読書ノート 2009

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書名 著者
貧困大陸アメリカ 堤 美果
好色五人女 井原西鶴
中山道を歩く 上 横山正治、安斎達雄
人間・この劇的なるもの 福田恒存
吉野葛・蘆刈 谷崎潤一郎
コインロッカーベイビーズ 村上龍
山月記・李陵 中島敦
自然の中に隠された数学 イアン・スチュアート
坂本龍馬 松浦 玲
国境の南、太陽の西 村上春樹
スプートニクの恋人 村上春樹
秀吉と利休 野上弥生子
愛と幻想のファシズム 上・下 村上龍
安土往還記 辻邦生
春の戴冠 1 辻邦生
春の戴冠 2  辻邦生 
春の戴冠 3  辻邦生 
春の戴冠 4 辻邦生 
村上朝日堂  村上春樹/安藤水丸 
ローマ人の物語XIII 最後の努力(上・中・下)  塩野七生 
日出ずる国の工場  村上春樹/安藤水丸 
村上朝日堂の逆襲  村上春樹/安藤水丸 
中山道歩を歩く 下  横山正治、安斉達雄 
ピースボート地球一周の航海記  池田 隆 
蛇を踏む  川上弘美 
センセイの鞄  川上弘美 
何となくな日々 川上弘美 
此処彼処  川上弘美 
博士の愛した数式  小川洋子 
零の発見  吉田洋一 
薬指の標本  小川洋子 
妊娠カレンダー  小川洋子 
世界は分けてもわからない  福岡伸一 
背負い水  荻野アンナ 
季語の誕生  宮坂静生 
日本風景論  池内 紀
時間の分子生物学 粂 和彦


書名 貧困大陸アメリカ 著者 堤 美果 No
2009-01
発行所 岩波新書 発行年 2008年1月 読了年月日 2009-01-14 記入年月日 2009-01-17

  
文字通りアメリカの貧しさをルポルタージュしたもの。今回の世界的金融危機の発端となった住宅ローンの返済不能の現場からはじまり、医療保険から見放された人、崩壊する医療現場、教育から見放された人、食料切符に頼る人々、ニューオルリーンズを襲ったハリケーンの被害から回復できない人々、生活のために軍隊へ志願する若者といった、多くの人々へのインタビューに基づいて書かれている。取り上げられたエピソードは事実であろうし、随所に挙げられている統計データも出所を明確にしていて、正しいものであろう。間違いなく、本書はアメリカの一面を、私たちが普段は余り関心を持たない一面をえぐり出している。読んでいて、国民皆保険で、介護保険という制度まである日本は何といい国だろうと思う。しかし、これはアメリカの現実の一面でしかない。

 著者はアメリカのこれら貧困はすべて行き過ぎた市場原理主義がもたらしたと主張する。医療の現場にも、教育の現場にも、災害救助の現場にもすべて市場原理を持ち込み効率化を目指したために、多くの人がまともな教育や医療や災害救助から閉め出されたと主張する。そして、戦争まで民営化し、イラク戦争では戦争請負会社が大きな役割を果たしていると指摘する。

 我々がJRやNTTの民営化によって享受したサービスの向上を思うとき、アメリカでも民営化の光の部分は当然あるはずだが、本書にはまったく出てこない。90年代のアメリカ経済の繁栄は、規制緩和を基にしたIT産業が世界をリードした結果もたらされたものだと私は思う。本書はまた、自己責任という考えも排除している。例えば高額の住宅ローンを組み、不動産価格の値下がりでローンが払えなくなったのは、すべて、巧みな口車でローンを勧誘した金融機関の責任であるという立場だ。


                                            
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書名 好色五人女 著者 井原西鶴、谷脇理史 訳注 No
2009-02
発行所 角川文庫 発行年 平成20年6月 読了年月日 2009-01-24 記入年月日 2009-01-28

 
八百屋お七のことを1月のエッセイに書いた。調べていて、お七没後3年で、西鶴が本書を著し、その4番目にお七を取り上げたと知った。第1話のお夏・清十郎からお七までは悲劇の恋、最後のはハッピーエンドに終わる。最初に各編の概要と現代語訳が載っていて、その後に原文が注釈付きで掲載されている。概要を読んで次いで原文、現代語訳の順で読んだ。

 好色女という題から、セックス好きの女性をさげすみ、あるいは批判した作品を想像していたが、そうではなかった。今時のポルノ小説のような詳細なセックスシーンもない。色好みの女性に対するチクリとした皮肉はあっても、一途な恋に生きる男女が深い共感をもって描かれている。そして風刺や滑稽味が随所にあって、楽しい読み物となっている。
 例えばお七が火災で避難した駒込吉祥寺の小姓吉三郎と恋に落ち、その寝所へ忍んでいくときの描写など、笑ってしまう。広間に寝静まった人々の上を越えて行くのだが、途中で若い女の身体につまずいてしまう。その女は、お七の目的を察して、事後に使う懐紙をお七に差し出すのだ。ちなみにお七の物語は「恋草からげし八百屋物語」である。

 江戸中期の町人の裕福な生活を知る上でも面白い。第1話の「姿姫路清十郎物語」では清十郎は14歳の時から遊郭で遊び始めて入り浸りで、ついに19歳の時勘当される。そして、心を入れ替え但馬屋という他の商家で奉公人となり働き、その主人の妹のお夏と恋仲になる。大勢の下女を引き連れ、お夏と清十郎は花見に出かけて、皆が獅子舞に見とれている間に二人は天幕のなかで契りを結ぶことが出来る。しかし、天幕のすき間からその場面を草刈り作業をしていた百姓に見られてしまう。この場面もユーモラスだ。二人の仲は主人の妹と奉公人、許されぬ恋だ。大坂への駆け落ちを決めた二人は飾麿津の港から船に乗る。ところがかなり沖に出てから、同乗した飛脚が荷物を忘れてきたことに気が付き船頭は船を返す。そのため、二人は港まで追ってきた追っ手につかまってしまう。清十郎は但馬屋から700両の小判を持ち出したとの嫌疑も受け、処刑されてしまう。もっともこれは無実であることが後で判明する。清十郎の生活振り、700両もの金が蔵にある商家の生活は大名並だ。おっちょこちょいの飛脚というのも面白い。

 男色が男女間の恋と同様の地位を得ていたこと。お七の相手の小姓吉三郎ももともとは衆道といわれる男色関係を「兄分」との間に結んでいた。お七の死後、吉三郎はその衆道からはずれて、お七との恋に落ちたことに深い自責の念を抱く。そして出家する。美少年吉三郎の前髪を切る情景はお七の最後以上に人々の哀れをさそったと述べ、男色、女色、両方の恋とも、哀れで、無常で、夢で、現であるとお七の物語を結んでいる。衆道においてお互いに貞節を貫くことの大切さは、確か「葉隠」にも強調されていた。
 着物の描写が詳しい。第3卷「中段に見る暦屋物語」の出だしの部分にはふんだんに出てくる。一年中を色町で過ごす京都の遊び人4人が、水茶屋で通り過ぎる女の品定めをする場面だ。ここでもユーモアたっぷりで、ある女の服装―多分豪華な衣装だろうと思うが私にはさっぱりわからない―が詳細の述べられた後、その女が引き連れた下女達に何か一言言った際、下の歯が一本抜けていたのが見え、恋心がさめた、と言うような描写がある(p224)。

 お七は丙午生まれだという俗説が、丙午生まれの女性の迷信を広めたらしい。その丙午については、第3卷で男女が逃避行中、山の中で猟師に世話になり、そこで祝言をあげる。丙午生まれだからと言う女に、猟師は「
たとえば丙猫にても、丙狼にても、それにはかまはず」と言う。脚注にはこれは西鶴の合理性を示すものだとあった。(p242)
 西鶴描くお七(p253):
ここに、本郷の辺りに、八百屋八兵衛とて売人、昔は俗姓賤しからず。この人ひとりの娘あり、名をお七といへり。年も十六、花は上野の盛り、月は隅田の影清く、かかる美女のあるべきものか。都鳥その業平に、時代ちがいにて見せぬ事の口惜し。これに心を掛けざるはなし。

                                           
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書名 中山道を歩く 上 著者 横山正治、安斎達雄 No
2009-03
発行所 学研M文庫 発行年 2002年6月 読了年月日 2009-01-29 記入年月日 2009-02-02

 
甲州街道を踏破したのに次いで中山道を歩いてみたくなった。正月3日に日本橋から戸田まで歩いた。ここまでは、東京道路事務所発行の旧街道マップがあった。その先、中山道全体のマップが入手できなかった。ネットに載っている中山道歩きの体験記にも、詳しい地図が載っているのはなかった。アマゾンで調べて、本書がガイドブックとしては最適であると思われた。ところが、アマゾンには新本はなかった。ネット書店の中古品をアマゾンが扱っており、690円定価のものが1780円もして、さらに送料も取られるから2000円を超る。下巻もあるが、これは中古品が3300円もする。買うのが躊躇されたので、国会図書館で閲覧した。文庫本版のハンディーな本であるが、5万分の一の地形図に街道全域の道筋が切れ目なく載っていてまさに私が求めていたものだった。国会図書館で、戸田から先、熊谷あたりまでの地図の部分をコピーしてきたが、やはり手元に置きたいと思い、取りあえず上巻だけをアマゾンで購入した。

 地図が目当てで購入したのだが、各宿場や街道の旧跡にまつわる歴史の話が面白く、読み物としても楽しい。道案内も懇切丁寧ないい本で、中古でも高いのは仕方がない。
 関東に在住しながら、関東地方の歴史には疎い。戦国、幕末とも歴史の中心は関西が舞台で、関東は脇役だ。そうした忘れ去られた関東の歴史に本書は目を向けさせてくれる。古くは平将門のこと、あるいは戦国前期の上杉と北条の間の戦い、あるいは滝川一益が北条と戦って敗れた戦、こうした歴史には私はまったく疎い。中山道沿いには、そうした余りポピュラーでない歴史にまつわる旧跡が多い。


                                           
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書名 人間・この劇的なるもの 著者 福田恒存 No
2009-04
発行所 新潮文庫 発行年 昭和35年 読了年月日 2009-02-08 記入年月日 2009-02-25

 
大学クラスメートの吉田さんが、私のHPの読書ノートへの感想を寄せた。その中で、大正天皇が明治天皇の側室の子であることを知らなかった、儒学者の元田永孚という人物を初めて知ったという、「明治天皇」の読後感に、戦後教育に弊害だと述べた。そして、暮れに忘年会で会ったとき、戦後一貫して進歩的文化人を批判する論陣を張ってきた福田恒存の著作を是非読むように勧められた。吉田さんは従来から改憲論者で、特に福田恒存の改憲論の著書を推薦してきた。たまたまアマゾンで検索したとき、吉田さんの推薦する本が見つからなかったので、取りあえず本書を取り寄せた。

 著者の基本的思想がよく現れた著作。個人主義の否定と全体への帰依を説き、人間は必然のなかで役割を果たすことが幸せであり、自由とは奴隷の思想であると言う。こうした思想をシェークスピアの戯曲、特にハムレットを題材として展開する。博識と深い洞察を伴った格調高い堂々たる主張、人生論である。どのページにも鋭い考察が満ちている。思いつくままに以下にいくつかをあげる:

生きがいとは、必然性のうちに生きているという実感から生じる。その必然性を味わうこと、それが生きがいだ。私たちは二重に生きている。役者が舞台のうえで、つねにそうであるように。(p17)

自由ということ、そのことにまちがいがあるのではないか。自由とは、所詮、奴隷の思想ではないか。私はそう考える。自由によって、ひとはけっして幸福になりえない。自由というようなものが、ひとたび人の心を領するようになると、かれは際限もなくその道を歩みはじめる。方向は二つある。内に向うものと、外に向うものと。自由を内に求めれば、かれは孤独になる。それを外に求めれば、特権階級への昇格を目ざさざるをえない。だから奴隷の思想だというのだ。奴隷は孤独であるか、特権の奪取をもくろむか、つねにその二つのうち、いずれかの道を選ぶ。人が自由という観念におもいつくのは、安定した勝利感のうちにおいてではない。個性というものを、他者よりすぐれた長所と考えるのは、いわば近代の錯覚である。ストイックやエピキュリアンにまでさかのぼらずとも、つねに人は、自分がなにものかに欠けており、全体から除けものにされているという自覚によって、はじめて自由や個性に想到したのである。が、このなにものかの欠如感が、ただちに安易に転化され、弱者の眼には最高の美徳であるかのごとく映じはじめるのだ。(p95)

 
私たちは、滅びながら、眼のまえに、自分を棄てて生きのびる全体の勝利を見ようとする。それを見て喜ぼうとする。この本能は、おそらく劇場の美学の根本原理をなすものであろう。ギリシア劇においても、シェイクスピア劇においても、またイプセン、ストリンドべリ、チェーホフの戯曲においても、のみならず、スタンダール、トルストイ、ドストエフスキーなどの劇的な小説においても、この美学の原則は忠実に守られている。そこでは、個人の恣意や情念が、その極限まで刺激され追求されたあとで、かならず全体の名により罰せられ滅ぼされていく。私たちの、意識の表面は、そこに個人の自由を読みとって、日常生活では得られぬ満足を感じるかもしれぬ。が、無意識の暗面では、その個人の自由が罰せられたことに、限りない慰撫を感じているのである。なぜなら、そこに私たちははっきりと全体の存在を確めえたからである。(p143)

 
そのために死ぬに値するものとは、たんなる観念やイデオロギーではない。個人が、人間が、全体に参与しえたと実感する経験そのものである。そして、それは死の瞬間においてしか現れない。この瞬間を境にして、人は古い生と新しい生とを同時に所有しうるのである。私たちは、死に出あうことによってのみ、私たちの生を完結しうる。逆にいえば、私たちは生を完結するために、また、それが完結しうるように死ななければならない。ふたたび、それが、劇というものなのだ。それが、人間の生きかたというものだ。(p127)

 自由の否定、全体への帰属という福田の主張を体現しているのは、今の北朝鮮ではないかと思った。北朝鮮の今の体制が持ちこたえているのは、外からの情報が極端に遮断されていることが最大の原因だと思うが、一面では福田の言う人間の本質に基づいているのかもしれないと思った。
 全体への帰属が人間の本質であるという著者の基本的思想のよって来たるところはあきらかではない。細かい例証は抜きにして、詩人としての直感から、著者は人間の本質をそう見抜いたのであろう。古代の宗教秘儀に全体への帰属と、劇の本質を見出している。また、自然と結びついた四季折々の行事、例えばキリスト教の復活祭を始めとする諸行事や、日本の新嘗祭などを、人々が全体との一体感を感じる行事としている。
 個人の失敗を、遺伝だとか、過去の異常な経験だとか、社会の欠陥といった必然に転嫁するために、フロイディズムやマルキシズムが利用されていると、厳しく糾弾している。(p24)

                                           

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書名 吉野葛・蘆刈 著者 谷崎潤一郎 No
2009-05
発行所 岩波文庫 発行年 1950年刊、2007年31刷 読了年月日 2009-02-13 記入年月日 2009-02-26

 
NHK朝の放映「私の1冊」の中で辻井喬があげたのは「蘆刈」。「蘆刈」は、15夜の夜に私が京阪の間、山崎の辺りの淀川の中洲で出会った男から聞く、親子2代に渡るある女人への思慕。「吉野葛」は吉野を舞台として南朝に関する歴史物を書こうと、山深く旅した私が、同伴した友人津村から聞いた、母への思慕。

 読んでいて感じるやわらかい文章の心地よさ。「蘆刈」は句読点の少ない長い文章が続くが、読みづらくない。平易でいて優れた描写。これらは谷崎作品に共通する感想だ。今回は特に両作品とも絶妙の風景描写。「吉野葛」は紀行文として読んでも優れており、私の街道歩きをこんな風にまとめられたら素晴らしいと思うが、しょせんは夢。
 両作品とも出版当時の挿絵がたくさん掲載されており、また「吉野葛」には吉野地方の写真がたくさん掲載されている。

「吉野葛」は吉野の山奥からいったん大坂の色街に売られ、そこから嫁いできて、幼い頃に死別した母の生家を探し、訪ねる物語。津村はやっとの事で母の生家を見つける。母は生業の紙漉が傾いて売りに出されたのだ。津村は母の実家に紙漉の手伝いに来ていた純朴な田舎娘を自分の妻とすると言った話。
「吉野葛」から:
・・・とにかくその障子の色のすがすがしさは、軒並みの格子や建具の煤ぼけたのを、貧しいながら身だしなみのよい美女のように、清楚で品よく見せている。私はその紙の上に照っている日の色を眺めると、さすがに秋だなあという感を深くした。
 実際、空はくっきりと晴れているのに、そこに反射している光線は、明るいながら眼を刺すほどでなく、身に沁みるように美しい。日は川の方へ廻っていて、町の左側の障子に映えているのだが、その照り返しが右側の方の家々の中まで届いている。八百屋の店先に並べてある柿が殊に綺麗であった。キザ柿、御所柿、美濃柿、いろいろな形の柿の粒が、一つ一つ戸外の明りをそのつやつやと熟し切った珊瑚色の表面に受け止めて、瞳のように光っている。饂飩屋のガラスの箱の中にある饂飩の玉までが鮮やかである。往来には軒先に筵を敷いたり、箕を置いたりして、それに消炭が乾してある。何処かで鍛冶屋の槌の音と精米機のサアサアいう音が聞える。
(p24)
 吉野の入り口、上市の街の描写である。何気ない文章の中から古き日本の穏やかな秋が立ち上がってくる。名文としか言いようがない。障子の描写は後年の「陰翳礼賛」に通じるものを感じる。

「蘆刈」は、子供のころ父に連れられて大きな別荘の垣根の間から見た、優雅に管弦の遊びに興じる女性が、実は父の恋人であったというストーリーを軸に展開される。その女性は、若後家となり実家に戻っているとき、語り手(以下「私」)の父が見初める。「蘭たけた(ろうたけた)」顔のお遊さんと呼ばれるその女性は裕福な家庭に育ち、大名のような生活をしている。父はお遊さんに一目で好意を持つのだが、結婚したのはその妹である。しかし、結婚後もお遊さんへの思慕の情は断ち切れない。それを知っていた妹おしずは、父との夫婦の交わりを断る。そんな関係が続くが、お遊は妹夫妻の事情を知って、自らも再婚する。母は私が幼い頃になくなるが、父は、幼い私を連れて、お遊さんの別荘をのぞき見する。そして、私も子供心にお遊さんへの思慕を募らせたといった話。
「蘆刈から」:
 
なべて自然の風物というものは見る人のこころごころであるからこんな所は一顧のねうちもないように感ずる者もあるであろう。けれどもわたしは雄大でも奇抜でもないこういう凡山凡水に対する方がかえって甘い空想に誘われていつまでもそこに立ちつくしていたいような気持にさせられる。こういうけしきは眼をおどろかしたり魂を奪ったりしない代りに人なつッこいほほえみをうかべて旅人を迎え入れようとする。ちょっと見ただけではなんでもないが長く立ち止まっているとあたたかい慈母のふところに抱かれたようなやさしい情愛にほだされる。(p98)。
 私もまったく同感である。

 巻末に2つの解説が載っている。最初の方の出だしは小説の衰退論がはびこっているという現状から書き起こしている。てっきり、最近よく言われていることかと思って読み進めると、なんとその解説は「吉野葛」発表のすぐ後、昭和6年に書かれたものであった。70年以上前に、すでに小説衰退論が盛んに言われていたと思うと、人の言論など新しいものは少ないのだと思う。その解説は、「吉野葛」は言われているような単なる紀行文ではなく、細部まできっちりと手の入った優れた小説であるという。

                                           

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書名 コインロッカーベイビーズ 著者 村上龍 No
2009-06
発行所 講談社文庫 発行年 84年1月刊、2008年1月67刷 読了年月日 2009-03-11 記入年月日 2009-03-25

  
NHKの日本の100冊で金原ひとみが推薦。テレビで最初に読まれたこの本の出だしの部分が強烈な印象として残り、読みたいと思った。その日、家を出るとき読みかけの文庫本をポケットに入れ忘れ、たまたま長津田で乗り換えの時間が少しあったのでSAGA書店で購入。文庫本で上下2冊。

 これだけ特異な物語をこれだけ斬新な文章表現で表さなければ小説の新しいフロンティアは切り開かれないのだろう。文章が違う。描写が違う、ものの見方が違う、強烈なイメージが喚起される。さすが、若い芥川賞作家が推した本だけある。

 出だし:
女は赤ん坊の腹を押しそのすぐ下の性器を口に含んだ。いつも吸っているアメリカ製の薄荷人り煙草より細くて生魚の味がした。泣きださないかどうか見ていたが、手足を動かす気配すらないので赤ん坊の顔に貼り付けていた薄いビニールを剥がした。段ボール箱の底に夕オルを二枚重ねて敷き、赤ん坊をその中に入れてガムテープを巻き、紐で結んだ。表と横に太い字ででたらめの住所と名前を書いた。化粧の続きを済ませ水玉模様のワンピースに足を通したが、まだ張っている乳房が痛みだし立ったまま右手で揉み解した。絨毯に垂れた白濁を拭かずにサンダルをつっかけ、赤ん坊の入った段ボール箱を抱えて外に出た。タクシーを拾う時、女はもう少しで完成するレース編みのテーブルクロスのことを思い出して、出来上がったらその上にゼラニウムの鉢を置こうと決めた。ひどい暑さで日向たに立っていると眩暈がした。タクシーのラジオは記録的な猛暑で老人や病人が六人も死亡したと伝えた。駅に着くと女は一番奥のコインロッカーに段ボールを押し込み、鍵を生理綿に包んで便所に捨てた。熱と埃で腫らんでいる構内を出てデパートに入リ、汗がすっかり乾いてしまうまで休憩所で煙草を吸った。パンティストッキングと漂白剤とマニキュア液を買いオレンジジュースを飲んだ。喉が渇いてしょうがなかった。洗面所で、買ったばかりのマニキュアをていねいに塗っていった。

 度肝を抜く描写だ。赤ん坊を捨てた直後に念入りにマニキュアを塗る女。
 こうして捨てられた主人公のキクはコインロッカーの中で暑さに目を覚まし、泣き続けて、「最初に女の股を出て空気に触れてから七十六時間後に」発見される。施設で育てられたキクはやはりコインロッカーに捨てられていたもう一人の主人公で弟分のハシとともに長崎県の離島の里親に育てられる。キクは棒高跳びの選手、ハシは自閉症の子供となる。

 高校生の時、ハシは母を捜しに家を飛び出し上京する。キクも育ての母とともにハシを探しに上京する。しかし育ての母は東京で死んでしまう。ハシは高層ビルに囲まれた薬島という得体の知れない所で、ホモとして身体を売りながら生活していた。やがてハシは歌の才能を認められて、歌手としてデビューする。一方、キクは知り合った金持ちの娘、アネモネと暮らすようになる。
 ハシは歌手として有名になり、テレビ局が実の母親との再会を企画する。しかし、そこにやってきたのはキクの母親で、キクは母親を射殺してしまう。

 キクは服役する。ハシは人気ロックバンドを結成し、各地で熱狂されるが、疲れ果てて、ついには精神病院に入る。キクは社会復帰に備える職業訓練で、実習船に乗っているとき、アネモネと示し合わせて、受刑者仲間と脱走する。そして、小笠原諸島の水面下四十メートルの洞窟に眠るダチュラを手に入れる。ダチュラは神経性の猛毒物質だ。キクとアネモネは東京にこのガスを撒く。妊娠中の妻を殺したと思っているハシが、人気の絶えた東京を歩き、母親が胎児に伝える心臓の音を発見するところで小説は終わる。心臓の音の伝えるメッセージは、死ぬな、生きよ、ということだ。ただし、最後の結末が私にはイメージしにくい。

 人間が本質的に持つ破壊衝動を描いたもの。それにしては凄まじい。特に後半は。こうした破壊願望を正当化するものは唯一、彼らが生後すぐに捨てられたと言うことだ。

上巻の最後、キクが生みの親を、公衆の面前、テレビカメラの前で射殺する場面:
「あたしを、撃ちなさい」
 女は立ち上がってゆっくりとキクに歩み寄った。女の顔から湯気が出ていた。俺は、閉じ込められている、思い出せ、この巨大な光に切り取られた場所、閉じ込められたままだ、破壊せよ、お前が閉じ込められている場所を破壊せよ。キクは、降ってくる光の破片に向かって引き金を引いた。一瞬目の前に体の大きな女が立ち塞がった。女が銃口の前に顔を突き出したのだ。散弾が女の顔を引きちぎった。女は両手を拡げて吹っ飛んだ。女はさっきと同じような格好でうずくまった。赤いセーターを被っているように見えた。目も鼻も唇も耳も髪の毛も失くなった顔がキクの方を向いている。そのドロドロした赤い顔は降り続ける雪を吸い込み、表面から湯気を立てた。


 とにかく一般人の良識でこの小説を読んではいけないのだ。人間というものの見方を推し広げる、それが文学だと思わないと読み進められない。

 面白いのは本書の上巻が2008年1月67刷、下巻が2008年12月61刷であること。上巻の方が1年近く前に下巻よりも6刷も多く出ている。内容の凄まじさにギブアップする人が多いのだろうか。

                                           

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書名 山月記・李陵 著者 中島敦 No
2009-07
発行所 岩波文庫 発行年 94年7月 読了年月日 2009-03-20 記入年月日 2009-03-25

 
NHK日本の100冊の中で、作家の北方健三が推薦した本。北方は「李陵」をあげた。本書はその他に「山月記」などほぼ中島敦の全作品と思われる全部で11編を収めてある。

 高校の国語の教科書で読んだのは「山月記」の一部だった。自分の才能を恥じ世をすね、人をねたむ醜悪な心が高じてついには虎になってしまうということが、観念的で、理屈ぽいと思い、それほど感銘を受けなかった。それ以上に、漢文調のゴツゴツした文体になじめなかった。あるいは、細かく区切られた息の短い文体に、若くして亡くなった作者の生理を感じ取っていて、それが好きになれなかったのかも知れない。当時の私は夭折と言うことに漠然とした恐れを感じていた。今回読んでみて、文体への違和感はそれほど感じなかった。

「李陵」の方が面白かった。漢の武帝の武将として、匈奴と戦い、敗れて降伏し、匈奴の地で生涯を終えた李陵の数奇な生涯が語られる。李陵が匈奴に下ったことを知った武帝は激怒する。その処置を決める際に、一人李陵を援護したのが司馬遷である。司馬遷はそのことにより、武帝の逆鱗に触れ、宦官にされてしまう。だが、司馬遷は父から受け継いだ通史の編纂にその後の人生を没頭し、ついに史記を完成させる。李陵は最後まで匈奴に留まりそこで没する。数年前、西安郊外の武帝陵を訪れたことがあるので、一層この作品に親しみを感じるのだろう。簡潔で男性的な文体が作品とマッチしている。

「吾浄歎異」と「吾浄出世」。いずれも西遊記を題材にしている。作者は未完に終わったが、西遊記を書く構想を持っていたとのこと。「吾浄出世」は、川底にうごめく多数の妖怪の一人であった吾浄が、人間に戻るべく色々な師のもとを訪れて教えを請う話。その中で、作者は古今東西の思想、哲学を論じる。漢学の素養だけでなく、深い西洋的な教養も有していることを示す。吾浄は最後に玄奘法師に出会い、人間に戻ることが出来る。
「吾浄歎異」は吾浄から見た玄奘と孫悟空の対比。179pには以下のように述べる:
およそ対蹠的なこの二人の間に、しかし、たった一つ共通点があることに、俺は気が付いた。それは、二人がその生き方において、共に、所与を必然と考え、必然を完全と感じていることだ。更には、その必然を自由と見倣していることだ。

「弟子」という作品は子路という弟子を通してみた人間孔子が描かれていて、面白い。

 中島敦は戦争の始まる前、当時日本が統治していた南洋の島々を訪れ、その記録をたくさん残している(「環礁」)。さらに、自分の肉親や、自身のことを書いたものもある(「斗南先生」他)。いずれも鋭い人間洞察が、優れた文章で綴られている。並々ならぬ作家であると初めて認識した。若死にが惜しまれる。

 巻末の注釈が詳細である。漢籍からの引用が多いから、これなくしては読みこなせない。

                                             

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書名 自然の中に隠された数学 著者 イアン・スチュアート、吉本良正 訳 No
2009-08
発行所 草思社 発行年 1996年10月 読了年月日 2009-03-30 記入年月日 2009-04-01

 
サイエンスマスターシリーズ。購入したのはもうずいぶん以前。昨年やっと読み始め、ようやく読み終わった。自然界の根底には数学的関係が隠されていて、それを明らかにするのが自然科学だと思わせる本。自然科学への斬新な見方を提供してくれる大変面白いいい本だと思いながら読み進めた。しかし、読了までに時間がかかったので、最初の方の内容はもう覚えていない。印象に残るのは読んだばかりの終わりの部分。

200ページ以下にはこうあった。
 植物の形態はフィボナッチ数に支配されている。フィボナッチ数とは先行する2つの数の和となる数列。3,5,8,13,21、34,55・・・。典型的なのは花弁の数。そればかりではなく、ひまわりの頭部にある小さな花は、34と55のそれぞれ逆回りのらせん状に配置している。なぜそうなるかの説明として、生長する植物の頂点では将来各器官になる原基が時間経過とともに生成するが、その際頂点から見た角度が137度で次の頂点が生成するのが空間的にもっとも都合がいい。その結果としてフィボナッチ数列の数が形態の上に生じるとする。そして著者はDNAが形態のすべてを決めているのではなく、DNAは発生のダイナミックな法則を決めているのだろうとする。

 読みながら付箋をはさんだ所を以下に抜粋する、ただし読んでいて手元に付箋がないときはつけていないから印象に残った個所のすべてではない:
35p:
数学はパターンの科学であり、自然は存在するパターンをあますところなく活用している。
 本書の基本姿勢である。
37p:
実際、数学がなければ、私たちは、物質が本当に原子からできていることを納得できなかっただろうし、原子の配列の解明に取り組まなかっただろう。遺伝子を発見し、さらに遺伝物質DNAの分子構造を発見したことは、数学的な手がかりが存在したからこそ可能だったと言える。
78p:
ニュートン以来、数理物理学の戦略は宇宙を微分方程式によって記述し、しかるのちにその式を解くことだった。
 それに続くページでは、カオス現象では「解く」というのは近似解を求めることになり、さらに三体問題では近似解すら存在しないので、「解く」とは「解がどのように見えるかを教える」ことになったと述べる。(92p)

128p:
つまり、自分(アインシュタインのこと)の思考の基礎を、時空におけるどの特定の点も特殊ではないという考えにおいたのだ。物理学上の最大の発見の一つである相対性原理はとくにこの点から、出発したわけである。
136p:
分子とその鏡像の分子のエネルギーのレベルが正確には等しくないという事実である。その影響はきわめて小さく、ある特定のアミノ酸分子とその鏡像のエネルギーのレベルの差異はほぼ10 分の1である。
 分子の光学異性体はエネルギー的にはまったく同一だと私は思っていた。

 著者は特にカオス理論に力を入れて説明している。それは例えば166p前後とか180p前後に詳しい。
カオスは一見こみいっていて、見たところではパターンのないふるまいだが、実際は単純で、決定論的に説明できるふるまいなのである。」(166p)。

 初期条件に対して敏感なシステムがカオス的ふるまいをする。そして、その初期条件の真の値を求めることはできない。たとえ小数点以下10桁までの測定値が得られたとして、それを使ってふるまいを予測しても、測定値の10桁以下の誤差が次第に拡大されて、予測が大きくはずれることがあるということを、蛇口から水滴が落ちる間隔の予測実験例を使って説明している。大変面白く、説得力のある説明だ。

                                           

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書名 坂本龍馬 著者 松浦 玲 No
2009-09
発行所 岩波新書 発行年 2008年11月 読了年月日 2009-03-31 記入年月日 2009-04-01

 
龍馬の足跡を資料から明らかにしたもの。資料としては龍馬との間にかわされた書簡類、幕末に活躍した人びとの日記類が主体である。特に前半は勝海舟の日記からの引用が多い。そうした資料を基にいついつに龍馬がどこで何をしていたかを出来るだけ正確に記述しようとした著書。すでにたくさんの龍馬関係の史料が集められ、編纂されている。しかし、それらの資料を吟味すると、色々誤りや理解に苦しむ点が出てくるようだ。それを著者は細かい点まで検討し、いくつかについては従来説の誤りを正している。例えば、勝海舟の日記の日付はかなりいいかげんであったり、日付がなかったり、あるいはあったことを網羅的に書くのではないので、肝心のことが抜けていたりするという。だから、彼の日記に書かれたことを、他の人びとの日記あるいは書簡と突き合わせて検討する。歴史研究の地道な努力に一端に触れる。

 と言うわけで、本書は通俗的な龍馬像を記述したものではない。幕末から維新へかけての深い歴史的理解がないと、無味乾燥な研究論文になってしまう。一応、前書きとして当時の歴史が概観されていて、それはそれで簡潔な幕末維新史であるが、これだけでは龍馬のとった行動が理解できるものではない。事実関係だけを記載してあるので、龍馬の思想、特に勤王思想と後の五箇条のご誓文を先取りしたような新しい政治形態の提言が、どのように形成されたかはまったく不明である。あるいは海援隊を組織し、活躍の場を海に求めた理由は何であったかも触れられていない。こうしたことは多分司馬遼太郎あたりの小説を読むとわかるのだろう。

 驚くのは、当時の人の書簡と日記がたくさん残っていること。まだ150年前のことだから、資料が散逸していないのだろう。明治から現在にかけて、そうした資料の編纂がたゆみなく続けられている。土佐藩を脱藩した竜馬は、江戸、京都、大坂、長崎、下関、鹿児島、越前と飛び回る。移動には蒸気船による海上移動が多い。黒船来航からまだ10年少ししか経っていない当時、すでに多くの藩が蒸気船を購入して持っていたことも驚きである。

 少し前にNHKの週間ブックレビューに半藤一利の新刊『幕末史』が取り上げられていた。その本は幕末史の多くの出来事は、その場にいた人の突発的な行動によるもので、確固たる思想などなかったという立場から書かれているという。そして、勝海舟の見方に近い立場から書かれているという。本書の最後に、勝海舟は大政奉還は公であったが、王政復古は私であったとしたとある。著者の松浦玲も勝海舟の見方に賛成の立場のように見える。

 竜馬は土佐藩による大政奉還建白のために働いた。そして、新しい政体のトップには徳川慶喜を想定していたと著者は言う。しかし、西郷を中心とする薩摩は、土佐との盟約を無視して武力倒幕に傾き、やがて王政復古のクーデターを実行する。龍馬が親しくしていたのは勝海舟や、大久保一翁などの幕府側高官であり、また松平春嶽といった大名であったことを思うと、その時代の多くの人には倒幕という考えはなかったのではないか。倒幕という考えは、維新史の最後になって、突然現れたものと言ってよさそうだ。王政復古のクーデターも、鳥羽伏見の戦いも見ることなく、龍馬は見廻り組に暗殺される。かぞえで33歳。龍馬の妻、お龍は明治も30年代までいき、龍馬に関する証言を残しているが、坂本家との仲が悪く、その証言はあまりあてに出来ないとしている。

 幕末で活躍した人びとで、私でも名前の知っている人で本書によく出てくるのは、勝海舟、松平春嶽(これは意外であった)、小松帯刀、西郷隆盛、木戸考允、後藤象二郎などであるが、海援隊員やその他土佐藩や越前藩の人びとで私の初めて聞く名前の人がたくさん出てくる。中に、陸奥宗光の名前も海援隊員として出てくる。昨年のNHK大河ドラマ『篤姫』がなかったら小松帯刀もなじみのない名前だっただろう。

                                           

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書名 国境の南、太陽の西 著者 村上春樹 No
2009-10
発行所 講談社文庫 発行年 1995年 読了年月日 2009-04-10 記入年月日 2009-04-10

 
娘の本棚にあった本。
 大学を出て、教科書会社に勤め、仕事にはなんの喜びも感じられないまま過ごしていた僕は、旅先で知り合った娘と結婚する。会社を辞めて、妻の父の資金でジャズを聴かせる洒落た感覚のバーを始めた僕は、その仕事が当たり、もう一軒店を持つまでになる。妻との間には二人の娘までもうけ、青山のマンションに住み、BMBに乗り回すといった恵まれた生活を送っていた。そんな僕の前に、小学校卒業以来25年ぶりに島本さんが現れた。彼女は足が悪くて、小学校の頃皆とはあまり遊ばなかったが、僕とは一緒にレコードを聴いたりして、心を許した仲だった。

 時々僕の店に来るようになった島本さんは、今どのような生活をしているのかいっさいわからなかった。ある時、海に近い川に連れて行ってくれと僕は頼まれる。そして、彼女を石川県の小さな川に連れて行く。彼女はそこで灰を流す。1年前に生まれたばかりでなくなった子供の遺骨だという。それ以外のことについては、彼女は何も明らかにしなかった。
 この旅行を機に僕の彼女への思いは募っていく。そして、二人は箱根の僕の別荘で一夜をともにする。しかし、夜が明けてみると島本さんは別荘から姿を消してついに現れなかった。妻子を捨てて彼女との生活に入る決意をしていた僕は、結局元に戻る。

「国境の南」はジャズのスタンダードナンバー。島本さんは、国境の南には行けても、太陽の西には行けない、と僕にいう。

                                           

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書名 スプートニクの恋人 著者 村上春樹 No
2009-11
発行所 、講談社文庫 発行年 2001年4月 読了年月日 記入年月日 2009-04-18

 
「国境の南、太陽の西」に続いての村上春樹。僕とすみれとミュウの恋物語。
 僕は25歳で小学校の先生、すみれは同じ大学の2年後輩で、中退して小説家を目指している。ミュウはかつてはピアニストとして海外でも評価されたが、今はピアノをやめてジャガーを乗り回す40歳近い得体の知れない女性。ぼくとすみれは友達関係にある。すみれはミュウに恋する。物語はすみれとミュウの恋が中心で、僕はその観察者、傍観者としての役割を果たす。しかし、ギリシャの島にミュウと一緒に滞在している間に、すみれは忽然と姿を消す。僕はミュウに呼ばれてその島に駆けつけるが、結局彼女は現れなかった。僕はそこですみれの残したフロッピーを2枚見つける。一つにはすみれのミュウに対する熱い思いが記されていた。もう一つには、ミュウがスイスの遊園地で体験した不思議な出来事が書かれていた。ミュウは遊園地で夜、一人観覧車に乗り閉じこめられてしまう。そこから自分のアパートの部屋が見えた。そこではミュウが現地の男と交わる光景が展開されていた。ミュウは一晩で頭髪がすっかり白くなってしまう。このフロッピーに収められた二つのエピソードがこの作品の核心だ。いずれも夢とも現とも言い難い世界で、村上ワールドと言っていいだろう。ミュウのエピソードが何を象徴するものか、よくわからなかった。半分の自分、あちら側の自分、といった表現。

 小説の終わりで僕はすみれを失ってみて、始めて彼女に恋心を抱く。そんな僕の所へ行方不明だったすみれから電話がかかってくるところで終わる。すみれもこちら側の世界に戻ってきた。

 村上春樹という作家がどう受け取られているのかは知らないが、孤独な愛というのがこの作家のメインテーマなのではないか。この作品の3人も孤独で世俗との関連を感じさせない。漂うように生きている。重い体験を持っているミュウでさえ、ふわふわと漂うように生きている。わずかに僕と「ガールフレンド」と称する生徒の母親との情事が僕が現実世界の人間であることを示す。
 この作品で特に目に付くのは比喩の多用。三島由紀夫の作品を思わせる。

                                           

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書名 秀吉と利休 著者 野上弥生子 No
2009-12
発行所 新潮文庫 発行年 昭和44年 読了年月日 2009-05-26 記入年月日 2009-06-21

 
ゴールデンウイーク明けの雨の日、金木さんからもらった一冊。彼女は読み終わった本は図書館へ寄贈するか、古本屋にもっていってもらっている。私の読書ノートを見て、こんな本があると言って、リュックに担いでもってきてくれた。

 一言でいえば、たっぷりと味わい、堪能できる濃密な小説。一つ一つの場面の描写がていねい懇切だ。それでいて、くどい感じがしない。これだけの密度の濃い文章を書ける人はそういないのではないか。そして小説の形をとっているが、歴史そのものと錯覚するほど、登場人物が真実味を帯びている。秀吉、利休は言うに及ばず、秀吉の弟秀長、家康、三成、北政所、前田利家らがまさにそうであったに違いないと思われる。あれほど寵愛された利休が秀吉に切腹を命じられた理由、状況には諸説がある。厳密な検証を建前とする歴史学では、これだと言い切ることは出来ない。フィクションなら、真実に近いものに迫ることが出来る。この小説はその謎に一つの回答を出している。

 利休の処罰を強力に推進したのは石田三成。彼は豊臣政権の安泰は中央集権制のもとに各官僚組織がその役目をきちんと守り、果たすことだと信じている。三成から見れば、単に秀吉の茶の師匠である利休が、何かにつけ政治分野まで口出しするのが苦々しい。北条氏を倒して天下を平定した秀吉の次なる目標は、明への出兵(唐御陣)である。三成はその準備に忙殺されている。そんな折、「唐御陣は明智打ちのようにはいかない」という利休が義兄で能役者の鳥飼弥兵衛になにげなくもらした言葉が、三成の耳に入る。三成はそれを許し難いことだと思う。利休は大徳寺の三門を自分の寄進で造り直していた。落成後、三門の上に自らの木像を置いた。大徳寺の古渓和尚の振る舞いを快く思っていない寺社奉行の前田玄以は三門の上の利休像を問題視する。勅使などこの下を通る高貴な人物を足下におくことになるというのだ。この二つのことをたてに三成は利休弾劾に踏み出す。

 利休の最大の後ろ盾は、秀吉の弟の大納言秀長。豊臣政権内では人望が厚く、政権を支える柱であり、利休の最もよき理解者であった秀長は病弱で少し前になくなってしまっていた。利休は家康に取りなしの望みをかけて、1対1で茶を振る舞う。しかし家康は、事情を知ってか知らずか、利休弾劾の動きのことはまったく口にしない。秀吉の前に呼び出され、詰問された利休は事実を認める。その時点では利休像はすでに三門からおろされていた。唐御陣に壮大な夢をかける秀吉は怒りにふるえるが、下した処罰は、堺への蟄居という予想外に軽いものであった。秀吉には利休に対する断ちがたい執着があったのだ。

 北政所の奥女中が、利休の妻宛に手紙をよこし、秀吉に許しを願う手紙を書くようすすめる。もちろん、北政所の意を介したものだ。北政所自身も秀吉に直接嘆願する。利休からの嘆願を待った秀吉であったが、ついに届かなかった。そのことが秀吉の怒りを爆発させ、ついに切腹を命じる。利休はもうはいつくばって生きることを諦めていて、嘆願書を出さなかったのだ。

 関白に上り詰めながら、自身の肉体的衰えから気分が大きく揺れる秀吉。(その一例として、小田原攻めの際、敵陣から抜け出して来て、利休の取りなしでいわゆる一夜城で秀吉と再会した、かつての茶の師匠の山上宗二のエピソード。対面で秀吉の逆鱗に触れ、即刻首をはねられてしまう)。淀君の生んだ鶴松を溺愛する秀吉。家康に利休以上の嫌疑の目を向ける三成。豊臣家安泰のために世継ぎの鶴松とその母淀君へ傾斜する三成への反感の芽が育っていく北政所。そうした豊臣政権内での各人物の微妙な心理が歴史を動かして行く。
 利休の首は京で晒され、そばには木像が磔にされた。

                                           

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書名 愛と幻想のファシズム 上・下 著者 村上龍 No
2009-13
発行所 講談社文庫 発行年 1990年8月 読了年月日 2009-06-11 記入年月日 2009-06-21

 
今朝、たまたま何年かぶりで新聞の読書欄を見ていたら、村上龍の「無趣味のすすめ」というエッセイが取り上げられていた。評者の小柳学という人はその中に以下のよう述べていた。:弱肉強食社会でのサバイバルを描いた小説でも、作品の深部で弱者の側に立っている。そしてこれこそが村上龍の村上龍たるところだが、彼は決して弱者に「共感」や「同情」はしない。生き延びる戦略は個人がそれぞれに立てよ、と。

 上下合わせて文庫本1000ページを越すこの小説を読んでいて、作者が深部で弱者の側に立っているとはどうしても思えない。怖ろしい小説だ。恐らく今までの日本の小説にはなかったであろうファシズムを題材として、しかもそれを肯定的に書いている。読み進めていて、何回も嫌悪感に襲われた。

 鈴原冬二が主催する政治結社「狩猟社」は、自分達に敵対するものを平気で殺す。あるいは薬物で精神錯乱に陥れる。犠牲になったのは、左翼集団が主催するとされた人形劇団の女性事務員であり、社会新党の国会対策委員であり、食品企業労組の委員長であり、はては左派連合政権の首相である。小説ではトウジと表記される主人公の私設軍隊組織である「クロマニヨン」によってなされた、そうした殺人、あるいは薬物による廃人化の手口は巧妙を極め、警察の追求を逃れている。オウム真理教による坂本弁護士一家の殺害とそれに続く松本、東京でのサリン事件はこの小説の発表後に起こったことだが、作品はそれらを先取りしたようなところがある。
 時は1980年代後半。発展途上国の巨額の債務が原因で、世界経済が破綻し、恐慌の波が世界を襲う。日本でも失業者があふれ、世情騒然たる中で、狩猟社とトウジの主張は人びとの共感を得ていく。ロッキー山脈やカナダの雪原で一人獲物を追っていたトウジは、狩猟社会こそが人類のあり方だと考える。日本に帰って、相棒の相田剣介(作中ではほとんどゼロと呼ばれている)とともに狩猟社を起こす。その綱領の出発点は「
農耕社会が、農耕社会の中での意識変化が人類を堕落させた」というものだ。制度化された差別ではなく、人類が生き延びるための本質的な差別を擁立するのが綱領の基本だ(上 99P)。

 世界的な恐慌を機に、グローバルな巨大企業が世界支配の動きに出る。それは「ザ・セブン」として日本の有力企業をも傘下におさめていく。狩猟社は基本的にはザ・セブンの世界支配に対抗するのだが、一方でザ・セブン傘下の食品企業のストライキ鎮圧にも手を貸す。彼らは、純朴な組合委員長を取り込み、委員長がスト参加者にマスコミの見守る中で、重大な演説をする直前に発狂剤入りの紅茶を飲ませる。委員長は演説の途中から支離滅裂なことを言い出す。それがきっかけでストは崩壊する。

 アメリカに資産を凍結された日本は、猛烈な円安に見舞われ、外貨も底をつき、食料の輸入もおぼつかなくなる。そうした中で、トウジの主張には各方面からの賛同者が集まる。優秀な官僚であったり、警察幹部であったり、あるいは自衛隊の幹部であったりする。さらには優秀なコンピュータ、情報技術の専門家であったりする。
 日本ではついに自民党政権が崩壊し、選挙で社会新党を中心にした左翼政権が誕生する。それは狩猟社が待っていたところだ。彼らは左翼政権がすぐに潰れると予想し、その時こそ出番だと待ちかまえているのだ。政権が誕生してすぐに自衛隊によるクーデターが起き、国会が占拠され、首相以下が軟禁される。それを国会に乗り込んで解決したのがトウジである。このクーデターはやらせだったのだ。人質解放のどさくさに紛れて、総評議長あがりの首相は瞬時に発狂剤を注射され、やがて廃人となる。

 しばらくすると今度は北海道で自衛隊がクーデターを起こし、北海道の独立を宣言する。これも狩猟社が演出したもので、トウジが乗り込んで、解決する。こうした場面は逐一テレビで放映される。この頃になると、狩猟社はマスコミの回線を自由に操作し偽情報をNHKのテレビや新聞に流す。そして、イスラエルからは原爆の原料さえ入手する。

 私は、結末ではいったん権力を手にしたトウジ一派が、ナチスのように何らかの力によって滅ぼされるだろうと予想しながら読み進めた。それでなくては救われない小説だと思ったからだ。だが、結末は違った。今や世界中でもっとも注目される人物となったトウジと狩猟社が東京で主催した「巨大な祈り」という集会に各国からの参列者が多数あり、盛大に挙行される。その催しの企画者であり、今やその宣伝能力はゲッベルスを超えたといわれるゼロが、集会の最中に自殺するところで小説は終わる。自殺する前の晩、トウジと二人きりで話したゼロは、「オレ、死んだ方がいいんだろ?やっぱりそうなのか?」とトウジに聞く。そうだ、とトウジは答える。私はこの結末にわずかであるが救われた気がした。それは、結局は弱者であったゼロへのトウジの愛情をこのシーンに感じたことによるのだろう。

 上巻213pには、何が弱者が強者かわからないというゼロの発言に対して、トウジがオレにははっきりしていると心でつぶやくところがある。
 それまで他の生き物が住まず、それ故豊富な食糧と捕食者から逃れた空間である樹上に生息場所を見つけたサルは、本来ならば増えすぎて滅びるはずのところを滅びなかった。三つのことが作用して人口調節がなされたためだ。一つは病気、二つ目は子殺し、三つ目は殺し合いである。サルから進化した人類も「
子供の頃殺されずに済んだという運、病気に打ち勝つからだ、殺し合いに生き残る力、その三つがない者は、弱者なのだ」とトウジは割り切っている。

上巻403p 狩猟と農耕について
 動物を殺すときには、身体が覚醒し、大脳皮質は麻痺していなければならない。大脳皮質の引き受ける、言語、関係性、社会性、秩序、倫理といったことは破壊されていなくてはならない。動物を殺すことと植物を育てることはまったく逆のことだと述べられている。これはゼロがトウジらのやり方への疑問を感じ、自分の才能への疑問をトウジに告白する場面でのトウジの感想だ。そして「
俺は、床に坐るゼロを軽蔑した。オレはだめな人間だ、そしてオレはそのことを自分でわかっている、だからオレを消してくれ、そう言っている人間を軽蔑するのは正当なことだ。差別ではない、礼儀だ。」と俺は思う、

 下巻310~には、一旦言い立てられたことへの反証の難しさが語られている。デマを流された側が物証をあげてそれを反証しなければならない。流す側にはそんな証明は必要ない。絶対に優位なのだ。狩猟社はそれを利用する。デマはファシズムの強力な武器になる。今の言論界にそんな兆候がありはしないかと思った。
下巻314p
 
みんなが幸福になり、快楽を得なければいけないという嘘を信じるのは苦痛だ。俺は、ある種の人々は幸福になる必要もないし、快楽の意味さえ知らなくてもいいのだ、と教えるつもりだ。

 感心するのは作者の勉強振り。あとがきで村上龍も言っているが、経済関連書を読みあさり、専門家にインタビューしたとのこと。世界経済に対する広範な知識もさることながら、薬物や、コンピュータ、生物学、あるいは狩猟の実際など、膨大な知識に裏打ちされている。

                                           

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書名 安土往還記 著者 辻邦生 No
2009-14
発行所 新潮文庫 発行年 昭和47年 読了年月日 2009-06-22 記入年月日 2009-07-10

 
16世紀後半に宣教師を日本に送り届けたイタリアの船乗りの書簡の形をとった信長像。

 私は送り届けた宣教師オルガンティノに伴い、京都に上りフロイスのもとに留まる。そこで、信長が次々に迫る難敵を討ち果たし、天下を統一する過程を目にする。大殿(シニョーレ)と記される信長は宣教師達を優遇し、私も岐阜城で信長に拝謁し、以後鉄砲の訓練や、軍船の建造まで信長のためにつくす。天下を統一した信長は安土に壮大な城を築き、その目と鼻の先にキリシタンのための会堂の建築を許可する。大殿の死の1年後私は帰国の途につく。

『秀吉と利休』を読み終わった頃、本書が目に入った。辻邦生という著者名を見て、すぐに読んでみたくなった。『秀吉と利休』に劣らず読み応えがあるだろうという期待は裏切られなかった。 
 合理主義者信長への深い共感と言うより、圧倒的傾倒が全編を貫く。比叡山焼の討ち、長島一向一揆の殲滅、浅井・朝倉への仕打ち、松永、荒木の謀反への仕返しなど、女子供まで殺した信長の徹底した残虐振りも、信長の立場に立って、肯定される。

103p~
 
私は多くの日本人に会ったが、大殿ほど「事の成る」ことをもって、至上の善と考えた人物を見たことがない。彼は近侍二、三十名ほどの騎兵隊に囲まれて、野山を疾駆して作戦を指導するし、また彼は飾りのない単純な衣服を着用する。それはただ「事が成る」のに適っているからである。そしてまさにそれこそは私のような冒険航海者が危険と孤独と飢餓のなかから学びとった真実―すべてから装飾をはぎとった、ぎりぎり必要なもののみが力となるという真実―にほかならないのだ。(中略)私が彼のなかにみるのは、自分の選んだ仕事において、完璧さの極限に達しようとする意志である。私はただこの素晴らしい意志をのみ―この虚空のなかに、ただ疾駆しつつ発光する流星のように、ひたすら虚無をつきぬけようとするこの素晴らしい意志をのみ―私はあえて人間の価値と呼びたい。

 一方信長は、命をかけて海を渡り、使命を追及する宣教師達に、腐敗堕落した叡山の僧とはまったく違うもの、自分と共通するものを感じる。だからキリシタン宣教師を厚く遇し、安土のセミナリオ建設の土地まで自ら指定する。

光秀と秀吉 242p
 
私は大殿がこの二人についてよく話したのを憶えているが、それはつねに彼らが合戦のことにおいて名人上手であるという話題に終始したように思う。大殿はその武略の道において、それぞれに孤独でありつづけたこの二人に対して、同じ孤独者としての愛情と共感を覚えていたのかもしれない。果断と冷厳さに関しては、この二人は、共通したところを持っていたのだ。たとえ羽柴殿が賑やかな宴席を好み、華美な調度を愛好するのに対して、明智殿は明窓浄机を前にして読書するのを好むという違いはあるにしても、二人に共通したこの将軍としての素質は、大殿に高く評価されていたのだ―そしてそれこそは「事が成る」ための必要物を、何の感情もまじえずに見うる眼であり、それを実現しうる行動力にほかならなかった。

 上の二つの引用に見られるように、文章の格調が高い。
 初出は1970年、雑誌「展望」に掲載。同年文部省芸術選奨新人賞受賞。

                                           

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書名 春の戴冠 1 著者 辻邦生 No
2009-15
発行所 中公文庫 発行年 2008年4月 読了年月日 2009-07-10 記入年月日 2009-07-13

 
本書の文庫本化が完了したと、何かで目にした。『安土往還』に続いて辻邦生ついでに読んでみようと思った。題からして西洋の歴史物だろうという事前知識しかなかった。1冊500ページ近い文庫本で4冊もある長編大作だ。

 時代は15世紀後半、ところはフィレンツェ、本書ではフィオレンツァと表される。私、フェデリゴの晩年の回想の形をとった、サンドロ・ボッティチェルリの伝記であると同時に、フィレンツェの歴史物語。『安土往還』のちょうど1世紀前の話である。

 私の家はフィレンツェで羊毛の輸出入業を営むフィレンツェの有力者であり、毎週のように家で晩餐会が開かれている。サンドロの家は革鞣しを生業とする。二人は幼い頃からの友達だ。第1巻は子供時代から、サンドロがようやく絵描きとして自分の工房を持ち、徐々に認められ、私は結婚し子供を持つまでが記される。前半は退屈だ。たくさん出てくるカタカナの人名が覚えにくい。何か起こりそうな予感に期待が高まるのは、後半、メディチ家の次男ジュリアーノと、かつてサンドロが憧れた貴族夫人の忘れ形見で、美貌のシモネッタの密かな恋が述べられるあたりからだ。シモネッタはメディチ家と張り合うヴェスプッチ家に嫁いだばかりだ。

 私の家はフィレンツェを支配するメディチ家の有力な支持者だ。メディチ家の支配も盤石ではない。フィレンツェの寺院に数々の壁画を寄進し、祭りには町の人々に惜しみなくふるまったコシモ・メディチが亡くなった時には、反乱が起きた。その息子のピエロが亡くなったときも、フェデリゴらメディチ党の人々は、反乱の噂に、メディチ家に集合して結束を示すことで、未然に防いだ。メディチ家の今の当主はピエロの長男、ロレンツッオである。彼はフィレンツェを支える一大産業である毛織物の製造に必要な明礬を、一手に独占することにより、フィレンツェに繁栄をもたらす。フィレンツェの春である。だが、私は漠然としたフィレンツェの将来への不安を感じている。
 文中に何回か「陰鬱な黒衣の僧」という言葉が出てくる。恐らく、この僧が、フィレンツェの花に終止符打ったサヴォナローラであろう事が想像される。

 サンドロは、当時のフィレンツェの画家達の主流であった、ものをありがままに眺めて描くという考えに飽き足らないものを感じる。彼は、個々のものを突き抜けた先に、そのものの本質を描きたいと思う。あるいは一見なにげなく見えるものにも神的なものの現れがあり、それを描きたいと思う。

 私は離れた四男であったこともあり、家業は手伝わず、コシモ・メディチの計らいで、古典語を学ぶ。そして古典語教師として生涯を過ごす。私の師、フィチーノのもとには私の父を初め、フィレンツェの有力者が集まり、ギリシャ哲学を論じ合ったりする。若い私はフィチーノ先生のプラントンの注釈の清書を担当する。大商人達が、商売を離れて、ギリシャローマの古文書の写本の収集に熱中し、自らも古典語の勉強に励みギリシャの詩や哲学を論じる。これが本来の意味での文芸復興、ルネッサンスだろう。なぜこの時期にこうした風潮が起こったかはあきらかではない。本巻の終わりの方、460pには、そうした人々が、甘美なギリシャ詩に熱中し、永遠の美を論じ合ったのは、花のフィレンツェの破局をどこかで予感していたからではなかったかと述べられている。
 315p以下には、レオナルド・ダビンチと思われる少年の異才振りも述べられている。

                                           

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書名 春の戴冠 2 著者 辻邦生 No
2009-16
発行所 中公文庫 発行年 2008年4月 読了年月日 2009-07-24 記入年月日 2009-07-30

 
本巻ではフィレンツェの春の象徴であった、シモネッタが結核で亡くなる。そして、「物から目をそらすな」という当時の風潮と、絵画の中に「神的なもの」を表現することの確執に悩んでいたサンドロは、一人部屋にこもりきり、おびただしい下絵を描き、構図を何回も何回も練り直した末に、シモネッタの姿をヴィーナスに仕立てた大作『ヴィーナスの統治』を完成させる。これは後の世に『春』として知られる作品である。フェデリゴは画面の中心に立つ子供を宿したヴィーナスに、聖母マリアの姿を感じる。

 フィレンツェのさまざまな活動のすべてに濃淡の差はあれ、神的なものが現れている。だから現在を楽しむことが永遠性を手に入れる正当な方法であるとフェデリゴの師、プラトンアカデミアのフィチーノは述べている。その師が、プラトンの永遠の秩序と、キリスト教会の神とを重ね合わせるようになる。それは春を謳歌するフィレンツェの人々が「暗い窖の中に引きずり込まれる」ような不安をどこかに抱いているからであった。(403P前後)。

 この巻では、フィレンツェを支配したメディチ家とパッツィ家との対立が表面化する。背後には法王の策略がある。法王はフィレンツェの力を弱めようと、内部対立をあおる。明礬の独占権をパッツィ家に与える。明礬の独占権を失ったメディチ家は海外の銀行支店も次々に閉鎖に追い込まれる。そして、フィレンツェをあげての騎馬試合で、メディチ家のジュリアーノが、見事な乗馬技術で、パッツィ家の息子ロドルフォを破る。ロドルフォはそれがもとで死ぬ。騎馬試合の勝者に花冠を渡す役はシモネッタだった。花冠などを渡し終わったシモネッタは、ジュリアーノの腕の中に倒れ込み、ジュリアーノは熱く彼女を抱き留める。シモネッタは結婚相手とはすでに別居していた。ジュリアーノは政略的にパッツィ家の娘と結婚していた。にもかかわらず二人は公然と恋愛関係にあった。そうしたことにはフィレンツェの人々はおおらかであった。

 ボローニアに出張したとき、休日の1日をフィレンツェで過ごした。買い物に行った同僚と別れて私は一人で、ウフィッツ美術館に行った。ボッティチェリの「春」があった。鮮やかな色彩、特に緑に圧倒された。その時の美術館は特に並ばずにも入れたし、見学者もそれほど多くなかった。ルーブルのような巨大の美術館ではなく、世界的名画がこれほど間近に鑑賞できたことが意外だった。

                                           

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書名 春の戴冠 3 著者 辻邦生 No
2009-17
発行所 中公文庫 発行年 2008年8月 読了年月日 2009-08-12 記入年月日 2009-08-14

 
メディチ家とパッツィ家の対立はいよいよエスカレートし、パッツィ側はついにロレンツォ、ジュリアーノのメディチ兄弟の暗殺を謀る。後ろには法王シクストゥス4世が糸を引いている。何回か暗殺の機会を狙いながら、偶発的な事件で邪魔されていたパッツィ一味は、ようやく花の聖母寺での復活祭のミサにその機会を得た。当主フランチェスコ・デ・パッツィが襲いかかったジュリアーノはその場で殺されたが、別の殺し屋が襲ったロレンツォは間一髪で難を逃れた。事件後、フィレンツェの人々にメディチ家への反抗を呼びかけたパッツィ一味は、民衆の拒否に会い、逆に巻き返したメディチ一派に抑えられてしまう。陰謀に荷担したパッツィ一味は、女も含めて根こそぎ処刑されてしまう。市庁舎の窓から吊されるのだ。そうした凄惨な処刑にフィレンツェに人々は酔ったように熱狂する。陰謀に直接関わらず田舎に引退していた人物や、あるいはロレンツォ殺害の役割を負わされていながら、その人柄に魅了されてついには降りてしまった傭兵隊長まで許されることはなかった。サンドロはロレンツォに依頼され、宮殿の壁にパッツィ家の処刑図を描く。それはフランチェスコ・デ・パッツィやその父ヤコボらの生々しい苦悶の表情をあますところなくとらえたものだった。サンドロは吊された死体を克明に見つめ、スケッチしておいたのだ。

 パッツィの陰謀はこうしてつぶされたが、陰謀に利用された枢機卿の引き渡しを拒み、ロレンツォが法王のもとに出向くことを拒んだため、フィレンツェは周囲の国々と戦争状態になる。元々フィレンツェは北のミラノおよびベネチアとの3角形、南のローマ法王、ナポリ王国との3角形の頂点に立つことで、そのバランスの上に国の安定を図ってきた。それが崩れてしまったのだ。フィレンツェは戦争に引き続き、ペストが流行するという二重のピンチに立たされる。

 戦争と言ってもフィレンツェの街が戦場になるわけではない。境界あたりの村々が略奪されたりするのだ。しかも、フィレンツェの戦争は傭兵が行う。かつてフィレンツェの傭兵隊長だった男が、敵方だったりする。ナポリ王の要請に応じて、フィレンツェの「国家の長」であるロレンツォはナポリに出かける。人質状態で長いことそこに留められたロレンツォは、最後には和平を結んで帰国することが出来た。孤立したフィレンツェはトルコとの交易に活路を見いだしていた。トルコは逃亡してイスタンブールに潜んでいたパッツィの殺し屋を捕らえて、フィレンツェに送り返した。トルコがフィレンツェ味方することをにおわせて、ロレンツォはナポリ王を説き伏せたのだ。

 サンドロは処刑図に続き、『聖アゴスティノ像』、『受胎告知』と制作し、本巻の最後では『ヴィーナスの誕生』を描くところまで行く。その間の彼の内面の葛藤、「ものから目をそらすな」から進んで、あらゆるものの中に神的なものを認め、さらに描かれたものが、その本質を示すためには、あるがままのものの姿をゆがめてもいいという境地までが展開される。『パッツィ家処刑図』では、人物の苦悶や絶望を示すためにすでに、フランチェスコ・デ・パッツィの手や胴体は実際より異常に長く描かれていた。それは『聖アゴスティノ像』にも受け継がれる。『受胎告知』では、当時流れ込んできた北方画家の影響が背景に見られる。そして、『ヴィーナスの誕生』は『ヴィーナスの統治』と同じく、ロレンツォ・ディ・ピエロフランチェスコ家に飾られる。それはフィレンツェの人々を熱狂させ、フェデリゴの義理の姪などはその前であまりの恍惚感で失神するほどであった。サンドロはヴィーナスを布地に金粉を施したものの上に描いたのだった。
本巻455p以下にサンドロの言葉として、この作品を解説している:
「結論を言えばこうだ」サンドロは銀の盃を動かしながら言った。「ヴィーナスは洗礼されるイエスの面影と重なる。右手にいる洗礼者ヨハネは 〈 時 〉 の女神ホーラとなる。左手に二人の天使がイエスの衣を捧げているが、この二人は西風ゼフイロスとニンフのクロリスに変わる。ね、フェデリゴ、この二重性によって、ぼくは、古代的な 〈 神的なもの 〉 を単なる官能の逸楽に終らせることから救い得るんだ。この甘美な(永遠の花の香り 〉 はただ快いだけではなく、 〈 涙の谷 〉 であるこの世を、心をときめかしながら、抱きかかえようとする勇気を与えるんだ。いいかい、フェデリゴ、これはね … 」
 サンドロは素早い線で描いた洗礼図の模写を私に指で示しながら言った。「ぼくから最後の迷いを切りとってくれたんだ。いまこそ、ぼくは 〈 死をすら越えるもの 〉 を真実手に入れたんだ。そうなんだ、 〈 美 〉を単なる官能の喜びから魂の事柄へ―不滅の事柄へ高めるのは 〈 愛 〉 なんだ。ぼくは、いま、それを痛いように感じる。
イエスがこの世に現われたのは、人間が 〈 愛 〉 を眼に見える形で所有したかったからだ。イエスによって人間は 〈 愛 〉 を獲得した。それはイエスのおかげで人間のものになり得たんだ。フェデリゴ、ぼくにはようやく本当の 『 ヴィーナスの誕生 』 の図柄が見えてきた。ぼくは 〈 永遠の花の香り 〉 が人間への 〈 愛 〉 のために地上を訪れる瞬間を描けばいいのだ。ぼくらが 〈 美 〉 のなかにいて動じないでいられるのは 〈 愛 〉 があるからなんだ」


 美術評論家の間でこのサンドロの代表作がどう評価されているか、また美術史上どう位置づけされるか私はまったく知らない。ウフィッツ美術館で『ヴィーナスの誕生』を見た。ボッティチェリの代表作として私も知っていたので、圧倒されはしたものの、初めて目にした『春』の方が衝撃で、印象に強く残ったのだ。
 美術図鑑で『ヴィーナスの誕生』を見てみる。ヴィーナスの表情に驚いた。放心したようなつかみ所のない表情が、人を引き込む。何という魅惑的な顔なのだろう。この絵の前にこのような女性の表情を書いた画家がいただろうかと思った。

                                           

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書名 春の戴冠 4 著者 辻邦生 No
2009-18
発行所 中公文庫 発行年 2008年10月 読了年月日 2009-08-25 記入年月日 2009-09-03

 
いよいよ「フェラーラ訛りの修道士、ジロラモ・サヴォナローラ」の登場である。

 フィレンツェにやってきた、暗い表情のこの修道士の説教は、次第に人々の心を捕らえていく。彼は強い調子で、奢侈と虚飾を捨て、他者への愛を説き、貧しい人、病める人へ手をさしのべることを説く。『ヴィーナスの誕生』以後、創作に行き詰まりを感じていたサンドロはジロラモに惹かれていく。フェデリゴはギリシャ学徒として、ジロラモの説には懐疑的である。彼の説教にフェデリゴはアジテーター的な技巧を感じ取っている。

 ジロラモはやがてサン・マルコ修道院の院長に選出される。彼は3人の人物が近々この世を去ることを予言する。誰だとは言わなかったが、噂では法王とロレンツォ・メディチとナポリ王である。やがてそれは次々と現実のものとなる。

 メディチ家を継いだのは若いピエロ・デ・メディチであったが、彼にはロレンツォのような政治能力はなかった。一方、ナポリ王の死去により、ナポリと姻戚関係にあったフランス王シャルルはナポリの支配権継承を主張した。そのために軍隊を率いてナポリに入る構えを見せた。フィレンツェはフランス軍に対して最初中立を決めた。しかし、シャルルは中立など守らない、フィレンツェの誇りのためにも戦うべしと言う意見に押されて、ピエロは戦いを決意する。圧倒的なフランス軍の前にフィレンツェはその敵ではなかった。ピエロは単身シャルルに会い、和平を結ぶ。しかし、それは屈辱的な和平であった。帰国したピエロは市委員会で糾弾され、メディチ一族は逃げるようにフィレンツェを去る。その後、フィレンツェはフランス軍を解放軍のように受け入れる。このあたりの事情はよく理解できない。メディチ家にかわってフィレンツェを統治したのが親サヴォナローラ一派である。しかし、強力に見えたフランス軍はその後の戦いで敗れて、本国に引き揚げてします。それを機に、親サヴォナローラ派と反サヴォナローラ派の対立が激化する。

 フィデリゴの末の娘、アンナは深くジロラモの説教に感化されて、ついには修道院で暮らすようになっていた。サヴォナローラ派は少年たちを使って、町の娼婦を追放し、家々から虚飾、奢侈を追放すると称して、美術品や調度品などを摘発して回った。フィデリゴの家にも少年たちがやってきた。その中には娘のアンナもいた。彼らはサンドロがシモネッタをモデルに描いた白い乳房の見える肖像画を、みだらなものという理由でフィデリゴから取り上げてしまった。

 しかし、ジロラモ派の支配は長く続かなかった。ジロラモは法王と長く敵対していて破門されていたし、フランチェスコ派の修道士とも対立していた。そして、強硬な反サヴォナローラ派の人物が市政委員会を支配するに至り、サンマルコ修道院は群衆に襲われ、ジロラモは捕らえられる。ジロラモとその協力者の二人は、市庁舎前で絞首刑にされ、そのまま焼かれてしまう。
 翌朝、その広場には何一つ残っていなかった。ジロラモらを神格化させないために市当局が遺灰を手早く片付けたのだ。しかし、広場には黒衣の女たちが何人かいて、座り込み、石畳に口づけしていた。フェデリゴはその中にアンナの姿を見つける。

 この巻はサンドロ・ボッティチェルリのことはあまり触れられていない。巻3を読んでいる最中、たまたま『情報の歴史』という世界史年表をめくってみたら、1490年代の所に「ボッティチェルリ、サヴォナローラに心酔」と短く書いてあった。歴史年表に乗ることに驚いた。そのことがサンドロの作品にどのような影響を及ぼしたかは本書では触れられていない。サンドロのサヴォナローラへの心酔は、例えば307p以下に詳しい。その中でサンドロは彼が神的なものとして求めてきたものが、ジロラモの言う「自分を捨てて他者の中に生きる」ことにあるように思うと、フィデリゴに語っている。
 サヴォナローラが処刑されたのは1498年。コロンブスによる新大陸発見の6年後であり、ルターの宗教改革のおよそ20年前である。

 巻末の解説は美術史家小佐野重利による。それによると、『ヴィーナスの誕生』が金箔を施した布の上に書かれたというのは作者の創作であるとしていた。
 解説者も言っているように、定かな資料も少ないボッティチェルリを題材にこれだけの長編小説を書いたのに驚く。文章は格調が高く、内容もまた格調が高い。あたかも当時のフィレンツェにいるような気分を味わうことが出来る。ただし、面白いのは断然『背教者ユリアヌス』の方である。

 フィデリゴの回想録として書かれた本作品には、随所に執筆時の書き手のことに言及している。例えば本巻10pには以下のようにある:
 
たしかに私は名も知られぬ、老耄した老人であるが、そんなことには関係なく、私は、あらゆる人々の〈生〉を見聞きできたし、それを味わってきたし、そのことを喜んだり悲しんだりしてきたのである。だが、これはすべての人が享受できる自由な精神の喜びなのだ。一切の評価の上を軽々と飛んで、評価そのものを可笑しがりながら、虚無の上に一瞬に明滅する〈生〉を心ゆくまで味わう、万人に与えられた自由なのだ。
                                           

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書名 村上朝日堂 著者 村上春樹/安藤水丸 No
2009-19
発行所 新潮文庫 発行年 昭和62年 読了年月日 2009-09-07 記入年月日 2009-09-19

 
1編が文庫本2ページで、そのうち1/3ページほどを安藤水丸の絵が占める村上春樹のエッセイ集。『日刊アルバイトニュース』に連載されたもの。引っ越しの話、食べ物の話、電車の切符をなくす話など、日常の些細な事柄が軽い軽い読み物として提供される。喫茶店を経営していたとか、若くして結婚したとか、村上春樹のプライベートや優しい人柄、しなやかな生き方を知ることが出来る。
 春に金木さんからもらった本の1冊

                                           

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書名 ローマ人の物語XIII 最後の努力(上・中・下) 著者 塩野七生 No
2009-20
発行所 新潮文庫 発行年 平成21年9月 読了年月日 2009-09-20 記入年月日 2009-09-21

 
ディオクレティアヌスの即位から、コンスタンティヌスの死まで、つまり284年から337年までを扱う。コンスタンティヌスはキリスト教を公認した皇帝として、また、コンスタンチノープルを新首都として定めた皇帝として、どの教科書にも載っている。ディオクレティアヌスもキリスト教徒を迫害した皇帝としてその名は私の記憶の中に留まっていた。この二人によるローマ帝国維持のための「最後の努力」が本巻に述べられる。

 ディオクレティアヌスの時代はローマ帝政の創始者であったアウグストの時代との対比で述べられる。アウグスト時代から皇帝は元首、つまり元老院とローマ市民によって選出される元首であったのに、ディオクレティアヌス時代から帝政が絶対君主、あるいはオリエント的専制君主制に変質したという。ここらあたりの記述は、著者のアウグストへの傾倒ぶりが前面に出ている。

 ディオクレティアヌスは東西を2分して西をマクシミアヌスに任せる。2頭政の実施だ。さらに、東西の皇帝の元にはそれぞれ副帝をおき、それぞれに分担地域を分割し、4頭政となる。こうした制度は国境周辺の防衛力を高めるためであった。権力争いが起きそうな4人の皇帝による分割統治がうまく機能したのは、4人の中でもディオクレティアヌスがひときわぬきんでた力を持っていたからだと、著者は言う。辺境の防衛を固める以外にも、皇帝がそれぞれ直属の軍隊を持つから、兵士の数が倍増して60万人にもなった。それが、国家財政を圧迫し、ディオクレティアヌスは増税と通貨の切り下げを行わないわけにはいかなかった。

 分割に伴う官僚組織の細分化と、さらにミリタリーとシビリアンとを隔離しその間のキャリアの移動を禁じたことにより、官僚組織が肥大した。いわば大きな政府となった。そして、中央政府に権力が集中する、つまり皇帝に権威が集中するシステムでは、新しい権威づけが必要となる。ディオクレティアヌスはそれを神に求めた。当然ローマの神である。それにはキリスト教は邪魔である。かくして彼はキリスト教の弾圧に乗り出す。303年のことだ。その後もキリスト教徒弾圧の勅令は出される。しかし、実際に迫害された人の人数は、キリスト教徒側の資料によっても、それほど多くないと著者は言う。

 ディオクレティアヌスは305年、自らの意志で引退してしまう。ローマ史では前例のないことだと著者は言う。彼は現在のクロアチアのスプリト市に別邸を建てそこに引退する。そして生涯を無事に全うする。彼の時代の4人の皇帝の銅像を見ると、いずれも泥臭い。カエサルやアウグストの像の持つ風格とはかけ離れたものだ。4人とも今のバルカン半島の出身者だ。余談だが、最近、クロアチアツアーの広告が新聞に載っていた。ローマ時代の遺跡がたくさんあって、そこを巡る旅である。

 ディオクレティアヌスの後も4頭政は継続されるが、継承はスムーズには行かなかった。多いときでは6人もの「皇帝」が出現する。それを統一したのはコンスタンティヌスである。コンスタンティヌスは、西の正帝コンスタンティウス・クロスルの息子だ。彼は、前の正帝マクシミアヌスの息子でありながら、帝位の継承から外され、「帝位簒奪」とされながらローマ地域を支配していた、マクセンティウスをローマの北、フラミニア街道にかかるミルヴィウス橋の戦闘で破る。312年10月27日である。塩野はこの戦闘を歴史を創った戦闘として、サラミスの海戦、イッソスの会戦、ザマの会戦、アレシアの戦闘などとともにあげる。その後にコンスタンティヌスがキリスト教を公認し、キリスト教が世界宗教となる緒端を開くことになったからだ。

 314年、西の正帝コンスタンティヌスは東の正帝リキニウスとミラノでキリスト教公認の勅令を出す。
今日以降、信ずる宗教がキリスト教であろうと他のどの宗教であろうと変わりなく、各人は自身が良しとする宗教を信じ、それに伴う祭儀に参加する完全な自由を認められる。それがどの神であろうと、その至高の存在が、帝国に住む人のすべてを恩恵と慈愛によって和解と融和に導いてくれることを願いつつ
 著者の言うように、21世紀の今でも感慨をもって読まざるを得ない一文だ。

 ミラノ勅令ならば、信仰の自由を認めただけで、ローマ帝国の舵を大きく曲げることはなかったと塩野は言う。問題はその後、コンスタンティヌスがキリスト教振興策をとったことだ。没収されていた教会財産の返還と、返還した人への補償を行ったこと。並びに皇帝財産を教会へ寄進したことだ。コンスタンティヌスは親キリスト教ではあっても、信徒ではなかった。なぜ彼がキリスト教に肩入れしたか。統治ないし支配の権利を君主に与えられるのは人間ではなく、神であるとコンスタンティヌスは気がついたのだと塩野は言う。その神は多神教の神ではなく、一神教の神でなければならない。キリスト教を支配の道具として使ったのだという。コンスタンティヌスは死の間際に洗礼を受けたとされている。それは、キリスト教徒であればやってはいけない大罪に当たるようなことを、もはや行うことが出来なくなる時点まで先延ばししたのだ、というイギリスのローマ史研究の大家の説を紹介している。

 コンスタンティヌスはリキニウスとの戦いに勝ち、324年唯一の皇帝となる。330年コンスタンチノープルに遷都。
 ローマのコロッセオの近くにあるコンスタンティヌス凱旋門の彫像やレリーフが多数の写真入りで紹介されている(中巻)。この凱旋門はトライアヌス帝、ハドリアヌス帝、マルクス・アウレリウス帝、そしてコンスタンティヌス帝時代のものがパッチワーク的にはめ込まれている。その写真を見ていると、前3者のもつギリシャ風の克明な彫りがコンスタンティヌス時代のものには見られない。中世の稚拙な作品と見間違う。時代の持つ力が、創作にも現れると著者は言う。

 下巻の最初に、コンスタンティヌス以後のローマはもはやローマ帝国ではない、といって筆をおく人もいると述べている。しかし、自分は死ぬとわかった人でも最後まで看取るタイプだと塩野は言う。
 二人の改革によりローマはその後100年近くを生き延びた。しかし、その100年はパクス・ロマーナとはまったく違ったものであり、それならばあれほどまでにして生き延びる必要があったろうかと、下巻の最後に述べている。

                                           

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書名 日出ずる国の工場 著者 村上春樹/安藤水丸 No
2009-21
発行所 新潮文庫 発行年 、平成2年 読了年月日 2009-09-26 記入年月日 2009-10-08

 
村上春樹による工場の見学記。人体標本制作会社、結婚式場、消しゴム工場、小岩井農場、洋服製作所、CD工場、アデランスを取り上げる。安藤水丸の挿絵と相まって、わかりやすい見学記になっている。対象とされた工場そのものが大変興味深いものであるのに加えて、村上春樹の独特の切り口に乗って引き込まれるように読んでしまった。
 小説家は優れたルポライターであることの見本だ。

 実際の工場見学が行われたのは1986年。この頃はまだ日本は「世界の工場」としてトップを走っていたのだろう。それが「日出ずる国の工場」というタイトルにうかがわれる。今、その座は中国に取って代わられた。
                                           


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書名 村上朝日堂の逆襲 著者 村上春樹/安藤水丸 No
2009-22
発行所 新潮文庫 発行年 平成元年 読了年月日 2009-10-06 記入年月日 2009-10-08

 
前の本に続いて、これも金木さんからもらったもの。『村上朝日堂』と似たようなものだが、こちらの方が1編の長さが長い。その分読み応えがあるか。相変わらず軽妙で、ユーモアにあふれる身辺雑記。村上春樹の小説は世界的に広く読まれていて、最近ではノーベル賞候補にいつも挙げられている。残念ながら昨日発表された今年のノーベル文学賞はルーマニア出身でドイツ人、ヘルタ・ミュラーという女性に与えられた。本書のような作品の作家がノーベル賞を取ったら面白いと思う。是非取ってほしい。

 本書を読んでいて感じたことは、その比喩、たとえの軽妙さが村上作品の魅力の一つであると言うこと。いくつかあげてみよう:
 村上はヤクルトスワローズのファンであり、年を追う事に思い入れが深まっていくが、それは「
ゆきずりの情事のつもりがあとをひいて」という感じであると書く(75p)。
 バーで女優の話をしていたサラリーマン風の二人づれが、いきなり村上春樹の作品が……と話題を変えたのを聞いていた村上は、「
喉の下からすぐ胃が始まるような話題のかえ方」とたとえる。
 
まだインクが残っていて使用可能の状態にあるボールペンをゴミ箱に捨てるというのは、ミネラル・ウオーターで歯を磨くのと同じくらい勇気を要する行為である(130p)。
 
しんと一人で酒を飲むのと、ポケッと一人で酒を飲むのでは見た目にもずいぶん違う。阪神タイガースに即して言えば真弓と岡田くらい違う(147p)。
 こうした卑俗なたとえは、三島の作品にも大江の作品にも出てこない。

 『村上朝日堂』もそうだったが、本書にも何かにつけてさりげなく村上春樹の奥さんが出てくる。早稲田大学に7年間いたが「
何ひとつとして学ばなかった。早稲田大学で得たものといえば今のつれあいだけだが、女房を見つけたからといってそれが早稲田大学の教育機関としての優秀性を証明していることにはならない。」と早稲田大学と妻を自慢している(110p)。

 1985年から86年に『週刊朝日』連載。
読み終わって私の本箱を見たら、同じ文庫本があった。ずっと以前に買ってそのままになっていたのだ。

                                           

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書名 中山道歩を歩く 下 著者 横山正治、安斉達雄 No
2009-23
発行所 学研M文庫 発行年 2002年 読了年月日 2009-10-14 記入年月日 2009-10-15

 
中山道歩きもいよいよ木曽路になる。上巻に続き下巻の本書は贄川宿から三条大橋まで。やはり、アマゾン経由で古書店より求めた。本書の街道地図を2万5千の地図に写して持って出るが、歩いている途中ではまず見ない。見るのは文庫本サイズでハンディな本書である。

 下巻に登場する街道は京都近辺以外は、私にはまったくと言って良いほどなじみのないところ。それだけに興味がわくが、初めて聞く宿場町の名前や地名、人名は、一読ではとても頭に残らないので、あとは行ってからのお楽しみという感じで内容は心にとめずに読み進めた。

 木曽路は木曾義仲と島崎藤村、特に『夜明け前』に関連するエピソードがたくさん出てくる。67ページ以下には宝永6年(1709年)刊の『きそ路の記』(貝原益軒著)、さらに文化2年(1805年)に刊行された『木曽路名所図会』の三留野のあたりの光景描写が、ほぼそのまま『夜明け前』の有名な出だし部分に使われているという。

 関ヶ原を過ぎると、私にも身近な歴史の足跡が盛りだくさんだ。それぞれの記述が簡潔で、要領よくまとめられている。
 私が歩いた上巻の終わり、本山宿はまだ中山道の半分には行っていないのだ。長い街道だ。
 著者は34日、2年間をかけて歩いたという。後書きに書いている:

 
特別な抱負もなく始めたわれらの膝栗毛が、回を重ねるうちに、何やら旅の大先輩の芭蕉翁を見習って”現代の旅人"を意識するようになったのは、不思議といえば不思議、当然といえば当然のなりゆきであった。沿道を歩くことは歴史の現場に出会うことであり、昔の習俗や人々の暮らしの匂いをかぐことであり、なによりもこの列島の先祖たちの価値観に触れることであると思うようになった。旅は過去との対話であり、埋もれたさまざまな人生との出会いでもあると思うようになった。
 われらの新しい発見は、”歩く”スピードが、自然観察と歴史の舞台観察にちょうど良いということであった。芭蕉翁が五十一歳で亡くなるまで、旅に人生を託したのも、このほどよいスピードを愛したからではないかと思いたくなる。歩くことで、われらは日本の現状と歴史、文化と伝統、祖先の創造と遺産に接することができることを実感した。磨くべきは、この列島のどこにでもあふれている先祖たちの生きざまを、汲み取ってくる感性であろうかと思い始めている。


 街道歩きの本質を見事に表した言葉だ。私も著者たちの心境に少しずつ近づきつつあるのを感じる。本書を片手にまだまだ長い中山道を歩こう。

                                           

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書名 ピースボート地球一周の航海記 著者 池田 隆 No
2009-24
発行所 ブイツーソリューション 発行年 2009年10月 読了年月日 2009-10-29 記入年月日 2009-11-05

 
高校のクラスメート池田さんから贈られた。副題は「ヒバクシャ証言の船旅」。被爆者としてピースボートに無料招待され、世界を一周した航海記録。ハードカバーでたくさんの写真を載せ、活字も特大という豪華な本。池田さんからは10年以上前に『旧長崎街道紀行』という歩き旅の自著を頂いた。世界一周の航海といい、その記録を1年も経たないうちに立派な本にしたことといい、いつも彼の行動力には舌を巻き感服するばかりである。

 船上からの風景、寄港地の風物や歴史への思い、船内生活、寄港地での核廃絶に向けての各種の活動など多方面のことが、読みやすい文章で書かれている。いずれの話題をとっても、常識的で円満な彼の人柄がにじみ出ている。70年という人生を歩いた人でなければ、こうした紀行文は多分書けないだろう。

 日本を出航した船がエンジントラブルで、途中ギリシャで交換になった。そのため乗客一行はトルコのイズミールで20日間も足止めされた。一部の乗客はそのことでピーズボートに損害賠償の訴えを起こしたと、少し前にニュースに出ていた。池田さんは20日間の足止めをむしろ望外の滞在が出来たと、喜んで楽しんだ。いかにも旅の達人、池田だと思った。

 著者のように無料招待された被爆者は100名。寄港地毎に被爆体験を語り、核廃絶を訴える。池田さんは、長崎で被爆したが、身体的な後遺症も残らなかった自分よりも、もっと悲惨な被爆者が参加していることを考え、体験語りの前面には出ず裏方の役割に徹したようだ。ヨーロッパ各地、南米、オセアニアなど、予想外に多くの地で、ピースボート運動が温かく迎えられた。シドニーに寄港したときは、オーストラリアの首相あてに核廃絶を訴える手紙を同国の外務省の役人に渡した。手紙の案文起草委員会で満場一致で決定されたのは池田さんのものだった。全文が載っている。いたずらに感情に訴えるのではなく、理性的に、現実的に今できることを述べ、兵器だけでなく、核物質の持つ危険性を訴え、将来に向けて原子力依存をなくすよう訴える、格調の高い文章である。

 長崎での被爆体験は、彼から話では聞いていた。こうして書かれてみると、原爆の威力のすごさ、被害の悲惨さに改めて思いが行く。

 最後の章では彼のキャリアが述べられる。彼とは50年以上になるつきあいだが、その仕事の中身の詳細は本書で初めて知った。発電機のタービン設計一筋に歩み、その面では日本のトップ技術者となった。彼のした仕事の社会的意義や影響力は、私とは比べものにならないほど大きいと改めて思った。当然原子力発電にも深く関わってきた、というより原子力発電の技術開発に多大の時間と精力を傾注してきた。腐食によりタービンに生じたわずかな亀裂が、装置の破壊につながりかねないものであって、その応急処置を施しながら、すべての原発のタービンを新たな設計のものに取り替えていったエピソードが述べられている。そうした体験から彼は
「技術的未知な事象を内包し、人間の予知能力・管理能力を超えた巨大なシステムである原子力発電から人類は漸次撤退していくべきではないかと言う思いに変わってきた」(188p)と述べている。専門家の深い知識、経験に基づく提言であるから、説得力がある。
                                           

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書名 蛇を踏む 著者 川上弘美 No
2009-25
発行所 文春文庫 発行年 1999年8月 読了年月日 2009-11-07 記入年月日 2009-11-07

 
初めて読む作家。手元に文庫本がなくなっていたので、立ち寄った本屋で購入した。NHKテレビの週刊ブックレビューを見ていて、相当優れた作家だという印象を持ったことがある。その記憶があったので、川上弘美の作品をいくつか購入した。

 表題の「蛇を踏む」は芥川賞受賞作、そのほかに「消える」「惜夜記」(あたらよき)を収載。いずれも何とも不思議な小説。読んでいて内田百閒の『冥土』、あるいは漱石の『夢十話』の世界を思った。夢に出てくるような空想の世界。それでいてさらりと流れるような軽い文体は、前二者のような暗い恐怖感を感じさせない。
 「
ミドリ公園に行く途中の藪で、蛇を踏んでしまった。」で始まる『蛇を踏む』は、踏まれた蛇がどろりと溶けて形を失い、やがて五〇歳くらいの女になり、主人公のアパートに住み着く。主人公が仕事から帰ると、女は食事を作って待っており、二人してビールを飲む。女は主人公の母であるといい、しきりに蛇の世界へ来いと誘う。主人公の勤める夫婦二人でやっている数珠屋でも、同類の変な話が起こる。最後は流されて行く部屋の中で、女と主人公がお互いに首を絞めあうというところで終わる。

「消える」は、「
このごろずいぶんよく消える。いちばん最近に消えたのが上の兄で、消えてから二週間になる。」で始まる、家族の一員が消えて行く話。消えたと言っても、消えた兄の膝の上で、妹の私は愛撫される。

「惜夜記」は19編の短い章からなる作品。ものが別のものになったり、消えたり、小さくなったりという話が続く。カオス、シュレージンガーの猫、フラクタクルといった理系用語が章のタイトルになっているのもある。解説によると川上弘美はお茶の水大学で生物学を専攻したとある。この作品の出だしは「
背中が痒いと思ったら、夜が少しばかり食い込んでいるのであった。」である。

 それぞれの作品に何らかの寓意がこめられているのかもしれない。私にはよくわからない。特にそれをくみ取ろうという気も持たずに読み通した。ブックカバーの作品短評には「若い女性の自立と孤独を描いた芥川賞受賞作」とあった。言われてみるとそんな気がする。ただ、著者自身のあとがきには、これらの作品は「うそばなし」であって、読んで「うそ」のなかで少しでも遊んでもらえればうれしいと言っている。

 巻末の解説で、作家・詩人の松浦寿輝という人は、「
川上弘美は、いきなり無意識が露呈してしまうといった言葉を操るすべを心得た希有な書き手だ。」と評している。それに続けて、「フェミニンな内田百閒とでも言おうか」と言っている。
 かなり面白そうな作家だと思った。

                                           

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書名 センセイの鞄 著者 川上弘美 No
2009-26
発行所 文春文庫 発行年 2004年 読了年月日 2009-11-08 記入年月日 -2009-11-15

 
飲み屋で隣り合わせたかつての高校の国語教師と、私の恋物語。『蛇を踏む』よりずっとわかりやすい小説。夢想ではなく現実に基づいた作品だが、ほんわかと暖かく、それでいて切ない物語。
 40歳間近くで独身の私とセンセイとは30歳ほどの年齢差がある。センセイは奥さんに逃げられてしまって、一人で暮らしている。飲み屋で何回か顔を合わせ、言葉は交わすが、決して相手に酌をすることはない。センセイはいつまでも私を生徒扱いし、言葉使いの間違いや、不適切な振る舞いを先生口調で注意する。

 センセイはちょうど今の自分と同じくらいの年齢。センセイと自分を重ね合わせ、二人の恋にあこがれ、どのような結末にいたるかと、一気に読んだ。

 センセイに誘われてキノコ狩りや、花見に行く。私はいつの間にか先生を好きになっていく。センセイは相変わらず生徒扱い、子供扱いで、私の気持ちを察してくれていそうにない。二人の会話のずれが、絶妙で、ユーモアを誘う。この小説の読みどころだ。二人が会うときは、ひたすら酒を飲み交わす。飲んだ後つぶれてしまった私は気がつくと、センセイの住まいにいた。私はそこでセンセイが好きだと口にする。その後で雷が鳴りだして、私はセンセイに抱きつくが、センセイは膝の上に私を抱きかかえ、頭をなでるだけである。

 やがてセンセイは私を小さな島への一泊旅行に誘う。島の奥、草深いところにある墓にセンセイは私を連れて行く。それは、センセイの所から出て行った奥さんの墓であった。そのことで私のセンセイへの気持ちは大きく揺れる。しかし、その夜、私は旅館のセンセイの部屋に忍んでいく。目が覚めてみたらセンセイに抱かれて寝ていたが、男女の関係は何事も起こらなかった。

 そんなことから、私は2ヶ月ほどセンセイに会わないよう、日頃の買い物のルートや散歩のルートを代えていた。しかし、センセイから電話がかかってくる。二人で美術館に行った帰り、公園のベンチで、センセイは「恋愛を前提としてつきあって欲しい」と告白する。初めて会ってから2年たっていた。そして正式につきあい始めてから3年、センセイは亡くなる。亡くなった後、息子からは、センセイがいつも持ち歩いていた鞄が届けられる。

 それにしても私もセンセイも酒好きで強い。行きつけの飲み屋へはどう見ても週に2回は行っている。飲む量も日本酒で5合は行きそうだ。
 帯には「谷崎潤一郎賞受賞の大ベストセラー」とある。

                                            

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書名 何となくな日々 著者 川上弘美 No
2009-27
発行所 新潮文庫 発行年 平成21年3月 読了年月日 2009-11-09 記入年月日 2009-11-15

 
川上弘美のエッセイ集。作家の日常が独特の軽妙な筆で綴られており、プライベートな面を知ることが出来る。男の子が2人いてよい母親ぶりであること、服装に構わない、相当の酒豪、酒好き、といった日常。文章と同じように肩肘張らないでしなやかに生きている人だと思った。『センセイの鞄』の私には作者の酒豪ぶりが投影されていたのだ。

 文章がうまいと思う。独特の文体があるが、それがこの作家の持ち味、魅力だ。センテンスの区切りが短く、歯切れがいい。ひょうひょうとしていて、どこかユーモアを含んでる。表題の「何となくな」という言い方も違和感を感じない日本語で、このエッセイ集にぴたりの題だ。

「まざるまざらない」は、一週間に夫以外の何人の男性と会話をしたかという話し。ある週をノートにとってみる。なんと5人しかなかった。それも、牛乳配達人、八百屋のお兄さん、宅配便の人、冷凍冷蔵便の人、魚屋のおじさん。会話も「印鑑お願いします」「はい」ていどのもの。子育て中の主婦である作者はこの事実を悲しんだり、憤ったりはしない。そんなエッセイだったら読みたくない。作者はただただ驚くのである。そして世の中はよくまざっているようでまざっていないのだなあと言う感慨を抱く。まざらないで自分のいる場所こそが世界の中心だと思い込むことの怖さに言及し、自分がまざっていない人の一人であることにも気がついていなかったことを反省する。

                                           

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書名 此処彼処 著者 川上弘美 No
2009-28
発行所 新潮文庫 発行年 平成21年9月 読了年月日 2009-11-14 記入年月日 2009-11-15

 
4冊まとめ買いした川上弘美作品の最後。訪れた場所をタイトルとした50編ほどのエッセイ集。作家の生い立ちが浮かび上がってくる。場所そのものの記述はそれほどくわしくはない。そこで出会った人々、出来事、作者の心情の方を主体に書かれている。

 作者は小さい頃父親の転勤に伴い、アメリカのカリフォルニア州の小さな町に住んだことがある。ワーゲンを駆って、家族でアメリカ各地を旅した様子が書かれている。あるいは、新婚旅行で行ったマダガスカルのことも出てくる。

「246号」という作品は、幼稚園へ子供を送っていった際、不用意なことを言って他の母親を不愉快な気持ちにしてしまった日、246号線を車で飛ばし、脇道に入っていった話。狭まった道で車を止めたところに、ビニールハウスがあり、その裏手に小さな空き地があった。地名もわからず、2度とたどり着けそうもないその地で、落ちていた臼歯を拾う。持ち帰った臼歯は紅茶の空き缶入れて今でもとってある。臼歯を見つけたあの瞬間のぞっとするような違和感を思い出したくて、ときどき缶を振ってみる。空き缶の壁に当たって、臼歯はからりと音を立てる、といったもの。前半は、作者も人付き合いに悩む普通の母親だと、安心を覚える。だが、後半の臼歯の話は完全な川上ワールドだ。

「大手町」の前半は名前の呼び方は人間関係を端的に表すという考察に費やされる。終わりの方で大手町の地下道を歩いていたときの体験が出てくる。取引相手と思われる二人連れの男性が歩きながら「弊社のですね」「ええワタクシの方から」などと話しているのが耳に入る。そのうち片方は地下鉄の改札口に吸い込まれていく。その姿が見えなくなるまで見送ったもう一方は、やおら携帯をとりだし「あ、おれ。え?おし。まかしとけって。じゃ。」としゃべる。川上は「ワタクシ」から一転「おれ」への転換が色っぽいという。男の背広がほどよくくたびれているのもよかったという。そして最後をこう結ぶ「
くるりと自称が変化したあの瞬間の驚き。大手町。地下道。殺風景でせわしなくて。でも一瞬だけの、もしかしたら恋みたいなもの。一瞬後にはもちろん恋は消えたけれど、ちょっと、しあわせでした。

 日経新聞日曜版に1年間連載されたもの。
 4冊読んでみて、かなり驚いた。面白い作家だ。

                                            

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書名 博士の愛した数式 著者 小川洋子 No
2009-29
発行所 新潮文庫 発行年 平成17年12月 読了年月日 2009-11-19 記入年月日 2009-11-24

 
川上弘美に続いて、同じく芥川賞受賞の女流作家の小説。どちらもどちら、才能あふれる作家だ。若い女性と老年男性との交流がテーマであるところは『センセイの鞄』とよく似ている。こちらは「博士」と呼ばれる64歳の老数学者とその家政婦である私と「ルート」と呼ばれる私の息子の物語。

 博士は交通事故でもう長いこと、その記憶が80分しか持たない。義理の姉の敷地の離れに一人住まいする博士の所に派遣された私は、30歳前のシングルマザーで、10歳の息子がいる。博士は優秀な数学者であった。今は数学専門誌に出される懸賞問題を一日中考えている。博士の記憶はきっちり80分しか持たないので、日常生活に必要な細々としたことはメモにして衣服のいたるところに留めてある。私も毎朝博士に会うたびに、服に留めてある私の似顔絵入りの紙切れを指し、家政婦であることを認識してもらう。

 浮き世から完全に隔離された博士ではあるが、数に対しては常人ではとても考えられないような能力を発揮する。この小説のおもしろさは、博士の示す数にまつわるエピソードだ。そのおもしろさにひかれて、一気に読んでしまった。私が初めて博士のもとを訪れたとき、挨拶も何も抜きにいきなり聞かれたのは靴のサイズであった。24と答えると、「ほお、実に潔い数字だ。4の階乗」だと答える。こんな具合だ。私の誕生日は2月20日。それを聞いた博士は、博士が学生時代に超越数論の論文で学長賞を取った時の賞状の番号が284であったという。220と284は互いに友愛数と呼ばれるものだと、博士はいう。220の約数の和は284,284の約数の和は220という関係にある、珍しい数であるのだ。この2つの数の関係のように、二人の間には、家政婦と雇い主という関係以上の関係が築かれていく。恋愛というにははかなすぎるが、ほのぼのとして、読む人の心を暖かく包む。

 私は10歳になる息子を連れて博士の家に通うようになる。博士は息子の頭をなで、その形が√のようだといい、息子はルートと呼ばれる。博士はルートに純粋な深い愛情を注ぐようになる。ルートは学校から帰ると、博士に数の持つ色々な性質を聞かされ、数学に親しんで行く。整数論の初歩など興味深い内容がわかりやすく示されていて、本書の読みどころであり、作者の勉強ぶりが遺憾なく示され、感心する。

 博士もルートも熱烈な阪神ファン。ただし、博士の記憶は17年前の75年に、江夏が活躍した時代の阪神で途切れてしまっている。博士の所にはテレビはなく、壊れかけたラジオで阪神の試合を聞く。江夏は登板していないのかと聞く博士に息子は、先日登板したばかりだから、次の登板は多分次の巨人戦あたりだろうと、ごまかす。3人で阪神の試合を見に行く。同じ背番号28の右投げのピッチャーが登板したらどうしようかとびくびくしていたが、ローテーションで運良く出てこなかったというエピソードもある。

 ある日、本棚を整理していていると、クッキーの缶が出てくる。博士の宝物のようだ。さびたふたを開けてみると、そこにはきれいに整理された、野球選手のカードがあった。村山、今牛若丸の吉田などがポジション別に整理されているのに、江夏のカードだけは別扱いであった。カードの下から出てきたのは、若い日の博士の論文の草稿。それは、彼が愛した一人の女性へ献辞されていた。

 私とルートはルートの11歳の誕生日に、江夏のプレミアムカードを手に入れて博士にプレゼントする。江夏の背番号28は自身以外の約数の和が自身と同じになる完全数である。
 ルートの11歳の誕生日を機に博士は医療施設に入ってしまう。私とルートが、ルートが中学の数学教師の資格に合格したことを博士に報告に行くところで小説は終わる。報告を聞き、ルートを抱きしめようとした博士を、逆にルートが抱きしめる。博士の胸でゆれているのは最全盛期の江夏のカードだ。「
マウンドに漂う土煙の名残が、ボールの威力を物語っている。生涯で最も速い球を投げていた江夏だ。縦縞のユニフォームの肩越しに背番号が見える。完全数、28。

 博士の愛した数式とは、オイラーの公式:
 
e πi -1=0

 ネットで調べたら、多くの数学者が最も美しい公式であるといっている。eもπも無限に続く無理数なのに、それから導かれる式がなぜ有理数に収斂するのか私には理解できない。それ以上にπに
iを乗じたべき数という概念がまったくつかめない。ネットで調べるといくつかの証明が書いてあったが、理解できなかった。
 本書の「私」も同じような疑問を抱く(194p以下)。だが最後はこう述べる:
どこにも円は登場しないのに、予期せぬ宙からπがeの元に舞い下り、恥ずかしがり屋のiと握手する。彼らは身を寄せ合い、じっと息をひそめているのだが、一人の人間が1つだけ足算をした途端、何の前触れもなく世界が転換する。すべてが0に抱き留められる。(196~197p)。
 思わずうなってしまう巧みな文学的表現だが、我々凡人はこう考えればいいのだろ。

                                            

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書名 零の発見 著者 吉田洋一 No
2009-30
発行所 岩波新書 発行年 初版 1939年、1956年改版 読了年月日 2009-11-28 記入年月日 2009-12-03

『博士の愛した数式』の中に、インド人の発見した零がどれほど数学にとって重要であるかが述べられていた。書架を見回していたら、本書が目にとまった。紙面が黄色くなり始めている。恐らく読んだのは30年ほど前のことだろう。再読してみた。「零の発見」と「直線を切る」の2編が収められている。

「零の発見」は、アラビア人によってもたらされた零という数と、位取り記数法が、ローマ式記数法などとの比較において、いかに便利なものであり、数学の発展にいかに寄与したかが述べられている。「零の発見」とあるように、零は概念ではなく、数なのだ。
アラビア数字の27529をローマ数字で表せば((I)) ((I)) I)) (I) (I) D XXVIII である。((I))は1万を I))は1万の半分つまり5千を、(I)は1千を、Dは500を、Xは10をVは5をIは1を表す。現在我々が行っている加減算は零を数として扱う位取り記数法があって初めて可能になる。中世に東方との通商で栄えたイタリアの商人にとっては、アラビア数字による表記はきわめて便利であったので、アラビア数字の普及は彼らによるところが大きい。

「直線を切る」は連続の問題を扱う。中で面白かったのは、古代ギリシャのピタゴラス学派のこと。彼らは数と図形の見事な調和の中に、数学の上にたつ調和的で神秘的な世界観を抱いて、宗教的な結社として成長していった。彼らが考える数とは自然数と自然数の分数として表される比例関係であった。しかし、ピタゴラスの定理の最も簡単な例である、2辺が1である直角2等辺三角形の斜辺は、いかなる自然数の比をもってしても表すことが出来ないことに気がついた。それが彼らに深刻な混乱をもたらし、教団が衰退する一因であったという。ピタゴラス教団と同じような思いは私も感じる。

 本書のサブタイトルは「数学の生い立ち」である。ギリシャから、近代までの数学の流れが、記数法、有理数、無理数、対数、π、級数、連続、微積分学などの説明を通して興味深く述べられている。

                                           

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書名 薬指の標本 著者 小川洋子 No
2009-31
発行所 新潮文庫 発行年 平成10年 読了年月日 2009-11-29 記入年月日 2009-12-03

 
小川洋子の他の作品も読んでみたくなり書店で購入。
『薬指の標本』は、持ち込まれた色々なものを標本にして保存することを職業とする男性と、その女事務員の話。顧客は、封じ込めてしまいたい思いにまつわる物品を持ち込む。例えば、髪飾り、カスタネット、毛糸の玉などに混じって、尿路結石の標本など。中には別れた恋人が誕生日に送ってくれた楽曲の音を標本室に封印して欲しいという女性もいる。標本技師の弟子丸はそれらの要望に応えていく。

 仕事場はかつて女子寮で今は老婦人が2人だけ住んでいて、他は空き室になっているアパートにある。地下にある今は使われていない浴槽で、私と弟子丸は愛し合うようになる。弟子丸は私にぴったりのすばらしい靴を贈る。ある時、靴磨きの男性が客としてやってきて、私の靴に気付き、あまりにも足にフィットしたその靴は足を侵し始めているという。

 かつて自宅が焼失し、両親を失った焼け跡に生えてきたキノコを標本にすることを依頼した若い女性がやってきた。彼女は今度は顔のやけどの跡を標本にして欲しいという。それを承諾した弟子丸は、彼女とともに標本制作室に籠もり、私がいつまで待っても出てこなかった。客の女性も行方がわからなくなった。標本制作室には他人が入ることが禁じられていた。私は、以前サイダーのビン詰め工場で働いているとき、機械に挟まれて薬指の先端をはぎ取られてしまった。私は、その薬指の標本を作ってもらうことを決意し、標本制作室に向かうところで小説は終わる。

 ミステリアスな結末。一日中標本制作室に籠もりきりの男といい、消えた女といい、あるいは靴磨きの言葉といい、全編に不気味な雰囲気が漂う。標本制作室に向かった私を待ち受けているものは何か?

 もう一つの小説は『6角形の小部屋』。こちらは、6角形をした小部屋に1人籠もり、好きなことをしゃべるという話。私はひょんなことからこの小部屋にたどり着く。この小部屋をやっているのは50過ぎの母親とその息子。客は好きなだけ部屋の中で1人しゃべり、帰り際に料金を払っていく。心の中をはき出すことで、人々は癒されるのだ。私もその部屋の利用者の1人になる。ある雨の夜中、私はその部屋を訪れ、別れた男性とつきあっていた際、行きずりにも等しい男性に抱かれたエピソードを告白する。そのことによりエネルギーを使い果たした私は倒れてしまい、語り部屋の母親と息子に介抱される。翌朝、目覚めたときには、その小部屋はなくなっていた。
 これまた特異な題材。結末も謎めく。

 
                                           

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書名 妊娠カレンダー 著者 小川洋子 No
2009-32
発行所 文藝春秋社芥川賞全集第15巻 発行年 2002年 読了年月日 2009-12-01 記入年月日 2009-12-01

 
昼間、霞ヶ関ビルでのJTOB会があり、夜は麻布でNWJの翻訳者の忘年会があった。OB会が終わって夜までの時間を国会図書館で過ごした。読んだのが本作品。
平成2年下半期、第104回芥川賞受賞作品

 同居する姉の妊娠を妹の目を通して観察し、記録したもの。女性特有の細かい感性、観察眼がよく出ている。ひどいつわりが終わった後の姉は、旺盛な食欲にとりつかれる。私が作ったグレープフルーツのマーマレードを毎日一ビンも平らあげる。輸入のグレープフルーツには、防かび剤としてPWHという発がん性物質が使われている。私は毎日マーマレードを作り、姉はぶくぶくと太って臨月を迎える。そして近くの産院で出産を迎える。この産院は私が子供時代に姉と一緒に中庭に忍び込み、窓からのぞき見した産院だ。

 何を言いたいのかよくわからない小説だと思って最後に達した。小説の最後はこう終わる:
わたしは、破壊された姉の赤ん坊に会うために新生児室に向かって歩き出した。
 いきなり「破壊された赤ん坊」という言葉に出くわし、面食らった。先に読んだ『薬指の標本』あるいは、『6角形の小部屋』と同じように、ミステリアスな終わり方が、この作者の持ち味なのだろうという感想しか持たなかった。最後の一文の意味がわからなかった。

 巻末に芥川賞選考委員の感想が載っている。それを読んで、この作品が姉に対する妹の悪意を書いたものだという解釈であることがわかった。大江健三郎他の委員がそういっていた。ところが、丸谷才一と、吉行淳之介は、マーマレードジャムを毎日食べさせることが悪意につながるということに疑問を呈していた。吉行は最後の数枚が不満であり、疑問だという。発がん物質を含むマーマレードジャムと妹の悪意の結びつきが曖昧だという。私も同じように思った。
 小川洋子は4回目の候補作品で受賞したとのこと。選考委員の多くがこの作品を推していた。

 同じ全集に載っていた芥川賞受賞作品は以下:
滝澤美恵子  ネコババのいる町で
大岡玲    表層生活
辻原登    村の名前
辺見庸    自動起床装置
荻野アンナ  背負い水

                                           

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書名 世界は分けてもわからない 著者 福岡伸一 No
2009-33
発行所 講談社現代新書 発行年 2009年7月20日 読了年月日 2009-12-09 記入年月日 2009-12-13

 
著者の名は今評判のサイエンスライターとして、耳にしたことがある。たまたま店頭で見つけて本書を買った。本書の帯には15万部突破とある。

 喩えの斬新さ、わかりやすさ、文章の明快さ。なるほど読者を魅了するわけだ。本書を一言で言えば部分をどんなに分け入っていっても生命を理解することは出来ないという主張。全体から切り離された部分が、どのようなものになるかというのを、たまたま上下2つに切り離されてしまったイタリアルネッサンス期の絵画を掲載して説明する。あるいは個々の細胞はジグソーパズルの個々のピースのようなもので、自ずと隣り合う細胞を見つけ出すことが出来るという喩え。あるいはマップラバーとマップヘイターという分類。個々の細胞はマップに従って組織化されるのではなく、周囲との不断の情報とエネルギーの交換により、周囲との関係の中で色々な組織となっていく。従って、個々の細胞を独立していくら調べていっても、生命の本質は見えてこない。我々はマップラバーであり、最初にマップを想定しがちであるが、個々の細胞はマップヘイターであるという。

 後半は、アメリカのコーネル大学ラッカー教授の研究室で行われた、タンパク質リン酸化酵素の「発見」を巡るエピソード。先輩のポスドクを尻目に次々に完璧な実験データを出して、リン酸化酵素の存在を証明していく新入りの大学院生。すごい業績で、最後はノーベル賞につながったのかと思いながら読み進めていくと、土壇場で、それがねつ造であったことが明らかになる。ラッカーから共同研究を持ちかけられた別の教授が、誰もいない実験室で、データに不審を抱くシーンなど、まるでミステリーを読むような気分。電気泳動法を駆使する大学院生の神業的実験など、ディテールの描写に分子生物学者の筆者の筆がさえる。厳しいボスの下でおびえるポスドクなど、激しい競争社会における絶対的なボスが支配する研究室の雰囲気もよく出ていて、多分著者の留学体験を下敷きにしたものであろう。ガンがタンパク質リン酸化酵素と密接に関連しているというラッカーの仮説は正しく、タンパク質リン酸化酵素が他の研究者の手により、次々と発見されていった。

本書から:
114p 部分と全体
 
したがって外科医のメスは、もし鼻という嗅覚をつかさどる機能を切り出そうとすれば、必然的に、嗅上皮から神経線維、神経線維から嗅球、という具合に奥地へ奥地へとその深度を深めていかねばならなくなる。しかし嗅覚は嗅球で終わるわけではない。よい匂いならそれに近づき、いやな匂いならそれを遠ざけ、魅力的な匂いならそれを追い、危険な匂いなら惹かれつつも警戒しなければならない。つまりそのために情報が下降するための神経経路が必要で、近づき、遠ざけ、追うための運動器官、筋肉や骨や関節の動きと協調の仕組みが必要になる。
 外科医のメスは、身体中をくまなく巡り身体から嗅覚という機能を切り出すためには、結局、身体全体を取り出してくるしかないことに気づかされることになる。つまりこの思考実験で明らかにされることは、部分とは、部分という名の幻想であるということに他ならない。そういうことである。


131p
 
生命現象における秩序は、ひとえに、多種類存在するアミノ酸がどのような順番で連結するかによって構築される。ここでアミノ酸は音素、いうなればアルフアべットであり、タンパク質はアミノ酸というアルファべットによって書かれた文章にあたる。そして生命体は、固有の文法と文体に従って構成されたタンパク質の物語といえる。つまりここには壮大な秩序構築がある。そのために膨大な量のエネルギーが、乱暴さとは対極にある精妙さで、ほんのわずかずつ極めて正確な方法で使われながら、新しい情報がつくられる仕組みが存在していた。

138p 消化
が、消化のほんとうの意義は別のところにある。前の持ち主の情報を解体するため、消化は行われる。食物タンパク質は、それが動物性のものであれ、植物性のものであれ、もともといずれかの生物体の一部であったものだ。そこには持ち主固有の情報がアミノ酸配列として満載されている。
 この情報がいきなり、私の身体の内部に侵入すれば、私の身体固有の情報系との衝突、干渉、混乱が生じる。食品アレルギー、ひいては臓器移植の際の拒絶反応、それらはすべて自己と非自己のあいだに起こるタンパク質レべルの情報のせめぎあい、情報戦である。これを回避するため、消化酵素は、絶え間なく、物語と文章を解体し、意味を持たない個々のアルファペット、すなわち音素のレペルにまでいったん徹底的に分解する。そのアルフアベットを吸収して、私たちは自分固有の物語を再構築している

                                           

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書名 背負い水 著者 荻野アンナ No
2009-34
発行所 文藝春秋社芥川賞全集15集 発行年 2002年 読了年月日 2009-12-15 記入年月日 2009-12-15

 
国会図書館で小川洋子の芥川賞受賞作『妊娠カレンダー』を読んだ際、同じ全集に載っていたこの作品も読みかけた。あいにく時間が来てしまったので、途中で打ち切った。12月のエッセイ教室のある今日、国会図書館まで足を伸ばし、続きを読み終えた。

 テンポのよいリズム感のある文体。いたるところにだじゃれ的ユーモアがあって、それに釣られるように読んだ。小川洋子の受賞作より面白いと思った。荻野アンナも才気あふれる作家だ。
「背負い水」とは、ある地方に伝わるもので、人は一生飲む水を背負って生まれてきて、その水がある間は寿命があるという言い伝えから来ている。

 イラストレーターの主人公はジュリーという恋人と同棲している。しかし、ジュリーには歌手を目指してパリで勉強中の女がいて、かなりの送金をしていることがばれる。ジュリーと女の関係ははっきりしない。主人公は色々想像し、ジュリーを問い詰めるのだが、結局わからない。離婚して、娘である主人公と一緒に住んでいた彫刻家の父親(チッチーと表現される)、上司の裕さん(裕次郎似)、カンノと呼ばれる画家などと主人公との関係が、これに絡んでくる。最後は二人の関係の背負い水はまだ尽きそうにないことを暗示させる。

 巻末の選考委員の評では、多くの委員が、荻野の才気と筆力を認めている。従来それが勝ちすぎていたが、今回の作品は才気と筆力のみに頼っていないところが受賞の原因であると指摘されている。大江健三郎は、才気と筆力がジャストミートしたと言っている。荻野の作品はこの作品の前に、続けざまに数作候補に挙がっていた。なお、辺見庸の『自動起床装置』も同時受賞した。

                                           

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書名 季語の誕生 著者 宮坂静夫 No
2009-35
発行所 岩波新書 発行年 2009年10月 読了年月日 2009-12-17 記入年月日 2009-12-30

 
今月のエッセイ教室の課題は「しぐれ」であった。箱根峠から三島へ下る旧東海道歩きの時出会った芭蕉の「霧しぐれ富士を見ぬ日ぞ面白き」の句碑のことをエッセイに書いた。その際「猿蓑」や大岡力の「折々の記」などを参考にした。そんな背景があったので、この本を本屋の店頭で見つけたとき、すぐに手にした。

 作者は俳人。古今の短歌や俳句、あるいは評論を縦横に引用し、多方面にわたる盛りだくさんの内容となっている。俳句論でもあり、和歌論でもあり、広くは日本文化論的側面を持つ。その中で季語の成立過程を要約すると以下のようになる;
 季語の成立は、平安後期1000年頃とする。勅撰和歌集「金葉和歌集」(1127年)で月が秋を代表すると定められた頃には和歌における季節の題目が揃った。和歌では季節の題目を必ず入れると言うことはなかったが、連歌では参加者が美的連想を共有するために、季語は必須のものとなった。そして季語の本意というものが成立した。

 雪を例にとって、季語の本意の成立がp37以下に述べられている。「
雪が実と虚の変幻自在な二面性をもつことで、雪の意味や情感が生まれる。後に季題の本意・本情などと呼ばれるものは、比喩のことばとしての自在さや身軽さを雪がたっぷりと身につけ、歌を詠む人々に十分に愛されて初めて形成されるのである。」

 連歌好きの秀吉に里村招巴という人が贈った「至宝抄」という本にその本意が集約されている(p12~)。著者の解説では「
冬の雪は、初めて都にもたらされた初雪に出会った感激やわずかな雪をいとおしむ興趣を詠うのである。吉野山や北山あたりで、積雪のために薪採りの道が隠れ、人の行き来も絶えた光景は、詠うものではない」(p17)

 和歌や連歌の季語は都に限定されていた。これらの季語の本意を見直し、季語に新しい命を吹き込んだのが芭蕉であるという。p4:
俳諧の時代に入ると、松尾芭蕉の出現によって、季語の世界も変貌する。芭蕉が先入観をもたずに心を開き、広く風土に接することで季語は呪縛を解かれたように輝きだす。芭蕉という個人の旅の体験を通し、季語が蘇生する驚くべきことばの力を我々は見せつけられたのである。
 著者はこれを「季語の地貌化」と呼ぶ。そして、p19以下に「夏草や兵どもが夢の跡」をひいて、その解説がなされている。この他にも「猿蓑」の「初しぐれ猿も小蓑をほしげ也」の句も引用されている。猿といえば、その哀しげな声を断腸の思いで聞くという漢文詩以来の伝統とは無関係に、芭蕉は目の前の猿と心を一にしているという。

「夏草」の句はp159以下でも取り上げられている。著者はこの句の根底には芭蕉のアニミズム的感受力があるとする。そして「
芭蕉の中に、西行とも共有する中世的な無常観と原始人の抱くアニミズムとが渾然と存在するとの見方は、論理的な話ではない。実作者の直感である」という。(p163)。

 p178以下には「岩走る垂水の上のさわらびの 萌え出づる春になりにけるかも」という志貴皇子の歌について述べられる。著者はこの歌は万葉歌人のアニミズム的感受力から生まれたとする。この歌の段階では「わらび」はまだ季題とはならない。平安貴族が、言葉遊びとしてわらびを使って「煙たちもゆとも見えぬ草の葉を 誰かわらびとなづけ初めけん」(燃(萌)えてもいない草をなぜ藁火(わらび)というのだろう)という言葉遊びの歌を作った時から、初めてわらびの季題が生じる。
 著者は季語の起源が遠く縄文人のアニミズムに根ざした生活意識に結びつくという持論を述べる。

 さくらについてはp67以下に次のようなことが書かれている:
 記紀の時代から万葉の時代は桜はイネの花の先触れと考えられて、農作と強く結びついていた。例えば折口信夫の説。あるいは神が宿るところと考えられていた。それが、平安貴族となると、そうしたものが落ちていき、単に美しさがたたえられるようになる。もっとも、折口学派は、ひさかたの光のどけき春の日にしずこころなく花のちるらん も、稲作への不安を読んだ歌だととっている。室町時代の連歌では、桜ではなくて、単に花と呼ぶことが求められ、それが定着していった。

 雪については、大伴家持に見られる雪の歌は、雪を吉兆と見る。万葉の時代の共通した見方である。

 本書でかなりの数の写真も掲載されている。衝撃的なのはp131にある「人面深鉢」という八ヶ岳山麓から出土した縄文時代の土器。造形されているのは、女性器から今生まれようと顔を出した赤子である。月に関する記述の中で、縄文人の死生観、地母神信仰、ガマ、などと月の関係が述べられた箇所だ。そしてp135には「古事記」には、女性の「月のもの」が堂々と詠われていることが紹介されている。とにかく内容豊富な本である。

 芭蕉を月の詩人であるとする。そのことと「奥の細道」「更級紀行」などとの関係が論じられている。芭蕉は西行の歌枕をたどる。そして西行と芭蕉との関係について次のように言う。「
なぜ西行なのか。西行ほど美しいものへのあこがれを歌に詠みながら、美しさを捉えきれない悶えを身と心の分裂として表現した歌人は他にいないからである。芭蕉の西行へのあこがれ、さらに共感は、そこにあった。
                                           

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書名 日本風景論 著者 池内紀 No
2009-36
発行所 角川選書 発行年 平成21年6月 読了年月日 2009-12-27 記入年月日 2010-01-04

 
書店で目についた。池内紀という名前を見て即座に買った。志賀重昴の『日本風景論』と同名の本。志賀のが大上段に構えた日本風景論なら、池内のは足で歩き、各地での自分の体験をもとに、土地にまつわる色々な細かいエピソードや歴史、自身の思い出などを絡ませた風景の記述。私自身の街道歩きを何らかの形でまとめたいと思って読み進めた。以下、その観点から気がついたところ:

 著者も岬にひかれるという。私も昔から岬にひかれる。ユーラシア大陸の最西端ポルトガルのロカ岬に立ったことはかつてエッセイに書いた。そのなかで、「
何故そんなところに執着するのかと言われれば、「山があるから登るのだ」と同じように、「そこにあるから行くのだ」と言うのがもっとも正解かもしれない。山が空間に突き出た陸のピークなら、岬は海に突き出た陸のピークで、そこに立つことに限りないロマンを感じる。ましてアフリカの南端や、ヨーロッパの果てともなれば見逃すわけにはいかない。」と書いた。
 宗谷岬のところで池内はこう述べる:
なぜ、先端に惹かれるのか?いわば岬は「尽きる」ところ。歩いて行ける最後の一点。そこより先はない。多少ともコセついた三角だが、その頂点はまさに地の尽きる最果て。そこから先へは歩けない。歩かなくてもいい。足をとめ、佇み、腰を下ろし、ボンヤリと波や鴎をながめていられる。岬では大手を振って無為の時を過ごせる。そして無為の時が意味をもつためには、観光とも商売とも記念物とも縁のない無限のひろがりなかに、あわつぶの一つとしての自分を据える必要がある。(p45)

 峠では中山道木曽路の物見峠が取り上げられている。当然和宮東下にも触れられている。池内は一行の人数を5千、一説では7千としている。そして中山道を選んだ一番の理由は、縁起担ぎだろうと推論する。東海道には「今切り(縁切れ)」や「薩埵峠(去る)」などの地名がある。一方中山道には美濃から木曽に入るところに「子持松」があり、その先には「馬籠(孫目)」があるというのだ。ただし、板橋宿の「縁切り榎木」だけは切り倒すことをしないで、迂回路を造ったと述べている。(p111)

 妻入りと平入り(p214):
わが国の町家には妻入りと平入りの二つのスタイルがある。妻入りは屋根の三角が見える側を通りに向けたかたち。平入りは屋根の三角形が見えない側を街路に向けている。たしかそんなふうにおそわった。
 私は初めて聞くことばであった。

 最後の「山麓徘徊」では富士山が取り上げられる。多数の文学作品をあげ、「富士を詠んだ詩歌だけで、超大冊のアンソロジーができる」と言っている。本書の最後には山下清画伯の『裸の大将放浪記』を引用している。絵で見る富士山は美しいが、本当の富士山を一目見たいと、富士吉田に出かけた山下清は、いつまでも見ていると美しく見えなくなってしまうことに気がつく。そして、「よくばってはいけない」と謙虚に反省して、富士山に背を向けたというエピソードをもってきている。
 博識の人だ。とても真似できない。

                                           

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書名 時間の分子生物学 著者 粂和彦 No
2009-37
発行所 講談社現代新書 発行年 2003年10月 読了年月日 2009-12-31 記入年月日 2010-01-04

 
福岡伸一の本を読んでいて、時間と生物の関係、具体的には、時間経過と共に組織が、器官が、個体が形成されていく過程が心に引っかかっていた。店頭で本書を見つけて、購入した。内容は、前半が主に概日性リズムを中心にした生物時計の仕組み、後半は睡眠の科学であった。
 以下思いつくままに本書から断片を記す。

 生物の概日周期は遺伝子により制御されている内因性のものである。その周期は24時間であり、それは外部の環境には影響されない。

 24時間周期を作っているのは細胞内の数種類のタンパク質。周期を生み出すメカニズムはネガティブフィードバックによる。概日性周期を生み出すタンパク質がない状態から、まずDNAの転写が始まり、m-RNAが生成、細胞内でそのタンパク質が作り出される。生成したタンパクの量が増えてくると、それは細胞核にも入り込み、こんどは細胞核内でのDNAのmRNAへの転写を阻害するように働く。そしてm-RNAの生成がストップする。その時点が概日性周期タンパクがマックスに達しているときで、以後このタンパクは分解されて減少していく。こうしてタンパク質の量が周期的に変化し、その周期がちょうど24時間である。概日性周期を作り出す遺伝子はショウジョウバエでもヒトでも同じ遺伝子である。

 睡眠の目的、役割はまだわかっていない。身体の休息なら、目をつぶって横になっているだけでもいい。脳の休息という意味は最も大きい。しかし、それだけでは、レム睡眠が説明できない。レム睡眠時には、脳は覚醒時以上に活動している。
 ショウジョウバエにも睡眠がある。そのうえ、遺伝的に不眠形質をもつショウジョウバエも見つかった。このハエの脳内では神経伝達物質であるドーパミンの働きが異常に強い。
 覚醒中枢があるように、睡眠中枢が脳内にある

                                           

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