1998年10月  課題:月

朧月夜
  
     
「朧月夜に似るものぞなき」

 私もそう思う。澄み切った大気の中に、あらゆる風物が隈無く輪郭を現す秋という季節が私は好きであるが、月に関しては春の朧月がいい。あまりにも冴えた月影は凄惨な感じがする。その点朧月はやさしい。ムードがある。

 源氏物語の「花宴」で、宮中での盛大な花見の宴が終わり、皆が寝静まった夜中、源氏が愛しい藤壺に会えないだろうかと弘徽殿のあたりをうろついていると、向こうから、女が一人やってくる。源氏がいるとも気づかず、若々しい声で女が口ずさんでいるのが冒頭の一節だ。源氏はとっさに女を抱きすくめ、一室に連れ込み一夜の契りを結ぶ。

 私が谷崎源氏でこの長編物語を読み通したのは、もう20年以上前のことである。いくつかの印象的なシーンの中でも、この場面はよく記憶に残っている。もし、源氏物語の多くの女性の中から、最も魅力的な一人を選ぶとすれば、迷わずこの姫君、朧月夜を挙げる。情熱的で、少し危なかしくって、それでいて知的な美人というところにひかれる。

 朧月夜は源氏の政敵、右大臣の六の姫君で、しかも源氏の兄に当たる東宮の妃として入内予定だったのだ。しかし二人の関係は一夜では終わらずその後も続く。そのことがあって朧月夜は、后にはなれなかったが、女官として宮中に上がり、今は代替わりして帝となった朱雀帝の寵愛を一身に受ける。それでいながら、朧月夜が里帰りしている時、二人は逢瀬を重ね、こともあろうに父の右大臣に現場を見つかってしまう。そうなってただですむわけはない。源氏は失脚して須磨へ退くことになる。

 許されて都に帰った源氏は、その後栄華を極め、昔関係のあった女を皆自分の庇護の下におく。そんな中で、宮廷では尚侍(ないしのかみ)という、女官長の役を務める職業婦人でもある朧月夜は、源氏からはまったく独立している。ここには彼女の近代性がある。源氏は彼女が忘れられず、紫の上の目を盗んで、15年ぶりに朧月夜との逢瀬をもつ。源氏40才の時だ。朧月夜が朱雀院の後を追って出家して、このスリリングで、情熱的な恋は終わりを遂げる。

 濃艶な気配の漂う春の真夜中、朧な月明かりの下、歌いながらの一人歩き。朧月夜が初めて登場してくる冒頭の場面には、その後の彼女の生き方、彼女の魅力のすべてが凝縮されている。女の肉声が聞こえることの少ない源氏物語にあって、文字通り肉声から登場してくるところが、特に強いインパクトとなり、この場面を忘れがたいものにしている。

 先日、インターネットで「朧月夜」と入れて検索してみたら、92件がヒットした。その中に源氏物語のファンのホームページがいくつかあり、登場人物の人気投票をやっていた。朧月夜は紫の上、明石の君につぎ、3番人気だったが、3人の差はほとんどなかった。私だけの姫君かと思っていたのに、こんなに多くの人が彼女ひかれていて、少し残念な思いだった。しかし考えてみれば、1000年も読みつがれた物語だから、朧月夜ファンの数は無数で、私と同じ様に感じた人もまた数知れずいて当然なのだ。



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