【阿川弘之さんのお別れの会】
  (スピーチ集 産経新聞電子版11月24日付から転載)
 

2015年8月3日に94歳で死去した作家の阿川弘之さんのお別れの会が11月24日、東京都千代田区の帝国ホテルで開かれ、生前親交のあった文化人ら約300人が参列した。

お別れ会
阿川弘之さんお別れ会
 

作家で元文化庁長官の三浦朱門さんは「このような形で会を行うことになり、寂しさを感じている」と60年以上にわたって交流のあった友人の死を悼んだ。
また、作家の平岩弓枝さんは、文章の書き方にまつわるエピソードを紹介。「もう私が何を書こうと、先生からお叱りを受けることが永遠にないと思うと、とてもつらい」と述べた。

親族代表としてあいさつした長男の慶応大学教授、阿川尚之さんは生前、故人が葬儀やしのぶ会を開かないよう遺言していたが、「どこまで守るか迷った。本当に会を開かないと偏屈な父は怒るのではという嫌な予感もあった」と笑わせた。

 最後に、長女でエッセイストの阿川佐和子さんが「父は海軍を舞台にした作品を書く時は食事中でも『軍艦マーチ』を聞いていました。この曲を聞けば、父もにやりと笑ってくれると思います」と紹介。海上自衛隊の音楽隊が「軍艦マーチ」を演奏した。

■主な参列者  高円宮妃久子さま、三浦朱門、平岩弓枝、藤原正彦、黒鉄ヒロシ、北方謙三、宮城まり子、壇ふみ(順不同、一部敬称略)

◇  ◇  ◇

偲ぶ会、お別れ会、いろいろあれど、この【阿川弘之さんのお別れの会】ほどユニークな催しは見たことがない。故人が「やるな」と遺言していたのに友人、家族が「反逆」しての開催であること。スピーチに立った人たちがそうそうたる人々で、かつまた、「面白い」というと叱られるかもしれないが、ユーモアあり、尊崇あり、慈愛あり、文学史俯瞰あり、それでいて文章の達人たちだけあってスピーチもしみじみとした味わいがあるものであった。このまま過去形にするのはもったいないので、スピーチに立った人たちの挨拶を紹介する次第。(サイトの亭主のモノローグ)


三浦朱門氏 『第三の新人』の父。ありがたいグループだった

三浦朱門氏
三浦朱門氏

本日、故阿川弘之氏のためにお集まりいただきまして、本当にありがたく思います。

 本来、こういうことをするのは「第三の新人」というものにはふさわしくないんですね。「第三の新人」というのは不思議なことに新人のままで大家にならずに終わってしまった文学者でございました。

 私は彼と最初に会ったのは昭和27年、1952年の春だったと思います。ようやく自分の作品と名前が活字になろうとしているころ、どこかの政党の後押しだったと思いますが、(文学者の)集まりが定期的に開かれるようになりました。そこに行きますと、金もかからないし、名前と顔を知っているような好奇心の持てる相手と会えるので、私なども行っておりました。

 ちょうど60年安保に近付こうとしていた時代で、日本がようやく講和条約を結んだ時代で、非常に世の中が政治的でした。その文学者の集まりで「アメリカと講和条約を結ぶよりも、ソ連と先に結ぶべきだ」という言説がございました。その時に立ち上がったのは阿川弘之でありました。「これは文学者の集まりなんだ。政治的なことを言うのはおかしい」と。阿川を支持する者と反対する者とが次々出てきまして「阿川を支持する者たちは出ていけ」ということになりました。

 外に出ていきますと、阿川弘之がおりました。庄野潤三がおりました。島尾敏雄がおりました。吉行淳之介がおりまして、この会のメンバーじゃないけれども、ジャーナリストとして関心があった。面白いから一緒に酒を飲もうと。

吉行淳之介 島尾敏雄 庄野潤三
吉行淳之介 島尾敏雄 庄野潤三

 文学者の集まりは御茶の水(東京)の雑誌会館だったと思いますが、1台のタクシーに乗り込みまして、吉行の家まで着きました。吉行が「ちょっと待って。片付けてくる」と。その時、阿川弘之と並んで立っていたのが事実上の初対面でありました。

 後に「第三の新人」として同じグループでしたけれども、その時は敬語を使っていたと思います。「阿川さん、今は何を書いていらっしゃるんですか」とお尋ねしましたら、「いやあ、『サンデー毎日』でね」とおっしゃる。毎日が日曜日で何も書いていない、何も書いていないから収入がないという意味だと分かりました。面白い人間だと思って、接近するようになりました。

 吉行の家に行きまして、どういう人間ならばわれわれは付き合えるだろうか、つまり政治的関心があまりないような、そして女性くらいにしか興味がないような人をリストアップしました。その中の最高年齢者が阿川弘之で、私は最低年齢でした。「第三の新人」はそのような形で、政治的関心の薄い文学関係者、文学青年の集まりで「政治的関心がなくて何が悪い」という形でできた気がします。

 阿川弘之は「第三の新人」の父親であり、吉行淳之介は母親であると、私は思っております。

 「第三の新人」というのは、新人のままついに大家にならずに終わった人たちですけれども、それなりに文学生活を楽しんで、世間のことを気にしないでやってこれた。小さな我(が)を通せたという意味で、私はありがたいグループだったと思います。その中のリーダーであり、発起人であったのが阿川弘之氏でした。このような形でお別れの会をするのは、やはり寂しさを感じないと行けないと思います。

 吉行はうれしそうな顔をして「世の中に『飲む、打つ、買う』の三道楽があるけれども、阿川は、そのほかに『売る』という趣味がある」と。その時、売られようとしていたのは今から考えると、佐和(子)ちゃんなんです。

 佐和ちゃんがこの会を開く中心人物になったと思いますと、吉行は、さぞあの世で苦笑いしているんじゃないかという気がします。私は、この会を、吉行たちと一緒に楽しみたいと思います。どうもお粗末でございました。

脚本家で小説家の平岩弓枝さんがお別れの言葉を述べた。  「瞬間湯沸かし器」に叱られたこと 

平岩弓枝さん
平岩弓枝さん

初めてお目にかかりましたのは沖縄が日本に返還された年、5月に返還されたのですが、それに先立つこと3カ月、同じ年の2月に文芸春秋社が主催をしまして、沖縄で文化講演会を開くということでした。

 お付き合いのある編集者の方が電話をかけてこられまして、講師としていくようにと言われました。「どなたがご一緒ですか」とお尋ねしましたら、「阿川先生と安岡章太郎さんです。サンドイッチで言えば、あなたがハムで、ご両者がパンです」と言われまして。

 どういう意味か、私は今もコロコロしていますけど、そのころは今の倍ぐらいコロコロしていましたので、そういう意味かと思って、「ともかくおともします」ということでご一緒させていただきました。それが最初でございます。

 阿川先生は空港の待合室でごあいさつした時から、どうもご機嫌が斜めでした。オロオロしていましたら「君、どう思うか」といきなり言われまして。何でしょうかと思いましたが、「沖縄へ行くのにパスポートが必要だということに対して、君はどういう意見を持っているか」。当時はパスポートがなければ沖縄へ行けませんでしたから、あぜんとして「ないと入れてくれませんので」と言ったら、「君は非常に現実的だな。つまらんな」と言われました。

 当時、私のご近所に遠藤周作さんがいらっしゃいました。「今度、阿川君と一緒に沖縄に行くらしいけど、くれぐれも気を付けていけ。君は何も知らないようだけど、彼のあだ名は『瞬間湯沸かし器』というのであって、あれが沸騰したら、あとは水を差すのは大変なことになる。気に障るようなことを言うな」と、こんこんと言われて出てきたものですから、何を言われてもしようがないと思いまして、「はい、はい」と。

 そのうちに、「君、干支(えと)は何かね」と阿川さんがお尋ねになりまして、私が「申(さる)ですが」と言うと、先生が「そうか。安岡も申だな。僕も申年だ。みんな同い年だな」とおっしゃる。私はそこでまたオロオロしたんですけれども、遠藤さんの忠告もあって下手なことを言ってはいけないので「はい。申でございます」。「そうか。サルの水兵だな、君は」と言うので、何でサルの水兵なのか分かりませんが、ともかく出発の時からそんな感じでお供していきました。

 「瞬間湯沸かし器」だということが分かったのは、沖縄に着きまして宿泊所へ行く途中、両方が米軍基地なんですね。たまたま編隊離陸の訓練をやっておりまして、私たちの頭の上をグワー、グワーと飛ぶ。突然、阿川先生が「だいたい、陸軍がバカだからこの間の戦争に負けたんだ」と。お二人が両側で私は真ん中でどうしようもないので、「はい」と言いましたら、安岡さんが突然「いや、海軍がバカだから戦争に負けたんだ」と大論争が始まりました。

いつまでも続くし、運転手さんもおびえた顔をしていますので、私は困ってしまいまして。

安岡章太郎
安岡章太郎
 「大変失礼なことをうかがいますが、阿川先生はその当時、兵隊の位はどのへんにいらしたのですか」と聞くと、「俺は終戦大尉(ポツダム宣言受諾後に進級)だ」。
 安岡さんは「僕は二等兵だ」
 「変なことを申し上げてお怒りを受けるかもしれませんけれども、大尉と二等兵がけんかしてもしようがないんじゃないですか」と言ったら、「君は愉快なことを言う人間だな。けんかは止めよう」と、あっさりお止めくださいました。

 後で聞いたのですが、宿舎は爆撃に遭った方々を埋葬する暇がなかったので、一面に埋めまして、それを知らない米軍がその上に仮宿舎を建てて、それが米軍の手を離れてわれわれが泊まる宿になったそうです。

 私はそれを知りませんでした。もちろん、阿川先生も安岡さんも知らなかったと思います。
 一晩泊まりまして、一部屋ずつあてがわれたのですが、阿川先生が私の顔を見た途端、「昨夜よく眠れたか」とおっしゃるものですから「はい、よく寝ました」と言ったら「はあ」と。
 安岡さんは「僕はどうも眠れなくて、寝汗ばっかりかいた」。阿川先生は「俺は枕元に誰か座っているような夢を見て、寝そびれた。平岩君、本当に何も見なかったのか」と言うので「何も見ておりません」と答えると「鈍感なのかな、君は」と。
 そのうちに安岡さんが「この人ね、神主の娘だよ。出ないよ」と言ったので、はっと気が付いて「何か出ますか」と言いましたら、「僕のところは出た」。安岡さんも「僕のところも出た。こいつのところだけ出ないらしいな。神主ってのは、幽霊も遠慮するのかな。でも、娘だから、そんな効力はないと思うけど」。それが第1回目の、私がはっきりと記憶している阿川先生との思い出です。

 それがご縁になったのでしょうか。「ロッテルダム」という船が来ました時に、「一部屋取れたぞ。夫婦でやってこい」と言われまして乗りました。

 いかにもアメリカ的なのんびりした船でありまして、乗って間もなく、仮装大会をやるんですね。私が何のことかよく分からなかったのですが、阿川先生は「お前の亭主は神主だったな。神主はできるか? 『ジャパニーズ・ブライダル・セレモニー』ってのはどうかね。お前が解説をする。英語はできないだろうから、俺がせりふを書くからそれを読み上げろ」と。

 同じ船に乗っている10人ばかりを先生が連れてきて、それぞれに役振りをしまして、「俺は紋付袴(はかま)を持ってきているから、花婿の役をする。この船で仲良くなった(米国の)おばさんに日本の花嫁姿をさせて、ブライダル・セレモニーをやろうと思う。日本人だけで固まるのはよろしくない。君は芝居の演出もしているから、衣装や小道具、その他一切やってくれ」。乗ってきたお嬢さんから振り袖を借りまして、婦人に着せました。背も高ければ横幅もある婦人ですが、とっても人柄がいい。ただし、蹴出し(けだし)を巻かせようとすると合わないんですね。反対から回して、後ろは空いても見えないですから。帯は普通二回りするのですが、とても無理なので一回りで。頭の方はランの花をかんざしみたいに挿して。彼女はとっても喜んで、「ビューティフル、ビューティフル」と言いました。

 神主の支度もしないといけない。うちの亭主は何も持っていないので、私の白い長襦袢(ながじゅばん)を着せまして、黒いロングスカートをはかせまして。船側が出したものに蚊帳(かや)みたいなグリーンの生地があったので、それを切って神主が着る袍(ほう)にして着せまして。それで始めまして、阿川先生は、ご立派でいらして。最後に身の丈、横幅がものすごいおばさまをしっかり抱えて退場なさった。会場は大拍手でした。日本人だけでやったらどうしようもない、だけど日本人の中に一人、世話好きで人のいいアメリカ婦人が入って花嫁役をする、グッドアイデアだったと思いました。そんなことがあって阿川先生と親しくさせていただくようになりました

 でも、よくお叱りを受けました。お目にかかって話すと10分も経たないうちに叱られるはめになりました。ある時、「君は文章の中で『だった』と書くことはあるかね」とおっしゃいました。「僕が見た文学賞の候補作に『だった。だった。だった。だった』と馬が走っているんじゃあるまいし、そういう文章を平然と書いている奴がいた。不愉快である。『だった』じゃない。『であった』だ。そういう文章を書く奴は大嫌いだ。君はやってないだろうね」と。

 「会話ではやっているかもしれませんが」と言うと、「会話はいいんだ。文章は『だった』はいけない。『であった』だよ。そういうところは気をつけて、物書きは文章を作っていかなければいけない」。

 どのくらい多くのことを阿川先生から習ったか分かりません。私が阿川先生と呼んでいるのはその所以です。お目にかかる度に三つ四つ、書いたものに対してご忠告がありまして、時には「あれは違う」とはっきりおっしゃいました。弁解すると「弁解無用」と言われるものですから、ひたすら「はい、はい」と聞く癖が付きました。どのくらい、それが自分の身になっているのか、ひたすら感謝するほかありません。

 いつまでたってもお元気で、闊達(かったつ)で、ものにこだわらない。正しいことは正しいと言い、間違っていることは間違っているとおっしゃる阿川先生はすごいなと思いながら、気が付いたらお別れすることになりました。

 一回り上なんだからと自分に言い聞かせていますけれども、花に囲まれている先生を見たら、何とも悲しくなりました。もう何を書こうと、何をしくじろうと、先生が電話をかけてくださってお叱りを受けることは永遠にないと思いますと、とても辛い気持ちになりました。私もそのうちそっちへ行きますから、また向こうへ行ったら「おい、『だった。だった』と馬が走っているような文章を書いていないだろうな」と、あのお声を聞きたいと思っております。

脚本家・演出家の倉本聰さんが仕事の関係で欠席、代わりにメッセージが代読された。
倉本聰さんのメッセージ    

倉本聰
倉本聰さん

 

これは一体、誰に対する文章なのか。先生に対する文章なのか。それとも本日、ご参集の皆様に対する文章なのか。それくらい考えてから筆をとりなさいと、先生に一喝されそうなので、先生へのお手紙として書かせていただきます。

 先生から何度か、おはがきをちょうだいしました。ですから、先生の、あの特徴ある筆跡は今も心に焼き付いています。にもかかわらず、このグレーにして不肖の弟子は、いつも返信を電話ですませ、一度も筆をとった記憶がございません。何とも恥ずべきことであります。

 これまた、一喝されてしまいそうなのですが、あえて言い訳させていただければ、手紙といえども下手な文章を先生にお見せすることが恥ずかしかったことと、何より一刻も早く先生の優しい声に一刻も早く触れたかったからであります。

 先生のことを「瞬間湯沸かし器」と周囲が恐れているとよく耳にしましたが、一度たりともそんな失礼な感想をいだいたことがありませんでした。

 瞬間湯沸かし器という当時、最新の電化製品にたとえて言うなら、僕自身もまた、時代とともに刻々と進化した、さらに高速の瞬間湯沸かし器でありまして。要すれば、それは確たる座標軸を持たず、理不尽、無秩序に急変していく社会に対して導火線の短い短導火線の火縄銃が、意に反してついつい火を噴いてしまう。そのことに自分もびっくりしてしまう。周囲はもっとびっくりしてしまう。そういうことではなかったかと、奥様、佐和子嬢、僕はそのように解釈しています。先生と同族の短導火線の火縄銃として、先生になりかわりおわびいたします。

 ユーモアあふれる巨大な師でした。若いころ書かれたユーモア小説に、主人公の愛車である古いシトロエンだか、ルノーだったか、朝、簡単にエンジンがかからず、そのうちフランス語で「Oui(ウイ)、Oui 、Oui…、Non(ノン)、Non、Non…」。ようやく始動する描写など。先生の面目躍如たるユーモア感覚の横溢(おういつ)に大いに啓蒙(けいもう)されたものであります。

 僕が先生に初めてお目にかかったのは、ご著書『あひる飛びなさい』をNHKで『あひるの学校』という連続ドラマに脚色させていただいた40年前のことでした。

 その時、キャスティングのご相談をしたら「男優では芦田伸介。女優では宮城まり子と黒柳徹子。それ以外は知らない」という浮き世離れしたご返答で、何だかワクワク、うれしくなったことを記憶しています。何しろその少し前、勝新太郎が中村玉緒と結婚したというニュースを「タマオ」という男優が「シンタロウ」という芸者を嫁にしたと思い込んでいたとのことですから、うれしくならないほうがどうかしている。

 その先生が、こと恩師である志賀直哉先生のことになると、突如いずまいを正され、言葉遣いまで変わってしまわれるので、僕も慌てて背筋を伸ばし、きちんと正座してお話をうかがいながら、「絶対服従の師を持つ男はなんと美しいたたずまいを持つものか」と驚嘆し、そして、あこがれたものです。

 そして、僕自身も阿川先生を心の師として持つことに決めました。先生は決して堅い方ではなく、ばくちが大好きで賭け事となると目の色、人格まで瞬く間に変わる、短導火線の火縄銃に変身なさいました。旧東海道線で名古屋までご一緒した時、トランプも花札も手元になかったことにいらだたれ、僕に持っていた本を出させて、ぱっとページを互いにめくっては、そのページの数字の合計で、夢中になっておいちょかぶに励み、思わず声が大きくなって車掌に怒られたこともありました。

 『あひるの学校』がスタートした時、これは戦後日本初の国産旅客機「YS−11」の誕生物語で、飛行機の大権威、木村秀政博士をモデルにしたものだったのですが、その制作パーティーを阿川先生のご自宅で開いてくださいました。

 十朱幸代、加賀まりこ、芦田伸介など、そうそうたるメンバーが集まり、木村博士もお見えになったのですが、宴たけなわになるや阿川先生は「飛行機の権威もおられることだし、これからみんな千円札を出して、そのお札で紙の飛行機を折り、誰が一番飛んだか、一番飛んだやつが総取りしよう」。

 のちの芸術院会員にあるまじきとんでもない提案をなさり、さあ、それからは全員が盛り上がって、紙幣の飛び交う一夜になりました。

 もう20年以上前になりますか。先生の家で飲んで盛り上がった時、何かの弾みで不肖の弟子は酔っ払い、「奥さん、先生の葬式は明るく、盛大に盛り上がりましょうね」と僕がいったら「冗談じゃない。俺の葬式は静かにやるんだ。クラソウ(僕のことを先生は親しく「クラソウ」と呼んでくださっていました)なんか絶対、呼ぶんじゃない」。そこで僕がまた、調子に乗って「なあに先生は死んじゃっているんだから。どんなに怒ったって何も言えない。やりましょう、やりましょう。盛大に飲んで、朝までばくちやって」。たばこの箱が飛んできましたが、先生は最後まで楽しそうでした。

 そして、先生は逝ってしまいました。

 「盛大に葬式をやろう」と言った、言い出しっぺの僕は、しかも、今日の会を失礼しています。先生、ごめんなさい。寂しいです。僕は先生が大好きでした。もう先生の導火線も、もう眠っていらっしゃるのでしょうか。どうか安らかにお眠りください。

親族代表・阿川尚之さん  『偲ぶ会やるな』と厳命。偏屈な父、逆に嫌な予感が…

阿川弘之さんの長男で慶応大学教授の尚之さんが親族を代表して挨拶した。会場には海上自衛隊東京音楽隊が演奏の準備を整えていた。

阿川尚之
長男、阿川尚之さん

母、長女・佐和子、次男・知之、三男・淳行を代表いたしまして、私、長男・尚之から家族に代わってご挨拶いたします。皆様には生前、故人と親しくおつきあいをいただきまして幾多のご縁をいただきました。 

 わがままな父のことですから、たくさんのご迷惑をおかけしたであろうことは、ただいまの発起人のお言葉でもありありとわかります。

 この世を去っても本人に反省の色はないかもしれませんが、本人の良きところを思い返し、名残を惜しんでいただければ幸いに存じます。父は生前「自分が死んでも、葬式、通夜、偲(しの)ぶ会の類いは一切やるな」と私どもに厳命しておりました。

 月刊文芸春秋掲載の『私の死亡記事』という文章でも、阿川家一同の名前で「ご弔問、弔花、弔電、ご香料については本人の遺志でございますので、拝辞する身勝手をどうかお許しください。知人の通夜、葬式、偲(しの)ぶ会に何百回と出たかわからないが、その大半はお義理だ、せめて自分の時はそうしたことはしてほしくないと申しておりました」と、自分で書いております(会場・笑)。

 父が逝去いたしました時に、私どもはこの遺言らしきものをどこまで守るか、悩みました。誰にもお知らせせず、ひそやかにとも思いましたが、他方、偏屈な父はそうするとかえって不機嫌になるのではないかと嫌な予感もありました(会場から笑い)。

 仏式で、ごく簡素、しかし、静かな葬儀だけは執り行いました。そして、本日は父が「やるな」と言っていたお別れの会を開いていただきました。父のわがままに耐えに耐えてきた私たち家族が、最後の最後で父の言うことを聞かなかったわけです。

 ところで、同じ『私の死亡記事』の中で父はもう一つ書いています。

 それは「当人の棺を軍艦旗で覆い、子供たちが海軍儀礼曲『命を捨てゝ』を奏するなかをひそかに送り出してやりました」と。この曲は、山本五十六元帥の葬送の際、海軍軍楽隊が奏したものです。若くして士官した海軍を愛し続けた父にとってはさまざまな思いがあったと思います。

 けれども音楽の素養のない私たちきょうだいは『命の捨てゝ』を奏する能力がありません。思案しておりましたところ、海上自衛隊のみなさまの特別なお計らいによりまして、本日、同東京音楽隊が、この場で演奏してくださることになりました 。異例のことであり、恐縮しておりますけれどもご厚意をありがたくちょうだいすることにしました。

 音楽隊のみなさまにはまず『命を捨てゝ』(作曲:瀧廉太郎)をご演奏いただきます。これは帝国海軍のみならず海上自衛隊でも儀礼曲として葬送式、慰霊祭、追悼式などで演奏されます。

 <『命をすてゝ』が演奏される>

映像はYouTubeから

『命をすてゝ』
作詩者未詳、作曲:瀧廉太郎


一
 命をすてゝ、ますらをが
 たてし勲功(いさお)は、天地(あめつち)の
 あるべきかぎり、語りつぎ
 いひつぎゆかん、後のよに

二
 妻子にわかれ、親をおき
 君がみためと、盡(つく)したる
 そのいさをこそ、山ざくら
 後の世かけて、なほかをれ

三
 親兄弟の、名をさへに
 かゞやかしたる、増荒夫(ますらお)は
 この世にあらぬ、後もなほ
 國のしづめと、なりぬべし

 この曲に続けて、みなさまご存じの『海行かば』(作曲 信時潔)を演奏していただきます。


映像はYouTubeから。歌うはなつかしき伊藤久男。

『海行かば』



作詞:大伴 家持、作曲:信時 潔


 海行かば 水漬く屍
 山行かば 草生す屍
 大君の 辺にこそ死なめ
 かへり見はせじ

海上自衛隊音楽隊
海上自衛隊東京音楽隊の演奏
 

もし、霊魂というものがあるのなら、父はこの会場の隅にいて「何でこのような会を開いて、みなさまをお待たせして、ご迷惑をかけているんだ」と、たぶん不機嫌になっていると思います。けれども、格別の思いがあった海軍の 葬送曲を聞けば、しんみりした穏やかな表情になってくれるだろうと思います。

 父の最後のわがまま、遺族のわがままをかなえてくださる海上自衛隊東京音楽隊25人のみなさま、そして演奏を一緒に聞いていただく本日ご参会のみなさまに改めて感謝を申し上げ てあいさつにかえさせていただきます。


阿川弘之さんの長女で、作家、エッセイストの阿川佐和子さんの「締めくくりの挨拶」

阿川佐和子
挨拶する阿川佐和子さん
  本日は、お忙しいところ、お足元の悪いところ、たくさんの方においでいただき、誠にありがとうございます。兄が申しておりました通り「俺が死んだら、こうした会をやってはならぬ」と小学校、中学校のころから言われ続けて、通夜、葬式はもと より、お別れ会など「迷惑をかけるようなことはやるな」と言われました。

 「ここまで反逆するか」というくらいの「反逆の会」が本日、とうとう行われてしまいました。

 その父の気持ちをちょっと測って少々、不愉快そうな写真を用意させていただいたり、「盛大にやろう」という倉本(聡)さんのお言葉を聞いてみたり、いや、やっぱりシンプルにやろうか

と言ってみたり…。挙げ句の果てに、お料理をちょっと削  減したら、すっかりなくなってしまい、かえって皆様にご迷惑をおかけしたような気もいたしますけれども、本当にお集まりいただき、ありがとうございました。

 今、会場に海上自衛隊東京音楽隊のみなさまが再登場いただいているということは、「何かあるな」と思っていただければ幸いです。まずは本日、発起人になっていただいた三浦(朱門)さん、平岩(弓枝)さん、倉本(聰)さん、 それに講談社、新潮社、文芸春秋社、中央公論新社をはじめスタッフのみなさまの力をいただいて、何とか開くことができました。

 父は「やるな。やるな」ということも多かったんですが、海軍ものを書いているときは自分の気持ちを高めるためだと思うのですが、夜の食事の時に突然、レコードをかけて『軍艦マーチ』を流しました。

 われわれ子供たちは『軍艦マーチ』を聴きながら、食事をしなくていけなという…。「ここはどこなんだ、やめてくれ!」なんていうことはとても言えなくて。チャンチャンチャンチャカチャンチャン(軍艦マーチのメロディー)という時にお箸を持って、ご飯を食べるという、なんだか無人島みたいで。「うるさい! 俺は海軍の気持ちを高めるために必要なんだ」と。

 講談社の大久保(房男)さんという、大変に厳しい編集者がおられました。この方は亡くなられまして、(本日は)ご子息にいらしていただきました。「〜だった、〜だった」とか、「〜に、〜に」などという言葉遣いに大変厳しいのですが、潜 水艦乗りだったんですね。

 その厳しい編集者である大久保さんが家にいらっしゃる時、子供たちは「いいか、用意しとけ」と言われてプレーヤーに『軍艦マーチ』のレコードを置いて、大久保さんが何かおっしゃりそうになった時、父が目配せをすると、こちらは「ウン」とうなずいて、針をレコードに落とす。ジャンジャン〜と始まるので、大久保さんは緊張して「敬礼」って立ち上がって敬礼をなさる。それで厳しい文章に対する批判が少し和らぐ。

 わたしたち家族にとって『軍艦マーチ』は何というか、わが家のテーマ曲のような気分もございました。

 ちょっとそんな気分かどうか分かりませんが、今日はお別れに、たぶん、父はこれを聞いたら、たぶん、ニヤっと笑ってくれるんじゃないかと、この曲を聴いてみなさまとお別れをしたいと思います。この『軍艦マーチ』は、兄が調べてくれたんですけど、海上自衛隊の儀礼曲でもあり、正式には『行進曲 軍艦』というタイトルです。

 本日は先ほどと同じように歌はありませんが、作詞は鳥山啓、作曲は瀬戸口藤吉です。

 どうか皆さま、父の本当に嫌な思い出も、不愉快だった思い出も、叱られた悲しい思い出も含め、さまざまに思いをはせながら聞いていただきたいと思います。

 本当に本日はたくさんの方に長時間、ありがとうございました。


阿川弘之氏は海上自衛隊東京音楽隊が演奏する「軍艦マーチ」に送られてりりしく旅立った。

動画はYouTubeから。演奏はこの日のお別れ会と同じ海上自衛隊音楽隊。




藤原正彦氏 「軍艦マーチ」

藤原正彦
藤原正彦氏
 半世紀ほど前のこと、受験した大学の合格者発表は夕方だったが、パチンコ屋から「軍艦マーチ」に送られて会場に駆けつけた。曲解の得意な女房は「いかにも豪傑そうに聞こえるけど、気が小さくて夕方まで家でじっと待つことができなかっただけでしょ」と言う。
「軍艦マーチ」は私にとって、中学時代の運動会の棒倒しの時の曲でありパチンコ屋のものだった。十年ほど前、江田島の海上自衛隊幹部候補生学校の卒業式に招かれた。式直後に出航する新卒業生の行進を軍楽隊の「軍艦マーチ」で送ったが、どうしたことか涙ぐむほど感激した。

先日、今夏に亡くなった阿川弘之さんのお別れの会に出席した。会の最後に「軍艦マーチ」が特別出演の軍楽隊により奏でられた。阿川家のテーマ曲という。「阿川さんは新しい大海原へ力強く出帆したのだ」と思い胸がつまった。

(以下省略) =週刊新潮12月17日号「管見妄語」から


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