2013年3月    課題:「ab さんご」 あるいは「分かれ道」

コンピュータ将棋


 後手の米長邦雄永世棋聖の指した第2手は6二王であった。

 将棋における先手第1手の指し方には30手の可能性がある。対する後手の二手目も30手の可能性がある。先手も後手もまず攻め駒の大砲である飛車と角の活用を図る。そのため30の選択肢の中から先手なら7六歩か2六歩、後手なら3四歩か8四歩が選ばれる。プロの場合、最初の2手までに上記以外の手が選ばれることは100に1あるかどうかだ。

 米長は何故6二王としたのか。対局相手がコンピュータであったからだ。

 チェスの世界では、すでに1997年に、コンピュータが世界チャンピオンに勝っている。将棋もやがてはコンピュータが人間に追いつくと思われていた。将棋の初手は30の可能性しかないが、局面が進むに連れて、可能な指し手の数は増す。平均で80の選択肢がある。とすれば、5手先まで指した場合の局面は80の5乗、およそ32億の数となる。人間にはこのすべてを読むことなど出来ないが、コンピュータなら可能だ。これがコンピュータの最大の強みだ。

 人間は80の選択肢の中から、過去の経験や直感によって、読む手を数手に絞る。そして最善と思われる手を選ぶ。たくさんの手を読むことが出来るコンピュータではあるが、一手一手の価値を評価する能力が弱かった。この問題をプロ棋士の対局棋譜を取り込むことで改善して、コンピュータは強くなった。

 米長永世棋聖が対戦したのはコンピュータ将棋の世界チャンピオン、ボンクラーズ。米長もコンピュータの強さを認めていて、がっぷり組み合ったら勝てないと見たのだろう。ボンクラーズはプロ棋士の棋譜6万局を取り込んで、評価能力を強化していた。ならばプロ棋士の対局にはまず現れない手で困らせてやろう、というのが2手目の6二王の意図だった。序盤は人間が押し気味であったが、中盤、相手の一瞬のミスを突いたボンクラーズが快勝した。

 日本将棋連盟会長であった米長は、進歩の著しいコンピュータ将棋界からの挑戦を自ら受けて立った。米長の現役時代は名人を初め、数々のタイトルを手にしたトップ棋士で、私も米長ファンだった。残念ながら米長会長は、この対局から1年もしないで亡くなったが、コンピュータとプロ棋士の対局の企画を「電王戦」として残してくれた。今年の3月下旬から4月にかけて、現役プロ棋士5人とコンピュータソフトの世界ランキング上位5位との対戦シリーズが行われる。私の予想ではどちらが勝っても3対2という大接戦になると思う。

 コンピュータ将棋が人間を凌駕する日は近い。やがて、囲碁もコンピュータの前に屈するだろう。「人生」というゲームはどうだろう。私達の日々食べるものから、進学、就職、結婚相手など人生におけるあらゆる選択をコンピュータに任せたら、正しい選択をして「人生の勝者」になれる日が来るだろうか。

 答えはノーだ。8種類の駒を使い81のマス目の中で争われる将棋の局面の数は有限である。それに反し、人が生涯に遭遇する局面の可能性は無限であり、コンピュータをもってしても数え切れない。

 何よりも「人生の勝者」とは何であるのか、明確な定義などない。

補足
 課題「ab さんご」は今年上期の芥川賞受賞作品。作者の黒田夏子さんは下重さんと大学同期で、『文藝春秋』三月号には、受賞作とともに、黒田夏子さんへの下重さんのインタビューが掲載された。それで、この課題になった。aにするかbにするかということは、この小説の冒頭と最後に出てくる。それで、タイトルがa か b の選択を示すものであるとは理解できた。ただ、「さんご」というのがわからなかった。下重さんは、さんごは無数に枝分かれしているから、そのことを言っているのだと解釈してみせた。

 2012−03−20 up

追記:2013−04−20
 コンピュータ対プロ棋士の電王戦は3勝1敗1引き分けで、コンピュータが勝った。
  ○阿部4段、×佐藤4段、×船江5段、△塚田9段、×三浦8段

 この5週間、毎週土曜日、午前中から夜まで、ネット中継の電王戦にかじりついていた。
 私の予想では、期待の若手、船江とA級8段で今季の名人挑戦権を羽生と争った三浦の2人は勝つ。他の3人は危ないのではないかと思った。いずれにしても、3−2の結果だろうと思った。コンピュータは強かった。

 今日の最終戦、三浦対GPS将棋は、三浦の完敗であった。相手の矢倉囲いの王様に一度も王手を掛けることなく、負けてしまった。相手のGPSは、東大の駒場にある670台あまりのコンピュータをクラスター状につないだもの。1秒間に2億5000万手を読むという。昨年のコンピュータ将棋ソフトの世界チャンピオンである。

 船江対ツツカナ戦は、最大の激戦だった。金銀2枚づつ、それに竜、角まで参加した王の囲いを最後は破られてしまった。

 塚田対プエラアルファは、人間相手ならとっくに投げていた将棋を、塚田が粘って相入王に持ち込み、持将棋引き分けとした。入玉に弱いといわれるコンピュータの弱点を突いた、塚田の驚異的な粘りだった。終局後の記者会見でも、塚田は涙ぐんだ。


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