2011年11月 課題: 港

開国と攘夷


                           
 横浜のみなとみらい地区に建つ高さ日本一の超高層ビル、ランドマークタワーの展望台からの眺望は素晴らしい。ベイブリッジ、大桟橋、大観覧車、帆船日本丸と、人目を引く東南側に比べて、西側は地味な眺めだ。目の下には小さなビルがぎっしりと詰まった光景が広がる。そのビルの海の中に浮かんだ小島のような緑の一画がある。小島には銅像が建つ。像は港の方を向いているのが、展望台の上からも見て取れる。掃部山公園と井伊掃部頭直弼の像だ。

 
 明治42年、横浜開港50周年記念として建てられたこの像の除幕式には、当時の政府首脳、山縣有朋や伊藤博文などは出席を拒んだという。井伊を開国の恩人とする建設趣意書に反発したのだ。彼ら長州人にとっては、井伊は安政の大獄で吉田松陰を処刑した憎むべき人物でもあった。

 井伊直弼は、朝廷の許可なく外国との通商条約を結んだ奸臣であり、安政の大獄で多くの志士を処刑した極悪非道の人物というのが、明治政府側の見方である。一方で、井伊を果断・剛毅の開明なリーダーとする見方は比較的新しい。私の子供の頃には前者の見方が圧倒的で、私もそれに染まっていた。しかし、後年いくつかの歴史書を読むうちに、後者の見方に段々引かれていった。

 井伊が大老職を引き受けたのは安政5年(1858年)。アメリカの総領事ハリスは、通商条約への調印を強硬に迫っていた。しかし、外国嫌いの孝明天皇や京都の公家は調印を許可しない。水戸藩や尾張藩、薩摩藩などの有力藩主も攘夷論に固執して、調印を認めない。井伊はもともと開国と各国との交易はやむを得ないと考えていた。朝廷や諸侯の反対を押し切っての条約調印は、アメリカのみならず、イギリス、ロシア、フランスなどが、艦隊を背景に通商を迫って来るのが目に見えている状況で、拒めば勝ち目のない戦争となり、清国のように領土を割譲する羽目になる、という恐れからの決断だった。

 かくして翌1859年、神奈川、長崎、箱館の三港が開港される。

 井伊は同時に起きた将軍継嗣問題で、一橋慶喜を担いだ諸侯、公家、志士への弾圧を開始する。安政の大獄だ。その恨みを買って、万延元年(1860年)、桜田門外で暗殺される。

 井伊亡きあと、世情は攘夷に傾斜する。朝廷は幕府に攘夷の実行を迫り、攘夷派による、外国公使館焼き討ちや、開国派と目される人物へのテロなどが頻発する。攘夷は尊皇と結びついており、攘夷派の憂国の至情が、後世彼らの行動への共感につながった。しかし、今の私には攘夷派は将来展望を欠く蒙昧な勢力に思え、国を開くことによって、日本の独立を守った幕府側の英断と、その後、将来を見据え海外に広く知見を求めた努力の方を高く買う。

 開港当時鄙びた漁村であった横浜は、一昨年開港150周年を祝い、今や東京に次ぐ日本第二の都市である。その間に日本は世界有数の豊かな国となった。本牧ふ頭ではコンテナを満載した船が次々に出て行き、次々に入ってくる。

「外に向かって国を開くことは、結局は人々を豊かにする」と、井伊直弼の銅像は言っているに違いない。




 掃部山公園の井伊直弼像(後ろ姿)とランドマークタワー。
 この像は昭和18年に金属回収のために撤去され、昭和29年、開港100年に当たり再建された。

  2011-11-16 up


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