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このごろ桜に惹かれる。以前は、桜というと吉野の千本桜とか、ずっと続く桜並木がよかった。若さゆえの豪華絢爛好みだろう。大阪なら造幣局の通り抜け、東京なら馬事公苑の
桜のように八重桜が好みの時もあった。その下での花見酒もまた風情があり、誘われて断ったことはあまりない。皇居の千鳥ヶ淵そばのホテルに席を取ったり、靖国神社までおでんを運ばせたこともあった。 今はそういうのは真っ平ごめんだ。八ヶ岳から近いのと名所として有名な長野・高遠の桜を見に行ったものの、辟易して、中年過ぎて好みが変わったことを自覚した。一本だけぽつねんと立ち尽くす桜がいい。 そうした古木、名木に出会うと不思議と胸が高鳴る。 八ヶ岳を訪ねるとき中央高速を使うことから、山梨県の桜が多いが、季節にはすすんで途中下車する。高低差がある土地柄だけに満開の時期はずいぶんと幅がある。これがまたいいところでもある。みつけた「私の花の名所」を・・・ |
↓クリックでその場所に飛びます。
山梨県西部
| 山高の神代桜 | 真原(さねはら)の桜並木 | 萬休院の舞鶴松 | 清春芸術村の桜 |
| 神田の大糸桜 | 韮崎わに塚の桜 | 白州町殿町の桜 | 谷戸城址の桜 |
| 慈雲寺の糸桜 | 牧丘町乙ケ妻のしだれ桜 | 城下のシキザクラ | 雲峰寺のエドヒガン |
| 青梅・金剛寺のしだれ桜 | 青梅・梅岩寺のしだれ桜 | 高麗神社のしだれ桜 |
| 清雲寺のしだれ桜 |
| 身延山久遠寺のしだれ桜 |
| 安 富 桜 | 桜丸の夫婦桜 | 専照寺のしだれ桜 | 正永寺のしだれ桜 | 黄梅院の紅しだれ桜 |
| 愛宕神社の清秀桜 | 増泉寺のしだれ桜 | 阿弥陀寺のしだれ桜 | 毛賀くよとのしだれ桜 |
| 麻績(おみ)の里 舞台桜 | 麻績の里 石塚桜 | 瑠璃寺の桜 |
| その他・見逃した桜 |
| 日本人の高潔の象徴が桜 |
| 「日本書紀」から「桜の樹の下には屍体が埋まっている!」まで |
| 井伏鱒二の名訳にみる桜 |
| なぜ、日本中がソメイヨシノになったか |
| 私が好きな桜。孤木にして古木のランキング |
| 桜に取りつかれた男たち |
| 卒業式の定番となった曲 |
(マウスを当てて手型が出る写真は、クリックで大きなサイズの写真になります)
山高の神代桜(4月10日ごろ見頃) (山梨県北杜市武川町山高2763)
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| 樹木医の手でよみがえってきた神代桜。 満開の2007年4月8日撮影。 |
いわゆる”平成の大合併”で聞きなれない北杜市となったが、山梨随一の桜の名木『神代桜』(じんだいざくら)は 韮崎と小淵沢の間の旧武川村・実相寺(むかわむら・じっそうじ)の境内にある。日蓮宗の古刹で、ロケーションがいい上南アルプス、八ヶ岳、富士山の素晴らしい眺望というおまけつき。 種類はエドヒガンで、開花する花の白色からシロヒガンとも、一カ所に群がって咲く様子からムレヒガンとも呼ばれる。
日本武尊(やまとたけるのみこと)が東国遠征の記念に手植えしたとか、鎌倉時代、日蓮上人が衰弱している桜の回復を願ったところ、回復したと伝えられ、このため「妙法桜」とも言われる。大正11年10月、国の天然記念物に指定されている。根尾村の「薄墨桜」、三春町の「滝桜」と並んで「日本三大桜」にランクされる。
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| 神代桜の太さは圧倒的。 上の写真の反対側になる。 |
幹周りは人間が十数人手をつないで・・・というと、大木がそそり立つ様を想像するが、往時は30メートルほど樹高があったようだが、昭和になって台風で折れ、太いのは地上数メートルまでで、そこから先は比較的若い木が接ぎ木したように立ち上がっていると思えばいい。根元周り13.5メートルは国内最大級。樹高は約9メートル、枝張りは南北が31メートルに達する。2000年ごろ訪ねたときは、樹齢1300年、とあったが、最近の案内では「樹齢2000年」になっているのは年輪を数えなおしたのだろうか。
詮索はともかく、朽ち木を見るだけでも、はるかな時代に思いを馳せるには十分で、圧倒感がある。近年さらに衰弱が激しく、年々花も少なくなっているようで、訪れた時にはなかったのだが、その後幹が腐らないように大きな覆い屋根がつけられた。もう一度日蓮上人のお出ましが待たれる。
そう書いて間もなく(平成14年)、村(当時)の手で樹勢回復工事が始まった。樹木医の手で腐食した部分を取り除き、根を掘り出して生きているものを残し、土を入れ替え堆肥を入れる土壌改良も進められた。また、人で踏み固められた道を掘り返し、そばの車道も迂回させる処置が施された。工事は平成17年に終わったが、おかげで樹勢が回復、枝も伸びてきて花数も増え、無粋な覆い屋根もはずされたという。
平成19年4月8日、満開の時に訪れることができた。多くの支柱に支えられてはいるものの、以前のか細い咲き方と違って確かによみがえった感じがした。枝も茂り花弁も鮮やかで全体に樹に生命力が感じられるようになっていた。桜守の人たちのおかげだろう。

上に書いたように、一度は枯れかけた神代桜が見事に再生するまでの話が産経新聞に掲載された(2008年2月17日付)。リンクを張っていたがサーバーから削除され たので、要約を紹介する。また読売新聞の記事だと思うが神代桜が宇宙旅行してきた話題も。
樹齢2000年の桜を救え!再生プロジェクト」(要約)山梨県北杜市にある日蓮宗の古刹「実相寺」の境内。樹齢2000年と伝えられる日本最古のエドヒガンザクラ「山高の神代桜」は、今が盛りとばかりに大きく枝を 広げて咲き誇っている。
十数年も前のことだ。住職の松永直樹(55)は、桜の前にたたずみ手を合わせる老人を見かけて掃除の手を休めて声をかけた。「どうしたのですか?」
老人は「私たち人間は、行きたいところがあればどこにでも行ける。でも、この木は動けない。2000年もずっとここにいて、私たちを見守っていてくれる」
この出会いがあってから、それまで当たり前のように見ていた古木を注意深く見つめるようになった。枝先についた大振りの薄ピンクの花。最近、ちょっと色が白っ ぽくなってきてはいないか。強風や積雪で枝が折れやしないか。
「神代桜というくらいだから、この木には神が宿っている。『この木に会いにきてから病気をしなくなった』とか不思議な力を思わせる話もよく聞きます」と松永 は老木を見やる。
風雨に耐え、休むことなく花を咲かせてきた神代桜だが、昭和60年ごろから樹勢の衰えが目立つようになってきた。大正期には四方に約15メートル広がってい た枝も、平成14年には約半分に。枯死の危機もささやかれるなか、老桜を救おうと地元の武川村(現・北杜市)の住民らは立ち上がった。
枝を支える鉄の支柱を自然に近い木製に交換。排ガスや振動を排除しようと、すぐ脇を走る道路も通行止めにした。交通量の多い生活道路だったが、「サクラを守 るためなら」と住民は納得してくれた。
さらに国の補助を受けて、村が14年度から始めたのが、「サクラ再生事業」だ。「日本花の会」(東京都港区)が中心となって検討委員会を組織。学識経験者や 樹木医を交え、サクラ再生の方策を練った。
調査の結果、木の根元に盛り土をしたことが根の成長を妨げていたことがわかった。幹が腐らないように、と昭和51年に設置した雨や雪を防ぐやぐら屋根も逆効 果だった。
作業を担当した地元の樹木医、小林稔蔵(61)は、「サクラは『不定根』といって腐ったところからも根が出てくる。しかし屋根をかけたことで水分がいかなく なり、枯れていった」と解説する。
神代桜の再生に取り組んだ
樹木医、小林稔蔵さん小林らは幹を取り囲む土を8等分し、対角線上の2カ所の土を掘った。盛り土の下から、病気に冒された根が姿を現した。乾燥を防ぐため、掘り出した根に水ゴケを 巻き、養生させる。堆肥やもみ殻を混ぜた土を培養し、既存の土と入れ替えた。
翌年、土を入れ替えた場所を掘ってみると、病気になっていた根から、小さな根っこが出ているのが確認できた。大丈夫だ、と自信を深めた小林らは、4年間かけ て根の周りの土をすべて入れ替えた。酸素不足が解消されると、根は再び伸びるようになった。
「まだ頭(木の上部)の部分は弱っているが、他が勢いよく伸びているから大丈夫」。4年間にわたる再生計画で今は柵に覆われ、木の棒で支えられた不格好なサ クラだが、雪の降る日も懸命に水を吸い、開花に向けて力を蓄えている。「樹形はいまいちだけれど、老木はそれだけで価値がある。よくこれだけがんばったなぁと 思わせるから」と小林はいう。
長く造園に携わってきた小林には、「いい環境をつくってやれば、木は必ず成長する」との信念がある。「根の回りを踏まれて苦しいよ」「水が足りないよ」とい うサクラの声に耳を傾け、適切な処置をしてやるのが樹木医の役目だという。
松永もまた、素人ながらサクラの声に敏感に耳を澄ませる。「昨年はまた、花が増えた。17年度の事業終了とともに再生が終わったわけじゃない。これからも元 気を取り戻すよう努力しなければ」
実相寺の松永住職
松永が開設した寺のホームページは、サクラの時期になると1日2000件以上のアクセスがある。遠方から来る参拝客のために毎朝写真を撮り、開花状況を速報す る。最近はホームページを見てから来る人が増えたが、昔は4月になると寺の電話は鳴りっぱなしだった。最盛期、寺の1日の参拝客は1万人を超える。(文 道丸摩耶)
【問い合わせ】平成20年打ち上げの米スペースシャトル「エンデバー」で、宇宙飛行士の若田光一さんと8カ月間、無重力空間を旅した山梨県北杜市武川町の日本三大桜「山高神 代桜」の種が今月上旬に芽吹いた。
宇宙を旅してきた神代桜が芽吹いた 地元の中学生が一昨年採種し、市職員時代から根の蘇生や保護に25年間携わっている三枝基治さん(60)が宇宙帰りの種を大事に育ててきた。三枝さんは「古木 の桜の子供が芽を出したのは神秘でしょう。無重力に置かれていた影響は分からないが、芽が出ていないほかの種にも期待したい」と喜んでいる。開花は早くて7、 8年後という。
【ルート】
中央高速の長坂で降りた場合、後述の日野春芸術村を経由して釜無川と甲州街道を横切って旧武川村まで30分ほど。シーズンは人出が多い。有料駐車場がある。
真原(さねはら)の桜並木 (神代桜より1週間から10日ほど遅い)
上述の実相寺の神代桜からクルマで5分ほど、同じ旧武川村の真原(さねはら)地区に足を伸ばすと
少し変わった桜並木がある。この欄の主旨の古木、名木ということでなく、雄大な
南アルプスの山岳美が背景だ。ただし、神代桜と同時にはダメだ。両所で高度差があるため、真原が1週間から10日遅れる。(とはいえ、2007年訪問したときは両方ほぼ同時だった)

【問い合わせ】
前述のように、満開時期がかなりずれるので、問い合わせたほうがよい。
〒408-0302 山梨県北杜市武川町牧原931 北杜市武川総合支所
TEL 0551-26-2111
【ルート】
旧武川村までいくと案内板もあり、地図がなくてもわかりやすい場所。30台ほどの無料駐車場もある。
【問い合わせ】
萬休院の舞鶴松(4月10日ごろ見頃) (山梨県北杜市武川町三吹2910-1)
桜ガイドになんで松だ、となろうが、名物の松の横に咲く1本のしだれ桜がいいのである。神代桜を見ての帰り道、ちょうど満開だった。人も多くないのでゆっくりできる。
さて、名物の松の方だが、樹齢は約450年。枝の上に枝を重ねた樹形が美しく、ツルが羽を広げた姿によく似ていることから「舞鶴松」の名が付いた。
樹高9m、根回り4m、枝分かれし、左右に広がる総枝回りは74m。全体が約370本もの支柱で支えられている。全国でもまれにみるアカマツの名木で、国の天然記念物。
これはこれでなかなかのものだが、庫裡(くり)近くに植えられたしだれ桜もいい樹齢になって見応えがある。
萬休院
〒408-030 山梨県北杜市武川町三吹2910-1
【ルート】
神代桜を見て甲州街道に出る。ここも北杜市に合併になったが、旧白州町方向に向かい大武川を渡るとすぐ左に案内板が出ている。無料駐車場がある。
清春芸術村の桜 (山梨県北杜市長坂町中丸2072)
(見頃は4月10日ごろとなっているが、神代桜満開の時つぼみふくらむ程度)
初めて清春(きよはる)の芸術村を訪れたのはオープンの日だった。ガイドブックに1981年開設とあるからその春だ。産経新聞社のパリ支局長(当時支局員)をしている山口昌子さんから手紙をもらった。
銀座で吉井画廊を経営している吉井長三氏とはパリで知り合いなのだが、彼が今度山梨県に美術館をつくったので、見てあげて
ほしいという。
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| 蜂の巣のような建物「ラ・リューシュ」を模したアトリエ |
期待は裏切られなかったが、なにより感じたのはここの桜はすごいだろうなということだった。芸術村は過疎で廃校になった旧・日野春小学校の跡地である。当然桜が植えてある。廃校までの歴史は知らないが、桜の木の幹周りから見て樹齢数十年にはなろうという見事なソメイヨシノ(染井吉野=オオシマザクラとエドヒガンの交配)が校庭を囲むように何十本とある。
桜の背景は眼前に迫る雄大な南アルプスである。甲斐駒ヶ岳や八ヶ岳を仰ぎ、南方には富士を望む またとない景勝の地なのだ。誰が見ても桜の季節に来たくなるロケーションである。
はたして、マスコミ、ミニコミなどあちらこちらに取り上げられて人口に膾炙、今では、山梨県を代表する桜の名所といってよいほどだ。毎年桜の季節、この芸術村のお祭りが開かれる。満開の時期をねらって日にちを決めるのだろうがドンぴしゃはまずない。
案内をいただいてこれまで数回出かけたが、シャッターチャンスに恵まれなかった。しかし2001年ついに満開の桜のバックに南アルプスの山並みが迫る写真が撮れたのである。
余談:そば屋「翁」の話。
清春芸術村からほんの数十メートル離れた山林の中に有名なそば屋「翁」がある。私は新宿区・落合に20年ほど住んでいたのだが、このそば屋はそこからの行動圏内にあった。目白通りに面していて当時、すでに近隣では知る人ぞ知る存在だった。ところが、ある料理評論家が「日本一うまいそば屋」とあちこちの雑誌に書いたのである。さあそれからは交通渋滞の騒ぎ。
ところが、あるときぷっつり姿を消した。どこに行ったのかなあと思っていたら、芸術村を訪ねた隣に店があったのである。いいそば粉を求めて来た、というふれこみだった。はじめはそれほどでもなかったのだが、やがて山林の中に行列が出来るようになり、えんえん待たされる。量の割に高いのも気にくわないが、なにより午後早くに売り切れ店じまいということが多くなってとうとう行くことをやめた。
それほどまでして行かずとも長野、山梨というこの周辺はおいしいそば屋がいくらでもある。桜で行った武川村にもあるし同じ長坂町にもある。
(その後聞いたところでは、2001年店主が広島県豊平町に引越したという。弟子が後を継いで経営している)
【問い合わせ】
長坂町も合併して北杜市になった。
〒408-8585 山梨県北杜市長坂町長坂上条2575−19
北杜市長坂総合支所 TEL 0551-32-2111
「清春白樺美術館」
〒408-0036 山梨県北杜市長坂町中丸2072
TEL 0551-32-4865 FAX 0551-32-2444
【ルート】
中央高速須玉からと、一つ先の長坂から行くのとそう変わらない。
【開花情報】
美術館のHPに清春芸術村の開花情報はなく、最近始まった北杜市観光協会の「北杜市のさくら」
に上述の真原のさくら並木、三代校舎ふれあいの里の桜、谷戸城趾の桜と並んで開花情報がある。
神田(しんでん)の大糸桜 (山梨県北杜市小淵沢町松向1904-2)
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| (撮影:2001.4.15 この日は快晴。バックは八ヶ岳) |
上述の清春芸術村から小淵沢に向かう途中にあり、距離は近いのだが満開はこちらの方がだいぶ遅い。エドヒガンとソメイヨシノの開花時期の違いに加え、この地が標高810bと高いことから生ずる。つまり同時に見ようとしてもダメということだ。
樹齢400年のエドヒガンザクラ『神田の大糸桜』(しんでんのおおいとざくら)は、どうしてこんなところに、というような場所にある。周囲はみな田んぼ。大きな道もなく、シーズンには警察官が出て交通整理をする。
村の人が守ってきたのだと思うが、北は八ヶ岳、南は南アルプスを背景に畑の真ん中に1本だけ立っている。まわりにはほんとに何もない。その屹立感と 枝垂れぐあいがすばらしい。
樹高9b、幹周り7.5b」、枝張り20bあり、昭和34年に山梨県の天然記念物に指定されている。どうしてこんな田んぼの中にあるのかといえば、往時、この地には広野神社があり、神に捧げる米を作る田があったためこの地は「神田」と呼ばれた。その御神木として植えられた桜で大正時代には神社の名前も変わって松向神社の境内に位置していたものが、周りになにもなくなり、神社そのものも消滅してこの桜だけ田んぼの中に残ったという。
出かけたときは、日野春の桜が、かなり散り急いでいるところを見ての帰り道だったが、こちらは、まだ「つぼみ固し」の状態だった。2001年4月15日また出かけたが、こちらが8分咲きで、清春の方は落花の舞い。
近いのに、こんなに開花日が違うのはソメイヨシノ(清春美術館)と エドヒガンザクラ(神田)の品種の差だから仕方がない。
【問い合わせ】
他より開花が遅いので調べた方がよい。
神田の大糸桜がある場所は山梨県北杜市小淵沢町松向(しょうこう)1904-2
(小淵沢町と北杜市の正式合併は平成18年3月15日)
観光案内は北杜市小淵沢町総合支所 (TEL 0551−36−2111)へ
2000年より開花状況の速報HPを町が提供している。
【ルート】
たまたま案内板があって、行けたが、説明するには難しい畑の中の小径。マップで検討を。近くに中央高速が走っていてガードをくぐると小淵沢に抜けた。駐車場はないと思った方がよい。ずっと手前から歩くことだ。
韮崎 わに塚の桜(4月中旬満開) (山梨県韮崎市神山町北宮地624)
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| 八ケ岳を背景にした満開のわに塚の桜。エドヒガン。2007年4月8日 (クリックで大きなサイズに) |
そばに解説板が立っている。甲斐国誌に出ているそうだが、塚のかたちがワニの口の形をしているからという「鰐塚」説などが紹介されている。だが、私が思ったのは朝鮮渡来の王仁(わに)氏が往時このあたりに住んでいて、その古墳だから「王仁塚」というのではなかろうか。古墳だったから守られ、桜が植えられたのだろうと思う。そういう素人判断したところで雨が降ってきた。そのなか、桜は煙るようにいい形に枝を広げていた。名木と断定して帰路についた。
有名ではないがおすすめです、と書いて数年後の2007年4月8日、折りよく満開時に再訪できたが、大変なことになっていた。桜の下には人が群がり、よいアングルを取ろうとする カメラマンであぜ道も人だらけ。道路はクルマであふれ、焼きそば屋の屋台のおじさんが交通整理をしていた。以前は人影がなかったから桜の孤木だけ撮影できたが、今回は上の ようにどこからでも人が写りこむ。ネット社会の現象で仕方ないのかもしれないが、桜だけは昔ながらの見事な枝をのびのびと広げて期待を裏切らなかった。
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| 富士山を背景にした満開のわに塚の桜。 2012年4月17日産経新聞 (クリックで大きなサイズに) |
上で紹介した八ヶ岳をバックにしたわに塚の桜は我ながら「名作」と自惚れていて、この写真が撮れたらもうここは卒業だ、と思っていた。ところが、2012年4月17日の産経新 聞の写真に脱帽した。左に紹介した、富士山をバックにしたすばらしい写真である。私のアングルとはほとんど逆の方角からの撮影だ。当時から「桜のバックは富士山」とは思っ ていたのだが、下の 俯瞰写真をみたらわかるように、反対側はずっと田んぼが続いているのと富士山が遠すぎて、素人の腕では両者を一枚におさめることはできなかった。
2012年は満開が遅れて15日だったようだが、さすがプロである。望遠レンズで引いた見事なショットだ。これからは群がる素人カメラマンはこのアングルを狙うことになるだろう。古巣の新聞社なのでカメラマンの名前を知りたかったが 電子版にはなかった。私が編集幹部なら賞を出すところだ。
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| 田んぼの中に屹立するわに塚の桜のロケーション。 後方は八ケ岳に似ているが「ニセ八つ」 と呼ばれる茅が岳と付近の山。 |
【問い合わせ】
桜のあるところの住所は
〒407-0042 韮崎市神山町北宮地字柳田624
市役所のすぐ近くなので開花状況は役場(TEL 0551-22-1111)でも教えてくれるが、2002年から韮崎市観光協会のホームページの
「花情報」で開花状況の速報を出している。
【ルート】
甲州街道(国道20号線)を行くと国道沿いに韮崎市役所がある。そのすぐ前に富士川(釜無川)にかかる橋があるので、渡って数十メートル先で田んぼの中の十字路にあたる。右折して300メートルほど行くと左手の斜面にぽつんと立っている。標識もないから農道を見当つけて行くしかない。駐車場もないが誰もこないのでそのあたりに置いておくことができる。韮崎駅からタクシーで10分。
この近くに「温泉」のくだりで紹介している「韮崎旭温泉」がある。
白州町 殿町の桜 (山梨県北杜市白州町殿町481)
桜を見る側がどういう期待を持つかによるが、華やかさとか、巨樹であることを求めるなら行かないほうがよい。高齢のピアニスト、ホロビッツが来日公演したとき、音楽ファンはやれどこそこを間違ったとか、迫力がどうもとか言ったものだが、ある評論家がいみじくもいった。「骨董品として聴けるかどうかです」。この桜とか武川村の山高の神代桜を前にすると、それを思い出す。
エドヒガンで根回り6.6メートル、目通り5.4メートル。相当の古木で幹が空洞になっていたところに昭和34年の7号台風で地上8.5メートルで折れたという。その後、地上1.5メートルのあたりから枝を伸ばしなんとか樹形を保っているという。
【問い合わせ】
桜の住所は
〒408-0300 山梨県北杜市白州町殿町481
【ルート】
甲州街道を行き、白州町役場のすぐ先を左に入った右手の淺川さんという農家の裏手にある。
谷戸城址の桜(4月20日ごろ満開) (山梨県北杜市大泉町谷戸3025)
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| このあたりで最後の桜が見ら れる谷戸城址。バックは八ヶ岳。 |
【問い合わせ】
ここも平成16年11月、町村合併で北杜市大泉町になった。住所は新表記にしておいたが、2005年10月以前販売の地図DVDなどでは、旧大泉村の表記、
「〒409-1502 山梨県北巨摩郡大泉村谷戸3025」となる。開花情報などの問い合わせは北杜市大泉総合支所(TEL 0551-38-2211 )へ。
【ルート】
旧大泉村役場を目当てに行けばすぐわかる。駐車場もある。
慈雲寺の糸桜
(山梨県塩山市中萩原352)
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| 慈雲寺の糸桜は桃源郷とともに見る。 |
これまで紹介した山梨県の西部からぐんと離れる。勝沼から塩山に向かうと登り道になるが、ここの慈雲寺(じうんじ)のイトザクラを見たのは99年4月11日だった。三日前の産経新聞夕刊で見事な写真を見て、家内と犬連れで駆けつけたのだが、新聞写真撮影時に満開だった桜もすでに散り始めていた。
甲府盆地を見下ろす塩山の南向き斜面にあるので、日当たりがよいせいだろう、他の桜より早い。
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| 庫裏の方からみた糸桜。 屋根に降りかかる風情がいい。 |
樹齢300年の一本の枝垂れ桜。本堂に降りかかる花吹雪も風情あるが、振り返れば斜面の先、勝沼、一宮方向に広がるモモの花畑を一望する。
陶淵明の「桃花源記」に描かれるユートピア、桃源郷はまさにこんな風なのかも知れないと思えてくる。
薄幸の佳人、樋口一葉の文学碑がある。両親がこの村の出身だった。

余談だが、東京を出て八ヶ岳に向かうときは、その陶淵明の「帰去来の辞」が口をついて出てくる。「帰りなんいざ田園まさに蕉(あ)れなんとす」の
心の高ぶりがあるのだ。そして逆に山から下りる途中で出会った「桜」と「桃」の二つの花の桃花源。忘れがたい桜である。(陶淵明と「帰去来の辞などの詩作は
「ソロー 森の生活」の「ソローはさしずめ西の陶淵明」の項にまとめました。)
【問い合わせ】
南向き斜面で他より早いようなので問い合わせた方がよい。塩山市役所商工観光課(TEL 0553−32−2111 )
慈雲寺
〒404-0023 山梨県塩山市中萩原352
TEL 0553-33-9039
慈雲寺のHPに開花情報があったのだが閉鎖された。代わりに「慈雲寺のいと桜」
というホームページに開花情報を見ることができる。
【ルート】
JR塩山駅を目指す。国道411号(青梅街道)を行き、途中右に入ることになるが、案内板も少ないので土地の人に聞いた方がよい。40台ほど入る駐車場もあるが、シーズンには遠くから観光バスも来るほどの名所なので、遠くへ止めることになる。
よくある呼び込みの駐車場はない。抹茶の接待(有料)もある。
牧丘町乙ケ妻(おっかづま)のしだれ桜 (山梨市牧丘町乙ケ妻上の山)
”平成の大合併”で牧丘町(まきおかちょう)は山梨市と合併したが、町名はそのまま残っている。中央道を勝沼で降り、塩山市を上がった斜面にあり、ブドウ園が多い。先に紹介した慈雲寺からすぐ近くだが、慈雲寺の桜が散り始めたころ、こちらが満開だった。個人の所有だが、山の斜面を登ってだれでもそばまで行ける。
見事なものだ。
まず下から見上げた時、丘の上に1本だけ大きく枝を広げた大木が立つその屹立感がいい。上に登れば今度は桜の枝をかいくぐって甲府盆地が広がる俯瞰(ふかん)図がいい。これだけいい桜なのに地元の人以外には知られていないようで、
快晴で満開の日にもかかわらずアマチュアカメラマンが2人ほどいただけ。しばし斜面に腰を下ろしてたたずんだ。
さび付いた案内板をみると、町指定の天然記念物のようだ。根回り4.6m、目通り(目の高さで測った幹の太さ)3.8m、樹高8.7m、枝張り東西8.5m、南北8mとある。そんな数字だけでは分からない、とにかく見事な古木だ。
【問い合わせ】
桜のある場所は「牧丘町乙ケ妻上の山(おっかづまかみのやま)」というところ。
山梨市牧丘町役場観光課(TEL 0553−35−4815)。役場は35−3111。
行政からの開花情報はないが、季節になると地元の牧丘タクシーのホームページ「乙ケ妻のシダレ桜」に開花情報が掲載される。
【ルート】
国道140号(青梅街道)を上って、牧丘町役場の先を左に入っていく。村役場から地図をもらったが地元の道なので一言で説明できない。町の人に聞くほうがよい。琴川という笛吹川支流にかかる赤い「牧丘大橋」のたもとを山側に
入っていく。ここまで来ればどこからでも見える丘の上にあるのですぐわかる。ブドウ畑の間をジグザクにのぼる。
乙ケ妻の見事なしだれ桜からそう遠くないところにあるが、土地の人に聞いてもなかなかわからない。県指定の天然記念物で、りっぱな碑も立っている。さきの乙ケ妻より「格上」だが、四季桜、10月桜の名もあるとおり、
春と秋(10月)の2回咲くという珍しさからきたもので、樹高9メートルではあるが咲き具合は、ほぼ満開でも写真のような具合。大木を期待していたらがっかりする。
【ルート】
牧丘大橋をわたってほぼまっすぐ2キロほどいくと「鼓川」に出る。川沿いの道を下ってすぐ左手の農家の庭先にある。
▽牧丘町の「膝立の天王ザクラ」と「北原金峰山のサクラ」
鼓川を少し登ったところにエドヒガンの古樹があると、あとで知った。写真を見ると乙ケ妻のしだれには及ばないように見えるが次のシーズンにでもたずねてみたい。
雲峰寺のエドヒガン
(山梨県塩山市中萩原)
(慈雲寺より1週間遅れ。4月中旬)
雲峰寺(うんぽうじ)は先に紹介した慈雲寺と同じ塩山市中萩原地区にあるが、かなり離れていて、高度も高いので
開花時期がだいぶずれる。樹齢700年で山梨県でも有数の巨樹として県の天然記念物に指定されているが、
いかんせん衰退期に入っていて、満開でもすけすけで空がよく見え、痛ましさが先に立つ。近くの斜面にある
若木のほうが枝振りもよい。
【問い合わせ】
雲峰寺 〒404-0000 塩山市上荻原 TEL 0553-33-3172
【ルート】
塩山から青梅街道を上って行き、大菩薩峠の入り口にある寺。慈雲寺より1週間以上遅れ、2001年は4月15日ごろだった。
青梅・金剛寺のしだれ桜
(東京都青梅市天ケ瀬町1032 )
金剛寺(こんごうじ)は平安時代中期(10世紀)、平将門が開いたと伝えられる古刹。将門が大願成就を占って梅の枝を地面に刺したところ根付き、秋になっても青い実を付けていたというのが、この地「青梅」の地名の由来」。本堂の手前に樹齢数百年の「将門誓いの青梅」がある。
【問い合わせ】
金剛寺 〒198-0087 東京都青梅市天ケ瀬町1032 TEL 0428-22-2554
青梅市観光協会 TEL 0428-24-2481
【ルート】
青梅街道を行き、市民会館のT字路をはさんで左が金剛寺、右が後述の梅岩寺という位置。駅からも
近い。道路は411号線になっているが森下の信号を左折してすぐ、幼稚園が併設されていてここにクルマが置ける。
青梅・梅岩寺のしだれ桜
(東京都青梅市青梅235)
(東京の桜から1週間ほど遅れる)
梅岩寺(ばいがんじ)は元は金剛寺の末寺で、平安時代後期に少し遅れてできた寺。末寺のしだれ桜のほうがだんぜん元気で見事だが、
金剛寺のしだれ桜の姉妹樹といわれ、樹齢は約150年。樹高20メートル、幹囲り2.5メートルは青梅市内で最大のしだれ桜で、
市の天然記念物に指定されている。訪れる人もよく知っていて。金剛寺は人もまばらだが、こちらは人の波ができている。でも露店が
出るほどではないのがいい。
【問い合わせ】
梅岩寺 〒198-0000 東京都青梅市青梅235 TEL 0428-22-3886
または、上述の青梅市観光協会へ。
【ルート】
JRの踏切を渡ってすぐの市立図書館の近くになるが、駐車場がほとんどない。
行き方は前記参照。
高麗神社のしだれ桜
(埼玉県日高市大字新堀833)
奥武蔵の山裾、高麗(こま)地区は古来より開けた地域で、7世紀にこの地の長官として高句麗の王族
が来住した。始祖、高麗若王を祀る高麗神社の社殿の奥に国の重要文化財に指定されている高麗家住宅があるが、
しだれ桜はそのわきにある。樹齢400年とも。幹囲3.2メートル、樹高16メートル。他と変わっているのは、ひょろっと高いことだろうか、背後の山に風がさえぎられて
折れなかったからではないか。青梅の満開の桜を見て、秩父の桜を見に行く途中に寄ったが、ここは開花が早いようですでに葉桜っぽくなっていた。
【問い合わせ】
高麗(こま)神社社務所 〒350-1243 埼玉県日高市大字新堀833
TEL 042-989-1403 Fax 042-985-2794
高麗神社のホームページ「 花便り」に開花情報がある。
【ルート】
高麗神社はこのあたりで有名で、あちこちに案内板がある。目印になるゴルフ場も多い。
青梅から、小曾木街道でここに至り、299号線で正丸峠を経て秩父の清雲寺に回る花見コースがとれるが、前述のように
高麗神社の満開が少し早い。
清雲寺のしだれ桜
(埼玉県秩父郡荒川村上田野690)
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| 上から見た清雲寺のしだれ桜。ただし県の天然記念物指定のものは右下の写真。 |
秩父・荒川村にある清雲寺(せいうんじ)のしだれ桜は寺の開祖が植えたと伝えられる樹齢数百年にもなるエドヒガンザクラだ。
樹高15メートル、目通り2.7メートルという。
埼玉県の天然記念物に指定されたのが、昭和7年というから昔から有名だったようだ。しかし、この桜は衰退期に入っている。
それでもまだかなり見ごたえはあるのだが、この寺には他に2,30本のしだれ桜が植えられていて、古木に属するものが数本あり、
中でも本堂を囲むようにめぐっている塀のすぐ傍(そば)から霞がかったピンクの枝を大きく外に広げている1本は見事で、
観光客もこちらが主役の木と思っているほどだ。人だかりもこっちに集中している。
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| 清雲寺には古木が多い |
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| こちらが”本物”の清雲寺の桜。 県の天然記念物指定。 =2007年4月8日 |
【ルート】
荒川村は、埼玉県の西部、秩父郡の南部、荒川の上流部にあたる。東西に荒川が流れ、平行して国道140号、秩父鉄道が走っている。
西武線を利用すれば池袋から90分の距離のところ。清雲寺は秩父鉄道 武州中川駅下車徒歩10分、国道140号からすぐのところ。
私はクルマで前述の青梅の桜を見てから、ここに足をのばし、できて間がない雁坂トンネルを抜けて塩山に出たが、桜の名所としては秩父で孤立しているので、
他の名所と組合わすのがむずかしい。
身延山・久遠寺のしだれ桜 (山梨県南巨摩郡身延町身延4252)
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| 満開の桜に春雪という めったにない身延山の光景 |
まず開花時期。山梨の他の桜の満開はもっと遅いのと、山の上にある寺
なので遅かろうと、関東の花見をすませてから行こうと思いがちだが、東京とほとんど同じ時期に満開になる。私も何回となく
これで失敗した。
つぎに、身延山・久遠寺にあるしだれ桜をみればおしまいと思う人が多いが、本山以外に樹齢数百年という
古樹があちこちに数多く散らばっていて、全山しだれ桜の古樹、巨樹のオンパレードだということ。時間をたっぷりかけないと
見きれないほどだ。
訪れた2001年3月31日は特異な日だった。身延のしだれ桜は満開だったが、同時にこの日朝から雪になり、満開の桜に
雪が積もるという光景が現出した。紹介する写真はその、宿坊の人も経験したことがないという久遠寺のしだれ桜に積もる雪である。
人ごみをさけて早朝訪れたので、一番上の「せいしん駐車場」までクルマがはいったが、遅れると下から歩かねばならないほど。
ちょうど朝の勤行で長い廊下に響く読経と僧たちの足音が、しだれ桜とあいまって別世界をつくりだしていた。
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| こちらは例年のながめ。(2003.4.6) 久遠寺・祖師堂わきのしだれ桜。 |
この日は愛犬が急病になり山を離れたので、せっかく満開に居合わせながら久遠寺以外、名木の写真も撮っていないが、
この日行く予定だった巨樹、名木を羅列しておく。パンフレットなどからの引用だが場所は全山に散ってい
るので、町で出している観光地図を取り寄せるか、ネットで略図を掲載しているところがあるので、事前に調べたほうがよい。
【身延山久遠寺】一番上にあり、本堂わきの1本(2001年は工事中で板塀に囲まれていた)と、そのすぐ近くの古木が有名。
【身延山西谷】樹齢300年の古木が25本。
【鏡円坊】樹齢400年以上。一つの花序に2−3花、ときには6弁もまじる県指定のしだれ桜。
【大野山本遠寺】樹齢300年で、開花が他より早いのが特徴。町の文化財指定。
【善行寺】樹齢400年。花色がいいのと、何種かの宿り木で有名。
【小田船原】樹齢200年で、樹高13メートル。しだれが他の樹より長いのが特徴。
【本妙寺】樹齢350年、樹高8メートル、幹まわり3メートル。花弁に変化があるという。
【妙覚寺】樹齢300年。花弁、花色が他より濃厚。
【波木井山円実寺】300年の古木が4本ある。花弁がやや白っぽいのと数が多い。
【朝日堂】樹齢400年の古木。久遠寺のしだれ桜と同じ種とされている。
【小原島一円寺】200年は若いほうだが、樹高、幹まわりとも今が盛りの見事なしだれ。
【思沢】樹齢150年。開花が他より早いのと花色がよいのが特徴。
【桜清水】樹齢150年。国道52号線沿いにあり、全体にバランスがよい樹。
【妙泉寺】樹齢250年。濃厚な花色としだれぐあいがいい。
【感応寺】樹齢200年。
【問い合わせ】
身延町産業観光課 TEL 0556-62-1111
久遠寺の”子会社”で駐車場などを経営している「鰍ケいしん」のHPに
開花情報がある。毎朝撮影した写真と満開の推定日、そのほかの桜案内がアップされている。
メインの桜は「せいしん」の駐車場を上がってすぐのところになる。
「せいしん」 〒409-2524 山梨県南巨摩郡身延町身延4252
TEL 0556-62-3033 FAX 0556-62-1033
【ルート】
東名高速の清水ICから国道52号線で北上する方法と、中央高速の甲府昭和ICから同じく52号線を
南下する方法があるがどちらからも50分ほど。
(問い合わせ)
南部町役場 TEL 05566-4-3111
飯田の桜について
一本桜が好きなものにとって、伊那谷を流れる天竜川沿いの古い城下町、飯田はそれこそ宝庫といってよいところだ。殿様が桜を植えることを勧めたおかげで樹齢何百年という惚れ惚れする名木・古木が町中や周辺に百本を超えて残っている。某年4月8日、「満開」の知らせに、取るものも取り敢えず駆けつけた。いまだその余韻にひたっている。
飯田の桜はすごい、とはかねてから聞いていた。長野県飯田市には樹齢750年という愛宕神社の清秀桜をはじめ
樹齢300年以上の桜が10本以上ある。飯田市は戦後大火があり、旧市街地は壊滅したそうで、めぼしい桜の名所は、燃え残った地区と郊外が中心というものの、それでも、周辺の下伊那と呼ばれる南信州の地を入れると老木、古木に属するものは100本以上になろうかという。 小説 『桜守』の著者、水上勉は「ひとつの町にこれほど多くの桜の古木があることは、非常に珍しいことだ」と感嘆した。しかもである。天竜川沿いに伊那谷と呼ばれるこの地は、川の両岸に山肌が迫っている。つまり高低差があるので桜の季節が1か月になんなんとする。あまり宣伝しないというか、住んでいると他の土地との比較をしないものなのか、桜のメッカと賞賛しても、土地の人は、「そうですか」ですましている。 2007年春、この地で「第26回全国さくらシンポジウム」が開かれると聞いて、市役所に電話したら「今日が満開ですね」とこともなげに言われた。翌未明、あわてて東京を出て駆けつけると3時間後には桜の下にいた。意外に近いのである。飯田市内だけで名木10数本を満喫できた。予定では、一日で鑑賞するのはきっとむりだろうと、飯田から1時間ほどの距離にある八ケ岳の我が山墅に入って、翌日また出直すつもりであったが、「このあと山の上の桜が咲くのは3週間ほど後ですね」と告げられ、私の飯田桜めぐりは一日で終了した。 感心したことがある。寺が多かったが、これだけ名木を巡り歩いたのに一箇所として拝観料とか駐車料金を取るところがなかったことだ。京都、
奈良だとこうはいくまい。「遠いところからありがとうございます」とも言われた。桜を愛でる人たちを気持ちよく迎えてくれる街だ。この街での桜見物の合間にうなぎが旨い店もみつけた。「丸井亭」といい、「B級グルメ」で紹介しておいた。
飯田市のさくら情報はいろいろなサイトがあるが開花情報「さ
くらさく」が代表格。
また市のホームページから行けるが、飯田観光協会および南信州広域連合によって運営さ
れている「南信州ナビ」(観光案内)の中にコースごとのさくらガイドがある。
多くは樹齢350年前後なのは江戸時代にこの地に封ぜられた初代藩主が桜の植樹を勧めたことによるという。どういう方か詳しくは存じ上げないが、感謝するほかない。
(財)日本花の会が1982年から全国の桜研究家や学識経験者、桜愛好家、さらに桜の名所を持つ自治体の関係者に
呼びかけて「全国さくらシンポジウム・研究会」を開催している。当初は研究者だけの集まりだったが、1986年から市町村と
の共催となり、「2007全国さくらシンポジウムin飯田」のような大会名でその地の満開にあわせて開催される。
2012年の「全国さくらシンポジウム in 千代田 」は4月5日(木) ・6日(金)の両日日本教育会館を主会場に
開かれる。
【問い合わせ】
飯田市役所観光課(TEL 0265-22-4511)
「南信州の名桜・古桜」はリアルタイム開花情報と桜の名所一覧。
その中で
「丘の上のさくら散歩」は散歩がてらに見るさくらが3つのコースに分けて紹介されていて、
@「丘の上のさくら散歩」A「飯田城の歴史と共に桜の古木をめぐる」B「風情ただよう寺院の桜と古い町並みを歩く」の3つ。
このほかにも「信州・花三昧」や
個人の桜の名木紹介サイト「さいた、サイタ、桜が咲いた」にも開花情報がある。
安富桜 (飯田市追手町2丁目655)
(東京の桜から1週間遅れくらい)
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| 風格も見事な安富桜 |
「安富桜」(やすとみざくら)とか「長姫(おさひめ)の江戸彼岸」とか呼ばれる飯田の代表的なエドヒガンの名桜。 「長姫」は飯田城の別名が「長姫城」だったことにちなむ。
「安富桜」と呼称されるのは江戸時代初め、飯田城二の丸に住んでいた家老、安富氏が植えたとされることから。現在の 場所はその邸址だが、現在、同市追手町の「飯田美術博物館」が建ち、その前庭に咲いている。美 術博物館が建つ前は、この地には飯田長姫高校があった。昭和29年、春の全国選抜高校野球大会で同校が優勝した時は駅前から 安富桜まで優勝パレードが行われたという。
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| 見事な幹周り |
樹齢推定350年。写真を見てのとおり目通り周囲5.4メートルは圧倒的な迫力。樹高は20メートルもある。長野県天然記念物 に指定されている。 幹と根張りが雄々しく均整の取れた樹形は古木の風格を持ち、エドヒガンの特性がよく出ている。 初代藩主、堀親昌が入部した寛文12年(1672)年のとき植栽されたものとされ、そのため樹齢が正確に推定されている。
●花期:満開は年によって前後するがだいたい4/8〜4/14あたり。![]() |
| 飯田では無名の名木がごろごろ |
桜丸の夫婦桜 (飯田市追手町2丁目)
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| 桜丸の夫婦桜。右側の2本。 |
「桜丸(さくらまる)の夫婦桜(めおとざくら)」とか「桜丸御殿の夫婦桜」と呼ばれている。 飯田城内にあったものだが、現在は城跡に県の合同庁舎が建っているため、その裏手にあたる。
二つの種類の桜が接近して成長するうち、互いの木質部が合体したため、「夫婦桜」と呼ばれる。 半分はシダレザクラ(枝垂桜)、半分はエドヒガンサクラ(江戸彼岸桜)だが、かなり樹勢が弱ってきていて多くの支柱 で支えられている。
安富桜を見てから歩いてここに向かう途中、出勤途上の女性幹部らしき方に道を尋ねた。行きかう人がみな この方に挨拶をするので上席にいる人と思ったのだが、「こちらからも行けますが、今なら赤門が開いていますから案内しましょう」 と先に立っていただいた。
ここは飯田城本丸があったところだが、城主、脇坂安元(1615〜1672)が養嗣子として安政を迎えるために御殿の別棟として 屋敷を建てた。 このとき安元は曲輪内に多くの桜を植えたため、桜丸御殿と呼ばれた。参勤交代で藩主夫妻が飯田と江戸に別れ別れになる時 はここの桜を愛で、しばしの別れを惜しんだのだそうだ。
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| 年に一度、桜の季節に開く赤門 |
現在ではお城があった時代を偲ばせる唯一の建造物でふだんは閉ざされているのだが、この桜が開く時期だけ 赤門が開かれる。この時も2、3日前に子どもたちも出席して開門式が行われたばかりだった。それが「今なら赤門が開いて いますから」という言葉の意味だった。私は城主のように赤門をくぐって夫婦桜の前に立った。
推定樹齢400年。根元近くの幹周り10メートル、高さも10メートル。その昔の城下を見下ろすような場所にあり堂々たるものだ。 残念ながら、近くに殺風景な庁舎が立ち並んでいる一角で、写真のようにどうしても背景に無粋なコンクリートが入ってしまう。 もう一本桜があって、重なっているが、右側の太い幹が夫婦桜。右の幹が枝垂桜で左の幹が江戸彼岸。
【場所】飯田市追手町2
市の中心部にある。クルマだと中央道飯田ICより 約10分。電車だとJR飯田線飯田駅より徒歩10分。
専照寺の紅しだれ桜 (飯田市江戸町1丁目251)
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| 専照寺のしだれ桜 |
飯田市の真ん中といってよい場所に曹洞宗の禅寺が3つ、入り口こそ違う方角だが右下のマップのように上から見ると隣あって並んでいる。 「専照寺」「正永寺」「黄梅院」である。その昔、同じ頃に城主が命じて寺に1本ずつ植えさせた枝垂桜(シダレザクラ)が そろって健在で毎年、ほぼ同時に咲きそろう。
どこから見始めてもいいが、まず「専照寺」(せんしょうじ)から。曹洞宗白竜山専照寺の境内にあり、本堂のすぐ脇にある。 鋳造は新しいのだろうが、真下に釈迦牟尼仏が鎮座しているので、満開時には天蓋か掩翳(えんえい)のように かぶさる。
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| さくらマップ |
3寺とも同じ頃に植えられたそうだから樹齢もそろって同じになるが、約400年。「慶長9年(1604) 城主小笠原氏の帰依により現在地に移転され、その時に植栽されたと推定される」(飯田観光協会の説明板)とある。 目通り幹周り4.5メートル、、樹高10メートル。樹勢は衰えているというが、老木で枯れたところから新しい幹を出し、全体として 代替わりしつつようで、ごらんのようにまだまだ十分に見ごたえがある。
【場所】専照寺(飯田市江戸町1)
正永寺のしだれ桜 (飯田市江戸町3丁目)
(東京の桜から1週間遅れくらい)
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| 正永寺のしだれ桜 |
正永寺(せいえいじ)のしだれ桜の推定樹齢は412年。目通り周囲3.8メートル、樹高15メートル。 落雷か事故にあったかわからないが、ごらんのように主幹の一部を失い、片側だけに張り出すように咲く。 やや寂しいが幹周りの太さに往時が偲ばれ、貫禄がある。
曹洞宗円悟山正永寺の境内にある。この寺は、応永15年(1408)、飯田城主2代 、坂西由政(ばんざいよしまさ)66歳時に、 正永寺殿賢峰道因大居士と号して入道し、風越山の麓に庵を結んで閑居した。その後正永寺原に一寺を建立し、「正永寺」と 称した。その後坂西家が滅亡し、正永寺も 一時荒廃したが、再興されたものの、文禄3年(1594)に、飯田城主、京極高知が戦略上の理由から外堀の内側に寺を配 する事とし、命によって正永寺原より現在の地に移転した。だが天保3年(1832)火災により本堂・庫裡が焼失、明治32年 に本堂が再建されたが、明治35年の火災により再び焼失と、何度も災難にあい、現在の本堂は大正2年に再建されたもの。
【場所】正永寺(飯田市江戸町3丁目)
飯田城址より北方数百メートルの地になる。「専照寺」と「黄梅院」の西隣にあり、寺の駐車場がある。
黄梅院の紅しだれ桜 (飯田市江戸町3丁目251)
(東京の桜から1週間遅れくらい)
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| 黄梅院の紅しだれ桜 |
黄梅院(おうばいいん)の紅しだれ桜紅彼岸系の銘木で平成12年に市の天然記念物 に指定された。正永寺、専照寺の桜とほぼ 同時期に植えられたものと考えられるが、枝垂れぐあいもよく、花の色は他と比べて一段と濃く、 ここだけ「紅しだれ桜」と呼ばれる。
曹洞宗青松山黄梅院の境内にあり、黄梅院は正永寺の末寺である。 目通り幹周り5.5メートル、樹高18メートル。推定樹齢は400年。 この樹齢だと衰えが多いものだが 古枝に代わって更新された枝がうまく伸びて、形のよい樹冠をつくり、紅梅を思わせるような 赤身の濃い花をつける。
この寺は武田信玄の娘、黄梅院姫の菩提を弔う為に島田村(現飯田市松尾)に建立された。その後 天正10年(1582年)現在地に移された。桜はその頃植えられたといわれ、樹齢はそこからの換算。
【場所】
黄梅院 飯田市江戸町3-251。
愛宕神社の清秀桜 (飯田市愛宕町2781 愛宕神社境内)
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| 愛宕神社の清秀桜 |
江戸彼岸(エドヒガン)で、飯田市では最古、長野県内でも屈指の古木。太さ根廻り7メートル、目通り6メートル、高さ約10メートル、昭和48年(1973)に飯田市の天然記念物に指定されている。
エドヒガンザクラはバラ科に属し本州、四国、九州に生える落葉高木。 花は葉の出る前に咲き、開花時期は他の桜より早いとされるが2007年は他とほぼ同じだった。![]() |
| 樹齢750年の清秀桜の幹 |
鮮やかな濃い桜色は昔のままだろうが、衰弱はかなりなもので、幹は大部分が空洞になり、表皮近くに残った木質部だけで生きている状態。近くにわりに元気な樹があり、これと合わせて鑑賞すると往時が偲ばれる。
【場 所】
愛宕神社がある愛宕町2781は官庁街にある。法務省の飯田拘置支所の横の小さな道を入っていくとそのまま神社の境内につながる。朝早ければ境内にはクルマ2、3台分の駐車スペースがある。
増泉寺のしだれ桜 (飯田市大瀬木4066)
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| 増泉寺のしだれ桜 |
増泉寺の住所は上にあるとおりだが、伊賀良地区という周囲を田んぼに取り囲まれた 飯田市の西部郊外になる。周りに民家が少なく、しだれ桜の大木が寺の屋根より高く 屹立している。見栄えもよく私の中では「飯田市の名木3本」のうちにランクされる。
樹齢300年というベニシダレ(紅枝垂れ)の大木。ベニシダレはエドヒガン(江戸彼岸)の変種で、 花つきが枝垂れ型で、花の色(淡紅色)が濃いものを特に「紅枝垂れ」と呼んでいる。 エドヒガンは「彼岸桜」に分類されるが、「彼岸桜」というとコヒガン(小彼岸)をさすことが多いので、 「江戸彼岸」または「東彼岸」(あずまひがん))と呼んで区別している。花は小輪で一重咲き。
エドヒガン系は大木になることと花が咲いたあとから葉が出るという鑑賞価値の高さから桜の品種改良 では基本になる樹種。ソメイヨシノなどもこの系統。 花色が薄い普通のしだれ桜よりやや遅れて開花するそうだが2007年春は他の桜と同時に満開だった。
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| 門からも見える見事な幹 |
曹洞宗増泉寺の創建は、今から1200年前に笠松山のふもとに尼寺が建立されたのが始め。600年ほど前に 神宮寺として移転し、さらに300年前に現在地に移転した。だから樹齢は300年だろうが、350年説、400年説 いろいろあるようだ。要するによく分からないところがあるのだろうが今も元気な花を咲かせる巨大な幹をみると そのくらい昔でも不思議ではない、と思わせる。上で紹介した桜の名所、専照寺の末寺にあたる。
観音堂に良寛の「かたみとて 何か残さむ 春ハ花 山ほととぎす 秋はもみじ葉」と辞世の一首の碑があった。 説明では、良寛和尚の師匠に当たる岡山の國仙和尚が増泉寺第四世住職、路樹和尚の弟子であったうんぬん の記述があった。良寛は長野の人だからなにかつながりがあっても不思議ではない。
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| ここのライトアップは一段と映える |
阿弥陀寺のしだれ桜 (飯田市円山町2丁目6728)
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| 阿弥陀寺のしだれ桜 |
「阿弥陀寺」という寺は京都はじめ全国に多いが、桜の名所になっているのはここくらいだろう。 樹勢もよく幹も立派で貫禄があるが、写真を撮る角度がない。なにしろ近くまで墓や、寺が経営する幼稚園か 保育園の建物、本堂のひさしが迫っている。
枝垂れ桜(しだれざくら)は前項でも書いたが、品種の上ではバラ科サクラ属のイトザクラである。イトザクラは エドヒガンを母種とする一品種だが枝が下垂する特性がある。だから枝垂れ具合を鑑賞することになる。 もうすこし枝垂れるといいなとは思うが、樹齢400年の名木にいまさら注文をつけても始まらない。長々と 枝垂れる年もあるのだろう。
このサクラは飯田城主、脇坂候のお手植えのサクラと伝えられる古木で大樹。推定樹齢4 00年はそのときからの計算。この殿様というのは脇坂家2代目(1617〜1672)で、 弥陀の四十八願にちなんで、領内四十八堂に植えさせたのだが、第1号なので、殿様 自ら植えたようだ。このときの48本のうち残っているものの多くは、いま寺の名前ととも に桜の名所になっている。
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| 阿弥陀寺のしだれ桜の幹 |
樹勢、樹形がよく目通り幹囲 4.2メートル、樹高11メートル、枝張りは東西14メートル、 南北18.5メートル。花色はつぼみから開花の当初まで深紅色で最盛期には淡紅色になる。 平成2年11月17日、飯田市の天然記念物に指定されていて隣接地には脇坂候ゆかりの千体仏観音堂と仁王門がある。 (そばに立つ飯田市観光協会の説明文)
【場所】
阿弥陀寺 飯田市円山町2丁目6728
多くのサクラとは反対側にあたる飯田駅の西北側、駅からクルマで10分ほどのところにある。
飯田ICから近い。この桜もシーズンにはライトアップされる。
毛賀くよとのしだれ桜 (飯田市松尾毛賀685)![]() |
| 毛賀くよとのしだれ桜 |
「毛賀(けが)くよと」ー名前の意味も分かりにくい上、この場所にたどり着くのがまたむずかしいが、実に立派な しだれ桜で一見の価値はある。昔の松尾村と毛賀村が合併して、それがまた飯田市に編入された経緯が上の住所に残る。
「くよと」とは供養塔の意味だ。今では偲ぶよすがもないが、古くは伊那谷に添った交通の要所で この桜の下は旧遠州街道が通っていた。室町時代、信濃の国の守護、小笠原氏の居城に近く、 すぐそばに今では城址公園になっているが松尾城、鈴岡城という二つの平城(ひらじろ)が並んでいたほどで、幾多の合戦により多くの命が失われた場所だという。
戦いが多く、今でも周辺には「自害坂」または「陣返坂」(じんがえしざか)、築城に使う石切り場があったか 石打場(いしうちば)など戦にちなむ地名が残る。行き倒れの旅人もいた。そうした人を弔う供養塔はもちろん 馬の供養をした馬頭観音、さらには天神様も桜のそばに立つ。今もここの住民は2基の常夜灯に毎晩交代で 供養の灯明をあげている。
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| 幹の空洞が目立つ が樹勢はよい |
【場所】
他の桜の名所とは少し方角が違って、飯田駅や市役所からは南西に離れている。伊那谷を流れる天竜川添いに走るJR東海飯田線毛賀駅近く。また「天竜舟下り」の船着場、弁天港が近い。駅のそばを国道151号が通っていて、その
「松尾毛賀」の信号を山側に曲がり坂を上がってすぐ、右にクルマ一台やっとの細い道を入っていく。逆の方向からは鋭角過ぎて左折出来ない、そんなところ。しかも、桜の下まで入ってしまうと立ち往生するから、いったん下に下がり、左折して向かうほうがいい。そうすると桜の下近くにある鉄筋3階建てくらいのアパートの駐車場が利用できる。
麻績(おみ)の里 舞台桜 (飯田市座光寺2535)![]() |
| 麻績(おみ)の里の舞台桜 |
「座光寺の桜」とか「麻績校舎の舞台桜」とか呼び名がまちまちだった。由緒ある寺や史跡に隣接しているためで、 加えて読みが難しいのに観光パンフレットにはルビもなく、私など現地に行くまで「アサカ」で人に聞いて回り、現地ではじめて「麻績」(おみ)と読むことを知った。2007年にこの桜の呼称は「麻績(おみ)の里の舞台桜」と統一された。
桜の前にこの地の歴史を。長野県飯田市座光寺という上の住所には元善光寺(もとぜんこうじ)がある。元善光寺と名付けられる前は坐光寺(ざこうじ)だった。古くはこの地は、麻績の郷(おみのさと)と呼ばれていた。奈良時代から麻の栽培が盛んなところだった。
この頃、蘇我氏と物部氏の争いが激しく、仏教を排斥しようとした物部氏が仏像を難波(なにわ)の堀に投げ捨てた。推古天皇十年(602年)に、麻績の里の住人、本多(本田)善光が、難波の堀江(現在の大阪市)で一光三尊の本尊を見つけて持ち帰り、麻績の里の自宅の臼の上に安置したところ、臼が燦然と光を放ったことからここを「坐光寺」としたのが由来だ。
その後、皇極天皇元年(629年)、勅命により拾われた本尊は芋井の里(現在の長野県長野市)へ遷座し、発見者の善光の名をとって善光寺と名付けられたことから、坐光寺の方は元善光寺と呼ばれるようになった。遷座した本尊の代わりに元の寺には、勅命で木彫りの本尊が与えられた。また「毎月半ば十五日間は必ずこのふるさと(飯田)に帰りきて衆生を化益せん」という仏勅(お告げ)が残されたそうで、「善光寺と元善光寺の両方にお詣りしなければ片詣り」といわれたが、繁盛したのは善光寺の方という次第。
ついでながら、甲斐善光寺というのがある。私が八ヶ岳の山墅に行き来する時甲府市の北の方を通る山手通りを走ると横にある寺だが、こちらは武田信玄が川中島合戦の折、信濃善光寺が兵火にかかるのを恐れ、諸仏寺宝類を甲斐善光寺に移して戦火から守った寺。
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| 小学校と歌舞伎舞台を兼ねた 珍しい建築麻績学校校舎 |
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| 多弁の花びらを咲かせる 半八重紅彼岸枝垂れ桜 |
麻績(おみ)の里 石塚桜 (飯田市座光寺2535)![]() |
| 麻績(おみ)の里の石塚桜 |
上で紹介した「麻績の里の舞台桜」のすぐ下にある古墳の上に咲く枝垂れ桜。古墳は6世紀後半の横穴式石室を持つ円墳で、石塚古墳と呼ばれているところから2007年に上の名称に統一された。
舞台桜と同じシダレザクラだが、こんもりおわん型の舞台桜に比べこちらは背の高い巨木で立派だ。下まで回りこまないと分からないが写真のように古墳の石室の入り口に根を張っている。
瑠璃寺の桜 (長野県下伊那郡高森町大島山812
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| 瑠璃寺の桜 |
行政は自分の市町村だけ広報する。桜についてもそうで、飯田市のそばだが上記の住所なのでどこの桜ガイドにも取り上げられないきらいがあるが、飯田の北隣りで隣の松川ICに近い。
古い名刹で樹齢200年以上の枝垂桜が3本ある。「瑠璃寺(るりでら)の桜 」と一般には言っているが 正式には「大嶋山(だいとうざん) 瑠璃寺(るりじ)」という 。天永3年(1112)に創建された下伊那最古の天台宗の寺院。境内への入口に枝垂れ桜がある
1197年、源頼朝が幕府の祈願寺に選定、750石の寺領と愛育した桜苗三株を寄進した。この桜の子孫といわれるのが、鐘楼東にある地主桜と児童館南の彼岸桜、薬師堂入り口の枝垂桜。 昭和13年長野県の天然記念物に指定された。小ぶりのシダレザクラが垂れ下がる様は迫力がある。
寺の説明文では天永3年(1112)比叡山竹林院の観誉僧都(かんよそうず)がこの地に入ったとき、 仁王山の間の洞(あいのほら)の樹間に薬師如来が出現、 創建したと伝えられる。また上杉謙信が戦勝祈願したり、武田信玄が仏道修行をしたとも。本尊の薬師如来三尊佛は国の重要文化財。
【場所】
瑠璃寺 〒399-3106 長野県下伊那郡高森町大島山812 TEL 0265-35-2209
中央自動車道 松川インターから車で約15分 JR市田駅からはタクシーで10分。
問い合わせは寺か高森町観光協会 (TEL 0265-35-3111)
その他・見逃した桜
以上は2007年4月8日駆けつけて見て回ったさくらだが、このほかにも咲くのはずっと後といわれてあきらめたものが多い。
豐丘村・笹見平のしだれ桜 (4/11〜17ごろ)
「観音堂の桜」ともいうシダレザクラ。樹齢300年以上の古木で樹形の美しさで有名。
松川町・原田の桜 (4/11〜17ごろ)
原田の辻にある樹齢400年のエドヒガンで南駒ケ岳をバックに映える。
松川町・生田円満坊の桜 (4/7〜13ごろ)
阿島藩のお姫様が訪れた事もある由緒ある桜。
高森町・松源寺の桜 (4/7〜14ごろ)
中世城郭の松岡城址の松源寺にあるエドヒガン。花は小さいが密集して咲くので美しい。
喬木村・氏乗の桜 (4/10〜16ごろ)
旧氏乗分分校にあるシダレザクラ。
清内路村・黒船桜 (4/15〜21ごろ)
黒船来航にちなんで植えられたシダレザクラ。樹齢160年。斜面に咲いている。
清内路村・清南寺の夫婦桜 (4/17〜23ごろ)
上清内路のエドヒガンの古木。
阿智村・駒つなぎの桜 (4/20〜26ごろ)
智里昼神神社下の旧東山道ぞいの水田にあるエドヒガンの古木。義経が馬をつないだという。
水田に映るのを鑑賞。
浪合村・御所桜 (4/25〜5/1ごろ)
後醍醐天皇の孫の御陵前の参道にあるシダレザクラ。
根羽村・取手のしだれ桜 (4/18〜24ごろ)
三州街道(国道153号)添いの取手神社に植えられているシダレザクラ。
下條村・手塚原家の桜 (4/18〜24ごろ)
京都から移されたという幹周り4メートルのエドヒガンの巨木。
阿南町・村松寺の桜 (4/11〜17ごろ)
シダレザクラ。
阿南町・愛宕神社の桜 (4/20〜26ごろ)
新野矢野の愛宕神社にあるエドヒガン。
売木村・観音堂の桜 (4/20〜26ごろ)
観音堂の境内にあるエドヒガン。枝振りが美しい。
泰阜村・桜基の桜 (4/14〜20ごろ)
村の天然記念物指定の古木。
飯田市・三石のしだれ桜 (4/6〜12ごろ)
このほか、(株)南信州観光公社が認定している「桜守」の研修対象となっている名木は多い。 どんな桜か見当がつかないが、他の土地なら大々的に宣伝対象になる桜だと思う。 名前だけ挙げておく。
(飯田市内)加賀沢橋の桜、谷川の桜、大雄路の桜、最見塚の桜、水城御立ち譜の桜、龍門寺の桜、小林 の桜、上神様の桜、柏原の桜、北沢家の桜、大願寺の桜、万寿山の桜、川路の糸桜、、別曾峠の桜、 塩沢家の桜、小笠原屋敷の桜、興徳寺の桜、久米寺跡の桜、惣経寺の桜、光明寺の桜、矢高神社の 桜、高松正命寺の桜、経蔵寺の桜、飯沼神社の桜、中安の桜。
(松川町)原田の桜 (高森町)新田原の桜、桜堂の桜、下市田橘都家墓地の桜 (豊丘村)泉龍院の桜、 佐原分教場の桜 (喬木村)淵静寺の桜、太田中家の桜、郭の桜、佐久間の桜 (下條村)鎮西家の桜、 龍岳寺の桜 (清内路村)説教所の桜 (阿智村)市の沢の桜、唐沢家の桜 (阿南町)矢野の桜 、瑞光寺の桜 (売木村)南一の桜、銀一桜 (根羽村)宗源寺の桜 (天龍村)平岡の桜


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| 新渡戸稲造の筆になる「Boy's be ambitious」の額。北大総長室にある。 |
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| 北大構内にあるクラーク博士の胸像 |
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| 新渡戸稲造(北大附属図書館蔵) |
台湾の前総統李登輝氏が講演する予定だった「慶大講演原稿全文」に感動して別に項目を立てて紹介した。 戦前の台湾で農業近代化に向けた水利事業に生涯を尽くし台湾の六十万人の農民から神のごとく尊敬されている日本人技師、八田與一の事績を引いて、日本精神につ いて語りかけたものだ。その時、著書『「武士道」解題』 を知り、ついで古い岩波文庫に入っている「武士道」(矢内原忠雄訳)を読んだ。アメリカ人の夫人に、 武士とは何、と問われてその説明のために英語で書いたものだから和訳が必要なのだ。
軍国主義を押し付けるものという外道がいるが、とんでもない。日本人の精神の気高さについて、その依って来たるところを説いた必読の書といえる。その中で、桜と日本人について本居宣長の和歌を例に述べたくだりがある。、
敷島の 大和心を 人問はば 朝日に匂ふ 山桜花ヨーロッパ人はバラの花を賞賛するが、バラは桜花の持つ簡素な純真さに欠けている。バラはその甘美さの陰に棘を隠し、執拗に生命にしがみつく。まるで死を怖れるがごとく。散り果てるよりも、枝についたまま朽ちることを好むかのようにである。色は華美であり、濃厚な香を漂わせている。
私たち日本人の愛する桜花は、その美しい装いの陰に、棘や毒を隠し持ってはいない。自然の為すがままいつ何時でもその生命を捨てる覚悟がある。その色は決して派手さを誇らず、淡い匂いは人を飽きさせない。
ベストセラー「国家の品格」の著者、数学者の藤原正彦氏も、この歌について触れ、「太陽東より昇ってまず絶東の島嶼を照らし、桜の芳香朝の空気を匂わす時、いわばこの美しき陽の気息そのものを吸い入れるに勝るものはない。この清澄爽快の感覚が大和心の本質である」と説いている。なんだか日本人を励ますように咲く櫻花(さくらばな)ではないか。
日本人と桜日本人はどうしてこんなに桜が好きなのか。文学作品を渉猟した「桜の文学史」(小川和佑著、文春新書)によると、早くも
『日本書紀』に、履中天皇が池に船を浮かべて宴を催したとき、杯の中に桜花が舞い落ちる情景が描かれているそうだ。
「杯に浮かんだひとひらのはなびら。とても詩的な衝撃がある。すでに文学的感性で桜をみています」という時代から、
農耕民の信仰対象だった桜は宴遊と結びついて貴族の花になっていく。
万葉集には二人の男に求愛されて苦しみ、死を選ぶ「桜児(さくらこ)」説話がある。
桜で一番有名なのは、西行法師だろう。鎌倉時代に陸奥(みちのく)平泉、高野山、伊勢、鎌倉と遍歴、数多くの桜を詠んだが、吉野には庵を構えて3年余り住んだ。そして、
願はくは花のしたにて春死なん そのきさらぎの望月の頃
願わくは、春、桜の花の咲く下で死にたいものだ。あの釈迦が入滅した2月15日の頃(旧暦)に、と詠んだまさに1190年2月16日、河内国南葛城の弘川寺で73歳で入滅している。この寺は私が小中高を過ごした大阪南郊からすぐのところにあるが、最近まで終焉の地だとは知らなかった。
たぐひなき 思ひいではの 桜かな 薄紅の 花の匂ひは
「思ひいではの」は「出羽」の掛詞だ。この一首は31歳の時「みちのく滝の山と申す山寺」で詠まれた。 この場所は、西行に詳しかった随筆家、白洲正子さん(白洲次郎夫人)によると斎藤茂吉の生家のある山形県・上の山温泉の近くだという。桜は当然ソメイヨシノなどではなく「オオヤマザクラ」だ。米沢に疎開したこともあるが、叔父の褒章の祝いや一族会やで近くの赤湯・上杉の御湯「御殿守」とともに数回逗留したことがある大好きな温泉だ。
木のもとに すみけるあとを 見つるかな 那智の高嶺の 花を尋ねて西行には270首もの桜の歌があるそうだ。和歌を見ると西行は、散る桜に人生の哀惜をみていたのだろう。桜に惜別を見る人もいれば、人生を謳歌する人もいる。美しい乙女をたたえる花にもなった。平安後期にはさまざまな桜が都に持ち込まれ、豊臣秀吉の「醍醐の花見」を経て江戸時代に大衆化したのは「陽」の方だ。
『古事記伝』を著した国学者、本居宣長(1730〜1801)は、桜好きで有名だ。上の項でも紹介したが、
敷島の 大和こころを 人問はば 朝日に匂ふ 山桜花
など数え切れない桜を愛でた和歌を残し、「私の墓には桜を植えよ」と遺言した。私の初任地が三重県津支局
だったので知っているのだが、72年の生涯を過ごした松阪市の山室山にある墓には、自ら書き残した「本居宣
長之奥墓(おくつき)」の七文字が刻まれ、その後ろには遺言通り1本の山桜が植えられている。
◇ ◇ ◇
古来、日本人が桜を愛した理由は、その散り際ゆえで、日本人の美意識に訴えかけるものがある。花の散りぎわの美学と言えば女性も同じで 第一に細川ガラシャの辞世の一首を挙げねばなるまい。
ちりぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ悲劇の女性、細川ガラシャは明智光秀の三女で、本名は明智珠(あけち・たま)といった。織田信長の勧めで細川忠興の妻となったが、父、光秀が本能寺の変 を起したため、「逆臣の娘」として離縁か処刑されるところだったが、夫である忠興が珠を深く愛していたため、とりあえず幽閉という形で救われる。
だが、これはまだ悲劇の序章だった。珠は幽閉されている間の心の支えにカトリックに傾倒していき、1584年に幽閉が解かれた後もイエズス会から"細川ガラ シャ"(Gratia)の洗礼名を受けた。だが秀吉がキリスト教廃絶を決めたため細川忠興の立場は微妙になり、ガラシャと共にキリスト教徒になった侍女たちの 鼻を削いで追い出し、妻にも信仰を禁じた。ガラシャは離婚しようとするが、宣教師は「困難に立ち向かってこそ、徳は磨かれる」と説く。
関が原の戦いが勃発する直前、カラシャを人質に取ろうとした西軍の石田三成に屋敷を取り囲まれるが、それを受け入れず、家老に槍で部屋の外から胸を貫 かせて(カトリックで自殺は大罪である為)死んだ。38歳だった。その時に残した彼女の辞世の句が上の一首。
家老はガラシャの遺体が残らぬように屋敷に爆薬を仕掛け火を点けて自刃して果てたが、その数時間後、神父が細川屋敷の焼け跡を訪れてガラシャの骨 を拾い、堺のキリシタン墓地に葬った。細川忠興はガラシャの死を悲しみ、慶長6年(1601年)に教会葬を依頼して葬儀にも参列し、後に遺骨を大坂の崇 禅寺へ改葬した。
◇ ◇ ◇
桜を詠んだ和歌を並べてみても、みな人口に膾炙したものばかりだ。
世の中にたえてさくらのなかりせば 春の心はのどけからまし 在原業平
ひさかたの光のどけき春の日に しづ心なく花の散るらむ 紀友則
花の色はうつりにけりないたづらに 我が身世にふるながめせしまに 小野小町
いにしへの奈良のみやこの八重桜 今日九重ににほいぬるかな 伊勢大輔
吹く風をなこその関と思へども 道もせに散る山桜かな 源義家
清水へ祇園をよぎる桜月夜 こよひ逢ふ人みなうつくしき 与謝野晶子
歌人であり作家である岡本かの子も桜を愛した一人だった。桜ばかりを一週間で139首詠んだ 「桜」 (クリックでリンク先に)という歌集がある。没後50年が過ぎ著作権が切れた文芸作品をデジタル文庫としてアップしている「青空文庫」に収録 されている。
その歌集の冒頭の一首は、彼女の命をかけた多情多感の一生を知らないとわからないかもしれない。岡本かの子(1889年3月1日-1939年2月18日)は、漫画家、岡本一平の妻 であり、「芸術は爆発だあ」で大阪万博の太陽の塔を残した画家、岡本太郎の母だ。一平の漫画が売れて金が入るようになってから始まった夫の浮気へのあてつけのように 始まったかの子の男遍歴。
文通のあった早稲田の学生に始まり、痔の手術のため慶応大学病院に入院したとき一目ぼれした外科医は左遷先の北海道にまで追いかけていく(それも一平に青函連絡船まで送らせて)。 挙句、自宅で夫と愛人2人の計4人で暮らすという「奇妙な夫婦生活」を送ったことで知られる。かの子はこのメンバーでヨーロッパ旅行までしている。 この間のことは、瀬戸内晴美(出家して寂聴)の『かの子繚乱』に描かれている。
瀬戸内もまたそちらで忙しい女性で、切羽詰って平泉の中尊寺貫主をしていた作家、今東光のもとをたずね、世を捨てた(得度)。瀬戸内が髪を切るとい うのは当時夕刊フジのスクープだったが、裏事情をいうと学芸部のベテラン記者が社名で和尚の秘書をしていたため、自然に耳に入った特ダネだった。男より疲れてかへる裏町も すこし夜露にしめりたる頃
これなど岡本かの子の真骨頂、後にも先にも、女の朝帰りの和歌の嚆矢だろう。こういうことに理解があってもよさそうな谷崎潤一郎はそのせいか終生かの子を評価しなかった。昭和14年、
夫と上述の外科医に看取られて49歳で死去。生前「火葬はきらい」と話していたので、男2人で東京中のバラを買い占めて土葬として葬った。かの子が
愛した桜にしたかったのだろうが、亡くなったのが2月でまだつぼみが固かった。
上述の岡本、瀬戸内に宇野千代を加えると(互いによく知る間柄)「繚乱三女」になる。瀬戸内寂聴が、宇野千代に、かかわりのあった男性について尋ねたことがある。名前を挙げると間髪を入れ ず、「寝た」あるいは「寝ない」の答えが返ってきた(『奇縁まんだら』日本経済新聞)。 「寝た」の方がずっと多かったが、梶井基次郎については、 「寝ない!」だった。宇野が夫の尾崎士郎と別れたのは、梶井との噂が広がったからだが、それなのにどうしてと聞くと、「あたし面喰いなの」の 一言で片づけたという。
その梶井基次郎の短編に「桜の樹の下には屍体が埋まっている!これは信じていいことなんだよ」という 有名な書き出しの「桜の樹の下には」がある。短編なので別項にまとめた(クリックで飛 びます)。代表作「檸檬」も不思議な感覚の描写だが、結核で31歳で死んだ彼は、あまりに美しい桜の下には、醜い腐臭があるはずだ、でなければ バランスが取れない、とシュールな感覚を研ぎ澄ましている。梶井が療養した温泉宿の向かいにはソメイヨシノがあるそうだ。
ここまで虚無的にならずとも静かに心にしみてくる桜の詩もある。
甃(いし)のうえ 三好達治
あはれ花びらながれ
をみなごに花びらながれ
をみなごしめやかに語らひあゆみ
うららかの跫音空にながれ
をりふしに瞳をあげて
翳りなきみ寺の春をすぎゆくなり
み寺の甍みどりにうるほひ
廂々に
風鐸のすがたしづかなれば
ひとりなる
わが身の影をあゆまする甃のうえ
『測量船』から
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| 代田川緑道の桜のトンネルとアナスタシア。 2008年4月4日 |
二人の終焉の地から近いところに、代田川があり、その両岸に美しい桜並木が育ち、当時から桜の季節にはお花見の名所だった。その後、川は埋め立てられ、遊 歩道が設けられたが、あまりの風情のなさを反省した行政が最近(平成17年)また掘り返して、本当の川の上に工業用水を流した人口の川をこしらえた。私と愛犬の散 歩道=写真右=だが、花見の時には下北沢まで人であふれる。この周辺の人だけの穴場である。
「サヨナラ」ダケガ人生ダ
桜というと表題の詩が浮かぶ。虚無的に受け取ろうが、普通の別離の場面と受け取ろうが、
それぞれ個人の感性だが、桜の散り際のよさが日本人に好まれるのだろう。一昔前、
中高年の会社人間オジサンのカラオケ定番で、今では歌う人とて少ない「同期の桜」でも
「貴様と俺とは同期の桜。・・・咲いた花なら散るのは覚悟 みごと散りましょ 国のため」と
散り際が賛美されている。
桜の特徴を一言で言うとこの「サヨナラ」ダケガ人生ダ、に行き着く。
井伏鱒二の訳詩で有名になったが、元は于武陵(うぶりょう)の「勧酒」と題する五言絶句
の唐詩(写真左)。友人と別れる時の送別の宴でつくった。
君に勧む金屈巵(きんくつし=曲がった取っ手がついた黄金の杯)
満酌辞するを須(もち)いず
花發(ひら)けば風雨多く
人生別離足(た)る
と読む。意味は「君に黄金のさかずきを勧める。なみなみと注いだこの酒を断ってはいけないよ。花が咲けば
雨が降ったり風が吹いたりするものだ 。人生に別離はつきものだ」。ごく普通の唐詩だが、
これが井伏鱒二訳だとこうなる。原作以上の名訳とされる。
コノサカヅキヲ受ケテクレ
ドウゾナミナミツガシテオクレ
ハナニアラシノタトエモアルゾ
「サヨナラ」ダケガ人生ダ (「厄除け詩集」より)
短歌には「本歌取り」という手法がある。これと似ているが、井伏鱒二には漢詩からの、本歌取りというか、戯れ歌
をつくる趣味があって面白いのがある。
「春眠暁を覚えず」で有名な「春暁」(孟浩然)という唐詩がある。
春眠 暁を覚えず
処処(しょしょ) 啼鳥(ていちょう)を聞く
夜来(やらい) 風雨の声
花落つること 知るや多少(いくばく)
「春の夜明けに寝過ごした 小鳥のさえずりあちこちで 夕べは雨と風の音 花はどれほど散ったやら 」
といった意味だが、これなど井伏鱒二にかかるとこうなる。
ハルノネザメノウツツデ聞ケバ
トリノナクネデ目ガサメマシタ
ヨルノアラシニ雨ガマジリ
散ツタ木ノ花イカホドバカリ (「厄除け詩集」より)
「秋の日のヴィオロンのため息の・・・」で有名な上田敏の名訳を髣髴とさせるできばえだ。ともに原作を超えて独自の
文学の世界を構築している。
五言絶句は「起・承・転・結」で成り立っているが、このうち、後半の転句と結句、「花に嵐のたとえもあるぞ さよ
ならだけが人生だ」のくだりは特に好まれて人口に膾炙した。
井伏鱒二自身も、揮毫を頼まれると、「サヨナラ」ダケガ人生ダ、と好んで色紙に書いたという。その後、この言葉は
ほとんど”一人歩き”を始める。
太宰治は井伏鱒二の弟子で、嫁さんの世話から家の世話、療養のため山梨の富士山の見える宿、御坂峠の「天下茶屋」
を紹介してもらうなど一方ならぬ庇護を受けた。「富士山には月見草がよく似合う」の場所だ。その太宰も「さよなら
だけが人生だ」をよく使い、言葉どおり愛人と入水して果てた。
太宰治と山崎富栄が東京・三鷹の玉川上水に身を投じたのは、昭和23年の6月13日から翌日未明だが遺体が見つかったのは 1週間ほどあとの19日で太宰の39歳の誕生日だった。破滅型の太宰には妻との間に3人の子供が、別の女性との間にも生まれ て間もない女児がいた。山崎富栄とて戦争未亡人で当時としてはともに許されざる恋だったから、ひっそりと近くの禅林寺に埋葬された。
皮肉なことに、この情死事件によって作家としての人気は一段と高まった。『斜陽』や『人間失格』が飛ぶように売れ、翌年から 墓前で「桜桃忌」が開かれるようになった。毎年ファンが集まるが2009年は生誕100年とあって、本が売れ映画ができる人気だ。 ナルシストの側面があり、写真家・林忠彦が銀座の文壇バー「ルパン」で昭和21年に撮影した止まり木で格好をつけた右の写真が気に入っていた。
太宰は青森・津軽出身だが、同じ青森県むつ市出身の映画監督、川島雄三は「さよならだけが人生だ」を座右の
銘とした。日本映画のベストテンに必ず選ばれる「幕末太陽傳」などを残した鬼才で、その弟子筋にあたる藤本義
一には「 川島雄三、サヨナラだけが人生だ」という著作がある。
やはり青森・三沢出身の寺山修司も好んで使った。寺山修司については「ブン屋のたわ言」の「身捨つるほどの祖国はありや」のくだりで短歌とともに その人生を紹介した。そこで書ききれなかった部分だが、カルメン・マキのために作詞した「さよならだけが人生ならば」という歌がある。
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| 太宰治の有名な写真。 銀座「ルパン」で |
さよならだけが人生ならば 又来る春はなんだろう はるかな はるかな地の果てに 咲いてる野の百合なんだろう さよならだけが人生ならば めぐり逢う日は何だろう やさしい やさしい夕焼と ふたりの愛はなんだろう さよならだけが人生ならば 建てた我家は何だろう さみしい さみしい平原に ともす灯りはなんだろう
カルメン・マキは高校2年生のとき寺山修司が主宰していた劇団「天井桟敷」の舞台を見に行って感銘を受けそのまま入団した。「書を捨てよ町へ出よう」で初舞台 を踏んだが、この時、CBSソニーの関係者の目に止まり、歌手としてデビューしたシンデレラ・ガール。そのカルメン・マキのために作詞したのだが、詩集ではこの歌詞にない 2行がある。
さよならだけが 人生ならば 人生なんか いりません
そりゃそうだろう。いちばん言いたかったところだろうが、この結語では歌にならない。
ところで、太宰治は優柔不断な上、恩師・井伏鱒二はじめ周囲に迷惑ばかりかけた男だと嫌う人もいる。中でも川島雄三と寺山修司はともに太宰治が嫌いで、 川島など「太宰のことをほめるやつはバカだ」とまで言って いる。しかし、この言葉を好んだ「無頼派」の3人とも青森出身で、故郷に背を向けた人生を送ったというのは、なにか 風土が関係しているのだろうか。
三島由紀夫も太宰嫌いで「太宰のかかえている問題なんぞ、毎朝冷水摩擦とラジオ体操をしていればなおってしまう」といってのけた。言うだけでなく、 太宰が主宰する会にわざわざ出かけていき、「僕が今日ここへ来たのはあなたが嫌いだからですよ」といった。太宰はにやにや笑ってみせ、「それは君が、 実は僕のことが好きだからだよ」といったという。よほど自意識過剰な男だったようだ。
ところで「花」というと桜を意味する日本人は、以上の唐詩ですべて「花=桜」としてイメージしている。また、それでなんの不自然も
感じないだろう。しかし、中国では「花=牡丹」である。風雨に散り、夜来の雨に打たれるのは牡丹であり、せいぜい
芍薬でないとおかしい。だが、牡丹の花はポロポロ落ちるか、ひどいのはしぼんで花柄にしがみついているのが多い。
日本人ならここは散り際がよい桜でないとどうしてもイメージにあわないのだ。「花」を「桜」と翻訳した
日本人こそ名訳の才があるというべきだろう。
ソメイヨシノの系譜
今では桜といえばソメイヨシノをさすほどだが、歴史は比較的新しく幕末から
明治にかけて開発された品種だ。遠山の金さんが「この桜吹雪が目に入らぬか」と
啖呵切ったり、秀吉の醍醐の花見がソメイヨシノの前だったりするのはおかしいことになる。
幕末、江戸染井村(現在の東京都豊島区駒込あたり)の植木屋が「吉野桜」の名前で売り出したのが
広まったとされる。奈良・吉野山の桜はヤマザクラだから、これと区別するため「染井吉野」と称した。
葉より先に花が咲き、一木すべてが桜色に染まる咲き方が見事なのと、成長が早いことから重宝された。
ちょうどこのころ各地に設立されはじめた小学校に植えられ、学校が増えると共に全国にソメイヨシノが広まった。
明治維新で焼け落ちた城跡、堤防や人が集まる公園、散歩道など、江戸時代になかった施設にも多く植えられた。
しかしソメイヨシノの寿命は数十年といわれ、現在桜の名所で有名になっているところも古木が枯れはじめているところが多い。
ソメイヨシノを遺伝的にみると、オオシマザクラの雌しべにエドヒガンの花粉がついた雑種だ。両方の品種が
見られる伊豆半島で自然交配したと推測されているが、植木屋、伊藤政武が作り出したとする説も流布している。
エドヒガン(江戸彼岸)は本州の北端から南端までの山地に分布する。彼岸の頃咲き始める早咲きで別名「アズマヒガン」、
「ウバヒガン」とも呼ぶ。花は小型で、淡紅色を帯びる。萼筒は瓢箪(ヒョウタン)のようにくびれているのでこれで
識別する。(写真=左)花柄や萼には毛がある。シダレザクラは、エドヒガンの枝垂れ種。花は白系とピンク系がある。
エドヒガンの樹勢は強く、樹齢も長く、大木となる性質をもつ。日本で一番古い桜と言われる岐阜県・根尾谷村
の薄墨桜(うすずみざくら)をはじめ、岐阜・高山や山梨・武川村の神代桜、盛岡の石割桜など各地の巨木はエ
ドヒガンが多い。
オオシマザクラ(写真=右)の開花時期は4月。緑色の葉と、大きく純白の花がほぼ同時に出るのが特徴。伊豆大島、伊
豆諸島に多く、花の早いものは、伊豆大島では1月〜2月に咲く。海岸近くに自生していて場所柄、よく潮風
に耐える。これも大木になる。桜餅を包む葉は、オオシマザクラの葉を塩漬けにしたもの。葉に香りがある。
両種が交配して出来たソメイヨシノは「自家不和合性」といって自分の花粉では受粉できない。つまり結実しな
いので、接木で増やすほかない。日本中のソメイヨシノは染井村に端を発するクローンということになる。クロー
ンだから夏の終わりにできた花芽が休眠し、一定の寒さに当たることで目覚め、春の暖かさで開花するまで同
じサイクルになる。桜並木がいっせいに満開になり、いっせいに散り始めるのはこのためだ。
ソメイヨシノは植えっ放しでは数十年でだめになる。本来もっと生きるのだろうが病虫害に弱い。カビの一種の 「テングス病」にもかかる。枝のあちこちから細い枝がたくさん生えている桜を見かけるがたいていこの病気だ。 戦争中に出征記念などで植えたのが多いので、今いっせいに寿命を迎えている。
「サクラ切る馬鹿、ウメ切らぬ馬鹿」というが、弘前市で枯れかけたサクラの大枝を切り落とす”強剪定”という方法が開発された。 弘前公園にはこの方法で助かった樹齢126年のソメイヨシノがある。サクラはリンゴと同じバラ科だが、リンゴ農家では大きなリンゴの木をわざと切って水平方向に伸ばすことが行われていて、これを弱ったサクラに応用したところ、残った幹から勢いよく枝が出てきたのだそうだ。
日本の桜の名木ベストテン
桜並木より一本の桜の古木が好きだ、ということは最初に書いたことだ。2005年3月、日経新聞の「プラス1」に
まさにその思いを具体化したような、日本中の古木、孤木にランク付けしたリストが掲載された。国か都道府県の
天然記念物に指定されている141本
を対象に写真家、旅行家、桜愛好家からアンケートをとったものだ。だいたいこんなところだろうと思うので丸ごと
紹介することにした。
ちなみに、名木ランクで「日本三大桜」というときは、国の天然記念物指定を受けている中から、「三春の滝桜」
「根尾谷の淡墨桜」「山高の神代桜」をさす。
これ以外にいいのがあるよ、とは誰しも思うところだが「天然記念物指定済み」というところがミソである。もちろん
お上の指定などに頼らずとも、「私の心に残る一本」があってしかるべきだ。
「荘川桜」と桜守たちの物語
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| 湖底に沈むところを救い出された荘川桜 |
毎年、桜の季節になると新聞・雑誌やテレビのどこかに取り上げられる人たちがある。荘川桜(しょうかわざくら)を救った高碕達之助と笹部新太郎であり、太平洋から日本海まで「さくら道」を作ろうと桜の苗木を植えまわったバスの車掌の話である。いずれも日本人がもっとも愛する桜にその人生を賭けた人たちである。人はその「志」の高さに共鳴する。
桜は植えただけでは成長することがなかなか難しい品種だ。中には山桜のような丈夫な野生種もあるが、なにがしか、人の介添えがいる。根元の草を抜き、絡むツタ類を取り除き、折れた枝を取り除き、根元に肥料を与えてやらないと大きくは育たない。桜が花をつけるまでこうして見守る人を「桜守」(さくらもり)と呼ぶ。「桜守」という職業はない。その気にさえなれば誰でも「桜守」だ。辞書にはないかもしれないが美しい日本語だと思う。
合掌造りで名高い白川郷の近く、岐阜県荘川村(2005年2月1日、市町村合併により高山市荘川町)に、その桜はあった。上述の「日本の桜の名木ベストテン」で5位にランクされているが、その物語性で日本一有名な桜といってよいだろう。樹齢400年、高さ20メートルの大木。春は村人総出の花見。子供たちは桜吹雪の中で入学式を迎えた。「光輪寺の桜」と呼ばれていた。しかし、昭和27年(1952)10月、この地に「御母衣ダム」の建設が総理府から発表され、村の約3分の1が湖底に沈むことになった。
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| 御母衣ダム |
ダム事業を推進する電源開発初代総裁は高碕達之助だった。故郷を失うダム計画に死力を尽くして反対する地元住民との交渉を彼は自ら行なった。戦前、東洋製罐株式会社を創立した経済人だったが、戦後、請われて政界入りした異色の人物だった。このときすでに日ソ漁業交渉の立役者で、「水産の“ドン”」と呼ばれ、さらには日中国交回復に至るきっかけになった「LT(廖承志・高碕)貿易」に今もその名を残す大物だった。
周恩来、ナセル、フルシチョフと親交を結び、その死に際して、周恩来は「このような人物は将来も現れまい」と哀惜したほどの人物だった。
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| 日中貿易の窓を開いたLT貿易の 覚書調印式での高碕達之助(左)と廖承志。 その後に周恩来の姿が見える。(1962.11.9) |
私は小学生の頃、学校から記録映画「佐久間ダム」の鑑賞に連れて行かれた。そのスケールの大きさに圧倒され、土木技師になろうと思ったほどだ。大型土木といっても今と比べるとまだまだで、円形の大きな隧道にレールを敷き、その上に3段の足場を組んで削岩機7台ほどを並べて掘り進むものだったが、日本でもこんなことが出来るのかと衝撃を受けた。
高碕達之助は「事業の目的は第一に人類の将来を幸福ならしめるものでなければならぬ。第二に事業というものは営利を目的とすべきではない。自分が働いて奉仕の精神を発揮するということがモダン・マーチャント・スピリットだ」といい続けた。経済人、政治家ではあったが常に人間を見据えていた人物だけに、いつも行動の先頭に立った。強固にダム建設に反対していた人たちも、彼の誠意溢れる姿勢に和らいでいきやがて賛成に回った。
彼はよく現場に足を運んだ。ある日、湖底に沈む予定の中野集落を散策し、光輪寺に立ち寄り、境内に立つ桜の老木に目を奪われた。樹齢400年、高さ20メートル、幹周り数メートルというエドヒガンの古木だった。高碕は自宅に植物研究所をもつほどの植物愛好家であり、人間と植物を同じ次元で見ることができた。「このまま水没させてしまうのは耐えがたい。なんとしてでもこの桜の命を救いたい」と思った。
東京に戻ってすぐいくつかの大学の専門家を訪ね、移植のことを相談したが、誰一人として賛成してくれる人はいなかった。そのころ、桜博士といわれた笹部新太郎のことを知った。
笹部新太郎《明治20年(1887)1月15日〜昭和53年(1978)12月19日》
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| 在りし日の「光輪寺の桜」。 |
昭和35年の早春、大阪倶楽部のホールの一隅で、電源開発総裁・高碕達之助の訪問をうけた笹部新太郎は一枚の桜の写真を見せられた。樹齢400年はあろうかと思われる巨木である。
「この桜が、いま、私のやっている御母衣のダム工事のために水底に埋められてしまうことになる。余りに惜しいので、何とか活かして残したい。活着の見込みはありますか?」
「自信はありませんな」
「…絶対に駄目ですか?」
「絶対などという言葉は、こと生き物に関する限り私は使いたくありません」
そんなやりとりの後、交渉にかけてはソ連、中国相手に手練(てだれ)の高碕に押し切られるように、ついに「私でよろしくば、やってみましょう」という。
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| 移植作業の指揮をとる笹部新太郎 (前列左から2人目=NHKのHPから) |
現地へ行ってみると写真で見た「光輪寺の桜」の他にもう一本、やはり樹齢450年以上のエドヒガンが照蓮寺に残っていた。光輪寺の方は42トン、照蓮寺のは38トン、あわせて80トンの「桜移植プロジェクト」は、ダムに水をため始めた昭和35年11月15日から始まった。
意外な助っ人も現れた。意気に感じた豊橋の植木職人・丹羽政光は「金は要らない」と弟子の植木職人10人を引き連れて駆けつけた。少し身体が不自由になってきた笹部新太郎に代わってその後のアフターフォローを行う「桜守」となる。
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| トロッコの上に乗せた桜を ブルドーザーで押す方法=NHKのHPから) |
移植先は600メートル離れた国道沿い。やがて湖岸となる場所だ。高低差50メートル。運搬はダム工事で使われていた最新鋭のブルドーザー。植木職人、ダム従業員総出の作業だった。まず手がけたのは巨木を乗せて運ぶ台車のためのしっかりとした道路作りだった。高碕は「最新の機械類は何でも提供する」といったが、現場にある主力機械はブルドーザーで「押す」一方、今なら大型クレーンに頼るところだが、滑車で人力で吊り上げる方式だった。
40日かけた難しい移植工事は終わった。だが、うまく活着したかどうかは翌年の春を待たねばわからない。昭和36年春、移植された二本の老巨木から枝を覆った菰の目を突いてわずかながら新芽が出てきた。植木職人たちが「嫩芽」(どんが)と呼ぶ、「わかい芽」が出ていた。 そしてほんの少しではあるが桜の花が咲いていた。
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| 昭和37年、活着した荘川桜を見上げる 高碕達之助、笹部新太郎、丹羽正光 の「桜守」3人(左から) |
さらに翌年の昭和37年6月、ダムのそばで水没記念碑の除幕式が執り行われた。ダム建設側とダムに反対した村民の「死守会」双方500人が集まった。挨拶に立った高碕達之助は
「昭和27年10月18日、基本計画の発表をみたときから、皆さんの幸福をひたすら願いながら交渉をすすめてきました。国づくりという大きな仕事の前に父祖伝来の故郷を捨てた方々の犠牲は今、立派に生かされています」
と話ながら、涙をこらえきれず、声が途切れ勝ちになった。
参列した人たちは老若、攻守を分かたず、僅かに生き残った二株の桜の幹を手で撫でて声をあげて泣いたという。二本の桜は「荘川桜」と命名され、のち高碕達之助が詠んだ歌の歌碑が建てられた。
高碕達之助、笹部新太郎、丹羽政光、「荘川桜」移植の立役者三人の「桜守」のうち満開の姿を見ることが出来たのは笹部新太郎ただ一人だった。高碕達之助は除幕式の翌年2月に79歳で生涯を終え、丹羽政光も時を同じくして病に倒れ、後を継いだ丹羽克巳までが交通事故で急逝した。昭和53年(1978年)には、笹部新太郎も天寿をまっとうした。
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| 野口英世 |
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| 野口英世の母、シカの手紙 |
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| 手紙を書いた頃の母、シカ |
おまイの。しせ(出世)にわ。みなたまけ(驚き)ました。 わたくしもよろこんでをりまする。 なかた(中田)のかんのんさまに。さまにねん(毎年)。 よこもり(夜籠り)を。いたしました。 べん京なぼでも(勉強いくらしても)。きりかない。 いぼし(烏帽子:近所の地名)。ほわ(には)こまりをりますか。 おまいか。きたならば。もしわけ(申し訳)かてきましよ。 はるになるト。みなほかいド(北海道)に。いて(行って)しまいます。 わたしも。こころぼそくありまする。 ドカ(どうか)はやく。きてくだされ。 かねを。もろた。こトたれにもきかせません。 それをきかせるトみなのれて(飲まれて)。しまいます。 はやくきてくたされ。 はやくきてくたされ はやくきてくたされ。 はやくきてくたされ。 いしよの(一生の)たのみて。ありまする
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| 後年、故郷に錦を飾ったときの母と子の記念写真 |
昭和28年、高碕が通産大臣として会津を訪れた際、この手紙に感動した。
「極めて稚拙な筆で精一杯努力して書かれたこのたどたどしい手紙には、天衣無縫の母の愛が一字一字に、にじみ出ていて、読んでいくうちに、私はとめどもなく涙が出て困りました。この手紙は正に鬼神をも泣かしめる天下の名文と云えましょう。
国破れて以来、人心荒廃、ややもすれば、忍苦の底に光るこの無限の愛の貴さが忘却されようとする今日この頃、図らずもこの偉大な心の資源に触れた思いです」といい、多くの人に紹介したのがきっかけだという。
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| 花と葉が同時に出るものの花の方が大きく 花弁も多く色づきも美しいササベザクラ |
笹部新太郎の名前を冠した「ササベザクラ」というすばらしい品種がある。現在全国ではソメイヨシノが全盛だ。江戸時代に生まれた交雑種だが、まずピンクの花が満開になり、散った後に新芽が出る。花ばかりで豪華なところが好まれたものだが寿命も数十年で各地で枯れ死騒ぎが起きている。明治政府が学校に率先して植えたものがいま寿命を迎えていることによる。
日本古来の桜は山桜であることから、笹部新太郎は日本文化に根付いた山桜を大事にした。ソメイヨシノ一辺倒を憂い、「桜に非ず」と認めなかった。戦前(1941年)、中央公論に「どこもかしこも桜を植えて、電柱並みに木を並べたいのか」と書き、戦後1963年にも、文芸春秋に「桜を滅ぼす桜の国」という一文を書いて警鐘を鳴らしている。こうした桜にかける思いを「櫻男行状」(平凡社)にまとめ出版(1958年)している。
ササベザクラは日本の自生種であるカスミザクラとサトザクラの交雑種と見られている。日本に自生してる野性種は、「山桜」「大山桜」「深山(みやま)桜」「大島桜」「霞(かすみ)桜」「豆桜」「江戸彼岸」「丁字(ちょうじ)桜」「峰桜」の9種類だ。サトザクラがないではないか、といわれそうだが、山桜に対し、人が里で交配による改造を行ったり変異によって生まれた園芸品種の総称を「里桜」(サトザクラ)と呼んでいる。オオシマザクラから改良されたものが多いからDNA的にはササベザクラはカスミザクラとオオシマザクラの交雑種といえる。
この桜が出現したのは昭和35年だという。笹部新太郎は長年居を構えていた大阪から神戸に移ったが、その新居の庭に芽生えた。白色にほんのり紅色がかかった5弁から20弁の上品な花が若葉と同時に咲く。発見した時「比類なき旺盛な成長率」と自慢したというから、花色、花弁の多さに加えて成長が早い特徴がある。昭和60年に新品種として発表され、現在では兵庫県指定の天然記念物になっている。
親木は阪神大震災のあと枯れてしまったが別の場所に植えていた若木が育った。桜は自家受粉しないので台木に接木して増やす。植樹できる大きさまでに3年はかかる。最近では島根県木次町(現・雲南市)で新しい試みが行われている。日本製紙の技術研究所が開発した方法で、接木に寄らず、枝から直接根を出させ、そのまま苗木として大きく育てることができる。ササベザクラの普及を図る岡本南公園周辺の人で作る「桜守会」はこの方法で広める試みに取り組んでいる。
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| 桜を愛した小林秀雄 |
「桜は弥吉の手で抱えきれないほど太く、横縞の肌はみなすべすべしていた。どの木もあかみをおびた新緑が出て、花はその新緑のつけ根のあたりに付き、細枝がたわむほど重なっている。桃色のもあり、純白にちかい空の透けてみえるようなうすいのもあった。どの木も同じ花の木ではなかった」
と荘川桜を描写した。
NHKの看板番組だった「プロジェクトX」(平成18年放送終了)の第89回でも「桜ロード 巨木輸送作戦」とし放送された。その番組のホームページ(番組終了で現在は閉鎖)から何枚か写真を拝借した。
映画「さくら」のモデル 沿線260キロに桜を植えた男
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| 路線バスに桜の苗木を積んで 走った在りし日の佐藤良二さん |
「荘川桜」に感銘を受けて行動に移した人もいる。旧国鉄時代、愛知県名古屋市から岐阜県の西部を縦断する156号線を抜け、石川県金沢市までの全長260キロメートルを走る「名金線」というバス路線があった(その後廃止)。このバスの車掌だった佐藤良二さん(岐阜県郡上郡白鳥町)は、よみがえった桜に感動、この日本一長いバス路線を30万本の桜並木にして日本海と太平洋を桜でつなぐ「さくら道」にしようという夢を描く。休日はもちろん業務の終った後の時間もすべて桜に注いだ。園芸の勉強をし、荘川桜の種を貰い受けると庭に苗床をつくり、自分の乗るバスに苗を積んでは沿道の民家を訪ねて植樹の許可と管理を頼んでまわった。
昭和45年には神戸岡本に神様と仰いでいた笹部新太郎(当時83歳)を訪ね感激の握手をしたこともあった。私費で2000本の桜の木を植えたが47歳(昭和52年)でガンに倒れた。現在、佐藤さんが植えた桜がどれなのか特定はできないが、最初の1本は旧国鉄バス名古屋営業所の入口に、1500本目は金沢の兼六園に植えられたことがわかっていて、今も「佐藤桜」として残っている。
佐藤さんは倒れたが、その志は多くの人に受け継がれ、いつしか「さくら道」と呼ばれるようになった156号線沿いへの植樹は続けられた。現在の156号線は、途切れなく続く桜並木ではないが、春になると国道沿いの美並村から白川村付近のあちこちに桜並木が見られる。この話は、昭和59年、NHKテレビで「桜紀行〜名金線・もう一つの旅〜」として全国放送され、さらに、昭和62年度の中学校の国語教科書にもとりあげられて有名になった。
また映画「さくら」(94年、神山征二郎監督、篠田三郎、田中好子主演)となり全国で上映されたほか、何度かテレビでも放映された。
故郷の白鳥町には「奥美濃の桜守」と顕彰碑が建立されている。
森山直太朗の「さくら」桜というと、最近では森山直太朗の代表曲「さくら」をイメージする人が多い。200万枚になんなんとする売り上げを記録したヒット曲だが、今では卒業 式で歌われる定番曲となった。
NHKの「春うた2008」(2008年3月25日放送)で放映されたそうだが、宮城県立第三女子高等学校の卒業式に森山直太朗が飛び入りで歌ったものは、いたく家内を感激させた。 女子高生たちも感涙に咽んでいたが、You Tube で流れているよ、と教えても、自分では動画再生までたどり着けないという。我が家のサイトなら自分でアクセスできるのでそこに貼り付 けておいて、という家庭内事情で掲載することになった。
この女子高は全日本合唱コンクール高等学校の部で優勝したこともあり、5年前森山直太朗が「さくら(合唱)」バージョンを録音するときに、音楽部の合唱をバックに レコーディングしたのが縁だという。数ある「さくら」の中でもギターを弾きながら卒業式といううってつけの背景で歌うこのバージョンが一番で、泣けてくるそうだ。
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