このごろ桜に惹かれる。以前は、桜というと吉野の千本桜とか、ずっと続く桜並木がよかった。若さゆえの豪華絢爛好みだろう。大阪なら造幣局の通り抜け、東京なら馬事公苑の
桜のように八重桜が好みの時もあった。その下での花見酒もまた風情があり、誘われて断ったことはあまりない。皇居の千鳥ヶ淵そばのホテルに席を取ったり、靖国神社までおでんを運ばせたこともあった。 今はそういうのは真っ平ごめんだ。八ヶ岳から近いのと名所として有名な長野・高遠の桜を見に行ったものの、辟易して、中年過ぎて好みが変わったことを自覚した。一本だけぽつねんと立ち尽くす桜がいい。 そうした古木、名木に出会うと不思議と胸が高鳴る。 八ヶ岳を訪ねるとき中央高速を使うことから、山梨県の桜が多いが、季節にはすすんで途中下車する。高低差がある土地柄だけに満開の時期はずいぶんと幅がある。これがまたいいところでもある。みつけた「私の花の名所」を・・・ |
↓クリックでその場所に飛びます。
山梨県西部
山高の神代桜 | 真原(さねはら)の桜並木 | 萬休院の舞鶴松 | 清春芸術村の桜 |
神田の大糸桜 | 韮崎わに塚の桜 | 三代校舎ふれあいの里の桜 | 白州町殿町の桜 | 谷戸城址の桜 |
慈雲寺の糸桜 | 牧丘町乙ケ妻のしだれ桜 | 城下のシキザクラ | 雲峰寺のエドヒガン |
青梅・金剛寺のしだれ桜 | 青梅・梅岩寺のしだれ桜 | 高麗神社のしだれ桜 |
清雲寺のしだれ桜 |
身延山久遠寺のしだれ桜 |
福王寺のしだれ桜 |
関所破りのしだれ桜 |
安 富 桜 | 桜丸の夫婦桜 | 専照寺のしだれ桜 | 正永寺のしだれ桜 | 黄梅院の紅しだれ桜 |
愛宕神社の清秀桜 | 増泉寺のしだれ桜 | 阿弥陀寺のしだれ桜 | 毛賀くよとのしだれ桜 |
麻績(おみ)の里 舞台桜 | 麻績の里 石塚桜 | 瑠璃寺の桜 |
その他・見逃した桜 |
坪井のしだれ桜 | 黒部のエドヒガン桜 | 赤和観音のしだれ桜 |
中塩のしだれ桜 | 水中のしだれ桜 | 和美のしだれ桜 |
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2018年4月2日、吉野山のさくらは記録的な温かさで全山同時に満開。
下千本、中千本、上千本の見事な光景。ドローンによる空撮をYouTubeで。
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日本人の高潔の象徴が桜 |
「日本書紀」から「桜の樹の下には屍体が埋まっている!」まで |
井伏鱒二の名訳にみる桜 |
「梅を見る会」から「桜を見る会」に」 |
なぜ、日本中がソメイヨシノになったか |
クローン種は樹齢が短く、病害虫に弱い |
数十年後には九州、静岡、神奈川で全く咲かなくなる |
ジンダイアケボノ(神代曙)、コマツオトメ(小松乙女)、オオガワラベニザクラ(大河原紅桜) |
紀伊半島自生の「クマノザクラ」 |
私が好きな桜。孤木にして古木のランキング |
桜に取りつかれた男たち |
春に咲くよく似た三つの花の違いについて |
卒業式の定番となった曲 |
(マウスを当てて手型が出る写真は、クリックで大きなサイズの写真になります)
山高の神代桜(4月10日ごろ見頃) (山梨県北杜市武川町山高2763)
樹木医の手でよみがえってきた神代桜。 |
いわゆる”平成の大合併”で聞きなれない北杜市となったが、山梨随一の桜の名木『神代桜』(じんだいざくら)は 韮崎と小淵沢の間の旧武川村・実相寺(むかわむら・じっそうじ)の境内にある。日蓮宗の古刹で、ロケーションがいい上南アルプス、八ヶ岳、富士山の素晴らしい眺望というおまけつき。 種類はエドヒガンで、開花する花の白色からシロヒガンとも、一カ所に群がって咲く様子からムレヒガンとも呼ばれる。
日本武尊(やまとたけるのみこと)が東国遠征の記念に手植えしたとか、鎌倉時代、日蓮上人が衰弱している桜の回復を願ったところ、回復したと伝えられ、このため「妙法桜」とも言われる。大正11年10月、国の天然記念物に指定されている。根尾村の「薄墨桜」、三春町の「滝桜」と並んで「日本三大桜」にランクされる。
神代桜の太さは圧倒的。 上の写真の反対側になる。 |
幹周りは人間が十数人手をつないで・・・というと、大木がそそり立つ様を想像するが、往時は30メートルほど樹高があったようだが、昭和になって台風で折れ、太いのは地上数メートルまでで、そこから先は比較的若い木が接ぎ木したように立ち上がっていると思えばいい。根元周り13.5メートルは国内最大級。樹高は約9メートル、枝張りは南北が31メートルに達する。2000年ごろ訪ねたときは、樹齢1300年、とあったが、最近の案内では「樹齢2000年」になっているのは年輪を数えなおしたのだろうか。
詮索はともかく、朽ち木を見るだけでも、はるかな時代に思いを馳せるには十分で、圧倒感がある。近年さらに衰弱が激しく、年々花も少なくなっているようで、訪れた時にはなかったのだが、その後幹が腐らないように大きな覆い屋根がつけられた。もう一度日蓮上人のお出ましが待たれる。
そう書いて間もなく(平成14年)、村(当時)の手で樹勢回復工事が始まった。樹木医の手で腐食した部分を取り除き、根を掘り出して生きているものを残し、土を入れ替え堆肥を入れる土壌改良も進められた。また、人で踏み固められた道を掘り返し、そばの車道も迂回させる処置が施された。工事は平成17年に終わったが、おかげで樹勢が回復、枝も伸びてきて花数も増え、無粋な覆い屋根もはずされたという。
平成19年4月8日、満開の時に訪れることができた。多くの支柱に支えられてはいるものの、以前のか細い咲き方と違って確かによみがえった感じがした。枝も茂り花弁も鮮やかで全体に樹に生命力が感じられるようになっていた。桜守の人たちのおかげだろう。
神代桜から振り返ると南アルプス・甲斐駒ヶ岳のこんな素晴らしい姿が見える。 黄色(ラッパ水仙)、薄紅色(ソメイヨシノ) 、白(残雪)という三段重ね。(2022年4月) |
上に書いたように、一度は枯れかけた神代桜が見事に再生するまでの話が産経新聞に掲載された(2008年2月17日付)。リンクを張っていたがサーバーから削除され たので、要約を紹介する。また読売新聞の記事だと思うが神代桜が宇宙旅行してきた話題も。
樹齢2000年の桜を救え!再生プロジェクト」(要約)山梨県北杜市にある日蓮宗の古刹「実相寺」の境内。樹齢2000年と伝えられる日本最古のエドヒガンザクラ「山高の神代桜」は、今が盛りとばかりに大きく枝を 広げて咲き誇っている。
十数年も前のことだ。住職の松永直樹(55)は、桜の前にたたずみ手を合わせる老人を見かけて掃除の手を休めて声をかけた。「どうしたのですか?」
老人は「私たち人間は、行きたいところがあればどこにでも行ける。でも、この木は動けない。2000年もずっとここにいて、私たちを見守っていてくれる」
この出会いがあってから、それまで当たり前のように見ていた古木を注意深く見つめるようになった。枝先についた大振りの薄ピンクの花。最近、ちょっと色が白っ ぽくなってきてはいないか。強風や積雪で枝が折れやしないか。
「神代桜というくらいだから、この木には神が宿っている。『この木に会いにきてから病気をしなくなった』とか不思議な力を思わせる話もよく聞きます」と松永 は老木を見やる。
風雨に耐え、休むことなく花を咲かせてきた神代桜だが、昭和60年ごろから樹勢の衰えが目立つようになってきた。大正期には四方に約15メートル広がってい た枝も、平成14年には約半分に。枯死の危機もささやかれるなか、老桜を救おうと地元の武川村(現・北杜市)の住民らは立ち上がった。
枝を支える鉄の支柱を自然に近い木製に交換。排ガスや振動を排除しようと、すぐ脇を走る道路も通行止めにした。交通量の多い生活道路だったが、「サクラを守 るためなら」と住民は納得してくれた。
さらに国の補助を受けて、村が14年度から始めたのが、「サクラ再生事業」だ。「日本花の会」(東京都港区)が中心となって検討委員会を組織。学識経験者や 樹木医を交え、サクラ再生の方策を練った。
調査の結果、木の根元に盛り土をしたことが根の成長を妨げていたことがわかった。幹が腐らないように、と昭和51年に設置した雨や雪を防ぐやぐら屋根も逆効 果だった。
作業を担当した地元の樹木医、小林稔蔵(61)は、「サクラは『不定根』といって腐ったところからも根が出てくる。しかし屋根をかけたことで水分がいかなく なり、枯れていった」と解説する。
神代桜の再生に取り組んだ
樹木医、小林稔蔵さん小林らは幹を取り囲む土を8等分し、対角線上の2カ所の土を掘った。盛り土の下から、病気に冒された根が姿を現した。乾燥を防ぐため、掘り出した根に水ゴケを 巻き、養生させる。堆肥やもみ殻を混ぜた土を培養し、既存の土と入れ替えた。
翌年、土を入れ替えた場所を掘ってみると、病気になっていた根から、小さな根っこが出ているのが確認できた。大丈夫だ、と自信を深めた小林らは、4年間かけ て根の周りの土をすべて入れ替えた。酸素不足が解消されると、根は再び伸びるようになった。
「まだ頭(木の上部)の部分は弱っているが、他が勢いよく伸びているから大丈夫」。4年間にわたる再生計画で今は柵に覆われ、木の棒で支えられた不格好なサ クラだが、雪の降る日も懸命に水を吸い、開花に向けて力を蓄えている。「樹形はいまいちだけれど、老木はそれだけで価値がある。よくこれだけがんばったなぁと 思わせるから」と小林はいう。
長く造園に携わってきた小林には、「いい環境をつくってやれば、木は必ず成長する」との信念がある。「根の回りを踏まれて苦しいよ」「水が足りないよ」とい うサクラの声に耳を傾け、適切な処置をしてやるのが樹木医の役目だという。
松永もまた、素人ながらサクラの声に敏感に耳を澄ませる。「昨年はまた、花が増えた。17年度の事業終了とともに再生が終わったわけじゃない。これからも元 気を取り戻すよう努力しなければ」
実相寺の松永住職
松永が開設した寺のホームページは、サクラの時期になると1日2000件以上のアクセスがある。遠方から来る参拝客のために毎朝写真を撮り、開花状況を速報する。最近はホームページを見てから来る人が増えたが、昔は4月になると寺の電話は鳴りっぱなしだった。最盛期、寺の1日の参拝客は1万人を超える。(文 道丸摩耶)
【問い合わせ】平成20年打ち上げの米スペースシャトル「エンデバー」で、宇宙飛行士の若田光一さんと8カ月間、無重力空間を旅した山梨県北杜市武川町の日本三大桜「山高神 代桜」の種が今月上旬に芽吹いた。
宇宙を旅してきた神代桜が芽吹いた 地元の中学生が一昨年採種し、市職員時代から根の蘇生や保護に25年間携わっている三枝基治さん(60)が宇宙帰りの種を大事に育ててきた。三枝さんは「古木 の桜の子供が芽を出したのは神秘でしょう。無重力に置かれていた影響は分からないが、芽が出ていないほかの種にも期待したい」と喜んでいる。開花は早くて7、 8年後という。
【ルート】
中央高速の長坂で降りた場合、後述の日野春芸術村を経由して釜無川と甲州街道を横切って旧武川村まで30分ほど。シーズンは人出が多い。有料駐車場がある。
真原(さねはら)の桜並木 (神代桜より1週間から10日ほど遅い)
上述の実相寺の神代桜からクルマで5分ほど、同じ旧武川村の真原(さねはら)地区に足を伸ばすと
少し変わった桜並木がある。この欄の主旨の古木、名木ということでなく、雄大な
南アルプスの山岳美が背景だ。ただし、神代桜と同時にはダメだ。両所で高度差があるため、真原が1週間から10日遅れる。(とはいえ、2007年訪問したときは両方ほぼ同時だった)
【問い合わせ】
前述のように、満開時期がかなりずれるので、問い合わせたほうがよい。北杜市観光協会の「北杜市のさくら」
に開花情報がある。
〒408-0302 山梨県北杜市武川町牧原931 北杜市武川総合支所
TEL 0551-26-2111
【ルート】
旧武川村までいくと案内板もあり、地図がなくてもわかりやすい場所。30台ほどの無料駐車場もある。
萬休院の舞鶴松(4月10日ごろ見頃) (山梨県北杜市武川町三吹2910-1)
南アルプスをバックに舞鶴松としだれ桜。 |
庫裏近くにある紅しだれ桜は地面に着くほど。 |
【問い合わせ】
萬休院
〒408-030 山梨県北杜市武川町三吹2910-1
【ルート】
神代桜を見て甲州街道(国道20号)に出る。ここも北杜市に合併になったが、旧白州町方向に向かい大武川を渡るとすぐ左に案内板が出ている。20台ほどの無料駐車場がある。
清春芸術村の桜 (山梨県北杜市長坂町中丸2072)
初めて清春(きよはる)の芸術村を訪れたのはオープンの日だった。ガイドブックに1981年開設とあるからその春だ。産経新聞社のパリ支局長(当時支局員)をしている山口昌子さんから手紙をもらった。
銀座で吉井画廊を経営している吉井長三氏とはパリで知り合いなのだが、彼が今度山梨県に美術館をつくったので、見てあげて
ほしいという。
なんでもパリのエッフェル塔の階段を切り取ったものをフランスから運んだり、パリで芸術家の卵たち(シャガールやモジリアニがいた)が住んでいた蜂の巣のような建物
「ラ・リューシュ」(エッフェルが1900年のパリ万博でワインのパビリオンとしてつくったものをモンパルナスに移した)を模したアトリエがあるという。
なにより惹かれたのは、白樺美術館が併設されている点だ。武者小路実篤、志賀直哉ら白樺派の作品を耽読した
時期があっただけにふらふらと出かけた。
期待は裏切られなかったが、なにより感じたのはここの桜はすごいだろうなということだった。芸術村は過疎で廃校になった旧・日野春小学校の跡地である。当然桜が植えてある。廃校までの歴史は知らないが、桜の木の幹周りから見て樹齢数十年にはなろうという見事なソメイヨシノ(染井吉野=オオシマザクラとエドヒガンの交配)が校庭を囲むように何十本とある。
桜の背景は眼前に迫る雄大な南アルプスである。甲斐駒ヶ岳や八ヶ岳を仰ぎ、南方には富士を望む またとない景勝の地なのだ。誰が見ても桜の季節に来たくなるロケーションである。
はたして、マスコミ、ミニコミなどあちらこちらに取り上げられて人口に膾炙、今では、山梨県を代表する桜の名所といってよいほどだ。毎年桜の季節、この芸術村のお祭りが開かれる。満開の時期をねらって日にちを決めるのだろうがドンぴしゃはまずない。
案内をいただいてこれまで数回出かけたが、シャッターチャンスに恵まれなかった。しかし2001年ついに満開の桜のバックに南アルプスの山並みが迫る写真が撮れたのである。
余談:そば屋「翁」の話。
清春芸術村からほんの数十メートル離れた山林の中に有名なそば屋「翁」がある。私は新宿区・落合に20年ほど住んでいたのだが、このそば屋はそこからの行動圏内にあった。目白通りに面していて当時、すでに近隣では知る人ぞ知る存在だった。ところが、ある料理評論家が「日本一うまいそば屋」とあちこちの雑誌に書いたのである。さあそれからは交通渋滞の騒ぎ。
ところが、あるときぷっつり姿を消した。どこに行ったのかなあと思っていたら、芸術村を訪ねた隣に店があったのである。いいそば粉を求めて来た、というふれこみだった。はじめはそれほどでもなかったのだが、やがて山林の中に行列が出来るようになり、えんえん待たされる。量の割に高いのも気にくわないが、なにより午後早くに売り切れ店じまいということが多くなってとうとう行くことをやめた。
それほどまでして行かずとも長野、山梨というこの周辺はおいしいそば屋がいくらでもある。桜で行った武川村にもあるし同じ長坂町にもある。
(その後聞いたところでは、2001年店主が広島県豊平町に引越したという。弟子が後を継いで経営している)
【問い合わせ】
長坂町も合併して北杜市になった。
〒408-8585 山梨県北杜市長坂町長坂上条2575−19
北杜市長坂総合支所 TEL 0551-32-2111
「清春白樺美術館」
〒408-0036 山梨県北杜市長坂町中丸2072
TEL 0551-32-4865 FAX 0551-32-2444
【ルート】
中央高速須玉からと、一つ先の長坂から行くのとそう変わらない。
【開花情報】
美術館のHPに清春芸術村の開花情報はなく、最近始まった北杜市観光協会の「北杜市のさくら」
に上述の真原のさくら並木、三代校舎ふれあいの里の桜、谷戸城趾の桜と並んで開花情報がある。
神田の大糸桜。(2022年。左下の20年前と比べるとやせ細ってきたのがわかる) |
(撮影:2001.4.15 この日は快晴。バックは八ヶ岳) |
上述の清春芸術村から小淵沢に向かう途中にあり、距離は近いのだが満開はこちらの方がだいぶ遅い。エドヒガンとソメイヨシノの開花時期の違いに加え、この地が標高810bと高いことから生ずる。つまり同時に見ようとしてもダメということだ。
樹齢400年のエドヒガンザクラ『神田の大糸桜』(しんでんのおおいとざくら)は、どうしてこんなところに、というような場所にある。周囲はみな田んぼ。大きな道もなく、シーズンには警察官が出て交通整理をする。
村の人が守ってきたのだと思うが、北は八ヶ岳、南は南アルプスを背景に畑の真ん中に1本だけ立っている。まわりにはほんとに何もない。その屹立感と 枝垂れぐあいがすばらしい。
樹高9b、幹周り7.5b」、枝張り20bあり、昭和34年に山梨県の天然記念物に指定されている。どうしてこんな田んぼの中にあるのかといえば、往時、この地には広野神社があり、神に捧げる米を作る田があったためこの地は「神田」と呼ばれた。その御神木として植えられた桜で大正時代には神社の名前も変わって松向神社の境内に位置していたものが、周りになにもなくなり、神社そのものも消滅してこの桜だけ田んぼの中に残ったという。
出かけたときは、日野春の桜が、かなり散り急いでいるところを見ての帰り道だったが、こちらは、まだ「つぼみ固し」の状態だった。2001年4月15日また出かけたが、こちらが8分咲きで、清春の方は落花の舞い。
近いのに、こんなに開花日が違うのはソメイヨシノ(清春美術館)と エドヒガンザクラ(神田)の品種の差だから仕方がない。
【問い合わせ】
他より開花が遅いので調べた方がよい。
神田の大糸桜がある場所は山梨県北杜市小淵沢町松向(しょうこう)1904-2
(小淵沢町と北杜市の正式合併は平成18年3月15日)
観光案内は北杜市小淵沢町総合支所 (TEL 0551−36−2111)へ
北杜市観光協会の「北杜市のさくら」
に開花情報がある。
【ルート】
たまたま案内板があって、行けたが、説明するには難しい畑の中の小径。マップで検討を。近くに中央高速が走っていてガードをくぐると小淵沢に抜けた。駐車場はないと思った方がよい。ずっと手前から歩くことだ。
"> |
八ケ岳を背景にした満開のわに塚の桜。エドヒガン。(2007年4月8日) |
私の好きな、一本だけの、古木にして孤木。有名ではないがおすすめの桜。ゆるやかな斜面はよく手入れされた段々畑。4月はまだ水も張ってないので畑の中に際立って屹立する。韮崎の市街を見下ろすように、ぽつねんと立つエドヒガン。訪れた2000年4月15日はちょうど満開だったが、まわりを見ても人影がない。根回り3−4メートル、塚の年代のわりに若い木だが、村の人が代々植え替えてきたのだろう。いまちょうど見ごろの大きさである。桜の木のすぐ下にクルマを止めて見上げるが、立ち去るまで誰もこなかった。これもすばらしい点だ。
そばに解説板が立っている。甲斐国誌に出ているそうだが、塚のかたちがワニの口の形をしているからという「鰐塚」説などが紹介されている。だが、私が思ったのは朝鮮渡来の王仁(わに)氏が往時このあたりに住んでいて、その古墳だから「王仁塚」というのではなかろうか。古墳だったから守られ、桜が植えられたのだろうと思う。そういう素人判断したところで雨が降ってきた。そのなか、桜は煙るようにいい形に枝を広げていた。名木と断定して帰路についた。
有名ではないがおすすめです、と書いて数年後の2007年4月8日、折りよく満開時に再訪できたが、大変なことになっていた。桜の下には人が群がり、よいアングルを取ろうとする カメラマンであぜ道も人だらけ。道路はクルマであふれ、焼きそば屋の屋台のおじさんが交通整理をしていた。以前は人影がなかったから桜の孤木だけ撮影できたが、今回は上の ようにどこからでも人が写りこむ。ネット社会の現象で仕方ないのかもしれないが、桜だけは昔ながらの見事な枝をのびのびと広げて期待を裏切らなかった。
富士山を背景にした満開のわに塚の桜。 2012年4月17日産経新聞 (クリックで大きなサイズに) |
上で紹介した八ヶ岳をバックにしたわに塚の桜は我ながら「名作」と自惚れていて、この写真が撮れたらもうここは卒業だ、と思っていた。ところが、2012年4月17日の産経新 聞の写真に脱帽した。左に紹介した、富士山をバックにしたすばらしい写真である。私のアングルとはほとんど逆の方角からの撮影だ。当時から「桜のバックは富士山」とは思っ ていたのだが、下の 俯瞰写真をみたらわかるように、反対側はずっと田んぼが続いているのと富士山が遠すぎて、素人の腕では両者を一枚におさめることはできなかった。
2012年は満開が遅れて15日だったようだが、さすがプロである。望遠レンズで引いた見事なショットだ。これからは群がる素人カメラマンはこのアングルを狙うことになるだろう。古巣の新聞社なのでカメラマンの名前を知りたかったが 電子版にはなかった。私が編集幹部なら賞を出すところだ。
田んぼの中に屹立するわに塚の桜のロケーション。 後方は八ケ岳に似ているが「ニセ八つ」 と呼ばれる茅が岳と付近の山。 |
【問い合わせ】
桜のあるところの住所は
〒407-0042 韮崎市神山町北宮地字柳田624
市役所のすぐ近くなので開花状況は役場(TEL 0551-22-1111)でも教えてくれるが、2002年から韮崎市観光協会のホームページの「花情報」で開花状況の速報を出している。
【ルート】
甲州街道(国道20号線)を行くと国道沿いに韮崎市役所がある。そのすぐ前に富士川(釜無川)にかかる橋があるので、渡って数十メートル先で田んぼの中の十字路にあたる。右折して300メートルほど行くと左手の斜面にぽつんと立っている。標識もないから農道を見当つけて行くしかない。駐車場もないが誰もこないのでそのあたりに置いておくことができる。韮崎駅からタクシーで10分。
この近くに「温泉」のくだりで紹介している「韮崎旭温泉」がある。
2023年4月1日、満開のわに塚の桜。=八ヶ岳高原ロッジのHPから= このところ年々見頃が早くなり、2021年は3/26、2020年は3/27、2019年は4/6が満開。 |
三代校舎ふれあいの里の桜 |
中央道須玉ICから国道141号線を上がっていったところにある北杜市須玉町の「三代校舎ふれあいの里」。なぜ三代かというと、こには平成9年(1997)3月まで明治・大正・昭和の三世代3つの校舎が同一敷地内に建てられていたからだ。
明治8年に設立された津金学校は昭和60年(1985)に閉校となり、大正校舎は平成10年(1998)に外観は昔の校舎のまま新築復元され、現在は農業体験施設『大正館』となり、昭和校舎は、津金中学校として昭和28年に建てられたものだが平成11年(1991)に建てかえのため取り壊され現在のレストラン・ハーブ湯施設『おいしい学校』としてオープンした。
別項で紹介した「清春芸術村の桜」もそうだが、昔の学校にはソメイヨシノが植えられるのが通例で、それが廃校になった後に巨樹・古木が残り桜の名所になっているところは全国に多い。ここもそうで、ソメイヨシノ30本が大きく枝を広げている、背景は南アルプスという絶好の場所である。
【問い合わせ】
三代校舎ふれあいの里
住所:山梨県北杜市須玉町下津金3058
TEL:0551-20-7300
北杜市観光協会のホーム・ページに概要がある。
【ルート】
中央自動車道須玉ICまたは長坂ICより車で約20分
駐車場 無料 30台
桜を見る側がどういう期待を持つかによるが、華やかさとか、巨樹であることを求めるなら行かないほうがよい。高齢のピアニスト、ホロビッツが来日公演したとき、音楽ファンはやれどこそこを間違ったとか、迫力がどうもとか言ったものだが、ある評論家がいみじくもいった。「骨董品として聴けるかどうかです」。この桜とか武川村の山高の神代桜を前にすると、それを思い出す。
エドヒガンで根回り6.6メートル、目通り5.4メートル。相当の古木で幹が空洞になっていたところに昭和34年の7号台風で地上8.5メートルで折れたという。その後、地上1.5メートルのあたりから枝を伸ばしなんとか樹形を保っているという。
【問い合わせ】
桜の住所は
〒408-0300 山梨県北杜市白州町殿町481
【ルート】
甲州街道を行き、白州町役場のすぐ先を左に入った右手の淺川さんという農家の裏手にある。
このあたりで最後の桜が見ら れる谷戸城址。バックは八ヶ岳。 |
【問い合わせ】
ここも平成16年11月、町村合併で北杜市大泉町になった。住所は新表記にしておいたが、2005年10月以前販売の地図DVDなどでは、旧大泉村の表記、
「〒409-1502 山梨県北巨摩郡大泉村谷戸3025」となる。開花情報などの問い合わせは北杜市大泉総合支所(TEL 0551-38-2211 )へ。北杜市観光協会
の「北杜市のさくら」
に開花情報がある。
【ルート】
旧大泉村役場を目当てに行けばすぐわかる。駐車場もある。
慈雲寺の糸桜 (山梨県塩山市中萩原352)
慈雲寺の糸桜は桃源郷とともに見る。 |
これまで紹介した山梨県の西部からぐんと離れる。勝沼から塩山に向かうと登り道になるが、ここの慈雲寺(じうんじ)のイトザクラを見たのは99年4月11日だった。三日前の産経新聞夕刊で見事な写真を見て、家内と犬連れで駆けつけたのだが、新聞写真撮影時に満開だった桜もすでに散り始めていた。
甲府盆地を見下ろす塩山の南向き斜面にあるので、日当たりがよいせいだろう、他の桜より早い。
庫裏の方からみた糸桜。 屋根に降りかかる風情がいい。 |
樹齢300年の一本の枝垂れ桜。本堂に降りかかる花吹雪も風情あるが、振り返れば斜面の先、勝沼、一宮方向に広がるモモの花畑を一望する。
陶淵明の「桃花源記」に描かれるユートピア、桃源郷はまさにこんな風なのかも知れないと思えてくる。
薄幸の佳人、樋口一葉の文学碑がある。両親がこの村の出身だった。
余談だが、東京を出て八ヶ岳に向かうときは、その陶淵明の「帰去来の辞」が口をついて出てくる。「帰りなんいざ田園まさに蕉(あ)れなんとす」の
心の高ぶりがあるのだ。そして逆に山から下りる途中で出会った「桜」と「桃」の二つの花の桃花源。忘れがたい桜である。(陶淵明と「帰去来の辞などの詩作は
「ソロー 森の生活」の「ソローはさしずめ西の陶淵明」の項にまとめました。)
【問い合わせ】
南向き斜面で他より早いようなので問い合わせた方がよい。塩山市役所商工観光課(TEL 0553−32−2111 )
慈雲寺
〒404-0023 山梨県塩山市中萩原352
TEL 0553-33-9039
「慈雲寺の糸桜」というホームページで開花情報を見ることができる。
【ルート】
JR塩山駅を目指す。国道411号(青梅街道)を行き、途中右に入ることになるが、案内板も少ないので土地の人に聞いた方がよい。40台ほど入る駐車場もあるが、シーズンには遠くから観光バスも来るほどの名所なので、遠くへ止めることになる。
よくある呼び込みの駐車場はない。抹茶の接待(有料)もある。
牧丘町乙ケ妻(おっかづま)のしだれ桜 (山梨市牧丘町乙ケ妻上の山)
”平成の大合併”で牧丘町(まきおかちょう)は山梨市と合併したが、町名はそのまま残っている。中央道を勝沼で降り、塩山市を上がった斜面にあり、ブドウ園が多い。先に紹介した慈雲寺からすぐ近くだが、慈雲寺の桜が散り始めたころ、こちらが満開だった。個人の所有だが、山の斜面を登ってだれでもそばまで行ける。
見事なものだ。
まず下から見上げた時、丘の上に1本だけ大きく枝を広げた大木が立つその屹立感がいい。上に登れば今度は桜の枝をかいくぐって甲府盆地が広がる俯瞰(ふかん)図がいい。これだけいい桜なのに地元の人以外には知られていないようで、
快晴で満開の日にもかかわらずアマチュアカメラマンが2人ほどいただけ。しばし斜面に腰を下ろしてたたずんだ。
さび付いた案内板をみると、町指定の天然記念物のようだ。根回り4.6m、目通り(目の高さで測った幹の太さ)3.8m、樹高8.7m、枝張り東西8.5m、南北8mとある。そんな数字だけでは分からない、とにかく見事な古木だ。
【問い合わせ】
桜のある場所は「牧丘町乙ケ妻上の山(おっかづまかみのやま)」というところ。
山梨市牧丘町役場観光課(TEL 0553−35−4815)。役場は35−3111。
行政からの開花情報はないが、季節になると地元の牧丘タクシーのホームページ「乙ケ妻のシダレ桜」に開花情報が掲載される。
【ルート】
国道140号(青梅街道)を上って、牧丘町役場の先を左に入っていく。村役場から地図をもらったが地元の道なので一言で説明できない。町の人に聞くほうがよい。琴川という笛吹川支流にかかる赤い「牧丘大橋」のたもとを山側に
入っていく。ここまで来ればどこからでも見える丘の上にあるのですぐわかる。ブドウ畑の間をジグザクにのぼる。
乙ケ妻の見事なしだれ桜からそう遠くないところにあるが、土地の人に聞いてもなかなかわからない。県指定の天然記念物で、りっぱな碑も立っている。さきの乙ケ妻より「格上」だが、四季桜、10月桜の名もあるとおり、
春と秋(10月)の2回咲くという珍しさからきたもので、樹高9メートルではあるが咲き具合は、ほぼ満開でも写真のような具合。大木を期待していたらがっかりする。
【ルート】
牧丘大橋をわたってほぼまっすぐ2キロほどいくと「鼓川」に出る。川沿いの道を下ってすぐ左手の農家の庭先にある。
▽牧丘町の「膝立の天王ザクラ」と「北原金峰山のサクラ」
鼓川を少し登ったところにエドヒガンの古樹があると、あとで知った。写真を見ると乙ケ妻のしだれには及ばないように見えるが次のシーズンにでもたずねてみたい。
雲峰寺のエドヒガン
(山梨県塩山市中萩原)
(慈雲寺より1週間遅れ。4月中旬)
雲峰寺(うんぽうじ)は先に紹介した慈雲寺と同じ塩山市中萩原地区にあるが、かなり離れていて、高度も高いので
開花時期がだいぶずれる。樹齢700年で山梨県でも有数の巨樹として県の天然記念物に指定されているが、
いかんせん衰退期に入っていて、満開でもすけすけで空がよく見え、痛ましさが先に立つ。近くの斜面にある
若木のほうが枝振りもよい。
【問い合わせ】
雲峰寺 〒404-0000 塩山市上荻原 TEL 0553-33-3172
【ルート】
塩山から青梅街道を上って行き、大菩薩峠の入り口にある寺。慈雲寺より1週間以上遅れ、2001年は4月15日ごろだった。
金剛寺(こんごうじ)は平安時代中期(10世紀)、平将門が開いたと伝えられる古刹。将門が大願成就を占って梅の枝を地面に刺したところ根付き、秋になっても青い実を付けていたというのが、この地「青梅」の地名の由来」。本堂の手前に樹齢数百年の「将門誓いの青梅」がある。
桜の方は、樹齢170年以上のしだれ桜で、苔むした樹高は往時は20bだったが、いまでは衰退期に入っていて、大きな幹の主要な部分の枯れが目立つ。樹高8bほど。ただ、枝は地に着くばかりに長く伸び、あでやかな淡紅色の花をゆたかにつけていて、全体としてはまだ鑑賞に耐えられる。
【問い合わせ】
金剛寺 〒198-0087 東京都青梅市天ケ瀬町1032 TEL 0428-22-2554
青梅市観光協会 TEL 0428-24-2481
【ルート】
青梅街道を行き、市民会館のT字路をはさんで左が金剛寺、右が後述の梅岩寺という位置。駅からも
近い。道路は411号線になっているが森下の信号を左折してすぐ、幼稚園が併設されていてここにクルマが置ける。
青梅・梅岩寺のしだれ桜
(東京都青梅市青梅235)
(東京の桜から1週間ほど遅れる)
梅岩寺(ばいがんじ)は元は金剛寺の末寺で、平安時代後期に少し遅れてできた寺。末寺のしだれ桜のほうがだんぜん元気で見事だが、
金剛寺のしだれ桜の姉妹樹といわれ、樹齢は約150年。樹高20メートル、幹囲り2.5メートルは青梅市内で最大のしだれ桜で、
市の天然記念物に指定されている。訪れる人もよく知っていて。金剛寺は人もまばらだが、こちらは人の波ができている。でも露店が
出るほどではないのがいい。
【問い合わせ】
梅岩寺 〒198-0000 東京都青梅市青梅235 TEL 0428-22-3886
または、上述の青梅市観光協会へ。
【ルート】
JRの踏切を渡ってすぐの市立図書館の近くになるが、駐車場がほとんどない。
行き方は前記参照。
高麗神社のしだれ桜 |
奥武蔵の山裾、高麗(こま)地区は古来より開けた地域で、7世紀にこの地の長官として高句麗の王族 が来住した。始祖、高麗若王を祀る高麗神社の社殿の奥に国の重要文化財に指定されている高麗家住宅があるが、 しだれ桜はそのわきにある。樹齢400年とも。幹囲3.2メートル、樹高16メートル。他と変わっているのは、ひょろっと高いことだろうか、背後の山に風がさえぎられて 折れなかったからではないか。青梅の満開の桜を見て、秩父の桜を見に行く途中に寄ったが、ここは開花が早いようで、すでに葉桜っぽくなっていた。
なぜか歴代特捜部長が参拝する高麗神社なぜか検察庁幹部が参拝する高麗神社 |
高麗神社はその名の通り朝鮮と縁のある神社だ。この一帯は8世紀、朝鮮半島の内乱から逃れてきた高句麗の人たち約1800人が住みついた土地で、彼らの「長」となった若光(じゃっこう)の霊を祭ったのが同神社である。
検察とは何の関係もなさそうな神社だがここには歴代の検察幹部が足しげく参拝にやってくる。
「古くは日通事件で国会議員の起訴に踏み切った伝説の検事・河井信太郎氏やロッキード事件を指揮した吉永祐介氏、リクルート事件の松田昇氏、そして撚糸工連事件を担当した山口悠介氏に東京佐川急便事件の五十嵐紀男氏とそうそうたる幹部が祈願に来ており、芳名録や芳名板に名前が残っています」(司法記者)
同神社の高麗文康宮司は「その昔、河井さんが参拝に来たことが始まりだと思います。以前は特捜部長が大勢の検事さんを引き連れてくることもあって、その時代の部下から、さらに部下へと引き継がれているのでしょう。しかし、最初にやって来た河井さんと高麗神社との関係は分からない。今では大勢でやって来ることはなく、検察官が来ても私たちは気が付きません」
【問い合わせ】
【ルート】
高麗神社はこのあたりで有名で、あちこちに案内板がある。目印になるゴルフ場も多い。
青梅から、小曾木街道でここに至り、299号線で正丸峠を経て秩父の清雲寺に回る花見コースがとれるが、前述のように
高麗神社の満開が少し早い。
上から見た清雲寺のしだれ桜。ただし県の天然記念物指定のものは右下の写真。 |
秩父・荒川村にある清雲寺(せいうんじ)のしだれ桜は寺の開祖が植えたと伝えられる樹齢数百年にもなるエドヒガンザクラだ。
樹高15メートル、目通り2.7メートルという。
埼玉県の天然記念物に指定されたのが、昭和7年というから昔から有名だったようだ。しかし、この桜は衰退期に入っている。
それでもまだかなり見ごたえはあるのだが、この寺には他に2,30本のしだれ桜が植えられていて、古木に属するものが数本あり、
中でも本堂を囲むようにめぐっている塀のすぐ傍(そば)から霞がかったピンクの枝を大きく外に広げている1本は見事で、
観光客もこちらが主役の木と思っているほどだ。人だかりもこっちに集中している。
清雲寺には古木が多い |
こちらが”本物”の清雲寺の桜。 県の天然記念物指定。 =2007年4月8日 |
【ルート】
荒川村は、埼玉県の西部、秩父郡の南部、荒川の上流部にあたる。東西に荒川が流れ、平行して国道140号、秩父鉄道が走っている。
西武線を利用すれば池袋から90分の距離のところ。清雲寺は秩父鉄道 武州中川駅下車徒歩10分、国道140号からすぐのところ。
私はクルマで前述の青梅の桜を見てから、ここに足をのばし、できて間がない雁坂トンネルを抜けて塩山に出たが、桜の名所としては秩父で孤立しているので、
他の名所と組合わすのがむずかしい。
満開の桜に春雪という めったにない身延山の光景 |
まず開花時期。山梨の他の桜の満開はもっと遅いのと、山の上にある寺
なので遅かろうと、関東の花見をすませてから行こうと思いがちだが、東京とほとんど同じ時期に満開になる。私も何回となく
これで失敗した。
つぎに、身延山・久遠寺にあるしだれ桜をみればおしまいと思う人が多いが、本山以外に樹齢数百年という
古樹があちこちに数多く散らばっていて、全山しだれ桜の古樹、巨樹のオンパレードだということ。時間をたっぷりかけないと
見きれないほどだ。
訪れた2001年3月31日は特異な日だった。身延のしだれ桜は満開だったが、同時にこの日朝から雪になり、満開の桜に
雪が積もるという光景が現出した。紹介する写真はその、宿坊の人も経験したことがないという久遠寺のしだれ桜に積もる雪である。
人ごみをさけて早朝訪れたので、一番上の「せいしん駐車場」までクルマがはいったが、遅れると下から歩かねばならないほど。
ちょうど朝の勤行で長い廊下に響く読経と僧たちの足音が、しだれ桜とあいまって別世界をつくりだしていた。
こちらは例年のながめ。(2003.4.6) 久遠寺・祖師堂わきのしだれ桜。 |
この日は愛犬が急病になり山を離れたので、せっかく満開に居合わせながら久遠寺以外、名木の写真も撮っていないが、
この日行く予定だった巨樹、名木を羅列しておく。パンフレットなどからの引用だが場所は全山に散ってい
るので、町で出している観光地図を取り寄せるか、ネットで略図を掲載しているところがあるので、事前に調べたほうがよい。
【身延山久遠寺】一番上にあり、本堂わきの1本(2001年は工事中で板塀に囲まれていた)と、そのすぐ近くの古木が有名。
【身延山西谷】樹齢300年の古木が25本。
【鏡円坊】樹齢400年以上。一つの花序に2−3花、ときには6弁もまじる県指定のしだれ桜。
【大野山本遠寺】樹齢300年で、開花が他より早いのが特徴。町の文化財指定。
【善行寺】樹齢400年。花色がいいのと、何種かの宿り木で有名。
【小田船原】樹齢200年で、樹高13メートル。しだれが他の樹より長いのが特徴。
【本妙寺】樹齢350年、樹高8メートル、幹まわり3メートル。花弁に変化があるという。
【妙覚寺】樹齢300年。花弁、花色が他より濃厚。
【波木井山円実寺】300年の古木が4本ある。花弁がやや白っぽいのと数が多い。
【朝日堂】樹齢400年の古木。久遠寺のしだれ桜と同じ種とされている。
【小原島一円寺】200年は若いほうだが、樹高、幹まわりとも今が盛りの見事なしだれ。
【思沢】樹齢150年。開花が他より早いのと花色がよいのが特徴。
【桜清水】樹齢150年。国道52号線沿いにあり、全体にバランスがよい樹。
【妙泉寺】樹齢250年。濃厚な花色としだれぐあいがいい。
【感応寺】樹齢200年。
【問い合わせ】
身延町産業観光課 TEL 0556-62-1111
久遠寺の”子会社”で駐車場などを経営している「鰍ケいしん」のHPに
開花情報がある。毎朝撮影した写真と満開の推定日、そのほかの桜案内がアップされている。
メインの桜は「せいしん」の駐車場を上がってすぐのところになる。
「せいしん」 〒409-2524 山梨県南巨摩郡身延町身延4252
TEL 0556-62-3033 FAX 0556-62-1033
【ルート】
東名高速の清水ICから国道52号線で北上する方法と、中央高速の甲府昭和ICから同じく52号線を
南下する方法があるがどちらからも50分ほど。
(問い合わせ)
南部町役場 TEL 05566-4-3111
福王寺のしだれ桜(佐久市観光協会)。 |
このサイトの亭主の山墅は縷々書き連ねているように、八ケ岳の横岳の杣添尾根の中腹にある。そこを拠点にあちこち一本桜を見に行く。佐久市にはチェーンソーの修理やシカ除けネットを買いにDIYなどによくでかける。そこで「どこかこのあたりでサクラの名木はありませんか」と聞いて、教えられたのが、この福王寺のしだれ桜である。
毎年、山墅に最初に入るのはだいたいゴールデンウイークなのだが、このあたりのソメイヨシノの満開は東京などから3週間遅れなので、タイミングがあうと国道141号線沿いの小海町や佐久穂町で満開のサクラに出会うことが出来る。
2019年のGWだったが、佐久市観光協会に電話したら女性が出て「福王寺の桜は散り始めていますが、まだ見頃です」ということだった。家内や次女ともどもさっそく出かけた。この前年、中部横断道路の佐久平ー佐久穂間が開通したのでほんの1時間と読んだ。昔、旅人が甲州から佐久に抜けるとき必ず通った「佐久往還」が国道141号線だが、山の上の山墅なので国道に出るまで2、30分はかかる。それからするとほんの「ご近所さん」である。
ほぼ予定通りで到着した。だが、肝心のしだれ桜は「散り始め」どころか、葉桜になっていた。佐久市が市内の桜の名所の筆頭にあげるところなのに、観光案内所に届く開花情報が滅茶遅れなのにはがっかりした。しかし、葉桜ながら枝張り、幹の太さとも見事なもので、満開時はさぞかしと思わせられた。そんなわけで紹介するのは市の観光協会提供のものである。
福王寺は平安時代の大同2年(807)開基と寺に伝わる真言宗の古刹である。江戸初期の火災で難を逃れた鎌倉時代の本尊阿弥陀如来座像(重要文化財)と日光月光の2菩薩、天部二体が現存する。天部というのは天界に住む者の総称で、仏教の守護神のことをあらわす。仏像の中では毘沙門天、帝釈天のような天像の総称である。
寺全体が山の中腹にあり、階段を10数段上がったところに寺の正門と本堂がある。その境内から塀越しに外にこぼれ落ちるように枝を?広げているのが、樹齢300年を超える枝垂れ桜(シダレザクラ)。開花時期には境内で花見会が行われているそうだ。
余談だが、上述のように訪れた時は葉桜になっていて残念な思いをしたものの、余った時間で食事をしようと検索したら、「B級グルメ」で紹介したそばの名店「職人館」がすぐ近くだった。旧中山道の宿場町の雰囲気を今に残す望月宿も近い。
【問い合わせ】
寺のホームページもなく、市のHPにも桜の開花情報はない。
問い合わせは 佐久市観光協会.(電話 0267-62-3285)のみ。福王寺(電話 0267-53-2652)
【アクセス】
中部横断自動車道「佐久南」ICから約20分。
関所破りの桜 |
旧中山道は佐久平を横切っているが、その中ほど佐久市浅科の「五郎兵衛記念館」脇に咲く枝垂れ桜です。樹間から浅間山が遠望できてなかなか見応えがあり、サイトの亭主好みの「一本桜」です。
近くにある真親神社(さねちかじんじゃ)は、この桜のいわれとなる主人公、市川五郎兵衛真親が祭神です。五郎兵衛は、千曲川の西に広がる荒れ地に水を引こうと考え、探し歩いて蓼科山中に源水「五斗水」(ごとみず)を見い出し、小諸藩から用水開削の許可を得ました。変化に富んだ地形のためトンネルや水路橋、盛土、築堰(つきせぎ))などの技術を駆使して、私財を投げ打って完成させました。用水路が完成したのは、寛永8年(1631)ころと推定されています。
ブランド米で有名な五郎兵衛米 |
市川五郎兵衛は、戦国時代の元亀2年(1571)ころに、上野国甘楽郡羽沢村(現:群馬県南牧村(なんもくむら)に生まれました。市川家は羽沢村を本拠地とする土豪の家で、五郎兵衛が生まれたころは、甲斐国の武田家につかえていました。ところが、天正元年(1573)に武田信玄が死去、さらにその9年後には、信玄の子勝頼も織田信長・徳川家康軍に攻められて武田家は滅びてしまい、市川家は主を失ってしまいます。
今も佐久平を潤す五郎兵衛用水 |
五郎兵衛の墓 |
何ら私することがなかった五郎兵衛に感謝した村人たちは、彼の没後100年目の年に真親神社を創建しますがその時、五郎兵衛の故郷・群馬から桜の苗木が記念樹として贈られます。苗木を貰いに行った佐久平の村人達が通行手形を持たずに出かけたにもかかわらず、五郎兵衛の偉業を知っている関所の役人は村人達を黙って通したことから「関所破りの桜」と呼ばれるようになったのが由来です。
五郎兵衛記念館の庭先にある「関所破りの桜」は佐久市天然記念物に指定されていますが、樹齢は推定250年、幹回り3・5メートルもあり、佐久平と浅間山を背景とする一本立ちの桜はここでしか見られません。地元ではこの桜の開花に合わせて水稲の苗代作りを始めたことから「苗代桜」とも呼ばれています。また古記録によると、東大寺大仏殿復興で有名な良弁和尚が開基し、市川家にゆかりのある慈眼寺からもたらされた桜であるため「慈眼桜」とも呼ばれます。
【問い合わせ】
桜の見頃は例年4月中旬だが、近年開花が早いので調べるほうが良い。市の観光協会のさくら情報は遅いので、佐久市五郎兵衛記念館.(電話 0267-58-3118)に直接問い合わせる。同館は入場無料。
飯田の桜について
一本桜が好きなものにとって、伊那谷を流れる天竜川沿いの古い城下町、飯田はそれこそ宝庫といってよいところだ。殿様が桜を植えることを勧めたおかげで樹齢何百年という惚れ惚れする名木・古木が町中や周辺に百本を超えて残っている。某年4月8日、「満開」の知らせに、取るものも取り敢えず駆けつけた。いまだその余韻にひたっている。
飯田の桜はすごい、とはかねてから聞いていた。長野県飯田市には樹齢750年という愛宕神社の清秀桜をはじめ
樹齢300年以上の桜が10本以上ある。飯田市は戦後大火があり、旧市街地は壊滅したそうで、めぼしい桜の名所は、燃え残った地区と郊外が中心というものの、それでも、周辺の下伊那と呼ばれる南信州の地を入れると老木、古木に属するものは100本以上になろうかという。 小説 『桜守』の著者、水上勉は「ひとつの町にこれほど多くの桜の古木があることは、非常に珍しいことだ」と感嘆した。しかもである。天竜川沿いに伊那谷と呼ばれるこの地は、川の両岸に山肌が迫っている。つまり高低差があるので桜の季節が1か月になんなんとする。あまり宣伝しないというか、住んでいると他の土地との比較をしないものなのか、桜のメッカと賞賛しても、土地の人は、「そうですか」ですましている。 2007年春、この地で「第26回全国さくらシンポジウム」が開かれると聞いて、市役所に電話したら「今日が満開ですね」とこともなげに言われた。翌未明、あわてて東京を出て駆けつけると3時間後には桜の下にいた。意外に近いのである。飯田市内だけで名木10数本を満喫できた。予定では、一日で鑑賞するのはきっとむりだろうと、飯田から1時間ほどの距離にある八ケ岳の我が山墅に入って、翌日また出直すつもりであったが、「このあと山の上の桜が咲くのは3週間ほど後ですね」と告げられ、私の飯田桜めぐりは一日で終了した。 感心したことがある。寺が多かったが、これだけ名木を巡り歩いたのに一箇所として拝観料とか駐車料金を取るところがなかったことだ。京都、
奈良だとこうはいくまい。「遠いところからありがとうございます」とも言われた。桜を愛でる人たちを気持ちよく迎えてくれる街だ。この街での桜見物の合間にうなぎが旨い店もみつけた。「丸井亭」といい、「B級グルメ」で紹介しておいた。
飯田市のさくら情報はいろいろなサイトがあるが市の広報HP内の開花情報「さくらさく」が代表格。以下で紹介している名所の多くの開花情報はこの中取り上げられている。
多くは樹齢350年前後なのは江戸時代にこの地に封ぜられた初代藩主が桜の植樹を勧めたことによるという。どういう方か詳しくは存じ上げないが、感謝するほかない。
飯田市役所観光課(TEL 0265-22-4511)
また飯田観光協会および南信州広域連合によって運営さ
れている「南信州ナビ」(観光案内)の中にコースごとのさくらガイドがある。
(東京の桜から1週間遅れくらい)
風格も見事な安富桜 |
「安富桜」(やすとみざくら)とか「長姫(おさひめ)の江戸彼岸」とか呼ばれる飯田の代表的なエドヒガンの名桜。 「長姫」は飯田城の別名が「長姫城」だったことにちなむ。
「安富桜」と呼称されるのは江戸時代初め、飯田城二の丸に住んでいた家老、安富氏が植えたとされることから。現在の 場所はその邸址だが、現在、同市追手町の「飯田美術博物館」が建ち、その前庭に咲いている。美 術博物館が建つ前は、この地には飯田長姫高校があった。昭和29年、春の全国選抜高校野球大会で同校が優勝した時は駅前から 安富桜まで優勝パレードが行われたという。
見事な幹周り |
樹齢推定350年。写真を見てのとおり目通り周囲5.4メートルは圧倒的な迫力。樹高は20メートルもある。長野県天然記念物 に指定されている。 幹と根張りが雄々しく均整の取れた樹形は古木の風格を持ち、エドヒガンの特性がよく出ている。 初代藩主、堀親昌が入部した寛文12年(1672)年のとき植栽されたものとされ、そのため樹齢が正確に推定されている。
●花期:満開は年によって前後するがだいたい4/8〜4/14あたり。飯田では無名の名木がごろごろ |
桜丸の夫婦桜。右側の2本。 |
「桜丸(さくらまる)の夫婦桜(めおとざくら)」とか「桜丸御殿の夫婦桜」と呼ばれている。 飯田城内にあったものだが、現在は城跡に県の合同庁舎が建っているため、その裏手にあたる。
二つの種類の桜が接近して成長するうち、互いの木質部が合体したため、「夫婦桜」と呼ばれる。 半分はシダレザクラ(枝垂桜)、半分はエドヒガンサクラ(江戸彼岸桜)だが、かなり樹勢が弱ってきていて多くの支柱 で支えられている。
安富桜を見てから歩いてここに向かう途中、出勤途上の女性幹部らしき方に道を尋ねた。行きかう人がみな この方に挨拶をするので上席にいる人と思ったのだが、「こちらからも行けますが、今なら赤門が開いていますから案内しましょう」 と先に立っていただいた。
ここは飯田城本丸があったところだが、城主、脇坂安元(1615〜1672)が養嗣子として安政を迎えるために御殿の別棟として 屋敷を建てた。 このとき安元は曲輪内に多くの桜を植えたため、桜丸御殿と呼ばれた。参勤交代で藩主夫妻が飯田と江戸に別れ別れになる時 はここの桜を愛で、しばしの別れを惜しんだのだそうだ。
年に一度、桜の季節に開く赤門 |
現在ではお城があった時代を偲ばせる唯一の建造物でふだんは閉ざされているのだが、この桜が開く時期だけ 赤門が開かれる。この時も2、3日前に子どもたちも出席して開門式が行われたばかりだった。それが「今なら赤門が開いて いますから」という言葉の意味だった。私は城主のように赤門をくぐって夫婦桜の前に立った。
推定樹齢400年。根元近くの幹周り10メートル、高さも10メートル。その昔の城下を見下ろすような場所にあり堂々たるものだ。 残念ながら、近くに殺風景な庁舎が立ち並んでいる一角で、写真のようにどうしても背景に無粋なコンクリートが入ってしまう。 もう一本桜があって、重なっているが、右側の太い幹が夫婦桜。右の幹が枝垂桜で左の幹が江戸彼岸。
【場所】飯田市追手町2
市の中心部にある。クルマだと中央道飯田ICより 約10分。電車だとJR飯田線飯田駅より徒歩10分。
専照寺のしだれ桜 |
飯田市の真ん中といってよい場所に曹洞宗の禅寺が3つ、入り口こそ違う方角だが右下のマップのように上から見ると隣あって並んでいる。 「専照寺」「正永寺」「黄梅院」である。その昔、同じ頃に城主が命じて寺に1本ずつ植えさせた枝垂桜(シダレザクラ)が そろって健在で毎年、ほぼ同時に咲きそろう。
どこから見始めてもいいが、まず「専照寺」(せんしょうじ)から。曹洞宗白竜山専照寺の境内にあり、本堂のすぐ脇にある。 鋳造は新しいのだろうが、真下に釈迦牟尼仏が鎮座しているので、満開時には天蓋か掩翳(えんえい)のように かぶさる。
さくらマップ |
3寺とも同じ頃に植えられたそうだから樹齢もそろって同じになるが、約400年。「慶長9年(1604) 城主小笠原氏の帰依により現在地に移転され、その時に植栽されたと推定される」(飯田観光協会の説明板)とある。 目通り幹周り4.5メートル、、樹高10メートル。樹勢は衰えているというが、老木で枯れたところから新しい幹を出し、全体として 代替わりしつつようで、ごらんのようにまだまだ十分に見ごたえがある。
【場所】専照寺(飯田市江戸町1)
正永寺のしだれ桜 (飯田市江戸町3丁目)
(東京の桜から1週間遅れくらい)
正永寺のしだれ桜 |
正永寺(せいえいじ)のしだれ桜の推定樹齢は412年。目通り周囲3.8メートル、樹高15メートル。 落雷か事故にあったかわからないが、ごらんのように主幹の一部を失い、片側だけに張り出すように咲く。 やや寂しいが幹周りの太さに往時が偲ばれ、貫禄がある。
曹洞宗円悟山正永寺の境内にある。この寺は、応永15年(1408)、飯田城主2代 、坂西由政(ばんざいよしまさ)66歳時に、 正永寺殿賢峰道因大居士と号して入道し、風越山の麓に庵を結んで閑居した。その後正永寺原に一寺を建立し、「正永寺」と 称した。その後坂西家が滅亡し、正永寺も 一時荒廃したが、再興されたものの、文禄3年(1594)に、飯田城主、京極高知が戦略上の理由から外堀の内側に寺を配 する事とし、命によって正永寺原より現在の地に移転した。だが天保3年(1832)火災により本堂・庫裡が焼失、明治32年 に本堂が再建されたが、明治35年の火災により再び焼失と、何度も災難にあい、現在の本堂は大正2年に再建されたもの。
【場所】正永寺(飯田市江戸町3丁目)
飯田城址より北方数百メートルの地になる。「専照寺」と「黄梅院」の西隣にあり、寺の駐車場がある。
黄梅院の紅しだれ桜 (飯田市江戸町3丁目251)
(東京の桜から1週間遅れくらい)
黄梅院の紅しだれ桜 |
黄梅院(おうばいいん)の紅しだれ桜紅彼岸系の銘木で平成12年に市の天然記念物 に指定された。正永寺、専照寺の桜とほぼ 同時期に植えられたものと考えられるが、枝垂れぐあいもよく、花の色は他と比べて一段と濃く、 ここだけ「紅しだれ桜」と呼ばれる。
曹洞宗青松山黄梅院の境内にあり、黄梅院は正永寺の末寺である。 目通り幹周り5.5メートル、樹高18メートル。推定樹齢は400年。 この樹齢だと衰えが多いものだが 古枝に代わって更新された枝がうまく伸びて、形のよい樹冠をつくり、紅梅を思わせるような 赤身の濃い花をつける。
この寺は武田信玄の娘、黄梅院姫の菩提を弔う為に島田村(現飯田市松尾)に建立された。その後 天正10年(1582年)現在地に移された。桜はその頃植えられたといわれ、樹齢はそこからの換算。
【場所】
黄梅院 飯田市江戸町3-251。
愛宕神社の清秀桜 |
江戸彼岸(エドヒガン)で、飯田市では最古、長野県内でも屈指の古木。太さ根廻り7メートル、目通り6メートル、高さ約10メートル、昭和48年(1973)に飯田市の天然記念物に指定されている。
エドヒガンザクラはバラ科に属し本州、四国、九州に生える落葉高木。 花は葉の出る前に咲き、開花時期は他の桜より早いとされるが2007年は他とほぼ同じだった。樹齢750年の清秀桜の幹 |
鮮やかな濃い桜色は昔のままだろうが、衰弱はかなりなもので、幹は大部分が空洞になり、表皮近くに残った木質部だけで生きている状態。近くにわりに元気な樹があり、これと合わせて鑑賞すると往時が偲ばれる。
【場 所】
愛宕神社がある愛宕町2781は官庁街にある。法務省の飯田拘置支所の横の小さな道を入っていくとそのまま神社の境内につながる。朝早ければ境内にはクルマ2、3台分の駐車スペースがある。
増泉寺のしだれ桜 |
増泉寺の住所は上にあるとおりだが、伊賀良地区という周囲を田んぼに取り囲まれた 飯田市の西部郊外になる。周りに民家が少なく、しだれ桜の大木が寺の屋根より高く 屹立している。見栄えもよく私の中では「飯田市の名木3本」のうちにランクされる。
樹齢300年というベニシダレ(紅枝垂れ)の大木。ベニシダレはエドヒガン(江戸彼岸)の変種で、 花つきが枝垂れ型で、花の色(淡紅色)が濃いものを特に「紅枝垂れ」と呼んでいる。 エドヒガンは「彼岸桜」に分類されるが、「彼岸桜」というとコヒガン(小彼岸)をさすことが多いので、 「江戸彼岸」または「東彼岸」(あずまひがん))と呼んで区別している。花は小輪で一重咲き。
エドヒガン系は大木になることと花が咲いたあとから葉が出るという鑑賞価値の高さから桜の品種改良 では基本になる樹種。ソメイヨシノなどもこの系統。 花色が薄い普通のしだれ桜よりやや遅れて開花するそうだが2007年春は他の桜と同時に満開だった。
門からも見える見事な幹 |
曹洞宗増泉寺の創建は、今から1200年前に笠松山のふもとに尼寺が建立されたのが始め。600年ほど前に 神宮寺として移転し、さらに300年前に現在地に移転した。だから樹齢は300年だろうが、350年説、400年説 いろいろあるようだ。要するによく分からないところがあるのだろうが今も元気な花を咲かせる巨大な幹をみると そのくらい昔でも不思議ではない、と思わせる。上で紹介した桜の名所、専照寺の末寺にあたる。
観音堂に良寛の「かたみとて 何か残さむ 春ハ花 山ほととぎす 秋はもみじ葉」と辞世の一首の碑があった。 説明では、良寛和尚の師匠に当たる岡山の國仙和尚が増泉寺第四世住職、路樹和尚の弟子であったうんぬん の記述があった。良寛は長野の人だからなにかつながりがあっても不思議ではない。
ここのライトアップは一段と映える |
阿弥陀寺のしだれ桜 (飯田市円山町2丁目6728)
阿弥陀寺のしだれ桜 |
「阿弥陀寺」という寺は京都はじめ全国に多いが、桜の名所になっているのはここくらいだろう。 樹勢もよく幹も立派で貫禄があるが、写真を撮る角度がない。なにしろ近くまで墓や、寺が経営する幼稚園か 保育園の建物、本堂のひさしが迫っている。
枝垂れ桜(しだれざくら)は前項でも書いたが、品種の上ではバラ科サクラ属のイトザクラである。イトザクラは エドヒガンを母種とする一品種だが枝が下垂する特性がある。だから枝垂れ具合を鑑賞することになる。 もうすこし枝垂れるといいなとは思うが、樹齢400年の名木にいまさら注文をつけても始まらない。長々と 枝垂れる年もあるのだろう。
このサクラは飯田城主、脇坂候のお手植えのサクラと伝えられる古木で大樹。推定樹齢4 00年はそのときからの計算。この殿様というのは脇坂家2代目(1617〜1672)で、 弥陀の四十八願にちなんで、領内四十八堂に植えさせたのだが、第1号なので、殿様 自ら植えたようだ。このときの48本のうち残っているものの多くは、いま寺の名前ととも に桜の名所になっている。
阿弥陀寺のしだれ桜の幹 |
樹勢、樹形がよく目通り幹囲 4.2メートル、樹高11メートル、枝張りは東西14メートル、 南北18.5メートル。花色はつぼみから開花の当初まで深紅色で最盛期には淡紅色になる。 平成2年11月17日、飯田市の天然記念物に指定されていて隣接地には脇坂候ゆかりの千体仏観音堂と仁王門がある。 (そばに立つ飯田市観光協会の説明文)
【場所】
阿弥陀寺 飯田市円山町2丁目6728
多くのサクラとは反対側にあたる飯田駅の西北側、駅からクルマで10分ほどのところにある。
飯田ICから近い。この桜もシーズンにはライトアップされる。
毛賀くよとのしだれ桜 |
「毛賀(けが)くよと」ー名前の意味も分かりにくい上、この場所にたどり着くのがまたむずかしいが、実に立派な しだれ桜で一見の価値はある。昔の松尾村と毛賀村が合併して、それがまた飯田市に編入された経緯が上の住所に残る。
「くよと」とは供養塔の意味だ。今では偲ぶよすがもないが、古くは伊那谷に添った交通の要所で この桜の下は旧遠州街道が通っていた。室町時代、信濃の国の守護、小笠原氏の居城に近く、 すぐそばに今では城址公園になっているが松尾城、鈴岡城という二つの平城(ひらじろ)が並んでいたほどで、幾多の合戦により多くの命が失われた場所だという。
戦いが多く、今でも周辺には「自害坂」または「陣返坂」(じんがえしざか)、築城に使う石切り場があったか 石打場(いしうちば)など戦にちなむ地名が残る。行き倒れの旅人もいた。そうした人を弔う供養塔はもちろん 馬の供養をした馬頭観音、さらには天神様も桜のそばに立つ。今もここの住民は2基の常夜灯に毎晩交代で 供養の灯明をあげている。
幹の空洞が目立つ が樹勢はよい |
【場所】
他の桜の名所とは少し方角が違って、飯田駅や市役所からは南西に離れている。伊那谷を流れる天竜川添いに走るJR東海飯田線毛賀駅近く。また「天竜舟下り」の船着場、弁天港が近い。駅のそばを国道151号が通っていて、その
「松尾毛賀」の信号を山側に曲がり坂を上がってすぐ、右にクルマ一台やっとの細い道を入っていく。逆の方向からは鋭角過ぎて左折出来ない、そんなところ。しかも、桜の下まで入ってしまうと立ち往生するから、いったん下に下がり、左折して向かうほうがいい。そうすると桜の下近くにある鉄筋3階建てくらいのアパートの駐車場が利用できる。
麻績(おみ)の里の舞台桜 |
「座光寺の桜」とか「麻績校舎の舞台桜」とか呼び名がまちまちだった。由緒ある寺や史跡に隣接しているためで、 加えて読みが難しいのに観光パンフレットにはルビもなく、私など現地に行くまで「アサカ」で人に聞いて回り、現地ではじめて「麻績」(おみ)と読むことを知った。2007年にこの桜の呼称は「麻績(おみ)の里の舞台桜」と統一された。
桜の前にこの地の歴史を。長野県飯田市座光寺という上の住所には元善光寺(もとぜんこうじ)がある。元善光寺と名付けられる前は坐光寺(ざこうじ)だった。古くはこの地は、麻績の郷(おみのさと)と呼ばれていた。奈良時代から麻の栽培が盛んなところだった。
この頃、蘇我氏と物部氏の争いが激しく、仏教を排斥しようとした物部氏が仏像を難波(なにわ)の堀に投げ捨てた。推古天皇十年(602年)に、麻績の里の住人、本多(本田)善光が、難波の堀江(現在の大阪市)で一光三尊の本尊を見つけて持ち帰り、麻績の里の自宅の臼の上に安置したところ、臼が燦然と光を放ったことからここを「坐光寺」としたのが由来だ。
その後、皇極天皇元年(629年)、勅命により拾われた本尊は芋井の里(現在の長野県長野市)へ遷座し、発見者の善光の名をとって善光寺と名付けられたことから、坐光寺の方は元善光寺と呼ばれるようになった。遷座した本尊の代わりに元の寺には、勅命で木彫りの本尊が与えられた。また「毎月半ば十五日間は必ずこのふるさと(飯田)に帰りきて衆生を化益せん」という仏勅(お告げ)が残されたそうで、「善光寺と元善光寺の両方にお詣りしなければ片詣り」といわれたが、繁盛したのは善光寺の方という次第。
ついでながら、甲斐善光寺というのがある。私が八ヶ岳の山墅に行き来する時甲府市の北の方を通る山手通りを走ると横にある寺だが、こちらは武田信玄が川中島合戦の折、信濃善光寺が兵火にかかるのを恐れ、諸仏寺宝類を甲斐善光寺に移して戦火から守った寺。
小学校と歌舞伎舞台を兼ねた 珍しい建築麻績学校校舎 |
多弁の花びらを咲かせる 半八重紅彼岸枝垂れ桜 |
麻績(おみ)の里の石塚桜 |
上で紹介した「麻績の里の舞台桜」のすぐ下にある古墳の上に咲く枝垂れ桜。古墳は6世紀後半の横穴式石室を持つ円墳で、石塚古墳と呼ばれているところから2007年に上の名称に統一された。
舞台桜と同じシダレザクラだが、こんもりおわん型の舞台桜に比べこちらは背の高い巨木で立派だ。下まで回りこまないと分からないが写真のように古墳の石室の入り口に根を張っている。
瑠璃寺の桜 |
行政は自分の市町村だけ広報する。桜についてもそうで、飯田市のそばだが上記の住所なのでどこの桜ガイドにも取り上げられないきらいがあるが、飯田の北隣りで隣の松川ICに近い。
古い名刹で樹齢200年以上の枝垂桜が3本ある。「瑠璃寺(るりでら)の桜 」と一般には言っているが 正式には「大嶋山(だいとうざん) 瑠璃寺(るりじ)」という 。天永3年(1112)に創建された下伊那最古の天台宗の寺院。境内への入口に枝垂れ桜がある
1197年、源頼朝が幕府の祈願寺に選定、750石の寺領と愛育した桜苗三株を寄進した。この桜の子孫といわれるのが、鐘楼東にある地主桜と児童館南の彼岸桜、薬師堂入り口の枝垂桜。 昭和13年長野県の天然記念物に指定された。小ぶりのシダレザクラが垂れ下がる様は迫力がある。
寺の説明文では天永3年(1112)比叡山竹林院の観誉僧都(かんよそうず)がこの地に入ったとき、 仁王山の間の洞(あいのほら)の樹間に薬師如来が出現、 創建したと伝えられる。また上杉謙信が戦勝祈願したり、武田信玄が仏道修行をしたとも。本尊の薬師如来三尊佛は国の重要文化財。
【場所】
瑠璃寺 〒399-3106 長野県下伊那郡高森町大島山812 TEL 0265-35-2209
中央自動車道 松川インターから車で約15分 JR市田駅からはタクシーで10分。
問い合わせは寺か高森町観光協会 (TEL 0265-35-3111)
以上は2007年4月8日駆けつけて見て回ったさくらだが、このほかにも咲くのはずっと後といわれてあきらめたものが多い。
豐丘村・笹見平のしだれ桜 (4/11〜17ごろ)
「観音堂の桜」ともいうシダレザクラ。樹齢300年以上の古木で樹形の美しさで有名。
松川町・原田の桜 (4/11〜17ごろ)
原田の辻にある樹齢400年のエドヒガンで南駒ケ岳をバックに映える。
松川町・生田円満坊の桜 (4/7〜13ごろ)
阿島藩のお姫様が訪れた事もある由緒ある桜。
高森町・松源寺の桜 (4/7〜14ごろ)
中世城郭の松岡城址の松源寺にあるエドヒガン。花は小さいが密集して咲くので美しい。
喬木村・氏乗の桜 (4/10〜16ごろ)
旧氏乗分分校にあるシダレザクラ。
清内路村・黒船桜 (4/15〜21ごろ)
黒船来航にちなんで植えられたシダレザクラ。樹齢160年。斜面に咲いている。
清内路村・清南寺の夫婦桜 (4/17〜23ごろ)
上清内路のエドヒガンの古木。
阿智村・駒つなぎの桜 (4/20〜26ごろ)
智里昼神神社下の旧東山道ぞいの水田にあるエドヒガンの古木。義経が馬をつないだという。
水田に映るのを鑑賞。
浪合村・御所桜 (4/25〜5/1ごろ)
後醍醐天皇の孫の御陵前の参道にあるシダレザクラ。
根羽村・取手のしだれ桜 (4/18〜24ごろ)
三州街道(国道153号)添いの取手神社に植えられているシダレザクラ。
下條村・手塚原家の桜 (4/18〜24ごろ)
京都から移されたという幹周り4メートルのエドヒガンの巨木。
阿南町・村松寺の桜 (4/11〜17ごろ)
シダレザクラ。
阿南町・愛宕神社の桜 (4/20〜26ごろ)
新野矢野の愛宕神社にあるエドヒガン。
売木村・観音堂の桜 (4/20〜26ごろ)
観音堂の境内にあるエドヒガン。枝振りが美しい。
泰阜村・桜基の桜 (4/14〜20ごろ)
村の天然記念物指定の古木。
飯田市・三石のしだれ桜 (4/6〜12ごろ)
このほか、(株)南信州観光公社が認定している「桜守」の研修対象となっている名木は多い。 どんな桜か見当がつかないが、他の土地なら大々的に宣伝対象になる桜だと思う。 名前だけ挙げておく。
(飯田市内)加賀沢橋の桜、谷川の桜、大雄路の桜、最見塚の桜、水城御立ち譜の桜、龍門寺の桜、小林 の桜、上神様の桜、柏原の桜、北沢家の桜、大願寺の桜、万寿山の桜、川路の糸桜、、別曾峠の桜、 塩沢家の桜、小笠原屋敷の桜、興徳寺の桜、久米寺跡の桜、惣経寺の桜、光明寺の桜、矢高神社の 桜、高松正命寺の桜、経蔵寺の桜、飯沼神社の桜、中安の桜。
(松川町)原田の桜 (高森町)新田原の桜、桜堂の桜、下市田橘都家墓地の桜 (豊丘村)泉龍院の桜、 佐原分教場の桜 (喬木村)淵静寺の桜、太田中家の桜、郭の桜、佐久間の桜 (下條村)鎮西家の桜、 龍岳寺の桜 (清内路村)説教所の桜 (阿智村)市の沢の桜、唐沢家の桜 (阿南町)矢野の桜 、瑞光寺の桜 (売木村)南一の桜、銀一桜 (根羽村)宗源寺の桜 (天龍村)平岡の桜
サイトの亭主の「さくら放浪記」では上で飯田市周辺に多い桜の名木を紹介したが、信州にはもう一つ枝垂桜の名木がたくさんある場所がある。信州高山村だ。ここは善光寺平の東に広がる山里で秋の栗のシーズンに観光客でにぎわう小布施の隣り村で湯の里としても知られている。
サイトの亭主がいる八ケ岳高原から比較的近く(といっても1時間半はかかるが)で、桜の木が狭い村内に固まっているのでまとめて見て回れるのと、奥山田温泉、山田温泉、蕨温泉など名湯がすぐ近くなので桜見ながら温泉を楽しめて断然おすすめだ。
ここのしだれ桜は東京などの満開時期より1か月ほど遅く見ごろは4月下旬。ちょうどゴールデンウイークに差し掛かるのでよかったのだが、温暖化で満開時期は早まって2024年は4月中旬だった。
「しだれ桜の里・信州高山村」には、約20本のしだれ桜がある。そのうち半数が樹齢200年を超えている。村では村内にある名木、水中、坪井、黒部、赤和観音、中塩の「高山五大桜」と呼び、最近ではもう一本「和美の桜」を加えた「六大桜」などと呼んでいる。
以下に村の案内パンフレットに従って紹介する。
【坪井のしだれ桜】 (高山村大字中山4117)
墓地の中にある坪井のしだれ桜 |
山田の三郷地区坪井集落の中ほど、坪井川が刻む谷の縁にある墓地に植えられた墓守の桜の木。開花時には谷の林を背にして際立ちます。江戸時代の寛永の年号が刻まれた墓石が根元にあり、少なくとも500年、たぶん600年は経っている村一番の樹齢である。
中島千波描く坪井のしだれ桜 |
隣町の小布施生まれの日本画家、中島千波は桜をよく題材にしているが、彼は何枚も「坪井のしだれ桜」を屏風絵や額絵に描いている。
畑の中にポツンと黒部のエドヒガン桜 |
黒部地区は村の中央を流れる樋沢川から少し上に上った山間の里で、集落の南の水田地帯の高台の田園に1本だけひっそり佇むに雄大な桜。花の朱みが濃いエドヒガンならではの彩り。樹齢約500年、樹高約13b、幹周り約7b。樹下に「十二宮」が祀られています。「信州高山村五代桜」のひとつとして、村指定文化財に指定されている。
元は1本の木だったが、落雷により真っ二つに割れて、主幹のうち一本は垂直、もう一本は斜めに伸びている。2008(平成20)年には樹木医の診断を受けて、根の周りの土をほぐしたり、舗装路の整備をし直すなど、区民総出で整備を行うなど、桜の保護活動が行われた結果、樹勢を取り戻した。開花の季節には桜の周囲に咲く圃場の菜の花とのコントラストが春を彩り、遠くにまだ山頂に雪積もる黒姫や妙高を望むことができる。
赤和観音のしだれ桜 |
赤和地区の奧、400年の歴史を持つ赤和観音堂を借景に、枝をいっぱいに広げて咲き誇る。樹高15b、樹齢約200年。このしだれ桜は比較的赤みが濃い。この赤和地区には他にも「赤和集落センターのしだれ桜」「篠原家のしだれ桜」があるので一緒に見るとよい。
【中塩のしだれ桜】 (高山村大字中山4758-4)=写真 左下=五大桜の中で一番早く開花するのがこの「中塩のしだれ桜」。リンゴやモモ畑に囲まれたなかひら地区の中塩集落にある阿弥陀堂の道端に立つ樹齢約150年、樹高約10メートルの古木。他の五大桜に比べると小ぶりな感じだが、樹勢が強く、枝張りが程よくまとまって、まるで滝のように下に垂れ、阿弥陀堂の赤い屋根を覆うように赤味が濃いあふれんばかりの花をつける。
中塩のしだれ桜 | 水中のしだれ桜 |
樹齢250年を超えたしだれ桜 。水中の山すそ、月生城跡東麓字滝の入地積に薄緋色の滝のように咲き誇る。江戸時代、寛保2年(1742)の水害の後に鹿島神社を建てた際に植えた桜と言われ「鹿島しだれ桜」ともよばれている。
吉永小百合主演の映画「北の零年」のロケ地としても使われ、映画の冒頭に淡路島で浄瑠璃の舞台が行われるシーンで威風堂々とスクリーンに登場した。背景には北信五岳が並び立ち春霞に包まれて映し出される雄姿がひときわ美しい名木。
【和美(なごみ)の桜】 (高山村高井紫4972)”街角ピアノ”もある和美のしだれ桜 |
その樹形が美しいことから最近では五大桜に迫る勢いで人気なのがこの「和美の桜」。高山村役場のすぐ近く、役場前の道路の反対側、民家の畑の中にあり、以前は「役場上のしだれ桜」と呼ばれていたが、村制施行50周年を記念して「和美(なごみ)の桜」と命名された。樹高は約15b、樹齢は100年ほどで村内では若いだけあって樹勢があり、樹形も美しい桜で存在感が大きい。陽当りがよいで高山村のしだれ桜の中では開花は早い方。
この桜は、今から370年前(寛永12年)4月29日(緑の日)に徳川家康の家臣花咲桜エ門がこの地へ来たときに植えられたものという説がまことしやかに伝えられてきた。ところが最近になって土地所有者が、「57年前に長女の誕生祝いに植えた」と明言、伝説は立ち消えに。
冬季オリンピックのフィギュアスケートで金メダルを取った荒川静香さんが、この桜に立ち寄り、「五輪前に、この桜の木の周りを3回半廻って、北アルプスに向かってヤッホーと叫んだことが、金メダルにつながった!」と言ってくださりイナバウワスマイルで温泉に向かった。(入口の大看板をつくった宮川光男さん文言から)こちらの方の口伝が幅を利かせているそう。
NHKテレビで「街角ピアノ」が人気だが、この桜の前にも毎年アップライトピアノが置かれるようになり、誰でも弾くことができる。
このほか高山村のさくらマップによると以下のようなしだれ桜の名木がある。
〇「二ツ石(ふたついし)のしだれ桜」(推定300年)高山村のさくらマップ |
上で吉野山の見事なさくらのスチール写真を新聞報道から紹介した。吉野山はシーズンにはバスと観光客であふれかえる。吉野のさくらの美しさは ほとんどがヤマザクラの「群れ桜」であるから、雑踏を離れて空撮が適している。
毎年報道機関は満開時にヘリを飛ばしているが、最近ではドローンによる空からの撮影がYouTubeに上がるようになった。どこのどなたか存じ上げな いがありがたく鑑賞させていただく。
吉野山は山の下から順に咲きほころぶのだが、2018年は全国的に天候が観測開始以来の暖冬で3月中に満開になったところが多かった。 吉野もその暖冬で、下千本、中千本、上千本とも同時に満開になった。そのピーク、4月2日のドローン撮影である。時々カメラがブレるの 難点だが、空撮による見どころが十分である。いつまでアップされているか保証できないが、それまでのお楽しみとして紹介する。
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新渡戸稲造の筆になる「Boy's be ambitious」の額。北大総長室にある。 |
北大構内にあるクラーク博士の胸像 |
新渡戸稲造(北大附属図書館蔵) |
台湾の前総統李登輝氏が講演する予定だった「慶大講演原稿全文」に感動して別に項目を立てて紹介した。 戦前の台湾で農業近代化に向けた水利事業に生涯を尽くし台湾の六十万人の農民から神のごとく尊敬されている日本人技師、八田與一の事績を引いて、日本精神につ いて語りかけたものだ。その時、著書『「武士道」解題』 を知り、ついで古い岩波文庫に入っている「武士道」(矢内原忠雄訳)を読んだ。アメリカ人の夫人に、 武士とは何、と問われてその説明のために英語で書いたものだから和訳が必要なのだ。
新渡戸稲造の「武士道」が出たところですこし脇道にそれる。「日本三大名著」というのがある。その筆頭がこの『武士道』である。二番目が 内村鑑三の 『代表的日本人』、三番目は 岡倉天心の 『茶の本』である。
福沢諭吉の『学問のすゝめ』を三番目にあげる人もいるが、ここでは上述の3冊をとる。理由はいずれも日本人が英文で書いたものであること。そして日本人が拠って立つ、心柱ともいうべき「日本人論」として秀逸であること、の二点である。
この項のテーマは「さくら」なので、それぞれの本の「拾い読み」などは下記に別稿を立てて紹介することにするが、3大名著にあげられる3人のうち、2人までもが札幌農学校の生徒、それも2期という同級生であることに、改めて「教育の奇跡」という思いを禁じえない。
「3大名著」の内容や著者についてサイトの亭主がまとめた一文がある。3人の著者の横顔や、「代表的日本人」に挙げられている西郷隆盛、上杉鷹山、中江藤樹、二宮尊徳、日蓮についても詳述したが、何分にもこのコーナーは「さくら」なので、以下のように別稿として掲出した。
「武士道」について、軍国主義を押し付けるものという外道がいるが、とんでもない。日本人の精神の気高さについて、その依って来たるところを説いた必読の書といえる。その中で、桜と日本人について本居宣長の和歌を例に述べたくだりがある。
敷島の 大和心を 人問はば 朝日に匂ふ 山桜花ヨーロッパ人はバラの花を賞賛するが、バラは桜花の持つ簡素な純真さに欠けている。バラはその甘美さの陰に棘を隠し、執拗に生命にしがみつく。まるで死を怖れるがごとく。散り果てるよりも、枝についたまま朽ちることを好むかのようにである。色は華美であり、濃厚な香を漂わせている。
私たち日本人の愛する桜花は、その美しい装いの陰に、棘や毒を隠し持ってはいない。自然の為すがままいつ何時でもその生命を捨てる覚悟がある。その色は決して派手さを誇らず、淡い匂いは人を飽きさせない。
ベストセラー「国家の品格」の著者、数学者の藤原正彦氏も、この歌について触れ、「太陽東より昇ってまず絶東の島嶼を照らし、桜の芳香朝の空気を匂わす時、いわばこの美しき陽の気息そのものを吸い入れるに勝るものはない。この清澄爽快の感覚が大和心の本質である」と説いている。なんだか日本人を励ますように咲く櫻花(さくらばな)ではないか。
本居宣長のこの歌は日本人と大和心(やまとごころ)を語るとき必ず引き合いに出される歌だが、いやいや、そんなにしゃちほこばらずともいいんだと、文芸評論家の小林秀雄が言っている。そして、歌の意をこう解説している。
「大和ごころっていうことばを使っているけどね、あの歌はそう理屈っぽく大和ごころを説明しているんじゃないんだよ。もっともっとすなおな歌なんだよ。宣長は、とてもさくらの花が好きだった。遺言状に、墓はそまつな墓にしろ、うしろに山ざくらをうえろ、それもよく吟味していちばんいい木を植えて、枯れたら取り替えろ、と書いたぐらいだからね。
だからあの歌は、さくらを愛するあまり、さくらの美しさを、愛情をこめてほめた、すなおな歌だと思えばいいんだ。“しきしまのやまとごころを人とわば”っていうのは、ただ“わたしは”という意味にとって、この歌は“さくらはいい花だ、実にいい花だと思う”という素直な歌だととればいいんだよ」
日本人はどうしてこんなに桜が好きなのか。文学作品を渉猟した「桜の文学史」(小川和佑著、文春新書)によると、早くも
『日本書紀』に、履中天皇が池に船を浮かべて宴を催したとき、杯の中に桜花が舞い落ちる情景が描かれているそうだ。
「杯に浮かんだひとひらのはなびら。とても詩的な衝撃がある。すでに文学的感性で桜をみています」という時代から、
農耕民の信仰対象だった桜は宴遊と結びついて貴族の花になっていく。
万葉集には二人の男に求愛されて苦しみ、死を選ぶ「桜児(さくらこ)」説話がある。
桜で一番有名なのは、西行法師(1118〜1190)だろう。鎌倉時代に陸奥(みちのく)平泉、高野山、伊勢、鎌倉と遍歴、数多くの桜を詠んだが、吉野には庵を構えて3年余り住んだ。そして、
大阪府河南町の弘川寺にある西行像 |
願はくは花のしたにて春死なん そのきさらぎの望月の頃(『山家集』上 春 77)
願わくは、春、桜の花の咲く下で死にたいものだ。あの釈迦が入滅した2月15日の頃(旧暦)に、と詠んだまさに1190年2月16日、河内国南葛城の弘川寺で73歳で入滅している。この寺は私が小中高を過ごした大阪南郊からすぐのところにあるが、最近まで終焉の地だとは知らなかった。
たぐひなき 思ひいではの 桜かな 薄紅の 花の匂ひは
「思ひいではの」は「出羽」の掛詞だ。この一首は31歳の時「みちのく滝の山と申す山寺」で詠まれた。 この場所は、西行に詳しかった随筆家、白洲正子さん(白洲次郎夫人)によると斎藤茂吉の生家のある山形県・上の山温泉の近くだという。桜は当然ソメイヨシノなどではなく「オオヤマザクラ」だ。米沢に疎開したこともあるが、叔父の褒章の祝いや一族会やで近くの赤湯・上杉の御湯「御殿守」とともに数回逗留したことがある大好きな温泉だ。
木のもとに すみけるあとを 見つるかな 那智の高嶺の 花を尋ねて西行には270首もの桜の歌があるそうだ。和歌を見ると西行は、散る桜に人生の哀惜をみていたのだろう。桜に惜別を見る人もいれば、人生を謳歌する人もいる。美しい乙女をたたえる花にもなった。平安後期にはさまざまな桜が都に持ち込まれ、豊臣秀吉の「醍醐の花見」を経て江戸時代に大衆化したのは「陽」の方だ。
西行の人生西行は北面の武士として鳥羽上皇の警護をしていた佐藤義清(のりきよ)が本名、23歳のとき突如、出家して法名を円位、号を西行と称した。妻子と暮らす家を出て、歌詠みの僧の道を歩み始めた。
*北面の武士(ほくめんのぶし)とは、院御所(上皇=譲位した天皇の称)の北面(北側の部屋)の下に近衛として詰め、上皇の身辺を警衛、あるいは御幸に供奉した武士のこと。11世紀末に白河法皇が創設した。院の直属軍として、主に寺社の強訴を防ぐために動員された。西行の履歴 |
出家に至った原因は何だったのか。上は出家直後に詠んだ歌だが、この「浮かれ出づる心」に原因を探ろうとするも、もう一つわからない。親友の死による厭世(えんせい)説、鳥羽上皇の中宮・待賢門院との恋愛説、鳥羽上皇と崇徳天皇の確執の板挟みになった政治原因説など、古来いろいろ取り沙汰されてきた。
西行が詠んだ歌は2086首。そのうち230首が桜だ。次に郭公(ほととぎす)78首、鶯(うぐいす)38首、松34首、鹿33首、梅25首と続くが、突出して桜が多い。
あくがるる心はさても山桜 散りなむのちや 身にかへるべき後小松院(1377〜1433)本歌仙絵にある西行。歌仙絵とは、 優れた歌人の和歌とその肖像を表わしたやまと絵の一つ。 大変華麗な西行像で熟達したやまと絵師の制作と推察される。 |
自らが属していた平家の兵が東大寺を焼き打ちしたことへの責任感。奥州藤原家への砂金の勧進要請が、同じ一族の自分にしかできないという使命感。30歳のころ体験した奥州への歌の旅にもう一度出かけたいという願望。本当のところはこれまたわからない。
年たけて また越ゆべしと思ひきや 命なりけり小夜(さよ)の中山奥州の勧進の旅を無事済ませた西行は一旦、京都の嵯峨に草庵を結び、自らの歌道の仕上げに取り組む。「御裳濯河歌合」(みもすそがわうたあわせ)を当代一の歌人、藤原俊成に、「宮河歌合」を俊成の息子定家に、それぞれ歌評を託したのだ。この歌合は、自歌を2首ずつ36組並べ、それぞれ優劣を判じてもらうものだった。
72歳のときには、敬慕する空寂上人を頼って、奈良と大阪の境に位置する大和葛城山の麓にある弘川寺(大阪府河南町)に草庵を結ぶ。やがて病に臥して、詠んだ歌の通り、1190年(文治6年)2月16日(新暦の3月下旬)の満月のころに、桜の花の下で息を引き取った。享年73。
『古事記伝』を著した国学者、本居宣長(1730〜1801)は、桜好きで有名だ。上の項でも紹介したが、
敷島の 大和こころを 人問はば 朝日に匂ふ 山桜花
など数え切れない桜を愛でた和歌を残し、「私の墓には桜を植えよ」と遺言した。私の初任地が三重県津支局
だったので知っているのだが、72年の生涯を過ごした松阪市の山室山にある墓には、自ら書き残した「本居宣
長之奥墓(おくつき)」の七文字が刻まれ、その後ろには遺言通り1本の山桜が植えられている。
◇ ◇ ◇
古来、日本人が桜を愛した理由は、その散り際ゆえで、日本人の美意識に訴えかけるものがある。花の散りぎわの美学と言えば女性も同じで 第一に細川ガラシャの辞世の一首を挙げねばなるまい。
ちりぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ悲劇の女性、細川ガラシャは明智光秀の三女で、本名は明智珠(あけち・たま)といった。織田信長の勧めで細川忠興の妻となったが、父、光秀が本能寺の変 を起したため、「逆臣の娘」として離縁か処刑されるところだったが、夫である忠興が珠を深く愛していたため、とりあえず幽閉という形で救われる。
だが、これはまだ悲劇の序章だった。珠は幽閉されている間の心の支えにカトリックに傾倒していき、1584年に幽閉が解かれた後もイエズス会から"細川ガラ シャ"(Gratia)の洗礼名を受けた。だが秀吉がキリスト教廃絶を決めたため細川忠興の立場は微妙になり、ガラシャと共にキリスト教徒になった侍女たちの 鼻を削いで追い出し、妻にも信仰を禁じた。ガラシャは離婚しようとするが、宣教師は「困難に立ち向かってこそ、徳は磨かれる」と説く。
関が原の戦いが勃発する直前、カラシャを人質に取ろうとした西軍の石田三成に屋敷を取り囲まれるが、それを受け入れず、家老に槍で部屋の外から胸を貫 かせて(カトリックで自殺は大罪である為)死んだ。38歳だった。その時に残した彼女の辞世の句が上の一首。
家老はガラシャの遺体が残らぬように屋敷に爆薬を仕掛け火を点けて自刃して果てたが、その数時間後、神父が細川屋敷の焼け跡を訪れてガラシャの骨 を拾い、堺のキリシタン墓地に葬った。細川忠興はガラシャの死を悲しみ、慶長6年(1601年)に教会葬を依頼して葬儀にも参列し、後に遺骨を大坂の崇 禅寺へ改葬した。
◇ ◇ ◇
桜を詠んだ和歌を並べてみても、みな人口に膾炙したものばかりだ。
世の中にたえてさくらのなかりせば 春の心はのどけからまし 在原業平
ひさかたの光のどけき春の日に しづ心なく花の散るらむ 紀友則
花の色はうつりにけりないたづらに 我が身世にふるながめせしまに 小野小町
いにしへの奈良のみやこの八重桜 今日九重ににほいぬるかな 伊勢大輔
吹く風をなこその関と思へども 道もせに散る山桜かな 源義家
清水へ祇園をよぎる桜月夜 こよひ逢ふ人みなうつくしき 与謝野晶子
歌人であり作家である岡本かの子も桜を愛した一人だった。桜ばかりを一週間で139首詠んだ 「桜」 (クリックでリンク先に)という歌集がある。没後50年が過ぎ著作権が切れた文芸作品をデジタル文庫としてアップしている「青空文庫」に収録 されている。
その歌集の冒頭の一首は、彼女の命をかけた多情多感の一生を知らないとわからないかもしれない。岡本かの子(1889年3月1日-1939年2月18日)は、漫画家、岡本一平の妻 であり、「芸術は爆発だあ」で大阪万博の太陽の塔を残した画家、岡本太郎の母だ。一平の漫画が売れて金が入るようになってから始まった夫の浮気へのあてつけのように 始まったかの子の男遍歴。
文通のあった早稲田の学生に始まり、痔の手術のため慶応大学病院に入院したとき一目ぼれした外科医は左遷先の北海道にまで追いかけていく(それも一平に青函連絡船まで送らせて)。 挙句、自宅で夫と愛人2人の計4人で暮らすという「奇妙な夫婦生活」を送ったことで知られる。かの子はこのメンバーでヨーロッパ旅行までしている。 この間のことは、瀬戸内晴美(出家して寂聴)の『かの子繚乱』に描かれている。
瀬戸内もまたそちらで忙しい女性で、切羽詰って平泉の中尊寺貫主をしていた作家、今東光のもとをたずね、世を捨てた(得度)。瀬戸内が髪を切るとい うのは当時夕刊フジのスクープだったが、裏事情をいうと学芸部のベテラン記者が社名で和尚の秘書をしていたため、自然に耳に入った特ダネだった。男より疲れてかへる裏町も すこし夜露にしめりたる頃
これなど岡本かの子の真骨頂、後にも先にも、女の朝帰りの和歌の嚆矢だろう。こういうことに理解があってもよさそうな谷崎潤一郎はそのせいか終生かの子を評価しなかった。昭和14年、
夫と上述の外科医に看取られて49歳で死去。生前「火葬はきらい」と話していたので、男2人で東京中のバラを買い占めて土葬として葬った。かの子が
愛した桜にしたかったのだろうが、亡くなったのが2月でまだつぼみが固かった。
上述の岡本、瀬戸内に宇野千代を加えると(互いによく知る間柄)「繚乱三女」になる。瀬戸内寂聴が、宇野千代に、かかわりのあった男性について尋ねたことがある。名前を挙げると間髪を入れ ず、「寝た」あるいは「寝ない」の答えが返ってきた(『奇縁まんだら』日本経済新聞)。 「寝た」の方がずっと多かったが、梶井基次郎については、 「寝ない!」だった。宇野が夫の尾崎士郎と別れたのは、梶井との噂が広がったからだが、それなのにどうしてと聞くと、「あたし面喰いなの」の 一言で片づけたという。
その梶井基次郎の短編に「桜の樹の下には屍体が埋まっている!これは信じていいことなんだよ」という 有名な書き出しの「桜の樹の下には」がある。短編なので別項にまとめた(クリックで飛 びます)。代表作「檸檬」も不思議な感覚の描写だが、結核で31歳で死んだ彼は、あまりに美しい桜の下には、醜い腐臭があるはずだ、でなければ バランスが取れない、とシュールな感覚を研ぎ澄ましている。梶井が療養した温泉宿の向かいにはソメイヨシノがあるそうだ。
ここまで虚無的にならずとも静かに心にしみてくる桜の詩もある。
甃(いし)のうえ 三好達治
あはれ花びらながれ
をみなごに花びらながれ
をみなごしめやかに語らひあゆみ
うららかの跫音空にながれ
をりふしに瞳をあげて
翳りなきみ寺の春をすぎゆくなり
み寺の甍みどりにうるほひ
廂々に
風鐸のすがたしづかなれば
ひとりなる
わが身の影をあゆまする甃のうえ
『測量船』から
代田川緑道の桜のトンネルとアナスタシア。 2008年4月4日 |
二人の終焉の地から近いところに、代田川があり、その両岸に美しい桜並木が育ち、当時から桜の季節にはお花見の名所だった。その後、川は埋め立てられ、遊 歩道が設けられたが、あまりの風情のなさを反省した行政が最近(平成17年)また掘り返して、本当の川の上に工業用水を流した人口の川をこしらえた。私と愛犬の散 歩道=写真右=だが、花見の時には下北沢まで人であふれる。この周辺の人だけの穴場である。
桜というと表題の詩が浮かぶ。虚無的に受け取ろうが、普通の別離の場面と受け取ろうが、
それぞれ個人の感性だが、桜の散り際のよさが日本人に好まれるのだろう。一昔前、
中高年の会社人間オジサンのカラオケ定番で、今では歌う人とて少ない「同期の桜」でも
「貴様と俺とは同期の桜。・・・咲いた花なら散るのは覚悟 みごと散りましょ 国のため」と
散り際が賛美されている。
桜の特徴を一言で言うとこの「サヨナラ」ダケガ人生ダ、に行き着く。
井伏鱒二の訳詩で有名になったが、元は于武陵(うぶりょう)の「勧酒」と題する五言絶句
の唐詩(写真左)。友人と別れる時の送別の宴でつくった。
君に勧む金屈巵(きんくつし=曲がった取っ手がついた黄金の杯)
満酌辞するを須(もち)いず
花發(ひら)けば風雨多く
人生別離足(た)る
と読む。意味は「君に黄金のさかずきを勧める。なみなみと注いだこの酒を断ってはいけないよ。花が咲けば
雨が降ったり風が吹いたりするものだ 。人生に別離はつきものだ」。ごく普通の唐詩だが、
これが井伏鱒二訳だとこうなる。原作以上の名訳とされる。
コノサカヅキヲ受ケテクレ
ドウゾナミナミツガシテオクレ
ハナニアラシノタトエモアルゾ
「サヨナラ」ダケガ人生ダ (「厄除け詩集」より)
短歌には「本歌取り」という手法がある。これと似ているが、井伏鱒二には漢詩からの、本歌取りというか、戯れ歌
をつくる趣味があって面白いのがある。
「春眠暁を覚えず」で有名な「春暁」(孟浩然)という唐詩がある。
春眠 暁を覚えず
処処(しょしょ) 啼鳥(ていちょう)を聞く
夜来(やらい) 風雨の声
花落つること 知るや多少(いくばく)
「春の夜明けに寝過ごした 小鳥のさえずりあちこちで 夕べは雨と風の音 花はどれほど散ったやら 」
といった意味だが、これなど井伏鱒二にかかるとこうなる。
ハルノネザメノウツツデ聞ケバ
トリノナクネデ目ガサメマシタ
ヨルノアラシニ雨ガマジリ
散ツタ木ノ花イカホドバカリ (「厄除け詩集」より)
「秋の日のヴィオロンのため息の・・・」で有名な上田敏の名訳を髣髴とさせるできばえだ。ともに原作を超えて独自の
文学の世界を構築している。
五言絶句は「起・承・転・結」で成り立っているが、このうち、後半の転句と結句、「花に嵐のたとえもあるぞ さよ
ならだけが人生だ」のくだりは特に好まれて人口に膾炙した。
井伏鱒二自身も、揮毫を頼まれると、「サヨナラ」ダケガ人生ダ、と好んで色紙に書いたという。その後、この言葉は
ほとんど”一人歩き”を始める。
太宰治は井伏鱒二の弟子で、嫁さんの世話から家の世話、療養のため山梨の富士山の見える宿、御坂峠の「天下茶屋」
を紹介してもらうなど一方ならぬ庇護を受けた。「富士山には月見草がよく似合う」の場所だ。その太宰も「さよなら
だけが人生だ」をよく使い、言葉どおり愛人と入水して果てた。
太宰治と山崎富栄が東京・三鷹の玉川上水に身を投じたのは、昭和23年の6月13日から翌日未明だが遺体が見つかったのは 1週間ほどあとの19日で太宰の39歳の誕生日だった。破滅型の太宰には妻との間に3人の子供が、別の女性との間にも生まれ て間もない女児がいた。山崎富栄とて戦争未亡人で当時としてはともに許されざる恋だったから、ひっそりと近くの禅林寺に埋葬された。
皮肉なことに、この情死事件によって作家としての人気は一段と高まった。『斜陽』や『人間失格』が飛ぶように売れ、翌年から 墓前で「桜桃忌」が開かれるようになった。毎年ファンが集まるが2009年は生誕100年とあって、本が売れ映画ができる人気だ。 ナルシストの側面があり、写真家・林忠彦が銀座の文壇バー「ルパン」で昭和21年に撮影した止まり木で格好をつけた右の写真が気に入っていた。
太宰は青森・津軽出身だが、同じ青森県むつ市出身の映画監督、川島雄三は「さよならだけが人生だ」を座右の
銘とした。日本映画のベストテンに必ず選ばれる「幕末太陽傳」などを残した鬼才で、その弟子筋にあたる藤本義
一には「 川島雄三、サヨナラだけが人生だ」という著作がある。
やはり青森・三沢出身の寺山修司も好んで使った。寺山修司については「ブン屋のたわ言」の「身捨つるほどの祖国はありや」のくだりで短歌とともに その人生を紹介した。そこで書ききれなかった部分だが、カルメン・マキのために作詞した「さよならだけが人生ならば」という歌がある。
太宰治の有名な写真。 銀座「ルパン」で |
さよならだけが人生ならば
又来る春はなんだろう
はるかな はるかな地の果てに
咲いてる野の百合なんだろう
さよならだけが人生ならば
めぐり逢う日は何だろう
やさしい やさしい夕焼と
ふたりの愛はなんだろう
さよならだけが人生ならば
建てた我家は何だろう
さみしい さみしい平原に
ともす灯りはなんだろう
カルメン・マキは高校2年生のとき寺山修司が主宰していた劇団「天井桟敷」の舞台を見に行って感銘を受けそのまま入団した。「書を捨てよ町へ出よう」で初舞台 を踏んだが、この時、CBSソニーの関係者の目に止まり、歌手としてデビューしたシンデレラ・ガール。そのカルメン・マキのために作詞したのだが、詩集ではこの歌詞にない 2行がある。
さよならだけが 人生ならば 人生なんか いりません
そりゃそうだろう。いちばん言いたかったところだろうが、この結語では歌にならない。
ところで、太宰治は優柔不断な上、恩師・井伏鱒二はじめ周囲に迷惑ばかりかけた男だと嫌う人もいる。中でも川島雄三と寺山修司はともに太宰治が嫌いで、 川島など「太宰のことをほめるやつはバカだ」とまで言って いる。しかし、この言葉を好んだ「無頼派」の3人とも青森出身で、故郷に背を向けた人生を送ったというのは、なにか 風土が関係しているのだろうか。
三島由紀夫も太宰嫌いで「太宰のかかえている問題なんぞ、毎朝冷水摩擦とラジオ体操をしていればなおってしまう」といってのけた。言うだけでなく、 太宰が主宰する会にわざわざ出かけていき、「僕が今日ここへ来たのはあなたが嫌いだからですよ」といった。太宰はにやにや笑ってみせ、「それは君が、 実は僕のことが好きだからだよ」といったという。よほど自意識過剰な男だったようだ。
ところで「花」というと桜を意味する日本人は、以上の唐詩ですべて「花=桜」としてイメージしている。また、それでなんの不自然も
感じないだろう。しかし、中国では「花=牡丹」である。風雨に散り、夜来の雨に打たれるのは牡丹であり、せいぜい
芍薬でないとおかしい。だが、牡丹の花はポロポロ落ちるか、ひどいのはしぼんで花柄にしがみついているのが多い。
日本人ならここは散り際がよい桜でないとどうしてもイメージにあわないのだ。「花」を「桜」と翻訳した
日本人こそ名訳の才があるというべきだろう。
このサイトの亭主が一本桜を見にあちこちでかけていることは、上述のルポにあるように縷々書き連ねてきた。なにもサイトの亭主一人ばかりでなく、日本人はみな桜が大好きだ。
しかし、平成から令和にかけての御代替わりの2年間、日本は「花見」のバカ騒ぎに明け暮れた。首相主催の「桜を見る会」問題である。ことの発端は2019年4月13日に開催された桜を見る会について、当初の予算の三倍となる約5200万円に上っていたことが衆院決算行政監視委員会(同年5月13日)で明らかとなり、問題視されたことだ。朝日新聞を筆頭に”パシリの毎日新聞、”左巻き”共同通信から配信を受けているブロック紙、ほとんどの地方紙まで同調した一部メディアと、これに野党が加わり、鬼の首を取ったように大騒ぎを演じた。
昔の野党は独自の「ソース」で爆弾質問したものだが、この頃の野党は堕落して左巻きメディアの尻馬に乗るばかりである。森友学園問題然り、加計学園問題然り。前者など国を脅して国有地を安く手に入れようとした詐欺師夫妻の犯罪で、有罪判決が 出てもまだメディアと野党は国会でしつこくろくでもない質問を繰り返した。
その間、2020年2月新型コロナウイルス問題が勃発した。中国・武漢に端を発し、韓国、日本、イラン、イタリアなど世界の77カ国・地域に広がり、累計の感染者数は9万1000人を超え、死者は3100人を上回った(3月1日現在)。それでも野党は予算委での審議拒否戦術をやめなかった。
こうも堕落した政治は戦後例を見ない。ここらで日本の「花見」の起源に思いを巡らすのも一興かとこの項を呈する次第。
その前にまず新元号の由来が「花見」にある、ということから。
万葉集(寛永版)巻5 |
新元号の「令和」の出典は、『万葉集 巻第五』に収録されている「梅花歌三十二首并序(ばいかのうたさんじゅうにしゅあわせてじょ)」という序文の中の「初春令月 気淑風和」から取られた。
この作品は、天平2(730)年の正月13日(太陽暦2月8日頃)に、大宰府の長官である帥老(そちのおきな=大伴旅人)の宅に集まって開かれた梅花の宴で詠まれた歌をまとめたもの。この序文の作者については、大伴旅人、山上憶良、麻田連陽春、など説がわかれている。
※ 万葉集序文の中にある「并」という字は「現在の「併」と同じ意味で、本来は右に表示したような8画の文字で、音読みは「へい」である。現在、パソコン上では新字体しか表示されないので、すべて「并」を使う。原文は
天平二年正月十三日、萃于帥老之宅、申宴会也。于時、初春令月、気淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香、
天平二年正月十三日、帥老の宅に萃(あつまり)て、宴会を申(ひらき)き。時に、初春の令月にして、気淑(よ)く風和(やわら)ぎ、梅は鏡前の粉を披(ひら)き、蘭は珮(はい)後の香を薫らす。
これをさらにわかりやすく現代語訳すると、
天平二年正月十三日に、旅人の邸に集まって宴会を開いた。折しも初春のめでたい月、空気は清らかで風も穏やか、梅は鏡の前で白粉をつけた美人のように白く咲き、蘭(藤袴)は身に帯びた匂い袋のように薫っている。
◇ ◇ ◇
川本皓嗣・東京大名誉教授は「万葉集の序文を出典にしたのは正直、驚いた」という。「日本語で書かれた古典から漢字2字を選び出し元号をつくるのは難しい。そんななか、万葉集のうち漢文で書かれた序文を出典にするは予想外だった」。
今後も和書を出典とする元号が続くかどうについては否定的な見方。「もともと万葉集は日本語で書かれた和歌を集めたもので、序文がたまたま漢文で書かれているだけだ。漢文の記述が少ない国書は出典になじみにくく、やはり漢籍から引用するのが自然ではないか」と指摘した。
川本名誉教授は「これまでの元号の出典はいずれも「四書五経」などの難しい散文ばかりだった。日本人の親しみやすさを考えれば、漢語で書かれた詩書にも出典の範囲を広げるべきだ」と話している。(2019.4.1 日経新聞)
※ 日経の記事にある川本皓嗣・東京大名誉教授はサイトの亭主とは高校時代から数十年来の親友である。このサイトにある母の句集「雪散華」に寄稿頂いているほか、同じページに写真があるように同級生4人で毎年。恵比寿に集まって一献傾けている仲である。学生時代札幌の下宿には夏休み中サイトの亭主が帰省すると、この内川本君など2人が転がり込んで、下宿の娘の勉強を見てやりながら、長逗留していたものである。
===================================左近桜(さこんのさくら)桜を見る会が国家的催事とされたのは何時からか。『日本後紀』は、812年、平安京の神泉苑での嵯峨天皇の花見を、この国の「花宴之節」の始まりと記す。
宴だから詩歌と管絃と飲食を伴っていた。そして、平安時代に花宴と言えば、桜花の宴と決まっている。 『源氏物語』の第八帖「花宴」とは、桜の花見。花と言えば桜。日本は桜の国。そんな新常識の広まる 端緒は、812年にあった。
そう、新常識である。平安京への遷都は794(延暦13)年。ときの天皇は嵯峨天皇の父の桓武天皇。この帝が 新皇居の正殿の正面に植えた花は、桜でなく梅だった。それが仁明天皇の御世のうちに桜に植え替えられた。
仁明天皇は、嵯峨天皇の子だから桓武天皇の孫。在位は833年から85O年。その間には、約30年ぷりにして 結局最後の遣唐使が海を渡った。行きたがらない者が出るなど、ドタバタ劇を伴った。梅が桜に代わるのと、対中 感情の冷え込む時期はダブつていた。
李白にも杜甫にも梅の詩がある。梅は大陸の先進文明を象徴する花だった。飛鳥時代から奈良時代にかけては遣唐使の時代。『万葉集』にも梅の歌が多い。たとえば詠み人知らずのこんな歌。
「百(もも)しきの大宮人は暇(いとま)あれや 梅をかざして此間につどへる」
宮廷に仕えるとは梅を愛でること。平城京の常識だった。対する桜は日本土着のイメージの担い手。それを愛で るのは、文明未満の田舎や庶民の趣味であり、要するに野暮だった。
ところが平安初期に逆転した。日本は大都平安京を造営し、大陸では唐に衰えが目立つ。もはや中国に学ぶものなし。梅を見る会から桜を見る会へ。それはこの国を取り戻すということであった。
以来、桜を見るのは為政者の仕事になった。たとえば957年には、時の左大臣、今で申せば総理大臣の藤原実頼が、仁和寺で花見を催している。実頼の弟の孫が藤原道長。藤原氏は勢威を花見で見せつけた。足利義満、豊臣秀吉、徳川将軍、みな然り。
では、王政復古したとき、明治天皇はすぐ花見をしたろうか。しなかった。幕末から明治の前半は奈良時代に似ていた。西洋文明に拝跪(はいき)した時代だった。
国文学者、山田孝雄は、1896(明治29)年に、奈良の吉野山を訪れた。そうしたら驚いた。桜の名所なのに、若木が目立つ。御一新のとき、桜など時代遅れだと、多くが換金目的で伐採され、ただいま再建途上なのだという。
明治天皇が吹上御苑に貴顕を招いて観桜会を初めて催したのは、ようやく明治14年。とはいえ、国民的に桜を再び誇るようになるのは、やはり明治20年代後半、日清戦争での勝利による日本の自信回復を待たねばならなかったろう。
梅(中国)を下げて桜(日本)が上がる。逆もまた真なり。日本史のパターンかもしれない。天皇の観桜会は、吹上御苑から、浜離宮、新宿御苑へと場所を移し、戦後民主主義下、政府主催の「桜を見る会」に変じた。
今年、元号が令和になった。『万葉集』の巻五の「梅花宴」を出典とする。梅の花の咲く季節が日本のいちばんよい時候という含みだろう。奈良朝の中華憧憬を反映する元号の採用は、選定者の意図と関係なく、自信喪失期に再び向かいつつあるこの国の深層心理を反映しているように思えてならない。
「桜を見る会」も、一種のドタバタ劇を伴って、来年は中止という。再来年から万葉歌人の遺風を慕って「梅を見る会」に衣替えするのかしら? いずれにせよ、梅との付き合い方が肝。新元号がそう予言しております。
左近の桜 |
もとは梅の樹で桓武天皇の平安京遷都のときに植えられたが、承和年間(834年-847年)に枯死したため、上記のコラムにあるように、仁明天皇のときに梅の代わりに桜を植えた。桜の樹種はヤマザクラ。暴風雨や火災で何度も枯れ、現在の京都御所の桜も再建されたもの。
ソメイヨシノの系譜
今では桜といえばソメイヨシノをさすほどだが、歴史は比較的新しく幕末から明治にかけて開発された品種だ。
ソメイヨシノが学術的に桜の新種として認められたのは1900年(明治33年)である。遠山の金さんが「この桜吹雪が目に入らぬか」と啖呵を切るとき背中がソメイヨシノで
はしまらないのだ。
ソメイヨシノが広がるまでの日本人の花見は1カ月も楽しめた。ヤマザクラ、エドヒガン、オオシマザクラなど開花時期が違う品種が植えられていたためだ。
幕末、江戸染井村(現在の東京都豊島区駒込あたり)の植木屋がサクラの名所として名高い大和の吉野山(奈良県山岳部)にちなんで「吉野」「吉野桜」 と売り出した。その後、植物学者の藤野寄命(ふじの よりなが 1848年-1926年)による上野公園のサクラの調査によってヤマザクラとは異なる種の桜 であることが分かり(1900年)、この名称では吉野山に多いヤマザクラと混同される恐れがあるため、「日本園芸雑誌」で染井村の名を取り「染井吉野」と命名した。
満開のソメイヨシノ |
葉より先に花が咲き、一木すべてが桜色に染まる咲き方が見事なのと、成長が早いことから重宝された。 ちょうどこのころ各地に設立されはじめた小学校に植えられ、学校が増えると共に全国にソメイヨシノが広まった。 明治維新で焼け落ちた城跡、堤防や人が集まる公園、散歩道など、江戸時代になかった施設にも多く植えられた。 しかしソメイヨシノの寿命は数十年といわれ、現在桜の名所で有名になっているところも古木が枯れはじめているところが多い。
ソメイヨシノを遺伝的にみると、オオシマザクラの雌しべにエドヒガンの花粉がついた雑種だ。日本に自生している桜は、大島桜、山桜、彼岸桜の
3つで、結実して自生できる桜はこの3つだけ。あとは突然変異か品種改良したものばかりでめしべが退化しているから接木でないと
自生出来ない。自生の桜は環境に左右されるから咲かない年もある。ソメイヨシノは両方の品種が
見られる伊豆半島で自然交配したと推測されているが、植木屋、伊藤政武が作り出したとする説も流布している。
エドヒガン(江戸彼岸)は本州の北端から南端までの山地に分布する。彼岸の頃咲き始める早咲きで別名「アズマヒガン」、
「ウバヒガン」とも呼ぶ。花は小型で、淡紅色を帯びる。萼筒は瓢箪(ヒョウタン)のようにくびれているのでこれで
識別する。(写真=左)花柄や萼には毛がある。シダレザクラは、エドヒガンの枝垂れ種。花は白系とピンク系がある。
エドヒガンの樹勢は強く、樹齢も長く、大木となる性質をもつ。日本で一番古い桜と言われる岐阜県・根尾谷村
の薄墨桜(うすずみざくら)をはじめ、岐阜・高山や山梨・武川村の神代桜、盛岡の石割桜など各地の巨木はエ
ドヒガンが多い。
オオシマザクラ(写真=右)の開花時期は4月。緑色の葉と、大きく純白の花がほぼ同時に出るのが特徴。伊豆大島、伊 豆諸島に多く、花の早いものは、伊豆大島では1月〜2月に咲く。海岸近くに自生していて場所柄、よく潮風 に耐える。これも大木になる。桜餅を包む葉は、オオシマザクラの葉を塩漬けにしたもの。葉に香りがある。
両種が交配して出来たソメイヨシノは「自家不和合性」といって自分の花粉では受粉できない。つまり結実しな
いので、接木で増やすほかない。日本中のソメイヨシノは染井村に端を発するクローンということになる。クロー
ンだから夏の終わりにできた花芽が休眠し、一定の寒さに当たることで目覚め、春の暖かさで開花するまで同
じサイクルになる。桜並木がいっせいに満開になり、いっせいに散り始めるのはこのためだ。
ソメイヨシノは植えっ放しでは数十年でだめになる。本来もっと生きるのだろうが病虫害に弱い。カビの一種の 「テングス病」にもかかる。枝のあちこちから細い枝がたくさん生えている桜を見かけるがたいていこの病気だ。 戦争中に出征記念などで植えたのが多いので、今いっせいに寿命を迎えている。
「サクラ切る馬鹿、ウメ切らぬ馬鹿」というが、弘前市で枯れかけたサクラの大枝を切り落とす”強剪定”という方法が開発された。 弘前公園にはこの方法で助かった樹齢126年のソメイヨシノがある。サクラはリンゴと同じバラ科だが、リンゴ農家では大きなリンゴの木をわざと切って水平方向に伸ばすことが行われていて、これを弱ったサクラに応用したところ、残った幹から勢いよく枝が出てきたのだそうだ。
ワシントンのサクラ |
この桜は日本から贈られた。その経緯だが、明治の終わり頃、アメリカでは来日経験のある学者や作家たちの間で、日本の桜を讃える声が相次いで、「アメリカ人にもあの美しい桜を見せたい」と、当時のタフト大統領夫人たちが中心になって日本政府に働きかけた。当時の尾崎行雄東京市長がこれに応えてソメイヨシノ2000本を贈ったものだ。
なお、この時はソメイヨシノ以外の品種も贈られており、尾崎がワシントンD.Cに贈ったサクラは計12種類で、内訳はソメイヨシノ(1,800本)、有明(100本)、フゲンゾウ(120本) 、福禄寿(50本)、ギョイコウ(20本)、イチヨウ (160本)、ジョウニオイ(80本)、カンザン(350本)、ミクルマガエシ(20本)、シラユキ(130本)、スルガダイニオイ( 50本)、タキニオイ(140本)の合計3020本だった。
尾崎行雄(1858年12月24日 - 1954年10月6日)は、「咢堂」と号し、東京市長を務めたのち国政にあずかり、日本の議会政治の黎明期から戦後に至るまで50年以上にわたって衆議院議員を務め、当選回数・議員勤続年数・最高齢議員記録など複数の日本記録を持ち、「憲政の神様」「議会政治の父」と呼ばれる。国会前庭の敷地内にある憲政記念館は尾崎咢堂の功績を称えて建設されたものであり、銅像も建立されている。
尾崎行雄
尾崎咢堂がアメリカに届けたサクラの多くは、残念ながらワシントンに到着した頃には、おびただしい数の害虫が発生していて、焼却を余儀なくされた。そこで尾崎東京市長は今度は害虫に強い桜の苗木の調達を依頼した。静岡県にある興津園芸試験場で接ぎ木という方法で、丈夫な苗木を育てることが立案された。
穂木は東京の荒川堤の桜並木から、病気や害虫の少ない台木づくりは、当時植木の産地として高い園芸技術を持っていた兵庫県伊丹の東野村に託された。こうして興津園芸試験場で接ぎ木された苗木6,040本は、明治45年(1912年)、横浜港から出港、無事アメリカに到着したが、今度は一本の病気もない苗木でアメリカの検疫官も感嘆の声を上げたという。
アメリカ側の答礼として1915年(大正4年)ハナミズキの苗木40本が日本に届けられた。ハナミズキが選ばれた理由はアメリカに多いのと開花の時期が桜が散る時期と重なり、桜に続いてハナミズキを楽しめるからだという。贈られた苗木は日比谷公園や伊丹など各地に植えられたが、多くは枯れたりしたのと太平洋戦争がはさまったりして消息不明になった。
しかし、その後の調査で、東京都立園芸高校に原木が現存していることが判明し、平成11年(1999年)その子孫の樹が再び伊丹市立荻野小学校に植樹された。今では3メートルを超える大きさに成長しているという。
2015年4月5日のNHK「サイエンスZERO」で「ソメイヨシノの起源」という番組が放映された。これは新しい遺伝子研究からみたソメイヨシノの研究成果がたくさん盛り込まれていた
。この番組の動画がネット上にアップされたので下に再録。
この番組では、特に二つほど新しい研究が紹介されていたので要約して紹介したい。
@従来の定説では、ソメイヨシノは「オオシマザクラ×エドヒガン」の交雑種というものだが、実はヤマザクラの遺伝子もかなり入っていることがわかってきたのだ。
研究はサクラの遺伝子の中の「SSR」というものに注目した。「DNAフィンガープリント法」という、遺伝子から祖先をたどる方法で日本の桜を20カ所で採集したものを分析した結果、17個所で完全に一致したので、これでまずソメイヨシノはすべてクローンということが証明された。
次に日本のサクラの原種がどのくらい遺伝子に含まれるかを分析した。日本の野生のサクラはマメザクラ、タカネザクラ、カスミサクラ、エドヒガン、オオシマザクラ、ミヤマザクラ、オオヤマザクラ、チョウジザクラ、カンヒザクラ ヤマザクラの10種だが、ソメイヨシノの遺伝子中、それぞれどのくらい原種が含まれるかをみた。その結果、
ヤマザクラ 11%
オオシマザクラ 37%
エドヒガン 47%
不明 5%
従来は「オオシマザクラ×エドヒガン」の2種交雑、というものだったが、今回の研究で「(オオシマザクラ×ヤマザクラ)×エドヒガン」と新たにヤマザクラが入った3種の交雑種ということがわかってきた。カッコ内の2種は自生地が離れているから自然交雑はないのでともに「人が植えた者同士の交雑」と見られる。つまり植木屋の圃場でこの2種が交雑、さらに近くに植えられていたヤマザクラと交雑したと見られるのだ。
上野公園にあるソメイヨシノの原木と見られる木(番組から) |
染井村でなくなぜ上野なのか。中村教授の見解は、こうだ。ここは昔といっても江戸時代から花見の名所だった寛永寺の敷地だったところである。上野はどんな花が咲くかを見る実験場だった。植木屋はサクラの兄弟を植えてその中からいいものを選び出そうとしていたたのではないかとみる。
サクラは自家受粉できない「自家不和合性」の植物である。その中のS遺伝子を持ったもののみタネができる。遺伝子学を知らなくとも植木職人はそのことを知っていて、ここでいろいろ実験して、兄弟ザクラの中の1本サクラが「ソメイヨシノ」の原木となったという。学術的にはまだ論文発表されたばかりで、「確定」までにはこれから遺伝子の追加分析を待つ部分も多いが、面白いではないか。
韓国では毎年春先「日本の桜の起源は韓国である」という広報活動が恒例行事のように展開されている。これは以下に述べる理由から妄説である。そうではない、と説いてもやめないのは 慰安婦問題と同じである。
例えば、2017年4月の韓国三大紙の『中央日報』の記事。「ソメイヨシノの本籍地は日本ではなく済州…265歳の木の子孫」というタイトルで、ソメイヨシノの一人語り調で書かれている。
「私は慶尚南道・昌原市の鎮海区余佐洞の周辺に住んでいる。名前はソメイヨシノ。歳は40〜50だ。私の国籍をめぐって議論が多いので、悔しい。私が日本から来た桜というのは誤解だ。 結論からいえば、私の本籍は済州島だ」とソメイヨシノの起源は韓国という主張を展開している。
韓国人が毎年繰り返す韓国起源説の根拠はなんだろうか。
この記事では「ソメイヨシノの自生地は全世界で済州だけ」と書かれており、済州島には「天然記念物として指定された樹齢100〜200年以上のソメイヨシノが6本ある」としている。
そして「1908年4月、植物採集家だったフランスのエミール・タケ(Emile Joseph Taquet)神父が済州でソメイヨシノの自生地を初めて発見した」と主張。2016年5月には済州市奉蓋洞でも
樹齢265年のソメイヨシノが発見された。日本には最高樹齢150年のソメイヨシノの改良品種があるだけだから、韓国がソメイヨシノの自生地であることが立証された」とくる。クローンで
あるソメイヨシノの寿命は数十年とされるから樹齢265年というだけでもう眉唾なのだが、韓国では、このフランス人神父の発見が韓国起源説の最たる決め手のようである。
これに高名な日本人学者の説が輪をかけた。韓国の済州島に自生する「王桜」とソメイヨシノを比較し、同一種として済州島を発祥地とする説を唱えたのは小泉源一(1883年 - 1953年)で ある。小泉は日本植物分類学会を創立するなどしたわが国の植物分類学の泰斗である。
彼は王桜の一部の個体がソメイヨシノに類似していたことから同種であるとの説を唱えた。しかし搾葉標本が残っていないことから、この説は当時から疑問視されていた。そもそもソメイヨシ ノは接木によって人工的に繁殖させる園芸品種であり、自生はほぼありえないのだ。
毎年こうしてソメイヨシノ韓国起源説が繰り返されているのだが、近年、韓国側の主張に有無を言わせぬ日本側の研究成果が出てきた。サクラの起源探求にDNA分析が行われるようにな ったからだ。
研究成果は別掲するが、日本の国立研究開発法人森林総合研究所と岡山理科大学が共同で行い、2016年12月22日にTaxon誌に発表した研究結果は、ソメイヨシノの起源に決着をつけるもの となった。それは、日本のソメイヨシノと韓国のソメイヨシノは別物という結論だからだ。
そもそも韓国ではソメイヨシノを「ワンボナム」と呼んでいる(日本ではエイシュウザクラとも)。その学名は日本のソメイヨシノと同じ「プルヌス・エドエンシス」だ。つまり、ワン ボナム=ソメイヨシノなのだからどこまで行っても「同じもの」でしかない。その点、森林総研らの研究ではそのソメイヨシノとワンボナムを厳格に別物と区別している。
要約すれば、ソメイヨシノは「エドヒガン」と「オオシマザクラ」の種間雑種(Cerasus × yedoensis)だが、ワンボナムは「エドヒガン」と「オオヤマザクラ」の種間雑 種(Cerasus × nudiflora)となっている。
森林総研は2017年1月に「染井吉野など、サクラ種間雑種の親種の組み合わせによる正しい学名を確立」という論文で「済州島産のエイシュウザクラはソメイヨシノの変種として扱われ ることがあり、ソメイヨシノの起源説も唱えられているが、今回の研究でソメイヨシノとは系統が異なることがわかりました」と発表した。
そもそも別物であるのであれば、どちらが起源かという議論自体が霧散霧消することになる。ソメイヨシノの起源は日本で、ワンボナムの起源は韓国となるだけの話だ。
ただ、韓国では意識的かどうか、いまだにソメイヨシノとワンボナムが別物という見方は浸透していない。例えば、2017年3月27日のSBSの放送でも「2001年4月、山林庁(韓国の農林水 産食品部傘下)がDNA分析を通じて日本にあるソメイヨシノの原産地が済州漢拏山であることを明らかにしました」と強調している。どんなDNA分析をしたのか聞いてみたいものだ。
現在のソメイヨシノ韓国起源説は、2009年4月6日に聯合ニュースが記事にした韓国国立山林科学院暖帯山林研究所のキム・チャンス博士の研究を主な根拠にしている。記事によるとキ ム・チャンスは2009年にワシントンD.Cを2度訪問し、ポトマック川辺のサクラの標本を採取して遺伝子(DNA)分析を数回行ったところ、ポトマック川のサクラと王桜が同じであると確認さ れたという。キム・チャンスは、日帝強制支配期(韓国併合時代)に日本人が済州島の王桜を改良、のちに大量増殖し、それを3000株アメリカに贈ったものがポトマック川辺のサクラだ と主張している。
この説の間違いは、王桜がフランス人によってはじめて採集されたのは1908年4月15日であり、ドイツ人によって新種であるとはじめて同定されたのが1912年である。当時東京市市長だ った尾崎行雄が東京の桜の名所だった荒川堤のサクラを穂木にしてアメリカのワシントンD.Cに計3020本のサクラを贈ったのは、1912年3月のことであり、サクラの植樹式は3月27日である。王桜 がはじめて採集された4年後、同定されたその年の3月に早くも日本がアメリカのワシントンに3000本のサクラを贈呈し、さらにニューヨークにもほぼ同数のサクラが贈呈されているのである。 これらのことから品種改良や増やすにも時間が足りず、キム・チャンスの主張はありえないことになる。
現在、韓国では王桜の自生地に同種としている日本のソメイヨシノを植える活動が行われている。このため逆に本来の王桜がソメイヨシノによって遺伝子汚染される可能性があり、そのうち 本来の王桜が絶滅する可能性があるとされる。王桜の写真を紹介したいが名前も樹木標本も「ソメイヨシノ」と同一というのでは、上野公園の写真と同じになるのでやめておく。妙な話である。
ところが、このどうでも良い「桜の起源は韓国」に2015年、中国が参戦してきた。「起源は中国。広まったのは日本。韓国は何の関係もない」というのだ。
広東省の地元紙、南方都市報(電子版)によると、中国桜花産業協会の何宗儒会長は3月末、広州市で開いた記者会見で「桜の真の発祥地は中国だ。日本の権威ある桜の専門書も、それを 証明している」と述べ、桜の起源について「日韓両国とも資格がない」と主張した。
何会長が中国起源説の根拠としているのは、1975年に日本で出版された桜の専門書「桜大鑑」。その中に、「桜の原産地は中国で、日本の桜は中国のヒマラヤ山脈から伝来した。その 時期は唐の時代だった」との記述があるという。中国植物学会植物園分会の張佐双理事が同紙に語ったところでは、桜の野生種は世界中で約150種存在し、そのうち50種以上が中国 で確認されている。サクラ属の野生祖先種約40種のうち、33種が中国原産だという。
何会長は日韓の論争への“参戦”の理由について、「日韓と争いたいのではなく、事実を述べる必要がある。多くの歴史資料が、桜の起源が中国にあると示している。中国人として、こ の歴史をより多くの人々に知らせる責任がある。簡単に言うと、桜は中国を起源とし、日本で大々的に広まった。韓国は何の関係もない」としている。
日本のように遺伝子レベルの話ではなくどこかで探してきた本に載っていたとかいうのだから、まさに目くそ鼻くその類だが、韓国の歴史認識と同じく嘘も百回繰り返せば本当になる2カ国だ けに早めに粉砕しておく必要があるだろう。
韓国の王桜は個体によってはソメイヨシノに非常に似ることから、以前は形態学的観念からソメイヨシノの起源の一つとする説もあった。しかし、現在のDNA調査の結果によると別種と確認さ れている。DNA研究によると、母系はエドヒガン、父系はヤマザクラあるいはオオヤマザクラの自然交雑種であるとされてきたが、2017年1月、国立研究開発法人森林総合研究所が、形態学や 集団遺伝学、分子系統学の最新の知見を基にした岡山理科大学との共同研究の結果を発表し、王桜はエドヒガンとオオヤマザクラの種間雑種であること、正しい学名として「C. × nudiflora」 が国際的に確立されたことを発表している。こうした研究を踏まえたソメイヨシノの起源についての決着記事2つを下記で紹介しておく。
夏にできる花芽 |
「休眠」というのは、生命活動を極力抑制して、不適な環境から身を守ろうとすることで、@種子で休眠する場合と、A成長した植物体として休眠する場合がある。種子休眠の場 合、温度ばかりでなく、酸素や水の有無も休眠に関係する。数千年前の縄文時代の遺跡から発見され、現代によみがえったことで有名な大賀ハスの種子は休眠によって胚の活動が 抑制されていたために長生きできたケース。
サクラの場合はその種子休眠ではなくて、植物体として休眠するAのケース。休眠した花芽は、冬の間に一定期間、低温にさらされることで、眠りからさめ、開花の準備を始める。 この状態を「休眠打破」といいい、「開花」とは別のもの。
一定期間低温にさらされることが重要なポイントで、この低温の積算量が一定に達すると休眠から覚める。その後、春先の気温上昇と共に花芽は成長して開花に至るが、冬暖かすぎ ると休眠打破が狂ってしまい、例え春先の気温が高くても開花が遅れることがしばしば起こる。冬のない常夏の国では、サクラは咲かない。
休眠打破の生理学的意味は、休眠しなければならないような成長に不適な環境をひたすら耐え忍び、やっと、成長できる環境条件が整って、さあこれから出来る限り成長するぞ!と いう瞬間が「休眠打破」ということになる。休眠打破は1℃以下では起きず、2度〜12℃の気温が打破を促進する。「成長抑制ホルモン」が壊された時に「休眠打破」が起きるとも いえる。
休眠状態に入るのは寒い時期ばかりではない。トルコギキョウは幼植物体の間に高温に遭遇するとロゼット状(節間が伸長せず、成長が止まった状態)になり、アネモネなどの地中 海原産の植物も冬の間に活発に成長し、夏の間に休眠する性質がある。
2021年春の開花予想日。 |
気象庁では開花日を予想するのに後述の2つの計算式を使いますが、一般には、「600℃の法則」という、非常に簡便でそれなりに精度が高い方法が普及しています。右図は開花が早くなった2021年3月の民間気象会社が出している全国の開花予想日ですが、この「600℃の法則」を利用したものです。
その法則とは、「その年の2月1日以降の最高気温を足し算していき、累積温度が600度を超えた日に桜が開花する」というものです。ちなみに、(最高気温でなく)平均気温の累積温度が400℃を超えたら開花とする「400℃の法則」もあります。
◇ ◇ ◇
気象庁で使われている開花予想数式には2つの方法があります。
〇「温度変換日数」「温度変換日数」とは、「標準温度」15度での1日分の成長量と、その 前後の温度を比較して、花芽の成長速度を日数で計算したものです。桜の芽が膨らむ気温は15℃と言われているので、15℃になる日を”1”として計算します。例えば1日の平均温度が5度の時は、温度変換日数は、約0.3日。また、平均温度が15度以上の場合は、温度変換日数は、約3.3日といった具合です。これを積算します。
積算を開始する起算日は、全国の観測点によって異なり、1961〜1990年の開花日と気温のデータを利用して決めていて、平均開花日の15日前から最適な起算日が選ばれています。例えば起算日が2月1日なら、この日から変換日数を足していき「23か24」になったら、その土地の標本木のソメイヨシノを観察して、数輪開花があれば開花宣言します。
〇もう一つ気象庁の使っていた計算式は・・・・複雑で以下のような計算式です。ソメイヨシノは、合計された気温が上記のような「600度」とか「400度」とか、一定数になったからといって一斉に開花するわけではなく、もう少し条件が必要になってきます。
桜の開花や満開時期は、前の年の秋からの気温が大きく関わっています。 花芽(かが)という花の元になるものが夏につくられて、秋に休眠に入ります。その後、一定の低温と気温の上昇など条件が整い、冬の時期2〜12℃の間で800時間以上経つと、上述の「休眠打破」」となり、生長が始まって(平均すると2月1日ごろ)やがて最高気温の合計が540℃になると開花が始まります。
このように「休眠」→「休眠打破」→「生長」という3つの過程を経て桜は開花しますがその過程で、
@2月の平均気温が6度以下と寒冷なときで、2月下旬から3月の時点で合計気温が560℃を超えるようなら早期開花になります。
A暖冬で2月の気温が高いときだと、気温の合計が650℃〜680℃になった時期が3月の場合は早期開花、4月の場合は平年並みとなります。
つまり、単純に合計気温だけで開花が左右されるわけではなく、「冬の低温になる寒さ」が同じくらい重要といということで、「600度の法則」はあくまで目安にすぎません。
しかし、桜の開花時期は少し誤差はあるにしてもなぜこんなにも厳密に予想できるのでしょうか。それはソメイヨシノという品種が、すべて同じ遺伝子を持つクローンだからです。ソメイヨシノは種ではなく、挿し木や接ぎ木などで個体数を増やすので、遺伝子がすべて同じなのです。
「桜が開花した」という気象庁の発表は、気象庁の職員が目で確かめて「開花しました」と言っている様子はテレビでもよく報じられます。気象庁が定めた各地の標本木は全国に58本あり(東京の標本木は靖国神社の拝殿の前、社務所と能楽堂の間)、ここで5〜6輪以上の花が開いた状態となった最初の日が「その地方の桜の開花日」となります。そして、「満開日」とは、標本木で約 80%以上のつぼみが開いた状態となった最初の日をいいます。
気象庁の職員が目で見て花が最初に開花した日、動物が初めて確認出来た日、野鳥の鳴き声を初めて聞いた日などを発表することを「生物季節観測」といいます。桜のほかにも梅の開花やかえでの紅葉、あじさいの開花やうぐいすの初鳴きなどが発表されてきましたが、2021年からはこの生物季節観測が大幅に縮小されて、発表される項目が少なくなりました。さくらの開花は今後も観測が続けられますが、動物の観測はなくなってしまいます。
@上述の「成長抑制ホルモン」が花芽に届かないA異常な暖かさがやってきたという二つの条件が重なった時に、「狂い咲き」と言われる現象が起きる。
ソメイヨシノの花びらがピンクに色づく鍵は、つぼみに当たった青と赤の光であることが解明された。
青と赤のLED照射でピンクに発色したソメイヨシノ |
リンゴが赤く色づく仕組みなどを研究していた荒川教授は2016年ごろから、大学の学生らと協力してソメイヨシノの発色に関する実験を開始した。弘前公園は桜の名所として有名だが、毎年2、3月、桜の花付きを良くするために「桜守」の市職員が枝を剪定している。一部を市民に無料配布しており、研究チームも数十本の提供を受け実験に使った。
日光がない室内で育つと白いまま |
つぼみに波長の異なる青、赤の光を当て、それぞれの花びらに含まれるアントシアニンの濃度を測定した結果、花びらは青の光でうっすらと色づき、同時に赤の光も当てると色素が増え発色が進むことが分かった。赤だけではほとんど色づかなかった。赤と青の光を組み合わせると、より発色が良くなることも発見した。
荒川教授 |
この仕組みを応用して、青と赤の光を多く含む太陽光と似た環境をつくってやれば室内でもきれいな色のソメイヨシノを咲かせることが可能になる。「花が色づく仕組みに遺伝子がどう関係しているのかなど、より深い部分を追究していきたい」と話している。(2020年1月29日付け共同電などから編集。写真はいずれも荒川教授提供)
ソメイヨシノは寿命か゛60年とも70年ともいわれます。植えられた場所の条件にもよりますが、樹齢30年〜40年で枝や幹の成長かゆっくりになります。樹齢か50年を超えてくると老木の域に入り、花の咲く時期か、若い頃に比へてわずかに早くなる傾向かあります。その理由は、若い木は枝葉の成長にエネルキーを注く割合か高く、花は二の次になるからです。
「若いうちは木のてっペんの方の枝か「斜め上方向」に伸び、その長さは30センチ以上になります。樹齢が30年を超えると枝の伸びが少なくなり、伸びても1年で5〜10センチ程度です。枝先が伸びるということは、つぼみとつぼみの間隔が広く(長く)なり、ややまばらに咲いているように見えます。枝先が伸びなくなるとつぼみの間隔が狭くなり、花は固まって咲いているように見えます。これで樹齢を知る目安にします。
樹齢で花の付き方が違う | 若木の幹 | 老木の幹 |
現在花見の名所の殆どをしめているソメイヨシノは近いうちに絶滅するだろうと言われます。その原因として3つあげられます。
(1)ソメイヨシノの寿命(一般的に60〜80年と言われている)ソメイヨシノはクローンだということは前述しました。遺伝学でいうと「ヘテロ接合型 」になります。二倍体生物でAa , Bb など同一でない対立遺伝子をもつ個体を「ヘテロ接合型 」(異型接合体)といい、 これに対し AA , aa , BB , bb などのように同一の対立遺伝子をもつ個体は「ホモ接合型」(同型接合体)といいます。ソメイヨシノのような「ヘテロ接合型 」は、自家不和合性が強くソメイヨシノ同士では結実の可能性が劣り、結果ソメイヨシノの種子は取れないので、接ぎ木で増やすほかないため全部がクローンなのです。
クローン桜の寿命は短いとされています。エドヒガンなど自然の樹種は樹齢数百年なのに対し、ソメイヨシノは100年未満がやっとです。戦前戦後、ソメイヨシノが日本各地にどんどん植樹され、多くの名所が誕生しました。そんなソメイヨシノも植栽されて60年以上経ち、だんだん弱ってくるものが増え、台風などによる倒木も増えてきました。
「てんぐ巣病」にかかった桜 |
「てんぐ巣病」とは、葉の裏にカビの一種でタフリナ菌と呼ばれる胞子がつき、どんどん感染させてしまう病気です。感染した枝は花が咲かなくなり、放置しておくと罹病した枝ぜんぶが枯れ落ちてしまいます。
クビアカツヤカミキリ |
木くずとフンが混ざったフラス。 |
また温暖化による平均気温の上昇も衰退に関連しています。上で「冬眠打破」ということを説明しました。ソメイヨシノは冬に一定期間低温(10℃以下)の時期を経ないと春に開花しません。暖冬で低温状態がないと発芽しなくなります。温暖化はこの「冬眠打破」を妨げます。鹿児島県の種子島あたりでは、すでにソメイヨシノが開花しにくい状況になっているのです。
温暖化による平均気温の上昇も深刻です。この項を書いている2023年4月の時点ですが、ソメイヨシノの開花は東京では平年より10日早い3月14日、満開は3月22日でした。青森での4月7日開花は平年より15日早く、観測を始めた1956年以降で最早です。毎年、ゴールデンウイークには弘前城の桜を見に全国から観光客が大勢訪れますがこの分では「葉桜鑑賞会」になるかも知れません。
入学式は満開の桜の下で記念撮影、という風物詩が姿を消すのは仕方ないにしろ、この温暖化で逆に桜が開花しない現象も起きています。上で「冬眠打破」ということを書きました。ソメイヨシノは冬に一定期間低温(10℃以下)の時期を経ないと春に開花しません。温かいばかりでは開花できないのです。すでに鹿児島でこの現象が起きています。
桜の開花は年々早くなり、数十年後には九州、静岡、神奈川で全く咲かなくなる2024年は例年よりも大幅にさくらの開花が遅れました。2月に発表された開花予想では例年よりも早い3月19日ごろと見込まれていたソメイヨシノの東京での開花は、結果的には3月29日。10日も遅れたので、お花見関係のイベントを計画していた多くの公園や自治体で延期や中止が発表されたほど。
「今年は寒い日が続いていたから、開花が遅れたのだろう」と考える人が多いかもしれないが、データを見ると、「今年が遅かった」のではなく、「ここ数年が早すぎた」のです。
直近30年のデータからは、やがて日本各地で桜が咲かない地方が出てくるであろうことまで推測されるのです。東京の桜開花の平均日の推移 |
ちなみに、観測史上最も開花が遅かったのは1984年(昭和59年)であり、その年は東京での桜の開花は4月11日だった。昨年の開花よりも1カ月近く遅かったことになります。
このようなデータや、10年ごとの開花日の平均を見てみてもわかるとおり、明らかに桜の開花時期は早くなってきているのだ。桜が「入学式」のものから「卒業式」のものへと移り変わっているという言説も、このデータを見ると納得できます。
この「桜の開花時期の繰り上げ」は、長期的に見ると大きな問題です。具体的には、日本各地で桜が満開にならなくなる、もっと言えば、一部の地域で桜が開花しなくなる可能性が生じるのです。
多くの人は、開花期間が変化している要因は「地球温暖化」にある、と思うでしょう。確かに、温暖化によって平均気温が上がり、2月、3月の気温が高くなると、その分だけ桜は早く開花する。現に、春が異常なほど暖かかった2021年や2023年は観測史上一番の早さで桜が開花しています。
開花が早くなっても花見が早くなるだけで大した支障はなかろうと考えがちですが、実はこれが大問題なのです。
上述したように、桜の花が満開になるまでの過程は、花芽形成→休眠→休眠打破→成長→開花→満開という流れです。花芽形成は桜が咲く前年の8月から9月はじめごろの間。満開の時期から考えると、半年も前から芽が生え始めているわけです。
その後、桜は休眠に入ります。休眠の程度は10〜11月ごろにもっとも深くなり、その後徐々に浅くなっていく。この休眠から目覚めていく過程を「休眠打破」と言いますが、この「休眠打破」に、地球温暖化が大きな影響を与えているのです。
「休眠打破」とは、桜が秋から冬の寒さによって目を覚ますことを指します。桜は暖かい気候によって目覚めているのではなく、むしろ逆で、芽が休眠から起き上がるには十分な寒さが必要なのです。
「休眠打破」が行われるのに必要な寒さの量を「低温要求量」といい、ソメイヨシノの場合は10月以降、8度以下の寒さに約800〜1000時間さらされる必要があります。つまり、地球温暖化によって冬季期間の気温が下がらない状態がずっと続くと、この休眠打破が十分に行われず、桜が開花しない恐れがあるのです。
2020年には、福島県福島市と宮城県仙台市で、鹿児島県よりも早くソメイヨシノが開花するという出来事がありました。平均気温や緯度などを考えるとありえないことです。
このままのペースだと、2100年には種子島や鹿児島県の西部では桜がまったく咲かず、九州南部や静岡県、神奈川県の一部でも桜が満開にならない可能性があると推測されます。地球温暖化の影には、ただ桜の開花が早くなるだけではない重大な問題が隠されているのです。
ソメイヨシノゆえの弱点で絶滅の危機にあることから、後継樹種に植え替えようという試みが始まっています。現在推されているのは、ジンダイアケボノ(神代曙)とコマツオトメ(小松乙女)、オオガワラベニザクラ(大河原紅桜)などです。その素性と特性を紹介します。
ジンダイアケボノ |
これまた上述しましたが、アメリカの首都ワシントンD.C.のポトマック河畔の桜並木は、今ではアメリカだけでなく世界の名所の一つになりました。ここの桜は明治末に当時のタフト大統領夫人たちが中心になって日本政府に働きかけ、当時の尾崎行雄東京市長がこれに応えてソメイヨシノ、有明、普賢象、福禄寿、御衣黄など2000本を送り届けたものです。
桜は交雑しやすいものです。ポトマック河畔で雑交配して生まれたなかで見栄えの良い品種に「Akebono」という名前をつけたものがありました。戦後間もない頃、東京調布市の神代植物公園でいろんな桜の苗木を植える事なり、この時、「Akebono」の苗木6本が神代植物公園に贈られ、これに「アメリカ」と言う名札をつけて展示していました。
「Akebono」を接ぎ木で増やそうとしたところ、その内の1本が花色などが大きく異る特性を示すものがありました。母木の桜が色白なのにこの木のサクラの花は赤みがかり、咲く時期も早い。神代植物公園が3名の専門家に調査を依頼しました。財団法人(当時)「日本花の会」の桜の名所づくりアドバイザーだった西田尚道が今まで知られていない栽培品種であると解析、森林総合研究所多摩森林科学園のサクラ園の造成を指導した桜研究者の林弥栄が、「ジンダイアケボノ」(神代曙)と命名、1991年(平成3年)4月に日本花の会の会報「花の友No.41号」で発表したものです。
ジンダイアケボノの特徴 |
旗弁 |
成長した場合の平均樹高は約13メートルでソメイヨシノより5メートルほど低いものの、小型な分、都市部に適している面もあって植栽実績は「日本花の会」頒布分だけで2020年で20万本を超えている。
コマツオトメ |
上野公園にある小松宮彰人親王銅像 |
2007年春、千葉大学の中村郁郎らの研究グループがソメイヨシノの起源について、コマツオトメとオオシマザクラの交配の結果生じたものが「ソメイヨシノ」であると発表した。その後、2012年以降の研究でコマツオトメはソメイヨシノの異母兄と訂正、さらに2014年には、加藤珠理・森林総合研究所主任研究員らの手で従来より精度の高いDNA解析により、ソメイヨシノの起源はエドヒガン47%、オオシマザクラ37%、ヤマザクラ11%、その他5%の交雑であることが明らかにされた。現在ではコマツオトメは、ソメイヨシノ誕生よりも後年の誕生でソメイヨシノの子であると考えられている。
外観はソメイヨシノによく似ているが、開花がやや早く、花の色がやや濃い(花弁の先にしばらく濃いピンク色が残る)程度の違い。開花が進むとほとんど同じ色になる。
オオガワラベニザクラ |
2014年4月に交配を行い、翌年3月に播種した中から、2020年4月に観賞性が高い1個体を選抜しました。現在も、全国に広めるべく現地の圃場で苗木が増殖、育成されています。「大河原紅桜」は、病気に強く寿命が500年ほどの「エドヒガン」の性質を引継ぎ、かつ薄紅色の花をつけた大木に成長するという。
特徴は葉全体の形、葉身や葉柄、小花柄などが有毛であること、がく筒の形が狭長壺形であることなど形態的な特徴にはエドヒガンとソメイヨシノ両者の形質が現われていて、類似品種である「神代曙」「小松乙女」と似ているが、花弁全体の形、がく筒およびがく裂片の形などが異なることで区別されている。
103年ぶり発見のクマノザクラ |
ソメイヨシノよりピンクが 濃いクマノザクラ |
クマノザクラは早咲きで3月開花 |
紀伊半島にはもともとヤマザクラ、カスミザクラの2種類の桜が自生している。しかし、今回発見された「クマノザクラ」は他の2種の桜と比べ、
▽花びらがあわい紅色
▽花柄が無毛
▽葉の形が卵形
▽葉柄が無毛
━などの特徴が確認された。古座川町での開花時期は、他の2種は4月中下旬だが「クマノザクラはそれよりも早い3月下旬〜4月上旬という。住民は4月上旬
に咲き始めるヤマザクラより早いため、「早咲きのヤマザクラ」などと認識していた。
葉の形状 ヤマザクラ(左)とクマノザクラ(中)、 カスミザクラ(右)の成葉(青丸が葉身) |
花序の違い ヤマザクラ(左)とクマノザクラ(中)、 カスミザクラ(右)の花序(赤丸が花序柄) |
勝木さんは「野生の桜にもきれいなものがある。人に身近な所で咲いていたのに新種と分からなかったのは驚き。このサクラは観賞用に最適。地域の新たな名物になるのでは」と期待している。
クマノザクラの分布域 |
桜並木より一本の桜の古木が好きだ、ということは最初に書いたことだ。2005年3月、日経新聞の「プラス1」に
まさにその思いを具体化したような、日本中の古木、孤木にランク付けしたリストが掲載された。国か都道府県の
天然記念物に指定されている141本
を対象に写真家、旅行家、桜愛好家からアンケートをとったものだ。だいたいこんなところだろうと思うので丸ごと
紹介することにした。
ちなみに、名木ランクで「日本三大桜」というときは、国の天然記念物指定を受けている中から、「三春の滝桜」
「根尾谷の淡墨桜」「山高の神代桜」をさす。
これ以外にいいのがあるよ、とは誰しも思うところだが「天然記念物指定済み」というところがミソである。もちろん
お上の指定などに頼らずとも、「私の心に残る一本」があってしかるべきだ。
湖底に沈むところを救い出された荘川桜 |
毎年、桜の季節になると新聞・雑誌やテレビのどこかに取り上げられる人たちがある。荘川桜(しょうかわざくら)を救った高碕達之助と笹部新太郎であり、太平洋から日本海まで「さくら道」を作ろうと桜の苗木を植えまわったバスの車掌の話である。いずれも日本人がもっとも愛する桜にその人生を賭けた人たちである。人はその「志」の高さに共鳴する。
桜は植えただけでは成長することがなかなか難しい品種だ。中には山桜のような丈夫な野生種もあるが、なにがしか、人の介添えがいる。根元の草を抜き、絡むツタ類を取り除き、折れた枝を取り除き、根元に肥料を与えてやらないと大きくは育たない。桜が花をつけるまでこうして見守る人を「桜守」(さくらもり)と呼ぶ。「桜守」という職業はない。その気にさえなれば誰でも「桜守」だ。辞書にはないかもしれないが美しい日本語だと思う。
合掌造りで名高い白川郷の近く、岐阜県荘川村(2005年2月1日、市町村合併により高山市荘川町)に、その桜はあった。上述の「日本の桜の名木ベストテン」で5位にランクされているが、その物語性で日本一有名な桜といってよいだろう。樹齢400年、高さ20メートルの大木。春は村人総出の花見。子供たちは桜吹雪の中で入学式を迎えた。「光輪寺の桜」と呼ばれていた。しかし、昭和27年(1952)10月、この地に「御母衣ダム」の建設が総理府から発表され、村の約3分の1が湖底に沈むことになった。
御母衣ダム |
ダム事業を推進する電源開発初代総裁は高碕達之助だった。故郷を失うダム計画に死力を尽くして反対する地元住民との交渉を彼は自ら行なった。戦前、東洋製罐株式会社を創立した経済人だったが、戦後、請われて政界入りした異色の人物だった。このときすでに日ソ漁業交渉の立役者で、「水産の“ドン”」と呼ばれ、さらには日中国交回復に至るきっかけになった「LT(廖承志・高碕)貿易」に今もその名を残す大物だった。
周恩来、ナセル、フルシチョフと親交を結び、その死に際して、周恩来は「このような人物は将来も現れまい」と哀惜したほどの人物だった。
日中貿易の窓を開いたLT貿易の 覚書調印式での高碕達之助(左)と廖承志。 その後に周恩来の姿が見える。(1962.11.9) |
私は小学生の頃、学校から記録映画「佐久間ダム」の鑑賞に連れて行かれた。そのスケールの大きさに圧倒され、土木技師になろうと思ったほどだ。大型土木といっても今と比べるとまだまだで、円形の大きな隧道にレールを敷き、その上に3段の足場を組んで削岩機7台ほどを並べて掘り進むものだったが、日本でもこんなことが出来るのかと衝撃を受けた。
高碕達之助は「事業の目的は第一に人類の将来を幸福ならしめるものでなければならぬ。第二に事業というものは営利を目的とすべきではない。自分が働いて奉仕の精神を発揮するということがモダン・マーチャント・スピリットだ」といい続けた。経済人、政治家ではあったが常に人間を見据えていた人物だけに、いつも行動の先頭に立った。強固にダム建設に反対していた人たちも、彼の誠意溢れる姿勢に和らいでいきやがて賛成に回った。
彼はよく現場に足を運んだ。ある日、湖底に沈む予定の中野集落を散策し、光輪寺に立ち寄り、境内に立つ桜の老木に目を奪われた。樹齢400年、高さ20メートル、幹周り数メートルというエドヒガンの古木だった。高碕は自宅に植物研究所をもつほどの植物愛好家であり、人間と植物を同じ次元で見ることができた。「このまま水没させてしまうのは耐えがたい。なんとしてでもこの桜の命を救いたい」と思った。
東京に戻ってすぐいくつかの大学の専門家を訪ね、移植のことを相談したが、誰一人として賛成してくれる人はいなかった。そのころ、桜博士といわれた笹部新太郎のことを知った。
笹部新太郎《明治20年(1887)1月15日〜昭和53年(1978)12月19日》在りし日の「光輪寺の桜」 |
昭和35年の早春、大阪倶楽部のホールの一隅で、電源開発総裁・高碕達之助の訪問をうけた笹部新太郎は一枚の桜の写真を見せられた。樹齢400年はあろうかと思われる巨木である。
「この桜が、いま、私のやっている御母衣のダム工事のために水底に埋められてしまうことになる。余りに惜しいので、何とか活かして残したい。活着の見込みはありますか?」
「自信はありませんな」
「…絶対に駄目ですか?」
「絶対などという言葉は、こと生き物に関する限り私は使いたくありません」
そんなやりとりの後、交渉にかけてはソ連、中国相手に手練(てだれ)の高碕に押し切られるように、ついに「私でよろしくば、やってみましょう」という。
移植作業の指揮をとる笹部新太郎 (前列左から2人目=NHKのHPから) |
現地へ行ってみると写真で見た「光輪寺の桜」の他にもう一本、やはり樹齢450年以上のエドヒガンが照蓮寺に残っていた。光輪寺の方は42トン、照蓮寺のは38トン、あわせて80トンの「桜移植プロジェクト」は、ダムに水をため始めた昭和35年11月15日から始まった。
意外な助っ人も現れた。意気に感じた豊橋の植木職人・丹羽政光は「金は要らない」と弟子の植木職人10人を引き連れて駆けつけた。少し身体が不自由になってきた笹部新太郎に代わってその後のアフターフォローを行う「桜守」となる。
トロッコの上に乗せた桜を ブルドーザーで押す方法=NHKのHPから) |
移植先は600メートル離れた国道沿い。やがて湖岸となる場所だ。高低差50メートル。運搬はダム工事で使われていた最新鋭のブルドーザー。植木職人、ダム従業員総出の作業だった。まず手がけたのは巨木を乗せて運ぶ台車のためのしっかりとした道路作りだった。高碕は「最新の機械類は何でも提供する」といったが、現場にある主力機械はブルドーザーで「押す」一方、今なら大型クレーンに頼るところだが、滑車で人力で吊り上げる方式だった。
40日かけた難しい移植工事は終わった。だが、うまく活着したかどうかは翌年の春を待たねばわからない。昭和36年春、移植された二本の老巨木から枝を覆った菰の目を突いてわずかながら新芽が出てきた。植木職人たちが「嫩芽」(どんが)と呼ぶ、「わかい芽」が出ていた。 そしてほんの少しではあるが桜の花が咲いていた。
昭和37年、活着した荘川桜を見上げる 高碕達之助、笹部新太郎、丹羽正光 の「桜守」3人(左から) |
さらに翌年の昭和37年6月、ダムのそばで水没記念碑の除幕式が執り行われた。ダム建設側とダムに反対した村民の「死守会」双方500人が集まった。挨拶に立った高碕達之助は
「昭和27年10月18日、基本計画の発表をみたときから、皆さんの幸福をひたすら願いながら交渉をすすめてきました。国づくりという大きな仕事の前に父祖伝来の故郷を捨てた方々の犠牲は今、立派に生かされています」
と話ながら、涙をこらえきれず、声が途切れ勝ちになった。
参列した人たちは老若、攻守を分かたず、僅かに生き残った二株の桜の幹を手で撫でて声をあげて泣いたという。二本の桜は「荘川桜」と命名され、のち高碕達之助が詠んだ歌の歌碑が建てられた。
高碕達之助、笹部新太郎、丹羽政光、「荘川桜」移植の立役者三人の「桜守」のうち満開の姿を見ることが出来たのは笹部新太郎ただ一人だった。高碕達之助は除幕式の翌年2月に79歳で生涯を終え、丹羽政光も時を同じくして病に倒れ、後を継いだ丹羽克巳までが交通事故で急逝した。昭和53年(1978年)には、笹部新太郎も天寿をまっとうした。
野口英世 |
野口英世の母、シカの手紙 |
手紙を書いた頃の母、シカ |
おまイの。しせ(出世)にわ。みなたまけ(驚き)ました。 わたくしもよろこんでをりまする。 なかた(中田)のかんのんさまに。さまにねん(毎年)。 よこもり(夜籠り)を。いたしました。 べん京なぼでも(勉強いくらしても)。きりかない。 いぼし(烏帽子:近所の地名)。ほわ(には)こまりをりますか。 おまいか。きたならば。もしわけ(申し訳)かてきましよ。 はるになるト。みなほかいド(北海道)に。いて(行って)しまいます。 わたしも。こころぼそくありまする。 ドカ(どうか)はやく。きてくだされ。 かねを。もろた。こトたれにもきかせません。 それをきかせるトみなのれて(飲まれて)。しまいます。 はやくきてくたされ。 はやくきてくたされ はやくきてくたされ。 はやくきてくたされ。 いしよの(一生の)たのみて。ありまする
後年、故郷に錦を飾ったときの母と子の記念写真 |
昭和28年、高碕が通産大臣として会津を訪れた際、この手紙に感動した。
「極めて稚拙な筆で精一杯努力して書かれたこのたどたどしい手紙には、天衣無縫の母の愛が一字一字に、にじみ出ていて、読んでいくうちに、私はとめどもなく涙が出て困りました。この手紙は正に鬼神をも泣かしめる天下の名文と云えましょう。
国破れて以来、人心荒廃、ややもすれば、忍苦の底に光るこの無限の愛の貴さが忘却されようとする今日この頃、図らずもこの偉大な心の資源に触れた思いです」といい、多くの人に紹介したのがきっかけだという。
花と葉が同時に出るものの花の方が大きく 花弁も多く色づきも美しいササベザクラ |
笹部新太郎の名前を冠した「ササベザクラ」というすばらしい品種がある。現在全国ではソメイヨシノが全盛だ。江戸時代に生まれた交雑種だが、まずピンクの花が満開になり、散った後に新芽が出る。花ばかりで豪華なところが好まれたものだが寿命も数十年で各地で枯れ死騒ぎが起きている。明治政府が学校に率先して植えたものがいま寿命を迎えていることによる。
日本古来の桜は山桜であることから、笹部新太郎は日本文化に根付いた山桜を大事にした。ソメイヨシノ一辺倒を憂い、「桜に非ず」と認めなかった。戦前(1941年)、中央公論に「どこもかしこも桜を植えて、電柱並みに木を並べたいのか」と書き、戦後1963年にも、文芸春秋に「桜を滅ぼす桜の国」という一文を書いて警鐘を鳴らしている。こうした桜にかける思いを「櫻男行状」(平凡社)にまとめ出版(1958年)している。
ササベザクラは日本の自生種であるカスミザクラとサトザクラの交雑種と見られている。日本に自生してる野性種は、「山桜」「大山桜」「深山(みやま)桜」「大島桜」「霞(かすみ)桜」「豆桜」「江戸彼岸」「丁字(ちょうじ)桜」「峰桜」の9種類だ。サトザクラがないではないか、といわれそうだが、山桜に対し、人が里で交配による改造を行ったり変異によって生まれた園芸品種の総称を「里桜」(サトザクラ)と呼んでいる。オオシマザクラから改良されたものが多いからDNA的にはササベザクラはカスミザクラとオオシマザクラの交雑種といえる。
この桜が出現したのは昭和35年だという。笹部新太郎は長年居を構えていた大阪から神戸に移ったが、その新居の庭に芽生えた。白色にほんのり紅色がかかった5弁から20弁の上品な花が若葉と同時に咲く。発見した時「比類なき旺盛な成長率」と自慢したというから、花色、花弁の多さに加えて成長が早い特徴がある。昭和60年に新品種として発表され、現在では兵庫県指定の天然記念物になっている。
親木は阪神大震災のあと枯れてしまったが別の場所に植えていた若木が育った。桜は自家受粉しないので台木に接木して増やす。植樹できる大きさまでに3年はかかる。最近では島根県木次町(現・雲南市)で新しい試みが行われている。日本製紙の技術研究所が開発した方法で、接木に寄らず、枝から直接根を出させ、そのまま苗木として大きく育てることができる。ササベザクラの普及を図る岡本南公園周辺の人で作る「桜守会」はこの方法で広める試みに取り組んでいる。
桜を愛した小林秀雄 |
「桜は弥吉の手で抱えきれないほど太く、横縞の肌はみなすべすべしていた。どの木もあかみをおびた新緑が出て、花はその新緑のつけ根のあたりに付き、細枝がたわむほど重なっている。桃色のもあり、純白にちかい空の透けてみえるようなうすいのもあった。どの木も同じ花の木ではなかった」
と荘川桜を描写した。
NHKの看板番組だった「プロジェクトX」(平成18年放送終了)の第89回でも「桜ロード 巨木輸送作戦」とし放送された。その番組のホームページ(番組終了で現在は閉鎖)から何枚か写真を拝借した。
映画「さくら」のモデル 沿線260キロに桜を植えた男
路線バスに桜の苗木を積んで 走った在りし日の佐藤良二さん |
「荘川桜」に感銘を受けて行動に移した人もいる。旧国鉄時代、愛知県名古屋市から岐阜県の西部を縦断する156号線を抜け、石川県金沢市までの全長260キロメートルを走る「名金線」というバス路線があった(その後廃止)。このバスの車掌だった佐藤良二さん(岐阜県郡上郡白鳥町)は、よみがえった桜に感動、この日本一長いバス路線を30万本の桜並木にして日本海と太平洋を桜でつなぐ「さくら道」にしようという夢を描く。休日はもちろん業務の終った後の時間もすべて桜に注いだ。園芸の勉強をし、荘川桜の種を貰い受けると庭に苗床をつくり、自分の乗るバスに苗を積んでは沿道の民家を訪ねて植樹の許可と管理を頼んでまわった。
昭和45年には神戸岡本に神様と仰いでいた笹部新太郎(当時83歳)を訪ね感激の握手をしたこともあった。私費で2000本の桜の木を植えたが47歳(昭和52年)でガンに倒れた。現在、佐藤さんが植えた桜がどれなのか特定はできないが、最初の1本は旧国鉄バス名古屋営業所の入口に、1500本目は金沢の兼六園に植えられたことがわかっていて、今も「佐藤桜」として残っている。
佐藤さんは倒れたが、その志は多くの人に受け継がれ、いつしか「さくら道」と呼ばれるようになった156号線沿いへの植樹は続けられた。現在の156号線は、途切れなく続く桜並木ではないが、春になると国道沿いの美並村から白川村付近のあちこちに桜並木が見られる。この話は、昭和59年、NHKテレビで「桜紀行〜名金線・もう一つの旅〜」として全国放送され、さらに、昭和62年度の中学校の国語教科書にもとりあげられて有名になった。
また映画「さくら」(94年、神山征二郎監督、篠田三郎、田中好子主演)となり全国で上映されたほか、何度かテレビでも放映された。
故郷の白鳥町には「奥美濃の桜守」と顕彰碑が建立されている。
桜、梅、桃はともに春に咲きますが、「似ていて違いがよくわからない」という人も多いです。
それぞれの相違点と見分け方をまとめました。
それぞれの花びら | それぞれの花弁と枝付き |
その他にも、とくに梅と似ている花に、杏(アンズ)があります。丸い花びらが梅とよく似ていて、開花時期も3月〜4月とされています。杏は樹皮に縦方向の模様があるので、それが見分ける目印になります。
桜、桃、梅、杏、林檎の見分け方 |
梅と杏とは品種として近い(共にバラ科サクラ属)がために区別が付きにくく、同じものとして扱われている地方もあるほどです。北の方では杏で梅干しを漬けるところがあります。
また両者は交配しやすい特徴があります。サイトの亭主宅では家内が和歌山県田辺の梅農家の奥さんと「青年の船」で一緒だった縁で毎年ここの名産「南高梅」(なんこううめ)を40キロほど取寄せて梅干しを作っています。大粒で果肉が厚いこの「南高梅」は実は、梅と杏との交配種です。
漢字では「杏」、「杏子」とも書きます。別名「唐桃(からもも)」とも呼ばれ、英名ではアプリコッです。杏は中国原産で、日本最古の本草書(医薬書)である「本草和名」(918年・平安時代)には、すでにアンズの名が記されて、杏は観賞用や薬用として栽培されていたようです。
デザートで出てくる「杏仁豆腐」があります。杏仁(きょうにん、あんにん)という言葉ですが、この「仁」(さね)とは、種子(核の中にある白いもの)のことで、杏の仁なので、「杏仁」なのです。本来、杏仁豆腐は杏仁を粉にした杏仁霜を使って作るものですが、日本では杏仁を使っていない”杏仁豆腐”が多いようです。
上記の「仁」(さね)は杏のみでなく、バラ科の植物である梅、桃、アーモンドなどにもあります。杏、梅、桃の仁は核の中にあり、アーモンドの場合は食用の部分そのものが仁です。
杏仁には二通りがあり、苦味が強く、薬に用いられる「苦杏仁(くきょうにん)」と、甘みがあり食用に使われる 「甜杏仁(てんきょうにん)です。杏の「苦杏仁」や梅の「梅仁」(ばいにん)、桃の「桃仁」(とうにん)は漢方薬として用いられ、それぞれ異なる薬効があります。
ちなみにアーモンドにも二種があり、通常食べているのは、食用のスイートアーモンド(甘扁桃仁)です。もう一つはビターアーモンド(苦扁桃仁)で、毒性が強いために日本では輸入禁止です。
バラ科植物の仁は、青酸配糖体(アミグダリン)という毒性物質を含有しているため、加工していない生の状態の仁を食べるのは危険です。
杏の花。花びら丸く、萼が反り返る。 |
梅も杏も、花が先に咲く。梅は1つの節に花が1つ。花柄はほぼない。杏は1つの節に花が複数。花柄は短い。
杏の花は梅より大きく、花びらはどちらも丸い。
花が咲くと、杏は萼(がく)が反り返るが、梅は反らない。梅は香りがいいが、杏は香らない。開花時期は地域差があるが、梅に遅れて杏は3月くらいに咲く。
《実》
杏の実。 |
《葉》
梅と杏は、葉も似ている。ともに花が終わってから葉が出る。葉の形が少し違って、梅は卵形か楕円形。先端は長く尖る。一方、杏は少し幅広の円形で、先が短く尖る。杏の葉には毛があるが、梅にはほとんどない。杏は梅より葉柄が長い。
長野市松代東条あんずの里。北アルプスをバックにした桃源郷が美しい |
純粋梅 小梅・青軸・小向・野梅など 杏性梅 白加賀・長束・藤五郎・南高など 中間系 養老・紅加賀・鈴木白・太平など 梅性杏 小杏・豊後・高田梅など 純粋杏 平和・新潟大実・李小杏など
梅と杏の間の品種のことを、杏梅(あんずうめ)とも呼ばれている。
リンゴの花。 |
近年は温暖化で果樹の栽培適正地がどんどん「北上」していて、これまで信濃地方や東北地方で栽培されていた桃やリンゴが津軽海峡を越えて、北海道が主産地になるのではないかと言われているほどです。
森山直太朗の「さくら」桜というと、最近では森山直太朗の代表曲「さくら」をイメージする人が多い。200万枚になんなんとする売り上げを記録したヒット曲だが、今では卒業 式で歌われる定番曲となった。
NHKの「春うた2008」(2008年3月25日放送)で放映されたそうだが、宮城県立第三女子高等学校の卒業式に森山直太朗が飛び入りで歌ったものは、いたく家内を感激させた。 女子高生たちも感涙に咽んでいたが、You Tube で流れているよ、と教えても、自分では動画再生までたどり着けないという。我が家のサイトなら自分でアクセスできるのでそこに貼り付 けておいて、という家庭内事情で掲載することになった。
この女子高は全日本合唱コンクール高等学校の部で優勝したこともあり、5年前森山直太朗が「さくら(合唱)」バージョンを録音するときに、音楽部の合唱をバックに レコーディングしたのが縁だという。数ある「さくら」の中でもギターを弾きながら卒業式といううってつけの背景で歌うこのバージョンが一番で、泣けてくるそうだ。
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