宮崎健君とは、かなり早くからのおつき合いという印象がある。だが考えてみると、にわかに親しくなったのは住吉高校三年のとき、修学旅行の世話役としていっしょに夜おそくまで計画をたて、おそろしく丁寧で行き届いた案内書を作って以来のことではないか。だとすると、大阪郊外の狭山のお宅によくお邪魔して、母上をはじめ、お父さんや虔二君、裕君の一家団欒に加えてもらったのは、むしろそのあと一年間の「浪人」時代、そしてたがいに札幌と東京に別れ別れになった大学生時代ということになる。
母上のひさ子さんは、それまでに会ったこともないたぐいの人だった。すらりと色白の長身でありながら、全体にふっくらした感じで、いつも着物を着た優雅な立ち居振舞いが、大阪という散文的な町にはそぐわず、どこか天上の一角からふわりと舞い下りた鶴のような風情だった。といって、いつもただお上品に構えておられたというわけではない。ときには何か思いに沈んでいるようすで、話し掛けるのがためらわれることもあったが、たいていはごく上機嫌で、息子たち直伝の大阪弁のジョークを飛ばしながら、こちらを歓待してくださった。きれいな標準語を話されたが、かすかに残る米沢の訛りにも、かえっておっとりした育ちのよさが感じられた。
お訪ねした最初から話がはずんで、健君がどこかへいなくなったあとも、平気でそのまま話し込むことがよくあった。鋭い感性とユーモアとそしてふわりと人を包み込むような温かみが魅力的で、例えば、父兄会で高校へ行ったとき、担任教師への面会を求めながら、その名前を失念し、息子が家でそう呼びつけているままに、「あのう、イカポン(イカレポンチの略)」と口走ってしまったことなど、吹き出すような失敗談などもお好きだった。こちらが野放図な行儀知らずだったので、それとなく諭されたり、たしなめられたこともたびたびある。
私が大学で文学を専攻することに決めたとき、それをことのほか喜んでくださって、その後はいわば同好の仲間として遇してくださった。はじめてフランス語の詩、ジャック・プレヴェールの『バルバラ』という作品を訳して、同人雑誌に載せたときは、こまかな言葉遣いに及ぶ詳しい感想を聞かせてくださった。橋本多佳子さんに習っているという俳句のことを話題にされるようになったのも、その頃のことである。こんな句を作った、こんな句を詠んだといっては、その折々の心境や、句づくりの苦心などを洩らされた。そのほとんどを忘れてしまったのは残念だが、二つだけ、強く印象に残っている句がある。
秋風にわが見てゐてよ 鶸(ひわ)つるむ
初めてうかがったとき、これはいかにも鋭く透明な、硬質といってよいほどの清潔感をたたえた美しい句だと思った。いま復誦してみると、もっと柔らかな、むしろ微笑に似た温かな視線が感じられるのが不思議だが、それでもやはり、きりりと何かに耐えているような強い緊張感という最初のあざやかな印象は、消えることがない。
雪の朝 妻ふりかえる五十の顔
この句は、「妻ふりかえる顔五十」という初案を、橋本先生の添削でこの形に直されたものだという。ふだん照れ屋で温顔のお父さんと、母上とがちらりと顔を見合わせた、ある一瞬の機微がたくみに捉えられていて、まだ二十そこそこの若僧にも面白かったものとみえる。その私自身すでに「妻ふりかえる五十の顔」を見られる歳になっている。
母上は、三人の品行方正なやんちゃ息子たちを心から愛し、つい甘やかしがちになるのを心配しておられたようだ。健君と私がそろって初めての大学試験に失敗したとき、私はさっさと大阪へ帰ってきた。ところが健君のほうは、そのまま誰にも知らせず、呑気に北海道旅行を楽しんでいたため、宮崎家では最悪の事態を予想して、大騒ぎになった。やっと連絡がついたあと、とりあえず予備校の入学申し込みなど、差し迫って必要な手続きを相談するために、母上がわざわざ住吉の拙宅まで足を運ばれたことを、つい昨日のことのように憶えている。いつもお世話になりながら、何か少しでもお役にたつことができたのは、あれが最初で最後ではないだろうか。
先日、古い書類をひっくり返していたら、日付のない母上からのお手紙が出てきた。弟の虔二君のために英語の面倒を見てやってほしいという懇切なご依頼で、この件についてもどれだけご期待に応えることができたのか、いまとなってはろくに記憶がなく、はなはだ覚束ない。たまたま俳句に触れておられる箇所を、少々引いておこう。
お正月は待ってゐたのに見えませんでしたネ。ゴチソウあなたの来るまでのこしておいたのよ。今年のあなたの進まれる道はどの様になさいました?期待してます。ガンバッテ下さい。
私は今年は三位の賞を頂きました。近頃いゝ句は心が育ってゐないと書けないと思ふ様になりました。たくさんいろいろなもの読みたいと思ひ、見たいと。同人句集が出来ることになり、一人二十句ですので今自選してます。時々何になるのかとおかしくもなりますが、日日つみかさねること、充実への、それを思って恥かしさを耐えてゐます。いゝ本あったら教へてね。
棟方版画展観ました。イヤだったアクのつよさがハット心打たれる発見をしました。心が育ってゐなかった私が恥かしく、好ききらひで思ひ上ってはいけないこと教へられました。(・・・)近頃足の調子、わりとよくてよろこんでゐます。天王寺の温室に寒風の中、一人でまゐり作句して来ました。健は四日市にまゐりました。一人きびしさに立むかってゐることでせう。昨夜電話よこしました。一度いってやって下さい。おひまの折りに。
久しぶりでお目にかかって、拙書に収めた俳句論のご感想も伺いたいと、健君と話し合っていたその矢先に、ご訃報に接した。いつでもお会いできると思っているうちに、はや数十年が経っていた。痛恨の極みである。
上記は母の句集「雪散華」の発行にあたって平成5年(1993年)に川本皓嗣・東大教授に寄稿いただいたものだが、2018年10月末になって少し追加したいことができた。25年経っていて川本教授の肩書は「教授」から「名誉教授」になっていた。退官後も交流は 続いていて、毎年11月には大阪府立住吉高校時代の仲間4人で東京・恵比寿で一杯傾けるのを恒例にしている。
そのやり取りのなかで、上掲の一文について気づいたので大急ぎで連絡してくれたのだ。母の句集にある句と自分が書いた句が違っていたことについてだった。このことは小生も気づいていて、 「母のこと」のなかでこう書いておいた。「(川本教授の)著書の中に俳句論もふくまれている。その専門家に母の俳句を語っていただいて、その明晰さに感銘を受けた。文中の句が 掲載した句と少し違うのは、その後の母の推敲によるものと思う」。
メールにはこうあった。「貴兄のサイトで『雪散華』を読み返しました。驚いたことに、拙文に引いた句、
雪の朝 妻ふりかえる五十の顔
が、句集では
朝の霜夫振り返る顔五十
となっていました。「雪」が「霜」となっているのもさることながら「妻」が「夫(つま)」だったとは。音が同じでも字が異なり、こちらは上代語です。ここでは「振り返る」主体が「夫」と 明示されています。」これで「顔五十」が「fifty faces」 と受け取られる(もちろん不条理ながら潜在する)恐れが一切なくなって、母上が橋本多佳子さんの修正案「五十の顔」にも かゝわらず、同じことならと、字余りのない「顔五十」に戻されたのも、よくわかる気がします。
私のは耳でうかがった記憶だったわけで、これだから俳句はこわいと思っていたら、去来の「岩鼻やここにもひとり月の客」の句を思い出しました。去来は岩鼻の月見の先客を 、「ここにもひとり」と見出して挨拶しているのですが、それに対して芭蕉は、それよりも「ここにもひとり」と自分で名乗り出た方がよほど面白いと助言したのです。 ここでは音も字も一切変わっていません。言外の主語をすり変えただけで、くるりと場面が変わるのです。だから俳句はこわいし、面白いと思います。
さすが比較文学の大家。そこまで「深読み」できるものか、と感嘆しました。
(ここまで、2018年11月9日加筆分。以下で2009年加筆分に戻る)◇ ◇ ◇
2009年12月15日の朝刊各紙に嬉しいニュースが載っていた。上の一文を寄せていただいた川本皓嗣氏が日本学士院会員に選ばれたのだ。母の一周忌に上梓した「雪散華」に上のような思い出の記「宮崎ひさ子さんのこと」を寄せていただいて16年の歳月がたっていた。顔写真つきの新聞記事を見て泉下の母は「どう、私の目利きは」と喜んでいることだろう。
新聞報道は以下だ。
日本学士院(久保正彰院長)は14日、総会を開き、大手前大学長で東京大名誉教授の川本皓嗣氏ら7人を新たに会員に選出した。会員数は133人となった。新会員の主な業績は次の通り。 ▽第1部(人文科学) ◇川本皓嗣(かわもと・こうじ) 東京大名誉教授。比較文学。各国の詩における同音異義語を使った技法を研究。日本の詩歌の独自性を世界に発信した。70歳。
川本皓嗣氏
私たちは大阪府立住吉高校の同級生である。彼は寄稿の中で、小生と仲良くなったのは修学旅行の栞づくり云々と書いている。それもあるが親しくなった出来事は実は数学である。2年の時だと思うが、二人とも100点満点で16点だった。浮かぬ顔で互いの答案を見せ合った。挙句どうして我々は数学で落第点しか取れないのか分析した。
結論はこうだ。できる奴は定理など始めからなんの疑いもなく受け入れている。それに比して我々は、なぜその定理になるのか自分で証明しようと大半の時間を無駄にすごす。我々の足踏みをよそにはるか先に彼らが行く理由はそこだ。そうして疑いもなく受け入れる人生より、呻吟する我々の人生の方が意味がある。
屁理屈極まるが、文科系と理科系の選択肢はここで決まった。大学は北海道と東京に分かれたが、夏休みには札幌のわが下宿にやってきて、関西に帰省する私と入れ替わりになが逗留した。ともに金がなく小樽の丘の上でなけなしの金を分け合って私は祝津という港町に、彼は鈍行列車で毎食15円の駅そばだけ食べながら20数時間かけて上野へ向かった。青春の日の焼け付くような思い出がよみがえってきた。互いの結婚式ではともにスピーチに立った。
母は「きっといい学者になるわよ」と言っていたが、そのとおり比較文学で才能を発揮した。語学に並外れた才能を持つ男で、夏休み高校でフランス語の集中講義があったとき、終了後私はアーベーセーだけ残ったが、彼は一通りの会話ができた。韻の研究を主に比較文学といううってつけの世界で新境地を開いていった。母は、今頃「川本君おめでとう」と言っているだろう。私には「いい新聞記者になるわよ」とは一度も言わなかったが。
彼は定年退官後、私の小中学校の母校でもある帝塚山学院の大学で教壇に立ち、その後現在の大手前大学の学長に迎えられた。西宮市御茶家所町の学内の住宅に住んでい
るため最近は会わないが、東京・調布の自宅にいるころは小生の一文にもある阿部義章君、それに山本竜三君など小中高通じての友人と恵比寿ガーデンプレイスで時どき飲む
会を開いていた。「おめでとう。また4人で一杯飲もう」とメールした。家内は新聞記事を見て、我々が日吉にいたころ川本君に貸した電車賃千円を思い出した。男と女の反応
は相当違うものだ、と認識した。
(宮崎 健 2009.12.20記)
上のような雑文を書いてだいぶたった2014年5月12日、その全員が揃う機会があった。
きっかけはワシントンにいる阿部義章君が日本に一時帰国するので皆に会いたいとメールを寄こした。廻状が行き交って、この日いつもの恵比寿ガーデンプレイスタワー39F
展望レストラン街「火の音水の音」と決まった。
(左から)宮崎健、川本皓嗣、阿部義章、山本竜三の各氏 |
阿部君は世界銀行南米・カリフ海地域担当局長を最後に退職、帰国して早稲田大学大学院アジア太平洋研究科教授をしていたが定年退職、日米に居を構えて行き来している。 ワシントンでは日本の世銀からの融資状況を逐一資料にあたって論文にまとめている。
山本竜三君も小中高通じての親友で帝塚山の家が進駐軍に接収されて郊外に住まった家が私の家と近く、互いの家を行き来して育った。亡くなられたのでもう書いてもいい かと思うが、彼の義兄は日本の潜水艦隊育ての親とも言える人で、昔で言えば連合艦隊司令長官にあたる横須賀艦隊指令を務めた。六本木に防衛庁があった時代、防衛課長という 要職にあり、宮崎はある時期安全保障関係の取材で月に何度となく部屋を訪れて軍事知識を教えて貰った。だから韓国が「日本が持つものは何でも欲しがる」くせでイージス艦 を増やしているのは明らかに間違いだと断言できるのだ。
いつもはこの3人で会っていたが、今回は久しぶりに川本皓嗣君を誘うことになった。昨年大手前大学学長を退いたと聞いたから東京にいるなら来ないかとメールしたら「当日は 上野の学士院で定例会に出たあとそちらにまわる」という返事があった。文末に「先日(4月24日)のオバマ大統領を迎えての宮中晩餐会に招かれ、大統領とアメリカの詩人談 義をした」とあったので、これは面白い話が聞けそうだ、と思った。
果たして期待にそむかないもので、オバマ大統領と美智子皇后の深い文学への造詣をうかがわせる内容だった。どこから聞きつけたかフジテレビが取材にきて、18日(日)の午 前7時半から9時までの「新報道2001」で放映されることになっったという。サイトに掲載するころには終わっているだろうが、その要旨を紹介しよう。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー宮中晩餐会で、天皇、皇后両陛下と乾杯するオバマ米大統領。(2014.4.24) |
控室の大広間に入っていくと、すぐ侍従に呼び止められて、名を確かめられ、食事のあとの歓談のさい、オバマ大統領とちょっと話してほしい、そのために広間の前方あたりにい てほしいと依頼された。
入室の前に天皇陛下、大統領、皇后陛下の順に会釈と握手をしたさい、皇后陛下から「比較文学の先生ですね、きょうは・・・」と話しかけられたがよく聞き取れず、私は「どき どきしています」とお答えした。
宗教上のタブーがないので御料牧場 からの羊肉が使われることが多い。 |
「あなたは自分で詩を書くか」と問われたので、「いや、書きません。下手な詩を書くと、学者 (critic) としての面目にかかわるから」と申し上げた。大統領は笑って、 「アメリカの詩を日本で教え広めていてくださって、まことに有難う。ところで、アメリカの詩人で誰が優れていると思うか」と訊ねられた。ウィリアム・カーロス・ウィリアム ズ、ウォーレス・スティーヴンズ、エミリー・ディキンソン、そしてロバート・フロスト」とお答えした。
驚いたことに、オバマさんはすぐ「その中ではディキンソンが最高だ」と断言された。その上で、「フロストはたいへん人気があるし、詩もやさしそうに見えるので、軽視されが ちだが、その言葉をじっくり読み味わうと、表現は絶妙だし、意味は深く、かなり難解だ」と、力をこめて話された。フロストという、いろんな偏見にも包まれた容易ならぬ詩人 について、現大統領がずばりと的を射た批評を下されたので、私はただただ驚嘆し、つい "You're damn right!" と叫んでしまった。大統領は破顔一笑され、そばのアメリカ人 の通訳が大笑いした。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー川本君がフジテレビの取材に応じたのは、皇后陛下も大統領も共に、アメリカの現代詩人フロストを語られて素晴らしいということを話したかったからだということだった。これ には我々も全く同感で、美智子皇后陛下がアメリカは言うに及ばず、世界の文学に深い造詣をお持ちなことは他の例で承知している。 "You're damn right!"というのは「いまいましいが、 おっしゃるとおり」といったくだけた言い方で、大した語学力だ。
内々だが、宮中での新年の講書始の儀でご進講役にも選ばれるようである。いま、大手前大学に依頼されて担当している GACCO という企画に没頭しているとのことだ。
「俳句――17字の世界」というタイトルで惹句には「十七音の言葉の切れ端が、なぜ深く多彩な意味を暗示するのか。芭蕉の句を中心に、俳句の詩的構造をさぐる」とある。
ブログ子の大好きなテーマである。夏には聴講しようと思う。同好の方がおられれば下記のURLへ。
誰一人それほど長時間だった認識はないのだが、4人で4時間半も 話し込んだ。札幌の下宿の高校生の娘に阿部君がピアノを教え、川本君が昼ごろ起きる生活から抜けだせず 喧嘩したこと、小樽のぼた山の上でなけなしの金を分けあって上野までの4食分のそば代を都合したこと、3人ともサイトの亭主の母親の実家である米沢にスキーに出かけたこ となどが話の接穂にでたと思うがよくは覚えていない。純米醸造酒にこだわってかなり盃を傾けた川本君が翌日二日酔いだったという。
この場で川本君に貸した千円が返ってきた。上述のように日吉の社宅で貸した電車賃だが、「ホームページの最後に、確かに返却した」と書いておいてくれと念を押された。 「家内に渡したら大笑いしながら千円受け取りました」とメールしたら、「奥方が千円をご嘉納くださったとのこと、よろしくお礼を申し上げてください。うちの家内は、そ の後の貨幣価値を考えると、少なくとも1万円はお払いすべきだったと主張しています」とあった。
二人とも金利のことなど考えることがない、まるで経済に疎い過ごし方をしてきたが、これで今年中に4人とも「後期高齢者」入りである。役人ときたらこんなふざけたネー ミングをしよってから、実にけしからんと思いつつも、上から下まで教養豊かな人たちがいる国でほんとによかった、と思った一夜であった。(2014.5.12 宮崎健 記)
それから3年後、2017年11月24日、再び、同じ場所に4人がそろった。恵比寿ガーデンプレイスタワーの展望レストラン街「火の音水の音」と同じ場所ながら「こんぶや」というおでん屋に変わっていた。こちらもいろいろ変化があった。
共に3歳年を取ったことは同じだが、阿部君はワシントンと東京を行ったり来たりしていたのを、今年ワシントンの家を処分して、日本に帰って来た。川本君は一昨年、脳幹梗塞で倒れたがいち早く病院に運ばれ最近普及した血栓を溶かす薬品投与で生還した。以前なら重大な後遺症が残ってもおかしくないところだが、リハビリで従前と変わらぬ生活に戻った。昨年暮れ奥さんの付き添いを必要としたが今回一人で外出できるまでになっていた。山本君は今年、白内障手術をしたくらいで健康そのものだ。宮崎も6月に口内ポリープの除去手術を受けたが良性で4日の入院で出てきた。
民進党の瓦解と60年安保と70年アンポの違い、マスコミの左傾化の遠因、はては天皇退位の話、トランプの話、アメリカの中西部のテネシーに見る共和党地盤の話、住吉高校の同級生の話と話題はあっち飛びこっち飛びでしたが時折それぞえの専門分野も交えて時間を忘れる3時間でした。下はその時の写真ですが、たまたま3年前と同じ並び順でした。
恵比寿ガーデンプレイス「こんぶや」での一夕(左から)宮崎健、川本皓嗣、阿部義章、山本竜三の各氏 |
2018年11月21日、昨年と同じ場所、同じ時間に4人が集うことができた。
恵比寿ガーデンプレイス (左から)、阿部義章、宮崎健、川本皓嗣、山本竜三の各氏 |
来年はそろって傘寿である。
◇ ◇ ◇
2日前にカルロス・ゴーン日産自動車会長が東京特捜本部に逮捕された。彼が乗り込んできたきっかけは、日産が傾いたためだが、破綻の理由は当時の川又克二社長がライバル潰し に労組のボス、塩路一郎を使ったことにある。金と人事権を与えて、役員が塩路詣でをするまでになった。
塩路は4000万円はするヨットと品川に7LDKの高級マンションを持ち、日産プレジデントとフェアレディ240Zを乗り回して「労働貴族」の名をほしいままにしていたが、後を継いだ石原 俊社長が84年1月20日発売の写真週刊誌「フォーカス」に記事を売り込んだ。「日産労組『塩路天皇』の道楽−英国進出を脅かす『ヨットの女』」。美女と自家用の ヨットに乗った塩路の大きな写真が「労働貴族」の命取りとなった。
100億円の報酬、40億円の脱税、世界数都市に豪邸を構え・・・と日産を食い物にしてきた強欲もさることながら、今回の一件にはもう一つのウラがあるようだ。ルノ ーの収益の半分は日産から得ているのにゴーンが仏政府の意向を受けて日産をルノーに吸収合併させる計画で、それを日本人役員が嫌って、司法取引を使っての「クーデター」とい う声が聞かれる。あたっていると思う。
それにしても、この図式、前回とそっくりではないか。
余計な話で「4人の会」の話を締めることになった。
アトレ恵比寿「おはし」 (左から)山本竜三、阿部義章、川本皓嗣、宮崎健、の各氏 |
80歳ともなれば、何かと故障は出る。宮崎は2018年暮れの集まりの直後、入院手術 があり体重も20キロ近く減らした。山本くんもさらに体重減だという。
元気なのは阿部、川本の両「教授」だ。阿部・元早大教授は孫に会いに、ニューヨークや 大阪にいる二人の娘さん宅に毎年出かけている。川本・東大名誉教授は毎年のように岩波書店から 著作を出している。
恵送されてきた本の俳句論で、正岡子規の「写生」について、互いに思うところを メールでやり取りしたばかりだが、17文字のなかに凝縮して詠むわけだから、自ずと読み手の教養や 素養、学識によって理解に深浅が生じるものだというあたりに大いに共鳴した。
2020年夏は東京オリンピックがある。前回は宮崎は新人記者として三重支局で聖火ランナーの姿を追っていた。大会そのものはほとんど見なかった。今回「楽しみにしている」というのは山本君ただ一人で、残り3人は全く興味がない。川本君は「森、小池ほか関係者の動きが全く不愉快で見る気はありません。もっともいざとなると覗いてみたりするのですが」、という。阿部君など「そのころは孫に会いに米国東海岸に参っている予定です」という。まあ、世間の関心も我々4人の比率と同じくらいだろう。
猛暑の東京をさけて札幌に移ったマラソンのコースを見ると、私が青春を過ごした北大馬術部の前で選手たちは直角に曲がるようだ。それも2度も。馬場にTVカメラを入れさせて欲しいという要望があるだろう。そのときくらいはマラソンを見るかもしれないが、私もまたテレビのない八ケ岳で過ごす予定なので今度もまた「遠い五輪」になりそうだ。
2023年12月4日、3年ぶりに4人が集まった |
恒例になっていた「4人の会」もコロナ渦で中断していたが、下火になったのを機に2023年12月4日集まった。
場所は新宿の歌舞伎町を前にするビルの7階にある「隠れ坊」という大型居酒屋。
全員それぞれ大病をし、なんらか体力の衰えはぬぐえないものの、英気勃々たるもの。そろって平均寿命を超えた4人が新宿まで「歩いて」来れるだけでも大したものだが、何よりそれぞれの伴侶も元気なのは稀有のことではないか。
前回、恵比寿に集った時から3年。近況は、と言えば。(写真の左から)
山本龍三君 :メールに「相変わらず病院通いと閉じこもり気味の生活で、体力的にも歩いていて歳をとった女性に追い越される
ことがあるほど」とあるものの、この日の場所予約や、注文、勘定の割り算…てきぱき。その昔、私(宮崎)は
高校生の時に女の子から預かったラブレターを彼に届けたことがあるが今もそのままの風貌。
阿部義章君 :長くアメリカ暮らしで世界銀行の要職にあり、のち早稲田の教授に転じ恵比寿のハイクラスのマンション住まい
をしていた。「終の住処と考えていたのですが、余生をより静かに満喫するために、老人ホームに入る決心をし
ました」と師走のメール。
川本皓嗣君 :東大名誉教授にして日本学士院会員として今なお執筆や比較文学の講義にあたっている。「仕事とズーム講義で、
ほとんど家を出ない生活」だそうだが、最近も芭蕉の「猿蓑」にある連句について奥深い考察を学士院会報に書く
など矍鑠。この日の会場もネットで探してきた。
宮崎 健 :「膵がんの術後3年の生存率18・8%」というので、如何に生きるかより如何に死ぬかを考えてきたのだが、9月の
検診で執刀医から「レアケースですが完治です」と言われた。あと少し生き永らえそうで、この会合の前日まで、
疎開やスキーで過ごした山形県米沢市の白布温泉と小野川温泉に懐旧旅行してきた。
3年ぶりなので話題は取り留めもなく広がった。例えば、2,3日前に100歳で死んだアメリカのキッシンジャー元国務長官についてメディアでは評価するが、とんでもない。日本の頭越しに米中国交回復に動くは、南米はじめ世界のあちこちで紛争の種をまいてきた「戦争屋だ」なんていう具合。
米沢には全員行ったことがあり、宮崎の母の実家で五右衛門風呂の底板が見えるまで湯かけ遊びしたこと。床の間に飾ってあった日本刀で居合をして畳をざっくりやり当主に雁首並べて謝ったこと。蔵王に連れていかれたとき、直滑降しかできない川本なのに、従姉が「行け!」と追い出して鉄塔の下で雪煙を上げて倒れたので皆が死んだと思った時のことなど。その従姉は高齢ながら健在で、宮崎が先日まで過ごしてきた米沢旅行の「施主」ですっかり世話になったものである。
まあ、一年ごとでは間に合わないので半年ごとにでも飲み会をやろうと、新宿駅東口で別れた次第。