新聞記者としての話はここでは書くまいと決めていた。愛犬の墓銘碑がわりに立ち上げたホームページだが、覗いた人から裏話はないのか、といわれるようになった。 あれやこれや書き散らかすうちに素性はばれている。なら、書くか。でも、守秘義務があると自戒もしているので、時効の範囲内で、戯れ言(ざれごと)を。

ごめんなさいと最初にことわっておく必要がある。はやらないし、読みづらいのも承知の上で、
極力写真を使わないのは、活字人間の性(さが)です。

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医者、記者、芸者、三日やったらやめられない           面白い職業について

「よど号事件」30年か                      我々夫婦には結婚式の写真がない!

アカシアの雨に打たれた安保                     我が青春の挫折ですか

コンコルドにイギリス病を見た日                  サッカーすると退学処分

JALジャンボ機御巣鷹山に消ゆ                    520人/520話の思い出

札幌オリンピック美人通訳譚                     日本が金銀堂独占のジャンプ台の下で

にわか紳士「QE2」に乗る                    豪華客船「QE2」(クイーン・エリザベス2号)乗船記

あさま山荘事件-凍える攻防                    取材記者として見た現場

釜が崎のアラン・ドロンや                     サツ回り記者絶句す

天下の奇人、金田浩一呂氏のこと                抱腹絶倒保証記者
       阿川弘之「六十の手習ひ」の原文掲載。
      「阿川弘之さんお別れ会」スピーチ集。

放蕩一代 、尾登辰雄氏を偲ぶ                   遊びの達人

医者、記者、芸者、三日やったらやめられない

酔うと「新聞記者も人の子よ・・・」と歌い始める先輩記者がいた。「おたまじゃくしはかえるの子、なまずの孫ではないわいな、それが何より証拠には、 やがて手が出る足が出る」という、巷間有名なリパブリック賛歌の替え歌の替え歌で、最後が「恋もする」だから、どんな職業にも当てはまる。 この人がよく言っていたのが表題の、箴言(しんげん)というにはほど遠いから、まあ、語呂合わせである。やめられない理由が、稼ぎがいいということでは絶対にない。これは経験から断言できる。
口が固いとか職業上の守秘義務があるというのも考えすぎだろう。

私はそれぞれに、「からだの裏側」、「社会の裏側」、「男の裏側」を覗く面白さのある職業だからだ、と思っている。 ほかの二つはやったことがないからわからないが、新聞記者が面白い職業であることは請け合う。
いまでこそ、新聞記者から総理大臣や地方の首長になる人がいて、ステータスもあがったが(いやそうでないという方もいようが)、 ついこの間まで、「おお瓦版屋(かわらばんや)か」とわざと高言する人は多かった。私の叔父もそうだった。

ステータスついでにいうと、戦前は新聞記者は車夫馬丁の扱いを受けて、お役人より社会的な地位が低かった。今も私が心に留めている言葉で「ブン屋の世迷い言」で紹介したが、山本夏彦の言葉にこうある。「新聞記者の社会的地位は戦前までは低く、貸家があっても貸してくれないほどでした。かげでは『羽織ゴロ』と呼ばれていました。口では立派なことを言っているが、何をしているか知れたものではない、紋付羽織を着たゴロツキだというほどのことで、その恐れられることいまの週刊誌に似ていました」(山本夏彦「つかぬことを言う」)。

夏彦大人の言葉はさらに「大新聞は昔の羽織ゴロの時代を忘れたから、駄目になった」と続くのだが、上の「車夫馬丁」のところに戻って、私の体験で言うと、現代でもこれが生きているのが日銀本店で見られる。日銀記者クラブというと金融記者がふんぞり返っているようなイメージがあろうが、日銀本店内ではまさに車夫馬丁の扱いで、車寄せがある玄関の前の平屋建ての石造りの建物に警備の警察官と一緒に放り込まれている。総裁会見などで庁内に入るときはいちいち警備のチェックを受けねばならない。

文化部、科学部、経済部などそれぞれの分野に精通した解説型の記者が増えて、イメージアップに貢献したとも思うが、少し前というか昭和40年ころの話だが、そうでない記者も堂々と生存していた。

社会部の内勤、つまり原稿取り(外からの電話送稿を書き取る)をしていたとき、先輩H記者からの電話を取った。
事件原稿だったが、「わからんとこは俺に聞け」という。まだ何も聞いてないから、はあ?と問い返すと、発生日時、被害者と被疑者の名前、逮捕容疑などメモ風のものを一気に話すと、黙りこんだ。あと原稿に必要なことは俺から取材して書けということなのだ。原稿が書けない記者がいたのである。

曽根崎警察
通称”ねそ”の曽根崎警察署(昭和44年)
この人は、業界用語でいう「ヤー公」(やくざ、暴力団員)が、警察にではなくH記者に自首してくるというので有名で、私が目撃したのは大阪駅の前にある曽根崎警察(通称「ねそ」)だったが、公廨(こうかい=大阪だけの警察用語で、警察署を入ってすぐの受付けとか当直指令がいるあたりの広いところをいう。公廨の本来の意味は「役所」)で、各社の記者とカメラを前に「ええか。写真はここ、記者はそこ。(犯人を)ここ入ってこう引きまわすからな」と生き生きと仕切っていた。このあとH記者が付き添って刑事課長に引き渡す。なんだか「プレ自首」といったあんばいで芝居を見ているようだった。

キタの新地で地回りに絡まれたとき、「xxxx(新聞社名)のHを知らんのか」とレンガでぶん殴ったという 武勇伝の持ち主だった。翌日、頭を包帯で巻いた子分を連れて、親分が謝りに来たというあべこべの話もある。こういう記者も嬉々としていたから「三日やったらやめられない」面白い職業なのだ。

もう一つこの人の「伝説」がある。”ガン首集めの名人”としてだ。今はもっと上品に「顔写真」と言っているが、交通事故、事件に関わらず原稿につける死者のガン首写真を取って来るのは記者の常識だった。これが難関なのだ。なにしろ相手の家族は人生 最大のパニックの最中だ。気が立っているところにノコノコ現れて「写真を・・・」などと言い出すのだから、歓迎されるワケがない。「ボケナス!アホか!」と怒鳴られるくらいは序の口で、胸倉をつかまれることもある。写真を持ってこないと社に帰ってからデスクに「アホ!」と言われる。どっちに転んでも、アホでしかない。仕方ないから、いろいろ”からめ手”を考える。子供なら幼稚園や学校に行ってアルバムから複写する。 大人なら会社の社員旅行や学校の卒業アルバムを探す。今も中年過ぎの被害者などで学生時代の顔写真が出るのはそれだ。

自社の分だけ複写して戻ったら「アホ、なぜアルバム全部持ってこない」と怒られた。あとから来た社にガン首を渡さないため、一切合財持ち帰るのはサツ回りの常識だと言われた。 確かに後塵を拝してひどい目にあったことがある。その社はアルバムから顔写真に使えるものを、みなひっぱがして持ち去っていた。 私など下手で、原稿書きながら、いつも写真をどうしようか悩んでいたものだ。同期の男に名人といわれるのがいた。実家が寺で、お経が読めるものだから、「お参りさせてください」といって上がりこむ。 読経のあと「ひとつお写真を・・・」という手口で、かなり確率は高かった。

しかし、先輩H記者はその比ではなかった。ほとんど100%だ。なんとかコツを教えてもらおうとしたが「頭を下げるしかないわな」というだけ。ところが、ある日秘訣がわかった。上述の「ねそ」で目撃したのだ。 交番の警官をつかまえて、「オイ、この家に行ってこい」と、命令している。「なるべく正面向いた写真だぞ」と注文までつけていた。白い自転車で制服警官が来た家では、捜査の一部だと思うせいか、一も二もなく差し出す。 遠い家だと警ら課長(今は地域課長というが、交番を管轄している)に言って若い警官を行かせる。ひどいものだ。秘訣は分かったが、とても真似できるものではなかった。

警察に逮捕された被疑者が、最初にすることは写真撮影だ。横にスケールがついていて身長が目で分かるようになっているおなじみのものだが、ここで、正面と真横の2枚撮られる。樹々希林のCMのように「それなりに」写るのならまだしも、 照明のせいでどんな人間も一段と人相が悪く写るようになっている。警察庁からのマニュアルがあって、顔の輪郭が浮き出るようにライトの一つは下からあてるよう に指示されているためだ。私もある署で撮ってもらったが、前科3犯の詐欺師然とした写真で、あわてて捨てた。 だいたい鑑識課で撮影するが、全指の指紋も1本1本係官が手を添えて取るからかなりの時間鑑識に滞在する。この部屋に入り込んで(つまり次に相手する刑事より 先に自供を取ろうとして)問いただしているところも見た。

この人は「マル暴」(ヤクザなど暴力団関係者。警察内の書類でマルの中に暴の字の印がついていたことからきた)だけでなく、警察から病院にいたるまでメチャ クチャ顔が効いた。事故か事件か忘れたが、瀕死の男が手術室に運ばれる間、そばでほっぺたをビタビタたたいて「おい、名前は、住所は」 とやっていた。この男はまもなく死んだから、H記者のメモが唯一の手がかりとなった。警察官も頭を下げて、彼から死者の身許を教わっていた。今ではこんな記者生存していない。

少し後のことだが、私が配属になっていた中部地方のある支局に支局長としてこの人がやってきた。着任2日目、M新聞の支局長が土下座させられる。運悪く、この支局は前月末、何かの都合で、 わが社の新聞の購読を1部減らしたことを販売店から知らされ「仁義を知らんヤツだ」と激怒したのだ。聞きなれない仁義など持ち出された方は土下座しかない。逆に2部増やされた支局員は「お前んとこの新聞ばっかりや。どこの支局かわかれへん」と私にぼやいた。

4日目早くも、「毎週木曜日、知事と各社支局長の懇談会」「毎週金曜日、県警本部長と各社支局長の懇談会」がセットされた。 それまで、この県では2,3ヶ月に1回あればいいペースだった。県庁と県警の広報があわただしく支局に出入りし始めた。

5日目くらいに、私が呼ばれた。この祝儀袋に千円札(初任給2万2000円の時代)を入れるのを手伝えという。夕方から料亭の玄関先に立って、入ってくるお姐 さん方にお渡しするのが私の役目だった。一夜にしてその街の芸者衆がH支局長の名を覚えたのはいうまでもない。ホントの話である。

◇ ◇ ◇

もう一つ口癖があった。「ゼニ勘定ができればブン屋なんぞやってへんわ」。こちらの方はその後私もいろいろな場面で、捨て台詞に多用させてもらった。かなり前に亡くなられたと聞く。春田先輩ありがとうございました。

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よど号事件から30年か

21世紀を直前にして、2000年11月8日、日本赤軍の最高指導者、重信房子(55)が大阪で逮捕された。長い間、全国の交番に貼り出されていた手配書でおなじみの人物だ。 それより先の6月末、よど号事件の田中義三が逃亡先のタイから送還されてきた。

田中義三の51歳という年齢を見て考えさせられた。当時21歳の確か大学生も、いまや頭ははげて見るからに中年。赤軍の女王だった重信房子だって、Vサインで連行される写真は 手配の顔写真とはまるで違っていて、そのへんのおばさんの群れにまぎれたらまずわかるまい。年頃の娘もいるというから当たり前だが、テレビをみながら別な感慨が沸いた。

彼らが30年ぶりの帰国というからには、私ども夫婦も結婚30周年になる。銀婚式が25周年だから、真珠婚式か何かにあたるわけだが気がついたのが6月では、 遅すぎてどうすることもできなかった。

昭和45年4月4日、大阪で挙式したのだが、私たちには結婚式の写真がない。なにせ突然のよど号事件。発生は少し前で、取材先の新幹線の岐阜羽島の駅のテレビで知った。 それまで聞いたこともない事件のパターンで、ハイジャックという言葉もこのとき初めて使われたのだが、よりによって私たちの結婚式とぶつかったのだ。

安田講堂事件
安田講堂めぐる攻防の
さなかに東京へ異動したのだが。
経緯を説明しておく必要があろう。昭和44年(1969)2月25日に夕刊フジが東京で創刊された。この年は日本人が高揚した気分にあった。日本のGNP(国民総 生産)が世界第2位になり、東名高速が全線開通し、「もはや戦後ではない」を合言葉に世界に向け発展しようとしていた。さらにアポロ11号が月面着陸を果たして世界から宇宙に目が向いていた。 一方では1月に東大安田講堂が水攻めで陥落、70年安保は過激派の分裂もあり挫折しつつあった。ベトナム戦争も泥沼の様相を呈していた。内外ともに騒 然とした雰囲気だった。

夕刊フジの創刊号
夕刊フジの創刊号

石原慎太郎氏が死去

東京都知事や運輸大臣などを務め、芥川賞作家としても知られる石原慎太郎氏が、2022年2月1日午前、すい臓がんのため東京都内の自宅で死去。89歳。平成27年の春の叙勲では「旭日大綬章」を受章。

慎太郎死去
石原慎太郎
昭和7年に神戸市で生まれ、一橋大学在学中に小説『太陽の季節』で芥川賞を受賞、「太陽族」という流行語も生まれ一躍、文壇の寵児となった。弟は俳優や歌手として活躍した昭和の大スター、石原裕次郎。自民党幹事長を務めた伸晃氏と衆議院議員の宏高氏、俳優で気象予報士の良純氏の父親。

石原氏は、執筆活動を続けながら昭和43年の参議院選挙で自民党から初当選し、4年後には衆議院議員に転身して通算9回の当選を果たした。歯に衣着せぬ発言で知られ、環境庁長官や運輸大臣などを務めたほか、自民党の派閥横断的な政策集団、「青嵐会」の主要メンバーとしても注目された。

その後、平成11年の東京都知事選挙に当選、▽「新銀行東京」の設立、▽大手銀行への外形標準課税の導入など、独自の政策を次々と打ち出したほか、▽東京マラソンの実現を主導し、オリンピック誘致にも取り組み、中国に対する強硬姿勢を貫き、沖縄県の尖閣諸島を都が購入する考えを表明、全国から14億8000万円が集まった。その後2012年9月に国が買い取ったことで尖閣諸島は国有化され、集まった基金は「塩漬け」になったまま残っている。

平成24年10月、4期目の任期途中、突然知事を辞職して新党「太陽の党」を結成、当時、大阪市長で日本維新の会を率いていた橋下徹氏と手を結び国政に復帰(2年後に引退)した。橋下氏を「総理になれる器」「才能があるし、あれほど演説のうまい人はいない」と高く評価していた。

合流したときの共同会見では、「この人(橋下氏)は義経だ。私は弁慶。でも(有能でも悲運の)義経のまま終わらせちゃいけない。(鎌倉幕府を開いた)頼朝にしなきゃいけない」と橋下氏の国政進出を熱望する発言をしていた。「最後に会ったのは昨年12月13日。石原さんの自宅を訪れ、「元気で、たわいのない話から国のことから最後は皇室のこと、靖国神社のこと、核ミサイルのこと。石原節は最後まで健在でした。最後にお別れするときに40歳の年下の僕に玄関で『友よ、ありがとう』と握手して別れた」と話した。橋下氏は「政治家として「とにかく芯が強いし、これだけ言葉で人を動かせる政治家は日本でなかなかいない」と悼んだ。

石原さんは政治家となったあとも作品の発表を続け、1995年から務めた芥川賞の選考委員は東京都知事になってからも継続し、候補作への辛口な批評で、「文学は死んだ」と言われる中で「最後の文学者」の姿勢を貫いた。

上述のように夕刊フジの創刊号を飾ったのは石原慎太郎氏である。私も創刊号用に別の原稿を書いていたのだが、当日取り上げられたのは慎太郎の方だった。爾来、創刊10年、創刊25年‥‥折節にこのときの1面トップが取り上げられたり本人がインタビューされたりしてきた。軟弱な日本の政治の流れの中で氏を「国士」として尊敬もしてきた。亡くなって「惜しい」と思う人は少ないが、心からそう思う人だった。

そんななか朝日新聞だけは《人権意識の低さにあきれかえることが何度もあった。それでも人気は衰えず、政界で存在感を示し続けた。それも一因だろうか。「率直」と「乱暴」の違いをわきまえられない、幼稚な政治家が相次いでしまった》(朝日「天声人語」2月2日)、また朝日の社会面では、御厨貴氏(東京大名誉教授・政治学)が、《差別的発言など是認できないものがあったのに「石原さんだから仕方が無い」と許されてしまう面があった。影響力が大きい人ゆえに政治家の失言が許される世の風潮を作ってしまった。それは負の遺産だ。》と書いた。朝日新聞とその一派こそ「負の遺産」である。


◇ ◇ ◇

世の中騒然としたなかで日本で最初のタブロイド新聞が創刊されることになった。もっともその時は「社外秘」で「特別準備本部」と呼ばれるメンバーに選ばれて上京することになった。昭和43年12月の発令だった。それまで産経新聞大阪本社の社会部にいて西成、阿倍野、住吉など大阪南部の7警察署を担当する「南回り」というサツ記者をしていた。天王寺動物園内にある記者クラブに寝っころがっていたとき、デスクに呼び出され「ちょっと2年ほどお江戸に行ってんか」と辞令一本で東京に異動して戦列に加わった。人事で新聞社の約束ほどあてにならないのはないのだが、2年どころかそれから数十年以上東京に居つくとは思わなかった。

夕刊フジはまだ大阪で発行されていなかったので、身は東京に置いたまま岐阜羽島まで取材に行ったり、京都に来日したイギリスのアン王女を追っかけたりしていた。家内は芦屋にいた。一年生記者だから文字通り新幹線で東奔西走 していた。私の実家は大阪、家内の実家も関西、勤め先は東京、学生時代の友人の多くは札幌、そんな地縁から挙式は大阪になり、司会者と本人、それ に招待者の一部の上司や大学や仕事の仲間は東京から大阪に移動するという必要があった。このころは電話事情も悪く、新聞社は専用電話を引いていたが、一般家庭では、東西間でも申し込 んでつながるまでかなり時間がかかった。だから、たいした打ち合わせもできずもともとぶっつけ本番に近い結婚式ではあった。

前日夜遅く大阪南郊の実家に戻った。ニュースに素人の家人は、ニュースと我が家の行事とが関係するなど考えもしない。よど号の話など露ほどもなく、 九州・唐津や東北・米沢などから遠路駆けつけた親戚との昔話ばかり。家内の実家にもここ2,3日は電話もしていなかったが、どうせホテルでの着付けや髪結いのことでこちらの理解を超えている。子供じゃあるまいし、時間になれば勝手にホテルに来るだろう、と互いに連絡もしなかった。
事件発生から4日たっていたが夕刊の扱いはまだ大きくて、連日トップ。大阪本社社会部の記者がかなり動員されている様子だった。本人はいやな予感がしないでもなかったが、電話する時間もなかった。

当日、新郎は大してすることがない、はずだった。のんびり構えていたら電話が入った。司会者本人からで、新幹線に乗り遅れて遅刻する、よろしく、だと。前夜に飲みすぎたという。同じ社宅だが式の打ち合わせもしたことがなかった。全体の仕切りもこの男の役目だったが、内容も聞いていない。 そんなこと直前に新郎に言われたって・・・仕方ない、客ごと式を遅らせるしかない。

仕事がら披露宴の招待客には記者やカメラマンが多かった。ホテルの式場に行ってみると、少し招待客の数が少ない。ホテルのすぐ近くが大阪本社なので、社会部に立ち寄ってから来るのだろうくらいにしか考えなかった。いざ披露宴会場に入り、新郎席に着席すると、目の前のテーブルごとごっそり空席である。みんな、よど号を追ってソウルに飛んだという。それも今日ではなく事件発生直後からだという。 結婚式の当人だけはさすがに配慮したか、行けとは言われなかった。それだけでもめっけもんだ。

ホテルの宴会担当者が新郎の私に相談にやってきた。どうしますか、といわれたって知恵があるわけもない。テーブルごと片付けるわけにもいかない。呑ん兵衛が多いから出しとけば誰か飲むでしょうよと言うほかない。

とどめは写真だった。挙式の写真を撮るはずのカメラマンはいなくなっていた。これまたひとことの連絡もなく。ブン屋ならそれくらい察しがつかなくてどうする、といわんばかり。立つ鳥跡を汚してソウルでシャッターを切っていた。
当然披露宴の写真もない。後日パラパラと素人のスナップ写真が集まってきた。お色直しも何回かあり、家内は和洋の晴れ姿を披露したようなのだが、何も残っていないし私の記憶にもない。義母が言ったものだ。「ウチにもカメラぐらいありましたのに」。

それでも編集局の幹部は何人か式場に残っていた。記者やカメラマンをソウルに出張させた当人だが、それとて、デスクと事件の電話連絡のために中座してろくすっぽ席になどいやしない。この時代携帯電話はないからいちいちロビーの赤電話に行く。 酒を呑みに席に戻るようなもので、実のないことおびただしい。もっとも事件がなくてもこんなものだったろう。社会部は経済部や文化部より数段ガラが悪いとされていたから。

その日のうちに伊丹空港から羽田に飛び、ハワイ便に乗り換えた。羽田には東京での同僚が多数見送りに来ていた。といっても我々のためではない。この日北朝鮮が機体の返還を発表したため、今にも「よど号」が着陸するかもしれないというので、記者やカメラマンが多数、空港に配置されていた。結局は5日朝の着陸になったため、手持ち無沙汰の連中が我々の冷やかしにやってきた、というのが実態だ。 空港に張り付いていた写真部員が、我々を見かけて、ついでに撮ってくれたスナップが唯一、プロの手になる写真だ。

1週間後、新居といっても社宅だが、へとへとで戻ると、我々2人より先にすでに同僚数人が部屋に入りこんで、勝手に冷蔵庫のもので酒盛りの真っ最中。ほとんど出来上がっている連中の話題はまだよど号が続いていて、われわれのハワイの話など聞かれもしなかった。

北朝鮮で死んだのもいるが、いまだにメンバー4人や田中義三の家族までふくめると30人も暮らしているという。望郷やみがたく、みな帰国したがっているらしい。昭和13年1月、女優、岡田嘉子が愛人の演出家、杉本良吉と雪の樺太国境 (当時は樺太の大平原を横切る線が日ソの国境。歩いて越境できた)を越えてソ連に亡命した。男は共産党員で、あこがれの共産国家で歓迎されると思ったらしいが、あにはからんやスパイ容疑で 拷問にかけられた(男のほうはまもなく銃殺されたことがのちになって判明)。戦後、国交が回復してモスクワ放送で働いていた岡田嘉子が帰国したとき、やはり同じようなセリフを吐いた。

そのとき、作家であり和尚である今東光が「甘ったれるでない。向こうに骨を埋めろ」と新聞で大喝した。亡命というのは言葉は甘美だが、切ないものだ。岡田嘉子にもよど号犯たちにもいえるが、革命の大義も何かあわれをもよおす30年の歳月である。

◇ ◇ ◇

この項を書いたときは上述のように、岡田嘉子に向けて今東光和尚が吐いた言葉の意味は説明もいらなかったのだが、爾来20年余、「岡田嘉子って何者だ」と言われるような時代になった。

そんな折、2020年1月中旬、文春オンラインで下記の2本の記事が出た。これを読めば「悲劇の亡命劇」のあらましがわかると思うのでリンクして紹介する次第。

○なぜ昭和のトップスター・岡田嘉子は恋人と「ソ連への亡命」を決断したのか
岡田嘉子の越境 #1
○理想の地は「地獄」だった 大粛清時代・ソ連へ渡ってしまった男女の悲劇的な真相
岡田嘉子の越境 #2

樺太越境
樺太越えで亡命した杉本良吉と岡田嘉子
当時、「翔んでる女」だった岡田嘉子は恋人の杉本良吉と樺太(当時は日本領)の北緯50度線を越えて、理想の国と思っていたソ連に亡命した(1938年1月3日)。歓迎されると思っていたようだが、スターリン独裁下のソ連での扱いは過酷を極め、杉本は翌1939年10月20日銃殺刑に処せられ、岡田嘉子も10年の懲役刑で刑務所に入れられた。

戦後、拘束は解かれてモスクワ放送で日本語のアナウンサーとして働き、同僚でもあった元日活俳優の滝口新太郎と結婚した。1972年11月3日、夫、滝口の遺骨を抱いて34年ぶりに帰国した。日本のテレビに出たり「男はつらいよ」に出演したりしたが「自分はソ連人だから」と1986年モスクワに戻った。1992年モスクワの病院で死去。89歳。

*「よど号」ハイジャック事件(メモ1)* 

赤軍派では「フェニックス作戦」といった。3月27日の予定であったが、予約の仕方やチケットの買い方を知らないのがいて遅刻者が続出、決行は1970年(昭和45年)3月31日。 ねらわれたのは、午前7時21分、東京・羽田発福岡行き351便の日本航空ボーイング727ジェット旅客機「よど号」(乗員7人、乗客131人)。 当時は金属探知機もボディチェックもなかったため、簡単に武器を機内に持ち込むことが出来た。この事件がきっかけで、ハイジャック防止法が施行され、現在のような検査が義務づけられた。

離陸してすぐ、富士山上空を飛行中に、赤軍派の9人が日本刀やピストル、ダイナマイトのようなものを振りかざして(のちに、これらの武器は偽物とわかる)叫ぶ。 「私たちは共産主義者同盟『赤軍派』です。私たちは北鮮(北朝鮮)に行き、そこにおいて軍事訓練等々を行い、今年の秋、再度、日本に上陸し、断固として前段階武装蜂起を貫徹せんとしています」。 その後ずっと帰れなくなろうとは、考えていなかったのが分かる。

9人のメンバーは、リーダーの田宮高麿(=たかまろ/当時27歳/大阪市立大)、サブ・リーダー格の小西隆裕(25歳/東大)、田中義三(よしみ/21歳/明治大)、岡本武(24歳/京大)など、8人の大学生と高校生1人。 岡本武は1972年(昭和47年)5月30日にイスラエル・テルアビブ空港で銃を乱射、26人の死者をだした岡本公三の兄。

福岡空港
福岡空港で給油するよど号。機体の下に
潜り込んでいるのは整備士に扮装した警察官
彼らは操縦室に押し入って、機関士を縛り(当時は正副パイロットの後ろに機関士が乗っていた。のち合理化で廃止)、操縦士に北朝鮮行きを命ずる。石田真二機長(当時47歳)は、平壌(ピョンヤン)に行くには燃料不足であるとして、福岡行きを説得した。 「よど号」は機動隊1000人で厳戒態勢が敷かれた福岡・板付空港に着陸し給油する。ここで病人や女性、子どもら23人を解放して、午後1時59分、福岡空港を離陸し、北朝鮮に向かう。 そのとき、石田機長が日航の福岡空港航路課から受け取った地図は朝鮮半島の形だけがわかる白地図で、地図の上部には<航路図なし、121.5MCをつねに傍受せよ>と書かれていた。

まもなく機体マークを消した戦闘機が現れ、親指を下に向けた。高度を下げろ、というサインらしいことが分かり、下げて38度線付近あたりにさしかかったとき、 「こちらはピョンヤン、進入管制周波数134.1MCにコンタクトせよ。こちらはピョンヤン・・・」という無線が入る。指示されるままに平壌空港に着陸するが、 実はそこはソウル郊外の金浦(キンポ)空港だった。

韓国軍兵士
金浦空港で「よど号」を警戒する韓国軍兵士
韓国側は、北朝鮮兵の服装でニセの歓迎プラカードを立てて出迎えるなど偽装工作するが、赤軍派はこれを見破る。着陸直後に空港内に米軍機らしい機影を見たのと、田宮が操縦席の窓から下にいた兵士に 「Here is Seoul?」と尋ねる。何も知らない兵士は「Yes, Seoul!」と答えてしまう。そこまで手配する時間がなかったのだ。無線で交渉にあたっていた韓国側はなおも、「ここはピョンヤンだ」と言い張ったが、田宮が「金日成(キムイルソン)の 大きな写真を持って来い」と言う。あるわけなかった。


よど号機内で田宮らが、着陸地がソウルと見破ったきっかけは、手持ちのラジオに「思い出のサンフランシスコ」が流れたからだという話もある。北朝鮮のラジオにアメリカのスタンダードナンバーが流れるわけがない。このあたり、すこしできすぎた話のような気がするが、彼らがいつか司直の手で調べられる時に明らかになるかもしれない。

よど号
よど号から開放される乗客(金浦空港)。
金浦空港では翌4月1日から日本から駆けつけた橋本登美三郎運輸大臣、自ら“身代わり”になることを名乗り出た山村新治郎運輸政務次官(当時36歳)らによる犯人学生への説得工作が続けられ、結局4月3日になって犯人たちは残りの乗客全員を解放して、 北朝鮮の平壌へ亡命することで合意に達した。

この間、日本赤十字社と朝鮮赤十字会の連絡がつく。<貴社が要請したJAL727ジェット旅客機が、朝鮮民主主義共和国北半部領域内に無事着陸できるようにし、 着陸後、乗客乗員たちの身辺の安全を人道主義の見地から保証するであろうし、また、直ちに日本に送り返されるであろうという当該機関の確答を受けたことを知らせる>

3日午後2時28分、残りの乗客99人全員とスチュワーデス4人全員が解放され、山村政務次官がその “身代わり”に搭乗した。 乗客が解放される直前、リーダーの田宮がマイクを持って立ち上がり「お別れのパーティーをやりましょう」と言って、赤軍派の1人ひとりが自己紹介をし演説をした。 再び、マイクが田宮の手に渡ると、気分を出して詩吟をうなり出した。このとき、奇妙な連帯感がうまれ、乗客の1人が別れの歌を歌った、という。

同機に乗り合わせた乗客の中に聖路加国際病院の日野原重明理事長(98)がいた。2010年3月、「よど号」乗っ取り事件から40年というので、産経新聞に寄稿し 、当時の様子を生々しく振り返っている。               

 ◇ ◇ ◇

日野原重明理事長
聖路加国際病院の日野原重明理事長
(2009.3.3撮影)

事件は、私が59歳になる半年前のことであり、当時、私は聖路加国際病院の内科医長だった。ちょうど飛行機が富士山の噴火口の真上を飛んでいたとき、日本刀 を持った一団からハイジャックの宣言を聞き、これは大変なことになったと胸騒ぎがした。自分の気持ちが動揺しているかどうか確認しようと思い、縛られた手の指 で自分の脈拍を数えてみると、平素の脈拍数70が80にもなっていた。

尊敬するアメリカの医学教育の開拓者、ウィリアム・オスラー博士の講演集『平静の心』にある「医師にとって、沈着な姿勢、これに勝る資質はありえない」とい う文章や、新約聖書にある「なぜこわがるのか、信仰の薄い者たちよ」というイエスのお言葉が頭をよぎった。私はあるがままに任せるほか仕方がないと観念した。

冷暖房が作動しない機内の温度は40度にもなり、韓国軍と赤軍側のやり取りで緊迫し、食料をめぐって騒然となったこともあった。だが、ハイジャック3日目に 機内放送があり、山村新治郎代議士が乗客の身代わりになって赤軍とともに北朝鮮へ出発することが伝えられた。

3日目の夜には、乗客の1人がハイジャックとはどういう意味かと質問をしたが、田宮(高麿)代表も答えられなかったので、私がマイクをもらって「ハイジャック する人が説明できないのはおかしい」といったところ、一同は大笑いして、座が急に明るくなった。生きるも死ぬも皆が同じ運命にあるという意識から生じたスト ックホルム症候群という敵味方の一体感に一同が酔ったといえるのかもしれない。

乗客の1人が別れの歌「北帰行」を高らかに吟じ、それに対して赤軍一同が革命歌「インターナショナル」を歌うと、学生時代に左翼運動に参加したと思われる乗 客たちが手拍子を取って一緒に歌ったりもした。

ハイジャック4日目の朝に解放されて金浦空港(韓国)の土を踏んだときの靴底の感覚を私は今でも忘れることができない。1969年にアポロの宇宙飛行士が月 飛行を終えて無事に基地に帰り、大地を踏んだときの心境に近いものではなかったかと思った。

人生を還暦前と還暦後に分ければ、私は、後半の人生を誰のためにささげるべきかを深く考えさせる大事件に出会ったわけである。国の内外を問わず、人々のために ささげる生き方を始める人生の転換が与えられたのだと感じ、その後、いつまでもその覚悟を持って生活してきた。

赤軍のよど号グループのメンバーたちは、今にして無謀なことをやったと後悔はしていようが、帰国すると刑を受けるために、残留組は意地をはっていると思う。

《40年後の詫び状》
1970年3月に発生した日航機「よど号」ハイジャック事件で、北朝鮮在住の元赤軍派メンバー4人=国外移送目的略取容疑などで国際手配=が、乗客とし て人質になった聖路加国際病院理事長の日野原重明さん(100)に事件を謝罪する手紙を親族を介して手渡していたことが26日、分かった。

共同通信の電話取材に応じたメンバーの若林盛亮容疑者(64)は「日野原先生が100歳の誕生日を迎えられたことを機に、おわびとお祝いを兼ねて何か するべきだろうという話になった」と手紙を出した経緯を説明した。

手紙の文章は小西隆裕容疑者(67)が執筆し、4人の連名を付記した。先月、訪朝した際に手紙を託された小西容疑者の母親(90)が25日に日野原さんの許 を訪れて手渡したという。(2011.10.26付産経新聞)

日野原重明さん死去 105歳
 100歳を超えて現役の医師として活躍し、「元気に老いる」を体現した聖路加国際病院名誉院長で文化勲章受章者の日野原重明(ひのはら・しげあき)さ んが2017年7月18日、呼吸不全のため死去した。105歳。葬儀は29日午後1時、東京都港区南青山2の33の20の青山葬儀所。喪主は長男明夫(あきお)さん。

1911年山口県生まれ、京都帝大医学部卒業後、41年に聖路加国際病院に内科医として赴任し、2012年に聖路加看護大(現聖路加国際大)理事長の座を退くまで、一線で働き続けた。 同病院名誉院長、聖路加国際大名誉理事長に就任後も車いすで時折緩和ケア病棟を訪れ、患者と言葉を交わしていた。「75歳以上」の人を「新老人」と名付け、2000年には「新老人の会」を設立。老後の新しい生き方を提唱した。

東京大空襲でも診察に当たり、薬不足などで救えなかった経験から「命と平和の尊さ」を訴え続けた。95年のオウム真理教による地下鉄サリン事件で病院長として陣頭指揮を執り、 多くの被害者を受け入れた。58歳だった70年には「よど号」ハイジャック事件に遭遇した経験もある。

聖路加国際病院によると、日野原さんは3月20日に消化器系統が悪化。胃に直接栄養を届ける胃ろうの設置などの提案を断り、自宅で家族らの介助を受けていた。今月14日に意思の疎通が困難な状態に陥ったという。

 老いの在り方を説いた「生きかた上手」(01年)など一連のシリーズがベストセラーになるなど多数の著書がある。98年に東京都名誉都民、99年に文化功労者、05年に文化勲章受章。( 2017年7月18日 毎日新聞)

 ◇ ◇ ◇

午後6時5分、赤軍派学生9人と山村次官、機長ら4人、計13人を乗せた「よど号」は金浦空港を離陸、北朝鮮の平壌へと向かうが、38度線を越える際にはみんなで「北帰行」を合唱した という。のんびりした機内に比べ、コックピットには焦りがあった。 石田機長の手元には白地図しかなく、また、日が暮れてしまって危険な状態だった。仕方なく肉眼で滑走路に見えたところに強行着陸した。真っ暗闇の中での見事なランディング。そこは、平壌の美林(ミリム)空港という廃港であった。

赤軍派の9人はそのまま、北朝鮮側に収監され、亡命は成功する。4日、北朝鮮側は非難声明を出した上で、人道主義的観点からとして、機体と乗員の返還を行うと発表し、「よど号」は山村政務次官と乗務員3人を乗せ、5日午前9時10分、羽田に到着、事件は終わった。


(よど号事件の経過をまとめた動画)=右向き三角クリックでスタート

*「よど号」事件、その後の人間模様(メモ2)* 

”身代わり新治郎”の異名をとって、その後の選挙を楽勝した山村衆議院議員は22年後に悲劇に見舞われる。北朝鮮との国交正常化を目指した自民党の訪朝議員団の団長として、北朝鮮に渡り、金日成主席生誕80周年慶祝行事に参加し、 赤軍派に会って説得して帰国を勧めることを予定していたのだが、出発の前夜、1992年(平成4年)4月12日、千葉県佐原市の自宅で、高校を中退してノイローゼだった次女(当時24歳)に刺されて死亡してしまう。次女は判断能力がなかったということで不起訴になったが、4年後、自殺している。

また、石田機長は、事件のフライトの後、国際線の機長に昇格する予定だったのだが、有名になったことで、女性スキャンダルが発覚し、2年後日本航空を退社するはめになった。企業の専属パイロットや、漬物屋を始めたりしたが長続きせず、最後の勤め先の警備会社を78歳でやめてからは大阪・岸和田市でひっそりと暮らした。2006年3月韓国政府が「平壌と見せかけて金浦空港に降りたのは機長の判断」という外交文書を発表した際、「なんでそんなこというのかね。事実は違う(韓国側の工作)」と不思議がっていたという。2006年8月13日、肺がんで死去。83歳。

ハイジャックのメンバーは、当時の金日成首相の計らいで、共同生活をはじめる。政治思想である主体(チュチェ)思想の講義を受けた。望んだ軍事訓練も帰国することも許可されなかった。 やがて、共同で貿易会社を設立し、平壌市内に外貨ショップを開いた。

その後9人は、訪朝7年目の1977年頃に北朝鮮当局の指令で一斉に結婚した。相手は、日本国内で朝鮮総連の指導による主体思想(チュチェ思想)勉強会などで、学んでいた北朝鮮シンパの日本人女性だった。全員が中国経由などで北朝鮮に渡った。

1980年、自民党訪朝団が平壌を訪れた際、田宮と小西が同行の記者団の前に現れ、望郷の念を語ったりしている。 だが、そうした中、メンバーが次々と病死や事故死、こっそり帰国して逮捕などで、欠けていく。昭和60年(1985)、吉田金太郎が死亡(35歳時。結婚したかどうか、死亡の状況など詳細は不明)。昭和63年(1988)岡本武が妻とともに事故死(42歳)、金日成首相が死去した翌年の平成7年11月にはリーダーだった田宮高麿が心臓発作で死去(52歳)。現在、北朝鮮に残っているメンバーは小西隆裕、若林盛亮、赤木志郎、安部公博の4人だけとなった。

田中義三は1996年(平成8年)に、タイのパタヤで偽100ドル札を使用したとしてつかまり、2000年(平成12年)6月28日、30年ぶりに日本へ移送された。2002年(平成14年)2月、東京地裁からハイジャック事件の強盗致傷罪などで懲役12年を言い渡され、翌年刑が確定、熊本刑務所に収監された。服役中に肝臓ガンが見つかり2006年末大阪医療刑務所に移され、12月には東京高検が刑の執行を停止していたが、2007年元日未明、入院先の千葉県内の病院で死亡した。

◇ ◇ ◇ ◇
2002年3月12日、よど号事件の犯人たちのその後の姿が意外なかたちで浮かんできた。

先年、北朝鮮から帰国して成田で旅券法違反などの罪で逮捕された赤木恵美子被告(46)=旧姓、金子、犯人の一人、赤木志郎と北朝鮮で結婚した= の東京地裁での公判に検察側証人として出廷した、犯人の一人、柴田泰弘の元妻、八尾恵さん(46)が衝撃の証言をしたのだ。

神戸市出身の有本恵子さん(元神戸市外大生、当時23)がロンドン留学中の83年に北朝鮮に連れ去られたとされる事件で、「田宮高麿に指示されて私が拉致した」と詳細に供述したのだ。 警察庁は「北朝鮮による拉致容疑事案」に有本さんを追加認定し、これで8件11人と増えることから、マスコミは大きく報道した。 警視庁も、供述から組織的な拉致の疑いが強いと、結婚目的誘拐罪の適用を視野に入れて捜査本部を設置する展開となった。

実は「八尾恵」の名は事件を知っているわれわれ報道関係者の間では有名で、私もクレームを受けて、会ったことがある。彼女もよど号事件を今に引きずる被害者なのだ。 むりやり結婚させられて、現地でもうけた娘2人(長女、黎は1978年、二女、燦は1980年生まれ)をなんとか取り戻したい一心で法廷に立ったものだ。新聞テレビはこの日の法廷ではじめて 直接、拉致の供述が得られたと報道しているが、実は彼女はそれより1年以上前から同じ主旨の拉致の事実ともっとくわしい内容を供述している。有本さんの両親もこの日の証言を事前に知っていて、 ホテルで会ったとき、八尾さんは両手を突いて泣き崩れたという。

八尾さんの証言によると83年1月ごろ、平壌市内にあるよど号グループの拠点で、リーダーの田宮高麿(その後死亡)から「ロンドンで日本革命の中核となる人を発掘、獲得して欲しい。男性ばかりでなく、 女性も獲得せなあかんだろ。25歳くらいまでの若い女性がいい」と指示され、有本さんを拉致することにして、デンマークのコペンハーゲンでよど号事件のメンバーの安部公博=北朝鮮に渡った日本女性、 魚本民子と結婚=に引き合わせ、彼が北に連れ出したという。この件では結婚目的誘拐容疑で警視庁が安部公博の逮捕状を取り国際手配中である。

さらに八尾さんは、田宮高麿の妻の森順子らが男性2人を獲得した、という話を聞いたといい、「有本さんは、彼らと結婚させるための拉致だったと思う」とも証言した。 タイから日本に強制送還された田中義三の妻、水谷協子(45)=同=が、故金日成主席のチュチェ(主体)思想を教えていることや、拉致された日本人男性らと元気に暮らしていることなどを聞いた、と述べた。

その後、有本恵子さんの誘拐にかかわった詳細を明らかにした『謝罪します』(文芸春秋・1600円)を出版(2002年)、その中で、革命村にやってきた金日成首相の右腕にぶら下がって迎えた話などを披露している。

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八尾さんは数奇な人生を送ってきた。日本を出国し、半分観光のつもりで北京を経由して北朝鮮に入国した。ところが、入国後、二ヶ月あまり軟禁状態で思想教育を受けた後、1977年5月、よど号グループの一員である柴田泰弘(犯行時未成年)と強制的に結婚させられた。 その強いられた結婚生活は、いわゆる「ハウスキーパー」で、柴田の「慰安婦及び子生み・子育ての道具」だったと後の裁判で述べている。

その後防衛大学生を拉致するよう命令を受け、そのため横須賀に住み、接触するための場として「カフェバースクエア・おんなのことおとこのこの夢見波(ゆめみは)」という店を作った。夫の柴田もひそかに日本に入国するが、1988年5月逮捕され、彼女もまもなく 有印私文書偽造同行使で逮捕される。そのとき「北朝鮮の女スパイ」と書かれたことから「北朝鮮には行ったこともない。よど号グループとは何の関係もない」とマスコミや国、警察を相手に14件もの裁判をおこしている。私が会ったのはそのときだ。この時、多くのマスコミは敗訴した。 わが社も百何十万円払った口だ。ニュースソースの秘匿という職業上の義務があって、たとえ警察情報と分かっていても明かすことができなかったためだ。後年彼女は「真実ではないことを語り、ご迷惑をおかけしました」と謝罪したが、支払った金は戻ってこなかった。

92年になって田宮から「よど号グループの妻であることを公表するように」という指示が来る。さすがにこのあたりから、気持は北朝鮮から離反していく。何より、夫婦2人とも日本で逮捕されているのに、娘2人が北朝鮮に残されるという 状況に耐えられず、東京地方裁判所によど号事件の現在のリーダー小西隆裕に対し、彼女の2人の子供の返還を求める裁判を起こしている。97年の夏に日本の戸籍を取得している八尾恵さんの2人の娘は帰国できないでいる(その後帰国)のに、他の犯人の子女はどんどん帰国している。これでは転向ゆえの人質だというのが訴えだ。

「よど号グループ」の子どもたち(といっても全員20歳以上)は意外に多い。田宮高麿が3人、小西隆裕に2人、田中義三に3人といったぐあい。2001年4月、田宮の娘(22)小西の娘(22)、田中の娘(23)が 裁判支援などのため帰国した。「朝香」「立子」「東美」と日本風の名前なのを見ても親の望郷の念を感じる。

2001年9月帰国して逮捕された赤木志郎の妻、恵美子被告の裁判で八尾恵さんが”敵側の”検察側証人として立つまでには、娘が北朝鮮で人質同然の立場におかれているという背景があった。

麻薬・覚せい剤とニセドル紙幣が北朝鮮の経済を支えているといわれるが、よど号事件から30年余、今では彼らはニセドルの使用と日本人拉致の手先に使われているらしい断片が浮かんできている。

(2004年1月14日、2月25日、5月10日追記)

八尾恵さん(この時点で48歳)の娘の一人が平成16年1月13日ようやく帰国した。この日北京経由で6人のよど号グループの子供たち( 全員北朝鮮生まれ)が帰国したが、この中に柴田泰弘(刑期終了)と八尾恵さんの間に生まれた次女、柴田燦(あき)さん(23)が入っていた。 ほかに安部公博(55)=結婚目的誘拐などの容疑で国際手配中。北朝鮮に渡った日本女性、魚本民子と結婚=の長女(21)と次男(19)、元リーダーの故田宮高麿の長男(20)、故岡本武の次女(22)、田中義三=服役中=の次女(17)。魚本民子=51歳。旅券法違反で国際手配中=本人も2月24日、北京経由で空路帰国、警視庁に逮捕された。公安部は、夫の安部容疑者が有本恵子さん拉致事件の実行役で、魚本容疑者も欧州などで「日本人獲得工作」に関与していたとみている。

一時北朝鮮に30人以上いたよど号犯の妻子は平成13年5月、平成15年9月、平成16年1月、2月にあいついで帰国、6月13日には最後まで残されていた八尾恵さんの長女、柴田黎さん(この時点で27歳)も帰国した。

八尾さんの娘は二人とも父親の姓を名乗っているが、2004年に帰国した次女、燦(あき)さんは田宮高麿が死亡したあとリーダーをつとめていた小西隆裕が育てていたが、90年ごろ、両親が日本にいることを知らされ、94年ごろから国 際電話で話をするようになった、という。よど号グループは八尾証言をでっち上げと批判しているくらいだから、燦さんも「母が拉致に関与したかどうかは分からないが、親子の信頼関係を何度も裏切られ、大きな不信感がある」などと話し、長女も母親を裏切者と呼び非難している。八尾恵さんは空港に出迎えに来ていたが、洗脳された娘との関係修復は容易ではないことをうかがわせていた。

柴田泰弘
柴田泰弘(逮捕時)
八尾恵さんの前夫、柴田泰弘は他人名義の旅券で日本に帰国し潜伏していたが、昭和63年に逮捕され実刑が確定、平成6年に刑期を終え、釈放された。事件後4 0年というので2010年3月産経新聞がインタビューを試みている。

「もう(運動は)やりません。疲れちゃってるんで…。本当に疲れちゃってるんですよ」。大阪の下町にあるマンション、短髪に黒いサングラス姿で顔をのぞかせた男性は、それだけ言うとドアを閉め、ガチャリと鍵をかけた。

関係者によると、釈放後は大阪・日本橋でパソコンショップを開いていた時期もあったが、すでに店をたたみグループやその家族らからも離れているという。
2010年3月29日付産経新聞
その柴田泰弘は2011年6月23日病死しているのが発見された。大阪府警などによると、連絡が取れないのを不審に思った知人が管理人に安否確認を依頼。23 日午後8時ごろ、管理人と警察官が大阪市浪速区のマンションの自室に入ったところ、死亡しているのを見つけた。死後数日が経過し、死因は病死とみられる。58歳。

◇ ◇ ◇

2002年9月17日の小泉純一郎首相と金正日総書記のトップ会談で北朝鮮側が拉致したことを認め、謝罪したあと、よど号グループ の立場は微妙なものとなった。今でもいっさい関与を認めていないのだが、八尾証言はじめ出てくる話は関与が濃厚なことばかり。拉致を認めたあとは北朝鮮にとってよど号グループはもはやお荷物に過ぎず、それが妻子のいっせい帰国につながっているようだ。

◇ ◇ ◇ ◇

(2006年6月14日追記)

北朝鮮政府は「よど号」犯と家族をもてあましているようで、2001年から毎年のように帰国させている。2006年6月現在、北朝鮮に残っているのは8人。

小西隆弘
安部公博
若林盛亮
赤木志郎
若林佐喜子(若林盛亮の妻、旧姓黒田)
森順子(よりこ。田宮高麿の妻)
北朝鮮に自分で渡った赤木志郎の妹と結婚した男(氏名不詳)
若林盛亮の次男(11歳)

よど号犯と結婚した女性は八尾恵さん含めほとんどが日本国内で「チュチェ思想研究会」のメンバーだった。森順子ら「在日」だった女性が多いが、若林佐喜子ら日本人女性もいる。彼女らの「自伝」によると、森順子は強制連行で日本にに来た朝鮮人の父と日本人の母の子として生まれ、父の遺骨を故国に返すべく北へ渡った。 若林佐喜子は群馬県伊勢崎市出身で、専門学校在学中にチュチェ思想に興味を持ち、研究会の幹部活動家になり、ヨーロッパ経由で北朝鮮に渡航したという。 2001年5月から始まった北朝鮮の”送還事業”だが、一時30人を超えていたものの最後まで残るのはメンバー4人だけということになりそうだ。

赤木邦弥
関西空港帰国と同時に逮捕された赤木邦弥。

謎の男帰国(この項2007年6月加筆)
上で「氏名不詳の男」と書いたが、突如、熊本県宇城(うき)市出身の赤木(旧姓・米村)邦弥(52)と判明した。2007年6月5日に平壌から北京経由で関西国際空港に21年ぶりに帰国、ただちに旅券法違反容疑で警視庁公安部に逮捕され、即日羽田空港に送られた。

「北朝鮮に残留する身元不詳の男」と上述したように、2004年11月の日朝実務協議で、北朝鮮側が本名を 明らかにするまで、警察当局ですら身元がつかめなかった「謎の男」だった。逮捕後、「日本で(先に帰国した)妻や娘と 一緒に暮らしたかった」と帰国の理由を語ったあと黙秘しているようだが、どうやら欧州で日本人拉致に関わってきたようである。

赤木に関する情報を、警察当局が初めて知ったのは1992年10月ごろ。よど号犯らが暮らす平壌郊外の「日本革命村」を、支援者らが訪ねた際、赤木に出会ったことがきっかけだった。よど号犯の赤木志郎(59)の妹(53)(03年4月帰国)と結婚し、2人の娘(04年9月と06年1月帰国)をもうけていた。

94年に「ジャーナリスト 小川淳」として論文を発表しはじめたが身元は分からず、97年に2人の娘の出生届が日本国内で 出された際も、父親のわからない「非嫡出子」として申請されている。

その正体が突如判明したのは04年11月、平壌での日朝実務協議。北朝鮮当局が氏名と生年月日を明らかにしたのだ。 本人も今回の帰国のため旅券を返納したが、その記録からいりいろ動きが判明してきた。 熊本県出身で、旧姓・米村邦弥。元神戸大生で昭和56年(1981)10月、大阪からパリに向け出国。当時の西独の飲食店な どで働いたが資格外活動で検挙され、国外退去処分になった。その後ウィーンに入り、反核運動のミニコミ紙「おーJAPAN」 を発行する日本人留学生らの活動に加わっている。この時ウイーンを訪れた土井たか子・元社会党委員長と小川淳として会っている写真も残っている。=右下

赤木=小川
土井たか子・元社会党委員長と
小川淳として会っている写真(赤円内)も
=「おーJAPAN」から
ウイーンには昭和60年(1985)まで滞在したが、この時よど号犯の赤木志郎の妹、美智子と知り合い、62年(1987)4月に一緒に北へ渡り、結婚している。北朝鮮に渡る前の昭和60年に日本に不法帰国し、実姉の居住地がある兵庫県内に住民登録していたことも分かった。この時期は、メンバーの一人や八尾恵さんが、組織拡大のための日本人獲得などを目的に極秘帰国した時で、日本人拉致の活動をしていたことも考えられる。

よど号犯による拉致の活動は昭和52年(1977)ごろスタートし、当初リーダーの田宮高麿 (1995年11月に死亡)らが指導していたが、昭和58年ごろには、魚本(旧姓・安部)公博容が責任者になっていた。赤木邦弥 がグループと出会ったのも、この2件の拉致の間だったとみられ、警察当局は、赤木邦弥は 欧州での日本人拉致の真相を知る“キーマン”とみて調べを続けている。

「北朝鮮にいるときは恵子のことも知っていると思うんですね。だから話して欲しいという気持ちはありますけれども。だけど、 話さないだろうと思ってます」(有本恵子さんの母・嘉代子さん)

(2009年1月加筆)
2009年1月13日、若林盛亮(もりあき)=国外移送略取などの容疑で国際手配=の次男(14) が北朝鮮から北京経由で関西国際空港に到着した。北朝鮮生まれで日本旅券のない次男は、代理人が準備した旅券に代わる渡航書を所持し、北京国際空 港で日本大使館の担当者と帰国手続きを行った。

帰国に同行した支援団体「救援連絡センター」の山中幸男事務局長によると、次男は94年に北朝鮮で生まれ、2歳で日本国籍を取得。北朝鮮では一般の 子供たちと一緒に就学し、両親から日本語を学んだ。今後は大阪市内で中学に編入して高校進学を目指すという。

実行犯の家族の帰国は2001年5月、故田宮高麿リーダーの長女らが帰国したのが最初で以来北朝鮮生まれの子供など家族26人が帰国、次男は最後の1人 だった。これで北朝鮮に残るのはメンバー4人と拉致被害者の石岡亨さんと松木薫さんに対する結婚目的誘拐容疑で国際手配中の妻2人の計6人となった。

これまでに帰国した子女26人は14〜31歳になり、それぞれ東京や大阪で大学生や会社員などとして生活しており、中には結婚し出産した者もいる。北 朝鮮の6人とは普段は電子メールなどで連絡を取り合い、長期休暇には渡朝して直接会っているという。

支援者はよど号事件から40年となる2010年までに若林佐喜子、森順子、メンバー4人の順で帰国させたい意向を表明しているが実現は難しい。2008 年6月の日朝実務者協議で北朝鮮側は、よど号グループの引き渡しに協力することを約束したが、その後、交渉に進展は見られない。また、よど号グ ループは拉致への関与を否定し、「拉致容疑での逮捕状の撤回」を帰国の条件としているためだ。残る6人は「核心部分が残った」(警視庁幹部 )かたちになる。

ついに本件の拉致で逮捕状
これまで帰国した連中は国内に入ると同時に逮捕されたが、皆平気な表情で連行された。旅券法違反などの形式犯で刑が軽いことを知っているからだ。事実ほとんどはすでにシャバに出て支援活動などをしている。しかし森・若林の二人の場合はそう簡単ではなさそうだ。2006年2月に、拉致被害者の松木薫さんの拉致に関与した疑いが強いとして、松木さんの姉の斉藤文代さん(60)が、「拉致された弟がまだ帰国できないのに、関与した2人が帰ってくるのは許せない」と逮捕監禁容疑で警視庁公安部に告発状を出して受理され、さらに2007年6月に警視庁公安部が石岡さんと松木さんを欧州から北朝鮮に拉致した結婚目的誘拐容疑で逮捕状を取り、国際手配したからだ。

よど号犯関与の証拠写真
撮影されるのを嫌ったようだが、
石岡さん拉致に若林、森の二人が関与した証拠写真。

札幌市出身の石岡亨(いしおか・とおる)さん=当時(22)=と熊本市出身の松木薫(まつき・かおる)さん=同(26)=は昭和55年(1980)4月、スペインで若林、森の2人と会い、ウィーン旅行に誘われた後に失跡した。石岡さんは日大卒業後、パン作りの技術を学ぶためバイト先で仲良くなった友人と2人で旅行中(のち動かぬ証拠となる動物園での写真はこの友人が撮影)。また松木さんは京都外大大学院を休学して語学留学中だった。松木さんには日本に将来を誓った女性がいて「あなたが一番好き。1年で帰国するから待っていてください」とマドリードから絵はがきを送っている。姿を消す理由はなかった。

森、若林らよど号犯の活動拠点は当時オーストリアのウイーンにあったが、スペイン・マドリードにアパートを借りて拉致工作を行っていた。2週間ほどのあいだにターゲットにされたのが石岡、松木さんと関西地方からこの地を訪れていた姉妹だった。姉妹はウイーン行きを断って無事だったが、拉致して子どもを産ませるため北朝鮮で誰かと結婚させようとしたと見られている。

4月16日、スペイン・バルセロナのテルミノ駅で友人と2人でいた石岡さんに森、若林が「日本の方ですか」と声を掛けて近づいてきた。4人で市内の動物園に移動して記念写真を撮った。石岡さんの友人がシャッターを押し、のち動かぬ証拠となる上の写真だが、このとき2人は嫌がるそぶりをみせたもののかえって不自然だと思ったようで一緒に収まっている。

松木さんの方はマドリードにいた。4月15日から5月20日までの宿泊記録がある。この間に石岡さんがバルセロナで写真を撮った時の友人と分かれて戻ってきた。今度 は森、若林が自分たちのアパートに石岡さんと松木さんを頻繁に招くようになった。ほとんど毎晩でこの席には前述の姉妹も招かれ、手料理で歓待されたりトランプゲ ームなどをして遊んだという。やがて「ウイーンに一緒に行きましょうよ」と誘われる。姉妹は断ったが男2人は付いていったと思われる。

石岡さんは6月3日、日本の友人に「ウイーンに滞在中ですが、マドリードで知り合った人たちと4人で共産圏を旅してきます」と手紙を送っている。姉妹は「あの4人としか考えられない」という。こうしてスペインからウイーンに誘い込まれた2人はルーマニアなど旧共産圏を旅行して、6月上旬にユーゴスラビアから北朝鮮に拉致されたと見られる。「共産圏の旅行には北の特務機関の人間が付き添うのが普通。そうして送られたのだろう」と警視庁公安部ではみている。

家族に届いた手紙
危険を冒して家族に届けられた手紙。
北朝鮮側に証拠として突きつけられた。
8年後の昭和63年(1988年)9月、突然、石岡亨さんから札幌の実家に、手紙が届く。松木さんや昭和58年7月に行方不明になった元神戸外大生の有本恵子さん (当時23歳)と北朝鮮で暮らしているというもの。8月13日付の消印からポーランドで投函されたのがわかっている。警戒が厳しい平壌で、バレたら殺される身の危険を冒してすれ違った共産圏の人に託したも のと考えられている。

この手紙で有本恵子さんの両親、有本明弘さん・嘉代子さん夫妻が外務省に陳情しても無視され相手にされない。困り果て、当時北朝鮮と親密な関係にあった社会党の 力を借りようと国会を訪れ国会内のエレベーター前で土井たか子委員長に石岡亨さんの手紙を根拠に直接陳情した。しかしけんもほろろで全く相手にされず、それどこ ろか、土井たか子氏は石岡亨さんの手紙の存在事実を事もあろうに朝鮮総連に通告したという。夫妻は今も社会党と土井たか子氏への怒りを隠さない。

この手紙は2000年の日朝国交正常化予備交渉の席で日本側から提出され、有本恵子、松木薫、石岡亨の3人の消息確認要請がされた。、2年後の小泉首相の訪朝時に回答があったが 、いずれも交通事故で死亡とか洪水で墓が流されて分からないとか欺瞞だらけの内容だった。生存とされた5人は帰国をはたした。

有本さんはデンマーク・コペンハーゲンで拉致されたが、この件ではウイーンを拠点に活動していた魚本(旧姓・安部)公博の関与が分かっていて、北朝鮮工作員に引き合わせたしてすでに国際手配中だ。

森・若林
2人の近影
=産経新聞から
松木さんは北朝鮮に連れてこられて初めてだまされたことに気づいて激しく怒ったようだ。前述の八尾恵さんの手記『謝罪します』によると、森順子は松木さんに殴ら れたという。このとき男性メンバーが松木さんに「だまされる方が悪いんや」と言ったそうだ。2人はかなり抵抗したようで、八尾さんの証言では平壌郊外「元新里 」にあるよど号犯の拠点「日本革命村」から山をぐるっと回って小一時間のところの招待所で暮らしていたという。ここで思想教育を受けていたが「よいところと聞い ていたが、大したことはなかった」と漏らすのを同じく拉致被害者の田口八重子さんから聞いたと、帰国した地村富貴恵さんが証言している。地村さんは平壌郊外の招 待所で田口さんと一時一緒になったことがあり、ここには石岡さんと松木さんによく似た男性が1980年7月ごろから1年間生活していたと証言している。

小泉首相の訪問時に、北朝鮮は日本政府に2人の拉致を認め「石岡さんは有本恵子さんと結婚したが1963年にガス中毒で死亡、松木さんは1996年に交通 事故死した」と伝えてきている。北が提供した松木さんの遺骨というのはDNA検査で全くの別人のものと判明している。横田めぐみさん含め死亡したとして ニセ遺骨を送りつけてくる北朝鮮のことだから、はいそうですかと信じられる話ではないが、なんでまたこんなに手の込んだ拉致をする必要があったのか。金 日成主席が「代を継いで日本革命を行わなければならない」とよど号犯とその妻らに教示したため、組織拡大と結婚相手確保のため、昭和53年ごろからウイー ンなどを拠点にいっせいに日本人留学生の獲得に乗り出したとされる。マンガのような北朝鮮とその頭領だ。もっともその前に、よど号を乗っ取って北朝鮮で革命 拠点をつくると考えた連中のマンガがあるのだが。


よど号事件から40年 北朝鮮に残るメンバーが電話取材で

日航機「よど号」乗っ取り事件から2010年3月30日で40年になるのを機に、北朝鮮に残るよど号犯のメンバーが産経新聞の電話取材に応じ、「あっという間に過 ぎた40年」「よど号問題は政治的遺物」と述べた上で、「北朝鮮ではいつもお客さんと感じてきた。60歳を過ぎてお客さんとは甲斐性がない。そろそろ帰国し ないと」、などとその後の生活と心情を語っている。

若林盛亮
若林盛亮
(2002.7.9)
電話取材に応じたメンバーは、若林盛亮(もりあき)容疑者(63)を名乗り、「寂しくなった。(平壌での)商店運営など経済活動からも退いた」と述べた。 北朝鮮での40年間の生活を「苦労していない」「日本で言えば富裕層」とした上で、2009年11月に実施され、経済混乱を招いているとされるデノミネーション (通貨単位の切り下げ)を受け、「外貨が入り、得をしていた人が前より落ちた」「闇のレートがあったが、なくなった」と打撃を被った事実に触れた。

金正日総書記の三男、ジョンウン氏(28)への後継委譲については、ジョンウン氏をたたえるとされる歌の存在は知っているとした上で、「金総書記の(後継委譲 の)ときは僕らでも分かったが、そういう雰囲気は感じない。あまり国民は意識していないんじゃないか」と語った。

メンバーの日本人拉致事件への関与については「代を継いで革命をやるために結婚目的で誘拐したとされているが、そんな悠長なことはない。われわれの代が何も していないのに。まず帰国が目的。逮捕状自体認めるわけにはいかない」と述べた。

40年前の事件を振り返って「赤軍派路線自体がむちゃな路線だった。『われわれはあしたのジョーである』と言って“リング”に上がったが、やはり赤軍派み たいなやり方はダメと分かった」と、武装蜂起による日本革命やそのための国際根拠地建設論を実行犯自らが否定した。

「寂しくなったのは事実。バレーボールをやっても大人だけで2対2でやる」と若林を名乗ったメンバーは産経新聞の電話取材にそう語った。

北朝鮮に暮らすメンバーは家族を合わせ一時30人を超えたが、逮捕されたり、子供ら全員が昨年末までに帰国したため、残るのは乗っ取りと日本人拉致の両事件 で国際手配されている6人だけとなった。6人の処遇をめぐっては、2009年の日朝協議で北朝鮮側が引き渡しへの協力を表明したが、交渉に進展はなく、宙に浮い た状態のまま。

◇ ◇ ◇

この電話インタビューとは別に 彼らと最近面会した関係者にもらしたところでは、北朝鮮で200万〜300万人の餓死者が出たとされる1990年代後半の飢饉の時 は「この国は終わるんじゃないかと思った」という。

よど号メンバー
現在平壌にいるよど号メンバー。左から若林盛亮、小西隆裕、
赤木志郎」、魚本(旧姓 安倍)公博=2002.7.9=
関係者によると、平壌市郊外の「日本人革命村」で庶民とは隔絶した生活を送っている彼らだが、飢饉当時、北朝鮮で聖山とされる白頭山にドライブに出かけた。革 命村から一歩出て、急激に増えた物ごいに転落した一般市民の数に驚いたという。そのうち影響は革命村にも及んだ。自宅に電気が来なくなり、真冬に暖房が止まっ た。朝起きてネズミが凍死しているのを目にしたその瞬間、北朝鮮の最後を感じたのだという。

北朝鮮社会に大混乱をもたらしたといわれる前年のデノミについても「えらい打撃を受けた」と別の関係者に打ち明けている。外貨を自由に使える分、闇レートの利 ざやで潤っていたが、デノミ後の外貨使用禁止や闇レートの乱高下が影響したとみられる。だが、「あの(飢饉の)ころと比べれば、経済は持ち直し、生活に困る ことはない」とも関係者に話している。

「理髪店に行く以外はほとんど(現地通貨の)ウォンを使ったことがない」彼らは依然として北朝鮮で隔絶された生活を送っているが、日本の情報には敏感だ。N HKなどの衛星放送で情報を得てきたが、日本政府による北朝鮮への制裁強化とともに日本からスポーツ新聞が届かなくなった。メンバーは最近訪朝した支援組織 関係者に愚痴をこぼしたという。

メンバーは上下のしきたりは今も頑なに守り続けているという。食事の際、現リーダーの小西隆裕容疑者(65)がはしをつけるまで誰も食べ始めない。その一方 で、「田宮さんは偉かった」「田宮さんがこう言ったんだけど…」とことあるごとに平成7年に死亡したとされる田宮高麿の名前を持ち出すという。

「日本人村」での暮らしぶり公開

「よど号」ハイジャック事件で北朝鮮に渡り、欧州で日本人拉致にも関与したとして国際手配されているよど号グループが暮らす施設「日本人村」の様子が2014年5月公開 された。

日本人村のアパート
よど号事件のメンバーが暮らす日本人村アパート
書籍編集者の椎野礼仁さん(65)が4月末に現地を訪れた際に撮影したもので、日本人村は平壌中心部から約20キロ離れた大同江のほとりにある。メンバーらが生活する3 階建ての鉄筋アパートなど10棟余りが点在。現在はアパートのほか、事務所や来客用宿舎、食堂の4棟が、北朝鮮当局から貸与され、村の管理や警備にあたる専従のスタッフが 配置され、家庭菜園や来客者向けの宿舎もあった。庭木の手入れが行き届いた広大な敷地にはグラウンドや一般国民には認められていないとみられる衛星放送の受信施設もある など、事件から約45年が経過した今も北朝鮮当局による厚遇ぶりがうかがえる。

パソコンに向かう若林盛亮容疑者
パソコンに向かう若林盛亮容疑者。メールはできるがネットには繋がっていない。
若林盛亮容疑者がパソコンにむかっている写真も公開されたが IT環境は厳しく制約されていて国際電話用の通信回線も最近整備されたものの、インターネットには繋がって いない。しかしパソコンで電子メールの送受信はできる。NHKや米CNNのニュースも見ることができたという。

公安当局によると、かつては「日本革命村」と呼ばれ、ピーク時には妻子も含め計36人が暮らしたが、刑期が短くてすむ妻子はほとんど帰国、日本に戻れば刑事訴追がまぬが れない者は帰国を拒んでいる。現在、日本人村で暮らしているのは小西隆裕(69)、若林盛亮(67)、魚本(旧姓 安倍)公博(66)ら6容疑者とみられる。

平壌中心部のビルで中古車などを扱う貿易会社を運営していたとされるが、ビルは昨年7月に当局に返還されたといい、事実上の隠居生活に入った可能性があるという。

日本政府はメンバー全員の身柄引き渡しを北朝鮮に求めている。しかし、グループはハイジャック事件については事実関係を認めるものの、魚本は有本恵子拉致事件へ関与した罪 で警察庁と国際刑事警察機構から国際指名手配されている。

◇ ◇ ◇

2014年5月16日このホームページへのアクセスが1万ページビューほど上がった。この日新聞などで上記のルポが掲載されたためとみられる。事件から45年、まだ多く の人が興味を持っていることをうかがわせた。

◇ ◇ ◇

よど号グループ平壌残留組6人の近影(2021年3月)

ハイジャックによって北朝鮮へ着いた9人は、北朝鮮政府から政治亡命を認められて平壌郊外の「招待所」で暮らしてきた。彼らは日本人と結婚し、多い時には妻や子どもなど36人が「日本人村」にいた。実行犯9人のうち5人がすでに死亡しており、妻子の多くも帰国、現在は実行犯4人とその妻2人の6人が暮らしている。

現在の「よど号グループ」は、実行犯の小西隆裕(1944年7月生まれ)、若林盛亮(1947年2月生まれ)、赤木志郎(1947年11月生まれ)、魚本(旧姓・安部)公博(1948年3月生まれ)。そして田宮高麿(1943年1月- 1995年11月)と結婚した森順子(1953年5月生まれ)と、若林盛亮の妻・若林(旧姓・黒田)佐喜子(1954年12月生まれ)の6人。

いずれも望郷の念やみ難く、帰国したいのはやまやまのようだが、ハイジャックの実行犯としてまた女性も日本人拉致に関わったとして指名手配されていて、逮捕・長期刑を考えるとそれもできないでいる。

彼らの消息は時々日本にもたらされる。2014年11月11日の朝日新聞では「よど号グループがツイッター開始」という記事とともに6人の写真と一言が紹介された。パソコンに向かう姿もあるが、厳重な監視下にある北朝鮮なのでメールやそれに写真を添付することはできるようだが、ネットには繋がっていないという。

その後、2021年3月31日の「現代ビジネス」(電子版)に6人の近影があった。北朝鮮も新型コロナ禍でマスク姿で平壌市内を観光している様子などが写っている。事件から51年たち、さすがにそれなりの加齢ぶりは隠せないが、元気な様子で大雪の日本人村での全員揃った写真や、実行犯4人の現在の姿がわかる。

4人 6人
実行犯4人。(前列左から)赤木志郎、若林盛亮
(後列左から)魚本公博、小西隆裕(2021年2月21日撮影)
(前列左から)赤木志郎、若林盛亮(後列左から)森順子、
魚本公博、小西隆裕、若林佐喜子(2021年2月16日撮影)

日本革命村で生まれた筋金入り子供20人が日本に帰国

よど号ハイジャック犯9人が北朝鮮に逃亡したのは1070年。彼らは「日本革命村に住み、金日成体制の主体思想による徹底的な洗脳教育を受け、この間北朝鮮で日本人妻(日本から渡った)と結婚し子供を合計20名もうけた。日本革命村の周囲には、射撃練習場、格闘技場、研究所、アパートなどがあり、金正日総書記直轄の連絡部56課の指導のもと、家族全体で日々、革命教育が行われていたという。どんな教育内容かは彼らが毎朝唱える「10の誓い」を見ればわかる

【日本革命村で毎朝唱える10の誓い】
1、我々日本革命家は、偉大な首領金日成同志の革命思想で日本を金日成主義化するため青春も生命も捧げて闘うことを誓います。
2、我々日本革命家は、偉大な首領金日成同志と親愛なる指導者金正日同志を忠誠の一心を持って高く仰ぎ戴くことを誓います。
3、我々日本革命家は、偉大な首領金日成同志の権威と威信を絶対化し、首領様を擁護、防衛するために親衛隊、突撃隊、決死隊になることを誓います。
4、我々日本革命家は、偉大な首領金日成同志の革命思想を信念化し、首領様の教示を信条化し日本革命勝利のため、社会主義・共産主義偉業のため最後の血の一滴まで捧げて闘うことを誓います。
5、我々日本革命家は、偉大な首領金日成同志の教示と親愛なる指導者金正日同志の教えを無条件、徹底して遂行し、任務を貫徹することを誓います。
6、我々日本革命家は、日本革命の指導者である田宮同志を中心とする全党の思想的意思統一と革命的団結を強化することを誓います。
  7、我々日本革命家は、偉大な首領金日成同志と親愛なる指導者金正日同志に学び、共産主義的風貌と革命的活動方法、人民的活動作風を所有、体得していくことを誓います。
8、我々日本革命家は、偉大な首領金日成同志と親愛なる指導者金正日同志から授かった政治的生命を大切に守り、首領様の高い政治的信任と配慮に高い政治的自覚によって、忠誠心で応えていくことを誓います。
9、我々日本革命家は、偉大な首領金日成同志と親愛なる指導者金正日同志の唯一的指導の下に、組織の秘密を命懸けで守りながら活動することを誓います。
10、我々日本革命家は、偉大な首領金日成同志の導きの下、日本革命の偉業を代を継いで最後まで継承し完成させていくことを誓います。
 
(出典:北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会のHPより)

帰国した妻や子女は26人に上るが、このうち革命思想教育を受け、当時10代後半から20代に育っていた子供たちは20人。2001年から次々と帰国を希望、2009年には全員が帰国した。日本の国籍法により、日本国籍の選択ができるよど号ハイジャック犯の子供たちは、親の指導もあったのだろうが全員帰国を希望した。現在、国内各地に20人が支援者の支援を受けながら暮らしている。

[よど号犯の帰国子女]
●2001年5月 田宮長女(22歳)・小西長女(22歳)・田中長女(22歳)帰国
●2002年9月 小西次女(24歳)・岡本長女(25歳)・若林長男(24歳)・赤木長女(22歳)・魚本長男(23歳)帰国
●2004年1月 田宮長男(20歳)・岡本次女(22歳)・魚本長女(21歳)・魚本次男(19歳)・田中次女(17歳)・田中三女(14歳)・柴田次女(23歳)帰国
●2004年9月 田宮次男(16歳)・赤木妹長女(16歳)帰国
●2006年6月 柴田長女(27歳)・赤木妹次女(?歳)帰国
●2009年1月 若林次男(14歳)帰国
(年齢)は帰国時。

日本にいる支援者が戸籍編製(編製とは戸籍などを新しくつくること)の手続きをし、日本で生活しているが、洗脳されて筋金入りの過激派に育ち、地方選挙に出自を隠して立候補する者も出ている。

例えば、主犯格の田宮高麿の長男、森大志は1983年北朝鮮生まれで、「日本革命村」で育てられたのち、2004年、21歳で日本に帰国した。28歳になった2011年4月に三鷹市議会議員選挙に「市民の党」から立候補して、落選している。森大志を擁立した「市民の党」のルーツは「MPD・平和と民主運動」で、MPDは、元ブント(共産党)系の活動家たちが結成した日本学生戦線から発展した組織である。その「市民の党」には元総理大臣、菅直人の資金管理団体「草志会」が2007年から合計6250万円の政治献金を行い問題になった。

子供たちが「日本革命村」で受けた教育は、「10の誓い」を見ればわかる通り「組織の秘密を命懸けで守る」ことを誓い、「代を継いで」組織のために活動し続けるというものだ。忠誠を誓う「偉大な首領金日成同志と親愛なる指導者金正日同志」のあとに現在では「金正雲」の名が加わっているのかもしれないが、現在そこまでは確認されていない。しかし、子供や孫の代まで組織のために忠誠を誓ったテロリストになるという教育を学校で受けてきたわけだから、その行動は日本国内でも推して知るべし、である。

◇ ◇ ◇ ◇

この項は「よど号事件」を起こした「日本赤軍」のリーダーで魔法のような人心掌握術から「魔女」とか「ブントのマタハリ」と呼ばれた重信房子が逮捕されたところから書き始めた。
重信は逮捕後の2001年に東京拘置所から日本赤軍の解散を宣言、2006年2月23日には「懲役20年」の東京地裁判決が出た。日本赤軍メンバーがオランダ・ハーグの仏大使館を占拠した「ハーグ事件」で、殺人未遂や逮捕監禁など3つの罪に問われていたが村上博信裁判 長は「重要かつ不可欠な役割を担っていた」と、最大の争点だったハーグ事件での実行犯との共謀を認定した。「複数の国家を巻き込もうと武器を準備したうえ組織的に 敢行された犯行」と断じ、懲役20年(求刑無期懲役)を言い渡したのだ。判決主文を聞き、重信被告は傍聴席に向かって右手の拳を上げてみせたものの、か つての闘士も、事件から30年余を経てこの時既に還暦だった。

2007年12月20日東京高裁も一審を支持、重信は上告。このとき被告席で詠んだ「いちょう舞い さざんかの咲く日に 法廷の 控訴棄却は終わりにあらず」と いう短歌に思いを託し、退廷の際、握った右手の拳を高々と挙げて「ありがとう。よいお年を」と傍聴席に声をかけている。このほかにつくった短歌は、歌集 「ジャスミンを銃口に」として発表。また活動を振り返る手記を出版するなど、拘置所でもその後の医療刑務所でも意欲的に活動している。

ハーグ事件は、当時フランス当局に逮捕されていたメンバーの奪還を計画、和光晴生、西川純、奥平純三の3人が、昭和49年(1974年)年9月13日、拳銃や手榴弾で武装してオランダ・ハーグのフランス大使館を占拠し、 大使ら11人を監禁、警察官2人に発砲してけがをさせた。和光晴生(09年で61歳)は1997年2月15日、レバノン当局が別の事件で逮捕。刑期を終えた2000年に強制 送還され、警視庁に逮捕された。殺人未遂と逮捕監禁の罪で一、二審で無期懲役判決を受け最高裁に上告したが、2009年10月上告棄却され刑が確定した。

重信房子1    重信房子2

重信房子の手配写真(左)と逮捕時の写真(右)。時を感じさせる変化だ。
重信房子(しげのぶ ふさこ)

重信房子は昭和20年9月、東京都生まれ。都立第一商業高を卒業してキッコーマン醤油に勤めながら、昭和40年、明治大学2部 に通っていたところを赤軍派の生みの親、塩見孝也にオルグされた。在学中に学生運動に参加。「共産主義者同盟(共産同)赤軍派」(日本赤軍)が昭和44年に結成された時か ら中央委員に就任。日本赤軍の最高幹部となった。昭和46年には「世界同時革命」を掲げ、故奥平剛士幹部と偽装結婚し中東のレバノンに渡った。ここでパレスチナ解放機構 (PLO)の内部組織「パレスチナ解放人民戦線(PFLP)」と共闘。日本赤軍は、イスラエルのテルアビブ・ロッド空港襲撃事件などに関わったとされる。第一次大戦時の著名な女スパイになぞらえて「ブント(共産主義者同盟のこと)のマタハリ」と呼ばれた。

重信逮捕のきっかけ

潜伏先のマンション
重信房子が潜伏していた大阪・西成区のマンション
重信の逮捕のきっかけは、2000年夏、大阪市西成区のマンションの日本赤軍の支援者を視察していた大阪府警警備部公安第三課が周りから丁重に扱われる「氏名不詳の中年の女」に注目、尾行を始めたことから始まる。10月ごろ、日本赤軍の活動から遠ざかっていたはずの男が、兵庫県芦屋市の駅でその女を送り迎えする姿を確認した。日本赤軍との関与を復活させ、さらに送り迎えまでさせる大物の女。重信房子ではないか。

重信はホクロが特徴となっていたが化粧でホクロを隠していたものの、特有のタバコの吸い方が目についた。紙タバコを吸う際、煙管のように優雅に燻らせる仕草が重信のスタイルだった。やがて女が使用したコーヒーカップや女が出したごみの空き缶から指紋を採取に成功する。照合したところ11月8日未明に重信の指紋と一致した。同日午前10時半、大阪府高槻市のホテルから出てきたところを捜査員が「奥平か」と偽装結婚後の姓で問いかけると「うん」とうなづいた。

その場で偽造旅券で入国した旅券法違反容疑で逮捕された。ハーグ事件から26年後だった。大阪から警視庁への移送には東海道新幹線が用いられ、逃亡を防止する為グリーン車の個室に閉じ込めての移送だった。この間重信の写真はメディアも警察もまったくもっていなくてこのときの撮影が後にも先にも唯一の映像となった。

逮捕の際に押収された資料などから、重信は1997年12月頃他人になりすまして日本国旅券を取得し、関西国際空港から計16回にわたって中華人民共和国などに出入国を繰り返していた。また1991年には日本での「武力革命」を目的とした「人民革命党」及びその公然活動部門を担当する覆面組織「希望の21世紀」を設立。またそれを足がかりとして、日本社会党との連携を計画していたとされる。

「希望の21世紀」は同事件に関連し、警視庁と大阪府警の家宅捜索を受けたが、日本赤軍との関係を否定。社会民主党区議の自宅なども「希望の21世紀」の関連先として捜索を受けたが、社会民主党は「何も知らなかった」とした。また、重信押収した多数の証拠品により支援組織の会社社長・教諭・医師・病院職員が次々と犯人隠避の疑いで検挙された。

 

重信とはどんな人物なのか

重信房子
若い頃の重信房子(撮影年月不明)
「長い黒髪、パンタロン姿の洗練されたファッション。熱を込めて革命の意義を語ると多くの人が共感し、資金などの提供を惜しまなかった。魔法のような人心掌握術から『魔女』と呼ばれるようになり、求心力は急速に高まっていった」と一時、行動をともにした人は語る。ベトナム反戦運動を展開した共産主義者同盟(ブント)が分裂し、赤軍派を結成する過程で重信と行動を共にするようになったが、赤軍派は当時、兵たん部門を担当していた重信の集めた資金や物資に支えられていたという。

しかし赤軍派の当時のリーダー森恒夫(73年東京拘置所で自殺)とは、闘争方針を巡り対立した。重信は革命拠点を海外に置く「国際根拠地論」を掲げ、71年に中東へ渡る。一方、森は同年、別の組織、京浜安保と共闘し「連合赤軍」を結成。メンバーらは離脱者2人のほか、群馬県榛名山などのアジトで仲間12人にリンチを加えるなどして、次々と死亡させた。逃亡した一部のメンバーは「あさま山荘」に立てこもって機動隊と銃撃戦を行い、世間に衝撃を与えたことは上述のとおりである。

2001年には獄中から、組織として事実上崩壊していた日本赤軍の解散を発表したが、大道寺あや子と坂東國男は「日本赤軍解散宣言無効宣言」を発表した。2009年6月に、初めて産経新聞のインタビューに応じ、過去の活動について「世界を変えるといい気になっていた」と語った。一方で「運動が行き詰まったとき、武装闘争に走った。世界で学生運動が盛り上がっていたが、故郷に戻り、運動を続けたところもあった。私たちも故郷に戻って運動を続けていれば、変わった結果になったかもしれない」と自責の念にも駆られていたとも述べた。

東京地方裁判所は2006年2月23日に「犯行の重要事項については実行犯の和光晴生が決定しており、被告は中核的立場を担ったものの犯行を主導したと断言できない」とし、検察が求刑していた無期懲役を退けて懲役20年の判決を言い渡した。これに対して重信の娘の重信メイと主任の大谷恭子弁護人は同日控訴したが、2007年12月20日に東京高等裁判所は一審判決を支持し、控訴を棄却した。重信は上告したが2010年8月4日に最高裁判所第2小法廷(竹内行夫裁判長)は棄却する決定をし、懲役20年とした一・二審判決が確定し重信はその後服役した。ただし、未決勾留期間の810日の3年を刑期に算入するため実質17年となり重信の出所予定は2022年。重信77歳である。

ロッド空港事件
ロッド空港の惨劇現場
重信と共に中東に渡った男らはイスラエル・テルアビブ郊外のロッド空港で72年、自動小銃を乱射し、約100人を死傷させる事件が起こしている(ロッド空港事件)。重信の罪状は”たかだか”20年だが、日本赤軍の凶行はゆうに死刑に値することを忘れてはならない。

ロッド空港乱射事件  1972年5月30日にイスラエルのテルアビブ近郊のロッド国際空港(現:ベン・グリオン国際空港)で発生した、パレスチナ解放人民戦線(PFLP)が計画し、日本赤軍グループ3名が実行したテロ事件。別名はテルアビブ空港乱射事件。
犯行を実行したのは、赤軍派幹部の奥平剛士(当時27歳)と、京都大学の学生だった安田安之(当時25歳)、鹿児島大学の学生だった岡本公三(当時25歳)の3名。
フランスのパリ発ローマ経由のエールフランス機がロッド国際空港に着くやこの便に乗っていた日本人3人が、スーツケースから取り出したVz 58自動小銃を旅客ターミナル内の乗降客や空港内の警備隊に向けて無差別に乱射、旅行客や空港関係者24人が死亡、86人が重軽傷を負った。

重信の娘

重信メイ
重信房子の一人娘、メイさん
(日本テレビの「知ってるつもり?!」
=番組はすでに終了=から)
重信房子にはパレスチナ人との間に生まれた一人娘の重信メイさん(1973年生まれ)がいる。「革命」の命から名づけたといい、平成13年(2001年)に日本国籍を 取得して「帰国」した。メイさんはレバノンで母、重信房子から日本語と日本の風習を手取り足取りおそわったという。1997年、ベイルートのアメリカン大学を卒業 後、同大学政治学科大学院に在籍。レバノン大学では、ジャーナリズムを学び、現在、日本で塾講師のかたわらパレスチナ問題を中心に、中東問題などの講演活動や 著作活動をしながら母親の支援活動をしていて、東京拘置所の独房で過ごす母親の元を週一回は訪ねているそうだが、その母親は現在、歯槽膿漏(のうろう)に悩 まされているという。

2009年6月25日の産経新聞に東京拘置所でのインタビューが掲載されている。この時重信は63歳。前年大腸がんが判明、2月に手術を受けたが体調は悪いという。

「戦場では何度も捨てては拾った命。人にはそれぞれ定められた命があると思っている。それに向かってポジティブに生きたい」

全共闘運動がわずか数年でしぼんだことについては、「学生だけの運動になっていた。現実に多くの人たちに迷惑をかけ、彼らを踏みつけにしていることに気づい ていなかった。大義のためなら何をしても良いという感覚に陥っていた」

「日本には日本の社会にふさわしい合法的に政治や社会を変えるやり方をもっと重視すべきだと思います。これは反省して海外で思ったことです。運動を離れた人を 恨む気持ちはありません。彼らが運動をやめたのは『世の中を変えられない』と思うようになったから。運動を続けている者の責任として、そういう人を受け入れ られる基盤を作れなかったという反省もある」


重信房子の「懲役20年」が確定してからの消息についてはあまり報道されていないが、2020年11月6日の産経新聞が75歳になった重信房子の近況を伝えているので採録する。

◆ ◆ ◆


重信房子、20年の刑期終え出所

重信出所
出所した重信房子。右は娘の重信メイさん。
オランダ・ハーグの仏大使館を占拠した「ハーグ事件」などで、殺人未遂罪などで服役していた日本赤軍の重信房子元最高幹部(76)が2022年5月28日午前、懲役20年の刑期を終え、東京都昭島市の東日本成人矯正医療センターから出所した。

午前8時前、センターから車に乗って出所した重信元最高幹部は、支援者に出迎えられ、正門を過ぎて下車。グレーの上着と黒のズボン姿にマスクを着用し、娘の重信メイさんから花束を受け取った。

その後、センター付近で報道陣の取材に応じた重信元最高幹部は、関係者への感謝を述べ、「生きて出てきたなあという感じが強くある」とした上で、今後については「新しい道で、好奇心を持ってもっともっと生きていきたい」と語った。また、ポリープが見つかったと明かし、「すぐに病院を選んで入院しながら治療し、リハビリしていけるようにしたい」と話した。

2008年に小腸にガンが見つかり、八王子医療刑務所へと移送された。その後も大腸や卵巣、子宮に転移していて、「4回の開腹手術で9つの癌を摘出」したもののさらにポリープが見つかったという。

また出所に当たりマスコミにあてた「再出発にあたって」という4ページにわたる手記(下記に)と、メディアから受けた質問に対する回答(省略)を発表した。

◇ ◇ ◇

私は本日5月28日、懲役20年の刑期を終了致しました。これから社会へ戻り再出発致します。
これまでに、いくつかの取材要請を頂いておりますので、簡単ではありますが、ここに一言御挨拶申し上げます。
手記
A4で4枚にわたる手記
新しく社会に参加するにあたって、まず私の逮捕によって被害を受け、御迷惑をおかけした方々に謝罪致します。
また、すでに半世紀にもなろうとする過去のこととは言え、私や、日本赤軍の斗いの中で政治・軍事的に直接関係の無い方々に、心ならずも被害や御迷惑をおかけしたこと、すでに述べて来ましたが、ここに改めて謝罪します。
革命の「正義」や「大義」のためなら、どんな戦術をとってもかまわない、そんな思いで70年代斗い続けました。こうした自分たちを第一としている斗い方に無自覚でもあり無辜の方々にまで、被害を強いたことがありました。

すでに軍事と国際主義を特性として斗ってきた日本赤軍は2001年に解散しております。
かつてのあり方を反省し、かつ、日本をより良く変えたいという願いと共に謝罪の思いを、私自身の今日の再出発に据えていく所存です。

また、この再出発の機会に、謝罪と共に感謝も伝えたいと思います。この長い獄中生活の間、変わらぬ暖かい友情と連帯で裁判の証人としても支えて下さったパレスチナ、海外、日本の友人たちに感謝と連帯の挨拶を伝えます。
そして逮捕以来、公判から現在に至るまで獄中の私を励まし共に歩んで下さった大谷恭子先生をはじめとする弁護士の方々、救援活動に携わり支えて下さった方々に深く感謝申し上げます。
更に獄中で癌に罹患した私の治療に携わって下さった方々、4回の開腹手術で9つの癌を摘出し、命を助けて下さった大阪医療刑務所、八王子医療刑務所、東日本成人矯正医療センターの主治医ら医師・看護師・刑務官らスタッフの皆様にこの場を借りて感謝申し上げます。

私は1971年2月28日、25才の時に日本を発ち、30年近く海外で暮らしてきました。そしてその後、21年7か月弱を獄中で過ごしてきました。僭越な言い方かもしれませんが、過ちはありつつも、子供時代から願っていた世の中をよりよく変えたいという願い通りに生きてこれたことを、私自身ありがたいことと思っております。

半世紀以上も前になりますが、世界も日本も高揚の中で、反戦平和を訴える時代がありました。ベトナム反戦・連帯の斗い、チェ・ゲバラの訴えた「二つ、三つ、さらに多くのベトナムを!それが合言葉だ!」に心動かされ、また大学の学費値上げ反対斗争に私は進んで参加しました。
そして、斗いの攻防の中でのいきづまりを武装斗争によって活路を求めようとした共産主義者同盟赤軍派に私も加わりました。赤軍派は、斗い、失敗を重ね、弾圧の中で、うまく斗うことが出来ませんでした。「武装斗争路線」が間違っていたからです。でも当時はそう考えませんでした。武装斗争は組織の結集軸であったので、その路線を疑うよりも、更に斗うことによって解決しようと「決意」で乗り越えようとしました。
私も、そのうちの一人です。そしてもっとよく斗うために、世界の抑圧された人々と連帯し、世界も日本も、より良く変えたいと、更に武装斗争路線を堅持して、パレスチナ解放斗争にボランティアとして参加しました。

以来、パレスチナ解放斗争の人々、又、パレスチナ戦場に連帯する各国の革命を求める人々と出会い、学びながら、いろいろなことに気付かされながら生きて来ました。武装斗争ばかりか、パレスチナの人々の平和的・非軍事的生存の斗い、命を大切にし、人々が助け合っている姿に解放斗争の源泉があることも学びました。自分が日本で活動していた時、人々の社会生活を知り、人々と共に結び合うような斗いをしてこれなかった過ちを、武装斗争の現場で逆に学んでいきました。私自身の経験や教訓は、語れる範囲で記してきましたが、ここでは長くなりますので略述します。取材を求められておりますことにつきましては、今後、語れる範囲で真摯に答える機会を持つことも考えたいと思っています。

私が獄中に20年以上過ごしている間に、世界も大きく変わりました。ことに、2001年に米国で起きた「9・11事件」は、今日を決定づけていると思います。当時のブッシュ政権は「9・11事件」に対して犯罪として司法で裁く解決の道を選ばず、「反テロ」戦争の名で戦争と暴力のパラダイムを選択しました。私の暮らしたイラクをはじめ中東は米軍による民間人の殺害・拷問・難民の発生と、今もその被害は何十万人何百万人に及びながら、米軍による戦争犯罪は裁かれず、被害を受けた人々は痛みと困窮から抜け出せずにいます。

21世紀を戦乱と難民の世紀へと転じてしまいました。このパラダイムのひとつの帰結として、ウクライナに対するロシア軍の侵略と、NATOの武器供与が局地戦を激化させているように思います。ウクライナの人々を犠牲にしたままに。
また、この20余年の間、人間も自然も市場に投げ入れたグローバル資本主義の中で環境破壊や格差の極端な広がりが生まれています。コロナパンデミックはそれらと無縁とも思えません。
ITやAI、加えてコロナ社会の「新しい生活様式」も、私は、まだ経験しておりません。その上、出所を前にして、内視鏡検査で再び厄介なポリープが発見され、出所後の専門医による治療が再び必要になってしまいました。

社会に戻り、市民の一人として、過去の教訓を胸に微力ながら何か貢献したいという思いはありますが、能力的にも肉体的にも私に出来ることは、ありません。まずもって、治療と、リハビリに専念する中で、世界・日本の現実を学び「新しい生活様式」を身につけたいと思っています。
そして、求められれば、時代の証言者の一人として、反省や総括などを伝えることを自らの役割として応えていくつもりです。

以上取材要請を頂きました方々に対して、出所にあたっての私自身の心境をお伝えし、御挨拶と致します。

2022年5月28日朝

※手記の中で重信は「斗う」と表記しているあたり、70年安保世代で止まっている象徴かも知れない。
60年安保含めて大学紛争では「全共闘」が、立て看板のアジビラに、「全共斗」、あるいは「斗争」、また文中でも重信のように「斗おう」などと書いていた。
「斗」と「闘」は本来まったく関係のない漢字で簡化字という。筆画の多い漢字,いわゆる繁体字に対し,画数を減らして簡単にしたもの。
「戦う」は現代兵器を駆使した戦争などでの戦闘。「闘う」は中世の騎士とかが、剣や槍などで戦うイメージ。「斗う」は拳闘士や、武術家などが肉弾戦のイメージ。
当時、一般でも学生運動に引きづられて映画館では「OK牧場の決斗」などと書いていた。



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日本赤軍誕生の経緯
日本赤軍流れ
日本赤軍までの流れ
もともと重信房子を抜擢したのは過激派集団、日本赤軍の生みの親、塩見孝也・元赤軍派議長だった。重信はさらに“塩見路線”に飽き足らず海外に 飛び出したもので日本赤軍の「鬼っ子」的存在だ。塩見孝也の名前はどの事件でも出てこないが、早くに逮捕され長く獄中にあったためだ。

塩見孝也
現在は駐車場で働く
塩見孝也・元赤軍派議長
(2008年7月)
塩見孝也・元赤軍派議長は1941年、大阪・十三(じゅうそう)生まれ。広島・尾道市の中学、高校を経て、2浪して京都大学文学部に入学した。在学中 の1969年正月に東大安田講堂の攻防があった。放水で陥落し学生運動は急速に沈静化に向かったところに「こんな生ぬるい運動では70年安保は乗り越え られない」と、関西地方の学生を糾合して「「共産主義者同盟(ブント)赤軍派」を結成(1969年9月4日、東京・葛飾公会堂)、議長に就任した。革命 軍を世界に送り出し「世界同時革命」を実現するという理論で、大菩薩峠(山梨)で手製の手榴弾の投擲など軍事訓練を行なっていたところを警視庁に 察知され、早朝、警視庁機動隊に襲われ(1969.11.5)計画は壊滅した。

この事件で幹部兵士を失った塩見・元議長は、航空機をハイジャックしてキューバか北朝鮮の海外の革命拠点で本格的な軍事訓練を受け、日本に帰って 革命を実現しようと計画する。ところが、タクシーで東京・駒込のアジトから出たところを逮捕された(1970年3月15日)。一人息子の満1歳の誕生日で 会いに行こうとしたらしい。急遽、残された田宮高麿ら9人が作戦を実行することになった。これが2週間後の「よど号事件」だった。捕まっていなか ったら指揮をとって北朝鮮に渡っていたのは塩見・元議長のはずだ。

逮捕された塩見・元議長の手帳には「HJ」の文字があったが、これがハイジャックを意味すると分かったのは、事件後のことだった。爆発物取締 法、破防法などの共同正犯で刑が確定。19年9か月の獄中生活の後、1989年の暮れに出所した。北朝鮮のよど号犯とも連絡を取っていて、これまで40 回ほど北朝鮮に渡っている。最近(2007年10月)接見禁止が解かれた重信に、塩見が四半世紀ぶりに東京拘置所で面会、透明なプラスティック越しに ハイタッチしたという。

産経新聞の連載企画「さらば革命的世代」(2008年7月3日)によると、かつて「日本のレーニン」と呼ばれた男は、東京都清瀬市のシルバー人材センタ ーに登録し、月9日ほど派遣先の駐車場で働いている。

「この年になって、ようやく労働の意義を実感している。39歳のひとり息子も『親父がまともな仕事をするのは初めてだ』と喜んでいます」
それまでの生計は「カンパや講演料に頼ってきた」というが、あえて働き始めたのは昨秋、心臓を患ったのがきっかけだった。「もっと自活能力を付 けたい。地に足のついた生活をしながら革命を追求したい」と思ったという。

「僕らは、若い力で暴力革命を起こそうと本気で思っていた」と振り返りながらも、当時の手法については、「未熟だった。軍事至上主義だった」と 率直に認める。赤軍派が公然と登場したのは44年9月。東大安田講堂の落城から8カ月が過ぎており、「全共闘はすでに行き詰まっていた。最後はド ンパチをやらないと世の中は変わらないと思っていた連中が僕のところに集まってきた」。

よど号事件についは、「人民を盾にしたという点で誤った方針だった。刑事責任に問うなとか、連れてきただけとか何とか言い訳をしないで、さっさと 帰国すべきだった。いまとなってはもう遅い。時期を逸した。彼らは帰ってこないほうがよい。北に骨を埋めなさいと言いたい。仮に帰ってきたなら、 そのときは不屈に最後まで闘うと意地を見せてほしい」。

最近では自身のホームページに加え、若者に人気のインターネットの会員制サイト「ミクシィ」に熱中。ハンドルネームは「預言者」で「『ミク友』と言 うんでしょうか、ミクシィを通じた若い友達は600人以上いるね」という。


塩見孝也・元赤軍派議長が死去

 日航機よど号ハイジャック事件を計画した元赤軍派議長で、実刑判決を受けた塩見孝也(しおみ・たかや)氏が14日午後9時53分、心不全のため東京都小平市の病院で死去した。76歳。広島県出身。葬儀・告別式は未定。

 昭和48年に共産同赤軍派を結成して議長に就任した。赤軍派のメンバーが日航機をハイジャックし、北朝鮮に渡った「よど号事件」を計画したが、実行に移す直前に別の事件で逮捕された。事件後に首謀者として再逮捕され、よど号事件のほか、首相官邸襲撃を計画し、山梨県の山中に同派活動家を集めて武闘訓練をした「大菩薩峠事件」などで懲役18年の実刑判決を受け、平成元年に出所した。

 出所後は北朝鮮に残るよど号犯とも交流した。駐車場の管理人の仕事に就き、赤軍派関連の書籍も執筆。最近は沖縄の基地反対運動や反原発運動にも参加していた。平成22年には関係者を集めて自身の「生前葬」を開いた。(産経新聞2017.11.15 )

塩見孝也氏の活動と言動をまとめた週刊新潮の「墓碑銘」がわかりやすいので採録し、併せて生前葬を紹介したブログがあるのでこちらに掲載しておいた。

連合赤軍とは
こうした赤軍派の動きと並行して、「革命は銃口から生まれる」という同じような過激派理論のもと、京浜工業 地帯の労働者や学生で結成した京浜安保共闘が、米大使館や米軍基地を火炎瓶で攻撃したり、銀行強盗で資金稼ぎをしていた。71年2月には栃木県真岡市の銃砲 店を襲って、銃と銃弾を手に入れた。この京浜安保共闘と赤軍派が地下でひそかにドッキングして作ったのが「連合赤軍」だ。



 
【大使館占拠・ハイジャックに狂奔した「日本赤軍」の面々】
↑(クリックで「日本赤軍」の面々のプロフィールとその後の記事に飛びます)

日本赤軍の結成と起こしたテロ事件

日本赤軍は、マルクス・レーニン主義に基づく日本革命と世界の共産主義化を目的として、国内で警察署の襲撃や、銀行強盗等の凶悪な犯罪を犯した過激派グループの一派(赤軍派)が、海外に革命の根拠地を求めて脱出した後に結成された国際テロ組織。

日本赤軍の犯行
日本赤軍が起こした事件と関わった人間
重信房子らが、盛んにテロ事件を起こしていた「パレスチナ解放人民戦線(PFLP)」と接触するなどして中東に活動基盤をつくり「日本赤軍」を結成。1972年(昭和47年)5月、イスラエル・テルアビブ国際空港(現・ベングリオン空港)で、メンバー3人が自動小銃を乱射するなどし、24人殺害、76人に重軽傷を負わせた「テルアビブ・ロッド空港事件」を引き起こしたのを始め、世界各地で外国大使館の占拠や航空機のハイジャック等の凶悪な犯罪(別表)を実行した。

1975年(昭和50年)8月のマレーシア・クアラルンプール所在の米国大使館等を占拠した「クアラルンプール事件」や、1977年(52年)9月のパリ発東京行き日航機をハイジャックした「ダッカ事件」では、我が国政府は、在監・勾留中の日本赤軍メンバー等を超法規処置による釈放を余儀なくされた。

【クアラルンプール事件】

1975年8月4日、武装した日本赤軍のメンバー5人( 丸岡修、奥平純三、和光晴生、日高敏彦、山田義昭)が、マレーシアの首都のクアラルンプールにある、アメリカとスウェーデン大使館を襲撃・占拠し、館内にいたアメリカの総領事ら52人を人質に取った。その後 人質の解放と引き換えに日本国内での活動家7人(勾留中の西川純、戸平和夫、坂東國男、坂口弘、松浦順一、佐々木規夫と服役中の松田久)の釈放を日本政府に要求した。

釈放
超法規的措置で釈放されバスに乗り込む5人
日本政府(首相:三木武夫)は要求に応じ、「超法規的措置」として7人に日本赤軍への参加意思を確認。坂口は「私の闘争の場は法廷で、暴力革命を志す時期ではない」として拒否、保釈中だった松浦は「今は闘争を保留しているので、誰に誘われても行く気はない」と拒否。参加意思を示した5人を釈放・出国させた。獄中犯の釈放については法務大臣が検事総長に個別事件について指揮できる指揮権を規定した検察庁法第14条但し書きに準ずる形で、超法規的措置による釈放が行われた。

超法規措置
釈放要求のあった7人
反政府過激派が日本政府に対して勾留メンバーの釈放要求をして、実際に釈放させた初めての事件となった。釈放メンバーは出国し、犯人グループは7日に日本航空のダグラス DC-8型機でリビアに向け出国。8日にリビア政府に投降した。

釈放メンバー5人のうち、西川と戸平は国際手配されて国外で身柄拘束、日本へ送還ののち起訴され、西川は無期懲役、戸平は懲役2年6月が確定し、それぞれ執行された。また実行犯のうち、日高敏彦は1976年9月に身柄拘束された後で10月に獄中自殺し、和光晴生は起訴されて無期懲役が確定した。

丸岡修や山田義昭も犯人と推認されたが、身柄拘束された後の裁判ではこの事件では起訴されず、丸岡は別件のテロ事件で無期懲役が確定し、山田は比較的微罪の有印公文書偽造罪で懲役1年4か月が確定した。現在、奥平純三・坂東・松田・佐々木は国際手配されている。

佐々木規夫の釈放・国外逃亡により東アジア反日武装戦線が起こした連続企業爆破事件における佐々木の裁判が停止。同事件で死刑判決を受けた片岡利明の死刑が執行されていないのは共犯である佐々木と別の日本赤軍事件によって釈放され国外逃亡した大道寺あや子の裁判が終了していないためとされている。片岡同様に死刑判決を受けた大道寺将司は執行されないまま2017年に獄中で病死した。

【ダッカ日航機ハイジャック事件】

1977年9月28日に、フランスのパリ、シャルル・ド・ゴール空港発東京国際空港行きの日本航空472便が、拳銃、手榴弾などで武装した日本赤軍グループ5名によりハイジャックされた。同機はバングラデシュの首都ダッカのジア国際空港に強行着陸、人質の身代金として600万ドル(当時の為替レートで約16億円)と、日本で服役および勾留中の9名(奥平純三、城崎勉、大道寺あや子、浴田由紀子、泉水博、仁平映、植垣康博、知念功、大村寿雄)の釈放と日本赤軍への参加を要求した。

日本政府は武力での解決を良しとせず、10月1日に福田赳夫首相が「一人の生命は地球より重い」と述べて、身代金の支払いおよび「超法規的措置」として、収監メンバーなどの引き渡しを行うことを決めた。

釈放要求された9人のうち、植垣は「日本に残って連合赤軍問題を考えなければならない」、知念は「一切の沖縄解放の闘いは沖縄を拠点に沖縄人自身が闘うべきものであり、日本赤軍とは政治的、思想的な一致点がない」、大村は「政治革命を目指す赤軍とはイデオロギーが異なる」と述べ、参加を拒否した。日本政府は釈放要求リストに載っていた泉水と仁平については「思想犯ではなく刑事犯」との理由から、釈放拒否の方針を持って交渉したが犯人側が応じなかったため、日本政府が折れ、2人も釈放となった。

釈放
釈放され日航機に乗り込む7人
日本政府が過激派による獄中メンバーの釈放要求に応じたのは、クアラルンプール事件以来2回目となった。この時の超法規的措置による釈放は法務大臣が刑務所・拘置所を所管する法務省矯正局長を直接指揮する形で行われた。

釈放されたメンバーはダッカ国際空港で日本赤軍と合流し、シリアのダマスカス空港で給油した後、アルジェリアのダニエル空港で人質を解放した。日本政府がSATを設置する要因となった事件。またバングラデシュ軍中枢を含む政府首脳がこの事件の対応に追われている隙を突いて、10月2日の早朝に軍事クーデターが発生したが、最終的に2時間ほどで反乱軍は鎮圧された。

クーデター軍による身代金強奪を恐れたバングラデシュの大統領令により強制離陸命令が出され、乗務員と残りの人質を乗せたハイジャック機は救援機とともにダッカを発ち、日本の外務省が受け入れの交渉・手配したアルジェリアへ向かい、ここでハイジャック犯と釈放犯は同国当局に投降してその管理下に置かれ、最後の人質12名と乗員7名の全員が解放された。

◇ ◇ ◇

日本警察は、外国治安情報機関等との連携を強化して、世界各地で日本赤軍メンバーに対する懸命な捜査を行い、
○昭和62年(1987)11月:東京都内で日本赤軍メンバー丸岡修が、63年4月には米国で菊村憂が、同年6月にはフィリピンで泉水博が相次いで発見・逮捕。
○平成7年(1995)3月:ルーマニアに潜伏中の浴田由紀子が発見され、国外退去処分となり逮捕された。 日系ペルー人を装いペルーの偽造旅券を所持していた。
○1996年6月:ペルーに潜伏中の吉村和江が発見され、国外退去処分となり逮捕。
○1996年9月:ネパールに潜伏中の城崎勉が発見され拘束、米国に引き渡す措置がとられた。
○1997年2月:レバノンに潜伏中の和光晴生、足立正生、山本万里子、戸平和夫、岡本公三が発見され拘束された。戸平が所持していたのは北朝鮮とよど号グループによって拉致されたとされる石岡亨名義の偽造旅券であった。岡本を除く4人は日本へと送還された。
○1997年11月:ボリビアに潜伏中の西川純が発見され逮捕された。

2000年11月には「最高指導者」の重信房子も、潜伏していた大阪府高槻市で旅券法違反容疑で大阪府警警備部公安第三課によって逮捕された。その際に、押収された資料により1991年から日本での武力革命を目的とした「人民革命党」及びその公然活動部門を担当する覆面組織「希望の21世紀」を設立していたこと、またそれを足がかりとして社会民主党(旧日本社会党)との連携を計画していたことが判明したと新聞等で報じられた。

平成7年(1995)3月にはルーマニアに浴田由紀子が潜伏していることを突き止め、逮捕。8年6月にはペルーに潜伏していたメンバーを逮捕。また、ネパール国内に潜伏していた城崎勉については、同年9月に身柄拘束後、米国に引き渡す措置がとられた。さらに、9年11月にはボリビアに潜伏していた西川純の身柄を拘束。同年2月には、レバノンに潜伏していた日本赤軍メンバー5人が一斉に検挙され、レバノンへの政治亡命が認められた岡本公三を除く4人は、平成12年(2000)3月に国外退去処分となり、警察は、帰国と同時に逮捕・収監した。

2000年11月には予想に反して日本国内に潜んでいた日本赤軍最高幹部の重信房子を大阪で逮捕した。押収した資料を分析した結果、日本赤軍は、3年8月にマルクス・レーニン主義による日本革命及び世界革命を目的とした「人民革命党」を設立していたことが判明し、その党内には、軍事機関を設けるなど引き続き軍事路線を堅持しており、その主張も日本赤軍と同一であることが分かった。平成13年(2001)4月、重信房子は、獄中から、日本赤軍の解散を宣言する声明を発表した。

解散後、重信房子は産経新聞のインタビューで「世界を変えるといい気になっていた。多くの人に迷惑をかけていることに気づいていなかった。大義のためなら何をしても良いという感覚に陥っていた」と自己批判している(但し、テルアビブ空港乱射事件など殺人事件への見解は変えていない)。

国際手配中の日本赤軍メンバー

ロッド空港事件の殺人容疑で国際手配されている岡本容疑者のほか、連合赤軍によるあさま山荘事件で起訴されたが、クアラルンプール事件で超法規的に釈放、 ダッカ事件のハイジャック防止法違反容疑で逮捕状が出ている坂東国男容疑者(59)ら7人が、現在も逃亡中。

警察庁は2010年4月1日、連続企業爆破などのテロ事件に関与したとして殺人容疑などで国際指名手配している日本赤軍メンバー7人のうち男女3人について新た な写真を入手、一部の写真を差し替えた手配ポスターを配布した。

佐々木規夫(61)、奥平純三(61)の写真は平成10年ごろ、東京都千代田区有楽町の東京都旅券窓口で、実在する別人になりすまして旅券を受けた際のもの だという。大道寺は海外で外国人の名をかたって潜伏している模様。写真は、現地関係機関から提供されたものとみられる。

佐々木、大道寺は昭和49年、東京・丸の内の三菱重工本社ビルなどを相次いで爆破、8人を殺害し380人に重軽傷を負わせた連続企業爆破に関与した容疑で、 奥平は同年にオランダ・ハーグのフランス大使館を占拠した事件など4事件で殺人などの容疑でそれぞれ国際手配されている。

【 国際手配中で現在逃亡中の日本赤軍 】

赤軍メンバー
赤軍メンバー手配A
2010年4月警察庁配布の最新の手配写真。
重信と西川が外され岡本公三が入っている。
赤軍メンバー
赤軍メンバー手配@(平成9年のもの)
 西川は1997年11月ボリビアで逮捕、公判中。
重信房子は控訴中。岡本公三だけ手配写真がない。

日本赤軍メンバーの年齢相応に手直しした似顔絵を警視庁が公開

修正手配書
日本赤軍メンバーの現在の年齢を想定して作成した似顔絵
 警視庁公安部は2019年7月25日、日航機がハイジャックされた「ダッカ事件」(昭和52年)に関わったなどとして国際手配されている日本赤軍のメンバー7人について、現在の年齢を想定して作成した似顔絵を公開した。7人はいずれも海外に逃亡しているとみられる。

 日本赤軍は、よど号ハイジャック事件(45年)などを敢行した共産主義者同盟の最左派「赤軍派」を母体に発足し、世界各国でテロを起こしてきた。元最高幹部の重信房子受刑者(73)は平成13年、解散を宣言したが警察当局は活動を継続しているとみている。

 7人は坂東国男(72)、佐々木規夫(70)、松田久(70)、奥平純三(70)、大道寺あや子(70)、仁平映(73)、岡本公三(71)の各容疑者。在マレーシア米国大使館を襲撃したクアラルンプール事件(昭和50年)やダッカ事件に関与したほか、両事件で超法規的措置による人質交換で釈放されるなどした。

 現行の手配写真には20代のころのものが使われているメンバーがおり、同庁の似顔絵担当者が写真を参考に手書きした。同庁幹部は「メンバーが日本国内を出入りしている可能性もある。気付いたことがあれば110番してほしい」としている。


日本赤軍メンバー城崎勉37年ぶりの帰国、逮捕

城崎勉i2015
37ぶりに帰国、逮捕された城崎勉
(2015年2月20日)
1986(昭和61)年5月にインドネシアの日米両大使館に迫撃弾が撃ち込まれたジャカルタ事件で、警視庁公安部は2015年2月20日、現住建造物等放火未遂と殺人未遂の疑いで、米国から 成田空港へ強制送還された日本赤軍メンバー、城崎勉容疑者(67)を逮捕した。完全黙秘しているという。

城崎容疑者は77(昭和52)年、日本赤軍が日航機を乗っ取りメンバーらの釈放を求めたダッカ事件で、人質交換の要求に応じた日本政府(福田赳夫総理大臣)が「人命は地球よりも重い」と 「超法規的措置」で釈放したうちの一人。37年ぶりの帰国となった。

城崎勉1977
超法規的措置で釈放された時の城崎勉
逮捕容疑は86年5月14日午前11時半ごろ、インドネシアの首都・ジャカルタで日本大使館に迫撃弾を発射して人を殺害しようとしたほか、迫撃弾を発射した近くのホテルの一室に放火して証拠 隠滅を図ったなどとしている。迫撃弾が発射された室内などから、城崎容疑者の指紋が見つかり、公安部が92(平成4)年に国際手配していた。

96(同8)年9月、ネパールで潜伏中に偽造旅券容疑で身柄拘束され、米国に移送され、ジャカルタ事件で禁錮30年の判決を受けテキサス州ボーモント連邦刑務所で服役していたが、刑期短縮 され、釈放後日本に強制送還された。

城崎勉は富山県出身。徳島大学入学、共産同赤軍派に参加。M作戦に関与して逮捕され、懲役10年が確定して府中刑務所服役中の1977年にダッカ日航機ハイジャック事件で超法規的措置で釈放され 、日本赤軍に参加。その後、国際指名手配される。1992年に刑法により有期懲役の時効の15年が経過したため、服役中の日本における懲役10年の刑の時効が成立(刑の時効は公訴時効と異なり、国 外逃亡の時効停止規定がない)している。

◇ ◇ ◇

久しぶりに聞く日本赤軍の名前だったが、本人は「完黙」で通しているというからまだ闘士の気分のようだ。「超法規的措置」がなければ強盗で10年食らったザコだった。37年ぶりの帰国と言っ てもシャバにいたのは19年でほとんど刑務所暮らし。成田に着いてはじめて写真が撮られたが、ご覧のとおり、すっかり初老のおっさんで、なにか哀れをもよおす姿だった。

日本赤軍と「超法規的措置」
日本赤軍は、過激派共産同赤軍派のメンバーらが中東で結成した国際テロ組織で、72年にはイスラエルのテルアビブ空港乱射事件で100人を超える死傷者を出すなど、世界各地でテロ行為を繰 り返した。いわば日本国産初のテロ集団だったが、上述のように組織そのものは2001年に最高指導者だった重信房子が東京拘置所から日本赤軍の解散を宣言している。

しかし、当時の日本政府はテロへの対応を誤り、二度にわたって要求をのみ、「超法規的措置」をとって獄中にあった過激派を釈放した。一度目は三木武夫首相当時の1975年で、日本赤 軍が在マレーシアの米国大使館などを占拠したクアラルンプール事件の時。機動隊との銃撃戦で死者3人を出した「あさま山荘事件」の実行犯で服役中だった坂東国男、多数の死傷者を出 た1974年8月30日、東京都千代田区丸の内で発生した、東アジア反日武装戦線「狼」による三菱重工爆弾テロ事件に関与したとして服役中だった佐々木規夫らが釈放された。二度目は福田赳夫首相 当時の1977年、日本赤軍が日航機を乗っ取り、乗客との人質交換を求めたダッカ事件で、城崎勉はこのとき釈放された一人。

2度の超法規的措置で釈放された活動家らは11人を数え、いまだに逃亡中のものが7人もいる。テロへの対応を間違ったつけの数でもある。


『三菱重工爆破事件』を起こした「東アジア反日武装戦線」

国際手配されている上述の7人。今では連合赤軍と一括くくりにされているが、佐々木規夫と大道寺あや子の2人は東アジア反日武装戦線“大地の牙”部隊のメンバーである。同時に彼らが起こした「三菱重工本社爆破事件」とその犯行の母体である「東アジア反日武装戦線」、リーダーの大道寺将司と妻、大道寺あや子のことに触れておこうと思う。

【凄惨な三菱重工爆破現場に立ち会ったものの】

1974(昭和49)年8月30日午後0時45分、東京・丸の内の三菱重工業本社ビルが爆破され、通行人など8人が死亡し、376人が重軽傷を負った事件。3週間後には「東アジア反日武装戦線『狼』」が犯行声明を出す。このあとも、74年秋から翌年春にかけて、東アジア反日武装戦線の「狼」「大地の牙」「さそり」の各部隊により、三井物産・帝人・間組などの企業爆破が繰り返され、社会を震撼させた。

三菱現場
三菱重工爆破の現場
サイトの亭主は、三菱重工爆破事件のとき、大手町で昼飯をとっていた。爆発音を聞いて2、300メートル走っていち早く現場に駆けつけたものの、ガス爆発だと思った。三菱重工は日本郵船、三菱化学などの本社が並ぶ、いわゆる「三菱村」の真ん中にある。有楽町から丸の内にかけての「丸の内仲通り」は、毎年クリスマスから歳末になると報道されるLED約120万球で彩られたイルミネーションで有名なところだ。

現場カラー
傷口を押さえながら退避する人たち
まだ消防車も到着してなくて、爆風や爆音で耳をやられた人が呆然と立ち尽くしていた。そのうちの一人が「あれが爆発したらしい」と指差すところには、プロパンガスのようなボンベ10数本を積んだトラックがあったので、てっきりガス爆発だと思ったのだが、よく考えれば、ボンベがみな原型を保って林立していたし、三菱重工ビル前の舗道に深さ2メートルほどのえぐられた大きな穴があり、ビルの厚いガラスもほとんど原型をとどめていなかった。ガス爆発の規模を遥かに超えた爆発力に気づくべきだったが、そのときは思いもよらなかった。鑑識が来て火薬反応などからテロと断定するのはしばらくたってからだった。

家内は数十年たった後もあの日のことを覚えている。夜遅く帰宅した私の短靴が「こんなにボロボロになるものか」と思うくらいささくれだっていたという。現場はガラスの破片で埋め尽くされていて、その上を歩くものだから、革靴もたちまちのうちにぼろぎれと化すほど。同じようにズボンが雑木林の笹でぼろぼろになるのは同じ連合赤軍が立てこもった軽井沢のあさま山荘事件の現場でも経験した。




現場
血まみれの同僚を抱きかかえて呆然とするサラリーマン
現場
片足を吹き飛ばされた遺体が転がっている現場
余計な事かもしれないが、凄惨な現場を目撃した者はながくトラウマに陥いる。新聞記者をしていると交通事故現場などで警察より早く遺体に接することもある。三菱重工爆破事件の現場然り、あさま山荘事件で坂口弘に射殺された喫茶店主、自衛隊東部方面総監室で割腹した三島由紀夫は介錯されたのち、生首はテーブルの上に乗せられていたが、我が新聞社のカメラマンがガラス戸越しに撮影したものを見せられたことがある。今でもときどき思い出して戦慄する。

しかし「報道倫理規定」で紙面に掲載されることはまずない。戦争現場やアラブ過激派が打首にした遺体を見ることも一般読者が目にすることも、まずありえない。

そのため、戦争でも交通事故でも殺人事件でもテロでも、一般人にはなにか絵空事のようにしか伝わっていない。「報道倫理規定」の影にある身の毛もよだつ現場をもっと知らしむべきではないか。サイトの亭主が駆けつけた三菱重工爆破現場は一般の人が思っているより遥かに残酷でおぞましいものだったことを知ってもらいたいものだ。

東アジア反日武装戦線のメンバーは、普段は会社員などとして市中に潜伏していたため、捜査は難航したが、警視庁は翌年5月19日にはメンバー8名を一斉検挙した。(このときメンバーの一人は青酸カリ入りのカプセルを飲んで自殺した)。取り調べの過程で、リーダーは大道寺将司で、当初、昭和天皇のお召列車を爆破する計画を立てたものの、実行直前で中止されたこと、そのとき用意された爆弾が三菱重工爆破に使われたことなどが判明した。

このとき逮捕・起訴されたメンバーのうち、佐々木規夫、大道寺あや子(大道寺将司の妻。二人は高校の同級生で、東京での浪人時代からの活動仲間)、浴田由紀子は、日本赤軍によるマレーシアの米・スウェーデン両大使館占拠事件(75年)と日航機ハイジャック事件(77年)で、犯人側の要求を飲んだ日本政府の超法規的措置により出国、日本赤軍に合流した。

浴田由紀子は東アジア反日武装戦線“大地の牙”部隊のメンバーで超法規措置で釈放されたあと、ペルーからルーマニアに日系ペルー人を装って入国し、潜伏活動をしていたところを1995年(平成7年)、3月20日に身柄を拘束され、偽造有印私文書行使の容疑で国外退去となり、日本へ向かう飛行機内で逮捕された。2002年懲役20年の判決を受け、栃木刑務所で服役2017年3月刑期満了で釈放され「えきたゆきこ」の筆名で作家デビューした。

このとき、出国しなかった大道寺将司と益永(旧姓・片岡)利明は、79年11月東京地裁で、死刑判決が下される(87年に最高裁で刑が確定)。

「東アジア反日武装戦線」とは
1970年春、大道寺将司が法政大学文学部史学科在学中に結成した「Lクラス闘争委員会」(「Lクラス」は、大道寺がいたクラスに由来)が源流で、1972年12月、「東アジア反日武装戦線」という名称で組織された。日本国家・天皇制・新植民地主義的経済侵略企業への攻撃を目的とし、この時代に突出した過激派集団。

1971年1月、初の自家製爆弾の実験を行い、1973年には本格的武装闘争に備えて、爆弾開発のマニュアル『腹腹時計』を執筆、地下出版した。

「東アジア反日武装戦線」は3つのグループからなる。資本家に苦しめられている被抑圧民衆を、絶滅したニホンオオカミになぞらえた「狼」大道寺将司、大道寺あや子、佐々木規夫、片岡利明)、国家や資本家に立ち向かう「大地の牙」齋藤和、浴田由紀子)、猛毒で資本家を倒すサソリになぞらえた「さそり」(黒川芳正、宇賀神寿一、桐島聡)。

三班はリーダー同士が連絡を取るだけで、メンバー同士の交流はなく、思想的立場も微妙に異なる。例えば三菱重工爆破事件は「狼」が起こしたものだが、8名が死亡、376人が負傷という結果に彼ら自身が爆破力に驚いているほど。これをきっかけに新たに「大地の牙」「さそり」のグループが合流し、翌年5月まで連続企業爆破事件を起こす。

「東アジア反日武装戦線」は内ゲバ的体質を否定していたので連合赤軍での「総括」のような死の粛清はなかった。家庭の都合や精神的に闘争に耐えられない者には、離脱を認めていた。昼間は普通の会社員や喫茶店店員として働き、夜間に活動するという方針を採った。「善良な市民」を装い、活動家だと察知されない生活を送り、爆弾製作も、身近にある工具や日用品で工作、犯行もメンバーの生活空間を攻撃拠点としていたためなかなか捜査の網に引っかからなかった。

「東アジア反日武装戦線」のメンバーとして最初に疑われたのは、当時アイヌ革命を唱えていた太田竜だった。まもなく、太田の潔白は証明されたが、公安警察は太田の思想的人脈のどこかにメンバーがいると推定、彼が関係する「現代思潮社」「レボルト社」を監視、メンバーの齋藤和・佐々木規夫が浮上し、二人を尾行していくうちに芋づる式にグループの他のメンバーが把握されていった。佐々木は偽装転向で創価学会に入信し、毎日法華経をあげるなど熱心な学会員を装ったものの、公安の目をそらすことはできなかった。

1975年5月19日、主要メンバー7名(大道寺夫婦・佐々木・益永・齋藤・浴田・黒川)と協力者の看護学生1名が逮捕された。齋藤和は逮捕直後に持っていた青酸カリで自殺した。また協力者の看護学生の姉、別の協力者も自殺している。一斉逮捕を逃れた宇賀神寿一と桐島聡は全国指名手配となったが、1982年7月に宇賀神は逮捕された。桐島聡は逮捕されていない。

東京地方検察庁は1975年6月28日に起訴したが、日本赤軍によるクアラルンプール事件で佐々木規夫が釈放され、国外逃亡し、日本赤軍に合流。激しい獄中闘争を繰り広げるメンバーらと支援者らの妨害工作により裁判の開始は予定より大幅に遅れた。ようやく12月25日より裁判が開始されたが、その後も公判は荒れ、遅々として進まず、そうこうするうちに再び日本赤軍によるダッカ事件が発生、大道寺あや子(将司の妻)と浴田由紀子(齋藤の内妻)が超法規的措置により釈放され、日本赤軍に合流した。

裁判では、大道寺将司・益永利明に対しては死刑、黒川芳正に無期懲役が確定。協力者とされる女についても爆発物取締罰則違反幇助で懲役8年が確定した(1987年に出所)。1982年7月、逃亡していた宇賀神寿一が逮捕され、懲役18年が確定(2003年に出所)。1995年3月24日に浴田由紀子がルーマニア潜伏中に身柄を拘束され、偽造有印私文書行使の容疑で国外退去処分となり、日本へ向かう旅客機内で逮捕、裁判で懲役20年の確定判決(2017年に出所)。

連続企業爆破事件の犯人グループと直接の関係はないとされるが、1975年から1976年にかけて北海道を舞台に起きた一連の爆弾テロ事件(1975年7月19日の北海道警察本部爆破事件、1976年3月2日の北海道庁爆破事件など)にも「東アジア反日武装戦線」名義の犯行声明が出された。北海道庁爆破事件の被疑者として起訴された大森勝久(本人は犯行声明の思想に共感した上で犯行については無実を主張)は1994年に死刑が確定している。

一連の武装闘争思想の源泉となったのは太田竜であるが、彼自身は1974年に北海道静内町にあるシャクシャイン像の台座を傷つけた器物損壊事件しか起こしていない。太田は1980年代以降は新左翼からエコロジスト、ついでナショナリストに転向し、さらに晩年は「人類は爬虫類人によって支配されている」という陰謀論を唱えて、2009年に死去。

【大道寺将司と大道寺あや子】

大道寺将司【1948年(昭和23年)6月5日 - 2017年(平成29年)5月24日】
大道寺将司
大道寺将司
北海道釧路市出身。父親は公務員、継母の義理の兄は北海道議会議員だった。北海道釧路湖陵高校入学後はさまざまなデモに参加するようになる。同高を卒業後、大阪外国語大学を受験も不合格だったが、そのまま大阪に残り、釜ヶ崎近辺での約一年間の生活を経て上京、高校の先輩たちが中心の社会主義研究会に参加するようになる。

研究会の意向で法政大学に同会の運動の足場を固めるべく、同大文学部史学科に入学。入学当初は文学部の自治会を掌握していた社青同解放派と行動したが、セクトの上意下達の雰囲気に馴染めず、法政大学Lクラス闘争委員会を結成した。

ゲリラ闘争への転換を決意し、1972年末東アジア反日武装戦線「狼」部隊結成。「お召し列車爆破未遂事件(虹作戦)」、「三菱重工爆破事件」及び他9件の連続企業爆破事件を起こす。1974年(昭和49年)8月30日の三菱重工爆破事件(8人死亡、165人重軽傷)では時限爆弾のペール缶を爆破現場に設置した。

裁判中、容易に自供に応じたことへの後悔の念と、初期の支援団体を率いていた「狼」のメンバー佐々木規夫の兄らに焚き付けられるように激しい獄中闘争・法廷闘争を展開。その渦中で、日本赤軍が起こしたクアラルンプール事件、ダッカ日航機ハイジャック事件によって、「狼」のメンバーであった佐々木や大道寺あや子(高校の同級生で、東京での浪人時代からの活動仲間であり、将司の妻)および「大地の牙」メンバーであった浴田由紀子が超法規的措置で釈放・出国したが、大道寺はこの釈放を日本赤軍に対して仲間を連れ去ったと不快感を示している。

最高裁において1987年3月24日に死刑が確定した。死刑が確定しながら執行されなかったのは、「狼」メンバーであり、企業爆破に関与した佐々木規夫や妻の大道寺あや子が、日本政府による超法規的措置で出獄し、裁判が終了していないためとされる。

獄中で文芸活動を開始、句集『棺一基』は、2013年日本一行詩大賞の俳句部門を受賞した。詠んだ俳句には「君が代を囓り尽くせよ夜盗虫」 「狼や見果てぬ夢を追ひ続け」 のような闘争を伺わせるものもあるが、
死者たちに如何にして詫ぶ赤とんぼ
春雷に死者たちの声重なれり
ゆく秋の死者に請はれぬ許しかな
などの、犠牲者に思いを寄せたものもある。

獄中で脳出血を起こし、さらには2010年に多発性骨髄腫を発症し、抗がん剤治療をうけるなど長らく闘病生活を送っていたが、2017年(平成29年)5月24日、多発性骨髄腫により収監中の東京拘置所で68歳で死去。


大道寺あや子(1948年10月20日 - )
大道寺あや子
大道寺あや子
旧姓・駒沢。北海道釧路湖陵高等学校を卒業。在校中は成績優秀、スピードスケート部での活躍が認められ卒業生総代を務める。星薬科大学に推薦入学し、ワンダーフォーゲル部に所属。自治会活動、授業料値上げ反対闘争などに参加した。この頃、高校時代の同級生だった大道寺将司に高校の同窓会で「研究会」にオルグ (勧誘) される。

高校在校中には殆ど接点の無かった二人だったが、この会をきっかけに交際、同棲するに至る。卒業後は新宿区内の病院で薬剤師として勤務。その後、大道寺と結婚。都内の試薬会社に転職する。爆弾に使う薬品を入手するためだったが、勤務態度は非常に良好であり、周囲からの評価は高かった。

大道寺あや子
超法規措置で釈放時の大道寺あや子
東アジア反日武装戦線では「狼」班に参加し、三菱重工爆破事件などの連続企業爆破事件を起こす。三菱重工爆破事件では時限爆弾設置現場の見張り役を担当した。組織内でのコードネームは「アサカワ」。浅川マキのファンだったから。1975年5月19日に爆発物取締罰則違反で逮捕された。逮捕の間際に、青酸カリで自殺を図ったが、捜査員に阻止された。

逮捕後、浴田由紀子らと激しい獄中・法廷闘争を繰り広げた。1977年、日本赤軍によるダッカ事件で、超法規的措置で釈放・出国。現在も国際手配中。1999年、香港で松田久とともに日本赤軍最高幹部の重信房子と会合を持ったことが確認されている。2001年、日本赤軍の解散を宣言した重信房子に対し、南米から坂東國男とともに「日本赤軍解散宣言無効宣言」を発表した。



「連続企業爆破事件の犯人逮捕」は産経の”世紀のスクープ”だった

産経スープ
産経新聞の大スクープ紙面(1975年5月19日付け1面)
連続企業爆破事件は今でこそ「東アジア反日武装戦線」による犯行とわかっているが、当時は警視庁の口が堅く、ほとんど内実は外に出なかった。ところが、産経新聞はグループ8人を一斉逮捕した昭和50(1975)年5月19日付朝刊で、《爆破犯数人に逮捕状》《けさ10カ所を家宅捜索》という大スクープを放った。

爆弾製造に使われた教本が「腹腹時計」であることも割り出し、警視庁幹部をして「あの記事を超える事件の特ダネを知らない」と言わしめたものである。

福井惇
福井惇氏(故人)
スクープというのは新聞社内はもちろん警察にも言わずに突然打ち出すことが多いのだが、この時の産経新聞の警視庁キャップ、福井惇(あつし)は違った。最終版近くの版が輪転機にかけられる時間の夜遅く、警視総監の土田国保を訪ね「連続企業爆破事件の犯人グループ、きょう一斉逮捕」の記事掲載を伝えた。つかんだ極秘情報の最後の確認を取るためもあったが、捜査に支障をきたす部分への配慮からだった。

驚いた総監は叫んだ。「相手はテロ犯だ。自爆して捜査員や市民を巻き添えにする恐れがある。輪転機を止めてくれ、社長か編集局長に電話する」と大声を出した。福井は?をついた。「社長と編集局長は海外に出張です」。この特報に目をつぶれば新聞の自殺行為になる。矜持が、それを許さなかった。だが、警視総監が言う自爆の恐れにも一理がある。逮捕当日に報じることで容疑者が逃亡するといった不測の事態も考えられる。

このため、一味に情報が知られないよう、販売局長と打ち合わせ、手入れ先など犯人が潜伏している周辺地域や他のメディアへの配達をわざと2時間遅らせる「遅配」の措置をとった。「報道の使命」と「社会的責任」の両立である。その結果が、完璧なスクープと言わしめた。

サイトの亭主はこの一件のあとだが、帝京大教授に転出した福井惇さんと酒を酌み交わす間柄だった。彼が書いた本で「新聞は時代の、事実の証言者」と記しているが、人間関係を大事にする控えめな人で、呑み屋でスクープの自慢など一度も聞いたことがなかった。

「腹腹時計」
都市ゲリラ兵士の読本「腹腹時計」の表紙)
一連の爆弾事件でキーワードになるのが「腹腹時計」だが、この現物を事件6日後に入手したのも産経新聞だ。山ア征二記者は「情報を得た刑事から、公然と警視庁内で受け取るのはまずいので新橋の古いビル内のトイレで受け取った。一読してこれを参考にして爆弾をつくった、と確信した。『爆弾の中を開いたら配線に癖がある』と別の警視庁内の協力者が教えてくれた」と語っている。

「腹腹時計」 (はらはらとけい)とは、1974年(昭和49年)3月発行の爆弾の製造法やゲリラ戦法などを記した教程本で東アジア反日武装戦線の狼班が地下出版したものである。大道寺将司が執筆した文章をタイプ打ちして、彼の高校時代の先輩が勤務する北海道釧路市の印刷会社で印刷された。

東アジア反日武装戦線が掲げる反日思想の概要が記され、爆弾の製造方法とその仕掛け方や、ゲリラ戦の方法まで詳細に解説されていた。爆弾製造については「中学生程度の化学知識があれば誰でもつくれる」と図解入りで説明している。材料として塩素酸塩系の除草剤を流用した混合爆薬を薦めており、入手方法として夏季の雑草が生長する農村部に赴けば大量に購入しても怪しまれないなどと記載されている。

1971年前後に過激派をあぶりだす為に捜査当局が市民に協力を求めた「過激派の見破り方五章」の裏をかく方法として潜伏方法も掲載されていて、一般市民として怪しまれないようにする心得として、「居住地において極端な秘密主義、閉鎖主義はかえって墓穴を掘る。必要最低限の挨拶をし、規則正しい日常生活をしているようにみせること」などとある。具体的には、

・左翼的ないきがり(粋がる。虚勢張る)を一切捨てる。
・家族との関係をことさら断つ必要はない。
・「合法的左翼」(共産党などを指す)は口も尻も軽いので信用できないから関係をもつな。
・「マスコミ・トップ屋との関係は断つ」とするなど、外部協力者に関する記述もある。

産経の大スクープについては上述した。いろいろ内輪話も知っているが、中にいた者が書いては自慢話としかうつらないので控えたが、2024年2月8日に元週刊文春・月刊文芸春秋編集長、木俣正剛氏による「『文春砲』の手本となった産経記者の執念」(ダイアモンド・オンライン)という一文が出た。身近に福井キャップと接した人で詳しいので以下の別ファイルで紹介する。


 
【連続爆破事件に挑んだあるジャーナリストの気概】
↑(クリックで「『文春砲』の手本となった産経記者の執念」(ダイアモンド・オンライン)に飛びます。

「東アジア反日武装戦線」犯人9人と今なお逃走中の2人

 社会を震撼させた連続企業爆破事件の皮切りとなったのは74年8月30日、白昼のオフィス街を血の海にした三菱重工業本社の玄関口に置かれた二つの爆発物が爆発した事件。直前には爆破を予告する電話が入っていた。

爆弾事件
東アジア反日武装戦線による爆弾事件
 その後約8カ月の間に8企業が狙われた。反帝国主義や反植民地主義を掲げる「東アジア反日武装戦線」の犯行だった。警視庁は75年から82年にかけ、武装戦線のメンバーや協力者計9人を逮捕した。容疑者はいずれも当時先鋭化していた過激派の活動家としては表面に出ておらず、学生や社会人として普通の生活を送りながら事件を起こしていたことも世間に衝撃を与えた。

 9人のうち、最も大きい被害が出た三菱重工ビル爆破事件に関わった2人(大道寺将司、片岡利明)は死刑が確定し、3人は(黒川芳正は服役中、宇賀神寿一は13年服役して2003年出所、浴田由紀子は20年服役して20017年釈放)懲役刑が確定。1人(斎藤和)は逮捕後に自殺した。残る3人は別の過激派「日本赤軍」が起こした大使館占拠事件(クアラルンプール事件)とハイジャック事件(ダッカ事件)に伴う超法規的措置で釈放されて出国し、日本赤軍に合流した。

 出国した3人の中のうち1人(浴田由紀子)は海外で拘束され、帰国後に有期刑が確定(上述)した。佐々木規夫容疑者(75)と大道寺あや子容疑者(75)は現在も逃走を続けている。

また手配をかいくぐって逃走していた桐島聡(70)については、2024年1月25日神奈川県鎌倉市内の病院に入院していた男が、連続企業爆破事件に関わった桐島聡だと名乗り出た。男は今月中旬、路上にうずくまっているところを通行人の男性に保護され、その後、自ら救急車を呼んで入院。症状は末期の胃がんだった。警視庁で確認中の1月29日の朝、入院先の病院で死亡が確認された。
(桐島については次の【爆弾闘争に狂奔した「東アジア反日武装戦線」の面々】で詳述

 
【爆弾闘争に狂奔した「東アジア反日武装戦線」の面々】
↑(クリックで「東アジア反日武装戦線」の面々のプロフィールとその後の記事に飛びます)

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アカシアの雨に打たれた安保


60年安保は学生で、機動隊に追われる立場。70年安保は機動隊のうしろで取材する立場だった。札幌中央警察署の看板をかっぱらって、みんなで 小便をひっかけるという、なにやらマンガチックなことにうつつを抜かしていた。入学した昭和34年、北大からは唐牛健太郎(かろうじ・けんたろう)という 全学連委員長を出している手前、がんばらねばならぬ雰囲気があったが、実態は子供じみていた。



唐牛健太郎
晩年の唐牛健太郎

唐牛 健太郎(1937−1984)
新左翼を象徴する共産主義者同盟(ブント。書記長・島成郎)が指導した60年安保全学連の伝説的な委員長。60年安保の象徴的存在。函館の湯の川温泉の芸者の子、いわゆる 庶子として生まれ、道立函館東高校入学。がり勉ではなかったが教師が「唐牛が現役で北大にはいるかどうか」で賭けをしているのを聞いて猛勉して 1956年現役で北海道大学教養部(文類)に入学。入寮資格がゲルピン(貧乏)だけだった恵迪寮(けいてきりょう)に入る。1年の夏休みに休学して上京、第二次砂川闘争に参加。そのまま学生運動に身を投じた。

翌年北海道に戻り、北大教養部自治会委員長、日本共産党北大細胞に入党。しかし、共産党が指導する安保闘争に限界を感じて、ブント書記長、島成郎が北海道まで来ての強い説得を受けて上京、昭和34年(1959)の全学連第14回定期全国大会で中央執行委員長に就任。「輝ける全学連委員長」として60年安保闘争の頂点に立った。アジテーターとして傑出した強烈な個性と卓越した指導力で異彩を放った。そのカリスマ性は「ゼンガクレン」「赤いカミナリ族」の異名とともに、外電にも載って全世界を駆けめぐった。


唐牛逮捕
羽田で逮捕される唐牛健太郎(1960.1.16)
唐牛が、「60年安保」で実際に歴史の表舞台で活動した期間は、通算3か月ほどの短期間に過ぎなかった。全学連委員長として指揮した岸訪米反対デモで逮捕された(写真右=1960年1月16日)あと、その後のけた外れの長期拘留のためで、最後に保釈されたのは、安保闘争終了の半年後であったが、周りに強い影響力を与えた。藤本敏夫(日大全共闘、歌手・加藤登紀子の夫)は、のち唐牛の追悼集で『唐牛健太郎のまわり百メートルは、いつも革命的であった』と述べている。

元自民党幹事長で、60年安保闘争当時、父が自民党代議士でありながら、全学連主流派のデモに東大時代「3回だけ参加した」経験をもつ加藤紘一は「昔なら唐牛さんは、農民運動の名指導者になっていたのではないだろうか。人間を見る目の確かさ、鋭さ、暖かさは、保守・革新の枠を超え、われら『60年安保世代の親分』と呼ぶにふさわしいものだった」と『唐牛追想集』に一文を寄せている。

評論家、西部邁も「彼の示した明るさの半分は天性のものであろうが、あとの半分は自己の暗闇を打ち消さんがための必死の努力によってもたらされたものである。彼の明るさには心の訓練によって研磨された透明感のようなものがあり、その透きとおったところが私には寂寥と感じられた。」と、同時代人の目で書いている。

闘争後、北洋漁業の漁師をしたり、太平洋横断の堀江謙一などとヨットの会社を興したり、飲み屋を営んだり、衆議院奄美群島選挙区で徳洲会・徳田虎雄の選挙にも関わったりした。また右翼の巨頭とされる田中清玄の許に身を寄せ、ゼンガクレンが資金提供を受けていたことが暴露されたりした。このため「左翼運動も左、左と行くと右になる」などと言われるなど毀誉褒貶が多かったが、弁解したことはなかった。

昭和59年(1984)3月4日、直腸ガンのため死去。青山斎場でのお別れ会では、加藤登紀子が、彼が好きであった「知床旅情」を歌った。

私は彼とはクラスメートにあたる。といっても、あちらがだいぶ上だ。当時、北大の教養部では第2外国語にフランス語を選ぶと自動的に「4組」に編入された。 彼は入学時にフランス語を取ったのだが、学生運動に忙しくてほとんど東京にいて札幌に戻ってくる時間はない。かくて、毎年ドッペって(落第して)いたのだが、 この時に自動的に一年下の「4組」に落ちてくる。こうして私と同じクラスになっただけ、一度も会ったことがない。大学に は教養4年、学部4年の計8年しかいられない。このクラスを最後にまもなくむこうさん除籍になった。

私はクラス委員をしていたが、役目は講義時間ごとに教官と交渉して休講にしてもらい、クラスをまとめてデモ隊への参加者を増やすことだった。デモを主導したのは全学連だが、 私が関わった当初の全学連の指導部は共産党系だった。クラスにオルグにやってくるのは共産党が牛耳る生協の人間だった。やがて共産党から飛び出した共産主義者同盟(ブント)が主流派になったのだが、共産党系はその後も「女」を使ってオルグに精を出した。具体的には、北大医学部には付属看護学校があるのだが、そこの生徒との合コンで、私が参加した時には彼女らと大部屋での雑魚寝なんていうのもあった。

大阪の高校時代の友人で医学部に入った男と参加したのだが、彼は誘惑に負けたか、手を出した。数十年後の今も年賀状のやり取りをしているのだが、夫人はその時の相手で札幌近郊の共産党系の診療所長をして平穏に暮らしている。

当時のデモの話に戻るが、物凄い盛り上がりだった。樺美智子が死んだときなど、運動のピーク時にはデモ隊の先頭が大通り公園に達しても最後尾はまだ大学の正門を出ていないというほどだった。

このころのデモ隊は投石などせず、シュプレヒコールしながら時折ジグザグをやるくらい。機動隊に隊列を切断されたりすると竹ざおで殴りかかるくらいが関の山だったが、 機動隊側には少数ゆえの恐怖感があったのだと思うが、荒っぽかった。捕まったことがあるが、写真に写る腰から上は何もしていないが、下はあの固い靴で蹴り上げてきた。頭にきて殴りかかると証拠写真にはこちらの手を振り上げた姿ばかりという図式だ。

警察もまだのんびりしていて、捕まっても身元引受人がいるとすぐ釈放されるのだが、こちらは遠方から来ているから地元に知り合いなど少ない。 実は遠い親戚が2人いたがその仕事柄、学生運動などとんでもない立場だったし、もう一人、両親が仲人をした縁でよく食事に招かれたりしていた人は札幌高裁の判事をしていて、これまたとても名前を出すわけにはいかなかった。だから警察の方で扱いに困って放り出されるまでけっこう時間がかかった。下宿に戻っても誰も不審には思わなかった。運動部の合宿で留守にしていたのだろうくらいの反応である。公安が下宿に身元を調べに来た様子もなかった。要するにパクってはみたものの雑魚扱いで、興味もなかったのだろう。

安保活動はその後急速にしぼんだ。もともとデモ隊で条約の中身を知っているものなど皆無だった。私もさっさと所属していた馬術部と、ヨット部と自分でつくった探検部の活動に打ち込んで、アンポの影など周囲にまったくなくなった。

卒業後マスコミに身を投じた。地方支局に配属になり、何年か過ごして本社に戻った。所属先は大阪社会部で、取材するのが大阪の安保闘争だった。70年の安保改定まであと3、4年となり再び反対運動が盛り上がってきた。しかし過激派の分裂でデモ隊はセクトごとに動き、激しさを競ううちに、デモ隊が次第に荒れてきた。当初ヘルメットも要らなかったくらいだったのが、記者とカメラマンが投石よけの透明板、後頭部を守るひたたれつきのヘルメットで現場に立つという時代になった。

さらに、東京に異動した。創刊されるタブロイド紙「夕刊フジ」の要員として報道部にいた。60年アンポから8年、今度は70年アンポの東京のデモ隊を取材する立場に なった。セクト対立でどこがどう違うのか判然としないまま、過激派の連中が大言壮語する姿にアホらしさを感じていた。だが運動自体は荒れに荒れていく。催涙ガスにむせびながら日比谷交差点に立っていた。デモ隊はさらに先鋭化して都電や国鉄の敷石を剥がして投げるようになっていた。

「60年安保」と「70年安保」の違いはあるが、機動隊と対峙していたわが身が、わずか10年でいま、(安全な)機動隊のうしろで投石よけのひたたれがついた ヘルメットで催涙ガスのなかにいる。さすがに思想のむなしさを感じないわけにいかなかった。

◇ ◇ ◇

60年安保と70年安保
今となっては、60年安保と70年安保の違いも説明しないとわからないだろうが、大雑把に我流の解説をするなら以下のようなことだ。立場によって異論があるやも知れないが。

日本が米国占領下にあった1950年6月25日、朝鮮戦争が勃発した。これによりアメリカは日本占領政策を放棄して朝鮮半島に専念せ ざるを得なくなった。日本を自由主義陣営にとどめ、且つ自立させるために、1950年7月警察予備隊の結成を命じ(自衛隊設立は1954 年6月)、翌年には日米安全保障条約及びサンフランシスコ平和条約を締結させ、日本の再軍備と国際社会への復帰を急いだ。

1952年安保が発効したが、韓国の李承晩・初代大統領が一方的に対馬海峡に李承晩ラインを設定して日本漁船を拿捕、竹島も不法占 拠した。軍事力がない日本は何もできず、米軍もまた日本を助けなかった。このときの安保条約ではアメリカに日本を防衛する義務が なかった。

岸信介首相
岸信介首相
(アンポから20余年後の写真)
日本の要望を受ける形で岸信介内閣は旧安保を改定、日米が共同して日本防衛にあたるとした(第5条)新安保条約を締結した。 これに反対する社会党と共産党主導の反対運動が「60年安保闘争」だ。

1960年5月19日、自民党主流派が強行採決を行なったことで世論は反岸内閣、反安保に向かった。5月20日未明、新条約が強行採決されるや国会周辺のデモ隊は日増しに激しく、学生、労組から一般市民まで広がり内乱的様相を帯びていく。自衛隊の出動も検討された。

その可能性を記者から「蒋介石は『暴にむくいるに徳をもってする』といったが、首相の考えは『力に対し、力でむくいる』ことになるのではないか」と問われた時の岸信介元首相の答えは「いま屈したら日本は非常な危機におちいる。認識の違いかも知れぬが、私は“声なき声”にも耳を傾けなければならぬと思う。いまのは“声ある声”だけだ」と述べた。のちのちまで口の端にのぼる<声なき声>発言である。


国会前デモ
強行採決の日(1960.6.15)国会前を埋め尽くして
ぶつかり合った警官隊とデモ隊(右)。ここで樺美智子が死んだ。
樺美智子
国会前デモで
死んだ樺美智子
国会をデモ隊が取り囲んだとき、一気に表舞台に登場したのが日共から分派した新左翼で急進派の先端にあった「共産主義者同盟=ブント」 だった。ブントは全学連を組織し6月15日デモ隊を国会に突入させた。この時ブントの手伝いをしていた東大生、樺美智子が隊列の中で巻き込まれて圧死、安保闘争はピークを迎えた。 当時の左翼は「民主主義のために真面目な東大の女子学生がデモで死んだ」と、いかにも無垢の女子学生が警察に殺されたように喧伝した。遠く札幌でデモ隊側にいた私もそう信じたものだが、樺美智子は共産主義者同盟(ブント)のバリバリの活動家で、進んでデモ隊の先頭に立っていた。そんなことは後で知ったのだが。

ブントとは  1953年に“鋼鉄の男”スター リンが死ぬと、1956年にフルシチョフがスターリンを批判、共産主義体制が揺らぎはじめた。同年10月23日にはハンガリー事件(首都ブダペストで民主化やソ連軍撤退を要求する学生や労働者のデモが発生、ソ連は軍を出動させ、市民と衝突した。デモは1週間で鎮圧されたが、死者は2700人に達し、約20万人のハンガリー市民が西側に逃れた)があり、世界中の共産党が大混乱に陥った。

日本で戦後の学生運動を指導した全学連は日本共産党の指導下にあったが、こうした世界の流れを受け、全学連は共産党批判に転じた。共産党は香山健一、島成郎ら全学連指導者を除名、これを受け全学連主流派は「腐敗した日共では改定を阻止できない」として、反共産党派をまとめ1958年に「反日共」「暴力革命」を掲げる共産主義者同盟を設立した。これが「共産同」とか「ブント」と呼ばれる新左翼(New Left)党派で、「スターリンは悪、トロツキーは正義」を掲げた。

「ブント」という名称は、1847年ロンドンで亡命ドイツ人を中心に結成された秘密結社「共産主義者同盟」 (der Bund der Kommunisten)にちなみ、「同盟」を意味するドイツ語。60年代の学園闘争や安保闘争で新左翼を引っ張った組織だったが、1970年以降に弱体化した。

ブントは、♪立て飢えたる者 よ、今ぞ日は近し、いざ戦わん、奮い立て!という国際共産党の党歌、「インターナショナル」を歌って一時隆盛を誇ったものの、世界でも日本でもこうした新左翼による革命運動は1960年代で基本的に終わった。 日本では1970年の安保条約継続反対運動以降は急速に退潮し、1972年の 「連合赤軍事件」とその後に判明した凄惨なリンチ事件で大顰蹙を買い、 学生運動は下火になり四分五裂してほぼ壊滅した。

その10年後、安保条約の自動延長の期限がやってきた。これに反対する運動を「70年安保闘争」という。前年の東大安田講堂攻防事件はじめ、新宿騒擾 事件、4・28沖縄闘争(44年)等の集団武装闘争を繰り広げたが、過激派の各セクト(革マル、中核など)が乱立して火炎ビン闘争ま でエスカレートしたが、セクト間の内ゲバで組織は壊滅に瀕し、日本赤軍派のハイジャック事件、連合赤軍による凄惨な同士討ちの 連続リンチ殺人まで起し運動自体が荒廃の一途をたどって国民の支持を失い最後は三島由紀夫の憂国の諌死事件で幕を下ろす。

60年と70年、両方のデモ隊の画像があるので下に紹介。




 

上が60年安保、下が70年安保の様子。
モノクロとカラー、首相の名前、デモ隊の服装など10年の時代差を感じる。
 右向き三角クリックでスタート



     

◇ ◇ ◇

西田佐知子の「アカシアの雨に打たれてこのまま死んでしまいたい・・・」が、安保の挫折感を代表するテーマソ ングで、たしかに気分がよく出ている。しかし、これは昭和36年に世に出た歌で、60年安保の初めにあたる昭和34、5年のデモ隊は水原弘が歌った「黒い花びら」が 愛唱歌だった。第一回レコード大賞(昭和34年)受賞曲だが、白い雪を踏みしめてキャンパスを歩きながら「黒い花びらとは妙な取り合わせだなあ」と思った。

あのとき先頭に立った社会党は、党内意見が分かれているとはいえ、 いま安保是認を党として認めようとしている。なにより社会党自身が人気がなくなってしまった。名前もいつしか社民党となった。万年野党が連合政権を担い首相を 出すや自衛隊をあっさり認めるとは誰があの時想像したろう。いまは女性を党首に立てて脱皮をはかりつつあるものの、2007年参議院選でさらに議席を 減らし劣勢覆うべくもない。テレビのモーニングショーに出てきて、事件ニュースにまでいっぱしのコメントをしている女性党首を見ると、もう歴史的使命を終えたといっ てもいいだろう。

60年安保では大学のクラス討論会にまで社会党や共産党のオルグが入ってきたものだ。それが、いわゆる「55年体制」の保革2大政党の「対立」時代は表向きで、裏では 「馴れ合い」時代だったことが、新聞記者として議会内を取材するうちにわかってくる。社会党の議員が外遊する際には自民党の領袖のもとを回って餞別を集めたという類の話が わんさと出てきて幻滅したものだ。「アンポ」はなんだったのかと思う。

いま民主党議員として口角泡を飛ばす人物の多くは少し前まで日教組や自治労から出た旧社会党議員だ。変わり身の早いことに感心するが、船が沈むときにはいち早く脱出するというネズミ を見る思いだが、相づちを打っている民主党有力議員の大半はちょっと前まで自民党右派で鳴らした人たちだ。どこに共通項を見出しているのだろうか不思議でならない。

◇ ◇ ◇

西田佐知子だ「アカシアの雨がやむとき」だといっても、何だそれはという時代になった。当時、アカシアの街、札幌に居たせいもあり、この歌も「アンポ」もごく 身近だった。こんな歌だ。

      「アカシアの雨がやむとき」
       作詞:水木かおる 
       作曲:藤原秀行


 アカシアの 雨にうたれて
 このまま 死んでしまいたい
 夜が明ける 日がのぼる
 朝の光の その中で
 冷たくなった わたしを見つけて
 あの人は
 涙を流して くれるでしょうか

 アカシアの 雨に泣いてる
 切ない胸は わかるまい
 思い出の ペンダント
 白い真珠の この肌で
 淋しく今日も 暖めてるのに
 あの人は
 冷たい瞳(め)をして 何処(どこ)かへ消えた

 アカシアの 雨が止む時
 青空さして 鳩がとぶ
 むらさきの 羽の色
 それはベンチの 片隅で
 冷たくなった 私のぬけがら
 あの人を
 さがして遥(はる)かに 飛び立つ影よ

(下段左端の右向き矢印クリックでスタート)





水原弘の「黒い花びら」の方も画像があるので紹介しておく。

       「黒い花びら」
       作詞:永 六輔
       作曲:中村 八大 


1 黒い花びら 静かに散った
   あの人は 帰らぬ 遠い夢
   俺は知ってる 恋の悲しさ
   恋の苦しさ
   だからだから もう恋なんか
   したくない したくないのさ

2 黒い花びら 涙にうかべ
  今は亡い あの人 あゝ初恋
   俺は知ってる 恋の淋しさ
  恋の切なさ
  だからだから もう恋なんか
  したくない したくないのさ 


(下段左端の右向き矢印クリックでスタート)



◇ ◇ ◇

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コンコルドにイギリス病を見た

2000年7月25日、エールフランスの超音速旅客機コンコルドがパリ郊外シャルル・ドゴール空港近くに墜落113人が死亡した。

その後分かった墜落原因は最新鋭機にしては他愛もないものだ。滑走路上にその前に飛んだ航空機が落とした40センチほどの金属片があった。それを左の車輪で踏みつけたためタイヤが破裂、その破片が主翼内の燃料タンクを突き破り油が洩れ出した。コンコルドはエンジンに独特のアフターバーナーを採用していたため、たちまち燃料に引火したと推定された。

コンコルド機
コンコルド機(BAになってからのもの)

このニュースを聞いて感慨新たなものがあった。私の初めてのヨーロッパ旅行が、このコンコルド就航を前にBOAC(いまのBA=ブリティッシュ・エアウェイズの前身)に招待されてのものだったからだ。現在13機が就航中だが 全部で20機しか製造されなかったコンコルドは商業的には失敗だった。その強力な推進者だったドゴール将軍の名を冠した空港を離陸中に落ちたのも皮肉だが、これで歴史的使命を終える時期が早まったのは間違いない。(2003年で運航終了)

当初からマイナス面が指摘されていて、開発した英仏両国しか使わなかった不運の飛行機だ。まず燃費が悪い。満タン(92トン)でもパリーニューヨークがやっとだった。また、滑走路が長くないと離発着できないためアメリカ側から断られた。運賃がヨーロッパーニューヨーク往復で8720ドル(約100万円)とべらぼうだったことなど、問題を多く抱えていた。

だが、当時はヨーロッパの技術力の結晶といわれたものだ。この英仏のプライドがのちのち禍根を残す。
「コンコルドの誤り(錯誤)」というのだそうだ。経済学では、巨額の開発費を投入したから、途中でやめるわけにはいかない、と続けたばかりに取り返しのつかない損失額になるケースをいう。つぎ込んだ金額は当初計画の8倍以上、当時の金で12億5000ポンド(約1兆円)にもなった。
動物行動学では、ある雄が雌に求愛して断られた時、それまでにエサを持参するなど相当な投資をしているので、簡単に気持ちを切り替えて他の雌に求愛することがなかなかできないケースがある(長谷川真理子『科学の目 科学のこころ』)。こういう時に使われている。
採算ライン250機に対して製造は20機(納入16機)。メンツは時に大損を呼ぶという例は、我が国でもいたるところに転がっている。経済面からみればそうなのだろうが、エンジン、電子制御など航空工学の面では多くの基礎技術を残したはずだ。

イギリスの階級社会のすごさ

私はその英仏両国のプライドを見に行ったのだが、コンコルドの他に今なお尾を引くイギリスの階級社会、外国人労働者の問題もはじめて目にしたのだった。

コンコルド就航前で実機がないので、ヒースロー空港にある模型を前にスチュワーデスが客室サービスの訓練をしているようなところに案内された。秘密保持のためか、コクピットやエンジンに関するところは坐学、もっぱらサービスなどのソフト面を見せられたのだが、とにかく機内が狭い。これでは大きな向こうの女性は練習しなければ、機内を歩けないというのが印象だった。

英国の階級社会
英国の階級社会についてよく分かるエッセーがある。
藤原正彦「管見妄語」(「週刊新潮」2015.6.25)
私の案内役についたのはホワイトさんという40歳手前の広報の方だった。ロンドンからベルリンに飛ぶことになって、ふと彼が漏らした言葉にびっくりした。「ドイツに飛ぶのは初めてです」。

前の晩のパーティーで彼と同じ年頃の幹部たちは、みな夫人同伴で、極東支配人のとき香港で上の子が、東京で下の子が生まれた、などと話していた。私の下の娘もその子と同じ新宿区・落合の聖母病院で生まれたので、共通の話題となった。
私自身もここで尿管結石の摘出手術を受けた。私の場合は近所だから行く病院だが、英語圏の彼らはカトリック系の病院で英語が通じるので、この病院の名前はつとに有名で、あのシスターはいるかとかで大いに盛り上がったばかりだった。

商売柄、自社便でそれこそ東奔西走しているというのに、目と鼻の先のベルリンに行った事がないエアラインの社員がいる。日本大使館のある人が教えてくれたが、階級社会の英国では別に珍しいことではないという。ブランデンブルグ門のあたりを英国と日本の赤ゲット2人して歩いたものである。

大学時代馬術部にいた。私が馬に乗っていたとわかると、郊外のお城でのキツネ狩に招待してくれた。なかに公爵か伯爵か知らないが、貴族がいたのである。このときは「公、侯、伯、子、男」の5等爵の順番とか、英語での呼び方を憶えて行ったのだが、帰国とともに忘れた。その後必要にせまられたこともない。こちらは北海道にいるからには馬でもという程度で月額300円の部費を払えば誰でも乗れた。出自は馬の骨だ。

キツネ狩りが貴族のスポーツであることぐらい承知しているが、狩り出すのは専用の犬と勢子まかせ。立派な服装の人はただ ゆったりと走るだけ。どこが面白いのかついぞ分からなかった。私のほうはそれこそ尻馬に乗って走り回っただけだったが、 男女ともまるで違う階層の人がいることはよくわかった。使う英語も違うそうだが私の語学力ではなんともしがたかった。ただ、 美しいものとして数えられる「イギリスの田舎」が脳裏に焼きついた。

◇ ◇ ◇

この原稿を書いて3年後の2004年9月、英国議会でキツネ狩りを禁止する法案が可決された。1000年の歴史に幕が引かれるの だから外電を注意深く読んだ。

 1000年の歴史に幕  「キツネ狩り」禁止に

 【ロンドン=9月15日】英貴族の伝統的なスポーツである猟犬を用いた狩猟を禁じる法案をめぐり、法案に反対する1万人が15 日、英議会に押し寄せ、警察官と衝突する騒ぎとなった。法案は同日、下院で可決され、1000年の歴史を誇る英国の「キツネ 狩り」は、06年には姿を消すことがほぼ確実となった。
キツネ狩り
私が体験したのも、背景は違うがこれに近かった
 角笛の響きや猟犬のほえ声を背に、真っ赤な乗馬服のハンターが馬でキツネを追う姿は、英国を象徴する光景の一つだっ た。しかし、近年は動物愛護運動の高まりで国民の多数はキツネ狩りに反対していた。
 ブレア政権は昨年、キツネ狩りを「許可制」とする法案を上程。下院で全面禁止に改められたが、上院で否決されて不成立。 今回は全面禁止に変更して上程し、この日、賛成多数で可決した。上院が否決しても下院議決を優先する規定が適用され、 法案は成立する見通しだ。可決されたのはイングランド、ウェールズでの狩猟禁止。スコットランドでは既に02年に禁止とな っている。1949年に初めて議員から草案が提出されてから、足かけ45年ぶりの可決。
 この日、法案に反対する農民らが議会に押しかけ、BBCによると衝突で18人が負傷し11人が逮捕された。5人が法案を 審議中の議場に入り込み、抗議したため、審議が一時中断した。
(毎日新聞 9月16日付)

議会に乱入されたのは、世界の民主主義の始まりとなった清教徒革命で、鉄騎軍を率いて議会を襲撃したオリバー・クロムウェル 以来355年ぶりだという方に感心する向きもあり、いかにもイギリスらしいが、圧倒的多数の国民が賛成しているのに1万人も の反対派が押しかけたというのがよくわからなかった。調べると「キツネ狩り」はかなり大きな”産業”で失業者がかなり出るのだという。

 イギリスでのキツネ狩りの歴史は、封建制が定着した13世紀までさかのぼる。 当時、イングランドの4分の1は王の猟場だっ た。 王室所有地以外は、すべて封建貴族の猟場だった。王の獲物として育てられるシカを殺した者は、その両目をつぶす という刑罰を受けたほど。

 島国のイギリスで、キツネは食物連鎖のピラミッドの最上部に位置する動物で、この国ではキツネが最も魅力的な獲物だった。 今でもおよそ50万匹のキツネがいると推定されている。 少しくらいいいのではないかという理屈も成り立つが、「キツネ狩り」の 残虐さが問題だ。

 貴族のスポーツだからフェアかと思うと、そうではない。私が思い出すところでも「儀式」が重んじられていた。 一昔前の騎兵隊の 将校服を着たマスターが吹くラッパの音で進む。音色で右とか左とかあるようだが旅人の私には分からなかった。 キツネ狩り 用に改良した猟犬「フォックスハウンド」数十匹が、ワンワン吠えながらキツネを追跡する。その後から真っ赤な燕尾服などに 身を固めたハンター(我々)が従う。ただ「駆け足」で馬に乗っているだけだ。

 残酷なのはこの後で、猟銃で撃つのかと思うと違って、犬にかみ殺させる。撃つときもあるようだが、狩猟犬の訓練として必要なのだ という。このあとキツネの尻尾は幸運の象徴なので、ハンターの中の 女性に捧げられる。時には頭や足も記念品になる。そして胴体はフォックスハウンドへの分け前だ。狩猟民族の習慣を農耕民族の モラルで糾弾するのは間違いかもしれないが、やりきれない「スポーツ」であることは間違いない。

 禁止されてもまだ問題は残る。キツネ狩り用に飼育されているフォックス・ハウンドは2万5千頭にのぼり、その他の狩猟犬は 20万頭ともいわれる。犬好きの国民だからみな不要になるわけではなかろうが、かなり処分されることになる。キツネをかみ殺す 訓練を受けた犬は家庭犬にはなりにくい。

◇ ◇ ◇

このときイギリスでの上流階級の人間の見分け方というのを教わった。日本とは逆で、背が高く、体格がごついのがエリートだという。 だいたいボートだとかラグビーだとかのスポーツをしている。私は176センチあるが、パーティーでは中以下ぐらいだった。そういえばホワイトさんは私より10センチほど低い。ただしこれは男の場合で、女性については聞き漏らした。

甥っ子2人は親の仕事の関係で長くロンドン暮らしをした。それが言っていたが、学校ではサッカー(主にアメリカでサッカーといい、その他の国ではフットボールと呼ぶ)を禁じられていたという。君たちがするスポーツではないということのようだ。悪名高い英国のフーリガンは英国の恥と、ブレア首相みずから非難しているがサッカーファンは別な人種ぐらいにみなされているようだ。

甥っ子の1人はその反動か、帰国して浦和レッズの度はずれたサポーター暮らしである。家まで近くに引越した。

余談だが、このときよりかなり後の、ワールドカップ・イタリア大会の時、オランダ最南端の古都マーストリヒトにいた。日本にプロサッカーチームが誕生する前で、隆盛に疎(うと)かったが、パトカーの警官まで店先にクルマを止めてテレビ観戦していた。平坦なオランダには珍しく坂のある町で、テレビも見ずに観光にあえいでいる日本人をみたパブの若者たちが、店の中に誘ってくれた。

上半身裸で腹に国旗を巻きつけたのが、「いま、オランダが勝っている。ビールをおごるよ」といってくれた。ところが、ありがたくご馳走になっているうちに逆転されたのだ。みるみる連中は不機嫌な顔つきになってきた。さあ困ったことになった。ここは「ダッチカウント」(割り勘)という英語にいまも名をとどめる国である。ご馳走になったものか、払ったものか、悩みに悩むこととなった。オランダが再逆転してくれたら、 八方丸く収まるがそうはうまくいかない。形勢さらに不利。おしまいまでいて殴られるよりよかろうと判断して、大きな声で「ごちそうさま」というと飛び出した。

イギリスの階級制度、現在では7階級に

イギリスには階級制度が存在していて、イギリス人は自分がどの階級に属するのかを意識したり、意識させられたりするのが日常だ。イギリスの伝統的な階級制度は、これまで上級・中級・下級の3つの階級から なる、とされてきた。

上流階級:全体の約1%。王室や世襲貴族、大地主で大変裕福な階級。
中流階級:全体の約40%。医師や弁護士など専門知識を有する職業。成功 しているビジネスマンや実業家など。
下級階級:全体の約55%強。農業や工場、清掃業など、肉体労働が中心で 特に地位がない。

2013年にBBCは、現代社会では、階級は3つではなく、以下の7つに分けたほうが相応しいと7つに分けた階級制度を発表した。職業や収入、 資産などの経済的な側面、学歴や教養などの文化的な側面に人脈などの社会的な資本を基準にして分けられている。

@ エリート階級(elite)、A確立した中流階級(established middle class)、B技術系の中流階級(technical middle class)、C新富欲労働者 階級(new affluent workers)、D新興サービス労働者階級(emerging service workers)、E伝統的な労働者階級(traditional working class)、F非正規雇用形態で生計を立てるプレカリアート階級(precariat)

ウイリアムズ皇太子夫妻
ウィリアム皇太子とキャサリン皇太子妃
日本人でもなんとなく「階級」があるものの、イギリス式の7階級など理解に苦しむところだが、彼の国では現在も厳として存在する。ウィリアム王子のキャサリン妃の母の「トイレ」と呼んだことがイギリスで大問題になったほどだ。事件のときは王子だったが2022年エリザベス女王が亡くなって今では皇太子(プリンス・オブ・ウェールズ)を継承、同時に「キャサリン皇太子妃」となったが、二人が結婚する前に、彼らは一度別れたことがあった。

というのも、キャサリン・ミドルトンの両親が「ミドル・クラス」であり、母親はフライト・アテンダント(シュチュワーデス 日本よりも社会的地位が低い)で、エリザベス女王の前で“toilet”という言葉を使ったとマスコミが書きたて「トイレットゲート (toiletgate)」 という名前さえつけられた。

日本では誰しもが「トイレ」と呼ぶあの場所。英語では「toilet」「loo」などさまざまな表現があり、どう呼ぶかで出身階級がわかってしまのだ。Powder Room ではないでしょうか。

「ジェンツ」(gents)、「レイディース」(ladies)「バスルーム」,「ジョン(厠)」(john)、「ヘッド」(headには船首の意味があり、トイレが船首部分に作られていたことから、“go to the head”など水夫が「トイレに行く」と言う意で使った)、「パウダールーム」(powder room) など、イギリスを始め英語圏ではさまざまな呼び方をされるトイレ。

上のような言葉は上流階級の人たちは決して口にしないものだ。ロイヤルファミリーが用を足すのは、トイレットではなく「ルー(loo)」あるいは「ラバトリー(lavatory)」である。本当の貴族階級や上流の家は、料亭やホテルの会議室の様に「ーーーの間」のように、全てのトイレに固有の名前がついているものなのである。

イの一番のサービスというのも困ったもんだ

行くときは羽田から北回りでロンドンへ、あとベルリン、パリ、チューリッヒ、ローマとまわり、帰路は南回りでニューデリー、香港経由で羽田だったが、全部BOACのファーストクラスだった。チケットに記入されているらしく、いつも最前列の窓際だった。これがノイローゼのもとになった。

前述のごとく離発着が多いのだが、加えて食事の回数が多い。機内サービスというのは今もそうだが、地上の時間に合わせて出される。南回りでは時差をどんどん詰めていくわけだから、朝飯が出たとおもったら、もう昼飯だ。その後の晩飯まで3、4時間しかない。フォアグラもかくや、という按配だ。

しかも、そのたびに私からサービスが始まるのだ。 ファーストクラスはフォークとナイフも本物が出てくるように、サービスも一流レストランを目指している。ワインのテースティングぐらいはできる。「グッド」とか何とかいってればよい。肉の焼き方もなんとかなる。チーズとデザートがいけない。何十というチーズが差し出される。名前も知らなければ食べたこともないのがほとんどだ。迷うと説明の山が押し寄せてくる。

デザートだって食後に大の男が、あんな大きくてとてつもなく甘いケーキを食べているのを見ると、胸がつかえるというのに、何種類もトレイに乗ったのが突き出される。「ほんの少し」、というと少しの尺度が違って大きいのが皿に乗っている。律儀に食べると胸焼けだ。ならば、と寝たふりをした。前にカードが置かれている。「起きられたら呼んでください」。飽食の時代の実体験だった。

卵料理と紅茶の注文の仕方

この旅行でイギリスの衰運を感じたのは、ホテルの外国人労働者であった。ホテルの朝食のときサービスにあたるのは、そういう人たちである。 もともとイギリス料理への世界的な評価はもうひとつである。ヨーロッパではフランスと言いイタリアと言い世界中に専門料理店があるが、イギリス料理にはない。ローストビーフしか 生まなかったお国柄である。それなのに朝食だけはえらく力を入れる。

イングリッシュ・ブレックファス
イングリッシュ・ブレックファスト
ブラックプディング
日本人を悩ませるブラックプディング
英国の伝統的な朝食はフライド・エッグとソーセージとベーコンとブラックプディング(Black Pudding)、そして時にはマッシュルームとグリルトマトが付いてくる。ブラックプディングとは、ソーセージの一種で味はレバーペーストに近く、名前は変わるもののイギリスだけでなく、欧米諸国で朝食の定番で紀元前から存在する”世界でもっとも古いソーセージ”ともいわれていて、 豚や牛などの血を混ぜて黒さをだしているため、“ブラッドプディング”(Blood Pudding)と呼ばれることもある。ハーブやオートミール、玉ねぎなども混ぜ込んであるが「血液の腸詰め」のイメージが先立って、日本人には嫌いな人も多い。

それはともかく、注文ではまず卵の料理法を細かく指示しなければならない。ボイルドエッグ(茹で卵 boiled eggs)かポーチドエッグ( 落とし卵 poached egg)か。イギリスのポーチドエッグは固まらせるために酢を入れた湯の中に卵の中身のみを落とす。この方法だと、ゆで卵に比べ、調理時間が圧倒的に短く、黄身が食べごろの半熟となるまで数十秒程度である。

フライド・エッグ(目玉焼き、fried egg)なら焼き方はサニーサイド・アップ(日本の目玉焼き sunny-side up)にするかサニーサイド・ダウン(ひっくり返 して両面を焼き黄身が固ゆで状態になっている。sunny-side downまたはturnoverと言えばよい)かを伝えねばならない。 「sunny-side up」を注文する際も黄身を半熟状態のものなら「over easy」と、黄身も固めのものなら「over hard」という。

卵の注文は結構面倒で、他にも「オムレツ」(omeletかomelette)があ り、「スクランブルエッグ」(いり卵 scrambled eggs)とか、日本人には頭が痛い。そういう時には「Make it two, please.」つまり「前の人と同じものを」といえばいいのだが、一人旅ではそうもいかない。

ベーコンの焼き方の指示がすんだら、次は紅茶だ。紅茶にミルクを入れるのか、ミルクに紅茶の葉を入れるのか、・・etc かくもうるさく注文する国民が、そういう食習慣のない国からの労働力に頼る。彼ら外国人ウェイターやウェイトレスは一応注文を聞くが、そうした食習慣がない国から来ているのだから実(じつ)のないことおびただしい。

オートミールにつけるパウダーシュガーが、コーンフレーク用の普通の砂糖だったりするのがもう始まっていた。紳士が大切にするクラブだけは、まだイギリスの誇る執事が取りしきっていて、そこではまだ英国風が残っていたが、旅人にももはや時間の問題であることが分かるほどだった。途中立ち寄ったスイスのチューリッヒでは、早朝やってくるごみの収集は、もう外国人労働者だった。日本に同じことが起こり始めたのはほんの少しの時間差を置いただけだった。


「11PM」を知っていますか

帰ってすぐそのころの人気番組、「11PM」(もう、イレブンピーエムとルビを振らないとわからなくなったが)からお呼びがかかった。本格的な日本人の海外旅行ブームは始まったばかりであったが、この旅行で海外で出くわした日本語、ユングフラウヨッホの氷に刻まれた落書き、町のレストランのメニューにつけられた日本語の漢字が戦前の人の筆になると思われるもの、などつれづれに写真を撮ったものを紙面で紹介したのだが、そういう視点で旅をしたのは珍しかったらしく、出演依頼が来たのである。東京と思ってOKしたら大阪の読売テレビに来てくれという。はじめて大阪制作だったことを知ったほど。

作家の藤本義一氏、安藤孝子さんのコンビが待っていた。新宿・紀伊国屋の名物主人、田辺茂一氏(故人)と私がゲストという組み合わせ。ところが昼の3時だったか4時に来てくれという。生放送なので11時まで田辺さんご持参のウイスキーをなめながら待機。すっかり仕上がって本番はよく覚えていない。夜遅くて、家族も見てないという出演であった。

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JALジャンボ機御巣鷹山に消ゆ

コンコルドの事故で同時に思い起こすのが1985年8月12日発生したJALジャンボ機の御巣鷹山墜落事故である。死者520人、負傷者4人は今なお航空機の単独事故としては航空史上最大の記録であるが、2000年で15年になるとはコンコルド事故が報道されるまで気づかなかった。
私は当時夕刊フジの報道部長をしていて、直接指揮をとったのでよく覚えているが、取材側も空前のできごとであった。いまなお、あの高度から墜落してよく4人も助かったと思うし、人間ドラマとしてもほかの航空機事故に見られない多彩な内容があった。今も公開できないことが(主にプライバシーの点で)多いが、何度も感動の涙を経験した。

現場はどこだ!

編集局のソファーに寝っころがってビールを飲むことと、すぐに迫った夏休みを伊豆高原で過ごすことを考えている怠惰な時間帯に起こった。

午後6時12分羽田を離陸、大阪に向かったJAL123便は、夏休み前で満席だった。離陸後すぐ伊豆半島で尾翼付近の圧力隔壁が破損、コントロールできないまま、エンジンの推力調整だけで右や左に静岡、山梨、埼玉、群馬、長野を30分以上ダッチロールを繰り返し群馬県多野郡上野村の、御巣鷹山(おすたかやま) 近くの尾根に墜落した。第一報はすぐ入ったがどこに落ちたかがわからない。

長野県の野辺山付近で見かけたという情報や長野県警臼田署のパトカーが午後8時すぎ、埼玉県と群馬県境に黒煙を見たという報告が相次ぎ、記者とカメラマンをとりあえず現場に向かわせたが、折りからの帰省大渋滞。JALが医師や看護婦を乗せたバスを出したが動きが取れないで立ち往生した。 やはり群馬県側だという情報が出て、もう一組そちらへ記者とカメラマンを出す。一晩中こんな事のくりかえし。

結局、翌13日午前4時39分、自衛隊の救難ヘリが上野村の御巣鷹山近くの斜面に墜落しているのを発見するのだが、これとて映像であって場所が特定できたわけではなかった。 上野村村長と消防団員が中継の映像を見て、自分のところとわかり徒歩で救援隊を出すのである。

一晩中現場がわからなかったこと、4人の生存者の証言から、虫の息ながらほかにまだ生存者がいたことがわかって、救援の初動が悪かったという非難の声が上がる。私自身県境が入り組んでいる山の中であることはわかっても、県名ごとくるくる変わるのにいらだったものだ。

後年、この現場を望む(だいたいの場所という程度)八ヶ岳に山小舎を建てることになって、上野村も通ったが、国道とは名ばかり、民家の軒先をかすめ、都会なら路地といったほうがいい細い路が山深く続くところを走ってみて、仕方なかったと思った。 山小舎があるところの隣村に長野県南佐久郡南相木村がある。2001年「滝見の湯」という温泉が出来て、近ごろよく行くのだが、そのたびに思い起こす。ここは墜落現場とは、まるで関係ない住所だが12日夜、自衛隊が墜落現場と誤報、700人の隊員を集結させたところである。誰が責められようか。

*日航123便御巣鷹山墜落事故*(メモ)

昭和60年(1985)8月12日午後6時12分、羽田発大阪行き日本航空123便ボーイング747SR46型機(JA8119)=高濱雅己機長(49)ら乗員15人、乗客509人=は、定刻を12分遅れて羽田空港C滑走路を離陸した。おりしもお盆の入りとあって帰省客や行楽帰り、ビジネスマンらでほぼ満席だった。午後6時24分頃伊豆半島南東部の相模湾上空に差しかかったところで、「ドーンという衝撃音」とともに機体後部に異常をきたした。

事故から2週間ほど後の8月27日、異例の早さだったが事故調査委員会はフライトレコーダー、ボイスレコーダー、交信記録などの解析結果から「事故原因は後部圧力隔壁の損傷」とする第1回中間報告を発表している。それによると「ドーン」という衝撃音についで急減圧を告げる警報音が鳴った。すかざず、機長が「スコーク77」と、緊急信号発信を指示、東京航空交通管制部に「トラブル発生」を告げている。このときすでに致命的トラブルという認識があったわけだ。

*「スコーク77」(SQUAQK 77) 飛行機が発信する危険信号(全世界共通)のなかで最上位にあたる。「墜落する恐れがある」ほどのトラブルを意味する。
7700:緊急事態 (EMERGENCY)
7600:無線通信不能 (COMMUNICATION FAIL)
7500:ハイジャック (HIJACK)
などがあるが通常ATCコードの頭の2桁だけで通信する。

あとでわかったことだが、このとき最後部にある後部圧力隔壁が破損、同時に水平尾翼、垂直尾翼を操作する油圧系統が切断されたため、操縦席からのコントロールがいっさいきかない制御不能状態になった。機首が上下左右に揺れて「8」の字を描くダッチロールに陥るなか、左右のジェットエンジンの推力調整と主翼下のフラップの上げ下げだけで飛行を続けた。フゴイト運動も加わって気分が悪くなる人も出たと推測される。

*「フゴイト運動」 機首の上下運動。機体が下向きになりスピードが出ると水平翼の角度から自然に上昇ピッチになる。上昇し始めると今度はスピードが低下するので逆に下向きになる。

ダッチロールの跡
JAL123便のダッチロールの跡

クルー
クルーの3人。高濱雅巳機長、
佐々木祐副操縦士、福田博航空機関士
ボイスレコーダーの解析によると操縦桿やペダルなど油圧系の操作は副操縦士、進路・計器類の監視と管制官との交信やクルーへの指示などは機長、エンジンの出力調整や緊急時に作動する電動によるフラップとギアダウン、日航との社内無線交信などは航空機関士がしていた(当時は3人乗務制で航空機関士が乗っていた)と推測されている。ボイスレコーダーに残されたコックピットの会話は、乗員が原因不明のまま31分50秒間、機体の保持に奮闘したことがうかがわれるものだ。

「何か爆発したぞ」「ハイドロ(油圧)全部だめ?」「気合を入れろ」「頭(機首)下げろ」「これはだめかもわからんね」「おい山だぞ。山にぶつかるぞ」」「マックパワー(出力最大)」「ストール(失速)」「ドーンといこうや。がんばれ」「頭上げろ」「パワー」「ああ だめだ」 ・・・ 《衝撃音》

123便は3人の必死の努力も空しく、山梨県の大月上空を一周したあとも降下し続け山に接近、午後6時56分14秒、対地接近警報装置が作動した。あわてて推力を上げたが同20秒頃、機体は僅かに上昇したが同56分23秒に樹木と接触、同26秒、右翼が地面に激突、更にその反動でほぼ裏返しの状態となり、午後6時56分30秒に高天原山(たかまがはらやま)の斜面に前のめりに反転するような形で墜落衝突した。墜落前、クルーたちが機首を上げるためエンジン出力を上げたことで機体は速度346kt(640km/h)の高速で墜落した。午後6時56分28秒まで録音されたボイスレコーダーにも衝撃音が残されていた。その直前には最後まで諦めなかった機長ともう1人(誰かは不明)の「もうだめだ」という無念の叫びが残されていた。


墜落現場
御巣鷹山の墜落現場
墜落時、上記のように機体後部と右主翼を樹木に接触させ一度バウンドした。この際機体は大きく機首を下げる形になり第4エンジンが脱落したと推測される。これで機体は大きく右側に傾き、右主翼が地面を抉り第3エンジンが脱落、ついで残りのエンジン2つも脱落したとされる。接地とともに機体の破壊が始まり、垂直、水平尾翼、右主翼が脱落、ついで機体後部が離脱、その後機体全体がばらばらになった。

御巣鷹
墜落現場の御巣鷹の尾根
墜落現場は、地図に正確な名前も出ていないところで、現在でも墜落現場を御巣鷹山だと認識している人が多いが、実際の墜落地点はそのすぐ南の、地元で高天原山(たかまがはらやま)と呼ばれているところにある無名の尾根。この場所はのちに黒澤丈夫・上野村村長によって「御巣鷹の尾根」と命名されたが、本来の御巣鷹山に属する尾根ではない。

犠牲になったのは運航乗務員3人、客室乗務員12人、乗客509人、計524人のうち、女性乗客4人を除く520人。単独機としては現在に至るも世界の航空史上最悪の事故だ。4人が助かった理由だが、墜落時の猛烈な衝撃と火災によって、機体は大破し原型を留めていなかった。犠牲者の遺体の大半は激しく損傷したが、客室後部と尾翼は勢い余って山の稜線を超え、斜面を滑落していった。このため、衝撃が吸収されることとなり、また炎上も免れたので、この部分にいた4人が奇跡的に生存できたと考えられる。

偶然といえば、当時、公開試運転中だった海上自衛隊の護衛艦「まつゆき」が、相模湾で、事故機の垂直尾翼の一部を発見、これを引き上げることに成功した。一番最初に脱落した部分だけに、その後の事故原因解明に、大きく寄与することとなった。

河口博次さんの手帳
多くの人の胸を打った
河口博次さんのメモ書き。

恐怖のダッチロールが32分ほど続いたため手近な紙に遺書を残した乗客もいた。大阪商船三井船舶の神戸支店長だった河口博次さん(52)は血染めの手帳7ページにわたって「子供よろしく」と遺した。
ママ こんな事になるとは残念だ
さようなら
子供達の事をよろしくたのむ 今6時半だ
飛行機はまわりながら急速に降下中だ
本当に今迄は幸せな人生だったと感謝している

と家族に惜別のメッセージを残し、多くの人の胸を打った。

事故当日の8月12日は「お盆の入り」で、夏休み中でもあり、同機には故郷への帰省客や翌日に行われる甲子園球場での全国高等学校野球選手権大会に出場する学校の関係者、出張帰りのサラリーマンのほか、茨城県筑波郡で開催されていた筑波科学万博や東京ディズニーランドなどから帰宅する者や海外からの観光客も多く搭乗していて、ほぼ満席の状態。これが今なお航空機事故史上最悪の犠牲者を生む原因となった。

高濱洋子
高濱機長の娘、洋子さんもJALに入社
歌手の坂本九や元宝塚歌劇団娘役で女優の北原遥子、21年ぶりのリーグ優勝を目前にした阪神タイガースの中埜肇球団社長(阪神は社長の死で奮起し優勝した)、グリコ・森永事件で脅迫されていたハウス食品の浦上郁夫社長、伊勢ヶ浜親方(元大関・清國)の妻子、など著名人の犠牲者も含まれていた。一方、元宝塚歌劇団雪組の麻実れいは車が遅れたため、タレントの明石家さんまは搭乗する便を123便より一本早くしたため、フジテレビの逸見政孝アナウンサーも妻の勧めで直前で取り消して東海道新幹線を利用したため、それぞれ事故を免れ、そのラッキーぶりも話題になった。
事故機の高濱機長の長女、洋子さんは3年後に日航のスチュワーデスになり、次女も日航の地上職員をつとめ、平成17年パイロットと結婚退社している。

後部圧力隔壁
この圧力隔壁の破損が事故原因。
2006年4月、羽田空港のJAL「安全
啓発センター」で展示されるようになった。

破損順
機体後部圧力隔壁の破壊による故障の伝播
破壊の順序(1)→(2)→(3)
運輸省事故調査委員会は、事故原因は1978(昭和53)年6月2日大阪空港で同機が着陸に失敗し、機体後部下面を滑走路に接触させる事故(「しりもち事故」と呼ばれている)を起こした際にボーイング社が行った後部圧力隔壁(アウト・プレッシャー・バルクヘッド。直径4b56a、深さ1b39a)の修理に重大なミスがあった。リベット(鋲)の打ち込みを一部で間違った。運航を重ねるうち修理箇所に金属疲労が発生し成長、この日ついに修理ミスの箇所が耐えきれなくなり崩壊し、吹き出した与圧空気が気圧の低い機体後部に一気に流れこんだ。その衝撃波で垂直尾翼を内部から吹き飛ばした。同時に4本の油圧系統全てに損傷を受け操縦不能に陥ったためであるとしている。

メーカーのボーイング社は修理ミスがあったことを認めた。群馬県警は63年12月、ボ社、日航、運輸省の関係者20人を業務上過失致死傷の疑いで書類送検したが、ボ社は地検の事情聴取を拒否、全員が不起訴となった。損害賠償を求めた民事訴訟は国内で21件、米国で12件起こされたが、平成5年までに和解、示談が成立、遺族に対する個別の補償交渉も平成7年までに終了している。


新啓発センター
新しい場所で展示中のジャンボ機の垂直尾翼。
各地で拾い集められたもの。
右上で紹介した「安全啓発センター」は2013年12月、羽田空港の旧整備場地区から新整備場地区のビル6階に移転、総面積は1.2倍の約千平方メートルになった。 事故原因とされる後部圧力隔壁や垂直尾翼などの残存機体、日航機に同乗していて、死を覚悟した人たちが家族宛に書きつけた遺書、乗務員が不時着に備えて、機内アナウンス原稿を書いたメモなどが展示されている。


その中の一人の遺書と家族の30年後の物語

「まち子
 子供よろしく
 大阪みのお 谷口正勝
 6 30 」

遺書
紙袋に残された谷口さんの遺書
と遺書を残した谷口正勝さんはチッソ株式会社ポリプロ繊維部主任。機内に用意されている紙袋にシャープペンで、20字。袋には自分の運転免許証が入っていた。

谷口真知子さん
絵本「パパの柿の木」を手にする
谷口真知子さん=2014年7月横浜市で、
あれから30年。大阪府箕面市の谷口真知子さん(67)は、事故で亡くした夫・正勝さん(当時40歳)が生前植えた柿の木を題材に、事故と向き合う家族を描いた絵本を制作。都内の 画廊で展示している。夫が記した「まち子 子供よろしく」との遺言を支えにしてきたという谷口さんは「前向きに頑張れば、笑顔を取り戻せる。そして命の尊さを伝えたかった」と話す。

真知子さん宅の庭の大きな柿の木は、今年もたくさんの実をつけた。子煩悩だった正勝さんが事故に遭う5年前に「子供たちに食べさせたい」と植えた木だ。真知子さんは、事故を知り意 識を失い救急搬送された。食事は喉を通らず衰弱し、現場の御巣鷹山に行くこともできなかった。

「僕がパパを連れて帰ってくるよ」と中1だった長男は、気丈に親戚と現場へ向かった。テレビに映る長男が親戚に両脇を支えられながら泣きじゃくる様子を見て「むごいことをさせてしま った」と悔やんだ。その後真知子さんは仏壇の引き出しから遺言を取り出してみては「子供たちが大きくなるまでは頑張ろう」と奮い立たせた。翌86年からアパート経営を始めた。



 ママは毎日泣いていた/おにいちゃんは泣くのを我慢してパパの代わりになろうとがんばっていた/ぼくは、、、/いつもパパのシャツを抱いて寝た/パパのなつかしい匂いがして、/パパが帰ってきそうな気がした

谷口一家
生前の谷口正勝さん一家=1977年夏ごろに撮影、
そう作文に書いた長男(43)は7年前に結婚。次男(39)も続いて伴侶を得た。3人の孫に恵まれ、ようやく肩の荷が下りた。昨年、恒例の慰霊登山で孫(5)が「パパのパパに会 いたかった」とつぶやいたのを機に、真知子さんはこれまでの体験を伝えていこうと考えた。旧知のイラストレーターに相談し、絵本の制作を決意した。タイトルは「パパの柿の木」。事故 と向き合ってきた家族の姿を描いた。

柿の木は、事故から約1か月後、初めて実をつけた。

パパからのプレゼントだ!」/ぼくたちは泣きながら柿を食べた/パパの声が聞こえたような気がした

母子は仏壇に供えて泣きながらほおばった。柿の木は今多いときは1000個の実をつけるという。約15ページの絵本は、柿の木の下で笑う3世代の家族の挿絵と「パパ、いつも ほんとうにありがとう」の一文で締めくくられている。(2015年7月28付毎日新聞、スポーツ報知など各紙)


*村長が語る、現場特定の経緯*

黒沢丈夫
黒澤丈夫村長
群馬県上野村の村長・黒澤丈夫さんが現場を特定できた理由をラジオで語っている。

「村長室のテレビを点けておりましたところね、朝5時のニュースの頃、ヘリから映した燃えてる墜落地点の状態が 映し出されたわけです。それを見たときに 『あっ、これは、上野村の神流川の源流の本谷の国有林の植林地だ』と。 なぜ、わかったかというと、その山の、反対側に友達の持ってる山がありましてね、その友達に連れられて、反対側 の山に登って植林している当時の御巣鷹の尾根を見た経験があったのです。

小学校の同級生が、植林した時の責任者だったんですぐ電話入れて、 『おい、今のテレビ見たか?あそこは本谷だ ろ?』『そうだよ、あれはスゲノ沢だ』と言って、友達が具体的に場所を教えてくれたので自信を持って 『これは我が 上野村のスゲノ沢の尾根に日航機が墜落した』といえた。

御巣鷹山というのは上野村の中心からは30キロ離れているんですね。上野村の人が住んでる一番奥の方の集落 からも見えない、長野県、埼玉県の県境と接する神流川の最源流です。ひだのように尾根があり沢があり、細かく 峡谷の中が分かれておりますから普通の人じゃわかりません。そこで、すぐ、消防団のうち、奥の方の状況を知っ ている諸君を2人くらいのペアにして、機動隊や自衛隊の人たちを案内してあげてくれという指令を出した。

遺体安置所
身元確認は藤岡市民体育館に設置された検屍フロアで行われた。
以後、歯科医による歯型から判定する方法が一般的になった。
520人が亡くなった日航機事故で、全遺体が確認されたのは192人。確認が出来なかった方が328柱です。明治 32年に出来た法律、行路病人及び行路死亡人取り扱い法で、328柱の方は、上野村で永代供養をする義務があ る。私ども上野村民と一緒になって、この上野村の天地自然に抱かれて安らかにお眠りくださいと、葬送・慰霊の真 心を尽くしたい」

黒澤丈夫村長は群馬県立富岡中学校から海軍兵学校に進み、戦闘機の搭乗員としてゼロ戦に乗り、霞ヶ浦で訓練中に墜落、 九死に一生を得た経験もある。指揮官として戦い、海軍少佐のとき、ルソン島から最初の神風特攻隊「敷島隊」が出撃した時 には特攻隊生みの親、大西瀧治郎中将と並んで見送った。終戦を迎え、郷里の上野村に戻ったが、多くの命と向き 合ってきただけにピシっと背筋が通っている。

その後「慰霊は上野村の責務だ」と、現場が観光地化しないように奔走、財団法人「慰霊の園」が運営する慰霊施設 というかたちにした。現在の静寂が保たれているのもこの人のおかげだ。
2005年6月、地方自治体では全国で最高の10期目(40年)の任期を満了し、91歳で退任、2011年12月22日、肺炎のため97歳で死去した。


*救出された4人の証言とその後*

○川上慶子さん
島根県大社市の団体職員だった父、川上英治さん(同41歳)、母、和子さん(当時39歳)、長女の慶子さん(同12歳)、次女の咲子さん(同7歳)の4人で北海道旅行の帰りだった。

川上慶子
救助されたときの川上慶子さん
川上慶子さんは、その後島根県で祖母と兄の3人で生活した。保健婦だった母親の遺志を継いで大阪府の短大を 卒業して看護師になり、兵庫県の病院で働きはじめ平成7年の阪神淡路大震災では現地でボランティアとして救援活動に携わった。スキューバダイビングするためアメリカに行き、知り合ったアメリカ人男性と2002年に結婚。中学生の頃から間寛平のファンで、 「一緒に居て楽しくて面白くて、顔はジャガイモの様な人が良い。」と言っていたそうだが写真は伝わっていない。その夫と息子の3人で、西日本の地方都市で幸せな生活を送っている。

◇ ◇ ◇

【慶子さんの証言】
スチュワーデスがミッキーマウスのおもちゃを子供の乗客に配り始めたころ。機内後方上部でドーンという大きな音とメリメリという音がし、1・5メートル四方ぐらいの穴が開いて、プロペラの羽か扇風機の羽のようなものが舞い、機内は真っ白になった。墜落後、隣にいた父と妹も生存していて長い間、話し合い励まし合った。最初「大丈夫」と言っていた妹が「痛い、痛い」と泣き、やがて声がしなくなった。母は即死状態だった。

「気がつくと真っ暗で油臭いにおいがした。子供の泣き声などがザワザワ聞こえていた。手や足を動かしてみると足の下には空間があってブラブラ動かせた。自分の体中を触ってみても、みんな付いており、生きていると思った。みんなはどうなったのかと思い、叫ぶと父と咲子が返事した。母は答えなかった。『手や足を動かしてみ』と言われて足をバタバタさせると、靴が脱げそうになり左手を左足の方に伸ばした。足首がヌルヌルしていて血だなと思った。

父は私の右わきから下半身に乗っていた。手足は動いても体は動かない。『助けて』と父に言うと、『お父ちゃんも挟まれて身動きできない。助けてやりたいけど、どうしようもないわなあ』と言われた。父が動くと、おなかが死ぬほど苦しかった。『お父ちゃん、お父ちゃん、苦しい、苦しい。すごく痛い』と言っているうち、父はそのまま動かなくなった。咲子に聞くと『お母ちゃんは冷たい。死んでるわ。お父ちゃんも死んでいる』と答えた。左手をのばして触ってみるとやはり冷たかった。

その後、咲子と二人でしゃべった。咲子は『苦しい、苦しい』と言った。『足で踏んでみたら楽になるかもしらんからやってみ』と言うと、妹の足の音がした。妹はそれでも『苦しい、苦しい。みんな助けに来てくれるのかなあ』と言うので、『大丈夫、大丈夫。お父ちゃんもお母ちゃんも死んでしまったみたいだけど、島根に帰ったら、おばあちゃんとお兄ちゃんと四人で頑張って暮らそう』と答えた。突然、咲子がゲボゲボと吐くような声を出し、しゃべらなくなった。一人になってしまったと思い。その後、朝まで意識が消えたり戻ったりした。
 ヘリコプターのパタパタという音で目が覚めた。目の前を覆う部品の間から二本の木が見え太陽の光が差し込んできた。生きているんやなと思った。何とか外に出て見つけてもらおうと思い努力した。父のシャツのタオル地が見え、腹の上に乗っている父を左手で押し下げた。そのとき、父のだと思って触った手を、上の方にたどると自分の右手だと分かった。

顔の上の部品の一部をつかんで横からはい出そうとしたが、二度三度するうち部品がずり落ち、顔とのすき間が狭くなった。そこで今度は両足を当てがい押し上げようと踏んばった。『中学になってから慶子は根気がなくなった』と、日ごろから言われていた言葉を思い出し頑張った。

人の気配がして『生きている人は手や足を動かして』と声がした。足をバタバタさせると人が近寄って来た。ボサボサの頭、ショートパンツで勘違いされたらしく、『男の子だ!』と言われた」。

○吉崎博子さん
○  美紀子さん


吉崎優三さん(38)=中央宣興大阪支社営業部長、妻博子さん(34)、長男充芳さん(9)、長女美紀子さん(8)、次女ゆかりさん(6)の5人で東京の母の実家から芦屋市の父の実家に戻る途中だった。
吉崎博子
自宅で会見したときの吉崎博子さん
事故後、東京の実家に身を寄せている吉崎博子さん(この時61歳)は 「元気でやっていますよ。でも、娘からは『もう取材は受けないで』って言われているんです。あることないことネットに書かれているらしくて、嫌になってしまったのよ」。
(この時点で)吉崎さんは娘の美紀子さんと一緒に都内で静かに暮らしている。「友人から北海道の温泉旅行に誘われた時は気持ちが動いたんですけど、やはり飛行機に乗るのは無理でした。別に飛行機を憎んでいるわけではないんですけどね。でも、娘も高校の修学旅行以降は、一度も飛行機に乗っていません」

◇ ◇ ◇

【吉崎博子さんの証言】
吉崎母子
記者会見時の吉崎母子
私は眠っていたが、ドーンという音と同時に白っぽい煙と酸素マスクが降りてきた。乗客は次々とベルトを締めたが、機の揺れが激しく、ベルトによる胸部への圧迫から失神する乗客が続出した。これを見た夫はベルトをはずして立ち上がり、スチュワーデスに失神者の救助を依頼。自分も手近の失神乗客に声をかけたり、酸素マスクをあてるなど、精いっぱいの活動をしていた。ゆかり(次女)は気分が悪く、マスクをしながら「あげそう」と言った。ゴミ袋を当てると、少しもどして、まっ青で気を失った。
 やがて、飛行機は激しく揺れ出しました。ジェットコースターにでも乗っているような感じで、真っ逆様に落ちてゆきます。窓の外の景色がどんどん変わりました。物凄く恐いのですが、どこか故障したので機体は不時着するのだ、と思っていました。絶対に無事に着くと思いました。遺書を書くことなど、思いもよらなかった。夫も「子供の前なのだから、しっかりしろ、うろたえるな。落ち着くように」と励ましてくれました。
   機体は何回か、ガタンと方向を下げてゆきます。そして激しい衝撃がありました。私は、それっきり、気を失ったようです。目が覚めたときは、真暗闇でした。静かで何の音もしません。美紀子は「痛い」と唸っていたので生きているんだな、と思いました。夫の足が私の肩に乗っています。ゆかりの姿は見えません。充芳(長男)の姿も見えません。遠くで「お母さん」という声が聞こえました。間違いなく充芳の声なのですが、私は声も出ず、身動きもできぬ状態です。やがて、充芳の声は聞こえなくなりました。あれが最後の声だったのでしょうか。墜落後、うとうとしかけると、美紀子が「ママ眠っちゃダメだよ。死んでしまうよ」と声をかけて励ましてくれて、それで助かることができました。

○落合由美さん
落合由美
落合由美さん
落合由美さん26)=日航国内線アシスタント・パーサー=は札幌と東京の往路というその日の仕事を終えて、大阪にある自宅に帰る途中だった。8か月ほど前に結婚したばかりで、13日から夏季休暇を取得して夫と過ごす予定だった。
事故後は日本航空の事故関連業務に就いて二度と悲しい大惨事が起きないように定年まで仕事に邁進、現在は家族とともに大阪府内で安定した老後生活をしている。

◇ ◇ ◇

【落合由美さんの証言】
彼女の証言でも、事故直後たくさんの人が生きていたことがわかる。少し長いが乗務員だけに様子がよく分かる。
墜落の直後に、「はあはあ」という荒い息遣いが聞こえました。ひとりではなく、何人もの息遣いです。そこらじゅうから聞こえてきました。まわりの全体からです。 「おかあさーん」と呼ぶ男の子の声もしました。

すぐ目の前に座席の背とかテーブルのような陰がぼんやり見えます。私は座ったまま、いろんなものより一段低いところに埋まっているような状態でした。左の顔と頬のあたりに、となりに座っていた方が寄りかかるように触っているのを感じました。すでに息はしていません。冷たくなっていました。
 シート・ベルトはしたままだったので、それがだんだんくいこんできて、苦しくかった。右手を使って、ベルトをはずしました。さらに手を伸ばしたら、椅子にならぶようにして、三人くらいの方の頭に触れました。パーマをかけた長めの髪でしたから、女性だったのでしょう。冷たくなっている感じでしたが、怖さは全然ありません。

どこからか、若い女の人の声で、「早くきて」と言っているのがはっきり聞こえました。あたりには荒い息遣いで「はあはあ」といっているのがわかりました。まだ何人もの息遣いです。

 突然、男の子の声がしました。「ようし、ぼくはがんばるぞ」と、男の子は言いました。学校へあがったかどうかの男の子の声で、それははっきり聞こえました。しかし、さっき「おかあさーん」と言った男の子と同じ少年なのかどうか、判断はつきません。

 私はただぐったりしたまま、荒い息遣いや、どこからともなく聞こえてくる声を聞いているしかできませんでした。もう機械の匂いはしません。私自身が出血している感じもなかったし、血の匂いも感じませんでした。吐いたりもしませんでした。

 やがて真暗ななかに、ヘリコプターの音が聞こえました。あかりは見えないのですが、音ははっきり聞こえていました。それもすぐ近くです。これで、助かる、と私は夢中で右手を伸ばし、振りました。けれど、ヘリコプターはだんだん遠くへ行ってしまうんです。帰っちゃいやって、一生懸命振りました。「助けて」「だれか来て」と、声も出したと思います。ああ、帰って行く・・・・・。
 このときもまだ、何人もの荒い息遣いが聞こえていたのです。しかし、男の子や若い女の人の声は、もう聞こえてはいませんでした。

 体は熱く、また右手を伸ばして冷たい風にあたりながら、真暗ななかで、私はぼんやり考えていました。私がこのまま死んだら主人はかわいそうだな、などと。父のことも考えました。母親が三年前に亡くなっているのですが、そのあとで私が死んだら、とても不幸だ、と。母は私がスチュワーデスになったとき、「もしものことがあったときは、スチュワーデスは一番最後に逃げることになっているんでしょ。そんなこと、あなたに勤まるの?」と、いくらかあきれた口調で言っていたものです。それからまた、どうして墜落したんだろう、ということも考えました。時間がもう一度もどってくれないかなあ、そうすれば今度は失敗しないで、もっとうまくできるのに。いろんなことが次々と頭に浮かびました。

 気がつくと、あたりはあかるかった。物音は何も聞こえません。まったく静かになっていました。生きているのは私だけかな、と思いました。でも、声を出してみたんです。「がんばりましょう」という言葉が自然と出てきました。返事はありません。「はあはあ」いう荒い息遣いも、もう聞こえませんでした。

 風をすごく感じたのです。木の屑やワラのようなものが、バーッと飛んできて、顔にあたるのを感じました。はっと気がついたら、ヘリコプターの音がすぐそばで聞こえる。何も見えません。でも、あかるい光が目の前にあふれていました。朝の光ではなくて、もっとあかるい光です。  すぐ近くで「手を振ってくれ」だったか「手をあげてくれ」という声が聞こえたのです。だれかを救出している声なのか、呼びかけている声なのか、わかりません。私は右手を伸ばして、振りました。「もういい、もういい」「すぐ行くから」と言われました。
 そのすぐあとで、私は意識を失ったようです。朦朧としながら、ああ、助かったな、助かったんだ、とぼんやり考えていました。どうやって埋まったなかから救出されたのか、どうやって運ばれたのか、まったく覚えていません。体の痛みも、空腹も感じませんでした。ただ、喉が渇いたのを覚えています。カラカラでした。お水が飲みたい、お水が飲みたい、と言っていたというのですが、私は記憶していないのです。

応急処置をしてくれた前橋の日赤病院の婦長さんが、あとで「あのときは打ちどころがわるかったらりするといけないから、あげられなかったのよ」といわれましたが、水を飲みたいと言ったことはまったく覚えていないのです。
 目を開けたら、病院でした。お医者さんから「ここはどこだか、わかりますか」と聞かれて、奇妙な返事をしました。「はい、二、三回きたことがあります」って。そんな馬鹿な、と自分では思っているのですが、わかっていながら、そんなふうに答えていました。頭がおかしいんです。でも、電話番号は正確に答えていました。「ここは群馬県だよ」とお医者さんは言いました。どうして群馬県にいるんだろう、と思いました。それで、あ、あのとき飛行機が落ちて、そこからきっと群馬県が近いんだな、とだんだん考えるようになりました。

 家族が来ていると教えられたとき、えーっ、と思いました。飛行機が落ちたことはわかっているのですが、どうしてここまで家族がきているのだろうと、不思議で仕方ありませんでした。現実感がなかなかとりもどせないのです。

 たぶん、このときだったと思いますが、「何人助かったんですか」と聞きました。お医者さんが「四人だよ。全部女の人ばかり」と教えてくださいました。それしか助からなかったんですか、と思いながら、「へえーっ」と言いました。大変な事故を起こしてしまったんだと、また感じました。

 天井しか見えませんでした。酸素マスクをして、じっと天井を見ながら、一緒に千歳からもどってきて、同じ飛行機に乗った松本さんはどうなったのだろう、と考えました。私もほんとうはもう助からなくて、死んでいくところなんだ、などとも考えていました。百幾針も縫ったのに、痛みは感じません。麻酔をしていたせいだと思いますが、でも、あとで看護婦さんに聞くと、「痛い、痛い」と言っていたようです。

 救出された日の午後3時過ぎ、夫と父と叔父が病室に入ってきました。私は「四人しか・・・・・・」と口にしたのですが、夫はすぐに「しゃべらなくていいから」といいました。(吉岡忍著「墜落の夏」新潮社より)


助かった4人の座席は全員最後部席だった
奇跡のシート
4人の奇跡のシート
4人救助現場
4人が救助された現場写真と位置
助かった4人の女姓の座席図がある。いわば「奇跡の座席」だ。これを見ると全員が機体の最後部にいたことがわかる。また、救出時に4人が機体の破片のどこにいたのかが分かる写真もあるが、これまたほとんど座席図と同じような場所である。この惨状の中でよくも‥と思わせられるが、証言の中で墜落後かなりの人が生きていたというから、最後部だけが比較的衝撃が弱かった事がわかる。
事故原因が、「ボンという音とともに白い煙が後部から座席を覆った」という4人の証言でもわかるとおり、最後部の圧力壁が吹き飛んだことで、垂直尾翼を動かす方向舵も効かなくなったことによる。その「原因」となった場所が「奇跡の座席」でもあった。
事故後、巷では航空機に乗るときは機体の前か、翼の上か、後部か、最後部かということが話題になった。答えを言えば「どこも安全な場所はない」だ。新聞社にはいろんな航空事故の写真が送られてくる。操縦席だけ残った写真も見たし、上部そっくり削り取られた写真も見た。その時の事故の原因と破損状況で変わるから「一番安全」な場所などない。まして、御巣鷹の峰に着陸するとき高濱機長は軟着を心がけようにも、操作できるのは左右のジェットエンジンの水力調整しかなかった。最後部席は尾根に激突したあと、斜面を滑空するような形になった。それが奇跡につながったのだと思う。

衝撃の映像流れる

慶子さん救出
自衛隊のヘリに救出される川上慶子さん=産経新聞の
日航機墜落事故20年企画紙面(平成17年8月3日)から
13日午前11時30分、締め切り間近の編集局に衝撃の映像が流れた。生存者がいたことは直前にわかって大騒ぎになっていたが、自衛隊の救難ヘリ(習志野から飛来、ロープで現場に降りた)で隊員に抱きかかえられて吊り上げられる少女の姿が放映されたのである。

この写真に差し替えねばならない。幸い特ダネはグループテレビ局だったから、あとで了解を取ることにして、テレビからの写真を整理部に出したが、感動で胸が熱くなった。あの飛行高度から墜落して助かった例など聞いたことがなかった。

川上救助
上はその後届いたカラー写真
あの放映をしたフジテレビの取材チームは、早朝に現場が特定されるや、中継機材をバラして何人かで手分けして山の上に運び上げた。組み立てたところで救出作業が始まったのだという。我が新聞社のカメラマンもスチール写真(1枚モノ)の特ダネを撮ったのだ が、人力で下に運んだため(ほかに方法はなかった)掲載は翌日になった。

この写真はその年の新聞協会賞を受賞した。この前後からテレビから取った写真を新聞が使う手法は多用される。スピードで圧倒的なのだ。


携帯電話、御巣鷹山に初登場

あまり知られてなかろうが、事故から15年ということは携帯電話が登場してから15年ということでもある。今の隆盛は想像もできなかったが、御巣鷹山の上に救助隊や遺族の連絡用に、このときはじめて携帯電話が運び上げられたのである。

義兄が事故のときちょうどNTTへ民営化される直前の電電公社の高崎支社長をしていた。 事故現場を管轄する支社である。雑談で携帯電話のことは聞いていた。欠点は電波の到達距離が短いので、街中にわんさとある公衆電話をアンテナがわりに使って・・・という構想だった。ここではじめて現物が登場したのである。もっとも大きすぎてとても実用に向かないものだった。 山頂近くまで電話線を引き、遺族の連絡用に公衆電話を何台も設置する方法が主で、実験にとどまった。

これより前訪れた香港では街角で、おそろしく大きなボックスを抱えた人が大声でしゃべっているのを見たことがある。このあと昭和天皇のご容体をいち早く知る必要があって編集局で何人かが常時持たされていたが、やはりショルダーバッグほど大きくて困った。

電池の改良が急速に進んだおかげで今のように小型になったが、トランジスターといい、日本人がもっとも得意とする分野である。さらに進歩するのは間違いない。 あのときケイタイが今ほど普及していれば原稿や写真の送稿方法がずいぶん変わったことだろう。無線で中継しながら原稿を読み上げるか、麓に下りて電話するかだった。写真は車を飛ばして近くの支局に走り現像して電送するのが唯一の方法だった。 わずか15年でパソコンで記事と写真を送ることが当たりまえになった。

ついでながら、入社したときはまだ手拾い時代で、棚から活字をすばやくとっていく職人が大勢いた。すぐ漢字テレタイプといって、原稿をタイピスト(パンチャーといった)が打って、一度窄孔されたテープにする。 これを流すと字母が出て、鉛が煮立った釜から一字ずつ鋳型にいれて活字を造っていくという方法である。そして現在のワークステーションという名のコンピューターに原稿を送り、画面で整理してフィルムにし、 各工場にファックス送信して凹版印刷(それまでは凸版印刷)の高速輪転機にかける。私一人でも印刷の3世代を経験した。いかに時代の流れるのが早いか。

米軍ヘリが自衛隊より12時間前に場所特定?
このとき現場上空に飛来したヘリコプターが自衛隊のものか米軍のものかはわかっていない。日本側の説明(自衛隊 ・警察)では、「ヘリコプターで墜落現場を確認したものの、ちょうど日暮れの時間帯で正確な場所の特定には時間 がかかった。険しい山地に雨という悪条件の上、夜間はヘリコプターでの接近が困難なため地上からの救出に全 力を挙げたが、夜間に手探りで山を登る事になったため、レスキュー隊が墜落現場に入れたのは翌朝になってか らとなった」としている。

しかし、 事故から10年後に元米国軍人が証言(米軍の準機関紙「パシフィック・スターズ・アンド ・ ストライプス」)したところ では、アメリカ軍厚木基地から暗視カメラを搭載した海兵隊の救助ヘリコプターが現場に急行して、墜落現場を特定していた。墜落から僅か2時間で救助態勢が整っていたという。救助のためにヘリから隊員を降ろそうとしたとき、基地の当直将校から「日本側が現場に向っているので帰 還せよ」という上官の指示があり、現場には降りなかったという。日本のレスキュー隊が現場に到着する約12時間前である。

この在日アメリカ軍による現場特定とヘリによる救出の申し出は、事故当日にニュース速報として流された。しかし、翌日未明にはアメリカ軍が現場を割り出したことや、救出活動の申し出をしたことなどはすべて誤報であったとして否定された。このため、事故原因に関し巷では謀略説など各種の憶測を呼ぶ一因ともなった。この話は表に出る事は無かったが、週刊誌に暴露記事として詳細が掲載されたりした。事故から10年後に、「在日アメリカ軍の現場特定・救助の申し出は事実であった」として改めて発表されている。

当時、日本の事故に対するアメリカ軍の救出活動の参加には日本政府の許可が必要だった。アメリカ軍は日本政府に支援を打診し、政府は警察庁に連絡したが不要とされたと言われている。警察庁上層部がアメリカ軍の協力を拒んだ理由は明らかになっていないが、メンツが理由とも、国内の事故に指揮命令系統が違うアメリカ軍が介入することで現場に混乱をきたすことを避けたとも言われている。禍根が残る判断だといえよう。

推測だが、自衛隊も警察も、当時は米軍のようにレーダーから正確に墜落地点を割り出す技術や、夜間でもヘリから山中に降り立 つ技量が不足していた。その上、まさかあの高度から の墜落で生存者がいるとは考えもしなかったのではないか。生存者がいるとわかれば、万難を排してでも降りたろう。

メディアも夜通し現場周辺を這いずり回っていた。暗闇でどこかの社の連中の懐中電灯が見えるとホッとしたくらいだという。 その上、在京の新聞社側にも、今となっては虚報といえるが、「医療用のラジオアイソトープが積まれている」と か「動翼のマスバランスに劣化ウランが使われているので、危険だ。現場に近づくものは注意せよ」という情報が 流れ、どの程度危険なのかわからぬまま消防団員や取材記者が躊躇する場面もあった。

書かなかった、いや、書けなかった

ジャンボ機の死者520人ということは、520話の死者のドラマがあることだ。「一か月でも二か月でも1面トップはこれでいく!」と決めた。 事実ほぼ一か月連続で一面トップを事故関連記事で埋めた。520話あるといっても後半息切れしないわけでもなかった。 事実、この年は阪神タイガースが21年ぶりに優勝した年で、大阪の紙面は早々と(1面が)野球に取って代わった。 書きたい誘惑に駆られたが結局書かなかったことがいくつかある。

事故から3日目か4日目、インド人遺族が駆けつけてきた。JALに来るなり「マネー、マネー」といって示談交渉である。ほかの遺族はまだ悲嘆のどん底にいる。事故原因もまだわからない時である。現地に行こうともしないでこれである。多分一番早い示談成立だろうとは思うが、あまりにも死生感が違いすぎてとても書ける話ではなかった。

もうひとつ、ある会社社長と舞台女優が乗っていた。席が離れていたので不倫はいまだに公になってないが、二人で大阪に帰る途中だった。残された未亡人と私の家族が同級生というので知った。知った経緯と、ただ覗き趣味にすぎないことで自制した。

さらに書き加えると、50年後の2010年1月に知ったことだが、大阪府立住吉高校の同窓会誌でクラスは違うが同学年の「宇沢克彦」氏が亡くなっていた。同級生3人の御巣鷹参拝報告にあった。当時の取材では気付かなかったことで、改めていろいろな人生が消えた事故だったことを認識した。

”幸運の航空券”のニセモノが出回る

事故から20年目だというので、2005年夏またこの事故が話題に上るようになった。 どこの役所か聞き漏らしたが副大臣か何かが今なお川上慶子さんの「幸運の航空券」を持っている、 というのが話題になった。

イタズラに属することだと思うが、この種の反応としては大変早くて、救出が報じられた翌日には編集局に 誰かがファックスでこの航空券を送りつけてきた。記事にした新聞もある。私も持っているが、これはニセモノだ。 JALがこういうものを公表 するはずがないのは少し考えればわかることだが、当時真顔でありがたがる人が結構多く、知人で財 布に入れていた男を知っている。私など、20年後と航空運賃がほとんど同じということのほうが、面白い。

幸運のチケット
ニセモノだが、当時
出回った「幸運の航空券」
事故が風化して、当時本当に川上慶子さんが自分の航空券を出したかのように、事実として「定着」すると 困るのでカラクリを書いておくが、このころコピー機が急速に普及中でどこのオフィスでも1台くらいはあった。 手持ちの航空券の名前のところを貼り替えてコピーしたものなのだ。本物がないから証明はできないが、発券番号は 違っているはずだ。

奇跡中の奇跡だから、本当にあやかりたい人は「航空券」でなく「座席券」をお守りにしたいところだろうが こちらは出回っていない。でもだいたいの場所はわかっていた。人間ドラマを報道すると同時に、 事故の原因究明が新聞社の最大のテーマでもあった。航空評論家などを動員して、なぜ4人が助かった のか、分析していた。そのためにだれがどこのシートに座っていたかできるだけ再現した。簡単にわかる人 もいたが、川上家のように4人が続き番号で当日その場で移動したかもしれない場合、正確な席はわからない こともある。

こうした作業で、助かった4人がいた機体後部はちぎれて前方に投げ出され、斜面を滑り落ちたため衝撃が やわらげられたことや、炎上をまぬがれたことが奇跡につながったことがわかったのだ。これに比べて、 墜落直後火に包まれた機体前部は惨状を極めた。このころDNA鑑定もなく、大半といって いい328人は身元の特定もできなかったのだ。

航空機事故は不思議と夏に多い

最初に身近に体験したのは、昭和33年(1958)8月12日、羽田発名古屋行き全日空DC−3型機が伊豆半島下田沖に墜落、33人が死亡した事故だ。大阪で小中高がいっしょだった同級生と琵琶湖でキャンプしていた。親友が私たちと逆の名古屋に行くという。 フィアンセに近い女性が東京から名古屋に帰ってくるので会いに行くのだという。その女性と父親がこの飛行機に乗っていた。この事故は航空機から撮影した海面を漂う遺体が紙面に載った。これがその女性だった。

昭和46年(1971年)7月30日、東北雫石上空で全日空機と自衛隊機が空中衝突した。このとき新婚旅行で宮島あたりにいたのが報道部のO記者。情け容赦なく新婦連れで現場に行かされたがどこか嬉々としていた。

板東国男
ベンガジ空港で燃え上がるJALジャンボ機
昭和48年(1973年)7月20日パリ発羽田行き日本航空ボーイング747がオランダのアムステルダム空港離陸後に日本赤軍とパレスチナゲリラにハイジャックされた。 ドバイ、ダマスカスを経てリビアのベンガジ空港に着陸した後、人質は開放されたが機体は爆破された。怒られるかもしれないが、「いい写真」として記憶に残る。 燃え上がる紅(くれない)の炎に、機体が浮き上がっている。それをバックに逃げるひきつった表情の人質の写真が印象的だった。(この写真を探したが見つからないので、右は爆破直後の画像)

日本赤軍の犯行というので犯人を特定する作業が新聞社にとって重要だった。実は、この飛行機には弟の義母が乗っていた。大阪で輸入雑貨店を経営していた。仕事でイタリアやフランスで買い付けた大量のブランドものの衣類などが炎の中に消えて、 がっかりしている本人を羽田東急ホテルに缶詰めにした。本人は私が羽田まで見舞いに来た上、静養のためホテルまで用意してくれたかと感謝していたが、そうではなかった。特ダネの機会を逃してなるものかというだけである。 いろんな日本赤軍の人物写真を見せ、機内での彼らの会話を聞き出そうとしたが、恐怖でほとんど憶えていなかった。

1999年亡くなったが、足の裏にはそのときのとげがたくさん刺さったままだった。はだしで逃げ出したベンガジ空港は、滑走路をはずれると一面の棘(いばら)の原っぱだった。

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札幌オリンピック美人通訳譚

1972年の冬季オリンピック大会は今となってはスキー70メートルジャンプで笠谷幸生以下、日本3選手が金銀銅メダルを独占した ことと、優勝候補だったフィギュアスケートのジャネット・リン(Janet Lynn)が尻もちをついて3位になった大会として記憶されているかもしれない。街中にトワ・エ・モアの「虹と雪のバラード」のメロディーが流れる、この大会に取材団の一人として加わっていた。

札幌五輪ポスター ジャンプ競技表彰式
札幌五輪ポスター 金銀銅を独占した
ジャンプ競技の表彰式

記録で「銀」だが記憶では「金」のジャネット・リン

 

>ジャネット・リン
ジャネット・リン(フリー)
 ジャネット・リン(米)は、1972年札幌冬季五輪で日本中を魅了し、最も鮮烈な記憶を残した「銀盤の妖精」である。

ジャネット・リン
ジャネット・リン笑顔の転倒(1972年2月)
シット・スピンでバランスを崩し、尻もちをついた瞬間。ジャネット・リンは、はにかんだ笑顔を浮かべ、すぐ立ち上がって演技を続けた。笑顔に、日本中が衝撃を受け、誰もが彼女に心を奪われた。

 フリーは1位。転倒があっても芸術点は満点の6.0の評価を受けた。彼女に贈られたのは金メダルでなく銅メダルだった。金メダルを獲った選手の名はほとんどの日本人が覚えていないだろう。五輪後、彼女の元には日本から1万5千通もの手紙と贈り物が届いた。

 当時のフィギュアスケートには「規定演技」(コンパルソリー)があった。2日間にわたって行われる規定演技は衣装も競技風景も地味そのもの、何かの検定試験のような重苦しさだった。選手たちは課題に出された各種の図形を左右のスケートで3回ずつ氷の上に描く。トレースの正確さや美しさを審判がジャッジし、ポイントをつける。順位は規定とフリーの合計点で決まった。

 第5課題で失敗し、シューバとの差が172.4になったジャネット・リンは、リンク脇の機械室に駆け込み、両手で顔を覆って泣きじゃくったという。フリーでは7位のベアトリクス・シューバ(オーストリア)が金、カレン・マグヌッセン(カナダ)が銀、ジャネット・リンは銅が正式の結果だった。

この出来事をきっかけに、翌73年から規定とフリーの間に「ショート・プログラム(SP)」が採用され、さらに91年からは現行のSPとフリーになった。フィギュア界は、競技名の由来ともなった図形(フィギュア)を描く規定演技を競技から消滅させたのだ。

 この恩恵を受けた一人が、伊藤みどりだ。女子で初めてトリプル・アクセルを跳んだものの規定が苦手だった伊藤みどりは、規定から解放された92年アルベールビル五輪で銀メダルを獲得している。

「ジャネット・リン、サッポロを語る」

26年後の長野五輪(1998)で来日して大歓迎を受けたジャネット・リンが米テレビで思い出を語っている。動画はここクリック

「瞬間、あゝどうしようと思ったが、気をとり直した」ことや 選手宿舎の壁に「Peace and Love」と落書きした(その後公団住宅になり今も残る)のはオリンピック精神を心から実感したため。サッポロがその後の自分が生きる力になったこと など、時に涙を浮かべながら語っている。背景として開会式や問題のスッテンコロリのシーンも。眼鏡をかけやや太めだが今も愛らしさが残る。1998年の放送(英語)。


あれから40年を機会に2012年2月、朝日新聞がインタビューしている。健在のようで、震災にあった国民へのメッセージを寄せている。

1972年に開かれた札幌五輪のフィギュアスケートで、演技中、尻餅をつきながらも、プラチナ・ブロンドのショートヘアに満面の笑みを浮かべて立ち上 がった姿が、国民的な人気を呼び「札幌の恋人」として今なお慕われるジャネット・リンさん(58)を米バージニア州の自宅に訪ねた。

 ――スピンで転んでしまったのに立ち上がったときは笑顔でした。どんな気持ちだったのですか。
 「練習ではあそこで転んだことなんて一度もありませんでした。あれは神が仕掛けたストーリー。どうすることもできないならば、私は笑顔であり続けるしかない。『神が私に喜びを与えてくれ、私はその愛を見せようとした』。それ以外に説明ができません」

 ――息子さんが5人いると聞きました。
 「一番上が34歳で、32歳の双子、20歳、17歳。スケーターは一人もいません。私は両親にスケートを強制されなかった。息子たちに教えはしましたが、やらせようとは思いませんでした」

ジャネット・リン
あれから40年。日本へのメッセージを
見せるジャネット・リンさん

 ――最近のフィギュアスケートの傾向をどうみていますか。
 「変化を感じています。フィギュアは、氷の上に2本の足を乗せて表現する『言語』だと思います。最近のルールでは、フィギュアが本来持っている、人々に大きな喜びを与え、人々を心地よくリラックスさせる『言語』が失われつつあるようで心配です」

――札幌市民と日本へのへのメッセージを
 東日本大震災の被災者の皆さん。あなた方の偉大な精神は、この壊滅的な災難に打ち勝つ力がきっとあると信じています。札幌の皆さん。 私の魂を皆さんと分かち合ったあのオリンピックのことを、長く忘れないでいただいてありがとう。神の平和と愛に希望あれ


札幌で4年間の学生生活を送ったので勝手知った街ではあるが、プレス用の宿舎と取材現場の往復で昔を懐かしむ時間はなかった。マスコミ各社に入った同窓生が多く現場に派遣されていて、スキーのジャンプ会場など、同窓会が開けるほどだ。ここで事件が起きた。

共産圏の女子スケート選手だったが、リンクそばで最高齢の参加ということを知り、「囲み記事」にでもしようと思った。なんとかドイツ語がわかる選手だというので、まわりをさがした。このとき、英語とドイツ語の通訳がペアで歩いていたので、頼むと、時間外なのでしない、という。 相手は宿舎に帰ろうとしているのだ、今しか話す機会はない。 かっとなって、持っていたプログラムを丸めたので通訳の頭をコツンとやった。つべこべ言わずにやれ!と引っ張ってきて、選手の前に連れて行き、なんとか通訳してもらったのはいいが、組織委員会に訴えるという。

コツンとやったのは悪いが、役人根性の通訳などこっちも許せないから、どこにでも提訴しろと開き直った。国家的事業の前にいつしかうやむやになったのだが、さらに驚いたことは、このときそばで傍観していた英語の通訳が、その春わが社に入社してきたのである。それも私のいる報道部に。

この項のタイトルをわざわざ「美人通訳」としたにはわけがある。コンパニオンとか通訳というと読者の方がまず美人だろうという先入観を持つ。そう間違ってはいないのだが、新聞や週刊誌はそれをいいことに、好んで使いたがる弊がある。顔写真もないのに、また事件の本筋に関係ないのに「美人OL殺さる」となる。 最近まで60歳を過ぎた女性は「老婆ひき逃げさる」とかいう見出しだった。この高齢化時代にあまりにひどかろうと、各社の整理部では「老女」と控えるようになったが、それでもひどいし、実態にあわない(年齢より若い人が増えた)ので使われなくなったが、美人の多用は今も盛んだ。テレビだって「美人」「温泉」「殺人事件」の どれかが入ってないと視聴率があがらないという。

このときの2人はタイトルにそう離反するものではなかった。ドライな女性のはしりだった気がするが、彼女が札幌のリンクで、英語で話すジャネット・リンの通訳をしたときもクレームがついた。かなりしゃべっているのに、この通訳にかかるとほんの一言になる。英語だから、ある程度はわかる記者が多い。この通訳はひどいではないか、というわけだ。 人怖じしない性格は入社とともにいかんなく発揮された。奈良に数学者の岡潔の取材に行ったときの録音テープを聞いて仰天した。もともと別世界にいるような学者で、人の好き嫌いが激しいのは承知しているが、なにが原因かわからないが、この女性記者に激怒しているのである。

岡潔
岡 潔
岡潔(おか・きよし)はゴム長を履いて奈良女子大で教鞭をとっていた写真が記憶に残っている。その著書の一部を以下に引用するが今でも通用する。テレビでしたり顔で美術評論する人たちの画面に出くわすと思い出すくだりだ。

「最近、東京と京都でフランス美術展が開かれたが、テレビでこれを批評していて、ある人の線が力強いとか、ある人の絵は構成が大胆であるとか、ある絵は調和がとれていると言っているのを聞いて、私は呆れてしまった。それでは意志の芸術ばかりを評判しているだけではないか。
私がほしい芸術や調和はそんなものではない。いかに小さくても麦は麦、いかに大きくても雑草は雑草であるような、そういうものが見たい。しかしもっというのなら、本当の調和は午後の日差しが深々としていて、名状しがたいようなもののことなのだ。このことがわからずに、芸術はなく、平和というものもわかるはずがない。日本では戦争をしないことを平和だと思っているが、そんなことはかたちだけのことで、内容がない。調和のあるものこそが平和なのである」(『紫の火花』から)。

そんな、人の琴線に触れる感性を持った高名な数学者が、持てる限りの罵詈雑言(ばりぞうごん)を持ち出して、はっきり「帰れ」とまでわめいているのだ。私などテープを聞いているだけでもいたたまれなくなるほどだが、本人はケロリとしている。

その後、岡潔の伝記を編んでいるという国立大学の教授から、このくだりを読んだとメールをいただいた。岡潔のことはよく知っているが、それほど激怒したとははじめて聞く、詳しく聞かせて欲しい、またその その女性記者と連絡を取りたいということだった。大部な伝記がその後出版されたようだ。

彼女は、私の弟が持っている小さなスナイプ級のヨットの株主(6株のうち1株)でもあり、週末江ノ島で私たちといっしょにクルージングすることが多かったが、アメリカ人、ニュージーランド人、韓国人・・・毎週連れてくる相手の国籍が違う。「今日は何(なに)人だい」というのが仲間内の挨拶だった。

後日談がある。彼女は数年後に我が新聞社をやめてアメリカに行ったのだが、私が、豪華客船「クイーン・エリザベス2」(70,327総トン、略して「QE2」)、に乗る機会があった。ホノルルで乗船したのだが、タラップの下で手続きをしていると、上のほうから私の名前を呼ぶ声がする。見上げるとデッキの上で手を振っているのが彼女だった。

船を持っているキュナード汽船に日本人向けの通訳として1航海だけ採用されてニューヨークから乗っているという。船客名簿に私の名前を見つけ、待ち構えていた。 昔話をしながら航海しているうち、例によって彼女の性格が出てきた。日本語の通訳として採用されているというのにさっぱり通訳してくれないという苦情が、私の元部下だと知った船客からいっせいに持ち込まれたのだ。この性格は直りません、あなたがあきらめるしかありません、と笑いながら告げるほかなかった。

彼女は子持ちのアメリカ人ジャーナリストと結婚して、ニューヨークに暮らしている。時折、英字新聞の小さいコラムに名前を見つけると、往時が思い出されてニヤリとしてしまう。

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にわか紳士「QE2」に乗る

2014年3月16日イギリスの豪華客船「クイーン・エリザベス」が横浜ベイブリッジをギリギリでくぐり抜けながら横浜港に入り、日本初寄港のニュースが新聞テレビを 賑わした。サイトの亭主はその写真やテレビを見ながら感慨深いものがあった。上で書いた「札幌オリンピック美人通訳譚」とも関連するのだが、この船の先代になるが 「クイーン・エリザベス2」(70,327総トン、略して「QE2」)に晴れがましくも乗ったことがある。

一時期運輸省がらみの取材が多く航空業界や船舶業界に知己が多かったせいもあるが、乗ってみないかという話が舞い込んだ。願ってもない機会だったが躊躇した。恥ずかしながら 人一倍船酔いがひどい。小学校の修学旅行で伊勢志摩に行った時、船べりで苦しみ抜いて、おりしも上がってきた海女にぶっかけたことがある。以来トラウマになっていた。乗るのは ホノルルから横浜までの7日間だという。冬の太平洋は波が高い。恐ろしい結果が予想された。しかしこんな豪華な取材は二度とないぞと言われた。それはそうだ。死ぬことは ないだろうとOKした。

格式が高い船で船内ではタキシード必着だという。タキシードとモーニングの区別もつかない生活だったが、少しわかっている家内に連れられて新宿の伊勢丹に走った。カマーバンドってなに、ブラックタイってどんなの、と 教わりながら、誂える時間がないので吊るしを買って飛行機に飛び乗ってハワイに駆けつけた。船内生活ぶりは「にわか紳士QE2に乗る」というタイトルで何回か連載したのだが、 何を書いたかは覚えていない。

その後当時の船長主催のパーティーで船長との記念写真が出てきたので恥ずかしながら片隅にアップした。写真を見て当時を思い出したので、赤ゲットぶりを 紹介するのもあとから乗船する人の一助になるかも、と余計なお世話ながら船内生活ぶりを紹介することにした。1982年のクルーズなのだが、すでに金持ちの日本人が乗っていたのに 驚いた。大阪の医者の夫婦で、こともあろうにタキシードの正装している私と船員と区別ができないおばはんから「あんたこれ運んでえな」とカバン持ちを仰せつかって大いに傷ついた。

「QE2」の船旅案内

「QE2」の船内生活を紹介しておこう。乗船するとまずコンシェルジェがレストランでどういう席を希望するか聞いてくる。この船には13層に 900の船室がある。予約した船室の等級によって5つほどある大食堂のどれになるかは決まっている。だが、そのレストラン内の1テーブル8人前後 については彼が決める。イギリスは階級社会だからこれは重要な仕事で、どういう人と相席を希望するか宗教、使用言語、趣味などを参考に割り振る ことになる。

私のように、宗教はもちろんのこと同席者の人種に何の希望も偏見もなく、西欧のどんな国からもあまり嫌われていない日本人船客はこういう場面で は重宝される方だと思うが、テーブルの接着剤のように空いている席に入れられる。船客の半分ほどアメリカ人だからどこの席にも入っていて、例外 なく陽気な声をあげている。ワインを選ぶときの知識と薀蓄、さらにみんなをリードする点で自然発生的にボスというかリーダー的な人が決まる。そん なのどうでもいいではないかと思うが、朝昼晩三食みんな一緒だから結構大事なことだ。何日間かの食事の会話で同席者の人生に相当詳しくなって下 船する。

各レストランにはソムリエとバーテンダーがいて相談・注文に答える。酒類は一応有料になっているが船では関税がないから、よほどのビンテージもの でも指定しない限りワイン、カクテルはじめ基本的なリキュール(ビールやオンザロックなど)については誰も金額を気にしない。イギリスの船会社 なのでスコッチは万端整っていてかなり知らない銘柄もあった。日本人用に日本酒や梅酒まで積み込まれていたがなぜか焼酎がなかった。

三度の食事は決まったレストランで決まった席に着くが、もちろんパスしてもよい。三食ともフルコースでもいいが、そうは食べられるものではない。 結局朝はベーコンエッグなどイギリス風、昼はパスタなどイタリア風、夜はフレンチというのが多かった。卵は「サニーサイド」」か「ポーチドエッグ 」なのか、ベーコンはやわらかいのがいいかカリカリにするか、細かく聞いてくるので慣れるまで大変だった。

食事は船賃に入っていてすべて無料。どんな大きなステーキを注文しようが、キャビアやフォアグラ、トリュフを頼もうがかまわない。タバコは有料だが船上では関税がない から半額以下。高級タバコも1カートン1000円以下で手に入る。私はこのころ長年の喫煙をやめようかと思っていたのだが、さもしい根性が出て船上で はヘビースモーカーに逆戻りした。

食堂での三度の食事以外に午後のティータイムや夜食、場所を変えて開かれるピクニックランチがあり、早朝から深夜まで船内どこかで毎日10食は提 供されている。レストラン以外バイキング形式の軽食とはいえ日本人から見るとフルコースに見える品揃えで、みな付き合っていたらフォアグラのよ うに太ること必定だ。だから多くの人が四六時中デッキでジョギングしている。

各テーブルにサービス係がいるが、彼らは船会社から給料は出ない。チップで暮らしているから、客の気分次第で収入が違ってくる。だから、担当し たテーブルの個人個人の好みの酒から肉の焼き方、ドレッシングの種類、スイーツまで客の名前と共に頭に叩き込んでいる。新聞記者と知って、船内 情報まで耳に入れてくれた。チップは下船の際まとめて渡すが、私一人で数万円になった。領収書のない支払いで経理に説明するのが大変だった。

午後6時だったか6時半だったか忘れたが毎日この時刻以降になると正装でないと船内を歩けない。時刻は太平洋上の位置で毎日修正されるから前日よりだんだん 早くなる(日本に向かう場合)。この時刻を境に男性はブラックタイ、つまりタキシードに、女性はイブニングドレスに着替えないといけない。だから、夕食は必ず正装になる。 この時刻の1時間ほど前から船内に人通りがなくなる。「wash and shave」とか「wash and change」とかいうが、シャワーを浴びて、夜の装いに着替え る時間帯である。7,8歳の子どもまでタキシード姿だ。”にわか紳士”のこちらはシャツの着替えが払底する。好くしたもので夜中でもクリーニング を受け付けていて、ドアの外に出しておけば、翌日の「wash and change time」までにはきれいになって届けられる。

船客を飽きさせずに航海するために最大限の努力が払われていて、昼はデッキゴルフ、プール(温水含めいくつかある)、アスレチックジム、ダンス 教室が用意されている。船尾では10ドル払うがライフル射撃ができる。夜は映画やミュージカル、ショー、漫談(わからず笑えなかった)などが船内 どこかで開かれ、カジノは深夜まで開かれているが、美人相手のブラックジャックやルーレットで丸裸にされるのに30分とかからない。スロットマ シンはもうすこしもつものの1時間ですってんてんだ。

船客の平均年齢は相当なものだ。みな老齢と言っていい人ばかりだ。世界有数の財閥も乗っていたようだが、こうしたプライバシーはきちっと守られ て、公表されることなく船内では一人の紳士として扱われる。聞き知ったのではリタイア記念の船旅と言うアメリカ人の教師夫妻、休暇中のヨーロッパ の外交官の家族などがいた。

船内には若い女性もいるがこれはカジノのディーラーか、毎晩船内のどこかのシアターで踊っているダンサーのどちらかだ。こういう人や厨房要員は 一般客と隔離された船室と従業員専用食堂で暮らしていてこういうレストランにはいない。一夜彼らのパーティーに招かれたが、こちらはもうどんち ゃん騒ぎだった。

船内で毎日発行される新聞は(日本語もある)船長の挨拶や国際ニュースも間に入っているが、今日船内のどこでグリニッジ標準時の何時からどういう 催しがあるかでぎっしり。神父や牧師も乗っていて説教会が毎日のように開かれている。他の宗派もあるからタブロイド新聞の下半分はそうしたお知ら せで埋まっている。太平洋を渡るときは必ず日付変更線を通るから、東西どちらに向かっているかで丸一日が消えたり増えたりする。さらに時差を一日 2,3時間修正しなければならない。

私は当初「QE2」に乗るかどうか迷った。船に酔いやすい体質で、ましてこのクルーズは冬だから太平洋は荒れるのが必定と来ている。しかし、多 くの人があこがれる世界一の豪華客船の船旅だ。船酔いで死ぬこともあるまいと手を上げたのだ。

しかし案の定だった。ホノルルを出てまだダイヤモンドヘッドが見えていると言うのに、揺れはシャワーを浴びている体が浴室の壁に当たるほど。たち まちおかしくなった。医務室に電話を入れると「シーシック?あなたが今日一番早い。今から行く。15ドル用意して待っててくれ」とのこと。医者が 来るのかと思ったら看護婦一人で、金を受け取るといきなり尻を出させ、用意していた注射針をブスッ。

「これで楽しい航海ができるわよ」とにっこりして出て行った。すぐ人事不省に陥り、同室者に聞いたところでは20時間いびきをかいて寝ていたそ うだ。翌日起きると気分は爽快。おりしも太平洋の波いよいよ高く、階段などよろけるほど。いたるところにビニール袋が下げてある。食堂に顔を出す と食欲がない人ばかりだが、こちらは分厚いステーキを注文して(ニューヨークで積み込んだアメリカの肉であまりうまくない)、スコッチをオンザ ロックのストレートでぐいっ。船の窓は縦に細長いが、外に見える水平線が窓の下から上まで振り切れている。それでも平気だった。

どうも三半規管が馬鹿になるクスリのようだが、看護婦の話では効果は2週間ほどあるそうで、私の話を聞いた3人ばかりが医務室に駆け込んだ。帰国 してからも船に乗る機会があり、このクスリを注射してもらおうとしたが、日本の医師は誰も知らなかった。もうすこし語学と先見の明があったらあの クスリの名前を聞いておくべきだった。

この船で本当の金持ちというのを間近にみた。こういう客船は大体、最上階に行くほど高いのだが、そのうちのひとつを船長に頼んで取材ということで訪問した。広いテラス付のマンションが操舵室近く(どんな船もブリッジは一番上にある)にあると思えばよい。調度品もすばらしかったが、この船室には酒がびっしり詰まったバーから冷蔵庫つきのキッチンと食堂がついていた。ここで食事するのではない。個人でパーティーを開くときに使う程度なのだ。

また、この最上級船室には散歩用のデッキも別についていた。フロアが違うから大勢ジョギングしている一般客と混じることはない。隣の船室は船長夫 妻用だった。船長の仕事は、毎晩夫婦でダンスパーティーを主催し、いくつもあるレストランのうち最上級クラスでそこの客の食事の相手をするのが仕事だ。

もう一室は留守宅だった。売れなかったんだ、と思ったらとんでもない。ここの住人夫妻はホノルルで下船したという。冬の太平洋は荒れる。それを嫌 って飛行機に乗り換えて先に行ったのだ。東京で観光かと思ったらまた違った。冬の日本は行くところもないので、まっすぐ香港に飛び、そこからさら にインド観光だという。次にQE2に乗船してくるのは1か月以上も先でインドから乗ってくるのだそうだ。その間船室はカラのまま 荷物だけ運び続ける。上には上があるものだ、とアッパーデッキのずっと下、喫水線の少し上で窓がない自分の船室から思ったことだった。

上品なおばあさん5、6人が縦横3メートルはあるテーブルの上で巨大なジグソーパズルをしていた。朝昼晩取り組んでいる。ニューヨークから乗船し て2、3週間たっていたころだが、ジグソーパズルは端っこの直線の辺りが出来た程度で真ん中は大きくあいたまま。飽きると隣の図書室で本を読みな がら寝ていたりする。いつ完成予定ですか、と聞いたら両手を広げて「さあて?」。時間つぶしのために何百万円も払って乗っているのだ。

QE2
QE2横浜入港の航空写真。新聞はまだモノクロの時代だった。
*QE2のこと

キュナード・ラインのフラッグシップ、「クイーンエリザベス2」(70,327総トン。全長294メートル、乗客1778人と乗員1000人以上が乗船可能)は、世界で最も有名な客船。 1969年に建造された。これまで大西洋横断航路に就航し、オーシャン・ライナーとして活躍。他の客船と比べ、 フォーマルナイトの日が多く、私が乗船したときも毎晩6時以降はタキシードを着用しなければ歩けなかった。着替えのため毎日午後5時ごろから船内の 人通りが絶えた。英国風の華やかでノーブルなクルージングで船好きのあこがれだった。

私は「ワールド・クルーズ10周年」という時に乗り合わせた。左上の写真はそのときの横浜入港時の模様。新聞は まだモノクロ時代だったのでスナップ以外は白黒写真だ。このあと1982年にフォークランド紛争が起き、英軍の輸送船として兵員輸送用に 徴用されたので、大幅な改装が行われた。その後さらに豪華客船として再度の改装がされている。

いまも報道では「クイーンエリザベスU」と表記されることがあるが、間違い。

船長と私
パーティーに限らず毎日
午後6時以降はタキシード着用。
船長が言っていたが「U」(ザ・セカンド)では女王そのものになってしまうので、 「クイーンエリザベス2(ツー)」略して「QE2」(キューイー・ツー) というのが正しいそうだ。船首の表記もそうだし、船内だけで 販売されているウイスキーも「QE2」となっている。

2002年3月8日、作家の曽野綾子さんが産経に「豪華客船の旅」という一文 を書いている。たぶん「QE2」だと思うが、教会があること、船内に老人が多くて、エレベーターが 開いてる間に乗り降りできないほど行動が遅い人がいること、航海中に亡くなる人が出たが、何体の遺体を 保存できる冷蔵庫があるのか、などとある。その通りで、エレベーターが9台ほどあっても、足らないのは、 遅いのと、女性と老人のために手で押さえている時間が長いせいだ。 私のときも死者がでた。そのとき見たら、4体分の冷蔵庫があった。

キリスト教の教会ばかりでなく、シナゴーク(ユダヤ教会)、モスク(イスラム教会)などの礼拝所とそれぞれの調理室があった。宗教と料理にタブーがない日本人 には寺も日本料理の場所もなかった。「今日は日本人のためにマグロの刺身です」と案内があって、勇んで駆け付けたら、マグロが トロも赤身もいっしょくたにサイコロ状に細かく切られたのが山盛りになっていた。わさびもなくて上から醤油がたっぷりかかって、フォークが用意されていた。 ローストビーフしか生まなかったイギリス人に料理をまかせるのは間違いだという信念はこのときから変わらない。

デッキにはプールが。
1日6食くらい食べ物が出た。
遊歩デッキの救命ブイも
「クイーンエリザベス2」になっている。
母港のサウサンプトンの文字も見える

「QE2」は長く「海の女王」として君臨してきたが、2003年末に完成した15万トンの超メガシップ、「クイーンメリー2」に世界一周のクルーズを譲った。 2001年から2003年にかけてのワールド・クルーズが「QE2」に とって最後の世界一周航海だった。初代の「クイーンメリー号」(1934年建造1964年引退)はカリフォルニア州ロングビーチ港にホテルなどのある観光施設として 係留されている。

「クイーンメリー2」はどこで造船しているのかと思っていたら、意外なところから判明した。2003年11月15日、フランス西部サンナゼールにある仏造船大手アルストムの ドックで、ほぼ完成して関係者に お披露目していた「クイーンメリー2」が見学用桟橋が崩落して死者15人、負傷者30人を出すという大惨事を起こしたというニュースが流れたのだ。 フランスの造船技術の粋を集めたものとして宣伝していただけにシラク大統領も駆けつけたが、その報道では新聞もテレビもやはり「クイーンメリー2世号 」と間違っていた。船体を見るとちゃんと「QM2」と書かれている。

本体の事故ではなかったので、12月22日、予定通り進水式を行ったが、遺族への配慮と刑事責任の追及が続いているのでひっそりとした進水式だったという。 「クイーンメリー2」は総トン数15万トン、全長345メートル、全幅39.9メートル、乗客定員2620人、乗組員定員1253人。巡航速度28.5ノット。 客室700、1300人が一度に食事できるいくつものレストラン、5つのプール、プラネタリウムまである。総工費8億ユーロ(約1080億円)。 2004年1月12日、サウサンプトンから米国フロリダのフォートローダーデールへ初航海した。

QM2
横浜に入港したQM2(2010.2.19)
日本へは2009年3月に横浜開港150年を記念して初来日、また2010年2月19日世界一周の途上にも 横浜港・大黒埠頭に入港した。本来大桟橋に着けるのだが、同船は海面からの高さが62bあり、 横浜ベイブリッジ(高さ約56b)をくぐれないために 貨物専用の大黒埠頭に入った。

「クイーンエリザベス2」(Queen Elizabeth 2)の今後だが、2007年11月、所有していたキュナード(Cunard)の親会社で米クルージング業界大手のカーニバル(Carnival)社が 約5000万ポンド(約107億円)でアラブ首長国連邦の政府系旅行会社傘下の投資会社に売却した。キュナード時代40年間に航海した550万海里は月と地球の間を13回往復した距離 に相当する。25回の世界1周航海を含め大西洋を800回以上横断し、200万人以上の乗客が乗船した。

「クイーンエリザベス2」はキュナード・ラインとしては最後の航海を終えていたが、2008年1月6日、花火に見送られ英国南部の港町サウサンプトン (Southampton)を姉妹船の「クイーン・ビクトリア」(Queen Victoria)と共に出航、大西洋を横断し米ニューヨークへ。同港から(違う運航会社の下での)最後の世界一周 クルーズに出た、オーストラリアを経由3月19日に大阪港天保山岸壁に入港した。このクルーズでは大阪が国内唯一の寄港地であったので、 日本で「QE2」を見ることが出来る最後の機会となり多くの人でにぎわった。

この航海を最後に改装され、ドバイにある世界最大の人工島パームジュメイラ(Palm Jumeirah)で5つ星ホテルになる。ドバイ・ポーツ・ワールド(Dubai Ports World)の会長は、 世界中の人に愛された船だけに「ドバイは海に面した国であり、私たちはQE2の伝統を尊重しています。新しい我が家でも大切にします」と述べている。 キュナードは2010年就役予定の新クルーズ客船の建造を計画していて、この船が次代のクイーン・エリザベスと命名されると発表している。 新クイーン・エリザベスはクイーン・メリー2の同級船ではなく、クイーン・ヴィクトリアの同級船で総トン数は9万5000t程度となる模様。


3代目「クイーン・エリザベス(QE)」日本初寄港


 豪華客船「クイーン・エリザベス(QE)」(長さ294メートル、9万900トン)が2014年3月16日深夜、横浜港に初めて入港した。
 QEの高さは56・6メートルで、港の入り口に位置する横浜ベイブリッジ(満潮時の高さ55メートル)の下を通れない。そのため、
  海面が2メートルほど下がる干潮時を狙ってベイブリッジをくぐり抜けた。

 国内初入港となった鹿児島港を15日夕に出たQEは16日午後11時過ぎ、横浜ベイブリッジの橋げたギリギリをゆっくりとくぐり抜け、
 大さん橋国際客船ターミナル(横浜市中区)に着岸した。丸1日停泊し、再び干潮時の17日深夜に出港予定。

 客船の大型化で、過去にはベイブリッジをくぐれず、やむなく手前にある貨物用の大黒ふ頭(同市鶴見区)に着岸させたケースもあった。
 市は今回、「有名な船だから、表玄関をくぐってもらって歓迎したい」(担当者)と、異例の作戦に踏み切った。

 QEは「クイーン・エリザベス2」に続く3代目で、2010年10月に就航。1月10日に英国のサウサンプトンを出港し、世界各地の
 港に寄りながら5月9日にサウサンプトンに戻る。日本では、鹿児島、横浜に加え、神戸、長崎にそれぞれ初寄港する。(当日の新聞各紙)

QE
横浜ベイブリッジすれすれに入港する「クイーン・エリザベス号」(2014.3.16)

私がタキシードを新調して豪華客船に乗船、「にわか紳士QE2に乗る」という記事を書いたことは上述した。世界一の豪華客船「クイーン・エリザベス」という言葉に は特別の響きがある。本当は総トン数でも長さでも、客室数でも上回るクルーズ船があるのだが、女王の名前を冠したこの船だけは特別で、それが日本初寄港、 それもベイブリッジという横浜の表門から入ってもらいたくて2メートルの余裕しかない干潮時間を選んですれすれに入港したというのでこの大騒ぎになった。

「クイーン・エリザベス2」(QE2)が引退したあとの後継船だから「QE3」となっても良さそうなものだが、「クイーン・エリザベス」となったのは、次の理由からである。 「QE2]が進水したときキュナード社の初代「クイーン・エリザベス」と戦艦「クイーン・エリザベス」が同時に現役であった。イギリスの女王・エリザベス2世ではなく、先 代の「クイーン・エリザベス」の後継船であることを強調しての命名だった。ところが2隻とも今では引退している。それに女王から特別の許可も出たというので 「クイーン・エリザベス」と女王そのものの船名になった。2020年ごろイギリス海軍では空母「クイーン・エリザベス」の就役が予定されており、客船と軍艦2隻に同 名の船があるという往時と同じ状況になる。

現在キュナード社が米カーニバル・コーポレーションの子会社となった関係で、所有は「カ」社、運航がキュナードという形になる。

「Queen」3隻揃い踏み

2015年5月25日、キュナード社の母港、英国リバプール港に「Queen」の名 がつく豪華客船3隻が勢揃い、3隻が並走するというまたとない機会があり、ファンを喜ばせた。

QE
勢揃いした「クイーン」の名がつく豪華客船3隻
「よく似ているが(上から) 「Queen Elizabeth」(クイーン・エリザベス」(9万0400総トン。乗客2,092名・乗員900名)、
「Queen Mary 2」(クイーン・メリー2)(14万8528総トン。乗客2,620名 ・乗員1,253名 )、
「Queen Victoria 」(クイーン・ヴィクトリア」(9万0049総トン、乗客2,014名・乗員900名)。

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あさま山荘事件ー凍える攻防

突入
鉄アレイで壁を破壊しての突入。
2002年2月19日の新聞の多くが、トップであさま山荘事件30周年を報じていた。 少し前には、今ではNHKの人気番組となった「プロジェクトX」で、鉄アレイで山荘の破壊を担当した人 や大量の水をポンプアップした消防隊員が取り上げられていた。まもなく映画も封切られるという。

あさま山荘
あさま山荘の攻防
確かにこれらは一面ではあるが、殉職した2警官のほか射殺された民間人が1人いたことやライフルで報道関係者など27人が重軽傷を負ったこと、 この事件の最中にニクソン大統領訪中という左翼運動にとってエポックメーキングな出来事があって、母親の一人によるマイクの説得にもでてきたこと、なによりも、 連合赤軍がここに来るまで12人も(京浜安保組まで入れると14人)総括という名のリンチで仲間を殺していたことなどにまったく 触れられていないことが不思議だった。

私にとっては札幌オリンピックとセットみたいな事件だ。というのもオリンピック取材団の一人としてずっと札幌にいて、五輪の終了直後に発生した事件で、 おまえたちは寒さになれているし、装備が整っている(五輪用の防寒靴やフードつきのコートなどを着用していた)、 という理由で、カメラマンともどもオリンピック取材チームがそのまま軽井沢に向かったのである。 といっても我が家を含めて、家族は夫や息子がどこに行ったのか知らなかった。これは新聞社では普通のことだった。

一つには、この時代、電話事情が悪かったことがある。入社のときは関西から札幌に申し込むと3時間くらいたってつながった。 急ぐ時は警察電話が頼り(全国に張りめぐらされた警察電話が一番充実していて、即時だった。よくないのだろうが、県警本部 を通じて最寄警察から市内電話につないでもらった)という時代が長かった。

二つのオリンピックを経てこのころよくなったとはいえ、軽井沢の現場から本社に一度つながると、切るな、といわれていたくらい。原稿や写真電送を どんどんすませるようにしていた。取材本部にしたのも電話がある空き別荘で、所有者に連絡して明けてもらったものだ。 でも風呂には入れなかった。犯人が包囲された手がかりが、異臭を放つというのが理由だったが、機動隊ふくめてこちらも似たような事情だったのだ。

あさま山荘
このロケーションを見ても難攻不落の天然の要塞
だったことがわかる。3階に見える 白い屋根の
ところが1階部分で道路に面して玄関がある。
軽井沢というと高級別荘地を思うが、旧軽のイメージとはまるで違うところだった。場所も国鉄(当時)をはさんで反対側だし ボタ山に開けた新興別荘地といった方がいいくらい。立ち木も大きいのがなくて、せいぜい直径15センチ くらいで、あまり遮蔽物にならない。これがマスコミに怪我人を出す理由にもなった。

銃眼
一晩のうちにあけられた銃眼。
夜中、犯人がコツコツと壁に銃眼をあける音がするのだが、照明は禁じられているので、どこなのかわからない。夜明けと ともにそこからいきなりライフルを撃ってくる。1本の木の後ろに数人のマスコミが隠れているから、ひざや手が木の幹よりどうしてもはみ出す。これで射抜 かれる者が多かった。右の写真がその銃眼だが、現場にいた者にはこれが正面玄関上にあけられた銃眼で、銃口からライフルだとわかる。私はこの銃口の先の山の斜面にしゃがんで いたのだが、右後方のテレビクルーがやられた。

銃口を避けてあちこち場所を変えながら移動するのだが、山の中の一本道を山荘で遮断されているから、はるか下を迂回するか、上の山側を越えるかしかない。笹の中のちょっとした登山の連続になる。たちまちズボンがだめになった。私もはじめて ジーンズを駅前で買ったが、事情は各社同じで品切れになるほどだった。この洋品店主は東京に仕入れに行ったあと急死したが、こんな話は30年後でもどこにも出てこない。

佐々淳行
佐々淳行氏
現場はあさま山荘だが、ここには、警察は機動隊員、マスコミは若い記者とカメラマンという「手足」がいた。 作戦を練る 警察幹部や新聞のキャップなど「頭脳」にあたる人間はずっと離れたところにいた。取材の中心は警察庁の寮だった。ここには佐々淳行・警備局付警務局監察官が 後藤田正晴警察庁長官の命令で派遣されていて、その指揮所になっていた。本名は「あつゆき」というのだが、当時「さっさ・じゅんこう」と呼んでいた、 氏は、この事件を機に危機管理の専門家の道を歩む。20年ほどのち、横浜のある会合で食事をともにすることがあり、席が隣り合わせだったので、現場に居たというと、あそこ が私の原点です、といっていた。

佐々淳行さん死去

佐々淳行(さっさ・あつゆき)さんが2018年10月10日、老衰のため亡くなった。87歳だった。
佐々さんは1954年に東大法学部を卒業し、現在の警察庁に入庁。全共闘などの学生が東大・安田講堂に立てこもった69年の「安田講堂事件」では、警視庁警 備1課長として現場を指揮。72年の「あさま山荘事件」も陣頭指揮した。その後は防衛施設庁長官などを歴任し、86年に初代内閣安全保障室長に就任した。
退官後は危機管理の専門家として活動し、警察官僚時代の経験を題材にした著書も執筆。あさま山荘事件のノンフィクションは2002年に映画化された。

警察の縄張り意識は今に始まったことではない。警察の管轄はよく池や川で区切られているが、地方支局勤務のとき、こういうところで土左衛門が上がると、 竹ざおで管轄外の向こう岸に押しやるということがあった。単純な自殺などでは書類処理の手間ばかりかかるので嫌がるきらいがあった。向こう側の署もしたたかで、 同じように押し返して、結局最初に 発見された地点の警察署が処理をする羽目になったという笑い話をよく聞いた。

これくらい世間の注目を集める大きな事件だと、こっちの力で解決できるという県警側の自負と、中央から派遣された側の、そっちだけではどうにもならんだろうという意識がぶつかり合う。 装備も中央の機動隊のが優れ、銃弾に対しても県警機動隊の防御楯4枚重ねて、やっと警視庁機動隊の一枚並という気の毒な面も あった。だから、中央から派遣された警察庁、警視庁機動隊組と地元の長野県警は仲が悪 かった。無線連絡も互いには通じなくてそれぞれの上司にだけ報告が上がる。あさま山荘の中にいる犯人の割り出しも両者別々にやっているきらいがあった。 手違いで照明弾が打ち上げられたときには「あのバカが」とののしる始末で、けっしてうまくいっていたわけではない。

東京組は事件後、すぐ本を出したが県警組は不快感をあらわにした。こざかしいことだけ長(た)けているとでもいうように。 後年(平成14年)NHKが「プロジェクトX」であさま山荘事件を放映したが、主役として地元消防団員や県警幹部、モンケーンの 操縦士を取り上げたため、今度は東京組がそっぽ、といったあんばいだ。

あさま山荘のつらら
放水はたちまち凍って
全体が氷柱(つらら)で覆われた
しかし、現場は違った。
とにかく寒かった。いまマイナス20度近くになる八ヶ岳に自分の方から進んで身を置いているが、犬のおしっこがみるみる凍るのを見るたびあさま山荘を思い出すほどだ。 放水の水をキャンバス地のタンクにためるのだが、周辺部からしわしわになり始めて、やがてみるみる全面凍った。寒気に加えて山荘めがけて水をまくから周囲は氷。寒さが加速するばかりだ。 取材といったって膠着状態で、別にすることはないから、町の薪炭店で買った薪をカメラマンが張り付いている ところに運び上げて、焚き火をしてやるのが主な仕事。しびれた手足の機動隊員が、たまりかねて、「お願いします。あたらせてください」とやってくる。一緒に股火鉢で夜の明けるのを 待つ。そんな繰り返しだ。現場では東京組も県警組もない。互いに「手足」同士の連帯感が生まれていた。

4日目くらいにたまたま「大事件」を目撃した。昼ごろだったが、功名心にかられたか信越放送の記者と、画家という男が警戒線を突破して山荘に近づいた。これはすぐつかまったが、これに気を取られているうちに、 斜面を這い登ってきた別な男がいた。みんなが見守るなか道路を悠々と歩いて山荘玄関にたどりついた。新潟からきたこの30歳の喫茶店経営者は麻薬で何回もつかまったことがあり、前日「人質の身代わりにきた」 と禁止区域に入ってつかまり、夜中釈放されたばかりだったが、このときはわからない。 「赤軍さん、赤軍さん、わたしも左翼です。私は妻子と離縁してきました。医者をやっております。中へ入れてください」。 このとき中にいた坂口弘は、警察だと思って銃眼から拳銃で撃つ。

自分で立ちあがり、かけつけた警官に「おお痛え。大丈夫だ」というが朦朧としているようす。佐久病院で後頭部の弾の摘出手術を受けるが10日ほどあと死亡する。 これとて、警察の連携が十分なら捕まえた不審者を夜中に釈放するなどありえないと思うのだが、山荘を取り囲む東京組中心の機動隊が首をかしげるなかひょこひょこ 出てきた。

機動隊とカップ麺
カップ麺を食べる機動隊員
テレビ中継は記録づくめ。突入の日などNHKは朝から11時間ノンストップ放送。民放もはじめてCMを飛ばした。視聴率89.7%は全国民が見たといっていい数字だ。おかげでわけのわからないのも、全国からあさま山荘めがけて 集まって来たのもこの事件の特色かもしれない。 東大助教授、弁護士、僧侶の4人組が赤軍と面会したいとやってきたが、安全は保証できないといわれると帰った。クルマでやってくる野次馬は3000人になった。屋台まで出始めた。

後日談だが、日清食品が発売した「カップヌードル」は湯を注げばいつでもどこでも食べられるのが売りだったが、「あさま山荘事件」で機動隊員が食べる風 景(写真右)がテレビで流れ、注文が殺到、今日のカップ麺隆盛のきっかけとなったのもこの事件の余波だ。

同社ホームページによると、カップヌードルは昭和46年9月に販売開始。世界初のカップ麺という画期的な商品だったが、一般的な袋麺が1食25円程度だったのに対して100円と高価で、当初の売れ行きは鈍かった。だが、雪の山中でカップヌードルを食べる機動隊員の姿が繰り返しテレビ中継で放送されると人気を呼んだ。機動隊員がカップヌードルを食べていたのは、用意された弁当、おにぎり、沢庵までが氷点下の気温ですぐにカチカチに凍ってしまうためだった。その後、累計販売数500億食を超えるロングセラーに育った。


突入
あさま山荘正面玄関からの突入。逮捕は日没時までかかった。
強行突入した最後の日、2月28日は現場にいなかった。交代が来たので東京に戻っていた。久しぶりに我が家で風呂にはいって、出社した編集局のテレビで落城を見守った。あれだけ恐怖の的だったモルタル壁にあけられた銃眼がモンケーン(鉄球)の1発で吹き飛んでいた。

突入経路
3階の突入経路。全員がベッドルームにいた。
突入した機動隊員は警視庁組と県警組との混合部隊だった。1階は警視庁第9機動隊、2階は長野県警機動隊、3階は警視庁第2機動隊、突入のため選抜されたのも警視庁と長野県警2人ずつという配置で、 張り合う組織同士の顔が立つように配慮されていた。


顔出し
犯人がライフルを構えたまま顔を出した瞬間。
坂東と吉野弟かと思うが狙撃されることはなかった。
3階の片隅に追い込まれた犯人は射殺されないことをいいことに、鉄パイプ爆弾を投げ、ライフルを撃ちとやりたい放題。殉職者2人ほか重軽傷多数という凄惨な現場になっていた。催涙ガスと放水で息苦しくなった犯人2人が雨戸を蹴破って 顔を出した際も配置されていた狙撃手は撃たなかった。後述の警察庁長官通達のためだった。

ベッドルーム
後日撮影された、3階ベッドルームの様子
午後6時15分、牟田泰子さんが救出され、つぎつぎ逮捕されて引きずり出される連合赤軍の連中は(自殺防止の)さるぐつわをかまされていたが、どれもずぶぬれで悪鬼のような表情だった。218時間に及ぶ「あさま山荘事件」は解決 したがこれはまだ序の口で、14人も惨殺された驚愕のリンチ殺人が白日にさらされるのはこのあとのことだった。


あさま山荘事件の経過と最後に突入し犯人逮捕の瞬間まで(ここクリックでYouTubeへ)

治安の礎
治安の礎(いしじ)のレリーフ
あさま山荘事件は昭和47年(1972)2月19日から10日間。1500人の警察官が投入され、2人の犠牲者と多数の重軽傷者を出して終わった。。翌年、殉職した 警視庁の内田尚孝警視長と、高見繁光警視正(ともに死後2階級特進)の2人の冥福を祈り、治安への決意を表す記念碑が建立された。「治安の礎(いしじ)」 といい、碑の右横にはモンケーンで突入する瞬間が描かれた銅板のレリーフがはめ込まれている。

後年ゴルフに行くことが多かったプリンスホテルの「軽井沢72(セブンツー)ゴルフ場」のそばにあり、遠くに山荘が望める場所なので時々立ち寄ったことがある。 いまも「あさま山荘」はあるものの、河合楽器から別の企業に売却されている。

*追い詰められた連合赤軍*(メモ1)

警察もマスコミもこの派手なあさま山荘事件で一連の過激派犯罪は終結したと思った。だがこれは次なる驚愕の集団リンチ殺人事件への幕 開けにすぎなかった。あまりの残酷さゆえに過激派の闘争はよりどころを失い、一気に消滅へと向かう。その狂気への経過はどういうものだ ったのか。

赤軍派はよど号ハイジャック事件をおこした集団だが、1971年(昭和46年))12月ごろ、森恒夫(当時27、大阪市立大)が率いていた。 これと永田洋子(ひろこ、当時24、共立薬科大卒)が委員長の京浜安保共闘(警察の公安用語では日共革命左派)が合流して、計29人 (うち女性10人)の連合赤軍ができた。京浜安保共闘というのは日本共産党左派神奈川県委員会(日本共産党とは無関係)から分派した もので彼らの中では「革命左派」と呼ばれていた組織。

今ではあさま山荘事件もリンチ殺人事件も連合赤軍の犯行と簡単に一まとめにされるが、赤軍派と京浜安保共闘の非公然部門が合体して連 合赤軍を結成した事実はマスコミも警察も当初は掴んでいなかった。だから、銃砲店襲撃や銀行襲撃など彼らの犯行の手配も別々の事件と して扱われていたほどだ。過激派が連合したことはあさま山荘事件の直前にようやく察知できたことだった。

《つぎつぎ逮捕》

1972年(昭和47年)2月、京浜安保共闘のアジトが群馬県伊香保町の榛名山中にあることがつきとめられた。2月14日には群馬県警機動隊が動員され、アジト 捜索が開始された。この山小屋は暮れから正月にかけて建てられたらしく、若い男女9人ほどが出入りしていたようだがすでに小屋を 焼いて撤収していた。

続く2月16日、山梨・埼玉・長野の各県警が大規模な山狩りを実施した。午後になって群馬県の妙義山中の妙義湖畔の林道で、ぬかるみにはま って動けなくなったライトバンがトラックに引っ張り出してもらっているのを捜索中の署員が目撃し、職務質問した。3人の男は逃走したが、 残る2人の男女は車の中に閉じこもって、ラジオを聞いたり、食事したり、「インターナショナル」を歌い、女も尻を出して排泄するなど の行為をした。

このため署員は車を押して、500メートルほど先の人家まで運びアジトへの出入りを目撃した地元の人に確認させたところ、赤軍メンバーら しいことがわかった。とりあえず山小屋を作るのに国有林を切った容疑で同夜逮捕した。
男女は連合赤軍のメンバーで横浜国大生、杉崎ミサ子(当時24歳)と慶大生、奥沢修一(当時22歳)と判明した。

連行される森恒夫と永田洋子
2人の逮捕を伝える当日の新聞(2月17日朝日夕刊)
森恒夫の名前がまだ分からず「連れの男」になっている。
森恒夫と永田洋子
逮捕時の森恒夫と永田洋子
さらに翌2月17日午前9時半頃、逃げていた森恒夫(当時27歳)と永田洋子(当時26歳)が妙義湖近くの山の岩場にひそんでいるのが見つかり、 機動隊員10人が近づくと、森は匕首(あいくち)を抜いて「近寄ると殺すぞ」と怒鳴ったが、隊員が3発威嚇射撃をすると同時に取り押さえた。
その前にも2人は機動隊員と出くわしていた。このときは、「東京から来た俳優です。ロケに来ました。危ないのなら引き返します」と言 って逃れていたが、引き返さずにまたも洞窟に向かったため再度出くわしての逮捕劇だった。2人の身なりは汚く、垢まみれで匂いが漂っ ていたのも手がかりだった。

ちなみに、この時森恒夫の取り調べに当たったのが当時、警察庁警備局公安第一課長補佐で、のち政界に転出した亀井静香・ 衆議院議員。自民党元政調会長など要職にあったが郵政民営化に反対して国民新党に追われたものの有力な死刑廃止論者として知られる。

森、永田という最高幹部の逮捕で残る行動メンバーは9人になっていた。彼らはラジオで2人の逮捕を知り、これで総括がなくなると喜ぶ。し かし、19日には軽井沢駅で植垣康博(当時23歳)、青砥幹夫ら男女4人が逮捕された。これも異臭をはなつのが怪しまれた。

4人は午前8時前に軽井沢駅に着き、小諸までの切符を購入した。1人は待合室の売店(今で言うキヨスク)で新聞とタバコを買ったが、こ の時店員が不審に思って駅員に知らせた。いずれも若く、薄汚れたアノラックに長靴姿で、顔や手も泥で汚れていて臭ったためだ。長 野行きの汽車の中で通報を受けた警察官に職務質問され、ピース爆弾、鉄パイプ爆弾、猟銃の散弾、登山ナイフなどを持っていたため火薬 類取締法違反で現行犯逮捕された。これで残り5人。これがあさま山荘事件を起こすことになる。

森恒夫(1944年12月6日-1973年1月1日)

森恒夫と永田
逮捕時の森恒夫と永田洋子=1972年2月17日
大阪府立北野高校から大阪市立大学中国語学科に進み在学中に学生運動に飛び込む。父は大阪市電の運転士。幼少より、在日韓国・朝鮮人の問題に関心を持っていたという。高校時代、剣道部に所属、試合中に気絶したことがあり「目覚めたときには別の人格に生まれ変わったような気がした」と語っている。この体験が「殴って気絶させ、目覚めたときには別の人格に生まれ変わり、完全な共産主義を受け入れ真の革命戦士になれる」という論理を展開し、山岳ベースの総括において暴力を振るう遠因となったとされる。

当初は構造改革派のフロントに属していたが、後に共産主義者同盟関西派の田宮高麿と出会い、以降田宮の忠臣になった。1965年11月、日韓条約批准阻止デモに参加し逮捕されたが、刑事にすぐ自供。1969年6月、内ゲバで監禁されて自己批判を迫られたときはすぐ自己批判し、「リンチにかけないでくれ」と懇願した。1969年の7月6日の明大和泉校舎での関東派襲撃事件では直前で敵前逃亡し大阪に戻る。そのあとしばらくして森はすべての任務を放り出して仲間の前に姿を見せなくなった。

このような行動が問題視され、大菩薩峠事件で壊滅状態になった赤軍派で森の復帰話が出た際には田宮から「森は度胸がない」と酷評されるも、議長であった塩見孝也の強い意向もあったことで復帰を許され、赤軍派に参加。

1969年から1970年にかけて、赤軍派幹部を含む活動家が逮捕、あるいは海外の「国際根拠地」に移動すると、三里塚闘争で黙々と拠点作りをしていた森の名を挙げられ、塩見により森は政治局員に昇進。その後、塩見や高原浩之が逮捕されると国内赤軍派の獄外メンバーの事実上のリーダーとなり、M作戦(金融機関強盗)などを指揮したが、1971年3月に捜査当局から銀行強盗を指揮した罪で指名手配された。その後、京浜安保共闘との連携を指導し、やがて統一組織連合赤軍を結成した。

山岳アジトの軍事訓練に永田洋子率いる革命左派出身のメンバーたちが水筒を持参しなかったことを批判。赤軍派が主導権を握ることに成功し、連合赤軍最高幹部となる。その後も山岳ベースを転々とする中で、「総括」と称する暴力行為によって、永田洋子と二人で独裁体制を固め、12人の同志を殺害する山岳ベース事件を指揮した。

1972年2月17日、永田とともに一度下山した後、活動資金(2人で390万円弱)を持ってキャンプに戻ろうとしたところを妙義湖から1キロほど入った山中で警察に発見され、刃渡り15センチの匕首とヤスリで作った鎧通しを振りかざして警官隊の群れの中に突入した。森は倒れた警官に馬乗りになってナイフで刺したが(刺された警官は防弾チョッキを着用していたため軽傷)制圧され、永田と揃って逮捕された。

獄中で事件の詳細と自己の心情を述べた「自己批判書」などを書きあげ、「私の行った行為が日本革命史上かってない残虐な非プロレタリア的行為であった」と自己批判した。「自己批判書」は、1984年に『銃撃戦と粛清』(新泉社)の題名で出版された。

1973年元日、初公判を前に東京拘置所の独房で首吊り自殺しているところを発見された。発見時まだ心臓はかすかに動いており、ただちに蘇生措置が講じられたが間もなく心停止し、死亡した。28歳没。塩見と坂東國男宛に遺書が残されており、発見された遺書には「自己の責任の重さに絶望…自らに死刑を下す」と綴られていた。

森の死を獄中で聞いた永田は「ずるい!」と絶叫したという。これは森が生前に「全ては僕と永田さんの責任です」と語っていたためである。 性格的には優柔不断で、また大阪市立大学出身であることを京都大学出身者らから、常に格下扱いを受けていたことでコンプレックスを持っており、権力掌握後には有名大学出身の同志を疎んじて暴力的に接した(総括の対象とした遠山美枝子は当時獄中にいた最高幹部の高原浩之の内妻で、重信房子の親友だった。山田孝は京大出身の古参幹部、と森にとって目の上のたんコブだった)。一方で、自身の出身大学よりも格下と思われる大学出身者・高卒者には高圧的だった。

逮捕当時妻子がいたが、逮捕直前には妻子と別れ永田洋子と再婚しようと考えていた。「革命のためにはそれがふさわしい」という理屈からだった。

*あさま山荘事件*(メモ2)

追われた5人はトラックを運転手ごと奪って逃げたりするが、追い詰められて、1972年(昭和47年)2月19日午後3時半ごろ、軽井沢町大字発地(ほっち)字牛道514−181番地の河合楽器の保養所「あさま山荘」(レイクニュータウン別荘番号728号)に 玄関口から土足のまま入って、管理人夫人の牟田泰子さん(当時31歳)を人質にして3階の「いちょうの間」に篭城する。これが事件の発端だった。

5人は、坂口弘(25歳/東京水産大中退/京浜安保共闘)、坂東国男(25歳/京都大卒/赤軍派)、吉野雅邦(23歳/横浜国大中退/京浜安保共闘)、加藤倫教(19歳/東海高校卒/京浜安保共闘)、その弟のM(当時16歳/東山工業高校/京浜安保共闘)だった。 加藤倫教とその弟のMには兄(能敬)がいたが、榛名山ベースでリンチによって殺害されている。また、吉野雅邦の妻・金子みちよも迦葉山ベースでリンチにより殺害されている。

牟田夫妻
牟田夫妻
あさま山荘が選ばれたのは、冬にはほとんど空き家になる中で、人が住んでいると判断したから。事実、管理人で、泰子さんの夫でもある郁夫さん(当時35歳)は、6人の宿泊客を案内してスケート場に出かけていた。この6人分の食料も役だった。入ってみてわかったことだが、道路に面した山荘の玄関は実は3階にあり、その下に2階、1階があった。 標高1169.2メートルの崖に建てられた要塞のような建物で、守りやすいということで、立てこもることで意思統一した。

真岡
銃を奪われた真岡の銃砲店
このとき、連合赤軍が所持していた武器は、1971年2月17日午前2時ごろ栃木県真岡(もおか)市の銃砲店に車で乗り付けた学生風の男3人が押し入り、一家4人を縛り上げたうえ、手に入れた、散弾銃10丁、ライフル1丁、拳銃1丁、上下2連銃3丁、5連銃1丁、爆弾数個、ライフル実包700発や散弾銃弾2300発など。

真岡の銃砲店襲撃の前の70年12月18日には東京・板橋の交番を狙ったが失敗し、その場で1人が射殺されている。ハードボイルド作家の大藪春彦邸襲撃も企画した。「彼なら銃器も持っているに違いない」と大藪邸に連合赤軍の先遣隊がファンをよそおって訪れたところ、応接間に通され、お茶も出してくれて歓待された。この恩義で襲撃先から外したという。

後藤田
後藤田正晴長官
あさま山荘事件では、後藤田正晴警察庁長官は6項目からなる指示を出している。
(1)人質牟田泰子は必ず救出せよ。
(2)犯人は全員生け捕りにせよ。射殺すると殉教者になり今後も尾を引く。国が必ず公正な裁判により処罰するから殺すな。
(3)身代わり人質交換の要求には応じない。特に警察官の身代わりはたとえ本人が志願しても認めない。殺されるおそれあり。
(4)銃器、特に高性能ライフルの使用は警察庁許可事項とする。
(5)報道関係と良好な関係を保つように努めよ。
(6)警察官に犠牲者を出さないよう慎重に。

「カミソリ後藤田」の異名をとり、後年、政界に入り副総理までつとめた人だけに、30年後の今でも適切な指示に感心する。ライフルの使用に制限を加えたのは、 二年前の瀬戸内シージャック事件の影響がある。狙撃で解決した事件だが、胸を撃たれ、デッキにゆっくりくず折れていく犯人の姿がテレビで流れ、人権派が批判していた。 中には守られなかった(死者が出た)ものもあるが、マスコミとの報道協定が成立、どちらかといえば無秩序だった取材現場(犯人が報道で警察の動きを知ることが多かった)で、 一つのルールができていくのもこのときからである。連合赤軍側が発砲したのはライフルなど104発、これに対して警察側は威嚇射撃16発だけ。殉職者2人。警察側がいかに、耐えに耐えた事件かわかる。

今ならわからないが、息子がこんなことをして申し訳ないというのが、犯人の家族の気持ちだった。指紋から割り出されて、3日目から家族が到着する。警視庁のヘリコプターで来た吉野雅邦の両親と坂口弘の母親が警備車から呼びかけを行う。 「まあちゃん、聞こえますか。牟田さんを返しなさい。世の中のために自分を犠牲にするんじゃなかったの。普通の凶悪犯と違うところを見せて頂戴。武器を捨てて出て来て。それが、本当の勇気なのよ」(吉野の母、51歳)

「牟田さんの奥さん、申し訳ありません。代わりが欲しいなら私が行きますから」(坂口の母) 「昨日、ニクソンが中国に行ったのよ。社会は変わったのです。銃を捨てて出てきなさい。森さんたちも捕まったけど無傷だった。出てきなさい。牟田さんの奥さん、元気ですか、何とお詫びしてよいか・・・」(同)

前日の21日、ニクソン米大統領が北京を訪れ毛沢東と会談し、歴史的な米中国交正常化が実現した。時代のうねりが現場でも感じられた。 零下10数度の寒風の中、マイクをしっかり握りしめて涙にむせびながら切々と訴える2人の母親たち。機動隊と報道陣の目が潤んだ。 「お母さんを撃てますか」といった母親に、吉野はためらわずに1発撃った。母の乗った特型警備車に命中した。 指紋照合で坂東國男もいることが判明。坂東の母親(当時47歳)も現場に駆けつけた。 「中国とアメリカが握手したのよ。あんたたちが言っていたような時代が来たのよ。あんたたちの任務は終わったのよ。人を傷つけるのは愚かなことです。鉄砲撃つなら私を撃っておくれ。早く出てらっしゃい」

坂口
連行される坂口弘
吉野雅邦
吉野雅邦(柏警察署に連行された時)
2月28日(10日目、Xデー当日)午前10時から、警備部隊1635人(うち警視庁からの応援部隊548人)、特型警備車輛9輌、高圧放水車4輌、10トン・クレーン車1輌での総攻撃が始まった。ガス弾と放水で抵抗力をそぎ、鉄球で 壁を粉砕して、飛び込む作戦だったが、連合赤軍側もライフル、拳銃、鉄パイプ爆弾で抵抗した。結局2人の殉職者を出し、散弾銃で失明した隊員もでた。一進一退が夕方まで続いたが、午後6時20分、突入した機動隊員が5人を逮捕、泰子さんも救出された。
あれだけ中継を続けたテレビだったが日没で、猿ぐつわをはめられて出てくる犯人を写したのはハンディカメラを持っていたフジテレビ1社だけだった。

その日、坂東の父親(51)は旅館を経営していた滋賀県大津市の自宅で自殺した。息子の責任をとっての自裁だった。

坂東國男(ばんどう くにお)
1947年1月10日滋賀県大津市生まれ。生家は東海道本線(琵琶湖線)石山駅前で旅館を営んでいた。滋賀県立膳所高等学校卒業。1966年に京都大学農学部林学科に入学するがのちに退学。1971年代に赤軍派の坂東隊として、植垣康博、山崎順らを率いてM作戦(金融機関強盗)を行った。赤軍派が京浜安保共闘と統一し連合赤軍となると、連合赤軍中央委員に就任。連合赤軍での序列は5位。

板東國男
超法規措置で羽田空港から出国時
の坂東國男=昭和50年8月5日
連合赤軍幹部として山岳ベース事件に関与。1972年2月19日に警察の手から逃れるために仲間4人とともにあさま山荘事件を起こす。唯一つ  赤軍派出身であった。40日間黙秘をしていたが、事件中に自殺した父親の位牌を見せられると山岳ベース事件やあさま山荘事件に関する供述を始めた。

獄中では永田洋子、植垣らと共に塩見派につき赤軍派プロ革派に参加。1975年に日本赤軍によるクアラルンプール事件で超法規的措置により釈放・国外脱出した際は「連合赤軍事件における同志粛清の裁きを受ける」として出国したものの、日本赤軍の中心人物だった重信房子からは、「あなた方を裁くつもりはない」と言われ不問に。

日本赤軍参加後は同組織最高幹部である重信房子の忠実な側近となった時期があり、重信を「敬愛する司令官同志」と表現したパンフレットの作成を行った。著書「永田洋子さんへの手紙」では、山岳ベース事件における自身について、「永田同志や下部の同志に映る私の実像は、「鬼のように冷酷」に同志を告発し、同志を死へ至らしめる恐ろしい人間であったし、動揺など一切しない人間として存在したわけです。」と書いている。

1975年以降の重信の路線に反発する和光晴生とは激しく対立、日本赤軍からの脱退届を提出した和光に対する査問会議の議長を務めるなどしたが、結果的に和光の脱退は阻止できず、さらに連合赤軍時代さながらの総括要求を繰り返し、空回りする坂東に嫌気がさした和光以外の複数人の離脱を招いた。その重信が2001年に日本赤軍の解散を宣言した直後に大道寺あや子と共に「日本赤軍解散宣言無効宣言」を表明した。

ばんど旅館
板東國男の実家「ばんど旅館」(現在は取り壊されマンションに)
現在も連合赤軍事件だけでなく、日本赤軍としてダッカ日航機ハイジャック事件に関与した罪も加わり警察庁に指名手配中であると同時に国際指名手配されている。公安当局によると、坂東は基本的に中東に拠点を置き、中国、ネパール、ルーマニア、オーストリアなどでの入国の形跡が確認されているが、詳細な消息および現在の生死は不明である。

坂東の父親はあさま山荘事件で息子が逮捕される直前に自宅旅館のトイレで首を吊って自殺している。遺書には「人質にされた方には心からお詫び致します。・・・残った家族を責めないで下さい」とあった。母親はあさま山荘事件の現場に訪れて投降を呼びかけている。実家の「ばんど旅館」は廃業し建物はその後も残っていたが、2016年の7月になって取り壊され、マンションになっている。


 
【吉野雅邦の凄絶な人生】
↑(クリックで「妻、金子みちよを総括で殺され、自分は終身刑で服役中の吉野雅邦の半世紀後の姿」=新聞、NHKの報道から転載=に飛びます。

あさま山荘事件の犯人5人
あさま山荘事件犯人5人のその後
坂東國男
あさま山荘で逮捕時の坂東國男
余談だが連合赤軍の坂東國男は逮捕された後、佐久警察署で調べられた。 40日黙秘したのち、事件中に自殺した父親の位牌を見せられると、「ありがとう。間違ったことをしてしまった。父には本当に申し訳ない」といって、12人のリンチ殺人を語り出した。この警察署も病院も、私の山小舎からすぐ下にあり、 通りがかるたびに思い出す。

機動隊側から回顧した番組がある。日本テレビの番組「あさま山荘事件」で、氷づけのなかで暖をとる機動隊、犯人の説得に当たる母親、ライフル発射の瞬間、第2機動隊の内田尚孝隊長 殉職の画面など。日本テレビの「佐々淳行スペシャル」で、3編に分かれている。

(佐々淳行スペシャルーその1
(佐々淳行スペシャルーその2
(佐々淳行スペシャルーその3

あさま山荘事件からちょうど50年の2022年2月、籠城組の一人が産経新聞に当時を振り返っている。

あさま山荘50年の証言 消えぬ記憶 「総括」兄の死、厳寒の籠城 実行メンバー 加藤倫教さん(69)

「あさま山荘」に立てこもった5人のうちの1人だった加藤倫教(みちのり)は当時19歳、「少年A」と報じられた。山岳アジトでの「総括」と称するリンチで当時22歳の兄、加藤能敬を総括で亡くした。「歴史に『もし』はないが、兄も私も関わらなければよかった」と述べている。半世紀経ても事件の記憶が消えることはない。

加藤倫教(
50年後の「少年A」加藤倫教。考えもすっかり変わった

《昭和47年2月19日、過激派組織「連合赤軍」のメンバーら4人と、あさま山荘にいた。その日の朝、軽井沢駅で別のメンバー4人が逮捕されていた》

捕まった4人の疑われた理由が、「臭かった」と聞き、別の山荘で体を拭き銃をリュックに入れて出ようとしたところ銃撃が始まった。車を奪おうと提案したが、無視された。あさま山荘の中に入ってこいといわれた瞬間、「終わった」と思った。なぜ、包囲されているのに建物の中に入るんだろうと思った。

《5人の中に当時16歳の弟もいた。山荘内での作戦は連合赤軍幹部の坂口弘(75=死刑囚)、坂東国男(75=国外逃亡)、吉野雅邦(73=受刑者)が決め、2人は見張りについた》

それぞれが配置につき、幹部が「集まれ」と言ったときだけ集まっていた。幹部はやけくそになっていたわけではなく、どうしていいか分からず、冷静さを失っていた。

《籠城は10日間続き、2月28日に警察が突入する》

その日の朝、「もう待てない」と(警察側の)口調が変わり「今日だ」と思った。催涙ガス弾が撃ち込まれ、鉄球が建物を破壊し始めた。催涙ガスで呼吸ができず視界もなかった。あのままいたら窒息していた。

ただ、狙撃されるのが怖くて顔を出すことはできなかった。逮捕されたときには「ああ終わった」と。あの当時、軽井沢は氷点下10度。ずぶぬれだった。あの日終わらなかったら凍死していた。

《逮捕後、集団リンチ殺人が発覚。兄も目の前で暴行を受けて縛られ、食事を与えられず極寒の中へ放置され、死亡した》

山に来たときから幹部は主導権争いをしているのが感じられた。今でいう「マウント」の取り合い。兄は赤軍派との統一を止めようと、京浜安保共闘(革命左派)幹部を赤軍派の前で批判してしまった。(革命左派の)永田(洋子=平成23年病死)からしたらメンツは丸つぶれ、(赤軍派の)森(恒夫=昭和48年拘留中に自殺)からしたら主導権を取るチャンスが来た。

暴行による死を正当化し、「敗北死」という規定をした。死ぬ気で総括して自分を見つめなおし、共産主義化して革命戦士になれるかを考えたらいい方向に変われると本気で言っていた。やることなすことがすべて悪循環に陥っていた。個人的な嫉妬や政治的な思惑が全くなかったかというとそうは思わない。

《籠城中の2月21日、米大統領のニクソンが訪中し、首相の周恩来と歴史的握手を交わした瞬間をテレビで見た。その後、ベトナム戦争も終わり、中国は毛沢東からケ小平の改革開放路線にかじを切る。徐々に考えも変わっていく》

自分たちのやったことは根本的に間違っていた。「民衆のために社会を変える」と言いながら、人質を取り警察官と撃ち合いをする革命って一体なんなのか。世界情勢の変化も大きかった。

《懲役13年の判決を受け、出所後は農業を営みながら環境保護活動にも携わった》

小学校の卒業文集に宮沢賢治の「雨ニモマケズ」の「デクノボー」になりたいと書いた。社会復帰して社会がよくなるため自分ができることはなんだろうと、社会と争うのではなく、誰かのためになることをやろうと思った。個人的には兄も含め、(連合赤軍に)関わりたくなかった。デモに行って終わりだったらよかったと思う。

《10年ほど前に自民党員になる。50年の歳月で世界の潮流も変化した》

今は閉塞的な時代。米中の力関係も変わり、50年前が今の50年を作る始まりだったとしたら、またここから新しい歴史が始まるのではないか。(2022年2月21日 産経新聞・大渡 美咲)

加藤三兄弟

【長男・能敬(よしたか)】
東海高から和光大に進み京浜安保共闘に入る。榛名山アジトで恋人の小嶋和子とキスしているところを永田洋子に見られ森恒夫に総括にかけられ死亡。22歳。
【次男・倫教(みちのり)】
倫教は1952年愛知県刈谷市生まれ。高校生の時、能敬に影響されて革命左派(中京安保共闘)に参加。卒業直後、爆発物所持で逮捕される。 兄の総括には不本意ながら参加し死なせてしまったことから、弟の加藤元久と脱走しようとするが失敗、連合赤軍メンバーと行動を共にしてあさま山荘事件で9日間の銃撃戦を行う。未成年であったため、弟とともに実名は伏せられて「少年A」と報道された。1983年2月に懲役13年の刑が確定し、三重刑務所で服役。1987年1月、仮釈放。

現在は実家の農業を継ぐかたわら、野生動物・自然環境保護の団体(日本野鳥の会愛知県支部、カキ礁研究会)に所属して活動しており、それらの団体で役員を務めている。

藤前干潟の埋め立て問題において埋め立てを阻止する活動に取り組み、2005年の愛知万博(愛・地球博)における海上の森開発問題において海上の森を伐採から守る活動をするなど、環境保護活動家として活動している。現在は自由民主党に入党しているという。転向の理由については補助金の陳情や業界団体の為に転向したとテレビ番組で語っている。

【三男・加藤元久(もとひさ)】
元久は1956年愛知県刈谷市生まれ。長男に影響されて街頭デモを行うが、父の反対にあい、家出をして革命左派に参加。山岳ベース事件では次男の加藤倫敬とともに兄の総括に加わるも死なせてしまい脱走を試みたが失敗、坂口弘や坂東とともに行動する中で浅間山荘事件を起こした。事件のときは未成年で「少年B」として報道。逮捕時は16歳であったため少年法で「少年B」と伝えられて実名は伏せられ、保護処分扱いとなった。その後については不明。

三兄弟の父親は愛知県の小学校の国語教師であったが、あさま山荘事件直前に引責辞職している。事件後新聞にこう語っている。

 「加害者の中にはやはり次男、三男がまじっていた。悲しみと憤りをどこにぶつければよいのかとまどいながら、すべて自分に向かって問い直しています。教育者として、父親としての私を。
 ある夜、次男の部屋から日本向けの中国放送が聞こえてきた。「毛沢東語録」「ゲリラ戦教程」をみつけたときも感情をむき出しにして怒った。長兄は家を飛び出し、そのころからあわてだした。三男が長髪にしているのをとがめるとくってかかる。あのおとなしい息子が突然変わった。
 3人が家出してから私は息子達の思想を理解しようと進歩的な大学教授の本を読んだ。無責任に革命と暴力を結び付けている。それにしてもなぜもっと早く、息子らの思想を理解しようとしなかったのか、遅かった。
 ただうれしかったのは、次男と三男が坂東の父親の自殺を私と思って悲しんでいた、と警視庁の方から聞いたときだった。私は教師をやめ、2人がいつか帰ってきたら、ほんとうの父親になって息子らに接したい。」
*14人総括への道すじ*(メモ3)

発掘現場
4人が埋められていた現場。報道陣も息を呑んだ。
=昭和47年3月、群馬県の山中
(クリックで大きな画像に)
2月16日に妙義山中でライトバンの中に立てこもって逮捕されていた奥沢修一が、3月7日になって「大久保清事件よりもっと恐ろしいことなのです 」と震えながら、日本中がその残忍、非情さに驚愕したリンチ殺人を自供しはじめた。全国民はふたたびテレビと新聞に釘づけになった。

奥沢の自供から群馬県警は甘楽郡下仁田町の山中で、約1bほどの深さの穴に埋められた男性の遺体を発見した。赤軍メンバー・山田孝(元京大生  27歳)のものだった。遺体は手足が縛られており、死因は凍死。衣類はナイフで切り裂かれて全裸だった。それからの1週間で12人の遺体を 掘り起こすことになる。

群馬県警の穴堀り
「山岳ベース事件」で穴掘りする群馬県警の警察官ら
(1972年3月、群馬県倉渕村))
群馬県警は前年(昭和46年)、大久保清連続殺人事件で、多くの遺体を掘り出したばかりで「穴掘り県警」と呼ばれた。群馬県はその後も殺人事件 での発掘が多く、「関東の墓場」とまでいわれた。

足取り
群馬のアジトを転々としては総括した
あさま山荘事件があったころ、すでに逮捕されていた永田洋子(ながた・ひろこ)が弁護士に「山で大変な闘争があった」「森さんにあの事は言ってはならないと伝えてくれ」と話していたが、内部闘争くらいにとらえていてこれほどのリンチ事件とは誰も考えなかった。

山田の遺体発掘を知らされた森恒夫と永田洋子は異様な反応を示したものの自供までには至らなかった。まもなく事件の前後に逮捕されたメンバー の自供などから大量のリンチ殺人の全容がわかってきた。榛名山に集結していたメンバー29人のうち、実に12人が死刑、または総括で死亡してい たのである。12人がすでに殺されていたという報告を受けた後藤田正晴・警察庁長官は「君、そんな馬鹿な・・・」と絶句したという。

榛名山ベース 榛名山ベース 迦葉山ベース 妙義山ベース
新倉ベース 榛名山ベース(絵:植垣康博) 迦葉山ベース(現場検証時) 妙義山ベース
(洞窟を利用した)

連合赤軍は計14人を殺害していた
連合赤軍による「総括」で群馬県の山岳ベース3か所で殺されたのは12人だが、その調べの中で京浜安保共闘はその前年に2人を処刑していることが判明、連合赤軍によるリンチ殺人の被害者は計14人になる。ベースから処刑部隊5人を派遣して逃亡した向山茂徳と女性メンバーの早岐やす子を「処刑」、茨城県印旛沼付近に埋めた。いわゆる「印旛沼事件」である。

連合赤軍事件の経過
連合赤軍事件の経過
【印旛沼事件】 印旛沼事件(いんばぬまじけん)とは、1971年(昭和46年)8月に発生した日本共産党神奈川県委員会(革命左派または京浜安保共闘とも)メンバーによる同志粛清殺人事件。
1971年8月4日、永田洋子は吉野雅邦に脱走した向山茂徳(20歳)と早岐やす子(21歳)を始末するよう命令した。理由は「スパイ」。2人は脱走を図ったためだった。

革命左派は1971年2月17日 真岡銃砲店襲撃事件を起こしたが、そのあとメンバーは、札幌に潜伏していたが、4月20日に永田と坂口が上京し、4月23日に赤軍派の森恒夫と会い、奪った銃2丁、実弾200発を30万円で売った。この資金で 5月下旬、山梨県都留郡丹波山村小袖の炭焼小屋にテントを張って「小袖ベース」としてここに17人を集結させた。

ここで向山茂徳が脱走したため警察への通報を恐れアジトを撤収せざるを得なくなった。7月中旬、同じ山梨県都留郡三富村(現山梨市)破浮山に「塩山ベース」を設置した。しかし名古屋に行った早岐やす子が逃亡したため、またもアジト移動を余儀なくされ、神奈川県に「丹沢ベース」を設置、組織防衛のためと永田、坂口、寺岡、吉野4人で逃げた2人の殺害を決定する。ここでも2人が逃亡したので静岡県大井川に「大井川ベース」を作っている。

次に移動したのが山梨県富士吉田市新倉(あらくら)の「新倉ベース」で、ここでは両派揃って軍事訓練を行っている。メンバー2人がアジト探しをしていた途中、たまたま伐採小屋から帰っていく労働者たちと出会った。一服しながら雑談しているうちに赤軍派とは思わずに、登山好きの学生さんと思ったようで「この奥に伐採小屋があるからおまえら、そこを使ったらいい。来年の春までは使わないから」と言われた。

「詰め込めば50人くらい入れそうな広さで、台所も突いていて、便所がはなれになっていて、さらにうれしいことには、米、小麦粉、缶詰、乾物類といった食料はあるし、焼酎はあるし、おまけにたばこまで置いてありました。ヤッターという感じでした」(大泉康雄・「あさま山荘銃撃戦の深層」植垣康博ヒアリング)

1971年11月11日 坂東国男、植垣康博、進藤隆三郎が新倉ベースへ移動、両派揃って軍事訓練を始めた。また「新倉ベース」では初めて総括が始まったところでもあった。

しかしここも安全ではなくなった。11月21日には同志5人が逮捕されて群馬県北群馬郡伊香保町(現渋川市)に「榛名山べース」を作って移動せざるを得なかった。榛名山ベースに集まったのは京浜安保20人(うち女10人)。12月20日には森恒夫率いる赤軍派9人(女1人)が合流、計29人(うち女10人)が山中にそろった。連合赤軍の誕生であり、半数が総括の名のもと総括死する惨劇の幕開けでもあった。

◆向山茂徳(こうやま・しげのり)
向山茂徳
向山茂徳
 1951年生まれ。長野県辰野市出身で、諏訪清陵高校では成績はトップクラスだった。性格は明るく、生徒会の役員を引き受けるなど、しっかりした生徒だった。新潟大学に進もうとしたが2度失敗した。高校の同級生に岩田平治がおり、そろって上京して早稲田ゼミナールに通った。岩田は大学に合格したが、向山はまたも失敗し、清涼飲料水の配達のアルバイトや新聞配達店で働きながら勉強をしていた。岩田の学生寮に遊びに行ったとき、そこにいたのが川島豪と坂口弘で、京浜安保共闘にオルグされた。

小説家志望で、山岳ベースでの訓練などにはあまり興味はなかったらしい。1971年6月に小袖ベースに入山するが、4日ほどで「山を下りたい」といいだす。理由は「僕はテロリストとしては闘えても、党建設のためのゲリラ闘争を持久的に闘うことはできない。小説も書きたいし、大学にも行きたい」ということだった。永田たちが説得したが結局、「永田のやってることは甘っちょろい革命ごっだ。おれはこの闘争の経験を小説に書くつもりだ」」と批判して翌日に脱走。向山は大槻節子(山岳ベースで死亡)の恋人であった。
脱走したものの浪人中の身でそれほど危険を感じていなかったようで、高校時代の同級生で京浜安保に入るキッカケになった岩田平治の元に姿を現す。そこで向山は岩田に、小袖ベースの訓練に参加してきたが脱走してきた事を説明した上で、岩田に不満をぶちまけた。
「(山岳ベースで)やることは作業と自己批判ばかり、息が詰まって一ミリの自由もない」
「あんなクソみたいな所で、クソみたいな連中と一緒にやっていくのは、まっぴら御免だ!」
と、怒りをぶちまけた。
すぐ居場所を突き止められ、8月10日殴られ血まみれで失神する。やはり小 嶋和子の運転で印旛沼に連れていかれたが、途中で意識を取り戻したため、車内で首を絞められ殺害され、やす子の場所から少し離れたところ に埋められた。20歳。

向山の脱走後、しばらくして、今度は早岐やす子が「山を下りたい」といいだす。「向山君のように無断で山を下りるのはよくないと思うので…」と前置きしてから下山の意志を表明した。理由は「彼に会いたい」からだという。早岐には、日大板橋病院に勤務する医師の恋人もあり、正直に、「(その)彼に会いたい」とまで打ち明けた。
永田は「同じ路線で闘ってる者同士の結婚が一番いいのよ。そうなるように頑張りなさい」と強引に説得し、早岐を沈黙させた。

早岐は、今後は作戦の為に積極的な兵士となりたいので、作戦の為の交番調査にも参加したい旨の表明をする。その決意表明が認められ、下見に行くことが許された。
◆早岐やす子(はいき・やすこ)
早岐やす子
早岐やす子
 1950年生まれ。長崎県佐世保市出身。県立佐世保高校卒業後、上京して日大看護学院に進学。日大紛争をきっかけに過激派に出入りするようになり、京浜安保では伊藤和子、中村愛子とともに「日大看護学院の三人娘」として呼ばれた。71年6月に小袖ベースに入山するが、7月に名古屋市の交番 襲撃の下見に向かう途中の静岡県掛川市で、パンと牛乳を買うために車を停めたところ、突然運転席の小嶋和子を突き飛ばして脱走していた。永田洋子が怒り女性兵士全員に「なんとしてでも見つけ出して来い」と命令した。
脱走した早岐やす子は故郷の佐世保に帰ろうとも思ったが、東京行きの切符を買った。そしてしばらく板橋区の友人のアパートに同居させてもらっていたが、ここもやがてメンバーに突きとめられた。

早岐やす子が暮らすアパートに小嶋和子がやって来た。「これぐらいのこと、詫びればすむと思うわ。みんな許してくれるわよ。向山さんも戻ってきたのよ」とウソを言われ、信用して小嶋について行った。 連れて行かれたのは永田のアジトである葛飾区新小岩のアパート。そこには中村愛子、伊藤和子、金子みちよ、杉崎ミサ子が勢ぞろいしていた。彼女たちは永田から「やす子の飲む紅茶に睡眠薬を入れろ」という命令を受けていたが、まさか殺害するとは思っていなかった。

 しかし、やす子はなかなか紅茶を飲もうとしなかった。しびれをきらした瀬木は「外に幹部が待ってるんだ」と連れ出した。外の車には吉野と寺岡が立っていた。やす子が車に乗りこむと、運転席に小嶋和子、助手席に瀬木政児、後部座席のやす子の両脇に吉野、寺岡が座った。 車内での詰問され自己批判の要求をされたが、やす子は「もうみんなにはついて行けない」ときっぱり言った。その時、瀬木はやす子の顔面を殴りつけ、吉野や寺岡も服をはぎ取って、胸や腹を殴った。

 やがて車は京葉道路に入り旛沼のほとりに着いた。成田闘争で、この辺には土地鑑があったからだ。男らはそこに死体を埋める穴を掘り始めたが、失神していたやす子がいつの間にか土手の方へ逃げ出していた。男達はすぐに追いつき、毛布をかぶせて暴行を加え、ビニール紐で首を絞めて殺害し、全裸にして埋めた。21歳。

森が坂東に「革命左派がスパイを一人処刑した」と報告すると、坂東は「え、またやったのか!本当にスパイだったのか、組織内でどんなことをしたんだ、もはやあいつらは革命家じゃないよ!頭がおかしくなったんじゃないか!」と言った。

◆瀬木政児
瀬木政児
瀬木政児
 1953年、三重県松阪市生まれ。真岡猟銃店襲撃、早岐と向山殺害にも参加。その後瀬木は永田洋子に活動をやめたいと言いだした。ずっと行動を共にしてきた盟友の離脱表明に驚いた永田は、彼の待つ喫茶店に飛んでいき、恋人の松本志信さん(東大闘争で逮捕歴アリ)と一緒に活動させるという条件でいったん翻意したものの、10月、寺岡らとともに永田から交番襲撃を命じられると、会津若松市の鶴ヶ城前の交番に下見に行った。運転手であった瀬木は逃亡ルートを決めるため交番の周囲をぐるぐるまわっていたが、誤って電柱にぶつけてしまい、車を乗り捨てて他の2人を喫茶店に置いたまま逃亡した。京浜安保からは5人目の脱走者となった。告白では小嶋和子も一時瀬木に好意を持っていた。

総括の名の下に山中で殺されたのは12人

迦葉山
迦葉山(かしょうざん)ベース。
金子みちよ、大槻節子ら3人が殺された。
一人が逮捕されると自供でアジトが判明するので、転々と居場所を変えていた。同県沼田市の通称迦葉山(かしょうざん)ベース、碓氷郡松井田町の妙義山ベース・・・行く先々で死体が増えた。「妻に対する態度がブルジョア的だ」という理由で殺されたのもいる。

永田洋子
永田洋子(ながた・ひろこ
射撃訓練で的をはずし「弾が外れてそれが原因で敗北するかもしれないのよ。革命戦士としての自覚が足りない」と自己批判を迫らたり、「他の者の総括中に余計なことを口走った」(尾崎)、「妻への態度が偉そうだ。革命意識が低い」(山本)のも総括対象になった。

寺岡は親友の坂口弘に「総括っておかしいと思わんか。このままじゃ俺たち全員森と永田に殺されるぞ」といったが、坂口が2人に告げ口、ナイフを足に突き立てられるなどすさまじいリンチを受ける。森が「最後になにか言うことないか」と言うと、「おれは最初からこの風船ババアの永田が大嫌いだったんや。お前らがリーダーなんてちゃんちゃらおかしいわい」と叫んで殺されていった。金子みちよは妊娠8ヶ月だったが「同志とやった(sex)ことがあるだろう。物への執着が強すぎる」と4日間も外に吊るされ、お腹の子とともに死んだ。

「たくさん食べすぎる」「美容院で髪をカットした」「隠れて銭湯に入った」「パンタロンをはいて、おしゃれをした」「寝そべったまま、”ちり紙を取ってくれ” と言った」…なんでも総括の理由にされた。多くは永田洋子の異常な嫉妬心、こじつけの革命論による犠牲者といえる。

たとえば永田と坂口弘は夫婦でこのころ結婚して2年余りたっていた。 資金調達のため東京に潜伏中の森と永田に、脱走者が出たことを報告しに行った坂口は、いきなり「私は森さんが好きになった。あなたと別 れて森さんと結婚する。これが共産主義化の観点から正しいことだと思う」と、一方的に離婚を申し渡されている。有無を言わさぬ態度で、坂口 はしかたなく「分かった」と答え、妙義山アジトに戻っている。

榛名山の発掘現場
報道陣も息をのんだ榛名山アジトの発掘現場

それにしても、連合赤軍内でこうした理屈も何も理解を超える残虐・非道な同志へのリンチ殺人に発展したのはなぜなのか。

確かに、はじめは革命を目指すための武闘派集団だった。その連合赤軍内で、いつしか永田、森の二人が独裁的支配をするようになり、2人の気 に入らない者は、規律違反、日和見、反共産主義的などの理由で「総括」のリンチにかけられ、殴られ、蹴られ、縛られた上、極寒の中に放置さ れて凍死させられた。

指導部はこたつ
指導部はコタツ、メンバーは土間のストーブの周りが定位置だった
脱走した者もいたが、彼らが逮捕されると、警察に追及されてアジトの場所が知られることになるため、ついには脱走するおそれのある者まで「 総括」の対象となった。この“人民裁判”は7人の中央執行委員会によって行われた。中央執行委員長・森恒夫、副委員長・永田洋子、書記長・ 坂口弘、中央執行委員には、坂東国男、吉野雅邦、寺岡恒一、山田孝の4人が名を連ねていた。といっても、実際は、委員長の森と副委員長の永 田が“判決”を下し、他の5人はそれに同調するだけだった。拒否したりビビったりすれば、中央執行委員であっても「総括」された。実際、寺岡 と山田が“死刑”に処せられている。

「総括」と呼ばれたリンチには「芟除(さんじょ)」と「死刑」があった。「芟除」とは、刈り除くという意味で革命戦士になれなかった者に対し、全員で 顔や腹を殴りつけ1歩も歩けない状態にしアジトの外の柱に縛り付け食事を与えないままに放置して寒さと飢えで死なせた。「死刑」は文字通り、 罰してすぐに殺してしまうことである。榛名山ベースでは、12月31日から翌年1972年(昭和47年)1月17日にかけ、8人が殺害された。

それにしてもすさまじい殺され方だった。赤黒く膨れ上がった両頬、突き出した前歯、首にヒモ跡、男女の区別さえ分からなくなっている者、苦 しんで自ら舌をかんでいる者、肋骨が6本折れている者、内臓が破裂している者など、まさに凄惨を極めていた。また、女の遺体はどれも髪の毛 を刈られていた。

《犠牲者それぞれの生い立ちと総括理由》

尾崎充男
尾崎充男
尾崎充男(おざき・みちお)は最初の犠牲者。岡山県児島市(現・倉敷市)出身。県立児島高校から東京水産大に進学した。丹沢ベースで公然活動のメンバーに不用意に銃の隠し場所を教えたことと総括の際、坂口と殴り合い、敗北した後「ちり紙をとってくれ」と言ったことを永田に問題視され、縛られ暴行を受けた。
12月31日夕方、メンバーが食事の準備をしている傍らで縛られた尾崎充男が「すいとんすいとん」とつぶやくのを聞いた森が批判し、腹部を殴り気絶させることを提起、腹部に膝蹴りを入れたが気絶せず、薄着で外に放置され凍死した。森が「共産主義化しようとしなかったために、精神が敗北し、肉体的な敗北に繋がっていった。革命戦士になろうとすれば死ぬはずがない」とし、「総括できなかったところの敗北死」と結論づけた。
永田洋子が「彼の敗北死を乗り越えて前進する決意を我々自身がより固めていかなければならず、食事が食べられないということもあってはならない」として全員でパンやコンビーフで食事をとった。活動資金の節約のため普段は麦飯をメインに食事をとっていた彼らにとってパン食は贅沢な食事であったという。
森は吉野雅邦に埋葬させたが、苦しさから死ぬ間際に舌を半分噛み切っていた。死因はアジトの外の柱に体を縛られ食事も与えられないまま放置されたことによる凍死と見られる。1971年12月31日死亡。22歳。

進藤隆三郎
進藤隆三郎
進藤隆三郎は福島県郡山市出身。父親は建設会社の役員で、幼い頃は東北地方を転々とし、秋田高校を卒業後、東京・御茶ノ水のフランス語専修の日仏学院に入学した。その後、東大闘争に関わり赤軍派に加わりM作戦にも参加。
ハンサムで、女性をオルグする役割だったが、組織と一定の距離を置いていたことや、横浜のドヤ街で同棲していた元芸者の女が逮捕され、メンバーのことを喋ってしまったことの責任を問われ、森恒夫から「ルンペンプロレタリア主義的な無政府的体質から脱却できておらん」と言われる。「なんでこんな事が必要なんだ」と抗弁すると、「なぜこうされるのか自分で考えろ」とリンチを受ける。肋骨6本折れ、肝臓破裂で腹が緑色に変色し「もうダメだー」と絶叫して1972年1月1日死亡。21歳。

小嶋和子
小嶋和子
小嶋和子は愛知県知多郡八幡町出身。市邨学園短大卒業。日精工業に勤務していて同僚で短大の先輩である寺林真喜江にオルグされ、当時高校生だった妹と「中京安保共闘」に加わる。組織では「小嶋姉妹」として知られた。運転免許を持っていたので運転手役を務めることも多かった。 印旛沼の同志殺しにも関与。
小嶋和子
榛名山アジトの床下に縛り付けられた
小嶋和子。(岩田平治が描いたもの)
71年7月、塩山ベースに入山。恋人だった加藤能敬とキスしているところを永田に見られ、怒りを買う。 「永田さん、いやになっちゃう。加藤が、寝ていると変なことするんだもん」と訴え出たが、永田に「あんたにも責任がある」と言われ、他の全員に 殴る蹴るなどの暴行を受け、小屋の外に放置され1972年1月1日凍死した。22歳。

加藤能敬
加藤能敬
加藤能敬(かとう・よしたか)は愛知県刈谷市出身。東海高校から一浪して和光大学文学部入学、京浜安保共闘へ。あさま山荘事件で逮捕された加藤兄弟(倫教、元久)=犯行時未成年でそれぞれ「少年A」「少年B」で報道=は彼の弟達。通称「加藤三兄弟」。父親は国語教師であり、財産持ちだが、倹約家で質素な生活をこころがけていたが右翼的思想の持ち主で兄弟3人が反発した。
小嶋和子とキスしているところを永田に見られ、71年12月27日、榛名山アジトに入って僅か1週間目に最初に総括を求められた。森や永田は弟達にも兄を殴らせた。2人は涙を頬に流し泣きじゃくりながら体を震わせて殴った。
遠山美枝子
榛名山アジトの柱に縛り付けられた
加藤能敬(絵:平田平治)
森には北野高校時代、剣道の試合で気絶したことがあり、「目覚めたとき何もかも清々しかった」ことから別人に生まれ変わって真の共産主義化を受け入れると信じていた。永田が「どのくらい殴れば気絶するの?」と聞くと「顔が2倍に膨れるまで殴れば気絶するだろう」と答えている。
加藤能敬、小嶋和子も尾崎充男も殴られた。しかしどんなに殴っても気絶しない。坂東国男は鳩尾(みぞおち)を殴れと言った。みな気絶しないで凍死した。加藤は1972年1月4日に死亡。22歳。

遠山美枝子
遠山美枝子
遠山美枝子は横浜市生まれ。県立緑ヶ丘高校から明大二部(法学部)に入学。労組幹部だった父は早くに自殺していたため学校へはキリンビール本社で働きながら通った。在学中は重信房子と仲良くなり、揃ってブントに入る。 重信がパレスチナへ 旅立ってからは、『赤軍‐PFLP 世界戦争宣言』というプロパガンダ映画の上映会を行っていた。後の「テルアビブ空港乱射事件」の岡本公三がこの映画の影響を受け、事件を起こすことになる。

重信の恋人に、当時の赤軍派の幹部・高原浩之という男がいたが、重信が田宮高麿と親密になると、遠山が高原と結婚したことから、周りが幹部夫人として一定の敬意をはらい、特別扱いされていた。その遠山が、1971年11月に、革命左派との共同軍事訓練に参加した。しかし、 遠山は、訓練にもついていけなかったし、服装や訓練に対する姿勢なども、それらしくなかった。それを革命左派メンバーに厳しく批判された。

遠山美枝子の総括
指導部による遠山美枝子の総括図
すらりとした美人で赤軍派では女王のようにふるまっていたことから永田洋子に目をつけられる。批判は、 髪を伸ばしている、鏡を見ていたこと、化粧をしていたこと、指輪をしている、会議中髪の毛をとかした、服装が派手、男に指示だけして自分は動かない、といったことが、戦士としてふさわしくないということを問題とされ総括された。
遠山が榛名ベースに来たころ、森恒夫は、共産主義化に、 「殴ることは指導である」 「殴ることは援助である」 という理論を組み立て、総括に暴力を取り入れていた。 赤軍派で2軍扱いされていたメンバー3人(遠山・進藤・行方)が、榛名ベースについてみると、すでに死者が出るほどの殴打や緊縛が行われているのを目にした。そして進藤隆三郎はその日のうちに殴打によって死亡 してしまった。

遠山美枝子逆エビ
逆エビ状に縛られた遠山美枝子
 遠山の緊張は極限まで達し、落ち着きがなくなった。小嶋和子の遺体を埋める役割をさせられてからは「小嶋のようになりたくない。・・・・・とにかく生きたい。・・・・・死にたくない。・・・・・どう総括したらいいのかわからない」といい出した。(永田洋子・「十六の墓標(下)」)。
森が「遠山も行方と同じように殴って縛れ」と指示した。皆で肩甲骨を肘で殴り、続いて大腿部をまきで思いっきり殴った。遠山は悲鳴をあげたが無視、殴り終わって逆エビに縛ろうとすると、森が、「遠山の足の間にまきを挟んで縛れ」といった。それで、まきをひざの裏に挟んで足を折り曲げさせたが、その際、寺岡氏が、「男と寝たときみたいに足を広げろ」といった。女性たちは一様にいやな顔をし、永田さんが、「そういうのは矮小よ!」と批判した。

遠山は3日の朝に縛られて以来、水も食事も与えられないまま、ここへ来て逆えび型に縛られ全く身動きできなくされてしまった。遠山の手には酷いしもやけによる激痛があった。「ああ、手が痛い。誰か手を切って」「誰か縄をほどいて。・・・いい、縄をほどかなくていい。美枝子は頑張る」などと叫ぶようにいった。
突然、両手で自分の首を絞めようとした。森がすぐ、「それは止めろ」と言って、止めた。すると彼女は、左右の手を拳にして自分の顔を殴り始めた。(中略) 遠山さんの自己殴打の場面を描くのはつらい。それは、見るに耐えぬ残酷なものだった。(坂口弘・「続・あさま山荘1972」)。遠山が両手で自分の首を絞めようとしたのは、自殺を考えたものとみられる。

永田洋子が「あなたの綺麗な顔がこんなに醜い顔になった」と鏡を彼女の前に突き出し、醜くなった自分の顔を見るように言った。遠山は怨めしそうに鏡の中の自分を見た。同性に対するこの仕打ちに私は腹が立った。(坂口弘・「続・あさま山荘1972」)
1972年1月7日死亡。25歳。

行方正時
行方正時
行方正時(なめかた・まさとき)は滋賀県大津市出身。進学校である県立膳所高校から岡山大学理学部に進む。学園紛争の時には岡山大のリーダー格にかつぎあげられ、ベ平連デモや東大・安田講堂事件にも関わり逮捕される。3ヶ月後、釈放された行方は膳所高の先輩である坂東國男に付き従い赤軍派中央軍に参加した。
1月3日の夜の全体会議で、森恒夫の提案でC・C(中央委員会)が発足した時、行方正時が、「これでスッキリした」と言った。これに対して森が、「”スッキリした”とはどういうことだ」と問い返した。これが行方に対する総括要求の発端となった。(坂口弘・「続・あさま山荘1972」)
行方正時遺体
発掘された行方正時の遺体
(文藝春秋Emma創刊号から)=下も
「僕は南アルプスで自殺しようと思い、こめかみに銃口をあて考えましたが、それが間違っていたことがわかりました。今、本当に革命をやらなーあかんと思っています」と言うと森が「総括になっていねえじゃないか。何もすっきりしていねえじゃないか」。行方は黙ってしまい、ますます落ち着きをなくすと、森は、「おまえのキョロキョロした落ち着きのない態度は何だ!」とどなった。 行方は、闘争にかかわってきたものの、過激な闘争には臆病風をふかせたこと、赤軍派の極左路線にはついていけないと苦悩し、榛名ベースに合流する前に自殺しようかと考えたことを打ち明けた。



行方正時
顔貌もわからぬくらい変わり果てた行方正時の遺体
 「おまえ、ビビッたとかどうとかそういうことばかりいって、総括をひきのばそうとしてるんじゃないのか?総括がなってない!青砥、山崎、植垣、縛れ!」と命じた総括して強者→戦士にさせる為にロープで縛ることにし、逆エビ状にロープで縛って柱に括り付けた。
時計商の息子という坊ちゃん育ちをしたため、森恒夫に目をつけられ、ほとんど「不適格者」の二軍扱いされ「行方氏の場合は、誰にも注目されることも無く、ただ、ひっそりと死んで行きました」(坂東國男・「永田洋子さんへの手紙」)1972年1月9日死亡。25歳。



寺岡恒一
寺岡恒一
寺岡恒一は東京都文京区出身。私立芝高校から横浜国立大学工学部入学。この大学は新左翼系の「東のメッカ」と言われており、赤軍派にここ の学生が多く69年の革命左派結成時から参加。杉崎ミサ子にしつこくつきまとっていたことや、「森や永田がこけたら、俺がリーダーになる。俺は 初めから風船ババア(永田)が大嫌いだったんだ。お前らがリーダーなんてちゃんちゃらおかしいや!」と言ったため総括を求められた。
寺岡絞殺
寺岡の絞殺状況(絵:植垣康博)
順位6位の中央執行委員であったが、「こんな調子ではいつ自分がやられるか分からない」と以前から親しくしていた書記長でもある坂口弘なら分か ってくれるだろうとつい口をすべらせたのが、そのまま、森と永田の耳に入り、ナイフやアイスピックで刺され、最後には首を締められるとい う凄まじい死刑を執行された。1972年1月17日死亡。25歳。

山崎順
山崎順
山崎順は東京都渋谷区出身。幼い頃、父親の仕事の関係でドイツへ。吉野と同じ都立日比谷高校から早稲田大学政経学部に入学。東大を目指して いたが、その年は入試が中止となっていた。その頃から政治運動に興味を示し始め、中核派としての活動を開始した。その後、赤軍派に移り、坂 東の直系の弟子となった。銀行襲撃(M作戦)にも積極的に加わる。寺岡処刑の時に加わらなかったことや、森から「女性をめぐるトラブルが絶えず、 組織から脱落しようとした」とされ、死刑を宣告された。肋骨6本を折られるなどの暴行を受けた後、アイスピックで数回刺され、首を絞められ て殺害された。1972年1月19日死亡。21歳。

山本順一
山本順一
山本順一は愛知県岡崎市生まれ。県立岡崎北高校から北九州大学外国語学部へ。卒業後は名古屋市の日中友好商社に勤務した。組織の構成員では無かったが仕事を辞め、妻、保子(28)と生後2ヶ月の頼良(ライラ)ちゃんを伴って12月28日に親子3人で連合赤軍の榛名(はるな)山アジトに参加した。連合赤軍の中では当時最高齢の28歳だった。

永田洋子は、山で子供を育て真の革命戦士にすると、当初は3人の参加を歓迎していたが、山本順一が妻に頼まれて子供のオムツを取りかえていたことを非難し始め、森恒夫も「妻対する態度が偉そうだ。革命戦士としての意識が低い。」などと因縁をつけ始め総括の対象になる。

頼良ちゃん
頼良ちゃん保護を報じる夕刊フジ1面(1972年3月15日号)
「夕刊フジ創刊50年の集い」のスライドショーから
3日間ほど激しい暴行を受け、外の木に縛られた上、森からは自殺しろと迫られ、舌を噛み切ろうとしたが出来ず、板や角材などで殴られ、参加してわずか2日目の1972年(昭和47年)1月30日、妻と子を残したまま山本順一は死亡。28歳。

夫を殺された妻、保子は子供を同じアジトにいた看護大出身の中村愛子に書き置きを残して預け、逃亡して天理教教会に逃げ込んで10日に名古屋・中村署に出頭した。一方、子供の世話を任された中村愛子も頼良ちゃんを連れて2月7日逃亡した。都内に舞い戻り、知人に頼良ちゃんを預けた。2月9日、知人が勤めに出たが、中村から「子供を預かって欲しい」と電話があり、アパートに帰ると赤ん坊が一人で寝ているだけで、中村はいなかった。子供の具合が悪そうなので、知り合いの医師にみてもらい、そのまま預かってもらった。医師は11日の新聞をみて「大変だ」と思って12日、弁護士に相談警察に届け出た。

中村愛子
中村愛子
翌13日、「中村です。これから自首します」と電話があり、5分後に千葉・市川署に出頭して確保された。頼良ちゃんが保護されたことを知ってホッとし、自首する決意をしたという。中村は「リンチの場面をみたか」との係官の質問にうなづいて涙ぐみ下を向いてしまった。名古屋・中村署に出頭した母親の保子は、こどもはてっきり永田らに殺されたと思っていたようで、中村愛子も脱走して頼良ちゃんが無事保護されていることがわかると号泣したという。

頼良ちゃん無事保護は大きなニュースとして報じられた。凄惨なリンチ事件の中で唯一の明るい出来事だった。頼良という名前は元パレスチナ解放人民戦線(PFLP)の活動家。女性闘士ライラ・カリドにちなんでつけられたものだが、保護の知らせに愛知県の父親、山本秀夫さん(当時58)は「一度も見たことない孫だからどういっていいのか」と喜び、頼良ちゃんを引き取り育てられ、現在(50年後)40歳台で、子供が3人いるという。妻、保子のその後については把握できていない。


大槻節子
大槻節子
大槻節子は神奈川県横須賀市出身。県立大津高校から横浜国立大学教育学部心理科入学。その後「婦人解放同盟」「青年共産同盟」に加入。労働運動を目指してキャノンに入社後、革命左派組織部として活動。京浜安保共闘結成直後の米ソ大使館、羽田襲撃の際には都内各所で火炎瓶騒ぎを起こす役をつとめ逮捕された。
釈放後、連合赤軍に参加して山岳ベースでの活動に同行していた。1971年同年7月15日、山岳ベースで男女関係のもつれか、向山茂徳と交際していた筈の大槻節子が、裏切られた怨嗟を含めてらしく、永田洋子に向山の殺害を提案したのだ。数週間前までは、大槻と向山は結婚を匂わせるかのような話をしていたが、この日、大槻は
「向山を殺るべきです」
と、自ら永田に提案したという。「人間的な感情を完全排除することで、真の革命戦士になれる」という洗脳的革命幻想に陥っていたのか、大槻の提案通り向山は印旛沼事件で殺された。その後の異常な大量連続リンチ殺人事件を起こす導入部分になった。
かなりの美人だったが、これが永田の嫉妬を受け暴行を受け、髪を刈られて殺された。1972年1月30日死亡。23歳。

金子みちよは横浜市鶴見区出身。県立鶴見高校から横浜国立大学教育学部社会学科に進学。混声合唱団で吉野雅邦(あさま山荘立てこもり) と出会い結婚。山では「同志と肉体関係がある、物質欲が強い」などの理由で、妊娠8か月だったが手足を縛られて交代で殴られ、外の床下の 柱に縛られて凍死した。胎児をかばうようにお腹をおさえて死んでいた。胃の中は空っぽだった。1972年2月4日死亡。24歳。
母親は娘の変わり果てた姿をみたとき、「恐ろしーい、ああ、どうしてこんなことになっちゃたの!・・・恐ろしーいッ!」と繰り返すだけだった。

山田孝
山田孝
山田孝は東京・大森生まれ。一家は山口県に移り、県立西高校卒業後、京大法学部に進学。その後大学院に進み政治学を専攻していた。赤軍派の母体となった関西ブントの活動家、また京都府学連でも活動していた。ブントでは理論家として知られ、塩見孝也議長らの側近だったと言われる。70年5月に結婚し、71年11月に子どもが誕生していたが連合赤軍とともに山中へ。もともと森より立場が上だったが、逮捕されている間に森が実権を握った。「一国革命論」の森とはうまく噛み合うことはなく、人民裁判にかけられた。
小嶋和子の総括死では、暴力による総括を考え直すよう森に要請した。外に出た際、溝にハマった車を引き上げるのに、レッカー車を手配し、その間に銭湯に入ったのを問題視され総括に。連合赤軍一の切れ者だったので森は論争では叶わぬと見て根性論で対応した。永田洋子が薪拾いさせることを提案、一日水一杯で作業させたが、作業に手間取るのを見て逆エビに縛られ、雪の上に放置されていた。死の直前、のどのかわきをいやすためか、山田はからだを必死にねじまげて雪をなめ、1972年2月12日「総括しろだって?ちくしょう」と言って死んだ。最後の犠牲者。27歳。

◇ ◇ ◇

森恒夫
前橋署に連行時の森恒夫
(1972年2月17日))
連合赤軍最高幹部の森恒夫は7月になって東京拘置所で自己批判書を書いた。
<私自身がどうして、あのときああいう風に行動したんだろう、としばしば思い返さざるを得ない。一種の “狂気” だと思っている。私 は自分が狂気の世界にいたことは事実だと思う>
翌年(昭和48年)1月1日、森恒夫は初公判を前に東京拘置所で首吊り自殺した。29歳だった。

1975年(昭和50年)8月4日、坂東國男は日本赤軍によるクアラルンプールのアメリカ大使館占拠事件の超法規的措置により海外へ出て日本赤軍と 合流、今も逃亡中だ。坂口弘の名も釈放要求の名簿にあったが、これに応じず、国際電話に対して、「君たちは間違っている。私は出ていかない 」と拒否、こののち死刑判決を受け、1993年に最高裁は永田洋子・坂口弘の上告を棄却、死刑が確定している。

総括で妊娠8ヶ月だった恋人の殺害に直面、あさま山荘事件では5人のメンバーとともに立てこもった吉野雅邦(よしの・まさひろ)は無期懲 役が確定し、千葉刑務所で服役中。

坂口弘の東京拘置所での様子

坂口弘
坂口弘(昭和47年5月15日、警視庁)
逮捕後、坂口弘は武装革命の必要性を疑問視し始め、特に「同志殺し」については反省の態度を見せた。1975年の日本赤軍によるクアラルンプール事件の際には釈放リストに名前があり、死刑を免れる可能性があったのにも関わらず釈放を拒否した(同じ連合赤軍幹部として連合赤軍事件に関与した坂東國男は日本赤軍への参加に同意し、釈放・出国している)。「私の闘争の場は法廷」「もはや暴力革命を志す時期ではない」と主張した。この時の様子について、坂口の弁護をしていた元九州大学法学部長の井上正治は次のように述べている。

「坂口は強い口調で彼らのゲリラ戦は誤っていると批判していた。『日本赤軍と赤軍の名を冠する以上、連合赤軍が犯した総括や処刑の誤りに目をつぶることは許されない。アラブの地にあって日本赤軍などと称することは思想の貧困である。アラブと連携するのならばパレスチナ人とともにパレスチナのために闘うべきだ』と言っていた。『自分は連合赤軍の裁判を、革命を闘った人間の裁判としてとらえている。革命裁判を闘う者が国外に脱出したりしたらどういうことになるか』と言うんですね」

東京拘置所に収監されているが、坂口の死刑が執行されていないのは、共犯者である坂東國男が国外逃亡して裁判が終了していないためとされている。

1990年代に、獄中で短歌を作って朝日新聞の「朝日歌壇」に投稿した時期もあり、その作品の一部が『坂口弘 歌稿』(朝日新聞社)にまとめられている。また、一連の連合赤軍事件の記録を当事者として後世に残すため、『あさま山荘1972』<上・下・続>(彩流社)を著した。

落葉焚く匂いに友をリンチせし小屋の炊事の匂いを想う                   (東京都)坂口 弘

1992年12月13日の朝日歌壇に佐々木幸綱撰で載った歌だが、獄中の坂口弘の作だ。

刺さざりし奴が居りぬと叫ぶ声吾のことかと立ち竦(すく)みおり      (朝日新聞社刊『坂口弘歌稿』)

誤りを糺(ただ)し来たれど足らざると思いて受けん死刑判決を  
という短歌」もある。

【坂口弘
1946年11月12日、千葉県富津市生まれ。中学1年の時に父親を病気で亡くす。千葉県立木更津高校卒業後、1965年4月に東京水産大学水産学部増殖学科(現東京海洋大学海洋科学部)に入学、水泳部に所属。夏に課外実習で水産労働者の劣悪な労働状態に接し、労働運動に人生を捧げようと決意、大学を中退、大田区の印刷工場に就職しながら労働運動に参加。

同じ大学で師事していた川島豪の「警鐘」に加盟、1968年3月、「警鐘」が日本共産党を除名された親中国派が結成した日本共産党左派神奈川県委員会(神奈川左派)に合流したため、坂口も神奈川左派の党員となり、上赤塚交番襲撃事件、真岡銃砲店襲撃事件を起こす。その後地下に潜伏。

羽田空港突入闘争に隊長として参加、得意の水泳で海を泳ぎ滑走路に入り火炎瓶を投げ逮捕されるも保釈で出獄。求刑で懲役7年が出たが、連携していた京浜安保共闘に加わっていた永田洋子だったら7年間待ってくれると考え、永田に求婚して事実婚となる。

革左人民革命軍と赤軍派中央軍を合体した統合司令部を設置し、統一赤軍を結成。印旛沼事件で元同志2人を殺害。統一赤軍から名称変更した連合赤軍に参加し、森恒夫や永田に次ぐナンバー3となる。

12人の同志を殺害した山岳ベース事件に関与、連合赤軍の森恒夫と永田洋子が下山した後、ベース内の同志たちをまとめていたが、1972年2月(山岳ベースで最後の死者が出た直後)、山岳ベースから接触のため永田と森の東京の潜伏先に赴いた折に永田から「森と夫婦になることにした」と離婚を告げられた。

脱走者が出たために移動中に2月19日あさま山荘を見つけ山荘に立てこもることを決め、事件を起こした。坂口はあさま山荘事件では総大将格となり、2月22日に警察の包囲を突破して山荘に侵入しようとした民間人に発砲(民間人は3月1日死亡)、2月28日に36歳の報道関係者に発砲して重傷を負わせ、山荘の厨房で鉄パイプ爆弾を爆発させ、5人の機動隊員に重傷を負わせている。

この間、坂口の母親が現場に駆けつけ、「(人質の)○○さんの奥さん、申し訳ありません。奥さんを返してください。代わりが欲しいのなら私がいきますから」10時に電話するから奥さんの声だけでも聞かせておくれ。奥さんをベランダに出して家族の皆さんに姿を見せてあげておくれ」とマイクで切々と訴えかけた。坂口は無反応であった。この母親は坂口の死刑確定後も面会の為に毎月時間をかけて拘置所に通い、被害者や遺族に謝罪して回りながら息子の助命運動を続けていたが、2008年に他界している。

逮捕後は武装革命の必要性を疑問視し始め、特に「同志殺し」については反省を見せるなど勾留中の態度は優良だった。殺人16件、傷害致死1件、殺人未遂17件で起訴され、1993年2月19日に死刑が確定した。

1975年の日本赤軍によるクアラルンプール事件の際には釈放リストに名前が挙がったが、死刑を免れる可能性があったのにも関わらず釈放を拒否した(同じ連合赤軍幹部として連合赤軍事件に関与した坂東國男は日本赤軍への参加に同意し、釈放・出国している)。「私の闘争の場は法廷」「もはや暴力革命を志す時期ではない。」と出国拒否した。

2022年現在、坂口は死刑囚として東京拘置所に収監されている。坂口の死刑が執行されていないのは、共犯者である坂東國男が国外逃亡して裁判が終了していないためとされている。

◇ ◇ ◇

佐藤優
坂口の隣房だった佐藤優氏
元外交官の作家、佐藤優(62)は、外務省をめぐる背任事件で東京拘置所に勾留中、坂口弘(75)と隣房になった経験を持つ。(年齢は2022年2月現在)

《平成15年4月、勾留中だった佐藤は、東京拘置所の「三十二房」に移った》
週に1、2回、隣房の人が映画を見ていることに気づいた。看守に訊くと「確定者だけ。わかるでしょ」と言われ、死刑囚だと理解した。ある日、ひげそりをするために房に電気カミソリを入れてもらうと「三十一房 坂口弘」と書かれたものが来た。今思えば、私が隣のことを気にかけていることを知っていた看守がそっと教えてくれたのかもしれない。

隣の房の人と会話することはできない。朝の点呼などでその比較的高い声が聞こえるだけ。髪は少し白くなっていたが、顔立ちはあまり変わっていなかった。いつもは読書か書き物をしていて、ラジオの野球放送も好きなようだった。3畳の房には1メートルほどの公判の書類が積まれ、その上に自分で描いたのか、山のボールペン画が置かれていた。恐らく、妙義山だった。

《妙義山は山岳アジトがあり、リンチ事件で同志が殺害された場所だ。冷静沈着な隣人≠セったが、坂口が別の死刑囚を注意したことがあった》
向かいの房の死刑囚が夜中に「死にたくない」と叫んで暴れた。「言いたいことがあるなら裁判所で言え。先生(看守)を煩わせるな」。そう一喝すると静かになった。わがままになる死刑囚は多いが、この人は房の秩序を守る人だ、こういう人だから学生運動のリーダーになったんだな、と思った。

《坂口には定期的に母が面会に来ていた》
面会を告げられると「お袋が来たんですか」と獄中生活で鶴のように細くなった脚で小走りで向かっていた。

《佐藤は保釈後、人を介して坂口の母へ手紙を出し、母ともかかわりを持つようになる》
「拘置所の息子の様子を聞いたのは初めて」と喜んでくれ、亡くなる1年ほど前まで交流が続いた。息子のために何ができるかを考えた人だった。彼にとって母に見捨てられなかったことが大きかったと思う。

《坂口はクアラルンプール事件で日本赤軍による釈放要求の対象になるが拒否、その後死刑判決を受けた。回想録や短歌で連合赤軍事件を問い直し、反省を記してきた》
事件を起こした当時の坂口弘はもういないと思う。千葉・印旛沼でメンバー2人を殺した際に、「異様な匂いがした。あそこで道を踏み越えた」という趣旨の回想があるのが印象深い。人間の力で世の中はなんとでもなるというのは左翼思想の宿痾(慢性の病)ではないか。「絶対的に正しいこと」を信じ、マインドコントロールされると全体が見えなくなり、最終的に躊躇なく人を殺(あや)める。

《坂口は、一言たりとも言葉を交わさなかった佐藤を詠んだとみられる歌を「歌集 暗黒世紀」(KADOKAWA発行)に残している》
「隣に来よ隣に来よと念じをれば隣にまさしくその人移り来」
「ラジオにて〈牢の減灯九時なり〉と佐藤氏言ふや牢の灯暗(くら)む」
「こもらずに運動せむと誘ひたしつね物書ける隣の人に」

私が隣房なのは看守しか知らない。(坂口の)母も私が同じ階にいるとは知らなかった。もしかしたら「三十二房 佐藤優」の電気カミソリも、彼のところに届いていたのかもしれない。(敬称・呼称略)=産経新聞 2022年2月25日

母親は坂口の死刑確定後も面会の為に毎月時間をかけて拘置所に通い、被害者や遺族に謝罪して回りながら息子の助命運動を続けていたが、2008年に他界している。

◇ ◇ ◇

永田洋子が長い完黙(完全黙秘)ののち、突然、全容を話し始めたきっかけが、まんじゅうだったことが当時の取調べ担当検事のエッセーに出て いる。

「ある時、まんじゅう二個の差し入れがあった。永田容疑者は横を向いたまま、おいしそうに一つ食べ終えると、一言も話さないまま、残りの 一つを私の方へ押してよこす。『食べていいのか』と聞くと、横を向いたままうなずいた。彼女はそうすることで気持ちが変わったことを表した のだと思った。『では、遠慮なく』と食べ、しばらく二人でお茶を飲んだ。翌日から前を向き、供述を始めた。『殺してしまった人たちに対する 責任を果たす』という姿勢を貫き、順番に、きちんと、徹底的に話した」(後に検事総長をつとめた松尾邦弘氏)=2006年9月20日日経新聞夕刊「こころの玉手箱」。

永田洋子39年後の獄死

死刑判決が確定していた永田洋子は2011年2月5日午後10時6分、東京・小菅の東京拘置所で病気のため死去した。65歳だった。法務検察関係者によると、死 因は脳腫瘍による多臓器不全とみられる。1984年に脳腫瘍と診断され2度の手術を受けた。2006年には脳萎縮による意識障害で寝たきりとなり、2008年には一時、危 篤状態になり家族が呼び寄せられたほどだったが持ち直した。しかし、面会者が訪れても相手が判別できない状態で視力も失い、前年9月からは誤嚥性肺炎を起こし て治療中だった。66歳の誕生日まで3日残しての死亡。

永田は昭和20年2月8日東京都文京区生まれ。父は電機会社員、母は看護師。私立調布学園中学、高校を出て1963年、共立薬科大進学後、ベトナム反戦デモや集会に参加 し、共産主義者同盟マルクス・レーニン主義派の学生組織(社学同ML派)に加盟、卒業後は就職し大学の薬局を転々とした。

次第に政治活動にのめり込み、日本共産党を除名された神奈川県の親中国派が合同した日本共産党左派神奈川県委員会立ち上げ時よりのメンバーとなる。この革命左 派(京浜安保共闘)では、石井功子、川島陽子とともに「京浜安保のおんな3戦士」と呼ばれた。

永田洋子
連合赤軍を率いた頃の永田洋子
1971年より共産主義者同盟赤軍派との連携を指導し、7月には両派の合同による「連合赤軍」(当初は「統一赤軍」)を結成し、副委員長に就任し、委員長の森恒夫 に次ぐナンバー2となった。ゲリラ闘争を掲げた連合赤軍は、「革命戦士」になるための軍事訓練を実践したが、この訓練の過程で、永田らは逃げ出したメンバー 2人を殺害、仲間に「総括」と称する自己批判を迫り、殴打や手足を縛って厳寒の野外に放置するなどのリンチを繰り返し、山岳ベース事件では同志12名がリンチ 殺害された。

永田逮捕
逮捕時の永田洋子。
(暴れたため手錠のほか
足錠までつけられている)
1972年2月17日、森と共に一度下山した後活動資金を持ってキャンプに戻ろうとしたところ、山狩り中の警官隊に発見され、激しく抵抗をした末、揃って逮捕された。

「同志殺害の原因は、当時の誤った革命理論に求められるべき」。昭和57年(1982)3月の1審東京地裁での最終意見陳述で永田はそう主張したが、判決では一顧だにされなかった。

「(事件が)組織防衛とか路線の誤りなど革命運動自体に由来するごとく考えるのは、事柄の本質を見誤ったというしかない。あくまで被告人永田の個人的資質の欠 陥と森の器量不足に大きく帰因する。永田は自己顕示欲が旺盛で、感情的、攻撃的な性格とともに強い猜疑心、嫉妬心を有し、これに女性特有の執拗さ、底意地の 悪さ、冷酷な加虐趣味が加わり、その資質に幾多の問題を蔵していた」

「女性特有の…」というくだりが女性団体から非難されたが、事件の原因を永田の資質と断じたものだった。。

公判中から事件を「総括」するためとして、手記「十六の墓標」を執筆、この本の序文を書いてもらったことを契機に、作家の瀬戸内寂聴さんと文通。瀬戸内さ んは控訴審に証人として出廷し、「被害者の一日一日を思い出し、責任を痛感している」「生きて事件の意味を考えさせてほしい」と死刑回避を訴えた。

永田獄死を聞いた瀬戸内寂聴さん(88)は「死刑ではなく、病死と聞いてほっとした。とても幼かった。何を食べたかを聞くと、喜んで朝からの食事を書き連ね、 漫画を写して送ってくることもあった。なぜ普通の女の子がそうなってしまったのか。世の中の矛盾など私たちにも責任があると感じた」

永田
怖い顔写真ばかり掲載されるが、ごく普通の女性の
一面も。第6回公判(1973年2月)時の永田洋子
連合赤軍の元メンバーで、現在は自然保護関係のNPO理事を務める愛知県刈谷市の加藤倫教(みちのり)さん(58)は19歳の時、あさま山荘事件で逮捕され、 懲役13年の刑に服した。山岳アジトでは永田に手をつかまれ、3歳年上の兄を殴るように命じられ、泣きながら殴りつけた(兄は死亡)。

「死亡に感想はない。71年夏、神奈川県内の山中のアジトで初めて会った。第一印象はニコニコしていて、優しそうな年上の女性。やがて自分と意見が食い違う人 には、攻撃的になる一面が見えるようになった。自身の活動を正当化したままだったことが残念で、憤りに近い。武力革命という大義名分を利用し邪魔になるメン バーを追い詰め、殺していった自己崩壊だった」と振り返る。裁判では共に被告席に座ったが、反省の色は見えなかったという。

赤軍派出身で93年3月まで獄中で文通していた植垣康博さん(62)=静岡市、下に近況紹介記事=は事件で懲役20年の刑を受け98年に出所した。文通では「主体的に考えられな い人間」と自己評価していたといい「男が代わる度にその男に好かれるよう振る舞う面があった。連赤時代は森(恒夫)に影響された面が大きかった」と話した。

2008年公開の映画「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」の若松孝二監督は「事件で学生運動もすべてだめになった。そういうことを総括せず、森に責任転嫁し たまま死んでいった」と語った。

あさま山荘事件で現場で指揮に当たった佐々淳行元内閣安全保障室長は「判決が確定して20年近くたつのに刑が執行されない日本の刑事政策はおかしい。凶悪犯ほど早く 執行すべきなのに、イデオロギー的な犯罪には手がつけられず、永田死刑囚は手術も受け、税金で生きるようにさせてきた。事件で殉職した警察官のことは全く考えられていない」 と語った。

*事件、その後*(メモ4)

あさま山荘事件とそれに続く連合赤軍リンチ殺人事件に関わった者の多くは判決が確定し獄中にいる。そうしたなか、事件から40年たち、服役 を終え社会に出ている者もいる。

植垣康博
刑期を終え静岡市でバーを
経営している植垣康博さん
その一人、多くの殺人に関わり懲役20年の判決を受けた植垣康博(2009年で60歳)の近況が紹介されている。2009年2月7日の産経新聞 企画、【さらば革命的世代】ですっかり頭も禿げ上がり、中国人の女性との間に子供をもうけ静岡市内でスナックを経営している様子が伝えられている。

「実行犯が語る37年目の連合赤軍 植垣康博さん」という記事で、ネットにも掲載されていたが、サーバーから削除されたようなので下記に再録しておいた。

植垣康博は1949年、静岡県金谷町生まれ。父親は農場長で、町の有力者だった。弘前大学理学部物理学科に入学。赤軍派として坂東隊に入り 、山崎順らと共に「M作戦」と呼ばれる一連の金融機関強盗を行った。連合赤軍となると、兵士のリーダー的存在になり山岳ベース事件にも加担 し、榛名ベースの会議の席で相思相愛を表明した恋人の死に直面している。1977年9月に日本赤軍がダッカ日航機ハイジャック事件を起こした とき、釈放要求メンバーに植垣の名前もあったが、「日本に残って連合赤軍問題を考えなければならない」として要求を拒否した。


逮捕時の植垣康博
逮捕当時
1972年2月19日、食料などを買出しに行った際、軽井沢駅で逮捕された。きっかけはものすごい臭い。軽井沢駅の売店でタバコを買っ た際に中年女性売店員が不審に思い、軽井沢警察署の署員に通報した。長野行きの普通列車で職務質問を受けたとき「長野市内幸町の友人宅へ 行く」と言ったが軽井沢署員に「そんな地名はないぞ」と言われ大立ち回りを演じた末、逮捕された。

一審、二審と懲役20年を言い渡され上告したが、1993年2月19日、最高裁も上告棄却した。1998年(平成10年)10月6日に出所。以下は新聞記事から の近況。

◇ ◇ ◇

【産経掲載の記事】「実行犯が語る37年目の連合赤軍 植垣康博さん」(2009年2月7日)

静岡市役所近くの小さな雑居ビルにスナック「バロン」はあった。スキンヘッドの店主、植垣康博さん(60)は37年前の連合赤軍事件で、1 2人が殺害されたリンチ事件にかかわり、懲役20年の実刑判決を受けた。出所したのは平成10年10月。バロンは当時の彼のあだ名だ。取 材について、「私は事件から逃げることはできませんから」と言い、半生を語り始めた。

子供のころは鉱物や天文が好きな理系少年。鉱山の多い東北の土地柄にひかれて昭和42年、弘前大学理学部に入った。京大大学院への進学希望 があったが、「物理学は核や原子力に協力してもよいのか」と全共闘に加わった。弘前大全共闘には「機動戦士ガンダム」のキャラクターデザイ ンなどで知られる漫画家、安彦良和さん(61)もいた。このころまで植垣さんらは一般的なノンセクト活動家だった。

理系の知識をかわれて「爆弾をつくってほしい」と頼まれたのが赤軍派とかかわるきっかけだった。「僕なんかマルクスもろくに知らない。むし ろ右翼的な発想で『義を見てせざるは勇なきなり』という思いがあった」。上京して参加したデモで逮捕。拘置所で赤軍派の文書を読むうちに「 これからはゲリラ戦」と考えるようになった。赤軍派兵士として、銀行を襲撃して闘争資金を調達する「M作戦」などに加わった。

山中に集まったのは両派の29人。ささいなことで不協和音が生じた。革左(京浜安保共闘)のメンバーが水筒を持っていなかったことを赤軍が 「自覚が足りない」と指摘。逆に革左は赤軍の女性の化粧や指輪を問題視した。批判の矛先が次々とメンバーに向けられるなか、同志をリンチす ることで「共産主義化を進める」という理屈が生み出された。「血」の総括の始まりだった。

すでに3人が惨殺されてから合流した植垣さんは旧知の幹部、坂東国男容疑者(62)=後の超法規的措置で国外逃亡中=に「こんなことやっ ていいんですか」と言ったが「組織のためだ」といわれた。彼らにとって上の命令は絶対だった。その光景は凄惨そのものだった。「総括が 足りない」同志をみなで殴り、柱に縛ってさらに殴り続けた。リンチ死した埋葬前の遺体を「敗北死だ」とさらに殴ったこともあった。

植垣さんは会議が始まると、幹部から目をつけられないよう端に座るようにしたが、リンチが始まると前に出た。「よごれ仕事は僕のような兵士 がすべきとも思っていた」。

つい先ほどまで親しかった仲間を殴るとき、一体何を考えていたのか。植垣さんは少し間をおいてこう話した。「申し訳ない、という気持ち、で すよね。殴ったあとで柱に縛りつけながら小声で『すまない』と言ってみたり…」。一方で「問題を起こしたのだから殺されても仕方ない」とい う感覚もあったという。

次々と仲間たちが殺されるなか、植垣さんはなぜ、リンチのターゲットにならなかったのか。「運が良かったとしか言えないけど、僕は手先が器 用で大工仕事ができたからだと思う。幹部たちも僕がいないと小屋も作れない。技術が身を助けたのかもしれない」

映画やドキュメントなどでいまなお注目される連合赤軍。平成20年に公開された映画「実録・連合赤軍」で連赤側の視線で事件を描いた若松孝 二監督(72)は「集団があると権力者が生まれ、権力を握った人間はそれを守ろうと内向きに攻撃を始める。相撲部屋でリンチが起きたよう に、どんな組織にも起こりうることだと描きたかった」。

植垣さんも「周囲がより厳しい状態に追い込むことで本人が成長できるという発想は、日本的なものかもしれない。社員教育や体育会にもそう した風潮はある。あのときは制裁ではなく、教育のためという考え方に陥っていた」と話す。

平成17年、「バロン」のアルバイトをしていた33歳年下の中国人留学生、李紅梅(リ・ホンメイ)さん(27)と結婚、 今は3歳の息子「龍一」君と3人で暮らす(記事では妻子の名前は出ていない)。口の悪い連中には“これこそまさに犯罪だ”とか、“中国だったら、死刑じゃないか”なんてさんざ んイビられたそうだ。

「彼女は中国・黒竜江省出身で、語学留学生として来日し、前の店の2階に友達と下宿してた。そのうちにウチの店でバイトを始め、日々顔を合 わせてたらだんだんとふたりの距離が縮まって……。彼女に“子供ができた”って告げられたときは、さすがに心臓が止まりそうになった。こ っちは一生独身だと思ってたし、彼女が“産む”といってくれたときは、本当にうれしかったよ。ただ、彼女は大学進学を視野に入れて留学し てきたのに、パーにしてしまった。それについては申し訳ないと思ってる」

「子どもの名前は中国名で『ロンイー』と読めるいい名前。これなら向こうの親族も満足してくれるんじゃないの。今の願いは龍一が元気で育って くれることだけ。ボクが寄り道した26年8ヶ月分まで龍一には生きてガンバッて欲しいね」

取材を受けたことについて「僕は当時、幹部じゃなくて、ただの兵士。だから連合赤軍の代表みたいな顔をして話すのはおかしい、と言われるこ ともある。でも殺してしまった仲間への義理がある。事件を風化させないようにするのが僕の仕事と思っています」。

リンチ死に追いやった仲間の遺族からは「下手な反省はしないでくれ」といわれた。「安易な謝罪をされたらたまらない。一生かけて考えてく れ」という意味だと受け止めている。

◇ ◇ ◇

あさま山荘事件から50年目の2022年にも植垣は産経新聞のインタビューに登場している。 連赤事件と対峙し生きていく 元連合赤軍兵士 植垣康博さん(73)=2022年2月23日、産経新聞から=

植垣
50年後の植垣康博
過激派組織「連合赤軍」の元兵士、植垣康博(73)は昭和47年2月19日朝、4人の仲間と長野県の軽井沢駅で逮捕された。直前に別れた5人はあさま山荘に立てこもった。大学では岩石や地質に興味を持ち、合唱を楽しむ学生だった。山に集まったのは同じように「革命」を夢見る若者たちだった。あさま山荘事件の後に発覚した集団リンチ殺人。被害者と加害者へ分かれた運命の分岐点はどこにあったのか。植垣は1枚の絵を見つめる。

《「爆弾が作れるらしい」。弘前大物理学科に在学中、学生運動に関わるようになり、手先の器用さを買われ「赤軍派」に勧誘された》

米国従属の日本をどうにかしないといけないと考えていた。最初は武器を製造するのが僕の役割だと思っていたが、機動隊との攻防戦などがあって、それだけじゃいけないなとなった。

《赤軍派の坂東国男(75)の部隊に入り、「M(マフィア)作戦」と呼ばれる金融機関強盗を行う》

森恒夫
森恒夫(昭和47年5月)
(上からの)指示ではなく、僕らの考えた作戦を実行していたが、他の部隊のメンバーが逮捕されていき、幹部の森恒夫(昭和48年勾留中に自殺)が直接指揮するようになった。

《京浜安保共闘(革命左派)と合流し「連合赤軍」が誕生。群馬県などの山岳アジトに集まっていたのは「革命」を目指す同年代の男女だった》

何も用意してないし、トイレは自作。山にいても東京都内のアパート代を払わないといけないから困った。米軍から武器を奪って沖縄決戦に行くための作戦基地としてアジトを構えたはずが、革命左派との共同軍事訓練となって、話がどんどん変わっていった。

《46年末から、群馬県の榛名山アジトで「総括」と称するリンチが始まる。思いを寄せていた女性や友人も亡くなり、自身も総括要求を受けた》

助けることができたらそれにこしたことはないが、1人を助ければいい問題じゃなかった。総括要求の在り方と(幹部の)森を乗り越えられるものを当時の自分は持っていなかった。


逮捕時の植垣
逮捕時(昭和47年2月)の植垣康博
《12人がリンチなどで死亡。その間に警察の追及は迫り、急峻な山を越えて2月19日、軽井沢駅にたどり着く。ぼさぼさの髪、ぼろぼろの服、鼻を突く体臭は目立った。作業員を装ったが警察に逮捕された》

凍傷でまともに歩けず、ようやく休むことができると思った。自分たちのやってきた総括要求の問題などを考える時間も確保できると思った。

《公判中の昭和52年、「日本赤軍」が日航機をハイジャックした「ダッカ事件」で釈放要求リストに名前が挙がったが拒否。すでに森は自殺し、坂東は超法規的措置で出国した後だった。このため公判で赤軍派側から事件を証言できる唯一の存在になった》

(森は)逃げたなと思った。先の見えない大変さを思えばその方が楽だった。僕が出たら連合赤軍の裁判は誰が責任持つのか。日本という現場に誰かが残る必要があるから「出ていけない」と日本政府に伝えた。


《坂東は今も逃亡中だ》

別々の道を歩んだことで僕は総括できたと思う。坂東にはとにかく、どこにいても連合赤軍問題を忘れず、自分なりに総括したことを発表する努力をした方がいいと言いたい。

《27年間を獄中で過ごし平成10年に出所。現在は静岡市でスナックを営む》

党派に属さなくても、政治闘争に関わることができる全共闘運動が生まれた。だが、当時の日本のレベルでは党派運動を乗り越えることができなかった。その中で連合赤軍事件が起きた。左翼運動がいまも情けない状況なのは事件が尾を引き、政治に関わるのはよくないという風潮を作ってしまった。

《店には1枚の絵が飾ってある。山で犠牲となった、思いを寄せていた女性がモデルだ》

彼らを忘れないで連合赤軍事件に正面から対峙しながら生きていくという思いだ。彼らに顔向けできない生き方はしない。(敬称・呼称略)
(大渡 美咲)


釜が崎のアラン・ドロンや

入社して何年か地方支局勤務をすると、たいがいの記者は本社に戻ってくる。私は大阪社会部 だった。「南回り」という阿倍野、住吉、西成、生野など7警察を持つ南方面を担当するした。市の中心から大和川までの 広大な面積を一人で担当する。といっても実際はむりだから、大阪府警本部詰めがカバーしていて、何かあれば出動するが、 普段は街ダネを書いていることが多い。各社、天王寺動物園の中にある記者クラブに詰めている。

カマ
現在もある動物園記者クラブ
正式の名前は「南大阪記者クラブ」、通称「動物園記者クラブ」という。新聞記者仲間でのもう一つの通称は「カマ」だ。もっぱら釜ヶ崎回りだから、そのアタマを取って のことだ。
クラブと言ったって昔の象の 宿舎を改造したところで、夏暑く冬寒く出来ている。いろんな檻の並びで、鳥や獣の奇っ怪な鳴き声が時折響きわたる。名前を聞いてもどうせ一度では 憶えられないから、みな「あいつ」ですましていた。動物もいろいろ珍しいのがいるが、人間も珍奇さに満ちていた。 まさに人生の縮図を見る思いの面白い場所だった。

半世紀ほど後だが、ネットでこの記者クラブに用があって訪ねた人がクラブの写真を撮っているのを目にした(右上)。驚いたことにサイトの亭主が詰めていたときのままだった。「2007年撮影」とある。

大阪は東京と違って夕刊紙の数がずば抜けて多かった。思いつくだけでも「新関西」「関西」「大阪日日」「新夕刊」、これに毎日系の「新大阪」、産経系の「大阪」。これらが駅売りスタンドに皆並ぶ。エロが売り物の夕刊紙も多かったが、電車の中ではおっさんはこれを恥ずかしげもなく広げるのが大阪だ。記者クラブには地元夕刊紙全部が常駐しているわけではないが、これに中央紙の産経、朝日、毎日、読売が加わるから結構な数の記者が出入りしていた。時移り、今ではそれら地元夕刊紙がすべて姿を消したという。

第1次釜ヶ崎暴動
警察車両を襲う第1次釜ヶ崎暴動(1961年8月)
当時の「南回り」の仕事の第一は釜ヶ崎暴動の情報を取ることだった。「釜ヶ崎暴動」の最初は昭和36年(1961)8月で、このニュースは大学生のときニュースで知った。自分が作った北大探検部の最初の事業として日本縦断旅行の途次、山谷と釜ヶ崎の住人は暴動を起こせる力があるだけまだマシだと思った。「日本のチベット」と言われた岩手の山奥や宮崎県の青島で声もあげられない人々がいることを目にして、こうした人の声を代弁すべく新聞記者になろうと決意した。そのことはこのサイト 「余は如何にして新聞記者となりしか」で書いた。5年後、その「青雲の志」の地に立ったわけだ。

昭和36年8月の釜ヶ崎暴動を「第1次」とすると、私が担当した時代(昭和41年ごろ)は「第6次」にあたる、釜ヶ崎は貧困ゆえの反抗などではなく、過激派に牛耳られていて、どこからか来る指示でパチンコ屋襲撃と警察に石を投げるのをもっぱらとしていた。サツ回り記者としての任務は潜んでいる過激派の動静とどこを襲撃するのかという情報収集。いざ現場に立ってみると、学生時代の、こと志とは大きく違っていた。

釜ヶ崎
釜ヶ崎(あいりん地区)
南海線に「新今宮」という駅がある。出来たばかりの駅だったが、朝ここで下車する。本社には行かないで、直接持ち場に行く。わたしにとっては一日をスタートするのに都合のいい最寄駅なのだが、 社の運転手には評判が悪かった。ここは名にしおう釜が崎の入り口でもあったからだ。この駅前でわが新聞社の社旗をつけたベンツが待っていた。高級車に乗っているように見えるが、 この時代、新聞社は外車が無税だった(か税率が安かった)のと、国産車に比べて格段に丈夫だったことから各社とも多かった。日本中のやくざが黒塗りのセドリックに乗っていたものだが、やがて金回りがよくなったかベンツに 乗り換えはじめるに及んで新聞社も国産車に変わって行った。

それはともかく、この駅前で待っている約束なのだが、いつも近くにはいない。 社旗をはずして、場所もだいぶ離れたところで、目立たぬようにクルマの窓も締め切って待っていた。ベンツなど周囲にないからすぐわかる。コツコツとたたくと 私の顔を確認してロックをはずし、早く乗ってくれと催促される。なぜかというと、釜が崎の住人にすぐ取り囲まれるからだ。「タバコちょっと恵んでえな」 というわけだ。こっちも分かってるから「全部やるわ」と気前よく進呈する。タバコは今朝買ったばかりだが、箱に数本残して大半はすでに別なポケットにはいっている。

ところで、新聞社の車は社旗を翻して走るので、あれは誇示して走るためにあると思っている人が多いようだ。少しはそういう意味もあるかもしれないが、事件・事故現場や記者クラブ 近くでは同じような黒塗りがたくさん並んでいる。記者やカメラマンが自社の車に早く戻れる意味合いが強い。ところが、どういうわけか各社赤が多くて、私も他社の車に乗り込んだことが 、一度ならずある。

西成署
昭和41年ごろの西成署
西成警察は入り口が緩い階段になっている。ここにいつも10数人がごろんとたむろしている。若い記者が来るとあだ名がつけられる。先ほどのタバコをケチろうものなら 「ドケチのXX」とか、見たわけでもないのに「インポの△△」とか終生のあだ名がつく。最後は個人名だったり、社名だったりする。最初が肝心で、私は「名前は?」といわれたとき、「アラン・ドロンや」と大阪弁で名乗った。これが気に入られてアラン・ドロンになったのだが、はじめに「釜が崎の」とつくところが悲しい。今ではアラン・ドロンとはそも何者なるやから説明しないとわからなくなったのがさらに悲しいが、当時はスクリーンでその名は全盛だった。本社に電話送稿するとき「釜が崎のアラン・ドロンですが」と名乗ると、交換手と原稿取りの女性記者が笑い転げた。

署内にはいると公廨(こうかい=大阪だけの警察用語で、警察署を入ってすぐの受付けとか当直指令がいるあたりの広いところをいう)左に、うなぎの寝床のように細長い記者クラブがある。 電話機だけ並んでるところで、他の6つの警察署に電話して昨夜の発生事件の内容を聞く。ところが入るなり、「なんもなかったでえ」と教えられる。どっかのおっさんが先に記者クラブに 入って記者になりすまして電話しているのだ。お小遣い、と手がでてくる。当然払ったことなどない。むこうもダメ元でいうのだが感心するばかりだ。

西成署
西成署(現在)
西成署について上で「入り口が緩い階段になっている」と書いたが、その後建て替えられていて、このゆるい階段などなくなった。度重なった暴動に備えて、周囲は高い柵や鉄格子で取り囲まれ、門は鉄製で常に警杖を保持した警察官が門番に立ち、警備を固めている。「要塞」と言われる。

見ていけへんか
釜が崎は人間模様でみると、とてつもなくおもしろいところだ。人生の縮図といわれるが、そんな生易しいものでもない。 運転手が嫌がるので、駅から歩くことが多かったが、いつも不思議なものを見かけた。路端で背広を裏返したものの上にいろんなものを並べて商売している。

落語に「道具屋」というのがある。
もう二十歳にもなるのに、働かないで遊んでばかりいる与太郎が叔父に諫められて道具屋を始める。元手をかけないで集めたためガラクタばかり。「まぁ、置いとけばどこぞの馬鹿が買っていく 」という商売。

鋸は火事場で拾ってきて紙やすりで削って、柄を付け替えたもの、股引は履いて"ヒョロッ"とよろけると"ビリッ"と破れちゃう『ヒョロビリ』、カメラの三脚は脚が一本取れて『二脚』 になっている。お雛様の首はグラグラで抜けそうだし、唐詩選は間がすっぽ抜けていて表紙だけ…、古くて使えない「汽車の時間表」などである。なかなかよさそうな短刀を見つけた客が刃 を見ようとするが、錆びついているのか、なかなか抜けない。「反対側から引っ張れ。抜くのを手伝うんだ。一・二の…サン!! ぬーけーなーい!」「抜けないはずです…! 木刀です!! 」 というのがオチだ。

西成署に着くまで3,4軒はみかけるのが、この「道具屋」そっくりの世界だ。まず並んでいるものというのが、どうにもクビをかしげざるをえないものばかりだ。靴の片方だけ、ベルトの バックルだけ、着古したズボン、古びた乾電池1個だけ、帽子、めがねのつるだけ、中古のパンツ・・・などなど。
買い手があろうとは思えないのを並べてぼんやり座り込んでいる。売れたのを見たことがない。

朝から酔っ払いがごろごろ転がっている。西成警察署に入るまでに数人は見かける。うっかりドヤ(簡易宿泊所)の上など見ていて、踏んづけそうになる時がある。 酔ってもクルマに轢かれる危険は分かるらしくて、だいたい敷石を枕に体を斜めにしている。中には女の泥酔者もいる。日焼けか酒焼けかわからないが顔は真っ黒で長い髪で かろうじて女と分かるくらい。「兄ちゃん見て行けへんか」といわれて立ち止まって絶句した。通り掛かりの男が、その女の下着をめくって中を見せているのだ。拝観料50円ほどだったが、 こちらは払っている人間を見たことがある。
西成の「違法露店」 逮捕の瞬間

2021年11月14日の産経新聞を読んでいて上記の見出しの記事が目に止まった。2つのことに驚いた。上で体験談を書いたのは50年以上前の釜ヶ崎の風景だが、同じような露天が今なお「営業」しているのだ、ということが一つ。もっとも、売られているものが「古着や使い古された雑貨」というのは同じだが、儲けになるのは向精神薬やわいせつDVDという「今風のもの」ではある。

当時も違法だったのだろうが、暴動に備えるのに精一杯で警察は違法露天の取り締まりまで手が回らなかったのだ。もう一つの驚きは、釜ヶ崎担当記者が女性になったということ。文中にあるように、「それだけ治安がよくなった」ということだが、当時は考えられないことだった。しょっぴかれていく男が周りに「みんな面会にきてやー」と呼びかけている妙な「明るさ」は当時、ホルモン焼きを食べながら付き合ったドヤの男たちと共通していて、なにやら懐かしかった。

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日雇い労働者の街として知られる大阪市西成区の「あいりん地区」。近年、治安は大幅に改善されたものの、届け出のない違法露店は今もなお根強く残っている。

11月7日午前4時ごろ、西成区萩之茶屋のあいりん総合センター南側の路上には、違法露店が20軒ほど並んでいた。段ボールやビニールシートの上で売られているのは、古着や使い古された雑貨、薬などさまざま。「今日あたり(警察の摘発が)危ない気すんねんなー」。露天商の男の1人はそうつぶやきつつ、行き交う人々と談笑していた。

摘発
違法露店を摘発する大阪府警の捜査員
様子は一変する。男の露店に私服姿の捜査員約20人が一気に詰め寄り、売られていた薬を手際よく押収。府警はこの日、無許可で薬60錠を販売する目的で陳列したとして、医薬品医療機器法違反(無許可販売)の疑いで、近くに住む男(30)を現行犯逮捕した。男は「違法だと分かっていた」と容疑を認めているという。

府警によると、薬は向精神薬とみられ、10錠1300円で販売。男は昨年3月ごろから露店を開き、月4万〜5万円を売り上げていたという。府警は向精神薬560錠を含む医薬品約3200点を押収した。

違法露店は平成22年ごろの最盛期には、南海新今宮駅から南に延びる大通りに約300軒が連なっていたという。平日の早朝から日中にかけ、衣類や雑貨、無修正の違法わいせつDVDのほか、病院から処方されたとみられる薬も横流しされて販売されていた。

「みんな面会にきてやー」。冒頭の男は、同業の仲間らにこう叫びながら府警に連行されていった。あいりん地区の違法露店撲滅に向けた府警の戦いは、まだまだ続きそうだ。(木下未希)

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マッチ売りの少女
少女というには看板に偽りあるのは認めるが、そう呼ばれていた。実際は「マッチ売りのおばはん」だろうが、だれも文句を言わないところをみると、みんなやさしいのだ。
天王寺動物園の中の記者クラブから目と鼻の先に天王寺公園がある。にぎやかな国鉄天王寺駅と近鉄・阿倍野駅(当時はここが終点)方面の明かりがかろうじて届くこのあたり、 昔の飛田遊郭(「とびた」と読める人は関西通だ)が近いせいで、あやしげな人間が出没した。マッチ売りは日没とともに姿をあらわす。 アベックも多いのだが、突然暗闇から「どう?」という声がかかる。手には徳用マッチ。喫茶店でもらったものでないところが、プロというべきか。

何をするかというと、マッチ1本灯(とも)している間だけ、スカートの中を覗かせるのだ。営業している方にも驚いたが、覗いているおっさんの執心ぶりにさらに驚いた。マッチが燃え尽きて手の 爪がアチッチというまで離さない。夏も冬も出没した。

2006年6月末、大学の文学部で日本文学を専攻、野坂昭如の小説「マッチ売りの少女」の研究・調査をしているという学生氏からこのHPの掲示板に問い合わせを受けた。上に書いたようなことが書かれた文献はないかということだった。新宿・ゴールデン街の電車道で私がオカマに取り囲まれて喧嘩になったとき直木賞作家の田中小実昌に助けてもらったことがある。同じ直木賞作家の野坂昭如はその近くにいた覚えがあるが、釜ヶ崎にいたことは知らなかった。彼は若い頃に度々釜ヶ崎のドヤで暮らしていてその体験で書いた、というのは学生氏から教わった。どうやら私と同じ頃に西成にいたようだ。

文中、拝観料といっても道端の酔いどれに50円ほど払っていたおっさんを見かけたのでそう書いたが、学生氏によると、マッチ売りの方の値段は、作品によると「マッチ1本分のご開帳が5円、カキが50円、尺八が200円」とあるそうだ。用語解説は省くが、どなたか値段や文献をご存知の方おられれば教えてあげてください。

手配師に連れられて
昔も今も、釜が崎でも東京の山谷でも変わらないのが、手配師の存在だ。早朝集まってくる日雇いから必要な人数をピックアップすると現場にマイクロバスで運ぶ。賃金はピンはね されたものをこの手配師からもらう。ルポを書こうと一日並んだ。堺の鋳物工場に連れて行かれた。仕事は出来たてアツアツの15キロから20キロの鋳物を少し離れたところに積み上げる だけ。チョロイものだと思ったのもつかの間、これを日没までやらされたら2日ほど起き上がるのにも難渋した。ピンはねされてもまだ3000円ほど残った。結構な金額なのだが、ここに集まる ものの多くは、この金がなくなるまで働かない。

釜が崎の美学
ホルモン焼というのは釜が崎ではじめて食べた。ついでにいうと「ふぐ」もすぐそばにある通天閣の下で食べたのが初体験だった。前者はその機会がなかった。後者はおやじが「あぶないから食うな」 と言っていたのをくびきが取れたあともなんとなく守っていただけだ。「ふぐ」などすっかりのめりこんで、東京に出たあと州崎だ門前仲町だと、今なら二流の場所と言えるが、当時は名所だと思って 通った。

河豚(ふぐ)は本場下関では「ふく」というが、大阪では「鉄砲」という。”当たる”ことからきたのだが、東西で、以下のように鍋と刺身の呼び方が違っている。 通天閣で食べた「鉄っちり」(関東はふぐ鍋)は、安い代わりにガラばっかりだった。東京ではじめてふぐに「身」があることを知った。「鉄っさ}(ふぐ刺し)などそれまで知らなかったくらいだ。「ふぐ刺し」で カメラマンが大喧嘩した現場に居合わせた。巨人の王と長島がふぐ屋で食べている写真を撮ったとき、二人とも皿の半分くらいまでズズーと箸を入れて山盛りを食べていたという。これを真似したのだが、もう一人が 「そんなことしたら、他の奴が食えないだろう」と怒ったのが原因だった。庶民がふぐに寄せる哀歓はなんだか物悲しい。

長年の自主的禁断症状の反動で、ふぐに感動して、食べ過ぎて、あるとき口から泡を吹いた。歌舞伎の坂東三津五郎が京都でふぐで死んだあとでもあり、案内した男に「当たった」といったら、 「ばか、それならもう死んでる」と言われた。大阪なら「あほちゃうか」といわれるところだ。それもそうだなと思った。呼吸器系統がやられるらしいが、泡が出る以外一向に呼吸に差し支えなかった。以来、ふぐを食って死んだに違いない何人もの先人の試行錯誤に敬意を払い、夏目漱石の「吾輩は猫である」の一節に「(最初に海鼠を食べた者は)その胆力において敬すべく…」とあるように、ふぐに限らず最初に海鼠(なまこ)とか雲丹(うに)とか海鮹(ほや)を食べた日本人を尊敬する事にしている。

いまどきふぐで死ぬことなどあるものか、といわれそうだが、どうしてどうして、フグ毒の分子構造が分かったのは私が食べたほんの10年ほど前のことなのだ。 芭蕉の句に、字余りだが「あら何ともなや きのふは過ぎて河豚汁(ふくとじる)」と食べた翌日の安堵ぶりを述べた句がある。 蕪村にも「鰒汁(ふぐじる)の我活きてゐる寝覚哉」というのがある。この時代もっぱら味噌汁で食していて今のようなおいしい食べ方はずっと後世のことなのだ。 ふぐに当ると民間療法では「首から下を土中に埋める」とか「スルメを焼いて煙を吸う」とか「ナスのヘタを食べる」くらいしかなかった。

パチンコ屋
釜ヶ崎で襲撃されたパチンコ屋(1966年)
東京にいるとあまり食べないがホルモン焼は釜が崎では庶民の味だ。もっとも庶民しかいないのだが。「あほやなあ、ホルモン焼も知らんのか」といいつつ、案内してくれたのは元国立大学教授という釜が崎の住人。確かめる必要もないからそのままだが、化学にはえらく詳しい「教授」と焼酎でホルモン の部位の解説を聞きながら話していたのは、「梶大介」の消息と、明日襲撃される予定のパチンコ屋の話。 左翼運動の活動家「梶大介」の消息を知るのは当時サツまわりの仕事だった。パチンコ屋はこのころ襲撃されることが多かったためだ。半信半疑でそのパチンコ屋の前で待っていると「定刻」にどこからか石が 飛んで来る。組織的な仕業である。

その「教授」はかなり酩酊すると、「ちょっと・・・」とトイレに立ってそのまま消えるのが通例だった。はじめから勘定は持つつもりでいるのだが、おごられるのと礼をいうのが嫌なのだ。後日会うと「よう」と寄ってくる。 以前の話はいっさいしない。釜が崎の美学とでもいうべきか。

釜が崎は、地獄の釜に通ずるとでもいうのか「あいりん地区」と名前を変えた。看板は「あいりん」でも、人の口は今も「釜が崎」だ。だいたい住んでる人がこの名前に納得している。 こういうのは行政とか、外から見る人の発想で意味がないと思っている。一種の「文化」を人為的に変えようというのは無理なのだ。例外はトルコ政府の抗議でソープランドと名前を変えるに成功したトルコ風呂くらいではないか。

>今も飛田は昔のままらしい

サイトの亭主が知っている飛田新地は昭和42年、43年ごろの姿である。通天閣の下に広がる繁華街「新世界」を抜け、南に15分ほど歩くと飛田新地である。この時は遊びに行ったわけではなく、サツ用語で「網打ち」(非常警戒)があり、過激派の「梶大介」だったかを巡って一斉検索がかかったことがあった。江戸時代の「宿改め」のようなもので、旅館、ホテルやこうした遊郭のような、犯人が宿泊できる場所を、ある日時に全国の警察が一斉に踏み込んで宿泊者を調べるのである。西成警察署管内には釜ヶ崎のドヤ街からこうした色街まであって、人手が足りず、交番勤務まで手配書片手に繰り出すほどだった。

ドヤ街は見慣れているので初見の色街の方に、刑事について行った。こうしたところは風営法のからみもあって、警察には非常に好意的である。この夜は「当たり」もなく引き上げたのだが、妖しげな光の瞬き以外あまり記憶になかった。

その後、半世紀近くあとの平成24年、この街は当時とほとんど同じであることを知った。新潮社の雑誌「考える人」の編集長をしている河野通和 氏のメールマガジンを愛読していたのだが、その2012月4月号で『さいごの色街  飛田』(井上理津子著 筑摩書房)を取り上げていた。「ここは女の来るとこちゃう」と怒鳴られながら飛田に10年通ってルポを書いた女性なのだがそこに ある写真を見たらなんだかタイムスリップしたように往時と同じなのに驚いたのだ。

一流の”料亭”
一流とされる「料亭」の構え
二流”の方”
”二流”のほうなど昔と何一つ変わらない
飛田という街は、約400メートル四方の土地に、碁盤の目のように通りが走り、それぞれに「年増通り」「妖怪通り」「年金通り」「かわい子ちゃん通り」「青春通り」といった名 前で呼ばれ、約160軒の「料亭」が立ち並んでいます。料亭の間口は2間。「にいちゃん、にいちゃん」と呼びこむ曳き子のおばさんがいて、上がり框(がまち)に、赤い電気に二重三重に照 らし出されて、微笑む若い「おねえさん」が坐っています。客となった男が二階の小部屋でビールかジュースを飲み、女性と話をしているうちに“恋愛関係”に陥ります。恋愛は個人の自由。 結果としてコトに及ぶことがあるかもしれないが、それは決して売春ではない、というのが表向きのロジックです━━と本に書いてあった。

上の記述など昭和40年当時そのままに当てはまるし、客をとる方は「おねえさん」とか「女の子」、客引きする方を「曳き子」とか「おばちゃん」と言うのもそのまま残っているようだ。”一流”とされる「料亭」の写真をみると、ほとんど 当時そのままだし、”二流”とされる方が普通の民家風なのもそのままであった。しかし、この本にはカラー写真ではあるものの、なにかセピア色風で遠慮がちに小さな写真が掲載されていたものである。

それから8年後の令和2年(2020年)2月13日号の週刊新潮で「原色の飛田新地」というグラビアをみて驚いた。こんなに艶(あで)やかだったかと逆に感心したのである。

一流とされる「料亭」街。ピンクで一杯なのは撮影がひな祭りの頃のせいだが、普段もピンクと紫で彩られている。

リード部分には「大阪・西成区山王。ここに100年以上続く色街、飛田新地がある。妖しげなライトが店先を照らし、艷やかな女性が行き交う客を手招きする。普段メディアの取材を一切受け付けず、厚いヴェールに包まれているその姿を写した」とある。

ある料亭の玄関”
ある「料亭」の玄関。しどけない
「おねえさん」の足許が見える。
遊郭の面影を残す、この妖艶な街の様子を収めようとカメラを向けようものなら、すぐに曳き子や組合関係者から叱責が飛ぶ。ここでは一切の撮影が禁止されたエリアだった。為に過去から現在まで、公に出されている画像はほとんどなかった。

料亭「鯛よし 百番」は昔遊郭として営業していた建物で、
国の登録有形文化財に指定されている”本当の”料亭。
それがグラビア撮影までできたのは、写真集「百年の色街 飛田新地」(光村推古書院)が刊行されたためである。

撮影した土井繁孝さんによれば、「飛田新地料理組合から、「この地の記録を残し、伝えたい」という依頼があったんです。二つ返事で承諾しました」。


どこの遊郭もそうだが、大正7年創業時、飛田新地
はこうした高さ4、5メートルの壁に囲まれていた。
客待ちのお姐さん=文春オンライン2021から
大正7年(1918年)に開業し100年以上の歴史を持つこの色街は、昼頃から営業を始め、深夜0時近くになると流れるドヴォルザークの「新世界より」のメロディーを合図にすべての店が閉店する、というのは知らなかった。すぐ近くの通天閣の下にある繁華街「新世界」に引っ掛けたしゃれのようである。

この「色街」には、最近では女性や外国人観光客の姿も見られるようになったが、建物の老朽化や「料亭」に入る客の数が減ったという声もある。さらには2019年のG20大阪サミットの際には、首脳会談が行われた2日間、全店で営業を自粛、2025年の大阪万博の際も、同じような対応をするのだろう。したたかに生き残る街である。


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天下の奇人、金田浩一呂氏のこと

いまから書くことは2002年3月28日、外人記者クラブ(正式には外国特派員協会)でのミニコンサートとパーティーの 席上、某作家遺族、新聞社文化部長、前特集部長らと話していて、このホームページの話になり、金田浩一呂氏に特別のコーナーを 割くべきだということになって書き始めた。したがって本人は知らない。

2年ほど前、ラムゼーハント症候群という聞きなれない病名で入院していたら、見舞いにきた先輩が阿川弘之の「六十の手習ひ」というエッセーを 置いて帰った。最初の方に金田浩一呂が登場する。どこも痛くも痒くもない病気なので、見舞い客に緊張感がない。このエッセーを読ませると周囲をわきまえず、大声で笑って、中には手をたたいて 笑い転げるのもいた。そのあと、本人が見舞いに来た。たった7文字の病名を覚えられなくて、「その”ラ”なんとかというのなあ」と繰り返して、見舞いの花も金品もなく、 タダでもらった寄贈本を何冊か置いて帰った。

そのエッセーの要旨はこうだ。

阿川弘之氏
阿川弘之氏も驚く
あるとき、阿川家の家族4人と金田浩一呂が夕餉の食卓を囲んでいた。なんでこの男が、と思うだろうが、そういう男なのだ。 食卓にはピータン(皮蛋)があった。そこで阿川弘之氏が、これはアヒルの卵を灰汁に漬けて、泥や籾殻(もみがら)を塗って貯蔵して発酵させたもので…と中国での作り方やら食べ方を縷縷(るる) 説き聞かせたそうだ。最後まで聞いていた金田浩一呂がひとこと。「そうですか。中国にはこんな卵を生むニワトリがおるですか」。

唖然とする作家。長男と長女は口を手で押さえて、あわてて部屋を飛び出したという。長男というのは今論客としてならす阿川尚之・慶大総合政策学部教授(2002年からは駐米公使に)、長女というのはいまや対談の名手 でもあるエッセイスト、阿川佐和子さんだ。 「いったいあの男は何を聞いているんだか。これで新聞社の学芸部長が務まるというのが不思議だ」と書いている。

「六十の手習ひ」の原文はこちらに掲載。

阿川佐和子さん
阿川佐和子さんは
子供の頃から知っている
阿川佐和子さんには「お見合い放浪記」という著作がある。食事が目当てということもあるようだが、20回だか30回だかの戦歴を誇る。父親の心配が目に見えるが、金田浩一呂はこのうちいくつかの 相談にあずかったり、立ち会ったかしている。「人畜無害」はあまねく知られている。だが親から見るとこれでも男のようで、年頃の佐和子嬢を「ウチの新聞社で アルバイトさせないか」と持ちかけたら「おまえさんに取られるから嫌だ」と断られた。

テレビでは、現代独身女性の双璧とでもいうべき、阿川佐和子さんと団ふみさんの掛け合いでマヨネーズのCMが流れている。団ふみさんは、最後の無頼派作家、 壇一雄の長女だ。父親には自伝的作品『火宅の人』がある。一方、食通でもあった。この影響で長男、長女とも食に関して一家言あり、著作もある。 登場人物がみな「食」に関して結びついている。

「食」といえば、阿川夫人にもすごい電話をかけている。夕方電話が鳴ったので出ると「オイ、俺だ。メシ食うぞ」でガチャンと切れた。「今のは金田さんの声だけど、ウチにお見えになるのかしら」 としばらく悩んだという。金田浩一呂の手帳を見たことがあるが、文藝春秋社が毎年末に配っている、タダか社払いの文芸手帳だ。巻末に作家の住所と電話があるので、彼のように整理が下手な連中が使っている。 ただでさえ小さい手帳にゴチャゴチャと書きこみがしてあって、本人以外わからないしろものだ。本人だって眼鏡をずりあげて判読に苦しんでいる。 そんなうろ覚えの番号に平気でかけるからすごい。

普通の人間はこういう間違いはしないものだ。阿川邸にかけるつもりで自宅の番号をまわすことはあっても、その逆はないのが普通だ。常識が通じない珍種としかいいようがない。 先のパーティーで一緒だった作家の遺族は「私はどこにいるのでしょうか」という、摩訶不思議な電話を取ったことがあるという。作家たちの南方旅行に共に記者と看護婦代行として随行し、彼は落合の自宅にも 何度か来たことがあるから道順を聞いているのではない。なんとこたえていいのか、しばし言葉を失って立ち尽くした。

阿川弘之氏逝く

阿川弘之氏が2015年8月3日夜、都内の病院で亡くなった。94歳。
大正9年、広島市生まれ。昭和17年、東大国文科を卒業後、海軍予備学生に。海軍中尉として中国に渡る。21年に復員し、尊敬する作家の志賀直哉を紹介され、文筆の道に。27年、戦時下の日々を自伝風に書いた長編「春の城」で読売文学賞を受賞。同時期にデビューした吉行淳之介、安岡章太郎、庄野潤三、遠藤周作、三浦朱門、曽野綾子らとともに「第三の新人」と称された。以後、「雲の墓標」「暗い波濤」「軍艦長門の生涯」といった戦争小説や「米内光政」「山本五十六」などの評伝ものを発表し続け、作家としての地位を固めた。平成11年、文化勲章受章。日本芸術院会員。

長女でエッセイストの阿川佐和子さん(61)が父の死を受けて発表したコメントが実に味があるので全文を紹介する。
 
◇ ◇ ◇

関係各位の皆様へ
皆様へのご報告が遅くなり、まことに申し訳ありません。
今月8月3日(月)22時33分、父、阿川弘之が都内の病院にて老衰のため、息を引き取りました。満94歳でした。

父は長らく月刊文藝春秋の巻頭随筆を連載しておりましたが、90歳を期に、「出ずるときは人に任せ、退くときは自ら決せよ」の言葉(出典は娘、わからない)に準じ、書く仕事を きっぱり止めて読書などに興じておりましたが、自宅で転んで頭を打ったり、誤嚥性肺炎を起こしたりしたため、2012年初めより都内の老人病院へ入院。しかし頭は最後までかなりしっかりしており、その後、大腿骨を骨折してほとんど寝たきりの状態にはなったものの、毎日リハビリに励み、病室ではビール、日本酒を少々(大変に融通の効く病院であります)、娘が持ち込んだ好物の鰻、すき焼き、フカヒレなどを食し、本棚を設置して文庫本を読むという生活をずっと続けておりました。

が、今年の夏あたりからだんだん体力が落ち、食欲も落ちてきたため、全体的な衰弱が進んだようです。とは言うものの、亡くなる前日には、私が持っていった薄切りのローストビーフを3枚たいらげ、「次はステーキが食いたい」と呟いて、にんまり笑ったりしておりました。「よし、じゃ、来週はステーキにしましょう!」と約束した翌日の午後、突然、消化器官上部から下血をし、それを期に吸も困難になり、その晩遅く、息を引き取りました。

最期を看取ったのは、長男の尚之と、自宅で両親の世話を長くしてくれていたご夫婦でした。87歳の母は存命ですが、ちょうど膝の手術をして入院中にて、最期には立ち会えませんでした。娘の私が仕事を9時に終えて駆けつけたときはすでに呼吸の停止したあとで、大声をかけましたが反応はありませんでした。兄、尚之によると、痰を吸い取る機械を入れた際、「苦しい」と言ったのが最後の言葉で、それ以外はさほど苦しむこともなく、大変に穏やかに安眠したということです。

お医者様からも、「死因と言われれば、老衰、自然死に近いです。これだけ身体全体が衰えるまでしっかりしておられたのは立派です」とお褒めいただきました。子供として、もっとこうしてあげればよかったか、など、後悔は多々ありますが、しかし身体が弱り切っても、頭の中は「うまいものが食いたい」という意欲を捨てなかったのは、いかにも父らしく、立派な大往生だったと思っております。薄々、心の準備をしていたといえ、やはり家族にとっては突然のことと思われ、さまざまな対応が不行き届きになり、ご迷惑をおかけしたことを改めてお詫び申し上げます。

なお、葬儀はごく近親の者だけですでに執り行いましたため、たくさんの友人知人の方々からお悔やみのお言葉を頂戴したことに対し、きちんとお礼を申し上げる場もなく今日に至ったこと、まことに申し訳なく存じます。未定ながら、後日、「しのぶ会」を開くことを予定しております。また詳細が決まり次第、お知らせできると存じます。その節は、なにとぞよろしくお願いいたします。

 以上、簡略?(長いかしら?)ながら、一言、ご報告にて失礼いたします。

 2015年8月7日(金)
 阿川弘之長女 阿川佐和子

阿川弘之氏を偲ぶ「お別れの会」は11月24日。作家仲間の三浦朱門、平岩弓枝、倉本總の三氏、並びに講談社、新潮社、中央公論新社、文藝春秋の各出版社が発起人で、長男の阿川尚之氏が親族代表。

その「阿川弘之氏のお別れ会」が2015年11月24日、東京・日比谷の帝国ホテルで開かれ、300人が集まった。偲ぶ会、お別れ会に「面白かった」というのは不謹慎のそしりを免れないかもしれないが、あまりにもユニークかつ秀逸だったので、新聞の採録ながら再現する次第。

【阿川弘之さんのお別れの会】  (クリックで飛びます)

阿川佐和子さんが結婚、とは驚いた

阿川弘之一家のことはこれで「書き納め」、と思っていたら、2017年5月17日の新聞を読んでいて仰天した。エッセイストの阿川佐和子さん(63)が結婚したという。お相手は元大学教授の男性(69)で婚姻届も提出したという。阿川さんは「くだらないことに笑い合って、ときどき言い争いつつ、穏やかに老後を過ごしていければ幸いかと存じます」と報道各社へのFAXで心境を語った。

阿川佐和子さんとはこの項の主人公、金田浩一呂氏を通じていろいろお付き合いがあった。講演会の依頼やその他、金やんが亡くなったあとの偲ぶ会では佐和子さんと曽野綾子さんが思い出の記を寄せていただいて、それが新聞になって配られたのだが、やはり出席された遠藤周作氏長男、遠藤龍之介氏(フジテレビ専務)の仰天思い出譚ともども別稿で紹介した(下段)のでお読みいただきたいが、今読んでみても秀逸なものだった。

金やんが佐和子さんを自分がいる産経新聞社に来ないかと誘ったとき、父親の阿川弘之氏が「お前に取られるからイヤだ」と拒否された話、ピータンをめぐる抱腹話、金やんが来るとなにかいいことあるようで心浮きたった時代など話題は尽きなかったが、彼女が結婚するとは夢にも思わなかった。おんな一人を満喫しているようであり、目から鼻に抜けるあれだけの才覚を目前にした男は近寄りがたいだろうと思い込んでいた。

もう63歳だったかと驚きもしたが、FAXの文面はいかにも阿川佐和子さんらしくほほえましいものなので、父親のお別れの会同様、別項を設けて紹介する次第。

【阿川佐和子さん結婚報告の記】  (クリックで飛びます)

(脇の話が多かったが、ようやく本文に入ることに)

ここで本来の「金やん」の話に戻るが、三浦朱門・曽野綾子夫妻、遠藤周作、吉行淳之介など戦後「第三の新人」と呼ばれた作家に可愛がられて、そのエッセーに登場する名物記者だった。文壇のほとんどの作家と知り合いなのは当然として、 連載を担当したか、インタビューしたかの多数の作家の貴重な資料があるはずなのだが、手許に何も残さないからただの雑談に終わっている。

文壇記者にはすごいのがいる。作家が死ぬと、参列者の数、集まる香典の金額をピタリと予想して葬儀社に式の規模まで指図する。故人の女性関係まで把握していて誰を呼ぶべきか、 未亡人と時間差を置いて焼香させる方法まで差配する名物記者がいて、 人物紹介で書かれたことがあるが、我が金田浩一呂にそういう才能はない。

ノーベル賞作家、川端康成はじめ、”小説の神様”(作品「小僧の神様」からきた)志賀直哉など戦後すべての文人の葬式にはいたはずだが、それだけである。 毎回、築地の「新喜楽」で開かれる芥川・直木賞の選考会にも必ずいる。記者会見の最後、司会者が「金田さん、よろしいでしょうか」と声をかける重鎮であるが、本人にそうい う気構えはない。それどころか会見の間、「新喜楽」の床の間の柱に寄りかかって寝ている姿がたびたび目撃されている。「大人」と言いたいところだが実態を知っているから控える。

井伏鱒二
井伏鱒二
私など教科書で読んだ世代だが、「山椒魚」の井伏鱒二邸に行った話を聞いた。作家としての名声はすでにとどろいていた。魚釣りの趣味は有名だが、魯山人を彷彿とさせる顔だけ あって、大変な和食の通でもある。夫人が材料を吟味して料理するらしいが、文豪と並んで器にまで凝りに凝った料理を何皿も平らげたそうだ。 聞いているだけで舌なめずりしそうだが、どうだったと聞くと、「美味かった」でおしまいだ。いまどき、 料理番組でマイクを突きつけられた素人だってもう少し気がきいたセリフをいうものだ。さらに思い出してもらうと「魚と菜っ葉があったな」。
料理を出した井伏鱒二夫妻が気の毒でならない。

何用かは知らないが、井伏鱒二氏と中央線に乗って四ツ谷駅に着いたとき、「ここから地下鉄に乗るに は階段を昇らねばなりません。これを四谷階段(怪談)といいます」としたり顔で話し、「いま、考えたのか」と感嘆させた、と『文士とっておきのはな し』(講談社、絶版)に本人が書いている。文豪相手に駄洒落を飛ばすなど並の人間には出来ない。この本は装幀・山藤章二という豪華なものだが、楽屋話をすれば、夕刊フジの紙価を高めた有名エッセイの多くは当代一流のイラストレーターである 山藤章二氏が手がけ、それを仕切っていたのが金やんということなのである。

遠藤周作
”狐狸庵”こと遠藤周作
遠藤周作とはとりわけ親交があり、氏の文庫本の「あとがき」の多くは金田浩一呂の筆になる。ともに町田に住んでいたので、マンガ家の秋竜山らと「町田会」をつくっていた。これだけ親しいのに、夜遅くなって終電に間に合うように遠藤夫人が大慌てでマイカー を運転して駅に送ったら、その手に千円札を握らせたという兵(つわもの)だ。後日談があって、夫人が「金田さんに返しといて」と渡した千円札を遠藤周作が、ごちそうさんとばかり懐にいれたという。「金やん、あれな、もらっといたで」といわれたそうだ。

後日談の後日談もある。千円札を懐におさめたことを夫人が聞きつけて「あまりに情けない所業」と、目の前で出させた。しぶしぶ取りだしたら、 金やんが届けたばかりでこれまた懐にへそくった夕刊フジ連載の原稿料支払明細も飛び出した。もちろん、こちらも取り上げられた。 千円を惜しんで何十万円損をしたへそくり悲劇については当時、金やんが編集局で喧伝していた。悲劇は彼の千円からはじまったというのに。

阿川弘之と遠藤周作は親友だが、どちらも夕刊フジワイド面の名物エッセー欄に何度も連載を書いている。 ここから数多くの名作が世に出たが、多くは金田浩一呂の仕切りだ。その一つに遠藤周作の『ぐうたら交友録』がある。その中で 二人の話として覚えているのに「マキシム=ド=パリ事件」がある。

ある時、この二人が箱根に講演会に出かけた。空き時間を利用してドライブをすることになり、免許のない遠藤周作 が、阿川弘之の借りてきた赤いホンダのスポーツカーの助手席に乗った。阿川の運転は怖いという噂を聞いていた が、案に相違して非常に紳士的なので、運転をほめた。しかし、そのあたりから豹変する。車は次第にスピードを上げ、 遠藤を震えおののかせる。いくら怒っても、いくらなだめても、阿川は「そうかね」としか返事をしない。 以下はその一文だ。

≪「よせ。よさんか」 「そうかね」 「助けてくれッ。お願いします」 「そうかね」。そこで初めて阿川はアクセルを少しゆるめた。 「じゃあ、お前、レストランMで奢るか」。Mというレストランは 巴里 ( ぱり ) の有名な料理屋の出店で、料理はともかく 値段がベラ棒に張ると聞いている。そこで自分に奢れと阿川は言うのである。私はしばし、ためらった。

ためらっている私を見ると、阿川はふたたびアクセルを強くふんだ。眼前の道、両側の林は逆まく濁流のように流れはじめた。 クルクルクルクル、眼が回る。「奢るのか。奢らないのか。イエスか。ノーか」  「イエス、イエス」  「俺のほかに、女房もつれてい くがいいか」  「か、かまわん」  「息子もつれていくがいいか」  「いい、いい」  「娘もつれていくがいいか」  「いい、いい」  「赤ん坊も つれていくが、いいか」  「いい、いい」  「メニューを見て、食べるものを選ぶのは俺の家族だが、いいか」  「イエス、イエス」

車の速度がやっと元に戻った時、私は頭がくらくらとして物もしばし言えなかった。私が絶対に自動車運転を習おうと心に 誓ったのはその時である。一週間後、阿川は奥さんをつれて、しょんぼり料理店Mで待っている私の前にあらわれた。そし て食うこと、食うこと。夫婦してパクパク、パクパク、食べちらかしたのである。おかげで私の息子はそのあとにあった運動会 で運動靴も買ってもらえず、裸足で走らねばならなかった。≫

遠藤周作は軽妙なユーモア作家だと思っている人も、若い人には多い。私は何度かインタビューしたことがあるし、 渋谷・富ヶ谷のマンションの仕事場に家内とお邪魔したこともあるが、二面性を持った人だった。 シャイな人で、記者などのインタビューでは沈思型の真面目な受け答えをする。しかし、金やんや夫人の前では ひょうきんな面を出していたようで、あとから彼を通して聞く話のほうが面白かった。

2002年7月、銀座の文壇バー「葡萄(ぶどう)屋」が消えた。文壇バーとしては、銀座では「ラ・モール」、「眉(まゆ)」、「ルパン」 が、新宿では「ゴードン」、四谷の「まろうど」の名前が浮かぶ。何ヶ所かは出入りしたことがあるが、今では文壇そのものが消え てしまった。 なにしろ、「オール読物」「小説新潮」「小説現代」のいわゆる中間小説誌の”御三家”は、かって40万部以上売れ ていたものだが、現在は5分の1を切ったという。芥川賞だって最近誰が取ったか、思い出せないほどだから無理もないだろう。

ごく最近まで出入りした野坂昭如でさえ、初めて「ラ・モール」に足を踏み入れた時は「壁を背負う勇気はなく、誰も座らない カウンターに座った」というくらいだった。奥には丹下健三(建築家)、一万田尚登(日銀総裁)、池島信平(文藝春秋社長)、 吉行淳之介、阿川弘之、江藤淳がいたという。井上靖、源氏鶏太、池波正太郎、川端康成、柴田錬三郎、新田次郎 水上勉 ・・・会うには自宅より文壇バーに行ったほうが早いといわれた。遠藤周作はそう酒が強い方ではないようだが雰囲気を好んだようだ。

曽野綾子
文士劇で花魁に扮した曽野綾子(右)と有吉佐和子。(昭和33年)
その文壇全盛時代に「文藝春秋」の旗振りで毎年ひらかれた名物催しに文士劇がある。そのころ、よほどのへそまがり作家でな いかぎり喜んで出演した。主役を手に入れるため下工作をした作家もいるくらいだ。遠藤周作は自分で主役を取るため、 素人劇団「樹座(キザ)」を作った。27年続き21回公演した。その最初の方で演題も憶えていないが、「馬の脚」役が金田浩一呂だった。初めから終いまで顔を見せない役など、 誰もなり手がない。プログラムだけに名を出す配役に抜擢された。「後ろ脚 金田浩一呂」とあった。ちなみに、前脚はマンガ家 だった。「あれでなかなか呼吸を合わせるのが難しいんだ。阿吽(あうん)の呼吸というやつだな」とほざいていた。あんなもの、 前についていけばいいだけではないか。

本格的にやればなんだって奥が深い。下積み時代が長かった森繁久弥は馬の脚を演じた時、上に乗る役者にいい気分で芝居をしてもらおうと香水を振り掛けたという、木下藤吉郎のような芸談だ。
2代目尾上松緑が「週刊新潮」の創刊号の伝言板に馬の脚役を求めて「名馬を求む」という一文を書いた。「経験者大歓迎。未経験者は身体強健にして演劇的カンのある人」とある。金田浩一呂には香水は無論のこと身体強健も演劇的カンも無縁だ。

だいたい、馬の歩き方というのは、ものすごく難しい。学生時代馬術部にいたから体験でわかる。ゆっくりしたのから順に「並歩(なみあし)」「速歩(はやあし)」 「軽速歩(けいはやあし)」「駆歩(かけあし)」があり、その上に競馬で見られる最速の「襲歩(しゅうほ)」というのがある。みな脚の運びが違う。 特に「なみあし」では、微妙に四脚の着地の順が違う。元馬術部として「歩度」 とか「手前」にはくわしい。昔、フランスから来たペルシュロン種という、1トン近くある農耕馬に足を踏まれたことがある。革の長靴を履いていたので 怪我はなかったが、残り3本の脚が移動するまで「痛い、痛い!」と叫び続けたから良く憶えている。着地に”時差”があるのだ。 そのあたり研究したのか、と聞いたが、彼には理解を超えているようだった。

劇団と同じく「お山の大将」という主旨で作ったものに「宇宙棋院」がある。本家の日本棋院で碁を習い始めた遠藤周作が一向に上達せず、負けてばかりいるのが 悔しく、同じく負けつづけだった黒井千次と組んで「碁を知らない奴だけ集めて、われわれが大将になろう」と始めた集まりである。 碁を知らないというのが入会資格で、碁石などさわったこともないという編集者や女性記者を駆り集めて、そこの名誉会長として段位まで発行した。入会と同時に初段をもらえるから彼も初段のはずだが、さすがに名乗ったのを見たことない。この会で、 「キミらまだまだやなあ」と悦に入るのをなによりの楽しみとした。ここでもヘボ棋士、金田浩一呂は万年末席を汚していた。遠藤周作の死後本人は「永世名人・名誉十九段」を贈られたというが、金やんは初段のままだ。

狐狸庵の名の通り、人を担ぐのが好き、いたずら、冗談が好き。自宅の犬が雑種で近所の有名犬種とすれ違うとき、卑屈な 態度をみせるのに同情して、聞かれもしないのに相手の飼い主に「これペルシャ犬ですワ」と触れ回った。ペルシャ猫は有名 だから、そんな犬種あるのかと錯覚した相手が畏敬のまなざしで見送ったと書いている。

我が家の長女がカトリック系の有名小学校(だと思ったら幼稚園だと家内はいう。ことほど左様にいいかげんな親だ)を受験することになった。 今で言う「お受験」だ。紹介状がないとダメだというので、「沈黙」など深刻な小説も書くカトリック信者の狐狸庵こと遠藤周作氏に依頼することになった。 「よっしゃ」というので受け取りに出かけたら、受験先の名前も校長あての名前もない。よろしくという文言とサインがあるだけだ。 こりゃあかんわ(狐狸庵の名の由来)、と瞬時にわかった。学校に出すより古書店に持って行った方が値が上がるんじゃないかと金田浩一呂に 相談したら、あんな乱発では値段などつかない、ということだった。時にはまともなことも言う。

当然、落ちた。遠藤周作氏のせいだが、家内は今も私のせいだと恨んでいる。私が尼さんの前で足を組んだというのだ。忙しいさなかに、 面接は夫婦そろって来いとか、スリッパを持参せよとかうるさくいうところで、仕方ないから新聞社を休んで出かけた。 行くと3人の尼さんが、子供でなく親の一挙手一投足を観察している。用意されている椅子がこども用で、低いからつい足を 組んだ。そうでなくともこちらは足を組んでその上にメモ帳を広げる癖がついている。このときは出なかったが、これに貧乏ゆす りが加わる時もある。

「どちらさまのご紹介ですか」というから、「紹介がないとダメな学校ですか」と聞き返したのもいけなかったらしい。家内は神戸でカトリック系の学校で育ったから、 シスターの好みを良く知っている。上品で反抗的でないことが大事なのだという。なら、初めからダメだったのだ。だいたい「上品で反抗的でない」奴には新聞記者などつとまらない。 権威と不条理に従順でどうする。金田浩一呂はどちらかというと「つとまらない部類」に属する。

三浦朱門
三浦朱門(2011年11月)
三浦朱門が文化庁長官になったときだ。朝の発表で知って、金やんに「ミウラシュモンが文化庁長官になったのでコメントをとってほしい」と電話した。金田浩一呂の電話に曽野綾子が出て、本人に取り次いだという。「孤児(みなしご)が文化庁長官になったとデスクが いってきたが、あなたみなしごだったんですか」「いや、親はいるがなあ」というやりとりをしたという。他社と数段レベルが低い。どこをどう間違えば「みなしご」になるのか、不思議な人物だ。

三浦朱門さん死去 

 元文化庁長官で作家の三浦朱門(みうら・しゅもん)さんが2017年2月3日午前6時50分、肺炎のため、亡くなった。91歳。葬儀・告別式は近親者で営んだ。喪主は妻で作家、曽野綾  子(その・あやこ=本名・三浦知寿子=みうら・ちずこ)さん。

 
三浦・曽野夫妻
三浦朱門・曽野綾子夫妻
(2010年2月正論大賞贈呈式)
大正15年、東京生まれ。「朱門」の名前はイタリア文学者だった父・三浦逸雄氏が十二使徒の一人、シモン・ペテロから付けたという。旧制高知高校を経て、東大文学部卒。  戦後「第三の新人」の一人として活躍。28年に同人仲間だった曽野綾子さんと結婚。昭和60〜61年に文化庁長官を、日本文芸家協会理事長、日本芸術院院長を務めた。産経新聞  「正論」欄などで、左右に偏らない言論活動を展開した。夫婦で「正論大賞」を受賞。

 三浦さんの妻で晩年の介護にあたった作家の曽野綾子さんの話 「1週間ほど前から体調を崩して入院しました。最期は英国から帰国した孫らにも看取られながら、苦しまず安らかに臨終を迎えました。4紙を取っていたほどの新聞好きでしたので、お棺には故人の好きだった産経新聞を入れます」

その金やんが家出をすることになった。私のセダンがちょうどいいというので、町田から日吉の寮への脱走を手伝う羽目になった。団地の3階か4階だったが、踊り場で奥さんが腕を組んでにらんでいる。話はついているということだったがどうも様子がおかしい。布団などを持って上がり下りするたびに 奥さんにおじぎしながら、夜逃げというのはスリリングなものだと思った。

後年、これまでの経験を踏まえて「恐妻物語」を出版するというので、やめとけと忠告した。この種のもので、戦後のベストセラーに数えられるのに、福島慶子の「うちの宿六」がある。こてんぱんに虚仮(こけ)にしながら、底に相手に対する深い愛情が流れているから読まれるのであって、あんたのようにホントに崩壊している場合はしゃれにも ならないといったが、出版社もどうかしていて、世に出た。たしか遠藤周作の文も入っていたが、案の定売れなかった。

八ヶ岳の私の山小舎にもやってきたことがある。ちょうど夫婦で遠出しているときで、小さい娘が一人でテレビを見ていた。いきなり見知らぬ男が入ってきて、 パパを知ってるといって、座り込んで、娘と一緒にアニメ漫画に見入っていたという。餓鬼相手にチャンネル権も主張できない小心な面がある反面、とんでもなく大胆なこともする。 このときもそうだ。 最寄駅はJR小海線の野辺山駅だが、かなり距離がある。タクシーで3000円ほどかかるので、他の人は迎えを頼むか、シャトルバスを利用するかする。調べもしないでタクシーに乗る人間などみたことない。第一、留守だったらどうする気なのか。 そっちの方が恐ろしいが、彼には結果よければすべてよし、なのだ。

生まれは宮崎で、神社の息子とか。戦争中は田舎で敵の戦闘機から機銃掃射を浴びあぜ道を逃げ回ったという。私も山形県・米沢に疎開していて米軍機が超低空飛行してきて皆で逃げ回った覚えがある。こちらは 絹織物の産地でパラシュートを織っていたから理由はわかるが、金やんのようなド田舎で米軍が撃つものがあったとは驚きだ。戦後、大学生のときアルバイトで、巣鴨 プリズンの看守をやったことがあるというのにも驚いたものだ。米軍がかくも弱っちい学生をよりによって看守にしなければならない程の人手難だったとは初めて知った。

その金やんがパソコンを始めたという。世も末だが、いずれこの文も目に触れることだろう。さんざコケにしてきたが、向うが先輩記者である。「あの一文消せ」と言われたら従わねばならない関係にある。読まれた方は幸運である。

◇   ◇   ◇

金田浩一呂
金田浩一呂氏。
写真掲載の予定はなかったが、
どんな人?というメール多く
11月中旬になって本人からやっと連絡があった。メールでなく電話だ。「ホームページに載ってるらしいな。アドレスと題を教えてよ」ときた。この項をアップロードして半年以上たっている。パソコン始めて早い人なら1か月で検索ぐらいできる。アドレスとURLの違いもわかってくる。 世の平均からはだいぶ遅れている。しかも知ったきっかけが他力本願だ。

なんでも、どこかのカルチャーセンターで教えているらしいが、そこのおばさん生徒が「先生のことが載ってる」とプリントアウトしたものを持ってきたという。おばさんのほうがよほど進んでいる。なら、そこにアドレスでなくURLが、題ではなくてタイトルが同時に印刷されているはずだが、 まだそのレベルには達していないらしい。 文句言ってくるにはまだ時間がかかりそうだ。したがって、この一文しばらく安泰だ。

◆ ◆ ◆

金やん訃報
金やんの訃報。夕刊フジ2011年7月23日
金やん逝く

夕刊フジ・産経新聞ばかりでなくマスコミの文壇関係の名物記者、金田浩一呂氏が亡くなった。金やんがながくつきあった夕刊フジの2011年7月23日付けの紙面を左に掲載したが阿川弘之氏のコメントも寂しそうだ。
サイトの亭主は上述のごとく、抱腹絶倒ぶりを一方的に描いたが、金やんの魅力はそればかりでなく、飄々としたなかに暖かく人を包んで、それでいてそこはかとなくペーソスを含んだその人生の歩み方にあった。

あたかも同僚の如き口の利き方をしてきたが実は8歳も年上で、年功序列からいえば最大限の敬語を用いて接するべき相手だったが、老若男女を問わずわけ 隔てなく優しく接する態度に甘えて、横柄にも世の処し方まで指図することがあったが一度として怒ることなく、そうかそうかふんふんとこちらを俯瞰して いたように思う。

長身痩躯、強く押せば倒れるが如き風情ながら、実は大いなる包容力の持ち主で、およそ敵というものを持たなかった。2月にメールをもらい「がんとつきあいながらそこはかとなく生きている」とあった。金やんらしい従容とした雰囲気で私もそうありたいと思わせられた。

自分がラムゼーハント症候群という病気で右の聴力を失って入院生活をしていたとき見舞いにやってきてくれたことは上で書いた。その借りも返さないうち に黙々と逝ってしまった。金やんが居ないということがこれほど寂しいとは思いもしなかった。(宮崎 健)



「カネやんを偲んで『天国』に送る会」開かる

2011年8月26日(金)午後6時から東京・大手町のサンケイプラザで「カネやんを偲んで『天国』に送る会」が開かれた。
阿川弘之氏が代表発起人だが、高齢となにごとも億劫ということで、娘のエッセイストで座談の名手、阿川佐和子さんが代理出席。 そのほか「宇宙棋院」で永遠のライバル、作家、黒井千次氏、評論家活動のスタートが金やんのあっせんだった辛口評論でなる佐高信氏など数十人が出席した。 興味ある方は夕刊フジの記事(8月27日)や曽野綾子さんらの追悼文などを 夕刊フジOBのサイトに掲載したのでそちらをご覧いただきたい。

この席で親交深かった遠藤周作の長男、フジテレビ常務、遠藤龍之介氏が衝撃的スピーチをした。当時結婚を控えてフィアンセとともに父の仕事場を訪れた。 居合わせた金やんにいきなり「龍之介君は婚前交渉は済んでいるんですか?」と聞かれたという。彼女は真っ赤になるし父親は「親の私でも聞かないことを・・」と怒り出すし、という修羅場にも金やんは悠然としていたという。いやはや、大概のことには驚かない会場の人たちも唖然呆然だった。

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一代の放蕩児、尾登辰雄氏を偲ぶ

2003年4月1日、尾登(おと)さんが亡くなった。先輩記者である。前述の金田浩一呂とならんで 夕刊フジの名物記者だ。訃報に「元夕刊フジ運動部長。肺炎のため死去、74歳。自宅は 横浜市磯子区洋光台・・・706」とある。

この住所が尾登さんの一生を象徴している。タクシー会社を経営していた親から、赤坂や横浜の一等地の相当な資産を受け継いだが、彼一代で すべて食いつぶした。東海道線で通勤している同僚記者が、ある朝、駅のホームで待っていたら 下りの列車が入ってきた。こっちは満員だが、あちらはがらがら。その4人掛けに悠然と彼が 座っていた。こっちに気づくとニコニコと手を振った。社と反対の熱海に出勤する尾登辰雄だった。

私が報道部でペーペーの新人記者のとき向こうはもう運動部長をしていた。貫禄が違いすぎて、運動部長 として何をしたという記憶はないが、このときの報道部長が一昨年亡くなったフジテレビ副社長、F氏で、二人とも私の すぐそばの席だった。

この二人は月末になるとメチャクチャ忙しい。絶対電話には出ない。「いいか、2人は留守だぞ。出張中で、帰る 予定はわかりません、と言え」と教育されていたから、オウム返しに口上を述べるが、サラ金も一筋縄では引き下がらない。 当時はサラ金という言葉もなかったのだが、2人は5社とか7社とか言っていたから、当時の過剰債務の先人だろう。 こっちで借りてあっちで返す自転車操業で会社の席など暖まる暇もない。必要上よく銀行に行ったが、受付嬢が尾登 さんの苗字を読めず「おのぼりさん」とマイクで呼ぶのに閉口していたが、怒り出すようなことはなかった。

そんなに忙しい原因はギャンブルである。当時一般紙は中央競馬といえども扱わなかった。夕刊紙に専門のページをスタートさせたのは、尾登さんだが、 趣味と実益を兼ねていたのだ。このときはもう落ち着いていたようだが、そのへんのサラリーマンの可愛らしいものではなく、熱海では賭場と呼ばれた本格的なものに出入りしていた。 こんな豪傑、他社を含めてその後見たことがない。

最初から運動記者ではなかった。興安丸というから日本兵のソ連からの引き揚げ船だ。始まったばかりの引揚げ事業でナホトカに向かう船に、 のち夕刊フジの編集局長となる山路昭平が大阪社会部代表で、尾登辰雄が東京社会部代表で乗っていた。行きのカラ船だから することがない。3,4日ぶっとうしで麻雀をしたという。日本海の荒波で船が揺れる。パイを倒れないように押さえながら 吐きながらのすさまじい格闘技だった、そうだ。

麻雀ばかりの乗船取材だと思われそうだから、二人のため、その後の話も書いておこうと思う。
シベリアなどにながく抑留された日本兵をナホトカで満載した興安丸は舞鶴に入港した。 新聞社では猛烈な取材合戦が繰り広げられた。私の入社はるか前で、家で読んだ覚えがある。ちなみにこの頃はテレビなんぞまだ産声も上げてなかった。 新聞は送稿にまだ伝書鳩がはばを利かせていた時代だ。

「山路昭平とサクラの小枝」というエピソードが残されている。引揚者は検疫などですぐには下船できず、しばらく船に残された。 故国の山河を前にデッキにたたずむ人たちは、雑感記事のハイライトだ。ちなみに新聞記事は今でも「リード」と「本文」と「雑感記事」で 成り立っている。舞鶴はまだサクラに少し早かったようだが、 もっと南から、咲いた桜の枝を届けさせた。タラップでなく舷側から網が下ろされていた。背中に桜を背負った 記者がこれを這い登って船の上に届けた。故国の桜に群がる引揚者の写真が紙面を飾った。1枚の写真がなにより多くを 語りかけていた。明治の大言論人、山路愛山を祖父に持つ親子3代新聞記者として有名だが、文章もさることながら写真の価値を知る記者でもあったのだ。 ちなみに、父、山路久三郎も社内にいて、産経や大阪新聞で論を張っていた。「親子2代に怒鳴られた」というかわいそうな記者が大勢いた。

舞鶴では、永田照海キャップが現場の指揮をとっていた。ホントは「てるみ」というのだが誰もそうは呼ばない。「般若の照(テル)」 とか「テルカイさん」でマスコミ界では通っている。船の取材は金がかかる。キャップは精算まで責任を持つのだが、経理に「通船 (岸と船を往復する小型船)借り切り」何ヶ月というすごい精算書を出したそうだ。他社だが、インドだかで精算に困り、本社に「象1頭借り切り」 というのを出した記者がいると聞くが双璧だ。

この人が編集局次長のとき私は新人記者として配属の辞令を受け取った。一室に呼ばれ「君は大津支局だ」という。学生時代にヨットをやっていたので 喜んで「琵琶湖でヨットに乗ってきます」と部屋を出ようとすると、辞令をしげしげと手にとって「すまん、津支局や」と告げられた。

この二人が産経新聞の編集局長と社会部長のとき、そろって大阪から東京に出て、夕刊フジの社長と編集局長として創刊にあたった。 私も末席を汚していたのだが、1年半後私たち夫婦の仲人を務めていただいた。そのころはもう「般若」でなく「仏」 といっていい時代だった。社内でゴルフを始めた一番手だが「俺なあ、いっぺん平らなところで打ってみたいねん」と述懐した場面にでくわした。 ティーグランドを出ると、あとは犬のナントカよろしく、左足上がり、右足上がりだという。後年私もゴルフをするようになったが、こうならないようにだけは心がけたものだ。

夕刊フジで再会した山路、尾登の二人と神田の雀荘で麻雀したことがある。上のエピソードでも分かるように社内最強の雀士で こちらは脂汗がひたたるほど緊張した。その最中、夜半過ぎだったが尾登さんがウーーンといって仰向けにひっくり返った。 救急車で運ばれたが、胃穿孔だった。内容物が飛び出してその消毒に何時間もかかる大手術だった。 病院まで右手に握り締めていたのはきっと大役満の牌に違いないと部下は噂した。

この手術で尾登辰雄は大変身した。それまでギャンブラーには珍しく下戸だったのが、どこか禁断の箇所にメスが入ったのか、 突然大酒呑みになったのだ。呑めないときから出入りしていた横浜・野毛の小さな居酒屋に人を呼びつけるようになった。 ちょうど私が横浜総局にいた時でもあり、大先輩の名前を2、3人並べて「みんないる。これで恥をかかすようなことがあったらただはおかねえ」 なんて口上つきで、恐れおののいて参上した。

行くと、口とは逆に猫なで声で「健ちゃん、よくいらっしゃいました」と丁重に迎えられた。原稿の話など一度もしたことがない。新聞社内の噂話など 興味もないようだ。昔自分が遊んだことを口にしたこともなかった。一代の放蕩児の美学だろう。

今、汚職事件などで逮捕される連中は遊びで失敗している。汚いことに、みな国や会社や人様の金で遊んでいる。 「芸の肥やし」などという芸人も経費で遊んでいる。尾登さんが偉く見えるゆえんだ。

通夜ではその山路昭平氏が弔辞を読んだ。普通は告別式で読むものだが、ブン屋の習性をよく知っている未亡人が「今夜の方が皆さんおそろいでしょうから」と、 たっての希望だったそうだ。「今あなたが慣れ親しんだ夕刊フジの原稿用紙に書いています」と泣かせどころを心得た文言で上記のエピソード などまじえたよい弔辞だった。

参列者に別室で席が設けられていたが、懐かしさで駅前での二次会にも流れた。ここで、時の流れで最近弔辞を読むことが多い山路さんに 敬意を込めて「弔辞屋昭平」の名を進呈した。名文が多く、自分の時には是非という人が目白押しだ。

この席で、時に笑みを浮かべて挨拶する未亡人が、熱海で一、二を争った名妓だと知った。尾登さんの熱海通いの成果を知り、さもありなんと思った。芥川龍之介の短編「手巾」(はんかち)を思い出した。

教師のもとに昔の教え子の母親が訪ねてきた。息子は病死したと告げ、生前の恩顧に礼を述べた。語る表情は穏やかで、時折、笑みも交じる。教師が床に落ちた団扇(うちわ)を拾おうとしたとき、テーブルの下に婦人の膝が見えた。膝の上でハンカチを握った手が激しく震えていた。顔で笑いつつ、「実はさつきから全身で泣いてゐたのである」。

◇ ◇ ◇

上述の「通夜の二次会」で決まったことがある。このとき「夕刊フジ創刊35周年」であったことから、このタブロイド紙づくりに情熱を燃やした男たちの物語、さらにいえば梁山泊のような豪傑記者たちの雰囲気やどういう経過で東西から記者たちが集まってきたのかを記録したものが欲しいということになった。

こたえて、馬見塚達雄氏が筆を取り翌年秋に「夕刊フジの挑戦−本音ジャーナリズムの誕生」(阪急コミュニケーションズ)が世に出た。さらに2005年春久しぶりにOBがプレスセンターに集まっての出版記念パーティーも開かれ、 WEB上に「夕刊フジOBのホームページ」もスタートした。すべて尾登さんのおかげである。

◇ ◇ ◇

尾登さん
尾登さん、こんな表情でした
平成20年(2008)1月、尾登さんとよく飲んだという「h.mori」さんから、「検索でたどりついたが自分の人生で少なからず影響を受けた一人でした」とメールが届いた。飲み屋でのスナップや 一緒に飲んでいた野地敏雄、市園盛一郎、著作をもらったという千野境子の各氏の名刺などが添えられていた。「フジ新聞社」「サンケイ新聞」とあるから時代がわかるが、サンケイパーラーでこの人と飲みながら、 デスクが原稿を見てもらいに席まで来ていたという。野地、市園両氏は上の文章で「大先輩の名前を2、3人並べて野毛の飲み屋に呼びつけられた」とき必ず入っていた名前だ。

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