産経の大スクープについては本文の中でも紹介しました。このサイトの亭主は当時、産経の中にいて、警視庁キャップの福井惇氏とは酒を酌み交わす仲だったこともあり、いろいろ内輪話も知っているのだが、中にいた者が書いては自慢話としかうつらないので控えた。しかし、2024年2月8日に元週刊文春・月刊文芸春秋編集長、木俣正剛氏による「『文春砲』の手本となった産経記者の執念」(ダイアモンド・オンライン)という一文が出た。身近に福井キャップと接した人で詳しいので以下に紹介する次第。

連続爆破事件に挑んだあるジャーナリストの気概

 

元週刊文春・月刊文芸春秋編集長 木俣正剛

● 桐島聡の死去で思い起こす 産経新聞の歴史的なスクープ

 1970年代に連続企業爆破事件を起こした「東アジア反日武装戦線」のメンバーとして指名手配され、49年間逃亡を続けた桐島聡が、死の間際に病床で名乗りを上げた事件は、メディアを大きく騒がせました。

 テロリストといえば、あさま山荘事件や、よど号ハイジャック事件などの昔の映像がテレビでよく流されますが、あの時代に生きた世代にとっては一番不気味なのが、「狼」「さそり」「大地の牙」の3つのグループに分かれたこの団体でした。なにしろ彼らの無差別テロで多くの人間が死傷した上、デモなど表立っての活動がなく正体不明なのですから、本当に怖い存在だったのです。

木俣正剛氏
木俣正剛氏
木俣正剛(きまた・せいごう)

この記事を書いた木俣正剛氏はマスコミ界ではかなり知られた人である。1955年京都市生まれ。高校時代から文芸春秋入社を目指し、その通り78年早稲田大学政治経済学部政治学科卒後、同年文芸春秋入社。『週刊文春』『文芸春秋』の編集長として陣頭指揮にあたり現在の「文春砲」と言われる取材力の基礎をつくった。

在任中、今回紹介した、産経新聞社会部長・福井惇氏の著書『狼・さそり・大地の牙』出版に携わったほか、江川紹子との坂本弁護士失踪事件追及、野坂参三密告の手紙、少年Aこの子を生んで、ジャニーズ追及キャンペーン、田中真紀子秘書給与疑惑、村木厚子独占手記、田中角栄の恋文、尾崎豊の遺書など多数。

2015年常務取締役、社長候補の筆頭だったが18年退社。現在、岐阜女子大学副学長を務める。

 なんと、1975年5月19日の犯人グループ逮捕の日に、「爆破犯数人に逮捕状」「幹部は元都立大生 27歳」などと、産経新聞が詳しく朝刊の一面で抜いていたのです。

福井惇氏の著書
福井惇氏の著書『狼・さそり・大地の牙』
 私は、文藝春秋の出版局長時代、大スクープを連発した当時の産経新聞社会部長・福井惇氏の著書『狼・さそり・大地の牙』を担当しました。また福井氏は、私の事件取材の恩師ともいうべき存在でした。

 今のメディアがいかに情けないか、努力不足か、覚悟に欠けるか――。この本を読むとすべてがわかると思います。

 当時、産経新聞の記者によるテロ取材がいかにすごかったか、一つエピソードを挙げましょう。1971年8月、朝霞陸上自衛隊駐屯地で自衛官が殺害されました(朝霞自衛官殺害事件)。赤衛軍と名乗る新左翼グループから犯行声明が出ました。この事件の犯人をスクープしたのも産経新聞でした。

 記者が犯人にたどりついた方法は、執念の賜物としかいいようがありません。現場に残された赤衛軍のヘルメットに着目し、事件発生場所に近い工事現場で盗まれたとわかったので、現場に近い大学に狙いを絞りました。そして大学のエレベーターに「赤衛軍万歳」の落書きがあったという証言から、それを消した清掃員への取材で現場に残された宣言の筆跡と同じであることを確信しました。

 そこで、大学の最寄りの駅の定期券購入の申込書を全部調べて、過激派学生の一人を突き止めたのです。さらに、犯人逮捕の瞬間を撮影しようと、主犯のアパートの前にある家具店にアルバイトとして勤務しました。「家業を継ぐため、無料でアルバイトしたい」と家具店に入った二人の記者は、ずっとアパートを見張り続け、逮捕の瞬間の撮影に成功しました。

● 「スクープだけはテレビに負けない」 福井惇氏が挑んだ連続企業爆破事件
福井惇氏
福井惇氏

 こんな努力をしている記者が、今、いるでしょうか。

 

 朝霞事件の取材を指揮していたのが、福井惇・浦和支局長。彼の持論は「これからはテレビの時代になるだろうが、少なくともスクープだけは新聞は負けない。新聞の未来はスクープにかかっている」というものでした。

 そして、運命が誘うように、福井氏は警視庁キャップに就任します(本当は支局長から二階級降格となるのですが、福井氏の情熱がこの時代に必要だと、産経新聞は考えたようです)。

 実際、当時の世相は物騒でした。1971年には東京都内だけで62件、そして48年にかけて全国で87件の爆弾事件が起きています。使われた爆弾の数は573個。このうち逮捕は51件、192人のみ。その上、赤軍派による明治公園での爆弾事件では機動隊26人が重軽傷を負い、土田国保・警視庁警務部長宅に爆弾が仕掛けられ夫人が死亡するというように、無差別テロから警察幹部や自衛隊員を狙うテロにまで、犯行はエスカレートしていました。

 そして、福井氏が警視庁キャップに就任した1974年2月から半年経った8月30日に三菱重工爆破事件が起きました。死者8人、重軽傷者376人。ちょうど昼休みでビル外に出ていたサラリーマンやOLが、割れたガラス片で重症を負いました。

 ここから、産経新聞福井チームの猛烈な頑張りが始まります。それは後述するとして、福井氏はどんな人だったのでしょう。私が入社した当時(1978年)の『週刊文春』は、取材力も人脈もない情けない雑誌でした。警察官にも検察官にも政治家にも直接取材ができる記者などいなくて、何か事件があると担当の新聞記者に聞いて回ります。

 特に、文春編集部が頼ったのが福井社会部長でした。福井氏は、週刊誌だからと小馬鹿にしない優しい人でした。電話でお願いすると、すぐに隣にある別の電話で、その事件の担当記者を呼び出し、「俺のダチ公がよう、文春にいて、あの事件取材して困ってるんだ。手伝ってやってくれ」と、いつもの低音のかすれ声で電話してくれるのです。どれだけ助かったことでしょう。

 そして、お礼の席を設けると必ず、後輩の錚々たる記者たちを連れてきてくれます。彼らがしてくれる過去の事件取材の話は、ジャーナリズム未経験の我々にとって、どれほど役に立ったかわかりません。

● 週刊誌にも分け隔てなく接する人柄 名物記者に教わった「取材の原点」

 一度、こんな質問をしたことがあります。

 「被害者家族は悲嘆にくれています。そんなとき、記者が取材するってむごくないですか。かなり迷うのではありませんか?」

 福井氏は少し考えてから、こう答えてくれました。

 「そりゃあ、悩むさ。実際、事件にあったばかりの被害者の家族に話を聞くなんて非道な人間だとマスコミのことを批判したり、新聞記者の中にも、そういうやつはいる。しかし、そんな新聞記者はロクな仕事はできない。被害者の家族の無念の思いを聞き出して、怒りを共有しない限り、犯人をみつけよう、警察の怠慢は許さない、そんな気持ちは出てこないんですよ」

 さて、重工爆破という大事件が起きました。福井班はすぐに、スクープをものにします。鑑識は総勢125人で証拠品2370個などを抑えましたが、肝心の起爆装置がみつかりませんでした。これでは、爆破の方法がわかりません。福井チームの鑑識担当記者は、事件初日に「鑑識にいって戻らない」と言ったまま音信不通になったそうです。彼はずっと鑑識の作業を見続けていたのです。その分、鑑識のメンバーに信頼され、仕事が終わったあと、警視庁地下の鑑識専用の風呂に一緒に入る関係になっていました。

 そんな彼がもたらしたスクープも、決定的なものでした。「ダイナマイト使用。時限装置は旅行時計。起爆には電気雷管を使う。乾電池はナショナルハイトップ、二個の包みに分けた200本のダイナマイトをつけて同時爆破……」これらは、鑑識でないとわからない内容ばかりです。

 福井氏は前述の著書でこう語っています。

 「警察に密着することと、癒着することはまったく違う。密着することで、警察の捜査の不備をチェックすることもできるし、逆に警察のでっちあげやその真偽も判断できる。松本サリン事件のように集団誤報するのは、記者クラブにいて、自分の足で事件を追わないからだ」

● トイレで隣り合った刑事から 事件に迫る「手がかり」を手渡され……

 桐島逮捕で話題になった、彼らの教本『腹腹時計』の存在を知ったのも産経が最初でしたが、気がついた時点で警察が買い占めたらしく、どこにも見当たりません。記者の一人が山谷のドヤ街にもぐり込んで、探し回り、何日も経って入手してきました。実は入手できず、山谷まで行ったと聞いた刑事が秘密裏に貸してくれたのです。

 ビルのトイレに呼び出され、隣で小便をしながら渡すというスパイ映画のような話ですが、記者の配慮も細かいものでした。チームに提出したときは、書き込みや染みまですべて修正液で消されていました。ニュースソースは絶対守るという記者の大原則を、彼は守っていたのです。

 当時、福井氏は上司から「お前はどんな人の使い方をしているのか」と叱られました。チームの一人がエレベーターの1階から3階まで立ったままイビキを書いて寝ていたのを見たからだったそうです。昨今は企業で「働き方改革」が進み、私もその趣旨には賛成ですが、好きなことをトコトンやることまで法律で制限する、あるいは社の内規で制限するのは、コンテンツ産業には馴染みにくいということも事実なのです。

 その後も、産経のスクープは続きます。爆破事件のとき、男女二人組がタクシーで現場を走り去ったという証言から個人タクシーの運転手を見付けて、初めて犯人たちの顔や姿を確認。円筒形の荷物を抱えていたことも判明しました。

 ある日、夜回りに出た記者がベロベロになって記者クラブに電話してきました。「とにかくこの名前をメモしろ。東京行動戦線、斉藤のどか」。酔いがまわって刑事が漏らしてしまった容疑者の名前と所属団体を、忘れないように電話で伝えてきたのです。以降、記者が刑事を尾行するなどして、犯人の名前を4人までは特定し、証拠まで産経は把握していました。

 最後の詰めは、Xデーの特定です。Xデーの報道は極めて大きいリスクをはらんでいます。容疑者たちが逃亡する可能性や、報道されることを知って警察が捜査開始の日を変える可能性もあります。警視庁幹部と社の幹部で侃々諤々の議論の上、犯人の名前と住所を載せない、記事は都内最終版だけにしてラジオやテレビが早々に流さないよう遅い時間にしか渡さない、配達は2時間遅くする、といった妥協案が出されました。記者にとっては名前がスクープできないのは悔しいことですが、逮捕を優先し、決定は下りました。

 逮捕後、犯人の一人が持っていた鍵で行方のわからないものが2つあり、それが桐島聡とUのものでした。桐島の部屋には爆弾の材料が大量に蓄積されていましたが、逃亡したあとでした。

● 「文春砲」を育ててくれた 恩師の声が今も胸に蘇る

 さて、この度桐島聡が名乗り出た心理について、色々な意見が出ています。私は桐島は完全に敗北感に打ちのめされていた人生だったと思います。なぜなら、教本『腹腹時計』は一人でも爆破テロを続けることを示唆していたのに、彼は爆破をしようと思った気配もないからです。

 産経チームは新聞協会賞をとりました。しかしそれ以降、うーんと唸らされる新聞協会賞もののスクープは見当たりません。福井氏は「テレビに新聞が勝てるのはスクープだけだ」と語っていましたが、それはまったく実現せず、むしろ大人しいジャーナリズムになってしまったのが、今の大きな部数減につながっているのではないでしょうか。

 私の耳には、今でも福井氏の低音の声が蘇ります。そして、秘かに思うのです。福井氏の指導があったからこそ、週刊文春が「文春砲」と呼ばれる存在になれたことを。

 (元週刊文春・月刊文芸春秋編集長 木俣正剛)