞が担っている。
p87 脳の各部位の任務分担と並行処理が視覚の研究を通じて述べられている。
p118 ニューロン活動の時間的、空間的パターンには、落ち着きやすいパターンが多数存在する。それが記憶であり、記憶パターンへの落ち込み課程、およびその結果が認知である。
p146 学習によりシナプスの側枝発芽が起こる。

 後半では脳の階層性が強調される。これはミンスキーのエージェントセオリーだ。視覚系においては情報は単純なものから段々と複雑なものへと統合され、これに反して、運動系では、複雑な情報が段々と単純なものへと分解され、最後は特定の筋肉への刺激へと還元される。


                           
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書名 羽生ー21世紀の将棋 著者 保坂和志 No
1999-11
発行所 朝日出版 発行年 1997年5月 読了年月日 99−05−04 記入年月日 99−05−05

 
そのものズバリ、保坂による羽生将棋の解説、評論。ユニークである。それは羽生のユニークさのせいでもあるが、それを的確に捉えられるのは著者ならではと思う。従来の将棋の評論とは一線を画す。棋士の人間くささとはまったく無縁に、将棋を一つの学問、と言って大げさならば、純粋な知的遊戯と捕らえ、評論している。この捉え方はいかにもこの作家らしい。しかし、将棋にこれほど関心を持っていたとは驚いた。山口瞳の将棋ものとは全く違う。

 
人は将棋を指しているのではなくて将棋に指されている。一局の将棋とは、その将棋がある時点から固有に持った運動や法則の実現として存在するものであって、棋士の工夫とはそういった運動や法則を素直に実現させるものでなければならないし、そのような差し方に近い差し方のできたものが勝つはずだ(中略)
 将棋とは個人の欲望や執念の産物でもなければ、個人の人生の比喩でもない。将棋というゲームの奥行き、広がりは、個人の人生よりもはるかに大きい。もし将棋が個人の欲望や人生の比喩程度のものであったら、とっくに必勝法が作られていただろう。
 したがって、棋士は棋風という個人のスタイルを持つのではなく、スタイルを乗り越えて、もてるものすべてを投入して、将棋の法則を見つけだそうとする必要がある。
 そのとき、これまで常識とされてきたすべてのことが再検討の対象となる。
 たとえばそれは、”大局観””筋”・・・といった概念=将棋言語を、コンピュータに入力するために、将棋の言語を一般的な言語に置き換えていく作業とも似ている。(中略)
 将棋を徹底的に奥行きと広がりのあるものと考え、それに近づくように指すことが将棋を豊かにする差し方で、それをつづけてはじめて将棋というゲームの持つ法則が、人間に見えてくる。

 というのが羽生の将棋観だと著者は言う。(p13−15)

 保坂は棋風と言うものに否定的だが、谷川の光速流を棋風を持った最後の棋士として、高く評価しもっと重視する必要があると説く。また、島朗の研究会も高く評価し、島を羽生を生んだ一人として賞賛する。
 将棋から人間的要素を出来るだけ排除しようとする著者であるから、コンピュータと将棋の関係には当然深い関心がある。網羅的な計算と記憶だけで将棋を指せばやがてコンピュータに人間はかなわなくなる。コンピュータは人間が言語化したものしかプログラムに組み込めないが、それ故、人間が言語化できない分野ではコンピュータは人間にかなわない。将棋の場合、コンピュータより人間が優れ、言語化がまだ進んでいないものとして、大局観、あるいは羽生が言う「形勢判断」と言うものを取り上げる。しかしそうしたものも、あるいは直感、感覚、洞察力といったものまで論理の側にある。したがって言語化を進めていくべきものととらえる。そしてそうした言語化を進めることは論理の領域を広げることであり、今後の棋士が取り組むべき「人間の将棋」であるとする。そしていつか記憶と計算の力業では人間はコンピュータに負ける日が来たとき、将棋は全く変わった側面を見せるだろうと著者は言う。それはとてつもなくエレガントなものになっているか、全く異質のものであろう。

 羽生にとっては勝敗は結果であって、彼が求めるものは「将棋の結論」である。それが羽生が従来の棋士と大きく違うところである。
「将棋の結論」の一例として羽生は「打ち歩詰めの禁手がなければ先手が勝つ」といったことがある。これに対しては佐藤や森下から反論がでている。


                           
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書名 接着とはどういうことか 著者 井本稔、黄慶雲 No
1999-12
発行所 岩波新書 発行年 1980年10月初版 読了年月日 99−05−10 記入年月日 99−05−11

 
原理から応用、あるいは実際の接着剤の特徴に至るまで分かり易くよく書けている。接着という現象は単純に見えて奥が深い、と思わせるのは著者の接着に対する造詣の深さと情熱の深さのせいだろう。接着の基本をファン・デル・バールス力(著者はこう表現する)あるいは水素結合による分子間の引力としている。濡れ現象の説明から始まって表面エネルギーのこと、分子間に働く力のこと、あるいは色々な物質の物性をその分子構造に立ち至って説明し、具体的に接着剤としての特性を述べる。あらゆる高分子は接着剤であるという言い方もなるほどとうなずける。あるいは、接着剤が接着に際して内部に抱えるひずみエネルギーのために、接着力が減少してくるという話なども、なるほどと思う。また、金属が有機系の接着剤で硬くくっつくことが不思議であったが、本書にはその理由が明快に書いてあった。金属の表面は必ず金属酸化物状態になっていて、それに水が配位していてその水の層に接着剤が水素結合で結びつくというのだ。

 たばこフィルター作りにおける最近の最大の課題は糊つけ不良をどうやって減らすかである。この本を読んだからと言ってすぐそれが解決できるわけではないが、もっと早く読んでおけばよかったと思う。あるいは九州フィルターの不織布製造の基本にあるのが合成繊維の熱による接着であり、またエアフィルターの樹脂加工に関しても当てはまることであった。

 ところで著者の一人、通称「イモネン」こと井本稔の死亡記事と弔辞が先月の「化学と工業」の巻頭に出ていた。最後まで接着に関心を示していた事が書かれている。そして最後の机の上には読みかけの「分子細胞生物学」があったという。井本は本書の最後の方に生物の作り出す接着剤としてフジツボの出す接着剤と、蜘蛛の糸をあげて説明している。特に水中であれほど強力な接着性を示すフジツボには驚異の目を向けている。この老大家はなくなる直前まで、フジツボの出す接着剤を何とか人間も作れないかと思っていたのではないかと推測してしまった。

 共立出版のイモネンの褐色のハードな表紙に黄色いカバーが付いていた「有機電子論」は、我々の頃の化学学徒のバイブルの一つだった。日本化学会会長としてアメリカ化学会に招かれたときの訪米記が「化学と工業」に載ったのを読んだことがある。井本は当時関西で一派をなしていた理系の進歩的文化人の有力な一人であって、その訪米記事は、意図的にアメリカに素っ気なく、事実を経時的に、皮肉に述べたもので、彼の反米的心情が行間から滲み出ていたものだった。
 ご冥福を祈る。

 井本稔、元日本化学界会長、99年1月死去、享年90才。「有機電子論I、II」共立出版53ー54年、88才で「接着」と言う月刊誌への連載を416回で打ち切るまで、65年間に渡り研究、教育、執筆活動を続けた。亡くなった後、書斎の机の上に赤鉛筆で克明になぞられた「分子細胞生物学」(東京化学同人)の本が置かれていた。以上は「化学と工業」4月号の記事。


                           
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書名 人生を複雑にしない100の方法 著者 イレイン・セントジェームズ、田辺希久子訳 No
1999-13
発行所 ジャパンタイムズ 発行年 1998年6月 読了年月日 99−05−17 記入年月日 99−06−12

 
ニューズウイークの翻訳で私の真ん前に座っている田辺さんの訳した本。新聞広告で見て題名と翻訳者に興味を覚えて、手に入れた。本屋にはなかったので田辺さんから入手した。その後、放っておいて、やっと読んだ。

 著者はアメリカのキャリアウーマン。100箇条に渡って細かいことが具体的に書いてある。例えば、がらくたの片づけ方から始まり、小さな家に引っ越す、借金をなくす、システム手帳の奴隷になるのをやめる、手の掛かる芝生をやめる、テレビを見ない、アスピリン以外の薬は捨てる、週に1回は9時前に寝る・・・と多方面に渡る。元々私は人生をシンプルにと心がけているので、その思想には共感するところが多い。システム手帳などまったく無縁だし、テレビもまず見ないし、9時前には寝たいと常々思っている。ただし、そこまでやらなくても思うことも多い。

 人生を複雑にしない一番のポイントは人間関係に深入りしないことだと思う。情に流されないこと。友人、親戚、同僚。君子の交わりは淡いというのは確か論語か何かにあったと思うが、名言だと思う。私の人生を振り返るとそうした生き方をしてきたと思う。それはしばしば冷たいと思われたし今でも思われているだろう。
 こういうハウツーものを読むのは私としては珍しいことだが、すらりと読めて後になにも残らない


                           
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書名 セックスはなぜ楽しいか 著者 ジャレド・ダイアモンド、長谷川寿一訳 No
1999-14
発行所 草思社 発行年 99年4月発行 読了年月日 99−06−15 記入年月日 99−06−16

 
サイエンスマスターシリーズ12

 人間のセクシャリティの特異性を、進化論的に論じたもの。題名から想像するようなセックスのもたらす生理的な快感の理由、性欲の生理・心理学といったものはまったくでてこない。したがって羊頭狗肉の感は免れない。とはいえ内容は面白い。生命を遺伝子が自己増殖するための乗り物と見なすドーキンス流の思想が基本に流れている。そうした観点から、他の動物とは大きく異なるヒトの性生活とその進化を論じている。ヒトの雌が排卵を隠蔽したために、ヒトはのべつまくなしにセックスするという特徴を持つに至る。そのことが遺伝子の自己増殖にどのような意味を持つかを論じる。関連して一夫一妻制と一夫多妻制、乱婚システムの発展の仕方を霊長類に関して進化論的に論じている。ヒトを一応一夫一妻と見て、特定の相手との長期的性関係を維持することで、排卵期を顕示しない配偶者であっても、雄は子供が自分の子であるという確信が得られる。そしてその子のために食料を運び、養育することは自分の遺伝子を多く残せる可能性が多いというのだ。著者は人間がのべつまくなしにセックスをすることをもって表題の問いに対する答えとしているようだが、私にはいつもセックスするのは、セックスが楽しいということの結果だと思うが。

 また閉経という現象も人間に特徴的なものである。そうした特徴がいかに進化し、それがどのような意味を持つかを、遺伝子の自己増殖という観点から論じる。女性はある時点から子供を産む能力を失う方が、妊娠出産に伴う危険を冒すより、例えば孫の世話等を通して、かえって自己の遺伝子を残すためには効率がいいからそうなったのだという。

 著者は人間も動物であるという観点から論議を進める。例えば、コクホウジャクの長い尾のように人間にもセックスアピールはあるとする。そして男性の場合他の霊長類の4倍もあるというペニスはそうしたセックスアピールの意味を持っているのではないかという。しかし、なぜこのような長いペニスがヒトに進化してきたかは今後研究されるべき課題であるとして本書を終わっている。


                           
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書名 忠臣蔵ーその成立と展開ー 著者 松島栄一 No
1999-15
発行所 岩波新書 発行年 1964年初版、99年1月14刷 読了年月日 99−06−18 記入年月日 99−06−18

 
歴史学者の見た忠臣蔵を平易にまとめたもの。事件そのものと、それが後世どのように人びとに受け入れられて行ったかを、資料に基づき学問的に考察。今時の岩波新書にくらべて活字がぎっしりと詰まっていて、読み応えがある。

 知っているようで知らない忠臣蔵。事件を歴史的に見るのは私にとっては初めて。いまNHKで「元禄繚乱」として放映中で、私も毎週見る。先週は大石が城を明け渡したところまで。船橋聖一原作のこのドラマは、本書に述べる歴史的事実にかなり忠実である。本書では浅野匠守の刃傷の本当の原因は色々あっても全て推察であり、わからないとしている。ただ、吉良が京都から帰還したばかりであり、また浅野も極度の緊張状態にあったということを、原因として古来の説につけ加えてもいいではないかと書いている。

 大石は表面的には最後まで浅野家再興のための働きかけを試みる。それがかなわぬとなったとき討ち入りを覚悟する。その間に神文血判をかわした藩士たちの中にも脱落者が出る。江戸の急進派の一人、高田郡兵衛もその一人。そうしたエピソードを記述しながら、討ち入りへと至る。巻末に四十七士の氏名と禄高、享年、子供、戒名、変名が一覧してある。本書にも述べているように微禄の下級武士もたくさん参加している。大石はじめ彼ら家臣団と浅野匠守との間にどのような個人的つながりがあったのだろう。テレビのドラマでは大石と浅野の間には主従を越えた心のつながりがあったように描かれている。個人的なそうした感情なしに、単に主君に忠義という封建道徳だけで、法に背き、一命を投げ出して体制に抗議するあの行為が出来たであろうか。

 私にとってまったく初めてであったのは後半の「仮名手本忠臣蔵」関係の事実。忠臣蔵関係の浄瑠璃や歌舞伎の記述は、江戸時代の演劇史の側面を持つ。もっとも興味深かったのは「仮名手本忠臣蔵」(討ち入りから47年目の1748年、寛延元年に初演)が、太平記に事寄せて、塩谷判官を浅野匠守に見立て、その妻に横恋慕する悪役、高師直を吉良に見立てていることだった。そして塩谷判官の敵を討つのが大星由良之助である。仮名手本というのは四十七士と言うところから「いろは」に結びついているのだろうと言う。高師直に関心を持ったのは割合最近のこと。やはりNHKドラマでやっていた「太平記」を見ていた頃だ。私の印象では豪快で、進取の気性に富んだ、極めて魅力的な人物に見える。太平記の中で足利方の悪役に仕立てられていて、そのイメージが江戸時代にも定着していたのだろう。

「仮名手本忠臣蔵」を中心に、それ以後多くの忠臣蔵ものが出て、それは忠義と言った武士道礼賛として世の中に定着していく。明治になってはそれは国家への忠誠という意味をも込められ(211p:明治天皇は明治元年泉岳寺に勅使を出し、大石らを讃える)、大正・昭和そして平成の現在まで、忠臣蔵は受け継がれている。

 一つ興味深かったのは事件後10年という早い時期に出た浮世草子では、事件の原因を男色としていること(204p)。エッセイ教室の葉山さんは今度のNHKドラマでも吉良と浅野の男色関係を想定していて、私とかけになったのだが、彼は早くからそうした説があったことを知っていたのだろうか。だとすれば相当の物知り、勉強家だ。

 本書の初版は1969年、ちょうど初回の忠臣蔵がNHK大河ドラマで演じられていた。そして、同時にその年には、船橋聖一の「新忠臣蔵」が新聞に連載中であった。本書ではその両方にも簡単に触れられている。


                           
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書名 一月物語 著者 平野啓一郎 No
1999-16
発行所 新潮社 発行年 99年4月15日 読了年月日 99−07−10 記入年月日 99−07−20

 
芥川賞作家の受賞第一作。明治の末の紀伊の山の中が舞台。神経衰弱気味の若者、真拆(まさき)は熊野を目指す途中で不思議な老人に導かれるようにして山中に彷徨い込み、毒蛇にかまれる。それを救ったのは山中にひっそりと住む老僧。だがその老僧のもとには一人の女がかくまわれていた。

泉鏡花の世界を思わせる。夢と現実の境目がどこにあるのかわからない夢幻の世界。
 

                            
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書名 現代たばこ戦争 著者 伊佐山芳郎 No
1999-17
発行所 岩波新書 発行年 99年5月20日 読了年月日 99−07−16 記入年月日 99−07−20

 
題を見たとき、世界のたばこ市場をめぐるPM、JT、BATの熾烈な競争を扱ったものかと思って購入した。中身はまったく予想はずれで、反喫煙の立場に立ったたばこ告発の書であった。徹底してたばこを悪者扱いしている。ここまで書かれると反感を持つ。かなり一方的な書き方だと思った。それはマラウイの例をあげ、森林の10%以上がたばこの乾燥用燃料のために破壊されているという記述に出会ったときだ。たばこが健康のみならず環境破壊にも大きく関わっているというのだ。森林破壊のこの数値が真実だとしても、それによりマラウイの人びとがどれほど生活の糧を得ているかという視点がまったく欠乏している。おそらくたばこはマラウイの主幹産業であり、それなくしては人びとの生活は悲惨この上ない物になるであろう。

 読み始めたのはJTの株主総会のあった日。読み終わったのは喫煙健康財団の研究発表会を聞いた次の日。著者のような立場の人がいる一方で、たばこで飯を食っている人のなんと多いことか。かくいう私もその一人。JTは日本でも折り紙付きの優良企業として1000億円以上の利益を上げ、そして、たばこ産業からの豊富な資金をもらってたばこと健康の関連を研究する多数の学者がいる。嫌煙派とたばこ産業側に立つものとの間には交流など全くない。嫌煙派がJTの株主総会に乗り込んでくることもない。おそらく彼らは喫煙健康財団の研究発表など、ひも付きの研究だとして最初から見ようともしないだろ。

 人間にとってそんなに長生きすることが大切なのかという疑問が浮かぶ。人間何かで死ぬのだ。その一因としてたばこがあったとしてもかまわないではないか、と思う。

 著者は弁護士。法律の専門家らしく、各種データや裁判記録の引用は正確である。たばこ産業側にとってもいろいろと教えられる所はある。特にアメリカの裁判関係についてはわかりやすい。


                           
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書名 日本語練習帳 著者 大野晋 No
1999-18
発行所 岩波新書 発行年 99年1月 読了年月日 99−07−29 記入年月日 99−09−25

 
100万部を越す大ベストセラーになった本。私も買ってきたが、家でも妻と次男がそれぞれに買ったという。国語学の大家が正しい日本語のために練習問題をつけて、解説したもの。書いてあるのは常識的なことであるが、日本語に対する認識、特に文法に対する認識は深まる。

 著者は「・・・のだ」「・・・のである」を、書き手の強い調子、つまり高い姿勢を示すものとして、使わない方がいいといっている。私は、ニューズウイークの翻訳の時に特にこの「・・・のだ」を使う。そうした方が文章の区切りがつき、メリハリがつくと思うからだ。この部分(90p以降)を読んで、毎日曜の翻訳の時、あるいは毎月にエッセイを書くとき、気にするようになった。

 37p:漢字と日本文化の関係。明治以降、欧米文化を取り入れるにあたって、日本は欧米語をそのまま取り入れず、一旦漢字に置き直すという術を心得ていた。これが他のアジア諸国と違って、早く欧米に追いつくことが出来た原因だとしている。

 106−110pには、日本語をフランス語に変えることを提唱した志賀直哉(このこと自体が私には極めて意外だったが)を痛烈に批判している。一国の言葉をスイッチを切り替えるように、フランス語や英語に切り替えられると思っている志賀直哉には、「世界」も「文明」も「社会」もなかったとする。それが「小説の神様」とされたのは、大正から昭和にかけての、日本人の世界把握の浅さである。そして志賀直哉は「写生文の職人」であるとし、明晰な文章が書けることと、何を書き何を扱うかは別物であるとしている。

 坂口安吾の志賀直哉批判も同じ様なものではなかったか。


                           
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書名 言葉の道草 著者 岩波書店辞書編集部編集 No
1999-19
発行所 岩波新書 発行年 99年1月 読了年月日 99−09−25 記入年月日 99−08−25

 
いろいろな単語や熟語の由来を簡単に解説したもの。岩波の本を買うと、栞についていたもの。「餞」というのは、昔旅立つ方向へ馬の鼻を向けたことからきている、といった類の物。

                           
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書名 自然観察入門 著者 日浦 勇 No
1999-20
発行所 中公新書 発行年 75年3月初版、94年8月21版 読了年月日 99−09−12 記入年月日 99−09−15

 
いい本である。机上や通勤の電車で読むより、本書を抱えて、野や川、あるいは道を歩き、目に留まる植物や昆虫をこの本に導かれて観察すればもっとよい。20年以上前の本だが20版を越える版を重ねているのもうなずける。霧が丘の古本屋で見つけた。

 自然観察の基本は種の正確な同定であるという思想に立って、身近な植物や昆虫の分類が細かく図入りで説明される。特に春の野草の分類に力を入れて書いている。そして、生態系と身近な動植物との関係、あるはい身近な動植物がどのように生態系を作っていくかの関係が解説される。生態学入門としても面白い。中でも川の中のミクロな生態系とそこに住む動物の関係を扱った所など、初めて知ることばかりで、興味深かった。

 日本の原始生態系、それは照葉樹林であったとするが、それが人々が住み、稲作がもたらされ、さらには工業化が進むに連れて、どのように変遷してきたかに著者は思いを馳せる。169pあたりには照葉樹林と日本人の精神構造の関連が触れられている。私も七根の海岸縁や、海岸に向かうコジュウサの手前の左側の樹林を思い浮かべながらこの部分を読んだ。著者の言うように、神社の多くは照葉樹林を背景にして建っている(最近訪れたものでは宇佐神宮がそうだった)。そして私たちはそうした照葉樹林の枝を日常の特別な行事によく使う。

 またある一つの種がどのように伝播して行くかと言うところでは、香春岳裏側の大きなミミズや、あるいは鎌倉の瑞泉寺裏山のミミズのことを思った。


                           
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書名 脳と神経内科 著者 小長谷正明 No
1999-21
発行所 岩波新書 発行年 96年11月 読了年月日 99−09−24 記入年月日 99−09−25

 
脳というと、精神活動の中心として考えがちだが、実際は、我々の身体のあらゆる面を調整するセンターなのだ。例えば脳下垂体という小指の先ほどの器官が、ホルモンという情報伝達物質を通して、我々の性的な成長をコントロールしている。あるいは視床下部が自律神経系の中枢として、我々の身体の恒常性維持を司っている。免疫システムは精神的な影響を強く受ける・・・等々。

 著者は臨床医。だから色々な脳の病気を通して、脳の機能を解説する。折しも豊平叔父が髄膜に細菌が入り、緊急入院した。また、高校の同級生が、脳腫瘍でもうどうしようもない状態だという。そんな事情が重なってタイミングのいい読書となった。

 63p:脳が免疫システムを支配している例として、左利きの人はT細胞が少なく、自己免疫疾患に罹りやすいと言っている。私も本質的には左利きだ。そして、母や、豊平叔父の病歴を考えると、私自身も自己免疫疾患に罹りやすいのではないかと思っている。この説には妙に説得力がある。


                           
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書名 宇多田ヒカルの作り方 著者 竹村光繁 No
1999-22
発行所 宝島新書 発行年 99年9月24日 読了年月日 99−10−01 記入年月日 99−10−02

 
800万枚を売ったという宇多田ヒカルの謎を分析したもの。この種の本を読むのは初めてだ。

 著者は宇多田ヒカルのCD「First Love」がこんなに売れたのは、小室系ミュージックや、下手くそなビジュアルロック系に対するアンチテーゼとしてだという。そして、宇多田がこんな記録的ヒットを出したのは、両親が与えた恵まれた音楽環境の中で、彼女がのびのびと音楽を楽しんで育ったからだとする。主張は現在の日本のポップス界への批判から、子供の音楽教育まで及ぶ。書き方は激烈で、下手くそだとかバカ親とか言う言葉が頻出する。彼女の音楽を専門的に分析している。ビート、コードとかその他かなり専門的な用語がたくさん出て、私にはわからない。ただ、彼女の音域はとても広いにもかかわらず、それが低音側に偏っているので、小室系の高音(その例としてグローブのボーカル、ケイコとか、その他のを挙げている)より、聞いていてずっと快いのだというのは私にもわかる。

 確かに小室系の歌を最初に聞いたときは、なんだこれは意味のよくわからない金切り声でどこがいいのかと思った。華原朋美の歌などどこがいいのかと思う。しかし、3年ほど前のビッグヒットだったグローブの「ディパーチャー」という曲はいいと思った。それと、小室とともに日本の音楽界を腐らせてしまったビジュアル系ロックとしてこき下ろされている「Glay」も、私は悪いとは思わない。専門的に見れば下手くそで、歌詞もなってはいないのだろうが、聞いていて快い。

 ところで宇多田のアルバムの中ではやはり「First Love」が一番いい。このフィーリングに私の心はいつも溶ける。

        
                   
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書名 カエサルを撃て 著者 佐藤賢一 No
1999-23
発行所 中央公論 発行年 99年9月7日初版 読了年月日 99−10−08 記入年月日 99−10−09

反「ガリア戦記」。

カエサルのガリア戦記を読んだのはもう10年以上前だ。詳しい内容は覚えていない。印象に残ったのは、ガリアの反乱鎮圧の戦いで、カエサルが兵站をいかに重要視したかと言うことだった。司馬遼太郎の「項羽と劉邦」にも劉邦が食料の調達にいかに気を使い、それが勝因であることを強調していた。司馬遼太郎はその見方をいかにも彼が初めて唱えたような書き方をしていたが、私は何だこれはカエサルが既に2000年前に強調していたことではないかと思ったものだ。

 それはさておき、本書はガリアの王、ウェルキンゲトリクス(本書ではガリア流にヴェルチンジェトリクスと表記されることが多い)側から見た紀元前1世紀のガリア反乱を題材にした小説である。著者は西洋の歴史に題材を取った新進の作家として注目されていると新聞で読んで、本書を買った。
 人を無視した強圧的、野蛮な方法でガリアをまとめ上げ、ローマの支配に反抗して立ち上がったヴェルキンゲトリスク。彼は倒した政敵の娘を広場で、公衆の面前で平気で犯し、捕らえた親ローマ派の連中を大勢、木の枝で作った建物に押し込み、そのまま火あぶりにしたりする。一方カエサルは、薄くなった毛髪をいつも気にする、心優しい、部下や周囲に気を配る中年男として描かれる。ヴェルキンゲトリクスがとった作戦はローマ軍を兵糧責めにする全土の焦土作戦。

 後半のこの二人の英雄の対比と、カエサルがヴェルキンゲトリクスの居城、ケルゴウィアを攻め、手痛い一敗を喫して以後、彼の人生観が変わっていく過程とが特に面白い。ローマへの体面や、部下への体面にこだわって生きてきたカエサルが、今度の敵ヴェルキンゲトリクスとの戦いの中では、そうしたものを捨て、野性むき出しに戦う必要を悟るようになっていく。カエサルは、部下の全員が撤退を主張する中、断固として、アレシアにこもるヴェルキンゲトリクス軍8万の包囲作戦を決める。そしてその周囲に延々と堀をめぐらし、何重にも防御ラインをもうける。ガリア軍はアレシアのヴェルキンゲトリクスの籠城軍の他に、各地の部族を結集した10数万の軍勢がローマ軍の背後から襲う計画を立てる。ローマ軍は当然前方の城市アレシアのみならず、背面にも同じような防衛線を構築しなければならない。アレシアの食料がつきかけたとき、外のガリア連合軍が到着し、前後からローマの陣地に迫る。一旦は窮地に陥ったローマ軍ではあったが、カエサルは緋のマントを翻し、自ら陣頭にたち、ローマ軍を叱咤激励する。このことがあることを予測していたヴェルキンゲトリクスは、弓隊を率いて「カエサルを撃て」と号令する。そして自らが放った矢はカエサルの兜に当たり跳ねていく。やがてローマ軍は外から迫ったガリア軍を殲滅し、これを見たヴェルキンゲトリクスは降伏する。

 それから2年後の冬、ローマの権力争いに自分の地位の危うくなったカエサルは、「賽は投げられた」と語り、ローマの法に背き軍団を率いルビコン河を渡るところで小説は終わる。カエサルをしてルビコン河を渡らせたのは、他でもないガリアの若き英雄ヴェルキンゲトリクスであると著者はいう。従前のカエサルはガリアでヴェルキンゲトリクスに撃たれ、ルビコン河を渡ったカエサルはもう昔のカエサルではなかった。

 読み終わって、「ガリア戦記」と「プルターク英雄伝9」をめくってみた。ローマ軍の包囲陣地の詳細は「ガリア戦記」に記述がある。武具に身を固め、馬に乗り投降の式場にやってきたヴェルキンゲトリクスが、武器を置いて投降した場面は、「英雄伝」に出ている。なお著者は本書を、かつてアレシアと呼ばれたオスワ山頂の城址にナポレオン3世が建てた勇壮な古代ガリア戦士の像に捧げている。「ガリア戦記」のアレシアの注にナポレオン3世によるこの地の考古学的発掘は大成功であって、ローマの防御陣の先のとがった杭を埋めた堀、その他の実体が明らかになったとしている。

 面白い小説だ。映画にしたら面白いだろう。文章は荒削りだが、ヴェルキンゲトリクスとその戦争を記述するのにあっていて、故意にそうした文体をとっているのかもしれない。

 著者は東北大学大学院でフランス史を専攻した。68年生まれ。「王妃の離婚」で今年の直木賞を受賞。

 以上の感想を書き上げてから、本のカバーをとって本棚にしまい込んだ。その際、腰巻きに著者の言葉が書いてあるのが目に付いた。いわく:・・・
この物語は・・・『反ガリア戦記』というべき試みである。視点を逆転させたとき、偉大なるローマ人の真実も、また浮き彫りになるだろう。

 私は著者の意図を正確に読んでいたことになる。


                           
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書名 J-POPS進化論 著者 佐藤良明 No
1999-24
発行所 平凡新書 発行年 99年5月20日 読了年月日 99−10−14 記入年月日 99−10−15

 
J-POPSから日本の近代文化を論じたもの。サブタイトルは:「ヨサホイ節」から「Automatic」へ。

 著者は東大教授。ユニークであるが、音楽の専門知識と、その曲を聴いたことがないと理解できない。サブタイトルにあるようにあらゆる歌が取り上げられている。その範囲の広さには驚く。明治から現代に至る代表的な歌謡はもちろんだが、都々逸や小唄と現代POPSとの関連を論じ、文部省唱歌から、植木等の「スーダラ節」、ドリフターズの「ズンドコ節」、そしてビートルズを初め海外の音楽と、著者の博学には舌をまく。そして最後に宇多田ヒカルの「Automatic」を日本的心性の歌だとしている。但し、あまりに多くの歌が俎上に乗せられていて、読む方は印象が散漫になる。所々にまとめがあるのが救いとなっている。

本書から:
 明治以降日本の基調音階として支配したのは、ファとシを抜いた「ヨナ抜き」音階。しかし、これは日本土着の音階とは異なる。


                           
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書名 性フェロモン 著者 桑原保正 No
1999-25
発行所 講談社選書メチエ 発行年 1996年11月 読了年月日 99−10−24 記入年月日 9−10−24

 
10月のエッセイが「虫」という題だった。書いたのは結局石井のことだったが、フェロモンの話も書いてみようかと思って、日比谷図書館で借りてきた。筆者の名前は私も中馬君ありからよく耳にした。昆虫フェロモンの第一線の研究者だ。

 溶剤抽出、フラクショネーション、クロマトグラフ、ガスクロマト分析、IR,NMR,UV分析、オゾン分解、そして合成と、私の人生の最大の仕事である天然物有機化学の手法が随所に丁寧に説明してあって、懐かしい本だ。よく書けている。性フェロモンのわかっている昆虫は512種に及ぶという。その中にはJTでやったたばこビートルのフェロモンのこともちゃんと紹介されてる。筆者の研究を中心に具体的に記述してあるのがいい。もっとも一般の読者では退屈かもしれない。

 面白かったのは、アメリカ農務省グループの初期のフェロモン同定における一つにとどまらない誤り。発表された論文からその原因を詳しく推定している。著者は先入観、データ解析の甘さ、そして生物試験の不備などを、誤った構造に導かれた原因としている。そうした間違いが再三に渡っていることに、私は農務省研究グループの中心にあったジャコブソンの人間性の内に何か別の原因があるのではないかと思う。小説の題材になるのではないか。


                           
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書名 少将滋幹の母 著者 谷崎潤一郎 No
1999-26
発行所 新潮文庫 発行年 読了年月日 99−11−24 記入年月日 99−11−25

 
少し前に河野多恵子の「谷崎文学の勁さ」という講演を聴いて読んでみたくなった。先週の土曜日に霧が丘の古本屋に寄ったらこの本があったので買った。

 谷崎特有の息の長い文章が少しも苦にならないどころか、かえって心地よい。明快で、少しも凝ったところがない、むしろ平易な文章でいて名文だと思う。

 物語は今昔物語からとったもの。菅原道真を失脚させた時の左大臣、藤原時平が伯父の大納言国経から、美人の妻を奪う。70才過ぎていた国経にとって、20才を過ぎたばかりのこの若い妻は彼の人生を支えるものだった。妻を奪われた彼は失意の内にやがてなくなる。国経と妻の間には一人男の子があった。幼少の頃時平の屋敷に母を訪ねた事はあっても、成人してからはずっと会っていない。だが心の中では母への思慕は募るばかりであった。そんな彼が60歳を過ぎて比叡山のふもとにひっそりと庵を結ぶ尼僧姿の母に会うところで小説は終わる。この他に中平という色好みの貴族が狂言回し役として出てくる。思いを寄せる女の排泄物を持って来るという、彼にまつわるエピソードのいくつかも今昔物語からとり、作品に色を添えている。滋幹は子供の頃、時平の屋敷にいる母と中平との間の取り持ち役をやったことがある。中平が滋幹の腕に歌を書きそれを母のところに行って見せ、母は同じく滋幹の腕に返歌を書くのだ。この思い出は滋幹の中に強烈に長く残る。

 最後の場面は風景描写の素晴らしさと相まって感動的だ。山里に1本だけ咲いた桜の木の下。春の朧の月が雲が薄れて辺りが少し明るくなったときそこに佇む人影が、母だと直感しその足下にひざまずく滋幹。春の月と秋の月の対照を述べているが、これは私もかつてエッセイで触れたことがある。

 そして、時平が大納言宅の酒宴で国経を酔わせて妻を強引に奪う場面。生き生きと描かれた素晴らしい筆の使いだ。また、国経が夜な夜な墓場に行き、捨てられた亡骸の腐敗していく様を見、それにより心の煩悩を超越しようとする場面の描写も迫力ある。

 母の部屋や衣にしみ込んだ香の匂いが滋幹に母を偲ばせるいう場面が何カ所か出てくる。最後の場面も滋幹が尼僧を母だと断定するのは、かつてかいだ母の匂いを思い出したからだ。記憶と匂いと言えば「失われた時を求めて」だが、それを意識して書いたのだろうか。そして中平が持ってきた女の排泄物は芳香を放つものだったが、それは丁字を煮出した汁であり、その中に浮かんでいた固形物は、実は沈香であったという下りがある。丁字がすでにこの時代にあったのだ。

 この作品を読んだだけでも、河野多恵子がいうように谷崎は日本文学の主流からはずれた巨峰だというのはうなずける。

 昭和24年毎日新聞連載。これは意外だった。私はてっきり戦前の作品だと思っていた。


                           
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書名 タバコはなぜやめられないか 著者 宮里勝政 No
1999-27
発行所 岩波新書 発行年 93年1月 読了年月日 99−12−09 記入年月日 99−12−11

 
タバコがやめられないのはニコチンに薬物依存性があるからだという論旨。ニコチンの薬物依存性というのは他の麻薬や、あるいはアルコールほど明確でないと思うのだが、著者はきっぱりとニコチンのそうした性質を肯定している。ただその根拠の一つに使っている著者がアメリカ留学中に行った人体実験のデータは、私にはそれほど明確で、有意とは思えないのだが。当然禁煙のための方法にも最後に一章をさいている。しかし著者の立場はいわゆる反喫煙派ではない。昭和58年頃には喫煙健康財団の金で研究を行っていたことが、参考文献でわかる。

 39頁にファガストロームという人の考えた、タバコ依存度判定法が出ている。試しにやってみると私は6点で、かなり高い依存度と判定された。家庭では吸わず、オフィスで1パックを3日ほどで吸う程度の喫煙者であるが、朝の一服がうまい、深く吸う、中タール製品を吸うといったことが高得点になっているのだ。
 霧が丘の古本屋で。


                           
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書名 記憶 著者 港 千尋 No
1999-28
発行所 講談社選書メチエ 発行年 96年12月 読了年月日 99−12−25 記入年月日 2000−01−03

 
面白い本であった。私の今の最大関心事は記憶にある。それは記憶のメカニズムに対する興味のみならず、自分の記憶をたぐりそれを何かに残しておきたいという願望、そしてその過程で感じる記憶するということの神秘さへの憧憬、すなわち人間の脳の神秘さへの畏敬といったものが私の近年の最大の関心事である。そのずばりの「記憶」という題に引かれて買った。

 著者は記憶とは想起であるという立場をとる。それは現在の脳の活動としてダイナミックに生成するもので、決してコンピューターの記憶のように焼き付けられた、不変のものではないとする。従って、記憶は常に変わり、しかもその人の身体的動作や感情に密接に結びついているとする。この説は私もしばしば体験し、実感としてうなずける。著者はその科学的根拠として脳内の神経系が常に淘汰されているというエーデルマンの説によっている。この神経系淘汰説は、あたかも免疫細胞の淘汰と似ているという。つまり外部からの異物の進入に対して、その抗原のみが体内で異常に増えるのと同じように、神経系も常に淘汰が繰り返され記憶が形成されていくのだという。

 著者は写真に対して造詣が深い。大半を写真術とそれにかかわった芸術家の記述に費やし、写真が記憶とのどのようにかかわるかを論じる。私の最近のもう一つの興味は写真である。芸術写真ではなく、自分の足跡を記録し、後の記憶の参考にしようという意図で、今年はたくさんの写真を撮った。映像のもつ記憶の喚起力は圧倒的であることを実感しているから、いつもカメラを持ち歩いているのだ。著者は写真を「自然の鉛筆」だといったタルボットの言葉を引用する。そしてまた写真は不在を写すものと言う逆説をも展開する。

 写真だけでなく、音楽も記憶には深くかかわっていると私は思うのだが、それには本書は触れられていない。誰か書いたら面白いだろう。
 多方面に渡る記述は記憶とはこうした捉え方もあるのだと教えられる。

 サントリー学芸賞受賞。


                           
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書名 愛すべき名歌たち 著者 阿久 悠 No
1999-29
発行所 岩波新書 発行年 99年7月 読了年月日 99−12ー31 記入年月日 2000−01−03

 
著名な作詞家による流行歌とそれにまつわる個人的な思い出。37年生まれだから私と同年代。「湖畔の宿」に始まる幼年時代の回想から始まり、「川の流れのように」まで多数の歌謡曲を取りあげる。歌が人の生活にいかに深くかかわっているかがよく分かる。私とて同じだ。ほとんどの歌に私も私なりの思いがある。音楽にも写真に劣らず思い出の喚起力がある。文章はさすがに作詞家だけあってうまい。

 ちなみに21世紀に残したい20世紀の歌のトップは「川の流れのように」だと、暮れのNHK紅白歌合戦で言っていた。

 あとがきで戦後は「りんごの歌」で始まるという定説は認めながらも、それを取りあげず「妻恋道中」をあげた理由として、この歌の不良っぽさにひかれて子供の頃よく歌ったからだとしている。その他にも同じく戦前の歌である「勘太郎月夜」や「大利根月夜」をよく歌ったという。私にもこれらの歌に対する同じような思いがある。


                           
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