厳寒の地でのガーデニング(花の物語)
魅力的なストーリーがある  花の物語

花のことを調べていくと、たいへん魅力的なストーリーを秘めたものに出会います。通りいっぺんの紹介だけではすまないものを、ここにまとめてみました。 アツモリソウ(敦盛草)とチョウノスケソウソウ(長之助草)からはじまったのですが、いつしか伝説、犯罪史まで含むにぎやかさです。



この項の目次

  • アツモリソウ(敦盛草)               平家物語「壇ノ浦」
        レブンアツモリソウ、ホテイアツモリソウ、コアツモリソウ、クマガイソウも)

    「側対歩」の話はこの項にあります。  

  • チョウノスケソウ(長之助草)         須川長之助とは何者?    

  • ヤマナシ(山梨) と コナシ(小梨)      春を告げる花の見分け方 
     
  • トリカブト(鳥兜)                    人の強欲に巻き込まれて

  • クロユリ(黒百合)                  佐々成政と黒百合伝説
     
  • エンレイソウ(延齢草)               遺伝子学の深淵を覗く 
                北大寮歌「都ぞ弥生」の動画と歌詞はここ

  • スエコザサとハマナス               牧野富太郎と2つの植物の話
     
  • フィボナッチ数の不思議             植物は数学を知っている
       
     
  • ・クリックでその項に飛びます。手形マークが出る写真は、クリックで大きなサイズになります





    アツモリソウ(敦盛草)を知る

    アツモリソウのアップ
    アツモリソウのアップ
    これはアツモリソウとの出会いの話です。実はその名前も姿も最近までまったく知らなかったのです。2001年の春、本を読んでいて、少し前まで八ヶ岳はじめ全国にたくさんあったが、いまは絶滅寸前だという ことを知りました。盗掘によるというから情けない話です。

    八ヶ岳山中にいまもあると聞いてほう、と思ったものの、自分で見つけられる可能性はゼロです。なにしろ、どんな花か知らないのですから。春に野辺山近くの山野草店に立ち寄って、あれば見せてほしいと頼んでみたところ、 上から下までながめられて、ではちょっと奥までと案内されました。 きれいなラン科の花が咲いていました。値段を聞いて仰天。2万8000円。実はこれは安い方で、その後クリスタルラインを走っていて、途中の山野草店で見せてもらったものは5万円。 その後、クリーム色が美しい礼文アツモリソウがあることを知りましたが、こっちだと7万とか10万とかになるようです。 私は園芸店でよく並んでいるポット苗くらいで売っていると思っていたので、あいた口がふさがらないとは、このことでした。

    でも、これを機会にアツモリソウの絶滅への過程とまた一方では再生への取り組みがあることも知りました。私は環境保護の活動家ではありませんが、いたるところで自然が破壊されていくひとつの断面が アツモリソウにあらわれていると感じました。八ヶ岳にたまたまいるだけでも、ひしひしと自然破壊の最前線を見る思いがしていたからです。

    ここのスミレの自生種、タデスミレが絶滅に瀕していること、ヤツガタケタンポポが西洋種に侵食されていることはこのHPで書きました。やはりあこがれの動物として書いたヤマネも減っているといいます。 リスだってここはまだホンドリスの王国ですが、狂暴な台湾リスが神奈川あたりまで進出しているそうですから、やがてここもあぶなくなるのでは、と思っています。人間が山荘に入ることで出る生ごみでカラスが増え、野鳥の巣が 襲われたと、毎日の観察を楽しみにしていた、山でご近所の愛鳥家の夫婦は嘆いていました。

    秋になると八ヶ岳にいる蝶を採集に遠くからクルマでやってくる輩がいて、私とトラブルになります。コレクターも好きではありませんが、手際のよさから、 どうも業者のようなので許しがたいのです。滅びの美学は日本人がひかれるテーマですが、それは人間の勝手で、自然は別です。やはり守らなければならないということを、八ヶ岳で過ごすうちに実感として持つようになりました。

    すこしわき道にそれましたが、自然について考えているときに出会ったものですから、これをきっかけに「アツモリソウ」のことを調べました。
    結局は同時に「レブンアツモリソウ」「コアツモリソウ」「クマガイソウ」について知ることとなるので、順番に取り上げてみます。


    アツモリソウ

    敦盛草「アツモリソウ」(敦盛草)

    全体のタイトルに掲げたので、こちらから説明します。北海道から静岡の山地の草原に生える、高さ20〜40センチのラン科の多年草です。茎の先に直径 3 〜 5 センチの淡紅色の花をつけます。唇弁は袋状で大きく,これを平敦盛が背負ったほろ(母衣)に見立てたものです。 花時までは直射日光を好みますが暑さに弱いので、夏は日陰になる所を選びます。アツモリソウは八ケ岳にもたくさんあったようですが、近年、極端に少なくなりました。自然状態でみることなどまずかなわぬことです。私は人工栽培ものを手に入れたので育てています。

    我が家の2本立ちアツモリソウ
    我が家のアツモリソウは株が2本立ちなのが自慢。(2010.6.24撮影)

    オオイヌノフグリ
    気の毒なオオイヌノフグリは
    オオイヌノフグリの実
    実の形が犬の睾丸とは
    ここで源平の合戦から説明しなければならないのですが、それにしても植物の命名に歴史を持ち出すとは、先人の植物学者も味なことをするものです。なにもアツモリソウばかりでなく、山で出会う植物名を調べるうち、命名のたくみさにほとほと感心することはよくあります。 単に花の形を見るだけでなく歴史というか幅広い教養を感じさせるものが多いです。時にはオオイヌノフグリ(大犬の陰嚢)など気の毒な例も見かけますが。

    「平家物語」にあるように、一ノ谷の逆落とし(1184年)で源義経率いる源氏軍団に破れた平家の若武者、紅顔の美少年、平敦盛が沖の舟に乗り移るべくただ一騎で、 須磨の海へ乗り入れたとき、源氏方の熊谷次郎直実(くまがい・じろう・なおざね)が「敵にうしろを見せるとは卑怯なり。返させ給え」と、声を掛ける。16歳の敦盛は健気にもとって返し、 波打ち際で組んずほぐれつの死闘の後、直実に組み伏せられる。直実は、わが子小次郎と同じくらいの年齢の敦盛を見て助けてやろうと思ったが、後ろを見ると 味方の兵がこちらへ向かって来るのが見えた。

    『目もくれ心も消えはてて前後不覚に覚えけれども、さてしもあるべき事ならねば、泣く泣く頸をぞ掻いてんげる。 あはれ弓矢取る身ほど口惜しかりけるものはなし。武芸の家に生まれずば、何とて かかる憂き目をば見るべき。 情なうも討ち奉るものかな、とかき口説き袖を顔におしあてて さめざめとぞ泣きいたる』

      「平家物語」のハイライトですが、首をとったあと敦盛の腰にあったのが「青葉の笛」で、 私など、文部省唱歌が自然に口をついて出てくる世代です。

    「一の谷の戦やぶれ 討たれし平家の 公達(きんだち)あわれ  あかつき寒き 須磨のあらしに 聞こえしはこれか 青葉の笛 ・・・」というあれです。

    直実が敦盛の首に、武具や遺愛の青葉の笛などを添えて、父・経盛(つねもり)に送った一書は、関東武士の面目を伝える「熊谷状」として残っています。 敦盛を討って無情を感じ、その後出家した直実は蓮生坊(れいせいぼう)を名乗り、京都などにたくさんの寺を建立、晩年は故郷の熊谷で草庵を結んだといいます。 八ヶ岳にいくのに関越に乗ることがありますが、途中の埼玉県熊谷市(こちらの発音はクマガヤ)がそれで、駅前に直実の銅像が立っています。
    また京都の金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)には直実と敦盛の五輪の塔があり、こうした故実を知る人で今もにぎわっています。

    そうした、この物語の主人公二人の名前が、ラン科の植物につけられているのです。クマガイソウとアツモリソウです。クマガイソウについては後述しますが、ともにある袋状の唇弁(しんべん)を、二人の武者が背負った母衣(ほろ)に見立てて付けられたとも、言われています。白っぽいクマガイソウを源氏の白旗に、赤いアツモリソウを平家の赤旗に例えたともいいます。

    さてここでまた、母衣(ほろ)とはなんだ、ということになります。私は馬術部にいたし、後輩が鎌倉の鶴ヶ丘八幡宮で流鏑馬(やぶさめ)を奉納しているところも見ているので分かるのですが、たいがいの人は知らないかもしれません。

    母衣引き
    母衣引き(馬事公苑でのデモンストレーション)
    母衣は、保侶,母廬などとも書かれます。鎧(よろい)の上につけ、流れ矢を防いだり旗指物(はたさしもの)としても使用したとか、風雨を防ぐ防寒着として使われたとかいわれますが、 形状や使用方法も必ずしも明確ではないようです。いまに残るのは「母衣引き」といって、布を地面につけないように馬を走らせる写真のような競技です。
    2005年9月末、馬術部の先輩から馬事公苑で撮影した「母衣引き」の写真とともに、馬の歩き方「側対歩」についていろいろ書き送られてきました。このコーナーは植物の話なので、別項にまとめました。


    興味のある方は 「側対歩」の話をご覧ください。


    「フラブム」
    我が家の黄色のアツモリソウ「フラブム」
    (2010.6.24撮影)
    ネットで「信州山草苑」というのを知りました。アツモリソウだけに魅せられて、販売や繁殖に取り組んでいるといいます。しかも住所はお隣の南相木村です。最近できたトンネルを抜ければ、我が山小舎から30分ほどで行ける距離です。最上太郎さんという経営者に会いました。神奈川から栽培環境がいい(涼しい)この村に移り住んだといいます。 販売のかたわら、用土や肥料を研究してアツモリソウの株を増やす取り組みをしているそうです。

    サイトは「信州山草苑」(アツモリソウの世界)。会社は(有)ミナックス(長野県南佐久郡南相木村5085−1)といい、村からかなり山あいに入ったところにありました。(過去形なのは現在、ここの会社はなくなっていて、上述のリンク先は小諸の「浅間クリスマスガーデン」になっています。アツモリソウからクリスマスローズの栽培に変えたようです)。この方に相談したら、最初なのでいきなりレブンアツモリソウにチャレンジするのでなく、色も黄色っぽくて似ているうえ丈夫な中国産の「フラブム」からはじめてみたら、とすすめられました。レブンアツモリソウよりだいぶ安いこともあって、 買い求めて西日の当たらない涼しい木の下に置きました。中国チベット南東部〜雲南省西北部、四川省・湖北省南部・甘粛省南部にかけてが原産地で、八ケ岳と気候が似ているのか毎年2株が咲きます。梅雨時であまりほかの花がないときでもありこの時期に眺めては楽しんでいます。

    レブンアツモリソウ

    礼文敦盛草「レブンアツモリソウ」(礼文敦盛草)

    アツモリソウについてはかなりわかったのですが、私にとっては、正直それほど夢中になるものではありません。絶滅寸前なのでなんとか増やしたいとは思いますが、手に入らなければ、それでもいい、といった程度です。 でも、レブンアツモリソウの方は、きれいだと思うし、できたら手元に置きたいものです。レブンアツモリソウは厳重に保護されているため、市場での鉢植えはまず見られません。(先のミナックスのものはバイオ技術による増殖)。

    2006年6月、馬術部の先輩から「札幌の北大植物園で絶滅危惧種の展示会が開かれていて、そこに見事なレブンアツモリソウの写真があった」と左の写真が送られてきました。

    このレブンアツモリソウ、実は大変というかエポックメーキングなものであることを新聞記事から知りました。まずニュースを紹介します。

    北大植物園が人工繁殖で開花させたレブンアツモリソウ

    国内希少種のレブンアツモリソウの人工繁殖に取り組んでいる北大植物園(札幌市中央区)で2日、自然に近い 「共生菌培養」という手法で発芽させた株に花がついた。 レブンアツモリソウのタネは最大1ミリ程度と小さく、発芽に必要な栄養を持たないため、 地中に繁殖する特定のカビから栄養をもらって発芽する性質がある。

    人工繁殖では、栄養分を含ませた培地でタネを発芽させる「無菌培養」が現在、全国的に行われているが、これだと 突然変異が起きる可能性が指摘されている。「共生菌培養」は自然界の状態に近いが、カビの採取や増殖に 高度な技術が必要とされる。幸田泰則・北大植物園園長兼北海道大学大学院教授は2000年から同手法による 人工増殖に着手。その共生菌が、リゾクトニア菌という菌であることを突き止め、その菌と一緒に培養する研究を してきた。

    02年に発芽に成功し、鉢に移して育ててきたものが2006年6月開花した。株の高さは約15センチ、花の直径は約3センチ。 カビとの共生という方法での開花は全国初で、これだと自生地への移植も可能という。(2006/06/03 北海道新聞)

    盗掘により礼文島でも絶滅に瀕して、ほそぼそと増やす試みが行われているもののなかなか実効が上がっていないのが実情です。この方法だと実験室で増やして現地に植栽することも可能で、まさに朗報です。

    実を言うと八ケ岳の我が山墅(さんしょ)でいまレブンアツモリソウがすくすくと育っています。上に書いた南相木村の店で3年ほど前に購入したものです。バイオ栽培によるものですが開花株だと何万円もします。財布と相談して何千円という値段だった2年生苗を手に入れました。当時は背丈3センチほどでとても開花は望めませんでした。数年かかるかもしれないといわれましたが、育てる楽しみもあり、大事に鉢植えにしています。その鉢が上の北大植物園の写真と同じ軽石植えであることに、意を強くしました。今年は背丈が10センチを超えました。

    礼文島マップ レブンアツモリソウは、アツモリソウの固有変種で、北海道礼文島の特産です。現地では毎年6月から7月ごろ咲くそうです。すこし緑がかったクリーム色の花を1個咲かせます。唇弁は大きな袋状の球形であり、側花弁は広卵形で先が短くとがっています。葉は長楕円形であり、3枚から5枚互生しています。 美しい花の色、形及び希少種が災いし、盗掘され激減しましたが、多くの人々の努力によって、絶滅危惧種として保護対策がとられました。

    平成6年に絶滅のおそれのある野生動植物の種の保存に関する法律に基づき国内希少野生動植物種の指定及び礼文町のレブンアツモリソウ群生地が、北海道の天然記念物に指定されています。 現在、礼文島に行けば、保護区で自然に近い状態で見られるそうです。学生時代に稚内方面を旅したのですが、海が荒れて船が出ず、帰ったのが悔やまれます。もっとも当時はそんな植物のことなど知らなかったのですが。

    レブンアツモリソウ
    礼文島では保護運動が盛んで
    囲いの外からだが自然に近い形で見られる。

    ホテイアツモリソウ

    布袋敦盛草「ホテイアツモリソウ」(布袋敦盛草)

    日本のアツモリソウの仲間(ラン科アツモリソウ属)には、上述のレブンアツモリソウのほかホテイアツモリソウ(布袋敦盛草 C. macranthos var. hotei-atsumorianum Sadovsky)、 同属のキバナアツモリソウ(黄花敦盛草 )などがあります。いずれも寒冷地を好む性質があります。

    ホテイアツモリソウはアツモリソウの基準変種で、花が大きく径10センチ以上あります。アツモリソウより高地(亜高山帯)に生え、アツモリソウより一回り大 きく、色は赤紫の濃色で見ごたえがあります。和名は、唇弁の形を布袋(ほてい)の腹に見立ててつけられたものです。高さは30〜40センチの多年草です。 花は赤紫色で6〜7月に開花すると袋のようになり黒いスジが数本見られます。北海道が北限で道央・道南及び道東の一部に分布し、本州では中部の亜高山 帯の草地などにあるもののめったにみられない希少種です。

    上で紹介した礼文島に産するレブンアツモリソウ(キバナノアツモリソウ)は本種の変種に当たります。葉は3〜5枚で互生、茎の先に紅紫色の花を下向きに つけます。唇弁はアツモリソウに比べて丸く、楕円状球形でアツモリソウより長く、長さ4〜6センチ。上萼片は卵形で上向き、側萼片は合着して下向きに なり、先端は2つに裂けています。花色が濃いのが特徴です。

    長野県諏訪郡富士見町は私が居るところからすぐ近くですが、ここにあるニチレイフラワー事業部がこのホテイアツモリソウの培養を手がけているそうです。 この地で地元の人が大切に育てていた「釜無ホテイアツモリソウ」の提供を受けて、寒天培地と呼ばれる培地を用いて無菌室で種子を発芽させ、植物体を作 る技術で増やしています。2006年4月、富士見町に「富士見町アツモリソウ再生会議」が立ち上げられ、翌年には「富士見町のアツモリソウ保護条例」も制 定され、町をあげて「釜無ホテイアツモリソウ」の保護活動をしています。そのうち我が敷地の一隅で咲かせる日が来るかも分かりません。


    カラフトアツモリソウ

    カラフトアツモリソウカラフトアツモリソウ」(樺太敦盛草)

    上の項を書いてしばらくたった2006年(平成18年)1月になってカラフトアツモリソウというのが あることを知りました。名前の由来は樺太(現在のサハリン)に自生するアツモリソウという意味です。 あとになっていろいろ知るのは私の場合珍しいことではないのですが、 写真で見た時「こんな珍種もあるのだ」と思った程度でした。しかし、実は種の保存の上で現在大問題 になっているのです。

    カラフトアツモリソウは北半球の亜寒帯に広く分布し、シベリアやサハリンにはまだ自生が見られるようですが、 日本では北海道の礼文島と網走地方の2か所だけで生育が確認されています。他のアツモリソウと同じく草原や明るい林に生え、高さ30〜40センチほどの多年草です。6月ごろ唇弁と呼ばれるゴンドラのような形 した花びらの部分は薄い黄緑色、その周りにあるがく片と花びらが紫 褐色をした独特の花を咲かせます。

    北海道礼文島で、いまこの花が深刻な事態に直面しているのです。カラフトアツモリソウがレブンアツモリソウと交雑を起こしており、このままでは世界で礼文島だけにしか生育しない黄色のレブンアツモリソウは絶滅する危険性が増大しているといいます。野生種の絶滅を回避するためには、雑種を排除するしかありません。ところが、カラフトアツモリソウは礼文島における在来種だという意見と、移入種だという意見とが対立しています。もし真に在来種であるのなら、礼文島の個体群は希少種として日本だけでなく世界的なレベルで、保護・保全の対象です。逆にもし移入種なら、これ以上遺伝子汚染が進んでレブンアツモリソウが絶滅しないように、即刻排除しなければなりません。

    カラフトアツモリソウは花の色や大きさのほか、側弁がカールすることや、ひとつの茎の各節に2段に花をつけるなどが特徴だそうです。私などどちらも珍しい色調をしているから両方残せばいいのではないかと思います。ところが生物の種の保全の見地からは、これではすまされないのだといいます。交雑が進めば原種は絶滅するからです。学問の難しさを語りかけている花でもあるのです。

    コアツモリソウ

    小敦盛草「コアツモリソウ」(小敦盛草)

    アツモリソウは希少種でなかなか手に入りませんが、東京の園芸店で「小敦盛草」というラベルを見つけました。「小」がつくのだから、同じような花が咲くのだろうし、値段も手ごろな1000円なので、求めて八ヶ岳に運びました。 調べると、小さいもののやはり同じような花が咲くようです。

    「山地の樹林の下に生え、茎の先に2枚の葉を対生状につけ平開する。草丈は10〜20センチ。 葉は卵形で、葉の下に花を1個つける。唇弁は径約1センチの卵球形で前が開いた袋状である。花期は5〜6月、花色は暗紫白色。 落葉の積もった場所を好む」とありました。超寒冷地で大丈夫かどうかはわからないので、冬場は下界におろす必要がありますが、これはこれで楽しめると思います。


    クマガイソウ

    熊谷草「クマガイソウ」(熊谷草)

    アツモリソウ属に分類されるクマガイソウは、北海道西南部から九州、朝鮮半島、中国大陸の一部における山地樹林下、竹やぶに群生する野生ランの一種です。 草丈は20〜40センチ程度まで大きくなります。 葉はひだがあり団扇状で、2枚が対生しています。開花は4〜5月頃。淡黄緑色の花被片と、紅紫色の大きな袋状の唇弁を持つ径10センチくらいの大型の花を付けることから山野草マニアには人気があります。

    しかし、その増殖率がきわめて低いため、自生地でも少なくなる一方です。さらに栽培が大変難しいことで、やはり絶滅が心配されています。 別名は、ホテイソウ、ホロカケソウ(母衣掛け草)です。前者は七福神の布袋さんのおなかからの連想でしょうか。後者の方の由来は先に説明しました。 地下茎を横に広げて増えていきますが、栽培には特殊な蘭菌が必要で、培養土ではだめです。自生地の土を持ち帰り、その中に含まれている蘭菌と共に育てるのが必須のことのようです。 2002年春、山草店で1株求めて土に埋めて山で越冬させてみましたが、2003年春、おそるおそる掘ってみると見事に溶けていました。この寒さでは無理のようです。

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    チョウノスケソウ(長之助草)の話

    チョウノスケソウ

    チョウノスケソウ(長之助草)は草花に見えますが、バラ科の木で、秋にはちゃんと紅葉が見られます。 この花との出会いは下の1枚の写真です。今となってはどこのサイトかもわからず、ことわりの いれようもないのが申し訳ないのですが、我が山小舎の真上にある横岳の頂上付近に咲くチョウノスケソウを、隣に見える八ヶ岳の主峰、赤岳の頂上をバックにして撮ったもので、 きれいなので保存しておいたものです。

    横岳頂上付近に咲く長之助草

    この写真がチョウノスケソウとの出会い。うしろは八ヶ岳の主峰赤岳。
    我が山小舎から毎日ながめる山だ。こういう孤高の場所に咲く花。

    その後、この花にまつわる物語を知りました。明治の日本人の「気骨」と「志」に魅せられました。

    須川長之助
    須川長之助
    チョウノスケとは「須川長之助」のことです。(写真はサイト「いわてゆかりの人々」から)。長之助が残した控えの標本を見た、あの大植物学者、牧野富太郎博士が「チョウノスケソウ」(長之助草)という和名を付けたものです。

    ハリストス正教会
    現在のハリストス正教会。初代ロシア領事が
    領事館附属聖堂として建てたが明治40年(1907)
    の大火のため焼失し、大正5年再建された。
    幕末1860年、鎖国が解かれ、開港して間もない北海道の箱館(函館と改名されるのは1869年)に、ロシア正教のハリストス正教会が完成しました。明治になる8年前です。 聖堂の鐘が奏でる音から「ガンガン寺」と呼ばれたこの教会に、一人の日本人青年が迷い込んできました。近くの神社で馬の世話をしていた19歳の須川長之助です。 偶然、教会と隣り合うロシア領事館に、日本の文化勲章に相当するロシアのデミドフ賞を受けたばかりの当時33歳、新進気鋭の植物学者、マクシモヴィッチ(C.J. Maximowicz, 1827-1891)が滞在していました。 こういう人物がちょんまげ時代の日本にやってきていたというのも不思議ですが、、日本での助手兼召し使いとして、長之助を雇うことにしたのが、日本一の植物採集家「チョウノスキー」の誕生です。

    「神を信じるものに悪人はいない」と採用したものの、マクシモヴィッチはわざと財布や金銭を置いたまま部屋を空け、 長之助に掃除を命じます。四回も繰り返されたテストに、長之助も最後は「我慢ならねえ。帰る」と怒ったようです。マクシモヴィッチは無礼をわび、以来「チョウノスキー」と愛称で呼び、 手取り足取りで植物採集の基礎からたたきこんだのです。採集した植物は、すぐに押し花にしないとしおれてしまうので、炭火で鉄板を温め、紙を乾燥させることから教えました。

    当時、外国人の居住は認められていたものの、領事を除き、10里(40キロ)先への外出 は禁止されていたため、長之助が単身で採集に出掛ける必要があったのです。 長之助とマクシモヴィッチは、函館を拠点に北海道南部を歩き、遠く横浜や九州にも採集旅行しました。長崎では二度目の来日中だったシーボルトに面会し、 草花への博識ぶりで驚かせたとのエピソードも伝わってます。

    マクシモヴィッチ
    マクシモヴィッチ
    3年4ヶ月の滞在を終えて帰国したマクシモヴィッチは、その後も東洋の植物研究を続けました。余談ですが、牧野富太郎博士は彼とともに研究しようとロシアに亡命を計画したことさえあるほどです。 長之助は彼からの採集依頼を受けて全国をかけ回りました。その足跡は、近くは岩手山や早池峰、駒ヶ岳、青森の恐山。47歳の明治20年には、博 士からの手紙で依頼された木曽、八ヶ岳、浅間、富士、天城の山々を回り、翌年には鹿児島から四国、中国、関西方面までを226日間、さらにその翌年の23年には、 岩手から秋田方面に51日間歩き、植物採集をしています。驚くべき行動力です。

    富山県の立山で長之助が発見したチョウノスケソウについて、「ドリアス・チョウノスキー・マキシム」のラテン語名をつけて、 学会で発表しようとしていたその矢先の1891年、マクシモヴィッチは63歳で亡くなりました。

    長之助の遺品
    長之助が植物採集に使った笠

    長之助の墓
    長之助の墓

    それを聞いた長之助はぷっつり採集をやめ、郷里の岩手県中部の紫波町に戻り、農業で83歳まで(1925年2月没)の余生を送っています。 現在、北上盆地の中にある郷里には、生家や墓、顕彰碑や記念碑があり、同町水分公民館に採集に使った竹かさ、ロシア製の移植ゴテ、薬ろう などが残されています。

    余談ながら紫波町は「銭形平次捕物控」で知られる作家、野村胡堂の出身地です。長之助とも縁戚だったそうですが、旧彦部村で村長をしていた父親が事業に失敗し、資産を失って東大を中退せざるを得なかったことから、 後進がこうした思いをしないようにと、戦後にソニー株など資産を提供して「野村学芸財団」をつくりました。この半世紀の間に、1000人以上に返済しなくてもよい奨学金を支給し、700件近くの研究に助成 金を出しています。

    須川長之助略年譜 
    1842年 2月  岩手県下松本村(現・紫波町)に生まれる 
     59年 8月  シーボルト、2度目の来日 
     60年 9月  マクシモヴィッチが箱館に上陸。長之助を助手に雇う 
     61年 11月  箱館を出発、横浜へ 
     62年     箱根などで植物採集。長崎へ 
     63年     阿蘇山など九州各地で採集 
     64年 2月  マクシモヴィッチが横浜から帰国。長之助は全国で採集続ける 
     68年 9月  明治維新 
     89年     立山でチョウソスケソウを採集 
     91年 2月  マクシモヴィッチ死去、63歳 
    1925年 2月  長之助死去、83歳 

    長之助が採集した標本
    コマロフ植物研究所に残る
    長之助が採集した標本
    二人が集めた標本は、今もロシアや英国に多数残り、英ロンドンの自然史博物館には「マクシモヴィッチ、函館、1861年」と記されたハマナスの標本が残っています。ロシアにあるものの多くは レニングラードのコマロフ植物研究所に保管されています。 「日本植物分類学の父」といわれるマクシモヴィッチが学名をつけた植物は340種、 変種は40を数えます。うち十種類以上の学名に、マクシモヴィッチとチョウノスキーの名が残っていて、例えばシロバナノエンレイソウの学名は「Trillium tschonoskii Maximowicz」で 「チョウノスキー」と「マクシモヴィッチ」の名前が仲良く並んでいます。

    そのうち「チョウノスキー」の学名が付く植物は次の10種です。
     1. Trillium tschonoskii Maxim. シロバナエンレイソウ(ミヤマエンレイソウ)
     2. Carpinus tschonoskii Maxim. イヌシデ
     3. Berberis tschonoskyana Regel オオバメギ
     4. Malus tschonoskii (Maxim.) C. K. Schn. オオウラジロノキ
     5. Prunus ×tschonoskii Koehne ニッコウザクラ
     6. Acer tschonoskii Maxim. ミネカエデ
     7. Rhododendron tschonoskii Maxim. コメツツジ
     8. Ligustrum tschonoskii Decaisne ミヤマイボタ
     9. Lonicera tschonoskii Maxim. オオヒョウタンボク
    10. Arnica unalascensis Less. var. tschonoskyi (Iljin) Kitam. et Hara ウサギギク
    

    
しわのある葉と8弁の花が特徴チョウノスケソウは、先に述べたようにマクシモヴィッチの帰国後、長之助が1889年に富山県の立山で発見したものです。 学名は後になって、著名な植物学者リンネが付けたもので「Dryas octopetala var. asiatica 」。ドリアスは「森の精」、オクトペタラは「8枚の花びら」というラテン語です。

    さらに余談です。植物の学名はこのようにラテン語で付けられますが、なんでこんな面倒なことをするのか、英語でいいのに、と思っていました。 ところが検索エンジンに「Dryas octopetala」を入れてみると、アメリカ・マイアミ大学の先生がこの植物の研究者で、この方のレポートに八ヶ岳の硫黄岳に花を求めて登った写真が掲載 されていたり、北欧の学者が論文を載せたりしてしていて、みなラテン語という共通言語で”会話”しているのがわかりました。「チョウノスケソウ」は日本だけの言葉ですが、長之助が発見した 「8枚の花びらを持つ森の精」は世界に通用するのです。学問の魅力の一端に触れた思いでした。

    さて、チョウノスケソウは、写真をみればわかるように、こんなところに!というほどの高山の岩場や崩壊地など足場の悪いところに育ちます。 花は白色または黄白色で、直径2〜3センチ。花は茎の先に1個つき8弁。果実には毛のように長く伸びた花柱がよじれてつき、やがて羽毛状になり風に飛ばされる。 葉はしわの入った小判型で、花のない時でも葉を見ればそれとわかるほど特徴的です。 別名ミヤマチングルマといわれるようにチングルマに似ていますが、花弁が楕円形の8弁なのに対し、チングルマは5弁です。 花期は7月上旬から中旬まで。

    分布は、北海道では、礼文島、中央高地、夕張山地、日高山脈。本州では、 北アルプス、八ヶ岳、木曽駒ヶ岳、南アルプスに見られます。長之助は、白馬鑓ヶ岳、八ヶ岳、北岳、水晶岳、 小泉岳の5ヶ所で見たと報告しています。

    八ヶ岳は御岳、白馬岳とならぶ高山植物の三大宝庫で、本州に分布するほとんどの種類が見られます。 ヤツガタケトウヒ、ヤツガタケタンポポ、ヤツガタケアザミなど八ヶ岳で発見された植物は50種にのぼりますが、多くは 長之助の採集によるものが多いのです。

    写真のように雄大にはいきませんが、八ヶ岳ゆかりの花なので育てたいと思い、小樽の山草店に相談したところ、2002年春に苗が送られてきました。初めて越冬した2003年春の雪解け に出かけてみると見事に育っていました。考えてみれば当たり前のことですが、けっこう心配の種でもあります。大丈夫なはずがだめだった、ということも多いのです。それにしてもこんな岩場で、 養分もないところで生き抜く生命力にただただ感心するばかりです。

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    ヤマナシ と コナシ

    八ヶ岳にいて真っ先に覚えるのがこの「ヤマナシ」(山梨)と「コナシ」(小梨)という真っ白な花の名前です。しかし、花も木も似ている上、 同じような場所にあり、咲く時期はほぼ同時で、私にはなかなか区別できませんでした。特にコナシの花は、つぼみは真っ赤、 ふくらみかけはピンク、咲いて真っ白という七変化ぶりで、何年もたってから同じ木だと知りました。八ヶ岳高原には ヤマナシもコナシも「名木」とされている大木がいくつかあり、シーズンにはカメラマンが押しかけます。

    ヤマナシ



    ヤマナシの木
    海ノ口牧場の真ん中に咲くヤマナシ。5月中旬に満開になる。

    ヤマナシはお隣の山梨県の県名になったくらいですから、昔はたくさんあったのでしょうが、今は山梨県にはあまり なく、ここ長野県、それも野辺山一帯が名所になっているほどで、5月中旬にはたくさんの観光客がやってくるようになりました。 花の説明はあとにして、宮沢賢治の童話に「やまなし」という不思議な作品があります。


    やまなし

                    

    宮沢賢治 作

     小さな谷川の底を写した、二枚の青い幻灯です。

         一  五月

     二ひきのかにの子供らが、青白い水の底で話していました。
    「クラムボンは 笑ったよ。」
    「クラムボンは かぷかぷ笑ったよ。」
    「クラムボンは はねて笑ったよ。」
    「クラムボンは かぷかぷ笑ったよ。」
     上の方や横の方は、青く暗く鋼のように見えます。そのなめらかな天井を、つぶつぶ暗いあわが流れて いきます。
    「クラムボンは 笑っていたよ。」
    「クラムボンは かぷかぷ笑ったよ。」
    「それなら、なぜクラムボンは 笑ったの。」
    「知らない。」
     つぶつぶあわが流れていきます。かにの子供らも、ぽつぽつぽつと、続けて五、六つぶあわをはきまし た。それは、ゆれながら水銀のように光って、ななめに上の方へ上っていきました。
     つうと銀の色の腹をひるがえして、一ぴきの魚が頭の上を過ぎていきました。
    「クラムボンは 死んだよ。」
    「クラムボンは 殺されたよ。」
    「クラムボンは 死んでしまったよ・・・・・・。」
    「殺されたよ。」
    「それなら、なぜ殺された。」
    兄さんのかには、その右側の四本の足の中の二本を、弟の平べったい頭にのせながら言いました。
    「分からない。」
     魚がまたつうともどって、下の方へ行きました。
    「クラムボンは 笑ったよ。」
    「笑った。」
     にわかにぱっと明るくなり、日光の黄金は、夢のように水の中に降ってきました。
     波から来る光のあみが、底の白い岩の上で、美しくゆらゆらのびたり縮んだりしました。あわや小さな ごみからは、まっすぐなかげの棒が、ななめに水の中に並んで立ちました。
     魚が、今度はそこらじゅうの黄金の光をまるっきりくちゃくちゃにして、おまけに自分は鉄色に変に底 光りして、また上の方へ上りました。
    「お魚は、なぜああ行ったり来たりするの。」
    弟のかにが、まぶしそうに目を動かしながらたずねました。
    「何か悪いことをしてるんだよ。取ってるんだよ。」
    「取ってるの。」
    「うん。」
     そのお魚が、また上からもどってきました。今度はゆっくり落ち着いて、ひれも尾も動かさず、ただ水 にだけ流されながら、お口を輪のように円くしてやってきました。そのかげは、黒く静かに底の光のあみ の上をすべりました。
    「お魚は・・・・・・。」
     そのときです。にわかに天井に白いあわが立って、青光りのまるでぎらぎらする鉄砲だまのようなもの が、いきなり飛びこんできました。
     兄さんのかには、はっきりとその青いものの先が、コンパスのように黒くとがっているのも見ました。
    と思ううちに、魚の白い腹がぎらっと光って一ぺんひるがえり、上の方へ上ったようでしたが、それっき りもう青いものも魚の形も見えず、光の黄金のあみはゆらゆらゆれ、あわはつぶつぶ流れました。
     二ひきはまるで声も出ず、居すくまってしまいました。
     お父さんのかにが出てきました。
    「どうしたい。ぶるぶるふるえているじゃないか。」
    「お父さん、今、おかしなものが来たよ。」
    「どんなもんだ。」
    「青くてね、光るんだよ。はじが、こんなに黒くとがってるの。それが来たら、お魚が上へ上っていっ たよ。」
    「そいつの目が赤かったかい。」
    「分からない。」
    「ふうん。しかし、そいつは鳥だよ。かわせみというんだ。だいじょうぶだ、安心しろ。おれたちは かまわないんだから。」
    「お父さん、お魚はどこへ行ったの。」
    「魚かい。魚はこわい所へ行った。」
    「こわいよ、お父さん。」
    「いい、いい、だいじょうぶだ。心配するな。そら、かばの花が流れてきた。ごらん、きれいだろう。」
     あわといっしょに、白いかばの花びらが、天井をたくさんすべってきました。
    「こわいよ、お父さん。」
    弟のかにも言いました。
     光のあみはゆらゆら、のびたり縮んだり、花びらのかげは静かに砂をすべりました。



         二   十二月

    かにの子供らはもうよほど大きくなり、底の景色も夏から秋の間にすっかり変わりました。
     白いやわらかな丸石も転がってき、小さなきりの形の水晶のつぶや金雲母のかけらも、流れてきて止ま りました。
     その冷たい水の底まで、ラムネのびんの月光がいっぱいにすき通り、天井では、波が青白い火を燃やし たり消したりしているよう。辺りはしんとして、ただ、いかにも遠くからというように、その波の音が ひびいてくるだけです。
     かにの子供らは、あんまり月が明るく水がきれいなので、ねむらないで外に出て、しばらくだまって あわをはいて天井の方を見ていました。
    「やっぱり、ぼくのあわは大きいね。」
    「兄さん、わざと大きくはいてるんだい。ぼくだって、わざとならもっと大きくはけるよ。」
    「はいてごらん。おや、たったそれきりだろう。いいかい、兄さんがはくから見ておいで。そら、ね、 大きいだろう。」
    「大きかないや、おんなじだい。」
    「近くだから、自分のが大きく見えるんだよ。そんならいっしょにはいてみよう。いいかい、そら。」
    「やっぱりぼくのほう、大きいよ。」
    「本当かい。じゃ、も一つはくよ。」
    「だめだい、そんなにのび上がっては。」
     また、お父さんのかにが出てきました。
    「もうねろねろ。おそいぞ。あしたイサドへ連れていかんぞ。」
    「お父さん、ぼくたちのあわ、どっち大きいの。」
    「それは兄さんのほうだろう。」
    「そうじゃないよ。ぼくのほう、大きいんだよ。」
    弟のかには泣きそうになりました。
     そのとき、トブン。
     黒い丸い大きなものが、天井から落ちてずうっとしずんで、また上へ上っていきました。きらきらっと 黄金のぶちが光りました。
    「かわせみだ。」
    子供らのかには、首をすくめて言いました。
     お父さんのかには、遠眼鏡のような両方の目をあらん限りのばして、よくよく見てから言いました。
    「そうじゃない。あれはやまなしだ。流れていくぞ。 ついていってみよう。ああ、いいにおいだな。」
     なるほど、そこらの月明かりの水の中は、やまなしのいいにおいでいっぱいでした。
     三びきは、ぼかぼか流れていくやまなしの後を追いました。
     その横歩きと、底の黒い三つのかげ法師が、合わせて六つ、おどるようにして、やまなしの円いかげを 追いました。
     間もなく、水はサラサラ鳴り、天井の波はいよいよ青いほのおを上げ、やまなしは横になって木の枝に 引っかかって止まり、その上には、月光のにじがもかもか集まりました。
    「どうだ、やっぱりやまなしだよ。よく熟している。 いいにおいだろう。」
    「おいしそうだね、お父さん。」
    「待て待て。もう二日ばかり待つとね、こいつは下へ しずんでくる。それから、ひとりでにおいしい お酒 ができるから。さあ、もう帰ってねよう。おいで。」
     親子のかには三びき、自分らの穴に帰っていきます。
     波は、いよいよ青白いほのおをゆらゆらと上げました。それはまた、金剛石の粉をはいているようで した。

     私の幻灯は、これでおしまいであります。

                      
    ◇ ◇ ◇

    宮沢賢治は盛岡の人ですから東北にもたくさんのヤマナシの木があったことがわかります。それにしても不思議な 作品です。擬音語の天才で、ここにも「つぶつぶ暗いあわが流れていきます」、「かぷかぷ笑ったよ」「水はサラサラ鳴り」 「月光のにじがもかもか集まりました」など片鱗が出てきます。小学校の教科書に取り上げられていることもあり、 クラムボンの正体はなにかとか、この怖さはどこからくるのだろうとか、最後の最後に出てくるだけなのになぜ題が 「やまなし」なのだろう、そしてなにを象徴しているのだろうとか、討論は今も盛んですし、卒論のテーマに選ぶ学生も 多い作品です。

    ヤマナシの実 ヤマナシの落果 しかし、多くの人はヤマナシの実の現物を知らないのではないでしょうか。春に結実した実は夏ごろには写真=左 のようになっています。リンゴかナシか見分けがつかない形です。八ヶ岳では秋深くに林を歩いていると写真=右のように落果した実がたくさん 落ちています。完熟してもピンポン玉くらいの大きさです。食べてもおいしくはないものの、その香りはすばらしく、その実でヤマナシ酒をつくることが多い私たちにはごく身近な果実です。

    ヤマナシの漢字表記は「山梨」のほかに「杜」という字を当てることもあります。いわゆる”平成の大合併”で隣の高根町や須玉町が平成16年にいっせいに「北杜市」になりましたが、これは「山梨県の北部」(実際は北西)というところからの苦心の命名でしょう。同じ時に山梨県では「南アルプス市」など国籍・意味不明の市も誕生してます。いずれ歴史的に意味のある名前に淘汰されるのでしょうが。

    ヤマナシはバラ科ナシ属の落葉高木。ここ野辺山にたくさんあるせいか、ノベヤマザクラともいわれるようです。高さが5〜10メートルになり、花の咲く春4〜5月 (八ヶ岳では5月中旬)は木全体が白色の花に覆われ、確かに満開の桜のように見事です。花は5弁花で、枝の先に白い花を5〜10個咲かせます。オシベが突出しているのが目立ちます。短枝が発達していて、先のほうの枝は刺状です。葉は卵形で鋸歯は細くとがった 特徴があります。

    川上村のヤマナシの名木 ヤマナシの花
    野辺山駅から川上村に行く途中にある
    ちょっと有名なヤマナシの木
    ヤマナシの花。
    リンゴの花と似ている

    果樹のナシ(梨)はこのヤマナシからの改良種です。中国原産で、日本では古くから栽培されていたようです。 平安時代の延喜式(えんぎしき)にナシを都に貢上する国として、因幡、甲斐と並んで信濃があげられているし、 平安時代の各地域の特産を紹介した『新猿楽記』(藤原明衡)にも「信濃梨子」の名で出てくるそうです。

    秋には小さな実を付けますが、果肉には繊維成分のセルロースや石細胞が多く、かじるとがじがじした石の感触が残り、 そのままでは堅くてまずいものです。しかし、香りがすばらしいので果実酒を楽しめます。我が家も数本のヤマナシ酒が 棚を飾っています。

    ナシの栽培農家もたくさん落ちている実を拾います。現在の品種改良したナシの木は病気に弱いので、自然のヤマナシを 原木として接木をするようです。

      南牧村でのヤマナシの名木は、上の写真で紹介した海ノ口牧場の孤木、南小学校前の古木、地元で「思いやりのヤマナシ」 と親しまれている大きなものがあり、季節にはカメラ片手の人たちでにぎわいます。



    コナシ(ズミ)



    コナシの木
    八ヶ岳高原ロッジのコナシ。自然郷一帯で見られる。

    コナシはいろいろな呼び方があります。地方により、コリンゴ(小林檎)、コナシ(小梨)、ミツバカイドウ(三葉海棠)などと呼ばれますが、学名は「ズミ」です。漢字一字では 「桷」と書きますが、「酢実」「酸実」とも書かかれます。熟した実は食べられるものの、すっぱいところからきたのでしょう。 樹皮を煮出して黄色の染料にしたり、絵の具の原材料にもなるので、「染み」からズミの名に変化したとも言われています。 上高地の小梨平の名はこの木から来たようで、長野各地の山野に多い木です。都市でも庭木や生垣や盆栽によく使われている樹木です。

    コナシは雌雄同株のバラ科リンゴ属の落葉小高木です。ですから、リンゴの台木として利用されることがあります。 よく枝分かれして小枝はトゲ状になっています。やや湿り気のある所に好んで生え、高さは5〜10メートルほどになります。 老木になると樹皮に縦に割れ目ができます。

    コナシの花。咲き始め 満開の時のコナシの花
    つぼみの時は真っ赤。
    咲き始めはピンク。
    満開には真っ白に変化する。

    花は直径2センチくらい、数個かたまって真っ白な花が咲きます。木の下に入ると、ほのかな甘い香りがします。 花の七変化というか、同じ花とは思えない変わりようが見事です。つぼみの段階では濃い赤、やがて開きはじめると鮮やかなピンク 色で、開花すると限りなく白に近く変化(へんげ)していきます。花の形と大きさは、リンゴや梨によく似ていますが、つぼみが 濃い赤という点が違ってます。リンゴのつぼみは薄いピンクで、花は白になりますが、梨はつぼみも花も真っ白です。 中には黄色に熟すのもあり、こちらはキミズミと呼ばれます。

    コナシの実
    花びらは5枚あり、リンゴに良く似た花を咲かせ、秋にはリンゴを小さくしたような直径5ミリほどのグミのような赤い実を付けます(写真=右)。野鳥が好んで食べに来ます。 これをホワイトリカーに漬け込むとよい果実酒ができます。

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    トリカブト(鳥兜)    世にも恐ろしい話

    トリカブト(鳥兜)というと誰しもがまず殺人事件を思い出します。このトリカブトの名産地が八ヶ岳なのです。 私が「栽培している」というと、十人が十人、「おいおい大丈夫か」といいます。今のところ、殺意を抱く 相手はいないのですが、赤や黄色の花が多い中であのブルーが貴重なので、大事に育てています。 ギリシャ神話やアイヌ神話には欠かせない植物です。

    ヤマトリカブト
    秋も深まると咲き出すトリカブト(これはヤマトリカブト)

    最近では2つの保険金殺人事件に登場して有名になりました。

    @埼玉県本庄市の事件
    八木茂
    「取材するなら金を出せ」の八木茂の独演会
    保険金をかけて3人を殺傷したとして殺人、同未遂などの罪に問われた金融業、八木茂(52)に対し、2002年10月1日、 さいたま地裁は求刑通り死刑を言い渡し、上告するも2008年最高裁で死刑が確定した。その後次々と「執行逃れ」の再審請求をしていて現在は2016年12月の第2次再審請求の審理中。

    判決によると、八木はカラオケパブの経営が悪化したことなどから、武まゆみ(36)=無期懲役確定= ▽小料理店店員の森田考子(40)=懲役12年確定= ▽パブ店長のアナリエ・サトウ・カワムラ(36)=懲役15年確定。偽装結婚したため2人の相手の姓がついている=、の女3人 (いずれも愛人)と共謀し1995年6月、無職、佐藤修一さん= 当時(45)=の殺害を計画。「まんじゅうでやるべ」と指示してトリカブトを混ぜたあんパンを食べさせて殺害し、保険金 3億200万円をだまし取った。

    さらに、女2人が偽装結婚した元パチンコ店員=当時(61)=と、元塗装工=同(41)=にも保険を かけ、「体を弱らせるいい薬はないか」と相談。武の提案で強い酒と大量の風邪薬を長期間のませ、副作用による肺炎などで 99年5月それぞれ死亡させたり重症にした。八木らは死ぬ日を予想して100万円を賭け合っていたという。

    武まゆみの証言によると、トリカブトの花が咲く93年9月、2人で八ケ岳に出かけトリカブトを発見した。八木はその時 「宝の山」と言ったという。トリカブトは採取後に時間の経過とともに黒く変色することから、 「あんこ好きだから、混ぜて食べさせれば分からない」と黒の粒あんを選ぶよう指示したという。

    A沖縄トリカブト保険金殺人事件
    本庄の事件の下敷きになったのがこの殺人事件。 状況証拠はあるが、直接証拠はないというむずかしいケース。一審・東京地裁は、被告がトリカブトを大量に購入していたことや、 妻に1億8500万円の保険をかけていた事実などを積み重ねて有罪と判断。二審・東京高裁も一審の結論を支持し、被告の 控訴を棄却。2002年2月21日、最高裁は上告を棄却、無期懲役が確定した。

    神谷力
    神谷力
    1986年5月20日、沖縄旅行中の神谷力(46)と三度目の妻であるA子さんは、彼女が半年前まで働 いていた池袋のホステス時代の仲間3人を那覇空港に出迎えた。神谷被告は急用があると空港に残る。女性陣は予定どおり 石垣島行きの飛行機に乗るが、島に着いた正午過ぎ、A子さんは多量の発汗、悪寒、手足麻痺で苦しみ、3時に死亡した。死因は 心筋梗塞とされた。

    最初の妻が急性心筋梗塞で急死。再婚した2人目の妻もまた急性心不全で急死。さらに3人目の妻も。保険会社が支払いを 拒否、裁判となったが、保険会社が敗訴。このとき『マスコミの中傷にさらされて――私の半生』という小冊子を作り、マスコミ は私が妻を殺したように書いていてひどいと報道被害を世に訴えている。

    しかし、裁判中に、遺体の血液中から猛毒トリカブトが検出された、という新事実が明かされる。検視医が不審を抱いて心臓や血液 を保存していたのだ。彼は90年11月、保険金請求訴訟を取り下げるが、逆にマスコミが「トリカブト疑惑」としてワイドショーで取り 上げ始める。事件の数年前にトリカブトとフグを大量購入、動物実験をしていたことも判明する。

    ある地方の高山植物店から「神谷氏がうちにトリカブトを買いに来た」という通報や、「神谷氏が大量のフグを買いに来た」という 漁業関係者からの警察通報もあいつぎ、91年の7月に、殺人容疑で逮捕された。
    無期確定後服役していたが2012年11月収容先の大阪医療刑務所(堺市)で死亡していたことが翌年2月判明した。73歳。関係者によると、病死という。

    ◇ ◇ ◇

    二つのトリカブト殺人事件はロス疑惑(「ブン屋の世迷い言」の「稀代のワルか、冤罪のヒーローか」で詳述) とともに「劇場型犯罪」として有名ですが、特に本庄の事件は、私には二つのことで印象深い事件です。

    ひとつは初公判から2年足らずで判決が出たこと。
    新人記者のとき「名張の毒ぶどう酒殺人事件」を担当したのですが、えんえんと津地裁、名古屋高裁、最高裁にかかり、 奥西勝(事件当時35歳。2002年で74歳)の死刑が確定(昭和47年)してからでも30年以上たってます。刑事訴訟法の変わり目 (自供第一から証拠第一)だったとか、唯一の物証であるビンの王冠の歯形が法医学教室によって違ったとか、1審(無罪)2審(死刑) で正反対の判決が出たとか、むずかしい事件ではあるのですが、裁判って何だと思わせる長丁場です。オウムのサリン事件でも まだ1審の判決も出ません。こういう中で、裁判所もやれば出来る(集中審理)ということをみせたのが第一。

    次は記者やレポーターのだらしなさです。八木は逮捕前に有料記者会見などをひんぱんにひらき、一人3000円から6000円を徴収しています。会見は203回、集めた金は1500万円 にもなりました。特異な発言などが注目 を集めました。ロス疑惑事件でも女房が経営するバーに取材記者のボトルを預けさせ、その記者だけ取材に応じるという、 これと似たようなことがありました。「犯罪の劇場化」といわれるものですが、テレビでも八木が記者の顔を殴る場面が放映されました。 殴り返して警察に突き出すような行動に出るものが一人もいないことに腹が立ちました。

    ◇ ◇ ◇

    さて、犯罪の方はこれくらいにして、トリカブトそのものの話です。

    これが語源の鳥兜
    雅楽でかぶる鳥兜に似るのが語源
    漢字で書くと「鳥兜」ですが、これは花の形が雅楽のなかで舞楽を演奏する楽人、舞い手がかぶる兜と似ているからです。 英語でも「monkhood」(修道僧の頭巾)または「helmet flower」(兜の花)というように、フランス語もドイツ語もみな形から命名されていますが、 世界に約200種、日本だけでも68種もあると北大植物園のホームページにあります。

    さらに引用すると、北海道のトリカブト、なかでも小樽市の銭函(ぜにばこ)周辺のものが毒性が強いそうです。わざわざ地名を あげたのは、このあたり、作家の伊藤整が汽車通学していたところで、作品に描かれていることと、私がヨットを覚えた小樽の 祝津(しゅくず)から近く、真夏に焚き火をしながら震える海水浴をした覚えがあるところだからです。

    アイヌの人々はこの毒を使用した毒矢で熊狩をしていました。トリカブトの母根を漢名「烏頭(うず)」(乾燥させるとカラスの頭の ように見える)、子根を「付子(ぶし)」(母につくという意)と呼び、アイヌの毒矢のことを「ブシ矢」とも。また、アイヌ語で トリカブトの根を「スルク」といい、やじりは竹で作り、尖先6cmの裏面に溝を掘って毒を塗り込み、松脂で固定します。 毒は効き目が遅いが毒性の強いものを下に塗り、その上に毒性は弱いが効き目の速いものを重ねる。種類と山地によって 毒性が異なるのを使い分けるのです。

    毒矢で死んだ熊にはスルクカムイ(トリカブトの神)が宿り、熊は酔って動けなくなったとアイヌの人々は信じていました。 コタン(集落)では、もしこの毒で人が死んだらコタンコロクル(集落の首長)が遺族の生活を保証しなければならなかったといいます。 トリカブトは深く生活に密着していたのです。毒矢による禽獣の捕獲は開拓使御雇外人ケプロンの提言により、 明治9年に禁止されました。

    だいたい、漢字の「毒」という字の字源からして「人を害する草」、すなわちトリカブトをさします。子根を「付子(ぶし)と いうところから、日本では狂言『附子(ぶす)』を連想します。教科書に最初に登場する狂言でしょう。

    用事に出かける主人が、太郎冠者と次郎冠者を呼び出し留守番を言いつけます。主人は桶を示して、

    主人「これはまた 附子(ぶす)というて、向こうから吹く風にあたってさえ、たちまち滅却するほどの大の毒じゃほどに、 そう心得てよう番をせい。」

    太郎冠者「その儀でござれば畏まってござる」

    次郎冠者「ちと御不審を申し上げまする」

    主人「何ごとじゃ」

    次郎冠者「向こうから吹く風にあたってさえ滅却するほどの大の毒を(御主人様は)何としてお取り扱いなされます」

    主人「不審もっともじゃ。これは主を思う物で、その主が持て扱えば苦しうない。また汝らがそっとでも傍によった ならば必ず滅却するほどに、そう心得てよう番をせい」

    と言い置いて出かけますが、二人は怖いもの見たさで桶のふたを取って みると、中に入ってたのは砂糖なので、二人で桶を取り合って皆食べてしまいます。更にその言い訳のためといって 主人秘蔵の掛軸を破り、台天目(台にのせた天目茶碗)を打ち割ります。やがて主人が帰宅すると二人揃って泣き出し、 留守中に居眠りを せぬように相撲をとっていたうちに、大切な品々を壊してしまったので、死んでお詫びをしようと猛毒の附子を食べ たがまだ死ねないと言います。主人は怒り、逃げる二人を追う。

    だいたい、学生、生徒はここから狂言や能の世界を垣間見ることになります。私個人もそうですが、なんで「ぶす」なのか長年分かりません でした。「附子」というのはトリカブトの根を乾かして精製する猛毒、漢方では鎮痛、強心剤に使われるなど、ずっと後で知ったことです。 ついでにこの毒は神経をマヒさせて顔が無表情になることから、醜い顔の「ブス」の語源ともなっています。こちらは今もよく使われます。

    ヨーロッパでは古代から中世にかけて、毒殺にトリカブトが多用されます。ローマでは、継子殺しによく使われたため、「継子の毒」と言われ たとか。「悪法もまた法なり」といって毒をあおったソクラテスの死因もトリカブトだったかもしれません。 日本でも古代からこの毒は知られていて日本武尊(やまとたけるのみこと)の伊吹山の死 を初めとして、史書に見える矢毒による急死はほとんどがトリカブトの毒を使ったものと言われているほど。『吾妻鏡』で、 伊貝四郎が帰宅途中、鎌倉の建長寺の前で毒の鏃を受けてその日のうちに死ぬが、この毒は即効性があるため、 やはりトリカブトだったと推測されているそうです。

    西洋でも有名な毒。
    魔女はこうして作ったのかも
    ギリシャ神話によると、 王子テセウスがある日放浪の旅から帰ってきました。王子は出発したときとは見違えるほどたくましく成長していたので、 父王のアイゲヌスは彼を我が子と見抜くことができません。 しかし、蛇の目を持つ魔女メデアは彼を王子だと見抜き、殺してしまおうと毒杯を勧めます。テセウスはだまされす「お前 が先に飲んでみよ」とメデアに迫ったため、王ははっとして全てを悟り、メデアに「飲まねば殺す」と詰め寄りました。 怒ったメデアが床にたたきつけた毒杯はぶくぶく煮えたぎり、トリカブトの花になったということです。 ヨーロッパでは、魔女はこの草(トリカブト)を調合したクスリを塗って空を飛ぶといわれていました。

    この毒草は、洞穴に住んでいた地獄の番犬ケルベロスの牙からうまれたものとされます。勇者ヘラクレスが ケルベロスを無理やり引きずりだしたとき、この怪物は怒り狂って3つの頭で同時に吠え立て、緑の野原に白い毒泡を 吐き出しました。毒泡は草にこびりつき、大地から養分を吸い取って、人を殺す力を持つようになったそうです。 この草はかたい岩の上にはびこるところから、農夫たちは「アコニトン」(ギリシア語のakone=かたい石)と呼び、これが アコニチンの語源とも言われます。

    トリカブトの毒はアコニチンといい、致死量3〜4mg(人の場合)で自然毒ではフグに次いでの猛毒。アコニチンは脳に対しても 毒性が強く、まず延髄と脊髄を刺激し、次に知覚神経を麻痺させ、最後に呼吸麻痺で窒息死に至ります。 これほどの猛毒を医薬品として使いこなしているのは、日本を含む中国医学の文化圏だけでしょう。

    漢方では鎮痛、強壮、興奮、新陳代謝亢進などを目的として八味地黄丸(はちみじおうがん)、真武湯(しんぶとう)、四逆湯(しぎゃくとう)、天雄散(てんゆうさん)などの薬に配合されている。麻酔剤 で有名な通仙散(つうせんさん)にも用いられています。新陳代謝を活性化し、体を温め、痛みを止める 非常に重要な生薬で、特に全身の機能低下がある老人や、リウマチなど慢性消耗性の病気の漢方治療では、切り札とも 言える生薬です。

    トリカブト
    トリカブトはよく見ると不思議な形をしている。
    (これはキタダケトリカブト)
    キンポウゲ科トリカブト属で、 茎は直立して草丈は50センチから1メートルくらいになり、その先端に、10花ほど総状につけます。葉は掌状に3裂しています。 半陽地に育つ。乾燥と多湿に弱い。八ヶ岳では秋近くに咲きだします。我が山小舎のすぐ近くにもありますが、念のため場所は 伏せておきます。

    同じ属のレイジンソウ(伶人草)や ニリンソウ(二輪草)、ゲンノショウコ(現の証拠)やセリ(芹) との誤認による事故も多いそうです。それぞれの写真を下に掲載しました。 レイジンソウは「伶人草」と書き、トリカブトと同じく舞楽の奏者がかぶる冠からきています。 やはり亜高山帯、深山の湿性の針葉樹林内や林のふちなどに生える多年草で、 茎の高さ0.5〜1メートル近い大きさです。葉の形が似ていることから間違うようです。

    ミョウコウトリカブト、 ヤチトリカブト、 ヤマトリカブト、エゾトリカブト、 エゾホソバトリカブト 、イブキトリカブト、キタダケトリカブト・・・といろいろあり、 育てているオオサワトリカブト以外、 私には区別がつきません。

    レイジンソウ ゲンノショウコ ニリンソウ
    レイジンソウ ゲンノショウコ ニリンソウ

    ただ、北大植物園のホームページで杉野目晴貞教授が、この毒の研究者であったことを知りました。植物園の コレクションも教授の研究標本が元になっているそうです。私が北大に入学したときも卒業の時も総長(学長)で、この方の名前で 証書をいただいたのでなつかしい思いがしました。

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    クロユリ    立山の怨念の花

     クロユリ(黒百合)とは

    クロユリ
    伝説にいろどられたクロユリ
    北海道から本州の標高1000メートル以上の亜高山帯〜高山帯のやや湿った草地に生える高さ10〜20センチの ユリ科 バイモ属の多年草です。高山の草原や針葉樹林 の縁などに群生します。八ヶ岳近くではすぐそばに見える赤岳の山頂小屋付近に咲いているようです。 黒といっても真っ黒ではなく、暗褐色か黒紫に近く、花びらに黄色の細かい斑点があります。

    この花は長野オリンピックの時は五輪の黒に例えられ、切手にもなった花です。石川県の「郷土の花」にもなっています。 花期は6月から8月。香りはよくないのですが、春の終わりころから一本の茎に幾つかの花が開きます。 鱗茎(りんけい)は直径1.5〜3センチの球形。葉は茎の上半部に3〜5個ずつ輪生して2〜3段つき、花は1〜2個が斜め下向きにつきます。 両性花と雄花がつく株と雌花だけの株とがあります。

    北海道のクロユリ
    北海道のクロユリは
    本州のものより大きく黒い

    母種のクロユリは北海道、千島、サハリン、カムチャッカ、 ウスリー、北米北西部の低地が原産地です。種名の「F.camshatcensis」(カムチャトケンシス)は原産地の一つのカムチャッ カに由来するもので、英名も「Kamchatka lily」と「blacksarana」です。原産地のものは、全体に大きく、高さ50センチほどになります。本州のクロユリはやや黄色を帯びています。 花がとくに黄色いものをキバナクロユリ として区別する場合もあります。

    高山植物ですが、北海道のクロユリは低地でも見られ、大きく花数も多くつきます。北大理学部長もつとめた松浦一氏の研究で解明されたことだそうですが、低地の クロユリは染色体数が36本の三倍体で、これだと生殖細胞が出来るとき不具合がおき、結実しない「シイナ」(中身の入っていないしなびた果実)になり、反対に本州月山、飯豊山地、 中部地方の亜高山帯〜高山帯の草地に生えるクロユリは、染色体が24本の二倍体でこちらは種子が出来るのだといいます。それゆえ専門家の間では、低地のものをクロユリもしくはエゾクロユリといい、 高山にあるものをミヤマクロユリと呼んで区別するようです。高山帯にあるものも北のどこかで低地に接近するわけで、そこがどこかということを研究している人の報告による と北海道東部では三倍体と二倍体が混在しているところがあるそうです。ここが2系統のクロユリが出会う場所というわけです。 門外漢の私としては、そんなことを生涯研究している植物学者がいるということに驚きとうらやましさを感じるのですが。

    アイヌでは「アンラコロ」といい、女性が好きな人の身近にそっと置き、相手が気づいてその花を手に取ればふたりは必ず結ばれるとい う伝説がアイヌにあり、これが後述の「黒百合の歌」のもとになりました。アイヌ語名を分解すると、アン(黒い)ラ(葉)コロ (持つ)です。鱗茎からとった澱粉を腹痛の薬に、また鱗茎をゆでて食用にもしたようです。

     「黒百合の歌」

    ひところ阿寒湖など北海道の観光地を歩くとどこでも「黒百合の歌」(作詞・菊田 一夫、作曲・古関 裕而) が流れていたものです。擦り切れたレコード盤で歌詞もさだかでなく、やたらうら寂しいので嫌いでした。 静かにしたいのにガーガーと無神経にがなりたて、どこでも三流観光地にしてしまう元凶といってよいほどです。

    黒百合は 恋の花
    愛する人に 捧げれば
    ニ人はいつかは 結びつく
    あああ‥‥あああ‥‥
    この花 ニシパに あげようか
    あたしはニシパが 大好きさ

    黒百合は 魔物だよ
    花のかおりが しみついて
    結んだ二人は はなれない
    あああ‥‥あああ‥‥
    あたしが死んだら ニシパもね
    あたしはニシパが 大好きさ

    黒百合は 毒の花
    アイヌの神の タブーだよ
    やがては あたしも 死ぬんだよ
    あああ‥‥あああ‥‥

    アイヌでは黒百合の花をニシパ(恋人)に贈ると結ばれるという伝承からつくっただけで、陳腐な歌詞もつまらなく ほとんど忘れていたのですが、八ヶ岳に来てここに咲く花だと知りました。なにより戦国武将の 妖しげな花の物語を秘めていることに魅せられました。

     佐々成政のサラサラ越え

    佐々成政
    佐々成政
    もう終わりましたがNHK大河ドラマ「利家とまつ」で前田利家のライバルとして描かれた富山城主・佐々成政(さっさ・なりまさ) は多くのエピソードを残しています。

    立山連峰
    佐々成政はこの
    立山連峰を越えた
    中でも偉業とされるのは、現代でも至難のことといわれる厳冬期の北アルプスをほとんど装備もないこの時代に10人ほどで 一人の犠牲者も出さずに踏破したことです。アルピニストの開祖とさえ言われます。 ルートは現在の黒四ダムの近くを通ります。戦後の大工事に数えられ、冬の厳しさはNHK「プロジェクトX」でも取り上げられた難工事 でかなりの犠牲者も出しています。そこを戦国時代にほとんど素手で越えたのですから確かにすごいことです。

    佐々成政が冬の山越えをすることになるまでには生い立ちの説明が要ります。 天文五年(1536)、佐々成政は第五子として尾張(名古屋市)の比良城に生まれました。兄が二人とも討ち死にしたため 成政が家督を継ぎ、比良城主となります。成政が25歳のときでした。

    成政は14歳で織田信長の小姓となり、父や兄と共に信長に仕えます。永禄十年(1567)には 織田信長の親衛隊である黒毋衣組(くろほろぐみ)の筆頭に選ばれています。 天正八年(1580)、越中(富山県)国主・神保長住を助勢するため、成政は越中に入国します。上杉景勝との戦いに備えるた めです。その後、上杉家や国人との戦いを経て、成政は名実ともに越中の国主となります。

    突然「本能寺の変」で主君、織田信長が明智光秀に殺されます。しかし、越後の上杉勢と戦いを構えていた成政は動けません。 疾風の勢いで上洛した秀吉に主君の仇敵光秀を倒されてしまいます。成政は、秀吉が嫌いでした。

    徳川家康が織田信長の遺子信雄を奉じて秀吉討伐の軍をおこしたと聞き、成政は躍りあがって喜びますが、すぐ、家康と秀吉 の和睦の報が入ります。成政は家康に会って真意を糾(ただ)し、家康に再度立ち上がってくれるよう頼もうとします。しかし、越中は敵方に囲まれていました。
    西の加賀、能登には前田利家が、東の越後の上杉景勝はすでに秀吉と手を結んでいます。ひそかに浜松城へ赴くには厳冬の中央アルプス、立山連峰を越えるほかありません。 最初に立ちはだかるのが、昔の書き物では「沙羅峠」と清音になっていて現在は、「佐良(ザラ)峠」と濁音になっていますが、 海抜2348メートルの峠越えでした。これが「さらさら越え」です。「ざら」が「さらさら」になったのは語呂がいいからでしょう。

    しかし、成政がこれだけ決死の覚悟で出向いたにもかかわらず、 「なにごとも時節でござる。時節いたらざるに動くこと、なべて身をやぶる因(もと)でござる」と家康は動くことはありませんでした。

       さらさら越えのルートは

    ザラ峠
    夏場のザラ峠(佐良峠)。
    左は五色ヶ原で前方が黒部湖になる。。
    山越えは天正12年(1584年)11月24日未明のこととされます。もう厳冬です。「さらさら越え」とは、どこを指すのでしょうか。 常願寺川をさかのぼり、立山弥陀ケ原から松尾峠、それから立山温泉に滞在したといわれます。立山温泉は江戸時代、安政5年 の地震で起こった「鳶山崩れ」で埋没、現在はありません。ちなみに鳶山崩れ(富山)、大谷崩れ(静岡・梅ケ島)、稗田山崩れ(長野). の3つを「日本三大崩れ」に数えます。私は大谷崩れを静岡で見に行ったことがありますが壮大なスケールで圧倒されました。

    立山温泉で寒さに対する装備を整え、佐良峠を越え、現在の黒四ダム(黒部湖)のそばにあたる「平の小屋」あたりで黒部川を 渡渉し、針ノ木峠を越えて籠川(かごかわ)を下り、 鹿島川が高瀬川と合流する信州仁科(大町)へたどりついた、というのが通説です。紹介した地図はこのルートを示しています。 このほか、一の越(いちのっこし)から御山谷を下ったとも、親不知(おやしらず)の上路(あげろ)を越え、越後の西を現在の 大糸線沿いに信州へ出たという説もあります。針ノ木峠からのルートも諸説いろいろです。

    さらさら越えルート1
    常願寺川をさかのぼってザラ峠を越えた。
    上のグリーンのところは現在の立山黒部アルペンルート。

    さらさら越えルート2
    ザラ峠を越えて現在は黒四ダムの底になっているあたりを渡った。

    佐々成政の「さらさら越え」で知られるこのルートは戦国の昔から忍びの道として使われ、江戸時代にも信濃の人々は信仰の対象だった 立山参りの裏参道としてひそかに利用していたものだといいます。 この信濃野口村(現在の大町市)と越中富山を結ぶ山道は、明治8年に道幅約3m、道程90キロ、小屋や牛小屋を建て荷 牛が通れるような、いまでいう”スーパー山道”「越信新道」として整備され、越中から塩や魚、薬などの物資を運ぶ山岳産業道路となりました。 たぶん日本最初の有料道路としてその収益で道の維持を図っていたものの、冬期の崩壊破損が激しく、明治15年に廃道となっています。

    家康に断られ成政は同じ道を引き返します。往復1か月といいます。
    『武功夜話』には成政の言葉として「遥々家居を出で、越・信の剣山雪峰干里を相越え誰がために来たる哉、しからば弱主禍を 相除くため、寒天に暖を囲む遑あらず、北風骨を貫き粗衣の粉雪を払って故地を彷徨す」とあります。彼の 山越えの身支度を「熊の毛皮の胴着、同半袴、四尺に余る野太刀を負ひ、頭巾の出で立ち、髭面の中に眼光奕々、 長途憔悴して相貌極めがたし」と表現しています。

    ※ 「武功夜話」は、織田信長・豊臣秀吉に仕えた前野雄(吉田孫四郎)が、父とともに東軍福島正則のもとで戦った関ヶ原の戦 から、転戦した中部地方から朝鮮半島に至るまでの自らの体験を記した「前野家文書」の一部。 寛永11年(1634)から永い年月をかけて書き、遠くは源平の戦いから織豊期までの数々の出来事を克明に「武功夜話」21巻にまとめたもの。昭和34年発見された もので、修飾はあるものの信憑性があるとされている。

    成政のさらさら越えについて疑問視する声もありますが、徳川家康の側近・松平家忠の日記、『家忠日記』天正12年 12月の項に「越中之佐々蔵助(内蔵助成政)、浜松へこし候」と明記されていて山越えをしたのは事実と見るべきでしょう。

    雪の「さらさら越え」にまつわるこんな話もあります。

      人家のあかりが見えるのであやしみながら近寄ると、ふたりの老翁が囲炉裏(いろり)にあたっていた。 成政はこれも天の加護と一夜の宿を頼み、なぜこんな山中にいるのかと尋ねたところ、昔、源平の合戦で敗れた 平家の落武者だという。 一人は悪七兵衛景清といい、いま一人は五十嵐次郎兵衛盛嗣(もりつぐ)だと名乗った。いずれも平家でおとに聞こえた者たち。 成政はあきれて、「それはもう、四百年も昔のことだ」 というと、 「もう、そんなに年月がたったのか」と嘆いた。 「ほんとうに、景清、盛嗣ならば、天下に隠れなき豪勇のはず。ひとつ力のほどを見せて欲しい」というと、 二人は、吹雪の外に飛びだし、小山のような大岩を軽々と持ち上げ、谷底へ投げこんだ。 2人の老人は成政に信州へ抜ける道を教えると忽然と姿を消した。

     黒百合伝説

    「さらさら越え」にまつわる、もう一つの悲惨な伝説が残されています。

    成政には早百合という愛妾がいました。天正12年(1584)には早百合が懐妊し、成政を喜ばせました。でもその年の11月13日、 徳川家康に会うために「さらさら越え」に向かいます。ところがこの時、従者の一人である竹沢熊四郎(出所は『絵本太閤記』 だが、なぜか岡島金一郎という名前になっているストーリーもある)が、病気のため富山城に 残りました。成政には早百合の他に三人の側室がいましたが、嫉妬から、「早百合は竹沢熊四郎と 姦通し、お腹の子供も成政の子供ではない」と言いふらしていました。浜松から戻ってきた成政の耳 にも入りました。最初は信じませんでしたが、早百合の寝所の戸口で小さな錦の匂い袋が落ちているのを拾い ます。これが竹沢熊四郎のものであることが判明、成政は激怒します。

    成政は、まず竹沢熊四郎を呼び、手打ちにします。ついで、早百合の黒髪を引っ張り、神通川の川沿いまで 走り出て、髪を逆手に取り宙に引き上げ、斬殺、さらに早百合の一族18人全ての首をはねさせます。『絵本太閤記』によると、 早百合は死ぬとき、歯をかみ砕き、血の涙を流し、『己れ成政此の身は此処に斬罪せらるる共、怨恨は悪鬼と成り数年ならず して、汝が子孫を殺し尽し家名断絶せしむべし』と叫んだそうです。

    さらに「もし、立山に黒い百合の花が咲いたら、佐々家は滅亡するであろう。」と言って息絶えます。その後、成政は凋落の一途を たどり、早百合を殺した4年後に自害した、と『絵本太閤記』は記しています。

    今でも、神通川(じんつうがわ)の辺りには、風雨の夜は女の首と鬼火が出るという話があり、それを 「ぶらり火」と言うそうです。そして、 そこには早百合が吊されたと言われる一本榎があります。(戦争で焼けてしまったため、現在は二代目) また、『絵本太閤記』では、天正16年に成政が尼崎で切腹したのも、早百合の怨恨のためであると語っています。

    クロユリ(ミヤマクロユリはその高山型変種)は他にも伝説に満ちています。この花を、「恋い慕う相手に悟られずに渡す ことができたらその恋は成就する。」というのはアイヌ族につたわる話。また八ヶ岳にも伝説が残ります。 北八ヶ岳の黒百合平にはその名のとおりクロユリが咲きますが、この花は 「八ヶ岳の強奪をたくらむ浅間山の大男、”でえらん坊”と戦ってこれを死守した磐長姫(いわながひめ)と木花之聞耶姫(このはなのきくやびめ)の鮮血 の化したもの」と伝えられます。

     肥後国替えと秀吉の企み

      家康に断られ仕方なく越中に戻ったあとの成政の不運はまさに早百合の怨念ともいうべきすさまじさでした。

    天正13年(1585年)、秀吉の大軍は佐々征伐に押し寄せ、越中の野山は兵で満ちました。 成政は、仕方なく秀吉に降代します。ところが秀吉は何故か寛大な処置をとりました。 領土を半減しただけで許したのです。靖負(ねい)、射水(いみず)、礪波(となみ)三郡をとりあげ、新川一郡はそのままにしました。 しかし、その年、作物はみのらず、大雪が降りました。

      何事も変り果てたる世の中を知らでや雪の白く降るらむ

    成政が苦しみを述懐してうたったものであるといわれます。

    それから2年後の天正15年(1587年)、成政は国替えを命ぜられ、九州肥後へ移ります。 肥後の国主に任ぜられ、喜び勇んで赴きますが、これが落とし穴でした。

    秀吉は、なぜ、腹心でもない成政を肥後の国主にしたのでしょうか。 肥後には「国人」(くにびと)とも「国侍」(くにざむらい)とも呼ばれる者たちがひしめきあっていました。土豪としてそれぞれ独立しており、 秀吉の九州平定には協力したものの国人のおもな者だけで52人もいました。 秀吉が成政に指示したことは無理なものでした。 @五十二人衆には旧来通り所領を与えることA3年間は検地をしないことB一揆を起こさぬようすること。

    これでは、せっかく国主となっても、手足を縛られたも同然です。検地しなければ、自分の家臣に知行地を与えることさえ 出来ず、成政はついに検地を行ないます。国人衆の反抗の火の手があがり、あちこちで一揆が起こり、農民まで参加しました。

    その年の12月、秀吉は福岡の黒田、小倉の毛利、薩摩の島津に出撃を命じ、この一揆を鏡圧します。同時に、 この一揆に参加した国人の親族、長老にいたるまでことごとく斬首し、一挙に旧勢力を一掃してしまいます。 これが狙いでした。外様の成政を任用したのは、秀吉の巧妙な術策でした。

     またもクロユリの怨念

    成政の死を早めたのは、北政所(きたのまんどころ)と淀君との女の確執に巻き込まれたことにもよります。

    天正16年(1588年)4月、成政は摂津の尼崎に呼び出され、秀吉の命を待っていた時のことです。 成政は旧領越中の地侍に申しつけて、立山に咲く黒百合を早走りの飛脚で取り寄せました。 青竹の筒に万年雪をつめて運ばせ、それを秀吉の正妻、北政所に献じたのは、秀吉との仲を取りなしてもらうつも りからでした。北政所は北国の珍しい花に喜び、一輪の花を銀の花入れに活けて茶会を開き、淀君を招きました。

    ところが、このことはすでに淀君に洩れていました。使者を加賀の白山に走らせ、黒百合を取り寄せたうえ、厠の竹筒に 無造作に生け捨てにし、秀吉夫妻を迎えいれます。 北政所は顔色を変えました。
    「なんと、このようにありふれた花を、成政は珍花というて届けてきたのか。私に恥をかかせるつもりだったのだろう」 北政所の怒りが、ついに成政を失脚に追いこんだのだともいわれます。
    『絵本太閤記』は「これも先に成政が手に殺された早百合といへる女の怨念にて、今度黒百合の事より滅亡しけるやと、そぞろに怪しむ者も 多かりけりとや」と結んでいます。

    その年の閏(うるう)5月14日、秀吉は、「一揆の責任は、なべて成政が一身に負わねばならない。成政の政道よろしからず」 として、切腹を命じました。成政は兵庫県尼崎の法園寺で切腹しました。享年53歳。 天正12年11月の未明に始まった立山の「さらさら越え」から、僅か4年後のことでした。

    ◇ ◇ ◇
    早百合の殺し方などから成政は残虐非道の君主というイメージがありますが、このあと越中(富山)を統治したライバル前田利家とその係累 がひろめた噂というのが現在の研究者の説です。実際は常願寺川の氾濫に備えて「佐々堤」や「済民堤」など治水につとめた名君とも言われています。 鉄砲が渡来したときのこと、弾込めに時間がかかることから鉄砲隊を、立ち打ちと片ひざついた2段に配列、間断なく射撃する戦法を編み出したのも成政のようです。 浅間山荘事件のくだりで紹介しましたが、現場で指揮をとり、のち 初代の内閣調査室長をつとめ、現在朝のテレビで硬派の解説をしている佐々淳行氏は佐々成政の係累ということです。

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    エンレイソウ(延齢草)の話     
    遺伝子学の深淵から

    オオバナノエンレイソウ

    オオバナノエンレイソウから話を進めます。左の写真がそれです。エンレイソウというと、花が真っ白いイメージが先にたちますが、本来、エンレイソウというのはあとで紹介するように 紫の花なのです。私はそんなことも知らず、大学の校章にあったことから「寒いところで育つ」=「エンレイソウ」と思い、みなエンレイソウですませてきました。

    ところが知るほどに、この花から遺伝子学の深淵を垣間見ることになりなりました。当初、このホームページの「花の項」にあったのですが、そんなことでだんだん 書き足すことになり、とうとうこの「花の物語」へ移設するまでになりました。


     北大ゆかりのオオバナノエンレイソウ

    オオバナの群落
    林縁などの適地では群落も見られる(十勝地方)
    北大の校章というのかマークは、図のようにオオバナノエンレイソウの3枚の葉と3枚の花びらをあしらったものです。 (マーク制定の経緯とロゴ使用については文末に)また、日本三大寮歌に数えられる 北大寮歌「都ぞ弥生」(文末に歌詞と動画)はストームなどでよく歌ったのですが、この4番の歌詞に「雲ゆく雲雀に延齢草の 真白の花影さゆらぎて立つ」とあります。

    関西から入学したので、エンレイソウの名前はこの時はじめて聞き、大学構内で現物を見ました。原始林に行か なくても北海道の林の中などでごく普通に見かける花でした。北海道で育つのなら、八ヶ岳の寒冷地でもいけるだろうと考え、さっそく周りに植えようと考えた ものの、東京では株が手に入りません。

    そのころ園芸評論家の、江尻光一さんに小樽の園芸店を紹介され、さっそく電話で取り寄せました。スズランより先に上の写真のように、オオバナノエンレ イソウの見事な大輪が咲きましたが、なんとこれも八ヶ岳にすでに自生していたのです。それも自分の敷地の中に見つけたときの驚き。群生する スズランにまじって、やや小ぶりながら自生のものが咲いていました。(あとで知ったことですが、これはシロバナノエンレイソウという種類でした。)

    北大の同窓会誌「東京エルム新聞」で東京女子大名誉教授、福田一郎氏が書いている(2004年4月)ことの受け売りですが、この花には面白いエピソ ードがいろいろあるようです。ボストンのハーバード大学には「札幌農学校標本室所蔵標本」「1878年6月札幌にて採集」のラベルがついたエンレイソウの 標本各種が数多く残されているそうです。「Boys be Ambitious](少年よ大志を抱け)の言葉を残したクラーク博士は園芸学と植物学を教えたといいます。 博士が帰ったあともホイラーとペンハローは札幌に残り、現在、時計台として残る演武場を建てその一角に標本室を設けました。

    アメリカのエンレイソウ
    アメリカのエンレイソウは
    少し変わっている
    エンレイソウはアジアと北アメリカに分布して、ヨーロッパにはない品種だといいます。アジアでは北海道、アメリカでは東部のアパラチア山脈、五大湖周辺 が宝庫で、クラークの故郷マサチューセッツでは普通に見られる春の花です。このころできたボストンのハーバード大学の標本室に入れるべく、 ペンハローと学生たちが札幌周辺で採集して届けたと考えられるというのです。

    私が植えているのは上述のようにオオバナノエンレイソウ、敷地に自生していたのはシロバナノエンレイソウ(ミヤマエンレイソウ)ですが、このほかいろんな種類があります。 また色もさまざまです。そのことは遺伝子学とのからみであとで詳述しますが、大学で植物学を専攻した学生が遺伝子の勉強にこの花の観察を命ぜ られるようですが、理由は顕微鏡で見やすいことにあるようです。学名の「Trillium」が「3を基数としたユリ」を意味しているように、この花は3片のがく、 3片の花弁のほか各器官も3が基数になっています。

     エンレイソウには毒がある

    エンレイソウは漢字では「延齢草」というおめでたい字を書くのですが、名前の由来は、中国で「延齢草根」という名の胃腸薬として用いられていたところからきたといいます。 日本名でタチアオイ(立葵)の呼び方もありますがあまり使われません。タキシンという毒成分をもっています。球根にも葉にも含まれ、嘔吐、下痢、腹痛、筋肉衰弱から 呼吸障害、心臓麻痺から死に到るというけっこうシビアな毒。草を食む牛や馬を見ていると、近くまで来てもエンレイソウやスズランだけ きれいに食べ残しているから彼らはきっと何かセンサーを持っているのでしょう。ところが、アイヌはエンレイソウを「エマウリ」と言って、その実を食べていたそうです。実には 毒がないのかそれとも毒抜き法があるのか、知りたいものです。

    エンレイソウ
    エンレイソウには花弁がない
    エンレイソウとオオバナノエンレイソウはかなり違っています。「エンレイソウ」は1910年牧野富太郎博士によって和名が付けられ学名「Trillium apetalon Makino」にその名を残しています。こちらには花弁がありません。一方和名「オオバナノエンレイソウ」は学名「Trillium camchatcense Ker Gawler」とい い、1805年カムチャツカで探検隊が採集した標本にイギリスの植物学者ケール・ガウラーが自分の名を冠して命名したものです。名前が違うばかりで なく遺伝学的にも違います。白い花のオオバナノエンレイソウは染色体が二倍体(2n=10)なのに対しエンレイソウは四倍体(4n=20)だそうです。

     エンレイソウの進化の話

    エンレイソウの遺伝子を調べることでわかってきた「エンレイソウの進化の話」が面白いので紹介します。 「森羅万象」というホームページに、この方が学生時代に聞いた遺伝子学の講義 を紹介されているのですが、遺伝子を調べていくことでこんなことがわかるのかと思い、学問の深淵を覗く思いがしたので、要約します。  同時に、いろいろあるエンレイソウの種類の違いも分かるので項目ごとに整理してみました。

     講義から
    もともとエンレイソウには基本となる3種がありました。「オオバナノエンレイソウ」と今では絶滅し消えてしまった「A」と「B」 の3種です。 進化の過程で「A」と「B」が交配し、現在見るエンレイソウが生まれました。また、オオバナノエンレイソウと「A」が交配して生まれたのが、 シロバナノエンレイソウです。

    さらに種の進化が続きました。

    エンレイソウとオオバナノエンレイソウの交配で「コジマエンレイソウ」

    エンレイソウとシロバナノエンレイソウの交配で「ヒダカエンレイソウ」

    地上から消えたはずの「A」と「B」の遺伝子はエンレイソウの中で保存され、あるいは、エンレイソウとシロバナノエンレイソウの中に別々に残された 「A」の遺伝子は、ヒダカエンレイソウの中で再び出会ったのだといいます。

    この講義をしたニックネーム「ハガジー」(Hagazy,芳賀爺)教授は札幌の北大植物園に通い(ここに世界のエンレイソウを集めたエンレイソウ園がある)、『どこかで新しいエンレイソウが生まれている』と予想して各地を探し続けます。そして、北海道・白老町でついにシロバナノエンレイソウとオオバナノエンレイソウが交配 した「シラオイエンレイソウ」を発見します。

    「シラオイエンレイソウ」には芳賀に因んで、「hagae」 という種小名が与えられ「Trillium x hagae」( xは雑種を意味)と名 付けられています。

    この方のホームページによると、「ハガジーの遺伝学は4単位30回の講義のはずですが、滅多に無し。記憶では年にやっと10回くらい。それでも優を 貰ったので文句はありません。ハガジーが来ないのは講義が嫌いな(きっと)せいもありましたが、実はエンレイソウの研究のため、研究室のスタッフ半分 を引き連れて、北海道に行ってしまうからなんです。エンレイソウは九州にもありますが、樺太などの北方アジアから北海道、東北の冷涼な気候帯で繁栄する植物 です。ハガジーはこの北方アジアから北日本にある様々な種類のエンレイソウがどのようにして生まれ、そして、どのように進化してきたかを研究していたのでし た」。

    この「ハガジー教授」には誰しも好奇心をそそられます。ハガジーについてもっと知りたくなり、検索したところ1945年の北大低温科学研究所の論文にその名 がありました。これを手がかりに2007年6月、関係先に問い合わせました。北大広報課や福岡女子短期大学庶務課からの回答から次のような博士のプロフィール が浮かんできました。

    芳賀教授
    ハガジーこと芳賀教授
    芳賀サ(はが・つとむ)
    明治43年、山形県生まれ。昭和8年北海道帝国大学理学部植物学科卒業。2年後に助手となり、 松浦一教授のもとでエンレイソウ属植物の研究を統け昭和18年に助教授となって低温科学研究所( 生物学部門)に移り、エンレイソウ属植物の細胞遺伝学的な研究を続けた。

    戦後の昭和24年、九州大学理学部に生物学科が新設された際招かれて細胞遺伝学講座の教授に 就任。九州に移ったのちもエンレイソウ属植物の細胞遺伝学的研究を続け、ノヒメユリやヤマシャク ヤク、ツルポ、ヤマラッキョウなどについて研究を広げた。研究室のスタッフとともに採集旅行に出か けるため講義は休講となることも多かったようで、学生からも同僚たちからも、敬愛の 気持ちを込めて上述のように「ハガジー」(Hagazy 芳賀爺)と呼ばれた。

    昭和49年(1974)に九州大学を定年で退官したあと、福岡女子短期大学の教授を務めた。「本学を 昭和56年3月31日付で退職されています。残念ながら、既にお亡くなりになっています。亡くなられた 時期は特定できませんでしたが、退職後1〜2年後ではないかと思われます」(庶務課)とのこと。

    なお、芳賀教授のことが書かれている書物に「北の科学者群像」(杉山滋郎著 北海道大学図書刊行会) があるとのことで、北大広報課のお世話で芳賀教授に関する箇所だけ別掲します。

    ◇ ◇ ◇ 

    花の話題に戻りますが、北大植物園のホームページを見るとこう書かれています。

    「オオバナノエンレイソウは、北海道の本格的な春の到来を告げる花として知られています。高さ15〜40センチになるユリ科の多年草で、太くまっすぐ に伸びた茎の頂に広卵形で長さ 7〜17センチの葉を3枚、プロペラの羽根のように輪生させます。 5月ごろ葉の基部から直立する1本の花柄の先に 直径5センチほどの白い花をつけます。種子ひとつひとつには、エライオソームと呼ばれる白色の甘酸っぱいゼラチンのような物質がついています。

    アリはこれを目当てに種子を自分の巣へと運び、エライオソームだけを食べて種子を巣の外に捨てます。捨てられた種子は親と離れた新しい土地で その一生をスタートさせることになります。これは足を持たない植物がアリを利用してできるだけ広い範囲に子孫を残そうとする手段といえるでしょう。

    こうして地面に落ちた種子は、翌春(1年目)に発根し2年目になって親に似ないヘラ状の1枚葉を発芽させます。この後4〜5年間は1枚葉のまま暮らし、 その後ようやく3枚葉となりますが、花を咲かせるにはさらに数年かかります。このようにオオバナノエンレイソウは発芽してから最初の花をつけるまで に10〜15年もかかるのです。その後は少なくても10年間ほぼ毎年花を咲かせるといわれていることから、 1個の種子が芽吹いてから枯死するまでの 寿命は20〜 50年であろうと予測されています」

    さらに根を掘ってみると、一年に一つずつつけるしわがあり、その芽を剥ぐと次の年に咲く芽が出来ていて、更に剥いでみると二年後に咲く芽が・・・ と5ー6代までの芽がきちんと順番を待っています。

    小さな花ですが、壮大なサイクルを持っているわけで圧倒される思いです。

     エライオソームとは

    上の文章に出てくる「エライオソーム」という聞きなれない物質についてですが、植物の種子のなかには最初からアリに運んでもらうための物質をつけているものが あります。「elaiosome 」(エライオソームまたはエライオゾーム)と呼ばれます。アリを誘引するこの物質は、オレイン酸などの脂肪酸、グルタミン酸などのア ミノ酸、蔗糖(ショ)糖などの糖を含んでいます。

    エライオソーム
)
    種子についたゼラチン状
    のものがエライオソーム
    アリに運んでもらうためのこうした仕組みを持っている草花は「アリ散布植物」と呼ばれ、スミレ科スミレ属、イチリンソ ウ属、キンポウゲ科フクジュソウ属、ミスミソウ属、ケシ科キケマン属、クサノオウ属、エンレイソウ属、ユリ科カタク リ属、カタバミ科、シソ科、アオイ科などの植物200種類にものぼっています。

    エライオソームとアリ
)
    エライオソームごと
    種子を運ぶアリ
    このことは子供のほうが知っています。小学2年生の教科書のなかに「すみれとあり」という単元があり、このことが紹介されているか らです。あるところで、こどもからのこんな質問が紹介されていました。
    「そこで疑問なんですが、アリは種を見つけたときになぜその場でエライオソームだけを食べたり運んだりしないの でしょうか」

    私はうーんとうなってしまいました。私にはうまく答えられませんが、回答方法は二つあると思います。「おいしいものはあとでと言う でしょう」と文学的にいくか、「種子から離れたエライオソームは糖や脂肪酸の関係で痛むのが早いから早く運ぶ必要があるのでは」など(ホントかどう かは知らない)と科学的にいくかです。
    ところが、この回答者は「この疑問はかなり人間くさい疑問だと思います。アリが、無駄のない作業をしよう、と思って働 いているでしょうか。アリが損得勘定をできるかどうか、ぜひ疑ってください」と答えていました。
    この回答はダメだと思います。科学に対する夢も膨らみも摘んでしまいます。それにしても、アリが巣まで持ち帰るのはな ぜだろう。それを考えると夜も眠れない。

    「シロバナノエンレイソウ」(白花延齢草)
    シロバナノエンレイソウ(ミヤマエンレイソウ)
    シロバナノエンレイソウ(ミヤマエンレイソウ)
    「シロバナノエンレイソウ」は「ミヤマエンレイソウ」(深山延齢草)とも呼ばれます。研究者などは 後者を使うようですが、一般の愛好家に前者の表記が多いのは花色が分かりやすいせいかと思います。 この花の学名は「Trillium tschonoskii Maximowicz」で「チョウノスキー」と「マクシモヴィッチ」の名前が並んでいます。 そのいわれは前の章の「チョウノスケソウ」のくだりをみていただくとして、学問に国籍も年齢も関係ない証左として学名を見るたびに ほほえましく思えるのは、私だけではありますまい。

    シロバナノエンレイソウは、まだ、まわりの草が大きくならない春先に真っ先に花を咲かせるので、よく目立ちます。 別名、ミヤマエンレイソウの名が示すように、亜高山のやや湿り気のあるところに生え、高さ20-40センチの花茎に1個白花をつけます。 エンレイソウより一回り花が大きく、オオバナノエンレイソウより小さいです。またオオバナノエンレイソウのように外花被片と内花被片の先が丸みを帯び ていません。八ヶ岳では我が敷地にも3本ほど顔をみせますが、少し下の美鈴池で多く見かけます。この写真は八ヶ岳高原ロッジのHP(2004.05.20撮影)から拝借し ましたが、この年は春の訪れが例年より2週間ほど早かったようです。
    シロバナノエンレイソウの内部
    シロバナノエンレイソウの緑の萼と
    白い花弁はどちらも先がとがっている

    シロバナノエンレイソウとオオバナノエンレイソウは、見分けるポイントを知らないと同じ花に見えます。 シロバナノエンレイソウは、外側の緑色の萼(がく)と内側の白い花弁はどちらも先がとがり、長さはほぼ同じ。子房は通常クリーム色。 紫の斑紋が入るものもある。花は横向きに咲きます。

    オオバナノエンレイソウは、外側の緑色の萼と内側の白い花弁はどちらも先がとがらない。長さは花弁の方が飛び出すように長い。 子房の先端が濃い紫色。花は上向きに咲きます。

    一般には花の咲き方で見分けるのが早いでしょう。横向きならシロバナ、上向きならオオバナ、とおぼえます。

    白いエンレイソウだけですが、花弁などの比較で識別法を解説したサイト 「白い花をつけるエンレイソウの比較」があります。

    「シラオイエンレイソウ」(白老延齢草)
    シラオイエンレイソウ
    シラオイエンレイソウ
    前述のようにシロバナノエンレイソウとオオバナノエンレイソウの交配種です。芳賀教授が最初に発見した白老町の地名をとって命名されています。 草丈は30〜70 センチ程度。花弁は萼片よりも長く、子房の先端部に斑点があるのはオオバナノエンレイソウに似ますが、最も異なっているのは、雄しべは雌しべよりも短く、 雄しべの先の葯は根元の花糸の約2倍ある(オオバナノエンレイソウは約3倍)ことでしょう。また子房の先に赤い色素があるのでほかと区別できます。花はミヤマエン レイソウのように横向きに咲く傾向が強いです。全体に大型で 、株立ちになる傾向があります。 この種はレッドデータブックで絶滅危惧種に指定されています。

    「コジマエンレイソウ」(小島延齢草) 
    コジマエンレイソウ
    コジマエンレイソウ

    コジマというのは発見された渡島小島(おしまこじま)」(別名「松前小島」)を指します。函館市の西、松前町から20キロの洋上に浮かぶ周囲4キロの小さな無人 の火山島です。学生時代、この島に函館海上保安部の巡視船で渡してもらい、仲間と10日ほど無人島暮らしをしたのですが、そんな花のことは露ほども知らずにすごしました。 今では他にも樺太南部から北海道南部に分布していることがわかっています。

    花期は他のエンレイソウと同じく4〜5月です。上述のようにエンレイソウとオオバナノエンレイソウとの雑種ですから、両種が混生する場所で見られます。濃い紅紫 色の花弁を付けるのが特徴です。エンレイソウとの見分け方は、

    @萼片の先が急に細くなる
    A雄しべは雌しべと同長か長い
    B雄しべの葯は花糸より長い

    比較的海岸に近いところに多く、こうしたところの樹林下などに生え、茎の高さは20〜40センチで茎頂に、直径3〜4センチの紅紫色の花を1個つけます。外側に緑色に 淡紅紫色を帯びた萼(がく)=(外花被片)=が3個、内側に紅紫色の花弁(内花被片)が0〜3個あります。葉は菱形状円形で、茎頂に3個輪生します。果実は液果で卵形。 稜があり、淡緑色をしています。

    花びらは整った形の3枚をもつものは少なく、丸みがあったり、それぞれ大きさが異なったり、極端に小さかったりと、いろいろな変種があり、果実が黒紫色になるクロ ミノ(黒実の)コジマエンレイソウという変種もあります。コジマエンレイソウは個体数を減らしていて北海道レッドデータブックの希少種(R)、環境省により「絶滅 危惧II類」に指定されています。


    「ヒダカエンレイソウ」(日高延齢草)  
    ヒダカエンレイソウ
    ヒダカエンレイソウ

    ヒダカエンレイソウは日高地方で初めて見出されたエンレイソウの仲間であることから名づけられました。北海道、本州(中部地方)に分布します。学名の 「Trillium ×miyabeanum」は北大の前身、札幌農学校の2期生で、新渡戸稲造や内村鑑三とともに、3秀才として知られる植物学者、宮部金吾博士にちなみます。学名 にある「×」記号は交雑種であることを意味しています。北大附属植物園内には宮部金吾記念館があり、博士が研究した世界のエンレイソウを一堂に集めたコーナーが あります。

    花期はほかのエンレイソウと同じ5〜6月。草丈はやや低く、 20〜40 センチ。茎頂に、直径3〜4センチの紅紫色の花を1個つけます。外側に緑色に淡紅紫色を帯びた 萼(がく。外花被片)が3個、内側に紅紫色の花弁(内花被片)が0〜3個あります。子房は通常クリーム色。葉は菱形状円形で、茎頂に3個輪生します。果実は液果で卵形。 稜があり、緑色〜紫色と変化が多いです。果実が黒紫色になる変種のクロミノ(黒実の)ヒダカエンレイソウがあります。

    ヒダカエンレイソウも低地から山地の湿り気のある林内などを好み、群生することもあります。赤紫のエンレイソウと白いシロバナノエンレイソウ(ミヤマエンレイ ソウ)との交配種で、母種よりやや大型です。同じように赤い花弁を付けるコジマエンレイソウがありますが、見分け方は非常に難しいです。

    ヒダカエンレイソウの識別点は、
    @萼片の先が次第に細く鋭くなる
    A子房は角張った卵型
    B雄しべが雌しべと同長か短い

    交雑種ですから、周囲にはエンレイソウとシロバナエンレイソウ(ミヤマエンレイソウ)が周囲にあるものです。ヒダカエンレイソウは、北海道から希少種(R)に指定されています。



        都ぞ弥生 
                  横山 芳介君 作歌
                  赤木 顕次君 作曲   
    
    都ぞ弥生の雲紫に
    花の香漂ふ宴遊(うたげ)の筵(むしろ)
    尽きせぬ奢(おごり)に濃き紅や
    その春暮れては移らふ色の
    夢こそ一時(ひととき)青き繁みに
    燃えなん我が胸想ひを載せて
    星影冴(さや)かに光れる北を
    人の世の 清き国ぞとあこがれぬ

    男性ボーカルのもの。1,2,3番歌唱。

    (左端の右向き矢印クリックでスタート)

    豊かに稔れる石狩の野に
    雁(かりがね)遙々(はるばる)沈みてゆけば
    羊群声なく牧舎に帰り
    手稲の嶺(いただき)黄昏こめぬ
    雄々しく聳(そび)ゆる楡(エルム)の梢
    打ち振る野分(のわき)に破壊(はゑ)の葉音の
    さやめく甍(いらか)に
    久遠(くをん)の光り
    おごそかに 北極星を仰ぐ哉(かな)



    寒月懸(かか)れる針葉樹林
    橇の音(ね)凍りて物皆寒く
    野面(のもせ)に乱るる清白の雪
    沈黙(しじま)の暁霏々(ひひ)として舞ふ
    ああその朔風飄々(ひょうひょう)として
    荒(すさ)ぶる吹雪の逆巻くを見よ
    ああその蒼空(そうくう)梢聯(つら)ねて
    樹氷咲く 壮麗の地をここに見よ

    加藤登紀子が歌うもの。1,2,5番歌唱。

    (左端の右向き矢印クリックでスタート)

    牧場(まきば)の若草陽炎燃えて
    森には桂の新緑萌(きざ)し
    雲ゆく雲雀に延齢草の
    真白(ましろ)の花影さゆらぎて立つ
    今こそ溢れぬ清和の陽光(ひかり)
    小河の潯(ほとり)をさまよひゆけば
    うつくしからずや咲く水芭蕉
    春の日の この北の国幸多し

    朝雲流れて金色(こんじき)に照り
    平原果てなき東(ひんがし)の際(きわ)
    連なる山脈(やまなみ)冷瓏(れいろう)として
    今しも輝く紫紺の雪に
    自然の芸術(たくみ)を懐(なつかし)みつつ
    高鳴る血潮のほとばしりもて
    貴(たふ)とき野心の訓(をし)へ培い
    栄え行く 我等が寮を誇らずや


    ======================================

    ボニージャックスが歌うもの。1,2,3番歌唱。
    荒(すさ)ぶるのところを間違って歌っている。

    (左端の右向き矢印クリックでスタート)

     

    【前口上 】

    吾等(われら)が三年(みとせ)を契る絢爛のその饗宴(うたげ)は、げに過ぎ易し。
    然れども見ずや窮北に瞬く星斗(せいと)永久(とわ)に曇りなく、
    雲とまごう万朶(ばんだ)の桜花久遠(くおん)に萎えざるを。
    寮友(ともどち)よ徒らに明日の運命(さだめ)を歎かんよりは楡林(ゆりん)に篝火(かがりび)を焚きて、
    去りては再び帰らざる若き日の感激を謳歌(うた)はん。

    この後に、「明治45年度寮歌、横山芳介君作歌・赤木顕次君作曲、都ぞ弥生、アインス、ツバイ、ドライ」と続け、歌に入る。

    --------------------------------------

    *「都ぞ弥生」を始め恵迪寮歌にはこの前口上が述べられる。これを聞かないと気持が入っていかないという人が多いので紹介した。 この前口上は「楡陵謳春賦」と呼ばれ、1936年(昭和11年)に寮歌の『嗚呼茫々の』の序文として当時の学生、宍戸昌夫氏によって 書かれた。

    「都ぞ弥生」にはいろいろな歌い方があります。この他の動画については、
    北大馬術部のホームページの「都ぞ弥生の物語」 で紹介しています。


    北大のシンボルマーク (できた経緯とロゴ使用について)
    北大馬術部のホームページのリニューアルにあたり、シンボルマーク使用について大学当局に問い 合わせたところ、広報(総務部総務課)から以下のような回答がありました。出来たいきさつや ロゴに各種あることなどがわかるので紹介します。
    なお、2005年中に商標登録するものの、学内や北大所属団体の使用は従来どおり自由とのことです。

           

    ◇ ◇ ◇ ◇

    本学のシンボルマークについては,平成8年9月にこれまで学内で使用されて いたものを正式に認定いたしました。詳細については「北大時報」平成8年10月号に 掲載されております。

    記事にもありますとおり、シンボルマークは基本形のほか、基本形のまわりにロゴを組み合わせ たもの、カラーについては、白、黒、青、緑の4色を使用したものがあります。
    基本形画像ファイル1(基本形4種)
    創立年号入り画像ファイル2(創立年号入り4種)

           

    ◇ ◇ ◇ ◇

    北海道大学のシンボルマークが決定(「北大時報」平成8年10月号)

     120周年を迎えた本年(平成8年)9月、北海道大学のシンボルマークを決定しました。
     このマークの形象は、1950年(昭和25年)、農学部学生自治会が全学バッジの作成を企画し、図案の募集を 行った際の入選作であり、作者は農学部2年土屋徳之助氏です。
     その後、このマークは大学の公式機関の決定を経ぬまま、他の学部においても用いられ、また、大学が刊行する公的印刷物にも使われ、 事実上シンボルマークとしての処遇を受けてきました。
     このような経過を経て広く使用され親しまれてきたこのマークを120周年を機に、正式に認定する方向で検討し、 本学工学部建築工学科小林英嗣教授の協力を得てグラフィックデザイナー池田信氏にデザインを依頼しました。
     池田氏は、これまで種々使用されてきたエンレイソウをモチーフにしたマークを比較検討し、マークの持っているイメージを 大幅に変えることなく、 線の美しさと形態の安定感を求めて、端部のくぼみ度、線の太さ・種類、文字書体等について視覚修整を行い、 上記図案を提案しました。本学では、本年9月18日開催の評議会において、これを北大のシンボルマークとして決 定したものです。

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    スエコザサとハマナスの話     
    巨星・牧野富太郎をめぐる2つの植物

    八ケ岳に限定しているとはいえ、浅学非才の身で植物の名前を紹介しているからには植物分類学史上の巨星、牧野富太郎博士に触れないで通り過ぎるのは失礼であろう。そこで紹介するのが「スエコザサ」と「ハマナス」の話。

    スエコザサ

    ササの一種に「スエコザサ」(寿衛子笹)というのがあります。博士が愛妻にちなんで命名したことで知られます。植物、とりわけ花が好きな人は多いことでしょうが、「花でもなく木でもなく草でもない」ササ(笹)など見過ごしがちです。私も例外ではなく、この山墅(さんしょ)ではひたすら敵視して草刈機を振り回してササとの格闘に明け暮れて来ました。その涙ぐましい話は「厳寒の地でのガーデニング」の「八ケ岳笹刈倶楽部」の項で書きました。また同じ「厳寒の地でのガーデニング」の項の「我が敷地の高山植物」でササにも学問的考察も加えてみました。しかし、ある時「こんな」ササにでもきらりと光る学問の深淵と圧倒的人間の物語が潜んでいることを知り、感動しました。それが次に述べるストーリーです。


    牧野富太郎
    牧野富太郎(1862〜1957)
    文久2年4月24日、土佐国(現、高知県)佐川村(現、佐川町)の裕福な商家に生まれ、幼少の頃から植物に興味を示した。10歳で寺子屋、さらに塾で学び、その後12歳で小学校にも入学したが、両親と死に別れて2年で中退する。学歴はそこで終わりだが、その後も好きな植物採集に没頭する。

    採集、写生、観察など研究を続けながら、欧米の植物学も勉強し、当時の著名な学者の知己も得るようになる。22歳のときには帝国大学(現東大)理学部植物学教室に出入りするようになり、やがて25歳で共同で「植物学雑誌」を創刊した。その後26歳でかねてから構想していた「日本植物志図篇」の刊行を自費で始めた。今でいう植物図鑑のはしりである。

    27歳で新種のヤマトグサに学名をつけ植物学雑誌に発表した。28歳の時に東京・小岩で見慣れない水草を採集、これがムジナモの日本での新発見だった。学術論文を書いて世界的に名を知られるようになる。、その後も多数の標本や著作を残していく。ただ学歴のないことと、大学所蔵文献を、参照用に借り出したままなかなか返却しないなどの性癖から研究室の人々との軋轢もあり厚遇はされず、経済的にも苦しかった。

    また植物研究のため実家の財産も使い果たし、さらに妻が経営する料亭の収益もつぎ込んだ。その料亭の件や、当時の大学の権威を無視した出版などが元で大学を追われたこともある。31歳で帝国大学理科大学の助手となったが長年助手のままで、49歳で東京帝大の講師となり、1939年77歳で退官するときまで身分は講師だった。月給は大卒初任給並みの70円ほどだったという。

    学歴のない老講師を学生までからかった。野外観察でひと恥かかせようと一人の学生がそのへんにあった枯れ草の根を黙って差し出した。学生たちが好奇の目で見つめるなか、牧野は草の根をそっと口に含むと、関東地方では見られない南方種のヒルガオの名を静かに告げた。識別の特徴として、その根にはサツマイモに似た甘味のあることをあげた。渋谷章著「牧野富太郎」にある挿話である。

    1950年日本学士院会員。翌年81歳のとき、第一回の文化功労者となり、小学校中退でありながら理学博士の学位も得た。1953年東京都名誉都民。昭和32年(1957)1月18日、94歳で死去。没後に文化勲章を授与されている。生まれた日は「植物学の日」と制定された。墓所は東京都台東区の谷中霊園。

    牧野富太郎は「日本の植物学の父」と言われ、近代植物分類学の権威と称えられています。その研究成果は50万点もの標本や観察記録に残されていて、78歳の時の研究の集大成「牧野日本植物図鑑」は改訂を重ねながら現在も販売されています。新種を発見、命名した植物の名前はムジナモ、センダイヤザクラ、トサトラフタケ、ヨコグラツクバネ、アオテンナンショウ、コオロギランなど2500種以上(新種1000、新変種1500)、自らの新種発見も600種余りという膨大なものです。

    寿衛子夫人
    寿衛子夫人

    しかし、貧乏とは一生縁が切れませんでした。高知県の実家の家作はもちろん、俸給も出版につぎ込みました。家のことはすべて寿衛子夫人に任せきりでした。この夫人がよくできた人で、料亭の経営に才能を発揮し、そこそこの収入もあったようですが、これも研究につぎ込みました。生活は赤貧洗うが如し。夫人は借金取りが家に来ると窓から赤い旗を出し、帰宅しないよう夫に知らせたという逸話が残っています。夫人は、一応は料亭の女将(おかみ)と呼ばれる立場にも関わらず、生涯を通じて新しい着物を買うことなく、つねに古いつぎはぎだらけのものを着ていたそうです。

    植物の分類・研究に没頭、その他は一切を夫人に任せて、自分は「草を褥(しとね)に木の根を枕、花を恋して五十年」と自作の都々逸を残しています。飄々としていた博士も悲劇に見舞われます。夫人が原因不明の病にかかり、長期闘病のすえ、昭和3年(1928)数え年57歳で亡くなりました。

    晩年の牧野富太郎
    晩年の牧野富太郎博士のスナップ

    深く悲しんだ博士は、前年に仙台市郊外で発見したササの新種に「スエコザサ」(寿衛子笹)と命名、学名にも「Sasaella ramosa var. suwekoana」と夫人の名前を入れました。長年苦労を共にした妻に感謝の意を込めて和名と学名の両方に夫人の名前を入れ、さらに墓碑には、「家守りし妻の恵みやわが学び 世の中のあらん限りや寿衛子笹」と追憶の一首を刻みました。

    その後、スエコザサの学名は「Sasaella ramosa var. suekoana (Makino) Murata」に変更され、変種名に格下げになったものの、博士の思いは今も笹の名前に残っているのです。スエコザサは、葉の片方が裏に向かって巻いていて表面に白い毛が生えているのが特徴で、宮城県以北の本州に生育していますが大変少ないそうです。

    次にハマナス(浜茄子)の話です。ハマナスについてはこのホームページ「木もの」項でも紹介しました。しかし、「ハマナス」と表記すること自体がすでに問題なのだという話なのです。
    はたして、博覧強記でなる牧野富太郎博士ですら間違いを犯したのでしょうか。仙台市野草園の管野邦夫・名誉園長が来園者を前にこのことについて話している記録があります。大変分かりやすいのでそのまま紹介することにします。

    ◇ ◇ ◇

    北海道、原生花園のハマナス
    ハマナスかハマナシか・・・・北海道、原生花園のハマナス
    この前、常陸宮ご夫妻がお出でになりました。私がご案内することになり、こういう説明をしました。「仙台市の野草園は、身近にある野生の植物だけを集めている植物園です。珍しいものは一切ございません。これが全国的にも珍しがられている植物園です」

    これからハマナスの話をさせてもらいます。

    ここに一枚の絵葉書を持って参りました。そうです、ハマナスですね。この葉書は、国立科学博物館つくば実験植物園で出したものですけれど、ハマナスとは書いてありません。ここには「ハマナシ」と書いてあります。

    森繁久彌の「知床旅情」は「知床の岬に ハマナスの咲くころ 想いだしておくれ おれたちのことを」です。 石川啄木だって「潮かをる北の浜辺の砂山のかの浜薔薇(はなます)よ今年も咲けるや」とうたってます。

    それなのに牧野富太郎先生は、「これは”茄子”ではなく”梨”の形だ。だから本当は”ハマナシ”だ。それを東北人が、”シ”を”ス”と訛(なま)って呼んだ間違いだ」と、そう言ってるんですよ。

    ですから牧野図鑑を見ますと「ハマナシ」と書いてあって、下のほうに小さく「ハマナス」と書かれ、カッコして「誤称」となっています。牧野先生の言っていることは全部正しいものだと思う人達は「ハマナシ」ですね。ですけど、私は「ハマナスはハマナスだ」ってことで戦っております。国民的辞典なんてカッコイイ宣伝をしている岩波書店の「広辞苑」は「ハマナシ」ですね。

    「広辞苑」が改訂されると知ったとき、さっそく岩波書店に電話を入れました。「ハマナシ」のところを「ハマナス」と直して頂けませんか、と注文をつけました。編集者は直すことはできませんってことでした。それを担当した先生の意見を尊重しなければなりませんので、ということでした。勿論そうですね。辞典というのは、一人の人が書いているわけじゃありませんから。その担当の先生は、牧野先生のお弟子さんなんですね。

    しかし、そのとき編集者からいいことを聞きました。「改訂に際して、ハマナシをハマナスに、と言っているのはあなただけじゃないんですよ」ということでした。「大辞林」…これはいい辞典です。これが出ましたとき、本屋さんに注文しましてすぐ開いたのがハマナスです。【ハマナシは、ハマナスの別名】とありました。これが本当です。

    皇太子妃のお印の花が「ハマナス」と決まりました。ハマナシではありませんよ。テレビ等で報道されましたら、私のところに、いっぱい祝電がまいりました。「管野さん、勝ちましたね」…そういう手紙をいただきました。私は勝ち負けのために戦っているわけじゃありませんけれども。

    皇太子妃の雅子さまが選んだとき、ハマナシという呼び方を知らなかったでしょうか。そんなことは、ありませんよ。「皇居の植物」という昭和天皇が出された本(皇居の中にある植物について全部書いてある)には、「ハマナス」「シロハマナス」「コハマナス」…とちゃんと書いてあります。

    宮内庁では、「ハマナス」と「ハマナシ」のどちらの呼称もあると知っていての「ハマナス」ですから。「雅子さん、東北訛りで呼ばないほうがいいですよ」なんて言っている人がいるんですよ。NHKのラジオでも、アナウンサーが「ハマナシ」と言ってました。さっそく長い手紙を書いて出しました。「ハマナスは、ハマナスだ」って内容です。黙っていては、駄目です。

    ◇ ◇ ◇

    ハマナスの実
    「ホボ茄子ノ如シ」
    とはいかない
    ハマナスの実

    「ハマナシ」説の出どころは、牧野富太郎博士が昭和14年5月発行の『実際園芸』第25巻5号で「ハマナスはもともとハマナシ(浜梨)だったものが東北の人たちが訛って呼んだために誤称されたもの」としたことに始まるようです。これは、それより前に大槻文彦博士(1847〜1928)が「大言海」で「浜茄子」と書き「赤クシテ円ク長ク、ホボ茄子ノ如シ」としたことに対する反論として書いた、とも言われます。

    牧野富太郎博士はその理由として、@熟すと生食できることから形の似た梨になぞらえた。A東北では「シ」を「ス」と発音するがゆえにハマナシがハマナスに転訛した。羽後のあるところでは正しくハマナシと発音していた、と述べ、さらに加えて、「浜茄子には絶対反対で浜梨子を確信している」とまで強弁しているのです。博士が尊敬するシーボルトの「日本植物誌」(フロラ・ヤポニカ)には「Hamma nasi」と書かれていて牧野説を補強しています。

    結論ですが、今も結論は出ていない、というのが結論です。植物学者やバラの専門家の間では「ハマナシ」の支持者が大半。図鑑なども「ハマナシ」が優勢、一般では「ハマナス」といったところのようです。素人として言わせていただくなら、こうした結論のない話というのもまた魅力なのです。学者が青筋立てて議論しているのは面白いものです。

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    フィボナッチ数の不思議     
    植物は数学を知っている

    植物のことなど何一つ知らずにこの八ヶ岳にやってきたのですが、知れば知るほど不思議な世界であることがわかり感嘆します。そのひとつが「フィボナッチ数」と いうものです。植物が葉を展開していく上で「ひとつの数式」をわきまえていると言うのも驚嘆すべきことですが、身の回りの数多くの植物がこの法則通りであるこ とを目の当たりにすると自然に畏敬の念を持たずにいられません。

    魅力的な花の物語を集めたコーナーの趣旨から少し外れますが、植物が知っている数学の話です。

    まず「フィボナッチ数」とはどんなものか。数学者が書いた一文があるので、「ウサギ算」から勉強します。

    【秋山仁のこんなところにも数学が!】   植物が知っている不思議な数

    フィボナッチ数
    フィボナッチ数
    日本では「ネズミ算」が知られていますが、西洋には「ウサギ算」というのがあります。「正月に生まれた1つがいの子ウサギがいる。このつがいは、1カ月おいた 3月から、毎月1つがいずつの子ウサギを産み続ける。また、新たに生まれた子ウサギも、1カ月おいた翌々月から、毎月1つがいずつの子ウサギを産み続ける。 すると、ウサギのつがいの総数はどのように増えるか」という問題です。

    この条件を満たすウサギの増え方を知るには、数字を次のような規則で並べると分かりやすくなります。まず1を2つ横に並べる。そして、それら2数を加えた2を その右に書き加える。次に1と2の和3をその右に書き、2と3の和5をその右に書く。このようにして、すぐ左の2数の和をつぎつぎ右に書き加えていくと、左か らn番目の数がn月の答えになります。その理由は、2カ月前のつがいだけが同数のつがいを産むためです。このようにして得られる数はフィボナッチ数と呼ばれ ています。

    この数は植物の世界にも頻繁に現れる不思議な数です。例えば、ニレの木を見ると、枝から出る葉の向きは2分の1周ごとに左、右、左、右…と向かい合って交互に 出ています。これがブナの木になると、3分の2周ごとに葉が出ています。また、カシとアンズの木では5分の3周、ポプラとナシの木では8分の5周です。これら は、フィボナッチ数の隣り合う2数の比として得られる分数です。

    「そんなことは偶然だ」という読者がいるかもしれませんが、大抵の植物は、これらの比率で葉を出しているのです。このように葉を出すと、どの葉も太陽の光を ムラなく浴びることができるというメリットがあるからかもしれません。植物の葉の出る位置にも数学が関係しているのです。(秋山仁・東海大教育開発研究所長 )=2008.4.1産経Web

    もとは次々増えるウサギの数を計算する「ウサギ算」ですが、上述のように植物もこの数式を守っているのです。エジプトのピラミッドもこれで計算されていると言います。 それどころか、最近では証券市場で株価までこの法 則で動いているという説があり、株価操作をこれで行っているグループもあるくらいなのです。

    フィボナッチ
    フィボナッチ
    フィボナッチ(Fibonacci)と言うのは今からおよそ1世紀半前に、この数式を発見したイタリアの数学者レオナルド・フィボナッチ(1170-1250 ピサのレオナルド )のことです。上ではニレやブナでこの数式どおりであることが述べられていますが、他にもいろんな植物でこの数式が当てはまることが証明されています。


    ヒマワリのらせん
    ヒマワリもフィボナッチ数列
    たとえば、八ヶ岳でもバードフィーダーを通して多くの野鳥にヒマワリの種を提供していますが、実はヒマワリの花も種子もこの数式で成り立っています。まず花で すが、13枚,21枚,34枚,55枚とフィボナッチ数で展開します。まつぼっくり(松笠)のうろこ模様は、螺旋を描きながら回転していますが、5分の8角形と いうフィボナッチ数で回転しています。

    ヒマワリのらせん
    ヒマワリの葉序。同じところ
    (0と8)に来るまでを数える。
    この場合3周して8枚になる。
    数え方がむずかしいという人がいるかもしれませんが、私は一貫して算数、数学が苦手人間で、下手に説明するとかえってわからなくなりそうです。ここは植物の不思 議な姿を紹介するのが目的なので、そういう疑問を持つ方は検索窓に「フィボナッチ数」と打ち込んでください。数多くのサイトがあります。

    フィボナッチ数は葉序(ようじょ)、すなわち植物の葉の生え方の順序に深く関係します。上の表にあるように、ブナやハシバミなどは1/3回転して次の葉が生 えてくるので「1/3葉序」と呼ばれます。カシやアンズは「2/5葉序」が、ポプラやナシは「3/8葉序」が、ヤナギやアーモンドでは「5/13葉序」が見 られるのです。

    どうしてこうした葉序になるのか。理由は簡単です。植物は自分が生長するために、いかに効率よく日光を取り込めばいいか知っているからです。つまり、できるだ け葉が重ならないように葉を出す方法を計算しているのです。

    そこででてくるのが黄金比というものです。「1.618 」が黄金比です。上で「1/3葉序」とか「5/13葉序」とか植物がフィボナッチ数に従っていることを説明 しましたが、どれも、限りなくこの黄金比に近いのです。茎の周り360度を黄金比に分けた角、これを「黄金角」と言いますが、計算では「137.507度」です。 多くの植物は限りなくこの角度を目指して葉を出していくのです。

    展開する葉の大きさで葉序は「1周で3枚」か「5周で13枚」かの違いがありますが、植物を上から見て、この角度で葉を出すと最も葉が重なりにくいのです。つ まり最も効率よく太陽を浴びることができるのがフィボナッチ数なのです。驚嘆すべき植物の知恵です。



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