2004年12月 課題 「展覧会」

時を超えて語るもの 
                               
 表題のタイトルを掲げた史料展が国立博物館で3年ほど前にあった。東京大学史料編纂所史料集の発刊100周年を記念して、同所と国立博物館が共催した展示会だ。妻の知人が史料編纂所の所員であったので、その人の案内で十数人のグループで見に行った。

 藤原道長の「御堂関白日記」、藤原定家の「明月記」、源頼朝の花押のある島津家文書、尊氏、秀吉、家康などの自筆書状、あるいは紫式部日記絵巻、蒙古来襲絵巻、キリシタンを吟味した踏み絵の聖母子像など。国宝級の史料がずらりと展示されていた。私たちが読む歴史の裏には、こうした多数の史料一つ一つを読み解くという地道な作業があるのだと改めて思う。

 千年前に書かれた道長の日記は漢文であるが、明瞭に読むことができる。展示された1007年8月の日記には、自身が写経した教典を金峰山に奉納した時の様子が詳しく書かれている。百人一首の選者、定家の「明月記」も、意外なことに漢文で書かれていた。もっと驚いたのは紙背に別の墨跡が残っていること。反故となった書状の文字を剥がしてその裏面に書いていて、元の書状の墨跡が残っているのだ。当時の人々が紙をいかに大切にしたかがありありとわかる。

 こうした史料の利用の便宜を図るためにデジタル化作業も進んでいるとのことで、会場の一部にはそうして作成された江戸時代の地図が大きな壁面一杯に表示されていた。デジタル化された史料は保管に場所を取らず、コピーなどの加工も容易だから確かに展示や、研究のための利用には便利だ。だが、保存はどうだろうか。

 私も最近は書き物、写真などすべてをパソコンのハードディスクに蓄えている。ハードディスクが壊れたらすべて消失するという不安は常につきまとう。CDにバックアップはとっているが、年にまとめて1回である。デジタル化されたデータは壊れたかどうかが見ただけでは確認できないという不安もある。さらに大きな問題はハードウエアやソフトウエアの進化が早く、データが読み出せなくなってしまうことだ。典型的な例はレコードだ。我が家にあるレコード盤は、今ではその再生装置がないので聞くことができない。多くの家庭でも同じであろう。

 たまたま同行のグループの中に国立歴史民族博物館で史料のデジタル化に取り組んでいる専門家がいたので、私の疑問をぶつけてみた。結果は私の不安が当たっていた。CDに書き込んだデータが10年後に劣化してないという保証はまだない、今のデータも、マイクロソフト社のソフトがなくなれば読み出せなくなるとのことだった。紙に書いたものが一番確実で、現にこうして千年前の文章を鮮やかに見ることが出来る、という予想外の答えが返ってきた。

 世はあげてデジタル化時代。この趨勢は変わることはないだろうが、CDその他のデジタル記録媒体が、紙にのように千年の時を超えて人々に語りかけるためには、まだまだ解決しなければならない問題が山積しているようだ。

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