1970年、赤軍派たちが国内線の日航機を乗っ取った「よど号ハイジャック事件」が発生した。犯人グループと直接交渉を続けた機長と副機長は、最終的に北朝鮮へのフライトを決断したが、当然ながら一筋縄ではいかない。日本政府と日航による離陸阻止の工作、離陸後のよど号をまさかの場所に誘導した“謎の声”、ほぼ不時着に近い北朝鮮での着陸――。大胆な決断と卓越した操縦テクニックで乗員・乗客を守り抜いた機長は、帰国後に「英雄」と呼ばれた。だが、1本のスクープが彼を地に落とす。(2024年03月22日 デイリー新潮から)=文中の年齢、役職、年代表記等は執筆当時。文中敬称略)
石田真二機長 |
羽田発福岡行きの日本航空351便「よど号」がハイジャックされたのは、東京湾上空で旋回し機首を西に向けて安定飛行に入ったときである。
犯人たちは「このままピョンヤンへ行け」と言い、石田機長は「ピョンヤンってどこだ?」と返答した。当時ピョンヤンは平壌(へいじょう)という言葉で認識されていたからだ。コックピットには石田機長の右隣に江崎悌一副操縦士(当時32)が座っていた。その江崎はこう述懐する。
「地図がないというと彼らはレーダーで飛べばいいという。それを聞いたとき、彼らは何も知らないなと思いました。飛行機のレーダーは気象を観測するもので航法には関係がない。飛行機は地上からの誘導で自らの位置を知り着陸できるんです」
江崎は犯人たちに、よど号は国内便なので燃料が足りないこと、また地図等の資料を集める必要があることを話し、いったん福岡に降りることを犯人たちに納得させた。
ハイジャックの赤軍派メンバーはリーダーの田宮高麿(当時27)以下9名だった。後に9名は北朝鮮に亡命し田宮は平成7年に死去、平成13年5月にメンバーの家族(3人の娘)が日本に帰国するが、それはまた別の話である。
よど号の乗員は石田機長以下7名で、乗客は131人だった。
よど号の軌跡 |
犯人たちとのやり取りを比較的冷静に行っていた江崎だが、名古屋の上空でスクランブル(緊急発進)してきた航空自衛隊のF86F戦闘機が視界に入った途端、足が震えて止まらなくなったという。操縦桿を両脚でギュッと挟み込んでその震えを止めようとする。
ふと横を見ると、石田機長は泰然としてたばこを吸っていた。喫煙習慣のない江崎だったが、「僕にも1本ください」と機長からたばこを貰い、気を落ち着けた。
「自衛隊機を見た瞬間、はじめて大事件に巻き込まれていることを認識したんです。これから事件がどう推移していくのか、先行きの不安がどっと押し寄せてきた。自分で解決する自信はまったくなかったですからね。機長はふだんと変わらない様子でした」
石田機長にとっては、その日が奇しくも国内線最後のフライトだった。翌4月1日付けで国際線機長への昇格が決まっていたからだ。
石田は大正12年に秋田市で生まれ、仙台地方航空機乗員養成所を経て、陸軍特別航空輸送部に入った。戦時中は重爆撃機で東南アジアへの輸送任務に当たったほか、特攻隊員の夜間操縦訓練の指導も行っていた。日航への入社は昭和31年。よど号と同型機では最古参機長の1人であり、操縦術には定評があった。
よど号は福岡板付空港で給油を行ったのち、午後1時59分、北朝鮮へ向けて飛び立った。乗客の安全を優先しすぐにでも北朝鮮へ向かいたい機長の意向とは裏腹に、政府や日航は事件を国内で解決したがっていた。江崎によれば、福岡ではあからさまな離陸阻止の工作が行われた。
給油は手動で時間をかけて行われ、不具合部品の交換を打診され、自衛隊機が滑走路を塞いで離陸を阻止しようとした。渡された北朝鮮の地図はまるで中学生用の白地図で、平壌という地名に赤鉛筆で丸が付いているだけのものだった。
それを見た石田機長は「これで飛べというのか」と呆れ顔だったという。よど号は離陸したが、実は管制塔からは離陸の許可が出ていなかった。「これ以上、時間稼ぎをすると、犯人たちが怒りを暴発させ、乗客、乗員の生命にかかわる」。こう判断した機長独断での離陸だった。
この北朝鮮行きが、後に石田機長の処遇に影響することになる。
機は洋上に出て朝鮮半島へ向け北上、やがて北緯38度線を越えたあたりで「こちらピョンヤン・アプローチ・コントロール(進入管制)」との応答があり、よど号は西に進路を変え、スクランブルの戦闘機に誘導されるようにして空港に降り立った。しかしそこは平壌ではなく、韓国の金浦(キンポ)空港だった。
犯人たちは最初そこをピョンヤンの空港だと思い込んでいたが、仲間の1人が滑走路にアメリカの旅客機が止まっているのを見て金浦空港だと見破り激昂した。
「騙すつもりだったのか」と詰め寄る犯人たちに江崎は、「私たちは誘導されただけだ。おまえたちも管制塔との交信を聞いていただろう?」と言ってなんとかなだめた。
誰がよど号を金浦空港に導いたのか。これは現在でも謎となっている。平成18年、韓国が外交文書の中で「老練な機長の計画的な自意(自発的意思)による着陸」だったと明かしたが、石田機長は「平壌だと思って着陸した」と否定した。江崎も「乗務員の判断で韓国に着陸するような余裕はまったくなかった」という。
ただし江崎は、近付いてきた戦闘機の尾翼に韓国空軍のマークがあったこと、管制塔の声が流暢な英語であったこと、交信に使われた周波数が共産圏では通用しないものだったことなどから、着陸する前にそこが金浦だと気づいていたという。だがいずれにせよ、よど号は管制塔の声に誘導されて金浦空港に降り立ったのである。
金浦空港では4日間に及ぶ交渉の結果、日本から駆け付けた山村新治郎運輸政務次官が身代わりとなり、午後3時頃に乗客の人質全員が解放された。
コックピットには安堵の空気が流れた。あとはハイジャック犯を北朝鮮へ運ぶだけである。夕刻、石田機長は江崎に「行くぞ」と声をかけた。出発は翌朝だと思い、座席で仮眠をとろうとしていた江崎はその声に驚いて飛び起きた。
このピョンヤンへの最後の飛行が江崎を最も震撼させたという。日没間際に、目的地の空港の場所も天候もわからないまま有視界飛行で向かうというのは、あまりにも無謀に思えたのである。しかし機長の決定は絶対なので、反対はできなかった。
平壌上空に達したとき、すでに地上は薄暮に包まれていた。街の灯りは見えるが、飛行場は見えない。上空を一蹴したが見つからず(じつはピョンヤンの国際空港は平壌から40キロ北に離れた順安にあった)、不法侵入なのに戦闘機のスクランブルも来ない。そうこうするうち、日が暮れかかる。
仕方なく、農道が滑走路を横切っているような小さな飛行場が見つかったので、そこに降りることにした。暗くなり時間がなくなったため、ローパス(滑走路の状況を確認するため低空飛行で一度通過すること)もできない。不時着に近い着地だった。設置の瞬間、機体は車輪が吹き飛ばされそうなほど揺れたという。
北朝鮮では簡単な尋問があり、乗務員と山村政務次官は翌々日解放された。彼らはでこぼこの滑走路から日本に向けて飛び立った。よく見れば、滑走路の表面が割れて車輪が半ば沈みかけてしまうような、ボロボロの飛行場だった。
この歴史に残るハイジャック事件では、乗客、乗員全員の無事が確保された。もし石田機長でなかったら事件はこのように解決しただろうか?
その問いに江崎は、乗務員がこのコンビだったからこそ事件がスムーズに解決できたのではないか、と語る。どちらかというと実務的な江崎と比べて、機長は口数が少なく大らかで豪放磊落なタイプ、肝心なこと以外は人任せにすることが多かった。
少なくともそのことが、江崎の仕事を迅速にさせた。機長は犯人たちとの交渉や管制塔とのやり取りなどをすべて副操縦士である江崎に任せ、自らは最終的な決断だけを下していたという。
「もし機長が、なんでも自分できっちりやるというタイプだったら、全てを抱え込んでしまい、あれほど事がスムーズに進まなかったのではないでしょうか」と江崎はいう。
もとより北朝鮮への飛行は石田機長の強い意志があったからで、名も知れぬ滑走路への着陸も機長の操縦の腕があってこそだった。もし福岡の空港や金浦空港で北朝鮮へ行くことに躊躇していたら、事態はもっと膠着し混迷を極めたかもしれなかった。
乗客に犠牲者が出た可能性もある。当然ながら、福岡でも金浦でも、地上の対策本部は、テロリストの拘束もしくは射殺を狙って、時間稼ぎをしながら、機動隊や特殊部隊の突入を考えていたからである。
羽田空港に無事帰還した石田機長は英雄として 迎えられお立ち台に立った |
空港に出迎えるクルーの家族たちの笑顔。なかでも石田機長の帰還は晴れがましく報道された。神奈川・藤沢の自宅でくつろぐ和服姿の機長の写真が、翌朝の朝刊紙面を飾ったほどである。
大勢の報道陣と関係者が“英雄”を出迎えた |
よど号が帰還した朝、当時「週刊女性」の記者だった高田幸一(仮名)は、その様子を徹夜明けの立ち食い蕎麦屋のラジオで聞いていた。
特ダネを拾って来るいわゆる“トップ屋”だった高田は、さして感興も覚えずそのニュースを聞いていたが、数日後、英雄である石田機長に関する一つの情報を耳にして血が騒ぎ出す。それは「“英雄気取り”の機長の陰に、捨てられたかわいそうな女がいる」という話だった。
これはスクープになると直感した高田は、その女性を探し始めた。情報によれば、石田機長はもう3年ほど前から自宅に帰らず、横浜でバーを経営する愛人と暮らしていた。しかし帰還後、英雄が愛人宅に戻るわけにもいかず、本妻のいる自宅に帰宅した。愛人は石田機長の同僚たちから身を隠すようにいわれ、店を閉めさせられて親戚の家を転々としている――。
「彼女は2人が暮らしていたアパートには不在で、市役所の戸籍の附票を追いながら、なんとか探し当てました。当時は今と違って個人情報が比較的オープンだったから、マスコミの人間でも正直に申請すれば、役所は対応してくれた時代でした。だからそんな追跡も可能だったんです」と高田はいう。
“英雄色を好む”ではないが、石田機長は女性にモテる艶福家で、ロスなど海外も含め、他にも数人の愛人がいるとの情報もあったという。
***横浜郊外の路線、アパートの2階に彼女は身を隠していた。最初は玄関の扉も開けてもらえなかったが、何度か通ううちに心を開いてくれるようになった。あまり物が置かれてない部屋には鳥籠がポツンとあり、九官鳥が高田の言葉を真似るようになった。
彼女はポツリポツリ、店に客として来た石田機長と出会ったこと、いずれ離婚して籍を入れると言われたこと、事件以降は会えなくなり店にも出られず生活に困っていることなどを話してくれた。高田は何回かにわけて話を聞き、6ページもの独占手記にまとめた。
記事は「週刊女性」7月25日号に掲載された。タイトルは「緊急特集・英雄が大事か愛が大事か 私には誰も味方がいない! 『よど号』事件で石田機長との愛が崩された○○さん」。
その手記の中にはこんな文面がある。
「しかし、現実はあまりにも私にとって酷薄でした。こんどはあっちへ行け、こんどはこっちへ逃げろ。――たらい回しのように動かされたみじめさ。
いくら、肩身の狭い日陰の身とはいえどうしてそうまでされなくてはいけないのでしょう――世間体、会社の名誉。……
必死にそれを守ろうとする人たちのために、私は虫けらのように振り回されたのでした」
掲載号発売後、編集部には「国民の英雄を貶めるとは何事だ」と右翼を名乗る人物などから抗議電話がかかってきた。女性の身の安全を図るため、高田は、当時、知己を得ていた、各界に顔の利く、ある作詞家を頼る。
あの有名な「月光仮面」を作詞し、近年では森進一の「おふくろさん」騒動でも話題になった、大物作詞家、川内康範(故人)である。高田は川内氏に頼み込み、一時期彼女をホテルニュージャパンに匿ってもらったりもしたという。
政界、芸能界の黒幕だった川内康範 |
川内 康範(かわうち こうはん) 1920年(大正9年)2月26日 - 2008年(平成20年)4月6日
作詞家、脚本家、政治評論家、作家。本名は川内 潔(かわうち きよし)。北海道函館市出身。
小学校を卒業後、様々な職業を転々とする。新聞配達をしながら日活の撮影所に入社。その後東宝の演劇部、撮影所の脚本部などで仕事。東宝を退社後、新東宝やテレビなどの脚本家、浅草の軽演劇の劇作家として本格的な活動を開始したが、召集令状を受け横須賀海兵団に入団。
戦後、映画の原作脚本を手がけた。原作と脚本を手がけたテレビドラマの『月光仮面』(昭和33年)は有名。その後は作詞活動を始め、「誰よりも君を愛す」、「君こそわが命」、「骨まで愛して」、「恍惚のブルース」、「花と蝶」、「伊勢佐木町ブルース」、「おふくろさん」など数多くのヒット曲を送り出した。
2007年(平成19年)2月、川内は歌手の森進一に対し今後自作曲の歌唱禁止を通告する会見を開き、いわゆる「おふくろさん騒動」が勃発し数十年ぶりに時の人となった。この騒動は新聞の社説にまで取り上げられた。一方、政界で、国民新党顧問に就任するなど、もっぱら裏方として「暗躍」、金にまつわる話題も多かった。
2008年(平成20年)4月6日、居住地であった青森県八戸市の病院にて88歳で没した。死因は、慢性気管支肺炎。
◇ ◇ ◇記事の反響は大きかった。各誌も一斉に後を追った。読者は憤慨し、英雄は一転して「家庭を顧みず愛人も捨てるような身勝手な男」に転落してしまった……。
よど号事件から2年後の昭和47年の秋、石田機長は日航を退職した。愛人騒動が冷めかけたころ、再び新たな愛人
石田は階の違う本宅と愛人宅を行き来する生活を送っていたが、やがて愛人との間でケンカが絶えなくなる。妻をも交えた刃傷トラブルが警察沙汰になり、これが報道されるにあたって、石田機長は会社から退職を勧告されたのである。乗務するために向かった 羽田のオペレーションセンターでの、いきなりの通告だった。
「辞める必要なんてなかったけど、会社が辞めてくれというから一本気に辞めてやると言ってしまった。私に反発するパイロットもいてね。今思えば残念でした」(「週刊新潮」99年8月12・19日号)と石田機長は後に語っている。
パイロットといえば当時は高給取りの代名詞で、花形の職業である。退職勧告は度重なる女性スキャンダルに会社側が愛想を尽かした格好だったが、その背景には、よど号事件をめぐる上層部との確執もあったようだ。
石田機長にすれば、乗客の安全を第一に考え、犯人側の要求どおりに北朝鮮に向かったのだが、会社側は当初から国内でよど号事件を解決するつもりだった。そのため機長の行動を苦々しく思っている幹部もいたのである。
退職後、石田機長の人生は、文字通流転の人生となった――。
家族とともに大阪府岸和田市に移った石田は、知り合いの紹介で大阪の建設会社の自家用飛行機の専属パイロットを務めた。その後、札幌に単身赴任して不動産会社の専属パイロットとなった。操るのは、旅客機ではなく小型のセスナ機。客を乗せて上空から土地を見せるのが仕事だった。
その後、岡山に戻りビーチクラフト機販売会社の営業マンになったが、いずれも一年契約であったり会社が倒産したりで、勤めは長く続かなかった。
岡山市内で自家製の漬物屋を開業した(1977年撮影) |
銀行から金を借りて小屋を改造し、石田は見よう見まねで漬物を始めた。漬けるのはもっぱら彼の仕事で、女性が地元スーパーの一角を借りて販売を担当した。朝6時から夜11時まで、1人でもくもくと漬物をつくり続ける日々である。
「漬物石は重いし、とにかく重労働だった。軌道に乗りかけたこともあったけど、儲かる商売じゃない。資金が足りなくて、夜、種鶏場のアルバイトをしたこともありました」(「週刊新潮」同号)と、石田は語っている。
漬物屋は約8年続いたが、赤字続きで借金は増えるばかり。やがて女性は生命保険の営業ウーマンとして働きだし、石田に別れ話を持ちだした。
ちょうどその頃、病魔が彼を襲った。違和感を覚えていた喉に、ガン(舌ガン)が見つかったのだ。石田は阪大で手術を受けた。歯を全部抜き、舌先の一部を切り取るという大手術だった。命は取りとめたが、以後しゃべることが少し不自由になった。
病に倒れ、女性とも別れ1人となった機長に、救いの手を差し伸べたのは家族だった。長年、家を出たきりで、家族を顧みることもなかった父親だったが、娘たちが家に戻るよう説得したのである。そうして昭和61年、石田はようやく家族の元へ戻った。
すでに63歳になっていた。
南海電鉄春木駅を降りて北へ少し歩くと、低層の棟が建ち並ぶ府営住宅がある。岸和田競輪場に近いその府営住宅の一室に、石田は晩年、妻と次女の3人で暮らしていた。
「ああ、石田機長ね。この辺の人はあの有名な『よど号』の機長だってことを、皆知っていましたよ。近所づきあいは少なくて、言葉が不自由らしくて、あまり喋らなかったけれど。背の高い方で、病気の奥さんを助けながら、静かに暮らしていましたよ」
団地の住人の1人はそう語る。
岸和田に帰り体調が安定すると、石田は家族に迷惑をかけたからと、警備員のアルバイトを始めた。週6日、夜9時から朝9時まで、12時間勤務の夜警である。昼の勤務だと酒を飲んでしまうので、あえて夜警にしたのだという。
新聞のチラシで募集を見つけ、警備会社に履歴書を持っていくと、「あの『よど号』の機長がなぜ?」と驚かれたというが、結局78歳まで働き続けた。糖尿病のためインシュリンの注射を毎日打ちながらの勤務だった。
その仕事も引退し、妻に先立たれてから自転車に乗り、近所の居酒屋に出かけるという日々を送っていた。行きつけの店は、駅前近くにある『Y』という小料理屋。その店のママはこう語る。
「“機長”は最後まで誇りというか、プライドを持った方でしたね。とてもお洒落で、店に来るときはいつもきれいなシャツにネクタイ、ダイヤが入ったカフスボタンをしていました。出かける前にはいつも風呂に入って、下着を取替え、靴をピカピカに磨くのだと言っていました。機長時代からの習慣だったそうです。
おおらかだけれども、頑固なところもある、男らしい人でしたよ。よど号事件のことはあまり話さなかったけれど、一度、『もしあの事件がなかったら?』と尋ねたことがあります。すると機長は『それはそれでいいじゃないか』と言い、自ら下した決断と人生に、悔いはないと話していました。また最後まで枯れず、『いつまでも女性を好きじゃないと、男はダメだ』と言っていました。ただ飛行機が好きなので、飛行機に乗れなくなったことは残念に思っているようでしたね」
妻が亡くなって以降、次女が勤めを辞め石田の面倒を見るようになった。冷たくされても当たり前の娘たちから親切にされることに、彼は感謝していたという。趣味は金魚を飼うことで、部屋には10個ほどの水槽があり、こまめに世話をしていた。
平成8年には、よど号の機体がアメリカでVIP用のチャーター機として使用されていることが判明し、テレビ番組の企画で渡米、よど号に再会して試験飛行中に操縦桿を握るという体験もした。
平成17年に心不全に倒れ、入院した際に肺にガンが見つかった。娘たちは本人に告知せず、自宅で療養していたが、翌年8月、83歳で亡くなった。病院のベッドで眠っているときも、まるで操縦桿を握っているかのように、両腕を上に上げる仕草をしていたという。
石田機長は自らの後半生をどのように語っていたのか。雑誌のいわゆる「あの人は今」欄に何回か登場した彼は、「身から出た錆だからしょうがない」と語ることが多かった。
だが、女性関係のトラブルは彼自身が言うように自らが蒔いた種だとしても、人生が転換するきっかけとなったのは、やはり「よど号」事件だった。その事件がなければ愛人がいても表沙汰にはならず、あくまでも家庭内の問題で終わっていたはずなのだ。とすれば、彼もまた紛れもなく「よど号」犯たちの被害者の1人だった。
そしてその責任の一端は、英雄が笑顔の家族に出迎えられるという型どおりの「美談」を期待していた国民の側にもあったのかもしれない。少なくとも、日航本社はそう考え、世間体を必要以上に気にしたフシがある。
関係者によれば、石田機長はそんなことを全く気にしていなかった。北朝鮮からの帰還後、愛人宅に戻れなかったのも、また愛人が身を隠すことを余儀なくされたのも、すべては会社の看板に傷がつかないことを重んじた日航の意向によるところが大きかったという。
昭和という時代もまた、英雄に品行を求めていた。結果的に、石田機長はその期待に応えさせられ、自らを数奇な人生に追いこんでしまったのだ。
だからといって、彼が不幸になってしまったとは言い切れない。共に危機を乗り越えた同僚の江崎はこんなふうに言うのだ。
「もともと石田さんは、好きな酒を我慢してまで、出世しようとするようなタイプの人ではなかった。引く時はパッと引き、わが道を行くタイプ。いろいろあったけれど、彼は彼なりに、人生を楽しんだのではないでしょうか」
英雄の後半生がどうであれ、よど号の乗客を無事に解放させ、機体を損傷することなく無事に帰還させた機長の手腕は、いまも歴史上に消えることなく残っている。 (了)
上條昌史(かみじょうまさし)
ノンフィクション・ライター。1961年東京都生まれ。慶應義塾大学文学部中退。編集プロダクションを経てフリーに。事件、政治、ビジネスなど幅広い分野で執筆活動を行う。共著に『殺人者はそこにいる』など。