週刊新潮 2017.11.30
塩見孝也氏 |
鉄パイプ爆弾を作り、首相官邸の占拠を企てた。同年11月には山梨県の大菩薩峠で軍事訓練を行い、赤軍派の53人が逮捕される。70年3月の日航機よど号ハイジャック事件も、世界革命戦争に至る壮大な計画のもと、海外拠点を築くためだという。
塩見議長はよど号事件の半月程前に都内で別の事件で逮捕。ハイジャックでは共謀共同正犯に問われた。83年に懲役18年の刑が確定、逮捕以来約20年を経て89年暮れに満期釈放された。
この間に赤軍派は、リンチ殺人やあさま山荘事件を起こした「連合赤軍」や、パレスチナに根拠地を求めた重信房子らの「日本赤軍」などに分裂していく。
西東京市の市議会議員を務める森輝雄氏は、大菩薩峠の軍事訓練に参加している。
「塩見さんは一度言い出すと意見を曲げません。頑固ですがおおざっぱな面もありました。軍事訓練の時も、現実的に考えると見張り役が不十分でした。武装蜂起も計画が成り立つのかなと思いました。私のような下の者の意見でも聞いてくれます。しょうがないなあと思っても憎めない人です」
41年生まれ。父親は医師。尾道で育つ。夏目漱石が好きで、62年、京都大学文学部に入学。湯川秀樹博士に憧れ研究室を訪ねてもいる。 大学生協でアルバイトを始めたことで学生運動にのめり込む。すぐに東京でも有名な存在に。68年、小学校の教師になったばかりの女性と東京の下町で暮らし始めた。69年春に一男を授かるが、逮捕は翌年のことだ。
塩見議長の言動には様々な意見があった。赤軍派の元幹部は当時を振り返る。
「塩見氏のもと、より左へ左へと突っ走って行き、大衆から乖離していきました。連合赤軍も赤軍派の流れの先にあります。当時は革命のためなら何でも許されるという考えがあった。それは間違っていました。ならばまず謝らないといけない。塩見氏は自分を正当化して、ずっと保身続けていたように思います」
出所時は48歳。翌90年には早速北朝鮮を訪れ、田宮高麿らと再会を果たした。救援連絡センター事務局長、山中幸男氏は言う。
「その後も頻繁に北朝鮮を訪れています。よど号メンバーは妻子がいることを隠していたのかと感じたり、塩見さんは思い込んでしまうタイプでした」
ハイジャック事件について、人民を盾にした戦術は間違いだったと述べるにとどまる。北朝鮮を礼讃したが、2002年には、よど号グループが拉致問題にかかわっているのではないかと発言して注目された。
一水会の代表、木村三浩氏も言う。
「出所された後からの縁ですが、塩見さんは民族や故郷を大切に考えていました。対米自立路線でも一致しました。ロマンチシズムもある。議論になると、軽く相手の3倍は話し続けます。論破する感じですね」
07年から東京都清瀬市の市営駐車場の管理員として働く。〈自分は働く人のために闘うと言いながら。所詮労働現場を知らないインテリ層の一人に過ぎなかった〉と小誌の取材に答えた。66歳にしてようやくだ。生活感覚が根づくのは難しい。
「政治的な同志関係しか経験したことがなかったので、職場の同僚ができたことも喜んでいました」(山中氏)
合理化反対で団体交渉を担うなど相変わらず。15年には清瀬市の市議会議員選挙に立候補、得票数319票で落選するが、SNSを使い発言欲は旺盛だった。
11月14日、心不全のため76歳で逝去。
沖縄の米軍基地反対運動の資金に御香典をあてようと、7年前に生前葬を営んでいる。驚かせたり目立つことも好きだった。
=======================================================================上の記事にある生前葬について、またその時関係者に配布された「遺言状について書かれたブログがあるので 紹介する。筆者は1935年生まれで今はリタイアしているが元NHK記者。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━元赤軍派塩見孝也議長の遺言状
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石岡 荘十
先日、元赤軍派塩見孝也議長から「遺言状」がメールで送られてきた。
といっても彼が亡くなったわけではなく、4月24日に都内で「生前葬」が
営まれ、それを終えた後の心情を関係者に送ってきたものだ。
塩見元議長が一世を風靡した(?)のは、はるか40年前のことだから、 彼を産んだ時代背景をおさらいしておく必要があるだろう。これまでに も何度か本メルマガで書いている。
塩見とは何者で連合赤軍と彼の関係は? あるいは「日航機よど号ハイ ジャック事件」「拉致事件」との関係を抑えておく必要がある。そのこ とを「革命ごっこの記録」で大雑把に、書いた。 http://www.melma.com/backnumber_108241_4042278/
で、その塩見氏の遺言状である。骨子をまず紹介する。
<僕は赤軍派議長として実行した軍事至上主義の武装闘争路線を清算する事を改めて宣言します>
彼は、70年安保前夜の大衆闘争に焦燥感を募らせる。航空機をハイジャッ クしてキューバか北朝鮮で本格的な軍事訓練を受け、日本に帰って革命 を実現しようと計画する。
ところが、計画実行直前に治安当局に察知され、東京・駒込のアジトを 出たところで逮捕される。が、残る“同志”9人が2週間後(‘71.3.31)、 日航機「よど号」をハイジャック、北鮮に飛びこむ。
このうち何人かが日本人拉致事件に関与したと疑われている。塩見がシャ バに出てきたのは20年後(‘89.12.27)だった。
彼の言う「武装闘争」はこのことを指しており、これを改めて「間違い だった」と認めているのだ。
<いわゆる連合赤軍事件は、僕が獄中にいる間に発生しました。連合赤 軍は赤軍派ではありません。永田(洋子:死刑判決が確定)さんらの “私党”といえ、この私党の中で、反対派を“粛清”する痛ましい事件 が生じました>。この事件で12人がリンチ殺人の犠牲となった。
<僕が仮に外にあって、指揮を執っていたとすれば、断じて同志殺しは やらなかった>といわゆる一連の連合赤軍事件について、自分には直接 的な責任はないと述べている。
しかし<赤軍派自体が軍事路線に立っていた以上、事件が発生する可能 性はあったといわなければなりません。この可能性という点につきまし ては、僕が全面的に責任をとらなければなりません>
としているが、間接的な責任しか認めていない。<「同志を殺す」こと は、僕の体質にもともと合いません>とも言っている。
彼は現在、大型スーパーの駐車場の管理人をしている。時給950円。
<そこで、労働の喜びや賃労働の苦しみをいくらか知り、このなかで (社会の矛盾は)自分一人でしか解決できない、と傲慢にも勝手に思い 込んでいた課題でしたが、民衆がより有効に団結し、闘えることを確信 しました><学生運動とは全く違う労働者の団結の仕方をいくらか、学 びました>と総括している。
「生前葬」は塩見議長が路線を転換したことをアピールするイベントと いうわけだ。彼の思想遍歴の「終点」だと位置づけている。
“遺言状“は、<この地平に立って、僕が提唱した軍事至上主義の小ブ ルジョア学生大衆中心の武装闘争路線のために、被害を受け、亡くなっ たり、獄に在って、死刑攻撃を受けたり、無期刑を受けたり、重刑攻撃 を受け続けている仲間、外国に渡って長い年月、亡命を強制されている 仲間達を始め、今も苦しみ続けている元同士達、友人・知人の方々に衷 心からお詫びいたします。どうか、許してください>と謝罪の言葉を述 べている。
「生前葬」の会場は、東京御茶ノ水の「総評会館」だった。“極左”が ただの“左翼”に“転向”したということだろう。
支援者200人が参列し、香典は280万円にのぼった。「香典」は運動のた めのカンパとなるという。
彼は今でも「革命家」を自称して「沖縄支援・憲法9条改正反対」をスロ ーガンとする運動を展開しているが、何のことはない、今やそこらにい る大衆行動、“左翼用語“でいう一般大衆を動員する大衆運動、カンパ ニア闘争に駆けつける、ただのおっさんになってしまった。
今なら現政権党の中に生き残っている旧社会党左派や連立与党の中の何 人かとも話が合うかもしれない。
60年代末の第1次羽田事件から70年代初めの浅間山荘事件まで、30代の半 ばの数年、「安保闘争」を追っかけ、つぶさに取材してきた私としては、 塩見元議長はその時代を象徴する人物の一人である。遺言状は、事実上、 その終焉を告げるものであった。塩見元議長は今週末、69歳になる。近 影は↓http://www.youtube.com/watch?v=YH3PrkkQTRQ20100515
(メイルマガジン「頂門の一針」2008年3月26日号から)