八千草薫さん、お願いです!マドンナにおそれ多いが、こればかりは耐えられない!

最初に断っておくが、スクリーンでの天下の美女は、洋はエリザベス・テイラー、邦は八千草薫にとどめを刺す、と思っている一人である。
ン十年これでやってきて、今だに他の名前を思い浮かばないのは芸がない、と私も思う。
この間、イングリッド・バーグマンだオードリー・ヘプバーンだ、サユリストだのコマキストだの巷間、付和雷同型のブームが来ては去った。何事も「至誠一貫」が 大事である。
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| 「若草物語」の10代の写真がないのが 残念 だが、これはずっと後年のリズ。 |
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| 「花嫁の父」 |
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| マイケル・ジャクソン葬儀でのリズ(2009年)。 クリックでアップになるがおすすめできません。 |
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エリザベス・テイラー死去【3月24日 AFP】50年にわたるハリウッドでの活躍同様、華やかだが波乱に満ちた恋愛遍歴でも知られた米女優エリザベス・テイラー(Elizabeth Taylor) が2011年3月23日、米ロサンゼルス市内の病院で死去した。79歳だった。
お堅い「タイムズ」も1面トップで
世紀の美女の死を報じた
テイラーは数年前から体調を崩しており、2月に欝血性心不全でロサンゼルスのシダーズ・サイナイ医療センターに入院していた。4人の子供と孫が10人、ひ孫が4人いるが、息子のマイケル・ワイルディングさんは「子どもたちに囲まれ息を引きとった。母は素晴らしい女性で、偉大な情熱と愛 情とユーモアで精一杯生きた」とコメントした。
ハリウッドの黄金期を代表するリズは、1960年の『バタフィールド8』と1966年の『バージニア・ウルフなんかこわくない』で2度のアカデミー賞主演女優 賞を獲得している。
翌24日、ロサンゼルス郊外グレンデールのフォレストローン墓地で近親者だけでユダヤ教徒として葬儀が行われたが15分遅れで始まった。テイラーさんの広報担当に よると「葬儀は午後2時からの予定でしたが、遅れて始めるようにというミス・テイラーの依頼がありました。ミス・テイラーは次のような指示を遺されていました。 告別式は公式に発表した時刻よりも少なくとも15分遅く始めること、その際『彼女は自分の葬儀にさえ遅刻したがった』と発表することとありました」。
このくだり、時事通信のニュース原稿そのままだが、日本語として少しおかしい。原文に当たったら、
The service was scheduled to begin at 2 PM but at Miss Taylor’s request started late. Miss Taylor had left instructions that it was to begin at least 15 minutes later than publicly scheduled, with the announcement, ‘She even wanted to be late for her own funeral.’「自分の葬儀に15分遅刻するワ」という、リズが遺言に残した最後のジョークと受け取っておけばよいだろう。銀幕の女王はいつもスタンディング・オベー ションで迎えられた。その最後もまたそうありたい、という台本を書いていたのだ。ニヤリとウインクしている姿が見えるようだ。
約1時間の告別式では、ジェラルド・マンリー・ホプキンスの詩、「The Leaden Echo and the Golden Echo」のほか、子供や孫たちが捧げた言葉が読み上げられた。 孫のリース・ティビーさんはトランペットで、讃美歌『アメイジング・グレイス』」のソロ演奏を披露した。
2年足らず前、長年の友人だった故マイケル・ジャクソンが葬られたと同じ墓地。「棺は閉じられ、グレンデールの渓谷に香り高く咲くたくさんのクチナシやスミレ 、ユリで覆われました。ミス・テイラーは大霊廟に葬られ、ミケランジェロの大理石の天使がそびえ立つふもとに安置されました」(広報発表)
■子役からトップスターへ1932年2月27日、英ロンドンで生まれ、39年に両親とともにカリフォルニア州に移住。父親の画廊でユニバーサル・スタジオ会長の婚約者に見出されたことをきっか けに女優の道に進んだ。
42年にデビュー。44年の『緑園の天使で、少年になりすまし障碍競馬のグランド・ナショナルで優勝する少女を演じ、子役スターとしての地位を確立した。ジェー ムス・ディーン、ロック・ハドソンと共演した56年の『ジャイアンツ』では高い評価を受け、58年の『熱いトタン屋根の猫』ではポール・ニューマンと共演。59年 の『去年の夏 突然に』には、キャサリン・ヘプバーン、モンゴメリー・クリフトとともに出演した。
60年に初のオスカーを獲得。62年には『クレオパトラ』に主演。当時としてはハリウッド史上最高額の製作費をかけた同作についてリズは、「エンターテイ メント史上最も奇抜な作品」と語っている。
■恋多き女優私生活では8度の結婚を重ねた。最初の結婚は1950年、18歳のときだった。相手はホテル王の息子コンラッド・ヒルトン・ジュニア。華やかな結婚式を挙げ3か月間 の新婚旅行へ行ったが、2人の結婚生活は203日間で幕を閉じた。
次に19歳年上の英俳優マイケル・ワイルディングと52年に結婚し、2人の息子をもうけた。ワイルディングといると落ち着けると語ったリズだったが、56年 に離婚を申請。
別居後まもなくプロデューサーのマイケル・トッドにプロポーズされた。堂々とした態度のトッドは、リズが初めて深く愛した相手だった。57年8月に娘が 生まれたが直後の11月には夫と京都観光のため初来日。羽田空港には100人を超えるカメラマンが集まり、報道陣の数が多すぎて会見を2回に分けるほどの盛り上 がりだった。
だが翌年トッドはニューメキシコ州の飛行機事故で命を落とした。その葬儀で落ち込んだリズの隣にいたのがトッドの親友でもあった歌手のエディ・フィ ッシャーだった。
2人は59年に結婚するが、リズは『クレオパトラ』で共演した当時既婚者だったリチャード・バートンと恋に落ちた。2人は互いの離婚後、1964年3月に結婚。 その頃には『バージニア・ウルフなんかこわくない』で共演していたが、結婚生活の崩壊を描いた同作のストーリーをまねるかのように74年6月、2人は離婚した。翌 年10月に再婚したが、76年8月に再び離婚している。
その後リズはアルコールに溺れ、女優としての活動も下降線をたどった。バージニア州の上院議員ジョン・ワーナー氏と76年から82年まで結婚生活を送 ったが、リズの悲しみが癒されることはなかった。80年代には入退院を繰り返すが、アルコールと鎮痛剤への依存症を克服し、エイズ患者のための活動に力 を入れるようになった。
70年以降、映画への出演は減っていったが、舞台や、テレビにも進出。82年には中東和平を願いイスラエルを訪問し、エイズの撲滅に向け熱心に取り組み88年、94年 にキャンペーンのため来日。「開発途上国のエイズ予防のために、日本にはリーダーになってほしい」と熱心に訴えかけていた。
91年にはリハビリ施設で出会った40歳の建設作業員と結婚して世界を驚かせたが、3年後、円満に離婚している。90年年代後半になると病気やけがで入退院を繰 り返し、03年のアカデミー賞授賞式出席を最後に女優業引退を宣言。表舞台に出ることは少なくなったが、09年には親しい友人だった人気歌手マイケル・ジャクソ ンの葬儀に車いす姿で出席した。(AFPなど外電から)
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リズが亡くなった時、日本は東北大震災の最中だった。新聞もテレビもマグニチュード9.0の大地震に続く高さ30メートルの大津波、そして悪夢のような東京電力 福島第一発電所の炉心溶融事故と三重苦の震災報道一色でリズの死の扱いはごく小さかった。だが、欧米のメディアは違った。
お堅いはずの英「タイムス」紙が興奮して1面トップで報じたくらいだから、欧米のメディアの扱いは概ね「旧きよき時代を代表する銀幕のスターの終焉」というものだった。 これまで探したがなかった多くのリズの写真がネットに流れた。これを利用しない手はないので、美しきリズの姿をスライドショーでお見せすることにした。ただしサイトの亭主の特権で 「バターフィールド8」以降のものはすべてカットした。またサイトの亭主は馬術をやっていたので、世紀の美女の乗馬姿を恣意的に2枚も入れておいた。お許しあれ。
このほか亡くなった事を伝える「The New York Times」制作のニュース動画(映画シーンなどリズの回想)が以下。ただし、英語なのとメディアのサーバーなのでいずれ削除されるおそれあり。
また、下記は「USA TODAY」制作のビデオによる一代記。グレーの「○」がリズの年代を表わしていて、クリックするとその時の映画やニュースの動画が出てくるという凝った もので、一番のおすすめ。

一方、八千草薫(その名も美しいではないか)の方は谷口千吉監督ただ一人を守って、
不思議にトシを取らない。年齢を知っているが言わない。ますます輝くばかりである。
こういうプライバシーに関することを公開するのははばかられるが、マドンナは八ヶ岳に山荘を構えておられる。それも、我が山墅から100メートルと離れていないところである。
それはまた奇遇で、といいたいが、実は家族には内緒だが、それをわかっていてここを購入したのである。
今でこそ互いにそっぽ向いて、同じ「西武」の名前でも、カードすら相手方では使えないほど疎遠だが、堤義明氏率い、西武鉄道やプリンスホテルなどを経営するグループ(コクド)と堤清二氏が率い、
ホテル西洋やインターコンチネンタルホテル(共にもう手放したが)、さらに西友や西武百貨店を経営するグループ(セゾン)は、
広報など仲良く一緒にやっていた時代があった。
私がいるこの自然郷はセゾングループに属していて、当時は西洋環境開発が開発していた。はじめてやってきたのも両方の広報から案内されてのことだった。
今もあるがロッジ名物の八ヶ岳弁当をごちそうになっているとき「ここには、八千草薫さんもお住まいです」とちらり広報マンが漏らした。通りすがりの土地がそうでなくなったのはこの時からである。
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| 「宮本武蔵」の1シーン |
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| 宝塚時代だと思うが、八千草薫 の清楚な雰囲気がある写真。 |
私の方は新聞記者になった。所属する夕刊フジに「ぴいぷる」というインタビュー面があった。まとめて本になったこともある売り物のページだった。恣意的といわれればその通りだが、デスクに頼まれもしないのにカメラマンを連れて八千草薫インタビューに出かけた。
NHKの玄関から彼女が出てきたとたん何を聞こうとしていたのかきれいさっぱり忘れた。すぐ近くの喫茶店に1時間ほど彼女といたのだが何も憶えていない。別れるとき、一緒に写真を撮ってもらった。じゃあ僕も、というのでカメラマンの分は私がシャッターを押した。
後日、飲み屋で定期入れから秘蔵のスナップを出して、どうだと見せたら、向こうも、定期入れから、どうだ、と私がシャッターを押した八千草薫との併立写真を取り出した。Nカメラマンも隠れファンだったのだ。
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| いまもテレビに舞台にCMにご活躍だが・・・ |
それにしても、あの入れ歯のCMはやめていただけないものか。
2002年1月、衝撃の余り卒倒しそうになった。テレビを見ていたら、 なんと、白髪染めかカツラかのコマーシャルに登場したのだ。もっと前から あったのかもしれないが、このときはじめて気づいた。特に名を秘すが、入れ歯と、白髪染めかカツラ の会社にはそのうち火付けに行くかもしれない。
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マドンナが山荘を構えておられ、そこから数十メートル離れたところに、このサイトの亭主の山墅(さんしょ)がある八ヶ岳高原「海の口自然郷」では、季節ごとにオーナー向けに
広報の小冊子を発行している。頼まれて2009年4月の春の号に一文を書いた。このコーナーでは次の執筆者を指名できることになっている。
迷うことなく谷口千吉夫人、谷口薫さん、つまり八千草薫の名を挙げた。3ヵ月後に掲載された玉稿は以下のようなものである。
雪降る夜、マドンナはそのように物思いにふけっておられたか。そうか同じ頃ほんの近くでやつがれもまた物思いにふけっていたのだ、といたく満足した。

リレー雑記 「自然郷の小さな山小屋」 F-103 谷口様
『へえーマイナス15度!!』キラキラ舞うダイヤモンドダスト。ひと息吸う間に消えていく幻想的な霧氷。冬に訪れることが多かったせいか、頭に浮かんでくる 八ヶ岳の自然郷は白の世界が圧倒的だ。亡くなった主人も犬もまだ元気いっぱいの頃で、雪の中、1750mから、もう戸を閉めているロッジまで飽きもせず毎 日のように往復した。
夜、しんしんと降る雪のかすかな気配は、昔『雪国』の映画の撮影で、越後湯沢にロケした時、川端康成先生が『聴雪』と書いてくださったのを思い出す。私たちは もう冬の雪山に登ることも無いだろうという、少しの寂しさと、でも雪の木立に包まれて、小さな小屋で静かに雪の音を聴く。これも少しづつ齢を重ねていく私達へ の神さまのプレゼントかも知れないと思った。
考えてみると、この30年あまり(小屋が出来たのが丁度30年前)1度も何処へも旅行したことがない。自分でもちょっと驚いた。犬の面倒を見てくれた母が いなくなって、よそに預ける決心もつかず、結局犬たちが大威張りでいられる場所は何処だ、ということで、以来『八ヶ岳へ行こう』という言葉を発すると、人間 も犬も目を輝かせた。そしてひたすら八ヶ岳行が始まった。
吹雪の日、自然郷の橋の手前の”チェーン脱着場”で凍えそうになりながら、二人でチェーンを着けたり、夏には橋にさしかかると、緑の中を渡る風が待ちきれず 車の窓をいっぱい開けて深呼吸したり。
夏は山も賑やかになる。久しぶりで懐かしい方たちにお会いするのも東京とは違った楽しみの一つだ。そして思うのは、この長い年月、家を管理してくださる事 務所の方たち、変わることが多いものなのに、ずっと同じでいてくださる。それが嬉しい。
八ヶ岳で暮らした主人との思い出に会いに、これからも犬を連れて、10年(?)5年(?)ガンバレれば良いなあと思っています。
マドンナ拙宅にご来駕
山墅にやってきて22年、この項をアップして10年ほどたった2009年夏、我が家の10大ニュースどころか、これから先の長きにわたってビッグニュースであり続けるだろう出来事があった。なんと我が山墅(さんしょ)にご来駕いただいたのだ。
私たち夫婦はそれぞれまるで違う趣味を持っているのだが、一つだけ共通しているのがバードフィーダーの普及。このサイト「八ヶ岳の東から」でもアメリカから二人で手に提げて持ち帰ったバードフィーダーのいろいろを紹介するコーナーを掲載していて販売もしている。もっとも目下ほとんど売り切れ状態なのだが。
今のところ、アメリカに旅行する予定もないので、こんなのが欲しいというメールをもらっても、その要望にこたえられないでいる。 そこで、これまでの経験から、なかでもっとも野鳥に好評で、また人間側にも使い勝手がよかった木製バードフィーダーの展開図を書き、すぐ下の長野県・小海町の製材所に持ち込んでキットにしてもらった。夏の間、これを組み立てた完成品を門柱のそばに展示していて、野鳥愛好家などにときどき訪問いたただいている。そこにマドンナが立ち寄られたのだ。
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| 八千草薫さんとお買い上げの バードフィーダー(2009.8.14) |
翌朝、愛犬ともども立ち寄られた。
「3日ほど前に上がってきてあと4日ほどいる予定」とか、「このバードフィーダーを東京の家で使うか八ヶ岳で使うか迷っています」と
か、「主人が亡くなってからクルマを運転する人がいなくなりました。運転免許証はもっているものの、周りの者から禁じられているので、事務所や知り合いの方のお世話で上がってきています」といった立ち話をした。
上述したように彼女は私どもより以前から山荘を構えておられるのだが、この20余年、見かけることはあっても話を交わす機会はなかった。いつも拙宅の前を通って散歩されているというのに。新聞記者時代にインタビューしたことがあるものの、テレビ以外近くで拝見することはついぞなかっただけに、サイトの亭主はマドンナを目前にしてすっかり舞い上がった次第。
この時は大きなお札しか持ち合わせないのでということで、いつでも結構ですからというと2週間ほどあともう一度愛犬(名前は聞いたものの舞い上がって度忘れ)とお見えになっておかきの手土産とともに代金を頂戴した。
アメリカにいる義姉が家内から大ニュースを聞いてさっそくメールをよこした。
「そのお金とおかきは神棚にあげて手をつけてはなりません」。
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