日航ジャンボ機御巣鷹山墜落現場の黒澤丈夫・上野村村長は零戦乗りの「一廉(かど)の人物」

日航ジャンボ機墜落事故のとき、村長として救難作業をサポート、その後は村挙げて慰霊につとめた群馬県上野村の村長、黒澤丈夫はジャンボとは機種こそ違うものの同じ飛行機乗りで「旧海軍を代表する零戦隊指揮官」だった。その人生をたどったルポが2024年5月21日の現代ビジネスに掲載された。=カメラマンでありノンフィクション作家の神立尚紀氏の『決定版 零戦 最後の証言1』(光人社NF文庫)から=

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来年(2025年)は「戦後80年」、そして「昭和100年」にあたる。太平洋戦争(大東亜戦争)の第一線で戦った将兵は概ね明治末期から昭和初年までに生まれた人たちだったが、約230万人が戦死、民間人の犠牲者を合わせると310万人もが犠牲になったとされている。

そして、戦争を生き抜いたその世代の人たちは、価値観の一変した世の中に戸惑いながらも、さまざまな分野で戦後の日本復興の礎となった。

黒澤村長
黒澤丈夫・上野村村長(村長室で)
旧海軍を代表する零戦隊指揮官の1人で、戦後は郷里・群馬県上野村村長となり、1985年8月12日、村内に日航ジャンボ機が墜落した際にはパイロットとしての経験を活かし地元首長として救難作業をサポートした黒澤丈夫氏の「戦後」について紹介しよう。

昭和60年8月12日、羽田発大阪行きの日本航空123便ボーイング747SR(ジャンボ機)が消息を絶ち、群馬県多野郡上野村の山中に墜落、乗員乗客524人中520人が亡くなるという、わが国の航空史上最悪の事故が起こった。

翌8月13日になって墜落地点が判明すると、空陸より現地入りした報道陣によるリアルタイムの報道合戦が展開されたが、そのなかで、現場となった上野村長の事故への対応のあざやかさ、救難指揮の見事さが話題を呼ぶようになっていた。

村長の名は黒澤丈夫(1913‐2011)。大戦中は海軍戦闘機隊を代表する指揮官の1人として開戦劈頭(へきとう)のフィリピンの米軍基地空襲、蘭印(現・インドネシア)航空戦で連合軍戦闘機を圧倒するなど、主に南西方面(東南アジア〜西部ニューギニア)を転戦。日本軍が優勢であった緒戦期のみならず、戦争末期にいたるまで、精鋭部隊を率いて出色の戦果を挙げ続けた人である。

黒澤は大正2(1913)年12月23日、群馬県の最西南端に位置する多野郡上野村乙父(おっち)に生まれた。上野村は、南は埼玉県秩父、西は長野県南佐久に隣接する。御荷鉾・荒船連山や三国連山など1000〜2000メートル級の山々に囲まれ、険しい山野が村の総面積186.86平方キロの90パーセントを占める峡谷型の山村である。集落は、村のやや北寄りを東西に流れる利根川水系の神流川に沿った谷あいに点在しているが、昭和初期すでに「日本のチベット」と呼ばれていたというほど、交通不便な山奥の僻地だった。

「当時は教育も生活も、いまでは考えられないほど地域差が激しく、私の生まれた上野村は、活字というと学校の教科書でしか読む機会のないような遅れた村でした。しかし、四季は変化に富んで美しく、周囲には広い遊びの天地が待っている。私はこの自然に囲まれた土地で、遊びたい放題の自然児として育ちました」

大正15(1926)年4月、黒澤は県立富岡中学校に進学した。わずか30数キロ離れた富岡に出ただけでも、見るもの聞くもの食べるものすべてがめずらしく、上野村とはまったく異なる文明社会に驚くばかりだったという。4年生のとき、将来は大学に進んで医者になろうと松本高等学校を受験するが失敗。5年生になった頃、「海軍兵学校の入試案内が来ているが、誰か受けてみんか」との教師の呼びかけに興味を持ち、海軍将校になろうと決心した。1年の浪人ののち、昭和7(1932)年4月、広島県江田島の海軍兵学校に六十三期生として入校する。

「入校式では、校長の松下元少将が訓示で、兵学校教育の目標について『科学者たる武人を養成するにあり』と明言されたのが印象的でした。海軍兵科将校は、単なる文武の人ではなく、科学の知識を備え、その粋を集めた兵器を合理的に活用できなければならない。精神偏重ではなく、科学に根拠をおいた教育が主であったことはぜひ知ってもらいたいところですね」

九六式艦上戦闘機と
昭和16年、九六式艦上戦闘機とともに
(朝鮮・元山海軍航空隊時代)
そして海軍兵学校を卒業した黒澤は、遠洋航海でアメリカに行き、帰国すると重巡洋艦「摩耶」、駆逐艦「天霧」、「夕霧」で勤務したのち、飛行学生となる。そして戦闘機搭乗員となり、昭和16(1941)第三航空隊分隊長として台湾の高雄基地からフィリピンの米軍基地空襲に出撃。さらに翌年にかけ、日本軍の占領地域の拡大とともに零戦を駆って最前線へ移動を重ね、連合軍の戦闘機を相手につねに一方的な勝利を収め続けた。

黒澤少佐
昭和19年、三八一海軍航空隊飛行隊長の頃の黒澤少佐
戦況が悪化した昭和19(1944)年にも、東南アジアの油田地帯防空を担う第三八一海軍航空隊飛行隊長として、米軍の爆撃機に対し、自ら発案した作戦で戦果を挙げている。そして昭和20(1945)年、九州の戦闘機隊を統括する第七十二航空戦隊参謀として終戦を迎えた。

「終戦の動きは、8月10日ぐらいからいろいろな情報が入ってきました。8月15日は、いよいよくるべきものがきたな、と思うと同時に、それまでの犠牲の大きさを思って、戦争の虚しさをしみじみと感じましたよ」

黒澤はこのとき31歳、残された航空記録によると、終戦までの総飛行回数2593回、飛行時間1960時間だった。

部隊の残務処理を終えたのち、10月8日付で海軍省前橋人事部員として転任の辞令が出て、黒澤は、故郷・群馬県の復員業務につくことになった。将兵を郷里に帰し、戦死者の遺骨や遺品を遺族に引き渡し、未帰還者の消息を調査し、海軍の兵器や備品を占領軍に引き渡したりするのがその仕事である。11月30日、陸海軍が解隊、海軍省が第二復員省と名を変えると同時に充員召集を受け、第二復員官という身分で従来通りの勤務を続けることになる。退官し、上野村に帰ったのは昭和21年9月のことだった。

黒澤は、稲、麦、甘藷の生産から農民生活をスタートし、のちに椎茸栽培に手をつけると、徐々に椎茸に力点を移していった。だが、長年にわたり外の世界を見てきた者にとって、故郷とはいえ山村の人たちと心を通わせるのは容易なことではなかったという。

「戦後政治はしきりに民主化を叫んでいるが、村の社会は民主化などおかまいなく、少数の者たちの意志だけで動いている。この陋習を打破しなければ、幸福を求めてみんなで協力することなどできません。政治に携わっている人たちを見ても、あまりに事大主義で地域振興に対する熱意がとぼしい。これでは、上野村の属する奥多野の振興は望めない。

こんな不満がつのり、昭和30(1955)年、群馬県会議員選挙に立候補したんですが次点で敗れ、地元票の大きさを知るとともに、人口の少ない上野村からの立候補は無理だと悟りました。しかし、一度そうやって目立つ政治的行動をすると、周囲は注目して相談を持ち込んでくるようになります。いっぽう、上野村の村政は腐敗していて、財政も人心もすさんでしまい、これではいけない、と。それで昭和40(1965)年、村長のリコールにより、自ら村長選挙に立候補したんです」

黒澤は昭和40年6月14日、上野村村長に就任したが、上野村の抱えていた問題は予想以上に深刻なものだった。

その第一は、村政の財政執行が予算を無視した丼勘定で扱われていて、歳入も歳出も明確につかめない状態であった上に、多額の赤字を抱えていたこと。次に、村外で相次いで起こった村民による犯罪行為、そして若者の人口が急減していくことだった。

「私は村政も経営だととらえ、まずは緊縮財政を宣言し、村民から不評を買ってもそれを押し通しました。それと、村民による犯罪行為については、己と己の出身地である上野村に誇りが持てないから抵抗なく悪事を働くのだと気づき、道徳教育をなんとかしなければと考えました。

私は、わが上野村民にも誇りをもってもらえるよう、『栄光ある上野村の建設』をスローガンに、村民が誇りに感じ、他からは模範にされる上野村をつくりましょう、と呼びかけました。具体的には、『健康水準の高い村に、道徳水準の高い村に、知識水準の高い村に、経済的に豊かな村にしていこう』と。

確かに、物質文明的な尺度で見れば恵まれない点は多く、何ごとも後まわしにされ、『日本のチベット』などと蔑視されていれば、心がひねくれて誇りも失いがちになるでしょうが、人間だれしも長所、美点を指摘して激励すれば、しだいにその気になって努力するようになるんじゃないか。私はそこに期待したんです」

村民の健康面については、専門医の指導を受け、昭和42(1967)年から成人病対策として、減塩をはじめとする食生活の改善を推進した。これはまだ「成人病」という言葉自体が耳慣れないものであった当時、自治体の取り組みとしては草分け的なものだった。さらに、当時の村では家の母屋の外に風呂や便所があるのがふつうで、寒い冬など、それが脳溢血や心臓麻痺の原因になることから、「内便所設置条例」を制定、補助金を出して改めるようにした。

さらに、昭和43(1968)年からは、村外より医師を招き、40歳以上の全村民を対象に、3年に1度の健康診断を村の予算で行うようにした。これらの施策の効果はてきめんで、村民の脳卒中の発生率が10年で4分の1になったという。

道徳教育についても同様で、黒澤が就任して数年後には、群馬県内でもっとも犯罪発生率の低い村になった。知識水準についても、小中学校にいちはやくコンピューターを導入、英語教育にカナダ人教師を招聘し、さらに中学3年生の全員を対象にカナダへの研修旅行を実施するなど、過疎の村の悩みである人口の少なさを逆手にとって、都市部では実行がむずかしいようなきめ細かな施策を次々と実行に移した。

「都会の子供は、大学まで行ってレッテルを貼ってもらうのに必死で、そのために小学校から塾通いでしょう。世界が狭まり、子供のときから、友達が友達じゃなく競争相手になっちゃう。すると、素直ないい子ほど学校がいやになる。だから、海外に出してたとえ10日間でも外から日本を見る体験をさせる、この効果は大きいですよ。私も、上野村から富岡中学に進んだだけで世界が変わった。そして遠洋航海でアメリカに行って視界が開けた。そんな経験をしていますからね」

経済面では、黒澤が先頭に立って産業振興に力を入れ、猪と豚をかけあわせた「イノブタ」畜産、味噌作り、木工業など、地域性を活かした産業を次々と興した。レジャー産業も必要だということで、国民宿舎「やまびこ荘」を建設した。

昭和60(1985)年、この年の6月は、黒澤の村長として5期めの任期が終わるときであった。このとき、引き続き立候補するにあたって、妻・妙子が相談に行った僧侶が、「あなたの旦那さんは、今年、世界的な事件に遭遇する」と、予言めいたことを口にしたという。

黒澤が打ち出した数々の施策をもってしても若年人口の流出は止めることができず、昭和40年、村長就任時に3500人いた人口は、6期めを迎えた昭和60年には1968人にまで減少している。黒澤は71歳になっていた。

8月12日、黒澤が出張先の東京から帰って、自宅で服を脱ぎながらテレビをチラッと見たとき、航空機墜落事故発生のニュース速報のテロップが流れた。さらにそれが524名が搭乗する大事故であることを知ってチャンネルをNHKにかえ、続報に耳を傾けていると、だんだん事故が上野村の近くで発生しているらしいことがわかってきた。

午後10時すぎ、群馬県警の河村一男本部長から、黒澤の自宅に電話が入る。それは、「長野県警から、捜索したが長野県内には墜落していない、群馬県側に墜落の公算が高いとの連絡があった。明日早朝、機動隊員約千五百名を上野村に送り込むから協力を頼む」

というものだった。この瞬間から、黒澤の事故対策が始まった。

頭上を飛行機やヘリコプターが飛び交い、墜落現場が近いことをうかがわせる。黒澤は、村役場に電話で県警からの協力要請があったことを伝え、全職員に非常呼集をかけて役場で待機するよう指示を出した。夜11時過ぎ、黒澤も翌朝早く出勤することにして、いまは休養しておこうと床についたものの、海軍時代にしばしば遭遇した航空機事故の悲惨な情景が瞼に浮かんでなかなか眠れない。

自宅から神流川をはさんだ国道を走る車や、頭上を飛ぶ航空機の騒音がさらに激しくなるなか、浅い仮眠をとって13日の朝を迎え、午前4時には娘の運転する車で役場に登庁した。日の出まではあと1時間あり、辺りは暗かった。県警の機動隊はすでに役場に到着していたが、まだ墜落現場をつかめないでいた。

役場に着いて2、30分も経つと、だんだん空が白み始める。夜が明けると、ヘリコプターから撮影した事故現場の状況がテレビに映し出された。これを見た黒澤は、山の形や樹木の様子から、

「ああ、本谷(神流川の源流)の国有林のなかの植林地だ」

と直感した。村役場の南西、直線距離にすると約10キロのところだが、地元の住民ですら誰も足を踏み入れることのないような峻険な尾根である。墜落現場が判明すると、機動隊や陸上自衛隊の救助救難関係者が続々と村内になだれ込んでくる。報道関係者も大勢押し寄せて、2000名足らずの村の人口はあっという間に倍以上にふくらんだ。

村役場の2階に県警の日航機事故対策本部が置かれ、河村本部長が自ら指揮をとることになった。役場から東に1キロの上野小学校には、陸上自衛隊第12師団の司令部が置かれた。指揮系統が混乱するのを防ぐため、黒澤は、救難作業の主役である機動隊、自衛隊のサポートに徹することにした。まずは消防団員を3、4名ずつの数班に分け、救難部隊の道案内にあたらせる。午前4時半には早くも、救難部隊の第一陣が村役場を出発した。

上野村に飲食できる場所はほとんどないから、救難や報道で村に入った数千人の人たちに提供する食糧の用意を役場がしなければならない。朝の早いうちから、職員が手分けして役場庁舎を兼ねる村民会館の炊事施設を使って昼食の準備を始めたが、とても足りない。村の女性たちに頼んで、上野小学校の学校給食の設備を使いおむすびを作ってもらうが、それでも足りそうにないので高崎市内の弁当業者に発注する。

黒澤は、村としてなすべきことに逐一、指示を飛ばしながら、状況を見極めようとつとめた。そこへ、生存者がいたというニュースが入ってきた。

8月13日の上野村は、激しい混乱のなかで救難作業が始まり、暮れていった。

夕刻、腹をすかせて役場に帰ってきた消防団員に聞くと、現場一帯は墜落の衝撃で四散した遺体が散らばり、その惨状は目を覆うほどで鬼気迫るものがあったという。そんななか、4名の生存者がいたことは奇跡に思えた。

現場
墜落現場はこのように峻険な場所だった
現場近くの4〜5キロは道もなく、地形も険しい。山に野宿した村民たちが現場近くの木を伐採して仮設のヘリ発着場を作ったが、2ヘクタールを超える範囲に飛び散った遺体の収容作業は難航し、9月になっても続いた。

「うちの村に墜落したのもなにかの縁だ。精一杯、できる限り犠牲者の霊を弔おう」

と、黒澤は決意した。村民たちも、いわば降って湧いた災難であるにもかかわらず、進んで救難、遺体収容の作業につき、あるいは現地に入る遺族の世話をした。いつしか上野村の事故に対する水際だった対応は世間の話題に上るようになり、村長がかつて零戦隊の指揮官であったことが週刊誌の記事で紹介されるようにもなった。

「いちばん思うのは、迷走中の30分。特攻隊もそうだが、考える時間があるのは、むしろむごいと思う。目前の死を待つしかなかった乗客、乗員たちの心情を思うと、ほんとにやるせないですよ。

現場で
昭和60年8月、日航ジャンボ機墜落事故現場で。
右から黒澤上野村村長、小寺弘之群馬県知事、山口上野村村会議長
事故のとき、救難作業をしながら私が考えたのは、『陰徳』という言葉があるように、われわれは口が裂けても恩着せがましいことは言うまい、ということです。幸い、村民の皆さんもそういう気持ちで対処してくれたから、遺族の方々もだんだん上野村に親しみを感じてくれるようになりました。村議会も、『村長、うちは日航に金を出せとか、恥ずかしいことは言わないでくれ』と言ってくれましたね」

事故処理が一段落つくと、上野村には別の角度からの責務が課せられていた。それは、身元不明の遺体の葬送をすることであった。

当時の新聞報道などでは、1人をのぞき全員の身元確認がなされたように報道されたため、ほとんどの遺体が遺族のもとへ還ったように理解されがちだが、実際には、遺体が完全な形で遺族のもとへ還った人は192人にすぎない。

「慰霊の園」
黒澤村長が奔走して完成した「慰霊の園」
残る328人は、墜落の衝撃で体が飛散して一部しか確認できず、大部分は上野村に移管され、葬送されることになった。上野村では、520人すべての霊を供養する道徳的立場から、墜落現場の御巣鷹の尾根を聖地として守り、村の中央付近に墓所を建設することとし、自身が理事長の財団法人「慰霊の園」を設立、日航、群馬県、そして一般からの浄財に村予算を加えて事故の翌年には慰霊施設を完成させた。また高齢の遺族が、険しい山道を事故現場まで慰霊登山していく後姿を見、関係機関と調整し、山の国有林であり保有林である御巣鷹の尾根に登山道を作るなど奔走した。

事故処理も峠を越えた昭和60年10月30日、黒澤は天皇主催の秋の園遊会に招待された。

「『事故のあとはどうなっているか』というようなお言葉だったと記憶しています。私は、答える前に涙が出そうになってね、かろうじてお答え申し上げたんですが。

戦争中、私は軍人だったが、天皇は神であるというような考え方にはついていけなかった。要は、国民のかたまりが天皇と思えばいいんだ、と。国家という、依存すべき社会を守るためにわれわれは戦うんだと。」

「陛下(昭和天皇)は、ほんとうに『私』ということをお考えにならない。接してみるとその人格が伝わってきて、尊敬の念が自然と湧いてくるし、畏れさえ感じます。指揮官にしても、政治家にしても、人の上に立つ人の条件は『無私』ということです。もちろん、私心が全くゼロでは生きられないし、昭和天皇のようにはなかなかいきませんが、身を捨ててでも周囲をたすける気持ちがないといけません。」

「海軍では、山本五十六大将、竹中龍造中将、大西瀧治郎中将はそういう人だった。なかでも大西中将は、特攻というむごい作戦をしても、それでも部下がついてきたばかりか、いまでも慕っている旧部下が多いのはそのせいですよ。逆に、戦前の連合艦隊司令長官・永野修身大将など、自分の故郷に錦を飾るために艦隊を土佐湾に入港させた、それだけでわれわれ青年将校の信頼を失ったということもあったんです。」

「ひるがえって、昨今の自治体首長や政治家をみると、やれ賄賂だ選挙違反だと、あんなのが社会のリーダーだというのは情けない。私自身の目標として、首長に必要なのは、私心がないこと、やる気があること、指揮統率力があること、その三点だと思っています」

引退
上野村役場を後にする黒沢丈夫村長
平成17(2005)、91歳の黒澤は、6月の任期切れを最後に村長を引退、後進に道を譲ることを宣言した。村長としての在任期間は10期40年におよび、日本の地方自治体首長として最高齢だった。

黒澤が、引退を決意した理由として私に話したことの第一は、高齢となり、足腰が弱って、日航機事故の慰霊祭が行われる御巣鷹の尾根へ自力で登ることができなくなったことだった。いかにも黒澤らしいなと、私はそのとき思った。

黒澤は以後、いっさいの公の場から身を引くが、それでも最後まで、上野村では「村長」と親しみを込めて呼ばれていた。

平成23年12月22日、死去。享年97。98歳の誕生日を翌日に控えていた。黒澤の訃報は、24日の新聞各紙やテレビニュースでいっせいに報じられたが、亡くなってから1日おいての発表は、23日――この日は黒澤の誕生日でもあるのだが――の天皇誕生日の祝賀気分に水を差すまいという配慮なのではと、近しい人は噂しあった。

黒澤の葬送は近親者のみで行い、翌平成24(2012)年1月22日、上野村立上野中学校の体育館黒澤家・上野村合同葬として福田康夫元総理や自衛隊幹部、日本航空関係者など、580人が列席して盛大に執り行われた。焼香のとき、私の前に並んだ村の人が、

「これで上野村の一時代が終わったということだな」

と寂しげに話していたのが心に残った。