爆弾闘争に狂奔した「東アジア反日武装戦線」の顔ぶれ

太田 竜(おおた りゅう。転向後は「太田 龍」の名前で活動、1930年8月16日 - 2009年5月19日)

本名、栗原 登一(くりはら とういち)。 樺太生まれ。戦後、父母の郷里である千葉県に引き揚げ、旧制千葉中学校(千葉県立千葉高等学校)2年生の頃までには、次兄の蔵書に読み耽った影響で熱心な共産主義者となっていた。東京理科大学中退。

太田竜
太田竜
45年10月に日本青年共産同盟(のちの日本民主青年同盟=民青)に加盟、1947年、日本共産党党員となったが1953年に離党、黒田寛一らとともに1957年に革命的共産主義者同盟(革共同)を結成するも翌年には「トロツキスト同志会」(トロ同)を結成。トロ同は、1958年12月に「国際主義共産党」(ICP)に発展解消した。ここでも独断で「大衆は武装蜂起せよ」と呼びかけるビラを配布してICPから除名。その後、マルクス主義そのものとの決別する。

1970年はじめはアイヌモシリ独立運動、ついでエコロジスト運動、自然食(マクロビオティック)や特に自然食運動の始祖、桜沢如一の革命理論を取り込んでいき、家畜制度全廃、反米、フリーメーソンやイルミナティのような秘密結社を含む反ユダヤ主義に、さらには、人類は爬虫類人によって支配されているという説に走るなど思想的に激しい変遷をたどっている。

1974年に三菱重工爆破事件などの連続企業爆破事件を起こした東アジア反日武装戦線に思想的影響を与えた。公安警察は太田を東アジア反日武装戦線のメンバーとして捜査、太田の関わりは見つからなかったが張り込みで、東アジア反日武装戦線のグループ全体が把握されていった。結局、太田は北海道静内町(現在の新ひだか町)にあるアイヌの英雄シャクシャイン像の台座を傷つけた件で執行猶予のついた有罪判決のみ。

1986年の第14回参議院選挙で、日本みどりの連合公認で比例区から出馬するが落選。1987年の東京都知事選挙にも日本みどりの連合から立候補したが落選。1990年の第39回総選挙には地球維新党を率いて東京1区から立候補するも落選。1992年参院選でも候補を擁立(自らは立候補せず)するも落選。1993年の第40回総選挙では、雑民党公認で本名の栗原登一で東京5区から立候補するも落選。以降は選挙に立候補しなくなった。2009年5月19日腹膜炎のため死去。

桐島聡(きりしま さとし、1954年1月9日 -2024年1月29日 )

太田竜
桐島聡

桐島は1954年1月9日広島県深安郡神辺町生まれ。曾祖父、祖父は村議会議員、町議会議員をれ務め地元では名家として知られていた。広島県立尾道北高等学校卒業後、1972年4月に明治学院大学に進学、映画研究会、同和研究会に所属するも、すぐに退部。東京・山谷の日雇労働者らの「越年資金闘争」に参加、東京都や台東区らを相手取り、闘争に明け暮れているうちに「東アジア反日武装戦線」の思想に共鳴し、同戦線の「さそり」グループのメンバー、黒川芳正や宇賀神寿一と出会い、活動するようになった。

手配容疑は、1975年4月18日、東京の銀座の韓国産業経済研究所の入口に手製の時限信管付爆弾を仕掛け、翌日に爆発させた爆発物取締罰則違反。爆弾は、同グループが出版した「腹腹時計」を参考にして同グループで薬剤師資格を持つ大道寺あや子が勤務先から横領した薬品などで製造したものが使用された。1975年5月19日に東アジア反日武装戦線の主要メンバー、黒川芳正ら7人が逮捕された時、桐島は逃走したが、黒川が所持していた桐島の家の鍵からまだ警察が把握していなかった桐島の存在が明らかとなり、指名手配された。

事件後の75年5月20日に渋谷区内の銀行で現金を下ろした後、同31日に広島県の実家に電話をかけ、「岡山に女と一緒にいる」などと父親に伝えたのを最後に、足取りが途絶えていた。他のグループの共犯者がいまだ海外に逃亡しているため、桐島容疑者の罪は時効停止となっている。現在もなお、生死を含め行方がわかっておらず、東アジア反日武装戦線のメンバーの中で一度も逮捕されていない唯一のメンバーであり、前科がないただ一人の人物でもあった。

「最期は本名で死にたい」桐島聡(70)50年ぶりに名乗り出る

2024年1月25日、神奈川県鎌倉市の徳洲会湘南鎌倉総合病院から、入院している男が「自分は桐島聡だ」と名乗り出ている、と連絡があった。神奈川県警から連絡を受けた警視庁公部員が出向き事情を聴いたところ「最期は本名で迎えたい」と理由を明かした。手配の韓国産業経済研究所で起きた爆破事件への関与は否定したものの、別の間組爆破事件については現場まで爆弾を運んだことを認めたという。また、事件後は川崎市の飯場で1年ほど過ごし、80年代からは現在の勤務先の工務店で住み込みで働いていた。寮は木造2階建てで、家賃は2万5000円。工務店では日当1万円で手渡しだった。過激派グループのメンバーとは事件後、全く連絡は取らなかったとも説明したという。

内田洋
「内田洋」の偽名で暮らしていた桐島聡
平成24年ごろ。知人提供(産経新聞)
内田洋
「内田洋」を名乗った男。(ZAKZAKから)
男は、末期の胃がんで病状は重く、捜査員の取り調べ中にも意識が遠のくことがあった。桐島の指紋は入手できてなく、DNA鑑定で本人確認を進めていたが、病状が悪化、29日午前7時33分死亡した。

「手を貸してくれませんか。この人歩けなくなっちゃって」。藤沢市の土木会社の近くに住む男性会社員(61)は1月初旬、別の男性に声をかけられた。会社の入り口には桐島容疑者とみられる男が座り込んでいた。白髪交じりの短髪で、ジャンパーを着た男はげっそりと痩せていた。

「もうガリガリ。口からはよだれも出ていた」。会社員が声をかけても、男は「うー」とうなるばかりで、会話にはならなかった。


やさ"
「内田洋」が暮らしていた部屋

2人で男の両脇を抱えながら自宅まで連れて行った。既に力が入らない様子だったという。男が住んでいたという自宅は物置小屋のような建物で、6畳ほどの室内には石油ストーブが2台と、あとは弁当の空き箱や段ボールなどが乱雑に置かれ、ゴミの山。どこで寝てるのかと不思議なほど。土木会社の社長に男を部屋まで運んだことを伝えると、「ああ、内田君ね。ありがとう」と礼を言われたという。

桐島聡容疑者(70)とみられる男は約40年にわたり藤沢市の土木会社で「内田洋(ひろし)」と名乗り、住み込みで働いていた。身分証や銀行口座を持っておらず、その後病状が悪化して湘南鎌倉病院に救急搬送され、入院したときも自費診療だった。入院時の所持品はバッグとタンブラー、ボールペン、診療明細書のみ。貯金残高は240万円。

男は「うっちー」「うーやん」の愛称で、約40年間神奈川県藤沢市の街に溶け込んでいた。音楽好きが集う駅周辺のバーなど少なくとも4軒では常連客として知られ、一晩で何軒も顔を出し、「はしご酒」を楽しむこともあった。JR藤沢駅近くのバーの60代の男性オーナーは、客として月に1回程度やってきた「内田」について、

経緯"
桐島聡をめぐる事件の経緯
「店に来るようになったのは20年ほど前。銭湯に行く途中や帰りがけが多かった。来るのはいつも一人だったが、店のスタッフやお客さんからは、『うっちー』と呼ばれて親しまれていた。生バンドの演奏では「リズムに合わせて踊り、『イェイイェイ』とあおって演奏者や客を盛り上げていた」と明かす。

「2023年12月29日に、うーやんと路上でばったり会ったのが最後でした。1年前から『自分は胆管がんなんだ』と聞かされていた。いつもニット帽を被って散歩していたけど、ずいぶんと体が細かった」

この店で音楽ライブを踊って楽しむ男の姿を撮影した動画()を入手したTBSテレビがJNNニュースで放送した。それには、ライブの生演奏に合わせ、大勢の客と共に高く両手を上げ、楽しげに踊る年配の男。神奈川県内にある病院に「内田洋」の名前で入院し、桐島聡容疑者(70)だと名乗った男の姿が捉えられている。

2012年6月、バーでの生演奏中に撮影されたもので、観客のなかでも最前列に近い位置で、立ち上がって両手を突き上げながら踊っている。さらに、歌い手に向けて、合いの手を入れる男の肉声がはっきり聞き取れる。

「いいよー!いいよー!」

と大きな声で叫ぶその声にはハリがあり、力強い印象。そこから、“潜伏”とはほど遠い地域に溶け込んだ生活を送っていたことがわかる。

米ロックバンド「サンタナ」のライブ映像を収めたビデオテープをもらったこともある男性は「音楽には相当詳しくて、店に置いてあるギターを手に取って鳴らすこともあった」と話す。

男は建築関係の仕事をしていること以外、経歴は語らなかったが、15年ほど前、親密な女性がいたが、交際を断ったことをスタッフに明かしていたという。「うーやんが『女性からアプローチされたんだよ。でも、幸せにできないから断わったよ』と、言いだしたんです。相手の女性は別のお店で知り合った30代の方だったようです。不要になったビデオをもらったことがあります。『ウッドストック・フェスティバル』や、彼が好きなバンド『サンタナ』のものでした。映画のビデオもそれなりに持っていて、いちばん好きなのは『カッコーの巣の上で』だと言っていました」

一方で、トラブルを起こすこともしばしばだった。
「自宅で夕飯の際に缶チューハイを2本飲んだ後、うちの店に来るんです。店でもいろんなお酒を飲むんだけど、飲ませるのは決まって4杯まで。酔うと知らないお客さんにも『バーカ』と悪態をついたりするので、飲ませすぎないようにしていた。酒乱が原因で、地元の飲み屋は何軒も “出禁” になっていた。
店内でほかの客と口論になったことがあって、『お主に俺の何がわかるんだ』と激昂したんです。ただ、うちの店で怒ったのはその1回だけでした」

「10年くらい前までは酔っ払って帰ってきてはラジオを大きい音でジャンジャンかけたりしてたよ。昔はバンドをやってたのか、フォークギターを弾くこともあったね。ラジオがあまりにもうるさいから夜中に『うるせえじゃねえか!』って文句言ったり、その辺に落ちてる角材で窓を叩いたりしたんだけど、酔って寝てるから全然聞こえてねえんだよ。そのうち、後ろの家が警察に通報したみたいで、それからラジオはかけなくなったな。警察が親方に言ったのか、ウチダ本人に言ったのかわからないけど」

駅近くにあるバーを経営する60代男性も「多い時は週に1、2回来たといい、ほかのお客さんから『うーやん』って呼ばれて、なじみの客の一人」で一度、出身地の話になったときは岡山と話していた。深夜11時、12時頃に酔っ払った状態で来て、グラスの赤ワインを飲んですぐ帰る。柳ジョージとか日本人のブルースが好きで、『横浜のブルース系のライブに行ってる』とも話していた。2000年前後は夏になると、近くの鵠沼(くげぬま)海岸で参加費2000円のバーベキューイベントを行っていたが、70〜80人に交じって参加していた。この辺りの音楽好きが集まるような店ではかなり知られた存在だった。お客さんたちも『何かの間違いじゃないか』と話している。それほど穏やかな、いい人だった」という。周辺に溶け込んで生活していた様子。

齋藤和(さいとう のどか、1947年11月14日 - 1975年5月19日)

太田竜
齋藤和
富士製鉄(現・新日鉄)室蘭製鐵所の社員の子供として育った。北海道室蘭東高校に入学し、生徒会長を務めた。高校時代にアナーキズム理論に出会い、その母体である現代思潮社で上京してアルバイトするほど入れ込んだ。東京都立大学 人文学部に進学し、ベトナム反戦直接行動委員会にも参加、1966年10月19日に東京都田無市(現・西東京市)の日特金属工業(現・住友重機械工業)を襲ったメンバーの一人だったが、逮捕はされなかった。

1971年、斎藤は大学を中退し、葛飾区青砥に貸本屋を開く。一方、学生時代の活動で築いた人脈の中で、渋谷近くに住む大学生だった浴田由紀子と知り合う。このころ、太田竜、佐々木祥氏らのレボルト社に出入り、度々韓国へ渡航。その渦中において、祥氏の弟佐々木規夫と親しくなり、北海道でのアイヌ居住区巡りを共に行う]うちにオルグを受け、東アジア反日武装戦線に入隊、「大地の牙」部隊を結成してリーダーとなり、1974年、浴田を同部隊に引き入れ、のちに内縁の妻とした。

浴田ともども数々の連続企業爆破事件に関与した。1975年5月19日朝8時ごろ、居住していた亀戸のツタバ・マンションで就寝中、踏み込んできた警察官に内縁の妻浴田由紀子と共に逮捕される。齋藤は逮捕後、警視庁に連行される間に、自決用に隠し持っていた青酸カリ入りカプセルを服毒して自殺を図り、同日死亡した。自殺用に持っていた青酸カリは大道寺あや子が勤務先から盗んだもので、斎藤の自殺により、彼が握っていた情報や関西などに協力者が数名いたことなどへの追及は闇に葬られることとなった。

斎藤の自殺は「権力への一切の屈服を良しとせず自死した」として、他メンバー及び支援者らから「殉教者」として「聖人化」され、一方「たやすく自供した」片岡利明、大道寺将司が批判された。

浴田由紀子(えきだ ゆきこ、1950年(昭和25年)12月19日- )

太田竜
浴田由紀子
現在の山口県長門市生まれ。1969年(昭和44年)、山口県立大津高校卒業後、北里大学衛生学部に。
学生運動とは無縁だったが、高校の同級生の逮捕をきっかけにその救援活動に入り、そこで斎藤和と出会い一緒に出かけた韓国への「学習旅行」が大きな契機となり、反日思想を醸成させていく。

始めは住所不定無職の斎藤に住居を提供するためのみの同居だったが、内縁関係となり、東アジア反日武装戦線の「大地の牙」に正式に加入。1974年10月14日の三井物産爆破事件で爆弾を設置するなど、「大地の牙」部隊が起こした連続企業爆破事件の犯行に関わったとされる。

1977年(昭和52年)のダッカ日航機ハイジャック事件において、日本赤軍の要求に基づき超法規的措置で釈放される。その後逃亡し、日本赤軍に加入。国際手配される。

浴田由紀子
釈放後の浴田由紀子(右)
1995年(平成7年)、ペルーからルーマニアに日系ペルー人を装って入国し、潜伏活動をしていたところを3月20日に身柄を拘束され、偽造有印私文書行使の容疑で国外退去となり日本へ向かう飛行機内で逮捕された。2002年(平成14年)7月4日、検察は無期懲役を求刑したが東京地方裁判所にて懲役20年の判決が下される。

服役中は栃木刑務所で過ごし、2017年(平成29年)3月23日に刑期満了で釈放された。2017年3月、「えきたゆきこ」の筆名で作家デビューした。


片岡利明【1948年(昭和23年)6月1日--- )】現在の姓は「益永」

片岡利明
片岡利明
開成高校から二浪して法政大学文学部史学科に入学。その後、ベトナムに平和を!市民連合(ベ平連)に参加し、バプテスト教会改革運動を行なう。全共闘運動を経て、大道寺将司と出会い、東アジア反日武装戦線に参加。自身が関与したグループ「狼」の名づけ親である。1973年(昭和48年)4月から職業訓練校の機械科で爆弾製造に必要な技術知識を身につける。その後、爆弾製造の中心的役割をつとめ、三菱重工爆破事件をはじめとする連続企業爆破事件を起こす。

1975年(昭和50年)5月19日に逮捕される。最高裁において1987年(昭和62年)3月24日に死刑が確定した。このとき、「人の命のかかった裁判を書類上の"事務"として右から左に片付けてしまう最高裁判事たちの態度に激しい怒りを禁じ得ない」と表明した。

死刑執行されていないのは、かつての「狼」メンバーであり、企業爆破に関与した佐々木規夫および大道寺あや子が、日本赤軍が起こした2件のテロ脅迫事件(クアラルンプール事件・ダッカ日航機ハイジャック事件)の際、日本赤軍側の要求を呑んだ日本政府による超法規的措置として出獄し、海外において日本赤軍に合流後の消息が不明となっており、裁判が終了していないため。

今も、死刑囚として東京拘置所に収監されている。獄中で死刑廃止運動をしている愛知県の市民運動家、益永スミコさんと養子縁組して現在の姓は「益永」。

宇賀神 寿一(うがじん ひさいち、1952年12月28日--)

宇賀神 寿一
宇賀神 寿一
活動家に目覚めたのは明治学院東村山高等学校時代のベトナム反戦運動からであると述べている。部落解放運動・在日朝鮮人・韓国人の活動に関わる。また、三里塚闘争などにも参加する。

1971年4月、明治学院大学社会学部に進学。山谷の越冬闘争に参加したり、単身で大阪の釜ヶ崎に行きし、ドヤに投宿して自らも日雇い肉体労働を経験する。黒川芳正や同じく明治学院大学の学生であった桐島聡とともに、東アジア反日武装戦線「さそり」に参加し、一連の連続企業爆破事件に関与した。

1975年5月19日に東アジア反日武装戦線各部隊の主要メンバー7人が一斉に逮捕された際、黒川が所持していた宇賀神の家の鍵から、まだ警察が把握していなかった宇賀神の存在が浮上した。宇賀神は警察に指名手配されたことを契機に、地下潜行生活に入る。学籍のあった明治学院大からは除籍処分を受ける。

指名手配から7年後の1982年7月13日、東京都板橋区内で逮捕された。宇賀神は3月まで偽名で新聞販売店で働いていた。1990年2月に最高裁が懲役18年判決。岐阜刑務所に13年間服役し、2003年6月11日に出所。未決勾留期間も含め、合計21年間の獄中生活を過ごす。

宇賀神 寿一
アート展開催時の宇賀神 寿一
出所後の宇賀神は救援連絡センターに就職した。事務局員として同センターの運営を担い、活動を推し進めながら「冤罪のない社会」を目指すとして、出所後も反権力闘争を行っている。今は三里塚闘争関係者がいる、一般社団法人スズガモで、介護に従事している。

2010年09月10日,t東京・谷中のギャラリーで「25人のアウトサイダーアート展-獄中画の世界」を開催、連続企業爆破事件で爆発物罰則違反のほう助罪に問われた荒井まり子の獄中画や自身の作品を展示、新聞記事になった。

黒川 芳正(1948年1月26日 - )

黒川 芳正
黒川 芳正
山口県立宇部高等学校を卒業後、東京都立大学文学部哲学科に進学。その後、中核派の活動家となった。佐藤首相訪米阻止闘争、佐世保エンタープライズ寄港阻止闘争に参加。その後、中核派からは離れたが、東大安田講堂事件で武装闘争にも参加。山谷や釜ヶ崎といった寄せ場で日雇い労働を行いつつ暴力手配師追放釜ヶ崎共闘会議などに参加。

佐々木規夫を通じて大道寺将司に会い、東アジア反日武装戦線に参加。1974年に「さそり」を結成し、底辺委員会メンバーの宇賀神寿一や桐島聡とともに連続企業爆破事件を起こす。1975年に逮捕される。逮捕時に所持していた鍵が他の逮捕されたメンバーの者と一致せず、追及の結果、逮捕されていないメンバーの宇賀神寿一や桐島聡の存在が判明した。

1979年11月、東京地裁で無期懲役の判決が下る。
最高裁へ上告中に1987年1月に口頭弁論が開かれる直前に弁護方針の食い違いなどを理由に弁護人について解任届を提出していたが、最高裁は「訴訟遅延が目的で無効」として弁護人に弁論を行うように求めたが、弁護人は拒否したために同年2月に弁論抜きで閉廷し、同年3月24日、最高裁にて上告棄却し、無期懲役が確定した。

現在、宮城刑務所に収監されている。1987年、獄中から監督をして異色のドキュメンタリー映画『母たち』を製作している。黒川自身の母を含む大道寺や益永利明ら獄中メンバーの母たちへのインタビューを構成したもの。

大森 勝久(おおもり かつひさ、1949年9月7日 - )

大森 勝久
大森 勝久
連続企業爆破事件の犯人グループと直接の関係はないとされるが、1975年から1976年にかけて北海道を舞台に起きた一連の爆弾テロ事件(1975年7月19日の北海道警察本部爆破事件、1976年3月2日の北海道庁爆破事件など)にも「東アジア反日武装戦線」名義の犯行声明が出された。その中で、北海道庁爆破事件ので起訴された大森勝久(本人は犯行声明の思想に共感した上で犯行については無実を主張)は死刑判決が確定している。

1949年9月7日、岐阜県多治見市生まれ。高校時代までは政治に無関心であった。しかし岐阜大学教育学部数学科に入学して1年ほど経つと、当時の大学紛争を反映して、左翼思想に目覚めるようになった。大森はノンセクト・ラジカルの立場から黒ヘルメットを被ってデモに参加していた。

大学4年生になると、太田竜の『辺境最深部に向かって退却せよ!』を読み、太田が唱える窮民革命論に感化されるようになった。岐阜県の中学校教員に採用されたにもかかわらず、突然辞退して美濃加茂市で土方仕事をする。その後、己の意識を変革すべく、名古屋市のドヤ街である笹島に向かい、ついで大阪市の釜ヶ崎に行ったり、北海道でアイヌ民族の現状について左翼運動家と交流したりした。1975年6月には札幌市に居を移した。

札幌に居を移す直前の1975年5月19日、東アジア反日武装戦線のメンバーが一斉検挙された。あせった大森は一刻も早く爆弾テロを決行しようとし、材料の購入などの準備をした。しかし爆弾の材料となる除草剤は冬の北海道では売っていなかった。

購入出来ずにいたところ、友人の加藤三郎が、除草剤等を所持で爆発物取締罰則違反で指名手配された。その際、加藤の交友関係を調べていくうちに大森の名前が浮上、1976年8月10日に爆発物取締罰則3条違反容疑(製造器具の所持)の容疑で逮捕され、9月1日に北海道庁爆破事件の実行者として再逮捕された。また1975年7月19日に発生した北海道警察本部爆破事件の容疑でも逮捕されたが、証拠不十分のため不起訴となった。

裁判では、一貫して自らの無罪を主張した。直接証拠は無かったが、爆弾を製造しようとした押収品などの状況証拠、および道庁付近における目撃証言から札幌地裁は死刑判決を言い渡した。控訴した札幌高裁もこれを支持。1994年7月15日、最高裁判所でも大森の上告を棄却する判決が出て死刑が確定した。

その後も再審請求、最高裁へ特別抗告したが、2011年12月に棄却され、再審を行わないことが確定した。現在、大森は死刑囚として札幌拘置支所に収監されている

獄中にいる間、大森は様々な文献を読んだ。その結果、ソ連や中国などの共産主義独裁体制の実態を知り、民主主義を否定する既成の共産主義に強く反発した。1997年頃になると、左翼思想から完全に脱却、彼がかつて唱えていた反日亡国論のことを「悪魔のような思想」とまで断言するに至っている。

1985年に支援者の女性と獄中結婚し、現在も毎日のように面会しているという。また独房で株に関する書籍や情報誌を読み、かつては妻名義で所有する株式の売買の指示をだしていたという。外部協力者によって論文を雑誌に掲載しているほか、政治評論のホームページを運用している。

加藤 三郎(かとう さぶろう、1948年7月25日 - )

加藤 三郎
現在の加藤三郎
岐阜県立加茂高校3年生の時、小田実のベ平連参加を呼びかけに応じ「名古屋ベ平連」に参加。高卒後は、アルバイトをする中で、多くの在日韓国・朝鮮人と知り合い、日本の民族問題に関心を持った。坂上田村麻呂の墓や明治天皇の関連施設にペンキで落書き。坂上田村麻呂は「桓武期の蝦夷侵略軍の総大将」、明治天皇は「アイヌモシリを侵略した天皇」というの理由であった。

1977年に神社本庁爆破事件、平安神宮放火事件、東本願寺爆破事件、東急観光爆破事件などの犯行を行う。その後も手製爆弾の製造を続けていたが、1978年1月1日、明治神宮で糞尿を飛び散らせるための「糞尿爆弾」の製造に取り掛かっていたところ、東京都板橋区のアパートで爆発事故を起こし、同居していた女性とともに逃亡。警察庁指定被疑者特別指名手配の対象となった。

この誤爆事件以降、爆弾闘争は止め潜伏生活をおくっていたが、やがて「反日思想」からの離脱を自覚するに至った。1983年5月、逮捕された。逮捕時はラジニーシのペンダントを身に付け合掌するなど、「修行僧」のような身振りをしていた。現住建造物等放火罪等の罪状で起訴された。一・二審とも懲役18年の実刑判決。1989年7月、最高裁は上告を棄却し刑が確定した。

1989年8月から熊本刑務所に収容され、2002年12月末に熊本刑務所を出所、岐阜県加茂郡七宗町の無人の実家に帰り、 山仕事などをしている。

荒井まり子

荒井まり子
荒井まり子
1950年12月、宮城県古川市の高校教諭の次女として生まれ生まれ、古川女子高校を卒業後、1969年法政大学文学部史学科に入学し全共闘に所属するが、2年後中退し、姉なほ子とともに東京都内に居住し、アルミ工場、ビニール工場で働く生活を送つたのち、1972年に古川市の両親の許に帰り、翌年、東北大学付属医療技術短期大学看護科に入学し、仙台市内に居住しながら大学に通学。

入学した年に大道寺らの東アジア反日武装戦線に参加、「狼」に所属した。仙台市にいて勉学を継続することを優先したため直接行動はひかえ、佐々木規夫の指示で現地で爆弾闘争で使用する爆弾の爆薬材料である「クサトール」等を購入し供給する兵站の任務を担当した。たものである除草剤を調達していた。75年東アジア反日武装戦線“狼”グループの一員として逮捕された。

「狼」の準構成員として姉、なほ子も参加していたがいた。大道寺らはまり子を都会でのゲリラ活動に不向きだと見ていた。姉、なほ子も「人と会っているより、ものいわぬ草花に向かっている方が安心といったふうな性格」で、大道寺は「本格的な武装闘争の過酷さの中に、彼女を巻き込むべきではない」と結論を下した。

本人、なほ子も自分がゲリラに不向きなことを認めて、故郷へ帰ったものの、まり子の逮捕後に上京し救援センターで差し入れなどを行っていた。「動揺が激しくノイローゼ気味に見えた」。両親に連れられ実家に戻る途中、走行中の列車から飛び降り自殺している。

荒井まり子は「精神的無形的幇助」で一審懲役8年、控訴審、上告審ともに棄却され、確定。獄中で描いたペン画をもとに 「小ねこチビンケと地しばりの花ー未決囚十一年の青春」(径書房)を出版している。獄中生活中に結婚した夫、彰さんとの文通形式で回想した本。

1987年出所。現在、福祉関係の仕事にたずさわっている。