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新聞記者としての話はここでは書くまいと決めていた。愛犬の墓銘碑がわりに立ち上げたホームページだが、覗いた人から裏話はないのか、といわれるようになった。 あれやこれや書き散らかすうちに素性はばれている。なら、書くか。でも、守秘義務があると自戒もしているので、時効の範囲内で、戯れ言(ざれごと)を。 |
ごめんなさいと最初にことわっておく必要がある。はやらないし、読みづらいのも承知の上で、
極力写真を使わないのは、活字人間の性(さが)です。

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医者、記者、芸者、三日やったらやめられない
面白い職業について
「よど号事件」30年か
結婚式の写真がない!
アカシアの雨に打たれた安保
我が青春の挫折ですか
コンコルドにイギリス病を見た日
サッカーやると退学処分
JALジャンボ機御巣鷹山に消ゆ
520話の思い出
札幌オリンピック美人通訳譚 豪華客船「QE2」の話など
あさま山荘事件-凍える攻防 取材記者の見た現場
釜が崎のアラン・ドロンや サツ回り記者絶句す
天下の奇人、金田浩一呂氏のこと 抱腹絶倒保証記者
○ 阿川弘之「六十の手習ひ」の原文掲載。
放蕩一代 、尾登辰雄氏を偲ぶ 遊びの達人


| 医者、記者、芸者、三日やったらやめられない |
酔うと「新聞記者も人の子よ・・・」と歌い始める先輩記者がいた。「おたまじゃくしはかえるの子、なまずの孫ではないわいな、それが何より証拠には、
やがて手が出る足が出る」という、巷間有名なリパブリック賛歌の替え歌の替え歌で、最後が「恋もする」だから、どんな職業にも当てはまる。
この人がよく言っていたのが表題の、箴言(しんげん)というにはほど遠いから、まあ、語呂合わせである。やめられない理由が、稼ぎがいいということは絶対にない。これは経験から断言できる。
口が固いとか職業上の守秘義務があるというのも考えすぎだろう。
私はそれぞれに、「からだの裏側」、「社会の裏側」、「男の裏側」を覗く面白さのある職業だからだ、と思っている。
ほかの二つはやったことがないからわからないが、新聞記者が面白い職業であることは請け合う。
いまでこそ、新聞記者から総理大臣や地方の首長になる人がいて、ステータスもあがったが(いやそうでないという方もいようが)、
ついこの間まで、「おお瓦版屋(かわらばんや)か」とわざと高言する人は多かった。私の叔父もそうだった。
ステータスついでにいうと、戦前は新聞記者は車夫馬丁の扱いを受けて、お役人より社会的な地位が低かった。私の体験で言うと、現代でもこれが生きているのが日銀本店で見られる。日銀記者クラブというと金融記者がふんぞり返っているようなイメージがあろうが、日銀本店内ではまさに車夫馬丁の扱いで、車寄せがある玄関の前の平屋建ての石造りの建物に警備の警察官と一緒に放り込まれている。総裁会見などで庁内に入るときはいちいち警備のチェックを受けねばならない。
文化部、科学部、経済部などそれぞれの分野に精通した解説型の記者が増えて、イメージアップに貢献したとも思うが、少し前というか昭和40年ころの話だが、そうでない記者も堂々と生存していた。
社会部の内勤、つまり原稿取り(外からの電話送稿を書き取る)をしていたとき、先輩H記者からの電話を取った。
事件原稿だったが、「わからんとこは俺に聞け」という。まだ何も聞いてないから、はあ?と問い返すと、発生日時、被害者と被疑者の名前、逮捕容疑などメモ風のものを一気に話すと、黙りこんだ。あと原稿に必要なことは俺から取材して書けということなのだ。原稿が書けない記者がいたのである。
この人は、業界用語でいう「ヤー公」(やくざ、暴力団員)が、警察にではなくH記者に自首してくるというので有名で、私が目撃したのは大阪駅の前にある曽根崎警察(通称「ねそ」)だったが、公廨(こうかい=大阪だけの警察用語で、警察署を入ってすぐの受付けとか当直指令がいるあたりの広いところをいう。公廨の本来の意味は「役所」)で、各社の記者とカメラを前に「ええか。写真はここ、記者はそこ。(犯人を)ここ入ってこう引きまわすからな」と生き生きと仕切っていた。このあとH記者が付き添って刑事課長に引き渡す。なんだか「プレ自首」といったあんばいで芝居を見ているようだった。
キタの新地で地回りに絡まれたとき、「xxxx(新聞社名)のHを知らんのか」とレンガでぶん殴ったという 武勇伝の持ち主だった。翌日、頭を包帯で巻いた子分を連れて、親分が謝りに来たというあべこべの話もある。こういう記者も嬉々としていたから「三日やったらやめられない」面白い職業なのだ。
もう一つこの人の「伝説」がある。”ガン首集めの名人”としてだ。今はもっと上品に「顔写真」と言っているが、交通事故、事件に関わらず原稿につける死者のガン首写真を取って来るのは記者の常識だった。これが難関なのだ。なにしろ相手の家族は人生
最大のパニックの最中だ。気が立っているところにノコノコ現れて「写真を・・・」などと言い出すのだから、歓迎されるワケがない。「ボケナス!アホか!」と怒鳴られるくらいは序の口で、胸倉をつかまれることもある。写真を持ってこないと社に帰ってからデスクに「アホ!」と言われる。どっちに転んでも、アホでしかない。仕方ないから、いろいろ”からめ手”を考える。子供なら幼稚園や学校に行ってアルバムから複写する。
大人なら会社の社員旅行や学校の卒業アルバムを探す。今も中年過ぎの被害者などで学生時代の顔写真が出るのはそれだ。
自社の分だけ複写して戻ったら「アホ、なぜアルバム全部持ってこない」と怒られた。あとから来た社にガン首を渡さないため、一切合財持ち帰るのはサツ回りの常識だと言われた。
確かに後塵を拝してひどい目にあったことがある。その社はアルバムから顔写真に使えるものを、みなひっぱがして持ち去っていた。
私など下手で、原稿書きながら、いつも写真をどうしようか悩んでいたものだ。同期の男に名人といわれるのがいた。実家が寺で、お経が読めるものだから、「お参りさせてください」といって上がりこむ。
読経のあと「ひとつお写真を・・・」という手口で、かなり確率は高かった。
しかし、先輩H記者はその比ではなかった。ほとんど100%だ。なんとかコツを教えてもらおうとしたが「頭を下げるしかないわな」というだけ。ところが、ある日秘訣がわかった。上述の「ねそ」で目撃したのだ。
交番の警官をつかまえて、「オイ、この家に行ってこい」と、命令している。「なるべく正面向いた写真だぞ」と注文までつけていた。白い自転車で制服警官が来た家では、捜査の一部だと思うせいか、一も二もなく差し出す。
遠い家だと警ら課長(今は地域課長というが、交番を管轄している)に言って若い警官を行かせる。ひどいものだ。秘訣は分かったが、とても真似できるものではなかった。
警察に逮捕された被疑者が、最初にすることは写真撮影だ。横にスケールがついていて身長が目で分かるようになっているおなじみのものだが、ここで、正面と真横の2枚撮られる。樹々希林のCMのように「それなりに」写るのならまだしも、
照明のせいでどんな人間も一段と人相が悪く写るようになっている。警察庁からのマニュアルがあって、顔の輪郭が浮き出るようにライトの一つは下からあてるよう
に指示されているためだ。私もある署で撮ってもらったが、前科3犯の詐欺師然とした写真で、あわてて捨てた。
だいたい鑑識課で撮影するが、全指の指紋も1本1本係官が手を添えて取るからかなりの時間鑑識に滞在する。この部屋に入り込んで(つまり次に相手する刑事より
先に自供を取ろうとして)問いただしているところも見た。
この人は「マル暴」(ヤクザなど暴力団関係者。警察内の書類でマルの中に暴の字の印がついていたことからきた)だけでなく、警察から病院にいたるまでメチャ
クチャ顔が効いた。事故か事件か忘れたが、瀕死の男が手術室に運ばれる間、そばでほっぺたをビタビタたたいて「おい、名前は、住所は」
とやっていた。この男はまもなく死んだから、H記者のメモが唯一の手がかりとなった。警察官も頭を下げて、彼から死者の身許を教わっていた。今ではこんな記者生存していない。
少し後のことだが、私が配属になっていた中部地方のある支局に支局長としてこの人がやってきた。着任2日目、M新聞の支局長が土下座させられる。運悪く、この支局は前月末、何かの都合で、
わが社の新聞の購読を1部減らしたことを販売店から知らされ「仁義を知らんヤツだ」と激怒したのだ。聞きなれない仁義など持ち出された方は土下座しかない。逆に2部増やされた支局員は「お前んとこの新聞ばっかりや。どこの支局かわかれへん」と私にぼやいた。
4日目早くも、「毎週木曜日、知事と各社支局長の懇談会」「毎週金曜日、県警本部長と各社支局長の懇談会」がセットされた。
それまで、この県では2,3ヶ月に1回あればいいペースだった。県庁と県警の広報があわただしく支局に出入りし始めた。
5日目くらいに、私が呼ばれた。この祝儀袋に千円札(初任給2万2000円の時代)を入れるのを手伝えという。夕方から料亭の玄関先に立って、入ってくるお姐
さん方にお渡しするのが私の役目だった。一夜にしてその街の芸者衆がH支局長の名を覚えたのはいうまでもない。ホントの話である。

| よど号事件から30年か |
21世紀を直前にして、2000年11月8日、日本赤軍の最高指導者、重信房子(55)が大阪で逮捕された。長い間、全国の交番に貼り出されていた手配書でおなじみの人物だ。
それより先の6月末、よど号事件の田中義三が逃亡先のタイから送還されてきた。
田中義三の51歳という年齢を見て考えさせられた。当時21歳の確か大学生も、いまや頭ははげて見るからに中年。赤軍の女王だった重信房子だって、Vサインで連行される写真は
手配の顔写真とはまるで違っていて、そのへんのおばさんの群れにまぎれたらまずわかるまい。年頃の娘もいるというから当たり前だが、テレビをみながら別な感慨が沸いた。
彼らが30年ぶりの帰国というからには、私ども夫婦も結婚30周年になる。銀婚式が25周年だから、真珠婚式か何かにあたるわけだが気がついたのが6月では、
遅すぎてどうすることもできなかった。
昭和45年4月4日、大阪で挙式したのだが、私たちには結婚式の写真がない。なにせ突然のよど号事件。発生は少し前で、取材先の新幹線の岐阜羽島の駅のテレビで知った。
それまで聞いたこともない事件のパターンで、ハイジャックという言葉もこのとき初めて使われたのだが、よりによって私たちの結婚式とぶつかったのだ。
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| 安田講堂めぐる攻防の さなかに東京へ異動したのだが。 |
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| 夕刊フジの創刊号 |
夕刊フジはまだ大阪で発行されていなかったので、身は東京に置いたまま岐阜羽島まで取材に行ったり、京都に来日したイギリスのアン王女を追っかけたりしていた。家内は芦屋にいた。一年生記者だから文字通り新幹線で東奔西走 していた。私の実家は大阪、家内の実家も関西、勤め先は東京、学生時代の友人の多くは札幌、そんな地縁から挙式は大阪になり、司会者と本人、それ に招待者の一部の上司や大学や仕事の仲間は東京から大阪に移動するという必要があった。このころは電話事情も悪く、新聞社は専用電話を引いていたが、一般家庭では、東西間でも申し込 んでつながるまでかなり時間がかかった。だから、たいした打ち合わせもできずもともとぶっつけ本番に近い結婚式ではあった。
前日夜遅く大阪南郊の実家に戻った。ニュースに素人の家人は、ニュースと我が家の行事とが関係するなど考えもしない。よど号の話など露ほどもなく、
九州・唐津や東北・米沢などから遠路駆けつけた親戚との昔話ばかり。家内の実家にもここ2,3日は電話もしていなかったが、どうせホテルでの着付けや髪結いのことでこちらの理解を超えている。子供じゃあるまいし、時間になれば勝手にホテルに来るだろう、と互いに連絡もしなかった。
事件発生から4日たっていたが夕刊の扱いはまだ大きくて、連日トップ。大阪本社社会部の記者がかなり動員されている様子だった。本人はいやな予感がしないでもなかったが、電話する時間もなかった。
当日、新郎は大してすることがない、はずだった。のんびり構えていたら電話が入った。司会者本人からで、新幹線に乗り遅れて遅刻する、よろしく、だと。前夜に飲みすぎたという。同じ社宅だが式の打ち合わせもしたことがなかった。全体の仕切りもこの男の役目だったが、内容も聞いていない。 そんなこと直前に新郎に言われたって・・・仕方ない、客ごと式を遅らせるしかない。
仕事がら披露宴の招待客には記者やカメラマンが多かった。ホテルの式場に行ってみると、少し招待客の数が少ない。ホテルのすぐ近くが大阪本社なので、社会部に立ち寄ってから来るのだろうくらいにしか考えなかった。いざ披露宴会場に入り、新郎席に着席すると、目の前のテーブルごとごっそり空席である。みんな、よど号を追ってソウルに飛んだという。それも今日ではなく事件発生直後からだという。 結婚式の当人だけはさすがに配慮したか、行けとは言われなかった。それだけでもめっけもんだ。
ホテルの宴会担当者が新郎の私に相談にやってきた。どうしますか、といわれたって知恵があるわけもない。テーブルごと片付けるわけにもいかない。呑ん兵衛が多いから出しとけば誰か飲むでしょうよと言うほかない。
とどめは写真だった。挙式の写真を撮るはずのカメラマンはいなくなっていた。これまたひとことの連絡もなく。ブン屋ならそれくらい察しがつかなくてどうする、といわんばかり。立つ鳥跡を汚してソウルでシャッターを切っていた。
当然披露宴の写真もない。後日パラパラと素人のスナップ写真が集まってきた。お色直しも何回かあり、家内は和洋の晴れ姿を披露したようなのだが、何も残っていないし私の記憶にもない。義母が言ったものだ。「ウチにもカメラぐらいありましたのに」。
それでも編集局の幹部は何人か式場に残っていた。記者やカメラマンをソウルに出張させた当人だが、それとて、デスクと事件の電話連絡のために中座してろくすっぽ席になどいやしない。この時代携帯電話はないからいちいちロビーの赤電話に行く。 酒を呑みに席に戻るようなもので、実のないことおびただしい。もっとも事件がなくてもこんなものだったろう。社会部は経済部や文化部より数段ガラが悪いとされていたから。
その日のうちに伊丹空港から羽田に飛び、ハワイ便に乗り換えた。羽田には東京での同僚が多数見送りに来ていた。といっても我々のためではない。この日北朝鮮が機体の返還を発表したため、今にも「よど号」が着陸するかもしれないというので、記者やカメラマンが多数、空港に配置されていた。結局は5日朝の着陸になったため、手持ち無沙汰の連中が我々の冷やかしにやってきた、というのが実態だ。 空港に張り付いていた写真部員が、我々を見かけて、ついでに撮ってくれたスナップが唯一、プロの手になる写真だ。
1週間後、新居といっても社宅だが、へとへとで戻ると、我々2人より先にすでに同僚数人が部屋に入りこんで、勝手に冷蔵庫のもので酒盛りの真っ最中。ほとんど出来上がっている連中の話題はまだよど号が続いていて、われわれのハワイの話など聞かれもしなかった。
北朝鮮で死んだのもいるが、いまだにメンバー4人や田中義三の家族までふくめると30人も暮らしているという。望郷やみがたく、みな帰国したがっているらしい。昭和13年1月、女優、岡田嘉子が愛人の演出家、杉本良吉と雪の樺太国境
(当時は樺太の大平原を横切る線が日ソの国境。歩いて越境できた)を越えてソ連に亡命した。男は共産党員で、あこがれの共産国家で歓迎されると思ったらしいが、あにはからんやスパイ容疑で
拷問にかけられた(男のほうはまもなく銃殺されたことがのちになって判明)。戦後、国交が回復してモスクワ放送で働いていた岡田嘉子が帰国したとき、やはり同じようなセリフを吐いた。
そのとき、作家であり和尚である今東光が「甘ったれるでない。向こうに骨を埋めろ」と新聞で大喝した。亡命というのは言葉は甘美だが、切ないものだ。岡田嘉子にもよど号犯たちにもいえるが、革命の大義も何かあわれをもよおす30年の歳月である。

*「よど号」ハイジャック事件(メモ1)* 赤軍派では「フェニックス作戦」といった。3月27日の予定であったが、予約の仕方やチケットの買い方を知らないのがいて遅刻者が続出、決行は1970年(昭和45年)3月31日。
ねらわれたのは、午前7時21分、東京・羽田発福岡行き351便の日本航空ボーイング727ジェット旅客機「よど号」(乗員7人、乗客131人)。
当時は金属探知機もボディチェックもなかったため、簡単に武器を機内に持ち込むことが出来た。この事件がきっかけで、ハイジャック防止法が施行され、現在のような検査が義務づけられた。
離陸してすぐ、富士山上空を飛行中に、赤軍派の9人が日本刀やピストル、ダイナマイトのようなものを振りかざして(のちに、これらの武器は偽物とわかる)叫ぶ。
「私たちは共産主義者同盟『赤軍派』です。私たちは北鮮(北朝鮮)に行き、そこにおいて軍事訓練等々を行い、今年の秋、再度、日本に上陸し、断固として前段階武装蜂起を貫徹せんとしています」。
その後ずっと帰れなくなろうとは、考えていなかったのが分かる。
9人のメンバーは、リーダーの田宮高麿(=たかまろ/当時27歳/大阪市立大)、サブ・リーダー格の小西隆裕(25歳/東大)、田中義三(よしみ/21歳/明治大)、岡本武(24歳/京大)など、8人の大学生と高校生1人。
岡本武は1972年(昭和47年)5月30日にイスラエル・テルアビブ空港で銃を乱射、26人の死者をだした岡本公三の兄。
彼らは操縦室に押し入って、機関士を縛り(当時は正副パイロットの後ろに機関士が乗っていた。のち合理化で廃止)、操縦士に北朝鮮行きを命ずる。石田真二機長(当時47歳)は、平壌(ピョンヤン)に行くには燃料不足であるとして、福岡行きを説得した。
「よど号」は機動隊1000人で厳戒態勢が敷かれた福岡・板付空港に着陸し給油する。ここで病人や女性、子どもら23人を解放して、午後1時59分、福岡空港を離陸し、北朝鮮に向かう。
そのとき、石田機長が日航の福岡空港航路課から受け取った地図は朝鮮半島の形だけがわかる白地図で、地図の上部には<航路図なし、121.5MCをつねに傍受せよ>と書かれていた。
まもなく機体マークを消した戦闘機が現れ、親指を下に向けた。高度を下げろ、というサインらしいことが分かり、下げて38度線付近あたりにさしかかったとき、
「こちらはピョンヤン、進入管制周波数134.1MCにコンタクトせよ。こちらはピョンヤン・・・」という無線が入る。指示されるままに平壌空港に着陸するが、
実はそこはソウル郊外の金浦(キンポ)空港だった。
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| 金浦空港で「よど号」を警戒する韓国軍兵士 |
よど号機内で田宮らが、着陸地がソウルと見破ったきっかけは、手持ちのラジオに「思い出のサンフランシスコ」が流れたからだという話もある。北朝鮮の
ラジオにアメリカのスタンダードナンバーが流れるわけがない。このあたり、すこしできすぎた話のような気がするが、彼らがいつか司直の手で調べられる時に明らかになるかもしれない。
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| よど号から開放される乗客(金浦空港)。 |
この間、日本赤十字社と朝鮮赤十字会の連絡がつく。<貴社が要請したJAL727ジェット旅客機が、朝鮮民主主義共和国北半部領域内に無事着陸できるようにし、 着陸後、乗客乗員たちの身辺の安全を人道主義の見地から保証するであろうし、また、直ちに日本に送り返されるであろうという当該機関の確答を受けたことを知らせる>
3日午後2時28分、残りの乗客99人全員とスチュワーデス4人全員が解放され、山村政務次官がその “身代わり”に搭乗した。 乗客が解放される直前、リーダーの田宮がマイクを持って立ち上がり「お別れのパーティーをやりましょう」と言って、赤軍派の1人ひとりが自己紹介をし演説をした。 再び、マイクが田宮の手に渡ると、気分を出して詩吟をうなり出した。このとき、奇妙な連帯感がうまれ、乗客の1人が別れの歌を歌った、という。
午後6時5分、赤軍派学生9人と山村次官、機長ら4人、計13人を乗せた「よど号」は金浦空港を離陸、北朝鮮の平壌へと向かうが、38度線を越える際にはみんなで「北帰行」を合唱した という。のんびりした機内に比べ、コックピットには焦りがあった。 石田機長の手元には白地図しかなく、また、日が暮れてしまって危険な状態だった。仕方なく肉眼で滑走路に見えたところに強行着陸した。真っ暗闇の中での見事なランディング。そこは、平壌の美林(ミリム)空港という廃港であった。
赤軍派の9人はそのまま、北朝鮮側に収監され、亡命は成功する。4日、北朝鮮側は非難声明を出した上で、人道主義的観点からとして、機体と乗員の返還を行うと発表し、「よど号」は山村政務次官と乗務員3人を乗せ、5日午前9時10分、羽田に到着、事件は終わった。

*「よど号」事件、その後の人間模様(メモ2)*
”身代わり新治郎”の異名をとって、その後の選挙を楽勝した山村衆議院議員は22年後に悲劇に見舞われる。北朝鮮との国交正常化を目指した自民党の訪朝議員団の団長として、北朝鮮に渡り、金日成主席生誕80周年慶祝行事に参加し、 赤軍派に会って説得して帰国を勧めることを予定していたのだが、出発の前夜、1992年(平成4年)4月12日、千葉県佐原市の自宅で、高校を中退してノイローゼだった次女(当時24歳)に刺されて死亡してしまう。次女は判断能力がなかったということで不起訴になったが、4年後、自殺している。
また、石田機長は、事件のフライトの後、国際線の機長に昇格する予定だったのだが、有名になったことで、女性スキャンダルが発覚し、2年後日本航空を退社するはめになった。企業の専属パイロットや、漬物屋を始めたりしたが長続きせず、最後の勤め先の警備会社を78歳でやめてからは大阪・岸和田市でひっそりと暮らした。2006年3月韓国政府が「平壌と見せかけて金浦空港に降りたのは機長の判断」という外交文書を発表した際、「なんでそんなこというのかね。事実は違う(韓国側の工作)」と不思議がっていたという。2006年8月13日、肺がんで死去。83歳。
ハイジャックのメンバーは、当時の金日成首相の計らいで、共同生活をはじめる。政治思想である主体(チュチェ)思想の講義を受けた。望んだ軍事訓練も帰国することも許可されなかった。 やがて、共同で貿易会社を設立し、平壌市内に外貨ショップを開いた。
その後9人は、訪朝7年目の1977年頃に北朝鮮当局の指令で一斉に結婚した。相手は、日本国内で朝鮮総連の指導による主体思想(チュチェ思想)勉強会などで、学んでいた北朝鮮シンパの日本人女性だった。全員が中国経由などで北朝鮮に渡った。
1980年、自民党訪朝団が平壌を訪れた際、田宮と小西が同行の記者団の前に現れ、望郷の念を語ったりしている。 だが、そうした中、メンバーが次々と病死や事故死、こっそり帰国して逮捕などで、欠けていく。昭和60年(1985)、吉田金太郎が死亡(35歳時。結婚したかどうか、死亡の状況など詳細は不明)。昭和63年(1988)岡本武が妻とともに事故死(42歳)、金日成首相が死去した翌年の平成7年11月にはリーダーだった田宮高麿が心臓発作で死去(52歳)。現在、北朝鮮に残っているメンバーは小西隆裕、若林盛亮、赤木志郎、安部公博の4人だけとなった。
田中義三は1996年(平成8年)に、タイのパタヤで偽100ドル札を使用したとしてつかまり、2000年(平成12年)6月28日、30年ぶりに日本へ移送された。2002年(平成14年)2月、東京地裁からハイジャック事件の強盗致傷罪などで懲役12年を言い渡され、翌年刑が確定、熊本刑務所に収監された。服役中に肝臓ガンが見つかり2006年末大阪医療刑務所に移され、12月には東京高検が刑の執行を停止していたが、2007年元日未明、入院先の千葉県内の病院で死亡した。
先年、北朝鮮から帰国して成田で旅券法違反などの罪で逮捕された赤木恵美子被告(46)=旧姓、金子、犯人の一人、赤木志郎と北朝鮮で結婚した=
の東京地裁での公判に検察側証人として出廷した、犯人の一人、柴田泰弘の元妻、八尾恵さん(46)が衝撃の証言をしたのだ。
神戸市出身の有本恵子さん(元神戸市外大生、当時23)がロンドン留学中の83年に北朝鮮に連れ去られたとされる事件で、「田宮高麿に指示されて私が拉致した」と詳細に供述したのだ。
警察庁は「北朝鮮による拉致容疑事案」に有本さんを追加認定し、これで8件11人と増えることから、マスコミは大きく報道した。
警視庁も、供述から組織的な拉致の疑いが強いと、結婚目的誘拐罪の適用を視野に入れて捜査本部を設置する展開となった。
実は「八尾恵」の名は事件を知っているわれわれ報道関係者の間では有名で、私もクレームを受けて、会ったことがある。彼女もよど号事件を今に引きずる被害者なのだ。
むりやり結婚させられて、現地でもうけた娘2人(長女、黎は1978年、二女、燦は1980年生まれ)をなんとか取り戻したい一心で法廷に立ったものだ。新聞テレビはこの日の法廷ではじめて
直接、拉致の供述が得られたと報道しているが、実は彼女はそれより1年以上前から同じ主旨の拉致の事実ともっとくわしい内容を供述している。有本さんの両親もこの日の証言を事前に知っていて、
ホテルで会ったとき、八尾さんは両手を突いて泣き崩れたという。
八尾さんの証言によると83年1月ごろ、平壌市内にあるよど号グループの拠点で、リーダーの田宮高麿(その後死亡)から「ロンドンで日本革命の中核となる人を発掘、獲得して欲しい。男性ばかりでなく、 女性も獲得せなあかんだろ。25歳くらいまでの若い女性がいい」と指示され、有本さんを拉致することにして、デンマークのコペンハーゲンでよど号事件のメンバーの安部公博=北朝鮮に渡った日本女性、 魚本民子と結婚=に引き合わせ、彼が北に連れ出したという。この件では結婚目的誘拐容疑で警視庁が安部公博の逮捕状を取り国際手配中である。
さらに八尾さんは、田宮高麿の妻の森順子らが男性2人を獲得した、という話を聞いたといい、「有本さんは、彼らと結婚させるための拉致だったと思う」とも証言した。 タイから日本に強制送還された田中義三の妻、水谷協子(45)=同=が、故金日成主席のチュチェ(主体)思想を教えていることや、拉致された日本人男性らと元気に暮らしていることなどを聞いた、と述べた。
その後、有本恵子さんの誘拐にかかわった詳細を明らかにした『謝罪します』(文芸春秋・1600円)を出版(2002年)、その中で、革命村にやってきた金日成首相の右腕にぶら下がって迎えた話などを披露している。
八尾さんは数奇な人生を送ってきた。日本を出国し、半分観光のつもりで北京を経由して北朝鮮に入国した。ところが、入国後、二ヶ月あまり軟禁状態で思想教育を受けた後、1977年5月、よど号グループの一員である柴田泰弘(犯行時未成年)と強制的に結婚させられた。
その強いられた結婚生活は、いわゆる「ハウスキーパー」で、柴田の「慰安婦及び子生み・子育ての道具」だったと後の裁判で述べている。
その後防衛大学生を拉致するよう命令を受け、そのため横須賀に住み、接触するための場として「カフェバースクエア・おんなのことおとこのこの夢見波(ゆめみは)」という店を作った。夫の柴田もひそかに日本に入国するが、1988年5月逮捕され、彼女もまもなく
有印私文書偽造同行使で逮捕される。そのとき「北朝鮮の女スパイ」と書かれたことから「北朝鮮には行ったこともない。よど号グループとは何の関係もない」とマスコミや国、警察を相手に14件もの裁判をおこしている。私が会ったのはそのときだ。この時、多くのマスコミは敗訴した。
わが社も百何十万円払った口だ。ニュースソースの秘匿という職業上の義務があって、たとえ警察情報と分かっていても明かすことができなかったためだ。後年彼女は「真実ではないことを語り、ご迷惑をおかけしました」と謝罪したが、支払った金は戻ってこなかった。
92年になって田宮から「よど号グループの妻であることを公表するように」という指示が来る。さすがにこのあたりから、気持は北朝鮮から離反していく。何より、夫婦2人とも日本で逮捕されているのに、娘2人が北朝鮮に残されるという
状況に耐えられず、東京地方裁判所によど号事件の現在のリーダー小西隆裕に対し、彼女の2人の子供の返還を求める裁判を起こしている。97年の夏に日本の戸籍を取得している八尾恵さんの2人の娘は帰国できないでいる(その後帰国)のに、他の犯人の子女はどんどん帰国している。これでは転向ゆえの人質だというのが訴えだ。
「よど号グループ」の子どもたち(といっても全員20歳以上)は意外に多い。田宮高麿が3人、小西隆裕に2人、田中義三に3人といったぐあい。2001年4月、田宮の娘(22)小西の娘(22)、田中の娘(23)が 裁判支援などのため帰国した。「朝香」「立子」「東美」と日本風の名前なのを見ても親の望郷の念を感じる。
2001年9月帰国して逮捕された赤木志郎の妻、恵美子被告の裁判で八尾恵さんが”敵側の”検察側証人として立つまでには、娘が北朝鮮で人質同然の立場におかれているという背景があった。
麻薬・覚せい剤とニセドル紙幣が北朝鮮の経済を支えているといわれるが、よど号事件から30年余、今では彼らはニセドルの使用と日本人拉致の手先に使われているらしい断片が浮かんできている。
(2004年1月14日、2月25日、5月10日追記)
八尾恵さん(この時点で48歳)の娘の一人が平成16年1月13日ようやく帰国した。この日北京経由で6人のよど号グループの子供たち(
全員北朝鮮生まれ)が帰国したが、この中に柴田泰弘(刑期終了)と八尾恵さんの間に生まれた次女、柴田燦(あき)さん(23)が入っていた。
ほかに安部公博(55)=結婚目的誘拐などの容疑で国際手配中。北朝鮮に渡った日本女性、魚本民子と結婚=の長女(21)と次男(19)、元リーダーの故田宮高麿の長男(20)、故岡本武の次女(22)、田中義三=服役中=の次女(17)。魚本民子=51歳。旅券法違反で国際手配中=本人も2月24日、北京経由で空路帰国、警視庁に逮捕された。公安部は、夫の安部容疑者が有本恵子さん拉致事件の実行役で、魚本容疑者も欧州などで「日本人獲得工作」に関与していたとみている。
一時北朝鮮に30人以上いたよど号犯の妻子は平成13年5月、平成15年9月、平成16年1月、2月にあいついで帰国、6月13日には最後まで残されていた八尾恵さんの長女、柴田黎さん(この時点で27歳)も帰国した。
八尾さんの娘は二人とも父親の姓を名乗っているが、2004年に帰国した次女、燦(あき)さんは田宮高麿が死亡したあとリーダーをつとめていた小西隆裕が育てていたが、90年ごろ、両親が日本にいることを知らされ、94年ごろから国
際電話で話をするようになった、という。よど号グループは八尾証言をでっち上げと批判しているくらいだから、燦さんも「母が拉致に関与したかどうかは分からないが、親子の信頼関係を何度も裏切られ、大きな不信感がある」などと話し、長女も母親を裏切者と呼び非難している。八尾恵さんは空港に出迎えに来ていたが、洗脳された娘との関係修復は容易ではないことをうかがわせていた。
八尾恵さんの前夫、柴田泰弘はすでに刑期を終えている。2004年5月聞くところでは、のんきに渋谷や大阪ミナミの夜の街を徘徊する単なる酔っ払い中年だという。
2002年9月17日の小泉純一郎首相と金正日総書記のトップ会談で北朝鮮側が拉致したことを認め、謝罪したあと、よど号グループ
の立場は微妙なものとなった。今でもいっさい関与を認めていないのだが、八尾証言はじめ出てくる話は関与が濃厚なことばかり。拉致を認めたあとは北朝鮮にとってよど号グループはもはやお荷物に過ぎず、それが妻子のいっせい帰国につながっているようだ。
北朝鮮政府は「よど号」犯と家族をもてあましているようで、2001年から毎年のように帰国させている。2006年6月現在、北朝鮮に残っているのは8人。
小西隆弘
安部公博
若林盛亮
赤木志郎
若林佐喜子(若林盛亮の妻、旧姓黒田)
森順子(よりこ。田宮高麿の妻)
北朝鮮に自分で渡った赤木志郎の妹と結婚した男(氏名不詳)
若林盛亮の次男(11歳)
よど号犯と結婚した女性は八尾恵さん含めほとんどが日本国内で「チュチェ思想研究会」のメンバーだった。森順子ら「在日」だった女性が多いが、若林佐喜子ら日本人女性もいる。彼女らの「自伝」によると、森順子は強制連行で日本にに来た朝鮮人の父と日本人の母の子として生まれ、父の遺骨を故国に返すべく北へ渡った。 若林佐喜子は群馬県伊勢崎市出身で、専門学校在学中にチュチェ思想に興味を持ち、研究会の幹部活動家になり、ヨーロッパ経由で北朝鮮に渡航したという。 2001年5月から始まった北朝鮮の”送還事業”だが、一時30人を超えていたものの最後まで残るのはメンバー4人だけということになりそうだ。
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| 関西空港帰国と同時に逮捕された赤木邦弥。 |
謎の男帰国(この項2007年6月加筆)
上で「氏名不詳の男」と書いたが、突如、熊本県宇城(うき)市出身の赤木(旧姓・米村)邦弥(52)と判明した。2007年6月5日に平壌から北京経由で関西国際空港に21年ぶりに帰国、ただちに旅券法違反容疑で警視庁公安部に逮捕され、即日羽田空港に送られた。
赤木に関する情報を、警察当局が初めて知ったのは1992年10月ごろ。よど号犯らが暮らす平壌郊外の「日本革命村」を、支援者らが訪ねた際、赤木に出会ったことがきっかけだった。よど号犯の赤木志郎(59)の妹(53)(03年4月帰国)と結婚し、2人の娘(04年9月と06年1月帰国)をもうけていた。
94年に「ジャーナリスト 小川淳」として論文を発表しはじめたが身元は分からず、97年に2人の娘の出生届が日本国内で 出された際も、父親のわからない「非嫡出子」として申請されている。
その正体が突如判明したのは04年11月、平壌での日朝実務協議。北朝鮮当局が氏名と生年月日を明らかにしたのだ。 本人も今回の帰国のため旅券を返納したが、その記録からいりいろ動きが判明してきた。 熊本県出身で、旧姓・米村邦弥。元神戸大生で昭和56年(1981)10月、大阪からパリに向け出国。当時の西独の飲食店な どで働いたが資格外活動で検挙され、国外退去処分になった。その後ウィーンに入り、反核運動のミニコミ紙「おーJAPAN」 を発行する日本人留学生らの活動に加わっている。この時ウイーンを訪れた土井たか子・元社会党委員長と小川淳として会っている写真も残っている。=右下
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| 土井たか子・元社会党委員長と 小川淳として会っている写真(赤円内)も =「おーJAPAN」から |
よど号犯による拉致の活動は昭和52年(1977)ごろスタートし、当初リーダーの田宮高麿 (1995年11月に死亡)らが指導していたが、昭和58年ごろには、魚本(旧姓・安部)公博容が責任者になっていた。赤木邦弥 がグループと出会ったのも、この2件の拉致の間だったとみられ、警察当局は、赤木邦弥は 欧州での日本人拉致の真相を知る“キーマン”とみて調べを続けている。
「北朝鮮にいるときは恵子のことも知っていると思うんですね。だから話して欲しいという気持ちはありますけれども。だけど、 話さないだろうと思ってます」(有本恵子さんの母・嘉代子さん)
(2009年1月加筆)
2009年1月13日、若林盛亮(もりあき)=国外移送略取などの容疑で国際手配=の次男(14)
が北朝鮮から北京経由で関西国際空港に到着した。北朝鮮生まれで日本旅券のない次男は、代理人が準備した旅券に代わる渡航書を所持し、北京国際空
港で日本大使館の担当者と帰国手続きを行った。
帰国に同行した支援団体「救援連絡センター」の山中幸男事務局長によると、次男は94年に北朝鮮で生まれ、2歳で日本国籍を取得。北朝鮮では一般の 子供たちと一緒に就学し、両親から日本語を学んだ。今後は大阪市内で中学に編入して高校進学を目指すという。
実行犯の家族の帰国は2001年5月、故田宮高麿リーダーの長女らが帰国したのが最初で以来北朝鮮生まれの子供など家族26人が帰国、次男は最後の1人 だった。これで北朝鮮に残るのはメンバー4人と拉致被害者の石岡亨さんと松木薫さんに対する結婚目的誘拐容疑で国際手配中の妻2人の計6人となった。
これまでに帰国した子女26人は14〜31歳になり、それぞれ東京や大阪で大学生や会社員などとして生活しており、中には結婚し出産した者もいる。北 朝鮮の6人とは普段は電子メールなどで連絡を取り合い、長期休暇には渡朝して直接会っているという。
支援者はよど号事件から40年となる2010年までに若林佐喜子、森順子、メンバー4人の順で帰国させたい意向を表明しているが実現は難しい。2008 年6月の日朝実務者協議で北朝鮮側は、よど号グループの引き渡しに協力することを約束したが、その後、交渉に進展は見られない。また、よど号グ ループは拉致への関与を否定し、「拉致容疑での逮捕状の撤回」を帰国の条件としているためだ。残る6人は「核心部分が残った」(警視庁幹部 )かたちになる。
ついに本件の拉致で逮捕状
これまで帰国した連中は国内に入ると同時に逮捕されたが、皆平気な表情で連行された。旅券法違反などの形式犯で刑が軽いことを知っているからだ。事実ほとんどはすでにシャバに出て支援活動などをしている。しかし森・若林の二人の場合はそう簡単ではなさそうだ。2006年2月に、拉致被害者の松木薫さんの拉致に関与した疑いが強いとして、松木さんの姉の斉藤文代さん(60)が、「拉致された弟がまだ帰国できないのに、関与した2人が帰ってくるのは許せない」と逮捕監禁容疑で警視庁公安部に告発状を出して受理され、さらに2007年6月に警視庁公安部が石岡さんと松木さんを欧州から北朝鮮に拉致した結婚目的誘拐容疑で逮捕状を取り、国際手配したからだ。
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| 撮影されるのを嫌ったようだが、 石岡さん拉致に若林、森の二人が関与した証拠写真。 |
札幌市出身の石岡亨(いしおか・とおる)さん=当時(22)=と熊本市出身の松木薫(まつき・かおる)さん=同(26)=は昭和55年(1980)4月、スペインで若林、森の2人と会い、ウィーン旅行に誘われた後に失跡した。石岡さんは日大卒業後、パン作りの技術を学ぶためバイト先で仲良くなった友人と2人で旅行中(のち動かぬ証拠となる動物園での写真はこの友人が撮影)。また松木さんは京都外大大学院を休学して語学留学中だった。松木さんには日本に将来を誓った女性がいて「あなたが一番好き。1年で帰国するから待っていてください」とマドリードから絵はがきを送っている。姿を消す理由はなかった。
森、若林らよど号犯の活動拠点は当時オーストリアのウイーンにあったが、スペイン・マドリードにアパートを借りて拉致工作を行っていた。2週間ほどのあいだにターゲットにされたのが石岡、松木さんと関西地方からこの地を訪れていた姉妹だった。姉妹はウイーン行きを断って無事だったが、拉致して子どもを産ませるため北朝鮮で誰かと結婚させようとしたと見られている。
4月16日、スペイン・バルセロナのテルミノ駅で友人と2人でいた石岡さんに森、若林が「日本の方ですか」と声を掛けて近づいてきた。4人で市内の動物園に移動して記念写真を撮った。石岡さんの友人がシャッターを押し、のち動かぬ証拠となる上の写真だが、このとき2人は嫌がるそぶりをみせたもののかえって不自然だと思ったようで一緒に収まっている。
松木さんの方はマドリードにいた。4月15日から5月20日までの宿泊記録がある。この間に石岡さんがバルセロナで写真を撮った時の友人と分かれて戻ってきた。今度 は森、若林が自分たちのアパートに石岡さんと松木さんを頻繁に招くようになった。ほとんど毎晩でこの席には前述の姉妹も招かれ、手料理で歓待されたりトランプゲ ームなどをして遊んだという。やがて「ウイーンに一緒に行きましょうよ」と誘われる。姉妹は断ったが男2人は付いていったと思われる。
石岡さんは6月3日、日本の友人に「ウイーンに滞在中ですが、マドリードで知り合った人たちと4人で共産圏を旅してきます」と手紙を送っている。姉妹は「あの4人としか考えられない」という。こうしてスペインからウイーンに誘い込まれた2人はルーマニアなど旧共産圏を旅行して、6月上旬にユーゴスラビアから北朝鮮に拉致されたと見られる。「共産圏の旅行には北の特務機関の人間が付き添うのが普通。そうして送られたのだろう」と警視庁公安部ではみている。
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| 危険を冒して家族に届けられた手紙。 北朝鮮側に証拠として突きつけられた。 |
この手紙で有本恵子さんの両親、有本明弘さん・嘉代子さん夫妻が外務省に陳情しても無視され相手にされない。困り果て、当時北朝鮮と親密な関係にあった社会党の 力を借りようと国会を訪れ国会内のエレベーター前で土井たか子委員長に石岡亨さんの手紙を根拠に直接陳情した。しかしけんもほろろで全く相手にされず、それどこ ろか、土井たか子氏は石岡亨さんの手紙の存在事実を事もあろうに朝鮮総連に通告したという。夫妻は今も社会党と土井たか子氏への怒りを隠さない。
この手紙は2000年の日朝国交正常化予備交渉の席で日本側から提出され、有本恵子、松木薫、石岡亨の3人の消息確認要請がされた。、2年後の小泉首相の訪朝時に回答があったが 、いずれも交通事故で死亡とか洪水で墓が流されて分からないとか欺瞞だらけの内容だった。生存とされた5人は帰国をはたした。
有本さんはデンマーク・コペンハーゲンで拉致されたが、この件ではウイーンを拠点に活動していた魚本(旧姓・安部)公博の関与が分かっていて、北朝鮮工作員 に引き合わせたしてすでに国際手配中だ。
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| 2人の近影 =産経新聞から |
小泉首相の訪問時に、北朝鮮は日本政府に2人の拉致を認め「石岡さんは有本恵子さんと結婚したが1963年にガス中毒で死亡、松木さんは1996年に交通 事故死した」と伝えてきている。北が提供した松木さんの遺骨というのはDNA検査で全くの別人のものと判明している。横田めぐみさん含め死亡したとして ニセ遺骨を送りつけてくる北朝鮮のことだから、はいそうですかと信じられる話ではないが、なんでまたこんなに手の込んだ拉致をする必要があったのか。金 日成主席が「代を継いで日本革命を行わなければならない」とよど号犯とその妻らに教示したため、組織拡大と結婚相手確保のため、昭和53年ごろからウイー ンなどを拠点にいっせいに日本人留学生の獲得に乗り出したとされる。マンガのような北朝鮮とその頭領だ。もっともその前に、よど号を乗っ取って北朝鮮で革命 拠点をつくると考えた連中のマンガがあるのだが。
この項は重信房子が逮捕されたところから書き始めたが、2001年重信は東京拘置所から日本赤軍の解散を宣言している。
2006年2月23日には「懲役20年」の東京地裁判決が出た。日本赤軍メンバーがオランダ・ハーグの仏大使館を占拠した「ハーグ事件」で、殺人未遂や逮捕監禁など3つの罪に問われていたが村上博信裁判
長は「重要かつ不可欠な役割を担っていた」と、最大の争点だったハーグ事件での実行犯との共謀を認定。「複数の国家を巻き込もうと武器を準備したうえ組織的に
敢行された犯行」と断じ、懲役20年(求刑無期懲役)を言い渡したのだ。判決主文を聞き、重信被告は傍聴席に向かって右手の拳を上げてみせたものの、かつて
の闘士も、事件から30年余を経てこの時既に還暦だった。
2007年12月20日東京高裁も一審を支持、重信は上告した。裁判は続くといえ、出てくる時は「80歳」である。
ハーグ事件は、当時フランス当局に逮捕されていたメンバーの奪還を計画、和光晴生、西川純、奥平純三の3人が、昭和49年(1974年)年9月13日、拳銃や手榴弾で武装してオランダ・ハーグのフランス大使館を占拠し、 大使ら11人を監禁、警察官2人に発砲してけがをさせた。和光晴生(09年で61歳)は1997年2月15日、レバノン当局が別の事件で逮捕。刑期を終えた2000年に強制 送還され、警視庁に逮捕された。殺人未遂と逮捕監禁の罪で一、二審で無期懲役判決を受け最高裁に上告したが、2009年10月上告棄却され刑が確定した。

重信被告は昭和20年9月、東京都生まれ。都立第一商業高を卒業してキッコーマン醤油に勤めながら、昭和40年、明治大学2部 に通っていたところを赤軍派の生みの親、塩見孝也にオルグされた。在学中に学生運動に参加。「共産主義者同盟(共産同)赤軍派」(日本赤軍)が昭和44年に結成された時か ら中央委員に就任。日本赤軍の最高幹部となった。昭和46年には「世界同時革命」を掲げ、故奥平剛士幹部と偽装結婚し中東のレバノンに渡った。ここでパレスチナ解放機構 (PLO)の内部組織「パレスチナ解放人民戦線(PFLP)」と共闘。日本赤軍は、イスラエルのテルアビブ・ロッド空港襲撃事件などにかかわったとされる。第一次大戦時の著名な女スパイに なぞらえて「ブント(共産主義者同盟のこと)のマタハリ」と呼ばれた。
ハーグ事件で昭和50年に逮捕状が出され、平成元年に国際手配。平成9年以降、日本、中国、ベトナムを他人名義の旅券で16回行き来していたが、平成12年11月、 潜伏中の大阪府高槻市で逮捕された。1991年かに日本に戻り、日本での武力革命を目指す覆面組織「希望の21世紀」をつくって、社民党(旧社会党)との連携を 計画していたようだ。
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| 重信房子の一人娘、メイさん (日本テレビの「知ってるつもり?!」 =番組はすでに終了=から) |
2009年6月25日の産経新聞に東京拘置所でのインタビューが掲載されている。この時重信は63歳。前年大腸がんが判明、2月に手術を受けたが体調は悪いという。
「戦場では何度も捨てては拾った命。人にはそれぞれ定められた命があると思っている。それに向かってポジティブに生きたい」
全共闘運動がわずか数年でしぼんだことについては、「学生だけの運動になっていた。現実に多くの人たちに迷惑をかけ、彼らを踏みつけにしていることに気づい ていなかった。大義のためなら何をしても良いという感覚に陥っていた」
「日本には日本の社会にふさわしい合法的に政治や社会を変えるやり方をもっと重視すべきだと思います。これは反省して海外で思ったことです。運動を離れた人を 恨む気持ちはありません。彼らが運動をやめたのは『世の中を変えられない』と思うようになったから。運動を続けている者の責任として、そういう人を受け入れ られる基盤を作れなかったという反省もある」
日本赤軍誕生の経緯
もともと重信房子を抜擢したのは過激派集団、日本赤軍の生みの親、塩見孝也・元赤軍派議長だった。重信はさらに“塩見路線”に飽き足らず海外に
飛び出したもので日本赤軍の「鬼っ子」的存在だ。塩見孝也の名前はどの事件でも出てこないが、早くに逮捕され長く獄中にあったためだ。
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| 現在は駐車場で働く 塩見孝也・元赤軍派議長 (2008年7月) |
この事件で幹部兵士を失った塩見・元議長は、航空機をハイジャックしてキューバか北朝鮮の海外の革命拠点で本格的な軍事訓練を受け、日本に帰って 革命を実現しようと計画する。ところが、タクシーで東京・駒込のアジトから出たところを逮捕された(1970年3月15日)。一人息子の満1歳の誕生日で 会いに行こうとしたらしい。急遽、残された田宮高麿ら9人が作戦を実行することになった。これが2週間後の「よど号事件」だった。捕まっていなか ったら指揮をとって北朝鮮に渡っていたのは塩見・元議長のはずだ。
逮捕された塩見・元議長の手帳には「HJ」の文字があったが、これがハイジャックを意味すると分かったのは、事件後のことだった。爆発物取締 法、破防法などの共同正犯で刑が確定。19年9か月の獄中生活の後、1989年の暮れに出所した。北朝鮮のよど号犯とも連絡を取っていて、これまで40 回ほど北朝鮮に渡っている。最近(2007年10月)接見禁止が解かれた重信に、塩見が四半世紀ぶりに東京拘置所で面会、透明なプラスティック越しに ハイタッチしたという。
産経新聞の連載企画「さらば革命的世代」(2008年7月3日)によると、かつて「日本のレーニン」と呼ばれた男は、東京都清瀬市のシルバー人材センタ ーに登録し、月9日ほど派遣先の駐車場で働いている。
「この年になって、ようやく労働の意義を実感している。39歳のひとり息子も『親父がまともな仕事をするのは初めてだ』と喜んでいます」
それまでの生計は「カンパや講演料に頼ってきた」というが、あえて働き始めたのは昨秋、心臓を患ったのがきっかけだった。「もっと自活能力を付 けたい。地に足のついた生活をしながら革命を追求したい」と思ったという。「僕らは、若い力で暴力革命を起こそうと本気で思っていた」と振り返りながらも、当時の手法については、「未熟だった。軍事至上主義だった」と 率直に認める。赤軍派が公然と登場したのは44年9月。東大安田講堂の落城から8カ月が過ぎており、「全共闘はすでに行き詰まっていた。最後はド ンパチをやらないと世の中は変わらないと思っていた連中が僕のところに集まってきた」。
よど号事件についは、「人民を盾にしたという点で誤った方針だった。刑事責任に問うなとか、連れてきただけとか何とか言い訳をしないで、さっさと 帰国すべきだった。いまとなってはもう遅い。時期を逸した。彼らは帰ってこないほうがよい。北に骨を埋めなさいと言いたい。仮に帰ってきたなら、 そのときは不屈に最後まで闘うと意地を見せてほしい」。
最近では自身のホームページに加え、若者に人気のインターネットの会員制サイト「ミクシィ」に熱中。ハンドルネームは「預言者」で「『ミク友』と言 うんでしょうか、ミクシィを通じた若い友達は600人以上いるね」という。
連合赤軍とは
こうした赤軍派の動きと並行して、「革命は銃口から生まれる」という同じような過激派理論のもと、京浜工業
地帯の労働者や学生で結成した京浜安保共闘が、米大使館や米軍基地を火炎瓶で攻撃したり、銀行強盗で資金稼ぎをしていた。71年2月には栃木県真岡市の銃砲
店を襲って、銃と銃弾を手に入れた。この京浜安保共闘と赤軍派が地下でひそかにドッキングして作ったのが「連合赤軍」だ。
【国際手配中で現在逃亡中の日本赤軍】(年齢は2006年現在)
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| 赤軍メンバー。このうち西川純は1997年11月ボリビアで逮捕、 公判中。重信房子は控訴中。岡本公三だけ手配写真がない。 |

| アカシアの雨に打たれた安保 |
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晩年の唐牛健太郎
■唐牛 健太郎(1937−1984)
新左翼を象徴する共産主義者同盟(ブント。書記長・島成郎)が指導した60年安保全学連の伝説的な委員長。60年安保の象徴的存在。函館の湯の川温泉の芸者の子、いわゆる 庶子として生まれ、道立函館東高校入学。がり勉ではなかったが教師が「唐牛が現役で北大にはいるかどうか」で賭けをしているのを聞いて猛勉して 1956年現役で北海道大学教養部(文類)に入学。入寮資格がゲルピン(貧乏)だけだった恵迪寮(けいてきりょう)に入る。1年の夏休みに休学して上京、第二次砂川闘争に参加。そのまま学生運動に身を投じた。翌年北海道に戻り、北大教養部自治会委員長、日本共産党北大細胞に入党。しかし、共産党が指導する安保闘争に限界を感じて、ブント書記長、島成郎が北海道まで来ての強い説得を受けて上京、昭和34年(1959)の全学連第14回定期全国大会で中央執行委員長に就任。「輝ける全学連委員長」として60年安保闘争の頂点に立った。アジテーターとして傑出した強烈な個性と卓越した指導力で異彩を放った。そのカリスマ性は「ゼンガクレン」「赤いカミナリ族」の異名とともに、外電にも載って全世界を駆けめぐった。
唐牛が、「60年安保」で実際に歴史の表舞台で活動した期間は、通算3か月ほどの短期間に過ぎなかった。全学連委員長として指揮した岸訪米反対デモで逮捕された(写真右=1960年1月16日)あと、その後のけた外れの長期拘留のためで、最後に保釈されたのは、安保闘争終了の半年後であったが、周りに強い影響力を与えた。藤本敏夫(日大全共闘、歌手・加藤登紀子の夫)は、のち唐牛の追悼集で『唐牛健太郎のまわり百メートルは、いつも革命的であった』と述べている。
羽田で逮捕される唐牛健太郎(1960.1.16) 元自民党幹事長で、60年安保闘争当時、父が自民党代議士でありながら、全学連主流派のデモに東大時代「3回だけ参加した」経験をもつ加藤紘一は「昔なら唐牛さんは、農民運動の名指導者になっていたのではないだろうか。人間を見る目の確かさ、鋭さ、暖かさは、保守・革新の枠を超え、われら『60年安保世代の親分』と呼ぶにふさわしいものだった」と『唐牛追想集』に一文を寄せている。
評論家、西部邁も「彼の示した明るさの半分は天性のものであろうが、あとの半分は自己の暗闇を打ち消さんがための必死の努力によってもたらされたものである。彼の明るさには心の訓練によって研磨された透明感のようなものがあり、その透きとおったところが私には寂寥と感じられた。」と、同時代人の目で書いている。
闘争後、北洋漁業の漁師をしたり、太平洋横断の堀江謙一などとヨットの会社を興したり、飲み屋を営んだり、衆議院奄美群島選挙区で徳洲会・徳田虎雄の選挙にも関わったりした。また右翼の巨頭とされる田中清玄の許に身を寄せ、ゼンガクレンが資金提供を受けていたことが暴露されたりした。このため「左翼運動も左、左と行くと右になる」などと言われるなど毀誉褒貶が多かったが、弁解したことはなかった。
昭和59年(1984)3月4日、直腸ガンのため死去。青山斎場でのお別れ会では、加藤登紀子が、彼が好きであった「知床旅情」を歌った。
私は彼とはクラスメートにあたる。といっても、あちらがだいぶ上だ。当時、北大の教養部では第2外国語にフランス語を選ぶと自動的に「4組」に編入された。 彼は入学時にフランス語を取ったのだが、学生運動に忙しくてほとんど東京にいて札幌に戻ってくる時間はない。かくて、毎年ドッペって(落第して)いたのだが、 この時に自動的に一年下の「4組」に落ちてくる。こうして私と同じクラスになっただけ、一度も会ったことがない。大学に は教養4年、学部4年の計8年しかいられない。このクラスを最後にまもなくむこうさん除籍になった。
私はクラス委員をしていたが、役目は講義時間ごとに教官と交渉して休講にしてもらい、クラスをまとめてデモ隊への参加者を増やすことだった。樺美智子が死んだ ときなど、運動のピーク時にはデモ隊の先頭が大通り公園に達しても最後尾はまだ大学の正門を出ていないというほどだった。機動隊が充実されるのはその後の話で 学生に比べて圧倒的に数が少なかった。
このころのデモ隊は投石などせず、シュプレヒコールしながら時折ジグザグをやるくらい。機動隊に隊列を切断されたりすると竹ざおで殴りかかるくらいが関の山だったが、 機動隊側には少数ゆえの恐怖感があったのだと思うが、荒っぽかった。捕まったことがあるが、写真に写る腰から上は何もしていないが、下はあの固い靴で蹴り上げてきた。頭にきて殴りかかると証拠写真にはこちらの手を振り上げた姿ばかりという図式だ。
警察もまだのんびりしていて、捕まっても身元引受人がいるとすぐ釈放されるのだが、こちらは遠方から来ているから地元に知り合いなど少ない。 実は遠い親戚が2人いたがその仕事柄、学生運動などとんでもない立場だったし、もう一人、両親が仲人をした縁でよく食事に招かれたりしていた人は札幌高裁の判事をしていて、これまたとても名前を出すわけにはいかなかった。だから警察の方で扱いに困って放り出されるまでけっこう時間がかかった。下宿に戻っても誰も不審には思わなかった。運動部の合宿で留守にしていたのだろうくらいの反応である。公安が下宿に身元を調べに来た様子もなかった。要するにパクってはみたものの雑魚扱いで、興味もなかったのだろう。
安保活動はその後急速にしぼんだ。もともとデモ隊で条約の中身を知っているものなど皆無だった。私もさっさと所属していた馬術部と、ヨット部と自分でつくった探検部の活動に打ち込んで、アンポの影など周囲にまったくなくなった。
卒業後マスコミに身を投じた。地方支局に配属になり、何年か過ごして本社に戻った。所属先は大阪社会部で、取材するのが大阪の安保闘争だった。70年の安保改定まであと3、4年となり再び反対運動が盛り上がってきた。しかし過激派の分裂でデモ隊はセクトごとに動き、激しさを競ううちに、デモ隊が次第に荒れてきた。当初ヘルメットも要らなかったくらいだったのが、記者とカメラマンが投石よけの透明板、後頭部を守るひたたれつきのヘルメットで現場に立つという時代になった。
さらに、東京に異動した。創刊されるタブロイド紙「夕刊フジ」の要員として報道部にいた。60年アンポから8年、今度は70年アンポの東京のデモ隊を取材する立場に なった。セクト対立でどこがどう違うのか判然としないまま、過激派の連中が大言壮語する姿にアホらしさを感じていた。だが運動自体は荒れに荒れていく。催涙ガスにむせびながら日比谷交差点に立っていた。デモ隊はさらに先鋭化して都電や国鉄の敷石を剥がして投げるようになっていた。「60年安保」と「70年安保」の違いはあるが、機動隊と対峙していたわが身が、わずか10年でいま、(安全な)機動隊のうしろで投石よけのひたたれがついた ヘルメットで催涙ガスのなかにいる。さすがに思想のむなしさを感じないわけにいかなかった。
◇ ◇ ◇
60年安保と70年安保60年と70年、両方のデモ隊の画像があるので下に紹介した。日本が米国占領下にあった1950年6月25日、朝鮮戦争が勃発した。これによりアメリカは日本占領政策を放棄して朝鮮半島に専念せ ざるを得なくなった。日本を自由主義陣営にとどめ、且つ自立させるために、1950年7月警察予備隊の結成を命じ(自衛隊設立は1954 年6月)、翌年には日米安全保障条約及びサンフランシスコ平和条約を締結させ、日本の再軍備と国際社会への復帰を急いだ。
1952年安保が発効したが、韓国の李承晩・初代大統領が一方的に対馬海峡に李承晩ラインを設定して日本漁船を拿捕、竹島も不法占 拠した。軍事力がない日本は何もできず、米軍もまた日本を助けなかった。このときの安保条約ではアメリカに日本を防衛する義務が なかった。
日本の要望を受ける形で岸信介内閣は旧安保を改定、日米が共同して日本防衛にあたるとした(第5条)新安保条約を締結した。これに反対する 社会党と共産党主導の反対運動が「60年安保闘争」だ。(「60年安保闘争」の経過ではこのサイトがよくまとまっている。
岸信介首相
(アンポから20余年後の写真)1960年5月19日、自民党主流派が強行採決を行なったことで世論は反岸内閣、反安保に向かった。5月20日未明、新条約が強行採決されるや国会周辺のデモ隊は日増しに激しく、学生、労組から一般市民まで広がり内乱的様相を帯びていく。自衛隊の出動も検討された。
その可能性を記者から「蒋介石は『暴にむくいるに徳をもってする』といったが、首相の考えは『力に対し、力でむくいる』ことになるのではないか」と問われた時の岸信介元首相の答えは「いま屈したら日本は非常な危機におちいる。認識の違いかも知れぬが、私は“声なき声”にも耳を傾けなければならぬと思う。いまのは“声ある声”だけだ」と述べた。のちのちまで口の端にのぼる<声なき声>発言である。
強行採決の日(1960.6.15)国会前を埋め尽くして
ぶつかり合った警官隊とデモ隊(右)。ここで樺美智子が死んだ。国会をデモ隊が取り囲んだとき、一気に表舞台に登場したのが日共から分派した新左翼で急進派の先端にあった「共産主義者同盟=ブント」 だった。ブントは全学連を組織し6月15日デモ隊を国会に突入させた。この時ブントの手伝いをしていた東大生、樺美智子さんが隊列の中で巻き込まれて圧死、安保闘争はピークを迎えた。
国会前デモで
死んだ樺美智子※ブントとは 戦後の学生運動を指導した全学連は日本共産党の指導下にあったが、ハンガリー事件やスターリン批判などを受け共産主義体制が揺らぎ、全学連は共産党批判に転じた。共産党は香山健一、島成郎ら全学連指導者を除名、武装闘争放棄に転じたため全学連主流派は反共産党派をま とめ「共産主義者同盟」を結成した。これが「共産同」とか「ブント」と呼ばれる党派。1847年ロンドンで亡命ドイツ人を中心に結成された秘密結社「共産主義者同盟」 (der Bund der Kommunisten)にちなみ、ブントは「同盟」を意味するドイツ語。60年代の学園闘争や安保闘争で新左翼を引っ張った組織だったが、1970年以降、学生運動が下 火になると四分五裂し弱体化した。
その10年後、安保条約の自動延長の期限がやってきた。これに反対する運動を「70年安保闘争」という。前年の東大安田講堂攻防事件はじめ、新宿騒擾 事件、4・28沖縄闘争(44年)等の集団武装闘争を繰り広げたが、過激派の各セクト(革マル、中核など)が乱立して火炎ビン闘争ま でエスカレートしたが、セクト間の内ゲバで組織は壊滅に瀕し、日本赤軍派のハイジャック事件、連合赤軍による凄惨な同士討ちの 連続リンチ殺人まで起し運動自体が荒廃の一途をたどって国民の支持を失い最後は三島由紀夫の憂国の諌死事件で幕を下ろす。
前が60年安保(10′39″)、後が70年安保(1′49″)の様子。
モノクロとカラー、首相の名前、デモ隊の服装など10年の時代差を感じる。
◇ ◇ ◇
西田佐知子の「アカシアの雨に打たれてこのまま死んでしまいたい・・・」が、安保の挫折感を代表するテーマソ ングで、たしかに気分がよく出ている。しかし、これは昭和36年に世に出た歌で、60年安保の初めにあたる昭和34、5年のデモ隊は水原弘が歌った「黒い花びら」が 愛唱歌だった。第一回レコード大賞(昭和34年)受賞曲だが、白い雪を踏みしめてキャンパスを歩きながら「黒い花びらとは妙な取り合わせだなあ」と思った。
あのとき先頭に立った社会党は、党内意見が分かれているとはいえ、 いま安保是認を党として認めようとしている。なにより社会党自身が人気がなくなってしまった。名前もいつしか社民党となった。万年野党が連合政権を担い首相を 出すや自衛隊をあっさり認めるとは誰があの時想像したろう。いまは女性を党首に立てて脱皮をはかりつつあるものの、2007年参議院選でさらに議席を 減らし劣勢覆うべくもない。テレビのモーニングショーに出てきて、事件ニュースにまでいっぱしのコメントをしている女性党首を見ると、もう歴史的使命を終えたといっ てもいいだろう。
60年安保では大学のクラス討論会にまで社会党や共産党のオルグが入ってきたものだ。それが、いわゆる「55年体制」の保革2大政党の「対立」時代は表向きで、裏では 「馴れ合い」時代だったことが、新聞記者として議会内を取材するうちにわかってくる。社会党の議員が外遊する際には自民党の領袖のもとを回って餞別を集めたという類の話が わんさと出てきて幻滅したものだ。「アンポ」はなんだったのかと思う。
いま民主党議員として口角泡を飛ばす人物の多くは少し前まで日教組や自治労から出た旧社会党議員だ。変わり身の早いことに感心するが、船が沈むときにはいち早く脱出するというネズミ を見る思いだが、相づちを打っている民主党有力議員の大半はちょっと前まで自民党右派で鳴らした人たちだ。どこに共通項を見出しているのだろうか不思議でならない。
◇ ◇ ◇
西田佐知子だ「アカシアの雨がやむとき」だといっても、何だそれはという時代になった。当時、アカシアの街、札幌に居たせいもあり、この歌も「アンポ」もごく 身近だった。こんな歌だ。
(右向き矢印クリックでスタート)
水原弘の「黒い花びら」の方も画像があるので紹介しておく。
◇ ◇ ◇

| コンコルドにイギリス病を見た |
2000年7月25日、エールフランスの超音速旅客機コンコルドがパリ郊外シャルル・ドゴール空港近くに墜落113人が死亡した。
その後分かった墜落原因は最新鋭機にしては他愛もないものだ。滑走路上にその前に飛んだ航空機が落とした40センチほどの金属片があった。それを左の車輪で踏みつけたためタイヤが破裂、その破片が主翼内の燃料タンクを突き破り油が洩れ出した。コンコルドはエンジンに独特のアフターバーナーを採用していたため、たちまち燃料に引火したと推定された。
このニュースを聞いて感慨新たなものがあった。私の初めてのヨーロッパ旅行が、このコンコルド就航を前にBOAC(いまのBA=ブリティッシュ・エアウェイズの前身)に招待されてのものだったからだ。現在13機が就航中だが
全部で20機しか製造されなかったコンコルドは商業的には失敗だった。その強力な推進者だったドゴール将軍の名を冠した空港を離陸中に落ちたのも皮肉だが、これで歴史的使命を終える時期が早まったのは間違いない。(2003年で運航終了) 当初からマイナス面が指摘されていて、開発した英仏両国しか使わなかった不運の飛行機だ。まず燃費が悪い。満タン(92トン)でもパリーニューヨークがやっとだった。また、滑走路が長くないと離発着できないためアメリカ側から断られた。運賃がヨーロッパーニューヨーク往復で8720ドル(約100万円)とべらぼうだったことなど、問題を多く抱えていた。
だが、当時はヨーロッパの技術力の結晶といわれたものだ。この英仏のプライドがのちのち禍根を残す。
私はその英仏両国のプライドを見に行ったのだが、コンコルドの他に今なお尾を引くイギリスの階級社会、外国人労働者の問題もはじめて目にしたのだった。 コンコルド就航前で実機がないので、ヒースロー空港にある模型を前にスチュワーデスが客室サービスの訓練をしているようなところに案内された。秘密保持のためか、コクピットやエンジンに関するところは坐学、もっぱらサービスなどのソフト面を見せられたのだが、とにかく機内が狭い。これでは大きな向こうの女性は練習しなければ、機内を歩けないというのが印象だった。
私の案内役についたのはホワイトさんという40歳手前の広報の方だった。ロンドンからベルリンに飛ぶことになって、ふと彼が漏らした言葉にびっくりした。「ドイツに飛ぶのは初めてです」。
前の晩のパーティーで彼と同じ年頃の幹部たちは、みな夫人同伴で、極東支配人のとき香港で上の子が、東京で下の子が生まれた、などと話していた。私の下の娘もその子と同じ新宿区・落合の聖母病院で生まれたので、共通の話題となった。
商売柄、自社便でそれこそ東奔西走しているというのに、目と鼻の先のベルリンに行った事がないエアラインの社員がいる。日本大使館のある人が教えてくれたが、階級社会の英国では別に珍しいことではないという。ブランデンブルグ門のあたりを英国と日本の赤ゲット2人して歩いたものである。
大学時代馬術部にいた。私が馬に乗っていたとわかると、郊外のお城でのキツネ狩に招待してくれた。なかに公爵か伯爵か知らないが、貴族がいたのである。このときは「公、侯、伯、子、男」の5等爵の順番とか、英語での呼び方を憶えて行ったのだが、帰国とともに忘れた。その後必要にせまられたこともない。こちらは北海道にいるからには馬でもという程度で月額300円の部費を払えば誰でも乗れた。出自は馬の骨だ。
キツネ狩りが貴族のスポーツであることぐらい承知しているが、狩り出すのは専用の犬と勢子まかせ。立派な服装の人はただ
ゆったりと走るだけ。どこが面白いのかついぞ分からなかった。私のほうはそれこそ尻馬に乗って走り回っただけだったが、
男女ともまるで違う階層の人がいることはよくわかった。使う英語も違うそうだが私の語学力ではなんともしがたかった。ただ、
美しいものとして数えられる「イギリスの田舎」が脳裏に焼きついた。

コンコルド機(BAになってからのもの)
「コンコルドの誤り(錯誤)」というのだそうだ。経済学では、巨額の開発費を投入したから、途中でやめるわけにはいかない、と続けたばかりに取り返しのつかない損失額になるケースをいう。つぎ込んだ金額は当初計画の8倍以上、当時の金で12億5000ポンド(約1兆円)にもなった。
動物行動学では、ある雄が雌に求愛して断られた時、それまでにエサを持参するなど相当な投資をしているので、簡単に気持ちを切り替えて他の雌に求愛することがなかなかできないケースがある(長谷川真理子『科学の目 科学のこころ』)。こういう時に使われている。
採算ライン250機に対して製造は20機(納入16機)。メンツは時に大損を呼ぶという例は、我が国でもいたるところに転がっている。経済面からみればそうなのだろうが、エンジン、電子制御など航空工学の面では多くの基礎技術を残したはずだ。
イギリスの階級社会のすごさ
私自身もここで尿管結石の摘出手術を受けた。私の場合は近所だから行く病院だが、英語圏の彼らはカトリック系の病院で英語が通じるので、この病院の名前はつとに有名で、あのシスターはいるかとかで大いに盛り上がったばかりだった。
この原稿を書いて3年後の2004年9月、英国議会でキツネ狩りを禁止する法案が可決された。1000年の歴史に幕が引かれるの
だから外電を注意深く読んだ。
1000年の歴史に幕 「キツネ狩り」禁止に
【ロンドン=9月15日】英貴族の伝統的なスポーツである猟犬を用いた狩猟を禁じる法案をめぐり、法案に反対する1万人が15
日、英議会に押し寄せ、警察官と衝突する騒ぎとなった。法案は同日、下院で可決され、1000年の歴史を誇る英国の「キツネ
狩り」は、06年には姿を消すことがほぼ確実となった。
角笛の響きや猟犬のほえ声を背に、真っ赤な乗馬服のハンターが馬でキツネを追う姿は、英国を象徴する光景の一つだっ
た。しかし、近年は動物愛護運動の高まりで国民の多数はキツネ狩りに反対していた。
私が体験したのも、背景は違うがこれに近かった
ブレア政権は昨年、キツネ狩りを「許可制」とする法案を上程。下院で全面禁止に改められたが、上院で否決されて不成立。
今回は全面禁止に変更して上程し、この日、賛成多数で可決した。上院が否決しても下院議決を優先する規定が適用され、
法案は成立する見通しだ。可決されたのはイングランド、ウェールズでの狩猟禁止。スコットランドでは既に02年に禁止とな
っている。1949年に初めて議員から草案が提出されてから、足かけ45年ぶりの可決。
この日、法案に反対する農民らが議会に押しかけ、BBCによると衝突で18人が負傷し11人が逮捕された。5人が法案を
審議中の議場に入り込み、抗議したため、審議が一時中断した。
(毎日新聞 9月16日付)
議会に乱入されたのは、世界の民主主義の始まりとなった清教徒革命で、鉄騎軍を率いて議会を襲撃したオリバー・クロムウェル
以来355年ぶりだという方に感心する向きもあり、いかにもイギリスらしいが、圧倒的多数の国民が賛成しているのに1万人も
の反対派が押しかけたというのがよくわからなかった。調べると「キツネ狩り」はかなり大きな”産業”で失業者がかなり出るのだという。
イギリスでのキツネ狩りの歴史は、封建制が定着した13世紀までさかのぼる。 当時、イングランドの4分の1は王の猟場だっ
た。 王室所有地以外は、すべて封建貴族の猟場だった。王の獲物として育てられるシカを殺した者は、その両目をつぶす
という刑罰を受けたほど。
島国のイギリスで、キツネは食物連鎖のピラミッドの最上部に位置する動物で、この国ではキツネが最も魅力的な獲物だった。
今でもおよそ50万匹のキツネがいると推定されている。 少しくらいいいのではないかという理屈も成り立つが、「キツネ狩り」の
残虐さが問題だ。
貴族のスポーツだからフェアかと思うと、そうではない。私が思い出すところでも「儀式」が重んじられていた。 一昔前の騎兵隊の
将校服を着たマスターが吹くラッパの音で進む。音色で右とか左とかあるようだが旅人の私には分からなかった。 キツネ狩り
用に改良した猟犬「フォックスハウンド」数十匹が、ワンワン吠えながらキツネを追跡する。その後から真っ赤な燕尾服などに
身を固めたハンター(我々)が従う。ただ「駆け足」で馬に乗っているだけだ。
残酷なのはこの後で、猟銃で撃つのかと思うと違って、犬にかみ殺させる。撃つときもあるようだが、狩猟犬の訓練として必要なのだ
という。このあとキツネの尻尾は幸運の象徴なので、ハンターの中の
女性に捧げられる。時には頭や足も記念品になる。そして胴体はフォックスハウンドへの分け前だ。狩猟民族の習慣を農耕民族の
モラルで糾弾するのは間違いかもしれないが、やりきれない「スポーツ」であることは間違いない。
禁止されてもまだ問題は残る。キツネ狩り用に飼育されているフォックス・ハウンドは2万5千頭にのぼり、その他の狩猟犬は
20万頭ともいわれる。犬好きの国民だからみな不要になるわけではなかろうが、かなり処分されることになる。キツネをかみ殺す
訓練を受けた犬は家庭犬にはなりにくい。
このときイギリスでの上流階級の人間の見分け方というのを教わった。日本とは逆で、背が高く、体格がごついのがエリートだという。
だいたいボートだとかラグビーだとかのスポーツをしている。私は176センチあるが、パーティーでは中以下ぐらいだった。そういえばホワイトさんは私より10センチほど低い。ただしこれは男の場合で、女性については聞き漏らした。
甥っ子2人は親の仕事の関係で長くロンドン暮らしをした。それが言っていたが、学校ではサッカー(主にアメリカでサッカーといい、その他の国ではフットボールと呼ぶ)を禁じられていたという。君たちがするスポーツではないということのようだ。悪名高い英国のフーリガンは英国の恥と、ブレア首相みずから非難しているがサッカーファンは別な人種ぐらいにみなされているようだ。
甥っ子の1人はその反動か、帰国して浦和レッズの度はずれたサポーター暮らしである。家まで近くに引越した。
余談だが、このときよりかなり後の、ワールドカップ・イタリア大会の時、オランダ最南端の古都マーストリヒトにいた。日本にプロサッカーチームが誕生する前で、隆盛に疎(うと)かったが、パトカーの警官まで店先にクルマを止めてテレビ観戦していた。平坦なオランダには珍しく坂のある町で、テレビも見ずに観光にあえいでいる日本人をみたパブの若者たちが、店の中に誘ってくれた。
上半身裸で腹に国旗を巻きつけたのが、「いま、オランダが勝っている。ビールをおごるよ」といってくれた。ところが、ありがたくご馳走になっているうちに逆転されたのだ。みるみる連中は不機嫌な顔つきになってきた。さあ困ったことになった。ここは「ダッチカウント」(割り勘)という英語にいまも名をとどめる国である。ご馳走になったものか、払ったものか、悩みに悩むこととなった。オランダが再逆転してくれたら、
八方丸く収まるがそうはうまくいかない。形勢さらに不利。おしまいまでいて殴られるよりよかろうと判断して、大きな声で「ごちそうさま」というと飛び出した。
イの一番のサービスというのも困ったもんだ
行くときは羽田から北回りでロンドンへ、あとベルリン、パリ、チューリッヒ、ローマとまわり、帰路は南回りでニューデリー、香港経由で羽田だったが、全部BOACのファーストクラスだった。チケットに記入されているらしく、いつも最前列の窓際だった。これがノイローゼのもとになった。
前述のごとく離発着が多いのだが、加えて食事の回数が多い。機内サービスというのは今もそうだが、地上の時間に合わせて出される。南回りでは時差をどんどん詰めていくわけだから、朝飯が出たとおもったら、もう昼飯だ。その後の晩飯まで3、4時間しかない。フォアグラもかくや、という按配だ。
しかも、そのたびに私からサービスが始まるのだ。
ファーストクラスはフォークとナイフも本物が出てくるように、サービスも一流レストランを目指している。ワインのテースティングぐらいはできる。「グッド」とか何とかいってればよい。肉の焼き方もなんとかなる。チーズとデザートがいけない。何十というチーズが差し出される。名前も知らなければ食べたこともないのがほとんどだ。迷うと説明の山が押し寄せてくる。
デザートだって食後に大の男が、あんな大きくてとてつもなく甘いケーキを食べているのを見ると、胸がつかえるというのに、何種類もトレイに乗ったのが突き出される。「ほんの少し」、というと少しの尺度が違って大きいのが皿に乗っている。律儀に食べると胸焼けだ。ならば、と寝たふりをした。前にカードが置かれている。「起きられたら呼んでください」。飽食の時代の実体験だった。
外国人労働者は亡国のはじまりか
この旅行でイギリスの衰運を感じたのは、ホテルの外国人労働者であった。ホテルの朝食のときサービスにあたるのは、そういう人たちである。紅茶にうるさく、紅茶にミルクを入れるのか、ミルクに紅茶の葉を入れるのか、卵の焼き方はどうするか・・・etc うるさく注文する国民が、そういう食習慣のない国からの労働力に頼る。彼らは一応注文を
聞くが、実(じつ)のないことおびただしい。
オートミールにつけるパウダーシュガーが、コーンフレーク用の普通の砂糖だったりするのがもう始まっていた。紳士が大切にするクラブだけは、まだイギリスの誇る執事が取りしきっていて、そこではまだ英国風が残っていたが、旅人にももはや時間の問題であることが分かるほどだった。途中立ち寄ったスイスのチューリッヒでは、早朝やってくるごみの収集は、もう外国人労働者だった。
日本に同じことが起こり始めたのはほんの少しの時間差を置いただけだった。
「11PM」を知っていますか
帰ってすぐそのころの人気番組、「11PM」(もう、イレブンピーエムとルビを振らないとわからなくなったが)からお呼びがかかった。本格的な日本人の海外旅行ブームは始まったばかりであったが、この旅行で海外で出くわした日本語、ユングフラウヨッホの氷に刻まれた落書き、町のレストランのメニューにつけられた日本語の漢字が戦前の人の筆になると思われるもの、などつれづれに写真を撮ったものを紙面で紹介したのだが、そういう視点で旅をしたのは珍しかったらしく、出演依頼が来たのである。東京と思ってOKしたら大阪の読売テレビに来てくれという。はじめて大阪制作だったことを知ったほど。
作家の藤本義一氏、安藤孝子さんのコンビが待っていた。新宿・紀伊国屋の名物主人、田辺茂一氏(故人)と私がゲストという組み合わせ。ところが昼の3時だったか4時に来てくれという。生放送なので11時まで田辺さんご持参のウイスキーをなめながら待機。すっかり仕上がって本番はよく覚えていない。夜遅くて、家族も見てないという出演であった。

| JALジャンボ機御巣鷹山に消ゆ |
コンコルドの事故で同時に思い起こすのが1985年8月12日発生したJALジャンボ機の御巣鷹山墜落事故である。死者520人、負傷者4人は今なお航空機の単独事故としては航空史上最大の記録であるが、2000年で15年になるとはコンコルド事故が報道されるまで気づかなかった。
私は当時夕刊フジの報道部長をしていて、直接指揮をとったのでよく覚えているが、取材側も空前のできごとであった。いまなお、あの高度から墜落してよく4人も助かったと思うし、人間ドラマとしてもほかの航空機事故に見られない多彩な内容があった。今も公開できないことが(主にプライバシーの点で)多いが、何度も感動の涙を経験した。
現場はどこだ!
編集局のソファーに寝っころがってビールを飲むことと、すぐに迫った夏休みを伊豆高原で過ごすことを考えている怠惰な時間帯に起こった。午後6時12分羽田を離陸、大阪に向かったJAL123便は、夏休み前で満席だった。
離陸後すぐ伊豆半島で尾翼付近の圧力隔壁が破損、コントロールできないまま、エンジンの推力調整だけで右や左に静岡、山梨、埼玉、群馬、長野を30分以上ダッチロールを繰り返し群馬県多野郡上野村の、御巣鷹山(おすたかやま)
近くの尾根に墜落した。第一報はすぐ入ったがどこに落ちたかがわからない。
長野県の野辺山付近で見かけたという情報や長野県警臼田署のパトカーが午後8時すぎ、埼玉県と群馬県境に黒煙を見たという報告が相次ぎ、記者とカメラマンをとりあえず現場に向かわせたが、折りからの帰省大渋滞。JALが医師や看護婦を乗せたバスを出したが動きが取れないで立ち往生した。
やはり群馬県側だという情報が出て、もう一組そちらへ記者とカメラマンを出す。一晩中こんな事のくりかえし。
結局、翌13日午前4時39分、自衛隊の救難ヘリが上野村の御巣鷹山近くの斜面に墜落しているのを発見するのだが、これとて映像であって場所が特定できたわけではなかった。
上野村村長と消防団員が中継の映像を見て、自分のところとわかり徒歩で救援隊を出すのである。
一晩中現場がわからなかったこと、4人の生存者の証言から、虫の息ながらほかにまだ生存者がいたことがわかって、救援の初動が悪かったという非難の声が上がる。私自身県境が入り組んでいる山の中であることはわかっても、県名ごとくるくる変わるのにいらだったものだ。
後年、この現場を望む(だいたいの場所という程度)八ヶ岳に山小舎を建てることになって、上野村も通ったが、国道とは名ばかり、民家の軒先をかすめ、都会なら路地といったほうがいい細い路が山深く続くところを走ってみて、仕方なかったと思った。
山小舎があるところの隣村に長野県南佐久郡南相木村がある。2001年「滝見の湯」という温泉が出来て、近ごろよく行くのだが、そのたびに思い起こす。ここは墜落現場とは、まるで関係ない住所だが12日夜、自衛隊が墜落現場と誤報、700人の隊員を集結させたところである。誰が責められようか。

*日航123便御巣鷹山墜落事故*(メモ)昭和60年(1985)8月12日午後6時12分、羽田発大阪行き日本航空123便ボーイング747SR46型機(JA8119)=高浜雅己機長(49)ら乗員15人、乗客509人=は、定刻を12分遅れて羽田空港C滑走路を離陸した。おりしもお盆の入りとあって帰省客や行楽帰り、ビジネスマンらでほぼ満席だった。午後6時24分頃伊豆半島南東部の相模湾上空に差しかかったところで、「ドーンという衝撃音」とともに機体後部に異常をきたした。
事故から2週間ほど後の8月27日、異例の早さだったが事故調査委員会はフライトレコーダー、ボイスレコーダー、交信記録などの解析結果から「事故原因は後部圧力隔壁の損傷」とする第1回中間報告を発表している。それによると「ドーン」という衝撃音についで急減圧を告げる警報音が鳴った。すかざず、機長が「スコーク77」と、緊急信号発信を指示、東京航空交通管制部に「トラブル発生」を告げている。このときすでに致命的トラブルという認識があったわけだ。
*「スコーク77」(SQUAQK 77) 飛行機が発信する危険信号(全世界共通)のなかで最上位にあたる。「墜落する恐れがある」ほどのトラブルを意味する。
7700:緊急事態 (EMERGENCY)
7600:無線通信不能 (COMMUNICATION FAIL)
7500:ハイジャック (HIJACK)
などがあるが通常ATCコードの頭の2桁だけで通信する。
あとでわかったことだが、このとき最後部にある後部圧力隔壁が破損、同時に水平尾翼、垂直尾翼を操作する油圧系統が切断されたため、操縦席からのコントロールがいっさいきかない制御不能状態になった。機首が上下左右に揺れて「8」の字を描くダッチロールに陥るなか、左右のジェットエンジンの推力調整と主翼下のフラップの上げ下げだけで飛行を続けた。フゴイト運動も加わって気分が悪くなる人も出たと推測される。
*「フゴイト運動」 機首の上下運動。機体が下向きになりスピードが出ると水平翼の角度から自然に上昇ピッチになる。上昇し始めると今度はスピードが低下するので逆に下向きになる。
![]() |
| JAL123便の ダッチロールの跡 |
ボイスレコーダーの解析によると操縦桿やペダルなど油圧系の操作は副操縦士、進路・計器類の監視と管制官との交信やクルーへの指示などは機長、エンジンの出力調整や緊急時に作動する電動によるフラップとギアダウン、日航との社内無線交信などは航空機関士がしていた(当時は3人乗務制で航空機関士が乗っていた)と推測されている。ボイスレコーダーに残されたコックピットの会話は、乗員が原因不明のまま31分50秒間、機体の保持に奮闘したことがうかがわれるものだ。
「何か爆発したぞ」「ハイドロ(油圧)全部だめ?」「気合を入れろ」「頭(機首)下げろ」「これはだめかもわからんね」「おい山だぞ。山にぶつかるぞ」」「マックパワー(出力最大)」「ストール(失速)」「ドーンといこうや。がんばれ」「頭上げろ」「パワー」「ああ だめだ」 ・・・ 《衝撃音》
123便は3人の必死の努力も空しく、山梨県の大月上空を一周したあとも降下し続け山に接近、午後6時56分14秒、対地接近警報装置が作動した。あわてて推力を上げたが同20秒頃、機体は僅かに上昇したが同56分23秒に樹木と接触、同26秒、右翼が地面に激突、更にその反動でほぼ裏返しの状態となり、午後6時56分30秒に高天原山(たかまがはらやま)の斜面に前のめりに反転するような形で墜落衝突した。墜落前、クルーたちが機首を上げるためエンジン出力を上げたことで機体は速度346kt(640km/h)の高速で墜落した。午後6時56分28秒まで録音されたボイスレコーダーにも衝撃音が残されていた。その直前には最後まで諦めなかった機長ともう1人(誰かは不明)の「もうだめだ」という無念の叫びが残されていた。
墜落時、上記のように機体後部と右主翼を樹木に接触させ一度バウンドした。この際機体は大きく機首を下げる形になり第4エンジンが脱落したと推測される。これで機体は大きく右側に傾き、右主翼が地面を抉り第3エンジンが脱落、ついで残りのエンジン2つも脱落したとされる。接地とともに機体の破壊が始まり、垂直、水平尾翼、右主翼が脱落、ついで機体後部が離脱、その後機体全体がばらばらになった。
墜落現場は、地図に正確な名前も出ていないところで、現在でも墜落現場を御巣鷹山だと認識している人が多いが、実際の墜落地点はそのすぐ南の、地元で高天原山(たかまがはらやま)と呼ばれているところにある無名の尾根。この場所はのちに黒澤丈夫・上野村村長によって「御巣鷹の尾根」と命名されたが、本来の御巣鷹山に属する尾根ではない。
犠牲になったのは運航乗務員3人、客室乗務員12人、乗客509人、計524人のうち、女性乗客4人を除く520人。単独機としては現在に至るも世界の航空史上最悪の事故だ。4人が助かった理由だが、墜落時の猛烈な衝撃と火災によって、機体は大破し原型を留めていなかった。犠牲者の遺体の大半は激しく損傷したが、客室後部と尾翼は勢い余って山の稜線を超え、斜面を滑落していった。このため、衝撃が吸収されることとなり、また炎上も免れたので、この部分にいた4人が奇跡的に生存できたと考えられる。
偶然といえば、当時、公開試運転中だった海上自衛隊の護衛艦「まつゆき」が、相模湾で、事故機の垂直尾翼の一部を発見、これを引き上げることに成功した。一番最初に脱落した部分だけに、その後の事故原因解明に、大きく寄与することとなった。
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| 多くの人の胸を打った 河口博次さんのメモ書き。 |
恐怖のダッチロールが32分ほど続いたため手近な紙に遺書を残した乗客もいた。谷口正勝さんは、血染めの手帳に「子供よろしく」と遺した。大阪商船三井船舶の神戸支店長だった河口博次さん(52)は手帳7ページにわたって「さようなら 子供達の事をよろしくたのむ。飛行機はまわりながら急速に落下中だ 本当に今迄は幸せな人生だったと感謝している」と家族に惜別のメッセージを残し、多くの人の胸を打った。
事故当日の8月12日は「お盆の入り」で、夏休み中でもあり、同機には故郷への帰省客や翌日に行われる甲子園球場での全国高等学校野球選手権大会に出場する学校の関係者、出張帰りのサラリーマンのほか、茨城県筑波郡で開催されていた筑波科学万博や東京ディズニーランドなどから帰宅する者や海外からの観光客も多く搭乗していて、ほぼ満席の状態。これが今なお航空機事故史上最悪の犠牲者を生む原因となった。
歌手の坂本九や元宝塚歌劇団娘役で女優の北原遥子、21年ぶりのリーグ優勝を目前にした阪神タイガースの中埜肇球団社長(阪神は社長の死で奮起し優勝した)、グリコ・森永事件で脅迫されていたハウス食品の浦上郁夫社長、伊勢ヶ浜親方(元大関・清國)の妻子、など著名人の犠牲者も含まれていた。一方、元宝塚歌劇団雪組の麻実れいは車が遅れたため、タレントの明石家さんまは搭乗する便を123便より一本早くしたため、フジテレビの逸見政孝アナウンサーも妻の勧めで直前で取り消して東海道新幹線を利用したため、それぞれ事故を免れ、そのラッキーぶりも話題になった。
事故機の高浜機長の長女は3年後日航のスチュワーデスになり、次女も日航の地上職員をつとめ、平成17年パイロットと結婚退社している。
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| この圧力隔壁の破損が事故原因。 2006年4月、羽田空港のJAL「安全 啓発センター」で展示されるようになった。 |
運輸省事故調査委員会は、事故原因は1978(昭和53)年6月2日大阪空港で同機が着陸に失敗し、機体後部下面を滑走路に接触させる事故(「しりもち事故」と呼ばれている)を起こした際にボーイング社が行った後部圧力隔壁(アウト・プレッシャー・バルクヘッド。直径4b56a、深さ1b39a)の修理に重大なミスがあった。リベット(鋲)の打ち込みを一部で間違った。運航を重ねるうち修理箇所に金属疲労が発生し成長、この日ついに修理ミスの箇所が耐えきれなくなり崩壊し、吹き出した与圧空気が気圧の低い機体後部に一気に流れこんだ。その衝撃波で垂直尾翼を内部から吹き飛ばした。同時に4本の油圧系統全てに損傷を受け操縦不能に陥ったためであるとしている。
メーカーのボーイング社は修理ミスがあったことを認めた。群馬県警は63年12月、ボ社、日航、運輸省の関係者20人を業務上過失致死傷の疑いで書類送検したが、ボ社は地検の事情聴取を拒否、全員が不起訴となった。損害賠償を求めた民事訴訟は国内で21件、米国で12件起こされたが、平成5年までに和解、示談が成立、遺族に対する個別の補償交渉も平成7年までに終了している。

*村長が語る、現場特定の経緯*
「村長室のテレビを点けておりましたところね、朝5時のニュースの頃、ヘリから映した燃えてる墜落地点の状態が
映し出されたわけです。それを見たときに 『あっ、これは、上野村の神流川の源流の本谷の国有林の植林地だ』と。
なぜ、わかったかというと、その山の、反対側に友達の持ってる山がありましてね、その友達に連れられて、反対側
の山に登って植林している当時の御巣鷹の尾根を見た経験があったのです。
小学校の同級生が、植林した時の責任者だったんですぐ電話入れて、 『おい、今のテレビ見たか?あそこは本谷だ
ろ?』『そうだよ、あれはスゲノ沢だ』と言って、友達が具体的に場所を教えてくれたので自信を持って 『これは我が
上野村のスゲノ沢の尾根に日航機が墜落した』といえた。
御巣鷹山というのは上野村の中心からは30キロ離れているんですね。上野村の人が住んでる一番奥の方の集落
からも見えない、長野県、埼玉県の県境と接する神流川の最源流です。ひだのように尾根があり沢があり、細かく
峡谷の中が分かれておりますから普通の人じゃわかりません。そこで、すぐ、消防団のうち、奥の方の状況を知っ
ている諸君を2人くらいのペアにして、機動隊や自衛隊の人たちを案内してあげてくれという指令を出した。
520人が亡くなった日航機事故で、全遺体が確認されたのは192人。確認が出来なかった方が328柱です。明治
32年に出来た法律、行路病人及び行路死亡人取り扱い法で、328柱の方は、上野村で永代供養をする義務があ
る。私ども上野村民と一緒になって、この上野村の天地自然に抱かれて安らかにお眠りくださいと、葬送・慰霊の真
心を尽くしたい」
黒澤丈夫村長は群馬県立富岡中学校から海軍兵学校に進み、戦闘機の搭乗員としてゼロ戦に乗り、霞ヶ浦で訓練中に墜落、
九死に一生を得た経験もある。指揮官として戦い、海軍少佐のとき、ルソン島から最初の神風特攻隊「敷島隊」が出撃した時
には特攻隊生みの親、大西瀧治郎中将と並んで見送った。終戦を迎え、郷里の上野村に戻ったが、多くの命と向き
合ってきただけにピシっと背筋が通っている。
その後「慰霊は上野村の責務だ」と、現場が観光地化しないように奔走、財団法人「慰霊の園」が運営する慰霊施設
というかたちにした。現在の静寂が保たれているのもこの人のおかげだ。
2005年6月13日、地方自治体では全国で最高の10期目(40年)の任期を満了し、91歳で退任した。

*救出された4人のその後*
事故から20年目の平成17年夏、メディアでは特集を組んだが、「週刊朝日」(7月15日号)「育ての母が語った 川
上慶子さん その後の人生」や産経新聞「あの夏 日航機墜落事故20年」が生存者のうち特に注目を集めた川上
慶子さんのその後を取材している。
慶子さんは父(41)と母(39)、妹(7)と島根県から北海道旅行に出かけ、その帰り123便に乗り合わせた。大阪に
在住していた伯母の家を訪ねる予定だった。慶子さんが伯母に語ったところでは、事故直後かなりの人がまだ生き
て助けを求めていたという。
「墜落した時は、大分多くの人が生きてはって、お父さんも咲子ちゃん(妹)もまだ生きてて、お話しててね。あっちで
もこっちでも、がやがやと話し声が聞こえて来て・・・」
「お父さんはだんだん動かなくなった。物を言わないようになった。咲子ちゃんも吐いた物が喉に詰まるような感じに
なった。『おばあちゃんと、また皆で元気に仲良く暮らそうな』と言って上げたけど、げえげえと言い出したと思ったら
静かになって、咲子ちゃんも死んだみたいや・・・。まわりで皆が話してはった声も、だんだん聞こえなくなって・・・」
「暗闇の中ヘリコプターの音が聞こえて来て、赤い明かりも見えて、真上まで来て止まってホバリングみたいにして
・・・。『ああーこれで助かるわ』って皆で言ってたら、ヘリは引き返した。『これで場所が判ったから、又皆で沢山来て
助けてくれる』と話したけど、それきりで来んようになった。その内、皆話さなくなった・・・」
生存者が多くいたこと、真夜中に現場上空に来たヘリコプターが来たことは同じ生存者の落合由美さんの証言にも
ある。
「墜落の直後に、はあはあという荒い息遣いが聞こえました。ひとりではなく、何人もの息遣いです。そこらじゅうか
ら聞こえてきました。『おかあさーん』と呼ぶ男の子の声もしました」
「どこからか、若い女の人の声で、『早くきて』と言っているのがはっきり聞こえました。突然、男の子の声がしまし
た。『ようし、ぼくはがんばるぞ』と、男の子は言いました」
「やがて真暗ななかに、ヘリコプターの音が聞こえました。すぐ近くです。これで、助かる、と私は夢中で右手を伸ば
し、振りました。けれど、ヘリコプターはだんだん遠くへ行ってしまうんです。帰っちゃいやって、一生懸命振りました」
「すぐ近くで『手を振ってくれ』だったか『手をあげてくれ』という声が聞こえたのです。私は右手を伸ばして、振りまし
た。『もういい、もういい。すぐ行くから』と言われました。救出された日の午後3時過ぎ、夫と父と叔父が病室に入っ
てきました。私は『四人しか・・・・・』と口にしたのですが、夫はすぐに『しゃべらなくていいから』といいました」(吉岡
忍著「墜落の夏」新潮社より)
このとき現場上空に飛来したヘリコプターが自衛隊のものか米軍のものかはわかっていない。日本側の説明(自衛隊
・警察)では、「ヘリコプターで墜落現場を確認したものの、ちょうど日暮れの時間帯で正確な場所の特定には時間
がかかった。険しい山地に雨という悪条件の上、夜間はヘリコプターでの接近が困難なため地上からの救出に全
力を挙げたが、夜間に手探りで山を登る事になったため、レスキュー隊が墜落現場に入れたのは翌朝になってか
らとなった」としている。
しかし、 事故から10年後に元米国軍人が証言(米軍の準機関紙「パシフィック・スターズ・アンド ・ ストライプス」)したところ では、アメリカ軍厚木基地から暗視カメラを搭載した海兵隊の救助ヘリコプターが現場に急行して、墜落現場を特定していた。墜落から僅か2時間で救助態勢が整っていたという。救助のためにヘリから隊員を降ろそうとしたとき、基地の当直将校から「日本側が現場に向っているので帰 還せよ」という上官の指示があり、現場には降りなかったという。日本のレスキュー隊が現場に到着する約12時間前である。
この在日アメリカ軍による現場特定とヘリによる救出の申し出は、事故当日にニュース速報として流された。しかし、翌日未明にはアメリカ軍が現場を割り出したことや、救出活動の申し出をしたことなどはすべて誤報であったとして否定された。このため、事故原因に関し巷では謀略説など各種の憶測を呼ぶ一因ともなった。この話は表に出る事は無かったが、週刊誌に暴露記事として詳細が掲載されたりした。事故から10年後に、「在日アメリカ軍の現場特定・救助の申し出は事実であった」として改めて発表されている。
当時、日本の事故に対するアメリカ軍の救出活動の参加には日本政府の許可が必要だった。アメリカ軍は日本政府に支援を打診し、政府は警察庁に連絡したが不要とされたと言われている。警察庁上層部がアメリカ軍の協力を拒んだ理由は明らかになっていないが、メンツが理由とも、国内の事故に指揮命令系統が違うアメリカ軍が介入することで現場に混乱をきたすことを避けたとも言われている。禍根が残る判断だといえよう。
推測だが、自衛隊も警察も、当時は米軍のようにレーダーから正確に墜落地点を割り出す技術や、夜間でもヘリから山中に降り立 つ技量が不足していた。その上、まさかあの高度から の墜落で生存者がいるとは考えもしなかったのではないか。生存者がいるとわかれば、万難を排してでも降りたろう。
メディアも夜通し現場周辺を這いずり回っていた。暗闇でどこかの社の連中の懐中電灯が見えるとホッとしたくらいだという。
その上、在京の新聞社側にも、今となっては虚報といえるが、「医療用のラジオアイソトープが積まれている」と
か「動翼のマスバランスに劣化ウランが使われているので、危険だ。現場に近づくものは注意せよ」という情報が
流れ、どの程度危険なのかわからぬまま消防団員や取材記者が躊躇する場面もあった。
さて、事故後の慶子さんだが、島根県で祖母と兄の3人で生活した。保健婦だった母親の遺志を継いで大阪府の短大を
卒業して看護師になり、兵庫県の病院で働きはじめ平成7年の阪神淡路大震災では救援活動に携わった。
やがて、趣味のスキューバダイビングで訪れたアメリカで、男性と知り合った。中学生の頃から間寛平のファンで、
「一緒に居て楽しくて面白くて、顔はジャガイモの様な人が良い。」と言っていたそうだが、平成14年秋結婚、今は
仕事を辞めて会社員の夫と息子の3人で、四国のある地方都市で育児に専念している。子どもの成長ぶりをメール
で親族に伝えてくるそうだ。
遺族らでつくる「8・12連絡会」(美谷島邦子事務局長)は事故後、毎年1冊ずつ文集「茜雲」をまとめてきた。20集 目の今年は遺族40人の新たな手記が掲載されているが、そのなかで慶子さんの近況について伯母の池田富士子 さん(島根県松江市)が「よちよちと 歩く姿の愛らしさ 見せてやりたし 亡き者たちに」と詠んでいる。
衝撃の映像流れる
この写真に差し替えねばならない。幸い特ダネはグループテレビ局だったから、あとで了解を取ることにして、テレビからの写真を整理部に出したが、感動で胸が熱くなった。あの飛行高度から墜落して助かった例など聞いたことがなかった。
あの放映をしたフジテレビの取材チームは、早朝に現場が特定されるや、中継機材をバラして何人かで手分けして山の上に運び上げた。組み立てたところで救出作業が始まったのだという。我が新聞社のカメラマンもスチール写真(1枚モノ)の特ダネを撮ったのだ
が、人力で下に運んだため(ほかに方法はなかった)掲載は翌日になった。
この写真はその年の新聞協会賞を受賞した。この前後からテレビから取った写真を新聞が使う手法は多用される。スピードで圧倒的なのだ。
13日午前11時30分、締め切り間近の編集局に衝撃の映像が流れた。生存者がいたことは直前にわかって大騒ぎになっていたが、自衛隊の救難ヘリ(習志野から飛来、ロープで現場に降りた)で隊員に抱きかかえられて吊り上げられる少女の姿が放映されたのである。
自衛隊のヘリに救出される川上慶子さん=産経新聞の
日航機墜落事故20年企画紙面(平成17年8月3日)から
携帯電話、御巣鷹山に初登場
あまり知られてなかろうが、事故から15年ということは携帯電話が登場してから15年ということでもある。今の隆盛は想像もできなかったが、御巣鷹山の上に救助隊や遺族の連絡用に、このときはじめて携帯電話が運び上げられたのである。
義兄が事故のときちょうどNTTへ民営化される直前の電電公社の高崎支社長をしていた。
事故現場を管轄する支社である。雑談で携帯電話のことは聞いていた。欠点は電波の到達距離が短いので、街中にわんさとある公衆電話をアンテナがわりに使って・・・という構想だった。ここではじめて現物が登場したのである。もっとも大きすぎてとても実用に向かないものだった。
山頂近くまで電話線を引き、遺族の連絡用に公衆電話を何台も設置する方法が主で、実験にとどまった。
これより前訪れた香港では街角で、おそろしく大きなボックスを抱えた人が大声でしゃべっているのを見たことがある。このあと昭和天皇のご容体をいち早く知る必要があって編集局で何人かが常時持たされていたが、やはりショルダーバッグほど大きくて困った。
電池の改良が急速に進んだおかげで今のように小型になったが、トランジスターといい、日本人がもっとも得意とする分野である。さらに進歩するのは間違いない。
あのときケイタイが今ほど普及していれば原稿や写真の送稿方法がずいぶん変わったことだろう。無線で中継しながら原稿を読み上げるか、麓に下りて電話するかだった。写真は車を飛ばして近くの支局に走り現像して電送するのが唯一の方法だった。
わずか15年でパソコンで記事と写真を送ることが当たりまえになった。 ついでながら、入社したときはまだ手拾い時代で、棚から活字をすばやくとっていく職人が大勢いた。すぐ漢字テレタイプといって、原稿をタイピスト(パンチャーといった)が打って、一度窄孔されたテープにする。
これを流すと字母が出て、鉛が煮立った釜から一字ずつ鋳型にいれて活字を造っていくという方法である。そして現在のワークステーションという名のコンピューターに原稿を送り、画面で整理してフィルムにし、
各工場にファックス送信して凹版印刷(それまでは凸版印刷)の高速輪転機にかける。私一人でも印刷の3世代を経験した。いかに時代の流れるのが早いか。
書かなかった、いや、書けなかった
ジャンボ機の死者520人ということは、520話の死者のドラマがあることだ。「一か月でも二か月でも1面トップはこれでいく!」と決めた。
事実ほぼ一か月連続で一面トップを事故関連記事で埋めた。520話あるといっても後半息切れしないわけでもなかった。
事実、この年は阪神タイガースが21年ぶりに優勝した年で、大阪の紙面は早々と(1面が)野球に取って代わった。
書きたい誘惑に駆られたが結局書かなかったことがいくつかある。
事故から3日目か4日目、インド人遺族が駆けつけてきた。JALに来るなり「マネー、マネー」といって示談交渉である。ほかの遺族はまだ悲嘆のどん底にいる。事故原因もまだわからない時である。現地に行こうともしないでこれである。多分一番早い示談成立だろうとは思うが、あまりにも死生感が違いすぎてとても書ける話ではなかった。 もうひとつ、ある会社社長と舞台女優が乗っていた。席が離れていたので不倫はいまだに公になってないが、二人で大阪に帰る途中だった。残された未亡人と私の家族が同級生というので知った。知った経緯と、ただ覗き趣味にすぎないことで自制した。 さらに書き加えると、50年後の2010年1月に知ったことだが、大阪府立住吉高校の同窓会誌でクラスは違うが同学年の「宇沢克彦」氏が亡くなっていた。同級生3人の御巣鷹参拝報告にあった。当時の取材では気付かなかったことで、改めていろいろな人生が消えた事故だったことを認識した。
事故から20年目だというので、2005年夏またこの事故が話題に上るようになった。
どこの役所か聞き漏らしたが副大臣か何かが今なお川上慶子さんの「幸運の航空券」を持っている、
というのが話題になった。
イタズラに属することだと思うが、この種の反応としては大変早くて、救出が報じられた翌日には編集局に
誰かがファックスでこの航空券を送りつけてきた。記事にした新聞もある。私も持っているが、これはニセモノだ。
JALがこういうものを公表
するはずがないのは少し考えればわかることだが、当時真顔でありがたがる人が結構多く、知人で財
布に入れていた男を知っている。私など、20年後と航空運賃がほとんど同じということのほうが、面白い。
奇跡中の奇跡だから、本当にあやかりたい人は「航空券」でなく「座席券」をお守りにしたいところだろうが
こちらは出回っていない。でもだいたいの場所はわかっていた。人間ドラマを報道すると同時に、
事故の原因究明が新聞社の最大のテーマでもあった。航空評論家などを動員して、なぜ4人が助かった
のか、分析していた。そのためにだれがどこのシートに座っていたかできるだけ再現した。簡単にわかる人
もいたが、川上家のように4人が続き番号で当日その場で移動したかもしれない場合、正確な席はわからない
こともある。
こうした作業で、助かった4人がいた機体後部はちぎれて前方に投げ出され、斜面を滑り落ちたため衝撃が
やわらげられたことや、炎上をまぬがれたことが奇跡につながったことがわかったのだ。これに比べて、
墜落直後火に包まれた機体前部は惨状を極めた。このころDNA鑑定もなく、大半といって
いい328人は身元の特定もできなかったのだ。
最初に身近に体験したのは、昭和33年(1958)8月12日、羽田発名古屋行き全日空DC−3型機が伊豆半島下田沖に墜落、33人が死亡した事故だ。大阪で小中高がいっしょだった同級生と琵琶湖でキャンプしていた。親友が私たちと逆の名古屋に行くという。
フィアンセに近い女性が東京から名古屋に帰ってくるので会いに行くのだという。その女性と父親がこの飛行機に乗っていた。この事故は航空機から撮影した海面を漂う遺体が紙面に載った。これがその女性だった。
昭和46年(1971年)7月30日、東北雫石上空で全日空機と自衛隊機が空中衝突した。このとき新婚旅行で宮島あたりにいたのが報道部のO記者。情け容赦なく新婦連れで現場に行かされたがどこか嬉々としていた。
昭和48年(1973年)7月20日パリ発羽田行き日本航空ボーイング747がオランダのアムステルダム空港離陸後に日本赤軍とパレスチナゲリラにハイジャックされた。
ドバイ、ダマスカスを経てリビアのベンガジ空港に着陸した後、人質は開放されたが機体は爆破された。怒られるかもしれないが、「いい写真」として記憶に残る。
燃え上がる紅(くれない)の炎に、機体が浮き上がっている。それをバックに逃げるひきつった表情の人質の写真が印象的だった。
日本赤軍の犯行というので犯人を特定する作業が新聞社にとって重要だった。実は、この飛行機には弟の義母が乗っていた。大阪で輸入雑貨店を経営していた。仕事でイタリアやフランスで買い付けた大量のブランドものの衣類などが炎の中に消えて、
がっかりしている本人を羽田東急ホテルに缶詰めにした。本人は私が羽田まで見舞いに来た上、静養のためホテルまで用意してくれたかと感謝していたが、そうではなかった。特ダネの機会を逃してなるものかというだけである。
いろんな日本赤軍の人物写真を見せ、機内での彼らの会話を聞き出そうとしたが、恐怖でほとんど憶えていなかった。
1999年亡くなったが、足の裏にはそのときのとげがたくさん刺さったままだった。はだしで逃げ出したベンガジ空港は、滑走路をはずれると一面の棘(いばら)の原っぱだった。
”幸運の航空券”のニセモノが出回る
事故が風化して、当時本当に川上慶子さんが自分の航空券を出したかのように、事実として「定着」すると
困るのでカラクリを書いておくが、このころコピー機が急速に普及中でどこのオフィスでも1台くらいはあった。
手持ちの航空券の名前のところを貼り替えてコピーしたものなのだ。本物がないから証明はできないが、発券番号は
違っているはずだ。
ニセモノだが、当時
出回った「幸運の航空券」
航空機事故は不思議と夏に多い

| 札幌オリンピック美人通訳譚 |
1972年の冬季オリンピック大会は今となってはスキー70メートルジャンプで笠谷幸生以下、日本3選手が金銀銅メダルを独占した
ことと、優勝候補だったフィギュアスケートのジャネット・リン(Janet Lynn)が尻もちをついて3位になった大会として記憶されているかもしれない。街中にトワ・エ・モアの「虹と雪のバラード」のメロディーが流れる、この大会に取材団の一人として加わっていた。
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| 札幌五輪ポスター | 金銀銅を独占した ジャンプ競技の表彰式 |

「ジャネット・リン、サッポロを語る」
26年後の長野五輪(1998)で来日して大歓迎を受けたジャネット・リンが米テレビで思い出を語っている。「瞬間、あゝどうしようと思ったが、気をとり直した」ことや 選手宿舎の壁に「Peace and Love」と落書きした(その後公団住宅になり今も残る)のはオリンピック精神を心から実感したため。サッポロがその後の自分が生きる力になったこと など、時に涙を浮かべながら語っている。背景として開会式や問題のスッテンコロリのシーンも。眼鏡をかけやや太めだが今も愛らしさが残る。1998年の放送。
札幌で4年間の学生生活を送ったので勝手知った街ではあるが、プレス用の宿舎と取材現場の往復で昔を懐かしむ時間はなかった。マスコミ各社に入った同窓生が多く現場に派遣されていて、スキーのジャンプ会場など、同窓会が開けるほどだ。ここで事件が起きた。
共産圏の女子スケート選手だったが、リンクそばで最高齢の参加ということを知り、「囲み記事」にでもしようと思った。なんとかドイツ語がわかる選手だというので、まわりをさがした。このとき、英語とドイツ語の通訳がペアで歩いていたので、頼むと、時間外なのでしない、という。
相手は宿舎に帰ろうとしているのだ、今しか話す機会はない。
かっとなって、持っていたプログラムを丸めたので通訳の頭をコツンとやった。つべこべ言わずにやれ!と引っ張ってきて、選手の前に連れて行き、なんとか通訳してもらったのはいいが、組織委員会に訴えるという。
コツンとやったのは悪いが、役人根性の通訳などこっちも許せないから、どこにでも提訴しろと開き直った。国家的事業の前にいつしかうやむやになったのだが、さらに驚いたことは、このときそばで傍観していた英語の通訳が、その春わが社に入社してきたのである。それも私のいる報道部に。
この項のタイトルをわざわざ「美人通訳」としたにはわけがある。コンパニオンとか通訳というと読者の方がまず美人だろうという先入観を持つ。そう間違ってはいないのだが、新聞や週刊誌はそれをいいことに、好んで使いたがる弊がある。顔写真もないのに、また事件の本筋に関係ないのに「美人OL殺さる」となる。 最近まで60歳を過ぎた女性は「老婆ひき逃げさる」とかいう見出しだった。この高齢化時代にあまりにひどかろうと、各社の整理部では「老女」と控えるようになったが、それでもひどいし、実態にあわない(年齢より若い人が増えた)ので使われなくなったが、美人の多用は今も盛んだ。テレビだって「美人」「温泉」「殺人事件」の どれかが入ってないと視聴率があがらないという。
このときの2人はタイトルにそう離反するものではなかった。ドライな女性のはしりだった気がするが、彼女が札幌のリンクで、英語で話すジャネット・リンの通訳をしたときもクレームがついた。かなりしゃべっているのに、この通訳にかかるとほんの一言になる。英語だから、ある程度はわかる記者が多い。この通訳はひどいではないか、というわけだ。
人怖じしない性格は入社とともにいかんなく発揮された。奈良に数学者の岡潔の取材に行ったときの録音テープを聞いて仰天した。もともと別世界にいるような学者で、人の好き嫌いが激しいのは承知しているが、なにが原因かわからないが、この女性記者に激怒しているのである。
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| 岡 潔 |
「最近、東京と京都でフランス美術展が開かれたが、テレビでこれを批評していて、ある人の線が力強いとか、ある人の絵は構成が大胆であるとか、ある絵は調和がとれていると言っているのを聞いて、私は呆れてしまった。それでは意志の芸術ばかりを評判しているだけではないか。
私がほしい芸術や調和はそんなものではない。いかに小さくても麦は麦、いかに大きくても雑草は雑草であるような、そういうものが見たい。しかしもっというのなら、本当の調和は午後の日差しが深々としていて、名状しがたいようなもののことなのだ。このことがわからずに、芸術はなく、平和というものもわかるはずがない。日本では戦争をしないことを平和だと思っているが、そんなことはかたちだけのことで、内容がない。調和のあるものこそが平和なのである」(『紫の火花』から)。
そんな、人の琴線に触れる感性を持った高名な数学者が、持てる限りの罵詈雑言(ばりぞうごん)を持ち出して、はっきり「帰れ」とまでわめいているのだ。私などテープを聞いているだけでもいたたまれなくなるほどだが、本人はケロリとしている。
*その後、岡潔の伝記を編んでいるという国立大学の教授から、このくだりを読んだとメールをいただいた。岡潔のことはよく知っているが、それほど激怒したとははじめて聞く、詳しく聞かせて欲しい、またその その女性記者と連絡を取りたいということだった。大部な伝記がその後出版されたようだ。
彼女は、私の弟が持っている小さなスナイプ級のヨットの株主(6株のうち1株)でもあり、週末江ノ島で私たちといっしょにクルージングすることが多かったが、アメリカ人、ニュージーランド人、韓国人・・・毎週連れてくる相手の国籍が違う。「今日は何(なに)人だい」というのが仲間内の挨拶だった。
後日談がある。彼女は数年後に我が新聞社をやめてアメリカに行ったのだが、私が、豪華客船「クイーン・エリザベス2」(70,327総トン、略して「QE2」)、に乗る機会があった。ホノルルで乗船したのだが、タラップの下で手続きをしていると、上のほうから私の名前を呼ぶ声がする。見上げるとデッキの上で手を振っているのが彼女だった。
船を持っているキュナード汽船に日本人向けの通訳として1航海だけ採用されてニューヨークから乗っているという。船客名簿に私の名前を見つけ、待ち構えていた。
昔話をしながら航海しているうち、例によって彼女の性格が出てきた。日本語の通訳として採用されているというのにさっぱり通訳してくれないという苦情が、私の元部下だと知った船客からいっせいに持ち込まれたのだ。この性格は直りません、あなたがあきらめるしかありません、と笑いながら告げるほかなかった。
彼女は子持ちのアメリカ人ジャーナリストと結婚して、ニューヨークに暮らしている。時折、英字新聞の小さいコラムに名前を見つけると、往時が思い出されてニヤリとしてしまう。
2006年になって当時の船長主催のパーティーで船長との記念写真が出てきたので恥ずかしながら片隅にアップした。「にわか紳士QE2に乗る」というタイトルで1週間ほど航海記を連載した。「にわか」の由来は写真にあるようにデパートのつるしで買ってきた似合わないタキシード。なれない格好なのでカマーバンドにパンくずが入って往生した。大阪の医者のかみさんが乗っていて、私はボーイと間違われ「あんた、これ運んでえな」とか言われた。チップはくれなかった。
「QE2」の船旅案内「QE2」の船内生活を紹介しておこう。乗船するとまずコンシェルジェがレストランでどういう席を希望するか聞いてくる。この船には13層に 900の船室がある。予約した船室の等級によって5つほどある大食堂のどれになるかは決まっている。だが、そのレストラン内の1テーブル8人前後 については彼が決める。イギリスは階級社会だからこれは重要な仕事で、どういう人と相席を希望するか宗教、使用言語、趣味などを参考に割り振る ことになる。
私のように、宗教はもちろんのこと同席者の人種に何の希望も偏見もなく、西欧のどんな国からもあまり嫌われていない日本人船客はこういう場面で は重宝される方だと思うが、テーブルの接着剤のように空いている席に入れられる。船客の半分ほどアメリカ人だからどこの席にも入っていて、例外 なく陽気な声をあげている。ワインを選ぶときの知識と薀蓄、さらにみんなをリードする点で自然発生的にボスというかリーダー的な人が決まる。そん なのどうでもいいではないかと思うが、朝昼晩三食みんな一緒だから結構大事なことだ。何日間かの食事の会話で同席者の人生に相当詳しくなって下 船する。
各レストランにはソムリエとバーテンダーがいて相談・注文に答える。酒類は一応有料になっているが船では関税がないから、よほどのビンテージもの でも指定しない限りワイン、カクテルはじめ基本的なリキュール(ビールやオンザロックなど)については誰も金額を気にしない。イギリスの船会社 なのでスコッチは万端整っていてかなり知らない銘柄もあった。日本人用に日本酒や梅酒まで積み込まれていたがなぜか焼酎がなかった。
三度の食事は決まったレストランで決まった席に着くが、もちろんパスしてもよい。三食ともフルコースでもいいが、そうは食べられるものではない。 結局朝はベーコンエッグなどイギリス風、昼はパスタなどイタリア風、夜はフレンチというのが多かった。卵は「サニーサイド」」か「ポーチドエッグ 」なのか、ベーコンはやわらかいのがいいかカリカリにするか、細かく聞いてくるので慣れるまで大変だった。
食事は船賃に入っていてすべて無料。どんな大きなステーキを注文しようが、キャビアやフォアグラ、トリュフを頼もうがかまわない。タバコは有料だが船上では関税がない から半額以下。高級タバコも1カートン1000円以下で手に入る。私はこのころ長年の喫煙をやめようかと思っていたのだが、さもしい根性が出て船上で はヘビースモーカーに逆戻りした。
食堂での三度の食事以外に午後のティータイムや夜食、場所を変えて開かれるピクニックランチがあり、早朝から深夜まで船内どこかで毎日10食は提 供されている。レストラン以外バイキング形式の軽食とはいえ日本人から見るとフルコースに見える品揃えで、みな付き合っていたらフォアグラのよ うに太ること必定だ。だから多くの人が四六時中デッキでジョギングしている。
各テーブルにサービス係がいるが、彼らは船会社から給料は出ない。チップで暮らしているから、客の気分次第で収入が違ってくる。だから、担当し たテーブルの個人個人の好みの酒から肉の焼き方、ドレッシングの種類、スイーツまで客の名前と共に頭に叩き込んでいる。新聞記者と知って、船内 情報まで耳に入れてくれた。チップは下船の際まとめて渡すが、私一人で数万円になった。領収書のない支払いで経理に説明するのが大変だった。
午後6時だったか6時半だったか忘れたが毎日この時刻以降になると正装でないと船内を歩けない。時刻は太平洋上の位置で毎日修正されるから前日よりだんだん 早くなる(日本に向かう場合)。この時刻を境に男性はブラックタイ、つまりタキシードに、女性はイブニングドレスに着替えないといけない。だから、夕食は必ず正装になる。 この時刻の1時間ほど前から船内に人通りがなくなる。「wash and shave」とか「wash and change」とかいうが、シャワーを浴びて、夜の装いに着替え る時間帯である。7,8歳の子どもまでタキシード姿だ。”にわか紳士”のこちらはシャツの着替えが払底する。好くしたもので夜中でもクリーニング を受け付けていて、ドアの外に出しておけば、翌日の「wash and change time」までにはきれいになって届けられる。
船客を飽きさせずに航海するために最大限の努力が払われていて、昼はデッキゴルフ、プール(温水含めいくつかある)、アスレチックジム、ダンス 教室が用意されている。船尾では10ドル払うがライフル射撃ができる。夜は映画やミュージカル、ショー、漫談(わからず笑えなかった)などが船内 どこかで開かれ、カジノは深夜まで開かれているが、美人相手のブラックジャックやルーレットで丸裸にされるのに30分とかからない。スロットマ シンはもうすこしもつものの1時間ですってんてんだ。
船客の平均年齢は相当なものだ。みな老齢と言っていい人ばかりだ。世界有数の財閥も乗っていたようだが、こうしたプライバシーはきちっと守られ て、公表されることなく船内では一人の紳士として扱われる。聞き知ったのではリタイア記念の船旅と言うアメリカ人の教師夫妻、休暇中のヨーロッパ の外交官の家族などがいた。
船内には若い女性もいるがこれはカジノのディーラーか、毎晩船内のどこかのシアターで踊っているダンサーのどちらかだ。こういう人や厨房要員は 一般客と隔離された船室と従業員専用食堂で暮らしていてこういうレストランにはいない。一夜彼らのパーティーに招かれたが、こちらはもうどんち ゃん騒ぎだった。
船内で毎日発行される新聞は(日本語もある)船長の挨拶や国際ニュースも間に入っているが、今日船内のどこでグリニッジ標準時の何時からどういう 催しがあるかでぎっしり。神父や牧師も乗っていて説教会が毎日のように開かれている。他の宗派もあるからタブロイド新聞の下半分はそうしたお知ら せで埋まっている。太平洋を渡るときは必ず日付変更線を通るから、東西どちらに向かっているかで丸一日が消えたり増えたりする。さらに時差を一日 2,3時間修正しなければならない。
私は当初「QE2」に乗るかどうか迷った。船に酔いやすい体質で、ましてこのクルーズは冬だから太平洋は荒れるのが必定と来ている。しかし、多 くの人があこがれる世界一の豪華客船の船旅だ。船酔いで死ぬこともあるまいと手を上げたのだ。
しかし案の定だった。ホノルルを出てまだダイヤモンドヘッドが見えていると言うのに、揺れはシャワーを浴びている体が浴室の壁に当たるほど。たち まちおかしくなった。医務室に電話を入れると「シーシック?あなたが今日一番早い。今から行く。15ドル用意して待っててくれ」とのこと。医者が 来るのかと思ったら看護婦一人で、金を受け取るといきなり尻を出させ、用意していた注射針をブスッ。
「これで楽しい航海ができるわよ」とにっこりして出て行った。すぐ人事不省に陥り、同室者に聞いたところでは20時間いびきをかいて寝ていたそ うだ。翌日起きると気分は爽快。おりしも太平洋の波いよいよ高く、階段などよろけるほど。いたるところにビニール袋が下げてある。食堂に顔を出す と食欲がない人ばかりだが、こちらは分厚いステーキを注文して(ニューヨークで積み込んだアメリカの肉であまりうまくない)、スコッチをオンザ ロックのストレートでぐいっ。船の窓は縦に細長いが、外に見える水平線が窓の下から上まで振り切れている。それでも平気だった。
どうも三半規管が馬鹿になるクスリのようだが、看護婦の話では効果は2週間ほどあるそうで、私の話を聞いた3人ばかりが医務室に駆け込んだ。帰国 してからも船に乗る機会があり、このクスリを注射してもらおうとしたが、日本の医師は誰も知らなかった。もうすこし語学と先見の明があったらあの クスリの名前を聞いておくべきだった。
この船で本当の金持ちというのを間近にみた。こういう客船は大体、最上階に行くほど高いのだが、そのうちのひとつを船長に頼んで取材ということで訪問した。広いテラス付のマンションが操舵室近く(どんな船もブリッジは一番上にある)にあると思えばよい。調度品もすばらしかったが、この船室には酒がびっしり詰まったバーから冷蔵庫つきのキッチンと食堂がついていた。ここで食事するのではない。個人でパーティーを開くときに使う程度なのだ。
また、この最上級船室には散歩用のデッキも別についていた。フロアが違うから大勢ジョギングしている一般客と混じることはない。隣の船室は船長夫 妻用だった。船長の仕事は、毎晩夫婦でダンスパーティーを主催し、いくつもあるレストランのうち最上級クラスでそこの客の食事の相手をするのが仕事だ。
もう一室は留守宅だった。売れなかったんだ、と思ったらとんでもない。ここの住人夫妻はホノルルで下船したという。冬の太平洋は荒れる。それを嫌 って飛行機に乗り換えて先に行ったのだ。東京で観光かと思ったらまた違った。冬の日本は行くところもないので、まっすぐ香港に飛び、そこからさら にインド観光だという。次にQE2に乗船してくるのは1か月以上も先でインドから乗ってくるのだそうだ。その間船室はカラのまま 荷物だけ運び続ける。上には上があるものだ、とアッパーデッキのずっと下、喫水線の少し上で窓がない自分の船室から思ったことだった。
上品なおばあさん5、6人が縦横3メートルはあるテーブルの上で巨大なジグソーパズルをしていた。朝昼晩取り組んでいる。ニューヨークから乗船し て2、3週間たっていたころだが、ジグソーパズルは端っこの直線の辺りが出来た程度で真ん中は大きくあいたまま。飽きると隣の図書室で本を読みな がら寝ていたりする。いつ完成予定ですか、と聞いたら両手を広げて「さあて?」。時間つぶしのために何百万円も払って乗っているのだ。
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| QE2横浜入港の航空写真。新聞はまだモノクロの時代だった。 |

*QE2のこと
キュナード・ラインのフラッグシップ、「クイーンエリザベス2」(70,327総トン。全長294メートル、乗客1778人と乗員1000人以上が乗船可能)は、世界で最も有名な客船。
1969年に建造された。これまで大西洋横断航路に就航し、オーシャン・ライナーとして活躍。他の客船と比べ、
フォーマルナイトの日が多く、私が乗船したときも毎晩6時以降はタキシードを着用しなければ歩けなかった。着替えのため毎日午後5時ごろから船内の
人通りが絶えた。英国風の華やかでノーブルなクルージングで船好きのあこがれだった。
私は「ワールド・クルーズ10周年」という時に乗り合わせた。左上の写真はそのときの横浜入港時の模様。新聞は
まだモノクロ時代だったのでスナップ以外は白黒写真だ。このあと1982年にフォークランド紛争が起き、英軍の輸送船として兵員輸送用に
徴用されたので、大幅な改装が行われた。その後さらに豪華客船として再度の改装がされている。
いまも報道では「クイーンエリザベスU」と表記されることがあるが、間違い。
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| パーティーに限らず毎日 午後6時以降はタキシード着用。 |
2002年3月8日、作家の曽野綾子さんが産経に「豪華客船の旅」という一文
を書いている。たぶん「QE2」だと思うが、教会があること、船内に老人が多くて、エレベーターが
開いてる間に乗り降りできないほど行動が遅い人がいること、航海中に亡くなる人が出たが、何体の遺体を
保存できる冷蔵庫があるのか、などとある。その通りで、エレベーターが9台ほどあっても、足らないのは、
遅いのと、女性と老人のために手で押さえている時間が長いせいだ。
私のときも死者がでた。そのとき見たら、4体分の冷蔵庫があった。
キリスト教の教会ばかりでなく、シナゴーク(ユダヤ教会)、モスク(イスラム教会)などの礼拝所とそれぞれの調理室があった。宗教と料理にタブーがない日本人
には寺も日本料理の場所もなかった。「今日は日本人のためにマグロの刺身です」と案内があって、勇んで駆け付けたら、マグロが
トロも赤身もいっしょくたにサイコロ状に細かく切られたのが山盛りになっていた。わさびもなくて上から醤油がたっぷりかかって、フォークが用意されていた。
ローストビーフしか生まなかったイギリス人に料理をまかせるのは間違いだという信念はこのときから変わらない。
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| デッキにはプールが。 1日6食くらい食べ物が出た。 |
遊歩デッキの救命ブイも 「クイーンエリザベス2」になっている。 母港のサウサンプトンの文字も見える |
「QE2」は長く「海の女王」として君臨してきたが、2003年末に完成した15万トンの超メガシップ、「クイーンメリー2」に世界一周のクルーズを譲った。
2001年から2003年にかけてのワールド・クルーズが「QE2」に
とって最後の世界一周航海だった。初代の「クイーンメリー号」(1934年建造1964年引退)はカリフォルニア州ロングビーチ港にホテルなどのある観光施設として
係留されている。
「クイーンメリー2」はどこで造船しているのかと思っていたら、意外なところから判明した。2003年11月15日、フランス西部サンナゼールにある仏造船大手アルストムの ドックで、ほぼ完成して関係者に お披露目していた「クイーンメリー2」が見学用桟橋が崩落して死者15人、負傷者30人を出すという大惨事を起こしたというニュースが流れたのだ。 フランスの造船技術の粋を集めたものとして宣伝していただけにシラク大統領も駆けつけたが、その報道では新聞もテレビもやはり「クイーンメリー2世号 」と間違っていた。船体を見るとちゃんと「QM2」と書かれている。
本体の事故ではなかったので、12月22日、予定通り進水式を行ったが、遺族への配慮と刑事責任の追及が続いているのでひっそりとした進水式だったという。 「クイーンメリー2」は総トン数15万トン、全長345メートル、全幅39.9メートル、乗客定員2620人、乗組員定員1253人。巡航速度28.5ノット。 客室700、1300人が一度に食事できるいくつものレストラン、5つのプール、プラネタリウムまである。総工費8億ユーロ(約1080億円)。 2004年1月12日、サウサンプトンから米国フロリダのフォートローダーデールへ初航海した。
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| 横浜に入港したQM2(2010.2.19) |
「クイーンエリザベス2」(Queen Elizabeth 2)の今後だが、2007年11月、所有していたキュナード(Cunard)の親会社で米クルージング業界大手のカーニバル(Carnival)社が 約5000万ポンド(約107億円)でアラブ首長国連邦の政府系旅行会社傘下の投資会社に売却した。キュナード時代40年間に航海した550万海里は月と地球の間を13回往復した距離 に相当する。25回の世界1周航海を含め大西洋を800回以上横断し、200万人以上の乗客が乗船した。
「クイーンエリザベス2」はキュナード・ラインとしては最後の航海を終えていたが、2008年1月6日、花火に見送られ英国南部の港町サウサンプトン (Southampton)を姉妹船の「クイーン・ビクトリア」(Queen Victoria)と共に出航、大西洋を横断し米ニューヨークへ。同港から(違う運航会社の下での)最後の世界一周 クルーズに出た、オーストラリアを経由3月19日に大阪港天保山岸壁に入港した。このクルーズでは大阪が国内唯一の寄港地であったので、 日本で「QE2」を見ることが出来る最後の機会となり多くの人でにぎわった。
この航海を最後に改装され、ドバイにある世界最大の人工島パームジュメイラ(Palm Jumeirah)で5つ星ホテルになる。ドバイ・ポーツ・ワールド(Dubai Ports World)の会長は、 世界中の人に愛された船だけに「ドバイは海に面した国であり、私たちはQE2の伝統を尊重しています。新しい我が家でも大切にします」と述べている。 キュナードは2010年就役予定の新クルーズ客船の建造を計画していて、この船が次代のクイーン・エリザベスと命名されると発表している。 新クイーン・エリザベスはクイーン・メリー2の同級船ではなく、クイーン・ヴィクトリアの同級船で総トン数は9万5000t程度となる模様。

| あさま山荘事件ー凍える攻防 |
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| 鉄アレイで壁を破壊しての突入。 |
確かにこれらは一面ではあるが、殉職した2警官のほか射殺された民間人が1人いたことやライフルで報道関係者など27人が重軽傷を負ったこと。 またこの事件の最中にニクソン大統領訪中という左翼運動にとってエポックメーキングな出来事があって、母親の一人によるマイクの説得にもでてきたこと。 連合赤軍がここに来るまで12人も(京浜安保組まで入れると14人)総括という名のリンチで仲間を殺していたことなど、 触れられていないことが不思議だった。
私にとっては札幌オリンピックとセットみたいな事件だ。というのも五輪の終了とともに発生したし、
おまえたちは寒さになれているし、装備が整っている(五輪用の防寒靴やフードつきのコートなど着用していた)、
という理由で、カメラマンともどもオリンピック取材チームが全員そのまま軽井沢に向かったのである。
といっても我が家を含めて、家族は夫や息子がどこに行ったのか知らなかった。これは普通のことだった。
一つには、この時代、電話事情が悪かったことがある。入社のときは関西から札幌に申し込むと3時間くらいたってつながった。 急ぐ時は警察電話が頼り(全国に張りめぐらされた警察電話が一番充実していて、即時だった。よくないのだろうが、県警本部 を通じて最寄警察から市内電話につないでもらった)という時代が長かった。
二つのオリンピックを経てこのころよくなったとはいえ、軽井沢から本社に一度つながると、切るな、といわれていたくらい。原稿や写真電送を どんどんすませるようにしていた。取材本部にしたのも電話がある空き別荘で、所有者に連絡して明けてもらったものだ。 でも風呂には入れなかった。犯人が包囲された手がかりが、異臭を放つというのが理由だったが、機動隊ふくめてこちらも似たような事情だったのだ。
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| このロケーションを見ても難攻不落の天然の要塞 だったことがわかる。3階に見える 白い屋根の ところが1階部分で道路に面して玄関がある。 |
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| 一晩のうちにあけられた銃眼。 |
銃口を避けてあちこち場所を変えながら移動するのだが、山の中の一本道を山荘で遮断されているから、はるか下を迂回するか、上の山側を越えるかしかない。笹の中のちょっとした登山の連続になる。たちまちズボンがだめになった。私もはじめて ジーンズを駅前で買ったが、事情は各社同じで品切れになるほどだった。この洋品店主は東京に仕入れに行ったあと急死したが、こんな話は30年後でもどこにも出てこない。
現場はあさま山荘だが、ここには、警察は機動隊員、マスコミは若い記者とカメラマンという「手足」がいた。
作戦を練る
警察幹部や新聞のキャップなど「頭脳」にあたる人間はずっと離れたところにいた。取材の中心は警察庁の寮だった。ここには佐々淳行・警備局付警務局監察官が
後藤田正晴警察庁長官の命令で派遣されていて、その指揮所になっていた。本名は「あつゆき」というのだが、当時「さっさ・じゅんこう」と呼んでいた、
氏は、この事件を機に危機管理の専門家の道を歩む。20年ほどのち、横浜で会ったおり、現場に居たというと、あそこが私の原点です、といっていた。
警察の縄張り意識は今に始まったことではない。警察の管轄はよく池や川で区切られているが、地方支局勤務のとき、こういうところで土左衛門が上がると、
竹ざおで管轄外の向こう岸に押しやるということがあった。単純な自殺などでは書類処理の手間ばかりかかるので嫌がるきらいがあった。向こう側の署もしたたかで、
同じように押し返して、結局最初に
発見された地点の警察署が処理をする羽目になったという笑い話をよく聞いた。
これくらい世間の注目を集める大きな事件だと、こっちの力で解決できるという県警側の自負と、中央から派遣された側の、そっちだけではどうにもならんだろうという意識がぶつかり合う。
装備も中央の機動隊のが優れ、銃弾に対しても県警機動隊の防御楯4枚重ねて、やっと警視庁機動隊の一枚並という気の毒な面も
あった。だから、中央から派遣された警察庁、警視庁機動隊組と地元の長野県警は仲が悪
かった。無線連絡も互いには通じなくてそれぞれの上司にだけ報告が上がる。あさま山荘の中にいる犯人の割り出しも両者別々にやっているきらいがあった。
手違いで照明弾が打ち上げられたときには「あのバカが」とののしる始末で、けっしてうまくいっていたわけではない。
東京組は事件後、すぐ本を出したが県警組は不快感をあらわにした。こざかしいことだけ長(た)けているとでもいうように。
後年(平成14年)NHKが「プロジェクトX」であさま山荘事件を放映したが、主役として地元消防団員や県警幹部、モンケーンの
操縦士を取り上げたため、今度は東京組がそっぽ、といったあんばいだ。
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| 放水はたちまち凍って 全体が氷柱(つらら)で覆われた |
4日目くらいにたまたま「大事件」を目撃した。昼ごろだったが、功名心にかられたか信越放送の記者と、画家という男が警戒線を突破して山荘に近づいた。これはすぐつかまったが、これに気を取られているうちに、
斜面を這い登ってきた別な男がいた。みんなが見守るなか道路を悠々と歩いて山荘玄関にたどりついた。新潟からきたこの30歳の喫茶店経営者は麻薬で何回もつかまったことがあり、前日「人質の身代わりにきた」
と禁止区域に入ってつかまり、夜中釈放されたばかりだったが、このときはわからない。
「赤軍さん、赤軍さん、わたしも左翼です。私は妻子と離縁してきました。医者をやっております。中へ入れてください」。
このとき中にいた坂口弘は、警察だと思って銃眼から拳銃で撃つ。
自分で立ちあがり、かけつけた警官に「おお痛え。大丈夫だ」というが朦朧としているようす。佐久病院で後頭部の弾の摘出手術を受けるが10日ほどあと死亡する。
これとて、警察の連携が十分なら捕まえた不審者を夜中に釈放するなどありえないと思うのだが、山荘を取り囲む東京組中心の機動隊が首をかしげるなかひょこひょこ
出てきた。
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| 坂東国男 |
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| カップ麺を食べる機動隊員 |
後日談だが、日清食品が発売したカップヌードルは湯を注げばいつでもどこでも食べられるのが売りだったが、「あさま山荘事件」で機動隊員が食べる風 景(写真右)がテレビで流れ、注文が殺到、今日のカップ麺隆盛のきっかけとなったのもこの事件の余波だ。
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| あさま山荘正面玄関からの突入。逮捕は日没時までかかった。 |
突入した機動隊員は警視庁組と県警組との混合部隊だった。1階は警視庁第9機動隊、2階は長野県警機動隊、3階は警視庁第2機動隊、突入のため選抜されたのも警視庁と長野県警2人ずつという配置で、 張り合う組織同士の顔が立つように配慮されていた。
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| 犯人がライフルを構えたまま顔を出した瞬間。 坂東と吉野弟かと思うが狙撃されることはなかった。 |
午後6時15分、牟田泰子さんが救出され、つぎつぎ逮捕されて引きずり出される連合赤軍の連中は(自殺防止の)さるぐつわをかまされていたが、どれもずぶぬれで悪鬼のような表情だった。218時間に及ぶ「あさま山荘事件」は解決
したがこれはまだ序の口で、14人も惨殺された驚愕のリンチ殺人が白日にさらされるのはこのあとのことだった。
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| 治安の礎(いしじ)のレリーフ |
後年ゴルフに行くことが多かったプリンスホテルの「軽井沢72(セブンツー)ゴルフ場」のそばにあり、遠くに山荘が望める場所なので時々立ち寄ったことがある。 いまも「あさま山荘」はあるものの、河合楽器から別の企業に売却されている。

*追い詰められた連合赤軍*(メモ1)警察もマスコミもこの派手なあさま山荘事件で一連の過激派犯罪は終結したと思った。だがこれは次なる驚愕の集団リンチ殺人事件への幕 開けにすぎなかった。あまりの残酷さゆえに過激派の闘争はよりどころを失い、一気に消滅へと向かう。その狂気への経過はどういうものだ ったのか。
赤軍派はよど号ハイジャック事件をおこした集団だが、1971年(昭和46年))12月ごろ、森恒夫(当時27、大阪市立大)が率いていた。 これと永田洋子(ひろこ、当時24、共立薬科大卒)が委員長の京浜安保共闘(警察の公安用語では日共革命左派)が合流して、計29人 (うち女性10人)の連合赤軍ができた。京浜安保共闘というのは日本共産党左派神奈川県委員会(日本共産党とは無関係)から分派した もので彼らの中では「革命左派」と呼ばれていた組織。
今ではあさま山荘事件もリンチ殺人事件も連合赤軍の犯行と簡単に一まとめにされるが、赤軍派と京浜安保共闘の非公然部門が合体して連 合赤軍を結成した事実はマスコミも警察も当初は掴んでいなかった。だから、銃砲店襲撃や銀行襲撃など彼らの犯行の手配も別々の事件と して扱われていたほどだ。過激派が連合したことはあさま山荘事件の直前にようやく察知できたことだった。
《つぎつぎ逮捕》
1972年(昭和47年)2月、京浜安保共闘のアジトが群馬県伊香保町の榛名山中にあることがつきとめられた。2月14日には群馬県警機動隊が動員され、アジト
捜索が開始された。この山小屋は暮れから正月にかけて建てられたらしく、若い男女9人ほどが出入りしていたようだがすでに小屋を
焼いて撤収していた。
続く2月16日、山梨・埼玉・長野の各県警が大規模な山狩りを実施した。午後になって群馬県の妙義山中の妙義湖畔の林道で、ぬかるみにはま って動けなくなったライトバンがトラックに引っ張り出してもらっているのを捜索中の署員が目撃し、職務質問した。3人の男は逃走したが、 残る2人の男女は車の中に閉じこもって、ラジオを聞いたり、食事したり、「インターナショナル」を歌い、女も尻を出して排泄するなど の行為をした。
このため署員は車を押して、500メートルほど先の人家まで運びアジトへの出入りを目撃した地元の人に確認させたところ、赤軍メンバーら
しいことがわかった。とりあえず山小屋を作るのに国有林を切った容疑で同夜逮捕した。
男女は連合赤軍のメンバーで横浜国大生、杉崎ミサ子(当時24歳)と慶大生、奥沢修一(当時22歳)と判明した。
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| 逮捕時の森恒夫と永田洋子 |
ちなみに、この時森恒夫の取り調べに当たったのが当時、警察庁警備局公安第一課長補佐で、のち政界に転出した亀井静香・ 衆議院議員。自民党元政調会長など要職にあったが郵政民営化に反対して国民新党に追われたものの有力な死刑廃止論者として知られる。
森、永田という最高幹部の逮捕で残る行動メンバーは9人になっていた。彼らはラジオで2人の逮捕を知り、これで総括がなくなると喜ぶ。し かし、19日には軽井沢駅で植垣康博(当時23歳)、青砥幹夫ら男女4人が逮捕された。これも異臭をはなつのが怪しまれた。
4人は午前8時前に軽井沢駅に着き、小諸までの切符を購入した。1人は待合室の売店(今で言うキヨスク)で新聞とタバコを買ったが、こ の時店員が不審に思って駅員に知らせた。いずれも若く、薄汚れたアノラックに長靴姿で、顔や手も泥で汚れていて臭ったためだ。長 野行きの汽車の中で通報を受けた警察官に職務質問され、ピース爆弾、鉄パイプ爆弾、猟銃の散弾、登山ナイフなどを持っていたため火薬 類取締法違反で現行犯逮捕された。
これで残り5人。これがあさま山荘事件を起こすことになる。

*あさま山荘事件*(メモ2)追われた5人はトラックを運転手ごと奪って逃げたりするが、追い詰められて、1972年(昭和47年)2月19日午後3時半ごろ、軽井沢町大字発地(ほっち)字牛道514−181番地の河合楽器の保養所「あさま山荘」(レイクニュータウン別荘番号728号)に
玄関口から土足のまま入って、管理人夫人の牟田泰子さん(当時31歳)を人質にして3階の「いちょうの間」に篭城する。これが事件の発端だった。
5人は、坂口弘(25歳/東京水産大中退/京浜安保共闘)、坂東国男(25歳/京都大卒/赤軍派)、吉野雅邦(23歳/横浜国大中退/京浜安保共闘)、加藤倫教(19歳/東海高校卒/京浜安保共闘)、その弟のM(当時16歳/東山工業高校/京浜安保共闘)だった。
加藤倫教とその弟のMには兄(能敬)がいたが、榛名山ベースでリンチによって殺害されている。また、吉野雅邦の妻・金子みちよも迦葉山ベースでリンチにより殺害されている。
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| 牟田夫妻 |
余談だが、真岡の銃砲店襲撃の前には、ハードボイルド作家の大藪春彦邸襲撃も企画した。「彼なら銃器も持っている
に違いない」と大藪邸に連合赤軍の先遣隊がファンをよそおって訪れたところ、応接間に通され、お茶も出してくれて歓待された。
この恩義で襲撃先から外したという。
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| 後藤田正晴長官 |
「カミソリ後藤田」の異名をとり、後年、政界に入り副総理までつとめた人だけに、30年後の今でも適切な指示に感心する。ライフルの使用に制限を加えたのは、
二年前の瀬戸内シージャック事件の影響がある。狙撃で解決した事件だが、胸を撃たれ、デッキにゆっくりくず折れていく犯人の姿がテレビで流れ、人権派が批判していた。
中には守られなかった(死者が出た)ものもあるが、マスコミとの報道協定が成立、どちらかといえば無秩序だった取材現場(犯人が報道で警察の動きを知ることが多かった)で、
一つのルールができていくのもこのときからである。連合赤軍側が発砲したのはライフルなど104発、これに対して警察側は威嚇射撃16発だけ。殉職者2人。警察側がいかに、耐えに耐えた事件かわかる。
今ならわからないが、息子がこんなことをして申し訳ないというのが、犯人の家族の気持ちだった。指紋から割り出されて、3日目から家族が到着する。警視庁のヘリコプターで来た吉野雅邦の両親と坂口弘の母親が警備車から呼びかけを行う。
「まあちゃん、聞こえますか。牟田さんを返しなさい。世の中のために自分を犠牲にするんじゃなかったの。普通の凶悪犯と違うところを見せて頂戴。武器を捨てて出て来て。それが、本当の勇気なのよ」(吉野の母、51歳)
「牟田さんの奥さん、申し訳ありません。代わりが欲しいなら私が行きますから」(坂口の母)
「昨日、ニクソンが中国に行ったのよ。社会は変わったのです。銃を捨てて出てきなさい。森さんたちも捕まったけど無傷だった。出てきなさい。牟田さんの奥さん、元気ですか、何とお詫びしてよいか・・・」(同)
前日の21日、ニクソン米大統領が北京を訪れ毛沢東と会談し、歴史的な米中国交正常化が実現した。時代のうねりが現場でも感じられた。
零下10数度の寒風の中、マイクをしっかり握りしめて涙にむせびながら切々と訴える2人の母親たち。機動隊と報道陣の目が潤んだ。
「お母さんを撃てますか」といった母親に、吉野はためらわずに1発撃った。母の乗った特型警備車に命中した。
指紋照合で坂東国男もいることが判明。坂東の母親(当時47歳)も現場に駆けつけた。
「中国とアメリカが握手したのよ。あんたたちが言っていたような時代が来たのよ。あんたたちの任務は終わったのよ。人を傷つけるのは愚かなことです。鉄砲撃つなら私を撃っておくれ。早く出てらっしゃい」
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| 連行される坂口弘 |
その日、坂東の父親(51)は旅館を経営していた滋賀県大津市の自宅で自殺した。息子の責任をとっての自裁だった。現在、旅館は廃屋となり、荒れるがままになっているそうだ。
機動隊側から回顧した日本テレビの番組「あさま山荘事件」の動画。上述したような氷づけのなかで暖をとる機動隊、犯人の説得に当たる母親、ライフル発射の瞬間、第2機動隊の内田尚孝隊長殉職の画面がある。 (日本テレビの佐々淳行スペシャルーその1)

*14人総括への道すじ*(メモ3)
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| 4人が埋められていた現場。報道陣も息を呑んだ。 =昭和47年3月、群馬県の山中 (クリックで大きな画像に) |
奥沢の自供から群馬県警は甘楽郡下仁田町の山中で、約1bほどの深さの穴に埋められた男性の遺体を発見した。赤軍メンバー・山田孝(元京大生 27歳)のものだった。遺体は手足が縛られており、死因は凍死。衣類はナイフで切り裂かれて全裸だった。それからの1週間で12人の遺体を 掘り起こすことになる。
群馬県警は前年(昭和46年)、大久保清連続殺人事件で、多くの遺体を掘り出したばかりで「穴掘り県警」と呼ばれた。群馬県はその後も殺人事件 での発掘が多く、「関東の墓場」とまでいわれた。
あさま山荘事件があったころ、すでに逮捕されていた永田洋子(ながた・ひろこ)が弁護士に「山で大変な闘争があった」「森さんにあの事は言ってはならないと伝 えてくれ」と話していたが、内部闘争くらいにとらえていてこれほどのリンチ事件とは誰も考えなかった。
山田の遺体発掘を知らされた森恒夫と永田洋子は異様な反応を示したものの自供までには至らなかった。まもなく事件の前後に逮捕されたメンバー の自供などから大量のリンチ殺人の全容がわかってきた。榛名山に集結していたメンバー29人のうち、実に12人が死刑、または総括で死亡してい たのである。12人がすでに殺されていたという報告を受けた後藤田正晴・警察庁長官は「君、そんな馬鹿な・・・」と絶句したという。
山中で殺されたのは12人だが、京浜安保共闘はその前に2人を処刑しているので連合赤軍によるリンチ殺人の被害者は14人になる。「永田のやって ることは甘っちょろい革命ごっだ。おれはこの闘争の経験を小説に書くつもりだ」」と批判して向山茂徳(20)が女性メンバーの早岐やす子(21)を連れて脱 走した。永田洋子は向山のアパートへ5人のメンバーを差し向け、「処刑」を命じ、茨城県印旛沼付近に埋めた。
早岐やす子は長崎県佐世保市出身。県立佐世保高校卒業後、上京して日大看護学院に進学。日大紛争をきっかけに過激派に出入りするようになり、 京浜安保共闘に。伊藤和子、中村愛子とともに「日大看護学院の三人娘」と呼ばれた。71年6月に小袖ベースに入山するが、7月に名古屋市の交番 襲撃の下見に向かう途中の静岡県掛川市で、パンと牛乳を買うために車を停めたところ、突然運転席の小嶋和子を突き飛ばして脱走していた。永 田洋子が怒り女性兵士全員に「なんとしてでも見つけ出して来い」と命令した。
板橋区の友人のアパートにいるところをメンバーに突きとめられ、やってきた小嶋和子の「これぐらいのこと、詫びればすむと思うわ。みんな許 してくれるわよ。向山さんも戻ってきたのよ」という言葉を信用してついていった。仲間に「もうみんなにはついて行けない」ときっぱり言った ため殴られ失神した。小嶋和子の運転するクルマで運ばれた印旛沼のほとりで、男たちが穴を掘り始めたが、やす子がいつの間にか土手の方へ逃 げ出した。男達はすぐに追いつき、毛布をかぶせて暴行を加え、ビニール紐で首を絞めて殺害し、全裸にして埋めた。
向山茂徳(20)は長野県辰野市出身で、諏訪清陵高校から新潟大学に進もうとしたが失敗、上京して早稲田ゼミナールに通った。2浪し新聞配達 店で働きながら勉強をしていたときに京浜安保共闘にオルグされた。小説家志望で、山岳ベースでの訓練などにはあまり興味はなかったらしい。 71年6月に小袖ベースに入山するが、4日ほどで下山している。
脱走したものの浪人中の身でそれほど危険を感じていなかったようですぐ居場所を突き止められ、8月10日殴られ血まみれで失神する。やはり小 嶋和子の運転で印旛沼に連れていかれたが、途中で意識を取り戻したため、車内で首を絞められ殺害され、やす子の場所から少し離れたところ に埋められた。
総括の名の下に山中で殺されたのは次の12人。
| 死亡日 | メンバー | 年齢 学籍 | 旧所属 | 総括事由 |
|---|---|---|---|---|
| 1971年12月31日 | 尾崎充男 | 22歳 東京水産大学 | 京浜安保 | 12.18の交番襲撃での日和見主義 |
| 1972年1月1日 | 進藤隆三郎 | 21歳 秋田高卒 | 赤軍派 | 総括不十分 |
| 1972年1月1日 | 小嶋和子 | 22歳 市邨学園短期大学 | 京浜安保 | 接吻 |
| 1972年1月4日 | 加藤能敬 | 22歳 和光大学 | 京浜安保 | 接吻 |
| 1972年1月7日 | 遠山美枝子 | 25歳 明治大学 | 赤軍派 | 総括不十分 |
| 1972年1月9日 | 行方正時 | 25歳 岡山大学 | 赤軍派 | 不適切発言 |
| 1972年1月17日 | 寺岡恒一 | 24歳 横浜国立大学 | 京浜安保 | 不適切発言と分派主義で死刑宣告 |
| 1972年1月19日 | 山崎順 | 21歳 早稲田大学 | 赤軍派 | 死刑不参加と分派主義で死刑宣告 |
| 1972年1月30日 | 山本順一 | 28歳 北九州大学卒 | 京浜安保 | 不適切発言 |
| 1972年1月30日 | 大槻節子 | 23歳 横浜国立大学 | 京浜安保 | 永田の嫉妬 |
| 1972年2月4日 | 金子みちよ | 24歳 横浜国立大学 | 京浜安保 | 永田の嫉妬 |
| 1972年2月12日 | 山田孝 | 27歳 京都大学 | 赤軍派 | 単独行動 |
多くは永田洋子の異常な嫉妬心、こじつけの革命論による犠牲者といえる。たとえば永田と坂口弘は夫婦でこのころ結婚して2年余りたっていた。 資金調達のため東京に潜伏中の森と永田に、脱走者が出たことを報告しに行った坂口は、いきなり「私は森さんが好きになったから、あなたと別 れて森さんと結婚する。これが共産主義化の観点から正しいことだと思う」と、一方的に離婚を申し渡されている。有無を言わさぬ態度で、坂口 はしかたなく「分かった」と答え、妙義山アジトに戻っている。
それにしても、連合赤軍内でこうした理屈も何も理解を超える残虐・非道な同志へのリンチ殺人に発展したのはなぜなのか。
確かに、はじめは革命を目指すための武闘派集団だった。その連合赤軍内で、いつしか永田、森の二人が独裁的支配をするようになり、2人の気 に入らない者は、規律違反、日和見、反共産主義的などの理由で「総括」のリンチにかけられ、殴られ、蹴られ、縛られた上、極寒の中に放置さ れて凍死させられた。
脱走した者もいたが、彼らが逮捕されると、警察に追及されてアジトの場所が知られることになるため、ついには脱走するおそれのある者まで「 総括」の対象となった。この“人民裁判”は7人の中央執行委員会によって行われた。中央執行委員長・森恒夫、副委員長・永田洋子、書記長・ 坂口弘、中央執行委員には、坂東国男、吉野雅邦、寺岡恒一、山田孝の4人が名を連ねていた。といっても、実際は、委員長の森と副委員長の永 田が“判決”を下し、他の5人はそれに同調するだけだった。拒否したりビビったりすれば、中央執行委員であっても「総括」された。実際、寺岡 と山田が“死刑”に処せられている。
「総括」と呼ばれたリンチには「芟除(さんじょ)」と「死刑」があった。「芟除」とは、刈り除くという意味で革命戦士になれなかった者に対し、全員で 顔や腹を殴りつけ1歩も歩けない状態にしアジトの外の柱に縛り付け食事を与えないままに放置して寒さと飢えで死なせた。「死刑」は文字通り、 罰してすぐに殺してしまうことである。榛名山ベースでは、12月31日から翌年1972年(昭和47年)1月17日にかけ、8人が殺害された。
それにしてもすさまじい殺され方だった。赤黒く膨れ上がった両頬、突き出した前歯、首にヒモ跡、男女の区別さえ分からなくなっている者、苦 しんで自ら舌をかんでいる者、肋骨が6本折れている者、内臓が破裂している者など、まさに凄惨を極めていた。また、女の遺体はどれも髪の毛 を刈られていた。
《犠牲者それぞれの生い立ちと総括理由》 最初の犠牲者、尾崎充男(おざき・みちお)は岡山県児島市(現・倉敷市)出身。県立児島高校から東京水産大に進学した。丹沢ベー
スで公然活動のメンバーに不用意に銃の隠し場所を教えたことと総括の際坂口と殴り合い、敗北した後「ちり紙をとってくれ」と言ったことを永
田に問題視され、縛られ暴行を受けた。苦しさから死ぬ間際に舌を半分噛み切っていたが死因はアジトの外の柱に体を縛られ食事も与えられない
まま放置されたことによる凍死。
進藤隆三郎は福島県郡山市出身。父親は建設会社の役員で、幼い頃は東北地方を転々とし、秋田高校を卒業後、東京・御茶ノ水のフランス語専修
の日仏学院に入学した。その後、東大闘争に関わり赤軍派に加わりM作戦にも参加。ハンサムで、女性をオルグする役割だったが横浜のドヤ街で
同棲していた元芸者の女が逮捕され、メンバーのことを喋ってしまったことや、組織と一定の距離を置いていたことで、森から「遅れている」と
見られ総括を受けた。 小嶋和子は愛知県知多郡八幡町出身。市邨学園短大卒業。日精工業に勤務していて同僚で短大の先輩である寺林真喜江にオルグされ、当時高
校生だった妹と「中京安保共闘」に加わる。組織では「小嶋姉妹」として知られた。運転免許を持っていたので運転手役を務めることも多かった。
印旛沼の同志殺しにも関与。71年7月、塩山ベースに入山。恋人だった加藤能敬とキスしているところを永田に見られ、怒りを買う。
「永田さん、いやになっちゃう。加藤が、寝ていると変なことするんだもん」と訴え出たが、永田に「あんたにも責任がある」と言われ、他の全員に
殴る蹴るなどの暴行を受け、小屋の外に放置され1月1日凍死した(享年22)。
加藤能敬(かとう・よしたか)は愛知県刈谷市出身。東海高校から一浪して和光大学文学部入学、京浜安保共闘へ。あさま山荘事件で逮捕され
た加藤兄弟(倫教、M)は彼の弟達。通称「加藤三兄弟」。父親は国語教師であり、財産持ちだが、倹約家で質素な生活をこころがけ
ていたが右翼的思想の持ち主で兄弟3人が反発した。小嶋和子とキスしているところを永田に見られ、最初に総括を求められた。森や永田は弟達にも兄を殴らせた。1月4日に死亡(享年22)。
2人は涙を頬に流し泣きじゃくりながら体を震わせて殴った。それは朝まで続けられ、気づいたときには死んでいた。事件を知った父親は3月3日付
で、勤務先の小学校を依願退職し、「息子が軽井沢にいるようなら、妻と刺し違えて死ぬ」と話していたという。
遠山美枝子は横浜市生まれ。県立緑ヶ丘高校から明大二部(法学部)に入学。労組幹部だった父は早くに自殺していたため学校へはキリンビール
本社で働きながら通った。在学中は重信房子と仲良くなり、揃ってブントに入る。重信の恋人に高原浩之という男がいたが、重信が田宮高麿と親
密になると、遠山が高原と付き合うようになった。すらりとした美人で赤軍派では女王のようにふるまっていたことから永田に目をつけられる。
髪を伸ばしていること、鏡を見ていたこと、化粧をしていたことなどを永田に問題とされ総括された。
寺岡恒一は東京都文京区出身。私立芝高校から横浜国立大学工学部入学。この大学は新左翼系の「東のメッカ」と言われており、赤軍派にここ
の学生が多く69年の革命左派結成時から参加。杉崎ミサ子にしつこくつきまとっていたことや、「森や永田がこけたら、俺がリーダーになる。俺は
初めから風船ババア(永田)が大嫌いだったんだ。お前らがリーダーなんてちゃんちゃらおかしいや!」と言ったため総括を求められた。 山崎順は東京都渋谷区出身。幼い頃、父親の仕事の関係でドイツへ。吉野と同じ都立日比谷高校から早稲田大学政経学部に入学。東大を目指して
いたが、その年は入試が中止となっていた。その頃から政治運動に興味を示し始め、中核派としての活動を開始した。その後、赤軍派に移り、坂
東の直系の弟子となった。銀行襲撃(M作戦)にも積極的に加わる。寺岡処刑の時に加わらなかったことや、森から「女性をめぐるトラブルが絶えず、
組織から脱落しようとした」とされ、死刑を宣告された。肋骨6本を折られるなどの暴行を受けた後、アイスピックで数回刺され、首を絞められ
て殺害された。 山本順一は愛知県岡崎市生まれ。県立岡崎北高校から北九州大学外国語学部へ。卒業後は名古屋市の日中友好商社に勤務した。保子(頼良ちゃん
の母親、脱走して無事)と結婚。12月28日に親子3人で榛名山入りした。事件当時、生後2ヶ月だった長女は、その後愛知県の父親が引き取り
名前を変えて育てた。
大槻節子は神奈川県横須賀市出身。県立大津高校から横浜国立大学教育学部心理科入学。その後「婦人解放同盟」「青年共産同盟」に加入。労働
運動を目指してキャノンに入社後、革命左派組織部として活動。京浜安保共闘結成直後の米ソ大使館、羽田襲撃の際には都内各所で火炎瓶騒ぎを
起こす役をつとめ逮捕された。かなりの美人だったが、これが永田の嫉妬を受け暴行を受け、髪を刈られて殺された。
金子みちよは横浜市鶴見区出身。県立鶴見高校から横浜国立大学教育学部社会学科に進学。混声合唱団で吉野雅邦(あさま山荘立てこもり)
と出会い結婚。山では「同志と肉体関係がある、物質欲が強い」などの理由で、妊娠8か月だったが手足を縛られて交代で殴られ、外の床下の
柱に縛られて凍死した。胎児をかばうようにお腹をおさえて死んでいた。胃の中は空っぽだった。 山田孝は東京・大森生まれ。一家は山口県に移り、県立西高校卒業後、京大法学部に進学。その後大学院に進み政治学を専攻していた。赤軍派の
母体となった関西ブントの活動家、また京都府学連でも活動していた。ブントでは理論家として知られ、塩見孝也議長らの側近だったと言われ
る。70年5月に結婚し、71年11月に子どもが誕生したが連合赤軍とともに山中へ。やがて森が実権を握るようになるが、「一国革命論」の森とは
うまく噛み合うことはなく、人民裁判にかけられ死亡。最後の犠牲者。
順位6位の中央執行委員であったが、「こんな調子ではいつ自分がやられるか分からない」と以前から親しくしていた書記長でもある坂口弘なら分か
ってくれるだろうとつい口をすべらせたのが、そのまま、森と永田の耳に入り、ナイフやアイスピックで刺され、最後には首を締められるとい
う凄まじい死刑を執行された。
母親は娘の変わり果てた姿をみたとき、「恐ろしーい、ああ、どうしてこんなことになっちゃたの!・・・恐ろしーいッ!」と繰り返すだけだった。
◇ ◇ ◇
一人が逮捕されると自供でアジトが判明するので、転々と居場所を変えていた。同県沼田市の通称迦葉山(かしょうざん)ベース、碓氷郡松井田 町の妙義山ベース・・・行く先々で死体が増えた。「妻に対する態度がブルジョア的だ」という理由で殺されたのもいる。
メンバーが逮捕され、遺体が発掘されると逃亡していた連合赤軍メンバーで自首するものが出てきた。10日に名古屋・中村署に出頭してきた山本 順一の妻・保子もその一人でこのままではいつ殺されるか分からないという恐怖から長女・頼良ちゃん(当時3ヶ月)を山中に残したまま脱走した。
パレスチナの女闘士、ライラ・ハリドにちなんで命名したものだが、てっきり永田らに殺されたと思っていたようで、頼良ちゃんの面倒を見ていた看護大出身の中村愛子も脱走して千葉・市川署に出頭して子ども が無事保護されていることがわかると号泣したという。
このほか岩田平治(当時22歳)、前沢虎義(当時24歳)も各地で逮捕され、リンチ事件に関わったとされる17人が全員逮捕された。
森恒夫は7月になって東京拘置所で自己批判書を書いた。
<私自身がどうして、あのときああいう風に行動したんだろう、としばしば思い返さざるを得ない。一種の “狂気” だと思っている。私
は自分が狂気の世界にいたことは事実だと思う>
翌年(昭和48年)1月1日、森恒夫は初公判を前に東京拘置所で首吊り自殺した。29歳だった。
1975年(昭和50年)8月4日、坂東国男は日本赤軍によるクアラルンプールのアメリカ大使館占拠事件の超法規的措置により海外へ出て日本赤軍と 合流、今も逃亡中だ。坂口弘の名も釈放要求の名簿にあったが、これに応じず、国際電話に対して、「君たちは間違っている。私は出ていかない 」と拒否、こののち死刑判決を受け、1993年に最高裁は永田洋子・坂口弘の上告を棄却、死刑が確定している。
総括で妊娠8ヶ月だった恋人の殺害に直面、あさま山荘事件では5人のメンバーとともに立てこもった吉野雅邦(よしの・まさひろ)は無期懲 役が確定し、千葉刑務所で服役中。
落葉焚く匂いに友をリンチせし小屋の炊事の匂いを想う (東京都)坂口 弘
1992年12月13日の朝日歌壇に佐々木幸綱撰で載った歌だが、獄中の坂口弘の作だ。
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| 永田洋子(ながた・ひろこ) |
「ある時、まんじゅう二個の差し入れがあった。永田容疑者は横を向いたまま、おいしそうに一つ食べ終えると、一言も話さないまま、残りの 一つを私の方へ押してよこす。『食べていいのか』と聞くと、横を向いたままうなずいた。彼女はそうすることで気持ちが変わったことを表した のだと思った。『では、遠慮なく』と食べ、しばらく二人でお茶を飲んだ。翌日から前を向き、供述を始めた。『殺してしまった人たちに対する 責任を果たす』という姿勢を貫き、順番に、きちんと、徹底的に話した」(後に検事総長をつとめた松尾邦弘氏)=2006年9月20日日経新聞夕刊「こころの玉手箱」。
死刑判決が確定して東京拘置所にいる永田洋子は昭和59年(1984)に脳腫瘍の手術を受け、さらに再手術も受けたが好転せず、寝たきりの状態が続いてる。2008年10月12日 、病状が悪化、危篤状態となり、家族が同拘置所に向かったほどだったが持ち直したものの、視力をほとんど失っている上、面会者が訪れても誰かを認識することも難しい病状 となっているということが、2010年2月京都市で開かれた支持者などの会合で明らかにされている。

*事件、その後*(メモ4)あさま山荘事件とそれに続く連合赤軍リンチ殺人事件に関わった者の多くは判決が確定し獄中にいる。そうしたなか、事件から40年たち、服役 を終え社会に出ている者もいる。
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| 刑期を終え静岡市でバーを 経営している植垣康博さん |
「実行犯が語る37年目の連合赤軍 植垣康博さん」という記事はネットにも掲載されているが、時期が来ればサーバーから削除されるだろうから概略を記載しておく。
植垣康博は1949年、静岡県金谷町生まれ。父親は農場長で、町の有力者だった。弘前大学理学部物理学科に入学。赤軍派として坂東隊に入り 、山崎順らと共に「M作戦」と呼ばれる一連の金融機関強盗を行った。連合赤軍となると、兵士のリーダー的存在になり山岳ベース事件にも加担 し、榛名ベースの会議の席で相思相愛を表明した恋人の死に直面している。1977年9月に日本赤軍がダッカ日航機ハイジャック事件を起こした とき、釈放要求メンバーに植垣の名前もあったが、「日本に残って連合赤軍問題を考えなければならない」として要求を拒否した。
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| 逮捕当時 |
一審、二審と懲役20年を言い渡され上告したが、1993年2月19日、最高裁も上告棄却した。1998年(平成10年)10月6日に出所。以下は新聞記事から の近況。
◇ ◇ ◇
静岡市役所近くの小さな雑居ビルにスナック「バロン」はあった。スキンヘッドの店主、植垣康博さん(60)は37年前の連合赤軍事件で、1 2人が殺害されたリンチ事件にかかわり、懲役20年の実刑判決を受けた。出所したのは平成10年10月。バロンは当時の彼のあだ名だ。取 材について、「私は事件から逃げることはできませんから」と言い、半生を語り始めた。
子供のころは鉱物や天文が好きな理系少年。鉱山の多い東北の土地柄にひかれて昭和42年、弘前大学理学部に入った。京大大学院への進学希望 があったが、「物理学は核や原子力に協力してもよいのか」と全共闘に加わった。弘前大全共闘には「機動戦士ガンダム」のキャラクターデザイ ンなどで知られる漫画家、安彦良和さん(61)もいた。このころまで植垣さんらは一般的なノンセクト活動家だった。
理系の知識をかわれて「爆弾をつくってほしい」と頼まれたのが赤軍派とかかわるきっかけだった。「僕なんかマルクスもろくに知らない。むし ろ右翼的な発想で『義を見てせざるは勇なきなり』という思いがあった」。上京して参加したデモで逮捕。拘置所で赤軍派の文書を読むうちに「 これからはゲリラ戦」と考えるようになった。赤軍派兵士として、銀行を襲撃して闘争資金を調達する「M作戦」などに加わった。
山中に集まったのは両派の29人。ささいなことで不協和音が生じた。革左(京浜安保共闘)のメンバーが水筒を持っていなかったことを赤軍が 「自覚が足りない」と指摘。逆に革左は赤軍の女性の化粧や指輪を問題視した。批判の矛先が次々とメンバーに向けられるなか、同志をリンチす ることで「共産主義化を進める」という理屈が生み出された。「血」の総括の始まりだった。
すでに3人が惨殺されてから合流した植垣さんは旧知の幹部、坂東国男容疑者(62)=後の超法規的措置で国外逃亡中=に「こんなことやっ ていいんですか」と言ったが「組織のためだ」といわれた。彼らにとって上の命令は絶対だった。その光景は凄惨そのものだった。「総括が 足りない」同志をみなで殴り、柱に縛ってさらに殴り続けた。リンチ死した埋葬前の遺体を「敗北死だ」とさらに殴ったこともあった。
植垣さんは会議が始まると、幹部から目をつけられないよう端に座るようにしたが、リンチが始まると前に出た。「よごれ仕事は僕のような兵士 がすべきとも思っていた」。
つい先ほどまで親しかった仲間を殴るとき、一体何を考えていたのか。植垣さんは少し間をおいてこう話した。「申し訳ない、という気持ち、で すよね。殴ったあとで柱に縛りつけながら小声で『すまない』と言ってみたり…」。一方で「問題を起こしたのだから殺されても仕方ない」とい う感覚もあったという。
次々と仲間たちが殺されるなか、植垣さんはなぜ、リンチのターゲットにならなかったのか。「運が良かったとしか言えないけど、僕は手先が器 用で大工仕事ができたからだと思う。幹部たちも僕がいないと小屋も作れない。技術が身を助けたのかもしれない」
映画やドキュメントなどでいまなお注目される連合赤軍。平成20年に公開された映画「実録・連合赤軍」で連赤側の視線で事件を描いた若松孝 二監督(72)は「集団があると権力者が生まれ、権力を握った人間はそれを守ろうと内向きに攻撃を始める。相撲部屋でリンチが起きたよう に、どんな組織にも起こりうることだと描きたかった」。
植垣さんも「周囲がより厳しい状態に追い込むことで本人が成長できるという発想は、日本的なものかもしれない。社員教育や体育会にもそう した風潮はある。あのときは制裁ではなく、教育のためという考え方に陥っていた」と話す。
平成17年、「バロン」のアルバイトをしていた33歳年下の中国人留学生、李紅梅(リ・ホンメイ)さん(27)と結婚、 今は3歳の息子「龍一」君と3人で暮らす(記事では妻子の名前は出ていない)。口の悪い連中には“これこそまさに犯罪だ”とか、“中国だったら、死刑じゃないか”なんてさんざ んイビられたそうだ。
「彼女は中国・黒竜江省出身で、語学留学生として来日し、前の店の2階に友達と下宿してた。そのうちにウチの店でバイトを始め、日々顔を合 わせてたらだんだんとふたりの距離が縮まって……。彼女に“子供ができた”って告げられたときは、さすがに心臓が止まりそうになった。こ っちは一生独身だと思ってたし、彼女が“産む”といってくれたときは、本当にうれしかったよ。ただ、彼女は大学進学を視野に入れて留学し てきたのに、パーにしてしまった。それについては申し訳ないと思ってる」
「子どもの名前は中国名で『ロンイー』と読めるいい名前。これなら向こうの親族も満足してくれるんじゃないの。今の願いは龍一が元気で育って くれることだけ。ボクが寄り道した26年8ヶ月分まで龍一には生きてガンバッて欲しいね」
取材を受けたことについて「僕は当時、幹部じゃなくて、ただの兵士。だから連合赤軍の代表みたいな顔をして話すのはおかしい、と言われるこ ともある。でも殺してしまった仲間への義理がある。事件を風化させないようにするのが僕の仕事と思っています」。
リンチ死に追いやった仲間の遺族からは「下手な反省はしないでくれ」といわれた。「安易な謝罪をされたらたまらない。一生かけて考えてく れ」という意味だと受け止めている。

| 釜が崎のアラン・ドロンや |
入社して何年か地方支局勤務をすると、たいがいの記者は本社に戻ってくる。私は大阪社会部
だった。阿倍野、住吉、西成、生野など7警察を持つ南方面を担当した。市の中心から大和川までの
広大な面積を一人で担当する。といっても実際はむりだから、大阪府警本部詰めがカバーしていて、何かあれば出動するが、
普段は街ダネを書いていることが多い。各社、天王寺動物園の中にある記者クラブに詰めている。
クラブといったって昔の象の
宿舎を改造したところで、夏暑く冬寒く出来ている。いろんな檻の並びで、鳥や獣の奇っ怪な鳴き声が時折響きわたる。名前を聞いてもどうせ一度では
憶えられないから、みな「あいつ」ですましていた。動物もいろいろ珍しいのがいるが、人間も珍奇さに満ちていた。
まさに人生の縮図を見る思いの面白い場所だった。
南海線に「新今宮」という駅がある。出来たばかりの駅だったが、朝ここで下車する。本社には行かないで、直接持ち場に行く。わたしにとっては一日をスタートするのに都合のいい最寄駅なのだが、
社の運転手には評判が悪かった。ここは名にしおう釜が崎の入り口でもあったからだ。この駅前でわが新聞社の社旗をつけたベンツが待っていた。高級車に乗っているように見えるが、
この時代、新聞社は外車が無税だった(か税率が安かった)のと、国産車に比べて格段に丈夫だったことから各社とも多かった。日本中のやくざが黒塗りのセドリックに乗っていたものだが、やがて金回りがよくなったかベンツに
乗り換えはじめるに及んで新聞社も国産車に変わって行った。
それはともかく、この駅前で待っている約束なのだが、いつも近くにはいない。
社旗をはずして、場所もだいぶ離れたところで、目立たぬようにクルマの窓も締め切って待っていた。ベンツなど周囲にないからすぐわかる。コツコツとたたくと
私の顔を確認してロックをはずし、早く乗ってくれと催促される。なぜかというと、釜が崎の住人にすぐ取り囲まれるからだ。「タバコちょっと恵んでえな」
というわけだ。こっちも分かってるから「全部やるわ」と気前よく進呈する。タバコは今朝買ったばかりだが、箱に数本残して大半はすでに別なポケットにはいっている。
ところで、新聞社の車は社旗を翻して走るので、あれは誇示して走るためにあると思っている人が多いようだ。少しはそういう意味もあるかもしれないが、事件・事故現場や記者クラブ 近くでは同じような黒塗りがたくさん並んでいる。記者やカメラマンが自社の車に早く戻れる意味合いが強い。ところが、どういうわけか各社赤が多くて、私も他社の車に乗り込んだことが 、一度ならずある。
西成警察は入り口が緩い階段になっている。ここにいつも10数人がごろんとたむろしている。若い記者が来るとあだ名がつけられる。先ほどのタバコをケチろうものなら
「ドケチのXX」とか、見たわけでもないのに「インポの△△」とか終生のあだ名がつく。最後は個人名だったり、社名だったりする。最初が肝心で、私は「名前は?」といわれたとき、
「アラン・ドロンや」と大阪弁で名乗った。これが気に入られてアラン・ドロンになったのだが、はじめに「釜が崎の」とつくところが悲しい。今ではアラン・ドロンとはそも何者なるや
から説明しないとわからなくなったのがさらに悲しいが、当時はスクリーンでその名は全盛だった。本社に電話送稿するとき「釜が崎のアラン・ドロンですが」と名乗ると、
交換手と原稿取りの女性記者が笑い転げた。
署内にはいると公廨(こうかい=大阪だけの警察用語で、警察署を入ってすぐの受付けとか当直指令がいるあたりの広いところをいう)左に、うなぎの寝床のように細長い記者クラブがある。
電話機だけ並んでるところで、他の6つの警察署に電話して昨夜の発生事件の内容を聞く。ところが入るなり、「なんもなかったでえ」と教えられる。どっかのおっさんが先に記者クラブに
入って記者になりすまして電話しているのだ。お小遣い、と手がでてくる。当然払ったことなどない。むこうもダメ元でいうのだが感心するばかりだ。
見ていけへんか
釜が崎は人間模様でみると、とてつもなくおもしろいところだ。人生の縮図といわれるが、そんな生易しいものでもない。
運転手が嫌がるので、駅から歩くことが多かったが、いつも不思議なものを見かけた。路端で背広を裏返したものの上にいろんなものを並べて商売している。
並んでいるものというのが、クビをかしげざるをえないものばかりだ。靴の片方だけ、着古したズボン、乾電池1個だけ、帽子、めがねのつるだけ、中古のパンツ・・・など
買い手があろうとは思えないのを並べてぼんやり座り込んでいる。売れたのを見たことがない。
朝から酔っ払いがごろごろ転がっている。西成警察署に入るまでに数人は見かける。うっかりドヤ(簡易宿泊所)の上など見ていて、踏んづけそうになる時がある。
酔ってもクルマに轢かれる危険は分かるらしくて、だいたい敷石を枕に体を斜めにしている。中には女の泥酔者もいる。日焼けか酒焼けかわからないが顔は真っ黒で長い髪で
かろうじて女と分かるくらい。「兄ちゃん見て行けへんか」といわれて立ち止まって絶句した。通り掛かりの男が、その女の下着をめくって中を見せているのだ。拝観料50円ほどだったが、
こちらは払っている人間を見たことがある。
マッチ売りの少女
少女というには看板に偽りあるのは認めるが、そう呼ばれていた。実際は「マッチ売りのおばはん」だろうが、だれも文句を言わないところをみると、みんなやさしいのだ。
天王寺動物園の中の記者クラブから目と鼻の先に天王寺公園がある。にぎやかな国鉄天王寺駅と近鉄・阿倍野駅(当時はここが終点)方面の明かりがかろうじて届くこのあたり、
昔の飛田遊郭(「とびた」と読める人は関西通だ)が近いせいで、あやしげな人間が出没した。マッチ売りは日没とともに姿をあらわす。
アベックも多いのだが、突然暗闇から「どう?」という声がかかる。手には徳用マッチ。喫茶店でもらったものでないところが、プロというべきか。
何をするかというと、マッチ1本灯(とも)している間だけ、スカートの中を覗かせるのだ。営業している方にも驚いたが、覗いているおっさんの執心ぶりにさらに驚いた。マッチが燃え尽きて手の
爪がアチッチというまで離さない。夏も冬も出没した。
2006年6月末、大学の文学部で日本文学を専攻、野坂昭如の小説「マッチ売りの少女」の研究・調査をしているという学生氏からこのHPの掲示板に問い合わせを受けた。上に書いたようなことが書かれた文献はないかということだった。新宿・ゴールデン街の電車道で私がオカマに取り囲まれて喧嘩になったとき直木賞作家の田中小実昌に助けてもらったことがある。同じ直木賞作家の野坂昭如はその近くにいた覚えがあるが、釜ヶ崎にいたことは知らなかった。彼は若い頃に度々釜ヶ崎のドヤで暮らしていてその体験で書いた、というのは学生氏から教わった。どうやら私と同じ頃に西成にいたようだ。
文中、拝観料といっても道端の酔いどれに50円ほど払っていたおっさんを見かけたのでそう書いたが、学生氏によると、マッチ売りの方の値段は、作品によると「マッチ1本分のご開帳が5円、カキが50円、尺八が200円」とあるそうだ。用語解説は省くが、どなたか値段や文献をご存知の方おられれば教えてあげてください。
手配師に連れられて
釜が崎の美学
ホルモン焼というのは釜が崎ではじめて食べた。ついでにいうと「ふぐ」もすぐそばにある通天閣の下で食べたのが初体験だった。前者はその機会がなかった。後者はおやじが「あぶないから食うな」
と言っていたのをくびきが取れたあともなんとなく守っていただけだ。「ふぐ」などすっかりのめりこんで、東京に出たあと州崎だ門前仲町だと、今なら二流の場所と言えるが、当時は名所だと思って
通った。
河豚(ふぐ)は本場下関では「ふく」というが、大阪では「鉄砲」という。”当たる”ことからきたのだが、東西で、以下のように鍋と刺身の呼び方が違っている。
通天閣で食べた「鉄っちり」(関東はふぐ鍋)は、安い代わりにガラばっかりだった。東京ではじめてふぐに「身」があることを知った。「鉄っさ}(ふぐ刺し)などそれまで知らなかったくらいだ。「ふぐ刺し」で
カメラマンが大喧嘩した現場に居合わせた。巨人の王と長島がふぐ屋で食べている写真を撮ったとき、二人とも皿の半分くらいまでズズーと箸を入れて山盛りを食べていたという。これを真似したのだが、もう一人が
「そんなことしたら、他の奴が食えないだろう」と怒ったのが原因だった。庶民がふぐに寄せる哀歓はなんだか物悲しい。
長年の自主的禁断症状の反動で、ふぐに感動して、食べ過ぎて、あるとき口から泡を吹いた。歌舞伎の坂東三津五郎が京都でふぐで死んだあとでもあり、案内した男に「当たった」といったら、
「ばか、それならもう死んでる」と言われた。大阪なら「あほちゃうか」といわれるところだ。それもそうだなと思った。呼吸器系統がやられるらしいが、泡が出る以外一向に呼吸に差し支えなかった。以来、ふぐを食って死んだに違いない何人もの先人の試行錯誤に敬意を払い、夏目漱石の「吾輩は猫である」の一節に「(最初に海鼠を食べた者は)その胆力において敬すべく…」とあるように、ふぐに限らず最初に海鼠(なまこ)とか雲丹(うに)とか海鮹(ほや)を食べた日本人を尊敬する事にしている。
いまどきふぐで死ぬことなどあるものか、といわれそうだが、どうしてどうして、フグ毒の分子構造が分かったのは私が食べたほんの10年ほど前のことなのだ。
芭蕉の句に、字余りだが「あら何ともなや きのふは過ぎて河豚汁(ふくとじる)」と食べた翌日の安堵ぶりを述べた句がある。
蕪村にも「鰒汁(ふぐじる)の我活きてゐる寝覚哉」というのがある。この時代もっぱら味噌汁で食していて今のようなおいしい食べ方はずっと後世のことなのだ。
ふぐに当ると民間療法では「首から下を土中に埋める」とか「スルメを焼いて煙を吸う」とか「ナスのヘタを食べる」くらいしかなかった。
東京にいるとあまり食べないがホルモン焼は釜が崎では庶民の味だ。もっとも庶民しかいないのだが。「あほやなあ、ホルモン焼も知らんのか」といいつつ、案内してくれたのは元国立大学教授という釜が崎の住人。確かめる必要もないからそのままだが、化学にはえらく詳しい「教授」と焼酎でホルモン
の部位の解説を聞きながら話していたのは、「梶大介」の消息と、明日襲撃される予定のパチンコ屋の話。
左翼運動の活動家「梶大介」の消息を知るのは当時サツまわりの仕事だった。パチンコ屋はこのころ襲撃されることが多かったためだ。半信半疑でそのパチンコ屋の前で待っていると「定刻」にどこからか石が
飛んで来る。組織的な仕業である。
その「教授」はかなり酩酊すると、「ちょっと・・・」とトイレに立ってそのまま消えるのが通例だった。はじめから勘定は持つつもりでいるのだが、おごられるのと礼をいうのが嫌なのだ。後日会うと「よう」と寄ってくる。
以前の話はいっさいしない。釜が崎の美学とでもいうべきか。
釜が崎は、地獄の釜に通ずるとでもいうのか「あいりん地区」と名前を変えた。看板は「あいりん」でも、人の口は今も「釜が崎」だ。だいたい住んでる人がこの名前に納得している。
こういうのは行政とか、外から見る人の発想で意味がないと思っている。一種の「文化」を人為的に変えようというのは無理なのだ。例外はトルコ政府の抗議でソープランドと名前を変えるに成功したトルコ風呂くらいではないか。

| 天下の奇人、金田浩一呂氏のこと |
いまから書くことは2002年3月28日、外人記者クラブ(正式には外国特派員協会)でのミニコンサートとパーティーの
席上、某作家遺族、新聞社文化部長、前特集部長らと話していて、このホームページの話になり、金田浩一呂氏に特別のコーナーを
割くべきだということになって書き始めた。したがって本人は知らない。
2年ほど前、ラムゼーハント症候群という聞きなれない病名で入院していたら、見舞いにきた先輩が阿川弘之の「六十の手習ひ」というエッセーを
置いて帰った。最初の方に金田浩一呂が登場する。どこも痛くも痒くもない病気なので、見舞い客に緊張感がない。このエッセーを読ませると周囲をわきまえず、大声で笑って、中には手をたたいて
笑い転げるのもいた。そのあと、本人が見舞いに来た。たった7文字の病名を覚えられなくて、「その”ラ”なんとかというのなあ」と繰り返して、見舞いの花も金品もなく、
タダでもらった寄贈本を何冊か置いて帰った。
そのエッセーの要旨はこうだ。
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| 阿川弘之氏も驚く |
唖然とする作家。長男と長女は口を手で押さえて、あわてて部屋を飛び出したという。長男というのは今論客としてならす阿川尚之・慶大総合政策学部教授(2002年からは駐米公使に)、長女というのはいまや対談の名手
でもあるエッセイスト、阿川佐和子さんだ。
「いったいあの男は何を聞いているんだか。これで新聞社の学芸部長が務まるというのが不思議だ」と書いている。
阿川佐和子さんには「お見合い放浪記」という著作がある。食事が目当てということもあるようだが、20回だか30回だかの戦歴を誇る。父親の心配が目に見えるが、金田浩一呂はこのうちいくつかの
相談にあずかったり、立ち会ったかしている。「人畜無害」はあまねく知られている。
テレビでは、現代独身女性の双璧とでもいうべき、阿川佐和子さんと団ふみさんの掛け合いでマヨネーズのCMが流れている。団ふみさんは、最後の無頼派作家、
壇一雄の長女だ。父親には自伝的作品『火宅の人』がある。一方、食通でもあった。この影響で長男、長女とも食に関して一家言あり、著作もある。
登場人物がみな「食」に関して結びついている。
「食」といえば、阿川夫人にもすごい電話をかけている。夕方電話が鳴ったので出ると「オイ、俺だ。メシ食うぞ」でガチャンと切れた。「今のは金田さんの声だけど、ウチにお見えになるのかしら」
としばらく悩んだという。金田浩一呂の手帳を見たことがあるが、文藝春秋社が毎年末に配っている、タダか社払いの文芸手帳だ。巻末に作家の住所と電話があるので、彼のように整理が下手な連中が使っている。
ただでさえ小さい手帳にゴチャゴチャと書きこみがしてあって、本人以外わからないしろものだ。本人だって眼鏡をずりあげて判読に苦しんでいる。
そんなうろ覚えの番号に平気でかけるからすごい。
普通の人間はこういう間違いはしないものだ。阿川邸にかけるつもりで自宅の番号をまわすことはあっても、その逆はないのが普通だ。常識が通じない珍種としかいいようがない。
先のパーティーで一緒だった作家の遺族は「私はどこにいるのでしょうか」という、摩訶不思議な電話を取ったことがあるという。作家たちの南方旅行に共に記者と看護婦代行として随行し、彼は落合の自宅にも
何度か来たことがあるから道順を聞いているのではない。なんとこたえていいのか、しばし言葉を失って立ち尽くした。
三浦朱門・曽野綾子夫妻、遠藤周作、吉行淳之介など戦後「第三の新人」と呼ばれた作家に可愛がられて、そのエッセーに登場する名物記者である。文壇のほとんどの作家と知り合いなのは当然として、
連載を担当したか、インタビューしたかの多数の作家の貴重な資料があるはずなのだが、手許に何も残さないからただの雑談に終わっている。
文壇記者にはすごいのがいる。作家が死ぬと、参列者の数、集まる香典の金額をピタリと予想して葬儀社に式の規模まで指図する。故人の女性関係まで把握していて誰を呼ぶべきか、
未亡人と時間差を置いて焼香させる方法まで差配する名物記者がいて、
人物紹介で書かれたことがあるが、我が金田浩一呂にそういう才能はない。
ノーベル賞作家、川端康成はじめ、”小説の神様”(作品「小僧の神様」からきた)志賀直哉など戦後すべての文人の葬式にはいたはずだが、それだけである。
毎回、築地の「新喜楽」で開かれる芥川・直木賞の選考会にも必ずいる。記者会見の最後、司会者が「金田さん、よろしいでしょうか」と声をかける重鎮であるが、本人にそういう気構えはない。
私など教科書で読んだ世代だが、「山椒魚」の井伏鱒二邸に行った話を聞いた。作家としての名声はすでにと
どろいていた。魚釣りの趣味は有名だが、魯山人を彷彿とさせる顔だけあって、大変な和食の通でもある。
夫人が材料を吟味して料理するらしいが、先生と並んで器にまで凝りに凝った料理を何皿も平らげたそうだ。
聞いているだけで舌なめずりしそうだが、どうだったと聞くと、「美味かった」でおしまいだ。いまどき、
料理番組のレポーターだってもう少し気がきいたセリフをいうものだ。さらに思い出してもらうと「魚と菜っ葉があったな」。
料理を出した井伏鱒二夫妻が気の毒でならない。
遠藤周作とはとりわけ親交があり、氏の文庫本の奥書の多くは金田浩一呂の筆になる。ともに町田に住んでいたので、マンガ家の秋竜山らと「町田会」をつくっていた。これだけ親しいのに、夜遅くなって終電に間に合うように遠藤夫人が大慌てでマイカー
を運転して駅に送ったら、その手に千円札を握らせたという兵(つわもの)だ。後日談があって、夫人が「金田さんに返しといて」と渡した千円札を遠藤周作が、ごちそうさんとばかり懐にいれたという。「金やん、あれな、もらっといたで」といわれたそうだ。
後日談の後日談もある。千円札を懐におさめたことを夫人が聞きつけて「あまりに情けない所業」と、目の前で出させた。しぶしぶ取りだしたら、 金やんが届けたばかりでこれまた懐にへそくった夕刊フジ連載の原稿料支払明細も飛び出した。もちろん、こちらも取り上げられた。 千円を惜しんで何十万円損をしたへそくり悲劇については当時、金やんが編集局で喧伝していた。悲劇は彼の千円からはじまったというのに。
阿川弘之と遠藤周作は親友だが、どちらも夕刊フジワイド面の名物エッセー欄に何度も連載を書いている。
ここから数多くの名作が世に出たが、多くは金田浩一呂の仕切りだ。その一つに遠藤周作の『ぐうたら交友録』がある。その中で
二人の話として覚えているのに「マキシム=ド=パリ事件」がある。
ある時、この二人が箱根に講演会に出かけた。空き時間を利用してドライブをすることになり、免許のない遠藤周作
が、阿川弘之の借りてきた赤いホンダのスポーツカーの助手席に乗った。阿川の運転は怖いという噂を聞いていた
が、案に相違して非常に紳士的なので、運転をほめた。しかし、そのあたりから豹変する。車は次第にスピードを上げ、
遠藤を震えおののかせる。いくら怒っても、いくらなだめても、阿川は「そうかね」としか返事をしない。 以下はその一文だ。
≪「よせ。よさんか」 「そうかね」 「助けてくれッ。お願いします」 「そうかね」。そこで初めて阿川はアクセルを少しゆるめた。 「じゃあ、お前、レストランMで奢るか」。Mというレストランは 巴里 ( ぱり ) の有名な料理屋の出店で、料理はともかく 値段がベラ棒に張ると聞いている。そこで自分に奢れと阿川は言うのである。私はしばし、ためらった。遠藤周作は軽妙なユーモア作家だと思っている人も、若い人には多い。私は何度かインタビューしたことがあるし、 渋谷・富ヶ谷のマンションの仕事場に家内とお邪魔したこともあるが、二面性を持った人だった。 シャイな人で、記者などのインタビューでは沈思型の真面目な受け答えをする。しかし、金やんや夫人の前では ひょうきんな面を出していたようで、あとから彼を通して聞く話のほうが面白かった。
ためらっている私を見ると、阿川はふたたびアクセルを強くふんだ。眼前の道、両側の林は逆まく濁流のように流れはじめた。 クルクルクルクル、眼が回る。「奢るのか。奢らないのか。イエスか。ノーか」 「イエス、イエス」 「俺のほかに、女房もつれてい くがいいか」 「か、かまわん」 「息子もつれていくがいいか」 「いい、いい」 「娘もつれていくがいいか」 「いい、いい」 「赤ん坊も つれていくが、いいか」 「いい、いい」 「メニューを見て、食べるものを選ぶのは俺の家族だが、いいか」 「イエス、イエス」
車の速度がやっと元に戻った時、私は頭がくらくらとして物もしばし言えなかった。私が絶対に自動車運転を習おうと心に 誓ったのはその時である。一週間後、阿川は奥さんをつれて、しょんぼり料理店Mで待っている私の前にあらわれた。そし て食うこと、食うこと。夫婦してパクパク、パクパク、食べちらかしたのである。おかげで私の息子はそのあとにあった運動会 で運動靴も買ってもらえず、裸足で走らねばならなかった。≫
2002年7月、銀座の文壇バー「葡萄(ぶどう)屋」が消えた。文壇バーとしては、銀座では「ラ・モール」、「眉(まゆ)」、「ルパン」
が、新宿では「ゴードン」、四谷の「まろうど」の名前が浮かぶ。何ヶ所かは出入りしたことがあるが、今では文壇そのものが消え
てしまった。 なにしろ、「オール読物」「小説新潮」「小説現代」のいわゆる中間小説誌の”御三家”は、かって40万部以上売れ
ていたものだが、現在は5分の1を切ったという。芥川賞だって最近誰が取ったか、思い出せないほどだから無理もないだろう。
ごく最近まで出入りした野坂昭如でさえ、初めて「ラ・モール」に足を踏み入れた時は「壁を背負う勇気はなく、誰も座らない
カウンターに座った」というくらいだった。奥には丹下健三(建築家)、一万田尚登(日銀総裁)、池島信平(文藝春秋社長)、
吉行淳之介、阿川弘之、江藤淳がいたという。井上靖、源氏鶏太、池波正太郎、川端康成、柴田錬三郎、新田次郎 水上勉
・・・会うには自宅より文壇バーに行ったほうが早いといわれた。遠藤周作はそう酒が強い方ではないようだが雰囲気を好んだようだ。
その文壇全盛時代に「文藝春秋」の旗振りで毎年ひらかれた名物催しに文士劇がある。そのころ、よほどのへそまがり作家でな
いかぎり喜んで出演した。主役を手に入れるため下工作をした作家もいるくらいだ。遠藤周作は自分で主役を取るため、
素人劇団「樹座(キザ)」を作った。27年続き21回公演した。その最初の方で演題も憶えていないが、「馬の脚」役が金田浩一呂だった。初めから終いまで顔を見せない役など、
誰もなり手がない。プログラムだけに名を出す配役に抜擢された。「後ろ脚 金田浩一呂」とあった。ちなみに、前脚はマンガ家
だった。「あれでなかなか呼吸を合わせるのが難しいんだ。阿吽(あうん)の呼吸というやつだな」とほざいていた。あんなもの、
前についていけばいいだけではないか。
本格的にやればなんだって奥が深い。下積み時代が長かった森繁久弥は馬の脚を演じた時、上に乗る役者にいい気分で芝居をしてもらおうと香水を振り掛けたという、木下藤吉郎のような芸談だ。
2代目尾上松緑が「週刊新潮」の創刊号の伝言板に馬の脚役を求めて「名馬を求む」という一文を書いた。「経験者大歓迎。未経験者は身体強健にして演劇的カンのある人」とある。金田浩一呂には香水は無論のこと身体強健も演劇的カンも無縁だ。
だいたい、馬の歩き方というのは、ものすごく難しい。学生時代馬術部にいたから体験でわかる。ゆっくりしたのから順に「並歩(なみあし)」「速歩(はやあし)」 「軽速歩(けいはやあし)」「駆歩(かけあし)」があり、その上に競馬で見られる最速の「襲歩(しゅうほ)」というのがある。みな脚の運びが違う。 特に「なみあし」では、微妙に四脚の着地の順が違う。元馬術部として「歩度」 とか「手前」にはくわしい。昔、フランスから来たペルシュロン種という、1トン近くある農耕馬に足を踏まれたことがある。革の長靴を履いていたので 怪我はなかったが、残り3本の脚が移動するまで「痛い、痛い!」と叫び続けたから良く憶えている。着地に”時差”があるのだ。 そのあたり研究したのか、と聞いたが、彼には理解を超えているようだった。
劇団と同じく「お山の大将」という主旨で作ったものに「宇宙棋院」がある。本家の日本棋院で碁を習い始めた遠藤周作が一向に上達せず、負けてばかりいるのが
悔しく、同じく負けつづけだった黒井千次と組んで「碁を知らない奴だけ集めて、われわれが大将になろう」と始めた集まりである。
碁を知らないというのが入会資格で、碁石などさわったこともないという編集者や女性記者を駆り集めて、そこの名誉会長として段位まで発行した。入会と同時に初段をもらえるから彼も初段のはずだが、さすがに名乗ったのを見たことない。この会で、
「キミらまだまだやなあ」と悦に入るのをなによりの楽しみとした。ここでもヘボ棋士、金田浩一呂は万年末席を汚していた。遠藤周作の死後本人は「永世名人・名誉十九段」を贈られたというが、金やんは初段のままだ。
狐狸庵の名の通り、人を担ぐのが好き、いたずら、冗談が好き。自宅の犬が雑種で近所の有名犬種とすれ違うとき、卑屈な
態度をみせるのに同情して、聞かれもしないのに相手の飼い主に「これペルシャ犬ですワ」と触れ回った。ペルシャ猫は有名
だから、そんな犬種あるのかと錯覚した相手が畏敬のまなざしで見送ったと書いている。
我が家の長女がカトリック系の有名小学校(だと思ったら幼稚園だと家内はいう。ことほど左様にいいかげんな親だ)を受験することになった。
今で言う「お受験」だ。紹介状がないとダメだというので、「沈黙」など深刻な小説も書くカトリック信者の狐狸庵こと遠藤周作氏に依頼することになった。
「よっしゃ」というので受け取りに出かけたら、受験先の名前も校長あての名前もない。よろしくという文言とサインがあるだけだ。
こりゃあかんわ(狐狸庵の名の由来)、と瞬時にわかった。学校に出すより古書店に持って行った方が値が上がるんじゃないかと金田浩一呂に
相談したら、あんな乱発では値段などつかない、ということだった。時にはまともなことも言う。
当然、落ちた。遠藤周作氏のせいだが、家内は今も私のせいだと恨んでいる。私が尼さんの前で足を組んだというのだ。忙しいさなかに、
面接は夫婦そろって来いとか、スリッパを持参せよとかうるさくいうところで、仕方ないから新聞社を休んで出かけた。
行くと3人の尼さんが、子供でなく親の一挙手一投足を観察している。用意されている椅子がこども用で、低いからつい足を
組んだ。そうでなくともこちらは足を組んでその上にメモ帳を広げる癖がついている。このときは出なかったが、これに貧乏ゆす
りが加わる時もある。
「どちらさまのご紹介ですか」というから、「紹介がないとダメな学校ですか」と聞き返したのもいけなかったらしい。家内は神戸でカトリック系の学校で育ったから、
シスターの好みを良く知っている。上品で反抗的でないことが大事なのだという。なら、初めからダメだったのだ。だいたい「上品で反抗的でない」奴には新聞記者などつとまらない。
権威と不条理に従順でどうする。金田浩一呂はどちらかというと「つとまらない部類」に属する。
三浦朱門が文化庁長官になったときだ。朝の発表で知って、金やんに「ミウラシュモンが文化庁長官になったのでコメントをとってほしい」と電話した。金田浩一呂の電話に曽野綾子が出て、本人に取り次いだという。「孤児(みなしご)が文化庁長官になったとデスクが
いってきたが、あなたみなしごだったんですか」「いや、親はいるがなあ」というやりとりをしたという。他社と数段レベルが低い。どこをどう間違えば「みなしご」になるのか、不思議な人物だ。
その金やんが家出をすることになった。私のセダンがちょうどいいというので、町田から日吉の寮への脱走を手伝う羽目になった。団地の3階か4階だったが、踊り場で奥さんが腕を組んでにらんでいる。話はついているということだったがどうも様子がおかしい。布団などを持って上がり下りするたびに
奥さんにおじぎしながら、夜逃げというのはスリリングなものだと思った。
後年、これまでの経験を踏まえて「恐妻物語」を出版するというので、やめとけと忠告した。この種のもので、戦後のベストセラーに数えられるのに、福島慶子の「うちの宿六」がある。こてんぱんに虚仮(こけ)にしながら、底に相手に対する深い愛情が流れているから読まれるのであって、あんたのようにホントに崩壊している場合はしゃれにも
ならないといったが、出版社もどうかしていて、世に出た。たしか遠藤周作の文も入っていたが、案の定売れなかった。
八ヶ岳の私の山小舎にもやってきたことがある。ちょうど夫婦で遠出しているときで、小さい娘が一人でテレビを見ていた。いきなり見知らぬ男が入ってきて、
パパを知ってるといって、座り込んで、娘と一緒にアニメ漫画に見入っていたという。餓鬼相手にチャンネル権も主張できない小心な面がある反面、とんでもなく大胆なこともする。
このときもそうだ。
最寄駅はJR小海線の野辺山駅だが、かなり距離がある。タクシーで3000円ほどかかるので、他の人は迎えを頼むか、シャトルバスを利用するかする。調べもしないでタクシーに乗る人間などみたことない。第一、留守だったらどうする気なのか。
そっちの方が恐ろしいが、彼には結果よければすべてよし、なのだ。
その金やんがパソコンを始めたという。世も末だが、いずれこの文も目に触れることだろう。さんざコケにしてきたが、向うが先輩記者である。「あの一文消せ」と言われたら従わねばならない関係にある。読まれた方は幸運である。
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| 金田浩一呂氏。 写真掲載の予定はなかったが、 どんな人?というメール多く |
なんでも、どこかのカルチャーセンターで教えているらしいが、そこのおばさん生徒が「先生のことが載ってる」とプリントアウトしたものを持ってきたという。おばさんのほうがよほど進んでいる。なら、そこにアドレスでなくURLが、題ではなくてタイトルが同時に印刷されているはずだが、
まだそのレベルには達していないらしい。
文句言ってくるにはまだ時間がかかりそうだ。したがって、この一文しばらく安泰だ。

| 一代の放蕩児、尾登辰雄氏を偲ぶ |
2003年4月1日、尾登(おと)さんが亡くなった。先輩記者である。前述の金田浩一呂とならんで
夕刊フジの名物記者だ。訃報に「元夕刊フジ運動部長。肺炎のため死去、74歳。自宅は
横浜市磯子区洋光台・・・706」とある。
この住所が尾登さんの一生を象徴している。タクシー会社を経営していた親から、赤坂や横浜の一等地の相当な資産を受け継いだが、彼一代で
すべて食いつぶした。東海道線で通勤している同僚記者が、ある朝、駅のホームで待っていたら
下りの列車が入ってきた。こっちは満員だが、あちらはがらがら。その4人掛けに悠然と彼が
座っていた。こっちに気づくとニコニコと手を振った。社と反対の熱海に出勤する尾登辰雄だった。
私が報道部でペーペーの新人記者のとき向こうはもう運動部長をしていた。貫禄が違いすぎて、運動部長
として何をしたという記憶はないが、このときの報道部長が一昨年亡くなったフジテレビ副社長、F氏で、二人とも私の
すぐそばの席だった。
この二人は月末になるとメチャクチャ忙しい。絶対電話には出ない。「いいか、2人は留守だぞ。出張中で、帰る
予定はわかりません、と言え」と教育されていたから、オウム返しに口上を述べるが、サラ金も一筋縄では引き下がらない。
当時はサラ金という言葉もなかったのだが、2人は5社とか7社とか言っていたから、当時の過剰債務の先人だろう。
こっちで借りてあっちで返す自転車操業で会社の席など暖まる暇もない。必要上よく銀行に行ったが、受付嬢が尾登
さんの苗字を読めず「おのぼりさん」とマイクで呼ぶのに閉口していたが、怒り出すようなことはなかった。
そんなに忙しい原因はギャンブルである。当時一般紙は中央競馬といえども扱わなかった。夕刊紙に専門のページをスタートさせたのは、尾登さんだが、
趣味と実益を兼ねていたのだ。このときはもう落ち着いていたようだが、そのへんのサラリーマンの可愛らしいものではなく、熱海では賭場と呼ばれた本格的なものに出入りしていた。
こんな豪傑、他社を含めてその後見たことがない。
最初から運動記者ではなかった。興安丸というから日本兵のソ連からの引き揚げ船だ。始まったばかりの引揚げ事業でナホトカに向かう船に、
のち夕刊フジの編集局長となる山路昭平が大阪社会部代表で、尾登辰雄が東京社会部代表で乗っていた。行きのカラ船だから
することがない。3,4日ぶっとうしで麻雀をしたという。日本海の荒波で船が揺れる。パイを倒れないように押さえながら
吐きながらのすさまじい格闘技だった、そうだ。
麻雀ばかりの乗船取材だと思われそうだから、二人のため、その後の話も書いておこうと思う。
シベリアなどにながく抑留された日本兵をナホトカで満載した興安丸は舞鶴に入港した。
新聞社では猛烈な取材合戦が繰り広げられた。私の入社はるか前で、家で読んだ覚えがある。ちなみにこの頃はテレビなんぞまだ産声も上げてなかった。
新聞は送稿にまだ伝書鳩がはばを利かせていた時代だ。
「山路昭平とサクラの小枝」というエピソードが残されている。引揚者は検疫などですぐには下船できず、しばらく船に残された。
故国の山河を前にデッキにたたずむ人たちは、雑感記事のハイライトだ。ちなみに新聞記事は今でも「リード」と「本文」と「雑感記事」で
成り立っている。舞鶴はまだサクラに少し早かったようだが、
もっと南から、咲いた桜の枝を届けさせた。タラップでなく舷側から網が下ろされていた。背中に桜を背負った
記者がこれを這い登って船の上に届けた。故国の桜に群がる引揚者の写真が紙面を飾った。1枚の写真がなにより多くを
語りかけていた。明治の大言論人、山路愛山を祖父に持つ親子3代新聞記者として有名だが、文章もさることながら写真の価値を知る記者でもあったのだ。
ちなみに、父、山路久三郎も社内にいて、産経や大阪新聞で論を張っていた。「親子2代に怒鳴られた」というかわいそうな記者が大勢いた。
舞鶴では、永田照海キャップが現場の指揮をとっていた。ホントは「てるみ」というのだが誰もそうは呼ばない。「般若の照(テル)」
とか「テルカイさん」でマスコミ界では通っている。船の取材は金がかかる。キャップは精算まで責任を持つのだが、経理に「通船
(岸と船を往復する小型船)借り切り」何ヶ月というすごい精算書を出したそうだ。他社だが、インドだかで精算に困り、本社に「象1頭借り切り」
というのを出した記者がいると聞くが双璧だ。
この人が編集局次長のとき私は新人記者として配属の辞令を受け取った。一室に呼ばれ「君は大津支局だ」という。学生時代にヨットをやっていたので
喜んで「琵琶湖でヨットに乗ってきます」と部屋を出ようとすると、辞令をしげしげと手にとって「すまん、津支局や」と告げられた。
この二人が産経新聞の編集局長と社会部長のとき、そろって大阪から東京に出て、夕刊フジの社長と編集局長として創刊にあたった。
私も末席を汚していたのだが、1年半後私たち夫婦の仲人を務めていただいた。そのころはもう「般若」でなく「仏」
といっていい時代だった。社内でゴルフを始めた一番手だが「俺なあ、いっぺん平らなところで打ってみたいねん」と述懐した場面にでくわした。
ティーグランドを出ると、あとは犬のナントカよろしく、左足上がり、右足上がりだという。後年私もゴルフをするようになったが、こうならないようにだけは心がけたものだ。
夕刊フジで再会した山路、尾登の二人と神田の雀荘で麻雀したことがある。上のエピソードでも分かるように社内最強の雀士で
こちらは脂汗がひたたるほど緊張した。その最中、夜半過ぎだったが尾登さんがウーーンといって仰向けにひっくり返った。
救急車で運ばれたが、胃穿孔だった。内容物が飛び出してその消毒に何時間もかかる大手術だった。
病院まで右手に握り締めていたのはきっと大役満の牌に違いないと部下は噂した。
この手術で尾登辰雄は大変身した。それまでギャンブラーには珍しく下戸だったのが、どこか禁断の箇所にメスが入ったのか、
突然大酒呑みになったのだ。呑めないときから出入りしていた横浜・野毛の小さな居酒屋に人を呼びつけるようになった。
ちょうど私が横浜総局にいた時でもあり、大先輩の名前を2、3人並べて「みんないる。これで恥をかかすようなことがあったらただはおかねえ」
なんて口上つきで、恐れおののいて参上した。
行くと、口とは逆に猫なで声で「健ちゃん、よくいらっしゃいました」と丁重に迎えられた。原稿の話など一度もしたことがない。新聞社内の噂話など
興味もないようだ。昔自分が遊んだことを口にしたこともなかった。一代の放蕩児の美学だろう。
今、汚職事件などで逮捕される連中は遊びで失敗している。汚いことに、みな国や会社や人様の金で遊んでいる。
「芸の肥やし」などという芸人も経費で遊んでいる。尾登さんが偉く見えるゆえんだ。
通夜ではその山路昭平氏が弔辞を読んだ。普通は告別式で読むものだが、ブン屋の習性をよく知っている未亡人が「今夜の方が皆さんおそろいでしょうから」と、
たっての希望だったそうだ。「今あなたが慣れ親しんだ夕刊フジの原稿用紙に書いています」と泣かせどころを心得た文言で上記のエピソード
などまじえたよい弔辞だった。
参列者に別室で席が設けられていたが、懐かしさで駅前での二次会にも流れた。ここで、時の流れで最近弔辞を読むことが多い山路さんに
敬意を込めて「弔辞屋昭平」の名を進呈した。名文が多く、自分の時には是非という人が目白押しだ。
この席で、時に笑みを浮かべて挨拶する未亡人が、熱海で一、二を争った名妓だと知った。尾登さんの熱海通いの成果を知り、さもありなんと思った。芥川龍之介の短編「手巾」(はんかち)を思い出した。
教師のもとに昔の教え子の母親が訪ねてきた。息子は病死したと告げ、生前の恩顧に礼を述べた。語る表情は穏やかで、時折、笑みも交じる。教師が床に落ちた団扇(うちわ)を拾おうとしたとき、テーブルの下に婦人の膝が見えた。膝の上でハンカチを握った手が激しく震えていた。顔で笑いつつ、「実はさつきから全身で泣いてゐたのである」。
上述の「通夜の二次会」で決まったことがある。このとき「夕刊フジ創刊35周年」であったことから、このタブロイド紙づくりに情熱を燃やした男たちの物語、さらにいえば梁山泊のような豪傑記者たちの雰囲気やどういう経過で東西から記者たちが集まってきたのかを記録したものが欲しいということになった。
こたえて、馬見塚達雄氏が筆を取り翌年秋に「夕刊フジの挑戦−本音ジャーナリズムの誕生」(阪急コミュニケーションズ)が世に出た。さらに2005年春久しぶりにOBがプレスセンターに集まっての出版記念パーティーも開かれ、 WEB上に「夕刊フジOBのホームページ」もスタートした。すべて尾登さんのおかげである。
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| 尾登さん、こんな表情でした |