読書ノート2005年

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書名 著者
小説家の休暇 三島由起夫
Ten Years After 片岡義男
岬にての物語 三島由紀夫
紫煙のゆくえ たばこ総合研究センター編
雨月物語 上・下 上田秋成、 青木正次訳注
性の源をさぐる―ゾウリムシの世界― 樋渡宏一
平家物語 一・二 梶原正昭、山下宏明
平家物語 三 梶原正昭、山下宏明
平家物語 四 梶原正昭、山下宏明
三四郎 夏目漱石
人と虫の愛笑香 河野昌弘
保元物語 栃木孝惟 校注
日本の色 大岡信 編
ローマ人の物語 ユリウス・カエサル ルビコン以前 上 塩野七生
ローマ人の物語 ユリウス・カエサル ルビコン以前 中・下 塩野七生
金色の死 谷崎潤一郎
ローマ人の物語 ユリウス・カエサル ルビコン以後 上・中・下 塩野七生
日本文学史早わかり 丸谷才一
ローマ人の物語 パクス・ロマーナ 上・中・下 塩野七生
ローマ人の物語 悪名高き皇帝たち 一・二・三・四 塩野七生
ローマ人の物語 危機と克服 上・中・下 塩野七生
ベトナム戦記 開口健
心を生みだす遺伝子 ゲアリー・マーカス

                                             2008-02-02 up

書名 小説家の休暇 著者 三島 由起夫 No
2005-01
発行所 新潮文庫 発行年 昭和57年 読了年月日 2005−01−20 記入年月日 2005−01−21

 表題の日記風評論を含む評論集。難解で理解できないところもたくさんあるし、その博識にはついていけない。『失われた時を求めて』でプルーストを論じ、一方、古事記、万葉、懐藻風、源氏を俎上に日本文学史を試みる。三島の多才ぶりを表す。

『小説家の休暇』30才、昭和30年の夏の日記のスタイルであるが、その中身は評論である。毎日、文学論から芸術論に及ぶこれだけの評論を書き上げるというのが信じられない。その日のわずかな記載から三島の日常が垣間見られるのが興味深い。例えば、よく東京會舘のルーフガーデンで食事をする。あるいはトワ・エ・モアのパリ祭のパーティーに寄ろうとしたが、三島がアロハであったために入場を断られたとか。

 クラッシック音楽は苦手で、官能的なラテン音楽がいいという音楽論もある。このところを読んだ時、久しぶりに私はサントリーホールで、チャイコフスキーやドビッシーなどを聞いた。p16.

 太宰に対する嫌悪感をむき出しにした所では最後に以下のような記述がある:
ドン・キホーテは作中人物に過ぎぬ。セルヴァンテスはドン・キホーテではなかった。どうして日本の或る種の小説家は、作中人物たらんとする奇妙な衝動にかられるのであろうか。p19。
 三島の最後を思うと、何とも複雑な気がする。

p32:『太陽の季節』につての評。学生拳闘家のことという題材を描くのに、学生文章家の文章で、つまり本質的にまるで反対の文章で書かれていることが残念だ、と言う。石原慎太郎の名前は出ていない。

 日本文化の感受性(受容性)の豊かさとその世界的、歴史的意義について 三島はそれを高く評価し、期待している。p112〜117
 昭和47年に刊行されたと言うから、三島の死後のことだが、「日本文学小史」と云うのも興味深い。残念ながら『源氏物語』までで終わっているが、三島は一時代の文化意思を形成する緒端となった作品を取り上げて論じることを試みた。p232
(1)神人分離の文化意思としての『古事記』
(2)国民的民族詩の文化意思としての『万葉集』
(3)舶来の教養形成の文化意思をあらわす『和漢朗詠集』(取り上げられたのは『懐風藻』
(4)文化意思そのものの最高度の純粋形態たる『源氏物語』
(5)古典主義原理形成の文化意思としての『古今集』

の5つについて論じられている。

『源氏物語』については最も短い記述である。「花の宴」と「胡蝶」を取り上げ、そのいずれの巻も「
「艶なる宴」に充ち、快楽は空中に漂って、いかなる帰結をも怖れずに、絶対の現在の中を胡蝶のように羽博いているとして「このような時のつかのまの静止の頂点なしに、源氏物語という長大な物語は成立しなかった」と述べている。p296。
 
 いずれの評論をとっても深い学識と鋭い洞察は感嘆するのみである。


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書名 Ten Years After 著者 片岡 義男 No
2005-02
発行所 角川文庫 発行年 昭和57年 読了年月日 2005−02−12 記入年月日 2005−02−15

 先日、新橋駅の地下道の古本屋の店先で目にして買った。片岡義男という名は「それでも作家になりたい人のためのブックガイド」かなにかで目にしたことがあるが、初めて読む作家だ。一部で評価の高い人だという印象があったので買う気になった。

 軽い。カタカナがやたらに氾濫する。
 物語は松本の高校を卒業し、今は東京にいる男2人と女1人のかつての同級生が、10年後、クラスメートの結婚式で松本に集まり、そこで数日を過ごす間の物語。女はラジオの深夜番組のディスクジョッキーをしており、男の一人は大学院生、もう一人はサラリーマン。男達はいずれも750CCのバイクに乗って松本までやってきた。女は赤いクーペである。結婚式の翌日、女は大学院生とクーペでドライブに出て、自ら誘い、山の中の旅館で男と寝る。次の日、今度はサラリーマンの男と出かけて、やはりその男と寝る。そして次の日、女はバイクの2人に送られて、東京に去っていき、男達は昔やったようにツーリングで紀州を目指す、といった話し。

 淡々と出来事が述べられていく。軽く、爽やかな読後感が残る。ファッション、音楽、バイク、車の話がやたら出てくる。若者に人気があるのだろう。

 書き出しの部分は以下のようだ:
 
デザインはランニング・シューズによく似ている。だが、ぜんたいの造りは、はるかにタフだ。材料もまったくちがう。しっかりした硬度を持ったワッフル・スタッドのソールが、つまさきの全面にまわりこんでいる。
 28才の大学院生、村上の靴の描写である。

 驚いたことは、片岡義男の作品は角川文庫だけで40冊を超える。

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書名 岬にての物語 著者 三島由紀夫 No
2005-03
発行所 新潮文庫 発行年 昭和53年 読了年月日 2005−02−17 記入年月日 2005−02−17

 表題の他、全部で13編の小説を集める。10代の習作的なものから、20代の作品が主体。暗い恋の物語が多い。

「岬にての物語」がよくできている。三島自身と思われる少年が体験した若い男女の心中事件。二人が飛び込む岬への風景描写がさえている。

「水音」という作品は、三島には珍しく貧困家族を描いたもの。結核で余命幾ばくもない少女とその兄が謀って父に青酸カリを飲ませて殺すというストーリー。兄と妹の間に兄弟愛を超えた恋愛感情のようなものが漂う。

「志賀寺上人の恋」は、悟りの境地にある老僧が、湖の畔で見掛けた御息所に恋をする物語。太平記にあるエピソードから取ったとのこと。

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書名 紫煙のゆくえ 著者 たばこ総合研究センター編 No
2005-04
発行所 山愛書店 発行年 2005年 読了年月日 2005−03−11 記入年月日 2005−03−14

 TASK(たばこ総合研究所)から送られてきた。千代田区から始まった街頭での喫煙禁止の動きに対する反論、批判の立場から『TASK Monthly』に掲載された論文を集めたもの。基本的立場は、喫煙という個人の問題に公権力が介入することへの疑問と、受動喫煙の害を主張する疫学への疑問。前者には納得できる。疫学への疑問に関しては私は共感できない。データの不備と原因結果の間の科学的な証明がなされていないのは事実であっても、疑わしきは黒として対策を取ることで、今まで人類は多くの疫病を防止してきた。

 一方的に反喫煙に反発するのではなく、冷静に事態を分析し、冷静に論旨を展開する論文がほとんどである。しかし、残念ながらこうした主張が、今の世の中で広く支持を得られるとは思われない。

 中では「アメリカたばこ政策の歴史とパターナリズム」という論文が、たばこを通してアメリカの社会の特質が描かれていて、参考になった。北澤一利と言う著者は北海道教育大学釧路校の助教授で、専攻は健康管理政策論とのこと。

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書名 雨月物語(上)(下) 著者 上田秋成  青木正次全訳注 No
2005-05
発行所 講談社学術文庫 発行年 1981年 読了年月日 2005−04−02 記入年月日 2005−04−04

 現代語訳に詳細な注釈と解説の付いた「雨月物語」。漢文混じりの原文は、漢字の意味、その背景にある古今の典籍の意味が難しいので、注釈がないとやはり理解しにくい。

 内容は怪異物語。全部で9編の物語から成る。あちらの世界とこちらの世界の対決という筋立てはすべてに共通。あちらの世界の登場人物は崇徳院(白峰)であり、豊臣秀次(仏法僧)であり、家に残した妻(浅茅が宿)であり、蛇の化身(蛇性の淫)、金の精(貧富論)である。こちら側の人間は西行法師(白峰)を初め、いずれも観念世界に住む人間である。彼らは儒教倫理、仏教倫理といった観念から向こうの世界と対決すると著者(訳注者)は言う。そして向こう側の世界とこちら側の世界は結局交わり合うことなく終わる。著者は、その対決を通して「雨月物語」は、人間の本性を赤裸々にしたあちら側の人間によるこちら側の人間への鋭い批判であるという基本的立場に立ち、原文を詳細に解説し、文意の裏に込められた上田秋成の意図を明らかにする。向こう側の人間が示すのは、政敵への復讐の妄執、限りない愛欲、捨てられた女の恨み、あるいは男色である。

 私はこうした読み方に抵抗を感じながら、そこまで文意の裏を詮索するのはいきすぎではないかと思って読み進めた。しかし5番目の「仏法僧」まで来たとき、そうした読み方でいいのだと納得した。「仏法僧」は、高野山で一夜明かした風流人、夢然が、山中で秀次一行に会う話だ。夢然は高野山の聖性を称える発句を作るのだが、その発句が秀次一行を呼びだし、一行の中の一人がつけ句をつける。そのつけ句は発句のもつ意味をまったく逆転させて、高野山を修羅の場ととらえるものであった。この場面は明らかに向こう側の人間によるこちら側の人間の観念性に対する痛烈な批判になっている。
 表面上はおどろおどろした奇怪物語にしか見えないこの作品に対して、こうした読み方はもう定説になっているのだろう。

 加藤周一の「日本文学史序説」の上田秋成の所を読み返してみた。

 加藤は
「仏儒の規範的性格に、秋成は、土着信仰の非規範的性格を、対立させて考えていたといえる」と述べている(下巻199P)。加藤は「吉備津の釜」の最後の部分を引用し、その描写力を絶賛する。そしてこれほどのさえた描写は秋成が亡霊・狐狸・妖怪変化の類を信じていたからだろうという。

「吉備津の釜」の終わりの部分の描写(本書上巻342pより):
「いかになりつるや」と、あるひは異しみ、或は恐る恐る、ともし火を挑げてここかしこを見廻るに、明(け)たる戸脇の壁に腥腥しき血灌ぎ流て地につたふ。されど屍も骨も見えず。月あかりに見れば、軒の端にものあり、ともし火を捧げて照し見るに、男の髪の髻ばかりかかりて、外には露ばかりのものもなし。
 捨てられた妻の亡霊がかつての夫を亡き者にしてしまう結末だ。

 加藤の書によれば秋成は本居宣長と対照的な国学者である。秋成の思想は断片的な随想録「大胆小心録」に最もよく表されている。芭蕉を「こしらへ者」と呼び、荻生徂徠の学問を「末世のはや算用」と呼ぶなど、辛辣な人物評を展開しているという。宣長に対しても辛辣で、
「しき島のやまと心のなんのかのうろんな事を又さくら花」という歌を作っている。
 こうした秋成の思想的背景から、本書のような読みは導かれているのだ。

「雨月物語」の冒頭の序文は漢文で書かれている。その初めの部分に紫式部は源氏物語を著したために一旦は地獄に堕ちたと書いてある。解説によると、当時そうした説話が流布していたとのこと。原文は以下のよう:
紫媛著源語 而一旦堕悪趣者

 先日、川崎で将棋をしたとき、駅ビルの古書市で見つけて購入した


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書名 性の源をさぐる―ゾウリムシの世界― 著者 樋渡宏一 No
2005-06
発行所 岩波新書 発行年 1986年 読了年月日 2005−04−10 記入年月日 2005−04−16

 ゾウリムシ一筋に研究生活を送った著者の回顧録。ゾウリムシの研究はソネボーン学派が主導した。著者はソネボーンのもとに留学する。そこでのエピソードがいくつか紹介される。また、分子生物学とゾウリムシの関係も語られる。ゾウリムシの仲間の繊毛虫類が分子生物学で大きく取り上げられるようになったのは、70年代になってからである。繊毛虫の大核と小核の問題、あるいは酵素作用を持つRNAなどの研究対象としてである。

 ゾウリムシは雌雄がなく、外見上まったく同じ個体どうしが接合し、分裂して増えていく単細胞動物である。ゾウリムシには一般的な性の現象を当てはめることが出来ない。しかし、ゾウリムシの株にはお互いに接合できるものとできないものがあり、それらはあたかも「種」のようである。これらは「シンジェン」と呼ばれる。著者はゾウリムシの接合型の研究を行う。

 そのことから、後半は性とは何かという問題に話が進む。そしてたどり着いた結論は189pに以下のように示されている:
 
細胞が特定の相手を識別してこれと接着し、この細胞接着を介して遺伝的組みかえを行うためのしくみが性である。

 この定義に従えば、バクテリアも、ミドリムシなどの繊毛虫類も、キノコもみな性も持つことになると著者は言う。
 本書の最後は:
地球上の生物の多様さの源には性があるのである。
で終わる。

 また別の所では(178p〜)多細胞生物の祖先は繊毛虫類であるとする。動物というのは余り働かずに、子孫のための情報を温存するDNAと、傷だらけになってもいいからせっせと働かせるDNAを分けておく方法をあみだした生物で、その結果遺伝情報の保存という制約から解放された栄養系のDNAが高度な機能を果たすことができる自由度を獲得したと考えられるという。ゾウリムシでは小核DNAが遺伝情報を担当し、大核DNAが栄養系の諸機能を担っている。このシステムが多細胞動物の祖先として、鞭毛虫類よりもふさわしいと著者は考える。


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書名 平家物語 一・二 著者 梶原正昭、山下宏明 校注 No
2005-07
発行所 岩波文庫 発行年 1999年 読了年月日 2005−04−29 記入年月日 2005−04−30

 NHKの大河ドラマが今年は「義経」である。去年の「新撰組」は途中からは見なくなった。「義経」は最初から欠かさずに見ている。劇的な展開という点からは、平家物語の世界ほど面白いものはないと再認識する。原作は宮尾登美子の「平家物語」。原典に当たってみたくなったのでアマゾンから取り寄せた。

 右頁が原典で、左頁に校注がついている。校注は古語の解説にとどまらず登場人物の説明、場所の説明、そして頻出する仏教用語や中国古典の解説にあてられている。

 (二)は原典の巻第六までで、清盛の死去まで扱っている。清盛中心に平家の栄華と、その横暴振りが語られる。全巻を通して重盛を称え、清盛を批判する。清盛をいさめる重盛は(一)の圧巻である。重盛亡き後平家の頭目となった宗盛に対しては厳しい見方をしている。高校時代、重盛は実は腹黒い人物であるという記述があるとどこかで読んだ記憶が片隅に引っかかっていたが、平家物語にはまったくなかった。何かの歴史書あるいは別の源平ものであったかも知れない。

「法衣の下からちらつく鎧」「熱にうなされ『頼朝の首を持ってこい』と叫ぶ清盛」、「鬼界が島に一人置き去りにされた俊寛僧都」などのエピソードを、私は遠い昔に母から聞いたような気がするのだが、それらはすべて出典はここにあったのだ。それほど「平家物語」の中身は人々に親しまれていたのだ。

 出だしの「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響あり」から全編を通して仏教的な因果応報観、末世観、無常観に貫かれている。登場人物も清盛、後白河法皇、重盛など、いずれも深く仏教に帰依している。随所に仏教教典から引用があり、その解説が詳しい。あるいは中国古典や故事からの引用もおびただしい。その解説もまた詳しい。解説がなければ理解できない。琵琶法師の語りのテキストから編纂されたと言うが、当時の人々がこうした仏教の用語、あるいは中国の故事をどれほど理解していたのだろうかと、疑問に思った。

 平家物語の世界では、仏教と神道が完全に混合している。比叡山と天照大神が一体となって信仰の対象となっている。
 当時の宮廷生活の有様がよくわかる。因習と慣例と形式にとらわれた貴族政治。何かにつけて占いが用いられ、ことある毎に神仏への祈願が行われる。そして限られたごく一部の名家による摂関政治とその中での官位をめぐる公家達の出世争い。企業社会における出世競争を思うと、1000年の昔も少しも変わっていない。当時の方がむき出しで、命がけだった。平家や源氏の武士が公家達の争いに関与していき、その結果が保元・平治の乱となる。さらに各寺社の抱える僧兵が何かにつけて介入してきて、平家にたてつく。それが原因で奈良の東大寺や興福寺も焼き落とされる。

 天皇の権威は絶対である。すべてがそれを中心にして考えられる。それでいながら、あるいはそれだから、法皇や平家の意向で頻繁に替えられ、幼い天皇が即位する。平家とともに壇ノ浦で入水した安徳天皇は祖父の後白河天皇から数えて4代目の天皇であり、その間に二条帝、六条帝、高倉帝が挟まるが、いずれも若くして帝位を譲っている。後白河は安徳帝なき後もながらえ、物語の最後では大原の建礼門院を訪ねる。「朝敵」「官軍」「賊軍」という言葉がすでに使われている。テキストは室町時代初期にできたものだが、これらの言葉は明治維新の時に初めて使われたものではないのだ。

 オーバーな表現であるとしても、人々は何かにつけてよく泣く。「衣の袖を絞りにけり」「袖をぬらさぬものとてなかりけり」といった表現が随所に出てくる。丸谷才一は日本人は昔からよく泣くと書いていたが、軍記物にしてこれほど涙がでてくるとは。あるいは軍記物だからこそ涙が多いのか。
 
 大筋とは外れたエピソード的な物語が面白い。例えば清盛の愛人で後に捨てられる、「祇王」や、ともに清盛の婿のあたる高倉帝と少将隆房の両方から愛され身を引く小督の物語。

 (一)を読んでいるとき、たまたま親戚の四九日法要に出掛け、国分寺駅のトイレに置き忘れてしまった。仕方なしに(二)を読み出し、(一)は先日やっと渋谷のブックファーストで手に入れた。従って、読み終わった日が(一)、(二)とも同じ日になってしまった。


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書名 平家物語(三) 著者 梶原正昭、山下宏明 校注 No
2005-08
発行所 岩波文庫 発行年 1999年 読了年月日 2005−05−29 記入年月日 2005−05−29

 木曽義仲の挙兵から、義仲の没落、平家の都落ち、一ノ谷の合戦での敗北まで、巻七から巻九までを収載。戦闘シーンが多い。

 このころの戦闘は、まず名を名乗りあい、騎馬でのとっくみあい。相手を自分の馬の上にねじ伏せて、首をかき切ると言う表現が随所に出てくる。義仲の女、巴御前は、そうやって東国の武士をねじ伏せ、その後落ちていったと述べられている。

 すでにこのころから武士は名を惜しみ、死ぬことを惜しまなかった存在であることが、たくさんの戦闘シーンの中で描かれる。いわゆる武士道の基本は戦国時代に確立したのではなく、すでに源平の頃にもあったようだ。敵に後ろを見せるのを恥とし、沖の船に向かう途中を引き返し熊谷次郎直実に討たれた平家の若武者敦盛は、16才の紅顔の美少年であった。東国武士の荒々しさに比べ、平家の武将の腰抜け振りが対照的に描かれる。しかし、一旦九州に落ち、そこを追われながら再度瀬戸内に戻り、源氏勢を破り一時都をうかがうまでに盛り返す平家も相当なものだ。幼い天皇初め、公家や女房達を抱え、さまよった平家の人々の苦労は大変であったろう。その彷徨を支えるだけの経済的基盤は20数年に及ぶ天下の間に培ったのだろう。

 平家物語の一つの特徴は登場人物の素性、名前を重視すること。大将クラスでもない東国の兵の名前がたくさん出てくる。「都筑のだれだれ」などは、今の横浜市都筑区にいた豪族であろう。懐かしい感じがする。甲斐の武田も出てきて、武田氏が源氏の血をひくものであることがわかる。

 ついでながら、今年の大河ドラマ「義経」は面白い。義経の立場からのみストーリーが展開されていない。平家はおごれる悪者、頼朝は猜疑心の強い薄情者といった見方はしていない。平家、特に清盛は偉大な存在としてきわめて好意的に描かれている。また、頼朝も、その背後にある北条一族も、あるいは奥州の藤原氏も、それぞれが置かれていた状況のなかでそう振る舞うのが至極妥当だと思わせる描き方をしている。源平争乱を義経のみの立場からではなく、多面的な面から見ているところが、従来と大きく違う。それだけに登場人物がやたら多いが、それは仕方がない。清盛の妻時子他、平家公達の北の方、あるいは、北条政子など女性の立場からも描かれている。宮尾登美子原作の特徴なのだろう。


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書名 平家物語(四) 著者 梶原正昭、山下宏明 校注 No
2005-09
発行所 岩波文庫 発行年 1999年 読了年月日 2005-06-06 記入年月日 2005−06−07

 巻十から巻十二、および灌頂巻までを収める。屋島の戦いから壇ノ浦での平家滅亡、その後の、重盛の孫、六代に至るまでの平家一門の人々の運命が語られる。最後の灌頂巻は大原の建礼門院のことを述べる。

「平家物語」の題が示す通り、これは源平盛衰記ではなく、平家一門の繁栄と没落、滅亡を描いたものだ。義経も頼朝も、義仲も、後白河法皇も皆脇役に過ぎない。主役は、清盛、重盛、宗盛、維盛、六代と続く平家の人々である。今まで、平家と言えば清盛と重盛しか注視せず、それに敦盛くらいだと思っていたが、それだけではなく、それぞれに個性的で、多様な人々がいることを知った。壇ノ浦で死ねなかった宗盛父子。宗盛に対する記述は全編を通して厳しい。おめおめと生け捕りにされて、頼朝の前に引き出されてもまだ命が助かると思っていることを嘲笑される。宗盛父子は重りもつけずに壇ノ浦で入水するが、二人とも水泳の達人でついに死にきれなかったと物語は言う。一昨日の大河ドラマでは、維盛が北陸の戦いで敗れ、兵糧代に替えて平家伝来の鎧を手放す。それを、宗盛の母時子が取り戻す。宗盛はその鎧を息子の清宗に着せ、これで平家の嫡流はこちらに移ったと喜ぶシーンがあった。本書にはそのようなエピソードはない。

 そこへ行くと弟の知盛は平家きっての知将で、「見るべき程のことは見つ。いまは自害せん」と言って、鎧を2枚着て入水する。あるいは、壇ノ浦でも最後まで義経めがけて迫り、源氏の強者を道連れに海に飛び込んだ能登守教経。これらは東国武士にも劣らぬ勇者だ。

 知盛の弟重衝は一ノ谷の合戦で捕らえられる。東大寺を焼き払った平家の極悪人と思っていたが、鎌倉に送られ、さらには奈良に引き渡され処刑されるまでが詳しく述べられる。妻との最後の別れなど、きわめて人間的な人物として、むしろ好意的に描かれている。

 重盛の嫡男、維盛は世をはかなんで途中から戦列を離れ、高野山で出家し、熊野で入水する。彼とその北の方、および息子の六代のことも多くの分量を費やして述べられている。武将としてはひ弱で、富士川の決戦、倶利伽羅峠の戦いともに大将軍として惨敗する。

 清盛の異母弟である頼盛は、母、池の禅尼が頼朝の命を助けたことで、助命される。また、平家の傍流で時子の兄である大納言時忠も流罪ですむ。能登半島を旅したとき、配流先で続いた平時忠の子孫の住居を見たことを思いだした。江戸時代に建てられた立派な建物で、観光名所になっている。

 維盛の子六代は母とひっそりと住んでいたところを見つけられるが、文覚という頼朝ゆかりの法師の助力で助命される。出家して京都の高雄にいたが、頼朝死後、やはり関東に連れて行かれ切られる。平家嫡流の血はここで途絶え、物語の本筋はここで終わる。今まで平家の公達の一人一人に注目しなかった一因は、名前が覚えにくいことだ。盛、知、経の字がやたら出てきて、誰が誰だか判別しにくいのだ。平家物語の面白さは、平家一門の一人一人の人間ドラマの面白さだ。

 灌頂巻は壇ノ浦で拾い上げられた建礼門院のその後を語る。大原寂光院に庵を結んだ建礼門院を、後白河法皇が御幸する。建礼門院は法皇に自分の生涯を語る形で、平家の栄華から没落までを語る。いわば平家物語の総集編である。その中で平家が壇ノ浦で滅んだのは、清盛の悪業の報いであったと述べる。安徳天皇を抱いて入水した母時子は、女までは命を奪われまいから、生き残って一門の菩提を弔えと言い残す。建礼門院は読経の日々を送る。法皇が寂光院を訪れたとき、山の上から降りてくる墨染めの尼僧二人を目にする。誰だと聞けば、あれこそ建礼門院と重衝の北の方で、山に花や薪をとりに行って帰ってくるところだという。雲井の奧にかしずかれた昔と比べてその落差の大きさに法皇も驚き、建礼門院も途方に暮れてそこに立ちつくす。ドラマのシーンのように良くできたシーンだ。

 この巻でも義経の鮮やかな戦い振りが描かれる。屋島攻略の戦術をめぐり、あるいは壇ノ浦の先陣を巡り、梶原景時と対立する様子が描かれる。大将軍自らが先陣に立つべきでないという梶原に対して、義経は大将軍は鎌倉殿であって自分は「奉行」であると言い返す。梶原は「天性この殿は、侍の主にはなり難し」とつぶやき、あわや二人は斬り合いそうになる。梶原の一言は義経の本質を見事に突いているようだ。義経は梶原の讒言がもとで、鎌倉に入ることを拒まれ、追捕される身となる。

 平家も、義経も結局後白河法皇に振り回されたのだ。

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書名 三四郎 著者 夏目漱石 No
2005-10
発行所 新潮文庫 発行年 昭和23年 読了年月日 2005−06−16 記入年月日 2005−06−20

 ほぼ半世紀ぶりの再読。「Pity's akin to love」について書こうと思い、十日市場図書館に行き、文庫本の「三四郎」を借りてきた。青春小説としてよくできていて、爽やかな読後感が残る。私は誰か宛の年賀状に「大学に入ったら美禰子のような女性を見つけたい」と抱負を書いた記憶がある。美禰子は漱石の小説と言わず、日本の小説の中でも最も魅力的な女性だろう。爽やかな読後感というのは、広田先生や、野々宮さん、あるいは与次郎までもが浮世離れした生活をしている善意の人々だからだ。最初読んだときに美禰子以上に私が憧れたのは、そうした三四郎を取り巻く暖かい環境であったようだ。

 ストーリーの細部はもう記憶に残ってはいなかった。特に、冒頭、三四郎が名古屋で下りて、乗り合わせた女と同室に一泊するところは、今読んでみると、かなりきわどい話で漱石がよく書いたなと思う。当時の私はうぶであって、この部分のストーリーは覚えていなかった。その代わり、アフラ・ベーン、「Pity's akin to love」、ストレイシープ、「われは我が愆を知る。我が罪は常に我が前にあり」と言う聖書の文句など、キーワード的なものは覚えていた。野々宮さんが小間物屋で買い求めたリボンを美禰子がつけているのを見て、三四郎が軽い嫉妬を感じるシーンも覚えていた。あるいは、初めて見る東京は至るところで何かが壊され、何かが新しく作られていることに大いに驚くシーンも覚えている。50年前に読んだときにも東京は明治の末と変わらないと言う感想をもった。

 「Pity's akin to love」は実際はベーンの作品の中にあったのではない。ベーンの作品の「オルノーコ(Oroonoko)」を、サザーン(Thomas Southerne)と言う人が脚色した作品の中に出てくる。驚いたことにそれは1696年の作品である。ちょうど芭蕉の時代だ。
広田先生の引っ越しのときに、先生がこの言葉を持ちだし、日本語にもありそうだがと言うが、その場に居合わせた、三四郎、美禰子、与次郎とも適当な言葉が思い出せない。それで翻訳を試みるのだが、まとまらず、与次郎に翻訳を任せる。与次郎の訳は「可哀想だた惚れたって事よ」であった。

 私が手にした本書は平成6年刊で114刷である。


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書名 人と虫の愛笑香 著者 河野 昌弘 No
2005-11
発行所 新風社文庫 発行年 2005年6月25日 読了年月日 2005−06−22 記入年月日 2005−06−22

 以前の職場の先輩河野さんから贈呈された。彼の専門の昆虫の世界のことを中心に、それに人間(文中では「ヒト」となっている)のことを絡ませて綴ったエッセイ集。におい物質による昆虫相互間のコミュニケーションがメインテーマ。中でも性フェロモンなど性行動にまつわるトピックが多く、関連するヒトの話題となると、男性性器の大きさなど、下ネタが多い。一部で、河野さんのことを「夜の帝王」と云っていたが、本書を読むとなるほどと思う。私は夜のつき合いはなかった。

 感心するのは、その博識振り。古今東西の典籍からのつまみ食いが至るところに出てきて、河野さんの勉強振りがうかがわれる。蘊蓄を傾けた力作。語り口は軽妙。ただ、少し読者受けを狙いすぎているという感じを払拭することはできなかった。例えば、「愛笑香」というタイトル。

 それと、専門的な事柄の説明が少し不足していて、一般の読者には理解できるかどうか。例えば、いきなりタバコビートル誘引トラップの「セリコ」が出てくるが、その仕組みの説明がない。

 昆虫に対する興味を生涯貫きそれでメシが食えたという河野さんの人生は恵まれている。昆虫に対する愛は、すべての生物に対する愛に広がり、そして環境への思いやりとなる。

 本人が書いたと思われる各章毎の挿絵がいい。

追記:後日かつての仕事仲間と本書の出版祝をささやかに行った。その際、河野さんは内容がH過ぎると、奥さんには不評であると言った。


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書名 保元物語 著者 栃木 孝惟 No
2005-12
発行所 岩波書店 新日本古典文学大系43 発行年 1992年 読了年月日 2005−07−01 記入年月日 2005−07−01

 平家物語に触発されてその前の争乱を扱った「保元物語」を十日市場図書館から借りてきた。半井本をもとにしている。仮名と漢字で書かれている。

 平家物語と同じように、敗者中心に語られている。崇徳院、源為義、源為朝、為義の北の方と子供達。これら敗者への同情は平家物語の平家への同情以上である。

 崇徳院は近衛帝の死後、自分の息子を帝位につけようと思うが、それは実現せず、自分の同腹の弟、後白河が皇位につく。この恨みがつのり、鳥羽上皇の死後、藤原頼長(悪左府)、源為義とその子らを集めて、謀反を企てる。後白河天皇側には為義の嫡男義朝、平清盛らが加わる。崇徳院側では為朝が夜討ちを主張するが退けられ、逆に天皇側が夜討ちをかける。劣勢の崇徳院側は、1夜で敗れるが、その中にあって抜群の働きをしたのが為朝であり、戦闘シーンは為朝の強弓振りを中心に書かれる。前に立つ武士の鎧の胸板を貫き、さらに後ろの武士の袖を貫く。あるいは鞍の前板を貫いた矢が、乗り手を射抜き、さらに鞍の後ろ板を突き抜け、馬の腰まで達する。天皇側の総大将義朝は弟の為朝の弓を受けようと、部下の制止も振り切って前へ出る。為朝もさすがに兄を射抜くことはためらわれ、わざと外す。

 別の門に押し寄せたのは清盛以下の平家。重盛が自ら先頭に立って戦おうとするのを、回りのものが押し囲んで、制するシーンもある。重盛も勇敢な武将であったのだ。

 敗れた為義とその子供達は東国を指して落ちていくが、義朝の軍功に替えて、命までは奪われまいと、出頭する。しかし、朝廷は為義とその子供達を許さなかった。義朝に為義を切れと命令する。さらに、為義の幼子3人も連れ出され、義朝配下により斬られる。そして、為義の北の方は自ら桂川に身を投げて死ぬ。義朝が父為義を斬る前に、清盛は叔父の忠正を斬っている。

 崇徳院は讃岐に流される。そこで書きためた経文をせめて都の近くの寺社の奉納したいという願いも、後白河は拒絶する。ここにいたって崇徳院は「日本国の大悪魔と成らん」と、経文に自ら舌をかみきって流した血で書き付ける。没後、西行がそこを訪れ院の墓前で歌を詠むところまで述べられる。

 為義や他の子供達とは行動を別にしていた為朝も結局は捕らえられるが、首をはねられることは免れ、八丈島に流される。そこでも、その地を荒らし回るが、最後は討手を向けられ、自らの命を絶つところで、この物語は終わる。

 全編を通じて、後白河の容赦ない態度が際立つ。それをそばで進言したのは少納言信西である。信西も、親と幼い弟を斬った義朝も、次の平治の乱では非業の最期を遂げる。為義とその子供達の処刑、あるいは頼長の死体を掘り出すなど、陰惨な描写が多い。

 原本にはたくさんの流れがあるようで、半井本は最も古いものだという。1318年の写本が現存の最古のテキストとのことで、それに準拠している。

「神聖喜劇」第1巻の最後に「保元物語」の為朝初登場の場面を東郷が思い出す下りがある。読んでみると、本書とはかなり記述がことなっている。

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書名 日本の色 著者 大岡 信 編 No
2005-13
発行所 朝日新聞社 発行年 1979 読了年月日 2005−07−05 記入年月日 2005−07−05

 多数の筆者による色の歴史と文化を論じたもの。大岡信、安藤次男、山本健吉、川村二郎、高階秀爾、水尾比呂志による巻頭の座談会が面白い。

 日本語の「色」という言葉は、単に色彩だけでなく、もっと広い意味を持ち、日本文化を考える意味でのキーワードになる。日本語で形容詞になっている色は「赤い」「青い」「白い」「黒い」の4つしかない。その他の色は大方具体的なものの名前から来ている。染料として用いられた植物名、あるいは鉱物名。この4つは明暗顕漠という光の具合に関連している。古代日本人は黄を色として認識しなかった。

 文学作品を色の面から論じている。古代詩歌、古今新古今、芭蕉、谷崎など、いずれも興味ある考察が提出される。

 渋谷の雀荘の近くに古本屋があり、麻雀の開始までに少し時間があったので時間つぶしに入ったその店で、見つけた。


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書名 ローマ人の物語 ユリウス・カエサル ルビコン以前 (上) 著者 塩野 七生 No
2005-14
発行所 新潮文庫 発行年 平成16年9月 読了年月日 2005−07−11 記入年月日 2005−07−16

 名門ではあるが、金もなく、たいした人物を出してもいない貴族の家に生まれたカエサルの生い立ちから、徐々に公的な場に現れ、37才で起ち始めるまでのカエサルを描く。

 莫大な借金を少しも気にせずに借りまくり、当時の上流の女にもてまくったという。
「女にモテただけでなく、その女たちから一度も恨みをもたれなかったという希有な才能の持主」であったことへの、著者の解釈は、惜しみなく贈り物をしたこと、愛人関係を隠さなかったこと、そして関係を完全には切らなかったことにあるという。カエサルに対する著者の傾倒振りは、本シリーズの8巻から13巻までがカエサルを扱ったものであることを見ればわかる。
 
相変わらずすらすら読めてしまう。本巻の述べられたローマの歴史、元老院派と民衆派との抗争はすでに前の巻で読んでいるのだが、ほとんど記憶に残っていない。


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書名 ローマ人の物語 ユリウス・カエサル ルビコン以前(中)(下) 著者 塩野 七生 No
2005-15
発行所 新潮文庫 発行年 平成16年9月 読了年月日 2005−07−31 記入年月日 2005−08

 いよいよ「ガリア戦記」の時代。中巻はガリア諸族の平定作戦と、ライン川の向こうのゲルマン族を攻めたり、ドーバー海峡を渡ってブリテン族を攻めたり。最大のライバル、ヴェルチンジェトリックスの登場は下巻。ちなみにチャーチルはカエサルがドーバー海峡を渡った時を、英国が世界史へ登場した時とした。

「ガリア戦記」に対するキケロと小林秀雄の絶賛が引用されている。もちろんそれは塩野を代弁するものだ。「ガリア戦記」の書き出しを引用して、このように前書きも導入部も書かずにいきなり本題に入るというのは、物書きが常にやりたいと思っていることだが出来ない夢で、まずこの部分にまいってしまうという。

 塩野の本が読みやすいのは、随所に地図が入っているからだ。ガリアでの毎年毎のカエサルの進軍経路が地図上に示される。ガリア最後の決戦となったアレシアの戦いにおけるローマ軍陣営の防衛柵の詳細も図示されている。これは「ガリア戦記」の記述のみならず、ナポレオンV世による発掘の結果も踏まえてのことだ。抵抗なくすらすら読めていく。逆に言えば緊張感を欠く。特に下巻を読みながら、ヴェルチンジェトリックスの側から書いた佐藤賢一の「カエサルを撃て」をいつも思い浮かべた。片方は史実、片方はフィクションという差はあるが、圧倒的に面白いのは後者である。

 下巻の表紙カバーにはヴェルチンジェトリックスの肖像の銀貨が載っている。彫りが深く、長髪で、目が落ち込んでいる横顔は、とても30代前半には見えない。とらわれの身のやつれがもろに出たようで、精悍さはまったくなく、むしろ思慮深さを感じさせる。こうした敵将が銀貨になることは理解できないことだが、カエサルはこの銀貨によって、常にガリアでの彼の輝かしい戦績を人々に思い出させたのではないかと、著者は言う。ヴェルチンジェトリックスはローマにとらわれて後、6年後の凱旋式の後に殺されたという。

 東ドイツの作家、ブレヒトもカエサルに傾倒していることが、再三触れられている。共産主義者にしては批判精神旺盛なブレヒトというような記述がある。彼女にしてみれば、共産主義政権下の人々は皆、カエサルなど感心がないか、あるいは否定すべき存在とでも考えているような記述が他にもあった。

 ガリアを平定したカエサルを迎えるローマの政局は、クラックスの死後、3頭政治が崩れ、元老院を中心に反カエサルに固まっていた。ポンペイウスは反カエサル派に担がれる。そして、カエサルは軍を率いてルビコン川を越えてはならないという国法を犯す決意をする。

 私は「ルビコン川を渡る」というフレーズを最初に聴いたとき、ルビコンという人物が川を渡ったととった。ルビコン川など、小さな川で、ラインとかドナウとか、セーヌとか、ローヌとかと違って地図にも出ていなかったから余計そう思った。それは後戻りできないことの比喩であるとは理解していたが、「ルビコン」という人物は聞いたこともないし、おかしいなとは思っていた。

 著者はルビコン川を渡ったカエサルには国体変革の明確な意志があったように書くが、どうもそのへんがはっきりしない。元老院主体の寡頭政治、共和政体に代わる政体が具体的な形でカエサルの頭にあったとは思えないのだ。やはり、権力をめぐる争いが、カエサルを突き動かしたのだろう。


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書名 金色の死 著者 谷崎潤一郎 No
2005-16
発行所 講談社文芸文庫 発行年 2005年3月 読了年月日 2005−07−22 記入年月日 2005−08−04

 大正期の谷崎の短編7編を載せる。表題の「金色の死」は、自らの肉体で理想とする芸術を体現した若者の死を扱う。谷崎は後に出版された全集からこの作品は落としたという。読んでいて、自らの肉体美を鍛えるためにボディビルに励んだ晩年の三島を思い出させる。

「富美子の足」は女性の足に対するフェティシズム。若い妾に顔を踏ませながら死んでいく老人は晩年の「瘋癲老人日記」に引き継がれたテーマである。

 谷崎の作品としてはマイナーで、余り知られていない作品集。しかし、後の飛躍のための土台となったという解説が的を得ている。
 「人面疸」のような怪奇小説、小学校のクラスを描き一種の政治小説的な「小さな王国」など、いずれの作品も感心するのは、達意の文章だ。日本の作家でこれほど分かりやすく、正しい日本語を書く作家はいないのではないか。

 なお、本書は毎日出版文化賞を受賞したと帯に表示してあった。

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書名 ローマ人の物語 ユリウス・カエサル ルビコン以後(上)(中)(下) 著者 塩野七生 No
2005-17
発行所 新潮文庫 発行年 平成16年10月 読了年月日 2005−08−18 記入年月日 2005−08−25

 電車の中で読むのに最適。出掛ける機会が多かったので短時日に読んでしまった。ルビコン川を渡って、ローマに帰り、ギリシャに逃げたポンペイウスを破り、終身独裁官に就任し、ブルータスらに暗殺され、その後継争いをめぐり、アントニウスとクレオパトラをオクタヴィアヌスが破るまでの紀元前49年から30年までの20年間を扱う。ローマ史でももっともよく知られた部分で、シェークスピアの劇にもあるように、文字通りドラマのような面白さがある。ただ、著者はシェークスピアのローマ史を題材にした作品は、リア王などに比べて落ちるという、バーナード・ショウの言を引用し、賛意を表している。

 著者も下巻の最後で述べているが、これだけ細部にわたる歴史が書けるのは膨大な資料が残っているからである。それも、キケロとカエサルという文才と洞察力では他の追従を許さない二人の人間の残した一次資料があるからだという。著者は出来るだけこうした一次資料にあたり、文章のみならず、その裏に隠される書き手の肉体生理まで汲み取ろうとしたという。大変な作業だったと思う。

 カエサルはポンペイウスの立てこもるアドリア海に面するギリシャの町、ドゥラキウムから中央部のファルサス平原にポンペイウスを誘いだし、そこでの決戦を挑む。著者はこの決戦の叙述にあたり、それまでの大きな決戦の歴史を図入りで示す。アレキサンダーがペルシャに勝ったイッソスの会戦、ハンニバルがローマ軍を破ったカンネの戦い、スキピオがハンニバルを破ったザマの会戦。いずれも勝った方が軍勢では少ない。指揮官の優劣が勝敗を決めていると著者は言外にいう。勝った方は必ず敵を包囲して勝利を得ている。

 カエサルも総人数では劣るポンペイウス軍にやはり包囲作戦で勝つ。ただ、これらの会戦の死傷者数の差は本当だろうかと思う。勝者の犠牲者は敗者の10分の1程度のこともあるのだ。

 かつて東方オリエントを制覇したポンペイウスであるが、このころは年齢から来るものか、あるいは人柄なのか、カエサルの迅速さ、決断の早さに比べると、優柔不断さが目立つ。エジプトに落ちたポンペイウスはそこで謀殺される。カエサルはポンペイウス派への復讐は行わない。それは国内融和を考えてのことでもあるが、基本的に彼の寛容の精神によっている。スペインなどの属領で敗れて捕虜になったポンペイウス派も軍人も、殺されることなく、またポンペイウス軍に合流することを許されている。カエサルの前のスッラは反対派の粛正リストを作り、1000人以上のローマの有力者を殺したのと対照的である。後に、アントニウスとオクタヴィアヌスは反カエサル派に勝利したとき、粛正リストを作る。その筆頭にあげられたのはキケロであり、キケロは自死の道を選ぶ。

 ポンペイウスを滅ぼしたカエサルは東方のポントス王国の制圧に向かう。この時の報告が有名な「来た、見た、勝った(VENI, VICI, VIDI)」である(中巻19p)。このラテン語はフィリップモリス社のたばこの紋章に使われているというので、「マールボロ」で確認したら確かにあった。

 中巻16pには以下の記述がある。彼女の基本的な考え方であり、力の信奉は本シリーズを貫く思想だ。当然、アメリカのイラク侵略を肯定するであろう。
 
パクス(平和)とは、優劣なき国々相互の話し合いによるよりも、絶対的に優勢な国による調停とか裁定とか、やむをえないとなれば力で押さえつけるとかで成り立つ確率が高いのが、人間世界の現実でもある。

 カエサルは終身独裁官になる。その他にも数々の特権を与えられる(中巻194)。事実上の帝王である。この膨大な特権を見ては反発や嫉妬を感じない方がおかしい。それはやがてブルータス、カシウスによる3月15日のカエサル暗殺へと進行する。

 暗殺者達はしかし、カエサルを葬った後の具体的で明確なシナリオを持っていなかった。彼らはやがてギリシャに逃れ、アントニウスとオクタヴィアヌスによって滅ぼされる。面白いのは、ブルータスの母親はカエサルの生涯の愛人であったので、ブルータス亡き後もカエサルから送られた別荘で余生をまっとうしたこと。また、「ブルータスお前もか」というカエサルの有名な句のブルータスというのは、マルクス・ブルータスではなくもう一人のデキムス・ブルータスであると言う説があり、塩野もこの説に荷担している。

 ブルータスの手紙が紹介されている。それは自由を求め、共和政体維持への情熱にあふれた、人の心を揺すぶる手紙である。このように共和派の政治主張は明確なのに、カエサル自身の政治主張を示すものはない。それ故、カエサルは単に権力闘争を勝ち抜き、結果として帝政への道を開いたのではないかという疑問が残る。

 カエサルが遺言状で後継者に指定したのは18才の若者、オクタヴィアヌスであった。カエサルの姉の孫に当たる。後継者は自分だと思っていたアントニウスは面白くない。第2次3頭政治で東方を支配した彼は、エジプトの女王クレオパトラと結んでオクタヴィアヌスと対決し、アクティウムの海戦で敗れ、自死の道を選ぶ。クレオパトラとカエサルの間にはカエサリオンという男子がいたが、この男子だけは殺されるが、アントニウスとの間の2人の子供は殺されなかった。


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書名 日本文学史早わかり 著者 丸谷才一 No
2005-18
発行所 講談社文芸文庫 発行年 2004年8月 読了年月日 2005−08−07 記入年月日 2005−08−24

例えば122p以下 雪の夕暮れ

 
駒とめて袖うちはらうかげもなし 佐野のわたりの雪のゆうぐれ

 これを恋の歌だとする新解釈、その推論の過程が著者の博識を傾けて述べられる。この本歌は万葉時代の歌であり、源氏物語にもすでに宇治の姫を訪ねた薫の口から漏れている。定家にはその場面が当然頭にあったはずで、それを踏まえて歌の人物が訪れる先は女であろうとする。謡曲「鉢の木」の世界とは別の世界を発見している。

 日本文学の歴史を詞華集に沿って見直したもの。丸谷は今の時代に一国の詩の歴史全体を貫く詞華集がないという。あってもほとんど人々に知られていないと言う。外国などの例から見て、これは不思議な現象である。詩人や歌人の個人の詩集、歌集はあっても全体を網羅した現代歌集のようなものもない。これは明治以降の現象で、昔は日本ほど詞華集の編集に熱心であった国はないという。その中心にあったのが天皇家である。そういう意味で日本文化の中心に天皇を中心とする宮廷文化があるとする。古今、新古今のみでなく、勅撰和歌集だけで20を越す。あるいは江戸時代の七部集など、明治の前までは盛んに詞華集が編まれた。丸谷は詞華集を通して日本文学を見る。ユニークな視点だ。

 詞華集中の代表的な歌を取り上げ、意義付けを述べている。あるいは上述のような新解釈を展開している。知的刺激に富む書だ。


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書名 ローマ人の物語 パクス・ロマーナ 上・中・下 著者 塩野七生 No
2005-19
発行所 新潮文庫 発行年 平成16年11月1日 読了年月日 平成16年11月1日 記入年月日 平成16年11月1日

 カエサルを継いでローマ帝国初代皇帝になったアウグストゥスの生涯を語る。紀元前30年から、紀元14年まで。天才カエサルの華やかで、波乱に富んだ生涯に比べれば地味で、平穏な人生。76才という長寿をまっとうしている。著者によれば、平穏に見える彼の生涯も戦いの連続であったという。それは帝政確立への戦いであり、後継者に自分と血のつながった人物を残そうという戦いであった。カエサルと違って、有能な司令官ではなく、戦場では勝ったことがなかったが、見たくない現実まで見る目を持っていたところはカエサルと同じであると著者は言う。何事にも慎重ではあったが、持続する意思は誰にも勝っていた。

 アントニウスに勝った後、元老院から「アウグストゥス」という称号をもらい、「第一人者」になった彼は、共和制復帰を宣言する。その裏で、実はカエサルの目指した帝政の実現を進めていく。まず権威は彼の下に集中していく。それに伴い、アウグストゥスが表面上は望んではいない権力も彼に集中していく。かくして事実上の帝政が築かれ、ローマとその属領は圧倒的な帝国のシステムの中で、平和を満喫する。パクス・ロマーナである。

 軍政の改革(それまではなかった常備軍の設立)、綱紀の粛正、税制、通貨の改革。
 帝政といってもローマの帝政は元老院とローマ市民の支持を得て初めて成り立つものだ。上巻148pには、元老院で法案説明中のアウグストゥスに対し「何のことなのか。さっぱりわからん!」という発言が飛ぶ。さらに「もしも発言さえ許してくれれば、あなたへの反論を逐一展開してみせますよ」とまで言われる。それでも、誰も処罰されなかったというエピソードが書かれている。

 アウグストゥスはカエサルと違って演説もうまくなく、文才もなく著作も残さなかった。ただ、死の間際になって自筆の「業績録」を残したのみである。これはきわめて簡単な自分の事績を記したものである。そのため、彼の生涯はカエサルほど詳細にはわからない。にもかかわらず、色々なことが現在まで伝えられ残っているのには、驚く。西洋文明の深さと古さに感心するのみである。

 彼を軍事面で支えたのは同年のアグリッパ。また、文化広報担当として、マエケナスという個人的な相談相手がいた。マエケナスからは後の「メセナ」という言葉が生まれる。彼は文化人のパトロンとなって保護する。

 彼は後継者に自分の血のつながった者を当てようとした。妻リヴィアの連れ子、ティベリウスは後の2代皇帝になる。しかし血のつながりはない。娘のユリアはアグリッパの妻であったが、その死後ティベリウスと結婚させられる。ところがティベリウスはこの妻を疎んじ別居する。ユリアはもともと不品行で名高い女性だったが、アウグストゥスは自ら制定した姦通罪を娘にも適用し、ユリアを島流しにしてしまう。ここにも皇帝といえども法に従うという法治国家ローマの特徴がよく出ている。

 各巻の最初にアウグストゥスを中心とする系図が出ている。当時は比較的近親同士での結婚が多く、さらに女性の再婚は当たり前であったようで、系図が複雑に入り組んでいる。それに加えて、同じような名前が頻出するのでなおさらわかりにくい姻戚関係になっている。ちなみにティベリウスを継いで3代目の皇帝になるのは、アグリッパとユリアの娘アグリピーナと、アントニウスの孫に当たるゲルマニクスの子供であるカリグラである。そして4代皇帝クラウディウスはゲルマニクスの弟である。

 塩野によれば、ギボンを初め、トインビーなど、西洋の歴史家には帝政は評判が悪いそうだ。その最大の理由は帝政ローマでは自由が制限されたことにあるという。しかし、塩野に言わせれば、その自由とは元老院600人の自由であり、帝政のもたらしたパクス・ロマーナに比べれば、その価値は取るに足らないと言う。

 アウグストゥスは死後、神君と言う称号で呼ばれる。家康もまた神君と呼ばれた。とすれば織田信長がさしずめカエサルか。彼には敵をも許す寛容の精神は皆無であるが、天才であるところは似ている。人々を引き付ける魅力という点ではあるいは秀吉がカエサルか。

 キリストが生まれたのは丁度この神君の治世下である。そのことに触れられているかと期待したが、まったくなかった。


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書名 ローマ人の物語 悪名高き皇帝たち 一、二、三、四 著者 塩野七生 No
2005-20
発行所 新潮文庫 発行年 平成17年9月 読了年月日 2005−10−15 記入年月日 2005−10−22

 ティベリウス、カリグラ、クラウディウス、ネロと、アウグストゥスの後継皇帝4人とその治世を描く。ローマ史上で最も名前の知れている皇帝はネロであると著者も言う。ネロのことは知っていた。カリグラの名前もかすかに記憶にある。いずれも悪名としてである。ティベリウスとクラウディウスのことは知らなかった。前2者に比べてそれほどひどい皇帝ではなかったからだろう。後世の史家から、特にタキトゥスから厳しく批判されたこれら皇帝を、塩野は援護する。彼らの時代、パクスロマーナは揺るぎのないものであり、それは帝政がしっかりと機能し、これら悪名高き皇帝達もそれなりの働きをした。あるいは、皇帝のスキャンダルぐらいでは、ローマ帝国の基盤は揺るがないものになっていたということ。

 塩野はスペインからライン川、ドナウ川、ティグリスユーフラテス川、そしてアフリカ北部におよぶ広大の地域を統治するには、帝政の方が適すると強調する。従って、共和制シンパのタキトゥスの叙述にことある毎に批判の矛先を向け、これら悪名高き皇帝達を擁護する。とは言え、タキトゥスの残した記述なくしてはこの巻は成り立たない。至るところでタキトゥスからの引用がなされている。ローマの帝政は、著者が繰り返し述べているように、オリエントや、アジアの帝政とまったく違い、元老院とローマ市民の賛成なしには成立しない。元老院から「第一人者」の称号を得て、初めて認められるのだ。

 2代皇帝、ティベリウスは治世の後半に側近のセイアヌスを粛正してからは、恐怖政治を敷き、反対派の多数を粛正する。そのことをタキトゥスは厳しく非難する。とは言え、タキトゥスも前半の治世は高く評価している。塩野も4人の中ではこの皇帝を最も高く評価し、カエサルが構想し、アウグストゥスが築いたシステムを盤石なものとしたとする。

 キリストが処刑されたのはティベリウスの時代である。このことに関連して17巻188pには以下の記述がある:
・・・このイエス・キリストが言ったという、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に」の一句を知ったならば、誰よりもそれに賛同したのはティベリウスであったろうと思う。政治と宗教の分離は、ユリウス・カエサルにとってもアウグストゥスにとってもあらためて考察の必要もないくらいの「理」であったが、後略:

ティベリウス自身は彼自身の神格化を頑なに拒否した。その心境は17巻212p以下に元老院での演説として述べられている。
17巻210pにはタキトゥスの以下の言葉が見える:
「いかなる皇帝でも、彼ほどに巧妙な人事を成しえた皇帝はいなかった」

 キリストの処刑を許した当時のユダヤ長官、ポンツィオ・ピラトについては18巻177pに厳しく批判している。:
だが、十字架上で死なずに黒海あたりに追放になったイエスでは、後のキリスト教拡大の起因にはなりえなかったであろう。ピラトは、この一事だけでも、祖国ローマに害をもたらしたのである。

 こうした書き方は完全に反キリスト教的な書き方だ。大学の前期のドイツ語のテキストで「ピラトの妻」という作品を読んだことを思いだした。ピラトの妻は、キリストの立場に同情を寄せる。夫にキリストの助命を嘆願したかどうかは、覚えていないが、とにかく、キリストの死後、彼の教えに帰依する。そんなストーリーだった。興味があってその後調べてみたら、ピラトの妻はキリスト教の聖人に列せられたとあった。

 ティベリウスを次いだカリグラは在位4年で、近衛軍団の大隊長に殺害される。誰もが歓迎した殺害であった。その後をついたのはクラウディウス。それまで目立たない存在であった。彼は妻、アグリッピーナの野望により、毒キノコを食べさせられて死んだとされている。アグリッピーナの連れ子、ネロを皇位につけようという野望だ。19巻190p以下にはクラウディウスについて以下のように述べられている:
・・・敬意を払われることなく育った人には、敬意を払われることによって得られる実用面でのプラス・アルファ、つまり波及効果の重要性が理解できないのである。ゆえに、誠心誠意でやっていればわかってもらえる、と思いこんでしまう。残念ながら、人間性は、このようには簡単には出来ていない。私などはときに、人間とは心底では、心地よく欺されたいと望んでいる存在ではないかとさえ思う。皇帝クラウディウスは、心地よいと思わせながら他者を欺すたぐいのパフォーマンスならば、まったく不得意な人であった。この種のパフォーマンスの達人であったカエサルとアウグストゥスが、ローマ人にとってはまごうかたなき「神君」で定着し、世界史上でも第一級のスターである事実が、人間性のこの真実を証明していないだろうか。

 こうした人間性に対する考察が至るところにちりばめられる。塩野の意図は、ローマの歴史を書くことで、彼女のこうした人生観を披瀝することにあるのだ。その基本は現実主義、力と強者への信奉である。

 ネロについても、特にその東方外交を高く評価する。ローマにとって東方問題とは強国パルティアとの関係だ。間歇的にパルティアとの関係がこじれる。ネロの時にも崩れかかるがそれをうまく処理する。ネロを悪役にした最大の要因は、ローマの大火をキリスト教徒の放火とし、多数のキリスト教徒を残虐な刑で処刑したことだ。当時のローマの人々がキリスト教徒に抱いていた感情として、「余計なお節介」をやくものという以外に、キリスト教のミサで、パンとブドウ酒が供されることの意味、つまりキリストの肉と血であることを知っていて、それをローマ人が忌み嫌い、決して受け入れなかった人身御供の習慣と結びつけ、忌み嫌ったという。20巻169p。
 ネロは最後は元老院から「国家の敵」と宣言され、自死する。14年間の治世、30才の死であった。

 四巻の巻末で、同時代人のタキトゥスやスヴェトニウスがローマ皇帝を悪く書いた理由についてわざわざ考察を加えている。一言で言えば、彼らは現在の左派知識人だったからだという。ローマによるブリタニアの制覇はクラウディウス帝によって行われるが、タキトゥスはそれによりブリタニア人の自由が抑えられたと記述する。塩野は、それによりブリタニア人の生活環境は飛躍的に向上したと述べ、タキトゥスの言は、発展途上国の人々にそんなにあくせく働いて電化製品を求めるよりも、昔の生活にとどまれという左派知識人に似ていると結んでいる。

 トインビーを初め、現代の歴史家は帝政になったためにローマは衰亡したと考えているらしい。塩野はそれに真っ向反対する。たとえそうであっても、アウグストゥスが作り上げた帝政は、ローマの滅亡を400年間も引き延ばしたという。私にはどちらが本当かはわからない。先日、十日市場図書館で、タキトゥスだったか、スヴェトニウスだったかの本を立ち読みしたときに、ティベリウスによるセイアヌス一派の粛正のところで、幼い女の子まで陵辱の上殺害したとの記述があった。こうしたことを見ると、塩野の見方は権力者に偏りすぎているような気がする。そして、ネロやカリグラの蛮行、愚行を思うと、帝政がローマの滅亡につながったという説に真実味があるのではないかと思う。


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書名 ローマ人の物語 危機と克服 上・中・下 著者 塩野七生 No
2005-21
発行所 新潮文庫 発行年 平成17年10月1日 読了年月日 2005−11−08 記入年月日 2005−11−18

 ネロ殺害の後、ガルバ、オトー、ヴィテリウスの3人が次々に皇位につく。しかし、いずれも短命で、ガルバとヴィテリウスは殺害され、オトーはヴィテリウスとの戦いに敗れ自死する。紀元68年から69年にかけてのことである。わずか1年あまりの間に3人もの皇帝が死んでいる。これを見たらローマの帝政に誰しもが疑問を感じる。その後を継いだのが、ヴェスパシアヌスである。これら4人の皇帝は任地はそれぞれ軍務についていてその任地は現在のスペイン、ポルトガル、ゲルマニア、そしてユダヤであった。

 ヴェスパシアヌスを一言で表すれば健全な常識人である。そして、帝政1世紀のこの時期に、制度疲労を起こした帝政を健全な道に戻すには健全な常識人が最適であったと、塩野はいう。中巻161p。彼が己の死を悟ったときにいったとされる言葉は「かわいそうなオレ、神になりつつあるようだよ」であるという。中巻168p。もちろん彼も死後神格化される。ヴェスパシアヌスは税制改革にも力を注ぐ。彼が創出した税に「小便税」というのがある。ローマの公衆便所にたまる小便を、羊毛業者が羊毛の脱脂に使ったのに対して課税した税だ。そこまでしなくてもいいと言う息子のティトゥスに対して、その鼻先に銀貨を突き出し、これに臭いがするかどうかを聞く。臭いがしないという息子に対して、でもこれは小便税による徴収なんだとヴェスパシアヌスはいう。そんなエピソードが書かれている(中巻232p)。こうした細かいエピソードまでが現代に残るということが、この著書全体を通じてのいつも感嘆することである。先日、高校の同期会で松本健と話したとき、本書のことが話題になる、彼もよくも2000年も前の記録が残っているものだと感心するといっていた。

 現在でもヨーロッパ諸国のヴェスパシアヌスの各国語読みが、公衆便所の通称となっているという。イタリアでヴェスパシアーノといえば、皇帝ではなく、公衆便所であるのが普通だとのこと。

 皇帝の後継者争いが内戦にまで発展したことを目にしたヴェスパシアヌスは、それを避けるために、皇帝法なるものを成立させ、皇位の継承を自分の息子、ティトゥスと決める。

 ヴェスパシアヌスが70才で死んだ後、ティトゥスが皇位を継ぐ。彼は治世2年で疫病にかかり40才で死ぬ。しかし、ヴェスヴィオス火山の噴火とポンペイの埋没(79年)と、ヴェスパシアヌスが着手したコロッセウムの完成は彼の在任中であった。ポンペイ埋没に関しては下巻20p以下に記されている。特に現場証人として、大プリニウスの最後を書いた甥の小プリニウスのタキトゥスに宛てた手紙が紹介されている。これは生々しい記録である。

 ティトゥスはまた、皇帝になる前はユダヤ戦役を指揮していて、イエルサレムを攻略したした。この時の犠牲者は100万人を超えるともいわれる。中巻132p。

 ヴェスヴィオス火山噴火、ローマの大火、疫病の蔓延の対策に奔走したティトゥスの後は、弟のドミティアヌスが継ぐ。しかし、晩年の恐怖政治故に彼は暗殺されてしまう。元老院はドミティアヌスを「記録抹殺の刑」に処す。彼にまつわる記録を一切抹殺するというのだ。その後を継いだのがネルバである。老齢のネルバはショートリリーフで後継者としてトライアヌスを選ぶ。ネルバから始まる5人の皇帝はいわゆる5賢帝であり、帝政ローマの絶頂期となる。ネルバ自身は2年の在任中、トライアヌスを後継者として選んだことが最大の功績で、それ故、5賢帝の中にはいるのだと、後世の歴史家はいうようだ。

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書名 ベトナム戦記 著者 開口 健 No
2005-22
発行所 朝日新聞社 発行年 1990年刊(文庫版) 読了年月日 2005−11−24 記入年月日 2005−12−31

 64年の11月から翌年2月までの南ベトナム滞在記。今、年表を開いてみると、65年の2月にアメリカは北ベトナム爆撃を開始した。サイゴンが解放戦線側に落ちて、南ベトナムが完全に解放されたのはそれから10年後の75年である。

 本書は65年に単行本として朝日新聞社から刊行されている。新橋の文教堂書店に立ち寄ったとき、目にとまり手にした。週刊朝日に連載されていた頃読んだ記憶がある。

 サイゴンでの反政府でもとクーデター騒ぎ、仏教の反政府指導者へのインタビュー、ベトコン少年の払暁の公開銃殺、そしてアメリカ軍指導の下に南ベトナム政府軍とメコンデルタでのベトコン掃討作戦に参加した際の戦場体験。開高健が数時間、秋元キャパと連絡不明になったことは当時の新聞にも出ていた。その際の体験だ。これは迫力がある。ジャングルをひた走り、地面に伏せ、彼らはどうやら逃げ延びることが出来た。その彼らのすぐ横では、政府軍の若い兵士が、静かに、苦痛の色も見せることなく死んでいった。

 この作品の魅力は何といっても、開高健独特の語り口。時に饒舌でありながら、あくことがない。ベトコン少年の処刑の場面のルポは真迫のルポであり、感傷とは無縁だ(162p以降)。:
人間は何か《自然》のいたずらで地上に出現した、大脳の退化した二足動物だという感想だけが体のなかをうごいていた。というのが直後の感想である(170P)。この場面を含め多数の写真がはめ込まれている。

 フランスからの独立戦争に、ベトナム農民に銃の扱いから、散開の仕方まで教え、農民から「戦争の神様」と崇められた旧日本軍で現地に残った軍人のことも紹介されている。「欧米列強の桎梏よりアジア同胞を解放する」とのスローガンを実行したのは彼らである。それを口に唱えなた将軍、高級将校、新聞記者、従軍文士はいち早く逃げ帰り、口をぬぐい、知らん顔をしていると開高はいう。(149p)。

 開高はこの戦いにアメリカも南ベトナムも勝利できないと肌で感じる。10年後それは現実となる。


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書名 心を生みだす遺伝子 著者 ゲアリー・マーカス著、大隅典子訳 No
2005-23
発行所 岩波書店 発行年 2005年3月 読了年月日 2005−12−24 記入年月日 2005−12−31

 人間の心の発達を生得論的立場から論じている。氏か育ちかという点からいえば、氏重視の立場。チョムスキーが推薦している。遺伝子が心の生成と発達にどのようにかかわりうるかを解説している。

 著者が強調しているのは、脳が身体の他の部分と違う原理で作られているのではないということ。同じゲノムを持ち、同じ細胞内反応で脳も作られていくということ。そしてそれらを支配するのは遺伝子である。遺伝子は青写真ではない。構造だけでなくプロセスも指示するものだという。それは、コンピュータプログラムのように「If]と「Then」から成っていて、決して単にタンパク質の構造をコードしているだけではないとこが強調される。遺伝子の発現はその細胞のおかれた環境によって支配される。つまりifの部分が違うことによって、細胞は筋肉にも、臓器にも、脳にもなる。神経細胞の軸索が脳内のある特定の分野に向かってのみ伸びていく原理の一つには、誘導物質の濃度勾配がある。

 遺伝子の多面的な働きを知る上でよく書けた本だ。本書を読んでいて、ジャコブとモノーのオペロン説が如何に大きな発見であったかが理解される。

 前半で著者は心は脳の産物であることをしきりに強調する。私にはそんなことは自明のことのように思われたのだが、著者が強調するところを見ると、そのような考えを否定する考えが一般のみならず、科学界にも根強く残っていることを想定させる。意外であった。

 題名からか予想したのとは外れて、遺伝子の機能を理解する上で参考になる本であった。ただし、心あるいは意識を生みだす脳内ニューロンの仕組みについては触れていない。この分野は依然としてまったく手に負えない領域であるのだろう。その方法論すらわからないのが現状だ。


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