この項をアップして2年ほどたった2004年2月、新聞社の先輩、馬見塚達雄氏が夕刊フジ草創期の話を「オレンジ色のにくいヤツ」ー夕刊フジ青春 物語(仮題) として執筆を始められました。 平成16年2月25日で夕刊フジ創刊35周年になります。私も自分の思い入れのありったけをつぎ込んだ このタブロイド紙について、なにか後世に残る記録が欲しいとかねがね思っていました。
「ついては君のホームページを使いたい。特にあの金やんのくだりの原本はないだろうか。一度見ておきたいのだが」と言ってこられました。 多数の 関係者へのインタビュー、過去の夕刊フジが残されている産経新聞調査部への日参、新聞記者らしい緻密な作業の積み重ねは、 このホームページを 書き散らかしている男とは取り組み方が違います。
実は、文庫本は見舞いに来た誰かが持ち帰って手許にはありません。あの項も記憶で書いたのですが、こうなると一度原文に照らし合わせる必要が あります。本屋に聞くと絶版だといいます。仕方なく金やん本人に持っていないか問い合わせてみました。すると、あの物持ちの悪い男が、 なんと持っていたのです。FAXがない、そのへんのコンビニにあるよ、どこを押すのか分からない、すったもんだの経緯はここでは糾弾しません。 とにかく、FAXをつ ぶさに見ると、セリフが原文と違ったりしていました。
なので「六十の手習ひ」(阿川弘之、講談社文庫)の原文を掲載することにしました。本当は版元と作者への了解を取り付けねばならないところでしょうが、 あの男を知っている人なら誰もやかましいことをいわないはずだという勝手な解釈です。改行と行空けは私の判断で行ったところがあります。
その後本人からの連絡で「七十からの手習い」という一文もあるそうです。こちらは講談社の大久保氏といって「鬼久保」の異名をとり遠藤周作氏など名だたる作家を しごいた名編集者の話とか。原文のように縦書き表記、旧かな遣い、ルビつきにしました。右端と最下段のスクロールバーで調整してください。
「六十の手習ひ」元産経新聞の学芸記者金田浩一呂が、現役引退後、六十歳にして本を出した。内容は「文士 とっておきの話」といふ題名から察せられる通りのものだが、取り上げた文士の数、古くは志賀直哉、川端康成より若き赤川次郎まで五十名に及び、装幀山藤章二、版元 講談社、世間的知名人に非ざる者の耳順の処女出版としては、中々贅沢な、堂々たるエッセイ集で、世評もすこぶる高かった。 それでは著者自身、風貌豊かな堂々たる人物かといふと、全くの正反対、見たところ服装態度、 歩き方、もの言ひ、すべて貧乏ったらしく、新聞記者 らしい俊敏性皆無、山本夏彦さんが 今度の本の帯に過褒の一文を寄せて、「いつもその場にあるに耐えないように、身を折れ釘みたいに屈する含羞 のひと」と評してをられるけれど、これなども私に言はせれば、痩せてゐて姿勢が悪いだけの話である。私ども仲間うちでは、長年、いささか軽々しい 「かねやん」なる戯称で通ってゐた。 「かねやんでも大久保でも、俺たちが友達づきあひしとる編集者や新聞記者は、どうも組織の中で出世せんなあ。俺たちとつき合ふから出世せんの やろか、それとも、出世せんやうな奴やないと俺たちが友達になれんのやろか」
といふのが、
「この変なものは何ですか」
「ははあ、かういふ特殊な黒い卵を産む 人の説明を理解してゐないにしても、あまりのひどさに、当家の若者たちは、それぞれ玄関と台所へ難を避けて、思い切り吹き出したのである。 組織の中の出世どころか、よくこれで大新聞の学芸記者がつとまるものだと思ってゐたが、 その後、金田浩一呂が時々どこかに書くちょっとした埋め 草原稿とか、遠藤の文庫本とかを見るに及んで、段々私は認識をあらためるやうになった。天は二物を与へずと言ふけれ ど、その反対で、どんな人間 にも(失礼)天は一つだけ宝ものを与へてゐるといふ気がした。 観察が意外に鋭くこまかく、平素のとんちんかんなところが、文章の上ではとぼけた面 白い味に変質してゐた。 |
やがてかねやんは、原稿執筆の依頼にかよってゐた工作社で、逆に、山本夏彦さんから連載 エッセイの執筆をすすめられる。言葉の達人にしてゲテ モノ発掘の名人夏彦さんが、かねやん の文才に眼をつけられたのを、私はさすがだと思ふし、むべなるかなと感心する。 かくて夏彦さん主宰の「室内」に、文士連中の横顔スケッチといった感じの随筆連載が始まり、これまた眼をつける講談社出版部員があって、完成後 、めでたく上梓の運びとなった。かのかねやん、六十の手習ひの末、こんな立派な本を世に出すことになろうとは、「思ひもよらぬ 月今宵」と言ひたいと ころだが、実は長年、ある種の予感はあった。文章の飄逸味もさることながら、「含羞の人」金田浩一呂に相当強引なしつこい一面があって、「その場 にあるに耐えないよう」な顔をしながら、結局事態を自分の思ひ通りに操ってしまふと、かねて私は見てゐた。
例えばの話だが、何かの会合のあと、読売新聞社が私のために提供してくれたハイヤーに、 産経新聞社のかねやんが、「すみません、ちょっと」と
乗り込んで来て、「 「文士とっておきの話」が出て三ケ月後、如水会館で出版記念会が開かれたが、その席でも私 は、又々おなじ事をやられたやうである。前日、かねや んから電話がかかって来た。
「あしたは来てもらへるですか」 と、その約束で出席して、気楽に酒を飲んでゐたら、宴たけなはの頃、司会者から「やはり どうしても一と言」さういふ言ひ方で突然の指名を受け、 あ、いつものかねやんの流儀に又 ひっかかったと思ったが、もう遅かった。何を喋ったかは覚えてゐない。 |