2019年11月  課題:「泥」 

 泥沼流

 「兄達は頭が悪いから東大へ行った。自分は頭が良いから将棋指しになった」と言ったとされるのは米長邦雄永世棋聖だ。実際は棋士の芹沢八段が、米長の言として冗談めかして言ったのが真相のようだが、米長自身もあえて否定しなかった。30歳で棋聖位を獲得した米長は、「頭の悪い」3人の兄達の年収よりはるかに多い収入を得ていたはずで、その自信に裏打ちされた言葉だ。

 派手な言動が注目された米長ではあるが、棋風は「泥沼流」と呼ばれる。終盤で劣勢のとき、自陣に駒を投入し、泥沼に引きずり込んで逆転を狙う将棋だ。その人柄が「さわやか流」とも言われるのとは対極にある。本人は「さわやか流」が好きだったらしいが、泥沼流も気に入っていたようだ。自分の将棋の解説で、この手は泥沼流の一手だと自慢していたという記憶がある。引退後は週刊誌に「泥沼流人生相談」を連載していた。

 米長は中原誠の後を受けて将棋連盟の会長になった。数々の改革を行ったが、その一つは、コンピュータソフトとプロ棋士の対局を正式に認めたことだ。米長だから出来た大英断だ。そして、米長自らが当時の最強ソフトボンクラーズとの対戦を買って出た。

 後手番の米長が指した初手は、6二王という手だった。ライブ中継を見ていた私はびっくりした。普通、飛車先を突くか角道を開ける手を初手には指す。6二王はプロの対局では千局に一局あるかないかだ。コンピュータの実力を認めて、米長は最初から泥沼流の戦いに誘い込もうとしていると、私は直感した。作戦は成功で、中盤までは米長有利に進んでいたが、一手のミスから、棋勢はコンピュータに傾き、敗れてしまった。

 その後程なく米長は亡くなった。奇しくも米長最後の対局で泥沼流を目の当たり見ることが出来た。米長亡き後、トップ棋士とコンピュータソフトの公式の対局が行われたが、時の佐藤天彦名人ですら勝てず、企画は消滅してしまった。最近ではAI将棋と呼ばれるコンピュータ将棋は、特に若手の棋士たちがその指し方を積極的に取り入れて、従来の戦法に新しい風を送っている。

 米長のライバルであった中原誠名人の、局の流れに乗って攻守バランスよく指す棋風は「自然流」と呼ばれ、それ以後も、寄せのスピードが他の追従を許さなかった谷川浩司九段の「光速流」、森内俊之九段の「鉄板流」、佐藤康光九段の「緻密流」、丸山忠久九段の「激辛流」と、4人の名人獲得棋士にもその棋風に名前がつけられた。羽生善治九段には「○○流」は付かなかったが、その終盤力から「羽生マジック」と言われた。いずれもそれぞれの棋風をよく表していると思う。

 棋風に「○○流」などとニックネームが付くのは、いずれも40歳以上の棋士だ。渡辺明三冠、豊島将之名人、など現在のトップ棋士には付いていない。米長が全盛時代、原田康夫九段という命名の巧みな人がいて、多くのニックネームはこの人がつけた。原田九段のような人がいないことが、若手棋士にニックネームがないことの一因だろう。

 ならば、藤井聡太七段に私がつけてみよう。

 中原・谷川両永世名人の棋風を合わせて「光速自然流」はどうか。

 2019-11-20 up


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