八ヶ岳はいろいろな文学作品に登場する。山すそを一周するだけでちょっとした文学紀行ができる。 八ヶ岳の東に限っても、放浪の俳人、種田山頭火が駆け抜け、若山牧水が野辺山から川上村を抜け、 秩父への山越えをしている。島崎藤村も「千曲川のスケッチ」で野辺山あたりの昔の寒村風景を描写している。 「日本百名山」の深田久弥は、牧場がある海ノ口に立ち友の死を悼んでいる。 |
「千曲川のスケッチ」が描く野辺山 野辺山が舞台の
「藁草履」を別掲 |
山頭火、八ヶ岳を詠む |
八ヶ岳を歩いたと同じ昭和11年の山頭火の写真 (俳句工房「ねずみのこまくら」提供) |
放浪の俳人、種田山頭火(たねだ・さんとうか)は今なお静かなブームである。この自由律の乞食(こつじき)僧の伝記を1999年末、入院先のベッドで読んだ。
家を捨て、妻子を捨てひたすら貧困の中に行脚を続け、最後は松山で、彼を師と仰ぐ人たちが用意した庵で、彼らが句会を催すそばで、誰も知らぬ間に死ぬのだが、激しい人生の最後が、彼が望んだ通りの「コロリ往生」。
意外な穏やかさなのが印象的で、一掬の涙を誘った。
山頭火は中国、九州をひたすら旅したと思っていたのだが、意外にも八ヶ岳東山麓を北上していた。昭和11年(2.26事件の年)5月6日甲府に来ている。
そこから八ヶ岳の東を徒歩で信濃路に入る。今のJR小海線の前身、佐久鉄道は開通していたようだが、彼が歩いたのは佐久往還(おおむね現在の国道141号線)だ。彼の歩き方からすれば、駆け抜けたという方がいいだろう。
甲信国境というから現在の川上村あたりで詠んだのが、
行き暮れてなんとここらの水のうまさは
今でも千曲川源流の村として知られるところだが、当時から銘水の里でもあったらしい。今も清流が流れ、甲武信岳などへの登山基地として山好きには有名な村だ。
もう一句、ここで詠んだのが、
のんびり尿する草の芽だらけ
春の草いきれが伝わるが、男でないとわからない開放感か。
さらに歩いて、信濃路に入ったところ、私は勝手に小海町あたりの峠道を思ったが、ここで
あるけばかっこういそげばかっこう
からまつ落葉まどろめばふるさとの夢
の句を残している。ちなみに札幌に春を告げるものはやはりカッコウだったが、どういうワケか初鳴きは5月20日ごろが多かった。エルムの構内や馬術部のあるポプラ並木でカッコウを聞くと、北国の遅い春を感じたものだ。
八ヶ岳のカッコウは経験則でもそれより早いようで、少し暖かいということか。長く八ヶ岳に通っても、気づかない春を告げる鳴き声を、行脚僧がすかさずとらえているあたり、さすがというほかない。
彼はここから軽井沢を経て知り合いのいる小諸に出る。自由律の俳句というのはあまり好きではなかったが、詠み人の人生と、背景の自然とが溶け合うといいものだと思った。
「千曲川のスケッチ」が描く野辺山 |
明治の文豪の作品が平成の時代になって、没後50年を経過、次々と著作権が消滅しているという。
その一つ、島崎藤村の「千曲川のスケッチ」を読んだ。彼は小諸義塾の教師を七年つとめた間に、
この野辺山高原はじめ、今の南牧村、小海町一帯を歩いていたことを知った。現在からは想像もできないが、
当時の寒村風景が浮かぶのと、現在の海の口牧場から日本の軍馬がつくりだされていったことなどがわかる。
小諸は野辺山から近い距離にある。小海線の終点だ。島崎藤村が国語教師としてここの私塾、小諸義塾に赴任したのは明治32 (1899)年である。「千曲川のスケッチ」は、日本で自然の風物が日常のことば(近代口語体)で初めて書かれた画期的な作品だった。
今でこそ多くの人が別荘を構え、村人もキャベツ御殿といわれる立派な家を建てているが、そのころは並外れた寒村だったこと、 我が家の犬たちがよく遊びに行く海の口牧場から、日本の軍馬が改良されていったことなどを知った。今は小字にその名をとどめているが、 多くの村に分かれていたこともわかる。
【甲州街道】
馬流(まながし=現在もその名が残っている)というところまで岸に添うて遡ると河の勢も確かに一変して見える。
その辺には、川上から押流されて来た恐しく大きな石が埋まっている。その間を流れる千曲川は大河というよりも寧ろ大きな谿流に
近い。この谿流に面した休茶屋には甲州屋としたところもあって、そこまで行くと何となく甲州に近づい
た気がする。山を越して入込んで来るという甲州商人の往来するのも見られる。
馬流の近くで、学生のTが私達の一行に加わった。Tの家は宮司で、街道からすこし離れた幽邃な松原湖
の畔にある。Tは私達を待受けていたのだ。
白楊(とろ=ヤマナラシ)、蘆、楓、漆、樺、楢などの類が、私達の歩いて行く河岸に生い茂っていた。両岸には、
南牧、北牧、相木などの村々を数えることが出来た。水に近く設けた小さな水車小屋も到るところに見られた。
八つが岳の山つづきにある赤々とした大崩壊の跡、金峯、国師、甲武信、三国の山々、その高く聳えた頂、
それから名も知られない山々の遠く近く重なり合った姿が、私達の眺望の中に入った。
日が傾いて来た。次第に私達は谷深く入ったことを感じた。時々私はT君と二人で立止って、川上から
川下の方へ流れて行く水を見送った。その方角には、夕日が山から山へ反射して、深い秋らしい空気の中
に遠く炭焼の烟の立登るのも見えた。
この谷の尽きたところに海の口村がある。何となく川の音も耳について来た。暮れてから、私達はその村へ入った。
【山村の一夜】
この山国の話の中に、私はこんなことを書いたことが有った。
「清仏戦争の後、仏蘭西兵の用いた軍馬は吾陸軍省の手で買取られて、海を越して渡って来ました。
その中の十三頭が種馬として信州へ移されたのです。気象雄健なアルゼリイ種の馬匹が南佐久の奥へ入り
ましたのは、この時のことで。今日一口に雑種と称えているのは、専にこのアルゼリイ種を指したものです。
その後亜米利加産の浅間号という名高い種馬も入込みました。それから次第に馬匹の改良が始まる。
野辺山が原の馬市は一年増に盛んに成る、その噂さが某の宮殿下の御耳まで届くように成りました。
殿下は陸軍騎兵附の大佐で、かくれもない馬好ですから、御寵愛のファラリイスと云亜刺比亜産(アラビア産)
を種馬として南佐久へ御貸付になりますと、さあ人気が立ったの立たないのじゃ有りません。ファラリイスの血
を分けた当歳が三十四頭という呼声に成りました。殿下の御喜悦は何程でしたろう。到頭野辺山が原へ
行啓を仰せ出されたのです」
以前私が仕立屋に誘われて、一夜をこの八つが岳の麓の村で送ったのは、丁度その行啓のあるという時
だった。
静かな山村の夜――河水の氾濫を避けてこの高原の裾へ移住したという家々――風雪を防ぐ為の木曾路
なぞに見られるような石を載せた板屋根――岡の上にもあり谷の底にもある灯――鄙びた旅舎の二階から
、薄明るい星の光と夜の空気とを通して、私は曾遊の地をもう一度見ることが出来た。
ここは一頭や二頭の馬を飼わない家は無い程の産馬地だ。馬が土地の人の主なる財産だ。
娘が一人で馬に乗って、暗い夜道を平気で通る程の、荒い質朴な人達が住むところだ。
風呂桶が下水の溜の上に設けてあるということは――いかにこの辺の人達が骨の折れる生活を営むとは
いえ――又、それほど生活を簡易にする必要があるとはいえ――来て見る度に私を驚かす。ここから更に
千曲川の上流に当って、川上の八カ村というのがある。その辺は信州の中でも最も不便な、白米は唯病人
に頂かせるほどの、貧しい、荒れた山奥の一つであるという。
私達が着いたと聞いて、仕立屋の親類に成る人が提灯つけて旅舎へ訪ねて来た。ここから小諸へ出て、
長いこと私達の校長の家に奉公していた娘があった。
その娘も今では養子して、子供まであるとか。こういう山村に連関して、下女奉公する人達の一生
なぞも何となく私の心を引いた。
君はまだ「ハリコシ」なぞという物を食ったことがあるまい。恐らく名前も聞いたことがあるまい。
熱い灰の中で焼いた蕎麦餅だ。草鞋穿で焚火に温りながら、その「ハリコシ」を食い食い話すというが、
この辺での炉辺の楽しい光景なのだ。
【高原の上】
翌朝私達は野辺山が原へ上った。私の胸には種々な記憶が浮び揚って来た。ファラリイスの駒三十四頭、
牝馬二百四十頭、牡馬まで合せて三百余頭の馬匹が列をつくって通過したのも、この原へ通う道だった。
馬市の立つというあたりに作られた御仮屋、紫と白との幕、あちこちに巣をかけた商人、四千人余の群集、
そんなものがゴチャゴチャ胸に浮んで来た。あの時は、私は仕立屋と連立って、秋の日のあたった原の
一部を歩き廻ったが、今でも私の眼についているのは長野の方から知事に随いて来た背の高い参事官だ。
白いしなやかな手を振って、柔かな靴音をさせる紳士だった。それで居て動作には敏捷なところもあった。
丁度あの頃私はトルストイの「アンナ・カレニナ」を読んでいたから、私は自分で想像したヴロンスキイの
型をその参事官に当嵌てみたりなぞした。あの紳士が肩に掛けた双眼鏡を取出して、八つが岳の方に見える
牧場を遠く望んでいた様子は――失礼ながら――私の思うヴロンスキイそのままだった。
あの時の混雑に比べると、今度は原の上も寂しい。最早霜が来るらしい雑草の葉のあるいは黄に、
あるいは焦茶色に成ったのを踏んで、ポツンポツンと立っている白樺の幹に朝日の映るさまなぞを眺めながら、
私達は板橋村という方へ進んで行った。この高原の広さは五里四方もある、荒涼とした原の中には、
蕎麦なぞを蒔いたところもあって、それを耕す人達がところどころに僅かな村落を形造っている。
板橋村はその一番取付にある村だ。
以前、私はこの辺のことを、こんな風に話の中に書いた。
「晴れて行く高原の霧の眺めは、どんなに美しいものでしょう。すこし裾の見えた八つが岳が次第に険しい
山骨を顕わして来て、終に紅色の光を帯びた巓まで見られる頃は、影が山から山へ映しておりました。
甲州に跨る山脈の色は幾度変ったか知れません。今、紫がかった黄。今、灰がかった黄。急に日があたって
、夫婦の行く道を照し始める。見上げれば、ちぎれちぎれの綿のような雲も浮んで、いつの間にか
青空に成りました。ああ朝です。男山、金峯山、女山、甲武信岳、などの山々も残りなく顕れました。
遠くその間を流れるのが千曲川の源、かすかに見えるのが川上の村落です。千曲川は朝日をうけて白く光りました――」
夫婦とあるは、私がその話の中に書こうとした人物だ。一時は私もこうした文体を好んで書いたものだ。
「筒袖の半天に、股引、草鞋穿で、頬冠りした農夫は、幾群か夫婦の側を通る。鍬を肩に掛けた男もあり、
肥桶を担いで腰を捻って行く男もあり、爺の煙草入を腰にぶらさげながら随いて行く児もありました。
気候、雑草、荒廃、瘠土などを相手に、秋の一日の烈しい労働が今は最早始まるのでした。
既に働いている農夫もありました。黒々とした「ノッペイ」の畠の側を進んでまいりますと、
一人の荒くれ男が汗雫に成って、傍目をふらずに畠を打っておりました。大きな鍬を打込んで、
身を横にして仆れるばかりに土の塊を起す。気の遠くなるような黒土の臭気は紛として、
鼻を衝くのでした……板橋村を離れて、旅人の群にも逢いました。
高原の秋は今です。見渡せば木立もところどころ。枝という枝は南向に生延びて、
冬季に吹く風の勁さも思いやられる。白樺は多く落葉して高く空に突立ち、細葉の楊樹は 踞 るように低く隠れている。
秋の光を送る風が騒しく吹渡ると、草は黄な波を打って、動き靡いて、
柏の葉もうらがえりました。ここかしこに見える大石には秋の日があたって、寂しい思をさせるのでした。
「ありしおで」の葉を垂れ、弘法菜の花をもつのは爰(ここ)です。「かしばみ」の実の落ちこぼれるのも爰です。
爰には又、野の鳥も住み隠れました。笹の葉蔭に巣をつくる雲雀は、老いて春先ほどの勢も無い。
鶉(うずら)は人の通る物音に驚いて、時々草の中から飛立つ。見れば不格好な短い羽をひろげて、舞揚ろうとして
やがて、パッタリ落ちるように草の中へ引隠れるのでした。
外の樹木の黄に枯々とした中に、まだ緑勝な蔭をとどめたところも有る。それは水の流を旅人に教える
ので、そこには雑木が生茂って、泉に添うて枝を垂れて、深く根を浸しているのです。今は村々の農夫も
秋の労働に追われて、この高原に馬を放すものも少い。八つが岳山脈の南の裾に住む山梨の農夫ばかりは、
冬季の秣(まぐさ)に乏しいので、遠く爰まで馬を引いて来て、草を刈集めておりました……」
これは主に旧道から見た光景だ。趣の深いのも旧道だ。以前私は新道の方をも取って、帰り路に原の中を通ったこともある。
その時は農夫の男女が秣を満載した馬を引いて山梨の方へ帰って行くのに逢った。彼等は弁当を食いながら歩いていた。聞いてみると
往復十六里の道を歩いて、その間に秣を刈集めなければ成らない。朝暗いうちに山梨を出ても、休んで
弁当を食っている暇が無いという。馬を引いて歩きながらの弁当――実に忙しい生活の光景だ。
こんな話を私は同行のT君にしながら、旧道を取って歩いて行った。三軒家という小さな村を離れて
からは人家を見ない。この高原が牧場に適するのは、秣が多いからとのことだ。今は馬匹を見ることも少いが、
丘陵の起伏した間には、遊び廻っている馬の群も遠く見える。
白樺の下葉は最早落ちていた。枯葉や草のそよぐ音――殊に槲(かしわ)の葉の鳴る音を聞くと、風の寒い
、日の熱い高原の上を旅することを思わせる。
「まぐそ鷹」というが八つが岳の方の空に飛んでいるのも見た。私達はところどころにある茶色な楢の
木立をも見て通った。それが遠い灰色の雲なぞを背景にして立つさまは、何んとなく茫漠とした感じを
与える。原にある一筋の細い道の傍には、紫色に咲いた花もあった。T君に聞くと、それは松虫草とか
言った。この辺は古い戦場の跡でもあって、往昔海の口の城主が甲州の武士と戦って、戦死したと言
伝えられる場所もある。
甲州境に近いところで、私達は人の背ほどの高さの小梨を見つけた。葉は落ち尽して、小さな赤い実
が残っていた。草を踏んで行ってその実を採って見ると、まだ渋い。中には霜に打たれて、口へ入れる
と溶けるような味のするもあった。間もなく私達は甲州の方に向いた八つが岳の側面が望まれるところ
へ出た。私達は樹木の少い大傾斜、深い谷々なぞを眼の下にして立った。
「富士!」と学生は互に呼びかわして、そこから高い峻しい坂道を甲州の方へ下りた。
小諸から岩村田町へ出ると、南に続く甲州街道は割合に平坦な、広々とした谷を貫いている。
黄ばんだ、秋らしい南佐久の領分が私達の眼前に展けて来る。千曲川はこの田畠の多い谷間を流れている。
一体、犀川に合するまでの千曲川は、殆んど船の影を見ない。唯、流れるままに任せてある。
この一事だけで、君はあの川の性質と光景とを想像することが出来よう。
私は、佐久、小県の高い傾斜から主に谷底の方に下瞰した千曲川をのみ君に語っていた。
今、私達が歩いて行く地勢は、それと趣を異にした河域だ。臼田、野沢の町々を通って、私達は直ぐ
河の流に近いところへ出た。
少し長く引用させてもらったが、島崎藤村の文章からわかることは、
私たちがいる現在の長野県南佐久郡南牧村(みなみまきむら)は当時「海の口村」と「板橋村」にわかれていた。
板橋というのは自然郷への入り口付近の橋のたもとの標識に、現在その小字(こあざ)を残している。
これらを含めた「川上の八か村」は大変貧乏で食べるものにも事欠いていた。現在のこれら八か村は当時から数えて
3,4代目、あるいは戦後の開拓世代の2,3代目にあたるだろうが、赤貧洗うがごとき村々も、今では
高原野菜のおかげで豊かだ。キャベツ御殿、レタス御殿も散見され、当時を知る人たちには驚きであろう。
一帯は「野辺山が原」と呼ばれ、たいていの農家は馬を飼っていたようだ。秣(まぐさ)が豊富で、山梨の方から往復
16里(64キロ)かけて取りに来ていたほどだった。馬市が立ち、そのときは何千人という人が押しかけた。
日本軍の馬匹改良はこの地ですすめられた。私は学生時代に馬術部にいたので、すこし馬のことがわかるのだが、
長野県には木曽駒など伝来の馬がいたが、いかんせん馬体が小さくて軍馬には適さなかったのだろう。
アルゼリイ種、浅間号、ファラリイスなどという馬種や名前が出てくるが、改良に熱心だった宮様が導入した
アラブ種だろう。競馬全盛でサラブレッドに押され、いまではほとんどいなくなったが、性格、強健さ、などから軍馬や
馬術用にはアラブ種が適しているのである。北海道などでは農耕用に、サラブレッドの倍近い1トンほどもある
フランス産のペルシュロン種などが繁殖に使われ、いまも道東の輓馬(ばんば)レースに少し残っている。同じように
開拓の歴史がある八ヶ岳山麓なので導入されてもよさそうなものだが、長野では見かけない。
「この辺は古い戦場の跡でもあって、往昔海の口の城主が甲州の武士と戦って、戦死した」と書かれているが
、これはたしか武田信玄の初陣だったように思う。現在の南牧村役場近くから入っていくと城跡がある。
藤村には、もっと直接に野辺山を舞台にした作品がある。「藁草履」というのだが、こちらも著作権が切れていて、
電子ブックで有名な「青空文庫」で全文が読める。エキスパンド版で読むとわかりやすいのだが、ソフトのダウンロードが
必要なので、ここではHTML版を紹介する。慣れている人は直接取り込むことをおすすめする。
これから先は、まったく関係ない話なのだが、馬のことを書いたので思い出話として記録しておきたくなった。
馬術部のとき先輩から聞きかじって歌える唄がある。「お馬さんの唄」とでもいうのだろうが、タイトルも定かでないが、
軽快に歌う。楽譜が書けないので歌詞だけだ。
生まれたときから面長で ヒンヒン育ったのんきもの
支那のお馬はトコトコと お耳の長いのや丸ポチャの
軍馬や競馬や曲馬の馬なら 身分のよい方だ
まったくそうだよ タタンカ タカタカ
ジャジャ馬 ヤジ馬 トン馬に ノロ馬に そのまた上手のキツネ馬
馬鹿は死ななきゃ治らないとは おいらのせいじゃない
蒙古馬やらオモチャのロバさん ノンキに歩いてる
まったくそうだよ タタンカ タカタカ
顔でも 首でも 足でも 腹でも だんぜんすごいよ男前
同じ肉でも桜肉とはうまいじゃないか。
ざれ唄のたぐいに違いないが、北大馬術部ではよく歌い継がれていた。今は知る人もいないだろう。 来歴、基になった唄ご存知の方がおられたら、教えていただきたい。ついでに、ワイ歌もずいぶん 聞かされた。東北大学に多かったように思う。「南氷洋捕鯨の歌」など、雄大さに聞きほれていると、 突然おかしくなるところが、おもしろかった。
2009年1月、北大馬術部東京OB会の新年会・総会の席上、寮歌「都ぞ弥生」とともにこの歌が飛び出した。東京農工大農学部獣医科の「おうまの歌」 が元だという来歴も判明した。北大馬術部のホームページ「パドック」にその動画が紹介されている。バンカラだがおよそのメロディーは分かると思うので、 興味ある方は覗いてみてください。
「日本百名山」(深田久弥)の八ヶ岳 |
八ヶ岳の山々について読んだり、聞いたりすると、いたるところで深田久弥の「日本百名山」が引き合いに 出される。山登りのバイブルではあるが、山男ではないのと、今後登る予定もないので読んだことはない。 ただ、八ヶ岳が彼の人生の大きな節目になっていることを知った。 友人が滑落死したのが、このホームページでも紹介した本沢温泉のある硫黄岳だし、近ごろよく通る クリスタルラインや茅が岳(かやがたけ)広域農道がその下を走っている茅が岳(1704メートル)を登山中に 彼自身が急死している(1971年3月、脳溢血、68歳)。八ヶ岳をどう書いているのか知りたくなった。
我が山墅から朝な夕なに眺める八ヶ岳の主峰、赤岳(2899メートル)。 |
中央線の汽車が甲州の釜無谷を抜け出て、信州の高台に上り着くと、 まず私たちの眼を喜ばせるのは、広い裾野を拡げた八ヶ岳である。 全く広い。そしてその裾野を引きしぼった頭に、ギザギザした岩の峰が 並んでいる。八ヶ岳という名はその頭の八つの峰から釆ているというが、 麓から仰いで、そんな八つを正確に数えられる人は誰もあるまい。
芙蓉八朶(富士山)、八甲田山、八重岳(屋久島)などのように、山名に 「八」の字をつけた例があるが、いずれも漠然と多数を現わしたものと見な せばいいのだろう。克明にその八つを指摘する人もあるが、強いて員数を 合わせた感がないでもない。詮索好きな人のために、その八峰と称せられる ものを挙げれば、西岳、網笠岳、権現岳、赤岳、阿弥陀岳、横岳、硫黄岳、 峰ノ松目。
そのうち、阿弥陀岳、赤岳、横岳あたりが中枢で、いずれも二千八百米を 抜いている。二千八百米という標高は、富士山と日本アルプス以外には、 ここにしかない。わが国では貴重な高さである。この高さがきびしい寒気 を呼んで、アルピニストの冬季登山の道場となり、この高さが裸の岩稜地帯を 生んで、高山植物の宝庫を作っている。
最高峰は赤岳、盟主にふさわしい毅然とした見事な円錐峰である。 ある年の十一月初めの夕方、私は赤岩(硫黄岳西南の二六八〇米の岩峰)の 上から、針葉樹に埋れた柳川の谷を距てて、この主峰を眺めたことがあるが、 降ったばかりの新雪が斜陽に赤く、まるで燃えているように染まって、 そのおごそかな美しさといったらなかった。
岩崩(く)えの赤岳山に今ぞ照るひかりは粗し眼に沁みにけり 島木赤彦
八ヶ岳のいいところは、その高山地帯についで、層の厚い森林地帯があり、 その下が豊かな裾野となって四方に展開していることである。五万分の一 「八ヶ岳」図幅は全体この裾野で覆われている。頂稜から始まる等高線が、 規則正しく、次第に目を粗くしながら、思う存分伸び伸びと拡がっている見事 な縞模様は、孔雀が羽を拡げたように美しい。そしてその羽の末端を、山村が綴り、 街道が通り、汽車が走っている。
その広大な斜面は、野辺山原、念場原、井出原、三里原、広原、爼(まないた)原 などに区分されて、一様のようでありながら、それぞれの個性的な風景を持っている。 風景というより、むしろ雰囲気と言おうか。例えば高原鉄道小海線の走る南側の、 広濶な未開地めいた素朴な風景と、富士見あたりの人親しげな摺曲の多い風景とは、 どこやら気分が異なる。高原を愛する逍遙者にとって、八ヶ岳が無限の魅力を持っているのは、 こういう変化が至る所に待っているからだろう。
昔は信仰登山が行われていたというが、現在ではそういう抹香臭い気分は微塵も ない。むしろ明るく近代的である。阿弥陀とか権現とかいう名前さえも、 私たちに宗教を思いおこさせる前に、ヨーデルの高らかにひびく溌剌とした青年子女 の山を思い浮ばせる。
夏の、赤岳(左)と横岳(2829メートル)。
それほど八ヶ岳は若い一般大衆の山になった。広濶な裾野、鬱然とした森林、 そして三千米に近い岩の頂----という変化のあるコースは、初心の登山者を堪能 させる。しかもその項上からの放射線状の展望は、天下一品である。
どちらを眺めても、眼の下には豊かな裾が拡がり、その果てを限ってすべての山々 が見渡せる。すべての山々? 誇張ではない。本州中部で、この頂上から見落され る山は殆んどないと言っていい。
八ヶ岳の細長い主稜線は、普通夏沢峠によって二分され、それ以北が「北八ッ」 という名で登山者に親しまれるようになったのは、近年のことである。北八ッの彷徨 者山口耀久君の美しい文章の影響もあるだろう。八ヶ岳プロパーがあまりに繁昌して 通俗化したので、それと対照的な気分を持つ北八ッへ逃れる人がふえてきたのかもし れない。
四十年前、私が初めて登った時は、八ヶ岳はまだ静かな山であった。 赤岳鉱泉と本沢温泉をのければ、山には小屋など一つもなかった。五月中旬であった が登山者には一人も出会わなかった。もちろん山麓のバスもなかった。
建って二、三年目の赤岳鉱泉に泊り、翌日中岳を経て赤岳の項上に立った。 横岳の岩尾根を伝って、広やかな草地の硫黄岳に着き、これで登山が終ったと ホッとしたが、それが終りではなかった。そのすぐあとに友の墜落死という カタストロフィーがあった。
今でも海ノ口あたりから眺めると友の最後の場であった硫黄岳北面の岩壁が、 痛ましく私の眼 を打ってくる。 「日本百名山」(深田久弥 新潮文庫)から
若山牧水、野辺山を歩く |
旅と自然と酒の歌人、若山牧水など八ヶ岳にもっともふさわしい文人だろう。
「幾山河 越えさりゆかば 寂しさの はてなむ国ぞ けふも旅ゆく」
この3首が人口に膾炙している。私も人後に落ちず、酒も飲めない中学生から暗誦しているから、
知っているつもりだったが、やはり歌人だった夫人は八ヶ岳から近い長野県塩尻の出で、求婚に
訪れていること、終の棲家の静岡県沼津市から河口湖を経てよくやってきていたことなど最近まで知らなかった。
大正12年秋10月の八ヶ岳紀行が「樹木とその葉」に残っている。
これは、同じ八ケ岳の裏の裾野をなすもので、同じく廣茫たる大原野である。
富士の裾野の大野原と呼ばるゝあたりや淺間の裏の六里が原あたりの、
一面に萱や芒のなびいてゐるのと違つて、八ケ岳の裾野は裏表とも多く
落葉松の林や、白樺の森や、名も知らぬ灌木林などで埋つてゐるので見た所
いかにも荒涼としてゐる。丁度樹木の葉といふ葉の落ちつくした頃であつたので、
一層物寂びた眺めをしてゐた。
野邊山が原の中に在る松原湖といふ小さな湖の岸の宿に二日ほど休んだが、
一日は物すごい木枯であつた。あゝした烈しい木枯は矢張りあゝした山の原でな
くては見られぬと私は思つた。其處から千曲川に沿うて下り、御牧が原に行つた。
この高原は淺間の裾野と八ケ岳の裾野との中間に位する樣な位置に在り、
四方に窪地を持つて殆んど孤立した樣な高原となつて居る。私は曾つて小諸町から
この原を横切らうとして道に迷ひ、まる一日松の林や草むらの間をうろうろ
してゐた事があつた。その溪を圍む岩山、及び、到る所から振返つて仰がるゝ
八ケ岳の遠望が非常によかつた。
そしてその水源林を爲す十文字峠といふを越えて武藏の秩父に入つた。
この峠は上下七里の間、一軒の人家をも見ず、唯だ間斷なくうち續いた針葉樹林の間
を歩いてゆくのである。常磐木を分けてゆくのであるが、道がおほむね山の尾根づた
ひになつてゐるので、意外にも遠望がよくきいた。近く甲州路の國師嶽甲武信嶽、
秩父の大洞山雲取山、信州路では近く淺間が眺められ、上州路の碓氷妙義などは恰も
盆石を置いたが如くに見下され、ずつとその奧、越後境に當つた大きな山脈は一齋に
銀色に輝く雪を被いてゐた。(草鞋の話旅の話)
若山牧水は野辺山で1泊してもいる。同じ章の中にこう書いている。
「千曲川に臨んだ嶮崖のとつぱなの一軒家」というと、そうないから、141号線を行くと小海町の手前
あたりだろうが、山頭火といい、牧水といい、この山あいを酒好きが通っていったかと、にんまりしてしまう。
佐久地方は酒蔵の多いところで、いまも何軒か旧道沿いにあって、新酒の季節には行ってみることにしている。
「白鳥は かなしからずや 空の青 海の青にも 染まずただよふ」
「白玉の 歯にしみとほる 秋の夜の 酒は静かに 飲むべかりけり」
富士の裾野の一部を通つて、所謂五湖を巡り、甲府の盆地に出で、汽車で
富士見高原に在る小淵澤驛までゆき、其處から念場が原といふ廣い原に
かゝつた。八ケ岳の表の裾野に當るものでよく人のいふ富士見高原なども謂
はゞこの一部をなすものかも知れぬ。八里四方の廣さがあると土地の人は言つてゐた。
その原を通り越すと今度は信州路になつて野邊山が原といふのに入つた。
時雨は降る、日は暮れる、今夜の泊りと豫定した部落まではまだこの荒野の中を二里も
行かねばならぬと聞き、無理に頼んで泊めて貰つたのであつた。野邊山が原の
はづれ、千曲川に臨んだ嶮崖のとつぱなの一軒家で、景色は非常によかつた。
「風立ちぬ」と富士見高原 |
私たちがいるのは横岳の東側の中腹、八ヶ岳高原である。ぐるりと南に回りこむと
富士見高原がある。時折ここにあるゴルフ場に行く。その昔といってもそんな昔でもないのだが、一帯は
サナトリウムで有名だった。ここは堀辰雄の「風立ちぬ」の舞台であり、竹久夢二の終焉の地である。
八ヶ岳の周りは「高原」だらけ
本題の前に「高原」という呼び方について触れておく。思いつくだけでも「蓼科高原」「八千穂高原」「松原湖高原」
「野辺山高原」「八ヶ岳高原」「清里高原」「富士見高原」と八ヶ岳の周囲は「高原」だらけだ。国土地理院の正式の地図に
そのように記載されているわけではない。みなイメージ先行の”愛称”程度だ。私がいる一帯は「野辺山が原」と呼ばれていた
ところで軍馬の一大生産地だった。島崎藤村描くところでも荒涼たるところだったようで、寒風吹きすさぶイメージが戦後も
続いた。それが高原野菜でイメチェン、同時にリゾートのイメージが大きくなった。最近の”定義”では「八ヶ岳高原」だが、八ヶ岳の名を
”独り占め”したのでは他から文句が出るのではないかと思うほどだ。その中で「富士見高原」は古くからそう呼ばれていた”老舗”
といってよい。
昭和初期にはまだ抗生物質が存在せず、当時の国民病であった「結核」には澄んだ空気と明るい陽光の中で十分な栄養
と安静をとる以外、治療法はなかった。日本で唯一の『高原サナトリウム』富士見高原療養所は八ヶ岳の標
高約1000メートルにあり、結核患者にとって理
想的な環境であり、全国から数多くの患者が富士見高原療養所に集まってきた。患者の中には文学者や芸術家も少なくなかった。
その理由を知るためには小説家、随筆家、さらには俳人でもあった正木不如丘(まさき ふじょきゅう)という人物を語らねばならない。
現在は、長野県厚生連富士見高原病院(長野県諏訪郡富士見町落合11100 п@0266-62-3030 )
として残っているが、そのホームページなどから八ヶ岳の文学をさかのぼってみる。
医者であり文学者 だった正木不如丘 |
正木不如丘 明治20年(1887) 2月26日〜昭和37年(1962) 7月30日 本名、正木俊二。長野県長野市に生まれる(本籍は上田市)。父は長野師範学校の教頭だった。 大正2年、東京大学医学部卒業。成績優秀で恩賜の銀時計を受けた(官立学校の成績優秀者には天皇から記念品が 下賜された。陸軍士官学校の短剣など。経歴などでは必ず触れられる栄誉)。福島の県立病院院長を経てパリのパスツール研究所 に留学。帰国後、慶應大学医学部内科助教授となり、かたわら朝日新聞に『診療簿余白』など随筆を連載した。 『三十前』『木賊(とくさ)の秋』『思われ人』などの作品を発表している。つづいて 日本の探偵小説の勃興に伴い、専門知識を利用した医学ミステリ『髑髏の思ひ出』『県立病院の幽霊』(大15)なども書いて いる。
医学部内の対立から大学を出て富士見高原診療所へ赴任を決意する。ただ僻地での病院経営は難しく、医者や看護婦に 給料が払えず、正木は仕方なく出版社から依頼される原稿を次々とかたづけ、経営に充てていたが結局、潰れた。 正木は留学時代にスイスで視察した『結核療養所(サナトリウム)』を、この地に開設しようと思い立つ。昭和4年には慶応大学 医学部を辞め富士見高原療養所所長に専念する。
八ヶ岳の高原は サナトリウムに適していた |
わがままな患者 だった堀辰雄 |
昭和8年夏、堀辰雄は軽井沢で矢野綾子という女性を知る。翌年9月婚約(辰雄30才)するが彼女の結核は
かなり進行していた。昭和10年、今度は婚約者に付き添って、再び高原療養所を訪れる。正木は、療養所の秩序
が乱れるからといって付き添いを断わったが、堀辰雄は強引に居座ってしまう。病気は意外に重く、
しだいに病状が悪化する。彼は重態となってゆく愛する人の便器の始末までしていたという。しかし、彼の献身
的な看病も報われなかった。この年12月、綾子は死ぬ。
『風立ちぬ』は彼女(小説では節子)とのサナトリウムでの日々を想起し、翌年執筆をはじめ、昭和13年に完結した。
「八ケ岳の大きなのびのびとした代赭色(たいしゃいろ=茶色がかっただいだい色)の裾野が漸くその勾配を弛めようとするところに、
サナトリウムは、いくつかの側翼を並行に拡げながら、南を向いて立っていた」と描写されている病院は現在も同じところに建っている。
節子の病状について「思ったよりも病竈(びょうそう=病気の中心部)が拡がっているなあ。・・・こんなにひどくなってしまって居るとは思わなかったね」と院長、つまり正木が説明しているように、入院時にはすでに、この時代の結核治療技術としては手遅れだった。
この小説は矢野綾子への鎮魂の書である、と同時に彼自身の鎮魂の書でもあった。
ヴァレリーの詩の一節「風立ちぬ、いざ生きめやも」を表題にしたこの小説は清冽な生と死のテーマが人のここ
ろを揺さぶるらしく、いまなお多くの愛読者を持っている。このタイトルは堀辰雄が文語体に翻訳したものだが
、いまでは誤訳ということになっている。原文では「風がわき立った。生きねばならない」の意だが、堀の”生
きめやも”だと「生きようか、いや断じて生きない。死のう」とまるで逆の意味になる。国語学者、大野晋氏
「日本語で一番だいじなもの「(中央公論新社)の指摘だ。
彼の終焉の地になった軽井沢の家は八ヶ岳からすぐ近くだが、今では記念館になり、多くの人が訪れている。
生誕百年、大いなる誤訳というべきか。堀はその後20年ほど生き、昭和28年5月28日、やはり結核で死んだ。
横溝正史も患者だった |
院長との縁でやってきた人の中に横溝正史がいる。『八つ墓村』『犬神家の一族』『本陣殺人事件』などの推理小説で知られ、江戸川乱歩、松本清張と並んで「三大ミステリー作家」に数えられる横溝正史は江戸川乱歩のすすめもあって昭和8年に高原療養所へ入院した。 3ヵ月ほどで退院となったが、正木不如丘にすすめられ、正木の本宅がある上諏訪へ一家をあげて転地し、その後約6 年間を上諏訪で療養生活を送っている。
だから、金田一耕助が謎解きに挑む「犬神家の一族」は「信州財界の一巨頭、犬神財閥の創始者、日本の生糸王といわれる犬神佐兵衛翁が八十一歳の高齢をもって、信州那須湖畔にある本宅で永眠したのは昭和二十×年二月のことであった」という書き出しで始まる。諏訪、岡谷地方は明治時代から製糸事業で栄え,、片倉財閥の発祥の地だが、今では廃れ、時計やITの精密工業がとってかわった。
さびしい晩年 だった竹久夢二 |
救いの手を差しのべたのが旧友、正木不如丘である。昭和9年正月、真冬の寒い日に東京まで往診に行った彼は、ひとりアトリエでせきこん
でいる夢二をそのまま富士見に連れてきた。正木は夢二のために特別室を用意し専任看護婦をつけて手厚く看護した。
家族が面会に訪ねて来ても「会いたくない、帰してくれ」と言って会おうとしなかった夢二だが、死の前日には「身内の者がひとりも来てくれないのが口
惜しい」といって涙を流したという。昭和9年9月1日、家族も縁者も姿を見せず、ただ病院の人たちだけに見まもられて51歳の
生涯を閉じた。
その年の10月、一人の婦人が療養所を訪ねてきて「夢二がお世話になりました。そのお礼に」と、それから3カ月ちかくのあいだ、
患者たちが使ってよごれた、寝具の仕立て直しなど、だれも好んでしようとはしない仕事をつづけた。職員は、婦人が帰ってから、
故人のかつての妻の岸たまき(他万喜)であると、院長から教えられた。夢二入院のことは、他万喜は洩れ聞
いてはいたが、かつての夫の死は、新聞記事でようやく知ったのであった。
小説も映画も大ヒット した「月よりの使者」 |
富士見高原は、明治の頃より伊藤左千夫、島木赤彦、齋藤茂吉らアララギの歌人たちが訪れ、しばしばこの地で歌会な
どが開催されていた。田山花袋もたびたび来訪している。井伏鱒二や田宮虎彦は別荘を持っていた。
戦後、昭和21年から約7年間をこの高原で過ごした詩人・尾崎喜八も、富士見高原での
生活や人々との交流の中から美しい詩や散文を残している。
八ヶ岳の麓で7年。癒しの 時を過ごした尾崎喜八 |
尾崎喜八は戦前から霧ヶ峰や八ヶ岳一帯を歩き、詩文を発表してきたが、時局がら「この糧」など戦意高揚を煽(あおる)多くの詩をつくった。
戦後、この事を謝罪し、全てを捨てて生き直す決意で八ヶ岳にやってきた。
元男爵渡辺氏の厚意で、富士見村の別荘「分水荘」の一室を借り、
二十七年、東京都世田谷区玉川上野毛に家を新築し移るまで七年を八ヶ岳の自然の中で暮らした。
文筆と講演などの仕事を通じてやがて
地元の人々と交流が深まり、頼まれるままに作詞した長野県内の小中学校の校歌は40校にものぼる。富士見時
代に尾崎喜八が発表した作品は、「高原暦日」を初めとして「美しき視野」「花の復活祭」「碧い遠方」など四冊になる。
現在、富士見町立「高原のミュージアム」に、喜八の遺品、文学資料が多数収蔵・展示されているほか、北海道斜里町の「北のアルプス美術館」でも展示・資料研究が行われている。