「李登輝氏慶大講演原稿全文」

経済新人会の森本代表、三田祭幹事会の皆様、ご来賓の皆様、こんにちは! ただ今ご紹介を受けました 李登輝です。

この度、三田祭開催を前にして、金美齢女史と経済新人会の森本代表、河野先生が十月十五日にわざわざ 台湾にいらっしゃいました。そして私に三田祭、経済新人会主催の講演で「日本精神」について話してもらえ ないかと招聘(しょうへい)状をいただきました。私はこれは難しい題目だなあと知りながら、しかし、 即座によいでしょうと返答しました。これにはいろんな理由があります。

一つは三田祭幹事会の皆さんが若き学生であり、そして日本精神について知りたいということは、 日本の現状と将来について、考えに考えたあげく、この問題を私に求めたものと思います。こんな立派な若者 が日本にたくさんいることを知り、すっかり私の心を打つものがありました。

第二に私は、かつて日本の植民地・台湾で生まれ、かなり日本および日本についての教育を受け、 最近はまた、新渡戸稲造氏の武士道、すなわち日本人の精神について、その解題(分析)を書き、日本精神に ついてかなり考える機会を与えられました。

いま、私たちの住む人類社会は未曾有の危機に直面しています。地球規模の大戦や骨肉相食(は)む血みどろ の内戦や紛争の二十世紀が終わり、平和や繁栄の時代が到来したと安堵(あんど)したのも束(つか)の間、 世界ではますます不穏が続き、二〇〇一年の九月十一日にニューヨークやワシントンを多発的に襲った未曾有 のテロ事件が発生しました。

まさに、人類社会自体が危機竿頭(かんとう)の大状況に直面しているときだけに、世界有数の経済大国で あり、平和主義である「日本および日本人」に対する国際社会の期待と希望は、ますます大きくなると断言 せざるを得ません。数千年にわたり積み重ねてきた「日本文化」の輝かしい歴史と伝統が、六十億人の人類 全体に対する強力な指導国家としての資質と実力を明確に示しており、世界の人々から篤(あつ)い尊敬と信頼 を集めているからです。

この指導国家の資質と実力とは何でしょう。

これこそは日本人が最も誇りと思うべき古今東西を通じて誤らぬ普遍的価値である日本精神でしょう。 人類社会がいま直面している恐るべき危機状態を乗り切っていくために、絶対必要不可欠な精神的指針なので はないでしょうか。

しかるに、まことに残念なことに一九四五年以後の日本において、このような代え難い日本精神の特有な 指導理念や道徳規範が全否定されました。日本の過去はすべて間違っていたという「自己否定」な行為へと 暴走して行ったのです。

日本の過去には政治、教育や文化の面で誤った指導が有ったかもしれませんが、また、素晴らしい面も たくさんあったと私はいまだに信じて疑わないだけに、こんな完全な「自己否定」傾向がいまだに日本社会の 根底部分に渦巻いており、事あるごとに、日本および日本人としての誇りを奪い自信を喪失させずにおかない ことに心を痛めるものの一人であります。これらが、私をして三田祭講演の招聘状を即座に承諾させた 理由でもあります。

皆様に日本精神は何ぞやと、抽象論を掲げて説明するだけの実力を私は持っておりません。 (司馬遼太郎の著書「台湾紀行」に“老台北”として登場する実業家の)蔡焜燦(さいこんさん)さんの書か れました「台湾人と日本精神」みたいな立派な本をもって説明することもできません。私としては日本の若い 皆さんに、私が知っている具体的な人物や、その人の業績を説明し、これが日本精神の表れです、普遍的価値 ですと説明した方が、皆さんにもわかりやすく、また、日本人としての誇りと偉大さを皆で習っていけると考える ものであります。

台湾で最も愛される日本人の一人、八田與一(はったよいち)について説明しましょう。

八田與一といっても、日本では誰もピンとこないでしょうが、台湾では嘉義台南平野十五万町歩 (一町歩はおよそ一ヘクタール)の農地と六十万人の農民から神のごとく祭られ、銅像が立てられ、 ご夫妻の墓が造られ、毎年の命日は農民によりお祭りが行われています。彼が作った烏山頭(うざんとう)ダムとともに 永遠に台湾の人民から慕われ、その功績が称(たた)えられるでしょう。
 

八田與一氏は一八八六年に石川県金沢市に生まれ、第四高等学校を経て一九一〇年に東大の土木工学科を 卒業しました。卒業後まもなく台湾総督府土木局に勤め始めてから、五十六歳で亡くなるまで、ほぼ全生涯 を台湾で過ごし、台湾のために尽くしました。

一八九五年に日本の領土になったころ、台湾は人口約三百万人、社会の治安が乱れ、アヘンの風習、 マラリアやコレラなどの伝染病などの原因で、きわめて近代化の遅れた土地であり、歴代三代の台湾総督は 抗日ゲリラ討伐に明け暮れた時代でありました。第四代の児玉(源太郎)総督が民政長官の後藤新平氏を伴って 赴任した一八九八年ごろに、台湾の日本による開発が初めて大いに発展しました。

八田與一氏が台湾に赴任するのは、後藤新平時代が終了した一九〇六年以降のことです。後藤新平時代に 台湾の近代化が大いに進んだとはいえ、以前があまりに遅れていたこともあり、八田氏が精力を傾けることに なる河川水利事業や土地改革はまだまだ極めて遅れていました。

台湾に赴任してまもなく、台北の南方、桃園台地を灌漑(かんがい)する農業水路の桃園大圳(とうえんたいしゅう)の 調査設計を行い一九一六年に着工、一九二一年に完成しましたが、灌漑面積は三万五千町歩でありました。 これが今日の石門ダムの前身であります。

この工事の途中から旧台南州嘉南大圳水利組合が設立され、八田氏は総統府を退職して組合に入り、十年間 をその水源である烏山頭貯水池事務所長として、工事実施に携わりました。嘉南平野十五町歩を灌漑するため に、北に濁水渓幹線、南に烏山頭ダム幹線の二大幹線を築造し、曽文渓からの取水隧道(しゅすいずいどう)に よってダムに一億六千万トンの貯水を行ったものであり、土堰堤(どえんてい)築造工法としてセミハイドロ リックフィル(反射水式)工法が採用されました。

この工事の完成によってほとんど不毛のこの地域十五万町歩に毎年八万三千トンの米と甘蔗(かんしゃ) =サトウキビ=その他の雑作が収穫されるようになりました。

その時分では東洋一の灌漑土木工事として、十年の歳月と(当時のお金で)五千四百万円の予算で一九三〇年 にこの事業を完成したときの八田氏はなんと、四十四歳の若さでありました。嘉南大圳の完成は世界の土木界 に驚嘆と称賛の声を上げさせ、「嘉南大圳の父」として六十万の農民から畏敬(いけい)の念に満ちた言葉で称 えられました。

八田與一氏への恩を忘れないようにしたのは何でしょうか? 古川勝三氏の著作からの引用ですが、 八田與一があの若さでこの偉大な仕事を通じて台湾に残したものが三つあると思います。

ひとつは嘉南大圳。不毛の大地といわれた嘉南平野を台湾最大の穀倉地帯に変えた嘉南大圳を抜きにして 八田氏は語れません。二つ目は八田氏の独創的な物事に対する考え方です。今日の日本人が持ち得なかった 実行力と独創性には目を見張るものがあります。三つ目は八田氏の生き方や思想は、我らに日本的なものを 教えてくれます。

これら諸点について具体的な諸事実を並べて話しましょう。

まず嘉南大圳の特徴についてみましょう。(1)灌漑面積は十五万町歩、水源は濁水渓系統五万二千町歩、 三年輪作給水法(2)烏山頭ダムの規模、堰堤長千二百七十三メートル、高さ五十六メートル、 給水量一億五千万トン、土堰堤はセミハイドロリックフィル工法採用(3)水路の規模、給水路一万キロ、 排水路六千キロ、防水護岸堤防二百二十八キロ。

このような巨大な土木工事をわずか三十二歳で設計に取りかかり、三十四歳で現場監督として指揮をした 八田氏の才能には頭が下がります。戦後の日本における近代農業用水事業の象徴である愛知用水の十倍を超え る事業なんだと考えれば、うなずけるものと思います。そして烏山頭は東洋唯一の湿地式堰堤であり、 アメリカ土木学会は特に「八田ダム」と命名し、学会誌上で世界に紹介したものです。

しかし嘉南大圳が完成しても、それですべてが終わったというわけにはいきません。ハードウエアは完成 しましたが、それを維持管理し有機的に活用するためのソフトウエアが大切です。農民はその大地を使って 農作物を作り、生産力を上げなければ嘉南大圳は生きたものになりません。農民への技術指導が連日、 組合の手によって繰り返されました。その甲斐あって三年目には成果が顕著になってきました。かくして不毛 の地、嘉南平野は台湾の穀倉地帯に変貎(へんぼう)を遂げたのです。

その成果には(1)農民が被る洪水、干魃(かんばつ)、塩害の三重苦が解消したこと(2)三年輪作給水法によ って全農民の稲作技術が向上したこと(3)買い手のない不毛の大地が給水によって地価が二倍、三倍の上昇を 招き、全体では九千五百四十万円もの価値を生んだ。この金額は当時の全工事費を上回る金額であった(4) 農民の生活はこれによって一変し、新しい家の増築や子供の教育費に回す余裕がでてきた-ことがあげられ ます。

次は八田氏の独創的なものの考え方を述べなければなりません。以上述べた嘉南大圳の巨大な工事に 対して、当時として常識はずれの独創的方法が採用されました。

その一つはセミハイドロリックフィル工法の採用です。この方法は東洋では誰もてがけたことがなく、 アメリカでさえもこのような大きな規模の工事では採用されていなかった。この工法を採用したのには、 それなりの理由がありました。

まず地震です。この地帯は断層があちこちに発生しており、地震強度は六度以上もあります。この工法は 粘土による中心羽金層を堰堤の中心に造り、浸透水を遮断して堰堤に決壊を防ぐアースダム方式です。 この工法を遂行するには、三百トンの大量の土砂と中心羽金層を造る微細な粘土を必要としますが、この地域 ではこれを供給する場所がありました。

この未経験の工法を採用するに当たり、徹底的な机上の研究とアメリカ視察を行いました。そして、この工 法の採用と設計が間違いでない確信を持って工事にとりかかったのです。またコンクリートコアの高さと余 水吐をめぐって、セミハイドロリックフィルダムの権威者ジャスチンと大論争しますが、自説を譲らず 、設計どおりに構築しました。七十年経過した今日でも、堰堤は一億トン以上の水を堰(せき)とめて、 八田ダムの正確性を証明しています。

二つ目は大型土木機械の使用です。労働力のあまっている時代としては常識はずれでした。大型機械の 使用については組合や当時の請負業者が反対していました。購入予算は四百万円に達し、堰堤工事と烏山頭 隧道工事費の25%にあたります。

八田氏の意見は、これだけの堰堤を人力で造っていては十年どころか二十年かかってもできない。工期の 遅れは十五万町歩の土地が不毛の土地のまま眠ることになる。高い機械で工期が短縮できれば、それだけ早く 金を生む。結果的には安い買い物になる-というものでした。この考え方は当時としては偉大な見識と英断と 見なければいけないでしょう。これら大型土木機械はその後の基隆港の建設と台湾開発に非常な威力を発揮し ました。

三つ目は烏山頭職員宿舎の建設です。「よい仕事は安心して働ける環境から生まれる」という信念のもとに、 職員用宿舎二百戸の住宅をはじめ、病院、学校、大浴場を造るとともに、娯楽の設備、弓道場、テニスコート といった設備まで建設しました。

それ以外にまたソフトウエアにも気を配り、芝居一座を呼び寄せたり、映画の上映、お祭りなど、従業員だ けでなく家族のことも頭に入れて町づくりをしています。工事は人間が行うのであり、その人間を大切にする ことが工事も成功させるという思想が、八田氏の考えでした。

四つ目は三年輪作給水法の導入です。十五万町歩のすべての土地に、同時に給水することは、一億五千万ト ンの貯水量を誇るとはいえ、烏山頭ダムと濁水渓からの取水量だけでは、物理的に不可能でした。ならば当然 その給水面積を縮小せざるを得ないと考えるのが普通ですが、八田氏の考えは違っていました。土木工事の技 術者はダムや水路を造りさえすれば、それで終わりであると八田氏は考えなかったのです。

ダムや水路は農民のために造るのであれば、十五万町歩を耕す農民にあまねく水の恩恵を与え、生産が共に 増え、生活の向上ができて初めて工事の成功であると考えていました。そのためには、十五万町歩の土地に住 むすべての農民が、水の恩恵を受ける必要がある。

そしてそのためには、すべての土地を五十町歩ずつ区画し、百五十町歩にまとめて一区域にして、水稲 (すいとう)、甘蔗、雑穀と三年輪作栽培で、水稲は給水、甘蔗は種植期だけ給水、雑穀は給水なしという形で、 一年ごとに順次栽培する方法を取りました。給水路には水門がつけられ、五十町歩一単位として灌漑してきた のです。

最後に、雄大にして独創的工事を完成させた八田與一とはどんな人だったのか、そこに焦点を当てて考えて みましょう。

八田與一氏は技術者として抜群に優れていたばかりでなく、人間としても優れていました。肩書や人種、 民族の違いによって差別しなかったのです。天性ともいえるかもしれませんが、これを育(はぐく)んだ金沢と いう土地、いや日本という国でなければかかる精神がなかったと思います。

嘉南大圳の工事では十年間に百三十四人もの人が犠牲になりました。嘉南大圳完成後に殉工碑が建てられ、 百三十四人の名前が台湾人、日本人の区別なく刻まれていました。

関東大震災の影響で予算が大幅に削られ、従業員を退職させる必要に迫られたことがありました。その時、 八田氏は幹部のいう「優秀な者を退職させると工事に支障がでるので退職させないでほしい」という言葉に対 し、「大きな工事では優秀な少数の者より、平凡の多数の者が仕事をなす。優秀なものは再就職が簡単にでき るが、そうでない者は失業してしまい、生活できなくなるではないか」といって優秀な者から解雇しています。

八田氏の人間性をあらわす言葉でしょう。八田氏の部下思いや、先輩や上司を大事にすることでは、 数え切れないほどエピソードがあります。

八田氏は一九四二年三月、陸軍からの南方開発派遣要求として招聘されます。その年の五月七日、 一四、〇〇〇トンの大型客船「大洋丸」に乗ってフィリピンへ向かう途中、アメリカ潜水艦の魚雷攻撃に遭い、 大洋丸が沈没。八田氏もこのため遭難しました。享年五十六歳でした。妻の八田外代樹(とよき)は三年後、 戦争に敗れた日本人が一人残らず(台湾から)去らねばならなくなったときに、烏山頭ダムの放水口に身を 投じて八田氏の後を追いました。御年四十六歳でした。

私の畏友、司馬遼太郎氏は「台湾紀行」で、八田氏について、そのスケールの大きさをつぶさに語りつく しています。

私は八田與一によって表現される日本精神を述べなければなりません。何が日本精神であるか。 八田氏の持つ多面的な一生の事績を要約することによって明瞭(めいりょう)になります。

第一のものは、日本を数千年の長きにわたって根幹からしっかりと支えてきたのは、そのような気高い 形而(けいじ)上的価値観や道徳観だったのではないでしょうか。国家百年の大計に基づいて清貧に甘んじ ながら未来を背負って立つべき世代に対して、「人間いかに生きるべきか」という哲学や理念を八田氏は 教えてくれたと思います。「公に奉ずる」精神こそが日本および日本人本来の精神的価値観である、 といわなければなりません。

第二は伝統と進歩という一見相反するかのように見える二つの概念を如何(いか)にアウフヘーベン(止揚) すべきかを考えてみます。現在の若者はあまりにも物資的な面に傾いているため、皮相的進歩にばかり目を 奪われてしまい、その大前提となる精神的な伝統や文化の重みが見えなくなってしまうのです。

前述した八田氏の嘉南大圳工事の進展過程では、絶えず伝統的なものと進歩を適当に調整しつつ工事を進め ています。三年輪作灌漑を施工した例でも述べたように、新しい方法が取られても、農民を思いやる心の中 には伝統的な価値観、「公議」すなわち「ソーシャル・ジャスティス」には些(いささ)かも変わるところが ありません。まさに永遠の真理であり、絶対的に消え去るようなことはないものです。日本精神という本質に 、この公議があればこそ国民的支柱になれるのです。

第三は、八田氏夫妻が今でも台湾の人々によって尊敬され、大事にされる理由に、義を重んじ、まことを 持って率先垂範、実践躬行(きゅうこう)する日本的精神が脈々と存在しているからです。日本精神の良さは 口先だけじゃなくて実際に行う、真心をもって行うというところにこそあるのだ、ということを忘れてはな りません。

いまや、人類社会は好むと好まざるとにかかわらず、「グローバライゼーション」の時代に突入しており、 こんな大状況のなかで、ますます「私はなにものであるか?」というアイデンティティーが重要なファクター になってきます。この意味において日本精神という道徳体系はますます絶対不可欠な土台になってくると思う のです。

そしてこのように歩いてきた皆さんの偉大な先輩、八田與一氏のような方々をもう一度思いだし、勉強し、 学び、われわれの生活の中に取り入れましょう。

これをもって今日の講演を終わらせてもらいます。ありがとうございました。


台湾を民主化した「李登輝」元総統死す

 中国に屈しなかった「親日家」の素顔

李登輝
李登輝・元総統
台湾の李登輝(リートンホイ)・元総統(在任1988~2000年)が2020年7月30日夜、多臓器不全のため台北市内で死去した。2月に飲み物が気管に入り、台北市内の病院に緊急入院。その後肺炎となり多臓器不全のため97歳で死去。97歳だった。

2020年8月9日、安倍晋三首相の意向にて弔問団の団長となった森喜朗らが追悼場が設置された迎賓館「台北賓館」を訪れ、弔意を表明。この台湾への弔問団は日本台湾交流協会と超党派議員連盟である日華議員懇談会が派遣。李登輝の死去後、海外から派遣された最初の弔問団となった。

◇ ◇ ◇

産経新聞連載「李登輝秘録」の取材で、同紙記者が台北郊外の李登輝宅を訪れたとき、李登輝は右手を首まで水平に持ち上げ、「僕はここまで、22歳まで日本人だったんだ」と発言している。李氏は学徒出陣し、陸軍少尉として名古屋で終戦を迎えている。

 日本統治下の台湾出身の評論家、金美齢氏は言う。

「台湾と日本は半世紀にわたり歴史を共有しました。自我を排し客観的に解決策を考えることは、日本の教育で学んだとおっしゃっていました。勤勉さ、責任感といった日本精神の影響も受けて育っておられます。私心がなく公に尽くす姿勢が一貫していました」

 1923年、台北郊外生まれ。父親は警察官だった。旧制台北高校に進む。読書好きで、新渡戸稲造の『武士道』、鈴木大拙や西田幾多郎の著作などは生涯の糧となった。京都帝国大学(現・京都大学)で農業経済学を学ぶが、学徒出陣。46年、台湾大学に編入学した。

 二度にわたりアメリカに留学、研究を深める。農業問題についての報告が、蒋介石総統の長男、蒋経国に評価され、71年に国民党に入党。学者出身の政界人として重用される。副総統だった88年、蒋経国総統の病死に伴い、総統に就任。国民党政権は中国大陸出身者である「外省人」が中心。李氏は台湾出身者の「本省人」として初めての総統だ。

 ジャーナリストの門田隆将氏は言う。

「後ろ盾もなく、形だけの総統、傀儡にすぎないと思われていました。蒋家、国民党、軍と強大な勢力がありましたが、本心を隠して大物に頭を下げ、ひとりひとり排除して民主化を進めた。静かなる革命でした。例えば軍の大物である?伯村を、行政院長(首相)に起用。失敗するとわかっての智謀です。持ち上げてから消していきました」

 95年、李氏がかつて留学した米コーネル大学を訪れたのを機に中台関係は悪化。台湾が「一つの中国」の原則から離れていくと警戒した中国は95年と96年に台湾に向けてミサイル演習を行い、いわゆる台湾海峡危機が起きた。

「そのとき、李氏は〈怖がることはない。シナリオは準備してある〉、と民心の動揺を押さえ、ひきしめた。それは見事な指導力だった」(門田氏)

96年に台湾総統選挙で初の直接選挙を実現させ当選。歴史や文化教育で台湾人の意識を自然に高めた。99年、中台関係を「特殊な国と国との関係」(二国論)と位置づけ再び中国の強い反発を招いたが動じなかった。2000年に総統を退任。

 00年3月の総統選では後継者の国民党候補・連戦氏が台湾独立志向の野党・民進党の陳水扁氏に惨敗。初の政権交代につながった。李氏は責任をとる形で国民党主席を辞任。陳総統支持の立場に転じ、国民党は李氏の党籍を剥奪した。

 08年以降の国民党・馬英九(マーインチウ)政権の対中融和路線を批判。再び民進党に近づいた。12年1月の総統選では同党候補の蔡英文(ツァイインウェン)氏を応援、一定の影響力を示した。在任中に李氏が推進した台湾の歴史や文化を学ぶ教育は、若者たちの「台湾人」としての意識を高め、14年3月に立法院(国会)を占拠した「ひまわり学生運動」の原動力になった。

「総統時代から取材をしていますが、どう考えるかと逆に質問をしてくる。探求心が旺盛でした」(門田氏)

 日本語で考える習慣は続いていた。

「書庫を見せて下さいましたが、日本の本でぎっしり。しかも新しいものが多く、驚いた。軍事や科学技術にも詳しい勉強家で話し好きです」(評論家の宮崎正弘氏)

 来日を希望してもなかなかビザが発給されなかった。

「中国に気兼ねする動きが外務省や政治家にありました。01年、心臓病の治療のためでもすんなりとはいかず、当時の森喜朗首相のおかげでビザが下りた。翌年、講演目的での来日は実現できませんでした」(金氏)

 国際教養大学学長の中嶋嶺雄氏らの尽力で07年に来日した際は、靖国神社を参拝。台湾で海軍志願兵となり、マニラで戦死した兄の李登欽氏を慰霊した。

靖国神社問題では2007年5月末から6月初旬にかけて訪日した際、日本外国特派員協会で開かれた記者会見で「“靖国問題”とは中国とコリアがつくったおとぎ話」と発言した。

「靖国参拝への批判や中国からの横槍に揺らぐことがなかった。哲学を持った政治家で、迫力や器が違う。日本はアメリカに甘えすぎているとも考えていた」(外交評論家の田久保忠衛氏)

 来日は18年の沖縄訪問が最後だが、日本での言論出版活動を続けた。台湾に巨大な灌漑施設を整備した八田與一氏の功績について繰り返し伝えるなど日本の台湾統治を客観的に評価した。

「中国にひれ伏すとは、毅然たる日本はどこにいったのか、と親身に訴えた。日本は自信を持っていい、しっかりしなさいと励ましても下さった」(門田氏)

 実践躬行(じっせんきゅうこう)という言葉を大切にした。発言だけでなく、実際に行動で示した人だ。

(以上 2020,12.31 デイリー新潮、産経新聞から)


八田與一の事蹟、生涯などの関連サイトを集めたHPがあります。「烏山頭水庫(うざんとうダム)」フロントページ下


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