大使館占拠・ハイジャックに狂奔した「日本赤軍」の面々



日本赤軍誕生までの過激派の有為転変 日本赤軍が台頭した思想的背景

1960年代に盛り上がった学生運動では、セクトと呼ばれる政治グループがつくられ、それぞれ勢力を伸ばそうと活動を展開していた。日本赤軍の重信房子元最高幹部に関わりがあった赤軍派は当時最も過激な集団といわれた。

赤軍派が結成されたのは昭和44年、各地の大学で紛争が起こっていたが、警察の鎮圧作戦が展開され、学生運動は行き詰まりを見せ始めていた。「警察に対抗するにはもっと武装すべきだ」といった主張などを背景に登場したのが、赤軍派だ。

赤軍派を含むセクトは、共産党とは一線を画す政治集団として新左翼と呼ばれる。その代表的なグループが共産主義者同盟(ブント)。その流れをくむ関西ブントと呼ばれるグループが赤軍派の母体になった。京大、同志社大など、関西の大学出身者らが多かった。メンバーは数百人。トップは塩見孝也議長が務め、重信元最高幹部も加わった。

大菩薩事件
昭和44年11月5日、山梨県の大菩薩峠の山荘「福ちゃん荘」前で
機動隊に一斉逮捕された赤軍派学生ら。これで壊滅に至る。
「武装蜂起」を掲げていた赤軍派は首相官邸を占拠しようと計画する。そのために、昭和44年(1969)11月、山梨県の大菩薩峠にメンバーを集め、軍事訓練を実施する。しかし、その動きを警察に察知され、幹部を含む53人の大勢の逮捕者を出して壊滅的な打撃を受け、弱体化してしまう。

事態を打開する方針として彼らが打ち出したのが、フェニックス計画(よど号事件)だった。国際根拠地をつくり世界革命を実現させるという方針だ。田宮高麿軍事委員長らが主導し45年3月、日航機よど号をハイジャックし北朝鮮へ渡る。以後、彼らは「よど号グループ」と呼ばれることになる。

よど号事件
よど号ハイジャック事件で、福岡空港で日本刀を
かざしながら乗客を釈放する赤軍派グループ=昭和45年3月
よど号事件を受け、国内に残った幹部らは次々と逮捕。国際根拠地建設の名のもとに重信元最高幹部も46年2月、レバノンに出国し、国内では指導的立場にある幹部は、ほとんどいなくなってしまった。

そこで、国内残留組の一部がとった選択は別のセクトとの合併。革命左派と合流し、結成されたのが「連合赤軍」。この連合赤軍が同志殺し、あさま山荘事件を引き起こすことになる。

あさま山荘事件は立てこもりの様子が長時間にわたりテレビ中継され、全国的な注目を集めたが、その後、凄惨なリンチ死事件が発覚。連合赤軍事件は国内の学生運動を一気に沈静化させるほど衝撃的なものだった。

一方、中東にわたった重信元最高幹部は、「日本赤軍」を創設する。

よど号事件
テルアビブのロッド空港(現:ベン・グリオン国際空港)
事件ではイスラエル人24人が死んだ。
世界的な衝撃を与えたのは、47年5月30日に起きたイスラエルのテルアビブの銃乱射事件だ。メンバー3人が銃を乱射し、手榴弾を投げ、空港にいた24人が死亡、76人が重軽傷を負った。

日本赤軍はパレスチナの武装グループ・PFLP(パレスチナ解放人民戦線)と連携しながら、国際テロを実行。拘束されたメンバーの釈放を求めてオランダ・ハーグの仏大使館の占拠などを行った。その後、50年8月にはマレーシアのクアラルンプールの米大使館などを占拠。さらに52年9月のダッカ事件では、パリ発東京行きの日航機をハイジャックする。このとき、日本政府は日本赤軍側の要求を受け入れ「超法規的措置」として収監、勾留していたメンバーの釈放に追い込まれる事態となった。

その後も日本赤軍は、世界各地でテロ事件を起こすが、メンバーは相次ぎ逮捕。さらに、平成12年11月には日本国内で潜伏中だった重信元最高幹部が大阪で逮捕され、勢いを失う。13年、重信元最高幹部は獄中で日本赤軍を解散する声明を発表した。(2022/5/28 産経新聞)


日本赤軍とは

1969(昭和44)年11月、山梨県大菩薩峠での大量検挙によって潰滅状態に陥った赤軍派の重信房子と奥平剛士が71年2月、偽装結婚してパレスチナ入りし、PFLP(パレスチナ解放人民戦線)の庇護、支援の下で1971年2月、海外赤軍派をつくった。当初、アラブ赤軍、赤軍派アラブ委員会といっていたが、74年以降日本赤軍、英語名JRA(Japanese Red Army)を名乗った。

ダッカ事件羽田
イスラエル・ロッド空港で自動小銃を乱射、手榴弾を投げ
26人が死にJRAの2人も自爆した血まみれの現場。
72年5月、岡本公三ら3人によるイスラエル・テルアビブ空港襲撃事件以来、日航ジャンボ機ハイジャック(73年7月)、シンガポール・シェル石油襲撃(74年1月)、クウェート日本大使館占拠事件(同2月)、ハーグ・フランス大使館占拠事件(同9月)、クアラルンプール・アメリカ大使館占拠事件(75年8月)、日航機ハイジャック・ダッカ事件(77年9月)などの事件を起こし、逮捕中の元赤軍派メンバーや東アジア反日武装戦線のメンバー、殺人犯など計12人を奪還。また、ダッカ事件では身代金600万ドルも日本政府から奪った。

81年のイスラエルのレバノン侵攻により、活動が抑え込まれ、84年までレバノン北部のベカー高原にあった本拠からシリア、南レバノンなどに避難して、ダッカ事件後の実力行動はなく、この間、日本国内向けに連帯呼び掛けの文書宣伝活動をつづけた。

【日本赤軍メンバーつぎつぎ逮捕へ】
ダッカ事件羽田
今も各国に指名手配されている日本赤軍
(写真はドイツの日本大使館)
85年5月、テルアビブ空港事件でイスラエルに抑留中の岡本が、イスラエル側とパレスチナ・ゲリラとの捕虜交換で釈放されて復帰した。
86年2月、メンバーの山田義昭が警視庁に出頭して逮捕。
87年1月、ひそかに帰国中だった丸岡修が東京都内で逮捕。丸岡には93年12月、東京地裁で無期懲役の判決。

88年6月、フィリピン・マニラに83年以来住んでいた泉水博も逮捕された。
95年3月、メンバーの浴田由紀子が偽造旅券を使ってルーマニアに入国しようとして身柄を拘束され、日本側に引き渡されて逮捕された。
96年5月31日には国際手配中の吉村和江がペルーで逮捕されて国外退去処分され、6月8日日本に移送されて逮捕された。
2000年11月8日、潜伏中の大阪で逮捕され、懲役20年の判決。2001年4月に重信は獄中から「日本赤軍としての解散宣言」を行った。これに対し海外逃亡中の坂東國男と大道寺あや子は「日本赤軍解散宣言無効宣言」を発表した。

◇ ◇ ◇

奥平 剛士(おくだいら つよし、1945年7月21日 - 1972年5月30日)

奥平剛士
奥平剛士
山口県下関市生まれ。1960年に山口県立下関西高等学校に入学したが、6月に岡山県立岡山朝日高等学校に転校。1964年、京都大学工学部に入学。在学中、日本共産党系の青年団体である日本民主青年同盟の同盟員になっていたが、約半年で民青を辞め、全共闘運動に参加。京大助手だった滝田修のパルチザンの構想に影響を受けた。

国内で目立った動きもなく、警察もノーマークの存在であったが、1971年2月2日、赤軍派の重信房子と偽装結婚。そのあとレバノンのベイルートへ出国。現地では重信と別々のアパートに暮らした後、重信と日本赤軍を創設、ゲリラのキャンプで軍事訓練を受けた。

1972年5月30日に岡本公三、安田安之らとテルアビブ空港乱射事件を起こし、26人を殺害し、73人に重軽傷を負わして、安田と共に死亡した。死因は「空港警備隊との銃撃戦で射殺された」や「安田と共に自爆した」等諸説ある。同じく日本赤軍で国際手配中の奥平純三は弟。

没後の1978年、田畑書店より遺文集『天よ、我に仕事を与えよ』が出版された(タイトルは彼自身の言葉による)。

安田 安之(やすだ やすゆき、1947年 - 1972年5月30日)

安田 安之
安田 安之
1966年、 三重県北勢町生まれ。三重県立四日市高等学校を卒業。同年京都大学工学部建築科へ入学。京大で「武装したパルチザン(遊撃隊)の組織をつくれ!」と主張していた京大経済学部助手・竹本信弘(滝田修)に心酔して京大パルチザンで活動。そのパルチザンの行動隊長が奥平剛士で、安田安之は仲間内では「根性ある実力者」として奥平とともに評価されていた。1970年に大学を休学、1971年9月30日、家族にギリシアへ建築の勉強に行くと言い残して出国。

その時両親に「建築の勉強のためにヨーロッパをまわりたい」と相談、25万円を無心した。海外生活を心配した母親はさらに内緒で15万円を持たせると、「ありがとう。大切に使うからね」と言った。

日本赤軍結成前の1972年1月、レバノンのベイルートで日本赤軍の京大生、山田修が水泳訓練中に溺死したが、その際、安田が一緒に行動していたことが確認されている。また1972年3月に岡本がベイルートに入った際に市内のアパートで初めて安田と会ったことを後に供述している。

1972年5月、ドイツのフランクフルトなど欧州に潜伏した後、同月30日にローマからフランス航空機でテルアビブ空港へ移動してテルアビブ空港乱射事件(死者26人、重軽傷者73人)を起こした。この際、安田が所持していた偽造パスポートは「トリオ・ケン」の名義だった。死因は「空港警備隊との銃撃戦で射殺された」や「奥平と共に自爆した」等諸説あるが、事件の際に奥平と共に死亡した。25歳。

安田の死体は、顔の判別がつかないほど損壊が激しかった。そばに破り捨てられた顔写真が散らばっており、復元して公開したところ家族が名乗り出て素性が判明した。自宅に殺到した報道陣に対し、父親は「息子が憎い」と語り、寝込んだ母親は「死んでよかった」「かわいいとは思わない。憎しみだけの気持ちだ」との気持ちを伝えている。

奥平 純三(おくだいら じゅんぞう、1949年2月9日-- )

奥平 純三
奥平 純三
山口県下関市で生まれ、1969年京都大学工学部に入学し京大パルチザングループに所属する。1973年卒業後に建設会社に勤務するが、足立正生と山本万里子の勧誘に応え、日本赤軍参加。1974年5月に偽造旅券で出国して、9月に和光晴生らと共にハーグ事件に参加し警察官2人に発砲、1975年のクアラルンプール事件ほか多くに関わった。日本赤軍最高幹部でテルアビブ空港乱射事件で死亡した奥平剛士は次兄。

1976年にヨルダン入国の際に偽造旅券の容疑で日高敏彦とともに逮捕された。日高は警察の取り調べ中に自殺。奥平は日高の遺体とともに同年10月13日に日本に移送された。1977年にダッカ日航機ハイジャック事件で超法規的措置で釈放され出国、その後もテロ活動を行い、現在も逃亡中である。

1987年6月9日、ベネチア・サミット開催中、ローマのアメリカ大使館とイギリス大使館にロケット弾が発射された他、カナダ大使館で車が爆破されたローマ事件ではレンタカーから奥平の指紋が検出され、イタリア公安当局から奥平の犯行と断定された。

1988年4月14日、イタリアのナポリにあるアメリカ軍関連施設(USOクラブ)前における自動車爆弾テロによってアメリカ軍兵士1人を含む5人を死亡させ、4人のアメリカ軍兵士を含む15人を負傷させた容疑でアメリカ政府の(最大500万ドルの懸賞と安全な転居を保障される)「正義への報酬プログラム」により手配されている。

1998年と翌年に佐々木規夫とともに他人名義の旅券を不正に取得するため東京を訪れていたこと、その際、重信房子と接触していたことが、2000年11月に重信の逮捕時に押収した資料から明らかになっているが、現在も奥平の生死は不明で、国際手配されている。

岡本 公三(おかもと こうぞう、1947年12月7日 - )

熊本県葦北郡芦北町で、小学校校長の子として生まれる。熊本マリスト学園高等学校卒業。長兄と次兄の岡本武(よど号実行犯の一人で北朝鮮で死亡)と同じ京都大学を二度受験したが失敗し1968年、鹿児島大学農学部に入学。大学にやってきた若松孝二・足立正生監督の映画『赤軍−PFLP・世界戦争宣言』に共鳴し、共産主義者同盟赤軍派に加わった。

1972年2月訓練中に山田修が水死した。奥平剛士はかねてから連絡をとっていた岡本公三をその後任にすべく、山田の遺体とともに日本に戻る檜森孝雄に連れ帰る事を指示した。

岡本公三
事件後イスラエルの軍事法廷で
審判を受ける岡本公三(1972年6月27日)
1972年2月29日、指示に従って日本を出国。ベイルートに渡り3週間、PFLPの施設で自動小銃の射撃訓練を受けた。その後、ドイツのフランクフルトなど欧州に潜伏した後、ローマからフランス航空機でテルアビブ空港へ移動した。この時点でもPFLPの指導者の名も所在地も知らず、イスラエルのことも詳しく知らなかった。ただ、世界革命にお前が必要だという指示に従って行動していた。

1972年5月30日に奥平剛士・安田安之と共にテルアビブ空港乱射事件を実行し26人を殺害、ただ一人逮捕された(奥平、安田は死亡)。同年7月13日にイスラエルで裁判にかけられ、職業として「赤軍兵士」を自称した。イスラエル政府は当初は死刑求刑を検討も最終的に終身刑が確定し服役。1985年5月にイスラエルとPFLPとの捕虜交換により釈放。リビア・シリアを経由して、日本赤軍が本拠地としていたレバノンに戻り合流した。

岡本公三
事件から50年後、ベイルートで
暮らしてる75歳の岡本公三
その後、1997年にレバノンに潜伏していた岡本を含む日本赤軍メンバー5人が検挙され、禁固3年の判決が確定し、2000年3月出所。岡本以外の4人は禁固刑の執行後、日本に送還された。しかし、岡本についてはイスラエルと対立するレバノン政府は岡本の政治亡命を認めた。日本警察は釈放直後の5月21日から岡本の逮捕状を取り、国際刑事警察機構で国際手配中。

2000年3月2日に報道陣の前でイスラム教に改宗。2002年に、テレビ朝日の報道番組が、レバノンに潜伏中であった岡本の独占取材を実施、潜伏先住居内でインタビューを行っている。その中で、被害者への謝罪らしき言葉を述べているが、2001年に壊滅した日本赤軍がまだ存在しているか否かについては、把握できていない様子だった。その一方で、「まだ事件当時の24歳のままの気持ちである」とも語っている。

2003年、岡本は共同通信のインタビューに応じ、「日本に帰って昔の友人たちに会いたい」と望郷の念を語っている。その際の岡本は動作が緩慢で健康に問題がある様子であった。これについてレバノン政府は「イスラエルの獄中で治安機関から拷問を受けた後遺症による精神疾患で、発語などに障害を負った」としている。

現時点で、PFLP、ヒズボラなどイスラエルと敵対する勢力の庇護を受けてレバノンのベイルート郊外のアパートに在住している。すしが好物でフィリピン人が営業するすし屋がお気に入りだという。


岡本公三 テルアビブ空港乱射50年 本人が手記で明かした「日本を出てから事件を起こすまで」

(デイリー新潮 2022年05月30日 )

 1972年5月30日、イスラエルで日本赤軍によるテルアビブ空港乱射事件が起きた。2022年で事件発生から50年。デイリー新潮 が岡本公三の手記「日本を出てから事件を起こすまで」を掲載している。生い立ちから事件までがわかるので紹介する。(敬称略)

 ***

 テルアビブのロッド国際空港(現:ベン・グリオン国際空港)で、奥平剛士(1945?1972)、安田安之(1947?1972)、岡本公三(74)が自動小銃を乱射した。26人が死亡し、73人が重軽傷。当時、奥平は27歳。安田と岡本は25歳だった。
 岡本は拘束されたが、奥平と安田は死亡した。「奥平は射殺され、安田は手榴弾で自爆した」という説もあるが、未だに真相は明らかになっていない。

 当時、日本での学生運動は下火となっていた。だが、退潮と反比例するかのように、行動は過激なものとなっていた。無差別テロの主犯である3人も、奥平と安田が京都大学、岡本が鹿児島大学に入学し、在学中から学生運動に関わっていた。
 犯行当時、「日本赤軍」という名称は使われておらず、3人はパレスチナ解放人民戦線(PFLP)の国際義勇兵という位置づけだった。「日本赤軍」と自称するようになったのは1974年以降のことだ。
 ただ1人、生き残った岡本は、イスラエルの裁判で終身刑が確定した。空港近くの刑務所に服役していたが、1985年にイスラエルとPFLPとの捕虜交換が成立して釈放された。
 岡本はイスラエルでの拷問が原因で、統合失調症(以前の精神分裂症)を罹患したことが明らかになっている。これまでに何度か日本メディアの取材に応じており、現在はレバノンで生活している。

事件から3年後、岡本は獄中手記を週刊新潮に寄せた。1975年8月28日号に、特別記事「テルアビブまでの旅」として掲載された。原文は11ページという週刊誌では異例の“大作”だが、ここでは概略ながらできる限り内容を詳しく紹介する。

 岡本たち3人はロッド国際空港で、何の罪もない一般市民に向かって、自動小銃を乱射した。現在の軍事用語を使えば、“ソフトターゲット”を標的にしたテロ行為だと言える。
 岡本は鹿児島大学の農学部に進み、《植物生理の研究室にマジメに通》っていた。平凡な大学生が狂気のテロリストに変貌した理由は、次兄の影響が大きかったようだ。次兄の岡本武(1945?1988)は京都大学農学部に進み、1968年、東大安田講堂事件に参加。その後、仲間と共に1970年、よど号ハイジャック事件を起こし、北朝鮮に亡命した。ちなみに長兄も京都大学に入学し、羽田闘争などの学生運動に関わった。京大、京大、鹿児島大という3兄弟は、「できのいい兄弟」として近所では有名だったという。

 それでは、手記の引用を始めよう。鹿児島市内の《中村アパート》に次兄から電話がかかってきた場面からだ。
《電話の呼び出しを受けた。「博多にすぐ出て来い」という。金をかき集め、汽車に飛び乗る感じで直行する。博多では“赤軍派中央軍”主催の集会が行われたのだが、のぞき見る感じで参加してみたけれど、お粗末だったことは否定できない》
 岡本は“赤軍派”の集会に不満を持ったようだ。他にも《名前のわりに中身のない集会》とこき下ろしている。集会が終わると、次兄の武が「ええヤツや」と、坂東國男(75)を紹介した。坂東は連合赤軍に加わり、1972年のあさま山荘事件で逮捕された。
 1975年、日本赤軍はクアラルンプール事件を起こす。マレーシアのクアラルンプールにあったアメリカとスウェーデンの大使館を襲撃、占拠し、52人を人質に取った。
 日本赤軍は坂東を含む7人の釈放を要求。日本政府はそれを受け入れ、坂東ら日本赤軍に参加の意思がある5人がリビアに出国した。その後、坂東は中東を拠点に、ヨーロッパや中国に入国した形跡が確認されている。現在の所在地や生死は不明だ。
 坂東を紹介された後、岡本は次兄と翌朝まで深夜喫茶で話し込んだという。
《次兄の話が私に与えた影響は大きかったことを記憶している。カンタンにまとめれば、「左翼運動を一国的なものから世界性へつなぐために、まず世界赤軍の建設をすべきであること。世界赤軍が一国内革命運動に果たす役割は“前段階武装蜂起”であり、“前鋒”は玉砕覚悟である。二・二六(事件)をイメージすれば十分だ」ということだった》

 岡本は《「軍」という聞きなれぬ言葉にビックリし、「戦争」といわれてもハッキリしたイメージは出て来なかった》と率直に振り返っている。
 だが、《兄弟という肉親的親近感によって「赤軍化」していったのが現実である》という。
 世界赤軍を建設するにしても、とにかく金がない。岡本は鹿児島県の徳之島で土木工事に従事することを決めた。
 1970年3月、よど号ハイジャック事件が起き、次兄が北朝鮮に亡命した。だが、岡本は《南海の孤島》で働いていたため、《ハイジャックがそんなに現実性をもって感じられたのではなく》、ひたすら労働に従事していたという。
 同年4月、鹿児島大学は学内への機動隊導入を決定。少なくとも表面的には、学生運動が“沈静化”した。岡本は9月から大学に復帰し、再び真面目に通うようになった。
 激動の時代という形容にふさわしく、11月には作家の三島由紀夫(1925?1970)が「楯の会」メンバーの4人と共に、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地を“占拠”。自衛隊員にクーデターを呼びかけた後、割腹自殺で死亡した。
 この事件は、岡本に衝撃を与えたようだ。自分自身は“極左”でありながら、三島への共感も読み取れる一文を残している。

《三島由紀夫の事件が起きた。彼の美学からすれば、三島はなぜ独りで朝日の昇る海をみつめながら腹を切らなかったのか。が、骨のない左翼人に対する警告の意味で、三島事件は前向きに受け止められるべきである。私はよく思うのだが、あらゆる意味での「日本らしさ」の欠如に対して、危機感を感じることのできない自称左翼人と、その限界性はあれ、危機感を覚え、採算を度外視した行動をとることができた三島由紀夫と、どちらが「左翼的」なのか》
 翌1971年、集会に参加するよう指示され、岡本は上京した。だが、やはり内容には幻滅したと記している。
 この頃、テルアビブ空港乱射事件で死亡した奥平と、その偽装結婚の相手だった重信房子(76)が、ベイルートに旅立っていったという。重信は1971年、「国際根拠地論」を打ち立て、パレスチナに拠点を作ると決断。後に日本赤軍の最高幹部となり、80年代にハイジャック事件や誘拐事件を引き起こした。

 2000年、大阪市西成区のマンションに潜伏していたのが発覚。重信は旅券法違反などで大阪府警に逮捕された。2001年には獄中で日本赤軍解散を発表している。2010年に懲役20年の刑が確定。そして今年の5月28日、重信は刑期満了を迎えた。テルアビブ空港乱射事件も、あさま山荘事件も、今年で50年目を迎える。
 重信の刑期の満了日が28日、乱射事件が30日と、日付は極めて近接している。事件から50年という“節目”に出所するということと併せ、ある種の奇縁を感じる人は多いだろう。
 時計の針を1971年に戻す。《夏休みの終わりごろ》ベイルートからの手紙を持った使者が岡本の元を訪れた。すぐに日本を出ることを決めたが、《あまりアッサリ決めたので、使者のほうが驚いた様子》だったという。

《1972年1月下旬、京都からの使者が、「訓練された赤軍兵士」との接触手続のためにやって来た。それから数日を経て、「訓練された赤軍兵士」自身が鹿児島に現れた。彼らから旅行に関する指示、旅費などを受け取った。浅間山荘事件の余波も考えて(註=この時にはまだ、連合赤軍の凄惨なリンチ事件は発覚していない)、すぐ飛び立つことにした》

 記事中にある《連合赤軍の凄惨なリンチ事件》とは、1971年12月に起きた山岳ベース事件を指す。群馬県の山中に築いたアジトで、凄惨なリンチ事件が起きた。29人のうち12人が死亡。事件が発覚すると、多くの日本人が衝撃を受けた。そして警察の包囲網から逃走していた一部メンバーが引き起こしたのが、あさま山荘事件だった。
 一方の岡本は、羽田からバンクーバー、トロント、モントリオールと移動を続けていた。だが“旅”の内容には、かなりの不満を覚えていたようだ。
《一刻も早くベイルートに着きたかった。日本と外国の習慣の違いもあるのだろうが、ホテルも飛行機もサービスが良いとはいえなかった。外国人の目には、私は小学生程度のガキに見えるらしく、その結果、相当ナメられたようである》

 不満だらけの中、飛行機を乗り継ぐ岡本は、ハイジャックの可能性について研究していた。今ではベイルートに到着した際、奥平に報告書を提出したことが明らかになっている。だが、ニューヨークで会ったスチュワーデスの体格があまりにも立派だったことには、強い衝撃を受けたようだ。

《この女を相手にするのでは木刀が必要だとホントに思った。で、私の出した結論は(ハイジャックは)「不能」──》
 やっとの思いでベイルートに到着すると、待っていたのは山岳ベース事件を報じる新聞だった。
《ベイルートに着いて、何といってもいちばん驚いたのは、連合赤軍のリンチ事件を新聞で知ったことである。奥平夫人の重信房子さんとも、このことで意見を述べ合ったが、結局、何が何だかわからなかった》
 ベイルートに10日間滞在すると、いよいよ軍事訓練が始まった。

《念願の軍事訓練の場所──バルベックへ移ることになった。バルベックはベイルートの北方にある古代遺跡で有名なところだが、夜の最終便のサービス・カー(註=乗合自動車)で奥平同志と二人、小雨の中を向かった》
《訓練所で最初に手にした銃は、チェコ製レボルバー「グラント」だった。ポートサイド(別名カール・グスタフ)も見せてもらう。次の日、ロシア製クラシニコフ、その翌日が、軽機ブレン》
 記事中の《クラシニコフ》は「AK-47」が正式名称であり、現在では「カラシニコフ」と表記されることが多い。

《バルベックでの生活は単調だった。朝食前と就寝前、一日に二回、一時間の体力増強体操をやるだけ。足の筋肉体操百回。腹筋七十回。背筋七十回。腕立て伏せ七十回。軽い側筋運動百回。腰の回転運動五十回。腕の屈伸運動百回。ポートサイドをバーベル代わりに使って腕力増強体操。逆立ちによって全体的均一化を図ったりした》
《体操が終わると茶を飲む。朝、ヤカンに入れた茶の葉は、一日中使った。奥平同志は、これが土地の習慣だといったが、味はまずかった。茶を飲み終わると朝食。料理は安田同志が作った。目玉焼きが得意で、私の記憶では、卵を食わなかった日はなかった。それに、ホブスというパン。ゼイトン(オリーブの実の塩漬け)。食後の後片付けは私の役目だった》

 単調だった生活に変化が起きたのは、岡本の記憶によると《四月十六日》以降だったという。

《三日ほど過ぎて、奥平同志が帰ってくる。帰ってくるなり、何もいわずにクラシニコフを握りしめて、しばらく考えごとをしている。その後、安田同志と二人で別室で話し込む。二日後、また奥平同志が出かけていくことになった。数日後に帰ってきたけれども、私は、まだ、何の話も聞いてない》
《翌日から、丸岡同志を加えて四名でクラシニコフの射撃練習を開始した。一人三発ずつ、四日間練習したように思う。丸岡同志の射撃のウデは、私より優れていた。射撃の水準は、四人全員が合格点をもらえた》
 丸岡同志とは、丸岡修(1950?2011)のことだ。テルアビブ空港乱射事件には参加せず、1973年のドバイ日航機ハイジャック事件などに関わった。1987年に東京都内で逮捕。2000年に無期懲役が確定し、2011年に八王子医療刑務所で死去した。死因は心臓病だったという。

 5月に入り、岡本は《ロッド空港作戦》の話を聞かされた。

《ベイルートの待ち合わせの場所にPFLPの男がやってきた。私を含めて四人の同志と会った。そのPFLPの男の話では、作戦はどうしても三人でなければダメだという。この時、私の参加が正式に決定した。私は奥平同志と二人だけになった時、一時間ほど、涙を流させてもらった。ふん切りがつくと、あとは整理を自分なりにやるだけのことであり、感傷的なものに浸ることは許されない》
 岡本、奥平、安田の3人は準備を開始した。そこに重信房子が“陣中見舞い”に来たという。

当時の重信
この当時の若かりし重信房子
《奥平夫人の重信房子さんが、スシを作って持ってきてくれた。これが最後の日本料理になった。「オレたちがやったら、あんたも殺(や)られるぜ」と脅したら、重信房子さんは「ピストルの撃ち方ぐらい知ってるわよ」と居直ったことを覚えている。奥平同志は「それでも命中させる方法を知らないと役に立たない」といいたそうな顔をしていたけれども、面白い夫婦だと感じた》
 岡本と奥平はベイルートから出国すると、ローマに向かった。鉄道でドイツに入ると、安田と合流した。全て計画通りの行動だった。
 イタリアのミラノへ向かうため、スイス経由の特急に乗った。安田が「花札をやろう」と提案し、3人で始めたという。

《スイスの風景はすばらしい。その時、ふと思ったのは、スイスで革命戦争が起きるようになれば、世界革命もすぐそこまできていることになるだろう、と。しかし、物騒なことを簡単に思い浮かべる自分を見出して苦笑する》

 ミラノから再びローマに入った。5月30日が“Xデー”。その前日にあたる29日の夜、岡本はイタリア人娼婦と関係を持った。《私は女を買うのは、この時が最初であった》と振り返っている。
 手記では顛末が赤裸々に語られているが、女性の“接客態度”は相当にひどかったようだ。終わってからの部分だけを引用しよう。
《女に「ジャパニーズガール・イズ・グッド」と切り返すことでウップンを晴らす以外になかった。私の結論は、女を買うのは一回体験すれば十分で、また、その体験も必ずしも必要なものではあるまい。味気ない、費用のかかった時間を終え、トレビの泉に行ったように記憶している》

 30日の朝、岡本は奥平のトランクを開け、AK-47、弾倉4個、手榴弾2個を受け取った。
《自分の装備を点検し、弾を薬室に送り込み、セレクトレバーを安全装置にする。それから奥平同志と食事をする。「明日の今ごろは、桜島の上空だな」と、奥平同志に言われた言葉だけが記憶に残っている。水ブロで体を洗い、サッパリする》

 ローマ空港でエールフランスのB727に搭乗した。機内食をとりながら、岡本は切腹について考えていたという。
《「神風連」(註=明治維新の直後、熊本で起こった壮士の反乱)の生き残りが、切腹して自害する時、ある男は食うだけ食ってアッサリ腹を切った。ある男は、あとに汚物が散乱して見苦しいと何も食べなかった。人それぞれ哲学があり、何が優れているか、一概にいえない。われわれ三名は度胸を据えていたし、それぞれ自分の思いどおりに最後の食事をすますことができた》

 トイレに入った時は、日本海海戦の逸話を思い出したとも記している。
《戦闘を前にして、連合艦隊司令長官の東郷平八郎は、ボケッとしたまま旗艦三笠の甲板に立っていたという。心配した参謀総長が司令官のキンタマをそっと握ってみたらダラリとぶら下がったままだったそうである。そして、参謀総長は完全に満足して自分の持場に引き返したという。……その時の私のキンタマは、縮みこんでおり、ダラリとさせるには少々、苦労したものである》

 座席に戻ると、安田が「長かったな」と声を掛けてきて、岡本は《ニヤリとした》という。
《飛行機が停止し、安全ベルトを外す。そして三人そろってタラップを降りる。バスに乗りこむまでに少々の時があった。その時、星空を見上げたことが記憶に残っている。そして今は、亡くなった人々が、天上の星として輝いてくれることを願うだけである》

 5月30日午後10時、岡本、奥平、安田の3人は、税関で荷物からAK-47と手榴弾を取り出した。そして約300人いたとされる到着客、空港係官などに向かって小銃を乱射し、手榴弾を投げた。

 手記で岡本は、銃撃戦については一切、書かなかった。記事の冒頭と末尾で触れられたのは、多くの宗教書、特に聖書を熱心に読んでいるということだった。


岡本公三、ロッド空港事件50年記念集会に姿現す

岡本公三
事件から50年の記念集会でPFLPの支援者に囲まれる岡本公三
岡本公三
弱々しくVサインの岡本公三
 レバノンの首都ベイルートにあるパレスチナ人墓地で2022年5月30日、1972年のイスラエル・テルアビブのロッド空港での乱射事件から50年の記念集会が開かれ、実行犯の一人で、レバノンに政治亡命している元日本赤軍の岡本公三容疑者(74)が支援者に付き添われて現れた。
 イスラエルからのパレスチナ解放を求める左翼組織「パレスチナ解放人民戦線(PFLP)」が主催した。PFLPは岡本容疑者をパレスチナに自らの身を捧げた人物として英雄視しており、身の回りの世話などの支援を続けている。この日支援者に囲まれて現れた岡本は、事件で死亡した奥平剛士、安田安之の墓前で手を合わせていた。
 岡本容疑者は2000年に政治亡命を認めたレバノン政府から政治活動などを制限されていることから、公の席上に姿を現すのは極めて異例だ。PFLPによると、最近は一時入院するなど、健康状態の悪化が指摘されていた。(朝日デジタル5月31日)



丸岡 修(まるおか おさむ、1950年(昭和25年)10月20日 - 2011年(平成23年)5月29日)

丸岡 修
丸岡 修
生家は徳島県の大地主で、父親は陸軍将校だったが、敗戦後の農地改革で没落し大阪で縫製業を営んでいた。中学3年まで熱狂的な右翼少年で大阪府立清水谷高等学校入学後、ベトナム戦争に疑問を持ち、民青やベ平連の会合に参加。1972年(昭和47年)4月 、檜森孝雄らのオルグを受け日本を出国、テルアビブ空港乱射事件の犯人らとベイルート郊外でアラブ・ゲリラの訓練所で軍事訓練を受けた後に所在不明となっていた。

その後、日本赤軍メンバーとしてドバイ日航機ハイジャック事件、ダッカ日航機ハイジャック事件に主導的立場で関与したとして国際手配を受けていたが、1987年(昭和62年)11月21日、他人名義の偽造パスポートを所持していたことから逮捕された。入国前に複数国の情報機関から丸岡らしき男が日本に向かうという情報が寄せられており、そのうちの一つの情報は丸岡が中国・北京でよど号ハイジャック事件のリーダー田宮高麿と接触した、という具体的なものだった。この時、沖縄県在住のスナック経営者名義のパスポートを持っていたが、指紋の照合で本人であることが確認される。

この逮捕によって、丸岡が国内と東南アジアに日本赤軍の支援組織を作ろうとしていたことやフィリピンの泉水博の潜伏先が割り出された。1993年(平成5年)12月、無期懲役の判決を受けた。97年4月に控訴を、2000年3月に上告を棄却されて無期懲役が確定。当初は宮城刑務所で服役した。

2004年(平成16年)には拡張型心筋症と診断され車椅子生活を送っていた。4回も刑の執行停止を申し立てたがいずれも却下。2010年(平成22年)6月30日、刑の執行停止が認められず精神的苦痛を受けたとして、国を相手取り約1100万円の損害賠償と刑の執行停止をもとめ東京地裁に提訴していたが、2011年(平成23年)5月29日、収監先の八王子医療刑務所にて心臓病により死去。60歳。

丸岡の遺骨は2011年10月19日、レバノン・ベイルートにあるパレスチナ・コマンドや著名な活動家が埋葬されている墓地に納骨された。ここには乱射事件に参加した奥平、安田安之、事件の計画に関与した檜森孝雄の墓もある。

菊村 憂(きくむら ゆう、1947年-)

菊村 憂
菊村 憂
宮崎県出身、宮崎県立小林高校卒。在学中は生徒会長として丸刈り廃止を認めさせた。東京外国語大学中退。 1980年代に日本赤軍が拠点を置いていたレバノン・ベカー高原で軍事訓練を受けており、爆弾製造技術を持っていたため、他の訓練参加者にその技術を教える立場だった。1986年にオランダのスキポール空港で荷物の中に爆弾が発見され逮捕。オランダから国外追放処分。

1988年4月12日、米ニュージャージー・ターンパイク有料高速道路のサービスエリアで、挙動不審に思った州警察官に逮捕された。菊村は火薬を詰めた18インチ(46cm)のパイプ爆弾3本を所持していた。検察官によると、菊村は2年前(1986年)にアメリカ合衆国がリビア爆撃を行った日(4月14日、15日)を狙って、マンハッタン最南端の退役軍人庁にある軍人勧誘事務所を爆破する計画を立てていた。

1988年11月29日、懲役262ヶ月(21年10ヶ月)の判決を受け、2007年4月18日までコロラド州フローレンスにある、連邦刑務所で服役。出所の翌日に日本に強制送還された。警視庁は羽田空港で偽造有印公文書行使で逮捕、10月25日、東京地裁で懲役2年、執行猶予4年の有罪判決。

菊村は米国で刑期終えた私を日本警察が逮捕することはできない。「一事不再理」(憲法第39条)の原則に反すると訴えたが認められなかった。現在は釈放されているが消息不明。

吉村和江

吉村和江
吉村和江
1947年、東京生まれ。青山学院大時代は共産同怒涛派に参加していた。 1971年にレバノンへ出国し、日本赤軍に加入、政治委員。司令部からの指令通達を担ったほか、南米での拠点作りでは現地の極左過激派との接触を行う。

96年.6月ペルーで逮捕され、日本へ強制送還。懲役2年6ヶ月・執行猶予4年の判決が確定した。現在は救援活動をしているようだが詳細不明。

 ただ2000年12月の「文藝」別冊の「赤軍でこんな談話を残しているので、いまだコチコチの日本赤軍のようだ。

吉村和江
今もコチコチの兵士魂の吉村和江
「PFLPが指揮したといわれるリッダ闘争ですが、獄中にいる丸岡修さんが『公安警察なんぼのもんじゃ』(新泉社)で、また『日本赤軍20年の軌跡』(話の特集)の中でも、岡本公三さんがはっきり言っているのですが、彼らのやった闘いは、空港の警備兵に向けて攻撃を開始したことです。それに対して泡を食った警備兵が反撃をして、それによって多数の空港内にいた人たちが殺されたのです。

 そのとき死んだ日本赤軍の二人のうち一人、安田安之さんは、誰かが投げた手榴弾が壁に当たって遠くに行かずに、撥ね返ってしまった。それで周辺にいた人たちに傷を負わせないために、自ら手榴弾の上に自分の体をかぶせて、そして亡くなったわけです。それから奥平剛士さんも人がいない所で自爆しています。彼らが空港にいた人に無差別射撃をしたような報道をされていますが、それは全く違う。ただし、彼らは、自分たちが行った戦闘によって、無関係な人たちが巻き添えになったことに関しては謝罪しているんです。その辺の彼らの気持ちを伝えて欲しいと思います」

いずれも日本赤軍の実行グループを「烈士」仕立てに美化する視点である。


戸平和夫(とひら かずお)

戸平和夫
戸平和夫
1953年兵庫県神戸市生まれ。高校時代から赤軍派に所属し、74年に日本赤軍に加入。1975年3月に西川純とともに旅券法違反でスウェーデン・ストックホルムで逮捕され、日本に強制送還される。

7月に、クアラルンプール事件で超法規的措置で釈放・出国。その後、国際手配される。97年にレバノン事件で逮捕。2000年に日本へ強制送還。戸平が所持していた偽造パスポートの原本は、北朝鮮による日本人拉致問題によって拉致された石岡亨のものだった。旅券法違反で2002年9月に懲役2年6ヶ月の実刑判決が確定した。2003年5月、満期出所。

佐々木規夫(ささき のりお  1948年8月27日ー)

佐々木規夫
佐々木規夫
小樽市の呉服行商人の子として生まれる。北海道小樽潮陵高校卒業。大学入試に失敗後、家業を手伝ったあと上京。兄が参加していた第三世界革命の文献を紹介する「レボルト社」に関わるようになる。その兄の証言では、1967年頃に齋藤和と知り合う。「朝鮮革命研究会」を結成し、1960年代後半から度々韓国に渡航し、日本の朝鮮侵略と抵抗運動史を学ぶ。

1972年、斎藤と共にアイヌモシリを巡り、日本のアイヌ侵略史観に染まる。1974年、大道寺将司から東アジア反日武装戦線「狼」に勧誘されて非公然・非合法活動に参加し、部隊の一員として連続企業爆破事件に関与。三菱重工爆破事件では予告電話をかけた。1975年5月に逮捕されるが、8月に日本赤軍によるクアラルンプール事件で、超法規的措置で釈放・出国し、日本赤軍に合流。

その後、ダッカ日航機ハイジャック事件、三井物産マニラ支店長誘拐事件にも関与したとされる。

フィリピン人名義の偽造旅券で日本に潜入する前にマドリードで盗難に遭った京都市の会社員の旅券を基にした偽造旅券で1987年春頃にフィリピン・マニラ市のアパートに潜伏し、東南アジアやヨーロッパの数か国に出入りしていたことが1988年8月に判明した。また、1998年、奥平純三とともに他人名義の旅券を不正に取得するため東京を訪れていたことが捜査で明らかになっている。

現在も国際手配中である。2010年4月以降の手配写真は1998年に撮影されたものに差し替えられた。

山田 義昭(やまだ よしあき、1949年1月1日 - )

山田義昭
山田義昭
富山県東礪波郡平村(現・南砺市)生まれ。高校卒業後、アルバイトをしながら早稲田予備校に通っていたが、大学受験に失敗し、板橋区の精密機械メーカーで勤務。

1973年6月、パリに行った際に日本赤軍に加入。74年はシンガポール事件に参加。7月26日、パリ・オルリー空港で、偽造旅券4通と偽ドル所持のためにフランスの警察に逮捕される。勾留されている間はフルヤと偽名を名乗った。その供述から、西ドイツ・デュッセルドルフの日本総合商社支店長を身代金目的で誘拐する計画が発覚した。

このままだと山田の自供により、当局に組織全容を解明されると考えた日本赤軍はハーグ事件を起こし、山田は超法規的措置で釈放され逃亡, した。その後、日本赤軍との折り合いの悪さから日本へ密かに帰国し、86年に両親に付き添われ警視庁に出頭。取り調べに対し、「太りすぎて体力的にコマンドとしてやっていけなくなった」と述べた。当時の山田の体重は90キロに達していた。

シンガポール事件やクアラルンプール事件に関与が疑われていたが、これらの事件では起訴されず、偽造旅券を持ってフランスに入国した偽造有印公文書偽造罪で起訴され、懲役1年4ヶ月が確定した。 現在は刑期を満了して出所しているが、公安の監視下に置かれており、重信房子、和光晴生らの公判に検察側の証人として出廷している。

山田修(やまだ おさむ)

しかとした略歴は明らかでないが京都大学入学後に京大パルチザンに参加、その後奥平純三に誘われて日本赤軍に参加してレバノンにわたり、PFLP(パレスチナ解放人民戦線)で軍事訓練を受けていたとき、1972年水泳訓練中に溺死。

*京大パルチザン 京大経済学部助手の滝田修(本名:竹本信弘)は、1968年から1969年の京大紛争を通じて、革命のためには既存党派とは一線を画す「パルチザン」を組織してゲリラ闘争をしなければならないと説いた革命理論に賛同した京大内のノンセクト・ラジカルのこと。滝田理論に影響を受けたグループとして朝霞自衛官殺害事件を起こした「赤衛軍グループ」がある。

山本万里子

山本万里子
山本万里子
1940年生まれ。1970年代にパリで日本赤軍に加入し、日系百貨店のパリ支店に勤務しながら、欧州内での協力者として日系商社員誘拐計画に関与し、連絡役を担っていた。奥平純三の偽造パスポート製造も行った。

1997年にレバノン事件で逮捕され、2000年3月、他のメンバー3人とともにレバノンから強制送還された。裁判で懲役2年6ヶ月・執行猶予5年。

山本万里子
万引きで捕まったときの
山本万里子(2015年8月4日)
その後2005年1月25日、東京都板橋区の大型スーパーで1200円相当のさきいかを万引して警視庁高島平署に窃盗容疑で逮捕されて話題になった。記事では「山本万里子容疑者(64)は同店の売り場に あった80グラム(312円)の『さきイカ』には目をくれず、3種あるお徳 用『さきイカ』のうちでも、いちばん内容量が多い銘柄を盗むというテロリス トらしい緻密(ちみつ)かつ、したたかな犯行だった」とからかわれている。

また板橋区内のアパートで独り暮らしをしていたが、生活保護を受けていたことも判明して批判された。


松浦順一

松浦順一
松浦順一
1950年生まれ。赤軍派に入りM作戦を担当、関西を中心に活動していた。71年に松江相互銀行米子支店を襲撃して逮捕された。しかし、病気で保釈され香川県の実家で療養中に起きたクアラルンプール事件で釈放要求の中に名前が挙がる。意思を確認されると「今は闘争を保留しているので誰に誘われても、どこにも行くつもりはありません」とと拒絶している。

丸岡修の親友で、丸岡が出国する際にはお別れ会を開き、出国後も手紙をやり取りしていた。1978年6月、有罪判決確定。その後の消息不明。


松田 久(まつだ ひさし、1948年8月30日--)

松田久
松田久(右は警察庁が手配書に加齢を考慮して描いたイラスト
茨城大学中退。赤軍派のメンバーとして1971年3月に横浜銀行への銀行強盗をしM作戦の実行犯となる。その事件で懲役8年10ヶ月が確定し、宮城刑務所に収監された。

1975年8月に日本赤軍が起こしたクアラルンプール事件で釈放要求リストの7人の1人に選ばれ、超法規的措置で出獄しリビアに逃亡。釈放要求リスト7人中6人が公判中だったが、松田のみ刑が確定していた。

日本赤軍参加後は、同組織最高幹部である重信房子の側近を務めていた時期があり、その時は「重信語録」という標題をつけた手製のメモ帳を携帯していたとの証言がある。

1999年12月23日に香港で重信房子や大道寺あや子と会合していたことが、2000年11月に重信の逮捕時に押収した資料から判明している。
現在も国外逃亡中であり、国際手配されている。生死は不明。

城崎 勉(しろさき つとむ)

1947年12月5日、富山県下新川郡入善町生まれ。ベトナム戦争への反戦運動に参加し、徳島大学中退後、共産同赤軍派に参加。M作戦に関与して1971年に逮捕され、懲

役10年が確定。1977年にダッカ日航機ハイジャック事件で釈放リストに入っていて超法規的措置で釈放。その後、国際手配される。

1986年5月、ジャカルタ事件(在外公館に対する迫撃弾発射)に関与。1996年9月23日、潜伏先のネパールで旅券偽造容疑で拘束された。その後に、ジャカルタ事件の容疑でアメリカに移送される。米国の陪審員裁判で懲役30年の判決を言い渡された後、アメリカのテキサス州ボーモント連邦刑務所に服役。模範囚として刑期が短縮されたことで2015年1月16日に刑務所から釈放された。その後、移民税関捜査局(ICE)に引き渡され、日本へ強制送還された。

城崎勉
城崎勉(2015年送還時)
警視庁公安部は成田国際空港内で、ジャカルタ事件で殺人未遂と現住建造物等放火未遂容疑で逮捕。2016年に東京地裁で裁判員裁判が開かれ、11月24日に懲役12年の判決が言い渡された。弁護側は判決を不服として即日控訴した。2018年9月26日、東京高裁が控訴棄却した。

府中刑務所服役中に後に作家になる安部譲二と会っている。安部は城崎にボクシングを教え、親交を深め、城崎の勧めで著作を始めたという。「なんといっても一番鮮やかだったのは府中で一緒だった城崎の出獄ですよ。ボクらの常識を遥かに超えていたもんで、すれっからし共はみんな落ち込んでいましたね。16億円用意させてチャーター機でどっかに行っちゃったのだからみんな『これは夢だ、夢に違いない』と言っていた

また、城崎は事前にダッカ日航機ハイジャック事件が起こることを暗に教えられ、同行しないかとオルグされたと告白したという。映画化された安部の著作『塀の中の懲りない面々』でも城崎に相当するキャラクターを柳葉敏郎が演じている。

仁平 映(にへい あきら)

仁平 映
仁平 映
1946年3月1日立川市生まれ。中学卒業後、簡易宿泊所で労務者生活をしていたが、傷害・脅迫などで何回も逮捕・服役している。1976年、台東区清川の路上で見知らぬ44歳男性と口論となり殺害。東京地裁で懲役10年の判決を受ける。

控訴中の1977年9月28日に起きたダッカ事件では、仁平は殺人犯で思想的背景や日本赤軍とは関係なかったものの、獄中で待遇改善を求めて、「統一獄中者組合」を作ったのを、反体制行動としてハイジャック犯側に評価され、釈放要求リストに指名される。

日本政府は当初は仁平と同じ獄中組合を作ったとして釈放リストに入っていた泉水博の2人は釈放拒否の方針を持っていたが、ハイジャック犯に拒否され、結局超法規的措置によって釈放・出国した。その後、日本赤軍に参加。現在も国外逃亡中であり、国際手配されているが、詳細な消息は不明。

西川 純(にしかわ じゅん、1950年8月8日--)

西川 純
送還されてきたときの西川 純(1997年11月18日)
1966年大阪教育大付属池田高校入学。ここは関西における高校生の左翼運動の中心地で、その主流はノンセクト・ラジカルの黒ヘルで高校に侵入してバリケードを築くなどの活動をしていた。70年京都産業大学に入学。72年にパレスチナに赴き、翌年日本赤軍に参加。

1974年9月13日、奥平純三と共にハーグ事件に参加。1975年に逮捕されたが、同年に起こったクアラルンプール事件で超法規的措置で釈放・出国、その後ダッカ事件に参加した。

1997年11月12日、潜伏先のボリビアで拘束され、国外退去処分を受けた。11月18日、サンタクルスから日本に帰国した際に新東京国際空港で逮捕された。2007年、東京地裁で無期懲役、上告するも2011年9月12日、最高裁第1小法廷で上告棄却、無期懲役が確定。現在熊本刑務所に収監中。

泉水博(せんすい・ひろし 1937年3月10日--2020年3月7日)

泉水博<
泉水博
千葉県木更津生まれ。1960年、仲間と2人で会社重役夫人を刺殺し、1万5千円を奪った事件で逮捕され、無期懲役が確定し、千葉刑務所で服役。同じ刑務所の囚人が病気で吐血して苦しんでいるとき、看守を人質にとって、医者に見せろと要求した行動が口コミで広がり、千葉刑務所に泉水あり、との噂が広まり、後の獄中者組合の結成につながる。

1977年9月28日に起きたダッカ日航機ハイジャック事件では、強盗殺人犯で思想的背景や日本赤軍とは関係なかったが、獄中者組合の結成が反体制行動としてハイジャック犯側に評価され、釈放要求リストに指名されて釈放された。保釈目前の模範囚だったが行くことにした理由をこう語っていた。

釈放前に特に許された実兄との面会で「赤軍なんていうものはどういうものか全然おれにはわからんが、行かねば百何十人の人質を開放しないというんだから行くことにしたよ」と語ったいう

その後日本赤軍に参加し国際手配され、釈放から9年後の1986年6月7日にフィリピンで旅券法違反で逮捕され、日本へ送還された。2020年3月22日夜、服役していた岐阜刑務所内で心肺停止の状態で見つかり、病院に搬送されたが27日に死亡。

足立 正生(あだち まさお、1939年5月13日 - )

足立 正生
足立 正生
福岡県戸畑市(現・北九州市戸畑区)生まれ。市立中学校から福岡県立八幡高等学校を卒業し、1959年、日本大学芸術学部映画学科に入学。日大中退後に若松孝二が設立した独立プロの若松プロダクションに加わり、ピンク映画の脚本を数多く手がけた。

1971年のカンヌ国際映画祭からの帰国途中、若松孝二とともにパレスチナへ渡り、パレスチナ解放人民戦線のゲリラ隊に加わり、PFLP宣伝映画を撮影・製作。1974年には重信房子が率いる日本赤軍に合流し、国際手配された。日本赤軍ではスポークスマンの役割を担っていたという。 1997年にはレバノンで逮捕され、ルミエ刑務所で3年間の禁錮刑を受けた。刑期満了後、日本へ強制送還された。2007年、日本赤軍の岡本公三をモデルとする『幽閉者 テロリスト』を監督した。

日高 敏彦(ひだか としひこ、1944年 - 1976年10月2日)

日高敏彦
日高敏彦
1944年 釜山生まれ。戦後 鹿児島県、後に宮崎県に移る。1952年頃、父と叔父が共産党員であった事からガサ入れにあい強烈な印象を受ける。この経験は後に「ガサ入れの唄」として日本赤軍の愛唱歌の元となる。

宮崎県立宮崎大宮高等学校から大阪市立大学理学部物理学科入学。大学ではキャンプファイヤーに火炎瓶で点火したりした。日本高周波K.Kにエンジニアとして勤務の傍ら労組教宣部長を担当、左翼活動家として活動していた。1970年、会合の席で社長を殴打し退職,、家電販売店でテレビ修理工として勤務。

1971年5月9日にソ連船で欧州に向かい、日本赤軍に参加。同年9月、天皇訪欧のさいにコペンハーゲンで同志十数人と共に天皇に対し手製の糞尿爆弾を投げデンマーク警察に拘束される。2ヶ月間勾留、のち国外追放となり、西ドイツに渡り学生生活の後、地下活動に入る。

1975年8月のクアラルンプール事件に関与。1976年9月23日、リビアから偽造旅券でヨルダンに入国しようとして、奥平純三とともに逮捕された。同年10月2日、取調べを受けていた署内のトイレで靴下をつなぎ合わせて首吊り自殺。31歳。

遺体は同年10月13日、奥平を強制送還する日本航空機で日本に運ばれてきた。

和光 晴生(わこう はるお、1948年6月12日-2023年11月4日 )

和光 晴生
和光 晴生
仙台市生まれ。仙台第三高校卒業後、1968年に慶應義塾大学文学部に入学。医学部が米軍から研究資金を受けていたことが報道されたことを契機に起きた学内の抗議運動がきっかけで学生運動に参加。一方で新宿の映画館「アンダーグラウンド蠍座」でアルバイトをしており、三島由紀夫、寺山修司、若松孝二といった文化人の知遇を得る機会を持った。

大学中退後、若松孝二の下で働き始め、1971年から1972年にかけて、若松と足立正生の映画「赤軍−PFLP・世界戦争宣言」の上映会開催全国を巡った。1973年9月、日本赤軍に参加すると、1974年のシンガポール事件、ハーグ事件、1975年のクアラルンプール事件に参加した。

79年にパレスチナにありながら世界を相手にしたテロ行為を繰り返していた日本赤軍に不満を持つようになり脱退、PFLPの戦闘員となる。 97年にレバノンで逮捕。偽造旅券・不法入国などの罪で起訴され、禁固刑の執行後に国外追放され2000年に日本へ強制送還。 その後、控訴や上告も棄却され、2009年10月無期懲役が確定しています。2010年からは徳島刑務所で服役している。

2009年、和光は雑誌『情況』に「日本赤軍とは何だったのか その草創期をめぐって」というタイトルでレポートを書いて「日本赤軍は当初からパレスチナ解放人民戦線(PFLP)との連帯を目指し、世界同時革命を志向して結成されたものというよりも、先にパレスチナ入りした重信房子がPFLP内での存在感を示すために、いわば無理矢理にでっち上げた組織であったとして、重信、丸岡修、山田義昭ら執行部の無責任さと日和見主義、無計画ぶりを指弾している。

和光晴生獄死
オランダ・ハーグの大使館占拠事件などで無期懲役が確定した和光晴生受刑者が、2023年11月4日、服役中の刑務所で死亡した。
ことし8月ヘルニアの手術を理由に服役していた徳島刑務所から大阪医療刑務所に移り検査などを受けていたが、4日に死亡した。75歳。



檜森 孝雄(ひもり たかお)

檜森孝雄
檜森孝雄
1947年生まれ。日本赤軍の戦闘員。立命館大では中核派所属。71年に同じ京大パルチザンの山田修とともにレバノンに渡りテルアビブ事件に向け訓練を積んでいたが、山田修が訓練中に死亡したため遺体と共に帰国。72年に京都で逮捕。その後は国内でパレスチナを守る運動などの支援活動を行い岡本公三と丸岡修を勧誘してレバノンに送る。

2002年3月30日、イスラエルのパレスチナ侵攻への抗議とアフガン非戦を訴え、東京・日比谷公園の「かもめの噴水」広場で灯油をかぶり、自ら火をつけ、焼身自殺。54歳。