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新聞記者としての話はここでは書くまいと決めていた。愛犬の墓銘碑がわりに立ち上げたホームページだが、覗いた人から裏話はないのか、といわれるようになった。 あれやこれや書き散らかすうちに素性はばれている。なら、書くか。でも、守秘義務があると自戒もしているので、時効の範囲内で、戯れ言(ざれごと)を。< |
ごめんなさいと最初にことわっておく必要がある。はやらないし、読みづらいのも承知の上で、
極力写真を使わないのは、活字人間の性(さが)です。

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医者、記者、芸者、三日やったらやめられない
面白い職業について
「よど号事件」30年か
結婚式の写真がない!
アカシアの雨に打たれた安保
我が青春の挫折ですか
コンコルドにイギリス病を見た日
サッカーやると退学処分
JALジャンボ機御巣鷹山に消ゆ
520話の思い出
札幌オリンピック美人通訳譚 豪華客船「QE2」の話など
あさま山荘事件-凍える攻防 取材記者の見た現場
釜が崎のアラン・ドロンや サツ回り記者絶句す
天下の奇人、金田浩一呂氏のこと 抱腹絶倒保証記者
○ 阿川弘之「七十の手習ひ」の原文掲載。
放蕩一代 、尾登辰雄氏を偲ぶ 遊びの達人

| 医者、記者、芸者、三日やったらやめられない |
酔うと「新聞記者も人の子よ・・・」と歌い始める先輩記者がいた。「おたまじゃくしはかえるの子、なまずの孫ではないわいな、それが何より証拠には、
やがて手が出る足が出る」という、巷間有名なリパブリック賛歌の替え歌の替え歌で、最後が「恋もする」だから、どんな職業にも当てはまる。
この人がよく言っていたのが表題の、箴言(しんげん)というにはほど遠いから、まあ、語呂合わせである。稼ぎがいいということでは絶対ない。これは経験から断言できる。
口が固いとか職業上の守秘義務があるというのも考えすぎだろう。
私はそれぞれに、「からだの裏側」、「社会の裏側」、「男の裏側」を覗く面白さのある職業だからだ、と思っている。
ほかの二つはやったことがないからわからないが、新聞記者が面白い職業であることは請け合う。
いまでこそ、新聞記者から総理大臣や地方の首長になる人がいて、ステータスもあがったが(いやそうでないという方もいようが)、
ついこの間まで、「おお瓦版屋(かわらばんや)か」とわざと高言する人は多かった。私の叔父もそうだった。
ステータスついでにいうと、戦前は新聞記者は車夫馬丁の扱いを受けて、お役人より社会的な地位が低かった。私の体験で言うと、現代でもこれが生きているのが日銀本店で見られる。日銀記者クラブというと金融記者がふんぞり返っているようなイメージがあろうが、日銀本店内ではまさに車夫馬丁の扱いで、車寄せがある玄関の前の平屋建ての石造りの建物に警備の警察官と一緒に放り込まれている。総裁会見などで庁内に入るときはいちいち警備のチェックを受けねばならない。
文化部、科学部、経済部などそれぞれの分野に精通した解説型の記者が増えて、イメージアップに貢献したとも思うが、少し前というか昭和40年ころの話だが、そうでない記者も堂々と生存していた。
社会部の内勤、つまり原稿取り(外からの電話送稿を書き取る)をしていたとき、先輩H記者からの電話を取った。
事件原稿だったが、「俺に聞け」という。はあ?というと発生日時、被害者と被疑者の名前、逮捕容疑を一気に話すと、黙りこんだ。あと原稿に必要なことは俺から取材して書けということなのだ。原稿が書けない記者がいたのである。
この人は、暴力団員が、警察にではなく、H記者に自首してくるというので有名で、私が目撃したのは曽根崎警察(通称「ねそ」)だったが、公廨(こうかい=大阪だけの警察用語で、警察署を入ってすぐの受付けとか
当直指令がいるあたりの広いところをいう)で、「ええか。写真はここ、記者はそこ。(犯人を)ここ入ってこう曳きまわすからな」と生き生きと仕切っていた。キタの新地で地回りに絡まれたとき、「xxxx(新聞社名)のHを知らんのか」とレンガでぶん殴ったという
武勇伝の持ち主だった。翌日、頭を包帯で巻いた子分を連れて、親分が謝りに来たというあべこべの話もある。こういう記者も嬉々としていたから「三日やったらやめられない」面白い職業なのだ。
もう一つこの人の「伝説」がある。”ガン首集めの名人”としてだ。今はもっと上品に「顔写真」と言っているが、交通事故、事件に関わらず原稿につける死者のガン首写真を取って来るのは記者の常識だった。これが難関なのだ。なにしろ相手の家族は人生
最大のパニックの最中だ。そこにノコノコ現れて「写真を・・・」などと言い出すのだから、歓迎されるワケがない。「アホか!」と怒鳴られるくらいは序の口で、胸倉をつかまれることもある。写真を持ってこないと社に帰ってからデスクに「アホ!」と言われる。どっちに転んでも
、アホでしかない。仕方ないから、いろいろ”からめ手”を考える。子供なら幼稚園や学校にいってアルバムから複写する。
大人なら会社の社員旅行や学校の卒業アルバムを探す。今も中年過ぎの被害者などで学生時代の顔写真が出るのはそれだ。
自社の分だけ複写して戻ったら「アホ、なぜアルバム全部持ってこない」と怒られた。あとから来た社にガン首を渡さないため、一切合財持ち帰るのはサツ回りの常識だと言われた。
確かに後塵を拝してひどい目にあったことがある。その社はアルバムから顔写真に使えるものを、みなひっぱがして持ち去っていた。
私など下手で、原稿書きながら、いつも写真をどうしようか悩んでいたものだ。同期の男に名人といわれるのがいた。実家が寺で、お経が読めるものだから、「お参りさせてください」といって上がりこむ。
読経のあと「ひとつお写真を・・・」という手口で、かなり確率は高かった。
しかし、先輩H記者はその比ではなかった。ほとんど100%だ。なんとかコツを教えてもらおうとしたが「頭を下げるしかないわな」というだけ。ところが、ある日秘訣がわかった。上述の「ねそ」で目撃したのだ。
交番の警官をつかまえて、「オイ、この家に行ってこい」と、命令している。「なるべく正面向いた写真だぞ」と注文までつけていた。白い自転車で制服警官が来た家では、捜査の一部だと思うせいか、一も二もなく差し出す。
遠い家だと警ら課長(今は地域課長というが、交番を管轄している)に言って若い警官を行かせる。ひどいものだ。秘訣は分かったが、とても真似できるものではなかった。
警察に逮捕された被疑者が、最初にすることは写真撮影だ。横にスケールがついていて身長が目で分かるようになっているおなじみのものだが、ここで、正面と真横の2枚撮られる。樹々希林のCMのように「それなりに」写るのならまだしも、
照明のせいでどんな人間も一段と人相が悪く写るようになっている。私もある署で撮ってもらったが、前科3犯の詐欺師然とした写真で、あわてて捨てた。
だいたい鑑識課で撮影するが、全指の指紋も1本1本係官が手を添えて取るからかなりの時間いる。ここに入り込んで(つまり次に相手する刑事より先に自供を取ろうとして)問いただしているところも見た。
この人は「マル暴」(ヤクザなど暴力団関係者。警察内の書類でマルの中に暴の字の印がついていたことからきた)だけでなく、警察にもメチャクチャ顔が効いた。
病院でもこの調子で、事故か事件か忘れたが、瀕死の男が手術室に運ばれる間、そばでほっぺたをビタビタたたいて「おい、名前は、住所は」
とやっていた。この男はまもなく死んだから、このメモが唯一の手がかりとなった。警察も頭を下げて、彼から死者の身許を教わっていた。今ではこんな記者生存していない。
少し後のことだが、私が配属になっていた中部地方のある支局に支局長としてこの人がやってきた。着任2日目、M新聞の支局長が土下座させられる。運悪く、この支局は前月末、何かの都合で、
わが社の新聞の購読を1部減らしたことを販売店から知らされ「仁義を知らんヤツだ」と激怒したのだ。聞きなれない仁義など持ち出された方は土下座しかない。逆に2部増やされた支局員は「お前んとこの新聞ばっかりや。どこの支局かわかれへん」と私にぼやいた。
4日目早くも、「毎週木曜日、知事と各社支局長の懇談会」「毎週金曜日、県警本部長と各社支局長の懇談会」がセットされた。
それまで、この県では2,3ヶ月に1回あればいいペースだった。県庁と県警の広報があわただしく支局に出入りし始めた。
5日目くらいに、私が呼ばれた。この祝儀袋に千円札(初任給2万2000円の時代)を入れるのを手伝えという。夕方から料亭の玄関先に立って、入ってくるお姐さん方にお渡しするのが私の役目だった。一夜にしてその街の芸者衆がH支局長の名を覚えたのはいうまでもない。ホントの話である。

| よど号事件から30年か |
21世紀を直前にして、2000年11月8日、日本赤軍の最高指導者、重信房子(55)が大阪で逮捕された。長い間、全国の交番に貼り出されていた手配書でおなじみの人物だ。
それより先の6月末、よど号事件の田中義三が逃亡先のタイから送還されてきた。
田中義三の51歳という年齢を見て考えさせられた。当時21歳の確か大学生も、いまや頭ははげて見るからに中年。赤軍の女王だった重信房子だって、Vサインで連行される写真は
手配の顔写真とはまるで違っていて、そのへんのおばさんの群れにまぎれたらまずわかるまい。年頃の娘もいるというから当たり前だが、テレビをみながら別な感慨が沸いた。
彼らが30年ぶりの帰国というからには、私ども夫婦も結婚30周年になる。銀婚式が25周年だから、真珠婚式か何かにあたるわけだが気がついたのが、6月では、遅すぎて、どうすることもできなかった。
昭和45年4月4日、大阪で挙式したのだが、私たちには結婚式の写真がない。なにせ突然のよど号事件。発生は少し前で、取材先の新幹線の岐阜羽島の駅で知った。
それまで聞いたこともない事件のパターンで、ハイジャックという言葉もこのとき初めて使われたのだが、よりによって私たちの結婚式とぶつかったのだ。
経緯を説明しておく必要があろう。昭和44年(1969)2月25日に夕刊フジが東京で創刊された。この年は日本人が高揚した気分にあった。日本のGNP(国民総 生産)が世界第2位になり、東名高速が全線開通し、「もはや戦後ではない」を合言葉に世界に向け発展しようとしていた。さらにアポロ11号が月面着陸を果たして世界から宇宙に目が向いていた。 一方では1月に東大安田講堂が水攻めで陥落、70年安保は過激派の分裂もあり挫折しつつあった。ベトナム戦争も泥沼の様相を呈していた。内外ともに騒然とした雰囲気だった。
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| 安田講堂めぐる攻防の さなかに東京へ異動したのだが。 |
前日夜遅く大阪南郊の実家に戻った。ニュースに素人の家人は、ニュースと我が家の行事とが関係するなど考えもしない。よど号の話など露ほどもなく、遠路駆けつけた親戚との昔話ばかり。家内の実家にもここ2,3日は電話もしていなかったが、どうせホテルでの着付けや髪結いのことでこちらの理解を超えている。子供じゃあるまいし、時間になれば勝手にホテルに来るだろう。夕刊の扱いはまだ大きくて、大阪本社社会部の記者がかなり動員されている様子だった。本人はいやな予感がしないでもなかったが、電話する時間もなかった。
当日、新郎は大してすることがない、はずだった。のんびり構えていたら電話が入った。司会者本人からで、新幹線に乗り遅れて遅刻する、よろしく、だと。前夜に飲みすぎたという。同じ社宅だが式の打ち合わせもしたことがなかった。全体の仕切りもこの男の役目だったが、内容も聞いていない。 そんなこと直前に新郎に言われたって・・・仕方ない、客ごと式を遅らせるしかない。
仕事がら披露宴の招待客には記者やカメラマンが多かった。ホテルの式場に行ってみると、少し招待客の数が少ない。ホテルのすぐ近くが大阪本社なので、社会部に立ち寄ってから来るのだろうくらいにしか考えなかった。いざ披露宴会場に入り、新郎席に着席すると、目の前のテーブルごとごっそり空席である。みんな、よど号を追ってソウルに飛んだという。それも今日ではなく事件発生直後からだという。 結婚式の当人だけはさすがに配慮したか、行けとは言われなかった。それだけでもめっけもんだ。
ホテルの宴会担当者が新郎の私に相談にやってきた。どうしますか、といわれたって知恵があるわけもない。テーブルごと片付けるわけにもいかない。呑ん兵衛が多いから出しとけば誰か飲むでしょうよと言うほかない。
とどめは写真だった。挙式の写真を撮るはずのカメラマンはいなくなっていた。これまたひとことの連絡もなく。ブン屋ならそれくらい察しがつかなくてどうする、といわんばかり。立つ鳥跡を汚してソウルでシャッターを切っていた。
当然披露宴の写真もない。後日パラパラと素人のスナップ写真が集まってきた。義母が言ったものだ。「ウチにもカメラぐらいありましたのに」。
それでも編集局の幹部は何人か式場に残っていた。記者やカメラマンをソウルに出張させた当人だが、それとて、デスクと事件の電話連絡のために中座してろくすっぽ席になどいやしない。この時代携帯電話はないからいちいちロビーの赤電話に行く。 酒を呑みに席に戻るようなもので、実のないことおびただしい。もっとも事件がなくてもこんなものだったろう。社会部は経済部や文化部より数段ガラが悪いとされていたから。
その日のうちに伊丹空港から羽田に飛び、ハワイ便に乗り換えた。羽田には東京での同僚が多数見送りに来ていた。といっても我々のためではない。この日北朝鮮が機体の返還を発表したため、今にも「よど号」が着陸するかも知れないというので、記者やカメラマンが多数、空港に配置されていた。結局は5日朝の着陸になったため、手持ち無沙汰の連中が我々の冷やかしにやってきた、というのが実態だ。 空港に張り付いていた写真部員が、我々を見かけて、ついでに撮ってくれたスナップが唯一、プロの手になる写真だ。
1週間後、新居といっても社宅だが、へとへとで戻ると、我々2人より先にすでに同僚数人が部屋に入りこんで、勝手に冷蔵庫のもので酒盛りの真っ最中。ほとんど出来上がっている連中の話題はまだよど号が続いていて、われわれのハワイの話など聞かれもしなかった。
北朝鮮で死んだのもいるが、いまだにメンバー4人や田中義三の家族までふくめると30人も暮らしているという。望郷やみがたく、みな帰国したがっているらしい。昔、女優、岡田嘉子が愛人と雪の樺太国境(当時は樺太の大平原を横切る線が日ソの国境。歩いて越境できた)
を超えてソ連に逃亡した(男のほうはまもなく銃殺されたことがのちになって判明)。戦後、国交が回復してモスクワ放送で働いていた岡田嘉子が帰国したとき、やはり同じようなセリフを吐いた。
そのとき、作家であり和尚である今東光が「甘ったれるでない。向こうに骨を埋めろ」と新聞で大喝した。亡命というのは言葉は甘美だが、切ないものだ。革命の大義も何かあわれをもよおす30年の歳月である。

*「よど号」ハイジャック事件(メモ1)* 赤軍派では「フェニックス作戦」といった。3月27日の予定であったが、予約の仕方やチケットの買い方を知らないのがいて遅刻者が続出、決行は1970年(昭和45年)3月31日。
ねらわれたのは、午前7時21分、東京・羽田発福岡行き351便の日本航空ボーイング727ジェット旅客機「よど号」(乗員7人、乗客131人)。
当時は金属探知機もボディチェックもなかったため、簡単に武器を機内に持ち込むことが出来た。この事件がきっかけで、ハイジャック防止法が施行され、現在のような検査が義務づけられた。
離陸してすぐ、富士山上空を飛行中に、赤軍派の9人が日本刀やピストル、ダイナマイトのようなものを振りかざして(のちに、これらの武器は偽物とわかる)叫ぶ。
「私たちは共産主義者同盟『赤軍派』です。私たちは北鮮(北朝鮮)に行き、そこにおいて軍事訓練等々を行い、今年の秋、再度、日本に上陸し、断固として前段階武装蜂起を貫徹せんとしています」。
その後ずっと帰れなくなろうとは、考えていなかったのが分かる。
9人のメンバーは、リーダーの田宮高麿(=たかまろ/当時27歳/大阪市立大)、サブ・リーダー格の小西隆裕(25歳/東大)、田中義三(よしみ/21歳/明治大)、岡本武(24歳/京大)など、8人の大学生と高校生1人。
岡本武は1972年(昭和47年)5月30日にイスラエル・テルアビブ空港で銃を乱射、26人の死者をだした岡本公三の兄。
彼らは操縦室に押し入って、機関士を縛り(当時は正副パイロットの後ろに機関士が乗っていた。のち合理化で廃止)、操縦士に北朝鮮行きを命ずる。石田真二機長(当時47歳)は、平壌(ピョンヤン)に行くには燃料不足であるとして、福岡行きを説得した。
「よど号」は機動隊1000人で厳戒態勢が敷かれた福岡・板付空港に着陸し給油する。ここで病人や女性、子どもら23人を解放して、午後1時59分、福岡空港を離陸し、北朝鮮に向かう。
そのとき、石田機長が日航の福岡空港航路課から受け取った地図は朝鮮半島の形だけがわかる白地図で、地図の上部には<航路図なし、121.5MCをつねに傍受せよ>と書かれていた。
まもなく機体マークを消した戦闘機が現れ、親指を下に向けた。高度を下げろ、というサインらしいことが分かり、下げて38度線付近あたりにさしかかったとき、
「こちらはピョンヤン、進入管制周波数134.1MCにコンタクトせよ。こちらはピョンヤン・・・」という無線が入る。指示されるままに平壌空港に着陸するが、
実はそこはソウル郊外の金浦(キンポ)空港だった。
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| 金浦空港で「よど号」を警戒する韓国軍兵士 |
よど号機内で田宮らが、着陸地がソウルと見破ったきっかけは、手持ちのラジオに「思い出のサンフランシスコ」が流れたからだという話もある。北朝鮮の
ラジオにアメリカのスタンダードナンバーが流れるわけがない。このあたり、すこしできすぎた話のような気がするが、彼らがいつか司直の手で調べられる時に明らかになるかもしれない。
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| よど号から開放される乗客(金浦空港)。 |
この間、日本赤十字社と朝鮮赤十字会の連絡がつく。<貴社が要請したJAL727ジェット旅客機が、朝鮮民主主義共和国北半部領域内に無事着陸できるようにし、 着陸後、乗客乗員たちの身辺の安全を人道主義の見地から保証するであろうし、また、直ちに日本に送り返されるであろうという当該機関の確答を受けたことを知らせる>
3日午後2時28分、残りの乗客99人全員とスチュワーデス4人全員が解放され、山村政務次官がその “身代わり”に搭乗した。 乗客が解放される直前、リーダーの田宮がマイクを持って立ち上がり「お別れのパーティーをやりましょう」と言って、赤軍派の1人ひとりが自己紹介をし演説をした。 再び、マイクが田宮の手に渡ると、気分を出して詩吟をうなり出した。このとき、奇妙な連帯感がうまれ、乗客の1人が別れの歌を歌った、という。
午後6時5分、赤軍派学生9人と山村次官、機長ら4人、計13人を乗せた「よど号」は金浦空港を離陸、北朝鮮の平壌へと向かうが、38度線を越える際にはみんなで「北帰行」を合唱した という。のんびりした機内に比べ、コックピットには焦りがあった。 石田機長の手元には白地図しかなく、また、日が暮れてしまって危険な状態だった。仕方なく肉眼で滑走路に見えたところに強行着陸した。真っ暗闇の中での見事なランディング。そこは、平壌の美林(ミリム)空港という廃港であった。
赤軍派の9人はそのまま、北朝鮮側に収監され、亡命は成功する。4日、北朝鮮側は非難声明を出した上で、人道主義的観点からとして、機体と乗員の返還を行うと発表し、「よど号」は山村政務次官と乗務員3人を乗せ、5日午前9時10分、羽田に到着、事件は終わった。

*「よど号」事件、その後の人間模様(メモ2)*
”身代わり新治郎”の異名をとって、その後の選挙を楽勝した山村衆議院議員は22年後に悲劇に見舞われる。北朝鮮との国交正常化を目指した自民党の訪朝議員団の団長として、北朝鮮に渡り、金日成主席生誕80周年慶祝行事に参加し、 赤軍派に会って説得して帰国を勧めることを予定していたのだが、出発の前夜、1992年(平成4年)4月12日、千葉県佐原市の自宅で、高校を中退してノイローゼだった次女(当時24歳)に刺されて死亡してしまう。次女は判断能力がなかったということで不起訴になったが、4年後、自殺している。
また、石田機長は、事件のフライトの後、国際線の機長に昇格する予定だったのだが、有名になったことで、女性スキャンダルが発覚し、2年後日本航空を退社するはめになった。企業の専属パイロットや、漬物屋を始めたりしたが長続きせず、最後の勤め先の警備会社を78歳でやめてからは大阪・岸和田市でひっそりと暮らした。2006年3月韓国政府が「平壌と見せかけて金浦空港に降りたのは機長の判断」という外交文書を発表した際、「なんでそんなこというのかね。事実は違う(韓国側の工作)」と不思議がっていたという。2006年8月13日、肺がんで死去。83歳。
ハイジャックのメンバーは、当時の金日成首相の計らいで、共同生活をはじめる。政治思想である主体(チュチェ)思想の講義を受けた。望んだ軍事訓練も帰国することも許可されなかった。 やがて、共同で貿易会社を設立し、平壌市内に外貨ショップを開いた。
その後9人は、訪朝7年目の1977年頃に北朝鮮当局の指令で一斉に結婚した。相手は、日本国内で朝鮮総連の指導による主体思想(チュチェ思想)勉強会などで、学んでいた北朝鮮シンパの日本人女性だった。全員が中国経由などで北朝鮮に渡った。
1980年、自民党訪朝団が平壌を訪れた際、田宮と小西が同行の記者団の前に現れ、望郷の念を語ったりしている。 だが、そうした中、メンバーが次々と病死や事故死、こっそり帰国して逮捕などで、欠けていく。昭和60年(1985)、吉田金太郎が死亡(35歳時。結婚したかどうか、死亡の状況など詳細は不明)。昭和63年(1988)岡本武が妻とともに事故死(42歳)、金日成首相が死去した翌年の平成7年11月にはリーダーだった田宮高麿が心臓発作で死去(52歳)。現在、北朝鮮に残っているメンバーは小西隆裕、若林盛亮、赤木志郎、安部公博の4人だけとなった。
田中義三は1996年(平成8年)に、タイのパタヤで偽100ドル札を使用したとしてつかまり、2000年(平成12年)6月28日、30年ぶりに日本へ移送された。2002年(平成14年)2月、東京地裁からハイジャック事件の強盗致傷罪などで懲役12年を言い渡され、翌年刑が確定、熊本刑務所に収監された。服役中に肝臓ガンが見つかり2006年末大阪医療刑務所に移され、12月には東京高検が刑の執行を停止していたが、2007年元日未明、入院先の千葉県内の病院で死亡した。
先年、北朝鮮から帰国して成田で旅券法違反などの罪で逮捕された赤木恵美子被告(46)=旧姓、金子、犯人の一人、赤木志郎と北朝鮮で結婚した=
の東京地裁での公判に検察側証人として出廷した、犯人の一人、柴田泰弘の元妻、八尾恵さん(46)が衝撃の証言をしたのだ。
神戸市出身の有本恵子さん(元神戸市外大生、当時23)がロンドン留学中の83年に北朝鮮に連れ去られたとされる事件で、「田宮高麿に指示されて私が拉致した」と詳細に供述したのだ。
警察庁は「北朝鮮による拉致容疑事案」に有本さんを追加認定し、これで8件11人と増えることから、マスコミは大きく報道した。
警視庁も、供述から組織的な拉致の疑いが強いと、結婚目的誘拐罪の適用を視野に入れて捜査本部を設置する展開となった。
実は「八尾恵」の名は事件を知っているわれわれ報道関係者の間では有名で、私もクレームを受けて、会ったことがある。彼女もよど号事件を今に引きずる被害者なのだ。
むりやり結婚させられて、現地でもうけた娘2人(長女、黎は1978年、二女、燦は1980年生まれ)をなんとか取り戻したい一心で法廷に立ったものだ。新聞テレビはこの日の法廷ではじめて
直接、拉致の供述が得られたと報道しているが、実は彼女はそれより1年以上前から同じ主旨の拉致の事実ともっとくわしい内容を供述している。有本さんの両親もこの日の証言を事前に知っていて、
ホテルで会ったとき、八尾さんは両手を突いて泣き崩れたという。
八尾さんの証言によると83年1月ごろ、平壌市内にあるよど号グループの拠点で、リーダーの田宮高麿(その後死亡)から「ロンドンで日本革命の中核となる人を発掘、獲得して欲しい。男性ばかりでなく、 女性も獲得せなあかんだろ。25歳くらいまでの若い女性がいい」と指示され、有本さんを拉致することにして、デンマークのコペンハーゲンでよど号事件のメンバーの安部公博=北朝鮮に渡った日本女性、 魚本民子と結婚=に引き合わせ、彼が北に連れ出したという。この件では結婚目的誘拐容疑で警視庁が安部公博の逮捕状を取り国際手配中である。
さらに八尾さんは、田宮高麿の妻の森順子らが男性2人を獲得した、という話を聞いたといい、「有本さんは、彼らと結婚させるための拉致だったと思う」とも証言した。 タイから日本に強制送還された田中義三の妻、水谷協子(45)=同=が、故金日成主席のチュチェ(主体)思想を教えていることや、拉致された日本人男性らと元気に暮らしていることなどを聞いた、と述べた。
その後、有本恵子さんの誘拐にかかわった詳細を明らかにした『謝罪します』(文芸春秋・1600円)を出版(2002年)、その中で、革命村にやってきた金日成首相の右腕にぶら下がって迎えた話などを披露している。
八尾さんは数奇な人生を送ってきた。日本を出国し、半分観光のつもりで北京を経由して北朝鮮に入国した。ところが、入国後、二ヶ月あまり軟禁状態で思想教育を受けた後、1977年5月、よど号グループの一員である柴田泰弘(犯行時未成年)と強制的に結婚させられた。
その強いられた結婚生活は、いわゆる「ハウスキーパー」で、柴田の「慰安婦及び子生み・子育ての道具」だったと後の裁判で述べている。
その後防衛大学生を拉致するよう命令を受け、そのため横須賀に住み、接触するための場として「カフェバースクエア・おんなのことおとこのこの夢見波(ゆめみは)」という店を作った。夫の柴田もひそかに日本に入国するが、1988年5月逮捕され、彼女もまもなく
有印私文書偽造同行使で逮捕される。そのとき「北朝鮮の女スパイ」と書かれたことから「北朝鮮には行ったこともない。よど号グループとは何の関係もない」とマスコミや国、警察を相手に14件もの裁判をおこしている。私が会ったのはそのときだ。この時、多くのマスコミは敗訴した。
わが社も百何十万円払った口だ。ニュースソースの秘匿という職業上の義務があって、たとえ警察情報と分かっていても明かすことができなかったためだ。
ところが、92年になって田宮から「よど号グループの妻であることを公表するように」という指示が来る。さすがにこのあたりから、気持は北朝鮮から離反していく。何より、夫婦2人とも日本で逮捕されているのに、娘2人が北朝鮮に残されるという
状況に耐えられず、東京地方裁判所によど号事件の現在のリーダー小西隆裕に対し、彼女の2人の子供の返還を求める裁判を起こしている。97年の夏に日本の戸籍を取得している八尾恵さんの2人の娘は帰国できないでいる(その後帰国)のに、他の犯人の子女はどんどん帰国している。これでは転向ゆえの人質だというのが訴えだ。
「よど号グループ」の子どもたち(といっても全員20歳以上)は意外に多い。田宮高麿が3人、小西隆裕に2人、田中義三に3人といったぐあい。2001年4月、田宮の娘(22)小西の娘(22)、田中の娘(23)が 裁判支援などのため帰国した。「朝香」「立子」「東美」と日本風の名前なのを見ても親の望郷の念を感じる。
2001年9月帰国して逮捕された赤木志郎の妻、恵美子被告の裁判で八尾恵さんが”敵側の”検察側証人として立つまでには、娘が北朝鮮で人質同然の立場におかれているという背景があった。
麻薬・覚せい剤とニセドル紙幣が北朝鮮の経済を支えているといわれるが、よど号事件から30年余、今では彼らはニセドルの使用と日本人拉致の手先に使われているらしい断片が浮かんできている。
(2004年1月14日、2月25日、5月10日追記)
八尾恵さん(この時点で48歳)の娘の一人が平成16年1月13日ようやく帰国した。この日北京経由で6人のよど号グループの子供たち(
全員北朝鮮生まれ)が帰国したが、この中に柴田泰弘(刑期終了)と八尾恵さんの間に生まれた次女、柴田燦(あき)さん(23)が入っていた。
ほかに安部公博(55)=結婚目的誘拐などの容疑で国際手配中。北朝鮮に渡った日本女性、魚本民子と結婚=の長女(21)と次男(19)、元リーダーの故田宮高麿の長男(20)、故岡本武の次女(22)、田中義三=服役中=の次女(17)。魚本民子=51歳。旅券法違反で国際手配中=本人も2月24日、北京経由で空路帰国、警視庁に逮捕された。公安部は、夫の安部容疑者が有本恵子さん拉致事件の実行役で、魚本容疑者も欧州などで「日本人獲得工作」に関与していたとみている。
一時北朝鮮に30人以上いたよど号犯の妻子は平成13年5月、平成15年9月、平成16年1月、2月にあいついで帰国、6月13日には最後まで残されていた八尾恵さんの長女、柴田黎さん(この時点で27歳)も帰国した。
八尾さんの娘は二人とも父親の姓を名乗っているが、2004年に帰国した次女、燦(あき)さんは田宮高麿が死亡したあとリーダーをつとめていた小西隆裕が育てていたが、90年ごろ、両親が日本にいることを知らされ、94年ごろから国
際電話で話をするようになった、という。よど号グループは八尾証言をでっち上げと批判しているくらいだから、燦さんも「母が拉致に関与したかどうかは分からないが、親子の信頼関係を何度も裏切られ、大きな不信感がある」などと話し、長女も母親を裏切者と呼び非難している。八尾恵さんは空港に出迎えに来ていたが、洗脳された娘との関係修復は容易ではないことをうかがわせていた。
八尾恵さんの前夫、柴田泰弘はすでに刑期を終えている。2004年5月聞くところでは、のんきに渋谷や大阪ミナミの夜の街を徘徊する単なる酔っ払い中年だという。
2002年9月17日の小泉純一郎首相と金正日総書記のトップ会談で北朝鮮側が拉致したことを認め、謝罪したあと、よど号グループ
の立場は微妙なものとなった。今でもいっさい関与を認めていないのだが、八尾証言はじめ出てくる話は関与が濃厚なことばかり。拉致を認めたあとは北朝鮮にとってよど号グループはもはやお荷物に過ぎず、それが妻子のいっせい帰国につながっているようだ。
北朝鮮政府は「よど号」犯と家族をもてあましているようで、2001年から毎年のように帰国させている。2006年6月現在、北朝鮮に残っているのは8人。
小西隆弘
安部公博
若林盛亮
赤木志郎
若林佐喜子(若林盛亮の妻、旧姓黒田)
森順子(よりこ。田宮高麿の妻)
北朝鮮に自分で渡った赤木志郎の妹と結婚した男(氏名不詳)
若林盛亮の次男(11歳)
よど号犯と結婚した女性は八尾恵さん含めほとんどが日本国内で「チュチェ思想研究会」のメンバーだった。森順子ら「在日」だった女性が多いが、若林佐喜子ら日本人女性もいる。彼女らの「自伝」によると、森順子は強制連行で日本にに来た朝鮮人の父と日本人の母の子として生まれ、父の遺骨を故国に返すべく北へ渡った。 若林佐喜子は群馬県伊勢崎市出身で、専門学校在学中にチュチェ思想に興味を持ち、研究会の幹部活動家になり、ヨーロッパ経由で北朝鮮に渡航したという。 2001年5月から始まった北朝鮮の”送還事業”だが、一時30人を超えていたものの最後まで残るのはメンバー4人だけということになりそうだ。
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| 関西空港帰国と同時に逮捕された赤木邦弥。 |
謎の男帰国(この項2007年6月加筆)
上で「氏名不詳の男」と書いたが、突如、熊本県宇城(うき)市出身の赤木(旧姓・米村)邦弥(52)と判明した。2007年6月5日に平壌から北京経由で関西国際空港に21年ぶりに帰国、ただちに旅券法違反容疑で警視庁公安部に逮捕され、即日羽田空港に送られた。
赤木に関する情報を、警察当局が初めて知ったのは1992年10月ごろ。よど号犯らが暮らす平壌郊外の「日本革命村」を、支援者らが訪ねた際、赤木に出会ったことがきっかけだった。よど号犯の赤木志郎(59)の妹(53)(03年4月帰国)と結婚し、2人の娘(04年9月と06年1月帰国)をもうけていた。
94年に「ジャーナリスト 小川淳」として論文を発表しはじめたが身元は分からず、97年に2人の娘の出生届が日本国内で 出された際も、父親のわからない「非嫡出子」として申請されている。
その正体が突如判明したのは04年11月、平壌での日朝実務協議。北朝鮮当局が氏名と生年月日を明らかにしたのだ。 本人も今回の帰国のため旅券を返納したが、その記録からいりいろ動きが判明してきた。 熊本県出身で、旧姓・米村邦弥。元神戸大生で昭和56年(1981)10月、大阪からパリに向け出国。当時の西独の飲食店な どで働いたが資格外活動で検挙され、国外退去処分になった。その後ウィーンに入り、反核運動のミニコミ紙「おーJAPAN」 を発行する日本人留学生らの活動に加わっている。この時ウイーンを訪れた土井たか子・元社会党委員長と小川淳として会っている写真も残っている。=右下
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| 土井たか子・元社会党委員長と 小川淳として会っている写真(赤円内)も =「おーJAPAN」から |
よど号犯による拉致の活動は昭和52年(1977)ごろスタートし、当初リーダーの田宮高麿 (1995年11月に死亡)らが指導していたが、昭和58年ごろには、魚本(旧姓・安部)公博容が責任者になっていた。赤木邦弥 がグループと出会ったのも、この2件の拉致の間だったとみられ、警察当局は、赤木邦弥は 欧州での日本人拉致の真相を知る“キーマン”とみて調べを続けている。
「北朝鮮にいるときは恵子のことも知っていると思うんですね。だから話して欲しいという気持ちはありますけれども。だけど、 話さないだろうと思ってます」(有本恵子さんの母・嘉代子さん)
よど号犯の妻7人、子供17人がすでに帰国、2007年6月現在北に残るのは、よど号犯4人と、妻の森順子、若林佐喜子の2人、子供1人の計7人となった。
ついに本件の拉致で逮捕状
これまで帰国した連中は国内に入ると同時に逮捕されたが、皆平気な表情で連行された。旅券法違反などの形式犯で刑が軽いことを知っているからだ。事実ほとんどはすでにシャバに出て支援活動などをしている。しかし森・若林の二人の場合はそう簡単ではなさそうだ。2006年2月に、拉致被害者の松木薫さんの拉致に関与した疑いが強いとして、松木さんの姉の斉藤文代さん(60)が、「拉致された弟がまだ帰国できないのに、関与した2人が帰ってくるのは許せない」と逮捕監禁容疑で警視庁公安部に告発状を出して受理され、さらに2007年6月に警視庁公安部が石岡さんと松木さんを欧州から北朝鮮に拉致した結婚目的誘拐容疑で逮捕状を取り、国際手配したからだ。
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| 撮影されるのを嫌ったようだが、 石岡さん拉致に若林、森の二人が関与した証拠写真。 |
札幌市出身の石岡亨(いしおか・とおる)さん=当時(22)=と熊本市出身の松木薫(まつき・かおる)さん=同(26)=は昭和55年(1980)4月、スペインで若林、森の2人と会い、ウィーン旅行に誘われた後に失跡した。石岡さんは日大卒業後、パン作りの技術を学ぶためバイト先で仲良くなった友人と2人で旅行中(のち動かぬ証拠となる動物園での写真はこの友人が撮影)。また松木さんは京都外大大学院を休学して語学留学中だった。松木さんには日本に将来を誓った女性がいて「あなたが一番好き。1年で帰国するから待っていてください」とマドリードから絵はがきを送っている。姿を消す理由はなかった。
森、若林らよど号犯の活動拠点は当時オーストリアのウイーンにあったが、スペイン・マドリードにアパートを借りて拉致工作を行っていた。2週間ほどのあいだにターゲットにされたのが石岡、松木さんと関西地方からこの地を訪れていた姉妹だった。姉妹はウイーン行きを断って無事だったが、拉致して子どもを産ませるため北朝鮮で誰かと結婚させようとしたと見られている。
4月16日、スペイン・バルセロナのテルミノ駅で友人と2人でいた石岡さんに森、若林が「日本の方ですか」と声を掛けて近づいてきた。4人で市内の動物園に移動して記念写真を撮った。石岡さんの友人がシャッターを押し、のち動かぬ証拠となる上の写真だが、このとき2人は嫌がるそぶりをみせたもののかえって不自然だと思ったようで一緒に収まっている。
松木さんの方はマドリードにいた。4月15日から5月20日までの宿泊記録がある。この間に石岡さんがバルセロナで写真を撮った時の友人と分かれて戻ってきた。今度 は森、若林が自分たちのアパートに石岡さんと松木さんを頻繁に招くようになった。ほとんど毎晩でこの席には前述の姉妹も招かれ、手料理で歓待されたりトランプゲ ームなどをして遊んだという。やがて「ウイーンに一緒に行きましょうよ」と誘われる。姉妹は断ったが男2人は付いていったと思われる。
石岡さんは6月3日、日本の友人に「ウイーンに滞在中ですが、マドリードで知り合った人たちと4人で共産圏を旅してきます」と手紙を送っている。姉妹は「あの4人としか考えられない」という。こうしてスペインからウイーンに誘い込まれた2人はルーマニアなど旧共産圏を旅行して、6月上旬にユーゴスラビアから北朝鮮に拉致されたと見られる。「共産圏の旅行には北の特務機関の人間が付き添うのが普通。そうして送られたのだろう」と警視庁公安部ではみている。
8年後の昭和63年(1988年)9月、突然、石岡亨さんから札幌の実家に、手紙が届く。松木さんや昭和58年7月に行方不明になった元神戸外大生の有本恵子さん (当時23歳)と北朝鮮で暮らしているというもの。8月13日付の消印からポーランドで投函されたのがわかっている。警戒が厳しい平壌で、バレたら殺される身の危険を冒してすれ違った共産圏の人に託したも のと考えられている。
この手紙で有本恵子さんの両親、有本明弘さん・嘉代子さん夫妻が外務省に陳情しても無視され相手にされない。困り果て、当時北朝鮮と親密な関係にあった社会党の 力を借りようと国会を訪れ国会内のエレベーター前で土井たか子委員長に石岡亨さんの手紙を根拠に直接陳情した。しかしけんもほろろで全く相手にされず、それどこ ろか、土井たか子氏は石岡亨さんの手紙の存在事実を事もあろうに朝鮮総連に通告したという。夫妻は今も社会党と土井たか子氏への怒りを隠さない。
有本さんはデンマーク・コペンハーゲンで拉致されたが、この件ではウイーンを拠点に活動していた魚本(旧姓・安部)公博の関与が分かっていて、北朝鮮工作員 に引き合わせたしてすでに国際手配中だ。
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| 2人の近影 =産経新聞から |
小泉首相の訪問時に、北朝鮮は日本政府に2人の拉致を認め「石岡さんは有本恵子さんと結婚したが1963年にガス中毒で死亡、松木さんは1996年に交通 事故死した」と伝えてきている。北が提供した松木さんの遺骨というのはDNA検査で全くの別人のものと判明している。横田めぐみさん含め死亡したとして ニセ遺骨を送りつけてくる北朝鮮のことだから、はいそうですかと信じられる話ではないが、なんでまたこんなに手の込んだ拉致をする必要があったのか。金 日成主席が「代を継いで日本革命を行わなければならない」とよど号犯とその妻らに教示したため、組織拡大と結婚相手確保のため、昭和53年ごろからウイー ンなどを拠点にいっせいに日本人留学生の獲得に乗り出したとされる。マンガのような北朝鮮とその頭領だ。もっともその前に、よど号を乗っ取って北朝鮮で革命 拠点をつくると考えた連中のマンガがあるのだが。
この項は重信房子が逮捕されたところから書き始めたが、5年後の2006年2月23日、その重信被告に、一審の東京地裁判決が出た。
日本赤軍メンバーがオランダ・ハーグの仏大使館を占拠した「ハーグ事件」で、殺人未遂や逮捕監禁など3つの罪に問われた、重信房子被告(60)に村上博信裁判
長は「重要かつ不可欠な役割を担っていた」と、最大の争点だったハーグ事件での実行犯との共謀を認定。「複数の国家を巻き込もうと武器を準備したうえ組織的に
敢行された犯行」と断じ、懲役20年(求刑無期懲役)を言い渡したのだ。判決主文を聞き、重信被告は傍聴席に向かって右手の拳を上げてみせたものの、かつて
の闘士も、事件から30年余を経て既に還暦。裁判は続くといえ、出てくる時は「80歳」である。
ハーグ事件は、当時フランス当局に逮捕されていたメンバーの奪還を計画、和光晴生、西川純、奥平純三の3人が、昭和49年(1974年)年9月13日、拳銃や手榴弾で武装してオランダ・ハーグのフランス大使館を占拠し、大使ら11人を監禁、警察官2人に発砲してけがをさせた。和光晴生(06年で57歳)は1997年2月15日、レバノン当局が別の事件で逮捕。刑期を終えた2000年に強制送還され、警視庁に逮捕され、一審で無期懲役判決を受け、現在控訴中。

重信被告は昭和20年9月、東京都生まれ。都立高を卒業してキッコーマン醤油に勤めながら、昭和40年、明治大学2部 に通っていたところを赤軍派の生みの親、塩見孝也にオルグされた。在学中に学生運動に参加。「共産主義者同盟(共産同)赤軍派」(日本赤軍)が昭和44年に結成された時か ら中央委員に就任。日本赤軍の最高幹部となった。昭和46年には「世界同時革命」を掲げ、故奥平剛士幹部と偽装結婚し中東のレバノンに渡った。ここでパレスチナ解放機構 (PLO)の内部組織「パレスチナ解放人民戦線(PFLP)」と共闘。日本赤軍は、イスラエルのテルアビブ・ロッド空港襲撃事件などにかかわったとされる。第一次大戦時の著名な女スパイに なぞらえて「ブント(共産主義者同盟のこと)のマタハリ」と呼ばれた。ハーグ事件で昭和50年に逮捕状が出され、平成元年に国際手配。平成9年以降、日本、中国、 ベトナムを他人名義の旅券で16回行き来していたが、平成12年11月、大阪府高槻市で逮捕された。
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| 重信房子の一人娘、メイさん (日本テレビの「知ってるつもり?!」 =番組はすでに終了=から) |
日本赤軍誕生の経緯
もともと重信房子を抜擢したのは過激派集団、日本赤軍の生みの親、塩見孝也だった。重信はさらに“塩見路線”に飽き足らず海外に飛び出したもので日本赤軍
の「鬼っ子」的存在だ。元赤軍派議長・塩見孝也はどの事件でも名前が出てこないが、これは早くに逮捕され獄中にあったためだ。
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| 塩見孝也(2003年) |
この事件で幹部兵士を失った塩見は、航空機をハイジャックしてキューバか北朝鮮の海外の革命拠点で本格的な軍事訓練を受け、日本に帰って革命を実現しようと 計画する。ところが、タクシーで東京・駒込のアジトから出たところを逮捕された(1970年3月15日)。一人息子の満1歳の誕生日で会いに行こうとしたらしい。 急遽、残された田宮高麿ら9人が作戦を実行することになった。これが2週間後の「よど号事件」だった。捕まっていなかったら指揮をとって北朝鮮に渡っていた のは塩見のはずだ。
逮捕された塩見元議長の手帳には「HJ」の文字があったが、これがハイジャックを意味すると分かったのは、事件後のことだった。爆発物取締法、破防法などの 共同正犯で刑が確定。19年9か月の獄中生活の後、1989年の暮れに出所した。北朝鮮のよど号犯とも連絡を取っていて、これまで40回ほど北朝鮮に渡っている。 最近(2007年10月)接見禁止が解かれた重信に、塩見が四半世紀ぶりに東京拘置所で面会、透明なプラスティック越しにハイタッチしたという。
シャバに出た塩見元議長は雑誌の原稿料、本の印税などで暮らし、還暦をはるかにすぎた今は西武線沿線の大型スーパーで時給1000円ほどの駐車場管理の仕事をしている そうだ。いまだ北朝鮮に残っている連中へは「友人としていま言いたいことは、刑事責任に問うなとか、連れてきただけとか何とか言い訳をしないで、もっ と早く帰国すべきだった。小異を捨てて大同につくべきだ。自分たちがやってきたことを認めて、『それでも不屈に闘う』というメッセージを国民に発すべ きだ。しかし、いまとなってはもう遅い。時期を逸した。北に骨を埋めなさいと言いたい。人間のありようからして、そうして前向きに生きていくべきだ」と言っている という。
連合赤軍とは
こうした赤軍派の動きと並行して、「革命は銃口から生まれる」という同じような過激派理論のもと、京浜工業
地帯の労働者や学生で結成した京浜安保共闘が、米大使館や米軍基地を火炎瓶で攻撃したり、銀行強盗で資金稼ぎをしていた。71年2月には栃木県真岡市の銃砲
店を襲って、銃と銃弾を手に入れた。この京浜安保共闘と赤軍派が地下でひそかにドッキングして作ったのが「連合赤軍」だ。
【国際手配中で現在逃亡中の日本赤軍】(年齢は2006年現在)
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| 赤軍メンバー。このうち西川純は1997年11月ボリビアで逮捕、 公判中。重信房子は控訴中。岡本公三だけ手配写真がない。 |

| アカシアの雨に打たれた安保 |
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60年安保は学生で、機動隊に追われる立場。70年安保は機動隊のうしろで取材する立場だった。札幌中央警察署の看板をかっぱらって、みんなで 小便をひっかけるという、なにやらマンガチックなことにうつつを抜かしていた。入学した昭和34年、北大からは唐牛健太郎(かろうじ・けんたろう)という 全学連委員長を出している手前、がんばらねばならぬ雰囲気があったが、実態は子供じみていた。 |
■唐牛 健太郎(1937−1984)
晩年の唐牛健太郎
新左翼を象徴する共産主義者同盟(ブント。書記長・島成郎)が指導した60年安保全学連の伝説的な委員長。湯の川温泉の芸者の子、いわゆる 庶子として生まれ、道立函館東高校入学。がり勉ではなかったが教師が「唐牛が現役で北大にはいるかどうか」で賭けをしているのを聞いて猛勉して 1956年、現役で北海道大学教養部(文類)に入学。1年の夏休み、北大を休学して上京、第二次砂川闘争に参加。そのまま学生運動に身を投じた。翌年北海道に戻り、北大教養部自治会委員長、日本共産党北大細胞に入党。しかし、共産党が指導する安保闘争に限界を感じて、ブント書記長、島成郎 が北海道まで来ての強い説得を受けて上京、昭和34年(1959)の全学連第14回定期全国大会で中央執行委員長に就任。「輝ける全学連委員長」として60年 安保闘争の頂点に立った。アジテーターとして傑出した強烈な個性と卓越した指導力で異彩を放った。そのカリスマ性は「ゼンガクレン」「赤いカミナリ族」 の異名とともに、外電にも載って全世界を駆けめぐった。
唐牛が、「60年安保」で実際に歴史の表舞台で活動した期間は、通算3か月ほどの短期間に過ぎなかった。けた外れの長期拘留のためで、最後に保釈された のは、安保闘争終了の半年後であったが、周りに強い影響力を与えた。藤本敏夫(日大全共闘、歌手・加藤登紀子さんの夫)は、のち唐牛の追悼集で『唐牛 健太郎のまわり百メートルは、いつも革命的であった』と述べている。
元自民党幹事長で、60年安保闘争当時、父が自民党代議士でありながら、全学連主流派のデモに東大時代「3回だけ参加した」経験をもつ加藤紘一は 「昔なら唐牛さんは、農民運動の名指導者になっていたのではないだろうか。人間を見る目の確かさ、鋭さ、暖かさは、保守・革新の枠を超え、われら 『60年安保世代の親分』と呼ぶにふさわしいものだった」と『唐牛追想集』に一文を寄せている。
評論家、西部邁も「彼の示した明るさの半分は天性のものであろうが、あとの半分は自己の暗闇を打ち消さんがための必死の努力によってもたらされたものである。 彼の明るさには心の訓練によって研磨された透明感のようなものがあり、その透きとおったところが私には寂寥と感じられた。」と、同時代人の目で書いている。
闘争後、北洋漁業の漁師をしたり、太平洋横断の堀江謙一などとヨットの会社を興したり、飲み屋を営んだり、衆議院奄美群島選挙区で徳洲会・徳田虎雄の 選挙にも関わったりした。また右翼の巨頭とされる田中清玄の元に身を寄せ、ゼンガクレンが資金提供を受けていたことが暴露されたりした。このため、 「左翼運動も左、左と行くと右になる」などと言われるなど毀誉褒貶が多かったが、弁解したことはなかった。
昭和59年(1984)3月4日、直腸ガンのため死去。青山斎場でのお別れ会では、加藤登紀子が、彼が好きであった「知床旅情」を歌った。
私は彼とはクラスメートにあたる。といっても、あちらがだいぶ上だ。当時、北大の教養部では第2外国語にフランス語を選ぶと自動的に「4組」に編入された。 彼は入学時にフランス語を取ったのだが、学生運動に忙しくてほとんど東京にいて札幌に戻ってくる時間はない。かくて、毎年ドッペって(落第して)いたのだが、 この時に自動的に一年下の「4組」に落ちてくる。こうして私と同じクラスになっただけ、一度も会ったことがない。大学に は教養4年、学部4年の計8年しかいられない。このクラスを最後にまもなくむこうさん除籍になった。
私はクラス委員をしていたが、役目は講義時間ごとに教官と交渉して休講にしてもらい、クラスをまとめてデモ隊への参加者を増やすことだった。樺美智子が死んだ ときなど、運動のピーク時にはデモ隊の先頭が大通り公園に達しても最後尾はまだ大学の正門を出ていないというほどだった。機動隊が充実されるのはその後の話で 学生に比べて圧倒的に数が少なかった。
このころのデモ隊は投石などせず、シュプレヒコールしながら時折ジグザグをやるくらい。機動隊に隊列を切断されたりすると竹ざおで殴りかかるくらいが関の山だったが、 機動隊側には少数ゆえの恐怖感があったのだと思うが、荒っぽかった。捕まったことがあるが、写真に写る腰から上は何もしていないが、下はあの固い靴で蹴り上げてきた。頭にきて殴りかかると証拠写真にはこちらの手を振り上げた姿ばかりという図式だ。
警察もまだのんびりしていて、捕まっても身元引受人がいるとすぐ釈放されるのだが、こちらは遠方から来ているから地元に知り合いなど少ない。 実は遠い親戚が2人いたがその仕事柄、学生運動などとんでもない立場だったし、もう一人、両親が仲人をした縁でよく食事に招かれたりしていた人は札幌高裁 の判事をしていてとても名前を出すわけにはいかなかった。だから警察の方で扱いに困って放り出されるまでけっこう時間がかかった。
その後マスコミに身を投じた。配属先が大阪社会部で、取材するのが大阪の安保闘争だった。デモ隊が次第に荒れてきた。当初ヘルメットも要らなかったくらいなのが、 記者とカメラマンが投石よけの透明板、後頭部を守るひたたれつきのヘルメットで現場に立つという時代になった。東京に異動となり今度は東京のデモ隊を取材する立場に なった。デモ隊はさらに先鋭化して都電や国鉄の敷石を剥がして投げるようになっていた。
「60年安保」と「70年安保」の違いはあるが、機動隊と対峙していたわが身が、わずか10年でいま、(安全な)機動隊のうしろで投石よけのひたたれがついた ヘルメットで、日比谷交差点の催涙ガスのなかにいる。さすがに思想のむなしさを感じないわけにいかなかった。
◇ ◇ ◇
60年安保と70年安保60年と70年、両方のデモ隊の画像があるので下に紹介した。日本が米国占領下にあった1950年6月25日、朝鮮戦争が勃発した。これによりアメリカは日本占領政策を放棄して朝鮮半島に専念せ ざるを得なくなった。日本を自由主義陣営にとどめ、且つ自立させるために、1950年7月警察予備隊の結成を命じ(自衛隊設立は1954 年6月)、翌年には日米安全保障条約及びサンフランシスコ平和条約を締結させ、日本の再軍備と国際社会への復帰を急いだ。
1952年安保が発効したが、韓国の李承晩・初代大統領が一方的に対馬海峡に李承晩ラインを設定して日本漁船を拿捕、竹島も不法占 拠した。軍事力がない日本は何もできず、米軍もまた日本を助けなかった。このときの安保条約ではアメリカに日本を防衛する義務が なかった。
日本の要望を受ける形で旧安保を改定、日米が共同して日本防衛にあたるとした(第5条)新安保条約を締結した。これに反対する 社会党と共産党主導の反対運動が「60年安保闘争」だ。
1960年5月19日、自民党主流派が強行採決を行なったことで世論は反岸内閣、反安保に向かい、デモは学生、労組から一般市民 まで広がっていく。この時一気に表舞台に登場したのが日共から分派した新左翼で急進派の先端にあった「共産主義者同盟=ブント」 だった。ブントは全学連を組織しデモ隊を国会に突入させた。この時ブントの手伝いをしていた東大生、樺美智子さんが死亡、安保闘 争はピークを迎えた。
その10年後、安保条約の自動延長の期限がやってきた。これに反対する運動を「70年安保闘争」という。第一次羽田事件、新宿騒擾 事件、4・28沖縄闘争(44年)等の集団武装闘争を繰り広げたが、過激派の各セクト(革マル、中核など)が乱立して火炎ビン闘争ま でエスカレート、セクト間の内ゲバで互いに襲撃するなどし、最後は連合赤軍による凄惨な同士討ちの連続リンチ殺人まで起し運動 自体が荒廃の一途をたどって国民の支持を失って幕を下ろす。
前が60年安保(10′39″)、後が70年安保(1′49″)の様子。
モノクロとカラー、首相の名前、デモ隊の服装など10年の時代差を感じる。
◇ ◇ ◇
西田佐知子の「アカシアの雨に打たれてこのまま死んでしまいたい・・・」が、安保の挫折感を代表するテーマソ ングで、たしかに気分がよく出ている。しかし、これは昭和36年に世に出た歌で、60年安保の初めにあたる昭和34、5年のデモ隊は水原弘が歌った「黒い花びら」が 愛唱歌だった。第一回レコード大賞(昭和34年)受賞曲だが、白い雪を踏みしめてキャンパスを歩きながら「黒い花びらとは妙な取り合わせだなあ」と思った。
あのとき先頭に立った社会党は、党内意見が分かれているとはいえ、 いま安保是認を党として認めようとしている。なにより社会党自身が人気がなくなってしまった。名前もいつしか社民党となった。万年野党が連合政権を担い首相を 出すや自衛隊をあっさり認めるとは誰があの時想像したろう。いまは女性を党首に立てて脱皮をはかりつつあるものの、2007年参議院選でさらに議席を 減らし劣勢覆うべくもない。テレビのモーニングショーに出てきて、事件ニュースにまでいっぱしのコメントをしている女性党首を見ると、もう歴史的使命を終えたといっ てもいいだろう。
60年安保では大学のクラス討論会にまで社会党や共産党のオルグが入ってきたものだ。それが、いわゆる「55年体制」の保革2大政党の「対立」時代は表向きで、裏では 「馴れ合い」時代だったことが、新聞記者として議会内を取材するうちにわかってくる。社会党の議員が外遊する際には自民党の領袖のもとを回って餞別を集めたという類の話が わんさと出てきて幻滅したものだ。「アンポ」はなんだったのかと思う。
いま民主党議員として口角泡を飛ばす人物の多くは少し前まで日教組や自治労から出た旧社会党議員だ。変わり身の早いことに感心するが、船が沈むときにはいち早く脱出するというネズミ を見る思いだが、相づちを打っている民主党有力議員の大半はちょっと前まで自民党右派で鳴らした人たちだ。どこに共通項を見出しているのだろうか不思議でならない。
◇ ◇ ◇
西田佐知子だ「アカシアの雨がやむとき」だといっても、何だそれはという時代になった。当時、アカシアの街、札幌に居たせいもあり、この歌も「アンポ」もごく 身近だった。こんな歌だ。
(右向き矢印クリックでスタート)
水原弘の「黒い花びら」の方も画像があるので紹介しておく。
◇ ◇ ◇

| コンコルドにイギリス病を見た |
2000年7月25日、エールフランスの超音速旅客機コンコルドがパリ郊外シャルル・ドゴール空港近くに墜落113人が死亡した。
その後分かった墜落原因は最新鋭機にしては他愛もないものだ。滑走路上にその前に飛んだ航空機が落とした40センチほどの金属片があった。それを左の車輪で踏みつけたためタイヤが破裂、その破片が主翼内の燃料タンクを突き破り油が洩れ出した。コンコルドはエンジンに独特のアフターバーナーを採用していたため、たちまち燃料に引火したと推定された。
このニュースを聞いて感慨新たなものがあった。私の初めてのヨーロッパ旅行が、このコンコルド就航を前にBOAC(いまのBA=ブリティッシュ・エアウェイズの前身)に招待されてのものだったからだ。現在13機が就航中だが
全部で20機しか製造されなかったコンコルドは商業的には失敗だった。その強力な推進者だったドゴール将軍の名を冠した空港を離陸中に落ちたのも皮肉だが、これで歴史的使命を終える時期が早まったのは間違いない。(2003年で運航終了) 当初からマイナス面が指摘されていて、開発した英仏両国しか使わなかった不運の飛行機だ。まず燃費が悪い。満タン(92トン)でもパリーニューヨークがやっとだった。また、滑走路が長くないと離発着できないためアメリカ側から断られた。運賃がヨーロッパーニューヨーク往復で8720ドル(約100万円)とべらぼうだったことなど、問題を多く抱えていた。
だが、当時はヨーロッパの技術力の結晶といわれたものだ。この英仏のプライドがのちのち禍根を残す。
私はその英仏両国のプライドを見に行ったのだが、コンコルドの他に今なお尾を引くイギリスの階級社会、外国人労働者の問題もはじめて目にしたのだった。 コンコルド就航前で実機がないので、ヒースロー空港にある模型を前にスチュワーデスが客室サービスの訓練をしているようなところに案内された。秘密保持のためか、コクピットやエンジンに関するところは坐学、もっぱらサービスなどのソフト面を見せられたのだが、とにかく機内が狭い。これでは大きな向こうの女性は練習しなければ、機内を歩けないというのが印象だった。
私の案内役についたのはホワイトさんという40歳手前の広報の方だった。ロンドンからベルリンに飛ぶことになって、ふと彼が漏らした言葉にびっくりした。「ドイツに飛ぶのは初めてです」。
前の晩のパーティーで彼と同じ年頃の幹部たちは、みな夫人同伴で、極東支配人のとき香港で上の子が、東京で下の子が生まれた、などと話していた。私の下の娘もその子と同じ新宿区・落合の聖母病院で生まれたので、共通の話題となった。
商売柄、自社便でそれこそ東奔西走しているというのに、目と鼻の先のベルリンに行った事がないエアラインの社員がいる。日本大使館のある人が教えてくれたが、階級社会の英国では別に珍しいことではないという。ブランデンブルグ門のあたりを英国と日本の赤ゲット2人して歩いたものである。
大学時代馬術部にいた。私が馬に乗っていたとわかると、郊外のお城でのキツネ狩に招待してくれた。なかに公爵か伯爵か知らないが、貴族がいたのである。このときは「公、侯、伯、子、男」の5等爵の順番とか、英語での呼び方を憶えて行ったのだが、帰国とともに忘れた。その後必要にせまられたこともない。こちらは北海道にいるからには馬でもという程度で月額300円の部費を払えば誰でも乗れた。出自は馬の骨だ。
キツネ狩りが貴族のスポーツであることぐらい承知しているが、狩り出すのは専用の犬と勢子まかせ。立派な服装の人はただ
ゆったりと走るだけ。どこが面白いのかついぞ分からなかった。私のほうはそれこそ尻馬に乗って走り回っただけだったが、
男女ともまるで違う階層の人がいることはよくわかった。使う英語も違うそうだが私の語学力ではなんともしがたかった。ただ、
美しいものとして数えられる「イギリスの田舎」が脳裏に焼きついた。

コンコルド機(BAになってからのもの)
「コンコルドの誤り(錯誤)」というのだそうだ。経済学では、巨額の開発費を投入したから、途中でやめるわけにはいかない、と続けたばかりに取り返しのつかない損失額になるケースをいう。つぎ込んだ金額は当初計画の8倍以上、当時の金で12億5000ポンド(約1兆円)にもなった。
動物行動学では、ある雄が雌に求愛して断られた時、それまでにエサを持参するなど相当な投資をしているので、簡単に気持ちを切り替えて他の雌に求愛することがなかなかできないケースがある(長谷川真理子『科学の目 科学のこころ』)。こういう時に使われている。
採算ライン250機に対して製造は20機(納入16機)。メンツは時に大損を呼ぶという例は、我が国でもいたるところに転がっている。経済面からみればそうなのだろうが、エンジン、電子制御など航空工学の面では多くの基礎技術を残したはずだ。
イギリスの階級社会のすごさ
私自身もここで尿管結石の摘出手術を受けた。私の場合は近所だから行く病院だが、英語圏の彼らはカトリック系の病院で英語が通じるので、この病院の名前はつとに有名で、あのシスターはいるかとかで大いに盛り上がったばかりだった。
この原稿を書いて3年後の2004年9月、英国議会でキツネ狩りを禁止する法案が可決された。1000年の歴史に幕が引かれるの
だから外電を注意深く読んだ。
1000年の歴史に幕 「キツネ狩り」禁止に
【ロンドン=9月15日】英貴族の伝統的なスポーツである猟犬を用いた狩猟を禁じる法案をめぐり、法案に反対する1万人が15
日、英議会に押し寄せ、警察官と衝突する騒ぎとなった。法案は同日、下院で可決され、1000年の歴史を誇る英国の「キツネ
狩り」は、06年には姿を消すことがほぼ確実となった。
角笛の響きや猟犬のほえ声を背に、真っ赤な乗馬服のハンターが馬でキツネを追う姿は、英国を象徴する光景の一つだっ
た。しかし、近年は動物愛護運動の高まりで国民の多数はキツネ狩りに反対していた。
ブレア政権は昨年、キツネ狩りを「許可制」とする法案を上程。下院で全面禁止に改められたが、上院で否決されて不成立。
今回は全面禁止に変更して上程し、この日、賛成多数で可決した。上院が否決しても下院議決を優先する規定が適用され、
法案は成立する見通しだ。可決されたのはイングランド、ウェールズでの狩猟禁止。スコットランドでは既に02年に禁止とな
っている。1949年に初めて議員から草案が提出されてから、足かけ45年ぶりの可決。
この日、法案に反対する農民らが議会に押しかけ、BBCによると衝突で18人が負傷し11人が逮捕された。5人が法案を
審議中の議場に入り込み、抗議したため、審議が一時中断した。
(毎日新聞 9月16日付)
議会に乱入されたのは、世界の民主主義の始まりとなった清教徒革命で、鉄騎軍を率いて議会を襲撃したオリバー・クロムウェル
以来355年ぶりだという方に感心する向きもあり、いかにもイギリスらしいが、圧倒的多数の国民が賛成しているのに1万人も
の反対派が押しかけたというのがよくわからなかった。調べると「キツネ狩り」はかなり大きな”産業”で失業者がかなり出るのだという。
イギリスでのキツネ狩りの歴史は、封建制が定着した13世紀までさかのぼる。 当時、イングランドの4分の1は王の猟場だっ
た。 王室所有地以外は、すべて封建貴族の猟場だった。王の獲物として育てられるシカを殺した者は、その両目をつぶす
という刑罰を受けたほど。
島国のイギリスで、キツネは食物連鎖のピラミッドの最上部に位置する動物で、この国ではキツネが最も魅力的な獲物だった。
今でもおよそ50万匹のキツネがいると推定されている。 少しくらいいいのではないかという理屈も成り立つが、「キツネ狩り」の
残虐さが問題だ。
貴族のスポーツだからフェアかと思うと、そうではない。私が思い出すところでも「儀式」が重んじられていた。 一昔前の騎兵隊の
将校服を着たマスターが吹くラッパの音で進む。音色で右とか左とかあるようだが旅人の私には分からなかった。 キツネ狩り
用に改良した猟犬「フォックスハウンド」数十匹が、ワンワン吠えながらキツネを追跡する。その後から真っ赤な燕尾服などに
身を固めたハンター(我々)が従う。ただ「駆け足」で馬に乗っているだけだ。
残酷なのはこの後で、猟銃で撃つのかと思うと違って、犬にかみ殺させる。撃つときもあるようだが、狩猟犬の訓練として必要なのだ
という。このあとキツネの尻尾は幸運の象徴なので、ハンターの中の
女性に捧げられる。時には頭や足も記念品になる。そして胴体はフォックスハウンドへの分け前だ。狩猟民族の習慣を農耕民族の
モラルで糾弾するのは間違いかもしれないが、やりきれない「スポーツ」であることは間違いない。
禁止されてもまだ問題は残る。キツネ狩り用に飼育されているフォックス・ハウンドは2万5千頭にのぼり、その他の狩猟犬は
20万頭ともいわれる。犬好きの国民だからみな不要になるわけではなかろうが、かなり処分されることになる。キツネをかみ殺す
訓練を受けた犬は家庭犬にはなりにくい。
このときイギリスでの上流階級の人間の見分け方というのを教わった。日本とは逆で、背が高く、体格がごついのがエリートだという。
だいたいボートだとかラグビーだとかのスポーツをしている。私は176センチあるが、パーティーでは中以下ぐらいだった。そういえばホワイトさんは私より10センチほど低い。ただしこれは男の場合で、女性については聞き漏らした。
甥っ子2人は親の仕事の関係で長くロンドン暮らしをした。それが言っていたが、学校ではサッカー(主にアメリカでサッカーといい、その他の国ではフットボールと呼ぶ)を禁じられていたという。君たちがするスポーツではないということのようだ。悪名高い英国のフーリガンは英国の恥と、ブレア首相みずから非難しているがサッカーファンは別な人種ぐらいにみなされているようだ。
甥っ子の1人はその反動か、帰国して浦和レッズの度はずれたサポーター暮らしである。家まで近くに引越した。
余談だが、このときよりかなり後の、ワールドカップ・イタリア大会の時、オランダ最南端の古都マーストリヒトにいた。日本にプロサッカーチームが誕生する前で、隆盛に疎(うと)かったが、パトカーの警官まで店先にクルマを止めてテレビ観戦していた。平坦なオランダには珍しく坂のある町で、テレビも見ずに観光にあえいでいる日本人をみたパブの若者たちが、店の中に誘ってくれた。
上半身裸で腹に国旗を巻きつけたのが、「いま、オランダが勝っている。ビールをおごるよ」といってくれた。ところが、ありがたくご馳走になっているうちに逆転されたのだ。みるみる連中は不機嫌な顔つきになってきた。さあ困ったことになった。ここは「ダッチカウント」(割り勘)という英語にいまも名をとどめる国である。ご馳走になったものか、払ったものか、悩みに悩むこととなった。オランダが再逆転してくれたら、
八方丸く収まるがそうはうまくいかない。形勢さらに不利。おしまいまでいて殴られるよりよかろうと判断して、大きな声で「ごちそうさま」というと飛び出した。
イの一番のサービスというのも困ったもんだ
行くときは羽田から北回りでロンドンへ、あとベルリン、パリ、チューリッヒ、ローマとまわり、帰路は南回りでニューデリー、香港経由で羽田だったが、全部BOACのファーストクラスだった。チケットに記入されているらしく、いつも最前列の窓際だった。これがノイローゼのもとになった。
前述のごとく離発着が多いのだが、加えて食事の回数が多い。機内サービスというのは今もそうだが、地上の時間に合わせて出される。南回りでは時差をどんどん詰めていくわけだから、朝飯が出たとおもったら、もう昼飯だ。その後の晩飯まで3、4時間しかない。フォアグラもかくや、という按配だ。
しかも、そのたびに私からサービスが始まるのだ。
ファーストクラスはフォークとナイフも本物が出てくるように、サービスも一流レストランを目指している。ワインのテースティングぐらいはできる。「グッド」とか何とかいってればよい。肉の焼き方もなんとかなる。チーズとデザートがいけない。何十というチーズが差し出される。名前も知らなければ食べたこともないのがほとんどだ。迷うと説明の山が押し寄せてくる。
デザートだって食後に大の男が、あんな大きくてとてつもなく甘いケーキを食べているのを見ると、胸がつかえるというのに、何種類もトレイに乗ったのが突き出される。「ほんの少し」、というと少しの尺度が違って大きいのが皿に乗っている。律儀に食べると胸焼けだ。ならば、と寝たふりをした。前にカードが置かれている。「起きられたら呼んでください」。飽食の時代の実体験だった。
外国人労働者は亡国のはじまりか
この旅行でイギリスの衰運を感じたのは、ホテルの外国人労働者であった。ホテルの朝食のときサービスにあたるのは、そういう人たちである。紅茶にうるさく、紅茶にミルクを入れるのか、ミルクに紅茶の葉を入れるのか、卵の焼き方はどうするか・・・etc うるさく注文する国民が、そういう食習慣のない国からの労働力に頼る。彼らは一応注文を
聞くが、実(じつ)のないことおびただしい。
オートミールにつけるパウダーシュガーが、コーンフレーク用の普通の砂糖だったりするのがもう始まっていた。紳士が大切にするクラブだけは、まだイギリスの誇る執事が取りしきっていて、そこではまだ英国風が残っていたが、旅人にももはや時間の問題であることが分かるほどだった。途中立ち寄ったスイスのチューリッヒでは、早朝やってくるごみの収集は、もう外国人労働者だった。
日本に同じことが起こり始めたのはほんの少しの時間差を置いただけだった。
「11PM」を知っていますか
帰ってすぐそのころの人気番組、「11PM」(もう、イレブンピーエムとルビを振らないとわからなくなったが)からお呼びがかかった。本格的な日本人の海外旅行ブームは始まったばかりであったが、この旅行で海外で出くわした日本語、ユングフラウヨッホの氷に刻まれた落書き、町のレストランのメニューにつけられた日本語の漢字が戦前の人の筆になると思われるもの、などつれづれに写真を撮ったものを紙面で紹介したのだが、そういう視点で旅をしたのは珍しかったらしく、出演依頼が来たのである。東京と思ってOKしたら大阪の読売テレビに来てくれという。はじめて大阪制作だったことを知ったほど。
作家の藤本義一氏、安藤孝子さんのコンビが待っていた。新宿・紀伊国屋の名物主人、田辺茂一氏(故人)と私がゲストという組み合わせ。ところが昼の3時だったか4時に来てくれという。生放送なので11時まで田辺さんご持参のウイスキーをなめながら待機。すっかり仕上がって本番はよく覚えていない。夜遅くて、家族も見てないという出演であった。

| JALジャンボ機御巣鷹山に消ゆ |
コンコルドの事故で同時に思い起こすのが1985年8月12日発生したJALジャンボ機の御巣鷹山墜落事故である。死者520人、負傷者4人は今なお航空機の単独事故としては航空史上最大の記録であるが、2000年で15年になるとはコンコルド事故が報道されるまで気づかなかった。
私は当時夕刊フジの報道部長をしていて、直接指揮をとったのでよく覚えているが、取材側も空前のできごとであった。いまなお、あの高度から墜落してよく4人も助かったと思うし、人間ドラマとしてもほかの航空機事故に見られない多彩な内容があった。今も公開できないことが(主にプライバシーの点で)多いが、何度も感動の涙を経験した。
現場はどこだ!
編集局のソファーに寝っころがってビールを飲むことと、すぐに迫った夏休みを伊豆高原で過ごすことを考えている怠惰な時間帯に起こった。午後6時12分羽田を離陸、大阪に向かったJAL123便は、夏休み前で満席だった。
離陸後すぐ伊豆半島で尾翼付近の圧力隔壁が破損、コントロールできないまま、エンジンの推力調整だけで右や左に静岡、山梨、埼玉、群馬、長野を30分以上ダッチロールを繰り返し群馬県多野郡上野村の、御巣鷹山(おすたかやま)
近くの尾根に墜落した。第一報はすぐ入ったがどこに落ちたかがわからない。
長野県の野辺山付近で見かけたという情報や長野県警臼田署のパトカーが午後8時すぎ、埼玉県と群馬県境に黒煙を見たという報告が相次ぎ、記者とカメラマンをとりあえず現場に向かわせたが、折りからの帰省大渋滞。JALが医師や看護婦を乗せたバスを出したが動きが取れないで立ち往生した。
やはり群馬県側だという情報が出て、もう一組そちらへ記者とカメラマンを出す。一晩中こんな事のくりかえし。
結局、翌13日午前4時39分、自衛隊の救難ヘリが上野村の御巣鷹山近くの斜面に墜落しているのを発見するのだが、これとて映像であって場所が特定できたわけではなかった。
上野村村長と消防団員が中継の映像を見て、自分のところとわかり徒歩で救援隊を出すのである。
一晩中現場がわからなかったこと、4人の生存者の証言から、虫の息ながらほかにまだ生存者がいたことがわかって、救援の初動が悪かったという非難の声が上がる。私自身県境が入り組んでいる山の中であることはわかっても、県名ごとくるくる変わるのにいらだったものだ。
後年、この現場を望む(だいたいの場所という程度)八ヶ岳に山小舎を建てることになって、上野村も通ったが、国道とは名ばかり、民家の軒先をかすめ、都会なら路地といったほうがいい細い路が山深く続くところを走ってみて、仕方なかったと思った。
山小舎があるところの隣村に長野県南佐久郡南相木村がある。2001年「滝見の湯」という温泉が出来て、近ごろよく行くのだが、そのたびに思い起こす。ここは墜落現場とは、まるで関係ない住所だが12日夜、自衛隊が墜落現場と誤報、700人の隊員を集結させたところである。誰が責められようか。

*日航123便御巣鷹山墜落事故*(メモ)昭和60年(1985)8月12日午後6時12分、羽田発大阪行き日本航空123便ボーイング747SR46型機(JA8119)=高浜雅己機長(49)ら乗員15人、乗客509人=は、定刻を12分遅れて羽田空港C滑走路を離陸した。おりしもお盆の入りとあって帰省客や行楽帰り、ビジネスマンらでほぼ満席だった。午後6時24分頃伊豆半島南東部の相模湾上空に差しかかったところで、「ドーンという衝撃音」とともに機体後部に異常をきたした。
事故から2週間ほど後の8月27日、異例の早さだったが事故調査委員会はフライトレコーダー、ボイスレコーダー、交信記録などの解析結果から「事故原因は後部圧力隔壁の損傷」とする第1回中間報告を発表している。それによると「ドーン」という衝撃音についで急減圧を告げる警報音が鳴った。すかざず、機長が「スコーク77」と、緊急信号発信を指示、東京航空交通管制部に「トラブル発生」を告げている。このときすでに致命的トラブルという認識があったわけだ。
*「スコーク77」(SQUAQK 77) 飛行機が発信する危険信号(全世界共通)のなかで最上位にあたる。「墜落する恐れがある」ほどのトラブルを意味する。
7700:緊急事態 (EMERGENCY)
7600:無線通信不能 (COMMUNICATION FAIL)
7500:ハイジャック (HIJACK)
などがあるが通常ATCコードの頭の2桁だけで通信する。
あとでわかったことだが、このとき最後部にある後部圧力隔壁が破損、同時に水平尾翼、垂直尾翼を操作する油圧系統が切断されたため、操縦席からのコントロールがいっさいきかない制御不能状態になった。機首が上下左右に揺れて「8」の字を描くダッチロールに陥るなか、左右のジェットエンジンの推力調整と主翼下のフラップの上げ下げだけで飛行を続けた。フゴイト運動も加わって気分が悪くなる人も出たと推測される。
*「フゴイト運動」 機首の上下運動。機体が下向きになりスピードが出ると水平翼の角度から自然に上昇ピッチになる。上昇し始めると今度はスピードが低下するので逆に下向きになる。
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| JAL123便の ダッチロールの跡 |
ボイスレコーダーの解析によると操縦桿やペダルなど油圧系の操作は副操縦士、進路・計器類の監視と管制官との交信やクルーへの指示などは機長、エンジンの出力調整や緊急時に作動する電動によるフラップとギアダウン、日航との社内無線交信などは航空機関士がしていた(当時は3人乗務制で航空機関士が乗っていた)と推測されている。ボイスレコーダーに残されたコックピットの会話は、乗員が原因不明のまま31分50秒間、機体の保持に奮闘したことがうかがわれるものだ。
「何か爆発したぞ」「ハイドロ(油圧)全部だめ?」「気合を入れろ」「頭(機首)下げろ」「これはだめかもわからんね」「おい山だぞ。山にぶつかるぞ」」「マックパワー(出力最大)」「ストール(失速)」「ドーンといこうや。がんばれ」「頭上げろ」「パワー」「ああ だめだ」 ・・・ 《衝撃音》
123便は3人の必死の努力も空しく、山梨県の大月上空を一周したあとも降下し続け山に接近、午後6時56分14秒、対地接近警報装置が作動した。あわてて推力を上げたが同20秒頃、機体は僅かに上昇したが同56分23秒に樹木と接触、同26秒、右翼が地面に激突、更にその反動でほぼ裏返しの状態となり、午後6時56分30秒に高天原山(たかまがはらやま)の斜面に前のめりに反転するような形で墜落衝突した。墜落前、クルーたちが機首を上げるためエンジン出力を上げたことで機体は速度346kt(640km/h)の高速で墜落した。午後6時56分28秒まで録音されたボイスレコーダーにも衝撃音が残されていた。その直前には最後まで諦めなかった機長ともう1人(誰かは不明)の「もうだめだ」という無念の叫びが残されていた。
墜落時、上記のように機体後部と右主翼を樹木に接触させ一度バウンドした。この際機体は大きく機首を下げる形になり第4エンジンが脱落したと推測される。これで機体は大きく右側に傾き、右主翼が地面を抉り第3エンジンが脱落、ついで残りのエンジン2つも脱落したとされる。接地とともに機体の破壊が始まり、垂直、水平尾翼、右主翼が脱落、ついで機体後部が離脱、その後機体全体がばらばらになった。
墜落現場は、地図に正確な名前も出ていないところで、現在でも墜落現場を御巣鷹山だと認識している人が多いが、実際の墜落地点はそのすぐ南の、地元で高天原山(たかまがはらやま)と呼ばれているところにある無名の尾根。この場所はのちに黒澤丈夫・上野村村長によって「御巣鷹の尾根」と命名されたが、本来の御巣鷹山に属する尾根ではない。
犠牲になったのは運航乗務員3人、客室乗務員12人、乗客509人、計524人のうち、女性乗客4人を除く520人。単独機としては現在に至るも世界の航空史上最悪の事故だ。4人が助かった理由だが、墜落時の猛烈な衝撃と火災によって、機体は大破し原型を留めていなかった。犠牲者の遺体の大半は激しく損傷したが、客室後部と尾翼は勢い余って山の稜線を超え、斜面を滑落していった。このため、衝撃が吸収されることとなり、また炎上も免れたので、この部分にいた4人が奇跡的に生存できたと考えられる。
偶然といえば、当時、公開試運転中だった海上自衛隊の護衛艦「まつゆき」が、相模湾で、事故機の垂直尾翼の一部を発見、これを引き上げることに成功した。一番最初に脱落した部分だけに、その後の事故原因解明に、大きく寄与することとなった。
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| 多くの人の胸を打った 河口博次さんのメモ書き。 |
恐怖のダッチロールが32分ほど続いたため手近な紙に遺書を残した乗客もいた。谷口正勝さんは、血染めの手帳に「子供よろしく」と遺した。大阪商船三井船舶の神戸支店長だった河口博次さん(52)は手帳7ページにわたって「さようなら 子供達の事をよろしくたのむ。飛行機はまわりながら急速に落下中だ 本当に今迄は幸せな人生だったと感謝している」と家族に惜別のメッセージを残し、多くの人の胸を打った。
事故当日の8月12日は「お盆の入り」で、夏休み中でもあり、同機には故郷への帰省客や翌日に行われる甲子園球場での全国高等学校野球選手権大会に出場する学校の関係者、出張帰りのサラリーマンのほか、茨城県筑波郡で開催されていた筑波科学万博や東京ディズニーランドなどから帰宅する者や海外からの観光客も多く搭乗していて、ほぼ満席の状態。これが今なお航空機事故史上最悪の犠牲者を生む原因となった。
歌手の坂本九や元宝塚歌劇団娘役で女優の北原遥子、21年ぶりのリーグ優勝を目前にした阪神タイガースの中埜肇球団社長(阪神は社長の死で奮起し優勝した)、グリコ・森永事件で脅迫されていたハウス食品の浦上郁夫社長、伊勢ヶ浜親方(元大関・清國)の妻子、など著名人の犠牲者も含まれていた。一方、元宝塚歌劇団雪組の麻実れいは車が遅れたため、タレントの明石家さんまは搭乗する便を123便より一本早くしたため、フジテレビの逸見政孝アナウンサーも妻の勧めで直前で取り消して東海道新幹線を利用したため、それぞれ事故を免れ、そのラッキーぶりも話題になった。
事故機の高浜機長の長女は3年後日航のスチュワーデスになり、次女も日航の地上職員をつとめ、平成17年パイロットと結婚退社している。
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| この圧力隔壁の破損が事故原因。 2006年4月、羽田空港のJAL「安全 啓発センター」で展示されるようになった。 |
運輸省事故調査委員会は、事故原因は1978(昭和53)年6月2日大阪空港で同機が着陸に失敗し、機体後部下面を滑走路に接触させる事故(「しりもち事故」と呼ばれている)を起こした際にボーイング社が行った後部圧力隔壁(アウト・プレッシャー・バルクヘッド。直径4b56a、深さ1b39a)の修理に重大なミスがあった。リベット(鋲)の打ち込みを一部で間違った。運航を重ねるうち修理箇所に金属疲労が発生し成長、この日ついに修理ミスの箇所が耐えきれなくなり崩壊し、吹き出した与圧空気が気圧の低い機体後部に一気に流れこんだ。その衝撃波で垂直尾翼を内部から吹き飛ばした。同時に4本の油圧系統全てに損傷を受け操縦不能に陥ったためであるとしている。
メーカーのボーイング社は修理ミスがあったことを認めた。群馬県警は63年12月、ボ社、日航、運輸省の関係者20人を業務上過失致死傷の疑いで書類送検したが、ボ社は地検の事情聴取を拒否、全員が不起訴となった。損害賠償を求めた民事訴訟は国内で21件、米国で12件起こされたが、平成5年までに和解、示談が成立、遺族に対する個別の補償交渉も平成7年までに終了している。

*村長が語る、現場特定の経緯*
「村長室のテレビを点けておりましたところね、朝5時のニュースの頃、ヘリから映した燃えてる墜落地点の状態が
映し出されたわけです。それを見たときに 『あっ、これは、上野村の神流川の源流の本谷の国有林の植林地だ』と。
なぜ、わかったかというと、その山の、反対側に友達の持ってる山がありましてね、その友達に連れられて、反対側
の山に登って植林している当時の御巣鷹の尾根を見た経験があったのです。
小学校の同級生が、植林した時の責任者だったんですぐ電話入れて、 『おい、今のテレビ見たか?あそこは本谷だ
ろ?』『そうだよ、あれはスゲノ沢だ』と言って、友達が具体的に場所を教えてくれたので自信を持って 『これは我が
上野村のスゲノ沢の尾根に日航機が墜落した』といえた。
御巣鷹山というのは上野村の中心からは30キロ離れているんですね。上野村の人が住んでる一番奥の方の集落
からも見えない、長野県、埼玉県の県境と接する神流川の最源流です。ひだのように尾根があり沢があり、細かく
峡谷の中が分かれておりますから普通の人じゃわかりません。そこで、すぐ、消防団のうち、奥の方の状況を知っ
ている諸君を2人くらいのペアにして、機動隊や自衛隊の人たちを案内してあげてくれという指令を出した。
520人が亡くなった日航機事故で、全遺体が確認されたのは192人。確認が出来なかった方が328柱です。明治
32年に出来た法律、行路病人及び行路死亡人取り扱い法で、328柱の方は、上野村で永代供養をする義務があ
る。私ども上野村民と一緒になって、この上野村の天地自然に抱かれて安らかにお眠りくださいと、葬送・慰霊の真
心を尽くしたい」
黒澤丈夫村長は群馬県立富岡中学校から海軍兵学校に進み、戦闘機の搭乗員としてゼロ戦に乗り、霞ヶ浦で訓練中に墜落、
九死に一生を得た経験もある。指揮官として戦い、海軍少佐のとき、ルソン島から最初の神風特攻隊「敷島隊」が出撃した時
には特攻隊生みの親、大西瀧治郎中将と並んで見送った。終戦を迎え、郷里の上野村に戻ったが、多くの命と向き
合ってきただけにピシっと背筋が通っている。
その後「慰霊は上野村の責務だ」と、現場が観光地化しないように奔走、財団法人「慰霊の園」が運営する慰霊施設
というかたちにした。現在の静寂が保たれているのもこの人のおかげだ。
2005年6月13日、地方自治体では全国で最高の10期目(40年)の任期を満了し、91歳で退任した。

*救出された4人のその後*
事故から20年目の平成17年夏、メディアでは特集を組んだが、「週刊朝日」(7月15日号)「育ての母が語った 川
上慶子さん その後の人生」や産経新聞「あの夏 日航機墜落事故20年」が生存者のうち特に注目を集めた川上
慶子さんのその後を取材している。
慶子さんは父(41)と母(39)、妹(7)と島根県から北海道旅行に出かけ、その帰り123便に乗り合わせた。大阪に
在住していた伯母の家を訪ねる予定だった。慶子さんが伯母に語ったところでは、事故直後かなりの人がまだ生き
て助けを求めていたという。
「墜落した時は、大分多くの人が生きてはって、お父さんも咲子ちゃん(妹)もまだ生きてて、お話しててね。あっちで
もこっちでも、がやがやと話し声が聞こえて来て・・・」
「お父さんはだんだん動かなくなった。物を言わないようになった。咲子ちゃんも吐いた物が喉に詰まるような感じに
なった。『おばあちゃんと、また皆で元気に仲良く暮らそうな』と言って上げたけど、げえげえと言い出したと思ったら
静かになって、咲子ちゃんも死んだみたいや・・・。まわりで皆が話してはった声も、だんだん聞こえなくなって・・・」
「暗闇の中ヘリコプターの音が聞こえて来て、赤い明かりも見えて、真上まで来て止まってホバリングみたいにして
・・・。『ああーこれで助かるわ』って皆で言ってたら、ヘリは引き返した。『これで場所が判ったから、又皆で沢山来て
助けてくれる』と話したけど、それきりで来んようになった。その内、皆話さなくなった・・・」
生存者が多くいたこと、真夜中に現場上空に来たヘリコプターが来たことは同じ生存者の落合由美さんの証言にも
ある。
「墜落の直後に、はあはあという荒い息遣いが聞こえました。ひとりではなく、何人もの息遣いです。そこらじゅうか
ら聞こえてきました。『おかあさーん』と呼ぶ男の子の声もしました」
「どこからか、若い女の人の声で、『早くきて』と言っているのがはっきり聞こえました。突然、男の子の声がしまし
た。『ようし、ぼくはがんばるぞ』と、男の子は言いました」
「やがて真暗ななかに、ヘリコプターの音が聞こえました。すぐ近くです。これで、助かる、と私は夢中で右手を伸ば
し、振りました。けれど、ヘリコプターはだんだん遠くへ行ってしまうんです。帰っちゃいやって、一生懸命振りました」
「すぐ近くで『手を振ってくれ』だったか『手をあげてくれ』という声が聞こえたのです。私は右手を伸ばして、振りまし
た。『もういい、もういい。すぐ行くから』と言われました。救出された日の午後3時過ぎ、夫と父と叔父が病室に入っ
てきました。私は『四人しか・・・・・』と口にしたのですが、夫はすぐに『しゃべらなくていいから』といいました」(吉岡
忍著「墜落の夏」新潮社より)
このとき現場上空に飛来したヘリコプターが自衛隊のものか米軍のものかはわかっていない。日本側の説明(自衛隊
・警察)では、「ヘリコプターで墜落現場を確認したものの、ちょうど日暮れの時間帯で正確な場所の特定には時間
がかかった。険しい山地に雨という悪条件の上、夜間はヘリコプターでの接近が困難なため地上からの救出に全
力を挙げたが、夜間に手探りで山を登る事になったため、レスキュー隊が墜落現場に入れたのは翌朝になってか
らとなった」としている。
しかし、 事故から10年後に元米国軍人が証言(米軍の準機関紙「パシフィック・スターズ・アンド ・ ストライプス」)したところ では、アメリカ軍厚木基地から暗視カメラを搭載した海兵隊の救助ヘリコプターが現場に急行して、墜落現場を特定していた。墜落から僅か2時間で救助態勢が整っていたという。救助のためにヘリから隊員を降ろそうとしたとき、基地の当直将校から「日本側が現場に向っているので帰 還せよ」という上官の指示があり、現場には降りなかったという。日本のレスキュー隊が現場に到着する約12時間前である。
この在日アメリカ軍による現場特定とヘリによる救出の申し出は、事故当日にニュース速報として流された。しかし、翌日未明にはアメリカ軍が現場を割り出したことや、救出活動の申し出をしたことなどはすべて誤報であったとして否定された。このため、事故原因に関し巷では謀略説など各種の憶測を呼ぶ一因ともなった。この話は表に出る事は無かったが、週刊誌に暴露記事として詳細が掲載されたりした。事故から10年後に、「在日アメリカ軍の現場特定・救助の申し出は事実であった」として改めて発表されている。
当時、日本の事故に対するアメリカ軍の救出活動の参加には日本政府の許可が必要だった。アメリカ軍は日本政府に支援を打診し、政府は警察庁に連絡したが不要とされたと言われている。警察庁上層部がアメリカ軍の協力を拒んだ理由は明らかになっていないが、メンツが理由とも、国内の事故に指揮命令系統が違うアメリカ軍が介入することで現場に混乱をきたすことを避けたとも言われている。禍根が残る判断だといえよう。
推測だが、自衛隊も警察も、当時は米軍のようにレーダーから正確に墜落地点を割り出す技術や、夜間でもヘリから山中に降り立 つ技量が不足していた。その上、まさかあの高度から の墜落で生存者がいるとは考えもしなかったのではないか。生存者がいるとわかれば、万難を排してでも降りたろう。
メディアも夜通し現場周辺を這いずり回っていた。暗闇でどこかの社の連中の懐中電灯が見えるとホッとしたくらいだという。
その上、在京の新聞社側にも、今となっては虚報といえるが、「医療用のラジオアイソトープが積まれている」と
か「動翼のマスバランスに劣化ウランが使われているので、危険だ。現場に近づくものは注意せよ」という情報が
流れ、どの程度危険なのかわからぬまま消防団員や取材記者が躊躇する場面もあった。
さて、事故後の慶子さんだが、島根県で祖母と兄の3人で生活した。保健婦だった母親の遺志を継いで大阪府の短大を
卒業して看護師になり、兵庫県の病院で働きはじめ平成7年の阪神淡路大震災では救援活動に携わった。
やがて、趣味のスキューバダイビングで訪れたアメリカで、男性と知り合った。中学生の頃から間寛平のファンで、
「一緒に居て楽しくて面白くて、顔はジャガイモの様な人が良い。」と言っていたそうだが、平成14年秋結婚、今は
仕事を辞めて会社員の夫と息子の3人で、四国のある地方都市で育児に専念している。子どもの成長ぶりをメール
で親族に伝えてくるそうだ。
遺族らでつくる「8・12連絡会」(美谷島邦子事務局長)は事故後、毎年1冊ずつ文集「茜雲」をまとめてきた。20集 目の今年は遺族40人の新たな手記が掲載されているが、そのなかで慶子さんの近況について伯母の池田富士子 さん(島根県松江市)が「よちよちと 歩く姿の愛らしさ 見せてやりたし 亡き者たちに」と詠んでいる。
衝撃の映像流れる
この写真に差し替えねばならない。幸い特ダネはグループテレビ局だったから、あとで了解を取ることにして、テレビからの写真を整理部に出したが、感動で胸が熱くなった。あの飛行高度から墜落して助かった例など聞いたことがなかった。
あの放映をしたフジテレビの取材チームは、早朝に現場が特定されるや、中継機材をバラして何人かで手分けして山の上に運び上げた。組み立てたところで救出作業が始まったのだという。我が新聞社のカメラマンもスチール写真(1枚モノ)の特ダネを撮ったのだ
が、人力で下に運んだため(ほかに方法はなかった)掲載は翌日になった。
この写真はその年の新聞協会賞を受賞した。この前後からテレビから取った写真を新聞が使う手法は多用される。スピードで圧倒的なのだ。
13日午前11時30分、締め切り間近の編集局に衝撃の映像が流れた。生存者がいたことは直前にわかって大騒ぎになっていたが、自衛隊の救難ヘリ(習志野から飛来、ロープで現場に降りた)で隊員に抱きかかえられて吊り上げられる少女の姿が放映されたのである。
自衛隊のヘリに救出される川上慶子さん=産経新聞の
日航機墜落事故20年企画紙面(平成17年8月3日)から
携帯電話、御巣鷹山に初登場
あまり知られてなかろうが、事故から15年ということは携帯電話が登場してから15年ということでもある。今の隆盛は想像もできなかったが、御巣鷹山の上に救助隊や遺族の連絡用に、このときはじめて携帯電話が運び上げられたのである。
義兄が事故のときちょうどNTTへ民営化される直前の電電公社の高崎支社長をしていた。
事故現場を管轄する支社である。雑談で携帯電話のことは聞いていた。欠点は電波の到達距離が短いので、街中にわんさとある公衆電話をアンテナがわりに使って・・・という構想だった。ここではじめて現物が登場したのである。もっとも大きすぎてとても実用に向かないものだった。
山頂近くまで電話線を引き、遺族の連絡用に公衆電話を何台も設置する方法が主で、実験にとどまった。
これより前訪れた香港では街角で、おそろしく大きなボックスを抱えた人が大声でしゃべっているのを見たことがある。このあと昭和天皇のご容体をいち早く知る必要があって編集局で何人かが常時持たされていたが、やはりショルダーバッグほど大きくて困った。
電池の改良が急速に進んだおかげで今のように小型になったが、トランジスターといい、日本人がもっとも得意とする分野である。さらに進歩するのは間違いない。
あのときケイタイが今ほど普及していれば原稿や写真の送稿方法がずいぶん変わったことだろう。無線で中継しながら原稿を読み上げるか、麓に下りて電話するかだった。写真は車を飛ばして近くの支局に走り現像して電送するのが唯一の方法だった。
わずか15年でパソコンで記事と写真を送ることが当たりまえになった。 ついでながら、入社したときはまだ手拾い時代で、棚から活字をすばやくとっていく職人が大勢いた。すぐ漢字テレタイプといって、原稿をタイピスト(パンチャーといった)が打って、一度窄孔されたテープにする。
これを流すと字母が出て、鉛が煮立った釜から一字ずつ鋳型にいれて活字を造っていくという方法である。そして現在のワークステーションという名のコンピューターに原稿を送り、画面で整理してフィルムにし、
各工場にファックス送信して凹版印刷(それまでは凸版印刷)の高速輪転機にかける。私一人でも印刷の3世代を経験した。いかに時代の流れるのが早いか。
書かなかった、いや、書けなかった
ジャンボ機の死者520人ということは、520話の死者のドラマがあることだ。「一か月でも二か月でも1面トップはこれでいく!」と決めた。
事実ほぼ一か月連続で一面トップを事故関連記事で埋めた。520話あるといっても後半息切れしないわけでもなかった。
事実、この年は阪神タイガースが21年ぶりに優勝した年で、大阪の紙面は早々と(1面が)野球に取って代わった。
書きたい誘惑に駆られたが結局書かなかったことがいくつかある。
事故から3日目か4日目、インド人遺族が駆けつけてきた。JALに来るなり「マネー、マネー」といって示談交渉である。ほかの遺族はまだ悲嘆のどん底にいる。事故原因もまだわからない時である。現地に行こうともしないでこれである。多分一番早い示談成立だろうとは思うが、あまりにも死生感が違いすぎてとても書ける話ではなかった。
もうひとつ、ある会社社長と舞台女優が乗っていた。席が離れていたので不倫はいまだに公になってないが、二人で大阪に帰る途中だった。残された未亡人と私の家族が同級生というので知った。知った経緯と、ただ覗き趣味にすぎないことで自制した。
事故から20年目だというので、2005年夏またこの事故が話題に上るようになった。
どこの役所か聞き漏らしたが副大臣か何かが今なお川上慶子さんの「幸運の航空券」を持っている、
というのが話題になった。
イタズラに属することだと思うが、この種の反応としては大変早くて、救出が報じられた翌日には編集局に
誰かがファックスでこの航空券を送りつけてきた。記事にした新聞もある。私も持っているが、これはニセモノだ。
JALがこういうものを公表
するはずがないのは少し考えればわかることだが、当時真顔でありがたがる人が結構多く、知人で財
布に入れていた男を知っている。私など、20年後と航空運賃がほとんど同じということのほうが、面白い。
奇跡中の奇跡だから、本当にあやかりたい人は「航空券」でなく「座席券」をお守りにしたいところだろうが
こちらは出回っていない。でもだいたいの場所はわかっていた。人間ドラマを報道すると同時に、
事故の原因究明が新聞社の最大のテーマでもあった。航空評論家などを動員して、なぜ4人が助かった
のか、分析していた。そのためにだれがどこのシートに座っていたかできるだけ再現した。簡単にわかる人
もいたが、川上家のように4人が続き番号で当日その場で移動したかもしれない場合、正確な席はわからない
こともある。
こうした作業で、助かった4人がいた機体後部はちぎれて前方に投げ出され、斜面を滑り落ちたため衝撃が
やわらげられたことや、炎上をまぬがれたことが奇跡につながったことがわかったのだ。これに比べて、
墜落直後火に包まれた機体前部は惨状を極めた。このころDNA鑑定もなく、大半といって
いい328人は身元の特定もできなかったのだ。
最初に身近に体験したのは、昭和33年(1958)8月12日、羽田発名古屋行き全日空DC−3型機が伊豆半島下田沖に墜落、33人が死亡した事故だ。大阪で小中高がいっしょだった同級生と琵琶湖でキャンプしていた。親友が私たちと逆の名古屋に行くという。
フィアンセに近い女性が東京から名古屋に帰ってくるので会いに行くのだという。その女性と父親がこの飛行機に乗っていた。この事故は航空機から撮影した海面を漂う遺体が紙面に載った。これがその女性だった。
昭和46年(1971年)7月30日、東北雫石上空で全日空機と自衛隊機が空中衝突した。このとき新婚旅行で宮島あたりにいたのが報道部のO記者。情け容赦なく新婦連れで現場に行かされたがどこか嬉々としていた。
昭和48年(1973年)7月20日パリ発羽田行き日本航空ボーイング747がオランダのアムステルダム空港離陸後に日本赤軍とパレスチナゲリラにハイジャックされた。
ドバイ、ダマスカスを経てリビアのベンガジ空港に着陸した後、人質は開放されたが機体は爆破された。怒られるかもしれないが、「いい写真」として記憶に残る。
燃え上がる紅(くれない)の炎に、機体が浮き上がっている。それをバックに逃げるひきつった表情の人質の写真が印象的だった。
日本赤軍の犯行というので犯人を特定する作業が新聞社にとって重要だった。実は、この飛行機には弟の義母が乗っていた。大阪で輸入雑貨店を経営していた。仕事でイタリアやフランスで買い付けた大量のブランドものの衣類などが炎の中に消えて、
がっかりしている本人を羽田東急ホテルに缶詰めにした。本人は私が羽田まで見舞いに来た上、静養のためホテルまで用意してくれたかと感謝していたが、そうではなかった。特ダネの機会を逃してなるものかというだけである。
いろんな日本赤軍の人物写真を見せ、機内での彼らの会話を聞き出そうとしたが、恐怖でほとんど憶えていなかった。
1999年亡くなったが、足の裏にはそのときのとげがたくさん刺さったままだった。はだしで逃げ出したベンガジ空港は、滑走路をはずれると一面の棘(いばら)の原っぱだった。
”幸運の航空券”のニセモノが出回る
事故が風化して、当時本当に川上慶子さんが自分の航空券を出したかのように、事実として「定着」すると
困るのでカラクリを書いておくが、このころコピー機が急速に普及中でどこのオフィスでも1台くらいはあった。
手持ちの航空券の名前のところを貼り替えてコピーしたものなのだ。本物がないから証明はできないが、発券番号は
違っているはずだ。
ニセモノだが、当時
出回った「幸運の航空券」
航空機事故は不思議と夏に多い

| 札幌オリンピック美人通訳譚 |
1972年の冬季オリンピック大会は今となってはスキー70メートルジャンプで笠谷幸生以下、日本3選手が金銀銅メダルを独占した
ことと、優勝候補だったフィギュアスケートのジャネット・リン(Janet Lynn)が尻もちをついて3位になった大会として記憶されているかもしれない。街中にトワ・エ・モアの「虹と雪のバラード」のメロディーが流れる、この大会に取材団の一人として加わっていた。
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| 札幌五輪ポスター | 金銀銅を独占した ジャンプ競技の表彰式 |

「ジャネット・リン、サッポロを語る」
26年後の長野五輪(1998)で来日して大歓迎を受けたジャネット・リンが米テレビで思い出を語っている。「瞬間、あゝどうしようと思ったが、気をとり直した」ことや 選手宿舎の壁に「Peace and Love」と落書きした(その後公団住宅になり今も残る)のはオリンピック精神を心から実感したため。サッポロがその後の自分が生きる力になったこと など、時に涙を浮かべながら語っている。背景として開会式や問題のスッテンコロリのシーンも。眼鏡をかけやや太めだが今も愛らしさが残る。1998年の放送。
札幌で4年間の学生生活を送ったので勝手知った街ではあるが、プレス用の宿舎と取材現場の往復で昔を懐かしむ時間はなかった。マスコミ各社に入った同窓生が多く現場に派遣されていて、スキーのジャンプ会場など、同窓会が開けるほどだ。ここで事件が起きた。
共産圏の女子スケート選手だったが、リンクそばで最高齢の参加ということを知り、「囲み記事」にでもしようと思った。なんとかドイツ語がわかる選手だというので、まわりをさがした。このとき、英語とドイツ語の通訳がペアで歩いていたので、頼むと、時間外なのでしない、という。
相手は宿舎に帰ろうとしているのだ、今しか話す機会はない。
かっとなって、持っていたプログラムを丸めたので通訳の頭をコツンとやった。つべこべ言わずにやれ!と引っ張ってきて、選手の前に連れて行き、なんとか通訳してもらったのはいいが、組織委員会に訴えるという。
コツンとやったのは悪いが、役人根性の通訳などこっちも許せないから、どこにでも提訴しろと開き直った。国家的事業の前にいつしかうやむやになったのだが、さらに驚いたことは、このときそばで傍観していた英語の通訳が、その春わが社に入社してきたのである。それも私のいる報道部に。
この項のタイトルをわざわざ「美人通訳」としたにはわけがある。コンパニオンとか通訳というと読者の方がまず美人だろうという先入観を持つ。そう間違ってはいないのだが、新聞や週刊誌はそれをいいことに、好んで使いたがる弊がある。顔写真もないのに、また事件の本筋に関係ないのに「美人OL殺さる」となる。 最近まで60歳を過ぎた女性は「老婆ひき逃げさる」とかいう見出しだった。この高齢化時代にあまりにひどかろうと、各社の整理部では「老女」と控えるようになったが、それでもひどいし、実態にあわない(年齢より若い人が増えた)ので使われなくなったが、美人の多用は今も盛んだ。テレビだって「美人」「温泉」「殺人事件」の どれかが入ってないと視聴率があがらないという。
このときの2人はタイトルにそう離反するものではなかった。ドライな女性のはしりだった気がするが、彼女が札幌のリンクで、英語で話すジャネット・リンの通訳をしたときもクレームがついた。かなりしゃべっているのに、この通訳にかかるとほんの一言になる。英語だから、ある程度はわかる記者が多い。この通訳はひどいではないか、というわけだ。
人怖じしない性格は入社とともにいかんなく発揮された。奈良に数学者の岡潔の取材に行ったときの録音テープを聞いて仰天した。もともと別世界にいるような学者で、人の好き嫌いが激しいのは承知しているが、なにが原因かわからないが、この女性記者に激怒しているのである。
岡潔はゴム長を履いて奈良女子大で教鞭をとっていた写真が記憶に残っている。その著書を以下に引用するが今でも通用する。テレビでしたり顔で美術評論する画面に出くわすと思い出すくだりだ。
「最近、東京と京都でフランス美術展が開かれたが、テレビでこれを批評していて、ある人の線が力強いとか、ある人の絵は構成が大胆であるとか、ある絵は調和がとれていると言っているのを聞いて、私は呆れてしまった。それでは意志の芸術ばかりを評判しているだけではないか。
私がほしい芸術や調和はそんなものではない。いかに小さくても麦は麦、いかに大きくても雑草は雑草であるような、そういうものが見たい。しかしもっというのなら、本当の調和は午後の日差しが深々としていて、名状しがたいようなもののことなのだ。このことがわからずに、芸術はなく、平和というものもわかるはずがない。日本では戦争をしないことを平和だと思っているが、そんなことはかたちだけのことで、内容がない。調和のあるものこそが平和なのである」(『紫の火花』から)。
そんな、人の琴線に触れる感性を持った高名な数学者が、持てる限りの罵詈雑言(ばりぞうごん)を持ち出して、はっきり「帰れ」とまでわめいているのだ。私などテープを聞いているだけでもいたたまれなくなるほどだが、本人はケロリとしている。
彼女は、私の弟が持っている小さなスナイプ級のヨットの株主(6株のうち1株)でもあり、週末江ノ島で私たちといっしょにクルージングすることが多かったが、アメリカ人、ニュージーランド人、韓国人・・・毎週連れてくる相手の国籍が違う。「今日は何(なに)人だい」というのが仲間内の挨拶だった。
後日談がある。彼女は数年後に我が新聞社をやめてアメリカに行ったのだが、私が、豪華客船「クイーン・エリザベス2」(70,327総トン、略して「QE2」)、に乗る機会があった。ホノルルで乗船したのだが、タラップの下で手続きをしていると、上のほうから私の名前を呼ぶ声がする。見上げるとデッキの上で手を振っているのが彼女だった。
船を持っているキュナード汽船に日本人向けの通訳として1航海だけ採用されてニューヨークから乗っているという。昔話をしながら航海しているうち、例によって彼女の性格が出てきた。日本語の通訳として採用されているというのにさっぱり通訳してくれないという苦情が、私の元部下だと知った船客からいっせいに持ち込まれたのだ。この性格は直りません、あなたがあきらめるしかありません、と笑いながら告げるほかなかった。
彼女は子持ちのアメリカ人ジャーナリストと結婚して、ニューヨークに暮らしている。時折、英字新聞の小さいコラムに名前を見つけると、往時が思い出されてニヤリとしてしまう。
2006年になって当時の船長主催のパーティーで船長との記念写真が出てきたので恥ずかしながら片隅にアップした。「にわか紳士QE2に乗る」というタイトルで1週間ほど航海記を連載した。「にわか」の由来は写真にあるようにデパートのつるしで買ってきた似合わないタキシード。なれない格好なのでカマーバンドにパンくずが入って往生した。大阪の医者のかみさんが乗っていて、私はボーイと間違われ「あんた、これ運んでえな」とか言われた。チップはくれなかった。
「QE2」の船旅案内「QE2」の船内生活を紹介しておこう。乗船するとまずコンシェルジェがレストランでどういう席を希望するか聞いてくる。この船には13層に 900の船室がある。予約した船室の等級によって5つほどある大食堂のどれになるかは決まっている。だが、そのレストラン内の1テーブル8人前後 については彼が決める。イギリスは階級社会だからこれは重要な仕事で、どういう人と相席を希望するか宗教、使用言語、趣味などを参考に割り振る ことになる。
私のように、宗教はもちろんのこと同席者の人種に何の希望も偏見もなく、西欧のどんな国からもあまり嫌われていない日本人船客はこういう場面で は重宝される方だと思うが、テーブルの接着剤のように空いている席に入れられる。船客の半分ほどアメリカ人だからどこの席にも入っていて、例外 なく陽気な声をあげている。ワインを選ぶときの知識と薀蓄、さらにみんなをリードする点で自然発生的にボスというかリーダー的な人が決まる。そん なのどうでもいいではないかと思うが、朝昼晩三食みんな一緒だから結構大事なことだ。何日間かの食事の会話で同席者の人生に相当詳しくなって下 船する。
各レストランにはソムリエとバーテンダーがいて相談・注文に答える。酒類は一応有料になっているが船では関税がないから、よほどのビンテージもの でも指定しない限りワイン、カクテルはじめ基本的なリキュール(ビールやオンザロックなど)については誰も金額を気にしない。イギリスの船会社 なのでスコッチは万端整っていてかなり知らない銘柄もあった。日本人用に日本酒や梅酒まで積み込まれていたがなぜか焼酎がなかった。
三度の食事は決まったレストランで決まった席に着くが、もちろんパスしてもよい。三食ともフルコースでもいいが、そうは食べられるものではない。 結局朝はベーコンエッグなどイギリス風、昼はパスタなどイタリア風、夜はフレンチというのが多かった。卵は「サニーサイド」」か「ポーチドエッグ 」なのか、ベーコンはやわらかいのがいいかカリカリにするか、細かく聞いてくるので慣れるまで大変だった。
食事は船賃に入っていてすべて無料。どんな大きなステーキを注文しようが、キャビアやフォアグラ、トリュフを頼もうがかまわない。タバコは有料だが船上では関税がない から半額以下。高級タバコも1カートン1000円以下で手に入る。私はこのころ長年の喫煙をやめようかと思っていたのだが、さもしい根性が出て船上で はヘビースモーカーに逆戻りした。
食堂での三度の食事以外に午後のティータイムや夜食、場所を変えて開かれるピクニックランチがあり、早朝から深夜まで船内どこかで毎日10食は提 供されている。レストラン以外バイキング形式の軽食とはいえ日本人から見るとフルコースに見える品揃えで、みな付き合っていたらフォアグラのよ うに太ること必定だ。だから多くの人が四六時中デッキでジョギングしている。
各テーブルにサービス係がいるが、彼らは船会社から給料は出ない。チップで暮らしているから、客の気分次第で収入が違ってくる。だから、担当し たテーブルの個人個人の好みの酒から肉の焼き方、ドレッシングの種類、スイーツまで客の名前と共に頭に叩き込んでいる。新聞記者と知って、船内 情報まで耳に入れてくれた。チップは下船の際まとめて渡すが、私一人で数万円になった。領収書のない支払いで経理に説明するのが大変だった。
船客を飽きさせずに航海するために最大限の努力が払われていて、昼はデッキゴルフ、プール(温水含めいくつかある)、アスレチックジム、ダンス 教室が用意されている。船尾では10ドル払うがライフル射撃ができる。夜は映画やミュージカル、ショー、漫談(わからず笑えなかった)などが船内 どこかで開かれ、カジノは深夜まで開かれているが、美人相手のブラックジャックやルーレットで丸裸にされるのに30分とかからない。スロットマ シンはもうすこしもつものの1時間ですってんてんだ。
船客の平均年齢は相当なものだ。みな老齢と言っていい人ばかりだ。世界有数の財閥も乗っていたようだが、こうしたプライバシーはきちっと守られ て、公表されることなく船内では一人の紳士として扱われる。聞き知ったのではリタイア記念の船旅と言うアメリカ人の教師夫妻、休暇中のヨーロッパ の外交官の家族などがいた。
船内には若い女性もいるがこれはカジノのディーラーか、毎晩船内のどこかのシアターで踊っているダンサーのどちらかだ。こういう人や厨房要員は 一般客と隔離された船室と従業員専用食堂で暮らしていてこういうレストランにはいない。一夜彼らのパーティーに招かれたが、こちらはもうどんち ゃん騒ぎだった。
船内で毎日発行される新聞は(日本語もある)船長の挨拶や国際ニュースも間に入っているが、今日船内のどこでグリニッジ標準時の何時からどういう 催しがあるかでぎっしり。神父や牧師も乗っていて説教会が毎日のように開かれている。他の宗派もあるからタブロイド新聞の下半分はそうしたお知ら せで埋まっている。太平洋を渡るときは必ず日付変更線を通るから、東西どちらに向かっているかで丸一日が消えたり増えたりする。さらに時差を一日 2,3時間修正しなければならない。
私は当初「QE2」に乗るかどうか迷った。船に酔いやすい体質で、ましてこのクルーズは冬だから太平洋は荒れるのが必定と来ている。しかし、多 くの人があこがれる世界一の豪華客船の船旅だ。船酔いで死ぬこともあるまいと手を上げたのだ。
しかし案の定だった。ホノルルを出てまだダイヤモンドヘッドが見えていると言うのに、揺れはシャワーを浴びている体が浴室の壁に当たるほど。たち まちおかしくなった。医務室に電話を入れると「シーシック?あなたが今日一番早い。今から行く。15ドル用意して待っててくれ」とのこと。医者が 来るのかと思ったら看護婦一人で、金を受け取るといきなり尻を出させ、用意していた注射針をブスッ。
「これで楽しい航海ができるわよ」とにっこりして出て行った。すぐ人事不省に陥り、同室者に聞いたところでは20時間いびきをかいて寝ていたそ うだ。翌日起きると気分は爽快。おりしも太平洋の波いよいよ高く、階段などよろけるほど。いたるところにビニール袋が下げてある。食堂に顔を出す と食欲がない人ばかりだが、こちらは分厚いステーキを注文して(ニューヨークで積み込んだアメリカの肉であまりうまくない)、スコッチをオンザ ロックのストレートでぐいっ。船の窓は縦に細長いが、外に見える水平線が窓の下から上まで振り切れている。それでも平気だった。
どうも三半規管が馬鹿になるクスリのようだが、看護婦の話では効果は2週間ほどあるそうで、私の話を聞いた3人ばかりが医務室に駆け込んだ。帰国 してからも船に乗る機会があり、このクスリを注射してもらおうとしたが、日本の医師は誰も知らなかった。もうすこし語学と先見の明があったらあの クスリの名前を聞いておくべきだった。
この船で本当の金持ちというのを間近にみた。こういう客船は大体、最上階に行くほど高いのだが、そのうちのひとつを船長に頼んで取材ということで訪問した。広いテラス付のマンションが操舵室近く(どんな船もブリッジは一番上にある)にあると思えばよい。調度品もすばらしかったが、この船室には酒がびっしり詰まったバーから冷蔵庫つきのキッチンと食堂がついていた。ここで食事するのではない。個人でパーティーを開くときに使う程度なのだ。
また、この最上級船室には散歩用のデッキも別についていた。フロアが違うから大勢ジョギングしている一般客と混じることはない。隣の船室は船長夫 妻用だった。船長の仕事は、毎晩夫婦でダンスパーティーを主催し、いくつもあるレストランのうち最上級クラスでそこの客の食事の相手をするのが仕事だ。
もう一室は留守宅だった。売れなかったんだ、と思ったらとんでもない。ここの住人夫妻はホノルルで下船したという。冬の太平洋は荒れる。それを嫌 って飛行機に乗り換えて先に行ったのだ。東京で観光かと思ったらまた違った。冬の日本は行くところもないので、まっすぐ香港に飛び、そこからさら にインド観光だという。次にQE2に乗船してくるのは1か月以上も先でインドから乗ってくるのだそうだ。その間船室はカラのまま 荷物だけ運び続ける。上には上があるものだ、とアッパーデッキのずっと下、喫水線の少し上で窓がない自分の船室から思ったことだった。
上品なおばあさん5、6人が縦横3メートルはあるテーブルの上で巨大なジグソーパズルをしていた。朝昼晩取り組んでいる。ニューヨークから乗船し て2、3週間たっていたころだが、ジグソーパズルは端っこの直線の辺りが出来た程度で真ん中は大きくあいたまま。飽きると隣の図書室で本を読みな がら寝ていたりする。いつ完成予定ですか、と聞いたら両手を広げて「さあて?」。時間つぶしのために何百万円も払って乗っているのだ。
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| QE2横浜入港の航空写真。 新聞はまだモノクロ時代だった。 |

*QE2のこと
キュナード・ラインのフラッグシップ、「クイーンエリザベス2」(70,327総トン。全長294メートル、乗客1778人と乗員1000人以上が乗船可能)は、世界で最も有名な客船。
1969年に建造された。これまで大西洋横断航路に就航し、オーシャン・ライナーとして活躍。他の客船と比べ、
フォーマルナイトの日が多く、私が乗船したときも毎晩6時以降はタキシードを着用しなければ歩けなかった。着替えのため毎日午後5時ごろから船内の
人通りが絶えた。英国風の華やかでノーブルなクルージングで船好きのあこがれだった。
私は「ワールド・クルーズ10周年」という時に乗り合わせた。左上の写真はそのときの横浜入港時の模様。新聞は
まだモノクロ時代だったのでスナップ以外は白黒写真だ。このあと1982年にフォークランド紛争が起き、英軍の輸送船として兵員輸送用に
徴用されたので、大幅な改装が行われた。その後さらに豪華客船として再度の改装がされている。
いまも報道では「クイーンエリザベスU」と表記されることがあるが、間違い。
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| パーティーに限らず毎日 午後6時以降はタキシード着用。 |
2002年3月8日、作家の曽野綾子さんが産経に「豪華客船の旅」という一文
を書いている。たぶん「QE2」だと思うが、教会があること、船内に老人が多くて、エレベーターが
開いてる間に乗り降りできないほど行動が遅い人がいること、航海中に亡くなる人が出たが、何体の遺体を
保存できる冷蔵庫があるのか、などとある。その通りで、エレベーターが9台ほどあっても、足らないのは、
遅いのと、女性と老人のために手で押さえている時間が長いせいだ。
私のときも死者がでた。そのとき見たら、4体分の冷蔵庫があった。
キリスト教の教会ばかりでなく、シナゴーク(ユダヤ教会)、モスク(イスラム教会)などの礼拝所とそれぞれの調理室があった。宗教と料理にタブーがない日本人
には寺も日本料理の場所もなかった。「今日は日本人のためにマグロの刺身です」と案内があって、勇んで駆け付けたら、マグロが
トロも赤身もいっしょくたにサイコロ状に細かく切られたのが山盛りになっていた。わさびもなくて上から醤油がたっぷりかかって、フォークが用意されていた。
ローストビーフしか生まなかったイギリス人に料理をまかせるのは間違いだという信念はこのときから変わらない。
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| デッキにはプールが。 1日6食くらい食べ物が出た。 |
遊歩デッキの救命ブイも 「クイーンエリザベス2」になっている。 母港のサウサンプトンの文字も見える |
「QE2」は長く「海の女王」として君臨してきたが、2003年末に完成した15万トンの超メガシップ、「クイーンメリー2」に世界一周のクルーズを譲った。
2001年から2003年にかけてのワールド・クルーズが「QE2」に
とって最後の世界一周航海だった。初代の「クイーンメリー号」(1934年建造1964年引退)はカリフォルニア州ロングビーチ港にホテルなどのある観光施設として
係留されている。
「クイーンメリー2」はどこで造船しているのかと思っていたら、意外なところから判明した。2003年11月15日、フランス西部サンナゼールにある仏造船大手アルストムの
ドックで、ほぼ完成して関係者に
お披露目していた「クイーンメリー2」が見学用桟橋が崩落して死者15人、負傷者30人を出すという大惨事を起こしたというニュースが流れたのだ。
フランスの造船技術の粋を集めたものとして宣伝していただけにシラク大統領も駆けつけたが、その報道では新聞もテレビもやはり「クイーンメリー2世号」と
間違っていた。船体を見るとちゃんと「QM2」と書かれていた。左上に試験航海の写真を紹介したが、真横からの写真はまるでフェリーかマンションを横から
撮ったようでよくない。この角度が一番優美なようだ。(写真左は「QM2」。右上はしゃれたロゴ)
本体の事故ではなかったので、12月22日、予定通り進水式を行ったが、遺族への配慮と刑事責任の追及が続いているのでひっそりとした進水式だったという。 「クイーンメリー2」は総トン数15万トン、全長345メートル、全幅39.9メートル、乗客定員2620人、乗組員定員1253人。巡航速度28.5ノット。 客室700、1300人が一度に食事できるいくつものレストラン、5つのプール、プラネタリウムまである。総工費8億ユーロ(約1080億円)。 2004年1月12日、サウサンプトンから米国フロリダのフォートローダーデールへ初航海した。
「クイーンエリザベス2」(Queen Elizabeth 2)の今後だが、2007年11月、所有していたキュナード(Cunard)の親会社で米クルージング業界大手のカーニバル(Carnival)社が 約5000万ポンド(約107億円)でアラブ首長国連邦の政府系旅行会社傘下の投資会社に売却した。キュナード時代40年間に航海した550万海里は月と地球の間を13回往復した距離 に相当する。25回の世界1周航海を含め大西洋を800回以上横断し、200万人以上の乗客が乗船した。
「クイーンエリザベス2」はキュナード・ラインとしては最後の航海を終えていたが、2008年1月6日、花火に見送られ英国南部の港町サウサンプトン (Southampton)を姉妹船の「クイーン・ビクトリア」(Queen Victoria)と共に出航、大西洋を横断し米ニューヨークへ。同港から(違う運航会社の下での)最後の世界一周 クルーズに出た、オーストラリアを経由3月19日に大阪港天保山岸壁に入港した。このクルーズでは大阪が国内唯一の寄港地であったので、 日本で「QE2」を見ることが出来る最後の機会となり多くの人でにぎわった。
この航海を最後に改装され、ドバイにある世界最大の人工島パームジュメイラ(Palm Jumeirah)で5つ星ホテルになる。ドバイ・ポーツ・ワールド(Dubai Ports World)の会長は、 世界中の人に愛された船だけに「ドバイは海に面した国であり、私たちはQE2の伝統を尊重しています。新しい我が家でも大切にします」と述べている。 キュナードは2010年就役予定の新クルーズ客船の建造を計画していて、この船が次代のクイーン・エリザベスと命名されると発表している。 新クイーン・エリザベスはクイーン・メリー2の同級船ではなく、クイーン・ヴィクトリアの同級船で総トン数は9万5000t程度となる模様。

| あさま山荘事件ー凍える攻防 |
2002年2月19日の新聞の多くが、トップであさま山荘事件30周年を報じていた。
少し前には、今ではNHKの人気番組となった「プロジェクトX」で、鉄アレイで山荘の破壊を担当した人
や大量の水をポンプアップした消防隊員が取り上げられていた。まもなく映画も封切られるという。
確かにこれらは一面ではあるが、殉職した2警官のほか射殺された民間人が1人いたことやライフルで報道関係者など27人が重軽傷を負ったこと。
またこの事件の最中にニクソン大統領訪中という左翼運動にとってエポックメーキングな出来事があって、母親の一人によるマイクの説得にもでてきたこと。
連合赤軍がここに来るまで12人も(京浜安保組まで入れると14人)総括という名のリンチで仲間を殺していたことなど、
触れられていないことが不思議だった。
私にとっては札幌オリンピックとセットみたいな事件だ。というのも五輪の終了とともに発生したし、
おまえたちは寒さになれているし、装備が整っている(五輪用の防寒靴やフードつきのコートなど着用していた)、
という理由で、カメラマンともどもオリンピック取材チームが全員そのまま軽井沢に向かったのである。
といっても我が家を含めて、家族は夫や息子がどこに行ったのか知らなかった。これは普通のことだった。
一つには、この時代、電話事情が悪かったことがある。入社のときは関西から札幌に申し込むと3時間くらいたってつながった。
急ぐ時は警察電話が頼り(全国に張りめぐらされた警察電話が一番充実していて、即時だった。よくないのだろうが、県警本部
を通じて最寄警察から市内電話につないでもらった)という時代が長かった。
二つのオリンピックを経てこのころよくなったとはいえ、軽井沢から本社に一度つながると、切るな、といわれていたくらい。原稿や写真電送を
どんどんすませるようにしていた。取材本部にしたのも電話がある空き別荘で、所有者に連絡して明けてもらったものだ。
でも風呂には入れなかった。犯人が包囲された手がかりが、異臭を放つというのが理由だったが、機動隊ふくめてこちらも似たような事情だったのだ。
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| このロケーションを見ても難攻不落の 天然の要塞だったことがわかる。 3階に見える 白い屋根のところが 1階部分で道路に面して玄関がある。 |
現場はあさま山荘だが、ここには、警察は機動隊員、マスコミは若い記者とカメラマンという「手足」がいた。
作戦を練る
警察幹部や新聞のキャップなど「頭脳」にあたる人間はずっと離れたところにいた。取材の中心は警察庁の寮だった。ここには佐々淳行・警備局付警務局監察官が
後藤田正晴警察庁長官の命令で派遣されていて、その指揮所になっていた。本名は「あつゆき」というのだが、当時「さっさ・じゅんこう」と呼んでいた、
氏は、この事件を機に危機管理の専門家の道を歩む。20年ほどのち、横浜で会ったおり、現場に居たというと、あそこが私の原点です、といっていた。
警察の縄張り意識は今に始まったことではない。警察の管轄はよく池や川で区切られているが、地方支局勤務のとき、こういうところで土左衛門が上がると、
竹ざおで管轄外の向こう岸に押しやるということがあった。単純な自殺などでは書類処理の手間ばかりかかるので嫌がるきらいがあった。向こう側の署もしたたかで、
同じように押し返して、結局最初に
発見された地点の警察署が処理をする羽目になったという笑い話をよく聞いた。
これくらい世間の注目を集める大きな事件だと、こっちの力で解決できるという県警側の自負と、中央から派遣された側の、そっちだけではどうにもならんだろうという意識がぶつかり合う。
装備も中央の機動隊のが優れ、銃弾に対しても県警機動隊の防御楯4枚重ねて、やっと警視庁機動隊の一枚並という気の毒な面も
あった。だから、中央から派遣された警察庁、警視庁機動隊組と地元の長野県警は仲が悪
かった。無線連絡も互いには通じなくてそれぞれの上司にだけ報告が上がる。あさま山荘の中にいる犯人の割り出しも両者別々にやっているきらいがあった。
手違いで照明弾が打ち上げられたときには「あのバカが」とののしる始末で、けっしてうまくいっていたわけではない。
東京組は事件後、すぐ本を出したが県警組は不快感をあらわにした。こざかしいことだけ長(た)けているとでもいうように。
後年(平成14年)NHKが「プロジェクトX」であさま山荘事件を放映したが、主役として地元消防団員や県警幹部、モンケーンの
操縦士を取り上げたため、今度は東京組がそっぽ、といったあんばいだ。
しかし、現場は違った。
とにかく寒かった。いまマイナス20度近くになる八ヶ岳に自分の方から進んで身を置いているが、犬のおしっこがみるみる凍るのを見るたびあさま山荘を思い出すほどだ。
放水の水をキャンバス地のタンクにためるのだが、周辺部からしわしわになり始めて、やがてみるみる全面凍った。寒気に加えて山荘めがけて水をまくから周囲は氷。寒さが加速するばかりだ。
取材といったって膠着状態で、別にすることはないから、町の薪炭店で買った薪をカメラマンが張り付いている
ところに運び上げて、焚き火をしてやるのが主な仕事。しびれた手足の機動隊員が、たまりかねて、「お願いします。あたらせてください」とやってくる。一緒に股火鉢で夜の明けるのを
待つ。そんな繰り返しだ。現場では東京組も県警組もない。互いに「手足」同士の連帯感が生まれていた。
4日目くらいにたまたま「大事件」を目撃した。昼ごろだったが、功名心にかられたか信越放送の記者と、画家という男が警戒線を突破して山荘に近づいた。これはすぐつかまったが、これに気を取られているうちに、 斜面を這い登ってきた別な男がいた。みんなが見守るなか道路を悠々と歩いて山荘玄関にたどりついた。新潟からきたこの30歳の喫茶店経営者は麻薬で何回もつかまったことがあり、前日「人質の身代わりにきた」 と禁止区域に入ってつかまり、夜中釈放されたばかりだったが、このときはわからない。 「赤軍さん、赤軍さん、わたしも左翼です。私は妻子と離縁してきました。医者をやっております。中へ入れてください」。 このとき中に