読書ノート 2018

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書名 著者
 修善寺物語  岡本綺堂
 地獄変  芥川龍之介
 芭蕉の風雅  長谷川櫂
 世界神話学入門  後藤 明 
 東海道ひとり気ま々旅  山口 進
 私を離さないで  カズオ・イシグロ
 枯野まで  佐藤小枝
 慈円  多賀宗隼
 生元素とは何か  道端 齊
 平田篤胤  田原嗣郎
 渡辺崋山  佐藤昌介
 国体論  白井 聡
 極上の孤独  下重暁子
   松岡正剛
 芭蕉の方法  宮脇真彦
 芭蕉雑記・西方の人  芥川竜之介
  藤壺   瀬戸内寂聴
  芭蕉の言葉   復本一郎
 俳句の誕生   長谷川櫂
 日本問答   田中優子.・松岡正剛
 井原西鶴   森銑三
 いのちとかたち  山本健吉
分光    津久井紀代
 神のいたづら   津久井紀代
 我が道、我が信条   有馬朗人
 天災から日本史を読み直す  磯田道史
 武士の家計簿  磯田道史
 殿様の通信簿  磯田道史
 私家版日本語文法  井上ひさし
 宇宙はなぜあるのか  P.C.W.デイヴィス



書名 修善寺物語 著者 岡本綺堂 No
2018-01
発行所 青空文庫 発行年 読了年月日 2018-01-02 記入年月日 2018-01-07

 源頼家の最後をあつかった文学作品に『修善寺物語』があることは知っていたが、読んだことがなかった。『北条政子』を読んだついでに読んでみた。出典はネットの青空文庫。 頼家の最後を題材にしたものだが、主人公は面作師夜叉王とその娘のかつら。小説ではなくて戯曲であった。短いながら、頼家最後の一夜が見事に凝縮された作品であった。

 夜叉王は頼家から自身の顔をかたどった面を作るように求められていた。満足するものができないといっては、夜叉王は長いこと申し開きをしてきた。業を煮やしたある日、夜叉王の家に直々に出かける。詰問する頼家に、夜叉王はまだ出来ていないと抗弁する。ところが、面は実は出来ていたと.娘の桂が告げる。そして父の細工場から面を持ち出し、頼家に捧げる。

 頼家はその出来栄えに感心し、面を持ち帰るが、ひと目ぼれした桂をも手元に召したいと言って、連れて館に帰る。

 北条の武者が頼家の館を囲んだのはその夜。頼家は討ち取られ、桂は深手を負ってなんとか夜叉王の家までたどり着く。夜叉王は頼家の面に死相があらわれていて、それは自分の未熟さだと思っていたのだ。頼家の死を聞き、自分の業が神技入ったと言って、快げに笑う。そして、断末魔の桂に夜叉王は「顔をみせい」といい・・・・。

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書名 地獄変 著者 芥川龍之介 No
2018-02
発行所 青空文庫 発行年 読了年月日 2018-01-06 記入年月日 2018-01-07

  岡本綺堂の『修善寺物語』を読んで、高校時代に読んだ芥川龍之介の『地獄変』も似たようなテーマだったことを想い出した。本書も青空文庫。

 こちらは、自分の芸術のために、一人娘を犠牲にしてしまう話。

 絵師良秀は絵筆をとったら右に出るものはないと言われた高名な絵師。良秀は堀川の大殿のお気に入り。堀川の殿はその豪放、大胆な行動で人々を驚かし、洛中洛外で崇められ大殿と呼ばれる。良秀の一人娘は大殿の館に小女房として上がっている、気立ての優しい娘。

 大殿は地獄の様子を書いた屏風を良秀に書くよう求める。地獄でさいなまれる亡者の表情を書くためには、弟子を鎖が肉に食い込むほどがんじがらめに縛って、その苦悶の表情を写し取るといった、残酷を平然とする。良秀は何事も実際に見ないといい絵は描けないという。屏風絵が完成に近づいたが、最後にどうしても書けないないのが、業火にさいなまれる女の姿だと、その姿を目にしたいと大殿に訴える。大殿は良秀の思いもしなかった方法で、良秀の願いを叶える。

 大殿の剛毅さと絵のためにはどんな犠牲もいとわない良秀の頑なな性格がもたらしたむごたらしい悲劇として描かれる。『修善寺物語』と同じような結末。

 大殿の良秀の娘に対する恋心は拒絶される。しかし、その怨みが大殿の非情な行動の原因ではないという。「
大殿様の思召しは、全く車を焼き人を殺してまでも、屏風の画を描かうとする絵師根性の曲(よこしま)なのを懲らす御心算(おつもり)だつたのに相違ございません。」と語り手は言う。良秀は人面獣心のくせ者などと言われたが。完成した絵は「誰でもあの屏風を見るものは、如何に日頃良秀を憎く思つてゐるにせよ、不思議に厳(おごそか)な心もちに打たれて、炎熱地獄の大苦艱(だいくげん)を如実に感じるからでもございませうか。」という。しかし、こうした評判を聞くことなく、良秀は完成した次の夜に首をくくって死んだ。

 何とも凄惨な作品。60年以上前に読んだときは良秀と娘との壮絶な関係のみが強烈でそれのみが記憶に残ったが、今読んでみると、この物語における大殿の存在も極めて大きい。

『修善寺物語』は明治44年初出、『地獄変』は大正4年初出。芥川は当然岡本綺堂の小説を知っていた。『修善寺物語』に想を得て、あるいは刺激されて、芥川はこの小説を書いたのかもしれない。

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書名 芭蕉の風雅 著者 長谷川櫂 No
2018-03
発行所 筑摩書房 発行年 2015年10月 読了年月日 2018-01-17 記入年月日 2018-01-28

 長谷川櫂が捌きをとる連句会に昨秋2回いった。最初は朝日俳壇歌壇の選者8人により播かれた歌仙「戦あるな」で、これは8人がそれぞれ自句の付け心を解説したものだった。これも十分面白かったが、ついで、神奈川近代文学館主催の「かなぶん連句会」に行った。これは参加者がそれぞれ句を出して、皆で巻いて行く半歌仙だった。捌きは長谷川櫂。2回とも人柄の良さがでた長谷川櫂の司会に好感を感じた。

 長谷川櫂の書いたものは今までに3冊読んでいるが、さらに読んでみたいと思って本書を手にした。サブタイトルは「あるいは虚と実について」で、帯には「かるみは、より高みへ」「蕉風開眼から最晩年へ。芭蕉とその一門が繰り広げた歌仙=風雅の世界を訪ねる」であり、本書の内容が簡潔に示される。色々学ぶことの多い本であった。

 芭蕉の本領を誹諧、つまり連句にあるとする。櫂自身が丸谷才一や大岡信が続けていた歌仙を引き継ぎ、毎月1回、詩人の岡野弘彦、評論家の三浦雅士とで歌仙を巻いているという。

 奥の細道立石寺での「閑さや岩にしみ入る蝉の声」は、芭蕉の人生にとって最大の転機であった.忽然と宇宙の閑かさに目覚めた句であり、これを機に、月、太陽、星という壮大な天体の名句が並ぶ。

大空をめぐる天体を仰ぎ、宇宙をたどるかのような第三部の旅をつづけながら、芭蕉はあることに気づいた。月は満ち欠け、太陽や星はめぐるように宇宙はたえず動いているものの、大きな目で眺めれば何ひとつかわることなくしんと静まっているではないか。これが「不易流行」という芭蕉の宇宙観である。中略 宇宙は流行しながらも不易であるという宇宙観である。宇宙は人の小さな目で眺めるなら流行であり、宇宙の大きな目で眺めれた不易なのだ。」(p189)

宇宙という大きな視点から生老病死の苦しみに満ちた人間界を眺める。はかない人の世に対するこの姿勢こそが「かるみ」だった。」(p190)

「不易流行」「かるみ」という芭蕉の風雅を解く二つのキーワードへの分かり易い解説である。

 「
言葉にとって何が重いかといえば、言葉が下敷きにする古典ほど重いものはない。古典を踏まえる言葉は『伊勢物語』や『源氏物語』や和歌の数々を十二単の裾のように引きずることを考えれば、芭蕉が古典から離れようと企てるのは時間の問題だったろう。」と櫂は言う。(p192)
 その結果できたのが歌仙『炭俵』で、これは日頃古典とは縁の薄い野坡ら越後屋の手代を連衆にいての歌仙だった。

しかし、『炭俵』での古典離れの試みは芭蕉にとっての自殺行為であったばかりでなく、言葉自体の自殺であった。というのは古典とは言葉にとって記憶そのものであるからである。中略 ひとつひとつの言葉もまた記憶の集積である。言葉が記憶しているもの、それこそ言葉が使われてきた来歴つまり古典なのである。中略 芭蕉が『炭俵』で試みた古典離れがいかに無謀な挑戦だったか、いかに苦しい戦いであるかを身にしみて知っていたのは芭蕉その人だったはずである。」(p193)と述べた後で、櫂は続ける。

芭蕉が求めるはずだったこの古典との新しい関係が、奇蹟的に最後の旅の間に、それも一六九四年(元禄七)十月十二日の死の直前、病の床の芭蕉に訪れる。枯野を照らす小春日のように。」(p194)

秋深き隣は何をする人ぞ
旅に病で夢は枯野をかけ廻る
 の2句は杜甫の詩を下敷きにしていた。しかし、そのことを意識しなくても、分かるようにこれらの句は作られていると、櫂は言う。(p198)。
帯にある「かるみは、より高みへ」とは、このことだ。

 芭蕉の生きた江戸時代は、失われた古典文化の復興が本格的に始まった時だ。北村季吟という名は斎藤茂吉の『万葉秀歌』の中で、真淵や宣長と並んで「万葉集」注釈者としてよく出てきた名前だ。季吟は『土佐日記抄』『伊勢物語拾穂抄』『源氏物語湖月抄』などの古典文学の詳細かつ膨大な注釈書を著した。若いころの芭蕉は季吟の誹諧の門弟だった。季吟という大古典学者の薫陶を受けた芭蕉は自由自在に古典を使いこなすことが出来た。この古典の素養こそ芭蕉の風雅の土壌だった。(p89)

以下本書から:
猿蓑
 発句も歌仙も冬、夏、秋、春の順に並べてある.和歌の聖典とされてきた『古今和歌集』では春、夏、秋、冬の順に歌が並べてあるが、『猿蓑』のこの配列は『古今集』に対する正面切っての批評であり、古典の俳諧化だった。(p26)

虚と実、風雅
 この世には人間が生きている現実の世界と、それとは別の風雅の世界がある。芭蕉は現実の世界(実、俗)を脱却して風雅の世界(風狂、虚、高悟)を打ち立て、そこから逆に現実の世界を眺めようとした。(p53)

おくのほそ道
『おくのほそ道』はたくみに虚実を織り交ぜて書いた創作、フィクションであると割り切ったほうが、ことの本質が明確になる。中略  芭蕉が文学者であり、『おくのほそ道』が文学作品である以上、それは当然のことだった。芭蕉が『おくのほそ道』を書くという作業は歌仙を巻く、さらには歌仙を捌くという作業に酷似していた。(p72)

江戸時代の思想全体からみれば、国学さらに尊皇攘夷はもっとも右翼的な思想であり、これがもたらした明治維新は右翼革命であったといわなければならない。中略 歴史を振り返ると、このように神国思想は日本が国際的な危機に陥るたびに鎌首をもたげ、日本人の判断を誤らせる。いわは洞窟の竜ならぬ蛇であり、その洞窟をさかのぼると八百年前の二度の元寇にゆきつく。(p87)
 本書の後に読んだ『宇宙神話学入門』でも、戦前の日本が、日本神話を悪用したと指摘してあった。

 
日本では二十一世紀の今でも唐の文化こそが中国文化であると思われているところがあるが、中国の生みだした最高の文化は宋・南宋の文化である。この時代、中国の芸術は洗練を極め、思想は深淵の域に達した.仏教では禅、儒学では朱子学が時代を象徴する思想として広まった。(p109)。この後で南宋の滅亡後、日本が中華文明の本流本家になったという、三浦雅士の説を紹介している。

 
つまり歌仙とは見ようによっては禅問答の連続なのである.禅問答がそうであるように句と句の「間」を読み解いて味わうのが歌仙の真の楽しみということになる。(p132)

 古池や蛙飛こむ水の音
この句は古池に蛙が飛びこんで水の音がしたという意味ではなく、蛙が水に飛びこむ音を聞いて芭蕉の心の中に古池の面影が浮かんだという句だった。それはとりもなおさず、それまで言葉遊び(駄洒落)にすぎなかった俳諧(俳句)に心の世界を打ち開いたということであり、俳諧が古代からの心の文学であった和歌とやっと肩を並べることができたということそ意味していた。(p151)
非情さこそが芭蕉の風雅のもうひとつの顔だった。」と述べ、その実例として『野ざらし紀行』の捨て子を見捨てていく話を記している。このエピソードはひょっとすると虚構だったかもしれない。風雅という非情な立場を鮮明にするために、この場面が必要だったという。(p161~)

鬼のように非情な風雅の精神。虚の立場に立って現実を取捨選択し、虚構を織りこみながら文学作品を仕立ててゆく。これは芭蕉一人にかぎったことではない。古今東西のあらゆる文学に当てはまる。さかのぼれが大伴家持も紀貫之も藤原定家もそのようにして歌を詠み、和歌集の選をした。同じく紫式部もそのようにして『源氏物語』を書いた。ただ文学の歴史のなかで芭蕉がはじめてこのことを意識的に考えた。芭蕉以後もプルーストも谷崎潤一郞もそのようにして小説を書いた。なせならば、それこそが文学だからである。(p163~) 続いて以下のように現代俳句を批判する:

近代に入ると、俳句の世界では正岡子規(一八六七-一九〇二)の俳句革新以来、写実主義(リアリズム)が巾を利かせ、目に見える現実のできごとを言葉でありのままに写しさえすれば俳句になるという誤解された写実主義が堂々とまかり通るようになった。この誤った写実主義はその一方で目に見えないもの、耳に聞こえないものを言葉で描くことを拒絶する。その結果、俳句は誰でも作れるようになり、現実を模写しただけのガラクタ同然の俳句を量産することになった。(p164)。痛烈な批判だ。私も同感である。

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書名 世界神話学入門 著者 後藤 明 No
2018-04
発行所 講談社現代新書 発行年 2017年12月 読了年月日 2018-01-27 記入年月日 2018-01-30

  今年から、『天為』で、ギリシャ神話を題材にして俳句を詠むという企画が始まった。ギリシャ神話の前は文楽、そして歌舞伎の世界を詠む企画だった。この2回の企画には参加できなかったが、今回は思い切って参加した。テキストは『ギリシャ・ローマ神話人物記』という、翻訳物のハードカバーの立派な本。カオスから始まり50人の神々、人物が1頁もしくは2頁に豊富な画像入りで解説されている。

 今の時代から見れば荒唐無稽な話が多い。神話の物語一つ一つにはどんな意味が込められているのか、もう少し深く知りたいと思い、本書を手にした。

 本書の特徴は、世界各地の神話とアフリカに誕生した人類のその後の移動とを関連づけていること。世界的に見て、神話には2つのタイプがある。一つはゴンドワナ型と呼ばれるもの。これは人類最古の神話で、ホモ・サピエンスがアフリカで誕生した時に持っていたもの。それが人類の移動にともなって、アフリカやオーストラリアのアボリジニの神話となった。もう一つはローラシア型と呼ばれるもので、ホモ・サピエンスが地球上の大部分に移動した後、西アジアを中心に生成したもの。これはユーラシア大陸から、南北アメリカ大陸、太平洋域へと広がった。これが最近ハーバード大学のマイケル・ヴィツェルにより唱えられた、世界神話学説である。この学説は、DNA解析や言語学、考古学による人類進化と移動に関する近年の成果と大局的に一致するという。
 ゴンドワナ型神話の特徴は、叙事詩のように一つ一つの物語が関連して発展していくことがない。したがって我々が神話の物語としているようなイメージにはほど遠い。ゴンドワナ型神話では、世界の創造は語られない。すなわち世界は既に存在する状態から物語が始まる。中心的に語られるのは、天や地、原初の海が既に存在していることを前提として、そこで最初に人間、あるいは動物がどのような形で生きていたかということである。そこでは人間と動物は区別されず相互に変身可能であった時代が語られ、太陽や月、雨や風にも生命があり、人間や動物とともに地上に住む存在であったという考えである。(p90~)

 一方、ローラシア型神話は、ギリシャ神話に見られるような、ストーリー性があり、理解しやすい。ローラシア型神話では、無からの世界の出現、その進化、あるいは至高神による創造などから始まり、その後神々の物語や神々同士の争い、最初の世界の破壊と再生が語られる。そしてその延長線上に、人間の誕生とその子孫たる王族の出現、あるいは英雄の旅と戦い、この世界の秩序化と混乱の平定が続く。そして、この神話の多くは支配者の正当性を主張して終わる。(p136)。

 ローラシア型神話の基本構造が、繰り返し今日まで再生されるのは、今日でもわれわれに訴えるものがあるからである。言語や文化の違いを越えて、人類の心に響くのは、何らかの意味において、人類に内在するなにかにその源を発するからだ。だから、このタイプ神話は悪用される危険性もあると、著者はいう(p187~)。
 神話は人類の集団的無意識の表徴であるという、ユング心理学の主張もここに基づくのだろう。著者はローラシア型神話の悪用例として、戦前の日本やナチスドイツの例を挙げている。

 日本の神話はローラシア型であるが、その複雑さ、多様性から見てゴンドワナ的要素が混在しているのではないかと、著者は言う。第5章は「世界神話学の中の日本神話」で、海幸彦、山幸彦の物語や古事記のイザナキ、イザナミの物語を中心として、各地の神話との比較検討が行われる。こうした観点から解説されると、日本の神話も分かり易くなる。
追記
 今朝NHKテレビで、イスラエルの洞窟で20万年前のホモサピエンスの顎の化石が発見されたと報じていた。ホモサピエンスの出アフリカは10万年前とする従来の学説から10万年も遡る大発見だと、現地の専門家は言っていた。

 
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書名 東海道ひとり気ま々旅 著者 山口 進 No
2018-05
発行所 発行年 平成十三年 読了年月日 2018-01--30 記入年月日 2018-01--30

アフィニス句会の須田政さんから寄贈された。著者の山口さんは須田さんの友人で、私たちの職場の先輩。私が東海道を歩いたと聞いて、須田さんが持って来てくれた。

 ハードカバーで箱入りの立派な本。日本橋から順番に旅の経過を書いたものではなく、テーマ毎に書いている。100頁ちょっとの紙数にページ毎に写真が載っている。それ以上にすごいのは、五十三次の郵便局のスタンプがすべて巻末に載っていること。切手を貼った封筒を持参し、それに押して貰ったという。たくさんあるいわゆる特定郵便局では、このスタンプはないから、本局まで行かねばならない。そのためにある時は半日の時間を余分に費やさねばならなかったという。スタンプはその宿場の様子が描かれたものがほとんどで、これは素晴らしいコレクションだ。

 写真はいずれも見覚えのある風景で、記述は私も歩きながら感じたことなので、読みやすく、そうだったと懐かしみながら読んだ。

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書名 私を離さないで 著者 カズオ・イシグロ、土屋政雄訳 No
2018-06
発行所 早川書房 発行年 2008年 読了年月日 2018-02-05 記入年月日 2018-02-06

 原題は「Never Let Me Go」。最初、「The Remains of the Day」と同時に注文して原書で読み始めた。本書についての事前の予備知識はまったくなかった。最初のページにいきなり carer, my donors, recovery, agitated, .fourth donationなどの単語が出てきて、何のことやらイメージがわいてこなかった。ついで、Hailsham という学校の名前が出てきて、主人公の Kathy の学校における回想が続く。この小説のテーマはなにかを知らないと読み続けられないと思った。アマゾンのブックレビューを見て、おぼろげながら、何を扱った小説であるかが分かった。

 第3章の初めまで読んだが、普通の学校の情景で、具体的にテーマとの関連は示されていなかった。「The Remains of the Day」はほとんど辞書を引くことなしに読めたが、細かい情景描写と10代の若者の心理描写が続くこの小説はそうはいかなかった。翻訳本に切り替えた。本書は2017年10月、67刷である。文庫本で400頁を越える大作。回想形式による細かなエピソードと心理描写が詳細に述べられ、それらが全体としてみると、お互いに密接に絡み合っている。だから、前のエピソードや感情描写がまだ頭に残っているうちに読んでいかないと、理解が出来なくなる。実質的には2日で読みきった。

 細かすぎる描写にややうんざりするところもあったが、読み終わったときキャシーや、ルース、トミーへの深い愛惜が胸を満たした。構成にまったく破綻がなく、多数の細かいエピソードは必ず全体のなかで他と関連し、意味をもつ。

 本書の主人公たちがどういう使命を持った存在であるかは、127ページに至って初めて明らかにされる。うすうすは感じていた主人公たちもこの時初めて自分たちの使命を告げられる。主人公たちの「ポシブル」と呼ばれる「親」のことは213頁で初めて出てくる。クローン人間という言葉は399頁でやっと出てくる。このように、読み進めていくうちに段々と物語の背後にあったものが明かされて行く。そして、冒頭にあげた英単語ははすべてこの小説のなぞを解くキーワードであった。SFミステリーじみた展開。それ故、アマゾンのブックレビューは、本書の詳しい中身を書くことを避けている。

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書名 枯野まで 著者 佐藤小枝 No
2018-07
発行所 文学の森 発行年 平成28年3月 読了年月日 2018-03-04 記入年月日 2018-03-04

 『天為』同人の句集。オリーブ句会の宮川ルツ子師から、参考にしなさいといって、渡された。
『天為』主宰有馬朗人の帯評
佐藤小枝さんは理知的で感性豊かな人である。俳句には理知的な詩情が溢れており、発想の飛躍、ユーモアが方々にちりばめられていて、読んでいて楽しい。

 昭和2年生まれ、句集に収められたのは、70歳以降の句。朗人主宰の評に同感。若々しい句が並ぶ。寺山修司、原節子、実朝の海、カンカン帽、ぽんぽんダリアなど、私も自句に取り入れた言葉がかなりあるのに驚いた。「大和」の代わりに「武蔵」で同じような句も作ったし、志村喬のぶらんこのシーンを思い浮かべて作った句も私にある。フィーリングが合うのだろう。

黒人霊歌も修司も遠し麦の秋
路地裏に猫の夜会やクリスマス
零戦も真珠も洗ふ春の潮
ふらここに志村喬がいつもゐる
昭和とは冷やしラムネと原節子
葦の角すつくと天網裂くつもり
蟹食べて多喜二の三倍ほど生きる
実朝の海向いて飲む氷水
たましひの今日のかたちはこの糸瓜
鴉来てクロネコヤマト来て立春
基地といふ異国ぽんぽんダリア咲く
父の日なんてなかつた父のカンカン帽
敗戦日いつもと同じ顔洗ふ
海底に「大和」の欠片夏逝けり
縄文土器の渦巻き伸びる枯野まで

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書名 慈円 著者 多賀宗隼 No
2018-08
発行所 吉川弘文館 発行年 昭和34年 読了年月日 2018-02-25 記入年月日 2018-04-04

 平安末期から鎌倉初期への歴史は面白い。政治家ではないが、この時代の代表的歌人として西行、定家と並んで慈円の名はよく出てくる。その著書『愚管抄』も有名で、さらに慈円は天台座主を4回も務めたという経歴も興味を引く。にもかかわらず、慈円のことはほとんど知らなかった。

 本書は現存する慈円の歌を多数引用し、慈円の生涯を追う。慈円の歌は6000首現存するという。新古今集に収載された歌は、西行に次いで多い。この時代の歌人は多作であって、藤原家隆は6万首あったという。慈円も速詠であったから、6000首よりははるかに多かっただろうという。(p3)
 慈円の歌は、花鳥風月ではなく、心の忠実な記録であり、記憶や回想をまたぬ直接の感懐であり、日記であり、一大自叙伝と言うべき姿であるという。(p6)

 慈円、久寿2年(1155年)生まれ。父は関白藤原忠通である。忠通は保元の乱で後白河側につき、弟の頼長のついた崇徳院側を破った。慈円の同腹の兄には後に藤原家の長になった兼実がおり、生涯を通して親密な関係を保った。2歳の時に母を失い、10歳で父を失った慈円に当時を風靡した無常感が芽生え、仏の言に耳を傾ける地盤が出来てきただろうという。慈円は13歳で出家する.出家は自発的というよりも、当時の貴族社会の風習に従った面が強いと著者は言う。(p18)

 25歳の時に叡山を下りる。彼にとっては一山内で争いの絶えなかった叡山も憂き世であった。以後、世間的活動が始まる。既に僧侶としての資格を得ていたこと、多くの寺院を管領する地位を譲られていたこと、各方面に有力な支持者がいたことなどで、彼の活動は目覚ましく、兄兼実の支援もあり、慈円は仏教界で見る見る昇進する。

 源平争乱を経て平家滅亡後の建久3年(1192年)、慈円は天台座主に就任する。兼実は平家時代は不遇であったが、頼朝政権の確立により、その支持下に勢力を伸ばしてきた。兼実の娘任子が、新たに即位した後鳥羽天皇の后になる。任子の立后のために慈円は祈祷を励みその法験を現し、後鳥羽天皇との間の結びつきが形成される(p53)。

 建久7年(1196年)、慈円は天台座主を辞した。直接の原因は摂政兼実(九条家)の失脚である。天台座主の地位が時の政権によって左右されることは、清盛、義仲の時にもあったことだ。慈円は頼朝に深く傾倒し、まれにみる抜群の器量の人物だと讃えている。頼朝が在京の折り、日日和歌をやりとりし、その当意即妙振りに、自分にとっての好敵手だと褒める。慈円の『拾玉集』には頼朝のこの贈答歌が37首収載されている.その頼朝は正治元年(1198年)急死する。(p80)

 兼実没後、慈円は九条家の中心となる。「
慈円と院との間柄は、単なる朝廷と高僧、君と臣との関係を超えが、人間的な血の通った、相互の敬愛と昵懇とによってつながれていた」(p95)という後鳥羽院との関係だが、後鳥羽院は折から勃興してきた反幕府思想の中心にいた.一方、慈円は、武家の実力を認識し、特に頼朝を頼んで、公武合体の理想を抱いていた。承久元年(1219年)、実朝が暗殺された頃から、後鳥羽上皇と慈円の政治上の意見の対立は表面化した。慈円の願いも空しく、承久の変が起きる。変の結果が慈円に直接影響することはなかったが、時代が下がって、日蓮は承久の変の際、関東調伏の祈祷の中心人物に慈円を挙げている。史実に照らせば誤りであるが、関東側がそうした印象を抱いたことは無理もないと著者は言う。(p123)。

 後鳥羽天皇は三種の神器のうち、宝剣を欠いて即位した。慈円はこの宝剣に代わるものが将軍であり、将軍が宝剣の役目をつとめるものだ、武士は神意によって宝剣に代わ君を守り奉るものであるというのが慈円の考えだった。(p175)

 歴史観:歴史上の事実は、すべてあらかじめ予定されているとする一種の予定調和の説。歴史が、結局、神々の予定の計画のままに動いている。

 祈祷:「
慈円の仏法興隆の目標は、天下泰平のための祈祷に集中される。そしてそれは、滅罪生善、あるいは攘災招福の二つの面をもつ。まず現代の負うている罪障の消滅を祈る.その後に仏神の利生・加護の祈りが可能になる。現代の負う罪障を消すことは、すなわち保元、治承の乱の戦死者の怨霊に対して罪を懺悔することに外ならぬ。」(p102)

信仰:慈円の真の信仰は阿弥陀仏信仰であった。天下国家の祈り、要するに世間的な祈りは釈迦・大日により、自己の生命は阿弥陀仏に託する、という二本立てである。(p190)。

和歌:
あの自由で自然な、のびのびした、思い切った、開け放しの、無技巧ともいうべき彼の和歌は・・・どの一首をとっても、それは、彼自らを語っている、あるいは語ろうとしている。しかも、同じものを詠いつつ、どれをとってみても、常に生きた彼が新しい姿をその底にみせている。一つのまことをめざして絶えず前進してゆく姿が、限りない力として人をとらえて離さないのである。(p197)

 本書を読んでいて気がついたのだが、少し前に読んだ同じシリーズの『北条政子』は、まったく同時代人である。没年は同じ、生年は政子が慈円より2年後である。頼朝上京の際、政子をともなっていたとすれば、二人はもしかするとあったことがあるかもしれない、と空想するのは歴史書を読む楽しみの一つだ。

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書名 生元素とは何か 著者 道端 齊 No
2018-09
発行所 NHKブックス 発行年 2012年 読了年月日 2018-03-12 記入年月日 2018-04-05

gaccoというネットの学習サイトがある。著名な専門家の講義が無料で聞かれる。最近では、「観測的宇宙論入門」  法政大学理工学部 教授  岡村定矩 を視聴した。最新の観測技術からえられる最新の宇宙論で、素晴らしい講義だった。宇宙の歴史の中で、いつ、どこで元素が生まれたかとうのもその中の主要なテーマであった。この講義に触発されて、本書を読んだ。宇宙の歴史の中で、元素が生成され、それがどのように進化し、生命に至ったかを述べた、壮大なスケールの本であった。

第1章 元素の誕生と宇宙の歴史
第2章 化学進化から初期生物進化へ
第3章 生命をかたちづくる物質・生元素
第4章 生元素が作るヒトの体
第5章 生元素はなぜ選ばれたのか
第6章 物質を取り込む細胞のメカニズム
第7章 微量元素のドラマ
第8章 生元素から未来へ

以下本書から
○ 水素原子の核融合で、ヘリウムをへてさらに融合が進み、太陽程度の比較的軽い恒星ではビスマスまでの元素が合成される。
○ 太陽より数倍重い恒星では、さらに核融合が進み、原子番号26の鉄までの元素が生成される。
○ さらにに恒星の中心部の温度が上がると、超新星爆発を起こし、この際ウラン、プルトニウムなどの重い元素が出来る。
○ 地球上の海水の質量は地球質量の0.027%に過ぎず、マントルに含まれる水の量は海水の数倍と思われる。
○ 太陽の元素組成は水素70%、ヘリウム27%で、残りの3%にリチウムからウランまでの元素が含まれる。
○ ランダムな運動を秩序ある状態にすることを自己組織化といい、生命とは自己組織化する物質ということができる。
○ ある閾値を超えるとその性質が変わることを相転移という。化学反応の作りだすネットワークが、ある閾値を超えると相転移が起き、自己触媒系、自己維持系、自己複製系をもった生命が生じたというのが、スチュアート・カオフマンの説。(p59~)
○ 奈良の大仏造営では、銅像の表面に金のアマルガムを塗った後、熱をかけて水銀を蒸発させて、メッキを完成させた。
○ 生体分子に関連する分子は還元大気でなければ生成できない。初期大気が酸素を含んでいたら、生命は地球には発生しなかった。従って、生命の起源を地球外に求めるパンスペルミア説が成りたつ。宇宙のどこか外の惑星ではもっと還元的で、生命の発生に有利であったかもしれない。
 そういえば、クリックもパンスペルミア説を支持していた。パンスペルミア説など馬鹿げた説だと私は思っていて、クリックが支持しているのが不思議だった。地球外に生命の起源を求めることは、科学的に根拠のあることのようだ。
○ 地球に降りそそぐ流星は1日に2兆個、100トンにもなる。
○ 地球上では藻類や陸上植物により1000億トン以上の炭酸ガスと水が炭水化物に光合成される。(年間量か?)
○ 遷移元素なくしては化学進化、初期生物進化はなかったかも知れない
○ コバルトの錯体は光りが当たると色が変化する眼鏡のレンズなどにも使われている。
○ アクアポリンという、水を取り入れる機能をもつ穴が細胞膜に存在する。
○ 動物の細胞ではナトリウムイオンの濃度が細胞外より低く保たれており、逆にカリウムイオンの濃度は細胞内の方が高く保たれている。これはナトリウムイオンーカリウムイオンポンプが働いているからである。
○ ある時点で地球が酸素の豊富な状態になったとき、鉄イオンを利用できなくなり、多くの生物は化学的性質の似た銅イオンを使う道を選んだ。
○ 46億年前に誕生した地球は、32~40%の鉄を含んでいた。微惑星の衝突が繰り返され、表面温度が高温となった原始地球では、重い元素が地球の中心に向かって沈み込み鉄とニッケルから成るコア部分が形成された。
○ 初期生物進化の過程でシアノバクテリアが出現し、酸素分子を発生させ、そのため2価鉄イオンが不溶性の3価化鉄に酸化され、鉄鉱床が形成された。人類はそのおかげで鉄資源の涸渇を心配なくてすむ。
○ 亜鉛は2価イオンとして安定であり、そのため生命体は、呼吸、消化、遺伝、細胞分裂などの重要な酵素の活性中心に亜鉛を選んだ。
○ モリブデンは窒素固定細菌のニトロゲナーゼに含まれる。
○ 現在、世界の研究者は一部開いた膜系の中に自己触媒のセットを導入して、もっとも単純な生命体である人工細胞を作ろうとしている。
 そのような研究の一例がp64以下に紹介されている。

 オパーリンの「生命の起源」を読んだのは、学生時代。オパーリンは「コアセルベート」という概念を提唱したが、その後の生物学はDNAを中心とする分子生物学に行き、コアセルベートなどは忘れ去られていたと思ったので、本書で何回も触れられているのを、懐かしく思った。

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書名 平田篤胤 著者 田原嗣郎 No
2018-10
発行所 吉川弘文館 発行年 昭和38年 読了年月日 2018-03-28 記入年月日 2018-04-06

 幕末の志士たちを倒幕へと駆りたてたのは本居宣長から平田篤胤へと続く国学だという思いは常々抱いていた。しかし、平田篤胤の国学がどういうものか、その生涯がどのようなものであったかはまったく知らない。神保町の古本屋に並んだ「人物叢書」の中に本書を見つけた。

 昭和38年刊の本書ではあるが、その極端な皇国史観、国粋主義への反動から、戦後、篤胤は顧みられることがなかった。その一因は、契沖、真淵、宣長に比べて、現代の学問に役立つ文献学がないことにもあると著者はいう。

 初めて知る事柄に満ちた面白い本であった。まず、5ページ以下に述べられた本書執筆の意図を読んだだけでも、私にとっての本書の価値は充分だった。

 「
・・・「理」を前提として組立てられた典型的な合理主義である朱子学におけるレアリズムの欠如を現実問題としてとりあげた広義に古学派といわれる儒者たちは、朱子学成立の前提である「理」の独断的性格を集中的に攻撃する。(中略)この古学派の志向は荻生徂徠において頂点に達する。彼は人間内部の非合理的な情的部分にもっとも多く目を注ぎ、心情そのものを理論化することを通じて、被支配者の人情操作のための政治的技術の必要性を論じ、そこから体制の改革を主張して、行きつまった体制を救済しようとしたのである.中略 (徂徠の理論では)社会の底辺にあって、かつては完全に政治的世界から疎外されつつ、非合理的・伝統的な思考→生活様式を保守してきた膨大な量の、農民を中心とする被支配層=庶民層が主要な要素となっている。これは一面からいえば庶民的心情の理解といえるだろう。中略 徂徠の保持した政治的立場を逆転させた上で、徂徠型の思考をいっそう徹底させていったのが、本居宣長以下の国学者であった。」(p6~7)

 著者は宣長・篤胤の思想形成の社会的契機についていずれも「
下たる者がいかにして安定的に生きるべきか、という問題にこたえて形成された思想である」と考える。(p10)

 本書の初めの1/4ほどを費やし、宣長の思想とその歴史的意義について述べる。
 宣長の学問の中心をなすのは道の学問であった。「
道とは記紀二典に記された神代のもろもろの事蹟の上にそなわる事実であり、儒教や仏教でいう教え=規範とは異なる。それ故にこそ、道は真心によるならば、自然に知られるものであるとともに、また真心にかえらなければ知ることができないのである。」(p36)
 「
道とも歌とも不即不離の関係にあって貫流しているのが、もののあわれをしる心であり、真心である。」(p35)
 宣長の心は自然神道のうちに含まれる和歌の道を通じて、はるかに上古的理想社会へつながっていたと、著者は言う。(p60)

 篤胤は宣長の生前には入門していない。しかし、彼は宣長の学問こそが、自分が学んだ学問の最高の正道であると、その著書『霊の真柱』(たまのみはしら)で述べている。

 宣長と篤胤の最大の違いは死後の世界を認めるか認めないかであった。
宣長は純粋な心情主義に徹し・・・・徹底的な現実主義者となり、心の安心をもこの現世における生活・心の態度に求め、死後の世界に求めようとはせず、逆にそのような態度自体を儒意・仏意に毒された後世人の悪しき特徴であるにすぎない」という(p98)

一方、「
篤胤は現世における安心をうることが当然にできるような、霊魂の行く先を根本的に要請する。それ故、この要請は宗教的なそれである。彼はこの要求を自己の核心部の置きながら、古典を渉猟し、それについて思弁し、それらによって天・地・泉(せん)、すなわちトータルな世界の形成を描き出したのである。ここに平田篤胤の国学(平田学)が成立する。」(p101)そして、平田学の形成の全過程を神道の宗教化コースとして見通すことが出来ると、著者は言う。

 以下、宣長と篤胤の著作を引用しながら、宣長との対比において篤胤の思想を述べる。

篤胤は、人が死して後に黄泉国にいくという宣長の説を却け、死後の霊魂は大国主神の主宰する幽冥の世界へ行くと主張する。」大国主神は幽冥から世人の善悪を監視し、死後にその賞罰を決める。「抑(そもそも)此世は、吾人の善悪きを試み定め賜はむ為に、しばらく生(あれ)し給へる寓世(かりのよ)にて、幽世(かくりよ)ぞ吾人の本っ世」(p122)

 宣長の唱える道には、規範的性格がなかった。一方、篤胤のそれは規範的性格をともなっていた.宣長は「
天皇が神としてあらゆる判断や行為の基準そのものであって、他からのすべての批判を超越する存在」と考えた。篤胤は、天皇の超越性は論ずるが、「天皇は基準そのものではなく、他からの批判を超越しえないこと、すなわち、天皇批判ないし規制の論理が平田学において発芽しうることが、宣長学天皇論との決定的な違いである」とする。この立場から、篤胤は幕府が発した禁中御法度を肯定する。(p288~)

下たる者の楽しく穏(おだい)しく生きるべき方法は、実質ある規範をもつことなく、究極的には天皇の大御心を心として=自己の主体を完全に滅却して、上からのおもむけに身をゆだね、これにとけこんで服従・奉仕することである」(p291)。これが宣長の考え。一方、篤胤は「現実的規範は日常的生活において、もっとも重要な存在であり、それは死後の幽冥における大国主神の審判によって、堅固に支えられている」とする。そこから、天皇に固有な規範をえることが出来るはずだとする。(p302)
 このように平田学は、国学を儒教化し、徳川体制の擁護理論となりうる。

 宣長学を受けつぐ者が、彼の門人にでなかったのに反し、平田門では篤胤の思想をまともに継承する者が輩出した。「
これは宣長が国学史上に他者の比肩を許さない雄大な孤峯であったことを示すとともに、篤胤の意識が宣長に比して、より一般的・平均人的であり庶民のそれに近接または密着していたことを物語る」(p310)

 篤胤は、幕府により江戸から追放を命じられ、秋田に移り、そこで最後を迎える。天保14年(1843年)68歳であった。秋田に帰ってからは入門者も増え、総数553人に達し、宣長の490人を越えていた。篤胤はその著作・言動が支配層のイデオロギーとしての儒教の立場から見れば、非合理のこじつけに満ちた新興宗教的なものと見なされ、幕府からは少なくとも好感を持たれなかった。しかし、それが直接江戸払いの理由ではなく、篤胤が尺度の座を設置するという政治的行為に荷担したと思われたことが、原因であると著者は推測する。(p273)

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書名 渡辺崋山 著者 佐藤昌介 No
2018-11
発行所 吉川弘文館 発行年 昭和61年 読了年月日 2018-04-28 記入年月日 2018-04-30

 人物叢書シリーズ。平田篤胤とほぼ同時代を生きた崋山の生涯を知りたいと思った。かつて古河市の博物館に立ち寄ったとき、崋山作の古河藩家老鷹見泉石の肖像画が展示されていた。一瞬息を呑んだほど素晴らしい絵だった。説明にはこれは絵画ではもっとも新しい国宝だとのこと。展示は複製で、実物は国立博物館にある。蛮社の獄で悲劇的な最期を遂げた人物としか知っていなかったので、崋山の絵とは、しかも国宝の絵とは意外であった。崋山は田原藩の家老で、田原は私の両親の郷里の西七根と同じ渥美半島にあり、郷土の人という思いは持っていた。

 渡辺登、寛政5年、1793年生まれ、天保12年、1842年自刃。意外だったのは、崋山は江戸で生まれ、生涯のほとんどを江戸で過ごしている。最後は、蟄居を命じられ田原に送られ自刃する。

 本書は崋山が表した著作、知人との間に交わした多数の書簡、知人友人等の日記、裁判記録などを引用しながら、その生涯を追う。今から200年ほど前のことだが、良くこれほどの資料が残っていると感心する。崋山の手になる絵も随所に掲示されている。

 崋山は幼い頃より絵の才能があり、後に谷文晁の門にも入っている。彼の家は貧しかった。田原藩自体が財政難で、家臣の家禄が削減されていた。崋山は絵を描いて家計を助けた。春画も描いたという。崋山の絵には「
あらゆる階層の人びとの生態が描かれている。しかも、崋山は、これらの人びとをすべておなじ人間として、軽妙な筆致をもってどこまでもリアルに把握しようとしている」と述べ、それは「近代的なリアリッズムの精神に通ずるものである」と著者は言う(p29)。私が見た鷹見泉石の肖像画はまさに、近代的リアリッズムであった。崋山は江戸画壇において第一級の画家として遇されるようになる。天保の頃である。

 藩の財政難から、家禄を減らされた家臣たちの不満が高じて藩政改革の動きが出てくる。崋山もそれに参画する。この頃はどこの藩でも財政難で、巨額の借財を抱えていたようだ。田原藩については、新しい藩主の無能振り、浪費癖と合わせて、その実情が細かいデータを引いて述べられる。崋山の改革案は、藩士の給与体系を家禄制から、職務の等級によって決めるものであった。この格髙制は採用されたが、天保の飢饉などで、長くは続かなかった。

 時代は西欧列強がアジアへ進出する時代。田原藩も海に面していて、幕府の外国船打ち払い命令以後は海防への関心が高まる。崋山は年寄り役末席に起用され、海岸掛かりを兼務する。これ以後、崋山は本格的に蘭学の研究を始める。崋山の蘭学を特徴図けるのはその優れた世界認識である。

 彼は、儒教の伝統的な世界観にとらわれて、世界史の発展に眼をおおい、いたずらに鎖国を謳歌する者をもって、「
蟹の眼の空にむかい、燈台の手元暗きがごとく、窮するところ、盲目の蛇をおそれず、聾者の雷を避けざるに帰し申すべく候」と痛罵するとともに、「平心に致し、偏見を去り、旧習を一洗致し申さず候ては、申すも無益にござ候」といい、対外的危機打開の前提として、科学的な現状認識の必要をくりかえし説いている。(p93)。

 田原藩の軍備の近代化は、崋山の遺志を継いだ村上定平により推進され、幕末では西洋流軍備では、鍋島、薩摩と肩を並べるとまでうわさされた。(p123)。

 56ページ以下には、崋山が藩主康直へ提出した諫め状が載っているが、驚くほどずけずけとものを言っている。性急、わがまま、見栄坊という藩主の性格の欠点を指摘している。封建体制下でも、平和が長く続くと、家臣がこれほどのことを言っても咎められないのかと驚く。

 本書は江戸後期の異国船来航史としての側面ももつ。幕府は江戸防衛のために、鳥居耀蔵と江川英竜(太郎左右衛門)に江戸湾沿岸の調査を命じる。崋山と親交のあった江川はその復命書を、崋山の海外知識を表した『諸国建地草図』を参考にして提出した。崋山は江川の求めに応じてさらに『西洋事情』の草稿を執筆した。崋山の世界認識は当然のごとく、封建制批判に通じる。これにはかなり辛らつな幕政批判が含まれていた。江川は『西洋事情』の幕政批判が気になったので、崋山に書き改めるよう求めた。そして穏便な『外国事情書』が書かれた。しかし、この書は上申されることがなかった。

 崋山の関係するグループで、無人島に渡る計画が練られた。それが幕府に発覚し一味は捕らえられた。崋山も尋問されたが、無人島渡航計画とは関係なしとされた。ただ、彼が揚げ牢に入れられている間に、自宅を捜査した幕府役人に『西洋事情書』と『慎機論』の草稿とが押収されてしまった。その中の幕政批判が有罪とされ、在所蟄居の判決を受ける。同じく『夢物語』の著者の蘭学者、長野長英は永牢の判決を受ける。著者は「
蛮社の獄は、大局的に見れば、思想的立場を異にする鳥居が、崋山およびその同志をおとしいれようとした陰謀であったが、直接の目標は、崋山の手になる「外国事情書」の上申をはばむところにおかれていた」とする。(p253)

 崋山助命のためには、多くの友人知人が金銭的援助も含めて奔走した。有罪とされた『西洋事情書』も草案に過ぎず、公表はされていないという申し分も認められなかった。崋山は口述書で、幕政批判を認め、「別して不届きの旨」と記している。「別して不届き」は死罪を意味する。実際、奉行所は口述書に基づき斬罪の伺い書を幕閣に上申した。しかし、差し戻しになり、結局は在所蟄居になった。幕閣の中には崋山への同情があった。最終的には老中首座の水野忠邦がこの判決を下したことになる。(p280~)。

 田原に蟄居した崋山は絵を描く。蟄居と言っても1500坪の土地に建つ家で、現在の感覚からは信じられない広さだが。その絵が絵仲間の手を経て、かなり売れた。特に三河・遠州で広く売れた。蟄居の身にありながら、こうした事態は幕府にとっては好ましくない。幕府から遠州に視察の役人が来るという情報が崋山にもたらされる。遠州は水野忠邦の領地だ。実際視察の目的は学問所の設置の調査であったが、崋山は自分の絵のことが目的ではないかと思い、そうなれば播主や家族に迷惑がかかると思い、自ら死を選んだ。もっとも、崋山がそう思い込んだのは、崋山に反感を持つ者が、わざとデマの情報を流したのだろうと、著者は言う。



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書名 国体論 著者 白井聡 No
2018-12
発行所 集英社新書 発行年 2018年4月 読了年月日 2018-05-05 記入年月日 2018-05-21

 アマゾンから推奨本として紹介された。「国体論」というタイトルを見たとき、保守派の論調かと思った。実際はその逆で、国体という概念をもとに明治維新から現在に至る日本の歴史に切り込み、安倍政権下における日本の現在の情況を痛烈に批判する。胸のすく主張と語り。サブタイトルは「菊と星条旗」である。

 序章で以下のように述べる:
「戦前の国体」とは何であったかと端的に言えば、万世一系の天皇を頂点に戴いた「君臣相睦み合う家族国家」を理念として全国民に強制する体制であった。中略 本書のテーゼは、戦後の天皇制の働きをとらえるためには、菊と星条旗の結合を、「戦後の国体」の本質として、つまり、戦後日本の特異な対米従属が構造化される必然性の核心に位置するものとして見なければならない、というものである。(p3~5)。

 そして、著者は戦前の国体が自滅の道を突っ走ったように、戦後の国体も破滅の道を歩んでいるとする。

 戦前の国体の推移を、天皇の国民から天皇なき国民そして国民の天皇ととらえ、明治期が天皇の国民で、大正デモクラシーが天皇なき国民、そして敗戦までの昭和期を国民の天皇とする、社会学者大澤真幸の説を引用して、著者は、、戦後の国体を、アメリカの日本、アメリカなき日本、そして日本のアメリカととらえる。敗戦から高度成長期を通してのアメリカの日本、経済大国となり、アメリカとの貿易摩擦が問題となった時期のアメリカなき日本、そして、現在の日本のアメリカ。(p65)

 つまり、著者は「現代日本にとっては、天皇とはアメリカである」という(p303)。
 戦前の国民の天皇という思想を強烈に主張したのが北一輝であり、その実際行動の最大のものが二二六事件であるという。

 後半部分は、対米従属への痛烈な批判が展開される。

 日本が巨大な米軍基地を受け入れている理由として、「東西対立時における日本の防衛」から、「自由世界の防衛」へ、「世界の警察による正義の警察行動」へ、そして「中国の脅威」「北朝鮮の暴走」への抑止力であるとされた。こうした二転三転は、これらの理由が真の理由ではないことを物語る。続けて言う:
対米従属の現状を合理化するこれらの言説は、ただひとつの真実に決して達しないための駄弁である。そしてそのただひとつの結論とは、実に単純なことであり、日本は独立国ではなく、そうありたいという意思すら持っておらず、かつこのような現状を否認している、という事実である。(p297)

 「
北朝鮮が日本にとってリスクであるような強硬路線を突っ走るのは、日本の国土を中軸とする極東アジアの米軍プレゼンス、つまり、北朝鮮から見ればアメリからの軍事的恫喝が存在するからである」という至極当たり前の事実に思い至らない人々が、いざ有事が発生した時に冷静な思慮分別など持てるはずがない。中略 「米軍がいるから大丈夫だ」という日本人の漠然たる安心感、国体に抱かれた感覚は、米軍の駐留がリスクの根源となっているという事実を直視することをさまたげる。」(p332)

 私もまったく同感だ。アメリカ軍がいるということ以外に北朝鮮が日本を攻撃する理由はないはずだ。

 本書の書き出しは、一昨年の天皇の「お言葉」に言及することからだ。天皇のこの異例の行動を必然であると著者は直感したという。「
発せられたメッセージの文脈と内容を読み込むならば、後述するように、その狙いのひとつは、戦後民主義の秩序を崩壊の淵から救い出すことである、という推論が成りたつ。」(p15)

 本書の結びもまた天皇の「お言葉」への言及で終わる:

 
天皇の「私は象徴天皇とはかくあるべきものと考え、実践してきました。皆さんにもよく考えて欲しいと思います」という呼び掛けに対して応答することを著者に促すものである。応答せねばならないと感じたのは、先にも述べたとおり、「お言葉」を読み上げたあの常のごとく穏やかな姿には、同時に烈しさが滲み出ていたからである。それは、闘う人間の烈しさだ。「この人は、なにかと闘っており、その闘いには義がある」……そう確信した時、不条理と闘うすべての人に対して、筆者が懐く敬意から、黙って通り過ぎることはできないと感じた。なぜなら、筆者がそこに立ち止まってできることは、その「何か」を能う限り明確に提示することであった。(p340)

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書名 極上の孤独 著者 下重暁子 No
2018-13
発行所 幻冬舎新書 発行年 2018年4月 読了年月日 2018-05-18 記入年月日 2018-05-22

先月のエッセイ教室の時、この本が発売まもないのにベストセラーになっていると、下重さんは言った。『家族という病』もそうだが、『極上の孤独』という題がいい。題の良し悪しが本の売れ方を決めるというのは下重さんが常日頃言っていることだ。

 言っていることは『家族という病』の延長で、自立した生き方の勧め。そのためには孤独を怖れてはいけない、むしろ孤独こそ人間を高めるという。具体的なエピソードは、今まで読んだ著者の本や、エッセイ教室での日頃の話の中に出てきたもの。

 私自身、若いころは友だちも少なく、孤独だと感じていたし、今でも一人で過ごす時間が好きだ。旅も断然ひとり旅が好きで、旧街道歩きもほとんどひとりで歩いた。時には半日もまったく人に会わないで歩き続けることもあった。そんな時間が苦にならないというより、もっとも充実した時間、生きていることを実感する時間だとさえ感じた。だから、本書の主張には全面的にうなずける。

 細かいことでも、下重さんの言っていることが、私の思いと一致する。例えば、スポーツ選手では野茂とイチローと中田が好きだという。中田はよくわからないが、私も野球選手の中では野茂とイチローが、その生き方も含めて、大好きだ。

 下重さんとの付き合いも、エッセイ教室を通して、24年になろうとしている。これだけ続いているのも、下重さんの生き方に共感するところがあるからだろう。本書の言っていることなどは、その典型例である。


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書名 著者 松岡正剛 No
2018-14
発行所 春秋社 発行年 2017年9月 読了年月日 2018-05-25 記入年月日 2018-06-12

サブタイトル:「世」あるいは別様の可能性。

 アマゾンで田中優子と松岡正剛の対談『日本問答』が推奨本として紹介された。その関連本の一つとして本書が揚げられていた。

 帯の一部を引くと「「
擬」という考え方は、……本物があって偽物があるのではなく、「ほんと」と「つもり」がまじった状態でしか世界や世間は捉えられないという見方だ。」とある。十分には理解出来ない主張だ。しかし、断片断片は面白くまた、著者の博覧強記に圧倒された本だ。ネットで調べたら「松岡正剛の千夜千冊」という読書録があった。今日6月12日現在で1677夜である。いわゆるベストセラー本ではなく、かなり専門的な本で、例えば1001夜からは、ブライアン・グリーン「エレガントな宇宙」、ミルチャ・エリアーデ「聖なる空間と時間」、石田波郷「鶴の眼」といった本が並ぶ。

 全編で20綴の章からなる。第二綴は「きのふの空」で、蕪村の「凧きのふの空のありどころ」が好きで、著者の半生の仕事のめざしてきたところは、この句に終始すると述べ、蕪村論を展開し、著者の仕事、つまり「編集」との関連を述べている。蕪村論は面白いが、それが著者の仕事とどう結びつくかは良く理解出来ない。

 第四綴「顕と冥」:
漱石はおそらくは「癪の文学」というものを確立したのだろうと見ているのだが、そういう漱石はホフマンの「牡猫ムルの冒険」を借りた「吾輩は猫である」はともかく、そのあとの「三四郎」「それから」「こころ」を通しては「アンコンシアス・ヒポクリシイ」(無意識の偽善)ばかりを綴った。そのうえで「草枕」に望んだので、智に働けば角が立ち、情に棹させば流されるというふうになった。(p30)

近代社会は「統計の知」と「調査の知」をもって確立した…」と述べ、著者自身はこうした社会への適合度は極めて低いという(p31)。

 この世は「穢れた世」ではあるが、それは浮世でもあって、その浮世にもそれなりの定めがあっていいと思ってきた。これはそれなりの知恵だった。定めがあるから諦めもついた。だから日本では「定め」と「世間」と「諦め」とは同義語に近い。(p33)。

 第五綴「予想嫌い」:
大衆の観念は「思いつき」で。大衆の信念はたいてい「思い込み」である。(スペインのオルテガ・イ・ガゼットの引用)(p44)

 第六綴「レベッカの横取り」:
世阿弥は「物学(ものまね)」をこそ芸道の基本においたのだし、諸道でも「臨模」は欠かせない。まして和歌や歌物語や戯作にあっては、「本歌取り」は想像的表現の極意のひとつであって、この作意がない限り、後の「見立て」の文化は花開かなかった。本歌取りは模倣というよりメタフォリカルな引用であり、見立てはむしろ模倣からのアナロジカルな脱出でもあるが、それでも日本文化が模倣に意表を見いだしてきたことは動かない。(p64)

 第七綴「模倣と遺伝子」:
模倣の起源は社会に始まったのではなく、ずっと以前の生物圏からおこっていた(ああらわれていた)。何がそのことを示しているかといえば、同一性と差異とを数十億年にわたって問い続けたのは、タンパク質が組み立てた生命体の活動そのものだったからだ。(p73)

 
生命情報の編集がRNAに始まったということは、生命の起源はそもそもが編集体だったということである。生命の種のようなものがあって分子編集が始まったのではなく、高分子間に編集がおこって生命が始まったのだ。最初の最初はきっと何かの模倣めいたことがおこったにちがいない。ケアンズ・スミスは「遺伝的乗っ取り」という勇敢な本のなかで、鉱物的結晶の構造変異から出来事が飛躍していったのではないかと推測した。(p75)。

 77ページ以下にニック・レーンが挙げた、生命の飛躍的変換の10のステージが示されている。

 第十二綴「お裾分けの文化」:
人間の「世」の数々の営みの歴史のなかで、最も多く行われていたことが何かといったら、おそらく交換(exchange)だったろう。(p132)
 
そもそもコミュニケーションのすべてが交換であり、世の中の事態が進むというそのものが交換なのである。(p133)

第十四綴「タンタロスの罪」:
この世のものはどこかでなんらかの横取りや略奪や模倣や非対称な交換で成り立ってきたわけで、それは「知」や「文」においても、ことの大小はあれ、あてはまる。(p168)

第十六綴「孟子伝説」:
明治日本は天皇の位置を万世一系に定着させて国家神道化を推進したが、西郷隆盛と北一輝を除いては松陰の「孟子の国体思想」をあえて鮮明にした者は少なかった。西郷が孟子を愛読していたのはあきらかだ。(中略) おそらく西郷は岩倉や大久保や伊藤の維新革命をあまり気にいっていなかった。せめて本来の王道を持ち出すべく西南に立志したのだが、山県や大久保に討伐された。この未完の維新革命を継承しとしたのが北一輝だった(p201)。

第十八綴「擬」:
ぼくは折口にめろめろだ。ずっと以前から長らくめろめろで、いまもってめろめろだ。『死者の書』は日本文芸史上のベスト5に入れている。中略 折口こそは「世」というものと刺し違える方法をもっていたと感じた。(p222~)。
 
折口は戦時中からずっと神社神道のありかたに批判的だった。とくに天皇を雄々しく語る風潮に手厳しかった。折口にとって、天皇は寂しく、わびしく、つらくてたまらない生活に堪える人でなければならなかったからだ。(p226)。

 能の「翁」に関する折口の考察を引用した後で、以下のように記す:
日本の芸能は神を擬き、翁を擬き、乞食を擬き、世を擬いてきたのだ。とくに神楽や田楽や猿楽がそうした擬きの芸能をあからさまにした。中略 当然、世阿弥の物学(ものまね)もモドキの能だった。(p229)

 
早々にモドキの重要性に気が付いたのは藤原定家や心敬や世阿弥だったろうが、またモドキを最も凝縮した韻詞であらわせるとしたのは宗祇や宗因や芭蕉であったろうが、そのことに言及する手立てを思いついたのはやっと本居宣長だったのだはないかと思う(p232)。この後「もののあわれ」論を中心に宣長の古代論が述べられる。

(折口は)
…光源氏は「弱さ」の表象であることをなどを説いて、貴人の無力を肯定すべきだと主張した。それは軍国主義による大和魂とはまったく異なるものだった。「軍人が説いたやうに、戦争を好んで死ぬのを何ともないといふのが大和魂だといふのはとんでもない間違ひです」(p242)

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書名 芭蕉の方法 著者 宮脇真彦 No
2018-15
発行所 角川選書 発行年 平成14年 読了年月日 2018-06-07 記入年月日 2018-06-18

 サブタイトルは「連句というコミュニケーション」。

 最初の部分で、読むということはどういうことかが述べられる。

 「岩鼻やここにもひとりの月の客」という去来の句をめぐる芭蕉と去来のやりとりを例にひく。去来は、月の客は第三者のつもりで詠んだ。ところが芭蕉は、これは作者自身の姿と捉えた。去来は芭蕉の読みを聞き、その読みの方が自分の意図したものより十倍も優れているとしたという『去来抄』の一節を引いた後で、著者は以下のように述べる。

はからずも並び得た言葉は、その言葉の続き柄にふさわしい世界を創出する。その世界を前に、作者の意図のなど実は大した問題ではないのだ。」(p37)。さらに続けて「それでは作者はどこにいるのか、と問われるかもしれない。作者は、むしろそうした魅力的な解釈に支えられて存在する句の中にいる、というべきだろう。読むということは、作者の意識し得なかったかもしれない、作品世界に達成されている心を、「作者」の「心」として詠むことに外ならないのだ。」(p38)

 連句に関しては以下のように述べられる:
こうして連句は、他者による読みによって作者の意図から言葉を解放し、その解放された言葉がまた別な言葉と組み合わされることで新しい世界を現出させるための言葉となるという、読むことと書くことのダイナミックな変換を制度として持ちつつ、言葉と言葉との結びつきの上にいかなる詩的時空が切り開かれるかを味わう文芸だといっていい。(p55)。

 以下、主として蕉門の連句を題材に連句の実際が述べられる。今ではメールを使って、順次句をつなげて行くことが出来るが、芭蕉の時代には一座に会して歌仙を巻いた。しかし、当座の即興であるから、後で見ると、色々改善点が出てくる。歌仙として刊行されるまでには多くの推敲がなされる。蕉門の場合、当然だが芭蕉がそれを一手にやった。本書の後半にはその「市中は」の歌仙についてその具体例が述べられていて、大変興味深い。

 付けの方法
 
芭蕉が言う「うつり・響き・匂ひ・位をもつて付くる」とは、付味すなわち結果として前句との間に醸し出されてくる余情を吟味しつつ、付けてゆく手法ということになろうか。付ける手法が結果を包摂している点は、一見逆転した手法のように見受けられよう。実は、この一見逆転した手法に芭蕉の連句付合の、いやおそらく連句という文芸の性格が現れているというべきなのである。(p127~)

 
付句とは前句との吟味であるが、その前提には連句のそれまでの流れが考慮されるべきであり、そして何より、それらからの転じに留意して付けなくてはならない。(p147)。

 芭蕉の推敲例
 歌仙「市中は」の恋の句
 さまざまに品かはりたる恋をして    凡兆
  浮世の果は皆小町なり       芭蕉
 の凡兆の句は当初 「美しき顔をならべし初雪に」であったのを、芭蕉が改めたものだ。「美しき顔」から「小町」を連想し、その顔もやがて「小町が果」のごとく色香が失せるとしたのでは、句の深みがない。芭蕉はこの句を打越の「いのち嬉しき撰集のさた」との兼ね合いを吟味しつつ、改作した。

 著者はいう:
付句の価値は、付句自体によって決まるものではけっしてない。いかなる前句に付くかによっても大きくその価値は左右されるのだ。前句を徹底的に直すことによって一句の価値を髙からしめようとしたこの推敲は、連句の詩の在処がどこにあるか(それを芭蕉がいかに知りつくしていたか)を象徴的に物語る事例だといっていいだろう


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書名 芭蕉雑記・西方の人 著者 芥川竜之介 No
2018-16
発行所 岩波文庫 発行年 1991年 読了年月日 2018-06-11 記入年月日 2018-06-18

 芭蕉という文字が目に入り、本屋で手にした。表題の他7扁のエッセイを含む、芥川最晩年の作品。
 表題の二篇は芥川の深い学識を示す。
「芭蕉雑記」は優れた芭蕉論である。

 俳諧への芭蕉の執着を表すエピソードがp9からp13に述べられている。死の前日、病床の芭蕉の前で、4人の弟子たちの句が1句ずつ読み上げられた。芭蕉はその中の丈草の「うずくまる薬のもとの寒さかな」をもう一度読み上げることを望んだ。そして「丈草でかされたり、いつ聞いてもさびしをり整ひたり
面白し面白しと、しは嗄れし声もて讃(ほ)めたまひにけり」と弟子の文を引用する。そして「芭蕉の俳諧に執する心は死よりもなお強かったらしい。中略 芭蕉もまた世捨人になるには余りに詩魔の翻弄を蒙っていたのではないだろうか?中略 僕は世捨人になり了(おお)せなかった芭蕉の矛盾を愛している。同時にまたその矛盾の大きかったことも愛している。」と続ける。(p13)

 俗語
 洗馬(せば)にて
 梅雨ばれの私雨(わたくしあめ)や雲ちぎれ
梅雨ばれ」といい、「私雨」といい、「雲ちぎれ」といい、ことごとく俗語ならぬはない。しかも一句の客情は無限の寂しさに溢れている。こういう例は芭蕉の句中、枚挙に堪えぬといっても好い。芭蕉のみずから「俳諧の益は俗語を正すなり」と傲語(ごうご)したのも当然のことといわなければならぬ。「正す」とは文法の教師のように語格や仮名遣いを正すのではない。霊活(れいかつ)に語感を捉えた上、俗語に魂を与えることである。(p15~16)。俗語に魂を与える!

調べについて:
芭蕉の俳諧を愛する人の耳の穴を空けぬのは残念である。もし「調べ」の美しさに全然無頓着だったとすれば、芭蕉の俳諧の美しさも殆ど半ばしかのみこめぬであろう。(p18)

 芥川は「
芭蕉の付け合の上に古今独歩のあること」を認め、「元禄の文芸復興の蕉風の付け合に反映していた」とする。さらに続ける:芭蕉は少しも時代の外に孤立していた詩人ではない。いや、むしろ時代の中に全精神を投じた詩人である。たまたまその間口の広さの芭蕉の発句に現れないのはこれも樋口氏の指摘したように発句は唯「わたくし詩歌」を本道としたためといわなければならなぬ。蕪村はこの金鎖を破り、発句を自他無差別の大千世界へ解放した。中略 芭蕉は少しも時代の外に孤立していた詩人ではない。最も切実に時代を捉え、最も大胆に時代を描いた『万葉集』以後の詩人である。この事実を知るためには芭蕉の付け合を一瞥すれば好い。中略 近松を生み、西鶴を生み、更にまた師宣を生んだ元禄の人情を曲尽(きょくじん)している。殊に恋愛を歌ったものを見れば、其角さえ木強漢(ぼっきょうかん)に見えぬことはない。いわんや後代の才人などは空也の痩せか、乾鮭(からざけ)か、あるいは腎気を失った若隠居かと疑われる位である。(p34~35)。
 芭蕉を理解するにはその連句を知る必要がここでも説かれている。最後の一文の例示が面白い。

「僻見」という評論は斎藤茂吉、岩見重太郎、木村巽斎(山水画家で収集家)の3人を論ずるというか、持ち上げる。

 茂吉については「
…あらゆる芸術の士の中にも、茂吉ほど時代を象徴したものは一人もいなかったといわねばならぬ」と絶賛する(p53)。また芸術上の模倣を全面的に肯定している。「…模倣の善悪は模倣そのものにあるのではない。理解の深浅にあるはずである。よしまた浅い理解にもせよ、無理解に勝るといわなければならぬ。中略  いわんやこの理解の透徹した時は、模倣はもう殆ど模倣ではない」(p48)。

 岩見重太郎については、「
…我々の真に愛するものはこの強勇の持ち主である。常にこの善悪の観念を脚下に蹂躙する豪傑であった」と豪傑崇拝を述べている。

「西方の人」「続西方の人」はキリスト及びキリスト教論で、合わせて本書の半分を占める。聖書を読んでいないので理解出来ないことが多い。なかで目についたのはキリストを偉大なジャーナリストだとしていること。「
彼は実にイスラエルの民の生んだ、古今に珍しいジャアナリストだった。同時にまた我々人間の生んだ、古今に珍しい天才だった。「予言者」は彼以後には流行していない。しかし彼の一生はいつも我々を動かすであろう。彼は十字架にかかるために、――ジャアナリズム至上主義を推したてるためにあらゆるものを犠牲にした。」(p157~)。

 芥川の文章を入力していて、主格の助詞として「が」ではなく「の」が使われているのが目についた。俳句では「が」を避けて「の」を使うことが勧められている。自らもたくさんの俳句を作った芥川ならではの用法だと思う。

 なお、著者名が本書では「芥川龍之介」ではなく「芥川竜之介」となっている。

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書名 藤壺 著者 瀬戸内寂聴 No
2018-17
発行所 講談社文庫 発行年 2008年 読了年月日 2018-06-21 記入年月日 2018-06-27

 ドコモのgaccoというサイトで、「男と女の文化史」というのを学んだ。東北大学の先生方が講師で、『源氏物語』、江戸時代の遊女の狂歌、ドイツ文学に現れた男を滅ぼす女、古代ギリシャにおける男と女という、4つの講義があった。各講義は2時間に及ぶ中身の濃いものだった。

 『源氏物語』はその文献学的研究が述べられ、本文には何種類かあること、今はないが、かつては存在したと思われる巻があること、空白部を補うものが後世に作られたこと、続編と思えるものも作られたこと、などが講義された。

 『源氏物語』の桐壺の巻と次の帚木の間に「輝く日の宮」という巻があり、そこでは光源氏と義理の母の藤壺との密通が語られているとの説が古来からある。gaccoのこの講座では、その説を否定し「輝く日の宮」はなかったとしている。ただ、丸谷才一や瀬戸内寂聴などの作家はその巻があったとし、その再現を図っているとの説明もあった。丸谷才一の『輝く日の宮』は既に読んだが、寂聴の本書は初めて知った。

 寂聴は本書を連載中に丸谷の『輝く日の宮』が出版されたことを前書きで述べている。そして、これは丸谷才一の作品の中でも最高のものであると絶賛している。

 寂聴の『藤壺』は比較的短い。源氏が藤壺に仕える王命婦という女房の手引きで、藤壺に忍び込み、一夜を共にするというストーリー。

藤壺の宮の胸の宝珠は、源氏の君の知っているどの女人のそれよりも豊かで美しくまろやかでした。そのお胸の上に御顔を埋められると、覚えのない亡き母上のお肌のぬくもりや匂いもこのようであったかと、源氏の君は、いっそう涙にむせびかえっていらっしゃます。

 クライマックスの描写だ。さすがに寂聴という語りだ。17歳の源氏が10歳年上の王命婦を口説いたのも男女関係を通してであった。「
…体で結ばれれてしまえば、どの女もみなどのような要求にも応じてくれるということを源氏の君は覚えました。

 現代文の他に、専門家の助けを借りた寂聴自身による古文も載せられている。読みやすい古文だ。

 やがて皇位に付く藤壺の産んだ子供が、自分の子供ではないかという疑念は光源氏を生涯悩ます、『源氏物語』の通奏低音になっている。その極めて重大な事件がまったく触れられていないのはおかしいと思う。専門家の間では「輝く日の宮」は存在しないことになっているらしいが、私自身はあったのではないかと思う。

 丸谷才一は「輝く日の宮」の巻が削除されたのは、『源氏物語』執筆のスポンサーでもあり、また紫式部の愛人でもあった藤原道長が、余情を持たせるために、この巻はない方が言ったからだろうと推測する。一方、寂聴は「輝く日の宮」を読んだ一条天皇が、余りにもタブーに触れる内容だとして、削除を命じたのだろうと推測する。この件に関しては、私は寂聴説を支持する。

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書名 芭蕉の言葉 著者 復本一郎 No
2018-18
発行所 講談社学術文庫 発行年 2016年3月 読了年月日 2018-07-08 記入年月日 2018-08-28

『去来抄』の解説を通して、芭蕉の俳句、連句に対する考えを解説。『去来抄』の原文を載せ、次いで講評を載せる。抽象論ではなくて、具体的な例を挙げて、芭蕉の推敲課程が示されていて、わかりやすくまた作句上の参考になる。

例えば名称俳句の詠み方・読み方 p32)
 行春をあふみの人とをしみけり   芭蕉

 この句について、近江の住人で門人でもある尚白が、近江でなくて丹波でもどこでもいいし、行く春ではなくて行く年でもいいではないかと批判した。それをどう思うかと芭蕉は去来に聞いた。去来は湖水朦朧として春を惜しむまさに今の近江を詠んだものであり。尚白の非難は当たらないと答えた。芭蕉はそれに対し「しかり、古人も此国に春を愛すること、をさをさ都におとらず」と言った。芭蕉のこの言葉は、もちろんこの句は眼前の風景を詠んだものであるが、単にそれにとどまらず「近江」と「古人」との関わりをイメージして詠んだというのだ。近江は単なる名勝ではなく歌枕でもあったのだ。去来は芭蕉の言葉に対し「此一言、こ々ろに徹す」と感嘆する。長谷川櫂は『芭蕉の風雅』の中で、単なる写生だけに流れている現代俳句を、厳しく批判しているが、櫂の主張の源流には芭蕉のこの考えがあったのだろう。この項の終わりには「汝や去来、ともに風雅をかたるべきものなり」と芭蕉の言葉を載せる。こうした得意になってるところが、そのほかにいくつかある。

 後半部には連句についての芭蕉の言葉が述べられ、一句の取捨に芭蕉が苦心している様が分かる。

『去来抄』の解釈には今もっていろいろな解釈があり、著者も独自の解釈を所々で述べている。芭蕉の肉声が聞こえる『去来抄』には江戸時代からすでにいくつかの注釈本が出ているという。

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書名 俳句の誕生 著者 長谷川櫂 No
2018-19
発行所 筑摩書房 発行年 2018年3月 読了年月日 2018-07-14 記入年月日 2018-08-29

 朝日カルチャーで長谷川櫂の「芭蕉と平家物語」という講義を聴いた。教室の出口に本書が平積みされていた。買い求めて、講義終了後、櫂にサインをもらった。太い銀色インクのマジックで、さらさらと表紙裏見開きを使ってサインした。「ぽうとして遊べば我も桜かな  櫂」。

 3月に同じ朝日カルチャーで、櫂の「奥の細道への旅 詩と酒と旅と恋と死と」という講義を聴いた。そのなかで、櫂は詩というのは心が肉体を離れたような状態、幽体離脱の状態の時生まれる。西行も芭蕉も牧水も皆、ぽーとする人だと述べた。上句はそのことを詠ったものだ。「芭蕉と平家物語」では、歴史の区分として近代を明治維新以降としてるのは正しくない、近代は江戸後期、文化が大衆化した大御所時代から始まると述べた。櫂独特の考えではないだろうが、私も同感である。

 138ページ以下に次のように述べる:
 
・・・子規が説いた写生という方法にしたがって眼前のものをそのまま描くだけでは俳句はできない。それが不可能なことは俳句を少しやってみれば誰でもすぐ気がつく。ガラクタを描いたガラクタのようなガラクタ俳句ができるだけである。言葉は「人の心を種として」(『古今集』仮名序)、つまり言の葉は人の心という種から生じた樹木に生い茂るという紀貫之の名言を待つまでもなく、言葉は心に発し、心に届くものだからである。俳句が誕生するには凝視と集中ではなく、想像力(イマジネーション)の働き、ぽーっと心を遊ばせる放心こそ必要なのだ。子規は写生を唱えたとき、この想像力という言葉を完全に度外視していた。

 140ページ以下には想像力について:
 
さまざまの事おもひ出す桜かな   芭蕉
 桜という言葉は桜という植物を指し示すだけではない。桜にまつわるさまざまな記憶を花吹雪のように蘇らせる。これが言葉の想像力というものである。俳句、短歌、詩などの詩歌はこの言葉の想像力が織り出す想像力の賜物なのだ。ではリアリズムは言葉の想像力とどう関わっているのか。子規は想像を排して眼前にあるものを言葉で描く、それが写生であると説いた。そこでは想像力とリアリズムは対立する選択肢と考えられていた。
 中略  子規が写生の先例として『万葉集』の歌や凡兆や蕪村の俳句を引き合いにだすことができたのは、それらの和歌や俳句がもともと言葉のもつ描写の力を備えているからである。子規は言葉が本来もつ描写の力を「写生」と名づけただけのことではなかったか。
 こうしてみると、言葉の想像力を表現する方法の一つとしてリアリズムという方法があることがわかる。リアリズムだけが想像力の表現方法ではないということである。想像力とリアリズムは子規が考えたように二者択一の対等な両極ではなく、リアリズムつまり写生は言葉の想像力の表現方法の一つ、つまり想像力のしもべにすぎない。


 最後の第9章「近代大衆俳句を超えて」では虚子についても言及されている。
 客観写生、花鳥諷詠のほかにも虚子は漢字四文字の熟語を次々に作り出した。これらの四文字熟語は単に虚子の趣味だったのではなく、じつは膨張しつづける俳句大衆を束ねる近代特有の標語であった。(p166)

 
虚子の標語に導かれているかぎり俳句大衆は当然、客観写生の枠内、花鳥諷詠の枠内の俳句しかできない。しかし虚子だけは標語を超える俳句を詠んだ。(p167)
 そして  初空や大悪人虚子の頭上に
 以下5句をあげて、客観写生などどこ吹く風、花鳥諷詠など忘れたかのような句を残していると述べる。虚子の句は一物仕立ての句で、一句の中に切れがありそこに心を遊ばせる句ではなく、一句全体で心が遊んでいる句だとする。虚子がこのような句を詠むことが出来たのは、想像力を自由に働かせ、言い換えれば心を自由に遊ばせたからである。虚子の批判者たちが犯した過ちは、大衆指導者としての虚子とは別の俳人虚子がいることに気がつかなかったことである。その典型として、水原秋桜子をあげている。

 虚子以後、櫂が高く評価しているのは加藤楸邨と飯田龍太。

 
虚子の真の批判者となり、同時に虚子の真の後継者となったのは加藤楸邨(一九〇五-九三)、次いで飯田龍太(一九二〇ー二〇〇七)の二人である。どちらも秋桜子のように浅はかに虚子を攻撃することはしなかったが、虚子のような俳句大衆の指導者にもなろうともせず、作家としての俳人に徹した。その生き方自体が虚子に対する無言の批判だったのである。そして二人とも言葉の想像力を自在に遊ばせて俳句を詠んだところが共通している。それは虚子の俳句の詠み方でもあった。(p169)

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書名 日本問答 著者 田中優子、松岡正剛 No
2018-20
発行所 岩波新書 発行年 2017年11月 読了年月日 2018-07-24 記入年月日 2018-08-29

 岩波新書にしては分厚く、350ページ近くある。
 表紙には「日本を問答しあって、日本に問答をふっかける」とある。

 二人の対談。こうした対談形式の本は読みづらい。それでも読み進めてゆくうちに慣れて来る。博識の二人が展開する日本の歴史、社会、文化、国家と多方面にわたり見識が披瀝される。まとめてどうのこうのといえる本ではない。断片的に興味あるところをいくつか拾ってみた。

 6世紀から8世紀にかけて関東地方に主として朝鮮系の渡来人が続々入居してきたとした後で、次のように語る。

(田中)
こうして埴輪、土器、墳墓の技術者である土師臣真中知(はじのおみのまつち)と檜前浜成(ひのくまのはまなり)、檜前武成(ひのくまのたけなり)が入植したのが浅草ですね。かれらが浅草三社祭の「三社」となった。おそらく三人ではなく、一族の入植者でしょう。この帰化人たちが観音信仰をもってきて、その信仰拠点が浅草寺になった。待乳山聖天(まつちやましょうてん)は真中知(まつち)と深いかかわりのある寺院ですね。また武蔵一帯に入った入植者たちによって、高麗郡が形成されて高麗絹が織られ、多摩地域の麻布生産が始まったとされています。(p57)

 博識の二人とはいえ、知らないこともある。日本国家の成立について論じているとき、「国家」は明治になってステートを訳したものと思われるが、誰だろう、福沢諭吉か、徳富蘇峰かと疑問が出る。松岡が調べると、驚いたことにこれは聖徳太子の十七条憲法にすでに出ていた。「百姓有礼、国家自治」。田中はそれを聞き、やはり日本国のシステムは聖徳太子が土台を作ったともらす。さらに調べてみると、平家物語でも使われている。大本は『易経』のようだというので調べたら、孔子の言葉として国家が使われていた。(p83~)

 本書の真ん中あたりには「日本の儒学と日本の身体」と題して、江戸時代の儒教、神道、国学のことが論じられる。
 松岡によれば、家康は中国との関係において、つまりグローバルな関係において対外的にも通用する正統性を作ろうとした。その手段として、正統性に必要な不変原理として林羅山に朱子学をマスターさせた。(p167)

 家康が亡くなったとき、その称号を巡って神道の流派の間でもめる。「明神」を主張する一派と「東照大権現」を主張する一派。結局後者が勝つが、その一因はすでに秀吉が「豊国大明神」とされていたからだろうという。明神も権現も日本独特の神仏複合的イコンである。(p169)

 田中は「からごころ」(漢意)を発見したのが本居宣長の功績だという。(p179)

 上田秋成が「アマテラスが全世界を照らす神だと言うのは無理がある」と宣長を批判したが、宣長はそういう合理的論理的な思考こそ漢意だと考えた。

 田中は続けて言う。
私は、日清日露から太平洋戦争に至る過程は、日本が強くなった過程ではなく、混乱の過程だと考えています。「おおもと」を見る努力を放棄し、たんに競争しつづけてきた。青山半蔵のような野の国学者が夢見た「直さ」(なおさ)は、儒学がめざした政治思想でも倫理や道徳でもなく、生命の自然のあり方が言語化されたものなのです。「もののあわれ」もそうです。そう考えると国学の姿勢は本来アナーキーなもので、生物学、植物学、生態学、環境学、生命科学、宇宙物理学、民族学、そして国家自治の考え方に、西欧とは異なる方法をもち込む可能性をもったものだと思います。つまり江戸時代は、日本が独特の方法をもつ千載一遇の機会だったんです。けれどもそうはならなかった。(p185~)。田中優子独特の江戸時代観だ。

「個」のなかにもデュアルがある、という小項目では、日本人のメンタリティーに迫っている。

(田中)
ひとりの人間のなかにいくつもの自己があり、感情があり、論理があって、それらがつねに葛藤している。それが近世日本が発見したことだったと思うんです。とくに江戸の庶民は、正義や聖人などより、お互いをどう思うかということがよほど大切だった。

(松岡)
まさに近松や南北は「惻隠」をとりあげて気分や気持ちのデュアリティを心情あふれるストーリーにしましたね。それを、場面のなかにすべてを物語手法で表現した。ぼくは、場面性に何かを託すというのも日本文化の大きな特徴だと思っているんです。歌舞伎がなぜあのように、見得を切るのか、なぜそこでは大向こうから声がかかるのか、あるいはなぜそういった部分だけを取り出して写楽が役者絵を描くことができたのか、そこに決定的場面というものをつくりあげているわけでしょう。観客もその一場面で惻隠の情を感じられる。歌舞伎だけでなく、和歌も俳諧も場面です。それはもともと日本が得意としていたもので、それがないと生け花も茶の湯も生まれなかったんじゃないかと思う。(p252)

 ここで、松岡が「仮名手本忠臣蔵」を鶴屋南北の作のようにとらえているが、間違いだろうと思ってネットで調べた。鶴屋南北の作品に『菊宴月白浪』があり、これは仮名手本忠臣蔵の悪役、定九郎を正義の忠臣として扱った作品であるとあった。つまり、日本人のデュアルなメンタリティーの例として言いたかったようだが、説明不足であり混同している。

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書名 井原西鶴 著者 森銑三 No
2018-21
発行所 吉川弘文館 発行年 昭和33年 読了年月日 2018-08-10 記入年月日 2018-08-30

 本書が著された時点(昭和33年)では、西鶴の伝記といえるものは一編も作られていないと著者は言う。西鶴に関する本はたくさんあるのに、その生涯についての資料は乏しいからだ。

 本書は『好色男一代記』を西鶴の生い立ちが反映されたものとして、その生涯を追っている。例えば、西鶴の父は大阪の商人だったのではないかという説も、『好色男一代記』の世之介には金銭を毛嫌いすることはあっても拝金思想はないから、商家の出とは考えにくいという。

 著者は『好色男一代記』を西鶴の最高傑作として絶賛し、それ以外の作品のほとんどを、西鶴が書いたのではないと推定している。極めて大胆で、ユニークな伝記。その論拠は『好色男一代記』に比較して、芸術性が低い、あるいは表現、用語が異なることをあげる。本書の至る所で、他の研究者、従来の説への批判が展開される。

 著者によれば西鶴の作品の多くは弟子の団水が書いたもので、西鶴は手直し程度、あるいは跋文を書く程度の関与をしたに過ぎないという。著者が団水作と見る作品には、手厳しい批判を加えている。もし、それらの作品が従来の通説通り実際西鶴の作品であったら、本書以上に厳しい西鶴批判はないだろう。

 西鶴はかなり裕福な家に生まれ、恵まれた環境で水準以上の教育を受け、習い事などで高い趣味を身につけていっただろうという。これも世之介の生涯からの類推である。西鶴には兄弟姉妹があったとは考えにくいという。二十才過ぎには俳人としてすでに名をなしていた。本書を読むと、西鶴は物語作家と言うより、俳人とて名をなしているように思える。しかし、著者は西鶴の俳句を全く評価しない。そもそも西鶴の時代の俳諧は全体としてレベルの低いものであったとする。

 とはいえ、『好色男一代記』という芸術性の高い一作は西鶴としては俳諧の延長であり、長年の俳諧修行の上に出来たものであるという。具体的には西鶴の俳諧には古歌と謡曲からの文句を使用した句が多い。『好色男一代記』にも古歌と謡曲の文句が多数使用されている。西鶴の俳句と言えば、矢数俳句が有名だ。3回の興業があり、最後は貞享元年6月5日住吉社前において、一昼夜に2万3500句をはいた。1分間に16~17句をはいたことになる。西鶴43歳である。西鶴の精力家であったことは認めるが、それ以外に賞賛するすべを知らないと著者は言う。書き取るのが出来ないので、ただ棒を引いて数えていったという文献もあると言う。この矢数興業には江戸から其角も来ていた。西鶴も其角も都会派の俳人で、人事俳味の俳人であったという。

 著者は『諸艶大鑑』以下21の著作を西鶴一人の手になったものではなく、西鶴関与作品として挙げている。その中には『好色五人女』『好色一代女』『日本永代蔵』『胸算用』など、よく知られた作品も含まれる。本書の後半はこれらの作品が、なぜ西鶴一人の手によるものではないかの、細かい論証に当てられる。

 例えば。『本朝十二不孝』は弟子の言水の作だとする。内容が不孝者が最後は天罰を受けるという、結末の見え透いた話ばかりで、ご都合主義的、教訓的読み物である。西鶴が『好色男一代記』で道徳から解放された新文学を創始したのに、団水は師に学ぶことをせず、時代を逆転したようなものを作った。団水は芸術家ではなく、職業作家以上には出られなかった(p200)。

 西鶴没元禄6年(1692年)、52歳。「辞世、人間五十年の究り、それさへ我にはあまりたるに、ましてや」と詞書きして「浮世の月見過しにけり末二年」。「
人生を味わい盡した人間として、西鶴は思い残すところなく、平静な心持ちで瞑目したもののように解される」と著者は言う。

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書名 いのちとかたち 著者 山本健吉 No
2018-22
発行所 角川文庫ソフィア 発行年 平成9年 読了年月日 2018-09-11 記入年月日 2018-09-24

 『天為』八月号に「俳句・神話・造化」という評論が載っていた。著者は山崎好裕という人。そのなかで本書のことが詳しく紹介されていた。

 本書のサブタイトルは「日本美の源を探る」。文庫本450ページを超える広範囲にわたる日本文化論。内容が豊かでとてもまとめるわけにはいかない。巻末にある著者自身による解説をもってそれに代える:

 
このエッセイは、露伴の『連環記』のように、主題がたがいに鎖のようにつながりながら、押し移って行く形を取っている。那智滝の自然からはいって、アンドレ・マルロオの日本美術観に添って、隆信の肖像画における「いのち」と「かたち」、「たましいひ」と「かげ」の考察に向った。そして、隆信が最勝光院に描き出した公卿たちの「影(えい)」が、あまりに如実に描き出されているので、「荒涼」だとして非公開になったという「玉葉」の記事を知って、強う衝撃を受けた。それは私を、いろんな考察に導いた。私は、日本の画にはどうして「影(かげ)」が書かれなかったのか、と素人っぽい質問を発したりした。それに、伝隆信筆の三つの見事な肖像画から、今は失せた後白河院と業房と「影(えい)に思いを馳せ、院と業房とその妻栄子との奇怪な三角関係に思い到り、第三章でしばらく史的考察に遊んだのは、このエッセイの主題から言えば寄り道だが、心構えからすれば、必然のなりゆきだったと思っている。

 第五章から、ようやく文学談にはいり、源氏物語から「たましひ」論の源に尋ね入って第十二章に及び、この部分がこのエッセイの、最もふくらんだ頂上をなしているかも知れない。紫女について語れば、清女についてもだまっていられないのが、日本人の性(さが)で、清女の弁護論を展開しているうちに、「枕」の考察となり、さらに「枕ごと」から、枕詞、歌枕に移って、和歌という特殊な詩型の器を充たすものは何なのか、私の歌論の中心部分にはいる。そこで俳諧の論に移れば、私の連環は完全だったかも知れない。だが、この点について私は、これまであまりに書き過ぎた。私はこの論題は跳び越えて、花と茶と能という、日本にだけ成立した特殊な藝術の三つのジャンルに言及することで、私の連環巡遊の幕を閉じた。最後に能舞台に実現された「たましひ」と「かげ」についての私見を言い、このエッセイを主部順応せしめることが出来、那智滝図で結ぶことが出来たのは、予期しないめぐり合せと言ってもよかった。

 中心部をなすのは恩師である釈迢空を通しての『源氏物語』を論じたところであろう。あるいは『源氏物語』を通して釈迢空を論じていると言ってもいい。

 興味深かったことを一つあげるとすれば、「大和魂」という言葉は、『源氏物語』が初出であること(p132~)。「少女」巻に「なほ才(ざえ)をもととしてこそ、大和魂の世に用ゐらるるかたも強うはべらめ」とあり、それ以外には出てこない。源氏が息子の夕霧の教育方針をめぐり、亡き妻、葵の上の母親と話し合う場面で出てくる。紫式部の見方である。山本健吉は、式部がこう言ったのは、政治権力を巡る藤原道長と伊周の争いを背景にしているという。才はあってもたましい、大和魂に欠けていた伊周は道長に勝てなかった。『源氏物語』には1回しか出てこない言葉であるが、当時の貴族社会では広く言われていたのではないかと山本は推測する。

 作者は述べる:
ところで伊周はある種の「ざえ」にすぐれていたが、「やまとだましひ」については完全な欠落者であった。源氏流に言えば、「ざえ」をもととして「やまとだましひ」を強く強固(かた)めることを怠った、といえるだろう。伊周が身につけた「ざえ」は、遊びの世界、悦楽の世界でのそれで、源氏が言う「ざえ」は「世に用ゐらるる方」、すなわち人生的次元においてのそれであった。源氏物語の世界と枕草子の世界と、あるいは上東門院彰子のサロンと中宮定子のサロンと、御堂関白家の家風と中関白家の家風とは、このような、言ってみれば「やまとだましひ」と「ざえ」と、異質の心構えを根底に置いている点で、まったく対照的であった。

「やまとだましひ」は摂関家が持つべき生得的な器量と考えられていたが、本来は天皇の資質に付随するものであり、天皇に対して言われるべき言葉であった。天皇に対しては別の言葉で言われていたが、それは霊的な威力についての言葉であり、口にするのがタブーとされた。それに代わって用いられたのが「やまとだましひ」であろうという。その言葉とは「稜威(いつ)」という古語であったろうという。

 著者にこの推測の糸口を与えたのは、光の君の内から発してくるある威力を具体的に描ききった源氏物語の世界であったという。

 
光の君の性格に、われわれ近代人のさかしら心では、わけの分からないことがいろいろある。その一端を、私は「若菜」の巻の一節の箋を書きながら、指示しておいた。(柏木を死に追いやったこと)。そこに、「やまとだましひ」の古義があった。それは、もっと別の言葉で言われたはずであった。それは歴史上の人物の、時平にも道隆にも道長にも現れているが、彼等よりもいっそう生き生きと、虚構である光の君存在のなかに籠められていた。(p196~198)。

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書名 分光 著者 津久井紀代 編著 No
2018-23
発行所 発行年 2018年8月1日 読了年月日 2018-09-21 記入年月日 2018-09-24

 有馬朗人を読み解く⑦。朗人の第7句集「分光」を何人かの天為会員が、鑑賞し、解説したもの。それぞれの。鑑賞は深く、詳しく、よく朗人を理解しているのは、今までのシリーズと変わらない。

 2001年から2005年までの424句が巻末に載っている。最近の朗人の句はとは少し傾向の違う句が目につく。俳諧味のある句、くだけた句、もっと言えば俗っぽい句がかなりある。

春曙火の玉となる赤ん坊
天上天下赤ん坊泣く麗かに

 初孫の句である。宇宙の中で赤ん坊をとらえていて、孫に抱くベタベタしか感情などない。

ひざにゐて猫涅槃図に間に合はず
マフラーはいつも忘れるためにある
我ならば討入りの日に落伍せん
逝く年のまたもボタンの掛けちがひ
幽霊は美人に限る夕牡丹
治聾酒と言ひて禁酒を破りけり
嚔してもう一人来る予感

 人間朗人が詠まれている。最近はほとんど見ない句だ。

島の灯のほつほつと入り守宮鳴く
一汁と二菜に三寒四温かな
闘牛の牙の西班牙葡萄牙
初夏やあいうえおもちゃ箱を開け

 オノマトペあるいは言葉遊び

富士暮れる色は茄子の一夜漬
若鮎の鰭新月の鋭さに

 比喩の斬新さ

かくなれば黴ることなし頭蓋骨
万骨の一骨として花火殻

 不気味な雰囲気を醸す句

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書名 神のいたづら 著者 津久井紀代 No
2018-24
発行所 ふらんす堂 発行年 2018年8月 読了年月日 2018-09-26 記入年月日 2018-09-27

 天為同人津久井紀代さんの第4句集。2002年から2018年までの350句を納める。
 平明な言葉で綴られた、軽やかな俳諧味。季語の絶妙な飛び方に思わずうなり、学ぶところが多い。動物の句が多いのも作者の特徴。
 目についた20句:

秋の蛇待つ人のゐてまつしぐら
青草を摘む鬼婆とならぬやう
噴水の筋金入りの上がりやう
鮟鱇も母も大きな肝つ玉
休みたき蟻もあるらむ蟻の列

綿虫にぶつかりそうでぶつからぬ
春は曙トーストが世に飛び出して
蝌蚪の紐神のいたづらかも知れず
蝌蚪の紐アインシュタインなら解けさう
帳簿より消す牛の名や浮いて来い

春の水地球に出口なかりけり
天渺渺地の一点をなめくぢり
東京は終の止まり木黒ビール
くちなはのどこまでが喉どこまでが腹
子規の忌のすこし厚めの麺麭とジャム

火星まで水を探しに旅始
鶯餅鳴き出さぬやうつまみけり
受付にロボットがゐる寒さかな
魂あるとせばこの一本の夕櫻
人の世に巣箱を掛けて兜太逝く


 帯に著者自身による自薦15句が載っている。上掲の句とは3句しか一致していなかった。俳句とはそんなもの。

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書名 我が道、我が信条 著者 有馬朗人 No
2018-25
発行所 春秋社 発行年 2016年12月 読了年月日 018-10-29 記入年月日 2018-10-30

 表題通りの有馬朗人の半生と信条を述べたもの。私は天為主宰としての俳人有馬朗人しか知らないが、本書を読んで、あらためてすごい人だと思った。原子力物理学者、ノーベル賞受賞者らとの研究を通しての交流、海外からの数々の名誉博士号、東大総長、参議院議員、文部大臣、理化学研究所理事長。アメリカの大学では教鞭も執った。原子力物理の分野では、文化勲章を貰い、ノーベル賞候補にもなった。そして俳句。私などとても足もとにも及ばない輝かしい経歴だ。それにしては、句会を通して接する有馬朗人は、少しも偉ぶったところがない。穏やかな語り口で、長年の句友にはファーストネームで話しかける。米寿の今年も、過密とも思われる日程をこなし、スエーデンや中国に出かけて、8月の酷暑の盛りを、2日間東京での天為夏期鍛錬会で私たちを鍛える。

 朗人は父親を早く亡くし、経済的には恵まれていなかった。旧制の中学時代から、東大の大学院時代まで、家庭教師などのアルバイトをして家計を助けた。アメリカへの留学、あるいはアメリカでの教職を通じて、日本の教育にかける金の少なさを痛感し、帰国後はことあるごとに教育の充実、大学の改革、科学技術研究の充実を主張した。それがもとで、東大の総長になり、参議院議員に担ぎ出され、あげくは文部大臣までやることになった。

 要約すると、これが朗人の半生。本書は多分、有馬朗人が語ったことを編集者が文章にしたものだろう。

 研究の中身についてもかなりの紙数をさいて述べている。詳しくは理解出来ないが、大きく言えば原子核の模型に関する研究。有馬らの唱えた理論の一つは、認められるのに20年かかったという。ノーベル賞候補になったのは「相互作用するボゾン模型」というもので、これはイタリアの研究者ヤッケローとの共同で発表したもの。
 私の属する句会が丹沢山麓への吟行に有馬主宰を招いたことがある。帰りの小田急で隣に座り、30分ほど話した。めったにない機会だったので、思い切って私が常々抱いている素朴な疑問、究極の素粒子と言われるものもさらにそれを構成する素粒子があるのだろうかと聞いてみた。「もう一段下の素粒子がありそうだ」という答えが返ってきた。

 有馬朗人は原発推進論者である。最大の理由は、化石燃料に依存していては温暖化の進行はくい止められないと言うことにあるようだ。火力発電とて、安全に運転されるようになるためにはかなりの時間を要した。だから原発も長い経験の後には今の火力発電のように安全なものになるという。東日本大震災の際の福島原発事故にも触れているが、事故があそこまで大きくなったのは政府と東電の対応のまずさであったと指摘する。もっと迅速に専門家を招集し、その意見を聞いていれば、別の対応が出来たはずだという。

 有馬朗人には、科学技術に対する全面的な信頼がある。私は科学により自然がすべて解明されるとは思わない。人間にとって自然は想定外に満ちたものだ。


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書名 天災から日本史を読み直す 著者 磯田道史 No
2018-26
発行所 中公新書 発行年 2014年11月 読了年月日 2018-11-05 記入年月日 2018-11-28

 毎週木曜日の朝9時からNHKBSの「英雄たちの選択」は必ず見るテレビ番組だ。司会は磯田道史。歴史や政治、哲学、心理学などの専門家、あるいは作家など、3人が毎回出て、歴史の決定的瞬間にどう決断するかを述べる。磯田は進行役であるが、最後には自分も意見を出す。磯田の視点が従来の常識的な視点からは少し変わっていて、斬新で興味深い。今売れっ子の歴史家。まとまった著作は読んだことがないので、まとめて3冊を購入して読んだ.いずれも、かなりの版を重ねたベストセラーである。

 まえがきで著者は言う:「
すべての歴史は現代史の一部である。」「震災後の歴史学、いや科学全体は自然に対する人間の小ささを謙虚に自覚せねばならぬであろう。」「過去から我々が生きるための光りをみいだしたい。

第1章 秀吉と二つの地震
 豊臣政権の終焉と大地震と結びつけている。災害が歴史を変えうると言う例であり、歴史読み物としてはこの章が一番面白い。天正地震はグレゴリオ暦1586年1月18日に起きた。発生時刻を特定するために、著者は当時のいろいろな記録、日記類に当たっている。子供の頃から古文書を読むことが大好きであったという著者だから、本書には至る所に古文献の引用が出てくる。史料にしっかりと基づいて、書かれている本書だ。当時時計が普及していなかったので、天正地震の起こった正確な時刻は、古文書によってかなり差があるようだが、一応午後11時頃だろうという。

 信長の死後4年、この地震の2ヶ月後に秀吉は大軍を以て、三河に攻め入り家康を討ち取るつもりだった。しかし、美濃、近江を襲ったこの地震で、前線基地であった大垣城が崩壊し、兵糧米などが失われ、坂本城にあった秀吉は、大阪城に逃げ帰ってしまった.こうして、家康は命を長らえた。

 伏見地震は1596年9月5日。伏見城にいた秀吉は危うく命を落とすところだった。そのときの秀吉と城内の様子は18ページ以下に詳しく書かれている。

 時計については以下のように言う:
前近代社会では、身分による時間知識の差が絶大である。聖職者が鐘をついて時刻を下々のものに知らせる時間知識のエリートの地位を失ったときこそが近代社会の到来である。(p4)。

 2011年の東日本大震災への対応の不手際を問われたことが、民主党が政権を追われた大きな要因の一つである。そのあとに出来た安倍政権は、日本の進路を大きく変えた。後世の歴史家は、天災が歴史を変えたという一例として、東日本大震災をあげるだろう。

第2章 宝永地震が招いた津波と富士山噴火
 こうした災害時のおける、幕府と各藩との情報伝達の仕組みが出来ていたという。(p55)

第3章 土砂崩れ・高潮と日本人

第4章 災害が変えた幕末史
 台風の被害が藩政改革をもたらし、佐賀藩が幕末最大の軍事大国となった。

第5章 津波から生きのびる知恵

第6章 東日本大震災の教訓
 前章と合わせて、学ぶべき教訓が具体的事例として、数多くあげられる。


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書名 武士の家計簿 著者 磯田道史 No
2018-27
発行所 新潮新書 発行年 2003年4月 読了年月日 2018-11-09 記入年月日 2018-11-28

 おそらく著者の本では一番知られているもの。同名で映画化もされている。

 平成13年に、神田の古書店で手に入れた「金沢藩士猪山家文書」が元史料。天保13年(1842年)から明治12年(1879年)までの家計簿で、幕末武士が明治士族になるまでの詳細で、完璧な記録。武士の暮らしぶりが具体的に分かる。

 猪山家は代々続く金沢藩の御算用係、つまり経理係である。金沢藩のような大きな藩には御算用係が150人もいた。猪山家の男子は代々優秀な御算用係であった。7代目猪山信之は養子として猪山家に婿入りした。彼の時に江戸勤務を命じられた。そして、将軍家斉の娘溶姫と藩主前田斉泰との婚儀の準備係であった。東大の赤門はこの婚儀のために作られたものだ。藩財政の苦しい中、信之はこの役目を果たし、これまでの切米50俵から70石の知行へと加増され、溶姫のソロバン係となる。

 だが、加増されても生活は楽にはならなかった.むしろ困窮した。それは江戸勤務に伴う諸費用の増加による。そのため猪山家では、親類や同僚から、多額の借金をする。信之の息子直之は、借金整理のための一大決意をする。そのためにこの詳細な家計簿が残された。62ページと63ページにはこのときに売り払われた家財や衣類88品目の当時の値段と現代価格とが掲載されている。一番高いのは信之の茶道具(古膳碗等)で、銀275匁、現代価格110万円である。ついで、直之妻の小袖が155と105匁。この3点が100匁を超えている。衣類の高いのに驚く。

 猪山家の年収は1742万円、それに対して当主直之の小遣いは、月に5840円だという.直之は草履取りを連れて出かける身分であったが、草履取りの方が自由になる金は多かった.さらに、こうした使用人たちは、親元には田畑があり、いかに主人が金を持っていないかを知っていたという。
続けて:
 このような武士と百姓の関係は、なにも猪山家に限ったことではない。外見からすれば、武家は立派にみえるけれども、経済的には泣いていたのである。
 このことは江戸時代に平和と安定が永く続いたことと無関係ではないように思える。江戸時代は厳しい身分制といわれながら、ついに農民革命はおきなかった。たしかに百姓一揆は起きた。しかし、これは生活のために年貢の減免をかかげるものであって、武士身分から政権を奪取しようというものではない。江戸時代は商人や農民が武士を打ち倒す「革命」でおわったのではない。主に武士身分の内部から発生した「維新」の働きによって終焉したのである。

 
考えてみれば、江戸時代は「圧倒的な勝ち組」を作らないような社会であった。中略 商人は大金持ちだが卑しい職業とされ、武士の面前では平伏させられ、しばしば武士に憧れの目をむけていた。献金して武士身分を得ようとしたりする。江戸時代はまったく不思議な社会である。
 このように権力・威信・経済力などが一手に握られない状態を社会学では「地位非一貫性」という。江戸時代はまさに「地位非一貫性」の社会であった。
(p89)

 著者は、地位非一貫性を江戸時代の社会の安定性の一因と考えている。

 維新後、士族となった猪山直之の息子成之は官員への道を選び、海軍の会計事務を担当する。その子供たちにも祖父の直之が徹底した英才教育を施し、2人とも海軍官僚になる。
教育して官僚・軍人にして身を立てさせる。特に明治初年の士族はこの教育エネルギーが絶頂に達していた。日本近代の歩み、日露戦争を実質的に担った年齢層の将校達は、多かれ少なかれ、江戸時代の生き残りの父や祖父から、このような教育を受けて育っていた。この士族の家庭教育は、日露戦争の勝利に欠かせない要素となったが、その後の日本社会の進路に大きな弊害をもたらしたのも事実である。(p209)

 一つの事柄を両面から見ることは著者がよくやることで、それが私が磯田ファンである理由の一つだ。

幕末の武士と異なって、明治官僚には身分費用を大きく上回る身分収入が与えられた。海軍官僚としての成之の身分費用は、洋服費用に家来の人件費・食費を加えた金額であり、200円ほどになる。これに対して、身分収入は1200円ほどである。明治官僚は幕末武士に比べて、はるかに旨味のある「お得な身分」であった。(p203)

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書名 殿様の通信簿 著者 磯田道史 No
2018-28
発行所 新潮文庫 発行年 平成20年10月 読了年月日 2018-11-14 記入年月日 2018-12-25

『土芥寇讎記』(どかいこうじんき)という全国の大名の領国支配や個人的な行動を隠密が探索したものをまとめた書物をもとにして、本書は書かれている。『土芥寇讎記』は元禄時代に出来、現在は東京大学史料編纂所にあるのが唯一の原本で、文字通り大名の通信簿。幕府隠密というのは時代劇に出てくるが、実際にこうした活動をしていたのだ。

目次は次のようになっている:
徳川光圀……ひそかに悪所に通い、酒宴遊興甚だし
浅野内匠頭と大石内蔵助……長矩、女色を好むこと切なり
池田綱政……曹源公の子、七十人おわせし
前田利家……信長、利家をお犬と申候
前田利常其之壱……家康曰く、其方、何としても殺さん
前田利常其之弐……百万石に毒を飼うべきや
前田利常其之参……小便これえ難く候
内藤家長……猛火のうちに飛入りて焚死す
本多作左衛門……作左衛門砕き候と申されよ

『土芥寇讎記』をまとめた幕府高官が、光圀をけしからんと思った理由はその女好きではなく、光圀がその知識をひけらかし、学者をいじめるのを問題にしたという。『土芥寇讎記』には「色を好まざるは、聖賢のほか、まれなるべし」と書いてあり、磯田はけだし名言であると言う(p16) 

 徳川家康の孫である光圀の遊興、女色ぶりが噂となり、それからやがて「水戸黄門漫遊伝説」という国民的伝説が生まれたという。(p27)

 浅野内匠頭と大石内蔵助については厳しい見方をする。:
本来、死ななくてもよかった、まっとうな人々の命が、つまらぬ人間のこだわりによって、粉々に打ち砕かれた無残な事件である。少なくとも、私にはそう思える.このところが、冷静に見られぬようでは、歴史を語る資格はない、とさえ、思っている。無意味な人間のこだわりが、人を不幸にした典型事例といってよい。(p38)

 徳川幕府は、大名の官位を低く抑えたが、その例外が、徳川の親族と、高家である。高家とは足利将軍や織田信長の子孫であり、足利の血を引く吉良家は高家である。吉良上野介は従四位上で、これは内匠頭の5ランク上である。(p36).高家の意味を初めて知った。

 前田利家の跡を継いで前田利常については3章を当てて、詳しく述べている。しかし、古文書がたくさん残されている割には、人物像が掴みにくいという。利常像を次のように述べる:
……利常が、織田信長を創始とする、中世をぶち壊す狂気の精神を受け継ぐ最後の大名であったということである。死ぬことはどうせきまっている、生きた証に狂った面白いことをしようではないか。近世という時代をひらいたこの精神は信長の生をもってはじまり、利常の死をもって終わった。日本人がふたたび、その種の時代精神をもちはじめるのは二百年後、幕末という時代をまたねばならない。(p201)

 本多作左衛門は家康の三河時代からの家臣。鬼と恐れられるほどの気が強く、奉行としても罪人を自ら手打ちにするほど厳しい人物であった。安倍川の河原で家康は信玄が残したと思われる、人を茹でる釜を見つけ、それを居城の浜松まで運ぶよう、作左衛門に命ずる。だが、作左衛門は途中でその釜を砕いてしまう。戦国大名は、釜茹でとか磔とか極刑を見せしめにして領地人民を支配してきた。作左衛門は釜を砕いたのは、釜で茹でるような罪人が出来るようでは、天下国家を治めることは出来ないということだった。三河、遠江、駿河と3カ国を領有し、いよいよ天下取りに向かおうとしていた家康は、作左衛門を咎めなかった。

 作左衛門は家康が天下人となるのを見ることなく、不遇のうちに死んだ。「
一筆啓上、火の用心、お仙泣かすな、馬肥やせ」という日本一短い手紙は作左衛門の書いたものである(p272)。

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書名 私家版日本語文法 著者 井上ひさし No
2018-29
発行所 新潮社 発行年 昭和56年 読了年月日 2018-11-25 記入年月日 2018-12-25

 もう35年以上も前に出た本。長いこと本棚に眠っていた。当時から言葉には関心があって、本書を買ったのだろう。やっと日の目を見た。

 笑いながら読み進め、大変勉強になった。文法の本だから、あらためて文法について教えられるところが多かったが、むしろ日本語の特性を通しての日本人論が面白い。言葉と国民性は密接に関連しているから、日本語を論ずれば、当然日本人論になる。著者独特の語り口も本書の大きな魅力。本書中に引用される文例が、硬軟取り混ぜ極めて多彩。万葉から現代まで、一葉の日記から現代の広告文、JRの表示板まで。

 例えば、最初の方に出てくる助詞「が」「の」「は」についての歴史的な考察(p19~33)は大変面白い。古代日本語には主格や目的格を表す助詞をあまり使わなかった。一例としてあげられているのは『伊勢物語』の第一段である。所有を表すには「の」と「が」が使われた。「が」が人を表す名詞や代名詞を受けた場合、軽蔑の感情を伴う。これが「が」の出世の糸口だった。日本人は自分のことをいうとき誰でもへりくだる。「私の太刀」というとき「わの太刀」ではなくへりくだって「わが太刀」となる。吾や我とむすびついたのは、藤吉郎が信長の配下になったようなものだと著者はいう。連体助詞の「が」がどうして主格を表す助詞になったかは、西田直敏の説で説明する。
 来る道は石踏む山の無くもがなわが待つ君が馬躓くに と言う万葉の一首で説明する。
「わが待つ君」は本来は「わが君」なのだが、そこに「待つ」が挿入された。これは『わが(待つ)君』だが、『わが待つ―』と見ると、「が」は主格に立つことになる。:
こうして、「が」は連体助詞から、吾(わ)や我(わ)に取り立てられて、主語を示す役目を果たすようになった。そして院政時代以降は「の」と決然と袂を分かって主格を示す格助詞に成り上がった。主格は「が」、属格は「の」という分担は現在に至るまで続いている(p23)。

 しかし、今(本書執筆当時)「が」には「は」という強力なライバルがいるという。井上は『津軽海峡冬景色』やピンクレディーのミリオンセラー5曲の歌詞、『朝日ジャーナル』や『週刊新潮』の記事などに当たり、「が」と「は」の数を数え、「は」が優勢であることを示す。もちろん「は」は既知の情報、「が」は新しい情報という大野晋一の説や、三浦つとむの、「小さな部分を扱っているのが「が」で、それよりも大きなひろい部分を扱っているのが「は」である」という説を紹介し、「は」が優勢になるのは「
発語行為とはそれが長くなればなるほど既知部分がふえて行く過程であり、また発語者の考えが深まって行くにつれて、部分はひろがって全体へ、特殊が普遍へと変わって行く課程だからである。」と述べる。(p25)

 井上は、その他にも専門家の説を紹介した後、独自の見解として「
『が』は強く指し示し、『は』はおだやかに提示する」と述べる。その後に引かれたのは女性週刊誌の見出しである。(p32)
 いしだあゆみと荻原健一の仲が急進展
 山口百恵が国広富之と親密愛に

 以下同類の見出しが並ぶ。固有名詞を強く指し示したいからであろうという。そして「が」でも不十分の場合は、固有名詞の上に「あの」がつくという。
なるほどと納得。

「論より情け」という章では接続詞が取り上げられる。

 
いかにも接続詞接続詞した接続詞を用いるには、とくに逆接の接続詞を用いるには、現象Aと現象Bとの間にある因果関係を発掘しなければならない、と前に書いたが、このこととどうも関係がありそうだ。つまりきちっと接続詞を立てるということは、論を立てることである。とすればあまり接続詞を使わぬということは、論を立てるのを好まぬということと同義である。そうなのだ、わたしたちは情感を表現するのに有効でないものは使おうとしないのだ。谷崎が好んだ古典文、とりわけ平安時代の女流かな文学の文章は、「軽い」働きのする接続助詞を駆使して、長く長く連ねられる、論理性を捨て、文と文との間に断崖のできるのをおそれて「軽い」接続助詞を次々繋いで行く、ちょうどわたしたちが、「が」を並べてことばの運用を続けていくように。

 これに続けて、大岡昇平の『俘虜記』における「しかし」の連発、『野火』における「つまり」の羅列のような優れた作家をもつとはいえ、どうやらわたしたちは、やはり依然として「論より情け」を重んじた紫式部たちの子孫であるらしいと述べる。(p73~74)

 井上ひさしは進歩的な文化人かと思っていたが、言葉についてはまったく逆だ。漢字制限に反対し、「
……わたしたちは死ぬまで日本語を通して生きるほかないわけで、その日本語の一部分である漢字を学ぶために時間がたくさん要ることは理の当然、当たり前のはなしではないか。」という(p86)。

 さらに、歴史的仮名遣いも支持する。その理由として、日本国憲法が歴史的仮名遣いで書かれていることを指摘する。憲法前文には「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し」とある。「やうに」が歴史的仮名遣いだ。(p192)

「コンピュータがねをあげた」という章では、文章のエントロピーということが取り上げられる。紋切り型の文章で、文章の推移が予測できる確率が高いのは、情報理論ではエントロピーが小さいという。一方、この推移確率がほとんどゼロに近い文はエントロピー(不確定度)が大きいという。そして「
おしなべて良い作家の文章はエントロピーが大である。すなわち読者の予測を許さない。」と述べる.その例として川端康成の『雪国』の冒頭部分を引いている。(p236)。文章とエントロピーという組み合わせは面白い。

 俳句でも、季語との関係が近すぎるのはだめ句だとされ、詠まれた内容と一見離れた季語をもつ俳句が良いとされる。

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書名 宇宙はなぜあるのか 著者 P.C.W.デイヴィス  戸田盛和 訳 No
2018-30
発行所 岩波現代選書 発行年 1985年 読了年月日 2018-12-12 記入年月日 2018-12-26

 神田の古書店街で見つけた。しばらく理系の本から遠ざかっていたこともあり、また本書の題名が魅力的だったのが、買った理由。読んでみて、「宇宙がなぜあるか」への回答はなかった。もともと宇宙の存在理由など分かるものではない。ただ、宇宙がどうして今のような姿であるかを説明している。

 現代科学(ほぼ30年前の時点で)が達成した成果をもとに、科学的に宇宙の創成から進化を扱うが、一方で、つねにキリスト教的世界創世の考え方に言及しているのが本書の大きな特徴。天文学、相対性理論、素粒子論、量子論、熱力学のみならず、生命、心、自我といった領域まで踏み込んだ、広範な領域を扱う。したがって、まとめるのは難しい。

 いくつかの点を挙げる。
 
神学者は物理世界の秩序は神の存在の証拠であるといい続けてきた。もしもこれが本当なら、科学と宗教は神の仕事を明らかにするという共通の目的をもっていることになる。実際、西欧の科学文化は、神が意図した宇宙の組織を強調するキリスト・ユダヤ的伝統によって刺激されて出現したもので、この組織は合理的な科学の研究によって明らかにされる。(p191)

 量子論によれば物事は原因なしで起こりうる。これが宇宙の存在理由といえば言えるかも知れない。

 
量子論は物理的実在に対して、意識が本質的役割を演じることを明らかに示す証拠を提供する。(p128)

 熱力学第二法則によれば、宇宙のエントロピーはつねに増大し続ける。そしてやがては熱平衡に達し、宇宙は死ぬ。本書では第二法則への言及が各所でなされる。
 宇宙誕生の瞬間は、超高温状態で、無秩序、つまり最大エントロピーだった。それが現在見るような秩序ある宇宙へ進化できたのは、創世直後の急膨張(インフレーション)により、無秩序が薄められ、エントロピーが低下したことによる。それにより、物質が生成し、やがては銀河構造をもつ現在の秩序ある宇宙へと発展していった。インフレーション理論というのは知っていたが、その意味は本書で初めて知ることが出来た。

 「
宇宙の秩序の設計者、あるいは創造者の存在を科学的に支持する積極的な証拠はない。現在の物理理論はこれらに対する完全な説明を与えるであろうと強く期待される。」(p251)と、本書の結論の一つを述べている。

 
複雑な電気回路とみたとき脳は完全に決定論的で、したがって原理的に予想可能である。(p93)

 こうした類いの本は、理解出来ないことが多いが、読んでいるときは浮世を離れた広い空間に遊ぶような感覚に満たされる。

 定価2000円だが新品同様で200円。


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