逮捕され東京駅に到着した重信房子受刑者。 集まった報道陣に手錠をはめられた両手を掲げてみせた =平成12年11月(一部画像処理) |
武力を行使して、世界を変えたい。そんな考えで、かつて多くの若者たちが中東へ渡った。重信房子受刑者率いる日本赤軍が描いた理想は、結果的に数々の事件を引き起こし、多くの犠牲を生んだ。重信受刑者の逮捕翌年に日本赤軍は解散したが、重信受刑者と行動を共にした元メンバーは反省を口にしつつ、「今も革命家のつもりだ」と語る。
かつて日本赤軍のスポークスマンだった 映画監督、足立正生さん=11月5日、東京都内 |
重信受刑者と初めて出会ったのは、日本赤軍の前身、赤軍派が結成されて間もない昭和45年ごろ。映画関係者や作家らが集う東京・新宿にある飲み屋で、カンパ(支援金)を募っているのを見かけた。「熱心に組織の窮状を訴えていた。僕はカンパをしなかったけれど、若くてチャーミングで、のんべえたちには魅力的にうつりましたね」
その後まもなく、足立さんは映画の取材のためパレスチナを訪れた際、重信受刑者と再会。行動を共にするようになり、日本赤軍に合流した。「当時の警察の管理体制に腹を立てていた。権力側のキャンペーンから解放されたかった」。頻繁に中東を訪れ、武装訓練など組織づくりに注力し始めた。
やがて、日本赤軍は数々の国際テロ事件に関与するテロ集団として捜査当局から警戒されるようになった。足立さんは1997(平成9)年にレバノンで逮捕された。重信受刑者が大阪で逮捕されたのは、それから3年後のことだ。「日本に帰ってきていることすら知らなかった」。刑務所で重信受刑者逮捕の新聞記事を読み、驚いたという。逮捕翌年の平成13年、獄中にいた重信受刑者の発表によって、日本赤軍は解散する。
「反省点はいっぱいある。もうちょっと緩やかなやり方でもよかった」と総括しつつも、「世の中のあり方を思うように変えたいというのは、あの頃から変わってない。私は今も革命家のつもりでいますよ」と語る足立さん。現在は映画などの手段で、世のあり方を問うているという。
重信房子受刑者からの手紙の写しを眺める 大谷恭子弁護士=11月5日、東京都内 |
重信房子受刑者は先月下旬の日付で、現在の心境や処遇への不満などをつづった手紙を代理人の大谷恭子弁護士(70)に送っていた。手紙は縦書きの便箋計7枚。小さな文字がびっしりと埋められていた。
《もう20年も前!50歳の先生と55歳の私の夜の11月8日のことを今もよく思い出します》
20年前の逮捕をこう振り返った重信受刑者。服役している東日本成人矯正医療センター(東京都昭島市)で7月から、民芸品を作る懲役軽作業を始めたといい、《獄中20年で出所までに2年を切っており、社会参加に向けて好奇心を持って迎えた》と明かした。
だが、10月からの作業はボール紙の切れ端を指で繰り返しもみ、5ミリ以下にちぎるという内容に。《指先がマヒし、ジンジンと痛みます。夜もジンジンしています》と訴え、センターに苦情を申し立てたという。
重信が収容されている東日本成人矯正医療センター |
大谷弁護士によると、重信受刑者はがんを患って手術を繰り返したこともあり、身体の状態は万全とはいえないが、今もパレスチナの情勢を報じるニュースを精力的に収集しているという。手紙はこんな言葉で締めくくられていた。《身体はゆったり過ごしてください。出所したら思いきり語り合いたい!コロナに気を付けて!》。
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日本赤軍 赤軍派幹部を経て1971(昭和46)年にレバノンに渡った重信房子受刑者を最高幹部として結成。イスラエル・テルアビブの空港で自動小銃を乱射し、約100人を死傷させるなど各地で事件を繰り返した。重信受刑者はオランダのフランス大使館が武装占拠された74年のハーグ事件に関与した疑いで2000(平成12)年11月8日、大阪府高槻市の路上で大阪府警の捜査員に逮捕された。裁判ではハーグ事件に関して無罪を主張したが、懲役20年の判決が確定。令和4年に刑期満了となる見通し。重信受刑者は逮捕後に解散を表明したが、現在も乱射事件の実行犯とされる岡本公三容疑者(72)ら7人が国際手配されている。