宮崎健君とは、かなり早くからのおつき合いという印象がある。だが考えてみると、にわかに親しくなったのは住吉高校三年のとき、修学旅行の世話役としていっしょに夜おそくまで計画をたて、おそろしく丁寧で行き届いた案内書を作って以来のことではないか。だとすると、大阪郊外の狭山のお宅によくお邪魔して、母上をはじめ、お父さんや虔二君、裕君の一家団欒に加えてもらったのは、むしろそのあと一年間の「浪人」時代、そしてたがいに札幌と東京に別れ別れになった大学生時代ということになる。
母上のひさ子さんは、それまでに会ったこともないたぐいの人だった。すらりと色白の長身でありながら、全体にふっくらした感じで、いつも着物を着た優雅な立ち居振舞いが、大阪という散文的な町にはそぐわず、どこか天上の一角からふわりと舞い下りた鶴のような風情だった。といって、いつもただお上品に構えておられたというわけではない。ときには何か思いに沈んでいるようすで、話し掛けるのがためらわれることもあったが、たいていはごく上機嫌で、息子たち直伝の大阪弁のジョークを飛ばしながら、こちらを歓待してくださった。きれいな標準語を話されたが、かすかに残る米沢の訛りにも、かえっておっとりした育ちのよさが感じられた。
お訪ねした最初から話がはずんで、健君がどこかへいなくなったあとも、平気でそのまま話し込むことがよくあった。鋭い感性とユーモアとそしてふわりと人を包み込むような温かみが魅力的で、例えば、父兄会で高校へ行ったとき、担任教師への面会を求めながら、その名前を失念し、息子が家でそう呼びつけているままに、「あのう、イカポン(イカレポンチの略)」と口走ってしまったことなど、吹き出すような失敗談などもお好きだった。こちらが野放図な行儀知らずだったので、それとなく諭されたり、たしなめられたこともたびたびある。
私が大学で文学を専攻することに決めたとき、それをことのほか喜んでくださって、その後はいわば同好の仲間として遇してくださった。はじめてフランス語の詩、ジャック・プレヴェールの『バルバラ』という作品を訳して、同人雑誌に載せたときは、こまかな言葉遣いに及ぶ詳しい感想を聞かせてくださった。橋本多佳子さんに習っているという俳句のことを話題にされるようになったのも、その頃のことである。こんな句を作った、こんな句を詠んだといっては、その折々の心境や、句づくりの苦心などを洩らされた。そのほとんどを忘れてしまったのは残念だが、二つだけ、強く印象に残っている句がある。
秋風にわが見てゐてよ 鶸(ひわ)つるむ
初めてうかがったとき、これはいかにも鋭く透明な、硬質といってよいほどの清潔感をたたえた美しい句だと思った。いま復誦してみると、もっと柔らかな、むしろ微笑に似た温かな視線が感じられるのが不思議だが、それでもやはり、きりりと何かに耐えているような強い緊張感という最初のあざやかな印象は、消えることがない。
雪の朝 妻ふりかえる五十の顔
この句は、「妻ふりかえる顔五十」という初案を、橋本先生の添削でこの形に直されたものだという。ふだん照れ屋で温顔のお父さんと、母上とがちらりと顔を見合わせた、ある一瞬の機微がたくみに捉えられていて、まだ二十そこそこの若僧にも面白かったものとみえる。その私自身すでに「妻ふりかえる五十の顔」を見られる歳になっている。
母上は、三人の品行方正なやんちゃ息子たちを心から愛し、つい甘やかしがちになるのを心配しておられたようだ。健君と私がそろって初めての大学試験に失敗したとき、私はさっさと大阪へ帰ってきた。ところが健君のほうは、そのまま誰にも知らせず、呑気に北海道旅行を楽しんでいたため、宮崎家では最悪の事態を予想して、大騒ぎになった。やっと連絡がついたあと、とりあえず予備校の入学申し込みなど、差し迫って必要な手続きを相談するために、母上がわざわざ住吉の拙宅まで足を運ばれたことを、つい昨日のことのように憶えている。いつもお世話になりながら、何か少しでもお役にたつことができたのは、あれが最初で最後ではないだろうか。
先日、古い書類をひっくり返していたら、日付のない母上からのお手紙が出てきた。弟の虔二君のために英語の面倒を見てやってほしいという懇切なご依頼で、この件についてもどれだけご期待に応えることができたのか、いまとなってはろくに記憶がなく、はなはだ覚束ない。たまたま俳句に触れておられる箇所を、少々引いておこう。
お正月は待ってゐたのに見えませんでしたネ。ゴチソウあなたの来るまでのこしておいたのよ。今年のあなたの進まれる道はどの様になさいました?期待してます。ガンバッテ下さい。
私は今年は三位の賞を頂きました。近頃いゝ句は心が育ってゐないと書けないと思ふ様になりました。たくさんいろいろなもの読みたいと思ひ、見たいと。同人句集が出来ることになり、一人二十句ですので今自選してます。時々何になるのかとおかしくもなりますが、日日つみかさねること、充実への、それを思って恥かしさを耐えてゐます。いゝ本あったら教へてね。
棟方版画展観ました。イヤだったアクのつよさがハット心打たれる発見をしました。心が育ってゐなかった私が恥かしく、好ききらひで思ひ上ってはいけないこと教へられました。(・・・)近頃足の調子、わりとよくてよろこんでゐます。天王寺の温室に寒風の中、一人でまゐり作句して来ました。健は四日市にまゐりました。一人きびしさに立むかってゐることでせう。昨夜電話よこしました。一度いってやって下さい。おひまの折りに。
久しぶりでお目にかかって、拙書に収めた俳句論のご感想も伺いたいと、健君と話し合っていたその矢先に、ご訃報に接した。いつでもお会いできると思っているうちに、はや数十年が経っていた。痛恨の極みである。

2009年12月15日の朝刊各紙に嬉しいニュースが載っていた。上の一文を寄せていただいた川本皓嗣氏が日本学士院会員に選ばれたのだ。母の一周忌に上梓した「雪散華」に上のような思い出の記「宮崎ひさ子さんのこと」を寄せていただいて16年の歳月がたっていた。顔写真つきの新聞記事を見て泉下の母は「どう、私の目利きは」と喜んでいることだろう。
新聞報道は以下だ。
日本学士院(久保正彰院長)は14日、総会を開き、大手前大学長で東京大名誉教授の川本皓嗣氏ら7人を新たに会員に選出した。会員数は133人となった。新会員の主な業績は次の通り。 ▽第1部(人文科学) ◇川本皓嗣(かわもと・こうじ) 東京大名誉教授。比較文学。各国の詩における同音異義語を使った技法を研究。日本の詩歌の独自性を世界に発信した。70歳。
川本皓嗣氏
私たちは大阪府立住吉高校の同級生である。彼は寄稿の中で、小生と仲良くなったのは修学旅行の栞づくり云々と書いている。それもあるが親しくなった出来事は実は数学である。2年の時だと思うが、二人とも100点満点で16点だった。浮かぬ顔で互いの答案を見せ合った。挙句どうして我々は数学で落第点しか取れないのか分析した。
結論はこうだ。できる奴は定理など始めからなんの疑いもなく受け入れている。それに比して我々は、なぜその定理になるのか自分で証明しようと大半の時間を無駄にすごす。我々の足踏みをよそにはるか先に彼らが行く理由はそこだ。そうして疑いもなく受け入れる人生より、呻吟する我々の人生の方が意味がある。
屁理屈極まるが、文科系と理科系の選択肢はここで決まった。大学は北海道と東京に分かれたが、夏休みには札幌のわが下宿にやってきて、関西に帰省する私と入れ替わりになが逗留した。ともに金がなく小樽の丘の上でなけなしの金を分け合って私は祝津という港町に、彼は鈍行列車で毎食15円の駅そばだけ食べながら20数時間かけて上野へ向かった。青春の日の焼け付くような思い出がよみがえってきた。互いの結婚式ではともにスピーチに立った。
母は「きっといい学者になるわよ」と言っていたが、そのとおり比較文学で才能を発揮した。語学に並外れた才能を持つ男で、夏休み高校でフランス語の集中講義があったとき、終了後私はアーベーセーだけ残ったが、彼は一通りの会話ができた。韻の研究を主に比較文学といううってつけの世界で新境地を開いていった。母は、今頃「川本君おめでとう」と言っているだろう。私には「いい新聞記者になるわよ」とは一度も言わなかったが。
彼は定年退官後、私の小中学校の母校でもある帝塚山学院の大学で教壇に立ち、その後現在の大手前大学の学長に迎えられた。西宮市御茶家所町の学内の住宅に住んでいるため最近は会わないが、東京・調布の自宅にいるころは小生の一文にもある阿部義章君、それに山本竜三君など小中高通じての友人と恵比寿ガーデンプレイスで時どき飲む会を開いていた。「おめでとう。また4人で一杯飲もう」とメールした。家内は新聞記事を見て、我々が日吉にいたころ川本君に貸した電車賃千円を思い出した。男と女の反応は相当違うものだ、と認識した。
(宮崎 健 2009.12.20記)