私たちの山小舎の場所は「長野県南佐久郡」にあって「南牧村」(みなみまきむら)の中だ。ところがほんの近くにもう一つ「南牧村」があるのだ。
このことに気づいたのは、この山墅にやってきて間もない頃、長野オリンピックのずっと前、上信越道が出来る前だった。
当時、東京から八ヶ岳までいろいろなルートを試していた。どれも時間はかかるが春によいところ、
秋がすばらしいところ、鮎がおいしいところ、と試行錯誤を繰り返していた。関越道を藤岡で下りて(ここまでしかなかった)国道254号を佐久目指して
走り、下仁田警察を過ぎたあたりだった。目前の道路標識に「←南牧村」とあるではないか。
確かに方角は合っている。「こんな所から近道があったんだ!」とうれしくなって曲がりかけたが、初めてのルートだ。途中、険しい山道ではないかと
一瞬不安がよぎった。そのとき持っていた地図を広げて見ると、なんだか途切れている。狐に摘まれたような気持ち
で、冒険は取りやめ、とりあえず以前通ったことがある、内山峠のトンネルを抜けてコスモス街道
(そのときはこんなしゃれた名前はついてなかったが)を走り、中込から
141号で山小舎にはいった。
その後よくよく調べてみると、あれは「群馬県甘楽郡(かんらぐん)」にある「南牧村」
(なんもくむら)だという。長野県側の北相木村や南相木村を挟んでいるとはいえ、
ほとんどお隣に二つの「南牧村」はある。どういういきさつから、こんなややこしい
ことになったのかわからないが、ドライバーにとっては頭を悩ますことだ。
後日、これを逆にたどることができた。国道141号線を走っていて、臼田町で温泉の看板
を見つけた。近くの不老温泉に町営の保養センター「湖月荘」
(電話0267−82−5454)があるという。さっそく県道63号
(下仁田臼田線)を走り、ダム湖のそばにあるこの温泉に入って、安くていい湯を満喫した。
保養センターの人に、少し先が田口峠で、今は少し雪があるけど、その4WDなら大丈夫、下仁田まで行けま
すよと教えられた。そこで、はたと気づいたのだった。あの時の道だ、と。さっそくチャレンジした。川沿いの九十九折れ
の道はけっこう険しく時間もかかったが、紅葉や新緑の頃はさぞかしと思われる景色が連続していた。
山深い里を抜けたところで、はたして以前さんざ迷った下仁田の警察署の前に出た。途中から県道は47号(
下仁田上野線)と名前が変わった。
この標識にある上野とは、あのJALジャンボ機が遭難した(「ブン屋の戯れ言」の中の「JALジャンボ機御巣鷹山に消ゆ」に記事)
群馬県の上野村である。
2007年9月6日、この地方を台風9号が襲った。静岡県御前崎に上陸して関東を直撃、日本列島を見事なまで縦断して秋田県に抜け、北海道に再上陸した。 猛烈な雨だったようだ(東京でも風雨は強かった)。私がいる長野県南牧村(みなみまきむら)は被害はなかったものの、 すぐ隣の群馬県南牧村(なんもくむら)では4地区につながる県道などが土砂崩れで不通となり、226世帯488人が孤立状態となっていることが8日になって分かった。
孤立しているのは大塩沢、星尾、六車、熊倉の4地区だという。何回か通ったところなので、地名に記憶があるが、村の 人口は2969人(平成18年度末現在)、前年10月から高齢化率が全国1位だったとは知らなかった。村の真ん中の道路だって狭い記憶がある。 それが6日夜から7日未明にかけての土砂降りで道路が川になった。年間降雨量の三分の一が一晩で降ったというからすごい。県道や村道計10本が土砂崩れで寸断され、停電、断水した。
自衛隊も出動、地元消防団などで8日、4地区に村のボランティアが作ったおにぎり約1400個などを山道を歩いて搬送し、 県は備蓄していた乾燥米約4000袋(1袋100グラム)と水(500ミリリットルペットボトル)約2900本を現地に送ったという。道路の仮復旧だけで1週間かかった。近いところにある がそれくらい地勢が違うのだ。
「南牧村」、と言っても、いま現在私たちが山墅を構えている長野県側の「南牧村」(みなみまきむら)のことだが、今でこそ高原野菜のメッカで「キャベツ御殿」とか「レタス御殿」 が立ち並び、冷涼な空気の中に週末を過ごすべく首都圏からやってくる人が多いが、少し前までススキが生い茂り「野辺山が原」と呼ばれる寒村だった。戦後も開拓のために入植した人たちの 汗と涙が染み付いたところなのだ。
島崎藤村は明治32年(1899)、小諸義塾の教師として長野県小諸町に赴任し、以後6年をここで過ごした。教師をしながら当時は野辺山が原と呼ばれていた 「南牧村」(みなみまきむら)を訪れていて、「千曲川のスケッチ」や「藁草履」などの作品にこの地の様子を書き残している。「南牧村」がスタートしたのは明治22年だから、すでに 文中では「南牧」として書かれているが、現在の小海線はまだ開通していなかった。小諸から小海まで通じたのが大正8年、小淵沢までの全線開通は昭和10年だから、藤村は徒歩でこの地に足を 踏み入れたことになる。
明治22年に付けられた「南牧村」という村名は「北御牧」に対応する名前であろう。浅間山の南麓に広がる広大な佐久平は、御牧原(みまきがはら)を真ん中
にした牧場地帯だった。御牧原は平安時代から鎌倉時代にかけて、朝廷の馬を育てる御料牧場である「望月牧」(もちづきまき)があったところ。御料牧場は、甲斐国に3牧、武蔵国に
4牧、信濃国に16牧、合計23牧あった。中でもこの望月牧は最大で、ここで産出した馬は、「望月駒」として全国に知られ、毎年20頭が朝廷に献上されていたという。
ここから南にかけて今なお北御牧、南牧村、牧ヶ原、馬瀬(ませ)、御馬寄、鞍掛、御牧神社など、「牧」や「馬」のついた地名や神社の名前が残っているのはその名残だ。
当時「野辺山が原」と呼ばれた南牧村もやはりそうした馬産地のひとつだった。南牧村内や川上村にかけての路傍や神社のそばに馬頭観音を見かけるのは人々の暮らしが馬と共にあったことの 証である。
「南牧村」の沿革 1876年(明治9年)5月30日 佐久郡板橋村と樋沢村が合併し大明村できる。 1879年(明治12年)1月14日 南佐久郡制施行。 それまで佐久郡にあった大明村、平沢村、広瀬村、海ノ口村、海尻村が 南佐久郡に編入。 1889年(明治22年)4月1日 市町村制施行。南佐久郡大明村の旧板橋村地区、平沢村、広瀬村、海ノ口村、 海尻村が合併し南佐久郡南牧村が発足。現在に至る。島崎藤村が描く南牧村あたり
小諸から北佐久郡岩村田町(現在の長野新幹線と小海線が交差する佐久平駅あたり。小海線に岩村田駅がある)へ出ると、 南に続く甲州街道(佐久往還と呼ばれ、ほぼ国道141号や旧道に沿っている)は割合に平坦な、広々とした谷を貫いてい る。この町の「金(かね)の手」の角にある石には「これより南、甲州街道」と刻まれ、南に行くと八つが岳山脈の麓へかけて南佐久の谷が開けている。
千曲川はこの谷を流れる大河で、沿岸に住む人民の風俗方言も川下とは多少違う。岸を溯るにつれて、大河も谿流の勢に変る。河心が右岸の方へひどく傾(かし)い でいるので、左岸は盛上がったような砂底の顕れた中に、川上から押流された大石が埋っている。右岸の蔭に甲州街道が通り、越後商人は昔からここを通行していた。 直江津の塩物ももっぱらこの道を千曲川に添うて上がってきた。
臼田、野沢の町々を通って、馬流(まながし=現在の小海町役場があるあたり)というところまで岸に添うて遡ると河の勢も確かに一変して見える。その辺には、 川上から押流されて来た恐しく大きな石が埋まっている。その間を流れる千曲川は大河というよりも寧ろ大きな谿流に近い。この谿流に面した休茶屋には甲州屋 としたところもあって、甲州に近づいた気がする。山を越して入込んで来る甲州商人の往来するのも見られる。
さらに千曲川の上流に遡ると、川上の八カ村というのがある。南牧(みなみまき)、北牧、相木、などの村々が散らばっている。信州の中でも最も不便な、白米は病人 だけに食べさせるほどの、貧しい、荒れた山奥の村々だ。このあたりからは、高く聳えた金峯山、国師山、甲武信岳、三国山が望める。甲州にまたがる八つが岳の山つ づきには、赤々とした大崩壊(おおくずれ)の跡も見える。この谷の突当ったところが海の口村で、その奥の板橋村は野辺山が原がすぐ後に迫っているところだ。
海の口村は、往時、海の口の城主が甲州の武士と戦って、戦死したと言伝えられる(武田信玄16歳の初陣)場所だが、もとは河岸に在ったのだが、千曲川の氾濫に遭い、村民は高原の裾へ移住 したもので、風雪を防ぐ為に石を載せた板葺の屋根が多い。
この辺に住んでのは慓悍な信州人で、その職業には、牧馬、耕作、杣(そま)、炭焼――わけても牧馬には熱心だ。この人たちが馬を追いながら生活している野辺山が原 というのは、天然の大牧場といってよいところで、広さは三里四方、秣(まくさ)に適した灌木と雑草とが生い茂って、ところどころの木蔭には泉が溢れ流れている。 ここでは女ですらよく馬の性質を熟知していて、男は少年のうちからて乗馬の術に長(た)けている。
女は男を助けて外でかいがいしく働き、格好も働きやすいようにみな股引(ももひき)、脚絆で、盲目縞の手甲姿で編笠をかぶっている。海の口村が馬産地である証拠 に、一頭や二頭の馬を飼ってない家はないほどで、人々の財産は馬だ。海の口村の出はずれにある鹿の湯という一軒家がある。ここは、樵夫(きこり)の為に地酒を 暖めて出したり、百姓の為に干魚をあぶって出す山あいの温泉宿だ。
野辺山が原は広さが五里四方あり、荒涼とした原の中には、蕎麦なぞを蒔いたところがあって、それを耕す人達がところどころに僅かな村落を形造っている。板橋村は その一番取付にある村だ。その後合併して「海の口村」となった。
野辺山が原の馬市は一年ごとに盛んに成ったのは陸軍騎兵附の大佐である某宮殿下が、寵愛のファラリイスというアラビア産馬」を種馬として南佐久へ貸付られ、その 血を分けた馬が三十四頭をかぞえるまでになり殿下はとうとう野辺山が原へ行啓された。殿下の行啓と聞いて、四千人余の男女が野辺山が原に集り、三百頭以上の馬市 が立つほどだった。
ここで怪我をすると最寄の医者は平沢(清里の萌木の里の東側あたり)に骨つぎの名人といわれるのがあるくらいで、馬の背に 患者を乗せて診てもらいに行かねばならなかった。
野辺山が原からの光景を藤村はこう描写している。
晴れて行く高原の霧のながめは、どんなに美しいものでしょう。すこし裾の見えた八つが岳が次第に嶮しい山骨を顕わして来て、終に紅色の光を帯びた頂まで見られ る頃は、影が山から山へ映(さ)しておりました。甲州に跨る山脈の色は幾度変ったか知れません。今、紫がかった黄。今、灰がかった黄。急に日があたって、行く 道を照し始める。見上げれば、ちぎれちぎれの綿のような雲も浮んで、いつの間にか青空になりました。ああ朝です。男山、金峯山、女山、甲武信岳などの山々も残 りなく顕れました。遠くその間を流れるのが千曲川の源。かすかに見えるのが川上の村落です。千曲川は朝日をうけて白く光りました。
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