3大名著の著者と内容の紹介

浅学非才の身で大先達を批評するのは気が引けるが、長い鎖国から開国間もない明治時代にあって、このように格調高い英語、そして日本語で 余すところなく日本人の精神の深層に迫り得たその教養に驚きを禁じえない。原文は英語だが、サイトの亭主の浅薄な英語力でも、文章のリズム感が伝わってくる。また著者の3人が他で書いている日本文を読んでも、揃って深く漢籍に通じていることにも驚く。


新渡戸稲造「武士道」           武士道は崇高な道徳律

内村鑑三「代表的日本人」       5人の「日本人の中の日本人」


 @ 西郷隆盛          「敬天愛人」の人生

 A 上杉鷹山          為せば成る、為さねば成らぬ何事も

 B 中江藤樹          天地の間に、己一人生きてあると思ふべし

 C 二宮尊徳         「胡瓜を植えれば、胡瓜以外のものが収穫できると思うな

 D 日 蓮            蒙古襲来は天が日本国を罰した結果である


岡倉天心「茶の本」     茶道には日本の美意識が凝縮されている

 
【岡倉天心 その毀誉褒貶の人生】
↑(クリックで「27歳で東京美術学校校長、ボストン美術館の中国日本部長、その後追われて茨城・六角堂に逼塞」に飛びます)


三大名著の筆頭に挙げられる新渡戸稲造の『武士道』から。

新渡戸稲造(にとべ・いなぞう) 1862年9月1日(文久2年8月8日) - 1933年(昭和8年)10月15日)

新渡戸稲造
新渡戸稲造
陸奥国岩手郡(現在の岩手県盛岡市)に、南部藩主の用人を務めた盛岡藩、新渡戸十次郎の三男として生まれる。幼名は稲之助。新渡戸家には西洋で作られたものが多くあり、この頃から西洋への憧れを心に抱いた。作人館(現在の盛岡市立仁王小学校)に入り、掛かり付けの医者から英語を習う。

東京で洋服店を営んで成功していた叔父の太田時敏から「東京で勉強させてはどうか」という内容の手紙が届き、新しい学問を求めて東京へと旅立つ。この時、養子となって太田稲造と名のるようになった。

東京では英語学校で英語を学び、翌年には元盛岡藩主南部利恭が経営する「共慣義塾」という学校に入学して寄宿舎に入るが、授業が退屈なために抜け出すことが多かった。日頃の不真面目さが原因で、叔父からは次第に信用されなくなり、自分の小遣いで手袋を買ったにもかかわらず、「店の金を持ち出した」と疑われたりした。それからというもの、稲造は人が変わったように勉強に励むようになった。

13歳になった頃、できたばかりの東京英語学校(後の東京大学)に入学する。ここで稲造は佐藤昌介と親交を持つようになり、暇を見つけては互いのことを語るようになる。この頃から稲造は自分の将来について真剣に考えるようになり、やがて農学の勉強に勤しむことを決意する。

北大新渡戸"
北大ポプラ並木近くに立つ新渡戸稲造の銅像
札幌農学校(後の北海道大学)の二期生として入学。農学校創立時に副校長(事実上の校長)として一年契約で赴任した「少年よ大志を抱け」の名言で有名なウィリアム・クラーク博士はすでに米国へ帰国しており、新渡戸たちの二期生とは入れ違いであった。

ある日、学校の食堂に張り紙が貼られ、「右の者、学費滞納に付き・・・」とあり、稲造の名前があった。その時「俺の生き方をこんな紙切れで決められてたまるか」と叫び、衆目の前で紙を破り捨て、退学の一歩手前まで追い詰められるが、友人達の嘆願により退学は免れた。他にも、教授と論争になれば熱くなって殴り合いになることもあり、「アクチーブ」(アクティブ=活動家)というあだ名を付けられた。

クラークは一期生に対して「倫理学」の授業として聖書を講じ、その影響で一期生ほぼ全員がキリスト教に入信していた。二期生も、入学早々一期生たちの「伝道」総攻撃にあい続々と入信し始め、一人一人クラークが残していった「イエスを信ずるものの誓約」に署名していった。

農学校入学前からキリスト教に興味をもち、自分の英語版聖書まで持ち込んでいた稲造は早速署名し、後日、同期の内村鑑三(宗教家)、宮部金吾(植物学者)、廣井勇(土木技術者)らとともに、函館に駐在していたメソジスト系の宣教師メリマン・ハリスから洗礼を受けた。クリスチャン・ネームは「パウロ」であった。

次第にキリスト教にのめり込んで行き、一人聖書を読み耽るなど、入学当初とは似ても似つかない姿に変貌していった。その頃のあだ名は「モンク(修道士)」で、友人の内村鑑三等が「これでは奴の事をアクチーブと言えないな」と色々と考えた末に決めたあだ名である。

この頃から眼鏡をかけるようになった。やがて眼病を患い、それが悪化して鬱病までも引き起こす。病気を知った母から手紙が送られてきて、1880年7月に盛岡へと帰るが、母は三日前に息を引き取っていた。悲しみのため、鬱病がさらに悪化したが、内村鑑三からの激励の手紙によって立ち直り、病気の治療のために東京へ出る。

新渡戸稲造
新渡戸稲造とメアリー夫人
東京で鬱病を克服し、農学校卒業後、道庁に奉職し、畑の作物を食い散らすイナゴの大群を退治するためにあちらこちらの農村を駆け巡るが、さらに学問を志して帝国大学(のち、東京帝国大学、東京大学)に進学。しかし札幌農学校に比べ、東大の研究レベルの低さに失望して退学。1884年(明治17年)、「太平洋の架け橋」になりたいとアメリカに私費留学し、ジョンズ・ホプキンス大学に入学。この頃までに稲造は伝統的なキリスト教信仰に懐疑的になっていて、クエーカー派の集会に通い始め正式に会員となった。そこでの親交を通して後に妻となるメアリー・エルキントン(日本名・新渡戸万里子)と出会う。

その後札幌農学校助教授に任命され、ジョンズ・ホプキンス大学を中途退学して官費でドイツへ留学。ボン大学などで聴講した後、ハレ大学(現マルティン・ルター大学)で農業経済学の博士号を得る。ドイツからの帰途、アメリカでメアリーと結婚して、1891年(明治24年)に帰国し、教授として札幌農学校に赴任する。だが、札幌時代に夫婦とも体調を崩し、農学校を休職してカリフォルニア州で転地療養した。

この間に名著『武士道』を英文で書きあげた。日清戦争の勝利などで日本および日本人に対する関心が高まっていた時期であり、1900年(明治33年)に『武士道』の初版が刊行されると、やがてドイツ語、フランス語など各国語に訳されベストセラーとなり、セオドア・ルーズベルト大統領らに大きな感銘を与えた。日本語訳の出版は日露戦争後の1908年のことであった。

台湾総督府の民政長官となった同郷の後藤新平から2年越しの招聘を受け、1901年(明治34年)に農学校を辞職して、台湾総督府の技師に任命された。民政局殖産課長、さらに殖産局長心得、臨時台湾糖務局長となり、児玉源太郎総督に「糖業改良意見書」を提出し、台湾における糖業発展の基礎を築くことに貢献した。

1903年(明治36年)には京都帝国大学法科大学教授を兼ね、台湾での実績をもとに植民政策を講じた。1906年(明治39年)、牧野伸顕文相の意向で、新渡戸は東京帝国大学法科大学教授との兼任で、第一高等学校校長となった(1906-1913年)が、健康を害したこともあって、1913年に一高校長を辞職。その後、拓殖大学学監、東京女子大学学長などを歴任し、津田梅子の津田塾でも顧問を務め、津田亡き後の学園の方針を決定する集会は新渡戸宅で開かれた。

1920年(大正9年)の国際連盟設立に際して、教育者で『武士道』の著者として国際的に高名な新渡戸が事務次長のひとりに選ばれた。新渡戸は東京帝国大学経済学部を辞職し、その後任に矢内原忠雄が選ばれる。矢内原はその後、「武士道」を翻訳して国内に広めるのに一役買う。

エスペランティストとしても知られ、1921年(大正10年)には国際連盟の総会でエスペラントを作業語にする決議案に賛同した。しかし、フランスの反対にあい、結局実現しなかった。1926年(大正15年)、7年間務めた事務次長を退任した。

帰国後の昭和3年(1928)、札幌農学校時代の教え子である森本厚吉が開いた女子経済専門学校(現在、小中高・短大を持つ東京・中野区の学校法人 新渡戸文化学園)の初代校長を努めた。

1932年(昭和7年)、軍国主義思想が高まる中「わが国を滅ぼすものは共産党と軍閥である。そのどちらが怖いかと問われたら、今では軍閥と答えねばならない」との発言が軍部や右翼、特に在郷軍人会や軍部に迎合していた新聞等マスメディアから激しい非難を買い、多くの友人や弟子たちも去る。


新渡戸墓
新渡戸稲造の墓

翌1933年(昭和8年)、日本が国際連盟脱退を表明。その年の秋、カナダのバンフで開かれた太平洋問題調査会会議に、日本代表団団長として出席するため渡加。会議終了後の昭和8年(1933)10月16日(日本時間)カナダのビクトリア市で没す。享年71歳。

没後、勲一等瑞宝章。墓は東京都府中市の多磨霊園7区1種1側5番にあり、同じ墓所には無二の親友、内村鑑三の墓も ある。昭和59年(1984)五千円札の肖像画に採用された。


新渡戸稲造は『武士道』序文にこう書いている


新渡戸墓
新渡戸稲造の「BUSHIDO」
「ある時私は、ベルギーの法学者に「日本には宗教教育がない」と話したところ、「宗教なしで、どうやって道徳教育をするのか」と驚かれた。思い返すと、自分に善悪の観念を吹き込んだのは武士道であることに気がついた。封建制と武士道がわからなくては、現在の日本の道徳観念はまるで封をした「巻物」と同じことだとわかったのである」

ベルギーの法学者の他、妻のメアリーからもなぜ日本でこのような思想や道徳教育がいきわたっているのかと何度も聞かれたことで『武士道』を書くことを決意した


「武士道」全体は17章から成り立っている。

第1章の書き出しは、日本人が愛してやまない桜花から始まっている。

Chivalry is a flower no less indigenous to the soil of Japan than its emblem, the cherry blossom; nor is it a dried-up specimen of an antique virtue preserved in the herbarium of our history. It is still a living object of power and beauty among us; and if it assumes no tangible shape or form, it not the less scents the moral atmosphere, and makes us aware that we are still under its potent spell.
The conditions of society which brought it forth and nourished it have long disappeared; but as those far-off stars which once were and are not, still continue to shed their rays upon us, so the light of chivalry, which was a child of feudalism, still illuminates our moral path, surviving its mother institution.
It is a pleasure to me to reflect upon this subject in the language of Burke, who uttered the well-known touching eulogy over the neglected bier of its European prototype.

(邦訳)
 武士道はその表徴たる桜花と同じく、日本の土地に固有の花である。それは古代の徳が乾からびた標本となって私たちの歴史の標本館に保存されているアンティークな美徳の乾燥した標本でもありません。
 それは力と美との活ける対象として今なお存在している。それは手に取ることはできないけれど、道徳的雰囲気を香らせ、我々にその偉大なる力を意識させている。
 それを生みかつ育てた社会が消え失せて久しい。しかし昔あって今はあらざる遠き星がなお我々の上にその光を投げているように、封建制度の子たる武士道の光はその母たる制度の死にし後にも生き残って、今なお我々の道徳の道を照らしている。
 ヨーロッパにおいてこれと姉妹たる騎士道が死して顧みられざりし時、ひとりパークはその棺の上にかの周知の感動すべき讃辞を発した。いま彼れバークの国語〔英語〕をもってこの間題についての考察を述べることは、私の愉快とするところである。

   *エドマンド・バーク( Edmund Burke、1729年-1797年)は、アイルランド生まれのイギリスの政治思想家、哲学者、政治家。「保守思想の父」として知られる。フランス革命を全否定して、対仏戦争を主導した。論文の『崇高と美の観念の起源』は、英国で最初に美学を体系化したものとして有名である。  

第1章 武士道とはなにか。生きるための道である
 武士道は、戦う貴人が職業だけでなく日常生活においても守るべき道で、西洋の「騎士道の規律」でいう「ノーブレス・オブリージュ Noblesse oblige」(身分高い者に伴う義務)である。それはむしろ不言不文の語られざる掟、書かれざる掟であったというべきだろう。それだけに武士道は、いっそうサムライの心の肉襞に刻み込まれ、強力な行動規範としての拘束力を持ったのである。

第2章 武士道の源はどこにあるか(sources)
 武士道は仏教・神道・儒教から大きな影響を受けているが、源は孔孟の教えであり、知識を行動と一致させよという王陽明の「知行合一」の実践であった。

仏教は武士道に運命を穏やかに受入れ、運命に静かに従う心を与えた。具体的には、危険な状況などにおいても常に平静を保ち、生に執着せず死を受け入れることである。

神道からは他の宗教では教わらないような、主君に対する忠義、祖先に対する尊敬、親に対する孝心などの考え方は神道の影響で、武士道へ忠誠心と愛国心を教えた。

儒教は、古代中国に起こった孔子の思想に基づく教だが、武士道に最も大きな影響を与えたものだ。しかし教えを知識として知っているだけでは「論語読みの論語知らず」という諺のように冷笑され、真に重んずるべきは「行動」であるとされた。

そこで孔子や孔子の教えを受け継いだ孟子にも増して影響を与えたのが「知行合一」を説いた王陽明だった。武士道には義・勇・仁・礼・誠・名誉・忠義という7つの徳が挙げられている。徳とは人間の優れた精神性のことで、このように言葉をひとつずつ当てているのは「仁・義・礼・知・心」の「五常」を説く儒教の影響である。

第3章 義(rectitude)あるいは正義(justice)
 義は、人の道であり、サムライの規範の中で最も厳格な教えである。裏取引や不正な行為ほど嫌われるものはなかった。林子平は、これを「決断する力」と定義して、「義は自分の身の処し方を道理に従ってためらわずに決断する力である。死すべきときには死に、討つべきときには討つことである」と語っている。

第4章 勇、すなわち勇敢で我慢強い精神
 義を見てせざるは勇なきなりと言う通り、勇気は、義のために行われるものでなければ、徳として数えられる価値はないと見なされた。勇気とは、正しいことを行うことである。

第5章 仁(benevolence)とは、惻隠の情(the feeling of distress)
  愛、寛容、他者への愛情、同情、哀れみは、常に至高の徳として認められてきた。「仁」が王者の徳とされるのは何故か。仁は、優しい母のような徳である。孟子は「惻隠(そくいん)の情は仁のルーツである」と言った。か弱き者、敗れたる者、虐げられた者への仁の愛情は、とくにサムライに似つかわしいものと称揚された。「武士の情け」とは力ある者の慈悲である。

第6章 礼
 礼の最高の形は「愛」である。礼のルーツは、他人の気持ちを尊重することから生まれる謙虚さや丁寧さである。礼は、他を思いやる心が外へ表れたものでなければならない。泣く人とともに泣き、喜ぶ人とともに喜ぶ。

第7章 誠
 「誠」がなければ、礼は茶番か芝居である。嘘は心の弱さからくる。武士の約束に証文はいらない。証文を書くことは面子を汚すことであった。なぜ武士は銭勘定を嫌ったか。

第8章 名誉
 名誉は命以上に大切な価値である。この世における最高の善として尊ばれた。若者が追求しなければならない目標は、富や知識ではなく名誉だった。それほど言葉に重みがあるため、武士の約束は通常証文なしに決められた。
 名誉は、人間の尊厳であり武士は幼時の頃から教え込まれた。しかしこの名誉は「笑われるぞ」「名を汚すなよ」「恥ずかしくないのか」などの言葉により逆に「恥」の感覚こそ、純粋な徳の土壌である。そのために一命を捨てる覚悟を持つに至る。

第9章 忠義
 武士は何のために生きるのか。自分の命は主君に仕えるための手段と考え、それを遂行する名誉が理想の姿だった。個人よりも公を重んじ、時にはわが子の犠牲をも厭わない。日本人の「忠義」は独特のものである。新渡戸は言う。「私たち日本人が抱く忠義の観念は、他の国ではほとんどその賛成者を得られないだろう。それは私たちの観念が間違っているからではなく、いまや他の国では忠義が忘れ去られていたり、他のいかなる国も到達できなかった高みにまで日本人が発達させたからである。」

第10章 武士はどのようい教育されたのか
 最も重視されたのは「品格」である。故に最もに重視されたのは、品性の形成(to build up character)であった。「武士は食わねど高楊枝」という言葉がある。このように「富は知恵を妨げる」が武士の信条であった。

第11章 克己心(Self-control)
 大人物は喜怒哀楽を色に表さない。武士道では、一方において不平不満を言わずに耐える不屈の精神を訓練し、他方においては、自分の悲しみや苦痛を外面に表すことで他人の楽しみや平穏を損なわないように、という礼儀正しさを教えた。外国人が理解できない「日本人の微笑」の裏に隠されたものは、あらゆる場面で心を平静に保とうとする日本人の表情の表れである。

第12章 「切腹」と「仇討ち」の制度
 命をかけた義の実践であった。魂は腹に宿るという思想から生まれた。切腹は単なる自殺の一手段ではなく、法制度としての一つの儀式だった。 切腹はどのように行われたのか、それは武士が生と死の決断を見せる場面であり、切腹に必要なのは極限までの平静さだった。    仇討ちは、正義の平衡感覚である。赤穂四十七士の物語に見られるように、当時唯一の最高法廷であった。

第13章 刀、武士の魂
 日本の刀剣に吹き込まれているのは霊魂である。義と武勇の象徴として刀があった。したがって武士道ではは適切な刀の使い方が求められていた。誤った使用には厳しい非難を向け、嫌悪したものである。 武士道の究極の理想は平和である。

第14章 女性の教育と地位
 女性が夫や家庭、ファミリーのために自らを犠牲にするのは、男性が主君と国のために身を捨てることと同様、自分の意志に基づくものであって、それは名誉あることとされた。家庭的かつ勇敢であることを求められた。懐剣を手挟んでいたのは純潔を守るためであり、みずからを献身する生涯が理想の女性像であった。


新渡戸墓
郷里の盛岡にある新渡戸稲造の像」
第15章 武士道はいかにして「大和魂」となったか
 俗謡に「花は桜木、人は武士」と歌われ、桜と武士道は「大和魂」の象徴である。日本の民族精神(フォルクガイスト)を象徴している。

第16章 武士道は生き続けるか
 維新の元勲たちのサムライ精神を見よ。武士道が営々と築き上げた活力が表れている。武士道はこのまま廃れるのだろうか。芳しくない兆候が漂いはじめているが、「小柄なジャップ」の持つ忍耐力、不屈の精神、つまり武士道が持つ無言の感化力は生き続けるであろう。

第17章 武士道が日本人に遺したもの
 武士道は独立した倫理的な掟としては消え去るかも知れない。しかしその光と栄光は、廃墟を越えて生き延びるだろう。日本人の表皮を剥げばサムライが現れるのである。日本人の精神的基軸として「武士道」に代わるものがあるとは思えない。


内村鑑三『代表的日本人』

この本には5人の評伝が収められている。西郷隆盛、上杉鷹山(ようざん)、二宮尊徳、中江藤樹(とうじゅ)、日蓮。なぜこの5人を取り上げるのか、そしてどんな人物として描いているか−というところに、著者の内村鑑三が「日本」と「日本人」をどう見ていたかが表われている。


内村鑑三
内村鑑三
内村鑑三(うちむら・かんぞう)  万延2年(1861年)、高崎藩士・内村宜之の長男として江戸小石川の武士長屋に生まれる。三度自己を鑑みるという意味で父が「鑑三」と名付けた。5歳の時に父が意見の不一致から高崎での謹慎を命じられ、家族で高崎に移った。幼少期より、父から儒学を学ぶ。
高崎で英学校に入り、英語に勤しむようになった。明治6年(1873年)に単身上京、有馬学校英語科に入学、1年学んだ後、東京英語学校に編入したが病気のため1年休学した。一年遅れたことにより、新渡戸稲造、宮部金吾と同級になる。この三人は終生にわたって親交を結ぶことになった。


花の2期生
札幌農学校の3賢人と言われた(左から)
新渡戸稲造、宮部金吾(北大植物園園長)、
内村鑑三の3人。明治14年、卒業目前。
明治10年(1877年)4月に東京英語学校は東京大学予備門と改称されて、そのまま東京大学への進学が認められることになったが、前年に創立された札幌農学校の官費生の特典と、経済上の理由もあり、3人そろって札幌農学校への入学を決意する。

内村ら第二期生が入学する前までに、農学校に教頭として在校していたウィリアム・スミス・クラークらの感化力によって第一期生はキリスト教に改宗していた。初めはキリスト教への改宗に反抗していた内村も、新渡戸稲造と宮部金吾が署名したことがきっかけで、「イエスを信ずる者の契約」文書に署名、ヨナタンというクリスチャンネームを自ら付けた。

内村は水産学を専攻し明治14年(1881年)7月、札幌農学校を農学士として首席で卒業し。卒業の際、新渡戸、宮部、内村の3人は札幌の公園で将来を二つのJのために捧げることを誓い合った。卒業後、宮部は札幌農学校で教鞭を取るために東京大学に行き、新渡戸も農学校で教鞭を取ることになったが、内村は北海道開拓使民事局勧業課に勤め、水産を担当した。

勤務の傍ら、札幌基督教会(札幌独立キリスト教会)を創立する。明治15年(1882年)に開拓使が廃止され、札幌県御用係になり、漁業調査と水産学の研究を行った。ほどなく伝道者になるために県に辞職願を提出した。翌年、教会で知り合った浅田タケと、両親の反対を押し切って結婚したものの、半年後には破局して離婚した。原因はタケの異性関係の疑惑とも言われている。

明治17年(1884年)に私費でアメリカに渡ったが、サンフランシスコで拝金主義、人種差別のキリスト教国の現実に滅する。ペンシルベニア州フィラデルフィア郊外にある知的障害児養護学校で看護人として勤務した。この頃、日本にいた浅田タケが女児ノブを出産、タケはそのことで手紙で復縁を迫った。タケに洗礼を授けた新島襄も内村を説得したがきっぱりと断った。

内村はペンシルベニア大学で医学と生物学を学び医者になる道を考えていた。米国滞在中の新島襄の勧めもあり、9月に新島の母校でもあるマサチューセッツ州アマースト大学に選科生として3年に編入し、新島の恩師の下で伝道者になる道を選んだ。

在学中、アマースト大学の総長であり牧師でもあるシーリーによる感化を受け、宗教的回心を経験した。1887年(明治20年)に同大学を卒業し、Bachelor of Science(理学士)の学位を受ける。続けてシーリーの勧めで、コネチカット州のハートフォード神学校に入学するが、神学教育に失望し、退学。神学の学位は得ないまま、5月に帰国した。

帰国して新潟県の北越学館へ赴任するも、宣教師たちと運営方針で対立しわずか4か月で辞職した。東京に戻り一番町教会(現、日本基督教団富士見町教会)で説教したり、東洋英和学校、明治女学校、水産伝習所などで教鞭を執る。東洋英和学校では山路愛山が内村の「万国史」の教えを受けた。

明治22年(1889年)7月旧高崎藩士の娘・かずと結婚。 一番町教会の長老の推薦で、第一高等中学校(現・東京大学教養学部、千葉大学医学部、薬学部の嘱託教員となった。 その一高で明治24年(1891年)1月9日、講堂で挙行された教育勅語奉読式において、不敬事件を起こし問題になる。当時、教員と生徒は教育勅語の前に進み出て、明治天皇の親筆の署名に対して、「奉拝」することが求められた。内村は舎監という教頭に次ぐ地位で三番目だったが、最敬礼をせずに降壇したため同僚・生徒などによって非難され社会問題化する。敬礼を行なわなかったのではなく、最敬礼をしなかっただけなのだが、それが不敬事件とされた。

事態の悪化に驚いた校長は、敬礼は信仰とは別の問題であると述べて内村に敬礼を依頼、内村もそれに同意した。この時、悪性の流感にかかって意識不明の状態だったが、本人不在の間に、内村の名前で弁明書が数紙に掲載されたり、辞職願いが出されて、2月3日付けで依願解嘱された。いわゆる「内村鑑三不敬事件」である。

妻かずは、夫に代わって抗議者を引き受けていたが、これまた流感で倒れ、2か月の病臥の後に死去した。 不敬事件と伴侶の死で憔悴しきった内村は札幌に行き、新渡戸稲造と宮部金吾の許で1か月過ごした後、帰京した。不敬事件で教員の道を閉ざされた内村は伝道者の道を歩み始める。高等英学校(現:桃山学院高等学校)、熊本英学校、名古屋英和学校(現:名古屋高等学校)で教壇に立ち、一時期は京都にも住んだ。

夫婦
内村鑑三と静子夫人。伴侶に恵まれず離婚、死別を繰り返した。
明治25年(1892年)のクリスマスに京都の旧岡崎藩士で判事の岡田透の娘・静子と結婚した。この頃、帝国大学文科大学教授の井上哲次郎によって「不敬事件」の論争が再燃した。内村は井上の記す「不敬事件」に事実誤認を指摘して反論したが、国家主義的な時流により、世論は井上に味方した。この流浪・窮乏の時期に内村は、『基督信徒の慰』、『求安録』、『余は如何にして基督信徒となりし乎』( How I Became a Christian) を初め、多くの著作・論説を発表している。

不遇だった京都時代を助けたのは徳富蘇峰だった。蘇峰のおかげで、『国民之友』に文を発表し生活を支え、文名を上げることができた。『国民之友』の編集の国木田独歩も、内村に感銘を受けた一人である。

明治30年(1897年)に黒岩涙香が名古屋にいる内村を訪ねて朝報社への入社を懇請した。ためらいつつも入社。『萬朝報』英文欄主筆となったが1年で退社した。そして、同年6月、『東京独立雑誌』を創刊したり、 日本で最初の聖書雑誌である『聖書之研究』を創刊した。この時期から自宅て聖書の講義を始め、志賀直哉や小山内薫らが聴講に訪れている。

足尾銅山鉱毒問題の運動の中心人物田中正造とも知り合った。明治34年(1901年)4月招かれて、足尾を訪れ鉱毒の被害を激しさを知って驚いた内村は、帰京すると『万朝報』に『鉱毒地遊記』を書いた。その中で、鉱毒問題の原因を経営者・古河市兵衛の起こした人災であると言った。

その後、鉱毒調査有志会が結成され内村が調査員に選ばれ、有志会の調査が、内村を主査、田中正造が案内役として始まった。そして、11月に調査会の弟一回報告が出された。 12月10日には田中正造の明治天皇直訴事件が起こった。

日清戦争は支持していた内村だったが、その戦争が内外にもたらした影響を痛感して平和主義に傾き、日露戦争開戦前にはキリスト者の立場から非戦論を主張するようになっった。

1904年11月に精神障害を患っていた母親が死去する。すると、弟の達三郎が、母親を死に至らしめたのは内村であると責め始め、母親の葬儀では内村に妨害と侮辱を加えた。この騒動をきっかけに、内村は自身の肉親よりもキリスト者との交流を求めるようになる。

内村は年を経るごとに、社会主義を明確に批判していくようになり、「社会主義は愛の精神ではない。これは一階級が他の階級に抱く敵愾の精神である。社会主義に由って国と国とは戦はざるに至るべけれども、階級と階級との間の争闘は絶えない。社会主義に由って戦争はその区域を変へるまでである」と主張した。 社会主義批判の姿勢は、矢内原忠雄ら内村の後継者の一部にも引き継がれることとなった。

明治44年(1911年)の春頃より、女学校を卒業した娘のルツ子が原因不明の病のために病床に就く。内村夫妻の不眠不休の看病にもかかわらず、翌年1月、ルツ子は18歳で夭折した。 娘の病死で内村の再臨信仰が深まっていく。

石の教会
軽井沢にある「石の教会」
内村鑑三が唱えたものに「無教会思想」がある。カトリック、プロテスタント問わず既存のキリスト教に絶望し、「心から祈ることが出来る場所すべてが教会である」という思想である。
それを具現化したものに長野県軽井沢町星野にある「石の教会」がある。石のアーチがいくつも重なり合い、建築史に残る希少なデザインで知られ、今では結婚式場として人気がある。この建物の地下に内村鑑三の資料展示室があり、直筆の書や写真が展示されている。

大正12年(1923年)7月7日に、自分の後継者と期待していた元弟子の有島武郎が、人妻の波多野秋子と心中した。これを聞いた内村は『萬朝報』に「背教者としての有島武郎氏」という文章を載せ、激しい怒りを表明した。

墓
多磨霊園にある内村鑑三の墓。近くには親友の新渡戸稲造の墓も。
昭和3年(1928年)6月2日の受洗50周年記念に同期生の新渡戸稲造、一期生の大島正健らと一緒に青山墓地の(*)ハリスの墓参りをした。同年7月から9月にかけて、北海道帝国大学の教授として札幌に赴任していた息子、祐之一家と共に札幌伝道を行った。この頃から内村は体調を崩し始めた。
  *メルマン・コルバート・ハリス(1846−1921) アメリカ・メソジスト監督教会宣教師で、明治期の日本人クリスチャンに大きな影響を与えた人物。内村鑑三、新渡戸稲造等に洗礼を授けた。

昭和5年(1930年)1月20日に、柏木の聖書講堂で「パウロの武士道」について述べたのが公の場に出た最後。3月26日の内村の古希感謝祝賀会には本人は出席できず、長男祐之が挨拶した。翌々日、3月28日朝に「非常に調和がとれて居るがこれでよいのか」との言葉を最後に昏睡状態に陥り、午前8時51分に家族に見守られて死去した。
[内村が苦境の時代に書かれた「代表的日本人」]

 『代表的日本人』を執筆時の内村は、上述したように、教育勅語に最敬礼しなかったという、いわゆる不敬事件(明治24年)で教職を失い、困窮生活の中にあった。「国賊」扱いされる弾圧的な苦境のなかで、「日本人の美徳」を描き出した。

 日清戦争中の明治27年に『日本及び日本人』として刊行された本を、41年に改訂再版するとき、内村は題名を変えた。無私の精神を貫き、世の中に尽くした希有な偉人を「代表的」と呼んだことに、願いがこめられているようでもある。 内村の代表作の一つとして版を重ね、読み継がれている。ドイツ語版なども刊行された。

当時の日本は、鎖国を解いてからわずか50年ほどで日清・日露戦争を勝ち抜き、世界から注目を集めていた。しかし、まだまだ偏見が根強く「盲目的な忠誠心」「極端な愛国心」が特徴の民族との一面的な捉え方がされており、内村は、真の日本人の精神性を海外に伝える必要性を痛感していた。そこで、欧米人にもわかりやすいよう、聖書の言葉を引用したり、西洋の歴史上の人物を引き合いに出したりしながら、日本人の精神のありようを5人の日本人を通してまざまざと描き出した。

この著書は単なる海外向けの日本人論ではない。取り上げた日本人たちの生き方の中に「人間を超えた超越的なものへのまなざし」「人生のゆるぎない座標軸の源」を見出し、日本に、キリスト教文明に勝るとも劣らない深い精神性が存在することを証だてた。さらには、西洋文明の根底的な批判や、それを安易に取り入れて本来のよさを失いつつある近代日本への警告も各所に込められています。この本は、単なる人物伝ではなく、哲学、文明論のようなスケールの大きな洞察がなされた著作でもある。

鑑三の言葉
内村鑑三の墓に刻まれた英文の言葉。
「私は日本の為に、日本は世界の為に、世界はキリストの為に、そしてすべては神の為にある」
「代表的日本人」は各国語に翻訳されて欧米の知識人に読まれたが、そのドイツ語版のあとがきに内村自身がこんなことを書いている。

 「私は、宗教とは何かをキリスト教の宣教師より学んだのではありません。その前には日蓮、法然、蓮如など、敬虔にして尊敬すべき人々が、私の先祖と私とに、宗教の神髄を教えてくれたのであります。
 何人もの藤樹が私どもの教師であり、何人もの鷹山が私どもの封建領主であり、何人もの尊徳が私どもの農業指導者であり、また、何人もの西郷が私どもの政治家でありました。その人々により、召されてナザレの神の人にひれふす前の私が、形づくられていたのであります。


「文章は思ったままを、書けばいい。」…内村鑑三の「伝説の文章論」

「内村鑑三が明治27年(1894年)に行なった「伝説の講義」をまとめた『後世への最大遺物』の中で彼は「本当に良い文章とは何か」について語っている。

◇ ◇ ◇

今ここに丹羽先生(丹羽清次郎、東京キリスト教青年会主事)はいないので、悪口を言います(笑)。みなさん、言いつけないで下さい(笑)。
先日、丹羽先生が青年会で『基督教青年』という雑誌を発行し、私にも送ってくれました。その後、東京で丹羽先生に会ったとき、「どうですか」と感想を聞かれたので、本当のことを言いました。
「失礼ですが、いただいた雑誌はトイレットペーパーとして使っています」
丹羽先生はもちろん激怒しました。私は理由を言いました。

「それは、この雑誌がつまらないからです。優れた論文が載っていないからではありません。若者が若者らしくないことを書くからつまらないのです。学者の真似をして、いろいろな本から切り貼りして、くだらない議論を書くから、読む気がしなくなるのです。もし若者が素直に自分の気持ちを書いてくれたら、私はこの雑誌をハードカバーに装丁して、私の蔵書の中で、もっとも価値のある本として大切にします」
と言いました。

それからその雑誌はかなり改善されました。私のような読者や社会は、優れた評論を読みたいのではなく、老若男女がそれぞれ本当に思っていることを知りたいのです。それが文学です。
思ったままを文章で表してみて下さい。そうすれば、文章が多少ぎこちなくても世の中の人は読んでくれます。それが私たちの遺すべきものです。もし何も後世に遺すものがなければ、思うままを書けばいいのです。

私の家に、高知出身の家政婦がいて、家事をして、母親のように私の面倒を見てくれます。そしてとても面白い女性です。彼女は手紙を書く時、思ったままを、とても荒々しく書くのです。自分のふるさとの言葉である土佐弁を使って、ひらがなで長々と書きます。読むのに苦労しますが、読んでいると私はいつもうれしくなるのです。

彼女はキリスト教の信者ではありませんが、こんな信心深い一面があります。毎月三日月の頃に、「小銭を6厘下さい」と言うので、何に使うのかと聞くと、「いいから下さい」と理由を言わず、小銭を渡すと、豆腐を買ってきてお月さまにお供えをしたのです。「旦那様のために三日月様にお祈りをしないと悪いことが起こる」と言うのです。
それ以来私は感謝の気持ちをこめて、毎月6厘を渡します(笑)。七夕の日も、いつも私のために、七夕様に団子や梨や柿をお供えします。私を大事に思ってくれて、月や七夕の星にお供えをしてくれるのはとてもありがたいことだと思っています。

そんなやさしいところのある彼女の手紙は、学者の文章が載っている『六合雑誌』(明治・大正期のキリスト教系の思想雑誌)よりすばらしい文章です。他人の心に訴える、本当の文学です。文学とは何でもない、私たちの心に訴えるものなのです。

文学がそういうものなら(そうあるべきなのですが)、私たちは文学者になろうと思えばなれます。文学者になれないのは、書いたことがないからでも、漢文が書けないからでもありません。心に思想がわいてきたそのままをバンヤン(イギリスの宗教文学者)のように書き出すことができるなら、それが最高の文学です。
カーライル(イギリスの歴史家)の言ったとおり「深く突き詰めると、その深いところには必ず音楽がある」というような文章です。

私の経験からも、文天祥(中国、南宋末の宰相)や白楽天(白居易。中国、中唐の詩人)が書いた文章を表面的に分析して、それをまねようとして書いた文章より、誤字脱字があったとしても、自分の思ったままを書いたほうが、自分で読んでも、他人が読んでもいい文章になるようです。それが文学の秘訣です。
こういう文学なら誰でも遺すことができます。事業を遺せなくても、神様が言葉や文学を与えて下さったので、考えを後世に遺せるというのはすばらしいことではないでしょうか。

しかし、そこでまた問題が出てきます。
財産を築けず、事業もできず、そんな人がみんな文学者になったら、出版社や製紙業者がもうかるだけで、社会の役には立たないのではないでしょうか。さらには、文学者になれず、バンヤンのように書くことができないなら、後世に何を遺せばいいのでしょう。
そのことを考えてみて思ったのは、文学者になるのは簡単ですが、誰でもなれると思うのは間違いではないかということです。大学に入って単位をとって卒業し、米国に留学しさえすれば、大学教師になれると思うのと同じです。

お世話になったアマースト大学の教頭のシーリー先生(ジュリアス・シーリー。アマースト大学の哲学教授。内村鑑三の恩師)が、
「この学校は給料さえ出せば、いくらでも学者を雇うことができる。地質学、動物学の研究者、学者は世間にたくさんいる。文学者も多い。しかし、それを教えられる人は少ない。うちの大学には3、40人の教授がいて、みんなとても貴重な存在だ。なぜなら、学問を学んだだけでなく、それを人に教えられるからだ」
と言ったことをとてもよく覚えています。

学校さえ卒業すれば、教師になれると考えてはいけません。教師には特別の才能が必要です。よい先生は必ずしも立派な学者ではありません。ここにいる同級生の大島(正健、同じ札幌農学校1期生)君も知っているように、私たちが札幌農学校で学んでいた時、クラーク先生(ウィリアム・スミス・クラーク)という人がいて、植物学を教えてくれました。

当時はほかに植物学者がいなかったので、先生の言うことは間違いないと思っていたのですが、米国に行くと、クラーク先生の化けの皮がはがれました。他国のある学者が「クラークが植物学の講義をするとはお笑いだ」と言っていたのです。

けれどもクラーク先生にはすばらしい影響力がありました。若者に植物学の魅力を伝えて、若者が自分から、どんどん植物学に興味を持つように導くことができる人だったのです。植物学教師としては貴重な存在でした。

学問をすれば教師になれると思ってはいけません。教師になる人は学問ができるより(学問もできるに越したことはないですが)若者に教えられる人でなければなりません。教えるというのはひとつの技術です。これは言い換えれば、文学者や教師になりたいと思っても、結局、誰にでもできるものではないということなのです。

お金も事業も遺せない人が文学者や教師になって思想を遺せるかというと、そうではありませんが、文学や教育は事業やお金もうけよりは簡単です。なぜならひとりでできるからです。とくに文学は独立してできる事業です。
ミッション・スクールでも、大学でも自由に自分が信じている思想を教えるわけにはいきません。教育は独立事業にはなりにくいのです。
けれども文学は世間から指図されず、自由にできます。多くの独立を目指す人が、政界をやめ、宗教界に来て、宗教界をやめ、教育界に来て、教育界をやめて文学界に来るのはそのためです。
多くの偉大な人が今までにも文学に逃げ込んで来ました。文学は独立の思想を維持するのに、もっとも便利な隠れ場所なのかもしれません。しかし、誰にでもできることではありません。

西郷隆盛 

内村鑑三が、筆頭に紹介している西郷隆盛から話を始めたい。

西郷像
上野公園にある犬を連れた西郷隆盛像
西郷は城山で自刃した。付き従っていた別府晋介に「晋どん、もうここらでよか」というと、明治天皇がいる東方に手を合わせた。晋助は「ごめんやったもんせー(お許しください)と言いながら斬首、自分も切腹した。

西郷がどれだけ人に愛されたか。西郷の自刃を知った官軍のことごとくが喪に服し、涙ながらに彼を惜しんだという一事でもわかろうというものだ。

話がそれるが、サイトの亭主は以上の話を鹿児島県知事や案内してくれた県庁の役人から聞いた。昭和37年夏のことだった。この年北大探検部の企画として、北海道。納沙布岬から鹿児島・佐多岬まで2000余キロをスクーター5台で1ヶ月かけて日本縦断旅行をした。最後の地で北海道知事から鹿児島県知事宛のメッセージを届けるという仕事があって県庁を訪れたのである。

県知事に見せられたのは知事の執務デスクだった。これは西郷が戦った西南戦争で官軍の鉄砲玉が大木に突き刺さったものを、横切りにしたもので、ガラスの下、テーブルの中ほどまで弾痕が通っていた。知事から隊員6人全員に薩摩焼酎1升ずつもらった。まざまざと今に生きる西郷隆盛を見たのであった。

西郷の言葉で有名なものに「敬天愛人」がある。

「天を相手にせよ。人を相手にするな。全て天のために為せ。人を咎めず、ただ自分の誠の不足を省みよ」

「天はあらゆる人を同一に愛する。ゆえに我々も自分を愛するように人を愛さなければならない」

内村鑑三は取り上げた5人を明治から逆に遡って書いているのだが、上述の西郷の思いに深く共感したゆえにまず最初に取り上げたのだろう。

西郷 隆盛(さいごう たかもり) 文政10年12月7日〈1828年1月23日〉 - 明治10年〈1877年〉9月24日)

西郷像
エドアルド・キヨッソーネ作の版画
(西郷の親戚を参考に想像で描写)

薩摩藩の下級武士であったが、藩主の島津斉彬の目にとまり抜擢され、当代一の開明派大名であった斉彬の身近にあって、強い影響を受けた。斉彬の急死で失脚し、奄美大島に流されたり、沖永良部島への流罪に遭う。しかし、家老・小松帯刀や大久保利通の後押しで復帰し、元治元年(1864年)の禁門の変以降に活躍し、薩長同盟の成立や王政復古に成功し、戊辰戦争を巧みに主導した。江戸総攻撃を前に勝海舟らとの降伏交渉に当たり、幕府側の降伏条件を受け入れて、総攻撃を中止した(江戸無血開城)。

その後、薩摩へ帰郷したが、明治4年(1871年)に参議として新政府に復職。陸軍大将・近衛都督を兼務した。明治6年(1873年)、大久保、木戸ら岩倉使節団の外遊中に発生した朝鮮との国交回復問題で大久保らと対立、この結果の政変で江藤新平、板垣退助らとともに下野、再び鹿児島に戻り、私学校で教育に専念する。佐賀の乱、神風連の乱、秋月の乱、萩の乱など士族の反乱が続く中で、明治10年(1877年)に私学校生徒の暴動から起こった西南戦争の指導者となるが、敗れて城山で自刃した。

死後十数年を経て名誉を回復され、位階は贈正三位。功により、継嗣の寅太郎が侯爵となる。 大久保利通ら維新の立役者の写真が多数残っている中、西郷は自分の写真は無いと明治天皇に明言している。現在のところ西郷の写真は確認されていない。

◇ ◇ ◇

西郷は、徹底して「待つ人」だった。ひとの家を訪問しても中へ声をかけようとはせず、その入り口に立ったままで、だれかが偶然出て来て、自分を見つけてくれるまで待っていたという。 真に必要に迫られなければ自ら動かない。しかし一度内心からの促しを感じたなら、躊躇することなく決断し動く、それが西郷の真骨頂で、上で述べたように「天を重んじる」人だった。

天がいつも見ていると考えれば、人が見ていない時でも、「命よりも大義を大切に」生きようとする。西南戦争でも、負けるとわかっていても、大義に生きたのである。

西郷のこうした考え方は陽明学から来ている。陽明学は朱子学と並べて説明される。朱子学では、格物致知、先知後行、身分秩序、といったことが重要視される。格物致知は「物に格(いた)る知」の学問、つまり「物の真相を知る」である。先知後行とは読んで字のごとく「先に知って後で行う」ことが良いとされる考え方だ。知ることに重きを置いている。「身分秩序」について。朱子学は形式的な「礼」を重んじて主君に従うことを重視した。

陽明学では致良知、心即理、知行合一といったことが重要視される。先知後行と知行合一は相容れない考え方である。知行合一とは「知ることと行うことは同じであって、分けて考えるものではない」ということだ。陽明学を考えた王陽明の著書「伝習録」にはこんな言葉がある。「知は行の始めなり。行は知の成るなり。」つまり「知ったとしても行動しなければ、それは知ったということにならない」ということを言っている。陽明学を重んじた人は西郷隆盛の他に、大塩平八郎や吉田松陰がいる。

西郷の書
西郷隆盛の書はおおらかな人柄が出ていて
今なお人気が高い。これは「敬天愛人」
こうした哲学から生まれた西郷の言葉には以下のようなものがある。

「道は天地自然の物にして、人は之を行ふものなれば、天を敬するを目的とす。天は人も我も同一に愛し給ふ故、我を愛する心を以て人を愛するなり」

「人を相手にせず、天を相手にして、おのれを尽くして人を咎めず、我が誠の足らざるを尋ぬべし」

「急速は事を破り、寧耐は事を成す」寧耐(ねいたい)」とは、字が表すように『落ち着いて、耐え忍ぶ』という意味である。

「己を利するは私、民を利するは公、公なる者は栄えて、私なる者は亡ぶ」

「人は、己に克つを以って成り、己を愛するを以って敗るる」

「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、始末に困るものなり。この始末に困る人ならでは、艱難をともにして国家の大業は成し得られぬなり」

「人間がその知恵を働かせるということは、国家や社会のためである。だがそこには人間としての「道」がなければならない。電信を設け、鉄道を敷き、蒸気仕掛けの機械を造る。大事ではあるが、なぜ電信や鉄道がなくてはならないのか、といった必要の根本を見極めておかなければならない。みだりに外国の盛大を羨んで、利害損得を論じ、いちいち外国の真似をして、贅沢の風潮を生じさせ、財産を浪費すれば、国力は疲弊してしまう。それのみならず、人の心も軽薄に流れ、結局は日本そのものが滅んでしまうだろう。」

西郷隆盛.の言葉を続ける。

「人の成功は自分に克つにあり、失敗は自分を愛するにある。八分どおり成功していながら、 残り二分のところで失敗する人が多いのはなぜか。それは成功が見えるとともに自己愛が生じ、つつしみが消え、楽を望み、仕事を厭うから、失敗するのである。」

「正道を歩み、正義のためなら国家と共に倒れる精神がなければ、外国と満足できる交際は期待できない。その強大を恐れ、和平を乞い、みじめにもその意に従うならば、ただちに外国の侮蔑を招く。その結果、友好的な関係は終わりを告げ、最後には外国につかえることになる。」

「徳に励む者には、財は求めなくても生じる。したがって、世の人が損と呼ぶものは損ではなく、得と呼ぶものは得ではない。いにしえの聖人は、民を恵み、与えることを得とみて、民から取ることを損とみた。今は、まるで反対だ。」

上杉鷹山 

ケネディー大統領の言葉から出た「上杉鷹山」

ケネディー
ケネディ-大統領が鷹山を
「最も尊敬する日本人」に挙げた
上杉鷹山(うえすぎ・ようざん)という名前が日本人に知れ渡ったのは、1961年、43歳で第35代米国大統領になったジョン・F・ケネディの就任の時のインタビューからである。日本の新聞記者が「日本で最も尊敬する政治家はだれですか」と質問したのに対し、ケネディは即座に「上杉鷹山です」と答えたのだ。その場にいた記者も、東京のデスクも誰もその名を知らなかったという話もある。

サイトの亭主はそのとき新聞社のデスクをしていた。名前は知っていたものの、ただ米沢藩主ということだけであった。少し脇道にそれる。

終戦間際から終戦直後まで母の実家がある米沢に疎開していた。父は東京にいた。母の実家は米沢の名産、米沢織の機屋(はたや)で食糧難もそれほど味わうことなく、終戦の8月15日には朝から庭の築山に人夫数人で防空壕を掘り始めた。正午の終戦の玉音放送を聞いて大人たちが泣いていたのを不思議に思いながら眺めていた。午後からは堀った穴の埋め戻しだった。

その後も米沢で過ごし、米沢市立西部小学校に入学した。直後、大阪に一家で大阪に移った。父は陸軍士官学校の国漢文科教授だったから、公職追放に遭い東京にはいられなくなって親戚が経営する繊維会社の役員として息子3人を養うことに専念していた。そのまま小中高を大阪で暮らした。

新聞記者になり、やがて東京勤務になってまもなく、米沢にいる叔父が小冊子を抱えて上京してきた。「この本を全国会議員に配りたいから、お前力を貸せ」と言われた。小冊子というのが上杉鷹山公顕彰の一文だった。叔父は上杉神社奉賛会の幹部をしていた。叔父の命令とあって、拒否も出来ず、かと言って記者に命令出来る立場でもなく、国会記者クラブに置いてもらって、自由に持っていってもらうことでその場をしのいだ。

その数年後ケネディが大統領になり、一躍、上杉鷹山の名前が有名になったが、サイトの亭主の知識は叔父が持参した小冊子に書かれた「名君」の域を出るものではなかった。ケネディの話のあと、少し調べて、はたと手を打ったことがある。

鷹山公の優れた治蹟の中で取り上げられることに「鉄砲上覧」の争いを収めたことがある。この中で登場し今も町名として残る「五十騎町」(ごじきまち)に親戚がいる。「ごじゅっき」が「ごじき」になったのだろうが、この旧家には「切腹の間」というのがあった。今では高齢になった戸主や病人が起居するところになっているが、この町名から以下に紹介する鉄砲隊の争いの一件を知ったのである。

【馬廻組と五十騎組の諍い】

 米沢藩では、鉄砲隊が正月に馬場で鉄砲を撃ち藩主が観覧する習わし(鉄砲上覧)があった。鉄砲の技をどちらが先に披露するかで、三手組(米沢藩の中級家臣団で馬廻組、五十騎組、与板組)のうち、謙信の流れをくむ馬廻組と景勝の流れをくむ五十騎組は互いに一歩も引かないため、仕方なく交互に行うように取り決めがあった。

 鷹山が初めて米沢入りした明和6年(1769)の12月末、この争いが再燃した。決めごとからすると五十騎組の番だったが、馬廻組が「藩主が初めて入国するときは、馬廻組が行う慣習で順番は当てはまらない」と言い出した。藩主初入国の際、先に行った例があるため五十騎組も譲れない。。

 同じ家中でもお互いが話をしなくなり、両方の組の藩士は姻戚関係があっても絶縁状態になり、妻を離縁する者まで出る始末。執政たちが調整に乗り出すも収まらうとうとう鷹山に裁断を願い出た。

 19歳の鷹山は 「意地をはって騒動が大きくなり、藩が御取り潰しにでもなったら、2つの組はどこで争うのか」と諭した。まず馬廻組が、そして五十騎組も引き下がる意向を示しました。最終判断を任された鷹山は、祖先より伝えられてきた儀式は、藩士を士気を高めるための大切な行事として、五十騎組が先に披露することで決着させた。

◇ ◇ ◇

上杉鷹山
上杉鷹山
上杉鷹山(1751〜1822) は日向(宮崎県)高鍋藩3万石秋月種美の次男で幼名直丸、のち治憲、鷹山は号。9歳の時、出羽(山形県)米沢15万石の藩主、第8代上杉重定の養嗣子となり、上杉藩江戸屋敷で過ごす。17歳の時家督を継ぎ米沢入りする。その時の藩財政は、万策尽きた前藩主重定が藩主の地位を放棄し、15万石の領土を幕府に返上しようという前代未聞の決断をしたほどの窮状ぶりだった。
それもそのはず、米沢藩は豊臣秀吉から120万石の所領高を与えられていた巨大な藩だったが、関ケ原の戦いのときに徳川家康の敵である石田三成の味方をした反徳川方ということで石高を四分の一の30万石に減らされた。さらに藩主の引継ぎのときに不手際があり、15万石まで減っていた。しかし、抱えている家臣の数などは120万石のときのままで、負債が数百万両レベルまで膨らんでいた。

鷹山は藩主になる日、一生の守護神である春日明神に誓文を捧げた。
(1)文武の修練は定めにしたがい怠りなく励むこと
(2)民の父母となるを第一のつとめとすること
(3)次の言葉を日夜忘れぬこと 「贅沢なければ危険なし」「 贅沢施して浪費するなかれ」
(4)言行の不一致、賞罰の不正、不実と無礼を犯さぬようつとめること

これを今後固く守ることを約束する。もし怠るときは、ただちに神罰を下し、家運を永代にわ たり消失されんことを。

明和 4(1767)年 8 月 1 日

 鷹山は明和4年(1767)、17歳で米沢藩主になった時に、自分の決意を和歌に詠んでいる。「うけつぎて国の司の身となれば 忘れまじきは民の父母」。きょうからは家臣や藩民の父となり母となり、彼らを慈しむ政治を行おう━との覚悟を述べたものだ。

藩主となるや直ちに大倹約令を出す。従来の諸儀式、仏事、祭礼、祝事を取り止めまたは延期。50人の奥女中を9人に減らす。藩主以下全員、食事は一汁一菜、綿服の着用、贈答の廃止━など12カ条に及ぶ倹約令のほか、農村の復興に取り組み、藩士たちにも開墾を奨励したほか、農家の副業を奨励し桑・コウゾ・漆の栽培を指導し、製糸技術の改良、織布技術の輸入を図り、京都や越後の小千谷から職人を招いて、産業技術振興に務めた。

かて物
鷹山が藩内に配布した木版刷り「かて物」
内容
わかりやすいようにひらかな書き、いろは順で書かれている
飢饉対策として「かてもの」(糅物と書き、糧て物、の意で、穀物と混ぜたりあるいはその代用品として食用に用いることができる草木果実)を勧めた。また家臣の莅戸善政(大華)に書かせた同名の「かて物」という木版刷り数千冊を領民に配り飢饉に備えさせた。

この飢饉救済の手引書は、「いろは」順に従って、80種類について、特徴と食料の保存法や備蓄しやすい味噌の製造法、魚や肉の調理法についても解説されている。例えば『いたどり』は「能くゆぎき麦か米かに炊き合はせてかて物」とす。但し妊婦は食ふべからず」。『はたけしちこ』は「(ははこぐさとも云ふ) 茎も葉も灰水にてゆで、米の粉へまじへ餅・団子にして食ふ」などと詳細に食べ方を指導している。他藩で多数の餓死者を出した「天明の飢饉」でも非常食の研究などをすすめ、餓死者ゼロで乗り切った。彼の治世を通して餓死者は一人も出なかった という。

藩主となって16年後の天明5年(1785)借金をゼロにしたうえ、逆に黒字財政に乗せた後、まだ35歳の若さだったが、鷹山は藩主の座を譲り隠居した。文化3年(1806年)、56歳のとき「養蚕手引」を発行するなど活躍して、 文政5年(1822年、72歳で没した。

◇ ◇ ◇

【消えかけた炭火から藩政の立て直しを決意】

上杉所領
上杉家の所領は8分の1にまで
 17歳で藩主の地位に就いてから二年後、19歳の時、鷹山は、はじめて自領の米沢に足を踏み入れた。晩秋のことで、ただでさえうら寂しいときに、通りかかる村々は荒れ果てていた。乗り物のなかで、藩主が火鉢の炭を一生懸命吹いている姿を見た、供の家来が 「よい火をお持ちしましょう」と声を掛けた。 「今はよい。すばらしい教訓を学んでいるところだ」といった。

 「この目で、領民の悲惨を目の当たりにしながら行く時、目の前の小さな炭火が、今にも消えようとしているのに気づいた。そこで辛抱強く息を吹きかけると、やがて、炭火はよみがえった。“同じ方法で、わが治める土地と民とをよみがえらせるのは不可能だろうか”そう思うと希望が湧き上がってきたのである」

【自ら倹約を示す】

若き鷹山は、先頭に立って改革に乗り出したが、藩内の秩序と信用を回復するには自ら極度の倹約を示してみせるしかない。藩主みずから、家計の支出を、それまでの1050両から209両に切り詰めた。奥向きの女中は、それまでの50人を9人に減らし、自分の着物は木綿にかぎり、食事は一汁一菜を超えないようにした。

家来たちも同じく倹約をしなければならなかったが、鷹山自身とは比較にならない程度の倹約だった。毎年の手当ても半分に減らして、それにより実現した貯金は、積もった藩の負債の返済に廻された。

【鷹山の考えをよく表す「伍十組合の令」】

こうして若き藩主は米沢藩の再生に乗り出すが、彼の考え方の基本がもっともよく出ているものとして「伍十組合の令」がある。 少し長いが全文を掲げると━

「伍十組合の令」

農民の天職は、農(農作物を作る)、桑(蚕を育てる)にある。これにいそしみ、父母と妻子を養い、お世話料として税を納める。しかし、これはみな、相互の依存と協力とをまってはじめて可能になる。そのためにはある種の組合が必要である。すでに組合がないわけではないが、十分頼りになるものではないと聞いている。それで新たに次のように伍十組合と五カ村組合を設ける。

一、五人組は、同一家族のように常に親しみ、喜怒哀楽を共にしなければならない。
二、十人組は、親類のように、たがいに行き来して家事に携わらなければならない。
三、同一村の者は、友人のように助け合い、世話をしあわなければならない。
四、五カ村組合の者は、真の隣人同士がたがいに、どんなばあいにも助けあうように、困ったときは助けあわなければならない。
五、たがいに怠らずに親切をつくせ。もしも年老いて子のない者、幼くて親のない者、貧しくて養子のとれない者、配偶者を亡くした者、身体が不自由で自活のできない者、病気で暮らしの成り立たない者、死んだのに埋葬できない者、火事にあい雨露をしのぐことができなくなった者、あるいは他の災難で家族が困っている者、このような頼りない者は、五人組が引き受けて身内として世話をしなければならない。

五人組の力が足りないばあいには、十人組が力を貸し与えなければならない。もしも、それでも足りないばあいには、村で困難を取り除き、暮らしの成り立つようにすべきである。もしも一村が災害で成り立たない危機におちいったならば、隣村は、なんの援助も差し伸べず傍観していてよいはずがない。 五カ村組合の四カ村は、喜んで救済に応じなくてはならない。
六、善を勧め、悪を戒め、倹約を推進し、贅沢をつつしみ、そうして天職を精励させることが、組合を作らせる目的である。
田畑の手入れを怠り、商売を捨てて別の仕事に走る者、歌舞、演劇、酒宴をはじめ、他の遊興にふける者があれば、まず五人組が注意を与え、ついで十人組が注意を与え、それでも手に負えないときは、ひそかに村役人に訴えて、相応の処分を受けさせなければならない。

【上杉鷹山の行政改革】

1.適材適所の人材配置

能力に応じた人の配置を行った。今ならどこの企業でも当たり前だが、封建制の下ではこうした発想は起きない。以下の3つの役に人材を配置した

@郷村頭取、群奉行  (小さい単位での行政を担当する者)
A巡回説教師     (親孝行や婚礼などの一般的な儀礼を教えてまわる者)
B警察        (一番力を入れたことで、領内で徹底的に悪事を取り締まった)。

優しい領主の面ばかりでなく、こうしたことに反対する者には、切腹を申し渡した。

2.産業改革

内容
松岬神社の境内にある上杉鷹山の坐像。
いまなお米沢市民に慕われている
「領内に荒れ地を残さない」ことと「民のなかに怠けものを出さない」ことに注進した。 その一つとして一斉に「漆」(うるし)の木を植えさせた。身分の違いも関係なく植林を勧めるだけでなく、一日当たりの目標を設け、 それ以上漆を植えたものには報奨金を、逆に枯らしてしまい、その代わりのものを植えない場合は報奨金と同額のペナルティを課した。

領内で大きな灌漑工事を行い、米や農作物の生産性の向上をはかった。また、良種の馬を導入し、池や川にはコイやウナギを飼い、他国から鉱夫や織工を呼び、商工業の製造・販売にたちはだかる支障はすべて取り除き、領内にある資源は、あらゆる手をつくして開発につとめ た。

3.興謙館の設立

数年後、諸々の改革が順調に動き出すと、鷹山は、閉鎖されていた藩校を再興し、興譲館と名づけた。 「謙譲の徳を振興する所」の意味で、鷹山が心に重んじていた徳をよく言い表していることから名付けた。

教育のない民を治めるのは手間がかかり効果も上らない。 すべての人々に教育があれば上意下達がすばやく浸透する、という先を見た思考から、教育に特段の重きを置いた。経済と道徳とを分けない考え方は東洋思想の特徴だが、木によく肥料をほどこすならば、確実に結果は実る。 「民を愛する」ならば、富は当然にもたらされる。 ゆえに、「賢者は木を植えて実を得る」、小人は、「実を考えて実を得ない」という言葉を残している。

鷹山の優れたところは、家臣を有 徳な人に育てることに傾注したところで、富を得る目的は、それによって皆「礼節を知る人」になるためという哲学があった。興譲感は米沢藩の藩校だが、領民の子弟も受け入れ、貧民には多額の奨学金を与え、学費免除をした。今も県内有数の神学校、山形県立米沢興譲館高等学校として残っている。

4.病の治療

領内で薬草を育てさせただけでなく、当時は西洋のもの排除する世間の常識とは反対に杉田玄白のもとに医師を派遣し、オランダの最新医学を学ばせた。

5.公娼の撤廃

領内にあった郭を全廃させた。公娼を廃止したら危険だという進言をする者には「そんなことで人の欲情がおさえられるなら、全国公娼だらけになる」といい、完全撤廃した。

◇ ◇ ◇

鷹山の改革は16年?後に実を結ぶ。鷹山の治政を見るため米沢領を訪れた江戸時代中期-後期の儒者・学者、倉成竜渚がこう書き記している。

@米沢には「棒抗の商い」と呼ばれるものがある。人里から離れた道の傍らに、草履、わらじ、 果物や他の品物を値段を貼って並べ、持ち主はだれもいない。人々はそこへ行って正札どお りの金を置き、品物を持ち去る。だれも、この市場で盗難が起こるとは思っていない。

A米沢藩の役所ではきまって重役がいちばん貧乏である。莅戸善政は筆頭家老で、藩主の愛顧と信用を得ている点では誰にも劣らない。だが、その暮らしを見ると、衣食は貧しい学生と変わらない。」 B藩内には税関もなく、自由な交易を防げるものはなにもない。それでいて密輸などはいまだ企 てられたことがない。

【伝国之辞】

内容
上杉神社境内にある鷹山公の立像と「為せば成る」の文字を刻んだ石碑
鷹山は最後に家臣たちにこんな歌を残している。

上杉鷹山は領主になって16年後、藩政を立て直すやまだ35歳だったが、前藩主の実子、治広に藩主の座を譲り、隠居する。そのときに藩主の心得として与えた『伝国之辞(譲封之詞)』が彼の気持をよく表している。

一、 国家は先祖より子孫へ伝候国家にして、我私すべき物には無之候
一、 人民は国家に属し足る人民にして、我私すべき物には無之候
一、 国家人民の為に立たる君にて、君の為に立たる国家人民には無之候

右三条御遺念有間敷候事(三ヶ条を心に留め忘れなきように) 天明五巳年二月七日  治憲 花押

 ここでいう国家とは米沢藩、人民とは領民のこと。「藩と藩民は大名やその家臣が私するべきものではない」と説いている。これは今日でいう「主権在民」の思想だ。

まだジャン・ジャック・ルソーも生まれていないし、フランス革命も起こっていない。米国とて、リンカーンが「人民による、人民のための、人民の政治」と叫んだ有名な演説よりはるか前に書かれたものである。米国大統領ジョン・F・ケネディが尊敬する日本人として挙げたのもうなずける。

「為せば成る、為さねば成らぬ何事も、成らぬは人の為さぬなりけり」

中江藤樹 

内村鑑三が「代表的日本人」の一人に中江藤樹を選んだ理由はどこにあったのか。内村鑑三はいわゆる「不敬事件」で学校を追われた。教育勅語奉読式で最敬礼をおこなわなかったことが、同僚教師や生徒によって非難され、その先頭に立ったのが東大教授であった。敬礼を行なわなかったのではなく、最敬礼をしなかっただけであったが、この事件によって体調を崩し、2月に依願解嘱した。

学問というのはことの真髄に迫るはずのものだが、この一件では揚げ足取りの先走り学者といった趣で、学者というものに愛想尽かしたのではないか。その点、中江藤樹は弟子の徳と人格とを非常に重んじ、学問と知識とをいちじるしく軽んじた人物である。

真の学者とはどういう人か、藤樹によるとこうだ。「学者」とは、徳によって与えられる名であって、学識によるのではない。学識は学才であって、生まれつきその才能をもつ人が、学者になることは困難ではない。しかし、いかに学識に秀でていても、徳を欠くなら学者ではない。学識があるだけではただの人である。無学の人でも徳を具えた人は、ただの人ではない。学識はないが学者である人もいる。

中江藤樹
中江藤樹(財団法人藤樹書院蔵)
中江 藤樹(なかえ とうじゅ) 1608年(慶長13年)4月21日- 1648年(慶安元年)10月11日

近江国(滋賀県)出身の江戸時代初期の陽明学者。近江聖人と称えられた。諱(いみな)は原(はじめ)、字(あざな)は惟命(これなが)、通称は与右衛門、藤樹と号した。

農業を営む中江吉次の長男として誕生。9歳の時に伯耆米子藩主・加藤氏の150石取りの武士である祖父・徳左衛門吉長の養子となり米子に赴く。1617年(元和2年)米子藩主・加藤貞泰が伊予大洲藩(愛媛県)に国替えとなり祖父母とともに移住する。祖父が死去し、家督100石を相続する。

中江藤樹
中江藤樹の墓。後ろにあるのは墓塚で国内でも珍しい。
高島市安曇川町上小川の玉林寺
27歳で母への孝行と健康上の理由により藩に対し辞職願いを提出するが拒絶される。脱藩し京に潜伏の後、近江に戻った。郷里である小川村(現在の滋賀県高島市)で、私塾を開く。1637年伊勢亀山藩士の娘・久と結婚する。藤樹の屋敷に藤の巨木があったことから、門下生から「藤樹先生」と呼ばれるようになり、塾の名も藤樹書院という。やがて朱子学に傾倒するが次第に陽明学の影響を受け、格物致知論を究明するようになる。

妻・久が死去。翌年、近江大溝藩士の娘・布里と再婚する。 その説く所は身分の上下をこえた平等思想に特徴があり、武士だけでなく農民、商人、職人にまで広く浸透し江戸の中期頃から、自然発生的に「近江聖人」と称えられた。その教えは門人の熊沢蕃山に受け継がれ、藤田東湖、西郷隆盛へとわたり、幕末の偉人たちの精神的な支えとなった。代表作である『翁問答』を残した。 1648年(慶安元年)41歳で死去。墓所は滋賀県高島市玉林寺。


中江藤樹が在世した当時の世の中はまだ戦の中にあり、学問や思想を求めることは何の価値もないとされていた時代だった。11歳のころに孔子の『大学』に出会う。

「天子から庶民にいたるまで、人の第一の目的とすべきは生活を正すことにある」。この言葉に感動し「聖人たれ」という大志を抱く。

彼は仏教が好きではなかった。漢詩と書道を習うため、天梁という学識ある僧侶のもとに送られたときのことである。この早熟な少年(13歳)は、先生に対し「仏陀は生まれると、一方の手は天を、他方の手は地を指し、天井天下唯我独尊といったとお聞きしました。こんな高慢な人間が天下にいるでしょうか。先生は、そんな人間を、なぜ理想的な人物として仰いでおられるのでしょうか。教えて下さい」

中江藤樹
中江藤樹の住居跡・講堂跡。住まいが狭くなったために、
彼が没する半年前に、門弟や村人たちが建てた。
現在、国の史跡に指定されている。(滋賀県高島市)
28歳になったときに、それまで口をしのいでいた行商をやめて私塾を開く。私塾では科学や数学というものを教えなかった。 もっぱら教えるのは中国の古典、歴史、作詩、書道だった。

内村鑑三も「学校教育とは、ささやかで目に見えないことである」と書いている。朱子学を学んだ後に王陽明の「知行合一」説に傾倒し、わが国で初めて陽明学を唱えた中江藤樹は生涯、民間にあって身を終わっている。この間、

「父母の恩徳は天よりもたかく、海よりもふかし」
「このたから(真理)は天にありては、天の道となり、地にありては、地の道となり、人にありては、人の道となるものなり」
「天地の間に、己一人生きてあると思ふべし。天を師とし、神明を友とすれば外人に頼る心なし」
「それ人心の病は、満より大なるはなし。」
「苦しみを去って楽しみを求むる道はいかん。答えて曰く、学問なり」
「人はだれでも悪名を嫌い、名声を好む。小善が積もらなければ名はあらわれないが、小人は小善のことを考えない。だが、君子は、日々自分に訪れる小善をゆるがせにしない。大善に出会えば行う。ただ求めようとしないだけである。大善は少なく小善は多い。大善は名声をもたらすが小善は徳をもたらす。世の人は、名を好むために大善を求める。しかしながら名のためになされるならば、いかなる大善も小さくなる。君子は多くの小善から徳をもたらす。実に徳にまさる善事はない。徳はあらゆる大善の源である。」
「徳を持つことを望むなら、毎日善をしなければならない。一善をすると一悪が去る。日々善をなせば、日々悪は去る。昼が長くなれば夜が短くなるように、善をつとめるならばすべての悪は消える。」

といった言葉で弟子を教えた。いつしか近隣から慕い寄るひとが増え、「盗賊を感化し、山で薪をとる者も、田畑を耕す者も、遠村から老若男女が訪れて」その言葉に聞き入り、いつしか「近江聖人」と呼ばれるようになる。

藤樹の全道徳体系の中心には、上述の言葉のように「孝」(子としての義務)があった。それ故に、母の介護をしている時が最も幸福を感じていたとまで述べている。

[「致良知」とは]

中江藤樹 坐像
生誕の地であるJR安曇川駅前にある藤樹像
中江藤樹は「致良知(ちりょうち)ということをとなえた。中国の明代に王守仁(王陽明)がおこした学問である陽明学の実践法の一つで、人間は、生まれたときから心と体(理)は一体であり、心があとから付け加わったものではない。その心が私欲により曇っていなければ、心の本来のあり方が理と合致する。実践に当たって私欲により曇っていない心の本体である良知を推し進めればよいと主張した。

『大学』にある「格物致知」という言葉を、王陽明は「知を致すは物を格(ただ)すに在り」として物を心の理としてそれを正すことによって知を致す、すなわち「良知を致す」ことであると解釈した。「良知」は、もともと孟子の提唱した概念で、「人が生まれながらにもっている、是非・善悪を誤らない正しい知恵」をいう。孟子の性善説の根幹をなす考え。

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中江藤樹は「聖人君子」を体現した人である、という大場一央・早大非常勤講師の一文があります。わかりやすいのでそのまま転載します。
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◇ ◇ ◇

出身地の近江国小川村で私塾を開き、後世「近江聖人」と呼ばれた中江藤樹(1608〜1648)は、日本人が抱く「聖人君子」のイメージを体現した人だといえる。

9歳で祖父の養子となって武士になり、伯耆国(ほうきのくに・現鳥取県)や伊予国(いよのくに・現愛媛県)に移り住む。朱子学に出合ってからはストイックに読書修養に励み、己にも他人にも厳格になる。15歳で祖父を、18歳で父を亡くした藤樹は誰よりも武士らしくあろうと深夜に鎧をまとって山野を駆け回る訓練によって己を追い込み、肉体を鍛えあげた。

独り身となった母を案じ25歳の時、故郷に迎えに行くが、息子の妨げになることを嫌がった母に拒否され、追い返される。母を思う一念を捨てきれなかった藤樹は、神経性の喘息になるまで精神を病んだ。27歳で士分を捨て帰郷。以後、儒者として生きることとなった。

儒者となってからの藤樹は刀を売ってお金に換え、それで買った酒を売って生計を立てた。といっても、酒甕(さかがめ)を門前に並べ、勝手に飲んだ分を料金箱に払うという鷹揚な商売である。また、小川村の人々と気さくにつきあい、利害に囚(とら)われず、たちまち村人に溶け込んで尊崇を集めるようになる。この頃、藤樹は朱子学に加え、陽明学も学ぶようになっていた。

やがて藤樹の家に人々が集まるようになり、身分を問わない私塾「藤樹書院」が開かれた。そこに集まった人々は藤樹の話に耳を傾け、日常生活で儒教を実践するようになった。門人には熊沢蕃山(ばんざん)や淵岡山(ふちこうざん)といった陽明学者もいた。人々は藤樹に感化され、勤勉で温和な村として有名になり、それから二百年後に小川村を訪れた大塩平八郎は、いまだに潔斎の上、紋付をまとって藤樹の墓に参拝する村人を見て驚嘆している。

藤樹の感化をよく示す逸話がある。ある日、客が落とした二百両を見つけた馬子が、来た道を戻って宿にいた客にそれを返した。お金の無事を確認した客はお礼を渡そうした。しかし馬子は結局、二百文だけ受け取って、それを酒代にしてその場にいた人にふるまった。客がどうしてそんなに無欲なのかと聞くと「小川村に中江藤樹先生という方がいるのですが、先生は、親孝行をすること、人の物を盗まず、傷つけず、困っていれば助けるようにという話を、実に上手に話されるので、実践したまでです」と言った。藤樹の説く儒教とは、正しい「生活」そのものであった。

ここで勘違いしてはいけないのは「生活」に密着した儒教が、学術的、哲学的な儒教に劣っているとか、藤樹がレベルを落として教育したという話ではないことである。むしろ学術的、哲学的な儒教こそ、理屈だけでは割り切れない複雑な人生に対応できない空論だと考え、あえて「生活」における表情やふるまい、心がけだけで勝負した所に、藤樹の真骨頂がある。

藤樹は「孝」を儒教の本質だと考えた。「孝」とは、単なる親孝行だけを指すのではない。親が子を愛し育む心は、天地が万物を活(い)かそうとする心と同じ。つまり親だから有難(ありがた)いのではなく、「活かす心」が有難いのだ。だからこそ、自分もそうした心になって、人々を活かそうとつとめることで、「活かす心」に報いる。この心が自分の中にあれば、それは活かす心そのものである天と一体になったということである。

そういう人々が増えれば、全ての人や物がお互いを活かしあい、優しく温かい世の中ができる。そうした生き方をしていることこそが親孝行であり、単純に親にかしずいて服従することを求めてはいない。むしろ子が親に自分を殺してまで服従せねばならない親孝行は「活かす心」に背くので、親が子にそんなことをさせるのは孝に背くのである。

「私の体には孝という最高の徳がある」という標題の言葉は、お互いを活かす人倫社会を造れるのは誰でもなく自分の心であり、自分を活かすも殺すも自分の責任だという宣言である。優しさとは強さであり、自分を取り巻く人倫の善(よ)し悪(あ)しが、そのまま自分という人間の善し悪し、社会の善し悪しを映している。藤樹はそこで勝負したからこそ、馬子の心にストレートに突き刺さり、彼の人生を変えたのである。社会は言論では変わらない。人倫こそが己に与えられた実践場なのである。(2021年10月27日付産経)


二宮尊徳 

内村鑑三の「代表的日本人」では時代を遡りながら、西郷隆盛、上杉鷹山、中江藤樹、二宮尊徳、日蓮上人の5人が取り上げられている。これまで3人についてはサイトの亭主の個人的な体験などをもとに紹介してきたが、二宮尊徳については、原文(英語)に触れながら書いてみたい。

(原文)
REPRESENTATIVE MEN OF JAPAN
KANZO UCHIMURA
     NINOMIYA SONTOKU ─ A PEASANT SAINT
1. JAPANESE AGRICULTURE IN THE BEGINNING OF THE NINETEENTH CENTURY
 “AGRICULTURE is the ground-basis of the national existence;”essentially so in a country like ours, where, despite all its maritime and commercial advantages, the main support of the people comes from its soil.
Natural fertility alone cannot support so immense a population upon so limmited an area,── 48,000,000 upon 150,000 sq. miles, only 20 percent of which are cultivable.
The land must be made to yield its maximum, and human genius and industry must be exerted to the utmost for that end.
We concider Japanese agriculture to be the most remarkable of the kind in the world.
Every clod of earth receives thoughtful manipulation, and to every plantlet that starts from the ground is given a care and attention well nigh bordering upon ental affection.
The science we lacked in we supplied with strenuous industry, and as a result we have 13,000,000 acres of cultivated surface, kept with all the nicety and perfection of market-gardens.
Such a high degree of cultivation is possible only by more than ordinary industry on the people's part.
A little negligence sure to call in desolation of the most unattractive character.
We know of nothing so disheartening as a once cultivated field abandoned by human labor.
Without the vigor and luxuriance of the primitive forest, the desolation of the deserted field is that of black despair.
For ten men who would dare to break up the virgin soil, not one will apply himself to recover the abandoned land.
While the Americans invite the thrifty nations of the world, Babylon remains as a habitation of owls and scorpions.
In the beginning of the nineteenth century, Japanese Agriculture was in a most lamentable state.
The long- continued peace of two-hundred years brought in luxuries and dissipation among men of all classes, and indolence thus introduced had immediate effects upon the cultivated fields.
In many places, the revenue from land decreased by two-thirds.
Thistles and bushes invaded the once productive fields, and what little was left in cultivation had to bear all the feudal dues levied from the land.
Villages after villages wore an aspect of utter desolation.
Honest labor becoming too onerous, men betook themselves to dishonest ways.
From the kind earth they ceased to look for her ever bounteous gifts, and by eating and defrauding one another they sought to acquire what little they needed to sustain their ill- doomed existence.
The whole cause of their evils was moral, and Nature refusing to reward her ignoble sons, brought about all the miseries that befell the land.
Then was born a man whose spirit was in league with Nature's laws.
(邦訳)

1 今世紀初頭の日本農業


「農業は国家存立の大本である」とは、まさにわが国のことです。 海運や商業上の利便に恵まれているとはいえ、人々の生活は主として土に頼っているからです。ただ自然の産出力によるだけでは、15万平方マイル(1マイルは約1609.344メートル)のうち、わずか2割しか耕作できるところのない限られた国土で、4,800万人もの巨大な人口を養っていくことはできません。 土地は最大限の生産が可能なように利用されなければならず、そのためには、人間の才能と勤勉とを、精一杯用いる必要があります。

日本の農業は、世界で最も注目すべき農業です。 土の塊の一つ一つが丁寧に扱われ、土から生ずる芽の一つ一つが、親の愛情に近い配慮と世話を与えられます。 私たちに欠けていた科学を、たゆまない勤勉で補い、こうして菜園ともいえるような、きめ細かく整然とした1,300万エーカー(1エーカーは約40.469アール)の耕地を所有しています。

このような高度な農耕は、人々の並々ならない努力により、はじめて可能になります。 少しでも怠れば、実にみじめな荒地に確実に化してしまう。 一度は耕作されていた土地が、人手から放置されているのを見るのはまことに心を痛めます。

そこには原始林の有する活力も繁茂力もない。 見捨てられた荒地は、暗い絶望的な感じです。 処女地の開墾に挑もうとする人が10人いたとしましょう。そのうち見捨てられた土地の再興に捧げようと志す人は、一人もいない。 倹約で働き好きな世界諸国の人々がすべて引き寄せられるのはアメリカ大陸です。 他方ではバビロンはフクロウとサソリの巣のままに残されているのです。

19世紀の初め、日本農業は、実に悲惨な状態にありました。200年の長期にわたって続いた泰平の世は、あらゆる階層を問わず人々の間に贅沢と散財の気風をもたらしました。 怠惰な心が生じ、その直接の被害を受けたのは耕地です。

多くの地方で土地からあがる収入は3分の2に減りました。かって実り豊かだった土地には、アザミとイバラがはびこりました。 耕地として残された、わずかな土地で、課せられた税のすべてをすべてまかなわなければなりません。どの村もひどい荒廃が見られるようになりました。

正直に働くことがわずらわしくなった人々は、身を持ち崩すようになりました。 慈愛に富む大地に豊かな恵みを求めようとしなくなりました。 代わって望みない生活を維持するため、相互にごまかしあい、だましあって、わずかな必需品を得ようとしました。 諸悪の根源は全て道徳にあります。 「自然」は、その恥ずべき子どもたちには報酬を与えず、ありとあらゆる災害を引き起こして、地に及ぼしました。そのとき「自然」の法と精神を同じくする、一人の人物が生まれたのです。 (原文)
2. BOYHOOD
Ninomiya Kinjiro, surnamed Sontok ( Admirer of Virtue) , was born in the seventh year of Tenmei (1787) .
His father was a farmer of very small means in an obscure village in the province of Sagami, notable, however, among his neighbors for his charity and public spirit.
At the age of 16, Sontok, with his two little brothers, was orphaned, and the conference of his relatives decided upon the dissolution of his poor family, and he, the eldest, was placed under the custody of one of his paternal uncles.
Here the lad's whole endeavor was to be as little burdensome to his uncle as possible.
He lamented that he could not do a man's part, and to make up what he in his youth could not accomplish in daytime, he would work till very late in midnight.
Then came a thought to him that he would not grow up to be an illiterate man, a person with “open-blind”to the wisdoms of the ancients.
So he procured a copy of Confucius' Great Learning, and in the depth of night after the day's full work, he applied himself assiduously to his classical study.
But soon his uncle found him at his study, sharply reprimanded him for the use of precious oil for work from which he (the uncle) could not derive any benefit, and could see no practical good to the youth himself.
Sontok considered his uncle's resentment reasonable, and gave up his study till he could have oil of his own to burn.
So he next spring, he broke up a little land that belonged to nobody, on the bank of a river, and there planted some rape-seed and gave all of his holidays to the raising of this crop of his own. At the end of one year, he had a arge bagful of the seed, the product of his own hand, and recieved directly from Nature as a reward of his honest labor.
He took the seed to a neighbouring oil-factory, had it exchanged for a few gallons of the oil, and was glad beyond expression that he could now resume his study without drawing from his uncle's store.
Triumphantly he returned to his night-lesson, not without some hope of words of applause from his uncle for patience and industry such as his.
But no! the uncle said that the youth's time was also his, seeing that he supported him, and that he could not afford to let any of his men engage in so unprofitable a work as book-reading.
Sontok again thinks his uncle is reasonable, follows his behest, and goes to mat-weaving and sandal-making after the day's heavy work upon the farm is done.
Since then, his studies were prosecuted on his way to and from hills whereunto he was daily sent to fetch hay and fuel for his uncle's household.
His holidays were his, and he was not to throw them away for amusements.
His experiment with the rape-seed taught him the value of earnest labor, and he wished to renew his experiment upon a larger scale. He found in his village a spot changed into a marsh- pond by a recent flood, wherein was a capital opportunity for him to employ his holidays for useful purposes.
He drained the pond, levelled its bottom, and prepared it for a snug little rice-field. There he planted some seedlings that he picked out of the surplus usually cast away by farmers, and bestowed upon them a summer's watchful care.
The autumn brought him a bagful (2 bushels) of golden grain, and we can imagine the joy of our orphan-boy who for the first time in his life had his life-stuff provided him as a reward for his humble effort.
The crop he gathered that autumn was the fund upon which he started his eventful career.
True, independent man is he!
He learnt that Nature is faithful to honest sons of toil, and all his subsequent reforms were based upon this simple prnciple that Nature rewardeth abundantly them that obey her laws.
A few years afterward he left his uncle's house, and with what little grain he gathered with his own hand out of the mere refuse lands he discovered and improved in his village, he returned to his paternal cottage now deserted for many years. With his patience, faith, and industry, nothing stood in his way on his attempt to convert chaos and desolation into order and productivity.
Declivities of hills, waste spots on river-banks, road-sides, marshes, all added wealth and substance to him, and before many years he was a man of no little means, respected by his entire neighborhood for his exemplary economy and industry.
He conquered all things for himself, and he was ready to help others to make similar conquests for themselves.
(邦訳)
2 少年時代

二宮尊徳
二宮尊徳
 尊徳(徳を尊ぶ人)ともいわれる二宮金次郎は、天明7(1787)年に生まれました。 父は、相模(さがみ)の国の名もない村の、ごく貧しい農夫でしたが、近隣の村々には、情け深いことと公共心の厚いことで知られていました。

16歳のとき、尊徳と二人の弟は親を亡くしました。 親族会議の結果、あわれにも一家は引き離されて、長男の尊徳は、父方の伯父(おじ)の世話を受けることになりました。 伯父の家にあって、この若者は、できるだけ伯父の厄介になるまいとして、懸命に働きました。

尊徳は一人前の大人の仕事のできないことを嘆き、若年のために日中に成し遂げられなかった仕事を、いつも真夜中遅くまで続けて仕上げました。そのころ尊徳の心には、古人の学問に対して、「目明き見えず」、すなわち字の読めない人間にはなりたくないないとの思いが起こりました。

そこで孔子の『大学』を一冊入手、一日の全仕事を終えたあとの深夜に、その古典の勉強につとめました。ところが、やがて、その勉強は伯父に見つかりました。 伯父は、自分にはなんの役にも立たず、若者自身にも実際に役立つとは思われない勉強のために、貴重な灯油を使うとはなにごとか、とこっぴどく叱りました。

尊徳は、伯父の怒るのはもっともと考えて、自分の油で明かりを燃やせるようになるまで、勉強をあきらめました。 こうして翌春、尊徳は、川岸のわずかな空き地を開墾して、アブラナの種を蒔き、休日をあげて自分の作物の栽培にいそしみました。

一年が過ぎ、大きな袋一杯の菜種(なたね)を手にしました。 自分の手で得た収穫です。 誠実な労働の報酬として「自然」から授かったものです。 尊徳は、この菜種を近くの油屋へ持参し、油数升と交換しました。

尊徳は今や、伯父のものに依ることなく、勉強を再開できると考え、言いようもない嬉しさを感じました。 勇んで尊徳は夜の勉強を再開しました。 自分の、このような忍耐と勤勉とに対し、伯父からは、ほめ言葉があるのではないかと、少しは期待した面もありました。しかし、違った!

伯父は、おれが面倒見てやっているのだから、おまえの時間はおれのものだ、おまえたちを読書のような無駄なことに従わせる余裕はない、と言いました。

尊徳は、今度も伯父の言うことは当然だと思いました。 言い付けにしたがって、一日の田畑の重い労働が終わったあとも、むしろ織りやわらじ作りに励みました。それ以後、尊徳の勉強は、伯父の家のために、毎日、干し草や薪を取りに山に行く往復の道でなされました。

 休みの日は自分のものであっても、遊んで過ごしてしまうことはありませんでした。アブラナの経験は、尊徳に熱心に働くことの価値を教えました。 尊徳は、もっと大規模に同じ経験を試みようと望みました。

最近の洪水により沼地と化したところを村のなかで見つけました。そこは、自分の休みを有益な目的に使える絶好な場所になると思いました。 沼から水をくみ出し、底をならし、こぢんまりした田んぼになるようにしました。その田に、いつも農民から捨てられている余った苗を拾ってきて植え、夏中、怠らずに世話をしました。 秋には、二度もの見事な米が実りました。

一人の孤児が、つつましい努力の報酬として、人生ではじめて生活の糧(かて)を得た喜びのほどは、容易に想像できます。この秋、尊徳が得た米は、その後の波乱に富んだ生涯の開始にあたり、資金になりました。 尊徳は真の独立人だったのです!

「自然」は、正直に努める者の味方であることを学びました。 尊徳の、その後の改革に対する考えはすべて、「自然」は、その法にしたがう者には豊かに報いる という簡単な理(ことわり)に基いていたのです。

 数年後、尊徳は伯父の家を去りました。 自分で見つけて改良した村のなかの不用の荒地から、みずからの手で収穫したわずかの米をたずさえて、今や、多年住む人のなかった両親の家に戻りました。

尊徳が、忍耐と信念と勤勉とにより、混乱を整え、荒地を沃地に変えようとする試みを妨げるものは何もありませんでした。 山の斜面、川岸、道端、沼地などの不毛な土地はことごとく、尊徳には富と生活の糧(かて)を与えるものとなりました。 何年もたたないうちに、尊徳はかなりの資産を所有するようになり、近所の人々すべてから、模範的な倹約家、勤勉家として仰がれる人物になりました。

尊徳は、なにごとも自力で克服しました。また他人が自力で克服する手助けは、常にいとわずしました。

二宮 尊徳(にのみや たかのり)は、江戸時代後期の経世家、農政家、思想家。自筆文書では金治郎(きんじろう)と署名している例が多いが、一般には「金次郎」と表記されることが多い。また、諱の「尊徳」は正確には「たかのり」と読むが、「そんとく」という読みで定着している。

相模国足柄上郡栢山村(現在の神奈川県小田原市栢山(かやま))に、百姓二宮利右衛門の長男として生まれる。母は隣村の百姓の娘・好(よし)。尊徳の弟には二宮三郎左衛門の養子・友吉(常五郎)と富治郎がいる。
尊徳は、堀之内村の娘・きの(キノ)を妻とするが、離縁。次いで20歳若いが貞淑で温良な飯泉村の娘・なみ(波子)を娶った。後者は賢夫人と称される。子息は、きのとの間に1男1女。
当時の栢山村は小田原藩領であった。父利は13石の田畑と邸を受け継いで、当初は豊かだったが散財を重ねていた。そこに、金治郎が5歳の時、南関東を襲った暴風で、付近を流れる酒匂川の堤が決壊し、田畑は砂礫と化し、家も流失した。田畑は数年で復旧したが、借財を抱えて家計は貧する。

二宮尊徳
ひところはどこの小学校にもあった
「薪を背に歩きながら勉強する」二宮金次郎像
金治郎12歳の時、酒匂川堤防工事の夫役を眼病を患う父に代わって務めるが、年少ゆえ働きが足りないと憂い、自ら夜に草鞋を作って配布して献じた。まもなく父が亡くなり、14歳の金治郎が朝は早起きして久野山に薪とり、夜は草鞋作りをして、一家4人の生計を立てた。
貧困の中で母が亡くなり、伯父の]萬兵衛の家に身を寄せた。金治郎は身を粉にして働いたが、ケチな萬兵衛は夜も勉学する金次郎に「燈油の無駄使い」と口汚く罵る。そこで金治郎は策を講じ、堤防にアブラナを植え、それで菜種油を取って燈油とした。また、田植えの際に余って捨てられた苗を用水堀に植えて、米一俵の収穫を得た。
文化元年(1804年)、萬兵衛の家を離れたが、この年に余耕の五俵を得、翌年は余耕の20俵を得て、文化3年(1806年)に家に戻り、20歳で生家の再興に着手する。家を修復し、質入田地の一部を買い戻し、田畑を小作に出すなどして収入の増加を図った。

生家の再興に成功すると、金治郎は地主・農園経営を行いながら自身は小田原に出て、武家奉公人としても働いた。この頃までに、身長が6尺(約180センチ強)を超えていたという伝承もある。また体重は94キロ]あったと言われている。

文化5年(1808年)、母の実家川久保家が貧窮するとこれを資金援助し、翌年には二宮総本家伊右衛門跡の再興も成し遂げる。その頃、小田原藩家老、服部十郎兵衛が、金治郎に服部家の建て直しを依頼した。金治郎は五年計画の節約で財務を整理して千両の負債を償却し、余剰金300両を生み出したが、自らは一銭の報酬も受け取らなかった。この評判によって小田原藩内で名前が知られるようになった。

その後、金次郎は組頭格に昇進して桜町主席となった。あちこちから財政建て直しを依頼され、中には抵抗で上手く行かないものもあったがことごとく再建させた。
天保7年(1836年)、重病の忠真公により小田原に呼ばれ、功績を賞されると共に、飢饉にある小田原の救済を命じられる。駿河・相模・伊豆の三州の救済は緊急を要するということで金千両を与えられる。金次郎は小田原家臣と協議し、蔵米を放出して村々を救う。

天保13年(1842年)、幕府に召し抱えられ、普請役格となって印旛沼開拓・利根川利水、また幕府直轄領(天領)下総大生郷村、日光山領の立て直しを命じられる。下野・真岡に移住。日光神領を回って日光奉行の配下で仕法を施していたが、3度目の病を発し、安政3年(1856年)下野国今市村(現在の栃木県日光市)の報徳役所にて没した。享年70。

◇ ◇ ◇

尊徳の言葉に以下のようなものがある。

「キュウリを植えればキュウリとは別のものが収穫できると思うな。人は自分の植えたものを収穫するのである」
「誠実にして、はじめて禍を福に変えることが出来る。術策は役に立たない」
「一人の心は、大宇宙にあっては、おそらく小さな存在にすぎないであろう。しかし、その人が誠実でさえあれば、天地も動かし得る」
「なすべきことは、結果を問わずなされなくてはならない」

 
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日 蓮 

内村鑑三はなぜ「代表的日本人」に日蓮を挙げたのだろうか。仏教で独自の宗派を立てた日本人なら、高野山に籠もって、真言宗を開いた空海でも、比叡山で天台宗を開いた最澄でも良かったはずである。二人は共に遣唐使として大陸に渡り密教の教義を学んだ。後に二人は離反するが、天皇から弘法大師、伝教大師の諡(おくりな)を与えられているエリートである。

これに対し日蓮は日蓮宗以外の宗教を、地主を、幕府を敵に回した。為に何度も流刑や死刑を宣告された。幾度も命の危険にさらされながらも己が信じる道を諦めず日蓮宗の布教に邁進した。命よりも大義を大切にする姿勢は日本の偉人の共通項でもある。内村鑑三はこの一点に「代表的日本人」をみたのであろう。

内村鑑三はなぜ日蓮か、についてこう書いている。「日蓮から13世紀という時代の衣裳と、批判的知識の欠如と、内面に宿る異常気味な心(偉人に皆ありがちな)とを除去してみましょう。そのとき、私どもの眼前には、まことにすばらしい人物、世界の偉人に伍して最大級の人物がいるのがわかります。私ども日本人のなかで、日蓮ほどの独立人を考えることはできません。実に日蓮が、その創造性と独立心とによって、仏教を日本の宗教にしたのであります。他の宗派が、いずれも起源をインド、中国、朝鮮の人に持つのに対して、日蓮宗のみ、純粋に日本人に有するのであります」

話は変わるが、このサイトの亭主は毎春、あちこちの「一本桜」を見に行くことを趣味にしている。この項もそれらの名所をまとめた「さくら」の中にあるのだが、日蓮が開いた身延山にも何度か訪れている。ここは日蓮宗の本山だが、また枝垂れ桜の名所でもあり全山に数百本の名木がある。これに対して、高野山にも比叡山にも杉の大木はあっても桜の大木は見当たらない。日本人が愛してやまない桜への執着心に、内村鑑三は「日本人」を見たのでは、と思うのは私だけだろうか。

日蓮 

貞応元年(1222年)2月16日、安房国長狭郡東条郷片海(現在の千葉県鴨川市)の漁村で誕生した。両親について、自身の出自について「安房国・東条・片海の石中(いそなか)の賤民が子なり、海人が子なり」と述べているので、漁業を生業とする出身と考えられる。

日蓮
日蓮(身延山久遠寺宝物館蔵)
 12歳の時、初等教育を受けるため、安房国の天台宗寺院である清澄寺に登った。師匠となったのは道善房であり、先輩である浄顕房・義浄房から学問の手ほどきを受けた。

以前から学問を志していた日蓮は、清澄寺の本尊である虚空蔵菩薩に「日本第一の智者となし給え」という「願」を立てた。少年時代の日蓮は、仏教の内部になぜ多くの宗派が分立し、争っているのか、との疑問を持っていた。これらの疑問に答えを示せる学匠がいなかったので、日蓮は既存の宗派の教義に盲従せず、自身で経典に取り組み、経典を基準にして主体的な思索を続けた。

各宗派の教義を検証するため、比叡山延暦寺、高野山などに遊学する。 十数年に及んだ遊学の結果、一切経の中で妙法蓮華経(法華経)が最勝の経典であること、天台宗を除く諸宗が妙法蓮華経(法華経)の最勝を否認する謗法を犯していること、時代が既に末法に入っていることを確認し、32歳で南無妙法蓮華経の弘通を開始する。

南無妙法蓮華経の言葉は南無阿弥陀仏の称名念仏などと並行して行われていたが、日蓮は念仏などと並んで題目を唱えることを否定し、南無妙法蓮華経の唱題のみを行うことを主張した。

日蓮は建長5年(1253年)、鎌倉に移り、名越の松葉ヶ谷に草庵を構えて弘教活動を開始した。正嘉元年(1257年)8月、鎌倉に大地震があり、ほとんどの民家が倒壊するなど、大きな被害が出た。日蓮は多くの死者を出した自然災害を重視し、災害の原因を仏法に照らして究明し、災難を止める方途を探ろうとした。

その上で日蓮は、文応元年(1260年)7月16日、「立正安国論」を時の最高権力者にして鎌倉幕府第5代執権の北条時頼に提出して国主諫暁を行った。「立正安国論」によれば、大規模な災害や飢饉が生じている原因は為政者を含めて人々が正法に違背して悪法に帰依しているところにある。災難を止めるためには為政者が悪法の帰依を停止して正法に帰依することが必要であると主張する。

しかし「立正安国論」は鎌倉幕府から完全に無視された。逆に日蓮の念仏破折は念仏勢力の激しい反発を招き、松葉ヶ谷の草庵が多数の念仏者によって襲撃された。もはや鎌倉にいられる状況ではなくなり、下総国若宮(現在の千葉県市川市)の富木常忍の館に移り、弘教活動を展開した。

弘長元年(1261年)5月12日、鎌倉に戻った日蓮は幕府によって拘束され、伊豆の伊東に流罪となり2年後赦免された。

文永元年(1264年)の秋、日蓮は母の病が重篤であることを聞き、母の看病のため、故郷の安房国東条郷片海の故郷に帰ったが、東条郷の地頭・東条景信に襲われ、日蓮は頭に傷を受け、左手を骨折するという重傷を負った。

文永5年(1268年)1月16日、蒙古と高麗の国書が九州の太宰府に到着した。日本と通交関係を結ぶことを求めながら、軍事的侵攻もありうるとの威嚇の意も含めたものであった。日蓮は、蒙古国書の到来を外国侵略を予言した「立正安国論」の正しさを証明する事実であると受け止め、執権・北条時宗に、諸宗との公場対決を要求したが、これも幕府に無視され弾圧される。

9月10日、日蓮は幕府に召喚され、刑事裁判を管轄する侍所の所司(次官)・平頼綱の尋問を受けたが、日蓮は逆に迫害するならば内乱と外国からの侵略は不可避であると主張し、為に馬に乗せて鎌倉中を引き回され、斬首するため龍の口の刑場へと引き立てられた。日蓮が斬首の場に臨み、刑が執行されようとする時、江の島の方角から強烈な光り物が現れ、太刀を取る武士の目がくらむほどの事態になって刑の執行は中止された。

斬首を免れたものの佐渡国への流罪と決定した。配所に到着した日蓮は、直ちに「開目抄」の執筆に着手、翌年2月に完成させた。結論として南無妙法蓮華経が末法に弘通すべき正法であるとするものだった。

文永11年(1274年)3月、執権・北条時宗から赦免状が佐渡にもたらされた。蒙古襲来の危機が切迫してきたためである。 「立正安国論」提出時、文永8年の逮捕時、さらに今回と3回にわたる諫暁も幕府が受け入れなかったことで日蓮は、これ以上幕府に働きかけるのは無意味と考え、鎌倉を退去することにし、甲斐国身延(現在の山梨県身延町)に入った。鎌倉退去の後も幕府から警戒の対象になっており、対外的には「遁世」の形であったから、身延入山後は門下以外の者と面会することを拒絶し、入滅の年に常陸の湯に向かう時まで身延から出ることはなかった。

文永11年(1274年)10月、3万数千人の蒙古・高麗軍が対馬と壱岐に上陸、防備の武士を全滅させ、さらに博多湾に上陸した。日本の武士は蒙古軍の集団戦術や炸裂弾や短弓・毒矢などに苦しめられ、戦闘は一週間ほどで終了したが、日本側は深刻な被害を受けた。幕府は再度の襲来に備えて戦時体制の強化を図り、防塁の建設や高麗出兵計画のため、東国から九州へ多数の人員を動員した。

日蓮は蒙古襲来は日本国が行者を迫害する故に諸天善神が日本国を罰した結果であるとする。身延入山後、弟子の日興を中心に富士方面で活発な弘教が展開された結果、天台宗寺院で住僧や近隣の農民らが改宗して日蓮門下となる状況が生まれていた。その動きに対して各寺院の住職らは反発して日蓮門下となった住僧らを追放するなど対抗したため、日蓮門下と天台宗側との抗争が生じた。

蒙古(元)は弘安2年(1279年)3月に南宋を滅ぼすと、旧南宋の兵士を動員して日本に対する再度の遠征を計画した。高麗から出発する元・高麗の東路軍4万人と江南から出発する旧南宋の兵士10万人の江南軍に分け、合流して日本上陸を目指すという計画だった。閏7月1日、大型台風の直撃を受け、壊滅的な被害を出した。元・高麗軍は戦意を失い、高麗と江南に退却した。

弘安の役は、前回の文永の役とともに、日蓮による他国侵逼難の予言の正しさを証明する事件だったが、日蓮は門下に対して蒙古襲来について広く語るべきではないと厳しく戒めた。
弘安4年、日蓮は朝廷への諫暁を決意し、自ら朝廷に提出する申状を作成、朝廷に申状を提出させた。後宇多天皇はその申状を園城寺の碩学に諮問した結果、賛辞を得たので、「朕、他日法華を持たば必ず富士山麓に求めん」との下し文を日興に与えたという。

日蓮は、建治3年(1277年)の暮れに胃腸系の病を発し、自己の死が迫っていることを自覚するまでになった。寒冷な身延の地で年を超えることは不可能と見られる状況になっていた。そこで門下が協議し、冬を迎える前に温泉での療養を行うことになった。
日蓮は、馬で身延を出発、富士山の北麓を回り、箱根を経て武蔵国荏原郡(現在の東京都大田区)にある池上兄弟の館に到着したが、衰弱が進んでそれ以上の旅は不可能となった。弘安5年(1282年)10月13日、多くの門下に見守られて池上兄弟の館で入滅した。

◇ ◇ ◇

 日蓮が広めた信仰は、日蓮独自のものであって、過去にインド、中国、朝鮮で広まったものとは違う新たな創造があった、と、内村鑑三はいう。我々が日蓮と聞いて、真っ先に思い浮かぶのは、「南無妙法蓮華経」の題目と、これを中央に大書した曼荼羅dsろう。実は、この題目と曼荼羅こそ日蓮の独創なのである。

 南無妙法蓮華経という祈りが、それ以前にまったくなかったのか、というと決してそうではない。もともと「南無」はサンスクリット語の「ナモ」から生まれた言葉で、体を折り曲げて敬意を表すことを指す。尊敬する対象、例えば阿弥陀仏とか、仏法僧の三宝などに対して、南無を冠して「南無阿弥陀仏」、「南無三宝(南無三)」と敬意を表し、祈る行為は、ごく自然に行われていた。日蓮の独創ではない。

では、南無妙法蓮華経を、声に出して唱えることを、なぜ日蓮は広めようとしたのか。法華経 は諸経の王、諸経中第一と呼ばれ、聖徳太子のころから大事にされた特別な経典で、源頼朝も熱心な法華経信者だった。法華経では、法華経の入手と所持、読経、暗唱、解説、書写することが、修行であり、法華経信仰だった。

 平安末に急速に力をつけ、歴史の舞台に踊り出た東国武士だったが、鎌倉時代に入っても漢文を読むことは難しかった。多 くの御家人は、漢文の読み書きができる貴族を文官として抱え、政務・法務にあたらせていたのである。漢文に慣れ、教養と財力に富んだ貴 族には、当たり前だった法華経信仰も、東国の土着の武家にすんなりと受け入れられるものではなかった。源頼朝が、毎日、法華経 を読誦していたのも、貴族だったから出来たことだった。

 日蓮は、天変や飢饉による世の不幸は、為政者が法華経に代わって念仏を信仰していることが原因 だ、と考えていた。それでときの権力者には上述のように激しい行動に出たのだが、貧しい人たち、虐げられた人たちに対しては、やさしい人物だった。私的な生活は、このうえなく簡素で鎌倉の草庵の住まいも、三〇年後の身延でも同じような建物に住んでいた。


岡倉天心「茶の本」

3大名著の最後に取り上げるのは岡倉覚三の「茶の本」である。岡倉覚三は、岡倉天心という名でよく知られる美術評論家である。西洋化が進み日本の伝統文化がなおざりにされていた明治時代に、改めて日本の文化を見つめなおそうと奔走した人物だ。

日蓮
『THE BOOK OF TEA』原書
 「茶の本」(『THE BOOK OF TEA』)はタイトルからは一見、茶の作法を説いた本のように見えるが、中身は、一杯の茶の中に凝縮された日本特有の美意識や世界観を浮かび上がらせる思想書である。

1906年(明治39年)、米国ボストン美術館で中国・日本美術部長を務めていた天心が、ニューヨークの出版社から刊行した。茶道を仏教(禅)、道教、華道との関わりから広く捉え、日本人の美意識や文化を解説している。新渡戸稲造の『武士道』と並んで、明治期に日本人が英語で書いた著書として広く西欧で読まれた。ジャポニズムや日露戦争における勝利によって、日本への関心が高まったヨーロッパ各国(スウェーデン、ドイツ、フランス、スペインなど)でも翻訳された。

日本人が何を良しとし、何を美しいとしたかの真髄に迫る著書なのである。日本建築や庭園、衣服、絵画に至るまで、あらゆるところに茶道の考え方が影響していることを説く。「真の美は『不完全』を心の中に完成する人によってのみ見いだされる」「些事の中にでも偉大を考える」と日本文化の核心を表現している。

岡倉天心
岡倉天心
 岡倉 覚三(おかくら・かくぞう) (1862〜1913)
美術評論家、思想家。生まれ育ったのは横浜。そこは欧米に開かれた「窓」でもあった。また父が貿易商だったこともあり、幼少時代から英語を習得する。当時、横浜にはローマ字をおこしたヘボンも、西洋思想を教えたブラウン教父もいた。7歳の天心はそのにヘボン塾とブラウン塾で英語を教わっている。この塾からはのちに富士見町教会を創設する植村正久も横浜ニューグランドホテルでボーイをしていた北村透谷も出た。

9歳で母を亡くし、再婚した父の都合で10歳で神奈川の長延寺に預けられると、ここで漢籍に夢中になる。14歳で東京開成学校(東大)に入った天心は漢詩を習い、大和絵の指導をうけて、天心の山水思想を育んだ。1875年、東京大学入学。在学中にハーバード大学からお雇い教師として来日したアメリカ人教授アーネスト・フェロノサと出会い、早々に英語力を認められて通訳として重宝がられる。
18歳で結婚もした。卒論に天高く「国家論」を書くのだが、幼すぎる若妻がヒステリーおこしてこれを燃やし、やむなく「美術論」でまにあわせたのがフェノロサを驚かせた。卒業して文部省の音楽取調掛に就職した。

明治19年、25歳の天心は図画取調掛主幹となって欧米に行き、主要な美術館をほぼ巡ったのに、イタリア・ルネサンスの絵画彫刻に感嘆したほかは、大半の近代美術に失望し、その目は東洋日本の山水画を凝視していた。
 明治憲法の発布の明治22年、東京美術学校が上野に開校する。天心はその校長として、横山大観など多数の日本画家や彫刻家を育てた。同時に帝国博物館美術部長を兼任し、日本で最初の本格的美術誌「国華」の創刊にも携わった。まだ28歳だった。

ところが、東京美術学校校長の座から引きすりおろされる事件がおきた。初代のアメリカ全権公使となった九鬼隆一が、折から欧米美術視察中の天心がアメリカに立ち寄ったときに、妊娠中の夫人波津(星崎初子)を天心にエスコートさせて日本に帰らせた。夫人は異国で出産するのが不安で帰国を望んだのだが、海を渡って横浜港に帰るまでのあいだに恋愛関係になった。明治20年のことである。結局、九鬼隆一と別れた波津が星崎初子として根岸に引っ越してから二人の関係は再燃、それをすっぱ抜く怪文書が出回って、天心は校長の座を追われた。

その後も頻繁に海外を訪れ、弟子たちと日本美術院を設立する。一方で、1904年にアメリカのボストン美術館の東洋部長にも就任し、同美術館が「東洋美術の殿堂」と呼ばれる基礎を作るとともに、日本美術の保護及び日本画家の育成に努めた。東洋の美術品の収集に励み、日本文化の価値を世界中に広めるべく活動した。著書に『東洋の理想 』『日本の覚醒』『茶の本』などがある。 1913年没。

◇ ◇ ◇

岡倉は、同時期に刊行されていた新渡戸稲造の『武士道』を、「兵士に喜び勇んで身を捨てさせる死の術」とし批判、それに対し茶道は「生の術」であるとした。「茶の本」は、天心にとって、現在を永遠とするための美の教典だった。

「茶の本」はそれほど長文ではなく、日本語訳は現在では、青空文庫でインターネットで読むことが出来る。茶道用語にはネットでは表示できない漢字が多く出てくる。その点青空文庫の「茶の本」では外字を忠実に復元していて、参考になるので是非一読されたい。

大雑把に要約すると、

  1. 西洋人は、日本が平和のおだやかな技芸に耽っていたとき、日本を野蛮国とみなしていたものである。だが、日本が満州の戦場で大殺戮を
    犯しはじめて以来、文明国とよんでいる。 なんという皮肉であろうか。
 2. いつになったら西洋は東洋を理解するのか。西洋の特徴はいかに理性的に「自慢」するかであり、日本の特徴は「内省」によるものである。     東洋と西洋はお互い批判しあう関係であったが、西洋における物質主義に限界を感じた者たちが、東洋の茶道の精神に活路を見出した。      茶道における「不完全さ」を真摯に見つめることにこそ、東西の相互理解の道がある。
 3. 茶は衛生学であって経済学である。茶はもともと「生の術」であって、「変装した道教」である。
 4. われわれは生活の中の美を破壊することですべてを破壊する。誰か大魔術師が社会の幹から堂々とした琴をつくる必要がある。
 5. 花は星の涙滴である。つまり花は得心であって、世界観なのである。
 6. 宗教においては未来はわれわれのうしろにあり、芸術においては現在が永遠になる。
 7. 出会った瞬間にすべてが決まる。そして自己が超越される。それ以外はない。
 8. 数寄屋は好き家である。そこにはパセイジ(パッサージュ=通過)だけがある。
 9. 茶の湯は即興劇である。そこには無始と無終ばかりが流れている。
10. われわれは「不完全」に対する真摯な瞑想をつづけているものたちなのである。

この中で、天心が述べていることは、

茶はもともと薬用として用いられ、その後飲料となった。中国では8世紀に、詩歌と並んで高尚な遊びとして楽しまれたが、15世紀の日本ではさらにその価値は高まり、「茶道」となった。茶道は日常の俗事の中にある美を見出し、「不完全なもの」を崇拝する一種の儀式である。そこからは、純粋と調和、互いに愛し合うことの神聖さ、社会秩序の賛美を学びとることができる

よその国から見れば、たかだか一杯の茶のことでこれほど騒ぎ立てるのは不思議に思われるかもしれない。しかし、自分が持つ偉大なものの小ささに気づけない者は、他人が持つ小さいものの偉大さにも気づけないものである。普通の西洋人は、かつては日本を野蛮な国だと見なしていた時代もあり、茶の湯を東洋の奇行の一つだとしてあざ笑っているだろう。しかしそろそろ、東西が互いを酷評しあうのをやめて、尊重しあうべきではないか。東洋と西洋はこれまで発展する方向を異にしてきたが、それぞれの長所と短所を補い合うことができるはずである。

茶道は日常生活の俗事の中に存する美しきものを崇拝することに基づく一種の儀式であって、純粋と調和、相互愛の神秘、社会秩序のローマン主義を諄々と教えるものである。

茶道の要義は「不完全なもの」を崇拝するにある。いわゆる人生というこの不可解なもののうちに、何か可能なものを成就しようとするやさしい企てであるから。

美を友として世を送った人のみが麗しい往生をすることができる。

人生の些事の中にでも偉大を考える

茶道には、「虚(何もない状態)」の中に完全さを見出す道教の考え方と、日常の小さなものに偉大さを見出す禅の考え方の二つが息づいている。

千利休をはじめ、一流の茶道家たちの最期は、みな風流なものであった。美と親しみながら生きた者だけが、美しい往生を遂げることができる。

茶碗の中には、人の情が満ちている。

茶道には日本の美意識が凝縮されている

日本人の住居や習慣、衣食、陶漆器、絵画、そして文学に至るまで、みな茶道の影響を受けている。日本の文化を研究しようとするものは、茶道の影響を無視するわけにはいかない。

また、美を見出すために美を隠し、表現することをはばかりつつほのめかすといったふるまいこそが、茶道の真髄である。これを理解する人が、本当の茶人だといえる。サッカレーやシェイクスピア、文芸が退廃した時代の詩人たちは、物質主義に対する反抗の結果、茶道の精神を受け入れた。茶道における「不完全さ」を真摯に見つめることにこそ、東西の相互理解の道がある。

茶は東西をつなぐ架け橋となりうる

◇ ◇ ◇

天心の英語力がどういうものかを示す恰好の例がある。定家の「見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ」を天心英語は次のように英訳している。

 
  I look beyond;
  Flowers are not,
  Nor tinted leaves.
  On the sea beach
  A solitary cottage stands
  In the waning light
  Of an autumn eve.

もう一つ、彼の英語力の高さを示す逸話がある。

岡倉が横山大観や菱田春草と、和装でボストンの街を歩いていると、ひとりの若者にこう声をかけられた。

“What sort of ?nese? are you people? Are you Chinese, or Japanese, or Javanese?”
おまえたちは「何ニーズ」だ? チャイニーズかジャパニーズか、それともジャヴァニーズ(ジャワ人)か?

東洋人を侮蔑した言葉を投げつけられたときの岡倉の切り返し方がふるっている。

“We are Japanese gentlemen. But what kind of ?key? are you? Are you a Yankee, or a donkey, or a monkey?”
私たちは日本の紳士だ。ところで、そう言うあなたは「何キー」だ?
 ヤンキーか、ドンキー(ロバ。「とんま」の意もある)か、それともモンキーかな?

見事なものだ。これだけの語学力で書かれた「茶の本」だから、日本の「こころ」を伝えてベストセラーになったのもわかる。


 
【岡倉天心 その毀誉褒貶の人生】
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