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混乱するといけないので、最初にことわっておくが、「戯れ言」も「たわ言」も同じ意味である。調子に乗って
「戯れ言」を並べているうちに長くなった。辿り着くまでに手間ひまかかってしょうがない、と文句まで出てきた。
仕方ないので、「たわ言」として、分けることにしたまでだ。 |

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身捨つるほどの祖国はありや
拉致問題に思う
李登輝氏 慶大講演原稿全文
読んでほしい この一文
ノーベル平和賞と文学賞はいらない
国際的な尺度のむずかしさ
地方記者の思い出(12編掲載)
葦(よし)の髄(ずい)から社会を知る
気になる裁判用語辞典
ブン屋の雑学
飛騨川バス転落事故
わが国最大のバス事故の現場で
有名シェフと一教師の話
北海道の寒村から出た男たち
亡国の女子アナ もっと日本語と常識を教えないと
傾城のスチュワーデス
空飛ぶ芸者に誰がした


| 身捨つるほどの祖国はありや |
2002年9月17日、小泉純一郎首相と北朝鮮の金正日(キムジョンイル)総書記の歴史的なトップ会談が実現した。
北朝鮮側は、警察庁が拉致事件と認めた8件11人について、はじめて拉致と認め、謝罪し、リストにない1人を含め5人の生存、新潟市の横田めぐみさん、元神戸市外大生の有本恵子さんら8人の死亡を伝えてきた。これを受けて両首脳は、国交正常化交渉の10月再開など合意事項を盛り込んだ日朝平壌宣言を発表した。翌10月15日、生存の5人が一時帰国する段取りになった。この項はその時点で書いている。
寺山修司の短歌に
「マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや」
というのがある。一連の報道を見ていて、この一首が浮かんだ。
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| 後年の寺山修司 この短歌は18歳の作。 |
■寺山修司(1935-1983)
1935年(昭和10年)12月10日、青森県弘前市紺屋町に生まれる。警察官(特高)の父は、5歳のときに出征、9歳の時に戦地 で病死する。母と三沢市へ疎開したり青森市の親類の家を転々とし孤独な少年時代を送る。1945年(昭和20年)青森空襲に遭い、母ハツとともに逃げ惑い焼け出される。終戦後はハツの兄を頼り六戸村古間木(現:三沢市)の古間木駅前(現:三沢駅)に転 居。古間木小学校に転校。中学2年までを過ごす。ハツは進駐軍の米軍キャンプでメードとして働き、米軍差し押さえの民家に移る。日ごとに洋服や化粧が派手になっ た。帰りを待つ少年に「母を殺し、故郷を捨てなければ自由になれない」という強迫観念が生まれ、空想上の”母殺し””家出”が終生のテーマになる。
1948年(昭和23年)古間木中学校入学したが、母ハツが福岡県の米軍ベースキャンプへ移り、転居したため、青森市内の叔父の映画館「歌舞伎座」に引き取られ青森 市立野脇中学校(統合されて廃止、跡地は青森市文化会館)に転校。1951年(昭和26年)青森県立青森高等学校進学。文学部に所属。
1954年(昭和29年)早稲田大学教育学部国文学科(現・国語国文学科)に入学。早くより詩や短歌を発表、前衛歌人として注目されて、18歳のとき「短歌研究 」新人賞を受賞して脚光をあびるが、在学中にネフローゼを発病し四年間の療養生活を送り、大学は中退。58年第一歌集「空には本を」を発表。
中退後は既成の価値観に反逆し「書を捨てよ町へ出よう」をモットーに短歌、放送劇、映画シナリオ、文芸評論などを手がける。63年エッセー「家出のすすめ」 で若者の教祖的存在になる。67年横尾忠則や妻となる九條映子(27歳で結婚34歳で離婚)らと演劇実験室「天井桟敷」を結成して劇作家、演出家として活動のかたわら、小説、批評、詩、短歌、 映画、ボクシング、競馬評論など六十年代から七十年代にさまざまな分野で才気を発揮した。本業を問われると「僕の職業は寺山修司です」とかえすのが常だった。
1970年(昭和45年)3月24日、人気漫画『あしたのジョー』の登場人物・力石徹の“葬儀”で葬儀委員長を務めたり、翌年『書を捨てよ、町へ出よう』で劇映画に進出し たりしたが、東京都杉並区永福在住中に、肝硬変を発症、昭和58年(1983)5月4日同区河北総合病院にて、敗血症で死去。ボクシングが入っているのが奇異にうつるが、これは実体験からきている。青森高校に入学して新聞部、文芸部に参加したが、かたわら、中学3年から3年間ボクシングジムに通った。しかし「私には『憎むべき敵』がなかった」と試合らしい試合もせぬままにやめている。殴りたい敵を持たぬ身には、食事制限のつらさが耐えられなくなったのだという。
寺山の競馬好きは有名で、報知新聞競馬欄に昭和45年10月10日から10年以上予想コラムを書いた。32歳のとき自身でもユリシーズ(ギリシャ神話のオデュッセウスの英語名)という馬(船橋競馬場で初戦4着)やミソオチス(勿忘草)の馬主だった。「馬敗れて草原あり」「競馬放浪記」など著作多数。この中で「競馬は走る叙事詩である」「心が灰色の日は灰色の馬を」など名言を残している。旺盛な仕事のさなかに1983年に敗血症で急死。48歳。そのとき母、ハツさんはまだ存命だった。
寺山の代表作とされる「田園に死す」は74年に自分の3冊目の歌集「田園に死す」をもとに映画化した。監督:寺山修司 脚本:寺山修司 原作:寺山修司。出演:菅貫太郎/高野浩幸/八千草薫/斉藤正治/春川ますみ/新高恵子ら。
下北半島・恐山のふもとの小さな村、母親と2人暮らしている少年。愛情の押し売りをする母親から逃れようとする少年が、死んだ父親をイタコに口寄せしてもらったり、憧れの隣のお嫁さんとの駆け落ちを夢想したりする。背景に歌集が流れる。
収録作品のいくつかはーー
音立てて墓穴ふかく父の棺下ろさるる時父目覚めずや (「空には本/チェホフ祭」より)
大工町寺町米町仏町老母買ふ町あらずやつばめよ (「田園に死す/恐山/少年時代」より)
亡き母の真っ赤な櫛を埋めに行く恐山には風吹くばかり(同)
新しき仏壇買ひに行きしまま行方不明のおとうとと鳥 (同)
売りにゆく柱時計がふいに鳴る横抱きにして枯野ゆくとき (同)
間引かれしゆゑに一生欠席する学校地獄のおとうとの椅子 (同)
かくれんぼの鬼とかれざるまま老いて誰をさがしにくる村祭 (「田園に死す/子守歌/捨子海峡」より)
この歌について山口瞳は『卑怯者の弁』という文章の中で「詩人の烈々たる祖国愛に同感することを禁じえない」と書いた。また寺山が死んだときも「この歌には我等戦中派の無念が集約され結晶しているように思われる」と賞賛し、さらに「こんな日本国を、こんな日本人たちを、どうやって、なんのために、命をかけて守る必要があるのだろうか。卑怯者である私は、ひそかに、そう呟(つぶや)くのである」と結んでいる。
この短歌は、上記のようにのべ単で表記されることが多いが、短歌だから
「マッチ擦る つかのま海に 霧ふかし 身捨つるほどの 祖国はありや」
と、5・7・5・7・7で書くと、また違った味になる。
それはともかく、北朝鮮による拉致事件でこの短歌を思い浮かべたのは、これまでの自民党、社民党、
共産党の与野党問わない政治家、また、外務省の役人、一部のマスコミに突きつけたい
衝動にかられたからだ。
私一人がそう思ったのではない。拉致された家族の記者会見を見ていたら、家族の一人はこう言った。「これまで拉致問題を
無視し続けた国会議員、社民党、共産党の方々。何か我々に言うことがあったら、連絡下さい」。これはNHKの生中継のみ放送
されたものの、あとは各局ニュースともカットされたが、これが正直な感想だろう。
数年前、中国・大連港に立っていた。霧が深くて北京行きの航空機が出なかったので、空港からホテルに戻って市内散策に出かけ
港に出た。この時、海も同じ霧の中に霞んでいた。
この埠頭で、やはりこの寺山修司の短歌が浮かんだ。まさにぴったりの状況であったからだ。
戦後の混乱期に、満鉄にいた親戚一家がこの港から、着の身着のままで帰国して、大阪の我が家にしばらく滞在していた。
また、父が仲人した縁で交流があり、私が学生時代にちょうど札幌高裁判事をしていたため、よく食事を一緒にした夫婦も、この大連から船で帰国したが、
3人の子供のうち2人までを日本に着くまでに失っていた。栄養失調だった。この二家族はよく「たとえ身一つでも、とにかく日本に帰りたい一心だった」と話していた。
大連(現地の発音では「デーレン」)からすぐ近くの旅順港は、日露戦争で万単位の日本の将兵が倒れたところだ。父の書棚にあった桜井忠温の「肉弾」などを読んで203高地を知っていたし、
「旅順開港約成りて・・・庭にひともと棗(なつめ)の木・・・」と、乃木希典将軍と敵のステッセルの水師営の会見の歌も口ずさめる。しかし、それまでしても帰りたい、
「祖国」というものを、私は一度も考えたことはなかった。
それなのに寺山修司は戦後の寸描を鋭くえぐっている。早熟の天才に感嘆せざるを得なかった。大連でこの短歌が浮かんだのは霧と港からくる情景からだが、
北朝鮮の拉致事件で浮かんだのは、腑抜けた政治家、政党、マスコミへの怒りからだ。
90年の自民、社会両党による金丸信・田辺誠訪朝団にはじまり、平成9年11月の自民、社民、さきがけの与党代表団
(団長・森喜朗自民党総務会長、伊藤茂社民党幹事長、堂本暁子さきがけ議員団座長=肩書は当時)、昨年12月の村山富市・元首相を団長とする全党派による訪朝団
までの議員たちは、北朝鮮に謝罪して米を届けることしかしなかった。北朝鮮に出かけた全員の名前を出して試しに弁明録を載せるべきではないか。
先ほどの大連港にはこのとき、北朝鮮の船が2、3隻接岸していた。地図を広げるまでもなく、海上最短距離に北朝鮮がある。いつかここにボートピープルが押し寄せてくる事態が起きる予感がした。
この頃すでに中国と国境を接する豆満江が凍るころ、徒歩で渡って逃げる北朝鮮の国民のスナップが報じられていた。一説では中国領内に何十万という難民が滞留しているともいう。
江戸時代、過酷に農民から搾り取った藩では「逃散」(ちょうさん)
ということが起きた。百姓に逃げられた藩は疲弊した。日本に例を求めなくとも、東ドイツのベルリンの壁
崩壊の前後を見たって、東欧諸国の民衆が、なだれをうって自由国家に逃げ始めると同時に政権が崩壊した。独裁の挙句に自国民に惨殺されたチャウセスク大統領を見るまでもない。
国民が逃げ始めるような国は歴史をみても、もうお終いなのだ。
その夜、ホテルの裏の露店で、海老を蒸したものを売っていた。何人かの中国人が輪になって食べた海老の殻がぬかるみの泥土に山をなしていた。
大人たちの足の間を、10歳くらいの姉とはだしの弟が、大人が捨てた海老の殻を泥の中をあさって、しゃぶっていた。カメラを向けるのもはばかられる光景だった。
上海の繁栄を見たばかりだったが、国民を食べさせるということはいかに大変か、垣間見た。あの姉と弟もひょっとしたら北朝鮮難民だったのかも知れないと、今頃思う。
案内された料理店は、アカシアの並木に囲まれた旧満鉄の社宅街を抜けた丘の上にあった。私は昔の姿を知らないが、ほとんど変わっていないという。ただ住んでいるのは共産党
幹部だという。夜遅くホテルの部屋にコールガールからたどたどしい日本語で電話がかかってきた。この部屋にいるのが日本人だというのはフロントしか知らないはずだ。裏でつながっているのだ。
また、万里の長城に出かけたときバスが渋滞に巻き込まれた。八達嶺(はったつれい)から北京に戻る時、事情通の引率者が警官にチップを渡したら、サイレン鳴らしたパトカーの先導でノンストップ
で市内に戻った。きちんとホテルまで送ってくれた。行きの三分の一の時間だった。
新聞記者になって身についたことの一つが、経済指標や政治事情でその国を見ない、ということだろうか。こういうことから中国での裏社会の存在や汚職がはびこっていることを知る。通りの裏側、社会の裏側から見えてくることのほうがよくわかるものなのだ。
政府は11月3日、秋の叙勲受章者を発表したが、勲一等旭日大綬章の中に何度も北朝鮮に足を運んだ野中広務元官房長官や、拉致された有本恵子さんの家族に「日本人が日本人をさらったのだから北朝鮮は関係ない」といった日朝友好議員連盟会長だった自民党の中山正暉衆院議員の名があった。
第二次世界大戦下の狂気を舞台にしたドイツのギュンター・グラス(1999年ノーベル文学賞受賞)の作品に『ブリキの太鼓』というのがある。ここからの連想で、胸いっぱい、もう余地もないくらい勲章をぶら下げている北朝鮮の将軍たちをみるとき「ブリキの勲章」を思うのだが、それと同じレベルに見えた。
(この項は1年後の2003年9月17日に書いている)
この1年間で大きく変わったことがある。日本人が「国」というものを戦後初めて真正面から考えるようになったことだ。これまでは「国家」とか「安全保障」という問題はまるでタブー視されてきた。
戦後民主主義の旗手を務めた人たちの影響もあってか「愛国心」とか「自衛隊」をわざと避けてきたのが、途方もない北朝鮮の狂気の前に考えざるをえなくなったといったほうが正確かもしれない。
その「国家」というものを考えさせるきっかけになったのが、拉致された横田めぐみさんの両親だ。
中でも母親、横田早紀江さんの言葉には粛然とさせられる。めぐみさんがすでに死んでいると聞かされた時の言葉がすごい。
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| 横田早紀江さんの言葉には 心を打つメッセージが多い。 |
用意した原稿ではない。テレビを前にしてとっさに口にした言葉だが、ここには我が娘への思いという”個”を超えて、同世代の
人たちを見据え、国家の役割とは何かを考え、人の一生をどう考えるかという哲学まで踏まえている。
拉致がなければ平凡な主婦として生活したであろう女性が、ここまで立派に振舞える。拉致が人を育てたという見方も出来るが、
外務省の役人など足元にも及ばない。
外国から踏みにじられても痛みと感じない日本国民に国家意識を、同胞がさらわれても無関心という日本国民に同朋意識を
目覚めさせたのは早紀江さんだといってよい。
与野党問わない国会議員、マスコミ、外務省、学者、評論家などに北朝鮮に軸足を置く人物が大勢いた。政治家は拉致の事実を
知りながらコメを送り続けた。コメが飢餓の国民にではなく、こちらに銃を向けている北朝鮮軍にわたるのを知りながら。
「たった10人のことで日朝正常化交渉が止まってもいいのか」と叫んだ外務省幹部もいた。朝日新聞は、
「日朝国交正常化の”障害”」と社説に書いた。拉致はひょいと飛び越えればいい障害程度なのだ。国が体を張って守らねばならない
ことではないのか。
新聞もテレビもつい最近まで「北朝鮮」(朝鮮民主主義人民共和国)とわざわざ正式国名を表記した。テレビもご丁寧に最後まで
読みあげていた。中国にも韓国にもそんなことしないのに。編集にタッチしていたので私ははずしたかったが共同通信と配信契約を
していた。ここは朝日と同じく親・北朝鮮だからみなそう表記されている。原稿を勝手に直すわけにはいかなかった。拉致が明らかに
なってからメディアはいっせいに「北朝鮮」になった。最後にしぶしぶ朝日までも。
平成14年12月28日、2面左下隅の「おことわり」というベタ(1段記事)で《朝鮮民主主義人
民共和国の国名については、中国、韓国のように関係者が納得する適切な略称がないなどの理由から、「朝鮮民主主義人民
共和国(北朝鮮)」と表記してきました。しかし、北朝鮮という呼び方が定着した上、記事簡略化も図れることから、今後、外交
記事などでは引き続き従来通りの表記を使う場合もありますが、その他の
記事では「北朝鮮」という呼称を使います。》という。例によってもって回った表現ながら朝日新聞が”転向”したのである。
「過去の歴史を反省して、金をよこせ」というヒステリックな叫びをいつまで聞かされるのだろう。チンギス・ハーンやフン族のアッチラ
大王に踏みにじられてヨーロッパに押し込められた国々がモンゴルに補償を要求したという話は聞かない。歴史の歯車は戻らない。
それを戻そうというのは、金のなる木だからなのだ。もういい加減にした方がよい。
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| パスポートにある保護要請文をもう一度見直し、 国家と国民について考え直した方がいい。 |
この一年で、日本人に国家とはなにかという意識を覚醒させたのは、拉致被害者の母親の言葉だった。
そして、自民党総裁選全候補者が憲法第9条の改正を主張するまでになった。つい先ごろまでタブー視されていたのにだ。
不十分ながら万景峰号の入港検査や朝鮮総連への固定資産税の徴収も始まった。年間1400隻も日本に入港、せっせと
物資を北に運んでいる北朝鮮の船舶に対して「特定船舶の入港を規制する法案」も一部で検討中だ。
日本人はほんとにお人よしだ。テポドンにしろハイテク機材にしろ材料は日本から持っていくほかない国だ。ミサイルを運ぶ
トレーラーさえ日本から持ち出そうとしている。超高温に耐える合金
を自国で調達できる技術はないというのが大方の見方だ。日本に銃口を向ける相手にハイテク機材を届ける。もういい加減にした方がいい。
向こうもコンピューター時代だという。平壌市内の学校教育現場の写真を見たらパソコンが一昔前のものだ。私ですらレベルが分かる。
OSは一番の敵、アメリカ製だろう、ソフトやハードディスクは二番目の敵、日本製が多いがそれでいいのだろうか。なにより、
しょっちゅう停電するという電力事情が問題だ。あらゆるデータが失われる環境でコンピュータが普及する訳がない。ましてや、国境を越える
宿命のインターネットにつなげば国が崩壊する。
自民党は不正送金を規制する外為法改正案も準備している。朝鮮総連からの送金で命をつないでいる部分を絶つ意味は大きい。
この過程でパチンコ屋からの送金も明るみに出るだろう。あまり報道されないが、日本のパチンコ屋は北朝鮮系、韓国系、台湾・日本系
でほぼ3等分される。この中で、北朝鮮系だけはせっせと大金を本国に送り続けている実態があるのだ。
それにしても、麻薬、覚せい剤、ニセ札、パチンコ・・・で国家経済を支える国って何なんだろう。日本人がそれを考えるようになっただけ
この1年の成果といえるかもしれない。
「外務省はなぜダメになったか」
北朝鮮問題が浮上してから現在に至るまで外務省の体たらくはどうか。瀋陽の日本領事館に北朝鮮難民が駆け込んだときの馬鹿げた行動をみても、自分たちが
どういう役目で赴任しているのかさえ理解していない。「あれは他省庁からの出向組だから」と門の横で中国官憲の帽子を拾っ
てやっていたのが警察庁や地方自治体などからの出向者だったことから、外務省プロパーならうまくやれたといわんばかりの
いいわけをするが、同じ対応だったろう。
在外公館はいつの間にか増えて259もある。そこに赴任する人間は3000人、
外務省本省と合わせると数千人になる。外交官の仕事は、情報収集、パスポート・ビザの発行や管理、
日本文化の広報活動などがあるが一番大事なのは在外邦人の保護だ。日本国民の安全を守るためにあるのだが、
そのことを忘れている。
日本にある大小どんな国の大使館、領事館に行っても、自分の役目をきちんとわきまえている。
自国の産業の売込みをはかり、観光客に来てもらうためにマスコミにアピールし、来てくれるなら便宜をはかるよと必ずいう。
日本の外務省の役人で日本をPRしようという姿勢の者はまずいない。
日本の外交官にもかっては一本筋が通った人たちがいた。日露戦争の陰の立役者として貢献した明石大二郎は小国・日本の
国益はツアー政治が崩壊することにあるとレーニンなどボルシェビッキなど革命派に巨費を与えた。「戦艦ポチョムキン」の時代だ。
城山三郎の「落日燃ゆ」のモデルになった広田弘毅は外相、首相として在任中は一貫して戦争回避の立場を取り続けたと
いうのに、戦争を阻止できなかった責任がある、と裁判では一切の自己弁護を行わなかったため、文官でただ一人絞首刑に
なった。国家や政府の枠を超え、「命のビザ」を発行、6000人のユダヤ人を救った外交官、杉原千畝もいる。
現在、日本の外交官は「外交」と「社交」を混同している。
具体的なシーンが思い浮かぶ。
イギリスの航空会社、BOACに招かれてロンドンに行ったことはどこかで書いた。このとき、
会社側が主催して我々記者団の歓迎パーティーが開かれた。在英の日本大使館一等書記官も招かれていた。
一等書記官といえば大使館で2、3番目のポストだ。ところがこの男、グランドピアノに片肘ついてワイングラスを手に持って
人々の挨拶を鷹揚に受けはじめた。エアラインの役員、在英日本人・・・最後までその場を動かなかった。まるで自分が主催者
であるかのような振る舞いだった。
「外務省は拉致問題に情熱も責任感もない」と安部晋三・官房副長官が断じた。謝罪しコメを届けるのを北朝鮮外交と
考えているのだ。
外務省の役人を外交特権を享受するだけの、鼻持ちならないエリート意識だけの人間にしたのはキャリア制度だ。
国家公務員試験はT種〜V種まで事務系と技術系に分かれて実施される。
そのうちキャリアといわれるのはT種に合格した者だが、「法律職」「経済職」「行政職」の三つ
がある。外務省はこれとは別に「外務T種」といういわゆる外交官試験を行ってきたが、平成13年から国家公務員T種
法律職に統合された。つまり現役のほとんどは外交官試験をパスしたという自負を持っている。キャリア制度は別に悪くはないが
入省してしまえば鼻をほじってようがなにをしようが出世の階段を駆け上る仕組みになっている。
これに加えて「チャイナスクール」などの「閥」がある。研修を受けた語学ごとにまるで親分・子分の関係がずっと付いて回る。
外務省などは天下り先が少ない役所といわれるがけっこうあるのだ。こういうところへ送り込むのに親分(とは呼ばないが)が力
を発揮する。赴任地では一切の生活費は支給される。俸給は全額日本で貯金できる。恩給と合わせれば悠々生活できる。
恵まれているのに、国のために働く使命感がない。
「外交官とは嘘をつくために海外に派遣された正直な人間である」というのはイギリスのジョークだが、日本の場合「外交と社交の区別が
出来ない、国益を忘れた人間」となっている。

| 「李登輝氏 慶大講演原稿全文」 |
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| 李登輝氏 |
台湾前総統の李登輝氏(79)は11月下旬に予定していた訪日のためのビザ(査証)申請を最終的に断念した。中国におもねった政府、外務省の苦衷を斟酌したためだが、氏は 慶応義塾大の大学祭「三田祭」で学生サークルの求めに応じて二十四日に都内で講演する予定だった。この講演用原稿を産経の河崎真澄・台北特派員が手に入れて掲載に至ったものだ。 「日本人の精神」と題する講演草稿は李氏本人が今月初めに執筆した。戦前の日本教育を受けた李氏の原文は旧漢字と旧かな遣いの端正な日本語でつづられているという。 戦前の台湾で農業近代化に向けた水利事業に生涯を尽くした日本人技師、故・八田與一の事績を引いて、説き進めるその内容に余計な解説はいるまい。

| ノーベル平和賞と文学賞はいらない |
2002年のノーベル物理学賞は東大名誉教授の小柴昌俊さん(76)、同化学賞は島津製作所
ライフサイエンス研究所主任の田中耕一さん(43)と初の日本人ダブル受賞で、これまでにないほど
日本中が沸いた。
二人の人柄もよかったが、なかでも田中さんは「癒し系」ともてはやされ、アザラシの「タマちゃん」
ともども年末の人気を一手にさらった。記者会見に作業服で現れた田中さんに、記者団から「本人ですか」
という言葉がかけられたり、背広は4着しか持ってなくて、授賞式ではダンスを踊るらしいといわれて「勘弁し
てほしい」としり込みしたりする姿が笑いを誘った。
田中さんは会社では課長級よりも下の主任で、研究成果に対する褒賞金もほとんど支給されていなかった。
一気に「役員待遇」のフェロー職をつくって引き上げたり、1000万円の功労金を支給したり、大慌てで帳尻
あわせに忙しい会社側の人間模様もおもしろかった。田中さんの名前もノーマークだった文部科学省だって、
あわてて文化功労者に選んで文化勲章を授与するなど、いかにも日本的などたばた劇がおかしかった。
この年(2002)のノーベル平和賞はジミー・カーター元米大統領(78)だった。
私はカーターさんと立ち話ながら一言二言談笑して握手したことがある。
彼が引退した直後、アメリカ南部、ジョージア州の州都アトランタでのことだった。といっても政治的な話や取材の上でといったことではない。
「あなたの大事な美女をお借りしますよ」「日本からのプレゼントです」というやりとりをした。
思わせぶりにみえるがこういうことだ。
アトランタは@映画「風と共に去りぬ」の舞台であり、作者マーガレット・ミッチェルの誕生の地。
A郊外の花崗岩の崖に大統領など南北戦争の英雄が彫られたレリーフがある。Bコカコーラの発祥の地。
この三つがすべてで、あとなにもないところだ。マスコミに身を置いていたら忘れてはならない、
世界最大のテレビネットワーク、CNNの本社もあるではないかといわれそうだが、帰国した後の話である。
私はその夏、取材に訪れていた。
映画にちなんで、今も毎年「ミス・スカーレット・オハラ」コンテストが開かれていると聞いて、その年選ばれた美女と
ホテルのロビーで会っていた。彼女はこのあとの撮影用に、ヴィヴィアン・リーが
映画から抜け出たような、大きな裾のドレスを着ていた。
一方、アメリカの大統領は引退すると郷里にその名前を冠した図書館をつくるのが恒例だという。そのオープニング
のためにやってきたカーターさん一行と私が同じホテルだった。リムジンが何台も並び大勢のシークレットサービス
に取り囲まれてエレベーターから降りてきたところで、私とデートしている派手な美女が目に付いた。カメラマンへの
サービスで、私抜きで何枚かの写真を撮ったときの会話がそれである。
ついでにいうと、彼女と撮影がてら訪れたジョージア州で1番人気の観光名所、ストーンマウンテン・パークで南北戦争以前の ログハウスを見たのが、八ケ岳に山小舎を建てた時、ログにこだわる理由になった。大昔の建て物なのにまだ人が 住めるほどだった。この経験から、八ケ岳の風雪に耐えられるのはログしかないと直感した。大正解で、周りの山荘は手入れの工事 をしている中で、10数年たったいまにいたるも、一度も大工がはいったことがない。
わきにそれたが、カーターさんの話にもどると、まんざら知らない仲でもないから、彼がノーベル平和賞をもらったって異存はないところだが、
やはり違和感がある。
このしっくりこない感じは、いつだったか佐藤栄作・元首相がノーベル平和賞をもらったときと同じだった。私はこの時、私邸で
取材にあたっていた。引退の記者会見で「新聞記者は出て行け。テレビは前に」
とやったあと、新聞とは疎遠になり、番記者も来なくなっていたが、この日は、久しぶりに記者団に
囲まれてご機嫌だった。応接室に通され(普段は玄関先)、ソファーに座らせてもらって、得意満面のコメントを書き取っていたが、
芝生の庭先には手入れされぬ蘭の鉢があふれていて、政治家というのはずいぶんもらうものだなと感心していたのを思い出す。
世間も「なんでこの人がノーベル平和賞?」といった受け取り方だった。で、調べた。わかったことは、平和賞と文学
賞にはロビイストの活動の力が大きいということだ。事前にパーティーを開いたりして売り込みに奔走する人がいる。
この時もある日本人の名前が挙がっていた。選ばれ方も
物理、化学、医学といった誰が見ても公平なものさしがあるのと違い、極めて政治的だ。カーター元大統領の受賞にあたり
ノルウェーのノーベル賞委員会ベルゲ委員長が「現在の米政権がイラクについてとっている立場への批判と見なさ
れるべきだ」というコメントを出しているのをみてもわかる。
シュヴァイツアー博士(第2回)、赤十字国際委員会、マザー・テレサといったわかりやすい人や団体も
あるが、いまだに平和への糸口もみつからないのにサダト・エジプト大統領とペギン・イスラエル首相(1978)、パレスチナの
アラファト議長とイスラエルのペレスとラビン首相(1994)という対立する2つの陣営など2度も同時受賞している。ダライ・ラマ14世、アウン・サン・スーチー(ミャンマー)、金大中・韓国大統領・・・歴代受賞者をみると極めて政治的だ。
文学賞もそうだ。川端康成が日本人ではじめて受賞したとき、国内では何の異存もなかったが、いったい何カ国で
理解されているか考えると首をかしげる人がでてきても不思議ではない。彼が自殺したとき、現場の逗子マリーナにあるマンションの
一角にいた。ヨットでしょっちゅう江ノ島からこのマリーナに入港していた。好きな防波堤に立ち、なぜ?と考え続けた。三島由紀夫の自決とどこかで似ているとは思ったが、凡人にはわからぬ深い淵だ。
報道では、ノーベル賞作家の自殺という言葉が氾濫した。そのときも、言語の壁、民族の壁がある文学に垣根のない
国際評価を下すその勇気の方に感心したものだ。戦後民主主義の落とし子、大江健三郎が受賞したとき、あのもって回った難解
な文章がどう理解されたのか不思議でならなかった。最有力候補に安部公房が挙げられた時もあった。理由のひとつに英訳がたくさん
出ていて海外の評価が高い、というよく分からないことがあげられていたが本人が亡くなって消えた。
そうこうしているうちに日本の文学自体が壊滅した。もともと私小説という「か弱い」土台の上に成り立っていただけに、世界に
通用する体力がなかった。
ノーベル賞の選考方法
物理学賞、化学賞それに1969年に新設された経済学賞は、スウェーデン王立科学アカデミーにより、生理学・医学賞はストックホルムにあるカロリンスカ研究所により、文学賞はスウェーデン・アカデミーにより、そして平和賞は、ノルウェーの国会によって選出された5名の委員会により選考・授与される。 授賞式は例年アルフレッド・ノーベルの命日である12月10日にストックホルムで(平和賞だけオスロ)授与される。
ノーベル賞の賞金額は前年のノーベル財団の財政状況により決められる。基金の運用益・利子の10%が基金の元金に加えられ、残りの額(90%)の25%が選考等に係わる経費、75%が賞金として5つの賞で均等に分けられ、経済学賞だけはスウェーデン中央銀行の基金から支払われる。理由は、この賞は正式には「アルフレッド・ノーベル記念経済学スウェーデン銀行賞」といい、アルフレッド・ノーベル自身が設置、遺贈したものではなく正確にはノーベル賞ではないので、他の賞と違ってノーベルの遺産から賞金は支出されていないが、選考方法や賞金額、授賞式などの諸行事は他の賞と同列に扱われている。ノーベル経済学賞の設置自体が間違いであったと考える人も多い。ノーベル家の一部の人達はこの賞をノーベル賞として認めていないだけではなくノーベルの名の使用にも抗議しているほど。
ノーベル文学賞はノーベルの遺言により「文学の分野においてもひとつの理念をもって創作してきたものの中で、最も傑出した作品を創作した」人に与えることを目的として制定されたものの、基準があいまいで、各国のペンクラブなどの推薦で候補者がえらばれることもあり、近年では「各国持ち回り受賞」の傾向が批判される。生存者のみ受賞できる。
第一回の時にはトルストイが現存していて有力候補とされていたが、その社会主義的傾向が「人類の進歩、発展、人道主義」と相容れないという理由から落選した。ボリス・パステルナーク、サルトルの二人は辞退するなどよく問題になる賞のひとつ。文学だけでなくチャーチルのように回想録が受賞したこともある。
ノーベル賞6部門のうち平和賞のみがノルウェー・オスロで授与される。スウェーデン人のノーベルが平和賞の選考だけノルウェーの国会に委ねた理由は定かではない。ノルウェー国会は選考委員5名を任命する。受賞候補者をこの選考委員会に推薦できるのは@ノルウェーの現役のノーベル委員会委員、国会議員および過去の経験者A各国の国会議員、閣僚、および列国議会同盟のメンバー B国際司法裁判所、国際仲裁裁判所のメンバーC常設国際平和局のエグゼクティブ・メンバー D国際法学会メンバー E現役の大学教授(法律、政治科学、歴史、哲学) F過去のノーベル平和賞受賞者ーーーで推薦資格が広範囲なのもロビイストが出てくる原因でもある。
平和賞も物議をかもすことが多い。ソ連のサハロフ博士やポーランドのワレサ「連帯」議長に対する平和賞では、当時のソビエト・ブロックの憤激をかった。同じく、ダライ・ラマへの平和賞授賞でも中国政府は激怒して国際社会に抗議したほど。いずれも正式に受賞している。
自然科学系の物理学賞、化学賞、医学・生理学賞の3つ以外は何かと問題が多いのがノーベル賞なのだ。

| 地方記者の思い出 |
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| ギャッといった話 |
| コロシの現場 |
| キャリアとの落差 |
| M記者ステレオを買う |
| 煙吹くジープ |
| 毎晩踏み切りでつかまるワケ |
| 交通事故の凄惨現場をみせるべし |
| 赤ちゃん取り違え事件ウラ話 |
| 鈴鹿トンネル火災事故 |
| ブン屋エレジー |
| たった一人で出した号外 |
| ストリップ小屋「ベッ世界」にて |
【 ギャッといった話 】
今もそうだが新人記者はまず地方支局に赴任する。これが大事な意味を持つ。まず世の中、社会というものの
仕組みを知るのだ。人に嫌われずに会話するコツも覚える。将来の血と肉となる大事な第一歩なのだ。
私は大阪本社の一室に呼ばれた。編集局次長が正面にいて「大津支局」と辞令を渡された。後年私たち夫婦の仲人を務めてもらう
ことになるのだが、このときは編集幹部と新人でしかない。ほう大津かとにんまりした。私は学生時代、小樽の祝津という漁村でヨットに乗っていた。琵琶湖でまた乗れるなと思ったから「ありがとうございます。ヨットの腕を磨いてきます」といった。編集局次長はけげんな顔で書類の控えを見ている。「すまん、すまん、津や」
三重県の津には行ったことがない。どう行くんですか?というと「国鉄で名古屋に出るんや、そこから近鉄やな」。そのつもりでいたら、デスクが「あほか、上六から津まで直通が出とるわ」という。でも局次長が名古屋と・・・それほど認識が薄い県庁所在地である。
津では私は7年ぶりに来た新人だった。「下宿探さんでええ」という。社でめんどうみてくれるのか、しばらくぶりの新人で
大事にしてくれるんだと思ったら違った。
毎日2段ベッドの上で暮らせということなのだ。下は正規の宿直記者が寝る。上の新人は1時間ごとに県下10数の警察に警戒の電話を入れねばならない。
県版締め切りは午後9時半だが本版は午前1時くらいまであるからずっと電話取材が続く。朝は7時には県下各警察にまた電話だ。
この間写真の現像と焼付け電送と山のような仕事。寝る間もない。第一プライベートな時間というものが皆無だ。
先輩記者が「飛び込みやな。ちょっと行ってこいや」。終電間じかの近鉄電車で飛び込み自殺があったらしいという。
現場の踏み切りに着くと我が社が一番乗り。
警官が2、3人いて「早いな。ちょっと手伝ってくれへんか」とカンテラを持たされた。線路脇沿い、こっちの方を歩いて遺留品を探してくれという。
2、30メートル歩いたところで「ギャッ」とカンテラを放り出した。線路脇の側溝にこっちを向いた生首が座っていたのだ。
最後まで他社は誰も来なかった。新人訓練でマグロ(死体)を見せるためだけに現場を踏まされたのだ。確かに私はそれまでの人生で
死人を見たことがなかった。親戚含めて死んだのは皆無だった。2、3日うなされたが慣れた。次の日からさらに死人を見る毎日だから。
【コロシの現場】
1週間もたたないうち早くも、コロシの現場だ。ナタによる殺人事件だったが、大都市と違って現場にどんどん入れる。ナタがころ
がった傍で取り押さえられた犯人がまだいるようなところで、犯人に「あんた名前は」と聞くわけにもいかずおろおろした。
血の海から足型を取り、ナタの柄から指紋を取る、証拠第一主義の現代の捜査を目の当たりにする。
犯人は所轄署に連れて行かれ、鉄格子が付いた取調室で刑事が調べる。
警察署内の留置場とはどういうところなのか、
看守の警察官の仕事はどんなものか、取り調べはどんな風に行われるのか。
弁録、調書とはどういうものか。司法警察官というのは何をするのか。つぶさに見聞きする。
犯人は逮捕後72時間以内に地方検察庁に送られる。あとは拘置所に入れられ地方裁判所で裁判を待つ身となる。
ここで検事の役目はなにか。地方裁判所ではどう審理が進むのか。
弁護士はどういう形で弁護するのか。裁判の傍聴で弁護士と検事の争い方を知り、執行猶予とはどんなもので、起訴猶予
と不起訴の違いを知る。
これらの場所がみな支局の200メートル以内の範囲にある。つまり警察から検察、裁判の流れがみな目前で行われる。
新聞記者は一人の犯人を見ているだけで、彼が刑務所に入るまでのすべてを知ることが出来る。後に大都会に行っても、
場所が離れるが同じ段取りだ。これで世の中の仕組みを学ぶのだ。
警察ばかりではない。市役所、県庁を通して行政の流れと問題点を知る。海の向こうからの石油や綿花の
陸揚げを見ているだけで経済の仕組みが分かる。造船所で船が進水するのを見るだけで、韓国に押されはじめた世界の潮流が
見えてくる。小さくコンパクトにまとまったかたちで世の中の仕組みを知るのだ。
【 キャリアとの落差 】
いまキャリアと呼ばれる存在が問題になっている。国家公務員上級職試験は知っていても詳しくは知らない人が大半だろう。
その落差がどれほどすごいか、私も始めて目(ま)の当たりにした時は驚いた。一般企業や新聞社にも本社採用と地方採用など
ハンディキャップがあるのはザラだが、そんな生易しいものではない。
県警で本部長につぐbQは警務部長だが、異動があった。新任の人物が中央から赴任してきた。その日、駅頭には県警の
ブラスバンドが出迎えていた。29歳
前後の新任警務部長の後ろには、はじめての子どもだという臨月のおなかの夫人が付き従っていた。敬礼で出迎えた刑事部長
はあと2年で定年だ。
大蔵省(当時)に入省したキャリアはやはり28歳くらいで、全国のなかでもいくつかの選ばれた税務署に署長として
赴任するが、自分の親父ぐらいの年齢の幹部がつきっきりで世話をする。キズをつけないで2年後本庁に帰すのが仕事だ。
キャリアとはどういうものか具体的に知る。おかしいが、一地方都市で告発してどうなるものでもない。
ジレンマもまた体験するのだ。
【M記者ステレオを買う】
地方支局では他社の記者と仲良くなる。このときの仲間とは今も付き合いがあり、賀状の多くが地方からのものだ。「競争相手と
仲良くなるんですか」と不思議がる
人がいるが、考えればあたり前で、県庁、県警、市役所どこに行っても自社は己一人で、あとは他社ばかりである。必然そうなるのだ。
M新聞にM記者がいた。本社管内で異動するのが多いのだがM新聞とNHKは全国規模で動く。M記者の前任地は青森だった。
新人が来ると「ヘッペの佃煮」を買いに行かされる話をよくしていた。その彼が私も詰めている県警記者クラブに出入りの牛乳屋のおねえさんに恋をした。仲を取り持ってやったが失恋した。
服装に無頓着な男で、背広の上着のポケットになんでもつっこむ癖がある。破れて片側がヒラヒラしているようなのを平気で着ていた。大事な原稿を
ばらまきながら歩くので、拾った県警の職員が黙っていてもまっすぐ彼に届けにくるほどだ。これが彼女に嫌われた。
その痛手をステレオにぶつけた。高価な一台を買ったから来てくれというので下宿に行った。
盤を買う金がないので試聴盤しかないというのを二人で聴いた。コロンビアトップ・ライトが「私の声が左から聞こえますでしょうか」「私の声が右から聞こえますでしょうか」というのと、ジェットコースターが右から左に走り去る音が入ったものを1時間聴かされた。
【 煙吹くジープ 】
我が支局にジープが配属された。ジープはこのころまだ一般名詞で、まもなく登録商標になり、ランクルとか会社ごとの名前で呼ぶか4WDとか言い換えねばならなくなったが、ジープのお守りを近くの伊勢神宮にもらいに行くことになった。後述するが、私はインチキで単車の免許を取ったばかりで乗用車の免許はない。M記者が運転してくれるという。道中半ばでクルマが煙を噴きだした。新車なのにおかしいなと降りてみるとドラムが赤く焼けている。トラックの運転手が寄ってきて「サイドブレーキがかかったままやないか」。あわてて二人で小用をかけて冷やしにかかったがこれがいけなかった。サビが出た。
翌日、A新聞のH記者が「オレが調子を見てやる」と近くの海岸に出かけた。砂浜の波打ち際を疾走して大丈夫だ、と帰ってきた。だが、塩水がはいってサビに輪をかけた。このクルマ、数千キロでガタガタになった。名古屋にいる彼とは今も交流がある。
【 毎晩踏み切りでつかまるワケ 】
このころ新人記者でクルマの免許を持っているものなどごくごく少なかった。
私は四つ輪どころか単車の免許もなかった。現場に行くのにいちいちタクシーでは
高くついてかなわない。第一、一日に駅まで何往復もする必要があった。
新人はバック便といってドンゴロスの袋に「XXX新聞社」と書いてあるのが私鉄の駅に着くのを
毎日取りに行ったり、出しに行ったりしなければならない。本社と支局を往復する連絡便だ。こちらからは少し時間の余裕がある原稿とか写真、本社デスクへの
連絡などが入っている。本社からは原稿用紙や鉛筆や各県版共通企画書などやはり連絡書類が入っている。バック便は新聞社の数だけ
ある。車掌があずかって行き来する。
単車に乗れない新人など使い物にならない。ある日デスクに呼ばれた。あす近くの小学校に行けという。
交通教室が開かれているからそこで交通課長に会え、話は通じているという。当日行くと交通教室は終わっていてスクーターが
置いてある。「乗ったことある?」というから自転車以外ないと告げると、困った顔をしたが校庭に書いてある
白線の上を走ってみろといわれた。なんと臨時の運転試験だ。やったことないからクランクなど当然脱輪だ。みな横を向いている。
なのに2、3日したら立派な原付自転車の免許証をくれた。
夜遅く単車で下宿に戻るとき、踏切で警官にピピーツと笛で止められた。社名をみて放免してくれた。だが翌日も、しばらく置いてまた。1週間に3回つかまった。
さすがに頭にきた。「なんか恨みでもあるのか」と文句を言ったら、しげしげと見て「あんた踏み切りの一旦停車を知らないの?」といわれた。
交通法規抜きでもらった免許証だから大きなことは言えない。あわててハンドブックを読み直した。
その後法改正で免許証の方が勝手に”出世”して、いまや押しも押されぬ「自動二輪」免許だ。若者があこがれてもなかなか取れない1200
以上のハーレーダビッドソンだって乗れる。なのに遠慮しているのはいきさつがそうしたことだからだ。時効だと思って書いた。
【 交通事故の凄惨現場をみせるべし 】
交通事故による死亡記事は今ではよほどのことでない限りニュースにならない。しかし、地方支局では少し前まで
、死亡者が出た交通事故は、なるべく現場を踏み、記事を書くことになっていた。だから凄惨な事故現場を数多く見た。このときの経験でいうのだが、
交通事故キャンペーンでは、むしろむごたらしい現場写真を見せた方がいいのではないか、と思っている。また、人をはねた女性ドライバーが
怖がってしまい、倒れている被害者を触ろうともせず、泣き叫んでいるところも見た。"加害者教育"も必要ではないかと思う。
助手席のフロントボードに前歯が全部刺さっているのを見たことがある。被害者は死ななかったが、一瞬のうちに
全部の抜歯手術を受けたようなものだ。
鉄骨を積んだトラックに追突した男性は、のどからささったのが後部座席を突き破り、自分はハンドル持ったまま宙吊りになって死んでいた。
夏、トラックの運転手が右手を窓の外に出したまま片手運転していて、対向のトラックと接触して腕の付け根から持っていかれた。
このときは1か月に2度も同じ事故があったのだが、もう一件は自分で拾って病院までまた片手運転した。不思議に出血が少なくて
2件とも助かった。
後年社会部のとき見たのだが、20歳未満の男女数人が乗ったスポーツカーが大阪の御堂筋でトラックと激突した。トラックの後輪は2輪ずつ
連結になっているが、その10数センチの間に男女4人が入っていると聞いたときはにわかには信じられなかった。車軸から衣類をはがしてみて
人数がわかった。脳漿が搾り出されて、せんべいのような頭蓋骨が散らばっていた。明け方の事故だったが、中の一人の
少女は直前声をかけられて乗ってきたもので10日以上たっても身許が分からなかった。
何十年立った今でも、トンネルの中で対向車とすれ違ったり、鉄骨を積んだトラックが前にいると、こうしたシーンが突如よみがえりスピードを
落とす。車庫にクルマを入れようとして幼い我が娘をひき殺した父親は、泣きながら自分の頭を自分の手で殴り続けていた。私はバックにギアを
入れるたびにこのシーンを思い起こし、サイドミラーをもう一度覗く。
交通標語を唱えるだけではダメだ。残酷だから、見るに耐えないから、と現場写真は調書の中だけで使われる。だが、恐怖のありのままを
見せた方がよほど実学になると思うがどうだろうか。
【 赤ちゃん取り違え事件ウラ話 】
今では、赤ちゃん取り違え事件というと沖縄で起きたケースを指すことが多い。1995年出版された
「ねじれた絆」−赤ちゃん取り違え事件の十七年(奥野修司著、文芸春秋社)という作品があるからだ。
しかし、我が国最初の「赤ちゃん取り違え事件」そのものは、これより以前に三重県で起きている。それも立て続けに2件も。
2件とも私がいた四日市通信部の管内で起きた。あわや特オチ(特ダネの逆で、自社だけ記事にできないケース)
という事件だった。
このあたりは中日新聞が強い。この新聞社の四日市支局の特ダネがなぜ特ダネにならなかったか、彼らはずっと腑に落ちなかった
かもしれない。もう時効だろうから書くことにする。
事件は昭和42年(1967)7月29日、四日市にある塩浜病院で、ついで8月6日少し山側に入った員弁郡の員弁厚生病院で起きた。現在、どこの病院も生まれたばかりの赤ちゃんの足にタグがついているが、
それはこの事件の反省からで、それまでは、そんなことは起こるはずがないという前提で、産院では似たような赤ちゃんが並んで寝ていたものだ。
同じような日時に生まれた赤ちゃんを取り違える可能性はあった。これ以前にもあった、と思う。ただ表面に出なかっただけのことだと今も思う。
員弁郡の事件の場合、気がついたときは退院してかなり時間がたっていた(2、3歳だったか)。もう我が子として愛情が定着しているときでより深刻
だった。
夜の10時ごろだったが突然本社地方部から電話。「こんな原稿が流れているんだがどうなんだ」という。このころはファックスもないので読んでもらった。
仰天した。完全な特オチだ。寝耳に水とはこのことで、冷や汗が流れた。とりあえず「確認しますから10分待ってください」というと、即座に塩浜病院に電話を
入れた。事務員は口ごもるばかりで認めたがらないがどうやら事実らしい。院長宅に電話してカマをかけた。「それぞれの家族は怒っているだろうが、
いまどこにいるのか」と。うまくひっかかってくれた。こちらはすべて知っていると思ったようで必要なことはメモできた。すべて事実だった。
この地方に来る版の締め切りは午後9時30分。もう過ぎている。最終版まで(13−15版)の原稿をほとんど勧進帳(下書きなしで、しゃべりながら
原稿をつくる)で送って考えた。このままでは名古屋印刷の社の管内では特ダネになる。で、前任地から一緒で親しくしているA新聞のH記者に電話した。
案の定、彼も知らない。今送ったばかりの勧進帳の原稿を読んでやると「ゲッ」と叫んで、私と同じように確認するため急いで電話を切った。
翌日、特ダネを書いた記者は息をのんだと思う。特ダネを信じて紙面を開いたら、叩き込んだ気配(見出しや原稿内容でわかる)濃厚ながら、他紙に
も掲載されていたのだから。
タネあかしをしておく。当時ブロック紙(北海道新聞、中日新聞、西日本新聞)は協定を結んでいた。特別回線で結んで、特ダネなども互いに流しあって
いた。だが、このころは一般回線を使うことが多く、ほとんど有名無実化していて回線は死んだも同然だった。このブロック紙提携に我が社も昔参加して
いた時代があったのだが、特ダネを送るのにこの特別回線を使ったため、途中にぶら下がっている我が社の漢テレ(漢字テレタイプ)も動いたのだ。
まもなくこの回線は切断されたというから、気がついたのだろう。
塩浜病院(四日市喘息で有名なところだがその後建替えられたようだ)での取り違え事件は私が抜かれたのだが、1週間後の員弁厚生病院は私の後任が抜かれた。
実はこのときすでに本社への転勤の内示を受けていた。8月1日付けで異動したあと、後任がまだ来ないとき同じような赤ちゃん取り違え事件が起きたのだ。後の事件のときは
私は堺の大魚夜市(おおうおよいち)でタコをゆでたので一杯やっていて、傍観者として事件を知った。これがきっかけとなり、この年全国で4件の赤ちゃん取り違え事件が起きている。
この事件以来、雑学の重要性というか、新聞記者にとって「浅く広く知ること」の大切さを思い知った。いまなら赤ちゃん取り違え事件となるとDNA鑑定だろうが、このころは血液型鑑定
しかなかった。血液型判定にもいろいろあるが、このとき必要とされたのは、高校の生物の時間に習う程度のことなのだが、もし病院長に電話したとき、私が血液型について無知で、この2組の親子の間に親子関係が
成り立たない理由を根掘り葉掘り聞き始めたらどうなったろうかと思う。夜中の電話でさえ嫌気がさしているのに、翌日から展開するだろう社会的責任追及の声に対処せざるを得ないとき、記者に血液型の
授業をするとなると、いい加減にしてくれ、となっただろう。事実、翌日、記者クラブで高校で生物を取らなかった何社かの記者に図上演習をしたくらいだから。
両親と赤ちゃんの血液型を聞けば親子関係が成立しないことが瞬時にわかるケースもあるが、もし仮に親にAB型がいるとあらゆる血液型が考えられる。このときも確か片方の
親子は「あってもおかしくない」ケースだった。事件は不幸だが、判定が成り立つケースだったのは幸運でもあった。
その後も「何のために勉強するのかわからない」とすねる出来の悪い生徒に出会うと、このときの経験と、台風などのとき起きるフェーン現象でその土地の気温が何度上昇するか計算できることを教える。学問の面白さ
に気づくのは、人それぞれで、入り口もまたそれぞれなのだ。八ヶ岳で山を越えてくる低気圧で、今日は何度気温が上がるかぐらいのことは、今なら気象予報士の試験にでる程度のことだが、観天望気とともに
何でも役立つものなのだ。知識の断片より、ものの考え方を教わることが、もっと大事だということは自分で会得するしかないのだが。
ブン屋はしょっちゅう特ダネ競争している、というイメージはNHKの「事件記者」で定着したことだろうが、そんなことはない。その後も親しく付き合っているのは他社の記者が多い。 現に年賀状を書く相手は自社より多いくらいだ。記者クラブを渡り歩いていると相手記者の方が数は多いに決まっている。
先の特ダネにしそこなった新聞社の連中も賀状の中にいる。もっともタネ明かしするのは今回がはじめてだが。
向こうは支局、こちらは通信部で、私は1人なのに対し向こうは10人以上という差はあるが、普段は行き来していて向こうの坊や(アルバイト)にこっちの写真を焼いてもらったりしていた。
その後この支局がボヤを出したとき、電話も暗室も使えなくなった。すぐ近く(2、30メートル)が我が通信部なので、まるごとあちらさんに明け渡して私は飲みに行ってしまった。こうしておけば人情として特オチ
はないではないか。
このときの記者の妹は我が社の支局のパンチャー(漢字テレタイプを打つタイピスト)になり、支局にいた私の同期生と結婚した。H記者夫人は四日市市長秘書だ。
47年前の「赤ちゃん取り違え」認定、賠償請求は棄却男性は損害賠償が目的ではなく、取り違えの事実を認めてもらうための裁判だったから「勝訴」だが、47年間の歳月はどうしようもない。当の産院は廃業していて資料も散逸している。しかも直前、個人情報保護法が施行されたばかりに、同じ年齢の男性を探そうにも閲覧もままならぬ。個人で資料を探すほかはないがほとんど不可能だ。悲劇としかいいようがない。 外部からは「産みの親より育ての親」などと無責任に言う。幸いなことに「育ての親を大事に思っている」という男性のコメントに救われるが、当人のルーツ探しの希望を阻むことなど誰にも出来ない。
DNA鑑定の結果、育ててくれた夫婦が本当の親ではないとわかった男性(47)が、この夫婦とともに、「産院で他人の子供と取り違えられ、精神的苦痛を受けた」として、産院を運営していた東京都に計3億円の損害賠償を求めた訴訟の判決が27日、東京地裁であった。
水野有子裁判官は、取り違えがあったことを認めたが、不法行為から20年たつと賠償請求権が自動的に消滅する民法の「除斥期間」を適用して請求は棄却した。
この訴訟で、都は「医師や看護婦、両親が取り違えに気づかないことはあり得ない」と主張したが、判決は、血液型やDNA鑑定の結果から、新生児室での取り違えを認定。その上で、「原告らの損害は、真実の子を育てる機会を奪われ、また、真実の親との関係を一方的に断ち切られる重大なもの」としたが、除斥期間を適用し、請求権は消滅していると判断した。
男性は1958年4月に都立墨田産院(88年に閉鎖)で生まれ、夫婦の長男として育てられた。しかし、97年に血液型が合わないことに気づいた男性と夫婦がDNA鑑定を受けた結果、昨年5月に「男性は夫婦の子供ではない」との結果が出たため、提訴した。
判決後、男性は東京・霞が関で会見し、「判決は残念だが、取り違えが認められたのは一歩前進だ」と、淡々と語った。男性は、墨田区役所で住民基本台帳を閲覧して、誕生日の近い人を調べ、直接訪ねたり、電話をかけたりして、本当の親を捜し続けている。
裁判の結果について、石原知事は定例会見で、「時効なんだろうけど、当人が納得できる問題ではない。都が所有する資料は開示する」と、親捜しには協力する姿勢を示した。
(2005年5月28日 読売新聞)
三重県の事件では確か両家族が同じ旅館で生活することからはじめたと思う。その後を知りたい気持ちもあるが、今では個人情報保護法でほとんど接触は不可能だろう。
【 鈴鹿トンネル火災事故 】
四日市通信部にいる間にもうひとつ”わが国初”の事故を取材した。「鈴鹿トンネル内車両火災」である。
”初の事件・事故”というのはたくさんの教訓を残す。現在高速道はいうに及ばずあらゆる長大トンネルに入る手前に信号機があるのも、数十メートルおきに
どちらの出口が近いかの表示があるのも、非常電話が設置されているのも、すべてこの事故と昭和54年の静岡県・日本坂トンネルの火災事故(文末にメモ)
での反省から生まれたものだ。後年、静岡支局長として赴任したのでつぶさにトンネル内を見る機会があったが、鈴鹿の事故の教訓をもっと早く生かせたの
ではないかと思った。
出火した大型トラックの運転手と助手は対向車のタンクローリーから粉末消火器を借りたが、使い方を知らずモタモタしている間に燃え広がった。
さらに火災を知らずにトンネル内に入ってきたクルマがつぎつぎ立ち往生し、これに引火した。死者は出なかったが結局車両12台に延焼し、負傷者2名を出した。
※メモ 鈴鹿トンネル火災事故
昭和42年(1967年)3月6日午前5時頃、国道1号線の三重県と滋賀県の県境にある鈴鹿トンネル(全長2446メートル)で起きた。三重県関町側
入口から31メートル入った地点で、滋賀県側へ向かっていた大型トラックの運転席下部のエンジン部から出火し、運転席を焼き、次いで積載物の
スチロール製アイスクリーム容器や段ボール箱に燃え移った。
我が国最初のトンネル内火災の教訓はいろいろある。
現場が県境の山中で、電話などの通報設備がなく、消防隊の到着まで1時間前後かかり、猛烈な噴煙と熱気が煙道化した
トンネル内に充満した。消防隊は呼吸保護器や耐熱服の装備が充分でなく、内部に進入できずその間燃えるに任せたため本格的な消火作業に取りかかるまで5時間を要した。
鈴鹿トンネルは鈴鹿山脈の南端に位置し、山脈を東西に貫く。トンネルのほぼ中央部に位置する
安楽峠が県境で、三重県と滋賀県を結び、中京と京阪神の2大経済圏を結ぶ大動脈だ。鎌倉時代に鎌倉と京を結ぶ街道として発達した東海道は、
江戸時代の東海道53次と呼ばれた時を経て、現在の国道1号線にいたるまでほぼ同じルートを走っている。
管内といっても距離は相当離れていた。火災の発生は消防とほぼ同時にメディアは知るようになっている。私も現場に駆けつけるのにそう時間はかからなかったが、
中がどうなっているのか皆目見当がつかなかった。「本記」(記事の根幹部分。発生時刻、運転手の名前、被害の規模など)は消防の発表もあるから書ける。
雑感記事(これなら”恐怖の表情で語った”式のもの)と写真がむずかしいケースだ。運転手たちはみな脱出しているのだが、前の連中から「逃げろ!」といわれて引き返しただけで全体を把握している者は
いない。そのうち「まだ中に取り残されている」というデマを口走る者も出てきて混乱に輪をかける。火災は中だから、外部からの写真はトンネルの入り口から立ち上る黒煙の光景ただ1種類。
最大の難問は山の中で電話がない。つまり送稿手段がないのだ。
離れた民家から支局に連絡を取ると、トンネルの反対側に大津支局や本社の社会部がいて無線機を持っているから、そちらに行けとのこと。県境の向こうは滋賀県甲賀郡土山町だ。
山越えして合流すると山中のこととて無線が途切れてうまく
つながらない。遠くの民家まで歩いて電話を借りるほかない。写真撮影にセスナ機が飛来したが降りられないから使い物にならない。撮影フィルムを託すため「ヘリをよこせ」と連絡すると、
現場に臨時の簡易ヘリポートをつくれという。
広場を確保してOKをだすと下りてきた我が社のヘリがローターで周りの茶畑を根こそぎ吹き上げたり、切断したりして補償交渉する羽目に。原稿より
他の雑用の方が多いくらいだ。
翌日だったか3日目だったか、ほぼ鎮火したというので撮影のためトンネルに入ることになった。壁面が落下する危険があるような場所に今なら消防が許可しないだろうが、このときは自己責任
でOKだった。冒頭にあるように現場は三重県側、つまり私の持ち場から30メートルほど入ったところだ。臆病な社もいて、そいつのカメラともう1台テレビ局のカメラ、計3台を持って私が入った。
懐中電灯で確かめつつ行くと猛烈に熱い。鎮火したといっても汗が吹きだし滴るほどの熱気だ。大急ぎでトラックの残骸をフラッシュをたいてカメラ3台分撮影して脱出した。
ところがこの写真、撮影できていなかった。カメラに詳しい人なら分かるだろうが、肉眼で見えても、空気中の浮遊物にフラッシュ光が反射してみな煙にしか写らないのだ。
※メモ 東名高速道路日本坂トンネル火災
昭和54年(1979年)7月11日午後6時38分、静岡市と焼津市の境界の東名高速・日本坂トンネル内下り車線焼津側出口から480メートルで、
大型トラックと乗用車の計5台が玉突き衝突、燃料のガソリンに引火し、トラック積荷の合成樹脂、揮発性油が炎上。トンネル内の車両189台が焼失、
死者7人、負傷者2人を出し発生から160時間後にようやく鎮火した。これも後続車が次々トンネル内に進入して事故を大きくした。
【 ブン屋エレジー 】
地方記者暮らし3年余だったが、今思っても楽しい思い出で、こうしていくらでも書くことがあるほどだ。
支局勤務は役者の地方公演をまねて「ドサまわり」というが、みな一国一城の主の気分だ。自分でボツと決めたら、その
地方にはそのニュースはなかったことになるのだ。ニュースの生殺与奪の権を握っているかのような高揚した気分に浸るが、実際は
逆でいつも県版のニュースは枯渇していて、何でもいいから書け、に近い。
各社の若手ばかりでよく酒を飲んだ。飲み屋のツケがボーナスを上回ることも珍しくなかったが、酔うと出る歌で今も歌えるのがある。
「ブン屋の戯れ言」の冒頭で「新聞記者も人の子よ・・・カエルの孫ではないわいな」というのを紹介したが、これは社会部編だ。題などついてない
戯れ唄だが「ブン屋エレジー」とでもいおうか。
「特ダネ書けとデスクは言うが、書けば警察署長さんが困る、だけどおいらは書かねばならぬ、今日も行く行くサツまわり、ドコズンドコ ズンドコ」
という歌など、社は違っても全員歌えたから、それぞれの新聞社で伝承されているようだ。
「ケイサツ ショッチョウサン」と寸詰まりのところも共通で、作者不詳ながら元唄をつくった記者の能力の限界を感じさせておかしい。
後年東京に出たら、政治部の記者が政治部編を歌っていた。「今日は赤坂・新橋あたり、料亭めぐりの聞こえはよいが、知っているのは道順ばかり、
今日も張り込む門の前、ドコズンドコ ズンドコ」。運動部、文化部、経済部とみな替え歌があるのだと思う。
張り込み、というと大阪タクシー汚職で関谷某という代議士に司直の手が迫った時を思い出す。逮捕直前の緊急避難先に選んだ大阪キタの病院の塀の下で病室の
一点を見つめて一晩明かした。昭和42年のクリスマスイブだった。いまその息子が代議士になり、大臣になった。消息を聞くたびにこの寒い一夜を思い出す。
県警の刑事部長に呼ばれて「いい娘がいるんだが会ってみないか」といわれた。上の歌詞ではないが、嫁さんもらって特ダネとるか、
断って特オチとるか悩んだ。幸い直後に、支局よりさらに先の通信部に異動を命じられ、事なきを
得た。警察官でないにしろ、地方の名士に言われて嫁さんをもらった記者を何人も知っている。私も事と次第では今のカミさんと違ってたかもしれない。
【 たった一人で出した号外 】
新聞は今もよく号外を出す。新聞社にとってはまったく利益を生まないサービスだけのものだ。近ごろでは「号外収集マニア」と
いった人も増えて、出したと聞くと翌日から「もらい損ねた。1部わけてほしい」という電話がかかる。無料だけど、社内にも残
部数などないから希望に添えないことが多い。マニアの間では結構な値段がついたりするらしい。
もともとは編集締め切りのあとに起こった大事件をフォローするためにあった。インターネットもなくテレビの速報もない
時代、例えば午後1時前後の締め切り後に大きな事件があったとする。翌朝届けられる朝刊まで読者に知らせる術(すべ)はない。この長い空白を埋めるためにあった。今では事件の大きさと、ニュースに取り組む新聞社の姿勢を見てもらうために出すようなものだ。現代ではニュースは即時に広まる。買い物か遊びかで外出していて、テレビもインターネットも見てなかった人は号外を見て驚くだろうが、かなりの人間はすでに号外に書かれている内容を知っているというのが、現代の号外の特徴かも知れない。
この号外を一人で作って、一人で発行したという経験を持つのは、世に新聞記者は多かろうがまず他にいないと思う。私はそれをやったことがある。
これも四日市通信部の時だ。A紙のH記者と蔵王にスキーに行く約束をしていたから昭和40年11月だと思うが、平田佐矩四日市市長が急死した。
この人はもともと地元の平田紡績の社長から転進した「糸偏(いとへん)」関係だった。今でこそ紡績は斜陽産業だが
「10大紡」という言葉があったほどだ。「10大紡」のほとんどは四日市に工場を持っていた。輸入綿花の陸揚げ港が四日市港で、効率からその
後背地に紡績工場を作っていた。いまなら石油コンビナートの方が有名だが、地場産業としては紡績の方が主だった。高級料亭を思わせる
接待用の立派な迎賓館を持っている社もあったほどだ。
この市長は、太平洋と日本海を結ぶ大運河計画をぶち上げた名物市長だった。
伊勢湾より揖斐川を北上し姉川経由で琵琶湖に出、塩津浜より敦賀にむけて開鑿するというもので、関係は五県三市(愛知・岐阜・三重・滋賀・福井、
名古屋・敦賀・四日市)に及ぶ。潮位が違うのでパナマ運河のようなロックゲート方式で水位を調整して日本海と太平洋をつなぐという大構想で、
結成された建設期成同盟会の会長には自民党副総裁だった大野伴睦が就任していた。
定例の市長会見というと記者側からは四日市の公害問題。市長から出るのはこの運河の話ばかりだった。、いささかうんざりしていたが顔ぶれからすると
ひょっとすると出来るかもしれないとも思った。その名物市長の急死である。公選法の規定からクリスマス直前の選挙になる。大構想は頓挫するだろう
が、われわれのスキー旅行という大計画の方も一夜にして雲散霧消した。
H記者とぼやきながら市長選の取材をするうち、この旧弊に凝り固まった市が新生するチャンスだと思えた。2期6年目で次も出るだろうカリスマ市長
だったから、どの陣営も候補者など考えてもいない。タマ(候補者)不足はみな共通だった。そのうち青年会議所から九鬼紋十郎が出るという。皆に
推されてという形だった。若いのが何よりだ。我々の市政記者クラブから「四日市のケネディー」というキャッチフレーズもつけてもらっての選挙となっ
た。
ここで号外の話になる。読売と我が社は大阪印刷だが他社はほとんど名古屋印刷である。即日開票だが、当確が打てるのは夜遅くになる。大阪印刷
の場合12版地区の締め切りは午後9時半。とても間に合わない。名古屋印刷の他社と伍するためには現地印刷の号外を出すほかない。町の印刷屋
と交渉して深夜作業を引き受けてくれるところを探す。有力2氏の当確の原稿を用意する。ともに同じ行数でそろえ、どちらがきてもいいように準備す
る。本社から厳重に管理されている新聞の題字の凸版も送られてきた。票数だけ入れればよいようにして開票を待った。九鬼氏の当選が決まると片
方の版下を捨て、得票を手拾いで入れて印刷する。これを朝刊にはさんで配るのだ。
これだけのことを入社2年目の若造が一人でやるのだ。私が数字ひとつ間違えばチェックするものはいないからそのまま出ることになる。さすがに
緊張したが、江戸時代の瓦版屋の原点に返ったようで痛快だった。最先端の印刷技術を持つのが新聞社の高速輪転機だが、一方ではこういうこと
もやる。そういえば、東西本社の屋上には伝書鳩の鳩舎があった。朝夕の運動で本社の上空を大きな輪を描いて飛んでいた。この時代ほとんど使
われなくなっていたが、現場が交通途絶ともなればまだ使われる余地はあった時代だ。
【 ストリップ小屋「ベッ世界」にて 】
新聞記者をしながらストリップ小屋で照明係をつとめたことがある。今はないのだろうが四日市にかって別世界というストリップ劇
場があった。看板などは「ベッ世界」となっていたように思うが、さだかではない。
出入りするようになったのはM新聞の「オイヅル」(生鶴だったか)記者の案内だった。大衆芸能が好きな先輩記者でストリップの文 化的位置づけについて滔々と話したが、要するに面白かったからだ。県下の映画館や興行、美術館などは立ち入り証が発行されていた ので木戸銭御免だったが、彼と行くと楽屋まで通してくれた。
耽美派の作家、永井荷風は浅草のストリップ小屋が好きで入り浸り、裸の踊り子の中にいるスナップ写真が数多く残されている。のち野坂昭如が 今では荷風の作と断定されている「四畳半襖の下張り」の出版をめぐってのワイセツ裁判の法廷に立っているが、この頃の警察はワイセツの取り 締まりに熱心だった。
踊り子はこれを逃れるため3週間くらいで次の小屋へ移る。岐阜と川崎と四日市をくるくる回っていた。荷風を気取っていたわけではないが楽屋 に出入りするうちに一人の踊り子と仲良くなり、といっても親しく口を利くといった程度だが、身の上話をするようになった。楽屋に連れてきて いるが3歳くらいの幼児がいて、舞台で照明係をしているのが亭主だという。
この世界で照明係は重要な仕事で、踊り子と阿吽の呼吸でやらねばならない。彼女の場合、照明係は2階席から曲に合わせて青や緑や黄色のカ ラーのセロファン板をまわしてスポットライトを当てて舞台を盛り上げる。警察官らしきのが客席にいるかどうかにも目を光らせて、それらしき ときには合図して御開帳を止めねばならない重要な役目だ。
着物姿であろうとドレス姿であろうと大体同じなのだが最初の2曲は「なんとなく」踊る。客席はそっぽ向いてるのが多い。ところが3曲目の後 半になるとよく知っている観客席は身を乗り出してくる。だいたい一番最後、例の「タブー」がかかるころがそうなのだが、全ストになる。
この時代、生板ショーなど過激なものはまだない、せいぜい着物にかけた手を滑らせた振りしてハラリと見せる程度だが、この瞬間に照明をフェー ドアウトするか、舞台の上の関係ない大道具、例えば植え込みなどに照明を振って見えなくする。でないと警察の手入れを食うことになる。現行 犯逮捕でないと立件できないから、会場に笛が響かなければ一安心ということになる。
親しくなって、ハネたあと、家族一緒に寿司屋に招待したりするようになった。亭主が風邪で倒れた時には照明係をまかされるまでになり、その うち楽屋の風呂に入れてもらうようにもなった。この世界、風呂は豪華なものが多い。化粧落としを兼ねているのかもしれないが楽屋の後ろにあ る五右衛門風呂は桧造りだった。背中を流してもらったこともある。子供と一緒に午後の一番風呂につかった。火を焚いているのは彼女の亭主。 不思議な体験だった。
毎晩警察署を回っているから、手入れ情報も知る。明日夜やるというので刑事の配置を決めているところに出くわした。かといって教えてやる わけにはいかない。子供の顔が浮かび、人のよさそうな病気がちの亭主の顔もちらついた。切なくなって出入りをやめた。

| 気になる裁判用語辞典 |
例えば、太宰治の情死のくだりなどで「玉川上水で入水自殺を遂げた」
という記述にいまだに出合う。「入水」(じゅすい)がすでに水死した意味だから、自殺の二重使用だ。
こういう誤用は、さすがに新聞は校閲制度がはたらいているから少ないが、テレビや週刊誌、雑誌ではしょっちゅう目にする。
テレビのテロップやフリップは同音異義語や変換ミスのオンパレードでアナウンサーがしょっちゅう謝っている。バイトがいいかげんに
ワープロを打つのをチェックする者がいないのだろう。
こういうのはマスコミ人の常識だろうが、時代のせいか増えてきた。もうひとつ、近ごろ誤用が気になって仕方がないのが裁判用語の間違いだ。
思いつく限り裁判用語を整理してみた。ブン屋の雑学といったところか。
「拘留」=刑の一種で30日未満。「20日の拘留に処せられる」などと使う。
「勾留」=捜査機関が捜査のため被疑者、被告人の身柄を拘束すること。「勾」が当用漢字にないので新聞では「拘置」と書かれる。
「勾留(拘置)理由開示」などと使われる。最大20日間勾留できる。
「監置」=法廷の秩序を乱した場合、裁判長が行う制裁。監置場に入れられる。秩序罰で刑罰ではない。
新聞で「勾留」と書くところを「拘留」と書く誤りが多い。
科料と過料には違いがある。
「科料」=軽い刑事罰。「科料に処せられる」
「過料」=軽い行政罰。「過料を取られる」
法令上の秩序を維持させるためや行政上の義務を履行させるために科されるもので、ともに前科にはならない。
刑罰は「科する」で、税金などは「課する」と書く。
主文
1 被告人を懲役3年6月に処する。
2 未決勾留日数中、60日を右刑に算入する。
3 この裁判確定の日から、5年間右刑の執行を猶予する。
量刑だけが注目されるのは仕方がないが、法廷では裁判長は上のようなことをいっている。
テレビなどでアナウンサーがよく「懲役3年6か月の判決」と読み上げている。まあ刑務所にいる期間だから間違いではないが、
法廷では「3年6月」(さんねんろくげつ)という読み方をする。新聞は活字の利点をいかして「3年6月」と書いていたりする。
読む方が機転を利かして「3年6か月」と読んでいるだけである。執行猶予は文字通りで釈放されることになる。
このあと裁判長が時には日曜も返上、延々時間をかけて書き上げた判決理由が
続くのだが法曹関係者しか注意していないことが多い。
たいていは主文から入るが死刑などの場合、判決理由が先で最後に主文がくることが多い。だから、裁判長が判決理由から読み始めたら「ああ死刑判決だな」
とわかる。
判決公判はおおむね午前10時開廷が多い。夕刊締め切りは最終版でも午後1時すぎ。時間がないことが多い。開廷直後に別室で判決理由書が各社1部ずつ
配布される。ベテラン記者が大急ぎで読み進む。この
長文の判決理由から新しい解釈、問題点を汲み取ってすばやく報道しなければならないので裁判所担当になると神経をすり減らす。
日本の刑罰は次の順で重くなる。
没収<科料<拘留<罰金<禁錮<懲役<死刑
禁錮刑(新聞表記では禁固刑)は受刑者を刑務所に収容する刑罰の一種で、懲役刑に次いで重い。懲役刑が受刑者に所定の作業を強制的
に行わせるのに対し、禁錮刑は本人が希望しなければ、作業に従事する必要はない。禁錮となる犯罪は限られていて、政治犯や交通事故犯、過失犯など。
軽微な違反で課せられる「反則金」と悪質な違反に課せられる「罰金」は違う。
罰金刑は反則金と違い前科扱いとなる重度な処分。禁固刑または懲役刑と同一線上に罰金刑がある。
「反則金」は支払いと同時に処理が終了する。
罰金相当の違反を犯した場合は、必ず刑事裁判を受けなければならない。一度検察庁に出頭し、違反した事実に関して
取り調べが行われ、のち刑事裁判を受ける。
刑事裁判といっても、違反した事実を認めた場合は刑事裁判を簡易で行う「略式裁判」を受けることが可能。略式裁判
とは被告人(違反を犯した人)が直接公判に出ることなく、書面上だけで簡易的に裁判を受ける制度。略式裁判に
応じれば後は自動的に判決が下されるのを待つ。通常、略式裁判で下される罰則は罰金刑。
たかが罰金刑と思うだろうがけっこう重罪扱いなのも知られていない。窃盗犯や傷害犯と同じ扱いで、各市町村にある
「犯罪者名簿」に掲載される。罰金刑なら5年間、禁固・懲役刑なら10年間掲載され、その間刑罰を受けなければ、「
犯罪者名簿」から削除され、前科はなくなる。
「代用監獄」とは
近年、代用監獄の問題が人権とのからみで問題になることが多い。代用監獄とは警察署の留置場のことだ。明治41年制定の監獄法に「警察官署に付属する留置場は之を監獄に代用することを得」と定められていることに依る。しかし平成17年制定された「刑事施設受刑者処遇法」で「監獄」の名称は「刑事施設」に改められたため、代用監獄は「代用刑事施設」(だいようけいじしせつ)と呼ばれるようになった。
刑事訴訟法では勾留を刑事施設においてすることと定め(第64条など)、同時に、刑事施設ニ於ケル刑事被告 人ノ収容等ニ関スル法律第2条には「警察官署ニ附属スル留置場ハ之ヲ刑事施設ニ代用スルコトヲ得」(警察官署 に付属する留置場を拘置所の代わりに用いることができる)という定めがあることから、被勾留者は留置場に収容 することができる。
被疑者(起訴前の被勾留者)の拘禁は、本来、拘置所で行われなければならないが数・収容力が限界にあるため に全ての被疑者を拘置所に収容することは不可能という事情があり、重大事件や経済事犯の被疑者を除き、ほと んどが刑事施設ではなく留置場で行われている。
拘置所では、取り調べに使える時間が決められているし、食事の時間も、決まった時間に決められている。しかし 留置場は警察署に近いか内部にあり、取り調べ時間も食事時間も、管理者である警察の自由になることから、 捜査に際しての利点が多いとされる。捜査機関自らが被疑者・被告人の身柄を確保し続けることは自白の強要に つながるものと考えられ、冤罪の温床として批判されたが、新法でも「代用刑事施設」の存続が決まった。
インテリほど拘束に弱い
被疑者の「留置」は通常で2泊3日。その後は「勾留」になる。鑑定留置や罪名が重なる場合、裁判所が必要と認め
れば10日ずつ伸ばすことができるものの、長くても21泊22日が限界で、それまでに釈放か、送致かを決めなけ
ればならない。起訴後は法務省管轄の拘置所に身柄を移さなければならない。
留置場では、ネクタイ、ベルトははずされる。留置所にはトイレが普通はないから、そのたびに「担当さん、 トイレをお願いします」と警察官に申告してゴム草履でトイレに行く。取り調べのため、検察庁や裁判所に 行くときは「腰縄手錠」のゴム草履姿。
素っ裸にされて身体検査を受け、肛門にガラス棒を入れられる「伝染病の検査」というのがある。やすりや麻薬を 持ち込まないようにチェックされる。インテリほどこの屈辱に耐えられず自供に追い込まれる。悠然と 出てきたのは田中角栄、鈴木宗男・・・などごく少数だとされる。
「勾留」期間中の3週間はノートも本も禁止、弁護士以外の接見禁止。1日20分ほどの「日光浴」と週2回、15分 の風呂。ドアに開いた小さな窓から看守が見ていて、壁に背をつけたり、横になっていると「正座しろ」と注意される。
午後7時から9時までは録音したNHKラジオが流れる。9時に点呼を終えてようやく布団を敷き消灯。朝は6時に 「点検用意!」の合図。看守がガチャガチャとドアを開けて、並ばされ「番号」の号令で大声で 点呼を受ける。
「公判」と「口頭弁論」
「公判」は民事裁判では使わない。「損害賠償請求訴訟の判決公判」というのは誤り。。
死刑執行は拘置所で行われる
![]() |
| 東京拘置所(東京・葛飾区小菅) |
無期懲役は10年ほどで仮釈放の道がある。死刑との格差が大きいのでその間に「終身刑」をつくろうという考えが出ている。
死刑の執行には法務大臣が判を押す。「私の在任中は一度も押さなかった」と自慢した大臣がいたが、おかしな話で、これで
は最高裁判所の上に「法務大臣」という司法の場を作ることになってしまう。
私は小菅の東京拘置所の中に入ったことがある。しかも「被告」として。というと完全に未決囚に思われるが、東京地裁の出張裁判が拘置所内で開かれた時の証 人尋問だった。未決囚としてこのとき中にいたのはロス疑惑事件の三浦和義被告(当時)で私はシャバにいた方なのだが、中に入ることとなった。 いきさつを説明すると、彼は拘置所で新聞を克明に読み、マスコミを名誉毀損で次々と訴えていた。正確な数は調べていないが、20や30はあったと思う。私はこの ときスポーツ紙の編集責任者として召喚された。三浦「被告」とはいうものの、この場では彼が原告で、被告は新聞社になる。
通常なら裁判は東京地裁で開かれるが、彼が訴えている件数はべらぼうに多い。まともにやっていたのでは小菅の東京拘置所と霞ヶ関の東京地裁の間を日に何回となく護送車で往復しなければならない。 その途中の警備も大変だ。それより裁判官と被告が出向いたほうが効率よく裁判を進展させることができる、というので東京地裁と東京拘置所が話し合ったのだと思 う。こうして私は得がたい体験をすることになった。
ホリエモンはじめ今も経済事犯や汚職事件で逮捕された社長や政治家がカメラのフラッシュを浴びながら出入りする時に写るあの門から某月某日入ることとなった。ちなみにあそこは正門ではなく面会門と呼ばれる。 取材だとクルマは中に入れないが正式の召喚状があるから乗ったまま入った。もっとも守衛のところで下車してあとは歩きだった。すこし右にまわった3階の講堂のようなところに案内された。「コの字」に並べられた 長机と椅子が臨時法廷ということで判事がすでに座っていた。原告と被告(私)が対峙するのかと思ったら、一人ずつ呼ばれて聞かれる。その間片方はエレベーターホールの狭い踊り場で待っている。臨時だから ピンポン台が積み上げられているようなところで、椅子もない。相手が呼ばれている間は埃にまみれたピンポン台を拭いて待っている。自分が呼ばれると、 腰縄つきの相手とここですれ違うことになる。
そううまいものは出ないはずだがめちゃめちゃといってよいほど太っていた。顔などプクプクだった。逮捕時の姿で世間も私もイメージは止まったままだから大いに驚いたものの、写真撮影は 許されていない。2007年住んでいる神奈川で万引き事件を起こして久しぶりにテレビでふっくらした姿を見たが、このときはムーンフェイスといってよいほどだったが写真もないのではどこにも書くことはできなかった。 多くのメディアともどもわが社も敗訴して100余万円払わされた。新聞記者には守秘義務がありニュースソースを明かすことができないため、どうしても裁判では不利になるのだ。
(追記) 日本の最高裁で無罪を勝ち取り自由の身になった三浦和義だが、2008年2月22日、旅行先のサイパンで妻、一美さん殺害容疑で米司法当局に逮捕された。27年前
の事件でロサンゼルス市警の逮捕状が生きていたという驚きの展開だが、この報道で、当時のマスコミ相手の訴訟は476件、取得した賠償金は数千万円にのぼることを知った。
さらに驚いたことにサイパンで法廷闘争7ヶ月のあと、ロスに身柄を送られたその夜、留置場で自殺した。美談の主ではじまった三浦和義とロス疑惑の一部始終を次のコーナー「ブン屋の世迷い言」の
「稀代のワルか、冤罪のヒーローか」でまとめた。
その後、東京拘置所は改築された。あの講堂のようなものも一緒に改装されたかどうか知らないが、収容棟は地上12階、地下2階、収容人員3000人の日本一の拘置所だ。刑場は地下1階にあり、上の写真からはわからない。
「判例」
テレビや新聞でも地裁段階で新判例といっているのがあるが間違い。最高裁判例は大法廷でなければ変更できず、下級審に
拘束力があるが地裁では「裁判例」「新判断」くらいで高裁、最高裁で初めて「判例」「新判例」と使う。
「告訴」と「告発」もよく間違う。
「告訴」は被害にあった本人など告訴権を持った者が捜査機関に申告して捜査、訴追するよう求める意思表示。巷では犯罪
事実を届けただけの「被害届け」の段階で告訴とやっていることが多い。
「告発」は犯罪と直接関係のない第三者が捜査や訴追を求めることをいう。
「起訴」というのは刑事事件で検事が公訴を提起することをさす。民事訴訟では訴えを起こすことを「起訴」とか「提訴」という。テレビで「損害賠償を求めて告訴しました」などとやっているのは間違いで、「損害賠償を求めて訴えた」とか「損害賠償を
請求」などとすべきケースだ。
「棄却」と「却下」
民事では「請求が理由なし」とする場合「棄却」という。「請求が訴訟要件を充たしていない」ときは「却下」だ。いわゆる「門前
払い」にあたる。
「弁護人」と「代理人」
刑事被告人を弁護する人を「弁護人」、民事裁判で当事者を代理して裁判活動を行う人を「代理人」、正確には原告(被告)訴訟
代理人という。ともに弁護士でないとなれないが「弁護士」は職業の呼び名。

| 飛騨川バス転落事故の話 |
このホームページを見た後輩の別府育郎記者から2004年5月末メールが来た。「ぜひあの話を上梓してほしい」という。
彼が入社したてのころ、私からよく聞かされた話だという。そのころ、深夜午前1時、2時という時間帯に缶ビールを
飲みながらデスクと若い記者たちとがソファーでダベりながら、ゲラ刷りがあがるのを待つのが常だった。たむろしているのは、
原稿を書いた本人たちとそれを見たデスクだ。責任上ゲラに目を通してからタクシーで帰宅する。その待ち時間の談笑だ。
「お前らはソファーに座るのは十年早い、とスチールの椅子に座らされた」と書いてきたが記憶にない。
缶詰のソーセージで飲んでいたというのはそのとおりだ。
彼が、あの話というのは「飛騨川バス転落事故」のことだ。バス事故としてはいまだに最大の死者数だ。個人的には、私のせいで出動が20分以上
遅れたこと。偶然だが、このとき現場に向かった社会部のデスク、記者、受けとして名古屋総局にいた記者の「ほとんど」が
その後夕刊フジが創刊されるときの「創刊メンバー」になったこと、この二つで思い出が深い。
最近では、イラクで日本人の死者が出たり、身許判別が困難なケースで「DNA鑑定で本人と断定」という記事を見るのだが、そのたびに「あのときDNA鑑
定があったらなあ」と、この事故を思い起こす。
![]() |
| この狭隘な山間で悲劇は起きた |
20分の遅れはまずクルマに影響した。自動車課にいうと、社のクルマの運転手は先ほど寝たばかりなので、他のクルマで行っ
てくれとのこと。乗ったのは社出入りのタクシー。
雨具や長靴をありったけトランクに積み込んでスタートした。名神高速を大津あたりまで走ったころ、タクシーメーターが一回りした。この
ころは4ケタ表示で「0000」というのを見て、個人でこんなに乗ることはもうなかろう、と妙な感心をした。
現場に着くと郵便局を押さえた。玄関にまず社旗を掲げるのだ。新聞社の
社旗があるところには他の新聞社は立ち入らないという不文律があった。というのは、このころは電話事情が悪くて本社に
かけるといっても今のように自動ではない。クロスバー方式
だからあちこち経由していく。交換手に言ってからだいぶ時間がたってつながったものだ。写真電送も電話機を使うから、まず電話が
何台もあって、民家より接続の優先順位が上、というと、役所関係になるのだが、そういうところを取材本部にするのが至上命令だった。
こういう雑務は若手記者の仕事だ。その夜の宿など考えない。どうせ仮眠しか出来ないのだから。
現場は混乱を極めていた。「バスの前に乗用車が2台いた」という目撃者が現われる。ここだというところに行って見ると、土砂の山が
川まで続いている。これはやられたに違いない、と勇躍「さらに新たな被害者の恐れ」という原稿を書くと、これがあとで誤報とわかる。
目撃者といっても正確なことを言うとはかぎらないのだ。
集中豪雨で立ち往生していた車列に、土石流が発生、観光バス2台が飛騨川へ転落
死者104人を出したわが国最大のバス事故。
バスの乗客は名古屋の会社が「乗鞍雲上ファミリーパーティ」と題して募集した、北アルプス乗鞍岳観光の一行だった。
名古屋市内の主婦とその家族を中心に730人が参加、バス15台に分乗していた。計画では、夜9時30分に犬山市の成田山に
集合し、乗鞍岳に向けて出発。バス内で睡眠をとり、翌日午前4時30分に山頂でご来光をよう拝した後、夕方に名古屋に帰るという
予定だった。
いったん目的地近くまで行ったものの、折からの豪雨で行く手に土砂崩れが発生したため、乗鞍岳の観光登山をあきらめて
引き返す途中、現場付近でさらに小規模な土砂崩れに見舞われた。現場には、バス、トラック、乗用車など約30台が、前後を
土石に阻まれ立ち往生していた。この車列にさらに大規模な土石流が襲いバス2台が飲み込まれた。
道路わきの山肌がゆるんで流れ出た岩石・土砂の量は、高さ100メートル、幅30メートル。そして、扇状
形に国道に流れ出て、路上を乗り越え、ガードレールをへし曲げたうえ、飛騨川に落ちた。土砂の量はダンプ
カー約250台分と推定されている。
※メモ 飛騨川バス転落事故
昭和43年(1968)8月18日午前2時11分、岐阜県加茂郡白川町地内の飛騨川沿いの国道41号で、豪雨のため立ち往生していたクルマ
の列に向け土砂崩れが発生、バス2台が川の中に押し流された。
バス2台が川に転落した現場
この時の奥美濃地方の時間雨量は149ミリという、岐阜地方気象台始まって以来のものすごいもの。新聞では時間雨量30ミリで
「バケツをひっくり返したような」と表現するから「バケツ5杯一度に・・・」というべきか。
当時の気象状況は、台風7号くずれの湿舌に、寒冷前線がゆっくりとした速さで南下。岐阜県中央部に達したのが17日夜
20時ごろと推定されている。郡上・益田・加茂郡内などに半径数キロといった小規模で発達した雷雲が、次々に発生し集中
豪雨をもたらしたと考えられている。現場近くの白川町三川小学校観測所では、17日23時からの1時間に100ミリの雨量を記
録している。
転落したバスからは、わずか3人が奇跡的に助かっただけであった。事故の第一報は、発生3時間半後に
転落から逃れたバスの運転手ら4人によってもたらされた。道路上にたい積した土砂を乗り越え、対岸の下山ダム事務所に
急を知らせ、事務所から上麻生発電所を通じ地元の加茂警察署に連絡された。加茂警察署に連絡が入ったのは、事故発生
後3時間29分後の午前5時40分ごろであった。直ちに県警本部に上げられ、広報を通じて各新聞社が知るから、私が 社会部
で第一報を受けたのにつき返したのは午前6時すぎだったのだろう。
救助活動は、当初は地元白川町の派出所員3人と加茂警察署の4人だけだったが、その後加茂署隣接4署や県警機動隊員、
自衛隊員、地元消防団員を中心にして大規模な救助活動が進められた。しかし、犠牲者の多くは濁流に流されていて
捜索範囲は岐阜・愛知・三重にまたがり、延々94キロメートル、飛騨川・木曽川水系と伊勢湾一帯というきわめて広い範囲
に及び捜索日数も長期にわたった。
このバス転落事故については、天災か人災かで法廷で争われ、「国の道路管理の手落ち」とする二審判決で決着。この事故を
機に全国の国道の防災点検が行われ、以後雨量による通行規制がとられるようになった。
【 遺体安置所で見た忘れられない光景 】
「社会部一番の若手記者」、つまり私に与えられた取材場所は遺体安置所だった。事故の本記筋(ここなら捜索状況、救援体制など)は
ベテランの先輩記者が書く。ここで書くのは雑感記事というものだ。
小学校か中学校かの体育館だったが、2晩めだったか、かなり身許も判明してきて嗚咽と悲鳴と線香の煙が支配している中で、目前の40代前くらいの
男性がひとつの棺の前で身じろぎもせずたたずんでいた。声をかけて驚いた。「これは家内です。あと娘2人を待ってます」という。
家族は、と聞くと「家族4人です」。息をのんだ。家族ほぼ全滅の悲劇だ。しかし、この男性は大声で泣くでもなく淡々と「神の試練です」という。仙台
で暮らしていて夫人の実家に帰っていた3人が犠牲になったのだ。言葉のはしばしからクリスチャンなのはわかったが、少し冷たいのではないかとさえ
思えた。
さらに2晩過ごした昼過ぎ。遺体はかなり流されて伊勢湾の河口近くで見つかるようになっていた。片手しか見つからなくて、自宅から持参したコップから
とった指紋で名前が確認された遺族が「片手だけでお葬式をします」というようになっていた。そんな時、現場に「遺体がひとつあがった。こどものようだ」と
いうニュースが流れた。私も駆けつけた。あの男性もいた。
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| この崖の上から我が子を識別した |
私はこの話を雑感で書きたいと思った。自身でも感動していた。だがデスクに言うと「Hに書かせろ」という。H先輩は雑感記事の名人とうたわれていた。おおいに不満だったが
翌日の原稿を見ると余計な感情移入もなく、淡々と泣かせる原稿になっていた。脱帽した。
【 地方紙の強さ 】
ある県だけとかある町だけで発行されている新聞を地方紙という。全国紙と違い、郷土の新聞としてその土地に密着していてそれぞれに強い。その中でも
北海道新聞、中日新聞、西日本新聞の3つはブロック紙という分類がされる。県境を越えて数県にまたがって紙勢を誇る。
現場は中日新聞の牙城だった。
どこの新聞も104人の行方不明者の顔写真を掲載している。だが現場の消防団員が手にしているのは全部中日新聞だ。
遺体があがると、まず中日新聞で照らし合わせる。こちらは苦労して集めた手前、ウチの新聞も見てよ、といいたいがどうにもならない。
加えてバスツアーの被害者の多くは中京地区からの参加者だ。親類知人の多くが取っているのを知っているから、インタビューもまず
地元紙から。指をくわえていることが多かったが、数日たつとこれも役立たなくなった。流されて痛みがひどく顔写真が役立つことが少なく
なってきたからだ。このときDNA鑑定があったらなあと今頃思う。自宅に出向いてコップや生活用品から指紋を検出してくる係りがいたほどで、
後半出番が多かった。
【 事件さなかの留学生試験 】
デスクに呼ばれた。「お前、試験受けてるそうだな。社会部長が行かせろというから、今から行け」。このころ社内留学制度が
あって希望の国に行けた。イギリス留学を希望したのだが、だいぶ前の話で忘れていた。やっちゃ場にいてそんな悠長なことを
思い出す時間もなかった。試験担当の総務部から「本人はどこか」と連絡があったのがこの日の朝。私が聞いたのが夕方。岐阜の
山あいの現場から名古屋に出るだけでも大変なところだ。
一泊して朝一番で新幹線に乗った。現場キャップが預かる取材費から借りた金だから申し訳なさが先にたつ。
東京駅に着いたのは試験1時間ほど前。本社は東京駅近くだからいいが部屋に入るともう試験開始。イギリス大使館の
2等書記官というのが「タイムズ」を読む。3度。それを書き取るのだが、英語を聞くのは1週間ぶりくらい。岐阜の山中では一度も
耳にしなかった。手が震えてまともに書けない。遮断された現場ではどこへ行くにも岩場を越えるか山を這い登るところばかり。棺桶
を運ぶのも手伝うからいきなりエンピツ握っても軽すぎて手になじまないのだ。その足で午後また現場にトンボ帰りだ。
もちろんそのせいばかりではないが落ちた。ほっとした。「現場を放り出して留学生試験に通った」といわれるより、よほど気持がラクだった。

| 寒村から出た有名シェフと一教師の話 |
私はタバコを喫うコックと、高いワインの講釈しかしないソムリエは信用しないことにしている。
一日数十本のヘビースモーカーだった経験では、塩とか胡椒をやたら降りかけるだけだった。物の味が狂っていた。ニコチンで麻痺した舌では料理人ががつとまる訳がない。
ワインブームで、このところワインについて薀蓄(うんちく)を傾け、講釈とどまるところがない人に出会うことが多くなった。素人のワイン談義はまだ愛嬌がある。ところがソムリエを名乗るようなプロが、ボルドーなどフランスの有名ワイナリーのことしか話さないのは間違っている。
日本人は長年赤玉ポートワインこそ葡萄酒だと信じてきた。中学か高校の理科の実験にあったが、黒豆の煮汁に酢酸を入れるとあの色が出る。学校だからそれ以上は しなかったが、あと砂糖とアルコールを入れればワインだと教わった。だから、フランスのワインもこうして作るものだと成人しても思い込んでいた。
後年ワインメーカーに山梨県・勝沼での葡萄祭りに招待され、収穫し、発酵させ、寝かせてという醸造過程を見せられて初めて知ったのだが、世の中私と同じレベルの人は多いのではなかろうか。ついでに言えば、ボージョレーヌーボーは その年のブドウを強制発酵させてつくる。「ワインであってワインでない」ものだが、寝かせると味がよくなると信じている人に今でも会う。
私は、英仏が国の威信をかけて開発した音速旅客機、コンコルドの取材でヨーロッパを訪れた。その行き帰り、エアーラインのファーストクラスに座ってほぼ世界一周の 間、10数回すべて私からサービスが始まるという経験をした。スチュワーデスが差し出すワインリストからどれかを指定し、封が切られグラスに注がれた名高いであろ うワインをテースティングして彼女に「ボン」とか「グッド」とか言っていたが、何を飲んでいるのかすらわからなかった。はじめから畏怖していた。
私の中でそうしたワインへのイメージが180度変わったのは、フランスとイタリアの間で繰り広げられた「ワイン戦争」を見てからだ。安いイタリアワイン を阻止しようと、フランスの農民が待ち構える国境で両国の農民が棍棒で殴り合いを演じた。今でもよくある経済戦争だが、編集局に配信されてきたAPの電送写真 に仰天した。
混乱の真ん中に写っているのはバキュームカーである。日本で屎(し)尿処理に走り回っているのと同じものだ。スクリュー(栓抜き)でボトル1本ずつ開けている日本と違って、大量消費のこの2か国ではこんなもので運んでいたのだ。
カリフォルニア、チリ、オージー(豪州)、アルゼンチン、南アフリカ・・・そして日本も、いまでは産地は世界中に広がって、安くておいしいワインが出回っている。 なのに、一人1万円程度のフランス料理に1本1万円のボルドーワインをすすめるのはマンガではないか、と思うのだ。
話は変わるが、有名なオーナーシェフ、三國清三さんを陰ながら応援している。といって、特に懇意にしているわけではない。 友人の息子の結婚式が四谷の本店「オテル・ドゥ・ミクニ」で、我が娘の結婚相手の家族との顔合わせが丸の内の「レストランミクニ マルノウチ」店で あった程度の関係だ。少し高いなと思ったが、おいしかった。
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| 三國清三シェフ |
三國清三(みくに・きよみ 1954年8月10日生まれ)
父は漁師、母は農家。7人兄弟の3番目で、中学生活もそこそこに幼い弟の面倒を見ながら料理をつくったり、家業を手伝う毎日だった。父の採った鮑を留萌の料亭へ直接売りに出かけ、その厨房を垣間見たことが料理の道に入るきっかけに。15歳で札幌南16条の米店に住み込みで働きながら夜間の調理師学校に通う。この米店の3姉妹が料理好きで、生まれて初めてハンバーグやグラタンの味を知る。調理師学校を卒業して札幌でいちばんのホテル、札幌グランドホテルに入る。札幌で一番で満足せず日本一を目指せ、という先輩のことばで総料理長から紹介状をもらい、上京して帝国ホテルの村上信夫料理長を訪ねる。
帝国ホテルでは、毎日鍋洗いばかりだった。だが村上料理長は、くさらずに一生懸命に仕事をするこの男を見ていた。20歳のとき 村上料理長の推薦により、駐スイス・ジュネーブ日本大使館の料理長に就任した。
着任早々、日本大使から「一週間後に米国大使を招待するのでおいしい料理でもてなしてくれ」と依頼された。三国は米国大使が行き つけのレストランを調べて何日間か厨房に入れてもらった。夕食会で驚いたのは米国大使。自分がしょっちゅう食べている好みの料理 がいつもの味付けで出てきたのだ。三国はこの手法で各国大使をもてなしたのでたちまち有名になった。
かたわら勉強に励み、スイス・ローザンヌに店を構えていたフレディ・ジラルデの元で2年修業。その後、「トロワグロ」「オーベルジュ・ドゥ・リィル」 「ロアジス」など3ツ星レストランで修業し、1981年 アラン・シャペルにも師事。彼に「洗練されていない」といわれて日本人としてのアイデンティティ を自覚し日本に帰国、市ヶ谷の「ビストロ・サカナザ」のシェフに就任。
1985年 四谷に「オテル・ドゥ・ミクニ」を開店。2000年九州・沖縄サミット福岡蔵相会合では総料理長を務めた。03年フランス共和国農事功労章シュバ リエを受勲。2007年(平成19年)、厚生労働省の「現代の名工」に選ばれた。推薦人は北海道を選挙区に持つ中川昭一・元農林水産大臣と料 理に欠かせない醤油の縁で茂木友三郎・キッコーマン会長CEOだった。
その後の店舗拡大ぶりは手を広げすぎだと思うが、この人がまず本物だと断言できるのは、出身が北海道の北のはずれにある寒村、北海道留萌支庁管内増毛町出身だと知っているからだ。 その前に、増毛から少し北にある小さな部落の思い出を書いておこうと思う。「苫前」(とままえ)といってもたいていの人には見当もつかないだろうが、私は北大の学生だった昭和35年ごろこの半農半漁の村を訪ねたことがある。あまりの寒々 しい光景に一晩まんじりともしなかった。
大学の同級生がこの村の出身だった。「来ないか」と言われてついていった。札幌から旭川に向かう途中の深川から別れる支線で留萌(るもい)に出ると どんよりとした日本海が見える。かつては石炭や木材の積出しでにぎわった港もこの頃すでにさびれていた。その昔はニシンであふれた町は、現在はその名 残なのか、日本の数の子の6割を加工するところだそうだが、私が通ったときはニシンはもちろん石炭も木材も昔話だった。
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| 苫前、留萌、増毛、雄冬の位置関係 |
駅前に集落があるわけではない。ここは駅舎だけで、ジャガイモ畑かトウモロコシ畑かの原っぱの中を数百メートル歩くと日本海を望む崖の上に出る。そこからとろとろと坂道を下りると岩陰にへばりついた小さな漁港があり、2、30軒の集落があった。それだけである。友人の家は昔ニシン漁で栄えたらしいがこのころすでに魚影はなく、廃れていた。
よくまあこんなところから大学まで来たものだと、その友人に感嘆した。小学校の分校ぐらいはあるのかもしれないが、あとはみなあのトロッコバスでどこか近くの町まで行くほかない。都会の学校でぬくぬくと育ったのが恥ずかしくてならなかった。彼は大学を在籍が許される最大8年かけて卒業する計画だった。1年働いて学資をため、1年大学に戻る。教職をとってこの近くの高校(ここの最高学府)で教壇に立つのだという。
そのころ、私も就職先がなければ教職にでも就こうかと漫然と考えたこともあったのだが、彼の気迫をみて、自分のようなのが教壇に立つのは失礼だと思った。それでも困ったらいくかもしれない。単位はほぼそろっていたが、自分で退路を断つ意味で必修の「日本国憲法」を落とした。だから今も教職資格はない。
私は昔も今も教師は「聖職」だと思っている。その後「でもしか先生」が増え、組合活動にうつつをぬかし、教え子へのわいせつ行為や暴力行為で捕まる教師を見るにつけ、時おりこの友人に成り代わって、ぶん殴りたくなるときがある。
その後、苦学する彼となんとか一緒に卒業しようと私たち友人がアルバイトをした。新聞社の選挙の世論調査や市のどぶ掃除をしたことがある。役立ったのはそればかりではないが、彼は4年で卒業して、予定通り留萌近くの高校で教壇に立った。
彼の実家に泊めてもらった翌朝、まだ暗いうちに誘われて港に出た。漁船が沖から帰ってきた。エビとかイカが獲れていた。友人は小さい皿と醤油を用意していた。岸壁に並んでエビを食べた。殻は海に投げたら小魚が寄ってきて整理した。岸壁を這い上がってきたウニを割ってご馳走してくれた。がさつな舌にも極上の味なのはわかった。
私がこういう体験をしたとき、年齢から推定して言うのだが、すぐ近くの集落に三國清三(みくに・きよみ)がいたことになる。崖添いに苫前と同じような集落が点々と並んでいるのだが、留萌の南隣の増毛(ましけ)という半農半漁の部落が彼の故郷だ。「村で1、2の貧乏だった」と書いている。彼もまた私の体験と同じく港でエビやウニを食べていたのだと思う。
増毛町は映画「駅 STATION]で高倉健演ずる警察官、三上栄次の故郷という設定だ。彼の実家がある増毛町の雄冬(おふゆ)地区は、1000メートル級の山々がそのまま日本海になだれ込む海岸沿いにある。切り立った岩場に陸路を遮られ、同じ町内ではあるが交通手段が船しかない「陸の孤島」だった(現在は国道231号 が通っている)。増毛港と雄冬を結ぶ定期船は冬は日に1便だけ。それが吹雪いて止まった。
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| 映画「駅」のシーン |
2007年末、動画サイト「You Tube」でこのシーンが流れているのを見つけた。紅白歌合戦のシーンに「昭和54年・・・」という音声がある、そんなに昔だったかと、倍賞千恵子の若さとともに驚いた。
(下段左端の右向き矢印クリックでスタート)
女は昔の恋人でもある連続警察官襲撃事件の「全国指名手配第22号」を家にかくまっていた。桐子のアパートで、拳銃を手にした犯人より一瞬早く撃った。「そういうことか……」。栄次に背を向けて「舟唄」に聞き入る彼女の顔に涙が流れている。倉本聰脚本の中でも渋さが光るシーンである。テレビドラマ「北の国から」の舞台であり倉本聰も暮らした富良野はそんなに遠くない。
孤独な男と女を浮かび上がらせる舞台として選ばれるだけあって、苫前も増毛も、日本海の海鳴りが聞こえる寂しい港町だ。よほど志を高く持っていないと埋没してしまう。そういうところで育った三國清三は中学を出ると裸一貫、札幌グランドホテルで修行を始める。やがて東京で帝国ホテルの総料理長だった村上信夫の教えを受け、その勧めで在外公館の料理長をして腕を認められる。村上信夫のことは別項の「アナスタシアが行く」の「幸せな犬についての一考察」で書いた。彼が亡くなった時「偲ぶ会」の音頭をとってゆかりの人たちに村上直伝の料理をふるまったのが三國清三だ。
その三國清三が2006年の夏、弟子から暴行傷害で訴えられた。「キッチン(厨房)は戦場」というのがコックの世界だ。チーム一丸となって、全体の流れを横目で見ながら己の役割を果たさなければテーブルに料理など出せない。弟子が流れに鈍感だったりドジを踏めば、親方や兄弟子から「バカやろう、のろま」と物が飛んできたり尻を蹴飛ばされる世界である。この若い弟子は他人から殴られたことがないのだろうが、もう一度ブン殴ってそういう世界があると言うことを教える必要がある。
君が代の伴奏を拒否して最高裁で敗訴した東京都の女性教諭が、テレビで怒りに震えながら「自由に心の表現ができる音楽を権力の道具におとしめるものだ」とのたもうていた。(2007年2月27日)。屁理屈も極まれり というものだ。世界を回れば、どこの国でも教壇に国旗があることを知らないのだろう。こういう人間には国費でいいから世界を見せてやれば、と思う。 日教組に代表されるが権利闘争ばかりにうつつを抜かし、自由には規律、権利には義務があることを教えなかった付けだ。 はからずも料理と教育の世界で、戦後の「野放図・自由はき違え」の輩には鉄拳しかないことを教えてくれた。
少々話がずれたが、このヒゲづらの男が本物だと思うのは、あの寒村から出てくるだけで並大抵の根性ではないことと、魚にしろ野菜にしろ、ものの味を正確に味蕾(みらい)に記憶しているに違いないからである。ソースでやたらいじり回すフランス料理とは別なものを志向するだろう。最新のオリジナル料理というのを見たら「北海大根の稚内たらば蟹詰めブレゼ クレソンとアンティーブ添え」とある。故郷の大根と蟹の味を大切にしているのがわかる。2回経験した料理でもサラダなどそのままに近かった。「ミクニ」のワインリストを見たが3000円くらいが中心で都心の土地代を考えればまず妥当だ。
大学での友人とはその後会っていないが、教壇に立った彼と厨房に立つたシェフの2人の"偉人"が出たところとして、時々あの寒村を思い出す。

| 亡国の女子アナ |
「人気グループNEWSのメンバー(18)が2005年7月15日未明、仙台市内で飲酒し補導された問題で、 所属のジャニーズ事務所は16日、このメンバーを無期謹慎とした。また、フジテレビは深夜に電話して、 飲み屋に未成年と知りながらメンバーを呼び出したのが同局の菊間千乃(ゆきの) アナウンサー(33)だったというので菊間アナを謹慎処分にして番組から降ろし、担当の局長や役員を減給処分にした」という。
この女子アナは98年に「めざましテレビ」のリポート中にビル5階から落下し、腰椎(ようつい)圧迫骨折で全治3カ月の重傷を負った女性だという。同情に値するが、未成年に酒を飲ますとどうなるかくらいはわかるだろう。積極的に仕切っているフシもある。ついてない人だとは思うが、常識がないのは困ったものだ。
菊間アナだ、「NEWSのメンバー」だといわれたって誰一人として顔も知らないからどうでもいいのだが、処分された役員というのが何十年来の知己だから気になった。少しでも番組の水準を上げるべく努力をしていた人物なのを知っているからだ。
民放の多くの番組ではバラエティー全盛だ。一億総白痴化の先鞭を付けたのは同局だから、この処分はその
責任の一端と思えばわからないでもない。それなら、ついでに女子アナをすべて謹慎処分にしてもらいたいくらいだ。
このニュースの少し後、みの・もんたが司会する朝のテレビを見ていたら女子アナが、前日に1試合3本のホームランを打った阪神シーツ選手のビデオにそって原稿を読んでいた。「巨人を9−3。シーツのドタン場です」。はて面妖な、何を追い詰められたのか、と耳を澄ますと、また「彼のドタン場でした」。どうやら「独壇場」(どくだんじょう)を土壇場(どたんば)と読み違えているのだ。
間違いといえば、「独壇場」(どくだんじょう)だってそうなのであって、本来「独擅場(どくせんじょう)という。「擅」(せん)は「もっぱら。ほしいままにする」意で、どう転んでも「だん」とはならない。昭和のはじめごろから、字が似ているから間違われるようになり、いまでは「擅」の字が当用漢字にないから「独壇場」の方が主流だ。
そんな来歴女子アナに求めても無理だが、彼女たちの教養の程度をみるエピソードには事欠かない。2005年12月16日朝、フジテレビの女子アナは「疫病神」(やくびょうがみ)を「えきびょうがみ」といい続けた。「疫病」だけなら「えきびょう」でいいが「神」がつくと読みが変わることを知らない。
同じ局の女子アナだが、『旧中山道』のくだりで『1日中、やまみち』と読んだという。これはいまだに語り草で時々紹介される。 少しできすぎた話なので、この女子アナの上司にあたる役員に聞いてみた。返事は、この伝説は間違いだというものだった。
その他羅列するが、(当初2つ3つの凡例だったのが、各方面からいろいろ集まり始めて、増えたもので私が日ごろアラ探しをしているワケではない)
・「心臓の発作(ほっさ)」を、「心臓のハッサク」。・自分が書いた「暴露本」について「ぼうろぼん」と最後まで気づかなかった。
・神戸の地震の直後、淡路島から中継していた女子アナが 「ここで亡くなった方の遺体が焼却されています」
・バイリンガルが売り物の新人女子アナウンサーが天気予報で「サムケダンが南下しています」。なんだか寒気がしそうな寒気団だ。
・某テレビ局のアナウンサーが「マッカーサーもとし」「もとし」というので何事かと怪しんだら「元帥」のことだった(「ひとことで言う」山本夏彦 新潮社)。昭和もすでに遠くなったのだ。 キャスターも間違うから一概に責められない。・女性キャスターだが、接骨院院長殺害のニュースで「こっせついん」。
・男性キャスターが「体外受精」のことを「体外射精」。この男性には身近なことだったのだろう。
NHKはさすがに教養試験があるようで、常識はずれは少ないし、入局してからも話し方を訓練しているから 語り草になるようなのは少ないと思いがちだが、なにネタにこまらないくらいたくさんある。
・あるアナウンサーは「股引」(ももひき)を「またひき」と言いつづけた。そう思い込んでいるからなおらない。
・「後(のち)ほど」を「あとほど」と言ってしれっとしていた。
・昭和天皇が崩御される直前、宮内庁病院にお見舞いのため参内される宮様方を実況中継していたNHKの若いアナウンサーが「以上、ミヤウチチョウ前からでした」
・解説委員クラスも「金字塔」(きんじとう)を「こんじとう」と言って直さない。
・スポーツの解説者が「出色(しゅっしょく)の出来」というべきところ、「でいろの出来」。
・もう十数年続いている番組だが、「ラジオ深夜便」のアンカーをしている女子アナが、夕方のテレビで「今朝東京は突然の雨でした。夕方降れば夕立、朝降ったから朝立ち」。これなど多分上司は男性だろうが、どう指導していいのか悶絶しそうだ。
・同じ番組だが2008年春、今日の誕生日の花「三色スミレ」を「さんしきすみれ」だと放送していた。「さんしょく」の間違いでしたとは言わず最後まで押し通した。・2008年4月22日、山口県光市の母子殺害事件の広島高裁判決が出た日、4か6の民放の女子アナが「では経過をアニメで紹介します」という。映像にしにく い話なのでわざわざアニメにしたのか、と見ていたら、流れてきたのは過去のビデオだった。
2008年5月12日、中国でマグニチュード7.9の四川大地震が襲った。震源地の北東にある「北川県」の様子を伝える中で地図を示しながら8chの男性アナは「きたがわけん」では・・・」。漢字を日本語読みするのを「訓読み」というが、 中国の地名を訓読みしてどうする。中国では県より市が上で四川省綿陽市北川県、正式には「北川羌族(ほくせんきょうぞく)自治県」という。建物の8割が倒壊した。 民放は今ではアナウンサーに常識とか教養は求めなくてタレント性だけで採用しているとしか思えない。物知りであるに越したことはないが物を知らなさ過ぎる。深夜ラジオの映画音楽の解説の中で「ちじょうよりえいえんにという 映画はですね・・・」と説明していた。映画を見ないでしゃべっていることがことが明白だ。この映画は「地上より永遠に」と書いて「ここよりとわに」と読む。
米軍兵舎内のいじめを描いた1953年のコロムビア映画で「真昼の決闘」のフレッド・ジンネマンが監督の手になる。 バート・ランカスター、フランク・シナトラ、デボラ・カー、アーネスト・ボーグナインとそうそうたる顔ぶれで最優秀作品賞などアカデミー賞の8部門を受賞した作品だ。 モンゴメリー・クリフトが兵舎の夜空に向けて吹く鎮魂のラッパに涙したものだが、ぶち壊しだ。
そのラッパのシーンが「You Tube」にあった。ついでにデボラ・カーとバート・ランカスターの浜辺の激しい抱擁場面も。「映画史上最も有名 なキス・シーン」と称されたものだが、今見るとどうということはない。まわりがもっとすごくなって当時の衝撃など埋没した。
物語
1941年、ハワイ、スコフィールド兵営にラッパ手のプルーイット(プルー)上等兵(モンゴメリー・クリフト)が転属してきた。彼は前の部隊でボクシ
ング部にいたが、練習中に親友を失明させるという事故を起こしていた。入り口で出会ったアンジェロ(フランク・シナトラ)が「貧乏くじを引いたな。ここはとんでもない部隊だぜ」。
ボクシングに夢中の中隊長は、隊のボクシング・チーム入りを条件に下士官への昇進させるというが、二度とグローブははめないと誓うプルーは応じなかった。曹長 ウォーデン(バート・ランカスター)がそれを見て「要領よくやれ、でないと中隊長にしごかれるぞ」と忠告した。ウォーデン曹長は中隊長の妻カレン(デボラ・カー)と不倫の間柄だった。
案の定、中隊長のいやがらせが始まった。訓練中も、訓練後も容赦なかった。プルーをかばったアンジェロは、中隊長の部下の営倉主任、ジャドソン(アーネスト・ボーグナイン)に構え銃の 姿勢でのトラックを7周をさせられる。ある夜ウォーデンとプルーが道端で酒を飲んでいるところに、アンジェロが痛めつけられ瀕死の状態で現れた。「逃げてきたんだ。豚野郎に気をつけろ」 といい、プルウィットの腕の中で死んだ。
翌日の早朝、いつもと違ったラッパの音色が兵営の庭に鳴り響く。プルーが涙を流しながら吹く鎮魂の吹鳴だった。敵討ちを決意してその夜、町でジャドソン決闘、 刺し殺す。しかし、プルーも腹に傷を負い恋人のロレーン(ドナ・リード)の家に逃げ込む。
その年の12月7日、日本軍による真珠湾攻撃が始まった。ロレーンの反対を押し切って隊へ戻ろうとするが途中、パトロール兵に見つかり、機銃掃射を浴びて死ん で行く。 数日後、本土へ向かう船の上でカレンは若い女と知り合った。彼女はロレーンと云い、戦闘機のパイロットだった許婚者が、真珠湾攻撃の日戦死したと語 った。
加えて近ごろは民放に引きづられてやたら「軽い」アナが増えている。男女のアナウンサーがジェスチャーつきで掛け合い漫才風なやり取りをしている。目くじらたてたくないが、次のニュースがシリアスな内容だったらどうするのだと心配だ。
アナウンサーが正確な日本語を話すよう求められたのは昔の話で、いまは民放ではアナウンサーは受験も別枠で、容姿や愛嬌ばかり見るように なってからひどくなった。押しなべて「電波芸者」を育てているから、間違った日本語を広めるのに一役買っている。
では、「正しい女子アナ」はどういうものか。私は勝手に「おごそか(厳)おばさん」と呼んでいるのだが、北朝鮮の女子アナが参考になるのではないか。
南北首脳会談など重要なニュースの時に現れて大仰な抑揚と雄弁大会の弁士のような口調でしゃべる、あの中年の女性アナだ。
たぶん「正しい朝鮮語」と「品行方正」の方だろうから、おしなべてキーセン化した日本の女子アナが学習するところはあるだろう。
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| 人民放送員リ・チュンヒ |
北朝鮮でアナウンサーになるには、まず出身成分において最高の点数を受けなければならず、発音の正確さや速度感、教養など3つの基本原則を基に、 状況によって抑揚や言葉尻を自由自在に操れる能力が必要だという。米国や日本に対する否定的な報道を行うときには激昂して怒りに満ちた語調で、 金日成主席や金正日総書記についての報道するときは「朝鮮人民軍最高司令官・キム・ジョンイル同志におかれましては」と荘厳で尊敬心に満ちた声に変えなければならない。
間違ったりすると命に関わる。北朝鮮最高のアナウンサーだったチョン・ヒョンギュは94年に金日成主席が死亡した時、放送中に涙を流さなかったことが問題となり、 放送活動を中断させられた。あるアナウンサーは金日成主席の死亡を金正日総書記と誤って読み上げた。思うだに恐ろしい間違いだが、案の定その後そのアナウンサーの声を再び聞くことはなかった。 なにを間違ったところで命に関わることなどない日本のアナウンサーは幸せというべきだろう。
女子アナだけ笑いものにしたのでは気の毒だから、この手のお笑いがワンサとある国会からの報告。ネタ元はNHKの政治部にいた渡部亮次郎氏のエッセイからだ。
野党の審議引き延ばし作戦に業を煮やした自民党の国会対策(国対)委員長は興奮して「ガッポウテキテダン」を連発した。はじめはなんのことやら判らなかったが、発言の前後を考えて「合法的手段」で対抗すると判断できた。他社の連中も笑うと失礼だからひたすら下を向いて堪(こら)えていたそうだ。
だいぶ昔になるが、社会党時代のある幹部は衆議院本会議で「オイカサラマサヨサン」とやって満堂の度肝を抜いた。 「追加更正予算」とわかると満場笑いに包まれた。べつの大物代議士は演説の途中に突然「ここで水を飲む」と音吐朗々(おんとろうろう)とやった。誰かに書いてもらった原稿で、その筆者は気を利かせたつもりで、堂々と見せようとアドバイスのつもりで(このへんで一息入れて、水を飲みなさい)と書いたところ、代議士はそのまま読んじゃった。
外務大臣でも、熾烈(しれつ)を「しきれつ」、旗幟(きし)を「きしょく」、殺陣(たて)を「さつじん」と言ってはばからなかった。軍隊生活でまともな教育機会がなかったと割り引くにしても、この種のものは一旦間違って覚えると終生直らない。
2008年秋からは麻生太郎首相だが、いつのころか「踏襲」(とうしゅう)を間違って覚えたようだ。田母神俊雄・前空幕長の懸賞論文問題に絡んで 歴史認識を問われた参院予算委員会などで、アジア諸国へのおわびと反省を表明した95年の村山首相談話や河野官房長官談話を「ふしゅう」すると答弁した。 議事録のほうは気を利かせた事務局が漢字に変えているが、そうとう前からの思い込みらしい。だが、その後も「詳細」を「ようさい」、「頻繁」を「はんざつ」、「未曾有」を 「みぞうゆう」と言って漢字力を疑われる事態に。本人は単なる読み間違い、というがそればかりではないような国語力だ。
いつまでも揚げ足とっていても仕方がないので本題に戻るが、昔、相撲取りの女房が務まるのは芸者(関西では芸妓という)、と相場が決まっていた。理由はいくつかあるが、ひいき筋あっての商売で この扱いに慣れていることがあった。昔の芸者は教養があったから政財界の大物の連れ合いになった例をいくつでも挙げることができるが、社交にもすぐれ立派に役目を果たしていた。銀座のママも最近まで毎朝新聞を数紙読んでくるというのがいた。それが両方ともただの「酌婦」になった。
銀座の真ん中に、囲碁ができる若い女の子ばかり集めたクラブがあった。酒も大して飲めない年寄り重役相手に碁盤で相手する。私が通りかかった時このコーナーでは4組が対局、取り巻き数人が見物していた。レミー・マルタンは女の子が飲み、どこかの役員はお茶を飲んでいた。請求書は会社の経理に回るだけだから、この場の誰の懐も痛まない。こうして銀座のモラルと会社のモラルが崩壊していった。バブル絶頂期の話だ。
1人数万円出して銀座にいって、アホな女の子の機嫌とるほど馬鹿らしいことはないから、社用族の接待はどんどんゴルフ場に移った。銀座の半分の値段で接待相手をほぼ一日中占有できる。つまり仲良くなれる。これが営業の接待ゴルフが増えた一番の理由だ。
ついでにいうが、銀座の文壇バーがほぼ全滅した。文壇が崩壊したことが第一の理由だが、その前に金回りがいいポルノ作家が跋扈しはじめて、純文学派が逃げ出したことによる。「ポルノ小説家」というと怒って「官能小説家」と言わせていたが、中身が変わるものではない。
拙宅の胡蝶蘭はみな銀座育ちだ。銀座のママはただでさえ仇花だから、高い胡蝶蘭とて花が終わると来年また咲かせる技術は持ち合わせていない。だからどんどんくれた。タクシーに2,3個積んで帰宅したこともある。いささかの恩義があるから指弾するのは気が引けるが、 銀座のママとたまにゴルフ場で会うとつねづね馬鹿だなあと思っていた。自分の銀座の仕事場を取られているのに気づかず、一緒に棒振りする。その愚に気づかないほどのレベルになっていたのだ。
熱海の芸者が壊滅状態だ。それはそうだろう。団塊の世代以下、今のサラリーマンで三味線に接したことがあるのはどのくらいいるか。せいぜい「野球拳」どまりだろう。芸をみがいたって都々逸も新内も区別がつかない客相手では酒を注ぐしかあるまい。山小舎に行く時通るが山梨の石和温泉も壊滅的だという。団体客相手の商売をしていたところほどダメージは大きい。こういうところで通りすがりに見かける見番は見るかげもなくさびれて隙間風が吹いている。
2007年10月、レッドソックスがワールドシリーズで優勝してボストンでパレードが行われた。紙吹雪の中行進する水陸両用車の上で手を振る日本人ヒーロー、 松坂大輔、岡島秀樹両投手のそばにはそれぞれの夫人の姿があったが、ともに元女子アナだ。今では野球選手はじめ、相撲取りの女房が女子アナで、「若手実業家」の女房も女子アナだ。 銀座や神楽坂や赤坂の女子衆(おなごしゅう)のお株はみな「電波芸者」に奪われたのだ。
※「見番」 サイトを覗いた人から「見番とは?、と聞かれた。若い世代ではな
くむしろ団塊の世代に近い人だったので、やはりそうか芸者(芸妓)というのは最早過去の遺物なのだ、と
認識した。「三業地」とともに解説するが、早晩消える運命にある。
各地に「花街」(はなまち)と呼ばれるところがある。戦前は炭鉱、ニシン漁場、船着場、温泉場など盛り場あるところ必ず三業地つまり花街があった。三業 地とは「芸者(妓)置屋」「待合」「料理屋」の三つの業種が寄り集まっている場所だ。
置屋は文字通り芸者を置いているところで、昔は1軒で数人いたものだが、今は芸者本人がオーナーで1人だけという場合が多い。待合は昔は待合茶屋とも いい、待ち合わせや会合のために席を貸すことを業とした「お茶屋」、場所を提供するだけのところ。料理は料理屋から取り寄せ、芸妓置屋から芸者を呼んだ 。戦前まで芝居茶屋があり、現在も相撲茶屋に名残りをとどめているが、入場券の手配から、席での飲食の手配までする。こうした客の面倒を見てくれるとこ ろを茶屋といった。
料理屋には、もてなしを主として酒以外の料理は仕出しでまかなう「料亭」と、日本料理専門の板前がいる「割烹料亭」があるが、今では区別があやふやだ。 割烹料亭で普通出されるのが「会席料理」。これは公家や武家の儀式で出された本膳料理をベースにした料理だが、「懐石料理」となると抹茶を味わうため茶 道の作法による料理のことだ。
芸者(関西では芸妓)が所属している事務所が「見番」で、料亭からの依頼を受け芸者の手配をしたり、時間による座敷掛け持ちの指図、玉代の計算など一切 を取り仕切る。芸者の育成も仕事で、踊りの稽古場(歌舞練場)を併設しているところもある。見番が複数ある花街も珍しくなかった。

| 傾城のスチュワーデス |
上で「女子アナ亡国論」を書いたからには、「スッチー傾城論」を書かねばならないだろうということである。本来 傾城というのは美しさのゆえに国を傾ける楊貴妃のような存在をいうのだが、この場合は亡国論と同じ意味だ。無知とうぬぼれで自らの地位を貶めたという共通項を持つ。
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| DC-3の前に並んだ日本航空 スチュワーデス一期生15人。 1951年8月27日 |
男だとスチュワードと呼ばれる。イギリスなどのエアラインに多い。日本航空でも最初たくさん採用された。スチュワードをしながらぱりぱりのやくざでのち出所後に作家になった安部譲二はその嚆矢だ。彼のナンパのせいで男女一緒に働かせるのはまずいとなったのか、力仕事が減ったのかわからないが、空から男が姿を消して、どんどん女性が席巻した。その後今に至るも女性の憧れの職業ナンバーワンだ。
スチュワーデスの仕事は、国際線といえどもケータリング会社が工場で用意した食事を時間ごとに電子レンジでチンして出して、片付けるだけだ。仕事の8割はウエイトレスだ。私に言わせれば、むしろ肉体労働者で4年制大学を出た学士サマでないと務まらないような内容ではない。何ゆえ門前雀羅なのか理解に苦しむ。
それでも職業選択の自由があるし、職業に誇りを持つのはいいことだが、鼻持ちならない存在になったのは、その後彼女たちが自分たちを特別なステータスを備えた存在とみなし始めたことによる。 客室乗務員組合(通称「客乗」)が彼女たちが属する組合(ほかにもあるが、これが最大だった)なのだが、女王様のような要求を突きつけるようになった。全部を覚えていないが一部を再録すると、「ストッキングはどこそこのメーカーのを年間何十足(数はかなり多かった)」「ショルダーバックは銘柄指定(セリーヌかルイヴィトンだったか)のを年間何個」「搭乗日には自宅まで迎えのハイヤーをよこせ」「ホテルは機長と同じく国内、国外問わず最高級クラスをツインのシングルユースで」、といった按配だ。このほか手当て、ボーナス、教養補助費などなんだかんだとわんさと突きつけていた。よそのエアラインはそんなもの自前が常識だ。
そのうち、機内で知り合った野球選手と結婚するのが出てきた。スポーツ紙など単純にめでたい話として記事にしていたが、とうとうスチュワーデスが乗客に自分のアドレスだか電話番号だかを教えるようになったかと驚いた。そういう「はしたないこと」は素人の女性がすることではないと教えたはずだが、いつしか自らを売るようになった。これでは「空飛ぶ芸者」だ。芸者(関西では芸妓)も小さい名刺を配るが、源氏名と置屋の電話番号しか書いてない。ダイレクトに電話できないくらいのたしなみはあった。スチュワーデスはちかごろ「スッチー」などと軽く呼ばれるのがお気に召さない。「フライト・アテンダント」と呼んでもらいたいようだ。文字通りに訳せば「空飛ぶ芸者」ではないか。
海外ではどうか。ハイジャック防止のため、コクピットへスチュワーデスがコーヒーなどを運ぶ場合でも中からロックするよう内規が改められたころだから、昭和60年代だが、アメリカの国内線で見かけた光景だ。腕まくりしたおばちゃんスッチーが両手にコーヒーと紅茶のポットを持って客室内を回ってお代わりを聞いていた。「どちら?」と聞きながら、客にコップを持たせて注いでまわっていた。意地悪して両手にはない「オレンジジュース」と言ったら、大声でもう一人に向かって「ヘイ、ここジュース」と叫ぶ。そちらもかなり太目の中年スッチーだったが、通りの向かいから紙容器ごと投げてよこした。日本なら気絶ものだ。
平成16年、テキサス州ヒューストン空港で乗り換え便を待って搭乗口の前のソファーに座っていた。2人のスチュワーデスが制服のまま前の席に座って、雑誌を読みながら近くの売店で買ったホットドッグをほおばり始めた。機内で座席に着くとその2人がコーヒーのサービスを始めた。切符(搭乗券)もぎりも兼ねていた。スチュワーデスがいかに普通の職場として扱われているかだ。日本ではお姫様扱いしすぎる。
普通の職場にしなければならない、と思う人はエアラインの中にも存在していた。まだ現役で飛んでいる人もいるので書きづらいが、同じ思いの役員に頼んで採用してもらったこともある。7,8人になるが皆事前に会って、馬鹿な要求はしないよう教育した。
就職人気企業の栄枯盛衰をみてもトップランクに30年ともたない。東京海上、商社、財閥企業どこへ行ったかというくらいだ。ランク上位の常連だった航空会社自体が経営不振やジェット燃料高騰の余波で合併を繰り返し普通の会社になってきた。業績と人気で日本航空が全日空の下になるなど考えられなかったことが現実になってきた。昔あこがれたアメリカのエアラインでいま残っているのはほとんどない。2005年9月デルタ航空とノースウェスト航空が破産法適用申請して大手7社のうち4社が同法適用下で経営再生をはかっているという惨状なのだ。
エアラインの知人の賀状をみてもそんな子会社あったかというようなのに行ったお知らせが舞い込むようになった。当然、合理化の前に「お姫様要求」が通るわけもなくほっといても普通の職場になる運命にある。羽田や成田で乗客と一緒にマックをぱくつくのが出てくるのは時間の問題だろう。
そう書いて一か月もたたない2005年10月末、日本航空は航空アライアンスの「ワンワールド」に加盟すると正式発表した。それ見たことか、と思った。これが、もはや、お姫様要求など通らぬ、スチュワーデスがただの「空飛ぶ労働者」になることを意味しているのだということは、すこしエアライン事情をかじったものならわかることなのだ。 加盟すると業務の効率化、コストの圧縮は至上命題だから自社の従業員だけ優遇するなどのことは許されなくなる。
さらに1週間後、日本航空は、2006年3月期の連結最終決算では470億円の赤字になる見通しだという。新町敏行社長は「盟主の意識を捨て挑戦者として改革する」と全従業員を対象に大幅なリストラと10%程度の賃金カット、赤字路線からの撤退を発表した。つるべ落としの秋の夕暮れといった落日の早さだ。
まだ「盟主」だと思っていたのかとか、最後まで自前主義を貫いたのが原因という経営への批判はあるが、なにより難問は組合対策だ。もともと職種ごとに組合があったところに、合併で現在9つもある。そのうち前述の客室乗務員組合など8つは会社がどうなろうと知ったことか、の権利擁護第一だ。現に最近突きつけている要求も「安全のため十分に休息をとる必要性がある」からだそうだが、「業務移動時(非番とかフライト先へ行くために乗ること)のファーストクラスの使用」「通常出勤時のハイヤー(タクシーでなく)使用」「地上移動時のJRなどのグリーン車利用」と、相変わらずのあきれた内容だ。
航空アライアンス(国際航空連合)これにより、マイレージなども同一アライアンスであれば業務提携の一環として、マイルの相互加算・相互利用ができる。競争ではなく協調路線への転換だ。世界では主に「スターアライアンス」「 スカイチーム 」「ワンワールド 」の三つのアライアンス(企業連合)に集約されてきた。全日本空輸は早々と「スターアライアンス」に加盟したが、日本航空はどこにも属さず、せいぜい2社間協定で切り抜けてきたが、航空燃料の高騰もあり、流れには逆らえず、2006年中に「ワンワールド」に入ることを発表したが、遅すぎるの声が多い。
2006年2月「クーデター」が起きた。深田信常常務ら4人が部長級数十人の署名を持って新町社長に面談し代表権を持つ社長、羽根田勝夫副社長、専務3人の退陣を要求、自分たちが社長、副社長になる提案をしたのだ。クーデターの場合やむにやまれない事情があるもので、世間ではおおむね情状酌量というか同情があるものだが、今回は監督の国土交通省はじめ経済界ものけぞった。
4人は赤字の国際線や労組との交渉にあたる労務担当者だ。1月に実施予定の賃金10%カットは労組の反対で、一部管理職だけ実施、一般社員は4月に先送りされた。原油価格の高騰で国際線はしばらく好転が望めないというなか、その担当役員が「クーデター」だというのだからあきれる。
日本航空では過去、営業、企画管理部門で折に触れ派閥争いをしてきた。公務員、民間を問わず派閥争いはあるが、役所に多いのはそれしかないという仕事の空疎さに起因している。日本航空は先に述べたように国策会社としてスタートした。民間にそれだけの力がなかったことによる。1987年民営化されたが国際線は競争相手もなく「ナショナルフラッグ・キャリアー」として独占、役所的体質を引き継いだ。意識は外に向かわず内にこもってバトルを繰り広げてきた。このころ役員と名刺を交換すると名刺には書いてないが、必ず営業とか管理とか出自を口頭で告げたものだ。労務出身の役員などめったに会わなかった。すでに客室乗務員組合の横暴が目に余るものになっていたのだが。
ジャンボ機の御巣鷹山墜落事故のあと、民間の血を導入すべきだという声が高まり、異例のことだったが会長に迎えた伊藤淳二・鐘紡会長は9か月で放り出されたほどだ。その後も自民党もかくやというほどの派閥争いは続いて、やがてどちらでもない労務畑から兼子勲社長が選ばれた。しかし今度は従前からの派閥争いに新しく労務畑が加わって、三つ巴の争いになっただけのことだった。
ポスト兼子は営業出身の羽根田現副社長と内外から見られていたのだが、兼子勲・前会長はそう簡単には渡さなかった。前例のない貨物出身の新町現社長を指名したのだ。現在の経営陣は兼子氏に抜擢されたものだが、畑違いにより社内掌握がもともと弱い上に、営業、企画からは不満が渦巻いていたという背景があった。今回の騒動の根っこは兼子勲氏の蒔いた種という面も大きい。
しかし、労働組合9つのうち8つが反対している10%賃金カットができなければ再建策は軌道に乗らない。ひとつの会社に9労組というのはいくら職能ごとだといっても多すぎる。以下のようなあんばいだ。
JAL労働組合(1万人。JAL、JASの全職種。会社と協調路線)
日本航空労働組合(150人。JAL地上職)
日本航空機長組合(1200人。JALの機長))
日本航空乗員組合 (1200人。JALの客室乗務員)
日本航空先任航空機関士組合(100人。JAL管理職の機関士)
日本航空客室乗務員組合 (800人。JALの客室乗務員)
日本航空ジャパン労働組合 (1200人。JASの各職種)
日本航空ジャパン乗員組合(650人。JASの乗員)
日本航空ジャパンキャビンクルーユニオン(1600人。JASの客室乗務員)
(その後JAL系の「日本航空客室乗務員組合」とJAS系の「日本航空ジャパンキャビンクルーユニオン」は合併して「日本航空キャビンクルーユニオン」になった)
最初のJAL労組以外は強硬でおいそれとは自分たちの賃金カットにウンといいそうにはない。労務担当が主流の現執行部で出来なければ誰に出来ると いわれている。巨額の有利子債務があるから銀行も黙ってはいないだろう。親方日の丸時代なら、役人の本性で、失敗しても「仕方ない」ですんだろうが、今で はライバルの全日空が空前の利益を上げ、機材も新鋭機に入れ替え中(JALにトラブルが多いのは機材が古いせいといわれる)と経営格差は歴然で、言い訳もで きない。
その後、日本航空は、新町敏行・社長兼グループ最高経営責任者(CEO)が代表権のない会長に就任、後任の社長兼CEOに西松遥( にしまつ・はるか)取締役(58)が昇格する人事を発表した。攻められた社長は退任、造反に参加しなかった中間派の西松氏を中心と して再建にあたるという。クーデター組はおおむね退任だから「喧嘩両成敗型」といえる。しかし、この労組の問題を何とかしないと 、いつまでも同じごたごたが続くのがJALの体質だ。
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| 日本の2大航空会社の給与水準(夕刊フジから) |
この数字は2008年3月時点だ。記事は普通の職場になったではないか、といいたいようだが、労務問題にはすれっからしである当方は額面どおりには受け取ら ない。批判をかわすため労組がよく使う数字のマジックがまだあると見る。手当てや厚生面の数字を省いて外部に出す手口だ。
だが徐々に下がっているのは事実だろう。日本航空、全日空とも新卒採用後3年間は契約社員として扱うようになった。これが全体の数字を押し下げている。 スカイマーク(東京)は平均年齢26.4歳で平均年収309万円。スカイネットアジア航空(宮崎市)は27.2歳で279万円あたりと比べるとまだまだいい。2009年1月 に、トルコ航空の日本人客室乗務員(派遣社員)が契約期間中に切られたと訴訟を起こしたが、その訴状によると彼女たちの年収は220万円だ。
一覧表ではパイロットの年俸が飛びぬけて高い。何様だという批判があろうが、ここが難しいのだ。パイロットを養成するのに長い年月と1人あたり2,3 億円、その後も機種ごとに免許が必要で研修にまた費用がかかる。手っ取り早い方法として、国で養成してくれた航空自衛隊の戦闘機乗りをハンティングする か外人パイロットを採用するかなのだが、給与が高くないと誰も寄り付かないということがある。
芸能記事では運動選手やタレントに引き抜かれるのが「玉の輿」とされているが、彼女たちの世界ではパイロットと結婚することで、たいていの機長夫人は スッチーというのが洋の東西を問わない現実だ。浮いた噂が絶えないところなのも東西共通だ。
(2009年6月追記)
日航の2009年3月期決算は税引き後の損益が631億円の赤字。10年3月期もほぼ同額の赤字となる見通しだ。なんら変わらない赤字垂れ流しだ。政府は、業
績不振が続く日本航空の本格支援に乗り出すことを決めた。日本政策投資銀行と大手銀あわせて1000億円を融資、政府は日航の経営再建を直接指導・監督すると
いうのだが、同じ理由と方法でこれまで3000億円もつぎ込んでいる。こういう「親方日の丸」体質が政府と日航にある限り先行きは同じだろう。
前年の燃料高と、世界同時不況による旅客の急減を理由にあげているが、ライバルの全日本空輸の国内線の落ち込みは小さいのに日航は国際線含めて1割以上の減。 サービスの悪さから客離れが起きている。有利子負債の削減など、財務体質の改善が遅れているし、燃費の良い小型機への切り替えもまだまだ。
さらに退職者への高額の企業年金支払いはそのままで、その会社側負担の手当てに政府融資を当てるというのではアメリカで破綻したGMの労働者天国と同じ構図 だ。こうした負の部分をなくし、妙な高慢ちきをなくすためには、一度潰して、そのへんの一民間企業として出直すほうが早いのではないか。